藍微塵の衣服 田中貢太郎 ------------------------------------------------------- 【テキスト中に現れる記号について】 《》:ルビ (例)比《ごろ》 [#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定    (数字は、JIS X 0213の面区点番号またはUnicode、底本のページと行数) (例)姝 -------------------------------------------------------  これは東京の芝区にあった話である。芝区の某町に質屋があって、そこの女房が五歳《いつつ》か六歳《むっつ》になる女の子を残して病死したので、所天《ていしゅ》は後妻を貰った。  後妻と云うのは、気質の従順な、何時《いつ》も愉快そうな顔をしている女で、継子《ままこ》に対しても真の母親のような愛情を見せたので、継子も非常に懐《なつ》いて、所天も安心することができた。  が、その後妻が、しばらくすると黙り込んで、あまり口数を利《き》かないようになり、その女を包んでいた花の咲きそうな温《あたたか》な雰囲気が無くなって、冷たい強《こわ》ばったものとなってしまった。  それに気の注《つ》いたのは、質屋の親類の老人であった。老人は種々の経験からこれは所天が他に気をうつす者があって、女房をかまってやらないから、血の道が悪くなったものだと思った。で、老人はある日、後妻を己《じぶん》の家へ呼んで聞いてみた。 「どうもこの比《ごろ》は、浮かない顔をしているが、どうしたかね」 「別にどうしたと云うこともありません」 「しかし、何かあるだろう、どうもお前さんは、この比《ごろ》浮かない顔をしている」 「別に何もないんですよ」 「あるだろう、無いことはない、私の考えでは、彼《あれ》がお前さんをかまわないと思うが、そうじゃないかね」 「いえ、そんなことはありませんよ」 「なら何かね、云ってごらん、お前さんの力になってやるよ」  こうした会話がかわされた後で、後妻は蒼白《あおじろ》い顔をあげて云った。 「私がこんなにしているのは、恐ろしいことがあるからですよ、夜寝ておりますと、仏壇のある方の室《へや》とこっちとの間の襖《ふすま》が開《あ》いて、女の人が出て来てお辞儀をするから、もう恐ろしくって恐ろしくって、夜もおっちりと睡《ねむ》ったことはありませんが、所天《うち》に云うのも厭《いや》だから黙っております」 「どんな女だね」と、老人は聞いてみた。 「壮《わか》い姝《きれい》な女ですよ、藍微塵《あいみじん》の衣服《きもの》を着て、黒襦子《くろじゅす》の帯を締め、頭髪《かみ》は円髷《まるまげ》に結《ゆ》うております」 「何か云うかね」 「何も云わずに、白い痩《や》せた手をしとやかに突いて、私の方へ向いてお辞儀するのですよ」  老人はすぐ前妻ではないかと思ったが、それは口へは出さなかった。そして、所天《ていしゅ》を呼びにやって所天を前に据《す》えて後妻の云ったことを話した。 「藍微塵の衣服《きもの》を着ていたと云うが、何かお前に心当りがあるのか」  藍微塵の衣服《きもの》は前妻が非常に好きで、何時《いつ》も好んで着ていたのを知っている所天は、背筋が寒かった。 「……それは死んだ彼女《あれ》が好きな衣服《きもの》だったのですよ」  老人は頷《うなず》いてちょいと口をつぐんでいたが、 「なんの心残りがあるんだろう」と半ば独言《ひとりごと》のように云った。 「そうですとも、弔《とむら》いはあんなにしてあるし、何も不足はないはずだが」所天《ていしゅ》はこう云った後《あと》で、傍にいる後妻のほうを見て、「小供はお前があんなに可愛がってくれるし、不足はないはずだ、もし、今度そんなことがあったら、俺が叱《しか》ってやるから、俺を起してくれ」  その翌晩、所天と後妻は、女の子を中にして何時《いつ》ものように奥の八畳で寝ていた。そこは土蔵に隣《とな》った室《へや》で、次に四畳半位の仏壇を置いた室があって、そのさきが縁側《えんがわ》になり、それが土蔵の口に続いていた。  そのうちに後妻の睡《ねむ》りが覚めた。後妻は怖《こわ》ごわ眼を開けて暗い中を見た。と、枕頭《まくらもと》から右横になった仏壇の間との隔《へだて》の襖《ふすま》が何時《いつ》ものように開《あ》いて、また、藍微塵《あいみじん》の衣服《きもの》を着た女が幻燈に映し出されたようにはっきりと現れて、敷居の上あたりに坐って白い手を突きかけた。後妻はふと所天が己《じぶん》を起せと云った事を思い出したので、手を延ばして所天の肩を揺《ゆす》った。  所天が眼を開けて見ると、後妻が己を起しているのですぐそれを悟って首を擡《もた》げて見た。女はもうお辞儀をやっていた。 「おい、お前は小供をこんなに可愛がって貰ってながら、何の不足があって何時も何時もやってくるのだ」と、所天は叱るように云った、と、女は微《かすか》な声で云った。 「私はお礼にあがっております」 「そうか、そうか、しかしお前が来ると、これが恐がるからもう来るな」と所天《ていしゅ》が云った。  それと同時に、女の姿は消えたが、それから二度と現れるようなことはなかった。 底本:「日本怪談大全 第二巻 幽霊の館」国書刊行会    1995(平成7)年8月2日初版第1刷発行 底本の親本:「日本怪談全集 第四巻」改造社    1934(昭和9)年 入力:川山隆 校正:門田裕志 2012年5月2日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。