笑わなかった少年 小川未明 ------------------------------------------------------- 【テキスト中に現れる記号について】 《》:ルビ (例)日《ひ》 |:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号 (例)三|日《にち》 -------------------------------------------------------  ある日《ひ》のこと、学校《がっこう》で先生《せんせい》が、生徒《せいと》たちに向《む》かって、 「あなたたちはどんなときに、いちばんお父《とう》さんや、お母《かあ》さんをありがたいと思《おも》いましたか、そう感《かん》じたときのことをお話《はな》しください。」と、おっしゃいました。  みんなは、目《め》をかがやかして、手《て》をあげました。最初《さいしょ》にさされたのは、竹内《たけうち》でありました。 「私《わたし》が、病気《びょうき》でねていましたとき、お父《とう》さんは毎晩《まいばん》めしあがるお好《す》きな酒《さけ》もお飲《の》みになりませんでした。そして、お母《かあ》さんは、ご飯《はん》もあまりめしあがらず、夜《よる》もねむらずにまくらもとにすわって、氷《こおり》まくらの氷《こおり》がなくなれば、とりかえたりしてくださいました。僕《ぼく》は、コツ、コツと氷《こおり》の砕《くだ》ける音《おと》をきいて、しみじみとありがたいと感《かん》じました。」と、答《こた》えました。  先生《せんせい》は、これをきくと、おうなずきになりました。ほかの生徒《せいと》たちも、みんなだまって、おとなしくきいていました。そのつぎに、さされたのは、佐藤《さとう》でありました。佐藤《さとう》が、立《た》ちあがると、みんなは、どんなことをいうだろうかと、彼《かれ》の顔《かお》を見守《みまも》っていました。 「僕《ぼく》も、やはり竹内《たけうち》くんと同《おな》じのであります。いおうと思《おも》ったことを、竹内《たけうち》くんがみんな話《はな》してくれました。」  佐藤《さとう》の答《こた》えは、ただそれだけでありました。先生《せんせい》は、こんど、小田《おだ》をおさしになりました。彼《かれ》は、組《くみ》じゅうでの乱暴者《らんぼうもの》でした。そればかりでなく、家《いえ》が貧乏《びんぼう》とみえて、いつも破《やぶ》れた服《ふく》を着《き》て、破《やぶ》れたくつをはいてきました。くつしたなどは、めったにはいたことがないのです。みんなの視線《しせん》は、たちまち、小田《おだ》の顔《かお》の上《うえ》に集《あつ》まったのはいうまでもありません。  彼《かれ》は、立《た》ち上《あ》がると、 「私《わたし》のお母《かあ》さんは、お金《かね》のないときは、自分《じぶん》のだいじなものも売《う》って、僕《ぼく》のためにいろいろなものを買《か》ってくださいます。そんなとき、私《わたし》はじつにすまないと感《かん》じます。」といいました。すると、先生《せんせい》は、 「いろいろなものとは、どんなものですか。」と、おききになりました。小田《おだ》は、その答《こた》えに困《こま》ったらしく、しばらく、うつ向《む》いてだまっていましたが、やっと顔《かお》を上《あ》げると、 「僕《ぼく》の月謝《げっしゃ》や……また、どこかへ帽子《ぼうし》をなくしたときには、お母《かあ》さんは、自分《じぶん》の着物《きもの》を売《う》って、買《か》ってくださいました。」と、答《こた》えました。  この言葉《ことば》は、みんなに少《すく》なからず動揺《どうよう》をあたえました。なかには、また、くすくす笑《わら》うものさえありました。しかし、先生《せんせい》が、笑《わら》うものをおしかりなさったので、すぐに静《しず》かになったけれど、小田《おだ》は、そのとき、みんなから、なんだか侮辱《ぶじょく》されたような気《き》がして、顔《かお》が赤《あか》くなりました。  そのとき、ひとり隣《となり》に並《なら》んで腰《こし》をかけている北川《きたがわ》だけは、笑《わら》いもしなければ、じっとしてまゆひとつ動《うご》かさず、まじめにきいていました。小田《おだ》は、心《こころ》の中《なか》で、彼《かれ》の態度《たいど》をありがたく思《おも》ったのです。  小田《おだ》のお父《とう》さんは、もう死《し》んでしまって、ありませんでした。ひとりお母《かあ》さんが、手内職《てないしょく》をして、母子《おやこ》は、その日《ひ》、その日《ひ》、貧《まず》しい生活《せいかつ》をつづけていました。  彼《かれ》は、学校《がっこう》から帰《かえ》ると、今日《きょう》のお話《はなし》をお母《かあ》さんにしたのでした。その日《ひ》あったことは、なんでも帰《かえ》ってからお母《かあ》さんに話《はな》すのが常《つね》でありました。これをきくと、お母《かあ》さんは、 「あんまり、おまえが家《うち》のことを正直《しょうじき》にいったものだから、みんなに笑《わら》われたのですよ。」と、目《め》に涙《なみだ》をためて、おっしゃいました。 「お母《かあ》さんが、僕《ぼく》のために、自分《じぶん》の大事《だいじ》になさっているものもなくして、買《か》ってくださるのを、僕《ぼく》がありがたく思《おも》っているといって、いけないのですか。」 「いえ、正直《しょうじき》にいって、すこしも悪《わる》いことはないんですけど……。」  こういって、お母《かあ》さんは、また目《め》をおふきになりました。 「だが、お母《かあ》さん、笑《わら》ったやつもあったけど、笑《わら》わないものだってありましたよ。笑《わら》ったやつは、こんどなぐってやるのだ。」と、小田《おだ》が、いいました。 「そんなことをしてはいけません。おまえが、乱暴《らんぼう》だから、みんなが、こんなときに笑《わら》うのです。どちらが正《ただ》しいかわかるときがありますから、けっして、そんな乱暴《らんぼう》をしてはいけません。」と、お母《かあ》さんは、おいましめになりました。  小田《おだ》は、考《かんが》えていましたが、 「ねえ、お母《かあ》さん、いつか、家《うち》へ遊《あそ》びにきたことのある、北川《きたがわ》くんなどは、だまってきいていましたよ。」といいました。 「よくもののわかる、おりこうなお子《こ》さんですね。」と、お母《かあ》さんは、いって、また、涙《なみだ》をおふきになりました。  それから、二、三|日《にち》してからです。小田《おだ》は、学校《がっこう》へゆく途中《とちゅう》で、あちらからきた、北川《きたがわ》くんに出遇《でくわ》しました。彼《かれ》は、今年《ことし》から学校《がっこう》に上がったという、小《ちい》さな弟《おとうと》といっしょでありました。 「おはよう。」 「いっしょにいこうよ。」  たがいに、声《こえ》をかけ合《あ》って、三|人《にん》が、並《なら》んで歩《ある》きました。そして、学校《がっこう》の門《もん》をはいったときであります。 「ひとりで、パンが買《か》える?」と、北川《きたがわ》くんが、立《た》ち止《ど》まって、やさしく弟《おとうと》の顔《かお》をのぞくようにして、きいていました。  小《ちい》さな弟《おとうと》は、だまって、うなずきました。 「もし、お金《かね》を落《お》としたら、兄《にい》さんのところへいってくるのだよ。」と、北川《きたがわ》くんは、いっていました。  兄弟《きょうだい》を持《も》たない小田《おだ》は、この仲《なか》のいい二人《ふたり》のようすを見《み》て、心《こころ》からうらやまずにはいられなかったのです。 「僕《ぼく》たち、お母《かあ》さんが、かぜをひいてねているので、今日《きょう》は、弁当《べんとう》を持《も》ってこなかったんだ。」と、北川《きたがわ》くんが、小田《おだ》に向《む》かって、話《はな》しました。  そのとき、小田《おだ》は、また自分《じぶん》のお母《かあ》さんのことを思《おも》わずにはいられませんでした。 「いまごろ、お母《かあ》さんは、いっしょうけんめいで、お仕事《しごと》をなさっているだろう……。」  そう思《おも》うと、お母《かあ》さんの、お仕事《しごと》をなさっている姿《すがた》が、目《め》にありありと浮《う》かんできて、しぜんと熱《あつ》い涙《なみだ》がわいてくるのでした。  その日《ひ》、ちょうど、お昼《ひる》の前《まえ》の休《やす》み時間《じかん》でありました。北川《きたがわ》の弟《おとうと》さんが、しきりに兄《にい》さんをさがしているのを見《み》つけましたから、小田《おだ》は、大《おお》きな声《こえ》で、 「北川《きたがわ》くん!」と、呼《よ》んで、知《し》らせたのです。  北川《きたがわ》は、すぐに走《はし》ってきました。そして、弟《おとうと》のそばへいって、なにかいうのをきいていましたが、 「だから、気《き》をつけるようにいったじゃないか。」という声《こえ》がきこえたかと思《おも》うと、小《ちい》さな弟《おとうと》は、しくしくと泣《な》きだしました。  小田《おだ》は、弟《おとうと》が、パンのお金《かね》を落《お》としたのだなと悟《さと》りました。しかし、いってたずねるまもなく、 「泣《な》かんだって、いいのだよ。」といって、北川《きたがわ》が、自分《じぶん》の持《も》っているお金《かね》をやって、弟《おとうと》の頭《あたま》をなでると、弟《おとうと》は、泣《な》くのをやめて、急《きゅう》に、元気《げんき》づいて、あちらへ駈《か》け出《だ》してゆきました。 「なんて、朗《ほが》らかな兄弟《きょうだい》だろう。」と、小田《おだ》は、この有《あ》り様《さま》を見《み》て、感心《かんしん》しました。  そのうちに、話《はな》す時間《じかん》もなく、ベルが鳴《な》ってお教室《きょうしつ》に入《はい》り、授業《じゅぎょう》がはじまりました。  いよいよお昼《ひる》になって、みんながお弁当《べんとう》を食《た》べるときとなったのです。ひとり、北川《きたがわ》だけは机《つくえ》に向《む》かって、宿題《しゅくだい》をしていました。  小田《おだ》には、なにもかもわかっていました、自分《じぶん》が、パンを食《た》べずに、弟《おとうと》にパンを買《か》ってやったことも。この心《こころ》があればこそ、このあいだも、自分《じぶん》の話《はなし》をまじめにきいていてくれたのだと、小田《おだ》は、思《おも》いました。 「これが、ほんとうの同情《どうじょう》というものだ。」  そう小田《おだ》は悟《さと》ると、自分《じぶん》の行為《こうい》までが顧《かえり》みられて、これから、自分《じぶん》も、ほんとうの正《ただ》しい、強《つよ》い人間《にんげん》になろうと決心《けっしん》したのでした。 底本:「定本小川未明童話全集 10」講談社    1977(昭和52)年8月10日第1刷発行    1983(昭和58)年1月19日第6刷発行 ※表題は底本では、「笑《わら》わなかった少年《しょうねん》」となっています。 入力:特定非営利活動法人はるかぜ 校正:仙酔ゑびす 2012年2月19日作成 2012年9月28日修正 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。