父親と自転車 小川未明 ------------------------------------------------------- 【テキスト中に現れる記号について】 《》:ルビ (例)吉坊《よしぼう》 |:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号 (例)三|人《にん》 -------------------------------------------------------  吉坊《よしぼう》は、父親《ちちおや》に、自転車《じてんしゃ》を買《か》ってくれるようにと頼《たの》みました。 「そんなものに、乗《の》らなくたって、いくらでも遊《あそ》べるでないか、ほかの子供《こども》をけがさしてみい、たいへんだぞ。もうすこし大《おお》きくなってから、買《か》ってやる。」と、父親《ちちおや》は頭《あたま》を振《ふ》りました。 「清《きよ》ちゃんも、徳《とく》ちゃんも、みんな自転車《じてんしゃ》を持《も》っているのに、僕《ぼく》だけ持《も》っていないのだもの、つまんないなあ。」と、吉坊《よしぼう》は、いくら頼《たの》んでもむだなことを悟《さと》ると、歎息《たんそく》をしました。そのくせ、父親《ちちおや》は金《かね》があれば、すぐに酒《さけ》を飲《の》んでしまうことを知《し》っていたのです。  吉坊《よしぼう》は、外《そと》へ出《で》ると、友《とも》だちが自転車《じてんしゃ》に乗《の》って、愉快《ゆかい》そうに走《はし》っているのを、うらやましそうにながめていました。 「あんなに風《かぜ》を切《き》って、走《はし》ったら、どんなにかおもしろいだろうな。」と、清《きよ》ちゃんが、頭《あたま》の髪《かみ》をなびかせて、走《はし》っているのを見《み》て、思《おも》いました。  吉坊《よしぼう》は、両手《りょうて》を頭《あたま》の上《うえ》にのせて、清《きよ》ちゃんがあちらへゆけば、その方《ほう》を見送《みおく》り、こちらへくればまた目《め》を放《はな》さずに、迎《むか》えていました。  清《きよ》ちゃんは、吉坊《よしぼう》の立《た》って、見《み》ているのを知《し》っていました。しかも、きょう学校《がっこう》の帰《かえ》りに、豆腐屋《とうふや》の長二《ちょうじ》に、自分《じぶん》がいじめられているのを、吉坊《よしぼう》が助《たす》けてくれたのを、けっして忘《わす》れませんでした。いま、吉坊《よしぼう》がぼんやり立《た》ってさも乗《の》りたそうに、自分《じぶん》の走《はし》るのを見《み》ているのに気《き》がつくと、車《くるま》をとめて、 「吉《よっ》ちゃん、僕《ぼく》のうしろにいっしょに、お乗《の》りよ。」といいました。  吉坊《よしぼう》は、清《きよ》ちゃんが、そういってくれたので、どんなにありがたかったでしょう。 「いいの、清《きよ》ちゃん、僕《ぼく》をうしろに乗《の》せてくれる?」と、吉坊《よしぼう》は、清《きよ》ちゃんのいったことを疑《うたが》いでもするように、念《ねん》をおして、それから、そのうしろに乗《の》せてもらいました。吉坊《よしぼう》は、清《きよ》ちゃんの肩《かた》につかまりました。清《きよ》ちゃんは、ハンドルを握《にぎ》っていました。二人《ふたり》は、いままでゆかなかったような、遠方《えんぽう》まで、一息《ひといき》に走《はし》ってゆくことができました。 「清《きよ》ちゃん、こんな遠《とお》いところまで、たびたびきたことがある?」 「きたことはない。きょうは吉《よし》ちゃんが、いっしょだから、僕《ぼく》きたんだよ。」と、清《きよ》ちゃんは、気強《きづよ》かったのです。そして、めったに通《とお》らない道《みち》をまわりまわって、またなつかしい自分《じぶん》の家《いえ》の前《まえ》まで帰《かえ》ってくると、なんだかたいへんに遠《とお》い旅行《りょこう》でもしてきたように、愉快《ゆかい》な気《き》がしたのです。 「ありがとう。」と、吉坊《よしぼう》は、お礼《れい》をいいました。 「吉《よっ》ちゃんも今度《こんど》お父《とう》さんに、自転車《じてんしゃ》を買《か》っておもらいよ。」と、清《きよ》ちゃんが、いいました。  吉坊《よしぼう》は、ただ黙《だま》って、悲《かな》しそうな顔《かお》つきをしていました。 「そうすれば、徳《とく》ちゃんと三|人《にん》で走《はし》りっこをしよう。」と、清《きよ》ちゃんは、吉坊《よしぼう》の心《こころ》なんかわからず、朗《ほが》らかでありました。  吉坊《よしぼう》は、学校《がっこう》で走《はし》りっこをすると、選手《せんしゅ》にもそんなに負《ま》けないので、走《はし》ることにかけては自信《じしん》を持《も》っていました。 「自転車《じてんしゃ》さえなければ、いいんだがなあ。」と、吉坊《よしぼう》は、考《かんが》えていました。  けれど、家《いえ》に帰《かえ》ると、やはり、清《きよ》ちゃんや、徳《とく》ちゃんたちが、自転車《じてんしゃ》に乗《の》って、遊《あそ》んでいました。 「清《きよ》ちゃん、自転車《じてんしゃ》の走《はし》りっこをしようか。」と、徳《とく》ちゃんがいいました。二人《ふたり》は同《おな》じような型《かた》の、赤《あか》い自転車《じてんしゃ》に乗《の》っていました。 「ああ、往来《おうらい》の、あっちの曲《ま》がり角《かど》まで、走《はし》りっこをしよう。」と、清《きよ》ちゃんが、答《こた》えました。  そばにいた吉坊《よしぼう》は、独《ひと》り取《と》り残《のこ》されるのが悲《かな》しくなって、 「僕《ぼく》は、足《あし》が早《はや》いんだよ。だから、僕《ぼく》もいっしょに走《はし》りっこをしよう。」といいました。  そして、二人《ふたり》が、自転車《じてんしゃ》で走《はし》る後《あと》から、吉坊《よしぼう》は、真《ま》っ赤《か》な顔《かお》をして、自転車《じてんしゃ》を追《お》っかけたのであります。  ちょうど、この有《あ》り様《さま》を、外《そと》からもどってきた吉坊《よしぼう》の父親《ちちおや》が、見《み》たのでした。彼《かれ》は、このいじらしいようすが、腹立《はちだ》たしくもありました。そして、にらみつけたのです。  しかし、夢中《むちゅう》で走《はし》っている吉坊《よしぼう》にはわからないのでした。 「ああ、おれが悪《わる》かった。」と、父親《ちちおや》は、心《こころ》の中《うち》で泣《な》いたのです。 「ばかめ、自転車《じてんしゃ》の後《あと》をおっかけるなんて、二、三|日《にち》したら自転車《じてんしゃ》を買《か》ってやるぞ。」と、その夜《よ》、父親《ちちおや》は、吉坊《よしぼう》の、頭《あたま》をなでながら、いいました。  しばらく酒《さけ》を断《た》った、父親《ちちおや》は、どこからか、子供《こども》の乗《の》る、古《ふる》の自転車《じてんしゃ》を、さがしてきたのでありました。 底本:「定本小川未明童話全集 10」講談社    1977(昭和52)年8月10日第1刷発行    1983(昭和58)年1月19日第6刷発行 初出:「教育・国語教育」    1935(昭和10)年8月 ※表題は底本では、「父親《ちちおや》と自転車《じてんしゃ》」となっています。 入力:特定非営利活動法人はるかぜ 校正:仙酔ゑびす 2012年7月10日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。