谷にうたう女 小川未明 ------------------------------------------------------- 【テキスト中に現れる記号について】 《》:ルビ (例)木《き》 |:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号 (例)三|度《ど》 [#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定 (例)[#ここから3字下げ] -------------------------------------------------------  くりの木《き》のこずえに残《のこ》った一《ひと》ひらの葉《は》が、北《きた》の海《うみ》を見《み》ながら、さびしい歌《うた》をうたっていました。  おきぬは、四つになる長吉《ちょうきち》をつれて、山《やま》の畑《はたけ》へ大根《だいこん》を抜《ぬ》きにまいりました。やがて、冬《ふゆ》がくるのです。白髪《しらが》のおばあさんが、糸《いと》をつむいでいるように、空《そら》では、雲《くも》が切《き》れたり、またつながったりしていました。  下《した》の黒土《くろつち》には、黄《き》ばんだ大根《だいこん》の葉《は》が、きれいに頭《あたま》を並《なら》べていました。おきぬは子供《こども》がかぜぎみであることを知《し》っていました。持《も》ってくるはずのねんねこを忘《わす》れてきたのに気《き》がついて、 「長吉《ちょうきち》や、ここに待《ま》っておいで、母《かあ》ちゃんは、すぐ家《うち》へいってねんねこを持《も》ってくるからな。どこへもいくでねえよ。」  子供《こども》は、だまって、うなずきました。  おきぬは、ゆきかけて、またもどってきました。 「ほんとうに、どこへもいくでねえよ。そこにじっとして待《ま》っていれや。」  そういって、彼女《かのじょ》は、坂道《さかみち》を駈《か》け下《お》りるようにして、急《いそ》ぎました。  あたりには人《ひと》の影《かげ》もなかったのです。くりの木《き》のこずえについていた枯《か》れた葉《は》は、今夜《こんや》の命《いのち》も知《し》らぬげに、やはり、ひらひらとして、風《かぜ》の吹《ふ》くたびに歌《うた》をうたっていました。そしてふもとの水車場《すいしゃば》から、かすかに車《くるま》の音《おと》がきこえてきました。  すこしの間《あいだ》が、小《ちい》さな長吉《ちょうきち》にとっては、堪《た》えられないほどの長《なが》い時間《じかん》でした。 「おっかあ。」といって、子供《こども》は、母《はは》を呼《よ》んで泣《な》き出《だ》しました。  しかし、いくら呼《よ》んでも、この子供《こども》の声《こえ》は、下《した》の村《むら》へは達《たっ》しなかったでありましょう。  このとき、どこからか、笛《ふえ》と太鼓《たいこ》の音《おと》がきこえてきました。それは、村《むら》の祭《まつ》りのときにしかきかなかったものです。山《やま》の林《はやし》に鳴《な》く、もずや、ひよどりでさえ、こんないい声《こえ》は出《だ》し得《え》なかったので、長吉《ちょうきち》は、ぼんやりと、その音《おと》のする方《ほう》を見《み》ると、山《やま》へ登《のぼ》ってゆく道《みち》を、赤《あか》い旗《はた》を立《た》て、青《あお》い着物《きもの》をきた人《ひと》たちが列《れつ》をつくって歩《ある》いてゆきました。そして、その後《あと》から、にぎやかな子供《こども》たちの話《はな》し声《ごえ》などがしてくるので、泣《な》くのを忘《わす》れて見《み》とれていると、葉《は》の落《お》ちて、裸《はだか》となった林《はやし》の間《あいだ》から、その列《れつ》がちらちらと見《み》えたのです。長吉《ちょうきち》は、いそいで、その後《あと》を追《お》いかけました。  二、三|度《ど》も彼《かれ》はころんだけれど、泣《な》きもせずその後《あと》を追《お》いかけてゆきました。  空《そら》で、糸《いと》をつむいでいた、白髪《しらが》のおばあさんの姿《すがた》が見《み》えなくなって、風《かぜ》が募《つの》ってきました。おきぬが畑《はたけ》にもどってきたときには、くりのこずえにしがみついて歌《うた》をうたっていた葉《は》が、くるくるとまわって、がけの底《そこ》の方《ほう》へ落《お》ちていったのです。 「長吉《ちょうきち》や、長吉《ちょうきち》や、長吉《ちょうきち》はどこへいったろう?」  彼女《かのじょ》は、あらしのうちを、さがしまわりました。  山《やま》の上《うえ》へとつづいている道《みち》は、かすかにくさむらの中《なか》に消《き》えていました。そして、山《やま》の頂《いただき》は灰色《はいいろ》に曇《くも》って、雲脚《くもあし》が、速《はや》かったのです。  村《むら》じゅうが、大騒《おおさわ》ぎをして、長吉《ちょうきち》をさがしたけれど、ついにむだでありました。年寄《としよ》りたちは、 「前《まえ》にも一|度《ど》こういうことがあった。人《ひと》さらいにつれていかれたか、たぬきにでもばかされたのであろう。」と、囲炉裏《いろり》に粗朶《そだ》をたきながら話《はなし》しました。  それから、後《のち》のことです。村《むら》の人《ひと》たちは、髪《かみ》を乱《みだ》して、素足《すあし》でうたって歩《ある》くおきぬを見《み》ました。 [#ここから3字下げ] 「ねんねん、ころころ、ねんねしな。 なかんで、いい子《こ》だ、ねんねしな。」 [#ここで字下げ終わり]  子供《こども》を失《うしな》った悲《かな》しみから、気《き》の狂《くる》ったおきぬは、昼《ひる》となく、夜《よる》となく、こうしてうたいながら、村道《むらみち》を歩《ある》いて山《やま》の方《ほう》へとさまよっていました。  村《むら》にあられが降《ふ》り、みぞれが降《ふ》りました。そして、山《やま》に雪《ゆき》がくると、いろいろの小鳥《ことり》たちが、里《さと》を慕《した》って下《お》りるように、村《むら》の娘《むすめ》たちもまた都会《とかい》を慕《した》ったのです。おかよは、こうして彼女《かのじょ》が十六のときに奉公《ほうこう》に出《で》ました。  旅《たび》に立《た》つ前夜《ぜんや》のこと、うれしいやら、悲《かな》しいやらで、胸《むね》がいっぱいになって、戸《と》の外《そと》にすさぶあらしの音《おと》をきいていると、ちょうどおきぬの前《まえ》をうたって通《とお》る、子守唄《こもりうた》が、ちぎれちぎれに耳《みみ》へ入《はい》ったのでした。なんという、いじらしいことかと、彼女《かのじょ》は少女心《おとめごころ》にも深《ふか》く感《かん》じたのでありました。  月日《つきひ》は、足音《あしおと》をたてずにすぎてゆきました。  くりの木《き》のこずえで、海《うみ》の方《ほう》を見《み》ながら、歌《うた》をうたっていた枯《か》れ葉《は》も、いつか地《ち》に落《お》ちて朽《く》ちてしまえば、村《むら》を出《で》たおかよは、もう二|年《ねん》もたって、すっかり都《みやこ》のふうにそまったころです。  ある日《ひ》おかよは、お嬢《じょう》さまのおへやへ入《はい》ると、ストーブの火《ひ》が燃《も》えて、フリージアの花《はな》が香《かお》り、そのうちは、さながら春《はる》のようでした。そして、蓄音機《ちくおんき》は、静《しず》かに、鳴《な》りひびいていました。しばらく、うっとりとして、彼女《かのじょ》はお嬢《じょう》さまのそばで、その音《おと》にききとれていると、目《め》の前《まえ》に広々《ひろびろ》とした海《うみ》が開《ひら》け、緑色《みどりいろ》の波《なみ》がうねり、白馬《はくば》は、島《しま》の空《そら》をめがけて飛《と》んでいる、なごやかな景色《けしき》が浮《う》かんで見《み》えたのであります。  お嬢《じょう》さまは、窓《まど》のところへ歩《あゆ》み寄《よ》ると、はるかに建物《たてもの》の頭《あたま》をきれいに並《なら》べている街《まち》の方《ほう》をごらんになりました。そして、自分《じぶん》でも、その歌《うた》の一|節《せつ》を口《くち》ずさみなさいました。 「ねえ、おかよや、おまえ、この子守唄《こもりうた》をきいたことがあって?」といって、箱《はこ》の中《なか》から一|枚《まい》のレコードを抜《ぬ》いて、盤《ばん》にかけながら、 「私《わたし》は、この唄《うた》をきくと悲《かな》しくなるの、東京《とうきょう》に生《う》まれて、田舎《いなか》の景色《けしき》を知《し》らないけれど、白壁《しらかべ》のお倉《くら》が見《み》えて、青《あお》い梅《うめ》の実《み》のなっている林《はやし》に、しめっぽい五|月《がつ》の風《かぜ》が吹《ふ》く、景色《けしき》を見《み》るような気《き》がするのよ。」といわれました。  やがて、蓄音機《ちくおんき》のうたい出《だ》したのは、 [#ここから2字下げ] 「ねんねん、ころころ、ねんねしな。  坊《ぼう》やは、いい子《こ》だ、ねんねしな。  …………」 [#ここで字下げ終わり] という、子守唄《こもりうた》でありました。  おかよは目《め》に涙《なみだ》をうかべて、きいていました。哀《あわ》れな、子供《こども》を失《うしな》って気《き》の狂《くる》った、おきぬのことを思《おも》い出《だ》したからです。 「どう? あんたが泣《な》くくらいだから、やはりいいんだわ。この声楽家《せいがくか》は、有名《ゆうめい》な方《かた》なのよ。」 「いえ、お嬢《じょう》さま、どうか、今年《ことし》の夏《なつ》、私《わたし》の生《う》まれた村《むら》へいらしてください。谷《たに》にはべにゆりが咲《さ》いていますし、あの悲《かな》しい子守唄《こもりうた》をおきかせしたいのでございますから。」  おかよは哀《あわ》れなおきぬの話《はなし》をしてきかせたのでした。  都会《とかい》で、はなやかな生活《せいかつ》を送《おく》っていらっしゃるお嬢《じょう》さまは、高《たか》い窓《まど》からかなたの空《そら》をながめて、遠《とお》い、知《し》らぬ海《うみ》の向《む》こうの国々《くにぐに》のことなどを、さまざまに想像《そうぞう》して、悲《かな》しんだり、あこがれたりしていられたのですが、いま、おかよの話《はなし》をきくと、このところへは、ほんとうにいってみる気《き》になりました。朝《あさ》、汽車《きしゃ》に身《み》を委《まか》せればその日《ひ》の中《うち》にもおかよの村《むら》へ着《つ》くのだから。  また、月日《つきひ》は、足音《あしおと》をたてずに、とっとと過《す》ぎてしまいました。  地球《ちきゅう》の上《うえ》は、やわらかな風《かぜ》と緑《みどり》の葉《は》に被《おお》われています。うぐいすは林《はやし》に鳴《な》いて、がけの上《うえ》には、らんの花《はな》が香《かお》っていました。  気《き》の狂《くる》ったおきぬは、その後《ご》、すこしおちついたけれど、もうこの村《むら》には用《よう》のない人《ひと》とされて、山《やま》一つ越《こ》した、あちらの漁村《ぎょそん》の実家《じっか》へ帰《かえ》ってしまったそうです。 「お嬢《じょう》さま、せっかくおつれもうして、あの女《おんな》のうたう子守唄《こもりうた》をおきかせすることができません。」と、おかよは、なげきました。それをききたいばかりに、わざわざここまで旅行《たび》をしたお嬢《じょう》さまの失望《しつぼう》を思《おも》ったからです。  しかし、お嬢《じょう》さまは、都《みやこ》にいらしたときのように、ここへきても笑《わら》っていらっしゃいました。 「だけど、いいわ。ここへやってきたかいがあってよ。山《やま》も谷《たに》も、私《わたし》が、夢《ゆめ》で見《み》たよりか美《うつく》しいんですもの。」  このとき、谷《たに》で鳴《な》くうぐいすの声《こえ》が、かすかにきこえてきました。そして、がけの上《うえ》では、らんの花《はな》が咲《さ》いて、今朝《けさ》から、金色《こんじき》の羽《はね》を輝《かがや》かしながら、小《ちい》さなはちが、幾《いく》たびもそのまわりを飛《と》んでいたのでした。 「まだ、あちらの山《やま》には、雪《ゆき》が光《ひか》っていること。」と、おかよが、ぼんやりと、その方《ほう》に見《み》とれていたときでした。 [#ここから3字下げ] 「ねんねん、ころころ、ねんねしな――。」 [#ここで字下げ終わり]  彼女《かのじょ》は、たちまち谷《たに》に起《お》こる、きき覚《おぼ》えのある、おきぬの声《こえ》をきいたので、びっくりしたのです。  しかし、それは、そうでなかった。なにか美《うつく》しい花《はな》を見《み》つけて草《くさ》のしげった、細《ほそ》い道《みち》を下《お》りていった、お嬢《じょう》さまが、高《たか》らかにうたった歌《うた》の声《こえ》だったのであります。 底本:「定本小川未明童話全集 10」講談社    1977(昭和52)年8月10日第1刷発行    1983(昭和58)年1月19日第6刷発行 ※表題は底本では、「谷《たに》にうたう女《おんな》」となっています。 入力:特定非営利活動法人はるかぜ 校正:仙酔ゑびす 2012年7月16日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。