海のまぼろし 小川未明 ------------------------------------------------------- 【テキスト中に現れる記号について】 《》:ルビ (例)浜辺《はまべ》 |:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号 (例)三|月《がつ》 -------------------------------------------------------  浜辺《はまべ》に立《た》って、沖《おき》の方《ほう》を見《み》ながら、いつも口笛《くちぶえ》を吹《ふ》いている若者《わかもの》がありました。風《かぜ》は、その音《ね》を消《け》し、青《あお》い、青《あお》い、ガラスのような空《そら》には、白《しろ》いかもめが飛《と》んでいました。  ここに、また二人《ふたり》の娘《むすめ》があって、一人《ひとり》の娘《むすめ》は、内気《うちき》で思《おも》ったことも、口《くち》に出《だ》していわず、悲《かな》しいときも、目《め》にいっぱい涙《なみだ》をためて、うつむいているというふうでありましたから、心《こころ》で慕《した》っていた若者《わかもの》のいうことは、なんでもきいたのであります。 「その指《ゆび》にはめている、指輪《ゆびわ》をくれない?」と、あるとき、若者《わかもの》がいいました。  彼女《かのじょ》は、ほんとうに、若者《わかもの》が、自分《じぶん》を愛《あい》しているので、そういったのだろうと思《おも》って、指《ゆび》にはめている指輪《ゆびわ》をぬいてやりました。それは、死《し》んだお母《かあ》さんからもらった、だいじにしていたものです。  その後《ご》のこと、あるうららかな日《ひ》でした。 「こんど、遠《とお》い船出《ふなで》をして、帰《かえ》ってきたら、結婚《けっこん》をしようと思《おも》っているが、だれか、約束《やくそく》をしてくれる女《おんな》はないだろうか。」と、若者《わかもの》がいいました。彼女《かのじょ》は、もとより驚《おどろ》きました。そして、恥《は》ずかしさのために、ほおを赤《あか》くして、うつむいていたのであります。  彼女《かのじょ》にくらべて、友《とも》だちの娘《むすめ》は、平常《へいぜい》、はすっぱといわれるほどの、快活《かいかつ》の性質《せいしつ》でありましたから、これをきくと、すぐに、 「私《わたし》が、お約束《やくそく》をいたします。勇《いさ》ましい、遠《とお》い船出《ふなで》から、あなたのお帰《かえ》りなさる日《ひ》を、氏神《かみさま》にご無事《ぶじ》を祈《いの》って、お待《ま》ちしています。」といいました。  こう女《おんな》にいわれて、喜《よろこ》ばぬ男《おとこ》はなかったでありましょう。若者《わかもの》は、大《おお》いにはしゃいで、このあいだもらって、秘蔵《ひぞう》していた指輪《ゆびわ》を、その娘《むすめ》に与《あた》え、指《ゆび》にはめてやりました。そばでこれを見《み》たときは、いかに、おとなしい娘《むすめ》でも、さすがにそこにいたたまらず、胸《むね》を裂《さ》かれるような気持《きも》ちがしたのです。  遠《とお》い水平線《すいへいせん》は、黒《くろ》く、黒《くろ》く、うねりうねって、見《み》られました。空《そら》を血潮《ちしお》のように染《そ》めて、赤《あか》い夕日《ゆうひ》は、幾《いく》たびか、波《なみ》の間《あいだ》に沈《しず》んだけれど、若者《わかもの》の船《ふね》は、もどってきませんでした。はすっぱの娘《むすめ》は、はじめのうちこそ、その帰《かえ》りを待《ま》ったけれど、生死《せいし》がわからなくなると、はやくも、あきらめてしまいました。なぜなら、秋《あき》から、冬《ふゆ》にかけて、すさまじい風《かぜ》が吹《ふ》きつのって、沖《おき》が暴《あ》れ狂《くる》ったからでした。彼女《かのじょ》は、いつしか、他《た》の青年《せいねん》を恋《こい》するようになりました。 「その指輪《ゆびわ》は、だれからもらったのか。」と、その青年《せいねん》は、問《と》うたのであります。いつか、約束《やくそく》にもらった指輪《ゆびわ》は、いまはかえって、邪魔《じゃま》となったのでした。彼女《かのじょ》は、顔《かお》を赤《あか》くして、指輪《ゆびわ》をぬくと、海《うみ》の中《なか》へ投《な》げてしまいました。 「これで、いいのですか。」  かれらは朗《ほが》らかに笑《わら》いました。内気《うちき》の娘《むすめ》は、その後《ご》も、浜辺《はまべ》にきて、じっと沖《おき》の方《ほう》をながめて、いまだに帰《かえ》ってこない、若者《わかもの》の身《み》の上《うえ》を案《あん》じていました。しかし、何人《なんぴと》も、彼女《かのじょ》の苦《くる》しい胸《むね》のうちを知《し》るものがなかったのです。北国《ほっこく》の三|月《がつ》は、まだ雪《ゆき》や、あられが降《ふ》って、雲行《くもゆ》きが険《けわ》しかったのであります。あわれな娘《むすめ》の兄《あに》は、こうした寒《さむ》い日《ひ》にも、生活《せいかつ》のために、沖《おき》へ出《で》て漁《りょう》をしていました。ちらちらと、横《よこ》なぐりに、雪《ゆき》は、波《なみ》の上《うえ》に落《お》ちると、たちまち消《き》えてしまいました。ふとそのとき、水《みず》の底《そこ》に、茫《ぼう》として、怪《あや》しい影《かげ》のようなものが見《み》えたのであります。 「なんだろう?」と、彼《かれ》が、瞳《ひとみ》をこらすと、破《やぶ》れた帆《ほ》を傾《かたむ》けて、一そうの、難破船《なんぱせん》が、水《みず》の中《なか》を走《はし》っていたのです。 「あ、船幽霊《ふなゆうれい》だ!」と、叫《さけ》ぶと、ぎょっとしました。 「なんだか、気味《きみ》が悪《わる》いし、もう引《ひ》き上《あ》げよう。」といって、わずか二、三びきしか釣《つ》れなかったたらをかごにいれて、兄《あに》は、家《うち》へもどってきました。  たらの色《いろ》は、黒々《くろぐろ》として、大《おお》きな目玉《めだま》が光《ひか》っていました。娘《むすめ》は、その一ぴきを晩《ばん》のさかなにしようと庖丁《ほうちょう》をいれました。魚《さかな》の肉《にく》は、雪《ゆき》よりも白《しろ》く、冷《つめ》たかったのです。そして、腹《はら》を割《わ》ると、真《ま》っ赤《か》な、桃《もも》のつぼみが出《で》たと思《おも》いました。 「どこで、桃《もも》のつぼみを、のんだのだろう。」といって、娘《むすめ》は、つまみ上《あ》げてから、「まあ!」と、目《め》をみはったまま、ふるえ出《だ》したのでした。それは、永久《えいきゅう》になくしてしまったと思《おも》っていた、お母《かあ》さんの形見《かたみ》の指輪《ゆびわ》でありました。 底本:「定本小川未明童話全集 10」講談社    1977(昭和52)年8月10日第1刷発行    1983(昭和58)年1月19日第6刷発行 ※表題は底本では、「海《うみ》のまぼろし」となっています。 入力:特定非営利活動法人はるかぜ 校正:仙酔ゑびす 2012年2月19日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。