海と少年 小川未明 ------------------------------------------------------- 【テキスト中に現れる記号について】 《》:ルビ (例)清《きよし》 |:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号 (例)八|年《ねん》 -------------------------------------------------------  清《きよし》さんとたけ子《こ》さんの二人《ふたり》は、お母《かあ》さんにつれられて、海岸《かいがん》へまいりました。 「清《きよし》さんは、男《おとこ》ですから、泳《およ》ぎを知《し》らなくてはいけません。ここには、泳《およ》ぎの上手《じょうず》な先生《せんせい》がいらっしゃるから、よく習《なら》って、覚《おぼ》えなさいね。」と、お母《かあ》さんは、おっしゃいました。  その晩《ばん》、清《きよし》さんは、お母《かあ》さんや、妹《いもうと》のたけ子《こ》さんと、海《うみ》の見《み》えるお座敷《ざしき》で、メロンやお菓子《かし》を食《た》べながら、宿《やど》の人《ひと》から、いろいろのおもしろいお話《はなし》をききました。中《なか》でも、いちばん心《こころ》をひかれたのは、もう、七、八|年《ねん》も前《まえ》になるが、五、六|人《にん》連《づ》れの旅芸人《たびげいにん》が、ある日《ひ》、急《いそ》いでここの港《みなと》から、船《ふね》に乗《の》って出立《しゅったつ》したときのことであります。乗《の》り後《おく》れた一人《ひとり》の少年《しょうねん》がありました。船《ふね》は、少年《しょうねん》を残《のこ》して、そのままいってしまったのです。少年《しょうねん》は、後《あと》を追《お》うにも、はるばるとした海《うみ》の上《うえ》ですから、どうすることもできなく、独《ひと》り岩《いわ》の上《うえ》に立《た》って、悲《かな》しそうに、持《も》っている笛《ふえ》を吹《ふ》いていました。  少年《しょうねん》は、いまにも怖《おそ》ろしい土用波《どようなみ》が、やってくるということを知《し》らなかったのです。これから、どう歩《ある》いていったら、船《ふね》で立《た》った親方《おやかた》や、友《とも》だちに、しまいには追《お》いつくことができるだろうかと考《かんが》えていたのでしょう。そのとき、沖《おき》の方《ほう》から怖《おそ》ろしい山《やま》のような大波《おおなみ》が襲《おそ》ってきたと思《おも》うと、もう少年《しょうねん》の姿《すがた》は、見《み》えなくなって、波《なみ》は、どこかへさらっていってしまったのでした。  このことを伝《つた》えきいた浜《はま》の人《ひと》たちは、その子供《こども》をかわいそうに思《おも》わぬものはなかったのです。ところが、それからというもの、月《つき》のいい晩《ばん》には、かなしそうな笛《ふえ》の音《ね》が、沖《おき》の方《ほう》から聞《き》こえるという話《はなし》でした。 「いまでも聞《き》こえますか?」と清《きよし》さんは、宿《やど》の人《ひと》に、ききました。 「それが、きこえることもあれば、またきこえぬこともあります。笛《ふえ》の音《ね》のきこえたつぎの日《ひ》は、船《ふね》を沖《おき》へ出《だ》しても、漁《りょう》がないということです。」と、宿《やど》の人《ひと》は、答《こた》えました。 「まあ、不思議《ふしぎ》なお話《はなし》ですこと、清《きよし》さんも、海《うみ》へ入《はい》ったら、波《なみ》に気《き》をつけなければいけませんよ。」と、お母《かあ》さんは、おっしゃいました。 「あの先生《せんせい》がついていらっしゃいますから、だいじょうぶですし、まだ、土用波《どようなみ》の立《た》つ時節《じせつ》でもありませんから。」と、宿《やど》の人《ひと》は、いいました。  清《きよし》さんと、たけ子《こ》さんは、寝《ね》てからもしばらく、その話《はなし》が頭《あたま》にあって、 「今夜《こんや》は、笛《ふえ》がきこえないかなあ。」と、まくらにつけた耳《みみ》をすましたのでした。  翌日《よくじつ》、海水浴場《かいすいよくじょう》で、清《きよし》さんは、水泳《すいえい》の先生《せんせい》に向《む》かって、昨夜《ゆうべ》聞《き》いたお話《はなし》をしました。そして、 「ほんとうでしょうか?」と、たずねたのであります。先生《せんせい》は笑《わら》っていられましたが、 「それは、笛《ふえ》でなくて、ハーモニカでないのかね。」と、おっしゃいました。清《きよし》さんは、目《め》をまるくして、 「ハーモニカが、聞《き》こえるのですか?」と、ききました。 「ハーモニカなら、月夜《つきよ》の晩《ばん》でなくとも、きこえるよ。ああそうだ、これから聞《き》かしてあげようか。」と、おっしゃいました。清《きよし》さんは、まったくびっくりしてしまいました。 「昼間《ひるま》でも、お化《ば》けが出《で》るのですか?」 「ははは、そのお化《ば》けを見《み》せてあげましょう。」と、先生《せんせい》は、おっしゃいました。  海水浴場《かいすいよくじょう》の中《なか》は、どちらを見《み》ても人《ひと》の頭《あたま》でいっぱいでした。赤《あか》い水着《みずぎ》を着《き》たのや、青《あお》いのや、黒《くろ》いのや、さまざまで、まるでくらげのお仲間《なかま》のように、ぷかぷかと浮《う》かんでいたのです。こんなに人《ひと》がたくさんたくさんいるのなら、たとえお化《ば》けが出《で》ても怖《おそ》ろしくはないと思《おも》いましたから、 「ええ、そのお化《ば》けを見《み》せてください。」と、清《きよし》さんは、いいました。 「いまごろなら、泳《およ》いでいるだろう。さあ、僕《ぼく》といっしょにおいでなさい。」と、いって、清《きよし》さんは、浮《う》き輪《わ》につかまり、先生《せんせい》は、泳《およ》ぎながら清《きよし》さんの背中《せなか》を押《お》して、沖《おき》へ、沖《おき》へと出《で》てきました。たちまち、ハーモニカの音《おと》が青《あお》い、青《あお》い波《なみ》の上《うえ》からきこえるのでした。 「あ、ハーモニカの音《ね》が。」と、清《きよし》さんは、じっと水平線《すいへんせん》を見《み》ますと、白《しろ》い帽子《ぼうし》を被《かぶ》った一人《ひとり》の少年《しょうねん》が、ハーモニカを吹《ふ》きながら、波《なみ》の間《あいだ》を自由《じゆう》に泳《およ》いでいました。それは、まったく人間業《にんげんわざ》とは思《おも》われないほど上手《じょうず》でありました。 「あの子《こ》はだれでしょう。」と、清《きよし》さんは、おどろきました。 「どうだね、あの子《こ》ならお化《ば》けでもなんでもない、この浜《はま》で評判《ひょうばん》の水泳《すいえい》の天才少年《てんさいしょうねん》なのだ。君《きみ》も熱心《ねっしん》にけいこをすれば、きっとうまくなれるから。」と、先生《せんせい》は、快活《かいかつ》におっしゃいました。このとき、ハーモニカの音《ね》は、まただんだん遠《とお》くなりました。 底本:「定本小川未明童話全集 11」講談社    1977(昭和52)年9月10日第1刷発行    1983(昭和58)年1月19日第5刷発行 底本の親本:「ドラネコと烏」岡村商店    1936(昭和11)年12月 初出:「セウガク二年生臨時増刊「夏休み読者号」 12巻7号」    1936(昭和11)年8月5日 ※表題は底本では、「海《うみ》と少年《しょうねん》」となっています。 入力:特定非営利活動法人はるかぜ 校正:酒井裕二 2016年6月10日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。