犬と古洋傘 小川未明 ------------------------------------------------------- 【テキスト中に現れる記号について】 《》:ルビ (例)村《むら》 |:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号 (例)三|日《にち》 -------------------------------------------------------  ある村《むら》から、毎日《まいにち》町《まち》へ仕事《しごと》にいく男《おとこ》がありました。どんな日《ひ》でも、さびしい道《みち》を歩《ある》かなければならなかったのです。  ある日《ひ》のこと、男《おとこ》はいつものごとく考《かんが》えながら歩《ある》いてきました。寒《さむ》い朝《あさ》で、自分《じぶん》の口《くち》や、鼻《はな》から出《で》る息《いき》が白《しろ》く凍《こお》って見《み》えました。また田圃《たんぼ》には、霜《しも》が真《ま》っ白《しろ》に降《お》りていて、ちょうど雪《ゆき》の降《ふ》ったような、ながめでありました。  このとき、どこからか、赤《あか》ん坊《ぼう》の泣《な》く声《こえ》がしました。男《おとこ》は思《おも》わず歩《あゆ》みを止《と》めて、あたりを見《み》まわしたのであります。 「はてな、赤《あか》ん坊《ぼう》の泣《な》く声《こえ》がきこえたが……。」  しかし、人《ひと》の影《かげ》はなし、近《ちか》くに人家《じんか》もなかったから、たぶん、空耳《そらみみ》だろうと思《おも》って、また歩《ある》き出《だ》しました。  すると、今度《こんど》は、前《まえ》よりも、もっと近《ちか》く、赤《あか》ん坊《ぼう》の泣《な》く声《こえ》がきこえてきたのです。 「たしかに赤《あか》ん坊《ぼう》だ、どこだろう?」  彼《かれ》は、もう自分《じぶん》の耳《みみ》を疑《うたが》いませんでした。きっと、この近傍《きんぼう》にだれか赤《あか》ん坊《ぼう》を捨《す》てたものがあるにちがいないと思《おも》いました。 「そんな悪《わる》いことをするやつは、どこのやつだろう。」と、男《おとこ》は、この寒空《さむぞら》に捨《す》てられた、かわいそうな赤《あか》ん坊《ぼう》を、早《はや》くさがし出《だ》して、どうかしてやらなければと思《おも》って、声《こえ》のきこえる方《ほう》へ近《ちか》づいていきました。  見《み》ると、それは、赤《あか》ん坊《ぼう》でなく、やぶの中《なか》に、まだ生《う》まれてから間《ま》がない、やっと目《め》の開《あ》いたばかりの小犬《こいぬ》が三びき、箱《はこ》の中《なか》に入《い》れて捨《す》ててありました。  彼《かれ》は、赤《あか》ん坊《ぼう》でなく、小犬《こいぬ》でよかったと思《おも》いましたが、その捨《す》てられた小犬《こいぬ》の、いじらしいようすを見《み》ると、また別《べつ》の不憫《ふびん》さが心《こころ》の中《なか》にわいてきて、 「こんな、まだ独《ひと》り歩《ある》きのできぬ小犬《こいぬ》をだれが捨《す》てたのだろう、情《なさ》け知《し》らずの人間《にんげん》だ。」と、思《おも》いましたが、自分《じぶん》は、どうすることもできません。 「ああ、かわいそうなものを見《み》たな。」と、ただ、気持《きも》ちを暗《くら》くして、かわいそうとは思《おも》いながらも、そのまま、男《おとこ》はいってしまいました。 「こんな寒空《さむぞら》に、それに食《た》べ物《もの》もないのでは、きっと死《し》んでしまうだろう。」と、三びきの小犬《こいぬ》のことを思《おも》いながら、道《みち》を急《いそ》いだのです。  しかし、いくら思《おも》うまいとしても、白《しろ》と黒《くろ》の三びきの小犬《こいぬ》が、重《かさ》なり合《あ》って、彼《かれ》の顔《かお》を見《み》たとき、尾《お》をぴちぴちと振《ふ》って、助《たす》けてくれといわぬばかりに鳴《な》いたいじらしい姿《すがた》を、男《おとこ》は、いつまでも目《め》から取《と》ることができませんでした。  彼《かれ》は、町《まち》へ着《つ》くと、いつものごとく仕事《しごと》にとりかかりました。仕事《しごと》をしている間《あいだ》は、犬《いぬ》のことを忘《わす》れていましたが、その日《ひ》の仕事《しごと》が終《お》わって帰《かえ》り道《みち》にさしかかると、朝《あさ》見《み》た犬《いぬ》のことが、思《おも》い出《だ》されて、 「どうなったろう?」という、好奇心《こうきしん》も起《お》こって、なんだか、そのやぶの近《ちか》くになると、重苦《おもくる》しいような気《き》さえしました。  彼《かれ》は、やぶのそばへきて、耳《みみ》をすましました。  もう泣《な》き声《ごえ》はきこえません。 「はてな、みんな死《し》んでしまったのかしらん。」  怖《おそ》ろしいものでも見《み》るようにして、のぞいてみると、三びきのうち二ひきは死《し》んでしまって、一ぴきだけが、こもから出《で》て死《し》んだ兄弟《きょうだい》のまわりをまわっていました。  この一ぴきも、晩《ばん》には、死《し》ぬであろうと思《おも》います。  男《おとこ》は、胸《むね》の中《なか》が苦《くる》しくなりました。よほど、この一ぴきを家《いえ》へつれていって、助《たす》けてやろうかとも考《かんが》えました。  だが、その世話《せわ》が、またたいへんだとも思《おも》いました。見《み》なければ、知《し》らずにしまったことだ、そうだ、おれは、見《み》なかったことにして、このままいってしまおう……と、気《き》の弱《よわ》い彼《かれ》は自分《じぶん》の心《こころ》をはげまして、そのまま小犬《こいぬ》を見捨《みす》てて、家《いえ》へ帰《かえ》ってしまいました。  その夜《よ》は、前《まえ》の晩《ばん》よりも寒《さむ》く、それに、風《かぜ》さえ烈《はげ》しかったのであります。  男《おとこ》は、たびたび目《め》をさまして、床《とこ》の中《なか》で、後《あと》に一ぴき生《い》き残《のこ》っていた、いじらしい犬《いぬ》の姿《すがた》を思《おも》い出《だ》していました。  翌日《よくじつ》、彼《かれ》は、その道《みち》を通《とお》るのが、なんとなく心《こころ》がとがめて、ほかの道《みち》を遠《とお》まわりして仕事《しごと》にいきました。帰《かえ》るときも同《おな》じでした。二、三|日《にち》の間《あいだ》というものは、その道《みち》を通《とお》ることができなかったのです。  ある日《ひ》、雨《あめ》が降《ふ》りそうだったので、男《おとこ》は、急《いそ》ぐために、その道《みち》を通《とお》ったのでありました。 「どうなったろうな? きっと、三びきとも死《し》んでいるにちがいない。それともしんせつな人《ひと》があって、功徳《くどく》にどこへか葬《ほうむ》ってやったかもしれないが。」と、犬《いぬ》の捨《す》てられた場所《ばしょ》に近《ちか》づくにつれて、男《おとこ》は思《おも》ったのでした。そして、そのまま過《す》ぎることができずに、ついやぶ蔭《かげ》をのぞいて見《み》ると、犬《いぬ》の死骸《しがい》もなければ、犬《いぬ》の入《はい》っていたこもも見《み》えませんでした。そして、その場所《ばしょ》に一|本《ぽん》の古洋傘《ふるこうもり》が置《お》いてありました。  男《おとこ》は、その洋傘《こうもり》を拾《ひろ》って、開《あ》けてみると、まだりっぱにさせる品物《しなもの》でした。 「このまま腐《くさ》らしてしまうのは惜《お》しいものだ。さいわい、雨《あめ》が降《ふ》りそうだから、拾《ひろ》っていこう。」と、男《おとこ》は、その古《ふる》い洋傘《こうもり》を持《も》って、立《た》ち去《さ》りましたが、家《いえ》に着《つ》かぬうちに、雨《あめ》がぽつぽつ降《ふ》り出《だ》してきました。 「いわぬことか、いいものを拾《ひろ》ってきた。」といって、洋傘《こうもり》を開《ひら》いてさして歩《ある》きますと頭《あたま》の上《うえ》で、クンクン小犬《こいぬ》のなき声《ごえ》がしました。彼《かれ》は、びっくりして、洋傘《こうもり》を投《な》げ出《だ》すと、いっしょうけんめいに駈《か》け出《だ》しました。 「あのとき、おれが拾《ひろ》ってやれば、一ぴきにしろ犬《いぬ》の命《いのち》は助《たす》かったのだ。一|本《ぽん》の洋傘《こうもり》より、生《い》き物《もの》の命《いのち》のほうが、どれほど大切《たいせつ》かしれないのだ。」と、正直《しょうじき》な男《おとこ》だけに悟《さと》ったのでした。 底本:「定本小川未明童話全集 11」講談社    1977(昭和52)年9月10日第1刷発行    1983(昭和58)年1月19日第5刷発行 底本の親本:「小学文学童話」竹村書房    1937(昭和12)年5月 ※表題は底本では、「犬《いぬ》と古洋傘《ふるこうもり》」となっています。 入力:特定非営利活動法人はるかぜ 校正:酒井裕二 2016年9月9日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。