雨月物語 解説 鵜月洋 ------------------------------------------------------- 【テキスト中に現れる記号について】 《》:ルビ (例)雨月物語《うげつものがたり》 [#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定    (数字は、JIS X 0213の面区点番号またはUnicode、底本のページと行数) (例)畀 ------------------------------------------------------- 「雨月物語《うげつものがたり》」は、安永五年(一七七六)に出版された、五巻五冊、全九話を収めた、いわば短篇小説集で、著者は上田秋成《うえだあきなり》であり、これを近世小説のジャンルでいえば読本《よみほん》とよばれるものであるが、その文学的性格にそくしていえば、伝奇小説、時代小説、怪異小説、翻案小説などとよんでいいものである。――このアウトラインにしたがって、簡単な解説をこころみておくことにしたい。 「雨月物語」が最初に出版されたのは安永五年四月、半紙本五巻五冊のかたちであった。奥付に「安永五歳[#1段階小さな文字]丙申[#小さな文字終わり]孟夏吉旦、書肆、[#1段階小さな文字]京都、寺町通五条上ル町[#小さな文字終わり]、梅村判兵衛、[#1段階小さな文字]大坂、高麗橋筋壱町目[#小さな文字終わり]、野村長兵衛」とあるように、これは野村・梅村両|書肆《しょし》の合刻本で、ふつう野梅堂《やばいどう》版とよばれている。その後、おなじ板木をもちいて、野村と名倉の合刻による再版本、名倉と藤沢の合刻による三版本等が出版されたが、これらはいずれも半紙本五巻五冊であった。  その後さらに大阪の河内屋源七郎を版元とした美濃版三冊の本が出版され、文栄堂《ぶんえいどう》版とよばれたが、このほかにもまだ奥付に数軒の書肆をならべた本などがあり、これら美濃版三冊本はだいたい天保以後の出版と推定されている。  すなわち、「雨月物語」は初版以後、幕末ちかくまでに数版を重ねたのであり、そのかたちこそ半紙本五冊から美濃版本三冊にかわったが、すべて一つの板木を用いたものであった。 「雨月物語」の序文をみると、「明和戊子晩春。雨霽月朦朧之夜。窓下編成。以畀梓氏。」とあって、この作品がいかにも明和五年(一七六八)三月に成立したように書かれている。明和五年というと作者秋成は数え年で三十五歳であり、明和五年から安永五年までには八年の歳月がある。従来の研究家は、この八年間を、推敲《すいこう》の時期――やや具体的にいうと、明和五年に雨月の草稿が書かれ、その後八年間、折をみて推敲に推敲をかさね、完成したのが安永五年であり、その完成したものがいま私たちのみる「雨月」である――と考えているが、明和五年に成立したということについては多分に疑問があり、その点に関して、私は「秋成文学の展開」[#1段階小さな文字](「国文学」第四巻第七号所収)[#小さな文字終わり]のなかに所見を述べておいたから参照されたい。ここで結論だけをいえば、秋成が「雨月物語」を書いたのは、明和八年に火災で家をうしなってから以後のことと推測される。 「雨月物語」という書名が、どうしてつけられたか、またそれがなにを意味しているか、ということについては、いくつかの説がある。たとえば、作者みずから序文に「雨[#「雨」に傍点]霽月[#「月」に傍点]朦朧之夜。窓下編成。以畀梓氏。題曰雨月物語。云。」とあるのがその由来であるという説、また、西行をワキとする謡曲「雨月」にちなんで、冒頭に西行法師と崇徳院の亡霊の問答を構想した「白峯《しらみね》」をおいたことが、その題名のもとづくところであるという説、また中国の怪異談「剪灯新話《せんとうしんわ》」の「牡丹灯記《ぼたんとうき》」に、妖怪出現の時刻を「天陰雨[#「雨」に傍点]湿之夜、月[#「月」に傍点]落参横之晨」としているところから、「雨」と「月」で怪異をあらわしたのだとする説などがそれである。にわかにはどれとさだめがたいが、おおよその見当はつくであろう。 「雨月物語」の著者は、序文に「剪枝畸人《せんしきじん》」と署名しているだけであるが、これが上田秋成の戯号であることにまちがいはない。文栄堂版の見返しには「上田秋成大人編輯」と明記している。剪枝というのは、木をきる鋏の意であるとともに、秋成は、これを剪肢(指)に通じさせて、みずからの不具の手を自嘲したのであろう。秋成は、五歳の折、重い痘瘡《とうそう》をわずらって、その痘毒のために、右の中指と左の人さし指がひどく短くなり、用にたたなくなっていた。醜《みにく》い両手をながめながら、そこから一時の戯号をおもいつくなどというのも、いかにも秋成らしい。 「雨月物語」の九つの短篇は、いずれも和漢の古典を典拠として開花結実した、いわば翻案小説であった。その内容と典拠を簡単にしるしておくと――  白峯――讃岐《さぬき》の国白峯にある崇徳院の陵に詣でた西行法師が、ありし日のすがたをあらわした院の亡霊と、初冬の一夜、その生き方について論争し、その怨恨を慰めようとしたはなし。謡曲「松山天狗」、西行関係の「撰集抄《せんじゅうしょう》」「山家集《さんかしゅう》」、白峯寺関係の「白峯寺縁起《はくほうじえんぎ》」、戦記文学の「保元物語」「国府台戦記《こうのだいせんき》」「太平記」、先縦《せんしょう》の読本「英草紙《はなぶさぞうし》」、中国白話小説「古今《ここん》小説」「警世通言《けいせいつうげん》」等の影響のもとに書かれた思想的な歴史小説。  菊花の約――旅先で重病にかかった赤穴《あかな》宗右衛門という武士は、丈部《はせべ》左門という学者から手厚い看護をうけ、やがて二人は義兄弟のちぎりをむすぶ。別れにのぞんで、赤穴は、重陽の佳節に再会することを約束する。しかし、郷里に幽閉されてしまった赤穴は、再会の日を迎えて自害し、魂魄《こんぱく》となってその約をはたす。亡魂と対面した丈部は、赤穴の郷里におもむいて赤穴の無念をはらす。全体の構想においても、部分的な叙述においても、中国白話小説「古今小説」に収められた「范巨卿鶏黍死生交《はんきょけいけいしょしせいのまじわり》」をかなり忠実に翻案した、文字通りの翻案小説である。ときに「陰徳太平記《いんとくたいへいき》」や「英草紙」が参酌され、「万葉集」の歌にたいする秋成の見解などが挿入されている。  浅茅が宿――下総真間の里にすむ勝四郎は、家運挽回のために上京したが、不慮の災難と戦乱勃発のために、妻の宮木と約束した時期に帰宅できず、おもわずも七年の歳月をすごしてしまう。そしてやっと帰国してみると、妻はひとりで夫のかえりを待ちうけ、さめざめと泣いて夫を迎えたが、一夜あけてみると、それは妻の亡霊であった。そこで勝四郎は妻の菩提《ぼだい》をとむらう。中国明代の「剪灯新話」中の「愛卿伝」に想をえた一篇である。この「愛卿伝」はすでに浅井了意によって「御伽婢子《おとぎぼうこ》」に「藤井清六遊女|宮城野《みやぎの》を娶《めと》る事」と題して翻案されており、「浅茅が宿」は「御伽婢子」をも参照している。また「今昔物語集」の「人妻死後会旧夫語」や、「万葉集」巻九にある高橋連虫麻呂の真間の手児奈の歌も、モティーフのひとつとなっている。このほか「徒然草」百三十七段、「源氏物語」蓬生の巻などの投影も指摘できる。  夢応の鯉魚――絵の名手、三井寺の僧興義は病で息絶え、三日にして蘇生したが、その間、鯉となって琵琶湖を泳ぎまわり、魚としての体験をするというはなし。中国宋代の説話集「太平広記《たいへいこうき》」中の薛偉《せつい》のはなし、明代説話集「古今説海《ここんせっかい》」にある「魚服記」、それらをもととした白話小説集「醒世恒言《せいせいこうげん》」中の「薛録事魚服証仙」等を典拠として構想した一篇で、「古今著聞集」や「宇治拾遺物語」等も参照されている。  仏法僧――夢然という男が、高野山で、関白秀次とその家臣たちの亡霊にあって、歌や句のはなしを聞く。出典は、「怪談とのゐ袋」巻四の「伏見桃山亡霊行列の事」をはじめとして、「剪灯新話」の「竜堂霊会録」、「剪灯余話」の「武平霊怪録」、およびその影響をうけた「御伽婢子」の「幽霊評[#二]諸将[#一]」のほか、「本朝神社考」「太平記」等があげられる。  吉備津の釜――道楽者の夫正太郎に裏切られた貞淑な妻の磯良が、怨霊《おんりょう》となって、夫の情婦を殺し、さらに夫までもとり殺すという凄惨な怪異小説。「剪灯新話」の「牡丹灯記」「翠々《すいすい》伝」、「御伽婢子」の「牡丹灯籠」、「奇異雑談集《きいぞうだんしゅう》」の「女人死後男を棺の内へ引込ころす事」、「日本霊異記」の「女人悪鬼見[#レ]点被[#二]食噉[#一]縁」等を典拠とし、さらに中国から舶載《はくさい》された「五雑組《ござっそ》」、わが国近世の「本朝神社考」にみえる吉備津神社の御釜祓いの神事、「新御伽婢子」等が参照引用されている。  蛇性の婬――豊雄という美青年が、美人に化けた蛇にみこまれ、つきまとわれて、すでに一命のあやうくなったのを、法力によって退治するという、妖しくも艶なるはなしで、紀州・吉野の美しい自然を舞台として長篇小説的構想をとっている。中国明末の白話小説集「警世通言」中の「白娘子永鎮雷峯塔」、それとほとんど同文の「西湖佳話」中の「雷峯怪蹟」等を典拠として、それに道成寺説話をからませ、「五雑組」をはじめとして、「伊勢物語」「源氏物語」等の古典を随所にかりている。  青頭巾――下野国|大中寺《だいちゅうじ》にいた人肉を食う僧を、快庵禅師が教誡をもって白骨と化すという、大中寺縁起、高僧説話のかたちをとった妖怪味あふるる一篇。「大中寺縁起」、「怪談とのゐ袋」の「禅坐を以て怪を伏す奥州の禅僧」「魔仏を以て一如とす悟道の聖人、附、すたれし寺を取たてし僧の事」、浮世草子「都鳥妻恋笛《みやこどりつまこいぶえ》」のはなしなどが典拠となっているが、部分的には「五雑組」、「今昔物語集」および「日本霊異記」中の「憶[#二]持法花経[#一]者舌著[#二]曝髑髏中[#一]不[#レ]朽縁」、「宇治拾遺物語」中の「三河入道遁世の事」、「世尊寺に死人を掘出す事」、「新著聞集《しんちょもんしゅう》」中の「僧屍肉を噉ふ」、「水滸伝《すいこでん》」、「剪灯新話」中の「天台訪陰録《てんだいほういんろく》」、その他の投影をみることができる。  貧福論――蒲生家の臣、岡左内と、左内が平生尊んでいる黄金の精との一問一答を構想して、貧福の論を展開したもの。「常山記談」にみえる岡野左内の逸話、「史記」の「貨殖列伝」、魯褒の「銭神論《せんしんろん》」、「御伽婢子」の「長柄僧都が銭の精霊に逢事」、「五雑組」等に典拠をもとめている。  こうして各短篇が、多かれすくなかれ、ある種の典拠の上に構想された翻案小説であったということは「雨月物語」のおもしろみのひとつが翻案の妙にあったということである。秋成が「雨月物語」を書くにさいしていだいた対読者意識は、すくなくとも自分と同程度の教養ある読者、同等ぐらいの具眼の士を想定していた。だから、賢明でものわかりのいい、そして文学鑑賞力のゆたかな読者は、それぞれの作品についても、それが何を典拠とし、その典拠がどのように翻案されているかということを読みとるとともに、その典拠をのりこえて、どのような独自の世界が創造され、構想されたかという点にまで鑑賞眼をひからし、翻案文学の妙味というものを十分味読してくれるであろうというのが、秋成の計算であり、「雨月物語」のひとつのねらいであった。その意味からいえば、「雨月物語」はインテリの文学であり、主知主義の文学であった。 「雨月物語」は、題材からみれば時代小説であった。作品でとりあげた「時代」は、おおむね「中世」であった。なかに近世の出来事とおもわれるものも一二ないではないが、それとても本質的にはけっして近世的現実や近世的性格をもつ題材ではなかった。  秋成がことさら中世的題材をえらんだ意図は、徳川封建社会の支配をうけない時代を設定することによって、儒教的封建道徳や官制の思想と真正面から対立することを極力回避しようとしたからにほかならない。ようやく国学的な世界観や人間観を身につけた秋成にとって、近世という歴史的現実からは、純粋も美も理想も、これをもとめることは不可能であった。ゆがめられた現実、おしつぶされた人間性、ワクにはめこまれた生活……そうしたものから眼をそむけて、はるかな時間的かなたをながめたときに、はじめて自己に忠実な世界、自己の抱懐するファンタジーの次元が構想されたのである。時代小説のひとつの重要な意義がここにあるとともに、それは「雨月物語」を怪異小説に仕立てた意図と軌を一にするものでもあった。  怪異小説としての「雨月物語」は、日本文学史上、もっともすぐれた怪異美と芸術性をうちたてた文学であった。  わが国における怪異文学や怪異談の歴史は、ふるくさかのぼれば、古代の「日本霊異記」や「今昔物語集」のなかにも、それをもとめることができる。さらに中世の説話文学群もいくつかの怪異談をおさめている。そして近世初期に書かれた「奇異雑談集」[#1段階小さな文字](刊行されたのは貞享四年)[#小さな文字終わり]は、「今昔物語集」や「宇治拾遺物語」を吸収しながら、あらたに中国から舶載された怪奇白話小説「剪灯新話」の中に収められた三つのはなしを訳出した。  それに続いて、浅井了意によって、「剪灯新話」その他を翻案した「御伽婢子」「剪灯余話」その他を翻案した「狗張子《いぬはりこ》」等が発表され、さらに「百物語」「怪談全書」等の怪談文学が公にされて、ここに怪異小説の系譜とよんでいいような流れが形成されたのである。  くわえるに、八代将軍吉宗の享保の改革政治がひとつのきっかけとなって、それまで漢学といえばむずかしい四書五経の経義がもっぱらであったのが、文学的色彩をおびた詩文・小説が流行し、しきりに中国小説が輸入され翻訳されはじめたのである。たとえば、前にあげた「剪灯新話」にしても、それがわが国に輸入されたのは中世も末期、十六世紀の中ごろであったらしいが、それがわが国で翻刻されたのは近世初期の慶安元年(一六四八)であり、それがひろく学者のあいだにもてはやされたのは、近世も中ごろ、十八世紀の初頭、宝永ごろからであった。  十八世紀も中ごろになると、ようやく中国小説の翻刻がさかんにおこなわれるようになった。長崎の通辞|岡島冠山《おかじまかんざん》は「忠義水滸伝」を訳した。播州の儒者|岡白駒《おかはっく》は明代の短編小説集「警世通言」「醒世恒言」「拍案驚奇《はくあんきょうき》」等から数編をえらんで注解をくわえ、「小説精言」[#1段階小さな文字](寛保三年刊)[#小さな文字終わり]「小説奇言」[#1段階小さな文字](宝暦三年刊)[#小さな文字終わり]の題名のもとに出版した。白駒の弟子沢田重淵はおなじ方法で「小説|粋言《すいげん》」[#1段階小さな文字](宝暦八年刊)[#小さな文字終わり]をあらわした。倚水楼《いすいろう》主人や柳里恭《りゅうりきょう》も清代小説の訳読をこころみ、西田維則も三言二拍[#1段階小さな文字](喩世明言・警世通言・醒世恒言と拍案驚奇初続編をいう)[#小さな文字終わり]を抄訳して「赤縄奇縁《せきじょうきえん》」[#1段階小さな文字](宝暦十一年刊)[#小さな文字終わり]をあらわした。  こうした中国白話小説の流行は、ようやくたかまってきた文人主義的傾向と中国趣味の波にのって、いっそう助長され、大阪の儒医であった都賀庭鐘《つがていしょう》[#1段階小さな文字](近路行者)[#小さな文字終わり]が、中国明末の「古今奇観」その他の中国短篇小説に題材をもとめて、それを和漢混淆文の文語体でわが国の出来事に翻案した「英草紙」[#1段階小さな文字](寛延二年刊)[#小さな文字終わり]を発表するにおよんで、一つの明確なかたちと方向を示したのである。しかも「英草紙」の好評は、その続編「繁野話《しげしげやわ》」[#1段階小さな文字](明和三年刊)[#小さな文字終わり]を後続させ、さらに「垣根草《かきねぐさ》」[#1段階小さな文字](明和七年刊)[#小さな文字終わり]「莠句冊《ひつじぐさ》」[#1段階小さな文字](天明六年刊)[#小さな文字終わり]を世におくり出した。怪異小説の流行期がおとずれたのである。  明和三年(一七六六)三十三歳の正月に、処女作「諸道聴耳世間狙《しょどうききみみせけんざる》」を発表し、ついで翌四年正月に、第二作「世間妾形気《せけんてかけかたぎ》」を刊行して、浮世草子界にはなばなしくデビューしながら、浮世草子界の元締《もとじめ》ともいうべき八文字屋の崩壊に遭遇して、はげしい自己反省と自己嫌悪のすえ、方向転換を考えなければならなくなった秋成に、怪異小説・翻案小説の流行は、ある種のつよい示唆《しさ》と指標を与えた。ようやく学問的にも文学的にも開眼しようとしていた秋成は、漢文の師ともいうべき都賀庭鐘の示した業績にたいして深く傾倒し、それに範を仰ごうとした。  折も折、秋成を加藤|宇万伎《うまき》に紹介した建部綾足《たけべあやたり》が、「西山物語」と題する和文調の主知的伝奇小説を発表した。明和五年二月である。秋成はこれにもつよい刺戟をうけた。綾足は、その後、安永二年(一七七三)には、中国の大伝奇小説「水滸伝」を翻案した「本朝水滸伝」をあらわして、ふたたび文壇に怪気焔をはいた。――「雨月物語」は、そうした直接間接の刺戟と示唆をうけて書かれたのである。  だから怪異小説とはいっても、たんに怪奇をえがき、怪異美を追求するというだけのものではなく、そこには秋成の旺盛な意欲と、なみなみならぬ意図がふかく秘められていたのである。  たとえば「吉備津の釜」の女主人公磯良は、道楽者の夫に裏切られたすえ、ついに嫉妬にくるって死に、怨霊となって憎い情婦を殺し、ついで夫をとりころすのであるが、生きているときにはまさに典型的な貞婦であり、封建婦道の権化ともいうべき模範的女性であった。いいかえれば、人間性とか自我とかいうものを徹底的に完封して、ひたすら忍従と貞淑と自己犠牲のモラルを遵奉して生きていた磯良は、死によって現世のあらゆる抑圧と制約から解放されたとたんに、生来のナイーブな人間性情をとりもどし、本来の純粋なすがたにたちもどったのである。このことはとりもなおさず、人間性そのものを強圧的なモラルや掟で縛りつけてゆがめてしまった儒教的封建性にたいする反撥であった。  つねにみずから潔癖であるとともに、純粋をもとめてやまなかった秋成は、加藤宇万伎との交渉によって、国学への造詣《ぞうけい》をふかめるとともに、国学的な世界観や人間観を身につけ、反封建的超俗的な思想を抱懐するようになった。秋成は、儒者の現実的合理主義を排撃し、封建思想の人間性抹殺をにくんだ。すくなくとも現実の封建社会は、儒教思想によって身うごきできないまでに膠着《こうちゃく》化し形式化してしまっている。そこには磯良の遭遇したような不幸や悲劇を救うみちは、完全にとざされていた。もし人間性を尊重し、いいかげんなゴマカシや妥協を排して、ひたすらに純粋であり、自己に忠実であろうとすれば、死によって封建支配をのがれる以外にみちはない。秋成が磯良を死においやったのはそのためであった。磯良は現実から解放されることによって、うまれてはじめて本来の純粋な人間性をとりもどしたのである。 「夢応の鯉魚」の興義が仮死状態のうちに、鯉となって琵琶湖を自由に游ぎまわるというはなしのなかには、自由へのつよいあこがれと解放された人間のよろこびをみることができる。「蛇性の婬」の真女児は蛇の化身なればこそ、この世の掟やモラルをのりこえて、ただひたむきに男を愛し、男を独占しようとする執念と愛情をつらぬきとおせたのである。 「雨月物語」に出現する化身や怨霊や亡魂や幽鬼は、いってみれば、素朴と純粋をひたむきに愛する秋成が、あくまで自己に忠実であろうとする精神を具象化したものであり、反封建的・反儒教的な思想を形象化したひとつのすがたであった。その意味では、「雨月物語」は意欲的な文学であり、夢と純粋にみちみちた浪漫主義的文学であった。そして秋成のめぐまれた詩人的資質と文学的才能が、それを安全に美的燃焼しつくしたところに、「雨月」の卓越した芸術性がうちたてられたのである。  文学史上|稀有《けう》な存在意義をもち、古典文学中比肩するもののないようなユニークな芸術性をうちたてながら、しかもなお「雨月物語」は孤高な文学であった。後世にいたって多くの愛読者と熱心な礼讃者をかちえたとはいうものの、当時においては、正統な後継者も追随者ももたず、ちょうど作者秋成のすがたがそうであったように、ひとりさびしくかがやきつづけた文学であった。それはひっきょうするに、「雨月物語」があくまで秋成個人の自我にねざしたきびしい文学だったからである。 「雨月物語」の文章は、和漢・雅俗を混淆融和させた、流麗優雅な説話体であり、吟誦にたえるものである。秋成の古典的教養が、わが国の古典をふまえ、漢籍をふまえて、故事・古語・漢語を縦横に駆使したからである。描写は幻想にとみ、つよい迫真力をもち、とくにその怪異描写は凄絶をきわめ、生彩をはなって、読者をして戦慄と恍惚をふたつながらおぼえさせるものがある。語感を複雑にするために、漢語に和訓をほどこしているのは、のちの読本の先蹤をなす表現方法であった。  また秋成独得の語法である係り結びの軽視、口語的発想、仮名づかいの表音化、独自の振り仮名、ユニークな接続法等も、みのがしえない特徴である。  本文に挿入された挿絵は、桂眉仙の筆と推定されている。眉仙、名は常政、字は雪典、大阪の画家で、秋成と交友関係があった。 [#地から2字上げ]鵜月 洋 底本:「改訂 雨月物語 現代語訳付き」角川文庫、KADOKAWA    2006(平成18)年7月25日初版発行    2020(令和2)年5月15日26版発行 底本の親本:「雨月物語」角川文庫、角川書店    1959(昭和34)年11月30日初版発行 初出:「雨月物語」角川文庫、角川書店    1959(昭和34)年11月30日初版発行 入力:砂場清隆 校正:みきた 2023年10月9日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(https://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。