手仕事の日本 柳宗悦 ------------------------------------------------------- 【テキスト中に現れる記号について】 《》:ルビ (例)齎《もた》らした |:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号 (例)朝鮮|云々《うんぬん》 [#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定    (数字は、JIS X 0213の面区点番号またはUnicode、底本のページと行数) (例)銈 ------------------------------------------------------- [#4字下げ]序[#「序」は大見出し]  この一冊は戦時中に書かれました。記してある内容は大体昭和十五年前後の日本の手仕事の現状を述べたものであります。戦争はおそらく多くの崩壊を手仕事の上に齎《もた》らしたと思います。それ故私がここに記録したものの中には、終戦後の今日では、既に過去のものとなったものが見出されます。例えば沖縄の場合の如き今では想い出語りとなったものが多いでありましょう。しかしどの地方においても、失われた幾許《いくばく》かのものは、必ずや起ち上る日があるに違いありません。  今は特に工藝の面で日本を樹《た》て直さねばならぬ時に来ました。今後手仕事の要求はいよいよ深く感じられるでありましょう。幸か不幸か今に至ってその意義を深く省《かえりみ》るべきよき機会が到来したと思えます。日本は手仕事の日本を更に活《い》かさねばなりません。それ故この一冊は戦争直前の日本を語ったものではありますが、戦後においてかえって必要とされる案内書となるかと思われます。仮令《たとえ》幾許かの部分は、現在を語り得なくなったとはいえ、追憶すべき記録として、私はそのままにして版に附します。そうしてこの本を通し、どの地方にどんな伝統があるかを顧《かえり》み、そこに根ざして新しい発足を促し得るなら、著者にとってどんなに感謝すべきことでありましょう。  終りにこの本の出版にまつわる一、二のことを書き添えます。この本はもう三年前に書き終えて、日本出版文化協会の規定によって検閲を受けました。今から想うと笑い草にもなりますが、幾多の言葉が不穏当だというので、修正を受けました。例えば佐渡が島を語る時、順徳帝のことに言い及びましたら「絶対削除」と朱を加えられました。地理を述べる時、「日本は朝鮮のような半島ではなく島国である」と記しましたら、朝鮮|云々《うんぬん》の数語は抹殺されました。岐阜提灯《ぎふぢょうちん》には、「強さの美はないが、平和を愛する心の現れがある」と書きましたら、平和の二字は用ゆべからざるものとされました。その他種々。こうしてやっと検閲者の眼に穏当となった原稿は、東雲堂の手で組版にかかりました。しかし幸か不幸か戦争はその完了を困難にしました。そうして他に種々な事情も加わり一旦《いったん》仕事は中止され、出版は新しく靖文社《せいぶんしゃ》の手へ移されました。かくするうちに戦争は終結し、厳しい統制は崩壊し、「文協」もまた程なく解体しました。私は再び原稿を校訂し、多くの増補修正を施して、面目を一新する機会を得ました。  元来この本は若い青少年を目当《めあて》に書いたので、なるべく平易な叙述を心掛けましたが、この種の書き方に慣れぬため、不充分な結果に終ったことを本意なく思います。むしろ一般の人々へ常識の本として更に役立つのかと思います。本書の意図については巻末の後記に記しました。  準備された沢山の小間絵《こまえ》は不幸にして戦災を受け悉《ことごと》く烏有《うゆう》に帰しました。そのため再び芹沢銈介《せりざわけいすけ》君の手を煩《わずら》わして、凡《すべ》てを描き改めて貰《もら》わねばなりませんでした。しかも前よりも一段と数多くのものが届けられました。これらの小間絵はきっと読者の目を楽しませることと思います。その組入れ方は必ずしも本文に該当する個所に差入れたのではありません。ほぼ国別にして順次に挟《はさ》んだものであります。  今から想えばこの本の草稿が災禍《さいか》を免れて無事なるを得たのは大きな恵みでありました。ただこれとほとんど同時に出すはずでありました更に大きな著書『民藝図録、現在篇』は、不幸にも原稿の全部が灰燼《かいじん》に帰しました。長年の努力に成っただけに深い痛手でありました。この本の最もよい参考書となるはずでありましたので、心惜しく思います。  本書の出版に関して厚誼《こうぎ》を受けた新井直弥、南方靖一郎の両氏に、また補筆のため私に静かな室《へや》を与えられた斎藤一二君に厚い謝意を表したく思います。校正その他荒木道子さんに負うところが大きいのも書き添えねばなりません。 [#2字下げ]昭和廿一年正月|下浣《げかん》 [#地から5字上げ]総州九十九里浜の寓居にて [#地から3字上げ]著者 [#改丁] [#3字下げ]前書 手仕事の国[#「前書 手仕事の国」は大見出し]  貴方がたはとくと考えられたことがあるでしょうか、今も日本が素晴らしい手仕事の国であるということを。確《たしか》に見届けたその事実を広くお報《し》らせするのが、この本の目的であります。西洋では機械の働きが余りに盛《さかん》で、手仕事の方は衰えてしまいました。しかしそれに片寄り過ぎては色々の害が現れます。それで各国とも手の技《わざ》を盛返そうと努めております。なぜ機械仕事と共に手仕事が必要なのでありましょうか。機械に依《よ》らなければ出来ない品物があると共に、機械では生れないものが数々あるわけであります。凡《すべ》てを機械に任せてしまうと、第一に国民的な特色あるものが乏しくなってきます。機械は世界のものを共通にしてしまう傾きがあります。それに残念なことに、機械はとかく利得のために用いられるので、出来る品物が粗末になりがちであります。それに人間が機械に使われてしまうためか、働く人からとかく悦《よろこ》びを奪ってしまいます。こういうことが禍《わざわ》いして、機械製品には良いものが少くなってきました。これらの欠点を補うためには、どうしても手仕事が守られねばなりません。その優れた点は多くの場合民族的な特色が濃く現れてくることと、品物が手堅く親切に作られることとであります。そこには自由と責任とが保たれます、そのため仕事に悦びが伴ったり、また新しいものを創る力が現れたりします。それ故手仕事を最も人間的な仕事と見てよいでありましょう。ここにその最も大きな特性があると思われます。仮りにこういう人間的な働きがなくなったら、この世に美しいものは、どんなに少くなって来るでありましょう。各国で機械の発達を計ると共に、手仕事を大切にするのは、当然な理由があるといわねばなりません。西洋では「手で作ったもの」というと直ちに「良い品」を意味するようにさえなってきました。人間の手には信頼すべき性質が宿ります。  欧米の事情に比べますと、日本は遥《はる》かにまだ手仕事に恵まれた国なのを気附きます。各地方にはそれぞれ特色のある品物が今も手で作られつつあります。例えば手漉《てす》きの紙や、手轆轤《てろくろ》の焼物などが、日本ほど今も盛に作り続けられている国は、他には稀《まれ》ではないかと思われます。  しかし残念なことに日本では、かえってそういう手の技が大切なものだという反省が行き渡っておりません。それどころか、手仕事などは時代にとり残されたものだという考えが強まってきました。そのため多くは投げやりにしてあります。このままですと手仕事は段々衰えて、機械生産のみ盛になる時が来るでありましょう。しかし私どもは西洋でなした過失を繰返したくはありません。日本の固有な美しさを守るために手仕事の歴史を更に育てるべきだと思います。その優れた点をよく省み、それを更に高めることこそ吾々の務めだと思います。  それにはまずどんな種類の優れた仕事が現にあるのか、またそういうものがどの地方に見出せるのか。あらかじめそれらのことを知っておかねばなりません。この本は皆さんにそれをお報《し》らせしようとするのであります。地方に旅をなさる時があったら、この本を鞄《かばん》の一隅に入れて下さい。貴方がたの旅の良い友達となるでありましょう。  元来我国を「手の国」と呼んでもよいくらいだと思います。国民の手の器用さは誰も気附くところであります。手という文字をどんなに沢山用いているかを見てもよく分ります。「上手《じょうず》」とか「下手《へた》」とかいう言葉は、直ちに手の技を語ります。「手堅い」とか「手並がよい」とか、「手柄を立てる」とか、「手本にする」とか皆手に因《ちな》んだ言い方であります。「手腕《しゅわん》」があるといえば力量のある意味であります。それ故「腕利《うできき》」とか「腕揃《うでぞろい》」などという言葉も現れてきます。それに日本語では、「読み手」、「書き手」、「聞き手」、「騎《の》り手《て》」などの如く、ほとんど凡ての動詞に「手」の字を添えて、人の働きを示しますから、手に因む文字は大変な数に上ります。  そもそも手が機械と異る点は、それがいつも直接に心と繋《つな》がれていることであります。機械には心がありません。これが手仕事に不思議な働きを起させる所以《ゆえん》だと思います。手はただ動くのではなく、いつも奥に心が控えていて、これがものを創《つく》らせたり、働きに悦びを与えたり、また道徳を守らせたりするのであります。そうしてこれこそは品物に美しい性質を与える原因であると思われます。それ故手仕事は一面に心の仕事だと申してもよいでありましょう。手より更に神秘な機械があるでありましょうか。一国にとってなぜ手に依る仕事が大切な意味を持ち来《きた》すかの理由を、誰もよく省みねばなりません。  それでは自然が人間に授けてくれたこの両手が、今日本でどんな働きをなしつつあるのでしょうか。それを見届けたく思います。 [#改丁] [#1字下げ]第一章 品物の背景[#「第一章 品物の背景」は大見出し] [#3字下げ]自然[#「自然」は中見出し]  私と一緒に日本の地図を広げて下さい。故国の地図はいつ見ても見厭《みあ》きません。その島や岬や港や町はみんな物語を有《も》っているからであります。山や河や平野や湖水も、それぞれに歴史を語っているからであります。この親しい国を離れて吾々の生活はありません。地図はいつ見ても私たちに母国への愛を呼び醒《さ》まします。どの国の人といえどもその国に生れたという運命に、どこまでも感謝と誇りとを有つことが務めではないでしょうか。  日本の姿とでもいえるその地図を、今日はまた新《あらた》な見方から眺《なが》めましょう。見ても見厭きないのは、見る毎《ごと》に何か新しい日本の姿が浮んでくるからであります。今日眺めようというのは、他でもありません。北から中央、さては西や南にかけて、この日本が今どんな固有の品物を作ったり用いたりしているかということであります。これは何より地理と深い関係を持ちます。気候風土を離れて、品物は決して生れては来ないからであります。どの地方にどんな物があるかということを考えると、地図がまた新しい意味を現して来ます。仮りに図面に、各地で出来る品物の絵を描いて見るとしましょう。それはとても面白い地図となるでしょう。南の方では焼物が美しく肩を並べていたり、北の方では蓑《みの》だとか藁沓《わらぐつ》だとかが大変|綺麗《きれい》に編んであったりするのを見かけます。そうかと思うと離れ島の八丈《はちじょう》には、黄色い立派な織物が描いてあったりするのを見出します。この本はそういう地図を皆さんにお見せするために書かれるのであります。  皆さんも知っておられるように、日本は南北にとても細長い国であります。北は北海道という冠《かんむり》を頂き、大きな本州はその体であり、四国や九州の島々はいわば手足に当るような部分であります。千島《ちしま》の果《はて》から沖縄の先まで見ますと氷りついている寒い土地から、雪を知らない暑い国にまで及びます。寒帯、温帯、亜熱帯、その凡てを備えているのが我が国であります。面積の小さな一国でこんな様々な風土を有《も》っている国も珍らしいでありましょう。  日本は島国であります。支那のような大陸でもなければ、朝鮮のような半島でもありません。亜細亜《アジア》の東に全く海に囲まれながら、長い帯でも引くように連《つらな》っている島国であります。西には日本海を湛《たた》えて大陸に対し、東や南には、果しもない太平洋の海原《うなばら》を控えます。中央には富嶽の麗《うる》わしい姿を中心に山脈が相《あい》連り、幾多の河川や湖沼がその間を縫い、下には模様のように平野の裳裾《もすそ》が広がります。南は常夏《とこなつ》の国とて、緑の色に濃く被《おお》われ、目も鮮かな花が咲き乱れ、岸辺には紫や青や黄色の魚が游《およ》ぐのを見られるでしょう。北は冬にでもなれば、満目《まんもく》凡て雪に被われ、山も河も野も家も、凡て白一色に変ります。  こんなにも様々な気候や風土を有つ国でありますから、植物だとて鳥獣だとて驚くほどの種類に恵まれます。人間の生活とても様々な変化を示し、各地の風俗や行事を見ますと、所に応じてどんなに異るかが見られます。用いている言葉だとて、それぞれに特色を示しております。これらのことはやがて各地で拵《こしら》えられる品物が、種類において形において色において、様々な変化を示すことを語るでありましょう。いわば地方色に彩《いろど》られていないものとてはありません。少くとも日本の本来のものは、それぞれに固有の姿を有って生れました。  さてこういうような様々な品物が出来る原因を考えてみますと、二つの大きな基礎があることに気附かれます。一つは自然であり、一つは歴史であります。自然というのは神が仕組む天与のものであり、歴史というのは人間が開発した努力の跡《あと》であります、どんなものも自然と人間との交《まじわ》りから生み出されて行きます。  中でも自然こそは凡てのものの基礎であるといわねばなりません。その力は限りなく大きく終りなく深いものなのを感じます。昔から自然を崇拝する宗教が絶えないのは無理もありません。日輪《にちりん》を仰ぐ信仰や、山岳を敬《うやま》う信心は人間の抱く必然な感情でありました。我が国の日の丸の旗も、万物を照らし育てる太陽の大を讃《たた》える心の現れだと見てよいでありましょう。  ですが轟《とどろ》く雷鳴に神の威光を感じたり、吹きすさぶ嵐にその怒りを畏《おそ》れたりする気持ちは、素朴な人たちの感情とも見られます。段々人間の智慧《ちえ》が進むにつれて、自然への尊敬は、もっと理由のはっきりしたものへと進みました。科学者たちは自然がどんなに深いものなのかをよく知っている人たちであります。凡ての学問はその不思議さの泉を訪ねるためだともいえるでありましょう。ですが科学者ばかりではありません。藝術家も自然の美しさの終りないことをよく知っている人たちであります。その美しさへの驚きを語ることが彼らの製作でありました。学藝の道が開かれるにつれて、自然の姿はますますその大きさと深さとを現わして来ました。それはもはや素朴な驚きではなく、もっと理に適《かな》った驚きなのであります。人間にもしこの驚きがなくなったら、真理を探る心も美を現す道も衰えてしまうでありましょう。  私は再び地理に帰りましょう。日本は美しい自然に恵まれた国として世界でも名があります。四季の美を歌った詩人や、花鳥《かちょう》の美を描いた画家が、どんなに多いことでしょう。前にも述べました通り、寒暖の二つを共に有つこの国は、風土に従って多種多様な資材に恵まれています。例を植物に取ると致しましょう。柔かい桐《きり》や杉を始めとし、松や桜や、さては堅い欅《けやき》、栗、楢《なら》。黄色い桑や黒い黒柿、斑《ふ》のある楓《かえで》や柾目《まさめ》の檜《ひのき》。それぞれに異った性質を示して吾々の用途を待っています。この恵まれた事情が日本人の木材に対する好みを発達させました。柾目だとか木[#「木」に「〔板〕」の注記]目だとか、好みは細かく分れます。こんなにも木の味に心を寄せる国民は他にないでありましょう。しかしそれは凡て日本の地理から来る恩恵なのであります。自然からの驚くべき贈物でないものはありません。美しい材を用いるということは、やがて自然の美しさを讃えているに外なりません。平に削《けず》ったりあるいはそれを磨いたりすることは、要するに自然の有つ美しさを、いやが上にも冴《さ》えさすためであります。自然を離れては、また自然に叛《そむ》いては、どんなものも美しくはなり難いでしょう。一つの品物を作るということは、自然の恵みを記録しているようなものであります。そうして如何に日本が、そういう自然に恵まれた国であるかを反省することは、日本を正しく見直す所以《ゆえん》になるでありましょう。 [#3字下げ]歴史[#「歴史」は中見出し]  私たちは日本の文化の大きな基礎が、日本の自然であることを見ました。何ものもこの自然を離れては存在することが出来ません。しかしもう一つ他に大きな基礎をなしているものがあります。それは一国の固有な歴史であります。歴史とは何なのでしょうか。  それはこの地上における人間の生活の出来事であります。それが積み重って今日の生活を成しているのであります。ですからどんな現在も、過去を背負うているといわねばなりません。吾々は突然にこの地上に現れたのではなく、それは長い時の流れと、多くの人々の力とによって徐々に今日を得たのであります。日本はもう二千余年という齢《よわい》を重ね、その間に多くの祖先たちの力が合さって、今日の日本を築き上げてくれました。どんなものも歴史のお蔭《かげ》を受けぬものはありません。天が与えてくれた自然と、人間が育てた歴史と、この二つの大きな力に支えられて、吾々の生活があるのであります。  古くから東洋の教えは、祖先を尊ぶべきことを説きました。そうして家々には厨子《ずし》を設け、祖先の霊を祀《まつ》る風が行われております。これが東洋における一つの道徳となっていることは皆さんも御承知のことと存じます。実際吾々が今日こうやって活《い》きているのは、祖先のお蔭であって、吾々の智慧も経験も生活も思想も、多かれ少かれ、祖先から受け継いでいるのであります。もし自分一人の力で何もかもしなければならないとしたら、どんな人も極めて幼穉《ようち》な生活より出来ないでありましょう。否、生きてゆく力さえないでありましょう。火をどうして得、家をどうして作り、着物をどうして織るか、誰がそんなことをすぐ知り得るでしょう。皆祖先たちの智慧や経験に助けられて、今の生活を得ているのであります。もし歴史が後《うしろ》に控えていなかったら、あの簡単に見える草履《ぞうり》一つだって作るのに難儀《なんぎ》をするでありましょう。一枚の紙だとて、どうして作るか、途方《とほう》にくれるでありましょう。吾々の言葉だとて、なくなってしまうでありましょう。これを想うと、どんなものも歴史的なつながりを有って、存在していることが分ります。吾々の生活はどうしても歴史と縁を切ることが出来ません。  ここで私たちは、歴史を大切にすることがどんなに必要だかが分ります。大切にするというのは、歴史が積み重ねてくれたよい点を更に育てて、歴史を更になおよい歴史に進めてゆくことであります。私たちの為すべき務《つと》めは、ただ歴史を繰り返すことではありません。まして歴史に叛《そむ》いたり歴史を粗末に扱ったりすることではありません。歴史の中で最も特色がありまた優れている面をよく理解して、それを更に進歩させ発展させてゆくことであります。こういう進み方が一番理に適《かな》ったものでありましょう。またそれが祖先たちの功績《てがら》に報いる所以《ゆえん》だと思われます。のみならず歴史の上に立つということは、丁度|確《しっか》りした大きな礎《いしずえ》の上に家を建てることと同じでありまして、これほど安全なまた至当なことはないでありましょう。 [#3字下げ]固有の伝統[#「固有の伝統」は中見出し]  吾々は日本人であります。それ故日本人としての生活に悦びを抱きます。しかし考えてみますと、吾々が現在用いています品物にどれだけ日本的なものがあるでしょうか。都会の生活などを見ますと、それが甚《はなは》だ乏しくなっているのを気附きます。知らず識《し》らずの間に、余りにも沢山西洋風なものを取り入れて来たからであります。それは明治この方《かた》起った著しい変化でありました。それ以前の日本人はほとんど凡《すべ》て純粋に日本のものばかりで暮していました。そうしてそれらのものには立派なものが沢山ありましたが、新しい時代では一途《いちず》に古くさいものと思い込まれました。従ってその値打《ねうち》が軽く見られ、日本的な多くのものを惜気《おしげ》もなく棄て去りました。  もとより明治になって西洋文化を盛《さかん》に取り入れ、これを熱心に勉強したことは、日本の発達にとって大変役立ったことは申すに及びません。ですが半面に二つの弊をも伴いました。一つは極端な西洋崇拝に陥《おちい》る人が沢山出たことであります。二つにはその結果、日本的なものを軽んずる風習がこれに伴ったことであります。これは日本文化にとって由々《ゆゆ》しき問題ではないでしょうか。  吾々は日本人でありますから、出来るだけ日本的なものを育てるべきだと思います。丁度支那の国では支那のものを、印度《インド》では印度のものを活かすべきなのと同じであります。西洋の模造品や追従品でないもの、即ち故国の特色あるものを作り、またそれで暮すことに誇りを持たねばなりません。たとえ西洋の風を加味したものでも、充分日本で咀嚼《そしゃく》されたものを尊ばねばなりません。日本人は日本で生れた固有のものを主にして暮すのが至当でありましょう。故国に見るべき品がないなら致し方ありません。しかし幸《さいわい》なことに、まだまだ立派な質を有ったものが各地に色々と残っているのであります。それを作る工人たちも少くはありません。技術もまた相当に保たれているのであります。ただ残念なことに前にも述べた通り、それらのものの値打ちを見てくれる人が少くなったため、日本的なものはかえって等閑《なおざり》にされたままであります。誰からも遅れたものに思われて、細々とその仕事を続けているような状態であります。それ故今後何かの道でこれを保護しない限り、取り返しのつかぬ損失が来ると思われます。それらのものに再び固有の美しさを認め、伝統の価値を見直し、それらを健全なものに育てることこそ、今の日本人に課せられた重い使命だと信じます。  私は伝統という言葉を用いました。それはどういう意味を持つのでしょうか。伝統とは長い時代を通し、吾々の祖先たちが、様々な経験によって積み重ねてきた文化の脈を指すのであります。そこには思想もあり、風習もあり、智慧もあり、技術もあり、言語もあるわけであります。それは個人のものではなく、国民全体の所持するものであります。いわば歴史的なまた社会的な性質を帯びます。かかる伝統はその国固有のものでありますから、国家的な財産と見做《みな》してよいでありましょう。吾々の祖先が吾々に伝えてくれた大切な遺産なのであります。いわば最も国民的な持物であります。吾々の文化に固有な性質を与えているのはかかる伝統の力であります。それ故日本の存在にとってこれがどんなに貴重なものであるかは申すまでもありません。もし伝統がなかったら、どんな国も独立した文化を保つことは出来ないでありましょう。伝統の豊《ゆたか》な国ほど、はっきりした存在を持つことが出来るわけであります。  それ故私たちは現在の日本が伝統に基《もとづ》いてどんな仕事を続けているか。またかかるものにどんな価値を見出し得るかを、まず訊《ただ》しておかねばなりません。それによって始めて未来の方針を正しく樹《た》てることが出来るでありましょう。どこにどんな品があり、どんな材料があり、どんな技術があり、そうしてどんな工人たちがいるか、まずこれらのことを知っておかねばなりません。伝統の上に立つ日本を活かすためには、これらの理解がどんなに役立つことでありましょう。 [#改丁] [#1字下げ]第二章 日本の品物[#「第二章 日本の品物」は大見出し] [#3字下げ]現在の事情[#「現在の事情」は中見出し]  私はこれから日本国中を旅行致そうとするのであります。しかし景色を見たり、お寺に詣《もう》でたり、名所を訪ねたりするのではありません。その土地で生れた郷土の品物を探しに行くのであります。日本の姿を有《も》ったもの、少くとも日本でよくこなされたものを見て廻ろうとするのであります。それもただ日本のものというのではなく、日本のものして[#「日本のものして」はママ]誇ってよい品物、即ち正しくて美しいものを訪ねたく思います。そういうものが何処にあり、またどれだけあるのでしょうか。どんな風に作られているのでしょうか。  何も一種類のものを見て廻ろうとするのではありません。平常吾々が生活に用いるものを凡《すべ》て訪ねたいと思います。焼物《やきもの》もあり、染物《そめもの》もあり、織物《おりもの》もあり、金物《かなもの》もあり、塗物《ぬりもの》もあり、また木や竹や革や紙の細工などもあるでしょう。きっとある国には甲のものがあっても、乙のものがなかったり、また同じ乙でも地方で材料の性質が違ったりするでありましょう。またある種類のものはほとんどどの県にもあるのに、あるものはわずか二、三の個所によりないということもありましょう。また同じ地方でも、ある村で立派なものを作るのに、すぐその隣村《となりむら》では作り方すら知らないというような場合もありましょう。それ故もののある場所やその技《わざ》は、万べんなく一様《いちよう》に行き渡っているわけではありません。日本は今どんな所でどんなものを作っているのでしょうか。私の筆はこれから全国を廻って、日本がどれだけ誇るに足りるものを有っているかを、記してゆこうとするのであります。  時代はますます機械の発達を促すでありましょう。しかし不幸なことに今日までは、それが主として慾得のために利用せられる形となりました。そのため良い品を作るということは二の次にせられました。物が粗悪になるのは避けられないその結果でありました。人間の道徳がもっと進み、機械もそれに応じて発達するなら、どんなに製品はその姿を更《か》えることでありましょう。ですが機械はいつ人間の利慾から解放せられるのでありましょうか。  幸《さいわい》にも手仕事の世界に来ますと、人間の自由が保たれ、責任の道徳が遥かによく働いているのを見出します。親切な着実な品を誇る気風が、まだ廃《すた》れてはおりません。品物として幾多の健全なものが今も作られつつあるのを見ます。しかも多くはその土地から生れた固有な姿を示します。もとより手仕事の凡《すべ》てが良いわけでは決してありません。中には誤ったものや粗末なものもまじります。のみならずこれからの仕事を凡て手に委ねるわけにはゆきません。しかし手仕事の中に見出せる健康な性質や固有な特色は、今後ますます活《い》かされねばなりません。段々機械の力に圧倒されて、正直な仕事が衰えてきた今日、尚更《なおさら》手仕事のよき面を省《かえりみ》るべきだと思います。ですが日本には果してどんな着実な手仕事が残っているのでありましょうか。  この旅は幸にも、激しい変り方をした日本であるにかかわらず、今なお固有な品が決して少《すくな》くないということを示してくれるでありましょう。伝統は根強く今も護《まも》られているのであります。おそらく狭い面積の割には、世界中で日本ほど多くの手仕事を有っている国は、他に少いのではありますまいか。  ただそういう手技《てわざ》は、いち早く外来の文化を取入れた都市やその附近には少く、離れた遠い地方に多いということが分ります。それは田舎の方がずっとよく昔を守って習慣を崩さないからであります。それに消費者の多い都会は、機械による商品の集るところですが、これに引きかえ生産する田舎は自ら作って暮す風習が残ります。しかも自家使《うちづか》いのものや、特別の注文による品は念入りに作られます。これに対し儲けるために粗製|濫造《らんぞう》した商品の方には、誤魔化《ごまか》しものが多くなります。手仕事の方には悪い品を作っては恥じだという気風がまだ衰えてはおりません。このことは日本にとって、地方の存在がどんなに大切なものであるかを告げるでありましょう。もし日本の凡てが新しい都風《みやこふう》なものに靡《なび》いたとするなら、日本はついに日本的な着実な品物を持たなくなるに至るでありましょう。  概して言いますと、特色ある品物が一番数多く作られるのは農村で、山村これにつぎ漁村は割合に少いことが気附かれます。それは暮し方や仕事の性質にも因《よ》り、また資材の関係にも依《よ》るのでありましょう。また古い城下町などには伝統を続ける工人たちをよく見かけます。そういう町々には、紺屋《こんや》町とか箪笥《たんす》町とか塗屋《ぬしや》町とか鋳物師《いもじ》町とか呼ぶ名さえ残ります。日本におけるそういう町の名を集めたら、面白い一冊子さえ編めるでありましょう。  また注意しなければならないのは、商売人に成りすました人が作る品よりも、半分は百姓をして暮す人の作ったものの方に、ずっと正直な品が多いということであります。それは農業が与える影響によるのだと思われます。大地で働く生活には、どこか正直な健康なものがあるからでありましょう。これに比べ商人に成り切ると、とかく利慾のために心が濁ってしまうのに因りましょう。半農半工の形は概してよい結果を齎《もた》らします。  それに正直な品物の多い地方を見ますと、概して風習に信心深いところが見受けられます。時折その信心が迷信に陥《おちい》っている場合もあるでしょうが、信心は人間を真面目にさせます。このことが作る品物にも反映《うつ》ってくるのだと思われます。良い品物の背後にはいつも道徳や宗教が控えているのは否むことが出来ません。このことは将来も変りなき道理であると考えられます。  概して申しますと、日本の固有な暮しぶりや、日常用いる特色ある品物は、北の端と南の端に行くにつれ、著しくなってくることであります。ここで北といっても北海道は別でして、そこは歴史がごく新しいために、これとて固有な土着のものを見かけません。それ故|暫《しばら》くこの旅から除くことと致しましょう。しかしごく南のはずれの沖縄は大変大切な所なのであります。日本の古い固有の姿が非常によく保たれているからであります。  これで見ますと、近代風な大都市から遠く離れた地方に、日本独特なものが多く残っているのを見出します。ある人はそういうものは時代に後《おく》れたもので、単に昔の名残《なごり》に過ぎなく、未来の日本を切り開いてゆくには役に立たないと考えるかも知れません。しかしそれらのものは皆それぞれに伝統を有つものでありますから、もしそれらのものを失ったら、日本は日本の特色を持たなくなるでありましょう。歴史は丁度根のようなものであります。根を弱めて幹や葉や花を得ようとしても健《すこや》かには育ちません。仮りに活《い》き得ても浮草のような弱いものになるでありましょう。遠く深い歴史を持つ国こそ、倒れない力に樹《た》つことが出来ます。吾々は伝統を大切にせねばなりません。それは単に昔に帰ることではなく、昔を今に活かす所以《ゆえん》であります。伝統を正しく育てることによって、新しい日本を着実に建設せねばなりません。それ故各地方の存在こそは、未来の日本にとって大きな役割を持つことが分ります。  さてこれから旅を始めるに当って、大体日本を幾つかの群に分けて、順々にそれを訪ねることに致しましょう。北から南に下りますと、次のように数えられます。 [#ここから1字下げ、折り返して3字下げ] 東北 いわゆる東北六県であります。本土の北部に当ります。 関東 東京都を中心に北は栃木県から南は神奈川県まで。八丈島もこれに入ります。 中部 名古屋市を中心に北は長野県から南は岐阜県まで。 北陸 上は新潟県から、下は福井県までを含みます。 近畿 京都大阪を中軸とし、東は江州《ごうしゅう》から南は紀州まで。 中国 播磨《はりま》以西の山陽道と、丹波《たんば》以西の山陰道。 四国 九州 沖縄 [#ここで字下げ終わり]  以上の九つになりますが、もとよりこれは便宜のために仮りに分けたのであります。これからそれらの各地を訪ねて、長いその旅日記をつけることと致しましょう。東京を振出しに一旦北に上り、それから順次に南へ下ることに致します。前にも述べた通り、各地で出来る特色ある手仕事を通して、我国の姿を見ようとするのであります。それはやがて固有な美しい日本を皆さんに示すことになるでありましょう。 [#改ページ] [#3字下げ]関東[#「関東」は中見出し]  東京を中心にして関東の地図を見ますと、その中には相模《さがみ》、武蔵《むさし》、安房《あわ》、上総《かずさ》、下総《しもうさ》、常陸《ひたち》、上野《こうずけ》、下野《しもつけ》などが現れます。それらの名の読方が難かしいのは歴史が相当に古いことを語るのでありましょう。これを東京都、神奈川県、千葉県、埼玉県、茨城県、栃木県、群馬県の七つに分けます。遠い南の八丈島も東京都の中に加わります。  江戸は徳川氏三百年の城下町であり、西京《さいきょう》に対して新しい都《みやこ》でありました。中央の江戸城を始め、諸大名の屋敷が並び、人の往き来は繁《しげ》く、町々は栄え、風俗や言語やその他|凡《すべ》ての面で漸次《ぜんじ》に江戸の文化を築き上げました。ここにもろもろの手仕事が起ったのは申すまでもありません。あらゆるものが作られたでありましょう。そうして代は代を重ね、技《わざ》は磨かれ、種目《しゅもく》は殖《ふ》え、これを売る店構《みせがまえ》も大きくまた忙しかったでありましょう。古い本の挿絵《さしえ》などを見ますと、日本橋附近はその中心で、どんなに栄えたかが偲《しの》ばれます。  ですが明治の維新《いしん》は古い江戸を新しい東京に変えました。大きな歴史がこの時からこの都に始まりました。皇居がここに遷《うつ》されてから、もとより政治や学藝の中心地になりました。さなきだに幕末頃から、近くの横浜が港として開かれ、西欧の文化がこの新しい都になだれこみました。特に人々は科学の力に驚きを感じ、多くの学者がそれを勉強しました。日本はそれ以来|凡《およ》そ半世紀の間に、どんなに心をまた姿を変えてしまったでありましょう。古いものは流され、新しいものは迎えられました。こんなにも早い変り方は、おそらく世界の歴史のどこにもなかったのではないでしょうか。  目覚《めざ》めた日本はこの都を中心として前に進み進みました。国力は強まり、学問は励まれ、交通は開かれました。この勢いは世界の中に日本の存在を知らせました。かくして日本は東亜の中で最も進歩した国となるに至りました。東京もいつしかその人口において面積において、世界に一、二を争う都となりました。  しかしかかる繁栄につれて、今から考えますと甚《はなは》だ残念だと思われることがあります。それは余りにも西洋のものを沢山取り入れるのに急いだため、日本の多くのものを惜気《おしげ》もなく棄ててしまったことであります。これは勢い止むを得なかったことでありましょう。全く余裕ある気持ちに欠けていたのであります。もっと思慮深くあったら、棄てるべきでないものは棄てずにすんだでありましょう。今の東京人の生活を見ますと、もう半《なかば》は西洋の風であります。建物も衣服も食物も、そうして用いる言葉さえも、どんなに多く外から来たものが混《ま》じるでありましょう。これをよくとれば国際的になったとも思えます。しかしいつしか日本的な日本は薄らいでしまいました。東京のみならず、大きな都市の生活は、多かれ少かれこの欠点を有ちます。  それに遺憾なことには、近頃の都の人たちが用いる品物が大変粗悪になって来たことであります。押しなべて商品はその格が落ちて来ました。人間の智慧はいつも良いことのみには注がれません。ある時はずるい作り方を覚えたり、上《うわ》べだけよく見せかけることなどをも考えました。儲《もう》けることに熱心になると、とかく正直な仕事を忘れます。一般に売っている品物は、多くはそのために粗末なものになって来ました。今では本当の正しい品物を見つけることの方が、むずかしくさえなって来ました。大きな百貨店にはあらゆる品々が所|狭《せま》きまでに並んでいますがその多くは誤魔化しものなのを匿《かく》すことが出来ません。どの品物を取り上げても形は瘠《や》せてくる一方ですし、色は俗になりがちですし、模様も活々《いきいき》したものを失って来ました。それ故、たまたま昔風に作ってある着実なものを見ますと、かえって新しく生れたもののようにさえ受取られます。  東京には箪笥《たんす》町とか鍛冶《かじ》町とか白銀《しろがね》町とか人形《にんぎょう》町とか紺屋《こんや》町とか弓《ゆみ》町とか錦《にしき》町とか、手仕事に因《ちな》んだ町が色々ありますが、もう仕事の面影《おもかげ》を残している所はほとんどなくなりました。仏具を沢山売っている通りとか、箪笥類を扱っている所だとか、多少そういう個所もありますが、大概の品物は昔のに比べますと見劣りがしまして、特に誇ってよい仕事は少くなりました。それに東京の店々に並ぶ品物は、各地から集められますから、東京でなければ出来ないものとか、また東京出来のものが一番よいというような品は、ごくわずかだと思われます。例えば煙管筒《きせるづつ》のような品は、東京出来を誇っていましたが、もう流行おくれになりました。中で手拭《てぬぐい》とか中型《ちゅうがた》の染物の如きは、おそらく今も東京が中心でありましょう。  面白いことに、今東京の面影を偲《しの》ぼうとするなら、下町を訪ねるに如《し》くはありません。品物にも何か昔の江戸風な気質《かたぎ》が残されております。下谷《したや》から浅草にかけて町々を縫《ぬ》って歩きますと、日本で昔から用いているものを、今も作ったり売ったりしているのを見掛けます。主に台所道具で、上等のものではないにしても何か活々《いきいき》したものを感じます。浅草の歳《とし》の市《いち》や酉《とり》の市《いち》など、昔に比べては格が落ちたでありましょうが、それでも心をそそる光景を示します。まじり気のない日本の生活の勢いが、幾分でもこういう市日《いちび》で味《あじわ》われます。羽子板《はごいた》などが山と高く掲げられるのも見ものでありますが、酉町《とりのまち》の熊手《くまで》など、考えると不思議にも面白い装飾に達したものであります。玩具の犬張子《いぬはりこ》などにも、何か紛《まが》いない江戸の姿が浮びます。今まではどの家でも子供のお宮参りの時、これを祝いに求めましたが、犬をこんなにも特色ある形にこなしたものは、他にないように思われます。  上野近くを歩くと田村屋の煙管だとか、十三屋の櫛《くし》だとか、道明《どうみょう》の組紐《くみひも》だとか今でも古い看板《かんばん》を降ろしません。浅草の「よのや」も櫛で見事なものを売ります。大太鼓《おおだいこ》を作る店なども真に見ものであります。革の厚み、胴の張り、鋲《びょう》のふくらみ、健康な姿を思わせます。日蓮宗の信徒が手にする団扇太鼓《うちわだいこ》も東京出来のをよいとします。弓の道具類も仕事のよさを未《いま》だに失っておりません。紙縒細工《かみよりざいく》の矢筒、革細工の弓懸《ゆがけ》など見事な手並《てなみ》を見せます。幾許《いくばく》かの人が良い仕事を愛すると見えます。この細工を「長門細工《ながとざいく》」と呼びます。  銀座のような通りは、日本の生活の一番先の端を示すものでありましょうが、西洋人が見たらどこに日本があるのかと思い惑うでありましょう。何か活気を感じはしますが、いたずらに洋風に媚《こ》びたものの多いのは残念なことであります。これに比べますとむしろ下町の方に日本らしい品が多く見られます。  注意してよいのはいわゆる「老舗《しにせ》」でありまして、必ずしも東京出来のものばかりを売る店ではありませんが、家名《かめい》を重んじますから品《しな》のよいものを置くのを誇りとしています。襟円《えりえん》の半襟《はんえり》、阿波屋《あわや》の下駄、「さるや」の楊子《ようじ》、榛原《はいばら》の和紙、永徳斎《えいとくさい》の人形、「なごや」の金物、平安堂の筆墨、こういう店々は東京の人たちには親しまれている名であります。歴史を傷つけないというような気風は、品物の性質を保障する大きな力であります。  品物を通して眺めますと、東京に近い千葉県や神奈川県は特色に乏しい地方になりました。館山《たてやま》に唐桟《とうざん》の技《わざ》がわずかに残っていたり、銚子に大漁着《たいりょうぎ》の染めが見られたりはしますが、取り残された姿ともいえましょう。値打《ねうち》のあるものでありながら流行に押されてしまいました。ただ思いがけなくも所々の農家で今も手機《てばた》の音を時たま耳にします。しかし織っているのはいつも年とったお婆さんのみですから、若い嫁の代となれば、もうその音も聞えなくなるのでありましょう。  ただ安房《あわ》や上総《かずさ》の国で特筆されてよいと思いますのは、日蓮宗のお寺で名高い清澄《きよすみ》山やまた風光のよい鹿野《かのう》山に建具《たてぐ》を職とする者が集っていて、細々ではありながら今も伝統が続いていることであります。飛び離れた所でありますのに、面白い歴史を持つものだと思います。技はなかなか優れているのであります。  神奈川県で第一に推さるべきものは箱根の寄木細工《よせぎざいく》であります。相模《さがみ》の国が吾々にお与えている唯一の立派な手工藝でしょうか。小田原《おだわら》から宮下《みやのした》にかけて仕事場を見出しますが、見ていると技としては進む所まで進んだものなのを感じます。少し進み過ぎて仕事が細かくなり弱くなってきた恨みさえあります。もっと板を分厚くし模様を単純にするなら、力を得てくるでありましょう。近頃は象嵌《ぞうがん》も試みますが図案があり来《きた》りで、無地《むじ》ものの方がずっとましであります。寄木細工が大体によいのは、絵模様でなく線模様を用いるからでありましょう。線の方は数に基く模様で、法則に依るため間違いが少いのだと思われます。ともかく日本で今売られている土産品としては出色《しゅっしょく》のものといわねばなりません。それが持つ楠《くす》の香りもよいものであります。小田原は挽物《ひきもの》の盛《さかん》な所でありますが、余りにも安いものを心掛けるためか、概して質が落ちているのは残念なことであります。  鎌倉の名に因《ちな》んだ「鎌倉彫《かまくらぼり》」なるものがありますが、今はむしろ素人《しろうと》の玩《もてあそ》びになって、本筋の仕事からは外《はず》れました。神奈川県に日本風な手仕事が乏しいのは、横浜のように早く開けた大きな港があって、外来のものを盛に取り入れたためだといえましょう。  織物の世界に来ますと、東京の西から北の方にかけ、大きな生産地が点々と続きます。東京都下では八王子、青梅《おうめ》、村山の如き、そのやや北には埼玉県の秩父《ちちぶ》更に溯《さかのぼ》って群馬県の伊勢崎や桐生《きりゅう》。そこから右に折れて栃木県の足利《あしかが》や佐野、更に東すると茨城県の結城《ゆうき》があります。凡てを合せるとその生産高は年々驚くべき数字を示すでありましょう。作っている品も質も同じではありませんが、関東の織物として一括して語ることに致しましょう。  昔はいずれも手紡《てつむぎ》手織《ており》の布で、農事の合間になされた仕事でした。今も一部はそのようにして織られていますが、大部分は仕事を家庭から工場に移しました。そうして小さな経済から大きな資本へと変ってゆきました。また静かな手機から喧《かまびす》しい織機へと転じました。それは真に烈《はげ》しい推移でありまして、ついには何千という織手が集って、一つの町を形造《かたちづく》るまでに急速な生長を示しました。機械は休みなく動き、その販路を東京のみならず、中京にも京阪にもまた遠く海外にも拡げました。  しかしこれらの大きな機業地で、盛に作られているのは、どんな品物でしょうか。惜しい哉《かな》、どこまでも営利の目的を離れませんから、段々物が粗末になってきました。どう手を省くかについて智慧を働かすことを怠《おこた》りません。人絹も盛に取り入れられ、染料もほとんど化学品を用います。従って今まで見たこともないような俗な彩《いろど》りが現れるに至りました。今の都の人たちは多くはこれらのものを用いているのであります。作り方には長足の進歩がありますが、作られる品にはむしろ退歩が目立つのは大きな矛盾といわねばなりません。なぜ幼穉《ようち》だと笑われている手機や草木染《くさきぞめ》の方が実着なものを生むのでしょうか。考えさせられる問題であります。  それらの織物は土地によって多少の特色を示します。八王子、所沢、青梅《おうめ》、飯能《はんのう》、村山とほとんど隣同志でも、八王子は絹の節織《ふしおり》を主にし、村山は絣《かすり》を専《もっぱ》らにするという工合《ぐあい》です。秩父はその銘仙《めいせん》で名を成しますが、昔のような太織《ふとおり》はもうほとんど影をひそめました。伊勢崎は同じ銘仙一点張りで進んでいますが、これに対し桐生《きりゅう》は何でも作ります。全町これ機屋《はたや》といいたいほど仕事は盛であります。これに続くのは足利《あしかが》で、織機の音はせわしなくこの町にも響いています。佐野は綿織物《めんおりもの》を主にして作ります。しかし前にも述べた通りいずれも商品化し過ぎた恨みがあって、これとて地方色に富むものは見当りません。段々お互が似通《にかよ》って来て一列の品になりつつあります。これは機械や化学染料に仕事を任せた必然の結果と思われます。  しかしこれらの有名な織地の中で、たった一ヵ所例外があるのを見出します。それは「結城《ゆうき》」であります。結城は茨城県にある土地の名でありますが、そこはむしろ取引する町で、織るのは多く川向うの栃木県に属する絹村《きぬむら》でなされます。評判が高くなったため、まがいものも作られはしますが、少くとも一部は本当に手堅い仕事を続けます。糸も手紡《てつむぎ》で、染めも正藍《しょうあい》を用い、昔風な地機《じばた》で織ります。土地の人はこのやり方だけが生む織物の佳《よ》さをよく識《し》り、道を守って仕事を崩《くず》しません。従って機械にかけて多量に安く作るやり方とまったく反対に、佳い品を少量に作ります。値が嵩《かさ》むのは止むを得ません。しかしこのやり方が世人の信用を博し、「結城紬《ゆうきつむぎ》」といえば、本ものだという定評を作りました。そのためこの紬織《つむぎおり》への需用は絶えません。味《あじわ》いの極めて深い品でありまして、今日の日本の織物の中で最も正しいまた立派な仕事の一つといえます。関東には右に述べたように沢山の機場《はたば》がありますが、結城のみがただ独り名誉を重んじて頑固にその格《かく》を守り続けているのであります。少しより出来ないことや、値の高いことは欠点ともいえましょうが、余りにも周囲に安くて悪い品が多いので、結城紬のように正しい筋の通った品物が在ることは有難いと思います。 「真岡木綿《もうかもめん》」は有名でしたが、もう全く廃《すた》れました。同じ栃木県の鹿沼《かぬま》や栃木《とちぎ》あたりは麻の栽培が盛でありますが、材料を出すに止《とどま》って織物は作られておりません。その麻殻《あさがら》からは懐炉灰《かいろばい》が作られます。  埼玉県の加須《かぞ》や羽生《はにゅう》の「青縞《あおしま》」も名がありましたが、藍《あい》を生命としている縞物《しまもの》だけに、本藍《ほんあい》から離れたことは大きな引目《ひけめ》といえましょう。  ここで筆を改めて述べねばならぬ織物がもう一つあります。東京から遥か南に離れた八丈島で、有名な「黄八丈」が出来ます。今も美しさを失っておりません。近頃の改良染の方はいずれも見劣りがしますが、本来の染と織とを守るものは一流の品物と讃えてよいでありましょう。黄八丈の特色は黄と褐と黒との三色より用いない縞物だということであります。染の材料はいずれも島の草木でありますし、「晴天四十日」などとも申して、それほど念入《ねんいり》に日数をかけて染めますから、大変に堅牢《けんろう》であります。用いる絹糸も元来は島のものでありました。縞柄《しまがら》のとり方にも自《おのず》から道がありますが、共に平織《ひらおり》も綾織《あやおり》も見られます。分厚い綾織でその名を成したのは「八反《はったん》」であります。「八反」の名は普通の織物八反分に等しい手間がかかるのに依るといいます。織に奥行があって、とても立派であります。昔を守る者は今も地機を用い続けます。いずれも正しい道を踏む織物でありまして、どんな時代が来ても、変らぬ美しさを示すでありましょう。面白いことに幕末から明治の始め頃にかけて、この「黄八丈」は漢方医《かんぽうい》の制服でありました。八丈の島は小さくとも「黄八」や「八反」の島は大きいのであります。  東京近くの県で比較的様々な郷土品を有《も》つのは埼玉県であります。秩父の仕事は既に織物の個所で語りました。東京の北を流れる荒川の向岸に川口《かわぐち》の町があります。鋳物《いもの》の技が盛であります。日用品で特に見るべきものはありませんが、指導さえ宜《よろ》しきを得たら、随分色々なものを生み得るでありましょう。同じ川口では釣竿《つりざお》を作ります。おそらく仕事が栄えている点では日本一ではないでしょうか。そのあるものは念入の作で、日本の手技に最も適した品ともいえましょう。もとより竹細工であります。  西に川越《かわごえ》、東に粕壁《かすかべ》といわれ、この二ヵ所は箪笥作《たんすづく》りの町であります。着物箪笥、帳箪笥、鏡台、針箱、その他|一渡《ひとわた》りのものを作ります。何といっても桐の箪笥が主で引出《ひきだし》の出し入れが滑《なめら》かなのが腕自慢であります。技は随分進みました。昔はこれに沢山の鉄金具《てつかなぐ》が附いて、それが立派な装飾でもありましたが、今出来のものがとかく見劣りするのは、その金具が弱々しく花車《きゃしゃ》なものになったためでありましょう。桐の家具は日本好みの出たものでありますから、よい技が害《そこな》われないようにしたいものであります。桐材は軽いということのほかに伸縮が少いとか、湿気《しっけ》や火気に強いとか、または色に品位があるとかを特色とします。用材は福島県のものが良いとされます。  武蔵の産物としては騎西《きさい》や加須《かぞ》の鯉幟《こいのぼり》もその一つに挙げるべきでありましょう。五月の節句に勢いよく高く靡《なび》くあの幟であります。出来のよいことと産額の多いこととではこれらの町のが全国第一でありましょう。眼でも鱗《うろこ》でも鰭《ひれ》でも皆|手描《てがき》でありまして、割筆《わりふで》の用い方など妙を得たものであります。真鯉《まごい》と緋鯉《ひごい》とがありまして、あるいは布であるいは紙で作り、大きいのになりますと長さが五、六間にも及びます。  それから岩槻《いわつき》と鴻巣《こうのす》とは共に雛人形《ひなにんぎょう》の産地で有名であります。後者は土俗的な人形でも久しく名を得ました。雛祭《ひなまつり》の風習が続く限りこれらの土地に仕事は絶えないでありましょう。こういう行事は出来るだけ保存したいものと思います。今出来の品は昔ほどの品格がありませんけれど、よい手本が沢山あるのでありますからそれをよく学んだら伝統は更に活々してくるでありましょう。ここに越《こし》ヶ|谷《や》の達磨《だるま》のことも言い添えておくべきでしょうか。木型《きがた》を用い、紙で作ります。この県の唯一の窯場《かまば》は深谷《ふかや》であります。今は土管が主な仕事となりましたが、少し前までは大きな火鉢や蒸籠《せいろう》などで面白いものを焼きました。  仕事として大きいのは比企《ひき》郡|小川《おがわ》町の手漉紙《てすきがみ》であります。川に沿うて点々と昔ながらの紙漉場《かみすきば》を見られるでしょう。ここの紙では「細川《ほそかわ》」と呼ぶものが有名で、その漉《す》き方にも特色があり、いわゆる「流漉《ながしずき》」と「溜漉《ためずき》」とを合せたようなものであります。これはおそらくごく古いやり方だと思われます。日の照る日何枚もの板に白い紙を貼《は》って立て掛けてある様は、農村の風情を一入《ひとしお》美しくします。乾かすには天日《てんぴ》と板干《いたぼし》とに如《し》くはありません。土地で「ぴっかり千両」などといいますが、日の光の貴いことを語ります。この小川は東京に一番近い大きな紙漉場なので、仕事が年と共に栄えているのであります。  埼玉県では小絵馬で今も見るべきものを描きます。売る店も残り、また盛な市日《いちび》さえ立ちます。大体からいうと信仰的な土俗品は、年と共に衰える傾きがありますが、致し方もないことであります。  茨城県に来ますと、そう語るべきものを有ちませんが、何といっても「西《にし》の内《うち》」とか「程村《ほどむら》」とか呼ぶ純|楮《こうぞ》の和紙を生んだ国で、幸にもこの仕事は今も続いております。まだ板干をしているような紙の村は、正直な仕事を見せてくれます。本場は久慈《くじ》郡の西野内や那珂《なか》郡の嶐郷《りゅうごう》村であります。  稲荷神社で有名な笠間《かさま》は、窯場のある所であります。筑波《つくば》山を真近くに見ます。昔から雑器を焼きましたが、徳利《とっくり》や蓋附壺《ふたつきつぼ》などに見るべきものがあります。水戸は徳川三家の居城でありましたから、昔は色々の手仕事が栄えたことと思いますが、今は衰えてしまいました。馬乗提灯《うまのりぢょうちん》で鯨《くじら》の筋を用いた出来のよいのを売りますが、昔の名残りであります。常陸では和鞍《わぐら》に刺繍《ししゅう》を美しく施す習慣があります。  群馬県に入りますと、赤城《あかぎ》、榛名《はるな》、妙義《みょうぎ》の三山が目に映《うつ》ります。麓《ふもと》に高崎や前橋の如き大きな町はありますが、その山間で一番興味のある古い町は沼田《ぬまた》でありましょう。鉄道の敷かれるのがおそかったせいか、まだ郷土の香りの濃い町であります。店々を訪ねますと色々の品が現れます。山刀《やまがたな》に鞘《さや》の美しいのがあって桜皮で編んだりまた浮彫をこれに施したりします。この鞘は主に利根《とね》郡|白沢《しろさわ》村|高平《たかひら》の産だといいます。ごく小型のものなどに特に愛すべき品があります。沼田では金物にも火箸《ひばし》、灰均《はいならし》などの野鍛冶《のかじ》の技で野趣あるものを見かけます。大体上州は養蚕の盛な所で建物も造りを変えていますが、それに用いる道具類にもなかなか面白い品を見出します。刳《く》った浅い木皿《きざら》だとか、「はきたて」と呼んでいる羽根帚《はねぼうき》などは、茶人でも好みそうな品であります。この町で売る長帚《ながぼうき》も特色ある形で他に見かけません。有名な鹿沼帚《かぬまぼうき》などと全く違う形を有ちます。近くには赤城山が聳《そび》えますが、山に生える山芝を材料にして「しょいご」を編みます。背負籠《せおいかご》のことであります。編み方に非常に念を入れたのを時折見かけます。これらは皆まがいもない郷土の香りを放つものであります。  高崎近くの豊岡《とよおか》は張子《はりこ》の達磨《だるま》で有名で、今も盛なものであります。凡《すべ》て木型を用いて作ります。日を定めて市日《いちび》が立ちますが、農家や町家《まちや》などでは年々|購《あがな》うことを忘れません。この国も紙漉場をあちらこちらに見ます。多野《たの》郡、山田郡、吾妻《あがつま》郡、いずれにも仕事場を見るでしょう。この県の織物については既に記しました。  栃木県のものとしては、益子《ましこ》の焼物や、烏山《からすやま》の和紙や、鹿沼《かぬま》の帚《ほうき》をまず挙げねばなりません。それほど仕事は盛であります。益子は東京に一番近い大きな窯場とて、東京の台所で用いられる雑器の多くは、この窯から運ばれます。鍋、行平《ゆきひら》、片口《かたくち》、擂鉢《すりばち》、土瓶、火鉢、水甕《みずがめ》、塩壺など様々のものを作ります。中で一番盛でもありまたよい仕事ぶりを見せたのは土瓶の類であります。山水や四君子《しくんし》の絵を好んで描きます。黒の線描《せんがき》に緑や飴《あめ》色を差します。一日に何百と描くその技の早さは見ものでさえあります。中に「窓絵《まどえ》」と呼ばれ、白い丸を窓のように胴につけこれに梅の花などを描いたものがあります。簡単でありながら美しいやり方であります。近頃はどこの陶器も絵が少くかつ拙《まず》くなっていますので、この益子の絵土瓶の如き今では大切な存在であるといわねばなりません。この窯で出来る火鉢に流釉《ながしぐすり》のがありますが、巧妙な技を示します。  このほか那須郡に小砂《こいさご》と呼ぶ村があって窯が立ちます。材料はむしろ益子に優《まさ》るのではないでしょうか。匿《かく》れた窯場で県の者さえも知る人が少いのです。  烏山は同じ那須郡にある町で、那珂《なか》川のほとりにあります。川向うは茨城県でありますが、この辺一帯に紙漉場が少くありません。有名なのは「程村《ほどむら》」と呼ぶ楮《こうぞ》の紙であります。これもいつだとて和紙の美しさを語ってくれるものの一つであります。烏山近くに向田《むかだ》という部落があって、ここで出来る檀紙《だんし》に野趣のあるのを見かけました。こういう世に知られていない小さな工房で、しばしば正直な手堅い仕事が為《な》されます。安蘇《あそ》郡|飛駒《ひこま》村の産は、早くから「飛駒《ひこま》」でその名を広めました。  同じ烏山の町を歩きますと、馬具屋が目につきます。何も下野の国ではこの町ばかりではなく、日光近くの今市などでも見られますが、それは美しい和鞍《わぐら》を作ります。白、黒、赤、緑、黄、紫、藍《あい》、紺《こん》など様々な色糸で、前と後とに美しい刺繍《ししゅう》を施します。線模様があり絵模様があり、これに様々な飾りを加えます。皆男の手仕事であります。このような美しい多彩な刺繍の和鞍を作るのは、ただこの下野と常陸《ひたち》との二ヵ国だけであります。正月の初荷《はつに》の時や、嫁入《よめいり》の時に新しく誂《あつら》えます。少し前までは朱塗|金箔《きんぱく》の革も用いました。おそらく郷土的な香りのする鞍では世界でも一、二を争うものではないでしょうか。この烏山はお祭りに見事な山車《だし》を引くので有名であります。  鹿沼《かぬま》は上都賀《かみつが》郡で、日光には近いところであります。ここは前述のように麻緒《あさお》で名を広めましたが、しかしその他に関東一帯はもとより、随分遠い地方までこの町から運び出されるものがあります。それは「鹿沼帚《かぬまぼうき》」の名で何処でも知られているものであります。附根《つけね》がふくらませてあって、色糸や針金でかがり、ゆったりした大型の帚《ほうき》であります。おそらくどこの産の帚よりも広く行き渡っているでありましょう。 「日光下駄《にっこうげた》」も有名なものであります。土産《みやげ》に持ち帰る人が少くありません。その値打が充分にある品だといえましょう。竹皮の表と白木綿の鼻緒《はなお》と、そのすげ方とに特色を見せます。他の土産物のように遊びがないので、本当に役立ってくれます。日光土産には盆《ぼん》があって、その上に日光山の廟《びょう》だとか眠猫《ねむりねこ》などを彫った物を売ります。彫る技は実に達者なものでありますが、もう少し図がよかったらと思います。ここの「日光羊羹《にっこうようかん》」は誰も自家《うち》へ持ち帰るでありましょう。  宇都宮《うつのみや》の町に挽物《ひきもの》師が、形のよい漏斗《じょうご》を手轆轤《てろくろ》にかけているのを見ました。売る先は静岡県の酒屋だということでありました。今時、木で作られる漏斗は珍らしいのでありますが、この方が酒や醤油《しょうゆ》の味を変えません。それ故正直な酒屋は金物《かなもの》を忌《い》みます。驚いたことにこの漏斗は荒挽《あらび》きして四年間も涸《か》らさないと仕上げをしないそうであります。安い品にもこれだけの手間をかける忠実さに心を打たれます。  宇都宮近くに大谷《おおや》という土地があります。いわゆる「大谷石《おおやいし》」の産地で、遠く弘仁《こうにん》時代にその石で刻んだ仏像が今も残っております。同じ石でその地方では見事な屋根をふきます。他の県には全く見当りませんが、日本一の立派な屋根で、建物にどんなに重みや力を与えているでしょう。またこの石で厨子《ずし》だとか像だとかを刻みます。無名の石工にどうしてこんな彫刻が出来るのかと思うほどの傑作にも出会います。  奥日光《おくにっこう》の北に栗山《くりやま》と呼ぶ広い部落があります。全くの山村で物語りの多い所ですが、山の生活が色々のものを生み出します。木鉢《きばち》や杓子《しゃもじ》を始め胡桃《くるみ》の一枚皮で出来た箕《み》や、山芝で編んだ「びく」即ち背負袋や、科《しな》の木の皮の蓑《みの》など、いずれもこの土地あってのものであります。日本の民具を語るよい例となるでありましょう。中で把手附《とってつき》の「栗山桶《くりやまおけ》」は特に名を得ました。  さてこの山奥を関東の旅の終りとしまして更に北に上ることと致しましょう。 [#改ページ] [#3字下げ]東北[#「東北」は中見出し]  東北といえばいわゆる「東北六県」を指します。北から数えますと、青森県、岩手県、秋田県、宮城県、山形県、福島県となります。国の名で申しますと、陸奥《むつ》、陸中《りくちゅう》、陸前《りくぜん》、羽後《うご》、羽前《うぜん》、磐城《いわき》、岩代《いわしろ》の七ヵ国となります。昔の「みちのく」即ち道の奥と呼んだ国の果《はて》であります。それに出羽《でわ》と名づけた地域をふくめ、「奥羽《おうう》」の名でも呼ばれました。昔は夷《えびす》即ち蝦夷《えぞ》が沢山住んでいた地方で、方々から出てくる石器や土器がその遠い歴史を物語ってくれます。地名にも「伊保内《いぼない》」とか「毛馬内《けまない》」とか「沼宮内《ぬまくない》」とかのように、アイヌの言葉を残す所も少くありません。  東北は日本本土の北に位しますから、気候が寒く、ある個所は半年近くも雪に被《おお》われます。こういう自然の障害があります上に、中央の都からは遠い国々でありますから、交通も大変不便でありました。そのため新しい文化を取り入れることが遅れたのは止むを得ません。自然の強い力に抑えられたり、進んだ施設に乏しかったりすることは、人々の生活をも気持ちをも重くしました。さなきだに時として烈しい雪や雨やまたは旱《ひでり》などが続いて、災害を被《こうむ》ることが度々であります。こういう事情は東北人を貧乏にさせ、その働きをにぶらせました。そうしてこれが奥羽というと何か暗い気持ちを伴わせる原因となり、北の雪国は貧しい地方だという聯想を誰の胸にも刻ませました。実際それらの国の生活はなま易《やさ》しいものではありません。  しかしそれらの地方を旅して見ますと、たしかに貧しいとか遅れているとかいう一面はあるとしても、大きな自然の中に住んでいるその暮しぶりや、信心深い気持や、行事をおろそかにしない風習や、重くねばりこい性質や、それらのことが純朴な実着な気風を醸《かも》していることを気附きます。しかもその生活に取り入れている品物は、多くは郷土のもので、祖先から受継いだ技で拵《こしら》えられたものであります。こういう風習が濃く伝わることは、大きな強みと思えないでしょうか。何よりそれらのものは日本固有の性質を示すからであります。これに比べますと都《みやこ》の人たちが今用いている大概のものは、弱さや脆《もろ》さが目立ちます。仮令《たとえ》暮しに進んだ面があっても、半面にかえって遅れた所があるのを見出します。かく考えますと、東北人の暮しには非常に富んだ一面のあることを見逃すことが出来ません。そこでは日本でのみ見られるものが豊《ゆたか》に残っているのであります。従ってそこを手仕事の国と呼んでもよいでありましょう。なぜかくも手の技が忙しく働くのでありましょうか。思うに三つの原因があって、それを求めているのであります。  一つは中央の都から遠いため、かえって昔からの習慣がよく保たれているからであります。このことは郷土固有のものを暮しに多く用いることを意味します。作るものに外国の品を真似《まね》たものをほとんど見かけません。そんなものの存在を知る機縁《きえん》がないともいえましょう。それらの土地の伝統は根強いのであります。  二つには地理がそれに応じるものを作らせるからであります。その気候や風土は多くの独特なものを求めます。雪国の人たちは雪に堪《た》える身形《みなり》や持物を用意せねばなりません。それらのものは都からは運ばれて来ません。人々は色々のものを作って、自分やまた家族の者のために準備せねばなりません。しかもそれは実用に堪え得るように念入りに作ることを求めます。このことは手仕事を忙しくさせ、またその技を練《きた》えさせました。仕事に実着なものが多いのはこのためであります。  三つには雪の季節が長いことに因《よ》ります。自《おのず》から家に閉じこもってその長い時間を手仕事で過ごします。野良で働くことは封じられても、家の内には為さねばならぬ仕事が待っているのであります。これあるがためにもの憂《う》げな冬の長さも、早く過ぎて行きます。雪と手仕事とには厚い因縁《いんねん》がひそみます。これこそは北国に様々な品物を生ましめる一つの原因であります。  これらのことを想うと、東北の国々になぜ固有の品が豊にあるかを解することが出来るでありましょう。今まで何かにつけ引目《ひけめ》を感じていた東北人は、かえって誇りをこそ抱いてよいと思います。後《おく》れていると思う品物がむしろ新しい意味を以て活き返って来るでありましょう。旅をするなら一度は北の国を訪れねばなりません。そうしてそれは二度三度の旅を誘うでしょう。品物を探し求めると、雪国は魅力ある地域となってきます。東北は日本にとって実に大切な地方なのであります。  一番南に位するのは福島県であります。福島、特に郡山《こおりやま》を中心に養蚕や製糸の業が盛であります。川俣《かわまた》は羽二重《はぶたえ》の産地として名を成しました。ですが主に輸出ものでありますから土地の暮しとは深い結《むす》ばりがありません。ただ年産額はかなりな数字に上ります。  福島は都でありますから、町を歩くと、塗屋《ぬしや》だとか紙屋《かみや》だとか土地出来の品を置くよい店を見出します。古風な看板《かんばん》を今もはずさない店があるのは、伝統の残るのを語ります。しかし品物の側から申しますと、若松《わかまつ》地方の方にずっと心を引かれます。いわゆる「会津《あいづ》」で若松はその中心であり、今も昔の城址が残ります。ここは少年|白虎隊《びゃっこたい》の物語で誰も想い起す所でありましょう。古い城下町でありますから、今も色々のものが作られます。一番仕事が盛なのは「会津塗《あいづぬり》」で聞える漆器であります。技を心得た工人の数は多く、商《あきな》う店も栄えております。ただ近頃の品は昔ほどの手堅い性質がなくなってきました。悪い意味で作り方が悧口《りこう》になったため、正直に手間をかける仕事が少くなってきました。買手にも罪はあるでしょうが、それよりも問屋《とんや》が粗末なものを強いる結果だと申す方が本当でありましょう。何も会津塗だけの過《あやま》ちではありませんが、もう少し親切な仕事をすれば、この塗の名誉は高まるでありましょう。  若松はまた蝋燭《ろうそく》で有名であります。特に絵を描いた蝋燭が見事であります。呼んで「絵蝋燭」といいます。元来は凡て手描《てがき》でありましたが、近頃は印刷することを始めましたので、ずっと見劣りがします。多くは花模様で、時には立花《りっか》のように花籠《はなかご》に活けてある様を見事に描きます。赤、黄、緑、青、黒など様々な色を用い達者な筆を示します。仏事に用いる大きなものから、ごく小型の豆蝋燭に及びます。この絵蝋燭は他の国にも、まま見かけますが、会津出来のが一番だと思います。  この町は煙管《きせる》を作るのでも名があります。もっとも安ものが多いとされていますが、中にはとても面白い形のがあって、かえって民衆の持物にでなくば見られない美しさのものがあります。刃物《はもの》もこの町で色々作ります。金物《かなもの》で想い浮ぶのは「塔寺釜《とうでらがま》」でありますが、もとは河沼郡|八幡《やわた》村|塔寺《とうでら》の産であったかと思われます。今はかえって他郷に仕事を奪われました。  会津のものとして更に語らねばならぬものを二、三添えましょう。本郷という町は焼物でその名を高めました。磁器《じき》も陶器《とうき》も共に作ります。大体北国には磁土《じど》が少いのでありますが、ここの茶器、とくに急須《きゅうす》の如きは販路を広めました。しかし出来上った品から見ますと、実は一番人々から粗末に扱われているいわゆる「粗物《そぶつ》」と蔑《さげす》まれているものが、最も特色のあるまた見事なものだと評さねばなりません。今はこの「粗物」を焼く窯がたった一つより残りませんが、白釉《しろぐすり》のものと飴釉《あめぐすり》のものと二通《ふたとおり》で作ります。これに緑釉《みどりぐすり》を流したり海鼠釉《なまこぐすり》を垂らしたりして景色を添えます。緑の方は銅から取り海鼠《なまこ》の方は鉄から取る青味の色をいいます。ここで出来る長方型の「鰊鉢《にしんばち》」や、「切立《きったて》」と呼ぶ甕《かめ》の如きは、他の窯に例がありません。本郷の仕事としては、どこまでもこの粗物類を大切に続けるべきでありましょう。この窯では一番健康な仕事であります。  若松から程遠くないところに喜多方《きたかた》の町がありますが、ここでは良い生漉《きずき》の紙が出来ます。材料は凡て楮《こうぞ》で強い張りのある紙であります。大体福島県は紙漉の村が多いのでありまして、岩代《いわしろ》の国では伊達《だて》郡|山舟生《やまふにゅう》や安達《あだち》郡の上《かみ》および下《しも》の川崎村や耶麻《やま》郡|熱塩《あつしお》村の日中《にっちゅう》。磐城《いわき》の国では相馬《そうま》郡の信田沢《しださわ》、石城《いわき》郡の深山田《みやまだ》の如き名を挙げねばならぬでありましょう。昔から「磐城紙《いわきがみ》」の名で知られます。  会津の山々は雪の多いところとて、藁《わら》で出来た雪踏《ゆきぶみ》や雪沓《ゆきぐつ》や、曲木《まげき》の樏《かんじき》や形の面白いのを見かけますが、かかる品を求めるには一番山奥の檜枝岐《ひのえまた》を訪ねるに如《し》くはありません。もう尾瀬沼に近い随分不便な村ですが、ここで色々面白い品に廻《めぐ》り会います。手彫《てぼり》の刳鉢《くりばち》や曲物《まげもの》の手桶や、風雅な趣きさえ感じます。特にここで出来る蓑《みの》は大変特色があって、背を総々《ふさふさ》とした葡萄皮《ぶどうがわ》で作り腰を山芝で編みます。裏側が美しい網になっていて見事な手仕事であります。纏《まと》っているのを背《うしろ》から眺めますと、活きた熊でも動いているように見えます。  昔から磐城の国の相馬焼《そうまやき》は有名でありました。窯は原町に近い中村にあります。馬の絵を描くので誰も知っているものであります。相馬の地は馬の産で名があり、野馬追《のまおい》の祭や三春駒《みはるごま》など、馬に因《ちな》んだものが多いのであります。慣れた図柄《ずがら》ですから焼物の上にも上手《じょうず》に描きます。ですが好んで作る急須《きゅうす》や湯呑《ゆのみ》などは、形が崩れてしまい、品物としては上出来とは申されません。しかしこの窯は昔はなかなかよい雑器を焼きまして、その青土瓶や絵土瓶などは忘れ難いものであります。もっと実際に使う台所道具に帰るなら、また昔の息吹《いぶき》を取戻すでありましょう。浪江《なみえ》近くに一基の窯があって、海鼠釉《なまこぐすり》を用います。鉢だとか擂鉢《すりばち》だとか片口だとかに、しっかりした品物を見かけます。  有名な三春人形《みはるにんぎょう》は非常に美しいものでありましたが、早くもその歴史を閉じてしまいました。「こけし」人形は方々で作られ、むしろ流行にすらなりました。  福島県を北に上りますと山形県に入ります。その大部分は羽前の国であります。この国は手仕事の種類の非常に多い所で、おそらく日本でも有数の土地でありましょう。米沢《よねざわ》を中心とした置賜《おきたま》の文化と、山形《やまがた》を中心とした村山《むらやま》の文化と、鶴岡《つるおか》や酒田《さかた》を中心とした庄内《しょうない》の文化と、この三つの異る地域がそれぞれに栄えたために、歴史が豊な手仕事を授けたのかと思われます。  米沢は上杉氏の城下町、鷹山《ようざん》公の名君を戴《いただ》きし都。そこは何よりも糸織《いとおり》の産地として著名であります。糸織というのは縒糸《よりいと》で織った絹織物のことであります。何処でも同じでありますが、手機《てばた》や草木染《くさきぞめ》の時代は手堅い仕事を見せましたが、機業が盛になって機械を入れるにつれ、仕事は落ちて来ました。いわば商業主義の犠牲であります。この町で出来る袴地《はかまじ》には見るべきものがありました。  米沢の名を被《かぶ》るものに「米琉《よねりゅう》」があります。しかし主に織ったのは長井《ながい》であります。それ故「長井紬《ながいつむぎ》」の名でも呼ばれました。「米琉」というのは「米沢琉球紬《よねざわりゅうきゅうつむぎ》」のことで、琉球の織物に似せて作った絣《かすり》を意味します。まま色が入ったりして一種の美しさを出しました。一事は流行さえしましたが、いつしか廃《すた》れてわずかな仕事になってしまったのは惜しいことであります。  紬《つむぎ》のほかに長井は、その帚《ほうき》でも名を成してよいでありましょう。手帚も長柄《ながえ》のも共に作りますが、形に特色がある上に、紺糸で綺麗に草を編むので、品《ひん》のある品《しな》であります。それに柄《え》は多く焼杉《やきすぎ》を用いますので、どんな座敷で用いても悦ばれるでありましょう。  近くの笹野《ささの》は笹野彫《ささのぼり》の玩具で有名であります。鷹、亀、鶏など色々刻みます。木を削《けず》りかけにして羽だとか毛だとかを巧みに現します。郷土玩具としては出色のものでありましょう。  置賜《おきたま》郡には小国郷《おぐにごう》のような、めったに旅人も行かない部落もあって、従って百姓の持ち物にも色々変ったものがあります。「じんべい」と呼ぶ鼻緒入《はなおいり》の藁沓《わらぐつ》や、「にぞ」と呼ぶ蒲《がま》製の帽子や、また「たす」といっている葡萄皮で網代編《あじろあみ》にした背負袋や、いずれも民具として出来もよく形もよく、忘れ難いものであります。これらのものは時折運ばれて米沢などの荒物屋の店先に掛ります。この地方の蓑も特色があって、襟の周囲をきっと白と紺との麻糸で模様を巾広く出します。藁沓で最も出来の美しいのは西置賜郡|東根《ひがしね》村|浅立《あさだち》の産で、仕事が極めて入念であります。見る人は誰も感心するでありましょう。  米沢から遠くない所に成島《なるしま》と呼ぶ窯場があります。鉄釉《てつぐすり》の飴色や海鼠《なまこ》色で鉢だとか片口だとか甕《かめ》だとかを焼きます。仕事はまだ害《そこな》われてはおりません。大体北の国には窯場が少いのでありますから、この窯も大事にされねばならぬ一つであります。附近の荒砥《あらと》の瀬戸山はその兄弟窯であります。  置賜を北に進みますと、まもなく村山の平野に出ます。山形は水野氏の小さな城下町でありましたが、県庁が置かれてこの方、米沢を越す都となりました。山形の産物としては「節織《ふしおり》」も名がありましたが、それよりも「紅花《べにばな》」の産地として特に聞え、一時は盛な商《あきな》いでありました。紅花というのはもとより植物で、これから紅色をした色料をとります。それが明治に入って突如《とつじょ》化学染料の力に追いやられて、全く倒れてしまったのは悲惨な出来事でありました。ただ宮中の御用が今もあって、郊外の漆山《うるしやま》でわずかに栽培を続けているに過ぎません。しかし色の美しさは無類なのでありますから、山形の名誉のために、何か復興の道を講ずべきではないでしょうか。  山形市で是非|訪《おとな》わなければならないのは銅町《どうまち》であります。よい家並が今も揃っております。往来をはさんで両側はほとんど凡て銅器の店であります。店の裏にはすぐ仕事場が続きます。概して置物類は面白くありませんが、火鉢や湯釜や仏器などの実用品には見るべきものが色々あります。中でも男釜《おがま》、女釜《めがま》など呼ぶ立派な形のものがありますが、ここで出来る品としては「はびろ」と呼ぶ鉄瓶が一番特色を示しているでありましょう。銅の下端《したは》が広がっている形なので「端広《はびろ》」と呼んだのではないでしょうか。把手《とって》も太くて握りよく、珍らしい形で他の地方では余り見かけません。これを砲金《ほうきん》でも作ります。また吉原五徳《よしわらごとく》や灰均《はいならし》などの美しいのを真鍮《しんちゅう》で様々に作ります。音のよい鈴も客を待ちます。探しますと様々なものが現れます。山形の町には鍛冶屋も多く、鉄製のよい自在鉤《じざいかぎ》を作るのを見かけるでしょう。  町からそう遠くない所に、平清水《ひらしみず》の窯場を訪ねましょう。白釉《しろぐすり》を用いた雑器に、見るべきものを焼きます。便器にも非常に自由に大まかな絵附《えつけ》をします。しかしこれはおそらく瀬戸《せと》の風を伝えたものでありましょう。窯場としては県下第一の大きなものであります。  山形市の近くに天童《てんどう》と呼ぶ小さな静な温泉町があります。ここは将棋《しょうぎ》の駒を作るのに忙しい所であります。吾々が玩《もてあそ》ぶ駒の大部分はこの小さな町から出るといわれます。まだ六つ七つの小さい子供までが、とても巧みにまたすばやくあの文字を漆で手書《てがき》する様は、見る者の興味をそそります。反復は驚くべき技の母なのを感じないわけにゆきません。度々見るものなのでかえって気附きませんが、駒の文字は王将から歩《ふ》に至るまで、特別な書体を現し、よくもここまで模様のような形に納めたものと感心さされます。  村山の平野は米の産地であります。藁細工が栄えるのも当然であります。そこの草履表《ぞうりおもて》も今は忙しい手仕事の一つであります。山寄りの地方で出来る蓑だとか帽子だとかには、非常に美しい出来のがありまして、他の土地では見かけない編み方を示します。どれも自分の家族の者たちのために拵《こしら》えるのでありますが、利得のためではないので決して手を省《はぶ》きません。作り方は代々伝えられた技であります。こんなものでも一朝にして生れたものではないのを感じます。  南村山郡の高松《たかまつ》には「麻布《あざぶ》」と呼ぶごく薄手の紙を漉《す》きます。上《かみ》ノ山《やま》温泉《おんせん》には遠くありません。この紙は漆を濾《こ》すのになくてはならない紙なのであります。  蓑《みの》といえば最上《もがみ》郡がまた素晴らしい産地であります。この地方の蓑の特長は模様を入れる襟巾が広いことで、色々の材料で色々の紋様を出します。蒲《がま》、稈心《みご》、科《しな》、葡萄蔓《ぶどうづる》、麻糸、木綿糸、馬の毛など様々なものが使われます。新庄《しんじょう》の市日などに在《ざい》からこれを着て出てくる風俗は、都の者には眼を見張らせます。  新庄の町はずれに東山《ひがしやま》と呼ぶ窯場があります。美しい青味のある海鼠釉《なまこぐすり》を用いて土鍋《どなべ》だとか湯通《ゆどうし》だとか甕《かめ》だとかを焼きます。中で耳附の土鍋は、三つ足も添えてある古い型を伝えるものでありましょう。土鍋としては日本中のもので最も美しいでしょうか。  新庄に近い舟形《ふながた》村の長沢《ながさわ》では、今もまじりけのない生漉紙《きずきがみ》を生みます。悪く作ることを知らない漉場《すきば》の一つであります。最上郡の金山《かなやま》には盆だとか木皿だとかを作るよい店を見かけました。  最上川に沿うて西に進みますと庄内《しょうない》の中心に出ます。この辺は日本で一、二を争う米の産地ともいえましょうか。鶴岡《つるおか》と酒田《さかた》との二つの大きな町がありますので、手仕事も一段と栄えました。鶴岡は酒井氏の城下町であります。店々を覗《のぞ》くと色々見慣れないものが現れます。ここは黒柿《くろがき》の細工所で、この優れた自然の賜物を用い色々のものを作ります。小箱の類から大きなものでは鏡台や机の類まで見かけます。材料が貴いためか薄手に作るので時折冷い感じを受けますが、もう少し豊な形を与えたら見違えるほどの品になりましょう。この細工は山形でも見ることが出来ます。  同じ鶴岡には竹塗《たけぬり》と呼ぶものがあって、材は檜《ひのき》でありますが竹を模してあります。多少無理な仕事で活々《いきいき》した味《あじわ》いを欠く恨みがあります。それより普通の漆器で出来のよい「わっぱ」だとか、柄杓子《えびしゃく》などを選びたく思います。「わっぱ」は曲物《まげもの》の弁当箱で別に汁入も拵《こしら》えます。手堅い品になると布引《ぬのびき》であります。この町で出来る漆工品として特色の目立つのは長方形の茶盆で、簀《す》の子《こ》入りのものです。形もすっきりして使い工合も上々であります。土地ではこれを「茶舟《ちゃぶね》」と呼びます。  この町の絵蝋燭《えろうそく》も世に聞えました。もとより仏事に用いるものであります。色糸でかがる手毬《てまり》も名があります。煙草の道具を売る店を時折見かけますが、旅の者の目を悦ばせます。胴乱《どうらん》だとか煙管筒《きせるづつ》だとか、色々の種類を並べますが、中で注意すべきは紙縒細工《かみよりざいく》で、黒塗のも朱塗のも見かけます。大体紙縒細工は朝鮮が優れた仕事を見せますが、我国では江戸で発達しました。残念にも今は衰えましたが、私の知る限りでは伝統は羽前の国に一番よく残されているように思われます。時折百姓たちが素晴らしい胴乱を腰に下げているのを見かけます。多くは自製の品であります。煙草具で更に面白い一種のものがあり、呼んで「じんぎり」といいますが語原は審《つまびらか》でありません。糸編みの品で、煙管入《きせるいれ》や燧石袋《ひうちいしぶくろ》や、これに煙草入《たばこいれ》や火口《ほくち》の粉炭入《こなずみいれ》など一式揃っているものでありますが、面白いことにこれには必ず強く撚《よ》った糸の総《ふさ》を長く垂らします。土地の人にいわせると、この糸のよじれ方で、その日その日の天候を予《あらかじ》め知ることが出来るそうであります。町の晴雨計《せいうけい》とでも呼びましょうか。  鶴岡で出来るものでは、竹細工に見るべきものがあります。「亀子笊《かめのこざる》」と呼ぶものは、縁作《ふちづくり》が丁寧で、巾広く網代編《あじろあみ》にし、所々を籐《とう》で抑えます。形といい作りといい笊の類では一等でしょう。町はずれには太鼓を売る店も見かけます。  荒物屋は北の国では民具の陳列場ともいえましょう。大体どの町でも、町はずれには荒物屋があるとほぼきまったものであります。在《ざい》の人が町に出た帰りに必ず立ち寄るのがこれらの店であります。農村で使う一渡《ひとわたり》の品が皆揃えてあります。ほとんど土地出来のものばかりを並べていますので、ここで一番|手短《てみじか》にその地方の暮しを見ることが出来ます。もっとも最近はいわゆる「下《くだ》り物《もの》」といって、中央から流れ込む商品に段々犯されて来ました。それでも雪国の荒物屋は、都からは運ばれない品々を置きます。いずれもその土地の技を示すのみならず、どこか暮しの力を想わせます。稈心《みご》で綺麗に編んだ「いずめ」を何段も積み重ねてあるのをよく見かけます。「いずめ」というのは冬の寒い間、幼児を入れておくもので、お櫃入《ひついれ》の大きなような形をしています。また天井からは蓑だとか背中当《せなあて》だとか荷縄《になわ》だとか、様々なものが吊されているのを見られるでしょう。中でも面白いのはこの地方の背中当で土地では「ばんどり」と呼びます。重い荷物を担《かつ》ぐ時、背中に当てるものであります。語原はまだはっきり致しません。大体を藁で編みますが、念入に作ったものになると、これに古い布裂《ぬのきれ》や色糸や、時としては色紙まで交えて作ります。そのため彩《いろどり》が綺麗で目が覚めるようなのがあります。それに形が独特で全く他の地方に類似する品を見かけません。日本の農民工藝の代表者にいつだとてなれるでありましょう。同じ荒物屋で売る品で感心するのは蒲《がま》で編んだ雪沓《ゆきぐつ》で、男のは白いフランネルで女のは赤いので縁《ふち》を取ります。編み方が丁寧で形に品《ひん》があります。おそらくこの種の形を持つものは起原が古く、よく絵にある藤原鎌足《ふじわらのかまたり》公の履《は》かれている沓《くつ》の形そのままであります。  近くの酒田市は最上川の河口に位し、古くから港として栄えました。羽前の文化は主としてこの港から入ったともいえましょう。本間《ほんま》一門の名家が邸《やしき》を構えているのもこの町であります。有名な庄内米《しょうないまい》のことは他の本が語るでありましょう。ここは船の出入《ではいり》が多かったため、昔は船箪笥《ふなだんす》を作った所として名がありました。その技は今も残っていて、見事な箪笥類を作ります。ただ昔のような頑丈な金具は跡を断ちました。職人はいても誂《あつら》える人がなくなってしまいました。胴は欅《けやき》を用い磨出漆《とぎだしうるし》の上等のを作りましたが、段々流行おくれになってしまったのは惜しいことであります。この町は曲物細工《まげものざいく》も甚だよく、地方色の鮮《あざやか》なものとしては、「浜弁当《はまべんとう》」と呼ぶ入れ子のある蓋《ふた》の深い曲物で、楕円形をしたものがあります。止めは例の桜皮を用い一種の飾りとさえなります。大型のは船で遠出をする時に用いるといわれます。普通の「めんつ」などより一段と立派な品であります。  町を歩きますと長い竹の柄《え》の附いた塗杓子《ぬりしゃくし》の美しいのを見出されるでしょう。これは鶴岡でも作りますが、この辺一帯で用いられる特産物であります。内が朱塗、外が黒塗の品で、品《ひん》のよい美しさがあります。多くは大中小を三重《みつがさ》ね一組として売ります。どの家庭にも薦《すす》めたい品であります。きっと重宝《ちょうほう》がられるでありましょう。その他この町で作る漆器の仏具や、祝いの時に用いる酒樽《さかだる》などにも塗や形のよいのを見かけます。白木のもので二段になっている脚立《きゃたつ》、即ち踏台《ふみだい》がありますが、組立て方が美しくかつ軽くて使いよくどの家庭でも悦ばれるでありましょう。他では見かけない品であります。  この庄内に観音寺と呼ぶ村があります。正月に市日が立ちまして、それは賑《にぎ》わいます。深い雪の中で往来の両側に小屋を組んで物を並べます。十町も続きましょうか、全く人で埋まって身動きも出来ぬほど盛な市であります。訪ねますと色々の珍らしい郷土の品を買うことが出来ます。それに近在の風俗や食物や言葉などまで知ることが出来、いたく興をそそります。この市で私が感心したものの一つは正月に餅を載せる大きな台でした。一枚板の刳盆《くりぼん》で隅切《すみきり》となっています。巾は三尺にも及びます。農村の力強い暮しぶりをそぞろに想わせる品であります。花車《きゃしゃ》な都会の台所は、もうこれほどの大きな品を用いる力がありません。  庄内は稲作《いなさく》の盛な所ですから、藁工品が多く、中に優れたもののあるのは申すまでもありません。特に藁沓《わらぐつ》には様々な形のがあって見事な作り方を示します。材料の扱い方、こなし方は心得たものであります。「べんけい」と呼んでいる藁細工にも面白い形のがあります。炉《ろ》の上に吊し、串に魚を刺して干す時に用いるものであります。弁慶《べんけい》が七つ道具を背負う様に似ているところからその名を得たのでありましょう。余目《あまるめ》で出来る釜敷《かましき》にも立派な形のがありました。  また「尾花帽子《おばなぼうし》」といって猟人《かりうど》などが被《かぶ》る帽子があります。尾花で作り色糸でかがり、山鳥の羽などをあしらって、それは美しく作ります。こんなものが今時あるのかと思うほどであります。  庄内や最上地方にかけては刺子着《さしこぎ》の美しいのが見られます。袖細《そでぼそ》のや袖無《そでなし》のや形は様々でありますが、随分心を入れて刺したのを見かけます。いずれも女の手技《てわざ》であるのは申すまでもありません。刺子は着物のみならず足袋だとか「あくど巻」などにも施します。「あくど」は踵《かかと》のことであります。  話をこの辺で宮城県に移しましょう。仙台はその中央の都、常に政宗《まさむね》の偉業を誇る伊達《だて》氏の大きな城下町でありました。昔は様々の手仕事が藩から特別の保護を受けたでありましょうが、どういうものか目星《めぼ》しいものは数多くは残されておりません。  仙台の名に因《ちな》むものは二つあります。「仙台平《せんだいひら》」と「仙台箪笥《せんだいだんす》」。仙台平は専ら袴地《はかまじ》として作られ、その質のよさを以て名が知られました。目が密で厚みがあり織《おり》もよく、縞《しま》もまた上々であります。この絹織物を見ますと、袴地としては最も正しい系統の品だということを感じます。袴は礼儀の品でありますから、張りのあるきちんとした楷書風《かいしょふう》のものが本筋《ほんすじ》でありましょう。こういう性質のものとして仙台平は正しい品でありますから、どこまでも質を落さずに守り続けたいものと思います。越後の「五泉平《ごせんひら》」の如きもこれを倣《なら》ったのでありましょう。  仙台にはまた「八橋織《やつはしおり》」の名が聞えます。紋綾織《もんあやおり》の一種で、よく市松模様《いちまつもよう》などを見かけます。好んで下着などに用いられる品であります。染物では「常盤型《ときわがた》」と呼ぶものがあり、紺地の木綿に花模様などをあしらった型染で、どこか郷土の香の残るものであります。  仙台といえば更に「仙台箪笥」のことが想い起されるでありましょう。しかしその名声はかえって外国の方に響いているのかも知れません。好んで欧米の人に購《あがな》われました。欅《けやき》を表板にしこれに漆《うるし》を施し、いわゆる「蝋色《ろいろ》」に磨き出します。そうして鉄金具を四隅や錠前などに、たっぷりと宛行《あてが》います。金物にはしばしば毛彫《けぼり》が施され様々な紋様を現しました。引手金具《ひきてかなぐ》も色々あって美しいのが少くありません。巾が普通四尺あるので「四尺箪笥《よんしゃくだんす》」とも呼ばれます。もとよりこの大きさのみならず小箪笥も様々に作りました。凡《すべ》てこの種の箪笥は、日本のものとして特色が鮮かで立派なものといわねばなりません。土地の人はそれほどにも想わないのか、当然守るべき市の特産品でありながら、廃《すた》ってゆくままにしてあるのは惜しい限りであります。ただ一番見劣りがして来たのは金具の部分で、段々細く瘠《や》せて来ました。  町では「埋木細工《うもれぎざいく》」を名物として沢山売り出します。しかし器物とするには材料にどこか無理があるためか、品物に成り切らない所があるように思われます。形のよいものを稀《まれ》により見受けません。もう一工夫したらと思うのは、私のみでありましょうか。  仙台市の町はずれにある堤《つつみ》の窯は力のあるものを焼きます。ここも東北によく見られる海鼠釉《なまこぐすり》が主で甕《かめ》や皿や様々なものを作ります。形にも色にも強い所があり立派な感じを受けます。土焼《どやき》の竈《かまど》や七厘《しちりん》、炮烙《ほうろく》、または厨子《ずし》などにもしっかりした形のものを作ります。仙台の人たちはこの窯の雑器をもっと重く見るべきでありましょう。  近頃は同じ市の中に編入されましたが、もとの中田村|柳生《やなぎう》に紙漉場《かみすきば》があります。ここで他ではほとんど作らない紙を漉きます。「強製紙《きょうせいし》」と新しく名附けていますが、「紙子紙《かみこがみ》」とでも呼ぶ方が至当ではないでしょうか。即ち紙子《かみこ》の一種で秘伝として蒟蒻粉《こんにゃくこ》を入れて漉きます。これで紙が全く毛羽立《けばだ》たなくなり、水にも強くなってある程度まで洗濯がききます。これを揉紙《もみがみ》にし柔くしますから、下着などにも用いることが出来て、よく温かさを保ちます。書物の表紙などには大変適した紙であります。将来ますますその値打が認められて、用途はいよいよ増してくるでありましょう。  和紙を語れば白石《しろいし》のことが想い浮びます。この町は陸前ではなく磐城の国に属します。古くからここで紙布《しふ》が発達し、麻布か絹ものかと間違えるほどの細かい織物を作りました。紙布としてはこんなにも技術の進んだものを他に見かけません。一度|廃《すた》れましたが最近また起き上りました。ただ白石の紙布は上物《じょうもの》でありますけれども、余りに細かい技に陥ってかえって紙布としての味《あじわ》いを欠くともいえましょう。それに高価に走るの弊を免れません。紙布はもっと紙布でなければ持ち得ない性質を活かすべきでありましょう。ここに白石の新しい道が見出せると思います。  仙台から古川《ふるかわ》あたりにかけて、お百姓が被《かぶ》っている笠を見ますと、他の国のと形や編み方が違うのが気附かれます。また好んで背負う竹籠に「壺笊《つぼざる》」と呼んでいるものがあります。深めの形で下に輪の台が附けてあります。これもこの辺だけに見る形であります。更に北に進みますと岩出山《いわでやま》という町に達します。ここは納豆《なっとう》を名産とする町でありますが、それよりも竹細工で名が売れてよいはずと思います。仕事に従事する者は大勢で、作られる品も様々であります。篠竹《しのだけ》で作った小型の「めざる」は編み方が亀甲《きっこう》の目になっていてとても形が可愛らしく、旅する者は誰しも一つ買わないではいられないでありましょう。  また陸前では箕《み》で美しいものを作ります。篠竹と桜皮とで組まれ形にも特色があります。類似したものを埼玉県でも見ましたが、陸前の方が原《もと》かと思われます。主な産地は黒川郡|宮床《みやとこ》村であります。思い出しましたが仙台市の郡山で出来る小型の手帚《てぼうき》に、編み方が大変綺麗な上に、形の美しいのがあります。着物の埃《ほこり》を払うのに上々の品であります。  鳴子温泉《なるこおんせん》の「こけし」も名が聞えます。「こけし」の語原は分りませんが、人形としては特色あるものであります。北の国には「こけし」を土産物に作る所は多いのでありますが、鳴子のは絵が上手なように見受けられます。好んで赤と緑との二色で花模様を胴に描きます。慣れ切った筆の跡であります。もとより「こけし」のみならず挽物《ひきもの》で独楽《こま》だとか針入《はりいれ》だとか様々な玩具も作ります。仙台市の木下薬師で売る木下駒《きのしたごま》は忘れ難い郷土玩具の一つといえましょう。  この陸前の国で見られる「神酒口《みきぐち》」も民間の品として顧《かえりみ》るべきものでありましょう。何も陸前だけのものではありませんがここのは出来がよいように思えます。御神酒徳利《おみきどっくり》に差す飾り物で、竹を縦に細かく裂いて、平たく模様風に結んだものであります。よく宝船《たからぶね》や宝珠玉《ほうしゅのたま》などを現しますが、巧みな技なのに驚きます。  終りにもう一つこの辺の民具として、他にないものの一つに、古裂《ふるぎれ》のみで作った背中当《せなかあて》があります。陸前の北と陸中の南とが主な区域のようでありますが、様々な布をまぜて組んであるので色も美しくかつその作り方も平組《ひらぐみ》にしたり網代編《あじろあみ》にしたりして変化を与えます。藁沓《わらぐつ》でも布を入れたのに特色ある形のを見かけます。古裂は手仕事にいつも一役を買っています。この辺で旅の足を羽後の方に向けるとしましょう。  秋田はその国の主都、佐竹氏がその城を築きしところ。陸奥を北に羽前を南にして、日本海に面している国であります。この地方から吾々は今どんな手仕事を見出すことが出来るのでありましょうか。  郷土の人が自慢するものが幾つかあります。能代《のしろ》の漆器《しっき》はいつもその一つであります。「秋田春慶《あきたしゅんけい》」とも呼ばれていて檜《ひのき》の柾目《まさめ》を素地にし、幾回かこれに漆《うるし》を塗って、なおかつ柾目の見えるのを誇りとします。透明な黄味を帯びた塗であります。塗方《ぬりかた》に秘法を守って、一子のほか誰にも伝授しない風さえあります。塗りを重ねること数十回といい、ために値も嵩《かさ》みます。仕事は極度に埃《ほこり》を嫌いますので、海に出て舟の上で塗るといいます。上品などこか女性風な優しさがあって、技《わざ》が充分でないと出来ない仕事であります。しかし薄手《うすで》に作るせいか、塗に気を配り過ぎるせいか、どこか弱々しい一面を有《も》ちます。それに高価ですから民衆の日々の生活に交るわけにはゆきません。冴《さ》えた仕事ではありますが、人間に譬《たと》えれば蒲柳《ほりゅう》の質とでもいいましょうか。 「秋田八丈《あきたはちじょう》」と呼ばれるものがあります。これも綺麗な織物で、色は主に黄と褐とを用い、上品な感じを受けます。しかし八丈島の例の「黄八」を真似たもので、やはり真似るということに既に引目《ひけめ》がありましょう。本場の品に比べると一歩を譲らねばなりません。本人と代人との差はどうすることも出来ないものであります。これよりもむしろ郷土風なものとしては由利《ゆり》郡亀田町の薇織《ぜんまいおり》を挙げるべきではないでしょうか。厚みもあり温みもあり、北の国の持味があると思います。  もう一つこの国が他国に誇るものがあります。これは充分に誇るに足りる品物といわねばなりません。それはいわゆる「樺細工《かばざいく》」、即ち桜皮の細工であります。樺とは樺桜のことで、山桜の一種でありますが、その皮を用いて様々な細工ものを作ります。この仕事は他の国にも稀《まれ》に見られますが、今は仙北《せんぽく》郡の角館《かくのだて》町に仕事のほとんど凡てが集りました。同じ国の大館町《おおだてまち》にもよい仕事が見られますが、仕事は角館ほど盛ではありません。この細工は元来は阿仁《あに》の山間に発したものといわれます。樺細工はいわゆる「型もの」と「板もの」との二つに分れますが、技術としては随分進んだものであります。最も沢山作るのは胴乱《どうらん》で、煙草入であります。その他茶筒、茶入などは型を用いて作られ、硯箱《すずりばこ》、角盆などは板を素地とします。大きなものでは机や棚の類に及びます。樺細工は全く外国には見られず、日本の材料と日本の手技とから生れた美しい仕事の一つであります。その色や艶《つや》やまた強さは、天与の賜物でありまして、この仕事の持つ大きな強みであります。ただ近頃はこれに模様を加えることがはやって、かえって自然を人工でこわすようなものが多く、残念に思います。よい模様ならまだしも、多くはなくもがなと思われます。もし正しい形と、新しい用途とに交るなら、この手仕事は角館の名をいや広めるでありましょう。ともかく羽後の国の特産として最も誇るに足りるものの一つであります。近頃桜皮で下駄を沢山作りますが勿体《もったい》ない感じを受けます。既に皮は少く貴いのでありますから、永く使えるものを作って自然からの贈物を大切にすべきだと思います。  北秋田郡に阿仁と呼ぶ部落があります。ここで「岩七厘《いわしちりん》」を作ります。軟い石を材にし、それを軽く焼き、これに白と黒との漆喰《しっくい》を施します。隅切《すみきり》の四角型で、上にやや開く形をします。大中小と作りますがおそらく七厘《しちりん》としては最も美しいもので、どんな室《へや》で用いてもよいでありましょう。七厘というのは妙な言葉ですが、炭の代七厘にて足りるという所から来たそうであります。秋田県では「しょっつる」という料理があって、それにはいつもこの岩七厘を用います。「しょっつる」とは塩汁の訛《なまり》であります。郷土の料理を郷土の七厘で煮るということは、一つの自慢であってよくはないでしょうか。鍋には好んで帆立貝を用います。  羽後の国にはたった一ヵ所だけ焼物の窯場があります。神宮寺という駅から少し南に行ったところに楢岡《ならおか》と呼ぶ村があります。ここにわずか一基の窯があって親子水入らずの仕事であります。釉薬《くすり》は他の北国のものと同じように青味の深い海鼠釉《なまこぐすり》を用います。これで壺、甕《かめ》、鉢、片口の如きものを焼きます。最も貧しい窯の一例でありますが、出来るものを見ますと誠に立派で活々した仕事であります。雑器のこと故、極めて無造作《むぞうさ》に作りはしますが、中から選べば、名器と呼ばれてよいものに出会います。海鼠釉では朝鮮の会寧《かいねい》が有名であり、遠くは元窯《げんよう》に及びますが、この無名な楢岡のものは、決してそれらに負けないでありましょう。知らなかったら古作品かと思われるものさえあります。貧しい安ものを焼く小さな窯でありますが、東北第一と讃えても誤りはないでありましょう。つい先日まで角館《かくのだて》近くの栗沢《くりさわ》にも窯がありましたが、今は煙が絶えました。  雄勝《おがち》郡に川連《かわつら》の町があります。漆器の産地で名が知られています。昔から形をくずさない品物は、伝統のお蔭で見ごたえがあります。ここのものでは「茶膳《ちゃぜん》」と呼んでいる一種の茶盆が特色あるものであります。仏具にも見るべきものに出会います。概して新しい試みの品は形が瘠《や》せて見劣りがしますが、それは今の暮しそのものが弱まって来たからではないでしょうか。  横手《よこて》の市日などに山と積んで売っている「通草籠《あけびかご》」は、その地方の誰でもが背負うものでありますが、形になかなか力があります。また竹で編んだ大きな籠に「よこだら」と呼ぶものがあります。おそらく「横俵」から来た言葉でありましょう。横長で俵に似た形をしていますが、編み方が立派であります。土地から生れて来るものには、めったに間違いがありません。この「よこだら」という言葉はずっと離れた地方にも広がっているのを見ます。  横手からそう遠くない千屋《せんや》村あたりの蓑《みの》や深沓《ふかぐつ》で大変細工のよいのを見かけます。蓑はここでも襟飾りに矢絣《やがすり》などを入れて凝《こ》ります。藁沓では先を細かく丁寧に編んだのがあって、少しも荒々しい仕事ではありません。似ているようでいて隣の羽前や陸中のものと異ります。鹿角《かづの》郡の花輪《はなわ》附近も蓑が立派で形に力あるものを作ります。花輪といえば紫根染《しこんぞめ》や茜染《あかねぞめ》で聞こえます。日本にとっては大切な染物ですが、このことは陸中を語る場合にあわせて述べることに致しましょう。  秋田県の農具で見るべきものは箕《み》であります。南秋田郡|太平《おいだら》村黒沢の産が一番でありましょう。真白な「いたや」で綺麗に編みます。角館近くの雲然《くもしかり》村も同じ技を有ちます。「いたや」は楓《かえで》の一種といいます。  大館町《おおだてまち》で樺細工が出来ることは前にも述べましたが、この町はむしろ曲物《まげもの》の仕事で記憶されてよいでありましょう。よい「わっぱ」を作ります。羽後の金物《かなもの》では蔵戸の錠前や五徳《ごとく》の類などに見るべきものがあって、秋田、大館、花輪などの鍛冶屋で作りましたが、流行おくれの型となりました。  この国の和紙は平鹿《ひらか》郡の睦合《むつあい》村のが一番かと思われます。楮《こうぞ》の材料と、伝わる古法とは悪い品を許しません。これに背《そむ》けばとかく質が落ちてしまいます。何故でしょうか。  陸中の大部分は岩手県に属します。大きな地域を有つ県で、昔は南部《なんぶ》領でありました。更に溯《さかのぼ》れば藤原一門の文化が栄えた所で、有名な平泉《ひらいずみ》の「金色堂《こんじきどう》」は、その栄華の夢の跡を語ります。もっと古《いにしえ》を訪ねれば多くの蝦夷《えぞ》がいた土地でありましょうが、それらのことは歴史家の筆に任せましょう。私はなおもこの国で今も作りつつある優れた品物を訪ねて、各地を旅致しましょう。  南部といえば誰も鉄瓶を想い起します。それほどこの仕事は盛でありました。盛岡《もりおか》の町には大きな店構えが並び今も仕事を続けます。名を広めましたので随分遠くまで品物は運ばれて行きます。従って技術も進み様々な作り方が考えられました。しかし現状を見ますと、大変見劣りがするのはその形で、これは江戸末期の弊を受けたのでありましょう。いたずらに凝って作るため形に無理が出来、美しさを殺してしまいます。もっと単純に素直に作ったら、どんなによく改まることでありましょう。浮模様を附ける場合もまたは膚《はだ》を工夫する場合も、大概は度が過ぎて、これでどんなに損を招いているか知れません。ふくらかな確《しっ》かりした形がどうして生れなくなったのでしょうか。名が高いだけに将来の歴史を深めたいものであります。これに反し名が少しも聞えていない田舎の野鍛冶などでしばしば美しい伝統の品に廻《めぐ》り会います。私が山の町|軽米《かるまい》で見た「口鍋」などは大変美しいものでありました。  南部の名を有つものに古くから「南部椀《なんぶわん》」があります。時にはこれを呼んで「秀衡椀《ひでひらわん》」という人もあります。この藤原秀衡《ふじわらのひでひら》の名に因《ちな》む椀が、果してどこで出来たか、実は確かでありません。しかし南部椀と呼ばれるものの系統は、細々ながらも雑器のうちに伝っております。二戸《にのへ》郡の荒沢から荒屋新町にかけて漆《うるし》の業に従うものが少《すくな》くありません。界隈《かいわい》で有名な斎藤善助の邸《やしき》の如き仕事が栄えた頃の面影をよく宿します。「浄法寺椀《じょうほうじわん》」の名も残りますが浄法寺は同じ街道にある村の名で、そこや一戸《いちのへ》などに、今も市が立って品物を売ります。中で椀類が一番多いのでありますが、もとより片口や木皿や膳なども見かけます。  漆器《しっき》では他の国にもっと有名な所が沢山ありますし、技でも更に優れたものが少くないでしょうが、しかし昔の格をどこか保っている点で、仮令《たとえ》安ものでも二戸郡のものは見直さるべきだと思います。それに土地の漆を用いる割合が多いことも大きな強みでありましょう。近頃輸出ものを作らせて洋風の形など取入れたものまで出来ますが、歴史を深める仕事ではありません。やはり昔の格を守った椀や「ひあげ」と呼ぶ片口の如きものの方に、遥《はる》かに正しい美しさが輝きます。「ひあげ」は酒器として用いられますが、外は黒、内は朱、口の根元を黄漆で模様風に飾ります。大きいのになると堂々たる趣きさえあります。「ひあげ」は提子《ひさげ》の転訛《てんか》であります。  それに荒屋新町などの仕事で眼を引くのは絵附けであります。銀杏《いちょう》だとか桃だとか富士山だとか、三、四の定まった模様が古くから伝わり、今も描き続けます。慣れているので筆がよく運び、絵に勢いがあり、新柄のものに比べて段違いに活々したところがあります。伝統の力で模様に成り切っているので自由さがあるのだと思われます。こういう図柄は仮令《たとえ》簡単なものでも、祖先が遺《のこ》してくれたものでありますから、大切にされねばなりません。まして美しいのですから。  陸中の漆器は他にもう一ヵ所あって仕事をします。村は名高い衣川《ころもがわ》に在りますが、その一番奥の増沢《ますざわ》という村落であります。山に包まれた寒村ですが、ここで今も忙しい仕事が続きます。誇ってよい点は塗《ぬり》が正直で手堅いことで、村の人たちもその名誉を涜《けが》しません。この村に住む者はいずれも「隠念仏《かくしねんぶつ》」の信者であります。「隠念仏」というのは、真宗に属していますが、念仏を同行の者の間だけで他には秘して修める行《ぎょう》であります。いわゆる「秘事法門《ひじほうもん》」の一種であります。想うにこの信心こそ仕事を真面目なものにさせている大きな力なのであります。この村で面白いことは今まで商人と取引したことがなく、いずれも在家《ざいか》から直接注文を受けて仕事をすることであります。世にも珍らしい生産の形で、これがどんなに仕事を実着なものにさせているでありましょう。多くの場合工藝の堕落が問屋《とんや》や仲買《なかがい》の仲介によることは、歴史の示す通りであります。作る者から用いる者へ、直ぐ品物が渡ることは最も望ましいことだと思います。これが価格を合理的なものにする基礎となるのは申すまでもありません。こういうよい事情が見られるのは、一つにはこの国で漆器を食器として何より多く用いる習慣が残るためだとも考えられます。そのため何十人前と注文をすることが今も珍らしくありません。土蔵は何より塗物のための土蔵だといわれています。おそらくこの地方ほど漆器が愛されている所は他にないではないでしょうか。  漆器で忘れ難いのは盛岡や日詰《ひづめ》の荒物屋で売る「菓子櫃《かしびつ》」であります。横巾一尺五寸近くの楕円の櫃《ひつ》でありますが、その蓋《ふた》の上に大まかに色漆《いろうるし》で牡丹の模様を描きます。図のこなし方に大時代《おおじだい》の風があって、近頃の小器用な弱々しいものとは雲泥《うんでい》の差があります。雑器の一つではありますが、今描く漆絵《うるしえ》としては最も立派なものといえましょう。地は黒塗で、牡丹の花弁《かべん》は朱、葉は緑、幹は黄、これに金箔《きんぱく》をあしらいます。蓋には二つの桟《さん》、胴には二段の箍《たが》、その間に線描《せんがき》の葉を散らします。作るのは盛岡であります。  南部の名といつも結ばれるものに「南部紫《なんぶむらさき》」があります。紫とは紫根染《しこんぞめ》のことで、この紫で今も絞《しぼり》を染めているのは、わずか盛岡と花輪だけのようであります。共に茜《あかね》でも染めます。どんな紫もこの紫根《しこん》の色より気高《けだか》くはあり得ないでしょう。禁裡《きんり》の色となっているのは自然なことのように感じます。惜しい哉《かな》、色を出しにくかったり、日光に弱かったりする恨みはあります。染めが難かしいために、技は古来秘伝となって残されます。しかしこういう風習を破って、染方《そめかた》を広く世に知らせる方が正しい道ではないでしょうか。紫根染は絞染《しぼりぞめ》に限られる傾きがありますが、糸染をして見事な織物を今も作るのは独り下閉伊《しもへい》の岩泉《いわいずみ》であります。何してもこんな気品のある紫色は少いのでありますから、もっと世に流布《るふ》したいものであります。  同じ岩泉によい帯地の「桃山織《ももやまおり》」があります。「南部紬《なんぶつむぎ》」も名があって各地で細々ながらも織られます。大体紬類は手機《てばた》あってのものですし、織味も優れているのですから、仮令《たとえ》沢山は出来ないとしても郷土の織物として是非続けたいものと思います。人々もその値打をもっと認めねばなりません。製作に困難もあるでしょうが、結城紬《ゆうきつむぎ》の場合のように、正しい仕事はいつか大きな味方を得るでありましょう。  陸中のものとしては竹細工も挙げねばなりません。二戸《にのへ》郡の浪打《なみうち》村|鳥越《とりごえ》が最も沢山作る部落であります。かくて近くの一戸《いちのへ》、福岡などの荒物屋に数多く運ばれます。南国の竹細工とは全く違うもので、細い篠竹を材料とします。土地では「黒竹《くろだけ》」とそれを呼びます。笊《ざる》、箕《み》、籠《かご》、行李《こうり》など様々なものに及びます。方言では「おぼけ」とか(これは緒桶《おおけ》のことであります)、「とす」とか(これは簁《とおし》の意で篩《ふるい》のこと)、「かこべ」とか(これは葉籠《はかご》のこと)など色々面白い呼び方をするのも、郷土のものである証《しるし》であります。いずれも姿よく、細い篠竹から自然に生れる形であります。それにこの鳥越の竹細工には黒染の竹を用いて線を入れたりしますので一入《ひとしお》美しさを添えます。小さい竹行李で二重編のものは特に上等であります。販路は北の県境を越えて青森県の八戸《はちのへ》あたりにまで及びますが、南の宮城県には届きません。  同じ二戸郡に姉帯《あねたい》村と呼ぶ所があって、ここで「いたや細工」を作ります。箕《み》が主でありますが、饂飩《うどん》の揚笊《あげざる》の如きものをも作ります。材料の良さと腕の良さとで、仕事は見事であります。ただの農具や雑具と見過ごすべきではありません。  和賀《わが》郡の成島《なるしま》には古くから紙漉の業が伝わります。近くの土沢《つちさわ》でも優れた染紙の仕事が興りました。江刺《えさし》郡の田茂山《たもやま》は金物の土地として記憶されるところ。岩谷堂《いわやどう》は箪笥《たんす》の技の伝わる町、「四尺箪笥」と呼ぶものが昔の型であります。この国の唯一の窯場《かまば》としては九戸《くのへ》郡の久慈《くじ》があります。白釉《しろぐすり》や飴釉《あめぐすり》で片口だとか鉢だとかを焼きます。近頃|花巻《はなまき》にも窯が開かれましたが、仕事はこれからであります。よき材料があるので、よき作手《つくりて》を待つのみであります。花巻はむしろ人形で知られております。  上閉伊《かみへい》、下閉伊《しもへい》の両郡や九戸郡の如きは、山が重なり交通の便も悪いので、訪ねる人は余りありません。ですが遠野《とおの》だとか岩泉《いわいずみ》だとか、もっと北の軽米《かるまい》だとかいう町は、今も昔の生活を濃く思わせる所であります。そういう地方の山村には特色の著しいものが少くありません。蓑《みの》だとか雪沓《ゆきぐつ》だとか、背中当《せなあて》とか背負袋とか、そういう民具に立派な手の技を示します。集めたら心をそそる陳列となるでありましょう。一番手短にそれらのものを窺《うかが》うには、荒物屋を訪ねるに如《し》くはありません。奥地に入らずとも、盛岡市の仙北《せんぼく》町はよい例を示すでありましょう。径二、三尺にもおよぶ大きな捏鉢《こねばち》だとか、非常に立派な箕だとか、手の込んだ蓑だとか、形の面白い編笠だとか、または紺の麻布に染模様のある馬の腹掛《はらがけ》だとか、それは様々なものの陳列を見ます。この地方の風俗をそぞろに想わせます。  風俗といえば御明神《ごみょうじん》のことが想い出されます。雫石《しずくいし》に近く、山を越えればもう羽後の田沢湖に出ます。この村に見られる女の風俗は世にも珍らしいものであります。笠や頭巾《ずきん》や顔網や背中当や腰廻《こしまわし》や手甲《てこう》や、幾つのものを身につけるのでしょうか。その一つ一つが他の国のとは違ってあるいは色糸でかがってあったり、模様があしらってあったり、編方が凝《こ》ってあったり、形が珍らしかったりします。雪でも降れば襟編《えりあみ》の綺麗な蓑も纏《まと》います。もとより脛巾《はばき》、足袋《たび》、藁沓《わらぐつ》などは申すに及びません。これが野良《のら》で働く出立《いでたち》であります。京の大原女《おはらめ》は名が響きますが、御明神の風俗はそれにも増して鮮かなものであります。いたずらに都の風を追う安っぽい身形《みなり》よりも、土地から生れたこういう風俗の方が、どんなに美しいでありましょう。借物でも嘘物でもないからであります。  雪が求めるものの一つに雪下駄があります。歯を斜めにとるもので、これがために雪が附かないといいます。長い経験から生れた形と思います。好んで栗の材を用います。黒沢尻《くろさわじり》あたりでも見かけましたが、形が一番立派でかつ古格があるのは胆沢《いさわ》郡|衣川《ころもがわ》村|増沢《ますざわ》のものであります。歯が下に張っているもので、この様式を守る下駄は、今は薩摩の川内下駄《せんだいげた》と琉球|那覇《なは》のものと、この衣川のものとだけになりました。中でも衣川のものが形の立派さでは第一であります。鼻緒は好んで馬の毛を組みます。 「裂織《さきおり》」といって、古衣《ふるぎぬ》を裂いて織り込む厚い布があります。廃《すた》れ物のよい利用で、見違えるように甦《よみがえ》ってきます。主として炬燵掛《こたつがけ》に用いられます。様々な布が交るので、しばしば美しい彩《いろどり》を示し、白雪一色の冬の暮しを温めてくれます。陸中ではとりわけこの裂織が盛で、特に七戸《しちのへ》や八戸《はちのへ》地方に多く見受けます。もっともこの裂織は他の国々にもあって、信濃《しなの》のような山国では農家で好んでこれを織り、ほとんどどの家でも用います。この種の織物はむしろ世界共通のものといってもよく、欧米にも見られ、農民の暮しに所の東西がないことを想わせます。今も織り続けられますが、ただ最近の布は染めが悪く色もあくどいので、落ちつきを欠きます。  北の国々は寒い地方ですから囲炉裏《いろり》とは離れられない暮しであります。それ故必然に炉《ろ》で用いるもの、自在鉤《じざいかぎ》とか、五徳《ごとく》とか火箸《ひばし》とか灰均《はいならし》なども選びます。所によっては炉に綺麗な小石などを敷きつめたりして、火を楽しみます。また長火鉢で見事なものも用います。堂々たる大型で、欅《けやき》の材を太々と使い、これに蝋色漆《ろいろうるし》を塗ったりまた黒柿の内縁《うちぶち》を入れたりします。これに用いる吉原五徳《よしわらごとく》も磨くことを忘れません。雪国は火に親しむ暮しを求めます。  文字がよく示しますように、日本の一番奥のはては陸奥《むつ》の国であります。県庁は青森市に在りますが、津軽《つがる》氏の居城は弘前《ひろさき》でありました。今もその城址《じょうし》には立派な城門や櫓《やぐら》が残り、花の季節などには絵のようであります。雪に深い町でありますから、店の前に更に軒《のき》を設けて雪よけの囲いをします。これがいわゆる「小店《こみせ》」でそれがどこまでも連なり、一種の風情を醸《かも》し出します。ですが度重《たびかさ》なる大火のために漸次《ぜんじ》少くなりました。もっとも小店は弘前ばかりではありません。越後《えちご》の高田《たかだ》だとか陸中の花輪《はなわ》だとか、雪の深い町では好んで設けます。その冬の日、この小店を縫って、店を次から次へと見て歩くのは、旅する者の眼を忙しくさせます。  すぐ眼に入るのは「津軽塗《つがるぬり》」であります。色漆を用いて雲形の斑紋を作り、それを研《と》ぎ出して仕上げます。おそらく若狭塗《わかさぬり》に由来したものでありましょう。塗が丁寧な場合は丈夫であります。机、棚のような大きなものから、盆や箱、はては小さな箸《はし》、糸巻のようなものにも及びます。  金物屋の前を通りますと寒い国のこととて炉に用いる色々の道具が見出されます。飾り立てた真鍮《しんちゅう》や銅の自在、丸輪五徳《まるわごとく》や吉原五徳、さては火箸、灰均など。中で北の国だけのものと思われるのは「炉金《ろがね》」であります。大きな囲炉裏《いろり》の中に仕込むもので、火を長く保たせるのに役立つといいます。四角なもの円《まる》いもの共にありますが、多くはその二つをつなぎ炉縁《ろべり》と五徳とを合せたようなものであります。  米屋の前を通りますと、いたや細工のとても大きな米漏斗《こめじょうご》を見られるでしょう。朝顔のように上に開いた形で、花籠《はなかご》にでも応用したらさぞ立派でありましょう。弘前近くの目屋《めや》村の産といいます。他国では竹で作ります。  荒物屋を訪ねますと、思いがけなくもそれは美しい帚《ほうき》を見出します。田舎館《いなかだて》の産でありまして、編み方によき技を示します。色糸を使って密に編んだり、また籐《とう》を用い上手に段をつけて締めたりします。日本全国の帚の中で最も優れたものの一つに推さねばなりません。店の天井にはまた幾種かの藁沓《わらぐつ》が下っていますが、赤い布を入れたそれは可愛い子供の沓《くつ》も見られます。  次には神棚に据《す》えるお宮を作る店が現れます。白木ですが所々に墨で縁などをとって珍らしい型のものであります。隣りにはまた玩具屋があります。覗《のぞ》くと見慣れない独楽《こま》が眼につきます。土地では「ずぐり」と呼びます。これは古語をそのままよく伝えているのでありまして、形が大変面白く、中には随分大きなのを見かけます。内側を深く刳《く》った挽物《ひきもの》で、そこに様々な色で横筋を入れてあります。かかる独楽は他の国に例が見当りません。  また少し歩きますと通草細工《あけびざいく》が眼に止ります。この細工は秋田県や岩手県にも見られますが、仕事が盛《さかん》なのは弘前だといいます。便宜《べんぎ》な材料でありますから、更に美しい形を与えたら、まだまだよい仕事に延びて行くでありましょう。次には馬具屋が現れます。ここの鞍骨《くらぼね》は金具《かなぐ》のよさではたしかに日本一でありましょう。浮出模様《うきだしもよう》で所狭きまでに飾るのでありますが、それが今時には珍らしいほど活々した仕事であります。昔の技が今もなお衰えておりません。馬子《まご》でなくとも手に入れたいほどの品であります。  更に小店《こみせ》を追って行きますと、駄菓子屋がとても沢山ある通りに出ます。こんなに盛な駄菓子屋の町は全国にないでありましょう。それが見たこともないような恰好《かっこう》のものや、形や色で食慾をそそるようなものが多く、見るだけでも大したものであります。中には本当においしいのがあって、一度味えば誰も包を抱えて帰らないわけにゆかないでしょう。既にお土産ものが充分出来たのでこの辺で小店を去ることに致しましょう。  この陸奥の国には見逃してならない二つの民藝品があります。一つは刺子着《さしこぎ》で一つは蓑《みの》であります。いずれもその出来栄《できばえ》は日本一の折紙をつけてよいでありましょう。  刺子の方は二種類あって、二つの地方に分れます。津軽を中心として作られたものを土地では「こぎん」といいます。小布《こぎぬ》の意味であります。一つは南部地方のもので「菱刺《ひしざし》」と呼びます。「こぎん」の方はもうほとんど絶えましたが、近頃それを惜《お》しんで再び立ち直ろうと試みられております。これは紺の麻布を地にし、白の木綿糸で目を拾って刺して行くのであります。凡《すべ》て直線から成りますから絵模様はありません。刺す部分は着物の胸と背とであります。もともと着物の破れやすい個所を繕《つくろ》ったり、丈夫にしたりするためだったと思います。模様は色々あって、一々方言でその名を呼びます。ごく娘の時から習い始めるといいますが、随分手のかかる仕事で、刺子としてはこれほど念入《ねんいり》のものは他にありません。弘前を中心に発達した農民の着物であります。狭い地域の中にも自《おのず》から特長があって、「東こぎん」「西こぎん」「三縞《みしま》こぎん」などと名を附けて区別します。いずれも美を競うほどの出来栄《できばえ》であります。一方の南部系の「菱刺」は、七戸《しちのへ》から八戸《はちのへ》あたりに栄えたもので、これはわずかながらなお続いております。この地方は今も丈夫な麻布を産します。菱刺には多く白と藍《あい》と紺との三色が用いられ、上着のみならず股引《ももひき》にも刺し、また色糸入で前掛《まえかけ》も作ります。刺し方で模様が菱形《ひしがた》をとるので「菱刺」の名を得たのであります。  これらの二つは日本の刺子着《さしこぎ》としては一番手を込めた立派なもので、技から見ても美しさからいっても、農民の着物としては第一流のものでありましょう。これも雪に埋もれた長い冬の日の仕事であるのはいうまでもありません。今も冬はあり今も女たちはあり今も技が残るのですから、こういう刺子こそ何か新しい道で活かすべきではないでしょうか。  津軽が吾々に与えるもう一つの驚くべき仕事は蓑の類であります。蓑というと東京あたりでは、ごく粗末に藁《わら》で作ったもののように考えますけれど、津軽のは全く違って、飾っておきたいほどの品であります。実際土地でも「織《おり》げら」とか「伊達《だて》げら」とかいっていますから、晴着に自慢で着る織物のようなものであります。「けら」とは蓑のことで、ごく古い和語であります。碇関《いかりがぜき》や、北の方では金木《かなぎ》辺のが仕事が特に優れます。この種の「けら」の特長は、襟《えり》から肩、背にかけてを白い紙縒糸《かみよりいと》で編み、これに黒糸や時としては色糸で模様を入れることであります。そうしてその周囲には黒く染めた胡桃皮《くるみかわ》を毛のように長く垂《た》らします。時としては「すごも」と呼ぶ海藻《かいそう》を黒髪の如く靡《なび》かせます。背から腰にかけては丈夫な科《しな》の皮を総々《ふさふさ》と用います。蓑といえばとかく荒々しい雑具のように考えますが「けら」の類はむしろ高い品位を想わせます。大体北の国々は美しい蓑を作りますが、わけてもこの津軽のは眼を見張らせます。知らない人はこんなものが日本に在るのかを疑うでしょう。まして現に用いられているのを知ったなら、さぞ驚くでありましょう。  羽後にもありますが陸奥の織物として近く再び興《おこ》されたのは薇織《ぜんまいおり》であります。温いので雪国で求められる布の一種であります。材料は山野に限りなくありますから、地方の特色ある織物としてよい生い立ちを見たいものであります。弘前近くに「悪戸焼《あくどやき》」がありまして絞描《しぼりがき》で巧みに絵を描きましたが、惜しくも歴史は中絶しました。近年新しく一基が市内に設けられましたが、よき生長を望みます。  この国では和紙は見るべきものがありません。ただ紙漉《かみすき》町とか紙漉沢とかいう名が残って昔の歴史を語るのみであります。  日本に三駒《さんこま》などといって愛される馬の玩具がありますが、その一つは八戸の「八幡駒」であります。他の二つは仙台の「木下駒」と磐城《いわき》の「三春駒」とで、郷土の香が著しく、形に特色があって忘れ難いものであります。  陸奥《むつ》物語の終りに来ましたから、最後にこの国の一番北はずれにある珍らしい手仕事の話でこの一章を結びましょう。下北《しもきた》郡といえば本土の地図の一番の北で、旗のような形をしている半島であります。そこの大畑《おおはた》村|小目名《こめな》という村に「檜皮細工《ひかわざいく》」があります。これで物入や籠《かご》や鉈鞘《なたざや》など、山や野で用いる色々の品を拵《こしら》えます。他国にないもので、いずれも形が立派でどこにも病《やまい》のない仕事であります。  東北の旅に思わずも長い時を費《ついや》しました。ここから踵《きびす》を返し中部を見学することに致しましょう。 [#改ページ] [#3字下げ]中部[#「中部」は中見出し]  ここで中部と名づけるのは便宜上、美濃《みの》、飛騨《ひだ》、尾張《おわり》、三河《みかわ》、遠江《とおとうみ》、駿河《するが》、伊豆《いず》、甲斐《かい》、信濃《しなの》の九ヵ国を指します。岐阜、愛知、静岡、山梨、長野の五県でありまして、その多くは昔の東海道に含まれます。その中の名古屋は中京と呼ばれました。  美濃国《みののくに》といえば、誰もすぐ「美濃紙《みのがみ》」を想い起すでありましょう。武儀《むぎ》郡の下牧《しもまき》から洞戸《ほらど》に至る板取《いたどり》川の川辺に、数限りなく和紙を漉《す》く村々を見ることが出来ます。材料は主に楮《こうぞ》であります。「美濃判《みのばん》」などという言葉が広まっているのは、ここの仕事の栄えたのを語ります。古くは「直紙《じきし》」ともいいましたが、広く「書院紙《しょいんし》」の名が聞えます。生漉《きずき》の丈夫な紙であり信頼のおける品でありまして、美濃紙の名が高まったのも、全く質の良さに依るのであります。美濃町に行きますと店に紙を高く積んだ老舗《しにせ》を沢山見られるでしょう。近来パルプだとか鉄の乾燥板《かんそうばん》だとか便利なものがどの国の紙漉場にも入りましたが、これらは量を増しますが質を高めるものではありませんでした。ある店の老主人が私に述懐して「もう昔のような良い紙は出来ません」といいました。なぜだかを吾々は考えねばなりません。  美濃の都は岐阜《ぎふ》であります。鵜飼《うかい》で有名な長良《ながら》川の辺《ほと》りに在る町であります。この都の名に因《ちな》んだものでは、誰も岐阜提灯《ぎふぢょうちん》のことが想い浮ぶでありましょう。夏の夜|軒端《のきばた》などに吊して涼しさを添える品であります。細い骨の上に薄い紙を貼《は》り好んで草花などを描きます。上と下との曲木《まげき》には厚ぼったく白の胡粉《ごふん》で割菊《わりぎく》の紋などをつけます。優しい品《ひん》のよい提灯であります。大きさや強さの美はありませんが、平和を愛する心の現れであります。その他和紙を用いたものでは、傘《かさ》や団扇《うちわ》などがその郷土をよく語ってくれます。後者はよく「岐阜団扇」の名で通りました。漆塗《うるしぬり》の紙を用います。今に流行《はやり》ませんが油団《ゆとん》も和紙のものとして忘れ難い品であります。何枚も紙を貼り合せ油または漆をひきます。  美濃といえば多治見《たじみ》や駄知《だち》を中心とする焼物の仕事が盛でありますが、それは広い意味で瀬戸の一部と見てよいので、尾張《おわり》を語る時に譲りましょう。それに多治見のものはおおかた西洋風な法で多量に作ることに忙しいので、手仕事としては見るべきものが少くなりました。  美濃で語らなければならないのは、関町《せきまち》の刃物であります。昔の刀鍛冶《かたなかじ》の技が伝えられ、質の優れた刃物を育てるに至ったのだと思われます。短刀だとか小刀などに実によい技を示します。かつ鞘《さや》の細工にも工夫が見られ、優れた品の数々を見ます。誰も使ってみたい心を起すでありましょう。たしかにこの国が誇ってよい産物の一つであります。  岐阜県の中には山の国|飛騨《ひだ》が含まれます。鉄道が敷かれたのも割合に近頃のことで、つい先日まではその都|高山《たかやま》に行くのは並ならぬ旅でありました。近くの白河郷《しらかわごう》には有名な大家族の家が残るほどで、大きなゆったりした合掌造《がっしょうづく》りの家々が見られます。嶮《けわ》しい山路で他の国から遮《さえぎ》られていたせいか、暮しにも持物にも行事にも色々珍らしいものが見られます。ここの品物でとりわけ不思議なのは木工具でありまして、全く他の日本のものと類を異にし、大変朝鮮のものに近い性質を有《も》ちます。特に椀《わん》だとか木皿だとか高坏《たかつき》だとか、または蓋物や印籠《いんろう》の如きものなど、全く見分けのつかないものさえあります。何も朝鮮と歴史の繋《つな》がりがあったのではなく、全く山国の生活が淳朴《じゅんぼく》で自然で、気持ちにも似通《にかよ》った点が互にあるからだと思われます。もっとも近頃は激しい時の流れに押されて、段々この山国の仕事も平凡になって来ました。今も作るもので感心するのは印籠であります。全く他の国にない作方《つくりかた》で材料をこなし形を生み出します。欅《けやき》の皮を用いるのが特色であります。姿は横長で左右の紐穴《ひもあな》には好んで鹿の角《つの》を用います。外側は多く溜塗《ためぬり》でありますが、内側は朱塗で屋号を焼印で押します。この印籠は主として煙草入《たばこいれ》として用いられ、形に幾つかの型を有ちます。高山が第一に誇ってよい品と評したく思います。この町の「一位細工《いちいざいく》」も名があります。一位と呼ぶ赤みがかった木理《きめ》の美しい木を材料とするもので、今まではこれでよく笏《しゃく》が作られました。編笠は今も盛に作られます。用途を考えよい形を与えて色々と試みたら、一つの世界が開けるでありましょう。  つい近年まで農家などで愛された「三番叟釜《さんばそうがま》」などを見ますと、湯釜として独特な形を有つのに心を惹《ひ》かれます。今残る金物類としては山刀や鉈《なた》の類を挙げるべきでありましょう。これにしばしば桜皮で巻いた美しい細工の鞘《さや》を附けます。桜皮編《さくらがわあみ》の籠《かご》も見事に作ります。  高山の品としてはいわゆる「飛騨春慶《ひだしゅんけい》」が有名であります。家庭で用いる一渡《ひとわた》りの器物を作ります。春慶塗《しゅんけいぬり》のことについては秋田の産物を語る時に既に記しましたが、日本ではこの高山のと、前に記した能代《のしろ》のものとが双璧《そうへき》であります。美しい品《ひん》のある塗《ぬり》でありますから、正しい道を進むなら、名声はなお上るでありましょう。  山の生活は自《おのず》から都会の暮しとは持物を異にし、町はずれの荒物屋にでも行けば、近在の人たちの買う品々が、よく軒に吊されているのを見かけます。背当《せあて》の「ねこだ」とか背負袋とか鉈鞘《なたざや》とか笠だとか、あるいは「はばき」の類などは、他国の者たちの目を引きます。特にいたやや桜皮で出来る籠類は見事で、そぞろに山の生活がどんなものであるかを想わせます。飛騨の国は旅の心を誘うところであります。荒物では高山の他に古川町などにも寄って下さい。  尾張国《おわりのくに》の名古屋を中心とするのが愛知県であります。名古屋城は今も昔の姿を変えず、下には濠《ほり》を漂わせ、高い石垣の上に聳《そび》え立つ様は壮大であります。お城の屋根の金の鯱《しゃちほこ》はどの本も忘れずに書く名物であります。しかしそれは昔の姿でありまして、新しい名古屋は盛な商売の都として様子を一変しました。大きな工業が栄える土地だけに、手仕事を町に見ることは難しくなりました。ただ世俗の勢いの蔭に、茶の湯を嗜《たしな》む者が少くありません。  尾張で出来るもので、まず誰でも挙げるのは焼物であります。瀬戸《せと》と呼ぶ古い町が中心で、煙《けむり》の勢いは今も衰えません。歴史は甚《はなは》だ遠く近在に多くの窯場を産みました。それというのも良い陶土を近くに得られるからであります。瀬戸の周囲には品野《しなの》、赤津《あかづ》などの窯《かま》があり、この系統が引いて美濃の方にまで及びました。瀬戸の町に行きますと、何百年かの窯の煙が、町そのものを黒くしているくらいであります。ここの本業窯《ほんぎょうがま》といわれるものは、大した大きさで、中に何万個という品物を積み上げ、これを焼き上げるには一週間も松薪を燃やし続け、半月以上も冷《さ》めるのを待たねばなりません。陶土もここのは骨があり肉があるとでも申しましょうか、どこか確《しっ》かりした、質の優れた材料であります。自然がこの地で陶器を作れよとさながら命じているように思えます。日本では最も古いまた大きな窯の一つであります。瀬戸で出来る品物なので「瀬戸もの」といいましたが、東海道一帯では焼物といえば多く瀬戸のものを使うため、ついには焼物のことを「瀬戸物」というようになりました。それ故この言葉は九州あたりでは通用致しません。なぜなら九州では「唐津《からつ》」と呼ぶからであります。ここでも地名が焼物の一般名にまで高まった例を示します。  この瀬戸ものにはあらゆるものがあります。もとより轆轤《ろくろ》も用い型物も作ります。中で昔から近所近在に行き渡って使われている雑器は紅鉢《べにばち》といわれる大きな深めの鉢であります。また「石皿《いしざら》」と呼ばれる径一尺前後の浅い大皿であります。旅籠屋《はたごや》や煮売屋《にうりや》を始め、どんな台所ででも重宝がられました。この皿には昔は巧みな絵を描きましたが、いつしか絶えて今は無地ものばかりであります。しかし便器のようなものには今でも達者な筆で、牡丹紋だとか竹に雀だとかを自在に描きます。もっとも用いる青絵具は天然のものでないため、どぎつい色を示します。  日常の雑器でおそらく今一番よい品を作るのは品野であります。行平《ゆきひら》などは今も大時代《おおじだい》の形であります。蓋物《ふたもの》で黒地に白の打刷毛《うちばけ》を施したものがありますが、他の窯には見当らない特色を示します。大中小とあります。この品野の窯で最も誇ってよいのは、土地で「赤楽《あからく》」と呼んでいる土で、これでよく縦《たて》に縞《しま》を入れます。いわゆる「麦藁手《むぎわらで》」といわれるものの一つで、品野の特産でありました。色は燻《くす》んだ赤黄色のもので、よい彩《いろどり》を与えます。この窯でかつて長方形の片口のような擂鉢《すりばち》を作りましたが、惜しいことに絶えました。  この品野と並んで瀬戸の一翼をなすのは赤津《あかづ》であります。ここはいわゆる「織部焼《おりべやき》」の本場と称するところで、今も盛に作ります。昔茶人であった織部正重然《おりべのかみしげなり》の好みの焼物だといい、鉄で簡素な紋様をあしらい、所々に緑の色を垂らしたものを指します。全く和風な好みの濃く現れている焼物であります。ただ近頃のは緑の色が悪くなりましたのと、形をわざわざ曲げたりするのとで、横道にそれた仕事に落ちました。もっと素直に作ったらさぞよくなるでありましょう。この織部といつも一緒に挙げられるのは「志野《しの》」と呼ばれるもので、半透明な厚い白釉《しろぐすり》の下に、鉄で花や草などを簡素に描いた焼物であります。これもいい伝えでは茶人|志野宗信《しのそうしん》の好みに出たものといいます。支那や朝鮮にない大和風な焼物を代表します。ですがこれも近頃のはわざとらしく凝《こ》ったもの多く、感心致しません。今はなくなりましたが美濃の笠原《かさはら》あたりの窯址《かまあと》から出る雑器を見ると、「織部」も「志野」も趣味の犠牲ではなかった時代のあることを語ります。いつでも本筋の仕事を追うべきではないでしょうか。  ともかく瀬戸は有田と並ぶ二大窯業地の一つで、陶器も磁器も共に焼き、仕事は今も盛大なものであります。もっとも近頃は大部分が近代風な機械産業に移りつつあります。そのため産額や生産は昔に比ぶべくもない数字を示しますが、質が手仕事に及ばぬのは大きな恨みであると申さねばなりません。それに輸出向の洋風な安ものに熱中した窯は、どんなに日本の名誉を涜《けが》したでありましょう。  尾張の国では窯場として犬山があります。陶器に赤絵《あかえ》を施した焼物として名を広めました。しかしいつも絵に生気が乏しいのを残念に思います。その他|知多《ちた》半島に常滑《とこなめ》があります。ごく薄く釉薬《うわぐすり》をかけた赤褐《あかちゃ》けた焼物であります。急須《きゅうす》だとか皿や鉢など小ものも焼きますが、近頃は土管《どかん》の仕事が専らで、見るべき品が少くなりました。  この愛知県は富んでいて商業が盛《さかん》であり、従って色々のものを生産はしますがどうも商品化し過ぎて、これぞといい得るものが少い恨みがあります。中で記してよいと思うものの一つに「端折傘《つまおりがさ》」があります。丹羽《にわ》郡|扶桑《ふそう》村で作られます。産額は大きくないとしても、傘の類では日本一と讃《たた》えてよいでありましょう。神官や僧侶の用いるもので形大きく立派なものであります。色に赤と黄と白とがあります。端折《つまおり》と呼ぶのは傘の端が下に折れているからであります。伝統が古いのを想わせます。こういう品より世間にもっとよく知られているのは絞染《しぼりぞめ》であります。「鳴海絞《なるみしぼり》」とか「有松絞《ありまつしぼり》」とか呼ばれ、いずれもその土地で出来ます。絞染はもと支那から法を教わったものでありましょうが、これを細かい柄に育てたり、色々の模様に進ませたりしたのは我国であります。そのため糸のくくり方が発達しました。かくて絞柄に様々な名を与えます。京都などもこの技術で名がありますが、仕事の盛なのは鳴海《なるみ》地方であります。大体染物は色に浸《ひた》し漬《つ》けるのが本式で、近頃流行の捺染《なせん》のように上から色を置くのは、本筋の仕事ではないように思います。絞染が心を惹《ひ》くのは、やはりその多くが漬染《つけぞめ》の道を守るからではないでしょうか。それにどこか日本味のあらわなもののように感じます。 「知多木綿《ちたもめん》」はその半島の半田《はんだ》が中心地で、地面の上に広げて天日《てんぴ》に晒《さら》す様は見ものであります。三河《みかわ》の国では岡崎地方で出る「三河木綿《みかわもめん》」が有名ですが、水車紡績で織ったものはもうほとんどなく、機械の仕事に任せましたので特色は薄らぎました。東加茂郡旭村の「足助紙《あすけがみ》」は今も続きます。宝飯《ほい》郡の小坂井《こざかい》にある菟足神社《うたりじんじゃ》で売る風車《かざぐるま》は甚だ味の富んだ郷土玩具の一つであります。三州の有名な花祭《はなまつり》に用いる「ざぜち」と呼ぶ切紙も見事な出来栄を見せます。半紙に鳥居だとか馬だとか鹿だとかを巧みに活々と切り出します。この種のものは北の国々などにも祭の時に見られはしますが、三州のは特に鮮かな図柄を示します。  静岡県は遠江《とおとうみ》と駿河《するが》と伊豆《いず》との三国を含みます。富士の国といってもよいでありましょう。四季をその眺めで暮します。遠江の都は浜松で、ここは誰も知る機業の地、激しいほど機の音を町々に聞きます。しかしこれとて目星《めぼ》しい手仕事の跡を見ることは出来ません。むしろよい仕事を希《ねが》う人は、取り残された状態にあります。周囲は余りにも多くの量と早い時間と、少ない費用とを目がけて進むからであります。仕事は悦びで為されるよりも、儲《もう》けのために苦しみを忍ぶ方が多くなってしまいました。  織物の名誉はむしろ掛川《かけがわ》の仕事の方に懸《かか》っているといわねばなりません。掛川の宿が葛布《くずふ》の名で知られてから、もう何年になるのでありましょうか。江戸時代に書かれた東海道の地誌は、欠かさずに「掛川、葛布」と記しました。幸にも伝統は今も絶えません。近時近くの袋井でも優れた仕事が試みられました。葛《くず》の材料は朝鮮から入るといいますが、緒《お》にする技《わざ》は掛川で為されます。昔は袴《はかま》や裃《かみしも》の素地《きじ》として主に織られましたが、今はほとんど皆|襖地《ふすまじ》であります。ここでも仕事は手をぬいたものが少くありません。しかし葛は滑《なめら》かで塵《ちり》を止《とど》めませんから、襖地としての需用は長く続くことでありましょう。いつか洋間の壁張《かべはり》として迎えられる時が来るに違いありません。それより更に書物の装幀《そうてい》として悦ばれる日が近いでありましょう。絹になく麻になく木綿にもまたない味《あじわ》いがあります。その光沢は葛布のみが持つ特権ともいえましょう。  遠州《えんしゅう》の織物でもう一つ言い添えるべきだと思われるのは、磐田《いわた》郡の福田《ふくで》で出来る「刺子織《さしこおり》」であります。刺子の仕事を織《おり》で行い、分厚な仕事着地として作られます。本当の刺子には及ばないとしても、用に備えた仕事であります。布は木綿、色は藍《あい》と白。  遠州の海辺寄りに横須賀《よこすか》という町があります。そこで売る凧《たこ》は珍らしいものであります。形が他になく、丸型と扇型とが上下二段に繋《つな》がっていて、よく巴紋《ともえもん》などを描きます。いずれも手描きで、凧の好きな人はきっと見逃さないでありましょう。同じ小笠《おがさ》郡の平田村で作り出す麦藁細工《むぎわらざいく》の玩具に、昔から伝わる面白いものがあります。形もよく作り方も巧みで、長く残したいと思います。  静岡は昔は色々な手仕事の栄えたところと思います。今|盛《さかん》なのは漆器や木工の類であります。しかし安ものが多く、輸出向の品に忙しかったりして、見るべき品が少いのは残念なことであります。ただ昔の風を守る木地蝋塗《きじろうぬり》の重箱の如きは、間違いのない品といえましょう。安く早く多く作る技の上から見れば、進んだ土地でしょうが、それが誠実なものでない限り、遅れた土地ともいえるでしょう。町には所々に大きな紺屋《こうや》が残ります。かつては大柄、中柄、小紋など注文に応じて随分染めたようでありますが、いつしか古きものの中に入りました。まだ型紙は残りしかも数多くあるのですから、何か新しい用途に向けたら、仕事はまた起き上るでありましょう。夜具地《やぐじ》に広く用いた大唐草模様《おおからくさもよう》の如き、見返すと立派なものですから、何かに甦《よみがえ》らさずば勿体《もったい》ないと思います。窓掛にでも染めたら、流行を外国にまで及ぼすのではないでしょうか。  静岡県でも和紙の仕事が見られます。志太《しだ》郡|朝日奈《あさひな》の如きはよい生紙《きがみ》の産地でまた周智《しゅうち》郡|鍛冶島《かじしま》などにも仕事が続きます。  伊豆の国は名にし負う温泉の地でありますから土産物の店々を沢山見ます。拾えば木工品などに多少は見るべきものがありましょうが、しかしここでなければ他にないものを見かけません。日光にしろ宮島にしろ何処の土産物も同じになって来たのは、土産物専門の会社が出来たためであります。土産物は須《すべか》らくその土地のものに限りたいと思います。中で目を止めてよいと思う品は「麦藁細工《むぎわらざいく》」でありましょう。様々な色に染めて、これを箱なり糸巻なりの上に貼《は》ります。女の児への土産ものとしては相応《ふさわ》しいものであります。熱海地方はかつて「雁皮紙《がんぴし》」や「雁皮紙織《がんぴしおり》」で聞えましたが、もう純粋な品は見られなくなりました。伊豆を旅してむしろ眼に入るのは路傍に立つ石像などではないでしょうか。伊豆は石の国ともいえましょう。無名の石工は時折驚くべき手並《てなみ》を見せます。  甲州は海を有たない山国で、甲府はその盆地《ぼんち》に位する都であります。町を歩いて店を覗《のぞ》きますと、他の国には見かけないものが二つあります。一つは水晶細工《すいしょうざいく》で一つは「印伝《いんでん》」であります。荒っぽい原石から綺麗な艶《つや》を有った品になるまでの手間は大変なものでありましょう。「玉|磨《みが》かざれば光なし」とはよい言葉であります。しかし玉を磨く前に腕を磨かねばならないのは言うまでもありません。ここにも天然の資材が如何に美しいかを知りますが、しかしそれを更に美しくさせるのは人間の技であります。 「印伝」というのは「印伝革《いんでんがわ》」のことで、文字が示します通り、印度より伝わった革細工を意味します。多くは鹿革《しかがわ》で柔くなめしてあります。これを燻《いぶ》して茶色にし、模様だけを白ぬきにするのが普通でありますが、あるいは色を変えたり、あるいは上に小紋の漆置《うるしおき》をしたり致します。昔は「印伝」は好んで武具の一部に用いられました。それにはしばしば菖蒲模様《しょうぶもよう》を見かけますが、それは言葉が尚武《しょうぶ》に通じるからであります。これを一般に「菖蒲革《しょうぶがわ》」と呼びますが、模様として既に古典的なものといえましょう。今も愛する人々があってよく繰返されます。「印伝」は何も甲府ばかりで出来たものではなく、昔は江戸が中心だったと思いますが、いつしか伝統は甲府に集るに至りました。丁度「金唐革《きんからかわ》」が姫路《ひめじ》の産となったのと同じであります。他にない革細工でありますし、質もよくまた美しさも豊《ゆたか》でありますから、永く仕事が続くことを望んで止《や》みません。明治までは革羽織《かわばおり》の需用もありましたが、今作るものは主に煙草入や財布のような小ものであります。  甲州にはまた紙漉場《かみすきば》もあって、南巨摩《みなみこま》郡西島村や西八代《にしやつしろ》郡|市川大門《いちかわだいもん》などに、今も仕事が見られます。  それらの紙よりも産額の大きいのは織物であります。勝山城のあった谷村《やむら》町は「甲斐絹《かいき》」の産地として名があります。この絹織物は薄手で密で、艶《つや》があり滑《なめら》かさがあり、特に裏地には適したものであります。風呂敷にも好まれました。  硯石《すずりいし》として日本一といわれる「雨畑《あまばた》」も甲斐の産であります。名は地名にもとづきます。石の色は黒で、発墨の工合がよいといわれます。これに優れた形を与えるのが工人たちの務めであります。  身延山《みのぶさん》の霊場、御岳《おんたけ》の風光、富士の五湖、それに勝沼の葡萄《ぶどう》、甲斐の国といえば誰もこれらのものを想い浮べることでありましょう。しかし私はそれらの地に旅する暇もなく、先を急がねばなりません。  甲斐を北に進めば信濃の国に入ります。長野の善光寺でこの国を知らぬ者はありませぬ。歴史好きな人なれば、川中島の古戦場でこの国を偲《しの》ぶでしょう。近頃の若い人たちには飛騨《ひだ》山脈、木曾《きそ》山脈、赤石山脈、八《やつ》ヶ|岳《たけ》山脈などの名で親しまれているかも知れません。国としても南北に広い面積を擁《よう》します。  誰も知る通り、製糸の業が盛な所で、岡谷《おかや》とその近在だけで、日本全産額の半《なかば》を占めるといいます。この国はどんなに多くかつての綿畑を桑畑に変えてしまったでありましょう。絹糸の国であり、またそれを紡ぐ女工の国であります。そのため労働についての色々の問題も起りました。傭《やと》う者と傭われる者との関係を正しくすることは大切な事柄だと思われます。  織物では紬《つむぎ》類が多少残り、上田紬《うえだつむぎ》など名がありましたが、今は衰えました。麻布では木曾に開田《かいだ》という村があってよい品を出します。座蒲団地《ざぶとんじ》として巾広《はばびろ》のを試みていますが、服地としても好個《こうこ》のものであります。  木曾《きそ》といえばその渓谷《けいこく》の都|福島《ふくしま》で、漆器を作り出します。一つは材料に恵まれてここに発達を得たのでありましょう。膳とか重箱とか板で組むものも作り、また盆や木皿の如き挽物《ひきもの》も拵《こし》らえますが、曲げやすい檜《ひのき》を材にしていわゆる曲物《まげもの》を作ることが盛であります。飯櫃《めしびつ》や湯桶《ゆとう》や弁当箱などによい技《わざ》が見られます。もとより凡てが漆器でありますが、塗《ぬり》に手堅い所があり、形にもよく伝統を守りますから、漆器の産地として大切にしたい所の一つであります。  同じ木曾で飯田《いいだ》にぬける山街道に蘭《あららぎ》と呼ぶ小さな村があります。「檜木笠《ひのきがさ》」を編むので名がありますが、それよりこの村で面白い漆器の片口を作ります。珍らしくも口も共に一木から刳《く》り出します。他に例を知りません。外は黒塗、内は朱塗であります。更に面白いことにはこの片口の売れる先は福井県と決まっている由《よし》であります。時々手仕事は不思議な因縁《いんねん》を持ちます。  木曾の藪原《やぶはら》や奈良井《ならい》は櫛《くし》の産地として名が聞えます。「於六櫛《おろくぐし》」といい、もとは吾妻《あつま》村が本場だったといいます。於六という女が作り始めた梳櫛《すきぐし》であります。  伊奈《いな》から飯田にかけての渓谷の村々でも時折曲物の技を見かけます。これは檜や杉の材に恵まれているからと思います。曲物はいずれも柾目《まさめ》を用いねばなりません。止めは桜皮を用います。作るのは「めんつ」即ち弁当箱が、その多くを占めます。次には柄杓《ひしゃく》の類でしょうか。  飯田は珍らしくも元結水引《もとゆいみずひき》の産地であります。傘もまた名を売りました。それというのも近くに紙漉場を持つからでありましょう。  生漉紙《きずきがみ》で一番優れたのを作るのはおそらく飯山《いいやま》近くの「内山紙《うちやまがみ》」でしょうか。下高井郡|豊郷《とよさと》村坪山などで産します。これに劣らないのは大町《おおまち》の奥の北安曇《きたあずみ》郡の「松崎紙《まつざきがみ》」や「宮本紙《みやもとがみ》」かと思います。いずれも雪晒《ゆきさら》しによって、その白さを得ます。寒い国にも恵みは失われておりません。飯山地方の藺草《いぐさ》の栽培と、畳表《たたみおもて》の製造も、忙しい仕事であります。  松本市は今も城廓を遺《のこ》し、かつては小笠原氏の居を構えしところ。この界隈《かいわい》の製紙の業も盛なものでありましたが、私どもにとってもっと興味深いのは、この南安曇《みなみあずみ》の有明《ありあけ》村から出る「山繭織《やままいおり》」であります。自然産であって、極めて堅牢であります。わずかより織られませんが、もっとその価値が認められねばなりません。但し山繭糸《やままいいと》は容易に染めを受けつけませんが、自然の黄味が既に美しい色を呈します。松本市は古い町|故《ゆえ》、色々の手仕事が為《な》されたでありましょうが、今作るもので私の眼に止まったのは竹細工でした。寒い国のこととて細い篠竹《しのだけ》を使います。いわゆる「水篶竹《みすずだけ》」で、それで作ったものを土地では「水篶細工《みすずざいく》」と呼びます。沢山売る「竹行李《たけごうり》」は別に珍らしくはありませんが、平《たいら》に網代編《あじろあみ》にした敷物や炉縁《ろべり》は他の地方にないものであります。どんな大きさにも作られます。どの家庭でも、愛用されてよい品だと思うので、もっと世に知られることを望ます。松本市外の村々に工房を見られるでしょう。  藁《わら》工品で特色のあるのは凡《およ》そ尺二寸角ほどの「かます」であります。「かます」は叺の字を用いますが、元来は蒲簀《がます》から来た言葉であります。背に負う袋で稲藁の稈心《みご》で美しく作ります。約束のように上の方に一本|棕櫚《しゅろ》で横筋を入れます。「はばき」即ち脛当《すねあて》も信州のは特色があって、多くは中央に縦に古裂《こぎれ》を編み込みます。好んで紺の布を用います。俗に紺色は蛇が除《よ》けるからといいます。戸隠山《とがくしやま》の篠竹細工も数え挙げねばなりません。手提籠《てさげかご》によい考案のを見かけます。また信州は山国のこととて大きな捏鉢《こねばち》も作ります。楢《なら》、撫《ぶな》などの大木を刳《く》り出した見事なものであります。大きいのになると直径三尺ほどにも及びます。これらを荒削りするには山に幾日かをこもらねばなりません。  近頃のことですが飯田やまた埴科《はにしな》郡の東条《ひがしじょう》村などで、よい手織物が栄えてきました。 [#改ページ] [#3字下げ]北陸[#「北陸」は中見出し]  ここで道を北陸に転ずることと致しましょう。北陸道というのは、若狭《わかさ》、越前《えちぜん》、これが福井県。加賀《かが》、能登《のと》、これが石川県。越中《えっちゅう》、これが富山《とやま》県。越後《えちご》、佐渡《さど》、これが新潟《にいがた》県。以上の七国四県であります。昔はこの地方を「越《こし》」の国と呼びました。日本海を差挟《さしはさ》んで露領と相対し、いわゆる裏日本の一部を成します。特に北の方は積雪の量が夥《おびただ》しく、しばしば丈余にも達します。  若狭は狭い国でありますが、「若狭塗《わかさぬり》」で名を広げました。小浜町《おばままち》がその中心地であります。赤や青や黄や黒などの色漆《いろうるし》と、金、銀の箔《はく》を塗り込んで、これを研《と》ぎ出したものであります。時としては青貝もちりばめます。絵模様はなく一種の斑紋を一面に現します。ここにこの塗《ぬり》の特色がありまして、その兄弟とも見るべき「津軽塗《つがるぬり》」と共に世に聞えます。多く作るのは箸《はし》、箸箱、盆、膳、重箱、硯箱《すずりばこ》、文箱《ふばこ》などのたぐいであります。ここでも仕事の忠実な品は美しさをも保障しております。  越前の福井は松平《まつだいら》氏の城下。また永平寺《えいへいじ》の国。ここの名は久しくその「羽二重《はぶたえ》」を以て聞えました。中にはその名を辱《はず》かしめないものがありますが、その大部分は外国へ出すのでありますから、吾々の生活とは交る面が限られております。それに大きな産業に進んだために、機械を盛《さかん》に取入れましたから、地方的な手機《てばた》ものの味《あじわ》いはありません。営利の仕事としては大きく、工藝の仕事としては小さいというのが実情であります。この県は優れた絹糸の産地としても名を得ました。  町として昔の面影を留めているのは武生《たけふ》であります。往来の中央に溝が流れて両側に並木が立つのは昔の町の風情であります。この町は打刃物《うちはもの》の鍛冶屋が多く、見ると灰均《はいならし》や火箸《ひばし》などにも棄て難い趣きがあるのに気附きます。町の名を有《も》つ「武生蚊帳《たけふかちょう》」の名はよく全国に行き渡りました。質のよさを自慢とします。しかし越前の名を高めたのは、何よりも紙漉《かみすき》の業《わざ》であります。武生近くの岡本《おかもと》村がその中心をなします。立派な厚みのある「奉書《ほうしょ》」はここのを第一といいます。有名な「鳥《とり》の子《こ》」は今や海外でも、もてはやされている品。三椏《みつまた》を主な材料とします。きめ細かく滑かなため、印刷の用紙として上々のものであります。日本には紙を漉《す》く法が二つあって一つを溜漉《ためずき》といい、一つを流漉《ながしずき》といいます。前者は我国では少いのでありますが、「鳥の子」はこの法で漉かれます。日本の楮《こうぞ》紙の多くは流漉であって、これは外国にない特色あるやり方であります。つなぎに「とろろ葵《あおい》」を用いる妙案は、誰の始創にかかるのでありましょうか。越前はたしかに紙の越前でありますが、しかし仕事が栄えると、とかく営利に走って、質を忘れる傾きが生じます。惜しい哉《かな》、越前の紙も、よい品ばかりではなくなりました。  この国のものとして更に二つの品を言い添えましょう。一つは氷坂《ひさか》と呼ぶ窯《かま》のことであります。郡は丹生《にゅう》で村は吉野であります。福井や武生の陶器屋に行くと、この窯のものをよく見かけます。壺や甕《かめ》が主で、黒の胴に白の流釉《ながしぐすり》を垂らします。陶器の窯の少い北陸では、大事にされてよい仕事だと思います。他の一つは麻の織物で、土地では「さっくり」と呼んでおります。働く時の着物として農家で作られます。多くは白と黒との細かい縞もので、他では余り見かけません。調子のよい布であります。主に鯖江《さばえ》附近の田舎で作られますが、郷土の品として誰に誇ってもよい布であります。  三国《みくに》港はその昔、船箪笥《ふなだんす》の産地として名がありましたが、千石船《せんごくぶね》が廃《すた》れると共に、その歴史も終りました。  更に北に登れば加賀の国であります。金沢《かなざわ》は前田氏百万石の城下町で、兼六公園《けんろくこうえん》で誰も親しんでいるところであります。ここはまた能狂言と茶の湯の町と呼んでもよいかと思います。それほど人々に嗜《たしな》まれているのであります。昔|曹洞宗《そうとうしゅう》の大本山|総持寺《そうじじ》のあった能登の国と、この加賀の国とを合せ、今は石川県を成します。加賀第一の名物は「九谷焼《くたにやき》」であります。伊万里焼《いまりやき》と相並んで日本の磁器の双璧《そうへき》であります。藍絵《あいえ》の染附《そめつけ》もありますが、特に赤絵で名を広めました。九谷焼は支那の影響を受けているためか、伊万里焼のような優しい美しさではなく、どこか大陸的な骨っぽいところがあります。絵にも格のはっきりした楷書風《かいしょふう》な趣きが見えます。仕事は江沼郡が中心であります。  九谷の色料は甚だよく、素地《きじ》の良さと相待って優れた品を生みます。ただ惜しい哉《かな》、赤絵の生命となる絵附けが昔ほどの格を有たなくなりました。そのためどんなに見劣りがすることでありましょう。名手が出て息吹《いぶき》を取戻す日が待たれます。九谷の未来には希望を抱かざるを得ません。  加賀の焼物としては「大樋焼《おおひやき》」があります。楽焼風《らくやきふう》なものを作ります。窯は金沢の市内に在ります。茶器の類は末期を思わせますが、雑器として作る赤楽風《あからくふう》な「火消壺《ひけしつぼ》」は、長方形のもので、なかなか品《ひん》がよく、どんな座敷に置かれてもよいでありましょう。私は同じものを富山県の婦負《ねい》郡長岡村でも見ました。大樋のを倣《なら》ったのに違いありません。金沢の特産としては金銀の「箔《はく》」があります。裏町を歩くと時折|箔打《はくうち》の澄んだ音を耳に聞かれるでしょう。これも不思議と思われるほどの技であります。  金沢近くの鶴来町《つるぎまち》も一度は訪れねばなりません。町そのものもよく昔の風を止《とど》め、その家並は忘れ難いものであります。鍛冶屋の仕事が眼につきます。色々の農具を作りますが、刃物によいものを見かけます。この町の荒物屋で蒲《がま》製の模様入の「はばき」を売ります。紺の麻糸で編み紺の布で縁をとります。他に例の少い、美しい品であります。またたび細工の負籠《おいかご》などにも実に見事なのがあって、方言で「いこ」と呼びます。  この県が誇るものとしては漆器があります。就中《なかんずく》能登の輪島《わじま》は盛な生産地であり、これに次いで加賀の山中《やまなか》があります。金沢も上ものを作る所として知られます。しかしこの国の漆器といえば誰も輪島を筆頭に挙げるでありましょう。はっきりした分業になっていて、まず木地《きじ》、指物《さしもの》、檜物《ひもの》に分れます。即ち轆轤《ろくろ》で椀を挽《ひ》く者、板を組立てて膳や箱などを作る者、次には檜《ひのき》を材に曲物《まげもの》を作る者の三つであります。これらは素地でありますが、これに塗師《ぬりし》と蒔絵師《まきえし》と沈金師《ちんきんし》とが加わって様々な漆器が出来上ります。輪島のものは塗《ぬり》が手堅いのを以て世に知られ、その年産額は三百万円ほどに達するといわれます。ここでは今も「ほかい」のような昔風の品も作ります。行器のことで、物を入れて運ぶ器《うつわ》であります。形が立派で堂々とした趣きがあります。しかしこれを使いこなす暮しはもう去りつつあります。漆器は何といっても椀、膳、盆、重箱の如き食器が主要なもので、その需用は永く続くでありましょう。概して見ますと輪島のものも近頃の品は降《くだ》る一途なので、工人に望むところは形を豊《ゆたか》にし絵附を活々したものにして貰うことであります。正しく進まば今よりずっとよい仕事を示すに至るでありましょう。  もとより漆器にとっても、営利主義は大きな妨げとなります。手をはぶくことに悧口《りこう》になることは、出来を愚かにしてしまいます。山中の漆器は余りにも安ものを心掛けた傾きがあります。じきに塗が剥《は》げたり色が褪《あ》せたりすることは漆器にとっても禁物であります。誤魔化しの暮しをする人はいつか信用を失うでありましょう。器物とても同じことであります。山中ではいわゆる「吉野絵《よしのえ》」と呼ぶ昔からある芙蓉紋《ふようもん》を椀や木皿によく描きます。永く続いている昔からの模様で、一つの型にまで成り切ったものであります。全体として模様を生む力が衰えて来た今日では、こういう伝統的な図柄《ずがら》の存在は、仮令《たとえ》新しみを欠くとしても、日本固有のものとして大切にすべきだと思います。  ついでですから輪島の名産として記しますが、この町の「ゆべし」は真に名菓と呼んでよいでありましょう。「ゆべし」と名附くるものは各地にありますが、ここのは日本一の折紙をつけてよいと思います。柚《ゆず》の中に餅を入れて作ります。形よく色よく、味《あじわ》いよく香《かおり》高く、それに長い月日によく堪《た》えます。この町を訪《おとな》うことがあったら忘れずに味って下さい。  能登といえば鹿島《かしま》郡|能登部《のとべ》村の上布《じょうふ》が有名であります。世に「能登上布《のとじょうふ》」というのはこれであります。ごく細かい麻糸の織物で、夏の着物に悦ばれます。品《ひん》のよい織物であります。しかし上布としては、小千谷《おぢや》のものに席を譲らねばなりますまい。能美《のみ》郡|白峯《しらみね》の「白山紬《はくさんつむぎ》」の名も言い添えねばならないでしょう。紬の仕事にはそう間違いがありません。  私は旅を急いで越中に入りましょう。富山《とやま》はその首都で、ここも前田一門の居城でありました。しかしそういう殿様のことよりも、富山といいますと、すぐ売薬《ばいやく》のことが想い起されるでしょう。興味深くもこの町から年々三、四千人の行商人が薬を背に負うて、日本国中を指して旅に出ます。おそらくどんな田舎にも入りこんでいない所はないでありましょう。営業者五百戸、製薬者は八百人近く、年産額二千四、五百万円といわれます。不思議な発達を遂《と》げたものであります。もとよりそういうことは、この本の直接関係するところではありませんが、実はこの売薬の行商人を見るにつけ、心を惹《ひ》くものが二つあるのであります。一つは薬売りが背負っている小型の柳行李《やなぎごうり》であり、一つは薬を包む和紙なのであります。  実はその「柳行李」は富山で出来るのではなく、遠い但馬《たじま》の国の豊岡《とよおか》で作られて、ここに運ばれます。それを仕上げるのが富山で、町はずれに行くとそれを作っている店々を見られるでしょう。黒塗の革で四隅《よすみ》をとり、更に中央に帯をあてがいます。そこに金箔押《きんぱくおし》で屋号を入れます。行李の形は特別なもので、背負うのに丁度よい大きさに作られます。行李の中には珍らしくも入《い》れ子《こ》が四つ重ねてあります。それ故全体としてやや高めになり、形がよく仕事も丈夫を旨《むね》としますから入念になされます。入れ子には更に仕切りをして薬の類を分けますから、これが重宝な行李であるのは言うを俟《ま》ちません。長い経験がここまで仕事を煮つめたのであります。吾々が不断《ふだん》用いてさえ大変に便利なのを覚えます。見ても美しいこういうものを、必ず行商の持物にするということに心を惹かれます。長い旅のことですから、間に合せものではこまるでありましょう。これを人生の旅に置き換えて考えると、なお値打ちが分るように思います。  この行李を開くと様々な薬が現れます。それを包む紙を「薬袋紙《やくたいし》」と呼びます。昔は色々の種類があったようですが、今一番沢山用いているのは楮《こうぞ》に紅殻《べにがら》を入れた紙であります。落ちついた赤い色で、他では見かけません。包む紙にも心を込めてあることは、やがてその薬にも心を込めていることを語りましょう。もしこういう品々が粗末なものになったら、やがてこの商売も終りに近づくこととなりましょう。  今申しました紅殻入《べにがらいり》の紙は、越中|婦負《ねい》郡の八尾《やつお》地方で作られます。土地では「赤傘《あかがさ》の相竹《あいたけ》」と呼びます。この町は和紙で誇るべきものを幾種か有《も》ちます。例えば傘紙として作られる「たたきこみ」と呼ぶ紙の如き、張りのある色味のよい活々した紙であります。漉《す》く時の手の動かし方が、この紙に特別な力を与えるのだといいます。ここで出来る「本高熊《ほんたかくま》」と呼ぶ紙も上等であります。見ただけでも便《たよ》りになる手堅い性質の持主であります。高熊は村の名であります。ちょっと考えますと、同じく楮で同じく水で同じく流漉《ながしずき》で漉くのでありますから、皆同じような紙に成りそうなものですが、それぞれに異《ことな》る性質を見せるのは、やはりその土地の自然や伝統が異るからに因《よ》ります。いずれにしてもその上に確《しか》と樹《た》つものほど、美しさを鮮かに出します。  八尾町は小原節《おわらぶし》で名を成しますが、「玉天」と呼ぶ菓子でも名を成してよいと思います。  富山に次ぐ大きな町は高岡《たかおか》であります。漆器も色々と出来、「錆絵《さびえ》」で名を売りましたが仕事が最も盛《さかん》なのは銅器であります。火鉢だとか花瓶だとか、置物だとか、全国に売り出します。銅のみならず真鍮《しんちゅう》や鉄も材料となって様々なものが拵《こしら》えられます。工人の数を想えばこの仕事が盛なのを思わせます。しかし高岡の銅器には末期を思わせる飾りの多い風《ふう》が残って、度を過ごしたものが多く、意匠に活々したものが欠ける恨みがあります。特に置物類にこの弊《へい》を多く見受けます。それ故かえって装飾を持たない無地のものや、台所で手荒く使われる湯釜だとか七厘《しちりん》だとかに見るべきものがあります。なぜこんなことになるのでしょうか。銅器は飾物が多いため、仕事がとかく遊びになるからと答え得るでありましょう。これに比べ実際に働く品は着飾ってはいられませんから、自然に丈夫な身形《みなり》を得るのだと説いてよいでありましょう。簡素な健康なものにはいつも勝ちみがあります。  漆器では城端《じょうはな》が白漆《しろうるし》を使うので有名ですが、仕事は盛ではありません。出町《でまち》、戸出《といで》、福野、福光《ふくみつ》、井波《いなみ》などの町々は、あるいは木綿、あるいは麻布、あるいは紬《つむぎ》で、見るべき品を産します。中でも「福野紬《ふくのつむぎ》」や、「井波紬《いなみつむぎ》」は知れ渡った名であります。麻布は福光を中心に、今も一万台の手機《てばた》が動くといいます。主な用途は畳縁《たたみべり》であります。加越の境にある石動《いするぎ》では、「竹簾《たけすだれ》」を挙げるべきでしょうが、この附近でよく見かける「藤帚《ふじぼうき》」は全く他の地方にない形を見せます。  それからこの県で他の国より盛だと思われる仕事は欄間《らんま》の木彫であります。富山市を始め井波町が仕事に忙しいのであります。象嵌《ぞうがん》も得意でありまして、技術はなかなか進んだものといえましょう。ただこれも江戸末期のごたごたした風が残って、無駄《むだ》な労力をかけることが多く、出来るだけ細かな細工をするのを誇るようであります。しかしもっとあっさり簡素に作ったらどんなに仕事が活々してくることかと思います。必要以上に手をかけることは、かえって美しさを害《そこな》う所以なのを省《かえりみ》るべきだと思います。  北陸一帯は獅子舞が盛であるため、獅子頭《ししがしら》や胴幕を今も作ります。中に仕事の甚だ佳《よ》いのを見かけます。  富山湾に面した海寄りの地方に、藁を材にし紺の麻糸で編んだ大きな夜具包《やぐづつみ》があります。船で用いるものですが、他の国では見かけないものであります。  ここで書き添えておきたいのは、北陸地方で見られる自在鉤《じざいかぎ》であります。特に越前、加賀、越中のものは立派で、炉《ろ》の道具としては日本一でありましょう。堂々とした姿のものがあります。天井から「戎《えびす》」または「大黒《だいこく》」と呼ぶ欅作《けやきづく》りの大きな釣手《つりて》を下げ、それに自在《じざい》を掛けます。その鉤《かぎ》の彫りに実に見事なものがあります。好んで水に因《ちな》んだものや、吉祥の徴《しるし》を選びます。例えば鯉《こい》だとか菊水などは前者で、打出《うちで》の木槌《こづち》や扇子《せんす》の如きは後者の場合であります。煙で充分に燻《くすぶ》り、これをよく拭《ふ》きこみますから、まるで漆塗《うるしぬり》のように輝きます。こういう力強いものが用いられている炉を見ると、何か生活にも大きな力のあるのを感じます。弱い暮しからは現れない豊かさが見えます。  越中の秘境といわれる五箇山《ごかやま》のことも是非書き添えねばなりません。合掌造《がっしょうづく》りの大きな家が群をなして村を形づくる様も壮観であります。ここは麦屋節《むぎやぶし》とその踊《おどり》とでも名をなしますが、用いる品々も特色があり、竹細工や桜皮の編物なども忘れ難いものであります。もう飛騨境《ひだざかい》に近い赤尾は信者|道宗《どうしゅう》の物語で、その名を永く歴史に止めるでありましょう。  私たちは北陸道の北の端の越後に達しました。また海を渡って佐渡が島を訪ねる時が来ました。越後は信濃川のような大きな河があって、平野が広く、農事に忙しい国であります。越後米は庄内米と覇《は》を競うでありましょう。しかし手仕事の特色あるものは、むしろ山間に求めねばなりません。越後が第一に誇りとしてよいのは「小千谷縮《おぢやちぢみ》」であります。縮《ちぢみ》では十日町《とおかまち》の「明石縮《あかしちぢみ》」もありますが、小千谷の上布《じょうふ》に如《し》くはありません。江戸時代この方実に見事な仕事を見せました。塩沢《しおざわ》が今はかえって中心であります。雪に埋もれたそれらの地方は、雪水を活かして天然の晒《さら》しを施します。これがこの麻布を美しくしまた丈夫なものになします。仕事を見ると一朝一夕《いっちょういっせき》で生れたものではないのを感じます。多くの祖先たちの多くの経験が積み重《かさな》って、驚くべき今日の技を成しているのであります。麻を裂き、緒《お》を績《う》み、色に染め、経《たて》を綜《へ》、機に掛け、これを晒し、これを仕上げそうしてこれを売るまでに、どんなに苦労や技が要るでありましょう。縞《しま》も絣《かすり》も作りました。特に絣には念を入れた仕事を見ます。ここも社会の事情に押されて、漸次《ぜんじ》仕事がしにくくなり、心を込《こ》めた品が少くなって来たことは、誠に残念なことであります。しかし本当の品を手にすれば、どんな時代でもどんな人でも、小千谷の仕事に帽子を脱ぐでありましょう。その他越後の織物としては「五泉平《ごせんひら》」の如きを挙げねばなりません。主に袴地《はかまじ》で名を得ました。  越後人が忘れずに語るものとしては三条《さんじょう》の刃物があります。仕事は日々栄えました。もとは農具から始まったものと思われます。越後の山野で日々働く人々のために、鎌《かま》や鋤《すき》や鍬《くわ》や鉈《なた》などを作らねばなりませんでした。漸次仕事が広げられ、鋸《のこぎり》や鋏《はさみ》や金鎚《かなづち》に及び、更に栄えるにつれて機械を入れ、ナイフ、フォークの類にも及び、盛に中央の都市の需《もと》めに応じ大きな産業へと発展しました。ただこういう発展の後《うしろ》に見られる欠点は、余りにも営利が主となって、とかく品物を第一にする心が薄らぐことであります。これを用心しないと三条は金物で不名誉を買うに至るでありましょう。手堅い品が盛に作られてこそ本当の発展だというべきではないでしょうか。三条に続いて燕《つばめ》で、鍋、釜、薬缶《やかん》の類に忙しい仕事を見せます。東蒲原《ひがしかんばら》郡|豊実《とよみ》村|新渡《しんわたり》はもう岩代境《いわしろざかい》でありますが、ここで生漉《きずき》のよい紙を今も作ります。  昔は順徳帝を始め、日蓮上人などが流罪《るざい》の歳月を送られし佐渡が島は、多くの物語を残す所であります。今は新潟市から両津《りょうつ》の港までわずか三時間の旅となりました。小さな島でありますが、産業は水産と礦山《こうざん》とに集められ、また牧牛でその名を得ました。あるいはそこの「おけさ節」で、もっと広く知られているかも知れません。手工藝では多くのものを見ることは出来ません。朱泥《しゅでい》で煎茶器《せんちゃき》を作りますが、郷土の特色を誇り得るまでには至らないでありましょう。それよりもむしろ竹細工の仕事の方が、この島の産物として認められてよいでありましょう。幕末頃、即ち千石船の出入りが盛であった頃、小木《おぎ》の港は船で用いる小箪笥《こだんす》を作るので有名でした。欅《けやき》材を用いて、これに頑丈《がんじょう》な鉄金具を纏《まと》わせ立派な技を見せました。千石船の禁止と共にその種の船箪笥《ふなだんす》は終りましたが、箱造りの技は続き、主に衣裳箪笥や帳箪笥《ちょうだんす》を作り始めました。今も小木町には幾軒かの箱《はこ》屋があって、大きな鉄金具を打った桐箪笥を作ります。近年著しく金具が薄手になり弱まってきましたが、それでも地方的な趣きは現れます。小木の港からやや離れたところに宿根木《しゅくねぎ》と呼ぶ小さな漁村があります。折があったら訪ねて下さい。世にも珍らしい家並の村で、二階建がそれは狭い石畳《いしだたみ》の道を中に挟《はさ》んで寄り添います。千石船時代の面影がそのまま濃く残っていて、旧家を訪れると昔語りを聞くことが出来るでしょう。  佐渡では、海辺にまた山に働く時、好んで刺子着《さしこぎ》を着ます。もとより丈夫さと温かさとを兼ね備えるからであります。刺し方は丹念で、おろそかな仕事ではありません。雪の降る時は好んで棕櫚《しゅろ》で編んだ、まるで兜《かぶと》のような笠を被《かぶ》ります。深い形で頭のみならず襟《えり》まで総々《ふさふさ》した棕櫚毛で被《おお》うように作られてあります。もっともこの様式の帽子は、越後や羽前の地方にも見られます。島の人の持物で面白いのは煙草の道具であります。特に火口炭《ほくちずみ》を入れる器は、木を刳《く》って可憐《かれん》な姿に仕上げます。使い古せば味いが一段と冴《さ》えます。小品に過ぎませんが、どこからその美しい形を捕《とら》えて来るのかと感じ入るほどであります。玩具としては首人形がありますが、郷土色のあるものとして認められてよいでありましょう。急ぎの旅でありましたが、北陸路を終えましたので、次には近畿へと歩みを転じましょう。 [#改ページ] [#3字下げ]近畿[#「近畿」は中見出し]  ここで近畿《きんき》地方というのは便宜上、京都や大阪を中心に山城《やましろ》、大和《やまと》、河内《かわち》、摂津《せっつ》、和泉《いずみ》、淡路《あわじ》、紀伊《きい》、伊賀《いが》、伊勢《いせ》、志摩《しま》、近江《おうみ》の諸国を包むことと致しましょう。京都府、大阪府、兵庫県、奈良県、和歌山県、三重県、滋賀県の二府、五県になります。以上のうち京都府の北の一部と兵庫県の西の一部とは中国の部に入れて述べることと致しました。  近畿という言葉は、そこが昔|皇都《こうと》のあった地方であることを意味します。いわゆる関西はその内に属するのでありまして、京都を中心に大阪、堺、神戸、奈良などの大きな都がそこに寄り添います。中で奈良の文化は余りにも遠く、京都は静かな古都となり、今は財力の大きい大阪が最も繁栄なまた大きな都会となりました。これに次ぐものは新しい神戸であります。大阪とその周囲は誰も知る通り大きな工業地でありまして、そこから生産される種目は多く、産額もまた大きいことは申すまでもありません。それに販路は全国に拡げられ、多かれ少かれ大阪ものを見ない土地とてはないくらいになりました。しかし産業の大は機械の大を意味し、凡《すべ》てが営利の制度に左右されて来るのは、避け難い勢いであります。惜しむらくはこれがために品質は落ち、粗製のものが氾濫《はんらん》するに至ります。大阪の商業は大を誇り得ても、製品の大をも誇ることは出来ません。この弊は名古屋を中心とする中部や東京を中心とする関東でも共に見られることであります。もとより古い大阪は今と違って、興味深い色々な手仕事を見せました。幾つかの老舗《しにせ》にその面影を今も見られるでしょうが、しかし商人の大阪は、変化する大阪を厭《いと》いはしませんでした。かくして多くの手仕事は過去へと流れ去りました。  ただ有難いことに近畿地方における一つの恵《めぐ》みは、京都の存在であります。誰も知る通り平安朝この方、実に千有余年の間、歴代の皇都でありました。日本のあらゆる固有の文化はここを中心としたのであります。度々兵乱はありましたが、学問、文藝、美術、工藝は依然としてここに栄えました。もとより宗教の中心もこの都にありまして、神社仏閣の多いことも京都が第一であります。御所を軸とし、整った町の形をなし、内に外に名所旧蹟は数えるに暇《いとま》ないほどであります。その長い歴史は京都の言葉を作り、風俗を作り、習慣を作りました。それらは根強く京都人の血に滲《し》み込みました。それ故移り変りの激しかったここ百年の間にも、京都ばかりは多くの点で昔を守って崩しませんでした。加茂祭や祇園祭など、昔もかくやと思われます。  長い歴史は様々な藝能を発達させ、ほとんどあらゆる種類の工人が出ました。京都人は旧習を守ってみだりに昔を変えません。人々の需《もと》めは、それに応ずるものを今も作らせます。町を歩くと様々な工房が、昔ながらの仕事を見せてくれます。このことは日本固有のものが、まだ豊《ゆたか》にこの町に生れつつあることを語ります。  京都の手仕事といえば、すぐ西陣《にしじん》と清水《きよみず》との名が想い浮ぶでしょう。前者は織物で、後者は焼物でその名を高めました。仕事の跡を見ますと、技の点では随分進んだもののあるのを見出します。西陣の誇りとする「綴錦《つづれにしき》」の如きはよい例といえましょう。豪華なまた高価な織物は主《おも》にここの技であります。その後《うしろ》にはどんなに貴重な伝統が流れているでありましょう。しかし概して見ますと、それらのものへの驚きはむしろ技術のことでありまして、必ずしも美しさのことではありませぬ。甚《はなは》だ見劣りのするのは意匠の点でありまして、模様と色合とは、もはや昔の気高い格を持ちませぬ。本能の衰えに帰すべきでありましょうか、末期の徴《しるし》とも見るべきでありましょうか。いたずらに細かい技に落ちて、活々した生命を忘れた恨みがあります。しかしこの欠点は何も織物の領域ばかりではなく焼物だとて同じであります。  清水から五条坂にかけて軒並に列《なら》ぶ店々を覗《のぞ》いて見ましょう。何某何世と名のる焼物師も少くはありません。この都から作り出される焼物の量も些少《さしょう》なものではありません。品物もあらゆるものに及び、技法もあらゆる変化に及びます。堅い磁器から柔かい楽焼《らくやき》、白い白磁《はくじ》、青い青磁《せいじ》、藍《あい》の染附《そめつけ》、赤の上絵《うわえ》、または象嵌《ぞうがん》、絞描《しぼりがき》、流釉《ながしぐすり》、天目《てんもく》、緑釉《みどりぐすり》、海鼠釉《なまこぐすり》、その他何々。共に轆轤《ろくろ》と型。ここに陶法《とうほう》一切の縮図が見られます。  しかしこれらのものの中から、さて何を取上げようかと思うと、意に満ちたものが如何に少いかに気附かれるでしょう。昔の品を熟知する者にとっては、見劣りがしてならないからであります。ここでも形の弱さと、模様の低さとが目立ちます。しかも悪いことには、浅い趣味のために、仕事が遊びに終っているものが多いのであります。特に茶趣味は多くの陶器を害《そこな》いました。真の茶器は、趣味の遊びから出たものではないことを忘れるからに因《よ》るのであります。しかし轆轤《ろくろ》を巧みに廻す人も絵を描く腕のある人も、またこれをよく焼き上げる人も、また窯も松薪も皆揃っているのであります。しかもその数は決して少くはありません。もし京都の焼物がもう一度実用に即して、健全を旨として作られるなら、見違えるほどの力を取戻すでありましょう。今何を為しつつあるのかを、もっと省《かえり》みる人たちが出たら、救いは近き日にあることを想わざるを得ません。  この旧都はまた上質の漆器を産する所であります。特に蒔絵《まきえ》のような技は遠い歴史に根ざして見事な仕事を見せます。しかしここでも技のみ勝《まさ》って美しさに破れる矛盾を見せられます。それに一般の民衆とは縁遠いものといわねばなりません。私たちはむしろそういう著名なものに、京都の仕事のよさを求めるより、もっと小さな規模の色々な細工ものに、それを見出すことが出来るように感じます。例えば京扇《きょうおうぎ》の如きを挙げましょう。何も皆よいというわけにゆきませんが、品位の高い品が今も作られます。有職《ゆうしょく》ものから各派の舞扇《まいおうぎ》、祝扇《いわいおうぎ》から不断遣《ふだんづか》い、男もの、女もの、いずれにも典雅なものが用意されます。形もよく色もよく、模様も大和風を崩しません。平和で美麗で、日本味の濃いものといえましょう。  あるいはまた京人形を例にしてもよいでありましょう。特に「御所人形《ごしょにんぎょう》」とか「嵯峨人形《さがにんぎょう》」とか呼ばれるもので、昔からの技を守るものは出来が上等であります。顔立《かおだち》にも身形《みなり》にも型を守って乱しません。仮令《たとえ》今の生活から離れたものとしても、こういう品位あるものからは何か学ぶもののあるのを感じます。特に今の世には卑《いや》しい俗に落ちたものが多くなってきたので、この感を深くします。  京都は織物と共に染物でも早くから名を高めました。とりわけ「京友禅《きょうゆうぜん》」の評判を知らぬものはありません。友禅染はその優雅な婉麗《えんれい》な紋様と色調とにおいて、日本味の豊な染物であります。それ故その生命ともいうべき模様や色が、近頃俗に流れがちになったのは、惜しみても余りあることといわねばなりません。よい染《そめ》の道でありますから、もう一度歴史を高めたいものと思います。  著名な京染の一つに「絞《しぼり》」があります。今も昔の店を守るものがあって、よい仕事を見せます。様々な絞染がある中に、特に「鹿子絞《かのこしぼり》」の如きは、その美しさで永く持映《もてはや》されるものと思います。どこか女の身形に相応《ふさわ》しい麗《うるわ》しさを持ちます。元は外来のものでも、日本で育てられた染の一つとして讃《たた》えられてよいでありましょう。ただ色味を落さぬようにすることが肝要だと思います。  組紐《くみひも》の技も京都は優れております。古くは何よりも武具がこの技を求めたでありましょう。更にまた茶の湯がその発達を促したでありましょう。箱紐に袋紐に人々は念を入れました。羽織紐や帯紐の需用は、もとより今も盛《さかん》であります。これらのものは新しい機械がその製作を容易にしましたが、その丈夫さにおいて味いにおいてついに手仕事を越えることは出来ません。  同じく京都の技で忘れ得ないものに表具《ひょうぐ》があります。昔は裱褙《ひょうほうえ》といいました。作る者を経師屋《きょうじや》と呼ぶのは、経巻の仕立が表具の起りであったことを示します。表装の技は誠に日本において完成せられたといってもよく、微妙な腕前を示すのみならず、優に一つの創作にまで達します。寸法の割出しは既に法則をすら生みました。  京都は名にし負うお寺の町であります。二千ヵ寺もあると聞きます。ほとんど凡《すべ》ての大本山がここに集ります。浄土宗の知恩院《ちおんいん》や百万遍《ひゃくまんべん》、真言《しんごん》宗の東寺《とうじ》や智積院《ちしゃくいん》、真宗の両|本願寺《ほんがんじ》、禅宗の南禅寺《なんぜんじ》や妙心寺《みょうしんじ》や大徳寺《だいとくじ》、時宗の歓喜光寺《かんきこうじ》、天台宗の妙法院《みょうほういん》や延暦寺《えんりゃくじ》。加うるに由緒《ゆいしょ》の深い寺刹《じさつ》がどれだけあるでありましょうか。従ってそれらのお寺や信心に篤《あつ》い在家《ざいけ》で用いる仏具の類や数は並々ならぬものでありましょう。概していいますと、江戸時代は仏教藝術の末期で、見るべきものが少く、仏具もその影響を受けて、いたずらに装飾を過ごしました。門徒宗のお厨子《ずし》の如きは贅《ぜい》を尽したものが作られました。しかし数ある仏具の中には簡素で健実なものがないわけではありません。真鍮《しんちゅう》製の燭台《しょくだい》だとか仏飯器《ぶっぱんき》などには雄大な感じさえするものを見かけます。あるいは漆器の経机《きょうづくえ》や経箱《きょうばこ》、過去帳《かこちょう》、または応量器《おうりょうき》だとか香炉台《こうろだい》だとか、あるいはまた過去帳台とか位牌《いはい》だとかに、しばしば優れた形や塗のものに廻《めぐ》り会います。いつも伝灯《でんとう》の深さが後に控えます。  中で興味深いものの一つは木魚《もくぎょ》でありましょう。よく「玉鱗《ぎょくりん》」という文字が彫ってあるのを見ると、元来は支那から来たものでしょうが、今は和風になって色々な形のを作ります。向い合う魚頭や魚鱗を彫りますが、余り手の込み入ったものはかえって面白くありません、白木でも朱塗でも作ります。大型のを作る様などは見ものであります。胴の虚《うつろ》を巧みに彫りぬきます。  法事に用いる蝋燭《ろうそく》も見事なのがあります。特に赤蝋燭は美しく、上にやや開く形は姿を一段と立派にさせます。この蝋燭には二つの興味深い道具が添えられます。いずれも真鍮細工で一つは芯切鋏《しんきりばさみ》であり一つは芯切壺《しんきりつぼ》であります。両方とも真に美しい形のを見受けますが、特に鋏は先《さき》が四弁の花形をしたものがあって、見ただけでも使いたい心をそそります。  私はここで老舗《しにせ》鳩居堂《きゅうきょどう》などが鬻《ひさ》ぐ香墨《こうぼく》などのことも言い添えるべきでありましょう。筆、紙、硯《すずり》、墨を文房の四友といいますが、これも吾々の生活に交ることの深いものだけに、それぞれに技を示します。中でも筆と墨とにおいて京都は今も客を引きます。  木工具の領域を見ますと、京都出来のもので心を惹《ひ》くのは「水屋《みずや》」と呼ぶ置戸棚《おきとだな》で、好んで勝手許《かってもと》で用います。形に他にない特色があり、洋式の模倣品《もほうひん》よりどんなによいか知れません。もっともこれは関西の式といってもよく、大津や大阪あたりまで見られます。引戸や小引出の多いもので、しばしばその横桟《よこざん》には透彫《すかしぼり》を施します。つい先日までは鉄金具の引手で、ほとんど円形に近い肉太《にくぶと》のものがありました。これらの棚や箪笥類を鬻《ひさ》ぐのは夷川《えびすがわ》で、全町家具の通りであります。  京都は金物の技もよいとされます。刃物や鋏の類がよく、花鋏の如き古流《こりゅう》、池《いけ》の坊《ぼう》、遠州流《えんしゅうりゅう》とそれぞれに特色ある形を示します。よい品になると、日本の鋏類の中でもとりわけ立派なものといえましょう。もとより銅器も鉄器も、色々に出来ます。竜文堂の如き鉄瓶や釜で名を得た老舗《しにせ》もあります。煙管《きせる》の如きも京出来を誇ります。  こういう風に挙げてくると、女の黄楊櫛《つげぐし》から、さては菓子型の類、庭を掃《は》く棕櫚帚《しゅろぼうき》などに至るまで、仕事のよいのを色々と拾うことが出来ます。京都は今も手仕事の都といわねばなりません。  古い奈良の都は、余り歴史が遠いせいか、一時衰えていたせいか、寺院の立派さを仰ぐのみで、目星しいものは沢山残っておりません。それでも古梅園《こばいえん》の墨の如きは、歴史が続き、よくその声価を保つものの一つであります。毛筆が悦ばれる限り、硯と共に墨の需用は絶えないでありましょう。奈良の文字を被《かぶ》るものに、「奈良人形」や「奈良扇《ならおうぎ》」があります。人形は木彫のもので、これに厚く胡粉《ごふん》彩色を施します。ごく簡素な刀の跡を示すだけに、力を失わず、その著しい特色は誰からも認められるでありましょう。「奈良扇」はいわゆる奈良絵《ならえ》を描いたものであります。丹緑《たんろく》の絵で、奈良絵本がなくなった今日では、この扇が唯一の名残《なごり》でありましょう。稚拙《ちせつ》な風がかえって雅致を誘います。どこか品《ひん》のよいしかも平易な美しさを示します。公園で売る多くの土産品は粗末さが目立ちますが、中で手向山《たむけやま》の台附の絵馬などはよき郷土土産となりましょう。三笠山ほとりでは刃物を多く並べます。それよりも町で売る竹皮の下駄によい品を見かけます。食物ですが「奈良漬」はここを本場とするのでその名を得たのでありましょう。  大和国吉野郡の国樔《くず》村は関西の紙の需用を引受て盛《さかん》な仕事ぶりを見せます。種類も一、二ではありませんが、「宇陀紙《うだがみ》」の名は世によく聞えます。高田近くの磯野《いその》や御所《ごぜ》で細々ながらも地機《じばた》で「大和絣《やまとがすり》」を織るのを見られるでしょう。しかし下り坂なのをどうすることも出来ません。郡山《こおりやま》は金魚の養殖を以て名がありますが、品物としてはその近くに産する「赤膚焼《あかはだやき》」が世に聞えます。釉薬《うわぐすり》に一種のおっとりした持味がありますが、これも今出来のものは昔ほど味いを持ちません。宇治は茶所で昔から名を高めましたが、茶筅作《ちゃせんづく》りは大和が中心とせられ、生駒《いこま》の麓《ふもと》の高山が仕事に多忙であります。茶筅を見ますと誠に繊細な技に達しておりますが、やや度を過ごして病いに近づきつつあると思われます。何かもっと健《すこや》かな姿となり得ないものでしょうか。  大和の国の吉野は、誰も知る「吉野桜」を思い起させますが、この地名に因《ちな》んだ品物は少くありません。世に聞えたものでは「吉野織」、「吉野紙」、「吉野簾《よしのすだれ》」、「吉野雛《よしのびな》」など、その他「吉野絵」とか「吉野漆《よしのうるし》」など色々あって、歴史にその仕事を止《とど》めます。しかしこれらのものは時の流れに押されて、あるものは既に絶え、あるものはいたく衰え、勢いあるものを見かけません。この国で特色のあるものは桜井に見られる経木織《きょうぎおり》でありましょう。珍らしくもごく薄い経木を経緯《たてよこ》に用いて織物にしてあります。壁張や襖地《ふすまじ》には好個のものであります。  大阪の真近くに歴史の古い堺の港があります。そこの「堺緞通《さかいだんつう》」は、昔から「鍋島緞通《なべしまだんつう》」などと共に有名なものであります。大体|室《へや》で用います敷物の類は、日本では畳がありまた座蒲団があるため、支那や中央|亜細亜《アジア》のような発達の跡を見せません。それ故幾種かある日本の緞通は大切に保護されてよいでありましょう。生活の様式が変りましたから、敷物の需用は大きくなるはずであります。堺ではこの仕事は一時|廃《すた》れましたが、漸《ようや》く再興の気運に向いました。模様と色とに注意すれば未来は待たれるでしょう。堺はまたよき刃物の産地としても、当然記憶せらるべきだと思います。小刀とか鋏とかにもよい仕事を見せます。河内《かわち》の国に因《ちな》んだものでは「河内木綿《かわちもめん》」が名を得ました。  摂津《せっつ》の国で特筆しなければならないのは、有馬郡塩瀬村の名塩《なじお》で出来る紙であります。古くから「間合紙《まにあいがみ》」と呼んでいるもので、雁皮《がんぴ》を材料にし、これに細かい泥土をまぜて漉《す》くものであります。表面が滑《なめら》かな肌ざわりを持つ艶消《つやけ》しの紙で、他に類を持ちません。古くは書物の用紙として悦ばれました。また地袋《じぶくろ》を張るのにも好まれます。品位のある紙であって、忘れ難い和紙の一つであります。もしこの紙が更に精製せられたら、銅版の印刷に好個のものとなるでありましょう。  玩具に近いものでありますが、有馬の「人形筆《にんぎょうふで》」も他では見かけないものであります。綺麗な色糸で軸を巻いてあります。温泉場の土産物としては珍らしく特色あるものといえましょう。  私はここで淡路島《あわじしま》に立寄ることにしたく思います。今は兵庫県に属します。この島の名に因んだ言葉としては「淡路結《あわじむすび》」とか「淡路半紙《あわじばんし》」とか「淡路焼《あわじやき》」とかを想い起します。中で焼物は伊賀野附近で焼かれ、主に黄色い鉛釉《なまりぐすり》を用います。丼《どんぶり》、皿、土瓶などを見かけます。しかしこの島の産としては「文楽《ぶんらく》」の人形を特筆せねばならないでありましょう。名工といわれる者もなお存し、生々しいまでに様々な型の人形を作ります。目や口や耳や首や手や足を動くようにするので、作る技は並大抵ではありません。  和歌山は名君|徳川頼宣《とくがわよりのぶ》が出て栄えた都でありますから、ここでも様々な手仕事が保護されたに違いありません。しかし今はその面影がないほど工業の地となってしまいました。捺染物《なせんもの》や綿《めん》ネルやまた家具の如きも、産額は大きなものでありますが商品に止《とどま》るというだけであります。それより黒江《くろえ》町の漆器や内海《うつみ》町の番傘の方が記録されてよいでありましょう。後者は「八丁傘《はっちょうがさ》」の名で通っております。その辺より南は紀州蜜柑《きしゅうみかん》の本場であります。  根来寺《ねごろじ》の「根来塗《ねごろぬり》」は昔の物語りになりました。しかしこれを試みる者が何処かに絶えないのは、塗として一つの型をなすからでありましょう。粉河寺《こかわでら》のある粉河《こかわ》では、よい団扇《うちわ》を作ります、渋色をしたおとなしい形のものであります。片隅に押してある老舗《しにせ》「ひしや」の印に気附かれるでしょう。もっとも同系の団扇としては大和の五条で出来る五色のものの方が出来が更に上等で上品であります。これらの団扇は使い工合が頃合で、どの家庭にも薦《すす》めたい品であります。  真言《しんごん》宗の霊場、紀州の高野山《こうやさん》は誰も知らぬ人はありません。ですがその麓にある村の古沢や河根《かね》などで漉《す》かれる「高野紙《こうやがみ》」もこの寺につれて記憶されねばなりません。厚みのあるよい紙であって味い深いものであります。この山寺の町で作られるもので特色があるのは、棕櫚《しゅろ》で拵《こしら》えたお櫃入《ひついれ》であります。他では見ることがありません。  紀州には御坊《ごぼう》、串本《くしもと》、勝浦《かつうら》などの町々がありますが、大体漁業を専らとする地方は海の生活が主なためか、手仕事の発達は著しくありません。これに引きかえ山村や農村はその環境が多くの手仕事を招くのだと思われます。山間の東牟婁《ひがしむろ》郡|請川《うけがわ》村は曲物《まげもの》で色々土地のものを作ります。檜《ひのき》や杉に恵まれているからであります。「やろ」とか「わっぱ」とかいう言葉を聞かれるでしょう。「やろ」は薬籠、「わっぱ」は弁当箱であります。  伊賀、伊勢、志摩は三重県に含まれます。伊賀は上野《うえの》を都とする小さな国であります。「伊賀傘《いががさ》」はその上野が中心で名を広め、用いる紙は多く「名張半紙《なばりばんし》」であります。名張といっても丈六や柏原がその産地として知られます。しかし伊賀の名を負うもので最も有名なのは「伊賀焼《いがやき》」であります。茶の湯では、そこで出来た昔の種壺《たねつぼ》を水差《みずさし》などに用いて珍重しました。大体飾りのない、素地《きじ》の荒い焼物で、そこに雅致が認められ、茶人たちに好まれた窯《かま》であります。しかしかえって「茶」に毒されたとでもいいましょうか、わざわざ形を歪《ゆが》めたりして作るので、渋味は消えてむしろ騒がしさが目立ちます。そのためとかく横道にそれた技となりました。それよりも本当の雑器を焼く丸柱《まるばしら》村の窯の方を取上げたく思います。土鍋、行平《ゆきひら》、土瓶など色々出来ますが、とりわけ丸柱の土瓶は評判であって、多くの需用に応じました。中でも緑釉のものなど、特に美しく立派であります。汽車土瓶も一時この村で引受けて盛に作りました。しかし丸柱の仕事は、大体|江州信楽《ごうしゅうしがらき》の系統を引くものといえましょう。  伊賀の隣りは藤堂藩の伊勢の国であります。それよりも大廟《たいびょう》の伊勢というべきでありましょう。四日市《よっかいち》や津や松阪や宇治山田は、この国の大きな町々であります。伊勢の名の附くものに「伊勢編笠《いせあみがさ》」や「伊勢縞《いせじま》」があり、また松阪の「伊勢萌黄《いせもえぎ》」があります。しかしそれらのものよりも、私たちにとって心を惹くものはいわゆる「伊勢型《いせがた》」で、如何なるわけか、白子《しろこ》でのみ栄えました。海寄りの小さな町でありますが、染物に用いる型紙の産地となって、名を全国に広めました。何も伊勢国《いせのくに》の染物屋だけが用いるのではなく、「紺屋型《こうやがた》」と呼んで、日本国中どこの紺屋へも運ばれたものであります。おそらく紺屋という紺屋、この白子の「伊勢型」を幾枚か持たない家はないでありましょう。大柄、中柄、小紋、凡てありますし、その模様の変化は数限りなく、その数は驚くべき量に上《のぼ》りましょう。大きな紺屋になれば何千枚も仕入れたのであります。それ故この町は日本の染物模様の泉をなしたといえましょう。仕事は今も続きます。昔には及ばずとも、これに従事する人数は依然として多く、小さなこの町も、この技のために経済を支え名誉を保っているのであります。用いる紙は特殊なもので、燻《いぶ》して作るため、色は褐色を呈します。型紙だけでも美しい工藝品といえるでしょう。額にでも入れるとくっきりと引立って見えます。  四日市は有名な「万古焼《ばんこやき》」の土地ですが、この焼物には不幸にも見るべき品がほとんどなくなってしまいましたから、通り過ぎることと致しましょう。今も沢山作りはしますが、いやらしいものが余りにも多いのであります。  桑名《くわな》町を歩くと、珍らしくも竹椅子だとか、桜皮の組物だとか、また形のよい赤蝋燭などが目に止ります。産額は小さくとも土地のものとして記憶すべきでありましょう。  琵琶湖で名高い近江《おうみ》は滋賀県であります。大津絵で名高い大津がその都であります。湖《みずうみ》に臨《のぞ》んだ古い町は、昔の姿を今もそう変えておりません。近江聖人で名を得たこの国は、また近江商人でも名を高めました。日野の如き富有な町が他にも幾つか見られます。産業としては織物が最も栄えました。「浜縮緬《はまちりめん》」だとか「近江麻布《おうみあさぬの》」だとか「高島縮《たかしまちぢみ》」だとかよく聞えた名であります。浜縮緬は湖北の長浜《ながはま》を中心とし、麻布や蚊帳《かや》は湖東の各部落で出来、高島縮は湖西の今津地方の産であります。これらのものは民衆の生活に深く入りました。  ですが江州《ごうしゅう》のもので最も注意すべきは信楽《しがらき》の焼物でありましょう。歴史の起りは甚《はなは》だ古く、それに室町時代から茶人との縁が深かった窯であります。その地方は松の多い山間の部落でありますし、周囲の丘は皆これ陶土であって、窯が栄える事情がよく備わっております。ここで出来る品で最も有名なのは茶壺でありました。随分大型のものを作りますが、どう運ばれたものか非常に遠出をして、日本全国の葉茶屋の店には、これらの大壺が二つや三つ置かれていない場合はないまでに広まりました。仕事はごく最近まで続いていたのであります。日本の陶器の大型のものとしては代表的なものでありましょう。好んで流釉《ながしぐすり》を施しますが、最も多く流布されているのは白地に緑を縦に幾条か流したものであります。  この信楽は近年は海鼠釉《なまこぐすり》の大火鉢で名を挙げました。持映《もてはや》されて、これも販路の広いのに驚きます。ですがこの窯で特に賞《ほ》めてよいと思われるのは、不透明な厚い白釉《しろぐすり》であります。味が温かで静かで、時にはほんのりと「ごほん」と呼ぶ桃色の斑《ふ》が中に浮びます。この白釉で長方形の深めの流《ながし》を作りますが、信楽以外には決してない品であります。同じこの白で厠《かわや》に取りつける朝顔を作りますが見事な形のを見かけます。信楽の一部をなす神山《こうやま》はその土瓶でよく知られました。特に山水を描いたものが持映され、土瓶絵としては一つの型にまで高まり、後には多くの窯でこれを摸するに至りました。例えば野州益子《やしゅうましこ》の如き、明石《あかし》の如き、また遠く筑州《ちくしゅう》の野間の如き、その流れを汲《く》みます。雑器において信楽の仕事は甚だよく、その他土鍋、植木鉢、湯婆《ゆたんぽ》など、ここの品には使いたいものが多々あります。  比良《ひら》の山裏に朽木《くちき》があります。昔から盆や片口や椀などに特色のある漆器を出しました。今は細々と仕事を続けているに過ぎませんが、昔の力を取戻したら再び名物となるでありましょう。古《ふるい》作品には非常によいものがあります。  いい忘れましたが、栗太《くりた》郡|上田上《かみたなかみ》村|桐生《きりゅう》では、御用品として年々良質の「雁皮紙《がんぴし》」を漉《す》きます。「雁皮紙」は和紙の主と讃えらるべきものであります。 [#改ページ] [#3字下げ]中国[#「中国」は中見出し]  播磨《はりま》、美作《みまさか》、備前《びぜん》、備中《びっちゅう》、備後《びんご》、安藝《あき》、周防《すおう》、長門《ながと》の八ヵ国を山陽道《さんようどう》と呼びます。県にすれば兵庫県の一部分、岡山県、広島県、山口県となります。ざっと明石《あかし》から下関までであります。前には美しい瀬戸の内海が島々を泛《うか》べているのを見ます。山陽とは、もとより山の南側を意味します。その北側を山陰と呼びます。山陰道《さんいんどう》は丹波《たんば》、丹後《たんご》、但馬《たじま》、因幡《いなば》、伯耆《ほうき》、出雲《いずも》、石見《いわみ》の七ヵ国でこれに隠岐《おき》の島が加わります。県は主として鳥取県と島根県とでありますが、東寄りの国々は京都府や兵庫県の一部を占めます。この山陽山陰の二道を合せて、昔から「中国」と呼びました。背をなす山脈には大山《だいせん》のような名峰も聳《そび》えます。山陽は宮島で山陰は天《あま》の橋立《はしだて》でその風光を誇ります。  両道は山を背にして表裏の位置に在り、陽は明るく暖く、陰は暗く寒い地理を持ちます。自《おのずか》ら南は人口も多く、町々も多くまた繁昌《はんじょう》を来《きた》しました。しかしどういうものか、それに比べ手仕事が特に豊《ゆたか》だとは申されません。これに引き換え北の山陰は貧しく思えても、案外に色々な品物が見出されます。  播州《ばんしゅう》では明石を振り出しに見学の旅を続けましょう。この町の名に因《ちな》んだものとしては「明石縮《あかしちぢみ》」がありますが、仕事はかえって京都の西陣や越後の十日町の方に奪われました。夏着に涼しさを添える織物であります。町の名物として丁稚羊羹《でっちようかん》は、誰も土産物の風呂敷に包むでありましょう。在《ざい》には鯉幟《こいのぼり》を作る村があって一時栄えましたが今は衰えました。明石には明治始頃まで窯場《かまば》があって、特に土瓶の製作が盛《さかん》でありました。例の山水を描いたものも見られます。惜しいことに仕事が絶えましたが、工人たちは今も生き残っているのです。播州の赤穂《あこう》は四十七士の物語で誰も想い起す所でありますが、また「赤穂緞通《あこうだんつう》」でもその名が知られます。惜しい哉《かな》、仕事は過去のものとなってしまいました。今も金物の仕事をするのは三木町《みきまち》であります。様々な刃物の類を作りますが、中では鋸《のこぎり》を選ぶべきでしょうか。ある町がある品物で名を成すということは、面白いことだと思います。姫路《ひめじ》もまた同じように、一つの技で聞えます。  この都は播州一の町で、酒井氏が居を構えし所、日本第一の名城「白鷺城《しらさぎじょう》」が聳えているのもこの都であります。豪壮なその白壁造りの建物が、緑の松に囲まれ建つ様は、美しく大きな景観であります。しかし名だたるそのお城の物語は他の本に譲りましょう。私はここで出来る特産のものを語らねばなりません。名を成したのは革細工《かわざいく》であります。革細工といえばすぐ姫路を想い起すほど、その名は遠くまで響きました。とりわけ「金唐革《きんからかわ》」と呼ぶものが有名で、金泥《きんでい》や色漆《いろうるし》を用い模様を高く浮き出させた鞣革《なめしがわ》であります。草花や小鳥や獣などを美しくあしらいました。よく文箱《ふばこ》や袋物などに見られます。今も技は残りますが、昔ほどの活気を見ないのは、流行《はや》らない品となったからでありましょう。もとより姫路の細工は「金唐革」だけではなく、他に色々なものを作ります。ごく最近までは朱塗に金箔《きんぱく》を置いた美しい馬具も作りました。見返すと立派なのに驚くのは、剣術の道具類であります。今も需用は絶えません。革のこなし方が実に見事で、一朝にして生れた仕事でないのを想わせます。面頬《めんぼお》も胴《どう》も籠手《こて》もしばしば見とれるほどの技を示します。革の美しさはもとより、漆塗の色、刺し方の術、組紐《くみひも》の技、間然《かんぜん》する所がありません。特に籠手のようなものは、革の性質から生れた形の美しさが、露《あらわ》であります。昔の立派な武具の歴史が控えているのを見ます。烈《はげ》しい用途は軟弱な仕事を許しません。  岡山は備州《びしゅう》の都、池田氏の城下町で、黒い烏城《うじょう》の姿と、緑の後楽園《こうらくえん》とは、訪《おとの》う者にとって忘れ得ない景色であります。我国の著名な刀工の大半は備前備中に住んだといいますから、刀作りの術がこの地方で進んだのは申すまでもありませんが、時|遷《うつ》って今は昔語りとなってしまいました。金物ではわずか「備中鍬《びっちゅうぐわ》」の名が残るだけでしょうか。しかし国の名と離れたことのない著名なものは、何といっても「備前焼《びぜんやき》」であります。世に「伊部焼《いんべやき》」ともいいます。伊部《いんべ》はもとより備前にある町の名であります。上に釉薬《うわぐすり》を施さず焼締《やきし》めたもので、色は茶褐色を呈します。これが渋い味《あじわ》いを示すので、早くから茶人の間に持映《もてはや》されました。今も煙の勢いは絶えません。岡山にはこれを売る沢山の店を見られるでしょう。しかしどの窯でもそうですが、余り茶趣味に縛《しば》られると、仕事が本道からそれて遊びごとになってしまいます。それに趣味の中に逃げるような嫌いがあって、活々したものを失います。茶器のみならず彫刻した置物の類も多いのでありますが、末期の形に沈むもの多く、これで日本を誇るわけにはゆきません。もっと平易な通常の雑器に帰ったら、見違えるほどの力を得るでありましょう。  この窯よりもむしろそういう雑器を焼く酒津《さかづ》の方が、注意されてよいでありましょう。倉敷《くらしき》市外に流れる高梁《たかはし》川のほとりに建つ景色のよい窯場であります。近年この窯で鉄釉《てつぐすり》の地に絞描《しぼりがき》で線を引いた丼鉢《どんぶりばち》を作りました。大型も小型も拵《こしら》えます。調子が甚《はなは》だよく、どんな台所に入っても、また卓上で用いられてもよいでありましょう。近年倉敷に羽島窯が起り、よい雑器を試みます。浅口郡に大原窯《おおはらがま》があって、釉《くすり》のない瓦焼で、土瓶とか焙烙《ほうろく》とか土鍋とか蛸壺《たこつぼ》とかを作ります。少しもいやみのない品々で、こういう質素なものの値打は、もっと認められてよいと思われます。  この県で力を入れたものに「花莚《はなむしろ》」があります。浅口郡|西阿知《にしあち》が本場であります。彩《いろどり》と模様のある茣蓙《ござ》で、藺《いぐさ》の茎《くき》を材料にしたものであります。織方《おりかた》で色々な縞《しま》を出します。紗綾形《さやがた》とか市松《いちまつ》とか菱紋《ひしもん》とか、線の組合せで様々な紋様を織り出します。時には手をかけて絣《かすり》をも試みます。日本味のある敷物として永く栄えしめたい仕事であります。ただ時折色に俗なものがあるので、それを避けねばなりません。無地で紋織《もんおり》のもありますが、品《ひん》がよく間違いのない品であります。「花莚」には輸出の将来があります。普通の畳表は都窪《つくぼ》郡の妹尾《せのお》町や早島町から最も多く出ます。同じ藺で編んだ厚手のマットによい品があって、洋間の暮しには悦んで迎えられるでしょう。  敷物では別に「倉敷緞通《くらしきだんつう》」があります。近頃盛になった品でありますが、織方は特許で、巻くのに易く、それに緞通としては値も格安であります。材料は絹、人絹、麻、木綿などを混用します。特に緯縞《よこじま》や霞縞《かすみじま》に美しいのを見かけます。これも色染を注意したら一段とよくなるでありましょう。とりわけ日本間の敷物として大変|相応《ふさ》わしく、どの家庭にも薦《すす》め得ると思います。また町内に藁《わら》で丈夫に編んだ厚手の敷物を産します。これも洋間には好個のものであります。  岡山市富田町に籐細工《とうざいく》の優れたのを作る店を見ました。「一楽《いちらく》」と呼ぶ瓶敷《びんしき》で、細工の細かいものは極上であります。同じ瓶敷ですが近時|通草蔓《あけびづる》を花形に編んで籐《とう》で止めた美しいものを作り出しました。近くの町で革表紙の立派な「判取帳《はんとりちょう》」を見ました。黒革の上に朱塗で太々とその文字が模様のように記してあります。こういう品に今も需用が絶えないのを面白く思いました。足守《あしもり》町近くの竹細工「まふご」や、真庭《まにわ》郡|中和《ちゅうわ》の背中当《せなあて》「胴丸」の如き極めて立派なのがあります。  庫造《くらづくり》の家並で美しい小田郡|矢掛《やかげ》町の産に田植笠《たうえがさ》があります。特色あるものの一つであります。同じように優しい品でありますが、撫川《なずかわ》に「撫川団扇《なずかわうちわ》」があります。しかしそれらのものより更に注意されてよいのは勝山町に出来る硯《すずり》で、「高田硯」と名づけます。石質では日本一と評する人もありますし、細工の秀《ひい》でた点でも認められねばなりません。硯のほかに技は置台や箱や急須《きゅうす》のようなものにまで及びます。歴史に名高い「備中檀紙《びっちゅうだんし》」はもう昔語りになりましたが、美作《みまさか》の苫田《とまた》郡の勝田《かつた》郡では多少の漉場《すきば》を今も見ます。  さて、近時倉敷市に建てられた倉敷民藝館は、是非|訪《おとな》わねばならぬ施設で、特に中国の様々な民藝品をここに見られるでしょう。  備後《びんご》の国に入れば、もう広島県であります。備後といえばすぐ「備後表《びんごおもて》」や「備後絣《びんごがすり》」の名が浮びます。表《おもて》とは畳表のことで、良質を以て名が聞えます。この地方は藺《いぐさ》の産地で、水田に植えられている様も、土地の一風景であります。畳は日本の生活になくてならないものでありますから、売捌《うりさば》く先も手広く、大きな産額に上ります。「備後絣《びんごがすり》」も「伊予絣《いよがすり》」や「久留米絣《くるめがすり》」などと共に、名を高めた産物であります。蘆品《あしな》郡|新市《しんいち》町には今も多少は手機《てばた》の音が響きます。しかし今までのような勢いはなくなりました。紺絣は誰も知る通り日本では男も女も年寄りも子供も皆身につけた着物でありましたから、いくら織ってもよく売れました。近頃これを用いる人が段々少くなってきたのは如何にも残念に思います。なぜなら絣こそは日本の織物と名附けてよく、西洋には発達の跡がないからであります。しかも見直せばその美しさは紛《まご》うことなきものと思います。「柳原奉書《やなぎわらほうしょ》」で有名な備後国《びんごのくに》比婆《ひば》郡|庄原《しょうばら》町の仕事も、今はその名誉を続け得なくなりました。奉書は楮紙《こうぞし》でありますが、これに米の粉を加えて抄造《しょうぞう》します。昔も今も典式の用に使われます。  安藝国《あきのくに》の広島は浅野氏が城を構えしところ、山陽第一の都であります。つい先日までかつて大名であった九十余歳の老侯が住んでおられました。物資も豊《ゆたか》で富んだ県であります。しかし昔と違って今は工よりも商が盛《さかん》なためか、作るよりも使う側に立つためか、この都で出来る特色あるものは、少いように見受けます。町を歩いて眼についたものに座蒲団入《ざぶとんいれ》の四角い行李《こうり》がありました。竹編《たけあみ》でこれに渋紙を貼り定紋《じょうもん》を大きくつけます。見てもなかなか立派で使えば重宝《ちょうほう》でありましょう。鳥籠で形の変ったのを見かけました。しかしこれらのものは少しも名が聞えておりません。食物などにはかえって有名なものがあって、牡蠣《かき》や干柿や「でびら」などは誰も味《あじわ》ったことがあるでありましょう。女の用いる髢《かもじ》も多くはこの県から出します。安藝郡の熊野町や矢野町は毛筆の産地であります。しかし質よりもむしろ量に重きを置いた仕事といわねばなりません。宮島で客を待つ土産物も色々ありはしますが、郷土的な香りのするものは大変衰えました。箱根あたりのものまでまじる始末であります。  この国が持つ特色ある手仕事としては、何よりも「山繭織《やままいおり》」を挙げねばなりません。可部《かべ》地方のもので黄と褐との色合いを持つ織物であります。一時は着尺にも夜具地にも用途が広く、相当に栄えた仕事でありましたが、いつしか流行におくれ、今は絶え絶えになりました。しかし一見特色の明かなものでありますしまた美しい布でありますから、本来なら流行などに左右されないでよいはずであります。もし郷土の品に誇りを誰も持つようになったら、必ずや勢いを得てくるでありましょう。いつかきっと見直す人が出て再び立ち上ることと思います。  周防《すおう》や長門《ながと》の国では焼物のことをお話せねばなりません。ここは山口県であります。防府《ほうふ》市には珍らしくも国分寺が今も建っていますが、その前を過ぎ東に向いますと、程遠からぬところに堀越《ほりこし》と呼ぶ窯場があります。岸辺にあって海や島々の景色に恵まれた土地であります。多くは雑器を焼くためか、ほとんど歴史には知られておりません。しかしこの窯で出来る大きな甕《かめ》や壺や徳利《とっくり》などの類には、強いしっかりした形のものがあって、都風に染まった弱さがどこにも見られません。近在の需用はもとより、舟で遠く九州にも運ばれます。鉄釉《てつぐすり》のもの多く、これに好んで白の流しを加えます。山陽第一の民窯と呼んでよいかも知れませぬ。近くの佐野にも匿《かく》れた窯場があります。釉薬《うわぐすり》も何も施さない土焼《どやき》のものを焼きます。好んで「なばむし」という土瓶を焼きますが型物で浮出し模様をつけ、野趣に富んだものであります。「なば」とは方言で「きのこ」のことを意味します。つまり土瓶蒸《どびんむし》に用いるものでありますが、茶に用いても使い慣らすと味いがよいといいます。大体こういう種類の土焼は、ごく古い型が残るもので何か美しさの素《もと》を感じます。  右のような窯場は顧《かえりみ》る人もない無名のものでありますが、これに対し長門の国には「萩焼《はぎやき》」と呼ぶ名高いものがあります。萩市は毛利氏の古城のあった所であります。港でありますから早くから朝鮮とは交通がありました。初代を高麗左衛門《こうらいざえもん》というのは、もと手法を朝鮮から伝えたことを示します。白い厚みのある釉薬のかかった陶器で、絵も何もない無地のものであります。味いがあって早くから茶人たちに愛されました。さすがに昔のは素直な出来で、温《あたたか》い静《しずか》な感じを受けます。しかし段々茶趣味が高じて来て、わざわざ形をいびつにしたり曲げたりするので、今はむしろいやらしい姿になりました。自然さから遠のくと美しさは消えてゆきます。こういうことがよく解ったら、今の萩焼とても、ずっとよくなるでありましょう。同じ長門国《ながとのくに》に小月《おづき》という窯場があることも言い添えておきましょう。雑器に見るべきものがあります。  長門の名で呼ばれるものに「長門細工《ながとざいく》」があります。紙縒細工《かみよりざいく》の総称として今もこの名が用いられます。述べ洩《も》らしましたが、周防国《すおうのくに》佐波《さば》郡島地村は「徳地半紙《とくじばんし》」の産地であります。しかし和紙は山陽よりも山陰の方に栄えました。中国街道の終るところは下関《しものせき》であります。ここでは赤間石《あかまいし》の硯《すずり》を得られるでしょう。赤紫を帯びた良質の石で、主に厚狭《あさ》地方の産であります。ここで私たちは石見《いわみ》の国に入り、漸次《ぜんじ》東へと道を取って山陰の品々を探ることに致しましょう。  同じ島根県とはいい、その中にある二つの国に目立った相違のあることは不思議なくらいであります。この県は石見と出雲《いずも》との二国から成っていますが、互《たがい》の気風がまるで異るのを気附かれるでしょう。石見の方は荒くして強く、力を感じます。これに引換え出雲の方は穏《おだや》かで温かで細かいところがあります。男性と女性とにも譬《たと》うべきでしょうか。一方は波風の烈しい磯《いそ》がそうさせたのかも知れません。一方はもの静かな湖水がそうさせたのかも知れません。しかし歴史がなおそうさせたとも思えます。石見の方は原始的で出雲の方は文化的であります。まだ一世紀半ほど前のことに過ぎませんが、出雲には松平不昧《まつだいらふまい》公という殿様が出ました。名君で産業に学藝に並びつとめ、国を富ましめ文化を進めることに身を砕《くだ》きました。特に茶の湯を嗜《たしな》まれ、有名な茶器を沢山集め、菅田庵《かんでんあん》という茶室を設け、楽山《らくざん》では好む茶器を焼かせました。参勤交代《さんきんこうたい》の時ですら、道中愛器を駕籠《かご》に乗せてお伴《とも》をさせたといいます。こういう平和な気風が出雲人に及ぼした影響は大きかったと思います。松江を始めこの国の町々は茶事が盛《さかん》で、面白いことにはほとんど凡《すべ》ての家庭に行き渡り、車夫までが待合う間に一服建てるという気風が見られます。こういう風習は様々なものを楽しみまた作らせる原因をなしたと思われます。  石見の古い町といえば津和野《つわの》に誰も指を屈するでしょう。亀井藩で今も昔の屋敷が見られます。近くの益田《ますだ》は雪舟《せっしゅう》の庭を以て名があります。しかしそれらのことはさておくとしましょう。その剛直を語る石見人は吾々に何を贈物としたでしょうか。浜田の在《ざい》や温泉津《ゆのつ》やその他方々に窯場があるのが目に入ります。窯自体がとても大きく、二十五、六の室《へや》を持つものさえあります。室というのは傾斜面に設けた細長い登《のぼ》り窯《がま》を幾つかに仕切ったものを指します。各〻の室に各〻の屋根がつきます。それが全部|上釉《うわぐすり》のある赤瓦なのですから見事なものであります。その赤い屋根が階段のように坂に沿って重《かさな》ってゆきます。窯の外観としては日本一でありましょう。しかもそれらの窯がしばしば寄り添って建てられ、遠くには青い海、近くには緑の林があるのですから、絵のような光景であります。その大きな窯で盛に大きな水甕《みずがめ》を焼きます。山陰、北陸一帯はもとより、遠く北海道にまで船で運ばれます。嵩《かさ》のある仕事だけに働きも激しく、体力のない者は堪え得ないでありましょう。こういう窯に、優れた小ものを求めても無理であります。もっとも昔は燗徳利《かんどっくり》などに巧な絵を描きました。ともかくこの大きな窯場の強い仕事には、石見人を見る思いがします。国のごく左の端に一つかけ離れて喜阿弥《きあみ》と呼ぶ窯があります。ここでは鉄釉で土瓶や小壺などを作りますが、可憐なものがあります。「糊壺《のりつぼ》」の如きよい例をなします。この窯の品は主に益田や津和野の荒物屋で売られます。  しかし石見が今日まで歴史的に誇りを続けて来たのは和紙であります。「石州半紙《せきしゅうはんし》」とか単に「石州」とかいう名は、どんな紙漉《かみすき》の本にも出て来るでしょう。もともと日本の抄紙の歴史を見ますと、この石見が発祥《はっしょう》の地かと考えられます。万葉の歌人|柿本人麿《かきのもとのひとまろ》を紙祖と崇《あが》めますが、この歌聖は石見の人でありました。歌と紙とには縁が濃いでありましょう。おそらく紙漉の技は最初朝鮮から教わったろうと思われます。石見と南朝鮮とは向い合っている間柄であります。「石州」と呼ばれている手漉紙は、強い楮《こうぞ》から作られ、色は黄味《きみ》を帯び極めて張りのある品であります。その黄味は天然の色で、楮の甘皮《あまかわ》から出てくるものであります。本当に文字通り「生紙《きがみ》」という感じで、和紙の持味がにじみ出ているものであります。小さな箱舟の中で小型の紙を作るため「石州半紙」の名で通りました。舟というのは紙を漉く水槽であります。石見には今でもなお昔ながらの原始の法で手漉をしている仕事場が山間の部落には見られます。貧しく小さな仕事とはいえ、出来る紙は強く正しく清いものであります。邑智《おうち》郡市山村は仕事が最も盛であります。  紙といえば出雲は岩坂で近時その名を広めました。この紙漉場は八束《やつか》郡にありますが、以前は傘紙とか障子紙とか大福帳の紙とかをわずかに作り出していたに過ぎませんが、この十数年の間に素晴らしく仕事を進め、新しい和紙の運動の魁《さきがけ》をなしました。ここで出来る紙の第一等のものは、何といっても「雁皮紙《がんぴし》」であります。大体紙料には雁皮と楮と三椏《みつまた》とがありますが、雁皮を以て最上とします。これは野生の灌木《かんぼく》で繊維が長くかつ細く、それに強さがあるので紙の材料としては理想に近いものといわれます。おまけにその色の落ちつきや光沢の美しさや品位の高いことで、天下第一の紙と呼んでも過言ではないと思われます。昔の上等な書物は好んでこの雁皮紙を用いました。その昔のものに負けない上質の厚みある品をこの岩坂で作り出したのであります。ごく薄葉のものは複写紙として用いられて来ました。岩坂ではこれと共に楮でも三椏でも新しい紙が色々と試みられ、これを愛好する人々が段々|殖《ふ》えて来ました。「出雲名刺」とか「出雲巻紙」とか銘打ったものは随分遠くまで旅出をするに至りました。  出雲の産物で是非とも記さねばならないのはいわゆる「黄釉《きぐすり》」の焼物であります。布志名《ふじな》、湯町《ゆまち》、報恩寺《ほうおんじ》、母里《もり》などは皆同じ系統の窯場でありますが、中で歴史に古いのは布志名であります。黄釉というのは鉛《なまり》からとる釉薬《うわぐすり》でありまして、他の窯では余り用いられません。西洋では大変多いのでありますが、日本では稀《まれ》であります。他の大部分の窯では鉛ではなく灰が釉に用いられます。白土の上にかけますと、光沢のある鮮かな黄が出ますので、一目見て特色ある焼物なことが分ります。これで鉢、茶碗、皿、徳利、片口など多くの食器を作ります。食卓に台所に用途を満たしてくれるでしょう。このほか出雲で見るべき窯は袖師《そでし》であります。ここでは黄釉を用いません。花器や雑器を作ります。手頃な品なので多くの家庭で喜ばれます。もっと有名なのは楽山焼《らくざんやき》でありますが、余り茶器に沈み過ぎて、日常の生活の面とは縁遠くなりました。それよりも近時起った簸川《ひかわ》郡|出西《しゅっさい》村の窯がよい品に努力しつつあります。  出雲の品で忘れ得ないもの、また忘れてならないものの一つは「日出団扇《ひのでうちわ》」であります。簸川郡|塩冶《えんや》村浄音寺で作られます。紙の部分は横に広いやや楕円《だえん》の形をなし色が白と紺との染分けであります。白は上に、紺は下にその三分の一ほどの座を占めます。  柄《え》に太い根竹を用い、縦に置いて必ず立つのを自慢とします。形が如何《いか》にも大時代《おおじだい》を想わせ、作りもしっかりして気品ある品であります。蓋《けだ》し団扇としては日本随一でありましょう。  出雲は旅するとまだ色々のものが眼につきます。手帚《てぼうき》で根元を綺麗《きれい》に針金で編んだものがあります。八束《やつか》郡竹矢村大門の産で、丁寧な可憐な品であります。山間の仁田《にた》郡|亀嵩《かめだけ》村は「出雲算盤《いずもそろばん》」で名を成しました。織物では「広瀬絣《ひろせがすり》」がありましたが、不幸にも跡を断ちました。今残っているのは絞染《しぼりぞめ》でありますが、手技のみによる正直な品を示します。安来節《やすきぶし》で名高い安来も、近年織物に金物の竹細工に努力を払いました。能義《のぎ》郡山佐村で織られる「裂織《さきおり》」も特色あるものであります。いつも白と紺と藍との三色を用い、経糸《たていと》は必ず麻にして、ひとえに丈夫を心掛けます。野良や山での仕事着として申分《もうしぶん》ありません。  出雲は古い風土記で知られているように、遠い神話の国でさえあります。大社《たいしゃ》は社《やしろ》の中の社であります。日本の最も古い建物の様式がここに見られます。宍道《しんじ》湖や中海《なかうみ》の風光もこの国をどんなに美しくしていることでありましょう。その湖畔の都《みやこ》松江市は松平氏の城下町で、今もその古城の下に、町々が休みます。この町に「八雲塗《やくもぬり》」なるものがあって、色漆《いろうるし》で模様を内に沈め、これを研《と》ぎ出す手法を用います。絵さえ美しかったらと思われます。町はまた「瑪瑙細工《めのうざいく》」を以て聞えます。客を待つ店が少くありません。荒物ではありますが、町に鬻《ひさ》ぐ舟の垢取《あかとり》で形のよいのを見かけます。材は松板を刳《く》ったものでありますが、茶人だったら塵取《ちりとり》にでも取り上げるでしょう。荒物屋ではまた簓《ささら》のような茶筅《ちゃせん》を売ります。この地方に残るいわゆる「ぼてぼて茶」即ち「桶茶《おけちゃ》」に用いるものであります。番茶に花茶を一摘み入れ、この茶筅で泡立てて飲みます。この習慣は面白いことに沖縄にも見出され、そこでは「ぶくぶく茶」と呼びます。起原が遠いのではないかと想像されます。「桶茶」とはしばしば桶で茶を泡立て、これを茶碗に移して飲むからによります。沖縄でも同じことを致します。抹茶《まっちゃ》と何か関係がないでしょうか。  街道を東に進んで右手に大山《だいせん》の美しい姿が見え出しますと、もう伯耆《ほうき》の国に入ります。県も鳥取《とっとり》県に移ります。かつて夜見《よみ》ヶ|浜《はま》は綿も植えられ、その和田村あたりには絣《かすり》の手機《てばた》も動きましたが漸次《ぜんじ》衰えました。絣といえば「倉吉絣《くらよしがすり》」を想い起しますが、これも残念なことにほとんど歴史を終りました。米子《よなご》近くの淀江《よどえ》は番傘の産地であります。海岸にそれを何百と並べて日に干す様は見ものであります。  温泉の村々が続いてなおも東に道をとりますと鳥取市に達します。ここははや因幡《いなば》の国で、池田氏が居を築きしところ、惜しくも松江のような城を既に失いましたが、二、三の武家屋敷の門構えが昔の勢いを語ります。町々には必ずや多くの細工が見られたでありましょう。幾つかの町の名はそれを明かに語ります。漆器とか土工とか金工とかにその名残りを見ますが、近年|漸《ようや》くその復興が企てられました。町で売る雨傘に美しいのがあります。内側の骨を編む色糸の仕事が、他に見かけない飾りを示します。  市から三、四里ほど離れたところに「因久《いんきゅう》」と名のる窯場や「牛戸《うしのと》」と呼ぶ窯場があります。前者は茶人たちにも聞こえ書物にも記してあります。これに反し後者は今まで知る人がほとんどない雑窯《ざつよう》の一つでありました。しかしこの十五年ほどの間に新しい道で熱心に日常の器物を焼き続けました。陶土の質がとても硬く、ほとんど磁器に近い強さがあります。そこの染分《そめわけ》の皿や鉢などは幸《さいわい》にも広く流布《るふ》されました。よく描く蘆雁《あしかり》の模様は古くから伝わるもので、おそらく仕事は石州《せきしゅう》の脈を引くものでありましょう。  手紡《てつむぎ》手織《ており》の木綿が近年|盛《さかん》になったことをも書き添えねばなりません。美穂《みほ》村の向国安《むこうぐにやす》で織り、隣村で紡《つむ》ぐという賢《かしこ》い道を取り、一時は盛な成績を見せました。染めも努めて草木から得ました。こういう手機《てばた》ものが他に少い時とて、仕事ははっきりした存在を示しました。もとより絹でも織り、好んで太織風《ふとおりふう》なものを機《はた》にかけました。  この国には和紙も産します。「因幡紙《いなばがみ》」の名で知られ、八頭《やず》郡の佐治《さじ》とか、気高《けだか》郡の日置村とか、その他の漉場から楮《こうぞ》の紙が出されます。  山陰道の東端は丹波《たんば》、丹後《たんご》、但馬《たじま》であります。これらの国々の名は色々の言葉で思い出されます。丹波栗《たんばぐり》、丹波酸漿《たんばほおずき》、丹波焼《たんばやき》、丹後縞《たんごじま》、丹後紬《たんごつむぎ》、丹後縮緬《たんごちりめん》、但馬牛《たじまうし》など、皆よく響き渡った名であります。中で与謝《よさ》郡地方から出る縞《しま》ものや縮緬《ちりめん》なども、指折るべき産物ではありますが、一番特色の鮮かなのは丹波焼でありましょう。  窯はその国の古い都|篠山《ささやま》から、そう離れたところではありません。立杭《たちくい》と呼ぶ村で、今は兵庫県内の多紀《たき》郡|今田《こんだ》村に属します。窯の形はごく背の低い、どちらかというとみすぼらしいもので、用いる土とても轆轤《ろくろ》にかかりにくいのであります。作る品物とても、徳利とか塩壺とか大根下《だいこんおろし》とか、台所の雑具が多いのであります。模様も余りなく、ただ流した線が主であり、色も多くは白と黒とですませます。いわばごく貧しい姿をした焼物に過ぎません。ですがごく質素だということは、謙遜《けんそん》深い性質や淳朴《じゅんぼく》な趣きを与える原因になります。いわば貧しさの美しさとでも申しましょうか。茶人たちが尊んだ渋さの美が、丹波焼には自《おのず》から現れてくるのであります。雑器でありながらそのまま立派な茶器として用い得るものが少くありません。こういう品物から教えられる訓《おしえ》は、質素が如何に美しさの大きな原因となり得るかということであります。昔偉い坊さんたちが「清貧《せいひん》」の徳を説きましたが、それが深い教えであることを、こういう品物を通してもよく学ぶことが出来ます。眼のある人なら今でも安い普通の品から、色々美しいものを選び出すでありましょう。  丹波で想い出しましたが、その地方の田舎を旅しますと面白い財布を使っているのに気附かれるでしょう。随分大きなのもありますが、紺の布を長方形の袋に縫《ぬ》って、これに白の木綿糸で刺子《さしこ》をする風習です。その刺子模様は麻の葉だとか紗綾形《さやがた》だとか、定紋《じょうもん》だとか屋号だとかを入れ、なかなか心の入った仕事を見せます。よく風呂敷の片隅にも刺子をしたのを見かけますが、これは丹波地方のみとは限りません。  特に焼物で丹波を語りましたが、但馬《たじま》を語るものは「柳行李《やなぎごうり》」であります。これは豊岡《とよおか》町が主な産地で仕事は盛なものであります。杞柳《きりゅう》を編んで籠《かご》を作る仕事は支那にもありますが、豊岡ぐらい産額の大きいところはないでありましょう。日本全国に売られてゆきます。おそらくどの家庭でも柳行李の一つや二つは持っているでありましょう。自然は編むためによい材料を与えてくれたと思います。そうして祖先たちはよい技術をこの町の人々に授《さず》けてくれたと思います。 [#改ページ] [#3字下げ]四国[#「四国」は中見出し]  四国というのは、地図がよく示しますように四つの国から成立っている島であります。讃岐《さぬき》と阿波《あわ》と土佐《とさ》と伊予《いよ》と、県にすれば香川、徳島、高知、愛媛《えひめ》の順になります。これらの国々は昔は南海道《なんかいどう》と呼ばれた地方の一部をなします。その文字がよく語りますように、南の海にある島との義であります。北は美しい瀬戸内海を隔てて中国に対し、南は果しもない大洋を控え、暖《あたたか》い明るい光を浴びる島国であります。四国といえば昔から八十八箇所巡礼の国で、桜や菜の花が咲き乱れる頃、諸国から集るお遍路《へんろ》の白い姿が道を伝って流れるように続きます。あらたかな御慈《みめぐみ》深い観世音菩薩《かんぜおんぼさつ》をまつってある寺々に、お札を打って巡《めぐ》るのであります。私もまた丁度その巡礼のように、四国の品々を追って歩きましょう。  讃岐の国は香川県であります。昔から高松城《たかまつじょう》や栗林公園《りつりんこうえん》で名高い所。源平の戦いで有名な屋島《やしま》も、金毘羅様《こんぴらさま》の名で船乗に知られている琴平神社《ことひらじんじゃ》も、同じ讃岐の名所であります。ですが私はそれらの所を訪ねるよりも、この国が生み出すものの技について語りましょう。  産額で一番大きなものの一つは団扇《うちわ》であります。丸亀《まるがめ》市がその産地で、特に塩屋《しおや》はその中心であります。年額は三百万円を超えこれに携《たずさわ》る工人は三千人と称します。日本の国々で用いる団扇の八割までがこの町で出来るのであります。多くの骨を組んでそのまま各地へ送り出します。  凡《すべ》ては手仕事であり、家内工藝であります。仕事を見ていますと、その手技《てわざ》の早いのには驚かされます。竹を縦に細かく裂《さ》く仕種《しぐさ》、裂いた竹を拡げて糸で編む手捌《てさばき》、凡ては目にも止まらぬほどの早業《はやわざ》で、手がどんな奇蹟を行うかが目前に見られます。長い働きの歳月があるとはいいじょう、それは驚くべき手技であるといわねばなりません。おそらく一日の口賃はわずかなものでありましょうが、そういう人たちの仕事を見ていると、沢山|酬《むく》いてやらねばすまない心地がします。  この丸亀では様々な団扇が出来まして雑なのから手を入れたのまで作ります。中にはとても見事なのがあって、作りのよいのや、形の豊《ゆたか》なのや色の美しいのがあります。とりわけ漆塗のものは眼を引きます。よく琴平や屋島などで客を待つ「元黒《もとぐろ》」と呼ぶ大きな赤い団扇も、同じくここで出来るのであります。暑くて湿気《しめりけ》の多い日本の夏は、団扇がないとこまります。これも竹と紙というよい資財に恵まれて、仕事が栄えたともいえましょう。  高松市といえば例の漆塗の茶箱や茶盆が想い出されます。刀の削《けず》り跡を残したやり方で、一時は随分盛な売行をみせました。しかしわざわざ削目《けずりめ》を出すのですから、どこか作りものに落ちて、自然さを持ちません。それに新しい思いつきで歴史も浅いのであります。そういう手法より、昔からの当り前な作りの方に勝ちみがあるでありましょう。表通りを進む仕事だからであります。  高松の町を歩くと大変珍らしい凧《たこ》を売っているのが眼につきます。模様が他の国にないものが多いのであります。蝉《せみ》だとか牡丹《ぼたん》だとか中でも不思議なのは猩々《しょうじょう》で盃《さかずき》を手に持つ図柄であります。どうも図の取方が西洋の骨牌《カルタ》に似たところがありますが、誰が描き始めたものでしょうか。近年各地の凧は絵が粗末になって来ましたが、高松のばかりは少しも格が落ちておりません。子供も欲しがるでしょうが大人だとて欲しい気を起すでしょう。どういうものか世に広く知られていないので、ここに書き記しました。  どの国でもそうでありますが、少しも有名でないものに、是非見直したいものがあります。この県のものとしては三つのものを挙げましょう。荒物屋で扱うものだからといって見過ごしてはなりません。一つは土地で「飯室《いいむろ》」と呼んでいる品であります。木田《きだ》郡木田村の特産で、御飯のお櫃入《ひついれ》であります。作り方は他の国にもあるのですが、仕事が丁寧な上に特に蓋《ふた》の形が豊《ゆたか》で美しいことが気附かれます。材料は稈心《みご》を用います。上品でどの家庭でも用いてほしいと思います。私が見たお櫃入としては、この「飯室」を第一に推すべきでしょうか。  善通寺《ぜんつうじ》の荒物屋で見かける品に、一閑張《いっかんばり》の塵取《ちりとり》で、とても便利なものがあります。作り方は一枚の厚紙をとり、下の二隅を重ね合せたものに過ぎませんが、その合せ方から自然に生れた形が美しい姿をなすのみならず、使い工合も申分ありません。安ものに過ぎませんが、諸国の塵取の中で第一に推してよいでありましょう。紙は渋色で柄《え》は竹であります。私はこれを見る毎《ごと》に誰にでもお土産に上げたい心を起します。  同じ地方の荒物屋で、「すべ帚《ぼうき》」と呼ぶものを売っています。「すべ」は草の名でありましょう。これも安く売る品でありますが、形がふっくらして大変美しく、茶人でも誂《あつら》えた品かと思われるほどであります。安くてしかも味いのあるこういう品をこそ、一つでも多く家庭に取入れたいものと思います。  阿波の都は徳島であります。県の名もこれにもとづきます。もと蜂須賀《はちすか》氏の城下町でありました。あるいは「阿波《あわ》の鳴戸《なると》」で人々はもっと記憶するかも知れません。または撫養《むや》の有名な凧上《たこあげ》でこの国を想い起す人もありましょう。「縬織《しじらおり》」と呼ぶ織物でも名を広めました。糸の太いのと細いのとを混ぜ、張り方を一様にしないため、布の面《おもて》に凹凸が現れる特別な織物であります。見たところでは縮緬《ちりめん》に似ているものであります。昔は他でも織られたでありましょうが、今はこの地方にだけ見られるので、土地の産物として続けたいものであります。しかし織物や染物には流行の移り変りが激しく、漸次時勢に押されぎみなのは致し方もないことであります。  手漉《てすき》の紙もこの国に見られます。一般に「宇陀紙《うだがみ》」の名で聞え、主に傘紙として用いられます。傘紙の需用は今まで和紙の丈夫さを保たせた一つの原因だとも思われます。丈夫な紙でなければ雨に堪《た》えません。  その他阿波には色々のものを数え得るでありましょうが、この国が天下にその名を成したのは何よりもまず「藍《あい》」のためであります。「阿波藍《あわあい》」といって、日本全土に行き渡り、おそらく紺屋《こうや》という紺屋、皆多かれ少かれここの藍を用いました。それというのもかつては吾々の着物のほとんど凡てが紺染《こんぞめ》であったからによります。需用は莫大《ばくだい》なものであったでありましょう。盛《さかん》に藍草《あいぐさ》を植えて、それを藍玉《あいだま》に作ったのは徳島市から程遠くない村々で、今も訪ねますと、それは見事な蔵造《くらづくり》の仕事場が見られます。何しろ江戸中期この方、日本中の販路をほとんど阿波の国|一手《いって》で引き受けていたのですから、如何に仕事が盛であったかが分ります。徳島市を流れる河岸に白い壁の大きな土蔵が列をなして列《なら》んでいますが、皆|藍《あい》を入れた倉庫であります。よい品を出すことを互に競って、年々等級を定めて名誉の札を贈ったものであります。誠に天下一の藍でありました。  藍というのは一年生草本で蓼《たで》科に属する植物であります。葉は濃い紫色を呈し花は紅で、阿波の平野にこれが一面に植えられている様も見ものでありました。その葉から染料を取ります。醗酵させて固めたものを「藍玉《あいだま》」と呼び、まだ柔いのを「蒅《すくも》」といいます。紺屋はこれを大きな甕《かめ》に入れ、石灰を加え温度を適宜にし、かつ混ぜつつ色を出します。よい色を出すのはなかなかの技で、昔は藍のお医者があったといわれるほどであります。  もとより青の色でありますが、普通淡い方を「藍《あい》」といい濃い方を「紺《こん》」と呼び慣わしています。この色は広くは東洋の色と称してもよく、西洋には余り発達の跡を見ません。そのためでもありましょうが、西洋人は植物から取るこの天然藍に一入《ひとしお》感じ入るようであります。かえって私たちは余りにも見慣れているため、その価値を顧みない傾きがあります。もとより支那でも好んで常民の服に用いられましたが、おそらくこの色を最も多く取入れたのは日本人ではないでしょうか。その証拠にはこの色を以て凡《すべ》ての色を代表させました。染物屋を呼んで「紺屋《こうや》」といいます。庶民の着物であった絣《かすり》もまた「紺絣《こんがすり》」の名で親しまれました。それほどわが国では紺が色の本《もと》でありました。遠い地方にはいわゆる「地玉《じだま》」といってその土地の藍もありましたが、何といっても「阿波藍」は藍の王様でありました。色が美しく、擦《こす》れに強く、香《かおり》が良く、洗いに堪え、古くなればなるほど色に味《あじわ》いが加わります。こんな優れた染料が他にないことは誰も経験するところでありました。  しかし時は流れました。明治の半頃《なかばごろ》までさしも繁昌を極めた「阿波藍」にも大きな敵が現れました。化学は染めやすい人造藍を考え出しこれを安く売り捌《さば》きました。利に聡《さと》い商人たちはこれにつけ込みましたから、非常な早さで蔓延《はびこ》りました。そのため手間のかかる本藍はこれに立ち向うことが難《むずか》しくなりました。それは近世の日本染織界に起った一大悲劇でありました。昔あれほど忙しく働いた大倉庫は、まるで空家《あきや》のように荒れ始めました。そうして今は細々とわずかばかりの仕事を続けているような事情に陥《おちい》りました。  これは時勢といえばそれまででありますが日本人は人造藍で便利さを買って、美しさを売ってしまいました。この取引は幸福であったでしょうか。そうは思えないのであります。なぜならこれは少数の商人に大きな利得をさせたというに過ぎないでありましょう。買手はこれで安く品が買えたとしても、色は本藍ほどに丈夫ではありませんし、使えばきたなく褪《あ》せてゆきます。それに何より取返しのつかないことは、天然藍が有《も》つ色の美しさを失ってしまったことであります。化学は人造藍の発明を誇りはしますが、誇るならなぜ美しさの点でも正藍《しょうあい》を凌《しの》ぐものを作らないのでしょうか。それは作らないのではなく、作れないのだという方が早いでありましょう。この点で化学は未熟さを匿《かく》すことは出来ません。美しさにおいても正藍を越える時、始めて化学は讃えられてよいでありましょう。化学は天然の藍に対しては、もっと遠慮がなければなりません。  誰も比べて見て、天然藍の方がずっと美しいのを感じます。それ故昔ながらの阿波藍を今も用いる紺屋は、忘れずに「正藍染《しょうあいぞめ》」とか「本染《ほんぞめ》」とかいう看板を掲げます。そうしてその店の染めは本当のものだということを誇ります。また買手の方も「正藍《しょうあい》」とか「本染《ほんぞめ》」とかいうことに信頼を置き、かかる品を用いることに悦びを抱きます。これは今では贅沢《ぜいたく》ということにもなりますが、本当に仕事を敬い本当の品物を愛するという心がなくなったら、世の中は軽薄なものになってしまうでありましょう。つい半世紀前までは日本の貧乏人までが、正藍染の着物を不断着《ふだんぎ》にしていたことをよく顧みたいと思います。嘘もののなかった時代や、本ものが安かった時代があったことは、吾々に大きな問題を投げかけてきます。これに対しどういう答えを準備したらよいでしょうか。  私は思わずも藍のことで余り長く阿波の国に止《とど》まりましたから、旅を土佐の国へと急ぐことに致しましょう。ここは高知県で都は高知であります。山内《やまのうち》氏の居城のあったところであります。この県にある色々の産物の中で主なるものを三つ四つ挙げることに致しましょう。一つは高知や御免《ごめん》のような町々で出来る金物であります。一つは世に聞えている土佐紙であります。一つは能茶山《のうさやま》の焼物であります。それに多少竹細工その他のことを附け加えましょう。  高知の町を歩きますと、なかなか大きな店構えをした金物商があることに気附かれます。色々の金具類を売りますが、他の国にない特色あるものが少くありません。「お染錠《そめじょう》」とか「なば鉈《なた》」などいう名前は、それらが地方的なものであることを語ります。見ると出来が皆手堅いのは、歴史に由来すると思われます。昔の刀鍛冶《かたなかじ》が明治維新この方、新しい職を求めて鉈《なた》、鉞《まさかり》、手斧《ちょうな》というような日常の用具を作るようになりました。刃物の鍛え方に昔の法が残るためか仕事がよく、また切れ味が冴《さ》えているのが気附かれます。仕事をする人たちも、自分の名誉にかけて作る風が残り、鑚彫《たがねぼり》で見事な書体で「土州住国光」とか「豊光」とか「国清」とか、古鍛冶《こかじ》に見られるような銘《めい》を刻むことを忘れません。伝統が今も続いていることが分ります。こういうような品物は、いわば職人気質《しょくにんかたぎ》が残っていて、粗末なものを作るのを恥じる気風があって、仕事の裏に一種の道徳が守られているのを感じます。こういう風こそはどの世界においても尊ばれてよいことと思います。仕事は安藝《あき》郡、香美《かみ》郡、長岡《ながおか》郡などにも及び、信用は販路を遠くまで拡げました。土州《どしゅう》が誇るに足りる手仕事の一つであります。  しかし土佐といえば、誰も産物として手漉《てすき》の和紙を挙げるでありましょう。「土佐半紙《とさばんし》」の名は「土佐絵《とさえ》」、「土佐犬《とさいぬ》」、「土佐節《とさぶし》」などの如く、土佐に因《ちな》むものとして広く聞えます。時と共に需用が多く、色々新しい機械や道具も取入れましたが、しかし昔からの手漉紙は今も絶えません。ここでは特に「仙貨《せんか》」(または仙花)と呼ぶ紙が沢山作られます。仙貨は人名にもとづくといわれ、伊予宇和島で出来たのが事の始めだといわれます。今は吾川《あがわ》郡の伊野が中心でありますが、少し田舎に入って仕事場を訪ねますと、昔ながらの風情で流漉《ながしずき》をしている様が見られます。しばしばごく小さな箱舟で、みすぼらしい道具を使いながら細々と紙を漉《す》いている光景に接しますが、出来る品物を見ますと、清くて張りがあって誠に立派な品であります。貧乏くさいそれらの仕事は決して小さな働きではありません。手漉《てすき》の業《わざ》は農村の家庭に行き渡っていて、これが土佐紙の手堅い基礎をなしていると思われます。障子紙、傘紙などの需用は、丈夫な質のよい生紙《きがみ》を求めて止《や》みません。いずれも楮《こうぞ》を主な原料として作ります。和紙はこの郡の物産として年産額の最も大きなものであります。紙を用いたものとしては香美《かみ》郡の山田町の雨傘が久しく名を成しました。  私はここで高知市の町はずれにある一つの窯場についても書き添えねばなりません。「能茶山《のうさやま》」といいまして、古くは「尾戸焼《おどやき》」の名で知られた窯場であります。ここは四国での唯一の窯らしい窯で、近在で用いますひと渡りの雑器を皆焼きます。甕《かめ》だとか土瓶だとか壺だとか茶碗だとか、今も盛《さかん》に作られます。いずれも安い不断使《ふだんづか》いのものでありますが、しばしば大変美しい上《あが》りのものを見出します。凡《すべ》て実用品には遊びがないので、これが品物を正しい品物にさせる原因をなすと思われます。  能茶山ほど知られてはいませんが安藝《あき》町近くにも一基の窯があって、烟《けむり》が立ちます。こういう雑窯はかえって省みられねばなりません。正直な仕事をしていますので。 「土佐玉《とさだま》」の名で知られた「珊瑚細工《さんございく》」も高知の誇るものであります。甲府の水晶細工や松江の瑪瑙細工《めのうざいく》などと共に、その土地の土産ものとして想い起されるものであります。近年になってからのものでありますが、この高知市では盛に裂織《さきおり》を作って輸出ものに応じました。花模様の入ったものなども作られます。不用の布を裂《さ》いて緯《よこ》に織り込むものでありますが、これも色と模様とさえよかったら、見違えるほどの効果を示すでありましょう。  南の暖い国でありますから、竹が生い茂るのは申すまでもありません。そのため竹細工の技《わざ》にも見るべきものがあります。海辺でありますから釣《つり》で用いる畚《びく》などにも美しい出来のを見かけます。竹細工の一つで「竹《たけ》の子笠《こがさ》」と呼ばれているものがあります。お百姓や車夫たちが用いている普通のものでありますが、仕事が大変丁寧な上に、特に形の品《ひん》がよく、さながら公家衆《くげしゅう》が用いたものではないかとさえ見間違えるほどであります。そのまま能役者《のうやくしゃ》が用いたとて相応《ふさ》わしいでありましょう。こういうものを誰も不断に用いるとは有難いことではありませんか。  土佐といえば室戸崎《むろとざき》の風光や、食物では鰹《かつお》の「はたき」と呼ぶ料理が自慢であります。旅では眼に口に味うものが山々あります。  伊予の国に入りますと、県も愛媛《えひめ》に変ります。この国は宇和島《うわじま》とか大洲《おおず》とか松山とか今治《いまばり》とか名のある古い町が少くありません。道後《どうご》の温泉の如きも広く知られた地名であります。松山市には今も久松氏の旧城の一部が残って、町に重みを加えております。  伊予の国は昔は和紙でも名を成し今も多少は見るべきものを残しますが、今は仕事が土佐に奪われました。この国の物産は何といっても「松山絣《まつやまがすり》」であります。広く「伊予絣《いよがすり》」の名で聞えております。木綿の紺絣で久しく「久留米絣《くるめがすり》」などと並んで販路を全国に拡げました。大柄小柄色々と織りましたが、前者は主として夜具地に後者は着尺《きじゃく》であります。大柄の方は大概は「絵絣《えがすり》」でありまして、色々の模様を織り出しました。その中で何といっても秀逸なのは、松山城の図柄であります。日々見る郷土の風景を写し出したものとして忘れ難いものであります。下には松に囲まれた石垣を控え、上にはお城の建物が聳《そび》え、鯱《しゃちほこ》を有《も》った屋根から、空を飛ぶ鳥に至るまで、よくも上手に織り出したものと思います。日本の絣《かすり》類ではこの種の大柄ものになかなか立派なものが見られますが、伊予絣もその名誉を分つものであります。しかしこれも段々流行はずれと思われて、買う人がなく、従って作る人もなくなってゆくのは是非もないことであります。しかも近頃は手機《てばた》に便《たよ》るよりも機械に任せることが主になったので、格安には出来ますが、品質は著しく落ちて来ました。しかし日本で育った織物として絣類ばかりは是非とも健《すこや》かに栄えさせたいものであります。吾々はもっと日本から生れた日本のものを愛そうではありませんか。そうしてそれらのものを用いることに悦びを抱こうではありませんか。  伊予の国は別に竹細工の産地として名を成しているわけではありません。しかし南国のこととて太い竹に恵まれ、色々のものが作られてあります。かえって名もない台所用具や、戸外で手荒く用いる籠などの類に、形に特色あるものを見かけます。こういう地方的な品物の中で、「竹面桶《たけめんつう》」の如きは全く他にない品と覚えます。他では杉か檜《ひのき》の曲物細工《まげものざいく》でありますが、これは珍らしくも竹を曲げて作ります。多くは大洲《おおず》町で売りますが、伊予郡の出淵《いずぶち》などで出来るものであります。面桶《めんつう》は字の宋音だといいますが、多くは楕円形をした弁当箱で、地方によって呼び方の変化が多く「めんば」「わっぱ」などともいいます。こういう品物の方言的な名称を集めたら、一冊の大きな興味深い字引となるでありましょう。伊予郡|砥部《とべ》町の窯は久しく名があります。材料のよい磁器などを見ると、今日品物の格がいたく落ちたことを一入《ひとしお》残念に思います。また西宇摩《にしうま》郡の穴井《あない》にマウラン製の敷物を産します。岡山県のものと共に好個の品で、洋間には大《おおい》に用いられてよいと思います。  道後の温泉場の小間物店などに、色糸で美しくかがった手毬《てまり》が見られます。如何にも日本の娘たちの優しい心相手だと思われます。「姫達磨《ひめだるま》」もここのは丁寧な作りであります。温泉で一夜《ひとよ》巡礼の足を休め、更に九州へと旅を続けることと致しましょう。 [#改ページ] [#3字下げ]九州[#「九州」は中見出し]  九州というのは、もとより九つの国から成立つのでその名があります。筑前《ちくぜん》、筑後《ちくご》、肥前《ひぜん》、肥後《ひご》、豊前《ぶぜん》、豊後《ぶんご》、日向《ひゅうが》、大隅《おおすみ》、薩摩《さつま》の九ヵ国。それに壱岐《いき》、対馬《つしま》が加わります。昔は「筑紫《ちくし》の島《しま》」と呼びました。今はこれを七県に分ち、福岡県、佐賀県、長崎県、熊本県、大分県、宮崎県、鹿児島県とします。昔はこの島を、東海道や南海道に対して、西海道《さいかいどう》とも呼びました。西方の海にある国だからであります。地図の位置はそれが熱い地方であることを示します。  中でも日向の高千穂《たかちほ》は天孫降臨の地として古い物語を有《も》ち、日本の歴史にとって由緒《ゆいしょ》の深い土地であります。名にし負う耶馬渓《やばけい》の奇観、霧島のあらたかな峰、阿蘇《あそ》のものすごき噴火など、いずれも九州の大きな自然を語ります。今この島を仮りに右と左とに分けますと、東側に当る右の方より、西側に位する左の方に、早くから様々な文化が栄えました。思うにこれは西の面が亜細亜《アジア》大陸と相対し、また外国との交通が港を通して早くから行われていたのに由《よ》るのでありましょう。博多《はかた》、平戸《ひらど》、長崎、鹿児島のような港は、海外にもその名が知られていました。それらの港を指して四つの方向から文物《ぶんぶつ》が入りました。一つは朝鮮、一つは支那、一つは南洋、一つは西洋であります。かくして様々な新しい知識や技術が迎えられました。それに福岡の黒田、佐賀の鍋島、久留米の有馬、熊本の細川、鹿児島の島津など、最も大きな大名たちの居城がほとんど西側の国々に在りました。これに引きかえ裏九州には、中津、大分、臼杵《うすき》、延岡《のべおか》、宮崎、都城《みやこのじょう》の如き町々はありますが、表九州の都には比ぶべくもありませんでした。  私はここで国々を順次に訪ねるよりも、品物の種類を追って、手仕事の跡を見ることに致しましょう。九州を語るについては、何よりもまず焼物のことが心に浮びます。それほどこの九州と焼物とは関係が深く、また窯数からしましても、どの地方よりも多いのであります。九州は地図が示しますように、支那と朝鮮とに最も近いため、それらの国から色々の影響を受けました。中でも朝鮮との縁故《えんこ》は深く、江戸時代三百年の間に、日本の焼物を非常に発達させる原因をなしました。豊臣秀吉の軍が、朝鮮に攻め入った時、彼は不思議な命令を下しました。それは俘虜《ふりょ》の中から、陶工をつれて帰れということでありました。秀吉は武人でありましたがなかなかの風流人《ふうりゅうじん》で、ことのほか茶事《ちゃじ》に熱心でありました。その頃は日本の焼物はまだ発達していませんでしたから、朝鮮から多くの焼物師をつれて来て、茶器を焼かせたかったのであります。大勢の俘虜は西九州の方々へ分れて住まわされました。彼らは大名たちの保護を受けて、陶土のある各地へ窯を築きました。  有名な有田《ありた》の磁器《じき》はかくして起ったのであります。李参平《りさんぺい》という人がその開祖として名が残ります。古薩摩《こさつま》と呼ばれるものも、かくして始まりました。有名な唐津も新しく仕事を起しました。八代《やつしろ》の象嵌《ぞうがん》の法も彼らから教わりました。象嵌というのは模様を中に嵌《は》め込むやり方であります。かくして焼物は新しい産業として目覚ましい発展を遂《と》げるに至りました。今でも九州ほど製陶の業が盛なところを他に見ないのは、そういう歴史に由来するからであります。三百年の歳月は朝鮮の風《ふう》を充分に咀嚼《そしゃく》して、日本のものに凡《すべ》てをこなしました。果して今どんなものが作られつつあるのでありましょうか。私は地図を追って、それらのものを訪ねて歩きましょう。  窯の大きさからいって、また作り出す品物の数から見て、一番仕事が盛《さかん》なのは磁器であります。有田を中心に、肥前の国には所々方々に窯があります。ここで簡単に磁器と陶器《とうき》との区別をお話しておくのも無駄ではないかと思います。一番早い見分け方はもし白くて半透明で、表面に少しも細かい罅《ひび》が入っていない焼物がありましたら、それは磁器なのであります。これに反し全く不透明で罅が沢山入っているものがありましたら凡て陶器であります。また普通は磁器の方が焼く時の熱度が高いので、よく焼きしまり従って硬《かた》くて丈夫なわけであります。今多くの家庭で用いている白い素地《きじ》に藍《あい》で絵附けがしてある御飯茶碗は、凡て磁器であります。しかるに台所で使っている水甕《みずがめ》だとか、擂鉢《すりばち》だとか、行平《ゆきひら》などは、おおむね陶器であります。  前にも申したように肥前の有田を中心に今も沢山に磁器が焼かれます。ここは北陸の九谷《くたに》と並んで磁器の二大産地であります。磁器には大体二通りありまして素地の上に藍色の絵具で絵を描いて焼いたものと、一度焼いたものの上に更に赤、緑、黄、黒、金などの色で絵を加え、それを再び弱い火度で焼いたものとがあります。慣《なら》わしとして前のものを「染附《そめつけ》」または「呉州《ごす》」といい、後のものを「赤絵《あかえ》」とか「上絵《うわえ》」とか呼びます。よく寿司屋が用いる「錦手《にしきで》」の皿や鉢は皆赤絵であります。有名な柿右衛門《かきえもん》はこの上絵を試みた古い人でありました。  さて右のような二種類の磁器で九州出来のものを一般に「伊万里焼《いまりやき》」と呼んできました。伊万里は産地ではなく肥前にある港の名で、ここから有田その他の焼物が船に載《の》せられて諸国へ運ばれました。そのためこの辺の磁器を凡て「伊万里」と呼ぶようになったのであります。もとより生産は有田が中心でありましたから「有田焼」の名でも聞えました。この地方に磁器がかくも栄えたのは全く質のよい磁土が近くに見出されたからによります。今も窯の煙《けむり》が絶えたことはなく、夥《おびただ》しい需用に応じます。家庭で日々用いる食器としてはこれらの磁器にまさるものはありません。磁器は特に支那、朝鮮、日本の三国が本場で、西洋では古くは発達の歴史がないのであります。  しかし現に作られている仕事を見ますと、残念にも四つの点で昔のものに劣るのを感じます。一つは形が弱くなり、昔のようなふくらかさや張りを失いました。一つは絵が段違いに拙《まず》くなって、活々したものがなくなりました。充分模様にこなされていないためとも思われます。一つは用いる色が俗に派手になって落着きを欠いてきました。これは天然の呉州《ごす》が廃《すた》れ化学的なコバルトがこれに代ったことが大きな原因でありましょう。一つは材料が人為に過ぎて骨を持たなくなりました。無理して白さを追ったり、また余りにも火度を上げたりすることも、味いを奪う原因となったと思われます。別に技《わざ》が下ったためではなく、むしろ醜いものを上手に作っていると評する方が早いでありましょう。そのため仕事が盛《さかん》であるにかかわらず、選び得るものが案外少いのは遺憾に思います。古い「色鍋島《いろなべしま》」や柿右衛門風な品を上手に真似る人はありますが、単なる模写に止《とどま》って、創作の強みを持ちません。材料をもう少し自然さに戻し、形や模様や色を健《すこや》かにしたら、仕事がどんなに甦《よみがえ》って来るでありましょう。  しかし幸《さいわい》なことに磁器を去って陶器《とうき》の世界に来ますと、昔にも負けない堂々たるものが作られているのを見出します。何も凡てが優れているわけではありませんが、健康なものや淳朴なものや質実なものが数多く見出されます。ただそれらのものがほとんど約束でもしたかのように、雑器の中にのみ見られるということは、興味深い事実だと思います。茶人好みで作った趣味の品や、贅沢《ぜいたく》に凝《こ》って作った高価な品にはかえって活々したものが見つかりません。考えると安い品物の方にかえって美しいものが多いのですから、こんな有難いことはありません。更によく考えますと、質素な性質があればこそ、美しさが保障されて来るのだという真理が分ります。昔から聖人たちが質素な生活と健全な生活とには深い結縁《けちえん》があると教えているのを想い起します。贅沢や遊びはとかく悪の原因になることを工藝の世界でも学ぶことが出来るのであります。  薩摩の国に苗代川《なえしろがわ》と呼ぶ古い窯場があります。まずそこを訪ねることに致しましょう。場所は伊集院《いじゅういん》の近くであります。三百年の昔、大勢の陶工が朝鮮からここに移住しました。それ以来幕末まで、日本人とは婚姻を結ばずにずっと此処《ここ》に住んでいたのでありますから、今も沈《ちん》とか金《きん》とか崔《さい》とかいう名を用いる者が少くありません。古い時代の品は「古薩摩《こさつま》」と呼んで珍重されます。今この窯では二種類のものを焼き、一方を「白もん」、他方を「黒もん」と名附けます。「もん」は「物」の義であります。白い色の焼物の方は上等で、黒い方のは安ものとされます。それ故「黒もん」といえば軽蔑《けいべつ》の意味が含まれます。ところがこの「黒もん」の方にこそ、実に見事なものがあって、古薩摩に劣らぬ力と美しさとを示します。またこの方にずっとよく伝統が残され、形に素晴らしいものを見出します。鉄釉《てつぐすり》一色で模様も何もありませんが、この釉薬《くすり》が火加減で「天目《てんもく》」ともなり「飴《あめ》」ともなり「柿《かき》」ともなり時としては「青磁《せいじ》」ともなります。酒注《さけつぎ》である「ちょか」とか、汁を煮たり御飯を焚《た》いたりする「山ちょか」とか、「そばがき」と呼ぶ碗だとか、他国にないものを色々と作ります。中から上《あが》りのよいのを選び出しますと、本当に名器《めいき》と呼びたいものに廻《めぐ》り会えます。時勢の流れが激しいのに、よくもこんな仕事が廃《すた》れずに続けられているものと不思議に思われるほどであります。苗代川は「黒もん」があるが故に、日本で最も優れた民器を焼く窯として、賞め讃えられねばなりません。  薩摩の隣りは大隅《おおすみ》の国であります。皆ここに帖佐《ちょうさ》という窯場があって、苗代川と兄弟の間柄でした。幸《さいわい》その歴史が今は竜門司《りゅうもんじ》というところに伝わって、よい仕事が見られます。特に今出来るもので美しいのは「飯鉢《はんばち》」と呼んでいるもので、素地《きじ》の上に白土をかけ、これに緑と飴色との釉《くすり》を垂らします。色が冴えて上《あが》ると、まるで支那の有名な「唐三彩《とうさんさい》」を想わせます。安いのでなお誰にも使って欲しく思います。飯鉢とは、暑い地方のこと故、御飯が饐《す》えないようにとて作った鉢であります。そのほか「しゅけ」と呼んでいる蓋物や、「からから」と呼ぶ醤油注《しょうゆつぎ》など、皆よい家庭の友となるでありましょう。  これらの窯と共に、なおも驚くのは日田《ひた》の皿山《さらやま》であります。豊後《ぶんご》の国の山奥にあるため、今日までほとんど誰からも知られずにいました。皿山という言葉は九州ではよく用いられ、焼物を作る場所のことであります。この窯は日田郡|大鶴《おおつる》村の小鹿田《おんだ》という所にあるため、近在では「小鹿田焼《おんだやき》」で通ります。不便な所で荷を車で出す道さえありません。福岡県と大分県との境にある有名な英彦山《ひこさん》にはほど遠くない所であります。その山の近くに小石原《こいしわら》と呼ぶ窯場がありますが、小鹿田の皿山はその系統を引くものであります。この小石原でもよい雑器を見かけます。小鹿田では近在の農家で用いる品は一通り皆作りますから、種類が大変多いのであります。甕《かめ》、壺、鉢、皿、碗、土瓶、徳利、口附、片口、擂鉢《すりばち》、水差、何でも揃えることが出来ます。それに無地はもとより、流描《ながしがき》、櫛描《くしがき》、指描《ゆびがき》、飛《と》ばし鉋《かんな》など様々なやり方を用います。絵ものは一つもありませんが、その代り極めて多彩であります。白、黒、飴、黄、緑、青など、これらのものがあるいは地色になったり、流《ながし》の色になったりします。こういう品物を台所なり食卓なりに置くと、花を活けているのと等しいでありましょう。それに驚くことにはいずれも形がよく、醜いものとてはありません。どの窯でも多かれ少かれ醜いものが混《まじ》りますが、この窯ばかりは濁ったものを見かけません。伝統を猥《みだ》りに崩さぬためと思われます。もし今後醜いものが現れますなら、それは新しく試みた品物に限るでありましょう。九州に窯は沢山ありますが、おそらくこの日田の皿山ほど、無疵《むきず》で昔の面影を止めているところはないでありましょう。こういう害《そこな》われない状態で今日まで続くとは不思議なことだといわねばなりません。それ故昔の窯場がどんな様子であったかを思いみる人は、現にあるこの小鹿田《おんだ》の窯を訪ねるに如《し》くはないと思います。  筑後にある窯場では三池《みいけ》郡の二川《ふたがわ》を挙げるべきでありましょう。仕事場として美しい茅葺《かやぶき》の建物が見られます。この窯は昔北九州地方でよく描かれた松絵の大捏鉢《おおこねばち》や水甕《みずがめ》を、一番近年まで焼いていたところであります。近頃また再興しましたが雄大な作品であります。ここで出来るもので水甕や蓋附壺によい品がありますが、甕で「利休《りきゅう》」と呼んでいる黄色い釉薬《うわぐすり》のがあります。この色は特別に美しくやや艶消《つやけし》の渋い調子であります。その他肥前の窯場として、注意すべきは白石《しらいし》の鉛釉《なまりぐすり》の陶器や、黒牟田《くろむた》の品であります。前者の土鍋は多彩で美しく、飯鉢《はんばち》にもよいのがあります。後者は昔から色々のよい雑器を焼いた窯でありまして、今も伝統が残ります。美しい櫛描の捏鉢《こねばち》を作った肥前の庭木は全く廃《すた》れましたが、弓野はわずかに烟《けむり》をあげます。筑前の野間《のま》の皿山で盛《さかん》に作る行平《ゆきひら》は、白土で線を引いた地方的な味の濃いものであります。ですが筑前では何といっても西新町《にししんまち》の窯を挙げねばなりません。古くから「高取《たかとり》」の名において歴史に知られた窯であります。福岡市の郊外に在ったのですが、今は市内に編入されました。この窯はいわゆる「遠州七窯《えんしゅうしちよう》」の一つで、茶人遠州の好みの品を焼かせた所として名が聞えます。しかし他の窯の例と同じように、茶器の類にはよいものがなく、活々しているのは大捏鉢《おおこねばち》とか、水甕とか、「うんすけ」と呼んでいる口附徳利だとか、そういう台所道具の類であります。形も釉薬もよく、強くて立派な感じを受けます。またここで作る焼物の厨子《ずし》も忘れ難いものであります。近頃色々な事情で仕事がやや荒れて来ましたが、もし福岡の人たちがこの窯の雑器にもっと誇りを感じ出すなら、再び力を取戻すことは決してむずかしくはないと思います。今から十年ほど前までは、堂々たるものを無造作に焼いていたのですから。久留米近くに赤坂の窯があります。西新町の系統を引く品物を焼きます。  もとより歴史に有名な窯で廃《すた》れてしまったり全く昔の面影がないほどに衰えてしまったものも少くありません。例えば肥前の唐津《からつ》や、または現川《うつつがわ》や、筑前の上野《あがの》や、筑後の八代《やつしろ》の如き、昔の勢いは過ぎ去りました。唐津で想い起しましたが、この窯は歴史が古くまた甚だ栄えたと見えて、今でも九州では焼物のことを凡て「唐津」といいます。固有名詞が一般名詞に高まったのでありまして、丁度関東で焼物のことを「瀬戸物」というのと同じであります。焼物は九州の最も大事なまた盛な仕事でありますから、思わず筆が長くなりました。次は織物のことへと話を移しましょう。  豊前《ぶぜん》の小倉《こくら》といえば、すぐ「小倉縞《こくらじま》」とか「小倉織《こくらおり》」とかいう言葉が浮ぶほどこの織物は有名でありました。木綿のもので、よく目がつんでいて丈夫を以て名があり、主として帯《おび》や袴《はかま》に用いられました。町の特産物として大切なものでありましたが、惜しいことに今は全く衰えて復興の気運も見えないのは残念なことであります。この織物と共に想い起されるのは筑前の「博多織《はかたおり》」であります。「博多」といえば誰も知っているほど特長のある織物で、幸に今も続いて織られます。「博多帯《はかたおび》」の名があるほど帯地《おびじ》を主《おも》に作ります。絹を材料とする密な堅い織で、柄《がら》にも特色があります。仕事として誠に立派なものといえましょう。ただ織《おり》の技《わざ》をよく守っているのに比べて、染《そめ》の技《わざ》が近頃落ちて来たのは、如何にも残念に思います。昔のように色を草木から取ることをしなくなりました。染めやすいためまた値が安いため、とかく化学染料を用いるので、今まで見なかった俗などぎつい色が現れるに至りました。なぜ化学は美しさの点で天然の色に負けるようなものを発明したのでありましょうか。便利を得て、美しさを失うような発明のために、この世が醜くなるようでは、片手落《かたておち》な学問といわねばなりません。なぜ化学は安くてしかも美しい染料を見出し得ないのでしょうか。  九州の織物ではもう一つぜひ忘れてはならないものがあります。それは「久留米絣《くるめがすり》」でありまして、おそらく日本のどの国の人も、これで着物を拵《こしら》えたでありましょう。品物は久留米に集められますが、仕事の中心は八女《やめ》郡であります。年産額は一千万円を超え、二百万|反《たん》余を産し、十万戸の家がこれで生計を立てているといわれます。天明《てんめい》年間に井上伝女《いのうえでんじょ》の始めるところと伝え、阿波藍《あわあい》を用い丈夫を旨として出来る絣《かすり》であります。中に「白絣」もありますが、「紺絣」がその大部分を占め、時としてはこれに多少の赤を交えたのを見かけます。  絣の技はもと琉球《りゅうきゅう》から伝ったものでありましょう。しかし久留米において最も大きな仕事に育ち、民衆の不断着になくてならないものとなりました。余り見慣れているので、またかと思いますが、しかしよく考えてみますと、日本の織物として最も誇り得るものの一つではないでしょうか。もし海外に輸出を計るとしたら、必ずや賞讃を博するものと思います。外国には全くその伝統がなく、容易に作り得るものではないからであります。  絣はなかなか手間のかかる織物で、一朝一夕に考え出された仕事ではありません。手法も様々に分れましたが、凡ては日本の所有する大切な技術だと思います。ただ愚かな流行に押されて、こういう伝統がとかく顧みられなくなる傾きがあるのは如何にも残念なことであります。それに正藍《しょうあい》を棄《す》てる者が漸《ようや》く殖《ふ》えて来たことは、紺絣の名をどんなに痛めているでありましょう。再び本筋の仕事に戻って、その声価をいよいよ高めたいものと思います。そうして声を大にして、この仕事の値打《ねうち》を語り、ますますその美しさを広めたいものと思います。絣《かすり》は「飛白」とも書き、また「綛」「纃」などの字も用いますが、「かすり」は「掠《かす》る」という言葉に由来するものであります。  ここで「薩摩絣《さつまがすり》」または「薩摩上布《さつまじょうふ》」といわれるものについても記しておかねばなりません。元来は琉球のものでありまして、実際薩摩ではこれを「琉球絣《りゅうきゅうがすり》」と呼んでいるほどであります。それが薩摩を経て内地に入ったために「薩摩絣」の名で呼ばれるに至りました。しかし後にはそれを模して作る者が出で、その国の一つの産物になるに至りました。木綿の紺絣のほかに、上布があって生麻《きあさ》の上等のを用い、柄《がら》の細かいよい品を手機《てばた》にかけました。決して粗末な仕事ではありません。  しかし更になお鹿児島県のものとして特筆されてよいのは「大島紬《おおしまつむぎ》」であります。奄美大島《あまみおおしま》は今は大隅《おおすみ》の国に属していますが、元来は沖縄の一部でありました。そのため凡《すべ》てに沖縄の風《ふう》が残り、この紬《つむぎ》もその影響で出来たものであります。本来は手紡《てつむぎ》の糸を地機《じばた》で織ったのでありますが、段々普通の絹糸を使うようになりました。染めに特色があって、「てえち木《ぎ》」と称する樹の皮を煎《せん》じて染め、更にそれを鉄分の多い泥土に漬けて染め上げます。それは黒ずんだ美しい茶褐色を呈します。模様は凡て絣で出します。仕事は盛《さかん》で、島を訪《おとの》うと筬《おさ》の音をほとんど戸|毎《ごと》に聞くでありましょう。特色ある織物としてこの島にとっては大切な仕事であります。近頃非常に細かい柄に進み、織締《おりじめ》というやり方でそれを織り出しますが、しばしば度を過ごしかえって活々したものを失いました。仕事が技《わざ》の末に走ると、美しさはかえって逃げ去ります。大島紬はもっと単純さを取戻すべきでありましょう。  歴史の古い博多《はかた》には面白い町が色々ありますが、とりわけ馬出町《まいだしまち》には眼を引かれます。そこには軒並に曲物細工《まげものざいく》の店が見られます。歴史は相当に古いようであります。主に杉の柾目《まさめ》を使って曲物を作ります。柄杓《ひしゃく》のような簡単なものから、飯櫃《めしびつ》だとか水桶《みずおけ》だとか寿司桶《すしおけ》など、色々と念を入れた品を見出します。よい品は二重三重に貼って、これを桜皮で縫って止めます。よい品は必ず二十年三十年と材を涸《か》らしてからでないと作りません。ごく手堅い職人|気質《かたぎ》の残る仕事で、その出来栄《できばえ》には見事なものがあります。ここに手仕事の道徳とでもいうものを、まともに感じさされます。こういう気風が衰えて来た今日のこと故、尚更《なおさら》心を打たれます。  福岡市では「菱足《ひしあし》」と呼ぶ鋏《はさみ》を売ります。左右の足に菱紋《ひしもん》が刻んであるので、その名を得たのでありましょう。形もよく切れ味もよい品であります。福岡県内の三瀦《みずま》郡|木佐木《きさき》村|八丁牟田《はっちょうむた》という所で、一時「花筵《はなむしろ》」の美しいのを作りました。随分|盛《さかん》に輸出したといいますが、よい仕事でした。岡山県のものと共に花筵の存在を語るものであります。色にもぼかしなど用いて綺麗なものがありました。輸出の仕事は盛衰がはげしいので、近頃はどうなったでしょうか。佐賀の町で売る赤塗《あかぬり》の飯櫃も特色あるものといえましょう。他では見かけません。漆器《しっき》では熊本で売っていた仏器を想い出します。形も塗《ぬり》もよく、いわゆる「地出来《じでき》」の味の濃いものであります。また同じ町で白木で箍《たが》の入った桶類によい形のを見かけます。鹿児島は近在が黄楊《つげ》の木の産地であるため、そこの黄楊櫛《つげぐし》は仕事のよさで名があります。更になお名があるのはその町の錫細工《すずざいく》で、伝統はどういう仕事が正しいのかを工人たちに教えています。長崎の鼈甲細工《べっこうざいく》も世に聞えます。南の海からこの材料を得やすいために、この港で発達したのでありましょう。美しい材料ですし、自然の斑《ふ》が既に模様をなしているのですから、あとはよい形さえ与えればよい仕事となるのは必定《ひつじょう》であります。  九州は暖い地方とて竹に恵まれます。細工は各地で多かれ少かれ見られますが、特に名を高めたのは別府《べっぷ》の仕事であります。そこに行きますと、如何《いか》に様々なものが竹で作られているかを見られるでしょう。もとより籠《かご》や笊《ざる》はその筆頭をなすものでありますが、仕事が盛なだけに、組方《くみかた》に、色附《いろつけ》に、形に様々な工夫を凝《こ》らします。竹細工の技《わざ》ではおそらく別府が最も進んでいるかと思われます。しかしそれだけにここの仕事には危険が多く、技の末《すえ》に陥って、特に花籠《はなかご》の如きはいやらしいものさえ少くありません。こういうものを見ると、単純に用途のために出来る雑具の方に強みのあるのを感じます。日向《ひゅうが》の高千穂地方に「かるひ」と称する竹籠がありますが、山に行く時よくこれを背負います。「かるひ」とは方言で担《にな》う意の由であります。この背負籠の作り方などは、全く竹の性質をよく活かしたもので、別府あたりの品がとかく造作に過ぎて竹の性質を殺しているのとは、大変な違いであります。「かるひ」の如きは誰も注意しませんが、九州で出来る竹細工としては第一流の列に入るものでありましょう。主な分布区域は宮崎県から熊本県にわたる県|境《ざか》いであります。また大分県の水郷|日田《ひた》町に近い大鶴《おおつる》村で竹製の飯櫃を作ります。珍らしい品といえましょう。  日向で思い出しますのは、碁石《ごいし》であります。いわゆる「本蛤《ほんはまぐり》」と呼んで、この国の製品のよさを誇ります。  九州には四国ほどではありませんが、和紙を各地に産します。日向国《ひゅうがのくに》東諸県《ひがしもろかた》郡の本庄や、薩摩国《さつまのくに》日置《ひおき》郡|伊作《いざく》や、肥前国《ひぜんのくに》北高来《きたたかき》郡|湯江《ゆえ》村や、まだ色々の個所がありますが、九州第一の紙の郷土は筑後国《ちくごのくに》八女《やめ》郡でありまして、矢部川に沿う村々で盛に漉かれます。中でも古川村がその中心をなします。  和紙を用いた加工品としては、肥後《ひご》来民《くたみ》の団扇《うちわ》を挙げねばなりません。柄《え》は平竹《ひらたけ》を用い、骨は上にやや開き、色は淡い渋色に染められます。使いよい品なので、この町の特産として名を広めたのは当然であるといえましょう。紙を用いたものとしては紙鳶《たこ》があります。紙鳶といえば誰もすぐ長崎のものを想い浮べるほど、その町のものは名を得ました。  九州には玩具の見るべきものも残ります。博多の鳩笛、柳河《やながわ》の羽子板、熊本の独楽《こま》や金太郎、または木《こ》の葉猿《はざる》、肥前|神埼《かんざき》郡尾崎の子供笛、同国北高来郡の古賀人形《こがにんぎょう》、鹿児島の香箱《こうばこ》や糸雛《いとびな》など、挙げれば色々と想い出されます。女達磨《おんなだるま》も豊後《ぶんご》竹田のものは野趣があります。博多人形は名は聞えていますが、ほとんど昔の美しさを失いました。  終りに鹿児島辺で見られる馬具についても言い添えるべきでありましょう。前後が山型をした珍らしい鞍《くら》で、多くはこれを朱塗にし、上に金具の飾りを沢山あしらいます。北の端の弘前《ひろさき》の和鞍《わぐら》と南北好一対をなすものといえましょう。形が珍らしく他に類を見ません。  ここで九州の旅を終え、鹿児島から船出して更に南へと下りましょう。既に旅の終《おわり》に近づきました。 [#改ページ] [#3字下げ]沖縄[#「沖縄」は中見出し]  火に燃ゆる桜島《さくらじま》を後にし、右手に開聞《かいもん》ヶ|岳《たけ》の美しい姿が眼に入りますと、船は早くも広々とした海原《うなばら》に指しかかります。煙に包まれる硫黄島《いおうしま》とか、鉄砲で名高い種子島《たねがしま》とか、恐ろしい物語の喜界《きかい》ヶ|島《しま》とか、耳にのみ聞いたそれらの島々を右に見、左に見て進みますと、船は奄美大島《あまみおおしま》の名瀬《なぜ》に立寄って、しばし錨《いかり》を下ろします。更に南へと船首《みよし》を向ければ、早くも沖縄《おきなわ》の列島に近づきます。行く手に細長い島が横《よこた》わりますが、古くからこの島を沖縄と呼びました。沖に縄が横わるように見えるので、その名を得たといわれます。支那ではこの島を琉球と呼びました。沖縄はその本島のほかに沢山の島々があって、中で久米島《くめじま》とか宮古島《みやこじま》とか八重山島《やえやまじま》とかの名は、度々耳にするところであります。  日本では一番南の端の国で、荒れ狂う海を渡って行かねばならないので、昔はそこに達するのが並大抵な旅ではありませんでした。この文明の世の中でも、神戸から早い船ですら三日三晩もかかります。島の人たちは孤島にいるという淋《さび》しい感じをどんなにしばしば味《あじわ》ったことでありましょう。  ですが面積の小さな島でありながらも、一つの王国を成していましたから、長い歴史が続き立派な文化が栄えました。尚王《しょうおう》が城を構えたのは首里《しゅり》で、その近くの那覇《なは》は国の港でありました。外との往《い》き来《き》が不便でありましたから、凡てのものをこの国で作らねばならなかったでありましょう。このことが沖縄に独特なものを沢山生み出させた原因となったかと思われます。  琉球といいますと、すぐ支那風ではないかと思う人がありますけれど、家も大和風でありますし、着物とても全く我国の風俗であります。そうして用いられる言葉も、ごく古い和語であって、今も候文《そうろうぶん》がそのまま活きた会話であります。「候《そうら》え」とか「はべれ」とかいう言葉で今も語り合うのは、もうこの沖縄だけとなりました。その他|草々《くさぐさ》のことで、この沖縄ほど古い日本の姿をよく止《とど》めている国はありません。大体鎌倉時代から足利《あしかが》時代にかけての習俗がそのまま今に伝えられているのであります。それ故古い日本を知るのに、この島の研究は、非常に大切なものとなってきました。  この島に来て心を惹《ひ》かれるものが色々ありますが、まず染物や織物のことから、話の糸口を解くことと致しましょう。南国のこととて四季花が絶えることはありませんし、緑は濃く海は青く地は白いのでありますから、その自然に似合う着物の色や柄《がら》も自《おのず》から大変に美しく作られました。中でも染物は目が醒《さ》めるほど華《はなや》かであります。土地ではこれを「びんがた」と呼びます。色差しの模様染との意であります。着物の類はいずれも型紙を用いて染めます。型紙には様々な模様が切りぬかれ、花だとか鳥だとか貝だとか、時には家や舟なども画題に入りました。柄のよいこと、色の美しいことで、かの有名な友禅染《ゆうぜんぞめ》にも比ぶべきものであります。おそらく女の着物としては世界で最も美しい例の一つに挙げられるでありましょう。技《わざ》の方から見ましても、よくもこうまで発達したものと思います。仕事が一番|盛《さかん》であったのは首里《しゅり》でありました。絹にも木綿にも麻にも染めました。ですが残念なことに、その優れたことをよく知らないためか、または流行におくれると考えたのか、近頃は作る人も求める人も急に減って、ほとんど絶えようとしているのであります。日本の染物の歴史にとって、取返しのつかぬ損失だと思われます。人間は時として愚かな行いを平気で見過します。  しかしこの型染《かたぞめ》の他に、糊引《のりびき》といって、布の上にじかに糊を絞り出しながら絵を描き、それを藍甕《あいがめ》に漬《つ》け、これに色を差してゆく方法があります。よく風呂敷に見られるもので、松竹梅その他の模様を大柄にあしらいます。土地ではこれを「うちくい」と呼びますが、立派なので誰の目をも引くでしょう。天気のよい日、その風呂敷を竹で張って、沢山並べて干す様は、誠に見ものであります。材料は麻を主に用います。  染物について想い起されるのは沖縄で用いる染めの材料であります。本土では既に正藍《しょうあい》が得難くなってきましたが、この島ではまだ活々と用いられています。種類が違って、広くは「山藍《やまあい》」の名で呼ばれます。色を出すのが容易で、どの家でもしこむことが出来ます。国頭《くにがみ》地方に行きますと藍畑《あいばたけ》や藍溜《あいだめ》がしばしば眼に止《とま》ります。このよい材料がある上に、黄は庭先にある「ふく木」から、茶は「てかち」と呼ぶ木から、たやすく得られるのは、沖縄の染物の強みであるといわねばなりません。  染物にも劣らず、美しいのは織物であります。織方も様々で、浮織《うきおり》といって、模様の部分を浮き糸にさせるものや、綾織《あやおり》や絽織《ろおり》や、変化が多いのであります。「みんさあ」と呼ぶ帯の織方も特色を見せます。しかし何といっても、ことのほか優れているのは絣《かすり》類であります。それもただに紺絣や白絣のみではなく、色絣《いろがすり》に進み、それも三色や四色を用いるものさえ見られます。もとより縞《しま》ものもあります。その他縞と絣とをよく合せ、「手縞《てじま》」と呼ぶものが好んで織られました。これらの織物類は彩《いろどり》の多い点でまた柄《がら》が麗《うる》わしい点で、染物と競うほどの美しさを示しました。実際これらの絣類には醜いものが一つとしてないといい得るでしょう。何がこんな不思議な力を呼び起させているのでしょうか。  よく省《かえり》みますと沖縄の絣には、どうあっても美しくなるような掟《おきて》が働いていることが気附かれます。それは悉《ことごと》く「手結《てゆい》」と呼ぶ方法で織られます。絣になる部分を括《くく》る時、単位を定め、その組立《くみたて》で模様を生むようにしてゆきます。いわば数理の法則で、いつも模様が出来上ってゆきます。そのため人間の過《あやま》ちが介入する余地がないのであります。つまり凡てが自然の数に依るため、人間の勝手な自由が許されなくなります。従って人間の誤りをも許さない方法で、凡ての絣が出来上ります。醜い品があり得なくなるのは、このような道を踏むからであると説いてよいでありましょう。  面白いことには沖縄では、島によって違うものを織らせるようにしました。これは島々の経済を無駄な競争から救う賢明な道であったと思います。八重山では白絣を、宮古では紺絣を、久米島では紬《つむぎ》をと、各〻の持前が定まっていました。「久米紬《くめつむぎ》」は泥染《どろぞめ》をしますから、その鉄分のため茶色がかった織物になります。これに絣が入って静かなよい調子を示します。しかし近頃は「手結」の法を棄てて、新しく「絵図《いいじい》」と呼ぶ法に更《か》えたため、柄の過ちが急に目立って来ました。自然に向って矢を射る者の受ける当然の罰だといわねばなりません。実は同じような欠点が宮古上布《みやこじょうふ》や八重山上布《やえやまじょうふ》にも現れて来たのでありまして、無理に細かい柄を追ったために、ここでも「手結」の道を棄てて、「板締《いたじめ》」の法を取入れました。この法が必ずしも悪いとはいえないでしょうが、このために漸次《ぜんじ》病《やまい》に落ちて活々した性質を失いました。細《こまか》い柄が必ずしも美しくなく、高価なものが必ずしも上等ではないことを、よく悟るべきではないでしょうか。これらの織物には絹も麻も木綿もまた桐板《とんびゃん》と呼ぶ繊維《せんい》も用いられました。  今も沢山織っているもので、おそらく一番美しいのは芭蕉布《ばしょうふ》でありましょう。芭蕉から糸を取って機《はた》にかけます。沖縄の夏は暑いので涼しいこの布が悦ばれます。この布で醜いものがないのは何故でしょうか。絣柄《かすりがら》を昔通りに「手結」で出してゆくからであります。そうして糸の性質が手機《てばた》をどうしても必要とするからであります。仕事は首里でもなされますが、最も盛なのは国頭《くにがみ》の今帰仁《なきじん》や喜如嘉《きじょか》であります。  沖縄の女たちは織ることに特別な情熱を抱きます。絣《かすり》の柄などにも一々名を与えて親しみます。よき織手と、よき材料と、よき色と、よき柄と、そうしてよき織方とが集って、沖縄の織物を守り育てているのであります。  次にこの島が生むものとして、忘れてならないのは焼物であります。那覇《なは》に壺屋《つぼや》という町があって、そこに多くの窯があって仕事をします。「南蛮《なんばん》」といって上釉《うわぐすり》のないものと、「上焼《じょうやき》」と呼んで釉薬《くすり》をかけたものと二種類に分れます。日々の生活に用いる茶碗とか皿とか鉢とかはいずれも皆「上焼」でありまして、「南蛮」の方は主に泡盛《あわもり》の甕《かめ》を拵《こしら》えます。これらの焼物は一見して他の国のものと違うほどその特長を示します。「ちゅうかあ」(酒注)とか「まかい」(碗)とか、「わんぷう」(鉢)とか、「からから」(口附徳利)とか、「じいしいがみ」(厨子甕)とか方言で呼ばれますが、言葉のみではなく、その形において、釉《くすり》において、色において、模様において、皆沖縄のものであることを語ります。用いる手法も大変に変化が多く、白や黒の無地はもとより、染附もあり赤絵もあり、それに珍らしく線彫《せんぼり》で模様を出します。この窯のは筆使いも活々していて、こなれた絵を自在に描きます。用いる釉薬《うわぐすり》は他に例がなく、珊瑚礁《さんごしょう》から得られる石灰と籾殻《もみがら》とを焼いて作ります。おっとりした調子で、白土の上にでも用いますと、支那の宋窯《そうよう》を想わせます。工人たちはいずれもよく伝統を守って、仕事を乱しません。かえって土地の人たちは自国の焼物を粗雑なものとして卑下していますが、多くの日本の窯場の中でも、最も美しいものを焼いている個所の一つに数えられねばなりません。また窯場の村としても大変に美しく、訪ねる人は、受ける印象を鮮かに胸に残すでありましょう。沖縄の人たちはもっと自信を持って、故郷の品を誇りとして用ゆべきであります。  この国はまた漆器を以ても名を高めました。堆金《ついきん》といって模様を高く盛り上げるものや、沈金《ちんきん》といって逆にそれを沈めたものや、また螺鈿《らでん》といって貝を嵌《は》め込んだものなどを作ります。塗りが手堅く容易に剥《は》げないのを以ても聞えます。特に朱塗は評判を高めました。面白いことに地塗に泥土と豚の血とを交ぜて用います。血は凝結して膠《にかわ》のような役を勤めます。一種の秘伝ともいいましょうか。しかしこれは上塗《うわぬり》の赤い朱の色とは関係がありません。血は黒くなるものであります。様々な塗物が出来ますが、特に珍らしいのは茶盆《ちゃぼん》の類で、足附のものや、ごく低い巾広の縁《ふち》を持ったものなどは沖縄だけのものであります。箪笥《たんす》も特色のある美しい溜塗《ためぬり》のがあります。その他|厨子《ずし》、箱、笥《け》などにもしばしば見事なものを見ます。いずれも廃《すた》れかかっていますが、何故土地の人々はこういう品をもっと自慢しないのでしょうか。  島尻《しまじり》に糸満《いとまん》という漁師町《りょうしまち》があります。暮し方が違うので、風俗も違い持物も違います。臼《うす》だとか船枕《ふなまくら》だとか煙草入《たばこいれ》だとか、立派な形を木から刻み出しますが、中でも見事なのは舟で用いる垢取《あかとり》で、思わずその形の美しさに見とれます。材は松を用います。同じく木工品で注意してよいのは那覇で作る下駄でありまして、歯が下に張った形のものであります。鼻緒《はなお》に好んで棕櫚《しゅろ》を用いますが、昔の様式を残した珍らしい下駄であります。履物《はきもの》の類では同じ町に見かける阿檀葉《あだんば》の草履《ぞうり》を挙げねばなりません。よく燻《いぶ》して海水で洗いますが、これを繰り返すこと二十年にも及ぶものがあります。嘘のような話ですが、年を経て茶色の濃くなったものは事のほか美しく、まるで茶人のために作られたかと思うほどであります。その他|編笠《あみがさ》の類や、竹笊《たけざる》や帚《ほうき》などにも、大変面白い形のものを見かけます。子供の玩《もてあそ》ぶ太鼓にも珍らしい出来のがあり、また女の児が遊ぶ手毬《てまり》にも美しいものを見かけます。多くは黒地に色染《いろぞめ》にした木綿糸でかがって紋様を出します。玩具の類も沖縄は沢山美しいものを生みましたが、これは最近に見かけなくなりました。蛇味線《じゃみせん》の音楽が盛《さかん》で、楽器作りにも技を示しますが、それに用いる爪《つめ》の形は、見とれるほど立派なものであります。牛角や象牙《ぞうげ》で作ります。  この島のものは実に見厭《みあ》きません。もとより古い城址《しろあと》や寺院や廟《びょう》や神社や、それらの建物には、忘れ得ぬ数々のものがあります。またそこに施された彫刻も優れた作が多く、長く歴史にその跡を止《とど》めるでありましょう。石灯などにも実に見るべきものが多いのであります。沖縄の墓は壮大で誰も一度見たら忘れられないでありましょう。その他芝居や踊《おどり》や音楽は日々行われ、それが地方的なものであるだけ、また古い歴史を持つだけ、大切なものであるのはいうまでもありません。まして美しいのでありますから。民謡に至ってはことのほか秀《ひい》で、八重山の如きは唄《うた》の国とでもいいましょうか。唄に生れて唄に死す島であります。沖縄の島は小さくとも、美の国においては大いなる島と呼ばれているでありましょう。 [#改丁] [#1字下げ]第三章 品物の性質[#「第三章 品物の性質」は大見出し] [#3字下げ]三つの問題[#「三つの問題」は中見出し]  私たちは日本国中を訪ね、ここに一渡りの旅を終りました。そうして幸《さいわい》にも数々の優れた品物が、各地に今も続いて作られている事情が分りました。これらの事実を祖国日本のために祝おうではありませんか。もし私たちが見た色々のものが、仮りに日本から消え去ったとしたら、どんなに日本の姿がみすぼらしいものになるでありましょう。固有のものがなくなって、どこにも特色のない粗悪なものばかりが殖《ふ》えてしまうからであります。私たちはそうなった生活を誇るわけにはゆきません。私たちの願いは、日本人が出来るだけ日本独特のものを生み、これを用いて暮すことであります。国民の生活にはかかる悦びがなければなりません。このことに対し私たちが長い旅で見届けてきたものは、どんなに吾々を気丈夫にさせるでありましょう。  もっともその中のあるものは、周囲の事情に押されて、間もなく絶えようとしています。あるものは反省が足りないため、間違った方向に誘われようとしています。あるものは立派な技《わざ》を、無駄なことに費したりしています。何が正しい品物なのかを識《し》らないからに因《よ》ります。またある場合はよい仕事を続けたいと思いながらも、粗末に作ることを強いられてしまいます。主に経済的原因から、それを余儀なくされているのであります。これらのことを顧《かえり》みると、どうしたら手仕事を安全に持続させまた発達させるかということは、国家にとって大きな課題だといわねばなりません。  各地に見られた手仕事は、いずれも遠く深い伝統の上に立っているのでありますから、一度倒れると再び起き上ることはむずかしいと思われます。伝統は丁度大木のようなもので、長い年月を経て、根を張ったものでありますから、不幸にも嵐に会って倒れてしまうと、再び旧《もと》のように樹《た》ち直るのは容易なことではありません。起し得たと思っても前ほどの勢いはなく、ついには枯れてしまう惧《おそ》れがありましょう。ましてそれに代るものは、易々《やすやす》とは得られません。しかも大木には名木が多いのであります。私たちは大切な伝統を粗末に扱うようなことをしてはなりません。それは故国に叛《そむ》くようなものであります。私がこの旅日記を書きましたのも、日本に伝わる手仕事を大切にする根本の方策が、定まるようにと希《ねが》うからであります。  もとより伝統を尊ぶということは、ただ昔を繰り返すということであってはなりません。それでは停滞を来《きた》したりまた退歩に陥《おちい》ったりしてしまいます。伝統は活きたものであって、そこにも創造と発展とがなければなりません。樹木は育ち来り、また育ちゆく樹木であります。吾々が伝統を尊ぶのはむしろそれを更に育てて名木とさせるためであります。伝統の生長こそは、国家を大きくしまた強くする所以《ゆえん》であります。もとよりその生長は、いつでも正しさや深さや美《うる》わしさを目標として進むべきなのは言うを俟《ま》ちません。私は品物の世界において、尊ばねばならぬどんな伝統が我国にあるかを探り求めたのであります。それが明《あきらか》になったからには、それを更に健《すこや》かなものに育てる任務だけが吾々に残されているのであります。  さて今や旅を終えて、それらの固有な手仕事を見るにつけ、色々省みねばならぬことがあるのを気附きます。ただ郷土的なものであるとか特色あるものであるとかいう判断で終ってよいものでありましょうか。私たちはもう少し深く立ち入って、何がそれらのものに正しさや美しさを与えているのかを見極めねばなりません。考えねばならない大切な点が三つあると思います。第一はそれらのものを作った人たちのことであります。誰がかかる立派なものを作っているのでしょうか。考えますと彼らは別に学問とてはない職人であったり農民であったりします。ですがどうして彼らによって優れた伝統が保たれているのでありましょうか。どういう力が彼らによき仕事を果させているのでありましょうか。これこそは省みられねばならぬ最初の問題でありましょう。第二はそれらの品物が持っている性質のことであります。何がそれらのものに確実さや美しさを与えているのでありましょうか。考えますと彼らは実用品であって、別にこれとて美しさを目当《めあて》に作られたのではありません。どうしても実用という世俗的な面に交ってゆくものであります。それなのに何故美しくなるのでありましょうか。考えさせられる第二の問題であります。第三にはそれらの品物が持つ美しさのことについてであります。美しさも様々なものがありましょうが、どんな性質の美しさがそこに現わされているのでありましょうか。またどんな性質の美しさであるが故に尊いのでありましょうか。これらのことを考えることによって、品物への理解は深まるでありましょう。  私がここで答えようとするのは、如何《いか》に職人たちが伝統の世界で大きな働きをしているか、またなぜ彼らにそんな力があるのであるかということであります。次にはどうして実用品に美しさが約束されるのか、否、用途に交ってこそ現れてくる美しさがあるのを、明かにしようとするのであります。そうして最後には、それらがどうして尊ぶべき美しさなのか。結局は健全な美しさなるが故だという事実、更に進んでは健康なものが一番本当の美であるという真理。私はこれらのことを語ってこの本を結ぶべきだと思います。 [#3字下げ]職人の功績[#「職人の功績」は中見出し]  興味深いことには、方々で廻《めぐ》り会ったそれらの品物は、それがどんなに美しい場合でも、一つとして作った人の名を記したものはありません。時として何地名産とか、何々堂製などと貼《は》り紙《がみ》の附いている場合もありますが、個人の名は何処にも記してありません。  ところが近世の「美術品」と呼ばれているものを見ますと、どれにも皆|銘《めい》が書き入れてあります。または落款《らっかん》が押してあります。銘というのは作り手の名であり、落款というのはその名を記した印形《いんぎょう》であります。仮令《たとえ》どんなつまらない作品にも、何某の作ということが記してあります。  ここに面白い対比が見られます。一方は名など記す気持がなく、一方は名を書くのを忘れたことがありません。なぜこんな相違が起るのでありましょうか。要するに一方は職人が作るものであり、一方は美術家が生むものだからであるといわれます。前者は多くの人たちの作り得るものであり、後者はある個人だけが作り得る作品だからであります。しかしこのことは、とかく前者を卑《いや》しみ、後者をのみ尊ぶ風習を醸《かも》しました。なぜなら職人の作ったものは平凡であり、美術家の作るものは非凡であると思われるからであります。どんな品物も銘がない場合に、その市価が落ちるのは常に見られる現象であります。ですがこういう見方は果して当を得たものでありましょうか。  私たちは無名の職人だからといって軽んじてはなりません。大勢の工人たちが作り得るものだからといって、蔑《さげす》んではなりません。なぜなら仮令《たとえ》彼らが貧しい人々であり、作るものが普通のものであろうとも、大きな伝統の力に支えられていることを見逃すわけにゆきません。彼ら自身は小さくとも、伝統は大きな力であります。それが彼らに仕事をさせているのであります。のみならず彼らの多くは辛棒《しんぼう》強く年期奉公を経て、腕を磨いてきた工人たちであります。その腕前には並ならぬ修行が控えています。どんなに平凡に見えても、誰にでもすぐ出来る技ではありません。それに仕事を疎《おろそか》にしないのは、職人の気質でさえありました。  それ故彼らにも仕事への誇りがあるのであります。ですが自分の名を誇ろうとするのではなく、正しい品物を作るそのことに、もっと誇りがあるのであります。いわば品物が主で自分は従なのであります。それ故|一々《いちいち》名を記そうとは企てません。こういう気持こそは、もっと尊んでよいことではないでしょうか。実に多くの職人たちは、その名を留《とど》めずにこの世を去ってゆきます。しかし彼らが親切に拵《こしら》えた品物の中に、彼らがこの世に活きていた意味が宿ります。彼らは品物で勝負をしているのであります。物で残ろうとするので、名で残ろうとするのではありません。  彼らの多くは教育も乏しく、識見も有《も》たない人たちでありましょう。しかし正直な人であり信仰の人であることは出来たのであります。自分|独《ひと》りでは力が乏しかったとしても、祖先の経験や智慧《ちえ》に助けられて、力ある仕事を為《な》し得たのであります。伝統への従順さは彼らの仕事を確実なものにしました。彼らがもし自分の力にのみ便《たよ》って歩いたら、きっと踏みはずしたり躓《つまず》いたりしたでありましょう。荒波を一人で漕《こ》いで横切ることは、難しいからであります。ですが他力《たりき》に任せた時、丁度|帆《ほ》一ぱいに風を孕《はら》んで滑《なめら》かに走る船のように安全に港に入ることが出来たのであります。私たちは自力《じりき》の道のみが道でないことを知ります。工人たちはわが名において仕事をする美術家たちではありませんでした。しかしわが名を棄ててかかる彼らの道にも、驚くべき仕事が保障されていることを知らねばなりません。この世では貧しい職人たちも、美の国では高い位《くらい》を得ている場合が、決して少《すくな》くないでありましょう。  この世の人たちは、名を記す必要のない品物の値打ちを、もっと認めねばなりません。そうして自分の名を誇らないような気持で仕事をする人たちのことを、もっと讃えねばなりません。そこには邪念《じゃねん》が近づかないでしょう。ですから無心なものの深さに交り得たのであります。この世の美しさは無名な工人たちに負うていることが、如何に大きいでありましょう。 [#3字下げ]実用と美[#「実用と美」は中見出し]  さてかかる工人たちが作る品物は、どんな性質を有つのでしょうか。何より著しい点は、どれも実用を旨《むね》として作られているということであります。用いられるために作るのでただ眺《なが》めたり楽しんだりするためのものではありません。ここでも実用的な工藝品と、鑑賞的な美術品とは、性質が大変違うのを見られるでしょう。鑑賞というのはその美を眺め味《あじわ》うことであります。用いる工藝と眺める美術と、この区別があるため、とかく後者は前者よりも高尚なものとせられました。そうして実用に交る品物の如きは、位の低いものと評されて来ました。なぜなら実用品は純粋に美を現したものではなく、用途に縛られたものに過ぎぬと考えられるからであります。その結果美はかえって生活から離れた世界にこそあるものだと信じられるに至りました。  しかし生活の中に深く美を交えることこそ大切ではないでしょうか。更にまた生活に交ることによって、かえって美が深まる場合がないでしょうか。むしろかくなる時に、美しさが確実なものになりはしないでしょうか。果して生活から離れた時に、美が高まってくるでしょうか。日々の生活こそは凡《すべ》てのものの中心なのであります。またそこに文化の根元が潜《ひそ》みます。人間の真価《しんか》は、その日常の暮しの中に、最も正直に示されるでありましょう。もしも吾々の生活が醜《みにく》いもので囲まれているなら、その暮しは程度の低いものに落ちてしまうでありましょう。いつか心はすさみ、荒々しい潤《うるお》いのないものに陥《おちい》ってしまうでありましょう。一国の文化はその国民の日々の生活に最もよく反映されます。生活を深いものにするために、どうしてもそれは美しさと結ばれねばなりません。これを欠くようでは全《まった》き生活はついに来ることがないでありましょう。  さて生活と美しさとを結ばしめる仲立《なかだち》は、実に用途のために作られる器物であります。それ故日々用いる器物がどんなに美の世界で大切な位置を占めるかが分るでありましょう。これが醜かったら生活に親しさや温《あたたか》みはなくなるでありましょう。たとえ当り前な平凡なものに思われても、人間の生活に大きな役割を有《も》っていることが分ります。  不幸にも今までの多くの人たちは、実用というと何か卑《いや》しい性質のもののように考えました。そのため実用品を「不自由な藝術」と呼びました。実用ということに縛られているからであります、自由な美術を尊んだ時代に、不自由な工藝が軽く見られたのも無理はありませんでした。  しかし考え直すと不思議なことでありますが、かかる不自由さがあるために、かえって現れて来る美しさがあるのであります。色々な束縛があるために、むしろ美しさが確実になってくる場合があるのであります。なぜでしょうか。実は不自由とか束縛とかいうのは、人間の立場からする嘆きであって、自然の立場に帰って見ますと、まるで違う見方が成立ちます。用途に適《かな》うということは、必然の要求に応じるということであります。材料の性質に制約せられるとは、自然の贈物に任せきるということであります。手法に服従するということは、当然な理法を守るということになります。人間からすると不自由ともいえましょうが、自然からすると一番当然な道を歩くことを意味します。それ故、かえって誤りの少い安全な道を進むことになって来ます。ここで不自由さこそ、かえって確実さを受取る所以《ゆえん》になるのを悟られるでしょう。  これに引きかえ人間の自由はとかく我儘《わがまま》で、かえってこれがために自由が縛られることがしばしば起ります。それ故人間の自由に任せるものは、とかく過ちを犯しがちであります。人間は完全なものでないからであります。これに反して自然は法則の世界でありますから誤りに落ちることがありません。仮令《たとえ》誤りが起るとも、罪からは遠いでありましょう。実用的な品物に美しさが見られるのは、背後にかかる法則が働いているためであります。これを他力《たりき》の美しさと呼んでもよいでありましょう。他力というのは人間を越えた力を指すのであります。自然だとか伝統だとか理法だとか呼ぶものは、凡《すべ》てかかる大きな他力であります。かかることへの従順さこそは、かえって美を生む大きな原因となるのであります。なぜなら他力に任せ切る時、新たな自由の中に入るからであります。これに反し人間の自由を言い張る時、多くの場合新たな不自由を甞《な》めるでありましょう。自力に立つ美術品で本当によい作品が少いのはこの理由によるためであります。  それ故実用こそはかえって美しさの手堅い原因となります。ただに実用に交るものに美しさがあるのみならず、用途に結ばれずば現れない美しささえあるのであります。実用性が美しさを涜《けが》すどころか、かえってそれがために美しさが確実になることが多いのであります。この世が美しい国となるために、実用品こそは大きな役割を背負っているのであります。美と用とは叛《そむ》くものではありません。用と結ばれる美の価値は非常に大きいのであります。 [#3字下げ]健康の美[#「健康の美」は中見出し]  それでは職人たちが用途のために作る品物はどんな美しさを示すでしょうか。私たちは手堅い手仕事の中から、どんな美を汲《く》み取ったのでしょうか。  役立つということは仕えることであり、働くことであります。実用品は一家の中の働き手なのであります。裏からいえば働くことを厭《いと》うものや、働きに堪えないようなものは、実用品の値打ちがないでありましょう。よき働き手であってこそよき実用品なのであります。  働くものは弱い体を有《も》ってはいられません。また不親切な心を有ってもいけません。じきに毀《こわ》れたり破れたり剥《は》げたり解《ほど》けたりするようなものでは役に立ちません。荒い仕事にも堪えるだけの丈夫な体と、忠実に仕えたいという篤《あつ》い志とを兼ね備えていなければなりません。これらの性質に欠けるなら、よい品物と呼ぶことは出来ないでありましょう。それ故品物の良し悪しを定める標準は、それがどれだけ健《すこや》かな心と体との持主であるかを見ればよいわけであります。この点で品物だとて人間と変るところはありません。  ここで私たちは美しさの一つの目標を捕えることが出来ます。工藝の美しさは当然どんな性質のものでなければならないのでしょうか。どんな美しさが、品物の持つべきはずの美しさなのでしょうか。それは結局「健康」の二字に尽きるでありましょう。美しさにも色々あります。どれでも美しい限りは尊ばれてよいでありましょうが、しかしそのあるものは社会を幸福にさせ、あるものは生活を暗くさせます。それ故多くの美しさの中から、何が一番正しい美しさなのかを選び出さねばなりません。ただ美しいからといってこれに溺《おぼ》れてはならないでありましょう。美しさに対しても、正しさは要求されねばなりません。  それではどんな性質の美しさを一番尊んだらよいのでしょうか。それは結局「健康な美しさ」ということに帰って来ます。どんな性質の美しさも、「健康」ということ以上の強みを有つことは出来ません。なぜかくも「健康さ」が尊いのでしょうか。それは自然が欲している一番素直な正当な状態であるからと答えてよいでありましょう。  医学は人間の生理を健康な状態にしようと努力する学問であるともいえます。私たちが病気になって苦しむ時、私たちはしみじみと健康の有難さを感じます。医者の凡ての意志は、病人を再び健康に戻《もど》そうとするにあります。または病気に犯されないように準備することにあります。健康の何よりの特色は、それが一番自然な本然の状態であるということであります。健康に暮すということが、自然|自《みずか》らの意志に適ったことなのであります。それ故医者がその智慧と技術とを傾けて、人々を癒《いや》そうとする如く、吾々もまた美しさの性質を出来るだけ健全なものに育てねばなりません。これが一国の文化そのものを健《すこや》かなものにする所以《ゆえん》であるのは言うを俟《ま》たないでありましょう。  健康の反対は病気であります。それ故何かの意味で病気にかかっているものは取除《とりのぞ》かれねばなりません。それは人類の幸福を保障するものではないからであります。病気は色々あるでしょう。弱々しいことや、神経質なことや、たくらみの多いことや、角《かど》のあることや、冷いことや、それらは皆健康な状態にあるものとはいえません。私たちはそういう性質のものを、美の世界からも追払わねばなりません。健康な美しさを選ぶことこそ、作り手や使い手の務めであります。否、健康なものとならずば、真に美しいものとはならないのであります。種々なる美しさの中で健康な美しさ以上に、この世に幸福を齎《もた》らすものは決してないのであります。  健康ということは無事であることであり、尋常であることを意味します。一番自然な正当な状態にあることであります。この世にどんな美があろうとも、結局「正常の美」が最後の美であることを知らねばなりません。凡ての美はいつかここを目当に帰って行くのであります、「正常」というと何か平凡なことのように取られるかも知れませんが、実はこれより深く高い境地はないのであります。昔|南泉《なんせん》という支那の偉い坊さんが、仏心とは「平常心」に、ほかならぬと説きましたが深い教えだと思います。  それに有難いことには、健康な性質の品物は、自《おのず》から単純な形を取ることであります。もし複雑な姿をしなければ美しくならないとするなら、どんなに都合が悪いでしょう。しかしこの世には感謝すべき仕組みが用意されているのであります。込み入った装《よそお》いのものよりは、単純なものの方に、かえって美しさが豊《ゆたか》に現れるようにしてあるのであります。この仕組みをどんなに有難く思ってよいでしょう。何も複雑なものが直ちに醜いものとはいえないでしょうが、単純なものの方に恵みは多く降《ふ》り注がれているのであります。単純さと健全さとは極めて深い間柄にあります。日本で深い美の姿として、いつも讃えられる「渋さの美」は、要するに単純な姿を離れては存在しないのであります。  私たちは健康な文化を築かねばなりません。日本を健康な国にせねばなりません。それには国民の生活を健全にさせるような器物を生み育て、かかるものを日々用いるようにせねばなりません。器物は種も数も夥《おびただ》しいだけに、これらのものを健全なものとすることは、社会への絶大な貢献であります。幸《さいわい》にも私たちの旅は、如何に日本に多くの健康な品物が、今も人々の手で作られつつあるかを報《し》らせてくれたのであります。それらのものの価値は結局生活に忠実な健全な性質を有っているということに他なりません。日本にはかかるものが豊にあるのであります。こういう恵まれた事情を更に活《い》かすことこそ、国民の務めではないでしょうか。健全な固有な日本品を用いて暮すことこそ、吾々の何よりの悦びであり誇りではないでしょうか。そうしてこのことが可能だということを、この本は読者に保障しようとするのであります。 [#改丁] [#3字下げ]後記[#「後記」は大見出し]  この一冊は若い方々のために、今までよく知られていない日本の一面を、お報《し》らせしようとするのであります。ここでは手仕事に現れた日本の現在の姿を描くことを主眼としました。それは三つのことを明かにするでありましょう。  第一は手仕事が日本にとって、どんなに大切なものだかを語るでしょう。固有な日本の姿を求めるなら、どうしても手仕事を顧みねばなりません。もしこの力が衰えたら、日本人は特色の乏しい暮しをしなければならなくなるでありましょう。手仕事こそは日本を守っている大きな力の一つなのであります。  第二に、この一冊は日本にどんなに多くの手仕事が今なお残っているかを明かにするでしょう。昔に比べたらずっと減ってはいますが、それでも欧米などに比べますと、遥《はる》かに恵まれた状態にあることを見出します。それ故この事実を活かし育てることこそ、国民の賢明な道ではないでしょうか。  第三には地方的な郷土の存在が、今の日本にとってどんなに大きな役割を演じているかを明かにするでありましょう。それらの土地の多くはただに品物に特色ある性質を与えているのみならず、美しくまた健康な性質をも約束しているのであります。私たちはそれらのものを如何に悦びを以て語り合ってよいでありましょう。  吾々はもっと日本を見直さねばなりません。それも具体的な形のあるものを通して、日本の姿を見守らねばなりません。そうしてこのことはやがて吾々に正しい自信を呼び醒《さ》まさせてくれるでありましょう。ただ一つここで注意したいのは、吾々が固有のものを尊ぶということは、他の国のものを謗《そし》るとか侮《あなど》るとかいう意味が伴ってはなりません。もし桜が梅を謗《そし》ったら愚かだと誰からもいわれるでしょう。国々はお互《たがい》に固有のものを尊び合わねばなりません。それに興味深いことには、真に国民的な郷士的な性質を持つものは、お互に形こそ違え、その内側には一つに触れ合うもののあるのを感じます、この意味で真に民族的なものは、お互に近い兄弟だともいえるでありましょう。世界は一つに結ばれているものだということを、かえって固有のものから学びます。  私はここにお報らせした品々を調べるために、ほぼ日本全土を旅し、ここに廿年《にじゅうねん》近くの歳月を重ねました。記した品物のほとんど凡ては私が親しく眼で見たものでありますから、ただ文献による記述よりは、活《い》きた実状を伝えているかと思います。もっともそのうちの幾許《いくばく》かは早くも絶えてしまったかも知れませぬ。移り変りの激しい昨今では、その憂いがなお深いのであります。今後これを守り育てまた高めるには、日本人が日本固有のものを敬うその情愛と叡智《えいち》とに便《たよ》るよりほか仕方ないのであります。私は多くの人々がかかる心を養うために、この本がよい案内書となることを望んでいます。不思議にもこの種の本は、今まで誰の手によっても書かれたことがありませんでした。それ故ほんの手引になる小冊子に過ぎませんが、相応の役目は果すことが出来るかと思われます。  数え挙げた品はもとより洩《も》れなく凡てに行き渡っているのではありません。しかし主《おも》なものや特色あるものは、ほぼ示しましたから、これで日本の手工藝の現状をあらまし知ることは出来るでありましょう。ただ注意して頂きたいのは、この本はけじめもなく現在の品物を列《なら》べ数えたのではなく、正しい美しさを持つもののみを顧みたことであります。それ故雑然とした記述を避け、一定の目標を立てて取捨選択を施してあります。私は何が信頼し得べき品であるかを読者に語る義務を感じました。郷士的な実用品を主に取扱いましたから、玩具の如き類はわずかの例に止《とど》めてあります。また伝統的なものを主な相手としましたから、個人的な作品は省きました。列挙しました品物の多くは、幸にも東京都駒場に在る「日本民藝館」の陳列に見ることが出来ますから、親しくそこを訪《おとな》われて、実物に交られることを望みます。  この本には挿絵《さしえ》として沢山の小間絵《こまえ》を入れましたが、いずれも芹沢銈介《せりざわけいすけ》君の筆になるものであります。これで本文がどんなに活かされているでしょう、感謝に堪えませぬ。またこの本の出版に関し書肆《しょし》から受けた厚誼《こうぎ》に対し、厚く謝意を伝えたく思います。 [#2字下げ]昭和十八年正月|中浣《ちゅうかん》 [#地から7字上げ]於函嶺|強羅《ごうら》 [#地から3字上げ]柳 宗悦 底本:「手仕事の日本」岩波文庫、岩波書店    1985(昭和60)年5月16日第1刷発行    2009(平成21)年12月9日第37刷改版発行    2010(平成22)年4月26日第38刷発行 底本の親本:「柳宗悦全集 著作篇第十一巻」筑摩書房    1981(昭和56)年 ※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。 ※底本に挿入されている「小間絵」は、作者(芹沢銈介)の著作権がまだ有効であるので削除しました。 入力:Nana ohbe 校正:仙酔ゑびす 2013年5月5日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。