羽衣物語 小川未明 ------------------------------------------------------- 【テキスト中に現れる記号について】 《》:ルビ (例)昔《むかし》 |:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号 (例)二千|年《ねん》 [#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定 (例)[#7字下げ] ------------------------------------------------------- [#7字下げ]一[#「一」は中見出し]  昔《むかし》は、いまよりももっと、松《まつ》の緑《みどり》が青《あお》く、砂《すな》の色《いろ》も白《しろ》く、日本《にっぽん》の景色《けしき》は、美《うつく》しかったのでありましょう。  ちょうど、いまから二千|年《ねん》ばかり前《まえ》のことでありました。三保《みほ》の松原《まつばら》の近《ちか》くに、一人《ひとり》の若《わか》い舟乗《ふなの》りがすんでいました。ある朝《あさ》のこと、東《ひがし》の空《そら》がやっとあかくなりはじめたころ、いつものごとく舟《ふね》を出《だ》そうと、海岸《かいがん》をさして、家《いえ》を出《で》かけたのであります。  まだ、おちこちの森《もり》のすがたは、ぼんやりとして、あたり一|面《めん》の畑《はたけ》には、白《しろ》いもやがかかっていたけれど、早起《はやお》きのうぐいすや、やまばとは、もうどこかでほがらかに鳴《な》いていました。そうして、あちらの空《そら》には、富士山《ふじさん》が、神々《こうごう》しく、くっきりと浮《う》かびあがって見《み》えました。  これを仰《あお》ぐと、若者《わかもの》は、つつましげにえりを正《ただ》して、手《て》を合《あ》わせながら、 「どうぞ、今日《きょう》も私《わたし》のからだに、けが、さいなんなく、おかげで、しあわせにくらせますように。」と、いいました。  こう祈《いの》りをささげると、なんとなく心《こころ》がすがすがしく、気《き》もちもはればれとして、しぜん、ふみ出《だ》す足《あし》に力《ちから》が入《はい》りました。  このとき、どこからともなく、ぷんと松《まつ》のにおいがしました。いつのまにか、松原《まつばら》へさしかかっていたのであります。木《き》の間《あいだ》から、びょうびょうとして見《み》える海《うみ》の色《いろ》、おだやかな波《なみ》のうねり……。大海原《おおうなばら》は、まだよくねむりからさめきらぬもののようでした。 「おや。」といって、若者《わかもの》はとつぜん、歩《あゆ》みをとめました。なぜなら、いくぶんもやのうすれかかった前《まえ》の方《ほう》に、ふしぎなものが目《め》にとまったからです。なんだか、まぶしいものが、一|本《ぽん》の松《まつ》の木《き》の枝《えだ》にかかっていました。いままで見《み》たこともないようなものです。 「尾《お》の長《なが》い鳥《とり》かしらん。それにしては、なんときれいな、大《おお》きな鳥《とり》だろう。」と、若者《わかもの》は、目《め》をみはりました。  鳥《とり》がとまっているのなら、近《ちか》づけば逃《に》げるだろうと、ちゅうちょしつつ、若者《わかもの》は、じっとようすをうかがいましたが、さらに、飛《と》び立《た》つけはいがなかったのでした。そうして、風《かぜ》にひらひらとゆれるのを見《み》ると、うすい着物《きもの》のようにも思《おも》われました。 「とにかく、いって見《み》とどけよう。」と、若者《わかもの》は用心《ようじん》しながら、一足《ひとあし》、一足《ひとあし》、それへ近《ちか》づいたのです。  ひくくたれさがった松《まつ》の枝《えだ》にかかっているのは、はたして、かがやかしい、すきとおるような、女《おんな》の着物《きもの》でありました。はなれて見《み》ると、まぶしい光《ひかり》をはなち、にじのかかったようでありました。かすみを切《き》ったようにも思《おも》われるのでありました。 「いったい、この着物《きもの》は、だれのものであろうか。」  若者《わかもの》は、頭《あたま》をかしげ、思案《しあん》にくれました。  松原《まつばら》の中《なか》は、しんとして、ときどき、小鳥《ことり》の鳴《な》き声《ごえ》が聞《き》こえるくらいのもので、あたりを見《み》まわしても、まったく人《ひと》のいるような気《き》はしませんでした。  若者《わかもの》は、はじめて見《み》るものだけに、さわるのが恐《おそ》ろしくもあれば、また、あまりきれいなので、手《て》をつけては悪《わる》いような気《き》さえしましたが、ついに、もの珍《めずら》しさのあまり、勇気《ゆうき》を出《だ》して、自分《じぶん》の手《て》に取《と》り、つくづくとながめたのでした。 「これは、人間《にんげん》などの着《き》るものでない。天上《てんじょう》高《たか》く、わしかたかが、どこからかくわえてきて、ここへかけていったものだろう。なんにせよ、またと得《え》がたい、とうといものだ。こんな宝《たから》が手《て》に入《はい》るとは、なんという自分《じぶん》は幸《しあわ》せものではないか。村《むら》の人《ひと》たちに見《み》せたら、さぞ、うらやむことだろう。」と、若者《わかもの》は、ほくほく、よろこびました。  その着物《きもの》をおしいただいて、いまやそこを立《た》ち去《さ》ろうとしたときであります。うしろへ小《ちい》さな足音《あしおと》がして、鈴《すず》をふるような、さわやかな声《こえ》で、 「もし、もし。」と、呼《よ》びかけたものがありました。  おどろき、ふり向《む》くと、若者《わかもの》は二|度《ど》びっくりしました。なぜなら、そこには目《め》のさめるような、美《うつく》しい女《おんな》の人《ひと》が立《た》っていました。 「それは、私《わたし》の着物《きもの》でございます。どうぞ、お返《かえ》しくださいまし。」と、その美《うつく》しい人《ひと》はいいました。 [#7字下げ]二[#「二」は中見出し]  その声《こえ》を聞《き》き、その姿《すがた》を見《み》て、これが、この世《よ》の人《ひと》であろうかと、若者《わかもの》は、自分《じぶん》の目《め》をうたがわずにはいられませんでした。すぐには、返《かえ》す言葉《ことば》も出《で》なかったのです。 「その着物《きもの》を、どうぞお返《かえ》しくださいまし。」と、女《おんな》は重《かさ》ねていいました。  若者《わかもの》は、着物《きもの》の持《も》ち主《ぬし》がわかると、いままでの楽《たの》しかった夢《ゆめ》が破《やぶ》れて、がっかりしました。またと手《て》に入《はい》らぬ宝《たから》と思《おも》えば、なおさら惜《お》しかったのです。  若者《わかもの》は、 「せっかく、私《わたし》が拾《ひろ》いましたものを、どうぞ、捨《す》てたとあきらめなされて、これを私《わたし》にくださいませんか。」と、頭《あたま》を下《さ》げて頼《たの》みました。  こう聞《き》くと、女《おんな》は、ぱっちり目《め》をみはって、さも、たまげたというようすで、 「なんとおっしゃられます。その着物《きもの》を、どうしてあなたにさしあげられましょう。それを着《き》なくては、私《わたし》は空《そら》へ帰《かえ》ることができません。」と、答《こた》えました。 「や、や、それなら、あなたは、まさしく天女《てんにょ》でいらっしゃいますか。道理《どうり》で、人間《にんげん》にしては、あまりりっぱすぎると思《おも》いました。」と、急《きゅう》に若者《わかもの》は、ようすをあらためました。  知《し》らぬ人《ひと》から、こうして見《み》られるのを、さも恥《は》ずかしげに、天女《てんにょ》は、ただうつ向《む》いていました。 「話《はなし》に聞《き》く天女《てんにょ》の羽衣《はごろも》とは、これでございますか。」 「さようでございます。」  たぐいなく美《うつく》しいと思《おも》うのもそのはず、天女《てんにょ》であったかと、若者《わかもの》の感動《かんどう》は、しばらくしずまりませんでした。けれど、天女《てんにょ》は、天《てん》にいるものとばかり信《しん》じたのを、どうしてこんなところへ降《お》りたのであろうか、と聞《き》かずにはいられませんでした。 「あなたは、どうしてこんなところへお降《お》りになったのですか?」と、若者《わかもの》は天女《てんにょ》に向《む》かって、たずねました。  天女《てんにょ》は、こう問《と》われると、ためらいながら顔《かお》をあげ、 「ここの景色《けしき》があまりみごとなものですから、つい降《お》りてみる気《き》になりました。」と、答《こた》えたのであります。  美《うつく》しいものに見《み》とれるのは、ひとり人間《にんげん》ばかりでなく、天《てん》にすむ天女《てんにょ》も、おなじであるのを知《し》ると、自分《じぶん》がきれいな羽衣《はごろも》をほしく思《おも》うのも、悪《わる》いことではないような気《き》がして、若者《わかもの》は、そのうえともしつこく、天女《てんにょ》に向《む》かって頼《たの》みました。 「ごむりのお願《ねが》いかもしれませんが、このきれいな着物《きもの》を、どうぞ、私《わたし》におあたえくださいまし。ながく我《わ》が家《や》の宝《たから》にしたいと思《おも》います。」  これを聞《き》いて、天女《てんにょ》はあきれたのであろう。が、しばらく言葉《ことば》もありませんでした。 「どうしても、お許《ゆる》しになりませぬか。」と、若者《わかもの》がいうと、天女《てんにょ》の顔《かお》には、悲《かな》しみの色《いろ》がただよって、ついに口《くち》をひらきました。 「その着物《きもの》を着《き》なくては、二|度《ど》と天《てん》へは帰《かえ》れません。人間《にんげん》には役《やく》にたたぬものですが、天女《てんにょ》には、なくてはならぬ着物《きもの》でございます。」といって、うつむきました。  若者《わかもの》は、片言《かたこと》も聞《き》きもらすまいと、耳《みみ》をかたむけていましたが、天女《てんにょ》が、羽衣《はごろも》を着《き》なければ天《てん》に帰《かえ》れぬといったので、これはなんたる自分《じぶん》にとって、しあわせなことであろう。そうすれば、この美《うつく》しい人《ひと》を村《むら》へつれもどって、いつまでも、とめておくことができると思《おも》ったのでした。 「そう聞《き》けば、なおさら、この着物《きもの》をお返《かえ》しすることはできません。」 「それはまた、どうしたことでございますか。」  天女《てんにょ》は、おどろいて顔《かお》を上《あ》げ、目《め》をぱっちりとひらいて、若者《わかもの》を見《み》ました。 「羽衣《はごろも》より、あなたのほうが、もっともっと美《うつく》しいのであります。羽衣《はごろも》がなければ、天《てん》へ帰《かえ》れぬとお聞《き》きしては、あなたを、いつまでもおとめしたいばかりに、羽衣《はごろも》をお返《かえ》しすることができなくなりました。」と、若者《わかもの》は正直《しょうじき》に申《もう》しました。  天女《てんにょ》のからだは、恐《おそ》ろしさのあまりふるえ、顔色《かおいろ》は青《あお》ざめて見《み》えました。これを見《み》ると、若者《わかもの》は、こういったのも、天女《てんにょ》のような美《うつく》しい人《ひと》のそばにいたいためであり、少《すこ》しも悪《わる》い心《こころ》からではないのだ。どうか、それを天女《てんにょ》にさとってもらいたいと思《おも》いましたので、 「天女《てんにょ》さま、こう申《もう》しますのも、お恥《は》ずかしい話《はなし》ながら、私《わたし》はまだ、ひとり者《もの》なのでございます。もし、あなたさえご承知《しょうち》になって、私《わたし》の妻《つま》におなりくださるならば、あなたのために、この命《いのち》もささげます。ただ、人間《にんげん》の身《み》として、天上《てんじょう》のあなたをお慕《した》いするのは、つつしみのないことかもしれませぬけれど、美《うつく》しいものを愛《あい》する心《こころ》に、神《かみ》も人《ひと》もかわりないならば、どうぞ、私《わたし》の願《ねが》いをお聞《き》き入《い》れくださいまし。」と、ねんごろにうったえました。  天女《てんにょ》は、にごりけのない若者《わかもの》の心《こころ》に感動《かんどう》するとともに、自分《じぶん》にも落《お》ち度《ど》があったのをさとりました。こんなことになるのも、自分《じぶん》の軽率《けいそつ》からであった。うかうかと、地上《ちじょう》へ下《お》りさえしなければ、何事《なにごと》もなかったと、後悔《こうかい》しました。 [#7字下げ]三[#「三」は中見出し]  富士山《ふじさん》は紫色《むらさきいろ》をおび、ゆったりと長《なが》くすそを引《ひ》いていました。その広《ひろ》いすそ野《の》のふちを、青黒《あおぐろ》い色《いろ》の海《うみ》が、うねりをあげ、そして、もやのかかる松林《まつばやし》や、白《しろ》い砂《すな》の浜辺《はまべ》は、浮《う》き織《お》りの模様《もよう》のように見《み》えるので、さすがに天女《てんにょ》も、しばらくはわれを忘《わす》れて、見《み》とれずにはいられませんでした。  天女《てんにょ》は、それが、こうしてわざわいを招《まね》くとも知《し》らず、袂《たもと》をひるがえすと、さっさとくじゃくの舞《ま》うように、人間《にんげん》のいぬのを幸《さいわ》いに、松原《まつばら》へ降《お》りたのであります。  すると、しめった土《つち》のさわやかさ、水晶《すいしょう》をくだく海《うみ》の水《みず》、天女《てんにょ》は、心《こころ》いくばかりそれに親《した》しまんものと、足《あし》にまつわる羽衣《はごろも》をぬいで松《まつ》の枝《えだ》へかけ、はだしのまま、なぎさの方《ほう》へ走《はし》ったのでした。  そして、冷《つめ》たい水《みず》に足《あし》をひたしながら、ささやきつつ、寄《よ》せては返《かえ》すさざ波《なみ》を相手《あいて》としてたわむれ、いつしか、時《とき》のたつのを忘《わす》れていたのでありました。そのうち、東《ひがし》の空《そら》がほんのりと赤《あか》く色《いろ》づきました。それを見《み》て、天女《てんにょ》は、はじめて朝日《あさひ》の上《あ》がらぬうち、天《てん》へ帰《かえ》らなければならぬと気《き》づき、羽衣《はごろも》をとりに、松原《まつばら》へ引《ひ》き返《かえ》したのでした。  ところが、その大事《だいじ》な羽衣《はごろも》は、いつのまにか、人間《にんげん》の手《て》に入《はい》っていました。このとき、若者《わかもの》は、 「これほどお願《ねが》いしても、まだなんともおっしゃらぬのは、私《わたし》の心《こころ》がおわかりにならぬからでございますか。」と、悲《かな》しそうにいいました。これを聞《き》くと天女《てんにょ》は、 「いえ、なんで、わからぬことがございましょう。天《てん》と地《ち》とわかれていても、情《なさ》けにかわりもなければ、また善《よ》し悪《あ》しや、喜《よろこ》びや悲《かな》しみにも、ちがいはないのでございますものを。」と、答《こた》えたのでした。 「それなら、なぜ、私《わたし》の願《ねが》いを聞《き》いてはくださいませんか。」と、若者《わかもの》は、いきいきとした目《め》を天女《てんにょ》に向《む》けました。天女《てんにょ》はためらいながら、 「空《そら》にいる私《わたし》は、まったく、地上《ちじょう》のくらしを知《し》らないのでございます。」といいました。 「さっき、情《なさ》けにかわりはないと、おっしゃったではありませんか。」 「そう申《もう》しましたのも、あなたの真心《まごころ》がよくわかり、うれしく思《おも》ったからです。そう思《おも》えばこそ、なおさら、あなたを幸《しあわ》せにしなければなりません。まったく、この地上《ちじょう》のくらしを知《し》らぬ私《わたし》に、なんで、あなたを幸《しあわ》せにすることができましょう。」 「いえ、いっしょにいてさえくだされば、それで私《わたし》は満足《まんぞく》します。またそれが、どれだけ私《わたし》を力《ちから》づけるかしれません。私《わたし》は、山《やま》へいって薪《たきぎ》もとってくれば、海《うみ》へ出《で》て魚《さかな》もとってきます。すこしもあなたに、ご不自由《ふじゆう》をばさせません。」と、若者《わかもの》は、あくまで思《おも》いを通《とお》そうとしました。  あわれな天女《てんにょ》は、なやみにたえかねてか、顔《かお》には花《はな》の色《いろ》があせ、青白《あおじろ》く、急《きゅう》に姿《すがた》がやつれて見《み》えました。  これを見《み》ると、若者《わかもの》は、天女《てんにょ》をいたいたしく感《かん》じたのでした。そして、なんとなく、じっとしていられなくなりました。 「天女《てんにょ》さま、私《わたし》が悪《わる》いのでございます。わがままをいって、あなたを苦《くる》しめて申《もう》しわけがありません。どうぞ、お許《ゆる》しくださいまし。」と、頭《あたま》をひくくたれました。  すると、天女《てんにょ》は、頭《あたま》を上《あ》げて、 「人間《にんげん》は人間《にんげん》のつとめをはたして、とうといのであります。もし、だれでもその道《みち》をあやまるなら、どんな不幸《ふこう》が起《お》こらぬともかぎりません。それゆえ、早《はや》く私《わたし》を空《そら》へ返《かえ》してください。」と、目《め》に涙《なみだ》を浮《う》かべていいました。  若者《わかもの》は、天女《てんにょ》のどこまでもやさしく、正《ただ》しいのに感心《かんしん》しました。そして、自分《じぶん》が悪《わる》かったのをさとると、こうして立《た》っているのさえ、なんとなく気恥《きは》ずかしくなったのです。 「あなたは、天《てん》にいらして、なにをなさっていられますか。」と、若者《わかもの》は聞《き》きました。 「私《わたし》は、神《かみ》さまにお仕《つか》えしています。雲《くも》の上《うえ》にて、五|色《しき》の機《はた》を織《お》ります。また、神《かみ》さまのお使《つか》いで、ときどき、星《ほし》の世界《せかい》から星《ほし》の世界《せかい》へと、飛《と》びまわることもあります。」と、天女《てんにょ》は答《こた》えました。  若者《わかもの》は、ていねいに羽衣《はごろも》を天女《てんにょ》の前《まえ》へさし出《だ》しながら、 「どうぞ、これをお受《う》け取《と》りくださいまし。ついては、こんなお願《ねが》いをするのも、まことにあつかましい話《はなし》ですが、せっかくのお名残《なごり》に、せめていつまでも、美《うつく》しい、正《ただ》しいあなたに、お目《め》にかかった思《おも》い出《で》となるような、なにかおしるしをいただきたいのですが、かなわぬ願《ねが》いでございましょうか。」 「私《わたし》の持《も》ちますものは、すべて、この羽衣《はごろも》のように、にじやかすみを織《お》って作《つく》ったものだけに、人間《にんげん》の手《て》にわたれば、いつまでも、形《かたち》となって残《のこ》ったことはありません。下界《げかい》にすさぶあらしや雨《あめ》にさらされるなら、たちまち、破《やぶ》れてしまうでしょう。しかし、あなたのような正直《しょうじき》な方《かた》には、私《わたし》のおあたえしたものは、いつまでも心《こころ》のうちへ残《のこ》り、あなたの一|生《しょう》を、楽《たの》しくおくらしさせることができましょう。」といいました。 「まあ、それは、どんなとうとい品《しな》でございますか。」 「いえ、形《かたち》のあるものではございません。いまも申《もう》しますように、形《かたち》のあるものは、いつか、やぶれくずれるものであります。形《かたち》がなくなって、心《こころ》に残《のこ》るものこそ、いつまでもこわれることのない宝《たから》であります。」 「と、申《もう》します宝《たから》とは?」 「人間《にんげん》の考《かんが》えでは、絵《え》にすら書《か》けない天女《てんにょ》の舞《まい》を、ごらんに入《い》れたいと思《おも》います。」  こう聞《き》くと、若者《わかもの》の顔《かお》は、急《きゅう》にはればれしくなって、にっこり笑《わら》い、 「見《み》たものは、この世《よ》の心配《しんぱい》や、年《とし》を忘《わす》れると、昔話《むかしばなし》に聞《き》いたが、まだだれも見《み》たと聞《き》かぬ天女《てんにょ》の舞《まい》でございますか。それはありがたい。」といいました。  このとき、たちまち、どこからともなく起《お》こる笛《ふえ》の声《こえ》、それと相和《あいわ》す太鼓《たいこ》の音《おと》、若者《わかもの》は、おもわず頭《あたま》をめぐらして、その美《うつく》しい音色《ねいろ》にうっとりと聞《き》きほれました。  見《み》れば、もう天女《てんにょ》の姿《すがた》は、空《そら》へと浮《う》かんでいました。若者《わかもの》が、「あれよ。」というまに、天女《てんにょ》の長《なが》い袂《たもと》はひるがえって、若者《わかもの》のかしらの上《うえ》へたれさがり、そのはしが、手《て》でとらえられそうなところまでくると、ふたたび、まき上《あ》がる雲《くも》のように、高《たか》くはなれて、音楽《おんがく》も急調子《きゅうちょうし》にはずみ、それといっしょに、しばらく、はげしく舞《ま》いくるったのであるが、いつしか、しだいに高《たか》く高《たか》く、そのまま姿《すがた》は遠《とお》く小《ちい》さくなり、ついに、かすみの奥深《おくふか》く消《き》え去《さ》ってしまったのであります。  いつのまにか、美《うつく》しい音楽《おんがく》の音《ね》もやんで、ただ、そよそよと吹《ふ》く朝風《あさかぜ》のうちに、音楽《おんがく》の音《ね》が、いつまでもただよっていたのでありました。  浜辺《はまべ》の砂《すな》の上《うえ》に、じっとしてすわっていた若者《わかもの》は、やっと夢《ゆめ》からさめたように立《た》ち上《あ》がり、方々《ほうぼう》を見《み》まわしましたけれど、もうどこにも、天女《てんにょ》の姿《すがた》もなければ、羽衣《はごろも》のかげもありませんでした。  そして、広々《ひろびろ》とした海原《うなばら》と、青《あお》い松林《まつばやし》と、いつにかわらぬ富士山《ふじさん》があるばかりでした。若者《わかもの》は、その後《ご》、長《なが》い一|生《しょう》を正《ただ》しく、楽《たの》しく送《おく》ることができました。  彼《かれ》は、仕事《しごと》につかれたときなど、いつも大空《おおぞら》を仰《あお》いで、天女《てんにょ》を思《おも》い出《だ》しました。すると、ふしぎや、天女《てんにょ》は雲《くも》の上《うえ》から、星《ほし》のような目《め》で下界《げかい》を見《み》つめて、なぐさめ、はげましてくれたのであります。 底本:「定本小川未明童話全集 13」講談社    1977(昭和52)年11月10日第1刷発行    1983(昭和58)年1月19日第5刷発行 底本の親本:「僕の通るみち」南北書園    1947(昭和22)年2月 初出:「コクミン一年生」    1946(昭和21)年2、3月    「コクミン二年生」    1946(昭和21)年4月 ※表題は底本では、「羽衣物語《はごろもものがたり》」となっています。 入力:特定非営利活動法人はるかぜ 校正:酒井裕二 2019年3月29日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(https://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。