波荒くとも 小川未明 ------------------------------------------------------- 【テキスト中に現れる記号について】 《》:ルビ (例)鉛色《なまりいろ》 |:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号 (例)三|日前《にちまえ》 [#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定 (例)[#7字下げ] ------------------------------------------------------- [#7字下げ]一[#「一」は中見出し]  鉛色《なまりいろ》をした、冬《ふゆ》の朝《あさ》でした。往来《おうらい》には、まだあまり人通《ひとどお》りがなかったのです。広《ひろ》い路《みち》の中央《ちゅうおう》を電車《でんしゃ》だけが、潮《うしお》の押《お》しよせるようなうなり声《ごえ》をたて、うす暗《ぐら》いうちから往復《おうふく》していました。そして、コンクリート造《づく》りの建物《たてもの》の多《おお》い町《まち》の中《なか》は、日《ひ》の上《のぼ》らない前《まえ》の寒《さむ》さは、ことに厳《きび》しかったのです。  十三、四の小僧《こぞう》さんが、自分《じぶん》の体《からだ》より大《おお》きな荷《に》を負《お》って、ちょうど押《お》しつぶされるようなかっこうをして、自転車《じてんしゃ》に乗《の》って走《はし》ってきたが、突然《とつぜん》ふらふらとなって、自転車《じてんしゃ》から降《お》りると、そのまま大地《だいち》の上《うえ》へかがんでしまいました。そこは石造《いしづく》りの銀行《ぎんこう》の前《まえ》でした。堅《かた》く閉《し》まったとびらが、こちらを向《む》いてにらんでいるほか、だれも見《み》ているものがありません。少年《しょうねん》は、しばらくじっとしていたが、そのうちはうようにして、やっと背中《せなか》の重《おも》い荷物《にもつ》を銀行《ぎんこう》の入《い》り口《ぐち》の石段《いしだん》の上《うえ》に乗《の》せて、はげしく締《し》めつける胸《むね》の重《おも》みをゆるめたが、まだ気分《きぶん》が悪《わる》いとみえて、後《うし》ろ頭《あたま》を箱《はこ》につけて仰向《あおむ》けになったまま目《め》を閉《と》じたのでした。小《ちい》さな肩《かた》のあたりが、穏《おだ》やかならぬ息《いき》づかいのためにふるえています。小僧《こぞう》さんは、こんなにして倒《たお》れていたけれど、ときどき思《おも》い出《だ》したように電車《でんしゃ》のうなり音《おと》が訪《おとず》れてくるほかは、だれもそばへよってきて、ようすをたずねるものもありませんでした。  この少年《しょうねん》は去年《きょねん》の秋《あき》、田舎《いなか》から叔父《おじ》さんを頼《たよ》って上京《じょうきょう》しました。そして、ある製菓工場《せいかこうじょう》へ雇《やと》われてから、まだ間《ま》がなかったのです。今朝《けさ》も取次店《とりつぎてん》へ品物《しなもの》をとどけるために出《で》かけたのでした。二、三|日前《にちまえ》からかぜぎみで寒《さむ》けがしていたのですけれど、すこしぐらいの病気《びょうき》では仕事《しごと》を休《やす》むことができません。彼《かれ》は、無理《むり》をして自転車《じてんしゃ》を走《はし》らせたのです。すると、冷水《れいすい》を浴《あ》びるように、悪寒《おかん》が背筋《せすじ》を流《なが》れて、手足《てあし》までぶるぶるとふるえました。 「こんな病気《びょうき》に、負《ま》けてなるものか。」  彼《かれ》は、歯噛《はが》みをしました。いくら力《ちから》を入《い》れても、力《ちから》の入《はい》らない足《あし》をもどかしがりました。すると、今度《こんど》は体《からだ》が火《ひ》のように熱《あつ》くなって、耳《みみ》が、ガンガンと鳴《な》り、目《め》の中《なか》までかっかとしてきました。これはかなわぬと思《おも》ううちに、足《あし》が重《おも》くなって、もう一|歩《ぽ》も前《まえ》へふみ出《だ》せなくなってしまったのです。それから後《あと》のことは、すこしもわかりませんでした。 「雪《ゆき》のあるのは、ここだけだ。村《むら》の往来《おうらい》へ出《で》れば、人通《ひとどお》りがあるし、歩《ある》くのが楽《らく》になるからがまんをしろよ。さあ、私《わたし》の後《あと》についてくるだ。」  重《おも》い荷《に》を背負《せお》って、先《さき》に立《た》って母親《ははおや》が歩《ある》きました。少年《しょうねん》は後《あと》からついていきます。母親《ははおや》の負《お》っている行李《こうり》には、少年《しょうねん》の着物《きもの》や、いろいろのものが入《はい》っていました。 「東京《とうきょう》は、雪《ゆき》がないというから、結構《けっこう》なこった。あっちへ着《つ》いたらすぐに便《たよ》りをよこせよ。」 「叔父《おじ》さんが、停車場《ていしゃば》へ迎《むか》えに出《で》ていてくれるかい。」 「待《ま》っていてくださるとも。それでも、所番地《ところばんち》書《か》いた紙《かみ》をなくすでないぞ。」  峠《とうげ》を上《のぼ》ると、小鳥《ことり》が、そばの枯《か》れ枝《えだ》に止《と》まってさえずっていました。 「つぐみみたいだなあ。」  少年《しょうねん》は、しばらく立《た》ち止《ど》まって、それに見《み》とれていました。こんな小鳥《ことり》といっしょに山《やま》の中《なか》で暮《く》らしているほうが、東京《とうきょう》へいくよりは幸福《こうふく》のように感《かん》じられたのです。いつのまにか母親《ははおや》の姿《すがた》が遠《とお》くさきへいってしまいました。少年《しょうねん》は驚《おどろ》いてその後《あと》を追《お》ったが、どういうものか足《あし》が重《おも》くて、なかなか動《うご》きません。いくら早《はや》く走《はし》ろうとしても足《あし》が進《すす》みません。ただ気《き》が急《いそ》いで、体《からだ》をもだえているばかりでした。  小僧《こぞう》さんは、苦《くる》しいうちに、こんな夢《ゆめ》を見《み》ているのでした。 [#7字下げ]二[#「二」は中見出し]  町《まち》の商店《しょうてん》に、女中《じょちゅう》をしているみつ子《こ》は、ちょうどお使《つか》いに出《で》て、銀行《ぎんこう》の前《まえ》を通《とお》りかかりました。 「あら、小僧《こぞう》さんが、どうしたんでしょう。」  みつ子《こ》は、少年《しょうねん》のたおれているところへきました。見《み》ると、その顔色《かおいろ》が真《ま》っ青《さお》になっています。そして、苦《くる》しそうに息《いき》をしていました。 「ねえ、気分《きぶん》がわるいの?」と、彼女《かのじょ》は、聞《き》きました。けれど、小僧《こぞう》さんは、なんとも答《こた》えませんでした。 「気分《きぶん》がわるいの?」と、彼女《かのじょ》は、こんど耳《みみ》もとへ口《くち》を近《ちか》づけて、いいました。けれど、小僧《こぞう》さんには、答《こた》えるだけの気力《きりょく》がなかったのです。 「かわいそうに、こんな大《おお》きな荷物《にもつ》を負《お》わせて、寒《さむ》いのに働《はたら》かすからだわ。」 「重《おも》いのでしょう。私《わたし》、あんたといっしょにお家《うち》へいってあげるわ。そして、ご主人《しゅじん》によく話《はな》してあげますから、お所《ところ》をおっしゃい。」  こういった、彼女《かのじょ》の目《め》の中《なか》には、いつか涙《なみだ》がわきました。しかし、少年《しょうねん》は意識《いしき》がないのか、返事《へんじ》がなかったのです。 「きっと、病気《びょうき》なのかもしれない。それなら早《はや》くお医者《いしゃ》に見《み》せなければ……。」  彼女《かのじょ》は、自分《じぶん》がお使《つか》いに出《で》て、主人《しゅじん》の待《ま》っていることも忘《わす》れていました。  みつ子《こ》は、このことを交番《こうばん》に届《とど》けなければならぬと考《かんが》えました。さっそく交番《こうばん》の方《ほう》へ走《はし》っていきました。彼女《かのじょ》のいうことを聞《き》いた、巡査《おまわり》さんは、 「朝飯《あさめし》を食《た》べずに出《で》て、つかれたのではないか。」と、軽《かる》く想像《そうぞう》しました。 「いえ、顔色《かおいろ》が青《あお》く、たいへんに苦《くる》しそうです。」と、みつ子《こ》はいいました。みつ子《こ》は、今年《ことし》十六になったのです。 「いくつぐらいの子供《こども》かね。」と、奥《おく》の方《ほう》にいた、もう一人《ひとり》の巡査《じゅんさ》が、たずねました。 「十三、四の、まだ小《ちい》さい子供《こども》です。」  彼女《かのじょ》は、こう答《こた》えると目頭《めがしら》が熱《あつ》くなりました。自分《じぶん》の弟《おとうと》の姿《すがた》が浮《う》かんだからです。 「急病《きゅうびょう》かな。」と、その巡査《おまわり》さんは、すぐに起《た》ち上《あ》がって、交番《こうばん》から出《で》ました。  彼女《かのじょ》は、銀行《ぎんこう》の前《まえ》へその巡査《おまわり》さんを案内《あんない》しました。このときは、すでに四、五|人《にん》も小僧《こぞう》さんのまわりに立《た》っていました。巡査《おまわり》さんは、小僧《こぞう》さんの顔《かお》をのぞきこむようにして、なにかたずねていたが、少年《しょうねん》の言葉《ことば》は、そばにいるものにさえ聞《き》きとれませんでした。  巡査《おまわり》さんは、ふいに顔《かお》を上《あ》げて、左右《さゆう》を見《み》まわしながら、いいました。 「だれか、手《て》をかしてくれませんか。病人《びょうにん》を交番《こうばん》までつれていくのだが。」 「よし、おてつだいしましょう。」  労働者《ろうどうしゃ》ふうの男《おとこ》と、勤《つと》め人《にん》ふうの若者《わかもの》が、前《まえ》へ出《で》ました。労働者《ろうどうしゃ》は、少年《しょうねん》の負《お》っているお菓子《かし》の入《はい》っている箱《はこ》を、勤《つと》め人《にん》は、自転車《じてんしゃ》を、そして、巡査《おまわり》さんは、小僧《こぞう》をだくようにして、つれていきました。  みつ子《こ》は、もうこれでだいじょうぶだと思《おも》って、銀行《ぎんこう》の前《まえ》からはなれたのです。 [#7字下げ]三[#「三」は中見出し]  みつ子《こ》は、歩《ある》きながら、自分《じぶん》の弟《おとうと》のことを思《おも》い出《だ》していました。ちょうど年《とし》ごろもあの小僧《こぞう》さんと同《おな》じくらいです。雪《ゆき》まじりの北風《きたかぜ》の吹《ふ》きつける窓《まど》の下《した》で、弟《おとうと》は父親《ちちおや》のそばでわらじを造《つく》ったり、なわをなったりしているであろう。下《した》を向《む》いて、だまっている父親《ちちおや》は、 「すこし休《やす》めや。」と、ときどき顔《かお》を上《あ》げていうであろう。そして、炉《ろ》に枯《か》れ枝《えだ》や、松《まつ》の落《お》ち葉《ば》などを入《い》れるであろう。しばらく、青《あお》い、香《かお》りのする煙《けむり》が、もくもくとしているが、そのうちにぱっと火《ひ》が燃《も》えついて、へやのすみまで明《あか》くなる。遠《とお》くで、からすの鳴《な》き声《ごえ》がする。弟《おとうと》は、自分《じぶん》から送《おく》った少年雑誌《しょうねんざっし》を出《だ》して、さも、大事《だいじ》にして楽《たの》しそうにして開《ひら》いて見《み》る。弟《おとうと》は、めずらしい写真《しゃしん》に見入《みい》ったり、また書《か》いてあるおもしろそうな記事《きじ》に、心《こころ》を奪《うば》われて、いろいろの空想《くうそう》にふけるであろうと思《おも》ったのでした。 「あの小僧《こぞう》さんは、あれからどうなったろう。」と、彼女《かのじょ》は、一|日《にち》仕事《しごと》をしながらも思《おも》っていました。  そのうちに日《ひ》が暮《く》れて、その日《ひ》の用事《ようじ》が終《お》わると、彼女《かのじょ》は、自分《じぶん》のへやへ入《はい》って、このあいだ、弟《おとうと》の清二《せいじ》からきた手紙《てがみ》を出《だ》してなつかしそうに、また読《よ》み返《かえ》していたのです。 「姉《ねえ》さん、僕《ぼく》、雪《ゆき》の消《き》えるのを待《ま》っているんだよ。そうしたら今年《ことし》はお父《とう》さんと裏《うら》のかや山《やま》を開墾《かいこん》して、畑《はたけ》を造《つく》るのだ。枯《か》れ草《くさ》に火《ひ》をつけてたいたり、根《ね》を掘《ほ》り起《お》こしたりするのが、いまから楽《たの》しみなんだ。そして、兄《にい》さんが、凱旋《がいせん》していらっしゃるまでに豆《まめ》をまいたり、芋《いも》を作《つく》ったりしておいて、兄《にい》さんをびっくりさせるんだ。なぜなら、兄《にい》さんだって、あのかや山《やま》には、ちょっと手《て》がつけられなかったのだからな。姉《ねえ》さん、僕《ぼく》は、満洲《まんしゅう》へでも、どこへでもいけるよ。僕《ぼく》がいくときは、隣《となり》の徳《とく》ちゃんも、いっしょにいくというんだ。二人《ふたり》でなら、うちのお父《とお》さんも許《ゆる》してくださると思《おも》っている。姉《ねえ》さん、なにか満洲《まんしゅう》のことを書《か》いた本《ほん》があったら、どうか送《おく》ってください。僕《ぼく》、とても見《み》たいのだから……。」と、書《か》いてありました。  みつ子《こ》は、いつも弟《おとうと》の元気《げんき》でいるのをうれしく思《おも》いました。そして、たえず希望《きぼう》にもえているのをなんとなくいじらしく思《おも》いました。しかし、これからの世《よ》の中《なか》へ出《で》て、ひとり立《だ》ちしていくには、どこにいても、今朝《けさ》の小僧《こぞう》さんのように辛《つら》いめにもあうことがあるだろう……。そして、それに打《う》ち勝《か》っていかなければならぬのだと思《おも》うと、また、心《こころ》の中《なか》が暗《くら》くなるのでした。 「どうぞ、神《かみ》さま、小《ちい》さな弟《おとうと》や、弟《おとうと》のような少年《しょうねん》をば助《たす》けてやってください。」と、みつ子《こ》は、へやの中《なか》でしばらく瞑目《めいもく》して合掌《がっしょう》していたのであります。  翌日《よくじつ》、みつ子《こ》は、用達《ようたし》の帰《かえ》りに、わざわざ交番《こうばん》へ立《た》ち寄《よ》りました。小僧《こぞう》さんのようすを聞《き》きたかったからです。やはり病気《びょうき》をがまんして、重《おも》い荷《に》を負《お》って出《で》たためにたおれたのだということでした。そして、小僧《こぞう》さんは、主人《しゅじん》を呼《よ》び出《だ》して引《ひ》きわたされたというのであります。 「小《ちい》さくて、家《いえ》のため、親《おや》のために働《はたら》くような子供《こども》は、みんな感心《かんしん》な子供《こども》だから、よくめんどうをみて、しんせつにしてやらなければならぬと、主人《しゅじん》にいいわたした。」と、巡査《おまわり》さんは、いわれました。 「ほんとうに、そうです。」と、みつ子《こ》は、深《ふか》く感《かん》じたので、丁寧《ていねい》に頭《あたま》を下《さ》げて、交番《こうばん》を出《で》ましたが、道《みち》を歩《ある》きながら、もし、その主人《しゅじん》というのが、薄情《はくじょう》で、もののわからぬ人物《じんぶつ》であったらどうであろう。自分《じぶん》のしかられたことを恨《うら》みにもって、かえって哀《あわ》れな小僧《こぞう》さんをいじめはしないかしらと考《かんが》えると、やさしいみつ子《こ》の心《こころ》にはまた新《あたら》しい心配《しんぱい》が、生《しょう》じたのでした。 「そんなことはないわ。そんなことがあれば、またしかられるでしょう。きっと、主人《しゅじん》は、ああ自分《じぶん》が悪《わる》かった、不注意《ふちゅうい》だったとさとって、これから、あの小僧《こぞう》さんや、ほかの小僧《こぞう》さんたちをかわいがるにちがいない。みんな日本人《にっぽんじん》ですもの……。」  彼女《かのじょ》は、自分《じぶん》の心配《しんぱい》が、つまらない心配《しんぱい》であることを知《し》ったのであります。 [#7字下げ]四[#「四」は中見出し]  ここは、町《まち》に近《ちか》い郊外《こうがい》でした。ある長屋《ながや》の一|軒《けん》では、父《ちち》の帰《かえ》りを待《ま》っている少年《しょうねん》がありました。いつもいまごろは、弁当箱《べんとうばこ》を下《さ》げて会社《かいしゃ》からもどってくる父親《ちちおや》の姿《すがた》を彼方《あちら》の道《みち》の上《うえ》に見《み》るのであるが、今日《きょう》は、まだそれらしい姿《すがた》が見《み》えません。 「早《はや》く帰《かえ》っていらっしゃればいいに、三《さぶ》ちゃんが、病気《びょうき》できているのになあ。」と、少年《しょうねん》は気《き》をもんでいました。仕事《しごと》の都合《つごう》で二電車《ふたでんしゃ》ばかりおくれた父親《ちちおや》は、黒《くろ》の外套《がいとう》に、鳥打帽《とりうちぼう》をかぶって急《いそ》いできました。むかえに出《で》ている倅《せがれ》を見《み》つけると、 「吉雄《よしお》や待《ま》っていたのか、さあ、寒《さむ》いからお家《うち》へ入《はい》んな。」といいました。 「三《さぶ》ちゃんが、病気《びょうき》になってきて寝《ね》ているよ。朝《あさ》、自転車《じてんしゃ》で走《はし》っているうちに、気分《きぶん》がわるくなって、たおれたんだって。」 「なに、道《みち》でたおれたんだって? どんなぐあいだ、医者《いしゃ》に見《み》てもらったか。」と、父親《ちちおや》は、驚《おどろ》きました。 「工場《こうば》の医者《いしゃ》に見《み》てもらったのだって、お薬《くすり》びんを持《も》ってきたよ。」 「熱《ねつ》が高《たか》いか。」と、父親《ちちおや》は、急《せ》き込《こ》んで聞《き》きました。 「お母《かあ》さんが氷《こおり》まくらをしてあげたら、すこし下《さ》がったようだ。いま、よく眠《ねむ》っている。」  小僧《こぞう》さんは、工場《こうば》に寝《ね》ているところがないので、叔父《おじ》さんの家《いえ》へ帰《かえ》されたのです。叔父《おじ》さんの家《いえ》は、やはりろくろく寝《ね》るところもない狭《せま》い家《いえ》でありました。そして、貧《まず》しい暮《く》らしをしていました。小僧《こぞう》さんの名《な》は三郎《さぶろう》といって、田舎《いなか》から、この叔父《おじ》さんを頼《たよ》ってきたのです。そして、いまの製菓工場《せいかこうじょう》へ見習《みなら》い小僧《こぞう》に入《はい》ったのでした。しかし叔父《おじ》さんも、叔母《おば》さんもやさしい人《ひと》であったし、二つ年下《としした》の吉雄《よしお》くんもすぐ仲《なか》よしになったので、三郎《さぶろう》は、公休日《こうきゅうび》には、かならず叔父《おじ》さんの家《いえ》へ帰《かえ》るのが、なによりの楽《たの》しみだったのです。叔父《おじ》さんは、玄関《げんかん》を上《あ》がると、 「三郎《さぶろう》が病気《びょうき》で、きているってな。」といいました。 「流感《りゅうかん》らしいんですね。肺炎《はいえん》になるといけないから、いま湿布《しっぷ》をしてやりました。」と、叔母《おば》さんが、答《こた》えました。 「朝《あさ》、寒《さむ》いのに自転車《じてんしゃ》で走《はし》ったからだ。大事《だいじ》にしてやれば、早《はや》くなおるだろう……。」 「人中《ひとなか》へ出《で》ていますと、気《き》を使《つか》って、がまんをしますし、まだ年《とし》のいかないのに、かわいそうです。」 「なにしろこういう世《よ》の中《なか》だから、体《からだ》も、心《こころ》も、よほど強《つよ》くなければ打《う》ち勝《か》ってはいかれない。」 「三《さぶ》ちゃんは、親戚《しんせき》だけど遠慮《えんりょ》していまして、いじらしいんですよ。」と、叔母《おば》さんがいいました。  叔父《おじ》さんは、足音《あしおと》をたてぬようにして、三郎《さぶろう》の寝《ね》ているへやへ入《はい》りました。三|畳《じょう》のへやには、すみの方《ほう》に吉雄《よしお》の机《つくえ》が置《お》いてあって、そこへ床《とこ》を敷《し》いたので、病人《びょうにん》のまくらもとには、薬《くすり》びんや、洗面器《せんめんき》や、湯気《ゆげ》を立《た》たせる、火鉢《ひばち》などがあって足《あし》のふみ場《ば》もないのです。しかし、ここばかりは、冬《ふゆ》とも思《おも》えぬ暖《あたた》かさでありました。叔父《おじ》さんは心配《しんぱい》そうに、病人《びょうにん》の顔《かお》をのぞきこみました。よく眠《ねむ》っています。 「顔色《かおいろ》はいいようだ。これならだいじょうぶだ。」  叔父《おじ》さんは、へやから出《で》ると、こういいました。  昨日《きのう》あたりから、あたたかな風《かぜ》が、吹《ふ》きはじめました。もう春《はる》がやってくるのです。吉雄《よしお》の学年試験《がくねんしけん》も終《お》わって、来月《らいげつ》からは六|年生《ねんせい》になるのでした。三郎《さぶろう》は、また病気《びょうき》がなおって、これも来月《らいげつ》のはじめから、工場《こうば》へ帰《かえ》ることになりました。二人《ふたり》は、ここ数日間《すうじつかん》を楽《たの》しく遊《あそ》ぼうと緑色《みどりいろ》の芽《め》が萌《も》え出《で》た堤《つつみ》の上《うえ》まで、出《で》てきたのでした。 底本:「定本小川未明童話全集 12」講談社    1977(昭和52)年10月10日第1刷発行    1982(昭和57)年9月10日第5刷発行 底本の親本:「赤土へ来る子供たち」文昭社    1940(昭和15)年8月 初出:「小学五年生」    1939(昭和14)年3月 ※表題は底本では、「波《なみ》荒《あら》くとも」となっています。 入力:特定非営利活動法人はるかぜ 校正:酒井裕二 2017年10月25日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。