中学へ上がった日 小川未明 ------------------------------------------------------- 【テキスト中に現れる記号について】 《》:ルビ (例)毎日《まいにち》 |:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号 (例)二|学期《がっき》 -------------------------------------------------------  毎日《まいにち》いっしょに勉強《べんきょう》をしたり、また遊《あそ》んだりしたお友《とも》だちと別《わか》れる日《ひ》がきました。今日《きょう》は卒業式《そつぎょうしき》であります。式《しき》の後《あと》で、男《おとこ》の生徒《せいと》たちは、笑《わら》ったり、お菓子《かし》を食《た》べたり、お茶《ちゃ》を飲《の》んだりしましたけれど、女《おんな》の生徒《せいと》たちは、さすがに悲《かな》しみが胸《むね》につかえるとみえて、だれも笑《わら》ったり、おせんべいを食《た》べたりするものはありませんでした。  哲夫《てつお》は、校長先生《こうちょうせんせい》のおっしゃったことが、いつまでも耳《みみ》に残《のこ》っていました。 「日本《にっぽん》の非常時《ひじょうじ》のことは、もうみんなよくわかっていると思《おも》います。これから世《よ》の中《なか》へ出《で》て働《はたら》くものも、また上《うえ》の学校《がっこう》へいって学《まな》ぶものも、第《だい》一に体《からだ》を大事《だいじ》にして、いかなる試練《しれん》にも、打《う》ち勝《か》つ覚悟《かくご》がなければならない。そして、お国《くに》のため、世《よ》の中《なか》のために働《はたら》く、りっぱな人間《にんげん》となってください。これが、私《わたし》からみなさんに申《もう》しあげる最後《さいご》の言葉《ことば》です。」  いよいよ卒業《そつぎょう》した生徒《せいと》たちが、お免状《めんじょう》を持《も》って家《いえ》へ帰《かえ》るときでした。校長先生《こうちょうせんせい》は、わざわざ廊下《ろうか》へいすを持《も》ち出《だ》して、一人《ひとり》、一人《ひとり》の顔《かお》をじっとごらんになりました。そのとき、眼鏡《めがね》の底《そこ》の先生《せんせい》の目《め》は、涙《なみだ》でうるんでいました。男《おとこ》の生徒《せいと》の中《なか》には、その前《まえ》を平気《へいき》で通《とお》ったものもあるが、女《おんな》の生徒《せいと》たちは、いずれもハンカチで目《め》を押《お》さえて過《す》ぎました。  哲夫《てつお》は、学校《がっこう》の門《もん》を出《で》ると、やはり悲《かな》しみがこみ上《あ》げてきました。もう明日《あす》からは、この門《もん》を通《とお》らないであろう……と、幾《いく》たびとなく振《ふ》り向《む》いて、あちらへ道《みち》を曲《ま》がったのです。 「宮田《みやた》くん。」と、彼《かれ》は、前《まえ》へいく少年《しょうねん》に声《こえ》をかけました。少年《しょうねん》は、立《た》ち止《ど》まって、哲夫《てつお》を見返《みかえ》ると、にっこり笑《わら》いました。 「宮田《みやた》くんは、どこへ入《はい》ったの?」と、哲夫《てつお》はききました。少年《しょうねん》は、すこし顔《かお》を赤《あか》くして、 「僕《ぼく》は、もう学校《がっこう》をよして、家《うち》のおてつだいをするよ。」と、いいました。 「そうかい。」と、哲夫《てつお》は、うなずきました。  二|学期《がっき》のときでした。宮田《みやた》がいったことを思《おも》い出《だ》したのです。 「僕《ぼく》、こんどの試験《しけん》に甲《こう》を三つとれば、お母《かあ》さんが、自転車《じてんしゃ》を買《か》ってくれるといったよ。」  しかし、その後《ご》、自転車《じてんしゃ》を買《か》ってもらったという話《はなし》をきかなかったから、甲《こう》が三つとれなかったのだろうと思《おも》いました。けれど、宮田《みやた》くんのお母《かあ》さんは、やさしい、いいお母《かあ》さんだという感《かん》じがしたのでした。宮田《みやた》くんの家《いえ》は八百屋《やおや》です。 「先生《せんせい》は、勉強《べんきょう》をしても、働《はたら》いても、その精神《せいしん》に変《か》わりがなければ、お国《くに》につくすと同《おな》じだとおっしゃったから、大《おお》いに働《はたら》きたまえ。」と、哲夫《てつお》は、いいました。 「君《きみ》は、どこへ入《はい》ったのだい。」と、宮田《みやた》は、ききました。 「僕《ぼく》は、中学《ちゅうがく》へ入《はい》ったけれど、ついていけるか心配《しんぱい》なんだよ。」 「君《きみ》は、だいじょうぶさ。」 「それに、君《きみ》は、体《からだ》が弱《よわ》いんだものね。」と、哲夫《てつお》は、なぐさめました。 「働《はたら》けば、体《からだ》が達者《たっしゃ》になるって、お母《かあ》さんがいったよ。」  二人《ふたり》は、途中《とちゅう》で、右《みぎ》と左《ひだり》に別《わか》れました。哲夫《てつお》は、また中学《ちゅうがく》の入学試験《にゅうがくしけん》にきていた不幸《ふこう》な少年《しょうねん》を思《おも》い出《だ》したのです。当日《とうじつ》、哲夫《てつお》は、お母《かあ》さんにつれられていったが、控《ひか》え室《しつ》に松葉《まつば》づえをついた少年《しょうねん》が、姉《ねえ》さんにつれられていっていました。ほかの少年《しょうねん》たちが元気《げんき》でいるのに、その少年《しょうねん》は、青白《あおじろ》い顔《かお》をして、弱々《よわよわ》しそうでした。そのうちに、ベルが鳴《な》って、試験場《しけんじょう》へ入《はい》るときがきました。「おちついて、しっかりおやり。」とか、「よく問題《もんだい》を見《み》て、あわててはいけません。」とか、いう声《こえ》が、そこここできかれました。哲夫《てつお》は、お母《かあ》さんを残《のこ》していきかけると、松葉《まつば》づえの少年《しょうねん》もいっしょにいきかけました。 「だいじょうぶかい、おまえは、できなくてもいいんだよ。」と、姉《ねえ》さんが、少年《しょうねん》の耳《みみ》に口《くち》をつけていっていました。これをきいたとき、哲夫《てつお》は胸《むね》が熱《あつ》くなりました。試験場《しけんじょう》へ入《はい》ると、すべてのことを忘《わす》れてしまいました。算術《さんじゅつ》と読《よ》み方《かた》の試験《しけん》をすまして、哲夫《てつお》は、ふたたび控《ひか》え室《しつ》へもどると、そこには、お母《かあ》さんが、じっとして腰《こし》をかけて待《ま》っていられました。 「どうだったい。」と、お母《かあ》さんは、我《わ》が子《こ》の顔《かお》を見《み》ると、すぐおっしゃいました。 「やさしいんだよ。」と、哲夫《てつお》は、こともなげにいって、そばを見《み》ると、少年《しょうねん》の姉《ねえ》さんが、うつむいて、考《かんが》え顔《がお》をしていました。松葉《まつば》づえの少年《しょうねん》が、まだ試験場《しけんじょう》から出《で》なかったのです。入学《にゅうがく》の日《ひ》には、哲夫《てつお》は、ひとりで学校《がっこう》へいきました。そして、控《ひか》え室《しつ》に入《はい》ってあたりを見《み》まわしました。 「松葉《まつば》づえの少年《しょうねん》は、及第《きゅうだい》したろうか。」と、思《おも》ったからです。どうしたのか、その姿《すがた》は見《み》えませんでした。このとき、思《おも》いがけない事件《じけん》が起《お》こったのです。すぐ自分《じぶん》のそばに生意気《なまいき》な少年《しょうねん》が、三、四|人《にん》いました。 「きょう帰《かえ》りに、どこかへいこうよ。」 「僕《ぼく》、まだ、本《ほん》を買《か》わないんだぜ。」  そのとき、カチンという音《おと》がしました。 「あっ、拾銭《じっせん》どっかへやっちゃった。」  彼《かれ》らは、さがしたけれどなかったようです。――哲夫《てつお》が、しばらくして、くつを上《あ》げると、下《した》に白銅《はくどう》がころがっていました。 「ここにあった。」と、哲夫《てつお》は、拾《ひろ》って、落《お》とした少年《しょうねん》に渡《わた》しました。 「ずるいや、ごまかそうとして。」 「だれが。」と、哲夫《てつお》は、かっとなりました。 「おい、けんかする気《き》か。」 「なに。」と、哲夫《てつお》は、少年《しょうねん》の横顔《よこがお》をなぐりました。たちまち、控《ひか》え室《しつ》で組《く》み打《う》ちがはじまったのです。 「よせ、おまえがわるいのだ。」と、仲間《なかま》が少年《しょうねん》を引《ひ》き離《はな》そうとしました。片方《かたほう》から、どこかのおじさんが、 「二人《ふたり》とも、日本《にほん》の子供《こども》じゃないか。」と、いいました。哲夫《てつお》は、はっとして、手《て》を放《はな》したが、目《め》から、くやし涙《なみだ》がながれてきました。 「そうだ、僕《ぼく》はもう中学生《ちゅうがくせい》なんだ。」と、肩《かた》を上《あ》げて突《つ》っ立《た》ったまま、彼《かれ》はさびしく微笑《ほほえ》んだのであります。 底本:「定本小川未明童話全集 12」講談社    1977(昭和52)年10月10日第1刷発行    1982(昭和57)年9月10日第5刷発行 底本の親本:「夜の進軍喇叭」アルス    1940(昭和15)年4月 初出:「台湾日日新報」    1939(昭和14)年4月16日 ※表題は底本では、「中学《ちゅうがく》へ上《あ》がった日《ひ》」となっています。 ※初出時の表題は「中学へ上つた日」です。 入力:特定非営利活動法人はるかぜ 校正:酒井裕二 2017年3月11日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。