だれにも話さなかったこと 小川未明 ------------------------------------------------------- 【テキスト中に現れる記号について】 《》:ルビ (例)女《おんな》 |:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号 (例)一|度《ど》 -------------------------------------------------------  あのときの、女《おんな》の先生《せんせい》は、まだいらっしゃるだろうか。それにつけ、僕《ぼく》は、深《ふか》く心《こころ》にのこって、忘《わす》れられない当時《とうじ》の思《おも》い出《で》があります。  しばらく、さくの外《そと》に立《た》って、もう一|度《ど》そのときのことを頭《あたま》にえがき、自分《じぶん》の子供《こども》の時分《じぶん》をかえりみました。  どちらかといえば、僕《ぼく》は、内弁慶《うちべんけい》で、外《そと》では弱虫《よわむし》というのでしょう。幼稚園《ようちえん》へも、なかなか一人《ひとり》ではいけなかったのでした。 「姉《ねえ》さん、ついていってよ、それでなけりゃ、いや。」と、いざ朝《あさ》になって、いくときになると、いいはりました。 「じゃ、こんどだけ、いっしょにいってあげましょうね。」と、姉《あね》は、ついていってくれました。  家《いえ》を出《で》ると、さびしいけれど町《まち》になります。お菓子屋《かしや》や、くだもの屋《や》や、酒屋《さかや》や、薬屋《くすりや》などがあって、角《かど》のところにある、ラジオ屋《や》の前《まえ》をまがると、細《ほそ》い道《みち》となります。  その道《みち》をいくと、じき、幼稚園《ようちえん》のところへ出《で》るのでした。  門《もん》の前《まえ》までくると、立《た》ちどまって、 「さあ、お入《はい》りなさい。姉《ねえ》ちゃんは、もう帰《かえ》っていいでしょう。」と、姉《あね》は、いいました。  もう、校舎《こうしゃ》の入《い》り口《ぐち》には、きのう、いっしょに遊《あそ》んだ、子供《こども》たちが二、三|人《にん》もかたまって、僕《ぼく》のほうを見《み》て、なにか話《はな》しあって、笑《わら》っています。きっと、弱虫《よわむし》とでもいっていたのでしょう。そう知《し》りつつも、僕《ぼく》は勇気《ゆうき》を出《だ》して、一人《ひとり》で入《はい》ることができなかった。それどころか、ますます、悲《かな》しくなって、姉《あね》の手《て》をひき、 「お姉《ねえ》ちゃんも、いっしょでなければいや。」と、泣《な》かんばかりに、いいました。  姉《あね》は、なんと思《おも》ったか、いやなようすもみせず、笑《わら》いながら、 「しかたがないのね、じゃ、いっしょに入《はい》りますよ。」と、いって、門《もん》を入《はい》りました。  僕《ぼく》のたのみなら、なんでもよくきいてくれる、やさしい姉《あね》は、教室《きょうしつ》の中《なか》へも、いっしょに入《はい》って、先生《せんせい》のお話《はなし》を聞《き》いていました。  僕《ぼく》たちは、教場《きょうじょう》の中《なか》で、教《おそ》わるよりも、外《そと》へ出《で》て、広場《ひろば》で遊《あそ》んだり、うたったりするときのほうが多《おお》かった。しかし、僕《ぼく》には、内《なか》にいるほうが好《この》ましく、外《そと》へ出《で》て、みんなといっしょに手《て》をつなぎ合《あ》って、遊戯《ゆうぎ》をしたり、うたったりするのが、なんとなく、はずかしい気《き》がして、好《す》かなかったのです。  それは、二人《ふたり》ずつ、ならんで、たがいに手《て》をとりあって、うたいながら、桜《さくら》の木《き》のまわりを歩《ある》いたときでした。 「ごらんなさい。姉《ねえ》ちゃんみたいな大《おお》きな人《ひと》は、だれもはいっていませんよ。みっともないでしょう。あんたも、これからお友《とも》だちと、いっしょにならんで、お歩《ある》きなさいね。」と、姉《あね》は、小《ちい》さな声《こえ》でいいました。  子供《こども》に、大人《おとな》がついてきたのは、僕《ぼく》ばかりでなかった。ほかの子供《こども》にも、母親《ははおや》や、姉《あね》などが、なにぶんあがった当座《とうざ》のことで、ついてきたけれど、たいていは、教室《きょうしつ》の外《そと》にいたし、運動《うんどう》するときは、列《れつ》の外《そと》に立《た》って、はなれて見《み》ていたものです。しかるに、僕《ぼく》だけは、遊戯《ゆうぎ》をするにも、姉《あね》といっしょでなければ、しないといったので、しかたなく先生《せんせい》もゆるして、姉《あね》は歩《ある》くとき、列《れつ》へ加《くわ》わりました。  その日《ひ》のことを、よく覚《おぼ》えています。ちょうど、桜《さくら》の花《はな》が咲《さ》きかけていました。子供《こども》たちの列《れつ》は、この桜《さくら》の木《き》のまわりを、先生《せんせい》の号令《ごうれい》に従《したが》って、歩《ある》いたのでした。  僕《ぼく》は、こんなに、心《こころ》のあわただしい間《あいだ》にも、自分《じぶん》の観察《かんさつ》というものをおこたりませんでした。僕《ぼく》たちの、女《おんな》の先生《せんせい》が、姉《あね》といくつも年《とし》のちがわないことを知《し》りました。これは、さいしょに僕《ぼく》の心《こころ》をおどろかした発見《はっけん》でした。  つぎに、姉《あね》が、先生《せんせい》のいわれるとおりに、僕《ぼく》たちといっしょになって、歩《ある》いたり、手《て》をうごかしたり、うたったりしているのを見《み》たときです。  僕《ぼく》は、かっと顔《かお》があつくなって、ただこうしていては、姉《あね》がみじめな気《き》がして、家《いえ》へ帰《かえ》るといい出《だ》しました。 「どうして、急《きゅう》にそんなことをいうの。」  姉《あね》は、あきれて、困《こま》ってしまいました。そして、僕《ぼく》のわがままに、どれほど苦《くる》しんだかしれぬというのは、そう暑《あつ》い日《ひ》でもなかったのに、姉《あね》は額《ひたい》ぎわに汗《あせ》をにじませていたのでした。  先生《せんせい》の顔《かお》を見《み》ると、僕《ぼく》は、いっそうだだをこねました。先生《せんせい》が、なにかいえばいうほど僕《ぼく》は、帰《かえ》るといいはりました。そして、とうとうそのまま家《いえ》へ帰《かえ》ってしまいました。  僕《ぼく》は、元気《げんき》なく、だれにもなにもいわず、ただふきげんでした。 「姉《ねえ》ちゃんは、はずかしくって、もういっしょになんかいけませんよ。」と、姉《あね》は、家《いえ》へ帰《かえ》ると、この日《ひ》ばかりは、おこってしまいました。 「いいよ、僕《ぼく》は、あしたから、一人《ひとり》でいくから。」  僕《ぼく》が、こういったとき、家《うち》の人《ひと》たちは、そんな弱虫《よわむし》が、どうして、一人《ひとり》でいけるものかといって、笑《わら》いだしました。  こうした周囲《しゅうい》の空気《くうき》は、僕《ぼく》をして、偶然《ぐうぜん》にも心《こころ》に深《ふか》く感《かん》じたいっさいを打《う》ち明《あ》ける機会《きかい》をば、永久《えいきゅう》にうしなわしてしまったのでした。  しかし、その翌日《よくじつ》から、僕《ぼく》は、いったとおり、だれにも、送《おく》ってもらわず、一人《ひとり》で幼稚園《ようちえん》へいき、また一人《ひとり》で帰《かえ》りました。 「どうして、そんなに、強《つよ》くなったの。」と、家《いえ》じゅうのものがふしぎがったり、おどろきの目《め》をみはったりしました。 「きっと、いいお友《とも》だちが、できたのでしょう。その、お友《とも》だちのてまえ、お姉《ねえ》さんに、つれていってもらうのが、はずかしくなったのですよ。」と、下《した》の姉《あね》が、いいました。  もとより、だれも、僕《ぼく》の気持《きも》ちのわかるはずはありませんでした。また、僕《ぼく》は、自尊心《じそんしん》から、自分《じぶん》が弱虫《よわむし》なばかりに、姉《あね》をはずかしめて、気《き》の毒《どく》に思《おも》ったことを、だれにも語《かた》る気《き》になれませんでした。いつしか、月日《つきひ》はたってしまいました。その後《ご》、姉《あね》は、嫁《よめ》にいって、もう家《いえ》にはいないのです。それゆえ、あるいは、姉《あね》にも、あのときの、僕《ぼく》の気持《きも》ちを永久《えいきゅう》に語《かた》る機会《きかい》はないかもしれません。  だが僕《ぼく》は、あの日《ひ》、いっしょに遊戯《ゆうぎ》をしてくれた、姉《あね》のすがたを思《おも》い出《だ》すと、これから後《のち》、どんな苦《くる》しいことにも忍耐《にんたい》できる気《き》がする。過《す》ぎた日《ひ》のことを思《おも》い出《だ》して、かぎりなきなつかしさと、悲《かな》しさを感《かん》ずるのでした。僕《ぼく》は、いくたびも、幼稚園《ようちえん》の、小《ちい》さな校舎《こうしゃ》と桜《さくら》の木《き》をふりかえりながら、細《ほそ》い道《みち》を歩《ある》いて、いつしかそこを遠《とお》ざかりました。 底本:「定本小川未明童話全集 14」講談社    1977(昭和52)年12月10日第1刷発行    1983(昭和58)年1月19日第5刷発行 底本の親本:「太陽と星の下」あかね書房    1952(昭和27)年1月 ※表題は底本では、「だれにも話《はな》さなかったこと」となっています。 入力:特定非営利活動法人はるかぜ 校正:酒井裕二 2019年7月30日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(https://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。