牧羊神 上田敏 上田敏訳 ------------------------------------------------------- 【テキスト中に現れる記号について】 《》:ルビ (例)阜《をか》 |:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号 (例)夢|薫《かを》り [#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定    (数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数) (例)莩 /\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号) (例)もろ/\ *濁点付きの二倍の踊り字は「/″\」 ------------------------------------------------------- [#2字下げ]牧羊神[#「牧羊神」は中見出し] 阜《をか》の上の森陰に直立《すぐだ》ちて 牧羊の神パアン笙《しやう》を吹く。 晝さがりの日暖かに、風も吹きやみぬ。 天《そら》青し、雲白し、野山《のやま》影短き 音《おと》無《なし》の世に、たゞ笙の聲、 ちよう、りよう、ふりよう、 ひうやりやに、ひやるろ、 あら、よい、ふりよう、るり、 ひよう、ふりよう、 蘆笛《あしぶえ》の管《くだ》の簧《した》、 震《ふる》ひ響きていづる音《ね》に、 神も昔をおもふらむ。 髯《ひげ》そゝげたる相好《さうがう》は、 翁《おきな》さびたる咲《ゑ》まひがほ、 角《つの》さへみゆる額髮《ひたひがみ》、 髮はらゝぎて、さばらかに、 風雅の心浮べたる ――耳も山羊《やぎ》、脚《あし》も山羊―― 半獸《はんじう》の姿ぞなつかしき。 音《ね》の程《ほど》らひの搖曳《ゆりびき》に、 憧《あこが》れごゝち、夢に入るを きけば昔の戀がたり、 「細谷川《ほそだにかは》の丸木橋《まるきばし》、 ふみかへしては、かへしては、 あの山みるにおもひだす、 わかき心のはやりぎに 森の女神《めがみ》のシュリンクス 追ひしその日の雄誥《をたけび》を。 岩の峽間《はざま》の白樫《しらがし》の 枝かきわけてラウラ木《ぎ》や ミュルトスの森すぎゆけば、 木蔦《きづた》の蔓《つる》に絡《から》まるゝ 山葡萄《やまぶだう》こそうるさけれ。 去年《こぞ》の落栗《おちぐり》毬栗《いがぐり》は 蹄《ひづめ》の割《われ》に挾《はさ》まれど、 君を思へば正體《しやうたい》無しや、 岩角《いはかど》、木株《こかぶ》、細流《せゝらぎ》を 踏みしめ、飛びこえ、徒《かち》わたり、 雲の御髮《みぐし》や、白妙《しろたへ》の 肌理《きめ》こまやかの肉置《しゝおき》の 肩を抱《し》めむと喘《あへ》ぎゆく。 やがてぞ谷は極《きは》まりて。 鳶尾草《いちはつぐさ》の濃紫《こむらさき》 にほひすみれのしぼ鹿子《がのこ》、 春山祇《はるやまづみ》の來て遊ぶ 泉のもとにつきぬれば 胸もとゞろに、かの君を 今こそ終《つひ》に得てしかと 思ふ心のそらだのめ。 淺澤水《あさざはみづ》の中島《なかじま》に 仆《たふ》れてつかむ蘆《あし》の根《ね》よ。 あまりに物のはかなさに、 空手《むなて》をしめて、よゝと泣く 吐息《といき》ためいきとめあへず、 愁《うれ》ひ嘯《うそぶ》くをりしもあれ、 ふしぎや、音のしみじみと、 うつろ蘆莖《あしぐき》鳴りいでぬ、 蘆莩《あしつゝ》響き鳴りいでぬ。 さては抱けるこの草は 君が心のやどり草《ぐさ》、 戀は草、草は戀。 せめてはこれぞわが物と 笙《しやう》にしつらひ、年來《としごろ》の つもる思《おもひ》を口うつし 移して吹けば片岡に 夫《つま》呼《よ》ぶ雉子《きじ》の雌鳥《めんどり》も、 胡桃《くるみ》に耽《ふ》ける友鳥《ともどり》も、 原ににれがむ黄牛《あめうし》も、 牧《まき》に嘶《いなゝ》く黒駒《くろごま》も、 埒《らち》にむれゐる小羊《こひつじ》も、 聞惚《きゝほ》れ、見惚《みほ》れ、あこがれて、 蝉の連節《つれぶし》のどやかに、 蜥蜴《とかげ》も石《いし》に眠るなる 世は寂寥《さびしら》の眞晝時《まひるどき》、 蘆に變りしわが戀と おのれも、いつか、ひとつなる うつら心や、のんやほ、のんやほ、 常春藤《いつまでぐさ》のいつまでも うれし愁《うれへ》にまぎれむと、 けふも日影《ひかげ》の長閑《のどけ》さに、 心をこめて吹き吹けば、 つもる思も口うつし、 ああ蘆の笛、蘆の笙《しやう》の笛」。 日はやゝに傾きて、遠里《とほざと》に 靄《もや》はたち、中空《なかぞら》の温《ぬく》もりに、 草の香《か》いや高き片岡、 夢|薫《かを》り、現《うつゝ》は匂《にほ》ふ今、 眠眼《ねむりめ》の牧羊神、笙を吹きやみぬ。 森陰に音もなし。 村雨《むらさめ》ははらゝほろ、 山梨《やまなし》の枝にかゝれば、 けんけんほろゝうつ 雉子の鳴く音《ね》に覺《さ》まされて、 磐床《いはどこ》いづる牧羊の神パアン、 胸毛《むなげ》の露をはらひつゝ 延欠《のびあくび》して仰ぎ見れば、 有無雲《ありなしぐも》の中天《なかぞら》を ひとり寂しく鸛《こふ》の鳥、 遠《をち》の柴山《しばやま》かけて飛ぶ。 かへりみすれば、川添《かはぞひ》の 根白柳《ねじろやなぎ》を濡燕《ぬれつばめ》、 掠《かす》め飛び交《か》ふ雨あがり、 今、夕影《ゆふかげ》のしるけきに、 生《いき》のこの世の忙《せは》しさよ、 地《つち》には蟻のいとなみを、 空には蜂の分封《こわかれ》を つくづく見れば、宿命《しゆくめい》の かたき掟《おきて》ぞいちじるき。 水の面《おもて》に映《うつ》りたる おのが姿に戀じにの 玉玲瓏《ぎよくれいろう》の水仙花《すゐせんくわ》、 花は散りてし葉の上を、 蟻は斜《なゝめ》に、まじくらに ――なに營《いとなみ》のすさびなる―― 生《いき》の力に驅《か》られたり、 またある時は糧《かて》運ぶ いそしき業《わざ》のもなかにも、 蟻※[#「土へん+(蒙−くさかんむり)」、54-上-22]《ありづか》近き砂の上、 二疋《にひき》の蟻の足とめて、 なに語りあふ、たゆたへる、 遇《あ》ふさ離《き》るさのみち惑《まどひ》、 蟲の世界のまつりごと、 健氣《けなげ》にも、はた傷《いた》ましや。 空は今何の反橋《そりはし》ぞ、 天《あま》馳使《はせつかひ》わたらすか、 東の山に虹かゝり、 更に黄金《こがね》の一帶《いつたい》の 霓《あふさ》わたせるけしきにて、 鹿とり靡《なび》く弓雄等《ゆみをら》が 鳴鏑《かぶら》射放《いはな》つ音たてゝ、 蜂の巣立《すだち》の子別《こわかれ》に 父蜂《おやはち》さそふ細工蜂《さいくばち》、 七歩《しちほ》ばかりの後《うしろ》より、 やゝ高く飛ぶ女王蜂《によわうばち》、 たとへば修羅《しゆら》の巷《ちまた》にて、 亂飛《らんぴ》、亂廻《らんくわい》、虎走《とらばしり》、 勇猛《ゆうまう》たぐひ無き兵も、 パアンふと脅《おびやか》しぬれば 人崩《ひとなだれ》つきて、人馬《じんば》落ちかさなり、 惑《まど》ひ、ふためき走るごと、 大騷亂《だいさうらん》のわたましや、 生《せい》の力《ちから》の仕業《しわざ》なる。 遙《はるか》に山のあなたには、 人の築きし城のうち、 國富み榮え、民|繁《しげ》き 都はあれど、ものみなは かたみにつらき犧牲《いけにへ》の 鬮《くじ》のさだめを免《のが》れあへず、 青人草《あをひとぐさ》の細工蜂《さいくばち》、 黄泉《よみ》の坂路《さかぢ》のさかしきに、 とはに磐石《ばんじやく》押し上ぐる シシュフォス王《わう》の姿かな。 種《たね》とり蜂《ばち》のふところ手、 夢の浮世のぬめり男《を》の しやらり、しやらりとしたる身も、 子別《こわかれ》過《す》ぎし初秋《はつあき》の 朝《あさ》の命《いのち》を知らざるや、 イクシオオンのたえまなく 車輪《しやりん》に廻《めぐ》るあはれさよ、 それにひきかへ王蜂《わうばち》の 滿ち足らひたる幸《さいはひ》は こよなき物と見えながら ウラノスはクロノスに、クロノスは 其子ジウスに滅《ほろぼ》され、 ジウスの代《よ》さへ危《あやふ》きを プロメエチウスは知るといふ 流轉《るてん》の世こそ悲しけれ。 噫《あゝ》勢力《せいりき》の強くとも 命《めい》の掟《おきて》になに克《か》たむ。 理《り》を知る心深ければ 悲《かなしみ》さらに深まさる。 慰《なぐさめ》はたゞこの笙の笛、 牧羊神の笛の音《ね》に、 世の秘事《ひめごと》ぞかくれたる。 名《な》に負《お》ふパアン吹く笛の音《ね》に、 この天地《あめつち》のものみなは、 擧《こぞ》りて群《む》れゐふくまれて、 身も世も忘れ、處《とこ》、時《とき》の 辨別《わいだめ》も無き醉心地《ゑひこゝち》、 夢見る心地|誘《さそ》ふなる 不思議の笙の笛の聲、 悠《のび》やかに、朗《ほがら》かに、あんら、緩《ゆる》やかに、 森の泉に來て歎く 谺姫《こだまひめ》さへほゝゑませ、 谷《たに》の八十隈《やそくま》吹き靡《なび》け、 人里《ひとざと》遠く傳はれば、 牧人《ぼくじん》笻《つゑ》を擲《なげう》ちて、 羊踊《ひつじをどり》りをひとをどり、 生《いき》の悦《よろこび》みちわたる 面《おもて》にしばし夕《ゆふ》づく日、 耀《かゞよ》ふみれば宿命《しゆくめい》の 覊絆《きづな》はいつか解《と》かれたり。 をちこち山の影長く、 夕《ゆふべ》の空の艶《えん》なるに なほも笛吹く牧羊神。 雲の湊《みなと》の漁火《いさりび》か、 ちろり、ちろりと、長庚《ゆふづゝ》は 朝《あさ》が散らせるよき物を、 羊を、山羊《やぎ》を集むるか、 母の乳房《ちぶさ》に髫髮兒《うなゐご》を 呼びかへすなるひとつ星 ああ二つ星、三つ星と 數《かず》添《そ》ふ空の縹色《はなだいろ》、 深《ふか》まさり行く夕まぐれ、 羊の鈴の音《ね》も絶えて、 いづこの野邊の花垣《はながき》か、 燕の妹《いもと》、雉子の叔母、 舌を絶《た》たれし弟姫《おとひめ》の あの容鳥《かほどり》の歌の聲、 間《ま》無《な》く繁《しば》鳴《な》く恨《うらみ》さへ、 和《やは》らぎたりや、この夕《ゆふべ》。 こゝにパアンも今はとて、 さらばの音取《ねとり》、末長《すゑなが》く、 「さらば明日《あす》參《まゐ》らう。 うえうちり、たちえろ」 白樺|木立《こだち》わけ入れば 東の阜《をか》に月はのぼりぬ。 [#2字下げ][#中見出し]滊車に乘りて[#中見出し終わり] 赤松の林をあとに、 麻畠《あさばたけ》ひだりにみつゝ、 滊車はいま堤《つゝみ》にかゝる。 ほのかなる水のにほひに、 河淀《かはよど》の近きは著《し》るし。 三稜草《みくりぐさ》生《お》ふる河原《かはら》に 葦切《あしきり》はけゝしと噪《さわ》ぎ、 鵠《くゞひ》こそ夏は來《きた》らね、 たまたまに百舌《もず》の速贄《はやにへ》、 篦鷺《へらさぎ》の何をか思ふ しよんぼりと立てる畷《なはて》に、 紡績《ばうせき》の宿にやあらむ、 きり、はたり、はたり、ちやう、ちやう、 筬《をさ》の音《おと》やゝにへだゝり、 道祖神《だうそじん》祭《まつ》るあたりの 鐵道の踏切近く、 繩帶《なはおび》[#ルビの「なはおび」は底本では「なはおぴ」]の襤褸《つゞれ》の衣《ころも》、 勝色《かちいろ》は飾磨《しかま》の染《そめ》の 乳呑子《ちのみご》を負《お》へる少女《をとめ》は、 淺茅生《あさぢふ》の末黒《すぐろ》に立ちて 萬歳《ばんざい》と囃《はや》し送りぬ。 萬歳はなれにこそあれ、 幾年《いくとせ》を生きよ、里《さと》の子。 人の世に尊きものは 土の香《か》ぞ、國《くに》の御魂《みたま》ぞ。 僞《いつはり》の市《まち》に住《すま》へば 産土《うぶすな》の神に離《さか》りて 養《やしなひ》をかきたる人も、 埴安《はにやす》の郷《さと》の土より 生《はえ》ぬきのなれに呼ばれて 本然《ほんねん》の命にかへる。 道芝《みちしば》の上《うへ》吹《ふ》く風よ、 農人《のうにん》の寢覺《ねざめ》に通ふ 微《かす》かなる土のおとづれ、 なつかしき母の聲音《こわね》か。 晝さがり草の香《か》高く 松脂《まつやに》のにほひもまじる 地の胸の乳房《ちぶさ》のかをり 蘇門答剌《そもたら》の香《かう》も及ばじ。 忽ちに鐵のにほひす。 鳴神《なるかみ》の落ちかゝるごと、 滊車は今、橋に轟《とゞろ》く。 桁搆《けたがまへ》眼路《めぢ》をかぎりて、 ひとり見る蛇籠《じやかご》の礫《こいし》。 [#2字下げ]ちやるめら[#「ちやるめら」は中見出し] 薄日《うすび》のかげも衰《おとろ》へて、 風|冷《ひや》やかに雲低き 鈍色空《にびいろぞら》のゆふまぐれ、 はづれの辻《つじ》のかたすみに、 ちやるめらの聲吹きおこる。 はじめの節《ふし》のゆるやかに 心を誘ふ管《くだ》の聲、 音《ね》は華《はな》やげるしらべかと おもへば、あらず、せきあぐる 悲哀の曲の搖曳《ゆりびき》に、  みそらかけりて、あの山越えて、  越えてゆかまし夢の里。  よしや、わざくれ、身はうつし世の  榮《はえ》にまぎるゝとがめびと、  有爲《うゐ》の奧山《おくやま》、路《みち》嶮《けは》し。 響《ひゞき》はるかに鳴りわたる おほまが時のうすあかり、 飴屋《あめや》の笛にそゞろげる 子供心もおのづから 家路《いへぢ》をおもふ二《に》の聲に  夢の浮橋《うきはし》、あら、なつかしや  戀ひし、なつかし、虹の橋、  いつし、いづれの日に架《か》けそめて、  涙の谷の中空《なかぞら》を  雲につらぬるそり橋か。 細き金具《かなぐ》の歌口《うたぐち》に かなしみあふれ、氣も萎《な》えて、 折りまはしたる聲のはて、 忽ちくづれ調《てう》かはる あゝ、ちやるめらの末の曲。  「やぶれ菅笠《すげがさ》、しめ緒《を》が切れて  さらにきもせず、すてもせず。」  人に思のなまなかあれば、  夢に現《うつゝ》を代《か》へ難き  ――えい、なんとせう――あだ心。 [#2字下げ]踏繪[#「踏繪」は中見出し] 眞鍮《しんちゆう》の角《かく》なる版《いた》に ビルゼンの像あり、 諸《もろ/\》の御弟子《みでし》之を環《めぐ》る。 母にてをとめ、 わが兒《こ》のむすめ、 歸命頂禮《きみやうちやうらい》、サンタ・マリヤ。 これもまた眞鍮の版《いた》、 萬民《ばんみん》にかはりて、 髑髏《されかうべ》の阜《をか》にクルスを 負《お》ふ猶太《ゆだ》の君《きみ》 那撒禮《なざれ》のイエスス キリストス、神の御子《みこ》。 不思議なる御名《みな》にこそあれ、 イ[#「イ」に白丸傍点]エスス・キ[#「キ」に白丸傍点]リストス、 か[#「か」に白丸傍点]みのみ[#「み」に白丸傍点]こ、よ[#「よ」に白丸傍点]の人のすくひ、 げにいきがみ[#「いきがみ」に白丸傍点]よ。 始《はじめ》なり、終《をはり》なり。 繪踏《ゑぶみ》せよ、轉《ころ》べ、轉《ころ》べと 糺問《きうもん》ぞ切《せつ》なる。 いでや、この今日《けふ》の試《こゝろみ》に 克《か》ちおほせなば、 パライソに行き、 挫《くじ》けたらむには、インヘルノ。 伴天連《ばてれん》の師の宣《のたま》はく マルチルの功《いさを》は 大惡《だいあく》の七《なゝ》つのモルタル 科《とが》を贖《あがな》ふ。 ブルガトリオを まつしぐら、ゆけ、パライソへ。 大日本、朝日の國の 信者たち、努《つと》めよ、 名にし負《お》ふアンチクリストの 力を挫く 義軍《ぎぐん》の先驅《さきがけ》、 上《かゝ》れ、主の如く磔刑《はたもの》に。 この標《しるし》、世に克《か》つ標、 あらかたの標ぞ。 ありし、ある、あらむ世をかけて、 絶えず消えせぬ 命の光、 高くに仰げ、サンタ・クルスを。 見よ、かゝる殉教の士を。 天草《あまくさ》は農人《のうにん》、 五島《ごたう》には鯨《いさな》とる子も ガリレヤ海《かい》の 海人《あま》の習《ならひ》と 悲《かなしみ》節《せつ》を守りつぐ。 代代《よよ》に聞く名こそ異《こと》なれ。 神はなほこの世を 知ろす、たゞひとり、おぼつかな、 今の求道者《ぐだうしや》、 「識《し》らざる神」の 證《あかし》にと死する勇ありや。 [#2字下げ]啄木[#「啄木」は中見出し] 婆羅門《ばらもん》の作れる小田《をだ》を食《は》む鴉《からす》 なく音《ね》の耳に慣《な》れたるか、 おほをそ鳥の名にし負ふ いつはり聲のだみ聲を 又無き歌とほめたつる 木兎《づく》、梟《ふくろふ》や椋鳥《むくどり》の ともばやしこそ笑止《せうし》なれ。 聞かずや春の山ぶみに、 林の奧ゆ、伐木《ばつぼく》の 丁々《たう/\》として山《やま》更《さら》に なほも幽《いう》なる山彦を。 こはそも仙家《せんか》の斧の音《ね》か、 よし足引《あしびき》の山姥《やまうば》が めぐりめぐれる山めぐり、 輪廻《りんゑ》の業《ごふ》の音づれか。 いなとよ、たゞの鳥なれど、 赤染色のはねばうし、 黒斑《くろふ》白斑《しらふ》の綾模樣 紅梅、朽葉《くちば》の色ゆりて、 なに思ふらむ啄木《きつつき》の つくづくわたる歌の枝。 げに虚《うつろ》なる朽木《きうぼく》の 幹にひそめるけら蟲は 風雅《ふうが》の森のそこなひぞ、 鉤《か》けて食《くら》ひね、てらつゝき、 また人の世の道なかば 闇路《やみぢ》の林ゆきまよふ 惱《なやみ》の人を導きて 歡樂山《くわんらくざん》にしるべせよ。 あゝ、あこがれのその歌よ、 そゞろぎわたり、胸に沁み さもこそ似たれ、陸奧《みちのく》の 卒都《そと》の濱邊の呼子鳥《よぶこどり》、 なくなる聲のうとう、やすかた。 [#地から2字上げ]トリスタン・コルビエェル[#「トリスタン・コルビエェル」は大見出し] [#2字下げ]蟾蜍[#「蟾蜍」は中見出し] 風の無い晩に歌がきこえる…… ――月は黒ずんだ青葉の 曲折《ぎざぎざ》に銀を被《き》せてる。 ……歌がきこえる、生埋《いきうめ》になつた 木精《こだま》かしら、そらあの石垣の下さ…… ――已《や》んだ。行つて見よう、そこだ、その陰だ。 ――蟾蜍《ひきがへる》よっ。――なにも恐《こは》い事は無い。 こつちへお寄り、僕が附いてる。 よつく御覽、これは頭《あたま》を圓《まる》めた、翼《はね》の無い詩人さ、 溝《どぶ》の中の迦陵嚬伽《かりようびんが》……あら厭だ。 ……歌つてる――おゝ厭だ。――なぜ厭なの。 そら、あの眼の光つてること…… おや冷《すま》して、石の下《した》へ潛《もぐ》つてく。 さよなら――あの蟾蜍《ひきがへる》は僕だ。 [#地から2字上げ]ジュル・ラフォルグ[#「ジュル・ラフォルグ」は大見出し] [#2字下げ]お月樣のなげきぶし[#「お月樣のなげきぶし」は中見出し] [#1段階小さな文字]星の聲[#小さな文字終わり]  膝の上、  天道樣《てんたうさま》の膝の上、 踊るは、をどるは、  膝の上、  天道樣《てんたうさま》の膝の上、 星の踊のひとをどり。 ――もうし、もうし、お月さま、 そんなに、つんとあそばすな。 をどりの組へおいでなら、 金《きん》の頸環《くびわ》をまゐらせう。 おや、まあ、いつそ難有《ありがた》い 思召《おぼしめし》だが、わたしには お姉樣《あねえさま》のくだすつた これ、このメダルで澤山よ。 ――ふふん、地球なんざあ、いけ好《すか》ない、 ありやあ、思想の臺《だい》ですよ。 それよか、もつと歴《れき》とした 立派な星がたんとある。 ――もう、もう、これで澤山よ、 おや、どこやらで聲がする。 ――なに、そりや何《なに》かのききちがひ、 宇宙の舍密《せいみ》が鳴るのでせう。 ――口のわるい人たちだ、 わたしや、よつぴて起きてゝよ。 お引摺《ひきずり》のお轉婆《てんば》さん、 夜遊《よあそび》にでもいつといで。 ――こまつちやくれた尼《あま》つちよめ、 へへへのへ、のんだくれの御本尊《ごほんぞん》、 掏摸《すり》や狗《いぬ》のお守番《もりばん》、 猫の戀のなかうど、 あばよ、さばよ。 [#1段階小さな文字]衆星退場。靜寂と月光。遙に聲。[#小さな文字終わり]  はてしらぬ  空《そら》の天井《てんじよ》のその下《した》で、 踊るは、をどるは、  はてしらぬ  空《そら》の天井《てんじよ》のその下《した》で、 星の踊をひとをどり。 [#2字下げ]月光[#「月光」は中見出し] とてもあの星には住まへないと思ふと、 まるで鳩尾《みづおち》でも、どやされたやうだ。 ああ月は美しいな、あのしんとした中空《なかぞら》を 夏《なつ》八月《はちぐわつ》の良夜《あたらよ》に乘つきつて。 帆柱《ほばしら》なんぞはうつちやつて、ふらりふらりと 轉《こ》けてゆく、雲のまつ黒《くろ》けの崖下《がけした》を。 ああ往《い》つてみたいな、無暗《むやみ》に往《い》つてみたいな、 尊《たふと》いあすこの水盤《すゐばん》へ乘《の》つてみたなら嘸《さぞ》よからう。 お月《つき》さまは盲《めくら》だ、險難《けんのん》至極《しごく》な燈臺だ。 哀れなる哉、イカルスが幾人《いくたり》も來《き》ておつこちる。 自殺者の眼のやうに、死《あが》つてござるお月樣、 吾等疲勞者大會の議長の席につきたまへ。 冷《つめ》たい頭腦で遠慮無く散々《さんざん》貶《けな》して貰《もら》ひませう、 とても癒《なほ》らぬ官僚主義で、つるつる禿《は》げた凡骨《ぼんこつ》を。 これが最後の睡眠劑か、どれひとつその丸藥《ぐわんやく》を どうか世間の石頭《いしあたま》へも頒《わ》けて呑ませてやりたいものだ。 どりや袍《うはぎ》を甲斐甲斐《かひがひ》しくも、きりりと羽織《はお》つたお月さま、 愛の冷《ひえ》きつた世でござる、何卒《どうぞ》箙《えびら》の矢をとつて、 よつぴき引いて、ひようと放《う》ち、この世に住まふ翅無《はねなし》の 人間どもの心中《しんちゆう》に情《なさけ》の種《たね》を植ゑたまへ。 大洪水《だいこうずゐ》に洗はれて、さつぱりとしたお月さま、 解熱《げねつ》の効《かう》あるその光、今夜《こんや》ここへもさして來て、 寢臺《ねだい》に一杯《いつぱい》漲《みなぎ》れよ、さるほどに小生も この浮世から手を洗ふべく候《さふらふ》。 [#2字下げ]ピエロオの詞[#「ピエロオの詞」は中見出し] また本《ほん》か。戀しいな、 氣障《きざ》な奴等《やつら》の居ないとこ、 錢《ぜに》やお辭儀《じぎ》の無いとこや、 無駄《むだ》の議論の無いとこが。 また一人《ひとり》ピエロオが 慢性孤獨病で死んだ。 見てくれは滑稽《をかし》かつたが、 垢拔《あかぬけ》のした奴《やつ》だつた。 神樣は退去《おひけ》になる、猪頭《おかしら》ばかり殘つてる。 ああ天下の事|日日《ひび》に非なりだ。 用もひととほり濟んだから、 どれ、ひとつ「空扶持《むだぶち》」にでもありつかう。 [#2字下げ]月の出前の對話[#「月の出前の對話」は中見出し] ――そりやあ眞《しん》の生活もしてはみたいさ、 だがね、理想といふものは、あまり漠《ばく》としてゐる。 ――そこが理想なんだ、理想の理想たるところだ。 譯《わけ》が解《わか》るくらゐなら、別の名がつく。 ――しかし、何事も不確《ふたしか》な世の中だ。哲學また哲學、 生れたり、刺違《さしちがへ》たり、まるで筋《すぢ》が立つてゐない。 ――さうさ、眞《しん》とは生《い》きるのだといふんだもの、 絶對なんざあ、たつ瀬《せ》があるまい。 ――ひとつ旗を下《おろ》して了《しま》はうか、えい、 お荷物はすつかり虚無《きよむ》へ渡して了《しま》はう。 ――空《そら》から吹きおろす無邊《むへん》の風の聲がいふ、 「おい、おい、ばかもいゝ加減にしなさい。」 ――もつとも、さうさな「可能《かのう》」の工場《こうぢやう》の汽笛は、 「不可思議」のかたへ向つて唸《うな》つてはゐる。 ――其間《そのかん》唯《たゞ》一歩《いつぽ》だ。なるほど黎明《しのゝめ》と 曙のあはひのちがひほどである。 ――それでは、かうかな、現實とは、少《すく》なくとも 「或物」に對して益があるといふことか。 ――そこでかうなる、ねえ、さうぢやないか、 薔薇《ばら》の花は必要である――其必要に對してと。 ――話が少《すこ》し妙《めう》になつて來たね、 すべては循環論法に入《はひ》つてくる。 ――循環はしてゐるが、これが凡《すべ》てだ。            ――何だ、さうか、 なら、いつそ月の方《はう》へいつちまはう。 [#2字下げ]冬が來る[#「冬が來る」は中見出し] 感情の封鎖《ふうさ》。近東行《きんとうゆき》の郵船《いうせん》…… ああ雨が降《ふ》る、日が暮れる、 ああ木枯の聲…… 萬聖節《ばんせいせつ》、降誕祭《かうたんさい》、やがて新年、 ああ霧雨《きりさめ》の中《なか》に、煙突《えんとつ》の林…… しかも工場の…… どのベンチも皆《みんな》濡れてゐて腰を下《おろ》せない。 とても來年にならなければ徒目《だめ》だ。 どのベンチも濡れてゐる、森もすつかり霜枯れて、 トントン、トンテンと、もう角笛《つのぶえ》も鳴つて了つた。 ああ、海峽《かいけふ》の濱邊《はまべ》から驅《か》けつけた雲のおかげで、 前の日曜もまる潰《つぶ》れだつた。 霧雨《きりさめ》が降《ふ》つてる、 づぶ濡の木立《こだち》にかけた蜘蛛の網《す》は、 水玉《みづたま》の重《おも》みに弛《たる》んで毀《こは》れて了《しま》つた。 豐年祭《ほうねんまつり》のころに、 砂金《しやきん》の波の光を漂はせて、豪勢《がうせい》な景氣《けいき》だつた日光は 今どこに隱れてゐる。 けふの夕方は、泣きだしさうな日が、丘の上《うへ》の 金雀花《えにしだ》の中《なか》で外套《まはし》を羽織《はお》つたまま、横向《よこむき》に臥《ね》てゐる。 薄れた白《しろ》つぽい日の目《め》は酒場《さかば》の床《ゆか》に吐散《はきち》らした痰《たん》のやうで、 黄《き》いろい金雀花《えにしだ》の敷藁《しきわら》と、 黄《き》いろい秋の金雀花《えにしだ》を照してゐる。 角笛《つのぶえ》が頻に呼んでゐる、 歸れ…… 歸れと呼んでゐる。 タイオオ、タイオオ、アラリ。 ああ悲しい、もう已《や》めてくれ…… 堪《たま》らなく悲しい…… 日は丘の上《うへ》に臥《ね》てゐて、頸筋《くびすぢ》から挘《むしり》取つた腺《せん》のやうだ、 日は慄《ふる》へてゐる、孤《ひとり》ぼつちで…… さ、さ、アラリ! 熟知《おなじみ》の冬が來たぞ、來たぞ。 ああ、街道《かいだう》の紆曲《まがりくねり》に、 「赤外套《あかまんと》の兒《こ》」も見えない。 ああ此間《こなひだ》通つた車の跡が、 ドン・キホオテ流《りう》に、途方《とはう》も無い勇氣を出して、 總崩《そうくづれ》になつた雲《くも》の斥候隊《せきこうたい》の方《はう》へ上《のぼ》つてゆくと、 風はその雲を大西洋上《たいせいやうじやう》の埒《らち》へと追ひたてる。 急げ急げ、こんどこそ本當《ほんと》だ。 昨夜《ゆうべ》は、よくも吹いたものだ。 やあ、滅茶苦茶《めちやくちや》だ、そら、鳥の巣も花壇《くわだん》も。 ああわが心、わが眠《ねむり》、それ、斧の音《ね》が響く。 きのふまでは、まだ青葉の枝、 けふは、下生《したばえ》に枯葉《かれは》の山、 大風《おほかぜ》に芽も葉も揉《も》まれて、 一團《ひとかたまり》に池へ行く。 或《あるひ》は獵《かり》の番舍《ばんや》の火に燒《く》ばり、 或《あるひ》は遠征隊の兵士が寢《ね》る 野戰病院用の蒲團に入《はひ》るだらう。 冬だ、冬だ、霜枯時《しもがれどき》だ。 霜枯《しもがれ》は幾基米突《いくきろめえとる》に亘る鬱憂を逞しうして 人《ひと》つ子《こ》ひとり通らない街道《かいだう》の電線を腐蝕してゐる。 角笛《つのぶえ》が、角笛《つのぶえ》が――悲しい…… 角笛《つのぶえ》が悲しい…… 消えて行く音色《ねいろ》の變化、 調《てう》と音色《ねいろ》の變化、 トントン、トンテン、トントン…… 角笛《つのぶえ》が、角笛《つのぶえ》が 北風《きたかぜ》に消えてゆく。 耳につく角笛《つのぶえ》の音《ね》、なんとまあ餘韻《よゐん》の深い音《おと》だらう…… 冬《ふゆ》だ、冬《ふゆ》だ。葡萄祭《ぶだうまつり》も、さらば、さらば…… 天人《てんにん》のやうに辛抱づよく、長雨《ながあめ》が降《ふ》りだした。 おさらば、さらば葡萄祭《ぶだうまつり》、さらばよ花籠、 橡《とち》の葉陰の舞踏《ぶたふ》の庭のワットオぶりの花籠よ。 今、中學の寄宿舍に咳嗽《せき》の音《おと》繁《しげ》く、 暖爐に火は消えて煎藥が匂ひ、 肺炎が各區《かくく》に流行して 大都會のあらゆる不幸一時に襲來する。 さりながら、毛織物、護謨《ごむ》、藥種店《やくしゆてん》、物思《ものおもひ》、 場末の町の屋根瓦《やねがはら》の海に臨んで、 その岸とも謂《いつ》つべき張出《はりだし》の欄干近《らんかんぢか》い窓掛《まどかけ》、 洋燈《ランプ》、版繪《はんゑ》、茶《ちや》、茶菓子《ちやぐわし》、 樂《たのしみ》は、これきりか知《し》ら。 (ああ、まだある、それから洋琴《ピアノ》のほかに、 毎週一囘、新聞に出る、 あの地味《ぢみ》な、薄暗い、不思議な 衞生統計表さ。) いや、何しろ冬がやつて來た。地球が痴呆《ばか》なのさ。 ああ南風《なんぷう》よ、南風《なんぷう》よ、 「時《とき》」が編みあげたこの古靴《ふるぐつ》を、ぎざぎざにしておくれ、 冬だ、ああ厭な冬が來た。 毎年《まいねん》、毎年《まいねん》、 一々《いち/\》その報告を書いてみようとおもふ。 [#2字下げ]日曜[#「日曜」は中見出し] [#ここから1段階小さな文字] [#ここから4字下げ、折り返して11字下げ] ハムレツト――そちに娘があるか。 ポロウニヤス――はい、御座りまする。 ハムレツト――あまり外へ出すなよ。腹のあるのは結構だが、そちの娘の腹に何か出來ると大變だからな。 [#ここで字下げ終わり] [#ここで小さな文字終わり] しとしとと、無意味に雨が降る、雨が降る、 雨が降るぞや、川面《かはづら》に、羊の番の小娘《こむすめ》よ…… どんたくの休日《やすみ》のけしき川に浮び、 上《かみ》にも下《しも》にも、どこみても、艀《はしけ》も小船《こぶね》も出て居ない。 夕がたのつとめの鐘が市《まち》で鳴る。 人氣《ひとけ》の絶えたかしっぷち、薄ら寂しい河岸《かし》っぷち。 いづこの塾の女生徒か(おお、いたはしや) 大抵はもう、冬支度《ふゆじたく》、マフを抱《かゝ》へて有《も》つてるに、 唯ひとり、毛の襟卷もマフも無く 鼠の服でしよんぼりと足を引摺《ひきず》るいぢらしさ。 おやおや、列を離れたぞ、變だな。 それ驅出《かけだ》した、これ、これ、ど、ど、どうしたんだ。 身を投げた、身を投げた。大變、大變、 ああ船が無い、しまつた、救助犬《きうじよいぬ》も居ないのか。 日が暮れる、向の揚場《あげば》に火がついた。 悲しい悲しい火がついた。(尤もよくある書割《かきわり》さ!) じめじめと川もびっしより濡れるほど しとしとと、譯もなく、無意味の雨が降る、雨が降る。 [#2字下げ]日曜日[#「日曜日」は中見出し] 日曜日には、ゆかりある 阿嬭兒《ちきやうだい》の名誦《なよ》みあげて 珠數《じゆず》爪繰《つまぐ》るを常《つね》とする。 オルフェエよ、若きオルフェエ、 アルフェエ川の夕波に 轟きわたる踏歌《たふか》の聲…… パルシファル、パルシファル、 おほ禍《まが》つびの城壁《じやうへき》に 白妙《しろたへ》清き旗じるし…… プロメテエ、プロメテエ、 不信心者《ふしんじんしや》の百代《ひやくだい》が 口傳《くちづて》にする合言葉《あひことば》…… ナビュコドノソル皇帝は 金《きん》の時代の荒御魂《あらみたま》、 今なほこれらを領《りやう》するか…… さて、つぎに厄娃《えわ》の女《むすめ》たち、 われらと同じ運命の 乳に育つた姉妹《あねいもと》…… サロメ、サロメ、 戀のおほくが眠つてる 蘭麝《らんじや》に馨《かを》る石の唐櫃《からうど》…… オフェリイ姫はなつかしや、 この夏の夜《よ》に來たまはば 人雜《ひとまぜ》もせず語《かた》らはう…… サラムボオ、サラムボオ、 墓場の石にさしかゝる 清い暈《かさ》きた月あかり…… おほがらの后《きさき》メッサリイヌよ、 紗《しや》の薄衣《うすぎぬ》を掻《か》きなでて、 足音《あしおと》ぬすむ豹の媚《こび》…… おお、いたいけなサンドリヨン、 蟋蟀《こほろぎ》も來《こ》ぬ爐のそばで、 裂《き》れた靴下《くつした》縫つてゐる…… またポオル、ヸルジニイ、 殖民領《しよくみんりやう》の空のもと さても似合《にあひ》の女夫雛《めをとびな》…… プシケエよ、ふはり、ふはりと 罪《つみ》の燐火《おにび》に燃えあがり、 消えはしまいか、氣にかかる…… [#地から2字上げ]モリス・マアテルリンク[#「モリス・マアテルリンク」は大見出し] [#2字下げ]温室[#「温室」は中見出し] 森の奧なる温室《をんしつ》、 永久《えいきう》に鎖《と》ざせるその戸、 その圓屋根《まるやね》の下《した》にあるもの、 これに準《なぞ》へて、わが心の下《した》にあるもの。 飢《うゑ》に惱む王女《わうぢよ》の思、 荒野《あれの》に迷ふ船乘《ふなのり》の愁、 不治《ふち》の患者の窓下《まどした》に起る樂隊の音《おと》。 さていとも温《ぬく》き隅《すみ》に行きてみよ。 收穫時《とりいれどき》のある日に氣絶《きぜつ》したる女《をんな》ともいふべし。 病院の中庭《なかには》に驛傳《えきでん》の馭者《ぎよしや》來り、 麋《おほしか》の狩人《かりうど》の成《なれ》の果《はて》なる看護人《かんごにん》、かなたを通り過ぐ。 月影にすかし見よ。 (物皆こゝに處を得ず。) 法官《ほふくわん》の前に狂人《きやうじん》立てりともいふべし、 軍《いくさ》ぶね、帆を張りて運河に浮び、 白百合《しろゆり》に夜《よ》の鳥啼き、 眞晝《まひる》がた、葬禮《さうれい》の鐘は鳴る、 (かの鐘形《かねがた》の玻璃器《ぐらすき》の下《した》に。) 平原《へいげん》に病人《びやうにん》の舍營《しやえい》あり、 晴れし日に依的兒《ええてる》匂ふ。 あな、あはれ、あな、あはれ、いつか雨ふらむ、 雪ふらむ、風ふかむ、温室に。 [#2字下げ]祈祷[#「祈祷」は中見出し] あはれみたまへ、もくろみの 戸にたたずめるうつけさを、 わがたましひは、しろたへの 無能《むのう》に無爲《むゐ》にあをざめり。 業《わざ》をやめたるたましひは 吐息《といき》に蒼《あを》きたましひは、 たゞ眺むらむ、疲れはて、 莟《つぼみ》の花に震ふ手を。 かかりしほどにわが心、 紫紺《しこん》の夢の玉を吹き、 蝋《らふ》の纖手《せんしゆ》のたましひは 月の光をふりそゝぐ。 月の光に明日《あす》といふ 黄花《きばな》のさゆり透《す》きみえて、 月の光に手の影は ひとり悲しくあらはれぬ。 [#2字下げ]愁のむろ[#「愁のむろ」は中見出し] 胸にある青き愁よ、 さいはひを求めてやまず、 よよと泣く月の光に 夢青く力無けれど。 この青き愁の室《むろ》に さしよりて透見《すきみ》をすれば、 ぐらす戸《ど》の緑のあなた、 月を浴び、玻璃《はり》に覆《おほ》はれ、 生ひ繁る葉《は》もの、花《はな》もの、 夢の如く、不動に立ちて 宵《よひ》よひは、忘我《ばうが》の影を 愛執《あいしふ》の薔薇《さうび》におとす。 水は、はた、ゆるく噴《ふ》きいで、 薄曇《うすぐも》る不斷《ふだん》の息《いき》に、 月影と空とをまぜて、 夢の如く節《ふし》もかはらず。 [#2字下げ]こころ[#「こころ」は中見出し] わが心 ああ、げに蔽《おほ》はれたるわが心かな。 わが願《ねがひ》の羊群《やうぐん》は温室《をんしつ》の内に在りて、 牧《まき》に暴風《あらし》の來《きた》るを待つ。 まづ最も病《や》めるものを訪《と》はむ。 そはあやしき臭《にほひ》を放てり。 その中《なか》に入《い》れば、われ母と共に戰場を過ぐる如し。 眞晝《まひる》がた人人《ひとびと》、一戰友《いちせんいう》を葬り、 歩哨《ほせう》は時の食《しよく》を喫《きつ》す。 また最も弱きものを訪はむ。 そはあやしき汗を流したり。 こゝに新婦《しんぷ》は病《や》み、 日曜に謀叛《むほん》起り、 小兒《せうに》、牢《らう》に引かる。 (その先《さき》、はるかに霧を隔てて、) 厨《くりや》の口に横はるは垂死《すゐし》の女《をんな》か、 あるは不治《ふぢ》の患者の床《とこ》の下《した》に野菜《やさい》を切る看護の尼か。 終《つひ》に最も悲しきものを訪はむ。 (毒あるが故に、これを最後《さいご》にしたり。) ああ、わが唇は手負《ておひ》の接吻《せつぷん》を受く。 この夏、城の妃《きさき》は皆わが心の塔の内《うち》に餓死《がし》したり。 今ここに曙の光、祭を照し、 河岸《かし》づたひ羊の歩むを見る、 また病院の窓に帆あらはる。 胸より心へ行く道の遠さよ。 歩哨は悉く受持の地に死したり。 ひと日わが心の郊外に小《さゝ》やかなる祭ありき。 日曜の朝《あさ》、人、失鳩答《しきうた》を苅入《かりい》れたり。 天《そら》晴《は》れたる斷食《だんじき》の日、尼寺《あまでら》の童貞《どうてい》は擧《こぞ》りて運河に船の行くを眺めたり。 其時、白鳥《はくてう》は毒水《どくすゐ》の橋の下《した》に惱みぬ。 囹圄《ひとや》の周《めぐり》なる樹樹《きぎ》の枝は伐《き》りとられ、 六月《ろくぐわつ》の午後、人、藥水《やくすゐ》を齎し、 患者の食《しよく》は眼路《めぢ》のかぎりに擴げられたり。 わが心よ。 萬物の悲しさ、ああ、わが心よ、ああ、萬物の悲しさ。 [#2字下げ]病院[#「病院」は中見出し] 病院。運河の岸の病院。 夏七月の病院。 廣間《ひろま》には爐を焚《た》きたり。 時しもあれや、運河の上《うへ》、大西洋定期船《たいせいやうていきせん》の汽笛《きてき》の聲。 (ああ窓に近づく勿れ。) 移民宮殿を通拔《とほりぬけ》す。 暴風雨《あらし》の中《なか》に遊船《よつと》一艘《いつさう》、 また他の船は悉く羊群《やうぐん》を載《の》せたり。 (窓はかたく閉ぢたるこそよけれ。 人々|外《そと》より殆んど全く覆《おほ》はれたり。) 雪の上《うへ》なる温室《をんしつ》の心地す。 暴風雨《あらし》の日、産後《さんご》の初詣《はつまうで》ある如し。 夜具《やぐ》の上に草木《くさき》の散りぼふが見えて、 日うららかなるに出火あり。 われ、負傷者《ふしやうしや》に充ちたる森を通過す。 ああ今|終《つひ》に月はのぼりぬ。 廣間《ひろま》の中央《まんなか》よりは噴水《ふんすゐ》迸《ほとばし》り、 一群《ひとむれ》の少女《せうぢよ》ら、戸を細目《ほそめ》に開く。 牧《まき》の島には羊の群《むれ》、 氷河の上に美々《びび》しき木立《こだち》、 大理石造の玄關に百合の花。 人の通《かよ》はぬ森の奧に祭あり。 氷の淵に東邦の本草《ほんざう》は茂りたり。 聞け、今水門は開かる。 大西洋定期船《たいせいやうていきせん》は運河の水を搖《ゆ》り亂る。 ああ、されど看護の尼は爐を掻《か》いたり。 河添《かはぞひ》の道のかたへの蘆《あし》の葉は、緑凉しく燃えさかる。 月の光に漂ふは手負《ておひ》載《の》せたる船|一艘《いつさう》、 王女《わうぢよ》は皆|暴風雨《あらし》の下《した》の船に乘り、 あまたの姫は失鳩答《しきうた》の原に死したり。 ああ、この窓はゆめな開きそ。 開け、水天《すゐてん》の際《さい》、大西洋定期船《たいせいやうていきせん》の汽笛の聲。 花苑《はなぞの》に何者か毒害《どくがい》せらる。 敵がたに盛《さかん》なる祭のけはひす。 包圍せられたる市街《しがい》に鹿が放たれ、 花百合のなかに獸《けもの》の檻《をり》は見ゆ。 炭鑛の底深く熱帶の植物茂り、 牝羊《めひつじ》の一群《ひとむれ》、鐵橋《てつけう》を過ぎ、 牡《をす》の羊は悲しげに廣間《ひろま》をさして入り來りぬ。 看護の尼、いま燈《ともしび》を點《てん》じて 患者の食を運びつつ、 運河にのぞむ窓の戸を、 すべての門の戸を閉ぢて、月の光を隱したり。 [#2字下げ]燧玉[#「燧玉」は中見出し] 悔《くい》といふ燧玉《ひとるたま》、手にとりて 過ぎし日を其下《そのした》に照らしてみれば、 内證《ないしよう》のかくれたる色青き 底の上《うへ》に、うるはしき花は浮ぶ。 その玉の照らしたるわが願《ねがひ》、 その願、つらぬけるわが心、 その心、思出《おもひで》に近づけば、 忽ちに枯草《かれくさ》はもえあがる。 このたびは思《おもひ》をと、かの玉に 窺《うかが》へば、晶玉《しやうぎよく》のつとひかり、 忘れたる悲《かなしみ》の花びらは、 ほのぼのとおもむろに咲きにほふ。 記憶にはあともなく消えはてし ありし夜《よ》のことわざも歸り來て、 なよげなる毳《けば》をもて撫《な》でらるる 新しき望あるわが心。 [#2字下げ]めつき[#「めつき」は中見出し] 憐《あはれ》なる疲れたるこのめつき、 汝等《なんぢら》のめつき、わがめつき、 今は亡きめつき、今に來《きた》るべきめつき、 終《つひ》に來ずして已《や》むとも、實は世に在る目付《めつき》。 日曜の日、貧者《ひんじや》を訪ふ如きもあり、 家無き病人の如きもあり、 白布《はくふ》に被はれたる牧に羊の迷ふが如きもあり。 また類罕《たぐひまれ》なる目付もあり、 圓天井《まるてんじやう》の下《した》、閉ぢたる廣間《ひろま》の内、童貞《どうてい》の刑に就くを眺むる如きもあり。 何《なん》ともわかぬ悲《かなしみ》を思はしむる目付あり。 即ち工場《こうぢやう》の窓に居る農民を、 機織《はたおり》となりし園丁を、 蝋人形《らふにんぎやう》の見世物《みせもの》の夏の晝過《ひるすぎ》を、 庭に居《ゐ》る病人を見る女王《によわう》の心を、 森の中《なか》なる樟腦の香《か》を、 祭の日、塔に王女《わうぢよ》を押籠むるを、 水《みづ》温《ぬる》き運河の上《うへ》、七日《なのか》七夜《なゝよ》を舟にて行くを思はしむ。 憐《あはれ》み給へ、收穫時《とりいれどき》の病人《びやうにん》のやうに、小股《こまた》にて出て來る目付を。 憐《あはれ》み給へ、食事の時に迷兒《まひご》となりしやうなる目付《めつき》を。 憐《あはれ》み給へ、外科醫《げくわい》を仰ぎ見る怪我人《けがにん》の目付《めつき》を、 そのさま、暴風雨《あらし》の下《した》の天幕《てんと》に似たり。 憐《あはれ》み給へ、誘惑せらるる處女《しよぢよ》の目付《めつき》を、 (噫、乳の流は闇に逃げ入る、 白鳥《はくてう》は蛇《へび》の群《むれ》のなかに死したり。) また憐《あはれ》み給へ、終《つひ》に屈したる處女《しよぢよ》の目付《めつき》を。 路無き沼に棄てられし王女《わうぢよ》の姿かな。 また暴風雨《あらし》の中《なか》を照り輝ける諸船《もろふね》の眞帆あげて遠ざかり行くが如き目付《めつき》もあり。 また何處《いづこ》にか他《ほか》に居《ゐ》る事能はずして苦む目付《めつき》あり、げに憐《あはれ》むに堪へたるかな。 殆ど區別無く而も實は相異《あひことな》れる苦悶の目付。 何人《なんぴと》も終《つひ》にそれと曉《さと》り得《え》ぬ目付《めつき》。 殆ど無言《むごん》なる目付。 また憐《あはれ》なる囁《さゝやき》の目付、 押殺《おしころ》されたる憐《あはれ》の目付。 あるものの中に在れば、病院となりし古城《こじやう》に居《ゐ》る心地す。 また他《た》のものは尼寺《あまでら》の小《ちひ》さき芝生《しばふ》の上《うへ》に百合の紋章打つたる天幕《てんと》を張りたる如し。 更に他のものは温室《をんしつ》に收容したる負傷者の風《ふう》ありて、 また更に他のものは病人無き大西洋定期船《たいせいやうていきせん》に乘組みたる看護の尼の姿あり。 噫すべてかかる目付《めつき》を眺め知り、 かかる目付《めつき》を受け入れて、 かかる目付《めつき》の應接におのが目付《めつき》を費《つか》ひはて、 それより後《のち》は、わが眼《め》をもまた閉ぢえざるとは。 [#地から2字上げ][#大見出し]エミイル・ヹルハアレン[#大見出し終わり] [#2字下げ]都會[#「都會」は中見出し] 路はみな都會にむかふ。 煤煙のおくのかた、 かなた、階《かい》は階《かい》を重《かさ》ね、 幅廣き大石段《だいせきだん》のかずかず、 絶頂《ぜつちやう》の階《かい》までも、天《てん》までも上《のぼ》る往來《ゆきき》の道となりて、 夢の如く都會は髣髴たり。 ふりさけみれば、 鐵材《てつざい》を網《あみ》に組みたる橋梁《けうりやう》の、 虚空《こくう》に躍りて架《かゝ》るあり、 石あり、柱あり、 ゴルゴンの鬼面《きめん》これを飾る。 郊外に聳ゆるは何《なん》の塔ぞ、 屋根あり、破風《はふ》ありて、家屋《かをく》の上《うへ》に峙《そばだ》つは、 下|摶《う》つ鳥の皷翼《はばたき》に似たり。 即ちこれ觸手ある大都會、 屹然《きつぜん》として、 平野田園の盡くるところに立つ。 紅《あか》き光の きらめくは 標柱《へうちゆう》の上《うへ》、大圓柱《だいゑんちゆう》の上《うへ》、 晝なほ燃えて、 巨大なる黄金《わうごん》の卵子《たまご》の如し。 天日《てんじつ》こゝに見えず、 光明の口にはあれど、 煤煙の奧に閉さる。 揮發《きはつ》の油《あぶら》、瀝青《れきせい》の波は、 石造《せきざう》の波止場、木製の假橋《かりばし》を洗ひ、 ゆききの船の鋭き汽笛、 霧《きり》の奧に恐怖《おそれ》を叫ぶ、 緑色《りよくしよく》の船の燈《ひ》はその眼《まなこ》、 大洋と虚空《こくう》とを眺むらむ。 川岸《かし》は荷車《にぐるま》の轣轆《れきろく》に震《ふる》ひ、 芥車《あくたぐるま》、蝶番《てふつがひ》の如く軋《きし》り、 鐵の權衡《はかり》は角《かく》なる影を落して、 忽ちこれを地下室の底に投ず。 鐵橋ありて、中央に割れて開けば、 帆檣《ほばしら》の森に立つすさまじき絞臺《かうだい》の姿。 また中天《ちゆうてん》に銅《あかがね》の文字《もじ》、 長大にして屋根を越え、 壁を越え、軒蛇腹《のきじやばら》を越え、 對立して宛《あだか》も戰場の觀あり。 かなたには馬車動き、荷車過ぎ、 汽車は走り、努力は飛ぶ、 皆停車場に向ふ。見よ、金色《こんじき》の欄干《てすり》、 處々《しよ/\》に連りて泊《は》てたる船の如し。 鐵路《てつろ》また枝線《しせん》を廣げて軌道|地下《ちか》に入り、 隧道《トンネル》を洞穴《ほらあな》を潛行すれば、 忽ち歴々たる光明の網變じて、 沙塵と騷擾との中《なか》に現《あら》はる。 即ちこれ觸手ある大都會。 見よ、この市街を。――人波は大綱《おほづな》の如く、 大厦高樓のめぐりに絡《まつ》はるなか、 道は遠長く紆《うね》りて、見えつ隱れつ、 解《ほぐ》し難くうち雜《まじ》りたる群集《ぐんしふ》の、 手振《てぶり》狂ほしく足並《あしなみ》亂れ、 眼には憎《にくみ》の色を湛《たゝ》へて、 駈拔《かけぬ》く「時」をやらじとばかり、齒にて引留《ひきとゞ》む。 さる程に朝《あした》より夕《ゆふべ》をかけて、夕暮が夜《よる》になりても、 騷擾と喧囂と憂愁の中《なか》に立ち、 「偶發《ぐうはつ》」の方《かた》にむかひて人が播く勞作の辛苦の種《たね》も、 「時」すぐに奪ひて去るをいかにせむ。 ここに暗憺《あんたん》として薄暗き帳場《ちやうば》、 瞟眼《ひがめ》にして疑の念《ねん》深き事務室、 また銀行も狂亂|大衆《たいしゆう》の風の音《おと》に、 はたと戸を閉づ。 戸外《こぐわい》には天鵞絨《びろうど》のぬめりの光、 赤く曇りて襤褸布《ぼろぎれ》の燃ゆるが如く、 點燈《てんとう》の柱柱《はしらばしら》に退《すさ》りゆく。 生活は酒精《しゆせい》の波に醗酵せり。 人道にむかひて開く酒場《さかば》こそは、 爭鬪爛醉の影を映《うつ》す 鏡明るき殿堂ならずや。 壁に背《そびら》をもたせつつ、 燐寸箱《マチばこ》を賣る盲人《めしひ》もあり。 一《ひと》つの穴に落ち合へる酒色と饑餓との民もあり。 肉の惱みの相尅《さうこく》が、 小路《こうぢ》に跳りかつ消ゆる其聲黒し。 かくて怒號の叫《さけび》つぎつぎに高まさりて、 憤怒《ふんぬ》の聲、暴風《あらし》となれば、 金色《こんじき》と憐光の快樂《けらく》を追ふに、 眼も眩みてか、人皆は互《かたみ》に蹂《ふ》みあふ。 近づくは女人《によにん》か、はた蒼顏《さうがん》の傀儡《くわいらい》か、 異性の徴《しるし》は髮の毛にのみめだちぬ。 かかるとき、偶偶《たまたま》に煤《すゝ》けたる赤黒《あかぐろ》き空氣の幕が、 日をさかり卷《まく》れあがれば、 光を仰ぐ大衆《たいしゆう》の 大叫喚《だいけうくわん》の海潮音、 廣場に、旅館《ホテル》に、市場《いちば》に、住居《すまひ》に、 とよもし呻《うな》る聲|強《つよ》く、 垂死《すゐし》の人も安んじて、 今際《いまは》の時を送り得ず。 晝既に斯《かく》の如きを――、夕暮が 黒檀の槌《つち》をもて天空《てんくう》を彫《ゑ》りきざむ時、 をちかたの都會の光、平原を領する顏《がほ》に、 巨大なる夜《よる》の間《ま》の望の如し。 そそりたつ此大都會、如法《によほふ》、樂欲《げうよく》と光華《くわうくわ》と游狎《いうかふ》となり。 光明は闌干《らんかん》として天雲《あまぐも》のあなたに流れ、 千萬の瓦斯《ガス》の燈《ひ》は金光《きんくわう》の林の如く、 鐵路《てつろ》、軌道を投げて憚ることなく、 佯《いつはり》の幸福を追へば、 富貴と勢力とこれに伴ふ。 城壁のしるく見ゆるは大軍《たいぐん》の屯《たむろ》するに似て、 またもたちのぼる煤煙は、 田野を招く劉喨たる角《かく》の聲。 これ即ち觸手ある大都會、 貪婪《どんらん》の蛸《たこ》に比すべし、骨堂《こつだう》なり。 威力ある屍《かばね》なり。 かくて諸《もろ/\》の路ここよりして遙に かの都會にむかふ。 [#2字下げ]思想[#「思想」は中見出し] 驕慢の都、その宿命に驅らるる上《うへ》を、 眼にはみえねども儼然《げんぜん》として、 悲よりも高く、悦よりも高く、 生生《せいせい》として思想は領す。 沈靜なる勢力と熱意との世のはじめ、 精神の炬火もえいでしよりこのかた、 人間の頭腦に入りまじりて、 黄金《わうごん》の迷宮に これを包みしは思想、 光芒《くわうばう》これが爲に更にまさりぬ。 かくて思想の力ますます強く、 人間の恐怖と熱望と批判とを統治し、 心情と生氣とを動かし、 有情《うじやう》と非情《ひじやう》とを眺めて、 宛《あたか》もその常に閉さざる眶《まぶた》の下《もと》、 無限の眼《まなこ》は開きたるに似たり。 かくて思想は廣大の物界に震動して、 大方《たいはう》の世界に火焔の環《わ》をめぐらせり、 いづれかはじめの光なるを知らず。 されど天空《てんくう》に常《つね》見《み》ゆるその金光《きんくわう》を仰ぎみれば、 人は自己の光よりこれらを生《う》みし事を忘れ、 さすがにこれらの光華《くわうくわ》に醉《ゑ》ひて、一日《ひとひ》、神を造りぬ。 けふもなほこの光、久遠《くをん》に亘《わた》る如し、 されど之を養ふに力と美とを缺きたり、 常に靜まらず、とこしへに新《あらた》なる 現實の血なくんば久しくは保たじ、 われら今常に之を濺《そゝ》ぐ。 一世の思想家は其心ますます明にして精《せい》なる可し。 生命《せいめい》の高貴なる工人《こうじん》として、 額《ひたひ》は輝き心は跳り、 新しき光もて忽ち頭腦を照せる、 光明《くわうみやう》をこそ驅使すべく、 征服の途《みち》にその歩調《ほてう》ますます勇ましく、 悠久たる覆載《ふうさい》の下《もと》、人こそは至上なれと 自《みづか》らの高貴なるに感ずるならむ。 廣遠にして豐富なる哉、めもはるに、 華《はな》さきわたる大思想よ。 [#2字下げ]世界[#「世界」は中見出し] 世界は星と人とより成る。 空高く、 とこしへに無聲《むせい》なるいつの時より、 空高く、 奧深くして風荒るる天上《てんじやう》のいづこの庭に、 空高く、 いづれの太陽を央《なか》にして、 ものに譬ふれば 火焔の蜂の巣をさながらに、 勢力|彌漫《びまん》したる虚空《こくう》の大壯觀中《だいさうくわんちゆう》、 幾千萬《いくちよろづ》の不可思議にして壯烈なる 星の巣立は飛散す。 星ありき、何《いつ》の世とは知らねど、蜜蜂の如く、 これら衆星《しゆうせい》をまき散しぬ。 これ、今、金色《こんじき》の精氣の中《なか》、 花に、籬《まがき》に、園生《そのふ》の上《うへ》に飛びかひて、 夜《よる》は輝き、晝は隱るる 久遠《くをん》の天の運行に、 往きつ、離《さか》りつ、はた戻りつ、とこしへに囘轉す、 母なる星のめぐりを。 嗚呼|熾烈《しれつ》なる光明《くわうみやう》の、狂へる如き大旋轉《だいせんてん》よ。 白色《はくしよく》の大靜寂《だいせいじやく》、これを領す。 うまれの火爐《くわろ》を中心に、狂ひつ、とどろきつ、 𢌞轉する金色《こんじき》の天體は、宇宙の則《のり》に從ふなり。 嗚呼|大法《だいほふ》に從ひて、而も無邊なる大群飛《だいぐんぴ》よ。 焔の落葉《おちば》か、燃え上る草むらか、 更に更に遠く進み、更に更に高く跳り、 發生し、死滅し、はた増殖して、 輝くもの、燃ゆるもの、 さながら似たり、 寶冠《はうくわん》のおもてを飾る珠《たま》の光に。 かくて地球も其昔、いつとは知らず在天《ざいてん》の 大寶冠より滴《したた》りたる夜光《やくわう》の玉のひとひかり。 緩慢にして遲鈍なる寒氣、鉛の色の濕りたる空氣は この炎々として猛烈なる火氣《くわき》を靜めて、 大洋の水、まづ其面《そのおも》を曇らせ、 山岳、つぎに其氷りたる脊椎《せきつゐ》を擡《もた》げ、 森林は、底土《ていど》の下《した》より動《ゆ》るぎ出で、 朱《しゆ》に染《そ》みて骨々《こち/″\》しき猛獸の怒號、爭鬪に戰《をのの》き、 天災、東より西へ流れて、 大陸は作られ、また滅びぬ。 かしこ、旋風《せんぷう》の怒をなして渦卷くところ、 狂瀾怒濤の上、岬はつきいでぬ。 突進し、震蕩《しんたう》し、顛覆する天地《てんち》の苦鬪、 漸くにして其狂亂を收むるや、 影と爭との幾千年後、 徐ろに人は宇宙の鏡に顯《あら》はる。 彼はじめより主《しゆ》たり、 忽然として 其上半身を直立し、其額を上げ、 萬物の主《しゆ》たりと名乘る、かくて其祖より離れぬ。 晝あり夜《よる》あるこの地球は、 はるばると限なく 東西にひろがり、 はじめの思想、はじめの飛躍は、 人間の 至上なる腦の奧より 日の下《もと》にあらはれぬ。 嗚呼、思想よ、 恐ろしき飛躍なる哉、火焔《くわえん》の散らふに似たり。 其爭ふや赤く、其和するや緑に、 天上の星光《せいくわう》、雲を破る如く、 はてしらぬ原にかがやき、 火の如くなりて虚空《こくう》に轉じ、 山を攀《よ》ぢ、川を照らし、 新光明《しんくわうみやう》を隈《くま》なく放ちぬ、 海より海へと、靜寂《せいじやく》の邦の上に。 されどこの金色《こんじき》の喧囂《けんがう》の中《うち》、 いつも空にある如く、今も空にある如き 大諧音《だいかいおん》の終に起らむを望みて、 さながら 日輪の如く、 あらはれ、のぼるものは、 此世の民の中より出《い》づる 天才なり。 火焔《くわえん》の心を有し、蜜の唇を有して、 天才は事も無げに、「道」を語りぬ。 苦悶の闇に迷ふ凡百《ぼんぴやく》のともがら、 皆この大思想の巣にかへり來て、 切なる求道《ぐだう》、狂ほしき疑惑の 滿干《まんかん》の波はひたせども、 此突如たる光明《くわうみやう》に影も停《とゞ》まりつ、 萬《よろづ》の物質に新しき震動は傳り、 水も、森も、山岳も、山風に、濱風に、 身の輕きをおぼえて、 波|自《おのづ》から跳り、枝|自《おのづ》から飛びて、 白き泉の接吻《せつぷん》に岩も動きぬ。 萬物其|基《もとゐ》よりして革《あらたま》りぬ。 眞《しん》と善《ぜん》と、愛《あい》と美《び》と醜《しう》と、 水火《すゐくわ》が作る微妙なる結合は、 宇宙の精神の經緯《けいゐ》となりて、 愛する物が織りなせる世のすべては、 終《つひ》に天上の則《のり》に從つて生く。 世界は星と人とより成る。 [#2字下げ]俊傑[#「俊傑」は中見出し] 「智慧」は山嶽の中腹に坐して、 山川の白波《しらなみ》 左に折れ、 右に外《そ》れ、 谷間の岩を縫ひつ、絡《まと》ひつ、 流るるを見て、 分別らしき眼差《まなざし》に、不安の色を浮べたれど、 井然《せいぜん》たる山下《さんか》の村落に、 軛《くびき》に繋《つな》がれたる牛《うし》馬《うま》の 列も亂さず、靜かに勞作に向ふを見ては、 「智慧」の腦中に築かれたる宮殿に、 炬火《たいまつ》の焔、沈として、平安は復《もど》り來りぬ。 平靜なる山川の景に、何の變化も無し。 人もし仰いで高きを望まば、 「智慧」は徐ろに手を擧げて、 著《いちじ》るき山|路《ぢ》を指《さ》すを知らむ。 唯ひとりかの炎々たる熱望を抱きて、 一《ひと》たび昇るとも、又更に高く昇らむとする人、 かの金色《こんじき》の眩暈《げんうん》を避け難き人は、 其精神の聲のみを聞きて、毫も他を聞かず。 其大飛躍に足代《あししろ》となるものは喜悦なり、 危きを冒し、難きに就く沈痛の喜悦なり。 飄逸にして且活躍を好む其心は、 大風《たいふう》の黒き喇叭のいと微かなる音をだに逸せず。 斯る人は人生の戰鬪を一の祝祭とす、 そこには人、群《ぐん》を成して行かず、ひとり行くを悦ぶ。 眼もくらむ深雪《みゆき》の光、 白妙の劍《けん》が峰を被ふ葬衣《はふりぎぬ》、 かじかむ指を噛み、張りつむる胸を毟《むし》る。 大風《たいふう》の擦子《おろし》、極寒の萬力《まんりき》、 岩より岩へ轉ずる雪なだれ、 是等のものも終《つひ》に止めえじ、 かの肅々《しゆく/\》として頑強に巓《いただき》を極めむとする歩《あゆみ》を。 しかすがに樂しきは谷底の命かな。 人の姿、人の聲、 藺《ゐ》を席《むしろ》とし、日光を敷石としたる室《へや》、 砂石《しやせき》の甕《かめ》、木づくりの古椅子。 週の日はすべて 勞作と辛苦との淺黒き藪《やぶ》に暮しつ。 日曜のたび毎に 紅白の花をかざして、 朝には御堂《みだう》の鐘の聲を聽《き》く。 夕されば、少女《をとめ》の姿、つねよりも艶《あだ》めきて、 口ふるれば、耻らひて身は竦《すく》めども、 かたくなに否むとに非らず、忽ちに諾《うべ》なふもよし。 されど、かの絶壁の細道をたどりて 徐ろにのぼりゆく人々は、 喜悦に醉ひ、未來に醉ひ、 人里を思ひ出づる歌聲に耳をも假《か》さず、 孤獨なるその振舞を世の人の顧みずとも何かあらむ、 天に向ひ、無限に向ひ、今開く此戸よりして、 後の世は擧《こぞ》りて必らず續かむと、 わが夢の終《はて》をも問はず、 巓《いたゞき》の金《きん》の照しと白雪《しらゆき》と蹈み轟かし、 いや高き光を、空に仰ぎつつ、 築き上げたる熱望と意志との巖《いはほ》。 [#地から2字上げ]フェルナン・グレエグ[#「フェルナン・グレエグ」は大見出し] [#2字下げ]われは生きたり[#「われは生きたり」は中見出し] われは命《いのち》の渦卷の中《なか》にあり…… 弱し、顫へたり、蒼ざめたり、不安なり、苛苛《いらいら》し。 悔に、願に、祈に、 思出に、望に、欲に滿ちたり…… われとわが求むる所を知らず、 われとわが誰なるをも知らず、 散亂し、變化し、樣樣に分裂したるを感ず。 幸なるか、知らず、唯、 われは生きたり。 われは愛す、何とは無しに愛す。 われは戰慄す、魅《みい》られたる人の如くに恐る。 わが愛するは眤《なづ》さはる温柔《をんにう》の黒き眼にして、 嬉しげに、優しげに、かはるがはる麗はしく、 閉づれば長く曳く睫《まつげ》の影、 見開いたる時の愛らしさ。 わが愛するは清き唇、香《にほひ》よき唇、 煙の如く纖《ほそ》やかに吹きまよふ丈長《たけなが》の髮、 珠《たま》ひとつ、にこやかに笑《ゑ》む細き指なり。 しかもわれ何故に愛するかを、 また何故に愛せられたるかを究《きは》めず、唯、 われは愛す。 われは榮譽を欲す、而も知らず、 果して之を欲するか否かを。 われは思考す、而して其思想を 定かならぬ恐懼の語《ことば》に述ぶ。 ここのわが額《ひたひ》の中《なか》に詩ありと感ずれど、 後々に生き殘るべき詩なるか、否か、知る由なし、 唯之を敍《の》ぶれば、心|昂《あが》り、思《おもひ》樂し。 この聲抑ふ可からず。 われは詩人なるか、知らず、唯、 われは歌ふ。 われは生きて萬物の中を行く。 善か、惡か、知らず、 そは屡々萬物に眤《なづ》さはれ、 また屡々傷つけらるればなり。 われは愛す、冬も、夏も、絲杉《いとすぎ》も、薔薇《ばら》も、 色青き大山《たいざん》、鈍色《にびいろ》の名無《ななし》の阜《をか》、 大海《たいかい》の轟、巴里の轟も…… 善か、惡か、知らず、唯、 われは生き、われは行き、われは萬物を愛す。 われまた男女の間を行く。 額の下《した》に、眼の中《なか》に、その魂《たましひ》を見てあれば、 巣立に散り行くおもしろさ。 世は影の鳥、火の鳥の飛び去る如く、 われ高山《かうざん》に昇りて、その過ぐるを眺む…… 男はわれを害し、女はただ泣けども、 われはその男女を愛す。 われは生きたり。 ――かくて、われは死なむ。後《のち》にか、遙《はるか》後《のち》にか、はた今|直《すぐ》にか、 知らず、 けだし、わが行く處は、 あなたの、あなたの知らぬ國、 勇んで窓を飛び出づる鳥の如く、 あなたの、あなたの知らぬ國へ行きて 神の光に甦《よみが》へらむ。否、 知らず。 或《あるひ》はわが行きて長久《とこしへ》の眠に朽ち果つる所は、 地下の數尺、 草木も、天も、懷かしきかの眼もあらぬ 忌《いま》はしき闇の世界か。 しかはあれど、われは命《いのち》の熱《あつ》き味を知る。 このわが小《ちひ》さき瞳《ひとみ》にも ただ稻妻《いなづま》の束《つか》の間《ま》に 久遠《くをん》にわたる光明《くわうみやう》は映《うつ》りたらずや、 われも亦|聖《せい》なる宴《うたげ》に列《つらな》りて、わが歡樂は飮みほしぬ、 また何の望かあらむ。 われは生きたり。 ――かくてわれは死なむ。 [#地から2字上げ]ポオル・フォオル[#「ポオル・フォオル」は大見出し] [#2字下げ]兩替橋[#「兩替橋」は中見出し]  ポン・トオ・シァンジュ、花市《はないち》の晩。風のまにまに、ふはふはと、夏水仙のにほひ、土の匂《にほひ》、あすはマリヤのお祭の宵宮《よみや》にあたる賑《にい》やかさ。西の雲間に、河岸並《かしなみ》に、金《きん》の入日がぱつとして、群集《ぐんじゆ》の上《うへ》に、淡紅《うすあか》の光の波のてりかへし。今シァアトレエの廣場《ひろば》には、人の出さかり、馬車が跳《をど》れば電車が滑る。辻の庭から打水《うちみづ》の繁吹《しぶき》の霧《きり》がたちのぼり、風情《ふぜい》くははるサン・ジァック、塔の姿が見榮《みばえ》する……風のまにまに、ふはふはと、夏水仙の匂、土のにほひ。……その風|薫《かを》る橋の上《うへ》、ゆきつ、もどりつ、人波《ひとなみ》のなかに交つて見てゐると、撫子《なでしこ》の花、薔薇《ばら》の花《はな》、欄干《らんかん》に溢れ、人道《じんだう》のそとまで、瀧と溢れ出る。花はゆかしや、行く人の裾に卷きつく、足へも絡《から》む、道ゆく車の輪に絡《から》む。  角《かど》のパレエの大時鐘《おほどけい》、七時を打つた――都《みやこ》の上に、金無垢《きんむく》の湖水《こすゐ》と見える西の空《そら》、雲|重《かさな》つてどことなく、雷《らい》のけしきの東の空。風の飜《あふり》が蒸暑《むしあつ》く、呼吸《いき》の出入《でいり》も苦しいと……ひとしほマノンの戀しさに、ほつと溜息《ためいき》二|度《ど》ついた……風の飜《あふり》が蒸暑《むしあつ》く、踏まれた花の香《か》が高い……見渡せば、入日《いりひ》華《はな》やぐポン・ヌウフ、橋の眼鏡《めがね》の下《した》を行く濃《こ》い紫《むらさき》の水の色、みるに心が結ぼれて――えい、かうまでも思ふのに、さても情《つれ》ないマノンよと、恨む途端《とたん》に、ごろ、ごろ、ごろ、遠くで雷《らい》が鳴りだして、風《かぜ》の飜《あふり》が蒸暑《むしあつ》い。  植木鉢《うゑきばち》、草花《くさばな》、花束《はなたば》、植木棚《うゑきだな》、その間《ま》を靜《しづ》かに流れるは、艶消《つやけし》の金《きん》の光を映《うつ》しつつ、入日《いりひ》の運《うん》を悲んで、西へ伴《ともな》ふセエヌ川《かは》、紫色の波長く恨をひいてこの流、手摺《てすり》から散る花びらをいづこの岸へ寄せるやら。夕日《ゆふひ》は低く惱ましく、わかれの光悲しげに、河岸《かし》を左右《さいう》のセエヌ川《がは》、川《かは》一杯《いつぱい》を抱《だ》きしめて、咽《むせ》んで搖《そゝ》る漣《さゞなみ》に熱い動悸《どうき》を見せてゐる。……われもあまりの悲しさに河岸《かし》の手摺《てすり》に身をもたせたが……花のかをりの夜《よる》の風、かへつてふさぎの種《たね》となり、つれないマノンを思ひだす。  あれ、ルウヴルの屋根の上、望《のぞみ》の色の天《そら》のおく、ちろりちろりとひとつ星《ぼし》。おお、それ、マノンの歌にも聞いた。「あれこそなさけのひとつ星《ぼし》、空には、めうとも、こひびとも、心變《こゝろがは》りのないものか。」涙ながらに、金星《きんせい》を仰いで見れば、寶石《はうせき》の光のやうにきらめくが、憎らしいぞや、雲めが隱す、折角《せつかく》樂しい昨日《きのふ》は夢、せつない今日《けふ》が現《うつつ》かと、つい煩惱《ぼんなう》も生《しやう》じるが、世の戀人の身の上を何《なん》で雲めが思ふであらう。……もう、もう、そんな愚痴《ぐち》はやめ……星も出よ、あらしも吹けよ、唯ひとすぢに、あの人を思ふわが身には、どうでもよい。ある日マノンの歌ふには「移《うつ》ろひやすい人心《ひとごゝろ》」。そこでこちらも早速《さつそく》に「君が色香《いろか》もかんばせも」と鸚鵡返《あうむがへし》をしておいた。したが、あらしに打たれる花は、さぞ色褪せることだらう。……ぴかりと稻妻《いなづま》はたたがみ、はつとばかりに氣がついた。  雨《あめ》こそは、さても眞面目《まじめ》に、しつとりと人の氣分《きぶん》を落ちつかせ、石の心も浮きあげて冷《つめ》たい光を投げかける。雨よ、この燃える思を冷《ひや》やかに、亂れた胸を平《たひ》らかに、このさし伸べた熱《ねつ》の手を凉《すず》しいやうにひやせかし。おゝ、ぽつりぽつりやつて來た。……あゝ、さつとひと雨《あめ》……おや、もう月の出か。さては村雨《むらさめ》の通つたのか。何となく明《あか》るいぞ。風《かぜ》のまにまにふはふはと、撫子《なでしこ》が匂ふ、夏水仙が匂ふ、薔薇《ばら》が匂ふ、土が匂ふ。ルウヴル宮《きゆう》の屋根の上、なさけの星も傾いた。どれこの花束を買ひませう。おやおや氣でもちがつたか。そして心で笑ひつつ、薔薇《ばら》の花束ひと抱《かかへ》、さきの口説《くぜつ》もどこへやら、マノンのとこへ飛んで行く。 [#2字下げ]このをとめ[#「このをとめ」は中見出し] このをとめ、みまかりぬ、みまかりぬ、戀やみに。 ひとこれを葬りぬ、葬りぬ、あけがたに。 寂しくも唯ひとり、唯ひとり、きのままに、 棺のうち、唯ひとり、唯ひとり、のこしきて、 朝まだき、はなやかに、はなやかに、うちつれて、 歌ふやう「時くれば、時くれば、ゆくみちぞ、 このをとめ、みまかりぬ、みまかりぬ、戀やみに。」 かくてみな、けふもまた、けふもまた、野に出でぬ。 [#2字下げ]別離[#「別離」は中見出し] せめてなごりのくちづけを濱へ出てみて送りませう。 いや、いや、濱風、むかひ風、くちづけなんぞは吹きはらふ。 せめてわかれのしるしにと、この手拭《ハンケチ》をふりませう。 いや、いや、濱風、むかひ風、手拭《ハンケチ》なんぞは飛んでしまふ。 せめて船出《ふなで》のその日には、涙ながして、おくりませう。 いや、いや、濱風、むかひ風、涙なんぞは干《ひ》てしまふ。 えい、そんなら、いつも、いつまでも、思ひつづけて忘れまい。 おゝ、それでこそお前だ、それでこそお前だ。 [#2字下げ]小歌[#「小歌」は中見出し]  木立生ひ繁る阜《をか》は、岸まで下《お》りて、靜かな水の中へつづく。薄暗《うすぐら》い水の半《なかば》は緑葉《りよくえふ》を、まつ青《さを》なまたの半《なかば》は中空《なかぞら》の雲をゆすぶる。  ここを通るは白雲《しらくも》の眞珠船《しんじゆぶね》、ついそのさきを滑りゆく水枝《みづえ》の筏《いかだ》……それ、眼の下《した》に堰《せき》の波、渦卷く靄《もや》のその中《なか》に、船も筏《いかだ》もあらばこそ。  われらが夢の姿かな。船は碎け、筏は崩れ、帆はあれど、めあてなく、波のまにまに、影の夢、青い夢、堰《せき》に裂《さ》け、波に散り、あともない。  木立《こだち》生《お》ひ繁る阜は岸までつづく。向《むかひ》の岸の野原には今一面の花ざかり、中空《なかぞら》の雲一ぱいに白い光が掠《かす》めゆく……ああ、また別《べつ》の影が來て、うつるかと見て消えるのか。 [#2字下げ]夏の夜[#「夏の夜」は中見出し]  蟋蟀《こほろぎ》が鳴く夏の夜《よ》の青空《あをぞら》のもと、神、佛蘭西《フランス》の上《うへ》に星の盃《さかづき》をそそぐ。風は脣に夏の夜《よ》の味《あぢはひ》を傳ふ。銀砂子《ぎんすなご》ひかり凉しき空の爲、われは盃をあげむとす。  夜《よる》の風は盃の冷《ひや》き縁《ふち》に似たり。半眼《はんがん》になりて、口なめずりて飮み干さむかな、石榴《ざくろ》の果《み》の汁を吸ふやうに滿天《まんてん》の星の凉しさを。  晝間《ひるま》の暑き日の熱のほてり、未《いま》だに消えやらぬ牧《まき》の草間《くさま》に横はり、あゝこの夕《ゆふべ》のみほさむ、空が漂ふ青色《あをいろ》のこの大盃《おほさかづき》を。 [#地から2字上げ]ギイ・シャルル・クロオ[#「ギイ・シャルル・クロオ」は大見出し] [#2字下げ]窓にもたれて[#「窓にもたれて」は中見出し] 夜《よ》の紫の肩巾《エシヤルプ》が ふはりと地の肩の上に滑《すべ》り落《お》ちる 黄昏《たそがれ》の窓にもたれて 今夜もまた空の悲劇を見《み》はじめると、 雲はけふどこへいつたか、 いつもの逢引《あひびき》にかげもみせない。 西方《さいはう》一面に和《な》ぎわたり、 光いつとなく白《しら》んで薄れて、 さながら、あまりに脆《もろ》く美しい花束が ちよいとのことにこぼれ散るやうだ。 夕影《ゆふかげ》はいま山あひの虚《うろ》の窪《くぼ》まで及んだが、 むかうの阜《をか》は入日のはての光を浴びて、 あのカナアンの國よりもなほ遠い 神の誓の郷《さと》のやうに照りわたる。 温柔《をんにう》の氣、水の如く中天《ちゆうてん》に流れ跳《をど》つて、 一|分《ぷん》一|分《ぷん》の嬌《なま》めいて滑りゆくには、 つい、ぼんやりと、恍惚《うつとり》して了《しま》ふところを、 これではならぬと、やつとこさ、 胸の思をなだめて眠《ね》かす、 心いきの小歌《こうた》もくひとめた。 おや、うしろの方《はう》でらんぷがつく。 見よ、大空の奧深く、 千萬年《せんまんねん》も倦んぜずに、また、こよひ、 ちろり、ちろりと見える、聞える、 色《いろ》の數々《かずかず》顫《ふる》はせた、星の光の節《ふし》まはし。 [#2字下げ]譫語[#「譫語」は中見出し] 新しき美をわれは求める。 墓の上《うへ》に遠慮無く舞踏するわれらだ。 爾等《なんぢら》はモツァルト、ラファエルを守れ、 ベエトホヹン、シェイクスピア、マルク・オオレルを守れ、 われらは敢て異端の道を擇ぶ。 爾等《なんぢら》の旌《はた》に敬禮しようや。 もし古《いにしへ》の俊傑が復活するとならば、 このわが身中《みうち》に、このわが血液に甦《よみがへ》るべし。 爾等《なんぢら》の見窄《みすぼ》らしい繪馬《ゑま》の前に、 なんでこの身が、額《ぬか》づき祈らう。 むしろ、われは大風《たいふう》の中を濶歩して、 轟き騷ぐ胸を勵まし、 鶫《つぐみ》鳴く葡萄園に導きたい。 沖の汐風に胸ひらくとも、 葡萄の酒に醉《ゑ》はうとも、何《なん》のその。 古書《こしよ》に傍註《ばうちゆう》して之を汚す者よ、 額《ぬか》づき拜《はい》せ、われは神だ。 われ敢て墓の上に舞踏して憚らぬ所以のものは、 全世界の美、われにとりては、 朝毎、朝毎に、新しいからだ。 [#2字下げ]世間のある人人には……[#「世間のある人人には……」は中見出し] 世間のある人々には、その日々の消光《くらし》が ひとりで牌《ふだ》を打つパシアンスの遊《あそび》の如く、 またはすつかり覺えこんだ日課を 夢うつゝで譫語《うはごと》に言ふ如く、 またはカフェエに相變らずの顏觸と 薄ぎたない歌留多札を弄ぶやうだ。 ある人々には、一體、生《いのち》はごく手輕な 造作も無い尋常一樣の事で、 手紙を書いたり、一寸は「あそび」もしたり、 とにかく「用事」は濟せてゆく。 してその翌日《あくるひ》も同じ事を繰返して、 昨日《きのふ》に異《かは》らぬ慣例《しきたり》に從へばよい。 即ち荒《あら》つぽい大きな歡樂《よろこび》を避《よ》けてさへゐれば、 自然また大きな悲哀《かなしみ》もやつて來《こ》ないのだ。 ゆくてを塞ぐ邪魔な石を 蟾蜍《ひきがへる》は𢌞つて通る。 しかし、君、もし本當に生きてゐたいなら、 其日其日に新しい力を出して、 荒れ狂ふ生《いのち》、鼻息強く跳ね躍る生《いのち》、 御《ぎよ》せられまいとする生《いのち》にうち克たねばならぬ。 一刻も息《やす》む間《ま》の無い奇蹟を行つてこそ 亂れそそげたこの鬣《たてがみ》、 汗ばみ跳《はず》むこの脇腹、 湯氣を立《た》てたるこの鼻頭《はなづら》は自由に出來る。 君よ、君の生《いのち》は愛の一念であれ、 心殘の銹《さび》も無く、 後悔の銹も無く、 鋼鐵の清い光に耀け。 君が心はいつまでも望と同じく雄大に、 神の授《さづけ》の松明《たいまつ》を吝《をし》むな。 塞《ふさ》ぎがちなる肉身《にくしん》から雄々しい聲を噴上《ふきあ》げよ、 苦痛にすべてうち任《まか》せたその肉身《にくしん》から、 從容《しようよう》として死の許嫁《いひなづけ》たる肉身《にくしん》から叫べ。 寶玉は鑛石を破つて光る。 [#地から2字上げ]レミ・ドゥ・グルモン[#「レミ・ドゥ・グルモン」は大見出し] [#2字下げ]髮[#「髮」は中見出し] シモオヌよ、そなたの髮の毛の森には よほどの不思議が籠《こも》つてゐる。 そなたは乾草《かれくさ》の匂がする。牛なぞの ながく眠《ね》てゐた石の匂がする。 鞣皮《なめしがは》の匂がするかと思へば、 麥を箕《み》に煽《あふ》りわける時の匂もする。 また森の匂もするやうだ。 朝|配《く》ばつて來る麺包《パン》の匂もする。 廢園の石垣にそつて亂れ咲く 草花の匂もする。 懸鉤子《きいちご》の匂もするやうだし、 雨に洗はれた蔦《つた》の匂もする。 日が暮れてから苅りとつた 羊齒《しだ》の匂、藺《ゐ》の匂がする。 柊《ひひらぎ》の匂、苔の匂、 垣根の下に實《み》が割れた朽葉色《くちばいろ》の 萎れた雜草の匂がする。 蕁麻《いらぐさ》の匂、金雀花《えにしだ》の匂がして、 和蘭陀《おらんだ》げんげの匂もして、乳の匂がする。 黒穗草《くろんぼさう》の匂、茴香《うゐきやう》の匂、 胡桃《くるみ》の匂がする、またよく熟《う》れて 摘みとつた果物《くだもの》の匂がする。 柳や菩提樹《ぼだいじゆ》が瓣《べん》の多い 花を咲かせるときの匂がする。 蜂蜜の匂もする。牧《まき》の草原《くさはら》に さまよふ生物《いきもの》の匂がする。 土《つち》の匂、川の匂、 愛の匂、火《ひ》の匂がする。 シモオヌよ、そなたの髮の毛の森には よほどの不思議が籠つてゐる。 [#2字下げ]雪[#「雪」は中見出し] シモオヌよ、雪はそなたの頸《えり》のやうに白い、 シモオヌよ、雪はそなたの膝のやうに白い。 シモオヌよ、そなたの手は雪のやうに冷たい、 シモオヌよ、そなたの心は雪のやうに冷たい。 雪は火のくちづけにふれて溶《と》ける、 そなたの心はわかれのくちづけに溶《と》ける。 雪は松が枝《え》の上《うへ》につもつて悲しい、 そなたの額《ひたひ》は栗色《くりいろ》の髮《かみ》の下《した》に悲しい。 シモオヌよ、雪はそなたの妹《いもうと》、中庭《なかには》に眠《ね》てゐる。 シモオヌよ、われはそなたを雪よ、戀よと思つてゐる。 [#2字下げ]柊冬青[#「柊冬青」は中見出し] シモオヌよ、柊冬青《ひひらぎそよご》に日が照つて、 四月は遊にやつて來た。 肩の籠《かご》からあふれる花を、 茨《いばら》に柳に橡《とち》の樹《き》に、 小川《をがは》や溝や淺沼の 汀《みぎは》の草にもわけてやる。 水の上には黄水仙《きずゐせん》、 森のはづれへ日々花《にちにちくわ》、 素足《すあし》もかまはず踏み込んで、 棘《いばら》のひかげへすみれぐさ、 原《はら》一面《いちめん》に雛菊《ひなぎく》や 鈴を頸環《くびわ》の櫻草《さくらさう》、 森の木《こ》の間《ま》にきみかげ草《ぐさ》、 その細路《ほそみち》へおきなぐさ、 人家《じんか》の軒へあやめぐさ、 さてシモオヌよ、わが庭の 春の花には苧環《をだまき》、遊蝶花《いうてふくわ》、 唐水仙《たうすゐせん》、匂の高い阿羅世伊止宇《あらせいとう》。 [#2字下げ]薔薇連祷[#「薔薇連祷」は中見出し]  僞善《ぎぜん》の花よ、  無言《むごん》の花よ。  銅色《あかがねいろ》の薔薇《ばら》の花、人間の歡《よろこび》よりもなほ頼み難い銅色《あかがねいろ》の薔薇《ばら》の花、おまへの僞《いつはり》多い匂を移しておくれ、僞善《ぎぜん》の花よ、無言《むごん》の花よ。  うかれ女《め》のやうに化粧した薔薇《ばら》の花、遊女《あそびめ》の心を有《も》つた薔薇《ばら》の花、綺麗《きれい》に顏を塗《ぬ》つた薔薇《ばら》の花、情《なさけ》深さうな容子《ようす》をしておみせ、僞善《ぎぜん》の花よ、無言《むごん》の花よ。  あどけ無い頬《ほゝ》の薔薇《ばら》の花、末は變心《こゝろがはり》をしさうな少女《をとめ》、あどけ無い頬に無邪氣《むじやき》な紅《あか》い色をみせた薔薇《ばら》の花、ぱつちりした眼の罠《わな》をお張り、僞善《ぎぜん》の花よ、無言《むごん》の花よ。  眼の黒い薔薇《ばら》の花、おまへの死の鏡のやうな眼の黒い薔薇《ばら》の花、不思議といふ事を思はせておくれ、僞善《ぎぜん》の花よ、無言《むごん》の花よ。  純金色《じゆんきんしよく》の薔薇《ばら》の花、理想《りさう》の寶函《たからばこ》ともいふべき純金色《じゆんきんしよく》の薔薇《ばら》の花、おまへのお腹《なか》の鑰《かぎ》をおくれ、僞善《ぎぜん》の花よ、無言《むごん》の花よ。  銀色《ぎんいろ》の薔薇《ばら》の花、人間の夢の香爐にも譬ふべき薔薇《ばら》の花、吾等《われら》の心臟を取つて煙にしてお了ひ、僞善《ぎぜん》の花よ、無言《むごん》の花よ。  女同志《をんなどうし》の愛を思はせる眼付《めつき》の薔薇《ばら》の花よ、百合《ゆり》の花よりも白くて、女同志《をんなどうし》の愛を思はせる眼付《めつき》の薔薇《ばら》の花、處女《をとめ》に見せかけてゐるおまへの匂をおくれ、僞善《ぎぜん》の花よ、無言《むごん》の花よ。  茜《あかね》さす額《ひたひ》の薔薇《ばら》の花、蔑《さげす》まれた女《をんな》の憤怒《いきどほり》、茜《あかね》さす額《ひたひ》の薔薇《ばら》の花、おまへの驕慢《けうまん》の祕密《ひみつ》をお話し、僞善《ぎぜん》の花よ、無言《むごん》の花よ。  黄《き》ばんだ象牙《ざうげ》の額《ひたひ》の薔薇《ばら》の花、自分で自分を愛してゐる黄ばんだ象牙《ざうげ》の額《ひたひ》の薔薇《ばら》の花、處女《をとめ》の夜《よる》の祕密《ひみつ》をお話し、僞善《ぎぜん》の花よ、無言《むごん》の花よ。  血汐《ちしほ》の色の唇の薔薇《ばら》の花、肉を食《くら》ふ血汐《ちしほ》の色の唇の薔薇《ばら》の花、おまへに血を所望《しよまう》されたら、はて何《なん》としよう、さあ、お飮み、僞善《ぎぜん》の花よ、無言《むごん》の花よ。  硫黄《ゆわう》の色の薔薇《ばら》の花、煩惱の地獄ともいふべき硫黄《ゆわう》の色の薔薇《ばら》の花、魂《たましひ》となり焔となり、おまへが上に舞つてゐるその薪に火をおつけ、僞善《ぎぜん》の花よ、無言《むごん》の花よ。  桃の實《み》の色の薔薇《ばら》の花、紅粉《こうふん》の粧《よそほひ》でつるつるした果物《くだもの》のやうな、桃の實《み》の色の薔薇《ばら》の花、いかにも狡《ずる》さうな薔薇《ばら》の花、吾等の齒に毒をお塗り、僞善《ぎぜん》の花よ、無言《むごん》の花よ。  肉色の薔薇《ばら》の花、慈悲の女神《めがみ》のやうに肉色の薔薇《ばら》の花、若々《わかわか》してゐて味の無いおまへの肌の悲みに、この口を觸《さは》らせておくれ、僞善《ぎぜん》の花よ、無言《むごん》の花よ。  葡萄のやうな薔薇《ばら》の花、窖《あなぐら》と酒室《さかむろ》の花である葡萄のやうな薔薇《ばら》の花《はな》、狂氣《きちがひ》の亞爾箇保兒《アルコオル》がおまへの息《いき》に跳《は》ねてゐる、愛の狂亂を吹《ふ》つかけておくれ、僞善《ぎぜん》の花よ、無言《むごん》の花よ。  菫色の薔薇《ばら》の花、曲《こじ》けた小娘《こむすめ》の淑《しと》やかさが見える黄色《きいろ》の薔薇《ばら》の花、おまへの眼は他《ひと》よりも大きい、僞善《ぎぜん》の花よ、無言《むごん》の花よ。  淡紅色《ときいろ》の薔薇《ばら》の花、亂心地《みだれごゝち》の少女《をとめ》にみたてる淡紅色《ときいろ》の薔薇《ばら》の花、綿紗《モスリン》の袍《うはぎ》とも、天《あめ》の使ともみえる拵《こしら》へもののその翼《はね》を廣げてごらん、僞善《ぎぜん》の花よ、無言《むごん》の花よ。  紙細工《かみざいく》の薔薇《ばら》の花、この世にあるまじき美を巧《たくみ》にも作り上げた紙細工《かみざいく》の薔薇《ばら》の花、もしや本當《ほんたう》の花でないかえ、僞善《ぎぜん》の花よ、無言《むごん》の花よ。  曙色《あけぼのいろ》の薔薇《ばら》の花、「時」の色「無《む》」の色を浮べて、獅身女面獸《スフインクス》の微笑《ほゝゑみ》を思はせる暗色《あんしよく》の薔薇《ばら》の花、虚無《きよむ》に向つて開いた笑顏《ゑがほ》、その嘘つきの所が今に好きになりさうだ、僞善《ぎぜん》の花よ、無言《むごん》の花よ。  紫陽花色《あぢさゐいろ》の薔薇《ばら》の花、品《ひん》の良《よ》い、心の平凡な樂《たのしみ》ともいふべく、新基督教風《しんキリストけうふう》の薔薇《ばら》の花、紫陽花色《あぢさゐいろ》の薔薇《ばら》の花、おまへを見るとイエスさまも厭になる、僞善《ぎぜん》の花よ、無言《むごん》の花よ。  佛桑花色《ぶつさうげいろ》の薔薇《ばら》の花、優しくも色の褪《さ》めたところが返咲《かへりざき》の女《をんな》の不思議な愛のやうな佛桑花色《ぶつさうげいろ》の薔薇《ばら》の花、おまへの刺《とげ》には斑《ふ》があつて、おまへの爪は隱れてゐる、その天鵞絨《びろうど》の足先《あしさき》よ、僞善《ぎぜん》の花よ、無言《むごん》の花よ。  亞麻色《あまいろ》の薔薇《ばら》の花、華車《きやしや》な撫肩《なでがた》にひつかけた格魯謨色《クロオムいろ》の輕い塵除《ちりよけ》のやうな亞麻色《あまいろ》の牡《を》よりも強い牝《め》と見える、僞善《ぎぜん》の花よ、無言《むごん》の花よ。  香橙色《くねんぼいろ》の薔薇《ばら》の花、物語に傳はつた威尼知亞女《ヹネチヤをんな》、姫御前《ひめごぜ》よ、妃《きさき》よ、香橙色《くねんぼいろ》の薔薇《ばら》の花、おまへの葉陰の綾絹《あやぎぬ》に、虎の顎《あぎと》が眠《ね》てゐるやうだ、僞善《ぎぜん》の花よ、無言《むごん》の花よ。  杏色《あんずいろ》の薔薇《ばら》の花、おまへの愛はのろい火で温まる杏色の薔薇《ばら》の花よ、菓子をとろとろ煮てゐる火皿《ひざら》がおまへの心だ、僞善《ぎぜん》の花よ、無言《むごん》の花よ。  盃形《さかづきがた》の薔薇《ばら》の花、口をつけて飮みにかかると、齒の根が浮出す盃形《さかづきがた》の薔薇《ばら》の花、噛《か》まれて莞爾《につこり》、吸はれて泣きだす、僞善《ぎぜん》の花よ、無言《むごん》の花よ。  眞白《まつしろ》な薔薇《ばら》の花、乳色《ちゝいろ》で、無邪氣《むじやき》で眞白《まつしろ》な薔薇《ばら》の花、あまりの潔白《けつぱく》には人《ひと》も驚《おどろ》く、僞善《ぎぜん》の花よ、無言《むごん》の花よ。  藁色《わらいろ》の薔薇《ばら》の花、稜鏡《プリズム》の生硬《なま》な色にたち雜《まざ》つた黄ばんだ金剛石のやうに藁色《わらいろ》の薔薇《ばら》の花、扇のかげで心と心とをひしと合せて、芒《のぎ》の匂《にほひ》をかいでゐる僞善《ぎぜん》の花よ、無言《むごん》の花よ。  麥色の薔薇《ばら》の花、括《くくり》の弛んだ重い小束《こたば》の麥色の薔薇《ばら》の花、柔《やはらか》くなりさうでもあり、硬《かた》くもなりたさうである、僞善《ぎぜん》の花よ、無言《むごん》の花よ。  藤色《ふぢいろ》の薔薇《ばら》の花、決着《けつちやく》の惡い藤色《ふぢいろ》の薔薇《ばら》の花、波にあたつて枯れ凋んだが、その酸化《さんくわ》した肌《はだ》をばなるたけ高く賣らうとしてゐる、僞善《ぎぜん》の花よ、無言《むごん》の花よ。  深紅《しんく》の色の薔薇《ばら》の花、秋の夕日の豪奢《はで》やかさを思はせる深紅《しんく》の色の薔薇《ばら》の花、まだ世心《よごころ》のつかないのに欲を貪る者の爲|添伏《そひぶし》をして身を任す貴《たふと》い供物《くもつ》、僞善《ぎぜん》の花よ、無言《むごん》の花よ。  大理石色《なめいしいろ》の薔薇《ばら》の花、紅《あか》く、また淡紅《うすあか》に熟《じゆく》して今にも溶《と》けさうな大理石色《なめいしいろ》の薔薇《ばら》の花、おまへは極《ごく》内證《ないしよ》で花瓣《はなびら》の裏をみせてくれる、僞善《ぎぜん》の花よ、無言《むごん》の花よ。  唐金色《からかねいろ》の薔薇《ばら》の花、天日《てんぴ》に乾いた捏粉《ねりこ》、唐金色《からかねいろ》の薔薇《ばら》の花、どんなに利《き》れる投槍《なげやり》も、おまへの肌に當つては齒も鈍《にぶ》る、僞善《ぎぜん》の花よ、無言《むごん》の花よ。  焔の色の薔薇《ばら》の花、強情《がうじやう》な肉を溶《と》かす特製の坩堝《るつぼ》、焔《ほのほ》の色の薔薇《ばら》の花、老耄《らうまう》した黨員の用心、僞善《ぎぜん》の花よ、無言《むごん》の花よ。  肉色の薔薇《ばら》の花、さも丈夫らしい、間《ま》の拔《ぬ》けた薔薇《ばら》の花、肉色の薔薇《ばら》の花、おまへは、わたしたちに紅《あか》い弱い葡萄酒《ぶだうしゆ》を注《か》けて誘惑する、僞善《ぎぜん》の花よ、無言《むごん》の花よ。  玉蟲染《たまむしぞめ》の天鵞絨《びろうど》のやうな薔薇《ばら》の花、紅《あか》と黄《き》の品格があつて、人の長《をさ》たる雅致《がち》がある玉蟲染《たまむしぞめ》の天鵞絨《びろうど》のやうな薔薇《ばら》の花、成上《なりあがり》の姫たちが着る胴着《どうぎ》、似而非《えせ》道徳家もはおりさうな衣服《きもの》、僞善《ぎぜん》の花よ、無言《むごん》の花よ。  櫻綾子《さくらどんす》のやうな薔薇《ばら》の花、勝ち誇つた唇の結構な氣の廣さ、櫻綾子《さくらどんす》のやうな薔薇《ばら》の花、光り輝くおまへの口は、わたしどもの肌の上、その迷景《ミラアジユ》の赤い封印《ふういん》を押《お》してくれる、僞善《ぎぜん》の花よ、無言《むごん》の花よ。  乙女心《をとめごゝろ》の薔薇《ばら》の花、ああ、まだ口もきかれぬぼんやりした薄紅《うすあか》い生娘《きむすめ》、乙女心《をとめごゝろ》の薔薇《ばら》の花、まだおまへには話がなからう、僞善《ぎぜん》の花よ、無言《むごん》の花よ。  苺《いちご》の色《いろ》の薔薇《ばら》の花、可笑《をか》しな罪の恥と赤面《せきめん》、苺《いちご》の色の薔薇《ばら》の花、おまへの上衣《うはぎ》を、ひとが揉《も》みくちやにした、僞善《ぎぜん》の花よ、無言《むごん》の花よ。  夕暮色《ゆふぐれいろ》の薔薇《ばら》の花、愁《うれひ》に半《なかば》死《し》んでゐる、噫《あゝ》たそがれ刻《どき》の霧《きり》、夕暮色《ゆふぐれいろ》の薔薇《ばら》の花、ぐつたりした手に接吻《せつぷん》しながら、おまへは戀死《こひじに》でもしさうだ、僞善《ぎぜん》の花よ、無言《むごん》の花よ。  水色《みづいろ》の薔薇《ばら》の花、虹色《にじいろ》の薔薇《ばら》の花、怪獸《シメエル》の眼に浮ぶあやしい色、水色の薔薇《ばら》の花、おまへの瞼《まぶた》を少しおあげ、怪獸《シメエル》よ、おまへは面《めん》と向つて、ぢつと眼と眼と合せるのが恐《こは》いのか、僞善《ぎぜん》の花よ、無言《むごん》の花よ。  草色《くさいろ》の薔薇《ばら》の花、海の色の薔薇《ばら》の花、ああ海《うみ》のあやしい妖女《シレエヌ》の臍《ほぞ》、草色《くさいろ》の薔薇《ばら》の花、波に漂ふ不思議な珠玉《しゆぎよく》、指が一寸《ちつと》觸《さは》ると、おまへは唯の水になつてしまふ、僞善《ぎぜん》の花よ、無言《むごん》の花よ。  紅玉《あかだま》のやうな薔薇《ばら》の花、顏の黒ずんだ額《ひたひ》に咲く薔薇《ばら》の花、紅玉《あかだま》のやうな薔薇《ばら》の花、おまへは帶の締緒《しめを》の玉にすぎない、僞善《ぎぜん》の花よ、無言《むごん》の花よ。  朱《しゆ》の色の薔薇《ばら》の花、羊《ひつじ》守《も》る娘《こ》が、戀に惱んで畠《はたけ》に眠《ね》てゐる姿、羊牧《ひつじかひ》はゆきずりに匂を吸ふ、山羊《やぎ》はおまへに觸《さは》つてゆく、僞善《ぎぜん》の花よ、無言《むごん》の花よ。  墓場の薔薇《ばら》の花、屍體《したい》から出た若い命《いのち》、墓場の薔薇《ばら》の花、おまへはいかにも可愛《かはい》らしい、薄紅《うすあか》い、さうして美しい爛壞《らんゑ》の薫《かをり》神神《かうがう》しく、まるで生きてゐるやうだ、僞善《ぎぜん》の花よ、無言《むごん》の花よ。  褐色《とびいろ》の薔薇《ばら》の花、陰鬱《いんうつ》な桃花心木《たうくわしんぼく》の色、褐色《とびいろ》の薔薇《ばら》の花、免許の快樂、世智、用心、先見、おまへは、ひとの惡《わる》さうな眼つきをしてゐる、僞善《ぎぜん》の花よ、無言《むごん》の花よ。  雛罌粟色《ひなげしいろ》の薔薇《ばら》の花、雛形娘《ひながたむすめ》の飾紐《かざりひも》、雛罌粟色《ひなげしいろ》の薔薇《ばら》の花、小《ちひ》さい人形《にんぎやう》のやうに立派なので兄弟《きやうだい》の玩弄《おもちや》になつてゐる、おまへは全體《ぜんたい》愚《おろか》なのか、狡《こす》いのか、僞善《ぎぜん》の花よ、無言《むごん》の花よ。  赤くてまた黒い薔薇《ばら》の花、いやに矜《たかぶ》つて物隱しする薔薇《ばら》の花、赤くてまた黒い薔薇《ばら》の花、おまへの矜《たかぶ》りも、赤味《あかみ》も、道徳が拵《こしら》へる妥協の爲に白《しら》つちやけて了《しま》つた、僞善《ぎぜん》の花よ、無言《むごん》の花よ。  鈴蘭のやうな薔薇《ばら》の花、アカデエモスの庭に咲く夾竹桃《けふちくたう》に絡《から》んだ旋花《ひるがほ》、極樂の園にも亂れ咲くだらう、噫、鈴蘭のやうな薔薇《ばら》の花、おまへは香《にほひ》も色《いろ》もなく、洒落《しやれ》た心意氣《こゝろいき》も無い、年端《としは》もゆかぬ花だ、僞善《ぎぜん》の花よ、無言《むごん》の花よ。  罌粟色《けしいろ》の薔薇《ばら》の花、藥局《やくきよく》の花、あやしい媚藥《びやく》を呑んだ時の夢心地、贋《にせ》の方士《はうし》が被《かぶ》る頭巾《づきん》のやうな薄紅《うすあか》い花、罌粟色《けしいろ》の薔薇《ばら》の花、馬鹿者どもの手がおまへの下衣《したぎ》の襞《ひだ》に觸《さは》つて顫《ふる》へることもある、僞善《ぎぜん》の花よ、無言《むごん》の花よ。  瓦色《かはらいろ》の薔薇《ばら》の花、煙のやうな道徳の鼠繪具、瓦色《かはらいろ》の薔薇《ばら》の花、おまへは寂しさうな古びた床机《しやうぎ》に這《は》ひあがつて、咲き亂れてゐる、夕方の薔薇《ばら》の花、僞善《ぎぜん》の花よ、無言《むごん》の花よ。  牡丹色の薔薇《ばら》の花、仰山《ぎやうさん》に植木のある花園《はなぞの》の愼《つゝ》ましやかな誇、牡丹色の薔薇《ばら》の花、風がおまへの瓣《はなびら》を飜《あふ》るのは、ほんの偶然であるのだが、それでもおまへは不滿でないらしい、僞善《ぎぜん》の花よ、無言《むごん》の花よ。  雪のやうな薔薇《ばら》の花、雪の色、白鳥《はくてう》の羽《はね》の色、雪のやうな薔薇《ばら》の花、おまへは雪の脆いことを知つてゐるから、よほど立派な者のほかには、その白鳥《はくてう》の羽《はね》を開いてみせない、僞善《ぎぜん》の花よ、無言《むごん》の花よ。  玻璃色《びいどろいろ》の薔薇《ばら》の花、草間《くさま》に迸《ほとばし》る岩清水《いはしみづ》の色、玻璃色《びいどろいろ》の薔薇《ばら》の花、おまへの眼を愛したばかりで、ヒュラスは死んだ、僞善《ぎぜん》の花よ、無言《むごん》の花よ。  黄玉色《トパアズいろ》の薔薇《ばら》の花、忘れられてゆく傳説の姫君、黄玉色《トパアズいろ》の薔薇《ばら》の花、おまへの城塞《じやうさい》は旅館となり、おまへの本丸《ほんまる》は滅んでゆく、おまへの白い手は曖昧な手振をする、僞善《ぎぜん》の花よ、無言《むごん》の花よ。  紅玉色《リユビイいろ》の薔薇《ばら》の花、轎《のりもの》で練《ね》つてゆく印度《いんど》の姫君、紅玉色《リユビイいろ》の薔薇《ばら》の花、けだしアケディセリルの妹君であらう、噫|衰殘《すゐざん》の妹君よ、その血僅に皮に流れてゐる、僞善《ぎぜん》の花よ、無言《むごん》の花よ。  莧《ひゆ》のやうに紫ばんだ薔薇《ばら》の花、賢明はフロンド黨の姫君の如く、優雅《いうが》はプレシウズ連《れん》の女王とも謂《いひ》つべき莧《ひゆ》のやうに紫ばんだ薔薇《ばら》の花、美《うつく》しい歌を好む姫君、姫が寢室《ねべや》の帷《とばり》の上に、即興《そくきよう》の戀歌《こひか》を、ひとが置いてゆく、僞善《ぎぜん》の花よ、無言《むごん》の花よ。  蛋白石色《オパアルいろ》の薔薇《ばら》の花、後宮《こうきゆう》の香烟《かうえん》につつまれて眠《やす》む土耳古《トルコ》の皇后、蛋白石色《オパアルいろ》の薔薇《ばら》の花、絶間無《たえまな》い撫《なで》さすりの疲《つかれ》、おまへの心はしたたかに滿足した惡徳の深い安心を知つてゐる、僞善《ぎぜん》の花よ、無言《むごん》の花よ。  紫水晶色《アメチストいろ》の薔薇《ばら》の花、曉方《あけがた》の星、司教《しけう》のやうな優しさ、紫水晶色《アメチストいろ》の薔薇《ばら》の花、信心深い柔かな胸の上におまへは寢てゐる、おまへは瑪利亞樣《マリヤさま》に捧げた寶石だ、噫|寶藏《はうざう》の珠玉《しゆぎよく》、僞善《ぎぜん》の花よ、無言《むごん》の花よ。  君牧師《カルヂナル》の衣《ころも》の色、濃紅色《のうこうしよく》の薔薇《ばら》の花、羅馬公教會《ろおまこうけうくわい》の血の色の薔薇《ばら》の花、濃紅色《のうこうしよく》の薔薇《ばら》の花、おまへは愛人の大きな眼を思ひださせる、おまへを襪紐《たびどめ》の結目《むすびめ》に差すものは一人《ひとり》ばかりではあるまい、僞善《ぎぜん》の花よ、無言《むごん》の花よ。  羅馬法皇《ろおまほふわう》のやうな薔薇《ばら》の花、世界を祝福する御手《みて》から播《ま》き散らし給ふ薔薇《ばら》の花、羅馬法皇《ろおまほふわう》のやうな薔薇《ばら》の花、その金色《こんじき》の心《しん》は銅《あかがね》づくり、その空《あだ》なる輪《りん》の上に、露と結《むす》ぶ涙は基督《クリスト》の御歎《おんなげ》き、僞善《ぎぜん》の花よ、無言《むごん》の花よ、僞善《ぎぜん》の花よ、無言《むごん》の花よ。  僞善《ぎぜん》の花よ。  無言《むごん》の花よ。 [#2字下げ]むかしの花[#「むかしの花」は中見出し]  どんなに立派な心よりも、おまへたちの方がわたしは好《すき》だ、滅《ほろ》んだ心よ、むかしの心よ。  長壽花《きずゐせん》、金髮《きんぱつ》のをとめ、幾人《いくたり》もの清い睫《まつげ》はこれで出來る。  東洋の水仙花《すゐせんくわ》、實《み》のならぬ花、道で無い花。  黄金色《わうごんいろ》の金盞花《きんせんくわ》、男の夢に通《かよ》つてこれと契《ちぎ》る魑魅《すだま》のもの凄《すご》い艶《あで》やかさ、これはまた惑星《わくせい》にもみえる、或は悲しい「夢」の愁の髮に燃える火。  長壽花《きずゐせん》、水仙花《すゐせんくわ》、金盞花《きんせんくわ》、どんなに明るい色の髮の毛よりも、おまへたちの方が、わたしは好《すき》だ、滅《ほろ》んだ花よ、むかしの花よ。  白百合《しらゆり》、處女《むすめ》で死んだ者の、さまよふ魂《たましひ》。  紅百合《べにゆり》、身の潔白を失《なく》して赤面《せきめん》した花、世心《よごゝろ》づいた花。  鳶尾草《いちはつ》の花、清淨《しやうじやう》無垢《むく》の腕《かひな》の上に透《す》いて見える脈管《みやくくわん》の薄い水色、肌身《はだみ》の微笑《ほゝゑみ》、新しい大空《おほぞら》の清らかさ、朝空《あさぞら》のふと映《うつ》つた細流《いさゝがは》。  白百合《しらゆり》、紅百合《べにゆり》、鳶尾草《いちはつ》の花、信頼心《しんらいしん》の足りない若いものたちよりも、おまへたちの方《はう》がわたしは好《すき》だ、滅《ほろ》んだ花よ、むかしの花よ。  花薄荷《はなはくか》、燃えたつ草叢《くさむら》、火焔《ほのほ》の臠《しゝむら》、火蛇《ひへび》のやうなこの花の魂は黒い涙となつて鈍染《にじ》んでゐる。  双鸞菊《とりかぶと》、毒の兜《かぶと》を戴《いたゞ》き、鳥の羽根《はね》の飾を揷《さ》した女軍《ぢよぐん》の勇者《つはもの》。  風鈴草《ふうりんさう》、色《いろ》つぽい音《ね》の鈴、春ここにちりりんと鳴る、榛《はしばみ》の樹が作る筋違骨《すぢかひぼね》の下《した》に蹲《うづくま》る色よい少女《をとめ》。  花薄荷《はなはくか》、双鸞菊《とりかぶと》、風鈴草《ふうりんさう》、毒《どく》の薄い、浮れやうの足りないほかの花よりも、おまへたちの方《はう》が、わたしは好《すき》だ。滅《ほろ》んだ花よ、むかしの花よ。  牡丹《ぼたん》、愛嬌たつぷりの花娘《はなむすめ》、尤も品《ひん》は無い、味もない。  匂阿羅世伊止宇《にほひあらせいとう》、眼に萎《な》えた愁のあるむすめ。  苧環《をだまき》、成人《おとな》びてゐないのが身上《しんじやう》の女學生、短い袴、纖《ほそ》い脚《あし》、燕の羽根《はね》のやうに動く腕《うで》。  牡丹《ぼたん》、匂阿羅世伊止宇《にほひあらせいとう》、苧環《をだまき》の花、女《むすめ》ざかりの姿よりも、おまへたちの方《はう》がわたしは好《すき》だ。滅《ほろ》んだ花よ、むかしの花よ。  水剪紅羅《すゐせんのう》、すこし不格好《ぶかくこう》だが、白鳥《はくてう》の頸《くび》のやうにむくむくした毧毛《わたげ》がある。  龍膽《りんだう》、太陽の忠《まめ》やかな戀人。  赤熊百合《しやぐまゆり》、王の御座所《ござしよ》の天幕《てんと》の屋根飾《やねかざり》、夢を鏤《ちりば》めた笏《しやく》、埃及王《ばろ》の窮屈《きゆうくつ》な禮服を無理に被《き》せられた古風《こふう》な女王《ぢよわう》。  水剪紅羅《すゐせんのう》、龍膽《りんだう》、赤熊百合《しやぐまゆり》、本物《ほんもの》の女性美《によしやうび》よりも、おまへたちの方《はう》が、わたしは好《すき》だ。滅《ほろ》んだ花よ、むかしの花よ。  櫻草《さくらさう》、はつ春の姉娘《あねむすめ》。  毛莨《うまのあしがた》、貧しいうかれ女《め》の金貨。  鈴蘭、おめかしの好な女《をんな》、白い喉《のど》を見せて歩く蓮葉者《はすはもの》の故意《わざ》とらしいあどけなさ、丸裸《まるはだか》の罔象女《みづはのめ》。  櫻草《さくらさう》、毛莨《うまのあしがた》、鈴蘭《すゞらん》、愼《つゝしみ》の足りない接吻《せつぷん》よりも、おまへたちの方《はう》が、わたしは好《すき》だ。滅《ほろ》んだ花よ、むかしの花よ。  茴香《うゐきやう》、愛の女神《めがみ》の青雲《あをぐも》の髮。  野罌粟《のげし》、戀人に噛まれて血を鈍染《にじ》ました唇。  黄蜀葵《とろろあふひ》、土耳古皇帝《とるこくわうてい》鍾愛《しようあい》の花、麻色《あさいろ》に曇つた眼、肌理《きめ》こまかな婀娜《あだ》もの――おまへの胸から好い香《にほひ》がする、潔白の氣は露ほどもない香《にほひ》がする。  茴香《うゐきやう》、野罌粟《のげし》、黄蜀葵《とろろあふひ》、色々《いろいろ》と物言ひかけるよその小花《こばな》よりも、おまへたちの方《はう》がわたしは好《すき》だ。滅《ほろ》んだ花よ、むかしの花よ。  山百合のマルタゴン、何《なん》百となく頭を上《あ》げて、強い薫《かをり》を放つ怪物《くわいぶつ》、淺藍色《うすあゐいろ》の多頭《たとう》の大蛇《おろち》。  山百合《やまゆり》のマルタゴン、葡萄色《えびいろ》の頭巾《づきん》を被《かぶ》つてゐる。  山百合《やまゆり》のマルタゴン、黄《き》いろい眼をしたマルタゴン、東羅馬《ひがしろおま》の百合の花、澆季皇帝《げうきくわうてい》の愛玩《あいぐわん》、聖像《せいざう》の香《かう》。  マルタゴン、鈴なり花のマルタゴン、名指《なざ》してもいいが、ほかの怪物《くわいぶつ》よりもおまへたちの方《はう》がわたしは好《すき》だ。滅《ほろ》んだ花よ、むかしの花よ。  猿猴草《ゑんこうさう》、さも毒がありさうな白い花。  翁草《おきなぐさ》、吟味して雅《みや》びた物言ばかりなさるマダアム・プレシウズ。  オンファロオド、人を蕩《とろか》す明色《めいしよく》の眼をした臍形《ほぞがた》の花、影を無言《むごん》に映して見せる奧深い鏡。  猿猴草《ゑんこうさう》、翁草《おきなぐさ》、オンファロオド、粉粧《つくり》が足りない尋常の化生《けしやう》のものよりも、おまへたちの方《はう》がわたしは好だ。滅《ほろ》んだ花よ、むかしの花よ。  瑠璃草《るりさう》、アンゴラの生れか、手ざはりの快《い》い、柔かい女猫《めねこ》。  紫羅欄花《あらせいとう》、帽子の帶の縁《へり》にさした人柄《ひとがら》な前立《まへだて》。  罌粟《けし》の花《はな》、愛《あい》の疲の眠《ねむり》、片田舍の廢園。蓬生《よもぎふ》の中《なか》に、ぐつすり眠《ねむ》るまろ寢姿《ねすがた》――靴の音《おと》にも眼が醒めぬ。  瑠璃草《るりさう》、紫羅欄花《あらせいとう》、罌粟《けし》の花、どんなに嫖緻《きりやう》の好《い》い子《こ》よりも、おまへたちの方《はう》が、わたしは好《すき》だ。滅《ほろ》んだ花よ、むかしの花よ。  矢車草《やぐるまさう》、まるで火の車。  思草《おもひぐさ》、わたしはおまへを思ひだす――めんとおまへを見るときに。  白粉花《おしろいばな》、夜中《よなか》に表を叩《たゝ》くから、雨戸《あまど》を明けてふと見れば、墓場の上の狐火《きつねび》か、暗闇《くらがり》のなかにおまへの眼が光る。噫、おしろい、おしろい、汚《よご》れた夜《よる》の白粉花《おしろいばな》。  矢車草《やぐるまさう》、思草《おもひぐさ》、白粉花《おしろいばな》、生《しやう》の眞《まこと》の美人よりもおまへの方《はう》がわたしは好《すき》だ。滅《ほろ》んだ花よ、むかしの花よ。  雛菊《ひなぎく》、指で隱したおまへのその眼のしをらしさ。  釣舟草《つりぶねさう》、不謹愼《ふきんしん》の女である、秋波《ながしめ》をする、科《しな》をする。  莧《ひゆ》の花、男なんぞは物ともしない女の帽子の羽根《はね》、口元も腰元も溶《と》けるやうだ、おまへの蜜の湖に若い男が溺れ死ぬ。  雛菊《ひなぎく》、釣舟草《つりぶねさう》、莧《ひゆ》の花、もつと眞劍の迷《まよ》はしよりも、おまへたちの方がわたしは好だ。滅《ほろ》んだ花よ、むかしの花よ。  忍冬《すひかづら》、うかれて歩く女。  素馨《そけい》、ゆきずりに袖ふれる女。  濱萵苣《はまさじ》、すました女、おまへには道義の匂《にほひ》がする、秤《はかり》にかけた接吻《せつぷん》の智慧もある、樫《かし》の箪笥に下着《したぎ》が十二枚、乙《をつ》な容子《ようす》の濱萵苣《はまさじ》、しかも優しい濱萵苣《はまさじ》。  忍冬《すひかづら》、素馨《そけい》、濱萵苣《はまさじ》、迷《まよ》はしの足りないほかの花よりも、おまへたちの方《はう》が、わたしは好《すき》だ。滅《ほろ》んだ花よ、むかしの花よ。  蛇苺《へびいちご》、蘭引《らんびき》で拵《こしら》へあげた女。  芍藥《しやくやく》、腕套《うでぶくろ》に包んだ手で、頻《しきり》に皮肉を播《ま》いてゐる。  雪《ゆき》の下《した》、堅い心も突きとほす執念《しふねん》深い愛、石に立つ矢、どんなに暗い鐵柵《てつさく》の網《あみ》の中《なか》へも入《はひ》る微笑《ほゝゑみ》。  蛇苺《へびいちご》、芍藥《しやくやく》、雪《ゆき》の下《した》、もつと穩《おとな》しい隱立《かくしだて》よりも、おまへたちの方《はう》がわたしは好《すき》だ。滅《ほろ》んだ花よ、むかしの花よ。  ブラテエルといふ花は、所帶染《しよたいじ》みた世話女房。  モレエヌはラブレエのやうに笑ひのめす花。  水蓼《みづたで》は無情の美人、燒木《やけぎ》だ、蘆《あし》の篝《かゞり》だ、眼にばかり心が出てゐて、胸は空《から》。  ブラテエル、モレエヌ、水蓼《みづたで》、もつと媚《なま》めかしい姿よりも、おまへたちの方が、わたしは好《すき》だ。滅《ほろ》んだ花よ、むかしの花よ。  亞米利加《あめりか》の薄荷《はくか》の花、愛の衰にふりかける胡椒《こせう》。  鐵線蓮《かざぐるま》、人の魂《たましひ》に絡《から》む蛇《へび》。  留紅草《るこうさう》、樽形《たるがた》の花、その底にダナウスの娘たちが落ちてゐさうな花、人間の弱い心臟の血を皆|關《かま》はずに吸いこむため、おまへの唇には痍《きず》がある。  亞米利加《あめりか》の薄荷《はくか》、鐵線蓮《かざぐるま》、留紅草《るこうさう》、もつと優しい鳩のやうな肉よりも、おまへたちの方がわたしは好《すき》だ。滅《ほろ》んだ花よ、むかしの花よ。 「十一|時《じ》の女《をんな》」といふ花は白い日傘ですらりと立つてゐる。  芥菜《からし》の花、おまへの優しい心はみんな歌になつて、なくなつて了《しま》ふ。  木犀《もくせい》、可愛《かはい》い從姉妹《いとこ》の匂、子供の戀、眞味を飾る微笑《ほゝゑみ》。 「十一|時《じ》の女《をんな》」、芥菜《からし》、木犀《もくせい》の花、僞のもつと少ない手足よりも、おまへたちの方《はう》がわたしは好《すき》だ。滅《ほろ》んだ花よ、むかしの花よ。 「聖母《せいぼ》の手套《てぶくろ》」即ち實※[#「くさかんむり/支」、92-上-1]答利斯《ジキタリス》の花、信心《しんじん》の諸人《しよにん》みなこれに接吻《せつぷん》する。  刺罌粟《とげけし》、すきな手の甲《かふ》の靨《ゑくぼ》。  母子草《はゝこぐさ》、すいた人の指にはめた脆い蛋白花《オパアル》、寢室《ねべや》でもつて、月を映してみるつもりか。 「聖母《せいぼ》の手套《てぶくろ》」、刺罌粟《とげけし》、母子草《はゝこぐさ》、どんなに眞白《ましろ》な手よりも、おまへたちの方《はう》が、わたしは好《すき》だ。滅《ほろ》んだ花よ、むかしの花よ。  杜若《かきつばた》、悲しい松明《たいまつ》の強い焔《ほのほ》。  菖蒲《あやめ》、女丈夫《ぢよぢやうふ》の血に染《そ》まつた凄い短刀。  伊吹虎尾《いぶきとらのを》、振りかざす手の怒《いかり》、空《から》になつた心臟にしがみつく蝮《まむし》、自害《じがい》した人。  杜若《かきつばた》、菖蒲《あやめ》、伊吹虎尾《いぶきとらのを》、どんなに恐しい娘よりも、おまへたちの方《はう》がわたしは好《すき》だ。滅《ほろ》んだ花よ、むかしの花よ。  犬芥《いぬがらし》、苦痛《くつう》にほほゑむ尼僧《にそう》、隱れたる殉教者《じゆんけうしや》の光。 「約百《ヨブ》の涙《なみだ》」といふ川穀《ずずだま》、蒼ざめた瞼《まぶた》の下の涙、暗い頬の上の悲しい眞珠。  紫苑《しをん》、基督《キリスト》の御最後《ごさいご》のおん眼《め》を象《かたど》るせつない花。  犬芥《いぬがらし》、「約百《ヨブ》の涙《なみだ》」、紫苑《しをん》、どんなに血の滴《た》れる心よりも、おまへたちの方《はう》がわたしは好《すき》だ。滅《ほろ》んだ花よ、むかしの花よ。 [#2字下げ]立木の物語[#「立木の物語」は中見出し]  いろいろの立木《たちき》よ、押籠《おしこめ》になつた心よ。  まづその樹皮《じゆひ》を窘《さいな》んで、そろそろ、おまへたちの祕密を汚してみよう、傷《いた》ましいいろいろの心よ、  わたしの悲しい心の悦《よろこび》。  樫《かし》の木《き》よ、滅《ほろ》んだ神々《かみがみ》に向つて輝きわたる榮光《えいくわう》の波、おそろしく大きな足の夷《えみし》、光と血の岩。  おまへの緑の髮の毛の波は、貝の音《ね》が斧の刻《とき》を告《しら》せると、眞紅《しんく》に染《そ》まる。すぎ來《こ》しかたを憶ひだして。  樫《かし》の木《き》よ、憎《にくみ》の階《きざはし》、尊《たふと》い神木《しんぼく》、わたしの悲しい心の悦《よろこび》。  色白の腕を伸《の》した椈《ぶな》の木よ、聖母瑪利亞《おんはゝまりや》、子持を歎き給ふ禮拜堂《らいはいだう》、二形《ふたなり》の利未僧《りびそう》が重い足で踏み碎いた、あらずもがなの足臺《あしだい》、僧官濫賣の金《かね》を容《い》れて、燒焦《やけこげ》をこしらへた財嚢《ざいなう》、「愛」の神が、嘗てここに人間を愛してみたいと思つた虚《うろ》の胎内《たいない》。  おまへの臍《ほぞ》の上に、銀《ぎん》の蛇《へび》の帶をきりりとお締《し》め、  とはいふものの、また可愛《かはゆ》くもある椈《ぶな》の木、不思議の木、わたしの悲しい心の悦《よろこび》。  人間の罪をひとりに引受けた孤獨の老僧と見立てる楡《にれ》の木《き》よ、祈念《きねん》を勤《つと》める楡《にれ》の木、潮風はゴモラ人《びと》の涙より鹹《から》い。  罪障深《ざいしやうぶか》いおまへの肌の毛孔《けあな》を海の風に吹かせて、わたしどもの爲に苦んでおくれ。  鞭索《べんさく》の苦行《くぎやう》に身を鍛《きた》へた楡《にれ》の木よ、わたしの悲しい心の悦《よろこび》。  腰《こし》もあらはの梣《とねりこ》よ、草叢《くさむら》から生《は》へた汚れた夢のやうだ。生《いのち》の無い影の中《なか》に咲きたいといふ狂氣《きちがひ》の百合《ゆり》のやうでもある。  惡龍《あくりよう》の眼もおまへの清い冷たい肌は通されぬ。  梣《とねりこ》よ、色蒼《いろあを》ざめた天竺《てんぢく》の赤脚仙《ジムノソフイスト》、えたいの知れぬ木、わたしの悲しい心の悦《よろこび》。  冷《つめ》たい肌黒《はだぐろ》の胡桃《くるみ》の木よ、海草《かいさう》の髮を垂れ、くすんだ緑玉《りよくぎよく》の飾をした女《をんな》、空《そら》の草原《くさはら》の池に浸《ひた》つて青くなつた念珠《ロザリオ》、ぼんやりとした愛の咽首《のどくび》を締《し》めてやらうとするばかりの望、よく實《み》を結び損《そこな》ふ繖形花《さんけいくわ》。  いやに冷《ひや》つく繖形花《さんけいくわ》、わたしはおまへの陰《かげ》に寢て、自殺者《じさつしや》の聲で眼が醒めた。  冷たい肌黒《はだぐろ》の胡桃《くるみ》の木よ、わたしの悲しい心の悦《よろこび》。  林檎の木よ、發情期《はつじやうき》の壓迫で、身の内が熱《ほて》つて重くなつた爛醉《らんすゐ》、情《なさけ》の實《み》の房《ふさ》、粒《つぶ》の熟《じゆく》した葡萄の實《み》、寛《ゆる》んだ帶の金具《かなぐ》、花を飾つた酒樽、葡萄色の蜂の飮水場《みづのみば》。  さも樂しさうな林檎の木よ、昔はおまへの香《にほひ》をかいで悦《よろこ》んだこともある、その時おまへの幹へ、牛が鼻先《はなづら》を擦《こす》つてゐた。  花を飾つた酒樽、林檎の木よ、さも樂しさうな木、わたしの悲しい心の悦《よろこび》。  やつと灌木《くわんぼく》の高さしか無い柊《ひひらぎ》よ、僞善《ぎぜん》の尻を刺す鑿《のみ》、愛着《あいぢやく》の背《せ》を刻《きざ》む鏨《たがね》、鞭の柄《え》、手燭《てしよく》の取手《とつて》。  眼を赤くした柊《ひひらぎ》よ、おまへの爪の下《した》に迸《ほとばし》る血でもつて兄弟の契《ちぎり》を結ばせる藥が出來さうだ。  やつと灌木《くわんぼく》の高さしか無い柊《ひひらぎ》よ、小《ちい》さい※[#「會+りっとう」、93-下-1]手《くびきり》、わたしの悲しい心の悦《よろこび》。  篠懸《すゞかけ》の木よ、總大將が乘る親船《おやぶね》の帆檣《ほばしら》、遠い國の戀に向ふ孕《はら》んだ帆――男の篠懸《すゞかけ》は種子《たね》を風に播《ま》く石弩《いしゆみ》の如く、甲《よろひ》を通し腹を刺す――女の篠懸《すゞかけ》は始終《しじゆう》東をばかり氣にしてゐて定業《ぢやうごふ》を瞑想《めいさう》する、さうして胚種《はいしゆ》の通りすがりに、おまへは之を髮に受けとめる、おまへは風と花とを遮《さへぎ》らうとして張りつめた網《あみ》だ。  獨ぼつちの男の木、唯、氣で感應する女の木、不可知《ふかち》の中《なか》で一緒になれ。  篠懸《すゞかけ》の一本木《いつぽんぎ》よ、片意地の戀人たちよ、わたしの悲しい心の悦《よろこび》。  白樺《しらかんば》よ、蓬生《よもぎふ》の大海原《おほうなばら》に浴《ゆあみ》する女の身震《みぶるひ》、風がその薄色の髮に戲れると、おまへたちはなにか祕密を守らうとして象牙の戸のやうに脚《あし》を合せる。その時この白い女人柱《カリヤチイド》の張切つた背《せ》の上に、神々《かみ/″\》の涙が墮《お》ちて、突き刺された怪獸《シメエル》の痍口《きずぐち》から、血の滴《た》れるのがみえる。  それでも、背中《せなか》や胸を拭《ふ》いてやるまい、噫|木魂精《こだま》よ、おまへは腕を伸《の》して勝ち誇る夢を捧げてゐる。  名も知られずに悲しげな白樺《しらかんば》、處女《をとめ》で通す健氣《けなげ》の木、わたしの悲しい心の悦《よろこび》。  殯宮《ひんきゆう》に通夜《つや》をしてゐるやうな赤楊《はんのき》よ、おまへの王樣は崩御になつた、赤楊《はんのき》の民よ、靜かな水底《みなぞこ》に冠《かんむり》の光を探しても、夜《よ》の宴《うたげ》の歌舞《かぶ》の響を求めても、詮ない事になつて了《しま》つた、赤楊《はんのき》の王樣、今、禍《まが》の方士《はうし》の鬚《ひげ》である藻草《もぐさ》の下《した》、深淵の底に眠つてゐられる、忘却《ばうきやく》の花は、その眼の窩《くぼ》を貫《つらぬ》いて咲いてゐる。  だれかまだ手に力のある者がゐるならば、はやくその花を摘《と》るがよからう。  諒闇《りやうあん》の民、赤楊《はんのき》よ、涙に暮れる木、わたしの悲しい心の悦《よろこび》。  垂飾《たれかざり》をつけた日傘《ひがさ》、花楸樹《はなかまど》よ、ジタナ少女《をとめ》の頸《くび》にある珊瑚玉《さんごだま》、その頸飾《くびかざり》と柔肌《やははだ》を巫山戲《ふざけ》た雀が來て啄《つゝ》く。  その頸飾《くびかざり》は二つある。雀は少女《をとめ》の肩に眠《ね》た。  ねんごろに客《きやく》をもてなす花楸樹《はなかまど》、小鳥が毎年《まいとし》當《あて》にする降誕祭《ノエルまつり》の飾木《かざりぎ》よ、わたしの悲しい心の悦《よろこび》。  戀人のやうに顏を赧《あか》める秋の櫻の木、その紅《あか》いのはおまへの枝にぶら下る心臟の血であらう、この間、通りすがりの人たちに實《み》のおいしいのは食《た》べられて、今は唯|情《なさけ》に脆い風《かぜ》の出來心《できごゝろ》を、紅《あか》らんだ葉に待つばかり。  ただ泣いておいで、おまへの琥珀色《こはくいろ》の涙へ、わたしは指環《ゆびわ》の印《しるし》を押してあげる、後《あと》の思出の種《たね》として。  秋の櫻の木、紅《あか》い木よ、親切な木、わたしの悲しい心の悦《よろこび》。  常世《とこよ》の生《いのち》の常世《とこよ》のざざんざ、傷《いた》ましい松の木よ、おまへの歎は甲斐が無い、いくらおまへが死《しに》たくても、宇宙の律《おきて》が許すまい、獨ぼつちで生きてゆくのさ、おまへを厭《いや》がる森の中《なか》、おまへのふとい溜息《ためいき》を嘲つてゐる森の中《なか》で。  死んでゆく身は今ここに敬禮する。  傷ましい木よ、常世《とこよ》の生《いのち》の常世《とこよ》のざざんざ。わたしの悲しい心の悦《よろこび》。  刺槐《はりゑんじゆ》よ、好《い》い匂がして、ちくちく刺《さ》してくれるのが愛の戲《たはむれ》なら、後生《ごしやう》だ、わたしの兩眼《りやうがん》を刳《く》りぬいておくれ、さうしたら、おまへの爪の皮肉も見えなくなるだらう。  してまた漠《ばく》たる撫《なで》さすりで、わたしを存分《ぞんぶん》に裂《さ》いておくれ。  女の匂のする木よ、肉を食ふ木よ、わたしの悲しい心の悦《よろこび》。  髮に微笑《ほゝゑみ》を含んで清い小川《をがは》の岸に寄りかかる少女子《をとめご》、金雀花《えにしだ》、金髮の金雀花《えにしだ》、色白《いろじろ》の金雀花《えにしだ》、清淨《しやうじやう》な金雀花《えにしだ》。  金髮を風の脣に、白い肌《はだへ》を野山の精《せい》の眼《め》にみえぬ手に、無垢《むく》の身を狂風に乘る男に、おまへは任《まか》せる。  金髮《きんぱつ》の金雀花《えにしだ》よ、夢ばかりみてゐる纖弱《かよわ》い木、わたしの悲しい心の悦《よろこび》。  愁に沈む女よ、落葉松《からまつ》よ、石垣《いしがき》の崩《くづれ》に寄りかかる抛物線《はうぶつせん》。  銀《ぎん》の蜘蛛の巣がおまへの耳に絲を張つた、おまへの胴中《どうなか》に這つてゐる甲蟲《よろひむし》は涙の雨に打たれて血を吐いた。  愁に沈む女よ、落葉松《からまつ》よ、わたしの悲しい心の悦《よろこび》。  涙に暮れる枝垂柳《しだれやなぎ》よ、棄てられた女の亂髮《みだれがみ》、心と世とを隔てる幕、おまへの愁《うれひ》のやうに輕い花を織り合せた縮緬《ちりめん》。  涙に暮れる枝垂柳《しだれやなぎ》よ、おまへの髮を掻《か》きあげて、そら御覽よ、あすこを通る人を、曙《あかつき》の阜《をか》に立つ人を、  すこしは駈引《かけひき》もありさうな戀人、しやれた心配もする柳の木よ、わたしの悲しい心の悦《よろこび》。  鼠色の白楊《はこやなぎ》よ、罪ありさうに顫《ふる》へてゐる、全體《ぜんたい》どんな打明話《うちあけばなし》が、その蒼白《あをじろ》い葉の上に書いてあつたのだらう、どういふ思出を恐れてゐるのだ、秋の小逕《こみち》に棄てられた熱に惱んだ少女子《をとめご》よ。  おまへの妹は黄昏色《たそがれいろ》の髮を垂れて、水のほとりに愁へてゐる、亂倫《らんりん》の交《まじはり》を敢てするおまへたち、何《なん》ぞ願があるのかい、媒《なかうど》をして上げようか。  始終、心の安まらないおまへたちよ、わたしの悲しい心の悦《よろこび》。  張箍《はりわ》の女袴《をんなばかま》を穿《は》いた官女《くわんぢよ》よ、橡《とち》の木《き》よ、三葉形《みつばがた》の縫《ぬひ》を置いて、鳥の羽根《はね》の飾をした上衣《うはぎ》を曳《ひき》ずる官女《くわんぢよ》よ、大柄《おほがら》で權高《けんだか》で、無益《むやく》の美形《びけい》。  おまへの指先から落ちる輕蔑には、大概の田舍者は殺されて了ふ、わたしならその手を挫いてやる、こちらさへ其氣になれば愛させてもみせる。  張箍《はりわ》の女袴《をんなばかま》を穿《は》いた女、高慢《かうまん》の上衣《うはぎ》を着た女、わたしの悲しい心の悦《よろこび》。  死より生れて、死の僧となつた水松《いちゐ》の木よ、おまへの枝は骨だ。  つるつるした墓石《はかいし》の枕元にある免罪符《パルドン》をおもひだす永久の鎭魂歌《レキエム》。  わたしの爲に祈つてくれ、翁《おきな》びた水松《いちゐ》の木よ、憐愍《あはれみ》深き木、わたしの悲しい心の悦《よろこび》。  御主《おんあるじ》の冠《かんむり》となつた荊棘《いばら》の木よ、血塗《ちまみれ》の王の額《ひたひ》に嵌《は》めた見窄《みすぼ》らしい冠。  憐愍《あはれみ》の房《ふさ》の血に赤く染《そま》つた尊い荊棘《いばら》。  愛の荊棘《いばら》よ、末期《まつご》の苦の時、この罪ある心の中《なか》にその針を突き通し給へ。  敬愛すべき荊棘《いばら》の木、わたしの悲しい心の悦《よろこび》。 底本:「明治文學全集 31 上田敏集」筑摩書房    1966(昭和41)年4月10日初版第1刷発行    1983(昭和58)年10月1日初版第4刷発行 底本の親本:「牧羊神」金尾文淵堂    1920(大正9)年10月5日発行 初出:「牧羊神」金尾文淵堂    1920(大正9)年10月5日発行 入力:阿部哲也 校正:川山隆 2011年1月9日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。