みつばちのきた日 小川未明 ------------------------------------------------------- 【テキスト中に現れる記号について】 《》:ルビ (例)雪割草《ゆきわりそう》 |:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号 (例)二|年《ねん》 -------------------------------------------------------  雪割草《ゆきわりそう》は、ぱっちりと目《め》を開《ひら》いてみると、びっくりしました。かつて、見《み》たことも、また考《かんが》えたこともない、温《あたた》かな室《しつ》の中《なか》であったからです。そして、自分《じぶん》のまわりには、美《うつく》しいいろいろの花《はな》が、咲《さ》き乱《みだ》れていたからであります。  雪割草《ゆきわりそう》は、小《ちい》さな頭《あたま》の中《なか》で、過去《かこ》を考《かんが》えずにはいられませんでした。この雪《ゆき》の降《ふ》る、風《かぜ》の烈《はげ》しい、岩蔭《いわかげ》で咲《さ》いた日《ひ》のことが、ぼんやりと浮《う》かびました。それは、谷《たに》から捲《ま》き起《お》こる風《かぜ》の叫《さけ》びであったか、また、山《やま》を越《こ》えて、あちらの海《うみ》からうめき起《お》こる波《なみ》の音《おと》であったかしれないが、たえず、すさまじい、魂《たましい》を戦《おのの》かせるような響《ひび》きをきいて、花弁《はなびら》を震《ふる》わせながら咲《さ》いていたのでした。  しかし、その日《ひ》を不幸《ふこう》だとは考《かんが》えなかった。春《はる》になると、羽《はね》のうす紅《あか》い、小《ちい》さなちょうが、たずねてきてくれた。また、夜《よる》になると、清《きよ》らかな星《ほし》がじっと見守《みまも》って、いろいろ不思議《ふしぎ》な話《はなし》をしてくれたからであります。 「しかし、いったいここは、どこなんだろう。」と、雪割草《ゆきわりそう》は、あたりをながめて、独語《ひとりごと》をもらしました。  すると、すぐ、自分《じぶん》の頭《あたま》の上《うえ》に、くじゃくの羽《はね》を垂《た》れたような、貴族的《きぞくてき》ならんが、だらりと舌《した》を出《だ》したように、みごとな花《はな》をつけていましたが、その言葉《ことば》をききつけると、 「おまえさんのような田舎者《いなかもの》には、ここは、ちとぜいたくすぎるようなところなんだよ。ここは、人間《にんげん》が金《かね》をかけて造《つく》っている温室《おんしつ》なのさ。わたしはここへきてから二|年《ねん》めになるから、よくこの室《しつ》の中《なか》のことは、なんでも知《し》っている。おまえさんだって、山《やま》にいてごらんなさい。どんなに寒《さむ》いことか。そして、まだなかなか花《はな》を咲《さ》くどころでない。こうしてかわいがられたのも、早《はや》くおまえさんに花《はな》を咲《さ》かして、お客《きゃく》に売《う》るつもりなんだから、これから、おまえさんも、いままでのように、いいことはあるまいよ。」と、らんはいいました。  雪割草《ゆきわりそう》は、なるほどそういうらんのようすを見上《みあ》げて、美《うつく》しい姿《すがた》だと、つくづく感心《かんしん》しました。 「それで、あなたは、どうしてここにきて、二|年《ねん》もおいでなさるのですか?」と、雪割草《ゆきわりそう》は、らんに向《む》かって聞《き》きました。  らんは、さもゆったりとした姿《すがた》で、おうへいに雪割草《ゆきわりそう》を見下《みお》ろしながら、 「世界《せかい》の植物《しょくぶつ》を愛《あい》する人《ひと》たちで、おそらく、わたしを知《し》っていないものはあるまいね。わたしは、南《みなみ》の温《あたた》かな島《しま》の林《はやし》の中《なか》で育《そだ》ちました。それは、いま思《おも》い出《だ》しても陽気《ようき》な、おもしろいことばかりが目《め》に浮《う》かんでくるのです。それを一つ一つおまえさんに話《はな》してあげたいと思《おも》いますが、わたしは、なんだか、この二、三|日《にち》、体《からだ》のぐあいがよくないから、いつか気分《きぶん》のいいときにいたしましょう。なに、体《からだ》が悪《わる》いって、寒《さむ》さがこたえたのですよ。南《みなみ》の方《ほう》の私《わたし》の生《う》まれた島《しま》は、いまごろは暑《あつ》い日《ひ》がつづくのですから、無理《むり》はありません。しかし、ここにいると、のんきですよ。わたしの大《だい》きらいな風《かぜ》も当《あ》たらないし、人間《にんげん》が万事《ばんじ》いいようにしてくれますからね。しかし、なにしろ高価《こうか》なことをいいますから、ちょっとお客《きゃく》がわたしには手《て》が出《だ》せないのです。それで、去年《きょねん》は、わたしは、ここに残《のこ》りました。今年《ことし》もどうだか。なかなか素人《しろうと》の手《て》に渡《わた》って、つらいめをさせられるよりか、どれほどここのほうがいいかしれません。」と、らんは答《こた》えました。 「それは、そうだ。俺《おれ》なども、去年《きょねん》傷《けが》をしなけりゃ、とっくにここにはいないのだ。今年《ことし》は傷《きず》もなおったし、どこかへゆかなけりゃならないかもしれない。そうすりゃ、また、みんなと、こうして顔《かお》を合《あ》わすこともないのだ。」といったものがあります。雪割草《ゆきわりそう》は、その声《こえ》のする方《ほう》を振《ふ》り向《む》きますと、それは、サボテンでありました。 「あなたがたは、みんな熱《あつ》い国《くに》の生《う》まれでしょう。だからそうお思《おも》いなされるんですけれど、わたしなどは、元来《がんらい》が野育《のそだ》ちなのですから、やはり風《かぜ》に吹《ふ》かれたり、おりおりは、雨《あめ》にもさらされたほうが、しんみりといたしますわ。そして、わたしは、ちょうや小《ちい》さなはちが大好《だいす》きですの。」と、かわいらしい声《こえ》を出《だ》していったものがあります。雪割草《ゆきわりそう》は、だれかと思《おも》って、その方《ほう》を見《み》ると、しゅろ竹《ちく》の蔭《かげ》から、うす紅《あか》いほおをして、桜草《さくらそう》が笑《わら》いながらいっているのでありました。  雪割草《ゆきわりそう》は、一目《ひとめ》見《み》たときから、この桜草《さくらそう》が好《す》きになりました。 「あーあ。」と、このとき、だれやらが、怠屈《たいくつ》まぎれにあくびをしていました。  雪割草《ゆきわりそう》は、桜草《さくらそう》のいったことに、同感《どうかん》しました。ガラス戸《ど》をとおして、外《そと》に風《かぜ》が、黒《くろ》ずんだ常磐木《ときわぎ》を動《うご》かしているのを見《み》ては、早《はや》くこの息《いき》づまるような温室《おんしつ》の中《なか》から、広々《ひろびろ》とした外《そと》に出《で》たいものだと思《おも》っていました。 「外《そと》へ出《で》たいなどと、ほんとうにいやなこった。俺《おれ》は、今年《ことし》も傷痕《きずあと》が痛《いた》んで、ろくな花《はな》が咲《さ》けそうでない。もう一|年《ねん》このままに、この室《しつ》の中《なか》で眠《ねむ》ることになるだろう。外《そと》に出《で》ても、これよりかもっときれいな、気持《きも》ちのいい室《しつ》へゆかれるならいいが、それでなけりゃ、このまま眠《ねむ》っていたほうが、どれほどいいかしれやしない。」と、そのとき、サボテンはいいました。  それから、わずかな間《あいだ》に、みんなの上《うえ》に思《おも》いがけない変《か》わったことが起《お》こりました。  あのようにおうへいにいっていたらんは、ある日《ひ》貴婦人《きふじん》が店《みせ》のものにつれられて、この温室《おんしつ》に入《はい》ってきたときに、 「この花《はな》をきってください。」といったので、店《みせ》のものは、はさみで、らんの花《はな》を根《ね》もとからきってしまいました。  らんは、また、来年《らいねん》でなければ、花《はな》が咲《さ》かないのです。  その翌日《よくじつ》、洋服《ようふく》を着《き》た男《おとこ》の人《ひと》が、やはり店《みせ》のものといっしょに、この温室《おんしつ》の中《なか》に入《はい》ってきました。 「かわいらしい、雪割草《ゆきわりそう》の花《はな》だな。これを届《とど》けてもらおうか。」といいました。そして、雪割草《ゆきわりそう》は、その日《ひ》の午後《ごご》、この温室《おんしつ》の中《なか》から、外《そと》に出《だ》されたのです。  外《そと》は、風《かぜ》が寒《さむ》かった。しかし、雪割草《ゆきわりそう》の花《はな》は、これくらいの風《かぜ》に我慢《がまん》ができないようなことはありませんでした。それに、空《そら》の色《いろ》は、ほんとうにさえて、青《あお》く、青《あお》く、美《うつく》しかったものでありましたから、かえって、花《はな》は、外《そと》に出《だ》されたことを喜《よろこ》んでいました。  雪割草《ゆきわりそう》の花《はな》は、ある大《おお》きな家《いえ》の窓《まど》の際《きわ》に持《も》ってゆかれました。 「この花《はな》は、ここに出《だ》しておいてだいじょうぶだろうか?」と、洋服《ようふく》を着《き》た主人《しゅじん》はいいました。 「ええ、寒《さむ》さには強《つよ》いから、だいじょうぶです。」と、植木屋《うえきや》は答《こた》えました。 「ああ、そして、明日《あした》、桜草《さくらそう》を二鉢《ふたはち》ばかりとどけてもらおうか。」と、洋服《ようふく》を着《き》た主人《しゅじん》がいいました。 「かしこまりました。」と、植木屋《うえきや》は答《こた》えて帰《かえ》ってゆきました。  雪割草《ゆきわりそう》は、あの温室《おんしつ》から出《で》たことを、すこしも悲《かな》しいとは、思《おも》いませんでしたけれど、ただ、あの、なつかしい桜草《さくらそう》に別《わか》れたことが、名残《なごり》惜《お》しくて、ここにつれてこられる道《みち》すがらも、桜草《さくらそう》の姿《すがた》を目《め》に思《おも》い浮《う》かべては、涙《なみだ》ぐんでいたのでしたが、明日《あした》は、ふたたびいっしょになれると聞《き》いて、うれしくてなりませんでした。  ちょうど、日《ひ》が暮《く》れかかるすこし前《まえ》でした。一ぴきのみつばちがどこからか飛《と》んできて、花《はな》の上《うえ》に止《と》まりました。そのみつばちはなんとなく、痛々《いたいた》しそうに見《み》えました。 「ほんとうに、こんなかわいらしい花《はな》が、こんなところに咲《さ》いているとは知《し》らなかった。」と、みつばちは、びっくりしたようにいいました。 「私《わたし》は、今日《きょう》ここへきたばかりです。」と、雪割草《ゆきわりそう》は答《こた》えました。 「長《なが》い、寒《さむ》い冬《ふゆ》の間《あいだ》、私《わたし》は、花《はな》を探《さが》して歩《ある》いていました。けれど、まだ、あなたのように、美《うつく》しい、小《ちい》さな花《はな》を見《み》ませんでした。私《わたし》は、寒《さむ》さのために体《からだ》が弱《よわ》っています。私《わたし》のうすい羽《はね》は疲《つか》れています。私《わたし》は、元気《げんき》がありません。しかしこうして、太陽《たいよう》が暖《あたた》かに照《て》らしていますので、どんなにいまは気持《きも》ちがいいかしれません。どうかお願《ねが》いですから、あなたの胸《むね》にあるみつをすわしてください。」といって、みつばちは、小《ちい》さな花《はな》の上《うえ》に止《と》まりました。  しばらくすると、みつばちは、じつに悲《かな》しそうな声《こえ》で叫《さけ》びました。 「ああ、あなたの胸《むね》はあんまり小《ちい》さい。そして、私《わたし》のもらうだけのみつはありません。」といって、悲《かな》しみました。  雪割草《ゆきわりそう》の花《はな》も、この言葉《ことば》をきくと、なんとなくさびしさやら、哀《あわ》れさに身《み》ぶるいをしました。 「そんなに、お悲《かな》しみなさいますな。明日《あした》になれば、やさしい、美《うつく》しい桜草《さくらそう》がくるはずになっています。そうしたら、桜草《さくらそう》に頼《たの》んで、みちをおもらいなさいまし。」と、雪割草《ゆきわりそう》の花《はな》はなぐさめました。  いじらしいみつばちは、雪割草《ゆきわりそう》のそばを離《はな》れかねて、じっとして体《からだ》を太陽《たいよう》の光《ひかり》にぬくめて葉《は》の上《うえ》に止《と》まっていました。そのうちに、日《ひ》は西《にし》の空《そら》に傾《かたむ》きました。常磐木《ときわぎ》の葉蔭《はかげ》から、赤《あか》い空《そら》の色《いろ》が見《み》られました。すると、みつばちは、彼《かれ》に別《わか》れを告《つ》げて、いずこへとなく飛《と》んでいってしまいました。  その晩《ばん》は、雪割草《ゆきわりそう》は、雲切《くもぎ》れのした空《そら》に輝《かがや》く、星《ほし》の光《ひかり》をなつかしげにながめることができました。そして、明日《あした》、桜草《さくらそう》がくるのを楽《たの》しみにいたしていました。  その明《あ》くる日《ひ》も、いいお天気《てんき》でありました。日《ひ》にまし、春《はる》が近《ちか》づいてきました。庭《にわ》の木々《きぎ》も元気《げんき》づいて、空《そら》を飛《と》んでゆく雲《くも》の影《かげ》も希望《きぼう》に光《ひか》っていました。はたして、なつかしい桜草《さくらそう》はやってきました。二つの鉢《はち》が並《なら》んだとき、 「あなたは、ここへきておいでなさったのですか?」と、桜草《さくらそう》は、ほおを紅《あか》くしていいました。 「私《わたし》は、昨日《きのう》から、あなたを待《ま》っていました。」と、雪割草《ゆきわりそう》は、桜草《さくらそう》をながめました。そして、昨日《きのう》は、かわいらしいみつばちのきたことを話《はな》しました。また、今日《きょう》もくるであろうと思《おも》ったそのみつばちは、とうとうその日《ひ》はきませんでした。 底本:「定本小川未明童話全集 3」講談社    1977(昭和52)年1月10日第1刷    1981(昭和56)年1月6日第7刷 初出:「福岡日日新聞」    1923(大正12)年1月1日 ※表題は底本では、「みつばちのきた日《ひ》」となっています。 ※初出時の表題は「蜜蜂の来た日」です。 入力:ぷろぼの青空工作員チーム入力班 校正:江村秀之 2013年12月5日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。