遠くで鳴る雷 小川未明 ------------------------------------------------------- 【テキスト中に現れる記号について】 《》:ルビ (例)二郎《じろう》 |:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号 (例)一|日《にち》 -------------------------------------------------------  二郎《じろう》は、前《まえ》の圃《はたけ》にまいた、いろいろの野菜《やさい》の種子《たね》が、雨《あめ》の降《ふ》った後《あと》で、かわいらしい芽《め》を黒土《くろつち》の面《おもて》に出《だ》したのを見《み》ました。  小《ちい》さなちょうの羽《はね》のように、二つ、葉《は》をそろえて芽《め》を出《だ》しはじめたのは、きゅうりであります。  そのほかにもかぼちゃ、とうもろこしの芽《め》などが生《は》えてきました。  きゅうりは、だんだんと細《ほそ》い糸《いと》のようなつるを出《だ》しました。お母《かあ》さんは、きゅうりの植《う》わっているところに、たなを造《つく》ってやりました。たなといっても、垣根《かきね》のようなものであります。それに、きゅうりのつるはからみついて、のびてゆくのであります。  やがて、ほかのいろいろな野菜《やさい》の芽《め》も大《おお》きくなりましたが、いつしかきゅうりのつるは、その垣根《かきね》にいっぱいにはいまわって、青々《あおあお》とした、厚《あつ》みのある、そして、白《しろ》いとげのようなうぶ毛《げ》をもった葉《は》がしげりあったのでありました。  そのうちに、黄色《きいろ》の、小《ちい》さな花《はな》が咲《さ》きました。その花《はな》のしぼんだ後《あと》には、青《あお》い青《あお》い、細長《ほそなが》い実《み》がなったのであります。  二郎《じろう》は、毎年《まいとし》、夏《なつ》になると、こうしてきゅうりのなるのを見《み》るのでありますが、その初《はつ》なりの時分《じぶん》には、どんなにそれを見《み》るのが楽《たの》しかったでしょう。 「もう、あんなに大《おお》きくなった。」と、彼《かれ》は、毎日《まいにち》のように、家《うち》の前《まえ》の圃《はたけ》に出《で》ては、きゅうりの葉蔭《はかげ》をのぞいて、一|日《にち》ましに大《おお》きくなってゆく、青《あお》い実《み》を見《み》ては、よろこんでいたのであります。  いくつもきゅうりの実《み》はなりましたが、その中《なか》に、いちばん先《さき》になったのが、いちばん大《おお》きくみごとにできました。 「お母《かあ》さん、きゅうりがあんなに大《おお》きくなりましたよ。」と、二郎《じろう》は、外《そと》から家《いえ》の内《なか》に入《はい》ると、毎日《まいにち》のように母親《ははおや》に告《つ》げました。 「ほんとうに、いいきゅうりがなったね。」と、お母《かあ》さんはいわれました。  二郎《じろう》は、そのきゅうりがよくてよくて、しょうがありません。  毎日《まいにち》それに、さわってみては、もいでもいい時分《じぶん》ではないかと思《おも》っていました。  ある日《ひ》のことでありました。お母《かあ》さんは、二郎《じろう》に向《む》かって、 「二郎《じろう》や、あの大《おお》きくなったきゅうりをもいでおいでなさい。つるをいためないように、ここにはさみがあるから、上手《じょうず》にもいでおいで。」といわれました。  二郎《じろう》は、さっそく圃《はたけ》へと勇《いさ》んでゆきました。そして、はさみを握《にぎ》って、葉蔭《はかげ》をのぞきますと、そこに大《おお》きなきゅうりがぶらさがっています。  二郎《じろう》は、なんとなくそれをもぐのがしのびないような、哀《あわ》れなような、惜《お》しいような気《き》がしてしばらくそこに立《た》っていました。  二郎《じろう》は、ぼんやりとして、夢《ゆめ》のように、きゅうりが芽《め》を出《だ》したばかりの姿《すがた》や、やっと竹《たけ》にからみついて、黄色《きいろ》な花《はな》を咲《さ》かせた時分《じぶん》を思《おも》い出《だ》すと、ほんとうにこの実《み》をつるから切《き》り離《はな》すのがかわいそうでならなかったのです。  二郎《じろう》は、チョキンときゅうりをもぎました。そして、それを鼻《はな》にあてて匂《にお》いをかいだり、もっと自分《じぶん》の目《め》に近《ちか》づけて、このいきいきとした、とりたての、新《あたら》しい青《あお》い実《み》をながめたのであります。 「お母《かあ》さん、これをどうして食《た》べるの?」と、二郎《じろう》はたずねました。 「まあ、みごとな、いい初《はつ》なりですね。これは食《た》べるのではありません。おまえが、釣《つ》りにいったり、泳《およ》ぎにいったりするから、水神《すいじん》さまにあげるのです。」と、お母《かあ》さんはいわれました。  二郎《じろう》は、それを聞《き》くと、なんだか惜《お》しいような気《き》のうちにも、ひとつのさびしさを感《かん》じたのであります。 「水神《すいじん》さまは、きゅうりをたべなさるの?」 「きゅうりは、ぶかぶかと流《なが》れて、遠《とお》い遠《とお》い海《うみ》の方《ほう》へいってしまうのですよ。それでもおまえの志《こころざし》だけは、水神《すいじん》さまに通《とお》るのです……。」と、お母《かあ》さんは哀《あわ》れっぽい声《こえ》でいわれました。  二郎《じろう》は、自分《じぶん》の名《な》をそのきゅうりに書《か》きました。きゅうりの青《あお》いつやつやとした肌《はだ》は、二郎《じろう》の書《か》こうとする筆《ふで》の先《さき》の墨《すみ》をはじきました。それでも、二郎《じろう》は、何度《なんど》となく筆《ふで》で、その上《うえ》をこすって字《じ》を書《か》きました。 「お母《かあ》さん、よく書《か》けませんが、これでいいですか。」と、二郎《じろう》は、きゅうりを母親《ははおや》に示《しめ》しました。 「おお、いいとも、いいとも。それをおまえは持《も》っていって投《な》げておいで。」と、お母《かあ》さんはいわれました。  二郎《じろう》は、きゅうりを持《も》って、いつも自分《じぶん》たちのよく遊《あそ》びにゆく河《かわ》の橋《はし》のところへやってきました。ちょうど雨上《あめあ》がりで、水《みず》がなみなみと岸《きし》にまであふれそうにたくさんでありました。そして悠々《ゆうゆう》と流《なが》れていました。  両岸《りょうがん》には草《くさ》や雑木《ぞうき》がしげっていました。  二郎《じろう》は、ドンブリと橋《はし》の上《うえ》から、手《て》に持《も》っていたきゅうりを水《みず》の上《うえ》に落《お》としました。きゅうりは、浮《う》きつ、沈《しず》みつ、二郎《じろう》が欄干《らんかん》につかまって見《み》ている間《あいだ》に、下《しも》の方《ほう》へと流《なが》れていってしまいました。  二郎《じろう》は、この日《ひ》、家《いえ》に帰《かえ》っても、きゅうりのことを思《おも》い出《だ》して、さびしそうにしていました。 「いまごろは、どこへいったろう?」  二郎《じろう》は、あてなく、きゅうりの行方《ゆくえ》を思《おも》っていたのです。すると晩方《ばんがた》の空《そら》が晴《は》れて、かなたには夏《なつ》の赤銅色《しゃくどういろ》の雲《くも》がもくもくと、頭《あたま》をそろえていました。そして、遠《とお》くの方《ほう》で、雷《かみなり》の音《おと》がしたのであります。  二郎《じろう》は、寝《ね》るときもきゅうりのことを思《おも》っていました。しかし、床《とこ》に入《はい》るとじきに寝入《ねい》ってしまいました。  その間《あいだ》、きゅうりは、水《みず》に、流《なが》れ、流《なが》れて、夜《よる》の間《あいだ》、森《もり》のかげや、広《ひろ》い野原《のはら》や、またいくつかの村《むら》を通《とお》り過《す》ぎて、夜《よ》の明《あ》けたころにはもはや幾里《いくり》となく遠《とお》くへいってしまったのです。そして、まだ、そのうえにも、きゅうりは、旅《たび》をつづけていました。  その日《ひ》の午後《ごご》でありました。一人《ひとり》のみすぼらしいふうをした乞食《こじき》の子《こ》が、低《ひく》い橋《はし》の上《うえ》に立《た》って、独《ひと》りさびしそうに、流《なが》れてゆく水《みず》の上《うえ》を見《み》ていました。水《みず》には、雲《くも》の影《かげ》と草《くさ》の葉《は》の影《かげ》が映《うつ》っていたばかりです。  そのとき、一つのきゅうりが、ぶか、ぶかと流《なが》れてきました。子供《こども》は、棒《ぼう》を持《も》ってきて、あわててそのきゅうりを拾《ひろ》い上《あ》げました。きゅうりに書《か》かれた文字《もじ》は、すっかり水《みず》に洗《あら》われて消《き》えていました。  けれど、遠《とお》い、遠《とお》い、水上《みなかみ》から流《なが》れてきたことだけは、乞食《こじき》の子《こ》にもわかりました。なぜなら、まだ、このあたりは、風《かぜ》が寒《さむ》くて、きゅうりの芽《め》がそんなに大《おお》きくはならないからです。  乞食《こじき》の子《こ》は、そのきゅうりを手《て》にとって、大喜《おおよろこ》びでした。さっそく、これから母《はは》や妹《いもうと》に見《み》せようとあちらに駆《か》け出《だ》してゆきました。  この日《ひ》、はじめて、山《やま》のあちらに、雷《かみなり》の鳴《な》るのを子供《こども》はきいたのであります。子供《こども》はふと途《みち》の上《うえ》に立《た》ち止《ど》まって、耳《みみ》を傾《かたむ》けていました。北《きた》の方《ほう》にも、夏《なつ》がやってきたのであります。 底本:「定本小川未明童話全集 3」講談社    1977(昭和52)年1月10日第1刷    1981(昭和56)年1月6日第7刷 ※表題は底本では、「遠《とお》くで鳴《な》る雷《かみなり》」となっています。 入力:ぷろぼの青空工作員チーム入力班 校正:本読み小僧 2014年4月10日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。