黒い人と赤いそり 小川未明 ------------------------------------------------------- 【テキスト中に現れる記号について】 《》:ルビ (例)北《きた》 |:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号 (例)一|面《めん》 -------------------------------------------------------  はるか、北《きた》の方《ほう》の国《くに》にあった、不思議《ふしぎ》な話《はなし》であります。  ある日《ひ》のこと、その国《くに》の男《おとこ》の人《ひと》たちが氷《こおり》の上《うえ》で、なにか忙《いそが》しそうに働《はたら》いていました。冬《ふゆ》になると、海《うみ》の上《うえ》までが一|面《めん》に氷《こおり》で張《は》りつめられてしまうのでした。だから、どんなに寒《さむ》いかということも想像《そうぞう》されるでありましょう。  夜《よる》になると、地球《ちきゅう》の北《きた》のはてであったから、空《そら》までが、頭《あたま》の上《うえ》に近《ちか》く迫《せま》って見《み》えて、星《ほし》の輝《かがや》きまでが、ほかのところから見《み》るよりは、ずっと光《ひかり》も強《つよ》く、大《おお》きく見《み》えるのでありました。その星《ほし》の光《ひかり》が寒《さむ》い晩《ばん》には凍《こお》って、青《あお》い空《そら》の下《した》に、幾筋《いくすじ》かの銀《ぎん》の棒《ぼう》のように、にじんでいるのが見《み》られたのです。木立《こだち》は音《おと》を立《た》てて凍《い》て割《わ》れますし、海《うみ》の水《みず》は、いつのまにか、動《うご》かなくとぎすました鉄《てつ》のように凍《こお》ってしまったのであります。  そんなに、寒《さむ》い国《くに》でありましたから、みんなは、黒《くろ》い獣《けもの》の毛皮《けがわ》を着《き》て、働《はたら》いていました。ちょうど、そのとき、海《うみ》の上《うえ》は曇《くも》って、あちらは灰色《はいいろ》にどんよりとしていました。  すると、たちまち足《あし》もとの厚《あつ》い氷《こおり》が二つに割《わ》れました。こんなことは、めったにあるものでありません。みんなは、たまげた顔《かお》つきをして、足《あし》もとを見《み》つめていますと、その割《わ》れ目《め》は、ますます深《ふか》く、暗《くら》く、見《み》るまに口《くち》が大《おお》きくなりました。 「あれ!」と、沖《おき》の方《ほう》に残《のこ》されていた、三|人《にん》のものは声《こえ》をあげましたが、もはやおよびもつかなかったのです。その割《わ》れ目《め》は、飛《と》び越《こ》すことも、また、橋《はし》を渡《わた》すこともできないほど隔《へだ》たりができて、しかも急流《きゅうりゅう》に押《お》し流《なが》されるように、沖《おき》の方《ほう》方《ほう》へだんだんと走《はし》っていってしまったのであります。  三|人《にん》は、手《て》を挙《あ》げて、声《こえ》をかぎりに叫《さけ》んで、救《すく》いを求《もと》めました。陸《りく》の方《ほう》に近《ちか》い氷《こおり》の上《うえ》に立《た》っているおおぜいの人々《ひとびと》は、ただ、それを見送《みおく》るばかりで、どうすることもできませんでした。  たがいにわけのわからぬことをいって、まごまごしているばかりです。そのうちに、三|人《にん》を乗《の》せた氷《こおり》は、灰色《はいいろ》にかすんだ沖《おき》の方《ほう》へ、ぐんぐんと流《なが》されていってしまいました。みんなは、ぼんやりと沖《おき》の方《ほう》を向《む》いているばかりで、どうすることもできません。そのうちに、三|人《にん》の姿《すがた》は、ついに見《み》えなくなってしまいました。  あとで、みんな大騒《おおさわ》ぎをしました。氷《こおり》がとつぜん二つに割《わ》れて、しかもそれが、箭《や》を射《い》るように沖《おき》の方《ほう》へ流《なが》れていってしまうことは、めったにあるものでない。こんな不思議《ふしぎ》なことは、見《み》たことがない。それにしても、あの氷《こおり》といっしょに流《なが》されてどこかへいってしまった三|人《にん》を、どうしたらいいものだろうと話《はな》し合《あ》いました。 「いまさらどうしようもない。この冬《ふゆ》の海《うみ》に船《ふね》を出《だ》されるものでなし、後《あと》を追《お》うこともできないではないか。」と、あるものは、絶望《ぜつぼう》しながらいいました。  みんなは、うなずきました。 「ほんとうにしかたがないことだ。」といいました。しかし、五|人《にん》のものだけが頭《あたま》を振《ふ》りました。 「このまま仲間《なかま》を、見殺《みごろ》しにすることができるものでない。どんなことをしても、救《すく》わなければならない。」と、それらの人々《ひとびと》はいいました。  すると、おおぜいの中《なか》の、あるものは、 「今度《こんど》のことは、この国《くに》があってから、はじめてのことだ。人間業《にんげんわざ》では、どうすることもできないことだ。」といったものがあります。  なるほど、そのものがいうとおりだと思《おも》ったのでしょう。みんなは、黙《だま》って聞《き》いていました。 「みんながゆかなければ、俺《おれ》たち五|人《にん》のものが助《たす》けにゆく。」と、五|人《にん》は叫《さけ》びました。  ちょうど、この国《くに》には、赤《あか》いそりが五つありました。このそりは、なにかことの起《お》こったときに、犬《いぬ》にひかせて、氷《こおり》の上《うえ》を走《はし》らせるのでした。  夜《よる》の中《うち》に、五|人《にん》のものは、用意《ようい》にとりかかりました。食《た》べるものや、着《き》るものや、その他《た》入《い》り用《よう》のものをそりの中《なか》に積《つ》み込《こ》みました。そして、夜《よ》の明《あ》けるのを待《ま》っていました。その夜《よ》は、いつにない寒《さむ》い夜《よる》でしたが、夜《よ》が明《あ》けはなれると、いつのまにか、海《うみ》の上《うえ》には昨日《きのう》のように、一|面《めん》氷《こおり》が張《は》りつめて光《ひか》っていたのです。  五|人《にん》のものは、それぞれ赤《あか》いそりに乗《の》りました。そして、二、三|匹《びき》ずつの犬《いぬ》が、一つのそりをひくのでした。  昨日《きのう》行方不明《ゆくえふめい》になった、三|人《にん》のものの家族《かぞく》や、たくさんの群集《ぐんしゅう》が、五つの赤《あか》いそりが、捜索《そうさく》に出《で》かけるのを見送《みおく》りました。 「うまく探《さが》してきてくれ。」と、見送《みおく》る人々《ひとびと》がいいました。 「北《きた》のはしの、はしまで探《さが》してくる。」と、五|人《にん》の男《おとこ》たちは叫《さけ》びました。  いよいよ別《わか》れを告《つ》げて、五つの赤《あか》いそりは、氷《こおり》の上《うえ》を走《はし》り出《で》ました。沖《おき》の方《ほう》を見《み》やると、灰色《はいいろ》にかすんでいました。ちょうど、昨日《きのう》と同《おな》じような景色《けしき》であったのです。みんなのものの胸《むね》の中《うち》には、いい知《し》れぬ不安《ふあん》がありました。そのうちに、赤《あか》いそりは、だんだん沖《おき》の方《ほう》へ小《ちい》さく、小《ちい》さくなって、しまいには、赤《あか》い点《てん》のようになって、いつしか、それすらまったくかすんでしまって、見《み》えなくなったのであります。 「どうか無事《ぶじ》に帰《かえ》ってきてくれればいいが。」と、みんなは、口々《くちぐち》にいいました。そして、ちりぢりばらばらに、めいめいの家《うち》へ帰《かえ》ってしまいました。  その日《ひ》の昼過《ひるす》ぎから、沖《おき》の方《ほう》は暴《あ》れて、ひじょうな吹雪《ふぶき》になりました。夜《よる》になると、ますます風《かぜ》が募《つの》って、沖《おき》の方《ほう》にあたって怪《あや》しい海鳴《うみな》りの音《おと》などが聞《き》こえたのであります。  その明《あ》くる日《ひ》も、また、ひどい吹雪《ふぶき》でありました。五つの赤《あか》いそりが出発《しゅつぱつ》してから、三日《みっか》めに、やっと空《そら》は、からりと明《あか》るく晴《は》れました。  三|人《にん》の行方《ゆくえ》や、それを救《すく》いに出《で》た、五つの赤《あか》いそりの消息《しょうそく》を気《き》づかって、人々《ひとびと》は、みんな海辺《うみべ》に集《あつ》まりました。もとより海《うみ》の上《うえ》は、鏡《かがみ》のように凍《こお》って、珍《めずら》しく出《で》た日《ひ》の光《ひかり》を受《う》けて輝《かがや》いています。 「ひどい暴《あ》れでしたな。」 「それにつけて、あの三|人《にん》と、五つのそりの人《ひと》たちは、どうなりましたことでしょうか、しんぱいでなりません。」  群衆《ぐんしゅう》は、口々《くちぐち》にそんなことをいいました。 「五日分《いつかぶん》の食物《しょくもつ》を用意《ようい》していったそうです。」 「そうすれば、あと二日《ふつか》しかないはずだ。」 「それまでに帰《かえ》ってくるでしょうか。」 「なんともいえませんが、神《かみ》に祈《いの》って待《ま》たなければなりません。」  みんなは、気《き》づかわしげに、沖《おき》の方《ほう》を見《み》ながらいっていました。  沖《おき》の方《ほう》は、ただ、ぼんやりと氷《こおり》の上《うえ》が光《ひか》っているほか、なんの影《かげ》も見《み》えなかったのです。  とうとう、赤《あか》いそりが出《で》てから、五日《いつか》めになりました。みんなは、今日《きょう》こそ帰《かえ》ってくるだろうと、沖《おき》の方《ほう》をながめていました。  その日《ひ》も、やがて暮《く》れましたけれど、ついに、赤《あか》いそりの姿《すがた》は見《み》えませんでした。  六日《むいか》めにも、みんなは、海岸《かいがん》に立《た》って、沖《おき》の方《ほう》をながめていました。 「今日《きょう》は、もどってくるだろう?」 「今日《きょう》帰《かえ》ってこないと、五つのそりにも変《か》わりがあったのだぞ。」  みんなは、口々《くちぐち》にいっていました。  しかし、六日《むいか》めにも帰《かえ》ってきませんでした。そして、七日《なのか》めも、八日《ようか》めも……ついに帰《かえ》ってきませんでした。 「捜《さが》しにいったがいいものだろうか、どうしたらいいものだろう……。」  みんなは、顔《かお》を見合《みあ》っていいました。 「だれが、こんどは捜《さが》しにいくか。」と、あるものはいいました。  みんなは、たがいに顔《かお》を見合《みあ》いました。けれど、一人《ひとり》として、自分《じぶん》がいくという勇気《ゆうき》のあるものはありませんでした。 「くじを引《ひ》いて決《き》めることにしようか。」と、ある男《おとこ》はいいました。 「俺《おれ》は、怖《おそ》ろしくていやだ。」 「俺《おれ》もいくのはいやだ。」 「…………」  みんなは、後退《あとじさ》りをしました。それでついに、救《すく》いに出《で》かけるものはありませんでした。みんなは、口々《くちぐち》にこういいました、 「これは災難《さいなん》というものだ。人間業《にんげんわざ》では、どうすることもできないことだ。」  彼《かれ》らは、そういって、あきらめていたのであります。  それから、幾年《いくねん》もたってからです。  ある日《ひ》のこと、猟師《りょうし》たちが、幾《いく》そうかの小舟《こぶね》に乗《の》って沖《おき》へ出《で》ていきました。真《ま》っ青《さお》な北海《ほっかい》の水色《みずいろ》は、ちょうど藍《あい》を流《なが》したように、冷《つめ》たくて、美《うつく》しかったのであります。  磯辺《いそべ》には、岩《いわ》にぶつかって波《なみ》がみごとに砕《くだ》けては、水銀《すいぎん》の珠《たま》を飛《と》ばすように、散《ち》っていました。  猟師《りょうし》たちは唄《うた》をうたいながら、艪《ろ》をこいだり、網《あみ》を投《な》げたりしていますと、急《きゅう》に雲《くも》が日《ひ》の面《おもて》をさえぎったように、太陽《たいよう》の光《ひかり》をかげらしました。  みんなは不思議《ふしぎ》に思《おも》って、顔《かお》を上《あ》げて、空《そら》を見上《みあ》げようとしますと、真《ま》っ青《さお》の海《うみ》のおもてに、三つの黒《くろ》い人間《にんげん》の影《かげ》が、ぼんやりと浮《う》かんでいるのが見《み》えたのです。その三つの黒《くろ》い人間《にんげん》の影《かげ》には足《あし》がありませんでした。  足《あし》のあるところは、青《あお》い青《あお》い海《うみ》の、うねりうねる波《なみ》の上《うえ》になっていて、ただ黒坊主《くろぼうず》のように、三つの影《かげ》が、ぼんやりと空間《くうかん》に浮《う》かんで見《み》えたのであります。  これを見《み》た、みんなのからだは、急《きゅう》にぞっとして身《み》の毛《け》がよだちました。 「いつか行方《ゆくえ》のわからなくなった、三|人《にん》の亡霊《ぼうれい》であろう。」と、みんなは、心《こころ》でべつべつに思《おも》いました。 「今日《きょう》は、いやなものを見《み》た。さあ、まちがいのないうちに陸《りく》へ帰《かえ》ろう。」と、みんなはいいました。そして、陸《りく》に向《む》かって、急《いそ》いで舟《ふね》を返《かえ》しました。  しかし、不思議《ふしぎ》なことに、まだ陸《りく》に向《む》かって、幾《いく》らも舟《ふね》を返《かえ》さないうちに、どの船《ふね》も、なんの故障《こしょう》がないのに、しぜんと海《うみ》にのみ込《こ》まれるように、音《おと》もなく沈《しず》んでしまいました。  つぎの話《はなし》は、寒《さむ》い冬《ふゆ》の日《ひ》のことです。海《うみ》の上《うえ》は、あいかわらず、銀《ぎん》のように凍《こお》っていました。そして、見《み》わたすかぎり、なんの物影《ものかげ》も目《め》に止《と》まるものとてはありませんでした。  よく晴《は》れた、寒《さむ》い日《ひ》のことで、太陽《たいよう》は、赤《あか》く地平線《ちへいせん》に沈《しず》みかかっていました。  このときたちまち、その遠《とお》い、寂寥《せきりょう》の地平線《ちへいせん》にあたって、五つの赤《あか》いそりが、同《おな》じほどにたがいに隔《へだ》てをおいて行儀《ぎょうぎ》ただしく、しかも速《すみ》やかに、真《ま》一|文字《もんじ》にかなたを走《はし》っていく姿《すがた》を見《み》ました。  すると、それを見《み》た人々《ひとびと》は、だれでも声《こえ》をあげて驚《おどろ》かぬものはなかったのです。 「あれは、いつか、三|人《にん》を捜索《そうさく》に出《で》た、五|人《にん》の乗《の》っていた赤《あか》いそりじゃないか。」と、それを見《み》た人々《ひとびと》はいったのです。 「ああ、この国《くに》に、なにか悪《わる》いことがなければいいが。」と、みんなはいいました。 「あのとき、あの五|人《にん》のものを救《すく》いに、だれもいかなかったじゃないか。」 「そして、あの後《ご》、なにもお祭《まつ》りひとつしなかったじゃないか。」  みんなは、行方《ゆくえ》のわからなくなった、仲間《なかま》に対《たい》して、つくさなかったことが悪《わる》いと、はじめて後悔《こうかい》しました。  この国《くに》にきたひとは、黒《くろ》い人《ひと》と赤《あか》いそりのはなしを、不思議《ふしぎ》な事実《じじつ》として、だれでも聞《き》かされるでありましょう。 底本:「定本小川未明童話全集 3」講談社    1977(昭和52)年1月10日第1刷    1981(昭和56)年1月6日第7刷 初出:「赤い鳥」    1922(大正11)年1月 ※表題は底本では、「黒《くろ》い人《ひと》と赤《あか》いそり」となっています。 ※初出時の表題は「黒い人と赤い橇」です。 入力:ぷろぼの青空工作員チーム入力班 校正:本読み小僧 2012年9月26日作成 2012年12月17日修正 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。