幸福に暮らした二人 小川未明 ------------------------------------------------------- 【テキスト中に現れる記号について】 《》:ルビ (例)南洋《なんよう》 |:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号 (例)三|階建《がいだ》て [#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定 (例)[#地付き] -------------------------------------------------------  南洋《なんよう》のあまり世界《せかい》の人《ひと》たちには知《し》られていない島《しま》に住《す》んでいる二人《ふたり》の土人《どじん》が、難船《なんせん》から救《すく》われて、ある港《みなと》に着《つ》いたときでありました。  砂《すな》の上《うえ》に、二人《ふたり》の土人《どじん》がうずくまってあたりの景色《けしき》に見《み》とれていました。その港《みなと》はかなり開《ひら》けたにぎやかな港《みなと》でありましたから、華《はな》やかなふうをしたいろいろな人《ひと》が歩《ある》いていました。またりっぱな建物《たてもの》も見《み》られました。そして、あちらには、煙突《えんとつ》から黒《くろ》い煙《けむり》が上《あ》がって、その煙《けむり》は雲切《くもぎ》れのした大空《おおぞら》を沖《おき》の方《ほう》へとなびいていました。  それから目《め》に見《み》るもの、また、耳《みみ》に聞《き》くもの、一つとしてこの二人《ふたり》の黒《くろ》んぼの心《こころ》を驚《おどろ》かさないものはなかったのです。二人《ふたり》はあちらに見《み》える、白《しろ》く塗《ぬ》った三|階建《がいだ》ての家屋《かおく》を見《み》ましたときに、それがなんであるかすらもよくわからなかったのでした。しかし、自分《じぶん》たちと異《ちが》った人間《にんげん》がそばの家々《いえいえ》から顔《かお》を出《だ》してのぞいたり、またその中《なか》に動《うご》いたりしているようすなどを見《み》ると、あちらの美《うつく》しい建物《たてもの》の中《なか》には、もっと力《ちから》の強《つよ》い、偉《えら》い人間《にんげん》が住《す》んでいるのだろうということを想像《そうぞう》しました。それにつけても、こんな美《うつく》しい街《まち》がどうしてできたものか、まただれによって、どうして美《うつく》しく地上《ちじょう》にいろいろなものが造《つく》られたのであるか、それを考《かんが》えることすらが、二人《ふたり》にはできなかったのであります。  太陽《たいよう》の光《ひかり》は、故郷《こきょう》の土《つち》の上《うえ》に照《て》りつけるほど強烈《きょうれつ》ではなかった。そして、それだけ夢《ゆめ》を見《み》ているような、うっとりした気持《きも》ちにさせたのであります。二人《ふたり》はあの怖《おそ》ろしいあらしの夜《よ》を怒濤《どとう》にもまれて、真《ま》っ暗《くら》な中《なか》を漂《ただよ》っていたこと、また、夜《よ》が明《あ》けると、青《あお》い、青《あお》い、はてしもない海《うみ》の上《うえ》を、幾日《いくにち》も、幾日《いくにち》も漂《ただよ》っていたこと、そしてそのあげくに、見《み》も知《し》りもしない船《ふね》に救《すく》われたこと、そして、いま、このどことも知《し》らない港《みなと》について、陸《りく》に上《あ》がって砂原《すなはら》にうずくまって、日《ひ》の光《ひかり》を浴《あ》びているということすら、このときは頭《あたま》の中《なか》に思《おも》い出《だ》さずに、ただ、うっとりとあたりの景色《けしき》に見《み》とれていたのでありました。  あたりを往来《おうらい》する人々《ひとびと》は、この二人《ふたり》のいるそばに近寄《ちかよ》って、珍《めずら》しそうにながめて、笑《わら》ってすぐにゆくものもあれば、また、しばらくは立《た》ち止《ど》まってゆくものもありました。  人間《にんげん》だということだけは同《おな》じであるが、色《いろ》も、姿《すがた》もなにひとつ同《おな》じものはなく、そして、言葉《ことば》すらまったく通《つう》じなかったので、たがいに顔《かお》を見合《みあ》わしながら、心《こころ》のうちでは不思議《ふしぎ》なものを見《み》るものだというくらいに思《おも》ったのであります。  二人《ふたり》の黒《くろ》んぼは、極度《きょくど》に自分《じぶん》らの身《み》のまわりに集《あつ》まってくる人《ひと》たちをおそれていました。こんなにりっぱな街《まち》を造《つく》ることのできる人々《ひとびと》だから、どんなに力《ちから》があるであろう。また、どんなことでもなし得《え》ないことはなかろうから、自分《じぶん》たち二人《ふたり》の命《いのち》は、まったくこの人《ひと》たちに自由《じゆう》になされるものだというように思《おも》ったからであります。  二人《ふたり》の黒《くろ》んぼを見《み》た、港《みなと》の人々《ひとびと》は口《くち》にこそ出《だ》していわなかったが、 「なんという怖《おそ》ろしい顔《かお》つきをしている野蛮人《やばんじん》であろう。人間《にんげん》を食《く》うというのは、この種族《しゅぞく》ではなかろうか!」と、心《こころ》に思《おも》ったのでありました。  南方《なんぼう》の太陽《たいよう》に近《ちか》い下《した》の野原《のはら》では、やしの木《き》は、もっと元気《げんき》よく、もっと葉《は》が濃《こ》く、丈《たけ》が高《たか》くしげっていました。二人《ふたり》はこの港《みなと》の郊外《こうがい》にも、やしの木《き》が、ところどころに影《かげ》が黒《くろ》く、日《ひ》に照《て》らされて立《た》っているのを見《み》たのであります。  この木《き》の影《かげ》を見《み》たときに、二人《ふたり》は、どんなになつかしく思《おも》ったでありましょう。 「やはり夢《ゆめ》ではなかった。また死《し》んでいってからの極楽《ごくらく》でもなかった。やはりこの世《よ》の中《なか》の景色《けしき》なんだ。」  こう思《おも》って安心《あんしん》すると同時《どうじ》に、ここからは遠《とお》く隔《へだ》たっている、故郷《こきょう》のことを思《おも》い出《だ》さずにはいられませんでした。このとき、ある日《ひ》、海《うみ》に出《で》て、あらしのためにさらわれた記憶《きおく》が蘇《よみがえ》ったのでありました。 「自分《じぶん》の故郷《こきょう》はどちらだろう……。」  二人《ふたり》の黒《くろ》んぼは、いい合《あ》わしたように、左《ひだり》を見《み》たり、右《みぎ》を見《み》たりして、涙《なみだ》ぐみました。  日《ひ》の光《ひかり》がかげって、天気《てんき》が変《か》わりそうになったので、そばに立《た》っている人々《ひとびと》は、しだいに少《すく》なく、みんなあちらにいってしまいました。  ちょうどこのとき、一人《ひとり》のおじいさんがつえをついて、前《まえ》を通《とお》りかかりましたが、懐《ふところ》から財布《さいふ》を出《だ》して、一つの銀貨《ぎんか》を二人《ふたり》のうずくまっている前《まえ》に投《な》げ出《だ》して立《た》ち去《さ》りました。  ぴかぴか光《ひか》る銀貨《ぎんか》は、砂《すな》の上《うえ》に落《お》ちて光《ひか》っていました。二人《ふたり》の故郷《こきょう》では銭《ぜに》というようなものがなかったから、それがなんであるかわかりませんでしたけれど、ただ、その美《うつく》しい光《ひかり》に魅《み》せられて、二人《ふたり》のうちの年《とし》とったほうが、真《ま》っ黒《くろ》な毛《け》の生《は》えた、つめの伸《の》びた黒《くろ》い手《て》でふいに、小鳥《ことり》をつかむときのようにすばしこく銀貨《ぎんか》を握《にぎ》ってしまいました。  二人《ふたり》のものに、ものを恵《めぐ》んでくれたものは、このおじいさん一人《ひとり》だけでした。それほど、あまり姿《すがた》が違《ちが》っていたので、この街《まち》の人々《ひとびと》には、かわいそうというほどの同情《どうじょう》の念《ねん》が起《お》こらなかったのであります。  二人《ふたり》は、幾日《いくにち》めかで陸《りく》に上《あ》がって、はじめて砂《すな》の上《うえ》にうずくまったのであったが、まもなく、船《ふね》の人《ひと》がきて、二人《ふたり》は、あちらに連《つ》れられてゆきました。二人《ふたり》は、ただこうして街《まち》の光景《こうけい》をながめただけでありました。そして、ふたたびこの港《みなと》から離《はな》れてしまって、航海《こうかい》がつづけられたのであります。船《ふね》は、南《みなみ》へ、南《みなみ》へとゆきました。  この二人《ふたり》は、村《むら》にいるときから仲《なか》がよくて、ちょうど兄弟《きょうだい》のように思《おも》われたのでありますが、ひとたび難船《なんせん》をして、もう助《たす》からないものと思《おも》ったのが、救《すく》われましてからは、二人《ふたり》の仲《なか》は、いっそう親密《しんみつ》になりました。船《ふね》の中《なか》でも、二人《ふたり》は、おじいさんからもらった銀貨《ぎんか》を出《だ》して、かわるがわるそれを掌《て》の上《うえ》にのせては、額《ひいた》を合《あ》わせてのぞきながら、 「これは、二人《ふたり》の仲間《なかま》のものだ。」といっていました。銀貨《ぎんか》には偉《えら》そうな人間《にんげん》の顔《かお》が描《えが》かれていました。二人《ふたり》は、それが貨幣《かへい》であって、それと同《おな》じものが、数《かぞ》えることのできないほどたくさんにあって、世界《せかい》の文明《ぶんめい》がゆきわたっている国々《くにぐに》に流通《りゅうつう》しているということなどは知《し》りませんでした。だから、「なんにするのだろう?」と思《おも》ってしまいました。もとより言葉《ことば》も通《つう》じませんから、船《ふね》の人々《ひとびと》と話《はなし》をするというようなこともありませんでした。 「偉《えら》い人《ひと》が、これを胸《むね》につけるのだろう。」と、年上《としうえ》の甲《こう》のほうがいいました。 「それにちがいない。」と、年下《としした》の乙《おつ》はうなずきました。 「あのおじいさんは、白《しろ》いひげをはやしていたが、きっと偉《えら》い人間《にんげん》なのだろう。」と、甲《こう》はいいました。 「きっと、あの人《ひと》が、あの島《しま》の頭《かしら》かもしれない。それで、よく難船《なんせん》をしても助《たす》かったというので、これをくれたのかもしれない。」と、乙《おつ》は答《こた》えました。  二人《ふたり》は、それを持《も》って故郷《こきょう》に帰《かえ》れるのを、真《しん》に心《こころ》の中《なか》で誇《ほこ》りながら、幸福《こうふく》に感《かん》じていました。それから、いろいろのことがありましたけれど、とにかく、ついに二人《ふたり》は、無事《ぶじ》に故郷《こきょう》の島《しま》に着《つ》くことができたのであります。  この島《しま》の強《つよ》い、幾人《いくにん》かの頭《かしら》というようなものは、みんな二人《ふたり》よりは年上《としうえ》でありました。そして、強《つよ》いものほど、頭蓋骨《ずがいこつ》をたくさん家《いえ》の中《なか》に並《なら》べていました。その頭蓋骨《ずがいこつ》はどうしたのかといいますに、たがいに武力《ぶりょく》を争《あらそ》わなければならなかったり、また、口《くち》では話《はなし》がつかずに、力《ちから》できめなければならなかったときに、戦《たたか》って倒《たお》した相手《あいて》の頭《あたま》でありました。だから、それをたくさん持《も》っているものほど、村《むら》の人々《ひとびと》に尊敬《そんけい》せられ、恐《おそ》れられたりしていたのであります。  二人《ふたり》のものが、自分《じぶん》らの部落《ぶらく》に帰《かえ》りましたときに、みんなは、どんなにびっくりしたでありましょう。もう難船《なんせん》をして死《し》んだものと思《おも》っていました。そして、もうそのときから、日数《ひかず》もよほどたっていましたので、帰《かえ》ってこないものとあきらめていました。二人《ふたり》の生《い》きて帰《かえ》ってきたことは、彼《かれ》らにとっては信《しん》じられない奇蹟《きせき》でありました。 「おまえがたは幽霊《ゆうれい》じゃないか?」といって、黒《くろ》んぼの仲間《なかま》は、二人《ふたり》のものを取《と》り囲《かこ》みました。二人《ふたり》のようすは、島《しま》を出《で》るときとは、まったく違《ちが》っていました。手《て》や、足《あし》や、顔《かお》の毛《け》はいっそう深《ふか》くなって、そして、見違《みちが》えるほどにやつれていたからです。 「なにが幽霊《ゆうれい》なものか、俺《おれ》たちはみんなおまえがたの顔《かお》を覚《おぼ》えている。」と、二人《ふたり》はいって、だれかれの名《な》をいっては、なつかしさのあまり抱《だ》きつきました。  すると、みんなは、どうして助《たす》かったか? どうして帰《かえ》ってきたか? といって、口々《くちぐち》にたずねました。二人《ふたり》は、難船《なんせん》したときの模様《もよう》や、暗《くら》かった夜《よる》のものすごい光景《こうけい》や、救《すく》われてから港《みなと》に着《つ》いて、陸《りく》に上《あ》がって、それはそれはいいつくされない美《うつく》しい、不思議《ふしぎ》な世界《せかい》を見《み》てきたようなことを話《はな》しました。そして年上《としうえ》の甲《こう》は、 「その国《くに》の王《おう》さまが、二人《ふたり》に、このぴかぴか光《ひか》るものをくださったのだ。これさえ持《も》っていればどこへでもゆけるありがたいものだといってくだされたのだ。」といって、銀貨《ぎんか》をみんなに示《しめ》しました。 「ここに書《か》いてある怖《おそ》ろしい人《ひと》が、その王《おう》さまなのだ。」  太陽《たいよう》の光《ひかり》はまぶしく、銀貨《ぎんか》の面《おもて》に反射《はんしゃ》しました。みんなは、この光《ひかり》をおそれるように後退《あとしさ》りをしました。そして、目《め》をみはりました。 「えらいものを持《も》ってきたものだ。俺《おれ》たちは、まだこんな光《ひか》るものを見《み》たことがない。」  みんなは、手《て》に手《て》に、武器《ぶき》を持《も》っていました。それは、竹槍《たけやり》や、たまたま海岸《かいがん》に打《う》ち上《あ》げられた難破船《なんぱせん》に着《つ》いている、鉄片《てっぺん》で造《つく》られた剣《つるぎ》のようなものでありました。しかし、彼《かれ》らはまだ、こんなにぴかぴか光《ひか》る金属《きんぞく》を見《み》たことがなかったのであります。  そのとき、いちばん狡猾《こうかつ》な、悪智恵《わるぢえ》のある年《とし》とった男《おとこ》だけは、みんなが手《て》にとって不思議《ふしぎ》そうにながめている銀貨《ぎんか》に、自分《じぶん》一人《ひとり》は手《て》を触《ふ》れようともせずに、すこし隔《へだ》たったところから、みんなのようすを嘲笑《あざわら》った目《め》でにらんでいました。 「あのぴかぴか光《ひか》るものは、いつか俺《おれ》のものになるんだ。ばかものめ。」と、その目《め》つきはいっているのでした。  この不思議《ふしぎ》な光《ひか》るものが、部落《ぶらく》に入《はい》ってきてからは、みんなにもそれが欲《ほ》しいという欲望《よくぼう》が起《お》こりました。 「人間《にんげん》の頭蓋骨《ずがいこつ》よりか、あのぴかぴか光《ひか》るものに描《えが》いてある頭《あたま》のほうがいい。あれを胸《むね》のあたりに下《さ》げていたら、いちばん偉《えら》い人間《にんげん》になれるのだ。」という考《かんが》えを、みんなは頭《あたま》の中《なか》にもったのであります。そうして、いままでよりか、みんなに一つ欲望《よくぼう》が増《ま》したので、いつか、この光《ひか》る銀貨《ぎんか》のために争《あらそ》いが起《お》こらなければならなく思《おも》われたのでした。 「ほんとうに、いつこの光《ひか》る大事《だいじ》な品《しな》を盗《ぬす》まれるかしれないから、油断《ゆだん》はできないぞ。」と、甲《こう》と乙《おつ》とはいい合《あ》って、二人《ふたり》は、それを大事《だいじ》に守《まも》っていました。  二人《ふたり》は、ほかにだれもいないときに、銀貨《ぎんか》を取《と》り出《だ》して見入《みい》っていました。すると、遠《とお》い、港《みなと》の街《まち》や、空《そら》や、丘《おか》や、木立《こだち》の影《かげ》が、ありありと夢《ゆめ》のように、記憶《きおく》に浮《う》かんでくるのでした。もう、二|度《ど》とは見《み》られなくなった、遠《とお》い、遠《とお》い、かなたの国《くに》の景色《けしき》であります。そして、おじいさんがつえをついてきて、二人《ふたり》に、この光《ひか》るものを投《な》げていった有《あ》り様《さま》が、なお昨日《きのう》のように念頭《ねんとう》に思《おも》い出《だ》されるのでありました。二人《ふたり》は、そのことを思《おも》うと、うっとりとして、心《こころ》は青《あお》い、青《あお》い、海《うみ》を越《こ》えてかなたに憧《あこが》れたのであります。 「これは、命《いのち》よりも大事《だいじ》なものだぞ。」と、二人《ふたり》はいい合《あ》って、おたがいの心《こころ》をいましめました。  部落《ぶらく》にはもう一人《ひとり》強《つよ》い男《おとこ》がありました。その男《おとこ》には、美《うつく》しい娘《むすめ》がありました。ある日《ひ》のこと、その男《おとこ》は甲《こう》のもとへやってきました。 「私《わたし》の娘《むすめ》をおまえにやるから、いつかのぴかぴか光《ひか》るものを私《わたし》にくれないか。」といいました。  甲《こう》は迷《まよ》いました。その男《おとこ》の娘《むすめ》というのは、評判《ひょうばん》の美人《びじん》であったからであります。そして、すぐには返答《へんとう》ができなかったので考《かんが》えておくことにしました。甲《こう》は、独《ひと》りになって、その娘《むすめ》の姿《すがた》を目《め》に思《おも》い浮《う》かべました。かわいらしい口《くち》もと、白《しろ》いきれいな歯《は》、そして、二つの美《うつく》しい目《め》の光《ひかり》は、大事《だいじ》にしているあの金属《きんぞく》から放《はな》つ光《ひかり》よりも、もっとやさしいうるおいのあるものでありました。甲《こう》は、もう、その娘《むすめ》を自分《じぶん》のものにされることなら、あの大事《だいじ》なものを手放《てばな》してもいいという気《き》になりました。そして、そのことを乙《おつ》に相談《そうだん》しました。  すると、乙《おつ》は目《め》に涙《なみだ》をたたえながら、 「あの暗《くら》い、怖《おそ》ろしい夜《よる》のことを忘《わす》れたか? 俺《おれ》たちは、ああして助《たす》かったのだ。そして、あの港《みなと》に上《あ》がって、ああしてふたたび生《い》きてここに帰《かえ》ったのだ。二人《ふたり》は苦労《くろう》を一つにしてきたのに、おまえは自分《じぶん》一人《ひとり》の幸福《こうふく》のために、たいせつな記念《きねん》を失《うしな》っていいのか?」といいました。  甲《こう》は、自分《じぶん》の考《かんが》えが悪《わる》かったと悟《さと》って、乙《おつ》にわびたのであります。その後《ご》は、二人《ふたり》はあいかわらず睦《むつ》まじく、仲《なか》よく暮《く》らしていました。  かの狡猾《こうかつ》な悪智恵《わるぢえ》のある男《おとこ》は、部下《ぶか》をたくさんにもっていました。男《おとこ》は、どうかして、二人《ふたり》を殺《ころ》して、あの光《ひか》るものを奪《うば》い取《と》ろうと思《おも》いました。その男《おとこ》が、計略《けいりゃく》をめぐらしているということを、二人《ふたり》は耳《みみ》にしました。そして、もう一|刻《こく》もここにいるのが危険《きけん》になりましたときに、二人《ふたり》は相談《そうだん》をして、どこか安全《あんぜん》なところへ逃《のが》れることにいたしました。  ある夜《よ》、二人《ふたり》は、ひそかに部落《ぶらく》から逃《のが》れ出《で》ました。そして、谷《たに》を伝《つた》い、山《やま》を越《こ》えて、高《たか》らかに波《なみ》の打《う》ち寄《よ》せる海岸《かいがん》までやってきました。 「もうここまできてしまえば安心《あんしん》だ。まあ休《やす》んで、これからゆく先《さき》のことを考《かんが》えよう。」と、甲《こう》はいいました。 「ほんとうに、俺《おれ》たちは、どこへいったら、安心《あんしん》して楽《たの》しく暮《く》らすことができるだろう。」と、乙《おつ》はいいました。  その夜《よ》は、空《そら》がよく晴《は》れていました。そして、一|面《めん》に海《うみ》をおおうた空《そら》には星《ほし》が輝《かがや》いていました。  砂《すな》の上《うえ》に横《よこ》になって、しばらく空《そら》をながめていました甲《こう》は、ふいに体《からだ》を起《お》こしました。 「俺《おれ》は、あんなに美《うつく》しい星《ほし》が毎夜《まいよ》光《ひか》っていることを知《し》らなかった。あの星《ほし》さえ見《み》ていたら、あの港《みなと》も、おじいさんも、白《しろ》い家《いえ》も、俺《おれ》たちの乗《の》っていた船《ふね》もみんな思《おも》い出《だ》せるではないか?」といいました。すると、やはり黙《だま》って空《そら》を仰《あお》いでいた乙《おつ》はうなずきました。 「おまえ、あのぴかぴか光《ひか》るものはどうした。海《うみ》の中《なか》へ投《な》げてしまえ。あれもきっとだれも手《て》のとどきはしない空《そら》に上《のぼ》って星《ほし》となるのだから……。」といいました。  甲《こう》は銀貨《ぎんか》を取《と》り出《だ》して、遠《とお》く海《うみ》の中《なか》に投《な》げてしまいました。  このとき海《うみ》の上《うえ》は、いっそう明《あか》るくなったような気《き》がしました。彼《かれ》らの部落《ぶらく》は、また昔《むかし》の平穏《へいおん》に帰《かえ》りました。 [#地付き]――一九二二・一〇作―― 底本:「定本小川未明童話全集 3」講談社    1977(昭和52)年1月10日第1刷    1981(昭和56)年1月6日第7刷 初出:「童話」    1923(大正12)年1月 ※表題は底本では、「幸福《こうふく》に暮《く》らした二人《ふたり》」となっています。 入力:ぷろぼの青空工作員チーム入力班 校正:江村秀之 2014年1月28日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。