ちょうと怒濤 小川未明 ------------------------------------------------------- 【テキスト中に現れる記号について】 《》:ルビ (例)美《うつく》しい |:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号 (例)一|日《にち》 [#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定 (例)[#地付き] -------------------------------------------------------  美《うつく》しいちょうがありました。  だれがいうとなく、この野原《のはら》の中《なか》から、あまり遠方《えんぽう》へゆかないがいい。ゆくと花《はな》がない、ということをききましたから、ちょうは、その野原《のはら》の中《なか》を飛《と》びまわっていました。  しかし、その野原《のはら》は広《ひろ》うございましたので、毎日《まいにち》遊《あそ》ぶのに、不自由《ふじゆう》を感《かん》じませんでした。自分《じぶん》ばかりでない、たくさんのほかのこちょうもいました。また、みつばちもいましたから、さびしいことはなかったのです。  野原《のはら》には圃《はたけ》がありました。菜《な》の花《はな》が咲《さ》いています。また、麦《むぎ》がしげっています。そのほか、えんどうの花《はな》や、いろいろの花《はな》が咲《さ》いていました。その花《はな》の上《うえ》や、青葉《あおば》の上《うえ》を飛《と》びまわっているだけでも、一|日《にち》かかるのでありました。  ある日《ひ》のこと、みつばちは、そのちょうに向《む》かっていいました。 「私《わたし》たちは、菜《な》の花《はな》や、えんどうの花《はな》の上《うえ》を飛《と》びまわっているだけなら、まちがいはありません。それはこの圃《はたけ》の中《なか》にさえいれば、夏《なつ》になると、なすや、うりの花《はな》が咲《さ》きますから、とうぶん花《はな》の絶《た》えるようなこともありません。その時分《じぶん》にはせみも鳴《な》くし、いろいろの虫《むし》も鳴《な》きます。まあ遠《とお》くへいくなどという考《かんが》えを起《お》こさずに、おちついていることですね。」と、みつばちはいったのです。  ちょうは、このときに、格別《かくべつ》、ほかへいってみたいなどという考《かんが》えをもちませんでしたから、みつばちのいうことを笑《わら》ってきいていました。  そして、風《かぜ》に吹《ふ》かれて、ちょうは、美《うつく》しい羽《はね》をひらひらさせて、菜《な》の花《はな》の圃《はたけ》を飛《と》んでいました。このちょうの美《うつく》しいのは、ひとり、みつばちの目《め》にそう見《み》えたばかりでなく、同《おな》じちょうの仲間《なかま》でも評判《ひょうばん》になっていました。それほど、このちょうの羽《はね》は大《おお》きく、赤《あか》・黄《き》・黒《くろ》・青《あお》、いろいろの色《いろ》で彩《いろど》られていました。  ちょうは、圃《はたけ》の上《うえ》で、多《おお》くの仲間《なかま》に出《で》あいましても、自分《じぶん》の羽《はね》ほどきれいなのを持《も》っている仲間《なかま》を見《み》たことがありませんでした。また、そんなに大《おお》きな羽《はね》を持《も》っているのも見《み》ませんでした。 「あなたは、ほんとうに美《うつく》しくお生《う》まれついてしあわせですね。」と、ある仲間《なかま》は、心《こころ》からうらやましく感《かん》じて、そういいました。  あるとき、一つの羽《はね》の青《あお》い、小《ちい》さなこちょうは、彼《かれ》に向《む》かって、 「あなたは、けっして、この野原《のはら》からほかへいってはいけませんよ。この野原《のはら》の中《なか》の女王《じょおう》ですもの。」といいました。 「なぜ、そんなにほかへいってはいけないのですか。」と、ちょうは問《と》いました。  すると、羽《はね》の青《あお》いちょうは、 「私《わたし》は、やはり、この野原《のはら》にばかりいるのがつまらなくて、あちらへいったのですよ。それはあんまり遠《とお》いところではなかったのです。あの青木《あおき》の見《み》える街道《かいどう》を一つ越《こ》えたばかりです。するとふいに、大《おお》きな袋《ふくろ》のようなもので私《わたし》はすくわれました。私《わたし》はびっくりしました。人間《にんげん》が、私《わたし》を捕《と》らえたのです。みると、その人間《にんげん》は、ほかにも、私《わたし》よりはきれいなちょうを幾《いく》つも手《て》に持《も》っていました。ちょうど、それはあなたのように美《うつく》しいちょうばかりでした。しかし、あなたほど美《うつく》しいとは思《おも》いませんでした。私《わたし》はどうなることかと身震《みぶる》いをしていますと、『なんだ、こんなつまらないちょうか。』といって、その人間《にんげん》は私《わたし》をふたたび自由《じゆう》にしてくれました。私《わたし》は、自分《じぶん》の体《からだ》が、あなたのように美《うつく》しくなかったのを、ほんとうに、そのとき、幸福《こうふく》に感《かん》じました。私《わたし》は、そこから、すぐにもとの道《みち》をもどって、この野原《のはら》に帰《かえ》ってきましたのです。」と美《うつく》しいちょうに向《む》かって語《かた》りました。  ちょうは、その話《はなし》をきいて、いろいろの空想《くうそう》にふけったのです。 「人間《にんげん》が、そんなにちょうを捕《と》らえて、なににするのでしょう。」と、青《あお》いちょうにたずねました。 「どうせ、殺《ころ》されるのだと思《おも》います。そして、なにになるものか私《わたし》にはわかりせんが、人間《にんげん》は残酷《ざんこく》なものだといいますから、格別《かくべつ》、用《よう》はなくても殺《ころ》すのでしょう。」と、青《あお》いちょうは答《こた》えました。  また、美《うつく》しいちょうはたずねました。 「いったい、あちらに、なにがあるのでしょうか。」といって、青《あお》いちょうの顔《かお》を見守《みまも》ったのです。  青《あお》い、小《ちい》さなちょうは、菜《な》の葉《は》の上《うえ》に羽《はね》を休《やす》めながら、 「私《わたし》もよく、知《し》りませんが、なんでも話《はなし》にきくと、人間《にんげん》の住《す》んでいるりっぱな町《まち》があるそうです。その町《まち》には、この野原《のはら》に咲《さ》いているよりも、もっと美《うつく》しい花《はな》が、たくさんあるそうです。まだほかにいろいろ珍《めずら》しいものや、私《わたし》たちには用事《ようじ》のない、名《な》の知《し》らないようなものがいたるところにあるということです。」といいました。 「そんな美《うつく》しい花《はな》を人間《にんげん》はどこから持《も》ってきたのでしょうか。また、なににするのでしょうか。」 「人間《にんげん》は、どんな遠《とお》いところからでも、船《ふね》や車《くるま》に乗《の》せて持《も》ってくることができます。人間《にんげん》は、やはり美《うつく》しいものはなんでも好《す》きなようです。ずっと南《みなみ》の方《ほう》からも、また、北《きた》の方《ほう》からも、いろいろ珍《めずら》しい草《くさ》や、花《はな》を集《あつ》めてくるのです。」  青《あお》い、小《ちい》さなちょうは、自分《じぶん》の知《し》っているかぎりをみんな話《はな》してしまうと、 「またお目《め》にかかります。」といって、どこへともなく飛《と》び去《さ》ってしまいました。  その後《あと》で、美《うつく》しいちょうは、独《ひと》り物思《ものおも》いに沈《しず》みました。ちょうは、人間《にんげん》の造《つく》った町《まち》にいってみたくなったのです。「人間《にんげん》は、美《うつく》しいものはなんでも好《す》きだというから、きっと、自分《じぶん》も好《す》きにちがいない。好《す》きなものは、たとえ捕《と》らえても、命《いのち》を取《と》るようなことはしないだろう。そして、かえって、愛《あい》してくれるにちがいない。」と、ちょうは思《おも》ったのであります。  ちょうは、いつまでも、この野原《のはら》の中《なか》を、あちらこちらと飛《と》んでいることに飽《あ》きてしまいました。そして、ぜひ一|度《ど》、だれでもいってみたいと思《おも》う町《まち》にいって、いろいろな珍《めずら》しい花《はな》を見《み》てこようと思《おも》いました。  ある日《ひ》、ちょうは、いつか、みつばちのいったことをも忘《わす》れて、野原《のはら》を離《はな》れて、あちらの空《そら》へ独《ひと》りで飛《と》んでゆきました。これは、いい天気《てんき》の日《ひ》で、空《そら》の色《いろ》は、四|方《ほう》一|帯《たい》に晴《は》れていました。しばらく旅《たび》をしたと思《おも》うと、ちょうは、はるか目《め》の下《した》に黒《くろ》い屋根《やね》の固《かた》まった町《まち》を見《み》たのであります。 「美《うつく》しい花《はな》のあるというのは、この町《まち》か。」と、ちょうは思《おも》いました。  しかし、ちょうはどこへ降《お》りたらいちばん安全《あんぜん》だろうと、しばらく空中《くうちゅう》に迷《まよ》っていました。そのとき、なんともいわれない、やさしいいい音色《ねいろ》がきこえてきたのであります。ちょうは、かつて、こんないい音《おと》をきいたことがありませんでした。これはきっと、人間《にんげん》の中《なか》での、やさしい人間《にんげん》の住《す》んでいるところだろうと、なんの考《かんが》えもなく、そう思《おも》わずにはいられませんでした。  ちょうは、そのやさしい音色《ねいろ》のする方《ほう》へと、音《おと》をたどって降《お》りてゆきました。そこは、ある大《おお》きな家《いえ》の裏《うら》のところであって、いい音色《ねいろ》は、へやの中《なか》からもれているのです。ちょうは、なにに止《と》まったらいいかと、しばらく、この庭《にわ》を見《み》まわしました。その庭《にわ》は広《ひろ》かったとはいえ、もっともっと広《ひろ》い野原《のはら》から飛《と》んできたちょうには、広《ひろ》いとは感《かん》じられなかったのです。  ちょうは、幾《いく》つかの鉢《はち》に、いろいろの花《はな》の咲《さ》いているのを見《み》ました。これは、どれも、いままで見《み》たことのないような、美《うつく》しい花《はな》ばかりであります。ちょうは、いつか羽《はね》の青《あお》いこちょうの物語《ものがた》ったことなどを思《おも》い出《だ》しました。なかにも、ちょうは、黒《くろ》い鉢《はち》に植《う》わった、真紅《まっか》なばらの花《はな》を見《み》たときには、ほんとうに、びっくりしてしまいました。それで、たちまち、なんともいえない香気《かおり》に恍惚《うっとり》となってしまって、ちょうは、あとさきの考《かんが》えもなく、その真紅《まっか》な花弁《かべん》に吸《す》いつけられたように、その上《うえ》に降《お》りて止《と》まったのです。  こんなに美《うつく》しい花《はな》が、この世《よ》の中《なか》にあるだろうかと、ちょうは思《おも》いました。これこそ、私《わたし》が憧《あこが》れていた花《はな》だと、ちょうは思《おも》いました。 「まあ、なんというきれいなこちょうさんでしょう。わたしは、まだこんなに美《うつく》しいちょうは見《み》たことがなかった。さあ、わたしのみつを思《おも》うぞんぶんに吸《す》ってください。」と、真紅《しんく》のばらはいいました。  遠《とお》く、町《まち》に憧《あこが》れて飛《と》んできたちょうは、この花《はな》に接吻《せっぷん》しました。それは、ほんのつかのまであったのです。 「あすこに、子供《こども》があなたをじっと見《み》ていますよ。きっと、ここにやってきて、あなたを捕《と》らえますよ。そして、針《はり》であなたの体《からだ》を刺《さ》してしまいますよ。はやく、お逃《に》げなさい。そして、また、忘《わす》れずにきてください。わたしは待《ま》っています。」と、ばらの花《はな》はいいました。  このとき、大《おお》きな袋《ふくろ》のようなものが空《そら》を横《よこ》ぎりました。もし、もうすこし早《はや》くちょうが、その花《はな》の上《うえ》を飛《と》び去《さ》らなかったら、きっと、捕《と》らえられてしまったのです。しかし、ちょうは、ただ、はげしい風《かぜ》のあおりを身《み》に感《かん》じただけで、無事《ぶじ》でありました。  ちょうは、その夜《よ》、近《ちか》くの草原《くさはら》に休《やす》みました。そして、また、明《あ》くる日《ひ》、この庭《にわ》にいってみたのです。けれど、哀《あわ》れなちょうは、ばらの花《はな》に近寄《ちかよ》ることができませんでした。人間《にんげん》が、その庭《にわ》にいたからです。  三日《みっか》めの晩方《ばんがた》、ちょうは、今日《きょう》こそは、花《はな》に近寄《ちかよ》って、いろいろの思《おも》いを語《かた》ろうと思《おも》ったのであります。  天気《てんき》の変《か》わる前兆《ぜんちょう》か、西《にし》の夕焼《ゆうやけ》けは、気味《きみ》の悪《わる》いほど、猛《たけ》り狂《くる》う炎《ほのお》のように渦巻《うずま》いて紅《あか》くなりました。  ちょうが、大《おお》きな羽《はね》をはばたいて、庭《にわ》さきに降《お》りようとした刹那《せつな》、真紅《まっか》なばらの花《はな》は、もう寿命《じゅみょう》がつきたとみえて、音《おと》もなく、ほろりほろりと、金色《きんいろ》を帯《お》びた夕日《ゆうひ》の光《ひかり》の中《なか》に砕《くだ》けて散《ち》るところでありました。  これを見《み》たちょうは、どんなにうらめしく思《おも》ったでしょう。そして、またこの花《はな》と語《かた》るのはいつであろうとなげきました。ちょうは気《き》も狂《くる》いそうでありました。無念《むねん》と残念《ざんねん》とで、もう生《い》きている心地《ここち》はなかったのです。自分《じぶん》の体《からだ》は、どうなってもいいというように、ちょうは、絶望《ぜつぼう》のあまり、深《ふか》い考《かんが》えはなしに、空高《そらたか》く、高《たか》く、どこまでも高《たか》く舞《ま》い上《あ》がりました。ちょうは、下界《げかい》の有《あ》り様《さま》を、もはやなにも見《み》たいと思《おも》いませんでした。  すると、空《そら》には、怖《おそ》ろしい、烈《はげ》しい風《かぜ》が吹《ふ》いていました。ちょうの体《からだ》は、急流《きゅうりゅう》にさらわれた木《こ》の葉《は》のように、あっと、思《おも》うまもなく、遠《とお》く、遠《とお》く、吹《ふ》き飛《と》ばされてしまいました。  どんな強《つよ》い風《かぜ》に飛《と》ばされた木《こ》の葉《は》も、一|度《ど》は落《お》ちるように、ちょうは冷《つめ》たい土《つち》の上《うえ》に落《お》とされました。そして、気《き》がついたときに、すさまじい音《おと》が、真《ま》っ暗《くら》な中《なか》から、起《お》こってきこえていたのです。そこは、海辺《うみべ》でありました。  ちょうは、湿《しめ》った砂《すな》の上《うえ》にしがみついて、ふるえていました。夜《よ》が明《あ》けると、自分《じぶん》の美《うつく》しかった羽《はね》は破《やぶ》れていて、そして、前《まえ》には青《あお》い青《あお》い海《うみ》が、うねり、うねっているのが見《み》られたのです。日《ひ》の光《ひかり》を浴《あ》びて、ちょうは、いくらか元気《げんき》が出《で》てきました。そして、どこかの辺《あた》りに、花《はな》が咲《さ》いてはいないかと、ひらひらと舞《ま》い上《あ》がったのでした。けれど、風《かぜ》が強《つよ》くて、ややもすると傷《きず》ついた羽《はね》が、そのうえにも破《やぶ》れてしまいそうでした。やっと、砂《すな》の丘《おか》に黄色《きいろ》な花《はな》の咲《さ》いているのを見《み》つけて、その花《はな》の上《うえ》にとまりました。  黄色《きいろ》な花《はな》は、ちょうど星《ほし》のように咲《さ》いていました。そして、風《かぜ》に吹《ふ》かれて、頭《あたま》を地《ち》につけていました。あまりみつばちもいなければ、また、ほかのちょうの姿《すがた》も見《み》えませんでした。花《はな》は黙《だま》っています。海《うみ》の上《うえ》では鳥《とり》が鳴《な》いていました。なんとなく、悲壮《ひそう》な景色《けしき》であったのです。  ちょうは、じっとして、終日《しゅうじつ》、その花《はな》の上《うえ》に止《と》まっていました。もとの野原《のはら》へ帰《かえ》ろうと思《おも》っても、いまは方角《ほうがく》すらわからないばかりか、遠《とお》くて、傷《きず》ついた身《み》には、それすらできないことでありました。  たちまち、海《うみ》の上《うえ》が真紅《まっか》に燃《も》えました。夕日《ゆうひ》が沈《しず》むのです。この光景《こうけい》を見《み》ると、ちょうは、ふたたびばらの姿《すがた》を思《おも》い出《だ》しました。もう永久《えいきゅう》に、あの姿《すがた》が見《み》られないと思《おも》うと、ちょうは、また物狂《ものくる》おしく、昨日《きのう》のように、空《そら》高《たか》く舞《ま》い上《あ》がったのです。美《うつく》しい花弁《かべん》のように傷《きず》ついたちょうの姿《すがた》は、夕日《ゆうひ》に輝《かがや》きました。強《つよ》い風《かぜ》は、無残《むざん》にちょうを海《うみ》の上《うえ》に吹《ふ》きつけました。そして、たちまち怒涛《どとう》は、ちょうをのんでしまったのです。 [#地付き]――一九二二・三作―― 底本:「定本小川未明童話全集 3」講談社    1977(昭和52)年1月10日第1刷    1981(昭和56)年1月6日第7刷 初出:「中学生」    1922(大正11)年6月 ※表題は底本では、「ちょうと怒濤《どとう》」となっています。 ※初出時の表題は「蝶と怒濤」です。 入力:ぷろぼの青空工作員チーム入力班 校正:江村秀之 2014年1月28日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。