山の上の木と雲の話 小川未明 ------------------------------------------------------- 【テキスト中に現れる記号について】 《》:ルビ (例)山《やま》 |:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号 (例)一|本《ぽん》 -------------------------------------------------------  山《やま》の上《うえ》に、一|本《ぽん》の木《き》が立《た》っていました。木《き》はまだこの世《よ》の中《なか》に生《う》まれてきてから、なにも見《み》たことがありません。そんなに高《たか》い山《やま》ですから、人間《にんげん》も登《のぼ》ってくることもなければ、めったに獣物《けもの》も上《のぼ》ってくるようなこともなかったのです。  ただ、毎日《まいにち》聞《き》くものは、風《かぜ》の音《おと》ばかりでありました。木《き》はべつに話《はなし》をするものもなければ、また心《こころ》をなぐさめてくれるものもなく、朝《あさ》から夜《よる》まで、さびしくその山《やま》の上《うえ》に立《た》っていました。同《おな》じ木《き》でも、にぎやかな都会《とかい》の中《なか》にある公園《こうえん》にあったならば、毎日《まいにち》、いろいろなものを見《み》、またいろいろな音《おと》を聞《き》いたでありましょう。しかし、この木《き》はそんなことがなかったのであります。  夜《よる》になると、遠《とお》くで獣物《けもの》のほえる声《こえ》と、永久《えいきゅう》に黙《だま》って冷《つめ》たく輝《かがや》く星《ほし》の光《ひかり》と、いずこへともなく駆《か》けてゆく、無情《むじょう》の風《かぜ》の音《おと》を聞《き》いたばかりであります。  しかし、この木《き》にただ一|度《ど》忘《わす》れがたい思《おも》い出《で》があるのでありました。それは、ある年《とし》の夏《なつ》の夕暮《ゆうぐ》れ方《がた》のことであります。あんなに美《うつく》しい雲《くも》を見《み》たことがありません。その雲《くも》は、じつに美《うつく》しい雲《くも》でした。にこやかに笑《わら》っていました。体《からだ》には、紅《あか》・紫《むらさき》・黄《き》・金《きん》・銀《ぎん》、あらゆるまばゆいほどの華《はな》やかな色彩《しきさい》で織《お》られた着物《きもの》をまとっていました。髪《かみ》は、長《なが》く、黄金色《こがねいろ》の波《なみ》のようにまき上《あ》がっていました。その雲《くも》は、おそらく大空《おおぞら》の年《とし》若《わか》い女王《じょおう》でありましたでしょう。ゆうゆうと空《そら》を漂《ただよ》って、この山《やま》を過《す》ぎるのでした。  木《き》は、魂《たましい》まで、ぼんやりとして、ただ夢心地《ゆめごこち》になって、空《そら》を見上《みあ》げていました。 「なんという美《うつく》しい雲《くも》だろう。あんな美《うつく》しい姿《すがた》のものが、この宇宙《うちゅう》にはすんでいるのだろうか?」 と、木《き》は思《おも》って、ながめていました。  すると、その雲《くも》は、ちょうど木《き》の立《た》っている山《やま》の上《うえ》にさしかかりました。木《き》は、見上《みあ》げれば、見上《みあ》げるほど美《うつく》しいので、気《き》も遠《とお》くなるばかりでした。このとき、ちょうど、鈴《すず》を振《ふ》るような、やさしい声《こえ》をして、雲《くも》は下《した》を見《み》て、 「ああ、まっすぐないい木《き》だこと。風《かぜ》にも、雪《ゆき》にも折《お》れないで、よく育《そだ》ちましたね。ほんとうに強《つよ》い、雄々《おお》しい若《わか》い木《き》ですこと。どんなにこの山《やま》の上《うえ》に一|人《ひとり》で立《た》っているのではさびしいでしょうね。しかし、忍耐《にんたい》をしなければなりません。わたしは、また、きっと、もう一|度《ど》ここへやってきますよ。それまでは、達者《たっしゃ》でいてください。いろいろのおもしろい話《はなし》や、珍《めずら》しいこの世界《せかい》じゅうでわたしの見《み》てきた話《はなし》をしてあげますよ。」と、木《き》に向《む》かって雲《くも》はいいました。  木《き》は、ほんとうに夢《ゆめ》とばかり思《おも》ったのです。そして、このときばかりは、自分《じぶん》ほど、幸福《こうふく》なものは世《よ》の中《なか》にないと思《おも》いました。いつまでも木《き》は、この美《うつく》しい雲《くも》をば見《み》ていたかったのです。また、翼《つばさ》があったら、自分《じぶん》も飛《と》んで雲《くも》の後《あと》を追《お》って、いっしょに旅《たび》をしたいと思《おも》いました。しかし、木《き》には、もとよりそれができなかったのです。そのうちに、だんだん雲《くも》の姿《すがた》は、遠《とお》ざかってしまいました。  その日《ひ》から、木《き》は、この雲《くも》の姿《すがた》を忘《わす》れることができませんでした。そして、もう一|度《ど》ここへやってくるといった雲《くも》の言葉《ことば》を思《おも》い出《だ》して、毎日《まいにち》さびしい日《ひ》を送《おく》っていました。  しかし、それからというものは、けっして、そのような美《うつく》しい雲《くも》をば木《き》は、見《み》なかったのです。夏《なつ》も去《さ》ってしまい、秋《あき》にもなったけれど、この美《うつく》しい雲《くも》は、ふたたび目《め》のとどくかぎり、空《そら》に姿《すがた》を現《あらわ》しませんでした。  木《き》は、深《ふか》い、深《ふか》い、愁《うれ》いに沈《しず》みました。毎日《まいにち》、山《やま》の頂《いただき》を通《とお》る雲《くも》は、灰色《はいいろ》の物悲《ものがな》しいものばかりでありました。  木《き》が、こうして悲《かな》しみに沈《しず》んでいましたとき、からすがやってきて、 「なんで、そんなに悲《かな》しんでいるのですか?」と、木《き》に向《む》かって聞《き》いたのであります。  木《き》は、心《こころ》の中《なか》の悲《かな》しみを隠《かく》していることができませんでした。そして、からすが、さもしんせつにいってくれましたので、木《き》は雲《くも》の話《はなし》をして、 「おまえさんは、羽《はね》があって、遠《とお》いところまで旅《たび》をしなさるから、もし、その雲《くも》をごらんになったら、私《わたし》に教《おし》えてください。」と、木《き》はからすに向《む》かって頼《たの》みました。すると、からすは、 「そうです。私《わたし》は、海《うみ》の方《ほう》へも飛《と》んでゆきます。また広《ひろ》い野原《のはら》へも、ときには、村《むら》へも飛《と》んでゆきます。けれど、このごろはどこへいっても、これと同《おな》じ曇《くも》った空色《そらいろ》で、かつてそんな美《うつく》しい雲《くも》を見《み》たことがありません。私《わたし》も気《き》をつけていますが、もしつぐみがここにきましたら、よく聞《き》いてごらんなさい。あの鳥《とり》は、諸国《しょこく》を飛《と》びまわりますから……。」と、木《き》に向《む》かっていいました。  哀《あわ》れな木立《こだち》は、さも頼《たよ》りなさそうに見《み》えました。からすは、やがて別《わか》れを告《つ》げて去《さ》ってしまいました。それから幾日《いくにち》もたった冬《ふゆ》のはじめです。つぐみが、どこからかやってきて、この木《き》の枝《えだ》に止《と》まりました。木《き》は、からすのいったことを忘《わす》れずに、さっそく雲《くも》の話《はなし》をしました。 「つぐみさん、どこかでこんなような雲《くも》をごらんになりましたか?」と、木《き》は、鳥《とり》に向《む》かって聞《き》きました。  敏捷《びんしょう》そうなつぐみは、小《ちい》さなくびをかしげながら、考《かんが》えていましたが、 「あ、見《み》ましたよ。それは、ここからは、たいそう遠《とお》いところであります。海《うみ》を越《こ》えて、あちらのにぎやかな都会《とかい》でありました。ある日《ひ》の晩方《ばんがた》、私《わたし》は、その都会《とかい》の空《そら》を、急《いそ》いでこっちに向《む》かって旅《たび》をしていますと、ちょうどあなたのおっしゃる美《うつく》しい雲《くも》が、都会《とかい》の空《そら》に浮《う》かんでいました。下《した》には、とがった塔《とう》や、高《たか》い建物《たてもの》などが重《かさ》なり合《あ》って、馬車《ばしゃ》や、自転車《じてんしゃ》などが往来《おうらい》の上《うえ》を走《はし》っていました。そして、街《まち》の中《なか》は、たそがれかかって、燈火《ともしび》が、ちらちらと水玉《みずたま》のようにひらめいていました。」と、つぐみはいいました。  これを聞《き》いていた木立《こだち》は、深《ふか》いため息《いき》をもらしました。 「いまは、そんなに遠《とお》いところに、雲《くも》はいってしまったのですか。」と、木《き》は、さびしさにたえられなかったけれど、雲《くも》の無事《ぶじ》なのを聞《き》いて安心《あんしん》いたしました。 「どうか、また、その雲《くも》をごらんになったら、私《わたし》のことをよく告《つ》げてください。」と、木《き》は、つぐみに頼《たの》みました。 「きっと、あなたのことを雲《くも》に告《つ》げますよ。私《わたし》は、もう明日《あした》はここを去《さ》って、遠《とお》くへゆきますから、また、どこかで、あの雲《くも》を見《み》ますでしょう。」と、つぐみはいいました。  木《き》は、またこのつぐみとも別《わか》れなければなりませんでした。こうして、さびしく山《やま》の上《うえ》に一人《ひとり》いつまでも残《のこ》されたのであります。  それからも毎日《まいにち》、情《つれ》ない風《かぜ》は木《き》を揺《ゆ》すりました。雪《ゆき》は、舞《ま》ってきて枝《えだ》にかかりました。そして、明《あ》けても暮《く》れても、灰色《はいいろ》の雲《くも》は、頭《あたま》の上《うえ》をゆきました。  いつになったら、木《き》は、あの美《うつく》しい雲《くも》の姿《すがた》を見《み》るでありましょう。また、夏《なつ》がめぐってくるには、長《なが》い間《ま》があったのです。 底本:「定本小川未明童話全集 3」講談社    1977(昭和52)年1月10日第1刷    1981(昭和56)年1月6日第7刷 初出:「読売新聞」    1922(大正11)年3月22〜25日 ※表題は底本では、「山《やま》の上《うえ》の木《き》と雲《くも》の話《はなし》」となっています。 入力:ぷろぼの青空工作員チーム入力班 校正:本読み小僧 2014年4月23日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。