白い影 小川未明 ------------------------------------------------------- 【テキスト中に現れる記号について】 《》:ルビ (例)夏《なつ》 |:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号 (例)二十|間《けん》 -------------------------------------------------------  夏《なつ》の日《ひ》のことでありました。汽車《きしゃ》の運転手《うんてんしゅ》は、広《ひろ》い野原《のはら》の中《なか》にさしかかりますと、白《しろ》い着物《きもの》を着《き》た男《おとこ》が、のそりのそりと線路《せんろ》の中《なか》を歩《ある》いているのを認《みと》めました。  このあたりには人家《じんか》もまれであって、右《みぎ》を見《み》ても左《ひだり》を見《み》ても、草《くさ》の葉《は》がきらきらと、さながらぬれてでもいるように、日《ひ》の光《ひかり》に照《て》らされて光《ひか》っていました。また、遠近《おちこち》にこんもりとした林《はやし》や森《もり》などが、緑色《みどりいろ》のまりを転《ころ》がしたようにおちついていて、せみの声《こえ》が聞《き》こえていました。  白《しろ》い男《おとこ》を見《み》ると、運転手《うんてんしゅ》は、ハッと思《おも》って、あわただしく警笛《けいてき》を鳴《な》らしました。なぜなら、汽車《きしゃ》がちょうど全速力《ぜんそくりょく》を出《だ》して走《はし》っていたからであります。  しかし、白《しろ》い男《おとこ》は平気《へいき》で、やはり線路《せんろ》の内側《うちがわ》を歩《ある》いていました。もうすこし早《はや》く、これを見《み》つけたら、こんなに運転手《うんてんしゅ》は、あわてることもなかったのでしょうけれど、このあたりはめったに人《ひと》の通《とお》るところでなし、安心《あんしん》をして、彼《かれ》は前方《ぜんぽう》に見《み》える遠《とお》い国境《こっきょう》の山影《やまかげ》などをながめて、その山《やま》の頂《いただき》に飛《と》んでいる雲《くも》のあたりに空想《くうそう》を走《はし》らせていたのであります。  白《しろ》い影《かげ》は、もう、二十|間《けん》……十|間《けん》……すぐ目《め》の前《まえ》に迫《せま》りました。運転手《うんてんしゅ》は大急《おおいそ》ぎで進行《しんこう》をしている汽車《きしゃ》を止《と》めました。その反動《はんどう》で、どうしたはずみにか、列車《れっしゃ》は大脱線《だいだっせん》をしてしまいました。おりよく、それが貨車《かしゃ》であったからたいした負傷者《ふしょうしゃ》はなかったけれど、貨車《かしゃ》は幾台《いくだい》となく壊《こわ》れて、田《た》の中《なか》に埋《う》まったり、堤防《ていぼう》の上《うえ》に転覆《てんぷく》したりして、たいへんな騒《さわ》ぎになりました。  運転手《うんてんしゅ》は、負傷《ふしょう》をしました。そして、うめきながら、白《しろ》い着物《きもの》を着《き》た大男《おおおとこ》をひき殺《ころ》したと告《つ》げました。  それで、みんなは、汽車《きしゃ》の転覆《てんぷく》の原因《げんいん》が、人《ひと》をひき殺《ころ》そうとしたため、急《いそ》いで汽車《きしゃ》を止《と》めたのにあったことを知《し》りました。それにしても、こんな大事件《だいじけん》をひき起《お》こした男《おとこ》は、どうなったかといって、みんなは、汽罐車《きかんしゃ》の下《した》をのぞいてみました。そこには白《しろ》い着物《きもの》を着《き》た男《おとこ》がひき砕《くだ》かれて血《ち》みどろになっているだろうと思《おも》いましたのに、なんの姿《すがた》もありませんでした。 「白《しろ》い男《おとこ》なんて、いないじゃないか?」 「どこにも人間《にんげん》はおろか、ねこ一ぴきだってひかれていはしないじゃないか。」  みんなは、こう口々《くちぐち》にいいました。そして、これはまさしく運転手《うんてんしゅ》が、むだ目《め》を見《み》たのだといいました。  あくる日《ひ》の町《まち》の新聞《しんぶん》には、運転手《うんてんしゅ》がむだ目《め》を見《み》たために、貨物列車《かもつれっしゃ》を脱線《だっせん》さしてしまったことを大《おお》きく書《か》いていました。そして、運転手《うんてんしゅ》は、このごろ、神経衰弱《しんけいすいじゃく》にかかっていたということもつけくわえて報道《ほうどう》しました。  すると、ここに、白《しろ》い着物《きもの》を着《き》た大男《おおおとこ》が、その後《ご》も真昼《まひる》ごろ、のそりのそりと線路《せんろ》の上《うえ》を歩《ある》いているのを見《み》たというものがありました。なんでも、その人《ひと》の話《はなし》によると、雲《くも》をつくばかりの大男《おおおとこ》であったというのでした。  こうした奇怪《きかい》な話《はなし》は、これまでに、二|度《ど》めであります。この鉄道線路《てつどうせんろ》は、西南《せいなん》から走《はし》って、この野原《のはら》の中《なか》でひとうねりして、それからまっすぐに北方《ほっぽう》へと無限《むげん》に連《つら》なっているのでした。  この前《まえ》この地方《ちほう》に、稀有《けう》な暴風《ぼうふう》が襲《おそ》ったことがあります。そのときは、電信柱《でんしんばしら》をかたっぱしから吹《ふ》き倒《たお》してしまいました。高《たか》い木《き》は折《お》れ、家《いえ》は倒《たお》れ、橋《はし》は流《なが》れてしまったので、じつに、天地《てんち》は真《ま》っ暗《くら》になったのであります。人々《ひとびと》は、そのときの恐《おそ》ろしかったことをいまでも記憶《きおく》しています。やはり、その当座《とうざ》、一つのうわさがたちました。  なんでも、暴風《ぼうふう》は、黒《くろ》い太《ふと》い棒《ぼう》になってうずを巻《ま》いて過《す》ぎていった。あの暴風《ぼうふう》がくる前《まえ》、灰色《はいいろ》の着物《きもの》を着《き》た、見上《みあ》げるばかりの大男《おおおとこ》が、この鉄道線路《てつどうせんろ》の上《うえ》をのそりのそりと歩《ある》いていたのを、見《み》たものがあったというのであります。  それで、このたびも運転手《うんてんしゅ》が、白《しろ》い着物《きもの》を着《き》た大男《おおおとこ》が、線路内《せんろない》を歩《ある》いているのを見《み》たといったことが、かならずしも、むだ目《め》ばかりでないといって、みんなに不安《ふあん》を抱《いだ》かせたのです。  線路《せんろ》は修繕《しゅうぜん》されて、やがて列車《れっしゃ》は、いままでのように往復《おうふく》するようになりました。その後《ご》になって、ふたたび同《おな》じような事件《じけん》が繰《く》り返《かえ》されました。  もとより、これは、別《べつ》な運転手《うんてんしゅ》で、もっと年《とし》をとった熟練《じゅくれん》な男《おとこ》でありました。その汽車《きしゃ》には、大臣《だいじん》とたくさんな高等官《こうとうかん》が乗《の》っていました。この野原《のはら》にさしかかると、汽車《きしゃ》はしきりに警笛《けいてき》を鳴《な》らしつづけましたが、不意《ふい》に、停車場《ていしゃば》でもないのに止《と》まってしまったのです。 「どうしたのだ?」といって、みんなは、客車《きゃくしゃ》の窓《まど》から頭《あたま》を出《だ》して、外《そと》をのぞきました。運転手《うんてんしゅ》や、その他《た》、汽車《きしゃ》の勤務員《きんむいん》は、車内《しゃない》から飛《と》び降《お》りて、前方《ぜんぽう》の汽罐車《きかんしゃ》の方《ほう》に向《む》かって駆《か》けていきました。 「ひいたな?」と、客車《きゃくしゃ》に乗《の》っている人々《ひとびと》は、頭《あたま》を出《だ》して、その方《ほう》を見《み》ながらいいました。  また、一|等《とう》室《しつ》からも、大臣《だいじん》や、高等官《こうとうかん》の顔《かお》がちょっとばかり現《あらわ》れました。しかしその人《ひと》たちの顔《かお》は、じきに引《ひ》っ込《こ》んでしまいました。けれど、内部《ないぶ》では、やはり他《た》の客車《きゃくしゃ》に乗《の》っている人《ひと》たちと同《おな》じようなことをいって、うわさをしていたにちがいありません。 「不思議《ふしぎ》だ!」という声《こえ》が、あちらにも、こちらにも起《お》こりはじめました。 「いったい、どうしたことかな?」と、大臣《だいじん》は眉《まゆ》のあたりをしかめて、おそばのものにたずねました。おそばのものは、さっそく、汽車《きしゃ》の監督《かんとく》を呼《よ》んで、子細《しさい》をさらにたずねたのであります。  監督《かんとく》は恐縮《きょうしゅく》して、いまあった事実《じじつ》を答《こた》えました。 「線路内《せんろない》を歩《ある》いていくものがありますから、笛《ふえ》を鳴《な》らしたのです。」 「その笛《ふえ》の音《おと》は私《わたし》も聞《き》いた。」と、シルクハットをかぶった高等官《こうとうかん》はうなずきました。 「歩《ある》いている人間《にんげん》は、耳《みみ》が聞《き》こえないとみえて、いっこう平気《へいき》で、汽車《きしゃ》が後《あと》からくるのを気《き》づかなかったのです。しかたがないものですから汽車《きしゃ》を止《と》めました。しかし、そのときは、もう遅《おそ》かったか、歩《ある》いている人間《にんげん》のそばまで汽車《きしゃ》が走《はし》っていきました。」 「ひいてしまったのか? しかし、前後《ぜんご》の事情《じじょう》を聞《き》けばしかたがないことだ。」と、高等官《こうとうかん》はいいました。 「いえ、ところが、線路《せんろ》の上《うえ》にも血《ち》が流《なが》れていず、またあたりにも、その人間《にんげん》の影《かげ》が見《み》えないのです。」 「どんなようすをしていたのか?」 「やはり、白《しろ》い着物《きもの》を着《き》ていたといいます。」  こう答《こた》えて、監督《かんとく》は、高等官《こうとうかん》の顔《かお》を仰《あお》ぎました。 「最近《さいきん》、汽車《きしゃ》が脱線《だっせん》したときも、それだったじゃないか。また、運転手《うんてんしゅ》がむだ目《め》を見《み》たのではないか。」と、高等官《こうとうかん》はいいました。 「今度《こんど》は、二人《ふたり》も、三|人《にん》も、白《しろ》い着物《きもの》を着《き》た男《おとこ》を見《み》たものがあるのです。」と、監督《かんとく》は頭《あたま》をかしげながら答《こた》えました。  おそばの者《もの》は、このことを大臣《だいじん》に申《もう》しあげました。すると、大臣《だいじん》は、大《おお》きな体《からだ》をゆすって、 「このたびは、脱線《だっせん》をしなくて、命拾《いのちびろ》いをしたというものじゃ。」と、驚《おどろ》いたような、喜《よろこ》んだような顔《かお》つきをしていいました。  大臣《だいじん》の乗《の》っていた列車《れっしゃ》が、途中《とちゅう》不時《ふじ》の停車《ていしゃ》をしたというので、また問題《もんだい》になりました。そして、あくる日《ひ》の町《まち》から出《で》る新聞《しんぶん》には、運転手《うんてんしゅ》が、どうしてこのごろ、こうむだ目《め》を見《み》るのか? 気候《きこう》の変化《へんか》で、もしくは、過度《かど》の労働《ろうどう》でみんな神経衰弱《しんけいすいじゃく》にかかっているのではないかという疑《うたが》いを起《お》こしていました。  その後《ご》は、汽車《きしゃ》が進行《しんこう》してくる際《さい》に、たとえ線路内《せんろない》に、子供《こども》や老人《ろうじん》の影《かげ》を見《み》ましても、運転手《うんてんしゅ》は警笛《けいてき》を鳴《な》らさずに進行《しんこう》をつづけることがありました。 「これも、きっとむだ目《め》であろう。」と、彼《かれ》らは思《おも》ったからであります。  たちまち、責任問題《せきにんもんだい》が起《お》こりました。轢死者《れきししゃ》の数《すう》が著《いちじる》しく増《ま》したからです。なぜ、警笛《けいてき》を鳴《な》らさなかったか? 被害者《ひがいしゃ》の側《がわ》では、こういって、鉄道側《てつどうがわ》を非難《ひなん》いたしました。  白《しろ》い影《かげ》は、鉄道線路《てつどうせんろ》を伝《つた》って、ついに街《まち》の方《ほう》へやってきました。こんどは、街《まち》のあちらこちらで、白《しろ》い影《かげ》のうわさが盛《さか》んになりました。 「今日《きょう》、向《む》かいのご隠居《いんきょ》が、取引所《とりひきじょ》で、白《しろ》い男《おとこ》がみんなの中《なか》に混《ま》じって見物《けんぶつ》していたといわれました。それで、昼過《ひるす》ぎからの株《かぶ》がたいへんに下《さ》がって、大騒《おおさわ》ぎだったそうですよ。」と、あるところでは、おかみさんが近所《きんじょ》の人《ひと》に話《はなし》をしていました。 「白《しろ》い男《おとこ》ってなんでございますか?」 「白《しろ》い着物《きもの》を着《き》た、気味《きみ》の悪《わる》い男《おとこ》だそうですよ。」と、おかみさんは答《こた》えました。  そこへ、ちょうど隠居《いんきょ》が通《とお》りかかりました。二人《ふたり》の女《おんな》は、おじいさんを呼《よ》び止《と》めました。 「おじいさん、あんたは、白《しろ》い男《おとこ》をごらんなさったのですか。」と、一人《ひとり》の女《おんな》はたずねました。 「めっそうな、私《わたし》が見《み》たら、いまごろは破産《はさん》せんけりゃならん。白《しろ》い、気味《きみ》の悪《わる》い目《め》つきをした男《おとこ》が見物人《けんぶつにん》の中《なか》に混《ま》じって、じっとしていたということでな。なんでもその男《おとこ》を見《み》たものは、みんな株《かぶ》に損《そん》をしたという話《はなし》じゃ。」と、おじいさんはいいました。  ある日《ひ》、街《まち》の四《よ》つ角《かど》のところで、電車《でんしゃ》と自動車《じどうしゃ》とが衝突《しょうとつ》しました。自動車《じどうしゃ》はもはや使用《しよう》されないまでに壊《こわ》され、電車《でんしゃ》もまた脱線《だっせん》して、しばらくは、そのあたりは雑踏《ざっとう》をきわめたのであります。そして、怪我人《けがにん》もできましたので、電車《でんしゃ》と自動車《じどうしゃ》の運転手《うんてんしゅ》は、警察《けいさつ》へいってしらべられることになりました。 「どうして、衝突《しょうとつ》をしたのだ?」といって、警官《けいかん》がききますと、自動車《じどうしゃ》の運転手《うんてんしゅ》は、そのときのことを思《おも》い浮《う》かべるような目《め》つきをして、 「晩方《ばんがた》でありました。両側《りょうがわ》には、燈火《ともしび》のついたころあいです。電車《でんしゃ》の停留場《ていりゅうじょう》には、たくさん人《ひと》が立《た》っていました。私《わたし》は注意《ちゅうい》をして、それらの人《ひと》たちを避《さ》けながら走《はし》っていますと、目《め》の先《さき》へ、小《ちい》さな白《しろ》い着物《きもの》を着《き》たおじいさんが、ちょこちょこと出《で》てきたから、私《わたし》はとっさのことですし、たいそう狼狽《ろうばい》しました。その前《まえ》まで、そんな老人《ろうじん》が歩《ある》いていることに気《き》づかなかったのです。私《わたし》はひくまいと思《おも》って、全速力《ぜんそくりょく》で脇《わき》の方《ほう》へそれますと、そのとたんにやってきた電車《でんしゃ》と衝突《しょうとつ》したのでした。」と申《もう》しました。 「その着物《きもの》を着《き》た老人《ろうじん》はどうしたか?」と、警官《けいかん》はききました。 「不思議《ふしぎ》にも、その間《あいだ》に老人《ろうじん》の姿《すがた》は消《き》えたように、どこへいってしまったものか見《み》えなくなりました。」と、運転手《うんてんしゅ》は答《こた》えました。 「おまえの見《み》た、白《しろ》い着物《きもの》を着《き》た老人《ろうじん》というのは、大男《おおおとこ》ではなく小《ちい》さかったのか?」  警官《けいかん》は、これまで、大《おお》きな白《しろ》い男《おとこ》が、影《かげ》のように線路《せんろ》の上《うえ》に立《た》って、幾《いく》たびか汽車《きしゃ》を脱線《だっせん》さしたり、また止《と》めたりしたといううわさを聞《き》いていましたから、いま小《ちい》さな白《しろ》い男《おとこ》だと聞《き》いて、異様《いよう》に感《かん》じたからであります。 「私《わたし》たちの見《み》たのは、白《しろ》い小《ちい》さなおじいさんでした。」と、両方《りょうほう》の運転手《うんてんしゅ》は、はっきりと答《こた》えました。 「いつ、そんなに小《ちい》さくなったのか?」と、警官《けいかん》は、くびをかしげました。 「そのことは、私《わたし》たちに、わかりません。」と、運転手《うんてんしゅ》は、おそるおそる答《こた》えました。  この白《しろ》い影《かげ》が、この町《まち》に入《はい》ってきたことは、どんなにみんなの生活《せいかつ》の上《うえ》に不安《ふあん》を与《あた》えたでありましょう。ほんとうに、ペストや、コレラが入《はい》ってきたよりもおそろしい、防禦《ぼうぎょ》のできない事実《じじつ》であったからであります。  しかし、白《しろ》い影《かげ》が、ある人《ひと》の目《め》に見《み》えて、ある人《ひと》の目《め》に見《み》えないという理由《りゆう》はない。それを見《み》る人《ひと》は、気候《きこう》の関係《かんけい》で、また神経衰弱《しんけいすいじゃく》にかかったからではなかろうかというような解釈《かいしゃく》をした人《ひと》がありましたが、実際《じっさい》において、気《き》づく人《ひと》と気《き》づかない人《ひと》との相違《そうい》があるということに、ほぼ輿論《よろん》はきまったのであります。  そして、いちばん困《こま》ったことには、なにか自分《じぶん》の不注意《ふちゅうい》で、失敗《しっぱい》をしたものが、白《しろ》い影《かげ》を見《み》たからといって、ほんとうは、見《み》もしないのに、すべての過失《かしつ》を白《しろ》い影《かげ》に帰《き》してしまったことでありました。 「白《しろ》い影《かげ》をつかまえることにしよう。」  町《まち》の人々《ひとびと》は、こう話《はなし》をきめたのであります。そして、その正体《しょうたい》を見《み》とどけようと思《おも》いました。  まだ暑《あつ》い、夏《なつ》の時分《じぶん》、野原《のはら》を白《しろ》い男《おとこ》がさまよっているときは、大《おお》きな雲《くも》つくばかりの体《からだ》でのそりのそりと、真昼《まひる》の線路《せんろ》を歩《ある》いたものであるが、街《まち》に入《はい》ってからは、小男《こおとこ》となって、晩方《ばんがた》から夜《よる》にかけて、多《おお》く人混《ひとご》みの中《なか》に出《で》かけるようになりました。それで、捕《と》らえることは困難《こんなん》であったのです。しかし、だんだん白地《しろじ》の浴衣《ゆかた》を着《き》る人《ひと》が少《すく》なくなって、みんな人々《ひとびと》が黒《くろ》っぽい着物《きもの》を着《き》るようになってから、一|方《ぽう》では、やっと白《しろ》い影《かげ》を捜《さが》すのに都合《つごう》がよくなりました。  幾日《いくにち》かたちましたけれど、まだ、白《しろ》い男《おとこ》を捕《と》らえたものはありませんでした。なんでも、このごろは、白《しろ》い男《おとこ》は、月《つき》のいい寒《さむ》い晩《ばん》に、町《まち》の屋根《やね》から、屋根《やね》を伝《つた》わって、星《ほし》のように飛《と》んでいるのを見《み》たというものが、あちらこちらにありました。 「地震《じしん》があるのではなかろうか?」と、一|時《じ》は、こんなうわささえしたものがあった。また夜《よる》はなるべく外《そと》に出《で》ずに、白《しろ》い影《かげ》を見《み》ないものと、早《はや》くから戸《と》を閉《し》めてしまうような臆病者《おくびょうもの》も少《すく》なくはなかったのであります。  すると、こんどは、いままでとはまったく違《ちが》ったうわさがひろまりはじめました。 「今年《ことし》は、いままでにないことだ。暴風《ぼうふう》もこず、米《こめ》はよくできて豊年《ほうねん》だ。昔《むかし》の人《ひと》の話《はなし》に、白《しろ》い影《かげ》が入《はい》ってきた年《とし》は豊年《ほうねん》だということだ。」というようなうわさがたちはじめると、 「大河《おおかわ》にかかっている鉄橋《てっきょう》の根《ね》もとが腐《くさ》れていたのをこのごろ発見《はっけん》した。白《しろ》い影《かげ》が線路《せんろ》の上《うえ》を歩《ある》いていたのは、それを注意《ちゅうい》するためだった。」と、いうような説《せつ》が、後《あと》から後《あと》からつづいて起《お》こったのであります。  町《まち》の新聞《しんぶん》は、また白《しろ》い影《かげ》を科学的《かがくてき》に批評《ひひょう》をしていました。ある理学士《りがくし》は、白《しろ》い男《おとこ》のように見《み》えたのは、水蒸気《すいじょうき》のどうかした具合《ぐあい》で、人間《にんげん》の形《かたち》に見《み》えたのであろう。秋《あき》から冬《ふゆ》にかけては、毎夜《まいよ》のごとく、月《つき》のいい晩《ばん》には、白《しろ》いもやがいろいろの形《かたち》で立《た》ち上《のぼ》るものだ。また、夏《なつ》の日《ひ》、野原《のはら》で見《み》た、白《しろ》い大男《おおおとこ》というのも、おそらく同《どう》一の現象《げんしょう》で、雲《くも》のようなものではなかろうかといって、なんでもなく、それを解決《かいけつ》していました。  最初《さいしょ》、白《しろ》い男《おとこ》を見《み》て、汽車《きしゃ》を脱線《だっせん》さしたばかりでなく、自分《じぶん》も負傷《ふしょう》した運転手《うんてんしゅ》は、神経衰弱《しんけいすいじゃく》から、むだ目《め》が見《み》えたのだと判断《はんだん》されたものの、とにかく汽車《きしゃ》を脱線《だっせん》さした責任《せきにん》から退職《たいしょく》させられて、いまでは、町《まち》に近《ちか》い港《みなと》の汽船問屋《きせんどんや》に勤《つと》めていたのであります。  もう秋《あき》も末《すえ》のことでありました。今夜《こんや》にも、冬《ふゆ》がやってきそうに、空《そら》の色《いろ》は澄《す》んで海《うみ》の色《いろ》はさえていました。野原《のはら》の中《なか》の林《はやし》も色《いろ》づいて、こずえからは、黄色《きいろ》い葉《は》がひとりでにこぼれるように、ほろほろと落《お》ちていました。また、街《まち》の並木《なみき》の葉《は》は、たいてい落《お》ちつくしてしまって、黒《くろ》い小枝《こえだ》の先《さき》が青《あお》い空《そら》の下《した》に細《こま》かく、網《あみ》の目《め》のように透《す》いて見《み》えていました。  この港《みなと》から、南洋《なんよう》の方《ほう》へゆく船《ふね》は、今夜《こんや》出《で》てゆくのが今年《ことし》じゅうの最終《さいしゅう》でありましたが、あまりそれには乗《の》ってゆく客《きゃく》もなかったのです。  夕陽《ゆうひ》は、岡《おか》を染《そ》め街《まち》に沈《しず》みかかっています。そのとき、汽船《きせん》の待合室《まちあいしつ》に、いつかの運転手《うんてんしゅ》は、一人《ひとり》の不思議《ふしぎ》な女《おんな》をみとめました。  目《め》の美《うつく》しい、髪《かみ》のちぢれた娘《むすめ》が、燃《も》えるような赤《あか》マントを着《き》て、たった一人《ひとり》ベンチに腰《こし》をかけて、悲《かな》しそうな目《め》つきで、海《うみ》の上《うえ》をながめていたのです。そして、娘《むすめ》は、手《て》の中《なか》に、小《ちい》さい真《ま》っ白《しろ》なねこを抱《だ》いていました。人《ひと》が近《ちか》づくと、その白《しろ》いねこは消《き》えたように、マントの下《した》に隠《かく》れてしまいました。そして、だれもそばにいなくなると、また、真《ま》っ白《しろ》なねこは、娘《むすめ》の手《て》の中《なか》に入《はい》って遊《あそ》んでいたのでした。 「この町《まち》を騒《さわ》がした白《しろ》い悪魔《あくま》は、こいつでなかったか?」と、いつか負傷《ふしょう》した運転手《うんてんしゅ》は、ふと心《こころ》に思《おも》いました。そして、今日《きょう》、船《ふね》に乗《の》って沖《おき》へ出《で》ていってしまったら、もうこの町《まち》に不安《ふあん》はなくなるだろうと思《おも》いました……。はたして、それからは、もう白《しろ》い影《かげ》を見《み》たものはありませんでした。 底本:「定本小川未明童話全集 2」講談社    1976(昭和51)年12月10日第1刷    1982(昭和57)年9月10日第7刷 初出:「婦人公論」    1923(大正12)年1月 ※表題は底本では、「白《しろ》い影《かげ》」となっています。 入力:ぷろぼの青空工作員チーム入力班 校正:江村秀之 2013年11月1日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。