白すみれとしいの木 小川未明 ------------------------------------------------------- 【テキスト中に現れる記号について】 《》:ルビ (例)北《きた》 |:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号 (例)十|里《り》 [#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定 (例)[#7字下げ]一[#「一」は中見出し] ------------------------------------------------------- [#7字下げ]一[#「一」は中見出し]  北《きた》の方《ほう》のある村《むら》に、仲《なか》のよくない兄弟《きょうだい》がありました。父親《ちちおや》の死《し》んだ後《あと》は兄《あに》は弟《おとうと》をば、むごたらしいまでに、いじめました。  弟《おとうと》は、どちらかといえば、気《き》のきかない、おんぼりとした質《たち》で、学校《がっこう》へ行《い》っても、あまり物事《ものごと》をよく覚《おぼ》えませんでした。だから、兄《あに》は弟《おとうと》をば、つねにばか者扱《ものあつか》いにしていたのであります。  弟《おとうと》は気《き》がやさしくて、けっして兄《あに》に対《たい》して手向《てむ》かいなどをしたことがありません。いつも兄《あに》にいじめられて、しくしく泣《な》いていました。  冬《ふゆ》の、ある寒《さむ》い寒《さむ》い晩《ばん》のこと、格別《かくべつ》弟《おとうと》が悪《わる》いことをしたのではないのに、兄《あに》は弟《おとうと》をいじめました。 「おまえみたいなばかは、こんな寒《さむ》い晩《ばん》に外《そと》に立《た》っているがいい。そして、凍《こご》え死《し》んだって、俺《おれ》はおまえをかわいそうとは思《おも》わないぞ。」と、兄《あに》はののしりました。  弟《おとうと》は、どうかそんなことはいわずに、家《うち》の中《なか》に置《お》いてくれいと頼《たの》みますのを、兄《あに》は無理《むり》に弟《おとうと》を戸《と》の外《そと》に出《だ》して、かぎをかけてしまいました。  家《うち》の外《そと》は、野《の》にも山《やま》にも雪《ゆき》が積《つ》もっていました。その晩《ばん》は、めったにない寒《さむ》さであって、空《そら》は青《あお》ガラスを張《は》ったようにさえて、星晴《ほしば》れがしていました。また、皎々《こうこう》とした月《つき》が下界《げかい》を照《て》らしていました。  弟《おとうと》は、雪《ゆき》の上《うえ》に茫然《ぼうぜん》としていますと、目《め》から流《なが》れ出《で》る涙《なみだ》までが凍《こお》ってしまうほどでありました。弟《おとうと》は、こんな不運《ふうん》なくらいなら、いっそ河《かわ》にでも入《はい》って死《し》んでしまったほうがいいと思《おも》いました。  いつのまにか、寒《さむ》さのために雪《ゆき》の上《うえ》は堅《かた》く凍《こお》っていました。それは鋼鉄《はがね》のように、飛《と》び上《あ》がってもカンカンと響《ひび》くばかりで、埋《う》まることはありませんでした。  弟《おとうと》は雪《ゆき》の上《うえ》を渡《わた》って、河《かわ》のある方《ほう》へいきました。すると、河《かわ》の水《みず》もまた鋼鉄《はがね》のように凍《こお》っていたのであります。  身《み》を投《な》げて死《し》のうにも、水《みず》がないし、どうしたらいいだろうと思《おも》って、途方《とほう》に暮《く》れていますと、はるかかなたに、きばのようにとがった高《たか》い山《やま》が、月《つき》に照《て》らされて見《み》えるのでありました。  昔《むかし》から、あの山《やま》の下《した》には、鬼《おに》が住《す》んでいるといわれていました。 [#7字下げ]二[#「二」は中見出し]  弟《おとうと》は、どうせ死《し》ぬなら、いっそ鬼《おに》にでも食《く》われて死《し》んでしまったほうがいいと思《おも》いました。それにしても、何《なん》十|里《り》あるかわかりませんでした。  月光《げっこう》に照《て》らされている、その遠《とお》い山影《やまかげ》を望《のぞ》みますと、もし雪《ゆき》を渡《わた》ってまっすぐにいくことができたならそんなに遠《とお》くもないだろう。駆《か》けて、駆《か》けていったら、今夜《こんや》の中《うち》にもいかれないことはないと思《おも》われました。  弟《おとうと》は、そう思《おも》うと、雪《ゆき》の上《うえ》をひた走《はし》りに走《はし》りはじめたのです。河《かわ》も野《の》もどこも平坦《へいたん》な白《しろ》い畳《たたみ》を敷《し》き詰《つ》めたようでありましたから、どんな近道《ちかみち》もできるのでありました。  彼《かれ》は、駆《か》けて、駆《か》けて、駆《か》けぬきました。そして疲《つか》れると、体《からだ》から汗《あせ》が出《で》て、これほどの寒《さむ》さもそんなに寒《さむ》いとは思《おも》いませんでした。彼《かれ》は、ところどころ休《やす》みました。そして行《ゆ》く手《て》にそびえて見《み》える高《たか》い山《やま》を仰《あお》ぎました。月《つき》の光《ひかり》が、かすかにその山《やま》を浮《う》き出《だ》しているのでした。  弟《おとうと》は、ほとんど自分《じぶん》でも、どうしてこうよく走《はし》れるかわからないほど走《はし》りました。そして、どこをどう走《はし》ってきたかわかりませんでした。夜明《よあ》けごろでありました。赤《あか》い火《ひ》の球《たま》が自分《じぶん》の前《まえ》になって、雪《ゆき》の上《うえ》をころころと転《ころ》げていきました。  彼《かれ》は、これはなんだろうと思《おも》いました。きっと魔物《まもの》にちがいない。けれどもう自分《じぶん》の命《いのち》を惜《お》しいと思《おも》いませんから、それをつかまえようといっしょうけんめいに跡《あと》を追《お》いました。すると火《ひ》の球《たま》は、ころころと谷底《たにそこ》に転《ころ》がり落《お》ちました。  彼《かれ》も、火《ひ》の球《たま》について谷《たに》へ下《お》りようとしますと、もはや夜《よ》が明《あ》けていました。そして、そこは路《みち》もないまったく山中《やまなか》で、あのきばのように高《たか》い山《やま》は、まだ遠《とお》くなって見《み》えたのであります。  どうしたらいいかと思《おも》って、まごまごしていますと、その中《うち》に日《ひ》の光《ひかり》がさしてきました。雪《ゆき》はしだいに軟《やわ》らかくなって、弟《おとうと》は、もう一|歩《ぽ》も身動《みうご》きすることができなくなりました。  ちょうどそこへ、薪《たきぎ》を負《お》ったおじいさんが通《とお》りかかりました。そして弟《おとうと》を見《み》つけて、こんなところに少年《しょうねん》がいたのでびっくりいたしました。 [#7字下げ]三[#「三」は中見出し]  おじいさんは、この山中《やまなか》にただ一人《ひとり》住《す》んでいる不思議《ふしぎ》な人間《にんげん》でありました。弟《おとうと》は、おじいさんの小屋《こや》につれられてまいりました。 「こんな山中《やまなか》だけれど、なに不自由《ふじゆう》はない。長《なが》くここに住《す》めば、春《はる》、夏《なつ》、秋《あき》、冬《ふゆ》、いろいろの美《うつく》しいながめもあれば、楽《たの》しみもある。おまえはいいと思《おも》ったら、いつまでも住《す》むがいい。」と、おじいさんはいいました。ふもとには、温泉《おんせん》もわいていたのであります。  そのうち雪《ゆき》が消《き》えて春《はる》になりました。弟《おとうと》は、故郷《こきょう》が恋《こい》しくなりました。いまごろ兄《にい》さんはどうしていなさるだろうかと思《おも》いました。そのことをおじいさんにいいました。するとおじいさんは、木《き》の実《み》と草《くさ》の種子《たね》を弟《おとうと》に与《あた》えました。 「この草《くさ》の種子《たね》は、白《しろ》すみれだ。おまえが、この種子《たね》をまきながらいけば、またここへ帰《かえ》ってくるような時分《じぶん》に白《しろ》い花《はな》が咲《さ》いているので路《みち》がわかる。この木《き》の実《み》は、おまえが腹《はら》が減《へ》ったときに食《た》べるしいの実《み》だ。」といいました。  弟《おとうと》は、最初《さいしょ》、この山《やま》へくるときには、雪《ゆき》の上《うえ》を渡《わた》って一|夜《や》にきましたけれど、雪《ゆき》が消《き》えてからは、森《もり》や、林《はやし》や、河《かわ》があって、五日《いつか》も六日《むいか》も歩《ある》かなければ、自分《じぶん》の生《う》まれた村《むら》に帰《かえ》ることができませんでした。彼《かれ》は、木《き》の実《み》と草《くさ》の種子《たね》をもらって、出発《しゅっぱつ》したのであります。そしてある日《ひ》の暮《く》れ方《がた》、彼《かれ》は、ようやく懐《なつ》かしい我《わ》が家《や》へ帰《かえ》ったのであります。 「兄《にい》さん、ただいま帰《かえ》りました。」と、弟《おとうと》はいって、敷居《しきい》をまたぐと、なにかしていた兄《あに》は、びっくりして振《ふ》り向《む》いて、 「おまえは、まだ死《し》ななかったのか。もうおまえみたいなばかには用事《ようじ》がないから、さっさと出《で》ていけ。」といって、弟《おとうと》は、取《と》りつく島《しま》がなかったのです。 「自分《じぶん》の真心《まごころ》がいつか、兄《にい》さんにわかるときがあろう。」と、弟《おとうと》は、一粒《ひとつぶ》のしいの実《み》を裏庭《うらにわ》に埋《う》めて、どこへとなく立《た》ち去《さ》りました。  兄《あに》は、その後《ご》白《しろ》すみれの花《はな》を見《み》て、いじらしい花《はな》だと思《おも》いました。そして、弟《おとうと》の姿《すがた》を思《おも》い出《だ》しました。また、しいの木《き》に風《かぜ》の当《あ》たるのを聞《き》いて、悲《かな》しいと思《おも》い、弟《おとうと》をいじめたことを後悔《こうかい》したそうです。 底本:「定本小川未明童話全集 2」講談社    1976(昭和51)年12月10日第1刷    1982(昭和57)年9月10日第7刷 初出:「読売新聞」    1920(大正9)年1月9〜10日、12日 ※表題は底本では、「白《しろ》すみれとしいの木《き》」となっています。 ※初出時の表題は「白菫と椎木」です。 入力:ぷろぼの青空工作員チーム入力班 校正:江村秀之 2013年11月1日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。