消えた美しい不思議なにじ 小川未明 ------------------------------------------------------- 【テキスト中に現れる記号について】 《》:ルビ (例)見《み》えない |:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号 (例)一|面《めん》 -------------------------------------------------------  それは、ここからは見《み》えないところです。  そこには黒《くろ》い、黒《くろ》い河《かわ》が流《なが》れています。どうしたことか、その河《かわ》の水《みず》は真《ま》っ黒《くろ》でありました。河《かわ》が真《ま》っ黒《くろ》であったばかりでなく、河原《かわら》の砂《すな》もまた真《ま》っ黒《くろ》でありました。そして、その河《かわ》は音《おと》もたてずに、また真《ま》っ黒《くろ》な大《おお》きな森《もり》の中《なか》をくぐって、いずこともなく流《なが》れているのでありました。  空《そら》の色《いろ》は、夜《よる》ともつかず、また昼《ひる》ともつかずに、うす暗《ぐら》くぼんやりとしていました。ただ、ため息《いき》のように、風《かぜ》が吹《ふ》いて、忍《しの》び足《あし》にどこへかいくのでありました。そして、そのところには、生《い》き物《もの》というものは、なにひとつ動《うご》いている姿《すがた》を見《み》ることができませんでした。ただ河原《かわら》を怪《あや》しげな女《おんな》が歩《ある》いているばかりでありました。  いったい、この怪《あや》しげな女《おんな》はなにものでありましょうか。年《とし》をとっているのか、また、そんなに年《とし》をとっていないのか、見《み》ただけではわかりませんでした。顔《かお》も肩《かた》さきも、その長《なが》い真《ま》っ黒《くろ》な髪《かみ》の毛《け》に隠《かく》れていてよく見《み》ることができませんでした。  たまたま髪《かみ》の毛《け》の間《あいだ》から血《ち》の気《き》のない顔《かお》が現《あらわ》れたかと思《おも》うと、ガラス球《だま》のように光《ひか》った目《め》が、氷《こおり》のように冷《つめ》たくあたりを見《み》まわしていたのであります。  この怪《あや》しげな女《おんな》は、灰色《はいいろ》の着物《きもの》を着《き》ていました。そして、めったに笑《わら》うこともありませんでした。女《おんな》は、やせて骨《ほね》ばかりになった手《て》をのばして足《あし》もとの真《ま》っ黒《くろ》な砂《すな》をすくいました。そして、なにか口《くち》の中《なか》で唱《とな》えながら、それを空《そら》に向《む》かって投《な》げていました。また、あるときは、その河《かわ》の真《ま》っ黒《くろ》な水《みず》を柄《え》の長《なが》い杓子《しゃくし》ですくっては、やはりなにやら口《くち》の中《なか》で唱《とな》えながら、それを空《そら》に向《む》かってまいていました。そして、その後《あと》でさも心地《ここち》よさそうに、げらげらと笑《わら》っていたのです。  この怪《あや》しげな女《おんな》は姉《あね》のほうでありました。 「こうして、わたしは、わざわいの砂《すな》や、水《みず》をまいてやる。これはみんな下界《げかい》に落《お》ちていって人間《にんげん》どもの頭《あたま》にふりかかる。この砂《すな》のかかったものには不平《ふへい》がつづき、この水《みず》のかかったものは死《し》んでしまうだろう。わたしは、みんなが不平《ふへい》に苦《くる》しみ、そして死《し》んでしまうことを望《のぞ》んでいる。わたしはこんな醜《みにく》い姿《すがた》に生《う》まれてきた。この宇宙《うちゅう》の、ありとあらゆる生《い》き物《もの》の命《いのち》をのろってやる。そうだ、みんな滅《ほろ》ぼしてしまうまでは、こうして、わざわいの砂《すな》と死《し》の水《みず》をふりまくことをやめはしない。」と、灰色《はいいろ》の着物《きもの》を着《き》た姉《あね》のほうがいいました。そして、彼女《かのじょ》は砂《すな》をまき、水《みず》をまいていました。  ここは、また別《べつ》のところであります。  そこには水晶《すいしょう》のように清《きよ》らかな流《なが》れがありました。そして、その河原《かわら》の砂《すな》は黄金《こがね》のごとく光《ひか》っていました。大空《おおぞら》はいつもうららかに晴《は》れて、いい香《にお》いのする紫《むらさき》や、赤《あか》や、青《あお》や、白《しろ》の花《はな》が一|面《めん》に咲《さ》いていました。太陽《たいよう》の光《ひかり》は、その河水《かわみず》の上《うえ》にも、花《はな》の上《うえ》にも、また砂《すな》の上《うえ》にもいつもあふれていました。  東雲《しののめ》の空色《そらいろ》のような、また平和《へいわ》な入《い》り日《ひ》の空色《そらいろ》のような、うす紅《あか》い色《いろ》の着物《きもの》をきた少女《しょうじょ》が、この楽園《らくえん》を歩《ある》いていたのです。その少女《しょうじょ》は妹《いもうと》のほうでありましたけれど、ようすも心《こころ》も、まったく姉《あね》とは反対《はんたい》でありました。妹《いもうと》はこのうえなく美《うつく》しく、また快活《かいかつ》でありましたから、すべての命《いのち》あるものにはかわいがられていたのです。  彼女《かのじょ》がその星《ほし》のような瞳《ひとみ》をじっと落《お》とすと、花《はな》は生《い》き生《い》きとして香《かお》りました。河水《かわみず》は声《こえ》をたてて笑《わら》いました。そして光《ひか》る砂《すな》は、いっそうきらきらと輝《かがや》いて見《み》えたのでありました。少女《しょうじょ》は、白《しろ》い柔《やわ》らかな手《て》で金色《こんじき》の砂《すな》をすくいました。そして、それを清《きよ》らかな水《みず》の中《なか》に投《な》げています。 「どうかこの幸福《こうふく》がめぐりめぐって、すべての命《いのち》あるものの上《うえ》に宿《やど》るように。みんなが幸福《こうふく》で、平和《へいわ》で仲《なか》よく暮《く》らすように。」といっては、その黄金色《こがねいろ》に光《ひか》る砂《すな》を河《かわ》の流《なが》れに投《な》げていました。清《きよ》らかな水《みず》の中《なか》が、たちまち炎《ほのお》の燃《も》えたつように明《あか》るく輝《かがや》いて見《み》えました。そして幸福《こうふく》のにじは、遠《とお》く河《かわ》の中《なか》からわきあがって、下界《げかい》にまで、長《なが》い橋《はし》を懸《か》けていたのでありました。  このにじが空《そら》にかかると、下界《げかい》に幸福《こうふく》が降《ふ》ったのであります。  ある日《ひ》、暗《くら》い空《そら》のかなたに、美《うつく》しいにじのたつのを怪《あや》しげなふうをした姉《あね》が見《み》ました。そしてガラス球《だま》のような、冷《ひ》ややかに光《ひか》る目《め》でじっとそれを見《み》ていましたが、やがて舌打《したう》ちをして、いまいましそうにいいました。 「ほんとうに憎《にく》い妹《いもうと》めだ。わたしが、こうして下界《げかい》のものを苦《くる》しめ困《こま》らしてやろうといっしょうけんめいに、黒《くろ》い砂《すな》をまいたり、河水《かわみず》をまいたりしているのに、あちらではその邪魔《じゃま》をしている。あんなに幸福《こうふく》のにじがかかった。またそれだけ下界《げかい》の滅《ほろ》びるのが長引《ながび》くわけだ。よし、妹《いもうと》がそういうようにみんなを守《まも》る気《き》なら、わたしはいっそう根気《こんき》よくみんなをのろってやろう。」と、姉《あね》はいいました。そして、夜《よる》も、昼《ひる》も、小止《おや》みなく砂《すな》をまき、水《みず》をまいていました。 「もう、ずいぶんわたしは、こうしてわざわいの砂《すな》をまいたり、水《みず》をまいたりした。たいてい下界《げかい》のものどもは滅《ほろ》びる時分《じぶん》であろうと思《おも》うが、どうであろうか。あのりこうなからすは、どうしたかやってこない。また、あの智慧《ちえ》のあるふくろうはどうしたか、とんと姿《すがた》を見《み》せない。あの二人《ふたり》がやってきたなら、そのようすは知《し》れるだろう。」と、姉《あね》は独《ひと》り言《ごと》をしていました。  するとある日《ひ》のこと、黒《くろ》い森《もり》のかなたで、からすのなき声《ごえ》がしました。 「あのからすめがやってきたな。」と、姉《あね》は耳《みみ》をそばだて、口《くち》もとに気味《きみ》の悪《わる》い笑《わら》いを見《み》せました。すると翼《つばさ》の音《おと》がして、大《おお》きな一|羽《わ》のからすが降《お》りてきました。 「よくやってきた。おまえのくるのを待《ま》っていた。下界《げかい》のようすはどうだ。」と、姉《あね》はからすに向《む》かってたずねました。 「私《わたし》はちょうど三百|歳《さい》になります。だいぶん年《とし》をとりました。前《まえ》は百五十|日《にち》めでここまできましたのが、二百|十日《とおか》もかかります。下界《げかい》は、戦争《せんそう》があったり、地震《じしん》があったり、海嘯《つなみ》があったり、また饑饉《ききん》がありまして、人間《にんげん》は幾《いく》百|万人《まんにん》となく死《し》んでいます。けれど、まだなかなか滅《ほろ》びるようなことはありません。」と、からすは答《こた》えました。  髪《かみ》の毛《け》の長《なが》い、灰色《はいいろ》の着物《きもの》を着《き》た姉《あね》は黙《だま》って聞《き》いていましたが、 「おまえは下界《げかい》を立《た》ったのは、二百|十日《とおか》前《まえ》だ。それまでにわたしは、どれほど砂《すな》や水《みず》をまいたかしれない。いまごろはもっとたくさんな人間《にんげん》や生《い》き物《もの》が死《し》んでいるだろう。その後《ご》のようすが知《し》りたいものだ。」と、姉《あね》はいいました。  年《とし》とったからすは、長《なが》い旅《たび》に疲《つか》れて、杭《くい》に止《と》まって居眠《いねむ》りをしていました。姉《あね》は、黒《くろ》い河《かわ》からへびのような長《なが》い魚《さかな》をとって、からすに食《く》わせました。からすはまた下界《げかい》に向《む》かって旅立《たびだ》ちをしたのであります。  からすが去《さ》ってから、約《やく》十日《とおか》めにふくろうが帰《かえ》ってきました。 「その後《ご》の下界《げかい》のようすはどんなであるか。」と、姉《あね》はききました。 「悪病《あくびょう》が流行《りゅうこう》しています。その伝染《でんせん》の速《はや》さといったら風《かぜ》のようであります。この分《ぶん》なら人間《にんげん》がみんな死《し》に絶《た》えてしまうであろうと思《おも》います。」と、ふくろうはいいました。  姉《あね》はこれをきくと、たいそう喜《よろこ》びました。 「きっと、そのことは、あのおいぼれたからすめの立《た》った後《のち》のできごとであろう。」といって、姉《あね》は河《かわ》の中《なか》から、長《なが》いへびのような黒《くろ》い魚《さかな》をいくつもとって、ふくろうにやっていたわりました。  ふくろうは、黒《くろ》い森《もり》の王《おう》さまにされました。  幸福《こうふく》を下界《げかい》に贈《おく》ろうと思《おも》って、いっしょうけんめいに黄金色《こがねいろ》に輝《かがや》く砂《すな》を河《かわ》の中《なか》に投《な》げていました妹《いもうと》は、もうこれほどまでに幸福《こうふく》を送《おく》ったことだから、きっと下界《げかい》はどんなにか幸福《こうふく》がゆきわたっていることだろうと思《おも》いました。 「あの元気《げんき》のいいはとはまだ帰《かえ》ってこないだろうか。あれがきたら、すべてのようすがわかるのだが。」と、妹《いもうと》はよく晴《は》れわたった空《そら》をながめていいました。  ある日《ひ》のこと、まだ太陽《たいよう》が出《で》ない前《まえ》でありました。頭《あたま》の上《うえ》に翼《つばさ》の音《おと》が聞《き》こえたかと思《おも》うと、美《うつく》しい白《しろ》ばとが大空《おおぞら》をまわりながら地《ち》の上《うえ》に降《お》りてきました。 「お早《はよ》う。おまえの元気《げんき》のいい顔《かお》を見《み》ると、わたしの心《こころ》までせいせいします。なにかいい報知《しらせ》を持《も》ってきたことと思《おも》うが、きかせておくれ。」と、妹《いもうと》は、はとに向《む》かっていいました。  白《しろ》ばとは、円《まる》い目《め》をみはりながら、若《わか》い女神《めがみ》の顔《かお》を見《み》ていましたが、 「それは下界《げかい》はにぎやかなものでございます。毎日毎日《まいにちまいにち》、たくさんな婚礼《こんれい》があって、祝《いわ》いの鐘《かね》が鳴《な》り響《ひび》いています。また、なにかのお祭《まつ》りがあって、そのたびに花火《はなび》の音《おと》が、あちらでも、こちらでもしています。また、後《あと》から後《あと》からと人間《にんげん》の家《うち》では子供《こども》が産《う》まれています。この分《ぶん》でゆきましたら、下界《げかい》はやがて幸福《こうふく》でいっぱいになって、人間《にんげん》はみんな命《いのち》の短《みじか》いのを恨《うら》むばかりであります。」と申《もう》しました。  妹《いもうと》は笑《わら》って、はとのいうことを聞《き》いていましたが、 「それでは、わたしの思《おも》いがついにかなったというものだ。ああ、こんなうれしいことはない。あのいじ悪《わる》の姉《あね》がいくら、みんなを不幸《ふこう》に陥《おとしい》れようとしても、ついに愛《あい》の力《ちから》には勝《か》てなかった。それでこの宇宙《うちゅう》は正《ただ》しい目的《もくてき》を果《は》たしたというものです。」と、妹《いもうと》は、喜《よろこ》んでいいました。  そのうちに、また、ある日《ひ》のこと、かわいらしいひばりが帰《かえ》ってきました。妹《いもうと》は、ひばりの長《なが》い旅《たび》をいたわりました。そして、ひばりに下界《げかい》の有《あ》り様《さま》をたずねました。 「ご安心《あんしん》遊《あそ》ばしてください、下界《げかい》は穀物《こくもつ》がすきまもなく、野《の》に、山《やま》に、圃《はた》にしげっています。また樹々《きぎ》には果物《くだもの》が重《かさ》なり合《あ》って実《みの》っています。みんなは自分《じぶん》たちが食《く》いきれぬほど収穫《しゅうかく》のあるのを喜《よろこ》んでいます。その有《あ》り様《さま》は、とてもこの天国《てんごく》の楽園《らくえん》の有《あ》り様《さま》どころではありません。」と、ひばりは、驚《おどろ》いたふうをしていいました。 「なに、この楽園《らくえん》よりも、もっと下界《げかい》は美《うつく》しいというのか?」と、妹《いもうと》は、美《うつく》しい目《め》を大《おお》きくしてたずねられました。 「人間《にんげん》は、このごろいろいろの花《はな》を、自分《じぶん》たちで変化《へんか》をさせる術《じゅつ》を覚《おぼ》えたので、みごとに咲《さ》かしています。あんな美《うつく》しい花《はな》は、この天国《てんごく》にきましても容易《ようい》に見《み》ることはできません。」と、ひばりは申《もう》しました。  妹《いもうと》の女神《めがみ》は、黙《だま》ってひばりのいうことを聞《き》いていました。そのうちに、自分《じぶん》も一|度《ど》下界《げかい》へいって、その有《あ》り様《さま》を一目《ひとめ》見《み》てきたいものだと思《おも》われたのであります。  ついに妹《いもうと》は、下界《げかい》へゆく決心《けっしん》をしました。けれど、そのようすでは途中《とちゅう》、風《かぜ》や、雲《くも》や、雨《あめ》や、また多《おお》くの星《ほし》などに、どこへゆくかと目《め》についてたずねられることをうるさく思《おも》いましたから、はとに姿《すがた》を変《か》えてゆくことにしました。  ある日《ひ》のこと、彼女《かのじょ》はまっすぐに下界《げかい》を目《め》がけて飛《と》んできました。  高《たか》い山《やま》が目《め》に入《はい》り、ついで、いろいろの建物《たてもの》が目《め》に入《はい》るように近《ちか》づきました。すると、円《まる》い屋根《やね》もあれば、またとがったのもありました。赤《あか》い色《いろ》で塗《ぬ》った建物《たてもの》もあれば、白《しろ》い色《いろ》で塗《ぬ》った建物《たてもの》もあれば、青《あお》い色《いろ》で塗《ぬ》られた建物《たてもの》もあります。五|階《かい》も十|階《かい》もある大《おお》きな家《いえ》もあれば、またこぢんまりとしたきれいな家《いえ》もありました。はとのいったように、いい音楽《おんがく》の音色《ねいろ》が街《まち》の中《なか》から流《なが》れていました。そして夜《よる》になると、街《まち》は一|面《めん》に美《うつく》しい燈火《ともしび》の海《うみ》となったのであります。 「こんなに美《うつく》しいとは思《おも》わなかった。」と、妹《いもうと》は驚《おどろ》きました。  夜《よ》が明《あ》けると、人々《ひとびと》は、きれいなふうをして自動車《じどうしゃ》に乗《の》ったり、馬車《ばしゃ》に乗《の》ったり、また電車《でんしゃ》に乗《の》ったりして往来《おうらい》していました。 「なるほど、みんなはしあわせであるらしい。」と、妹《いもうと》は喜《よろこ》びました。  そのとき、ふとしたきたないふうをした人間《にんげん》が、はだしでみんなの通《とお》る間《あいだ》を、とぼとぼと歩《ある》いていました。 「あの人間《にんげん》は、どうしたのだろう。」と、妹《いもうと》は思《おも》いました。自分《じぶん》の投《な》げた幸福《こうふく》の砂《すな》が独《ひと》りこの人間《にんげん》にだけかからないはずはない。それにしても、この貧《まず》しげな有《あ》り様《さま》はどうしたのだろうと不思議《ふしぎ》に思《おも》われて、なおもその人間《にんげん》のゆく先《さき》を見《み》つづけていました。  そのきたならしいふうをした人間《にんげん》は、にぎやかな街《まち》の中《なか》を通《とお》って、さびしい町《まち》はずれの方《ほう》にやってきました。するとそこには、いままでと反対《はんたい》に、みすぼらしい破《やぶ》れた小舎《こや》が幾棟《いくむね》もつづいていました。そして、その中《なか》には、みんなこの人間《にんげん》のようなきたないふうをした、青《あお》い顔《かお》の人間《にんげん》がうようよとして住《す》んでいるのでありました。そこでは、子供《こども》が泣《な》いています。病人《びょうにん》が苦《くる》しんでいます。けれどそれをいたわることも、また救《すく》うこともできないほどに、みんながなにか仕事《しごと》をしたり、働《はたら》いています。そして貧乏《びんぼう》をしています。 「これは、いったいどうしたことだ?」と、妹《いもうと》の顔《かお》は、驚《おどろ》きと怪《あや》しみのために血《ち》の気《け》がだんだん失《う》せてゆくのでした。自分《じぶん》の投《な》げた幸福《こうふく》が、この人《ひと》たちだけゆきわたらないはずがないのに、これはいったいどうしたことだろうと判断《はんだん》に苦《くる》しんだのであります。彼女《かのじょ》は、はとや、ひばりのいうことを聞《き》いて、もしそれだけを信《しん》じていれば、なにも知《し》らずにしまったのだと思《おも》いました。  それから妹《いもうと》は、もっと道《みち》を歩《ある》いていきますと、ある大《おお》きな木《き》の下《した》に、十《とお》ばかりと七つ八つになった、兄弟《きょうだい》二人《ふたり》の子供《こども》がうずくまっているのを見《み》つけました。 「どうしておまえたちはこんなところに、こうしているのか。」といって、彼女《かのじょ》はききました。  二人《ふたり》の子供《こども》は、美《うつく》しい妹《いもうと》の女神《めがみ》をながめました。 「私《わたし》たちには家《いえ》というものがありません。毎晩《まいばん》この木《き》の下《した》で寝《ね》るのです。お父《とう》さんは死《し》んでおりません。お母《かあ》さんは、ほうぼうを歩《ある》いて、ものをもらって帰《かえ》ってきます。私《わたし》たちはここにお母《かあ》さんの帰《かえ》るのを待《ま》っているのです。」と答《こた》えました。  これをきくと、やさしい妹《いもうと》はびっくりしました。そして、 「もうこんな惨《みじ》めな下界《げかい》には一|刻《こく》もいたくない。」といって、妹《いもうと》はふたたびはとの姿《すがた》となって、天上《てんじょう》の楽園《らくえん》に帰《かえ》ってしまったのです。  妹《いもうと》は、楽園《らくえん》に帰《かえ》ると、さっそく、風《かぜ》と雨《あめ》とを自分《じぶん》の前《まえ》へ呼《よ》び寄《よ》せました。そして、風《かぜ》や、雨《あめ》に向《む》かって、 「おまえたちは、毎晩《まいばん》のように、あの不幸《ふこう》な子供《こども》たちを吹《ふ》いたり、ぬらしたりして、かわいそうだとは思《おも》わなかったか。」と、やさしい妹《いもうと》はたずねました。  すると、風《かぜ》も、雨《あめ》も、声《こえ》をそろえて、 「私《わたし》どもは、かわいそうに思《おも》っていました。それであの二人《ふたり》の子《こ》たちを吹《ふ》いたり、またぬらしたりしたときも、強《つよ》くなれ、強《つよ》くなれ、そして、大《おお》きくなれ! といって、なるだけひどく苦《くる》しめないようにしました。しかし、不幸《ふこう》な子供《こども》は、けっしてあの二人《ふたり》だけではありません。まだたくさんな、たくさんな、子供《こども》があります。」と答《こた》えました。  妹《いもうと》は、風《かぜ》や、雨《あめ》に、もう帰《かえ》ってもいいといいました。そして、独《ひと》りとなったとき、妹《いもうと》は考《かんが》えました。 「わたしは、これまで、幸福《こうふく》の砂《すな》を河《かわ》の中《なか》に投《な》げていろいろの喜《よろこ》びを下界《げかい》に送《おく》ったのも、けっしてある人々《ひとびと》だけを楽《たの》しませるためではなかった。みんなのものを喜《よろこ》ばせるためであった。それが、ある人々《ひとびと》だけをあんなに幸福《こうふく》にさせ、ある人々《ひとびと》をあんなに不《ふ》しあわせにしようとは、思《おも》いもよらないことであった。もうこのうえ幸福《こうふく》の砂《すな》を骨《おね》をおって、河《かわ》に投《な》げることもあるまい。こうして見《み》ると、やはり姉《ねえ》さんが、わたしよりもりこうであるかもしれない。冷酷《れいこく》な姉《ねえ》さんは、よくわたしをわらったものだ。」と、妹《いもうと》は思《おも》いました。それから妹《いもうと》は、もう黄金《こがね》の砂《すな》を河《かわ》の中《なか》に投《な》げることを止《や》めてしまいました。下界《げかい》から遠《とお》く空《そら》を仰《あお》ぐと、天《あま》の河《がわ》の色《いろ》がだんだんと白《しろ》くなって、そのときから黄金《こがね》に輝《かがや》いて見《み》えなくなったのであります。  一|方《ぽう》、灰色《はいいろ》の着物《きもの》を着《き》た姉《あね》は、ふくろうや、からすのいうことを信《しん》じて、自分《じぶん》も下界《げかい》へいって、その困《こま》ったり、苦《くる》しんだりしている人間《にんげん》のようすを、つくづくと見《み》てきたいものだと思《おも》いました。  灰色《はいいろ》の着物《きもの》を着《き》た姉《あね》は、べつに姿《すがた》を変《か》える必要《ひつよう》もなかったので、ある星《ほし》の光《ひかり》ももれない真《ま》っ暗《くら》な真夜中《まよなか》に下界《げかい》へ降《お》りてきたのです。  そこは広《ひろ》い野原《のはら》の中《なか》でありました。けれどわざわいを下界《げかい》にまいた姉《あね》は、どんなさびしいところを歩《ある》いても平気《へいき》でありました。野原《のはら》の中《なか》には林《はやし》がありました。林《はやし》をぬけると大《おお》きな墓地《ぼち》があります。そこにはたくさんの墓《はか》がありました。古《ふる》いのや、まだ新《あたら》しいのや、丈《たけ》の高《たか》いのや、低《ひく》いのがありました。それをば、闇《やみ》をすかして見《み》まわしながら、姉《あね》はさも心地《ここち》よさそうに笑《わら》いました。そして墓地《ぼち》を過《す》ぎて、丘《おか》にさしかかりますと、そこには大《おお》きな病院《びょういん》があります。髪《かみ》の毛《け》を長《なが》くうしろに垂《た》らした姉《あね》は、病院《びょういん》の内部《ないぶ》に忍《しの》び込《こ》んで、病人《びょうにん》のいるへやを、一つ一つのぞいて歩《ある》きました。中《なか》には青《あお》い顔《かお》をして、うめいて、眠《ねむ》られずにいるのもあります。また、中《なか》には苦痛《くつう》にたえられないで、泣《な》いているのもあります。中《なか》には片腕《かたうで》を切《き》られ、また両脚《りょうあし》を切断《せつだん》されて不具者《ふぐしゃ》になっているのもあります。そして今夜《こんや》にも死《し》にそうな重《おも》い病人《びょうにん》もありました。  姉《あね》は、これらの人々《ひとびと》を見《み》ると、さも心《こころ》からうれしそうにほほえみました。 「わたしの顔《かお》がいくら醜《みにく》いといったとて、よもやこれほどではあるまい。」といって、なおあたりをさまよっていました。すると、すぐ隣《となり》には狂人《きょうじん》を容《い》れた病院《びょういん》があったのです。  その精神病院《せいしんびょういん》には、女《おんな》や、男《おとこ》の白痴《はくち》がうようよしていました。昼《ひる》も夜《よる》も見分《みわ》けがつかずに、彼《かれ》らは泣《な》いたり、わめいたり、悲《かな》しんだり、また声《こえ》をたてて笑《わら》ったりしていました。そしてじっとしているものもあれば、また、たえず歩《ある》きまわっているものもありました。  これを見《み》ると、残忍《ざんにん》な姉《あね》は、あまりのうれしさに身震《みぶる》いがしたのです。 「ああ、これでいい。下界《げかい》の破滅《はめつ》も近《ちか》づいた。」といいながら、歩《ある》いていますうちに、いつしか街《まち》へ出《で》てしまいました。  そこには、大《おお》きな建物《たてもの》が、ひっそりとして死《し》んだもののように横《よこ》たわっていました。姉《あね》は、右《みぎ》を見《み》、左《ひだり》を見《み》ていますうちに、一|軒《けん》燈火《ともしび》のついた明《あか》るい店《みせ》を見《み》つけました。彼女《かのじょ》は、忍《しの》び足《あし》をして、その家《いえ》に近《ちか》づいてのぞいてみますと、中《なか》では美《うつく》しい女《おんな》や、男《おとこ》がたくさんに集《あつ》まっていて楽器《がっき》を鳴《な》らし、唄《うた》をうたい、酒《さけ》を飲《の》んだり、また、たがいに手《て》をとりあって、踊《おど》ったりして遊《あそ》んでいたのであります。 「これは、また、なんということだ。」と、姉《あね》はいまいましそうに、ガラス球《だま》のような冷《つめ》たい目《め》を光《ひか》らして闇《やみ》の中《なか》から、それらのおもしろそうに遊《あそ》んでいる人《ひと》たちをにらみました。ここばかりは、自分《じぶん》のまいたわざわいの砂《すな》や河《かわ》の水《みず》がかからなかったのかと疑《うたが》いながら、その家《いえ》の前《まえ》をおそろしい顔《かお》をして通《とお》りました。  すると、また一|軒《けん》燈火《ともしび》のついた家《いえ》がありました。のぞいてみますと、そこにもまた、たくさんの人々《ひとびと》が集《あつ》まっておもしろそうに笑《わら》ったり、唄《うた》をうたったりして酒《さけ》を飲《の》んでいました。 「いよいよ不思議《ふしぎ》なことだ。どうしてこれらの人《ひと》たちには、わたしのまいた砂《すな》や、水《みず》はかからなかったろう。」と、疑《うたが》いながら、姉《あね》はその家《いえ》の前《まえ》を怒《いか》りながら通《とお》りすぎました。  この分《ぶん》なら、まだ世間《せけん》には、どんな幸福《こうふく》な人《ひと》たちが住《す》んでいまいものでもないと、彼女《かのじょ》は不安《ふあん》に感《かん》じてきました。そしてもう一|軒《けん》、念《ねん》のために、かすかに燈火《ともしび》のもれる大《おお》きな家《いえ》の窓《まど》さきに近寄《ちかよ》って、戸《と》のすきまからのぞいてみますと、へやのうちでは、美《うつく》しい姉《あね》と妹《いもうと》が、真珠《しんじゅ》や、ルビーのはいった指輪《ゆびわ》や、腕輪《うでわ》を、いくつも取《と》り出《だ》して見《み》くらべているのでした。そしてまたそのへやの中《なか》には、ピアノがあったり、ぜいたくな飾《かざ》りのついた鏡《かがみ》が置《お》いてあったり、ほかにも大《おお》きな額《がく》などがかかっていました。 「わたしは、みんなの幸福《こうふく》をのろったけれど、こういうように、ある一|部《ぶ》の人々《ひとびと》が不《ふ》しあわせで、ある一|部《ぶ》の人々《ひとびと》がしあわせであることを望《のぞ》まなかった。わたしは、なにもある一|部《ぶ》の人《ひと》たちにかぎって憎《にく》しみがあるのではない。平等《びょうどう》にみんなをのろったのであった。それだのに、この有《あ》り様《さま》はどうしたことであろう。」と、灰色《はいいろ》の着物《きもの》を着《き》た姉《あね》は思《おも》いました。  彼女《かのじょ》は、その夜《よ》の中《うち》に、黒《くろ》い流《なが》れのほとりに帰《かえ》ってきました。そして、黒《くろ》い森《もり》の王《おう》さまにしたふくろうを呼《よ》び出《だ》して、なぜうそをいったかとしかって、森《もり》の中《なか》から追《お》い出《だ》してしまいました。  うす紅色《あかいろ》の着物《きもの》を着《き》た妹《いもうと》は、このうえ黄金《こがね》の砂《すな》を河《かわ》に投《な》げることは、かえって不幸《ふこう》の人々《ひとびと》を増《ま》すばかりだといって、ついに幸福《こうふく》を下界《げかい》に送《おく》ることを見合《みあ》わせてしまいました。独《ひと》り灰色《はいいろ》の着物《きもの》を着《き》た姉《あね》は、どうかしてみんなを、一|度《ど》はわざわいの砂《すな》と水《みず》に浴《あ》びさせて、苦《くる》しめてやらなければならないといって、執念深《しゅうねんぶか》く、いまだに夜《よる》も昼《ひる》も黒《くろ》い砂《すな》をまき、黒《くろ》い河水《かわみず》をすくって下界《げかい》に向《む》かってまいているということであります。 底本:「定本小川未明童話全集 2」講談社    1976(昭和51)年12月10日第1刷    1982(昭和57)年9月10日第7刷 初出:「童話」    1921(大正10)年8月 ※表題は底本では、「消《き》えた美《うつく》しい不思議《ふしぎ》なにじ」となっています。 ※初出時の表題は「消えた美しい不思議な虹」です。 入力:ぷろぼの青空工作員チーム入力班 校正:江村秀之 2013年10月24日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。