太陽とかわず 小川未明 ------------------------------------------------------- 【テキスト中に現れる記号について】 《》:ルビ (例)池《いけ》 |:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号 (例)一|日《にち》 -------------------------------------------------------  池《いけ》の中《なか》に水草《みずくさ》がありましたが、長《なが》い冬《ふゆ》の間《あいだ》水《みず》が凍《こお》っていましたために、草《くさ》はほとんど枯《か》れてしまいそうに弱《よわ》っていました。それは、この草《くさ》にとって、どんなに長《なが》い間《あいだ》でありましたでしょう。  そのうちに、やっと春《はる》がきまして、氷《こおり》が解《と》けはじめました。池《いけ》の水《みず》は日《ひ》に増《ま》しぬるんできて、日《ひ》の光《ひかり》がその面《おもて》を照《て》らすようになりましたので、水草《みずくさ》は、なつかしい太陽《たいよう》をはじめて仰《あお》ぐことができました。  太陽《たいよう》が、にこやかに笑《わら》って小《ちい》さな水草《みずくさ》をじっとながめましたときに、草《くさ》はうれしさに、心《こころ》はもういっぱいで、目《め》に涙《なみだ》ぐんで太陽《たいよう》に訴《うった》えました。 「お日《ひ》さま、もうわたしは、まったく死《し》にそうでございました。もしも、あなたがもっと長《なが》い間《あいだ》わたしをこんなに暖《あたた》かに照《て》らしてくださらなかったなら、わたしは、ほんとうに凍《こご》えて死《し》んでしまったでしょう。どうか、もうわたしを見捨《みす》てないでくださいまし。わたしの小《ちい》さな紫色《むらさきいろ》の花《はな》が咲《さ》きますまでは、どうぞ毎日《まいにち》のようにお恵《めぐ》み深《ぶか》い光《ひかり》で照《て》らしてくださいまし。わたしは、いまからその場《ば》になって、また毎日《まいにち》雨《あめ》の降《ふ》るのが気遣《きづか》わしゅうございます。どういうものかわたしは、この池《いけ》の中《なか》に棲《す》んでいるかわずと気質《きしつ》が合《あ》わないので、つねに苦《くる》しめられますけれども、なんといっても、かわずのほうがわたしより強《つよ》うございます。それに、かわずは雨《あめ》が好《す》きで、雨《あめ》の降《ふ》るようにいつも訴《うった》えますので、わたしたちは短《みじか》い命《いのち》を雨《あめ》のために悩《なや》まされるのでございます。どうぞ、お日《ひ》さま、わたしたちをお恵《めぐ》みください。」と、水草《みずくさ》はいいました。  太陽《たいよう》は笑《わら》って、水草《みずくさ》の訴《うった》えを聞《き》いていましたが、「わかった、わかった。」と、その頭《あたま》を振《ふ》ってみせました。  ある日《ひ》、かわずは池《いけ》の面《も》に浮《う》かんで、太陽《たいよう》の光《ひかり》に脊中《せなか》を乾《ほ》していました。そのとき、太陽《たいよう》は、やさしく、かわずに向《む》かっていいました。 「私《わたし》は、この大空《おおぞら》を毎日《まいにち》東《ひがし》から西《にし》に自由《じゆう》に歩《ある》いている。おまえは、その池《いけ》をかってに泳《およ》ぎまわることができる。私《わたし》は、空《そら》の大王《だいおう》と呼《よ》ばれている。してみると、おまえは、池《いけ》の王《おう》さまだ。私《わたし》は今日《きょう》から、おまえを池《いけ》の王《おう》さまにしてやる。それにしては、私《わたし》が、すべてのものに対《たい》して恵《めぐ》み深《ふか》いように、おまえは、池《いけ》の中《なか》のものに対《たい》して、だれにでもしんせつでなければならない。」と、太陽《たいよう》は諭《さと》しました。  わがままでとんまでありましたけれど、いたって人《ひと》のいいかわずは、すぐに得意《とくい》になってしまいました。 「おお、俺《おれ》は、池《いけ》の中《なか》の王《おう》さまになったんだ。この広《ひろ》い池《いけ》はみんな俺《おれ》の領地《りょうち》だ。なんと俺《おれ》はえらいもんだろう。」と、かわずはあたりを見《み》まわしました。  それからというものは、かわずは、朝《あさ》は太陽《たいよう》の上《のぼ》るとともに起《お》き、夕《ゆう》べは、太陽《たいよう》の沈《しず》むときまで、ともに水《みず》の中《なか》をはねまわって、なにやらわからぬことを口《くち》やかましくいって、池《いけ》の中《なか》を治《おさ》めるためにいっしょうけんめいであったのであります。  しかし池《いけ》の底《そこ》には、かわずのまだ知《し》らない、いろいろな魚《うお》や、また恐《おそ》ろしい虫《むし》などが棲《す》んでいました。独《ひと》り、水《みず》の中《なか》ばかりでなく、池《いけ》の周囲《しゅうい》には、森《もり》があり、やぶなどがありました。そこには、蚊《か》や、ぶとや、はちや、小鳥《ことり》などが棲《す》んでいます。それらに対《たい》しても、この池《いけ》の王《おう》さまであるかわずは、いちいち気《き》を配《くば》らなければなりませんでした。  いままで、あんまりなんにも考《かんが》えるということをしなかったかわずは、夜《よる》もろくろく休《やす》むことができなくなりました。たまたまいい月夜《つきよ》で、月《つき》の光《ひかり》が池《いけ》の面《も》を黄色《きいろ》く彩《いろど》りますと、かわずはびっくりして、不意《ふい》に起《お》き上《あ》がって、もう早《はや》、お日《ひ》さまがお上《のぼ》りになったのかと思《おも》い、大騒《おおさわ》ぎをして、口《くち》やかましく、しゃべりたてることもありました。  春《はる》の日《ひ》の午後《こご》のことでありました。 「だいぶん水《みず》も暖《あたた》かになった。旅行《りょこう》にはいい時分《じぶん》である。幾日《いくにち》かかるかしれないが、この広《ひろ》い領地《りょうち》を一巡《ひとめぐ》りしてこようと思《おも》う。」と、かわずは、さざなみの立《た》つ池《いけ》の面《も》を見渡《みわた》しながら独《ひと》り言《ごと》をもらしていました。  そのとき、そばでこれを聞《き》いていた一ぴきのぶとがありました。 「かわずさん、旅行《りょこう》って、どこまでおいでなさるのでございますか。」と、ぶとが問《と》いました。  かわずは、不意《ふい》にこういってきかれたので、ちょっと驚《おどろ》きました。そして、そばに小《ちい》さなぶとがいたことに気《き》づきました。 「おまえはまだ知《し》らないが、お日《ひ》さまは空《そら》の大王《だいおう》だ。俺《おれ》は、この池《いけ》の王《おう》さまなんだ。なんとこの池《いけ》は広《ひろ》いもんじゃないか。お日《ひ》さまが東《ひがし》の森《もり》からお上《のぼ》りなさって、西《にし》の森《もり》に沈《しず》みなさるまでちょうど一|日《にち》かかる。まるで、お日《ひ》さまは、この池《いけ》を照《て》らしなさるために、空《そら》をああして歩《ある》いていなさるのだ。その池《いけ》は、俺《おれ》の領地《りょうち》だ。俺《おれ》がこの池《いけ》を一巡《ひとめぐ》りせんでいいものか、考《かんが》えてみるがいい。」と、かわずはいいました。  すると、ぶとは、おかしさをこらえながら、 「かわずさん、あなたは、世間《せけん》がどんなに広《ひろ》いかまだお知《し》りなさらない。私《わたし》は、昨日《きのう》、馬《うま》について、遠方《えんぽう》までいってまいりました。疲《つか》れると馬《うま》の体《からだ》に止《と》まりました。ほかにはもっと大《おお》きな池《いけ》があります。また、大《おお》きな森《もり》がいくつもあります。かわずさん、あなたは、まだお知《し》りなされないでしょうが、またにぎやかな町《まち》があって、そこには珍《めずら》しいものや、きれいなものがいっぱいでした。あなたも世間《せけん》へ出《で》てごらんなされたら、こんな池《いけ》は、てんで問題《もんだい》にならないことをお悟《さと》りなさったにちがいありません。」と、ぶとは語《かた》ったのです。  かわずは、ぶとの話《はなし》を聞《き》いて、それをほとんど信《しん》ずることができないほど驚《おどろ》いたのです。そして、もしそれがまったくほんとうであったなら、自分《じぶん》のいままでの考《かんが》えが一|変《ぺん》することを自分《じぶん》ながらおそれたのです。 「おまえは、なにか夢《ゆめ》でも見《み》たのじゃないか。」と、かわずはいいました。 「かわずさん、なんで夢《ゆめ》なもんですか、まったくほんとうのことでございます。」と、ぶとは答《こた》えました。  かわずは、心《こころ》の内《うち》で、なんで、ぶとが馬《うま》などについていったろう、ゆかなければ、そんなものを見《み》てこなかったろう。見《み》てこなければ、俺《おれ》の頭《あたま》の中《なか》まで、ひっくりかえすようなことをしなかったろう。そうすれば、俺《おれ》は、やはりこの池《いけ》の王《おう》さまで、安心《あんしん》していられたものを、とんでもないことになったもんだと思《おも》いました。かわずは、しばらく考《かんが》えていましたが、 「おまえは、昨日《きのう》見《み》てきたことをすっかり忘《わす》れてしまえ。」と、かわずは、ぶとにいいました。  すると、ぶとは、当惑《とうわく》そうにかわずを見《み》つめて、 「だって、この私《わたし》の頭《あたま》の中《なか》に刻《きざ》みつけられた、世間《せけん》の有《あ》り様《さま》を、どうして忘《わす》れることができましょう?」と、ぶとは答《こた》えました。  かわずは困《こま》ってしまいました。 「おまえは、そのことをだれかに話《はな》したか。」と、かわずはたずねました。 「いえ、まだ私《わたし》は、だれにもあいませんでした。今度《こんど》あったら、みんなに聴《き》かしてやろうと思《おも》っています。」と、ぶとが答《こた》えました。  かわずは、ぶとがみんなに、そのことを聞《き》かしたら、そのとき、みんなはどんなに騒《さわ》ぎ出《だ》すだろう。そして、この池《いけ》をいちばんいいところと思《おも》わなくなりはしないかと心配《しんぱい》したのです。  かわずは、しばらく思案《しあん》に暮《く》れていました。 「そうだ。このぶとの小《ちい》さな頭《あたま》の中《なか》に、その世間《せけん》というものがみんな入《はい》っているはずだ。それをすっかり、俺《おれ》のものにしてしまうことは造作《ぞうさ》もないことだ。俺《おれ》が、このぶとをのんでしまえば、みんな俺《おれ》のものになってしまうだろう。そして、だれにも、しゃべられる心配《しんぱい》もなくなってしまって、このうえもない、いいことなんだ。」と、かわずは考《かんが》えました。  かわずは、不意《ふい》に、大《おお》きな口《くち》を開《あ》けて、小《ちい》さなぶとを頭《あたま》からのみこんでしまいました。  しばらくたってから、かわずは、世間《せけん》がそっくり自分《じぶん》の頭《あたま》の中《なか》に入《はい》ってしまったものと思《おも》って、それを考《かんが》え出《だ》そうとしました。しかし、ぶとのいったような世間《せけん》は、てんで見《み》えなかったのであります。そこでかわずは、ぶとがうそをいったのだと信《しん》じました。そして、やっと安心《あんしん》しました。空《そら》の大王《だいおう》はお日《ひ》さまで、池《いけ》の王《おう》さまは自分《じぶん》だと思《おも》ったのであります。 底本:「定本小川未明童話全集 1」講談社    1976(昭和51)年11月10日第1刷    1977(昭和52)年C第3刷 ※表題は底本では、「太陽《たいよう》とかわず」となっています。 入力:特定非営利活動法人はるかぜ 校正:江村秀之 2013年9月23日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。