どこで笛吹く 小川未明 ------------------------------------------------------- 【テキスト中に現れる記号について】 《》:ルビ (例)田舎《いなか》 |:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号 (例)十二|歳《さい》 [#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定 (例)[#7字下げ]一[#「一」は中見出し] ------------------------------------------------------- [#7字下げ]一[#「一」は中見出し]  ある田舎《いなか》に光治《こうじ》という十二|歳《さい》になる男《おとこ》の子《こ》がありました。光治《こうじ》は毎日《まいにち》村《むら》の小学校《しょうがっこう》へいっていました。彼《かれ》は、いたっておとなしい性質《せいしつ》で、自分《じぶん》のほうからほかのものに手出《てだ》しをしてけんかをしたり、悪口《わるくち》をいったりしたことがありません。けれど、どこの学校《がっこう》のどの級《きゅう》にでも、たいてい二、三|人《にん》は、いじの悪《わる》い乱暴者《らんぼうもの》がいるものです。  光治《こうじ》の級《きゅう》にも、やはり木島《きじま》とか梅沢《うめざわ》とか小山《こやま》とかいう乱暴《らんぼう》のいじ悪者《わるもの》がいて、いつも彼《かれ》らはいっしょになって、自分《じぶん》らのいうことに従《したが》わないものをいじめたり、泣《な》かせたりするのでありました。光治《こうじ》は日《ひ》ごろから、遊《あそ》びの時間《じかん》にも、なるたけこれらの三|人《にん》と顔《かお》を合《あ》わせないようにしていました。  学校《がっこう》の運動場《うんどうば》には大《おお》きなさくらの木《き》があって、きれいに花《はな》が咲《さ》きました。そして花《はな》の盛《さか》りには、教師《きょうし》も生徒《せいと》も、その木《き》の下《した》にきて、遊《あそ》び時間《じかん》には遊《あそ》びましたが、それもわずか四、五|日《にち》の間《あいだ》で、風《かぜ》が吹《ふ》いて、雨《あめ》が降《ふ》ると、花《はな》は洗《あら》い去《さ》られたように、こずえから散《ち》ってしまい、世《よ》はいつか夏《なつ》になりました。そうなると、もはやこの木《き》の下《した》にきて遊《あそ》ぶものがありません。  光治《こうじ》は、その木《き》の下《した》にきたのでありました。そこは運動場《うんどうば》の片《かた》すみであって、かなたには青々《あおあお》としていねの葉《は》がしげっている田《た》が見《み》え、その間《あいだ》を馬《うま》を引《ひ》いてゆく百|姓《しょう》の姿《すがた》なども見《み》えたりするのでした。  そのとき思《おも》いがけなく、例《れい》の木島《きじま》・梅沢《うめざわ》・小山《こやま》の乱暴者《らんぼうもの》が三|人《にん》でやってきて、 「やい、こんなところでなにしているんだい、弱虫《よわむし》め、あっちへいって兵隊《へいたい》になれよ。」 と、三|人《にん》は口々《くちぐち》にいって、無理《むり》に光治《こうじ》を引《ひ》きたてて連《つ》れてゆこうといたしました。 「僕《ぼく》は腹《はら》が痛《いた》いから、駆《か》けることができない。」 と、光治《こうじ》はいいました。 「うそをつけ、腹《はら》なんか痛《いた》くないんだが、兵隊《へいたい》になるのがいやだから、そんなことをいうんだろう。よし、いやだなんかというなら、みんなでいじめるからそう思《おも》え。」 「僕《ぼく》は、いやだからいやだというんだ。僕《ぼく》のかってじゃないか、君《きみ》らは君《きみ》らで遊《あそ》びたまえ。」 と、光治《こうじ》はいいました。 「なまいきなことをいうない、よし覚《おぼ》えていろ、帰《かえ》りにいじめてやるから。」 と、三|人《にん》は口々《くちぐち》に光治《こうじ》をののしりながら、木《き》の下《した》を見返《みかえ》ってあっちへいってしまいました。  三|人《にん》はあっちへゆくと、みんなに向《む》かって、光治《こうじ》と遊《あそ》んではならない、もしだれでも光治《こうじ》と遊《あそ》ぶものがあれば、そのものも光治《こうじ》といっしょにいじめるからそう思《おも》えといったのでありました。ほかのものはだれひとりとして心《こころ》の中《うち》で光治《こうじ》をにくんでいるものはありませんけれど、みんな三|人《にん》にいじめられるのをおそれて、光治《こうじ》といっしょに遊《あそ》ばなかったのでありました。 [#7字下げ]二[#「二」は中見出し]  その日《ひ》、光治《こうじ》は学校《がっこう》の帰《かえ》りに、しくしくと泣《な》いて、我《わ》が家《や》の方《ほう》をさして路《みち》を歩《ある》いてきました。それは三|人《にん》にいじめられたばかりでなく、みんなからのけ者《もの》になったというさびしさのためでありました。真夏《まなつ》の午後《ごご》の日《ひ》の光《ひかり》は田舎道《いなかみち》の上《うえ》を暑《あつ》く照《て》らしていました。あまり通《とお》っている人影《ひとかげ》も見《み》えなかったのであります。このときあちらから、箱《はこ》を背中《せなか》にしょって、つえをついた一人《ひとり》のじいさんが歩《ある》いてきました。光治《こうじ》は、このおじいさんを泣《な》きはらした目《め》で見《み》て、旅《たび》から旅《たび》へとこうして歩《ある》く人《ひと》のように思《おも》ったのでありました。じいさんも、また光治《こうじ》の顔《かお》をじっと見《み》ましたが、路《みち》の上《うえ》に立《た》ち止《ど》まって、 「坊《ぼう》はなんで泣《な》いているのだ。」 と、やさしくじいさんは問《と》うたのであります。  光治《こうじ》ははじめのうちは黙《だま》っていましたが、そのおじいさんは、なんとなく普通《ふつう》のあめ売《う》りじいさんやなんかのように思《おも》われず、どこかに懐《なつ》かしみを覚《おぼ》えましたから、彼《かれ》はついに、その日《ひ》学校《がっこう》でみんなからのけ者《もの》になったことや、三|人《にん》からいじめられたことなどを話《はな》しまして、また急《きゅう》に悲《かな》しくなって話《はなし》をしながら泣《な》きだしたのでありました。 「ああ、わかった、わかった、坊《ぼう》はいい子《こ》だ。もう泣《な》くでない、その三|人《にん》は悪《わる》い奴《やつ》じゃ。そして、みんなはいくじなしだ。そんなものにかまわんでおくだ。また、いい友《とも》だちができる、きっとできる。おまえに笛《ふえ》をやる、この笛《ふえ》を吹《ふ》いて、一人《ひとり》で遊《あそ》んでいると、すこしもさびしいことはない。さあ、この笛《ふえ》をやるから、一人《ひとり》でおとなしく遊《あそ》んで、勉強《べんきょう》をして大《おお》きくなるんだ。」 といって、じいさんは腰《こし》に下《さ》げていた、小《ちい》さな笛《ふえ》を光治《こうじ》にあたえたのであります。  光治《こうじ》は、その笛《ふえ》をもらって手《て》に取《と》ってみますと、竹《たけ》に真鍮《しんちゅう》の環《わ》がはまっている粗末《そまつ》な笛《ふえ》に思《おも》われました。けれど、それをいただいて、なおもこの不思議《ふしぎ》なじいさんを見上《みあ》げていますと、 「さあ、私《わたし》はゆく……またいつか、おまえにあうことがあるだろう。」 といって、光治《こうじ》の頭《あたま》をじいさんはなでて、やがてその路《みち》を歩《ある》いていってしまいました。光治《こうじ》は、しばらくそこに立《た》って、じいさんを見送《みおく》っていますと、その姿《すがた》は日影《ひかげ》の彩《いろど》るあちらの森《もり》の方《ほう》に消《き》えてしまったのでありました。  その日《ひ》から光治《こうじ》は野《の》に出《で》て、一人《ひとり》でその笛《ふえ》を吹《ふ》くことをけいこしたのであります。その笛《ふえ》はじつに不思議《ふしぎ》な笛《ふえ》で、いろいろないい音色《ねいろ》が出《で》ました。彼《かれ》はじきにその笛《ふえ》を上手《じょうず》に、また自由《じゆう》に吹《ふ》き得《う》るようになりました。彼《かれ》が風《かぜ》の音《おと》を出《だ》そうと思《おも》えば、その笛《ふえ》は、さながら風《かぜ》が木々《きぎ》の葉《は》の上《うえ》を渡《わた》るときのさわやかな涼《すず》しげな、葉《は》ずれの音《おと》が聞《き》こえるように鳴《な》り渡《わた》りました。また雨《あめ》の降《ふ》る音《おと》を出《だ》そうと思《おも》えば、ちょうど雨《あめ》が降《ふ》りだしてきて軒端《のきば》を打《う》つような音《おと》を吹《ふ》き鳴《な》らしました。また小鳥《ことり》のなく音《ね》をたてようと思《おも》えば、こずえにきて節《ふし》おもしろそうに鳴《な》く小鳥《ことり》の音《ね》を出《だ》すことができたのであります。  光治《こうじ》は学校《がっこう》から家《うち》に帰《かえ》ると、じいさんからもらった笛《ふえ》を持《も》って野原《のはら》へ出《で》たり、また麓《ふもと》の森《もり》に入《はい》って、あるいは草《くさ》の上《うえ》に腰《こし》を下《お》ろしたり、あるいは木《き》の根《ね》に腰《こし》をかけたりし、その笛《ふえ》を吹《ふ》くのをなによりの楽《たの》しみとしたのでありました。彼《かれ》はこうして笛《ふえ》を吹《ふ》いていますと、あるときは、くびのまわりの赤《あか》い、翼《はね》の色《いろ》の美《うつく》しい小鳥《ことり》がどこからか飛《と》んできて、すぐ光治《こうじ》が笛《ふえ》を吹《ふ》いている頭《あたま》の上《うえ》の木《き》の枝《えだ》に止《と》まって、はじめのうちは、こくびをかしげて熱心《ねっしん》に下《した》の方《ほう》を向《む》いて、笛《ふえ》の音《ね》に聞《き》きとれていましたが、しまいには小鳥《ことり》も、その笛《ふえ》の音《ね》につられてさえずりはじめたのでありました。こんなふうに光治《こうじ》は、小鳥《ことり》まで自分《じぶん》の友《とも》だちとすることができたので、もはや一人《ひとり》で遊《あそ》ぶことをすこしもさびしくは思《おも》わなかったのであります。 [#7字下げ]三[#「三」は中見出し]  光治《こうじ》が笛《ふえ》を吹《ふ》くのを聞《き》くと、だれでもそれに耳《みみ》を傾《かたむ》けて、感心《かんしん》しないものはなかったのです。光治《こうじ》ははじめのうちは、その笛《ふえ》を大事《だいじ》にして、夜《よる》眠《ねむ》るときでもまくらもとに置《お》いて、すこしも自分《じぶん》の体《からだ》から離《はな》したことはなかったのです。彼《かれ》はだんだん笛《ふえ》が上手《じょうず》になって、なんでも笛《ふえ》で吹《ふ》けぬものはないようになりました。そして、自分《じぶん》を慰《なぐさ》める、もっとも楽《たの》しいものは、まったくこの世界《せかい》に笛《ふえ》よりほかにないと思《おも》ったのであります。  夏休《なつやす》みになったある日《ひ》のことでありました。彼《かれ》は麓《ふもと》の森《もり》の中《なか》に入《はい》って、またいつもの木《き》の根《ね》に腰《こし》をかけて心《こころ》ゆくばかり笛《ふえ》を吹《ふ》き鳴《な》らそうと思《おも》い、家《いえ》を出《で》かけました。緑《みどり》の森《もり》の中《なか》に入《はい》ると、ちょうど緑色《みどりいろ》の世界《せかい》に入《はい》ったような気持《きも》ちがいたしました。足《あし》もとには、いろいろの小《ちい》さな草《くさ》の花《はな》が咲《さ》いていて、いい香気《こうき》を放《はな》っていました。ところどころ木々《きぎ》のすきまからは、黄金色《こがねいろ》の日《ひ》の光《ひかり》がもれて、下《した》の草《くさ》の上《うえ》に光《ひかり》が燃《も》えるように映《うつ》っています。  光治《こうじ》はしばらく夢《ゆめ》を見《み》るような気持《きも》ちで、うっとりとして一|本《ぽん》の木《き》の根《ね》に腰《こし》をかけて、笛《ふえ》も吹《ふ》かずに、おだやかな夏《なつ》の日《ひ》の自然《しぜん》に見《み》とれていました。 「どうしてこう青葉《あおば》の色《いろ》はきれいなのだろう。どうしてこう、この森《もり》や、日《ひ》の光《ひかり》や、雲《くも》の色《いろ》などが美《うつく》しいのだろう。」 と、彼《かれ》はしみじみと思《おも》っていたのであります。そして、彼《かれ》がやがて笛《ふえ》を吹《ふ》きますと、その音色《ねいろ》は平常《へいぜい》の愉快《ゆかい》な調子《ちょうし》に似《に》ず、なんとなく、しんみりとした哀《かな》しみが、その音色《ねいろ》に漂《ただよ》って聞《き》かれました。小鳥《ことり》もまったく声《こえ》を潜《ひそ》めているようでありました。光治《こうじ》は、その木《き》の根《ね》からたち上《あ》がって、森《もり》の中《なか》をもっと奥深《おくふか》く歩《ある》いてゆきますと、ふとあちらに、ちょうど自分《じぶん》と同《おな》じ年《とし》ごろの少年《しょうねん》があちら向《む》きになって、絵《え》を描《か》いている姿《すがた》が目《め》に止《と》まったのでありました。  光治《こうじ》は、いままでこの森《もり》の中《なか》には、ただ自分《じぶん》一人《ひとり》しかいないものと思《おも》っていましたのに、ほかにも少年《しょうねん》がきているのを知《し》って意外《いがい》に驚《おどろ》きましたが、いったいあの少年《しょうねん》は自分《じぶん》の知《し》っているものだかだれだかと思《おも》って近《ちか》づいてみますと、かつて見覚《みおぼ》えのない、色《いろ》の白《しろ》い、目《め》つきのやさしそうな、なんとなく気高《けだか》いところのある少年《しょうねん》でありました。その少年《しょうねん》は他人《ひと》がそばに寄《よ》ってきたのを知《し》ると、こちらを向《む》いて光治《こうじ》の顔《かお》をちょっと見《み》て笑《わら》いましたが、すぐにまた絵《え》のほうに向《む》きなおって筆《ふで》を働《はたら》かしていました。  光治《こうじ》は心《こころ》のうちで懐《なつ》かしい少年《しょうねん》だと思《おも》いながら、静《しず》かに少年《しょうねん》の背後《うしろ》に立《た》って、少年の描《か》いている絵《え》に目《め》を落《お》としますと、それは前方《ぜんぽう》の木立《こだち》を写生《しゃせい》しているのでありましたが、びっくりするほど、いきいきと描《か》けていて、その木《き》の色《いろ》といい、土《つち》の色《いろ》といい、空《そら》の感《かん》じといい、それはいまにも動《うご》きそうに描《か》けていたのでありました。少年《しょうねん》は熱心《ねっしん》に美《うつく》しい絵《え》の具《ぐ》箱《ばこ》の中《なか》に収《おさ》めてあるいろいろの絵《え》の具《ぐ》を一つ一つ使《つか》い分《わ》けて草《くさ》を描《か》いたり、また鳥《とり》などを描《か》いたり、花《はな》などを描《か》いたりしていました。  光治《こうじ》は自分《じぶん》の吹《ふ》く笛《ふえ》の音《ね》につれて、小鳥《ことり》がいっしょになってさえずるのを自慢《じまん》にしていました。いま、少年《しょうねん》の描《か》いた小鳥《ことり》は、紙《かみ》の上《うえ》から翼《は》ばたきをして飛《と》び立《た》つのではないかと思《おも》われました。そして、たったすこし前《まえ》まで、自分《じぶん》はこの美《うつく》しい自然《しぜん》に見《み》とれていたのであるが、このきれいな緑色《みどりいろ》の木立《こだち》も日《ひ》の光《ひかり》も、山《やま》も、草《くさ》も、みんなそのままに絵《え》の具《ぐ》の色《いろ》ですこしも変《か》わらず、かえってそれよりもいきいきとした姿《すがた》で紙《かみ》の上《うえ》に描《か》かれているのを見《み》ますと、光治《こうじ》は、もはや笛《ふえ》を吹《ふ》くことよりは、自分《じぶん》も絵《え》を上手《じょうず》に描《か》いたほうがいいように考《かんが》えました。 「君《きみ》かい、さっき笛《ふえ》を吹《ふ》いていたのは。」 と、その少年《しょうねん》はふり向《む》いて光治《こうじ》の顔《かお》を見《み》て、ちょっと笑《わら》っていいました。 「ああ、僕《ぼく》だ。」 と、光治《こうじ》は簡単《かんたん》に答《こた》えた。 「君《きみ》はよくこの森《もり》へ遊《あそ》びにきて、笛《ふえ》を吹《ふ》くのかい。」 と、また少年《しょうねん》は問《と》いました。 「ああ、よくくる。」 と、光治《こうじ》は答《こた》えた。 「僕《ぼく》は、もう絵《え》を描《か》いたから帰《かえ》るんだよ。」 と、その少年《しょうねん》はいって、さっさと道具《どうぐ》をかたづけてしまうと、 「じゃ君《きみ》、失敬《しっけい》!」 と、少年《しょうねん》はさも懐《なつ》かしそうに光治《こうじ》の方《ほう》を見《み》ていって、いずこへともなく森《もり》の中《なか》を歩《ある》いて姿《すがた》を隠《かく》してしまいました。光治《こうじ》はその少年《しょうねん》を見送《みおく》りながら、どこへ帰《かえ》るのだろうと思《おも》いました。また光治《こうじ》には、あの少年《しょうねん》が自分《じぶん》に向《む》かって笛《ふえ》を吹《ふ》いたのは君《きみ》かと問《と》いながら、すこしもうまく吹《ふ》いたとはいわなかったのが、なんとなく物足《ものた》らなく心《こころ》に感《かん》じられたのであります。 [#7字下げ]四[#「四」は中見出し]  光治《こうじ》は家《うち》へ帰《かえ》ると絵《え》の具《ぐ》箱《ばこ》を取《と》り出《だ》して、自分《じぶん》もいっしょうけんめいになって木《き》や空《そら》や、鳥《とり》などを描《か》いてみましたけれど、どうしてもあの少年《しょうねん》の描《か》いたような美《うつく》しい、いきいきとした色《いろ》も、姿《すがた》も出《で》なかったのであります。光治《こうじ》は、まったくこれは、絵《え》の具《ぐ》や筆《ふで》がよくないからだと思《おも》いました。そしてあの少年《しょうねん》の持《も》っていたような絵《え》の具《ぐ》や筆《ふで》があったら、自分《じぶん》にもきっと、あのようにいきいきと描《か》けるのであろうと思《おも》いました。彼《かれ》はどこへいったら、あれと同《おな》じい絵《え》の具《ぐ》や、筆《ふで》を売《う》っているだろうかと、そればかり思《おも》っていたのでありました。  ある日《ひ》、光治《こうじ》は森《もり》の奥《おく》にある大《おお》きな池《いけ》のほとりへいって笛《ふえ》を吹《ふ》こうと思《おも》ってきかかりますと、先日《こないだ》の少年《しょうねん》がまた池《いけ》のほとりで絵《え》を描《か》いていました。少年《しょうねん》は光治《こうじ》を見《み》ると、やはり懐《なつ》かしそうに微笑《ほほえ》みました。光治《こうじ》も打《う》ち解《と》けて少年《しょうねん》のそばに寄《よ》って絵《え》を見《み》ますと、青々《あおあお》とした水《みず》の色《いろ》や、その水《みず》の上《うえ》に映《うつ》っている木立《こだち》の影《かげ》などが、どうしてこうよく色《いろ》が出《で》ているかと驚《おどろ》かれるほど美《うつく》しく写《うつ》されていたのであります。光治《こうじ》はもはや笛《ふえ》を吹《ふ》くことなど忘《わす》れてしまって、ただ自分《じぶん》も、このように上手《じょうず》に絵《え》を描《か》きたいものだ。それにしても、この少年《しょうねん》の持《も》っているこんな絵《え》の具《ぐ》と筆《ふで》とがほしいものだと思《おも》いましたから、 「君《きみ》、この笛《ふえ》をあげるから、僕《ぼく》にその絵《え》の具《ぐ》箱《ばこ》も筆《ふで》もみんなくれないかね。」 と、光治《こうじ》は熱心《ねっしん》に少年《しょうねん》の顔《かお》を見《み》ていいました。すると少年《しょうねん》は、意外《いがい》にも快《こころよ》く承諾《しょうだく》をして、 「ああ僕《ぼく》にその笛《ふえ》をくれるなら、君《きみ》にみなあげよう。」 といって、絵《え》の具《ぐ》箱《ばこ》も、筆《ふで》もみんな光治《こうじ》にくれたのであります。  光治《こうじ》は喜《よろこ》んで家《うち》へ帰《かえ》りました。そして、すぐに紙《かみ》を出《だ》して、花《はな》や草《くさ》を描《か》いてみましたが、やはりすこしもいい色《いろ》が出《で》なくて、まったく少年《しょうねん》の描《か》いたのとは別物《べつもの》であって、まずく汚《きた》なく自分《じぶん》ながら見《み》られないものでありました。光治《こうじ》は、まもなく自分《じぶん》の心《こころ》をなぐさめた唯《ゆい》一の笛《ふえ》をなくしてしまったことを後悔《こうかい》いたしました。  ある日《ひ》の晩方《ばんがた》、彼《かれ》はさびしく思《おも》いながら田舎路《いなかみち》を歩《ある》いていますと、不思議《ふしぎ》なことには、このまえじいさんにあったと同《おな》じところで、またあちらから箱《はこ》をしょってとぼとぼと夕日《ゆうひ》の光《ひかり》を浴《あ》びながら歩《ある》いてくるじいさんに出《で》あいました。じいさんは光治《こうじ》の顔《かお》を見《み》ると、忘《わす》れずにいたものとみえて、にこにこ笑《わら》いながら、近寄《ちかよ》ってきまして、 「坊《ぼう》はさだめし笛《ふえ》が上手《じょうず》に吹《ふ》けるようになったろう、さあ、あの笛《ふえ》を私《わたし》にお返《かえ》しなさい。そのかわり、もっとおもしろい、いろいろな音色《ねいろ》の出《で》るいい笛《ふえ》をおまえにあげるから。」 と、優《やさ》しくいいました。光治《こうじ》はこれを聞《き》くと、なんとももうしわけのないことをしたと思《おも》いました。けれど、どうすることもできませんでした。彼《かれ》はついに、一|部《ぶ》始終《しじゅう》のことをじいさんに打《う》ち明《あ》けて、どうか許《ゆる》してくださいともうしました。  すると、じいさんの優《やさ》しい顔《かお》は急《きゅう》にむずかしそうな顔《かお》つきに変《か》わって、 「なんでも人《ひと》まねをしようとすると、そういう損《そん》をするもんだ。おまえの力《ちから》を、おまえは知《し》らんけりゃならん。そして、人間《にんげん》というものは、なんでもできるもんじゃない。自分《じぶん》が他《ひと》より勝《すぐ》れた働《はたら》きがあったら、ますますそれを発達《はったつ》させるのだ。私《わたし》は、おまえにもっといい笛《ふえ》をやろうと思《おも》って持《も》ってきたが、あの笛《ふえ》を私《わたし》に返《かえ》さなけりゃこの笛《ふえ》は渡《わた》されない。あの笛《ふえ》は、またほかにやる子供《こども》があるのだから、早《はや》くあの笛《ふえ》をおまえが取《と》りもどしてくれば、そのときはこの笛《ふえ》を渡《わた》してやる。」 といって、じいさんはいってしまいました。  それから光治《こうじ》は、笛《ふえ》をあの少年《しょうねん》から取《と》りもどそうと思《おも》って毎日《まいにち》森《もり》にゆき、山《やま》へ入《はい》って少年《しょうねん》の姿《すがた》を探《さが》しました。  おりおりいい音色《ねいろ》が遠《とお》くの方《ほう》で聞《き》こえることがありましたけれど、どこで吹《ふ》く笛《ふえ》だろう。ついぞふたたび、その少年《しょうねん》の姿《すがた》を見《み》ることができなかったのであります。 底本:「定本小川未明童話全集 1」講談社    1976(昭和51)年11月10日第1刷発行    1982(昭和57)年9月10日第7刷発行 初出:「少年倶楽部」    1916(大正5)年8月 ※表題は底本では、「どこで笛《ふえ》吹《ふ》く」となっています。 ※初出時の表題は「何処で笛吹く」です。 入力:ぷろぼの青空工作員チーム入力班 校正:ぷろぼの青空工作員チーム校正班 2011年11月2日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。