少年の日の悲哀 小川未明 ------------------------------------------------------- 【テキスト中に現れる記号について】 《》:ルビ (例)三郎《さぶろう》 |:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号 (例)一|軒《けん》 [#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定 (例)[#7字下げ]一[#「一」は中見出し] ------------------------------------------------------- [#7字下げ]一[#「一」は中見出し]  三郎《さぶろう》はどこからか、一ぴきのかわいらしい小犬《こいぬ》をもらってきました。そして、その小犬《こいぬ》をかわいがっていました。彼《かれ》はそれにボンという名《な》をつけて、ボン、ボンと呼《よ》びました。  ボンは人馴《ひとな》れたやさしい犬《いぬ》で、主人《しゅじん》の三郎《さぶろう》にはもとよりよくなつきましたが、まただれでも呼《よ》ぶ人《ひと》があれば、その人《ひと》になついたのです。だから、みんなにかわいがられていました。三郎《さぶろう》は朝《あさ》早《はや》く起《お》きてボンを連《つ》れて、空気《くうき》の新鮮《しんせん》なうちに外《そと》を散歩《さんぽ》するのを楽《たの》しみとしていました。また、小川《おがわ》に連《つ》れていって、ボンを水《みず》の中《なか》に入《い》れて毛《け》を洗《あら》ってやったりして、ボンを喜《よろこ》ばせるのをも楽《たの》しみの一つとしているのです。  三郎《さぶろう》は、独《ひと》り犬《いぬ》ばかりでない猫《ねこ》もかわいがりました。また、小鳥《ことり》や、金魚《きんぎょ》などをもかわいがりました。なんでも小《ちい》さな、自分《じぶん》より弱《よわ》い動物《どうぶつ》を愛《あい》したのであります。  三郎《さぶろう》の隣《となり》に、おばあさんが住《す》んでいました。そのおばあさんは、一ぴきの猫《ねこ》を飼《か》っていました。その猫《ねこ》は、よく三郎《さぶろう》の家《うち》へ遊《あそ》びにきました。くると三郎《さぶろう》は、その猫《ねこ》を抱《だ》いて、顔《かお》を付《つ》けたり、頭《あたま》をなでたりしてかわいがってやりました。猫《ねこ》はよくやってきて、三郎《さぶろう》が大事《だいじ》にしておいた金魚《きんぎょ》を殺《ころ》したり、またお勝手《かって》にあった魚《さかな》を取《と》ったりしたことが、たびたびありました。けれど、三郎《さぶろう》は猫《ねこ》をいじめたことがありませんでした。それは猫《ねこ》の性質《せいしつ》だから、しかたがないと思《おも》ったのです。  けれど、そのおばあさんは、いじの悪《わる》いおばあさんでした。ボンがお勝手《かって》もとへゆくと、なんにもしないのに水《みず》をかけたり、手《て》でぶつまねをしたり、あるときは小石《こいし》を拾《ひろ》って投《な》げつけたりしました。そして、夜《よ》が明《あ》けると、ばあさんは勝手《かって》もとの戸《と》を開《あ》けて、外《そと》に出《で》ると、 「ほんとうにしかたのない犬《いぬ》だ。こんなところに糞《ふん》をして、あんな犬《いぬ》ってありゃしない。」 と大《おお》きな声《こえ》で、さもこちらに聞《き》こえるようにどなるのであります。  ほんとうにこのおばあさんは、自分《じぶん》かってなおばあさんでした。自分《じぶん》の家《うち》の猫《ねこ》が、近所《きんじょ》の家《うち》へいって魚《さかな》をくわえてきたのを見《み》ても知《し》らぬ顔《かお》をしていました。そんなときは、 「こう、こう、こう、みいや、家《うち》へ入《はい》っておいで。」 といって、猫《ねこ》を家《うち》の中《なか》へ入《い》れて、戸《と》を閉《し》めてしまいます。  三郎《さぶろう》は、かわいがっているボンが、ばあさんのために小石《こいし》を投《な》げられたり水《みず》を頭《あたま》からかけられたりしてきますと、今度《こんど》、ばあさん家《とこ》の猫《ねこ》がきたら、うんといじめてやろうと思《おも》いました。しかし、猫《ねこ》がやってきますと、いつも三郎《さぶろう》がその猫《ねこ》をかわいがっているものですから、すこしもおそれず、すぐに三郎《さぶろう》のそばに、なきながらすりよってくるのでした。これを見《み》ると、もう三郎《さぶろう》は、その猫《ねこ》をいじめるというような考《かんが》えがまったくなくなってしまいました。そして、猫《ねこ》の頭《あたま》をなでて、いつものごとくかわいがってやったのであります。 [#7字下げ]二[#「二」は中見出し]  ボンは、おとなしい犬《いぬ》でありました。それにかかわらず、この犬《いぬ》を悪《わる》くいったのは、この隣《となり》のいじの悪《わる》いばあさん一人《ひとり》ではなかったのであります。もう一|軒《けん》近所《きんじょ》に、たいへんに犬《いぬ》を怖《こわ》がる子供《こども》のある家《うち》がありました。ほかの子供《こども》らは、みな犬《いぬ》といっしょになって遊《あそ》んでいましたのに、その子供《こども》だけは、どういうものか臆病者《おくびょうもの》で、犬《いぬ》を見《み》ると怖《こわ》がっていたのです。そして、ボンが尾《お》を振《ふ》りながら、なつかしそうにその子供《こども》のそばへゆきますと、子供《こども》は犬《いぬ》の頭《あたま》をなでてかわいがろうとせずに、火《ひ》のつくように泣《な》きたって家《うち》へ駆《か》けこむのでありました。 「どうしたんだ。」 と、びっくりしてその子供《こども》の母親《ははおや》が家《うち》から飛《と》び出《だ》してきます。すると子供《こども》は泣《な》きじゃくりをしながら、 「犬《いぬ》が追《お》っかけたんだ。」 といいます。母親《ははおや》はこれを聞《き》いて、 「ほんとうに悪《わる》い犬《いぬ》だ。あっちへゆけ。」 といって、おとなしくしているボンを棒《ぼう》でなぐったり、また、ものをぶつけるまねなどをして追《お》うのです。 「おばさん、犬《いぬ》はなにもしないんですよ。」 と、三郎《さぶろう》はじめ他《た》の子供《こども》がいいましても、その子供《こども》の母親《ははおや》は耳《みみ》に入《い》れません。なんでも犬《いぬ》を悪《わる》いことにしてしまって、ボンを見《み》るといじめたのであります。  ボンは隣《となり》のばあさんと、その弱虫《よわむし》の子供《こども》の母親《ははおや》から、さんざん悪《わる》くいわれました。 「三郎《さぶろう》や、あんなに、ご近所《きんじょ》でやかましくおっしゃるのだから、ボンを、だれかほしいという人《ひと》があったら、やったらどうだい。」 と、姉《あね》や祖母《そぼ》が、三郎《さぶろう》にいいました。  三郎《さぶろう》はそこで考《かんが》えました。しかしどう考《かんが》えてみましても、ボンにすこしの悪《わる》いとこところがありませんものを、そして自分《じぶん》がこんなにかわいがっていますものを、ほかにやらなければならぬという理由《りゆう》がないと思《おも》いました。 「だって犬《いぬ》がなんにもしないのに、犬《いぬ》をしかる道理《どうり》がない。これは人間《にんげん》のほうが、かえって悪《わる》いのじゃありませんか。僕《ぼく》はいくら近所《きんじょ》でやかましくいったって、犬《いぬ》が悪《わる》くないのだから、ほかへやるのはかわいそうでなりません。もしほかへやったら、どんなに悲《かな》しがって泣《な》くかしれません。」 と、三郎《さぶろう》は、姉《あね》や祖母《そぼ》にいいました。  隣《となり》のばあさんは、犬《いぬ》をしかりながら、自分《じぶん》の家《うち》の猫《ねこ》はひじょうにかわいがっていました。もし夜中《よなか》に外《そと》で、猫《ねこ》が猫《ねこ》とけんかでもしていますと、ばあさんは起《お》きて出《で》て、物干《ものほ》しざおを持《も》ってきて、猫《ねこ》がけんかをして鳴《な》いているほうへゆきました。そして、自分《じぶん》の家《うち》の猫《ねこ》に向《む》かっているほかの猫《ねこ》を突《つ》いたりなぐったりしたのです。  あまりばあさんが自分《じぶん》かってのものですから、三郎《さぶろう》はある日《ひ》のこと、隣《となり》の猫《ねこ》をしばらくの間《あいだ》隠《かく》してやりました。するとばあさんは、きちがいのようになって猫《ねこ》を探《さが》して歩《ある》きました。 「チョ、チョ、チョ、みいや。こう、こう、みいや、みいや……。」 とわめきながら、四辺《あたり》を歩《ある》きまわりました。そして、しまいには一|軒《けん》一|軒《けん》、よその家《うち》を訪《おとず》れて、 「家《うち》の猫《ねこ》はきていませんでしょうか。」 と、聞《き》いて歩《ある》きました。三郎《さぶろう》は、あまりばあさんが気《き》をもんでいるのを見《み》て、はじめはおもしろうございましたが、しまいには不憫《ふびん》になって、ついに猫《ねこ》を放《はな》してやりますと、ばあさんは飛《と》びたつばかりに猫《ねこ》を抱《だ》きあげて喜《よろこ》んでいました。 [#7字下げ]三[#「三」は中見出し]  ある日《ひ》の朝《あさ》、三郎《さぶろう》は起《お》きて外《そと》に出《で》ますと、いつも喜《よろこ》んで駆《か》け寄《よ》ってくるボンが見《み》えませんでした。彼《かれ》は不思議《ふしぎ》に思《おも》って口笛《くちぶえ》を鳴《な》らしてみました。けれど、どこからもボンの走《はし》ってくる姿《すがた》を見《み》いださなかったのであります。 「ボンはどこへいったろう。」 と思《おも》って、三郎《さぶろう》は口《くち》にボンの名《な》を呼《よ》びながら、あっちこっちと探《さが》して歩《ある》きました。けれど、ついにその影《かげ》・形《かたち》を見《み》なかったのです。三郎《さぶろう》は隣《となり》のばあさんが、いつか猫《ねこ》が見《み》えなかったときに、きちがいのようになって探《さが》して歩《ある》いたのを思《おも》い出《だ》して、あのときは猫《ねこ》を隠《かく》して悪《わる》いことをしたと後悔《こうかい》いたしました。  ちょうどそこへ、隣《となり》のばあさんがきかかりまして、 「こんなに早《はや》く、なにをしておいでだい。」 と、ばあさんは聞《き》きました。 「ボンが見《み》えなくなったので探《さが》しています。」 と、三郎《さぶろう》がいいますと、ばあさんは、さもうれしそうな顔《かお》つきをして、 「そうかい。もう、家《うち》の勝手口《かってぐち》に糞《ふん》をしなくて、それはいいあんばいだ。」 と、独《ひと》り言《ごと》をしてゆきすぎました。また弱虫《よわむし》の子供《こども》の母親《ははおや》は、ボンがいなくなったと聞《き》いて、家《うち》の外《そと》に出《で》て、いい気味《きみ》だといわぬばかりに笑《わら》っていました。  三郎《さぶろう》は悔《くや》しくてしかたがありませんでした。しかし、いくらほうぼうを探《さが》しても、ボンはいなかったのであります。彼《かれ》は、いまごろボンは、どこにどうしているだろうと思《おも》いました。だれに連《つ》れられていったものか、また路《みち》を迷《まよ》ったものか、あるいは縛《しば》られていようか、ほかの子供《こども》や、大《おお》きな犬《いぬ》にいじめられていようか、と、いろいろのことを考《かんが》えて、その夜《よ》は眠《ねむ》られなかったのであります。そして、幾日《いくにち》か過《す》ぎました。その間《あいだ》、三郎《さぶろう》は一|日《にち》としてボンのことを忘《わす》れた日《ひ》はなかったのです。  それから、またしばらくたったある日《ひ》のことでありました。三郎《さぶろう》が我《わ》が家《や》から程《ほど》隔《へだ》たったところを歩《ある》いていますと、ある大《おお》きな屋敷《やしき》がありまして、その門《もん》の前《まえ》を通《とお》りますと、門《もん》の中《なか》で子供《こども》らと犬《いぬ》とが遊《あそ》んでいました。  三郎《さぶろう》はふとのぞきますと、なんで自分《じぶん》が一|日《にち》も忘《わす》れなかったほどにかわいがっていたボンを忘《わす》れることがありましょう。まさしくその犬《いぬ》はボンでありました。どうして、こんなところにきたろうと不審《ふしん》に思《おも》いながら、よく見《み》ていますと、子供《こども》らは、たいへんにこの犬《いぬ》をかわいがっていました。三郎《さぶろう》は、しばらく立《た》ってこのようすを見《み》ていましたが、ボンは、いまだ三郎《さぶろう》を見《み》つけませんでした。そこで三郎《さぶろう》は口笛《くちぶえ》を鳴《な》らしました。すると犬《いぬ》は、この口笛《くちぶえ》を聞《き》きつけて、急《きゅう》に飛《と》び上《あ》がってこっちへ駆《か》けてきました。そして喜《よろこ》んでクンクン泣《な》いて三郎《さぶろう》にすがりつきました。三郎《さぶろう》はまたうれしさのあまり、犬《いぬ》を抱《だ》き上《あ》げて犬《いぬ》の毛《け》の中《なか》に頬《ほお》をうずめました。  門《もん》の中《なか》の子供《こども》らは、たいそうこの有《あ》り様《さま》を見《み》て驚《おどろ》きました。そして、犬《いぬ》の後《あと》を追《お》って門《もん》のところまで出《で》てきてみますと、もはや犬《いぬ》が外《よそ》をもふり向《む》かずに三郎《さぶろう》についてあっちへゆきかけますので、中《なか》にも一人《ひとり》の子供《こども》は、しくしく声《こえ》をたって泣《な》き出《だ》しました。 「君《きみ》、その犬《いぬ》をつれていってはいけない。」 と、その中《うち》の一人《ひとり》が、三郎《さぶろう》に向《む》かっていいました。 「これは僕《ぼく》のかわいがっていたボンだよ。十日《とおか》ばかり前《まえ》に見《み》えなくなったのだ。いま、見《み》つけたから、つれて帰《かえ》るんだよ。」 と、三郎《さぶろう》は答《こた》えました。 「ああ、そんなら君《きみ》のところの犬《いぬ》だったのかい。十日《とおか》ばかり前《まえ》に、牛乳屋《ぎゅうにゅうや》がいい犬《いぬ》を拾《ひろ》ってきたといってくれたのだよ。そんなら、それは君《きみ》の家《うち》のだかい……。」 といって、子供《こども》らは残念《ざんねん》そうにして立《た》っていました。中《なか》にも一人《ひとり》の子供《こども》はやはり泣《な》いていました。  このようすを見《み》ますと、三郎《さぶろう》は子供《こども》らがかわいそうに思《おも》われました。あんなに犬《いぬ》を大事《だいじ》にしてかわいがってくれるなら、いっそのこと、この犬《いぬ》を子供《こども》らにあたえようかという考《かんが》えが起《お》こったのです。そして、ふたたび自分《じぶん》の家《うち》へつれて帰《かえ》ると、隣《となり》のいじ悪《わる》いばあさんがまた犬《いぬ》をしかるばかりでなく、あの弱虫《よわむし》の子供《こども》の母親《ははおや》までが犬《いぬ》をいじめると思《おも》いました。いっそ犬《いぬ》を子供《こども》らにあたえたほうが、かえって犬《いぬ》のしあわせになるかもしれないと思《おも》いましたので、 「君《きみ》らが犬《いぬ》をかわいがってくれるなら、この犬《いぬ》を君《きみ》らにあげよう。」 と、三郎《さぶろう》はいいました。 「ああ、僕《ぼく》らは、ほんとうにかわいがるから、どうかこの犬《いぬ》をおくれよ。」 といって、子供《こども》らは意外《いがい》なのに、驚《おどろ》かんばかりに喜《よろこ》びました。そして三郎《さぶろう》から、その犬《いぬ》をもらいました。独《ひと》り三郎《さぶろう》は、なごり惜《お》しそうにしてさびしく、一人《ひとり》で我《わ》が家《や》の方《ほう》へ帰《かえ》っていったのであります。 底本:「定本小川未明童話全集 1」講談社    1976(昭和51)年11月10日第1刷発行    1982(昭和57)年9月10日第7刷発行 初出:「少年世界」    1917(大正6)年10月 ※表題は底本では、「少年《しょうねん》の日《ひ》の悲哀《ひあい》」となっています。 入力:ぷろぼの青空工作員チーム入力班 校正:ぷろぼの青空工作員チーム校正班 2011年11月2日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。