道中一枚繪 その二 泉鏡太郎 ------------------------------------------------------- 【テキスト中に現れる記号について】 《》:ルビ (例)彌次郎兵衞《やじろべゑ》 [#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定    (数字は、JIS X 0213の面区点番号またはUnicode、底本のページと行数) (例)饀 /\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号) (例)たび/\ *濁点付きの二倍の踊り字は「/″\」 ------------------------------------------------------- (彌次郎兵衞《やじろべゑ》)や歸《かへ》つて來《き》た、べらぼうに疾《はや》いな、何《ど》うした。(喜多八《きたはち》)えゝ、車《くるま》で行《い》つて來《き》たものですから。(彌次《やじ》)其《それ》にしても馬鹿《ばか》に疾《はや》いわ、汝《おめえ》が出掛《でか》けてから、見《み》ねえ、未《ま》だ銚子《てうし》が三本《さんぼん》とは倒《たふ》れねえ。第一《だいいち》、此姉《このねえ》さんを口説《くど》いて、其返事《そのへんじ》をきかねえ内《うち》だぜ。(女中《ぢよちう》)存《ぞん》じませんよ。(彌次《やじ》)や、返事《へんじ》は其《それ》か、と額《ひたひ》を撫《な》でて、こりや鬱《ふさ》がせる、大《おほい》に鬱《ふさ》ぐね、己《おれ》も鬱《ふさ》ぐが喜多八《きたはち》、汝《おめえ》も恐《おそろ》しく鬱《ふさ》ぐぢやないか、何《なに》か、又《また》内證《ないしよう》で饀《あん》ころが喰《く》ひたさに、金子《かね》でも借《かり》に行《い》つたのぢやないか、さもしい料簡《れうけん》は止《よ》せ、京都《きやうと》三條通《さんでうどほり》一寸《ちよつと》上《あが》る邊栗屋與太九郎以來《へんぐりやよたくらういらい》道中《だうちう》で驕《おご》らせようとすると飛《と》んだ目《め》に逢《あ》ふ。  喜多八《きたはち》何《なん》となく樂《たのし》まず。(喜多《きた》)否《いえ》留守《るす》だつたんです。(彌次《やじ》)フム、(喜多《きた》)實《じつ》は其《そ》の東京《とうきやう》を出《で》る時《とき》から此《こ》の靜岡《しづをか》へ着《つ》いたら是非《ぜひ》尋《たづ》ねて見《み》よう、久々《ひさ/″\》で逢《あ》つて話《はな》したいと、樂《たのし》みにして居《ゐ》たんです。 (彌次《やじ》)はゝあ、大分《だいぶ》執心《しふしん》と見《み》える、別懇《べつこん》な人《ひと》か。 (喜多《きた》)別懇《べつこん》な……何《なん》です、親友《しんいう》の細君《さいくん》なんです。 (彌次《やじ》)何《なん》だ細君《さいくん》、細君《さいくん》なら女《をんな》ぢやないか。 (喜多《きた》)實《じつ》は女《をんな》なんですが。喜多八《きたはち》は言《い》ひ惡《にく》さう。 (彌次《やじ》)此《こ》の野郎《やらう》、と苦笑《にがわらひ》。(喜多《きた》)若《わか》い同士《どうし》結婚《けつこん》をすると、間《ま》もなく私《わたし》の親友《しんいう》は病氣《びやうき》で亡《な》くなつたんです。其《そ》の細君《さいくん》と六十餘《ろくじふあまり》になる病身《びやうしん》な父親《ちゝおや》とを殘《のこ》して亡《な》くなつたんです。勿論《もちろん》、財産《ざいさん》といつてはない處《ところ》へ、主人《あるじ》に死《し》なれちや動《うご》きが取《と》れません、細君《さいくん》の實家《じつか》といふのは別《べつ》に物持《ものもち》といふほどではありませんが、引取《ひきと》つて再縁《さいえん》をさせるに、別《べつ》に差支《さしつかへ》はないのですから、年紀《とし》は少《わか》し容色《きりやう》は好《よ》し、一先《ひとま》づ離縁《りえん》をと、度々《たび/\》申込《まをしこ》んださうですけれど、今《いま》の世《よ》に珍《めづら》しい。(彌次《やじ》)はてな。(喜多《きた》)一度《いちど》良人《をつと》を持《も》つた上《うへ》は、何處《どこ》までも操《みさを》を守《まも》り通《とほ》すと、これはまあ、思《おも》ひ合《あ》つた同志《どうし》、然《しか》も若《わか》い内《うち》當座《たうざ》然《さ》う言《い》ふのは別《べつ》に不思議《ふしぎ》なこともありませんが、其《そ》の細君《さいくん》には未《ま》だ外《ほか》に、自分《じぶん》が出《で》ては便《たより》のない舅《しうと》の世話《せわ》を誰《たれ》がしよう、見《み》す/\翌日《よくじつ》からの暮《くらし》も覺束《おぼつか》ないといふ條件《でうけん》があつたんです。(彌次《やじ》)はてな、と膝《ひざ》を進《すゝ》めて殆《ほとん》ど無意識《むいしき》に差出《さしだ》す猪口《ちよこ》に、女中《ぢよちう》も默《だま》つて酌《しやく》をする。  喜多《きた》は膳《ぜん》を前《まへ》に丁《ちやん》と坐《すわ》つて、卷莨《まきたばこ》を斜《なゝ》めに眞鍮《しんちう》の火鉢《ひばち》のふちで輕《かる》く叩《たゝ》いて、細君《さいくん》は教育《けういく》があつて、殊《こと》に生《うま》れつき針仕事《はりしごと》に手《て》が利《き》いたのを、東京《とうきやう》で又《また》其專門《そのせんもん》の學校《がくかう》で仕上《しあ》げた人《ひと》なんですから、不幸《ふしあはせ》か、幸《しあはせ》か、直《す》ぐ其術《そのわざ》が用《よう》に立《た》つて、人仕事《ひとしごと》をして暮《くらし》を立《た》てて居《ゐ》たさうですが、生前《せいぜん》にはいくら懇意《こんい》にしたつて、友人《いうじん》の亡《な》い後《あと》へは、若《わか》い者《もの》が此《これ》で、何《なん》となく更《あらた》まつて行惡《いきにく》いもんですから、つい尋《たづ》ねもしません。  其内《そのうち》先方《せんぱう》でも暮《くら》しの都合《つがふ》で、彼方此方《あつちこつち》引越《ひつこし》たり何《なに》かしたもんですから、居所《ゐどころ》も知《し》れなくなつたんです。其内《そのうち》江戸川端《えどがはばた》の狹《せま》い汚《きたな》い路地《ろぢ》で、細君《さいくん》が後齒《あとば》の減《へ》つた下駄《げた》を雪《ゆき》のやうな拇指《おやゆび》で、蝮《まむし》を拵《こしら》へて穿《は》いて、霜《しも》の降《お》りた朝《あさ》、井戸繩《ゐどなは》に縋《すが》つて束《たば》ね髮《がみ》の窶《やつ》れた姿《すがた》で、水《みづ》を汲《く》んで居《ゐ》たつて、見《み》かけたものに聞《き》いたんです。彌次《やじ》杯《さかづき》を置《お》いて煙管《きせる》を銜《くは》へ、ふむ、しかし厭《いや》にいふな。(喜多《きた》)いゝえ其《それ》がです。後《のち》に此《こ》の靜岡《しづをか》に來《き》て學校《がくかう》の教師《けうし》をして鷹匠町《たかじやうまち》に居《ゐ》るツて事《こと》で、 (女中《ぢよちう》)感心《かんしん》な方《かた》でございますねえ、と膝《ひざ》に構《かま》へた銚子《てうし》の冷《ひ》えたのも忘《わす》れて居《ゐ》る。 (彌次《やじ》)分別顏《ふんべつがほ》を傾《かたむ》けながら、いや早《はや》まつて感心《かんしん》をすると、あとで色男《いろをとこ》を拵《こしら》へて遁《に》げたなどといふ事《こと》になる、得《え》てあるで、其處《そこ》で何《ど》うした。 (喜多《きた》)同一《おんなじ》土地《とち》では然《さ》ほど懇意《こんい》でない者《もの》も旅《たび》で一所《いつしよ》になれば三年《さんねん》五年《ごねん》の知己《ちかづき》ぐらゐに隔《へだて》がなくなります。東京《とうきやう》ではたとひ人《ひと》は知《し》らないでも、何《なん》だか世間體《せけんてい》極《きま》りが惡《わる》くつて、心《こゝろ》ぢや思《おも》つても尋《たづ》ねにくいのですが、旅先《たびさき》だといくらか、其心遣《そのこゝろづか》ひも要《い》らないといつた形《かたち》ですから、今度《こんど》お伴《とも》をしたのを幸《さいはひ》、是非《ぜひ》一度《いちど》逢《あ》つて、其後《そのご》の樣子《やうす》も聞《き》きたし、それは私《わたし》などが言《い》はないでも、細君《さいくん》は夢《ゆめ》にも見《み》て、死《し》んだ良人《をつと》から禮《れい》を言《い》はれて居《ゐ》ませうけれど、私《わたし》は又《また》私《わたし》で、親友《しんいう》のために禮《れい》も言《い》はう、賞《ほ》めもしよう、慰《なぐさ》めても遣《や》りたいと思《おも》つたですから。(彌次《やじ》)いやなか/\、眞面目《まじめ》だな、それから何《ど》うした。 (喜多《きた》)鷹匠町《たかじやうまち》とばかりで、悉《くは》しく番地《ばんち》なども知《し》らんので、何《ど》れ此《こ》れと言《い》はうより、學校《がくかう》で聞《き》いた方《はう》が早分《はやわか》りがすると思《おも》つたものですから、車夫《しやふ》に然《さ》ういつて、寄宿舍《きしゆくしや》の前《まへ》で梶棒《かぢぼう》を留《と》めさしましたが、其處《そこ》へ行《い》くまでにお濠端《ほりばた》を通《とほ》りますね。(彌次《やじ》)お城《しろ》の濠《ほり》だ、うむ成程《なるほど》。(女中《ぢよちう》)廣《ひろ》うござりませう。  喜多《きた》は一呼吸《ひといき》して一服《いつぷく》吸《す》つた。凡《およ》そ旅《たび》さきで、川《かは》なり池《いけ》なり廣《ひろ》い水《みづ》の色《いろ》を見《み》てると、高《たか》い山《やま》を視《なが》めたより、一層《いつそう》故郷《こきやう》に遠《とほ》いやうに感《かん》ずるものです。殊《こと》に夜《よる》、あの濁《にご》つた灰色《はひいろ》の對岸《むかうぎし》が暗《くら》くつて分《わか》らない岸《きし》を通《とほ》ると、あゝ他國《たこく》だなと思《おも》ひました。直《す》ぐに今《いま》尋《たづ》ねようとする人《ひと》は、もツと此《こ》のさきに住《す》んでるのだと考《かんが》へて、嘸《さぞ》心細《こゝろぼそ》い事《こと》だらうと。彌次《やじ》又《また》苦笑《にがわらひ》して(彌次《やじ》)異《おつ》う哀《あはれ》ツぽく持込《もちこ》むぜ。 (喜多《きた》)氣《き》も急《せ》きますから、車夫《わかいしゆ》に尋《たづ》ねさせると、ずツと門《もん》を入《はひ》りましたツけ、何《なに》か會《くわい》でもあつたと見《み》えて玄關《げんくわん》に、……學校《がくかう》と書《か》いた高張《たかはり》が立《た》つて居《ゐ》ます。  ばら/\と三人《さんにん》、白襟《しろえり》に蝦茶《えびちや》といふのが出《で》て、入亂《いりみだ》れて、一人《いちにん》は車夫《わかいしゆ》に、ものをいふ。髮《かみ》の毛《け》の多《おほ》い、丸顏《まるがほ》なのは壁《かべ》に凭《よ》りかゝつて、此方《こつち》を透《すか》すと、一人《ひとり》面長《おもなが》で年上《としうへ》な女學生《ぢよがくせい》が、式臺《しきだい》へ下《お》りて車夫《わかいしゆ》の肩越《かたごし》に、先生《せんせい》のお宅《たく》は、……ト車夫《わかいしゆ》に教《をし》へて居《ゐ》たのが、ねえ、其方《そつち》が知《し》れ可《い》いでせう、と丸顏《まるがほ》のに言《い》ふと、然《さ》うですよ、車夫《くるまや》さん、何處《どこ》から來《き》たのといふ時《とき》、又《また》一人《ひとり》靜《しづか》に出《で》て來《き》た、着流《きなが》しのが居《ゐ》ました。  車夫《わかいしゆ》は引返《ひきかへ》して、へい。分《わか》つたか。宜《よろ》しうございます、と梶《かぢ》を上《あ》げました。立《た》つて見送《みおく》つて居《ゐ》られるから、帽子《ばうし》を脱《ぬ》ぐと、直《す》ぐにから/\と町《まち》の淋《さび》しい方《はう》へ引出《ひきだ》しましたが、何《なん》だか跡《あと》で囁《さゝや》いて居《ゐ》たやうで、あゝ、惡《わる》かつた清《きよ》い夫人《ふじん》が、自分《じぶん》のために、生徒《せいと》たちに何《なん》とか怪《あやし》まれやしないかと思《おも》ふと、變《へん》に擽《くすぐつ》たいやうな氣《き》がします。車《くるま》は早《はや》く町《まち》を出放《ではな》れて小川《をがは》の橋《はし》を渡《わた》つたんです。さあ、又《また》この川《かは》で心細《こゝろぼそ》さが増《ま》すと、それから左右《さいう》が水田《みづた》になつて、人《ひと》ツ子《こ》一人《ひとり》通《とほ》りやしません。  けれども、何《なん》だか顏《かほ》を見《み》られるやうで、靜岡《しづをか》といふ土地《とち》も狹《せま》く、田《た》の中《なか》の路《みち》も狹《せま》く、肩身《かたみ》も狹《せま》いやうだつたんです。  車夫《わかいしゆ》まだ餘程《よほど》か、何《なん》だか停車場前《ていしやばまへ》の此家《このうち》からは夜《よ》の路《みち》を、ものの一里《いちり》許《ばか》りも來《き》たやうに思《おも》ふツて、聞《き》きました。電燈《でんとう》が店《みせ》あかりになつて、其《それ》が、窓《まど》の灯《あかり》になつて、暗《くら》くなつて、寄宿舍《きしゆくしや》で、高張《たかはり》を見《み》て、これから彼方《あつち》に三軒《さんげん》此方《こつち》に二軒《にけん》、寢靜《ねしづま》つたやうな、場末《ばすゑ》を越《こ》して、左右《さいう》が涯《はて》もない水田《みづた》になつてたぢやありませんか。  向《むか》うに見《み》えます眞直《まつすぐ》な杉《すぎ》の木《き》が其《その》お邸《やしき》ださうです、と言《い》ひます。成程《なるほど》、眞黒《まつくろ》なものの中《なか》から、ぼんやり曇《くも》つた空《そら》に通《かよ》つて、細《ほそ》いものが一本《いつぽん》見《み》えました。取着《とツつき》は山《やま》のやうで、最《も》う、其處《そこ》か。婚禮《こんれい》のあとで尋《たづ》ねた時《とき》は、別《べつ》に女中《ぢよちう》は置《お》かぬ暮《くらし》、自分《じぶん》で取次《とりつぎ》に出《で》たが、男《をとこ》の聲《こゑ》に框《かまち》の障子《しやうじ》の引手《ひきて》の破《やぶ》れへ、此方《こつち》は知《し》れぬつもりで、目《め》を一《ひと》つあてて覗《のぞ》きなすつた其《そ》の品《ひん》の可《い》い曇《くもり》のない、美《うつく》しいのが、障子《しやうじ》の紙《かみ》の硝子《がらす》で切《き》つて嵌《は》めたやうに見《み》えたのを、今《いま》も忘《わす》れないが、矢張《やつぱり》今度《こんど》も然《さ》うだらうか。何《なん》だか胸《むね》が迫《せま》つて俯向《うつむ》く足許《あしもと》。  小川《をがは》の中《なか》から、びちや/\びちや/\びちやと、水田《みづた》を向《むか》うへ行《ゆ》くほど泥《どろ》を離《はな》れて、高《たか》くなつたやうな音《おと》で、闇《やみ》の中《なか》へ飛《と》んだものが何《なに》かある。魚《うを》なら鯉《こひ》ぐらゐの大《おほき》さ。ですが其氣勢《そのけはひ》は獺《かはうそ》が歩行《ある》いたやうで、夜《よ》は今《いま》の間《ま》に丑三《うしみつ》も過《す》ぎたかと思《おも》ふ寂寞《ひつそり》さ。見通《みとほ》し一町《いつちやう》には足《た》りない路《みち》が一時《ひととき》もかゝるやうに氣《き》が急《せ》いたんです。  車《くるま》が着《つ》くと、何《なん》ですか更《あらた》まつて、急《きふ》には門《もん》が開《あ》けられません。垣根《かきね》に袖《そで》を觸《ふ》れ、井戸《ゐど》の柱《はしら》に凭《よ》りかゝつて、唯《たゞ》、恁《か》う、見《み》ると、杉《すぎ》の木《き》の下《した》の低《ひく》い格子戸《かうしど》から、射《さ》す燈《あかり》の工合《ぐあひ》が、厭《いや》に貧《まづ》しい。覗《のぞ》くと框《かまち》の二枚《にまい》の障子《しやうじ》が穴《あな》だらけぢやありませんか。(彌次《やじ》)はてな。(喜多《きた》)いや、恁《か》ういふ筈《はず》ぢやなからうが、と思《おも》ひながら見《み》ると、戸外《おもて》の戸袋《とぶくろ》の横《よこ》に、小《ちひ》さな、しるしばかりの門松《かどまつ》が打《うち》つけてあります。釘《くぎ》がゆるんで、觸《さは》ると取《と》れさう。戸《と》を開《あ》けようとする、と直《す》ぐ上《あが》り口《ぐち》に障子《しやうじ》の内《うち》で、ごほり[#「ごほり」に傍点]と老人《らうじん》が咳《せき》をします。御免下《ごめんくだ》さい、と大《おほ》きく二度《にど》ばかり呼《よ》ぶと、徐々《そろ/\》と障子《しやうじ》を開《あ》けましたが、取着《とツつき》の三疊《さんでふ》の炬燵《こたつ》から横《よこ》に摺《ず》つて、手《て》を伸《のば》したので。  内《うち》は如何《いか》にも侘《わび》しい住居《すまひ》。扨《さて》は殘《のこ》つて居《ゐ》た借金《しやくきん》を此處《こゝ》へ來《き》ても取《と》られるか、細君《さいくん》が義理堅《ぎりがた》い人《ひと》だけに、少《すくな》い月給《げつきふ》の内《うち》から仕拂《しはら》ふのに違《ちが》ひない、と先《ま》づ氣《き》の毒《どく》さが一杯《いつぱい》になつて、戸《と》を開《あ》けて半身《はんしん》入《はひ》るには入《はひ》りましたが、近處《きんじよ》の者《もの》ではないと見《み》て昔氣質《むかしかたぎ》の老人《らうじん》、すぐに炬燵《こたつ》から出《で》て、丁《ちやん》と手《て》をついて、これは誰方樣《どなたさま》ぢや。  親友《しんいう》が生《い》きて居《ゐ》る内《うち》も、病人《びやうにん》で餘《あま》り客《きやく》に顏《かほ》は見《み》せなかつた老人《らうじん》、幼友達《をさなともだち》と言《い》ふのではありませんから、顏《かほ》を見覺《みおぼ》えては居《ゐ》ないので又《また》目《め》も疎《うと》いのでせう。  膝《ひざ》を突合《つきあは》しては話《はなし》をしたことはありませんが、私《わたし》は見知越《みしりごし》。お芳《よし》さんは、と名《な》をいつて尋《たづ》ねますと、耳《みゝ》を向《む》けて聞直《きゝなほ》して、彼《あれ》は、といふ内《うち》もごほごほ[#「ごほごほ」に傍点]と痩《や》せた肩《かた》を縱《たて》に搖《ゆす》つて咳入《せきい》りながら、學校《がくかう》の用《よう》で昨日《きのふ》東京《とうきやう》へ參《まゐ》りましてな、何《なに》かにつけて御苦勞《ごくらう》なことでござる、とつい口《くち》へ出《だ》される心中《しんちう》、私《わたし》はハツと言《い》つた切《きり》。  いづれ伺《うかゞ》ひます、又《また》と、土地《とち》の者《もの》のやうなことを吃《ども》りながら言《い》つて、悄然《せうぜ》と出《で》ましたのを、薄暗《うすぐら》い洋燈越《ランプごし》に、よろ/\と立《た》つて障子《しやうじ》につかまつてお見送《みおく》りなすつた姿《すがた》、此人《このひと》を介抱《かいはう》してこんな處《ところ》に唯《たゞ》二人《ふたり》、と歸《かへ》りには俥《くるま》の上《うへ》で、默《だま》つて腕組《うでぐみ》をして俯向《うつむ》いて、何處《どこ》を通《とほ》つたか、もう來《き》たかと思《おも》ふ内《うち》に歸《かへ》つたんです、話《はなし》はこれだけなんですが。  聞《き》いて居《ゐ》たものは二人《ふたり》とも默《だま》つて、歎息《ためいき》をしたのである。それから天窓《あたま》から若《わか》い者《もの》を罵倒《ばたう》しながら猪口《ちよく》を嘗《な》める口《くち》を轉《てん》じて、貞女《ていぢよ》だ節婦《せつぷ》だ、得難《えがた》い、無類《むるゐ》、などいふ、未亡人《びばうじん》賞讚《しやうさん》の聲《こゑ》を絶《た》たずして、酒《さけ》も理《り》に落《お》ちた。  多《おほ》くは飮《の》まなかつたから、あくる日《ひ》は二人《ふたり》とも頭《つむり》輕《かろ》く、朝風《あさかぜ》に颯《さつ》と俥《くるま》を二臺《にだい》、停車場《ていしやぢやう》を左《ひだり》へ切《き》れた久能《くのう》へ行《ゆ》く街道《かいだう》で、府中通《ふちうどほり》の栃面屋《とちめんや》、此處《こゝ》の景色《けしき》を見《み》ろと、故《わざ》と畷《なはて》に下立《おりた》つて、城《しろ》あとの方《はう》を顧《かへりみ》ると、冬田《ふゆた》の空《そら》に富士《ふじ》の高峰《たかね》、雪《ゆき》に霞《かすみ》を被《かつ》げる姿《すがた》。下《した》にこんもり[#「こんもり」に傍点]とした紫《むらさき》の雲《くも》の靉靆《たなび》いたやうな、朝《あさ》ぼらけの森《もり》の中《なか》に、高《たか》く朱塗《しゆぬり》の堂《だう》が見《み》えた。 (喜多《きた》)彼《あれ》は、(彌次《やじ》)ありや昨夜《ゆうべ》お前《まへ》の行《い》つた鷹匠町《たかじやうまち》の觀音堂《くわんのんだう》だ。(喜多《きた》)彼處《あすこ》が、(彌次《やじ》)彼邊《あのへん》の家《いへ》は縁側《えんがは》にすわると、富士《ふじ》の裾《すそ》へ手《て》が屆《とゞ》くやうだよ。  然《さ》ればこそ、軒《のき》の富士《ふじ》、窓《まど》の御堂《みだう》。芳子《よしこ》は、其《それ》ばかりでも長《とこしなへ》に操《みさを》を守《まも》るであらうと、喜多八《きたはち》は心《こゝろ》に佛菩薩《ぶつぼさつ》の慈悲《じひ》の廣大《くわうだい》なることを、未亡人《びばうじん》のために、舊友《きういう》のために、又《また》老人《らうじん》のために感拜《かんぱい》したのであつた。 [#地から5字上げ]明治三十八年七月 底本:「鏡花全集 巻二十七」岩波書店    1942(昭和17)年10月20日第1刷発行    1988(昭和63)年11月2日第3刷発行 初出:「九州日日新聞」    1904(明治37)年1月1日 ※表題は底本では、「道中《だうちう》一枚繪《いちまいゑ》 [#1段階小さな文字]その二[#小さな文字終わり]」となっています。 ※初出時の表題は「新双六」です。 ※底本の題名の下に書かれている「明治三十八年七月」は本文末に移しました。 ※「燈《あかり》」と「灯《あかり》」の混在は、底本通りです。 ※「車夫」に対するルビの「しやふ」と「わかいしゆ」と「くるまや」の混在は底本の通りです。 入力:門田裕志 校正:岡村和彦 2024年10月13日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(https://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。