道中一枚繪 その一 泉鏡太郎 ------------------------------------------------------- 【テキスト中に現れる記号について】 《》:ルビ (例)奇妙《きめう》 [#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定    (数字は、JIS X 0213の面区点番号またはUnicode、底本のページと行数) (例)𢌞 /\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号) (例)さう/\ *濁点付きの二倍の踊り字は「/″\」 ------------------------------------------------------- 「奇妙《きめう》、喜多八《きたはち》、何《なん》と汝《てめえ》のやうなものでも、年《ねん》に一度《いちど》ぐらゐは柄《がら》に無《な》い智慧《ちゑ》を出《だ》すから、ものは不思議《ふしぎ》よ。然《しか》し春《はる》早々《さう/\》だから、縁起《えんぎ》だ、今年《ことし》は南瓜《かぼちや》が當《あた》るかな。しかし俺《おれ》も彌次郎《やじらう》、二《ふた》ツあつた友白髮《ともしらが》、一《ひと》ツはまんまと汝《てめえ》に功名《こうみやう》をされたけれども、あとの一《ひと》ツは立派《りつぱ》に負《ま》けねえやうに目覺《めざま》しく使《つか》つて見《み》せる。」と、道中《だうちう》二日《ふつか》三日《みつか》、彌次《やじ》は口癖《くちぐせ》のやうに言《い》つた。  此《こ》の友白髮《ともしらが》と言《い》ふのは、元旦《ぐわんたん》、函嶺《はこね》で手《て》に入《い》れたものであるが、谷《たに》を探《さぐ》り、山《やま》を獵《か》つて、山嫗《やまうば》の頭《かしら》から取《と》り得《え》たなどと言《い》ふのではない。  去年《きよねん》大晦日《おほみそか》の晩方《ばんがた》、塔《たふ》の澤《さは》に着《つ》いて、環翠樓《くわんすゐろう》に宿《やど》つて、座敷《ざしき》へ通《とほ》ると、案内《あんない》をした女《をんな》と入交《いれかは》つて、受持《うけもち》の姐《ねえ》さんが、火《ひ》と鐵瓶《てつびん》を持《も》つて來《き》たのに、彌次《やじ》が眞先《まつさき》に酒《さけ》を命《めい》じて、温泉《ゆ》から上《あが》る、直《す》ぐに銚子《てうし》が、食卓《ちやぶだい》の上《うへ》へ袴《はかま》で罷出《まかりで》るといふ寸法《すんぱふ》。  彌次《やじ》、「扨《さて》先《ま》づ氣《き》つけにありついた。其處《そこ》で、姐《ねえ》さん、此《こ》の樓《うち》は酌《しやく》をしてくれるか何《ど》うだ。」女中《ぢよちう》、「いたしますとも。」彌次《やじ》、「いや、いたしますは分《わか》つたが、酌《しやく》も對酌《たいしやく》、大晦日《おほみそか》には響《ひゞき》が惡《わる》いが、酌《しやく》もしてくれる、杯《さかづき》も受《う》けてくれるといふのでなければ嬉《うれし》くねえ、何《ど》うだ。何《なに》、御念《ごねん》には及《およ》ばんと。及《およ》ぶ、大《おほい》に及《およ》ぶよ。昨夜《ゆうべ》は酒匂《さかは》の松濤園《しようたうゑん》で、古今《ここん》情《なさけ》ない目《め》に遭《あ》つた、聞《き》いてくれ、家《いへ》の掟《おきて》とあつてな、唯《たゞ》酒《さけ》は注《つ》ぐ眞似《まね》をすると言《い》つても、杯《さかづき》に手《て》を出《だ》さぬ。何《なに》か其《そ》の女《をんな》の親仁《おやぢ》は、酒《さけ》に取殺《とりころ》されたとでも言《い》ふことだらうよ。又《また》、汝《おめえ》の前《めえ》だが高《たか》い酒《さけ》を斷《た》つて飮《の》ませたいといふ法《はふ》はないが、獻《さ》した杯《さかづき》を、拂《はた》かれては醉《よ》へません。其處《そこ》で今夜《こんや》ははじめから條約《でうやく》を取極《とりき》めるだ。ふむ、いくらでも頂《いたゞ》く。いや餘《あま》り頂《いたゞ》くな、酒《さけ》が減《へ》る。酒《さけ》は減《へ》るが、扨《さて》、受《う》けるとは嬉《うれ》しいな、しかし、一《ひと》ツ受《う》けて直《す》ぐに遁《に》げるか。何《なに》、遁《に》げぬ。や、然《さ》らば慮外《りよぐわい》ながら祝儀《しうぎ》に及《およ》ばう。」  こゝで當世《たうせい》の折鞄《をりかばん》ぐらゐは、大《おほき》さのある中挾《なかばさみ》の懷中《くわいちう》ものから、ト半紙《はんし》を引出《ひきだ》すことあつて、悠然《いうぜん》として美人《びじん》の膝《ひざ》の邊《あたり》に押遣《おしや》る、作戰計畫《さくせんけいくわく》圖《づ》に當《あた》つて、女中《ぢよちう》外《はづ》して去《さ》る事《こと》能《あた》はず。其晩《そのばん》十二時頃《じふにじごろ》まで酒席《しゆせき》に侍《はべ》つたが、翌日《よくじつ》は元日《ぐわんじつ》と言《い》ふのに、嘸《さぞ》忙《いそ》がしくもあつたらう、其《そ》の迷惑《めいわく》察《さつ》すべし――彌次《やじ》、後《のち》密《ひそ》かに喜多《きた》に囁《さゝや》いて、「あの、罪造《つみつく》り、厄落《やくおとし》をさせて遣《や》つた。」  其《そ》の夜《よ》は酒《さけ》が發奮《はず》んだので、彌次《やじ》呷《あふ》るほどに、けるほどに、一時《いちじ》過《す》ぎて潛《もぐ》り込《こ》んだ蒲團《ふとん》の中《なか》で、とろけて消《き》えさうな大生醉《おほなまゑひ》。  喜多八《きたはち》は未《ま》だ少《わか》いだけ、大晦日《おほみそか》は大晦日《おほみそか》、元朝《ぐわんてう》は元朝《ぐわんてう》と知《し》つて心《こゝろ》を動《うご》かすと雖《いへど》も、彌次《やじ》は元日《ぐわんじつ》を月《つき》の七八日《なゝやうか》ほどにも思《おも》はず、初空《はつぞら》といふに赤《あか》い顏《かほ》の二日醉《ふつかゑひ》。  ふら/\と湯《ゆ》に入《はひ》り、漱《うがひ》と欠《あくび》を一所《いつしよ》にして、つるりとした法然天窓《ほふねんあたま》に置手拭《おきてぬぐひ》で座敷《ざしき》に歸《かへ》り、行儀《ぎやうぎ》よく坐《すわ》つた喜多八《きたはち》と差向《さしむか》ふ。  喜多《きた》、更《あらた》まつて、「お目出《めで》たう。」と挨拶《あいさつ》をする、彌次《やじ》、「嚇《おどか》しなさんない。」  廊下《らうか》を靜《しづか》に朝風《あさかぜ》が通《とほ》して、明放《あけはな》しの障子《しやうじ》の外《そと》へ、三《み》ツ組《ぐみ》の杯臺《さかづきだい》と、雌蝶《めてふ》雄蝶《をてふ》を美《うつく》しく飾《かざ》つた、銚子《てうし》を兩手《りやうて》に、小女《こをんな》に膳《ぜん》を持《も》たせて、窈窕《えうてう》たる哉《かな》中年増《ちうどしま》。しとやかに手《て》を支《つか》へて、「あけましてお目出度《めでた》うございます。」と折目《をりめ》正《たゞ》しく會釋《ゑしやく》する。  此《こ》の人《ひと》、昨夜《さくや》の新造《しんぞ》とは風采《ふうさい》がらりと異《こと》なり、渠《かれ》は、唐縮緬《メレンス》の帶《おび》、黒繻子《くろじゆす》の襟《えり》で、赤大名《あかだいみやう》といふ扮裝《いでたち》。島田《しまだ》をがツくりとさせて、腕《うで》の白《しろ》きを仄《ほの》めかし、裳《もすそ》の紅《くれなゐ》を蹴出《けだ》したが、是《これ》は、丸髷《まるまげ》に、鼈甲《べつかふ》の突通《つきとほ》し、衣紋《えもん》正《たゞ》しく、お納戸地《なんどぢ》に質《じみ》な小紋《こもん》の三《み》ツ紋着《もんつき》、黒繻子《くろじゆす》の丸帶《まるおび》をお太鼓《たいこ》にキチンと締《し》めて、内端《うちわ》に少《すこ》し背《せ》を屈《かゞ》めて、黄金《きん》の目《め》の白魚《しらうを》を、しなやかに支《つ》いた風情《ふぜい》。  彌次郎《やじらう》、天窓《あたま》の手拭《てぬぐひ》を取《と》つて、固《かた》く、「はい/\。」女中《ぢよちう》、「ほんのお記《しる》しばかりでございますが、お祝《いは》ひ申《まを》しまして故《わざ》とお屠蘇《とそ》を。」彌次《やじ》は、「はい、はい。」女中《ぢよちう》、「何《ど》うぞ召上《めしあが》つて下《くだ》さいまし。直《す》ぐお燗酒《かんしゆ》にいたします。」彌次《やじ》、喜多《きた》、「はい、はい。」  即《すなは》ち素直《すなほ》に屠蘇《とそ》を受《う》けて、扨《さて》、お肴《さかな》は何々《なに/\》ぞ。卷《まき》するめ、より昆布《こんぶ》、勝栗《かちぐり》、煮豆《にまめ》などある中《なか》に、小皿《こざら》に盛《も》りて、別《べつ》に小殿原《ごまめ》と、葱《ねぎ》の美《うつく》しく細《こまか》い、根《ね》のふさ/\と附《つ》いたまゝ長《ながさ》三寸《さんずん》ばかりにして、白《しろ》い處《ところ》ばかりなのを二本《にほん》づゝ添《そ》へてあつた。此《こ》のごまめの其《そ》の嚴《いかめ》しさ、小殿原《ことのばら》とは覺《おぼ》えたが、葱《ひともじ》はこれは何《なん》ぢやろと、彌次《やじ》が不審《いぶか》るのに女中《ぢよちう》が答《こた》へて、「あの、其《それ》は友白髮《ともしらが》でございます。」と言《い》つた。――友白髮《ともしらが》はこれである。  氣《き》に入《い》つた、難有《ありがた》い、是非《ぜひ》一《ひと》ツ話《はなし》のたねに持歸《もちかへ》らう。そんなものを貴下《あなた》、と女中《ぢよちう》がしをらしく、極《きまり》を惡《わる》がるのを、彌次《やじ》、「うんにや構《かま》はぬ。」  例《れい》の大紙入《おほかみいれ》の半紙《はんし》に包《つゝ》んで、「喜多《きた》、汝《てめえ》も一《ひと》ツ取《と》つて置《お》かつし、此《こ》の人《ひと》の口《くち》から、何《なん》と友白髮《ともしらが》は嬉《うれ》しからう。」喜多《きた》も袂《たもと》に藏《しま》つたが、函嶺《はこね》を發《た》つて、小田原《をだはら》に引返《ひつかへ》し、道《みち》を轉《てん》じて吉浦《よしうら》、吉濱《よしはま》を越《こ》えて熱海《あたみ》の温泉《をんせん》、こゝで三日《みつか》ばかり逗留《とうりう》して、歸《かへ》りは三島越《みしまごえ》で、東海道《とうかいだう》へ出《で》ようと、日金《ひがね》、十國《じつこく》を上《うへ》に望《のぞ》み、大島《おほしま》伊豆《いづ》の島々《しま/″\》をあとに、峠《たうげ》で富士《ふじ》とさしむかひ、韮山《にらやま》を遙《はるか》に瞰下《みおろ》しながら、臺場《だいば》に着《つ》くと、こゝから汽車《きしや》。  待合《まちあひ》のお茶屋《ちやや》で、晝酒《ひるざけ》に醉《ゑひ》が𢌞《まは》り、喜多八《きたはち》大《おほい》にいきり出《だ》して、鳥打帽《とりうちばう》の下《した》に向《むか》う顱卷《はちまき》、此《こ》の汽車《きしや》を横《よこ》ツ飛《と》びに東海道線《とうかいだうせん》三島發《みしまはつ》に乘換《のりか》へた。 「やあ、いかいこと詰込《つめこ》んだい。」と紳士《しんし》夫人方《ふじんがた》の前《まへ》も憚《はゞか》らず、大聲《おほごゑ》に、呆《あき》れたやうな顏《かほ》をする、背後《うしろ》から肩《かた》を叩《たゝ》いて、「しばらく、」といふ者《もの》あり。  これはと見《み》ると、二十五《にじふご》ばかりの少紳士《わかしんし》、新調《しんてう》の洋服《やうふく》しツくりと、清癯《せいく》鶴《つる》に似《に》て、其《そ》の嘴《くちばし》のやうな細身《さいしん》の杖《ステツキ》をついたのを、きよとりと見《み》て、「呀《や》、見違《みちが》へた、」新學士《しんがくし》、暮《くれ》に結婚《けつこん》をした好男子《かうだんし》であつた。  喜多《きた》、「おや/\おや、」學士《がくし》、「何《ど》うも申譯《まをしわけ》がありません。」喜多《きた》、「一所《いつしよ》か。」學士《がくし》、「なあに。」喜多《きた》、「嘘《うそ》を吐《つ》け。」學士《がくし》、「眞實《ほんたう》だよ。」  喜多《きた》四邊《あたり》を眗《みま》はすと、美《び》なるも、艷《えん》なるも、窈窕《えうてう》たるも、婀娜《あだ》たるも、痩《や》せたのも、肥《ふと》つたのも、色《いろ》の黒《くろ》いのも、毛《け》の縮《ちゞ》れたのも、足袋《たび》の汚《きたな》いのも、襟《えり》に手巾《ハンケチ》を卷《ま》いたのも、皆《みな》主《ぬし》あつて、二人《ふたり》づゝ丁《ちやう》ど帳尻《ちやうじり》があつて、此《こ》の人《ひと》一人《ひとり》、入込《いりごみ》の大人數《おほにんず》に席《せき》もなく彳《たゝず》めり。  喜多《きた》、「そして何處《どこ》へ。」學士《がくし》、「鈴川《すゞかは》へ。」喜多《きた》、「先《さき》へ行《い》つてるのか。」學士《がくし》莞爾《くわんじ》として、「未《いま》だ審《つまびらか》ならず。」といふ。「暮《くれ》の忙《せは》しさと、遁《に》げ出《だ》したのと、明《あ》けて未《ま》だ間《ま》がないのでお祝《いはひ》も申《まを》さぬ。甚《はなは》だ不念《ぶねん》。」と言《い》ひながら、不圖《ふと》氣《き》の着《つ》いたのが函嶺以來《はこねいらい》の葱《ひともじ》であつた。  贈《おく》つて以《もつ》て、喜多《きた》、「さあ御祝儀《ごしうぎ》の友白髮《ともしらが》。」學士《がくし》、杖《つゑ》を小脇《こわき》に、美人《びじん》が菫《すみれ》を摘《つ》んだる態度《たいど》で、帽《ばう》のふち深《ふか》く、涼《すゞ》しい品《ひん》のある目《め》でじつと見《み》て、「難有《ありがた》う。」  乘合《のりあひ》の中《うち》で一人《ひとり》拍手《はくしゆ》をしたものがある。即《すなはち》是《これ》彌次郎兵衞《やじろべゑ》。  それよりして、奇妙《きめう》喜多八《きたはち》の聲《こゑ》を絶《た》たず、ものは不思議《ふしぎ》ぢやないか、今年《ことし》は南瓜《かぼちや》などと繰返《くりかへ》して、何《なに》己《おら》も負《ま》けるものか、東京《とうきやう》へ歸《かへ》るまでに、一番《いちばん》此《こ》の友白髮《ともしらが》を使《つか》ひ活《い》かして見《み》せると、信玄袋《しんげんぶくろ》を叩《たゝ》いたが、五日《いつか》、駿州《すんしう》久能山《くのうざん》の奇勝《きしよう》を見《み》た時《とき》であつた。  彌次《やじ》、「さあ、喜多八《きたはち》、目《め》をまはすな、いよ/\久能山《くのうざん》だ。何《ど》うだ驚《おどろ》いたらう、未《ま》だ汝《てめえ》が喜《よろこ》ぶものが澤山《たくさん》ある。此處《こゝ》は氣候《きこう》が暖《あたゝか》いから大根《だいこん》が名物《めいぶつ》、しらすぼし、疊鰯《たゝみいわし》が名代《なだい》よ。いづれも情婦《いろ》見《み》たやうな氣《き》がするだらう、しかし支度《したく》は下山《げざん》の時《とき》としよう、恰《あたか》も仙人《せんにん》雲《くも》に入《い》るの形《かたち》で上《のぼ》るのだから、身《み》が重《おも》くツちやあ上《あが》られねえ。」  いかにも一山《いちざん》天《てん》を支《さゝ》へて、人《ひと》は蟻《あり》の如《ごと》く、石段《いしだん》は階子《はしご》に似《に》て雲《くも》に入《い》り、中空《なかぞら》を刻《きざ》んで白《しろ》き虹《にじ》の立《た》つたる如《ごと》し。茶屋《ちやや》の亭主《ていしゆ》、「えゝ、お支度《したく》は。」彌次《やじ》、「歸《かへ》りにしやす。」亭主《ていしゆ》、「然《さ》やうなら御參詣《ごさんけい》なさりませい、お草履《ざうり》を差上《さしあ》げまする、でお召《めし》かへなさりませ。然《さ》やういたしませんと、お下駄《げた》でござりましては、御參詣《ごさんけい》御難儀《ごなんぎ》でげす。」彌次《やじ》、「知《し》つて居《ゐ》やす。」亭主《ていしゆ》、「扨《さて》、えゝ、お供物代《くもつだい》をお取次《とりつ》ぎいたしまする、一等《いつとう》二等《にとう》とあひなつて居《を》りまするで、二等《にとう》にいたしますると、二十五錢《にじふごせん》、一等《いつとう》五十錢《ごじつせん》を御納《おをさ》めなされますれば、手前《てまへ》どもお受取《うけとり》を差上《さしあ》げまして、伊豆屋清兵衞《いづやせいべゑ》、仕切判《しきりばん》を押《お》しまして、其《それ》をば男《をとこ》どもに持參《ぢさん》いたさせ、お供《とも》申《まを》させまするで、神官《しんくわん》の事務所《じむしよ》をさして差出《さしだ》しますれば、奧《おく》の院《ゐん》御參詣《ごさんけい》が叶《かな》ひまする上《うへ》に、御神前《ごしんぜん》に置《お》きまして、お土器《かはらけ》を下《くだ》されまする。其《その》お土器《かはらけ》は葵《あふひ》の御紋《ごもん》つき、これはお持歸《もちかへ》りに成《な》りまして宜《よろ》しう。」彌次《やじ》、「分《わか》つて居《ゐ》やす。」亭主《ていしゆ》、「扨《さて》其《そ》の上《うへ》に又《また》軸物《ぢくもの》を一卷《いつくわん》お頂《いたゞ》きにあひ成《な》りまする儀《ぎ》で、これは、蝋塗《らふぬり》の軸《ぢく》、えゝ、矢張《やはり》其《そ》の葵《あふひ》の御紋附《ごもんつき》で、日光《につくわう》から參《まゐ》りまするもので、手前《てまへ》懇意《こんい》にいたしまする表具屋《へうぐや》の話《はなし》にいたしますると、表裝《へうさう》ばかりでも五十錢《ごじつせん》はかゝりますると申《まを》しまする。即《すなは》ち御先祖樣《ごせんぞさま》御訓戒《ごくんかい》の御文章《ごぶんしやう》にござりまして。」彌次《やじ》、「存《ぞん》じて居《ゐ》やす。」と少《すこ》し焦《じ》れ込《こ》む。亭主《ていしゆ》金《きん》の入齒《いれば》をした口《くち》を閉《と》ぢて、中腰《ちうごし》の膝《ひざ》を支《つ》いた顏《かほ》を仰向《あふむ》けざまに目《め》を瞑《ねむ》つて、「えゝ、」と言《い》つて諳誦《あんしよう》する。馴《な》れたもので、「扨《さて》、人《ひと》の一生《いつしやう》は重荷《おもに》を負《お》うて遠《とほ》き道《みち》を行《ゆ》く如《ごと》し、急《いそ》ぐべからず。不自由《ふじいう》を常《つね》と思《おも》へば、不足《ふそく》なし、心《こゝろ》に望《のぞみ》おこらば困窮《こんきう》したる時《とき》を思出《おもひいだ》すべし、堪忍《かんにん》は無事長久《ぶじちやうきう》の基《もとゐ》、怒《いかり》は敵《てき》と思《おも》へ、勝《か》つ事《こと》ばかり知《し》つて負《ま》くる事《こと》を知《し》らざれば、害《がい》其身《そのみ》にいたる、己《おのれ》を責《せ》めて人《ひと》を責《せ》むるな、及《およ》ばざるは過《す》ぎたるよりはまされり。  慶長《けいちやう》は八年度《はちねんど》にござりますな、慶長八年《けいちやうはちねん》一月《いちぐわつ》十五日《じふごにち》、權現樣《ごんげんさま》お書判《かきはん》が据《すわ》りました、御歌《おうた》がござりまする。 [#ここから4字下げ] 人《ひと》はたゞ身《み》のほどを知《し》れ草《くさ》の葉《は》の     露《つゆ》も重《おも》きは落《お》つるものかな [#ここで字下げ終わり]  彌次《やじ》、「心得《こゝろえ》て居《ゐ》やす。」亭主《ていしゆ》、「えゝ、何方《どちら》になさいまする、二等《にとう》はお神酒頂戴《みきちやうだい》ばかりでげす。」喜多《きた》、「及《およ》ばざるは過《す》ぎたるよりはまされりとサ、彌次《やじ》さん一歩《いちぶ》になさい。」彌次《やじ》、「吝《けち》な事《こと》をいふな、」と二歩《にぶ》出《だ》して、「アイ頼《たの》んます。――金齒《きんば》は癪《しやく》だが、何《なに》も權現樣《ごんげんさま》は御存《ごぞん》じないわさ。」  凡《すべ》て亭主《ていしゆ》の言《げん》の如《ごと》くにして參詣《さんけい》濟《す》む、彌次《やじ》、「何《ど》うだ喜多八《きたはち》、唯《たゞ》恐入《おそれい》つたものだらう、日光《につくわう》が櫻《さくら》なら、此處《こゝ》は梅《うめ》だ、實《み》のある靈廟《おたまや》ぢやあねえか。」喜多《きた》、「そりや言《い》ふまでもありませんが、まあそれより御覽《ごらん》なさい、苫屋《とまや》の屋根《やね》が遙《はる》か目《め》の下《した》に三《み》ツ五《いつ》ツ七《なゝ》ツなど碁盤《ごばん》の目《め》のやうに、白砂《しらすな》の濱《はま》に並《なら》んで、何《ど》うだらう、海《うみ》の蒼《あを》さ、たゞ漣《さゝなみ》の搖《ゆ》れるやうな汀《なぎさ》に、ちらほら小松原《こまつばら》の中《なか》を、鹽汲《しほくみ》が、漂《たゞよ》ふやうな、足取《あしどり》で。」彌次《やじ》、「絶景《ぜつけい》さな、あの霞《かすみ》の中《なか》が伊豆《いづ》の岬《みさき》だ。麗《うらゝか》ぢやないか、正月《しやうぐわつ》の五日《いつか》といふのに、茶屋《ちやや》に外套《ぐわいたう》を脱《ぬ》いで來《き》て、しんみりとした汗《あせ》になつた。何《ど》うだ、此處《こゝ》は一合谷《いちがふだに》といつて、油《あぶら》を一合《いちがふ》沸立《にた》たせて、とろ/\と浴《か》けるだけで、敵《てき》の先陣《せんぢん》は微塵《みぢん》に出來《でき》ると、甲陽《かふやう》の軍師《ぐんし》山本勘助《やまもとかんすけ》が言《い》つた處《ところ》だ。」と遙《はるか》に深《ふか》く石段《いしだん》の下《した》を瞰下《みお》ろす、弓形《ゆみなり》に曲《まが》つた中段《ちうだん》の處《ところ》へ、ほつ/\、奧山椿《おくやまつばき》がこぼれたかと、友禪《いうぜん》と緋縮緬《ひぢりめん》、片褄《かたづま》を端折《はしよ》つて三人《さんにん》づれ、一人《ひとり》の案内《あんない》を連《つ》れて、はら/\と上《あが》つて來《き》た。  近《ちか》づくまゝに、彌次郎《やじらう》、其《そ》の三人《さんにん》の中《なか》にも一人《ひとり》、服裝《みなり》も容色《きりやう》も水際《みづぎは》立《だ》つた夜會結《やくわいむす》びの貴夫人《きふじん》を一目《ひとめ》見《み》ると、顏《かほ》の色《いろ》を變《か》へて、「南無三寶《なむさんばう》、惡《わる》いものが見《み》えたわい。」喜多《きた》、「何處《どこ》の奧方《おくがた》です。」彌次《やじ》、「馬鹿《ばか》を言《い》へ、新橋々々《しんばし/\》。」喜多《きた》、「彼《あれ》が、はてな。」彌次《やじ》、「いや、こりやならぬぞ、豆府《とうふ》を切立《きりた》てたやうな一方口《いつぱうぐち》の此《こ》の山《やま》だ、遁《に》げも隱《かく》れもなることではない、南無三《なむさん》、もう其處《そこ》へ、こりやかなはぬ。」喜多《きた》、「江戸《えど》ツ子《こ》の癖《くせ》に何《なに》をそんなに。」彌次《やじ》、「それ大磯《おほいそ》にござる將棋《しやうぎ》の御前《ごぜん》の例《れい》の物《もの》さ、いづれねだり込《こ》んで遊山《ゆさん》と洒落《しやれ》たに相違《さうゐ》ねえが、何方《いづかた》へも此《こ》の春《はる》は病氣《びやうき》だけれど、件《くだん》の殿樣《とのさま》には尚《なほ》以《もつ》て彌次郎《やじらう》大病《たいびやう》、舊冬《きうとう》より疝氣《せんき》差込《さしこ》みの己《おら》だ、弱《よわ》つたな。」と天窓《あたま》を抱《かゝ》へる。  今《いま》の彌次郎《やじらう》は將棋《しやうぎ》の上手《じやうず》、手足《てあし》を一《ひと》ツづゝ八方《はつぱう》へ引張《ひつぱ》らるゝ、煩《わづら》はしさを病氣《びやうき》と避《さ》けて、遠《とほ》く伸《の》した遊山《ゆさん》の次第《しだい》、大磯《おほいそ》におはします何某《なにがし》の御前《ごぜん》は、素人離《しろうとばな》れのしただけに大《だい》の將棋好《しやうぎずき》、亡《な》くなつた小《こ》さんが十八番《おかぶ》の將棋《しやうぎ》の殿樣《とのさま》を綽名《あだな》に呼《よ》ぶまで、太平《たいへい》の折《をり》からなり、一番乘《いちばんのり》の一番首《いちばんくび》より、彌次《やじ》が坊主頭《ばうずあたま》を壓《おさ》へるのを、畢世《ひつせい》の功名《こうみやう》と、寢《ね》ても覺《さ》めても忘《わす》れぬ執心《しふしん》、其《そ》の人《ひと》お傍《そば》去《さ》らずの婦人《ふじん》、見《み》つかつては、親《おや》の敵《かたき》ほどに遁《のが》しはしまい。  婀娜《あだ》な聲《こゑ》で、「おや、先生《せんせい》。」彌次《やじ》、「平《ひら》に、平《ひら》にお見遁《みのが》し、手前《てまへ》貴女《あなた》を命《いのち》の親《おや》と心得《こゝろえ》る、先《ま》づ以《もつ》て新年《しんねん》お目出《めで》たう。」と、しどろに狼狽《うろたへ》る。美人《びじん》も豫《かね》て心得《こゝろえ》たといふ顏《かほ》して打笑《うちゑ》み、「皆《みんな》がおもりに困《こま》るんですよ、私《わたし》も遊《あそ》びサ、武士《ぶし》は相身互《あひみたがひ》、見遁《みのが》して上《あ》げますよ、ほゝほゝ。」彌次郎《やじらう》吻《ほつ》と呼吸《いき》をして、「先《ま》づ安心《あんしん》、是《これ》で可《よ》し、奇妙《きめう》喜多八《きたはち》」と言《い》ひかけて心着《こゝろづ》いたらしく、急《いそ》いで信玄袋《しんげんぶくろ》から取出《とりだ》した一件《いつけん》もの。  彌次《やじ》大得意《だいとくい》で、「えゝ、お禮《れい》に何《なに》か進《しん》じたいですが、途中《とちう》のこと、爰《こゝ》に新春《しんしゆん》の御祝儀《ごしうぎ》を申上《まをしあ》げよう。」纖弱《きやしや》な、なめし革《がは》の手袋《てぶくろ》のさきで、いとしらしく插《はさ》んで見《み》て、「何《な》んです、先生《せんせい》。」彌次《やじ》、「函嶺《はこね》の土産《みやげ》で友白髮《ともしらが》、はゝはゝ、幾久《いくひさ》しく。」と昂然《かうぜん》として笑《わら》つて、ものをいふ目《め》で、「何《ど》うだ喜多八《きたはち》、奇妙《きめう》喜多八《きたはち》。」 「御緩《ごゆつく》り御參詣《ごさんけい》」と彌次郎《やじらう》揚々《やう/\》として坂《さか》を下《お》りんとするまで、默《だま》つて友白髮《ともしらが》を視《なが》めた美人《びじん》嬌瞋《けうしん》を發《はつ》して、「先生《せんせい》。」彌次《やじ》、「や。」美人《びじん》、「御前《ごぜん》が白髮《しらが》だと思《おも》つて、厭《いや》ですよ私《わたし》を、こんな人《ひと》の惡《わる》いことをなさるなら、もう堪忍《かんにん》して上《あ》げません。」彌次《やじ》、「えゝ。」美人《びじん》、「引張《ひつぱ》つて歸《かへ》るから可《い》い、否《いえ》、何《ど》うせ無理《むり》に願《ねが》つて遊《あそ》びに來《き》たんです、御機嫌《ごきげん》の惡《わる》いのは知《し》れて居《ゐ》ますからね、先生《せんせい》さへ連《つ》れて行《ゆ》きや、どんなにお喜《よろこ》びだか知《し》れないんです。」彌次《やじ》、「これは!」美人《びじん》、「誰《だれ》か一人《ひとり》附《つ》いておいで、遁《にが》しちやなりませんよ。身代《みがは》りよりも大事《だいじ》な方《かた》だから、」彌次《やじ》蒼《あを》くなつて、「助《たす》けてくれ、喜多八《きたはち》、喜多八《きたはち》。」 [#地から5字上げ]明治三十七年一月 底本:「鏡花全集 巻二十七」岩波書店    1942(昭和17)年10月20日第1刷発行    1988(昭和63)年11月2日第3刷発行 初出:「文芸倶楽部 第十巻第一号」博文館    1904(明治37)年1月1日 ※表題は底本では、「道中《だうちう》一枚繪《いちまいゑ》 [#1段階小さな文字]その一[#小さな文字終わり]」となっています。 ※初出時の表題は「友白髪」です。 ※底本の題名の下に書かれている「明治三十七年一月」は本文末に移しました。 ※「小殿原」に対するルビの「ごまめ」と「ことのばら」、「葱」に対するルビの「ねぎ」と「ひともじ」の混在は底本の通りです。 入力:門田裕志 校正:岡村和彦 2024年10月13日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(https://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。