十和田の夏霧 泉鏡太郎 ------------------------------------------------------- 【テキスト中に現れる記号について】 《》:ルビ (例)彼處《かしこ》 [#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定    (数字は、JIS X 0213の面区点番号またはUnicode、底本のページと行数) (例)螈 /\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号) (例)ねば/\ -------------------------------------------------------  彼處《かしこ》に、遙《はるか》に、湖《みづうみ》の只中《たゞなか》なる一點《いつてん》のモーターは、日《ひ》の光《ひかり》に、たゞ青瑪瑙《あをめなう》の瓜《うり》の泛《うか》べる風情《ふぜい》がある。また、行《ゆ》く船《ふね》の、さながら白銀《しろがね》の猪《しゝ》の驅《か》けるが如《ごと》く見《み》えたるも道理《ことわり》よ。水底《みなそこ》には蒼龍《さうりう》のぬしを潛《ひそ》めて、大《おほい》なる蠑螈《ゐもり》の影《かげ》の、藻《も》に亂《みだ》るゝ、と聞《き》くものを。現《げん》に其處《そこ》を漕《こ》いだ我《わ》が友《とも》の語《かた》れるは、水深《すゐしん》、實《じつ》に一千二百尺《いつせんにひやくしやく》といふとともに、青黒《あをぐろ》き水《みづ》は漆《うるし》と成《な》つて、梶《かぢ》は辷《すべ》り櫓《ろ》は膠《にかは》し、ねば/\と捲《ま》かるゝ心地《こゝち》して、船《ふね》は其《そ》のまゝに人《ひと》の生《は》えた巖《いは》に化《くわ》しさうで、もの凄《すご》かつた、とさへ言《い》ふのである。私《わたし》は休屋《やすみや》の宿《やど》の縁《えん》に――床《ゆか》は高《たか》く、座敷《ざしき》は廣《ひろ》し、襖《ふすま》は新《あたら》しい――肘枕《ひぢまくら》して視《なが》めて居《ゐ》た。草《くさ》がくれの艫《とも》に、月見草《つきみさう》の咲《さ》いた、苫掛船《とまかけぶね》が、つい手《て》の屆《とゞ》くばかりの處《ところ》、白砂《しらすな》に上《あが》つて居《ゐ》て、やがて蟋蟀《こほろぎ》の閨《ねや》と思《おも》はるゝのが、數百《すうひやく》一群《ひとむれ》の赤蜻蛉《あかとんぼ》の、羅《うすもの》の羽《はね》をすいと伸《のば》し、すつと舞《ま》ふにつれて、サ、サ、サと音《おと》が聞《き》こえて、うつゝに蘆間《あしま》の漣《さゝなみ》へ動《うご》いて行《ゆ》くやうである。苫《とま》を且《か》つ覆《おほ》うて、薄《すゝき》の穗《ほ》も靡《なび》きつゝ、旅店《りよてん》の午《ご》は靜《しづか》に、蝉《せみ》も鳴《な》かない。颯《さつ》と風《かぜ》が吹《ふ》いて來《く》る、と、いまの天氣《てんき》を消《け》したやうに、忽《たちま》ちかげつて、冷《つめ》たい小雨《こさめ》が麻絲《あさいと》を亂《みだ》して、其《そ》の苫《とま》に、斜《なゝめ》にすら/\と降《ふ》りかゝる。すぐ又《また》、沖《おき》から晴《は》れかゝる。時《とき》に、薄霧《うすぎり》が、紙帳《しちやう》を伸《の》べて、蜻蛉《とんぼ》の色《いろ》はちら/\と、錦葉《もみぢ》の唄《うた》を描《ゑが》いた。八月六日《はちぐわつむいか》の日《ひ》と覺《おぼ》えて居《ゐ》る。むら雨《さめ》を吹通《ふきとほ》した風《かぜ》に、大火鉢《おほひばち》の貝殼灰《かひがらばひ》――これは大降《おほぶり》のあとの昨夜《さくや》の泊《とま》りに、何《なん》となく寂《さみ》しかつた――それが日《ひ》ざかりにも寒《さむ》かつた。 [#地から5字上げ]昭和五年十一月 底本:「鏡花全集 巻二十七」岩波書店    1942(昭和17)年10月20日第1刷発行    1988(昭和63)年11月2日第3刷発行 ※題名の下にあった年代の注を、最後に移しました。 ※表題は底本では、「十和田《とわだ》の夏霧《なつぎり》」とルビがついています。 入力:門田裕志 校正:川山隆 2011年8月6日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。