雨ふり 泉鏡太郎 ------------------------------------------------------- 【テキスト中に現れる記号について】 《》:ルビ (例)一瀬《ひとせ》 |:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号 (例)二《に》ヶ|所《しよ》 [#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定    (数字は、JIS X 0213の面区点番号またはUnicode、底本のページと行数) (例)𢌞 /\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号) (例)しと/\ *濁点付きの二倍の踊り字は「/″\」 -------------------------------------------------------  一瀬《ひとせ》を低《ひく》い瀧《たき》に颯《さつ》と碎《くだ》いて、爽《さわや》かに落《お》ちて流《なが》るゝ、桂川《かつらがは》の溪流《けいりう》を、石疊《いしだたみ》で堰《せ》いた水《みづ》の上《うへ》を堰《せき》の其《そ》の半《なか》ばまで、足駄穿《あしだばき》で渡《わた》つて出《で》て、貸浴衣《かしゆかた》の尻《しり》からげ。梢《こずゑ》は三階《さんがい》の高樓《かうろう》の屋根《やね》を抽《ぬ》き、枝《えだ》は川《かは》の半《なか》ばへ差蔽《さしおほ》うた槻《けやき》の下《した》に、片手《かたて》に番傘《ばんがさ》を、トンと肩《かた》に持《も》たせながら、片手釣《かたてづり》で輕《かる》く岩魚《いはな》を釣《つ》つて居《ゐ》る浴客《よくきやく》の姿《すがた》が見《み》える。  片足《かたあし》は、水《みづ》の落口《おちくち》に瀬《せ》を搦《から》めて、蘆《あし》のそよぐが如《ごと》く、片足《かたあし》は鷺《さぎ》の眠《ねむ》つたやうに見《み》える。……堰《せき》の上《かみ》の水《みづ》は一際《ひときは》青《あを》く澄《す》んで靜《しづか》である。其處《そこ》には山椿《やまつばき》の花片《はなびら》が、此《こ》のあたり水中《すゐちう》の岩《いは》を飛《と》び岩《いは》を飛《と》び、胸毛《むなげ》の黄色《きいろ》な鶺鴒《せきれい》の雌鳥《めんどり》が含《ふく》みこぼした口紅《くちべに》のやうに浮《う》く。  雨《あめ》はしと/\と降《ふ》るのである。上流《じやうりう》の雨《あめ》は、うつくしき雫《しづく》を描《ゑが》き、下流《かりう》は繁吹《しぶき》に成《な》つて散《ち》る。しと/\と雨《あめ》が降《ふ》つて居《ゐ》る。  このくらゐの雨《あめ》は、竹《たけ》の子《こ》笠《がさ》に及《およ》ぶものかと、半纏《はんてん》ばかりの頬被《ほゝかぶり》で、釣棹《つりざを》を、刺《さ》いて見《み》しよ、と腰《こし》にきめた村男《むらをとこ》が、山笹《やまざさ》に七八尾《しちはつぴき》、銀色《ぎんいろ》の岩魚《いはな》を徹《とほ》したのを、得意顏《したりがほ》にぶら下《さ》げつゝ、若葉《わかば》の陰《かげ》を岸《きし》づたひに、上流《じやうりう》の一本橋《いつぽんばし》の方《はう》からすた/\と跣足《はだし》で來《き》た。が、折《をり》からのたそがれに、瀬《せ》は白《しろ》し、氣《き》を籠《こ》めて、くる/\くる、カカカと音《ね》を調《しら》ぶる、瀧《たき》の下《した》なる河鹿《かじか》の聲《こゑ》に、歩《あゆみ》を留《と》めると、其處《そこ》の釣人《つりて》を、じろりと見遣《みや》つて、空《むな》しい渠《かれ》の腰《こし》つきと、我《わ》が獲《え》ものとを見較《みくら》べながら、かたまけると云《い》ふ笑方《ゑみかた》の、半面《はんめん》大《おほ》ニヤリにニヤリとして、岩魚《いはな》を一振《ひとふり》、ひらめかして、また、すた/\。……で、すこし岸《きし》をさがつた處《ところ》で、中流《ちうりう》へ掛渡《かけわた》した歩板《あゆみいた》を渡《わた》ると、其處《そこ》に木小屋《きごや》の柱《はしら》ばかり、圍《かこひ》の疎《あら》い「獨鈷《とつこ》の湯《ゆ》。」がある。――屋根《やね》を葺《ふ》いても、板《いた》を打《う》つても、一雨《ひとあめ》強《つよ》くかゝつて、水嵩《みづかさ》が増《ま》すと、一堪《ひとたま》りもなく押流《おしなが》すさうで、いつも然《さ》うしたあからさまな體《てい》だと云《い》ふ。――  半纏着《はんてんぎ》は、水《みづ》の淺《あさ》い石《いし》を起《おこ》して、山笹《やまざさ》をひつたり挾《はさ》んで、細流《さいりう》に岩魚《いはな》を預《あづ》けた。溌剌《はつらつ》と言《い》ふのは此《これ》であらう。水《みづ》は尾鰭《をひれ》を泳《およ》がせて岩《いは》に走《はし》る。そのまゝ、すぼりと裸體《はだか》に成《な》つた。半纏《はんてん》を脱《ぬ》いだあとで、頬《ほゝ》かぶりを取《と》つて、ぶらりと提《さ》げると、すぐに湯氣《ゆげ》とともに白《しろ》い肩《かた》、圓《まる》い腰《こし》の間《あひだ》を分《わ》けて、一個《いつこ》、忽《たちま》ち、ぶくりと浮《う》いた茶色《ちやいろ》の頭《あたま》と成《な》つて、そしてばちや/\と湯《ゆ》を溌《は》ねた。  時《とき》に、其《そ》の一名《いちめい》、弘法《こうぼふ》の湯《ゆ》の露呈《あらは》なことは、白膏《はくこう》の群像《ぐんざう》とまでは行《い》かないが、順禮《じゆんれい》、道者《だうじや》、村《むら》の娘《むすめ》、嬰兒《あかんぼ》を抱《だ》いた乳《ちゝ》も浮《う》く……在《ざい》の女房《にようばう》も入交《いれまじ》りで、下積《したづみ》の西洋畫《せいやうぐわ》を川《かは》で洗濯《せんたく》する風情《ふぜい》がある。  この共同湯《きようどうゆ》の向《むか》う傍《がは》は、淵《ふち》のやうにまた水《みづ》が青《あを》い。對岸《たいがん》の湯宿《ゆやど》の石垣《いしがき》に咲《さ》いた、枝《えだ》も撓《たわゝ》な山吹《やまぶき》が、ほのかに影《かげ》を淀《よど》まして、雨《あめ》は細《ほそ》く降《ふ》つて居《ゐ》る。湯氣《ゆげ》が霞《かすみ》の凝《こ》つたやうにたなびいて、人々《ひと/″\》の裸像《らざう》は時《とき》ならぬ朧月夜《おぼろづきよ》の影《かげ》を描《ゑが》いた。  肝心《かんじん》な事《こと》を言忘《いひわす》れた。――木戸錢《きどせん》はおろか、遠方《ゑんぱう》から故々《わざ/\》汽車賃《きしやちん》を出《だ》して、お運《はこ》びに成《な》つて、これを御覽《ごらん》なさらうとする道徳家《だうとくか》、信心者《しんじんしや》があれば、遮《さへぎ》つてお留《と》め申《まを》す。――如何《いかん》となれば、座敷《ざしき》の肱掛窓《ひぢかけまど》や、欄干《らんかん》から、かゝる光景《くわうけい》の見《み》られるのは、年《ねん》に唯《たゞ》一兩度《いちりやうど》ださうである。時候《じこう》と、時《とき》と、光線《くわうせん》の、微妙《びめう》な配合《はいがふ》によつて、しかも、品行《ひんかう》の方正《はうせい》なるものにのみあらはるゝ幻影《まぼろし》だと、宿《やど》の風呂番《ふろばん》の(信《しん》さん)が言《い》つた。――案《あん》ずるに、此《これ》は修善寺《しゆぜんじ》の温泉《いでゆ》に於《お》ける、河鹿《かじか》が吐《は》く蜃氣樓《しんきろう》であるらしい。かた/″\、そんな事《こと》はあるまいけれども、獨鈷《とつこ》の湯《ゆ》の恁《かゝ》る状態《じやうたい》をあてにして、お出《で》かけに成《な》つては不可《いけな》い。……  ゴウーンと雨《あめ》に籠《こも》つて、修禪寺《しゆぜんじ》の暮《くれ》六《む》つの鐘《かね》が、かしらを打《う》つと、それ、ふツと皆《みな》消《き》えた。……むく/\と湯氣《ゆげ》ばかり。堰《せき》に釣《つり》をする、番傘《ばんがさ》の客《きやく》も、槻《けやき》に暗《くら》くなつて、もう見《み》えぬ。  葉末《はずゑ》の電燈《でんとう》が雫《しづく》する。  女中《ぢよちう》が廊下《らうか》を、ばた/\と膳《ぜん》を運《はこ》んで來《き》た。有難《ありがた》い、一銚子《ひとてうし》。床《とこ》の櫻《さくら》もしつとりと盛《さかり》である。  が、取立《とりた》てて春雨《はるさめ》のこの夕景色《ゆふげしき》を話《はな》さうとするのが趣意《しゆい》ではない。今度《こんど》の修善寺《しゆぜんじ》ゆきには、お土産話《みやげばなし》が一《ひと》つある。  何事《なにごと》も、しかし、其《そ》の的《まと》に打撞《ぶつか》るまでには、弓《ゆみ》と云《い》へども道中《だうちう》がある。醉《よ》つて言《い》ふのではないけれども、ひよろ/\矢《や》の夜汽車《よぎしや》の状《さま》から、御一覽《ごいちらん》を願《ねが》ふとしよう。  先《まづ》以《もつ》て、修善寺《しゆぜんじ》へ行《ゆ》くのに夜汽車《よぎしや》は可笑《をかし》い。其處《そこ》に仔細《しさい》がある。たま/\の旅行《りよかう》だし、靜岡《しづをか》まで行程《ゆき》を伸《の》して、都合《つがふ》で、あれから久能《くのう》へ𢌞《まは》つて、龍華寺《りうげじ》――一方《ひとかた》ならず、私《わたし》のつたない作《さく》を思《おも》つてくれた齋藤信策《さいとうしんさく》(野《の》の人《ひと》)さんの墓《はか》がある――其處《そこ》へ參詣《さんけい》して、蘇鐵《そてつ》の中《なか》の富士《ふじ》も見《み》よう。それから清水港《しみづみなと》を通《とほ》つて、江尻《えじり》へ出《で》ると、もう大分《だいぶん》以前《いぜん》に成《な》るが、神田《かんだ》の叔父《をぢ》と一所《いつしよ》の時《とき》、わざとハイカラの旅館《りよくわん》を逃《に》げて、道中繪《だうちうゑ》のやうな海道筋《かいだうすぢ》、町屋《まちや》の中《なか》に、これが昔《むかし》の本陣《ほんぢん》だと叔父《をぢ》が言《い》つただゞつ廣《ぴろ》い中土間《なかどま》を奧《おく》へ拔《ぬ》けた小座敷《こざしき》で、お平《ひら》についた長芋《ながいも》の厚切《あつぎり》も、大鮪《おほまぐろ》の刺身《さしみ》の新《あたら》しさも覺《おぼ》えて居《ゐ》る。「いま通《とほ》つて來《き》た。あの土間《どま》の處《ところ》に腰《こし》を掛《か》けてな、草鞋《わらぢ》で一飯《したく》をしたものよ。爐端《ろばた》で挨拶《あいさつ》をした、面長《おもなが》な媼《ばあ》さんを見《み》たか。……其《そ》の時分《じぶん》は、島田髷《しまだまげ》で惱《なや》ませたぜ。」と、手酌《てじやく》で引《ひつ》かけながら叔父《をぢ》が言《い》つた――古《ふる》い旅籠《はたご》も可懷《なつかし》い。……  それとも、靜岡《しづをか》から、すぐに江尻《えじり》へ引返《ひきかへ》して、三保《みほ》の松原《まつばら》へ飛込《とびこ》んで、天人《てんにん》に見參《けんざん》し、きものを欲《ほ》しがる連《つれ》の女《をんな》に、羽衣《はごろも》、瓔珞《えうらく》を拜《をが》ませて、小濱《こはま》や金紗《きんしや》のだらしなさを思知《おもひし》らさう、ついでに萬葉《まんえふ》の印《いん》を結《むす》んで、山邊《やまべ》の赤人《あかひと》を、桃《もゝ》の花《はな》の霞《かすみ》に顯《あら》はし、それ百人一首《ひやくにんいつしゆ》の三枚《さんまい》めだ……田子《たご》の浦《うら》に打出《うちい》でて見《み》れば白妙《しろたへ》の――ぢやあない、……田子《たご》の浦《うら》ゆ、さ、打出《うちい》でて見《み》れば眞白《ましろ》にぞ、だと、ふだん亭主《ていしゆ》を彌次喜多《やじきた》に扱《あつか》ふ女《をんな》に、學問《がくもん》のある處《ところ》を見《み》せてやらう。たゞしどつち道《みち》資本《もと》が掛《かゝ》る。  湯治《たうぢ》を幾日《いくにち》、往復《わうふく》の旅錢《りよせん》と、切詰《きりつ》めた懷中《ふところ》だし、あひ成《な》りませう事《こと》ならば、其《そ》の日《ひ》のうちに修善寺《しゆぜんじ》まで引返《ひきかへ》して、一旅籠《ひとはたご》かすりたい。名案《めいあん》はないかな、と字《じ》の如《ごと》く案《あん》ずると……あゝ、今《いま》にして思當《おもひあた》つた。人間《にんげん》朝起《あさおき》をしなけりや不可《いけな》い。東京驛《とうきやうえき》を一番《いちばん》で立《た》てば、無理《むり》にも右樣《みぎやう》の計略《けいりやく》の行《おこな》はれない事《こと》もなささうだが、籠城《ろうじやう》難儀《なんぎ》に及《およ》んだ處《ところ》で、夜討《ようち》は眞似《まね》ても、朝《あさ》がけの出來《でき》ない愚將《ぐしやう》である。碎《くだ》いて言《い》へば、夜逃《よにげ》は得手《えて》でも、朝旅《あさたび》の出來《でき》ない野郎《やらう》である。あけ方《がた》の三時《さんじ》に起《お》きて、たきたての御飯《ごはん》を掻込《かつこ》んで、四時《よじ》に東京驛《とうきやうえき》などとは思《おも》ひも寄《よ》らない。――名案《めいあん》はないかな――こゝへ、下町《したまち》の姉《ねえ》さんで、つい此間《このあひだ》まで、震災《しんさい》のために逃《に》げて居《ゐ》た……元來《ぐわんらい》、靜岡《しづをか》には親戚《しんせき》があつて、地《ち》の理《り》に明《あきら》かな、粹《いき》な軍師《ぐんし》が顯《あら》はれた。 「……九時五十分《くじごじつぷん》かの終汽車《しまひぎしや》で、東京《とうきやう》を出《で》るんです。……靜岡《しづをか》へ、丁《ちやう》ど、夜《よ》あけに着《つ》きますから。其《それ》だと、どつちを見《けん》ぶつしても、其《そ》の日《ひ》のうちに修善寺《しゆぜんじ》へ參《まゐ》られますよ。」  妙《めう》。  奇《き》なる哉《かな》、更《さら》に一時間《いちじかん》いくらと言《い》ふ……三保《みほ》の天女《てんによ》の羽衣《はごろも》ならねど、身《み》にお寶《たから》のかゝる其《そ》の姉《ねえ》さんが、世話《せわ》になつた禮《れい》かた/″\、親類《しんるゐ》へ用《よう》たしもしたいから、お差支《さしつか》へなくば御一所《ごいつしよ》に、――お差支《さしつか》へ?……おつしやるもんだ! 至極《しごく》結構《けつこう》。で、たゞ匁《もんめ》で連出《つれだ》す算段《さんだん》。あゝ、紳士《しんし》、客人《きやくじん》には、あるまじき不料簡《ふれうけん》を、うまれながらにして喜多八《きたはち》の性《しやう》をうけたしがなさに、忝《かたじけね》えと、安敵《やすがたき》のやうな笑《ゑみ》を漏《も》らした。  處《ところ》で、その、お差支《さしつかへ》のなさを裏《うら》がきするため、豫《かね》て知合《しりあひ》ではあるし、綴蓋《とぢぶた》の喜多《きた》の家内《かない》が、折《をり》からきれめの鰹節《かつをぶし》を亻《にんべん》へ買出《かひだ》しに行《ゆ》くついでに、その姉《ねえ》さんの家《うち》へ立寄《たちよ》つて、同行三人《どうかうさんにん》の日取《ひどり》をきめた。  ――一寸《ちよつと》、ふでを休《やす》めて、階子段《はしごだん》へ起《た》つて、したの長火鉢《ながひばち》を呼《よ》んで曰《いは》く、 「……それ、何《なに》――あの、みやげに持《も》つて行《い》つた勘茂《かんも》の半《はん》ぺんは幾《いく》つだつけ。」 「だしぬけに何《なん》です。……五《いつ》つ。」 「五《いつ》つか――私《わたし》はまた二《ふた》つかと思《おも》つた。」 「唯《たつ》た二《ふた》つ……」 「だつて彼家《あすこ》は二人《ふたり》きりだからさ。」 「見《み》つともないことをお言《い》ひなさいな。」 「よし、あひ分《わか》つた。」  五《いつ》つださうで。……其《それ》を持參《ぢさん》で、取極《とりき》めた。たつたのは、日曜《にちえう》に當《あた》つたと思《おも》ふ。念《ねん》のため、新聞《しんぶん》の欄外《らんぐわい》を横《よこ》に覗《のぞ》くと、その終列車《しうれつしや》は糸崎行《いとざきゆき》としてある。――糸崎行《いとざきゆき》――お恥《はづ》かしいが、私《わたし》に其《そ》の方角《はうがく》が分《わか》らない。棚《たな》の埃《ほこり》を拂《はら》ひながら、地名辭典《ちめいじてん》の索引《さくいん》を繰《く》ると、糸崎《いとざき》と言《い》ふのが越前國《ゑちぜんのくに》と備前國《びぜんのくに》とに二《に》ヶ|所《しよ》ある。私《わたし》は東西《とうざい》、いや西北《せいほく》に迷《まよ》つた。――敢《あへ》て子供衆《こどもしう》に告《つ》げる。學校《がくかう》で地理《ちり》を勉強《べんきやう》なさい。忘《わす》れては不可《いけ》ません。さて、どつち道《みち》、靜岡《しづをか》を通《とほ》るには間違《まちがひ》のない汽車《きしや》だから、人《ひと》に教《をしへ》を受《う》けないで濟《す》ましたが、米原《まいばら》で𢌞《まは》るのか、岡山《をかやま》へ眞直《まつすぐ》か、自分《じぶん》たちの乘《の》つた汽車《きしや》の行方《ゆくへ》を知《し》らない、心細《こゝろぼそ》さと言《い》つてはない。しかも眞夜中《まよなか》の道中《だうちう》である。箱根《はこね》、足柄《あしがら》を越《こ》す時《とき》は、内證《ないしよう》で道組神《だうそじん》を拜《をが》んだのである。  處《ところ》で雨《あめ》だ。當日《たうじつ》は朝《あさ》のうちから降出《ふりだ》して、出掛《でかけ》ける頃《ころ》は横《よこ》しぶきに、どつと風《かぜ》さへ加《くは》はつた。天《てん》の時《とき》は雨《あめ》ながら、地《ち》の理《り》は案内《あんない》の美人《びじん》を得《え》たぞと、もう山葵漬《わさびづけ》を箸《はし》の尖《さき》で、鯛飯《たひめし》を茶漬《ちやづけ》にした勢《いきほひ》で、つい此頃《このごろ》筋向《すぢむかひ》の弴《とん》さんに教《をしへ》をうけた、市《いち》ヶ|谷《や》見附《みつけ》の鳩《はと》じるしと言《い》ふ、やすくて深切《しんせつ》なタクシイを飛《と》ばして、硝子窓《がらすまど》に吹《ふき》つける雨模樣《あまもやう》も、おもしろく、馬《うま》に成《な》つたり駕籠《かご》に成《な》つたり、松並木《まつなみき》に成《な》つたり、山《やま》に成《な》つたり、嘘《うそ》のないところ、溪河《たにがは》に流《なが》れたりで、東京驛《とうきやうえき》に着《つ》いたのは、まだ三十分《さんじつぷん》ばかり發車《はつしや》に間《ま》のある頃《ころ》であつた。  水《みづ》を打《う》つたとは此《こ》の事《こと》、停車場《ステエシヨン》は割《わり》に靜《しづか》で、しつとりと構内《こうない》一面《いちめん》に濡《ぬ》れて居《ゐ》る。赤帽君《あかばうくん》に荷物《にもつ》を頼《たの》んで、廣《ひろ》い處《ところ》をずらりと見渡《みわた》したが、約束《やくそく》の同伴《つれ》はまだ來《き》て居《ゐ》ない。――大𢌞《おほまは》りには成《な》るけれど、呉服橋《ごふくばし》を越《こ》した近《ちか》い處《ところ》に、バラツクに住《す》んで居《ゐ》る人《ひと》だから、不斷《ふだん》の落着家《おちつきや》さんだし、悠然《いうぜん》として、やがて來《こ》よう。 「靜岡《しづをか》まで。」  と切符《きつぷ》を三枚《さんまい》頼《たの》むと、つれを搜《さが》してきよろついた樣子《やうす》を案《あん》じて、赤帽君《あかばうくん》は深切《しんせつ》であつた。 「三枚《さんまい》?」 「つれが來《き》ます。」 「あゝ、成程《なるほど》。」  突立《つツた》つて居《ゐ》ては出入《ではひ》りの邪魔《じやま》にもなりさうだし、とば口《くち》は吹降《ふきぶ》りの雨《あめ》が吹込《ふきこ》むから、奧《おく》へ入《はひ》つて、一度《いちど》覗《のぞ》いた待合《まちあひ》へ憩《やす》んだが、人《ひと》を待《ま》つのに、停車場《ステエシヨン》で時《とき》の針《はり》の進《すゝ》むほど、胸《むね》のあわたゞしいものはない。「こんな時《とき》は電話《でんわ》があるとな。」「もう見《み》えませう。――こゝにいらつしやい。……私《わたし》が行《い》つて見張《みは》つて居《ゐ》ます。」家内《かない》はまた外《そと》へ出《で》て行《い》つた。少々《せう/\》寒《さむ》し、不景氣《ふけいき》な薄外套《うすぐわいたう》の袖《そで》を貧乏《びんぼふ》ゆすりにゆすつて居《ゐ》ると、算木《さんぎ》を四角《しかく》に並《なら》べたやうに、クツシヨンに席《せき》を取《と》つて居《ゐ》た客《きやく》が、そちこちばら/\と立掛《たちかゝ》る。……「やあ」と洋杖《ステツキ》をついて留《と》まつて、中折帽《なかをればう》を脱《と》つた人《ひと》がある。すぐに私《わたし》と口早《くちばや》に震災《しんさい》の見舞《みまひ》を言交《いひかは》した。花月《くわげつ》の平岡權八郎《ひらをかごんぱちらう》さんであつた。「どちらへ。」「私《わたし》は人《ひと》を一寸《ちよつと》送《おく》りますので。」「終汽車《しまひぎしや》ではありますまいね。それだと靜《じつ》としては居《ゐ》られない。」「神戸行《かうべゆき》のです。」「私《わたし》はそのあとので、靜岡《しづをか》まで行《ゆ》くんですが、糸崎《いとざき》と言《い》ふのは何處《どこ》でせう。」「さあ……」と言《い》つた、洋行《やうかう》がへりの新橋《しんばし》のちやき/\も、同《おな》じく糸崎《いとざき》を知《し》らなかつた。  此《こ》の一《ひと》たてが、ぞろ/\と出《で》て行《ゆ》くと、些《ち》と大袈裟《おほげさ》のやうだが待合室《まちあひしつ》には、あとに私《わたし》一人《ひとり》と成《な》つた。それにしても靜《じつ》としては居《ゐ》られない。……行《ゆき》――行《ゆき》と、呼《よ》ぶのが、何《ど》うやら神戸行《かうべゆき》を飛越《とびこ》して、糸崎行《いとざきゆき》――と言《い》ふやうに寂《さび》しく聞《きこ》える。急《いそ》いで出《で》ると、停車場《ステエシヨン》の入口《いりくち》に、こゝにも唯《たゞ》一人《ひとり》、コートの裾《すそ》を風《かぜ》に颯《さつ》と吹《ふき》まどはされながら、袖《そで》をしめて、しよぼ濡《ぬ》れたやうに立《た》つて、雨《あめ》に流《なが》るゝ燈《ひ》の影《かげ》も見《み》はぐるまいと立《た》つて居《ゐ》る。 「來《き》ませんねえ。」 「來《こ》ないなあ。」  しかし、十時四十八分發《じふじよんじふはちふんはつ》には、まだ十分間《じつぷんかん》ある、と見較《みくら》べると、改札口《かいさつぐち》には、知《し》らん顏《かほ》で、糸崎行《いとざきゆき》の札《ふだ》が掛《かゝ》つて、改札《かいさつ》のお係《かゝり》は、剪《はさみ》で二《ふた》つばかり制服《せいふく》の胸《むね》を叩《たゝ》いて、閑也《かんなり》と濟《す》まして居《ゐ》らるゝ。此《これ》を見《み》ると、私《わたし》は富札《とみふだ》がカチンと極《きま》つて、一分《いちぶ》で千兩《せんりやう》とりはぐしたやうに氣拔《きぬ》けがした。が、ぐつたりとしては居《ゐ》られない。改札口《かいさつぐち》の閑也《かんなり》は、もう皆《みな》乘込《のりこん》だあとらしい。「確《たしか》に十分《じつぷん》おくれましたわね、然《さ》ういへば、十時五十分《じふじごじつぷん》とか言《い》つて居《ゐ》なすつたやうでした。――時間《じかん》が變《かは》つたのかも知《し》れません。」恁《か》う言《い》ふ時《とき》は、七三《しちさん》や、耳《みゝ》かくしだと時間《じかん》に間違《まちが》ひはなからう。――わがまゝのやうだけれど、銀杏返《いてふがへし》や圓髷《まるまげ》は不可《いけな》い。「だらしはないぜ、馬鹿《ばか》にして居《ゐ》る。」が、憤《いきどほ》つたのでは決《けつ》してない。一寸《ちよつと》の旅《たび》でも婦人《をんな》である。髮《かみ》も結《ゆ》つたらうし衣服《きもの》も着換《きか》へたらうし、何《なに》かと支度《したく》をしたらうし、手荷《てに》もつを積《つ》んで、車《くるま》でこゝへ駈《か》けつけて、のりおくれて、雨《あめ》の中《なか》を歸《かへ》るのを思《おも》ふとあはれである。「五分《ごふん》あれば間《ま》にあひませう。」其處《そこ》で、別《べつ》の赤帽君《あかばうくん》の手透《てすき》で居《ゐ》るのを一人《ひとり》頼《たの》んで、その分《ぶん》の切符《きつぷ》を託《ことづ》けた。こゝへ駈《か》けつけるのに人數《ひとかず》は恐《おそ》らくなからう、「あなた氣《き》をつけてね、脊《せ》のすらりとした容子《ようす》のいゝ、人柄《ひとがら》な方《かた》が見《み》えたら大急《おほいそ》ぎで渡《わた》して下《くだ》さい。」畜生《ちくしやう》、驕《おご》らせてやれ――女《をんな》の口《くち》で赤帽君《あかばうくん》に、恁《か》う言《い》つた。 「お氣《き》の毒樣《どくさま》です。――おつれはもう間《ま》に合《あ》ひません。……切符《きつぷ》はチツキを入《い》れませんから、代價《だいか》の割戻《わりもど》しが出來《でき》ます。」  もう動《うご》き出《だ》した汽車《きしや》の窓《まど》に、する/\と縋《すが》りながら、 「お歸途《かへり》に、二十四――と呼《よ》んで下《くだ》さい。その時《とき》お渡《わた》し申《まを》しますから。」  糸崎行《いとざきゆき》の此《こ》の列車《れつしや》は、不思議《ふしぎ》に絲《いと》のやうに細長《ほそなが》い。いまにも遙《はるか》な石壇《いしだん》へ、面長《おもなが》な、白《しろ》い顏《かほ》、褄《つま》の細《ほそ》いのが駈上《かけあが》らうかと且《か》つ危《あやぶ》み、且《か》つ苛《いら》ち、且《か》つ焦《じ》れて、窓《まど》から半身《はんしん》を乘《の》り出《だ》して居《ゐ》た私《わたし》たちに、慇懃《いんぎん》に然《さ》う言《い》つてくれた。  ――後日《ごじつ》、東京驛《とうきやうえき》へ歸《かへ》つた時《とき》、居合《ゐあ》はせた赤帽君《あかばうくん》に、その二十四――のを聞《き》くと、丁《ちやう》ど非番《ひばん》で休《やす》みだと云《い》ふ。用《よう》をきいて、ところを尋《たづ》ねるから、麹町《かうぢまち》を知《し》らして歸《かへ》ると、すぐその翌日《よくじつ》、二十四――の赤帽君《あかばうくん》が、わざ/\山《やま》の手《て》の番町《ばんちやう》まで、「御免《ごめん》下《くだ》さいまし。」と丁寧《ていねい》に門《かど》をおとづれて、切符代《きつぷだい》を返《かへ》してくれた。――此《こ》の人《ひと》ばかりには限《かぎ》らない。靜岡《しづをか》でも、三島《みしま》でも、赤帽君《あかばうくん》のそれぞれは、皆《みな》もの優《やさ》しく深切《しんせつ》であつた。――お禮《れい》を申《まを》す。  淺葱《あさぎ》の暗《くら》い、クツシヨンも又《また》細長《ほそなが》い。室《しつ》は悠々《いう/\》とすいて居《ゐ》た。が、何《なん》となく落着《おちつ》かない。「呼《よ》んだら聞《きこ》えさうですね。」「呉服橋《ごふくばし》の上《うへ》あたりで、此《こ》のゴーと言《い》ふ奴《やつ》を聞《き》いてるかも知《し》れない。」「驛前《えきまへ》のタクシイなら、品川《しながは》で間《ま》に合《あ》ふかも知《し》れませんよ。」「そんな事《こと》はたゞ話《はなし》だよ。」唯《と》、バスケツトの上《うへ》に、小取𢌞《ことりまは》しに買《か》つたらしい小形《こがた》の汽車案内《きしやあんない》が一册《いつさつ》ある。此《これ》が私《わたし》たちの近所《きんじよ》にはまだなかつた。震災後《しんさいご》は發行《はつかう》が後《おく》れるのださうである。  いや、張合《はりあひ》もなく開《ひら》くうち、「あゝ、品川《しながは》ね。」カタリと窓《まど》を開《あ》けて、家内《かない》が拔出《ぬけだ》しさうに窓《まど》を覗《のぞ》いた。「駄目《だめ》だよ。」その癖《くせ》私《わたし》も覗《のぞ》いた。……二人《ふたり》三人《さんにん》、乘組《のりく》んだのも何處《どこ》へか消《き》えたやうに、もう寂寞《ひつそり》する。幕《まく》を切《き》つて扉《とびら》を下《お》ろした。風《かぜ》は留《や》んだ。汽車《きしや》は糠雨《ぬかあめ》の中《なか》を陰々《いん/\》として行《ゆ》く。早《はや》く、さみしい事《こと》は、室内《しつない》は、一人《ひとり》も殘《のこ》らず長々《なが/\》と成《な》つて、毛布《まうふ》に包《つゝ》まつて、皆《みな》寢《ね》て居《ゐ》る。  東枕《ひがしまくら》も、西枕《にしまくら》も、枕《まくら》したまゝ何處《どこ》をさして行《ゆ》くのであらう。汽車案内《きしやあんない》の細字《さいじ》を、しかめ面《づら》で恁《か》う透《すか》すと、分《わか》つた――遙々《はる/″\》と京《きやう》大阪《おほさか》、神戸《かうべ》を通《とほ》る……越前《ゑちぜん》ではない、備前國《びぜんのくに》糸崎《いとざき》である。と、發着《はつちやく》の驛《えき》を靜岡《しづをか》へ戻《もど》して繰《く》ると、「や、此奴《こいつ》は弱《よわ》つた。」思《おも》はず聲《こゑ》を出《だ》して呟《つぶや》いた。靜岡着《しづをかちやく》は午前《ごぜん》まさに四時《よじ》なのであつた。いや、串戲《じようだん》ではない。午前《ごぜん》などと文化《ぶんくわ》がつたり、朝《あさ》がつたりしては居《ゐ》られない。此《こ》の頃《ごろ》ではまだ夜半《よなか》ではないか。南洋《なんやう》から土人《どじん》が來《き》ても、夜中《よなか》に見物《けんぶつ》が出來《でき》るものか。「此奴《こいつ》は弱《よわ》つた。」――件《くだん》の同伴《つれ》でないつれの案内《あんない》では、あけ方《がた》と言《い》つたのだが、此方《こちら》に遠《とほ》き慮《おもんぱかり》がなかつた。その人《ひと》のゆききしたのは震災《しんさい》のぢきあとだから、成程《なるほど》、その頃《ころ》だと夜《よ》があける。――此《こ》の時間《じかん》前後《ぜんご》の汽車《きしや》は、六月《ろくぐわつ》、七月《しちぐわつ》だと國府津《こふづ》でもう明《あかる》くなる。八月《はちぐわつ》の聲《こゑ》を聞《き》くと富士驛《ふじえき》で、まだ些《ちつ》と待《ま》たないと、東《ひがし》の空《そら》がしらまない。私《わたし》は前年《ぜんねん》、身延《みのぶ》へ參《まゐ》つたので知《し》つて居《ゐ》る。 「あの、此《こ》の汽車《きしや》が、京《きやう》、大阪《おほさか》も通《とほ》るのだとすると、夜《よ》のあけるのは何處《どこ》らでせうね。」 「時間《じかん》で見《み》ると、すつかり明《あかる》くなるのは、遠江國《とほたふみのくに》濱松《はままつ》だ。」  と退屈《たいくつ》だし、一《ひと》つ遠江國《とほたふみのくに》と念《ねん》を入《い》れた。 「横《よこ》に俥《くるま》が二挺《にちやう》たゝぬ――彼處《あすこ》ですか。」 「うむ。」とばかりで、一向《いつかう》おもしろくも何《なん》ともない。 「其處《そこ》まで行《ゆ》きませうよ。――夜中《よなか》に知《し》らぬ土地《とち》ぢやあ心細《こゝろぼそ》いんですもの。」 「飴《あめ》ぢやあるまいし。」  と、愚《ぐ》にもつかぬことをうつかり饒舌《しやべ》つた。靜岡《しづをか》まで行《ゆ》くものが、濱松《はままつ》へ線路《せんろ》の伸《の》びよう道理《だうり》がない。  ……しかし無理《むり》もない。こんな事《こと》を言《い》つたのは恰《あたか》も箱根《はこね》の山中《さんちう》で、丁《ちやう》ど丑三《うしみつ》と言《い》ふ時刻《じこく》であつた。あとで聞《き》くと、此《こ》の夜汽車《よぎしや》が、箱根《はこね》の隧道《トンネル》を潛《くゞ》つて鐵橋《てつけう》を渡《わた》る刻限《こくげん》には、内《うち》に留守《るす》をした女中《ぢよちう》が、女主人《をんなしゆじん》のためにお題目《だいもく》を稱《とな》へると言《い》ふ約束《やくそく》だつたのださうである。 「何《なん》の眞似《まね》だい。」 「地震《ぢしん》で危《あぶな》いんですもの。」 「地震《ぢしん》は去年《きよねん》だぜ、ばかな。」  然《さ》りとは雖《いへど》も、その志《こゝろざし》、むしろにあらず捲《ま》くべからず、石《いし》にあらず、轉《ころば》すべからず。……ありがたい。いや、禁句《きんく》だ。こんな處《ところ》で石《いし》が轉《ころ》んで堪《たま》るものか。たとへにも山《やま》が崩《くづ》るゝとか言《い》ふ。其《そ》の山《やま》が崩《くづ》れたので、當時《たうじ》大地震《おほぢしん》の觸頭《ふれがしら》と云《い》つた場所《ばしよ》の、剩《あまつさ》へ此《こ》の四五日《しごにち》、琅玕《らうかん》の如《ごと》き蘆《あし》ノ湖《こ》の水面《すゐめん》が風《かぜ》もなきに浪《なみ》を立《た》てると、うはさした機《をり》であつたから。  山北《やまきた》、山北《やまきた》。――鮎《あゆ》の鮓《すし》は――賣切《うりき》れ。……お茶《ちや》も。――もうない。それも佗《わび》しかつた。  が、家《うち》を出《で》る時《とき》から、こゝでこそと思《おも》つた。――實《じつ》は其《そ》の以前《いぜん》に、小山内《をさない》さんが一寸《ちよつと》歸京《ききやう》で、同行《いつしよ》だつた御容色《ごきりやう》よしの同夫人《どうふじん》、とめ子《こ》さんがお心入《こゝろいれ》の、大阪遠來《おほさかゑんらい》の銘酒《めいしゆ》、白鷹《はくたか》の然《しか》も黒松《くろまつ》を、四合罎《しがふびん》に取分《とりわ》けて、バスケツトとも言《い》はず外套《ぐわいたう》にあたゝめたのを取出《とりだ》して、所帶持《しよたいもち》は苦《くる》しくつてもこゝらが重寶《ちようはう》の、おかゝのでんぶの蓋《ふた》ものを開《あ》けて、さあ、飮《や》るぞ! トンネルの暗闇《やみ》に彗星《はうきぼし》でも出《で》て見《み》ろと、クツシヨンに胡坐《あぐら》で、湯呑《ゆのみ》につぐと、ぷンとにほふ、と、かなで書《か》けばおなじだが、其《そ》のぷンが、腥《なまぐさ》いやうな、すえたやうな、どろりと腐《くさ》つた、青《あを》い、黄色《きいろ》い、何《なん》とも言《い》へない惡臭《わるくさ》さよ。――飛《とん》でもないこと、……酒《さけ》ではない。  一體《いつたい》、散々《さん/″\》の不首尾《ふしゆび》たら/″\、前世《ぜんせ》の業《ごふ》ででもあるやうで、申《まを》すも憚《はゞか》つて控《ひか》へたが、もう默《だま》つては居《ゐ》られない。たしか横濱《よこはま》あたりであつたらうと思《おも》ふ。……寂《さび》しいにつけ、陰氣《いんき》につけ、隨所《ずゐしよ》停車場《ステエシヨン》の燈《ともしび》は、夜汽車《よぎしや》の窓《まど》の、月《つき》でも花《はな》でもあるものを――心《こゝろ》あての川崎《かはさき》、神奈川《かながは》あたりさへ、一寸《ちよつと》の間《ま》だけ、汽車《きしや》も留《とま》つたやうに思《おも》ふまでで、それらしい燈影《ひかげ》は映《うつ》らぬ。汽車《きしや》はたゞ、曠野《あらの》の暗夜《やみ》を時々《とき/″\》けつまづくやうに慌《あわたゞ》しく過《す》ぎた。あとで、あゝ、あれが横濱《よこはま》だつたのかと思《おも》ふ處《ところ》も、雨《あめ》に濡《ぬ》れしよびれた棒杭《ぼうぐひ》の如《ごと》く夜目《よめ》に映《うつ》つた。確《たしか》に驛《えき》の名《な》を認《みと》めたのは最《も》う國府津《こふづ》だつたのである。いつもは大船《おほふな》で座《ざ》を直《なほ》して、かなたに逗子《づし》の巖山《いはやま》に、湘南《しやうなん》の海《うみ》の渚《なぎさ》におはします、岩殿《いはと》の觀世音《くわんぜおん》に禮《れい》し參《まゐ》らす習《ならひ》であるのに。……それも本意《ほい》なさの一《ひと》つであつた。が、あらためて祈念《きねん》した。やうなわけで、其《そ》の何《ど》の邊《へん》であつたらう。見上《みあ》げるやうな入道《にふだう》が、のろりと室《しつ》へ入《はひ》つて來《き》た。づんぐり肥《ふと》つたが、年紀《とし》は六十ばかり。ト頭《あたま》から頬《ほゝ》へ縱横《たてよこ》に繃帶《ほうたい》を掛《か》けて居《ゐ》る。片頬《かたほゝ》が然《さ》らでも大面《おほづら》の面《つら》を、別《べつ》に一面《ひとつ》顏《かほ》を横《よこ》に附着《くツつ》けたやうに、だぶりと膨《ふく》れて、咽喉《のど》の下《した》まで垂下《たれさが》つて、はち切《き》れさうで、ぶよ/\して、わづかに目《め》と、鼻《はな》。繃帶《はうたい》を覗《のぞ》いた唇《くちびる》が、上下《うへした》にべろんと開《あ》いて、どろりとして居《ゐ》る。動《うご》くと、たら/\と早《は》や膿《うみ》の垂《た》れさうなのが――丁《ちやう》ど明《あ》いて居《ゐ》た――私《わたし》たちの隣席《となり》へどろ/\と崩《くづ》れ掛《かゝ》つた。オペラバツグを提《さ》げて、飛模樣《とびもやう》の派手《はで》な小袖《こそで》に、紫《むらさき》の羽織《はおり》を着《き》た、十八九の若《わか》い女《をんな》が、引續《ひきつゞ》いて、默《だま》つて其《そ》の傍《わき》へ腰《こし》を掛《か》ける。  と言《い》ふうちに、その面《つら》二《ふた》つある病人《びやうにん》の、その臭氣《にほひ》と言《い》つたらない。  お察《さつ》しあれ、知己《ちき》の方々《かた/″\》。――私《わたし》は下駄《げた》を引《ひき》ずつて横飛《よこと》びに逃出《にげだ》した。 「あゝ、彼方《あつち》があんなに空《す》いて居《ゐ》る。」  と小戻《こもど》りして、及腰《およびごし》に、引《ひつ》こ拔《ぬ》くやうにバスケツトを掴《つか》んで、慌《あわ》てて辷《すべ》つて、片足《かたあし》で、怪飛《けしと》んだ下駄《げた》を搜《さが》して逃《に》げた。氣《き》の毒《どく》さうな顏《かほ》をしたが、女《をんな》もそツと立《た》つて來《く》る。  此《こ》の樣子《やうす》を、間近《まぢか》に視《み》ながら、毒《どく》のある目《め》も見向《みむ》けず、呪詛《のろひ》らしき咳《しはぶき》もしないで、ずべりと窓《まど》に仰向《あふむ》いて、病《やまひ》の顏《かほ》の、泥濘《ぬかるみ》から上《あ》げた石臼《いしうす》ほどの重《おも》いのを、ぢつと支《さゝ》へて居《ゐ》る病人《びやうにん》は奇特《きどく》である。  いや特勝《とくしよう》である。且《かつ》以《もつ》て、たふとくさへあつた。  面當《つらあて》がましく氣《き》の毒《どく》らしい、我勝手《われがつて》の凡夫《ぼんぷ》の淺《あさ》ましさにも、人知《ひとし》れず、面《おもて》を合《あ》はせて、私《わたし》たちは恥入《はぢい》つた。が、藥王品《やくわうぼん》を誦《ず》しつゝも、鯖《さば》くつた法師《ほふし》の口《くち》は臭《くさ》いもの。其《そ》の臭《くさ》さと云《い》つては、昇降口《しようかうぐち》の其方《そつち》の端《はし》から、洗面所《せんめんじよ》を盾《たて》にした、いま此方《こなた》の端《はし》まで、むツと鼻《はな》を衝《つ》いて臭《にほ》つて來《く》る。番町《ばんちやう》が、又《また》大袈裟《おほげさ》な、と第一《だいいち》近所《きんじよ》で笑《わら》ふだらうが、いや、眞個《まつたく》だと思《おも》つて下《くだ》さい。のちに、やがて、二時《にじ》を過《す》ぎ、三時《さんじ》になり、彼方此方《あちこち》で一人《ひとり》起《お》き、二人《ふたり》さめると、起《お》きたのが、覺《さ》めたのが、いづれもきよとんとして四邊《あたり》を見《み》ながら、皆《みな》申合《まをしあ》はせたやうに、ハンケチで口《くち》を押《おさ》へて、げゞツと咽《む》せる。然《さ》もありなん。大入道《おほにふだう》の眞向《まむかう》に寢《ね》て居《ゐ》た男《をとこ》は、たわいなく寢《ね》ながら、うゝと時々《とき/″\》苦《くる》しさうに魘《うな》された。スチームがまだ通《とほ》つて居《ゐ》る。しめ切《き》つた戸《と》の外《そと》は蒸《む》すやうな糠雨《ぬかあめ》だ。臭《くさ》くないはずはない。  女房《にようばう》では、まるで年《とし》が違《ちが》ふ。娘《むすめ》か、それとも因果《いんぐわ》何《なに》とか言《い》ふ妾《めかけ》であらうか――何《なに》にしろ、私《わたし》は、其《そ》の耳《みゝ》かくしであつたのを感謝《かんしや》する。……島田髷《しまだ》では遣切《やりき》れない。  もう箱根《はこね》から駈落《かけおち》だ。  二人分《ににんぶん》、二枚《にまい》の戸《と》を、一齊《いつしよ》にスツと開《ひら》くと、岩膚《いははだ》の雨《あめ》は玉清水《たましみづ》の滴《したゝ》る如《ごと》く、溪河《たにがは》の響《ひゞ》きに煙《けむり》を洗《あら》つて、酒《さけ》の薫《かをり》が芬《ぷん》と立《た》つた。手《て》づから之《これ》をおくられた小山内夫人《をさないふじん》の袖《そで》の香《か》も添《そ》ふ。  二三杯《にさんばい》やつつけた。  阿部川《あべかは》と言《い》へば、きなこ餅《もち》とばかり心得《こゝろえ》、「贊成《さんせい》。」とさきばしつて、大船《おほふな》のサンドヰツチ、國府津《こふづ》の鯛飯《たひめし》、山北《やまきた》の鮎《あゆ》の鮓《すし》と、そればつかりを當《あて》にして、皆《みな》買《か》つて食《た》べるつもりの、足柄《あしがら》に縁《えん》のありさうな山《やま》のかみは、おかゝのでんぶを詰《つま》らなさうに覗《のぞ》きながら、バスケツトに凭《もた》れて弱《よわ》つて居《ゐ》る。 「なまじ所帶持《しよたいもち》だなぞと思《おも》ふから慾《よく》が出《で》ます。かの彌次郎《やじらう》の詠《よ》める……可《い》いかい――飯《めし》もまだ食《く》はず、ぬまずを打過《うちす》ぎてひもじき原《はら》の宿《しゆく》につきけりと、もう――追《お》つつけ沼津《ぬまづ》だ。何事《なにごと》も彌次喜多《やじきた》と思《おも》へば濟《す》むぜ。」  と、とのさまは今《いま》の二合《にがふ》で、大分《だいぶ》御機嫌《ごきげん》。ストンと、いや、床《ゆか》が柔軟《やはらか》いから、ストンでない、スポンと寢《ね》て、肱枕《ひぢまくら》で、阪地到來《はんちたうらい》の芳酒《うまざけ》の醉《ゑひ》だけに、地唄《ぢうた》とやらを口誦《くちずさ》む。 [#ここから4字下げ] お前《まへ》の袖《そで》と、わしが袖《そで》、合《あは》せて、 [#ここで字下げ終わり]  ――何《なん》とか、何《なん》の袖《そで》。……たゞし節《ふし》なし、忘《わす》れた處《ところ》はうろ拔《ぬ》きで、章句《もんく》を口《くち》のうちで、唯《たゞ》引張《ひつぱ》る。…… [#ここから4字下げ] 露地《ろぢ》の細道《ほそみち》、駒下駄《こまげた》で―― [#ここで字下げ終わり]  南無三寶《なむさんばう》、魔《ま》が魅《さ》した。ぶく/\のし/\と海坊主《うみばうず》。が――あゝ、之《これ》を元來《ぐわんらい》懸念《けねん》した。道《みち》其《そ》の衝《しよう》にあたつたり。W・Cへ通《とほ》りがかりに、上《うへ》から蔽《おつ》かぶさるやうに來《き》た時《とき》は、角《つの》のあるだけ、青鬼《あをおに》の方《はう》がましだと思《おも》つた。  アツといつて、むつくと起《お》き、外套《ぐわいたう》を頭《あたま》から、硝子戸《がらすど》へひつたりと顏《かほ》をつけた。――之《これ》だと、暗夜《あんや》の野《の》も山《やま》も、朦朧《もうろう》として孤家《ひとつや》の灯《ともしび》も透《す》いて見《み》える。……一《ひと》つお覺《おぼ》え遊《あそ》ばしても、年内《ねんない》の御重寶《ごちようはう》。  外套《ぐわいたう》の裡《なか》から小《ちひ》さな聲《こゑ》で、 「……返《かへ》つたかい。」 「もう、前刻《さつき》。」  私《わたし》は耳《みゝ》まで壓《おさ》へて居《ゐ》た。  鰌《どぢやう》の沼津《ぬまづ》をやがて過《す》ぎて、富士驛《ふじえき》で、人員《じんゐん》は、はじめて動《うご》いた。  それもたゞ五六人《ごろくにん》。病人《びやうにん》が起《た》つた。あとへ紫《むらさき》がついて下《お》りたのである。……鰌《どぢやう》の沼津《ぬまづ》と言《い》つた。雨《あめ》ふりだし、まだ眞暗《まつくら》だから遠慮《ゑんりよ》をしたが、こゝで紫《むらさき》の富士驛《ふじえき》と言《い》ひたい、――その若《わか》い女《をんな》が下《お》りた。  さては身延《みのぶ》へ參詣《さんけい》をするのであつたか。遙拜《えうはい》しつゝ、私《わたし》たちは、今《いま》さらながら其《そ》の二人《ふたり》を、涙《なみだ》ぐましく見送《みおく》つた。紫《むらさき》は一度《いちど》宙《ちう》で消《き》えつゝ、橋《はし》を越《こ》えた改札口《かいさつぐち》へ、ならんで入道《にふだう》の手《て》を曳《ひ》くやうにして、微《かすか》な電燈《でんとう》に映《うつ》つた姿《すがた》は、耳《みゝ》かくしも、其《そ》のまゝ、さげ髮《がみ》の、黒髮《くろかみ》長《なが》く﨟《らふ》たけてさへ見《み》えた。  下山《げざん》の時《とき》の面影《おもかげ》は、富士川《ふじがは》の清《きよ》き瀬《せ》に、白蓮華《びやくれんげ》の花《はな》びらにも似《に》られよとて、切《せつ》に本腹《ほんぷく》を祈《いの》つたのである。  興津《おきつ》の浪《なみ》の調《しらべ》が響《ひゞ》いた。 [#地から5字上げ]大正十三年七月 底本:「鏡花全集 巻二十七」岩波書店    1942(昭和17)年10月20日第1刷発行    1988(昭和63)年11月2日第3刷発行 初出:「苦楽 第二巻第一号」プラトン社    1924(大正13)年7月1日 ※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。 ※「燈《ともしび》」と「灯《ともしび》」の混在は、底本の通りです。 ※「繃帶」に対するルビの「ほうたい」と「はうたい」、「二人」に対するルビの「ふたり」と「ににん」の混在は、底本の通りです。 ※表題は底本では、「雨《あめ》ふり」となっています。 ※題名の下にあった年代の注を、最後に移しました。 入力:門田裕志 校正:岡村和彦 2018年3月26日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。