婦人十一題 泉鏡太郎 ------------------------------------------------------- 【テキスト中に現れる記号について】 《》:ルビ (例)一月《いちぐわつ》 [#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定    (数字は、JIS X 0213の面区点番号またはUnicode、底本のページと行数) (例)魥 /\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号) (例)ちら/\ *濁点付きの二倍の踊り字は「/″\」 ------------------------------------------------------- [#6字下げ]一月《いちぐわつ》[#「一月」は中見出し]  うまし、かるた會《くわい》に急《いそ》ぐ若《わか》き胸《むね》は、駒下駄《こまげた》も撒水《まきみづ》に辷《すべ》る。戀《こひ》の歌《うた》を想《おも》ふにつけ、夕暮《ゆふぐれ》の線路《せんろ》さへ丸木橋《まるきばし》の心地《こゝち》やすらむ。松《まつ》を鳴《な》らす電車《でんしや》の風《かぜ》に、春着《はるぎ》の袖《そで》を引合《ひきあは》す急《せ》き心《ごころ》も風情《ふぜい》なり。やがてぞ、内賑《うちにぎやか》に門《もん》のひそめく輪飾《わかざり》の大玄關《おほげんくわん》より、絹足袋《きぬたび》を輕《かる》く高廊下《たからうか》を行《ゆ》く。館《やかた》の奧《おく》なる夫人《ふじん》の、常《つね》さへ白鼈甲《しろべつかふ》に眞珠《しんじゆ》を鏤《ちりば》めたる毛留《ブローチ》して、鶴《つる》の膚《はだ》に、孔雀《くじやく》の裝《よそほひ》にのみ馴《な》れたるが、この玉《たま》の春《はる》を、分《わ》けて、と思《おも》ふに、いかに、端近《はしぢか》の茶《ちや》の室《ま》に居迎《ゐむか》ふる姿《すがた》を見《み》れば、櫛卷《くしまき》の薄化粧《うすげしやう》、縞銘仙《しまめいせん》の半襟《はんえり》つきに、引掛帶《ひつかけおび》して、入《い》らつしやい。眞鍮《しんちう》の茶釜《ちやがま》の白鳥《はくてう》、出居《いでゐ》の柱《はしら》に行燈《あんどう》掛《か》けて、燈《ともしび》紅《あか》く、おでん燗酒《かんざけ》、甘酒《あまざけ》もあり。 [#ここから4字下げ] ――どツちが好《よ》いと言《い》ふんですか―― ――知《し》らない―― [#ここで字下げ終わり] [#6字下げ]二月《にぐわつ》[#「二月」は中見出し]  都《みやこ》なる父母《ふぼ》は歸《かへ》り給《たま》ひぬ。舅《しうと》姑《しうとめ》、知《し》らぬ客《きやく》許多《あまた》あり。附添《つきそ》ふ侍女《じぢよ》を羞《はぢ》らひに辭《じ》しつゝ、新婦《よめぎみ》の衣《きぬ》を解《と》くにつれ、浴室《ゆどの》颯《さつ》と白妙《しろたへ》なす、麗《うるは》しき身《み》とともに、山《やま》に、町《まち》に、廂《ひさし》に、積《つも》れる雪《ゆき》の影《かげ》も映《さ》すなり。此時《このとき》、われに返《かへ》る心《こゝろ》、しかも湯氣《ゆげ》の裡《うち》に恍惚《くわうこつ》として、彼處《かしこ》に鼈甲《べつかふ》の櫛《くし》笄《かうがい》の行方《ゆくへ》も覺《おぼ》えず、此處《こゝ》に亂箱《みだればこ》の緋縮緬《ひぢりめん》、我《わ》が手《て》にさへ袖《そで》をこぼれて亂《みだ》れたり。面《おもて》、色《いろ》染《そま》んぬ。姿見《すがたみ》の俤《おもかげ》は一重《ひとへ》の花瓣《はなびら》薄紅《うすくれなゐ》に、乳《ち》を押《おさ》へたる手《て》は白《しろ》くかさなり咲《さ》く、蘭湯《らんたう》に開《ひら》きたる此《こ》の冬牡丹《ふゆぼたん》。蕊《しべ》に刻《きざ》めるは誰《た》が名《な》ぞ。其《そ》の文字《もじ》金色《こんじき》に輝《かゞや》くまゝに、口《くち》渇《かわ》き又《また》耳《みゝ》熱《ねつ》す。高島田《たかしまだ》の前髮《まへがみ》に冷《つめた》き刃《やいば》あり、窓《まど》を貫《つらぬ》くは簾《すだれ》なす氷柱《つらゝ》にこそ。カチリと音《おと》して折《を》つて透《す》かしぬ。人《ひと》のもし窺《うかゞ》はば、いと切《せ》めて血《ち》を迸《ほとばし》らす匕首《あひくち》とや驚《おどろ》かん。新婦《よめぎみ》は唇《くちびる》に含《ふく》みて微笑《ほゝゑ》みぬ。思《おも》へ君《きみ》……式《しき》九獻《くこん》の盞《さかづき》よりして以來《このかた》、初《はじ》めて胸《むね》に通《とほ》りたる甘《あま》く清《すゞし》き露《つゆ》なりしを。――見《み》たのかい――いや、われ聞《き》く。 [#6字下げ]三月《さんぐわつ》[#「三月」は中見出し]  淺蜊《あさり》やア淺蜊《あさり》の剥身《むきみ》――高臺《たかだい》の屋敷町《やしきまち》に春《はる》寒《さむ》き午後《ごご》、園生《そのふ》に一人《ひとり》庭下駄《にはげた》を爪立《つまだ》つまで、手《て》を空《そら》ざまなる美《よ》き女《むすめ》あり。樹々《きゞ》の枝《えだ》に殘《のこ》ンの雪《ゆき》も、ちら/\と指《ゆび》の影《かげ》して、大《おほい》なる紅日《こうじつ》に、雪《ゆき》は薄《うす》く紫《むらさき》の袂《たもと》を曳《ひ》く。何《なん》に憧憬《あこが》るゝ人《ひと》ぞ。歌《うた》をよみて其《そ》の枝《えだ》の紅梅《こうばい》の莟《つぼみ》を解《と》かんとするにあらず。手鍋《てなべ》提《さ》ぐる意氣《いき》に激《げき》して、所帶《しよたい》の稽古《けいこ》に白魚《しらうを》の魥《めざし》造《つく》る也《なり》。然《しか》も目《め》を刺《さ》すがいぢらしとて、ぬきとむるは尾《を》なるを見《み》よ。絲《いと》の色《いろ》も、こぼれかゝる袖口《そでくち》も、繪《ゑ》の篝火《かゞりび》に似《に》たるかな。希《ねがは》くは針《はり》に傷《きず》つくことなかれ。お孃樣《ぢやうさま》これめせと、乳母《うば》ならむ走《はし》り來《き》て捧《さゝ》ぐるを、曰《いは》く、ヱプロン掛《か》けて白魚《しらうを》の料理《れうり》が出來《でき》ますかと。魚《うを》も活《い》くべし。手首《てくび》の白《しろ》さ更《さら》に可三寸《さんずんばかり》。 [#6字下げ]四月《しぐわつ》[#「四月」は中見出し]  舳《みよし》に肌《はだ》ぬぎの亂《みだ》れ姿《すがた》、歌妓《うたひめ》がさす手《て》ひく手《て》に、おくりの絃《いと》の流《なが》れつゝ、花見船《はなみぶね》漕《こ》ぎつるゝ。土手《どて》の霞《かすみ》暮《く》れんとして、櫻《さくら》あかるき三《み》めぐりあたり、新《あたら》しき五大力《ごだいりき》の舷《ふなばた》の高《たか》くすぐれたるに、衣紋《えもん》も帶《おび》も差向《さしむか》へる、二人《ふたり》の婦《をんな》ありけり、一人《ひとり》は高尚《かうしやう》に圓髷《まげ》ゆひ、一人《ひとり》は島田《しまだ》艷《つやゝか》也《なり》。眉《まゆ》白《しろ》き船頭《せんどう》の漕《こ》ぐにまかせ、蒔繪《まきゑ》の調度《てうど》に、待乳山《まつちやま》の影《かげ》を籠《こ》めて、三日月《みかづき》を載《の》せたる風情《ふぜい》、敷波《しきなみ》の花《はな》の色《いろ》、龍《たつ》の都《みやこ》に行《ゆ》く如《ごと》し。人《ひと》も酒《さけ》も狂《くる》へる折《をり》から、ふと打《う》ちすましたる鼓《つゞみ》ぞ冴《さ》ゆる。いざ、金銀《きんぎん》の扇《あふぎ》、立《た》つて舞《ま》ふよと見《み》れば、圓髷《まげ》の婦《をんな》、なよやかにすらりと浮《う》きて、年下《としした》の島田《しまだ》の鬢《びん》のほつれを、透彫《すかしぼり》の櫛《くし》に、掻撫《かいな》でつ。心憎《こゝろにく》し。鐘《かね》の音《ね》の傳《つた》ふらく、此《こ》の船《ふね》、深川《ふかがは》の木場《きば》に歸《かへ》る。 [#6字下げ]五月《ごぐわつ》[#「五月」は中見出し]  五月雨《さみだれ》の茅屋《かやや》雫《しづく》して、じと/\と沙汰《さた》するは、山《やま》の上《うへ》の古社《ふるやしろ》、杉《すぎ》の森《もり》の下闇《したやみ》に、夜《よ》な/\黒髮《くろかみ》の影《かげ》あり。呪詛《のろひ》の女《をんな》と言《い》ふ。かたの如《ごと》き惡少年《あくせうねん》、化鳥《けてう》を狙《ねら》ふ犬《いぬ》となりて、野茨《のばら》亂《みだ》れし岨道《そばみち》を要《えう》して待《ま》つ。夢《ゆめ》か、青葉《あをば》の衣《きぬ》、つゝじの帶《おび》の若《わか》き姿《すがた》。雲《くも》暗《くら》き山《やま》の端《は》より月《つき》かすかに近《ちか》づくを、獲《え》ものよ、虐《しひた》げんとすれば、其《そ》の首《くび》の長《なが》きよ、口《くち》は耳《みゝ》まで裂《さ》けて、白《しろ》き蛇《へび》の紅《べに》さしたる面《おもて》ぞ。キヤツと叫《さけ》びて倒《たふ》るゝを、見向《みむ》きもやらず通《とほ》りしは、優《いう》にやさしき人《ひと》の、黄楊《つげ》の櫛《くし》を唇《くちびる》に銜《くは》へしなり。うらぶれし良家《りやうか》の女《むすめ》の、父《ちゝ》の病氣《いたつき》なるに、夜半《よは》に醫《い》を乞《こ》へる道《みち》なりけり。此《こ》の護身《ごしん》の術《じゆつ》や、魔法《まはふ》つかひの教《をしへ》にあらず、なき母《はゝ》の記念《かたみ》なりきとぞ。卯《う》の花《はな》の里《さと》の温泉《いでゆ》の夜語《よがたり》。 [#6字下げ]六月《ろくぐわつ》[#「六月」は中見出し]  裾野《すその》の煙《けむり》長《なが》く靡《なび》き、小松原《こまつばら》の靄《もや》廣《ひろ》く流《なが》れて、夕暮《ゆふぐれ》の幕《まく》更《さら》に富士山《ふじさん》に開《ひら》く時《とき》、其《そ》の白妙《しろたへ》を仰《あふ》ぐなる前髮《まへがみ》清《きよ》き夫人《ふじん》あり。肘《ひぢ》を輕《かる》く窓《まど》に凭《よ》る。螢《ほたる》一《ひと》つ、すらりと反對《はんたい》の窓《まど》より入《い》りて、細《ほそ》き影《かげ》を捲《ま》くと見《み》る間《ま》に、汗《あせ》埃《ほこり》の中《なか》にして、忽《たちま》ち水《みづ》に玉敷《たまし》ける、淺葱《あさぎ》、藍《あゐ》、白群《びやくぐん》の涼《すゞ》しき草《くさ》の影《かげ》、床《ゆか》かけてクシヨンに描《ゑが》かれしは、螢《ほたる》の衝《つ》と其《そ》の裳《もすそ》に忍《しの》び褄《つま》に入《い》りて、上《うへ》の薄衣《うすぎぬ》と、長襦袢《ながじゆばん》の間《あひだ》を照《てら》して、模樣《もやう》の花《はな》に、葉《は》に、莖《くき》に、裏《うら》透《す》きてすら/\と移《うつ》るにこそあれ。あゝ、下《した》じめよ、帶《おび》よ、消《き》えて又《また》光《ひか》る影《かげ》、乳《ち》に沁《し》むなり。此《こ》の君《きみ》、其《そ》の肌《はだ》、確《たしか》に雪《ゆき》。ソロモンと榮華《えいぐわ》を競《きそ》へりとか、白百合《しらゆり》の花《はな》も恥《は》づべき哉《かな》。否《いな》、恥《はぢ》らへるは夫人《ふじん》なり。衣絞《えもん》明《あか》るく心着《こゝろづ》きけむ、銀《ぎん》に青海波《せいかいは》の扇子《あふぎ》を半《なかば》、螢《ほたる》より先《ま》づハツと面《おもて》を蔽《おほ》へるに、風《かぜ》さら/\と戰《そよ》ぎつゝ、光《ひかり》は袖口《そでくち》よりはらりとこぼれて、窓外《さうぐわい》の森《もり》に尚《なほ》美《うつく》しき影《かげ》をぞ曳《ひ》きたる。もし魂《たましひ》の拔出《ぬけい》でたらんか、これ一顆《いつくわ》の碧眞珠《へきしんじゆ》に、露草《つゆくさ》を鐫《ゑ》れるなるべし。此《こ》の人《ひと》もし仇《あだ》あらば、皆《みな》刃《やいば》を取《と》つて敵《かたき》を討《う》たん。靈山《れいざん》の氣《き》、汽車《きしや》に迫《せま》れり。――山北《やまきた》――山北《やまきた》―― [#6字下げ]七月《しちぐわつ》[#「七月」は中見出し]  其《そ》の邊《あたり》の公園《こうゑん》に廣《ひろ》き池《いけ》あり。時《とき》よし、風《かぜ》よしとて、町々《まち/\》より納涼《すゞみ》の人《ひと》出《い》で集《つど》ふ。童《わらべ》たち酸漿提灯《ほゝづきぢやうちん》かざしもしつ。水《みづ》の灯《ともしび》美《うつく》しき夜《よる》ありき。汀《みぎは》に小《ちひさ》き船《ふね》を浮《うか》べて、水茶屋《みづぢやや》の小奴《こやつこ》莞爾《にこ》やかに竹棹《たけざを》を構《かま》へたり。うら若《わか》き母《はゝ》に伴《ともな》はれし幼兒《をさなご》の、他《ひと》の乘《の》るに、われもとて肯《き》かざりしに、私《わらは》は身《み》弱《よわ》くて、恁《か》ばかりの船《ふね》にも眩暈《めまひ》するに、荒波《あらなみ》の海《うみ》としならばとにかくも、池《いけ》の水《みづ》に伏《ふ》さんこと、人目《ひとめ》恥《はづ》かしければ得乘《えの》らじとよ。強《し》ひてとならば一人《ひとり》行《ゆ》け、心《こゝろ》は船《ふね》を守《まも》るべし。舳《みよし》にな立《た》ちそ、舷《ふなべり》にな片寄《かたよ》りそ。頼《たの》むは少《わか》き船頭衆《せんどうしう》とて、さみしく手《て》をはなち給《たま》ひしが、早《は》や其《そ》の姿《すがた》へだたりて、殘《のこん》の杜若《かきつばた》裳《もすそ》に白《しろ》く、蘆《あし》のそよぎ羅《うすもの》の胸《むね》に通《かよ》ふと、星《ほし》の影《かげ》に見《み》るまゝに、兒《こ》は池《いけ》のたゞ中《なか》に、母《はゝ》を呼《よ》びて、わツと泣《な》きぬ。――盂蘭盆《うらぼん》の墓詣《はかまうで》に、其《そ》のなき母《はゝ》を偲《しの》びつゝ、涙《なみだ》ぐみたる娘《むすめ》あり。あかの水《みづ》の雫《しづく》ならで、桔梗《ききやう》に露《つゆ》を置添《おきそ》へつ、うき世《よ》の波《なみ》を思《おも》ふならずや。 [#6字下げ]八月《はちぐわつ》[#「八月」は中見出し]  若《わか》きものの、山《やま》深《ふか》く暑《あつさ》を避《さ》けたるが、雲《くも》の峰《みね》高《たか》き巖《いは》の根《ね》に、嘉魚《いはな》釣《つ》りて一人《ひとり》居《ゐ》たりけり。碧潭《へきたん》の氣《き》一脈《いちみやく》、蘭《らん》の香《か》を吹《ふ》きて、床《ゆか》しき羅《うすもの》の影《かげ》の身《み》に沁《し》むと覺《おぼ》えしは、年《とし》經《ふ》る庄屋《しやうや》の森《もり》を出《い》でて、背後《うしろ》なる岨道《そばみち》を通《とほ》る人《ひと》の、ふと彳《たゝず》みて見越《みこ》したんなる。無地《むぢ》かと思《おも》ふ紺《こん》の透綾《すきや》に、緋縮緬《ひぢりめん》の長襦袢《ながじゆばん》、小柳繻子《こやなぎじゆす》の帶《おび》しめて、褄《つま》の堅《かた》きまで愼《つゝ》ましきにも、姿《すがた》のなよやかさ立《た》ちまさり、打微笑《うちほゝゑ》みたる口紅《くちべに》さへ、常夏《とこなつ》の花《はな》の化身《けしん》に似《に》たるかな。斷崖《がけ》の清水《しみづ》に龍女《りうぢよ》の廟《べう》あり。われは浦島《うらしま》の子《こ》か、姫《ひめ》の靈《れい》ぞと見《み》しが、やがて知《し》んぬ。なか/\に時《とき》のはやりに染《そ》まぬ服裝《ふくさう》の、却《かへ》つて鶯帶《あうたい》蝉羅《せんら》にして、霓裳《げいしやう》羽衣《うい》の風情《ふぜい》をなせる、そこの農家《のうか》の姉娘《あねむすめ》の、里《さと》の伯母前《をばぜ》を訪《と》ふなりしを。 [#6字下げ]九月《くぐわつ》[#「九月」は中見出し]  洪水《でみづ》は急《きふ》なりけり。背戸續《せどつゞ》きの寮屋《はなれや》に、茅屋《かやや》に侘《わ》ぶる風情《ふぜい》とて、家《いへ》の娘《むすめ》一人《ひとり》居《ゐ》たる午《ひる》すぎよ。驚破《すはや》と、母屋《おもや》より許嫁《いひなづけ》の兄《あに》ぶんの駈《か》けつくるに、讀《よ》みさしたる書《ふみ》伏《ふ》せもあへず抱《だ》きて立《た》てる、栞《しをり》の萩《はぎ》も濡縁《ぬれえん》に枝《えだ》を浪打《なみう》ちて、早《は》や徒渉《かちわたり》すべからず、あり合《あ》はす盥《たらひ》の中《なか》に扶《たす》けのせつゝ、盪《お》して逃《のが》るゝ。庭《には》はさながら花野《はなの》也《なり》。桔梗《ききやう》、刈萱《かるかや》、女郎花《をみなへし》、我亦紅《われもこう》、瑠璃《るり》に咲《さ》ける朝顏《あさがほ》も、弱竹《なよたけ》のまゝ漕惱《こぎなや》めば、紫《むらさき》と、黄《き》と、薄藍《うすあゐ》と、浮《う》きまどひ、沈《しづ》み靡《なび》く。濁《にご》れる水《みづ》も色《いろ》を添《そ》へて極彩色《ごくさいしき》の金屏風《きんびやうぶ》を渡《わた》るが如《ごと》く、秋草模樣《あきくさもやう》に露《つゆ》敷《し》く袖《そで》は、丈《せ》高《たか》き紫苑《しをん》の梢《こずゑ》を乘《の》りて、驚《おどろ》き飛《と》ぶ蝶《てふ》とともに漾《たゞよ》へり。山影《やまかげ》ながら颯《さつ》と野分《のわき》して、芙蓉《ふよう》に咽《むせ》ぶ浪《なみ》の繁吹《しぶき》に、小《ちひさ》き輪《りん》の虹《にじ》が立《た》つ――あら、綺麗《きれい》だこと――それどころかい、馬鹿《ばか》を言《い》へ――男《をとこ》の胸《むね》は盥《たらひ》に引添《ひきそ》ひて泳《およ》ぐにこそ。おゝい、おゝい、母屋《おもや》に集《つど》へる人數《にんず》の目《め》には、其《そ》の盥《たらひ》たゞ一枚《いちまい》大《おほい》なる睡蓮《れんげ》の白《しろ》き花《はな》に、うつくしき瞳《ひとみ》ありて、すら/\と流《なが》れ寄《よ》りきとか。 [#6字下げ]十月《じふぐわつ》[#「十月」は中見出し]  藍《あゐ》あさき宵《よひ》の空《そら》、薄月《うすづき》の夜《よ》に入《い》りて、雲《くも》は胡粉《ごふん》を流《なが》し、一《ひと》むら雨《さめ》廂《ひさし》を斜《なゝめ》に、野路《のぢ》の刈萱《かるかや》に靡《なび》きつゝ、背戸《せど》の女郎花《をみなへし》は露《つゆ》まさる色《いろ》に出《い》で、茂《しげ》れる萩《はぎ》は月影《つきかげ》を抱《いだ》けり。此《こ》の時《とき》、草《くさ》の家《や》の窓《まど》に立《た》ちて、秋《あき》深《ふか》くものを思《おも》ふ女《をんな》。世《よ》にやくねれる、戀《こひ》にや惱《なや》める、避暑《ひしよ》の頃《ころ》よりして未《いま》だ都《みやこ》に歸《かへ》らざる、あこがれの瞳《ひとみ》をなぶりて、風《かぜ》の音信《おとづ》るともあらず、はら/\と、櫨《はじ》の葉《は》、柿《かき》の葉《は》、銀杏《いてふ》の葉《は》、見《み》つゝ指《ゆび》の撓《しな》へるは、待人《まちびと》の日《ひ》を算《かぞ》ふるや。爪紅《つまべに》を其《そ》のまゝに、其《そ》の木《き》の葉《は》一枚《いちまい》づゝ、君《きみ》來《こ》よ、と染《そ》むるにや。豈《あに》ひとり居《きよ》に堪《た》ふべけんや。袖笠《そでがさ》かつぎもやらず、杖折戸《しをりど》を立出《たちい》づる。山《やま》の根《ね》の野菊《のぎく》、水《みづ》に似《に》て、渡《わた》る褄《つま》さき亂《みだ》れたり。曼珠沙華《まんじゆしやげ》ひら/\と、其《そ》の左右《さいう》に燃《も》えたるを、あれは狐《きつね》か、と見《み》し夜戻《よもど》りの山法師《やまぼふし》。稻束《いなづか》を盾《たて》に、や、御寮《ごれう》、いづくへぞ、とそゞろに問《と》へば、莞爾《につこり》して、さみしいから、田圃《たんぼ》の案山子《かゝし》に、杯《さかづき》をさしに行《ゆ》くんですよ。 [#6字下げ]十一月《じふいちぐわつ》[#「十一月」は中見出し]  朝《あさ》の雲《くも》吹散《ふきち》りたり。風《かぜ》凪《な》ぎぬ。藪垣《やぶがき》なる藤豆《ふぢまめ》の、莢《さや》も實《み》も、午《まひる》の影《かげ》紫《むらさき》にして、谷《たに》を繞《めぐ》る流《ながれ》あり。穗《ほ》たで露草《つゆくさ》みだれ伏《ふ》す。此《こ》の水《みづ》やがて里《さと》の廓《くるわ》の白粉《おしろい》に淀《よど》むと雖《いへど》も、此《こ》のあたり、寺々《てら/″\》の松《まつ》の音《おと》にせゝらぎて、殘菊《ざんぎく》の雫《しづく》潔《いさぎよ》し。十七ばかりのもの洗《あら》ふ女《をんな》、帶《おび》細《ほそ》く腰《こし》弱《よわ》く、盥《たらひ》を抱《かゝ》へて來《き》つ。汀《なぎさ》に裂《さ》けし芭蕉《ばせを》の葉《は》、日《ひ》ざしに翳《かざ》す扇《あふぎ》と成《な》らずや。頬《ほゝ》も腕《かひな》も汗《あせ》ばみたる、袖《そで》引《ひ》き結《ゆ》へる古襷《ふるだすき》は、枯野《かれの》の草《くさ》に褪《あ》せたれども、うら若《わか》き血《ち》は燃《も》えんとす。折《をり》から櫨《はじ》の眞紅《しんく》なるが、其《そ》のまゝの肌着《はだぎ》に映《うつ》りて、竹堰《たけせき》の脛《はぎ》は霜《しも》を敷《し》く、あゝ、冷《つめ》たからん。筧《かけひ》の水《みづ》を受《う》くるとて、嫁菜《よめな》の莖《くき》一《ひと》つ摘《つ》みつゝ、優《やさ》しき人《ひと》の心《こゝろ》かな、何《なん》のすさみにもあらで、其《そ》の盥《たらひ》にさしけるが、引《ひき》とき衣《ぎぬ》の藍《あゐ》に榮《は》えて、嫁菜《よめな》の淺葱色《あさぎいろ》冴《さ》えしを、菜畠《なばたけ》の日南《ひなた》に憩《いこ》ひて、恍惚《くわうこつ》と見《み》たる旅《たび》の男《をとこ》。うかと聲《こゑ》を掛《か》けて、棟《むね》あちこち、伽藍《がらん》の中《なか》に、鬼子母神《きしぼじん》の御寺《みてら》はと聞《き》けば、えゝ、紅《あか》い石榴《ざくろ》の御堂《おだう》でせうと、瞼《まぶた》に色《いろ》を染《そ》めながら。 [#地から5字上げ]大正十二年一月―十一月 底本:「鏡花全集 巻二十七」岩波書店    1942(昭和17)年10月20日第1刷発行    1988(昭和63)年11月2日第3刷発行 ※題名の下にあった年代の注を、最後に移しました。 ※表題は底本では、「婦人十一題《ふじんじふいちだい》」とルビがついています。 入力:門田裕志 校正:川山隆 2011年8月14日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。