春着 泉鏡太郎 ------------------------------------------------------- 【テキスト中に現れる記号について】 《》:ルビ (例)玉《たま》 [#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定    (数字は、JIS X 0213の面区点番号またはUnicode、底本のページと行数) (例)𢌞 /\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号) (例)じゆん/\ *濁点付きの二倍の踊り字は「/″\」 ------------------------------------------------------- [#4字下げ]あら玉《たま》の春着《はるぎ》きつれて醉《ゑ》ひつれて  少年行《せうねんかう》と前《まへ》がきがあつたと思《おも》ふ……こゝに拜借《はいしやく》をしたのは、紅葉先生《こうえふせんせい》の俳句《はいく》である。處《ところ》が、その着《き》つれてとある春着《はるぎ》がおなじく先生《せんせい》の通帳《おちやうめん》を拜借《はいしやく》によつて出來《でき》たのだから妙《めう》で、そこが話《はなし》である。さきに秋冷《しうれい》相催《あひもよほ》し、次第《しだい》に朝夕《あさゆふ》の寒《さむ》さと成《な》り、やがて暮《くれ》が近《ちか》づくと、横寺町《よこでらまち》の二階《にかい》に日《ひ》が當《あた》つて、座敷《ざしき》の明《あかる》い、大火鉢《おほひばち》の暖《あたゝか》い、鐵瓶《てつびん》の湯《ゆ》の沸《たぎ》つた時《とき》を見計《みはか》らつて、お弟子《でし》たちが順々《じゆん/\》、かく言《い》ふそれがしも、もとよりで、襟垢《えりあか》、膝《ひざ》ぬけと言《い》ふ布子連《ぬのこれん》が畏《かしこ》まる。「先生《せんせい》、小清潔《こざつぱり》とまゐりませんでも、せめて縞柄《しまがら》のわかりますのを、新年《しんねん》は一枚《いちまい》と存《ぞん》じます……恐《おそ》れ入《い》りますが、お帳面《ちやうめん》を。」「また濱野屋《はまのや》か。」神樂坂《かぐらざか》には、他《ほか》に布袋屋《ほていや》と言《い》ふ――今《いま》もあらう――呉服屋《ごふくや》があつたが、此《こ》の濱野屋《はまのや》の方《はう》の主人《しゆじん》が、でつぷりと肥《ふと》つて、莞爾々々《にこ/\》して居《ゐ》て、布袋《ほてい》と言《い》ふ呼稱《よびな》があつた。  が、太鼓腹《たいこばら》を突出《つきだ》して、でれりとして、團扇《うちは》で雛妓《おしやく》に煽《あふ》がせて居《ゐ》るやうなのではない。片膚脱《かたはだぬ》ぎで日置流《へぎりう》の弓《ゆみ》を引《ひ》く。獅子寺《ししでら》の大弓場《だいきうば》で先生《せんせい》と懇意《こんい》だから、從《したが》つて弟子《でし》たちに帳面《ちやうめん》が利《き》いた。たゞし信用《しんよう》がないから直接《ぢか》では不可《いけな》いのである。「去年《きよねん》の暮《くれ》のやつが盆《ぼん》を越《こ》して居《ゐ》るぢやないか。だらしなく飮《の》みたがつてばかり居《ゐ》るからだ。」「は、今度《こんど》と言《い》ふ今度《こんど》は……」「お株《かぶ》を言《い》つてら。――此《こ》の暮《くれ》には屹《きつ》と入《い》れなよ。」――その癖《くせ》、ふいと立《た》つて、「一所《いつしよ》に來《き》な。」で、通《とほり》へ出《で》て、右《みぎ》の濱野屋《はまのや》で、御自分《ごじぶん》、めい/\に似合《にあ》ふやうにお見立《みた》て下《くだ》すつたものであつた。  此《こ》の春着《はるぎ》で、元日《ぐわんじつ》あたり、大《たい》して醉《ゑ》ひもしないのだけれど、目《め》つきと足《あし》もとだけは、ふら/\と四五人《しごにん》揃《そろ》つて、神樂坂《かぐらざか》の通《とほ》りをはしやいで歩行《ある》く。……若《わか》いのが威勢《ゐせい》がいゝから、誰《だれ》も(帳面《ちやうめん》)を着《き》て居《ゐ》るとは知《し》らない。いや、知《し》つて居《ゐ》たかも知《し》れない。道理《だうり》で、そこらの地内《ちない》や横町《よこちやう》へ入《はひ》つても、つきとほしの笄《かうがい》で、褄《つま》を取《と》つて、羽子《はね》を突《つ》いて居《ゐ》るのが、聲《こゑ》も掛《か》けはしなかつた。割前勘定《わりまへかんぢやう》。乃《すなは》ち蕎麥屋《そばや》だ。と言《い》つても、松《まつ》の内《うち》だ。もりにかけとは限《かぎ》らない。たとへば、小栗《をぐり》があたり芋《いも》をすゝり、柳川《やながは》がはしらを撮《つま》み、徳田《とくだ》があんかけを食《た》べる。お酌《しやく》なきが故《ゆゑ》に、敢《あへ》て世間《せけん》は怨《うら》まない。が、各々《おの/\》その懷中《くわいちう》に對《たい》して、憤懣《ふんまん》不平《ふへい》勃々《ぼつ/\》たるものがある。從《したが》つて氣焔《きえん》が夥《おびたゞ》しい。  此《こ》のありさまを、高《たか》い二階《にかい》から先生《せんせい》が、 [#4字下げ]あら玉《たま》の春着《はるぎ》きつれて醉《ゑ》ひつれて  涙《なみだ》ぐましいまで、可懷《なつかし》い。  牛込《うしごめ》の方《はう》へは、隨分《ずゐぶん》しばらく不沙汰《ぶさた》をして居《ゐ》た。しばらくと言《い》ふが幾年《いくねん》かに成《な》る。このあひだ、水上《みなかみ》さんに誘《さそ》はれて、神樂坂《かぐらざか》の川鐵《かはてつ》(鳥屋《とりや》)へ、晩御飯《ばんごはん》を食《た》べに出向《でむ》いた。もう一人《ひとり》お連《つれ》は、南榎町《みなみえのきちやう》へ淺草《あさくさ》から引越《ひつこ》した万《まん》ちやんで、二人《ふたり》番町《ばんちやう》から歩行《ある》いて、その榎町《えのきちやう》へ寄《よ》つて連立《つれだ》つた。が、あの、田圃《たんぼ》の大金《だいきん》と仲店《なかみせ》のかねだを橋《はし》がかりで歩行《ある》いた人《ひと》が、しかも當日《たうじつ》の發起人《ほつきにん》だと言《い》ふからをかしい。  途中《とちう》お納戸町邊《なんどまちへん》の狹《せま》い道《みち》で、七八十尺《しちはちじつしやく》切立《きつた》ての白煉瓦《しろれんぐわ》に、崖《がけ》を落《お》ちる瀑《たき》のやうな龜裂《ひゞ》が、枝《えだ》を打《う》つて、三條《みすぢ》ばかり頂邊《てつぺん》から走《はし》りかゝつて居《ゐ》るのには肝《きも》を冷《ひや》した。その眞下《ました》に、魚屋《さかなや》の店《みせ》があつて、親方《おやかた》が威勢《ゐせい》のいゝ向顱卷《むかうはちまき》で、黄肌鮪《きはだ》にさしみ庖丁《ばうちやう》を閃《ひらめ》かして居《ゐ》たのは偉《えら》い。……見《み》た處《ところ》は千丈《せんぢやう》の峰《みね》から崩《くづ》れかゝる雪雪頽《ゆきなだれ》の下《した》で薪《たきゞ》を樵《こ》るより危《あぶなツ》かしいのに――此《こ》の度胸《どきよう》でないと復興《ふくこう》は覺束《おぼつか》ない。――ぐら/\と來《く》るか、おツと叫《さけ》んで、銅貨《どうくわ》の財布《さいふ》と食麺麭《しよくパン》と魔法壜《まはふびん》を入《い》れたバスケツトを追取刀《おつとりがたな》で、一々《いち/\》框《かまち》まで飛《と》び出《だ》すやうな卑怯《ひけふ》を何《ど》うする。……私《わたし》は大《おほい》に勇氣《ゆうき》を得《え》た。  が、吃驚《びつくり》するやうな大景氣《だいけいき》の川鐵《かはてつ》へ入《はひ》つて、たゝきの側《そば》の小座敷《こざしき》へ陣取《ぢんど》ると、細露地《ほそろぢ》の隅《すみ》から覗《のぞ》いて、臆病神《おくびやうがみ》が顯《あら》はれて、逃路《にげみち》を探《さが》せや探《さが》せやと、電燈《でんとう》の瞬《またゝ》くばかり、暗《くら》い指《ゆび》さしをするには弱《よわ》つた。まだ積《つ》んだまゝの雜具《ざふぐ》を繪屏風《ゑびやうぶ》で劃《しき》つてある、さあお一杯《ひとつ》は女中《ねえ》さんで、羅綾《らりよう》の袂《たもと》なんぞは素《もと》よりない。たゞしその六尺《ろくしやく》の屏風《びやうぶ》も、飛《と》ばばなどか飛《と》ばざらんだが、屏風《びやうぶ》を飛《と》んでも、駈出《かけだ》せさうな空地《くうち》と言《い》つては何處《どこ》を向《む》いても無《な》かつたのであるから。……其《そ》の癖《くせ》、醉《よ》つた。醉《よ》ふといゝ心持《こゝろもち》に陶然《たうぜん》とした。第一《だいいち》この家《いへ》は、むかし蕎麥屋《そばや》で、夏《なつ》は三階《さんがい》のもの干《ほし》でビールを飮《の》ませた時分《じぶん》から引續《ひきつゞ》いた馴染《なじみ》なのである。――座敷《ざしき》も、趣《おもむき》は變《かは》つたが、そのまゝ以前《いぜん》の俤《おもかげ》が偲《しの》ばれる。……名《めい》ぶつの額《がく》がある筈《はず》だ。横額《よこがく》に二字《にじ》、たしか(勤儉《きんけん》)とかあつて(彦左衞門《ひこざゑもん》)として、圓《まる》の中《なか》に、朱《しゆ》で(大久保《おほくぼ》)と云《い》ふ印《いん》がある。「いかものも、あのくらゐに成《な》ると珍物《ちんぶつ》だよ。」と、言《い》つて、紅葉先生《こうえふせんせい》はその額《がく》が御贔屓《ごひいき》だつた。――屏風《びやうぶ》にかくれて居《ゐ》たかも知《し》れない。  まだ思《おも》ひ出《だ》す事《こと》がある。先生《せんせい》がこゝで獨酌《どくしやく》……はつけたりで、五勺《ごしやく》でうたゝねをする方《かた》だから御飯《ごはん》をあがつて居《ゐ》ると、隣座敷《となりざしき》で盛《さか》んに艷談《えんだん》のメートルを揚《あ》げる聲《こゑ》がする。紛《まが》ふべくもない後藤宙外《ごとうちうぐわい》さんであつた。そこで女中《ぢよちう》をして近所《きんじよ》で燒芋《やきいも》を買《か》はせ、堆《うづたか》く盆《ぼん》に載《の》せて、傍《かたはら》へあの名筆《めいひつ》を以《もつ》て、曰《いは》く「御浮氣《おんうはき》どめ」プンと香《にほ》つて、三筋《みすぢ》ばかり蒸氣《けむ》の立《た》つ處《ところ》を、あちら樣《さま》から、おつかひもの、と持《も》つて出《で》た。本草《ほんざう》には出《で》て居《ゐ》まいが、案《あん》ずるに燒芋《やきいも》と饀《あん》パンは浮氣《うはき》をとめるものと見《み》える……が浮氣《うはき》がとまつたか何《ど》うかは沙汰《さた》なし。たゞ坦懷《たんくわい》なる宙外君《ちうぐわいくん》は、此盆《このぼん》を讓《ゆづ》りうけて、其《そ》のままに彫刻《てうこく》させて掛額《かけがく》にしたのであつた。  さて其夜《そのよ》こゝへ來《く》るのにも通《とほ》つたが、矢來《やらい》の郵便局《いうびんきよく》の前《まへ》で、ひとりで吹《ふ》き出《だ》した覺《おぼ》えがある。最《もつと》も當時《たうじ》は青《あを》くなつて怯《おび》えたので、おびえたのが、尚《な》ほ可笑《をかし》い。まだ横寺町《よこでらまち》の玄關《げんくわん》に居《ゐ》た時《とき》である。「この電報《でんぱう》を打《う》つて來《き》た。巖谷《いはや》の許《とこ》だ、局待《きよくまち》にして、返辭《へんじ》を持《も》つて歸《かへ》るんだよ。急《いそ》ぐんだよ。」で、局《きよく》で、局待《きよくまち》と言《い》ふと、局員《きよくゐん》が字數《じすう》を算《かぞ》へて、局待《きよくまち》には二字分《にじぶん》の符號《ふがう》がいる。此《こ》のまゝだと、もう一音信《いちおんしん》の料金《れうきん》を、と言《い》ふのであつた。たしか、市内《しない》は一音信《いちおんしん》金《きん》五錢《ごせん》で、局待《きよくまち》の分《ぶん》ともで、私《わたし》は十錢《じつせん》より預《あづか》つて出《で》なかつた。そこで先生《せんせい》の草《した》がきを見《み》ると「ヰルナラタヅネル」一字《いちじ》のことだ。私《わたし》は考《かう》一考《いつかう》して而《しか》して辭句《じく》を改《あらた》めた。「ヰルナラサガス」此《こ》れなら、局待《きよくまち》の二字分《にじぶん》がきちんと入《はひ》る、うまいでせう。――巖谷氏《いはやし》の住所《ぢうしよ》は其《そ》の頃《ころ》麹町《かうぢまち》元園町《もとぞのちやう》であつた。が麹町《かうぢまち》にも、高輪《たかなわ》にも、千住《せんぢゆ》にも、待《ま》つこと多時《たじ》にして、以上《いじやう》返電《へんでん》がこない。今時《いまどき》とは時代《じだい》が違《ちが》ふ。山《やま》の手《て》の局《きよく》閑《かん》にして、赤城《あかぎ》の下《した》で鷄《にはとり》が鳴《な》くのをぽかんと聞《き》いて、うつとりとしてゐると、なゝめ下《さが》りの坂《さか》の下《した》、あまざけやの町《まち》の角《かど》へ、何《なん》と、先生《せんせい》の姿《すがた》が猛然《まうぜん》としてあらはれたらうではないか。  唯《と》見《み》て飛出《とびだ》すのと、殆《ほとん》ど同時《どうじ》で「馬鹿野郎《ばかやらう》、何《なに》をして居《ゐ》る。まるで文句《もんく》が分《わか》らないから、巖谷《いはや》が俥《くるま》で駈《か》けつけて、もう内《うち》へ來《き》てゐるんだ。うつそりめ、何《なに》をして居《ゐ》る。皆《みな》が、車《くるま》に轢《ひ》かれやしないか、馬《うま》に蹴飛《けと》ばされやしないかと案《あん》じて居《ゐ》るんだ。」私《わたし》は青《あを》くなつた――(居《ゐ》るなら訪《たづ》ねる。)を――(要《い》るなら搜《さが》す。)――巖谷氏《いはやし》のわけの分《わか》らなかつたのは無理《むり》はない。紅葉先生《こうえふせんせい》の辭句《じく》を修正《しうせい》したものは、恐《おそ》らく文壇《ぶんだん》に於《おい》て私《わたし》一人《ひとり》であらう。そのかはり目《め》の出《で》るほどに叱《しか》られた。――何《なに》、五錢《ごせん》ぐらゐ、自分《じぶん》の小遣《こづか》ひがあつたらうと、串戲《じようだん》をおつしやい。それだけあれば、もう早《はや》くに煙草《たばこ》と燒芋《やきいも》と、大福餅《だいふくもち》になつて居《ゐ》た。煙草《たばこ》五匁《ごもんめ》一錢《いつせん》五厘《ごりん》。燒芋《やきいも》が一錢《いつせん》で大《だい》六切《むきれ》、大福餅《だいふくもち》は一枚《いちまい》五厘《ごりん》であつた。――其處《そこ》で原稿料《げんかうれう》は?……飛《と》んでもない、私《わたし》はまだ一枚《いちまい》も稼《かせ》ぎはしない。先生《せんせい》のは――内々《ない/\》知《し》つてゐるが内證《ないしよう》にして置《お》く。……  まだ可笑《をか》しい事《こと》がある、ずツと後《あと》で……此《こ》の番町《ばんちやう》の湯《ゆ》へ行《ゆ》くと、かへりがけに、錢湯《せんたう》の亭主《ていしゆ》が「先生々々《せんせい/\》」丁《ちやう》ど午《ひる》ごろだから他《ほか》に一人《ひとり》も居《ゐ》なかつた。「一寸《ちよつと》お教《をし》へを願《ねが》ひたいのでございますが。」先生《せんせい》で、お教《をし》へを、で、私《わたし》はぎよつとした。亭主《ていしゆ》極《きは》めて慇懃《いんぎん》に「えゝ(おかゆ)とは何《ど》う書《か》きますでせうか。」「あゝ、其《そ》れはね、弓《かう》、弓《かう》やつて、眞中《まんなか》へ米《こめ》と書《か》くんです。弱《よわ》しと間違《まちが》つては不可《いけな》いのです。」何《なん》と、先生《せんせい》の得意《とくい》想《おも》ふべし。實《じつ》は、弱《じやく》を、米《こめ》の兩方《りやうはう》へ配《くば》つた粥《かゆ》を書《か》いて、以前《いぜん》、紅葉先生《こうえふせんせい》に叱《しか》られたものがある。「手前勝手《てまへがつて》に字《じ》を拵《こしら》へやがつて――先人《せんじん》に對《たい》して失禮《しつれい》だ。」その叱《しか》られたのは私《わたし》かも知《し》れない。が、其《そ》の時《とき》の覺《おぼ》えがあるから、あたりを拂《はら》つて悠然《いうぜん》として教《をし》へた。――今《いま》はもう代《だい》は替《かは》つた――亭主《ていしゆ》は感心《かんしん》もしないかはりに、病身《びやうしん》らしい、お粥《かゆ》を食《た》べたさうな顏《かほ》をして居《ゐ》た。女房《にようばう》が評判《ひやうばん》の別嬪《べつぴん》で。――此《こ》のくらゐの間違《まちが》ひのない事《こと》を、人《ひと》に教《をし》へた事《こと》はないと思《おも》つた。思《おも》つたなりで年《とし》を經《へ》た。實際《じつさい》年《とし》を經《へ》た。つい近《ちか》い頃《ころ》である。三馬《さんば》の浮世風呂《うきよぶろ》を讀《よ》むうちに、だしぬけに目白《めじろ》の方《はう》から、釣鐘《つりがね》が鳴《な》つて來《き》たやうに氣《き》がついた。湯屋《ゆや》の聞《き》いたのは(岡湯《をかゆ》)なのである。  少々《せう/\》話《はなし》が通《とほ》りすぎた、あとへ戻《もど》らう。  其《そ》の日《ひ》、万《まん》ちやんを誘《さそ》つた家《いへ》は、以前《いぜん》、私《わたし》の住《す》んだ南榎町《みなみえのきちやう》と同町内《どうちやうない》で、奧《おく》へ辨天町《べんてんちやう》の方《はう》へ寄《よ》つて居《ゐ》る事《こと》はすぐに知《し》れた。が、家々《いへ/\》も立《た》て込《こ》んで、從《したが》つて道《みち》も狹《せま》く成《な》つたやうな氣《き》がする。殊《こと》に夜《よる》であつた。むかし住《す》んだ家《いへ》は一寸《ちよつと》見富《けんたう》が着《つ》かない。さうだらう兩側《りやうがは》とも生垣《いけがき》つゞきで、私《わたし》の家《うち》などは、木戸内《きどうち》の空地《あきち》に井戸《ゐど》を取《と》りまいて李《すもゝ》の樹《き》が幾本《いくほん》も茂《しげ》つて居《ゐ》た。李《すもゝ》は庭《には》から背戸《せど》へ續《つゞ》いて、小《ちひ》さな林《はやし》といつていゝくらゐ。あの、底《そこ》に甘《あま》みを帶《お》びた、美人《びじん》の白《しろ》い膚《はだ》のやうな花盛《はなざか》りを忘《わす》れない。雨《あめ》には惱《なや》み、風《かぜ》には傷《いた》み、月影《つきかげ》には微笑《ほゝゑ》んで、淨濯明粧《じやうたくめいしやう》の面影《おもかげ》を匂《にほ》はせた。……  唯《たゞ》一間《ひとま》よりなかつた、二階《にかい》の四疊半《よでふはん》で、先生《せんせい》の一句《いつく》がある。 [#4字下げ]紛胸《ふんきよう》の乳房《ちぶさ》かくすや花李《はなすもゝ》  ひとへに白《しろ》い。乳《ちゝ》くびの桃色《もゝいろ》をさへ、蔽《おほ》ひかくした美女《びぢよ》にくらべられたものらしい。……此《こ》の白《しろ》い花《はな》の、散《ち》つて葉《は》に成《な》る頃《ころ》の、その毛蟲《けむし》の夥多《おびたゞ》しさと言《い》つては、それは又《また》ない。よくも、あの水《みづ》を飮《の》んだと思《おも》ふ。一釣瓶《ひとつるべ》ごとに榎《えのき》の實《み》のこぼれたやうな赤《あか》い毛蟲《けむし》を充滿《いつぱい》に汲上《くみあ》げた。しばらくすると、此《こ》の毛蟲《けむし》が、盡《こと/″\》く眞白《まつしろ》な蝶《てふ》になつて、枝《えだ》にも、葉《は》にも、再《ふたゝ》び花片《はなびら》を散《ち》らして舞《ま》つて亂《みだ》るゝ。幾千《いくせん》とも數《かず》を知《し》らない。三日《みつか》つゞき、五日《いつか》、七日《なぬか》つゞいて、飜《ひるがへ》り且《か》つ飛《と》んで、窓《まど》にも欄干《らんかん》にも、暖《あたゝ》かな雪《ゆき》の降《ふ》りかゝる風情《ふぜい》を見《み》せたのである。  やがて實《みの》る頃《ころ》よ。――就中《なかんづく》、南《みなみ》の納戸《なんど》の濡縁《ぬれえん》の籬際《かきぎは》には、見事《みごと》な巴旦杏《はたんきやう》があつて、大《おほ》きな實《み》と言《い》ひ、色《いろ》といひ、艷《えん》なる波斯《ペルシヤ》の女《をんな》の爛熟《らんじゆく》した裸身《らしん》の如《ごと》くに薫《かを》つて生《な》つた。いまだと早速《さつそく》千匹屋《せんびきや》へでも卸《おろ》しさうなものを、彼《か》の川柳《せんりう》が言《い》ふ、(地女《ぢをんな》は振《ふ》りもかへらぬ一盛《ひとさか》り)それ、意氣《いき》の壯《さかん》なるや、縁日《えんにち》の唐黍《たうきび》は買《か》つて噛《かじ》つても、内《うち》で生《な》つた李《すもゝ》なんか食《く》ひはしない。一人《ひとり》として他樣《ひとさま》の娘《むすめ》などに、こだはるものはなかつたのである。  が、いまは開《ひら》けた。その頃《ころ》、友《とも》だちが來《き》て、酒屋《さかや》から麥酒《ビイル》を取《と》ると、泡《あわ》が立《た》たない、泡《あわ》が、麥酒《ビイル》は決《けつ》して泡《あわ》をくふものはない。が、泡《あわ》の立《た》たない麥酒《ビイル》は稀有《けう》である。酒屋《さかや》にたゞすと、「拔《ぬ》く時《とき》倒《さかさ》にして、ぐん/\お振《ふ》りなさい、然《さ》うすると泡《あわ》が立《た》ちますよ、へい。」と言《い》つたものである。十日《とをか》、腹《はら》を瀉《くだ》さなかつたのは僥倖《げうかう》と言《い》ひたい――今《いま》はひらけた。  たゞ、惜《を》しい哉《かな》。中《なか》の丸《まる》の大樹《たいじゆ》の枝垂櫻《しだれざくら》がもう見《み》えぬ。新館《しんくわん》の新潮社《しんてうしや》の下《した》に、吉田屋《よしだや》と云《い》ふ料理店《れうりてん》がある。丁度《ちやうど》あの前《まへ》あたり――其後《そのご》、晝間《ひるま》通《とほ》つた時《とき》、切株《きりかぶ》ばかり、根《ね》が殘《のこ》つたやうに見《み》た。盛《さかり》の時《とき》は梢《こずゑ》が中空《なかぞら》に、花《はな》は町《まち》を蔽《おほ》うて、そして地摺《ぢずり》に枝《えだ》を曳《ひ》いた。夜《よる》もほんのりと紅《くれなゐ》であつた。昔《むかし》よりして界隈《かいわい》では、通寺町《とほりてらまち》保善寺《ほぜんじ》に一樹《いちじゆ》、藁店《わらだな》の光照寺《くわうせうじ》に一樹《いちじゆ》、とともに、三枚振袖《みつふりそで》、絲櫻《いとざくら》の名木《めいぼく》と、稱《とな》へられたさうである。  向《むか》う側《がは》の湯屋《ゆや》に柳《やなぎ》がある。此間《このあひだ》を、男《をとこ》も女《をんな》も、一頃《ひところ》揃《そろ》つて、縮緬《ちりめん》、七子《なゝこ》、羽二重《はぶたへ》の、黒《くろ》の五紋《いつゝもん》を着《き》て往《ゆ》き來《き》した。湯《ゆ》へ行《ゆ》くにも、蕎麥屋《そばや》へ入《はひ》るにも紋着《もんつき》だつた事《こと》がある、こゝだけでも春《はる》の雨《あめ》、また朧夜《おぼろよ》の一時代《いちじだい》の面影《おもかげ》が思《おも》はれる。  つい、その一時代前《ひとじだいまへ》には、そこは一面《いちめん》の大竹藪《おほたけやぶ》で、氣《き》の弱《よわ》い旗本《はたもと》は、いまの交番《かうばん》の處《ところ》まで晝《ひる》も駈《か》け拔《ぬ》けたと言《い》ふのである。酒井家《さかゐけ》に出入《でいり》の大工《だいく》の大棟梁《おほとうりやう》が授《さづ》けられて開拓《かいたく》した。藪《やぶ》を切《き》ると、蛇《へび》の棄《す》て場所《ばしよ》にこまつたと言《い》ふ。小《ちひ》さな堂《だう》に籠《こ》めて祭《まつ》つたのが、のちに倶樂部《くらぶ》の築山《つきやま》の蔭《かげ》に谷《たに》のやうな崖《がけ》に臨《のぞ》んであつたのを覺《おぼ》えて居《ゐ》る。池《いけ》、亭《ちん》、小座敷《こざしき》、寮《れう》ごのみで、その棟梁《とうりやう》が一度《いちど》料理店《れうりてん》を其處《そこ》に開《ひら》いた時《とき》のなごりだと聞《き》いた。  棧《かけはし》の亭《ちん》で、遙《はるか》にポン/\とお掌《て》が鳴《な》る。へーい、と母家《おもや》から女中《ぢよちう》が行《ゆ》くと、……誰《たれ》も居《ゐ》ない。池《いけ》の梅《うめ》の小座敷《こざしき》で、トーンと灰吹《はひふき》を敲《たゝ》く音《おと》がする、娘《むすめ》が行《ゆ》くと、……影《かげ》も見《み》えない。――その料理屋《れうりや》を、狸《たぬき》がだましたのださうである。眉唾《まゆつば》。眉唾《まゆつば》。  尤《もつと》もいま神樂坂上《かぐらざかうへ》の割烹《かつぱう》(魚徳《うをとく》)の先代《せんだい》が(威張《ゐば》り)と呼《よ》ばれて、「おう、うめえ魚《もの》を食《く》はねえか」と、醉《よつ》ぱらつて居《ゐ》るから盤臺《ばんだい》は何處《どこ》かへ忘《わす》れて、天秤棒《てんびんぼう》ばかりを振《ふ》りまはして歩行《ある》いた頃《ころ》で。……  矢來邊《やらいへん》の夜《よ》は、たゞ遠《とほ》くまで、榎町《えのきちやう》の牛乳屋《ぎうにうや》の納屋《なや》に、トーン/\と牛《うし》の跫音《あしおと》のするのが響《ひゞ》いて、今《いま》にも――いわしこう――酒井家《さかゐけ》の裏門《うらもん》あたりで――眞夜中《まよなか》には――鰯《いわし》こう――と三聲《みこゑ》呼《よ》んで、形《かたち》も影《かげ》も見《み》えないと云《い》ふ。……怪《あや》しい聲《こゑ》が聞《きこ》えさうな寂《さび》しさであつた。 [#4字下げ]春《はる》の夜《よ》の鐘《かね》うなりけり九人力《くにんりき》  それは、その李《すもゝ》の花《はな》、花《はな》の李《すもゝ》の頃《ころ》、二階《にかい》の一室《いつしつ》、四疊半《よでふはん》だから、狹《せま》い縁《えん》にも、段子《はしご》の上《うへ》の段《だん》にまで居餘《ゐあま》つて、わたしたち八人《はちにん》、先生《せんせい》と合《あ》はせて九人《くにん》、一夕《いつせき》、俳句《はいく》の會《くわい》のあつた時《とき》、興《きよう》に乘《じよう》じて、先生《せんせい》が、すゝ色《いろ》の古壁《ふるかべ》にぶつつけがきをされたものである。句《く》の傍《かたはら》に、おの/\の名《な》がしるしてあつた。……神樂坂《かぐらざか》うらへ、私《わたし》が引越《ひつこ》す時《とき》、そのまゝ殘《のこ》すのは惜《をし》かつたが、壁《かべ》だから何《ど》うにも成《な》らない。――いゝ鹽梅《あんばい》に、一人《ひとり》知《し》り合《あひ》があとへ入《はひ》つた。――埃《ほこり》は掛《か》けないと言《い》つて、大切《たいせつ》にして居《ゐ》た。  ――五月雨《さみだれ》の陰氣《いんき》な一夜《あるよ》、坂《さか》の上《うへ》から飛蒐《とびかゝ》るやうなけたゝましい跫音《あしおと》がして、格子《かうし》をがらりと突開《つきあ》けたと思《おも》ふと、神樂坂下《かぐらざかした》の其《そ》の新宅《しんたく》の二階《にかい》へ、いきなり飛上《とびあが》つて、一驚《いつきやう》を吃《きつ》した私《わたし》の机《つくゑ》の前《まへ》でハタと顏《かほ》を合《あ》はせたのは、知合《しりあひ》のその男《をとこ》で……眞青《まつさを》に成《な》つて居《ゐ》る。「大變《たいへん》です。」「……」「化《ばけ》ものが出《で》ます。」「……」「先生《せんせい》の壁《かべ》のわきの、あの小窓《こまど》の處《ところ》へ机《つくゑ》を置《お》いて、勉強《べんきやう》をして居《を》りますと……恁《か》う、じり/\と燈《あかり》が暗《くら》く成《な》りますから、ふいと見《み》ますと、障子《しやうじ》の硝子《がらす》一杯《いつぱい》ほどの猫《ねこ》の顏《かほ》が、」と、身《み》ぶるひして、「顏《かほ》ばかりの猫《ねこ》が、李《すもゝ》の葉《は》の眞暗《まつくら》な中《なか》から――其《そ》の大《おほ》きさと言《い》つたらありません。そ、それが五分《ごぶ》と間《ま》がない、目《め》も鼻《はな》も口《くち》も一所《いつしよ》に、僕《ぼく》の顏《かほ》とぴつたりと附着《くツつ》きました、――あなたのお住居《すまひ》の時分《じぶん》から怪猫《ばけねこ》が居《ゐ》たんでせうか……一體《いつたい》猫《ねこ》が大嫌《だいきら》ひで、いえ可恐《おそろし》いので。」それならば爲方《しかた》がない。が、怪猫《ばけねこ》は大袈裟《おほげさ》だ。五月闇《さつきやみ》に、猫《ねこ》が屋根《やね》をつたはらないとは誰《たれ》が言《い》ひ得《え》よう。……窓《まど》の燈《ひ》を覗《のぞ》かないとは限《かぎ》らない。しかし、可恐《おそろし》い猫《ねこ》の顏《かほ》と、不意《ふい》に顱合《はちあは》せをしたのでは、驚《おどろ》くも無理《むり》はない。……「それで、矢來《やらい》から此處《こゝ》まで。」「えゝ。」と息《いき》を引《ひ》いて、「夢中《むちう》でした……何《なに》しろ、正體《しやうたい》を、あなたに伺《うかゞ》はうと思《おも》つたものですから。」今《いま》は昔《むかし》、山城介《やましろのすけ》三善春家《みよしはるいへ》は、前《まへ》の世《よ》の蝦蟆《がま》にてや有《あり》けむ、蛇《くちなは》なん極《いみじ》く恐《おぢ》ける。――夏《なつ》の比《ころ》、染殿《そめどの》の辰巳《たつみ》の山《やま》の木隱《こがく》れに、君達《きみたち》、二三人《にさんにん》ばかり涼《すゞ》んだ中《うち》に、春家《はるいへ》も交《まじ》つたが、此《こ》の人《ひと》の居《ゐ》たりける傍《そば》よりしも、三尺許《さんじやくばか》りなる烏蛇《くろへび》の這出《はひで》たりければ、春家《はるいへ》はまだ氣《き》がつかなかつた。處《ところ》を、君達《きみたち》、それ見《み》よ春家《はるいへ》。と、袖《そで》を去《さ》る事《こと》一尺《いつしやく》ばかり。春家《はるいへ》顏《かほ》の色《いろ》は朽《くち》し藍《あゐ》のやうに成《な》つて、一聲《ひとこゑ》あつと叫《さけ》びもあへず、立《た》たんとするほどに二度《にど》倒《たふ》れた。すはだしで、その染殿《そめどの》の東《ひがし》の門《もん》より走《はし》り出《い》で、北《きた》ざまに走《はし》つて、一條《いちでう》より西《にし》へ、西《にし》の洞院《とうゐん》、それから南《みなみ》へ、洞院下《とうゐんさがり》に走《はし》つた。家《いへ》は土御門西《つちみかどにし》の洞院《とうゐん》にありければで、駈《か》け込《こ》むと齊《ひと》しく倒《たふ》れた、と言《い》ふのが、今昔物語《こんじやくものがた》りに見《み》える。遠《とほ》きその昔《むかし》は知《し》らず、いまの男《をとこ》は、牛込南榎町《うしごめみなみえのきちやう》を東状《ひがしざま》に走《はし》つて、矢來《やらい》中《なか》の丸《まる》より、通寺町《とほりてらまち》、肴町《さかなまち》、毘沙門前《びしやもんまへ》を走《はし》つて、南《みなみ》に神樂坂上《かぐらざかうへ》を走《はし》りおりて、その下《した》にありける露地《ろぢ》の家《いへ》へ飛込《とびこ》んで……打倒《うちたふ》れけるかはりに、二階《にかい》へ駈上《かけあが》つたものである。餘《あま》り眞面目《まじめ》だから笑《わら》ひもならない。「まあ、落着《おちつ》きたまへ。――景氣《けいき》づけに一杯《いつぱい》。」「いゝえ、歸《かへ》ります。――成程《なるほど》、猫《ねこ》は屋根《やね》づたひをして、窓《まど》を覗《のぞ》かないものとは限《かぎ》りません。――分《わか》りました。――いえ然《さ》うしては居《を》られません。僕《ぼく》がキヤツと言《い》つて、いきなり飛出《とびだ》したもんですから、彼《あれ》が。」と言《い》ふのが情婦《いろ》で、「一所《いつしよ》にキヤツと言《い》つて、跣足《はだし》で露地《ろぢ》の暗《くら》がりを飛出《とびだ》しました。それつ切《きり》音信《いんしん》が分《わか》りませんから。」慌《あわ》てて歸《かへ》つた。――此《こ》の知合《しりあひ》を誰《たれ》とかする。やがて報知新聞《はうちしんぶん》の記者《きしや》、いまは代議士《だいぎし》である、田中萬逸君《たなかまんいつくん》その人《ひと》である。反對黨《はんたいたう》は、ひやかしてやるがいゝ。が、その夜《よ》、もう一度《いちど》怯《おびや》かされた。眞夜中《まよなか》である。その頃《ころ》階下《した》に居《ゐ》た學生《がくせい》さんが、みし/\と二階《にかい》へ來《く》ると、寢床《ねどこ》だつた私《わたし》の枕《まくら》もとで大息《おほいき》をついて、「變《へん》です。……どうも變《へん》なんです――縁側《えんがは》の手拭掛《てぬぐひかけ》が、ふはりと手拭《てぬぐひ》を掛《か》けたまゝで歩行《あるく》んです。……トン/\トン、たゝらを踏《ふ》むやうに動《うご》きましたつけ。おやと思《おも》ふと斜《はす》かひに、兩方《りやうはう》へ開《ひら》いて、ギクリ、シヤクリ、ギクリ、シヤクリとしながら、後退《あともど》りをするやうにして、あ、あ、と思《おも》ふうちに、スーと、あの縁《えん》の突《つき》あたりの、戸袋《とぶくろ》の隅《すみ》へ消《き》えるんです。變《へん》だと思《おも》ふと、また目《め》の前《まへ》へ手拭掛《てぬぐひかけ》がふはりと出《で》て……出《で》ると、トントントンと踏《ふ》んで、ギクリ、シヤクリ、とやつて、スー、何《ど》うにも氣味《きみ》の惡《わる》さつたらないのです。――一度《いちど》見《み》てみて下《くだ》さい。……矢來《やらい》の猫《ねこ》が、田中君《たなかくん》について來《き》たんぢやあないんでせうか知《し》ら。」五月雨《さみだれ》はじと/\と降《ふ》る、外《そと》は暗夜《やみ》だ。私《わたし》も一寸《ちよつと》悚然《ぞつ》とした。  はゝあ、此《こ》の怪談《くわいだん》を遣《や》りたさに、前刻《さつき》狸《たぬき》を持出《もちだ》したな。――いや、敢《あへ》て然《さ》うではない。  何《ど》う言《い》ふものか、此《こ》のごろ私《わたし》のおともだちは、おばけと言《い》ふと眉《まゆ》を顰《ひそ》める。  口惜《くやし》いから、紅葉先生《こうえふせんせい》の怪談《くわいだん》を一《ひと》つ聞《き》かせよう。先生《せんせい》も怪談《くわいだん》は嫌《きら》ひであつた。「泉《いづみ》が、又《また》はじめたぜ。」その唯《たゞ》一《ひと》つの怪談《くわいだん》は、先生《せんせい》が十四五の時《とき》、うらゝかな春《はる》の日中《ひなか》に、一人《ひとり》で留守《るす》をして、茶《ちや》の室《ま》にゐらるゝと、臺所《だいどころ》のお竈《へツつひ》が見《み》える。……竈《へツつひ》の角《かど》に、らくがきの蟹《かに》のやうな、小《ちひ》さなかけめがあつた。それが左《ひだり》の角《かど》にあつた。が、陽炎《かげろふ》に乘《の》るやうに、すつと右《みぎ》の角《かど》へ動《うご》いてかはつた。「唯《たゞ》それだけだよ。しかし今《いま》でも不思議《ふしぎ》だよ。」との事《こと》である。――猫《ねこ》が窓《まど》を覗《のぞ》いたり、手拭掛《てぬぐひかけ》が踊《をど》つたり、竈《へツつひ》の蟹《かに》が這《は》つたり、ひよいと賽《さい》を振《ふ》つて出《で》たやうである。春《はる》だからお子供衆《こどもしう》――に一寸《ちよつと》……化《ばけ》もの雙六《すごろく》。……  なき柳川春葉《やながはしゆんえふ》は、よく罪《つみ》のない嘘《うそ》を言《い》つて、うれしがつて、けろりとして居《ゐ》た。――「按摩《あんま》あ……鍼《はあり》ツ」と忽《たちま》ち噛《か》みつきさうに、霜夜《しもよ》の横寺《よこでら》の通《とほ》りで喚《わめ》く。「あ、あれはね(吼《ほ》え按摩《あんま》)と云《い》つてね、矢來《やらい》ぢや(鰯《いわし》こ)とおんなじに不思議《ふしぎ》の中《なか》へ入《はひ》るんだよ」「ふう」などと玄關《げんくわん》で燒芋《やきいも》だつたものである。花袋《くわたい》、玉茗《ぎよくめい》兩君《りやうくん》の名《な》が、そちこち雜誌類《ざつしるゐ》に見《み》えた頃《ころ》、よそから歸《かへ》つて來《く》るとだしぬけに「きみ、聞《き》いて來《き》たよ。――花袋《くわたい》と言《い》ふのは上州《じやうしう》の或大寺《あるおほでら》の和尚《をしやう》なんだ、花袋和尚《くわたいをしやう》。僧正《そうじやう》ともあるべきが、女《をんな》のために詩人《しじん》に成《な》つたんだとね。玉茗《ぎよくめい》と言《い》ふのは日本橋室町《にほんばしむろまち》の葉茶屋《はぢやや》の若旦那《わかだんな》だとさ。」この人《ひと》のいふのだからあてには成《な》らないが、いま座敷《ざしき》うけの新講談《しんかうだん》で評判《ひやうばん》の鳥逕子《てうけいし》のお父《とう》さんは、千石取《せんごくどり》の旗下《はたもと》で、攝津守《せつつのかみ》、有鎭《いうちん》とかいて有鎭《ありしづ》とよむ。村山攝津守《むらやませつつのかみ》有鎭《ありしづ》――邸《やしき》は矢來《やらい》の郵便局《いうびんきよく》の近所《きんじよ》にあつて、鳥逕《てうけい》とは私《わたし》たち懇意《こんい》だつた。渾名《あだな》を鳶《とび》の鳥逕《てうけい》と言《い》つたが、厚眉《こうび》隆鼻《りうび》ハイカラのクリスチヤンで、そのころ拂方町《はらひかたまち》の教會《けうくわい》を背負《しよ》つて立《た》つた色男《いろをとこ》で……お父《とう》さんの立派《りつぱ》な藏書《ざうしよ》があつて、私《わたし》たちはよく借《か》りた。――そのお父《とう》さんを知《し》つて居《ゐ》るが、攝津守《せつつのかみ》だか、有鎭《ありしづ》だか、こゝが柳川《やながは》の説《せつ》だから當《あて》には成《な》らない。その攝津守《せつつのかみ》が、私《わたし》の知《し》つてる頃《ころ》は、五十七八の年配《ねんぱい》、人品《ひとがら》なものであつた。つい、その頃《ころ》、門《もん》へ出《で》て――秋《あき》の夕暮《ゆふぐれ》である……何心《なにごころ》もなく町通《まちどほ》りを視《なが》めて立《た》つと、箒目《はゝきめ》の立《た》つた町《まち》に、ふと前後《あとさき》に人足《ひとあし》が途絶《とだ》えた。その時《とき》、矢來《やらい》の方《はう》から武士《ぶし》が二人《ふたり》來《き》て、二人《ふたり》で話《はな》しながら、通寺町《とほりてらまち》の方《はう》へ、すつと通《とほ》つた……四十《しじふ》ぐらゐのと二十《はたち》ぐらゐの若侍《わかざむらひ》とで。――唯《と》見《み》るうちに、郵便局《いうびんきよく》の坂《さか》を下《さが》りに見《み》えなくなつた。あゝ不思議《ふしぎ》な事《こと》がと思《おも》ひ出《だ》すと、三十幾年《さんじふいくねん》の、維新前後《ゐしんぜんご》に、おなじ時《とき》、おなじ節《せつ》、おなじ門《もん》で、おなじ景色《けしき》に、おなじ二人《ふたり》の侍《さむらひ》を見《み》た事《こと》がある、と思《おも》ふと、悚然《ぞつ》としたと言《い》ふのである。  此《これ》は少《すこ》しくもの凄《すご》い。……  初春《はつはる》の事《こと》だ。おばけでもあるまい。  春着《はるぎ》につけても、一《ひと》つ艷《つや》つぽい處《ところ》をお目《め》に掛《か》けよう。  時《とき》に、川鐵《かはてつ》の向《むか》うあたりに、(水何《みづなに》)とか言《い》つた天麩羅屋《てんぷらや》があつた。くどいやうだが、一人前《いちにんまへ》、なみで五錢《ごせん》。……横寺町《よこでらまち》で、お孃《ぢやう》さんの初《はつ》のお節句《せつく》の時《とき》、私《わたし》たちは此《これ》を御馳走《ごちそう》に成《な》つた。その時分《じぶん》、先生《せんせい》は御質素《ごしつそ》なものであつた。二十幾年《にじふいくねん》、尤《もつと》も私《わたし》なぞは、今《いま》もつて質素《しつそ》である。此《こ》の段《だん》は、勤儉《きんけん》と題《だい》して、(大久保《おほくぼ》)の印《いん》を捺《お》しても可《よ》い。  その天麩羅屋《てんぷらや》の、しかも蛤鍋《はまなべ》三錢《さんせん》と云《い》ふのを狙《ねら》つて、小栗《をぐり》、柳川《やながは》、徳田《とくだ》、私《わたし》……宙外君《ちうぐわいくん》が加《くは》はつて、大擧《たいきよ》して押上《おしあが》つた、春寒《はるさむ》の午後《ごご》である。お銚子《てうし》は入《いり》が惡《わる》くつて、しかも高値《たか》いと言《い》ふので、式《かた》だけ誂《あつら》へたほかには、町《まち》の酒屋《さかや》から、かけにして番《ばん》を口説《くど》いた一升入《いつしよういり》の貧乏徳利《びんぼふどくり》を誰《たれ》かが外套《ぐわいたう》(註《ちう》。おなじく月賦《げつぷ》……這個《この》まつくろなのを一着《いつちやく》して、のそ/\と歩行《ある》く奴《やつ》を、先生《せんせい》が嘲《あざけ》つて――月府玄蝉《げつぷげんせん》。)の下《した》へ忍《しの》ばした勢《いきほひ》だから、氣焔《きえん》と、殺風景《さつぷうけい》推《お》して知《し》るべしだ。……酒氣《しゆき》が天井《てんじやう》を衝《つ》くのではない、陰《いん》に籠《こも》つて疊《たゝみ》の燒《や》けこげを轉《ころ》げ𢌞《まは》る。あつ燗《かん》で火《ひ》の如《ごと》く惡醉《あくすゐ》闌《たけなは》なる最中《さいちう》。お連樣《つれさま》つ――と下階《した》から素頓興《すとんきよう》な聲《こゑ》が掛《かゝ》ると、「皆《みんな》居《ゐ》るかい。」と言《い》ふ紅葉先生《こうえふせんせい》の聲《こゑ》がした。まさか、壺皿《つぼざら》はなかつたが、驚破《すは》事《こと》だと、貧乏徳利《びんぼふどくり》を羽織《はおり》の下《した》へ隱《かく》すのがある、誂子《てうし》を股《また》へ引挾《ひつぱさ》んで膝小僧《ひざこぞう》をおさへるのがある、鍋《なべ》へ盃洗《はいせん》の水《みづ》を打込《ぶちこ》むのがある。私《わたし》が手《て》をついて畏《かしこ》まると、先生《せんせい》にはお客分《きやくぶん》で仔細《しさい》ないのに、宙外《ちうぐわい》さんも煙《けむ》に卷《ま》かれて、肩《かた》を四角《しかく》に坐《すわ》り直《なほ》つて、酒《さけ》のいきを、はあはあと、專《もつぱ》らピンと撥《は》ねた髯《ひげ》を揉《も》んだ。  ――處《ところ》へ……せり上《あが》つておいでなすつた先生《せんせい》は、舞臺《ぶたい》にしても見《み》せたかつた。すつきり男《をとこ》ぶりのいゝ處《ところ》へ、よそゆきから歸宅《きたく》のまゝの、りうとした着《き》つけである。勿論《もちろん》留守《るす》を狙《ねら》つて泳《およ》ぎ出《だ》したのであつたが――揃《そろ》つて紫星堂《しせいだう》(塾《じゆく》)を出《で》たと聞《き》いて、その時々《とき/″\》の弟子《でし》の懷中《くわいちう》は見透《みとほ》しによく分《わか》る。明進軒《めいしんけん》か島金《しまきん》、飛上《とびあが》つて常磐《ときは》(はこが入《はひ》る)と云《い》ふ處《ところ》を、奴等《やつら》の近頃《ちかごろ》の景氣《けいき》では――蛉鍋《はまなべ》と……當《あた》りがついた。「いや、盛《さかん》だな。」と、缺《か》け火鉢《ひばち》を、鐵火《てつくわ》にお召《めし》の股《また》へ挾《はさ》んで、手《て》をかざしながら莞爾《につこり》して、「後藤君《ごとうくん》、お樂《らく》に――皆《みな》も飮《の》みなよ、俺《おれ》も割《わり》で一杯《いつぱい》やらう。」殿樣《とのさま》が中間部屋《ちうげんべや》の趣《おもむき》がある。恐《おそ》れながら、此時《このとき》、先生《せんせい》の風采《ふうさい》想《おも》ふべしで、「懷中《ふところ》はいゝぜ。」と手《て》を敲《たゝ》かるゝ。手《て》に應《おう》じて、へいと、どしん/\と上《あが》つた女中《ぢよちう》が、次手《ついで》に薄暗《うすぐら》いからランプをつけた、釣《つり》ランプ(……あゝ久《ひさ》しいが今《いま》だつてランプなしには居《ゐ》られますか。)それが丁《ちやう》ど先生《せんせい》の肩《かた》の上《うへ》の見當《けんたう》に掛《かゝ》つて居《ゐ》た。面疱《にきび》だらけの女中《ねえ》さんが燐寸《マツチ》を摺《す》つて點《つ》けて、插《さし》ぼやをさすと、フツと消《け》したばかり、まだ火《ひ》のついたまゝの燃《もえ》さしを、ポンと斜《はす》つかひに投《な》げた――(まつたく、お互《たがひ》が、所帶《しよたい》を持《も》つて、女中《ぢよちう》の此《これ》には惱《なや》まされた、火《ひ》の用心《ようじん》が惡《わる》いから、それだけはよしなよ。はい、と言《い》ふ口《くち》の下《した》から、つけさしのマツチをポンがお定《さだ》まり……)唯《と》、先生《せんせい》の膝《ひざ》にプスツと落《お》ちた。「女中《ねえ》や、お手柔《てやはら》かに頼《たの》むぜ。」と先生《せんせい》の言葉《ことば》の下《した》に、ゑみわれたやうな顏《かほ》をして、「惚《ほ》れた證據《しようこ》だわよ。」やや、と皆《みな》が顏《かほ》を見《み》る。……「惚《ほ》れたに遠慮《ゑんりよ》があるものかツてねえ、……てね、……ねえ。」と甘《あま》つたれる。――あ、あ、あ危《あぶ》ない、棚《たな》の破鍋《われなべ》が落《お》ちかゝる如《ごと》く、剩《あまつさ》へべた/\と崩《くづ》れて、薄汚《うすよご》れた紀州《きしう》ネルを膝《ひざ》から溢出《はみだ》させたまゝ、……あゝ……あゝ行《や》つた!……男振《をとこぶり》は音羽屋《おとはや》(特註《とくちう》、五代目《ごだいめ》)の意氣《いき》に、團十郎《だんじふらう》の澁味《しぶみ》が加《くはゝ》つたと、下町《したまち》の女《をんな》だちが評判《ひやうばん》した、御病氣《ごびやうき》で面痩《おもや》せては、あだにさへも見《み》えなすつた先生《せんせい》の肩《かた》へ、……あゝ噛《かじ》りついた。  よゝつツと、宙外君《ちうぐわいくん》が堪《た》まらず奇聲《きせい》と云《い》ふのを上《あ》げるに連《つ》れて、一同《いちどう》が、……おめでたうと稱《とな》へた。  それよりして以來《いらい》――癇癪《かんしやく》でなく、憤《いきどほ》りでなく、先生《せんせい》がいゝ機嫌《きげん》で、しかも警句《けいく》雲《くも》の如《ごと》く、弟子《でし》をならべて罵倒《ばたう》して、勢《いきほひ》當《あた》るべからざる時《とき》と言《い》ふと、つゝき合《あ》つて、目《め》くばせして、一人《ひとり》が少《すこ》しく座《ざ》を罷《まか》り出《で》る。「先生《せんせい》……(水《みづ》)……」「何《なに》。」「蛤鍋《はまなべ》へおともは如何《いかゞ》で。」「馬鹿《ばか》を言《い》へ。」「いゝえ、大分《だいぶ》、女中《ねえ》さんがこがれて居《を》りますさうでございまして。」傍《かたはら》から、「えゝ煩《わづら》つて居《ゐ》るほどだと申《まを》します事《こと》ですから。」……かねて、おれを思《おも》ふ女《をんな》ならば、目《め》つかちでも鼻《はな》つかけでもと言《い》ふ、御主義《ごしゆぎ》?であつた。――  紅葉先生《こうえふせんせい》、その時《とき》の態度《たいど》は…… [#ここから4字下げ] 采菊東籬下《きくをとうりのもとにとつて》、 悠然見南山《いうぜんとしてなんざんをみる》。 [#ここで字下げ終わり] [#地から5字上げ]大正十三年一月 底本:「鏡花全集 巻二十七」岩波書店    1942(昭和17)年10月20日第1刷発行    1988(昭和63)年11月2日第3刷発行 ※題名の下にあった年代の注を、最後に移しました。 ※表題は底本では、「春着《はるぎ》」とルビがついています。 入力:門田裕志 校正:川山隆 2011年8月8日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。