五月より 泉鏡太郎 ------------------------------------------------------- 【テキスト中に現れる記号について】 《》:ルビ (例)五月《ごぐわつ》 [#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定    (数字は、JIS X 0213の面区点番号またはUnicode、底本のページと行数) (例)徜 /\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号) (例)カタ/\ *濁点付きの二倍の踊り字は「/″\」 ------------------------------------------------------- [#6字下げ]五月《ごぐわつ》[#「五月」は中見出し]  卯《う》の花《はな》くだし新《あらた》に霽《は》れて、池《いけ》の面《おも》の小濁《さゝにご》り、尚《な》ほ遲櫻《おそざくら》の影《かげ》を宿《やど》し、椿《つばき》の紅《くれなゐ》を流《なが》す。日《ひ》闌《た》けて眠《ねむ》き合歡《ねむ》の花《はな》の、其《そ》の面影《おもかげ》も澄《す》み行《ゆ》けば、庭《には》の石燈籠《いしどうろう》に苔《こけ》やゝ青《あを》うして、野茨《のばら》に白《しろ》き宵《よひ》の月《つき》、カタ/\と音信《おとづ》るゝ鼻唄《はなうた》の蛙《かへる》もをかし。鄙《ひな》はさて都《みやこ》はもとより、衣《きぬ》輕《かろ》く戀《こひ》は重《おも》く、褄《つま》淺《あさ》く、袖《そで》輝《かゞや》き風《かぜ》薫《かを》つて、緑《みどり》の中《なか》の涼傘《ひがさ》の影《かげ》、水《みづ》にうつくしき翡翠《ひすゐ》の色《いろ》かな。浮草《うきくさ》、藻《も》の花《はな》。雲《くも》の行方《ゆくへ》は山《やま》なりや、海《うみ》なりや、曇《くも》るかとすれば又《また》眩《まばゆ》き太陽《たいやう》。 [#6字下げ]六月《ろくぐわつ》[#「六月」は中見出し]  遠近《をちこち》の山《やま》の影《かげ》、森《もり》の色《いろ》、軒《のき》に沈《しづ》み、棟《むね》に浮《う》きて、稚子《をさなご》の船《ふね》小溝《こみぞ》を飛《と》ぶ時《とき》、海豚《いるか》は群《む》れて沖《おき》を渡《わた》る、凄《すご》きは鰻《うなぎ》掻《か》く灯《ともし》ぞかし。降《ふ》り暮《くら》す昨日《きのふ》今日《けふ》、千騎《せんき》の雨《あめ》は襲《おそ》ふが如《ごと》く、伏屋《ふせや》も、館《たち》も、籠《こも》れる砦《とりで》、圍《かこ》まるゝ城《しろ》に似《に》たり。時鳥《ほとゝぎす》の矢信《やぶみ》、さゝ蟹《がに》の緋縅《ひをどし》こそ、血《ち》と紅《くれなゐ》の色《いろ》には出《い》づれ、世《よ》は只《たゞ》暗夜《やみ》と侘《わび》しきに、烈日《れつじつ》忽《たちま》ち火《ひ》の如《ごと》く、窓《まど》を放《はな》ち襖《ふすま》を排《ひら》ける夕《ゆふべ》、紫陽花《あぢさゐ》の花《はな》の花片《はなびら》一枚《ひとつ》づゝ、雲《くも》に星《ほし》に映《うつ》る折《をり》よ。うつくしき人《ひと》の、葉柳《はやなぎ》の蓑《みの》着《き》たる忍姿《しのびすがた》を、落人《おちうど》かと見《み》れば、豈《あに》知《し》らんや、熱《あつ》き情思《おもひ》を隱顯《ちら/\》と螢《ほたる》に涼《すゞ》む。君《きみ》が影《かげ》を迎《むか》ふるものは、たはれ男《を》の獺《をそ》か、あらず、大沼《おほぬま》の鯉《こひ》金鱗《きんりん》にして鰭《ひれ》の紫《むらさき》なる也《なり》。 [#6字下げ]七月《しちぐわつ》[#「七月」は中見出し]  山《やま》に、浦《うら》に、かくれ家《が》も、世《よ》の状《さま》の露呈《あらは》なる、朝《あさ》の戸《と》を開《ひら》くより、襖《ふすま》障子《しやうじ》の遮《さへぎ》るさへなく、包《つゝ》むは胸《むね》の羅《うすもの》のみ。消《け》さじと圍《かこ》ふ魂棚《たまだな》の可懷《なつか》しき面影《おもかげ》に、はら/\と小雨《こさめ》降添《ふりそ》ふ袖《そで》のあはれも、やがて堪《た》へ難《がた》き日盛《ひざかり》や、人間《にんげん》は汗《あせ》に成《な》り、蒟蒻《こんにやく》は砂《すな》に成《な》り、蠅《はへ》の音《おと》は礫《つぶて》と成《な》る。二時《やつ》さがりに松葉《まつば》こぼれて、夢《ゆめ》覺《さ》めて蜻蛉《とんぼ》の羽《はね》の輝《かゞや》く時《とき》、心太《ところてん》賣《う》る翁《おきな》の聲《こゑ》は、市《いち》に名劍《めいけん》を鬻《ひさ》ぐに似《に》て、打水《うちみづ》に胡蝶《てふ/\》驚《おどろ》く。行水《ぎやうずゐ》の花《はな》の夕顏《ゆふがほ》、納涼臺《すゞみだい》、縁臺《えんだい》の月見草《つきみさう》。買《か》はん哉《かな》、甘《あま》い/\甘酒《あまざけ》の赤行燈《あかあんどう》、辻《つじ》に消《き》ゆれば、誰《た》そ、青簾《あをすだれ》に氣勢《けはひ》あり。閨《ねや》の紅麻《こうま》艷《えん》にして、繪團扇《ゑうちは》の仲立《なかだち》に、蚊帳《かや》を厭《いと》ふ黒髮《くろかみ》と、峻嶺《しゆんれい》の白雪《しらゆき》と、人《ひと》の思《おもひ》は孰《いづれ》ぞや。 [#6字下げ]八月《はちぐわつ》[#「八月」は中見出し]  月《つき》のはじめに秋《あき》立《た》てば、あさ朝顏《あさがほ》の露《つゆ》はあれど、濡《ぬ》るゝともなき薄煙《うすけむり》、軒《のき》を繞《めぐ》るも旱《ひでり》の影《かげ》、炎《ほのほ》の山《やま》黒《くろ》く聳《そび》えて、頓《やが》て暑《あつ》さに崩《くづ》るゝにも、熱砂《ねつさ》漲《みなぎ》つて大路《おほぢ》を走《はし》る。なやましき柳《やなぎ》を吹《ふ》く風《かぜ》さへ、赤《あか》き蟻《あり》の群《むらが》る如《ごと》し。あれ、聞《き》け、雨乞《あまごひ》の聲《こゑ》を消《け》して、凄《すさま》じく鳴《な》く蝉《せみ》の、油《あぶら》のみ汗《あせ》に滴《したゝ》るや、ひとへに思《おも》ふ、河海《かかい》と山岳《さんがく》と。峰《みね》と言《い》ひ、水《みづ》と呼《よ》ぶ、實《げ》に戀人《こひびと》の名《な》なるかな。神《しん》ならず、仙《せん》ならずして、然《しか》も其《そ》の人《ひと》、彼處《かしこ》に蝶鳥《てふとり》の遊《あそ》ぶに似《に》たり、岨《そば》がくれなる尾《を》の姫百合《ひめゆり》、渚《なぎさ》づたひの翼《つばさ》の常夏《とこなつ》。 [#6字下げ]九月《くぐわつ》[#「九月」は中見出し]  宵々《よひ/\》の稻妻《いなづま》は、火《ひ》の雲《くも》の薄《うす》れ行《ゆ》く餘波《なごり》にや、初汐《はつしほ》の渡《わた》るなる、海《うみ》の音《おと》は、夏《なつ》の車《くるま》の歸《かへ》る波《なみ》の、鼓《つゞみ》の冴《さえ》に秋《あき》は來《き》て、松蟲《まつむし》鈴蟲《すゞむし》の容《かたち》も影《かげ》も、刈萱《かるかや》に萩《はぎ》に歌《うた》を描《ゑが》く。野人《やじん》に蟷螂《たうらう》あり、斧《をの》を上《あ》げて茄子《なす》の堅《かた》きを打《う》つ、響《ひゞき》は里《さと》の砧《きぬた》にこそ。朝夕《あさゆふ》の空《そら》澄《す》み、水《みづ》清《きよ》く、霧《きり》は薄《うす》く胡粉《ごふん》を染《そ》め、露《つゆ》は濃《こ》く藍《あゐ》を溶《と》く、白群青《びやくぐんじやう》の絹《きぬ》の花野原《はなのばら》に、小《ちひ》さき天女《てんによ》遊《あそ》べり。纖《ほそ》きこと縷《る》の如《ごと》し玉蜻《かげろふ》と言《い》ふ。彼《か》の女《をんな》、幽《かすか》に青《あを》き瓔珞《やうらく》を輝《かゞや》かして舞《ま》へば、山《やま》の端《は》の薄《すゝき》を差覗《さしのぞ》きつゝ、やがて月《つき》明《あきら》かに出《い》づ。 [#6字下げ]十月《じふぐわつ》[#「十月」は中見出し]  君《きみ》知《し》るや、夜寒《よさむ》の衾《ふすま》薄《うす》ければ、怨《うらみ》は深《ふか》き後朝《きぬ/″\》も、袖《そで》に包《つゝ》まば忍《しの》ぶべし。堪《た》へやらぬまで身《み》に沁《し》むは、吹《ふ》く風《かぜ》の荻《をぎ》、尾花《をばな》、軒《のき》、廂《ひさし》を渡《わた》る其《それ》ならで、蘆《あし》の白《しろ》き穗《ほ》の、ちら/\と、あこがれ迷《まよ》ふ夢《ゆめ》に似《に》て、枕《まくら》に通《かよ》ふ寢覺《ねざめ》なり。よし其《それ》とても風情《ふぜい》かな。折々《をり/\》の空《そら》の瑠璃色《るりいろ》は、玲瓏《れいろう》たる影《かげ》と成《な》りて、玉章《たまづさ》の手函《てばこ》の裡《うち》、櫛笥《くしげ》の奧《おく》、紅猪口《べにちよこ》の底《そこ》にも宿《やど》る。龍膽《りんだう》の色《いろ》爽《さわやか》ならん。黄菊《きぎく》、白菊《しらぎく》咲出《さきい》でぬ。可懷《なつかし》きは嫁菜《よめな》の花《はな》の籬《まがき》に細《ほそ》き姿《すがた》ぞかし。山家《やまが》、村里《むらざと》は薄紅《うすくれなゐ》の蕎麥《そば》の霧《きり》、粟《あは》の實《み》の茂《しげ》れる中《なか》に、鶉《うづら》が鳴《な》けば山鳩《やまばと》の谺《こだま》する。掛稻《かけいね》の香《か》暖《あたゝ》かう、蕪《かぶら》に早《はや》き初霜《はつしも》溶《と》けて、細流《せゝらぎ》に又《また》咲《さ》く杜若《かきつばた》。晝《ひる》の月《つき》を渡《わた》る雁《かり》は、また戀衣《こひぎぬ》の縫目《ぬひめ》にこそ。 [#6字下げ]十一月《じふいちぐわつ》[#「十一月」は中見出し]  傳《つた》へ言《い》ふ、昔《むかし》越山《ゑつざん》の蜥蜴《とかげ》は水《みづ》を吸《す》つて雹《へう》を噴《ふ》く。時《とき》、冬《ふゆ》の初《はじめ》にして、槐《ゑんじゆ》の鵙《もず》は星《ほし》に叫《さけ》んで霰《あられ》を召《よ》ぶ。雲《くも》暗《くら》し、雲《くも》暗《くら》し、曠野《あらの》を徜徉《さまよ》ふ狩《かり》の公子《こうし》が、獸《けもの》を照《てら》す炬火《たいまつ》は、末枯《うらがれ》の尾花《をばな》に落葉《おちば》の紅《べに》の燃《も》ゆるにこそ。行暮《ゆきく》れて一夜《ひとよ》の宿《やど》の嬉《うれ》しさや、粟《あは》炊《かし》ぐ手《て》さへ玉《たま》に似《に》て、天井《てんじやう》の煤《すゝ》は龍《りう》の如《ごと》く、破衾《やれぶすま》も鳳凰《ほうわう》の翼《つばさ》なるべし。夢《ゆめ》覺《さ》めて絳欄碧軒《かうらんへきけん》なし。芭蕉《ばせを》の骨《ほね》巖《いはほ》の如《ごと》く、朝霜《あさしも》敷《し》ける池《いけ》の面《おも》に、鴛鴦《ゑんあう》の眠《ねむり》尚《な》ほ濃《こまやか》なるのみ。戀々《れん/\》として、彽徊《ていくわい》し、漸《やうや》くにして里《さと》に下《くだ》れば、屋根《やね》、廂《ひさし》、時雨《しぐれ》の晴間《はれま》を、ちら/\と晝《ひる》灯《ひとも》す小《ちひさ》き蟲《むし》あり、小橋《こばし》の稚子等《うなゐら》の唄《うた》ふを聞《き》け。(おほわた)來《こ》い、來《こ》い、まゝ食《く》はしよ。 [#6字下げ]十二月《じふにぐわつ》[#「十二月」は中見出し]  それ、おほみそかは大薩摩《おほざつま》の、もの凄《すご》くも又《また》可恐《おそろ》しき、荒海《あらうみ》の暗闇《やみ》のあやかしより、山寺《やまでら》の額《がく》の魍魎《まうりやう》に至《いた》るまで、霙《みぞれ》を錬《ね》つて氷《こほり》を鑄《い》つゝ、年《とし》の瀬《せ》に楯《たて》を支《つ》くと雖《いへど》も、巖間《いはま》の水《みづ》は囁《さゝや》きて、川端《かはばた》の辻占《つじうら》に、春衣《はるぎ》の梅《うめ》を告《つ》ぐるぞかし。水仙《すゐせん》薫《かを》る浮世小路《うきよこうぢ》に、やけ酒《ざけ》の寸法《すんぱふ》は、鮟鱇《あんかう》の肝《きも》を解《と》き、懷手《ふところで》の方寸《はうすん》は、輪柳《わやなぎ》の絲《いと》を結《むす》ぶ。結《むす》ぶも解《と》くも女帶《をんなおび》や、いつも鶯《うぐひす》の初音《はつね》に通《かよ》ひて、春待月《はるまちつき》こそ面白《おもしろ》けれ。 [#地から5字上げ]大正八年五月―十二月 底本:「鏡花全集 巻二十七」岩波書店    1942(昭和17)年10月20日第1刷発行    1988(昭和63)年11月2日第3刷発行 ※題名の下にあった年代の注を、最後に移しました。 ※表題は底本では、「五月《ごぐわつ》より」とルビがついています。 入力:門田裕志 校正:川山隆 2011年8月6日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。