唐模樣 泉鏡太郎 ------------------------------------------------------- 【テキスト中に現れる記号について】 《》:ルビ (例)麗姫《りき》 [#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定    (数字は、JIS X 0213の面区点番号またはUnicode、底本のページと行数) (例)蛺 /\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号) (例)そも/\ *濁点付きの二倍の踊り字は「/″\」 ------------------------------------------------------- [#6字下げ]麗姫《りき》[#「麗姫」は中見出し]  惟《おも》ふに、描《ゑが》ける美人《びじん》は、活《い》ける醜女《しうぢよ》よりも可《か》也《なり》。傳《つた》へ聞《き》く、漢《かん》の武帝《ぶてい》の宮人《きうじん》麗娟《りけん》、年《とし》はじめて十四。玉《たま》の膚《はだへ》艷《つや》やかにして皓《しろ》く、且《か》つ澤《うるほ》ふ。たきもしめざる蘭麝《らんじや》おのづから薫《かを》りて、其《そ》の行《ゆ》くや蛺蝶《けふてふ》相飛《あひと》べり。蒲柳《ほりう》纖弱《せんじやく》、羅綺《らき》にだも勝《た》へ難《がた》し。麗娟《りけん》常《つね》に身《み》の何處《いづく》にも瓔珞《やうらく》を挂《か》くるを好《この》まず。これ袂《たもと》を拂《はら》ふに當《あた》りて、其《そ》の柔《やはら》かなる膚《はだへ》に珠《たま》の觸《ふ》れて、痕《あと》を留《とゞ》めむことを恐《おそ》れてなり。知《し》るべし、今《いま》の世《よ》に徒《いたづら》に指環《ゆびわ》の多《おほ》きを欲《ほつ》すると、聊《いさゝ》か其《そ》の抱負《はうふ》を異《こと》にするものあることを。  麗娟《りけん》宮中《きうちう》に歌《うた》ふ時《とき》は、當代《たうだい》の才人《さいじん》李延年《りえんねん》ありて是《これ》に和《わ》す。かの長生殿裡《ちやうせいでんり》日月《じつげつ》のおそき處《ところ》、ともに𢌞風《くわいふう》の曲《きよく》を唱《しやう》するに當《あた》りてや、庭前《ていぜん》颯《さつ》と風《かぜ》興《おこ》り、花《はな》ひら/\と飜《ひるがへ》ること、恰《あたか》も霏々《ひゝ》として雪《ゆき》の散《ち》るが如《ごと》くなりしとぞ。  此《こ》の姫《き》また毎《つね》に琥珀《こはく》を以《もつ》て佩《おび》として、襲衣《しふい》の裡《うち》に人知《ひとし》れず包《つゝ》みて緊《し》む。立居《たちゐ》其《そ》の度《たび》になよやかなる玉《たま》の骨《ほね》、一《ひと》つ/\琴《こと》の絲《いと》の如《ごと》く微妙《びめう》の響《ひゞき》を作《な》して、聞《き》くものの血《ち》を刺《さ》し、肉《にく》を碎《くだ》かしめき。  女子《ぢよし》粧《よそほ》はば寧《むし》ろ恁《かく》の如《ごと》きを以《もつ》て會心《くわいしん》の事《こと》とせん。美顏術《びがんじゆつ》に到《いた》りては抑々《そも/\》末也《すゑなり》。 [#6字下げ]勇將《ゆうしやう》[#「勇將」は中見出し]  同《おな》じ時《とき》、賈雍將軍《かようしやうぐん》は蒼梧《さうご》の人《ひと》、豫章《よしやう》の太守《たいしゆ》として國《くに》の境《さかひ》を出《い》で、夷賊《いぞく》の寇《あだ》するを討《たう》じて戰《たゝかひ》に勝《か》たず。遂《つひ》に蠻軍《ばんぐん》のために殺《ころ》され頭《かうべ》を奪《うば》はる。  見《み》よ、頭《かしら》なき其《そ》の骸《むくろ》、金鎧《きんがい》一縮《いつしゆく》して戟《ほこ》を横《よこた》へ、片手《かたて》を擧《あ》げつゝ馬《うま》に跨《またが》り、砂煙《すなけむり》を拂《はら》つてトツ/\と陣《ぢん》に還《かへ》る。陣中《ぢんちう》豈《あに》驚《おどろ》かざらんや。頭《かうべ》あるもの腰《こし》を拔《ぬ》かして、ぺた/\と成《な》つて瞪目《たうもく》して之《これ》を見《み》れば、頭《かしら》なき將軍《しやうぐん》の胴《どう》、屹然《きつぜん》として馬上《ばじやう》にあり。胸《むね》の中《なか》より聲《こゑ》を放《はな》つて、叫《さけ》んで曰《いは》く、無念《むねん》なり、戰《いくさ》利《り》あらず、敵《てき》のために傷《そこな》はれぬ。やあ、方々《かた/″\》、吾《わ》が頭《かうべ》あると頭《かうべ》なきと何《いづ》れが佳《よ》きや。時《とき》に賈雍《かよう》が從卒《じうそつ》、おい/\と泣《な》いて告《まを》して曰《いは》く、頭《かしら》あるこそ佳《よ》く候《さふら》へ。言《い》ふに從《したが》うて、將軍《しやうぐん》の屍《しかばね》血《ち》を噴《ふ》いて馬《うま》より墜《お》つ。  勇將《ゆうしやう》も傑僧《けつそう》も亦《また》同《おな》じ。むかし行簡禪師《ぎやうかんぜんじ》は天台智大師《てんだいちだいし》の徒弟《とてい》たり。或時《あるとき》、群盜《ぐんたう》に遇《あ》うて首《かうべ》を斬《き》らる。禪師《ぜんじ》、斬《き》られたる其《そ》の首《くび》を我手《わがて》に張子《はりこ》の面《めん》の如《ごと》く捧《さゝ》げて、チヨンと、わけもなしに項《うなじ》のよき處《ところ》に乘《の》せて、大手《おほで》を擴《ひろ》げ、逃《に》ぐる數十《すうじふ》の賊《ぞく》を追《お》うて健《すこやか》なること鷲《わし》の如《ごと》し。尋《つい》で瘡《きず》癒《い》えて死《し》せずと云《い》ふ。壯《さかん》なる哉《かな》、人々《ひと/″\》。 [#6字下げ]愁粧《しうしやう》[#「愁粧」は中見出し]  むかし宋《そう》の武帝《ぶてい》の女《むすめ》、壽陽《じゆやう》麗姫《れいき》、庭園《ていゑん》を歩《ほ》する時《とき》梅《うめ》の花《はな》散《ち》りて一片《ひとひら》其《そ》の顏《かんばせ》に懸《かゝ》る。其《そ》の俤《おもかげ》また較《たぐ》ふべきものなかりしより、當時《たうじ》の宮女《きうぢよ》皆《みな》爭《あらそ》つて輕粉《けいふん》を以《もつ》て顏《かほ》に白梅《しらうめ》の花《はな》を描《ゑが》く、稱《しよう》して梅花粧《ばいくわしやう》と云《い》ふ。  隋《ずゐ》の文帝《ぶんてい》の宮中《きうちう》には、桃花《たうくわ》の粧《よそほひ》あり。其《そ》の趣《おもむき》相似《あひに》たるもの也《なり》。皆《みな》色《いろ》を衒《てら》ひ寵《ちよう》を售《う》りて、君《きみ》が意《こゝろ》を傾《かたむ》けんとする所以《ゆゑん》、敢《あへ》て歎美《たんび》すべきにあらずと雖《いへど》も、然《しか》れども其《そ》の志《こゝろざし》や可憐也《かれんなり》。  司馬相如《しばさうじよ》が妻《つま》、卓文君《たくぶんくん》は、眉《まゆ》を畫《ゑが》きて翠《みどり》なること恰《あたか》も遠山《とほやま》の霞《かす》める如《ごと》し、名《な》づけて遠山《ゑんざん》の眉《まゆ》と云《い》ふ。魏《ぎ》の武帝《ぶてい》の宮人《きうじん》は眉《まゆ》を調《とゝの》ふるに青黛《せいたい》を以《も》つてす、いづれも粧《よそほ》ふに不可《ふか》とせず。然《しか》るに南方《なんぱう》の文帝《ぶんてい》、元嘉《げんか》の年中《ねんちう》、京洛《きやうらく》の婦女子《ふぢよし》、皆《みな》悉《こと/″\》く愁眉《しうび》、泣粧《きふしやう》、墮馬髻《だばきつ》、折要歩《せつえうほ》、齲齒笑《うしせう》をなし、貴賤《きせん》、尊卑《そんぴ》、互《たがひ》に其《そ》の及《およ》ばざるを恥《はぢ》とせり。愁眉《しうび》は即《すなは》ち眉《まゆ》を作《つく》ること町内《ちやうない》の若旦那《わかだんな》の如《ごと》く、細《ほそ》く剃《あた》りつけて、曲《まが》り且《か》つ竦《すく》むを云《い》ふ。泣粧《きふしやう》は目《め》の下《した》にのみ薄《うす》く白粉《おしろい》を塗《ぬ》り一刷《ひとはけ》して、ぐいと拭《ぬぐ》ひ置《お》く。其《そ》の状《さま》涙《なみだ》にうるむが如《ごと》し。墮馬髻《だばきつ》のものたるや、がつくり島田《しまだ》と云《い》ふに同《おな》じ。案《あん》ずるに、潰《つぶし》と云《い》ひ、藝子《げいこ》と云《い》ひ投《なげ》と云《い》ひ、奴《やつこ》はた文金《ぶんきん》、我《わ》が島田髷《しまだまげ》のがつくりと成《な》るは、非常《ひじやう》の時《とき》のみ。然《しか》るを、元嘉《げんか》、京洛《きやうらく》の貴婦人《きふじん》、才媛《さいゑん》は、平時《へいじ》に件《くだん》の墮馬髻《だばきつ》を結《ゆ》ふ。たとへば髷《まげ》を片潰《かたつぶ》して靡《なび》け作《つく》りて馬《うま》より墮《お》ちて髻《もとゞり》の横状《よこざま》に崩《くづ》れたる也《なり》。折要歩《せつえうほ》は、密《そつ》と拔足《ぬきあし》するが如《ごと》く、歩行《あゆむ》に故《わざ》と惱《なや》むを云《い》ふ、雜《ざつ》と癪持《しやくもち》の姿《すがた》なり。齲齒笑《うしせう》は思《おも》はせぶりにて、微笑《ほゝゑ》む時《とき》毎《つね》に齲齒《むしば》の痛《いた》みに弱々《よわ/\》と打顰《うちひそ》む色《いろ》を交《まじ》へたるを云《い》ふ。これなん當時《たうじ》の國色《こくしよく》、大將軍梁冀《たいしやうぐんりやうき》が妻《つま》、孫壽夫人《そんじゆふじん》一流《いちりう》の媚態《びたい》より出《い》でて、天下《てんか》に洽《あまね》く、狹土《けふど》邊鄙《へんぴ》に及《およ》びたる也《なり》。未《いま》だ幾《いく》ほどもあらざりき、天下《てんか》大《おほい》に亂《みだ》れて、敵軍《てきぐん》京師《けいし》に殺倒《さつたう》し、先《ま》づ婦女子《ふぢよし》を捕《とら》へて縱《ほしいまゝ》に凌辱《りようじよく》を加《くは》ふ。其《そ》の時《とき》恥辱《はぢ》と恐怖《おそれ》とに弱《よわ》きものの聲《こゑ》をも得立《えた》てず、傷《いた》み、悲《かなし》み、泣《な》ける容《かたち》、粧《よそほ》はざるに愁眉《しうび》、泣粧《きふしやう》。柳腰《りうえう》鞭《むち》に折《くじ》けては折要歩《せつえうほ》を苦《くる》しみ、金釵《きんさい》地《ち》に委《ゐ》しては墮馬髻《だばきつ》を顯實《けんじつ》す。聊《いさゝか》も其《そ》の平常《ふだん》の化粧《けしやう》と違《たが》ふことなかりしとぞ。今《いま》の世《よ》の庇髮《ひさしがみ》、あの夥《おびたゞ》しく顏《かほ》に亂《みだ》れたる鬢《びん》のほつれは如何《いかに》、果《はた》してこれ何《なん》の兆《てう》をなすものぞ。 [#6字下げ]捷術《せふじゆつ》[#「捷術」は中見出し]  隋《ずゐ》の沈光《ちんくわう》字《あざな》は總持《そうぢ》、煬帝《やうだい》に事《つか》へて天下第一《てんかだいいち》驍捷《はやわざ》の達人《たつじん》たり。帝《てい》はじめ禪定寺《ぜんぢやうじ》を建立《こんりふ》する時《とき》、幡《はた》を立《た》つるに竿《さを》の高《たか》さ十餘丈《じふよぢやう》。然《しか》るに大風《たいふう》忽《たちま》ち起《おこ》りて幡《はた》の曳綱《ひきづな》頂《いたゞき》より斷《き》れて落《お》ちぬ。これを繋《つな》がんとするに其《そ》の大《おほい》なる旗竿《はたざを》を倒《たふ》さずしては如何《いかん》ともなし難《がた》し。これを倒《たふ》さんは不祥《ふしやう》なりとて、仰《あふ》いで評議《ひやうぎ》區々《まち/\》なり。沈光《ちんくわう》これを見《み》て笑《わら》つて曰《いは》く、仔細《しさい》なしと。太綱《ふとづな》の一端《いつたん》を前齒《まへば》に銜《くは》へてする/\と竿《さを》を上《のぼ》りて直《たゞち》に龍頭《りうづ》に至《いた》る。蒼空《あをぞら》に人《ひと》の點《てん》あり、飄々《へう/\》として風《かぜ》に吹《ふ》かる。これ尚《な》ほ奇《き》とするに足《た》らず。其《そ》の綱《つな》を透《とほ》し果《は》つるや、筋斗《もんどり》を打《う》ち、飜然《ひらり》と飛《と》んで、土《つち》に掌《てのひら》をつくと齊《ひと》しく、眞倒《まつさかさま》にひよい/\と行《ゆ》くこと十餘歩《じふよほ》にして、けろりと留《と》まる。觀《み》るもの驚歎《きやうたん》せざるはなし。寺僧《じそう》と時人《じじん》と、ともに、沈光《ちんくわう》を呼《よ》んで、肉飛仙《にくひせん》と云《い》ふ。  後《のち》に煬帝《やうだい》遼東《れうとう》を攻《せ》むる時《とき》、梯子《はしご》を造《つく》りて敵《てき》の城中《じやうちう》を瞰下《みおろ》す。高《たか》さ正《まさ》に十五丈《じふごぢやう》。沈光《ちんくわう》其《そ》の尖端《とつさき》に攀《よ》ぢて賊《ぞく》と戰《たゝか》うて十數人《じふすうにん》を斬《き》る。城兵《じやうへい》這奴《しやつ》憎《にく》きものの振舞《ふるまひ》かなとて、競懸《きそひかゝ》りて半《なか》ばより、梯子《はしご》を折《くじ》く。沈光《ちんくわう》頂《いたゞき》よりひつくりかへりざまに梯子《はしご》を控《ひか》へたる綱《つな》を握《にぎ》り、中空《なかぞら》より一《ひと》たび跳返《はねかへ》りて劍《けん》を揮《ふる》ふと云《い》へり。それ飛燕《ひえん》は細身《さいしん》にしてよく掌中《しやうちう》に舞《ま》ふ、絶代《ぜつだい》の佳人《かじん》たり。沈光《ちんくわう》は男兒《だんじ》のために氣《き》を吐《は》くものか。 [#6字下げ]驕奢《けうしや》[#「驕奢」は中見出し]  洛陽伽藍記《らくやうがらんき》に云《い》ふ。魏《ぎ》の帝業《ていげふ》を承《う》くるや、四海《しかい》こゝに靜謐《せいひつ》にして、王侯《わうこう》、公主《こうしゆ》、外戚《ぐわいせき》、其《そ》の富《とみ》既《すで》に山河《さんが》を竭《つく》して互《たがひ》に華奢《くわしや》驕榮《けうえい》を爭《あらそ》ひ、園《ゑん》を脩《をさ》め宅《たく》を造《つく》る。豐室《ほうしつ》、洞門《どうもん》、連房《れんばう》、飛閣《ひかく》。金銀《きんぎん》珠玉《しゆぎよく》巧《たくみ》を極《きは》め、喬木《けうぼく》高樓《かうろう》は家々《かゝ》に築《きづ》き、花林曲池《くわりんきよくち》は戸々《こゝ》に穿《うが》つ。さるほどに桃李《たうり》夏《なつ》緑《みどり》にして竹柏《ちくはく》冬《ふゆ》青《あを》く、霧《きり》芳《かんば》しく風《かぜ》薫《かを》る。  就中《なかんづく》、河間《かかん》王深《わうしん》の居邸《きよてい》、結構《けつこう》華麗《くわれい》、其《そ》の首《しゆ》たるものにして、然《しか》も高陽王《かうやうわう》と華《くわ》を競《きそ》ひ、文柏堂《ぶんはくだう》を造營《ざうえい》す、莊《さかん》なること帝居《ていきよ》徽音殿《きおんでん》と相齊《あひひと》し、清水《しみづ》の井《ゐ》に玉轆轤《ぎよくろくろ》を置《お》き、黄金《わうごん》の瓶《つるべ》を釣《つ》るに、練絹《ねりぎぬ》の五色《ごしき》の絲《いと》を綆《つな》とす。曰《いは》く、晉《しん》の石崇《せきそう》を見《み》ずや、渠《かれ》は庶子《しよし》にして尚《な》ほ狐腋雉頭《こえきちとう》の裘《かはごろも》あり。況《いはん》や我《われ》は太魏《たいぎ》の王家《わうか》と。又《また》迎風館《げいふうくわん》を起《おこ》す。  室《しつ》に、玉鳳《ぎよくほう》は鈴《すゞ》を啣《ふく》み、金龍《きんりう》は香《かう》を吐《は》けり。窓《まど》に挂《か》くるもの列錢《れつせん》の青瑣《せいさ》なり。素《しろき》柰《からなし》、朱《あかき》李《すもゝ》、枝《えだ》撓《たわゝ》にして簷《のき》に入《い》り、妓妾《ぎせふ》白碧《はくへき》、花《はな》を飾《かざ》つて樓上《ろうじやう》に坐《ざ》す。其《そ》の宗室《そうしつ》を會《くわい》して、長夜《ちやうや》の宴《えん》を張《は》るに當《あた》りては、金瓶《きんべい》、銀榼《ぎんかふ》百餘《ひやくよ》を陳《つら》ね、瑪瑙《めなう》の酒盞《しゆさん》、水晶《すゐしやう》の鉢《はち》、瑠璃《るり》の椀《わん》、琥珀《こはく》の皿《さら》、いづれも工《こう》の奇《き》なる中國《ちうごく》未《いま》だ嘗《かつ》てこれあらず、皆《みな》西域《せいゐき》より齎《もたら》す處《ところ》。府庫《ふこ》の内《うち》には蜀江《しよくこう》の錦《にしき》、呉均《ごきん》の綾《あや》、氷羅《ひようら》、罽氈《せん》、雪穀《せつこく》、越絹《ゑつけん》擧《あげ》て計《かぞ》ふべからず。王《わう》、こゝに於《おい》て傲語《がうご》して曰《いは》く、我《われ》恨《うらむ》らくは石崇《せきそう》を見《み》ざることを、石崇《せきそう》も亦《また》然《しか》らんと。  晉《しん》の石崇《せきそう》は字《あざな》を季倫《きりん》と云《い》ふ。季倫《きりん》の父《ちゝ》石苞《せきはう》、位《くらゐ》已《すで》に司徒《しと》にして、其《そ》の死《し》せんとする時《とき》、遺産《ゐさん》を頒《わか》ちて諸子《しよし》に與《あた》ふ。たゞ石崇《せきそう》には一物《いちもつ》をのこさずして云《い》ふ。此《こ》の兒《じ》、最《もつとも》少《いとけ》なしと雖《いへど》も、後《のち》に自《おのづ》から設得《まうけえ》んと。果《はた》せる哉《かな》、長《ひとと》なりて荊州《けいしう》の刺史《しし》となるや、潛《ひそか》に海船《かいせん》を操《あやつ》り、海《うみ》を行《ゆ》く商賈《しやうこ》の財寶《ざいはう》を追剥《おひはぎ》して、富《とみ》を致《いた》すこと算《さん》なし。後《のち》に衞尉《ゑいゐ》に拜《はい》す。室宇《しつう》宏麗《くわうれい》、後房《こうばう》數百人《すうひやくにん》の舞妓《ぶぎ》、皆《みな》綺紈《きぐわん》を飾《かざ》り、金翠《きんすゐ》を珥《は》む。  嘗《かつ》て河陽《かやう》の金谷《きんこく》に別莊《べつさう》を營《いとな》むや、花果《くわくわ》、草樹《さうじゆ》、異類《いるゐ》の禽獸《きんじう》一《ひとつ》としてあらざるものなし。時《とき》に武帝《ぶてい》の舅《しうと》に王鎧《わうがい》と云《い》へるものあり。驕奢《けうしや》を石崇《せきそう》と相競《あひきそ》ふ。鎧《がい》飴《あめ》を以《もつ》て釜《かま》を塗《ぬ》れば、崇《そう》は蝋《らふ》を以《もつ》て薪《たきゞ》とす。鎧《がい》、紫《むらさき》の紗《しや》を伸《の》べて四十里《しじふり》の歩障《ほしやう》を造《つく》れば、崇《そう》は錦《にしき》に代《か》へて是《これ》を五十里《ごじふり》に張《は》る。武帝《ぶてい》其《そ》の舅《しうと》に力《ちから》を添《そ》へて、まけるなとて、珊瑚樹《さんごじゆ》の高《たか》さ二尺《にしやく》なるを賜《たま》ふ。王鎧《わうがい》どんなものだと云《い》つて、是《これ》を石崇《せきそう》に示《しめ》すや、石崇《せきそう》一笑《いつせう》して鐵《てつ》如意《によい》を以《もつ》て撃《う》つて碎《くだ》く。王鎧《わうがい》大《おほい》に怒《いか》る。石崇《せきそう》曰《いは》く、恨《うら》むることなかれと即《すなは》ち侍僮《じどう》に命《めい》じて、おなじほどの珊瑚《さんご》六七株《ろくしちしゆ》を出《いだ》して償《つぐの》ひ遷《かへ》しき。  然《しか》れども後《のち》遂《つひ》に其《そ》の妓《ぎ》、緑珠《ろくじゆ》が事《こと》によりて、中書令《ちうしよれい》孫秀《そんしう》がために害《がい》せらる。  河間王《かかんわう》が宮殿《きうでん》も、河陰《かいん》の亂逆《らんぎやく》に遇《あ》うて寺院《じゐん》となりぬ。唯《たゞ》、堂觀廊廡《だうくわんらうぶ》、壯麗《さうれい》なるが故《ゆゑ》に、蓬莱《ほうらい》の仙室《せんしつ》として呼《よ》ばれたるのみ。歎《たん》ずべきかな。朱荷曲池《しゆかきよくち》のあと、緑萍《りよくへう》蒼苔《さうたい》深《ふかく》く封《とざ》して、寒蛩《かんきよう》喞々《そく/\》たり、螢流《けいりう》二三點《にさんてん》。 [#6字下げ]空蝉《うつせみ》[#「空蝉」は中見出し]  唐《たう》の開元年中《かいげんねんちう》、呉《ご》楚《そ》齊《せい》魯《ろ》の間《あひだ》、劫賊《こふぞく》あり。近頃《ちかごろ》は不景氣《ふけいき》だ、と徒黨《とたう》十餘輩《じふよはい》を語《かた》らうて盛唐縣《せいたうけん》の塚原《つかはら》に至《いた》り、數十《すうじふ》の塚《つか》を發《あば》きて金銀寶玉《きんぎんはうぎよく》を掠取《かすめと》る。塚《つか》の中《なか》に、時《とき》の人《ひと》の白茅冢《はくばうちよう》と呼《よ》ぶものあり。賊等《ぞくら》競《きそ》うてこれを發《あば》く。方《はう》一丈《いちぢやう》ばかり掘《ほ》るに、地中《ちちう》深《ふか》き處《ところ》四個《しこ》の房閣《ばうかく》ありけり。唯《たゞ》見《み》る東《ひがし》の房《ばう》には、弓繒《きうそう》槍戟《さうげき》を持《も》ちたる人形《にんぎやう》あり。南《みなみ》の房《ばう》には、繒綵《そうさい》錦綺《きんき》堆《うづたか》し。牌《はい》ありて曰《いは》く周夷王所賜《しうのいわうたまふところ》錦三百端《にしきさんびやくたん》と。下《した》に又《また》棚《たな》ありて金銀《きんぎん》珠玉《しゆぎよく》を裝《も》れり。西《にし》の房《ばう》には漆器《しつき》あり。蒔繪《まきゑ》新《あらた》なるものの如《ごと》し。さて其《その》北《きた》の房《ばう》にこそ、珠《たま》以《も》て飾《かざ》りたる棺《ひつぎ》ありけれ。内《うち》に一人《いちにん》の玉女《ぎよくぢよ》あり。生《い》けるが如《ごと》し。緑《みどり》の髮《かみ》、桂《かつら》の眉《まゆ》、皓齒《かうし》恰《あたか》も河貝《かばい》を含《ふく》んで、優美《いうび》端正《たんせい》畫《ゑ》と雖《いへど》も及《およ》ぶべからず。紫《むらさき》の帔《かけ》、繍《ぬひ》ある※[#「韈」の「罘−不」に代えて「囚」、134-9]《したうづ》、珠《たま》の履《くつ》をはきて坐《ざ》しぬ。香氣《かうき》一脈《いちみやく》、芳霞《はうか》靉靆《たなび》く。いやな奴《やつ》あり。手《て》を以《もつ》て密《そ》と肌《はだへ》に觸《ふ》るゝに、滑《なめら》かに白《しろ》く膩《あぶら》づきて、猶《なほ》暖《あたゝか》なるものに似《に》たり。  棺《ひつぎ》の前《まへ》に銀樽《ぎんそん》一個《いつか》。兇賊等《きようぞくら》爭《あらそ》つてこれを飮《の》むに、甘《あま》く芳《かんば》しきこと人界《じんかい》を絶《ぜつ》す。錦綵寶珠《きんさいはうじゆ》、賊等《ぞくら》やがて意《こゝろ》のまゝに取出《とりい》だしぬ。さて見《み》るに、玉女《ぎよくぢよ》が左《ひだり》の手《て》のくすり指《ゆび》に小《ちひ》さき玉《たま》の鐶《わ》を嵌《は》めたり。其《そ》の彫《ほり》の巧《たくみ》なること、世《よ》の人《ひと》の得《え》て造《つく》るべきものにあらず。いざや、と此《これ》を拔《ぬ》かんとするに、弛《ゆる》く柔《やはら》かに、細《ほそ》く白《しろ》くして、然《しか》も拔《ぬ》くこと能《あた》はず。頭領陽知春《とうりやうやうちしゆん》制《せい》して曰《いは》く、わい等《ら》、其《それ》は止《よ》せと。小賊《せいぞく》肯《き》かずして、則《すなは》ち刀《かたな》を執《と》つて其《そ》の指《ゆび》を切《き》つて珠《たま》を盜《ぬす》むや、指《ゆび》より紅《くれなゐ》の血《ち》衝《つ》と絲《いと》の如《ごと》く迸《ほとばし》りぬ。頭領《とうりやう》面《おもて》を背《そむ》けて曰《いは》く、於戲痛哉《あゝいたましいかな》。  冢《つか》を出《い》でんとするに、矢《や》あり、蝗《いなご》の如《ごと》く飛《と》ぶ。南房《なんばう》の人形氏《にんぎやうし》、矢繼早《やつぎばや》に射《い》る處《ところ》、小賊《せうぞく》皆《みな》倒《たふ》る。陽知春《やうちしゆん》一人《いちにん》のみ命《いのち》を全《まつた》うすることを得《え》て、取《と》り得《え》たる寶貝《はうばい》は盡《こと/″\》くこれを冢《つか》に返《かへ》す。官《くわん》も亦《また》後《のち》、渠《かれ》を許《ゆる》しつ。軍士《ぐんし》を遣《つか》はし冢《つか》を修《をさ》む。其時《そのとき》銘誌《めいし》を尋《たづ》ぬるに得《う》ることなく、誰《た》が冢《つか》たるを知《し》らずと云《い》ふ。 [#6字下げ]人妖《じんえう》[#「人妖」は中見出し]  晉《しん》の少主《せうしゆ》の時《とき》、婦人《ふじん》あり。容色《ようしよく》艷麗《えんれい》、一代《いちだい》の佳《か》。而《しか》して帶《おび》の下《した》空《むな》しく兩《りやう》の足《あし》ともに腿《もゝ》よりなし。餘《よ》は常人《じやうじん》に異《こと》なるなかりき。其《そ》の父《ちゝ》、此《こ》の無足婦人《むそくふじん》を膝行軌《ゐざりぐるま》に乘《の》せ、自《みづか》ら推《お》しめぐらして京都《けいと》の南《みんなみ》の方《かた》より長安《ちやうあん》の都《みやこ》に來《きた》り、市《いち》の中《なか》にて、何《ど》うぞやを遣《や》る。聚《あつま》り見《み》るもの、日《ひ》に數千人《すうせんにん》を下《くだ》らず。此《こ》の婦《をんな》、聲《こゑ》よくして唱《うた》ふ、哀婉《あいゑん》聞《き》くに堪《た》へたり。こゝに於《おい》て、はじめは曲巷《ちまた》の其處此處《そここゝ》より、やがては華屋《くわをく》、朱門《しゆもん》に召《め》されて、其《そ》の奧《おく》に入《い》らざる處《ところ》殆《ほとん》ど尠《すくな》く、彼《かれ》を召《め》すもの、皆《み》な其《そ》の不具《ふぐ》にして艷《えん》なるを惜《をし》みて、金銀《きんぎん》衣裳《いしやう》を施《ほどこ》す。然《しか》るに後年《こうねん》、京城《けいじやう》の諸士《しよし》にして、かの北狄《ほくてき》の囘文《くわいぶん》を受《う》けたるもの少《すくな》からず、事《こと》顯《あら》はるゝに及《およ》びて、官司《やくにん》、其《そ》の密使《みつし》を案討《あんたう》するに、無足《むそく》の婦人《ふじん》即《すなは》ち然《しか》り、然《しか》も奸黨《かんたう》の張本《ちやうほん》たりき。後《のち》遂《つひ》に誅戮《ちうりく》せらる、恁《かく》の如《ごと》きもの人妖《じんえう》也《なり》。 [#6字下げ]少年僧《せうねんそう》[#「少年僧」は中見出し]  明州《みんしう》の人《ひと》、柳氏《りうし》、女《ぢよ》あり。優艷《いうえん》にして閑麗《かんれい》なり。其《そ》の女《ぢよ》、年《とし》はじめて十六。フト病《やまひ》を患《うれ》ひ、關帝《くわんてい》の祠《ほこら》に祷《いの》りて日《ひ》あらずして癒《い》ゆることを得《え》たり。よつて錦繍《きんしう》の幡《はた》を造《つく》り、更《さら》に詣《まう》でて願《ぐわん》ほどきをなす。祠《ほこら》に近《ちか》き處《ところ》少年《せうねん》の僧《そう》あり。豫《かね》て聰明《そうめい》をもつて聞《きこ》ゆ。含春《がんしゆん》が姿《すがた》を見《み》て、愛戀《あいれん》の情《じやう》に堪《た》へず、柳氏《りうし》の姓《せい》を呪願《じゆぐわん》して、密《ひそか》に帝祠《ていし》に奉《たてまつ》る。其《そ》の句《ことば》に曰《いは》く、 [#ここから3字下げ] 江南柳嫩緑《かうなんのやなぎふたばみどりなり》。 未成陰攀折《いまだはんせつのかげをなさず》。 尚憐枝葉小《なほあはれむしえふのせう》。 黄鸝飛上力難《くわうりとびのぼるちからかたし》。 留取待春深《りうしゆしてはるのふかきをまつ》。 [#ここで字下げ終わり]  含春《がんしゆん》も亦《また》明敏《めいびん》にして、此《こ》の句《く》を見《み》て略《ほ》ぼ心《こゝろ》を知《し》り、大《おほい》に當代《たうだい》の淑女振《しゆくぢよぶり》を發揮《はつき》して、いけすかないとて父《ちゝ》に告《つ》ぐ。父《ちゝ》や、今古《こんこ》の野暮的《やぼてん》、娘《むすめ》に惚《ほ》れたりとて是《これ》を公《おほやけ》に訴《うつた》へたり。時《とき》に方國沴氏《はうこくてんし》、眞四角《まつしかく》な先生《せんせい》にて、すなはち明州《みんしう》の刺史《しし》たり。忽《たちま》ち僧《そう》を捕《とら》へて詰《なじ》つて曰《いは》く、汝《なんぢ》何《なん》の姓《せい》ぞ。恐《おそ》る/\對《こたへ》て曰《いは》く、竺阿彌《ちくあみ》と申《まをし》ますと。方國《はうこく》僧《そう》をせめて曰《いは》く、汝《なんぢ》職分《しよくぶん》として人《ひと》の迷《まよひ》を導《みちび》くべし。何《なん》ぞかへつて自《みづか》ら色《いろ》に迷《まよ》ふことをなして、佗《た》の女子《ぢよし》を愛戀《あいれん》し、剩《あまつさ》へ關帝《くわんてい》の髯《ひげ》に紅《べに》を塗《ぬ》る。言語道斷《ごんごだうだん》ぢやと。既《すで》に竹《たけ》の籠《かご》を作《つく》らしめ、これに盛《も》りて江《え》の中《なか》に沈《しづ》めんとす。而《しか》して國沴《こくてん》、一偈《いちげ》を作《つく》り汝《なんぢ》が流水《りうすゐ》に歸《かへ》るを送《おく》るべしとて、因《よつ》て吟《ぎん》じて云《い》ふ。 [#ここから3字下げ] 江南竹巧匠《かうなんのたけのかうしやう》。 結成籠好《むすんでかごをつくるによし》。 與吾師藏法體《ごしにあたへてほつたいをかくす》。 碧波深處伴蛟龍《へきはふかきところかうりうをともなひ》。 方知色是空《まさにしるいろこれくう》。 [#ここで字下げ終わり]  竺阿彌《ちくあみ》、めそ/\と泣《な》きながら、仰《おほせ》なれば是非《ぜひ》もなし。乞《こ》ふ吾《わ》が最後《さいご》の一言《いちごん》を容《い》れよ、と云《い》ふ。國沴《こくてん》何《なに》をか云《い》ふ、言《い》はむと欲《ほつ》する處《ところ》疾《と》く申《まを》せ、とある時《とき》、 [#ここから3字下げ] 江南月如鏡亦如鉤《かうなんのつきかゞみのごとくまたつりばりのごとし》。 明鏡不臨紅粉面《めいきやうのぞまずこうふんのおもて》。 曲鉤不上畫簾頭《きよくこうのぼらずぐわれんのほとり》。 空自照東流《むなしくみづからとうりうをてらす》。 [#ここで字下げ終わり]  國沴《こくてん》大《おほい》に笑《わら》つて、馬鹿《ばか》め、おどかしたまでだと。これを釋《ゆる》し、且《か》つ還俗《げんぞく》せしめて、柳含春《りうがんしゆん》を配《はい》せりと云《い》ふ。 [#6字下げ]魅室《みしつ》[#「魅室」は中見出し]  唐《たう》の開元年中《かいげんねんちう》の事《こと》とぞ。戸部郡《こぶぐん》の令史《れいし》が妻室《さいしつ》、美《び》にして才《さい》あり。たま/\鬼魅《きみ》の憑《よ》る處《ところ》となりて、疾病《やまひ》狂《きやう》せるが如《ごと》く、醫療《いれう》手《て》を盡《つく》すといへども此《これ》を如何《いかん》ともすべからず。尤《もつと》も其《そ》の病源《びやうげん》を知《し》るものなき也《なり》。  令史《れいし》の家《いへ》に駿馬《しゆんめ》あり。無類《むるゐ》の逸物《いちもつ》なり。恆《つね》に愛矜《あいきん》して芻秣《まぐさ》を倍《ま》し、頻《しきり》に豆《まめ》を食《は》ましむれども、日《ひ》に日《ひ》に痩《やせ》疲《つか》れて骨立《こつりつ》甚《はなは》だし。擧家《きよか》これを怪《あやし》みぬ。  鄰家《りんか》に道術《だうじゆつ》の士《し》あり。童顏《どうがん》白髮《はくはつ》にして年《とし》久《ひさ》しく住《す》む。或時《あるとき》談《だん》此《こ》の事《こと》に及《およ》べば、道士《だうし》笑《わら》うて曰《いは》く、それ馬《うま》は、日《ひ》に行《ゆ》くこと百里《ひやくり》にして猶《なほ》羸《つか》るゝを性《せい》とす。況《いはん》や乃《いま》、夜《よる》行《ゆ》くこと千里《せんり》に餘《あま》る。寧《むし》ろ死《し》せざるを怪《あやし》むのみと。令史《れいし》驚《おどろ》いて言《い》ふやう、我《わ》が此《こ》の馬《うま》はじめより厩《うまや》を出《いだ》さず祕藏《ひざう》せり。又《また》家《いへ》に騎《の》るべきものなし。何《なん》ぞ千里《せんり》を行《ゆ》くと云《い》ふや。道人《だうじん》の曰《いは》く、君《きみ》常《つね》に官《くわん》に宿直《とのゐ》の夜《よ》に當《あた》りては、奧方《おくがた》必《かなら》ず斯《こ》の馬《うま》に乘《の》つて出《い》でらるゝなり。君《きみ》更《さら》に知《し》りたまふまじ。もしいつはりと思《おも》はれなば、例《れい》の宿直《とのゐ》にとて家《いへ》を出《い》でて、試《こゝろ》みにかへり來《き》て、密《ひそ》かに伺《うかゞ》うて見《み》らるべし、と云《い》ふ。  令史《れいし》、大《おほい》に怪《あやし》み、即《すなは》ち其《そ》の詞《ことば》の如《ごと》く、宿直《とのゐ》の夜《よ》潛《ひそか》に歸《かへ》りて、他所《たしよ》にかくれて妻《つま》を伺《うかゞ》ふ。初更《しよかう》に至《いた》るや、病《や》める妻《つま》なよやかに起《お》きて、粉黛《ふんたい》盛粧《せいしやう》都雅《とが》を極《きは》め、女婢《こしもと》をして件《くだん》の駿馬《しゆんめ》を引出《ひきいだ》させ、鞍《くら》を置《お》きて階前《かいぜん》より飜然《ひらり》と乘《の》る。女婢《こしもと》其《そ》の後《しりへ》に續《つゞ》いて、こはいかに、掃帚《はうき》に跨《またが》り、ハツオウと云《い》つて前後《ぜんご》して冉々《ぜん/\》として雲《くも》に昇《のぼ》り去《さ》つて姿《すがた》を隱《かく》す。  令史《れいし》少《すくな》からず顛動《てんどう》して、夜明《よあ》けて道士《だうし》の許《もと》に到《いた》り嗟歎《さたん》して云《い》ふ、寔《まこと》に魅《み》のなす業《わざ》なり。某《それがし》將《はた》是《これ》を奈何《いかん》せむ。道士《だうし》の曰《いは》く、君《きみ》乞《こ》ふ潛《ひそか》にうかゞふこと更《さら》に一夕《ひとばん》なれ。其《そ》の夜《よ》令史《れいし》、堂前《だうぜん》の幕《まく》の中《なか》に潛伏《せんぷく》して待《ま》つ。二更《にかう》に至《いた》りて、妻《つま》例《れい》の如《ごと》く出《い》でむとして、フト婢《こしもと》に問《と》うて曰《いは》く、何《なに》を以《も》つて此《こ》のあたりに生《いき》たる人《ひと》の氣《き》あるや。これを我《わ》が國《くに》にては人臭《ひとくさ》いぞと云《い》ふ議《こと》なり。婢《こしもと》をして帚《はうき》に燭《ひとも》し炬《たいまつ》の如《ごと》くにして偏《あまね》く見《み》せしむ。令史《れいし》慌《あわ》て惑《まど》ひて、傍《かたはら》にあり合《あ》ふ大《おほい》なる甕《かめ》の中《なか》に匐隱《はひかく》れぬ。須臾《しばらく》して妻《つま》はや馬《うま》に乘《の》りてゆらりと手綱《たづな》を掻繰《かいく》るに、帚《はうき》は燃《も》したり、婢《こしもと》の乘《の》るべきものなし。遂《つひ》に件《くだん》の甕《かめ》に騎《の》りて、もこ/\と天上《てんじやう》す。令史《れいし》敢《あへ》て動《うご》かず、昇《のぼ》ること漂々《へう/\》として愈々《いよ/\》高《たか》く、やがて、高山《かうざん》の頂《いたゞき》一《いつ》の蔚然《うつぜん》たる林《はやし》の間《あひだ》に至《いた》る。こゝに翠帳《すゐちやう》あり。七八人《しちはちにん》群《むらがり》飮《の》むに、各《おの/\》妻《つま》を帶《たい》して並《なら》び坐《ざ》して睦《むつま》じきこと限《かぎり》なし。更《かう》闌《た》けて皆《みな》分《わか》れ散《ち》る時《とき》、令史《れいし》が妻《つま》も馬《うま》に乘《の》る。婢《こしもと》は又《また》其《その》甕《かめ》に乘《の》りけるが心着《こゝろづ》いて叫《さけ》んで曰《いは》く、甕《かめ》の中《なか》に人《ひと》あり。と。蓋《ふた》を拂《はら》へば、昏惘《こんまう》として令史《れいし》あり。妻《つま》、微醉《ほろゑひ》の面《おもて》、妖艷無比《えうえんむひ》、令史《れいし》を見《み》て更《さら》に驚《おどろ》かず、そんなものはお打棄《うつちや》りよと。令史《れいし》を突出《つきだ》し、大勢《おほぜい》一所《いつしよ》に、あはゝ、おほゝ、と更《さら》に空中《くうちう》に昇去《のぼりさ》りぬ。令史《れいし》間《ま》の拔《ぬ》けた事《こと》夥《おびたゞ》し。呆《あき》れて夜《よ》を明《あか》すに、山《やま》深《ふか》うして人《ひと》を見《み》ず。道《みち》を尋《たづ》ぬれば家《いへ》を去《さ》ること正《まさ》に八百里程《はつぴやくりてい》。三十日《さんじふにち》を經《へ》て辛《から》うじて歸《かへ》る。武者《むしや》ぶり着《つ》いて、これを詰《なじ》るに、妻《つま》、綾羅《りようら》にだも堪《た》へざる状《さま》して、些《ちつ》とも知《し》らずと云《い》ふ。又《また》實《まこと》に知《し》らざるが如《ごと》くなりけり。 [#6字下げ]良夜《りやうや》[#「良夜」は中見出し]  唐《たう》の玄宗《げんそう》、南《みなみ》の方《かた》に狩《かり》す。百官《ひやくくわん》司職《ししよく》皆《みな》これに從《したが》ふ中《なか》に、王積薪《わうせきしん》と云《い》ふもの當時《たうじ》碁《ご》の名手《めいしゆ》なり。同《おな》じく扈從《こじう》して行《ゆ》いて蜀道《しよくだう》に至《いた》り、深谿《しんけい》幽谷《いうこく》の間《あひだ》にして一軒家《いつけんや》に宿《やど》借《か》る。其《そ》の家《いへ》、姑《しうと》と婦《よめ》と二人《ふたり》のみ。  積薪《せきしん》に夕餉《ゆふげ》を調《とゝの》へ畢《をは》りて夜《よ》に入《い》りぬ。一間《ひとま》なる處《ところ》に臥《ふ》さしめ、姑《しうと》と婦《よめ》は、二人《ふたり》戸《と》を閉《と》ぢて別《べつ》に籠《こも》りて寢《い》ねぬ。馴《な》れぬ山家《やまが》の旅《たび》の宿《やど》りに積薪《せきしん》夜更《よふ》けて寢《い》ね難《がた》く、起《た》つて簷《のき》に出《い》づ。時《とき》恰《あたか》も良夜《りやうや》。折《をり》から一室處《ひとまどころ》より姑《しうと》の聲《こゑ》として、婦《よめ》に云《い》うて曰《いは》く、風《かぜ》靜《しづか》に露《つゆ》白《しろ》く、水《みづ》青《あを》く、月《つき》清《きよ》し、一山《いつさん》の松《まつ》の聲《こゑ》蕭々《せう/\》たり。何《ど》うだね、一石《いつせき》行《ゆ》かうかねと。婦《よめ》の聲《こゑ》にて、あゝ好《い》いわねえ、お母《つか》さんと云《い》ふ。積薪《せきしん》私《ひそか》に怪《あやし》む、はてな、此家《このいへ》、納戸《なんど》には宵《よひ》から燈《あかり》も點《つ》けず、わけて二人《ふたり》の女《をんな》、別々《べつ/\》の室《へや》に寢《ね》た筈《はず》を、何事《なにごと》ぞと耳《みゝ》を澄《す》ます。  婦《よめ》は先手《せんて》と見《み》ゆ。曰《いは》く、東《ひがし》の五からはじめて南《みなみ》の九の石《いし》と、姑《しうと》言下《げんか》に應《おう》じて、東《ひがし》の五と南《みなみ》の十二と、やゝありて婦《よめ》の聲《こゑ》。西《にし》の八ツから南《みなみ》の十へ、姑《しうと》聊《いさゝか》も猶豫《ためら》はず、西《にし》の九と南《みなみ》の十へ。  恁《か》くて互《たがひ》に其《そ》の間《あひだ》に考案《かうあん》する隙《ひま》ありき。さすがに斯道《しだう》の達人《たつじん》とて、積薪《せきしん》は耳《みゝ》を澄《すま》して、密《ひそ》かに其《そ》の戰《たゝかひ》を聞居《きゝゐ》たり。時《とき》四更《しかう》に至《いた》りて、姑《しうと》の曰《いは》く、お前《まへ》、おまけだね、勝《か》つたが九目《くもく》だけと。あゝ、然《さ》うですね、と婦《よめ》の聲《こゑ》してやみぬ。  積薪《せきしん》思《おも》はず悚然《ぞつ》として、直《たゞ》ちに衣冠《いくわん》を繕《つくろ》ひ、若《わか》き婦《よめ》は憚《はゞかり》あり、先《ま》ず姑《しうと》の閨《ねや》にゆき、もし/\と聲《こゑ》を掛《か》けて、さて、一石《いつせき》願《ねが》ひませう、と即《すなは》ち嗜《たしな》む處《ところ》の嚢《ふくろ》より局盤《きよくばん》の圖《づ》を出《いだ》し、黒白《こくびやく》の碁子《きし》を以《もつ》て姑《しうと》と戰《たゝか》ふ。はじめ二目《にもく》三目《さんもく》より、本因坊《ほんいんばう》膏汗《あぶらあせ》を流《なが》し、額《ひたひ》に湯煙《ゆけむり》を立《た》てながら、得《え》たる祕法《ひはふ》を試《こゝろ》むるに、僅少《わづかに》十餘子《じふよし》を盤《ばん》に布《し》くや、忽《たちま》ち敗《ま》けたり。即《すなは》ち踞《ひざまづ》いて教《をしへ》を乞《こ》ふ。姑《しうと》微笑《ほゝゑ》みて、時《とき》に起《お》きて座《ざ》に跪坐《ついゐ》たる婦《をんな》を顧《かへり》みて曰《い》ふ、お前《まへ》教《をし》へてお上《あ》げと。婦《よめ》、櫛卷《くしまき》にして端坐《たんざ》して、即《すなは》ち攻守《こうしゆ》奪救《だつきう》防殺《ばうさつ》の法《はふ》を示《しめ》す。積薪《せきしん》習《なら》ひ得《え》て、將《は》た天《あめ》が下《した》に冠《くわん》たり。  それ、放《はな》たれたる女《をんな》は、蜀道《しよくだう》の良夜《りやうや》にあり。敢《あへ》て目白《めじろ》の學校《がくかう》にあらざる也《なり》。 [#地から5字上げ]明治四十五年三月・六月 底本:「鏡花全集 巻二十七」岩波書店    1942(昭和17)年10月20日第1刷発行    1988(昭和63)年11月2日第3刷発行 ※題名の下にあった年代の注を、最後に移しました。 ※表題は底本では、「唐模樣《からもやう》」とルビがついています。 入力:門田裕志 校正:川山隆 2011年8月6日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。