大岡政談 尾佐竹猛校訂 ------------------------------------------------------- 【テキスト中に現れる記号について】 《》:ルビ (例)大岡政談《おほをかせいだん》 |:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号 (例)大岡越前守|出世《しゆつせ》 [#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定    (数字は、JIS X 0213の面区点番号またはUnicode、底本のページと行数) (例)※[#「圖」の「回」に代えて「面から一、二画目をとったもの」、2-5]  [#…]:返り点  (例)有[#レ]之 /\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号) (例)わざ/\ *濁点付きの二倍の踊り字は「/″\」 ------------------------------------------------------- [#8字下げ]解題[#「解題」は大見出し] [#地から4字上げ]法學博士 尾佐竹 猛  古來名判官といへば大岡越前守にとゞめをさすが、その事蹟といへば講談物や芝居で喧傳せられて居るのに過ぎないので、眞の事蹟としては反つて傳はつて居るものは少いのである。  所謂大岡裁判なるものは、徳川時代中期の無名の大衆作家の手に成り、民衆に依つて漸次精練大成せられて、動かすべからざる根據を植付けられたのであるから、その生命は最も永いのである。我國に於ける大衆文藝として最も優れたるものゝ一つである。  その何が故にかゝる聲譽を得たかといへば、これは我國の文藝に乏しき探偵趣味のあるのが、その主たる原因である。  古い處では青砥藤綱はあるが、これはあまりに古く、また事柄も少いから、一般人士の耳には入りがたい、さりとて本朝櫻陰比事の類はあるが、これは支那種でもあり、少し堅過ぎる。大岡物はこの間にありて異彩を放つて民衆向である。中には支那種の飜案物もあるが巧みに其種を知らしめざる程日本化して居る。それに當時の民衆の最も敵としまた最も非難多き奉行の處置振りに慊らざるものは理想的の大岡物を讀んで、密に溜飮を下げたといふのも、大岡物を謳歌する一理由ともなつたであらう。  しかし嚴格にいふときは大岡裁判は探偵趣味といふよりは、寧ろ裁判趣味といつた方が適當である。巧妙なる探偵術に依つて犯人を搜査するといふよりも、法廷に曳かれて白状せざる奸兇の徒を如何にして白状させたかといふことに、興味がかゝつて居るのである。勿論その白状さす爲めには種々の探偵術を用ひて居るが、物語の骨子は證據はあつても白状せぬ被告人を白状させる處に、大岡越前守の手腕を見るのである。  これは徳川中期の産物であるから、かゝる作品が出來たのである。犯罪の搜査も裁判も町奉行の職權であるから、與力同心さては目明し岡ツ引輩の探偵の巧妙だけでは町奉行は光らない。否その巧妙な探偵もこれは奉行の指※[#「圖」の「回」に代えて「面から一、二画目をとったもの」、2-5]から出るのが原則であるから、町奉行の手柄としては白状させることに重きを置かなくてはならぬ。  それに當時は拷問を用ふることは當然とされて居つたが、それも漸次進んで、今日の言葉でいへば、拷問は訴訟手續であつて、證據方法では無いのである。即ち證據を得る爲めに拷問するのでは無くて、證據が十分あつても白状せぬものを白状させる爲め、換言すれば如何に證據十分でも本人が白状せぬ以上は裁判することは出來ぬから、その手續を完結する爲め、拷問を用ふるといふのが、當時の法制の原則であつた。  そこで奉行は證據を集めつゝ、その證據に基いて白状せしむるといふのが、大岡裁判物の狙ひ所である。  また一面、當時の裁判の實相といへば、奉行の實權は與力に、與力は同心に、同心は目明し岡ツ引の徒に、漸次權力は下推し、奉行は單に形式的に裁判し、盲判を押すに過ぎなかつたから、こゝに明斷察智の超人的奉行を主人公とし、その縱横の材幹に由り、疑獄を裁斷するといふことが時流に投じたのである。  古くは最明寺時頼の廻國物語、近くは水戸黄門の廻國記の如き、密に諸國の人情風俗、政治の良否を知り、是非を裁斷するといふ英雄崇拜の片影ともいふべき物語が、民衆の頭に成長しつゝあつた處へ、わざ/\廻國はせなくても、一大理想的奉行があつて、淨玻璃の鏡に照すが如く、如何なる疑獄難獄も解決するといふ物語の出現したのであるから、大向ふの喝采するのも尤である。それに實際大岡越前守は事務に練達湛能の能吏であつたから、これを理想的に祭り上げ何んでも箇でも持つて行つて、名判官一手專賣としたのも、自然の勢である。  こゝに於てか、大岡越前守は理想的名判官として民衆の間に活きて居るのである。  そこで、所謂大岡裁判なるものに付て述べんに、大岡裁判を書いたものは板本に「大川仁政録」があり、寫本には「板岡實録」「大岡板倉二君政要録」「大岡政要實録」など數種あり、また一事件毎に單行本として傳はつて居るものがある。講談の種本は概ね此單行本である、或は講談物を單行本としたかと思はるゝものもある、また「大岡政談」「大川政談」として殘つて居るものもあるが、これは右の單行本を纒めたものらしい。大岡政談といへる始めからの一册本が後に數種の單行本と分れたものと見るよりも、寧ろ單行本を纒めたのが大岡政談といふ方が正しいやうである。謂はゞなんでも名裁判物語を書き立てゝ、これを大岡越前守に持つて行くから、一層これを纒めて一册にしたならばといふのが大岡政談らしい、後には件數に依り「大岡十八政談」といつたものもある。こんな工合であるから「大岡政談」といつても各事件毎に文體筆勢が異り、記述の態樣も區々であるが。多年無名の民衆に依つて作り上げられたる眞の大衆向のものであるから、幾多の大岡物の内からこの「大岡政談」を採録したのである。 斯く大岡物にも幾多の種類があるから、その事件の數も各書に依つて異同がある。内田魯庵氏が [#1字下げ]大岡政談が越前守以前の「櫻陰秘事」更に又以前に遡つた傳説野乘の作り換へであるのは誰も氣が附く、其の中にソロモン傳説が混入して居るのは必ずしも伴天連僧の持つて來たもので無く、或は亞剌比亞や波斯を經由して支那から傳はつたものであるかも知れぬが、切支丹僧が多くの傳説や神話を授けたのは爭はれない。([#割り注]日本文學講座第十八卷「日本の文學に及ぼしたる歐洲文學の影響」[#割り注終わり]) の所謂ソロモン傳説たる、二人の女親と稱する女に子供の兩手を引張らせて眞僞を判じた事件はこの政談の中に入つて居ないから割愛するが、通常「大岡政談」に收められてあるものは、 [#1字下げ]天一坊、白子屋お熊、烟草屋喜八、村井長庵、直助權兵衞、越後傳吉、傾城瀬川、畔倉重四郎、小間物屋彦兵衞、後藤半四郎、松田お花、嘉川主税、小西屋、雲切仁左衞門、津の國屋お菊、水呑村九助 の十六件である。  この内最初の天一坊一件は大岡裁判の中最も有名で、この事件の爲め大岡越前守が立身した如く喧傳せられて居るが、その實大岡越前守に關係はないのである。尤もこの事件と相似たものに、關東郡代伊奈半左衞門の手で審理せられたるのがあるから、これを大岡越前守に持つて來たとも見られるから、その事件の概略を述ぶれば [#ここから1字下げ] 天一坊惡事露顯の端緒は享保十四年三月五日の事とかや浪人本多儀左衞門、關東御郡代伊奈半左衞門の屋敷に來り、當御支配内の儀に付御用役衆へ御意得たくと申出、半左衞門用人遠山郡太夫面會の處、儀左衛門申樣、下品川宿秋葉山伏赤川大膳方に居られ候源氏坊天一と申すは、當上樣の御落胤にて、大納言樣御兄の由、内内に日光御門主まで仔細申上られ、既に上聞にも達し、御内々一萬俵つゝ御合力米下し置かるゝ由申弘め、浪人共多分御抱入に付、我等も目見いたし奉公相望候てはと申勸るものあり、右源氏坊は全く左樣の御方にて候や、御支配内の儀に付此段内々御樣子承度との儀なり、郡太夫聞て大に驚き、そは怪しからぬ次第なり、支配内に左樣の疑しきもの罷在事是まで少くも存ぜず候、貴殿御咄にて初めて承り候、最早其儘には捨置がたく早速吟味を遂ぐべく、御迷惑ながら其許を勸めたるものも其許も掛合にて候間、名前書出すべく左樣御心得あるべしと申すに儀左衛門仰天なして早々歸りたり。郡太夫は直に此事を主人半左衛門へ申聞、早速品川宿名主年寄を呼出して吟味に及びし處、成程去年以來大膳方に富貴なる山伏居候へども、大納言樣御兄とか又は浪人召抱の沙汰は更に承はらず、其故御話も申上ず候との答なり。郡太夫、其山伏事御用の仔細あり、取逃しては相成らず、直樣立歸り逃げざる樣心付べしと申渡し、自分も組子引連、後より品川宿へ出張なし、山伏常樂院方に赴き、源氏坊天一と云へるもの住居致すやと尋ねければ、手前屋敷の裏に住居罷在と答へたり、即ち常樂院を案内に天一居宅に至り見れば、中々に構造も美を盡し、室内に裝置せし諸道具類は皆花葵の蒔繪紋散しにして、座敷の上手には一段高く上げ疊をなし、何樣將軍家の御由緒にてもあるべく思はれたり。程なく天一、白紗綾の小袖に白無垢を重ね、着用して出でけり。郡太夫慇懃に口上を演べ、主人半左衛門儀御尋ね申度仔細あり御同道致すべき樣に申付候、其儘御越し成さるべくと申すに、天一聊か躊躇の氣色もなく、畏り候と傍なる大小刀をも渡したり。郡太夫天一を駕籠に乘せ、常樂院をも共々召連て屋敷へ歸りければ、半左衛門早速對面なせしが、最初の程は將軍家御落胤の虚實も分明ならざりし故、待遇言葉遣も丁寧になし、一室にて密々の取調なり、常樂院をはじめ關係の諸浪人共をも召出して一應訊問に及びし處、全く詐欺なりとの見込ありて、遂に評定所一座吟味となり、夫々取糺せし所、此天一の母は紀州田邊の者にて名をよしと稱し、紀州侯家中某方に奉公中、主人の寵を受けて妊娠なし、若干の手當金を貰ひ郷里に歸りし後、男の子を生み落したり。是則ち天一にて幼名を半之助と稱し、四歳の時母諸共叔父の徳隱といへるもの、江戸橋場總泉寺末某寺の住職たりしを手寄りて出府なし、其世話にて母子共に淺草藏前町人半兵衛方へ縁付しが、天一十歳の時母病死なし、其砌養父半兵衛も身代取續がたき事ありて家をたゝみ、天一は徳隱の弟子となし、自分は何處ともなく廻國六部と成て出たり。母の存生中常に天一への物語に、其方は元來下賤の身の上ならず、歴々由緒あるものゝ胤なれば、何卒して武家に取立たくと申聞け、由緒書もありて叔父徳隱の預り居たりしが、享保六年火災に逢うて燒失せり。其由緒書の内に源氏とありしより、徳隱取て源氏坊天一と名乘らしめしとぞ。然るに徳隱は享保十二年病死せし故、天一傳手を求めて修驗堯仙院の弟子となりたり、天一幼年の時より酒を嗜なみ酒僻ありし故、叔父徳隱存生中は堅く戒めて飮せざりしに、死去の後は頭の押へ手なきより常に大酒を飮み、我が由緒の歴々なるを誇り散らして亂妨に及ぶこと度々なりければ、堯仙院も幾んど持餘し、寺社奉行へ召連出て懲戒を請ひたりしが、酒狂の上なれば能々意見を加へよとまでにて差たる咎もなかりけるより、天一彌〻増長なし、畢竟我が身分の歴々なる故公儀にても御咎なしと猶も大言を吐て更に愼む樣子なければ、堯仙院も捨置がたく、孫弟子の品川常樂院に仔細を云ひて預けたりしが、此常樂院中々の横着者にて、天一が紀州にて生れ由緒ありと云ふを奇貨として惡計を廻らし、終に將軍吉宗公紀州潜邸の時の御落胤なりと僞り、内々は日光御門主より上聞に達せられ、既に一萬俵づつの御合力米をも下され、追付表向の御對面、御披露もありて御三家同樣の大名にも御取立成さるべき御内意ありたり。抔と觸廻りて金銀を借入又は諸浪人どもを抱へて、夫々の役向をも定めたり。即ち常樂院は自ら家老となり赤川大膳と稱し、其他南部權太夫、本多源右衛門の兩人を用人となし或は番頭、旗奉行、槍大將又は大目附、町奉行、勘定奉行、小納戸役、近習、使番抔種々役々を申付しもの數十人に及び、次第に世間へも聞え、終に浪人本多儀左衛門の口より洩れて惡事露顯に及び一同逮捕せられて刑に處せられたり。 [#5字下げ]四月二十一日於評定所申渡之覺 [#地から3字上げ]天一坊改行 [#地から3字上げ][#1段階小さな文字]酉三十一[#小さな文字終わり] 僞の儀どもを申立浪人共を集め公儀を不憚不屆に付死罪の上獄門に行ふもの也 [#地から3字上げ]常樂院 改行申旨に任せ浪人共集候儀其分に仕改行宿を仕所の役人へも不屆重々不屆に付遠島申付るもの也 [#地から3字上げ]本多源左衛門[#「本多源左衛門」はママ] [#地から3字上げ]南部權太夫 [#地から3字上げ]矢島主計 改行慥成儀も不糺身非一人無筋儀を申觸し浪人大勢引付公儀を不憚仕方不屆に付遠島申付るもの也 [#ここで字下げ終わり] これが天一坊事件の梗概である。  次に「白子屋阿熊一件」これは實際大岡越前守の取扱つた事件である。芝居でする「お駒才三」である。  お熊が引廻しの際、上に黄八丈の大格子、下着は白無垢、髮は島田に結ひ上げ薄化粧さへ施し、手には水晶の[#「水晶の」は底本では「水昌の」]珠數をかけ馬上に荒繩で結られて行く凄艷なる有樣は好箇の劇的場面であつた。本文に [#1字下げ]此時お熊の着たるより世の婦女子、黄八丈は不義の縞なりとて嫌ひしは云々 とあるのは眞實である。 「煙草屋喜八一件」は『耳袋』にある。「煙草屋長八」の事件に似て居る。長八一件ならば大岡越前守より後の依田豐前守正次の江戸町奉行在勤中の事柄にて勿論大岡越前守に關係が無い。 「村井長庵一件」これは架空の物語である 「直助權兵衛一件」これは實在の事件である。 本書に [#1字下げ]近き頃まで、諸所の關所に直助が人相書有りしを知る人に便りて見たる事あり、云々 とあるは眞實で、有名な事件であつた爲め、芝居の「四谷怪談」に「直助權兵衞」といふ一人物あるは、此事件からの思ひ付きである。 「越後傳吉一件」は大岡に關係なく、津村宗庵の「譚海」中にある物語である。これが後には「鹽原多助」の粉本にもなつて居る。 「傾城瀬川一件」は吉原耽美の風潮に迎合した小説である、本文に [#1字下げ]遊女が鑑と稱られ夫が爲め花街も繁昌せし由來を尋るに云々 とあるのが作者の本音であらう。 「畔倉重四郎一件[#「畔倉重四郎一件」は底本では「畦倉重四郎一件」]」これは伊奈半左衞門の取扱つた事件と傳へられ居り、そのことも多少疑問はあるが、兎に角大岡には關係の無い事件である。 「小間物屋彦兵衞一件」は支那種の飜案である。 「後藤半四郎」「松田お花」「嘉川主税」はいづれも文士の筆の先で出來た物語に過ぎぬ。 「小西屋一件」これは支那種で、同種の飜案に「會談與晤門人雅話」がある。 「雲切仁左衞門」「津の國屋お菊」はいづれも小説、「水呑村九助一件」は支那種に近世的探偵趣味を多分に盛つてある。特にその首と屍のことは「棠陰比事」の『從事函首』から出て居ることは明白である。 「大岡政談」の正味を一々檢討すれば以上に述べた如くである。 しかしなにしろ、多年大衆向きとして、講談に芝居に叩き上げられたことなれば、益〻精練せられて今では殆んど確定的の事實として、大岡越前守の名奉行振りを稱へられて居る。謂はゞ大衆向きの作品としてこれ程大なる價値を有するものは無い。  さればとて、大岡政談が悉く事實でないから大岡越前守は凡庸の町奉行に過ぎなかつたかといへば、さうでは無い、町奉行二十年寺社奉行十六年といふ勤續である。この多年の經驗だけでも他に比肩するものは無い。啻に奉行といはず他の如何なる職でも、これ程永く勤續したものは無い。これ丈けでも立派な模範官吏である。しかも太平の世の中に何等の武勳無くして、六百石の旗本から一萬石の大名に陞進したのである。徳川時代としては空前絶後の出身といつても可なる程目醒しい昇進振りである、如何に事務に練達湛能であつたかを知るべきである。  その一生の事蹟を仔細に研究すれば、行政上の治蹟が著名であつて、反つて司法上の事蹟に付てはさまで顯揚して居らぬのは、世評と正反對の奇なる現象である。これは一體に行政事務は華やかで、司法事務はヂミなのが常であることは今日でも同じである。大岡の江戸町奉行に就任した際は、市政も未だ整つて居らなかつたときであつたから、充分腕を振ふ餘地もあり、從つて其事業も華々しかつたのである。司法に關しては法典編纂の一人として、「科條類典」即ち徳川初期よりの法令並に先例判決例を蒐集したもので、徳川氏最初の立法事業に干與して居る。それから個々の裁判例に付ても幾多の法律問題に苦心したことの見るべきものが多い。司法事務本來の性質としてヂミな骨の折れる職務に數十年從事したといふこと丈けでも充分立派な明判官たる資格があるのである。所謂大過なくして永年勤務したといふこと夫れ自身が非凡なる人材である。  世人は往々にして大岡時代は法律の適用解釋が自由であつたから、理想的の裁判が出來たといふものがあるが、遵據すべき正確なる條文無き時代に事相に適する裁判を爲すことは反つて骨が折れるのである。立派な條文が完備して居れば寧ろ裁判には樂であるともいひ得られるのである。況んや法律の解釋適用は自由なりとはいひながら、故例格式の八釜しかつた幕府時代に於ては、その無意味の桎梏の力強くこれを打破するに足る法理の無かつたことは、或は觀方に依つては法律の解釋適用は[#「解釋適用は」は底本では「解釋遖用は」]今日よりも不自由であつたともいひ得らるゝのである。然るにも拘はらず永く名判官の名聲を維持して、昇進したのは偉材といはねばならぬ。  本書の首卷に「大岡越前守出世の事」の一卷がある、これは何等かの隨筆物などの一節で、この記事が大岡越前守の事蹟の全體若くは逸事であつたものが、後に他の幾多の物語が出來た爲め、茲に首卷として採録したものらしい。その始めに [#1字下げ]當世奉行役人百姓を夜中にてもかまはず呼出し、腰かけに苦勞させ、おのれら我意に任せて退出後にゆる/\休息し、酒盛などして夜に入て評定し又もなかれて歸すなど云々 とありて、時の裁判振りを慨する徒輩が、大岡裁判に假託して時事を諷したとも見らるゝが、この首卷の中の事柄は眞實の事らしい。猶ほ官歴のことも書いてあるが、十分でないから、左にその大要を掲げんに [#ここから1字下げ] 延寶五年江戸に生る、大岡美濃守忠高の四男、幼名求馬 貞享三年十二月 大岡忠右衞門忠眞の養子となる、十歳 貞享四年 通稱を市十郎と改め、忠相と稱す、十一歳 元祿十三年七月、養父病死、家督を相續し、養家歴代の通稱忠右衞門と改む。六百石寄合旗本無役、二十四歳 元祿十五年五月、御書院番士  二十六歳 寶永元年十月 御徒頭  二十八歳 同  年十二月 布衣 同 四年八月 御使番  三十一歳 同 五年七月 御目附  三十二歳 正徳二年正月 伊勢國山田奉行   同年三月 從五位下 能登守 [#ここで字下げ終わり] この時山田に赴任し、有名なる紀州領と松坂の住民との訴訟を裁判し、後年江戸町奉行に榮轉の素地を爲したのである。しかしこゝに注意すべきは山田奉行といふからには、田舍の區裁判所判事の如く思ひ、從つて江戸町奉行の轉任は未曾有の拔擢の如く考へるものがあるが、山田奉行の地位は伊勢神宮所在地なるが爲め、重要なる地位である。故に從五位下能登守と叙爵したので、謂はゞ指定地の勅任所長ともいふべきで、それが、東京地方裁判所長に轉任したのであるから、榮轉は榮轉であるが、未曾有の榮轉といふ程でもない、即ち能登守が越前守に轉じた叙爵の形式から見ても想像がつく、 [#ここから1字下げ、折り返して2字下げ] 享保元年二月 御普請奉行 歸府 四十歳 同 二年二月 江戸町奉行、越前守 四十一歳 同 十年九月 二千石加賜、遺領と併せて三千七百二十石 四十九歳 元文元年八月 寺社奉行 二千石加賜 猶ほ廩米四千二百八十俵を足高とし、一萬石の高となし、大名の格式となる、六十歳 同年十二月 雁の間席並 [#ここから1字下げ] 寛延元年閏十月 奏者番 寺社奉行故の如し、從前の足高廩米を廢し更に四千二百八十石加賜、全く一萬石藩列に入る、七十二歳、三河國額田郡西太平を居所とす。 寶暦元年十一月病の爲め職を辭す、寺社奉行を免じ奏者番を許されず 此年十二月十六日薨ず、享年七十五歳、法名松運院殿興譽仁山崇義大居士 [#ここで字下げ終わり] 墓は神奈川縣高座郡小出淨見寺にあり、裏面には「御奏者番寺社奉行俗名大岡越前守藤原忠相行年七十五歳」と刻してある。また別に、芝區三田聖坂功運寺にも墓がある、これは後年追墓合葬したもので、數多の戒名があり、右より五番目に「松運院殿前越州刺史[#「刺史」は底本では「剌史」]興譽仁山崇義大居士、寶暦元年辛未十二月十六日」と刻してある。功運寺は其後、府下野方町に移轉し、淨見寺は大正十二年の大震災にて大破したから、有志に於てこれが修繕の擧ありと聞く。  淨見寺の東南、土地高濶遙かに富士山を望み要害の地がある、これは大岡氏の陣屋址で、二代目忠政の時こゝに土着したが、後江戸に移住したのである。  大岡越前守は曩に從四位を贈られたが、これは主として民政上の功に依る。とのことである、司法官としての功績に付ては未しであるのは遺憾である。 [#1字下げ]大正四年十一月四日 穗積陳重博士淨見寺の墓に詣でて [#ここから4字下げ] 問ひてましかたりてましをあまた世を          へたてゝけりな道の友垣 [#ここで字下げ終わり] と詠ぜられ、穗積八束博士また參詣せられた、この二大法曹の參詣を受けては地下の大岡越前守も定めて滿足したであらう。 [#地から4字上げ]――[#1段階小さな文字]解題終[#小さな文字終わり]―― [#改丁] [#ページの左右中央] 大岡政談首卷[#「大岡政談首卷」は大見出し] [#改丁] [#1段階大きな文字]大岡政談《おほをかせいだん》[#ルビの「おほをかせいだん」は底本では「おほをかせいだい」]首卷《しゆくわん》[#大きな文字終わり] [#8字下げ][#中見出し]大岡越前守|出世《しゆつせ》の事《こと》[#中見出し終わり]  大聖孔子《たいせいこうし》の曰《いはく》訟《うつた》へを聞《きく》事|我《われ》猶《なほ》人の如くかならずうつたへなからしむとかや今いふ公事訴訟《くじそしよう》願《ねが》ひ事になりたとへば孔子《こうし》聖人《せいじん》には公事訟訴《くじそしよう》出來たる時は諺《ことわざ》にちゑなきとの事|我《われ》猶人の如くと也さりながら孔子聖人|奉行《ぶぎやう》となつて其訴《そのうつた》へ自然《しぜん》と世の中にたえるやう天下ををさめ仁義《じんぎ》をもつて民《たみ》百姓《ひやくしやう》をしたがへ道に落《おち》たるをひろはず戸さゝぬ御代とせんとなりまことに舜《しゆん》といへども聖人《せいじん》の御代には庭上《ていじやう》に皷《つゞみ》を出し置《おき》舜帝《しゆんてい》みつから其罪《そのつみ》を糺《たゞ》しあらためあしき御政事《おんせいじ》當時は何時にても此皷《このつゞみ》を打《うち》て奏聞《そうもん》するに帝《てい》たとへば御食事《おんしよくじ》の時にても皷《つゞみ》の音《おと》を聞給ひたちまち出させ給ひ萬民《ばんみん》の訴《うつたへ》を聞給ふとなりまことにありがたき事なり然るに當世《たうせい》奉行《ぶぎやう》役人《やくにん》は町人百姓を夜中《やちう》にてもかまはず呼出《よびいだ》し腰《こし》かけに苦勞《くらう》をさせおのれら我意《がい》に任《まか》せて退出後《たいしゆつご》にゆる/\休足《きうそく》し酒盛《さかもり》などして夜に入て評定《ひやうぢやう》し又もなかれて歸《かへ》すなとよく/\舜帝《しゆんてい》の御心を恐《おそ》れながらかんがへ學《まな》ぶへき事なり然るに舜帝のつゝみ[#「つゝみ」はママ]世こぞつて諫鼓《かんこ》のつゝみと[#「つゝみと」はママ]云《いふ》其後《そのご》程《ほど》なく天下よく此君《このきみ》にしたがひ徳《とく》になつきければ其皷《そのつゞみ》自然《しぜん》とほこりたまり苔《こけ》を生《しやう》し諸鳥《しよてう》も來りて羽《は》を休《やす》めけるとなん此事を諫皷《かんこ》苔《こけ》ふかうして鳥《とり》おどろかずと申あへりいまもつぱら江戸《えど》大傳馬町《おほでんまちやう》より山王御祭禮《さんわうごさいれい》に皷《つゞみ》の作《つく》りもの出し祭禮の第一番に朝鮮《てうせん》馬場《ばば》において上覽《しやうらん》是あるなり往古《わうこ》常憲院《じやうけんゐん》さま御代までは南傳馬町の猿《さる》のへいをもちし作《つく》りものゝ出でしを第一番に渡《わた》し諫皷《かんこ》は二番に渡《わた》しけるが或時《あるとき》の祭禮《さいれい》に彼猿《かのさる》の出し作《つくら》ふひまに先へ拔《ぬけ》たり此時よりして鳥の出し一番に渡《わた》るとの嚴命《げんめい》にて長《なが》く一番とはなりにけり是天下太平の功《こう》なり [#2字下げ]此猿《このさる》の面《めん》は南傳馬町|名主《なぬし》の又右衞門といふもの作《つく》りて主計《かずへ》が猿《さる》といふよし今以て彼《かの》方にあるよしなり 然りといへども繁華《はんくわ》の日夜に増《まし》けるゆゑ少々つゞの[#「少々つゞの」はママ]訴《うつた》へはふん/\として更《さら》にやむことなしさればこそ奉行《ぶぎやう》は是をえらむべきの第一也三代|將軍《しやうぐん》の御代《みよ》より大猷公《たいいうこう》嚴有公《げんいうこう》の兩君にまたがりて板倉《いたくら》伊賀守同|周防守《すはうのかみ》同|内膳正《ないぜんしやう》は誠《まこと》に知仁《ちじん》の奉行《ぶぎやう》なりと萬民《ばんみん》こぞつて今に其徳《そのとく》をしたふか板倉のひえ炬燵《こたつ》とは少しも火《ひ》がないといふ事なり非《ひ》と火と同音《どうおん》なればなり夫より後世《こうせい》の奉行《ぶぎやう》いつれも堅理《けんり》なりといへども日を同じく語《かた》るべからず然るに享保《きやうほ》の初《はじめ》大岡越前守|忠相《たゞとも》といふ人町奉行となつて年《とし》久《ひさ》しく吉宗公に勤仕《きんし》しける此人あつぱれ大丈夫《だいぢやうふ》にして其智萬人にすぐれ遠《とほ》き板倉の輩《ともがら》に同じされば奉行《ぶぎやう》勤仕《きんし》勤功《きんこう》同越前守よく/\上をうやまひ下を憐《あはれ》みてすたれたるをおこしたへたるをつくろひ給ふ事|誠《まこと》に賢《けん》なりといふべし扨《さて》大岡《おほをか》忠右衞門とて三百石にて御書院番《ごしよゐんばん》勤《つとめ》し其後《そののち》二百石|加増《かぞう》あつて五百石と成を越前守|家督《かとく》を繼《つぎ》て御小姓組《おこしやうぐみ》と成《なる》勤仕《きんし》の功《こう》を顯《あらは》し有章公《いうしやうこう》の御代に御徒頭《おかちがしら》となり其後伊勢山田|奉行《ぶぎやう》仰付られ初て芙蓉《ふよう》の間《ま》御役人の列《れつ》に入りけるなり [#8字下げ]第二回[#「第二回」は中見出し]  諺《ことわざ》にいはく千里の道《みち》を走《はし》る馬|常《つね》にあるといへども是を知《し》る伯樂《はくらく》もなく其智者《そのちしや》にあへはなしとかや人間《にんげん》も又同じ忠信《ちうしん》義信《ぎしん》の人|多《おほ》くあつても其君《そのきみ》のこゝろくらくして是を用ゆる事なくんばむなしく泥中《でいちう》玉《たま》をうづめんが如くに成《な》りて過るなしすべての人の君たる人はよく/\これ察《さつ》すべきことなり舜《しゆん》も人なり我《われ》も人なり智に臥龍《ぐわりよう》[#割り注]孔明の事なり[#割り注終わり]勇《ゆう》に關羽《くわんう》の如きもの當世《たうせい》の人になからんや爰《こゝ》に有章院殿の御代|大岡《おほをか》越前守伊勢山田|奉行《ぶぎやう》となりてかしこに至り諸人《しよにん》公事《くじ》に彼地《かのち》にて多く裁許《さいきよ》あり先年より勢州路《せいしうぢ》紀州領《きしうりやう》の境論《さかひろん》の公事《くじ》ありてやむ事なし山田奉行|替《かは》りのたび事にねがひ出るといへども今もつて落着《らくちやく》せず是は先來|紀州殿《きしうどの》非分《ひぶん》なりといへども御三家の領分《りやうぶん》を相手《あひて》なれば御大身をおそれ時の奉行も捌《さば》きかねてあつかひを入て濟《すま》すといへども扱《あつか》ひ崩《くづ》れ訴《うつた》へ出る事たび/\なり然るにこの度大岡越前守|山田奉行《やまだぶぎやう》と成て來りしかば百姓《ひやくしやう》ども又々|境論《さかひろん》を願ひ出づるを忠相《たゞとも》段々|聞《きか》れける所|紀州殿《きしうどの》方|甚《はなはだ》非分《ひぶん》なりとてあきらかに取捌《とりさばき》けり只今までの奉行《ぶぎやう》いかなれば穩便《をんびん》にいたし置けるにや幸ひに越前守|相糺《あひたゞ》すべきなりとて紀州《きしう》の方まけと成て勢州山田方|理運《りうん》甚だしかりき爰《こゝ》において年頃《としごろ》のうつぷんを散《さん》じ大いに悦《よろこ》び越前守の智《ち》をかんじける誠《まことに》正直《しやうぢき》理非《りひ》全《まつた》ふして糸筋《いとすぢ》の別れたるが如くなりしとかや其後|正徳《しやうとく》六年四月|晦日《みそか》將軍家繼公《しやうぐんいへつぐこう》御多界《ごたかい》まし/\[#「御多界まし/\」はママ]則《すなはち》有章院殿と號し奉る御|繼子《けいし》無《なく》是によつて御三家より御養子《ごやうし》なり東照宮《とうせうぐう》に御|血脉《けつみやく》近《ちか》きによつて御三家の内にても尾州公《びしうこう》紀州公《きしうこう》御兩家|御帶座《ごたいざ》にて則ち紀州公|上座《じやうざ》に直《なほ》り給ふ此君|仁義《じんぎ》兼徳《けんとく》にまし/\吉宗公《よしむねこう》と申|將軍《しやうぐん》となり給ふ其後《そのご》諸侯《しよこう》の心を考《かんが》へ給ふ處におよそ奉行たる者は正路《しやうろ》にあらざれば片時《へんじ》も立難《たちがた》し其正直《そのしやうぢき》にて仁義《じんぎ》のもの當世《たうせい》に少し然るに大岡越前守伊勢山田|奉行《ぶぎやう》として先年の境論《さかひろん》ありし時いづれの奉行も我武威《わがぶゐ》をおそれ我方|非分《ひぶん》と知りながら是を捌《さば》く事|遠慮《ゑんりよ》する所|彼《かの》越前守は奉行《ぶぎやう》となつてたちまち一時に是非《ぜひ》を糺《たゞ》し我領分《わがりやうぶん》をまけになしたる段《だん》あつぱれ器量《きりやう》は格別《かくべつ》にして智《ち》仁《じん》勇《ゆう》三|徳《とく》兼備《けんび》の大丈夫《だいぢやうふ》なり彼《かれ》を我手取《わがてどり》に呼下《よびくだ》し天下の政事《せいじ》を統《すべ》しなば萬民のためならんとの上意《じやうい》にて則ち大岡殿を江戸へ召寄《めしよせ》られける夫より越前守|早速《さつそく》はせ下り吉宗公の御前へ出けるにぞ則ち忠相《たゞとも》を以て江戸町奉行仰付られけり誠《まこと》君君たれば臣《しん》臣たるとは此事にて有るべき [#8字下げ]第三回[#「第三回」は中見出し]  享保《きやうほ》の初《はじめ》の頃《ころ》將軍吉宗公|町奉行《まちぶぎやう》大岡越前守と御評議《ごひやうぎ》あつて或は農工商《のうこうしやう》罪《つみ》なるものに仰付けられ追放《つゐはう》遠島《ゑんたう》の替《かは》りに金銀を以て罪《つみ》をつぐのひ給ふ事初り今是|過料金《くわれうきん》といふなり大に益《えき》ある御仁政《ごじんせい》然るに賢君《けんくん》の御心をしらず忠臣《ちうしん》の奉行をしらざる輩《ともがら》は此過料金《このくわれうきん》の御|政事《せいじ》を難《なん》していはく人の罪《つみ》を金銀を以てゆうめんする事上たる人の有ましき事なり第一|欲《よく》にふけり以の外いやしき掟《おき》てなり然らば金銀あるものは態《わざ》と惡事《あくじ》なしむつかしき時にはわづか金銀を出せば濟事《すむこと》也と抔《など》高《たか》をくゝり惡事《あくじ》をなさん是|却《かへつ》て罪人《ざいにん》多くならん媒《なかだち》也とあざけりし人多しとかや是非《ぜひ》學者《がくしや》の論《ろん》なりといにしへより我朝《わがてう》の掟《おきて》にぞかゝる事なけれども利の當然《たうぜん》なり新法《しんはふ》を立らるゝ事|天晴《あつぱれ》器量《きりやう》といひ其上|唐土《もろこし》にも周《しう》の文王|民《たみ》百姓の罪《つみ》あるものを金銀を出させて其罪《そのつみ》をつぐなうとあれば聖人《せいじん》の掟《おきて》にも有事なり然らば惡《あし》き御政事《ごせいじ》にてはなきと决せり又|非學者《ひがくしや》の難《なん》じて曰《いは》く文王は有徳《うとく》な百姓町人の罪《つみ》死《し》けいに非《あらざ》るものを過料《くわれう》を出《だ》させて其金銀を以て道路《だうろ》にたゝずみ暑寒《しよかん》をしのぐ事あたはざるもの飢餲《きかつ》に[#「飢餲に」はママ]うれふるものには其金銀を與へてくるしみを除《のぞ》き給ひしが當時《たうじ》のありさまを見るにさしてこゝ一日人を救《すく》ひ給ふ事もなし皆《みな》公儀《こうぎ》の用意《ようい》なるはいかにと言《いひ》是又上の御賢慮《ごけんりよ》奉行《ぶぎやう》の良智《りやうち》をしらざるゆゑなりその者よびとひて聞せん今江戸|其外《そのほか》所々より出す過料《くわれう》金銀は公儀《こうぎ》に御入用|抔《など》には決《けつ》して用《もちひ》給ず唯《たゞ》橋《はし》道等《みちとう》の御修復金《ごしゆふくきん》と成る多くは橋《はし》の普請《ふしん》のみ入用に成事なり是にて飢《う》ゑ凍《こゝ》ゑる人を救《すくふ》道利《だうり》にてみな此内にこもる聖君《せいくん》の御賢慮《ごけんりよ》御いさをし也 [#5字下げ]橋《はし》功徳經《くとくきやう》[#ルビの「くとくきやう」はママ]にいはく  渡《わた》りに船《ふね》を得《え》たるが如く暗夜《あんや》にともし火を得《え》たるが如なり將《はた》經文《きやうもん》の心を得《え》たるが如く也此|經文《きやうもん》の心にて見ればうゑたるもの食《しよく》を得たるか旅人《りよじん》のこめなればひとへに裸《はだか》なる者|衣類《いるゐ》を得たるか如くにてあれはこゝえる人に衣《ころも》を下さるをなさけに同じ事なりうゑたるもの食を得たるが如くとあれば御憐愍《ごれんびん》の御政事|爰《こゝ》を以て知るべし有《あ》る時《とき》常憲院|樣《さま》五十の賀《が》の時何をもつて功徳《くどく》の長《ちやう》と成べきと智化《ちけ》の上人へ桂昌院樣《けいしやうゐんさま》一位樣|御尋《おんたづ》ね遊ばされしに僧侶《そうりよ》答《こたへ》て申上げるは凡《およそ》君たる人の御|功徳《くどく》には橋《はし》なき所へ橋をかけ旅人《りよじん》のわづらひを止め給ふ事|肝要《かんえう》ならんと申ければ則《すなはち》兩國橋《りやうごくばし》と永代《えいたい》との間へ新大橋《しんおほはし》を懸《かけ》られ諸人の爲《ため》に仰付られけるとかや右|過料《くわれう》の御政事《ごせいじ》※[#「圖」の「回」に代えて「面から一、二画目をとったもの」、6-13]《づ》に當りて誠《まこと》諸人《しよにん》の爲と成て可なりしとかや江戸|池《いけ》の端《はた》本門寺《ほんもんじ》は紀州の御菩提所《ごぼだいしよ》なれば吉宗公と御簾中《ごれんちう》本門寺《ほんもんじ》御葬送《ごさうそう》を被遊て源徳院殿《げんとくゐんでん》と號し奉るなりよつて去頃《さるころ》家重將軍《いへしげしやうぐん》是へ爲成候に付御成まへ俄《にはか》にあたら敷|御成門《おなりもん》として出來ければ淨土宗《じやうどしう》のともがら是をねたみ御成門へ夜《よ》の内に大文|字《じ》にて祐天風《いうてんふう》の南無阿彌陀佛《なむあみだぶつ》と書《かき》たり誰《たれ》とも知れざれども不屆《ふとゞき》の仕方《しかた》なりよつて御|成門《なりもん》を又々|改《あらた》め新《あらた》に立直《たてなほ》し奉行所《ぶぎやうしよ》へ申上て昨夜《さくや》御成門へ徒《いたづら》仕りしが南無阿彌陀佛《なむあみだぶつ》と書しは淨土宗《じやうどしう》のともがらねたみしと相見《あひみ》え申候如何計申べしや何卒《なにとぞ》公儀《こうぎ》御|威光《ゐくわう》を以て徒《いたづ》ら者これなきやう仰付られ下し置れ度願ひ奉るとぞ訴《うつた》へおけるが大岡越前守是を聞給ひもつともの願ひなり御成門の儀《ぎ》は大切にかきりなし夫をわきまへずして大膽《だいたん》の者ども不屆千萬《ふとゞきせんばん》言語同斷《ごんごどうだん》の致し方なり然しながら御門の事なれば其方ともにも嚴敷《きびしく》取計も成難《なりがた》し斯《かく》せよとて大岡殿|白紙《はくし》へ一首の狂歌《きやうか》をなされ是を御門へ張《はる》べしとなり [#5字下げ]其|狂歌《きやうか》にいはく [#ここから4字下げ] 西方《さいはう》のあるじと聞し阿彌陀佛《あみだぶつ》        今は法花《ほつけ》の門番《もんばん》となる [#ここで字下げ終わり] 斯《かく》の如く遊されて本門寺《ほんもんじ》へ渡し是を御門へ張置《はりおく》べしと仰渡《おほせわた》されけり依《よつ》て右の狂歌《きやうか》を張置《はりおき》ければ是に恥《はぢ》て重《かさ》ねてさやうないたづらをばせざりしとかや 大岡政談首卷[#1段階小さな文字]終[#小さな文字終わり] [#改丁] [#ページの左右中央] 天一坊一件[#「天一坊一件」は大見出し] [#改丁] [#1段階大きな文字]天一坊《てんいちばう》一件《いつけん》[#大きな文字終わり] [#8字下げ]第一回[#「第一回」は中見出し]  下野國《しもつけのくに》日光山《につくわうざん》に鎭座《ちんざ》まします東照大神《とうせうだいじん》より第八代の將軍《しやうぐん》有徳院吉宗公《いうとくゐんよしむねこう》と稱《しよう》し奉《たてま》つるは東照神君《とうせうしんくん》の十一|男《なん》[#ルビの「なん」は底本では「たん」]紀伊國《きいのくに》和歌山《わかやま》の城主《じやうしゆ》高《たか》五十五萬石を領《りやう》する從《じゆ》二|位《ゐ》大納言光貞卿《だいなごんみつさだきやう》の三|男《なん》にて幼名《えうみやう》を徳太郎《とくたらう》信房《のぶふさ》と稱《しよう》し後《のち》に吉宗《よしむね》と改《あら》たむ御母《おんはゝ》は九條前關白太政大臣《くでうさきのくわんぱくだじやうだいじん》第四の姫君《ひめぎみ》お高《たか》の方《かた》にて御本腹《ごほんぷく》なり [#2字下げ]假令《たとへ》三家方《さんけがた》にても奧方《おくがた》は江戸《えど》に在《ある》べき筈《はず》なり紀州にての御誕生《ごたんじやう》を本腹《ほんぷく》なりとは大納言光貞卿《だいなごんみつさだきやう》紀州《きしう》和歌山《わかやま》にて大病《たいびやう》につき奧方《おくがた》國元《くにもと》へ入《いら》せられ直《ぢき》に看病遊《かんびやうあそ》ばされたきよし度々《たび/\》の願ひ先例《せんれい》にはなく共《とも》格別《かくべつ》の家柄《いへがら》ゆゑ聞濟《きゝずみ》に成り國許《くにもと》へ登《のぼ》らせられ御看病遊《ごかんびやうあそ》ばし平癒《へいゆ》の後《ご》懷姙《くわいにん》なる故《ゆゑ》和歌山にて御誕生《ごたんじやう》ありしなり 扨《さて》[#「扨」は底本では「扱」]奧方ある夜の夢《ゆめ》に[#「夢に」は底本では「夜に」]日輪《にちりん》月輪《ぐわつりん》を兩手《りやうて》に握《にぎ》ると見給《みたま》ひ是より御懷姙《ごくわいにん》の御身《おんみ》とはなり給ふ [#2字下げ]夢《ゆめ》は五臟《ござう》のわづらひといひ傳《つた》ふれども正夢《しやうむ》にして賢人《けんじん》聖人《せいじん》或は名僧《めいそう》知識《ちしき》の人を産《う》むは天竺《てんぢく》唐土《もろこし》我朝《わがてう》ともにその例《ため》し少《すく》なからず已《すで》に玄奘法師《げんさうほふし》は[#「玄奘法師は」は底本では「玄裝法師は」]夢を四ツにわけ一に現夢《げんむ》二に虚夢《きよむ》三に靈夢《れいむ》四に心夢《しんむ》とす現夢《げんむ》とはうつゝまぼろしのごとく見ゆるをいふ虚夢《きよむ》とは心魂《しんこん》の勞《つか》れよりして種々《しゆ/″\》樣々《さま/″\》の事を見るをいふ靈夢《れいむ》とは神靈《しんれい》佛菩薩《ぶつぼさつ》の御告《おんつげ》をかうむるをいふ心夢《しんむ》とは常《つね》平生《へいぜい》こゝろに思ふ事を見るをいふなりこの時|奧方《おくがた》の見給ふは靈夢《れいむ》にして天下の主將《しゆしやう》に成《なる》べき兆《さが》を後々《のち/\》思ひしられたり 奧方《おくがた》にはあまりふしぎなる夢なれば迚《とて》大納言光貞卿に告給《つげたま》へば光貞卿|深《ふか》く悦《よろこ》びこの度|懷姙《くわいにん》の子|男子《なんし》ならば器量《きりやう》勝《すぐ》れ世に名を上《あぐ》る程のものならんと仰《おほせ》ありしことなり頃《ころ》は貞享《ていきやう》元|甲子《きのえね》正月廿日|卯《う》の刻《こく》玉の如くなる御男子《ごなんし》誕生《たんじやう》まし/\ければ大納言光貞卿をはじめ一家中《いつかちう》萬歳《まんざい》を祝《しゆく》し奉つれり奧方|看病《かんびやう》のため國元《くにもと》へいらせられ若君《わかぎみ》誕生《たんじやう》にては公儀《こうぎ》へ對し憚《はゞか》りありとて内々《ない/\》にて養育《やういく》のおぼし召《めし》なりまた大納言光貞卿は當年《たうねん》四十一歳にあたり若君《わかぎみ》誕生《たんじやう》なれば四十二の二ツ子なり何《いか》なる事にや昔《むか》しより忌《いみ》きらふ事ゆゑ光貞卿にも心掛《こゝろがか》りに思召《おぼしめし》ある日|家老《からう》加納將監《かなふしやうげん》をめし其方《そのはう》の妻女《さいぢよ》近《ちか》き頃|安産《あんざん》いたせしと聞及ぶ然《しか》るに間もなく其兒《そのこ》相果《あひはて》しよし其方は男子《なんし》の事なれば左程《さほど》にも思ふまじけれども妻女《さいぢよ》は定めて懷《ふところ》さびしくも思ふべし幸《さいは》ひこの度|出生《しゆつしやう》せし徳太郎は予《よ》が爲には四十二の二ツ子なり依《よつ》て我手元《わがてもと》にて養育《やういく》致し難し不便《ふびん》には思へども捨子《すてご》にいたさんと思ふなりその方《はう》取上《とりあ》げ妻女の乳を以て養《やしな》ひくれよ成長《せいちやう》の後其方に男子《なんし》出産《しゆつさん》せば予が方へ返《かへ》せ若《もし》又《また》男子なくばその方の家名《かめい》相續《さうぞく》いたさすべしと仰《おほせ》ありければ將監《しやうげん》謹《つゝし》んで忝《かたじ》けなくも御本腹《ごほんぷく》の若君を御厄年《おやくどし》の御子なりとて某に御養育《ごやういく》を命ぜらるゝ儀有がたく存《ぞん》じ奉つる然《しか》しながら上意のおもふき愚妻《ぐさい》へ申聞かせ其上にて御請仕《おんうけつかま》つりたし小兒《せうに》養育《やういく》の儀は偏《ひとへ》に女の手に寄處《よるところ》にて私しの一存に行屆《ゆきとゞき》申さずとて急《いそ》ぎ御前を退《しりぞ》き宿へ歸りて女房《にようばう》に御内命《ごないめい》の趣《おもぶ》きを申し聞せければ妻女|大《おほい》に悦《よろこ》びさりながら御本腹《ごほんぷく》の若君《わかぎみ》を我々が手に下されん事は勿體《もつたい》なし御幼年《ごえうねん》の内は御預《おあづか》り申|上《あげ》御成長遊《ごせいちやうあそば》し候後は太守樣《たいしゆさま》の御元へ御返《おんかへ》し申上|何方《いづかた》へなりとも然るべき方へ御養子《ごやうし》に入らせらるゝ樣に御取計《おんとりはから》ひ有て宜《よろ》しかるべし當家《たうけ》相續《さうぞく》などとは思ひも寄らず私し今日より御乳《おちゝ》を奉つりて御養育《ごやういく》を申上んといふにぞ將監《しやうげん》も道理《もつとも》なりと同心し早速《さつそく》御前へ出て妻《さい》が申せし趣《おもむ》きを言上に及ぶに光貞卿|深《ふか》く悦《よろこ》び然らば暫《しば》らくの内其方へ預《あづ》け置《おく》べしとて城内二の丸の堀端《ほりばた》に大木《たいぼく》の松の木あり其下へ葵紋《あふひもん》ぢらしの蒔繪《まきゑ》の廣葢《ひろぶた》に若君を錦《にしき》につゝみ女中一人|外《ほか》に附《つき》の女中三人|添《そひ》の捨子《すてご》とし給ふ加納將監は乘物《のりもの》を舁《かゝ》せ行き直樣《すぐさま》拾《ひろ》ひ上|乘物《のりもの》にて我家《わがや》へ歸り女房に渡《わた》して養《やしな》ひ奉つりぬ加納將監は本高《ほんだか》六百石なるが此度《このたび》二百五十石を里扶持《さとふぢ》として下し置《おか》れ都合《つがふ》八百五十石と成《なり》いよ/\忠勤《ちうきん》を盡《つくし》けり爰《こゝ》に徳太郎君《とくたらうぎみ》は日を追《おつ》て成長《せいちやう》まし/\器量《きりやう》拔群《ばつくん》[#ルビの「ばつくん」はママ]に勝《すぐ》れ發明《はつめい》なれば加納將監|夫婦《ふうふ》は偏《ひとへ》に實子の如く寵《いつ》くしみ育《そだて》ける扨《さて》或日《あるひ》徳太郎君に附《つき》の女中みな集《あつま》り四方山《よもやま》の咄《はなし》などしけるが若君には御運《ごうん》拙《つた》なき御生《おうま》れなりと申すに徳太郎君|御不審《ごふしん》に思《おぼし》めし女中に向ひ其方ども予が事を不運《ふうん》なりとは何故ぞと仰せければ女中ども若君《わかぎみ》には實《じつ》は太守《たいしゆ》光貞卿の御子にておはし候へ共四十二の御厄年《おやくどし》の御子なりとて御捨遊《おすてあそ》ばされしを將監|御拾《おひろ》ひ申上將監の子と成《なら》せ玉ひしは御|可憐《いたはし》き御事なり御殿《ごてん》にて御成長|遊《あそ》ばし候へば我々とても肩身《かたみ》ひろく御奉公《ごほうこう》も勤《つと》むべきに殘念《ざんねん》の事なりと四人ともども申上しを聞しめし然《しか》らば予は太守光貞卿の子とやと仰《おほ》せありしが夫《それ》よりは將監が申事も御用《おんもち》ゐなく殊《こと》の外《ほか》我儘《わがまゝ》氣隨《きずゐ》に成せ給へりある日|書院《しよゐん》の[#「書院《しよゐん》の」は底本では「書院院《しよゐんゐん》の」]上段に着座《ちやくざ》[#「に着座《ちやくざ》」は底本では「|に着《ちやくざ》座」]まし/\て將監|々々《/\/\》[#ルビの「/\/\」はママ]と呼《よば》せ給ふ聲《こゑ》きこえければ將監大いに驚《おど》ろき何者なるや萬一《もし》太守《たいしゆ》の御出にもと不審《ふしん》ながら襖《ふすま》を少し明《あけ》けるにこは何《いか》に徳太郎君には悠然《いうぜん》と上段に控《ひか》へ給ふ將監この形勢《ありさま》を見て大いに驚《おど》ろき其方は狂氣《きやうき》せしか父に向ひて無禮《ぶれい》の振舞《ふるまひ》何と心得居るやと申ければ徳太郎君|仰《おほせ》けるはいかに隱《かく》すとも予は太守|光貞《みつさだ》の子なり然れば其方は家來《けらい》なるぞ以後はさやう心得《こゝろえ》よと仰ありて是迄《これまで》は將監を實《じつ》の親《おや》の如く敬《うやま》ひ給ひしが其後は將監々々と御呼《および》なさるゝ故《ゆゑ》加納將監も是よりして徳太郎君を主人《しゆじん》の如くに敬《うや》まひ侍《かし》づき養育《やういく》なし奉つりける [#8字下げ]第二回[#「第二回」は中見出し]  扨《さて》徳太郎君は和歌山《わかやま》の城下《じやうか》は申すに及《およば》[#ルビの「およば」は底本では「およぼ」]ず近在《きんざい》なる山谷《さんこく》原野《げんや》の隔《へだて》なく駈廻《かけめぐ》りて殺生《せつしやう》し高野《かうや》根來等《ねごろとう》の靈山《れいざん》後《のち》には伊勢《いせ》神領《しんりやう》まであらさるゝ故《ゆゑ》百姓共|迷惑《めいわく》に思ひしが詮方《せんかた》なく其儘《そのまゝ》に捨置《すておき》けり爰《こゝ》に勢州|阿漕《あこぎ》が浦《うら》といふは往古《わうこ》より殺生禁斷《せつしやうきんだん》の場なるを徳太郎君|此處《ここ》へも到り夜々《よな/\》網《あみ》を卸《おろ》されける此事早くも山田奉行《やまだぶぎやう》大岡忠右衞門|聞《きゝ》て手附の與力《よりき》に申付|召捕《めしとる》には及《およば》ず只々|嚴重《げんぢう》に追拂《おひはら》ふべしと申|含《ふくめ》ければ與力《よりき》兩人その意を得て早速《さつそく》阿漕《あこぎ》が浦《うら》へ[#「阿漕が浦へ」は底本では「阿漕の浦へ」]到り見れば案《あん》に違《たが》はず網《あみ》を卸《おろ》す者あり與力|聲《こゑ》をかけ何者なれば禁斷《きんだん》の場所に於て殺生《せつしやう》いたすや召捕《めしとる》べしと聲を掛くれば彼者《かのもの》自若《じじやく》として予は大納言殿の三|男《なん》徳太郎|信房《のぶふさ》なり慮外《りよぐわい》すな此提灯《このちやうちん》の葵《あふひ》の紋《もん》は其方どもの目に見えぬかと悠然《いうぜん》たる形容《ありさま》に與力は手荒《てあら》にすべからずと云付《いひつけ》られたれば詮方《せんかた》なく立歸り奉行《ぶぎやう》大岡忠右衞門に此趣《このおもむ》きを達《たつ》すれば殺生禁斷《せつしやうきんだん》の場所《ばしよ》へ網《あみ》を卸《おろ》せしと見ながら其儘《そのまゝ》に差置難《さしおきがた》し此度は自身《じしん》參《まゐる》べしとて與力《よりき》二人を召連《めしつ》れ阿漕が浦に到《いた》れば其夜も徳太郎君|例《れい》の如く網《あみ》を卸《おろ》して居られし故《ゆゑ》忠右衞門|大聲《たいせい》にて當所《たうしよ》は往古《わうこ》より殺生禁斷《せつしやうきんだん》の場所なれば殺生《せつしやう》する者あれば搦捕《からめと》るなりと呼はるを徳太郎君|聞給《きゝたま》ひ先夜も申聞すごとく予は紀伊大納言殿《きいだいなごんどの》の三男徳太郎|信房《のぶふさ》だぞ無禮《ぶれい》致すな提灯《ちやうちん》の紋《もん》は目に見えぬか慮外《りよぐわい》せば赦《ゆる》さぬぞと宣《のた》まふ大岡|大音《だいおん》あげ紀伊家の若君が御辨《おわきま》へなく殺生禁斷《せつしやうきんだん》の場所へ網《あみ》を入させ給ふべき這《こ》は全く徳太郎君の御名を騙《かた》る曲者《くせもの》それ召捕《めしとれ》と烈《はげ》しき聲に與力ども心得たりと左右より組付《くみつき》難《なん》なく繩《なは》をぞ掛《かけ》たりける徳太郎君|當然《たうぜん》の理に申|譯《わけ》なければ是非《ぜひ》なく山田奉行の役宅《やくたく》へ引れ給へり扨《さて》其夜《そのよ》は明家《あきや》へ入れ番人《ばんにん》を付て翌朝《よくてう》白洲《しらす》へ引出し大岡忠右衞門は次上下《つぎがみしも》に威儀《ゐぎ》を正《たゞ》し若ものを發《はつ》たと白眼《にらみ》汝《おの》れ何者なれば殺生禁斷《せつしやうきんだん》の場所を穢《けが》し剩《あまつ》さへ徳川徳太郎などと御名を騙《かたる》不屆者《ふとゞきもの》屹度《きつと》罪科《ざいくわ》に行《おこなふ》べきなれども此度《このたび》は格別《かくべつ》の慈悲《じひ》を以て免し遣《つかは》す以後|見當《みあたり》候はゞ決して赦《ゆる》さゞるなり屹度《きつと》相愼《あひつゝし》み心を改《あらた》むべしと申渡して繩《なは》を解《とい》てぞ放《はな》しける徳太郎君は何となるべきと案じ煩《わづら》ひ給ひしに斯《かく》赦《ゆる》され蘇生《そせい》せし心地し這々《はう/\》の體《てい》にて和歌山へ立歸《たちかへ》り此後は大人《おとなし》くぞなり給ひけるとなん斯《かく》て徳太郎君|追々《おひ/\》成長《せいちやう》まし/\早くも十八歳になり給へり此年《このとし》加納將監|江戸《えど》在勤《ざいきん》を仰付《おほせつけ》られけるにぞ徳太郎君をも江戸見物《えどけんぶつ》の爲に同道《どうだう》なし麹町なる上屋敷《かみやしき》に住着《すみつけ》たり徳太郎君は役儀もなければ平生《ふだん》閑《ひま》に任せ草履取《ざうりとり》一人を連《つれ》て兩國《りやうごく》淺草等《あさくさとう》又は所々の縁日《えんにち》熱閙場《さかりば》へ日毎に出歩行《であるき》給ひければ自然《しぜん》と下情《かじやう》に通ず萬端《ばんたん》如才《じよさい》なく成給へり程なく一ヶ年も過《すぎ》將監も江戸《えど》在勤《ざいきん》の年限|果《はて》ければ又も徳太郎君を伴《ともな》ひ紀州へこそは歸りけれ爰《こゝ》に伊豫國|新居郡《にゐごほり》西條の城主《じやうしゆ》高三萬石松平左京太夫|此程《このほど》病氣《びやうき》の所ろいまだ嫡子《ちやくし》なし此は紀伊家の分家《ぶんけ》ゆゑ家督評議《かとくひやうぎ》として紀州の家老《からう》水野筑後守《みづのちくごのかみ》久野但馬守《くのたじまのかみ》三|浦《うら》彈正《だんじやう》菅沼《すがぬま》重兵衞渡邊|對馬守《つしまのかみ》熊谷《くまがや》次郎|南部《なんぶ》喜太夫等の面々《めん/\》打《うち》より跡目《あとめ》の評議に及びける時《とき》水野筑後守|進出《すゝみいで》て申けるは各々の御了簡《ごれうけん》は如何《いかゞ》か存ぜざれ共左京太夫|殿《どの》お家督《かとく》の儀は御國許《おんくにもと》加納將監方に御預《おんあづ》け置れ候徳太郎君を然《しか》るべく存ずると申出たり一同|此儀《このぎ》然《しか》るべしと評議一|決《けつ》しければ急《いそ》ぎ此趣《このおもむ》き和歌山|表《おもて》へ早飛脚《はやびきやく》を以て申送れば國許《くにもと》にても家老衆《からうしう》早々《さう/\》登城《とじやう》の上|評議《ひやうぎ》に及ぶ面々は安藤|帶刀《たてわき》同く市正《いちのかみ》水野|石見守《いはみのかみ》宮城丹波《みやぎたんば》川俣彈正《かはまただんじやう》登坂式部《とさかしきぶ》松平|監物《けんもつ》細井|※[#「圖」の「回」に代えて「面から一、二画目をとったもの」、15-1]書等《づしよとう》なり江戸表よりの書状《しよじやう》を披見《ひけん》に及べば此度松平左京太夫殿|御病死《ごびやうし》の所御|世繼《よつぎ》これ無に付ては加納將監方へ[#「加納將監方へ」は底本では「加藤將監方へ」]お預《あづ》け遊《あそば》し候徳太郎君御|跡目《あとめ》しかるべしとの事なり此儀《このぎ》尤《もつと》もの事なりとて早速《さつそく》加納將監へ[#「加納將監へ」は底本では「加藤將監へ」]其段申渡しければ將監かしこまり急ぎ立戻《たちもど》りて其趣《そのおもむ》きを徳太郎君に申上|出立《しゆつたつ》の用意に及び近々《きん/\》江戸表|御下《おんくだ》りとは相成《あひなり》ける。爰《こゝ》に又和歌山の城下《じやうか》より五十町|道《みち》一里半ほど在《ざい》に平澤村といふ小村《こむら》あり此處へ先年《せんねん》信州者にて夫婦に娘《むすめ》一人《ひとり》を連《つれ》し千ヶ|寺《じ》參《まゐり》の平左衞門と申者來りぬ名主《なぬし》甚兵衞は至て世話好《せわずき》にて遂に此三人を世話して足を止《とゞ》め甚兵衞は己《おの》が隱居所を貸《かし》遣《つかは》し置《おけ》り其後平左衞門病死し後《あと》は妻のお三と娘《むすめ》なりお三は近村《きんそん》の産婆《とりあげ》を渡世としお三婆々《さんばゝ》と呼《よば》れたり娘も追々《おひ/\》成長《せいちやう》して容貌《きりやう》も可なりなるにはや年頃に成《なれ》ば手元に置《おく》も爲によからじ何方《いづかた》へ成とも奉公《ほうこう》に出《いだ》さんと口入の榎本屋《えのもとや》三藏を頼み和歌山の家中加納將監方へ奉公《ほうこう》住込《すみこみ》たりこゝにて名を澤の井と呼《よび》腰元《こしもと》[#ルビの「こしもと」は底本では「ごしもと」]をぞ勤《つとめ》ける此女へ何時《いつ》しか徳太郎君の御手が付《つき》人しれず馴染《なじみ》を重《かさ》ね終《つひ》に澤の井|懷姙《くわいにん》してはや五月帶《いはたおび》を結ぶ時とぞ成《なり》にき澤の井|密《ひそか》に徳太郎君に向《むか》ひかね/\君の御情《おなさけ》を蒙り嬉《うれ》しくもまた悲《かな》しくいつか御胤《おたね》をやどり最《も》はや五月《いつゝき》に相《あひ》なり候と申上げれば徳太郎君|聞《きこ》し召《めし》甚だ當惑《たうわく》の體《てい》なりしが稍《やゝ》有《あつ》て仰けるは予は知る如き部屋住《へやずみ》の身分《みぶん》箇樣《かやう》の事が聞えては將監が手前《てまへ》も面目《めんぼく》なし予もまた近々《きん/\》に江戸表へ下り左京太夫殿の[#「左京太夫殿の」は底本では「左京大夫殿の」]家督《かとく》を相續《さうぞく》する筈《はず》なれば首尾《しゆび》よく右等の事の相濟《あひすみ》し上は呼迎《よびむか》へて妾となすべし夫迄《それまで》は其方の了簡《れうけん》にて深く愼《つゝし》み猥《みだり》に口外《こうぐわい》致すべからず併《しかし》五|月《つき》にも相成《あひな》る上は奉公《ほうこう》も太儀なるべし其方は病氣《びやうき》と披露《ひろう》し一先宿へ下《さが》り母の許《もと》にて予が出世《しゆつせ》を相待ち懷姙《くわいにん》の子を大切《たいせつ》に致すべしとて御手元《おてもと》金百兩を澤《さわ》の井《ゐ》へ遣《つか》はされたり澤の井は押戴《おしいたゞ》き有難《ありがたき》よしを御禮《おんれい》申上左樣なれば仰《おほせ》に隨がひ私儀《わたくしぎ》は病氣の積《つも》りにて母の許《もと》へ參るべし併《しかし》ながら御胤《おんたね》を宿《やど》し奉りし上は何卒《なにとぞ》御出生の御子《おんこ》を世に立度《たてたく》存じ奉れば後來迄《のちのちまで》も御見捨なき爲に御證據《おんしようこ》の品を下《くだ》し置れ度と願ければ徳太郎君も道理に思《おぼ》し召て御墨付《おすみつき》に御短刀《おたんたう》を添《そへ》て下されけり澤の井は押戴《おしいたゞ》き御短刀《おんたんたう》を能々|拜見《はいけん》して偖《さて》申やう此御短刀は私し望《のぞみ》御座なく候何卒君の常々《つね/″\》御|手馴《てなれ》し方を戴《いたゞ》き度|旨《むね》願ひければ君も御祕藏《ごひざう》の短刀を遣《つか》はさるゝは御迷惑《ごめいわく》の體なりしが據處《よんどころ》なく下されて仰《おほせ》けるは此品《このしな》は東照神君より傳《つた》はれるにて父君にも深《ふか》く御祕藏《ごひざう》の物なるを先年《せんねん》自分《じぶん》に下されしなり大切の品なれども其方《そのはう》の願《ねがひ》も點止《もだ》し難ければ遣《つか》はすなりと御墨付《おんすみつき》を添て件《くだん》の短刀をぞ賜《たま》はりける其お墨付《すみつき》には [#ここから2字下げ] 其方|懷姙《くわいにん》のよし我等|血筋《ちすぢ》に相違《さうゐ》是なし若《もし》男子《なんし》出生に於ては時節《じせつ》を以て呼出《よびいだ》すべし女子たらば其方の勝手《かつて》に致すべし後日《ごにち》證據《しようこ》の爲我等身に添《そへ》大切に致候|短刀《たんたう》相添《あひそへ》遣《つか》はし置者也|依而《よつて》如件《くだんのごとし》 [#2字下げ]寛永二申年[#「寛永二申年」はママ]十月[#地から9字上げ]徳太郎信房 [#地から4字上げ]澤の井女へ [#ここで字下げ終わり] と成され印を据《すゑ》し一書を下し置《おか》れ短刀は淺黄綾《あさぎあや》の葵《あふひ》の御紋《ごもん》染拔《そめぬき》の服紗《ふくさ》に包《つゝみ》て下されたり。扨《さて》又徳太郎君には道中も滯《とゞこ》ほりなく同年|霜月《しもつき》加納將監|御供《おんとも》にて江戸麹町|紀州家《きしうけ》上屋敷へ到着《たうちやく》と相成り夫より左京太夫殿|家督相續《かとくさうぞく》萬端《ばんたん》首尾《しゆび》よく相濟せられたり。然《しかる》に澤の井は其後漸く月《つき》重《かさな》り今は包《つゝむ》に包まれず或時《あるとき》母に向ひ恥《はづ》かしながら徳太郎|君《ぎみ》の御胤《おんたね》を宿《やど》しまゐらせ御内意《ごないい》を受け御|手當金《てあてきん》百兩と御墨附《おすみつき》御短刀まで後《のち》の證據《しようこ》に迚《とて》下されしこと逐《ちく》一|物語《ものがた》ればお三|婆《ばゝ》は大いに悦《よろこ》び其後は只管《ひたすら》男子の誕生《たんじやう》あらんことをぞ祈《いの》りたるが已に月《つき》滿《みち》て寛永《くわんえい》三年[#「寛永三年」はママ]三月十五日の子《ね》の上刻《じやうこく》に玉の如くなる男子《なんし》を誕生し澤の井|母子《おやこ》の悦び大方《おほかた》ならず天へも昇《のぼ》る心地《こゝち》して此若君《このわかぎみ》の生長《せいちやう》を待つより外は無《なか》るべし [#8字下げ]第三回[#「第三回」は中見出し]  然《しかる》にお三|婆《ばゝ》母子《おやこ》は若君《わかぎみ》誕生ありしに始《はじ》めて安堵《あんど》の思ひをなせしが老少《らうせう》不定《ふぢやう》の世の習《なら》ひ喜こぶ甲斐《かひ》もあら悲《かな》しや誕生《たんじやう》の若君は其夜《そのよ》の七ツ時頃|虫《むし》の氣にて終《つひ》に空《むなし》くなり給ひぬ母《はゝ》澤の井斯と聞より力を落《おと》し忽ち産後《さんご》の血《ち》上《あが》り是も其夜の明方《あけがた》に相果《あひはて》ければ跡《あと》に殘《のこり》しお三婆は兩人《ふたり》の死骸《しがい》に取付天を仰《あふ》ぎ地に俯《ふ》し泣悲《なきかな》しむより外なきは見るも哀《あは》れの次第なり近邊《きんぺん》の者ども婆《ばゝ》が泣聲《なきごゑ》を聞つけ尋《たづ》ね來り見れば娘の澤の井と嬰孩《みどりご》の死骸《しがい》に取付樣々の謔言《よまひごと》を言立《いひたて》狂氣《きやうき》の如き有樣なれば種々《いろ/\》賺《すか》し宥《なだ》め兩人《ふたり》の死骸《しがい》を光照寺《くわうせうじ》といふ一|向宗《かうしう》の寺へ葬《はう》むりしがお三婆は狂氣《きやうき》なし種々《さま/″\》の事を叫《さけ》び歩くにぞ名主《なぬし》の甚兵衞も持《もて》あまし其|隱居所《いんきよじよ》を追出《おひいだ》しけり然《され》ばお三婆は住家《すみか》を失なひ所々方々と浮《うか》れ彷徨《さまよひ》しを隣村《りんそん》平野村の名主《なぬし》甚左衞門は平澤村の[#「平澤村の」は底本では「平野村の」]甚兵衞名主の弟《おとと》なるがこれも至つて慈悲《じひ》深《ふかき》者《もの》にてお三|婆《ばゝ》の迷《まよ》ひ歩行《あるく》を氣の毒に思ひ何時《いつ》まで狂氣《きちがひ》でも有まじ其内には正氣《しやうき》に成べしとて己《おの》が明家《あきや》に住《すまは》せ此處にあること半年程《はんねんほど》にて漸やく正氣《しやうき》に成しかば以前の如く産婦《さんぷ》の世話《せわ》を業《わざ》として寡婦暮《やもめぐら》しに世を渡りける。爰《こゝ》に寶永三年四月|紀伊《きい》大納言光貞卿[#「光貞卿」は底本では「貞光卿」]|御大病《ごたいびやう》の處|醫療《いれう》叶《かな》はず六十三歳にて逝去《せいきよ》まし/\ける此時松平|主税頭《ちからのかみ》信房卿は御同家|青山《あをやま》百人町なる松平|左京太夫《さきやうのたいふ》の養子《やうし》となり青山の屋敷《やしき》に在《おは》せり扨《さて》また大納言光貞卿の惣領《そうりやう》綱教卿《つなのりきやう》は幼年より病身《びやうしん》と雖も御惣領《ごそうりやう》なれば強《おし》て家督《かとく》に立給しが綱教卿も同年九月九日御年廿六|歳《さい》にて逝去《せいきよ》なり然るに次男《じなん》頼職卿《よりなりきやう》も早世《さうせい》なるに依《より》紀伊家は殆《ほとん》ど世繼《よつぎ》絶《たえ》たるが如し三|男《なん》信房卿同家へ養子《やうし》と成《なら》せられて間《ま》は無《なけ》れ共外に御|血筋《ちすぢ》なき故まづ左京太夫|頼純《よりすみ》の四男|宗通《むなみち》の次男を左京太夫|頼淳《よりあつ》と號して從四位|少將《せうしやう》に任じて家督《かとく》とし主税頭《ちからのかみ》信房卿は是より本家|相續《さうぞく》に相成《あひな》り紀州和歌山にて五十五萬五千石の主《ぬし》とは成《なり》玉へり舍兄《しやけい》綱教卿は忌服《きふく》十二月|朔日《ついたち》に明け翌《よく》二日從三位|中納言《ちうなごん》に任ぜられ給ひけり。扨《さて》寶永は七年|續《つゞ》きて八年目の五月七日に正徳元年と改元《かいげん》あり正徳は五年|續《つゞ》き六年目の三月|朔日《ついたち》に享保元年と改元《かいげん》ある然るに正徳三年の九月六代の將軍|家宣公《いへのぶこう》御他界《ごたかい》あり御幼年の鍋松君《なべまつぎみ》當年八歳にならせ給ふを七代の將軍と崇《あが》め家繼公《いへつぐこう》とぞ申したてまつる此君御|不運《ふうん》にまし/\間《ま》もなく御他界《ごたかい》にて有章院殿《いうしやうゐんでん》と號したてまつる是に依て此度は將軍家に御|繼子《けいし》なく殿中《でんちう》闇夜《あんや》に燈火《ともしび》を失ひたる如くなれば將軍家|御家督《ごかとく》の御評定《ごひやうぢやう》として大城《たいじやう》へ出仕《しゆつし》の面々には三家十八國主|四溜老中《したまりらうぢう》には阿部豐後守《あべぶんごのかみ》政高。久世|大和守重之《やまとのかみしげゆき》。戸田|山城守忠實《やましろのかみたゞさね》。井上|河内守《かはちのかみ》正峯。御側《おそば》御用人|間部《まなべ》越前守|詮房《のりふさ》。本多|中務大輔《なかつかさのたいふ》正辰《たゞとき》。若年寄には大久保|長門守正廣《ながとのかみまさひろ》。大久保佐渡守|常春《つねはる》。森川|出羽守俊胤《ではのかみとしたね》。寺社奉行《じしやぶぎやう》には松平|對馬守近貞《つしまのかみちかさだ》。土井伊豫守|利道《としみち》。井上|遠江守正長《とほたふみのかみまさなが》大目付には横田|備中守重春《びつちうのかみしげはる》。松平|安房守乘宗《あはのかみのりむね》。中川|淡路守重高《あはぢのかみしげたか》等なり此時|井伊掃部頭《ゐいかもんのかみ》發言《はつごん》により松平陸奧守|綱村卿《つなむらきやう》進み出《いで》て申されけるに天下の御繼子《ごけいし》の儀は東照神君|御血筋《ごちすぢ》近《ちか》き方より繼《つが》せ玉はす事こそ順當《じゆんたう》なるべし然れば紀州公は神君の御彦《おんひこ》に當らせ給へり紀州公こそ然《しかる》べからんとぞ申されける諸侯其|儀《ぎ》道理《もつとも》然るべしと異口同音《いくどうおん》に賛成《さんせい》なれば彌々《いよ/\》紀伊家より御|相續《さうぞく》と相極《あひきは》まる是に因て同年八月|吉宗公《よしむねこう》と御|改名《かいめい》あり [#2字下げ]正二位|右大臣《うだいじん》右近衞大將《うこんゑのたいしやう》[#ルビの「うこんゑのたいしやう」は底本では「こんゑのたいしやう」]征夷大將軍《せいいたいしやうぐん》淳和《じゆんな》奬學《さうがく》兩院《りやうゐん》別當《べつたう》源氏長者《げんぢのちやうじや》 右の通り御轉任《ごてんにん》にて八代將軍吉宗公と申上奉つる時に三十三歳なり寶永《はうえい》四年|紀州家《きしうけ》御相續より十月《とつき》目にて將軍に任じ給ふ御運《ごうん》目出度《めでたき》君にぞありける是《これ》に依《よつ》て江戸町々は申すに及《およば》ず東は津輕《つがる》外《そと》が濱《はま》西は鎭西《ちんぜい》薩摩潟《さつまがた》まで皆《みな》萬歳《ばんざい》をぞ祝《しゆく》し奉つる別して紀州にては村々《むら/\》在々《ざい/\》まで殊《こと》の外に喜び祝《しゆく》しけるとぞ。扨《さて》も平野村甚左衞門方に世話《せわ》に成居るお三婆は此事を聞《きく》より大《おほひ》に歎《なげ》き悲《かなし》み先年|御誕生《ごたんじやう》の若君の今迄《いままで》も御存命に在《おはし》まさば將軍の御落胤《おんおとしだね》なれば何樣《いかやう》なる立身をもすべきに御不運にて御早世《ごさうせい》なりしは返す/″\も殘念《ざんねん》なりと獨《ひと》り泣悲《なきかな》しむも理《ことわ》りとこそ聞《きこえ》けれ扨も八代將軍には或時|御側御用《おそばごよう》取次に御尋《おんたづ》ね有やうは先年《せんねん》勢州《せいしう》山田奉行を勤《つとめ》し大岡忠右衞門と申者は目今《たうじ》何役《なにやく》を致し居るやと御尋《おんたづね》に御側衆《おそばしう》申上げる樣《やう》大岡忠右衞門儀|未《いま》だ山田奉行|勤役《きんやく》にて罷在《まかりあ》る旨を申上ければ吉宗公|上意《じやうい》に忠右衞門は政事《せいじ》に私《わたくし》なく天晴《あつぱれ》器量《きりやう》ある者なり早々《さう/\》呼出すべしとの事故に台命《たいめい》の趣《おもむき》を御老中に申|達《たつ》しける是に依て御月番《おつきばん》より御召出《おめしいだし》の御奉書《ごほうしよ》勢州山田へ飛脚《ひきやく》を以て遣《つかは》さる大岡忠右衞門には御奉書|到來《たうらい》し熟々《つら/\》考《かんが》ふるに先年徳太郎君まだ紀州表に御入の節《せつ》阿漕《あこぎ》が浦《うら》にて召捕《めしとり》吟味《ぎんみ》せし事あり此度|計《はから》ずも將軍に成《なら》せられたれば此度の召状《めしじやう》は必定《ひつぢやう》返報《へんぱう》の御咎《おんとがめ》にて切腹《せつぷく》でも仰付らるゝか又は知行《ちぎやう》御取上《おんとりあげ》かさらずば御役御免《おやくごめん》なるべしと覺悟《かくご》し用意も匇々《そこ/\》に途中《とちう》を急ぎ程なく江戸表へ着《ちやく》しければ早速《さつそく》御月番《おつきばん》御老中へ到着《たうちやく》の御屆《おんとゞけ》に及び此段|上聞《じやうぶん》に達しければ早々忠右衞門に御目見《おめみえ》仰せ付らるべきの趣《おもむ》きなれば大岡忠右衞門|早速《さつそく》御前へ罷出《まかりいで》て平伏《へいふく》しける時に將軍の上意《じやうい》に忠右衞門其方は予が面體《めんたい》に見覺《みおぼ》え有《ある》かとの御尋なり此時忠右衞門|畏《かしこ》まり奉る上意の通り私し儀山田奉行|勤役中《きんやくちう》先年阿漕が浦なる殺生禁斷《せつしやうきんだん》の場所へ夜々《よな/\》網《あみ》を入れ殺生する曲者《くせもの》ありとの訴《うつた》へに付私し出役《しゆつやく》仕つり引き捕へ吟味《ぎんみ》仕り候處に彼曲者《かのくせもの》は紀伊家の徳太郎|信房卿《のぶふさきやう》の御名前を僞《いつ》はる曲者ゆゑ篤《とく》と吟味に及び候|恐《おそ》れ乍ら右曲者の面體《めんてい》君《きみ》の御容貌《ごようばう》によく似《に》申す樣に存じ奉るとぞ御答《おんこたへ》申上ければ將軍家には深《ふか》く其忠節《そのちうせつ》を御感心遊ばされ忠右衞門宜くも申たりとて御譽《おほめ》の御言葉を下され直《すぐ》に江戸町奉行をぞ仰付《おほせつけ》られける。是《これ》に因《よつ》て越前守と任官《にんくわん》し大岡越前守|藤原忠相《ふぢはらのたゞすけ》と末代までも名奉行《めいぶぎやう》の名を轟《とゞろ》かしたるは此人の事なり將軍家には其後も越前は末代の名奉行なりと度々|上意《じやうい》ありしとかや [#8字下げ]第四回[#「第四回」は中見出し]  爰《こゝ》に長門國《ながとのくに》阿武郡《あふのごほり》萩《はぎ》は江戸より路程《みちのり》[#ルビの「みちのり」は底本では「のちのり」]二百七十里三十六萬五千|石《ごく》毛利家の城下にて殊《こと》に賑《にぎ》はしき土地なり其傍《そのかたは》らに淵瀬《ふちせ》といふ處あり昔《むかし》此處《このところ》に萩《はぎ》の長者といふありしが幾世《いくよ》をか經《へ》て衰破《すゐは》斷滅《だんめつ》し其屋敷|跡《あと》は畑《はた》となりて殘《のこ》れり其中に少しの丘《をか》ありて時々《とき/″\》錢《ぜに》又は其外《そのほか》種々《いろ/\》の器物《きぶつ》など掘出《ほりだ》す事ある由を昔より云傳《いひつたへ》たりまた里人の茶話《ちやばなし》にも朝《あした》に出る日|夕《ゆふべ》に入る日も輝《かゞや》き渡る山の端《は》は黄金千兩錢千|貫《ぐわん》漆《うるし》千|樽《たる》朱砂《しゆしや》千|斤《きん》埋《うづめ》ありとは云へど誰《たれ》ありて其|在處《ありどころ》を知る者なし然ども時として鷄の聲などの聞《きこ》ゆる事ありて此は金氣《きんき》の埋れ有《ある》故《ゆゑ》なりと評するのみ又誰も其他を定《さだか》に知るもの無《なか》りける然るに其屋敷の下に毛利家の藩中にて五十石三人|扶持《ふち》をとる原田兵助《はらだひやうすけ》と云者あり常々|田畑《でんばた》[#ルビの「でんばた」は底本では「だんばた」]を耕作《かうさく》する事を好みしが或時兵助山の岨畑《そばはた》へ出て耕作しけるに一つの壺瓶《つぼがめ》を掘出《ほりだし》たり密《ひそか》に我家へ持ち歸り彼壺を開き見るに古金《こきん》許多《そくばく》あり兵助大いに喜び縁者《えんじや》又は親《したし》き者へも深く隱《かく》し置《おき》けるが如何して此事の漏《もれ》たりけん隣家《りんか》の山口《やまぐち》六|郎右衞門《ろゑもん》が或日原田兵助方へ來り稍《やゝ》時候の挨拶《あいさつ》も終《をは》りて四方山《よもやま》の咄《はなし》に移《うつ》りし時六郎右衞門兵助に向《むかひ》て貴殿には先達《せんだつ》て古金の入《いり》し瓶《かめ》を掘出《ほりだ》されし由を慥《たしか》に承《うけた》まはり及《および》たり扨々《さて/\》浦山敷《うらやましき》事なり何卒其古金の内を少々|拙者《せつしや》へ配分《はいぶん》致し賜れと云ふに兵助は發《はつ》と思へど然有《さあら》ぬ風情《ふぜい》にて貴殿には然《さる》ことを何者にか聞れし一向|蹤跡《あとかた》なき事なり拙者|毛頭《もうとう》左樣《さやう》の事存じ申さずと虚嘯《そらうそぶ》き何《な》にも不束《ふつつか》なる挨拶なるにぞ六郎右衞門は勃《むつ》とし彼奴《きやつ》多分の金子を掘り出しながら少《すこし》の配分をも拒《こば》み夫のみならず我に對《たい》して不束の挨拶こそ心得ぬよし/\其儀《そのぎ》なら爲《し》ようこそあれと急《いそ》ぎ我家へ立歸《たちかへ》り直樣《すぐさま》役所へ赴むき訴へける樣は原田兵助事此度畑より金瓶を掘出《ほりいだ》し候|處《ところ》上《かみ》へも御屆申上げず密《ひそか》に自分方へ仕舞置《しまひおき》候旨をば訴へに及びたり役人中此由を聞き吟味の上兵助を役所へ呼寄《よびよせ》其方事此度|畑《はたけ》より古金の瓶《かめ》を掘出し其段《そのだん》早速《さつそく》役所へ屆け出づべきに然《さ》は無《なく》して自分方に隱置《かくしおき》其方《そのはう》一|個《こ》の得分に致さんとの心底《しんてい》侍にも似合ず後闇《あとくら》き致し方にて重々不屆に思召《おぼしめ》さる依《よつ》て相當の御咎《おんとがめ》をも仰せ付らるべきを此度は格別の御|慈悲《じひ》を以て永の御暇下《おんいとまくだ》し置《おか》る早々屋敷を引拂ひ何方へなりとも立退《たちのく》べし尤も掘出せし器物は其儘《そのまゝ》に上《かみ》へ上納すべき旨申渡されける原田兵助は驚ながらも御請《おうけ》致し是全く六郎右衞門が訴人《そにん》せしに相違《さうゐ》なしとは思へど今更《いまさら》詮方《せんかた》なければ掘出せし金瓶《きんぺい》は役所へ差出し家財《かざい》は賣拂《うりはら》ひ一人の老母を引連《ひきつれ》て泪《なみだ》乍《なが》らに住馴《すみなれ》し[#「住馴し」は底本では「住馳し」]萩を旅立て播州《ばんしう》加古川《かこがは》に少《すこし》の知音《しるべ》のあれば播州さしてぞ立去《たちさり》ける老母を倶《ぐ》せし旅なれば急ぐとすれど捗行《はかゆか》ず漸々《やう/\》の事にて加古川に着《つき》たれば知音《しるべ》を尋《たづ》ね事の始末《しまつ》を委《くはし》く咄《はな》し萬事を頼みければ異議《いぎ》なく承知し暫《しばら》くの内は此處の食客《しよくかく》となりしが兵助は外《ほか》に覺えし家業も無ければ彼の知音の世話《せわ》にて加古川の船守《ふなもり》となり手馴《てなれ》ぬ業《わざ》の水標棹《みなれざを》もその艱難《かんなん》云ん方なし然《され》ど原田兵助は至て孝心《かうしん》深《ふか》き者なれば患難を事ともせず日々《ひゞ》加古川の渡守《わたしもり》して貧《まづ》しき中にも母に孝養怠らざりし其内老母は風の心地とて臥《ふし》ければ兵助は家業《かげふ》を休《やす》み母の傍《かたは》らを離《はなれ》ず藥用も手を盡《つく》したれど定業《ぢやうごふ》は逃《のが》れ難く母は空敷《むなしく》なりにけり兵助の愁傷《しうしやう》大方ならず然《され》ど歎《なげき》て甲斐《かひ》無事《なきこと》なれば泣々も野邊の送りより七々四十九日の法《いと》なみもいと懇《ねんご》ろに弔《とふら》[#ルビの「とふら」は底本では「やむら」]ひける。扨又山口六郎右衞門も此度訴人の罪に依て是亦|永《なが》の暇《いとま》となりて浪人《らうにん》の身となり姿《すがた》を虚無僧《こむそう》に替《かへ》て所々を徘徊《はいくわい》せしがフト心付き原田は播州へ行《ゆき》しとの事なり今我|斯樣《かやう》に浪々の身となり艱難するも元《もと》は兵助が事より起れりと自身の惡事には氣も付かず只管《ひたすら》兵助を怨《うら》みいざや播州へ赴き兵助に巡逢《めぐりあひ》此無念《このむねん》を晴《はら》さんと夫より播州|指《さし》てぞ急《いそ》ぎける所々方々と尋ぬれど行衞《ゆくゑ》は更に知《しれ》ざりしが或日|途中《とちう》にて兵助に出會《であひ》しも六郎右衞門は天蓋《てんがい》を冠《かふ》りし故兵助は夫とも知《しら》ず行過《ゆきすぎ》んとせしに一陣の風《かぜ》吹《ふき》來り天蓋を吹落《ふきおと》しければ思はず兩人は顏《かほ》見合《みあはせ》ける此時兵助聲をかけ汝は山口六郎右衞門ならずや我《わが》斯《かく》零落《れいらく》せしも皆汝が仕業《しわざ》ぞと傍《かたはら》にある竿竹《さをだけ》を把《とつ》て突て掛る六郎右衞門も心得《こゝろえ》たりと身を飄《かは》し汝此地に來りしと聞《きゝ》渺々《はる/″\》尋ねし甲斐《かひ》有《あつ》て祝着《しうちやく》なり無念を晴《はら》す時|到《いた》れり覺悟《かくご》せよと云《いひ》さま替の筒脇差《つゝわきざし》にて切かゝり互ひに劣《おと》らず切結《きりむす》びしが六郎右衞門が苛《いら》つて打込《うちこむ》脇差にて竿竹《さをだけ》を手元五尺|許《ばか》り斜《はす》かけに切落《きりおと》せり兵助は心得たりと飛込《とびこみ》其《その》斜《はす》かけに切《きら》れし棹竹にて六郎右衞門が脇腹《わきばら》目掛《めがけ》て突込《つきこん》だり六郎右衞門は堪得《たまりえ》ず其處に倒《だう》とぞ倒《たふ》れたり兵助|立寄《たちより》[#ルビの「たちより」は底本では「たりより」]六郎右衞門が持《もち》し脇差にて最期刀《とゞめ》をさし無念は晴《はら》したれど今は此地に住居は成《なら》じと直樣《すぐさま》此處を立去《たちさ》り是よりは名を嘉傳次《かでんじ》と改《あらた》め大坂へ出夫より九州へ赴き所々を徘徊《はいくわい》し廻《めぐ》り/\て和歌山《わかやま》の平野村と云へる所に到《いた》りける此平野村に當山派《たうざんは》の修驗《しゆけん》感應院《かんおうゐん》といふ山伏《やまぶし》ありしが此人甚だ世話好《せわずき》にて嘉傳次を世話しければ嘉傳次は此感應院の食客とぞ成り感應院或時嘉傳次に向《むか》ひ申けるは和歌山の城下に片町《かたまち》といふあり其處に夫婦に娘一人あり親子|三人暮《さんにんぐら》しの醫師なりしが近頃兩親共に熱病《ねつびやう》にて死去し娘|計《ばか》りぞ殘《のこ》れり貴公《きこう》其所へ養子に行て手習《てならひ》の指南《しなん》でもせば宜《よろし》からんといふ嘉傳次是を聞《きゝ》成程《なるほど》何時《いつ》迄當院の厄介《やくかい》に成《なつ》ても居られず何分にも宜しくと頼みければ感應院も承知なして早速《さつそく》彼《かの》片町の醫師方へ往《ゆき》右《みぎ》の咄《はなし》をなし若《もし》御承知なら御世話せんといふに此時娘も兩親《ふたおや》に離《はな》れ一人の事なれば早速承知し萬事頼むとの事故|相談《さうだん》頓《とみ》に取極《とりきま》りて感應院は日柄《ひがら》を撰《えら》み首尾よく祝言《しうげん》をぞ取結《とりむす》ばせける夫より夫婦|間《なか》も睦《むつま》しく暮しけるが幾程《いくほど》もなく妻は懷妊《くわいにん》なし嘉傳次は外《ほか》に家業《なりはひ》もなき事なれば手跡《しゆせき》の指南なし傍《かたは》ら膏藥《かうやく》など煉《ねり》て賣《うり》ける月日早くも押移《おしうつ》り十月《とつき》滿《みち》て頃は寶永二年|戌《いぬ》[#「寶永二年戌」はママ]三月十五日の夜《よ》子《ね》の刻《こく》に安産《あんざん》し玉の如き男子|出生《しゆつしやう》しける嘉傳次夫婦が悦《よろこ》び大方ならず程《ほど》なく七夜《しちや》にも成りければ名をば玉之助《たまのすけ》と號《なづ》け掌中《たなそこ》の玉と慈《いつく》しみ養《そだ》てける然《しかる》に妻は産後の肥立《ひだち》惡《あし》く荏苒《ぶら/\》と煩《わづら》ひしが秋の末に至りては追々|疲勞《ひらう》し終《つひ》に泉下《せんか》の客とはなりけり嘉傳次の悲歎《ひたん》は更なり幼《をさな》きものを殘し置《おき》力に思ふ妻に別れし事なれば餘所《よそ》の見目《みるめ》も可哀《いぢら》しく哀れと云ふも餘りあり斯くて有《ある》べき事ならねばそれ相應《さうおう》に野邊《のべ》の送りを營《いとな》み七日々々《なぬか/\》の追善供養《つゐぜんくやう》も心の及ぶだけは勤《つと》めしが何分男の手一ツで幼《をさな》き者の養育《やういく》に當惑《たうわく》し晝《ひる》は漸く近所《きんじよ》隣《となり》に貰《もら》ひ乳《ちゝ》などし夜《よる》は摺粉《すりこ》を與へ孤子《みなしご》なればとて只管《ひたすら》不便《ふびん》に思ひ養《やしな》ひけり扨て玉之助も年月の立《たつ》に從ひ成長《せいちやう》しければ最早《もはや》牛馬にも踏《ふまれ》じと嘉傳次も少しく安堵《あんど》し益々《ます/\》成長の末を祈《いの》りし親の心ぞ切《せつ》なけれ其夏の事とか嘉傳次は傷寒《しやうかん》を煩《わづら》ひ心の限《かぎ》り藥用はすれども更に其驗《そのしるし》なく次第々々に病氣の重《おも》るのみなれば或日嘉傳次は感應院を病床《びやうしやう》に招《まね》き重き枕《まくら》を上《あげ》て偖《さて》申けるは抑々《そも/\》私しが當國に杖《つゑ》を止めしより尊院の御厚情《ごこうじやう》に預《あづか》りし其恩を謝《しや》し奉つらずして此度の病氣|迚《とて》も全快《ぜんくわい》は覺束《おぼつか》なし何卒此上とも我なき跡《あと》の玉之助が事|偏《ひとへ》に頼み參《まゐ》らすると泪《なみだ》ながらに述《のべ》にける感應院は逐一《ちくいち》に承知し玉之助の事は必ず氣に懸《かけ》られな萬一《もしも》の事あらば拙者が方へ引取《ひきとつ》て世話《せわ》し遣《つかは》すべし左樣の事は案《あん》じず少《すこし》も早く全快せられよ夫れには藥用こそ第一なれなど勸《すゝめ》ければ嘉傳次は感應院を伏拜《ふしをが》み世にも嬉《うれし》げに見えにけるが其夜《そのよ》嘉傳次は獨《ひとり》の玉之助を跡に殘し後《おく》れ先立《さきだつ》習《なら》ひとは云ひながら夕《ゆふべ》の露《つゆ》と消行《きえゆき》しは哀れ墓《はか》なかりける次第なり感應院夫と聞き早速來り嘉傳次の死骸《なきがら》をば例《かた》の如く菩提寺《ぼだいじ》へ葬《はうむ》り僅《わづ》かなる家財《かざい》調度《てうど》は賣代《うりしろ》なし夫婦が追善の料《れう》として菩提寺へ納《をさ》め何呉《なにくれ》となく取賄《とりまかな》ひ最《いと》信實《しんじつ》に世話しけり然《され》ば村の人々も嘉傳次が死《し》を哀み感應院の篤《あつ》き情《なさけ》を感《かん》じけるとかや [#8字下げ]第五回[#「第五回」は中見出し]  光陰《くわういん》は矢よりも早く流るゝ水に宛《さも》似《に》たり正徳元年|辛卯年《かのとうどし》と成《な》れり玉之助も今年七歳になり嘉傳次が病死の後は感應院方へ引取《ひきとら》れ弟子となり名をば寶澤《はうたく》と改めける感應院は元より妻も子もなく獨身《どくしん》の事なる故に寶澤を實子《じつし》の如く慈《いつくし》みて育《そだて》けるが此寶澤は生《うまれ》ながらにして才智《さいち》人に勝《すぐ》れ發明《はつめい》の性質なれば讀經《どくきやう》は云《いふ》に及《およば》ず其他何くれと教《をしゆ》るに一を示して十を覺《さと》るの敏才《びんさい》あれば師匠《ししやう》の感應院も末《すゑ》頼母《たのも》しく思ひ別《わけ》て大事に教へ養《やしな》ひけるされば寶澤は十一歳の頃は他人の十六七歳程の智慧《ちゑ》有《あり》て手習は勿論《もちろん》素讀《そどく》にも達し何をさせても役に立ける此感應院は兼てよりお三婆《さんばゝ》とは懇意《こんい》にしけるが或時寶澤を呼《よび》て申けるは其方《そち》の行衣《ぎやうえ》其外とも垢《あか》付《つき》し物を持《もち》お三婆の方へ參り洗濯《せんたく》を頼み參るべしと云付られ元來寶澤は人懷《ひとなづき》のよき生れなれば諸人|皆《みな》可愛《かあい》がる内にもお三婆は取分《とりわけ》寶澤を孤子也《みなしごなり》とて愛《いつく》しみ味《うま》き食物|等《など》の有ば常に殘し置て遣《つか》はしなどしける此日師匠の用事にて來りける折《をり》から冬の事にて婆は圍爐裡《ゐろり》に煖《あた》りゐけるが寶澤の來るを見て有あふ菓子などを與へて此寒《このさぶ》いに御苦勞《ごくらう》なり此爐《このろ》の火の温《ぬく》ければ暫《しばら》く煖《あたゝ》まりて行給《ゆきたま》へと云《いふ》に寶澤は喜びさらば少時間《すこしのま》あたりて行んと頓《やが》て圍爐裡端《ゐろりばた》へ寄て四方山《よもやま》の噺《はなし》せし序《つい》で婆のいふやうは今年《ことし》幾歳《いくつ》なるやと問ふに寶澤は肌《はだ》を寛《くつ》ろげ掛《かけ》し守《まも》り袋取出してお三婆に示せば是を見るに寶永二年[#「寶永二年」はママ]三月十五日の夜|子《ね》の刻《こく》出生《しゆつしやう》と印《しる》し有《あり》ければ指折算《ゆびをりかぞ》へ見るに當年|恰《ちやうど》十一歳なり忘《わす》れもせぬ三月十五日の夜なるがお三婆は頻《しきり》に落涙《らくるゐ》しテモ御身は仕合《しあはせ》物なりとて寶澤が顏《かほ》を打守りしみ/\悲歎《ひたん》の有樣なれば寶澤は婆に向ひ私し程世に不仕合の者はなきに夫《それ》を仕合とは何事ぞや抑《そ》も當歳《たうさい》にて産《うみ》の母に死別《しにわか》れ七歳《なゝつ》の年には父にさへ死《しな》れ師匠の惠《めぐみ》に養育《やういく》せられ漸く成長はしたるなり斯《かく》墓《はか》なき身を仕合とは又何故にお前は其樣に歎《なげ》き給ふぞと尋《たづね》けるお三婆は落《おつ》る涙を押拭《おしぬぐ》ひ成程お身の云ふ通り早く兩親に別《わか》れ師匠樣《ししやうさま》の養育《やういく》にて人と成《なれ》ば不仕合の樣なれ共併しさう達者《たつしや》で成長せしは何よりの仕合なり譯《わけ》と云《いへ》ば此婆が娘の産《うみ》し御子樣當年まで御存命《ごぞんめい》ならば恰《ちやう》どお身と同じ齡《とし》にて寶永三|戌年《いぬとし》[#「寶永三戌年」はママ]然《しか》も三月十五日子の刻の御出生なりしと語《かた》り又も泪《なみだ》に暮る體《てい》は合點《がてん》のゆかぬ惇言《くりこと》と思へば扨はお前のお娘の産《うみ》し孫《まご》ありて幼年に果《はて》られしや开《そ》は又如何なる人の子にて有《あり》しぞと問《とふ》に婆は彌々《いよ/\》涙にくれ乍《なが》らも語り出る樣《やう》私《わし》に澤《さは》の井《ゐ》といふ娘あり御城下の加納將監樣といふへ奉公に參らせしが其頃|將監樣《しやうげんさま》に徳太郎樣と申す太守樣《たいしゆさま》の若君が御預《おあづか》りにて渡《わた》らせ給へり其若君が早晩《いつか》澤の井に御手を付け給ひ御胤《おたね》を宿《やど》したれど人に知らせず婆が許《もと》へ呼取《よびとり》しも太守樣の若君樣が御胤《おたね》なれば竊《ひそ》かに御男子が御出生あれと朝夕《あさゆふ》神佛《かみほとけ》へ祈《いの》る甲斐《かひ》にや安産せしは前にも云へる如く御身と年月|刻限《こくげん》まで同じ寶永二年の[#「寶永二年の」はママ]三月十五日|夜《よる》の子刻《ねのこく》なりき取揚《とりあげ》見《みれ》ば玉の如き男子なれば娘やばゝが悦《よろこ》びは天へも上《のぼ》る心地なりしが悦ぶ甲斐もあら情《なさけ》なや御誕生《ごたんじやう》の若君は其夜の明方《あけがた》無慘《むざん》や敢《あへ》なく御果成《おんはてなさ》れしにぞ澤の井は是を聞《きく》と齊《ひと》しく産後の血上り是も續《つゞ》きて翌朝《よくあさ》其若君の御跡|慕《した》ひ終に空《むな》しく相果《あひはて》たり獨《ひと》り殘りしばゝが悲《かなし》み何に譬《たと》へん樣もなく扨も其後徳太郎樣には御運《ごうん》目出度《めでたく》ましまし今の公方樣《くばうさま》とは成《なら》せ給ひたり然《され》ば娘の持《もち》奉りて若君の今迄御無事に在《まし》まさば夫こそ天下樣の落胤《おとしだね》成《なれ》ば此ばゝも綾錦《あやにしき》を身に纒《まと》ひ何樣《どのやう》なる出世もなる筈《はず》を娘に別れ孫を失ひ寄邊《よるべ》渚《なぎさ》の捨小舟《すてこぶね》のかゝる島さへ無《なき》身《み》ぞと叫《わつ》と計《ばか》りに泣沈《なきしづ》めり寶澤は默然《もくねん》と此長物語を聞畢《きゝをは》り實《げ》に女は氏《うぢ》なくて玉の輿《こし》と運《うん》が有《あれ》ば思《おもひ》の外の事もあるものと心の内に思ふ色を面《おもて》には顯《あらは》さず夫は氣の毒にも惜《をし》き事なり併《しか》し夫には證據《しようこ》でも有ての事か覺束《おぼつか》なし孫君の將軍の落胤《らくいん》でも輙《たやす》く出世は出來まじ過去《すぎさり》し事は諦《あきら》め玉へと賺《すか》し宥《なだむ》ればばゝは此|言葉《ことば》を聞《きゝ》宜《いし》くも申されたり實《げ》に幼《をさな》くして兩親《ふたおや》に離《はな》るゝ者は格別《かくべつ》に發明なりとか婆も今は浮世に望《のぞ》みの綱《つな》も切《きれ》たれば只其日々々を送り暮せど計《はから》ずも孫君《まごぎみ》と同年と聞《きゝ》思はず愚痴《ぐち》を翻《こぼ》したり偖《さて》も干支《えと》のよく揃《そろ》ひ生れとて今まで人に示《しめさ》ざりしが證據《しようこ》といふ品見すべしと婆は傍《かた》への古《ふる》葛籠《つゞら》を明《あ》け彼二品《かのふたしな》を取出せば寶澤は手に取上《とりあげ》先《まづ》お短刀《たんたう》を熟々《つく/″\》見るに其|結構《けつこう》なる拵《こしら》へは紛《まが》ふ方なき高貴の御品次に御|墨付《すみつき》おし披《ひら》き拜見《はいけん》するに如樣《いかさま》徳太郎君の御直筆《おぢきひつ》とは見えける諺《ことわざ》に云へる事あり蛇《じや》は一寸にして人を噛《かむ》の氣あり虎《とら》は生れながらにして牛《うし》を喰《くら》ふの勢ひ有《あり》とか寶澤は心中に偖々《さて/\》此|婆《ばゝ》めが善《よき》貨物《しろもの》を持て居ることよ此二品を手に入て我こそ天下の落胤《らくいん》と名乘《なのつ》て出なば分地でも御《ご》三|家《け》位《ぐらゐ》萬一《もし》極運《きやくうん》に適《かな》ふ時はと漸《やつ》と當年十一の兒《こ》が爰《こゝ》に惡念《あくねん》を起《おこ》しけるは怖《おそ》ろしとも又|類《たぐ》ひなし寶澤は此事を心中に深く祕《ひ》し其時は然氣《さりげ》なく感應院へぞ歸りける偖《さて》翌《よく》年は寶澤十二歳なり。其夏の事なりし師匠《ししやう》感應院の供《とも》して和歌山の城下なる藥種屋市右衞門《やくしゆやいちゑもん》方へ參りけるに感應院は奧《おく》にて祈祷の内寶澤は店《みせ》に來り番頭《ばんとう》若者も皆《みな》心安《こゝろやす》ければ種々《さま/″\》の咄《はなし》などして居たり然《しか》るに此日は藥種屋にて土藏の蟲干《むしぼし》なりければ寶澤も藏《くら》の二階《にかい》へ上りて見物せしが遂《つひ》に見も慣《なれ》ざる品を數々《かず/″\》並《なら》べたる傍《かたへ》には半兵衞と云ふ番頭が番をして居たり寶澤|側《そば》へ寄《よせ》て色々藥種の名を聞《きけ》ば半兵衞も懇篤《ねんごろ》に教へける中に遙《はる》か離《はな》して一段高き所に壺《つぼ》三ツ并《なら》べたり寶澤|指《ゆび》さし彼壺は何といふ藥種の入ありやと尋《たづね》ければ半兵衞のいふ樣《やう》彼《あれ》こそ斑猫《はんめう》と砒霜石《ひさうせき》と云ふ物なるが大毒藥《だいどくやく》なれば心して斯は遠《とほ》くに離したりと聞《きい》て膽《きも》太《ふと》き寶澤は態《わざ》と顏を皺《しか》めテも左樣の毒藥にて候かと恐れし色をぞ示《しめ》したり折節《をりふし》下《した》より午飯の案内《あんない》に半兵衞は暫《しば》し頼みまする緩々《ゆる/\》見物せられよと寶澤を殘《のこ》し己は飯《めし》喰《くひ》にぞ下りけり跡には寶澤|只《たゞ》一人|熟々《つら/\》思ひ廻《めぐ》らせば今《いま》此《こ》の二品を盜《ぬす》み置《お》かば用ゆる時節はこれ斯《かう》と心の中に點頭《うなづき》つゝ頓《やが》て懷中紙《くわいちうがみ》を口に啣《くは》へ毒藥の壺《つぼ》取卸《とりおろ》し彼中なる二品を一|塊《かけ》づつ紙に包《つゝみ》て盜取《ぬすみとり》跡《あと》は故《もと》の如くにして何知らぬ體にて半兵衞が歸るを待居《まちゐ》たり半兵衞は頓《やが》て歸り來り偖々《さて/\》御太儀なりしお小僧にも臺所《だいどこ》へ行て食事仕玉へと云ひければ寶澤は嬉《うれ》し氣《げ》に下行《おりゆき》食事も畢《をはり》ける頃感應院も祈祷《きたう》を仕舞ひければ寶澤も供《とも》して歸りぬ彼盜取《かのぬすみとり》し毒藥は竊《ひそか》に臺所の縁《えん》の下の土中《どちう》へ深く埋《うづ》め折を待《まつ》て用ひんと工《たく》む心ぞ怖《おそろ》しけれ [#8字下げ]第六回[#「第六回」は中見出し]  頃《ころ》は享保《きやうほ》三|丙申《ひのえさる》年|霜《しも》月十六日の事なりし此日は宵《よひ》より大雪《おほゆき》降《ふり》て殊の外に寒《さぶ》き日なりし修驗者《しゆげんじや》感應院には或人より酒《さけ》二升を貰《もら》ひしに感應院は元《もと》より酒を少《すこ》しも用ひねば此酒は近所《きんじよ》の懇意《こんい》の者に分與《わけあた》へける寶澤《はうたく》師匠《ししやう》に向ひ申やうは何卒《なにとぞ》那酒《あのさけ》を少し私しへ下さるべしと乞《こひ》けるに感應院|其方《そのはう》飮《のむ》ならば勝手《かつて》に呑べしと云ふ否々《いや/\》私しは爭《いか》でか酒は用ひ申べきお三婆《さんばゝ》は常々私しを可愛《かあい》がり呉《く》れ候へば少し戴《いたゞ》きて渠《かれ》に呑せたしといふ感應院これを聞て能《よく》こそ心付たれ我は婆《ばゝ》の事に心付ざりし隨分《ずゐぶん》澤山《たくさん》に遣《つか》はせと有ければ寶澤は大いに悦《よろこ》び早速《さつそく》酒を徳利へ移《うつ》し肴《さかな》をば竹の皮に包《つゝ》み降積《ふりつ》もりたる大雪《おほゆき》を踏分々々《ふみわけ/\》彼お三婆の方《かた》へ到《いた》りぬ今日は怪《けし》からぬ大雪にて戸口《とぐち》へも出られずさぞ寒からんと存じ師匠樣《ししやうさま》より貰《もら》ひし酒を寒凌《さぶさしの》ぎにもと少しなれど持來《もちきた》りしとて件《くだん》の徳利《とくり》と竹皮包《かはづつみ》を差出《さしいだ》せばお三婆は圍爐裡《ゐろり》の端《はた》に火を焚《たき》居《ゐ》たりしが是を聞《きい》て大きに悦び能《よく》も/\此大雪を厭《いとは》ず深切《しんせつ》にも持來り給へりと麁朶《そだ》折《をり》くべて寶澤をも爐端《ろばた》へ坐らせ元より好《すき》の酒なれば直《すぐ》に燗《かん》をなし茶碗《ちやわん》に汲《つぎ》て舌《した》[#ルビの「した」は底本では「ひた」]打鳴《うちなら》し呑ける程に胸《むね》に一物ある寶澤は酌《しやく》など致し種々と勸《すゝ》めける婆は好物《かうぶつ》の酒なれば勸めに隨ひ辭儀《じぎ》もせず呑ければ漸次《しだい》に醉《よひ》出て今は正體《しやうたい》無《なく》醉臥《ゑひふし》たり寶澤熟々|此體《このてい》を見て心中に點頭《うなづき》時分は宜《よし》と獨り微笑《ほゝゑ》み傍《あたり》を見廻せば壁《かべ》に一筋の細引《ほそびき》を掛て有に是|屈竟《くつきやう》と取卸《とりおろ》し前後も知らず寢入《ねいり》しばゝが首に纒《まと》ひ難なく縊《くゝ》り殺し豫《かね》て認置《みおき》し二品を奪《うば》ひ取《とり》首に纒ひし細引《ほそびき》を外《はづ》し元の如く壁《かべ》にかけ圍爐裡《ゐろり》の邊《ほと》りには茶碗《ちやわん》又は肴《さかな》を少々|取並《とりなら》べ置《おき》死したるお三婆が體《からだ》を圍爐裡《ゐろり》の火の中へ押込《おしこ》み如何にも酒に醉潰《ゑひつぶ》れ轉《ころ》げ込で燒死《やけじに》たる樣に拵《こしら》へたれば知者《しるもの》更になし寶澤は然《さ》あらぬ體《てい》にて感應院へ歸《かへ》り師匠へもばゝが厚《あつ》く禮《れい》を申せしと其場を取繕《とりつくろ》ひ何喰《なにくは》ぬ顏して有しに其日の夕暮《ゆふぐれ》に何とやらん怪《あや》しき匂《にほ》ひのするに近所《きんじよ》の人々|寄集《よりあつま》りて何の匂《にほひ》やらん雪の中にて場所も分らず種々《さま/″\》評議に及び斯《かゝ》る時には何時《いつ》も第一番にお三ばゝが出來《いできた》り世話《せわ》をやくに今日《けふ》は如何せしや出來《いでこ》ぬは不思議|成《なり》とて囁《さゝや》きける爰《こゝ》に名主《なぬし》甚左衞門の悴《せがれ》がフト心付お三ばゞの方へ到《いた》り戸を押明《おしあけ》て見れば此《こ》は抑《そも》如何《いか》にお三ばゝは圍爐裡《ゐろり》の中へ頭《かしら》を差込《さしこみ》死し居たり匂《にほ》ひの此處より發《おこ》りしなれば大いに驚《おど》ろき一同へ告《つ》げ親《おや》甚左衞門へも此事を通《つう》じけるに名主も駈來《かけきた》り四邊《あたり》近所《きんじよ》の者も追々《おひ/\》に集《あつま》り改め見れば何樣《いかさま》酒に醉倒《ゑひたふ》れ轉込《まろびこみ》死したるに相違《さうゐ》なき體《てい》なりと評議一決し翌日《よくじつ》此趣《このおもむ》きを郡《こほり》奉行へ屆《とゞけ》ければ早速《さつそく》檢使《けんし》の役人も來り改《あらた》め見しに間違もなき動靜《やうす》成ば名主始め村中《むらぢう》は口書《くちがき》を取《とら》れ大酒に醉伏《ゑひふし》燒死《やけじに》たるに相違なき由にて其場は相濟《あひすみ》たり是に依て村中|評議《ひやうぎ》の上にてお三ばゝの死骸《しがい》は近所の者共|請取《うけとり》菩提寺《ぼだいじ》へぞ葬《はうむ》りける隣家《りんか》のお清婆《きよばゝ》と云は常々お三ばゝと懇意《こんい》なりければ横死《わうし》を聞て殊更《ことさら》に悲歎《ひたん》の思ひをなし昨日《きのふ》の大雪にて一度も尋《たづね》ざりしゆゑ此事を知《しら》ざりしぞ不便《ふびん》なれとて歎《なげ》きけるとぞ是より日々|墓《はか》へ參詣《さんけい》して香花《かうげ》を手向《たむけ》ける扨も寶澤はお三ばゝを縊殺《しめころ》し彼《かの》二|品《しな》を奪《うば》ひ取《とり》旨々《うま/\》と打點頭《うちうなづき》此後は我《われ》成長《せいちやう》して此品々を證據《しようこ》とし公方樣《くばうさま》の落胤《おとしだね》と申上なば御三家同樣|夫程迄《それほどまで》ならぬも會津家《あひづけ》ぐらゐの大名には成べし併《しかし》ながら將軍の落胤《おとしだね》なりと欺《あざむ》く時は如何なる者をも欺《あざむ》き負《おほ》すべけれども爰《こゝ》に一ツの難儀《なんぎ》といふは師匠《ししやう》の口から彼者は幼年《えうねん》の内|斯樣々々《かやう/\》にて某し養育《やういく》せし者なりと云るゝ時は折角《せつかく》の巧《たくみ》も急ち破《やぶ》るゝに相違なし七歳より十二歳まで六ヶ年が其間《そのあひだ》養育の恩は須彌《しゆみ》よりも高く滄海《さうかい》よりも深しと雖ども我大望《わがたいまう》には替難《かへがた》し此上は是非に及ばず不便《ふびん》ながらも師匠の感應院を殺《ころ》し誰《たれ》知《しら》ぬ樣になし成人《せいじん》の後に名乘出《なのりいづ》べしと心|太《ふと》くも十二歳の時|始《はじめ》て起《おこ》す大望《たいもう》の志ざしこそ怖《おそ》ろしけれ既に其歳も暮《くれ》て十二月十九日と成《なり》ければ感應院には今日《けふ》は天氣も宜《よけ》れば煤拂《すゝはら》ひをせんものと未明《みめい》より下男《げなん》善助|相手《あひて》とし寶澤にも院内《ゐんない》を掃除《さうぢ》させけるが稍《やゝ》片付《かたづき》て暮方になり早《はや》殘《のこ》る方なく掃除《さうぢ》を仕舞《しまひ》ければ善助は食事《しよくじ》の支度《したく》をなし寶澤は神前の油道具《あぶらだうぐ》を掃除しけるが下男《げなん》の善助は最早《もはや》膳部《ぜんぶ》も出來たれば寶澤に申ける御膳《ごぜん》も出來候へばお師匠樣へ差上給へといへば寶澤は此時なりと兼《かね》て巧《たく》みし事なれば今われ給仕《きふじ》しては後々の障《さは》りに成んと思ひければ善助に向《むか》ひ我は油手《あぶらて》なれば其方|給仕《きふじ》して上られよと頼《たの》むに何心なき善助は承知して今《いま》水《みづ》一|荷《か》を汲《くみ》て後に御膳《ごぜん》を差上べしといひ表《おもて》の方へ出行たり跡《あと》に寶澤は手早く此夏中《このなつちう》縁《えん》の下へ埋置《うづめおき》し二品《ふたしな》の毒藥《どくやく》を取出し平と汁《しる》の中へ附木《つけぎ》にて匕《すく》ひ込《こみ》何知ぬ體《てい》にて元の處へ來り油掃除《あぶらさうぢ》して居たりけり善助は爭《いか》で斯る事と知るべき水を汲終《くみをは》り神ならぬ身の是非《ぜひ》もなや感應院の前へ彼膳部《かのぜんぶ》を持出し給仕をぞなし居たり感應院が食事《しよくじ》仕果《しはて》し頃を計り寶澤も油掃除《あぶらさうぢ》を成《なし》果《はて》て臺所《だいところ》へ入來り下男《げなん》倶々《とも/″\》食事をぞなしぬ胸《むね》に一物ある寶澤が院主《ゐんしゆ》の方を密《ひそ》かに窺《うかゞ》ふに何事もなし扨《さて》不審《ふしん》とは心に思へど色にも顯《あらは》さず已《すで》に其夜も五ツ時と思ふころ毒藥《どくやく》の効《かう》總身《そうしん》に廻り感應院は俄《にはか》に七|轉《てん》八|倒《たう》して苦《くるし》み出せば寶澤はさも驚《おどろ》きたる體にて泣《なき》ながら先《まづ》近所の者へ知せける土地《ところ》の者共|驚《おどろ》き慌《あわ》て早速《さつそく》名主《なぬし》へ知せければ名主も駈付《かけつけ》醫者《いしや》よ藥《くすり》と騷《さわぎ》しに全く食滯《しよくたい》ならんなど云|儘《まゝ》寶澤は心には可笑《をかし》けれど樣々|介抱《かいはう》なしゐしが夥《おびた》だしく血《ち》を吐《はい》て遂《つひ》に其夜の九ツ時に感應院は淺《あさ》ましき最期《さいご》をこそ遂《とげ》たりける名主を始め種々《しゆ/″\》詮議《せんぎ》すれば煤掃《すゝはき》の膳部《ぜんぶ》より外に何にも喰《たべ》ずとの事なり依《よつ》て膳部を調《しらぶ》れども更に怪《あや》しき事なければ彌々《いよ/\》食滯《しよくたい》と決し感應院の死骸《しがい》は村中より集《あつま》り形の如く野邊《のべ》の送《おく》りを取行ひける扨《さて》此平野村には感應院より餘《ほか》に修驗《しゆげん》もなきことゆゑ村中に何事の出來るとも甚だ差支《さしつか》へなりと名主甚左衞門は[#「名主甚左衞門は」は底本では「名主善右衞門は」]感應院へ村中の者を集《あつ》め扨《さて》相談《さうだん》に及ぶは此度《このたび》不※[#「圖」の「回」に代えて「面から一、二画目をとったもの」、27-16]《はからづ》も感應院の横死《わうし》せしが子迚《ことて》も無ればあと目《め》相續《さうぞく》さすべき者なし然《さり》とて何時迄《いつまで》も當院を無住《むぢう》にも爲《し》て置れず我思ふには年こそ行《ゆか》ねど寶澤は七歳の時より感應院が手元《てもと》にて修行《しゆぎやう》せし者なり殊《こと》には外の子供と違《ちが》ひ發明《はつめい》なる性質《せいしつ》にて法印《ほふいん》の眞似事《まねごと》は最早《もはや》差支《さしつかへ》なし我等始め村中が世話《せわ》してやらば相續《さうぞく》として差支《さしつか》へなし然《さ》すれば先住《せんぢう》感應院に於ても嘸《さぞ》かし草葉《くさば》の蔭《かげ》より喜び申すべし此儀如何と述《のべ》ければ名主《なぬし》どのゝ云るゝ事なり寶澤は七歳の時から感應院の手元《てもと》で育《そだ》ち殊には利發《りはつ》で愛敬者《あいきやうもの》なり誰か違背《いはい》すべき孰《いづれ》も其儀然るべしと相談《さうだん》爰《こゝ》に決したり [#8字下げ]第七回[#「第七回」は中見出し]  斯《かく》て名主甚左衞門は寶澤を招《まね》き申渡しける樣は扨《さて》も先達《せんだつ》て師匠の死去《しきよ》せしより當村に山伏《やまぶし》なし且《かつ》又《また》感應院には子もなければ相續《さうぞく》すべき者なし依て今日村中を呼寄《よびよせ》相談に及びしは其方は幼年《えうねん》なれども感應院の手許《てもと》にて教導《けうだう》を受し事なれば可なりに修驗《しゆけん》の眞似《まね》は出來べし我々始め村中より世話《せわ》をすれば師匠感應院の後住《ごぢう》にせんと村中相談一|決《けつ》したり左樣に心得《こゝろえ》べしと申渡せば寶澤《はうたく》は謹《つゝし》んで承はり答へけるは師匠感應院の跡目《あとめ》相續致し候樣と貴殿《きでん》を始め村中の厚《あつ》き思し召《めし》の程は有難《ありがた》く幼年の私《わたく》しの身に取ては此上もなき仕合《しあはせ》に存じ奉つり早速《さつそく》御受すべき處なれど師匠《ししやう》が存命中《ぞんめいちう》申聞せ候には凡《およそ》山伏《やまぶし》と云者は日本國中の靈山《れいざん》靈場《れいぢやう》を廻《めぐ》り難行苦行《なんぎやうくぎやう》をなし或は野《の》に伏《ふ》し山に伏《ふ》し修行をする故に山伏《やまぶし》とは申なり扨《さて》亦《また》山伏の宗派《しうは》といツパ則ち三|派《ぱ》は分《わか》れたり三派と云は天台宗《てんだいしう》にて聖護院宮《しやうごゐんみや》を以て本寺となし當《たう》三|派《は》は眞言宗《しんごんしう》にて醍醐《だいご》三|寶院《はうゐん》の宮を本山とす出羽國《ではのくに》羽黒山派《はぐろさんは》は天台宗《てんだいしう》[#ルビの「てんだいしう」は底本では「ていだいしう」]にて東叡山《とうえいざん》一|品親王《ぽんしんわう》を以て本山と仰ぎ奉る故に山伏とは諸山《しよざん》修行《しゆぎやう》の修學《しゆがく》の名にて難行苦行《なんぎやうくぎやう》をして野に伏し山に宿《しゆく》し戒行《かいぎやう》を勵《はげむ》ゆゑに山伏といふ又|修驗《しゆけん》といツパ其修行《そのしゆぎやう》終り修行|滿《みち》たる後の本學《ほんがく》とあれば難行苦行をなし修行《しゆぎやう》終《をはり》て後の本名《ほんみやう》なり故《かるがゆゑ》に十|界《かい》輪宗《りんしう》の嘲言《てうげん》に徹《てつ》すれば厭《いと》ふべき肉食《にくじき》なし兩部《りやうぶ》不二の法水を嘗《なむ》れば嫌《きら》ふべき淫慾《いんよく》なしと立る法《はふ》なり三寶院は聖護大僧正《しやうごだいそうじやう》を宗祖《しうそ》とし聖護院は坊譽大僧正《ばうよだいそうじやう》を宗祖《しうそ》とするなり然ども何《いづれ》も開山《かいざん》と申は三派ともに役《えん》の小角《せうかく》が開き給ひしなり扨《さて》亦山伏が補任《ほにん》の次第《しだい》 [#1字下げ]小阿闍梨《こあじやり》 大々法印《だい/\ほふいん》 金蘭院《こんらんゐん》 律師《りつし》 大越家《たいえつか》 一山大先達《いつさんたいせんだつ》 内議僧《ないぎそう》 院號《ゐんがう》 坊號笈籠《ばうがうきふこ》 權大僧都《ごんだいそうづ》 七道具《なゝつだうぐ》左之|通《とほり》 [#ここから1字下げ] 篠掛《すゞかけ》 摺袴《すりはかま》 磨紫金《ましきん》 兜巾《ときん》 貝《かひ》 貝詰《かひつめ》 護摩刀《ごまたう》 評《ひやう》に曰此|護摩刀《ごまたう》のことは柴刀《さいたう》とも申よし是《これ》は聖護院三寶院の宮樣《みやさま》山入《やまいり》の節《せつ》諸國の修驗《しゆけん》先供《さきども》の節|柴《しば》を切拂《きりはらひ》て護摩《ごま》の場所《ばしよ》を拵《こしら》へる故に是を柴刀《さいたう》とも云なり [#ここで字下げ終わり] 斯《かく》の如く山伏には六《むづ》かしき事の御座候よし兼て師匠《ししやう》より聞及び候に私事は未だ若年《じやくねん》にて師匠の跡目《あとめ》相續の儀は過分《くわぶん》の儀なれば修驗の法《はふ》を一向に辨《わきま》へずして感應院|後住《ごぢう》の儀は存じも寄《よら》ず爰にされば一《ひとつ》の御願ひあり何卒|當年《たうねん》より五ヶ年の間諸國修行致し諸寺《しよじ》諸山《しよざん》の靈場《れいぢやう》を踏《ふみ》難行苦行を致し誠《まこと》の修驗と相成て後當村へ歸《かへ》り其時にこそ師匠《ししやう》感應院の院を續度《つぎたく》存ずるなり哀《あは》れ此儀を御許《おんゆる》し下され度|夫迄《それまで》の内は感應院へは宜《よろし》き代りを御|入《いれ》置《おき》下され度凡五ヶ年も過《すぎ》候はゞ私し事|屹度《きつと》相戻《あひもど》りますれば何卒|相替《あひかは》らず御世話《おせわ》下されたし尤とも此事は師匠|存命《ぞんめい》の内にも度々|相願《あひねがひ》しかども師匠は私《わたく》しを慈《いつく》しむの餘り片時《へんじ》も側《そば》を離すを嫌《きら》ひて幼年なれば今四五年も相待《あひまつ》べしと止《とゞ》め候故|本意《ほんい》なくは思へども師匠の仰せ默止難《もだしがた》く是迄は打過《うちすぎ》候なり此度こそ幸《さいは》ひに日頃の宿願《しゆくぐわん》を果《はた》すべき時なり何卒|此儀《このぎ》をお許《ゆる》し下されと幼年に似合《にあは》ず思ひ入たる有樣《ありさま》に聞居る名主を初《はじ》め村中《むらぢう》の者は只管《ひたすら》感心《かんしん》するより外なく皆々口を閉《とぢ》て控へたり此時|名主《なぬし》甚左衞門進出て申す樣只今願の趣《おもむ》き委細《ゐさい》承知《しようち》致したり扨々驚き入たる心底《しんてい》幼年には勝りし發明《はつめい》天晴《あつぱれ》の心立なり斯迄|思込《おもひこみ》し事をむざ/\押止《おしとゞめ》んも如何なれば願ひに任すべしさらば五ヶ年|過《すぎ》て歸り來る迄《まで》は感應院へは留守居《るすゐ》を置べし相違《さうゐ》なく五ヶ年の修行《しゆぎやう》を遂《と》げ是非とも歸り來り師匠《ししやう》の跡目を繼《つぎ》給へとて名主を初《はじ》め村中も倶々《とも/″\》勸《すゝ》めて止ざりけり偖《さて》も寶澤は願ひの如き身となり旅《たび》の用意《ようい》[#ルビの「ようい」は底本では「ちうい」]もそこ/\に營《いと》なみければ村中より餞別《せんべつ》として百文二百文分に應《おう》じて贈《おく》られしに塵《ちり》も積《つも》りて山の譬《たと》へ集りし金は都合八兩貳|歩《ぶ》とぞ成にける其外には濱村《はまむら》ざしの風呂敷《ふろしき》或は柳庫裏《やなぎごり》笈笠《おひがさ》蜘《くも》の巣《す》絞《しぼり》の襦袢《じゆばん》など思々の餞別《せんべつ》に支度は十分なれば寶澤はさも有難げに押戴《おしいたゞ》き幼年よりの好誼《よしみ》と此程の淺《あさ》からぬ餞別|重々《ぢう/\》有難き仕合《しあは》せと恩を謝《しや》しいよ/\明日の早天《さうてん》に出立《しゆつたつ》致す故御|暇乞《いとまごひ》に參り候なりと村中へ暇乞に廻《まは》れり此時寶澤は漸《やうや》く十四歳の少年なり頃は享保《きやうほ》三|戌《いぬ》年二月二日成し幼年《えうねん》より住馴《すみなれ》し土地を離《はな》るゝは悲《かなし》けれど是も修行《しゆぎやう》なれば決して御案《おあん》じ下さるなとて空々敷《そら/″\しく》も辭儀《じぎ》をなし一先感應院へ歸り下男《げなん》善助に向ひ明朝《あした》早く出立すれば何卒|握飯《にぎりめし》を三ツ許り拵《こしら》へ呉よと頼み置き床房《ふしど》へ入て休《やすみ》ける其夜|丑滿《うしみつ》の頃に起出《おきいで》て彼の握り飯を懷中《くわいちう》なし兼て奪取《うばひとり》し二品を所持《しよぢ》し最早夜明に程近《ほどちか》し緩々《ゆる/\》と行べしと下男善助に[#「善助に」は底本では「善介に」]暇乞し感應院をぞ立出《たちいで》たり馴《なれし》路《みち》とて闇《やみ》をも厭《いと》はずたどり行に漸々と紀州|加田浦《かだのうら》に到《いた》る頃は夜はほの/″\と明掛《あけかゝ》りたり寶澤は一休《ひとやすみ》せんと傍の石に腰《こし》を打掛《うちかけ》暫く休みながら向《むかう》を見れば白き犬《いぬ》一|疋《ぴき》臥居《ふしゐ》たり寶澤は近付《ちかづき》彼の握飯《にぎりめし》を取出し與《あた》へければ犬は尾を振《ふり》悦《よろこ》び喰居《くひゐ》るを首筋《くびすぢ》を掴《つか》んで曳《えい》やつて[#「曳《えい》やつて」はママ]投《なげ》つけ起しも立《たゝ》ず用意の小刀《こがたな》を取出し急所《きふしよ》をグサと刺通《さしとほ》せば犬は敢なく斃《たふ》れたり寶澤は謀計《はかりごと》成りと犬の血を己《おのれ》が手に塗付《ぬりつけ》て笈笠《おひがさ》へ手の跡を幾許《いくつ》となく捺《なす》り付又餞別に貰《もら》ひし襦袢《じゆばん》風呂敷《ふろしき》へも血を塗て着《き》たる衣服《いふく》の所々を切裂《きりさき》これへも血を夥多《したゝか》に塗付《ぬりつけ》誰《たれ》が見ても盜賊《たうぞく》に切殺れたる體《てい》に拵《こしら》へ扨犬の死骸《しがい》は壓《おもり》を付て海へ沈《しづ》め其身は用意の伊勢參宮《いせまゐり》の姿《すがた》に改め彼二|品《しな》を莚包《むしろづゝみ》として背負《せお》ひ柄杓《ひしやく》を持て其場を足早《あしばや》に立去しは恐《おそろ》しくもまた巧《たく》みなる企《くはだ》てなり稍五ツ時頃に獵師《れふし》の傳九郎といふが見付《みつけ》取散せし笈摺《おひずる》并に菅笠《すげがさ》を見れば血に塗《まみ》れたる樣子は全たく人殺《ひとごろ》しにて骸《からだ》は海へ投込《なげこま》れしなるべしと早速《さつそく》土地《ところ》の名主へ屆《とゞ》けゝれば年寄等《としよりら》が來り改《あらた》めしに死骸《しがい》は見えねども人殺しに相違《さうゐ》なければ等閑《なほざり》ならぬ大事なりと此段《このだん》奉行所へも屆出《とゞけいで》しにぞ其事平野村へ聞えければ同村の者共|馳來《はせきた》れり此品々を見れば一々寶澤へ餞別《せんべつ》に遣《つか》はしたる品に相違《さうゐ》なし依て平野村の者より右の次第を濱奉行に訴《うつた》へ私し共|見覺《みおぼえ》ある次第を述《のべ》村方感應院と申す山伏《やまぶし》が昨今|病死《びやうし》し其|弟子《でし》當《たう》十四歳なる者五ヶ年間|諸國修行《しよこくしゆぎやう》の願にて昨日出立につき村中よりせん別《べつ》に遣《つかは》したる金子は八兩貳|歩《ぶ》あり此品々も跡々《あと/\》より贈《おくり》し物《もの》なり幼年にて多分《たぶん》の金子を所持《しよぢ》し候を見付られ斯《かく》の仕合《しあはせ》全く賊《ぞく》の爲に切害《せつがい》せられ候なるべしと申上ければ濱奉行《はまぶぎやう》も是を聞《きゝ》如何樣|盜賊《たうぞく》の所爲《しよゐ》なるべし此品々は其方共へ戻《もど》す譯《わけ》には參らず欠所藏《けつしよぐら》へ入置るゝなり何分にも不便《ふびん》の至りなりとて其場は相濟《あひすみ》たり偖《さて》も寶澤は加田浦にて盜賊《たうぞく》に殺され不便の者なりとて師匠《ししやう》感應院の石塔《せきたふ》の側《そば》に形《かた》ばかりの墓《はか》を立てられ村中|替々《かはる/″\》香花《かうげ》を手向《たむけ》跡《あと》念頃《ねんごろ》に弔《とふ》らひけるとなん [#8字下げ]第八回[#「第八回」は中見出し]  寶澤は盜賊《たうぞく》に殺害《せつがい》されし體《てい》に拵《こし》らへ事十分|調《とゝの》ひぬと身は伊勢參宮《いせまゐり》の姿《なり》に窶《やつし》一先九州へ下り何所《いづかた》にても足を止め幼顏《をさながほ》を失《うしな》ひて後に名乘《なのり》出んものと心は早くも定めたり先《まづ》大坂へ出《いで》夫より便船《びんせん》を求めて九州へ赴《おもふ》かんと大坂にて兩三日|逗留《とうりう》し所々を見物《けんぶつ》し藝州迄《げいしうまで》の便船《びんせん》あるを聞出《きゝだし》て此を頼み乘しが順風《じゆんぷう》なれば日ならずして廣島の地に着《ちやく》せしかば先廣島を一|見《けん》せんと上陸《じやうりく》をぞなしにける抑々《そも/\》此廣島は大坂より海上《かいじやう》百里餘にて當所《たうしよ》嚴島《いつくしま》大明神《だいみやうじん》と申は推古天皇《すゐこてんわう》の五年に出現《しゆつげん》ましませし神なり社領《しやりやう》千石あり毎月六日十六日|祭禮《さいれい》なり其外三|女神《によじん》の傳あり七濱《なゝはま》七夷等《なゝえびすとう》を廻《まは》り夫より所々を見物《けんぶつ》しける内一|疋《ぴき》の鹿《しか》を追駈《おつかけ》しが鹿の迯《にぐ》るに寶澤は何地迄《いづくまで》もと思あとを慕《したひ》しも終《つひ》に鹿は見失ひ四方《あたり》を見廻《みめぐ》らせば遠近《をちこち》の山の櫻《さくら》今を盛《さか》りと咲亂《さきみだ》れえも云れぬ景色《けしき》に寶澤は茫然《ばうぜん》と暫し木蔭《こかげ》に休《やす》らひて詠《なが》め居たり此時|遙《はるか》の向《むかう》より年頃四十|許《ばかり》の男|身《み》に編綴《へんてつ》といふを纏《まと》ひ歩行《あゆみ》來りしが怪《あや》しやと思ひけん寶澤に向ひて名を問《と》ふ寶澤|答《こたへ》て我は徳川|無名丸《むめいまる》と申す者なり繼母《けいぼ》の讒言《ざんげん》により斯は獨旅《ひとりたび》を致す者なり又其|許《もと》は何人にやと尋《たづ》ね返《かへ》せば彼者《かのもの》芝原《しばはら》へ手を突《つか》へ申けるは徳川と名乘《なのら》せ給ふには定《さだ》めて仔細《しさい》ある御方なるべし某《それがし》事は信濃國|諏訪《すは》の者にて遠州屋《ゑんしうや》彌次六と[#「遠州屋彌次六と」は底本では「遠州屋彌六次と」]申し鵞湖散人《がこさんじん》また南齋《なんさい》とも名乘候|下諏訪《しもすは》に旅籠屋《はたごや》渡世《とせい》仕つれり若も信州邊《しんしうへん》へ御下りに成ば見苦《みぐるし》くとも御立寄あるべし御宿仕らんと云にぞ寶澤は打點頭《うちうなづき》扨《さて》は左樣の人なるか某《それがし》も此度|據《よんどころ》なき事にて九州へ下るなれ共此用向の濟《すみ》次第《しだい》に是非とも關東《くわんとう》へ下向の心得なれば其節《そのせつ》は立寄申べしと契約《けいやく》し其場は別《わかれ》たり扨《さて》寶澤は九州|路《ぢ》を徊歴《くわいれき》し肥後國《ひごのくに》熊本の城下《じやうか》に到りぬ爰《こゝ》は名に負《おふ》五十四萬石なる細川家《ほそかはけ》の城下なれば他所とは替《かは》り繁昌《はんじやう》の地なり寶澤は既に路用《ろよう》を遣《つか》ひ盡しはや一錢も無《なく》なりいと空腹《くうふく》に成しに折節《をりふし》餠屋《もちや》の店先《みせさき》なりしが彳《たゝず》みて手の内を乞と暫《しばし》縁《えん》の下《もと》に休《やすら》ひぬ餠屋《もちや》の店には亭主《ていしゆ》と思しき男の居たりしかば寶澤其男に向《むかひ》申けるは私しは腹痛《ふくつう》致し甚だ難澁《なんじふ》致せば藥《くすり》を飮《のみ》たし御|面倒樣《めんだうさま》ながら素湯《さゆ》一ツ下されと乞《こひ》けるにぞ其男は家内《かない》に云付心よく茶碗《ちやわん》へ湯を汲《くみ》て與へたり寶澤は押戴《おしいたゞ》き懷中《くわいちう》より何やらん取出して飮《のむ》眞似《まね》せり此時以前の男《をとこ》寶澤に向ひ尋けるは其方は年も行《ゆか》ぬに伊勢參宮《いせまゐり》と見受たり奇特《きどく》の事なり何《いづれ》の國の生《うまれ》なるやと問ふ思慮《しりよ》深《ふか》き寶澤は紀州と名乘ば後々《のち/\》の障《さはり》なるべしと早くも心付|態《わざ》と僞《いつは》りて私しは信州の生《うま》れにて候と云|亭主《ていしゆ》此を聞て眉《まゆ》を顰《ひそ》め信州と此熊本とは道程《みちのり》四五百里も隔《へだた》りぬらんに伊勢《いせ》參宮より何ゆゑ當國迄《たうごくまで》は參りしやと不審《ふしん》を打《うた》れ敏速《さそく》の寶澤は空泣《そらなき》して扨《さて》も私しの親父《おや》は養子《やうし》にて母は私しが二ツの年|病死《びやうし》し夫より祖母《ばば》の養育《やういく》に成長《ひとゝなり》しが十一歳の年に親父《ちち》[#ルビの「ちち」は底本では「ぢぢ」]は故郷《こきやう》の熊本へ行とて祖母《ばば》に私しを預《あづ》け置て立出《たちいで》しが其後一向に歸り來らず然に昨年|祖母《ばば》も病死《びやうし》し殘るは私し一人と成り切《せめ》ては今一度|對面《たいめん》し度と存ず夫故に伊勢參宮より故郷《こきやう》を跡《あと》にして遙々《はる/″\》と父の故郷は熊本《くまもと》と聞|海山《うみやま》越《こえ》て此處迄は參り候へ共|何程《いかほど》尋ても未だ父の在所《ありか》が知《しれ》申さず何成《いかなる》過去《くわこ》の惡縁《あくえん》にて斯は兩親に縁《えん》薄《うす》く孤子《みなしご》とは成候かと潸然々々《さめ/″\》と泣沈《なきしづ》めば餠屋《もちや》の亭主も貰《もら》ひ泣《なき》し偖々《さて/\》幼少《えうせう》にて氣の毒な不仕合《ふしあはせ》者かなと頻《しきり》に不便《ふびん》彌増《いやまし》偖《さて》云やう其方の父は熊本と計《ばか》りでは當所も廣《ひろ》き城下《じやうか》なれば分るまじ父の名は何と申し又|商賣《しやうばい》は何渡世《なにとせい》なるやと尋ねられ寶澤は泣々《なく/\》父は源兵衞と申し餠屋商賣《もちやしやうばい》なりと口より出任《でまかせ》に答《こたへ》ければ亭主は是を聞《き》き實事《まこと》と思ひ然らば我等と同職《どうしよく》なれば委《くはし》く尋る程ならば譬《たと》へ廣き御|城下《じやうか》でも知ぬ事は有まじ今夜《こんや》は此方《このはう》に泊《とま》り明日|未明《みめい》より餠屋|仲間《なかま》を一々尋ね見るべし我も仲間帳面《なかまちやうめん》を調《しら》べ遣《やら》んとて臺所へ上て休息《きうそく》させける扨《さて》其日も暮《くれ》に及び夕飯《ゆふはん》など與へられ夜に入て亭主は仲間帳面《なかまちやうめん》を取出し源兵衞といふ餠屋や有と繰返《くりかへ》し改めしに茗荷屋《みやうがや》源兵衞と云があり是は近頃|遠國《ゑんごく》より歸し人と聞《きゝ》及ぶ定《さだ》めて此《これ》成《なら》んと寶澤にも是由を云聞せ明朝《みやうてう》は其家に至り尋ぬべしと云れたり翌朝《よくてう》夫婦共に彼是と世話《せわ》し件《くだん》の茗荷屋《みやうがや》源兵衞の町所を委《くはし》く書認《かきしたゝ》めて渡されしにぞ寶澤は態《わざ》と嬉《うれし》げに書付を持《もち》茗荷屋へと出行《いでゆき》たり其|夕暮《ゆふぐれ》寶澤には歸り來りいと白々《しら/″\》しく今朝《こんてう》茗荷屋源兵衞樣方へ參り尋ねたれど私の親父《おやぢ》にては是なきゆゑ夫より又々|所々《しよ/\》尋ねたれ共相知申さずと悄々《しほ/\》として述ければ餠屋夫婦も氣《き》の毒《どく》に思ひ其夜も泊《とめ》て遣《つかは》し又|翌朝《よくてう》も尋に出したれ共|元來《もとより》知《しれ》る筈《はず》はなし其夜寶澤は亭主に向《むかひ》申けるは扨々《さて/\》是迄|淺《あさ》からぬお情《なさけ》にて御|城下《じやうか》は荒《あら》まし尋ねたれども何分父の居所《ゐどころ》は相知《あひしれ》申さず何時迄《いつまで》も仇《あだ》に月日を送らんも勿體《もつたい》なし明日よりは餠《もち》を背負《せおひ》てお屋敷や又は町中《まちぢう》を賣ながら父を尋ね度|存《ぞん》ずるなり此上のお情《なさけ》に此儀を御許《おゆる》し下《くだ》されなば有難しと餘儀《よぎ》なげに頼むに夫は宜《よき》思付《おもひつき》なり明日より左樣《さやう》いたし心任《こゝろまか》せに父の在所《ありか》を尋ぬべしとて翌日より餠を背負《せおはせ》て出せしに元より發明《はつめい》の生《うまれ》なれば屋敷方《やしきがた》へ到りても人氣《じんき》を計り口に合《あふ》やうに如才《じよさい》なく商《あきな》ふゆゑに何時も一ツも殘《のこ》さず皆《みな》賣《うり》て夕刻《ゆふこく》には歸り來り夫から又|勝手《かつて》を手傳《てつだひ》などするにぞ夫婦は大に悦《よろこ》び餠類《もちるゐ》は毎日々々|賣切《うりきれ》て歸れば今は店《みせ》にて賣より寶澤が外《そと》にて商《あきな》ふ方が多き程になり夫婦は宜者《よきもの》を得《え》つと名も吉之助と呼び實子《じつし》の如く寵愛《ちようあい》しけり或夜夫婦は寢物語《ねものがたり》に吉之助は年に似氣《にげ》なき利口者《りこうもの》にて何一ツ不足《ふそく》なき生れ付|器量《きりやう》といひ人品迄よくも揃《そろひ》し者なり我々に子|無《なけ》れば年頃|神佛《しんぶつ》に祈《いの》りし誠心《せいしん》を神佛の感應《かんおう》まし/\天よりして養子《やうし》にせよと授け給ひし者成べし此家を繼《つが》せん者|末頼母《すゑたのも》しと語合《かたらふ》を吉之助|潜《ひそか》に聞て心の内に冷笑《あざわら》へど時節を待《まつ》には屈強《くつきやう》の腰掛《こしかけ》なりと心中に點頭《うなづき》これよりは別《べつ》して萬事に氣をつけ何事も失費《しつぴ》なき樣にして聊《いさゝ》かでも利分をつけ晝夜《ちうや》となく駈廻《かけまは》り働《はたら》く程に夫婦は又なき者と慈《いつく》しみける扨も此餠屋《このもちや》と云は國主《こくしゆ》細川家の御買物方の御|用達《ようたし》にて御城下に隱《かくれ》もなき加納屋《かなふや》利兵衞とて巨萬《きよまん》の身代なる大家に數年來|實體《じつてい》に奉公を勤《つと》め近年《きんねん》此餠屋の出店を出《だし》て貰《もら》ひ夫婦とも稼暮《かせぎくら》す者なりフト吉之助の來てより家業《かげふ》も忙《いそ》がしく大いに身代《しんだい》を仕出たり光陰《くわういん》矢《や》の如く享保《きやうほ》も七年とは成ぬ吉之助も當年《たうねん》は十八歳と成けり夫婦|相談《さうだん》して當年の内には吉之助へも云聞《いひきか》せ良辰《りやうしん》を撰みて元服《げんぷく》させ表向|養子《やうし》の披露《ひろう》もせんとて色々其|用意《ようい》などしける處に或時|本店《ほんてん》の加納屋より急使《きふつかひ》來り同道にて參るべしとの事故|餠屋《もちや》の亭主《ていしゆ》は大いに驚き何事の出來せしやと取物《とるもの》も取敢ず急《いそ》ぎ本店へ赴《おもむ》きけるに利兵衞は餠屋を奧《おく》の一間へ呼入れ時候《じこう》の挨拶《あいさつ》終《をは》り扨云やう今日其方を招《まねき》しは別儀にも非ず此兩三年はお屋敷《やしき》の御用も殊の外|鬧敷《いそがしく》相成ど店の者|無人《むにん》にて何時も御用の間を缺《かき》甚《はなはだ》困《こま》り入が承まはれば其方に召仕《めしつか》ふ吉之助とやらんは殊の外|發明者《はつめいもの》の由なり拙者方《せつしやがた》へ召使《めしつかひ》たしとの事なるが何共|迷惑《めいわく》に思ども主人の頼《たのみ》なれば否《いや》とも云れず據《よんどころ》なく承知なし早々我家へ歸り女房《にようばう》にも此事を相談《さうだん》しければ妻も致し方なく頓《やが》て吉之助を呼《よ》び今日|本店《ほんてん》よりの使は斯々にて本店《ほんだな》無人に付|暫《しばら》くの内其方を借《かり》たしとの事なり未だ其方に話《はなし》は致さねども當年《たうねん》の内には元服《げんぷく》させ養子にせんと思しも本店へ引取《ひきとら》れては我が所存《しよぞん》も空《むな》しく殘念《ざんねん》なれども外々ならば如何樣にも斷《こと》わり申すべきが本店の事なれば是非《ぜひ》に及ばず明日よりは彼處《かしこ》へ參り一|入《しほ》出精《しゆつせい》し奉公致し呉《くれ》べしと申渡しければ吉之助は心中に悦《よろこ》び是ぞ運《うん》の向處《むかふところ》なり我《われ》大家に入込まば一仕事が成べしと思ふ心を色にも見《み》せず態《わざ》と悄々《しほ/\》として是迄の厚《あつ》き御高恩《ごかうおん》を報じもせずして他家《たけ》に奉公致す事は誠《まこと》に迷惑《めいわく》なれども御本店の事なれば致《いた》し方なしと誠に餘儀《よぎ》なき體《てい》に挨拶《あいさつ》をぞなしにける [#8字下げ]第九回[#「第九回」は中見出し]  然程《さるほど》に吉之助は其翌日《そのよくじつ》彼《かの》加納屋利兵衞方へ引移《ひきうつ》り元服して名をば吉兵衞と改め出精《しゆつせい》して奉公しける程に利發者《りはつもの》なれば物の用に立事|古參《こさん》の者に増《まさ》りければ程なく番頭《ばんとう》三人の中にて吉兵衞《きちべゑ》には一番|上席《じやうせき》となり毎日々々|細川家《ほそかはけ》の御館《おやかた》へ參り御用を達《たつ》しける萬事|利發《りはつ》の取廻《とりまは》しゆゑ重役衆《ぢうやくしう》には其樣に計《はから》ひ下役人へは賄賂《わいろ》を贈《おく》り萬事《ばんじ》拔目《ぬけめ》なきゆゑ上下|擧《こぞ》つて吉兵衞を贔屓《ひいき》し御用も追々多くなり今は利兵衞方《りへゑかた》にても吉兵衞なくては叶《かな》はぬ樣に相成けり然共《されども》吉兵衞は少も高《たか》ぶらず傍輩《はうばい》中《なか》も睦《むつま》しく古參《こさん》の者へは別《べつ》して親《したし》みける故|内外《うちそと》共に評判《ひやうばん》よく利兵衞が喜《よろこ》び大方ならず無二者《またなきもの》と思ひけり然《しかる》に吉兵衞は熟々《つら/\》思案《しあん》するに最早《もはや》紀州を立退《たちの》き夥多《あまた》の年を過《すご》したれば我幼顏《わがをさながほ》も變り果《はて》見知る者無るべし然《さら》ば兩三年の内には是非々々|大望《たいまう》の企《くはだ》てに取掛《とりかゝ》るべし夫に付ては金子《きんす》なくては事|成就《じやうじゆ》し難《がた》し率や是よりは金子の調達《てうだつ》に掛らん物をと筆先《ふでさき》十露盤玉《そろばんだま》にて掠《かす》め始めしが主人は巨萬《きよまん》の身代なれば少しの金には氣《き》も付ず僅《わづか》に二年の内に金子《きんす》六十兩餘を掠《かす》め取《と》り今は熊本に長居《ながゐ》は益《やく》なし近々に此土地を立去《たちさら》んと心に思ひ定《さだ》めける頃しも享保《きやうほ》十|巳年《みどし》十二月二十六日の事なりし加納屋方にて金四十七兩二分|細川家《ほそかはけ》の役所より[#「役所より」は底本では「役所なり」]請取《うけとる》べき事あり右の書付《かきつけ》を認《したゝ》め吉兵衞に其方此書付に裏印形《うらいんぎやう》を申請|御金《おかね》會所《くわいしよ》にて金子受取參るべしと云遣《いひやり》けるにぞ吉兵衞は彼《かの》書付を懷中《くわいちう》なし爰《こゝ》に彌々《いよ/\》決心し兼て勝手《かつて》を知し事なれば御勘定《ごかんぢやう》の部屋《へや》に到り右の書付《かきつけ》を差出ければ役人は是を改《あらた》め見るに金四十七兩二歩とあり頓《やが》て調印《てういん》をなし渡《わた》されたり此部屋《このへや》に勘定役四五人|有《あり》て夫々に拂方《はらひかた》を改ため相違《さうゐ》なければ役所にて金子|何程《なにほど》錢《ぜに》何貫文《なんぐわんもん》書付に引合せて渡《わた》さるべしと裏印《うらいん》なし其書を金方《かねかた》の役所へ廻《まは》し金方にて拂《はらひ》を渡す事なり今《いま》吉兵衞が差出たる書付《かきつけ》も役人が改《あらた》め添書《そへしよ》に右の通り認《したゝ》め調印《てういん》して渡《わたし》ける此勘定部屋と金方役所《かねかたやくしよ》とは其間三町を隔《へだ》ちたり吉兵衞は御勘定部屋より金方の役所へ行道《ゆくみち》[#ルビの「ゆくみち」は底本では「みちゆく」]にて件《くだん》の書付を出し見るに〆高《しめだか》金四十七兩二分と有しかば竊《ひそか》に腰《こし》より矢立《やたて》を取出し人なきを窺《うかゞ》ひ四十の四の字《じ》の上へ一畫《いちくわく》を引《ひい》て百十七兩二歩と直《なほ》し金方の役所へ到り差出し加納屋利兵衞|御拂《おんはらひ》を下《くだ》さるべしといふ役人《やくにん》請取《うけとり》改《あらた》むるに勘定方《かんぢやうかた》の添書《そへしよ》印形《いんぎやう》も相違なければ頓《やが》て百十七兩二分の金子を吉兵衞に渡《わた》されたり吉兵衞は悠々《いう/\》と金子を改め一|禮《れい》述《のべ》て懷中《くわいちう》し歸宅《きたく》の上主人利兵衞へは四十七兩二歩を渡《わた》し殘《のこり》六十兩は己《おのれ》が物《もの》とし是迄に掠取《かすめとり》し金と合せ見るに今は七百兩餘に成ければ最早《もはや》長居《ながゐ》は成難しと或日|役所《やくしよ》にて態《わざ》と聊《いさゝ》かの不調法《ぶてうはふ》を仕出し主人へ申譯|立難《たちがた》しとて書置《かきおき》を認《したゝ》め途中《とちう》より加納屋へ屆《とゞ》け其身は直《すぐ》に熊本を立退《たちのき》先《まづ》西濱|指《さし》て急ぎ行《ゆけ》り此西濱と云は湊《みなと》にて九州第一の大湊《おほみなと》なり四國中國|上方筋《かみがたすぢ》への大船は何《いづれ》も此西濱より出すとなり然《しかる》に加納屋利兵衞方にて此度《このたび》天神丸《てんじんまる》と名付し大船を造《つく》り極月《ごくげつ》廿八日は吉日なりとて西濱にて新艘卸《しんざうおろ》しをなし大坂へ廻《まは》して一商賣《ひとしやうばい》せん積《つも》りなりし此事は兼《かね》て吉兵衞も承知《しようち》の事なれば心に思ふ樣是より西濱《にしはま》に到り船頭《せんどう》を欺《あざむ》き天神丸の上乘《うはのり》して[#「上乘して」は底本では「上飛して」]上方筋《かみがたすぢ》へ赴《おもふ》かんと胸《むね》に巧《たく》み足を早めて西濱に到《いたり》ければ天神丸ははや乘出《のりいだ》さん時なり吉兵衞は大音《だいおん》上《あげ》オヽイ/\と船を招《まね》けば船頭《せんどう》杢右衞門《もくゑもん》が聞つけ何事ならんと端舟《てんま》を卸《おろ》して漕寄《こぎよせ》見れば當時|本店《ほんてん》にて日の出の番頭《ばんとう》吉兵衞なれば杢右衞門《もくゑもん》は慇懃《いんぎん》に是は/\番頭樣には何《なに》御用《ごよう》にて御|出《いで》成《なさ》れしやと尋ければ吉兵衞|答《こたへ》て御前方《おまへがた》も兼て知らるゝ如く此吉兵衞は是迄|精心《せいしん》を盡《つく》して奉公せし故|御主人方《ごしゆじんがた》にても此兩三年は餘程の利分《りぶん》を得られたれば此度《このたび》旦那《だんな》の仰《おほせ》に別家《べつけ》でも出し遣《つかは》すべきか幸ひ天神丸の新艘卸《しんざうおろし》なれば其方|上乘《うはのり》して大坂へなり又は江戸へなり勝手《かつて》な所で一|旗《はた》揚《あぐ》べしとて手元金として七百兩を下《くだ》されたり若も商賣《しやうばい》の都合《つがふ》で不足なれば何程でも助力《じよりき》して遣《つかは》さんと御主人の厚《あつ》きお心入|辭退《じたい》も成ず夫故|斯《かく》火急《くわきふ》の出立にて參りしなり今日より天神丸の上乘《うはのり》方と成り一まづ上方《かみがた》へ參る積《つもり》なりと申ければ船頭《せんどう》杢右衞門は是を聞《きい》て大きに悦《よろこ》び是迄何事に依《よら》ず御|運《うん》強《つよ》き吉兵衞樣の商賣初《しやうばいはじめ》といひ天神丸の新艘卸《しんざうおろ》し傍々《かた/″\》以て御商賣《しやうばい》は御利運《ごりうん》に疑ひなしお目出度《めでたし》/\と祝《いは》ひつゝ吉兵衞を端舟《てんま》に乘《のせ》て天神丸へぞ乘移《のりうつ》しけり扨《さて》杢右衞門《もくゑもん》は十八人の水主《かこ》を呼出《よびだ》し一人一人に吉兵衞に引合《ひきあは》せ此度は番頭《ばんとう》吉兵衞樣御商賣のお手初《てはじ》め新艘《しんざう》の天神丸の上乘成《うはのりなさ》るゝとの事なり萬事《ばんじ》御利發《ごりはつ》のお方なり正月三日の[#「正月三日の」は底本では「正月三月の」]お祝《いはひ》は番頭樣《ばんとうさま》の奢《おご》り成ぞ皆々悦び候へと語りければ水主等《かこら》は皆々手を突《つい》て挨拶《あいさつ》をぞなしたり其夜吉兵衞には酒肴《しゆかう》を取寄《とりよ》せ船頭《せんどう》はじめ水主《かこ》十八人を[#「十八人を」は底本では「十八八を」]饗應《もてな》し酒宴《しゆえん》を催《もよほ》しける明れば極月《ごくづき》廿九日此日は早天より晴渡《はれわた》り其上|追手《おつて》の風なれば船頭杢右衞門は水主共《かこども》に出帆《しゆつぱん》の用意《ようい》をさせ然《さら》ばとて西濱の港より友綱《ともつな》を解《とき》順風《じゆんぷう》に眞帆《まほ》十分に引上《ひきあげ》走らせけるにぞ矢を射《い》る如く早くも中國四國の内海《ないかい》を打過《うちす》ぎ晝夜の差別《さべつ》なく走《はしり》て晦日《みそか》の夜の亥《ゐ》の刻《こく》頃《ごろ》とは成れり船頭《せんどう》杢右衞門は漸《やうや》く日和《ひより》を見て水主等《かこら》に此處は何所《いづこ》の沖《おき》なるやと尋けるに水主等は確《しか》とは分らねど多分《たぶん》は兵庫《ひやうご》の沖《おき》なるべしと答けるにぞ杢右衞門《もくゑもん》は吉兵衞に向《むかひ》番頭樣|貴所《あなた》の御運の能《よき》ゆゑに僅《たつ》た二日二夜で數《す》百|里《り》の海路《かいろ》を走り早|攝州《せつしう》兵庫の港《みなと》に參たり明朝《みやうてう》は元日の事なれば爰にて三ヶ日の御規式《おぎしき》を取行ひ四日には兵庫の港《みなと》なり共大阪の川尻《かはじり》なり共思し召に任《まか》せ着船《ちやくせん》すべしと云ふ吉兵衞|熟々《つら/\》考ふるに今大阪へ上《あが》りても兵庫へ着《つき》ても船頭《せんどう》が熊本へ歸り斯樣々々《かやう/\》と咄《はな》さば加納屋利兵衞方より追手《おつて》を掛んも計難《はかりがた》し然ば一先|遠《とほ》く江戸表《えどおもて》へ赴《おもむ》きて事を計《はから》ふに如ずと思案し杢右衞門《もくゑもん》に向申けるは我|種々《いろ/\》と思案《しあん》せしが當時大阪よりは江戸表《えどおもて》の方《かた》繁昌《はんじやう》にて諸事|便利《べんり》なれば一先江戸を廻《めぐ》りて商賣《しやうばい》を仕たく思ふなり太儀《たいぎ》ながら天氣を見定《みさだ》め遠く江戸廻《えどまは》りして貰《もらひ》たしといふ杢右衞門は頭《かしら》をかき是迄の海上《かいじやう》の深淺《しんせん》は能《よく》存《ぞん》じたれば水差《みづさし》も入らざりしが是から江戸への海上《かいじやう》は當所《たうしよ》にて水差を頼《たの》までは叶ふまじといへば吉兵衞は夫《それ》は兎も角も船頭《せんどう》任《まかせ》なれば宜《よき》樣《やう》に計《はから》ひ給へとて其議に決し此所《こゝ》にて水差を頼《たの》み江戸|廻《まは》りとぞ定めける [#8字下げ]第十回[#「第十回」は中見出し]  享保十|巳年《みどし》も暮《くれ》明れば同《おなじ》き十一|午年《うまどし》の[#「十一|午年《うまどし》の」は底本では「十一|酉年《とりどし》の」]元日|天神丸《てんじんまる》には吉兵衞|始《はじ》め船頭|杢右衞門《もくゑもん》水主《かこ》十八人|水差《みづさし》一人|都合《つがふ》二十一人にて元日の規式《ぎしき》を取行ひ三が日の間《あひだ》は酒宴《しゆえん》に日を暮し己《おの》が樣々の藝《げい》盡《つく》して興《きよう》をぞ催《もよほ》しけるが三日も暮《くれ》はや四日と成《なり》にける此日は早天《さうてん》より長閑《のどか》にて四方|晴渡《はれわた》り海上|青疊《あをだたみ》を敷たる如く青《あを》めき渡《わたり》ければ吉兵衞も船頭《せんどう》も船表《ふなおもて》へ出て四方を詠《なが》め波《なみ》靜《しづか》なる有樣を見て吉兵衞は杢右衞門に向ひ兵庫《ひやうご》の沖《おき》を今日|出帆《しゆつぱん》せんは如何といふ杢右衞門は最早《もはや》三が日の規式《ぎしき》も相濟《あひすみ》殊に長閑《のどか》なる空《そら》なれば御道理《ごもつとも》なりとて水差《みづさし》を呼て只今|番頭樣《ばんとうさま》より今日は殊《こと》によき日和《ひより》ゆゑ出帆《しゆつぱん》すべしとの事なり我等も左樣《さやう》に存ずれば急《いそ》ぎ出帆《しゆつぱん》の用意有べしといふ水差《みづさし》是を聞て如何にも今日は晴天《せいてん》にて長閑《のどか》にはあれど得て斯樣《かやう》なる日は雨下《あまおろ》しといふ事あり能々天氣を見定《みさだめ》て出帆《しゆつぱん》然るべしといふ吉兵衞|始《はじ》め[#「始《はじ》め」は底本では「初《はじめ》め」]皆々今日のごとき晴天《せいてん》によも雨下《あまおろ》しなどの難《なん》は有べからずと思へば杢右衞門又々|水差《みづさし》に向ひ成程|足下《そくか》の云るゝ處も一理なきにも有ねど餘《あま》り好《よき》天氣《てんき》なればよも難風《なんぷう》など有まじく思ふなり強《おし》て出帆《しゆつぱん》すべく存ずると云に水差《みづさし》も然ばとて承知し兵庫の沖《おき》をぞ出帆したり追々《おひ/\》風《かぜ》も少し吹出《ふきいだ》し眞帆《まほ》を七分に上て走《はしら》せハヤ四國の灘《なだ》を廻り凡《およそ》船路《ふなぢ》にて四五十里も走《はしり》しと思ふ頃吉兵衞は船《ふね》の舳《みよし》へ出て四方を詠《なが》め居たりしが遙《はるか》向《むかう》に山一ツ見えけるにぞ吉兵衞は水差《みづさし》に向ひ彼《あの》高き山は何國《いづく》の山なりや畫《ゑ》に描《かき》し駿河の富士山《ふじさん》に能《よく》も似たりと問ふ水差《みづさし》答《こた》へて那山《あのやま》こそ名高き四國の新富士《しんふじ》なりと答ふる折《をり》から此《こ》は抑何《そもいか》に此山の絶頂《ぜつちやう》より刷毛《はけ》にて引し如き黒雲《くろくも》の出しに水差は仰天《ぎやうてん》しすはや程なく雨下《あまおろ》しの來るぞや早く用心《ようじん》して帆を下《さげ》よ錨《いかり》をといふ間も有《あら》ばこそ一|陣《ぢん》の颺風《はやて》飄《さつ》と落《おと》し來るに常の風《かぜ》とは事《こと》變《かは》り潮《うしほ》波を吹出て空《そら》は忽《たちま》ち墨を流《なが》せし如く眞闇《まつくら》やみとなり魔風《まふう》ます/\吹募《ふきつの》り瞬時間《またゝくま》に激浪《あらなみ》は山の如く打上《うちあげ》打下《うちおろ》し新艘《しんざう》の天神丸も今や覆《くつが》へらん形勢《ありさま》なり日頃|大膽《だいたん》の吉兵衞始め船頭《せんどう》杢右衞門十八人の水主《かこ》水差都合二十一人の者共|肝《きも》を消《け》し魂《たましひ》を飛《とば》し更に生《いき》たる心地もなく互《たがひ》[#ルビの「たがひ」は底本では「たがし」]に顏《かほ》を見合せ思ひ/\に神佛《しんぶつ》を祈《いの》り溜息《ためいき》を吐《つく》ばかりなり風は益々|強《つよ》く船を搖上《ゆりあ》げ搖下《ゆりおろ》し此方《こなた》へ漂《たゞよ》ひ彼方へ搖《ゆす》れ正月四日の朝《あさ》巳《み》の刻《こく》より翌五日の申《さる》の刻《こく》まで風は少しも止《やま》ず吹通《ふきとほ》しければ二十一人の者共は食事《しよくじ》もせす二日《ふつか》二夜《ふたよ》を風に揉《もま》れて暮したり漸《やうや》く五日の申《さる》の下刻《げこく》に及び少し風も靜《しづ》まり浪も稍《やゝ》穩《おだや》かに成ければ僅《わづ》かに蘇生《そせい》の心地して悦《よろこ》びしが間もなく其夜の初更《しよかう》に再び震動《しんどう》雷電《らいでん》し颶風《ぐふう》頻《しき》りに吹起《ふきおこ》り以前に倍《ばい》して強《つよ》ければ船《ふね》は搖上《ゆりあ》げ搖下《ゆりおろ》され今にも逆卷《さかまく》浪《なみ》に引れ那落《ならく》に沈《しづ》まん計りなれば八|寒《かん》八|熱《ねつ》の地獄《ぢごく》の樣も斯《かく》やとばかり怖《おそ》ろしなんども愚《おろ》かなり看々《みる/\》山の如き大浪《おほなみ》は天神丸の胴腹《どうはら》へ打付たれば哀《あはれ》やさしも堅固《けんご》に營《しつ》らへし天神丸も忽地《たちまち》巖石《がんせき》に打付られ微塵《みぢん》に成《なつ》て碎《くだ》け失たり氣早《きばや》き吉兵衞は此時早くも身構《みがま》へして所持の品は身に付ゐたるが天神丸の巖石に打付《うちつけ》られし機會《はずみ》に遙《はるか》の岩の上へ打上られ暫《しばし》は正氣《しやうき》も有ざりける稍《やゝ》時《とき》過《すぎ》て心付|拂《ほつ》と一|息《いき》吐《つき》夢《ゆめ》の覺し如く然《さる》にても船は如何せしやと幽《かす》かに照《てら》す宵月《よひづき》の光りに透《すか》し見ば廿人の者共は如何にせしや一人も影《かげ》だになし無漸《むざん》や鯨魚《くぢら》の餌食《ゑじき》と成しか其か中にても我《われ》獨《ひとり》辛《からく》も命《いのち》助《たす》かりしは能々《よく/\》運《うん》に叶《かな》ひし事かな然《され》ど二日二夜海上に漂《たゞよ》ひし事なれば身心《しんしん》勞《つか》れ流石《さすが》の吉兵衞岩の上に倒《たふ》れ伏《ふし》歎息《たんそく》の外は無りしが衣類《いるゐ》は殘らず潮《しほ》に濡《ぬれ》惣身《そうしん》よりは雫《しづく》滴《したゝ》り未だ初春《しよしゆん》の事なれば餘寒《よかん》は五體に染渡《しみわた》り針《はり》にて刺《さゝ》れる如くなるを堪《こらへ》て吉兵衞|漸々《やう/\》起上《おきあが》り大事を抱《かゝ》へし身の爰にて空《むな》しく[#「空しく」は底本では「空して」]凍死《こゞえしな》んも殘念《ざんねん》なりと氣を勵《はげ》まし四方を見廻《みまは》せば蔦葛《つたかつら》下《さが》りて有《ある》を見付是ぞ天の與《あた》へなりと二|品《しな》の包みを脊負《せおひ》纒《まと》ふ葛を力草《ちからぐさ》漸々《やう/\》と山へ這上《はひあが》りて見ば此は何《いか》に山上は大雪《おほゆき》にて一面の銀世界《ぎんせかい》なり方角《はうがく》はます/\見分がたく衣類《いるゐ》には氷柱《つらゝ》下《さが》り汐《しほ》に濡《ぬれ》し上を寒風に吹晒《ふきさら》され髮《かみ》まで氷りて針金《はりがね》の如くなれば進退《しんたい》茲《こゝ》に極まりて兎にも角にも此處で相果《あひはつ》る事かと思ふ計《ばか》りなり時に吉兵衞|倩々《つら/\》思に我《われ》江戸表《えどおもて》へ名のり出て事|露顯《ろけん》に及時は三尺|高《たか》き木の上《そら》に命《いのち》を捨る覺悟《かくご》なれども今|爰《こゝ》て阿容々々《おめ/\》凍死《こゞえしな》んは殘念なり人家《じんか》は無事かと凍《こゞ》えし足を曳《ひき》ながら遙《はる》か向ふの方に人家らしき處《ところ》の有を見付《みつけ》たれば吉兵衞是に力を得《え》て艱苦《かんく》を忍《しの》び其處を目當に雪《ゆき》を踏分々々《ふみわけ/\》たどり行《ゆき》て見れば人家にはあらで一簇《ひとむら》の樹《き》茂《しげ》りなれば甚《いた》く望みを失ひはや神佛《しんぶつ》にも見放《みはな》され此處にて一命の果《はて》る事かと只管《ひたすら》歎《なげ》き悲《かなし》みながら猶も向を詠《ながめ》やれば遙《はるか》向ふに燈火《ともしび》の光のちら/\と見えしに吉兵衞|漸《やう》やく生《いき》たる心地《こゝち》し是ぞ紛《まが》ひなき人家ならんと又も彼火《かのひ》の光《ひかり》を目當《めあて》に雪《ゆき》を踏分々々《ふみわけ/\》たどり行て見ば殊の外なる大家なり吉兵衞は衣類《いるゐ》も氷柱《つらゝ》[#ルビの「つらゝ」は底本では「つゝら」]垂《た》れ其上二日二夜海上に漂《たゞよ》ひ食事《しよくじ》もせざれば身體《しんたい》疲《つか》れ果《はて》聲も震《ふる》へ/\戸の外《そと》より案内を乞《こひ》しに内よりは大音にて何者《なにもの》なるや内へ這入《はいる》べしといふ吉兵衞大いに悦《よろこ》び内へ入りて申やう私し儀は肥後國《ひごのくに》熊本の者なるが今日の大雪《おほゆき》に道《みち》踏迷《ふみまよ》ひ難澁《なんじふ》いたす者なり何卒《なにとぞ》御|情《なさけ》にて一|宿《しゆく》一|飯《ぱん》の御惠《おんめぐみ》を願奉ると叮嚀《ていねい》に述ければ圍爐裡《ゐろり》の端《はた》に年頃卅六七とも見ゆる男の半面《はんめん》に青髭《あをひげ》生《はえ》骨柄《こつがら》は然《さ》のみ賤《いや》しからざるが火に煖《あた》りて居たりしが夫は定《さだ》めし難澁《なんじふ》ならん疾々《とく/\》此方《こなた》へ上《あが》り給へ併し空腹《くふふく》とあれば直《すぐ》に火に煖《あたる》は宜《よろし》からず先々|臺所《だいどころ》へ行て食事《しよくじ》いたし其|後《ご》火の邊《へん》へ依《より》玉へと最《いと》慇懃《ねんごろ》に申けるに吉兵衞は地獄《ぢごく》で佛《ほとけ》に逢《あふ》たる心地なし世にも情《なさけ》あるお詞《ことば》かなと悦び臺所《だいどころ》へ到りて空腹《くうふく》の事ゆゑ急ぎ食事《しよくじ》せんものと見れば何《いづ》れも五升も入べき飯櫃《めしびつ》五ツ竝《なら》べたり飯《めし》も焚立《たきたて》なりければ吉兵衞は大きに不審《ふしん》し此樣子《このやうす》では大勢《おほぜい》の暮しと見えたれども此程の大家に男は留守《るす》にもせよ女の五人や三人は居《をる》べきに夫と見えぬは最《いと》不審《いぶかし》如何なる者の住家《すみか》ならんと思ひながら飢《うゑ》たる儘《まゝ》に獨り食事《しよくじ》し終り再び圍爐裡《ゐろり》の端《はた》へ來りて彼《かの》男に厚《あつ》く禮を述《のべ》ければ先々|緩《ゆる》りと安座《あんざ》して火に煖《あた》り給へといふ吉兵衞は世にも有難《ありがた》く思ひ火に煖《あた》れば今まで氷たる衣類《いるゐ》の雪も解《とけ》て髮《かみ》よりは雫《しづく》滴《したゝ》り衣服は絞《しぼ》るが如くなれば彼《かの》男もこれを見て氣の毒《どく》にや思ひけん其衣類《そのいるゐ》では嘸《さぞ》かし難儀《なんぎ》なるべし麁末《そまつ》なれども此方の衣服《いふく》を貸《かし》申さん其衣類は明朝《みやうてう》まで竿《さを》にでも掛て乾《ほし》玉へと殘《のこ》る方なき心切なる言葉《ことば》に吉兵衞はます/\悦《よろこ》び衣類を借《かり》て着替《きかへ》濡《ぬれ》し着類《きるゐ》は竿《さを》に掛け再び圍爐裡《ゐろり》の端《はた》へ來りて煖《あた》れば二日二夜の苦《くる》しみに心身《しんしん》共《とも》に勞《つか》れし上今十分に食事《しよくじ》を成して火に煖《あたゝ》まりし事なれば自然《しぜん》と眠氣《ねふけ》を催《もよほ》しける然《され》ど始めて宿り心も知れざる家なれば吉兵衞は氣を張《はり》居《を》れども我|知《しら》ず頻《しき》りに居眠《ゐねぶ》りけるを彼男は見兼《みかね》たりけん客人には餘程|草臥《くたびれ》しと見えたり遠慮《ゑんりよ》なく勝手《かつて》に休み給へ今に家内の者共が大勢《おほぜい》歸り來るが態々《わざ/\》起《おき》て挨拶《あいさつ》には及ばず明朝まで緩《ゆる》りと寢《ねら》れよ夜具《やぐ》は押入《おしいれ》に澤山《たくさん》ありどれでも勝手に着玉へ枕《まくら》は鴨居《かもゐ》の上に幾許《いくつ》もありいざ/\と進めながら奧座敷《おくざしき》は差支《さしつか》へ有れば是へは猥《みだ》りに這入《はいり》給ふな此儀は屹度《きつと》斷《こと》わりたりと云ふに吉兵衞|委細《ゐさい》承知《しようち》し然らば御|言葉《ことば》に隨《したが》ひ御免蒙《ごめんかうむ》るべしとて次の間へ到《いた》り押入を明《あけ》て見るに絹布《けんぷ》木綿《もめん》の夜具《やぐ》夥多《おびたゞし》く積上《つみあげ》てあり鴨居《かもゐ》の上には枕の數《かず》凡そ四十|許《ばか》りも有んと思はれます/\不審《ふしん》な住家《すみか》なりと吉兵衞は怪《あやし》みながらも押入《おしいれ》より夜具取出して次の間へこそ臥《ふし》たりける [#8字下げ]第十一回[#「第十一回」は中見出し]  扨も吉兵衞が宿《やどり》たる家の主人を何者《なにもの》成《なる》と尋るに水戸中納言殿《みとちうなごんどの》の御家老職《ごからうしよく》に藤井|紋太夫《もんだいふ》と云ふあり彼柳澤が謀叛《むほん》に組《くみ》して既に公邊《こうへん》の大事にも及べき處を黄門光圀卿《くわうもんみつくにきやう》の明察《めいさつ》に見露《みあらは》し玉ひお手討に相成《あひなり》ける然るに紋太夫に一人の悴《せがれ》あり名を大膳《だいぜん》と呼べり親紋太夫の氣を受繼《うけつぎ》てや生得《しやうとく》不敵《ふてき》の曲者《くせもの》成《なれ》ば一家中に是を憎まぬ者なし紋太夫が惡事|露顯《ろけん》の節《せつ》に扶持高《ふちたか》も住宅をも召上《めしあげ》られ大膳は門前|拂《はらひ》となり據《よんど》ころなく水戸を立去り美濃國《みのゝくに》[#ルビの「みのゝくに」は底本では「みのゝくみ」]各務郡《かゞみごほり》谷汲《たにくみ》の郷《さと》長洞村《ながほらむら》の日蓮宗にて百八十三箇寺の本寺なる常樂院の當住《たうぢう》天忠上人《てんちうしやうにん》と聞えしは藤井紋太夫が弟《おとゝ》にて大膳が爲には實《じつ》の伯父坊《をぢばう》なれば大膳は此長洞村へ尋ね來り暫《しばら》く此寺の食客《しよくかく》となり居たりしが元より不敵の者なれば夜々《よな/\》往還《わうくわん》へ出て旅人を刧《おびやか》し路用《ろよう》を奪《うばひ》て己が酒色の料《れう》にぞ遣《つか》ひ捨《すて》けり初の程は何者の仕業《しわざ》[#ルビの「しわざ」は底本では「しわさ」]とも知る者|無《なか》りしが遂に誰云ふとなく旅人《りよじん》を剥《はぐ》の惡黨は此頃常樂院の食客大膳と云ふ者の仕業なりとをさ/\評判《ひやうばん》高くなり何《なん》と無く影護《うしろめだ》くなり此寺にも居惡《ゐにく》く餘儀なく此處を立退《たちのき》一先江戸へ出ん物と關東を心ざし東海道《とうかいだう》をば下りけり懷《ふとこ》ろ淋《さび》しければ道中にても旅人を害《がい》し金銀を奪《うば》ひ酒色に酖《ふけ》り急《いそ》がぬ道も日數《ひかず》經《へ》て漸《やう》やく江戸へ近づき神奈川宿の龜屋徳右衞門《かめやとくゑもん》といふ旅籠屋《はたごや》へ泊り隣《となり》座敷を窺《うかゞ》へば女の化粧《けしやう》する動靜《やうす》なり何心なく覗《のぞ》き込《こめ》ば年の頃は十八九の娘の容色《きりやう》も勝《すぐれ》て美麗《うつくし》きが服紗《ふくさ》より一ツの金包《かねつゝみ》を取出し中より四五|兩《りやう》分《わけ》て紙に包み跡をば包て床《とこ》の下へ入し嵩《かさ》は百兩ほどなり強慾《がうよく》の大膳は此體《このてい》を見るより粟々《ぞく/\》と喜び乍《なが》らも女の身として斯《かゝ》る大金を所持し一人|旅行《りよかう》するは心得がたしと先《まづ》宿《やど》の下女を招《まね》き密《ひそか》に樣子を尋《たづ》ねければ口惡善《くちさが》なき下女の習慣《ならひ》那《あれ》こそ近在の大盡《だいじん》の娘御《むすめご》なるが江戸のさる大店《おほだな》へ嫁入《よめいり》なされしが聟樣《むこさま》を嫌《きら》ひ鎌倉の尼寺《あまでら》へ夜通の積《つも》りにて行れるなり出入の駕籠舁《かごかき》善六と[#「駕籠舁善六と」は底本では「籠駕舁善六と」]いふが強《たつ》ての頼み今夜は茲《こゝ》に泊られしなりと聞かぬ事まで喋々《べら/\》と話すを大膳は聞濟《きゝすま》し夫は近頃|不了簡《ふれうけん》の女なりなど云《いひ》程《ほど》なく枕《まくら》には着《つき》たり已に其夜も追々《おひ/\》に更《ふけ》わたり丑滿頃《うしみつころ》となりければ大膳は密《ひそ》かに起出《おきいで》間《あひ》の襖《ふすま》を忍明《しのびあけ》ぬき足に彼女を窺《うかゞ》へば晝《ひる》の疲《つかれ》かすや/\と休《やす》み寢入《ねいり》居り夜具の上より床《ゆか》も徹《とほ》れと氷の刄《やいば》情《なさけ》なくも只一|突《つき》女は苦痛《くつう》の聲も得立ず敢《あへ》なくも息《いき》絶《たえ》たれば仕濟《しすま》したりと床《とこ》の下より件《くだん》の服紗包《ふくさつゝみ》を取出し大膽にも己が座敷へ立戻《たちもど》り何氣《なにげ》なき體《てい》にて明方近くまで一寢入し俄《にはか》に下女を呼起《よびおこ》し急用なれば八ツ半には出立の積《つも》り成《なり》しが大に寢忘《ねわすれ》たり直《すぐ》に出立すれば何も入ず茶漬《ちやづけ》を出し呉《くれ》よと逆立《せきた》てられ下女は慌《あわて》て膳拵《ぜんごしらへ》すれば大膳は食事を仕舞ひ用意も底々《そこ/\》に龜屋をこそは出立せり最前《さいぜん》の如く江戸の方へは行《ゆか》ず引返《ひきかへ》して足に任《まか》せて又《また》上《かみ》の方へと赴きける主人の徳右衞門は表の戸を明《あけ》しに驚き偵《さす》が旅宿屋《やどや》の主人だけ宵《よひ》に斷《ことわ》りもなき客の急《きふ》に出立せしは何《いか》にも不審《ふしん》なりとて彼の座敷を改《あらた》めしに變《かは》る事も無《なけ》れば隔《となり》座敷を窺《うかゞ》ふに[#「窺《うかゞ》ふに」は底本では「窺《うかゞ》がふに」]是も靜《しづか》なれど昨日《きのふ》駕籠屋《かごや》善六に頼まれし若《わか》き女なればと案《あん》じて座敷へ入り見れば無慚《むざん》や朱《あけ》に染《そみ》て死しゐたり扨こそ彼侍《かのさむらひ》が女を殺して立退《たちのき》しと俄《には》かに上を下へと騷動《さうどう》し追人《おつて》を掛《かけ》んもハヤ時刻《じこく》が延《のび》たり併し當人を取迯《とりにが》しては假令《たとへ》訴《うつた》へ出るとも此身の科《とが》は免《まぬ》かれ難し殊《こと》には一人旅《ひとりたび》は泊《とめ》ぬ御大法《ごたいはふ》なり女は善六の頼みなれば云譯《いひわけ》も立《たつ》べけれど侍《さふら》ひの方は此方の落度《おちど》は遁《のが》れ難し所詮《しよせん》此事は蔽《かく》すに如《しか》じと家内の者共に殘《のこら》ず口留《くちどめ》して邊《あたり》の血も灑拭《ふきぬぐ》ひ死骸は幸ひ此頃|植《うゑ》し庭の梅の木を引拔《ひきぬき》深《ふか》く掘りて密《ひそか》に其下へ埋《うづめ》ける爰に駕籠舁《かごかき》の善六と云《いふ》は神奈川宿にて正直《しやうぢき》の名を取《とり》し者なり昨日龜屋へ一宿を頼みし女中は今日は通駕籠《とほしかご》にて鎌倉迄《かまくらまで》行《ゆく》べき約束ゆゑ善六は朝早く龜屋へ來り亭主に斯《かく》と言入れ約束《やくそく》の駕《かご》が迎《むか》ひに參りたりと云《いは》せたり徳右衞門は南無《なむ》三と思ふ色を隱《かく》し何氣《なにげ》なき體にて彼女中の客人は今朝《こんてう》餘程《よほど》早《はや》く立《たゝ》れたり貴樣の方へは行《ゆか》ずやと云《いふ》善六|頭《かしら》を振《ふり》左樣《さやう》の筈《はず》はなし其譯《そのわけ》は昨日《きのふ》途中にて駕籠へ乘《のる》時《とき》駕籠蒲團《かごふとん》許《ばか》りでは薄《うす》しとて小袖を下に布《しき》しが今日も乘《のら》るゝ約束|成《なれ》ば小袖は其儘《そのまゝ》我等が預《あづか》り置て只今持て參りたり然《され》ば一應の咄《はなし》も無《なく》て出立すべき筈は無《なし》と云《いへ》ば徳右衞門|押返《おしかへ》しいや決して僞《いつは》り成《なら》ず實《じつ》に昨夜《ゆうべ》女中よりの咄には明日《あす》鎌倉の尼寺まで通駕籠《とほしかご》で參る約束はしたれ共|那駕籠屋《あのかごや》は何とやらん心元《こゝろもと》なし明朝迎ひに參らば程能|斷《ことわ》り呉《くれ》よと頼まれたり若《もし》僞《いつは》りと思はゞ家探《やさが》しなり共致さるべし何とて詮《せん》なき僞り申すべきやと云ひけるに善六は此を聞《きゝ》不審《いぶかし》とは思へ共|兎《と》にも角《かく》にも爭《あら》そふも詮方《せんかた》なし勿論《もちろん》昨日《きのふ》の駕籠賃《かごちん》はまだ受取《うけとら》ず今日一所に貰《もら》ふ筈なりしが早立しとなれば是非《ぜひ》もなし過分《くわぶん》なれど此小袖は昨日の駕籠賃の質《かた》に預り置《おく》べしと善六は駕籠を舁《かた》げて出行たり跡《あと》は徳右衞門を始《はじ》め家内の者もホツト溜息《ためいき》を吐計《つくばかり》なり斯《かく》て善六は神奈川|臺《だい》へ行て駕籠《かご》を下《おろ》し棒組《ぼうぐみ》と咄《はな》しけるは只今龜屋方の挨拶《あいさつ》に昨夜《ゆうべ》の女客の今朝早く出立せしとは不審《ふしん》なり殊に亭主の顏色《かほいろ》といひ何共|合點《がてん》の行《ゆか》ぬ事なりと咄《はなし》居《ゐ》る處へ江戸の方より十人|計《ばかり》の男の羽織《はおり》股引《もゝひき》にて旅人とも見えず然《さり》とて又近所の者には非《あら》ずと見ゆるが息《いき》を切《きつ》て來りつゝ居合はせし善六に向ひ尋《たづ》ぬる樣に昨日|年頃《としのころ》十八九の女の黒縮緬《くろちりめん》に八丈の小袖を襲着《かさねぎ》せしが若《もし》や此道筋《このみちすぢ》を通りしを見懸《みかけ》られざりしや後《あと》の宿にて慥《たしか》に昨日の晝頃《ひるごろ》に通りしと聞《きけ》り若《もし》見當り玉はゞ教《をしへ》玉はれといふに善六は件《くだん》の小袖を取出し[#「取出し」は底本では「出取し」]其尋《そのたづ》ぬる人は此小袖の主にや此は斯々《かう/\》にて今朝《けさ》迎《むか》ひに參りしが龜屋の亭主に傳言《でんごん》して先刻お立なされしとの事なり此小袖《このこそで》は昨日の賃錢《ちんせん》に私が預りたり私へ沙汰《さた》なしに立れしは合點《がてん》行《ゆか》ずと今も咄《はなし》てをる所なり不審《ふしん》に思はれなば精《くはし》くは龜屋にて尋ね給へといふにぞ中にも年倍《としばい》の男が進出《すゝみいで》尋《たづ》ぬるは此人に相違《さうゐ》なし扨《さて》も駕籠の衆《しう》種々《いろ/\》とお世話《せわ》忝《かたじ》けなしと一|禮《れい》述《のべ》實《じつ》は我々|仔細《しさい》有て其女中を尋《たづぬ》る者なり何共|御太儀《ごたいぎ》ながら今一|應《おう》其旅籠屋《そのはたごや》まで案内して呉《くれ》まじきやと云《いふ》にぞ夫れは易き事なりと善六は先《さき》に立《たち》件《くだん》の人々を伴《とも》なひて龜屋徳右衞門方へ到り人々を亭主に引合はせぬ徳右衞門は一大事と尚《なほ》も然氣《さりげ》なく善六に答へし如く此者どもにも咄《はなし》たり然《さら》ばとて十人の内より三人を鎌倉の尼寺《あまでら》へ遣《つか》はし殘り七人は其儘《そのまゝ》龜屋に宿《やど》りて鎌倉の安否《あんぴ》を相待《あひまち》ける其日の夕暮に及び尼寺へ行《ゆき》し人々は立歸《たちかへり》けるが女中にはまだ彼寺へは來らざる由なれば皆々《みな/\》只《たゞ》驚《おどろ》く計《ばか》りなり就《つい》ては龜屋徳右衞門に不審《ふしん》が掛り追々《おひ/\》疑《うたが》はしきこともあれば此事|終《つひ》に代官所の沙汰《さた》となり吟味《ぎんみ》強《つよ》くなりて龜屋徳右衞門の家内は殘《のこ》らず呼出《よびいだ》され跡へ役人來りて家搜《やさがし》せしに庭の梅の木の下《もと》の土の新《あたら》しければ怪《あや》しとて掘發《ほりおこ》すに果して女の死骸《しがい》の埋《うづ》め有《あり》しとぞ龜屋徳右衞門は其儘《そのまゝ》牢舍《らうしや》せられ度々の吟味《ぎんみ》に始めて前の次第を逐《ちく》一に白状《はくじやう》には及《および》ぬ然《され》ば殺害せしと思ふ當人を取逃《とりにが》し殊に御|法度《はつと》の一人旅《ひとりたび》を泊《とめ》し落度《おちど》の申譯立ちがたく罪は徳右衞門一人に歸《き》し長き牢舍《らうしや》のうち憐《あはれ》むべし渠《かれ》は牢死《ろうし》をぞなしたり一|旦《たん》の不覺悟《ふかくご》にて終に一家の滅亡《めつばう》を來せしは哀れなりける災難《さいなん》なり [#8字下げ]第十二回[#「第十二回」は中見出し]  爰に大膳は神奈川の旅店《はたごや》にて婦人を切害《せつがい》し思ひ懸《がけ》ぬ大金を奪取《うばひとり》たれば江戸は面倒《めんだう》なるべし如《しか》ず此より上方に取て返《かへ》し中國より九州へ渡《わたら》んにはと遂《つひ》に四國に立越《たちこえ》しが伊豫國なる藤《ふぢ》が原《はら》と云ふ山中に來り爰に一個《ひとつ》の隱家《かくれが》を得て赤川大膳《あかがはだいぜん》と姓名を變《へん》じ山賊を業《げふ》として暫く此山中に住居しが次第々々に同氣《どうき》相求《あひも》とむる手下の出來《いでき》しかば今は三十一人の山賊《さんぞく》の張本《ちやうほん》となり浮雲《ふうん》の富《とみ》に其日を送りける然るに一年《ひととせ》上方に住し折柄《をりから》兄弟の約《やく》を結《むすび》し藤井左京《ふぢゐさきやう》と云者あり此頃藤が原へ尋ね來り暫く食客と成《なり》て居たりしが時は享保十一|午年《うまどし》正月五日の[#「正月五日の」は底本では「此月十五日の」]事なりし朝より大雪《おほゆき》の降出《ふりいで》しが藤井左京は大膳に向ひ某《それが》し去冬《きよとう》より此山寨《このさんさい》へ參り未だ寸功《すんこう》もなく空《むなし》く暮《くら》すも殘念《ざんねん》なり我も貴殿の門下となりし手始めに今日の雪を幸ひ麓《ふもと》の往來へ罷出《まかりいで》一當《ひとあて》あてんと存《ぞん》ずるなり就ては御手下を我等に暫時《ざんじ》貸給《かしたま》へ一手柄《ひとてがら》顯《あら》はし申さんと云ふ大膳|斯《かく》と聞て左京殿に我手を貸《かす》はいと易けれど此大雪では旅人《たびびと》も尾羽《をは》を束《つか》ね通行する者あるべからず折角《せつかく》寒氣《かんき》を犯《をか》し行かれしとて思ふ如き鳥も罹《かゝ》るまじ先《まづ》今日は罷《やめ》に致し玉へ手柄は何時でも成《でき》る事と押止《おしとゞ》めけれど思ひ込《こみ》たる左京は更に聞き入れず思立しが吉日なり是非とも參りたしと強《たつ》ての懇望《こんまう》なれば然程《さほど》に思はれなば兎も角もと手下の小賊《せうぞく》を貸與《かしあたへ》たれば左京は欣然《きんぜん》と支度を調《とゝの》へ麓《ふもと》を指《さし》て出で行きし跡に大膳は一人つぶやき左京めが己れが意地《いぢ》を立んとて此大雪に出で行きたれ共《ども》何《なん》の甲斐《かひ》やあらん骨折損《ほねをりぞん》の草臥《くたびれ》所得《まうけ》今に空手《からて》で歸り來《こ》んアラ笑止《せうし》の事やと獨《ひと》り言《ごと》留守《るす》してこそは居たりけり 却《かへつ》て説《とく》吉兵衞は宿《やど》りし山家《やまが》の樣子何かに付て疑《うたが》はしき事のみなれば枕《まくら》には就けど寢《ね》もやらず越方《こしかた》行末《ゆくすゑ》のことを案じながらも先刻《せんこく》主人《あるじ》の言葉に奧の一間を見るなと固《かた》く制《せい》せしは如何なる譯《わけ》かと頻《しき》りに其奧の間の見ま欲《ほし》くて密《そつ》と起上《おきあが》り忍び足して彼座敷《かのざしき》の襖《ふすま》を押明《おしあけ》見れば此はそも如何に金銀を鏤《ちり》ばめ言語《ごんご》に絶《ぜつ》せし結構《けつこう》の座敷にて先《まづ》唐紙《からかみ》は金銀の箔《はく》張付《はりつけ》にて中央には雲間縁《うんげんべり》の二|疊《でふ》臺《だい》を[#「二疊臺を」は底本では「二壘臺を」]設《まう》け其上に紺純子《こんどんす》の布團を二ツ重《かさ》ね傍《かたは》らに同じ夜具が一ツ唐紗羅紗《たうざらさ》の掻卷《かいまき》一《ひと》ツあり疊《でふ》の左右には朱塗《しゆぬり》の燭臺《しよくだい》を立床の間には三|幅對《ぷくつい》の掛物|香爐《かうろ》を臺に戴《いたゞい》てあり不完全物ながら結構《けつこう》づくめの品のみなり内《うち》ぞ床《ゆか》しき違棚《ちがひだな》には小さ口の花生《はないけ》へ山茶花を古風に揷《さし》たり袋棚《ふくろだな》の戸二三寸明し中より脇差《わきざし》の鐺《こじり》の見ゆれば吉兵衞は立寄《たちより》て見れば鮫鞘《さめざや》の大脇差なり手に取上《とりあげ》鞘《さや》を拂て見るに只今人を殺《あや》めしが如くまだ生々《なま/\》しき膏《あぶら》の浮《うい》て見ゆれば偵《さすが》に吉兵衞は愕然《ぎよつ》として扨ても山賊の住家なり斯《かゝ》る所へ泊りしこそ不覺《ふかく》なれと後悔《こうくわい》すれど今は網裡《まうり》の魚|函中《かんちう》の獸《けもの》また詮方《せんかた》ぞ無《なか》りければ如何はせんと再び枕《まくら》に就《つき》ながらも次の間の動靜《やうす》を如何ぞと耳《みゝ》振立《ふりたて》て窺《うかゞ》へば折節《をりふし》人の歸り來りて語る樣は棟梁《おかしら》の仰《おほせ》の通《とほり》今日は大雪なれば旅人は尾羽《をば》を縮《ちゞめ》案の如く徒足《むだあし》なりしとつぶやきながら臺所へ上《あが》る其跡に動々《どや/\》と藤井左京を初め立戻り皆々|爐《ろ》の端《はた》へ集まりぬ此時左京は大膳に向ひ貴殿の御異見《ごいけん》に隨《したが》はず我意《がい》に募《つのり》て參りしか此雪で往來には半人《はんにん》の旅客《りよかく》もなし夫ゆゑ諸方《しよはう》を駈廻《かけまは》り漸く一人の旅人《たびびと》を見つけ溌《ばつ》さりやつて見れば一文なしの殼欠《がらつけつ》無益《むやく》の殺生《せつしやう》に手下の衆を勞《らう》し何とも氣毒《きのどく》の至りなり以來《いらい》此左京は山賊は止《やめ》申すと云ふに大膳|呵々《から/\》と打笑ひ左京どの沙彌《さみ》から長老《ちやうらう》と申し何事でも左樣|甘《うま》くは行ぬ者なり山賊《さんぞく》迚《とて》も其通り兎角|辛抱《しんばう》が肝心《かんじん》なり石の上にも三年と云へば先づ/\氣長《きなが》にし給へ其内には好事《よきこと》も有るべし扨また我は今宵《こよひ》の留守に勞《らう》せずして小千兩の鳥《とり》を押《おさ》へたりと云ふに左京は是を聞《きい》て大いに訝《いぶか》り我々は大雪を踏分《ふみわけ》寒《さむ》さを厭《いと》はず麓《ふもと》へ出て網《あみ》を張《はつ》ても骨折損《ほねをりぞん》して歸へりしに貴殿は内に居て爐《ろ》に煖《あた》り乍ら千兩程の大鳥を掛《かけ》られしとは更に合點《がてん》の參らぬ事なり此は貴殿の異見《いけん》をも聞《きか》ず徒骨《むだぼね》折《をり》しを嘲弄《てうろう》さるゝと思はれたりと云へば大膳は莞爾《につこり》と打笑《うちゑみ》否《いな》とよ此大膳|何《なに》しに僞《いつはり》を申べき仔細《しさい》を知らねば疑《うたが》はるゝも道理《もつとも》なりいで其譯《そのわけ》は斯々なり宵に御身たちが出行《いでゆき》し跡へ年の頃廿歳|許《ばかり》の容顏《ようがん》麗《うるは》しき若者來れり何《いづ》れにも九|州《しう》邊《へん》の大盡《だいじん》の子息《むすこ》ならずば大家《たいけ》に仕《つか》はるゝ者なるべし此大雪に道《みち》を踏迷《ふみまよ》ひ此處へ來りて一|宿《しゆく》を乞《こひ》し故|快《こゝろ》よく泊《とめ》置《おい》て衣類は濡《ぬれ》たれば此方のを貸《かし》遣《つかは》したるが着替《きかゆ》る時に一寸《ちよつ》と見し懷中《ふところ》の金は七八百兩と白眼《にらん》だ大膳が眼力《がんりき》はよも違《たが》ふまじ明朝《みやうてう》まで休息《きうそく》させ明日は道案内《みちあんない》に途中まで連出《つれだ》して別《わか》れ際《ぎは》に只一刀|大《だい》まいの金は手を濡《ぬら》さずと語る聲を次の間に寢入《ねいり》し風《ふう》の吉兵衞は委《くはし》く聞取り扨こそ案に違《たが》はざりし山賊の張本《ちやうほん》なりけり斯《かく》深々《ふか/″\》と穽《あな》の内に落し身の今更《いまさら》迯《にげる》とも迯《にが》さんや去乍ら大望のある身をむざ/\と山賊どもの手に懸《かゝ》り相《あひ》果《はつ》るも殘念なりと頻《しき》りに思案《しあん》を廻《めぐ》らしける此時藤井左京は大膳に向ひ某し近頃此地へ參り貴殿の門弟とは相成たれど未《いま》だ寸功《すんこう》も立てざれば切《せめ》て今宵《こよひ》舞込《まひこみ》し仕事は何卒|拙者《せつしや》に料理方《れうりかた》を讓《ゆづ》り給はるべし手始めの功とも致したく明朝《あす》とも云ず今宵の中に結果《かたづけ》申すべしと云ふに大膳のいふ樣貴殿が手始めの功にしたしと有るからは仕事を讓り申べしと聞《きゝ》て左京は大に悦《よろこ》び然《さら》ば早々|埓《らち》明《あけ》んと立上るを大膳は暫《しば》しと押止《おしとゞ》め先々待たれよ今宵の仕事は袋《ふくろ》の物を取り出すよりも易《やす》し先々《まづ/\》一|盃《ぱい》呑《のん》だ上の事とて是より酒宴《しゆえん》を催《もよほ》しける次の間なる吉兵衞は色々と思案し只此上は我膽力《わがたんりよく》を渠等《かれら》に知らせ首尾《しゆび》よく謀《はか》らば毒藥も却《かへつ》て藥になる時あらん此者共を刧《おび》やかし味方に付る時は江戸表《えどおもて》へ名乘《なのり》出《いづ》るに必ず便利《べんり》なるべしと不敵にも思案を定め彼奧座敷に至り燭臺《しよくだい》に灯《あか》りを點《とも》し茵《しとね》の[#「茵の」は底本では「菌の」]上に欣然《きんぜん》と座を占《し》め胴卷《どうまき》の金子は脇《わき》の臺に差置《さしお》き所持の二品を恭々敷《うや/\しく》正面《しやうめん》の床《とこ》に飾《かざ》り悠々《いう/\》として控《ひか》へたり大膳左京の兩人は斯《かゝ》こととは爭《いか》で知るべき盃の數も重《かさ》なりて早十分に醉《ゑひ》を發し今は好《よき》時分《じぶん》なり率《いざ》や醉醒《ゑひざめ》の仕事に掛らんと兩人は剛刀《だんびら》を携《たづさ》へ次の間へ至りて見れば彼若者は居ず大膳|不審《ふしん》に思ひ然《さる》にても慥《たしか》に此處《ここ》へ臥《ねか》せしに何方《いづかた》へも行《ゆく》氣遣《きづか》ひなしと此所彼所と探《さが》して奧座敷へ至れば此は抑《そも》如何《いか》に若者は二|疊《でふ》臺《だい》の上に威儀《ゐぎ》堂々《だう/\》と恐《おそ》れ氣《げ》も無《なく》控《ひか》へたれば兩人は肝《きも》を潰《つぶ》し互ひに顏を見合せて少時《しば》し言葉《ことば》も無《なか》りしが大膳は吉兵衞に向ひ我こそは赤川大膳とて則《すなは》ち山賊の棟梁《とうりやう》なりまた此《これ》なるは藤井左京とて近頃此山中に來りて兄弟の縁《えん》を結《むす》びし者なり汝《なんぢ》當所《たうしよ》へ泊《とま》りしは運命《うんめい》の盡《つく》る處なり先刻《せんこく》見置《みおき》し金子はや/\拙者どもへ差出せよと荒々《あら/\》しげに申ける吉兵衞は少しも惡《わる》びれたる氣色《けしき》もなく此方《こなた》に向ひ兩人ども必ず慮外《りよぐわい》の振舞《ふるまひ》を致す事なかれ無禮《ぶれい》は許す傍《そば》近《ちか》く參るべし我は忝《かたじ》けなくも當將軍家|吉宗公《よしむねこう》の御落胤《ごらくいん》なり當山中に赤川大膳といふ器量《きりやう》勝《すぐ》れの浪人の有るよしを聞及びしゆゑ家來に召抱《めしかゝ》へたく遙々《はる/″\》此處まで參りしなり聊《いさゝ》かの金子などに心を掛《かけ》る事なく予《よ》に隨身《ずゐしん》なすべし追《おつ》ては五萬石以上に取立て大名にし遣《つか》はすべし迷《まよひ》を取《とら》ず聢《しか》と返答《へんたふ》致すべしとさも横柄《わうへい》に述《のべ》けるに兩人再び驚きしが大膳は聲を勵《はげま》し汝天下の御落胤《ごらくいん》などとあられもなき僞《いつは》りを述べ我々を欺《あざ》むき此場を遁《のが》れんとする共|我《われ》何《なん》ぞ左樣の舌頭《ぜつとう》に欺《あざ》むかれんや併し夫には何か證據《しようこ》でも有て左樣には申すか若《もし》も當座《たうざ》の出たらめなれば思ひ知《しら》すと睨付《ねめつけ》れば吉兵衞|莞爾《につこ》と打笑ひ其方共の疑《うたが》ひも理なきにあらず先づ是を見て疑念《ぎねん》を散ずべしと彼二品を差示《さししめ》せば大膳は此品々を受取|先《まづ》御墨附《おすみつき》を拜見するに正《まさ》しく徳太郎君の御名乘に御書判《おかきはん》をさへ据《すゑ》られたり又|御短刀《おんたんたう》を拜見し暫く見惚《みとれ》て有りしが大膳|急《きふ》に座を飛退《とびしさ》り低頭平身《ていとうへいしん》して敬《うやま》ひ私儀は赤川大膳とて元《もと》水戸家《みとけ》の藩中なれば紀伊家に此御短刀の傳はりし事は能々《よく/\》知れり斯る證據のある上は將軍の御落胤《ごらくいん》に相違なし斯る高貴《かうき》の御方とも存じ申さず無禮の段恐れ入り奉りぬ幾重《いくへ》にも御免《おんゆる》しを蒙《かうむ》り度此上は我々共御家來の末《すゑ》に召し出さるれば身命を抛《なげう》つて守護仕《しゆごつかまつ》[#ルビの「しゆごつかまつ」は底本では「しゆごつかま」]るべし御心安く思し召さるべし然れども我々は是迄《これまで》惡逆《あくぎやく》をなせし者なり江戸表へ御供致せば惡事《あくじ》露顯《ろけん》いたすべし然《さ》れば忽《たちま》ち罪科《ざいくわ》に行はれんが此儀は如何あらんと云ふに吉兵衞は答へて予が守護を致し江戸表へ參り親子《しんし》對面《たいめん》する上は是迄の舊惡《きうあく》は殘らず赦《ゆる》し遣《つかは》すべしとの言葉に大膳は有難く拜伏《はいふく》し茲に主從《しうじう》の約をなし左京をも進《すゝ》めて此《これ》も主家來の盃盞《さかづき》をさせにける此時吉兵衞は布團《ふとん》の上より下《くだ》り兩人に向ひ申けるは我《われ》將軍《しやうぐん》の落胤《らくいん》とは全く僞りにて實は紀州名草郡平野村の修驗者《しゆけんじや》感應院の弟子寶澤といふ者なるが平野村にお三婆と云ふ者あり其娘こそ誠にお胤《たね》を孕《やど》し此御墨附《このおすみつき》と御短刀を戴きしが其若君は御|誕生《たんじやう》の日にお果《はて》なされ其娘も空しくなり此二品は婆の持腐《もちぐされ》にしたるを我十二歳の時婆を殺し此品々を奪取《うばひとり》江戸へ名乘出んとは思しが師匠《ししやう》感應院《かんおうゐん》の口より泄《もれ》んも計りがたければ師匠は我十三歳の時に毒殺《どくさつ》したり尚も幼顏《をさながほ》を亡《なく》さん爲に九州へ下り熊本にて年月を經り大望を企《くはだ》つるには金子《きんす》なくては叶《かな》ふまじと此度金七百兩を掠《かす》め取り出奔《しゆつぽん》なし船頭|杢右衞門《もくゑもん》を誑《たばか》りて天神丸の上乘《うはのり》し不慮《ふりよ》の難に遇《あひ》て此處まで來れる事の一伍一什《いちぶしじふ》を虚實《きよじつ》を交《まじ》へて語りければさしもの兩人も舌を卷《ま》き恐れ其不敵なるを感じ世に類《たぐ》ひなき惡者《わるもの》も有れば有る者とます/\心を傾《かたぶ》けて兩人とも一味なして寶澤が運《うん》を開き西丸へ乘込《のりこみ》の節は兩人とも五萬石の大名に取立らるゝ約束《やくそく》にて血判《けつぱん》誓詞《せいし》にぞ及びける [#8字下げ]第十三回[#「第十三回」は中見出し]  扨も赤川藤井の兩人は寶澤の吉兵衞に一味なしけるが此時《このとき》大膳《だいぜん》は兩人に向ひて我手下は今三十一人|有《あれ》ども下郎は口の善惡《さが》なき者なり萬一此一大事の手下の口より漏《もれ》んも計り難し我に一の謀計《ぼうけい》こそ有《あれ》後《のち》の災《わざは》ひを避《さけ》んには皆殺しにするより外《ほか》なし夫には斯々と密《ひそか》に酒の中へ曼多羅華《まんだらげ》といふ草を入《いれ》惣手下《そうてした》の者へ酒一|樽《たる》與へければ爭《いか》でか斯る工《たくみ》のありとは思はんや夢《ゆめ》にも知ず大に歡《よろこ》び頓《やが》て酒宴を開きけるに皆々|漸次《しだい》に酩酊《めいてい》して前後を失《うしな》ふ[#「失《うしな》ふ」は底本では「失《うしな》なふ」]程に五體《ごたい》俄《にはか》に痿痺出《しびれだ》せしも只醉の廻りしと思ひて正體《しやうたい》もなきに大膳等は此體《このてい》を見て時分は宜《よし》と風上より我家に火をば懸《かけ》たりける折節《をりふし》山風|烈《はげし》くして炎《ほのほ》は所々へ燃移《もえうつ》れば三十一人の小賊共スハ大變《たいへん》なりと慌騷《あわてさわ》ぐも毒《どく》酒に五體の利《きか》ざれば[#「利ざれば」は底本では「利ざれは」]憐《あは》れむべし一人《ひとり》も殘らず燒燗《やけたゞれ》て死亡《しばう》に及ぶを強惡《がうあく》の三人は是を見て大に悦びまづ是にて災《わざはひ》の根《ね》は斷《たち》たれば更に心殘《こゝろのこ》りなし大望|成就《じやうじゆ》は疑《うたが》ひなし今は此地に用はなし急《いそ》ぎ他國へ立越《たちこえ》ん幸ひ濃州《のうしう》谷汲の長|洞村《ほらむら》法華《ほつけ》山常樂院長洞寺の天忠日信と云は親《おや》藤井紋太夫の弟にて我爲には實の伯父《をぢ》なるが斯《かゝ》る事の相談には屈強《くつきやう》の軍略《ぐんりやく》人にて過つる頃《ころ》大|恩《おん》を受し師匠の天道と云を縊殺《しめころ》し僞筆《にせひつ》の讓状《ゆづりじやう》にて常樂院の後住と成り謀計《ぼうけい》に富たる人なりと云ば寶澤は打《うち》點頭《うなづき》そは又|妙《めう》なりとて則ち赤川大膳が案内《あんない》にて享保《きやうほ》十一|丙午《ひのえうま》年正月七日の夜に伊豫國《いよのくに》藤が原の賊寨《ぞくさい》を立去三人道を急ぎ同月下|旬《じゆん》美濃國《みのゝくに》なる常樂院へ着《ちやく》し案内を乞《こひ》拙者《せつしや》は伊豫國藤が原の者にて赤川大膳と申す者なり參《まゐ》りし趣《おもむ》き取次玉はるべしといふ取次の小侍《こさむらひ》は早速此事を奧《おく》へ通じたれば天忠聞て大膳と有《あら》ば我甥《わがをひ》なり遠慮に及ばず直に居間《ゐま》へ通すべしとの事なれば取次の侍案内に及べば大膳は吉兵衞《きちべゑ》左京《さきやう》の兩人を次の間へ控《ひかへ》させ己れ獨《ひと》り居間へ通り久々《ひさ/″\》の對面《たいめん》に互《たが》ひに無事を賀《が》し暫《しば》し四方山の話に時をぞ移《うつ》しける時に天忠は大膳に向《むか》ひ先達《せんだつ》ての手紙にて伊豫の藤が原とかに住居《すまひ》たる由は承知《しようち》したり彼地にて家業《かげふ》は何を致し候や定めて忙《いそが》しき事ならんとの尋《たづね》に大膳は然氣《さりげ》なく御意《ぎよい》の如し藤が原に浪宅《らうたく》を營《いとな》み候へ共《ども》彼地は至て邊鄙《へんぴ》なれば家業も隙《ひま》なり夫故《それゆゑ》此度同所を引拂《ひきはら》ひ少々御|内談《ないだん》も致度事これありて伯父上《をぢうへ》の御許《おんもと》へ態々《わざ/\》[#ルビの「わざ/\」は底本では「わさ/\」]遠路《ゑんろ》を厭《いとは》ず參りしと云ば天忠聞て其は又何事ぞや夫には何ぞ面白《おもしろ》き事でも有やと申けるに大膳|答《こたへ》て參《さん》候|隨分《ずゐぶん》面白《おもしろ》からぬにも此なし萬《まん》よく仕課《しおほ》せなば五萬石|位《ぐらゐ》の大名には成るゝ事なれ共夫には我々の短才《たんさい》では行屆《ゆきとゞ》き申さず依て伯父御《をぢご》の智慧《ちゑ》を拜借《はいしやく》仕つり度是迄|推參《すいさん》候といふに強慾《がうよく》無道《ぶだう》の天忠和尚|滿面《まんめん》に笑《ゑみ》を含《ふく》み夫は重疊《ちようでふ》の事なり扨《さて》其|譯《わけ》は如何にと尋ぬるに大膳は膝《ひざ》を進《すゝ》め聲を低《ひく》くし申けるは此度藤が原より召連れ候者あり只《たゞ》今御次に控《ひかへ》させたり其中一人の若人《わかうど》吉兵衞と申す者實は生國《しやうこく》は紀州《きしう》名草郡《なぐさのごほり》平野村《ひらのむら》なる感應院《かんおうゐん》と申す修驗者《しゆけんじや》の弟子《でし》にて寶澤と申す者なりしが今より十餘年前此平野村にお三婆といふ産婆《とりあげばゝ》ありその娘《むすめ》の澤《さは》の井と云が紀州家の家老職《からうしよく》加納將監《かなふしやうげん》方へ奉公せし折將軍家は其|頃《ころ》徳太郎君と申し御部屋|住《ずみ》にて將監方に在《おは》しけるが彼澤の井に御手を付させられ懷姙《くわいにん》し母お三婆の許《もと》へ歸る砌《みぎり》御手づから御|墨付《すみつき》と御|短刀《たんたう》を添《そへ》て下し置れしが御懷姙の若君《わかぎみ》は御|誕生《たんじやう》の夜|空《むな》しく逝去遊《おかくれあそ》ばせしを見より澤の井も産後《さんご》の嘆《なげ》きに血上りて此も其夜の中《うち》に死去したり依《よつ》てお三婆は右の二品を所持なせど更《さら》に人には語《かた》る事も無りしが寶澤は別して入魂《じゆこん》の上に未だ少年《こども》の事なれば心も許《ゆる》して右の次第を物語《ものがた》りしかば寶澤が十二歳の時|彼《かの》婆を縊殺《しめころ》[#ルビの「しめころ」は底本では「くめころ」]し其二品を奪《うば》ひ取|大望《たいまう》の妨《さまた》げなればとて師匠感應院をも毒殺《どくさつ》し其身は諸國修行《しよこくしゆぎやう》と僞《いつは》り平野村を發足《ほつそく》し其翌日|加田浦《かだのうら》にて白犬を殺《ころ》し其血にて自分は盜賊《たうぞく》に切殺《きりころ》されし體《てい》に取拵《とりこしら》へ夫より九州へ下り肥後《ひご》の熊本《くまもと》にて加納《かなふ》屋利兵衞といふ大家に奉公し七百兩餘の金子を掠《かす》め夫を手當《てあて》として江戸表へ名乘《なのり》出んとせし船中にて難風《なんぷう》に出合|船頭《せんどう》も水主《かこ》も皆々《みな/\》海底《かいてい》の木屑《もくづ》となりしが果報《くわはう》めで度《たき》吉兵衞|一人《ひとり》は辛《から》ふじて助《たす》かり藤が原なる拙者の隱《かく》れ家へ來り右の次第を物語れり證據《しようこ》の品も慥《たしか》なれば我々も隨從《ずゐじう》して將軍の御|落胤《らくいん》なりと名乘出ん所存なり萬々《ばん/\》首尾《しゆび》よく仕課《しおほ》せなば寶澤の吉兵衞には西の丸《まる》へ乘込《のりこむ》か左|無《なく》とも三家の順格位《じゆんかくぐらゐ》は手の内なれば此度《このたび》同道仕つりしと詳《つまび》らかに物語れば天忠は始終《しじう》を聞て思ず太息《といき》を吐《つき》驚き入たる大膽《だいたん》の振舞《ふるまひ》[#「振舞」は底本では「振動」]其性根《そのしやうね》ならんには首尾《しゆび》よく成就《じやうじゆ》なすべしと偵《さすが》の天忠も密《ひそか》に舌《した》をば卷《まき》て先兎も角も對面《たいめん》せんと大膳《だいぜん》に案内《あんない》[#ルビの「あんない」は底本では「あいない」]させければ吉兵衞左京の兩人は天忠和尚に對面にぞ及びたり此天忠の弟子に天一と云ふ美僧《びそう》あり年は廿歳許《はたちばかり》なり三人へ茶《ちや》の給事《きふじ》などして天忠の傍《かたは》らに控《ひか》へける此時天忠は天一に向ひ用事|有《あら》ば呼《よぶ》べし夫迄《それまで》臺所《だいどころ》へ參り居よと云《いへ》ば天一は勝手《かつて》へと退《しりぞ》きける強慾《がうよく》の天忠は兩人に向ひ委細《ゐさい》の事は只今大膳より聞《きゝ》及び承知したり併《しか》し箇樣《かやう》の大望《たいまう》は中々|浮《うき》たる事にては成就《じやうじゆ》覺束《おぼつか》なし先《まづ》根本《こんぽん》より申合せて巧《たく》まねば萬一《まんいち》[#「萬一《まんいち》」は底本では「萬 《まん  》」]中折《なかをれ》して半途《はんと》に露顯《ろけん》に及ぶ時は千辛萬苦《せんしんばんく》も水の泡《あわ》[#ルビの「あわ」は底本では「あか」]と成《なる》計《ばかり》か其身の一大事に及ぶべし先|名乘《なのり》出る時は必ず其生れ所と育《そだち》し所を糺《たゞ》さるべし其答が胡亂《うろん》にては成ず即ち紀州名草郡平野村にて誕生《たんじやう》と申立る時は差向《さしむき》紀州を調《しら》べられんには忽《たちま》ち化《ばけ》の皮の顯《あらは》るゝなり此儀は既《すで》に疾《とく》差支《さしつかへ》なく整《とゝ》のひ居るにやと問に大膳始め吉兵衞|左京《さきやう》も未だ其|邊《へん》の密議《みつぎ》に及ばねば礑《はた》と返答《へんたふ》に當惑《たうわく》なしぬ時に大膳は了簡《れうけん》有氣に其儀は先達《せんだつ》てより心付き種々《しゆ/″\》工夫《くふう》は仕つれど未だ然るべき考《かんが》へも付ず願《ねがは》くは伯父上の御工夫をといふを聞て天忠|暫《しば》し兩手を組《くみ》て默然《もくねん》たりしが稍《やゝ》有て三人に向《むか》ひ拙僧《せつそう》少し所存あり夫は只今此所へ茶を汲《くみ》て參《まゐ》りし者は當時は拙者弟子なれども元は師匠《ししやう》天道《てんだう》が[#「天道《てんだう》が」は底本では「道天《だうてん》が」]弟子にて渠《かれ》は師匠が未だ佐渡《さど》の淨覺院《じやうがくゐん》の持主たりし時門前に捨《す》て有しを拾《ひろひ》上げ養育《やういく》して弟子と成《なし》ける者なり天道|遷化《せんげ》の後は拙僧が弟子となして永年|召使《めしつか》ふ者なれば何《いか》にも不便《ふびん》には存ずれど大功は細瑾《さいきん》を顧《かへり》みずと依て彼《かれ》を殺《ころ》し其後吉兵衞殿に剃髮《ていはつ》させ面《おも》ざしの似たるを幸《さいは》ひ天一坊と名乘せ御出生の後佐州相川郡|尾島《をじま》村の淨覺院の門前に御墨付と御短刀を添《そへ》て捨て有しを天忠が拾上げ養育なし奉《たてま》つり其後|當所《たうしよ》美濃國常樂院へ轉住《てんぢう》の頃も伴《とも》なひ奉つりたれば御|成長《せいちやう》は美濃國《みのゝくに》と申立なば誰《たれ》有て知者あらじ然すれば紀州の調《しら》べも平野村の糺《たゞし》も無して事の破《やぶる》る氣遣《きづかひ》なし此儀如何にと申ければ三人は感《かん》じ入|誠《まこと》に古今の妙計《めうけい》と一同是に同じける此時常樂院また申けるは今天一を殺は易《やす》けれど爰《こゝ》に一ツの難儀《なんぎ》といふは小姓《こしやう》次助佐助の兩人にて渠《かれ》は天一とは幼年《えうねん》より一所に育《そだち》し者なれば天一を殺せば兩人の口より密計《みつけい》の露顯《ろけん》に及は必定《ひつぢやう》なり然《され》ば兩人とも生《いか》し置難し無益《むやく》の殺生《せつしやう》に似《に》たれど是非《ぜひ》に及ばず[#「及ばず」は底本では「及ばす」]此兩人をも殺害《せつがい》すべし扨《さて》彼《かの》兩人を片付る手段といふは明日各々方に山見物させ其|案内《あんない》に兩人を差遣《さしつか》はすべし山中に地獄谷《ぢごくだに》と云處あり此所《ここ》にて兩人を谷底《たにそこ》に突落《つきおと》して殺し給へ必ず仕損《しそん》ずる事あるまじ其|留守《るす》には老僧《らうそう》天一を片付申すべし年は老《よつ》たれどもまだ一人や二人の者を殺すは苦《く》もなし拙僧の儀は御氣遣《おきづかひ》有《ある》べからず呉々《くれ/″\》小姓共は仕損じ給ふな[#「給ふな」は底本では「給なふ」]と約束《やくそく》し夫より酒宴を催《もよほ》し四方山の雜談《ざふだん》に時を移し早|子《ね》の刻《こく》も過《すぎ》たれば皆々|臥房《ふしど》へ入にける天忠は翌朝《よくてう》は何時より早く起出《おきいで》小姓の次助佐助兩人に今日は御客人《おきやくじん》が山|見物《けんぶつ》にお出なれば其方共御案内致すべし別して地獄谷の邊《あたり》は他國の人には珍《めづ》らしく思はるべければ能々《よく/\》御案内申せよと言付《いひつけ》られ神ならぬ身の小姓兩人は畏《かしこ》まりしと支度《したく》して三人を伴《ともな》ひ立出《たちいで》たり [#8字下げ]第十四回[#「第十四回」は中見出し]  去程《さるほど》に常樂院《じやうらくゐん》の小姓次助佐助の[#「小姓次助佐助の」は底本では「小性次助佐助の」]兩人《りやうにん》は己《おのれ》が命の危《あやふ》きをば知よしなく山案内《やまあんない》として大膳吉兵衞左京の三人を伴《ともな》ひ山中さして至《いた》る事凡一|里《り》許《ばかり》なり爰《こゝ》は名に負《おふ》地獄谷《ぢごくだに》とて巖石《がんせき》恰も劔の如きは劔の山に髣髴《さもに》たり樹木生茂りて底《そこ》も見え分ぬ數千丈の谷は無間《むげん》地獄とも云なるべし何心なき二人の小姓《こしやう》は師匠《ししやう》の詞《ことば》に從がひ爰こそ名に高き地獄谷なり能々|御覽《ごらん》あれと巖尖《いはかど》に進て差示せば三人は時分《じぶん》は宜《よき》ぞと竊に目配《めくばせ》すれば赤川大膳藤井左京|直《つゝ》と寄て次助佐助が後に立寄《たちより》突落《つきおと》せば哀《あは》れや兩人は數《すう》千|丈《ぢやう》の谷底《たにそこ》に眞逆樣《まつさかさま》に落入て微塵《みぢん》に碎けて死失たりまた常樂院は五人の者を出し遣《やり》し後に天一を呼《よび》近《ちか》づけ今日は次助佐助は客人《きやくじん》の山案内に遣《つかは》し留主なれば太儀ながら靈具《れいぐ》は其方仕つるべしと云に天一|畏《かしこ》まり品々の靈具を取揃《とりそろ》へ先住の塚《つか》へ供にと行《ゆく》跡《あと》より天忠は殊勝氣《しゆしようげ》に法衣《ほふい》を着《ちやく》し内心は惡鬼羅刹《あくきらせつ》の如く懷《ふとこ》ろに短刀を用意し何氣なき體《てい》にて徐々《しづ/\》と歩行寄けり天一は[#「天一は」は底本では「天 は」]斯る惡心ありとは夢《ゆめ》にも知ず靈具を供畢《そなへをは》り立上らんとする處を天忠は隱《かく》し持たる短刀を拔手《ぬきて》も見ず柄《つか》も徹《とほ》れと突立れば哀むべし天一は其儘《そのまゝ》其處へ倒れ伏ぬ天忠は仕遂《しすまし》たりと法衣を脱捨《ぬぎすて》裾《すそ》をからげ萬毒《ばんどく》の木の根を掘《ほり》て天一が死骸《しがい》を埋め何知ぬ體に居間へ立戻《たちもど》り居る所へ三人も歸來り首尾《しゆび》よく地獄谷へ突落せし體を告囁《つげさゝや》けば天忠は點頭《うなづき》て拙僧も各々の留主に斯樣々々に計《はから》ひたれば最早|心懸《こゝろがか》りはなし然《され》ばとて大望《たいまう》の密談《みつだん》をなし已に其議も調のひければ急に本堂《ほんだう》の脇《わき》なる座敷に上段を營《しつら》へ前に簾《みす》を下《おろ》し赤川大膳藤井左京の兩人は繼上下《つぎかみしも》にて其前に控《ひか》へ傍らに天忠|和尚《をしやう》紫の衣を着し座す其|形勢《ありさま》いと嚴重《げんぢう》にして先本堂には紫縮緬《むらさきちりめん》に白《しろ》く十六の菊《きく》を染出《そめいだ》せし幕《まく》を張り渡し表門には木綿地《もめんぢ》に白と紺《こん》との三|筋《すぢ》を染出したる幕を張《はり》惣門《そうもん》の内には箱番所《はこばんしよ》を置き番人は麻上下《あさがみしも》の者と下役は黒羽織《くろはおり》を着し者を詰《つめ》させ檀家《だんか》の者たりとも表門の通行《つうかう》を禁《きん》じ裏門《うらもん》より出入させ墓場への參詣《さんけい》をば許せども本堂《ほんだう》への參詣は堅《かた》く相成ざる由を箱番所《はこばんしよ》の者共より制《せい》させける是則ち天一坊|樣《さま》の御座所と唱《とな》へて斯の如く嚴重《げんぢう》に構《かま》へしなり又天忠は兩人の下男に云付る樣は天一坊御事は是迄は世を忍《しの》び拙僧《せつそう》が弟子と披露《ひろう》し置候へ共|實《じつ》は當將軍家の御|落胤《らくいん》たるゆゑ近々江戸表へ御乘出し遊《あそ》ばされ公方樣《くばうさま》と御親子《ごしんし》の御對顏《ごたいがん》あれば多分《たぶん》西の丸へ入らせ給ふべしさすれば再び御目通りは叶《かな》はざる樣なり依て近々《きん/\》御出立前《ごしゆつたつぜん》に格別《かくべつ》の儀を以て當寺の檀家《だんか》一同へ御目見を仰付らるべし此旨|村中《むらぢう》へ申達すべしとの事なり下男共《げなんども》何事も知らざれば是を聞て肝《きも》を潰《つぶ》し此頃迄|臺所《だいどころ》で一つに食事《しよくじ》をせし天一樣は將軍樣の若君樣《わかぎみさま》なりしか然《され》ばこそ急に簾《みす》の中へ入せられ御|住持樣《ぢうじさま》も[#「御住持樣も」は底本では「御住侍樣も」]打《うち》て替《かは》り御主人の樣に何事も兩手《りやうて》を突《つい》て平伏《へいふく》なさると下男共は此等の事を村内へ觸歩行《ふれあるき》しゆゑ村中一|統《とう》此頃の寺の動靜《やうす》扨《さて》は然る事にて天一樣は將軍家の御落胤にて今度《こんど》江戸へ御出立に成《なれ》ば二度御目通り成ねば當前《あたりまへ》然《さら》ば今の内に御目見《おめみえ》を仰付らるゝは有難い事|迚《とて》村中の者共老若男女殘りなく常樂院へ集來《つどひきた》り天忠に就《つき》て取次を頼《たの》めば和尚は大膳に向ひ拙寺《せつじ》檀家《だんか》の者共天一坊樣|御暇乞《おいとまごひ》に御尊顏《ごそんがん》拜《はい》し奉り度由|哀《あは》れ御聞屆|願《ねが》はんと申上れば是迄の知因《よしみ》に御|對面《たいめん》仰付らるゝとて御座の間の簾《みす》を卷上《まきあぐ》れば二疊臺《にでふだい》に雲間縁《うんけんべり》の疊《たゝみ》の上に天一坊|威儀《ゐぎ》を正《たゞ》して着座《ちやくざ》なし大膳が名前を披露に及べば天一坊は言葉《ことば》少《すく》なに孰《いづれ》も神妙と計《ばか》り大樣の一聲《ひとこゑ》に皆々|低頭《ていとう》平身誰一人|面《おもて》を上て顏を見る者なかりしと爰《こゝ》に浪人體《らうにんてい》の侍《さむらひ》の身には粗服《そふく》を纏《まと》ひ二月の餘寒《よかん》烈《はげし》きに羊羹色《やうかんいろ》の絽《ろ》の羽織を着て麻の袴《はかま》を穿《はき》柄《つか》の解《はづ》れし大小を帶《たい》せし者|常樂院《じやうらくゐん》の表門へ進み入《いら》んとせしが寺内の嚴重《げんぢう》なる形勢《ありさま》を見《み》て少し不審《ふしん》の體にて箱番所の前を行過《ゆきすぎ》んとすれば箱番所に控へし番人は聲をかけ貴殿《きでん》には何人にて何《いづれ》へ通り給ふや當時《たうじ》本堂は將軍《しやうぐん》の若君《わかぎみ》天一坊樣の御座所《ござしよ》と相成り我々晝夜相詰|罷《まかり》ありと咎《とがむ》れば浪人は拙者《せつしや》は當院の住職《ぢうしよく》天忠和尚の許へ相通る者なりと答ふ然ば暫時《ざんじ》此處に御休息《ごきうそく》あるべし其段《そのだん》拙者共より方丈《はうぢやう》へ申通じ伺《うかゞ》ひし上にて御案内《ごあんない》せんといふに彼浪人も夫は尤《もつと》もの事なりと自分《じぶん》も番所へ上れば番人は浪人の姓名《せいめい》を問に只先生が參りしと申給へと云ば番人は顏《かほ》見合《みあは》せ先生と許では何《なに》先生《せんせい》なるや分り申さず御名前《おなまへ》を承《うけた》まはりたしといふ左樣ならば方丈へ山内先生が參《まゐ》りしと申し給へとの事なれば早速《さつそく》其趣《そのおもむ》きを通《つう》じければ山内先生の御出とならば自身に出迎《でむかう》べしと何か下心《したごころ》のある天忠が出來《いできた》る行粧《ぎやうさう》は徒士《かち》二人を先立自身は紫《むらさ》きの法衣《ころも》に古金襴《こきんらん》の袈裟《けさ》を掛《かけ》頭《かしら》には帽子《ばうし》を戴き右の手に中啓《ちうけい》を持左の手に水晶《すゐしやう》の念珠《ずず》爪《つま》ぐり沓《くつ》を踏《ふみ》しめ徐々と出來る跡には役僧《やくそう》二人付そひ常に替《かはり》し行粧《ありさま》なり頓《やが》て門まで來り浪人に向《むか》ひ恭々《うや/\》しく是は/\山内先生には宜こそ御入來《ごじゆらい》成たり率《いざ》御案内と先に進《すゝめ》ば浪人《らうにん》は臆《おく》する色なく引續《ひきつゞ》いて隨ひ行ぬ扨此浪人の山内先生とは如何なる者といふに元《もと》は九條前關白殿下《くでうさきのくわんぱくでんか》の御家來にて山内伊賀亮《やまのうちいがのすけ》と稱《しよう》せし者なり近年|病身《びやうしん》を云立《いひたて》九條家を退《しり》ぞき浪人《らうにん》して近頃美濃國の山中に隱《かく》れ住ければ折節《をりふし》この常樂院へ來り近しく交《まじ》はる人なり此人|奇世《きせい》の豪傑《がうけつ》にて大器量《だいきりやう》あれば常樂院の天忠和尚も此山内伊賀亮を敬《うや》まふ事大方ならず[#「大方ならず」は底本では「 方ならず」]今日|計《はから》ずも伊賀亮の來訪《らいはう》に預《あづ》かれば自身に出迎ひて座敷《ざしき》へ請《しやう》じ久々にての對面を喜び種々|饗應《きやうおう》して四方山《よもやま》の物語《ものがた》りには及べり天忠言葉を改め山内先生には今日|幸《さいは》ひの處へ御入來なりし拙僧《せつそう》も大慶《たいけい》に存ずる仔細《しさい》は拙僧が甥《をひ》なる赤川大膳と申者此度將軍家の御落胤《ごらくいん》なる天一坊樣のお供致し拙寺《せつじ》へ御入にて御逗留中《ごとうりうちう》なり近々江戸表へ御名乘出《おんなのりいで》にて御親子御對顏遊ばす筈《はず》ならば時宜に依ては西《にし》の丸《まる》へ居《なほ》らせらるゝか左無とも御三家順格《ごさんけじゆんかく》には受合なり然時は拙僧《せつそう》も立身の小口《こぐち》に先生も御隨身《ごずゐしん》の思召あらば拙僧《せつそう》御吹擧《ごすゐきよ》に及《およ》ぶべしといふ伊賀亮は是を聞《きゝ》暫《しば》し思案して申ける樣和尚は何と思《おも》はるゝや拙者《せつしや》大言《たいげん》を吐《はく》に似たれども伊賀亮|程《ほど》の大才ある者久しく山中に隱《かく》れて在《ある》は黄金《こがね》を土中に埋《うづ》むるに均し今貴僧の咄《はな》さるゝ天一坊殿にも此伊賀亮の如き者一人|召抱《めしかゝへ》に相成ば此上もなき御仕合と申もの也我も立身に望《のぞみ》なきにあらず老僧《らうそう》宜《よろし》く取計ひ給へと申ける常樂院大に喜こび早速《さつそく》大膳にも相談《さうだん》[#ルビの「さうだん」は底本では「さんだん」]に及びし所ろ大望《たいまう》を企《くはだ》つるには一人も器量勝れし者を味方にせねば成就《じやうじゆ》し難《がた》し夫《そ》は屈強《くつきやう》の者なりといふにぞ天忠は打悦び天一坊へ申けるは今日|拙寺《せつじ》へ參る所の客人《きやくじん》は舊《もと》京都《きやうと》九條家の御家來にて當時は浪人し山内伊賀亮と申す大器量人《だいきりやうじん》なり上は天文地理《てんもんちり》を悟《さと》り下《しも》は神儒佛《しんじゆぶつ》の三道に亘《わた》り和學《わがく》軍學《ぐんがく》に至るまで何《なに》一ツ知ずといふ事なき文武兼備の秀才士《しうさいし》なり此人を御家來《ごけらい》と成《なさ》れなば何《いか》なる謀計《ぼうけい》も成就せん事疑ひなしと稱譽《しようよ》して薦《すゝめ》ければ天一坊は大に悦喜《えつき》し左樣の軍師《ぐんし》を得る事大望成就の吉瑞《きつずゐ》なりと云ば天忠は早々御對面ありて主從の契約《けいやく》あるべしと相談《さうだん》茲《こゝ》に一決し天忠は次《つぎ》へ退《しり》ぞき伊賀亮に申樣只今先生の事を申上しに天一坊樣にも先生の大才《だいさい》を御稱美《ごしようび》ありて早速|御召抱《おめしかゝ》へ成るべくとの由なれば直樣《すぐさま》御對面《ごたいめん》あらるべし就《つい》ては先生の御衣服《おいふく》は餘《あま》り見苦《みぐる》し此段をも申上たれば小袖《こそで》一重《ひとかさね》と羽織《はおり》一ツとを下《くだし》置《おか》れたり率御着用有りて然るべしと述《のべ》ければ伊賀亮|呵々《から/\》と笑《わら》ひ貴僧《きそう》の御芳志《ごはうし》は忝《かたじ》けなけれど未だ御對面もなき中に時服《じふく》頂戴《ちやうだい》する謂《いは》れなし又拙者が粗服《そふく》で御對面|成《なさ》れ難くば夫迄の事なり押《おし》て拙者より奉公は願ひ申さずと斷然《きつぱり》言放《いひはな》し立上る勢《いきほ》ひに常樂院は慌《あわ》て押止め然ば其段|今《いま》一應《いちおう》申上べしまづ/\御待下されと待せ置て奧《おく》へ行き暫時《ざんじ》にして出來り然らば其儘《そのまゝ》にて對面《たいめん》有《ある》べしとの事なりと告れば伊賀亮は然《さ》も有べしと頓《やが》て粗服《そふく》のまゝ天忠に引れて本堂の座敷《ざしき》へ到れば遙《はるか》の末座《まつざ》に着座させられぬ [#8字下げ]第十五回[#「第十五回」は中見出し]  此《この》時上段の簾《みす》の前には赤川大膳《あかがはだいぜん》藤井左京《ふぢゐさきやう》の兩人|繼上下《つぎかみしも》にて左右に居並び常樂院|天忠和尚《てんちうをしやう》が披露《ひろう》につれ大膳が簾を卷《まけ》ば雲間縁《うんけんべり》の疊《でふ》の上に錦《にしき》の褥《しとね》を敷《しき》天一坊安座し身には法衣《ころも》を着し中啓《ちうけい》を手に持て欣然《きんぜん》として控《ひか》へたり頓《やが》て言葉を發して九條家の浪人山内|伊賀亮《いがのすけ》とやらん其方の儀は常樂院より具《つぶさ》に承知《しようち》したり此度予に仕《つかへ》んとの志《こゝろ》ざし神妙《しんめう》に思なり以後|精勤《せいきん》を盡すべし率《いざ》主從の契約《けいやく》盃盞《さかづき》遣《つかは》さんと云ばこの時|兼《かね》て用意の三寶《さんばう》に土器《かはらけ》を載《のせ》藤井左京持出て天一坊の前に差置《さしおけ》ば土器取あげ一|獻《こん》を飮干《のみほし》て伊賀亮へ遣《つかは》す時に伊賀亮は頭《かしら》を上《あげ》つく/\と天一坊の面貌《めんばう》を見て土器を取上ず呵々《から/\》と打笑《うちわら》ひ將軍の御落胤《ごらくいん》とは大の僞《いつは》り者餘人は知らず此伊賀亮|斯《かく》の如き淺《あさ》はかなる僞坊主《にせばうず》の謀計《ぼうけい》に欺《あざ》むかれんや片腹痛《かたはらいた》き工《たくみ》かなと急に立退《たちのか》んとするを見て赤川大膳は心中に驚き見透《みすか》されては一大事と氣を勵《はげ》まし何《いか》に山内《やまのうち》狂氣《きやうき》せしか上に對《たい》し奉つり無禮の過言《くわごん》いで切捨《きりすて》んと立よりて刀の柄《つか》に手《て》を掛るを伊賀亮ます/\わらひ茲《こゝ》な刀架《かたなかけ》め其方如き者の刄が伊賀亮の身に立べき切ば見事に切て見よと立掛《たちかゝ》るを左京と常樂院の兩人は中へ分入|押止《おしとゞ》めければ天一坊は疊の上より飛下《とびおり》伊賀亮に向如何に伊賀亮|予《よ》を僞者《にせもの》との過言其意を得ず何か證據《しようこ》が有て左樣には申すや返答聞んと詰寄《つめよれ》ば伊賀亮|動《どう》ずる色なく慥《たしか》に證據なくして麁忽《そこつ》の言を出さんや其|證據《しようこ》を聞んとならば禮《れい》を厚《あつく》して問るべし先《まづ》第一に天一坊の面部《めんぶ》に顯《あら》はれし相《さう》は存外の事を企《くはだ》つる相にて人を僞るの氣|慥《たしか》なり又眼中に殺伐《さつばつ》の氣あり是は他人を切害せし證據|假初《かりそめ》にも將軍家の御落胤に有べからざる凶相《きようさう》なり僞物《にせもの》と申せしがよも誤《あやま》りで厶《ござ》るかと席を叩《たゝい》て申ける天一坊始め皆々口を閉《とぢ》て茫然《ばうぜん》たりしが大膳|堪《こら》へ兼|御墨付《おすみつき》と御|短刀《たんたう》を持出し伊賀亮どの貴殿《きでん》只今の失言《しつげん》聞惡《きゝにく》し則ち御|落胤《らくいん》に相違《さうゐ》なき證據は是にあり篤《とく》と拜見《はいけん》あるべしと出し示せば伊賀亮|苦笑《にがわらひ》しながら然《さら》ば拜見せんと手に取上これは紛《まがひ》なき當《たう》將軍家の御直筆《ごぢきひつ》なり又御短刀を拔《ぬい》て詠《なが》むるに是も亦違もなき天下|三品《さんぴん》の短刀なりと拜見し畢《をは》りて大膳に戻《もど》し成程御證據の二品は慥なれ共天一坊殿に於ては僞物《にせもの》に相違なしといふ此時《このとき》天忠席を進み遖《あつぱ》れなる山内先生の御|眼力《がんりき》恐入たり左樣に星《ほし》を指《さし》て仰らるゝ上は包《つゝ》み隱《かく》すに益《えき》なし此上は有體《ありてい》に申べし實に斯樣《かやう》なりと大望《たいまう》を企てし一|部《ぶ》始終《しじう》落《おち》なく物|語《がた》り此上は何卒《なにとぞ》先生の知略《ちりやく》を以て此證據の品に基《もと》づき事|成就《じやうじゆ》致すやう深慮《しんりよ》の程こそ願はしと述《のべ》ければ伊賀亮は欣然《きんぜん》と打笑ひ左こそ有べし事を分て頼《たの》むとあれば義を見て爲《せ》ざるは勇《いさみ》なしとか惡とは知《しれ》ども一工夫《ひとくふう》仕まつて見申べしと稍《やゝ》暫く思慮《しりよ》に及びけるが人々に向ひ先《まづ》天一殿の面部は當將軍家の幼稚《をさなだち》の御相恰《ごさうがふ》に能《よく》似《に》しのみか音聲《おんじやう》迄も其儘なれば十が九ツ此企《このくはだ》て成就せんと云に皆々打|悦《よろこ》び茲に主從《しうじう》の約をぞ結《むす》び五人|頭《かしら》を差寄て密談《みつだん》數刻《すこく》に及びける伊賀亮申す樣《やう》斯樣《かやう》なる大望を企てるには金子|乏《とぼ》しくては大事成就|覺束《おぼつか》なし第一に金子の才覺《さいかく》こそ肝要《かんえう》なれ其上にて計《はか》らふ旨《むね》こそあれ各々の深慮《しんりよ》は如何と申ければ天一坊|進出《すゝみいで》て其金子の事にて思ひ出せし事あり某《それがし》[#ルビの「それがし」は底本では「れれがし」]先年九州へ下りし砌《みぎ》り藝州《げいしう》宮島《みやじま》にて出會《であひ》し者あり信州《しんしう》下諏訪《しもすは》の旅籠屋《はたごや》遠藤《ゑんどう》屋彌次六と云ふ者にて彼は相應《さうおう》の身代の者のよし語《かたら》ひ置《おき》し事も有ば此者を手引《てびき》とし金子《きんす》才覺《さいかく》致させんには調達《てうだつ》すべき事もあらんと云に任《まか》せ遂《つひ》に其儀に決《けつ》し密々《みつ/\》用意して天一坊と大膳の兩人は長洞《ながほら》村を出立し信州下諏訪へと赴《おもむき》たり漸《やうや》く遠藤屋彌次六方へ着《ちやく》し案内《あんない》を乞《こひ》先年の事を語れば彌次六は先年の事を思出し早速《さつそく》出|迎《むか》へ能こそ御|尋《たづ》ね下されしと夫より種々《しゆ/″\》の饗應《きやうおう》に手を盡《つく》しける天一坊は大膳を彌次六に引合《ひきあは》せ種々《いろ/\》と内談《ないだん》に及びぬ爰に諏訪明神の社人《しやにん》に諏訪右門《すはうもん》とて年齡《とし》未《いまだ》十三歳なれど器量《きりやう》拔群《ばつくん》[#ルビの「ばつくん」はママ]に勝《すぐ》れし者有り此度遠藤屋へ珍客《ちんきやく》の見えしと聞より早速《さつそく》彌次六方へ來り委細《ゐさい》を聞《きゝ》遂《つひ》に彌次六の紹介《とりもち》にて天一坊に對面《たいめん》を遂《と》げ是も主從の約《やく》をぞ結《むす》びける是より彌次六は只管《ひたすら》天一坊を世に出《いだ》さんものと深《ふか》く思ひ込《こみ》兎角《とかく》して金子を調達《てうだつ》せんと右門にも内談《ないだん》をなすに右門の申|樣《やう》は我等《われら》同職《どうしよく》の中《うち》にて有徳《うとく》なるは肥前《ひぜん》なり此者を引入《ひきいれ》なば金子の調達《てうだつ》も致すべし此儀如何|有《あら》んと申ければ彌次六も大いに悦《よろこ》び早々《さう/\》夫となく彼《かの》肥前を招《まね》き樣々《さま/″\》饗應《もてなし》ゐる内天一坊には白綾《しらあや》の小袖《こそで》に紫純子《むらさきどんす》の丸蔕《まるぐけ》を緊《し》め態《わざ》と庭《には》へ出て小鳥《ことり》を詠《なが》め居る體《さま》にもてなし肥前が目に留《とま》りて心中に怪《あや》しと思はせん者と※[#「圖」の「回」に代えて「面から一、二画目をとったもの」、55-15]《はか》るとは毫《つゆ》知らざれば肥前は亭主《ていしゆ》の彌次六に向ひ只《たゞ》今庭へ出給ふ御方は如何《いか》なる客人にや當人《たゞびと》とは思はれずと云に彌次六は仕濟《しすまし》たりと聲をひそめ彼《あの》御方の儀に付ては一朝一夕《いつてういつせき》に述《のべ》がたし先《まづ》は斯樣々々《かやう/\》の御身分の御方なりとて終《つひ》に天一坊と赤川|大膳《だいぜん》に引合せ則《すなは》ち御|墨付《すみつき》と御短刀をも拜見させらるれば元より肥前は篤實《とくじつ》の者故|甚《いた》く恐《おそ》れ敬《うやま》ひぬ彌次六右門の兩人は爰ぞと何《いづ》れにも天一坊樣を御世に出したし夫には少し入用もあり何卒《なにとぞ》貴殿《きでん》の周旋《しうせん》にて金子の御|口入《くちいれ》相《あひ》成まじきやと餘儀《よぎ》もなく頼《たの》みければ肥前は然《さ》る儀《ぎ》なれば拙者《せつしや》には多分の儀は出來|兼《かね》れど少々は工夫《くふう》せんと聞て兩人は大に悦《よろこ》びいよ/\金子御|調達下《てうだつくだ》さるれば天一坊樣江戸表にて御|親子《しんし》御|對顏《たいがん》相濟《あひすみ》なば當明神を御|祈願所《きぐわんじよ》と御定め一ヶ年米三百|俵《ぺう》づつ永代《えいだい》御|寄附《きふ》ある樣に我々|取計《とりはから》ひ申べし然すれば永く社頭の譽《ほま》れにも相成候事なり精々《せい/″\》御|働《はたら》き下されと事十分なる頼《たの》みの言葉《ことば》に肥前の申樣は御入用の金子は何程《いかほど》か存《ぞん》せねど拙者《せつしや》に於ては三百兩を御|用立《ようだて》申べし其上は自力《じりき》に及び難《がた》しといふ彌次六申やう御入用高は未だ篤《とく》と相伺《あひうかゞ》はねば先《まづ》貴殿方《きでんかた》の御|都合《つがふ》もあれば夫だけ御用立下さるべしと云に肥前は委細《ゐさい》承知《しようち》なして歸宅《きたく》せしが早速《さつそく》右の金子三百兩|持參《ぢさん》しければ此|旨《むね》天一坊大膳へ申し談じ則ち天一樣御出世の上は永代米三百俵づつ毎年《まいねん》御|奉納《ほうなふ》有べしと認《したゝ》めし證文《しようもん》と引替《ひきかへ》にし金子をば受取一先|美濃國《みのゝくに》へ立歸らんと天一坊は大膳|右門《うもん》遠藤屋彌次六との三人を同道して常樂院《じやうらくゐん》へ歸り來りて右の首尾《しゆび》を物語れば常樂院もさらば拙僧《せつそう》も一|目論《もくろみ》して見よと庚申待《かうしんまち》を催《もよほ》し講中《かうちう》の内にて紺屋《こんや》五郎兵衞|蒔繪師《まきゑし》三右衞門米屋六兵衞|呉服屋《ごふくや》又兵衞の四|人《にん》を跡へ止め別段《べつだん》に酒肴《しゆかう》を調のへ一間へ招《まね》きて酒も餘程《よほど》廻《まは》りし頃《ころ》常樂院申けるは各々方も御承知の如く是迄は拙僧の弟子と致し世を忍《しの》び給ひし天一坊樣は實は佐州《さしう》相川郡|尾島村《をじまむら》の淨覺院《じやうがくゐん》の門前に捨《すて》られ給ひしを師匠《ししやう》天道和尚の拾《ひろ》ひし上|弟子《でし》に致《いたし》置れしが全《まつた》くは當將軍家の御|部屋住《へやずみ》の内の御|落胤《らくいん》なり此度御|還俗遊《げんぞくあそ》ばし我々御|供《とも》にて江戸|表《おもて》へ御|上《のぼ》り遊ばすなり御|親子《しんし》御|對顏《たいがん》の上は御三家同樣の御大名にならせらるゝは必定《ひつぢやう》なり夫に付ては差向《さしむき》金子御入用なるが只今御用金とし金百兩差上る者には則《すなは》ち三百石の御高《おんたか》を下され五十兩には百五十石三百兩ならば千石其餘は是に准《じゆん》じて宛行《あておこな》はるゝ思召なり然《さ》れば各々方《おの/\がた》も今の内に御用金を差上られなば御|直參《ぢきさん》に御取立に成樣|師檀《しだん》の好《よし》みを以て拙僧|宜《よろし》く御取持せん思し召《めし》もあらば承《うけた》まはらんと説法口《せつぱふぐち》の辯《べん》に任せて思ふ樣に欺《たばか》りければ四人の者共は先頃《さきごろ》よりの寺の動靜《やうす》如何樣|斯《かく》有んと思へど誰も貯《たくは》へは無れど永代《えいだい》の家の株《かぶ》と無理にも金子|調達《てうだつ》仕つらんそれには御|實情《じつじやう》の處も伺《うかゞ》ひたしといふに心得たりと常樂院は奧《おく》へ赴《おも》ぶき此由を咄《はな》し直《すぐ》に四人を伴《とも》なひて客殿《きやくでん》の末座《ばつざ》に待せ置き其身も席《せき》へ列《つら》なりける四人は遙《はる》か向ふを見れば上段の簾《みす》の前に頭《かしら》は半白《はんぱく》にして威《ゐ》有て猛《たけ》からぬ一人の侍《さふら》ひ堂々《だう/\》として控へたり是ぞ山内|伊賀亮《いがのすけ》なり次は未|壯年《さうねん》にして骨柄《こつがら》賤《いや》しからぬ形相《ぎやうさう》の侍ひ二人是ぞ赤川|大膳《だいぜん》と藤井|左京《さきやう》にて何れも大家の家老職と云とも恥《はづ》かしからざる人品《じんぴん》にて威儀《ゐぎ》を正して控へたれば其威風に恐れ四人の者は只々頭を下る計なり [#8字下げ]第十六回[#「第十六回」は中見出し]  扨《さて》も常樂院は紺屋《こんや》五郎兵衞を初め四人の者共に威を示し甘々《うま/\》と用金を出させんと先|本堂《ほんだう》の客殿に請《しやう》じ例《れい》の正面の簾《みす》を卷上れば天一坊は威《ゐ》有《あつ》て猛《たけ》からざる容體《ようだい》に着座す其出立には鼠色《ねずみいろ》琥珀《こはく》の小袖《こそで》の上に顯紋紗《けんもんしや》の十徳《じつとく》を着|法眼袴《はふげんはかま》を穿《はき》たり後の方には黒七子《くろなゝこ》の小袖に同じ羽織|茶宇《ちやう》の袴《はかま》を穿《はき》紫縮緬《むらさきちりめん》の服紗《ふくさ》にて小脇差《こわきざし》を持たる剪髮《ぜんぱつ》の美少年の面體《めんてい》雪《ゆき》を欺《あざむ》くが如きは是なん諏訪右門なり其|傍《かたは》らに黒羽二重《くろはぶたへ》の小袖に煤竹色《すゝたけいろ》の道服《だうふく》を着したるは遠藤屋彌次六一號|鵞湖山人《がこさんじん》なり孰《いづれ》も整々《せい/\》として控たれば四人の者は思はず發《はつ》と計りに平伏《へいふく》す時に天一坊|聲《こゑ》清爽《さはやか》に其方共此度予に隨身《ずゐしん》せんとの願ひ神妙《しんめう》に存ずるなり依《よつて》父上より賜《たま》はりし證據《しようこ》の御品拜見さし許し主從の盃《さかづき》取らすべしとの詞《ことば》の下藤井左京は彼二品を三寶へ戴て恭々敷《うや/\しく》持出し四人の者へ拜見致させたり四人は此二品を拜見して驚き入り何卒《なにとぞ》御|家來《けらい》に御召|抱《かゝへ》下され度と詞を盡《つく》して願ひける是に依て四人より金子四百兩を才覺《さいかく》して差出し御|判物《はんもの》を戴き帶刀《たいたう》苗字《めうじ》をゆるされしかば夫々に改名《かいめい》して家來分となりにける先《まづ》紺屋五郎兵衞は本多源右衞門《ほんだげんゑもん》[#ルビの「ほんだげんゑもん」は底本では「ほんだげんゑももん」]呉服屋又兵衞は南部權兵衞《なんぶごんべゑ》蒔畫師の三右衞門は遠藤森右衞門米屋六兵衞は藤代要人《ふぢしろかなめ》と各々改名に及びたり中にも呉服屋又兵衞は武州|入間《いるま》郡川越に有徳《うとく》の親類《しんるゐ》あれば彼方《どなた》か御同道下さらば金千兩位は出來《しゆつたい》すべしといふにより山内伊賀亮は呉服屋又兵衞を案内として武州川越|在《ざい》の百姓市右衞門方へ到着し是又以前の手續《てつゞき》にて辯《べん》に任《まか》して諸人を欺き櫻井村にて右膳《うぜん》權内《ごんない》馬場《ばば》内にて源三郎七右衞門川越の町にて大坂屋七兵衞|和久井《わくゐ》五兵衞千|塚《つか》六郎兵衞|大圓寺《だいゑんじ》自性《じしやう》寺其外寺院にて七ヶ寺都合廿七人金高二千八百兩|出來《しゆつたい》せり偖《さて》千塚《ちつか》六郎兵衞は帳本《ちやうもと》にて金子は常樂院へ持參の上證文と引替《ひきかへ》る約束《やくそく》にて伊賀亮に附從《つきしたが》ひ川越を發足せしが此六郎兵衞は相州《さうしう》浦賀《うらが》に有徳の親類有ばとて案内し伊賀亮又兵衞と三人にて浦賀へ立越《たちこえ》六郎兵衞の勸《すゝめ》に因て江戸屋七左衞門|叶屋《かなふや》八右衞門|美作《みまさか》屋權七といふ三人の者より金子八百兩を差出して天一坊樣御|出府《しゆつぷ》の節《せつ》は途中《とちう》迄御出|迎仕《むかへつかま》つらんとぞ約束をなし是より伊賀亮等の三人は美濃《みの》へ立|戻《もど》り川越浦賀の兩所にて金子は三千兩餘|出來《しゆつたい》せしと物語れば皆々大に悦《よろこ》び先《まづ》六郎兵衞に夫々の判物《はんもの》を渡《わた》せしかば六郎兵衞は是を請取《うけとり》川越の地へ歸りけり跡《あと》に皆々此※[#「圖」の「回」に代えて「面から一、二画目をとったもの」、58-5]を外《はづ》さず近々に江戸表へ下《くだ》らんと用意にこそは掛《かゝり》ける先呉服物|一式《いつしき》は南部權兵衞是を請込《うけこみ》染物《そめもの》は本多源右衞門|塗物《ぬりもの》の類は遠藤森右衞門が引請夜を日に繼《つい》で支度に掛《かゝれ》ば二月の末には萬々《ばん/\》用意は整《とゝ》のひたり爰に皆々を呼集《よびあつ》め評定《ひやうぢやう》に及ぶ樣は直《すぐ》さま江戸へ下るべきや又は大坂表へ出て動靜《やうす》を窺《うかゞ》はんやと評議|區々《まち/\》にて更に決着《けつちやく》せざりしにぞ山内伊賀亮|進《すゝ》み出て申樣は直《すぐ》に江戸表へ罷下《まかりくだ》らん事先以て麁忽《そこつ》に似て然べからず其|仔細《しさい》は先年駿河大納言殿の御|子息《しそく》長七郎君も先大坂へ御出の吉例《きちれい》も有《あれ》ば此先例に任《まか》せ一先大坂へ出張ゆる/\關東《くわんとう》の動靜《やうす》を見定め變《へん》に應《おう》じて事を計《はか》らはんこそ十全の策《さく》と云べしと理《り》を盡《つく》して申ければ皆一同に此議に同ず道理《もつとも》の事とて評議は此に決定したり然《さら》ば急《いそ》ぎ大坂へ旅館《りよくわん》を構《かま》へ是へ御|引移《ひきうつり》有《ある》べしとて此旅館の借《かり》受方には伊賀亮が内意《ないい》を受則ち常樂院が出立する事にぞ定《さだ》まりぬ頃は享保《きやうほ》十一|午年《うまどし》[#「十一|午年《うまどし》」は底本では「十一|酉年《とりどし》」]三月|朔日《ついたち》常樂院は美濃國|長洞《ながほら》村を出立し道を急ぎ大坂|渡邊《わたなべ》橋|紅屋庄藏《べにやしやうざう》方へぞ着しける此紅屋といふ旅人宿《はたごや》は金比羅《こんぴら》參りの定宿《ぢやうやど》にて常樂院は其夜|主人《あるじ》の庄藏を呼近づけ申樣は此度|聖護院《せいごゐん》の宮《みや》御|配下《はいか》天一坊樣當表へ御出張に付御旅館|取調《とりしら》べの爲に拙寺が罷越《まかりこし》候なり不案内の事ゆえ萬端《ばんたん》其|許《もと》をお頼《たのみ》申なりとて手箱の中《うち》より用意の金子を取出しこれは些少《させう》ながら御|骨折料《ほねをりれう》なりと差出しければ庄藏は大いに悦《よろこ》び委細《ゐさい》畏《かし》こまり候と翌《よく》日|未明《みめい》より大坂中を欠廻《かけまは》り遂《つひ》に渡邊橋向ふの大和屋《やまとや》三郎兵衞の控家こそ然るべしと借《かり》入のことを三郎兵衞方へ申入れしに早速|承知《しようち》しければ庄藏は我家へ歸り其|趣《おもぶ》きを常樂院へ物語れば常樂院は偏《ひとへ》に足下の働《はた》らきなりしと賞賛《しやうさん》し庄藏を案内として大和屋三郎兵衞方に赴《おもむ》き辯《べん》を飾《かざ》りて申樣此度拙寺が本山天一坊樣大坂へ出張に付旅館として足下《そくか》の控家《ひかへや》を借用《しやくよう》の儀を頼入《たのみいれ》しに早速の承知|忝《かたじ》けなしと述終《のべをは》り此は輕少《けいせう》ながら樽代《たるだい》なりと金子を贈《おく》り借用證文を入れ則ち借主は常樂院請人は紅屋庄藏として調印《てういん》し宿老《しゆくらう》へも相屆け萬端《ばんたん》事も相濟たれば常樂院は尚《なほ》も紅屋方に逗留《とうりう》し翌日より大工|泥工《さくわん》の諸職人《しよしよくにん》を雇ひ破損《はそん》の處は修復《しゆふく》を加へ新規《しんき》に建添《たてそへ》などし失費も厭《いと》はず人歩を増《まし》て急ぎければ僅《わづか》の日數にて荒増《あらまし》成就《じやうじゆ》したれば然ば迚《とて》一先歸國すべしと旅館へは召し連下男一人を留守《るす》に殘《のこ》しいよ/\天一坊樣御出張の節《せつ》は斯樣々々と紅屋庄藏大和屋三郎兵衞の兩人に萬端頼み置き常樂院には大坂を發足し道を急ぎ長洞村へ歸り大坂の首尾《しゆび》斯樣々々《かやう/\》の場所へ普請《ふしん》出來《しゆつたい》の事まで申|述《のべ》ければ常樂院が留守中に此方《こなた》も出立の用意|調《とゝの》ひ居れば然《さ》あらば發足有べしとて其|手配《てくば》りに及びける頃は享保十一年四月五日いよ/\常樂院の許《もと》を一同出立には及びたり其|行列《ぎやうれつ》には第一番の油箪《ゆたん》掛《かけ》し長持十三|棹《さを》何れも宰領《さいりやう》二人づつ附添《つきそひ》その跡より萠黄《もえぎ》純子《どんす》の油箪白く葵《あふひ》の御|紋《もん》を染出せしを掛し長持《ながもち》二棹|露拂《つゆばらひ》二人宰領二人づつなり引續《ひきつゞ》きて徒士《かち》二人長棒の乘物にて駕籠脇《かごわき》四人|鎗《やり》挾箱《はさみばこ》草履取《ざうりとり》長柄《ながえ》持|合羽籠《かつぱかご》兩掛《りやうがけ》都合十五人の一列は赤川大膳にて是は先供《さきとも》御長持|預《あづか》りの役なり次に天一坊の行列は先徒士九人|網代《あじろ》の乘物駕籠脇の侍《さむら》ひは南部權兵衞本多源右衞門遠藤森右衞門|諏訪《すは》右門遠藤彌次六藤代|要人《かなめ》等なり先箱二ツは手代《てがはり》とも四人打物手代とも二人跡箱二ツ手代とも四人|傘持《かさもち》草履取合羽籠兩掛|茶辨當《ちやべんたう》等なり引續いて常樂院天忠|和尚《をしやう》藤井左京山内伊賀亮等|孰《いづれ》も長棒の乘物にて大膳が供立に同じ惣《そう》同勢二百餘人其|體《さま》美々《びゞ》しく長洞村を出立し大坂|指《さし》て赴《おもむ》き日ならず渡邊橋向の設《まう》けの旅館へぞ着《ちやく》したり伊賀亮が差※[#「圖」の「回」に代えて「面から一、二画目をとったもの」、59-14]《さしづ》にて旅館の玄關《げんくわん》に紫縮緬《むらさきちりめん》に葵《あふひ》の御紋を染出せし幕《まく》を張渡《はりわた》し檜《ひのき》の大板の表札《へうさつ》には筆太《ふでぶと》に徳川天一坊旅館の七字を書付て門前に押《おし》立玄關には取次の役人繼上下にて控へ何《いか》にも嚴重《げんぢう》の有樣なり是等は夜中にせし事なれば紅屋大和屋も一向《いつかう》に知ざる處ろ翌朝《よくてう》に至り市中の者共は是を見付て只|膽《きも》を潰《つぶ》すばかりにて誰云となく大評判《だいひやうばん》となり紅屋は不審《ふしん》晴《はれ》ず兎《と》も角《かく》もと大和屋三郎兵衞方へ到《いた》り前の段を物語り後難《こうなん》も恐《おそ》ろしければ何に致せ表札と幕をば一先|外《はづ》させ申べしとて兩人は急に袴《はかま》羽織《はおり》にて彼旅館へ赴《おもむ》き中の口に案内を乞《こは》ば此時取次の役人は藤代要人成しが如何にも横柄《わうへい》に何用にやと問ば庄藏三郎兵衞の兩人は手を突《つき》私共は紅屋庄藏大和屋三郎兵衞と申て當町の者なり何卒|急速《きふそく》に常樂院樣に御目|通《とほ》り願ひ相|伺《うかゞ》ひ度儀ありて推參《すゐさん》仕れり此段御取次下さるべしと慇懃《いんぎん》に相|述《のぶ》れば藤代要人は承知し中の口に控させ此趣きを常樂院へ申し通《つう》じければ天忠和尚は偖《さて》は紅屋等が何か六かしき事を申|越《こし》たかと伊賀亮へ此由を談ずれば伊賀亮|打點頭《うちうなづき》夫こそ表札幕《へうさつまく》などの事にて來りしならん返答《へんたふ》の次第は斯々《かう/\》と委細《ゐさい》に常樂院へ差※[#「圖」の「回」に代えて「面から一、二画目をとったもの」、60-5]《さしづ》したりける [#8字下げ]第十七回[#「第十七回」は中見出し]  斯《かく》て常樂院は伊賀亮《いがのすけ》の内意を請《うけ》徐々《しづ/\》と[#「徐々と」は底本では「除々と」]出で來り彼庄藏《かのしやうざう》三郎兵衞の兩人に對面《たいめん》するに兩人は口を揃《そろへ》て申す樣|何《なに》とも恐入《おそれい》り候事ながら貴院《きゐん》先達《せんだつ》て仰聞られ候には聖護院《しやうごゐん》宮樣の御配下《ごはいか》にて天一坊樣の御|旅館《りよくわん》とばかり故庄藏御|世話《せわ》申三郎兵衞の明店《あきだな》御用立差上候ひしに只今|御玄關《おげんくわん》を拜見仕つるに徳川天一坊樣|御旅館《ごりよくわん》との御表札《ごへうさつ》あり又|御玄關《おげんくわん》には葵御紋《あふひごもん》の御幕《おんまく》を張せられしが右樣の儀ならば前《まへ》以て私共《わたくしども》へお話《はなし》の有べき筈《はず》なり若し此事|町奉行所《まちぶぎやうしよ》より御沙汰《ごさた》あらば貸主《かしぬし》三郎兵衞は勿論《もちろん》世話人の庄藏までの難儀《なんぎ》なり何卒《なにとぞ》右の表札《へうさつ》と御玄關なる御紋付《ごもんつき》のお幕はお取外《とりはづ》しを願ひ候といふに常樂院は兩人の言葉《ことば》を聞て打笑乍《うちゑみなが》ら申けるは成程|仔細《しさい》を知《しら》ねば驚《おどろ》くも無理ならず然《され》ども御表札《ごへうさつ》と御紋付《ごもんつき》の幕を暫時《ざんじ》なりとも取外《とりはず》す儀は叶《かな》ひ難し其故は聖護院|宮樣《みやさま》御配下《ごはいか》天一坊樣御身分は當將軍|吉宗公《よしむねこう》の未だ紀州公|御部屋住《おへやずみ》の時分女中に御儲《おんまう》けの若君にて此度《このたび》江戸表へ御下向《ごげかう》あり御親子《ごしんし》御對顏《ごたいがん》の上は大方《おほかた》は西の丸へ直《なほ》らせらるべし左樣に輕《かる》からぬ御身分《おみぶん》にて徳川は御苗字《ごめうじ》なり又《また》葵《あふひ》は御定紋《ごぢやうもん》なり其方|輩《たち》が少しも案《あん》じるには及ばず若も町奉行《まちぶぎやう》より彼是を申出ば此方へ役人を遣《つか》はすべし屹度《きつと》申渡すべき筋《すぢ》も有《あり》其方共も落度《おちど》には毛頭《もうとう》相成《あひなら》ず氣遣《きづか》ひ無用なり何分|無禮《ぶれい》の無《なき》樣《やう》に致すべしと云渡《いひわた》しければ兩人は是を聞《きゝ》て肝《きも》を潰《つぶ》し將軍の御落胤《ごらくいん》との事なれば少こし安堵《あんど》しけれども後々の咎《とがめ》を恐《おそ》れ早速《さつそく》名主組合へ右の段《だん》を屆《とゞ》け夫より町奉行の御月番《おつきばん》松平日向守殿|御役宅《おやくたく》へ此段を訴《うつた》へける是に依《よつ》て東《ひがし》町奉行鈴木|飛騨守殿《ひだのかみどの》へも御相談《ごさうだん》となり是より御城代《ごじやうだい》堀田相模守殿へ御屆《おんとゞけ》に相成ば御城代は玉造口《たまつくりぐち》の御加番《ごかばん》植村土佐守殿京橋口の御加番戸田|大隅守殿《おほすみのかみどの》へも御相談となりしが先年|松平《まつだひら》長七郎殿の例《れい》もあり迂濶《うくわつ》には取計《とりはから》ひ難し先々町奉行所へ呼寄《よびよせ》篤《とく》と相調《あひしら》べ申べしと相談《さうだん》一|決《けつ》し御月番なれば西町奉行松平|日向守《ひうがのかみ》殿は組與力《くみよりき》堀《ほり》十左衞門片岡逸平の兩人を渡邊橋《わたなべばし》の天一坊の旅館《りよくわん》へ遣《つか》はさる兩人は玄關《げんくわん》より案内《あんない》に及べば取次は遠藤《ゑんどう》東次右衞門なり出て挨拶《あいさつ》に及ぶに兩人の與力《よりき》[#ルビの「よりき」は底本では「よりぎ」]の申には我々は西《にし》町奉行松平日向守|組與力《くみよりき》なるが天一坊殿に御重役《ごぢうやく》御意《ぎよい》得《え》たし少々|御伺《おうかゞ》ひ申度儀ありと述《の》ぶ取次《とりつぎ》の遠藤東次右衞門は早速《さつそく》奧へ斯《かく》と通ぜんと先《まづ》兩人を使者《ししや》の間へ請《しやう》じ暫く御待《おんまち》有べしと控《ひか》へさせける間毎々々《まごと/\》の立派《りつぱ》に兩人も密《ひそ》かに肝《きも》を潰《つぶ》し居しが頓《やが》て年頃は三十八九にて色《いろ》白《しろ》く丈《せい》高《たか》く中肉《ちうにく》にて人品《じんぴん》宜しき男の黒羽二重《くろはぶたへ》の小袖《こそで》に葵《あふひ》の御紋《ごもん》を付《つけ》下には淺黄無垢《あさぎむく》を着《ちやく》し茶宇《ちやう》の袴《はかま》を靜々《しづ/\》と鳴《なら》して出來るは是なん赤川大膳《あかがはだいぜん》なり頓《やが》て座に就て申樣|拙者《せつしや》は徳川天一坊殿|家來《けらい》赤川大膳と申者なり何等の御用向《ごようむき》にて參られしと尋《たづね》ければ與力等《よりきら》は平伏《へいふく》して私し共は當月番《たうつきばん》[#「當月番」は底本では「當日番」]町奉行松平日向守|組與力《くみよりき》堀十左衞門片岡逸平なり奉行日向守申付には天一坊樣へ日向守|御目通《おんめどほ》り致し直《ぢき》に御伺《おんうかゞ》ひ申度儀御座候得ば明日御|役宅迄《やくたくまで》天一坊樣に御入來《ごじゆらい》ある樣との趣《おもむ》きなりと述《のべ》ければ大膳は篤《とく》と聞濟《きゝすま》し其段は一|應《おう》伺《うかゞ》ひの上|御返事《おへんじ》に及び申べしと座を立て奧へ入しが暫《しばら》く有《あり》て出來り兩人に向《むか》ひ御口上の趣《おもむ》き上へ伺《うかゞ》ひしに御意《ぎよい》には町奉行の役宅は非人《ひにん》科人《とがにん》の出入致し穢《けがら》はしき場所の由《よし》左樣の不淨《ふじやう》なる屋敷へは予は參る身ならず用事《ようじ》と有《あら》ば日向守殿に此方へ來られよとの御意《ぎよい》なれば此段《このだん》日向守殿へ御達《おんたつ》し下されと言捨《いひすて》て奧へぞ入たり兩人は手持無沙汰《てもちぶさた》據《よんど》ころなく立歸《たちかへ》り右の次第を日向守へ申|聞《きけ》れば此《こ》は等閑《なほざり》ならぬ事なりとて又も御城代《ごじやうだい》堀田|相摸守殿《さがみのかみどの》へ申上らるれば左樣《さやう》の儀ならば是非《ぜひ》なし御城代|屋敷《やしき》へ呼寄《よびよせ》對面《たいめん》せんと再び堀片岡の兩人を以て御城代《ごじやうだい》堀田相摸守殿|屋敷《やしき》へ明日天一坊殿|入《いら》せられ候樣にと申入ける此度《このたび》は異儀《いぎ》なく承知の趣《おもむ》きの返答《へんたふ》あり依て日向守殿には與力《よりき》同心へ申付る樣《やう》天一樣|定《さだ》めし明日は乘物《のりもの》なるべし然《され》ど御城代の御門前《ごもんぜん》にて下乘《げじよう》致《いた》さすべし若も下乘《げじよう》なき時は屹度《きつと》制止《せいし》に及ぶべしと嚴重《げんぢう》にこそ申渡し翌《あくる》を遲《おそ》しと待《また》れける頃は享保《きやうほ》十一|丙午年《ひのえうまどし》四月十一日天一坊は供揃《ともぞろ》ひして御城代の屋敷《やしき》へ赴《おも》むく其行列《そのぎやうれつ》には先に白木《しらき》の長持《ながもち》二|棹《さを》萌黄純子《もえぎどんす》に葵御紋付《あふひごもんつき》の油箪《ゆたん》を掛け宰領《さいりやう》二人づつ跡《あと》より麻上下《あさがみしも》にて股立《もゝだち》取《とり》たる侍《さむら》ひ一人是は御長持《おながもち》預《あづか》りの役なり續《つゞ》いて金御紋《きんごもん》の先箱《さきばこ》二ツ黒羽織《くろはおり》の徒士《かち》八人|煤竹《すゝたけ》羅紗《らしや》の袋《ふくろ》に白く葵《あふひ》の御紋を切貫《きりぬき》し打物《うちもの》を持せ陸尺《ろくしやく》十人|駕籠《かご》の左右に諏訪右門《すはうもん》本多源右衞門|高間《たかま》大膳同じく權内《ごんない》藤代要人《ふぢしろかなめ》遠藤東次右衞門等また金御紋《きんごもん》の跡箱《あとばこ》二ツ簑箱《みのばこ》一ツ爪折傘《つまをりがさ》には黒天鵞絨《くろびろうど》に紫《むらさき》の化粧紐《けしやうひも》を懸《かけ》銀拵《ぎんごしら》への茶辨當《ちやべんたう》合羽籠《かつぱかご》兩掛《りやうがけ》三|箇《こ》跡《あと》より徒士《かち》四人|朱網代《しゆあじろ》の駕籠侍《かござふら》ひ四人|打物《うちもの》を持せ常樂院|天忠和尚《てんちうをしやう》引續《ひきつゞ》いて同《おな》じ供立《ともたて》にて黒叩《くろたゝ》き十文字の鎗《やり》を持せしは山内伊賀亮《やまのうちいがのすけ》なり其次にも同じ供立に鳥毛《とりげ》の鎗《やり》を持せしは藤井|左京《さきやう》なり少し離《はな》れて白黒《しろくろ》の摘毛《つみげ》の鎗を眞先《まつさき》に押立《おしたて》麻上下《あさがみしも》にて馬上なるは赤川大膳にて今日の御供頭《おともがしら》たり右の同勢|堂々《だう/\》として渡邊橋の旅館を立出《たちいで》下《した》に/\と制しをなし御城代の屋敷《やしき》を指《さし》て來りければ道筋《みちすぢ》は見物《けんぶつ》山《やま》をなして夥《おびた》だしく既に御城代屋敷へ到り乘物《のりもの》を玄關《げんくわん》へ横付《よこづけ》にせん氣色《けしき》を見るより今日|出役《しゆつやく》の與力《よりき》駈來《かけきた》る是ぞ島秀之助といふ者なり大音《だいおん》上《あげ》て下乘々々《げじよう/\》と制せしが更に聞《きか》ぬ風して尚《なほ》も門内へ舁込《かきこま》んとす此時《このとき》島秀之助|駈寄《かけより》天一坊の乘物の棒鼻《ぼうはな》へ手を掛《かけ》て押戻《おしもど》し假令《たとへ》何樣《いかやう》なる御身分たりとも此所にて御下乘あるべし未だ公儀《こうぎ》より御達《おたつ》し無《なき》うちは御城代の御門内《ごもんない》打乘《うちのり》決して相成申さず是非《ぜひ》御下乘と制《せい》して止《やま》ざれば然ばとて餘儀《よぎ》なく門外にて下乘し玄關《げんくわん》へこそは打通《うちとほ》りぬ [#2字下げ]島秀之助が今日の振舞《ふるまひ》後《のち》に關東へ聞え器量《きりやう》格別《かくべつ》の者なりとて元文《ぐわんぶん》三年三月京都|町奉行《まちぶぎやう》を仰付られ島長門守《しまながとのかみ》と言《いひ》しは此人なりし同五年江戸町奉行となり延享《えんきやう》三年|寅年《とらどし》免ぜらる 此時天一坊の裝束《しやうぞく》には鼠琥珀《ねずみこはく》に紅裏付《こううらつき》たる袷小袖《あはせこそで》の下には白無垢《しろむく》を重《かさ》ねて山吹色《やまぶきいろ》の素絹《そけん》を着《ちやく》し紫斜子《むらさきなゝこ》の指貫《さしぬき》を帶《は》き蜀紅錦《しよくこうにしき》の袈裟《けさ》を掛け金作《こがねづく》り鳥頭《とりがしら》の太刀を帶《たい》し手には金地の中啓《ちうけい》を握《にぎ》り爪折傘《つまをりがさ》を差掛《さしかけ》させ沓《くつ》しと/\と踏鳴《ふみなら》し靜々とぞ歩行《あゆみ》ける附從《つきした》がふ小姓《こしやう》の面々には麻上下《あさがみしも》の股立《もゝだち》を取て左右を守護《しゆご》しける引續《ひきつゞ》いて常樂院|天忠和尚《てんちうをしやう》は紫《むらさき》の衣に白地の袈裟《けさ》を掛け殊勝《しゆしよう》げに手に念珠《ねんじゆ》を携《たづさ》へて相隨《あひしたが》ひ山内伊賀亮には黒羽二重《くろはぶたへ》の袷小袖《あはせこそで》に柿染《かきぞめ》の長上下《なががみしも》その外赤川大膳藤井|左京《さきやう》皆々麻上下にて續《つゞい》て隨ひ來る其行粧《そのぎやうさう》は威風《ゐふう》堂々《だう/\》として四邊を拂《はら》ひ目覺《めざま》しくも又|勇々敷《ゆゝしく》ぞ見えたりける斯《かく》て玄關に到れば取次の役人《やくにん》兩人|下座敷《げざしき》まで出迎《でむか》へ案内して廣書院《ひろしよゐん》へ通せしを見るに上段には簾《みす》を下《おろ》し中には二|疊《でふ》臺《だい》の上に錦《にしき》の褥《しとね》を敷て座を設《まう》けたり引れて此處《このところ》へ着座《ちやくざ》すれば左右には常樂院|天忠《てんちう》山内赤川藤井等の[#「常樂院天忠山内赤川藤井等の」は底本では「常樂院天忠山内伊賀藤井等の」]面々|威儀《ゐぎ》を正《たゞ》して座を占《しめ》たり [#8字下げ]第十八回[#「第十八回」は中見出し]  大坂|御城代《ごじやうだい》堀田相摸守殿の屋敷へ天一坊を請《しやう》し書院上段の下段《げだん》に御城代相摸守殿を初《はじめ》として加番《かばん》には戸田|大隅守殿《おほすみのかみどの》同植村土佐守殿|町奉行《まちぶぎやう》には松平|日向守《ひうがのかみ》殿鈴木|飛騨守《ひだのかみ》殿|大番頭《おほばんがしら》松平|采女正《うねめのしやう》殿|設樂《したら》河内守殿|御目附《おんめつけ》御番|衆《しう》列座《れつざ》し縁側《えんがは》には與力[#「與力」は底本では「興力」]十人同心二十人|出役《しゆつやく》致しいと嚴重《げんぢう》に構《かま》へたり時に上段の簾《みす》をきり/\と卷上《まきあぐ》れば御城代堀田相摸守殿|平伏《へいふく》致《いた》され少し頭《かしら》を上て恐れ乍ら今般|如何《いかゞ》なる事ゆゑ御上坂《ごじやうはん》町奉行へ御屆《おんとゞけ》もなく理不盡《りふじん》に御紋付《ごもんつき》の御幕を御旅館《ごりよくわん》へ張せられ町家《まちや》には御旅宿《ごりよしゆく》相成候や剩《あまつ》さへ御苗字《ごめうじ》の表札を建《たて》させ給ふ事|不審《ふしん》に存じ奉る此段|伺《うかゞ》ひ申さん爲今日|御招《おんまね》き申したり御身分の義《ぎ》明《あきら》かに仰聞《おほせきか》せられたしとぞ相述《あひのべ》らる時に天一坊|言葉《ことば》を柔《やはら》げ相摸殿よく承《うけたま》はられよ徳川は予《よ》が本性《ほんせい》ゆゑ名乘申す又《また》葵《あふひ》も予が定紋《ぢやうもん》なる故用ゆる迄《まで》なり何の不審《ふしん》か有べきとの詞《ことば》を聞より相摸守殿は恐《おそれ》ながら左樣の仰聞《おほせきけ》らるゝ計にては會得《ゑとく》も仕《つかま》つり難し右には其御因縁《そのごいんえん》も候はんが其を委敷《くはしく》仰聞られ下《くだ》されたしといふ其時《そのとき》伊賀亮少しく席《せき》を進《すゝ》み相摸守殿に向ひ相摸守には上《うへ》の御身分《ごみぶん》を不審《ふしん》せらるゝ御樣子《ごやうす》是は尤も千萬なり御筋目《おんすぢめ》の儀は委敷|此《この》伊賀より御聽《おんきか》せ申べし抑々《そも/\》天一樣《てんいちさま》御身分と申せば當《たう》上樣《うへさま》未だ御弱年《ごじやくねん》にて紀州表御|家老《からう》加納將監方に御|部屋住《へやずみ》にて渡《わた》らせ給ひ徳太郎|信房《のぶふさ》君と申上し折柄《をりから》將監妻が腰元《こしもと》の澤の井と申女中に御不愍《ごふびん》掛させられ澤の井殿|御胤《おんたね》を宿《やど》し奉つり御形見《おんかたみ》等を頂戴《ちやうだい》し將監方を暇《いとま》を取生國は佐渡《さど》なれば則ち佐州へ老母諸共《らうぼもろとも》に立歸りしが其後《そののち》澤の井殿には若君《わかぎみ》を生《うみ》奉つり産後肥立《さんごひだち》兼《かね》相果られ其後は老母《らうぼ》の手にて御養育《ごやういく》申せしが右の老母|病死《びやうし》の砌《みぎ》り若君をば同國|相川郡《あひかはごほり》尾島村|淨覺院《じやうかくゐん》と申す寺の門前に御|證據《しようこ》の品を相添《あひそへ》捨子《すてご》として有しを是なる天忠淨覺院|住職《ぢうしよく》の砌《みぎ》り拾《ひろ》ひ上て御養育申|上《あげ》し處間もなく天忠には美濃《みのゝ》國|各務郡《かゞみごほり》谷汲郷《たにぐみがう》長洞村常樂院へ轉住《てんぢう》致し候に付若君をも伴《ともな》ひ奉つれり依て御生長《ごせいちやう》の土地は美濃國にて候|此度《このたび》受戒《じゆかい》得道《とくだう》なし奉つり常樂院の後住《ごぢう》にも直《なほ》し申べくと存じ候得ども正《まさ》しく當將軍の御落胤《ごらくいん》たるを知つゝ出家《しゆつけ》になし奉らんは勿體《もつたい》なき儀に付今度我々|守護《しゆご》し奉つり江戸|表《おもて》へ御供仕つるに就《つい》ては一度江戸表へ御下りの上《うへ》は二度|京坂《けいはん》の御見物《ごけんぶつ》も思召に任《まか》せられざるべしと依て只今の内《うち》京坂《けいはん》御遊覽《ごいうらん》の爲|當表《たうおもて》へは御|出遊《いであそば》されしなり委細《ゐさい》は斯の如し相摸殿にも是にて疑念《ぎねん》有べからずと辯舌《べんぜつ》滔々《たう/\》として水の流《なが》るゝ如に述《のべ》たり是を聞居《きゝゐ》る諸役人《しよやくにん》御城代を始《はじ》めとし各々《おの/\》顏を見合せ誰《たれ》有《あつ》て一|言《ごん》申出る者なく如何《いか》にも尤《もつと》もの事と思ふ氣色《けしき》なり此時|御城代《ごじやうだい》相摸守殿申さるゝ樣は成程《なるほど》段々の御申立|委細《ゐさい》承知《しようち》せり併し夫には慥《たしか》に御落胤《おらくいん》たるの御|證據《しようこ》を拜見《はいけん》願ひたしと申さる依て伊賀亮は天一坊に向《むか》ひ御城代相摸守より御證據《ごしようこ》拜見《はいけん》の願ひあり如何《いかゞ》仕《つか》まつらんと云に天一坊は願の趣《おもむ》き聞屆《きゝとゞ》けたり拜見致させよとの事なり則《すなは》ち赤川大膳御|長持《ながもち》を明《あけ》て内より白木《しらき》の箱《はこ》と黒塗《くろぬり》の箱とを取出し伊賀亮が前《まへ》へ差出す時に伊賀亮は天一坊に默禮《もくれい》し恭《うや/\》しく件《くだん》の箱《はこ》の紐《ひも》を解《とき》中より御墨附《おんすみつき》と御|短刀《たんたう》とを取出し相摸殿|率《いざ》拜見《はいけん》と差付れば御城代|初《はじ》め町奉行に至る迄|各々《おの/\》再拜《さいはい》し一人々々に拜見《はいけん》相濟《あひす》む是《これ》紛《まぎれ》もなき正眞《しやうじん》の御|直筆《ぢきひつ》と御短刀なれば一同に驚《おどろ》き入る是に於て疑心《ぎしん》晴《はれ》相摸守殿には伊賀亮に向《むか》ひ斯《かく》確《たしか》なる御證據《おんしようこ》の御座ある上は將軍の御落胤《ごらくいん》に相違なく渡《わた》らせ給へり此段|早速《さつそく》江戸表へ申|達《たつ》し御老中《ごらうちう》の返事《へんじ》を得し上|此方《このはう》より申上べし先《まづ》夫れ迄は當表《たうおもて》に御逗留《ごとうりう》緩々《ゆる/\》御遊覽《ごいうらん》有べき樣|言上《ごんじやう》せらるべし御證據《ごしようこ》の品々は先《まづ》御納下《おんをさめくだ》さるべしと伊賀亮へ返《かへ》しぬ是より種々|饗應《きやうおう》に及び其日の八つ過《すぎ》に御歸館《ごきくわん》を觸《ふれ》ぬ此度は相摸守殿には玄關《げんくわん》式臺迄《しきだいまで》御見送《おんみおく》り町奉行は下座敷へ罷出《まかりい》で表門《おもてもん》を一文字に推開《おしひら》けば天一坊は悠然《いうぜん》と乘物の儘《まゝ》門《もん》を出るや否や下に/\の制止《せいし》の聲々《こゑ/″\》滯《とゞこ》ほりなく渡邊橋の旅館《りよくわん》にこそ歸りける今は誰《たれ》憚《はゞか》る者はなく幕は玄關《げんくわん》へ閃《ひらめ》き表札は雲にも屆《とゞ》くべく恰も旭《あさひ》の昇《のぼ》るが如き勢《いきほ》ひなれば町役人《まちやくにん》どもは晝夜|相詰《あひつめ》いと嚴重《げんぢう》の欵待《あしらひ》なり扨《さて》御城代には御墨附《おすみつき》の寫《うつ》し并びに御短刀《おたんたう》の寸法《すんぱふ》拵《こしら》へ迄|委敷《くはしく》認《したゝ》め委細《ゐさい》を御月番の御老中へ宛《あて》急飛《きふひ》を差立らる爰《こゝ》に又天一坊の旅館《りよくわん》には山内伊賀亮常樂院赤川大膳藤井左京等|尚《なほ》も密談《みつだん》に及び大坂は餘程《よほど》に富《とむ》地《ち》なり此處にて用金《ようきん》を集《あつ》めんと評議《ひやうぎ》に及び即ち紅屋《べにや》庄藏大和屋三郎兵衞の兩人を招《まね》き帶刀を許《ゆる》し扨《さて》申談ずる樣は天一坊樣|此度《このたび》御城代の御面會《ごめんくわい》も相濟たれば近々江戸表よりの御下知《おげぢ》次第|江府《かうふ》へ御下り有て將軍へ御對顏《ごたいがん》相濟《あひすま》ば西の御丸へ直《なほ》られ給《たまふ》に相違なし依て兩人より金三百兩づつ御用金《ごようきん》を差出すに於ては返金《へんきん》は申に及ばず御褒美《ごはうび》として知行《ちぎやう》百石づつ下し置れる樣|拙者《せつしや》どもが屹度《きつと》取り計ひ遣《つかは》すべし若し御家來に御取立を望《のぞ》まずば永代《えいだい》倉元役《くらもとやく》を周旋《しうせん》すべし依て千兩は千石の御墨附《おすみつき》と御引替に下《くだ》し置《おか》るべしと語《かた》らうに兩人とも昨日の動靜《やうす》に安堵《あんど》しければこの事を所々へ取持たれば其を聞傳《きゝつた》へて申込者は鹿島屋兵助鴻池善右衞門角屋與兵衞天王寺屋儀兵衞|襖屋《ふすまや》三右衞門|播磨《はりま》屋五兵衞等を初《はじめ》として我先にと金子《きんす》を持參し少しも早く御用立《ごようだつ》る者は知行《ちぎやう》多く下さるとて毎日々々|紅屋《べにや》方へ取次《とりつぎ》を頼み來る有徳《うとく》の町人百姓又は醫師など迄思ひ/\に五百兩千兩と持參する者引も切《きら》ず其金高日ならずして八萬五千兩に及びければ一同は先《まづ》是《これ》にて差向《さしむき》の賄《まかな》ひ方には不自由無し此上|案《あん》じらるゝは江戸表《えどおもて》の御沙汰《ごさた》ばかり今や/\と相待《あひまち》ける [#8字下げ]第十九回[#「第十九回」は中見出し]  扨《さて》も大坂御城代の早打《はやうち》程《ほど》なく江戸へ到着《たうちやく》し御月番|御老中《ごらうぢう》松平伊豆守殿御役宅へ書状《しよじやう》を差出せば御同役松平|左京太夫殿《さきやうだいふどの》酒井|讃岐守殿《さぬきのかみどの》を始め自餘の御役人|列座《れつざ》の席にて伊豆守殿大坂御城代よりの書面の儀を御相談《ごさうだん》あり何れも慥《たしか》なる證據《しようこ》と有上は大切《たいせつ》の儀なり宜しく上聞に達し御覺悟《おんかくご》有せらるゝ事成ば急《いそ》ぎ當地へ御下《おんくだ》り申し其上|何樣《いかやう》とも思召に任《まか》せ然るべしと評議《ひやうぎ》一決しけるが此儀を上へ伺《うかゞ》ふには餘人にては宜《よろし》からず兼々|御懇命《ごこんめい》を蒙《かうむ》る石川近江守然るべしとて近江守を招《まね》かれ委細《ゐさい》申し含《ふく》め御機嫌《ごきげん》を見合せ伺ひ申べしとのことにて先《まづ》夫迄《それまで》は大坂の早打《はやうち》は留置《とめおけ》との趣きなり近江守は甚だ迷惑《めいわく》の儀なれども御重役《ごぢうやく》の申付|是非《ぜひ》なく御機嫌の宜《よろし》き時節を待居たり或日將軍家には御庭《おんには》へ成せられ何氣《なにげ》なく植木《うゑき》など御覽遊《ごらんあそ》ばし御機嫌《ごきげん》の麗《うるはし》く見ゆれば近江守は御小姓衆《おこしやうしう》へ目配《めくば》せし其座を退《しり》ぞけ獨り御側《おんそば》へ進寄《すゝみより》聲を潜《ひそめ》て大坂より早打《はやうち》の次第を伺《うかゞ》ひたれば甚だ御赤面《ごせきめん》の體にて知《しら》ぬ/\との上意《じやうい》なれば推返して伺ひけるに成程《なるほど》少し心當りはあり書付を遣はせし事ありとの上意なれば近江守は御答《おこたへ》の趣き早速松平伊豆守殿へ申通じければ又々御役人方|御評議《ごひやうぎ》となり御連名にて返翰《へんかん》を遣されたり其文は先達《せんだつ》て仰越《おほせこさ》れ候天一坊殿の儀石川近江守を以て御内意伺ひし處|上樣《うへさま》には御覺悟有せらるゝとの仰なり隨分|粗略《そりやく》なく御取計ひ有べく候|尚《なほ》御機嫌《ごきげん》を見合せ追て申達すべしとの返翰《へんかん》なり斯樣に江戸表より粗略にすべからずとの儀《ぎ》なれば御城代《ごじやうだい》の下知として俄《にはか》に天一坊の旅官《りよくわん》を前後左右に竹矢來《たけやらい》を結び前後に箱番所《はこばんしよ》を取建四方の道筋《みちすぢ》へは與力同心等晝夜出役して往來《わうらい》の旅人|馬《うま》駕籠《かご》は乘打《のりうち》を禁じ頭巾《づきん》頬冠《ほゝかぶ》りをも制し嚴重に警固せり天一坊方にては此樣子を見て先々江戸表の首尾《しゆび》も宜しき事と見えたりとて各々《おの/\》悦《よろこ》び勇み居たりけり [#8字下げ]第二十回[#「第二十回」は中見出し]  去程に御城代《ごじやうだい》より天一坊の旅館を斯く嚴重に警固《けいご》有《あり》ければ天一坊伊賀亮大膳左京常樂院等の五人は一室に打寄事大方は成就《じやうじゆ》せりと悦び然《さら》ば此上は近々の内《うち》當所《たうしよ》を引上出立し京都に赴き諸司代にも威勢《ゐせい》を示し其より江戸表へ下る可《べし》と相談《さうだん》一決《いつけつ》せしが未だ御家來不足なり大坂にて召抱《めしかゝへ》んと夫々へ申付此度|新規《しんき》に抱たる者共には米屋甚助事|石黒善太夫《いしぐろぜんだいふ》筆屋三右衞門事|福島彌右衞門《ふくしまやゑもん》町方|住居《ぢうきよ》の手習師匠|矢島主計《やじまかずへ》辰巳屋《たつみや》石右衞門番頭三次事|木下新助《きのしたしんすけ》伊丹屋十藏事|澤邊《さはのべ》十藏酒屋長右衞門事|松倉《まつくら》長右衞門町|醫師《いし》高岡玄純《たかをかげんじゆん》酒屋新右衞門事|上國《かみくに》三九郎|鎗術《さうじゆつ》指南《しなん》の浪人|近松《ちかまつ》源《げん》八上總屋五郎兵衞事|相良《さがら》傳《でん》九郎と各々|改名《かいめい》させ都合十人の者を召抱《めしかゝ》へ先是にて可《か》なり間《ま》に合べし然らば片時《へんじ》も早く京都へ立越べしと此旨を御城代へ屆《とゞけ》ける使者は赤川大膳是を勤《つと》む其節の口上には近々天一坊京都御見物の思召あれば御上京《ごじやうきやう》遊ばすに付當表の御|旅館《りよくわん》御|引拂《ひきはら》ひ成べくに付此段お達しに及ぶとの趣《おもむ》きなり夫と聞より大坂の役人中《やくにんちう》は疫病神《やくびやうがみ》を追拂ふが如くに悦び片時も早く立退《たちの》かせんと内々《ない/\》囁《さゝ》やきけるとなり斯て天一坊の方にては先《まづ》京都《きやうと》の御旅館の見立役《みたてやく》として赤川大膳は五六日先へ立て上京し京中《きやうちう》の明家《あきや》を相尋ねしに三|條通《でうとほ》りの錢屋四|郎右衞門《らうゑもん》[#「錢屋四|郎右衞門《らうゑもん》」は底本では「錢屋四|郎左衞門《らうざゑもん》」]方に屈竟《くつきやう》の明店|有《ある》を聞出し早速《さつそく》同人方へ到り掛合樣此度|聖護院《しやうごゐん》の宮《みや》御配下天一坊樣御上京に付《つき》拙者《せつしや》御旅館|展檢《てんけん》の爲《ため》上京し所々聞合せしに貴所方《きしよかた》明店然るべしと申事なり何卒《なにとぞ》御上京|御逗留中《ごたうりうちう》借用致し度との旨なりしが四郎右衞門は異儀なく承知《しようち》しければ同人の口入《くちいれ》にて直樣金銀を吝《をし》まず大工《だいく》泥工《さくわん》を雇ひ俄に假玄關《かりげんくわん》を拵らへ晝夜の別なく急ぎ修復《しゆふく》を加へ障子《しやうじ》唐紙《からかみ》疊《たゝみ》まで出來に及べば此旨《このむね》飛脚《ひきやく》を以て大坂へ申|越《こせ》ば然ば急々上京すべし尤とも此度《このたび》は大坂表へ繰込《くりこみ》の節《せつ》より一際《ひときは》目立樣にすべしと伊賀亮《いがのすけ》は萬端に心を配り新規召抱の家來へも夫々|役割《やくわり》申付用意も荒増《あらまし》に屆きたれば愈々明日の出立と相定め伊賀亮常樂院等の連名《れんめい》にて大膳方へ書翰《しよかん》を以て彌々《いよ/\》明十日大坂表御出立明後十一日京都御着の思召なれば其用意《そのようい》有べしと認《したゝ》め送れり頃は享保十一丙午年六月十日の早天《さうてん》に大坂|渡邊橋《わたなべばし》の旅館を出立す其行列《そのぎやうれつ》以前に倍して行粧《ぎやうさう》善美《ぜんび》を粧《よそほ》ひ道中|滯《とゞこほ》りなく十一日晝過に京都四條通りの旅館へぞ着《ちやく》なせり則ち大坂の如くに入口玄關へは紫《むらさ》き縮緬《ちりめん》の葵《あふひ》の紋《もん》の幕を張渡《はりわた》し門前へは大きなる表札《へうさつ》を立置ける錢屋《ぜにや》四郎右衞門は是を見て大に驚き赤川大膳に對面《たいめん》して仔細を問に天一坊樣は當《たう》將軍の御|落胤《らくいん》なれば徳川の表札御紋付の幕も更に憚《はゞか》る儀にあらずと彼紅屋等《かのべにやら》に語りし如く空嘯《そらうそ》ふいて告ければ四郎右衞門は今更|詮方《せんかた》なく迷惑《めいわく》が無ればよしと心中に思ふのみ乍ら捨置《すておい》ては無念ならんと此段|奉行所《ぶぎやうしよ》へ町役人《ちやうやくにん》同道《どうだう》にて訴へ出《いで》其|趣《おもむき》は此度錢屋四郎右衞門方へ聖護院宮樣《しやうごゐんのみやさま》の御配下《ごはいか》天一坊樣御旅舍の儀明家の儀なれば貸申候に昨夜《さくや》御到着《ごたうちやく》の後《のち》玄關《げんくわん》へは御紋付きの御幕を張《はり》剩《あまつ》さへ徳川天一坊旅館との表札を差出され候故其仔細承はり候に天一坊樣には當將軍家の御落胤にて徳川は御|本姓《ほんめい》葵《あふひ》は御定紋《ごぢやうもん》との趣きなり依て此段念の爲御屆申上るとの趣きを書面《しよめん》にし訴へ出《いで》町奉行所にては是ぞ大坂に噂《うはさ》の有者|併《しか》し理不盡《りふじん》の振舞なりとて早速役人を出張せしめ速かに召連《めしつれ》參《まゐ》るべし仰せ畏《かしこま》り候とて手附《てつき》の與力兩人を錢屋方へつかはさる兩人の與力は旅館に到り見るに嚴重《げんぢう》なる有樣なれば粗忽《そこつ》の事もならずと先《まづ》玄關《げんくわん》に案内を乞《こひ》重役《ぢうやく》に對面の儀を申入取次は斯と奧へ通じければ頓《やが》て山内伊賀亮|繼上下《つぎかみしも》にて出來《いできた》り與力に向ひ申す樣各々には何用《なによう》の有て參られしやといふに答《こたへ》て餘の儀に非ず譬《たとへ》何樣《いかやう》の御身分なりとも町旅館なさるゝ節は當所支配の奉行へ一應御|屆《とゞけ》有《ある》べき筈なるに其儀もなく剩《あまつ》さへ徳川の御表札に御紋付の御幕は其意を得ず依て町奉行所へ御|同道《どうだう》申さんため我々兩人|參《まゐつ》て候なりと聞て伊賀亮は態《わざ》と氣色《けしき》を變《か》へ夫は甚だ心得ざる口上なり各々には如何樣《いかやう》の身分《みぶん》にて恐れ多も天一坊樣を奉行所へ召連《めしつれ》奉らん抔《など》と上《うへ》へ對し容易《ようい》ならざる過言《くわごん》無禮《ぶれい》とや言ん緩怠《くわんたい》とや言ん言語に絶せし口上かな忝《かたじけ》なくも天一坊樣には當將軍家の御|落胤《らくいん》にて既に大坂城代より江戸表へも上申に相成|御左右《ごさう》次第《しだい》江戸へ御下向《ごげかう》の御積《おんつもり》其間に京都御|遊覽《いうらん》の爲め上京《じやうきやう》此段町奉行にも心得有べき筈|不屆至極《ふとゞきしごく》の使者今一言申さばと威丈高《ゐたけだか》に遣込《やりこめ》其上汝知らずや町奉行所は科《とが》人|罪《ざい》人の出入する不淨《ふじやう》の場所なり左樣なる穢《けが》れし場所へ御成を願ふは不埓千萬《ふらちせんばん》なり伺ひ度儀あらば奉行が自身に參上《さんじやう》すべき筈なり今般の儀は役儀《やくぎ》に免じ御許しあるべし此趣き早々|罷《まかり》歸り奉行に申達すべしと云捨て伊賀亮はツと奧《おく》へ入《いれ》ば兩人は散々に恥《はぢ》しめられ凄々《すご/\》と御役宅へ歸り奉行へ此由を申せば其は捨置《すておき》難しと早速《さつそく》諸司代《しよしだい》へ到り牧野丹波守殿《まきのたんばのかみどの》へ此段申上るに然ば諸司代屋敷へ相招ぎ吟味を遂《とげ》相違無に於ては當表《たうおもて》よりも江戸へ注進《ちうしん》すべしと評定《ひやうぢやう》一決し牧野丹波守殿より使者を以て招がれける此方《こなた》は思ふ壺《つぼ》成《なれ》ば此度は異儀《いぎ》無《なく》參《まゐ》るべしと返答し諸司代の目を驚かし呉んものと行列《ぎやうれつ》を粧《よそほ》ひ諸司代屋敷へ赴《おも》むきしかば牧野丹波守殿|對面《たいめん》有て身分より御|證據《しようこ》の品の拜見もありしに全く相違なしと見屆《みとゞ》け京都よりも又此段を江戸表|御月番御老中《おつきばんごらうちう》へ御屆《おんとゞけ》に相成る先達て御城代堀田相摸守殿よりの早打《はやうち》上聞《じやうぶん》に達せしに御覺悟《ごかくご》有せらるゝの上意なれば京都に於ても麁略《そりやく》無樣《なきやう》計《はか》らひ申さるべしとの事|故《ゆゑ》然《さら》ば其儘に差置《さしおか》れずと俄《にはか》に組與力等《くみよりきら》出張せしめ晝夜《ちうや》とも嚴重《げんぢう》に固《かた》めさせける此方にては愈々上首尾と打悦《うちよろこ》び又も近邊の有徳なる者どもを進め用金《ようきん》をば集《あつ》めける京都にても五萬五千兩程集まり京《きやう》大坂にて都合十五萬兩餘の大金と成ば最早《もはや》金子は不足《ふそく》なし此勢に乘《じよう》じて江戸へ押下《おしくだ》りいよ/\大事を計らはんは如何にと相談《さうだん》有《あり》しに山内伊賀亮進出て云やう京坂は荒増《あらまし》仕濟したれど江戸表には諸役人ども多く是迄《これまで》とは違《ちが》ひ先老中には智慧《ちゑ》伊豆守《いづのかみ》あり町奉行には名代《なだい》の大岡越前など有《あれ》ば容易には事を爲難《なしがた》し依て一先《ひとまづ》江戸表へ御旅館《ごりよくわん》を修繕《しつらひ》篤《とく》と動靜《やうす》見計《みはから》ひ其上にて御下り有て然るべし其|間《あひだ》には江戸表の御沙汰《ごさた》も相分り申さん變《へん》に應《おう》じて事を計らはざれば成就《じやうじゆ》の程《ほど》計難《はかりがた》しといふに然ば江戸表に旅館《りよくわん》を構《かま》ゆる手續《てつゞき》に掛らんとて常樂院の別懇《べつこん》に南藏院《なんざうゐん》と云《いふ》江戸|芝田《しばた》町に修驗者《しゆけんじや》あれば此者方へ常樂院《じやうらくゐん》の添状《そへじやう》を持せ本多源右衞門《ほんだげんゑもん》に金子を渡し先《まづ》江戸表へ下しける源右衞門は道中を急ぎ江戸|芝田《しばた》町南藏院方へ着《ちやく》し常樂院の手紙《てがみ》を渡《わた》し其夜は口上にて委細《ゐさい》咄《はなし》に及べば南藏院は篤《とく》と承知し早速《さつそく》懇意《こんい》なる芝田町二丁目の阿波屋吉兵衞《あはやきちべゑ》品川《しながは》宿の河内屋與兵衞本石町二丁目の松屋《まつや》佐《さ》四郎|下鎌田村《しもかまだむら》の長谷川《はせがは》卯《う》兵衞兩國米澤町の鼈甲屋喜助等《べつかふやきすけとう》の五人を語らひ品川宿近江屋儀右衞門の地面《ぢめん》芝高輪《しばたかなわ》八山《やつやま》に有《ある》を買取て普請にぞ取掛りける表門玄關使者の間|大書院《おほしよゐん》小|書院《しよゐん》居間《ゐま》其外諸役所長屋|等迄《とうまで》殘《のこ》る所なく入用を厭《いと》はず晝夜《ちうや》を掛て急ぐ程に僅かに五十日許りにて荒増《あらまし》出來上り建具屋《たてぐや》疊張付《たゝみはりつけ》諸造作《しよざうさく》庭廻《にはまは》りまで全く普請は成就して壯嚴美々敷調ひけり依《よつ》て本多源右衞門と南藏院の兩名《りやうめい》にて普請《ふしん》出來せし旨を京都へ申|遣《つか》はしければ天一坊は伊賀亮大膳等の五人と密談《みつだん》を遂《とげ》いよ/\江戸の普請《ふしん》成就《じやうじゆ》の上は片時も早く彼地へ下り變に應じ機に臨み施す謀計《ぼうけい》は幾計《いくら》もあるべし首尾能|御目見《おんめみえ》さへ濟ば最早|氣遣《きづか》ひなし然ば發足有べしと江戸|下向《げかう》の用意にこそは掛《かゝ》りける [#8字下げ]第二十一回[#「第二十一回」は中見出し]  斯《かく》て江戸高輪の旅館《りよくわん》出來《しゆつたい》の由|書状《しよじやう》到來せしかば一同に評議《ひやうぎ》の上早々江戸下向と決し用意も既に調《とゝの》ひしかば諸司代|牧野丹波守殿《まきのたんばのかみどの》へ使者を以て此段を相屆《あひとゞ》ける頃は享保《きやうほ》十一午年九月廿日天一坊が京都出立の行列《ぎやうれつ》は先供《さきども》は例の如く赤川大膳と藤井左京の兩人《りやうにん》一日代りの積りにて其供方には徒士《かち》若黨《わかたう》四人づつ長棒《ながぼう》の駕籠《かご》に陸尺《ろくしやく》八人|跡箱《あとばこ》二人|鎗《やり》長柄《ながえ》傘杖草履取兩掛合羽籠等なり其跡は天一坊の同勢にて眞先《まつさき》なる白木《しらき》の長持には葵《あふひ》の御紋《ごもん》を染出《そめいだ》したる萌黄緞子《もえぎどんす》の[#「萌黄緞子の」は底本では「萌黄純子の」]油箪《ゆたん》を掛て二棹宰領四人づつ次に黒塗《くろぬり》に金紋《きんもん》付|紫《むらさ》きの化粧紐《けしやうひも》掛《かけ》たる先箱二ツ徒士十人次に黒天鵞絨に白く御紋《ごもん》を切付し袋《ふくろ》の打物《うちもの》栗色《くりいろ》網代《あじろ》の輿物には陸尺十二人近習の侍ひ左右に五人づつ跡箱《あとばこ》二ツ是も同く黒|塗《ぬり》金紋付|紫《むらさ》きの化粧紐《けしやうひも》を掛たり續《つゞ》いて簑箱《みのばこ》一ツ朱の爪折傘《つまをりがさ》は天鵞絨《びろうど》の袋に入紫の化粧紐を掛たり引馬《ひきうま》一疋|銀拵《ぎんごしら》への茶辨當には高岡玄純付添ふ其餘は合羽籠兩掛等なり繼いて朱塗《しゆぬり》に十六葉の菊《きく》の紋《もん》を付紫の化粧紐を掛たる先箱二ツ徒士五人|打物《うちもの》を先に立朱網代の乘物には常樂院天忠和尚跡は四人の徒士《かち》若黨長棒の駕籠には山内伊賀亮|外《ほか》に乘物十六|挺《ちやう》駄荷物十七|荷《か》桐棒《きりぼう》駕籠五挺都合上下二百六十四人の同勢《どうぜい》にて道中|筋《すぢ》は下に/\と制止聲を懸させ目を驚《おどろ》かすばかりいと勇ましく出立し既に三|河國《かはのくに》岡崎の宿へぞ着《ちやく》しける此|岡崎《をかざき》の城下は上の本陣《ほんぢん》下の本陣迚二軒あり天一坊は上《かみ》の本陣へ旅宿《りよしゆく》を取表に彼の大表|札《さつ》に徳川天一坊旅宿と書《かき》しを押立《おしたて》玄關には紫《むらさ》き縮緬の幕を張《はり》威儀《ゐぎ》嚴重《げんぢう》に構へたり此時下の本陣には播州《ばんしう》姫路《ひめぢ》の城主酒井雅樂頭|殿《どの》歸國の折柄にて御旅宿なりしが雅樂頭《うたのかみ》殿上の本陣に天一坊旅宿の由を聞及び給ひ御家來に仰《おほせ》らるゝ樣《やう》兼々《かね/″\》江戸表にも噂《うはさ》有《あり》し天一坊とやら此度《このたび》下向と相見えたり此所にて出會ては面倒《めんだう》なり何卒|行逢《ゆきあは》ぬ樣にしたしと思召御|近習《きんじゆ》を召て其方|密《ひそ》かに彼が旅宿の邊《へん》へ參り密々明日の出立の時間《じかん》を聞合せ參るべしと申付らる近習は頓《やが》て上本陣の邊りへ立越|便宜《びんぎ》を窺《うか》がへば折節本陣より侍《さぶら》ひ一人出來りぬれば進《すゝ》み寄て天一坊樣には明日は御逗留《ごとうりう》なるや又は御發駕《ごはつが》に相成やと問けるに彼の侍ひ答て天一坊樣には明日は當所《たうしよ》に御逗留の積なりとぞ答へたり是《これ》は伊賀亮が兼ての工《たくみ》にて若も酒井家より明日の出立《しゆつたつ》を聞合せて參《まゐ》るまじきにも非《あら》ず其時は逗留《とうりう》と答へよと下々迄申付置しに是は雅樂頭殿に油斷《ゆだん》させ明朝|途中《とちう》にて行逢《ゆきあひ》威光《ゐくわう》を見せんとの謀計《ぼうけい》なりしとぞ斯る巧のありとは夢《ゆめ》にも知ず其言葉を實《まこと》と思ひ早速|立歸《たちかへり》て雅樂頭殿へ此由《このよし》を申上れば然ば明朝は未明《みめい》彼《かれ》に先立出立せん其用意致すべしと觸出《ふれいだ》されける然ば其夜何れも寢《ね》る者なく早《はやく》も用意に及び寅《とら》の刻《こく》にも成ければ出立いたされ暗《くら》きに靜々《しづ/\》と同勢を繰出さる天一坊|方《かた》には山内伊賀亮が計《はから》ひにて忍《しの》びを入れ此樣子を承知して遠見《とほみ》を出し置雅樂頭殿|出門《しゆつもん》有《あら》ば此方も出門に及ぶべしと悉《こと/″\》く夜の内に支度を調へ今や/\と待居たり只今《たゞいま》雅樂頭出門との知《しら》せに直此方も繰出《くりいだ》せり酒井家は斯《かく》あらんとは少しも知ず行列《ぎやうれつ》嚴重《げんぢう》に來懸る處此方は御墨附《おすみつき》御|短刀《たんたう》の長持を眞先に進ませ下に/\と制止《せいし》を懸《かく》れば雅樂頭殿是を聞《きゝ》玉ひ驚かれしが今更《いまさら》跡《あと》へ引返さんも如何なり何とかせんと猶豫《いうよ》の内に最早御墨附の長持と行逢《ゆきあふ》程に成たり此《こゝ》に至《いた》つて[#「至《いた》つて」は底本では「至《いた》て」]雅樂頭殿は據《よんど》ころなく駕籠《かご》より下て控《ひかへ》られ御墨附の通る間雅樂頭殿には頭《かしら》を下《さげ》て居給へり元來《もとより》巧《たくみ》し事なれば天一坊の乘物も此日は此長持に引添《ひきそひ》て來り天一坊は駕籠の中より聲《こゑ》を懸《かけ》酒井殿|乘打《のりうち》御免《ごめん》と云捨て馳拔《はせぬけ》ければ思はずも雅樂頭殿には天一坊にまで下座をし給ふ此は無念なりと蹉跎《あしすり》なして怒《いかり》給ひしが今更|詮方《せんかた》も無りしとぞ假初《かりそめ》にも十五萬石にて播州姫路の城主たる御身分《ごみぶん》が素性《すじやう》もいまだ慥《たしか》ならぬ天一坊に下座|有《あり》しは殘念《ざんねん》と云も餘りあり天一坊は流石《さすが》の酒井家《さかゐけ》さへ下座されしと態《わざ》と言觸《いひふら》し其|威勢《ゐせい》濤《おほなみ》の如くなれば東海道筋にて誰一人爭ふ者はなく揚々《やう/\》として下りけるは大膽不敵《だいたんふてき》の振舞と云べし扨も享保十一|午《うま》年九月廿日に京都を發足し威光《ゐくわう》列風《れつぷう》の如く十三日の道中《だうちう》にて東海道を滯りなく十月[#「十月」は底本では「十二月」]二日に江戸芝高輪|八山《やつやま》の旅館へ着せり玄關には例《れい》の御紋附の幕を張《はり》徳川天一坊殿旅館と墨黒に書し表札を押立《おしたて》たれば之を見る者|扨《さて》こそ噂《うはさ》のある公方樣《くばうさま》の御落胤の天一坊樣といふ御方なるぞ無禮せば咎《とがめ》も有んと恐れざる者《もの》もなく此段早くも町奉行《まちぶぎやう》大岡越前守殿の耳《みゝ》に入り彼所《かしこ》は當《たう》奉行支配の地なれば捨置難《すておきがた》しと密々《みつ/\》調《しら》べられし上《うへ》この段|御老中筆頭《ごらうぢうひつとう》松平|伊豆守殿《いづのかみどの》へ御屆に及ばるれば早速《さつそく》御老中|若年寄《わかどしより》御相談《ごさうだん》の上《うへ》先《まづ》伊豆守殿|御役宅《おんやくたく》へ相招《あひまね》き實否《じつぴ》取糺《とりたゞ》しの上にて御落胤に相違なきに於ては速《すみや》かに上聞《じやうぶん》に達《たつ》し取計《とりはから》ひ方も有べしと評議《ひやうぎ》一決し則ち松平伊豆守殿より公用人《こうようにん》を以て八山《やつやま》なる旅館へ申遣しける趣《おもぶ》きは此度天一坊樣|御下向《ごげかう》に付《つい》ては重役の者一|統《とう》相伺《あひうかゞ》ひ申|度《たき》儀《ぎ》こそ有ば明日五ツ時《どき》伊豆守御役宅へ御出あらせられ度《たし》との口上《こうじやう》を申|入《い》るれば頓《やが》て山内伊賀亮|出會《しゆつくわい》し再《ふたゝ》び出來《いできた》り御《おん》申|越《こし》の趣《おもぶ》き伺ひし處|明日《みやうにち》伊豆守殿御屋敷へ入《いら》せられ候儀御承知の御返答なり其節《そのせつ》萬端《ばんたん》宜《よろし》く伊豆殿に頼み入趣きなりとの挨拶《あいさつ》なり扨翌朝になり八山にては行列を揃《そろ》へ今日は先供として山内伊賀亮|御墨附《おすみつき》の長持を宰領《さいりやう》す供には常樂院大膳左京等皆々附隨がふ程《ほど》なく伊豆守殿御役宅に到るに開門《かいもん》あれば天一坊の乘物は玄關《げんくわん》へ横付《よこつけ》にしたり案内の公用人に引《ひか》れ廣書院《ひろしよゐん》へ通り上段《じやうだん》なる設の席に着す常樂院伊賀亮等は次《つぎ》の間《ま》へ着座す又此方に控へらるゝ御役人方《おんやくにんがた》には御老中筆頭《ごらうちうひつとう》松平伊豆守殿を始め松平《まつだひら》左近將監|酒井《さかゐ》讃岐守|戸田《とだ》山城守|水野《みづの》和泉守|若年寄《わかどしより》には水野《みづの》壹岐守|本多《ほんだ》伊豫守|太田《おほた》備中守松平左京太夫御側御用人には石川《いしかは》近江守|寺社《じしや》奉行には黒田《くろだ》豐前守|小出《こいで》信濃守|土岐《とき》丹後守|井上《ゐのうへ》河内守|大目附《おほめつけ》には松平相摸守|奧津《おきつ》能登守|上田《うへだ》周防守|有馬《ありま》出羽守町奉行には大岡越前守|諏訪《すは》美濃守|御勘定《ごかんぢやう》奉行には駒木根《こまきね》肥前守|筧《かけひ》播磨守|久松《ひさまつ》豐前守|稻生《いなふ》下野守御目附には野々山《のゝやま》市十郎|松田勘解由《まつだかげゆ》徳山《とくやま》五|兵衞《へゑ》等《とう》の諸御役人《しよおんやくにん》輝星《きらぼし》の如く列座《れつざ》せらる此時松平伊豆守殿|進出《すゝみいで》て申されけるは此度天一坊殿|關東《くわんとう》下向《げかう》に付今日御役人ども御對面《ごたいめん》を願《ねが》ふとの趣《おもむき》なり此時隔の襖《ふすま》を押明れば天一坊威儀を繕ろひ然も鷹揚《おうやう》に此方を見廻せば一|同《どう》平伏《へいふく》ある時に伊豆守殿は伊賀亮に向《むか》はれ申さるゝ樣天一坊殿|御出生《ごしゆつしやう》の地《ち》并《ならび》に御成長の所は何の地なるやと尋《たづね》らるゝに此時常樂院は懷中《くわいちう》より書付《かきつけ》を取出し御身分の儀《ぎ》は委細《ゐさい》是《これ》に相認め御座候と差出《さしいだ》す伊豆殿|請取《うけとつ》て開き見らるゝに佐州《さしう》相川郡《あひかはごほり》尾島村《をじまむら》淨覺院《じやうかくゐん》の門前に御墨附に御短刀相添て捨《すて》是有《これあり》しを淨覺院|先住《せんぢう》天道《てんだう》是を拾《ひろ》ひ揚て弟子とし參らせし處天道先年|遷化《せんげ》の後《のち》天忠即ち住職《ぢうしよく》仕《つかま》つり其|砌《みぎり》に天一坊樣をも附屬《ふぞく》致され後年御世に出し參《まゐ》らすべしとの遺言《ゆゐごん》なれば天忠|御養育《ごやういく》なし參らせし處其後天忠|美濃國《みのゝくに》谷汲郷《たにぐみがう》長洞村《ながほらむら》常樂院へ轉住《てんぢう》せしに付御同道申|上《あげ》同院《どうゐん》にて御成長に御座候と書認めたり伊豆殿|見終《みをは》り玉ひ御書面にて先|御誕生後《ごたんじやうご》御成長迄は分りたれども未《いま》だ如何《いか》なる御腹《おんはら》に御出生ありしや不分明《ふぶんめい》なり此儀は如何にと問《とは》れたり [#8字下げ]第二十二回[#「第二十二回」は中見出し]  此時山内伊賀亮|座《ざ》を進《すゝみ》申樣天一坊樣御身分の儀は只今《たゞいま》の書付にて委《くは》しく御承知ならんが御腹の儀御|不審《ふしん》御|尤《もつ》ともに存候されば拙者より委細《ゐさい》申上べし抑《そも》當《たう》將軍樣|紀州《きしう》和歌山《わかやま》加納將監方《かなふしやうげんかた》に御部屋住にて渡らせ給ふ節《せつ》將監《しやうげん》妻《さい》の召使《めしつか》ふ腰元《こしもと》澤《さは》の井《ゐ》と申|婦女《ふぢよ》の上樣《うへさま》御情《おんなさけ》懸《かけ》させられ御胤を宿し奉りし處|御部屋住《おんへやずみ》の儀《ぎ》成《なれ》ば後々召出さるべしとの御約束にて夫迄《それまで》は何れへ成とも身を寄《よせ》時節《じせつ》を待べしとの上意にて御墨附《おんすみつき》御短刀《おたんたう》を後の證據《しようこ》として下し置れしが澤の井儀は元《もと》佐渡《さど》出生《しゆつしやう》の者故老母諸共生國佐州へ歸《かへ》り間もなく御安産なりしが産後《さんご》の血暈《ちのみち》にて肥立《ひだち》かね澤の井樣には相果られ其後は老母《らうぼ》の手にて養育《やういく》申上しが又候老母も病氣にて若君の御|養育《やういく》相屆《あひとゞ》かず即はち淨覺院の門前に捨子と致し右老母も死去《しきよ》致したるなり淨覺院先住天道存命中の遺言《ゆゐごん》斯《かく》の如し依て常樂院初め我々御守護申上|何卒《なにとぞ》御世《みよ》に出し奉らんと渺々《はる/″\》御供《おんとも》申上候なりと辯舌水の流るゝ如く滔々《たう/\》と申述ければ松平伊豆守殿初め御役人方《おやくにんがた》いづれも詞《ことば》は無く只《たゞ》點頭《うなづく》ばかりなりしが然ば御身分の儀は委敷《くはしく》相分りたり此上は御|證據《しようこ》の品々拜見致し度と申されければ伊賀亮は天一坊に向《むか》ひ伊豆殿御證據の御|品《しな》拜見《はいけん》を相願はれ候|如何《いかゞ》計《はから》ひ申さんといふに天一坊は許《ゆる》すと計り言葉少なに言放せば大膳は鍵《かぎ》取出し二品を取出し三寶《さんばう》に載《のせ》持出《もちいで》伊豆守殿の前に差置《さしおく》にぞ伊豆守殿初め重役の面々各々|手水《てうづ》して先御墨附を拜見《はいけん》に及ばる其文面《そのぶんめん》は例の如く [#ここから1字下げ] 其方《そのはう》懷妊《くわいにん》の由我等血筋に相違是なし若《もし》男子《なんし》出生《しゆつしやう》に於ては時節を以て呼出すべし女子たらば其方の勝手に致すべし後日證據の爲め我等《われら》身《み》に添大切に致し候|短刀《たんたう》相添《あひそへ》遣《つかは》し置者也依て如件 [#3字下げ]寛永二申年[#「寛永二申年」はママ]十月[#地から1字上げ]徳太郎信房 [#地から5字上げ]澤の井女へ [#ここで字下げ終わり] とあり御直筆《おんぢきひつ》に相違なければ面々《めん/\》恐れ入り拜見致されまた御短刀をも一見するに紛《まが》ふ方なき御品なれば御老中|若年寄《わかどしより》には愈々將軍の御落胤《ごらくいん》に相違なしと承伏《しようふく》し伊豆守殿|則《すなは》ち伊賀亮を以て天一坊へ申上られける樣は先刻《せんこく》より重役ども一同御身の上|委細《ゐさい》承知仕り斯《かく》の如く慥《たしか》なる御證據ある上は何をか疑《うたが》ひ申べき將軍の若君《わかぎみ》たるに相違なく存じ奉る此上は一同《いちどう》篤《とく》と相談《さうだん》仕り近々に御親子|御對顏《ごたいがん》に相成候樣取計ひ仕るべし夫迄《それまで》は八山《やつやま》御旅館《ごりよくわん》に御座成《ござなさ》れ候樣願ひ奉ると言上に及ばる是《これ》にて御席《おせき》相濟《あひすみ》伊豆守殿より種々|御饗應《ごきやうおう》有て其後歸館を相觸《あひふれ》らる此度は玄關迄伊豆守殿初め御役人殘らず見送りなればいとゞ威光《ゐくわう》は彌増《いやまし》たり是にて愈々《いよ/\》謀計《ぼうけい》成就《じやうじゆ》せりと一同|安堵《あんど》の思ひをなしにけり扨又伊豆守殿|御役宅《おんやくたく》には天一坊歸館の跡にて御老中には伊豆守殿松平左近將監殿酒井讃岐守殿戸田山城守殿|水野和泉守殿《みづのいづみのかみどの》若年寄衆は水野壹岐守殿《みづのいきのかみどの》本多伊豫守殿太田備中守殿松平左京太夫殿等|御相談《ごさうだん》の上にて御側《おそば》御用御取次を以て申上られけるは先達《せんだつ》て大坂表より御屆に相成りし天一坊樣御事|今般《こんぱん》芝八山御旅館へ御到着《ごたうちやく》に付今日伊豆守御役宅にて諸役人一同恐れ乍《なが》ら御身分の御調《おんしら》べ申上げ御證據の品々拜見仕りしに御血筋に相違御座なくと存じ奉り候今日は御歸館なさせ奉りしが何《いづ》れ近日|吉日《きちにち》を撰《えら》び御親子御對顏の儀計らひ奉るべく就ては御日|限《げん》の儀《ぎ》御沙汰《おさた》願《ねが》ひ奉るとの儀なれば將軍吉宗公には是を聞《きこ》し召《めさ》れ限りなき御祝着《ごしうちやく》にて片時《へんじ》も早く逢度《あひたく》との上意なりし御親子の御|間柄《あひだがら》また別段《べつだん》の御事なり扨も大岡越前守殿には數寄屋橋の御役宅へ歸り獨《ひとり》熟々《つら/\》勘考《かんかう》有《ある》に天一坊の相貌《さうばう》不審《ふしん》千萬なりと思はるれば翌朝《よくてう》未明《みめい》伊豆殿御役宅へ參られ御|逢《あひ》を願はれしが此日も伊豆殿の御役宅には御内談《ごないだん》有て松平左近將監殿酒井讃岐守殿御出なり其席へ越前守を招《まね》かれける時に越前守|低頭《ていとう》して恐れながら越前守申上候は昨日御逢これ有りし天一坊殿の儀御|評議《ひやうぎ》如何候や伺《うかゞ》ひ度《たく》參上せりと聞《きか》れ伊豆守殿の仰《おほ》せに天一坊殿の御身分の儀昨日拙者どもにも御|落胤《らくいん》に相違|無《なき》と存ずれば依《よつ》て上聞に達《たつ》せしに上《かみ》にも御|覺悟《かくご》有らせられ速《すみや》かに逢度《あひたく》との上意なれば近々吉日を撰《えら》び御對顏の儀《ぎ》取計《とりはから》ひ其上は上の思召《おぼしめし》に[#「思召《おぼしめし》に」は底本では「思召《おぼしめ》に」]任《まか》すべきに決せりとの事なり此時まで平伏《へいふく》せられし越前守|頭《かしら》を少《すこ》し上げて伊豆守殿に向ひ御重役方の斯く御評議|御決定《ごけつぢやう》に相成候を越前|斯樣《かやう》に申上候は甚《はなは》だ恐入《おそれいり》候へ共少々思付候仔細御座候是を申|述《のべ》ざるも不忠《ふちう》と存候此儀私事には候はず天下の御爲《おんため》君《きみ》への忠義《ちうぎ》にも御座あるべく依て包《つゝ》まず言上仕り候越前儀|未熟《みじゆく》ながら幼少《えうせう》の時より人相《にんさう》を聊《いさゝ》か相學《あひまな》び候故昨日|間《あひ》は隔《へだ》ち候へ共彼の方を篤《とく》と拜見候處|御面相《ごめんさう》甚だ宜《よろ》しからず第一に目と頬《ほゝ》との間《あひだ》に凶相《きようさう》現はる是は存外の謀計《はかりごと》を企《くはだ》つる相にて又《また》眼中《がんちう》殺伐《さつばつ》の氣あり是は人を害《がい》したる相貌《さうばう》なり且眼中に赤き筋《すぢ》ありて此筋《このすぢ》瞳《ひとみ》を貫《つらぬ》くは劔難《けんなん》の相にて三十日|立《たゝ》ざる内に刃《やいば》に掛《かゝ》り相果《あひはつ》るの相なり斯る不徳《ふとく》の凶相《きようさう》にして將軍の御子樣とは存じ奉り難《がた》し越前守が思考《かんがへ》には御品は實なれど御當人に於ては何《なに》とも怪《あや》しく存ずるなり愚案《ぐあん》は御目鏡《おめがね》には背《そむ》き候へども何卒《なにとぞ》此御身の上は今一|應《おう》越前へ吟味《ぎんみ》を相許《あひゆる》し下されたし越前篤と相調べ其上にて御親子|御對顏《ごたいがん》の儀御取計ひ有るとも遲《おそ》かるまじくと存ず此段願ひ奉るとの趣きなり伊豆守殿斯と聞給《きゝたま》ふより忽《たちま》ち怒《いか》り面《おもて》に顯《あらは》れ越前守を白眼《にらま》へ越前只今の申條|過言《くわごん》なり昨日重役ども並に諸役人一同|相調《あひしら》べし御身分將軍の御落胤に相違なしと見極《みきは》め上聞《じやうぶん》にも達《たつ》したる儀を其方一人是を拒《こば》み贋者《にせもの》と申立|慥《たしか》なる證據もなく再吟味《さいぎんみ》願ひ出るは拙者どもが調べを不行屆《ふゆきとゞき》と申にや何分にも重役どもを蔑《ないが》しろに致す仕方《しかた》不屆至極《ふとゞきしごく》なりと叱《しか》り玉へば越前守には少しも恐るゝ色なく全く越前自己の了簡《れうけん》を立んとて御重役を蔑《ないが》しろに致すべきや此吟味の儀は御法に背《そむ》き候とは苟《いやし》くも越前御役をも相勤《あひつとむ》る身分なれば辨《わきま》へ居候へども只々天下の御爲國家の大事と存じ聊《いさゝ》か忠義と心得候へば何卒《なにとぞ》枉《まげ》て御身分《おみぶん》調《しらべ》の事一|應《おう》越前へ御許し下されたしと押《おし》て願ひ申されける此時松平左近將監殿仰せらるには是越前其方は重役共の吟味を悖《もど》き再吟味を願ひ若《もし》將軍《しやうぐん》の御胤に相違なき時は其方《そのはう》如何致す所存にやと仰《おほせ》られければ越前守|愼《つゝし》んで答らるゝ樣|御意《ぎよい》に候再吟味願の義は越前が身に替《かへ》ての願ひに御座候へは萬一《まんいち》天一坊殿將軍の御子に相違なき時は越前が三千石の知行《ちぎやう》は元より家名斷絶《かめいだんぜつ》切腹《せつぷく》も覺悟なりと御答に及ばれける此時酒井讃岐守殿の仰には越前其方は飽《あく》まで拙者|共《ども》を蔑《ないが》しろにし押《おし》て再吟味願ふは其方の爲に宜しからぬぞ控《ひかへ》られよと仰せらるれども假令《たとへ》身分は何樣《いかやう》に相成候とも苦《くる》しからず君への御爲天下の爲なり幾重《いくへ》にも再吟味の儀御許し下され度|偏《ひとへ》に願ひ奉《たてまつる》と再三押て願はれければ伊豆殿|散々《さん/″\》に氣色《けしき》を損《そん》ぜられ其方|左程《さほど》に再吟味致し度とあれば勝手《かつて》にせよと立腹《りつぷく》の體にて座をば立《たち》たまひたり是に依《よつ》て御列座も皆々|退參《たいさん》と相成りければ跡に越前守只一人|殘《のこり》て手持《てもち》なき體なりしが外に詮《せん》すべもなくて凄々《すご/\》として御役宅を立ち去り歸宅せられしが忠義に凝《こり》なる所存を固《かた》め種々に思案《しあん》を廻《めぐら》し如何《いか》にも天一坊|怪敷《あやしき》振舞《ふるまひ》なれば是非とも再吟味せんものと思へど御重役方は取上られず此上は是非に及ばず假令《たとへ》此身は御咎《おとがめ》を蒙《かうむ》るとも明朝《あす》は未明に登城に及び直々《ぢき/\》將軍家《しやうぐんけ》に願ひ奉るより外《ほか》なしと思案を極《きは》め家來を呼び出され明朝《みやうてう》は六時の御|太鼓《たいこ》を相※[#「圖」の「回」に代えて「面から一、二画目をとったもの」、76-2]《あひづ》に登城致す間《あひだ》其用意《そのようい》いたすべしと云付けられたり [#8字下げ]第廿三回[#「第廿三回」は中見出し]  扨も松平伊豆守殿には大岡越前守の戻《もど》られし跡にて熟々《つら/\》と思案あるに越前|定《さだ》めし明朝は登城なし天一坊樣御身分再吟味の儀將軍へ直《ぢき》に願ひ出るも計《はか》り難《がた》し然ば此方も早く登城し越前に先を越《こし》申上|置《おか》ざれば叶《かな》ふ可らずと是も明朝|明六時《あけむつ》のお太鼓に登城の用意を申付られたり既《すで》にして翌日《よくじつ》御城《おんしろ》のお太鼓|六《むつ》の刻限《こくげん》鼕々《とう/\》と鳴響《なりひゞ》けば松平伊豆守殿には登城門よりハヤ駕籠《かご》をぞ馳《はせ》られけり又大岡越前守には同《おなじ》く六のお太鼓を相※[#「圖」の「回」に代えて「面から一、二画目をとったもの」、76-8]《あひづ》に是も御役宅を立出たり然るに伊豆守殿御役宅は西丸下《にしまるした》なり越前守の御役宅は數寄屋橋《すきやばし》御門内なれば其道筋《そのみちすぢ》も隔《へだ》たれば伊豆守殿には越前守より少《すこ》しく先に御登城あり御用《ごよう》取次《とりつぎ》は未だ登城なく御側衆《おそばしう》の泊番高木伊勢守のみ相詰《あひつめ》たり乃《すなは》ち伊豆守殿|芙蓉《ふよう》の間《ま》に於て高木伊勢守を召《めさ》れ突然《とつぜん》と尋ねらるゝは貴所《きしよ》には當時の役人中にて發明《はつめい》は誰れとの評判と存ぜらるゝやと尋《たづね》らるゝに伊勢守は不思議《ふしぎ》の尋なりと當惑《たうわく》ながら暫く思案して答へられけるは御意に候當節御役人の中には豆州侯《づしうこう》其許《そのもと》をこそ智慧伊豆《ちゑいづ》と下々《しも/″\》にては評判も致し御|筆頭《ひつとう》と申し其許樣《そのもとさま》に上越す御役人はこれ有《ある》まじとの評判に候と申さるゝに伊豆守殿是を聞かれいやとよ夫は差置《さしおき》外々《ほか/\》の御役人にては誰が利口《りこう》發明《はつめい》なる噂《うはさ》にやと仰せらる其時伊勢守|參《さん》候外御役人にては町奉行越前など發明との評判に御座候やに承《うけた》まはる旨を答らるゝに伊豆守殿|點頭《うなづか》れ成程|當節《たうせつ》は越前を名奉行と人々|噂《うはさ》を致すやに聞及べり然《され》ど予《よ》は越前は嫌《きら》ひなり兎角に我意《がい》の振舞《ふるまひ》多く人を輕《かろ》んずる氣色《けしき》ありて甚だ心底《しんてい》に應《おう》ぜぬ者なりと申されける是は只今にも登城に及び若《もし》直願《ぢきねがひ》の取次等《とりつぎら》を申出るとも取次させまじと態《わざ》と斯《かく》は其意を曉《さと》らせし言葉なるべし 扨《さて》又大岡越前守には明六《あけむつ》のお太鼓を相※[#「圖」の「回」に代えて「面から一、二画目をとったもの」、77-1]《あひづ》に登城なされしが早《はや》伊豆守殿には登城ありて芙蓉《ふよう》の間《ま》に控《ひかへ》給ひ伊勢守と何か物語《ものがた》りの樣子なれば越前守には高木伊勢守を密《ひそか》に招《まね》き語る樣は此度江戸表へ御下向《おげかう》有て芝八山の御旅館に在《まし》ます天一坊樣儀は一昨日松平伊豆守殿御役宅にて御身分調べあり御重役方は御相違《ごさうゐ》なしとて近々|御對顏《ごたいがん》の儀取計らはるゝ趣き拙者に於ては萬事其意を得ざる事と存ず其譯《そのわけ》と申すは天一坊樣の御面相《ごめんさう》を拜するに目と頬《ほゝ》の間に凶相《きようさう》顯《あら》はれ中々以て高貴《かうき》の相貌《さうばう》にあらず拙者の勘考《かんかう》には御證據の品は實ならんが御當人《ごたうにん》は贋者《にせもの》なりと決したり依て天下の爲再吟味を重役方へ願ひしが早《はや》評議《ひやうぎ》一決の由にて聞屆《きゝとゞけ》られず由々敷《ゆゝしき》御大事ゆゑ君への御奉公再吟味の儀|御許《おんゆる》し下され候樣に直願《ぢきぐわん》仕《つかまつ》り度何卒此段御取次下され度《たし》と思ひ込で申ける高木伊勢守も打聞《うちきい》て甚《いた》く驚きしが先刻《せんこく》の口上もあれば迷惑《めいわく》に思はれたり其故は越前守の願ひ言上に及べば御發明の將軍家《しやうぐんけ》御許《おんゆるし》も有《ある》べし然《さ》すれば伊豆守殿には不首尾《ふしゆび》と相なるべし當時此人に憎《にく》まれては勤役《きんやく》なり難しと思案し斯《こ》は大岡越前守が願ひ取次も御採用《おとりもち》ひなき樣に言上《ごんじやう》するより外《ほか》なしと思案を定《さだ》め伊豆守殿の方へ向《む》き目配《めくば》せしつゝ越州《ゑつしう》御願《おんねがひ》の趣《おも》むき早速《さつそく》上聞《じやうぶん》に達し申さんと立て奧の方へ到《いた》り將軍の御前へ出て申|上《あげ》ける樣は恐《おそ》れ乍ら言上仕り候|此度《このたび》御下向《おげかう》にて芝八山の御旅館に在《まし》ます天一坊樣御事は先達《さきだつ》て伊豆守役宅へ御招き申上御身分|篤《とく》と御調《おんしらべ》申上しに恐れながら君の御|面部《めんぶ》に其儘《そのまゝ》加之《しかのみ》ならず御音聲迄《ごおんじやうまで》も能《よく》似遊《にあそ》ばし瓜《うり》を二ツと申事且つ又御墨附御短刀も相違御座なく在《あら》せらるれば近々《きん/\》御親子《ごしんし》御對顏《ごたいがん》の御|儀式《ぎしき》執計《とりはから》ひ申すべき段上聞に達し候處芝八山は町奉行の掛りなれば越前|再吟味願度由《さいぎんみねがひたきよし》此段《このだん》伺《うかゞ》ひ奉ると言上に及びければ將軍には聞《きこ》し食《めさ》れ天一は予《よ》に能《よく》似《に》て居《を》るとや音聲迄《おんじやうまで》も其儘とな物の種は盜むも人種は盜《ぬす》[#ルビの「ぬす」は底本では「むす」]まれずと世俗《せぞく》の諺《ことわざ》さもあり爭《あらそ》はれぬ者かな早々《さう/\》天一に逢度《あひたし》との上意なり世の中の親の心は闇《やみ》ならねど子を思ふ道に迷《まよ》ふとか云ひて子を慈《いつく》しむ親の心は上《かみ》將軍より下《しも》非人《ひにん》乞食《こじき》に至る迄|替《かは》る事なき理《ことわ》りなり其時また上意に芝八山は町奉行の支配《しはい》なりとて越前|我意《がい》に募《つの》り吟味を願ふとな既《すで》に重役ども取調べ予が子に相違なきに極《きはま》りしを一人|彼是《かれこれ》と申|拒《こば》むは偏執《へんしふ》の致す處か再吟味は天下の法に背《そむ》く相成ぬと申せとの事なれば伊勢守は仰《おほ》せ畏《かしこ》まり奉り候|迚《とて》頓《やが》て芙蓉の間へ出來《いできた》り上座に着《つき》越前上意なりと申渡さるゝに越前守には遙《はるか》に引下りて平伏《へいふく》なす此時高木伊勢守申渡す樣は八山御旅館に居らせられ候天一坊身分越前|我意《がい》に募《つの》り再吟味願の儀は已《すで》に重役ども篤《とく》と相調べ相違なきを一人彼是申|拒《こば》むは重役を蔑《ないが》しろに致す所行《しよぎやう》殊《こと》に再吟味は天下の大法《たいはふ》に背《そむ》く間《あひだ》相成ぬとの上意なりと嚴重《げんぢう》にこそ申渡しける越前守は發《はつ》とばかり御受を致され恐入《おそれいつ》て退出《たいしゆつ》せらる跡より大目附土屋六郎兵衞|下馬《げば》より駕籠《かご》に打乘《うちのり》御徒士目附《おかちめつけ》御小人目附《おこびとめつけ》警固《けいご》して越前守を數寄屋橋内の御役宅へ送られ土屋六郎兵衞より閉門《へいもん》を申渡し表門には封印《ふういん》し御徒士目附御小人目附ども晝夜《ちうや》嚴重《げんぢう》に番をぞ致しける良藥は口に苦《にが》く忠言《ちうげん》耳《みゝ》に逆《さから》ふの先言《せんげん》宜《むべ》なるかな大岡越前守は忠義|一※[#「圖」の「回」に代えて「面から一、二画目をとったもの」、78-7]《いちづ》に凝固《こりかた》まりて天一坊の身分再吟味の直願《ぢきぐわん》を致されしが輕《かろ》からざる上意にて今は閉門《へいもん》の身となりけれど此事は中々《なか/\》打捨置難《うちすておきがた》き大事なれば公用人|平石《ひらいし》次《じ》右衞門|吉田《よしだ》三五郎|池田大助《いけだだいすけ》の三人を招《まね》かれ申されけるは予は天一を贋者《にせもの》と思ひ定め再吟味の儀を重役へ願ひしが自己《じこ》の言状《いひじやう》を立んとて取上られず據《よんどこ》ろなく今朝直願に及びしが是又御親子の御|愛情《あいじやう》に惹《ひか》され給ひ筋違《すぢちが》ひの事重役を蔑如《べつじよ》し大法に背くとの趣きにて重き上意を蒙《かうむ》り予は閉門《へいもん》を仰付られしが一同とも神妙《しんめう》に致し居る樣申付くべしとの言葉に三人は平伏《へいふく》して御意の趣き委細《ゐさい》承知仕れり實《まこと》に月に浮雲《うきくも》の障《さは》り花に暴風《ばうふう》の憂《うれ》ひ天下の御爲忠義を思召《おぼしめし》ての再吟味の御願ひ御許しなきのみか剩《あまつ》さへ閉門を仰付られ候|段《だん》は誠《まこと》に是非もなき次第なり此上は何樣《なにやう》の御沙汰|有《あら》んも計り難しと愁傷《しうしやう》の體《てい》なれば越前守には此體を見られ澘々《はら/\》と落涙《らくるゐ》せられ此方はよき家來を持て滿悦《まんえつ》に思ふなり三人の忠節《ちうせつ》心體見えて忝けなし去りながら我深き存意も有れば密《ひそ》かに申聞すべし近ふ/\と三人を側近《そばちか》くこそ進ませたり [#8字下げ]第二十四回[#「第二十四回」は中見出し]  其時《そのとき》越前守は平石次右衞門吉田三五郎池田大助の三人を膝元《ひざもと》へ進ませ申されけるは其方共《そのはうども》家の爲め思ひ呉《くれ》る段《だん》忝《かたじ》けなく存るなり依《よつ》て越前が心底《しんてい》を申聞すなり今越前|不慮《ふりよ》の儀に及び候へば明日にも御對顏仰せ出さるゝは必定《ひつぢやう》なり萬一御對顏の後《のち》に贋者《にせもの》と相分るも最早《もはや》取戻《とりもど》しなり難し然《さ》すれば第一天下の恥辱《ちじよく》二ツには君への不忠なり依て越前は短慮《たんりよ》の振舞致さず今宵|計略《はかりごと》を以て屋敷を忍《しの》び出んと思《おもふ》なり仔細《しさい》は斯樣々々なり先《まづ》次右衞門其方の老母病死なりと申|僞《いつは》り不淨門《ふじやうもん》より出て小石川|御館《おやかた》へ推參《すゐさん》し今一應再吟味の儀を願ふ所存《しよぞん》なり萬一小石川|御屋形《おやかた》に於ても御取用《おとりもち》ひなき時は越前が運命《うんめい》の盡《つく》る期《とき》なり其時予は含状《ふくみじやう》を出して切腹《せつぷく》すべし然有時《さあるとき》は將軍にも何程御急ぎ遊ばすとも急ぎ御對顏《ごたいがん》は能《あた》ふまじ其内には天一坊の眞僞《しんぎ》必ず相分り申べし依て今一應小石川御屋形へ此段を願ひ申さんと思ふなれば急《いそ》ぎ其支度を致すべしと申付られける公用人等《こうようにんら》は早速《さつそく》古駕籠《ふるかご》一|挺《ちやう》古看板《ふるかんばん》三ツ并びに帶《おび》三筋女の掛無垢等《かけむくとう》を用意なし日の暮《くるゝ》をぞ相待《あひまち》ける扨夜も初更《しよこう》の頃に成《なり》しかば越前守は掛無垢《かけむく》を頭《かしら》より冠《かぶ》りて彼古駕籠に身を潜《ひそ》むれば公用人三人は中間體《ちうげんてい》に身を窶《やつ》し外に入用の品々は駕籠の下へ敷込《しきこみ》二人にて駕籠を舁《か》き今一人は湯灌盥《ゆくわんたらひ》に杖《つゑ》を添て荷《にな》ひ不淨門へ向ひ屆ける樣《やう》は今日用人平石次右衞門|老母儀《らうぼぎ》病死《びやうし》致候依て只今|菩提所《ぼだいしよ》へ送り申なり御門御通し下さるべしと斷《ことわ》りけるに當番《たうばん》の御小人目附は錠《ぢやう》を明け駕籠を改《あらた》め見るに如何さま女《をんな》の掛無垢を冠《かぶ》りしは死人の體《てい》なれば相違なき由にて通《とほ》しけるこれより數寄屋橋御門へも此段相斷りそれより御|堀端《ほりばた》通りを行|鎌倉河岸《かまくらがし》まで來りたれば先《まづ》此所にて駕籠を卸《おろ》し主從四人ほツとばかり溜息《ためいき》を吐《つき》ながらも先々|首尾《しゆび》よく僞《いつは》り出しを喜《よろこ》び最早|氣遣《きづか》ひなしと爰《こゝ》にて越前守には麻上下《あさがみしも》を着用なし三人は何《いづ》れも羽織袴《はおりはかま》に改め駕籠等は懇意《こんい》の町人の家に預置《あづけおき》小石川|指《さし》て急ぎ行に夜は次第に更《ふけ》稍《やゝ》四ツ時と覺《おぼ》しき頃小石川|御館《おんやかた》には到りたり頓《やが》て御中の口へ掛《かゝ》りて案内を乞《こふ》に取次出來れば越前守申さるには夜中《やちう》甚《はなは》だ恐入存ずれど天下の一大事に付|越前《ゑちぜん》推參《すゐさん》仕つて候何卒中納言樣へ御目通《おめどほり》の儀願上奉る旨《むね》を述《のべ》らる取次は此段早速御奧へ申上ければ中納言|綱條卿《つなえだきやう》は先達《せんだつ》てより御病氣なりしが追々《おひ/\》御全快《ごぜんくわい》にて今日は中奧に移《うつ》らせ給ひ御酒《ごしゆ》下《くだ》されて御酒宴の最中《さいちう》なり中にも山野邊主税之助《やまのべちからのすけ》と云ふは年は未だ十七歳なれど家老職《からうしよく》にて器量《きりやう》人《ひと》[#ルビの「ひと」は底本では「びと」]に勝《すぐ》れしかば中納言樣の御意に入りて今夜も御席《おんせき》に召《めさ》れ御酒《ごしゆ》頂戴《ちやうだい》の折から御取次の者右の通申上ければ中納言樣の御意に越前|夜陰《やいん》の推參何事なるか主税其方|對面《たいめん》致《いた》し委細承まはり參るべしとの御意に山野邊主税之助は表《おもて》へ出來《いできた》り越前守に對面して申けるは拙者は山野邊主税之助《やまのべちからのすけ》と申する者なり越前殿には中納言樣へ御目通り御願の由然る所中納言樣には先達《せんだつ》てより御所勞《ごしよらう》なり夜陰の御|入來《じゆらい》何樣《なにやう》の儀なるや御口上承まはる可《べし》との御意なりと叮嚀《ていねい》に相述《あひのべ》ければ越前守頭を下《さげ》扨申されけるは越前|斯《かく》夜中《やちう》をも省《かへり》みず推參《すゐさん》候は天下の御大事に付中納言樣へ御願ひ申上度儀|御座有《ござあつ》ての儀なり此段御|披露《ひろう》頼《たの》み存ずるとぞ述《のべ》られたり主税是を聞て尋常《じんじやう》の儀ならんには主税及ばずながら承まはり申べきが[#「申べきが」は底本では「申べがが」]國家の御大事を拙者《せつしや》如き若年者の承まはる可事|覺束《おぼつか》なし兎も角も中納言樣へ言上《ごんじやう》の上御|挨拶《あいさつ》すべし暫く御控へ有べしと會釋《ゑしやく》して奧へ入り綱條卿《つなえだきやう》に申上げるは町奉行越前守に對面仕り候處天下の一大事|出來《しゆつたい》に付夜中をも憚《はゞ》からず推參仕り候|趣《おもむ》き若年の私承たまはらん事覺束なく存じ此段言上仕り候と申上らる中納言綱條卿|聞《きこ》し召《めし》深く驚かせ給ひ天下の一大事|出來《しゆつらい》とは何事ならん夫は容易《ようい》ならざる事なるべし越前を書院《しよゐん》へ通すべし對面《たいめん》せんとの仰《おほせ》なり是に依て侍ひ中御廣書院へ案内《あんない》せらる最早中納言樣には御書院に入せられ御|寢衣《ねまき》の儘《まゝ》御着座遊《おんちやくざあそ》ばさる越前守には敷居際《しきゐぎは》に平伏《へいふく》せらる時に中納言樣には越前近ふ/\との御|言葉《ことば》に越前守は少し座を進《すゝ》み頭《かしら》を下《さげ》て申上らるゝ樣《やう》御|恐《おそ》れながら天下の御大事に付夜中をも省《かへり》みず推參《すゐさん》候段|恐入《おそれいり》奉り候御病中も厭《いとは》せ給はず御|目通《めどほり》仰付《おほせつけ》られ候段有難き仕合に存じ奉ると申上らる此時綱條卿には御褥《おんしとね》を下られ給ひ天下の一大事たる儀を承《うけ》たまはるに略服《りやくふく》の段は甚だ恐《おそ》れ有と病中の儀越前許し候へとの御意なりしと此時大岡越前守は恐入《おそれいつ》て言上《ごんじやう》に及ばれけるは定めて御承知も有せらるべきが此度八山御旅館へ御|下向《げかう》有《あり》し天一坊樣儀先達て伊豆守御役宅へ御|招《まね》ぎ申し御|身分《みぶん》調《しらべ》申せしに將軍の御|落胤《らくいん》たるに相違《さうゐ》無《なく》御證據の品も御座あれば近々《きん/\》御對面《ごたいめん》の御|儀式《ぎしき》有《あら》せらるべき間《あひだ》取計《とりはから》ひ申べしとの事に候然るに私|聊《いさゝ》か相學《さうがく》を心掛候に付き間《ま》も隔《へだて》候へども伊豆守御役宅に於て天一坊樣御面部を竊《ひそか》に拜し奉りしに御目と頬《ほゝ》の間に凶相《きようさう》あり此《こ》は存外《ぞんぐわい》なる工《たく》みあるの相にて又|眼中《がんちう》に赤筋《あかすぢ》有《あつ》て瞳《ひとみ》を貫《つらぬ》き候は劔難《けんなん》の相にて三十日以内に刄《やいば》に掛るべき相もあり旁々《かた/″\》斯《かゝ》る凶惡《きようあく》上將軍《かみしやうぐん》の若君たるの理あるべからず如何にも御證據の品は實《じつ》なるべきが御當人に於ては贋者《にせもの》必定《ひつぢやう》と見究《みきは》め候依て重役共へ再吟味の儀|度々《どゝ》申立候へども相許《あひゆる》さず據《よんどこ》ろなく今朝《こんてう》登城仕り高木伊勢守を以て言上に及び再吟味の儀|直願《ぢきぐわん》仕りしが御|親子《しんし》の御|愛情《あいじやう》にや越前が願ひは御聞屆なきのみか重役を蔑《ないが》しろに致《いたし》候|上《うへ》再吟味は天下の御大法に背くとて重き上意の趣《おもぶ》きにて越前|閉門《へいもん》仰付《おほせつけ》られ既に切腹とも存じ候へ共|若《もし》明日にも御對顏ある上|萬一《まんいち》贋者《にせもの》にてもある時は取返《とりかへ》し相成らず御威光《ごゐくわう》にも拘《かゝ》はり容易《ようい》ならざる天下の御|恥辱《ちじよく》と存じ越前|惜《をし》からぬ命を存《なが》らへ御|尤《とが》めの身分を憚《はゞ》からず押《おし》て此段御屋形樣へ言上《ごんじやう》仕り候此儀御用ひなき時は是非に及ばず私し儀は含状《ふくみじやう》を仕つり其節《そのせつ》切腹《せつぷく》仕るべき覺悟《かくご》に候然らば當年中にはよも御對顏の運《はこ》びには相成まじく其内に眞僞《しんぎ》判然《はんぜん》も仕らんかと所存を定め候|間《あひだ》今晩《こんばん》は亡者《まうじや》の姿《すがた》にて不淨門の番人を僞《いつは》り御屋形へ推參奉りて候とまた餘儀もなく言上に及ばる綱條卿《つなえだきやう》聞《きこ》し食《め》され越前其方が忠節《ちうせつ》頼母《たのも》しく存ずるなり能《よく》も其所へ心付きしぞ予は病中成れども天下の一大事には替難《かへがた》し明朝登城し將軍家へ拜謁《はいえつ》し如何樣にも計らふべき間其方安心致し此上心付候へとの御意にて又仰せには明朝《みやうてう》予が登城致す迄に萬一《もし》切腹《せつぷく》の御沙汰あらんも計り難し假令《たとへ》上使ありとも必ず御請《おうけ》を致さず押返《おしかへ》して予が沙汰に及ばざる内は幾度《いくど》も御|斷《ことわ》り申立べし是は其方より上意を背《そむく》には非《あら》ず言《いは》ば我等が御意を背儀なれば少しも心遣ひなく存じ居《をる》べしと御|懇切《ねんごろ》なる御意を蒙《かうむ》り越前守|感涙《かんるゐ》肝《きも》に銘《めい》じ有難く坐《そゞ》ろに勇み居たりけり [#8字下げ]第二十五回[#「第二十五回」は中見出し]  水戸中納言綱條卿は越前守に打對《うちむか》ひ給ひ其方死人の體にて不淨門《ふじやうもん》より出たりとの事なれば歸宅むづかしからんとの御意《ぎよい》に越前守平伏して御意の通御役宅を出候には番人《ばんにん》を僞《いつ》はり候へども歸の程甚だ當惑《たうわく》仕《つか》まつると申上ければ中納言樣には主税之助《ちからのすけ》を召れ其方越前を宅迄送屆け申べし此使は大切なるぞ其方より外《ほか》に勤る者なし必ず後《おく》れを取候な其刀を遣す程に若《もし》無禮《ぶれい》の振舞《ふるまひ》致す者あらば切捨《きりすて》に致せ予が手打も同前なるぞと仰せらる主税之助は委細《ゐさい》畏《かしこ》まり奉つると直に支度を調《とゝの》へ侍《さふら》ひ兩人に提灯持鎗持草履取三人越前守|主從《しゆじう》四人[#「四人」は底本では「三人」]都合十人にて小石川《こいしかは》御屋形を立出《たちいで》數寄屋橋御門内なる町奉行御役宅を指《さし》て急《いそ》ぎ行《ゆく》早《はや》夜《よ》も子《ね》の刻《こく》を過《す》ぎ屋敷に近付《ちかづき》一同に表門へ懸り小石川御館の御|使者《ししや》山野邊主税之助なり開門《かいもん》あるべしと呼はれば夜番の御徒士目附|答《こた》へて越前守には閉門中《へいもんちう》にて開門|叶《かな》ひ申さずといふ主税之助越前殿閉門は誰より申付候やと尋ぬるに御徒士目附申やう土屋《つちや》六郎兵衞殿の申付なりと此時《このとき》主税之助|態《わざ》と憤《いか》りの聲を振たて何と申され候や土屋《つちや》六郎兵衞の詞《ことば》が夫程《それほど》重《おも》きか中納言樣の御詞《おことば》を背《そむ》くに於ては仰付《おほせつけ》られの心得ありと大音に呼はりければ何れも肝《きも》を潰《つぶ》し時を移さず開門に及べば山野邊主税之助先に立《たつ》て門を通らんとする時御徒士目附[#「御徒士目附」は底本では「御役士目附」]聲を懸《かけ》暫《しば》らく御|待《まち》有《ある》べし小石川御|屋形《やかた》の御使者御供の人數を調《しら》べ申さんと有ゆゑ主税之助答へて篤《とく》と念入《ねんいれ》調《しらべ》らるべしと主税之助主從十人と數《かぞ》へてぞ通しける主税之助は越前守の主從を無難《ぶなん》に屋敷へ送込《おくりこみ》奧《おく》へ通り呉々も越前守に申|含《ふく》めけるは明朝早々御屋形御登城有て御取計ひ有べし夫迄は大切《たいせつ》の御身と主人よりも申付て候|何樣《なにやう》の儀候とも小石川御屋形の御意と御申立あるべし其内には屹度《きつと》宜《よろ》しき御沙汰有べしと申|置《おき》暇乞《いとまごひ》して歸りには主從六人にて表門へ出來り小石川御屋形の御使者《おししや》只今《たゞいま》歸《かへり》申す開門ありたしと申ければ番人また人數を改め四人|不足《ふそく》なれば主税之助に向ひ最前《さいぜん》の御人數は侍《さふら》ひ分六人中間三人主從十人に候|處《ところ》只今《たゞいま》御人數は侍ひ四人不足なり如何の儀に候やと云《いふ》主税之助は威丈高になり各々には何と申さるゝや先刻《せんこく》よりは人數四人不足とや御手前方《おてまへがた》は何の爲に閉門の御番をば致さるゝや小石川御館にては閉門の屋敷《やしき》へ參り居殘致《ゐのこりいた》す者は一人もなし狼狽《うろたへ》たる申分かな彼是《かれこれ》申さば切て捨んと大言に叱り付られ番衆も據《よんどころ》なく開門して通しける主税之助は首尾能《しゆびよく》仕課《しおほ》せ急ぎ小石川へ歸り御前《ごぜん》へ出て右の次第を委敷《くはしく》言上に及びければ中納言樣には深く御滿悦遊《ごまんえつあそ》ばし汝ならでは然樣《さやう》の働きは成まじとの御賞美の御意なりまた御意には越前はさぞ夜明《よあけ》が待遠成《まちどほなる》べし明朝は六ツ時登城すべし然樣《さやう》に計ひ申す可との御意なれば夫々の役々へ御登城の御|觸出《ふれいだ》しに及びける夫よりは御|寢所《しんじよ》へも入せられず直樣《すぐさま》御月代を遊ばされんとの趣《おもむ》きなれば主税之助初め御病中《ごびやうちう》御月代の儀は御|延引《えんいん》遊ばし然るべしと申上らる中納言樣には長髮《ちやうはつ》にて登城し將軍の御前へ出るは失敬《しつけい》なり我將軍を敬《うやま》はずんば誰か將軍を重ずべき病中とて苦《くるし》からず月代《さかやき》せよとの御意なれば掛りの役人《やくにん》も是非なく御櫛《おくし》を取上《とりあげ》ける夫より御行水《おんぎやうずゐ》相濟《あひすみ》頃はハヤ御本丸の六ツの御太鼓遠く聞えれば御供揃《おともぞろひ》にて直に御登城遊ばせしが時刻早ければ未だ御役人|方《がた》は一人も登城なく御|側衆《そばしう》泊番|太田《おほた》[#ルビの「おほた」は底本では「おばた」]主計頭のみなり主計頭《かずへのかみ》を召れ天下の一大事に付將軍へ御逢《おんあひ》の爲《ため》登城に及べり此段《このだん》取次《とりつぎ》申せとの仰なれば主計頭其趣きを言上に及《およ》ばれける將軍家聞し食させ大に驚《おどろ》かせ給ひ早速|御裝束《ごしやうぞく》を改めさせられ御對面あるに此時《このとき》將軍家の仰に中納言殿には天下の一大事《いちだいじ》の由《よし》何事なるやと御尋あれば中納言|綱條卿《つなえだきやう》には衣紋《えもん》を正し天下の一大事と申候は餘《よ》の儀《ぎ》にも候はず先《まづ》伺《うかゞ》ひ度は町奉行越前を名《めい》奉行と宣ひしは抑も誰にて候やとの御|尋《たづね》なり是は先年松平左近將監殿へ御意に大岡越前は名奉行《めいぶぎやう》なりと仰せられし事を中納言家には御存じゆゑ斯樣《かやう》に仰上られしものなるべし此時《このとき》將軍には御不審の體にて御在《おはし》ますにぞ又申上らるゝ樣は斯《かの》綸言《りんげん》は汗《あせ》の如しまた武士《ぶし》に二言なしとか君のお目鏡《めがね》にて名奉行と仰せられ候越前天下の御|爲《ため》を存じ君へ忠節を盡す心底より天一坊殿|御身分《ごみぶん》再吟味願候に越前へ閉門仰付られしと承《うけた》まはる町奉行たるものが支配内の事を吟味《ぎんみ》致すに筋違《すぢちがひ》とは如何なる儀にや此段承まはりたしと御|老人《らうじん》の苦《にが》り切たる有樣なれば將軍にも御|當惑《たうわく》の體にて偵《さす》が名君の理《り》に伏《ふく》し見え給ひ殆《ほとん》ど御|困《こまり》の御樣子にて太田主計頭を召し上意には其方|只今《たゞいま》より越前宅へ罷越《まかりこし》呼《よび》參れとの上意なれば主計頭は御受に及び直樣《すぐさま》馬を飛《とば》せ鞭《むち》を加へて一散に數寄屋橋の御役宅へ來り御上使《ごじやうし》々々々と呼はりければ大岡の屋敷にては上下是を聞付《きゝつけ》スハ切腹の御上使と一家中色を失なひ噪《さわぎ》ける表門には御上使と有《ある》に開門《かいもん》しければ主計頭には急ぎ玄關へ通り越前守に對面《たいめん》ありて上意の趣きを相述べ急ぎ登城あるべしとの事なり越前守|委細《ゐさい》承知《しようち》し則ち馬を急し家來に申付|火急《くわきふ》の御用なり駕籠は跡より廻《まは》せと申付|麻上下《あさがみしも》に服を改め主計頭と同道にて登城にこそは及ばれたり跡には皆々《みな/\》打寄《うちより》只今《たゞいま》御上使と御同道にて御登城有しは迚も御|存命《ぞんめい》覺束《おぼつか》なし是は將軍の御手打か又は詰腹《つめばら》か兎に角大岡の御家は今日限り斷絶成《だんぜつなる》べし行末如何成|事《こと》やらんと主の身の上より我|行末迄《ゆくすえまで》も案じやり歎に沈まぬ者もなし扨も將軍家《しやうぐんけ》には中納言綱條卿と御|對座《たいざ》にて御座《おんまし》まし越前が登城今や/\と待給《まちたま》ふ時しも太田主計頭が案内にて越前守|恐《おそ》る/\御前へ出《いで》遙《はる》か末座に平伏す時に主計頭座を進み只今越前|召連《めしつれ》て候と申上るにぞ將軍の上意に芝八山に旅館《りよくわん》の天一坊身分再吟味の儀越前其方が心に任《まかせ》申|付《つく》るぞと仰なれば越前守には發と計り御|請《うけ》申上らる將軍は又も中納言樣に向はせ給ひ水戸家只今|聞《きか》せらるゝ通り越前へ右の如く申|付《つけ》たり御安心これ有たしと宣ふに綱條卿には實《げ》に御名將の思召《おぼしめし》潔《いさぎ》よく御座候と申上られ是より中納言樣には御老中御|列座《れつざ》の御席へ渡らせ給ひ越前守をも此席へ召れて中納言樣の仰《おほせ》に芝八山に旅宿致さるゝ天一|身分《みぶん》再吟味《さいぎんみ》の儀《ぎ》今日より越前に任《まか》すとの上意なれば一同左樣に心得られよ取分《とりわけ》予が申渡すは天一身分吟味中越前が申す事は予が言葉《ことば》と心得られよ越前も又|左樣《さやう》相心得《あひこゝろえ》心を用ゆべし越前には少身の由萬端行屆まじお手前達《てまへたち》に於て宜く心付致さるべしとの御意《ぎよい》なれば越前守は願の通り再吟味の台命《たいめい》を蒙り悦こび身に餘り勇《いさ》み進んで下城にこそは及ばれたり下馬先《げばさき》には迎の駕籠廻り居て夫に乘《のり》徐々《しづ/\》と歸宅せられたり頓《やが》て屋敷近くなりし頃《ころ》押《おさ》へが一人|駈拔《かけぬけ》て表門よりお歸り/\と呼はれば此を聞《きゝ》て家來の男女はまた驚き恙《つゝが》なき歸りをば悦び且疑ふばかりなり [#8字下げ]第二十六回[#「第二十六回」は中見出し]  扨《さて》も大岡越前守には三人の公用《こうよう》人を呼出され今日より天一坊吟味の儀越前が心任《こゝろまか》せとの台命《たいめい》を蒙り又天一坊吟味中越前が申|詞《ことば》は小石川御館樣の御|言葉《ことば》と心得よとの御意なり然《され》ば次右衞門其方は只今より八山へ到り明日《みやうにち》辰《たつ》の上刻《じやうこく》天一坊に越前が役宅へ參り候樣申參べし必ず町奉行の威光を落すなと申|付《つけ》られ又吉田三五郎には[#「吉田三五郎には」は底本では「吉田五三郎には」]天一坊の召捕方《めしとりかた》を[#「召捕方を」は底本では「名捕方を」]池田大助には召捕手配方《めしとりてくばりがた》を申付られたり是に依《よつ》て吉田三五郎は江戸三箇所の出口へ人數《にんず》を配《くば》り先千住板橋新宿の三口へは人數若干を遣し固《かた》めさせ外九口へは是又人數|若干《そこばく》を配り海手《うみて》は深川新地の鼻より品川の沖迄御船手にて取切《とりきり》備船《そなへぶね》は沖間《おきあひ》へ出し間々は鯨船《くぢらぶね》にて取固《とりかた》め然《さ》も嚴重に構へたり扨又平石次右衞門は桐棒《きりぼう》の駕籠に打乘若黨長柄草履取を召倶《めしぐ》し數寄屋橋の御役宅を出《いで》芝八山へと急ぎ行次右衞門道々考へけるは天一坊家來に九條殿《くでうどの》の浪人にて大器量人と噂《うはさ》ある山内伊賀亮には逢度《あひたく》なし然《され》ば赤川大膳を名差《なざし》にて對面せんと思案し頓て芝八山なる天一坊が旅館《りよくわん》の門前に來りける箱番所《はこばんしよ》には絹羽織《きぬはおり》菖蒲皮《しやうぶかは》の袴《はかま》を穿《はき》控《ひかへ》居《ゐ》し番人大音に御使者と呼上《よびあげ》れば次右衞門は中の口に案内を乞《こひ》けるに此時戸村次右衞門と云者《いふもの》次上下《つぎがみしも》にて取次《とりつぎ》に出來れば次右衞門は懷中より手札取出し拙者《せつしや》は町奉行大岡越前守公用方平石次右衞門と申者《まをすもの》なり天一坊樣御重役赤川殿へ御意《ぎよい》得《え》て越前守が口上の趣きを申|述度《のべたく》存《ぞん》ず何卒此段御取次下さる可《べし》と云に戸村は承知して大膳に斯と申通ずれば大膳は聞て眉《まゆ》を顰《ひそ》め町奉行大岡越前守より使者の來る筈は無しと不審《ふしん》に思へば伊賀亮が居間に到り只今町奉行大岡越前守公用人平石次右衞門と申す者《もの》來《きた》り某しに面會し主人越前が口上《こうじやう》を述《のべ》たしとの事なれど町奉行より使者の來る譯《わけ》はなき筈ぢやが如何の者かと聞ければ伊賀亮|成程《なるほど》越前より使者を遣はす筋《すぢ》無《なけ》れど貴殿名差とあれば何用とも計れず兎角御逢めさる方|然《しか》るべし併し目の寄る所へ玉とか申し越前守は大器量人《だいきりやうじん》なり然《され》ば使者の平石とやらんも一|癖《くせ》あるべし貴殿應對は氣遣ひなりと小首《こくび》を傾けられて大膳は氣後《きおく》れし然らば拙者は病氣と披露《ひろう》して貴殿面會し給はれと云ふに伊賀亮夫は何より易《やす》けれども平石次右衞門と手札を出し大膳殿へ御意《ぎよい》得《え》たしと申せし時に大膳儀は不快ゆゑ同役山内伊賀亮御目に懸《かゝ》るべしと申せば宜に今となりて大膳儀|病氣《びやうき》なれば伊賀亮御目に掛ると申す時に赤川は取《とる》に足《たら》ざる者ゆゑ出會《いであは》ぬと見えたりと貴殿の腹を見透《みすか》さるゝ樣な物なり夫共事成就の上此伊賀亮は五萬石の大名《だいみやう》に御取立になり貴殿は三千石の御旗本位《おはたもとぐらゐ》是《これ》が御承知ならば伊賀亮|何樣《いかやう》にも計ひ對面すべしと云に強慾《がうよく》無道《ぶだう》の大膳是を聞《きゝ》夫なれば某し對面し口上を承まはらん併《しか》し返答に何と致して宜しかる可《べき》やと云に伊賀亮打笑ひ未だ對面もせぬ先に返答の差※[#「圖」の「回」に代えて「面から一、二画目をとったもの」、85-18]《さしづ》は出來ず夫こそ臨機《りんき》應變《おうへん》と云者なり向ふの口上に因て即答《そくたふ》あるべきなり口上を聞もせぬ内其挨拶が成べなやと云《いへ》ば大膳は益々氣後せし樣子に伊賀亮も見兼《みかね》て大膳殿左程に案じ給ふならば極意《ごくい》を教《をしゆ》べし先平石の口上を聞て返答に差詰《さしつま》りし時は暫く控へさせ上へ伺《うかゞ》ひ申して後返答致すべしとて奧《おく》へ來り給へ其口上に依て返答の致し方は種々《さま/″\》ありと教ければ然らば對面致すべしと取次の者を呼《よん》で次右衞門を使者の間へ通すべしと申渡せば戸村《とむら》は中の口へ來り平石に向ひ率《いざ》御案内《ごあんない》申すべしと先に立《たち》使者の間の次へ來る時戸村は御使者には御帶劔《ごたいけん》を御預り申さんといふ平石次右衞門|脇差《わきざし》を渡さんと思ひしが待《まて》暫《しば》し主人が八山へ參り町奉行の威光《ゐくわう》を落すなと仰られしは爰《こゝ》なりと平石は態と聲高《こわだか》に拙者は何方《いづかた》に參るも帶劔を致す身分なればお預《あづけ》申事は相成がたしと云に戸村は町奉行|公用人衆《こうようにんしう》は外々の公用方と御身分違候や何《いづれ》の公用方でも此處にて帶劔は御預り申候|御老中方《ごらうぢうがた》公用人の御身分は何《いか》なる物にやと問ければ御老中方の公用方は御目附代ゆゑ御直參同樣に候と答《こた》へけるまた御城代公用方の御身分は如何と問《とふ》に是は中國四國九州の探題の公用方なれば矢張《やはり》御直參《ごぢきさん》同樣《どうやう》に候と答へける戸村|然《しから》ば御城代諸司代御老中と夫々の公用人何れも帶劔を御渡し成《なさ》るゝに町奉行の公用人のみ御渡し成れぬは御身分でも違《ちが》ひ候やと言ければ平石は町奉行の公用人とて別段《べつだん》身分《みぶん》は違はず併し乍《なが》ら赤川大膳殿には何程《いかほど》の御身分にて帶劔の儘《まゝ》お目に懸れぬや又此處は天一坊樣の御座《ござ》の間《ま》近ければ帶劔のならざるや又《また》大膳殿には御座の間《ま》近《ちか》くより外へは御出席なされぬや拙者は只赤川殿に御目《おめ》に懸り主人越前守の口上を述《のべ》候へば夫にて使者の役目は相濟《あひすむ》事なれば假令《たとへ》御廊下《ごらうか》の端御玄關の隅《すみ》にても苦《くるし》からず帶劔の出來る所にて御目に懸り度|存《ぞんじ》候なり此段御伺ひ下されと申けるにぞ戸村も此|詞《ことば》に閉口《へいこう》し大膳に右の次第を委しく咄《はな》せば大膳はいよいよ驚き迚《とて》も平石に對面は致し難しと又々伊賀亮の居間《ゐま》に來り貴殿の眼力《がんりよく》の通り越前守が使者と申奴は頗る秀才《しうさい》の者と見えたり其譯は今戸村が使者の間《ま》へ案内し帶劔を預《あづか》らんと申せしに斯樣々々《かやう/\》の挨拶の由拙者對面しなば後々の障碍《さはり》と成べし伊賀亮殿御太儀ながら御|逢下《あひくだ》さるべしと又餘儀もなく頼むにぞ伊賀亮も承知なし成程目の寄所《よるところ》へ玉《たま》とは能も申たり越前守は能《よき》家來《けらい》を持《もち》羨《うらや》ましと譽めながら戸村を呼《よび》彼《かの》使者に大膳殿は今日御上御|連歌《れんが》の御相手にて御座《ござ》の間より外《ほか》へ出席|成難《なりがた》し同役山内伊賀亮|非番《ひばん》なれば代りて御目に懸らんと御使者の間へ通すべしと言付《いひつけ》られて此趣きを平石へ申通じける平石は伊賀亮と聞て迷惑《めいわく》に思へども今更詮方なく控へ居る頓《やが》て山内伊賀亮は黒羽二重《くろはぶたへ》の小袖に繼上下《つぎかみしも》を着《つけ》出來《いできた》り申けるは町奉行大岡越前守公用人平石次右衞門と申は其方《そのはう》なるか拙者は天一坊樣|重役《ぢうやく》山内伊賀亮なり未だ大岡には對面せねど勤役中《きんやくちう》太儀《たいぎ》と然も横柄《わうへい》の言葉なり平石次右衞門は平伏し御意の通《とほ》り大岡が使者平石次右衞門に候天一坊樣|益々《ます/\》御機嫌能く恐悦に存じ奉つり候大岡|參上《さんじやう》し以て申上べき處當八山は奉行支配場にて參上仕り兼《かね》候間使者を以て申|上奉《あげたてま》つり候明日|辰《たつ》の上刻《じやうこく》天一坊樣大岡役宅へ入せられ候樣申上奉つるとの口上《こうじやう》なり山内聞いて町奉行宅は罪人《ざいにん》科人《とがにん》の出入する穢の場所なり左樣な不淨《ふじやう》の處へ天一坊樣には入《いら》せられまじ假令御入成るとの御意ありとも此の山内に於て屹度《きつと》御止め申なり此|段《だん》立歸《たちかへ》り大岡殿へ申されよと云《いふ》にぞ平石は案に相違しけれど此儘《このまゝ》にては天一坊には御役宅へ來らじと言葉《ことば》を改《あらた》め申けるは此度天一坊樣御身分|調《しらべ》の儀に付ては越前守申す事は小石川|御屋形《おやかた》の御言葉と心得よとの儀にて大岡が言葉を背《そむ》かるゝは則ち上意を背くも同然の事なりと云《い》ふにぞ山内も上意《じやうい》とあれば輕《かる》からざる儀なり先づ一應伺ひの上|返答《へんたふ》致すべし暫く控《ひか》へられよとて奧《おく》へ入り良《やゝ》ありて再び出で來り次右衞門に向《むか》ひ町奉行大岡越前守より申上の趣き伺ひし處大岡の申す條なれども公方《くばう》樣の上意とあれば如何《いか》にも其の刻限《こくげん》に御出あるべしとの上意なり明日は山内にも御供を仰付《おほせつけ》られたれば何れ大岡殿に對面致すべし宜しく申し傳へ給はるべしと謂捨《いひすて》て奧へは入たり次右衞門はホツと溜息《ためいき》を吐き門前より駕籠を急がせお役宅さして歸りける [#8字下げ]第二十七回[#「第二十七回」は中見出し]  扨も平石次右衞門はお役宅《やくたく》へ歸り來り早速主人のまへにいづれば大岡《しゆじん》の曰く次右衞門其方に申付べき事をツヒ失念《しつねん》したり天一坊の家來に山内伊賀亮といふ器量人あり渠に逢ては惡《あし》かりしが何人に逢しやと尋《たづね》らるゝにぞ次右衞門いふ私しも左樣に心づき候ゆゑ名差にて御|重役《ぢうやく》赤川大膳殿へお目に懸《かゝ》りたしと申入しに赤川殿は御連歌《ごれんが》のお相手にて御座の間より外へ出席なり難《がたき》故《ゆゑ》非番の山内伊賀亮が對面《たいめん》致すとて面談せしに明日|刻限《こくげん》通り參らるべしとの儀なりと述ければ越前守大きに悦び明日は大器量人《たいきりやうじん》の山内伊賀を越前が一言の下《した》に恐れ入《いら》せんものとぞ思はれける爰に八山には次右衞門の歸《かへ》りしあとにて山内は役人を招ぎ御上には天《てん》文お稽古中なれば天文臺へ入せらるゝなり其|用意《ようい》すべしと申付るにぞ役人は早速其用意をなし先《まづ》天文臺へは五|色《しき》の天幕を張廻し長廊下より天文臺まで猩々緋《しやう/″\ひ》を布續《しきつゞ》ける山内は天文臺へ天文教導の役なればとて先に立ち續《つゞ》いて天一坊常樂院天忠和尚赤川大膳藤井左京の五人にて進《すゝ》み行《ゆき》けり扨《さて》臺上へのぼりて山内は四人に向《むか》ひ町奉行越前宅より使者を以て明日我々を呼寄《よびよせ》るは多分召捕了簡と見えたりと述ければ大膳は肝《きも》を潰《つぶ》し果して大事の露顯なす上は是非に及ず皆々|切腹《せつぷく》なさんといふ山内また云やう未だ二度に切拔《きりぬけ》る事も有べし早計《はやまり》玉ふな明日大膳殿には先驅《さきども》なれば某しが警戒《いましむ》べき事あり其は越前守の役宅《やくたく》にて必ず無禮《ぶれい》を働くべし決して怒《いかり》を發《はつ》し刀などに手を掛《かけ》給ふな町奉行の役宅にて劍㦸《けんげき》の沙汰に及べば不屆者《ふとゞきもの》と召捕て繩を掛ん呉々も怒を愼み給へと云含め猶種々と密談《みつだん》に及びし内既に黄昏《たそがれ》になりしかば山内は四方を屹《きつ》と見渡し大いに驚き大膳殿品川宿の方に當り火の光《ひかり》見《みゆ》るが那《あれ》を何とか思るゝやと問へば大膳是を見て那《あれ》こそは縁日抔《えんにちなど》の商人の燈火《ともしび》ならんといふに山内|首《くび》を打振《うちふり》否々《いや/\》然《さ》に非ず夫等《それら》の火光《くわくわう》は人氣《にんき》和融《くわゆう》なれば自然《しぜん》とそらへ丸く映《うつ》るべきに今彼光は棒の如く尖《とが》りて映れり彼|人氣《じんき》勇烈《ゆうれつ》を含むの氣にて火氣と云ひ旁々《かた/″\》我々を召捕んとて出口々々を固めたる人數の篝火《かゞりび》なるべし此人數は凡そ千人餘ならんと又《また》一方を見渡し深川新地の端より品川沖まで燈火《ともしび》の見るは何舟なりやと問ふ大膳|那《あれ》こそ白魚《しらうを》を漁《と》る舟なりと云ば伊賀亮大に打笑ひ那燈火も矢張我々を召捕ん爲《ため》舟手《ふなて》にて固《かた》めたる火光にして其間に丸《まる》く見《みゆ》る火光こそ全くの漁船なり海陸《かいりく》とも斯の如く手配せしは越前が我々を召捕べき手筈《てはず》と見えたりと聞て四人は色を失ひ各々顏を見合て然《しから》ば今宵の内に皆々自殺なさんと云ば伊賀亮|推止《おしとゞ》め未だ驚くには及ばず明日こそは器量人の越前を此伊賀が閉口《へいこう》させて見すべければ呉々も大膳殿|明日《みやうにち》は怒を發し給ふなと戒め夫より翌日《よくじつ》の支度にぞ掛りける早《はや》其夜も明て卯の上刻となれば赤川大膳|先驅《さきども》として徒士四人先箱二ツ鳥毛《とりげ》[#ルビの「とりげ」は底本では「とりけ」]の一本道具を駕籠の先へ推立《おしたて》長棒《ながぼう》の駕籠に陸《ろく》尺八人侍ひ六人|跡箱《あとばこ》二ツ引馬一疋長柄草履取合羽等にて數寄屋橋内町奉行の役宅《やくたく》へ來り門前にて駕籠を下《おろし》表門《おもてもん》へ掛《かゝ》る此時大膳は熨斗《のし》目麻上下なり既《すで》にして若黨|潜門《くゞりもん》へ廻り徳川天一坊樣の先驅赤川大膳なり開門《かいもん》せられよと云に門番は坐睡《ゐねむり》し乍ら何《なに》赤川大膳ぢやと天一坊は越前守が吟味《ぎんみ》を受る身分なり其家來に開門は成ぬ潜より這入べし彼是《かれこれ》[#「彼是」は底本では「是彼」]云《いは》ば繩目《なはめ》に及ぞと云に大膳|斯《かく》と聞て伊賀亮が戒めしは爰なりと思ひ大膳一人潜より入り家來は殘《のこら》ず門外に殘し置《おき》玄關へかゝれば取次として平石次右衞門[#「平石次右衞門」は底本では「平石次衞門」]|出來《いできた》りて大膳を伴うて間毎々々《まごと/\》を經《へ》庭《には》へ下《お》り向の物置部屋へ案内したり爰には數十人の與力《よりき》同心《どうしん》番《ばん》をなし言語同斷の無禮を働くにぞ大膳は元來|短氣《たんき》の性質なれば無念《むねん》骨髓《こつずゐ》に徹《てつ》すれども伊賀亮が戒めしは此所《ここ》なりと憤怒《ふんど》を堪《こら》へ居たりける斯て八山の天一坊が行列には眞先に葵の紋を染出せし萌黄純子《もえぎどんす》の油箪《ゆたん》を掛たる長持二|棹《さを》黒羽織の警固《けいご》八人|長持《ながもち》預り役は熨斗目麻上下の侍ひ一人其跡は金葵《きんあふひ》の紋《もん》付《つき》たる栗色《くりいろ》の先箱には紫の化粧紐を掛雁行に并べ絹羽織の徒士《かち》十人|宛《づつ》三人に并び黒天鵞絨へ金葵の紋を縫出《ぬひいだ》せし袋を掛たる長柄は金の葵|唐草《からくさ》の高蒔繪《たかまきゑ》にて紫縮緬の服紗にて熨斗目麻上下の侍ひ持行同じ出立の手代《てがはり》[#ルビの「てがはり」は底本では「てかはり」]一人|引添《ひきそひ》たり又麻上下にて股立《もゝだち》取《とつ》たる侍ひ十人宛二行に並ぶ次に縮《ちゞ》ら熨斗目に紅裏《こううら》の小袖麻上下にて股立取たるは何阿彌《なにあみ》とかいふ同朋《どうぼう》なりさて天一坊は飴色網代の蹴出付《けだしつき》黒棒《くろぼう》の乘物にて駕籠脇十四人熨斗目麻上下にて股立とり跡《あと》より沓臺持《くつだいもち》一人黒塗に金紋付の跡箱紫きの化粧紐を掛《かけ》乘物《のりもの》の上下には朱《しゆ》の爪折傘《つまをりがさ》二本を指掛《さしかけ》簑箱《みのばこ》一ツ虎皮の鞍覆たる引馬一疋|豹《へう》の皮の鞍覆たる馬一疋|黒天鵞絨《くろびろうど》に白く葵の紋を切付たる鞍覆馬一疋|供鎗《ともやり》三十本其餘兩掛合羽駕籠茶瓶等なり續《つゞい》て常樂院天忠和尚四人徒士にて金十六|菊《きく》の紋を附たる先箱二ツ打物を持せ朱網代の乘物にて陸尺《ろくしやく》六人駕籠脇の侍ひ四人|跡《あと》箱貳ツ何も紫きの化粧紐を掛《かけ》たり黒羅紗の袋を掛たる爪折傘に草履取合羽籠等なり引續《ひきつゞい》て藤井左京も四人徒士にて長棒の駕籠に乘《のり》若黨《わかたう》四人黒叩き十|文字《もんじ》鎗《やり》を持せ長柄傘草履取合羽駕籠等なり少し後《おくれ》て山内伊賀亮は白摘毛《しろつみげ》の鎗を眞先に押立《おしたて》大縮《おほちゞ》ら熨斗目麻上下にて馬上なり尤も若黨四人長柄草履取合羽駕籠等|相添《あひそ》へ右の同勢にて八山を出《いで》下《した》に/\と呼り數寄屋橋を指て練來《ぬひきた》るしかるに往來の横々は木戸を〆切《しめきり》町内の自身番屋には鳶の者火事裝束にて相詰《あひつめ》たり程なく惣人數《そうにんず》は數寄屋橋御門へ來しに見附は常よりも警固《かため》の人數多く既に天一坊の同勢《どうぜい》見附《みつけ》へ這入《はひれ》ば門を〆切《しめきり》夫《それ》を相※[#「圖」の「回」に代えて「面から一、二画目をとったもの」、90-4]に外廓の見附は何も〆切《しめきり》たり斯て越前守の役宅へ近付ければ只今《たゞいま》天一坊樣|入《いら》せられたり開門せよと呼れば此日は池田《いけだ》大助門番を勤め何天一坊が參《まゐり》しとや天一坊は越前守が吟味を受る身分《みぶん》開門は相成《あひなら》ず潜りより這入れと云に徒士等之を聞て膽《きも》を潰《つぶ》し其旨供頭の伊賀亮へ告ければ伊賀亮は天一坊の乘物《のりもの》の側へ來り奉行越前は將軍の御名代《ごみやうだい》なれば開門致さぬとの事潜より御通り然《しか》るべく存じ候と申ければ天一坊は父君の名代と有《あれ》ば是非に及ばず潜りより通る可と云ひて乘物を下《おり》沓《くつ》を穿《はき》て立出ける其衣服は葵の紋を織出したる白綾《しろあや》の小袖を着用し其下に柿色《かきいろ》綾の小袖五ツを重ね紫きの丸帶《まるぐけ》を締《しめ》古金襴の法眼袴を穿ち上には顯文紗《けんもんしや》十徳を着用し手に金の中啓《ちうけい》を持頭は惣髮《そうはつ》の撫附《なでつけ》にて威風《ゐふう》近傍を拂つて徐々《しづ/\》と進み行く續いて常樂《じやうらく》院天忠和尚は紫きの直綴《ぢきとぢ》[#ルビの「ぢきとぢ」は底本では「ぢきてつ」]を纏ひ蜀紅錦《しよくこうにしき》の袈裟を掛けて手に水晶の念珠を爪繰《つまぐり》たり其の跡は藤井左京麻上下にて續いて山内伊賀亮は上下なり四人の者潛りより入りて玄關式臺の眞中を悠然《いうぜん》として歩《あゆ》み行《ゆ》く門内には與力同心の數人スハと云へば搦《から》め捕《とら》んと控へたり [#8字下げ]第二十八回[#「第二十八回」は中見出し]  既にして天一坊玄關へ來ければ取次案内《とりつぎあんない》として平石次右衞門|出迎《いでむか》へ平伏し先に立て案内す天一坊は沓《くつ》の儘にて次右衞門に伴《つれ》られ行《ゆく》に常樂院は天一坊の未《いま》だ沓を脱ざるを見て其の前へ走寄り沓へ手を掛《かけ》ければ天一坊は常樂院を見るに早《はや》沓《くつ》を脱たりまた後を振返り伊賀亮左京をも見《みる》に何も履物《はきもの》を穿ざれば天一坊も沓を拔《ぬぎ》捨ける夫より案内に從ひ行き遙か向を見れば一段高き床《とこ》を設け其上に越前守|忠相《たゞすけ》丸《まる》に向ふ矢車の定紋を付《つけ》繼《つぎ》上下にて控へ左右に召捕手の役人|數多《あまた》並び居るにぞ如何なれば大坂|御城代《ごじやうだい》を始京都所司代御老中の役宅にても自分《じぶん》を上座に据ゑしに越前守のみは自ら高き處に着座《ちやくざ》なすやと不審に思ひつゝ立止れば此時越前守には先達て伊豆守殿|役宅《やくたく》にては間も隔し故《ゆゑ》若《もし》見違もやせんと思ひしが今天一坊の面貌《めんばう》熟々《よく/\》視《み》るに聊か相違なければ彌々僞物に紛なしと見|究《きはめ》しも未だ確なる證據なき故|召捕《めしと》ること叶はず如何にせんと思ひしが屹度して大音に天一坊下に居れ此賣主《このばいす》坊主《ばうず》餘人は欺くとも此越前を欺かんとは不屆至極《ふとゞきしごく》なりと叱付《しかりつけ》れば天一坊は莞爾《くわんじ》と打笑ひ越前は逆上《ぎやくじやう》せしと見えたり此頃まで三百俵の知行なりしが三千石の高祿《かうろく》になり當時町奉行を勤め人々|尊敬《そんけい》すればとて慢心増長なせしか若《もし》予《よ》が答を爲ば不便や其方切腹せねば成まじ唯《たゞ》聞流《きゝながし》にして遣さんに篤と勘考《かんかう》すべしとて悠然と控へければ頓《やが》て常樂院を始め皆々着座なす時に常樂院天忠|和尚《をしやう》進出越前守殿には只今上に對し賣主坊主|僞物《にせもの》なりとの過言を出さるゝは何故なるぞ大坂《おほさか》京都及び老中の役宅に於て將軍《しやうぐん》の落胤に相違なしと確認《みきわめ》の附しを足下のみ左樣に云るゝは如何《いかゞ》なりと云に越前守|假令《たとへ》大坂御城代|并《ならび》に御老中迄將軍の落胤なりと申さるも此越前が[#「此越前が」は底本では「此越前か」]目には僞物に相違《さうゐ》なしと思はるゝといふ常樂院|又《また》云《い》ふやう夫は越前守殿の上を委く承知なされぬ故なり兎角《とかく》に知ぬ事は疑心の發るもの然ば拙僧《せつそう》が詳細《くはしく》認めて御目に掛んと筆を取出《とりいだ》し佐州相川郡尾島村淨覺院門前に捨子《すてご》に成せられしを此天忠拾ひ上參らせ御養育《ごやういく》なし奉りしが其後天忠美濃國各務郡谷汲郷長洞山常樂院法華寺へ轉住《てんぢう》すれば御成長の地は美濃國なりと認め差出すに越前守は是を受取《うけとり》再三《よく/\》見終り如何にも斯樣に委しき證據あれば概略《あらまし》は知たりと云つゝ又熟々思案するに斯る事に繋《かゝ》り居ては面倒なり山内めを呼出《よびいだ》し渠を恐入らせんとて大音に御城代所司代[#「所司代」は底本では「司所代」]并に御老中の役宅にて喋々《べら/\》と饒舌《しやべり》し者は此席に居《ゐる》や罷出《まかりいで》よ吟味の筋ありと呼はれば山内は最前より餘人《よにん》に尋んより我に問ば我一言の下《もと》に越前を屈服《くつぷく》させんと待《まつ》處なれば今此言を聞て進み出京都大坂并に老中《らうぢう》の役宅にて取切《とりきつ》て應答せしは拙者なりと云にぞ越前守は其方《そのはう》なるか然ば手札を出すべしと云ふに山内|懷中《くわいちう》より手札を差出す越前守は手に取《とり》克々《よく/\》見て其方の名前は山内伊賀亮かと尋《たづ》ねられしに如何にも左樣なりと答ふ越前守|推返《おしかへ》して伊賀亮なりやと問ひ扨改めて伊賀亮といふ文字《もじ》は其方心得て附たるや又心得ずして附たるやと尋《たづ》ねらるゝに山内その儀如何にも心得あつて附《つけ》し文字なりと答ふ越前守また心得有て附たりと有ば尋る仔細あり此亮《このすけ》と云《いふ》文字は則ち守といふ字にて取も直《なほ》さず其方の名前は山内伊賀守なり天一坊の家來《けらい》にて何を以て守を名乘《なの》るやと咎むれば山内答へて越前守殿よく聞かれよ此の山内の身分は浪人は愚《おろ》か如何に零落《れいらく》するとも正四位上中將の官は身に備りたりと云ふにぞ越前守は大音聲に默《だま》れ山内其方以前は九|條家《でうけ》の家來と有《あれ》ば正四位上中將の官爵も有べけれど退身すれば官位は指《さし》おかねば成ぬ筈なり然るを今天一坊の家來也《けらいなり》とて正四位上中將の官位《くわんゐ》にて山内伊賀亮と名乘は不屆なりと叱り付れば山内から/\と打笑《うちわら》ひ越前守殿には承知なき故疑ひ有も道理《もつとも》なり此伊賀亮の身分に正四位上中將の備《そなは》りある次第を咄さん拙者は九條家の家來なり一體公家方は官位高く祿《ろく》卑《ひく》きもの故に聊か役に立《たつ》者《もの》有《あれ》ば諸家方より臨時お雇ひに預る事あり拙者九條家に在勤中《ざいきんちう》は北の御門《みかど》へ御笏代《おしやくがは》りに雇れ參りし事折々なり此|北《きた》の御門《みかど》とは四親王の家柄にて有栖川宮|桂宮《かつらのみや》閑院宮《かんゐんのみや》伏見宮《ふしみのみや》を四親王と稱す當時は伏見宮を除《のぞ》き三親王なり此伏見宮を稱して北の御門《みかど》と云其譯は天子に御世繼の太子《たいし》在《ましま》さぬ時は北の御門御夫婦|禁庭《きんてい》へ入る宮樣御降誕あれば復たび北の御門へ御歸りあるなり扨御門の御笏代を勤《つとむ》る事は正四位上中將の官ならでは能《あた》はず其時には假官をなし大納言と爲るなり扨御笏代りとは北の御門參殿の節《せつ》笏《しやく》にて禁中《きんちう》の間毎々々に垂ある簾《みす》を揚て通行在せらることにて恐れ多くも龍顏《りうがん》を拜し玉ふ時は此笏を持事《もつこと》の叶はぬ故御笏代りとて御裾《おすそ》の後に笏を持ち控居て餘所乍《よそなが》ら玉體《ぎよくたい》を拜するを得者《うるもの》なり拙者先年多病にて勤仕なり難きゆゑ九條家を退身の節《せつ》北の御門へ奏聞《そうもん》を遂《とげ》しに御門は御略體《ごりやくたい》にてお目通りへ召れ山内其の方は予が笏代《しやくがは》りをも勤め龍顏をも拜せし者なれば縱令《たとへ》九條家を退身し何國《いづく》の果へ行も存命中は正四位上中將の官より下らず死後の贈官《ぞうくわん》正二位大納言たる可《べし》との尊命を蒙むれば山内此末非人|乞食《こつじき》と成果るも官位は身に備れば[#「備れば」は底本では「備れは」]伊賀亮の亮の字も心得て用ひ候|也《なり》と辯舌《べんぜつ》滔々《たう/\》と水の流る如くに述《のべ》ければ流石の越前守も言葉なく暫時《しばし》控られしが稍《やゝ》有《あつ》て山内に向かひ其方の身分委く聞ば尤もなり併し天一は似物《にせもの》に相違なければ召捕|可《べし》といふに伊賀亮《いがのすけ》容《かたち》を改め越前守殿何故に天一樣を似者《にせもの》と云るゝやと尋ければ越前守|然《され》ば似者に相違なきは此度將軍へ伺ひしに毫《すこし》も覺《おぼえ》なしとの御事なれば天一は似者に紛なしと云ふなりと山内是を聞《きゝ》將軍には覺なしとの御意合點參ず正く徳太郎信房公お直筆《ぢきひつ》と墨附[#「墨附」は底本では「黒面」]及びお證據のお短刀《たんたう》あり又天一樣には將軍の御落胤に相違なきは其御|面部《めんぶ》の瓜《うり》を割《わり》たるが如きのみか御|音聲迄《おんじやうまで》も其儘なり是《これ》御親子に相違なき證據ならずや今一應將軍へ御|伺《うかゞ》ひ下されたし克々《よく/\》御|勘考《かんかう》遊ばされなば屹度御覺有べしと[#「御覺有べしと」は底本では「御覽存べしと」]述れば越前守は大音に伊賀亮|默《だま》れ天一坊の面體よく將軍御|幼年《えうねん》の御面部に似しのみならず音聲まで其の儘とは僞《いつは》り者め其方紀州家の浪人ならばいざ知ず九條家の浪人《らうにん》にて將軍の御音聲を知べき筈なしと咎《とが》められしに山内は嘲笑《あざわらひ》御面部また御音聲まで似奉《にたてまつ》[#ルビの「にたてまつ」は底本では「にせたてまつ」]る事お咄し申さんに紀州大納言光貞公の御|簾中《れんぢう》は九條前關白太政大臣の姫君《ひめぎみ》にてお高の方と申し其お腹に誕生《たんじやう》まし/\しは則ち當時將軍吉宗公なり御幼名を徳太郎信房君と申せし砌《みぎり》拙者は虎伏山竹垣城へ九條殿下の使者《ししや》にて參りお手習《てならひ》和學《わがく》の御教導をも爲し故御面部は勿論御音聲までも能《よく》承知《しようち》致《いた》せばこそ將軍の公達に相違なしとは云しなり如何に越前守|殿《どの》お疑ひは晴しやと言詰《いひつめ》るに越前守は亦た言葉《ことば》なく何を以て此の山内を言ひ伏んやと暫し工夫を凝《こら》して居られける [#8字下げ]第二十九回[#「第二十九回」は中見出し]  扨も大岡越前守は再度《さいど》まで山内に言ひ伏られ無念に思へども詮方なく暫時《しばし》思案ありけるが屹度天一坊の乘物に心付き心中《しんちう》に悦こび此度こそは閉口《へいこう》させんと山内に打對ひ天一坊は將軍の公達《きんだち》ならば官位は何程なるやと問ふに山内|最初《さいしよ》の官なれば宰相が當然なりと答ふ越前守又|宰相《さいしやう》は東叡山の[#「東叡山の」は底本では「當叡山の」]宮樣と何程の相違ありやと問《と》ふに山内宮樣は一|品親王《ほんしんわう》なり夫一品の御位は官外にして日本國中三人ならではなし先《まづ》天子《てんし》の御隱居遊されしを仙洞御所《せんどうごしよ》[#ルビの「せんどうごしよ」はママ]と稱し一品親王なり又天子御|世繼《よつぎ》の太子を東宮《とうぐう》と云《いひ》是又一品親王なり又東叡山の宮樣は一|品准后《ほんじゆんこう》にして准后とは天子の后《きさき》に准《じゆん》ずる故に准后の宮樣とは云なり然ば宮樣の御沓《おくつ》を取者の位《くらゐ》さへ左大臣右大臣ならでは取事《とること》叶《かなは》ざれば御登城には御沓取なくお乘物《のりもの》を玄關へ横付《よこづけ》にせられ西湖《せいこ》の間にて將軍に御|對顏《たいがん》あらばお沓はお用ひなし故《ゆゑ》に宮樣と宰相とは主從《しゆじう》の如くなれど今少し官位の相違《さうゐ》有《あら》んかと答へらる越前守是を聞《きか》れ然らば天一坊を召捕《めしとれ》といふ山内また何故に天一坊を召捕と云《い》はるゝやと云せもあへず越前守大音に飴色《あめいろ》網代《あじろ》蹴出《けだし》黒棒《くろぼう》は勿體なくも日本|廣《ひろ》しと雖も東叡山御門主に限るなり然程に官位の相違する天一坊が宮樣《みやさま》に齊《ひとし》き乘物に乘しは不屆なれば召捕と云《いひ》しなり此の時山内から/\と打笑ひ越前守殿左樣に知《しら》るゝなら尋ぬるには及ばず又知ざれば尋ねらるゝ事もなき筈《はず》なり今ま山内が此所《ここ》にて飴色網代のお咄《はなし》申さんに先將軍の官職より解出《ときいだ》さゞれば解《げ》し難し抑々將軍に三の官ありしは征夷《せいい》大將軍とて二百十餘の大名へ官職を取次給《とりつぎたま》ふの官なり尤も小石川御館のみは直《ぢき》に京都より官職を受るなり二は淳和院《じゆんなゐん》とて日本國中の武家を支配する官なり三は奬學院《しやうがくゐん》とて總公家《そうくげ》を支配する官職なり然れど江戸にて斯《かく》京都の公家を支配する譯《わけ》は天子若關東を※[#「圖」の「回」に代えて「面から一、二画目をとったもの」、94-9]《はから》せらるゝ事《こと》有《あり》ては徳川の天下永く續き難き故東照神君の深慮《しんりよ》を以て比叡山を江戸へ移し鬼門除に致したしと奏聞《そうもん》ありしが許されず二代の將軍秀忠公へ此事を遺言《ゆゐごん》せられしに秀忠公も亦深慮を廻《めぐら》され京都へ御縁組遊ばし其上にて事を計《はから》はんと姫君お福の方を後水尾院《ごみづのをゐん》の皇后に奉つらる之を東福門院《とうふくもんゐん》と稱し奉つり此御腹に二方の太子御降誕まし/\ける其末《そのすゑ》の太子を關東へ申降し給ひ比叡山|延暦寺《えんりやくじ》を關東へ移し東叡山寛永寺を建立す是《これ》宮樣《みやさま》の始めにて一品准后の宮と稱し奉つり天子御|東伐《とうばつ》ある時は宮樣を天子として御綸旨《ごりんし》を受る爲なり然ども天子には三種《みくさ》の神器あり此中何れにても闕《かけ》れば御綸旨を出す事能はざるなり故に三代將軍家光公武運長久を祈《いの》る爲と奏聞有て草薙《くさなぎ》の寶劔《はうけん》を降借《かうしやく》せられ其後返上なく東叡山に納たり夫《それ》寶《たから》は一所に在ては寶成ず故に慈眼大師の御遷座《ごせんざ》と唱へ毎月|晦日《つごもり》に三十六院を廻るは即ち此寶劔の事なり尤も大切の寶物《はうもつ》ゆゑ闇の夜ならでは持歩行《もちあるく》事ならず依て月の晦日は闇なれば假令《たとへ》晝《ひる》にても燈火照して御遷座あるは此譯|也《なり》斯く如く宮樣の御身分《おみぶん》は今にも天子に成せ給ふや又《また》御一生御門主にて在せらるゝや定めなき御身の上なればお乘物《のりもの》の中を朱塗《しゆぬり》になし其上に黒漆《くろうるし》を掛るは是日輪の光りに簇雲の覆し容を表《あらは》したるにて是を飴色網代蹴出黄棒の乘物といふ今《いま》天一坊樣の御身も御親子《ごしんし》御對顏《ごたいがん》[#ルビの「ごたいがん」は底本では「ごたいめん」]の上は西丸へ直らせらるゝや又御三|家格《けかく》なるや將《はた》會津家越前家同樣なるや抑々御譜代並の大名に成《なら》せ給ふや定めなき御身分ゆゑ朱塗《しゆぬり》の上に黒漆を掛て飴色網代に仕立《したて》しは此伊賀亮が計ひなり如何に越前守此儀|惡《あし》かるべきやと問詰《とひつめ》れば越前守は言葉なく無念に思《おも》へども理の當然なれば齒を切齒《くひしば》りて控へられしが稍《やゝ》ありて然ば證據の御品拜見せんと云ふに山内は天一坊に向《むか》ひ奉行越前御證據の御品《おんしな》拜見願ひ奉つると云《い》ひければ天一坊は奉行越前へ拜見|許《ゆる》すと云ふ頓《やが》て藤井左京長持の錠を開て二|品《しな》を取出し越前守の前に出す越前守は覆面《ふくめん》もせず先墨附を拜見するに將軍の直筆に相違なく亦短刀を拜見するに疑《うたが》ひもなき天下三品の短刀にて縁頭《ふちがしら》は赤銅斜子《しやくどうなゝこ》に金葵の紋散し目貫は金無垢の三疋の狂獅子《くるひじし》作《さく》は後藤|祐乘《いうじよう》にて鍔は金の食出し鞘に金梨子地に葵の紋散し中身は一尺七寸銘は志津三郎|兼氏《かねうぢ》なり是は東照神君が久能山《くのうざん》に於て御十一男紀州大納言常陸介頼宣卿へ下されし物なり又同じ拵《こしら》へにて備前三郎|信國《のぶくに》の短刀は御十男尾張大納言義直卿へ又《また》同じ拵へにて左兵衞左文字御|短刀《たんたう》は御十二男水戸中納言左衞門尉頼房卿に下《くだ》されたり是を天下三品の御短刀と稱す斯て越前守は拜見《はいけん》し終りて故《もと》へ收め俄に高き床より飛下低頭平身して斯《かく》の如き御證據ある上は疑ひもなく將軍の御息男《ごそくなん》に相違有ましく越前|役儀《やくぎ》とは申乍《まをしなが》ら上へ對し無禮過言を働き恐れ入り奉つる何卒|彼方《あれ》へ入らせらるゝ樣にと襖《ふすま》を明れば上段に錦の褥《しとね》を敷前には簾を垂て天一坊が座を設たり頓《やが》て赤川大膳をも呼《よび》來り簾の左右には伊賀亮常樂院其|次《つぎ》には大膳藤井左京等並居る此時越前守は遙《はる》か末座に跪《ひざま》づきてお取次を以て申上《まをしあげ》奉つる役儀とは申乍ら上へ對し無禮過言の段恐れ入り奉つる是に依て越前|差控《さしひか》へ餘人を以て吉日|良辰《りやうしん》を撰み御親子御對顏の御式を取計ひ申べくと云ければ伊賀亮此|由《よし》披露《ひろう》に及ぶ簾の中より天一坊は越前目通り許《ゆる》すとの言にて簾をきり/\と卷上《まきあげ》天一坊堂々と越前守に向《むか》ひ越前予に對し無禮過言せしは父上《ちゝうへ》の御爲を思ひてなれば差控《さしひか》へには及ばず越前とても予が家來なり是迄の無禮《ぶれい》は許すといひ又越前|片時《へんじ》も疾く父上に對面の儀《ぎ》取計《とりはから》ふべしと有ば越前守は恐《おそ》れ入て有難き上意を蒙り冥加《みやうが》に存し奉つる近々御對顏の儀取計ひ申べければ夫《そ》れまでは八山御旅館に御休息《ごきうそく》ある樣願ひ奉つると云へば山内も越前殿呉々も取急《とりいそ》ぎて御親子御對顔の儀|頼《たの》み入と云に越前守には何れにも近々《きん/\》の内取計らひ申べしと返答《へんたふ》に及れける是より歸館《きくわん》を觸出《ふれだ》して天一坊は直樣敷臺より乘物《のりもの》にて立出れば越前守は徒跣《はだし》にて門際《もんぎは》まで出て平伏す駕籠脇《かごわき》少《すこ》し戸を引ば天一坊は越前|居《ゐる》かと云に越前守ハツと御|請《うけ》を致されたり斯て天一坊の威光《ゐくわう》熾盛《さかん》に下に/\と呼りつゝ芝八山の旅館《りよくわん》を指て歸りける此時大岡越前守には八山の方を睨付《にらみつけ》て云《うん》と計り氣絶せしかば公用人を始《はじ》め家來等驚いて打寄氣付藥を口へ吹込顏に水を灌《そゝ》ぎなどしければ漸々にして我に復《かへ》りホツと息《いき》を吐《つき》乍ら今日こそは伊賀亮を閉口させんと思ひしに渠《かれ》が器量の勝《すぐ》れしに却つて予が閉口したれば餘り殘念さに氣絶《きぜつ》したりと切齒をなして憤《いきどほ》られしも道理《ことわり》なる次第なり [#8字下げ]第卅回[#「第卅回」は中見出し]  去程《さるほど》に大岡越前守は今日|社《こそ》は山内伊賀亮を恐入せ天一坊始め殘《のこ》らず召捕《めしとら》んものをと手當にまで及びしが思ひの外《ほか》越前守は言伏られ返答にさへ差閊《さしつか》へたれば一先恐入て天一坊に油斷《ゆだん》させ自ら病氣と披露《ひろう》し其内に紀州表を調《しらべ》んものと池田大助を呼で御月番の御老中へ病氣《びやうき》の御屆けを差出させ又《また》平石《ひらいし》次右衞門を呼で八山へ使者に遣しける八山にては天一坊を始《はじ》め常樂院藤井左京等打寄て越前を恐入せし上は外に氣遣《きづか》ふ物なし近々の内には大岡の取計《とりはから》ひにて御對顏あるに相違なし事大方|成就《じやうじゆ》せりと悦びけるが山内は少しも悦ぶ色なく鬱々とせし有樣《ありさま》なれば大膳は山内に打ち向ひ今日町奉行越前を恐入《おそれいら》せしからは近日事の成就せんと皆々悦ぶ其中に貴殿《きでん》一人|愁《うれ》ひ給ふは如何成仔細に候やと尋《たづ》ねければ山内は成程《なるほど》各々方には今日越前が恐入しを見て實に閉口《へいこう》屈伏《くつぷく》したりと思はるゝならんが此伊賀亮が思《おも》ふには今日大岡が恐れ入りしは僞《いつは》りにて多分病氣を申立引籠るべし其内に紀州表を調《しら》ぶるは必定《ひつぢやう》越前が恐入しは此伊賀亮が爲に一|苦勞《くらう》なりと云に大膳始め皆々|驚愕《おどろき》然《しから》ば大岡が恐入しは僞りなるか此後は如何して宜《よか》らん抔《など》案《あん》じけるに山内笑ひて大岡手を變へて事を成《なさ》ば我又其|裏《うら》をかく詮方《てだて》ありと皆々に物語る處へ取次|戸村《とむら》馳來《はせきた》り只今町奉行方より平石次右衞門|使者《ししや》に參り口上の趣きには天一坊樣御歸り後大岡|氣脱《きぬけ》致《いた》し候や癪氣《しやくき》さし起り候に付今日より引籠《ひきこもり》候との由なりと云ふに山内是を聞て扨《さて》こそ只今申通り我々を召捕了簡と相|見《みえ》たりと云へば皆々山内が明察《めいさつ》を感じて止《やま》ざりしと扨も越前守は若黨草履取を供《とも》に連紀州の上屋敷へ到り門番所《もんばんしよ》にて尋ねらるゝ樣此節加納將監殿には江戸御|在勤《ざいきん》なるやといふに門番答へて加納將監樣には三年前|死去《しきよ》せられ只今は御子息大隅守殿御家督に候と云ければ一|禮《れい》を述《のべ》加納大隅守殿の長屋を聞合《きゝあは》せ直樣宿所へ趣き案内を乞《こひ》大隅守殿へ御目通り仕つり度儀御座候に付町奉行越前守|推參《すゐさん》仕《つか》まつり候御取次下さるべしと云に取次《とりつぎ》の者此由を通《つう》じければ大隅守殿早速對面あり此時越前守には率爾《そつじ》ながら早速伺ひ申度は今より廿三年以前の御|召使《めしつか》ひに澤《さは》の井《ゐ》と申女中の御座候ひしやと聞《きく》に大隅守殿申さるゝは親將監三年以前に病死《びやうし》致し私し家督仕つり候へども當年廿五歳なれば廿三年|跡《あと》の事は一|向《かう》辨《わきま》へ申さずと答へらる越前守|推返《おしかへ》して然らば御|母公《ぼこう》には御|存命《ぞんめい》に御座候やと申さるに大隅守殿|拙者儀《せつしやぎ》は妾腹にて養母は存命いたし候へども當年八十五歳にて御逢《おんあひ》なされ候とも物の役には立申さずと言《いは》るゝに越前守御老體御|迷惑《めいわく》とは存候へども御目通り願ひ度候と言《いは》るゝに大隅守殿は據ころなく奧へ行き養母|正榮尼《しやうえいに》に向ひ只今奉行大岡越前守殿參られ御目通り願《ねが》ひ候が定めて御政事の事なるべし母上には御|當病《たうびやう》と仰られて逢なされぬ方宜からんと云に正榮尼《しやうえいに》いやとよ奉行越前守が折角《せつかく》來り給ふを對面せぬも無禮なり逢《あひ》申べし大隅|心遣《こゝろづか》ひ無用なり假令何事を申す共八十五歳の老人《らうじん》後々《のち/\》の障《さはり》になることは申すまじよし申にもせよ老耄《らうもう》致し前後の辨《わきま》へ無と申さば少も其方の邪魔《じやま》には成申すまじ氣遣《きづか》ひ無此方に案内致す可と申さるゝ故《ゆゑ》大隅守殿には越前守殿を案内せられ老母《らうぼ》の居間へ來らる越前守殿正榮尼に初ての對面より時候《じこう》の挨拶《あいさつ》を述《のべ》次に御|六《むつ》か敷《しく》とも御母公へ伺ひ度儀あり此廿二三|年《ねん》以前《いぜん》に御召使ひの女中に澤の井と申者候ひしやと尋《たづね》らるゝに母公答て私し共紀州表に住居《ぢうきよ》致し候節召使の女も五六人|宛《づつ》置候が澤の井|瀧津《たきつ》皐月《さつき》と申す名は私し家の通名《とほりな》にて候故何の女なりしや一|向《かう》に分り兼候と云《いふ》越前守然らば其中にて御家に御奉公長く勤《つと》め候女中御座候やとあるに母公|然《され》ば和歌山在西家村の神職伊勢が娘《むすめ》の菊と申者私し方に十五年|相勤《あひつとめ》候此外に長く居し者なく其菊と申すは當時伊勢の妻に成しと承《うけた》まはり候と云るゝに越前守|更《さら》に手懸なく然ば廿二三年|跡《あと》の澤の井が證文御座候やと聞《きゝ》けるに正榮尼申けるは奉公人の證文は一|通《つう》も御座|無《なく》斯樣《かやう》に計《ばか》り申ては何か御不審も有べけれど紀州《きしう》の國法にて男女共に主人方にては奉公人の宿《やど》は存じ申さず其譯は和歌山御城下に奉公人口入所二|軒《けん》あり男の奉公人は大黒屋源左衞門世話致し女《をんな》は榎本屋三藏|世話《せわ》にて此二軒より主人方へ證文差出し抱《かゝ》へ候にて主人方にては一|向《かう》奉公人の宿を存申さず親元《おやもと》よりは口入人の方へ證文を出し候由|承《うけた》まはり候然ば奉公人の宿《やど》を御尋成り候には紀州表にて口入人を御|調《しらべ》なされずは相分《あひわか》り申まじと云に越前守委しく承まはり左樣《さやう》ならば紀州表へ參らずば相分り申まじ然らば御暇申べしと一|禮《れい》述《のべ》急《いそぎ》御役宅へ立歸り公用人《こうようにん》平石次右衞門吉田三五郎を呼出し其方兩人は是より直樣《すぐさま》紀州表和歌山へ赴き大黒屋源左衞門|榎本屋《えのもとや》三藏の兩人《りやうにん》を調べ澤の井が宿を尋ね天一坊の身分を糺し參べし萬《まん》一澤の井の宿榎本屋三藏方にて分《わか》り兼《かね》候はゞ和歌山在西家村の神職伊勢の娘菊と申す者加納將監|方《かた》に十四五年も相勤《あひつと》め居候由成ば此者を呼出《よびいだ》しなば手懸にも相成べし此旨心得置べし此度の儀は國家《こくか》の一大事家の安危《あんき》なるぞ急げ/\途中は金銀を吝《をし》むな喩にも黄金|乏《とぼし》ければ交り薄《うす》しと云へり女子《によし》と小人は養ひ難しとの聖言《せいげん》を守るなと委細《ゐさい》に申付られしかば次右衞門三五郎の兩人は主命《しゆめい》畏《かしこま》り奉つると早速|先《まづ》觸《ふれ》を出し直樣桐棒駕籠に打乘《うちのり》白布にて鉢卷と腹卷をなし品川|宿《じゆく》より道中駕籠一挺に人足廿三人を付添《つけそへ》酒代も澤山に遣す程に急げ/\と急立ける御定法の早飛脚《はやひきやく》は江戸より京都|迄《まで》二日二|夜半《よはん》なれども此度は大岡の家改易に成か又立かの途中なれば金銀を散財《まきちら》して急がせける程に百五十里の行程《みちのり》を二日二夜半にて紀州和歌山へ着しける此時和歌山の町奉行鈴木重兵衞|出迎《いでむか》へ彼奉行所本町|東《ひがし》の本陣に旅館致させけるに次右衞門三五郎の兩人は休息《きうそく》もせず鈴木重兵衞へ申達し大黒屋源左衞門榎本屋三藏の兩人を呼出《よびいだ》し澤の井の宿所《しゆくしよ》を尋ねしに大黒屋源左衞門は男《をとこ》のみ世話する故女の奉公人の儀《ぎ》は存じ申さずとの事なれば然《さら》ばとて榎本屋三藏に澤の井が宿所を糺《たゞし》けるに親《おや》三藏は近年|病死《びやうし》致し私しは當年廿五歳なれば廿二三年|跡《あと》の事は一向覺えなしと云にぞ然らば廿二三年|前《ぜん》の奉公人の宿帳《やどちやう》を調《しらぶ》べしと申付るに三年以前に隣家《りんか》より出火《しゆつくわ》致し古帳は殘らず燒失《せうしつ》致し候と云故少も手懸り無《なけ》れば次右衞門三五郎は三藏に向《むか》ひ和歌山に西家村と云處|有《あり》やと云へば是より一里許り在《ざい》に候と答へけるにぞ寺社奉行へ達し西家村の神職伊勢《しんしよくいせ》同人妻菊同道にて東の本陣へ罷《まか》り出べき旨《むね》差紙を遣はしける神職伊勢は差紙《さしがみ》を見て大いに驚き女房に向《むか》ひ申けるは何事にや有らん是は定めて其方《そのはう》和歌山加納樣方に奉公致し居《をり》候節の事なるべし御本陣へ參りて御|役人《やくにん》より何事を尋ねらるゝ共一|向《かう》覺《おぼ》え申さずと云ふべし憖《なまじ》ひに知顏《しりがほ》なさば懸合《かゝりあひ》となりて甚だ面倒なりと能々申合ければ菊女も委細《ゐさい》承知《しようち》なし少しも案じ給ふ事なかれ何事も知《し》らずと申すべしとて夫れより夫婦支度をなし急ぎ本陣へ赴きけり [#8字下げ]第卅一回[#「第卅一回」は中見出し]  神職伊勢は女房|菊《きく》同道にて東の本陣へ到り此|由《よし》通じければ早速兩人を呼出さる吉田三五郎は伊勢に向《むか》ひ西家村の神職伊勢同人|妻《つま》菊と申すは其方《そのはう》なるかと云に漣《いざちや》で御座ると答へける又取返して伊勢の妻菊と申すは其方《そのはう》なるかと尋るに只々漣で御座ると答《こた》へ一向に分り兼れば平石次右衞門心付き伊勢には舞太夫《まひだいふ》を致さるゝやと尋ねけるに御意《ぎよい》の通り舞太夫を仕つり候と答《こた》へければ然ば妻女の名前を漣太夫《いざちやだいふ》と申さるゝやと聞に如何《いかにも》左樣《さやう》に候と答ける此時次右衞門漣太夫に尋る儀あり其方事は加納將監方に數年《すうねん》奉公したりと聞《きく》實《じつ》以《もつ》て左樣なるやと尋ければ菊は一|向《かう》存《ぞんじ》申さずと云に押返《おしかへ》して將監方に奉公《ほうこう》致たるに相違有まいなと尋るに更《さら》に存《ぞんじ》申さずと答へければ否々廿二三年|跡《あと》其方奉公中傍輩に澤の井と申す女中《ぢよちう》有《あり》しと存じ居べしと尋ねけれ共一|向《かう》存申さずと云に次右衞門は是《これ》は伊勢より女房に口留《くちどめ》したるに相違なしと心付たれば懷中《くわいちう》より小判十枚取出し紙に包《つゝ》みて差出し漣《いざちや》どの此金子は將軍樣《しやうぐんさま》より其方へ下《くだ》さるゝ金子なれば有難く頂戴《ちやうだい》致されよとて渡し更《あらた》めて申けるは當將軍樣には加納將監方にて御成長遊ばし御幼名《ごえうみやう》を徳太郎君と申し其方には厚《あつ》く世話になり玉ひし由《よし》依て此金子を遣はせとの上意《じやうい》なり又澤の井をも召出し御褒美下さるゝとの儀にて我々澤の井の宿《やど》を調べに參りし也《なり》其方存じ居《をら》ば教へ申|可《べし》と和《やはら》かに諭ければ菊は十兩の金を見て心|打解《うちとけ》成程考へ候へば加納將監樣の呉服《ごふく》の間に澤の井と申て甚だ不器量の女中御座候やに存じ候|去乍《さりながら》宿《やど》の儀は存じ申さずと面《おも》なげに云を次右衞門は聞て然《さら》ば澤の井の宿を存じたる者は無《なき》やと尋ぬるに菊は暫く考へ成程其節小買物を致|惣助《そうすけ》と申者澤の井に頼れ手紙を持て折々《をり/\》宿《やど》へ參りし事有と云に其惣助と申す者は當時|何方《いづかた》に居《ゐる》や申聞すべしといへば只今は御普請《ごふしん》奉行小林軍次郎樣方に中間奉公致し居候と申にぞ然《さら》ばとて早速使を仕立《したて》御差紙を以て小林軍次郎|召使《めしつかひ》惣助同道にて早々本陣へ罷り越《こす》べき旨申達せしに軍次郎は大に驚《おどろ》き惣助を腰繩にて召連來《めしつれきた》れば直に惣助を呼出し其方事加納將監方に奉公中澤の井と云女中に頼《たの》まれ手紙使に折々宿へ參りし由《よし》定《さだ》めて澤の井の宿を存じ居《をる》べし何方に候やと尋けるに一向に覺《おぼ》え御座なく候と答へける吉田三五郎|懷中《くわいちう》より又金子十兩を取出し菊へ渡して此金子を其方《そのはう》より惣助へ遣はし澤の井の宿を尋呉《たづねくれ》よと言ければ菊は惣助に向ひ此金子は徳太郎《とくたらう》樣より其方に下さるゝとの御事にて澤の井樣をも召出《めしいだ》し御褒美《ごはうび》下さるゝ筈なれ共今は宿を知《しり》たる者なしお前は頼まれて度々お宿へ參りし事あれば能々《よく/\》考《かんが》へて御役人樣へ申上られよと聞《き》き惣助も十兩の金子を見て肝を潰し頻りに金の欲《ほし》さに樣々と考へ成程《なるほど》澤の井さんに頼まれて折々手紙を持參りしが其頃《そのころ》澤の井さんの申には糸切村《いときりむら》の茶屋迄持て行ば宿《やど》へは直に屆《とゞ》くと申されしゆゑ茶屋迄は度々《たび/\》持參りしと云にぞ能《よく》こそ知《しら》したりとて彼十兩は惣助へ遣《つかは》し然らば惣助を案内として其糸切村へ參らんと支度をなし神職夫妻には暇《いとま》を遣《やり》次右衞門三五郎寺社奉行|差添《さしそへ》小林軍次郎奉行遠藤喜助同道にて夜四ツ時過より淡島道《あはしまみち》五十町一里半を揉《もみ》に揉《もん》で丑滿《うしみつ》の頃漸々にて糸切村に着し彼の茶見世を御用々々と叩《たゝ》き起せば此家《このや》の亭主何事にやと起出《おきいづ》るに先《まづ》惣助亭主に向ひ廿二三年|跡《あと》に澤の井樣より手紙を頼まれ毎度《まいど》頼み置し事有しが其手紙《そのてがみ》は何方へ屆けしやと尋ねけるに亭主《ていしゆ》答へて私し方は道端《みちばた》の見世故在々へ頼まれる手紙は日々二三十|本《ぽん》程《ほど》も有ば一々に覺え申さず殊《こと》に二十二三年跡の事なれば猶更《なほさら》存《ぞん》じ申さずと答《こた》へけるにいよ/\澤の井の宿所《しゆくしよ》の手懸《てがかり》なく是に依て次右衞門三五郎の兩人は色《いろ》を失なひ斯迄《かくまで》千辛萬苦して調《しら》ぶるも手懸りを得ず此上は是非に及ばじ此《この》旨江戸へ申|送《おく》り我等は紀州《きしう》にて自殺致《じさついたす》より外なしと覺悟を極めしが三五郎フト心付き懷中《くわいちう》より又金十兩取出し亭主《ていしゆ》に向ひ其方澤の井の手紙《てがみ》を頼まれ宿《やど》へ參らず共《とも》村名位《むらなぐらゐ》は覺の有さうな物なり今十兩|遣《つか》はす程に能々《よく/\》考《かんが》へて思ひ出せと申にぞ亭主は金《かね》を見て思ひも寄ず十兩に有付《ありつく》事と兩手を組《くん》で樣々と思案《しあん》をし稍《やゝ》暫《しばら》く有て思出しけん申樣澤の井殿の宿《やど》の村名は私しの弟《おとうと》の名の字を上へ付候樣に覺《おぼ》え申候と云に其方の弟《おとうと》の名を何と申すやと尋ぬるに弟は平《へい》五郎と申し候と答《こた》へけるに郡奉行《こほりぶぎやう》へ談《だん》じ急ぎ平の字の付たる村々を調《しら》べさせけるに十三ヶ村有れば是を始より一々|亭主《ていしゆ》へ讀聞《よみきか》すに平澤村《ひらさはむら》と云に到りて亭主|礑《はた》と手を拍《うち》其村で御座候といふに然らば是より平澤村へ立越《たちこえ》んと爰《こゝ》にて大勢|支度《したく》をし先《まづ》平澤村へ先觸《さきぶれ》を出し其|跡《あと》より百五十人餘の同勢にて平澤村|指《さし》て急《いそぎ》ける扨《さて》此《この》平澤村と云は高《たか》二十八石|家數《やかず》僅二十二|軒《けん》にて困窮《こんきう》の村なり澤の井の事に付ては是迄度々尋ね有しか共《ども》懸《かゝ》り合を恐《おそれ》村中|相談《さうだん》なし何時も知ぬ旨趣を申立通したりとか然《され》ば平澤村には先觸《さきぶれ》來れば又|例《れい》の澤の井の調《しら》べなるべし是迄《これまで》の通り村中|少《すこ》しも存じ申さずと言放《いひはな》し懸り合に成ぬ樣に致事第一なりと申合せ役人《やくにん》の來るを待《まち》しに此度は是迄とは變《かは》り凡《およそ》百五十人餘りの大勢にて名主甚兵衞方へ着し直《すぐ》に村中《むらぢう》へ觸を出《いだ》して十五歳以上の男子《なんし》を殘らず呼集《よびあつ》め次右衞門三五郎正座に直《なほ》り座傍《かたはら》には寺社奉行《じしやぶぎやう》并びに遠藤喜助小林軍次郎等|列座《れつざ》にて一人々々に呼出《よびいだ》し澤の井の宿を吟味《ぎんみ》に及ぶも名主を始《はじ》め村中|殘《のこら》ず存じ申さずとの答《こた》へなれば少しも手懸《てがか》りはなきに次右衞門の思ふ樣是は村中|申合《まをしあは》せ掛り合を恐れて斯樣《かやう》に申立るならんと席《せき》を改《あら》ため威儀《ゐぎ》を正《たゞ》して申けるは是名主甚兵衞其外の百姓共|能《よく》承《うけ》たまはれ將軍の上意なれば輕《かる》からざる事なり然《しか》るに當村中一同に申合せ|知《しら》ぬ/\と強情《がうじやう》を申|募《つの》るに於ては是非に及ばず此|大勢《おほぜい》にて半年又は一年|懸《かゝ》りても澤の井の出所《しゆつしよ》を調《しらべ》ねばならぬぞ左樣《さやう》に心得よと威猛高《ゐたけだか》になりて威《おど》すにぞ村中の者|肝《きも》を潰《つぶ》し此大勢にて十日も逗留《とうりう》されては村中の惣潰《そうつぶ》れと成るべし如何《いかゞ》はせんと十方に呉《くれ》誰《たれ》有て一言|半句《はんく》を出す者なし此時|末座《まつざ》より一人の老人《らうじん》進み出で憚《はゞか》りながら御役人樣方へ申上ます私しは當村の草分《くさわけ》百姓にて善兵衞と申す者なるが當時《たうじ》此村は高廿八石にて百|姓《しやう》二十二軒ある甚《はなは》だ困窮《こんきう》の村方なれば斯《かく》御大勢長く御逗留《ごとうりう》有ては必死と難澁《なんじふ》に及ぶべし澤の井の一|條《でう》さへ相分り申せば早速《さつそく》當村を御引取下され候やと恐《おそ》る/\申すにぞ次右衞門|答《こた》へて澤の井の一|條《でう》さへ相分り候へば何故に逗留《とうりう》すべき直《すぐ》我々は出立《しゆつたつ》致すなり其方存じ居るやと尋ねければ善兵衞は然《され》ばにて候澤の井が身の上は村中に覺《おぼ》え居候者は有間敷《あるまじく》只だ私し一人|委細《ゐさい》心得|罷《まか》り在候間申上|可《べし》當村の名主甚兵衞と申は至つて世話好《せわずき》にて先年|信州者《しんしうもの》にて夫婦に娘《むすめ》一人を連《つれ》同行三人にて千《せん》ヶ|寺《じ》參り旁々《かた/″\》當地へ參りしを彼《かの》甚兵衞|世話《せわ》致《いた》し自分の隱居所《いんきよじよ》を貸遣《かしつか》はし世話致し候ひしに兩三年|過《すぎ》右當人平右衞門|死去《しきよ》致し跡には女房《にようばう》お三と申|婆《ばゝ》と娘の兩人に相成《あひなり》しがお三婆は産《さん》の取揚《とりあげ》を家業《かげふ》とし娘を育《そだ》てしが追々|成長《せいちやう》するに隨《したが》ひ針《はり》仕事を教へ居し内|年頃《としごろ》にて相成候へば何處《どこ》ぞへ奉公《ほうこう》に出し度由お三婆より私へ頼みに付私し右娘を同道《どうだう》致《いた》し城下へ參り榎本屋《えのもとや》三藏に頼み加納將監《かなふしやうげん》樣へ御針《おはり》奉公に出し遣《つかは》し候に其|後《のち》病氣《びやうき》なりとて宿《やど》へ下り母の許《もと》に居候が何者の胤《たね》なるか懷姙《くわいにん》致し居候故|村中《むらぢう》取り/″\噂《うはさ》を致し候に翌年《よくねん》三月|安産《あんざん》せしが其夜の中に小兒《せうに》は相果《あひはて》娘も血氣《ちのけ》上りて是も其夜の曉《あかつき》に死去致し候に付き近邊《きんぺん》の者共|寄集《よりあつま》り相談するも遠國者《ゑんごくもの》故|菩提所《ぼだいしよ》も無《なく》依て私しの寺へ頼み葬《はう》むり遣し候其後お三婆は狂氣《きやうき》致し若君樣《わかぎみさま》を失なひて殘念《ざんねん》なりと罵詈狂《のゝしりくる》ひ歩行候ゆゑ甚兵衞も迷惑《めいわく》に存じ隱居所《いんきよじよ》を追出せしにお三婆は宿《やど》なしと相《あひ》なりしを隣村《りんそん》の名主甚左衞門といふ者當村の名主《なぬし》甚兵衞が弟《おとゝ》にて慈悲《じひ》深《ふかき》人《ひと》にて是を憐《あはれ》み何時迄《いつまで》狂氣《きやうき》でも有まじ其内には正氣《しやうき》に成るべしとて連《つれ》歸り是も隱居所《いんきよじよ》へ入置|遣《つか》はせしに追々《おひ/\》正氣に相成《あひなり》ければ又々以前の如く産婦《さんぷ》の取揚《とりあげ》を致し候が十年程以前|病死《びやうし》致し候由に御座候|是《これ》にて澤の井の一|條《でう》は御得心《ごとくしん》に相成候やと云に次右衞門三五郎は是を聞《きゝ》何《いか》にも概略《あらまし》は相分《あひわか》りたり其若君と澤の井を葬《はう》ぶりし寺は當村なりやと尋《たづ》ぬるに向ふに見え候山の麓《ふもと》にて宗旨《しうし》は一|向宗《かうしう》光照寺と申し候と聞《きい》て然らば其|節《せつ》の住持《ぢうぢ》は未だ存命《ぞんめい》致し居やと有に參《さん》候其節の住持|祐然《いうねん》と申すは未だ壯健《たつしや》に候と答へける吉田《よしだ》三五郎|然《さら》ば光照寺|住持《ぢうぢ》祐然を爰《こゝ》へ呼參《よびまゐ》る可《べし》との事なれば早速《さつそく》村の小使《こづかひ》を走《はしら》せ江戸表より御着《ごちやく》の役人方より御用の由早々|名主宅迄《なぬしたくまで》御出なさるべしと云《いは》すれば祐然は聞て驚《おどろ》き何事やらんと支度《したく》なし急ぎ甚兵衞方へ赴《おもむ》きけり [#8字下げ]第卅二回[#「第卅二回」は中見出し]  光照寺|祐然《いうねん》は江戸表より御役人|到着《たうちやく》にて召呼《めしよば》るゝと聞き何事やらんと驚《おどろ》きながら役人の前《まへ》へ出ければ次右衞門三五郎の兩人《りやうにん》祐然に對《むか》ひ廿二三年以前|當村《たうそん》に住居《ぢうきよ》致し候お三が娘《むすめ》澤の井|并《ならび》に若君とかを其方|寺《てら》へ葬《はうむ》りし趣きなるが右は當時《たうじ》無縁《むえん》なるか又は印《しるし》の石塔《せきたふ》にても建《たて》ありやと尋けるに此祐然|素《もと》より頓智《とんち》才辨《さいべん》の者故參候|若君《わかぎみ》澤の井の石塔《せきたふ》は御座候も香花《かうげ》を手向《たむけ》候者一人も是なし併《しか》し拙僧《せつそう》宗旨《しうし》の儀は親鸞上人《しんらんしやうにん》よりの申|傳《つたへ》にて無縁《むえん》に相成候|塚《つか》へは命《めい》日|忌《き》日には自坊《じばう》より香花《かうげ》を手向《たむけ》佛前《ぶつぜん》に於て回向《ゑかう》仕つり候なりと元より墓標《はかじるし》も無《なき》を取繕《とりつくろ》ひ申にぞ次右衞門三五郎口を揃《そろ》へて然らば其|石塔《せきたふ》へ參詣《さんけい》致し度|貴僧《きそう》には先へ歸られ其|用意《ようい》をなし置給へと云に祐然|畏《かしこ》まり候と急ぎ立歸りて無縁《むえん》の五|輪《りん》の塔《たふ》を二ツ取出し程《ほど》能《よき》所へ据置《すゑおき》左右へは新らしき樒《しきみ》の花を揷《さし》香爐臺《かうろだい》に香を薫《くゆら》し前には莚《むしろ》を敷《しき》て今や/\と相待《あひまち》ける所へ三五郎次右衞門|寺社奉行《じしやぶぎやう》郡奉行《こほりぶぎやう》同道にて來りしかば祐然は出迎《いでむか》へ直《たゞち》に墓所《はかしよ》へ案内するに此時三五郎は我々は野服《のふく》なれば御|燒香《せうかう》を致すは恐《おそれ》あり貴僧《きそう》代香《だいかう》を頼み入と云に祐然則ち承《うけ》たまはり代香《だいかう》をなし夫より皆々|本堂《ほんだう》へ來り過去帳《くわこちやう》を取出させ委細《ゐさい》を調《しら》べける [#ここから9字下げ] 寶永二酉年[#「寶永二酉年」はママ]三月十五日寂  釋妙幸信女  施主 三 寶永二酉年[#「寶永二酉年」はママ]三月十五日寂  釋春泡童子  同人 [#ここで字下げ終わり] 右の如くに記《しる》し有《あり》しかば住持《ぢうぢ》祐然《いうねん》に書寫《かきうつ》させ其|奧《おく》へ右之通り相違《さうゐ》御座なく候に付《つき》即ち調印《てういん》仕り候以上月日|寺社《じしや》奉行|何某殿《なにがしどの》と奧書《おくがき》を認《したゝ》めさせ次右衞門是を受取《うけとれ》ば三五郎|懷中《くわいちう》より金二十兩を取出《とりいだ》し祐然に與《あた》へ是は輕少《けいせう》ながら我々より當座《たうざ》の回向料《ゑかうれう》なり尚《なほ》又江戸表へ立歸らば宜《よろし》く披露《ひろう》致し御|沙汰《さた》有之候|樣《やう》取計ひ申すべしと挨拶《あいさつ》に及び夫より祐然に暇《いとま》を告げ光照寺《くわうせうじ》をば立出《たちいで》ける是にて平澤村の方は調《しら》べ埓明《らちあき》しかば直樣|隣村《りんそん》平野村へ立越《たちこえ》名主《なぬし》甚左衞門方へ落付《おちつき》村中殘らず呼集《よびあつめ》次右衞門三五郎の兩人は名主甚左衞門に向《むか》ひ其方に尋《たづ》ねたき仔細《しさい》あり今より廿二三年以前に平澤村のお三と申す婆《ばゞ》當村《たうそん》へ參りしと承《うけた》まはるが其者は未《いま》だ存命《ぞんめい》なるやまた何方《いづかた》へか參りしやと尋《たづね》けるに甚左衞門|仰《おほせ》の通り慥《たしか》に寶永《はうえい》二酉年[#「寶永二酉年」はママ]三月頃と覺《おぼ》え候が右お三|儀《ぎ》は其|娘《むすめ》澤の井と申者|相果《あひはて》候より狂氣《きやうき》なし平澤村を追出され所々《しよ/\》を流浪《るらう》致し居《をり》不便《ふびん》に存候故|途中《とちう》より連《つれ》歸《かへ》り私し明家《あきや》へ住居させ候に追々|狂氣《きやうき》も治《をさま》り正氣《しやうき》に立歸り以前の如く渡世《とせい》致し居候内|享保《きやうほ》元申年十一月廿八日かと覺え候が其日は大雪《おほゆき》にて人通りも稀《まれ》なるにお三には酒に醉《ゑ》ひ圍爐裏《ゐろり》へ轉《まろ》び落《おち》相果《あひはて》申候と聞て次右衞門三五郎は役柄《やくがら》なれば早くも心付其|死骸《しがい》を見付し者は何者なるやと尋《たづね》けるに甚左衞門|彼《か》の死骸《しがい》を最初《さいしよ》に見出し候者は私《わたく》し悴《せがれ》甚之助に御座候|其仔細《そのしさい》は同日の夕刻《ゆふこく》雪も降止《ふりやみ》候に何となく怪《あやし》き臭《にほひ》致せば近所の者共表へ出《い》で穿鑿《せんさく》致し候に何時《いつも》何事にても人先に出て世話《せわ》致《いた》し候お三|婆《ばゞ》のみ一人相見え申さざれば私し悴《せがれ》甚之助|不審《ふしん》に存じ渠《かれ》が家の戸を明《あけ》初《はじめ》て見出し申候と云に次右衞門は悴《せがれ》甚之助は其頃|何歳《なんさい》なりしやと尋《たづぬ》るに然《され》ばに候悴儀は寶永元年の生れにて十三歳の時《とき》に御座候と答《こた》へけるに然らば其甚之助は只今《たゞいま》以て存命《ぞんめい》なるやと尋ねるに甚左衞門|參《さん》候|親《おや》の口より我子を譽《ほめ》候は恐入《おそれいり》候へ共|幼年《えうねん》より發明《はつめい》なれば末《すゑ》頼母敷《たのもしく》存居しに生長に隨《したが》ひ惡事を好《この》み親の目に餘り候事度々なれば十八歳の時|御帳《おちやう》に附《つき》勘當《かんだう》仕つり候其後一向に行衞《ゆくゑ》相知《あひしれ》申さず村の者共|渠《かれ》が噂《うはさ》を申し甚之助には能方《よきかた》へ赴《おもむ》けば鎗《やり》一|筋《すぢ》の主共《しゆとも》成るべきが惡方《あしきかた》へ趣けば馬の上にて鎗《やり》を跡《あと》へ持《もた》せる身に成るべしと專ら取沙汰致候程の者なれども親《おや》の心には折々《をり/\》思出し不便《ふびん》に存じ候と涙《なみだ》ながらに申立しにそ此時次右衞門三五郎は顏《かほ》を見合せ互《たがひ》に心中は今《いま》江戸表八山に居る天一坊は多分《たぶん》此甚之助に相違あるまじくと思ひしが然あらぬ體《てい》にて其方の悴《せがれ》甚之助は生《うま》れ付《つき》體面《かほだち》如何有しやと尋ぬるに甚左衞門私し悴は疱瘡《はうさう》重《おも》く候故其|痕《あと》面體《めんてい》に殘《のこ》り甚《はなは》だ醜《みにく》く候と云に扨《さて》は人違《ひとちがひ》ならんと又問けるは其方の悴に同年か又一二年|違《ちがひ》の男子が當村《たうむら》に居《をり》しやと尋ぬるに甚左衞門は即ち人別帳《にんべつちやう》を調《しら》べ寶澤《はうたく》と申す者有しが夫は盜賊《たうぞく》に殺《ころ》されしと云に其仔細《そのしさい》は如何にと尋《たづ》ぬれば甚左衞門は答《こた》へて右寶澤と申すは九州|浪人《らうにん》原田何某の悴《せがれ》にて幼年の頃|兩親《りやうしん》に別れ夫より修驗者《しゆけんしや》感應院《かんおうゐん》の弟子と成りしが十三歳の暮《くれ》感應院には横死《わうし》いたし候に付|右《みぎ》寶澤へ跡《あと》を繼《つぎ》候樣|村中《むらちう》相談《さうだん》の上申聞候に渠《かれ》は幼年《えうねん》ながら發明《はつめい》にて我々へ申候には山伏《やまぶし》は艱行苦行《なんぎやうくぎやう》する者にて幼年の私し未だ右等《みぎら》の修行《しゆぎやう》も致さず候へば暫《しばら》く他國《たこく》致し苦行《くぎやう》を修め候上|立戻《たちもど》り師匠《ししやう》の跡《あと》を繼《つぎ》申度と強《たつ》て申聞候故|村中《むらぢう》より餞別《せんべつ》に取集《とりあつ》め遣《つか》はし候金子八兩二分を所持致し出立せしが右《みぎ》金子《きんす》を所持せし故にや加田《かだ》の浦《うら》にて切害《せつがい》され死骸《しがい》は海中へ入《いれ》申候しか相見え申さず此浦《このうら》には鰐鮫《わにざめ》住《すみ》候故大方は鮫《さめ》の餌食《ゑじき》と相成候事と存られ候|衣類《いるゐ》并《ならび》に笠《かさ》は血に染り濱邊に打上《うちあげ》是有候故濱奉行へ御屆に相成候|且《かつ》村中|不便《ふびん》に存じ師匠《ししやう》感應院の墓《はか》の側《そば》へ塚標《はかじるし》を相立|懇篤《ねんごろ》に弔《とふら》ひ遣し候と云に兩士《りやうし》は是を聞より其|寶澤《はうたく》の身の上こそ不審《ふしん》なりと思ひ其寶澤と云は常々《つね/″\》お三|婆《ばゝ》の所へ往復《ゆきかよひ》致せしかと尋るに如何にも寶澤は常《つね》にお三婆の所へ參り既《すで》に相果候|跡《あと》にて承《うけたま》はり候へば其日寶澤は師匠《ししやう》より酒《さけ》肴《さかな》を貰《もらひ》持參せし由其酒にて醉伏《ゑひふし》相果《あひはて》候事と存じられ候と聞より彌々《いよ/\》不審《いぶかしく》思ひ次右衞門申樣右寶澤の顏立《かほだち》下唇《したくちびる》に小《ちひさ》き黒痣《ほくろ》一ツ又左の耳の下に大なる黒痣《ほくろ》有しやと聞に如何にも有候と答《こたへ》るにぞ然ば天一坊は其寶澤に相違《さうゐ》なしと兩士は郡奉行遠藤喜助に對《むか》ひ其寶澤の衣類等《いるゐとう》御座候はゞ證據《しようこ》にも相成るべく存じ候へば申受度と云に喜助《きすけ》申樣夫は先年某濱奉行|勤役中《きんやくちう》にて笈摺《おひづる》笠《かさ》衣類は缺所藏《けつしよぐら》の二階の隅《すみ》へ上置候へば當時《たうじ》の濱奉行|淺山《あさやま》權《ごん》九郎へ申談じ差上申べしと其旨《そのむね》濱奉行へ申達《しんだつ》し右の品々を取寄《とりよせ》兩人の前に差出せば次右衞門三五郎は改めて見に笠《かさ》衣類《いるゐ》笈摺《おひずる》等一々|疵《きず》付《つけ》有共其|疵口《きずぐち》の不審さに流石《さすが》は公儀《こうぎ》の役人是は盜賊《たうぞく》の所爲《しわざ》ならず寶澤人に殺されし體《てい》に自身に疵付《きずつけ》し者ならんと血《ち》に染《そみ》たる所を見れば年限《ねんげん》隔《へだた》りて黒染《すみにじ》みの[#「黒染みの」はママ]樣なれば人間の血の染《そみ》たるとは大に異《こと》なりしかば寶澤こそ天一坊に相違なしと三五郎は名主《なぬし》甚左衞門に向ひ山伏《やまぶし》感應院の死去せしは病氣《びやうき》なりしやと尋《たづ》ねけるに甚左衞門病氣は食滯《しよくたい》と承《うけたま》はり候と云然らば其時は醫師《いし》に見せ候やと聞に參《さん》候當村に清兵衞と申す醫師有て夫《それ》に見せ候と答ふ然らば其|醫師《いし》を是へ呼べしとの事に早速《さつそく》人を走《はし》らせ清兵衞を呼寄《よびよせ》ける三五郎清兵衞に向ひ其|方《はう》醫道《いだう》は確《しか》と心得ありやと尋《たづね》けるに少しは心得|罷居《まかりをり》候と云に又|押返《おしかへ》して確と醫道《いだう》を心得居るやといふに今度は確《しか》と心得候と答《こた》へける然らば感應院|病死《びやうし》の節《せつ》は其方|病症《びやうしやう》をば慥《たしか》に見留《みとめ》たるやと申すに清兵衞答て感應院の病症は大食滯《だいしよくたい》に候去ながら私《わたく》し事は病症《びやうしやう》見屆《みとゞ》けの醫には候はず病氣を治《なほ》す醫師なれば食滯《しよくたい》と申し其座を立退《たちのき》候病症見屆の醫師に候はゞ大食滯《だいしよくたい》を申立其場は立去申まじと答ければ感應院の死去《しきよ》は全く毒殺《どくさつ》と社《こそ》知られけり抑々《そも/\》此清兵衞と云は元《もと》紀伊大納言|光貞卿《みつさだきやう》御意に入の醫師にて高橋|意伯《いはく》とて博學《はくがく》の者なりしが光貞卿の御|愛妾《あいせふ》お作《さく》の方といふに密通《みつつう》なし大納言殿の御眼に觸《ふ》れ其方|深山幽谷《しんざんいうこく》に住居すべし家督《かとく》は悴《せがれ》へ申付|捨扶持《すてふち》として五人扶持を遣《つか》はすとの御意にて暇《いとま》になり又た作《さく》の方も直《すぐ》に永《なが》の暇となり意伯と夫婦に成べしとの御意にて是も五人扶持|下《くだ》し置れしかば意伯《いはく》はお作の方と熊野《くまの》の山奧《やまおく》に蟄居《ちつきよ》し十七年目にて御目通りなし又増扶持として五人扶持下し置れ都合《つがふ》十五人扶持にて平野村《ひらのむら》に住居し名を清兵衞と改《あらた》めしなり斯る醫道《いだう》に精《くはし》き人なれば今此|返答《へんたふ》には及しなり然《され》ば天一坊は寶澤に相違なしと郡奉行の荷物《にもつ》を持來し善助と云ふ者元感應院に數年《すねん》奉公せし故|能《よく》存《ぞん》じ居ると云を郡奉行へ相談の上|見知人《みしりにん》の爲江戸表へ連行《つれゆく》事と定めけれど老人《らうじん》なれば途中《とちう》覺束《おぼつか》なしと甚左衞門をも見知人《みしりにん》に出府致す樣申渡し直に先觸《さきぶれ》を出し東海道《とうかいだう》は廻遠《まはりとほ》し難所《なんしよ》にても山越に御|下向《げかう》有べしとて勢州《せいしう》田丸街道《たまるがいだう》へ先觸を出し桐棒駕籠《きりぼうかご》[#「桐棒駕籠」は底本では「桐棒籠駕」]二|挺《ちやう》には次右衞門三五郎|打乘《うちのり》宿駕籠《やどかご》[#「宿駕籠」は底本では「宿籠駕」]二挺には見知人甚左衞門善助の兩人|打乘《うちのり》笈摺《おひずる》衣類《いるゐ》の證據《しようこ》に成べき品々は駕籠《かご》の上に付紀州和歌山を出立《しゆつたつ》なし田丸越《たまるごえ》をぞ急ぎける [#8字下げ]第卅三回[#「第卅三回」は中見出し]  此時江戸表には八代將軍|吉宗公《よしむねこう》近習《きんじゆ》を召《めさ》れ上意には奉行越前守は未だ病氣全快《びやうきぜんくわい》は致さぬか芝|八山《やつやま》に居る天一坊は如何《いかが》せしやと發《ほつ》と御|溜息《ためいき》を吐《つか》せ給ひながら是は内々なり必ず沙汰《さた》す可《べか》らずと仰《おほせ》られたるが斯《かく》吉宗公が溜息《ためいき》を吐《つか》せ給ふは抑々《そも/\》天一坊の身の上を思《おぼ》し召《めし》ての事なり世の親の子を思ふ事|貴賤《きせん》上下の差別《さべつ》はなきものにて俚諺《ことわざ》にも燒野《やけの》の雉子《きゞす》夜《よる》の鶴《つる》といひて鳥類《てうるゐ》さへ親子の恩愛《おんあい》には變《かはり》なし忝《かたじけ》なくも將軍家には天一坊は實《じつ》の御|愛息《あいそく》と思召《おぼしめさ》ばこそ斯《かく》御心を惱《なやま》せられし成るべし此は容易《ようい》ならざる事成と御|側《そば》御用|御取次《おとりつぎ》より御老中|筆頭《ひつとう》松平伊豆守殿へ此|由《よし》を申達《しんだつ》せらるゝに伊豆守殿も捨置《すておか》れずと御|評議《ひやうぎ》の上小石川|御館《おやかた》へ此段申上られける此時《このとき》中納言綱條卿|思召《おぼしめさ》るゝ樣奉行越前|病氣《びやうき》屆《とゞけ》致せしは自ら紀州表へ取調《とりしらべ》に參し者か但《たゞし》は家來を遣はしたるか何にも今暫らく日數も掛《かゝる》べし然《さり》ながら捨置《すておき》がたしと伊豆守殿へ仰《おほせ》けるは越前守|役宅《やくたく》へ上意《じやうい》の趣《おもむ》き申遣はすべしとの事なれば早速《さつそく》伊豆守殿より使者《ししや》を以て越前守方へ此度《このたび》將軍の上意《じやうい》に越前守には未だ病氣全快《びやうきぜんくわい》致さぬか芝《しば》八山《やつやま》に居る天一坊は如何《いかゞ》せしやとの御事なれば明朝《みやうてう》は早速《すみやか》に登城《とじやう》致し御返答《ごへんたふ》申上らるゝか今宵《こよひ》の内に御役御免《おやくごめん》を願ふか兩樣の内|何共《いづれとも》決心《けつしん》致さるべしとの趣《おもむ》きを申|遣《つか》はしたるに此方《こなた》は越前守は公用人《こうようにん》次右衞門三五郎の紀州表へ出立《しゆつたつ》せし其日より夜終《よもすがら》行衣《ぎやうい》を着し新菰《あらごも》の上にて水垢離《みづごり》を取《とり》諸天《しよてん》善神《ぜんしん》に祈誓《きせい》を懸《かけ》用人無事に紀州表の取調《とりしら》べ行屆《ゆきとゞき》候樣|丹誠《たんせい》を凝《こら》し晝は一間に閉籠《とぢこも》りて佛菩薩《ぶつぼさつ》を祈念《きねん》し別しては紀州の豐川《とよかは》稻荷《いなり》大明神《だいみやうじん》を遙拜《えうはい》し晝夜の信心《しんじん》少《すこ》しも餘念《よねん》なかりしに斯《かゝ》る處へ伊豆守殿より使者《ししや》を受け口上の趣《おもむ》きを聞き茫然《ばうぜん》と天を仰《あふ》ぎて歎息《たんそく》なし指屈《ゆびをり》て數《かぞふ》ればハヤ兩人|出立《しゆつたつ》なしてより今日は七日目《なぬかめ》なり行路《ゆくみち》三日歸り路三日紀州表の調《しら》べ早《はやく》して三日なり然ば九日《くにち》ならでは歸り難し然るを今宵《こよひ》の中に御役御免を願《ねがへ》ば今宵《こよひ》か明日は御親子|御對顏《ごたいがん》あるに相違《さうゐ》なし然すれば是迄|盡《つく》せし千辛萬苦《せんしんばんく》も水の泡《あわ》となり諸天善神へ祈誓《きせい》を懸《かけ》し甲斐もなく嗚呼《あゝ》是非《ぜひ》もなし明朝《みやうてう》六ツの時計を相※[#「圖」の「回」に代えて「面から一、二画目をとったもの」、107-15]《あひづ》に悴《せがれ》忠右衞門を刺殺《さしころ》し我自ら含状《ふくみじやう》を致して切腹《せつぷく》なすべし然らば當年の内はよも御對顏《ごたいがん》は有まじく其内には紀州へ遣《つか》はせし兩人も調《しら》べ行屆て歸《かへ》るべし斯《かゝ》れば我《われ》果《はて》しとて後《のち》忠義の程|顯《あらは》るべしと覺悟《かくご》を定め當年十一歳なる悴《せがれ》忠右衞門を呼出《よびいだ》し委細《ゐさい》に言含《いひふく》め又家中一同を呼出して今宵は通夜《つや》を致し明朝《みやうてう》六ツの時計を相※[#「圖」の「回」に代えて「面から一、二画目をとったもの」、107-18]《あひづ》に予《われ》は切腹《せつぷく》致すなりと申渡されけるに家中の面々大に驚《おどろ》き今宵《こよひ》こそは殿樣《とのさま》への御暇乞《おいとまごひ》なりとて不覺《そゞろ》に涙を流《なが》し各々座敷へ相詰《あひつめ》ける越前守は家中一同を屹度《きつと》[#「屹度」は底本では「吃度」]見て池田|大助《だいすけ》を側近《そばちか》く呼《よび》て申樣汝に遺言《ゆゐごん》する事あり明朝は忠右衞門も予と共に切腹《せつぷく》致せば予がなき跡《あと》は三日を待《また》ず其方|并《なら》びに次右衞門三五郎は當《たう》御役宅《おやくたく》へ奉公すべし必らず忠臣《ちうしん》二君に仕《つか》へずとの聖言《せいげん》を守るなよ此《この》三人は予が眼鏡《めがね》に止りし者なれば屹度《きつと》御役《おやく》に立者なり必ず/\此一言を忘《わす》るゝな次右衞門三五郎等|歸府《きふ》なさば此遺言《このゆゐごん》を申し聞すべしと言又家中一同の者へ其方共予がなき跡《あと》は三日を待《また》ず夫々《それ/″\》へ奉公すべし兩刀《りやうたう》を帶《たい》する者は皆々|天子《てんし》の家來なるぞ必ず忠臣二君に仕へずとの言葉《ことば》を用ゆるな浪人《らうにん》を致して居て越前の行末《ゆくすゑ》かと後指《うしろゆび》を指《さゝ》るゝな立派な出世致すべし斯《かく》てこそ予に對《たい》し忠義《ちうぎ》なるぞと申聞られ一人々々《ひとり/\》に盃盞《さかづき》を下され夫より夜の明《あく》るを待《まち》ける此時越前守の奧方《おくがた》には奧御用人を以て明朝|君《きみ》には御切腹《ごせつぷく》悴《せがれ》忠右衞門も自害致し死出《しで》三途《さんづ》の露拂《つゆはら》ひ仕《つかま》つるとの事武士の妻が御切腹《ごせつぷく》の事兼て覺悟《かくご》には御座候へども君に御別《おんわか》れ申其上|愛子《あいし》に先立《さきだた》れ何を樂《たのし》みに此世に存命《ながらへ》べきや何卒《なにとぞ》妾《わたく》しへも自害《じがい》仰付られ度と願はれければ越前守是を聞《きゝ》道理《もつとも》の願なり許《ゆる》し遣はす座《ざ》隔《へだ》たれば遲速《ちそく》あり親子三人|一間《ひとま》に於て切腹《せつぷく》すべければ此所へ參れとの御言葉に用人は畏《かし》こまり此旨《このむね》奧方《おくがた》へ申上げれば奧方には早速《さつそく》白裝束《しろしやうぞく》に改《あらた》められ此方の一間へ來り給ひ涙《なみだ》も溢《こぼ》さず良人《をつと》の傍《そば》に座《ざし》て三人時刻を待《まつ》は風前《ふうぜん》の燈火《ともしび》の如く哀《あは》れ墓無《はかなき》有樣なり皆々は目を數瞬《しばたゝ》き念佛《ねんぶつ》を唱《とな》へ夜の明るを怨《うらみ》に長《なが》き夜も早晩《いづしか》更行《ふけゆ》き早《はや》明《あけ》六ツに間も有じとて切腹の用意に掛《かゝ》らるゝに明六ツの時計《とけい》鳴渡《なりわた》れば越前守は奧方《おくがた》に向ひ悴《せがれ》忠右衞門切腹致さば其方|介錯《かいしやく》致せ其方|自害《じがい》せば予が直《ぢき》に介錯《かいしやく》すべし予が切腹せば介錯《かいしやく》には大助致すべしと言付《いひつけ》て又忠右衞門に向ひ最早《もはや》時刻《じこく》なるぞ後《おく》れを取なと言《いは》るゝに忠右衞門|殊勝《けなげ》にも然らば父上《ちゝうへ》御免を蒙《かうむ》り御先へ切腹仕つり黄泉《くわうせん》の露拂《つゆはら》ひ致さんと潔《いさぎ》よくも短刀《たんたう》を兩手に持《もち》左の脇腹《わきばら》へ既に突立《つきたて》んとする折柄《をりから》廊下《らうか》をばた/\と馳來《はせくる》人音《ひとおと》に越前守|悴《せがれ》暫《しば》しと押止《おしとゞ》め何者なるやと尋ぬれば紀州よりの先觸《さきぶれ》と呼はりける越前守是を聞き先觸《さきぶれ》を此處《ここ》へと申にぞ其儘《そのまゝ》に差出せば急《いそ》ぎ封《ふう》押開《おしひらき》見《み》て是は三五郎の手跡《しゆせき》なり此|文體《ぶんてい》にては紀州表の調《しらべ》方|行屆《ゆきとゞき》たりと相見え勇《いさみ》たる文段なり然《さり》ながら兩人の着《ちやく》は是非《ぜひ》晝過《ひるすぎ》ならん夫迄は猶豫《いうよ》成難《なりがた》し餘念《ざんねん》ながら是非に及ばず悴《せがれ》忠右衞門|後《おくれ》を取な早々《はや/″\》用意を致せと云《いふ》言葉《ことば》に隨て然ば御先へと又|短刀《たんたう》を持直《もちなほ》しあはや只今|突立《つきたて》んとする時亦々|廊下《らうか》に物音《ものおと》凄《すさま》じく聞えければ越前守何事やらん今暫《いましばら》くと忠右衞門を止めて待るゝに次右衞門三五郎の兩士|亂髮《らんぱつ》の上を白布《しろぬの》にて卷《まき》野服《のふく》の儘《まゝ》にて刀《かたな》を杖《つゑ》に越前守殿の前に駈來《かけきた》り立乍ら大音《だいおん》上《あげ》天一坊は贋者《にせもの》にて山伏《やまぶし》感應院の弟子《でし》寶澤と云者《いふもの》なり若君には寶永《はうえい》二酉年[#「寶永二酉年」はママ]三月十五日|御早世《ごさうせい》に相違なし委細《ゐさい》は是に候とて書留《かきとめ》の控《ひか》へ差出し兩人は撥《はつた》と平伏《へいふく》なし私共天一坊|贋者《にせもの》の儀を早々申上|御安堵《ごあんど》させ奉つらんと一※[#「圖」の「回」に代えて「面から一、二画目をとったもの」、109-5]に存じ込《こみ》君臣の禮《れい》を失ひ候段恐入奉つり候|依《よつ》て兩人は是より差控仕《さしひかへつかま》つる可と座を退《しりぞ》かんとするを越前守|大音《だいおん》上《あげ》次右衞門三五郎|暫《しばし》待《まて》と呼《よび》止れども兩士は強《しひ》て退座《たいざ》せんとするに兩人參らずんば越前守直に夫へ出向ぞと言に兩人は是非《ぜひ》なく立戻《たちもど》り越前守が前《まへ》に出て平伏《へいふく》す是時越前守には次右衞門三五郎の手を取《と》られ兩人の丹精《たんせい》忝《かたじ》けなく思ふなり予《よ》が家來《けらい》とは思はぬぞや迚《とて》夫より伊豆守殿より使者《ししや》に預《あづか》り捨置難《すておきがた》ければ親子《しんし》三人|覺悟《かくご》なし只今既に忠右衞門|切腹《せつぷく》するの所ろ兩人の歸着《きちやく》こそ神佛《しんぶつ》の加護《かご》とはいへ全たく誠忠《せいちう》の致す所なりと物語《ものがた》られ悴《せがれ》忠右衞門一代は兩人をば伯父々々《をぢ/\》と呼《よぶ》べしと言ければ兩人は有難涙《ありがたなみだ》に暮《くれ》厚《あつ》く御禮《おんれい》申上召連し見知人甚左衞門善助は名主部屋へ入置|休息《きうそく》致させける是に依て越前守には池田|大助《だいすけ》に命じ全快屆《ぜんくわいとゞけ》の書面を認《したゝ》めさせ公儀《こうぎ》へこそは差出されける [#8字下げ]第卅四回[#「第卅四回」は中見出し]  扨《さて》も越前守には紀州より兩臣|歸着《きちやく》にて逐一《ちくいち》穿鑿《せんさく》行屆たれば直樣《すぐさま》沐浴《もくよく》なし登城の觸出《ふれだ》し有て御|供揃《ともそろひ》に及び御役宅《おやくたく》を出で松平伊豆守殿御役屋敷を指《さし》て急《いそ》がせられ既《すで》に伊豆守殿|御屋敷《おやしき》御玄關《おげんくわん》へ懸て奉行《ぶぎやう》越前守伊豆守殿へ御《ご》内々《ない/\》御目通《おめどほ》り致度と申入るに取次の者|此趣《このおもむ》きを申上ければ伊豆守殿|不審《ふしん》に思はれ奉行越前は昨夜《さくや》の内に御役《おやく》御免を願ふ筈《はず》なるに今日|全快屆《ぜんくわいとゞけ》[#ルビの「ぜんくわいとゞけ」は底本では「せんくわいとゞけ」]を出し予に内々|逢《あひ》たしとは何事ならんと早速《さつそく》對面《たいめん》ありしに越前守申さるゝには少々《せう/\》御密談《おんみつだん》申上度儀候へば御|人拂《ひとはら》ひ願ひたしとの事故|公用人《こうようにん》一人|殘《のこ》し餘は皆《みな》退《しりぞ》けらる越前守は再《ふたゝ》び公用人をも御退《おしりぞ》け下さるべしと言るゝに伊豆守殿|顏色《がんしよく》を變《かへ》是れ越前其方は役柄《やくがら》をも相勤《あひつとめ》候へば斯程《かほど》の事は辨《わきま》へ居るべし老中《らうぢう》の公用人は目付代《めつけかは》りなり役屋敷《やくやしき》に於て密談《みつだん》致す事は元より御法度《ごはつと》なりと申さるゝを越前守《ゑちぜんのかみ》[#ルビの「ゑちぜんのかみ」は底本では「ゑつぜんのかみ」]少しも臆《おく》せず左樣に候はゞ是非に及ばず天一坊儀に付《つき》少々《せう/\》御密談申上度存じ態々《わざ/\》推參《すゐさん》仕つり候|御聞屆《おきゝとゞけ》無《なき》に於ては致し方なし然れば御暇《おんいとま》仕つらんと立懸《たちかゝ》るに伊豆守殿天一坊の事と聞《きゝ》て何事やらんと心懸《こゝろがか》りなれば言葉《ことば》を和《やは》らげられ越前天一坊儀と有《あれ》ば伊豆守も承《うけたま》はらねばならぬ事|也《なり》とて頓《やが》て公用人をも退《しりぞ》けられ今は全《まつた》く二人|差向《さしむか》ひに成れける此時《このとき》越前守申さるゝ樣は私《わたく》し先達てより天一坊の身分|再吟味《さいぎんみ》の役を蒙《かうむ》り候處|病氣《びやうき》に付御屆申上|引籠《ひきこも》り罷在其内に家來を以て紀州表《きしうおもて》へ調方に遣《つか》はし候ひしが今朝|漸《やうや》く歸府《きふ》仕つり逐一|相糺《あひたゞ》し候處當時八山に旅宿《りよしゆく》致し居天一坊といふは元《もと》九州|浪人《らうにん》原田嘉傳次と申者の悴《せがれ》にて幼名《えうみやう》を玉之助といひ幼年にて父母に別れ紀州《きしう》名草郡《なぐさごほり》平野村の山伏《やまぶし》感應院の弟子となり名を寶澤《はうたく》と改め十二歳の時お三婆《さんばゞ》を縊殺《しめころ》し御墨附短刀を奪《うば》ひ取十三歳にして師匠《ししやう》感應院を毒殺《どくさつ》し十四歳の時村中を僞《いつは》り諸國修行と號《がう》し平野村を立出其夜加田の浦にて盜賊《たうぞく》に殺されし體に拵《こしら》へ夫より同類《どうるゐ》を語《かた》らひて將軍の落胤《おとしだね》なりと名乘《なのり》出候に相違有間敷候此度見知人も是有|彼地《かのち》より兩人同道にて連參《つれまゐり》候なりと委敷《くはしく》申述けるに伊豆守殿|斯《かく》と聞て仰天《ぎやうてん》し暫々|言葉《ことば》も無りしが稍《やゝ》有て仰《おほせ》けるは越前は能《よく》も心付たり定めて御褒美《ごはうび》として五萬石は御加増《ごかぞう》有べし夫に引替《ひきかへ》此伊豆守は半知《はんち》と成て御役御免に相成可しと悄々《しほ/\》として言ければ越前守|打點頭《うちうなづき》私し儀|御加増《ごかぞう》を望《のぞみ》立身を心懸《こゝろがけ》候|心底《しんてい》には候はず左樣の存じ寄《より》あらば何とて今日御役宅へ御密談《おみつだん》に參り可申や配下《はいか》の身として御重役《ごぢうやく》の不首尾《ふしゆび》を悦ぶ所謂《いはれ》なし只今申上候御密談と申は外《ほか》の儀に候はず伊豆守殿には拙者《せつしや》より先へ御登城《ごとじやう》なされ將軍家へ天一坊儀は重役共《ぢうやくども》より先達《さきだつ》て身分《みぶん》相調《あひしら》べ候處全く將軍の御子樣《おこさま》に相違《さうゐ》なく存じ奉つり此段|言上《ごんじやう》仕り候へ共|退《しりぞ》いて能々《よく/\》勘考《かんかう》仕つり候へば不審《ふしん》の廉々《かど/\》も御座候|故《ゆゑ》奉行越前心付し體《てい》に仕り内々|吟味《ぎんみ》致させ候に天一坊儀は全く贋者《にせもの》にて山伏感應院の弟子《でし》寶澤と申す賣僧《まいす》に御座候と仰上《おほせあげ》られなば伊豆守殿の御落度にも相成まじ又私しよりも伊豆守殿の御心付《おこゝろづき》にて御内密仰含《ごないみつおほせふく》められ候に依て内々にて吟味仕り候處|贋者《にせもの》に紛《まぎ》れ御座なく候と言上《ごんじやう》仕り候らはゞ双方《さうはう》の言葉《ことば》符合《ふがふ》致すべしと云に伊豆守殿には聞《きい》て大に悦び給ひ然らば越前其方が申通り伊豆守より言上《ごんじやう》致すべし其方も相違《さうゐ》なく左樣《さやう》に言上致され候や其節に及び双方《さうはう》の申立|相違《さうゐ》致ては伊豆守が身分《みぶん》にも相懸《あひかゝり》候儀なれば能々《よく/\》承知《しようち》有たし只今の口上に異變《いへん》なきやと再應|仰《おほせ》らるゝにぞ越前守|顏《かほ》を正《たゞ》し私しより申上候儀なれば毛頭《もうとう》相違は御座なく候と答《こた》へらるゝに然らば越前|同道《どうだう》にて登城《とじやう》可致と御供觸《おともぶれ》を出され御同道にて御登城《ごとじやう》に及ばれ伊豆守殿には御用御取次を召て仰《おほせ》けるは伊豆守越前守|倶《とも》に言上《ごんじやう》の儀有之候に付御|目見得下《めみえくだ》し置れ候樣御取次|有《ある》べしとの事なれば御用御取次は此段|早速《さつそく》言上に及ばれける將軍家にも奉行越前|病氣全快《びやうきぜんくわい》と聞し召れ御悦氣《ごえつき》にて早速《さつそく》召出され御目見|仰付《おほせつけ》らる此時伊豆守殿には天一坊儀|上樣《うへさま》の御落胤《ごらくいん》に相違なしと存じ奉つり先達《さきだつ》て此段上聞に達《たつ》し候へ共|退《しりぞ》きて倩々《つら/\》考《かんが》へ候へば聊《いさゝ》か不審《ふしん》の事も御座候故御|證據《しようこ》は慥《たしか》の御品ながら當人は若《もし》紛《まぎ》らはしき者にやと心付候へ共|重役《ぢうやく》共一同申上候儀を變じ候も如何と存じ奉つり越前へ内意《ないい》仕つり同人心付候|由《よし》にて吟味《ぎんみ》致させ申候處|果《はた》して天一坊儀は贋者に相違《さうゐ》御座なく候と委敷《くはしく》言上に及ばれければ將軍には能々《よく/\》聞し召れ越前守に向《むか》はせ給ひ予は全く越前が心付しと存ぜしが實《じつ》は伊豆が心付て内意《ないい》有たるに相違なきや越前|如何《いかゞ》ぢやとの上意に越前守發と平伏《へいふく》なし只今伊豆守より言上《ごんじやう》仕り候通り毛頭《もうとう》相違御座なく候|委細《ゐさい》は此書面に認《したゝ》めしとて書付を出さるれば御用《ごよう》御取次是を受取將軍家へ差上《さしあぐ》る御|直《ぢき》に御覽《ごらん》あるに當時天一坊と名乘候者は元《もと》九州|浪人《らうにん》原田|嘉傳次《かでんじ》の悴にて幼名《えうみやう》玉之助と呼《よび》幼年にて兩親に別れ平野村の山伏《やまぶし》感應院の弟子となり寶澤《はうたく》と改名《かいめい》し十二歳にしてお三婆を縊殺《しめころし》御墨附御短刀を奪《うば》ひ取十三歳にて師匠を毒殺《どくさつ》し十四歳の春《はる》紀州加田の浦にて盜賊《たうぞく》に殺されし體《てい》に取|拵《こしら》へ夫より所々を徘徊《はいくわい》なし同類を語《かた》らひ此度將軍家の御|落胤《おとしだね》と名乘《なのり》出候に相違御座|無《なく》確《しか》と記し有を御覽遊《ごらんあそ》ばし殊の外《ほか》御顏色《ごがんしよく》變《かは》らせ給ひ憎《にく》き坊主《ばうず》めが擧動《ふるまひ》なり[#「擧動なり」は底本では「振動なり」]仕置《しおき》の儀は越前が心に任《まか》すべし此段|兩人《りやうにん》同道にて水戸家《みとけ》へ參り左樣に申べしとの上意《じやうい》に直樣《すぐさま》伊豆守殿越前守同道にて小石川の御館《おやかた》さして急行《いそぎゆき》ける小石川にては綱條卿《つなえだきやう》今朝奉行越前病氣|全快屆《ぜんくわいとゞ》けを出せし由|定《さだ》めて屋形へも越前參るべしと思召|遠見《とほみ》を出すべしとの御意《ぎよい》にて則ち遠見の者を出《いだ》されけるに此者|下馬先《げばさき》にて越前守伊豆守殿と同道《どうだう》にて小石川御屋形の方を指《さし》て來るを見るより急ぎ馳歸《はせかへ》りて只今松平伊豆守殿|大岡《おほをか》越前守御同道にて御館《おやかた》を指て參《まゐ》られ候なりと申上るに中納言《ちうなごん》綱條卿斯と御聞とり遊《あそば》し伊豆守同道とは何事ならんと御|待《まち》有けるに間《ま》もなく兩人御館へ參られ伊豆守越前守同道|參上《さんじやう》仕《つかまつ》り御目見を願《ねが》ひ奉《たてま》つると取次を以て申上るに中納言|綱條卿《つなえだきやう》は如何|思召《おぼしめし》けん伊豆守は控《ひかへ》させよ越前守ばかり書院へ通せとの御意にて越前守を御廣《おんひろ》書院へ通し伊豆守殿をば使者《ししや》の間へ控《ひか》へさせられたり間もなく綱條卿には御廣《おんひろ》書院へ入らせられ越前守に御目見《おんめみえ》仰付らる此時越前守|少《すこ》しく頭《かしら》を上申上らるゝ樣は先達《さきだつ》て私し心付候由にて天一坊|身分《みぶん》再吟味《さいぎんみ》の儀願ひ奉つり則《すなは》ち御免を蒙《かうむ》り候へ共是は私しの心付には御座なく全く伊豆守《いづのかみ》心付なり然共《されども》先達て將軍の御|落胤《おとしだね》に相違なしと上聞《じやうぶん》に達し其後の心付なりとて一旦《いつたん》重役《ぢうやく》共申出し儀を相違|仕《つかま》つり候ては御役儀も輕《かろ》く相成《あひなり》候故私しの内意仕つり候に付私再吟味御免を蒙《かうむ》り其後病氣と披露《ひろう》仕つり引籠《ひきこも》り中《ちう》家來《けらい》を以て紀州表|相調《あひしら》べ候に天一坊儀は贋者《にせもの》に相違是なく委細《ゐさい》は此書面に御座《ござ》候と差上らるゝに綱條卿是を御手《おて》に取《とら》せ玉ひ御覽《ごらん》有るに全くの若君《わかぎみ》には寶永三酉年[#「寶永三酉年」はママ]三月十五日|御誕生《ごたんじやう》にて直《すぐ》御早世《ごさうせい》澤の井も其|明方《あけがた》に同じく相果《あひはて》平澤村光照寺へ葬《はうむ》り右|法名《ほふみやう》共に寫《うつ》し有て且天一坊は原田嘉傳次が子にして幼名《えうみやう》を玉之助といひ七歳にて兩親に捨《すて》られ山伏《やまぶし》感應院の弟子となり十二歳の時お三婆を縊殺《しめころ》し十三歳の冬《ふゆ》師匠感應院を毒殺《どくさつ》し十四歳の年《とし》諸國修行と僞《いつは》り加田の浦にて盜賊に殺《ころ》されたる體《てい》にし夫より諸國を經廻《へめぐ》り同類《どうるゐ》を語らひ今般《こんぱん》將軍の御落胤《おんおとしだね》なりと名乘出候に相違《さうゐ》御座なく候と認《したゝ》めたれば扨々|憎《にく》き惡僧《あくそう》なり如何に越前|此調《このしらべ》は伊豆守の内意《ないい》を受て紀州表を吟味《ぎんみ》致したりと申せ共《ども》全くは左樣には非《あら》ざるべし其方が心付しに相違《さうゐ》有《ある》まいな其方|重役《ぢうやく》の身を思ひ功《こう》を他に讓《ゆづ》る心なるべし予が眼力《がんりき》によも相違は有るまじと再《さい》三|仰《おほせ》らるゝに越前守|恐《おそ》れながら言葉《ことば》を返へし奉つるに似《に》候へ共私存じ仕候樣に申上しは僞言《いつはり》にて實は伊豆守よりの内意《ないい》を受候に相違御座なく候と申上げるに綱條卿《つなえだきやう》の御意に越前|予《よ》に對《たい》して詞《ことば》を返へし候段は忘《わす》れて遣すとの御意《ぎよい》なりしか [#8字下げ]第卅五回[#「第卅五回」は中見出し]  此時|中納言《ちうなごん》綱條卿の御意には伊豆守を是へ呼出《よびいだ》すべしとの事なれば伊豆守殿には案内《あんない》に連《つれ》て恐々出來り平伏ある中納言綱條卿には芝《しば》八山《やつやま》に旅宿《りよしゆく》致居る天一坊の身分|調方《しらべかた》伊豆其方が心付にて内意《ないい》致し奉行越前が心附し體《てい》に計《はから》ひ再吟味を願ひ紀州表を相調《あひしら》べ穿鑿《せんさく》方行屆候由只今越前より左樣《さやう》に申せしが伊豆が内意《ないい》致せしに相違なきやとの御意《ぎよい》なれば伊豆守殿には恐入《おそれいり》越前より言上仕り候|通《とほ》り相違《さうゐ》御座なく候と申上げれば綱條卿には伊豆守は能《よき》配下《はいか》を持《もち》て仕合《しあはせ》者なりとの仰《おほ》せに伊豆守殿は胸中《きようちう》を見透《みすか》され針《はり》の莚《むしろ》に坐する如く冷汗《ひやあせ》流《なが》して控《ひか》へらる此時綱條卿には越前天一坊の仕置《しおき》の儀は其方が勝手に致べし予《よ》が免《ゆるす》ぞ越前は小身者《せうしんもの》なれば天一坊|召捕方《めしとりかた》の手當等はむづかしからん伊豆|其方《そのはう》より萬端《ばんたん》助力《じよりよく》致《いたし》遣《つか》はし早々其|用意《ようい》を致べしとて御|暇《いとま》を下し置かる是に依て伊豆守殿には發《ほつ》と息《いき》を吐《つき》漸く蘇生《そせい》したる心地して退出《たいしゆつ》なし役宅《やくたく》へこそ歸られける扨《さて》越前守は跡《あと》へ殘《のこ》り御|懇意《こんい》の御|言葉《ことば》を蒙り御|暇《いとま》を給はり面目《めんぼく》を施して勇進《いさみすゝ》んで御|役宅《やくたく》へ歸り早速《さつそく》公用人二人を呼出《よびいだ》し次右衞門に言付《いひつけ》けるは其方是より芝八山へ參り明《あく》る巳《み》の刻《こく》越前役宅へ天一坊參候樣申聞べし必ず悟《さと》られるなと心付られ又三五郎を呼《よび》て其方は天一坊|召捕方《めしとりかた》手配《てくばり》を致べしと仰付られ池田大助には天一坊|召取方《めしとりかた》を申付らる是に依《よつ》て三五郎は以前の如く江戸出口十三ヶ所へ人數《にんず》を配《くば》り先《まづ》品川新宿板橋千住の大出口《おほでぐち》四ヶ所へは人數千人|宛《づつ》固《かため》させ其外九ヶ所の出口《でぐち》へは人數五百人|宛《づつ》を守らせ沖《おき》の方は船手《ふなて》へ申付深川|新地《しんち》より品川|沖《おき》迄御|船手《ふなて》にて[#「御船手にて」は底本では「御船手には」]取切御|備《そなへ》の御船は沖中《おきなか》へ押出し其外|鯨船《げいせん》數艘《すそう》を用意し嚴重《げんぢう》に社《こそ》備《そなへ》ける然ば次右衞門は桐棒《きりぼう》の駕籠《かご》に打乘|若徒《わかたう》兩人|長柄《ながえ》[#ルビの「ながえ」は底本では「なかえ」]草履《ざうり》取を召連《めしつれ》數寄屋橋御門内御|役宅《やくたく》を出芝八山を指《さし》て急ぎ行《ゆき》しが道々|思案《しあん》するには先達て赤川大膳を名指《なざし》にせしが此度も又|大膳《だいぜん》[#ルビの「だいぜん」は底本では「だいせん」]に對面《たいめん》なさんか否々《いや/\》若し山内伊賀亮が側《わき》より聞て悟《さと》らば一大事なり然《さら》ば此度は伊賀亮を名指《なざし》にて渠《かれ》に對面して欺《あざむ》き課《おほ》せん者をと工夫《くふう》を凝《こら》し頓《やが》て八山の旅館《りよくわん》に到り案内を乞《こ》ふに中村市之丞|取次《とりつぎ》として出來れば次右衞門申やう町奉行《まちぶぎやう》大岡越前守|使者《ししや》平石次右衞門天一坊樣御|重役《ぢうやく》山内伊賀亮樣に御|目通《めどほ》り致し申上度儀御座候此段御取次下さるべしと有に市之丞|此旨《このむね》伊賀亮へ申|通《つう》じけるに伊賀亮|熟々《つら/\》思案《しあん》するに奉行越前|病氣《びやうき》と披露《ひろう》し自分に紀州表へ調《しら》べに參りしに相違《さうゐ》なし然ば往《ゆき》三日半歸り三日半|調《しら》べに三日|懸《かゝ》るべし越前|病氣引籠《びやうきひきこも》りより[#「病氣引籠《びやうきひきこも》りより」は底本では「病氣引籠《びやうきひきこも》より」]今日は丁度《ちやうど》八日目なり十日|過《すぎ》ての使者なれば彌々《いよ/\》役宅へ呼寄《よびよせ》て召捕《めしとる》工風《くふう》なるべけれど四五日早く使者《ししや》の來る處を見れば謀事《はかりごと》成就《じやうじゆ》せしと相見えたり迚《とて》次右衞門を使者の間へ通し頓《やが》て伊賀亮|對面《たいめん》に及びたる此時《このとき》次右衞門申けるは越前|先日《せんじつ》以來病氣に候處|少《すこ》しく快《こゝろよ》き方《かた》にて御座候故今日|押《おし》て出勤致し候一|體《たい》越前守參り以て申上べきの處なれど未だ聢《しか》と全快《ぜんくわい》も仕つらず候故私しを以て此段申上奉り候明日は吉日に付御|親子《しんし》御|對顏《たいがん》の御|規式《ぎしき》を御取計ひ仕り候|尤《もつと》も重役《ぢうやく》伊豆守越前役宅|迄《まで》參られ天一坊樣へ御|元服《げんぷく》を奉り夫より御|登城《とじやう》の御案内には伊豆守は勿論《もちろん》西の御丸へ直《なほ》らせられ候節は酒井|左衞門尉《さゑもんのじよう》より御|鎗《やり》一筋|獻上《けんじやう》仕《つかまつ》り候事|吉例《きちれい》に候へ共左衞門尉は在國《ざいこく》出羽鶴が岡に罷《まか》り在候に付|名代《みやうだい》として伊豆守より猿毛《さるげ》の御|鎗《やり》一|筋《すぢ》獻上仕り候上樣よりは御|祝儀《しうぎ》として御|先箱《さきばこ》一ツ御|打物《うちもの》一ト振《ふり》右は雨天に候節は御紋《ごもん》唐草《からくさ》の蒔繪《まきゑ》の柄《え》晴天《せいてん》に候へば青貝柄《あをかひえ》の打物に候大手迄は御|譜代《ふだい》在江戸の大名方|出迎《でむか》へ御|中尺迄《ちうしやくまで》は尾州紀州水戸の御|三方《さんかた》の御|出迎《でむかひ》にて御|玄關《げんくわん》より御通り遊ばし御白書院《おんしろしよゐん》に於て公方樣《くばうさま》御|對顏《たいがん》夫より御|黒書院《くろしよゐん》に於て御臺《みだい》樣御對顏|再《ふたゝ》び西湖《せいこ》の間に於て御三方樣御|盃《さかづき》事あり夫より西の丸へ入せられ候御事にて御|高《たか》の儀は吉例《きちれい》四國なれば上野國《かうづけのくに》にて廿萬石下總國にて十萬石甲斐三河で廿萬石|都合《つがふ》五十萬石上野國|佐位郡《さゐのこほり》厩橋《うまやばし》の城主格《じやうしゆかく》[#ルビの「じやうしゆかく」は底本では「じやうしゆかくた」]に御座候と辯舌《べんぜつ》爽《さわやか》に申述|猶《なほ》申殘しの儀は明日成せられ候|節《せつ》越前|直々《ぢき/\》に言上仕つり候と申|演《のべ》終《をは》れば伊賀亮是を聞て扨《さて》は事|成就《じやうじゆ》せりと心中に悦びける是餘人成ば城中《じやうちう》の事|委《くはし》くは知ざれば疑《うたがは》しく思《おもふ》べけれ共伊賀亮は城中の事を能《よく》心得居る故今次右衞門のいふ處一々|理《り》に當れば偵《さすが》の伊賀亮も心を弛《ゆる》し此計略《このけいりやく》には乘《のせ》られたるなり扨《さて》伊賀亮は奧へ來り皆々《みな/\》に此趣《このおもむき》を申聞せ伊賀亮|所持《しよぢ》の金作《きんづくり》の刀《かたな》を持出て次右衞門に向ひ越前守より申|越《こさ》れし段上樣へ申上候處御|滿足《まんぞく》に思召《おぼしめ》し明日|巳《み》の刻に越前役宅へ參るべしとの上意《じやうい》なり是は余が所持《しよぢ》の品|如何敷《いかゞはしく》候へども其方へ遣《つか》はすとて一|刀《かたな》を差出せば次右衞門は此刀《このかたな》を申請|厚《あつ》く禮を述《のべ》暇《いとま》を告て門前迄|出《いで》先々《まづ/\》仕濟《しすま》したりと發《ほつ》と一|息《いき》吐《つい》て飛が如くに役宅へ歸り此趣《このおもむ》きを越前守へ申上|彌々《いよ/\》召捕《めしとる》手筈《てはず》をなしにける斯て八山には皆々《みな/\》打寄《うちより》實に明日こそ御親子御|對顏《たいがん》に相成に付|最早《もはや》事《こと》成就《じやうじゆ》せりと次右衞門が計略《けいりやく》に乘りしとは知《し》らず大いに悦び斯樣《かやう》なる悦しき事は一夜を待明《まちあか》すなりとて伊賀亮が計《はから》ひとして金春太夫《こんぱるだいふ》觀世太夫《くわんぜだいふ》を呼で能舞臺《のうぶたい》に於て御悦びの御|能《のう》を催《もよほ》しける然るに其夜|亥《い》の刻《こく》とも覺敷頃《おぼしきころ》風《かぜ》もなくして燭臺《しよくだい》の燈火《ともしび》ふツと消《き》えければ伊賀亮|不審《ふしん》に思ひ天文臺《てんもんだい》へ登《のぼ》りて四邊《あたり》[#「四邊《あたり》」は底本では「四|邊《あたり》」]を見渡《みわた》すに總て海邊《かいへん》は數百|艘《そう》の船にて取圍《とりかこ》み篝《かゞり》を焚《たき》品川灣を初め江戸の出口《でぐち》十三ヶ所へ人數《にんず》を配《くばり》固《かた》めたる有樣《ありさま》なれば伊賀亮驚き最早《もはや》事|露顯《ろけん》せしと見たり今は是非に及ばず名も無者《なきもの》に召捕《めしとら》るゝは末代《まつだい》迄の恥辱《ちじよく》なり名奉行と呼るゝ越前守が手に掛らば本望《ほんまう》なり大坂|御城代《ごじやうだい》京都諸司代御老中迄も欺《あざむ》きし上は思殘す事更になしと自分《じぶん》の部屋へ來りて鏡《かゞみ》を取出し見れば最早《もはや》顏《かほ》に劔難《けんなん》の相《さう》顯《あらは》れたれば然ば明日は病氣と僞《いつは》り供を除き捕手《とりて》の向はぬ内に切腹《せつぷく》すべしと覺悟《かくご》を極め大膳の許《もと》へ使《つかひ》を立伊賀亮事|俄《にはか》に癪氣《しやくき》差起《さしおこ》り明日の所|全快《ぜんくわい》覺束《おぼつか》なく候間|萬端《ばんたん》宜敷御頼み申也と云|送《おく》り部屋《へや》へ引籠《ひきこも》り居たりける扨《さて》其夜も明《あけ》辰《たつ》の上刻《じやうこく》と成ば天一坊には八山を立出で行列《ぎやうれつ》以前よりも華美《くわび》に粧《よそほ》ひて藤井左京赤川|大膳《だいぜん》供頭《ともがしら》となりて來る程に途中《とちう》の横町々々は大戸を〆切|町内々々《ちやうない/\》の自身番屋《じしんばんや》には鳶《とび》の者共火事|裝束《しやうぞく》にて詰《つめ》[#ルビの「つめ」は底本では「いめ」]家主抔《いへぬしなど》も替《かは》り/″\相詰たり數寄屋橋御|見附《みつけ》へ這入《はいれ》ば常よりも人數|夥多《おびたゞ》しく天一坊の供|殘《のこら》ず繰込《くりこむ》を待て御門を礑《はた》と〆切たり越前守|御役宅《おんやくたく》へ到れば大門を開き敷臺迄《しきだいまで》駕籠《かご》を横着《よこづけ》になし平石次右衞門池田大助|下座敷《げざしき》に平伏《へいふく》す時に越前守には繼《つぎ》上下にて敷臺迄|出迎《いでむか》へ上段の間へ案内《あんない》し是にて暫く御休息遊《ごきうそくあそば》すべし其内には伊豆守參上仕つるべし迚《とて》退《しりぞ》かる簾《みす》の前には常樂院赤川大膳藤井左京|諏訪右門《すはうもん》各々|威儀《ゐぎ》を正して居竝《ゐならび》たり越前守は見知人《みしりにん》の甚左衞門善助を御|近習《きんじふ》に仕立《したて》寶澤に相違なくは余《よ》が袂《たもと》を引べし夫を相※[#「圖」の「回」に代えて「面から一、二画目をとったもの」、115-17]に召捕べしと申渡し彼紀州より持《もち》來りし笈摺《おひずる》には紀州名草郡平野村|感應院《かんおうゐん》の弟子寶澤十四歳と記し所々|血汐《ちしほ》に染《そめ》し品々を壁《かべ》に懸置《かけおき》最早手筈は宜と越前守|簾《みす》の間へ來りて控居《ひかへゐ》る然る所へ伊豆守殿の使者《ししや》來り申述けるは今日伊豆守|當御役宅《たうおやくたく》へ參りて元服《げんぷく》奉るべきの所今日佐竹|左京太夫《さきやうたいふ》殿江戸着にて伊豆守|上使《じやうし》に參り今日は御規式《おぎしき》の御間に合兼《あひかね》候由何共|恐《おそ》れ入奉り候へ共明日巳の刻に越前|役宅《やくたく》へ入せられ候樣願上奉ると有ければ越前守には大膳に向《むか》ひ只今《たゞいま》御聞《おんきゝ》の通り伊豆守方より斯樣に申參り候へば迚《とて》も今日の儀《ぎ》には參り申さず恐《おそ》れながら明日又々|入《いら》せられ候樣願ひ奉ると申に大膳も此趣《このおもむ》きを天一坊へ申傳へるに伊豆守役儀と有ば是非に及ばず又明日參るべしとの事にて頓《やが》て歸館々々《きくわん/\》と觸出《ふれだ》しければ天一坊は上段《じやうだん》の間より靜々《しづ/\》と下り立ちけるに引續いて常樂院大膳左京右門の輩《ともが》ら玄關《げんくわん》指《さし》て歩行《あゆみ》けり [#8字下げ]第卅六回[#「第卅六回」は中見出し]  天一坊初め一味の輩《ともがら》町奉行御役宅の玄關《げんくわん》指《さし》て出《いで》けるに豫て越前守が見知人として近習《きんじゆ》に仕立召|連《つれ》し彼甚左衞門善助は此時ぞと天一坊を能々《よく/\》見《み》れば紛《まぎ》れもなき寶澤なれば越前守に目配《めくば》せなし密《ひそ》かに袂《たもと》を引たりける此時は天一坊は既に玄關迄來りしが向の壁《かべ》に懸し笈摺《おひずり》を見て偵《さすが》大膽不敵の天一坊なれど慄然《ぞつ》と身の毛よだち思はず二足三足跡へ退《しりぞ》くを見て取越前守大音に寶澤待と聲を懸けければ此方は彌々《いよ/\》愕然《びつくり》し急に顏色《がんしよく》蒼醒《あをざめ》後の方を振返るに夫《それ》召捕《めしとれ》と云間も有ず數十人の捕手|襖《ふすま》の影《かげ》より走り出|難《なん》無《なく》高手《たかて》小手に繩《なは》をば懸たりける斯《かく》と視《み》るより大膳は事《こと》顯《あら》はれしと思ければ刀引拔勢ひ猛《たけ》く縱横《たてよこ》十文字に切て廻り切死せんと働《はたら》くを大勢にて取籠《とりこ》めつゝ階子《はしご》を以て取押《とりおさ》へ漸く繩をぞ懸たりける此間《このま》に常樂院藤井左京諏訪右門等各々召捕れ其餘一人も殘ず召捕たり越前守は豫て手配《てくばり》せし事なれば急ぎ八山へ捕方《とりかた》を遣はせしに山内伊賀亮は早くも覺悟《かくご》し自分の部屋《へや》へ火を懸て燒立《やきたて》其中にて切腹し果たれば死骸は更に分《わから》ずとなん惡徒とは云へ天晴《あつぱれ》の器量人と稱すべし斯て越前守には御目附|野山《のやま》市《いち》十郎|松田勘解由《まつだかげゆ》等立合にて一同呼出し先天一坊を吟味《ぎんみ》に及ばれけるが只々|伊賀亮《いがのすけ》萬事を取計ひしゆゑ委細《いさい》は存じ申さずと云に然らばとて常樂院其餘の者を吟味《ぎんみ》するに是も同斷の答へゆゑ入牢の上嚴重に拷問《がうもん》を懸られたれば終に殘らず白状に及びける是に依て伺《うかゞ》ひ相濟《あひすみ》享保十一|丙午《ひのえうま》年の十一月廿一日町奉行所に於て大岡越前守御勘定奉行駒木根肥後守|筧播磨守《かけひはりまのかみ》[#「筧播磨守」は底本では「筧播摩守」]野山市十郎松田勘解由立合にて大岡越前守左の通り申渡されける [#地から7字上げ]元長州浪人原田嘉傳次悴 [#地から4字上げ]玉之助 [#地から8字上げ]當山派修驗感應院弟子 [#地から8字上げ]となり其後改寶澤當時 [#地から7字上げ]獄門           天一坊 [#ここから2字下げ] 其方儀《そのはうぎ》感應院《かんおうゐん》の師恩《しおん》を辨《わきま》へず西國修行に罷り出度由申立|欺《あざむ》きて諸國を遍歴《へんれき》し徒黨《とたう》を集め百姓町人より金銀を掠取《かすめと》り衣食住《いしよくぢう》に侈奢《ししや》をなしたる段《だん》上《かみ》を恐ざる致方《いたしかた》重々《ぢう/\》不屆至極に付獄門申付る [#地から15字上げ]天一坊家來 [#地から6字上げ]死罪           赤川大膳 右《みぎ》大膳儀《だいぜんぎ》先年|神奈川《かながは》旅籠屋《はたごや》徳《とく》右衞門方に於て旅人を殺害し金子を奪取《うばひとり》其後天一坊に一|味《み》致|謀計《ぼうけい》虚言《きよげん》を以て百姓町人を欺《あざむ》き金銀を掠取《かすめと》り衣食住に侈奢《おごり》身の程をも辨《わきま》へず上《かみ》を蔑《ないが》しろに致たる段《だん》重々不屆に付死罪申付る [#地から15字上げ]天一坊家來 [#地から6字上げ]死罪           藤井左京 其方儀《そのはうぎ》天一坊へ一味《いちみ》致し謀計《ぼうけい》虚言《きよげん》を以て百姓町人を欺《あざむ》き金銀を掠取り衣食住に侈奢《おごり》身の程をも辨《わきま》へず上を蔑《ないが》しろに致たる段重々不屆に付死罪申付る [#地から11字上げ]美濃國各務郡谷汲郷 [#地から12字上げ]長洞村日蓮宗 [#地から5字上げ]遠島           常樂院天忠[#「常樂院天忠」は底本では「平樂院天忠」] 其方儀《そのはうぎ》天一坊|身分《みぶん》聢《しか》と相糺《あひたゞ》さず百姓町人を欺き金銀を掠取《かすめと》り候段|上《かみ》を蔑《ないが》しろに致し[#「致し」は底本では「至し」]重々不屆に付《つき》遠島《ゑんたう》[#「付《つき》遠島《ゑんたう》」は底本では「付《つゑ》遠島《きんたう》」]申付る(八丈島) [#地から15字上げ]芝田町 [#地から5字上げ]重追放          山伏南藏院 其方儀天一坊身分|聢《しか》と存ぜずとは申ながら常樂院に頼《たの》まれ假《かり》住居の世話申候段|不埓《ふらち》に付重追放申付る [#地から13字上げ]品川宿地面賣主 [#地から6字上げ]過料五貫文        儀右衞門 其方儀天一坊身分|聢《しか》と相糺《あひたゞさ》ず地面《ぢめん》賣遣《うりつか》はし候段不埓に付|過料《くわれう》五貫文申付る [#地から15字上げ]品川宿名主 [#地から7字上げ]身分取上         茂太夫 其方儀天一坊身分|聢《しか》と相糺さず萬事《ばんじ》華麗《くわれい》の體《てい》たらく有しを如何《いかゞ》相心得居申候や訴《うつた》へもせず役儀《やくぎ》をも勤《つとめ》ながら心付ざる段不屆に付退役申付る [#地から15字上げ]天一坊家來 [#地から4字上げ]本多源右衞門 [#地から5字上げ]南部權兵衞 [#地から4字上げ]遠藤森右衞門 [#地から6字上げ]中追放          藤代要人 [#地から6字上げ]諏訪右門 [#地から6字上げ]浮木立平 [#地から6字上げ]高間左膳 右《みぎ》七|人《にん》の者共《ものども》天一坊|身分《みぶん》聢《しか》と相糺《あひたゞ》さず主從《しうじう》の盟約《めいやく》を致し候|段《だん》不屆《ふとゞき》の致し方《かた》に付中追放申付る [#地から15字上げ]天一坊家來 [#地から6字上げ]高間權内 [#地から5字上げ]石黒善太夫 [#地から4字上げ]輕追放          福島彌右衞門 [#地から6字上げ]矢島主計 右《みぎ》四人の者同斷に付|輕追放《けいつゐはう》申付る [#地から15字上げ]天一坊家來 [#地から6字上げ]木下新助 [#地から6字上げ]澤邊十藏 [#地から4字上げ]松倉長右衞門 [#地から6字上げ]高岡玄純 [#地から5字上げ]門前拂          上國三九郎 [#地から6字上げ]近松源八 [#地から5字上げ]相良傳九郎 [#地から6字上げ]森川玄蕃 右《みぎ》八人の者共|同斷《どうだん》に付|門前拂《もんぜんばらひ》申付る [#地から15字上げ]天一坊家來 [#地から6字上げ]作右衞門 [#地から8字上げ]權助 [#地から8字上げ]石平 [#地から8字上げ]傳藏 [#地から8字上げ]專藏 [#地から6字上げ]無構           八助 [#地から7字上げ]半五郎 [#地から6字上げ]六左衞門 [#地から8字上げ]源七 [#地から8字上げ]八内 右《みぎ》十人の者共は請人《うけにん》へ引渡《ひきわた》し可申事 [#ここで字下げ終わり] 時に享保十一|丙午《ひのえうま》年十一月廿一日右の通り裁許《さいきよ》相濟《あひすみ》其外金子差出候者共は呼出しの上夫々相當の過料《くわれう》申付らる斯《かく》て天一坊一|件《けん》善惡《ぜんあく》邪正《じやせい》明白に決斷《けつだん》相濟み落着《らくちやく》となりければ此段《このだん》上聽《じやうちやう》に達《たつ》しける將軍家の上意に若《もし》越前《ゑちぜん》無ば彼惡僧に誑《たばか》られん者と深く御稱美《ごしようび》有て三州|額田郡《ぬかたごほり》西大平《にしおほひら》に於て一萬石加増仰付られ越前守是迄の心勞《しんらう》一方ならざりしも其甲斐《そのかひ》ありて愁眉《しうび》を開《ひら》かれける扨《さて》又|平石《ひらいし》次右衞門吉田三五郎の兩人より越前守へ言上《いひあげ》彼若君《かのわかぎみ》澤の井の死骸《しがい》を葬《はうむ》りし光照寺へ永代佛供料《えいたいぶつくれう》として十八石の御朱印《ごしゆいん》を下し置れける是|偏《ひとへ》に住持《ぢうぢ》祐然《いうねん》が發明《はつめい》頓才《とんさい》の一言に依て末代《まつだい》寺號《じがう》を輝《かゞや》かせり且又見知人として出府せし甚左衞門善助の兩人へは越前守より目録《もくろく》其外の品々を賜《たまは》り目出度|歸國《きこく》致ける然ば曲《まが》れる者は折易《をれやす》く直《すぐ》なる者は伸易《のびやす》しとか山内伊賀亮程の器量《きりやう》ある者も惡事に組し末代の今に到る迄《まで》其|汚名《をめい》を殘《のこ》しけるが越前守には明智を以て斯《かゝ》る惡事を見顯《みあらは》し忠功を立《たて》後世迄も美名《びめい》を海内《かいだい》に輝《かゞや》かし子孫の繁榮《はんえい》を遺《のこ》すは最《いと》有難《ありがた》き事共なり 天一坊一件[#1段階小さな文字]終[#小さな文字終わり] [#改丁] [#ページの左右中央] 白子屋阿熊一件[#「白子屋阿熊一件」は大見出し] [#改丁] [#1段階大きな文字]白子屋阿熊《しろこやおくま》一件《いつけん》[#大きな文字終わり] [#8字下げ]第一回[#「第一回」は中見出し]  賢《けん》にして財《たから》多《おほ》ければ則ち其志《そのこゝろざし》を損《そん》じ愚《ぐ》にして財《たから》多《おほ》ければ則ち其過《そのあやま》ちを益《ます》且《かつ》夫《それ》富貴《ふうき》は衆《しう》の怨《うらみ》なりと此言や宜《むべ》なるかな享保の頃《ころ》麹町二丁目に加賀屋《かがや》四郎右衞門とて間口《まぐち》十八|間餘《けんよ》番頭《ばんとう》手代《てだい》丁稚《でつち》五十餘人其外下女下男二十人夫婦に子供《こども》都合《つがふ》七十人餘の暮《くら》しにして地面四五ヶ所を持《もち》呉服物《ごふくもの》を商《あきな》ひ日々《ひゞ》繁昌《はんじやう》なすに近頃《ちかごろ》其向《そのむかう》へ見世開《みせびら》きをなして小切《こぎれ》太物《ふともの》を鬻《ひさ》ぐ駿河屋《するがや》三郎兵衞と云者ありしが此方《こなた》は新規《しんき》の小見世《こみせ》と云《いひ》向《むか》ふは所に久しき大店なれば客足《きやくあし》も自然《おのづから》向《むか》ふへのみ行勝《ゆきがち》なれども加賀屋よりも折《をり》にふれては代呂物《しろもの》の融通等《ゆうづうとう》もなし出入邸《でいりやしき》の商《あきな》ひをして取續《とりつゞ》き居《ゐ》たれども或年《あるとし》三月|節句《せつく》前金二十兩不足にて勘定《かんぢやう》立《たゝ》ざれば是非なく向ふの加賀屋へ到《いた》り亭主《ていしゆ》に逢《あひ》て此節句前二十兩不足ゆゑ問屋《とひや》の拂《はら》ひ行屆《ゆきとゞか》ざるに付何卒節句過まで金子借用致し度《たき》旨《むね》只管《ひたすら》頼《たの》みければ此四郎右衞門は情有者《なさけあるもの》にて夫は嘸《さぞ》御難儀《ごなんぎ》ならん向前《むかうまへ》と云《いひ》類商賣《るゐしやうばい》の事なれば此度に限らず御都合次第何時にても御遠慮なく仰越れよと快《こゝろ》よく貸《かし》ければ三郎兵衞大いに悦《よろこ》び書付《かきつけ》を入れんと云に四郎右衞門書付には及び申さず御同商賣の事故|互《たが》ひに融通《ゆうづう》は致す筈《はず》なりと眞實面に顯れければ三郎兵衞は誠《まこと》に忝《かたじ》けなしと厚く禮を述て歸らんとするを四郎右衞門|先々《まづ/\》と引止《ひきとめ》下女に云付|酒《さけ》肴《さかな》を出し懇切《ねんごろ》に饗應《もてなし》て三郎兵衞を歸しけり其後三月十日に三郎兵衞二十兩加賀屋へ持參《ぢさん》し先達《せんだつ》ての禮を述て返濟なし其節も馳走に成しが其後五月|節句《せつく》前《まへ》又三十兩不足に付借用致し度と云ければ四郎右衞門は以前の如く快《こゝろ》よく貸《かせ》しを夫も五月十日に返濟なし七月|盆前《ぼんぜん》に五十兩借是又同廿日に返し九月節句前にも八十兩借同月|晦日《みそか》に返濟せしが扨《さて》今度は十二月となり年の暮《くれ》なれば誰も金を貸《かさ》ぬ時分なるに此四郎右衞門は如何にも眞實者《しんじつもの》なれば困《こま》ると聞て利も取らず極月《ごくげつ》金百兩|貸《かし》たり斯の如く鰻登《うなぎのぼ》りに借る事三郎兵衞|素《もと》より心に一物あれば此百兩の金を十二月|大晦日《おほつごもり》に持行けるが四郎右衞門其日は殊の外勘定に取込居《とりこみをり》三郎兵衞の來りても碌々《ろく/\》挨拶《あいさつ》もせず帳合《ちやうあひ》を爲居《なしゐ》たりし所へ三郎兵衞右の金百兩を返濟しければ其儘《そのまゝ》硯筥《すゞりばこ》の上に置て下女に申付|酒《さけ》肴《さかな》を出させ三郎兵衞を饗應《もてなし》ながら猶帳合をなし居ける中《うち》邸方《やしきがた》より六《むづ》ヶ|敷《しき》拂《はら》ひ殘りの掛合《かけあひ》などありて四郎右衞門も忙敷《いそがしく》居《ゐ》たり立たりせし紛《まぎ》れに三郎兵衞は掛硯筥《かけすゞりばこ》の上に置たる彼の百兩を竊《そつ》と取て懷中へ入たるを誰も知る者なかりしが其後三郎兵衞は姑《しばら》く話《はなし》をなして歸りける跡《あと》にて四郎右衞門彼の百兩を仕廻《しまは》んとするに見えざれば萬一《もし》忙敷《いそがしき》紛《まぎ》れ外の金子の中へ這入りはせぬかと種々尋ぬると雖も一向知れず大晦日《おほみそか》の事ゆゑ邸方《やしきがた》より二百兩三百兩づつ度々來るに付入帳には付けたれども百兩不足に受取しや合點《がてん》行《ゆか》ずと種々考ふれども帳合|合《あは》ず然るを下女の中にて三郎兵衞を少し疑《うたが》ふ者ありしが夫は證據なき事とて是非なく今年《ことし》の厄落《やくおと》しと斷念《あきら》め帳面を〆切《しめきり》しが是を不幸《けち》の始として只一人の娘に聟《むこ》を撰《えら》み跡《あと》をも繼《つが》せんと思居たりしに其年五月大病にて死亡《みまかり》しにぞ其力落しより間もなく妻も病死なし僅か一年の中に妻子に別れ夫より手代なども引負して掛先の損《たふれ》多く斯程の身代も一|瞬《しゆん》の間に不手廻になり四郎右衞門も大病を煩《わづら》ひ漸く全快はなしたれども足腰《あしこし》弱《よわ》り歩行事《あゆむこと》叶《かな》はず日々身代に苦勞なすと雖|種々《しゆ/″\》物入《ものいり》嵩《かさ》み五年程に地面も賣拂《うりはら》ひ是非なく身上を仕|舞《まひ》て今は麹町加賀屋茂兵衞と云る者の方に掛人《かゝりびと》にぞなりたりける此茂兵衞と云は四郎右衞門に數年《すねん》勤《つと》めし者なりしが資本金《もとできん》を與へ暖簾《のれん》を分《わけ》加賀屋茂兵衞とて同六丁目にて小切類《こぎれるゐ》を商《あきな》ひ居ると雖も元來《もとより》細《ほそ》き身代なれば漸々其日を送るのみ四郎右衞門は此中へ掛り人となる程なれば其零落《そのれいらく》思ひ遣られしなり然るに駿河屋《するがや》三郎兵衞は彼の百兩を取てより其金を資本《もとで》として是より見世の者へ云付|代物《しろもの》に色を付|景物《けいぶつ》に手拭《てぬぐひ》等を添て商《あきな》ひ或は金一分以上の買人《かひて》には袖口《そでくち》か半襟《はんえり》などを負《まけ》て賣《うり》ければ是より人の思ひ付よく追々《おひ/\》繁昌《はんじやう》なすに隨ひ見世をも廣げ手代《てだい》丁稚《でつち》も大勢《おほぜい》抱《かゝ》へ今は一|廉《かど》の身代となり向ふの加賀屋|衰《おとろ》へるに引變《ひきかへ》彌々《いよ/\》繁昌なしけるが加賀屋四郎右衞門は茂兵衞方へ引|取《とら》れし後《ご》其身《そのみ》病勝《やまひがち》の上《うへ》老衰《らうすゐ》して漸々近所を歩行《あるく》位《くらゐ》なれば四郎右衞門|倩々《つく/″\》考《かんが》ふるに斯《かく》爲事《なすこと》もなく茂兵衞方に居れども渠《かれ》も貧窮《ひんきう》の身ゆゑ何卒《なにとぞ》少しにても茂兵衞の資本《もとで》を助け遣り度《たく》と或時駿河屋三郎兵衞方へ到り御亭主《ごていしゆ》へ御目に懸《かゝ》り度《たし》と云を番頭は四郎右衞門が見苦敷《みぐるしき》姿《すがた》を見て古《いにし》へを思へば氣の毒《どく》に心得奧へ通しけるに三郎兵衞は若い者を大いに叱《しか》り四郎右衞門來たらば留守《るす》と云て歸せと申に若い者お宿《やど》に居らるゝ旨申せしかば今更然樣には申されずと云故三郎兵衞|不承々々《ふしよう/″\》に面會なし何用有て來られしやと申ければ四郎右衞門|段々《だん/\》との不仕合《ふしあはせ》を物語《ものがた》り昔《むかし》其許《そのもと》に金子を用立し事も有により昔を忘れ給はずは斯の如く難儀せし間少しの合力《がふりよく》に預《あづか》り度《たく》と詞《ことば》を卑《ひく》ふして頼けるに三郎兵衞は碌々《ろく/\》耳にも入ず合力は一向なり申さず勿論《もちろん》昔《むかし》は借用致したれども夫は殘らず返濟したり然《さ》すれば何も申分有べからずとの返答に四郎右衞門|成程《なるほど》其金は受取たれども仕舞《しまひ》の百兩は大晦日《おほみそか》の事にて帳《ちやう》へは付ながら金は見え申さず不思議の事と思へども最早《もはや》夫《それ》は昔《むかし》の事我等が厄落《やくおと》しと存じ思切て濟《すま》したり夫を申立るには非ず當時茂兵衞が身代|惡《あし》く我等へ扶助《ふぢよ》も難儀の樣子なり其上|斯《かく》病身に相成|手助《てだすけ》もなし難《がた》きにより切《せめ》て聊《いさゝ》かなりとも資本《もとで》[#ルビの「もとで」は底本では「もとど」]を助《たす》け度存ずるに付昔し貸《かし》たる利分と思ひ少々の金を貸給《かしたま》へと云けれども三郎兵衞更に承知せず外の話に紛《まぎら》して取合ざれば四郎右衞門も大いに腹《はら》を立《たて》此《これ》ほど事を譯《わけ》て頼むに恩を知ぬ人非人なりと罵《のゝし》りけるに三郎兵衞大いに怒り人非人とは不禮《ぶれい》千萬と云樣《いひざま》銀煙管《ぎんぎせる》を以て四郎右衞門の頭《かしら》を打《うち》ければ額《ひたひ》より血《ち》流《なが》れけるに四郎右衞門今は堪忍《かんにん》成難《なりがた》しと思へども其身|病勞《やみつかれ》て居るゆゑ何共《なにとも》詮方《せんかた》なく無念を堪へ寥々《すご/\》とこそ歸りけれ [#8字下げ]第二回[#「第二回」は中見出し]  其後《そののち》又《また》湯屋《ゆや》にて出會《であひ》し時《とき》三郎兵衞は四郎右衞門を捕《とら》へ此乞食《このこじき》めと人中《ひとなか》にて散々《さん/″\》罵《のゝし》り恥《はづか》しめければ今は四郎右衞門も腹《はら》に居《すゑ》兼《かね》大いに憤《いきど》ほりけれどもとても腕《うで》づくにては叶《かな》ひ難《がた》しと思ひ其日も堪《こらへ》て歸りしが不※[#「圖」の「回」に代えて「面から一、二画目をとったもの」、127-15]《ふと》心付《こゝろづき》我《わ》が日來《ひごろ》信心《しんじん》なす金毘羅《こんぴら》へ祈誓《きせい》を寵《こめ》呪《のろ》ひ呉《くれ》んと三郎兵衞の人形《ひとがた》を拵《こしら》へ是へ釘《くぎ》を打《うつ》て或夜三郎兵衞が裏口《うらぐち》より忍《しの》び入り居間《ゐま》の縁《えん》の下に埋《うづ》め置是で遺恨《ゐこん》を晴《はら》さんと思ひしは貧苦《ひんく》に迫《せま》りし老人の愚《おろか》なり折節《をりふし》臺所《だいどころ》の男共|小用《こよう》に起《おき》しが裏口《うらぐち》の明てありしを不審《いぶかり》建《たて》んとなす時|迯出《にげいだ》す人あるにより夫《それ》盜人《ぬすびと》[#ルビの「ぬすびと」は底本では「るすびと」]よ出逢々々《であへ/\》と大聲に呼はりけるに大勢|馳來《はせきた》りて見れば加賀屋四郎右衞門なり皆々是は人違《ひとちが》ひ成《なら》んと云に三郎兵衞之を見て否々《いや/\》人違《ひとちが》ひに非ず盜賊は此者に相違なく此程我に無心を云掛《いひか》けしを聞ざる故《ゆゑ》盜《ぬすび》に入しならん直樣《すぐさま》訴《うつた》へ申べしと云を町内の人々來り我等に預《あづ》け給へとて無理に四郎右衞門を連歸《つれかへ》り元《もと》は此所の分限者《ぶんげんしや》なりしを盜賊に落さんも氣の毒に思ひ家主の宅《たく》へ寄合ひ四郎右衞門に譯《わけ》を尋ぬるに前々の始末を殘らず話し又《また》此頃《このごろ》湯屋《ゆや》にて惡口《あくこう》されし事如何にも殘念に存て斯々は爲《なせ》ど盜みに入りしには非ずと申ければ是を聞て皆々《みな/\》三郎兵衞は人に非ずと憎《にく》み四郎右衞門を憫然《あはれ》に思ひて町内申|合《あはせ》無盡《むじん》を取立《とりたて》金子十兩|拵《こし》らへて[#「拵らへて」は底本では「抱らへて」]與へければ大いに悦び茂兵衞も倶々《とも/″\》禮《れい》を云て悦びけり然るに三郎兵衞は四郎右衞門を盜賊に陷《おと》し殺《ころ》さんとせしに皆々に止められしが猶《なほ》所々《しよ/\》を改《あらた》め見るに我が居間《ゐま》の縁《えん》の下より怪き箱《はこ》を探《さが》し出し蓋《ふた》を明《あけ》けるに己《おのれ》を呪《のろ》ふ人形《ひとがた》[#ルビの「ひとがた」は底本では「ひとかた」]なれば大いに怒り夫より呪咀《しゆそ》の始末《しまつ》を書記《かきしる》し町奉行大岡越前守殿へ訴へ出しかば則ち駿河屋三郎兵衞加賀屋四郎右衞門|并《ならび》に茂兵衞《もへゑ》町内の者共一同呼出され吟味《ぎんみ》有しに皆々四郎右衞門が申せし通りを申立ければ大岡殿《おほをかどの》三郎兵衞を呼《よば》れ其方前々四郎右衞門より金子借用せしに相違《さうゐ》なきやと尋問《たづね》られしに三郎兵衞|御意《ぎよい》の如く十ヶ年以前三月|節句前《せつくまへ》に金廿兩五月三十兩七月五十兩九月八十兩十二月百兩借候へども其節々《そのせつ/\》殘《のこ》らず皆濟仕《かいさいつかま》つり其後四郎右衞門|不勝手《ふかつて》に相成私し方へ無心に參り候處ろ取合申さず右を遺恨《ゐこん》に存じ呪咀《しゆそ》致せしに相違《さうゐ》なく何卒《なにとぞ》御吟味《ごぎんみ》願《ねが》ひ奉つると申立ければ大岡殿吟味有しに四郎右衞門|呪咀《しゆそ》致せしに相違なし然《しか》れども末に百兩返濟の時其金見えず既《すで》に其節《そのせつ》三郎兵衞を疑ひし者も御座りしかど證據《しようこ》なき事故|厄落《やくおと》しと心得相濟し候夫を今更《いまさら》申には御座なく候へども貧窮《ひんきう》の餘り無心申せしより斯《かく》の仕合せと申に付大岡殿コリヤ三郎兵衞彼百兩は彌々《いよ/\》|返濟《へんさい》なせし哉《や》暮《くれ》の事に取紛《とりまぎ》れ萬一忘却致したるにはあらずや篤《とく》と考《かんが》へ見よ僞《いつは》り包《つゝ》むに於ては屹度《きつと》糺問《きうもん》致すぞ其方《そのはう》鰻登《うなぎのぼ》りに金を借る程の者なれば油斷《ゆだん》ならざる男なりと言れし時三郎兵衞はギヨツとせし樣子《やうす》を見られしが又四郎右衞門は身代《しんだい》の果程《はてほど》有《あり》て困《こま》つた事をなし不便《ふびん》の至りなり勿論|呪咀《しゆそ》の科《とが》は屹度《きつと》申付るぞ然《され》ど三郎兵衞は其百兩の金《かね》彌々《いよ/\》返濟したるや否《いな》や明白に返答致すべしと有ば三郎兵衞ハツと云のみ何とも返答《へんたふ》なし大岡殿又三郎兵衞に向はれ其方は左右《とかく》物忘《ものわす》れ致すと見えたり忘れし事を思ひ出すには閑靜《しづか》なる所がよきものなり因て見張《みはり》を附《つけ》るにより明《あき》長屋《ながや》へ到《いた》り篤《とく》と考へ見よとて同心に遠見《とほみ》を致させ裏手《うらて》の明《あき》長屋《ながや》へ入られ凡《およ》そ二時《ふたとき》餘《あま》り過て又|白洲《しらす》へ呼出されいまだ考へ出ずば又明日出よ尤も其方の宅《たく》は終日客も入來り騷々《さう/″\》しからんにより日々奉行所へ出《いで》明長屋にて思ひ出す迄《まで》考《かんが》ふべしと申|渡《わた》され一同|下《さげ》られしかば三郎兵衞は我が家に歸り熟々《つく/″\》考《かんがへ》けるに若《もし》返濟《へんさい》せぬならば明日又々明長屋へ入れらるべし如何致したれば宜しからんと困《こま》り居るを家内の者ども皆々《みな/\》三郎兵衞に向ひ是は全く忘《わす》れ居たりとて差出《さしいだ》す方宜しからん只今の身上にて百兩の金は然《さ》のみ難儀にも成るまじと申けるにぞ三郎兵衞も詮方《せんかた》なく翌日《よくじつ》百兩持參して出しに大岡殿如何に三郎兵衞いまだ思ひ出さずや然《しか》らば又々長屋に行て考《かんが》へ見《み》よと申されければ三郎兵衞|否《いな》其金の儀《ぎ》は全く失念《しつねん》致し居りしに相違《さうゐ》是なく候と云により然《され》ば未だ返さぬのかと念《ねん》を押《おさ》れしに三郎兵衞|然樣《さやう》なりと申しける故|彌々《いよ/\》其方四郎右衞門より借用致したるに相違《さうゐ》なくは右百兩の金に十年の利分《りぶん》を算《かぞ》ふれば廿五兩一分の利にして百二十兩となる依《よつ》て元利合せて二百二十兩四郎右衞門へ返《かへ》すべし早速《さつそく》宿元《やどもと》より取寄《とりよす》べしと申渡さる誠《まこと》に理《り》の當然《たうぜん》なれば三郎兵衞は是非なく畏《かしこま》るとは申ものゝ只今《たゞいま》二百二十兩の金子|匇々《なか/\》以て出來《でき》兼《かね》候により何分|御勘辨下《ごかんべんくだ》さるべしと申を大岡殿大いに叱《しか》られ其方二百二十兩出す事難儀なりと申せども其方が借し金を忘却《ばうきやく》せし爲め四郎右衞門如何程か難儀致したらん然れども出來るに於ては只今《たゞいま》百五十兩出すべし是を出《いだ》さずんば牢舍《らうしや》申付んと申されける故是非なく三郎兵衞|家《いへ》より五十兩|取寄《とりよせ》合《あは》せて百五十兩出しければ大岡殿元利百五十兩四郎右衞門に請取《うけとら》せ殘金《ざんきん》七十兩は三十五ヶ|年賦《ねんぷ》に致《いた》し遣《つかは》せ如何に三郎兵衞殘金は毎年金二兩宛四郎右衞門方へ屹度《きつと》渡《わた》すべし右《みぎ》七十兩|相濟《あひすみ》次第《しだい》四郎右衞門は相當の御仕置《おんしおき》仰付《おほせつけ》らるべし町役人共四郎右衞門は殘金|相濟《あひすむ》まで其方共へ預置《あづけおく》なり然樣《さやう》心得よと申渡されしは天晴《あつぱれ》頓智《とんち》の裁許《さいきよ》にして正直を助け惡を懲《こら》さるゝ事|萬事《ばんじ》斯《かく》の如《ごと》しとかや [#ここから2字下げ] 此《この》四郎右衞門は當年《たうねん》六十五歳の老人《らうじん》なり夫を是より三十五年の間《あひだ》殘金《ざんきん》の勘定《かんぢやう》に懸《かゝ》らば是《これ》何歳《なんさい》に至るぞや大岡殿《おほをかどの》の仁心《じんしん》思《おも》ふべし [#ここで字下げ終わり] [#8字下げ]第三回[#「第三回」は中見出し]  茲《こゝ》に上州より太物《ふともの》を商《あきな》ふて毎年《まいねん》江戸へ出《いづ》る商人《あきびと》に井筒屋《ゐづつや》茂兵衞|金屋《かなや》利兵衞と云者あり平生《へいぜい》兄弟の如く親類《しんるゐ》よりも中睦《なかむつま》しかりしが兩人の妻《つま》とも此頃|懷姙《くわいにん》なし居たり或時《あるとき》江戸より歸る道々《みち/\》の咄《はなし》に利兵衞は茂兵衞に向《むか》ひ私《わたし》は今年《ことし》四十になり始めて子と云者《いふもの》を持ちたり貴殿《おまへ》は二十歳ばかりの子息《むすこ》あれば今度《こんど》生《うま》れたりとも私《わた》し程には思ふまじと云に井筒屋《ゐづつや》は首《かうべ》を振《ふり》我《われ》成人《せいじん》の悴《せがれ》は有れども貴殿《おまへ》も知ての通り五年以前|出家《しゆつけ》して諸國《しよこく》へ行脚《あんぎや》に出たれば我が子でも我子に非《あら》ず末《すゑ》の役には立難し夫に付《つけ》一ツの相談《さうだん》あり今兩人の妻《つま》同月の産《さん》なれば生《うま》れし子が男女《なんによ》ならば夫婦《ふうふ》にすべし又|男子《なんし》ばかりか女子ばかりならば兄弟《きやうだい》として成人《せいじん》の後まで一家となすは如何にと云ふに金屋《かなや》も至極《しごく》望《のぞ》む所なりと兩人|未前《みぜん》の約束《やくそく》をなし夫より國許《くにもと》へ歸れば間もなく兩人《りやうにん》の妻|安産《あんざん》なし金屋の方《かた》は女子にて名をお菊《きく》と呼び井筒屋《ゐづつや》の方《かた》は男子にて吉三郎と名付《なづけ》互ひの悦《よろこ》び大方ならず豫《かね》て約束《やくそく》の如く夫婦《ふうふ》にせんと末を約《やく》して各々妻にも其趣《そのおもむ》きを云聞《いひきか》せ是より兩家|別《べつ》して睦《むつま》しく交際《つきあひ》けり然るに兩人の子供《こども》も丈夫《ぢやうぶ》に成長《せいちやう》なす中《うち》疾《はや》吉三郎十三歳と成し時|父《ちゝ》の茂兵衞|大病《たいびやう》を煩《わづら》ひ種々《しゆ/″\》療養《れうやう》を加へけれども驗《しる》しなきゆゑ茂兵衞の枕元《まくらもと》へ金屋利兵衞を始《はじ》め家内|殘《のこ》らず呼集《よびあつ》め我《われ》此度の病氣全快《びやうきぜんくわい》覺束《おぼつか》なし因て江戸の得意《とくい》を利兵衞殿へ預《あづ》け申なり悴《せがれ》吉三郎|成人迄《せいじんまで》何卒我が得意先《とくいさき》を宜敷|御廻《おまは》り下さるべし是のみ心懸《こゝろがか》り故|縁者《えんじや》同樣の貴殿《きでん》なれば此事頼み置なり又《また》妻子《さいし》のことも宜《よろし》くお世話下《せわくだ》されよと遺言《ゆゐごん》なし夫より悴《せがれ》吉三郎に向ひ利兵衞殿|娘《むすめ》お菊は其方《そなた》と胎内《たいない》より云號《いひなづけ》せしに付利兵衞殿を父と思ひ大切《たいせつ》にせよ必《かなら》ず何事も同人の意に背《そむ》く事《こと》勿《なか》れと能々《よく/\》教訓《けうくん》して五十三歳を一|期《ご》となし終《つひ》に空《むな》しくなりしかば是より利兵衞は毎年|江戸《えど》の得意《とくい》井筒屋の分迄《ぶんまで》も一人《ひとり》にて廻りける故|俄《にはか》に商《あきな》ひ多く忽《たちま》ち多分の金子《きんす》を儲《まう》け二人前|稼《かせぎ》けるにぞ五六年の中に餘程《よほど》の金を貯《たくは》へしが後には江戸《えど》へも見世《みせ》を出さんと通《とほ》り油町《あぶらちやう》へ間口《まぐち》十間|奧行《おくゆき》は新道迄《しんだうまで》二十間餘の地を買《かひ》土藏《どざう》もあり立派《りつぱ》なる大身代《おほしんだい》となり番頭《ばんとう》若い者|都合《つがふ》廿餘人に及びける事《こと》偏《ひとへ》に井筒屋茂兵衞が多分の善《よき》得意《とくい》を己《おのれ》が得意と一ツにし一手にて商《あきな》ひせし故なり然るに又|上州《じやうしう》の吉三郎|并《ならび》に母のお稻《いね》兩人は利兵衞が江戸《えど》へ店を出さば早速《さつそく》迎《むか》ひに來る約束なるに三四年立ども一向に沙汰《さた》もなければ餘儀《よぎ》なく吉三郎は人の周旋《せわ》にて小商《こあきな》ひなどして親子《おやこ》漸《やうや》く其日を送《おく》り江戸より迎《むか》ひの來るを今か/\と樂《たのし》み居たれど案《あん》に相違《さうゐ》して其後一|向《かう》手紙《てがみ》も來らず此方《このはう》よりは度々《たび/\》文通《ぶんつう》すれども一度の返事《へんじ》もなきにより今は吉三郎の母のお稻《いね》も大に立腹《りつぷく》し夫《をつと》茂兵衞が[#「茂兵衞が」は底本では「利兵衞が」]臨終《りんじう》に那程迄《あれほどまで》に頼みしを忘《わす》れはせまじ餘り情《なさけ》なき仕方《しかた》なりと利兵衞を恨《うら》みけるが吉三郎は素《もと》より孝心《かうしん》深《ふか》ければ母を慰《なぐさ》め利兵衞殿斯の如く約束《やくそく》を變《へん》じ音信《おとづれ》をせざればとて此方《こなた》に於て如何共|爲《せん》術《すべ》なく樣子も分《わか》らざれば若や病死《びやうし》にても致されしや假令《たとへ》夫にしてもお蔦殿《つたどの》お菊共|約束《やくそく》あり此方《このはう》の得意まで任《まか》せ置し者なれば是非《ぜひ》とも迎《むか》ひは參るべし深く案事《あんじ》られ病氣《びやうき》にても出《いで》ぬやうなし給へと云紛《いひまぎ》らせども母は我が子の窶然《みすぼらし》き形容《なりかたち》を見て憫然《あはれ》に思ひ少《すこし》も早くお菊と娶《めあは》せ昔の井筒屋を取立《とりたて》させ度《たく》神佛《かみほとけ》を祈《いのり》居《ゐ》る中又半年も待けれども音沙汰《おとさた》なければ或時母は吉三郎に申|樣《やう》二人して江戸へ出《いで》先達《せんだつ》てより噂《うはさ》の如く江戸通《えどとほ》り油町なれば尋ね行《ゆ》き利兵衞殿に會《あう》て談判《かけあひ》我々親子を引取《ひきとる》や否や其心底《そのしんてい》を探《さぐ》り若し引取ずんば其時は何を爲《し》てなりとも繁華《はんくわ》の江戸ゆゑ親子二人|渡世《とせい》のならぬ事は有まじ若《もし》運《うん》よく立身《りつしん》いたしなは今の難儀《なんぎ》せし面《おもて》を見返《みかへ》さん何は兎もあれ一先《ひとまづ》江戸へ出べしとて夫より世帶《せたい》を仕舞《しまひ》家財《かざい》を賣《うり》て路銀《ろぎん》となし母子《おやこ》二人江戸へ立出|馬喰町《ばくろちやう》の定宿《ぢやうやど》武藏屋清兵衞方へ宿を取り翌日《よくじつ》吉三郎一人油町へ行《ゆき》て見るに人の噂《うはさ》に違《たが》はず金屋の店《みせ》は立派《りつぱ》なれば勝手より入て私《わたく》しは上州《じやうしう》より參りしが利兵衞樣に御目に懸《かゝ》り度と云入けるに利兵衞是を聞《きゝ》上州より誰《たれ》も來る筈《はず》なし偖《さて》は吉三郎|尋《たづ》ね來りしならん此方《こなた》へ通《とほ》せとて吉三郎に對面《たいめん》し其方は何用《なによう》有《あ》りて來りしやと云に吉三郎は叮寧《ていねい》に挨拶《あいさつ》をなし餘り久々|御疎遠《ごそゑん》なれば御機嫌《ごきげん》も伺《うかゞ》ひ度又此方の御樣子《ごやうす》如何と存じ母を同道して出《いで》馬喰町武藏屋清兵衞方に罷在《まかりあり》候と申けるに利兵衞の心は疾《とく》より變《かは》り持參金《ぢさんきん》のある聟《むこ》を取《とる》所存なれば今吉三郎が來りしを忌々敷《いま/\しく》思ひ何卒して田舍《ゐなか》へ追歸《おひかへ》さんと心に巧《たく》み夫は態々《わざ/\》尋ね來りしかど此方《このはう》に變《かは》る事なければ今|母公《はゝご》に對面《たいめん》するには及ばず早々《さう/\》國へ歸りて母を大切《たいせつ》に致せよと云捨《いひすて》て奧へ行んと爲るを吉三郎最早|堪兼《こらへかね》利兵衞が裾《すそ》を捕《とら》へ何故|然樣《さやう》の事を申され候や此身になりても御無心《ごむしん》に參りしには非ず貴殿《あなた》には我が父より御頼《おたの》み申せしことを忘れ給ひしやと詞《ことば》を放《はな》ちて申けるに利兵衞は何共|返答《へんたふ》なく其儘《そのまゝ》振切《ふりきつ》て奧へ入ければ吉三郎は惘《あき》れ果《はて》て頼切《たのみきつ》たる利兵衞が斯の如くの所存《しよぞん》なれば所詮《しよせん》又《また》逢《あう》たりとも取上べき樣なし我が身一人ならば此處《このところ》にて自殺《じさつ》をも爲べけれども母を連《つれ》て遙々《はる/″\》來《きた》りしなればと燃立《もえたつ》胸《むね》を摩《さす》り何事も勘辨《かんべん》して寥々《すご/\》[#ルビの「すご/\」は底本では「そこ/\」]金屋の家を立出で二三|町《ちやう》來《きた》りけるに跡《あと》より申し/\と呼掛《よびかけ》る者有故|振返《ふりかへ》るに田舍《ゐなか》にて見覺《みおぼ》えあるお竹《たけ》と云し女なり此女は金屋《かなや》井筒屋《ゐづつや》へ出入なす織物屋《おりものや》の娘にて利兵衞が江戸へ店《みせ》を開きし時分お竹は母に別《わか》れ父と倶《とも》に利兵衞方へ尋《たづ》ね來りしを父は番頭となし娘のお竹はお菊と相應《さうおう》の年恰好《としかつかう》なれば腰元《こしもと》にして召仕《めしつか》ひけるが此者子供の時より吉三郎とも心安《こゝろやす》くお菊と云號《いひなづけ》のことも知り居けるにぞ吉三郎が臺所《だいどころ》より來りけるを不※[#「圖」の「回」に代えて「面から一、二画目をとったもの」、132-10]《ふと》見付てお菊に斯《かく》と告《つげ》ければ母お蔦《つた》も聞付《きゝつけ》て呼度《よびたく》思へども利兵衞が得心《とくしん》せざる故|據《よんど》ころなく打捨置《うちすておき》けるを娘《むすめ》お菊は吉三郎に逢度《あひたく》思ひながら父利兵衞に叱《しか》られんことを恐《おそ》れ密《ひそか》に腰元《こしもと》お竹に頼みしかば吉三郎が後《あと》を追駈《おつかけ》來りしなり扨《さて》お竹は吉三郎に對《むか》ひお菊樣が貴郎《あなた》に是非お逢成《あひなさ》れ度との事成ば先々|此方《こなた》へ來り給へと手を取|引戻《ひきもど》すゆゑ吉三郎|偖《さて》は娘の心は變らず我を云號《いひなづけ》と思ひ居る事の嬉敷《うれしく》は思へども利兵衞殿の心底《しんてい》變《かは》りなければお菊に逢《あふ》まじと云をお竹は無理《むり》に吉三郎を連來《つれきた》り今度は新道《しんみち》へ廻り庭口《にはぐち》の切戸を明《あけ》てお菊の部屋へ誘引《いざなひ》しに吉三郎はお菊に向ひ利兵衞殿|昔《むかし》の約束《やくそく》を變じ外に聟《むこ》を取んとの心と見え我を追返《おひかへ》さんと成されしを何故に呼返《よびかへ》し給ふやと云れけばお菊は太息《といき》を吐《つき》夫に付て種々《いろ/\》談話度事《はなしたきこと》あるにより御迎へ申したり今は間合《まあひ》も惡ければ何卒《なにとぞ》翌《あす》の夜此處まで忍び來り給へ緩々《ゆる/\》とお話《はなし》申さんと呉々《くれ/″\》も吉三郎に約束《やくそく》なして歸しける偖《さて》翌日《よくじつ》の夜吉三郎は彼の板塀《いたべい》の處へ來りしに内よりお竹|出迎《いでむか》へて吉三郎が手を把《とり》お菊の部屋へ誘引《いざなひ》たり然るに此お菊は幼年《えうねん》より吉三郎と云號《いひなづけ》と聞居たりしが今年《ことし》十七歳に成《なり》始めて吉三郎を見るに衣裳《なり》は見苦《みぐる》しけれども色白くして人品《ひとがら》能く鄙《ひな》に稀《まれ》なる美男なれば心《こゝろ》嬉敷《うれしく》閨《ねや》に伴《ともな》ひつゝ終に新枕《にひまくら》を交《かは》せし故是より吉三郎もお菊を惡《にく》からず思ひ毎夜《まいよ》此處へ通《かよ》ひお竹が手引にて逢《あは》せしが此隣《このとなり》に兩替屋の伊勢屋三郎兵衞と云者有り或夜|子刻頃《こゝのつどきごろ》に表の戸を叩きて旅僧《たびそう》なるが一夜の宿を貸給《かしたま》へと云ふを番頭《ばんとう》目《め》を覺《さま》し旅人を泊《とめ》る處は是より少々《せう/\》行《ゆけ》ば馬喰町と云處に旅籠屋《はたごや》多くあれば夫へ到りて泊《とま》り給へと挨拶《あいさつ》なすに彼の僧は如何にも苦《くる》し氣《げ》なる聲にて我は腹痛《はらいた》み歩行事《あゆむこと》叶《かな》はず願はくは板縁《いたえん》にても一夜を明させ給へ且《かつ》藥《くすり》も飮《のみ》たく何卒湯一ツ賜れと云ども番頭は盜賊《たうぞく》ならんと疑《うたが》ひて戸を締切《しめきり》一向に答もせざれば僧《そう》は詮方《せんかた》なく此表に大《だい》八|車《ぐるま》のありしを幸ひ其蔭《そのかげ》に風呂敷《ふろしき》を敷て其上に坐《ざ》し頭陀袋《づだぶくろ》より藥《くすり》を取出して飮《のみ》暫時《しばし》其處に休み居ける中段々夜も更行《ふけゆき》四邊《あたり》も寂《しん》としける此時|手拭《てぬぐひ》に深く面《おも》てを包《つゝ》みし男二人伊勢屋の門《かど》に彳《たゝず》み内の樣子を聞居たりしが頓《やが》て一人の男は相手《あひて》の肩に登《のぼ》りて難なく塀《へい》の中へ忍び入り又《また》肩《かた》へ乘たる男は塀《へい》の外に待居けるに程なく忍び入たる男出來りて何か密々《ひそ/\》と囁《さゝや》きしが其の男は西の方をさして立去たり跡《あと》に殘りし男は猶《なほ》内の樣子を窺《うかゞ》ひ居る故|旅僧《たびそう》は見付られなば殺されもやせんと息《いき》を堪《こら》へて車の蔭《かげ》に屈《かゞ》み居る中此方の板塀《いたべい》の戸を開きて金屋の庭先より吉三郎は今宵《こよひ》もお菊の部屋に忍び來り積《つも》る談話《はなし》の中|旅籠屋《はたごや》に永逗留《ながとうりう》して大分入用が嵩《かさ》み其の上母は病氣《びやうき》にて藥の代《しろ》に貯《たくは》へも遣《つか》ひ果したる由|委細《ゐさい》に物語りけるをお菊は甚《いた》く氣の毒に思ひ我故に斯《かく》成行《なりゆき》給ふなれば何卒|見繼《みつぎ》度[#「見繼度」は底本では「要繼度」]思へども親に養《やしな》はるゝ此身なる故《ゆゑ》何事も心に任《まか》せず是は僅なれども私しが手道具《てだうぐ》なれば大事なし賣《うり》てなりとも旅籠《はたご》の入用母御の藥の代《しろ》に爲給《したま》へと鼈甲《べつかふ》の櫛《くし》と琴柱《ことぢ》に花菱《はなびし》の紋付《もんつき》たる後差《うしろざし》二本是は價《あたひ》に構はず調《とゝの》へし品なりとて吉三郎に渡しければ大いに悦び其芳志《そのこゝろざし》を聞《きく》上《うへ》は假令夫婦になられずとも本望なり然《さら》ば此品|暫時《しばらく》借用申すと受納《うけをさ》め立歸らんとするにお菊は涙《なみだ》を浮《うか》め此程より申せし通り父御《ちゝご》は御身を入ず外《ほか》より金を持參の聟《むこ》を取らんと云るゝこと最《いと》心苦《こゝろぐる》しけれど必ず母樣と倶《とも》に父御を宥《なだ》め申べきにより時節を待ちたまへ我が身に於ては外《ほか》に男を持《もつ》心《こゝろ》なしと堅く誓《ちか》ひて別れければ腰元《こしもと》お竹は毎度《いつも》の通り吉三郎を送り開戸《ひらきど》を明て出し遣《や》り跡《あと》を鎖《とざし》ける吉三郎は母の病氣《びやうき》を案事《あんじ》けれどもお菊が情《なさけ》に惹《ひか》されて毎夜々々通ひはなすものゝ何時も泊《とま》る事なく夜更《よふけ》て歸りけるが今夜も最早《もはや》丑刻《やつ》過《すぎ》頃馬喰町へぞ歸りける然るに先刻《さき》より樣子を窺《うかゞ》ひ居たりし彼の曲者《くせもの》今吉三郎が歸り行く體《てい》を見て扨は渠等《かれら》色事《いろごと》ならん究竟《くつきやう》の事なりと彼の開戸《ひらきど》の處へ行《ゆき》外《そと》よりほと/\叩《たゝ》きけるに中にはお竹《たけ》庭に下立《おりたち》何かお忘れ物に候やと小聲《こごゑ》に言《い》ひながら何心なく戸を開くに吉三郎にはあらで一人の男|拔打《ぬきうち》に切掛《きりかけ》しかばお竹はあなやと驚き奧の方へ迯入《にげいり》ながら泥棒《どろぼう》と聲を立てるを半分《はんぶん》言《いは》せず後《うしろ》より只一刀に切殺し此方へ入來《いりきた》るにぞお菊はお竹が聲に驚《おどろ》き迯出《にげいだ》さんとするに間合《まあひ》なければ屏風《びやうぶ》の蔭《かげ》へ隱れ戰慄《ふるへ》居《ゐ》たりし中|曲者《くせもの》は手|近《ぢか》に在しお菊が道具《だうぐ》を見付|手當《てあた》り次第に掻浚《かきさら》ひ元《もと》來《き》し道より出行けりお菊は盜賊《たうぞく》の立去るを見て頓《やが》て家内を起せしかば利兵衞《りへゑ》始め走來りて庭にお竹が殺され居るを見て大いに驚き盜人は何所へ行《ゆき》しやらんと家の隅々《すみ/″\》まで探《さが》しけれども最早《もはや》遁《のが》れ行しと見えて庭《には》の切戸《きりど》の明て有しかば若い者共表へ走り出|其所《そこ》よ此處《ここ》よと尋《たづね》けるに又《また》隣《となり》の伊勢屋三郎兵衞方にても盜賊入たりとて大いに騷《さわぎ》立ち男共大勢立出見るに板塀《いたべい》の上を越《こえ》て迯行《にげゆき》しと見え足跡《あしあと》の付てあれば追駈《おつかけ》よと犇《ひしめ》き合ふに以前《いぜん》の旅僧未だ車の蔭《かげ》に居たりしが此騷《このさわ》ぎを聞我此所に居るならば盜賊《たうぞく》の疑《うたが》ひ掛《かゝ》りて捕《とら》へられんも量《はか》り難《がた》し早く此處《このところ》を立去べしと立上りしを伊勢屋《いせや》の男共は見付|扨《さて》こそ盜人は此坊主ならんと大勢にて難《なん》なく旅僧を捕へたり三郎|兵衞《べゑ》は家内を改め見るに金五百兩|有《あら》ねば金は何所へ隱せしぞと彼の旅僧を種々《いろ/\》詮議《せんぎ》しけれども素《もと》より覺《おぼ》えなき事なれば云ふべき樣なく然れども宵に表を叩き宿を貸呉《かしくれ》よと云ひしは此僧に違《ちが》ひなし爰にて詮議《せんぎ》爲《せ》んよりは奉行所へ訴《うつた》へ可と願書を認め大岡殿《おほをかどの》へ訴《うつた》へ出《いで》たり又隣りの金屋利兵衞方よりも盜賊《たうぞく》入《いり》下女《げぢよ》を殺害《せつがい》に及びし段《だん》訴《うつた》へければ役人來りてお竹が死骸《しがい》を檢査《あらため》是は宅へ迯込《にげこむ》所を後より切《きり》たる者ならん又盜まれし品々は書付を以て訴ゆべしとて役人は歸へけり[#「歸へけり」はママ]此家の番頭はお竹が父親なりしかば大いに悲みお竹の亡骸《なきがら》を取納《とりをさ》めける扨利兵衞は娘《むすめ》お菊《きく》を呼て其方盜賊の面體《めんてい》恰好《かつかう》を見たるやと問ふに娘は勿々《なか/\》怕敷《おそろしく》見《み》る事叶はざれば如何樣の者なるや一|向《かう》覺《おぼ》え申さずと答《こた》ふるにぞ利兵衞|而《して》又《また》お竹は何故《なにゆゑ》夜更に庭へ出たるやと云けるにお菊《きく》は只《たゞ》差俯向《さしうつむい》て詞なし利兵衞は暫時《しばらく》考《かんが》へ此盜人我少し心當りの者あり然れども是と云證據なきゆゑ訴へ出難《いでがた》しとて夫より盜れし娘が手道具《てだうぐ》の中《うち》紛失《ふんじつ》の品々を書付になし大岡殿へ訴へ出でにけり [#8字下げ]第四回[#「第四回」は中見出し]  扨《さて》も吉三郎は彼の菊より貰《もら》ひし櫛と簪《かんざ》しとを持歸り亭主《ていしゆ》に見せ申しけるは是にて藥《くすり》を調《とゝの》へ度存候是は我母《わがはゝ》の若き時に差たる品なりとて頼ければ亭主は氣の毒に思ながら出入の小間物屋與兵衞《こまものやよへゑ》と云者《いふもの》へ彼二品を見せ亭主《ていしゆ》保證人《うけにん》になりて是を二|兩《りやう》二|分《ぶ》に賣渡しければ吉《きち》三郎大いに悦《よろこ》び是にて藥など調《とゝの》へ醫師をも替《かへ》て其身も側《そば》を放れず看病《かんびやう》怠《おこた》りなかりける扨《さて》又《また》此與兵衞《このよへゑ》は平生《へいぜい》金屋《かなや》へも心易く出入なすにより彼の吉三郎より調《とゝの》へたる二品を持行《もちゆき》見《み》せければ利兵衞の妻は見覺えのあるお菊《きく》が簪《かんざ》しなる故《ゆゑ》大《おほい》に驚《おどろ》き夫利兵衞に斯《かく》と告《つ》げしに利兵衞も是を見て此品は一昨夜我等方へ盜賊《たうぞく》忍《しのび》入《いつ》て盜《ぬす》まれし娘が簪《かんざ》しなり如何して手に入しやと問ければ與兵衞大に肝を潰し彼旅籠屋の客人《きやくじん》より買《かひ》たりと答ふるに利兵衞|礑《はた》と横手《よこて》を打我が推察《すゐさつ》に違ず此盜賊は吉三郎なり其譯《そのわけ》は先達《さきだつ》て我が方へ尋《たづ》ね來りし時我樣子を見るに如何にも見苦敷《みぐるしき》體《てい》にて店の者へ對し我も恥入處《はぢいるところ》なり斯《かく》働《はたら》きのなき者は聟《むこ》に爲難《しがた》しと思ひ未《いま》だ約束の驗《しるし》を取交《とりかは》さぬを幸《さいは》ひ強面《つれなく》して彼が心《こゝろ》を勵《はげま》したるに夫《それ》を憤《いきど》ほり我が家へ忍《しの》び入て種々《しゆ/″\》盜《ぬす》み迯《にげ》んと爲《する》折《をり》お竹に見付《みつけ》られし故殺したる成《なら》ん疾《とく》より然《さ》は思ひけれども是ぞと云ふ見定《みさだ》めたる事|無《なけ》れば今迄《いままで》控《ひかへ》たり最早證據あれば渠《かれ》が天命《てんめい》遁《のが》れぬ處なるにより早速《さつそく》願書《ぐわんしよ》を認《したゝ》[#ルビの「したゝ」は底本では「したゞ」]め吉三郎盜賊人殺しに相違《さうゐ》なき旨《むね》訴《うつた》へんとて番頭へも其趣《そのおもぶ》き申|聞《きけ》ければ妻のお蔦《つた》は夫《をつと》を諫《いさ》め吉三郎は勿々《なか/\》然樣《さやう》の事を致すべき者に非《あら》ず是には何か譯《わけ》の有べき事なり若《もし》吉三郎盜みしにもせよ娘《むすめ》菊《きく》が云號《いひなづけ》なれば此方の聟《むこ》なり是を訴へんは此方《こなた》の恥《はぢ》ならずや枉《まげ》て容し給へと述《のべ》けるを利兵衞少しも聞き入ず何を汝《おのれ》が知《し》るべきやと叱《しか》り付《つけ》直樣奉行所へ訴へけり是は利兵衞が内心《ないしん》には幸ひ吉三郎を科に落し外より持參金《ぢさんきん》澤山《たくさん》ある聟《むこ》を取る存意《ぞんい》なりしとぞ大岡殿金屋利兵衞が願書《ぐわんしよ》を一|覽《らん》有《あつ》て則《すなは》ち吉三郎を召捕べしと役人へ申付られけり却て説《とく》彼《か》の吉三郎は母の病《やま》ひ二三日|別《べつ》して樣子|惡《あし》ければ側《そば》を放《はな》れず附添《つきそひ》種々《しゆ/″\》心配《しんぱい》なして勞はり居しが母は暫時《しばし》睡眠《まどろみ》し[#「睡眠し」は底本では「睡眼し」]中醫師の方へ藥《くすり》を取に行んと立出る所を役人兩三人上意と聲《こゑ》掛《かけ》縛《いまし》められしかば何故斯る憂目《うきめ》に逢事《あふこと》やら合點行ず素《もと》より惡事の覺《おぼ》えなきゆゑ我が身に於て辯解《まをしわけ》は立《た》つべけれども我《われ》居《をら》ざれば母の看病《かんびやう》を誰《たれ》も爲る者《もの》有《あ》るまじと思ひ頻《しきり》に悲《かな》しく心は後へ引《ひか》れながら既に奉行所《ぶぎやうしよ》へ來り白洲《しらす》へ引居《ひきすゑ》られたり此日伊勢屋三郎兵衞方にては彼旅僧を連て訴へしが番頭は進み出私しは油町伊勢屋三郎兵衞名代喜兵衞と申|者《もの》に御座《ござ》候|主人《しゆじん》店先《みせさき》へ一昨夜九ツ時《どき》過《すぎ》此法師《このほふし》來り戸を叩きて一夜の宿を貸呉《かしくれ》候|樣《やう》申に付|旅籠屋《はたごや》に非《あら》ずと斷《ことわ》りし處《ところ》其後は音も仕《つかま》つらず候故何方へか參りしやと存じ休《やす》み候に夜《よ》丑刻《やつどき》過頃《すぎごろ》忍《しの》び入金子五百兩盜み迯出《にげいづ》る時家内の者目を覺《さま》し追駈《おつかけ》候へども此僧足早に迯去《にげさ》り候を漸々《やう/\》捕押《とりおさ》へ申候|依《よつ》て御吟味《ごぎんみ》を願《ねが》ひ奉つり候と願書《ぐわんしよ》を差出したり此時《このとき》大岡殿先吉三郎に向はれ如何に其方《そのはう》[#ルビの「そのはう」は底本では「このはう」]上州《じやうしう》より遙々《はる/″\》來《きた》りて利兵衞方へ忍《しの》び入《い》り盜賊《たうぞく》をなし其上腰元竹を殺したる事大膽不敵の擧動《ふるまひ》なり伊勢屋方より訴《うつた》へたる旅僧も同夜の事なれば是は汝《なんぢ》が同類《どうるゐ》成《なる》べし殊更《ことさら》其方《そのほう》は金屋にて盜みし櫛を小間物屋與兵衞《こまものやよへゑ》に賣《うり》たる由《よし》渠《かれ》金屋《かなや》へ持行しより此事顯れ則ち利兵衞與兵衞兩人|訴《うつたへ》たり斯《かゝ》る確《たしか》なる證據《しようこ》有《ある》上《うへ》は少しも包む事なく白状《はくじやう》致《いた》せと申《まをさ》れければ吉三郎思ひも寄《よら》ぬ事の糺問《たゞし》に惘《あき》れ果《はて》けるが屹度《きつと》思案《しあん》するに是《これ》必《かなら》ずものゝ間違《まちが》ひならんと謹《つゝし》んで首《かうべ》を上《あげ》私し事は上州より毎年《まいねん》江戸へ太物商賣《ふとものしやうばい》に參《まゐ》る井筒屋茂兵衞《ゐづつやもへゑ》の悴《せがれ》吉《きち》三郎と申者にて候是なる利兵衞は私し親《おや》茂兵衞《もへゑ》と兄弟《きやうだい》同樣《どうやう》に交《まじは》り其上利兵衞の娘菊事私し胎内《たいない》よりの云號《いひなづけ》なり然るに私し十二歳の際《とき》父茂兵衞病氣に付|枕元《まくらもと》へ利兵衞を呼江戸の得意《とくい》を殘《のこ》らず預け私し成人《せいじん》の後娘に娶《めあは》せんとの遺言《ゆゐごん》を利兵衞も承知《しようち》に付父茂兵衞は安心《あんしん》いたし頓《やが》て相果《あひはて》申候夫より利兵衞は江戸へ出《いで》店《みせ》をも開し由四五年を過《すご》し候へ共《ども》一|向《かう》音信なく因《よつ》て母と相談《さうだん》の上《うへ》世帶《せたい》を仕舞江戸へ出でて利兵衞を相尋《あひたづ》ね先々の話《はなし》致《いた》しける處に何時か心變《こゝろがは》り致《いた》し居《をり》以前《いぜん》の約束を違《ちがへ》て私し母子を寄付申さず母は其不實を怒ると雖|詮方《せんかた》なく頼み切たる利兵衞《りへゑ》斯《かく》の如き心底《しんてい》なれば當惑《たうわく》致《いた》したれども斯《かく》繁昌《はんじやう》の御當地に付如何樣にも口過《くちすぎ》は相成《あひなり》申べくと存《ぞん》じ其後《そのご》は一|度《ど》も相尋《あひたづ》ね申さず扨《さ》て彼《か》の櫛簪《くしかんざし》の儀《ぎ》は利兵衞娘菊より内々《ない/\》貰《もら》ひ母《はゝ》の病氣にて貯《たくは》へ盡《つき》候故|與兵衞《よへゑ》に賣て母の病氣|救《すく》ひ候なり決《けつ》して盜《ぬすみ》しには候はず何卒《なにとぞ》此段《このだん》御賢察下《ごけんさつくだ》され御免を蒙《かうぶ》り母の看病仕《かんびやうつかま》つり度《たし》と涙ながらに申けるを大岡殿聞れ汝が申|條《でう》道理《もつとも》には聞ゆれ共《ども》又《また》胡亂《うろん》なる處あり其《そ》の譯《わけ》は其方《そのはう》遙々《はる/″\》利兵衞を頼《たの》みに思ひて來りしに渠《かれ》約束《やくそく》を變じ寄《よせ》つけねば其後一度も行《ゆか》ずと申一|度《ど》も行《ゆか》ぬ者が如何《いかゞ》して娘菊に逢《あ》ひ彼《か》の品《しな》を貰《もら》ひしやと尋問《たづね》られしかば吉三郎はつと當惑《たうわく》の體にて密通《みつつう》致《いた》し貰《もら》ひしとは大勢の中|故《ゆゑ》云兼《いひかね》只《たゞ》差俯向《さしうつむい》て詞《ことば》なし大岡殿|重《かさ》ねて此《この》二品の出處《でどころ》知《し》れざれば盜賊の名《な》遁《のが》れ難《がた》し其方|竊《ひそか》に通じて娘に貰《もら》ひしやと正鵠《ほし》をさゝれしにぞ吉《きち》三郎は彌々《いよ/\》顏《かほ》を赤うして差俯向《さしうつむき》居《ゐ》たり大岡殿《おほをかどの》大概《おほよそ》是《これ》を悟《さと》られ夫《それ》より彼の旅僧《たびそう》に對《むか》はれ其方《そのはう》出家《しゆつけ》の身として盜みせし段《だん》大膽《たいたん》なり早々白状せよと申されければ旅僧は吉三郎が吟味中《ぎんみちう》頻《しき》りと首を傾《かたむ》け居たりしが今《いま》問《とは》るゝに隨《したが》ひ私《わたく》し事《こと》上州《じやうしう》の産《さん》にて名《な》を雲源《うんげん》と申十五|歳《さい》の時《とき》出家仕《しゆつけつかま》つり候へども幼少《えうせう》より盜《ぬす》み心《こゝろ》あり成人《せいじん》なすに付《つけ》尚々《なほ/\》相募《あひつの》り既《すで》に一|昨夜《さくや》伊勢屋《いせや》へ忍《しの》び入《いり》て金五百兩|盜《ぬす》み取其隣の金屋《かなや》とやらんへも忍入《しのびいつ》て盜《ぬす》み致《いた》し出る處を女に見付られ據ころなく切捨申候然れば天命《てんめい》遁《のが》れず斯《かく》繩目《なはめ》に及ぶ事《こと》素《もと》より覺悟なり然るに|那《あれ》なる若者を盜賊《たうぞく》なりと疑《うたが》ひ掛り候|由《よし》何共見兼申候私し委細《ゐさい》白状仕つりし上は科《とが》なき若者を御助け下され母《はゝ》の看病《かんびやう》致《いた》させ度候と臆《おく》したる形容《けしき》もなく申立れば是を聞れ其方が申|處《ところ》不分明《ふぶんみやう》なり伊勢屋方にて五百|兩《りやう》盜《ぬす》み又金屋へも入りて|種々《しゆ/\》盜《ぬす》み女を殺したりと白状《はくじやう》致《いた》せども盜《ぬす》みたる金も見えず又女を殺したる刄物《はもの》もなしと有《あ》るに旅僧頭を上げ其|節《せつ》盜《ぬす》みし金子《きんす》も刄物《はもの》も迯《にげ》候|節《せつ》取落《とりおと》し身一つになり候處を捕へられ候と申せば大岡殿《おほをかどの》伊勢屋《いせや》の番頭に對《むか》はれ此者を捕ゆる時何ぞ所持《しよぢ》の品《しな》はなきかと尋《たづ》ねられ番頭喜兵衞|外《ほか》には何も候はず只《たゞ》網代笠《あじろがさ》一|蓋《がい》と頭陀袋《づだぶくろ》一つ之ありしと申に大岡殿其|頭陀袋《づだぶくろ》[#ルビの「づだぶくろ」は底本では「づたぶくろ」]是へと申されるにより差出《さしいだ》しければ中を檢査《あらため》て書付など讀《よま》れ何か心に合點《うなづき》仔細《しさい》有《あれ》ば追々《おひ/\》吟味《ぎんみ》に及ぶとて一同下られ小間物屋《こまものや》は町内《ちやうない》預《あづ》け吉三郎旅僧は入牢申付られけり偖《さて》翌日《よくじつ》大岡殿吉三郎を呼出し其の方|彌々《いよ/\》菊と密通《みつつう》致《いた》して櫛《くし》簪《かんざし》を貰《もら》ひしや恥《はづか》しとて隱《かく》すべからずと懇切《ねんごろ》に尋《たづ》ねられければ吉三郎|赤面《せきめん》しながら仰《おほせ》の如く相違《さうゐ》之《これ》なく候|猶《なほ》又《また》菊を御呼出しの上《うへ》御尋《おんたづ》ね下さるべしと申に大岡殿|頓《やが》て同心を馬喰町|旅籠屋清兵衞方《はたごやせいべゑかた》へ遣《つか》はされ吉三郎が母を隨分《ずゐぶん》[#ルビの「ずゐぶん」は底本では「すゐぶん」]勞《いたは》り申すべし一兩日中には吉三郎を無事に返し遣《つかは》さん夫迄《それまで》は能々《よく/\》看病《かんびやう》を大切《たいせつ》に取扱《とりあつ》かふべしと申|付《つけ》られ其後《そののち》差紙《さしがみ》にて金屋利兵衞《かなやりへゑ》娘《むすめ》菊《きく》伊勢屋《いせや》三郎兵衞小|間物屋《まものや》與兵衞《よへゑ》旅籠屋|清兵衞《せいべゑ》雲源等《うんげんとう》殘《のこ》らず呼出されしにお菊は贈《おく》りし二|品《しな》故《ゆゑ》に無實《むじつ》の罪《つみ》にて吉三郎|牢舍《らうしや》と聞あるにも在《あら》れず歎《なげ》き悲《かな》しむと雖《いへど》も此事云にも云れず然とて云ねば吉三郎が身の上を思《おも》ひ竊《ひそか》に母《はゝ》へ委敷事《くはしきこと》を語りければ母《はゝ》も驚《おどろ》き今度の御呼出《およびだ》しは吉三郎と對決《たいけつ》させんとの事|成《なる》べければ種々《いろ/\》御尋《おんたづね》有《ある》ならんが其時《そのとき》委細《ゐさい》を申さば父の越度《をちど》となり又《また》云《いは》ずば吉三郎は殺さるべし兩方|全《まつた》きやうには何事も行《ゆか》ざれども能々《よく/\》考《かんが》へて心《こゝろ》靜《しづ》かに双方《さうはう》無事に成《なる》やうの御答《おこたへ》を申べしと云ばお菊《きく》も得心《とくしん》して出たりけり扨《さて》大岡殿《おほをかどの》利兵衞に對《むか》ひ如何に利兵衞|其方《そのはう》櫛《くし》簪《かんざし》を證據《しようこ》として與兵衞|供々《とも/″\》吉三郎を盜賊《たうぞく》人殺《ひとごろ》しなりと訴《うつた》へけれども吉三郎事は豫《かね》て其方|娘《むすめ》菊《きく》と密通《みつつう》致《いた》し居《をり》娘《むすめ》より貰《もら》ひて與兵衞《よへゑ》に賣《うり》たりと云故|其段《そのだん》明白に吟味《ぎんみ》せん爲《ため》娘《むすめ》を呼出したり其方《そのはう》此事を知らざるやと申されければ利兵衞|答《こたへ》て夫は跡形《あとかた》もなき僞《いつは》りにて是全く罪《つみ》を遁《のが》れん爲吉三郎が拵《こしら》へ事にて候如何に菊吉三郎と密通《みつつう》致《いたし》候|覺《おぼ》えなきならば其通《そのとほ》り早く申上よと急立《せきたち》けるにお菊は生れしより始《はじ》めて奉行所《ぶぎやうしよ》へ呼出され大勢の中にて吉三郎が縛《いまし》められ窶《やつれ》たるを見て涙を浮《うか》めしが大岡殿《おほをかどの》是を御覽《ごらん》じ大概《おほよそ》察《さつ》しられ如何《いか》に菊《きく》此越前守《このゑちぜんのかみ》媒酌《なかうど》となり頓《やが》て吉三郎に添《そは》せ遣《つか》はすべし隨分《ずゐぶん》安堵《あんど》して居《ゐ》よと和《やは》らかに言れければ吉三郎も傍《そば》よりお菊殿《きくどの》何故《なにゆゑ》に明白に云給《いひたまは》[#ルビの「いひたまは」は底本では「いひたま」]ぬ御身《おんみ》まで匿《かく》されては我等《われら》何時《いつ》か御免《おゆるし》を請《うけ》んや其中は母の看病《かんびやう》藥《くすり》何呉《なにくれ》と定《さだ》めて不自由《ふじいう》成《なら》んと此事のみ心に懸《かゝ》り牢舍《らうしや》したる我心を少しは汲譯《くみわけ》早《はや》く現在《ありのまゝ》に申上て此苦《このくるし》みを助《たす》けられよと申を聞お菊《きく》は尚々《なほ/\》悲《かな》しく白地《あからさま》に云んと思へども母の教《をしへ》の通り父の科《とが》を訴《うつた》へるも同前云ねば吉三郎は殺されんと心を千々《ちゞ》に傷《いた》め居《ゐ》る體《てい》を大岡殿|敏《はや》くも察《さつ》しられ其方《そのはう》は吉三郎を牢舍《らうしや》さするや父《ちゝ》利兵衞を牢舍《らうしや》さするやと尋ねられければお菊は何卒《なにとぞ》父利兵衞吉三郎ともに御免《おんゆる》し下され其代りに私しを牢《らう》へ御入下《おんいれくだ》さるゝ樣《やう》にと涙ながらに申立るを聞れ大岡殿《おほをかどの》大に感じられ是《これ》にて何もかも相分《あひわか》りたり決して吉三郎は盜賊《たうぞく》に非《あら》ず追付《おつつけ》免《ゆる》して其方と夫婦《ふうふ》に致《いた》し遣《つかは》すべしと申され扨《さて》又《また》利兵衞を呼ばれ其方《そのはう》以前の約束《やくそく》を變《へん》じ茂兵衞《もへゑ》悴《せがれ》吉三郎を追返《おひかへ》し不實の上《うへ》科《とが》なき者を盜賊人殺と麁忽《そこつ》の訴《うつた》へをなす事《こと》甚《はなは》だ以て不屆《ふとゞき》なり屹度《きつと》曲事《きよくじ》に申付べき所なれども娘菊が孝貞《かうてい》に免じ汝が越度《をちど》を差免《さしゆる》すなり落着《らくぢやく》の後は娘菊を吉三郎に娶《めあは》せ其身は隱居《いんきよ》致《いた》すべし然れども二|人《にん》の盜賊《たうぞく》未《いま》だ知《し》れず因《よつ》て盜賊《たうぞく》の知《しれ》る迄《まで》は控《ひかへ》居《ゐ》よと申渡され偖《さて》又《また》小間物屋は町内預《ちやうないあづ》け伊勢屋も呼出す迄《まで》控《ひかへ》申べし吉三郎は當時《たうじ》旅籠屋へ預《あづ》け町内の者氣を付母の看病致させよ又諸入用は金屋利兵衞《かなやりへゑ》必《かなら》ず是《これ》を送《おく》るべし且《かつ》旅籠屋清兵衞《はたごやせいべゑ》は入用《にふよう》何程《なにほど》懸《かゝ》りても金屋利兵衞方《かなやりへゑかた》より請取《うけとら》れ又利兵衞|儀《ぎ》は吉三郎の母は病中の事ゆゑ夜具《やぐ》布團《ふとん》其外に心付け食事等《しよくじとう》宜敷《よろしく》見繼《みつぐ》べし此段《このだん》屹度《きつと》申付たるぞ若《もし》麁末《そまつ》成事《なること》も有《あら》ば曲事《きよくじ》たるべしと申|渡《わた》され皆々下られけり偖《さて》旅僧《たびそう》一人を殘《のこ》し置《おき》一同下りし後《のち》其方《そのはう》何故《なにゆゑ》僞《いつは》りを申すやと有しかば雲源《うんげん》全《まつた》く僞《いつは》りは申上ず私し盜賊《たうぞく》に紛《まぎ》れ之なく候|御仕置《おしおき》仰付《おほせつけ》らるべしと云に大岡殿《おほをかどの》否《いや》彼の吉三郎は其方と兄弟に非《あら》ずや人相《にんさう》恰好《かつかう》音聲《おんせい》までもよく似たり汝《なんぢ》弟《おとゝ》を救《すく》はん爲に故意《わざ》と罪《つみ》に陷《おちい》りしならん何ぞ是を知らずして殺さんや其方は井筒屋茂兵衞《ゐづつやもへゑ》が惣領《そうりやう》ならんと申されければ雲源《うんげん》驚《おどろ》き感じ今は何をか包申べき御賢察《ごけんさつ》の通り茂兵衞《もへゑ》が悴《せがれ》なれども十五|歳《さい》の時《とき》仔細《しさい》有《あり》て出家|仕《つかま》つり諸國修行《しよこくしゆぎやう》の身に御座《ござ》候|其後《そののち》弟《おとゝ》出生《しゆつしやう》の事《こと》仄《ほのか》に承《うけた》まはりし儘《まゝ》此程國許へ參《まゐ》り尋《たづ》ね候所|弟《おとゝ》吉《きち》三郎金屋利兵衞方に譯《わけ》有《あ》りて國許を立出《たちいで》江戸へ參り候由に付|後《あと》追來《おひきた》り何卒《なにとぞ》今《いま》一|度《ど》母や弟に對面《たいめん》致《いた》し度《たく》江戸中を探《さが》し歩行《あるき》し中《うち》斯《かく》の仕合《しあはせ》故《ゆゑ》弟《おとゝ》が無實の罪《つみ》に陷《おちい》る事の悼《いたは》しく殊更《ことさら》母《はゝ》は旅籠屋にて病氣の由|承《うけたま》はりしにより何卒《なにとぞ》弟《おとゝ》を助け母に孝行《かうかう》を盡《つく》させ度《たく》私《わたく》しは出家《しゆつけ》遁世《とんせい》の身《み》故《ゆゑ》母や弟を助《たす》け候事なれば身命《しんめい》を捨《すて》候ても救《すく》はんと存《ぞん》じ其盜賊なりと申|僞《いつは》り候其夜全くの盜賊は迯去《にげさり》たり其譯《そのわけ》は私事|母《はゝ》や弟を尋《たづね》んと所々方々を歩行《あるき》し中《うち》先夜《せんや》伊勢屋の前へ參《まゐ》り懸《かゝり》し時|腹痛《ふくつう》にて難儀仕《なんぎつかま》つり夜更なれども詮方《せんかた》なく伊勢屋の戸を叩《たゝ》き湯を貰《もら》はんと存《ぞん》じ候處一|向《かう》に戸を明申さず是非《ぜひ》に其の所に車の御座《ござ》候|蔭《かげ》に姑《しばら》く相休《あひやす》み居《をり》候處夜も丑刻頃《やつどきごろ》兩人《りやうにん》の曲者來り一人は伊勢屋《いせや》の家に忍び入り暫時《しばらく》過《すぎ》て出けるが外に待居《まちゐ》たる者と何か囁《さゝや》き其の者は西の方へ馳行《はせゆき》殘《のこ》りし一人は其後《そのご》金屋の切戸《きりど》より人の出行し跡《あと》へ這入《はひり》しに女の叫《さけ》ぶ聲《こゑ》してほどなく彼の男何やら風呂敷《ふろしき》に包みたるを背負《せおひ》て立出是も西の方へ行しが頓《やが》て伊勢屋の家内《かない》騷《さわ》ぎ立し故《ゆゑ》私し此處《こゝ》に居《を》らば盜賊の連累《まきぞへ》に成んと是を怕《おそ》れて迯出せし機《をり》斯《かく》は捕《とら》はれて候なりと申せしかば大岡殿是を聞れ然《しか》らば必定《かならず》外《ほか》に盜賊《たうぞく》あるべきにより早々《さう/\》詮鑿《せんさく》すべし窮屈《きうくつ》ながら今少し辛抱《しんばう》せよと勞《いたは》られ又々|牢屋《らうや》へ下げられけり [#8字下げ]第五回[#「第五回」は中見出し]  茲《こゝ》に新材木町なる白子屋《しろこや》庄《しやう》三郎一家の騷動《さうどう》を委曲《くはしく》尋《たづ》ぬるに享保《きやうほ》の始めの事なりしが此《この》白子屋の地面間口十二間奧行は新道《しんみち》の方へ廿五間|即《すなは》ち券面《けんめん》千三百兩の地を一|軒《けん》にて住居《ぢうきよ》なし此近邊《このきんぺん》の大身代《おほしんだい》なり主は入聟《いりむこ》にて庄《しやう》三郎と云|今年《ことし》六十|歳《さい》妻《つま》は此家の娘《むすめ》にて名をお常《つね》と呼《よ》び四十|歳《さい》なれども生得《しやうとく》派手《はで》なる事を好《この》み甚《はなは》だ婬婦《いんぷ》なりしが娘お熊《くま》は容顏《きりやう》衆人《しうじん》に勝《すぐ》れて美麗《うつくし》く見る者《もの》心《こゝろ》を動《うごか》さぬものなく二八の春秋《はるあき》も過《すぎ》て年頃に及びければ引手《ひくて》數多《あまた》の身なれども我下紐《わがしたひも》は許《ゆる》さじと清少納言《せいせうなごん》の教《をし》へも今は伊達《だて》なる母を見慣《みなら》ひて平生《へいぜい》はすはに育《そだち》しは其の父母の教訓《をしへ》の至《いた》らざる所なり取譯《とりわけ》母《はゝ》は心《こゝろ》邪《よこし》まにて欲深《よくふか》く亭主庄三郎は商賣《しやうばい》の道は知りても世事《せじ》に疎《うと》く世帶《せたい》は妻に任《まか》せ置《おく》ゆゑ妻は好事《よきこと》にして夫《をつと》を尻《しり》に敷《し》き身上|向《むき》を己が儘《まゝ》に掻𢌞《かきまは》し我儘《わがまゝ》氣儘《きまゝ》に振舞《ふるまひ》居《ゐ》たりしが何時しか町内廻りの髮結《かみゆひ》清三郎と密通《みつつう》をなし内外《うちそと》の目を忍びて物見遊山に浪費《ついえ》を厭《いと》はず出歩行《であるく》のみか娘《むすめ》お熊《くま》にも衣類《いるゐ》の流行物|櫛笄《くしかうがひ》贅澤《ぜいたく》づくめに着餝《きかざ》らせ上野《うへの》淺草《あさくさ》隅田《すみだ》の花《はな》兩國川《りやうこくがは》の夕涼《ゆふすゞ》み或は芝居《しばゐ》の替《かは》り目《め》と上なき奢《おごり》をなしければ心《こゝろ》有《ある》人《ひと》は皆《みな》爪彈《つまはじ》きして笑《わら》ふ者多く此妻の渾名《あだな》一ツ印籠《いんろう》のお常《つね》と云て世間《せけん》に誰知らぬ者も無りしとかや然《さ》れば女の子は父親《ちゝおや》より母の教方《をしへかた》にて志操《みさを》も美《うつく》しかるべきに斯《かゝ》る母《はゝ》故《ゆゑ》幼少《えうせう》より育《そだ》ちも卑《いや》しく風俗《ふうぞく》は芝居《しばゐ》の俳優《やくしや》を見る如く淨瑠璃《じやうるり》三絃《さみせん》の外は正敷事《たゞしきこと》を一ツも教《をし》へず殊《こと》に女の爲べき裁縫《たちぬひ》の道は少しも知《し》らず自然《しぜん》とうは/\しき事《こと》にのみ心を傾《かたむ》けしこと淺猿《あさまし》けれ茲《こゝ》に白子屋の商賣《しやうばい》に係《かゝ》りて庄《しやう》三郎が名代をも勤め此家の番頭《ばんとう》と呼《よば》れたる忠《ちう》八と云者|何時《いつ》の程にかお熊と人知《ひとし》らぬ中となりけるが母のお常は是を知ると雖も其身も密夫《みつぷ》有《ある》故《ゆゑ》に渠《かれ》を制《せい》する事出來ず却《かへつ》て取持しは人外と謂《いひ》つべし是より家内の男女《なんによ》色欲《しきよく》に耽《ふけ》りお常《つね》は何時も本夫《をつと》庄《しやう》三郎には少しの小遣《こづか》ひを與《あて》がひて遊《あそ》びに追遣《おひや》り跡《あと》には娘お熊《くま》番頭《ばんとう》忠《ちう》八|髮結《かみゆひ》清《せい》三郎ともに[#「髮結清三郎ともに」は底本では「結髮清三郎ともに」]入込《いりこみ》下女のお久《ひさ》お菊もお常《つね》に仕込《しこま》れ日毎に酒宴《しゆえん》の相手《あひて》をなし居《ゐ》たりしが或日お常《つね》は金《きん》二|分《ぶ》出して下男《げなん》に云付《いひつけ》酒《さけ》肴《さかな》を取寄《とりよせ》芝居者《しばゐもの》淨瑠璃語《じやうるりかた》り三絃彈《さみせんひき》など入込《いりこま》せ皆々《みな/\》得意《とくい》の藝を顯《あらは》し戯《たはぶ》れ興《きよう》じけり茲に又《また》杉森《すぎのもり》の新道《しんみち》孫右衞門店《まごゑもんたな》に横山玄柳《よこやまげんりう》と云《いふ》按摩《あんま》あり是は別《わけ》て白子屋へ入浸《いりひた》り何樣《なにさま》白子屋一|軒《けん》を定得意《ぢやうとくい》となし居る身の上なればお常《つね》は勿論《もちろん》忠《ちう》八が云事にても背《そむ》く事なく主人の如くに仕《つか》へ毎日《まいにち》お常《つね》の肩《かた》など揉《もみ》て機嫌《きげん》をとり居《ゐ》たり斯《かく》日々《ひゞ》奢《おご》りに長《ちやう》じければさしもの身代《しんたい》漸々《やう/\》に衰《おとろ》へ享保《きやうほ》八|年《ねん》十月|夷子講《えびすかう》前《まへ》には金《きん》二百|兩《りやう》不足《ふそく》に付《つき》妻《つま》のお常《つね》は番頭《ばんとう》忠《ちう》八と申|合《あは》せ亭主|庄《しやう》三郎に斯《かく》と申ける故|庄《しやう》三郎|甚《はなは》だ困《こま》り入《いる》と雖も親類《しんるゐ》一家は素《もと》より妻《つま》が奢《おご》りを見るに付《つけ》誰《たれ》あつて用立《ようたつ》物《もの》なきにより庄《しやう》三郎|日頃《ひごろ》懇意《こんい》なる加賀屋長兵衞方《かがやちやうべゑかた》へ[#「加賀屋長兵衞方《かがやちやうべゑかた》へ」は底本では「加賀屋兵衞方《かがちやうべゑかた》へ」]行《ゆき》右《みぎ》の概略《あらまし》を話《はな》しければ長兵衞は氣の毒《どく》に思ひ材木屋《ざいもくや》仲間《なかま》の中《うち》山形屋《やまがたや》箱根屋《はこねや》[#ルビの「はこねや」は底本では「はこつや」]加賀屋《かがや》其外十人の者を頼《たの》みて無盡《むじん》を取立一人前|掛金《かけきん》二十|兩《りやう》づつとなし尤《もつと》も長兵衞|世話人《せわにん》故《ゆゑ》庄《しやう》三郎の分《ぶん》まで都合《つがふ》四十|兩《りやう》出《いだ》し二百|兩《りやう》集《あつ》めて庄《しやう》三郎に渡《わた》し集《あつま》りし人々をも厚《あつ》く饗應《もてなし》し歸《かへ》されける因《よつ》て庄《しやう》三郎は大《おほ》いに悦《よろこ》び右《みぎ》の二百兩を夷子棚《えびすだな》に上置《あげおき》其夜《そのよ》は長兵衞方へ禮《れい》に行《ゆき》たりしが此加賀屋長兵衞《このかがやちやうべゑ》と云《いふ》は元《もと》同町《どうちやう》の加賀屋|彌兵衞方《やへゑかた》へ十|歳《さい》の時|奉公《ほうこう》に來りて十年の年季《ねんき》を勤《つと》め尚《なほ》禮奉公《れいぼうこう》十五年を勤《つと》め上《あげ》都合《つがふ》廿五|年《ねん》の間《あひだ》見世《みせ》の事に心を盡《つく》しければ則《すなは》ち加賀屋の暖簾《のれん》を貰《もら》ひ同所へ材木店《ざいもくみせ》を出せしが漸次《しだい》に繁昌《はんじやう》して此春より將軍家|桶御用《をけごよう》の株《かぶ》を讓《ゆづ》られ猶々《なほ/\》榮《さか》え消光《くらし》けるも必竟《ひつきやう》長兵衞《ちやうべゑ》の心懸《こゝろがけ》よき故なり斯《かく》て白子屋|庄《しやう》三郎は長兵衞方へ厚《あつ》く禮《れい》を述《のべ》我が家へ立歸りしに其夜《そのよ》の中に夷子棚《えびすだな》へ上置《あげおき》し二百兩の金《かね》見《み》えざればお常《つね》忠《ちう》八も狼狽《うろたへ》たる體《てい》にて主人へ斯《かく》と申けるにぞ庄《しやう》三郎は大いに驚《おどろ》き周章《あわて》其分《そのぶん》には捨置難《すておきがた》しと直樣《すぐさま》加賀屋長兵衞方へ行《ゆき》右《みぎ》の譯《わけ》を話《はな》し是は是非々々《ぜひ/\》訴《うつた》へねば成《なら》ぬと急込《せきこむ》を長兵衞|先々《まづ/\》とて樣子を篤《とく》と聞《きゝ》何樣《なにさま》是《これ》は外より入たる盜人《ぬすびと》にては有まじ然れども今《いま》是《これ》を訴へる時には我々《われ/\》は兎《と》も角《かく》も仲間《なかま》の衆《しう》へ二十兩出させた上《うへ》又々|番所《ばんしよ》へ引出しては何分|氣《き》の毒《どく》にて我等《われら》濟難《すみがた》きにより先《まづ》内々《ない/\》詮鑿《せんさく》致《いた》されよとは云ものゝ明日《あした》の拂《はら》ひに困《こま》らるべければ我等《われら》二百|兩《りやう》用立《ようたて》んにより夫《それ》にて此節季《このせつき》は濟《すま》さるべし尤《もつと》も此金は利分《りぶん》に及ばず御都合《ごつがふ》宜敷《よろしき》折《をり》返濟《へんさい》成《なさ》るべしと金子二百兩を出《いだ》して渡《わた》しければ庄《しやう》三郎|押戴《おしいたゞ》きて段々《だん/\》と御深切《ごしんせつ》の上|又《また》斯《かゝ》る災難《さいなん》まで貴公《きこう》の御苦勞《ごくらう》に預《あづか》り御禮《おんれい》は申|盡《つく》し難《がた》しとて涙を流《なが》し打歡《うちよろこ》びてぞ歸《かへ》りけり又お常《つね》忠《ちう》八は[#「忠八は」は底本では「忠七は」]まんまと夷子棚《えびすだな》の二百兩を欺《あざむ》き取《とり》仕合《しあはせ》よしと微笑合《ほゝゑみあひ》是《これ》を斯《かう》してあゝしてと奢《おご》る事|而已《のみ》談合《かたらひ》けり偖《さて》其年《そのとし》も暮《くれ》明《あく》れば享保《きやうほ》九年春も三月と成《なり》しに江戸中《えどぢう》大火《たいくわ》に付此白子屋も諸侯方《しよこうがた》を始《はじ》め多分《たぶん》の用《よう》を達《たし》屋敷方《やしきがた》の普請《ふしん》計《ばか》りにても二千兩|餘《よ》の儲《まう》けありしとなり然《しか》れども彼の加賀屋長兵衞《かがやちやうべゑ》より借請《かりうけ》し二百兩の事は忠《ちう》八が算盤《そろばん》を奇變《あやなし》庄《しやう》三郎に僞《いつは》りて今《いま》に辨濟《へんさい》せざれども長兵衞は催促《さいそく》もなさず彼是する中《うち》又《また》其《そ》の年《とし》も過《すぎ》翌年《よくどし》と成《なり》身代《しんだい》左《ひだ》り前にて難儀《なんぎ》なる由《よし》忠《ちう》八より申せしかば庄三郎も不審《ふしん》に思ひ何とて其樣《そのやう》に成《なり》しぞと云に忠八|御屋敷《おやしき》の普請《ふしん》存《ぞん》じの外《ほか》積《つも》り違《ちが》ひにて一|箱《はこ》餘《よ》も損金《そんきん》になり其外《そのほか》彼是《かれこれ》にて二千兩餘の損《そん》に爲たりと口《くち》から出任《でまか》せに僞《いつは》るをお常《つね》も側《そば》から種々《いろ/\》口車《くちぐるま》の楫《かぢ》を取しかば又々《また/\》加賀屋へ到《いた》り段々《だん/\》の仔細《しさい》を話けるに長兵衞は左右《とかく》氣《き》の毒《どく》に思ひ付《つき》或時《あるとき》庄《しやう》三郎に對《むか》ひ時節《じせつ》とは云|乍《なが》ら古《ふる》き御家の斯迄《かくまで》不如意《ふによい》になり給《たま》ふ事|是非《ぜひ》なき次第《しだい》なり夫《それ》に付《つき》少々《せう/\》御相談《ごさうだん》あり其譯《そのわけ》はお娘子お熊殿《くまどの》へ持參金《ぢさんきん》のある聟《むこ》を入給《いれたま》ひては如何《いかゞ》や尤《もつと》も外に男の子も御在《おはさ》ぬ事|故《ゆゑ》お熊殿《くまどの》年の長《ふけ》ぬうちに聟養子《むこやうし》をなし持參《ぢさん》の金子《きんす》を以て山方《やまがた》問屋《とひや》の借《かり》を償却《つぐなひ》暮《くら》し方も氣《き》を付て身上《しんしやう》を立直《たてなほ》す樣《やう》に相|談《だん》して見給《みたま》へと深切《しんせつ》の言葉《ことば》に庄三郎大に喜び何から何迄《なにまで》段々《だん/\》の御世話《おせわ》忝《かたじ》けなく是に過《すぎ》たる事はなし然れ共《ども》我々《われ/\》方《かた》へ參《まゐ》る養子《やうし》の有《ある》可《べき》や能々《よく/\》御聞糺《おんきゝたゞし》下《くだ》さるゝ樣《やう》偏《ひとへ》に御頼《おたのみ》申なりと云けるにぞ然《しから》ば先方へ申|聞《きく》べき間《あひだ》御家内《うちかた》へも此段《このだん》能々《よく/\》御相談《ごさうだん》成るべし我等方は明日《みやうにち》聢《しか》と致《いたし》たる返事《へんじ》を承《うけた》まはりし上《うへ》又々《また/\》御話《おはなし》申べくとて庄三郎を歸《かへ》しけり夫《それ》より長兵衞は大傳馬町《おほでんまちやう》家主《いへぬし》平右衞門方《へいゑもんかた》へ行《ゆき》先達《さきだつ》て御話《おはなし》の聟殿《むこどの》白子屋庄三郎方にて貰《もら》ひ度《たき》由《よし》故《ゆゑ》御世話下《おんせわくだ》さるべし白子屋事は材木町《ざいもくちやう》にて千三百|兩《りやう》の地面《ぢめん》も持居《もちをり》御屋敷方《おやしきがた》の出入|澤山《たくさん》有《あり》て株敷《かぶしき》は三千兩|程《ほど》なり然れば五百|兩《りやう》位《ぐらゐ》は持參《ぢさん》ありても宜《よろ》しかるべし殊更《ことさら》娘お熊は當年廿二歳にて容貌《きりやう》もよく承《うけたま》はれば聟殿《むこどの》は四十に近《ちか》しとか隨分《ずゐぶん》相應《さうおう》の縁組《えんぐみ》なれば能々《よく/\》御世話頼入《おせわたのみいる》[#ルビの「おせわたのみいる」は底本では「おすわたのみいる」]と申を平右衞門《へいゑもん》聞《きゝ》て夫《それ》は相應《さうおう》の相談《さうだん》なり當人といふは我等《われら》が同町《どうちやう》の地主《ぢぬし》彌太郎方《やたらうかた》に勤居らるゝ又七と申者なり隨分《ずゐぶん》辛抱人《しんばうにん》にて主人《しゆじん》彌太郎《やたらう》事は最早《もはや》六十にもなれど一人も子なく金ばかり澤山ありて地面《ぢめん》は十三ヶ所も持居《もちをり》此人|親分《おやぶん》となる積《つも》りなれば何事も氣遣《きづか》ひなし先方《せんぱう》へ能々《よく/\》話《はな》せし上明日|御返事《ごへんじ》致《いた》すべしとて長兵衞を歸《かへ》し其後《そのご》平右衞門《へいゑもん》の口入《くちいれ》にて相方《さうはう》相談《さうだん》調《とゝの》ひ吉日《きちにち》を撰《えら》みて五百|兩《りやう》持參金《ぢさんきん》をなし又七を彼の白子屋《しろこや》の聟養子《むこやうし》とぞなしたりけり此事は素《もと》よりお熊の不承知《ふしようち》なるを種々《いろ/\》説《とき》勸《すゝ》め跡《あと》は右《と》も左《かく》も先《まづ》當分《たうぶん》其《その》五百兩を取りて又《また》樂《たのし》むべし其《そ》の上《うへ》此方の仕向《しむけ》により聟《むこ》の方より出て行《ゆく》時《とき》は金《かね》を返《かへ》さずに濟《すむ》仕方《しかた》は如何|程《ほど》も有べしとお常《つね》忠《ちう》八の惡巧《わるだくみ》にて種々《しゆ/″\》に言なし終《つひ》に又七を入けれどもお熊は祝言《しうげん》の夜より癪氣《しやくけ》發《おこり》難儀《なんぎ》なりとて母《はゝ》の側《そば》へ寢《ね》かしお熊《くま》は忠《ちう》八母は清《せい》三郎と毎夜|枕《まくら》を双《ならべ》て一ツ寢《ね》をなす事《こと》人外《にんぐわい》の仕方なり然《され》ども又七は是を一|向《かう》知《し》らず最早《もはや》一年餘に及べどもお熊と一|度《ど》も添寢《そへね》をせず加之《そのうへ》聟《むこ》に來りてより家内中《かないぢう》の突掛者《つゝかけもの》となり優《やさし》き詞《ことば》を懸《かく》る者一人もなけれど下男《げなん》長助《ちやうすけ》と云者のみ又七を大切《たいせつ》になし彼の四人の者|共《ども》を憎《にく》みけるが或時|給金《きふきん》三兩を田舍《ゐなか》へ遣《つか》はさんとて手紙《てがみ》に封《ふう》じ瀬戸物町《せとものちやう》の島屋へ持行《もちゆき》し途中《とちう》橋向《はしむか》ふにて晝抅盜《ひるとんび》に奪《うば》はれ忙然《ばうぜん》として立歸《たてかへ》りしが那《あ》の金《かね》を取れては又《また》一年|餘《よ》の奉公《ほうこう》を爲ねばならぬと力を落《おと》し顏色《がんしよく》蒼然《あをざめ》て居ける處へ又七は立出《たちいで》何故《なにゆゑ》其樣に鬱《ふさ》ぎ居るや心地《こゝち》にても惡《あし》きかと問《と》ひけるに長助は有《あ》りの儘《まゝ》に譯《わけ》を話し涙を流《なが》しけるを又七は憫然《ふびん》に思ひ我等《われら》其金を與《あたへ》んとて懷中より三|兩《りやう》出し長助へ渡しけるに長助は大地《だいち》に鰭伏《ひれふし》此御恩《このごおん》は忘《わす》れまじとて悦《よろこ》びけり是よりは別《べつ》して此《この》長助|而已《のみ》毎度《まいど》お常《つね》始《はじ》めの惡巧《わるだく》みを内通《ないつう》して又七を救《すくひ》しなり或時《あるとき》彼の四人|打寄《うちよつ》て耳語《さゝやく》やう又七|事《こと》是迄《これまで》種々《しゆ/″\》非道《ひだう》になすと雖も此家を出行《いでゆく》景色なし此上《このうへ》は如何せんと相談《さうだん》しけるにお常《つね》は膝《ひざ》を進《すゝ》め是は毒藥《どくやく》を飮《のま》せるに如《しく》なけれども急に殺しては顯《あらは》るゝ故一ヶ月ばかりも過《すぎ》て死ぬ樣に藥《くすり》を調合《てうがふ》して用るが宜《よろ》しからん此事は先《まづ》新道《しんみち》の玄柳《げんりう》方へ行て相談《さうだん》致《いた》すべしと四人|打連立《うちつれだち》て出行たり偖《さて》彼の長助は毒藥《どくやく》と云|聲《こゑ》の不※[#「圖」の「回」に代えて「面から一、二画目をとったもの」、143-15]《ふと》聞《きこ》えければ又々四人の者共が惡事《あくじ》ならん何れ又《また》七|樣《さま》の事なるべしとお常《つね》の部屋の傍《そば》に寄《より》立聞《たちぎき》をなしけるが新道の玄柳《げんりう》方にて調合《てうがふ》なし貰《もら》はんと出行《いでゆく》體《てい》故《ゆゑ》素知《そし》らぬ面《かほ》に臺所《だいところ》へ立戻《たちもど》りたり又彼の玄柳《げんりう》は毒藥のことを請合《うけあひ》[#「請合」は底本では「調合」]けれども針醫《はりい》の事なれば毒藥《どくやく》を求《もと》めんこと難《かた》しと思へば風藥《かぜぐすり》二|服《ふく》を四十|文《もん》にて買《かひ》炮烙《はうろく》にて是を煎《いり》金紙《きんがみ》[#ルビの「きんがみ」は底本では「さんがみ」]に包み鄭重《たいそう》らしくしてお常《つね》に密と渡《わた》しければお常は喜《よろこ》び金子《きんす》を玄柳に遣《つかは》しお熊《くま》倶々《とも/″\》厚《あつ》く禮を述たりけり此時玄柳は僅《わづ》か四十|文《もん》の風藥にてお常より三兩忠八より五兩お熊より一兩都合九兩の金にあり付しは藥九層倍所か是藥百倍と云べしと喜びけり夫より此藥を下女に云付又七が飯《めし》汁《しる》茶《ちや》などへ入《い》れて毎日々々|用《もち》ひしとぞ彼の長助も此事を聞《きゝ》しかば又七へも密かに告置《つげおき》己《おのれ》も隨分《ずゐぶん》心を付ると雖も大勢《おほぜい》にて爲る事なれば何時《いつ》の間に入けるや知らざれども或時《あるとき》鮃《ひらめ》の切身《きりみ》を煮《に》て皿《さら》に盛《もり》彼の藥をお熊が手より入れて又七の前へ持來《もちきた》り是は母樣《はゝさま》よりお前に上んとて新場より取寄《とりよせ》し魚《うを》成《なれ》ばお喰《あが》り成《な》さるべしと一年餘の間《あひだ》に始《はじ》めてお熊の口より又七へ物云《ものいひ》ければ又七は喜び直樣《すぐさま》飯《めし》を取寄《とりよせ》是を喰《くは》んと爲るを長助は目配《めくば》せをなし止《とむ》る體《てい》故《ゆゑ》扨《さて》はと思ひ何か紛《まぎ》らして是を喰《くは》ず夫より又七は新道《しんみち》の湯に行けるに長助も後《あと》より同く湯《ゆ》へ來《きた》り彼の毒藥《どくやく》をお熊が入たる事を竊《ひそか》に話し私《わたく》しにも昨日《さくじつ》一|服《ぷく》遣《つかは》して貴君樣《あなたさま》の食事に入れて呉《くれ》よと頼《たの》み候と彼藥を見せければ又《また》七|委細《ゐさい》を聞て驚《おどろ》き我は加賀屋《かがや》長兵衞方へ參る間《あひだ》其方後より參《まゐ》るべしとて其足《そのあし》にて又七は長兵衞方へ到《いた》り是迄《これまで》の事を物語り勘辨《かんべん》なり[#「勘辨なり」は底本では「堪辨なり」]難しと立腹《りつぷく》致《いたし》ければ長兵衞も以《もつて》の外に驚《おどろ》きける處へ長助も來り三人|額《ひたひ》を集めて相談《さうだん》しける中長兵衞|心付《こゝろづ》き彼の藥《くすり》を猫に喰《くは》せて試《ため》しけるに何の事もなければ是には何か樣子《やうす》有《ある》べし我又|致方《いたしかた》有《あれ》ば隨分《ずゐぶん》油斷《ゆだん》有《ある》べからずとて又七を宥《なだ》め一|先《まづ》歸《かへ》しけり其後二三日|過《すぎ》て長兵衞は白子屋庄三郎并に妻《つま》お常《つね》を呼び段々《だん/\》と内證《ないしよう》の都合迄《つがふまで》も聞何共氣の毒《どく》なる事なり然《しか》らば聟《むこ》又七|殿《どの》お熊殿との中|宜《よろ》しくば家を渡《わた》し世帶《せたい》を若夫婦に任《まか》せ番頭|忠《ちう》八には暇《いとま》を遣《つかは》し小手前にして家内《かない》取廻《とりまはし》善《よ》きが肝要《かんえう》なり而《して》御兩人《ごりやうにん》は氣樂に御隱居《ごいんきよ》有《あら》ば又《また》宜敷事も有べしと事を分て段々《だん/\》遠廻《とほまはし》にお常《つね》へ異見《いけん》をなしけるに庄《しやう》三郎は大に悦《よろこ》び何かと厚《あつ》き思召の程《ほど》忝《かたじ》けなく承知《しようち》致《いた》したりと申しけるにお常《つね》は甚《はなは》だ不承知《ふしようち》の面にて長兵衞に向《むか》ひ又七に世帶《せたい》を渡せと仰《おほせ》らるれども追々《おひ/\》渠《かれ》が擧動《ふるまひ》を見るに一として商賣《しやうばい》の道に適《かなは》ず其上|未《いま》だ出入|場《ば》等《とう》の勝手も覺《おぼ》えず今忠八に暇《いとま》を出しては猶々《なほ/\》都合《つがふ》惡《わる》く手代《てだい》多《おほ》くの中にも忠八は發明にて萬事《ばんじ》心得|居者《をるもの》なり又七は素《もと》よりお熊と中《なか》睦《むつま》しからす持參金《ぢさんきん》を鼻に懸《かけ》て我々を見下し不孝の事のみ多く其上下女などに不義《ふぎ》を仕懸《しかけ》何一ツ是ぞと云|取處《とりどころ》なく斯樣《かやう》の者に家を渡す事は勿論《もちろん》忠八に暇《いとま》を遣《つかは》せなどとは憚《はゞか》りながら餘《あま》りなる御差※[#「圖」の「回」に代えて「面から一、二画目をとったもの」、144-18]《おさしづ》なり我々|隱居《いんきよ》致《いた》すよりは又七を離縁《りえん》致《いたす》方《はう》が却《かへつ》て家の都合《つがふ》なりと申ければ長兵衞是を聞夫は何分聞こえぬ論《ろん》なり下女に手《て》を付《つけ》るなどとは必竟《ひつきやう》お熊殿の取扱《とりあつか》ひ惡き故《ゆゑ》起《おこ》る事なり何は兎《と》もあれ兎角《とかく》家の丸く治《をさ》まるが宜《よけ》れば何事も堪忍《かんにん》有《あり》て隱居《いんきよ》有《ある》べしと勸《すゝ》めけるにお常は大いに立腹《りつぷく》して一々云|爭《あらそ》ひ氣に入ぬ聟《むこ》なれば地面《ぢめん》を賣てなりとも持參金《ぢさんきん》を戻《もど》し不縁《ふえん》致《いた》すべしと罵《のゝし》りけるを長兵衞|種々《いろ/\》と諫《いさ》めれども一|向《かう》に承知《しようち》せず疊を蹴立《けたて》此樣な話《はなし》は聞ずと直樣《すぐさま》御歸りあれと夫《をつと》庄《しやう》三郎を引立てぞ歸りける夫よりお常《つね》は庄三郎に少《すこ》しの金《ぜに》を與《あた》へ講釋《かうしやく》の寄席《よせせき》へ追遣《おひや》り跡《あと》は忠八お熊《くま》清三郎を招き例の如く酒宴《さかもり》を始め長兵衞が云し事どもを委細《ゐさい》話《はな》して此上は金子《きんす》五百兩|拵《こしら》へ又七に添《そへ》て離縁《りえん》するに如なし然《さ》すれば長兵衞彼れ是《これ》云《いは》れぬ筋《すぢ》なり又七を出す事ゆゑ忠八|此金《このかね》算段《さんだん》せられよと申ければ忠八は打悦《うちよろこ》び其金子|必《かなら》ず調達《てうだつ》致《いた》すべし私《わたく》[#ルビの「わたく」は底本では「わたへ」]し一ツの工夫《くふう》有《あり》とて清三郎に耳語《さゝやき》頼《たの》み其夜《そのよ》油町《あぶらちやう》新道《しんみち》伊勢屋《いせや》三郎兵衞方へ忍《しの》び入て金五百兩を盜《ぬす》み取清三郎は其隣《そのとなり》の金屋利兵衞方へ入りて彼の腰元《こしもと》竹を切殺《きりころ》し娘の手道具《てだうぐ》を奪《うば》ひ取り來りしが忠八にも是を話し我も只《たゞ》歸《かへ》るは殘念《ざんねん》ゆゑ是程の働《はたら》きをせしと取たる品々《しな/″\》を改《あらた》め見るに蝦夷錦《えぞにしき》の楊枝指《やうじさし》一|角《かく》の箸《はし》其外|笄《かうがひ》簪《かんざし》の類《るゐ》何れも金《かね》目の物多く有《あり》ければ兩人|是《これ》は儲《まうけ》ものなりと悦《よろこ》びけり然れども此品《このしな》賣拂《うりはら》はゞ顯《あらは》るべしとて暫時《しばし》の間《あひだ》彼《か》の玄柳方へ預《あづ》け置《おき》けるが此品々《このしな/″\》より終に二人が天罰《てんばつ》報《むく》い來とは知ざりけり扨《さて》も白子屋にては又七が事は地面《ぢめん》を賣《うつ》てなりとも持參金《ぢさんきん》を返《かへ》し離縁《りえん》致《いたす》べしとお常《つね》長兵衞《ちやうべゑ》に云し詞《ことば》有《あれ》ば終《つひ》に離縁《りえん》の事を申|込《こみ》たり [#8字下げ]第六回[#「第六回」は中見出し]  扨もお常は忠八を頼《たの》み金五百兩|才覺《さいかく》致させけれ共又候|夫《をつと》庄三郎を僞《いつは》り又七を離縁《りえん》なす金にさし支《つか》へる間|地面《ぢめん》を書入《かきいれ》にて金五百兩|借出《かりいだ》すべしと勸《すゝ》めけるに庄三郎|是非《ぜひ》なく又々長兵衞方へ行き金子《きんす》にさし支《つかへ》る趣《おもむ》きを話《はな》せしかば長兵衞も是はお常の仕業《しわざ》ならんにより捨置《すておく》べしとは思ひけれども庄三郎が達《たつ》ての頼みを聞《きか》ざるも氣《き》の毒《どく》と思ひ長兵衞申は何卒《なにとぞ》身代《しんだい》を持直《もちなほ》し給へ殊《こと》に先祖代々の地面《ぢめん》を人手《ひとで》に渡《わた》さるゝ事|嘸《さぞ》かし殘念《ざんねん》なるべし然らば我等其五百兩は用達《ようだち》申べし然《さ》れども今度《このたび》は金子《きんす》出來《でき》次第《しだい》百兩にても五十兩にても御返濟《ごへんさい》成《なさ》れよ利分は取り申さず金子|相濟《あひすみ》次第に證文は返却《へんきやく》致すべけれども先《まづ》證文《しようもん》は預《あづか》り置《おき》申べし其地面|人手《ひとで》に渡《わた》さるゝが氣の毒に存《ぞん》ずる故なりお常殿にも此話《このはなし》をなされ請人《うけにん》共《とも》御三人|御印形《ごいんぎやう》御持參《ごぢさん》有《ある》べしと申ければ庄三郎大いに悦《よろこ》び立歸《たちかへ》りてお常忠八に長兵衞が申せし通《とほ》り咄《はな》しけるにお常は是《これ》を聞《きゝ》夫《それ》は長兵衞事|此地面《このぢめん》を自分が欲《ほ》しければ體《てい》よく然樣《さやう》申|成《なる》べし何は兎もあれ五百兩|借《かり》候はんとてお常が合口《あひくち》なる親類《しんるゐ》を連《つれ》て三|人《にん》印形《いんぎやう》を持ち長兵衞方へ行《ゆき》五百兩|借《かり》て歸りけるがお常は此金《このきん》手《て》に入《いり》しより又々|放《はな》すが惜《をし》くなりし事|誠《まこと》に白子屋|滅亡《めつばう》の基《もとゐ》とこそは知られけれ偖《さて》何をがな又七が落度《おちど》を見付《みつけ》云立《いひたて》なば金は返《かへ》すに及ぶまじと思ひ居けるに或日庄三郎は又七を呼《よび》松平相摸守殿《まつだひらさがみのかみどの》の屋敷へ金子六十兩|請取《うけとり》に參るべしと申付けしかば忠八是を聞《きゝ》てお常に斯《かく》と知らせ彼《か》の清三郎を招《まね》き三人|何《なに》か竊《ひそか》に耳語《さゝや》きけるが程《ほど》なく清三郎は出行《いでゆき》たり是は途中《とちう》にて惡者《わるもの》に喧嘩を仕掛《しかけ》させ屋敷より請取《うけとり》來《きた》る六十兩を奪《うば》ひ又七は此金を受取《うけとり》て遊女《いうぢよ》通《がよ》ひに遣《つか》ひ込《こみ》しと云立《いひたて》夫《それ》を科《とが》に離縁せんとの巧《たく》みなり斯《かく》とも知らず又七は下男《げなん》長助を倶《とも》に連《つれ》て出行《いでゆき》屋敷より金子を請取《うけとり》夫《それ》より呉服橋へ掛り四日市へと來懸《きかゝ》るに當時《そのころ》は今と違《ちが》ひ晝も四日市|邊《へん》は淋《さび》しく人通《ひととほ》り稀《まれ》なれば清三郎は惡僕《わるもの》二人《ふたり》と共に此處に待伏《まちぶせ》なし居たり又七は金を持ちたる故|隨分《ずゐぶん》用心《ようじん》はすれども白晝《ひるひなか》の事なれば何心なく歩行《あゆみ》來《きた》りし所|手拭《てぬぐひ》にて顏を包《つゝ》みたる大の男三人|現《あら》はれ出《いで》突然《ゆきなり》又七に組付《くみつく》故《ゆゑ》又七は驚きながら振放《ふりはな》さんと爲《す》る所を一人の男|手《て》を指込《さしこ》み懷中《くわいちう》の金子を奪《うばは》んとなすにぞ又七は長助に聲《こゑ》を掛け盜人々々《ぬすびと/\》と呼《よば》はりければ長助は先刻《せんこく》より外《ほか》一人の男と組合《くみあひ》居《ゐ》たるが此聲を聞て金を取《とら》れては大變《たいへん》と振放《ふりはな》し又七の懷中《くわいちう》へ手を入《いれ》たる男の横面《よこつら》を充分《したゝか》に打叩《うちたゝ》きければ彼の男|横《よこ》に摚《どう》と倒《たふ》されしにぞ其間《そのひま》に又七と共に殘り二人の惡者《わるもの》を散々《さん/″\》に打叩きける故|皆《みな》叶《かな》はじと散々《ちり/″\》に迯《にげ》行けり然《され》ば金は取られず先《まづ》無事に其場を立去《たちさり》たり此長助は力量《りきりやう》勝《すぐ》れし男故|幸《さいは》ひに打勝《うちかち》しとは雖も何共|合點《がてん》の行かぬ者なり正《まさ》しく是も四人の者の巧《たく》み成《なる》べしと話合《はなしあひ》ながら長助は道々《みち/\》お常は清三郎と譯《わけ》有《あ》る事お熊《くま》は忠《ちう》八と不義《ふぎ》の事など落《おち》もなく語《かた》りければ又七は始めてお熊は忠八と譯《わけ》有《あり》し事を聞き扨は日頃《ひごろ》の仕方《しかた》思《おも》ひ當りたりと夫《それ》より二人|我《わ》が家《や》に歸り庄三郎に金子を渡《わた》しけるにお常忠八|等《ら》は是を見て清三郎に頼《たの》みし事|手筈《てはず》違《ちが》ひたりと思ひ又々|玄柳方《げんりうかた》へ行きて相談《さうだん》すべしと其翌日《そのよくじつ》三人玄柳方へぞ到《いた》りける斯《かく》て又清三郎は四日市にて長助に十分《したゝか》打《うた》れ面《かほ》に疵《きず》を受《うけ》ければ我が家に引込《ひきこ》み居たりしに玄柳方より呼びに來りしかば早速《さつそく》走り行き四人|打寄《うちより》又々惡事の相談をなすにお常は聲を潜《ひそ》め我一ツ思ひ付《つい》たる手段《しゆだん》あり其譯《そのわけ》は下女の菊は生得《しやうとく》愚成者《おろかなるもの》なれば是に云付《いひつけ》又七が閨《ねや》へ忍ばせ剃刀《かみそり》にて又七へ少しにても疵を付け情死《しんぢう》せんとて又七に誑《だま》され口惜《くちをし》ければ是非《ぜひ》とも又七を殺《ころ》して我も死ぬ覺悟《かくご》なりと呼《よば》はらせ其處へ我々|駈込《かけこみ》種々《しゆ/″\》詮議《せんぎ》して菊が口より云々《しか/″\》と云《いは》せんは如何にやと申ければ三人是を聞き其謀計《そのはかりごと》奇妙々々《きめう/\》誠に當時《たうじ》の智者《ちしや》なりと譽稱《ほめたゝ》へ夫より白子屋へ歸り年増《としま》の下女お久を竊《ひそか》に呼びお熊の小袖三ツと金一兩を出し菊に斯々《かく/\》言含《いひふく》め呉《くれ》よと頼みければお久承知して我部屋《わがへや》へお菊を呼び始終《しじう》の事共《ことども》委曲《くはしく》話《はな》し又七樣へ疵《きず》を付け其身も咽喉《のんど》を少《すこ》し疵付《きずつけ》情死《しんぢう》と云ひて泣《なく》べしと教《をしへ》頼み居たるを長助は物影《ものかげ》より是を聞《きゝ》て大いに驚きながら猶《なほ》息《いき》を詰《つめ》て聞居《きゝゐ》たり斯くとも知らず元來《もとより》お菊は愚《おろか》なれば小袖金子を見て忽《たちま》ち心迷《こゝろまよ》ひ何の思慮《しりよ》もなく承知をぞなしたりける又長助は篤《とく》と樣子を聞濟《きゝすま》し早々又七に右の事故《ことがら》を話し御油斷《ごゆだん》有《ある》べからずと云ふにより又七|點頭《うなづき》今宵《こよひ》若《もし》菊が來たらば我《われ》直《ぢき》に取て押《おさ》へ繩《なは》を掛くべし其時其方は早々《さう/\》加賀屋長兵衞を呼《よび》來《きた》るべしと竊《ひそ》かに示合《しめしあは》せて別《わか》れけり菊は只金と小袖の欲《ほし》さに其夜《そのよ》丑《うし》の刻《こく》も過《すぐ》る頃又七が寢間《ねま》へ忍び入り剃刀《かみそり》を逆手《さかで》に持《もち》又七が夜着《よぎ》の上より刺貫《さしとほ》しけるに又七は居ず夜具《やぐ》ばかりなれば南無三と傍邊《かたへ》を見る間に又七はお菊を蹴倒《けたふ》し難《なん》なく繩を掛《かけ》又七は大音《だいおん》揚《あげ》長助|々々《/\》と呼《よぶ》聲《こゑ》に家内の者共目を覺《さま》し何事にやと庄三郎お常お熊忠八も此所へ來り彼是《かれこれ》なす間《ま》に長助は加賀屋へ駈行《かけゆき》又七樣|只今《たゞいま》急《きふ》に御逢成《おあひなさ》れ度《たき》との事出來しにより私し御供《おんとも》仕つるべき間《あひだ》御入下《おんいりくだ》されよと申ければ長兵衞驚き直樣《すぐさま》同道《どうだう》にて入り來るにお常は長兵衞に向《むか》ひ又七事お熊を指置《さしおき》下女の菊と不義《ふぎ》をなし終《つひ》に情死《しんぢう》とまでの[#「情死とまでの」は底本では「情死まとでの」]騷《さわ》ぎなり夫故《それゆゑ》平常《つね/″\》お熊と中《なか》惡《わる》く家内《かない》治《をさま》らずと云ひければ又七是を聞き是は思ひもよらぬ事を仰せらるゝもの哉|今宵《こよひ》菊が何故か刄物《はもの》を持て我が寢所《ねどころ》へ來りし故|怪敷《あやしく》思《おも》ひ片蔭《かたかげ》に隱《かく》れて窺《うかゝ》ひしに夜着《よぎ》の上より我を刺《さし》候樣子に付き取押《とりおさ》へて繩を掛《かけ》しなり此儀《このぎ》公邊《おかみ》へ訴《うつた》へ此者を吟味《ぎんみ》致さんと云ひけるを長兵衞は先々《まづ/\》事《こと》穩便《をんびん》に世間へ聞《きこ》えぬ中《うち》濟《すま》す方が宜しからんお常殿もお熊殿も能《よく》御思案《ごしあん》有《ある》べし縱令《たとへ》又七殿がお菊に通じたるにもせよお常殿より又七殿に篤《とく》と御異見《ごいけん》有《あつ》てお菊に暇《いとま》を出《いだ》せば濟む事|也《なり》是を又七殿訴へなば大亂《たいらん》となり白子屋の家名《かめい》立難《たちがた》しお常殿は女の事故|其處《そのところ》へ氣も付《つか》れざるは道理《もつとも》の事なれども能々《よく/\》勘辨《かんべん》ありて隨分《ずゐぶん》又七殿を宥《なだ》め家内《かない》和合《わがふ》致さるゝ樣《やう》成《なさ》るべし不如意《ふによい》の事は及ばずながら[#「及ばずながら」は底本では「及ばずならが」]此長兵衞|見繼《みつぎ》申さんと利解《りかい》を述《のべ》けれどもお常は一|向《かう》得心《とくしん》せず又七事菊と忍合《しのびあひ》情死《しんぢう》爲《なさ》んとせしを見付けしに相違《さうゐ》なければ公邊《おかみ》へ訴へ何處迄《どこまで》も黒白を分け申べしと片意地《かたいぢ》張《はつ》て持參金を返濟《へんさい》せぬ工夫《くふう》をなすに忠八も側《そば》より日頃又七樣下女に手を付《つけ》られし事私共存居り候と云ひければ又清三郎も傍邊《かたはら》より進《すゝ》み出《いで》御兩人の仰せ御道理也《ごもつともなり》又七樣御持參金を鼻《はな》に掛け我々迄も見下げ給ふ事|甚《はなは》だしと云ふを長兵衞は見遣《みやり》汝《なんぢ》は廻《まは》りの髮結《かみゆひ》ならずや何故此所へ來り入らざる差出口《さしでぐち》過言《くわごん》なり長助|那《あ》の者を擲出《たゝきだ》せと云ひければ長助は立掛《たちかゝ》り清三郎が首筋《くびすぢ》を掴《つか》みて表《おもて》へ突出《つきだ》し門口《かどぐち》の材木《ざいもく》を投付《なげつけ》しにぞ清三郎は怒《いか》り汝《おの》れ此間も四日市にて我を擲《たゝ》き今又|斯《かく》投付《なげつけ》る事|此返報《このへんぱう》[#ルビの「このへんぱう」は底本では「このへんばう」]覺《おぼ》え居よと罵《のゝし》りけるに扨は四日市の盜人《ぬすびと》は汝《おのれ》かと云はれてハツと思ひしかば後《あと》をも見ずして逃《にげ》歸りけり扨又長兵衞はお常に對《むか》ひ此事訴へなば怪我人《けがにん》も多く出來る故|何分《なにぶん》穩便《をんびん》に取扱《とりあつか》ひ白子屋の家名に瑾《きず》の付かぬ樣《やう》我々が異見《いけん》に隨《したが》ひ給へと云へどもお常は少しも承知せざれば長兵衞も今は是非《ぜひ》なく又七を連れて我が家《や》へ立歸りたり其間《そのま》に夜も明《あけ》ければ長兵衞は傳馬町なる平右衞門方へ到《いた》り右の次第を物語《ものがた》りければ平右衞門は大に立腹《りつぷく》し白子屋の者共如何にも不屆なる仕方なれば早々《さう/\》地主《ぢぬし》へ申|聞《きか》せんと夫より彌太郎方へ行き右の仔細《しさい》話し居る處へ番頭忠八髮結清三郎の兩人|入來《いりきた》り彌々《いよ/\》訴へ出《いづ》るにより又七を預《あづか》りし手形《てがた》を出せと店先《みせさき》にて談事《だんじ》ければ彌太郎も今は堪忍《かんにん》成難《なりがた》く其方《そなた》よりの訴訟《うつたへ》を待《また》ず此方より訴へんと云時《いふとき》又々下男長助又七を尋《たづ》ね來り夜前《やぜん》清三郎が云ひし四日市のことを話《はな》しけるにぞ尚々《なほ/\》遺恨《ゐこん》を重《かさ》ね右の趣《おもぶ》きまで願書に認《したゝ》め居たるに加賀屋長兵衞入り來り我等|何分《なにぶん》にも取扱ひ候間|今《いま》少《すこ》し御待ち下さるべし白子屋方へ能々《よく/\》異見《いけん》を加へ内濟《ないさい》致すべしと云置《いひおき》夫《それ》より又白子屋へ行き此事訴へられては此方《こなた》の家名《かめい》を失《うしな》ふ基《もとゐ》成《なる》べきにより内濟《ないさい》にし給へと種々《さま/″\》に説《とき》勸《すゝ》めると雖もお常は一|向《かう》承知せず却《かへ》つて長兵衞迄も散々《さん/″\》に罵《のゝし》りける故長兵衞も今は是非《ぜひ》なく打捨《うちすて》ければ終《つひ》に彌太郎の方より訴訟にこそ及びけれ然《され》ば大岡殿是を聞かれ此訴訟の趣《おもぶ》きにては大いなる罪人《つみびと》八|逆《ぎやく》の者多し是を糺《たゞ》すは誠に歎《なげか》は敷《しき》事なりと種々《いろ/\》利解《りかい》有《あつ》て下《さげ》られけれども双方《さうはう》得心《とくしん》なければ是非なく吟味《ぎんみ》とぞなりにける頃《ころ》は享保《きやうほ》十二年十月|双方《さうはう》惣《そう》呼出《よびだ》しの人々には白子屋庄三郎|並《ならび》に妻《つま》常《つね》娘《むすめ》熊《くま》番頭《ばんとう》忠《ちう》八|下男《げなん》長助《ちやうすけ》下女《げぢよ》久《ひさ》同|菊《きく》聟《むこ》又《また》七|大傳馬町《おほでんまちやう》居付《ゐつき》地主《ぢぬし》彌太《やた》郎|加賀屋長兵衞等《かがやちやうべゑとう》なり此砌《このみぎり》髮結《かみゆひ》清《せい》三郎は出奔《しゆつぽん》して行方《ゆくへ》知れず大岡殿彌太郎に向はれ其方願書の趣き相違《さうゐ》なきやと尋問《たづね》らるゝに彌太郎|御意《ぎよい》の通《とほり》少《すこ》しも相違《さうゐ》之《これ》なく候と答《こた》へしかば頓《やが》て庄三郎と呼ばれ其方妻常娘熊番頭忠八斯の如き惡事《あくじ》をなす事|存《ぞんじ》て差置《さしおき》しや又知らざるやと申されしに庄三郎其等の儀は實以《じつもつ》て存じ申さずと云ひければ又大岡殿お常に對《むか》はれ其方|聟《むこ》又七に毒殺《どくさつ》の覺《おぼ》え之《これ》有《ある》やと尋問《たづね》らるゝにお常は首《かうべ》を上《あげ》如何にも驚きたる體《てい》をなし其《そ》は決《けつ》して覺え之なく又七事妻を差置《さしおき》下女に不義を仕掛《しかけ》不屆《ふとゞき》に付《つき》離縁《りえん》致さんと存じ候處|斯《かく》の訴へに及びし迄にて候|何卒《なにとぞ》御慈悲《おじひ》を以て又七儀|離縁《りえん》仕つる樣願ひ上奉つると申立るを聞《きゝ》て又七恐れながらと進《すゝ》み出《いで》其《そ》の毒藥《どくやく》の儀相違之なく則ち稻荷《いなり》新道《しんみち》横山玄柳《よこやまげんりう》と申す醫師に藥《くすり》を貰《もら》ひし節《せつ》の證文等もあり候|御呼出《おんよびだし》の上御吟味|下《くだ》さるべしと申ける故|早速《さつそく》右《みぎ》玄柳を呼出されて尋ねられし所玄柳申立るはお常の頼みに候へ共毒藥は容易《ようい》成《なら》ざるに付|調合《てうがふ》せず斯々《かく/\》致し風邪藥《かぜぐすり》[#ルビの「かぜぐすり」は底本では「かざぐすり」]にて間を合せ候と答《こたふ》るにぞ大岡殿次に下女お菊を呼《よば》れ其方主人の閨《ねや》へ刄物《はもの》を持《もち》忍《しの》び入る事|大膽不敵《だいたんふてき》なり但し汝が一存か又は人に頼まれしか正直《しやうぢき》に申さずんば一命に及ぶべしと云《いは》れけるにお菊は生《いき》たる心地《こゝち》なく恐れ入りてお常|始《はじ》め四人の者に頼まれし段《だん》白地《あからさま》に白状しければ大岡殿ソレ縛《しば》れと下知を傳《つた》へお菊に繩《なは》をうたせ又娘お熊手代忠八兩人に向《むか》はれ其方共|日來《ひごろ》密通《みつつう》いたし居《をり》聟《むこ》の又七を殺さんとせし段|不屆《ふとゞき》なり有體《ありてい》に申立よと有《あり》て直《すぐ》に繩を掛させられしかばお常是を見てハツと仰天《ぎやうてん》し今更《いまさら》後悔《こうくわい》の體《てい》に差俯向《さしうつむき》しを大岡殿|發打《はつた》と白眼《にらま》れ其方養子又七に疵《きず》付《つけ》候樣下女菊に申付たる段不屆なり有體《ありてい》に申せと云《いは》れしかば隱《かく》すこと能《あた》はずお常お熊[#「お常お熊」は底本では「おお常熊」]共に白状にぞ及びける又庄三郎は家内の者の斯如《かくのごと》き不屆を存ぜざる段|不埓《ふらち》なり猶《なほ》外《ほか》に何ぞ心當りの事は之無《これなき》やと申されければ庄三郎何も是と申す程の儀御座なく候へども髮結《かみゆひ》清三郎と申す者|常々《つね/″\》入浸《いりびた》り居しは心得難く候と申立るに大岡殿|同心《どうしん》を呼《よば》れ白子屋家内を檢査《あらため》清三郎を捕《とら》へ來れと下知せられしかば同心|馳行《はせゆき》て檢査《あらため》しに清三郎は逐電《ちくでん》せし樣子なれど道具《だうぐ》中《うち》斯樣の品|有《あり》しと其品々を持來《もちきた》りし中に蝦夷錦《えぞにしき》の箸入《はしいれ》花菱《はなびし》の紋付たる一角の箸《はし》鼈甲《べつかふ》の簪《かんざし》などありしかば大岡殿是を見給ひ即時《そくじ》に金屋《かなや》利兵衞を呼出《よびいだ》され此品其方|覺《おぼ》え有るやと尋ねられければ正《まさ》しく覺え之あり私|娘《むすめ》の手道具《てだうぐ》なるよし申立てしにぞ猶《なほ》又《また》お常お熊兩人へ嚴敷《きびしく》尋《たづ》ねられしかば忠八清三郎兩人より貰《もら》ひしまゝ何事も存ぜずと申により忠八を糺問《きうもん》有《あり》ければ終《つひ》に白状致しけり因《よつ》て金屋の盜賊《たうぞく》も相知れ夫より清三郎へ追手《おつて》を掛《かけ》られたり扨牢内より彼の旅僧《たびそう》雲源《うんげん》を呼出《よびいだ》され又伊勢屋三郎兵衞をも呼れて五百兩の盜賊《たうぞく》相知《あひし》れしにより人違《ひとちが》ひにて是迄雲源を苦《くるし》め候|間《あひだ》其代《そのかは》り雲源を宜敷《よろしく》扶持《ふち》致すべしと申渡され雲源は出牢《しゆつらう》となり利兵衞は得意を吉三郎に返さゞる段《だん》不屆《ふとどき》なれば身代を半分にして吉三郎に菊を娶《めあは》せ養子となし利兵衞|夫婦《ふうふ》は隱居《いんきよ》致す可し且つ彌太郎方へは又七を取戻《とりもど》せと申渡されけり [#8字下げ]第七回[#「第七回」は中見出し]  享保十二年十二月大岡殿|白洲《しらす》に於て申|渡《わた》し左之通り [#地から20字上げ]新材木町《しんざいもくちやう》 [#地から15字上げ]白子屋《しろこや》庄《しやう》三郎|養子《やうし》 [#地から18字上げ]又《また》七 妻《さい》 [#地から19字上げ]くま [#地から16字上げ]二十二歳 [#ここから2字下げ] 其方儀《そのはうぎ》手代《てだい》忠《ちう》八と密通《みつつう》致《いた》し不屆至極《ふとゞきしごく》に付《つき》町中《まちちう》引廻《ひきまは》しの上《うへ》淺草《あさくさ》に於《おい》て獄門《ごくもん》申|付《つ》くる [#地から15字上げ]白子屋《しろこや》庄《しやう》三郎|手代《てだい》 [#地から19字上げ]忠《ちう》八 [#地から16字上げ]二十八歳 其方儀|主人《しゆじん》庄三郎養子又七|妻《つま》熊と密通致し|其上《そのうへ》通《とほ》り油町《あぶらちやう》伊勢屋三郎兵衞方にて夜盜《やたう》相働《あひはたら》き金五百兩|盜《ぬす》み取り候段|重々《ぢゆう/\》不屆《ふとゞき》に付《つき》町中《まちぢう》引廻《ひきまは》しの上|淺草《あさくさ》に於て獄門《ごくもん》申付くる [#地から15字上げ]白子屋《しろこや》庄《しやう》三郎|下女《げぢよ》 [#地から19字上げ]きく [#地から17字上げ]十八歳 其方儀|主人《しゆじん》妻《つま》何程《なにほど》申付候共又七も主人の儀《ぎ》に付《つき》致方《いたしかた》も有之《これある》べき處主人又七に疵《きず》を付《つけ》剩《あまつ》さへ不義《ふぎ》の申|掛《かけ》を致さんとせし段|不屆至極《ふとゞきしごく》に付|死罪《しざい》申|付《つく》る [#地から16字上げ]白子《しろこ》屋|庄《しやう》三郎[#「白子《しろこ》屋|庄《しやう》三郎」は底本では「白子屋《しろこしやう》庄三郎」]|妻《つま》 [#地から19字上げ]つね [#地から17字上げ]四十歳 其方儀|養子《やうし》又七に疵《きず》付《つけ》剩《あまつ》さへ不義の申|掛《かけ》致候樣下女きくに申|付《つけ》る段人に母《はゝ》たるの行《おこな》ひに非《あら》ず不埓《ふらち》至極《しごく》に付《つき》遠島《ゑんたう》申|付《つく》る [#地から14字上げ]杉森《すぎのもり》新道《しんみち》孫右衞門店《まごゑもんだな》 [#地から20字上げ]針醫《はりい》 [#地から15字上げ]横山玄柳《よこやまげんりう》[#ルビの「よこやまげんりう」は底本では「よくやまげんりう」] 其方儀白子屋庄三郎|妻《さい》常《つね》始《はじ》めの惡事《あくじ》に荷擔《かたん》致《いた》し候段不屆に付|追放《つゐはう》申|付《つく》る [#地から18字上げ]新材木町《しんざいもくちやう》家持《いへもち》 [#地から12字上げ]白子屋《しろこや》庄《しやう》三郎 [#地から11字上げ]六十歳 其方儀|養子《やうし》又七に疵《きず》付《つけ》候|節《せつ》篤《とく》と樣子も見屆ず其上|妻《つま》常《つね》娘《むすめ》熊《くま》手代《てだい》忠《ちう》八不屆の儀を存ぜぬ段|不埓《ふらち》に付|江戸構《えどがまひ》申|付《つく》る [#地から20字上げ]同人手代《どうにんてだい》 [#地から15字上げ]清兵衞《せいべゑ》 [#地から16字上げ]彦《ひこ》八 [#地から16字上げ]長助《ちやうすけ》 [#地から16字上げ]伊助《いすけ》 其方共儀|不埓《ふらち》の筋《すぢ》も之なくに付《つき》構《かま》ひなし [#ここから1字下げ] 但《たゞし》當時《このころ》下女《げぢよ》久《ひさ》は病死《びやうし》に依《よつ》て名前《なまへ》之《これ》なし [#ここで字下げ終わり] 彼《か》の時《とき》髮結《かみゆひ》清三郎は上總《かづさ》へ迯行《にげゆき》し所|天網《てんまう》遁《のが》れ難《がた》く終《つひ》に召捕《めしとら》れ拷問《がうもん》の上殘らず惡事を白状に及びければ是《これ》亦《また》引廻《ひきまは》しの上|獄門《ごくもん》申付られけり偖《さて》亦お熊は引廻しの節《せつ》上《うへ》には黄《き》八|丈《ぢやう》下《した》には白無垢《しろむく》二ツを着《ちやく》し本繩《ほんなは》に掛り襟《えり》には水晶《すゐしやう》の珠數《ずず》を掛け馬に騎《の》りて口に法華經《ほけきやう》普門品《ふもんぼん》を唱へながら引かれしとぞ此時お熊の着《き》たるより世の婦女子《ふぢよし》黄《き》八|丈《ぢやう》は[#「黄《き》八|丈《ぢやう》は」は底本では「黄《き》八《ぢやう》丈は」]不義の縞《しま》なりとて嫌《きら》ひしは戯《たは》れ事の樣なれども其《そ》は貞操《ていさう》の意《こゝろ》とも云《いふ》べし然るを近來《ちかごろ》其事を知る者も稀《まれ》なりと雖も又《また》不開化《ふかいくわ》などといふ者もあらんか嗟《あゝ》愼《つゝ》しむべしと云《いふ》口《くち》も又《また》愼《つゝ》しむべし [#9字下げ]當時《そのころ》の狂歌《きやうか》に [#ここから1字下げ] 實《げ》に誠《まこと》名《な》は畜生《ちくしやう》の熊《くま》なれや不義《ふぎ》に曇《くも》りし胸《むね》の月《つき》の輪《わ》 白子屋《しろこや》を下《した》から讀《よめ》ばおやころし聟《むこ》を殺《ころ》さん心《こゝろ》怖《おそ》ろし 身《み》も婦人《ふじん》心《こゝろ》も不仁《ふじん》欲《よく》は常《つね》實《げ》に理不盡《りふじん》の巧《たく》みなりけり [#ここで字下げ終わり] 白子屋阿熊一件[#1段階小さな文字]終[#小さな文字終わり] [#改丁] [#ページの左右中央] 煙草屋喜八一件[#「煙草屋喜八一件」は大見出し] [#改丁] [#1段階大きな文字]煙草屋喜八《たばこやきはち》一件《いつけん》[#大きな文字終わり] [#8字下げ]第一回[#「第一回」は中見出し]  茲《こゝ》に享保年間|下總國《しもふさのくに》古河《こが》の城下に穀物屋吉右衞門《こくものやきちゑもん》と云者《いふもの》あり所に双《なら》びなき豪家《がうか》にて江戸表《えどおもて》にも出店《でみせ》十三|軒《げん》ありて何れも地面《ぢめん》土藏共《どざうども》十三ヶ所を所持なし出店《でだな》親類又は番頭若い者に至る迄大勢召仕ひ豐《ゆたか》に世を送《おく》りけるが一人の悴《せがれ》吉之助とて今年《ことし》十九歳|人品《じんぴん》能《よき》生《うま》れにて父母の寵愛《ちようあい》限《かぎ》りなく然《さ》れども田舍《ゐなか》の事なれば遊藝《いうげい》を習《なら》はせんと思へども然るべき師匠《ししやう》なきにより江戸|兩國《りやうごく》横山町《よこやまちやう》三丁目|角《かど》にて折廻《をりまは》し間口奧行拾三間づつ穀物《こくもつ》乾物《かんぶつ》類《るゐ》を商《あきな》ひ則ち古河の吉右衞門が出店なるを番頭|傳兵衞《でんべゑ》と云《いへ》る者|預《あづか》り支配《しはい》なし居たるが此處に吉之助を遣《つかは》して諸藝《しよげい》の師を撰《えら》み金銀に拘《かゝは》らず習《なら》はするに日々|生花《いけばな》茶《ちや》の湯《ゆ》其外《そのほか》遊藝《いうげい》彼是《なにくれ》と是を己が役にして居る所に兩國米澤町の花の師匠にて相弟子の六之助と云ふは同所《どうしよ》廣小路《ひろこうぢ》の虎屋の息子《むすこ》なるが何事も如才《じよさい》なく平生《へいぜい》吉之助とは交《まじは》り厚《あつ》かりしが或時《あるとき》吉之助を引誘《さそひ》納涼《すゞみ》に出し歸り懸《がけ》船中《せんちう》より直《すぐ》に吉原の燈籠《とうろう》を見物せんと勸《すゝ》めけるに吉之助は御當地《ごたうち》始《はじ》めての事なれば吉原は別《べつ》して不案内《ふあんない》ゆゑ堅《かた》く辭退《ことわり》此日は漸々《やう/\》宿《やど》へ歸り番頭傳兵衞に此事を話《はなし》ければ傳兵衞|首《かうべ》を傾《かたぶ》け六之助殿は江戸《えど》産《うまれ》の事にて何事も如才なきにより此事|御斷《おことわ》り切《きり》にもなるまじ若《もし》明日《みやうにち》にも又《また》誘引給《さそひたま》はゞ彼の地に行六之助殿に負《まけ》られてはお顏《かほ》の汚《よご》れることなれば金銀は隨分《ずゐぶん》奇麗《きれい》に御遣ひ成《なさ》れ斯樣々々になし給へと委細《ゐさい》を教《をしへ》けるにぞ吉之助承知して其後《そののち》又々|涼船《すゞみぶね》花火《はなび》見物《けんぶつ》の時六之助|同道《どうだう》にて吉原へ行き蓬莱屋《ほうらいや》と云ふ六之助が馴染《なじみ》の茶屋へ上りけるに吉之助は傳兵衞が教《をし》へは爰《こゝ》なりと女房《にようばう》[#ルビの「にようばう」は底本では「によくばう」]娘《むすめ》を始め若い者女子迄七八人|近付《ちかづき》に成《なら》んと惣纒頭《そうばな》を打《うち》江戸町一丁目|玉屋内《たまやうち》初瀬留《はせとめ》と云ふ娼妓《おひらん》を揚《あげ》程《ほど》なく妓樓《ぢよろや》へ伴《ともな》はれ陽氣《やうき》に酒宴《しゆえん》も濟《す》み床《とこ》へ入りしが六之助は夫より前《さき》初瀬留を密《ひそか》に招《まね》き吉之助は古河《こが》一番の大盡《だいじん》の息子《むすこ》にて江戸の店《みせ》へ遊藝稽古《いうげいけいこ》の爲に參られ此處へは始めての事なれば隨分《ずゐぶん》宜敷《よろしく》計《はか》らひ呉《くれ》よ此後も度々|連參《つれまゐ》らんと内證を吹込《ふきこみ》ける故初瀬留も男振《をとこぶり》は好《よ》し大盡の息子と聞き眞實《しんじつ》を盡《つく》して待遇《もてなし》けるにぞ吉之助は斯《かゝ》る遊びの初めて成《なれ》ば魂魄《たましひ》は天外《てんぐわい》に飛《とび》只《たゞ》現《うつゝ》の如くに浮《うか》れ是よりして雨の夜雪の日の厭《いと》ひなく通《かよ》ひしかば初瀬留も憎《にく》からず思ひ吉之助ならではと今は互《たがひ》に深《ふか》く云交《いひかは》し一|日《にち》逢《あは》ねば千秋の思ひをなすにぞ番頭傳兵衞は最初《さいしよ》己《おのれ》が教《をし》へし事の却《かへつ》て毒《どく》と成しかば大いに困《こま》り度々|異見《いけん》を加へ少《すこ》しの事は苦《くる》しからざれども最早《もはや》二箱近く御遣《おつか》ひ成されし故|御國許《おくにもと》の旦那へ聞《きこ》えては此傳兵衞申|譯《わけ》なしとて猶《なほ》種々《しゆ/″\》に異見致しけれども一|向《かう》に用ゆる氣色《けしき》もなく終《つひ》に翌《よく》享保《きやうほ》九年七月迄に金二千七八百兩|餘《よ》遣《つか》ひ捨《すて》たれば今は傳兵衞も惘《あき》れ果《はて》是非なく國許《くにもと》へ此由知らせしにより父吉右衞門是を聞《きゝ》て以《もつて》の外《ほか》に驚き憎《にく》き悴《せがれ》が行状《ふるまひ》言語同斷《ごんごどうだん》なりとて直樣《すぐさま》出府《しゆつぷ》なし吉之助を呼びて着類《きるゐ》を脱《ぬが》せ古袷《ふるあはせ》一枚|錢《ぜに》三百文與へて何國《いづく》へなりと出行《いでゆく》べしと勘當《かんだう》なしければ番頭若い者等|種々《いろ/\》詫言《わびごと》すると雖も吉右衞門承知せず其儘《そのまゝ》古河へ歸りけり依て吉之助は今更《いまさら》途方《とはう》に昏《くれ》此體《このなり》にては所詮《しよせん》初瀬留にも逢《あは》れず死ぬより外に詮術《せんすべ》なしと覺悟《かくご》を究《きは》め其夜兩國橋へ行き既《すで》に身を投《なげ》んと爲《し》たりし際《とき》小提灯《こちやうちん》を持ちたる男|馳寄《かけよつ》てヤレ待《また》れよと吉之助を抱《いだ》き止《とゞ》めるに否々《いな/\》是非死なねばならぬ事あり此所《ここ》放《はな》してと云ふを其《そ》はお若《わか》い衆《しう》不了簡《ふれうけん》死ぬは何時《いつ》でも易い事|先々《まづ/\》此方《こなた》へ來《こ》られよと云ふ面《かほ》見《み》れば吉原の幇間《たいこ》五八なれば吉之助は尚々《なほ/\》面目なく又もや身を投《なげ》んとせしを五八も驚き確《しつ》かと抱《いだ》き止《と》め是《こ》は若旦那にて有《あり》しか私し事は多く御恩《ごおん》に預《あづか》り何かと御贔屓下《ごひいきくだ》されし者なれば先々《まづ/\》譯《わけ》は後《あと》の事手前の宿《やど》へ御供を致し左《と》に右《かく》宜敷計らひ候はん初瀬留樣にも此程《このほど》は日毎に御噂《おうはさ》ばかりなりと無理《むり》に手を取り其邊《そのあた》りなる茶屋へ伴《ともな》ひ酒《さけ》肴《さかな》など出《いだ》させて種々|馳走《ちそう》をなし而《して》又《また》宵《こよひ》の事がらは如何なる譯《わけ》と問懸《とひかく》るに吉之助は面目《めんぼく》無氣《なげ》に答《こた》ふる樣此程父吉右衞門|國元《くにもと》より來り我等二千七八百兩の穴《あな》を明《あけ》しを大いに怒《いか》り終に勘當《かんだう》を請《うけ》たれば最早《もはや》初瀬留には逢事《あふこと》もならず所詮生て恥《はぢ》をかゝんよりはと覺悟《かくご》極《きは》めし事なりと一伍一什《いちぶしじふ》を物語れば五八は是を聞き終《をは》り夫《そ》は父公樣《おやごさま》の御腹立《おはらだち》も御道理《ごもつとも》なれど若い中には有《ある》習《なら》ひ又其中には御詫《おわび》の成《なさ》れ方も御座らう程に先《まづ》此度《このたび》は初瀬留樣と諸供《もろとも》御勘氣《ごかんき》の免《ゆる》さるまで此五八が御匿《おかくま》ひ申|上《あげ》んと力を付《つけ》夫より五八が宅へ連《つれ》歸《かへ》り女房にも[#「女房にも」は底本では「女房にて」]仔細《しさい》を話《はな》し初瀬留が方へも此事を知《しら》せけるにそ初瀬留は打驚《うちおどろ》き早速《さつそく》來《きた》りて吉之助に逢《あ》ひ私し故に御勘當《ごかんだう》の御身となられし由|嘸《さぞ》かし憎《にく》き者と思召《おぼしめさ》れんが此上は私し何事も御見繼《おみつぎ》申さんにより何處《いづく》へも行き給はず五八の方に居給へとて夫より呉服屋《ごふくや》へ言ひ付吉之助が衣類《いるゐ》其外《そのほか》何不自由《なにふじいう》なく送《おく》りければ是ぞ誠に鷄卵《たまご》に四|角《かく》の眞實《しんじつ》と仕送《しおく》らるゝ身は思ふなるべし或日五八は吉之助を連《つ》れ淺草の觀音へ參詣《さんけい》しけるに地内にて吉之助を呼掛《よびかけ》る者あり誰ぞと振返《ふりかへ》り見れば古河に在《あり》し際《とき》召使ひし喜八と云ふ者にて吉之助が側《そば》に來り貴君樣《あなたさま》には何時御當地へ御出《おんいで》有《あり》しや途中《とちう》ながら御容子《ごようす》伺《うかゞ》ひ度《たし》と申けるに此所は人立《ひとだち》繁《しげ》ければとて傍邊《かたへ》の茶屋に伴《ともな》ひ吉之助は諸藝稽古《しよげいけいこ》の爲め横山町の出店《でだな》へ來りしより多くの金を遣《つか》ひ込《こみ》父の勘當を請《う》け身を投《なげ》んとせし時に是なる五八に助《たす》けられ今は五八方に居て初瀬留に見繼《みつぎ》を受け不自由なくは消光《くらし》居れど何卒《なにとぞ》勘當《かんだう》の詫《わび》をせん爲に觀音へ參詣《さんけい》の處思はず其方に逢《あひ》しなりと委細《ゐさい》の事を話せしに喜八は大に驚きしが先《まづ》以《もつ》て五八殿とやらん御深切《ごしんせつ》の段《だん》忝《かたじ》けなし然《さり》ながら親旦那も只一人の若旦那を僅《わづ》か二千や三千の金位に御勘當《ごかんだう》とは餘りなり當分の見懲《みごらし》なるべきまゝ今にも私し參り御詫《おんわび》仕つらんなれども吉原に御在《ござ》られて女郎の世話になり給ふと有りては御詫の妨《さまた》げ今より直《すぐ》に私し方へ御供申さんと云ふにぞ五八も其理《そのり》に伏《ふく》し如何樣《いかさま》私し方に御出《おんいで》有《あり》ては却《かへつ》て御詫の妨げ此由初瀬留樣へも申べし自然《しぜん》御用もあらば御文は私し方へ遣《つか》はされよ御取次申べしと茲《こゝ》に於て五八は吉之助を喜八に渡《わた》し別れてこそは歸りけれ偖《さて》此喜八は古河吉右衞門が方に十年の年季《ねんき》を首尾能《しゆびよ》く勤《つと》め上《あげ》吉右衞門より金五十兩|貰《もら》ひて穀物店《こくもつみせ》を江戸へ出しけるが二年の間《あひだ》に三度|類燒《るゐせう》なし資本《もとで》を失《うしな》ひしかば是非なく今は麻布原町《あざぶはらまち》に刻煙草《きざみたばこ》の小店を出し其身《そのみ》は日々|糶賣《せりうり》をして女房に店は任《まか》せ漸々《やう/\》其日を送りけるが此喜八|素《もと》より實體《じつてい》なる者故に困《こま》ればとて人に無心|合力《がふりよく》などは決《けつ》して云し事なく幽《かすか》な渡世《とせい》にても己れが果福《くわふく》なりと斷念《あきらめ》其日を送りける然《され》ば喜八は吉之助を連歸《つれかへ》りしかど我が家は貧窮《ひんきう》にして九尺|間口《まぐち》の煙草店《たばこみせ》故《ゆゑ》別《べつ》に此方へと言所《いふところ》もなく夫婦諸共《ふうふもろとも》吉之助を勞《いたは》ると雖も夜《よる》の物さへ三布蒲團《みのぶとん》一を漸くに二人|着《き》て寢《ね》し事なれば吉之助に着《き》せる物なく其夜は右《みぎ》の三布蒲團を吉之助に着せ夫婦は夜中《やちう》辻番《つじばん》を抱《だい》て夜を明《あか》しけれども是にては主人を暖《あたゝか》に寢《ね》かす事ならず豫《かね》て金二分に質入《しちいれ》せし抱卷《かいまき》蒲團《ふとん》有《あれ》ども其日を送る事さへ心に任《まか》せねば質《しち》を出す金は猶更《なほさら》なく其上吉之助一人口が殖《ふゑ》難儀《なんぎ》の事故夫婦は膝《ひざ》を突合《つきあは》せ相談なすに妻のお梅は漸く二十三歳にて縹緻《きりやう》もよく志操《こゝろざし》優《やさ》しき者なるが夫《をつと》の難儀《なんぎ》を見兼《みかね》何事も御主人樣《ごしゆじんさま》のお爲なれば此身を一年の間《あひだ》何方《いづかた》へ成《なり》とも水仕奉公《みづしほうこう》に遣られ其給金にて夜具蒲團を質請《しちうけ》して御主人を暖《あたゝ》かに休《やす》ませられよ外《ほか》に思案は有まじと貞節《ていせつ》を盡して申を聞き喜八も涙を流して其志操《そのこゝろざし》を感《かん》じ僅《わづか》二分か三分の金故妻を奉公に出さん事も口惜《くちをし》けれども外に工面《くめん》の致し方なく此上は一人の口を減《へら》すより外なしと近所《きんじよ》の口入を頼みけるに早速《さつそく》能《よ》き口ありて麻布《あざぶ》我善坊谷《がぜんばうだに》火附盜賊改《ひつけたうぞくあらた》め組與力《くみよりき》笠原粂之進《かさはらくめのしん》と云ふ方へ中働《なかばたら》きに住込《すみこみ》ける是にてお梅の給金三兩の中《うち》取替《とりかへ》金《きん》二兩|借《か》り内金一兩二分はお梅素より何一ツなければ夜具其外支度に掛殘りの二分は質物に入れたる夜具蒲團を請出《うけいだ》し吉之助樣に着《きせ》進《まゐ》らせられよとお梅は頓《やが》て奉公にこそ出でたりけれ [#8字下げ]第二回[#「第二回」は中見出し]  然程《さるほど》に喜八は妻のお梅を奉公に出《いだ》し取替《とりかへ》として金二兩|借《か》り内一兩二分は支度《したく》に遣《つか》ひ殘り二分を持《もち》て同町の質屋源右衞門方《しちやげんゑもんかた》へ行き當夏《たうなつ》入置《いれおき》し夜具蒲團を請出《うけいだ》しけるに此質屋|此邊《このへん》にての善《よき》身代《しんだい》故《ゆゑ》多く下質《したしち》を取りけるが今外より下質の金八十兩|請取《うけとり》亭主《ていしゆ》は財布《さいふ》に入れけるを喜八|熟《ぢつ》と見て居たりしが心の中に偖々《さて/\》有處《あるところ》には澤山《たくさん》に有るもの哉我は只二分の金にさし支《つか》へ妻を奉公に出せしに八十兩と云ふ金を石《いし》か瓦《かはら》の如く取扱ふ事|偖々《さて/\》世《よ》の渡世《とせい》の貧福《ひんぷく》は是非もなし我に八十兩の金あれば主人に不自由もさせず一ツには勘當《かんだう》の詫《わび》の種《たね》にもなり二ツには妻に辛《つら》き奉公はさせまじと倩々《つく/″\》思ひ運《めぐら》す程《ほど》世の無端《あじきなき》を詫《かこ》ち爰《こゝ》の身代にて八十兩位は我が百文の錢程にも思ふまじ何事も御主人の爲と思ひ那《あの》金八十兩を盜取《ぬすみとら》んと喜八が不※[#「圖」の「回」に代えて「面から一、二画目をとったもの」、160-17]《ふと》胸《むね》に浮《うか》みしは是《これ》災難《さいなん》の基《もとゐ》なり夫より喜八は質物を我家《わがや》へ持歸《もちかへ》りて吉之助を寢《ね》かし置《おき》其夜《そのよ》丑《うし》の刻《こく》とも思しき頃|豫《かね》て研澄《とぎすま》したる出刄庖丁《でばばうちやう》を懷中《くわいちう》なし頬冠《ほゝかぶ》りして忍び出《いで》頓《やが》て質屋の前へ行き四邊《あたり》を見るに折節《をりふし》土藏《どざう》の普請《ふしん》にて足代《あししろ》の掛り居たれば是《これ》僥倖《さいはひ》と其足代より登《のぼ》りしが流石《さすが》我ながらに怖《おそ》ろしく戰々《わな/\》慄々《ふるへる》を漸くに踏《ふみ》しめ勝手《かつて》の屋根《やね》へ到《いた》らんとする機《をり》思ひも寄らぬ近傍《かたへ》の窓《まど》より大の男ぬつくと出ければ喜八はハツと驚き既に足を踏外《ふみはづ》さんとするに彼の男は是を見て汝は何者なるや我《われ》今宵《こよひ》此質屋へ忍び入り思ひの儘《まゝ》に盜《ぬす》まんと今《いま》引窓《ひきまど》より這入《はひり》たるに屋根にて足音《あしおと》する故|不思議《ふしぎ》に思《おも》ひ出來《いできた》りたり汝聲を立てなば一|討《うち》と氷《こほり》の如き刄《やいば》を突付《つきつけ》る故喜八は増々《ます/\》驚き齒の根《ね》も合ざりしが漸くに息《いき》を呑《のみ》こみ私しことは此家《このや》へ盜賊《たうぞく》に這入《はひ》らん爲に只今屋根へ登《のぼ》りしなり見遁《みのが》したまへと申ければ彼男は微笑《ほゝゑみ》ナニ盜賊に這入らんとする者が其樣に震《ふる》へては所詮《しよせん》盜《ぬす》む事出來ず偖《さて》は貧《ひん》に迫《せま》りし出來心の新《しん》まい盜人《どろばう》かと云ふに喜八仰せの通《とほ》り何をか隱《かく》し申すべき私しは此谷町に[#「谷町に」はママ]住《すむ》喜八とて幽《かすか》に暮《くら》す者なるが昨日主人の若旦那を私し方へ預《あづか》り候處夫婦の着《き》たる三布蒲團《みのぶとん》一ツの外《ほか》はなく金の才覺《さいかく》は尚《なほ》出來ず是非なく妻を奉公に出《いだ》し取換《とりかへ》の二分にて質《しち》に入置《いれおき》し夜具を請《うけ》に先刻《さきほど》此家へ參りし處八十兩の金を掛硯《かけすゞり》の引出しへ入置處《いれおくところ》を見たるに付|何卒《なにとぞ》是《これ》を盜《ぬす》み御主人の不自由を救《すく》ひ勘當の詫《わび》の種にも爲《なし》又妻をも取戻《とりもど》して消光度無《くらしたくなく》ては叶《かな》はぬ金子故|主《しう》の爲には親をも捨《すて》る習《なら》ひ後日に我が首を切《きら》るゝ如きは容易《おろか》と思ひ道ならぬ事|乍《なが》ら盜《ぬす》みに參りしと有《あり》の儘《まゝ》に語りければ彼の男是を聞き汝が見たる八十兩は是なるやと懷中《くわいちう》より取出して見せければ如何にも是にて候と云に彼の男喜八の體《てい》を見て其方其如く慄《ふる》へては此金を取らん事思ひも寄《よ》らず今云事の僞《いつは》りにも有《ある》まじ主《しう》の爲の出來心にて盜みに來りしと正直《しやうぢき》に云ふ事の憫然《あはれ》なれば此金を汝に與へん間|主人《しゆじん》の難儀《なんぎ》を救《すく》ひ妻をも取戻《とりもど》せと財布《さいふ》の儘《まゝ》喜八に渡しけるにぞ喜八は押戴《おしいたゞ》き偖々《さて/\》世の中に其許《そのもと》の如き盜賊は稀《まれ》なるべし命を的《まと》に掛て取りたる金を我に與へ給ふは誠に有難《ありがた》し然らば申受んと涙を流し此御恩《このごおん》は死すとも忘《わす》れ申さず何卒《なにとぞ》其許《そのもと》の御名を聞《きか》せ給はるべしと云ひければ彼の男|點頭《うなづき》我は田子《たご》の伊兵衞《いへゑ》と云ひて一|通《とほり》の盜賊に非ず百兩や二百兩の金は然《さ》のみ大金とも思はず今迄《いままで》火附《ひつけ》人殺《ひとごろ》し夜盜等《よたうとう》の數自分ながらも何程か知れず明日にも召捕《めしと》られ其罪科《そのざいくわ》に行《おこな》はれなば汝今の情《なさけ》を思ひ我が亡跡《なきあと》を弔《とふら》ひ呉《くれ》よ此外に頼み置事《おくこと》なし汝に逢《あ》ひしも因縁《いんえん》ならん疾々《とく/\》見付られぬ中《うち》歸るべし/\我は未《いま》だ仕殘《しのこ》したる事ありと云ひつゝ又《また》引窓《ひきまど》よりずる/\と這入《はひ》り質物《しちもつ》二十餘品を盜《ぬす》み出し其上《そのうへ》臺所《だいどころ》へ火を付|何處《いづく》共《とも》なく迯失《にげうせ》けり折節《をりふし》風《かぜ》烈《はげし》く忽ち燃上《もえあがり》しかば驚破《すは》火事《くわじ》よと近邊大に騷ぎければ喜八はまご/\して居たりしが狼狽《うろたへ》漸々《やう/\》屋根よりは下《おり》たれ共|足《あし》縮《ちゞみ》て歩行《あゆま》れず殊に金子と庖丁《はうちやう》を懷中《くわいちう》に入れし事なれば若し見咎《みとがめ》られては大變《たいへん》と早々|迯出《にげいだ》す向ふより火附盜賊改め役|奧田主膳殿《おくだしゆぜんどの》組《くみ》の與力同心を二三十人連て此處へ來らるゝ故喜八は夫と見るより一|趁《さん》に駈拔《かけぬけ》んとしけるを奧田が組下《くみした》山田《やまだ》軍平《ぐんぺい》と云者喜八が形《かたち》を見て怪《あやし》み曲者《くせもの》待《まて》と聲を掛ながら既に捕《とら》へんと喜八の袖を押《おさ》へしにぞ喜八は一|生《しやう》懸命《けんめい》と彼の出刄庖丁にて軍平が捕へたる片袖《かたそで》を切《きつ》て早くも人込《ひとごみ》の中へ迯込《にげこん》だり軍平も後《あと》より追駈《おつかけ》けれども終に見失《みうしな》ひ切たる片袖は軍平が手に殘《のこ》りければ奧田が前へ持出《もちいで》て只今火附を捕へんとせし處斯の如く袖を切りて迯行《にげゆき》候と申けるに奧田殿|扨々《さて/\》夫《それ》は惜《をし》き事なり然らば切たる袖は後の證據とならん是へとて右の袖を見らるゝに辨慶縞《べんけいじま》の單物《ひとへもの》古《ふる》きを茶に染返《そめかへ》したる布子《ぬのこ》なり是は取置《とりおけ》と申付られ頓《やが》て火も鎭《しづま》りしかば皆々火事場を引《ひか》れけり扨又喜八は危《あやふ》くも袖を切て其の場を遁《のが》れ漸々《やう/\》我家へ歸りて胸《むね》撫下《なでおろ》し誠に神佛の御蔭《おかげ》にて助《たすか》りたりと心の内に伏拜《ふしをが》み吉之助には火事にて驚きたりと僞《いつは》り彼の八十兩の金は戸棚《とだな》の隅《すみ》に重箱有りける故其中へ入《いれ》置《おき》既《すで》に休《やす》まんとする時表の戸を叩《たゝ》く者《もの》有《あり》偖《さて》は役人後を追來りしかど更に心も落付《おちつか》ず返事さへ碌《ろく》にせざれば表には又々《また/\》叩《たゝき》早く此處をお開下《あけくだ》されと云ふを聞けば女の聲なる故|不思議《ふしぎ》に思ひ少《すこ》し戸《と》を明《あけ》其許《そのもと》は何用有て此の夜更《よふけ》に來られしや云ふに彼女私しは吉原より參りし者なり吉之助樣にお目に懸《かゝり》たしと云ふ聲初瀬留|成《なれ》ば吉之助は奧より走出《はしりいで》大いに驚き如何して夜中《やちう》遙々《はる/″\》の處を來りしや先《まづ》此方《こなた》へ這入《はい》られよと云ふに初瀬留は御免成《ごめんなさ》れと戸口を入り漸々《やう/\》に胸《むね》撫下《なでおろ》し餘りの御懷《おなつか》しさに今宵《こよひ》廓《くるわ》を逃亡《かけおち》して此處へ來りしと物語《ものがた》りなど彼是なす中程なく夜も明《あく》るにぞ喜八は起出《おきいで》引窓《ひきまど》を明け釜元《かまもと》を焚付《たきつ》け扨々|昨夜《ゆうべ》は危き事かなと一人|云《いひ》つゝ吉之助初瀬留をも起《おこ》さんとしける折《をり》昨夜《さくや》喜八を捕《とら》へたる山田軍平は朝湯《あさゆ》の歸り掛け煙草《たばこ》を買《かは》んと喜八の店《みせ》に立寄《たちより》しが未だ表《おもて》は締《しま》り居る故|煙草《たばこ》を呉《くれ》と聲を掛《かけ》しかば喜八ハイと答へて揚戸《あげど》を上《あげ》る時《とき》袂《たもと》の斜《はす》に引裂《ひきさけ》てあるゆゑ軍平は眼《め》を留《とめ》て見るに縞柄《しまがら》も昨夜の布子《ぬのこ》に相違《さうゐ》なければ直《すぐ》に召捕んとせしが取迯《とりにが》しては一大事と然有《さあら》ぬ體《てい》にて煙草を買ひて歸りがけ直《すぐ》に笠原粂之進《かさはらくめのしん》の方《かた》へ行き夜前《やぜん》の火付は原町の煙草屋喜八と云ふ者なり今朝《こんてう》私し煙草を買《かひ》候時|渠《かれ》が布子の縞《しま》能《よ》く似《に》たれば心を付て見るに袂《たもと》の切れてあり然《さ》すれば昨夜の火付は渠《かれ》の業《わざ》に相違なく早々《さう/\》召捕《めしとり》給へと申するに粂之進|然《しか》らば取迯《とりにが》さぬ樣|支度《したく》せよとて手配《てくばり》にぞかゝりける喜八は如何に周章《あわて》しや昨夜の布子を着替《きかへ》もせず居たりしは拙《つたな》き運と知られけり茲に原町の家主に平兵衞《へいべゑ》と云ふ者あり近邊《きんぺん》にて評判の如才《じよさい》なき男にて至つて慈悲《じひ》深《ふか》く人を憐《あはれ》みけるが平生《へいぜい》喜八の正直なる心を感《かん》じ何時も憫然《あはれ》を掛《かけ》ける處に町内の自身番屋《じしんばんや》へ火附盜賊改役[#「火附盜賊改役」は底本では「火附賊盜改役」]奧田主膳殿組下與力笠原粂之進は同心を引連《ひきつれ》來《きた》りて平兵衞を呼び其方《そのはう》店子《たなこ》煙草屋《たばこや》喜八事御用の筋《すじ》有《ある》に依《より》案内《あんない》致せとて平兵衞を先に立て同心二人喜八が宅《たく》へ來り御用の聲と諸共《もろとも》に高手《たかて》小手《こて》に喜八を縛《いまし》め引立《ひきたて》行《ゆく》にぞ吉之助初瀬留は大いに驚き是は如何にと呆《あき》れ果《はて》たるばかりなり斯くて粂之進は彼の切れたる袖と喜八が着《き》たる布子を合せ見るにしつくりと合《あひ》ければ扨は此者に相違《さうゐ》なしとて家内を檢査《あらため》しに戸棚の隅《すみ》の重箱に財布《さいふ》に入りたる金八十兩有りければ彌々《いよ/\》盜賊火附に極《きはま》りしと此趣《このおもぶ》きを添状《そへじやう》にて町奉行大岡殿へ引渡《ひきわた》し吉之助初瀬留の兩人は家主《いへぬし》へ預《あづ》けられたり偖《さて》喜八儀は火附盜賊に相違なしとて送りに成《なり》しかば直樣《すぐさま》入牢《じゆらう》申付られしに付き家主平兵衞は喜八を片蔭《かたかげ》へ招《まね》き段々《だん/\》の樣子を聞《きく》に喜八は主《しう》の爲《ため》妻を奉公に出し其給金にて質《しち》を請出《うけだ》し八十兩の金を見て不※[#「圖」の「回」に代えて「面から一、二画目をとったもの」、163-13]《ふと》出來心《できごころ》より其夜忍び入りて伊兵衞と云へる盜賊に右の八十兩を貰《もら》ひし迄《まで》現《あり》のまゝ具《つぶさ》に語《かた》りけるにぞ家主は始めて是を聞《きゝ》憫然《あはれ》に思ひ如何にもして御慈悲《おじひ》を願ひて見るべしと夫より平兵衞は宅《たく》へ歸り吉之助初瀬留に對《むか》ひ偖々《さて/\》喜八は憫然《あはれ》にも是々の事により最早《もはや》近々《ちか/″\》御所刑《おしおき》に成《なる》べし偖々是非もなき事なりと語りしかば吉之助大いに驚き扨は喜八事我が爲の出來心にて盜《ぬす》に入り既に御所刑にならんとか然《さ》すれば我が手で殺すも同じ事なり同人を殺し汚面々々《をめ/\》と我而已《われのみ》生《いき》て勘當《かんだう》免《ゆる》さるゝとも何の悦《よろこ》びか有《あら》ん我も冥土《めいど》の途連《みちづれ》せんとて既に首を縊《くゝる》べき體《てい》なれば初瀬留も是を聞き其元の起《おこ》りは皆私し故なれば倶々《とも/″\》死《しな》んと同じく細帶《ほそおび》を梁《はり》へ掛《かけ》るにぞ家主は慌《あわ》て狼狽《ふためき》漸々《やう/\》と兩人を止《とゞ》め今二人とも此處にて死なれては我一人の難儀なり何分《なにぶん》此儀《このぎ》は我等に任《まか》せ給へよしや無事に行《ゆか》ず共|切《せめ》ては喜八が御慈悲願《おじひねが》ひを致して見ん夫に就て急々《きふ/\》古河《こが》へ相談《さうだん》なし度《たき》ものなれども外の人を遣《つかは》しては事の分《わか》るまじければ詮方《せんかた》なし我古河へ行きて吉右衞門殿に面談《めんだん》を遂《と》げ其上喜八が命乞《いのちごひ》首尾《しゆび》能《よ》く濟《すま》し申べし其間《そのあひだ》必ず/\御兩人とも短見《はやまり》給ふなと異見《いけん》をなし妻にも能々《よく/\》云付《いひつけ》置《おき》長屋の者を頼みて平兵衞は早々《さう/\》調度《したく》をなし下總《しもふさ》の古河へぞ赴《おもむ》きける [#8字下げ]第三回[#「第三回」は中見出し]  偖も家主平兵衞は古河をさして道を急《いそ》ぎ程なく穀物屋吉右衞門方へ尋《たづ》ね到《いた》り某《それが》しは江戸麻布原町家主平兵衞と申者なるが此方《こなた》の御子息《ごしそく》吉之助殿の事に付て少々《せう/\》御相談《ごさうだん》申度儀之あり故意々々《わざ/\》參りたり吉右衞門殿|御在宿《ございしゆく》かと申|入《いれ》けるに番頭其事を主人に告《つげ》しかば奧より吉右衞門立ち出來り互《たが》ひに一禮|終《をは》りて平兵衞を奧へ伴《ともな》ひけるに平兵衞|状《かたち》を改《あらた》め拙者《せつしや》店子《たなこ》の喜八と申者元は其許樣の方に勤《つと》めしとの事なるが此度《このたび》不慮《ふりよ》の災難《さいなん》にて火附盜賊に陷《おちい》り召捕《めしとら》れたり其原《そのもと》の起りは御子息《ごしそく》吉之助殿故なり其譯《そのわけ》は斯樣々々の事なりと淺草《あさくさ》にて吉之助に逢《あひ》しより喜八方へ引取り勘當《かんだう》の詫《わび》をせんと妻を奉公に出《いだ》し夫より不※[#「圖」の「回」に代えて「面から一、二画目をとったもの」、164-12]《ふと》出來心にて質屋《しちや》へ夜盜《よたう》に入りし事|顯《あらは》れ既に御仕置《おしおき》にも極まる由夫故|御慈悲願《おじひねが》ひをせんと存ずる處に又吉原より女郎初瀬留吉之助殿を慕《した》ひ逃亡《かけおち》して來りし處喜八が右の一件に付兩人共生ては居られぬ其原《そのもと》の起りは吉之助殿初瀬留が故なりとて既《すで》に縊《くびれ》んとするを漸々《やう/\》宥《なだ》め賺《すか》し置《おき》何卒《なにとぞ》喜八が罪を助けたく態々《わざ/\》是迄參りたりと具《つぶさ》に話しければ吉右衞門夫婦は大いに驚き偖々夫は御深切《ごしんせつ》忝《かたじ》けなし悴《せがれ》を勘當《かんだう》致せしも當分の見懲《みこらし》と存ぜしなり五八とやらは幇間《たいこ》などに似合《にあは》ぬ深切なる者又初瀬留事も誠《まこと》に惜《をし》き心底《しんてい》其樣な女ならば傾城《けいせい》にても苦《くる》しからず身請《みうけ》致し夫婦に致さんと存ずるが何卒《なにとぞ》御世話下されまじきやと母の頼みなれば吉右衞門も平兵衞に對《むか》ひ何卒此上は貴殿《きでん》へ御任せ申間宜敷|御取計《おとりはから》ひ下され候樣にと申にぞ家主平兵衞夫は何より易《やす》き事吉之助殿|并《ならび》に初瀬留の事は我等|預《あづか》り置《おき》し儘《まゝ》案事《あんじ》給ふに及ばず兎角目前に喜八が難儀《なんぎ》を救《すく》ひ度《たく》存《ぞん》ずるなり因ては我等と倶《とも》に江戸へ出府《しゆつぷ》有《ある》べしと申にぞ吉右衞門も委細《ゐさい》承知なし金子は何程《なにほど》入りても苦しからず何分《なにぶん》宜《よろ》しく頼み申と夫より吉右衞門平兵衞の兩人は駕籠《かご》にて晝夜《ちうや》を急がせ江戸へ出しが是迄老中松平右近將監殿へ度々用金を指出《さしいだ》せし縁《えん》も有《あれ》ばとて吉右衞門は屋敷へ到《いた》り喜八の一件を歎願《たんぐわん》せしに最早《もはや》罪科《ざいくわ》極《きはま》り御所刑《おしおき》付《づけ》へ老中方の判も据《すわ》りたり今少し早くば致方も有《ある》べきに今更是非なしとの事なれば吉右衞門平兵衞共に途方《とはう》に暮《く》れ寥々《すご/\》と歸りしが吉右衞門は如何程《いかほど》金子入用にても何卒喜八を助けんとて種々《いろ/\》と平兵衞に相談する機《をり》から思ひも寄らず喜八が妻のお梅|主家《しうか》を遁《のが》れ歸りけるが此主人は先達《さきだつ》て喜八を捕《とら》へ出したる盜賊改め奧田主膳殿組與力笠原粂之進にて則《すなは》ち此家へお梅奉公致しけるが此粂之進|獨身《どくしん》ゆゑ此お梅の縹緻《きりやう》宜《よき》に戀慕《れんぼ》し種々《いろ/\》と口説《くどく》と雖も此お梅|貞節《ていせつ》の女なれば決して從《したが》はざるにより彌々《いよ/\》粂之進思ひを増《まし》種々《いろ/\》に手を變《かへ》云《いひ》寄《よる》ゆゑ夫《をつと》喜八と申者|在《ある》中《うち》は御心に從ひては女の道|立《たち》申さずと一|寸《すん》遁《のが》れに云拔《いひぬけ》けるを或時粂之進|茶《ちや》を汲《くま》せ持來《もちきた》る其手を捕《と》らへ是程までに其方を執心《しふしん》し種々|口説《くどけ》ども夫《をつと》ある故從ひ難しと申が夫なくんば我が心に從ふやと云ふにお梅は差俯向《さしうつむき》しまゝ答へをなさざれば其方|夫《をつと》有ると思ふかや夫《をつと》は疾《はや》亡《なき》身《み》なり因て我に隨《したが》ふべしと云ひければお梅は不審《いぶかり》何故《なにゆゑ》夫《をつと》なしと云ひ給ふと問《とふ》に粂之進は微笑《ほゝゑみ》其方が夫喜八は火附盜賊をなし町奉行所へ送られたれば近々《きん/\》御所刑《おしおき》に成《なる》べし其妻の其方なれば同罪《どうざい》なれども我其方を深《ふか》く隱《かく》し是まで恙《つゝが》なく置《おき》しは全《まつた》く我が恩なり因て我に從ひ申すべし所詮《しよせん》喜八が命は助《たす》からぬなりと云ひければお梅は大いに驚きしが是は粂之進我を手に入れんが爲の僞《いつは》りならんと思ひ夫は何故火附盜賊をば致せしやと云ふに粂之進は喜八が火附盜賊に陷《おちい》りし始末《しまつ》も殘らず話しければお梅はハツとばかりに胸《むね》閉《ふさ》がり暫《しば》し詞《ことば》もなかりしが偖々|情《なさけ》なしと思ひ粂之進に對《むか》ひ何卒私しに御暇下さるべし夫《をつと》と共に御所刑《おしおき》に成《なり》申べし科人《とがにん》の女房を御免成《おゆるしなさ》れて御役目の障《さはり》に成《なる》べしと申けるを粂之進|首《かうべ》を振《ふり》我其方に心を懸《かく》ればこそ沙汰《さた》なしに致し置《おき》たり其恩を思はゞ我方《わがかた》に居よ暇《いとま》は出すまじと無體《むたい》に引寄《ひきよせ》るをお梅は突退《つきのけ》耳《みゝ》にも入れず若《もし》御暇下《おいとまくだ》されずは逃亡《かけおち》しても宿《やど》へ參らんと云へば粂之進大いに憤《いきど》ほり斯程迄《かほどまで》に心を盡《つく》したる甲斐《かひ》もなく辛《つら》かりし事思ひ知らせん隨《したが》へばよし隨《したが》はすは斯《かく》の通《とほ》りと刀を拔《ぬい》て胸先に押當《おしあつ》れどもお梅は夫《をつと》の事のみ心に懸《かゝ》り勿々《なか/\》怖《おそ》るゝ容子《ようす》もなく殺《ころ》さば殺し給へ決して隨ふまじと罵《のゝし》る故《ゆゑ》粂之進は刀を拔《ぬき》は拔たれども素《もと》より殺す心なければ納《をさ》め方《かた》に困《こま》り居るを中間《ちうげん》七助と云ふ者|先刻《せんこく》より此樣子を見て心《こゝろ》可笑《をかし》く走り出で主人を止《とゞ》め先々《まづ/\》御待下《おんまちくだ》さるべし只今彼方にて承まはりしが御立腹《ごりつぷく》は御道理《ごもつとも》なり然しながら女を手に入れんと思召《おぼしめさ》ば欺《だま》すに如《しく》なし是は私しに御任せ有るべしお梅に篤《とく》と申|聞《きか》せ御心に隨ふ樣|得心《とくしん》致させ申べし先々|御刀《おんかたな》は御納《おんをさ》め下されよと云ふを幸《さいは》ひに粂之進は刀を納め彌々《いよ/\》其方《そのはう》取持呉《とりもちくれ》んとならば任する程に能々《よく/\》仕課《しおほ》せ手に入れよ是は當座の褒美《はうび》なりと金三兩|投出《なげいだ》せしかば七助有難しと押戴《おしいたゞ》くを又不承知なれば其金を取返《とりかへ》すぞ然樣《さやう》心得《こゝろえ》よと云ふ處へ御廻《おまは》り御出と觸來《ふれきた》るにぞ則ち粂之進も支度《したく》をして廻り場へ出行《いでゆき》けり跡《あと》には七助お梅に對《むか》ひ所詮《しよせん》其方《そなた》も旦那は嫌《いや》なるべし我《われ》取持《とりもち》せん事も骨折損《ほねをりぞん》出來ぬ時は却《かへ》つて首尾《しゆび》惡《わろ》し然らば其方には少しも早く此處を逃亡《かけおち》致されよ我も辯解《いひわけ》なければ是より宿へ歸る可《べし》三十六|計《けい》走るに如《しか》じ我が宿《やど》は牛込《うしごめ》改代町《かいたいまち》芋屋《いもや》六兵衞と云者《いふもの》なり用事有らば云越《いひこし》給へと兩人|云合《いひあは》せ早々に支度《したく》して七助は牛込お梅は平兵衞方へ迯歸《にげかへ》りしなり然《され》ば委細の譯《わけ》を物語るにぞ平兵衞は聞終《きゝをは》り是は喜八を助くる手段《しゆだん》も出來たりと云へば吉右衞門|夫《それ》は何故ぞと云ふ平兵衞は膝《ひざ》を進《すゝ》め喜八が科《とが》なき次第を女房に呑込《のみこま》せ斯樣《かやう/\》訴状《そじやう》に認《したゝ》め喜八を助け申さん何事も我に任せ給へと頓《やが》てお梅に駈込訴訟《かけこみそしよう》の仕樣を教《をし》へ願書を認め是を以て奉行所《ぶぎやうしよ》の門を入り右の方の訴へ所へ行き斯々《かう/\》致すべし然《さ》れど主人を相手取《あひてどる》公事《くじ》なれば白地《あからさま》には訴へ難し唯《たゞ》何《なに》となく樣子あり氣《げ》に暇《いとま》を呉《くれ》候樣に御願ひ申すとばかり認め是をお梅に持《もた》せ平兵衞同道にて奉行所の屋敷《やしき》近邊《きんぺん》まで附添行《つきそひゆき》那《あ》の門より這入《はいれ》と教へて立歸りしかばお梅は素足《すあし》に成りて奉行所の門より訴訟所《うつたへじよ》へ行き御願ひ申上ますと云ふに役人是を聞《きゝ》町役人を以て願へと雖も聞入《きゝいれ》ず叫《さけ》びける故|頓《やが》て門外《もんそと》へ送り出すにぞお梅は腰掛《こしかけ》にて暫時《しばし》休息《きうそく》し又々訴訟所へどつさり坐《すわ》り以前の如く申故又々送り出され最早《もはや》夜に入り門も鎖《しま》りければ是非|無《なく》腰掛《こしかけ》に夜を明し居るに其夜平兵衞|竊《ひそか》に辨當《べんだう》を持來りて與へ明日御奉行樣御登城掛を待ち受け御駕籠《おかご》に付て願ふべし御駕籠の中《うち》より何事ぞと尋《たづ》ねらるゝ時《とき》夫《をつと》の難儀《なんぎ》御救《おんすく》ひの御慈悲を願ひ上《あげ》ますと云ふべし御奉行樣《おぶぎやうさま》今は登城前《とじやうまへ》なり後迄《のちまで》腰掛に控《ひか》へよと有らば其時|又《また》茲《こゝ》へ來りて休息《きうそく》せよ晝時分《ひるじぶん》呼込《よびこみ》ある時駕籠の訴への女《をんな》罷出《まかりいで》よと有らば御門へ入り左の方より白洲《しらす》の溜《たま》りへ行て控《ひか》へ居《をり》御呼出《およびだし》にて御白洲へ出《いで》此訴状を出すべし御奉行樣の傍《そば》に居る目安方《めやすかた》の御役人是を讀上《よみあ》げ此書付《このかきつけ》は何者が認めたるやと御尋《おたづ》ねの時|我《われ》書《かき》たりと云ひては惡《わる》し因て昨日御門へ這入《はひり》兼《かね》て御門前を胡亂々々《うろ/\》致《いたし》候處へ御武家樣《おぶけさま》御通り掛り成れ候て其方は駈込訴訟《かけこみそしよう》かと御聞成《おきゝなさ》れ候間|然樣《さやう》なれども如何して宜敷《よろしき》やと承まはり候へば斯樣々々《かやう/\》致せと御教へ成《なさ》れ其上訴状は持來《もちきた》りしかと御尋《おんたづね》故《ゆゑ》之なくと申ければ然《しか》らば認め遣《つかは》すべしとて記《しるし》て下され候と申べし夫《それ》さへ云へば後《あと》は此方の物|向《むか》ふが大岡樣なれば何事も察《さつ》し有《ある》べしと教へ平兵衞は我が家に歸りけるにお梅は悦《よろこ》びつゝ夜の明《あく》るをも待詫《まちわび》居たるに姑《しばら》くして夜も明放《あけはな》れ辰刻過頃《いつゝすぎごろ》大岡殿登城の樣子にて供廻《ともまはり》嚴重《げんぢう》に立出られしかば平兵衞の教《をし》への如くお梅は駕籠訴《かごそ》に及びしに腰掛に控へよと申|付《つけ》られ頓《やが》て呼び込に相成《あひなり》白洲《しらす》に於て訴状の趣《おもむ》き御尋ね有りしかば是又教へられし通《とほり》申|立《たて》目安方《めやすかた》之を讀上る時大岡殿お梅に向《むか》はれ其方主人へ暇《いとま》を願へども出《いだ》さず其上《そのうへ》度々《たび/\》不義《ふぎ》申|掛《かけ》しを夫《をつと》有《ある》身《み》なれば隨はざるにより刄を以て威《おど》すゆゑ願ふと有共《あれども》今《いま》此處《このところ》へ粂之進を呼出《よびだ》し此事を問《とは》んに然樣の事覺えなし又不義仕掛たる事も候はずと云《いふ》時《とき》は互ひに水掛論《みづかけろん》にて證據なければ主人を相手《あひて》に公事《くじ》をなすのみ成《なら》ず奉公人の方より主人へ無理暇《むりいとま》を乞《こ》ふ事不屆なり此儀は其方は何んぞ證據ありやと問《とは》るればお梅は謹《つゝし》んで答《こたふ》る樣其儀は牛込改代町十郎兵衞|店《たな》六兵衞方の[#「六兵衞方の」は底本では「六衞方の」]同居七助と申者證據人に御座候と申立るにより然からば其七助を呼出《よびいだ》すべしと差紙《さしがみ》に付町役人七助を召連《めしつれ》罷出《まかりいで》ければ大岡殿|何歟《なにか》思《おぼ》さるゝ事ありて此日は吟味《ぎんみ》もなく追《おつ》て呼出《よびいだ》すまで七助梅は家主へ預《あづ》けると申付られけり [#8字下げ][#中見出し]第四回[#「第四回」は底本では「第三回」][#中見出し終わり]  茲《こゝ》に又《また》田子《たこ》の伊兵衞は質屋《しちや》の火付盜賊《ひつけたうぞく》[#ルビの「ひつけたうぞく」は底本では「ひしけたうぞく」]召捕《めしとら》れ近々《きん/\》引廻《ひきまはし》にでる由《よし》噂《うはさ》を聞《きゝ》偖《さて》は[#「偖《さて》は」は底本では「偖《さて》て」]我八十|兩《りやう》を遣《つかは》したる喜八とやらん捕《とら》れたるや又外に有事《あること》成《なる》かと不審《ふしん》に思ひ能《よく》聞《き》けば其人《そのひと》は全く彼の喜《き》八に相違《さうゐ》なく火付盜賊に陷《おち》いり近々《きん/\》に火罪《ひあぶり》との事なりしかば田子《たこ》の伊兵衞《いへゑ》思ふは科《とが》なき者を無實《むじつ》に殺させん事|不便《ふびん》なりとて我と名乘《なのり》て奉行所《ぶぎやうしよ》へ出《いで》火付《ひつけ》十三ヶ|所《しよ》人殺《ひとごろし》七|人《にん》夜盜|數《かず》知《し》れず其中《そのうち》麻布《あさぶ》原町《はらまち》質屋《しちや》へ這入《はい》り金子《きんす》八十|兩《りやう》代物《しろもの》二十五|品《しな》盜《ぬすみ》候|由《よし》白状《はくじやう》に及びしかば大岡殿《おほをかどの》喜《き》八を牢《らう》より呼出《よびいだ》し兩人《りやうにん》對決《たいけつ》の時大岡殿|喜《き》八に對《むか》はれ其方|質屋《しちや》の火附盜賊《ひつけたうぞく》なりと申せども其科《そのとが》人外より出たり此者《このもの》が則《すなは》ち其盜賊伊兵衞なりとて自訴《じそ》に及《およ》びしと申されければ喜《き》八は彼の伊兵衞《いへゑ》を見て驚《おどろ》きたる體《てい》なりしが其盜賊は全《まつた》く私《わたく》しなり那《あ》の者は御助《おんたす》け下さるべしと申けるを聞《きゝ》伊兵衞は喜《き》八に對《むか》ひ汝は我が先達《さきだつて》の寸志《すんし》を報《むくは》んとて命を捨《すて》て我を助《たすけ》んと云《いふ》心底《しんてい》は嬉《うれ》しけれども其《そ》は無益《むえき》の事なり我は其外《そのほか》にも科《とが》多《おほ》ければとても遁《のが》れぬ身《み》なるにより尋常《じんじやう》に科《とが》を蒙《かうむ》らんと申にぞ喜八は差俯向《さしうつむい》て詞《ことば》なし大岡殿暫時|兩人《りやうにん》の詞《ことば》を聞《きゝ》て甚《はなは》だ感《かん》じられ伊兵衞事《いへゑこと》八十兩|喜《き》八に遣《つかは》した儀《ぎ》相違《さうゐ》なきや然《しか》らば追《おつ》て詮議《せんぎ》すべし今日《こんにち》は先《まづ》下《さが》れとて兩人《りやうにん》倶《とも》に牢《らう》へ下《さげ》られしが其後《そののち》程《ほど》過《すぎ》て兩人《りやうにん》并《ならび》に彼の笠原粂之進《かさはらくめのしん》[#ルビの「かさはらくめのしん」は底本では「かさはちくめのしん」]も呼出され其外|家主《いへぬし》平兵衞《へいべゑ》お梅《うめ》白洲《しらす》へ罷出《まかりいで》るに大岡殿《おほをかどの》粂之進《くめのしん》に對《むか》はれ此梅と云《いふ》女《をんな》其方に奉公《ほうこう》致《いた》せし哉《や》と尋《たづ》ねらるゝに粂之進《くめのしん》然樣《さやう》にて候と答《こたふ》るを大岡殿|夫《をつと》の難儀《なんぎ》とあつて暇《いとま》を願《ねが》ふに何故|暇《いとま》を出されずやと有《あれ》ば粂之進《くめのしん》則《すなは》ち暇《いとま》を遣《つかは》して候と云をお梅《うめ》否々《いへ/\》暇《いとま》は一|向《かう》出し申さず候と申に家主平兵衞も進み出《いで》先達《さきだつ》て梅事《うめこと》私《わたく》しへ御預《おあづ》けの間《あひだ》委細《ゐさい》承《うけた》まはり候|處《ところ》粂之進殿《くめのしんどの》暇《いとま》を遣《つか》はされず候に付《つき》據《よんど》ころなく御願ひ申|上《あげ》し旨《むね》梅《うめ》申聞候といふにぞ大岡殿|粂之進《くめのしん》に對《むか》はれ斯樣《かやう》に難儀《なんぎ》致《いた》す者を止置《とめおき》候事|心得《こゝろえ》ずと申されしかば粂之進《くめのしん》冷笑《あざわら》ひ都《すべ》て奉公人《ほうこうにん》主人に暇《いとま》を願《ねが》ふには人代《ひとかは》りを以て願《ねが》ふべき筈《はず》なり夫《それ》に然樣《さやう》の事もなく夫故《それゆゑ》暇《いとま》は出し申さずと云放《いひはな》しければ大岡殿|某《それ》は何を云るゝや只今《たゞいま》暇《いとま》は遣《つかは》したりと申せし口《くち》の下より人代《ひとかは》りなき中は出《いだ》さずとは前後《ぜんご》揃《そろ》はぬ申|條《でう》殊更《ことさら》夫の難儀《なんぎ》と有《ある》に人代《ひとかは》りを出す隙《ひま》の有べきや其方は情《なさけ》なき爲方《しかた》なり是には何か樣子《やうす》あらんと云《いは》れしかば粂之進《くめのしん》心中《しんちう》憤《いきど》ほり小身《せうしん》なりとも某《それが》しも上の御扶持《ごふち》を頂戴《ちやうだい》し殊《こと》に人の理非《りひ》を糺《たゞ》す役目なり奉行《ぶぎやう》には依怙贔屓《えこひいき》ありて某《それが》しばかり片落《かたおと》しに爲給《したま》ふならんと言せも果《はて》ず大岡殿《おほをかどの》發打《はつた》と白眼《にらま》れ依怙贔屓《えこひいき》とは慮外《りよぐわい》千萬なり此梅を抱《かゝゆ》る時《とき》請人《うけにん》は何者が致《いたし》たるやと有《ある》に粂之進《くめのしん》夫は則《すなは》ち夫《をつと》喜《き》八に候と云大岡殿|重《かさ》ねて其喜《そのき》八は火付盜賊に相違《さうゐ》なしとて某《それが》し方へ添状《そへじやう》を以て此程《このほど》送《おく》られたる其許《そのもと》が何故《なにゆゑ》科人《とがにん》の妻を役《やく》をも勤《つと》むる身分《みぶん》として其儘《そのまゝ》に召仕《めしつか》ひ置《おき》たるぞや假令《たとへ》當人《たうにん》より申出ずとも其方《そのはう》より暇《いとま》を出すべき筈《はず》なり此故に何か樣子《やうす》有《あら》んと申せしなり定《さだめ》て不義《ふぎ》を申|掛《かけ》たる成《なら》んと申されしかば粂之進《くめのしん》グツとさし閊《つか》へしがナニ不義《ふぎ》など申|掛《かけ》たる覺《おぼ》え曾《かつ》て之なしと云に大岡殿《おほをかどの》牛込|改代町《かいたいまち》の者《もの》呼出せと申されしかば發《はつ》と答《こた》へて彼の中間《ちうげん》七|助《すけ》を白洲《しらす》へ連來《つれきた》るを粂之進《くめのしん》は見てハツと思へども態《わざ》と何氣なく那《あ》の者は拙者《せつしや》方にて取迯《とりにげ》致《いたし》候者と云乍《いひなが》ら七|助《すけ》に向《むか》ひ偖《さて》は其方|梅《うめ》と密通《みつつう》致《いた》し我《わ》が金子《きんす》を奪《うば》ひ迯亡《かけおち》させつるか憎《につく》き奴《やつ》今茲に於て何事《なにごと》をか云《いふ》詞《ことば》を出さば手《て》は見《み》せぬぞと眼《め》を瞋《いから》しけるを大岡殿《おほをかどの》粂之進《くめのしん》に對《むか》はれ渠《かれ》は拙者《せつしや》が尋《たづね》る仔細《しさい》有《あつ》て呼出せしなり決《けつ》して構《かま》ふまじ如何《いか》に七|助《すけ》有樣に申せと云れければ七|助《すけ》は夫見ろと云《いふ》面色にて粂之進《くめのしん》を見ながら如何《いか》に私《わたく》し事|下部《しもべ》は致《いた》し候へども取迯《とりにげ》など仕《つかま》つりし覺《おぼ》え御座《ござ》なく是|迄《まで》多く粂之進《くめのしん》方へ女中の奉公《ほうこう》人來り候へども一ヶ月とは勤《つと》めず何《いつ》れも早々《さう/\》に暇を取《と》り下《さが》り候|故《ゆゑ》不審《ふしん》に存《ぞん》じ候|處《ところ》此度《このたび》も又梅事|暇《いとま》を願《ねが》ひ候|間《あひだ》容子《ようす》を窺《うかゞ》ひしに不義《ふぎ》を申|掛《かけ》られ承知《しようち》せぬとて刄物三昧《はものざんまい》致《いた》しゝに付《つき》其|節《せつ》私《わたく》し中へ入て取鎭《とりしづ》め候へば金三兩呉られ候て取持《とりもち》候|樣《やう》申付られ候へども梅事は貞節《ていせつ》の女《をんな》ゆゑとても叶《かな》はぬ事と存《ぞん》じ私しは申|譯《わけ》なきにより宿《やど》へ迯歸《にげかへ》り[#「迯歸《にげかへ》り」は底本では「迯歸《にげかへ》へり」]候と具《つぶさ》に申|立《たつ》る廉々《かど/\》粂之進《くめのしん》は面目《めんもく》青《あを》くなり赤《あか》くなりしが差俯向《さしうつむき》て控《ひか》へ居《ゐ》るを大岡殿《おほをかどの》粂之進《くめのしん》を白眼《にらま》れ其方|只今《たゞいま》公邊《かみ》の祿《ろく》を頂戴《ちやうだい》し御役を勤《つと》め人の理非《りひ》をも糺《たゞ》す身の上と云ながら誠《まこと》の火付盜賊は是なる伊兵衞を差置《さしおき》科《とが》なき喜八を捕《とら》へ熟《とく》と吟味《ぎんみ》もなく送《おく》り状《じやう》を添《そへ》て此方へ送《おく》られ拙者迄《せつしやまで》に落度《おちど》をさせ重々《ぢう/\》の不調法《ぶてうはふ》斯樣《かやう》の不埓《ふらち》にて御役が勤《つと》まるべきや不屆《ふとゞ》き至極《しごく》なり揚屋《あがりや》入《いり》申付ると有《あ》りしかば同心|飛《とび》かゝり粂之進《くめのしん》の肩衣《かたぎぬ》を刎《はね》たちまち繩《なは》をぞ掛《かけ》たりける斯《かく》て七|助《すけ》とお梅《うめ》は家主へ預《あづ》け粂之進《くめのしん》揚屋《あがりや》入《いり》喜八|伊兵衞《いへゑ》は牢《らう》へ戻《もど》されけり偖《さて》翌日《よくじつ》大岡殿|登城《とじやう》有《あり》て月番の御老中《ごらうぢう》松平右近將監殿《まつだひらうこんしやうげんどの》へ御逢《おあひ》を願《ねが》はれ何卒《なにとぞ》私《わたく》し儀《ぎ》御役|御免下《ごめんくだ》さるべしと云《いは》れしかば何故|退役《たいやく》を願《ねが》はるゝやと申さるゝに大岡殿|此度《このたび》煙草屋《たばこや》喜八|裁許《さいきよ》違《ちが》ひ科《とが》なき者を科人《とがにん》に陷《おと》し既《すで》に上へ言上に及び各々《おの/\》樣《さま》御判《ごはん》も据《すわ》り候|處《ところ》外より盜賊出しかば全《まつた》く越前守《ゑちぜんのかみ》越度《をちど》に付御役|御免《ごめん》願《ねが》ひ奉つる此段《このだん》宜敷《よろしく》御披露《ごひろう》下さるべしと申|述《のべ》られしかば右近將監殿《うこんしやうげんどの》大《おほ》いに驚《おどろ》かれ先々《まづ/\》輕擧給《はやまりたま》ふな篤《とく》と同列《どうれつ》とも談じ合《あひ》言上に及んとて御老中方《ごらうぢうがた》評議《ひやうぎ》の上|言上《ごんじやう》に及ばれしかば將軍《しやうぐん》吉宗公《よしむねこう》以《もつ》ての外《ほか》驚《おどろ》かせ給《たま》ひ直《すぐ》に大岡殿を御前へ召《めさ》れ汝必ず輕擧《はやま》る事|勿《なか》れ未《いま》だ其者|刑罰《けいばつ》に行はざれば再應《さいおう》取調《とりしら》べ此後|迚《とて》も出精《しゆつせい》相勤《あひつと》むべしと上意有しかば大岡殿|御仁《ごじん》惠の御|沙汰《さた》畏《かしこ》まり奉《たてま》つると感涙《かんるゐ》を流され御前を退出《たいしゆつ》せられけり時に享保《きやうほ》十年八月廿四日|双方《さうはう》呼出しの面々《めん/\》は笠原粂之進《かさはらくめのしん》[#ルビの「かさはらくめのしん」は底本では「かさはらくめのじん」]煙草屋喜八家主|平兵衞《へいべゑ》田子《たご》の伊兵衞|中間《ちうげん》七助等なり大岡殿|大音《たいおん》にて粂之進《くめのしん》[#ルビの「くめのしん」は底本では「くめのいん」]儀《ぎ》刑法《けいはふ》役をも勤《つと》め候身分にて盜賊《たうぞく》の人違《ひとちが》ひ罪《つみ》無《なき》喜八を科《とが》に陷《おとし》いれる而已《のみ》ならず其妻に不義《ふぎ》を申し掛し段《だん》不屆《ふとゞき》の至なり依《よつ》て二百五十|俵《ぺう》召上《めしあげ》られ重《おも》き刑罪《けいざい》にも處《しよ》せらるべき處|格別《かくべつ》の御慈悲《おじひ》を以|打首《うちくび》次《つぎ》に七助事主人を欺《あざむ》き私しに宿《やど》へ下り候は不埓《ふらち》なり然《しか》りと雖も御公儀《おかみ》を僞《いつは》らざる故《ゆゑ》過料金《くわれうきん》三兩|次《つぎ》に盜賊伊兵衞|儀《ぎ》重罪《ぢうざい》なれども神妙《しんめう》に名乘《なのり》出其上喜八を助《たす》け候|段《だん》奇特《きどく》に付|御慈悲《おんじひ》を以て多くの罪《つみ》を宥《ゆる》し伊豆大島へ遠島《ゑんたう》次《つぎ》に煙草屋喜八は構《かま》ひなし妻《つま》梅|構《かま》ひなし家主《いへぬし》平兵衞此度の働《はたら》き町人には奇特《きどく》の儀《ぎ》に付|譽《ほめ》置《おく》右《みぎ》の通申|渡《わた》され双方《さうはう》一|件《けん》落着《らくちやく》せり偖《さて》穀物屋《こくものや》吉右衞門は女郎|初瀬留《はせとめ》を八百兩にて請出《うけいだ》し嫁《よめ》となし吉之助《きちのすけ》が勘當《かんだう》をも免し目出度《めでたく》夫婦《ふうふ》として喜八夫婦には横山町《よこやまちやう》角屋敷《かどやしき》穀物店《こくものみせ》に三百兩|附《つけ》て與《あた》へ家主|平兵衞《へいべゑ》へは右《みぎ》横山町《よこやまちやう》地面《ぢめん》間口《まぐち》十|間《けん》奧行《おくゆき》十八|間《けん》の怙劵《こけん》に種々《いろ/\》音物《いんもつ》を添《そへ》悴《せがれ》夫婦《ふうふ》并《ならび》に喜八が是まで厚《あつ》く世話《せわ》に成《なり》し禮《れい》として遣《つか》はし又《また》吉原《よしはら》の男藝者《をとこげいしや》五八は心實《しんじつ》なる者故|吉右衞門《きちゑもん》[#「吉右衞門」は底本では「吉衞衞門」]悦《よろこ》びの餘り悴《せがれ》が命《いのち》の親なりと號《がう》し禮金《れいきん》三百兩を贈《おく》り又《また》初瀬留《はせとめ》よりも衣類《いるゐ》其外|目録《もくろく》にして委細《ゐさい》の文を添《そへ》種々《いろ/\》禮物《れいもの》を贈《おく》りけるゆゑ五八は俄《にはか》分限《ぶげん》となり何れも其家々《そのいへ/\》繁昌《はんじやう》なせし事實に心實《しんじつ》程《ほど》大切《たいせつ》なるものはなしと皆々感じけるとなん 煙草屋喜八一件 終[#「終」は1段階小さな文字] [#改丁] [#ページの左右中央] 村井長庵一件[#「村井長庵一件」は大見出し] [#改丁] [#1段階大きな文字]村井長庵《むらゐちやうあん》一件《いつけん》[#大きな文字終わり] [#8字下げ]第一回[#「第一回」は中見出し]  積善《せきぜん》の家には餘慶《よけい》あり積惡《せきあく》の家には餘殃《よあう》ありと宜《むべ》なる哉《かな》此篇《このへん》に載《のす》る所の村井長庵の如き表《おもて》は醫術《いじゆつ》を業《わざ》とし内は佞邪奸惡《ねいじやかんあく》を恣《ほしい》まゝにして己《おのれ》が榮利《えいり》を盡《つく》さんと欲《ほつ》す然れども天網《てんまう》爭《いか》で此|惡漢《わるもの》を通さん其|咎《とが》めを蒙《かうぶ》るに及んでは僞りて遁《のが》るゝ道《みち》なく飾《かざ》つて覆《おほ》べきの理なく然《され》ば大岡越前守殿の裁許《さいきよ》に預《あづか》りし者|其善惡《そのぜんあく》邪正《じやせい》別《わか》たざるなし實《じつ》に賢奉行《けんぶぎやう》とや謂《いつ》[#ルビの「いつ」はママ]つべし仰々《そも/\》村井長庵といふは麹町《かうぢまち》三丁目に町醫《まちい》と成つて世を送《おく》り舍弟《おとゝ》十兵衞を芝《しば》札《ふだ》の辻《つじ》にて殺害《せつがい》し同人の娘を賣りし身の代金《しろきん》五十兩を奪ひ取《とり》其妻《そのつま》を三次と云る同氣《どうき》相《あひ》求《もと》むる惡漢《わるもの》に委《ゆだ》ね淺草の中田圃《なかたんぼ》にて殺害させ其上伊勢屋五兵衞の養子《やうし》千太郎に小夜衣《さよぎぬ》を他《た》に身請する人ありと僞《いつは》りて五十兩の金を騙《かた》り取《とり》種々《しゆ/″\》[#ルビの「しゆ/″\」は底本では「 ゆ/″\」]の惡計《あくけい》を働《はたらき》し其|根元《こんげん》を尋《たづぬ》るに國は三|州《しう》藤川《ふぢかは》の近在《きんざい》岩井村《いはゐむら》の百姓に作《さく》十と云者あり夫婦の中《なか》に子供兩人有て兄《あに》を作藏|舍弟《おとゝ》を十兵衞と云しが兄作藏は性質《うまれつき》善《よか》らぬ者にて村方にても種々《しゆ/″\》樣々《さま/″\》の惡事を働《はたらき》し故親の作十も持餘《もてあま》し終《つひ》に勘當《かんだう》に及びしが弟十兵衞は兄と違《ちが》ひ正路《しやうろ》の者にて隣村迄《りんそんまで》も評判《ひやうばん》の善《よ》きにつき是を家督《かとく》とし近村よりお安《やす》といふ嫁《よめ》を貰《もら》ひ親子《おやこ》夫婦の間《なか》もよく最《いと》睦《むつま》じく稼《かせ》ぎけり斯て兄《あに》作藏は勘當の身と成しを後悔《こうくわい》をもせず江戸へ出で少しの知己《しるべ》を便《たよ》りて奉公の口を尋ねる内《うち》幸《さい》はひ小川町にて其頃評判の御|殿醫《てんい》武田長生院方《たけだちやうせいゐんかた》に人の入用ありと聞《きゝ》口入《くちいれ》の者に頼みて此處《ここ》に住込ける此長生院と申は老年《としばえ》と云《いひ》殊《こと》に名醫の聞《きこ》えあれば大流行《おほはやり》にて毎日々々|公私《こうし》の使ひ引も切らず藥取の者其外門前に市《いち》をなし節句前毎《せつくまへごと》に藥禮《やくれい》の目録《もくろく》其他の進物《しんもつ》など雨《あめ》の降《ふる》如く成れば作藏は是を見て世の中に能物《よきもの》は醫者《いしや》なり何程の療治《れうぢ》は出來《でき》ずとも流行出せば斯《かく》の如し我も故郷は勘當され此江戸へ來りて所々《しよ/\》方々《はう/″\》と彷徨《さまよう》ばかりにて未だ何の仕出《しいだ》したる事もなく此《これ》ぞと云|身過《みすぎ》の思ひ付もなき機《をり》なれば此上は何卒《なにとぞ》して我も醫師《いしや》となり長棒《ながぼう》の駕籠《かご》にて往來なし一身の出世《しゆつせ》を計《はか》らんものと思ひ込《こみ》けるは殊勝《しゆしよう》成《なれ》ども一心に醫學を學び其|術《じゆつ》を以て立身《りつしん》出世を望むに有ねば元より切磋琢磨《せつさたくま》の功を積《つみ》修行《しゆぎやう》せんなどとは更に思はず大切《たいせつ》の人命《じんめい》を預る醫業《いげふ》なるに只金銀を貪《むさ》ぼることのみを思ひ假令《たとへ》藥違《くすりちが》ひにて人を殺したりとて匙《さじ》さへ持ば解死人《げしにん》には取れず斯《かゝ》る家業《かげふ》は又となし只醫者らしく見せ懸《かけ》るのと詞遣《ことばつか》ひさへ腹に這入《はひれ》ば別に修行《しゆぎやう》が入《いる》ものぞと藥種《やくしゆ》の名など些《ちと》づつ覺《おぼ》え醫者にならんと思ひ込《こみ》奸才邪知《かんさいじやち》の曲者《くせもの》にて後年|己《おのれ》が罪惡《ざいあく》の顯《あら》はれし時申|陳《ちん》じて人に塗付《ぬりつけ》天下|未曾有《みそう》の名奉行《めいぶぎやう》をも欺《あざむ》き課《おほ》せんとする程の大膽不敵《だいたんふてき》なれば間もなく見樣見眞似《みやうみまね》にて風藥《かぜぐすり》の葛根湯位は易々《やす/\》と調合《てうがふ》する樣に成ける程に武田長生院も下男《げなん》にも珍《めづら》しき奴《やつ》なれど扨《さて》心の寛《ゆる》せぬ勤め振と流石《さすが》に老醫常々|親戚《しんせき》の者へ語られしとぞ作藏の僅《わづ》か三年|越《ごし》の奉公中に醫《い》の道を少しく覺《おぼ》え殊に遊ぶ隙《ひま》なければ給金其他|病家《びやうか》へ代脈《だいみやく》の供《とも》などに行し時|貰《もら》ひたる金を少しく溜《たま》りたるより武田に暇《いとま》を貰《もら》ひ直《すぐ》に天窓《あたま》を剃《そり》て坊主《ばうず》となり麹町三丁目の裏店《うらだな》を借て世帶《せたい》をもち醫師|渡世《とせい》を初めしに運《うん》の一|度《たび》向《むか》ひし所にや元來《もとより》藪醫者《やぶいしや》と云ふ程も醫術は知ぬ作藏が名字《みやうじ》を村井と唱《とな》へ自ら名を長庵と改めて朝《あさ》から晩《ばん》まで當《あて》は無れど忙《いそが》し振《ぶり》に歩行《あるき》廻りければ相應に病家《びやうか》も出來たるにぞ長庵今は己れ名醫《めいい》にでも成し心にて辯舌《べんぜつ》奸計《かんけい》を以て富家《ふうか》より金を引出し終に表店《おもてだな》へ出て可《か》なりに暮し一度は流行《りうかう》爲《な》しけれども元より己《おのれ》に覺えなき業《わざ》なれば終には此處の内儀《ないぎ》が藥違ひにて殺されたの彼所の息子《むすこ》が見立違《みたてちが》ひにて苦しみ死《しに》をしたの又|渠《かれ》は無學文盲《むがくもんまう》の何も知らぬ山師醫者の元締《もとじめ》なりなど湯屋《ゆや》の二|階《かい》髮結床《かみゆひどこ》などにて長庵の惡評《あくひやう》を聞《きく》も夏蠅《うるさき》ばかりなれば果は命《いのち》の入ぬのか又は死《しに》たく思ふ人は長庵の藥《くすり》を飮《の》め命が大事と思はば村井が門も通るなと雜言《ざふごん》にも言《い》ひ觸《ふら》しける程に追々《おひ/\》に全治《ぜんぢ》病人迄《びやうにんまで》も皆|轉藥《てんやく》をなし誰《たれ》一人|脉《みやく》を取する者も無なりしにぞ長庵今は朝暮《あさゆふ》の煙《けぶり》も立兼《たちかね》るより所々《しよ/\》方々《はう/″\》手の屆く丈|借《かり》盡して返すことをせざれば酒屋米屋|薪屋《まきや》を始め何商賣《なにしやうばい》をするものも長庵の宅《たく》の前は忍《しの》んで通る樣になりければ引《ひつ》かけ上手《じやうず》の長庵も百|方《ぱう》術《じゆつ》盡《つ》き爲《なす》事なく困《こま》り果てぞ居たりける爰に又長庵が故郷《こきやう》岩井村にては親《おや》の作十も病死《びやうし》し弟《おとゝ》十兵衞の代と成けるが或時|近邊《きんぺん》より出火して家屋《かをく》をはじめ家財雜具迄《かざいざふぐまで》殘《のこ》り少《すく》なに燒失ひ其のみならず引續《ひきつゞ》きて水旱《すゐかん》の難《なん》に罹《かゝ》り難儀の重《かさ》なりて年々|殖《ふえ》る年貢《ねんぐ》の未進《みしん》に當年こそは是非ともに未進の皆納《かいなふ》なすべしと村役人《むらやくにん》より促《うなが》され素より篤實《とくじつ》一|遍《ぺん》の者なれば十兵衞夫婦は膝《ひざ》摺寄《すりよせ》如何なる前世《ぜんせ》の宿業《しゆくごふ》にや追々續く災難《さいなん》にて斯迄《かくまで》困窮《こんきう》の身となりしぞ斯《かゝ》る事の無《なか》らん爲|鋤鍬《すきくは》の勞《らう》を厭《いと》はず朝はしらむを待て起き霧《きり》に簑《みの》着《き》て山稼《やまかせ》ぎ人は戻《もど》れど黄昏《たそがれ》過《すぎ》月の無《なき》夜《よ》は星影《ほしかげ》を見ねば戻らぬ樣に稼《かせ》ぎ畑《はた》一|枚《まい》荒《あら》さずに骨體《ほねみ》碎《くだ》いて働《はたら》きても火災《くわさい》の難に水旱《すゐかん》の難儀が終始《しじう》付て廻《まは》り追々《おひ/\》嵩《かさ》む年貢《ねんぐ》の未進《みしん》今年《ことし》は何でも納《をさ》むべしと村役人衆《むらやくにんしう》より度々の催促《さいそく》其處《そこ》で色々《いろ/\》工面《くめん》も仕たが外に仕方の有ざれば所詮《しよせん》我内《わがうち》には居られぬなり此上は我四五年の間《あひだ》何國《いづく》へなりとも身を潜《ひそ》め奉公なりともして稼《かせ》がなば又兎も角も成べしと思ひ定めし事なれば和女《そなた》は跡《あと》に殘り居て二人の娘を頼《たの》むぞよ斯《かく》云《いは》ば邪見《じやけん》と思はんが我さへ居ねば年貢の未進も何とか村役人衆《むらやくにんしゆ》が仕法《しはふ》を付《つけ》宜《よき》樣《やう》にして呉《くれ》られんと男泣《をとこなき》に泣ながら氣の毒《どく》さうに言けるにぞ女房《にようばう》のお安《やす》は恨《うら》めしげに夫《をつと》十兵衞の顏を見つゝ餘りの事に涙《なみだ》も飜《こぼ》さず唯《たゞ》俯向《うつむい》て居たりける茲に十兵衞夫婦が間《なか》に二人の娘あり姉《あね》をお文《ふみ》といひ妹《いもと》をお富《とみ》と云るが姉妹《はらから》共に心操《こゝろばえ》優《やさ》しく何處となく品《ひん》よき生質《うまれつき》なれば如何なる貴人《きにん》の娘といふとも恥《はづか》しからず斯《かゝ》る在所には珍しき者にて殊に兩人《ふたり》とも親思《おやおも》ひの孝行《かうかう》者なれば今《いま》父《ちゝ》十兵衞が年貢《ねんぐ》の金に差詰《さしつま》り身を隱《かく》さんと云るを聞《きゝ》共に涙に暮《くれ》居《ゐ》たりしが軈《やが》てお文は父母《ふたおや》の前に來《き》たり兩手を突《つき》只《たゞ》今お兩方樣《ふたかたさま》のお咄《はな》しを承まはり候に父樣は何方《いづかた》へかお身を隱《かく》され給ふ由《よし》然樣《さやう》にては跡々《あと/\》の仕樣《しやう》も御座なく母樣《はゝさま》御一人にてお困《こま》り成るゝは申迄もなく元は妾《わらは》姉妹《はらから》二人を斯樣に御育下《おそだてくだ》され候よりお物入《ものいり》多く夫ゆゑ御難儀にも相成し事なれば數《かず》ならねども私しを浮川竹《うきかはたけ》とやらへお沈《しづ》め下され聊《いさゝ》かにてもお金に換《かへ》らるゝ物ならば此身は何樣《いかやう》の艱難《かんなん》を致し候も更々《さら/\》厭《いと》ひ申さねば何卒此身を遊女《いうぢよ》に御|賣成《うりなさ》れ其お金にて御|年貢《ねんぐ》の納《をさ》め方を成《なさ》るべしと最《いと》忠實《まめやか》に申けるにぞ父母《ふたおや》は其切《そのせつ》なる心に感じ眼を屡叩《しばたゝ》き然程迄《さほどまで》我が身を捨ても親を救《すく》はんとは我が子ながらも見上たり忝《かたじ》けなしとお文の脊中《せなか》を摩《さす》りながら其|志《こゝろ》ざしは嬉《うれ》しけれど如何《いか》に年貢の金に差閊《さしつか》へたり[#「差閊へたり」は底本では「左閊へたり」]とて其方達《そのはうたち》を浮川竹《うきかはたけ》に沈《しづ》めんとは思ひも寄《よら》ずと十兵衞は妻お安の泣居《なきゐ》るを勵《はげ》まし餘り苦心《くしん》をすると能《よき》工夫《くふう》の付ぬ物なりと自在鍵《じざいかぎ》より鑵子《やくわん》を外し素湯《さゆ》を呑|良《やゝ》あつて十兵衞は膝《ひざ》立直《たてなほ》し兎《と》も角《かく》も我さへ居ずば妻《つま》や子に然まで難儀は掛《かゝ》るまじ思ひ定めし事成ば何樣あつても己は居られぬ留守《るす》を其方達《そちたち》守《まも》つて呉《くれ》といふ袖袂《そでたもと》へ取縋《とりすが》り此身を賣てとかき口説《くどき》親子の恩愛《おんあい》孝《かう》と慈《じ》と暫時《しばし》は果《はて》も無りけり漸々《やう/\》にして妻《つま》お安は落《おつ》る泪《なみだ》を押拭《おしぬぐ》ひ夫程迄《それほどまで》に親を思ひ傾城遊女《けいせいいうぢよ》と成とても今の難儀を救《すく》はんとの其孝心が天に通《つう》じ神や佛《ほとけ》の冥助《めいじよ》にて賣代《うりしろ》なしたる曉《あかつき》には如何なる貴人《きじん》有福《いうふく》の人に愛され請出され却つて結構《けつこう》の身ともなり結句《けつく》我手に育《そだ》ちしより末の幸福《しあはせ》見る樣に成《なる》まじき者にも非ず能《よく》覺悟《かくご》をしたりしと空頼《そらだの》みに心を慰《なぐ》さめ終に娘お文が孝心を立る事に兩親《ふたおや》とも得心なせばお文は悦《よろこ》び一|先《まづ》安堵《あんど》はしたものゝ元より堅氣《かたぎ》一|遍《ぺん》の十兵衞なれば子を賣《うる》術《すべ》など知らざる上に都《みやこ》は知らず在方《ざいかた》では身の賣買《うりかひ》は法度《はつと》にて誰に頼《たの》まん樣もなく當惑《たうわく》なして居たりしが十兵衞|鐺《はた》と膝《ひざ》を打《うち》兄《あに》作藏は當時《たうじ》江戸麹町三丁目にて村井長庵と言《いひ》て立派《りつぱ》なる醫者《いしや》に成て居るとの由|故《ゆゑ》出府《しゆつぷ》して兄の長庵に委細《ゐさい》を噺《はな》し頼《たの》まんものと委敷《くはしく》手紙《てがみ》に認《したゝ》めて長庵方へ送《おく》りける其|文面《ぶんめん》に[#「文面に」は底本では「方面に」]曰《いは》く [#ここから2字下げ] 以手紙《てがみをもつて》申上候|貴兄《きけい》樣|彌々《いよ/\》御|安全《あんぜん》御|醫業《いげふ》被成《なされ》目出度《めでたく》存《ぞん》じ奉つり候然れば此方《このはう》八年|前《まへ》近邊《きんぺん》よりの出火《しゆつくわ》にて家財道具を燒失ひ其上|旱損《かんそん》昨年は水難《すゐなん》にて段々《だん/\》年貢未進に相成候處當年は是非《ぜひ》皆納《かいなふ》致し候樣村役人衆より嚴敷《きびしき》沙汰《さた》に候得共|種々《しゆ/″\》打續ての災難《さいなん》故《ゆゑ》當惑致し居候處娘文事孝心により身を賣其金子にて年貢《ねんぐ》の不足《ふそく》を皆納《かいなふ》いたし候樣申呉候間甚はだ以て不便《ふびん》の至りには候へ共|外《ほか》に致し方も無之《これなく》據《よんど》ころなく文《ふみ》事|賣《うり》申度存じ候之に依て近日|召連《めしつれ》出府致し候間|何《いづ》れへ成共御|世話被下度《せわくだされたく》此段御|相談《さうだん》申上奉つり候|猶《なほ》委細《ゐさい》は拜顏《はいがん》之上申上|可《べく》候|早々《さう/\》以上 [#2字下げ]八月二日[#地から3字上げ]三州藤川在岩井村  十兵衞 [#6字下げ]江戸麹町三丁目村井長庵樣 [#ここで字下げ終わり] 是は長庵|近來《ちかごろ》再び無頼《ぶらい》の行ひになりし事を知ざればなり扨《さて》又長庵は追々|己《おのれ》が心がらにて困窮《こんきう》に及び何哉《なにかに》能《よき》仕事《しごと》の有《あれ》かしと思ひ居ける所故是を見るより先々《まづ/\》金《かね》の蔓《つる》に取付たりと竊《ひそ》かに悦び直に返事《へんじ》を認《したゝ》め遣《つか》はしける其|文《ぶん》に曰く [#ここから2字下げ] 去《さる》二日|出《で》之《の》書状《しよじやう》到來《たうらい》いたし委細《ゐさい》拜見《はいけん》致し候|偖々《さて/\》其方にても段々|不如意《ふによい》との趣《おもぶ》き蔭乍《かげなが》ら案事《あんじ》申候|右《みぎ》に付御申|越《こし》の娘儀《むすめぎ》出府《しゆつぷ》致されべく候吉原町にも病家も有[#レ]之《これあり》候間|宜《よろ》しき先を見立《みたて》奉公《ほうこう》に差遣《さしつか》はし可申|何《いづ》れ出府の上御相談に及ぶべく候委細は筆紙《ひつし》に盡《つく》し難く早々《さう/\》以上 [#2字下げ]八月九日[#地から6字上げ]村井長庵 [#6字下げ]三州藤川在岩井村  十兵衞殿 [#ここで字下げ終わり] と有《あり》ける返事《へんじ》屆《とゞ》きければ十兵衞夫婦は歎《なげ》きの中にも先々兄の世話にてお江戸の吉原町とやらへ行《ゆく》上《うへ》は娘が難儀にも相成まじと心に悦び直《すぐ》に娘《むすめ》文に其由を語りて支度《したく》をさせ同道《どうだう》して江戸表へ出んと其身も支度《したく》に及びける母は豫《かね》て覺悟《かくご》とは言ながら頻《しき》りに泪にかき昏《くれ》て娘の文を近く招《まね》き今更《いまさら》云迄もなけれど惡《あし》き病を請ぬ樣に心を付て奉公せよ一日も早く能《よき》お客に請出され斯々云所へ片付《かたづき》しと云越《いひこ》して悦ばせよ呉々《くれ/″\》も機嫌《きげん》よく奉公し傍輩達《はうばいたち》と仲能《なかよう》して苛酷《いぢめ》られぬ樣にせよはしたなき事をして田舍者《ゐなかもの》と笑はれなと心の有たけかき口説《くどき》また夫十兵衞に打向ひ隨分《ずゐぶん》道中《だうちう》を用心して濕氣《しつけ》に當り給はぬ樣娘の事は呉々も能《よき》やうに計《はか》らひ給へと懇切《ねんごろ》に言|慰《なぐ》さめ互ひに名殘《なごり》を惜《をし》めども斯《かく》てあるべきにあらざれば既に袂《たもと》を別《わか》ちしが跡には女房と妹《いもと》との二人夫と姉《あね》の後ろ影《かげ》を我が門口《かどぐち》へ立出て伸上《のびあが》り/\見送《みおく》るを此方《こなた》も同じ思ひにて十兵衞お文の兩人も妻《つま》と妹を見返《みかへ》り/\稍《やゝ》影《かげ》さへも見《みえ》ざれば後《うし》ろ髮《がみ》をや引れけん一|足《あし》行ば二足も戻《もど》る心地の氣を勵《はげ》まし三河の岩井を後《あと》になし江戸をさしてぞ急ぎ行《ゆく》實《げ》に人間の一生は敢果《はか》なき事|草葉《くさば》に置《おけ》る露《つゆ》よりも猶《なほ》脆《もろ》しとかや如何に貧苦《ひんく》に責《せめ》られても親子|諸共《もろとも》苦《くる》しまば又|能《よき》事も有べきに別れ/\に楢《なら》の葉《は》や子の手柏《てがしは》を引連《ひきつれ》て誘引《さそへ》ばさそふ秋風に末《すゑ》は散行《ちりゆく》我が身ぞと知ぬ旅路《たびぢ》ぞ哀《あは》れなる [#8字下げ]第二回[#「第二回」は中見出し]  然程《さるほど》に村井長庵は兎《と》に角《かく》に金儲《かねまう》けの蔓《つる》に有付たりと心に悦び十兵衞の出府《しゆつぷ》を一日千|秋《しう》の思ひにて待《まつ》程《ほど》に此方は十兵衞娘文を連《つれ》て岩井村を出立し道中《だうちう》にても心を付《つけ》足を痛《いた》めな草臥《くたびれ》なと種々《いろ/\》言|慰《なぐさ》めつゝ日を經《へ》て漸々《やう/\》江戸に着《つき》麹町三丁目なる長庵が宅《たく》に到りければ長庵は大に悦び偖々《さて/\》能《よく》出府には及ばれたり久敷《ひさしく》便《たよ》りもせざりし故|田舍《ゐなか》の樣子も如何《いかゞ》有し事と思ひ出さぬ日とてはなく豫々|容子《ようす》を尋《たづ》ねたく思ひしかども何を言《いふ》にも人の命《いのち》を預《あづか》る渡世《とせい》寸暇《すんか》の無《なけ》れば中々|田舍《ゐなか》へ尋ね行事などは思ひも寄《よら》ず心に掛《かゝ》る計りにて今迄|疎遠《そゑん》に打過《うちすご》したり夫に付ても此間の手紙に細々《こま/″\》と言越たるには追々《おひ/\》不時《ふじ》の災難や水難|旱損《かんそん》の打續きて思はぬ入費《ものいり》の有しゆゑ親の讓《ゆづ》りの身上も都合《つがふ》惡|敷《しく》成《なり》し由|實《じつ》に當時の世の中は田舍も江戸も詰《つま》り勝《がち》併《しか》し呉々《くれ/″\》返事《へんじ》に言遣《いひつか》はしたる通り親は泣寄《なきより》とさへ申せと惡敷樣《あしきやう》には計らはぬこと最《いと》懇切《ねんごろ》に申ければ十兵衞親子は大いに歡《よろこ》び何分宜しくお頼み申すと言《いへ》ば長庵は打點《うちうなづ》き今夜は我が内《うち》も同じ事なれば安心して休息《きうそく》せよ併し草臥《くたびれ》て居るならん洗足《せんそく》の湯を沸《わか》して遣《つか》はす筈《はず》なれど夫よりは近所ゆゑ湯に入て來《く》るがよいお文も父と共に行《ゆく》べしと辯舌《べんぜつ》利口《りこう》を以て口車《くちぐるま》に乘せ金の蔓《つる》と思ふ姪《めひ》のお文は如何なる容貌《しろもの》かとお文が仰向《あふむく》顏《かほ》を見て其|嬋妍《あでやか》さにほく/\悦び在郷《ざいがう》育《そだ》ちの娘なれば漸々《やう/\》宿場《しゆくば》の飯盛《めしもり》か吉原ならば小格子《こがうし》の僅《わづ》か二十か三十の金を得るのが關《せき》の山と陰踏《かげぶみ》をして置たるが少しばかり手を入《いれ》れば日向《ひなた》臭《くさ》い匂《にほ》ひは拔《ぬけ》やう此奴《こいつ》は運《うん》が向て來たと草鞋《わらぢ》を解《とか》せて門《かど》へ立出あれに見ゆるが洗湯《せんたう》なれば親子で緩々《ゆる/\》と這入《はひつ》て來なと心切《しんせつ》めかして長庵が深くも計る待遇《もてなし》振《ぶり》に欺《だま》さるゝとは夢にも知ず斯迄《かくまで》に長庵が心の優《やさ》しく成しのは嬉《うれ》しき事と十兵衞は娘お文にも安心させいそ/\として出行《いでゆき》しが暫《しばら》くして湯《ゆ》より戻《もど》り珍《めづら》しくは候はねど遠路《ゑんろ》を持て來し國土産《くにみやげ》と心も厚《あつ》き紙袋《かみぶくろ》蕎麥粉《そばこ》饂飩粉《うどんこ》取揃《とりそろ》へ長庵の前へ差出せば然も嬉《うれ》しげに禮を演《のべ》湯《ゆ》の中に誂《あつら》へ置《おき》し酒《さけ》肴《さかな》を居間《ゐま》へ並《なら》べサア寛々《ゆる/\》と久し振《ぶり》にて何は無とも一|献《こん》汲《くま》んと弟十兵衞を饗應《もてなし》けり十兵衞は長庵に向ひ御馳走中《ごちそうちう》申上るも如何なれど豫《かね》て手紙にて申上たる次第につき娘文を同道せり何卒|御忙敷《おいそがしく》も御都合なされ娘を能《よき》所へ早々《さう/\》御世話下されと泪《なみだ》を拭《ふき》つゝ咄《はな》しかくれば長庵は態《わざ》と目を拭《ぬぐ》ひ涙に聲を曇《くも》らせて貧《ひん》の病は是非もなし世の成行《なりゆき》と斷念《あきら》めよ我とては貯《たくは》へ金は有ざれども融通《ゆうづう》さへ成事なら用立《ようだつ》て遣度《やりたし》と手紙を見たる其時より懇意《こんい》の者へ頼んで置たが何分にも急場の事故|貸《かし》て呉人《くれて》も一寸《ちよつと》なく殊に此程は何や斯や不時《ふじ》の物入續き勝《がち》にて夫に豫《かね》ての心願にて人の嫌《いや》がる貧家《ひんか》の病人|療治《れうぢ》は勿論《もちろん》施藥《せやく》をなし中には稼《かせ》ぎ人が煩《わづら》ひて喰《くふ》や喰ずの極貧者《ごくひんもの》には持合せの金を何程《いくら》か與へ慈善《じぜん》の道を好むのも掛替《かけがへ》の無き兩親に不幸を成し罪滅《つみほろぼ》しと自分の身には榮耀《ええう》は止め人に施《ほどこ》す事|而已《のみ》爲《な》す故受取金も多けれども夫故|困《こま》る我が身上《しんしやう》現在《げんざい》弟《おとゝ》が外成ぬ年貢の金に差支へ手風《てかぜ》も厭《いと》うて育《そだ》てし娘を苦界へ沈める急場の難儀を助《たす》ける事も出來《でき》ぬとは兄と言《いは》るゝ甲斐も無《なく》悔《くや》し涙が飜《こぼ》るゝと手を拱《こま》ぬけば弟の十兵衞は眞實《しんじつ》ぞと思へばいとゞ氣の毒《どく》さに兄樣《あにさん》然《さ》までに御心配下されますな御心切を忘れはせぬ然乍《さりなが》ら娘も覺悟の上なれば兎も角も何《いづ》れへ成とて好方《よきかた》へ奉公させて下されと只管《ひたすら》頼《たの》めば長庵は然ば是非なし明日《あした》にも吉原の病家へ見舞《みまひ》がてら行《ゆく》程に能《よき》口を尋ね見ん先|今晩《こんばん》は休《やす》まれよと兩人を枕に付せけるが翌日長庵は早々支度を爲《な》し麹町を立出吉原さして急《いそぎ》けり爰に吉原江戸町二丁目の丁字屋《ちやうじや》半藏と云る遊女屋《いうぢよや》は其頃での繁昌《はんじやう》の家にて貴賤《きせん》の客人《まろうど》引《ひき》も切《きら》ず然《され》ば此丁字屋方へ賣込《うりこま》んと傳手《つて》をもとめて懸合《かけあひ》に及びけるに幸ひ此丁字屋にても追々|子供《こども》も年明《ねんあけ》の近寄《ちかより》ければ何卒《どうぞ》して能《よき》子供を抱《かゝへ》んと思ふ折柄《をりから》故其娘を今日にも見たきとの事なれば長庵は急ぎ宅へ歸り弟《おとゝ》十兵衞にもお文にも此由を云|聞《きか》せ直《すぐ》己《おのれ》が隣家の女房を頼み賣物《うりもの》には花を飾《かざ》れとやら何分宜敷御頼み申すと髮形《かみかたち》から化粧迄《けしやうまで》其頃の風俗に作《つく》り立|損料《そんれう》着物《ぎもの》を借請|衣裳附《いしやうつけ》まで長庵が拔目《ぬけめ》なく差※[#「圖」の「回」に代えて「面から一、二画目をとったもの」、179-13]をなしお文を連《つれ》て丁字屋へ出かけしが先兩三日は目見《めみ》えに差置《さしお》く樣にとの事なれば其まゝに差置て長庵は歸りける丁字屋にてはお文が容子《ようす》誰《たれ》有《あつ》て田舍娘《ゐなかむすめ》と見る者なく傍輩《はうばい》娼妓《しやうぎ》も恥《はづ》るばかりなれば流石《さすが》に長庵が骨折《ほねをり》の顯《あら》はれし所にて在所に在し其時とは親の十兵衞さへも見違《みちが》へる程なれば主人半藏方にても十分氣に入《いり》お文へ何故に身を賣《うる》やと容子を尋ねけるに親十兵衞が云々《しか/″\》にて年貢のお金に差支《さしつか》へ據《よんど》ころなく身を賣《うる》時宜《しぎ》なれば何卒お抱《かゝ》へ下されたく如何樣《いかやう》の憂《つら》ひ悲《かな》しひ事成とも御主人大事御|客樣《きやくさま》を大切《たいせつ》に勤めますと云其言葉に田舍訛《ゐなかなま》り有けれど容貌《きりやう》のよさに主人《あるじ》もはずみ少し高くは思へども終《つひ》に年一|杯《ぱい》廿七年の夏《なつ》四月までの證文《しようもん》にて五十兩に買《かは》んとの挨拶に十兵衞は大いに悦び五十兩の金の有ならば年貢の未進は殘らず納《をさ》め所々の買懸《かひがか》り其外の借錢《しやくせん》まで殘らず一時に片《かた》を付《つけ》其上にて稼《かせ》ぎなば娘を請出す時節《じせつ》も有なん然《さ》はなくとも其内娘が能《よき》客ありて身請をさるる事もや有んとお文にも言聞せ直《すぐ》に證文を取極め判《はん》人へ禮金三兩當人の身附《みづき》金五兩を引去四十二兩の金を請取て長庵諸共麹町へこそ歸りけれ偖《さて》十兵衞兄長庵に打向ひ段々《だん/\》の御|世話《せわ》にてお文こと思ひの外《ほか》能《よき》所へ住込有難く存じます就《つい》ては多分《たぶん》の御禮も致す筈《はず》なれども何を申すも此始末なれば是は誠《まこと》に心ばかりの御挨拶御|受納下《じゆなふくだ》されと金子三兩を紙に包みて差《さし》出しければ長庵は押戻《おしもど》し否々《いや/\》夫《それ》は思ひも寄ぬ事なり豫《かね》て我が言たる通り工面《くめん》さへ出來る事なれば何であの孝行《かうかう》な娘の身を浮川竹《うきかはたけ》に沈むる周旋《せわ》を我しやう他人がましき事をせな聊《いさゝ》か有ても調法なは金なり心が濟《すま》ずば其金にて妹《いもと》お富へ何なりと江戸|土産《みやげ》など買《かう》て行れよ然すれば我が請たも同樣|必《かなら》ず/\心配《しんぱい》しやるなと手にだも取ず押戻《おしもど》し肉身《にくしん》分《わけ》たる舍弟《おとゝ》十兵衞を飽《あく》まで欺《あざむ》く長庵が佞辯《ねいべん》奸智《かんち》極惡《ごくあく》は譬《たとふ》るに物なしと後にぞ思ひ知られけり十兵衞は兄《あに》長庵が巧《たく》みのありとは少しも知らず然樣《さやう》ならば頂戴《いたゞき》ますと己《おの》れが出たる三兩を再び胴卷《どうまき》の金と一|緒《しよ》に仕舞込《しまひこむ》を長庵は横目《よこめ》でジロリと眺《なが》め空嘯《そらうそふ》けば十兵衞は何れ歸村《きそん》を致せし上御禮の仕樣もありぬべしと親《ちか》しき中にも禮義《れいぎ》を知る弟が心ぞしほらしき [#8字下げ]第三回[#「第三回」は中見出し]  偖《さて》も弟十兵衞は長庵に向ひ嘸《さぞ》かし在所《ざいしよ》にても妻や娘の私しが歸るを待兼て居る成らん因て明|朝《あさ》は是非とも出立致し度と言けるに長庵|否々《いや/\》此通り雨も降《ふつ》て居ることゆえ明日《あした》は一日見合せて明後日《あさつて》出立《しゆつたつ》爲《なす》べしと留《とゞ》めけれ共十兵衞は是を聞ず否々《いや/\》兄樣《あにさま》降《ふれ》ばとて一日二日の旅《たび》ではなし天氣《てんき》の好《よき》日《ひ》を見て立ても道にて大雨《おほあめ》に逢まじき者にも非ずと在所《ざいしよ》を案じる一|筋《すじ》に十兵衞が一日も早く妻《つま》や子に安心させんと思ひ詰《つめ》頻《しき》りに翌朝《あした》は出立せんとて何と云《いひ》ても止まらねば然らば翌《あす》は出立して在所の者に少しも早く安心させるも能《よ》かるべし然樣《さう》決心《けつしん》をした上は嘸《さぞ》かし氣勞《きづか》れも有《あら》う程に今宵《こよひ》は早く休《やす》むがよい己《おれ》も今夜は早寢《はやね》にせんと云ば十兵衞は然樣《さやう》ならお先へ臥《ふせ》ります御免成《ごめんなさ》れと挨拶し臥戸《ふしど》へこそは入にけれ跡に長庵|工夫《くふう》を凝《こら》し彼の五十兩の金を取《とら》んには刺殺《さしころ》して物にせんか縊殺《しめころ》して呉《くれ》んかと立たり居たりして見ても流石《さすが》に自分の居宅《きよたく》にて荒仕事《あらしごと》を働《はたら》かば後の始末《しまつ》が面倒《めんだう》ならん寧《いつ》そ翌日《あした》は暗《くら》きに立《たゝ》せん然《さう》じや/\と打《うち》點頭《うなづき》獨《ひと》り笑《ゑみ》つゝ取出す傘《かさ》は日外《いつぞや》同町に住居《すまひ》する藤崎《ふぢさき》道《だう》十郎が忘れて行しを幸ひなりと隱《かく》し置《おき》夜《よ》の更《ふけ》るを待内に愈々《いよ/\》雨は小止《こやみ》なく早《はや》耳先へ響《ひゞ》くのは市ヶ谷八|幡《まん》の丑時《やつ》の鐘《かね》時刻《じこく》はよしと長庵はむつくと起て弟の十兵衞を搖起《ゆりおこ》し是十兵衞|最早《もはや》今のは寅刻《なゝつ》の鐘《かね》殊《こと》に此鐘は何時も少し遲《おそ》き故夜の明るに間も有まい眼を覺《さま》して支度せよ鐵瓶《てつびん》の湯も温《ぬる》んで有と聞て十兵衞は起上り顏《かほ》を洗《あら》はず支度をなし幸ひ雨も小降《こぶり》になりぬ翌日は天氣になりなんと心《こゝろ》急《せか》るゝ十兵衞は死出《しで》の旅路《たびぢ》と知ぬ身の兄長庵に禮を述《のべ》用意《ようい》の雨具《あまぐ》甲掛《かふかけ》脚絆《きやはん》旅拵《たびごしら》へもそこ/\に暇乞《いとまごひ》して門《かど》へ立出|菅笠《すげがさ》さへも阿彌陀《あみだ》に冠《かぶ》るは後《あと》より追《おは》るゝ無常《むじやう》の吹降《ふきぶり》桐油《とうゆ》の裾《すそ》へ提灯の灯《ひ》を消《けす》まじと馴《なれ》もせぬ江戸の夜道は野山より結句《けつく》淋《さび》しく思はれて進まぬ足を蹈《ふみ》しめ/\黒白《あやめ》も分《わか》ぬ眞《しん》の闇《やみ》辿《たど》りながらも思ふ樣|貧《まづ》しき中にも手風《てかぜ》も當ず是迄|育《そだ》てし娘お文を浮川竹に身を沈《しづ》め憂《つら》ひ勤《つと》めをさせるのは親の本意と思はねど身に替難《かへがた》き年貢《ねんぐ》の金子《かね》ゆゑ子に救《すく》はるゝのも因果《いんぐわ》なり娘の勤《つと》めは如何ならん嘸《さぞ》や故郷《こきやう》の事を思ひ出|憂《うき》が積《つも》りて若《もし》や又|煩《わづら》ひもせば何とせん思へば貧《まづ》しく生《うま》れ來て何にも知ぬ我が子に迄|倦《あか》ぬ別れをさするかやと男《をとこ》涙《なみだ》に足元《あしもと》も踉々《しどろ》蹌々《もどろ》に定め兼《かね》子故に迷ふ闇《やみ》の夜に麹町をば後になし歸ると聞し虎《とら》の門《もん》も歸らぬ旅に行《ゆく》空《そら》の西の久保より赤羽《あかばね》の川は三|途《づ》としら壁《かべ》の有馬《ありま》長家も打過て六堂ならねど札《ふだ》の辻《つじ》脇目《わきめ》も振《ふら》ず急ぎしか此程|高輪《たかなわ》よりの出火にて愛宕下通り新《あたら》し橋邊まで一圓に燒原《やけはら》となり四邊《あたり》曠々《くわう/\》として物凄《ものすご》く雨は次第に降募《ふりつの》り目先も知ぬ眞《しん》の闇《やみ》漸々《やう/\》にして歩行《あゆみ》ける折しも響《ひゞ》[#ルビの「ひゞ」は底本では「ひぐ」]く鐘《かね》の音《ね》は明《あけ》六ツならんと心《こゝろ》嬉《うれ》しく算《かぞ》へて見れば然《さ》はなくして芝《しば》切通《きりどほ》しの七ツなれば偖《さて》は兄の長庵殿が我が出立を急ぎしゆゑ少しも早くと思ふ念《ねん》より八ツを七ツと聞違《きゝちが》へて我を起《おこ》し呉《くれ》しならんまだ勿《な》か/\に夜は明まじ偖《さて》蝋燭《らふそく》の無《なく》ならば困《こま》つたものと立止り灯影《ほかげ》に中を差覗《さしのぞ》きしと/\とまた歩行出《あゆみだす》折柄《をりから》ばた/\駈來《かけく》る足音《あしおと》に夫と見る間も有ばこそ聲をば懸《かけ》ず拔打《ぬきうち》に振向《ふりむく》笠《かさ》の眞向《まつかう》より頬《ほゝ》の外《はづ》れを切下《きりさげ》られあつと玉ぎる一聲と共に落せし提灯の發《ぱつ》と燃立《もえたつ》其|明《あか》りに見れば兄なる長庵が[#「長庵が」は底本では「長庵がが」]坊主天窓《ばうずあたま》へ頬冠《ほゝかぶ》り浴衣《ゆかた》の尻《しり》を引《ひつ》からげ顏を背《そむ》けて其場に彳《たゝず》み持たる脇差《わきざし》取直し再度《ふたゝび》斯《かう》よと飛蒐《とびかゝ》るをヱヽと驚く十兵衞がヤアお前は兄の長庵殿何故あつて此の私《わし》を切殺《きりころ》すとはサヽ扨《さ》ては娘を賣つた此の金が初手《しよて》から欲《ほし》さに深切《しんせつ》を表《おもて》に飾《かざ》つて我を欺むき八ツを七ツの鐘なりと進めて出立させて置殺して取とはなにごとぞ恨《うら》めしや長庵どのとひよろ/\立を蹴轉《けころ》ばし愚※[#「圖」の「回」に代えて「面から一、二画目をとったもの」、182-6]々々《ぐづ/\》云はずと默《だま》つて亡《くた》ばれこの世の暇《いとま》を取《とら》せて遣《やら》んと又切付れば七|轉《てん》八倒《ばつたう》空《くう》を掴《つか》んで十兵衞が其の儘息は絶《たえ》にけり長庵刀の血を拭《ぬぐ》ひて鞘《さや》に納め懷中《くわいちう》の胴卷《どうまき》を取だし四十二兩は福《ふく》の神《かみ》弟《おとゝ》の身には死神《しにがみ》と己《おの》れが胴《どう》にしつかり括《くゝ》り雨も止《やま》ぬに傘《からかさ》をと一|思案《しあん》して其場へ捨置《すておき》是が後日の狂言《きやうげん》だ斯《かう》して置ば大丈夫と彼藤崎道十郎が忘《わす》れて行し傘を死骸《しがい》の脇《わき》へ投捨《なげすて》て跡《あと》白浪《しらなみ》と我が家なる麹町へぞ急ぎける爰に武州なる品川宿といふは山を後《うし》ろにし海を前にして遠く房總《ばうそう》の山々を望《のぞ》み南は羽田《はねだ》の岬《みさき》海上《かいじやう》に突出《つきいだ》し北は芝浦《しばうら》より淺草の堂塔迄《だうたふまで》遙《はる》かに見渡し凡そ妓樓《あそびや》の在《ある》地《ち》にして此|絶景《ぜつけい》を占《しめ》しは江戸四宿の内只此品川のみ然れば遊客《いうきやく》も隨《したが》つて多く彼の吉原にもをさ/\劣《おと》らず殊更《ことさら》此地は海に臨《のぞ》みて曉《あかつ》きの他所《ほか》よりも早けれど客人《まろうど》は後朝《きぬ/″\》[#ルビの「きぬ/″\」は底本では「きね/\」]をかこち昨夜《ゆうべ》も四日市《よつかいち》邊《へん》なる三人の若い者|此處《こゝ》の妓樓《あそびや》某《それ》に遊興《あがり》て夜を深《ふか》し宿《いね》るに間もなく夜は白《しら》みたりと若い者に起され今朝《けさ》しもぶつ/\と呟《つぶや》きながら妓樓《あそびや》を立出|道《みち》すがら昨夜《ゆうべ》の相方は斯々《かく/\》なりなどと雜談《ざふだん》を云つゝ一本の傘《かさ》に三人が小雨《こさめ》を凌《しの》ぎながら品川を後にして高輪《たかなわ》より札《ふだ》の辻《つじ》の方へ差掛《さしかゝ》りける處に夜の引明なれば未だ往來《わうらい》は人影《ひとかげ》もなく向ふを見るに三ツ股《また》の辻《つじ》の此方《こなた》に人の寢《ね》て居る樣子ゆゑ何心なく通りけるに這《こ》は其も如何に一人の旅客《たびびと》の朱《あけ》に染《そめ》切倒《きりたふ》されて居たりしかば三人共に大いに驚きながらも一人は死人の向ふを通り拔《ぬけ》後《あと》をも見ずに迯行《にげゆき》しが殘りし二人は顏見合せ怖《こは》い者見たしの譬《たとへ》の如く何樣《どん》な人やら能《よく》見《み》んと思へば何分|恐《おそろ》しく小一町|手前《てまへ》に彳《たゝず》みしが連《つれ》の男は聲を懸《かけ》寧《いつ》その事田町|通《とほ》りを歸らんと言ば一人の男申樣何にもせよ此趣《このよし》を自身番《じしんばん》へ知らせて遣《やら》ば早々《さう/\》人や出來らん其時一|緒《しよ》に見ながら通らん是は如何にと言《いひ》ければ如何にも夫は面白《おもしろ》しと二人は直《すぐ》に番屋《ばんや》に至り大聲揚て告けるは御町内に人殺あり早く往《いつ》て見らるべしとの知らせに自身番の宿直《とまり》の人は大いに驚き定番《ぢやうばん》の者を四方へ走らせて斯《かく》と告るに町内の行事《ぎやうじ》其外|家主中《いへぬしちう》名主《なぬし》書役《しよやく》に至る迄|忽《たちま》ちに寄集《よりつど》ひしかば知らせし兩人も一|緒《しよ》に行て死骸を怕々《こは/″\》ながら後より覗《のぞ》き見て各々方《おの/\がた》は御苦勞成《ごくらうなり》と云つゝ兩人は通り過んとする處を町役人等|押止《おしとゞ》めて御二人とも御知らせ下されたる上からは御|掛《かゝ》り合は遁《のが》れぬなり先々|御檢使《ごけんし》の御出まで御待候へと有《あり》ければ兩人は大きに打驚き何も私し共が爲《なし》たる事には候はず全く通り掛《がか》りて見付しゆゑ御知せ申せし迄なり其者が掛り合とは甚だ迷惑《めいわく》と云をも更《さら》に聞き入ず否々|和主達《おまへたち》が殺したりと云には非ず御知らせ有しは少しの災難《さいなん》手續《てつゞ》きなれば止《やむ》を得ず夫とも達《たつ》て止まるを否《いな》とならば繩《なは》を打ても差止《さしとめ》置《おか》ねば町法が立ざるなりと烈《はげ》しき言葉に彌々《いよ/\》恐れ昨夜《ゆうべ》は昨夜女郎にふられ今朝は今朝とて此災難斯まで運《うん》の惡《わる》くなる者か夫に付ても吉《きち》の野郎《やらう》は昨夜も一人|持囃《もてはや》され今朝も先へ拔て歸り仕合者《しあはせもの》よと呟《つぶや》き[#「呟き」は底本では「咳き」]/\自身番屋へ上り込《こみ》檢使《けんし》の出張《でばる》を待《まつ》うちも若や如何なるお調《しら》べに成もやせんかと兩人共|安《やす》き心は無りけり [#8字下げ]第四回[#「第四回」は中見出し]  去程《さるほど》に札《ふだ》の辻《つじ》の自身番より月番の町奉行中山出雲守殿へ右の次第を訴《うつた》へに及びければ檢使の役人兩人|非番《ひばん》の町奉行より一人|出張《しゆつちやう》に相成立合の上死骸を篤《とく》と改められし處歳の頃四十三四百|姓《しやう》體《てい》の男にて身の内に疵《きず》三ヶ處|頭上《づじやう》より頬《ほゝ》へ掛て切付し疵《きず》一ヶ所|脊《せ》より腹《はら》へ突通《つきとほ》せし疵二ヶ所其|脇《わき》に傘《からか》さ一|本《ぽん》捨《すて》これ有其|傘《からかさ》に澤瀉《おもだか》に岩と云字の印し付是あり懷中には鼻紙入《はながみいれ》に藥包《くすりつゝ》み一ツ外《ほか》に手紙一通あり其|上書《うはがき》は「三州藤川在岩井村十兵衞殿返事江戸麹町三丁目村井長庵」右の通りの上書《うはがき》にて中の文言《もんごん》は「去二日出の書状|到着《たうちやく》委細拜見致し候扨々其方にても屡々|不如意《ふによい》との趣き蔭乍《かげなが》ら案事《あんじ》申候右に付御申|越《こし》の娘|出府《しゆつぷ》致されべく候吉原町にも病家《びやうか》も有[#レ]之候間宜しき處を見立奉公に差遣《さしつか》はし可申候|何《いづ》れ出府の上相談可申候委細は筆紙に盡《つく》し難し早々《さう/\》以上  八月九日 村井長庵 藤川在岩井村十兵衞殿」右《みぎ》の文體《ぶんてい》也ければ直《たゞ》ちに麹町三丁目町醫師村井長庵|呼出《よびだ》しの差紙《さしがみ》を札の辻の町役人へ渡されければ非番《ひばん》の家主|即時《そくじ》に麹町の名主の玄關へ持參なし順序《じゆんじよ》を經て長庵の家主の手に渡すに何事やらんと驚きつゝ家主は長庵方へ到りける斯《かく》あらんと豫《かね》て覺悟の長庵は鉢卷《はちまき》して藥土瓶《くすりどびん》なぞ取散《とりちら》し大夜具《おほやぐ》を冠《かぶ》りて打臥《うちふし》たり家主は枕元に居《すわ》りて長庵殿|芝《しば》札《ふだ》の辻の自身番より急の御|差紙《さしがみ》を以て村井長庵を召連《めしつれ》只今|直《すぐ》に罷《まか》り出《いで》よとの事なり見請《みうけ》れば鉢卷《はちまき》などして如何《いかゞ》成《なさ》れしや直《すぐ》に出行るゝやと尋ねけるに長庵は重《おも》た氣《げ》に枕を持上偖々昨夜より大熱《だいねつ》にて頭痛甚しく夜通し苦しみたり誠《まこと》に/\病氣の時の悲《かな》しさは獨身者は藥|一服《いつぷく》煎《せん》じて呉る人もなく實以て困《こま》り候而て其札の辻よりの御差紙とは何等《なんら》の御用筋にやと空嘯《そらうそぶ》いて申けるにぞ家主は氣の毒さうに扨々《さて/\》病中と云とんだ難儀《なんぎ》の事なり又聞の咄《はな》しなれば確《しか》とは分らねども何か札の辻にて昨夜人殺しが有りしとか云ふこと其の切《き》られたる者の懷中《くわいちう》に貴殿《きでん》の手紙が有りしよし檢使《けんし》の場へも呼出しに成るとの事といへば長庵は然《さ》も驚きし樣子にて床《とこ》の上に起き上り其殺されし人は如何なる出立《いでたち》の人に候やと聞《きく》に家主は然《され》ばなり四十三四の年頃にて百姓體の男の由と咄《はな》せば長庵は顏色《がんしよく》變《か》へ扨は弟十兵衞が金子を持《もつ》て早立せし故|萬一《もし》もの事でも有りしかと立たり居たりする體は實心《じつしん》とこそ見《みえ》にけれ稍《やゝ》有《あつ》て申けるは病中にて難儀には候へども捨置《すておか》れねば直《すぐ》に押《おし》ても罷《まか》り出んと支度《したく》を早々《そこ/\》にして立出れば家主も夫は/\氣の毒千萬と心配しながら諸共に芝札の辻を指《さし》て急ぎ行《ゆく》に頓《やが》て檢使の前へ呼出《よびいだ》され長庵に一通り尋ね有《あり》て彼の十兵衞の死骸を見せられけるに長庵は一|目《め》見《みる》より死骸に取付扨は十兵衞にて[#「十兵衞にて」は底本では「十兵衞はて」]有《あり》けるか斯《かゝ》る事の有るべきと虫《むし》が知らせし物にや頻《しき》りに夜明《よあけ》て出立致させ度《たく》我が止めしをも聞入《きゝいれ》ず出立|成《なし》たる夫故《それゆゑ》に斯る憂目《うきめ》を見る事ぞ病氣でさへなき物ならば此邊迄も見送《みおく》り遣《やら》んに無念《むねん》の事を仕てけりと前後不覺《ぜんごふかく》に泣沈み正體《しやうたい》更《さら》に有《あら》ざれば其有樣を見る人は如何にも其身が仕なしたる事とは更に知らざりけり此時檢使の役人は彌々《いよ/\》其方が弟に相違無《さうゐなき》や如何《いか》なる譯《わけ》有て大雨《たいう》の折から深更《しんかう》に發足《はつそく》致せしやと尋ね有りければ長庵袖に涙を拭《ぬぐ》ひ私し弟十兵衞事は三州藤川在岩井村の百姓にて豫々《かね/″\》正直者《しやうぢきもの》に候へ共不事の物|入《いり》打續き年貢の未進《みしん》多分《たぶん》に出來上納方に差支《さしつか》へ如何|共《とも》詮術《せんすべ》なき儘文と申|姉《あね》娘を吉原江戸町二丁目なる丁字屋半藏方へ身賣致し其|身代金《みのしろきん》を所持致し今朝《こんてう》未明《みめい》に私し方を出立致し候を存知居《ぞんぢをり》候者の仕業《しわざ》かと恐れながら存じられ候と身を震《ふる》はして申立てけるに其時檢使は彼場所に傘捨有りし傘を出《いだ》され其方此傘に覺え有りやと見せらるれば長庵涙を拂《はら》ひて倩々《つく/″\》と打詠《うちなが》め暫く有《あつ》て小膝を叩《たゝ》き是こそ私し同町に住居《すまひ》致居候浪人藤崎道十郎と申者の所持《しよぢ》の傘《かさ》に有之此|傘《からかさ》にて思ひ當りし事あり同人義昨日も私し方へ參り居《をり》候是は當今《たうこん》同人事病氣にて拙者《せつしや》より藥を遣《つか》はし置候事故昨日も例《れい》の藥取に參りしなり其節弟十兵衞|朝未明《あさまだき》より出立致し候とて右の金子を取出し改めて懷中《くわいちう》へ入候事ども羨《うらや》まし氣《げ》に見て歸り候間|若《もし》や彼の道十郎が困窮《こんきう》に迫《せま》りて如何の了簡《れうけん》をも出しは致す間敷《まじく》候やと然《さ》も誠《まこと》しやかに申立ければ役人|中《ぢう》も長庵が申|立《たて》を實《げ》にもと思はれ其道十郎を取|迯《にが》さぬ樣|手當《てあて》せよとて手先|并《ならび》に町役人へ内達《ないたつ》にぞ及ばれける [#8字下げ]第五回[#「第五回」は中見出し]  扨も檢使には掛《かゝ》り合の者一同|召連《めしつれ》て北の番所へ(幕府《ばくふ》の頃は町奉行兩人有て南《みなみ》北《きた》と二ヶ所に役宅《やくたく》あり)歸《かへ》りしかば中山出雲守殿へ檢使の次第を言上《いひあげ》且夫々の口書を差出《さしいだ》しけるに出雲守殿も長庵が佞辯《ねいべん》を是《ぜ》として彌々《いよ/\》道十郎の仕業なりと疑がひ掛り直《すぐ》に麹町へ召捕方《めしとりかた》を差向《さしむけ》られ十兵衞事死骸は兄長庵へ御引渡しに相成ければ長庵は仕濟《しすま》したりと内心に悦び直《すぐ》に十兵衞の死骸を引取《ひきとり》ける爰に彼の浪人藤崎道十郎といへるは故《ゆゑ》有《あり》て主家を退身《たいしん》爲《な》し流浪《るらう》の身と成りしが二君に仕へるは武士《さむらひ》の廉恥《はぢいる》所成れ共座して喰《くら》へば山も空《むな》し何れへか仕官《しくわん》に就《つか》んと思ひしに不幸にも永の煩《わづら》ひに夫も成らず困苦《こんく》に困苦を重《かさ》ねしも女房お光が忠實敷《まめ/\しく》賃裁縫《ちんしごと》やら洗濯等《せんたくなど》なし細《ほそ》くも朝夕《あさゆふ》の烟《けむり》を立《たて》啻《たゞ》夫《をつと》の病氣|全快《ぜんくわい》成《な》さしめ給へと神佛へ祈念《きねん》を掛《かけ》貧《まづ》しき中にも幼少《えうせう》なる道之助の養育《やういく》を樂《たのし》み居たりしに或日《あるひ》表裏《おもてうら》の門口《かどぐち》より上意々々《じやうい/\》との聲《こゑ》聞《きこ》ゆるにぞ何事やらんと道十郎は枕《まくら》を揚《あげ》る折《をり》こそあれ召捕《めしとり》の役人どや/\と押込《おしこみ》御用なり尋常《じんじやう》に繩《なは》に掛れと勢猛《いきまき》て罵《のゝし》るにぞ道十郎は驚きて居《すわ》り直《なほ》し拙者に於ては御召捕に相成べき謂《いは》れ無し其は人違《ひとちが》ひにては候はずやと言《いは》せも果ず役人共|言譯《いひわけ》有《あら》ば白洲《しらす》にて申べしと病痿《やみほい》けたる道十郎を高手小手に警《いまし》めて妻子《さいし》の泣《なく》をも構《かま》はゞこそ四方を嚴《きびし》く取圍《とりかこ》み北の番所へ引出しが頓て中山出雲守殿の御白洲へ情《なさけ》なくも引出しけり然《され》ば出雲守殿一通り調《しら》べに[#「調べに」は底本では「謂べに」]掛《かけ》られしに道十郎は思ひも寄《よら》ぬ事成れば大いに驚怖《おどろき》何者《なにもの》が訴人《そにん》せしや知《しら》ざれども右樣《みぎやう》の儀《ぎ》決《けつ》して覺え是無《これなく》候と申に出雲守然らば此傘《このかさ》は其方覺え無きやとの尋ねなれば道十郎是は私しの所持の傘《かさ》に御座候と云ふに出雲守殿|然《され》ば如何《いかゞ》してか此傘が右|人殺《ひとごろ》しの場所に捨《すて》有《あり》しなり其方惡事を働《はたら》き其場所に取落し置たるに相違《さうゐ》有《ある》まじ尋常に白状せよ特《こと》に長庵が申立に其方事前日長庵方へ藥取《くすりとり》に參り合せ十兵衞が娘を吉原町へ賣《うり》其金を持て歸りし時の容子《ようす》を認《みと》め其方|惡意《あくい》を發《はつ》せしもの成らんと云へり然もあるべし如何樣に申|陳《ちん》ずる共|既《すで》に證據と成るべき傘《からかさ》あれば申|譯《わけ》立難《たちがた》しと申さるゝに道十郎は如何にも迷惑《めいわく》し這《こ》は驚き入たる仰せかな長庵事何と申上候か存申さず候得ども私し事は先月《せんげつ》中より永々《なが/\》の病氣にて臥居《ふしをり》中々長庵方などへ參り候事是無く勿論先月中一兩度も近所の事故藥取に參り候が其時の事にて有りしが雨《あめ》晴《はれ》候故|不思《つひ》傘《かさ》を長庵の玄關|先《さき》に失念《しつねん》致して歸り候により其後兩三度も取りに遣《つか》はし候得ども之無き趣《おもむ》きにて返して呉《くれ》ざる故其儘に致し置候ひしが其節の傘に相違《さうゐ》無御座候然るに長庵|右樣《みぎやう》の儀を申立る事何分にも其意を得ざるまゝ何卒《なにとぞ》長庵と對決《たいけつ》の御調べ偏《ひと》へに願ひ奉つり候と申|上《あげ》ければ然らば此傘は其方長庵方に忘《わす》れ置《おき》しと申か長庵は其方が十兵衞の金子を持て歸る事を存《ぞん》じ居《をり》旁々《かた/″\》怪《あや》しき段申立る何れ長庵と突合《つきあは》せ猶《なほ》吟味《ぎんみ》を遂《とく》べし併しながら其方所持の傘《からかさ》其場所に捨在《すてあり》し上は其方こそ疑ひ無《なき》に非ず依て吟味中|入牢《じゆらう》申付るなりと終に道十郎は入牢の身とこそは成にけれ翌日村井長庵呼出しにて段々《だん/\》取調《とりしら》べ有りしに長庵は前に申上し通り傘を私しの宅へ忘《わす》れ置き候などとは道十郎が僞言《いつはり》決して右樣の事是なく候右は長庵に罪《つみ》を塗付《ぬりつく》べしとの巧《たく》みにて申上候事やと存じ奉つり候と態《わざ》と驚怖《おどろき》たる容子《ようす》に申立|双方《さうはう》の眞僞《しんぎ》判然《わから》ざるより道十郎と突合《つきあは》せ吟味に相成し處|佞奸邪智《ねいかんじやち》の長庵が辯舌《べんぜつ》に云昏《いひくる》められ道十郎も種々《しゆ/″\》言開《いひひら》くと雖も申口相分らず長庵は只町役人へ預けにて下《さが》り道十郎は病中の處猶又|歸牢《きらう》に相成|心氣《しんき》疲《つか》れ心程言葉の廻《まは》らざるより自然《しぜん》と對決《たいけつ》も屆かず吟味詰にも相成ずして居たりし中《うち》寶永七年九月廿七日|憐《あはれ》むべし道十郎|牢内《らうない》にて死去に及びけるは不運《ふうん》と云ふも餘りあり妻お光は此由を聞て狂氣《きやうき》の如く悲《かなし》みしかども又|詮方《せんかた》も非ざれば無念ながらも甲斐《かひ》なき日をぞ送りける其長庵は心の内の悦び大方ならず猶《なほ》種々《さま/″\》と辯舌を以て申立て終に死人に口無《くちなし》の喩《たと》への通り彼札の辻の人殺しは道十郎に事|極《きは》まり殘骸は取捨に相成|家財《かざい》は妻子に下し置れ店請《たなうけ》人なる赤坂の六右衞門方へ妻子の者は泣々《なく/\》引取れ長庵は何の御|咎《とが》めもなく落着《らくちやく》せしかば爰《こゝ》に於て三州藤川在岩井村へは此由を長庵より知らせやりしに十兵衞の妻お安《やす》妹娘《いもとむすめ》お富は地摺《ちすり》足摺《あしずり》して歎《なげ》けども詮方《せんかた》なく終に兩人ながら出府して長庵方へ引取れけり其内に長庵は又一ツの惡計《あくけい》を考へ出し妹娘のお富も幸ひ十二|相《さう》揃《そろ》ひし容貌《きりやう》なれば欺《だま》して是をも金にせんと己れが惡事仲間の早乘《はやのり》の三次と云ふ者を語合《かたらひ》又近所の後家《ごけ》にて惡婆《あくば》のお定と云ふ女をも手なづけ置き頓《やが》て[#「頓て」は底本では「頓が」]母の御安にはお富を能《よき》屋敷《やしき》方へ御奉公に差上るなりと云《いひ》勸《すゝ》め彼惡婆《かのあくば》のお定を三次が出入の御屋敷の老女と爲し御|取替《とりかへ》金などと僞りて僅《わづ》かの金子をお安に與へ妹娘のお富を連出《つれだ》しけるがお富には姉と共に奉公せよと種々《いろ/\》に云《いひ》慰《なぐさ》め欺《だま》し賺《すか》して終に吉原江戸町二丁目なる丁字屋半藏方へ身の代《しろ》金三十兩にて賣代《うりしろ》なし右の金子の内を三次へ五兩お定へ一兩|遣《つかは》し殘りの金廿四兩を悉皆《こと/″\》く己れが榮耀《ええう》に遣ひけりお安は旨々《うま/\》と長庵に欺かされ妹のお富迄も浮川竹《うきかはたけ》の流《なが》れの身と成りし事を毫《つゆ》知《しら》ざれども其後更に二人の娘より一度の便《たよ》りも無ければ案事《あんじ》煩《わづら》ひ或日長庵に向ひて申樣何卒姉娘のお文にも一度|逢《あは》して下されと頼みければ流石《さすが》の長庵も當惑《たうわく》爲し挨拶《あいさつ》に困《こう》じ果《はて》口から出放題《ではうだい》の事を言《いひ》て慰めける内又々妹お富が參りたる御|邸《やしき》は何と申ところにやお富にも何卒|逢《あは》して下されと朝夕となく頻《しき》りにお安に責《せめ》らるれば長庵は愈々《いよ/\》困《こう》じ果《はて》妹お富が行きし所は堅《かた》い御邸《おやしき》成《なれ》ば然《さう》輕々敷《かる/″\しく》は逢難《あひがた》し其内都合を見て逢《あは》せんと一日|遁《のが》れの挨拶も煎《せん》じ詰《つま》つて長庵が匙《さじ》加減《かげん》にさへ廻り兼姉のお文に逢せなば必ずお富が居る事故出て來るは必定《ひつぢやう》外の内へ賣れば能《よか》りしに近來《ちかごろ》になき失策《しぞこなひ》を致したりと後悔《こうくわい》すれども詮方なく今はお安も側《そば》を放《はな》れず二人の娘に逢して呉《くれ》と髮《かみ》もおどろに振亂《ふりみだ》し狂氣の如き形容《ありさま》に長庵|殆《ほとん》どあぐみ果《はて》捨置《すておく》時《とき》は此女から古疵《ふるきず》が發《おこ》らんも知れぬなり毒《どく》喰《くは》ば皿とやら可愛さうだがお安めも殺して仕舞《しま》ふ外《ほか》は無いが如何なる手段で殺して呉《くれ》ん内で殺さば始末《しまつ》が惡し何でも娘兩人に逢して遣《やる》と誘引出《おびきだ》し人里遠き所にて拂放《ぶつぱな》すより思案は無し夫にしても自分でするは些《ちつと》小面倒《こめんだう》の仕事なり彼奴《あいつ》を頼んで片付んと獨《ひとり》思案の其折から入來る兩人は別人《べつじん》ならず日頃|入魂《じゆこん》の後家のお定に彼の早乘《はやのり》の三次成れば長庵|忽地《たちまち》笑《ゑみ》を含《ふく》み何にも無《ない》が一ツ飮ふと戸棚《とだな》より取出す世帶《せたい》の貧乏徳利|干上《ひあが》る財布のしま干物|獻《さし》つ押《おさ》へつ三人が遠慮《ゑんりよ》もなしに呑掛《のみかけ》たりお安は娘に逢度さを引しぼる程|苦勞《くらう》が彌増《いやまし》今迄兄の長庵へ娘二人に逢《あは》してと逼《せま》りて居たる折柄《をりから》成《なれ》ば此酒盛に立交《たちまじ》りて居るも物|憂《うく》思ふ物から其場を外して二階に上れば折こそ宜《よし》と長庵は二人が耳に口を寄せ何か祕々《ひそ/\》囁《さゝや》きければ二人はハツと驚きしが三次は暫《しば》し小首を傾《かたむ》け茶碗《ちやわん》の酒をぐつと呑干《のみほし》先生皆迄|宣《のたま》ふな我々が身に係《かゝ》る事委細承知と早乘が答へに長庵力を得て惡婆のお定と鼎《かなへ》に成《なり》其巧《そのたく》みにぞ及びけり [#8字下げ]第六回[#「第六回」は中見出し]  三人|寄《よれ》ど文珠《もんじゆ》さへ授けぬ奸智《かんち》の智慧袋《ちゑぶくろ》はたいた底《そこ》の破《やぶ》れかぶれ爲術《せんすべ》盡《つき》し荒仕事《あらしごと》娘に逢《あは》すと悦ばせて誘引《おびき》出すは斯々と忽ち極《きま》る惡計に獻《さし》つ酬《さゝ》れつ飮みながらとは云ふものゝ此《こ》の幕《まく》は餘り感心《かんしん》せぬ事成れば姉御《あねご》と己と鬮《くじ》にせんと紙縷《こより》捻《ひね》つて差出せばお定は引て莞爾《につこり》笑《わら》ひ矢張《やつぱり》兄貴《あにき》が當り鬮と云はれて三次は天窓《あたま》[#ルビの「あたま」は底本では「あまた」]を掻《かき》然《さら》ば三次が引請《ひきうけ》んと其夜は戻りて二三日|過《すぎ》眞面目《まじめ》に成て尋ね來れば長庵はお安を打招《うちまね》きお富を奉公に世話を下されしは此お人なればお頼み申てお富に逢《あう》て來るが能《よい》と聞てお安は今が今迄|兎《と》や角《かく》と案《あん》じ暮して居た事ゆゑ忽ち笑《ゑみ》を含《ふく》みつゝ三次の側《そば》へさし寄て今より何卒御一所にお連《つれ》成《なさ》れて下されと云へば三次は默禮《もくれい》し然程迄《さほどまで》にも逢度《あひたく》ば今夜|直《すぐ》にも同道せんと聞てお安は飛立《とびたつ》思《おも》ひそれは/\有難し先樣でさへ夜分《やぶん》にても能事《よいこと》成《なれ》ば私しは一刻《ちつと》も疾《はや》く逢度《あひたい》と悦ぶ風情《ふぜい》に長庵は仕濟したりと心の目算《もくさん》頓《やが》て三次に打向ひ御|苦勞《くらう》ながら世話《せわ》序《ついで》に今晩《こんばん》逢《あは》せて下されと云へば三次は苦笑《にがわら》ひ如何にも承知と挨拶《あいさつ》するうち殺さるゝとは夢《ゆめ》にも知らずお安は急ぎ帶《おび》引締《ひきしめ》サアと促《うなが》す詞《ことば》と共に三次は態《わざ》と親切らしくお安を連て立ち出しは既に時刻《じこく》を計りし事故|黄昏《たそがれ》近き折なれば僅かの内に日は暮切《くれきり》宵闇《よひやみ》なれば辻番にて三次は用意の提灯《ちやうちん》へ灯《あか》りを點《つけ》て先へ立コレお安殿何も案じる事は無《ない》お富さんも御屋敷へ行てから度々《たび/\》母樣《はゝさま》へお案事《あんじ》成《なさ》らぬ樣宜しく云て下されとお言傳《ことづて》も有りました特には先の御屋敷でも御意に適《かな》つて益々《ます/\》全盛《ぜんせい》と云はんとせしが口を押《おさ》へ少し辛抱《しんばう》して居らるゝと屹度《きつと》出世《しゆつせ》も出來まする其御邸と申のは至つて風儀《ふうぎ》も能《よい》との事|傍輩衆《はうばいしう》も大勢有て御|奇麗《きれい》好《ずき》の方々ゆゑ毎日朝から化粧《つくろひ》が御奉公安心なる物なりと口から出次第《でしだい》喋舌立《しやべりたて》るを誠と思ふ田舍堅氣《ゐなかかたぎ》お安は唯《たゞ》莞爾々々《にこ/\》と打悦びお前樣には色々と御世話に相成娘も嘸《さぞ》や悦んでがな居ませう又今晩は夜道《よみち》をもお厭《いと》ひ無くて態々《わざ/\》と娘の勤《つと》め先までも御連れ下さる御心切御|禮《れい》の申上樣も御座らぬ迄に有難う存じますると云ふを聞《きゝ》三次はかぶりを振《ふ》りながら何の御禮に及びませうぞ夫《それ》其處《そこ》は水溜《みづたま》り此處には石が轉《ころ》げ有りと飽迄《あくまで》お安に安心させ何處《どこ》へ連行《つれゆき》殺《ばら》さんかと心の内に目算しつゝ麹町をも疾《とく》過《すぎ》て初夜の鐘《かね》をも算《かぞ》へつゝ巧《たく》みも深き御|堀端《ほりばた》此處《ここ》ぞと猶豫《ためらふ》一番町たやすく人は殺せぬ物と田安《たやす》御門も何時《いつ》か過ぎ心も暗《くら》き牛《うし》ヶ|淵《ふち》を右に望《のぞ》みて星明《ほしあか》り九段坂をも下り來て飯田町なる堀留《ほりどめ》より過るも早き[#「早き」は底本では「早さ」]小川町《をがはまち》水道橋《すゐだうばし》を渡り越《こえ》水戸《みと》樣前を左りになし壹岐殿坂《いきどのざか》を打上り本郷通りを横に見て行《ゆけ》ども先の目的《めあて》なき目盲《めくら》長屋《ながや》をたどり過《すぎ》人の心に尖《とげ》ぞ有る殼枳寺《からたちでら》や切道《きりどほ》し切るゝ身とは知らずとも頓《やが》て命は仲町と三次は四邊《あたり》見廻すに忍《しの》ばずと云ふ名は有りと池《いけ》の端《はた》こそ窟竟《くつきやう》の所と思へどまだ夜も淺《あさ》ければ人の往來《ゆきき》も絶《たえ》ざる故山下通り打過て漸々《やう/\》思ひ金杉と心の坂本《さかもと》通《どほ》り越《こし》大恩寺《だいおんじ》前《まへ》へ曲り込ば此處は名に負《おふ》中田圃《なかたんぼ》右も左りも畔道《あぜみち》にて人跡《じんせき》さへも途絶《とだえ》たる向ふは曲輪《くるわ》の裏《うら》二|階《かい》眼隱《めかく》し板の透間《すきま》より仄《ほの》かに見ゆる家毎《やごと》の燈《あか》しお安は不審《いぶかり》三次に向ひ爰は何と申所にやまた那《あの》賑《にぎや》かのは何所なりと訪《とは》れて三次は振返《ふりかへ》り那《あれ》か那《あれ》がお江戸の吉原さお文さんは那内《あのうち》に居られるのだ而《して》お富さんの居るお屋敷もたんとは離《はな》れて居らぬ故二人に今夜は逢《あは》せて進《あげ》んと言《いは》れてお安は草臥《くたびれ》も頓《とみ》に忘《わす》れて莞爾々々《にこ/\》と今殺さるゝ其人を力と頼みて夜道をも子故の闇《やみ》にたどりつゝ三次が後に引添《ひきそひ》歸らぬ旅路へ赴むくと虫が知らすか畔傳《あぜづた》ひつたはる因果の[#「因果の」は底本では「困果の」]耳元《みゝもと》近く淺草寺の鐘の音も無常《むじやう》を告る後夜《ごや》の聲かねて覺悟の早乘三次|長脇差《ながわきざし》を小脇《こわき》に隱《かく》しぶら提燈をお安に渡し是から道も廣《ひろ》ければ先へ立てと入替り最お屋敷も終《つひ》其處《そこ》だと二足三足|遣《や》り過《すご》す折柄聞ゆる曲輪《くるわ》の絲竹《いとたけ》彼の芳兵衞の長吉殺し野中《のなか》の井戸にあらねども此處は名に負《お》ふ反圃中《たんぼなか》三次は裾《すそ》を引からげ堪忍《かんにん》しろと後《うしろ》から浴《あび》せ掛たる氷《こほり》の刄《やいば》肩先《かたさき》[#ルビの「かたさき」は底本では「かたやき」]深《ふか》く切込れアツとたまきる聲の下ヤア情けなや三次どの何で妾《わらは》を殺すぞや妾は何の咎《とが》有て娘に逢《あは》すと連出し此樣《こん》な淋《さび》しい所へ來て欺《だま》し殺しは何故ぞアヽ恨《うら》めしや三次殿|四邊《あたり》に人はなき事か何卒《どうぞ》[#ルビの「どうぞ」は底本では「ぞうぞ」]助《たす》けて下されと切《きら》れし肩《かた》を兩手で押《おさ》へ迯《にげ》んとするを引捕《ひつとら》へ三次は其邊《そこら》見廻《みまは》しつゝ己《おれ》は元より怨《うら》みもなけりや殺す心はなけれ共頼まれたのが互《たが》ひの不運|斯《かう》なる上は觀念《くわんねん》爲《し》ろと又も一太刀|切倒《きりたふ》され立んとしても最《も》う立《たゝ》れずばツたり其處へ打倒れ流るゝ血汐《ちしほ》を押へしまゝ七轉八倒のた打廻るに流石の三次も心《こゝろ》弱《よわ》りヱヽ氣の毒な不便だが殺さにや成らぬ事が有る是と云ふのもお前の因果長庵と云ふ惡者を兄に持たが不仕合《ふしあは》せ必ず私《わし》を恨まれな無慈悲《むじひ》なことと思へども頼まれてする荒手業《あらしごと》呉々《くれ/″\》私《わし》が爲るではなし長庵殿の計《はから》ひなりと云にお安は聲《こゑ》震《ふる》はし扨は兄さん長庵殿がお前を頼んで殺すのか聞えぬぞへ長庵殿私を殺す譯《わけ》あらば娘に逢《あは》した上なれば十兵衞殿への土産《みやげ》も有るにお前もお前頼まるゝ事にも差別《しな》の有《ある》ものを罪も恨《うら》みも無《なき》私《わし》を殺す心の其方《そな》さんも情《なさ》け無《ない》ぞや恨めしやと勃然《むつく》と立てば三次は驚きヤア/\姉御《あねご》此私《このわし》を決して恨んでたもるまい此場に臨《のぞ》んで左右《どうかう》と言譯《いひわけ》するも大人氣《おとなげ》なし永き苦しみさせるのも[#「苦しみさせるのも」は底本では「苦しみせさるのも」]猶々不便が彌増《いやませ》ばと再度《ふたゝび》大刀《だんびら》振上《ふりあげ》ていざ/\覺悟と切付る刄《やいば》の下に鰭伏《ひれふし》て兩手を合せ幾度《いくたび》か助てたべと歎くにぞ三次も心《こゝろ》後《おく》れてか鬼《おに》の眼《め》にさへ涙とやら不便の者やと思ひしゆゑ彼の長庵が惡事の段々《だん/\》苦痛《くつう》なしゐるお安に聞せ夫故お前を殺す時機《じき》因果《いんぐわ》づくだが斷念《あきら》めて成佛《じやうぶつ》しやれお安殿と又切付れば手を合せ何《どう》でも私を殺すのか二人の娘に逢《あふ》までは死《しに》とも無《ない》ぞや/\と刄に縋《すが》るを引《ひく》機會《はずみ》に兩手の指《ゆび》は破羅々々《ばら/\》と落て流るゝ血雫《ちしづく》に畔《あぜ》の千草の韓紅《からくれなゐ》折から見ゆる人影に刄を逆手《さかて》に取直し胸の邊《あた》りへ押當て柄《つか》も徹《とほ》れと刺貫《さしつらぬ》き止めの一刀引拔ば爰に命は消果《きえはて》ぬ實《げ》に世に不運の者も有者哉夫十兵衞は兄長庵の爲に命を落し娘兩人は苦界へ沈《しづ》み夫のみ成らで其身まで此世の縁《えに》し淺草なる此|中田圃《なかたんぼ》の露と共に消《きえ》て行身の哀《あは》れさは譬《たと》ふるものぞなかりける [#8字下げ]第七回[#「第七回」は中見出し]  斯て早乘三次はお安の死骸を田圃の溝《みぞ》へ投込み其儘にして道を急ぎ麹町へ歸り來て長庵の門《かど》をほと/\叩《たゝ》けば待まうけたる長庵は忽ち立て戸を引明|上首尾成《じやうしゆびなり》と聞て悦び酒の用意もして有りと廣蓋代《ひろぶたがは》りの夜食膳《やしよくぜん》へ何やら肴を并べたて大きに骨が折れたで有らう最早《もはや》是にてお互ひに心に掛る雲も無《なし》と飮《のみ》戲《たはむ》るゝ有樣は大膽不敵の振舞《ふるまひ》なり人《ひと》盛成《さかんなる》時《とき》は天に勝の道理にて暫時《しばらく》の内は長庵も安樂に世を送りけるが彼の十兵衞の娘お富お文は揃《そろ》ひも揃ひし容貌《きりやう》にて殊に姉のお文は小町《こまち》西施《せいし》も恥《はぢ》らうばかりの嬋妍《あでやか》もの加之《そのうへ》田舍《ゐなか》育《そだ》ちには似氣《にげ》もなく絲竹《いとたけ》の道は更なり讀書《よみかき》も拙《つたな》からず最《いと》愛《やさ》しき性質成れば傍輩《はうばい》女郎も勞《いた》はりて何から何まで深切《しんせつ》を盡くして呉ける故|僅《わづか》の間《ま》に曲輪《くるわ》の風も何時か見習《みなら》ひ樓主《あるじ》の悦び大方成らず依て丁字屋の板頭《おしよく》名前《なまへ》丁山《ちやうざん》とこそ名付たれ抑《そも》突出《つきだ》しの初めより通ひ廓《くるわ》の遊客《いうかく》は云ふも更なり仲の町の茶屋々々迄も譽《ほめ》ものとせし位なれば日成らずして其の頃|屈指《ゆびをり》の全盛と成りし事|全《まつた》く孝行《かうかう》の徳《とく》にして神佛も其赤心《そのまごころ》を守護《まもり》給ふ物成らんと又妹お富も長庵に欺《あざむ》かれて此丁字屋へ賣《うら》れ來しかば姉妹《はらから》手と手を取換《とりかは》し如何成れば姉妹二人斯る苦界に沈みしぞ父樣《とゝさま》には私の身の代金《しろきん》の爲に人手に掛り果て給ひ母樣には麹町にお在《はす》るとの事成れどなどか逢《あひ》には來給はぬぞ手紙を上《あげ》ても片便《かただよ》り若しや生別《いきわか》れにも成らんかと夫のみ心に懸《かゝ》れりと袖に涙の玉霰《たまあられ》案事《あんじ》暮《くら》すぞ道理《だうり》なり偖妹のお富は名を小夜衣《さよぎぬ》と改めしか是も突出《つきだ》し其日より評判|最《もつ》とも宜《よか》りければ日夜の客|絶間《たえま》なく全盛《ぜんせい》一方ならざりけり茲に神田三河町に質《しち》兩替渡世をする伊勢屋五兵衞とて有徳《うとく》なる者の養子に千太郎と云ふ若者あり實家《じつか》は富澤町の古着《ふるぎ》渡世甲州屋吉兵衞と云ふ者なりしか此千太郎或時|仲間《なかま》の參會崩《さんくわいくづ》れより大《おほ》一座にて晝遊びに此丁字屋へ登樓《あがり》お富の小夜衣を偶娼《あひかた》にせしが惚合《やみづき》にて二度が三度と深くなり互ひに思ひ思はれて割《わり》なき中とは成りにけり偖此伊勢屋五兵衞と云ふは例《ためし》なき吝嗇《りんしよく》者にて不斷《ふだん》の口癖《くちぐせ》にて我程|仕合者《しあはせもの》は有るまじ世の中に子を持程の損《そん》はなし夫故我は妻をも持ず世繼《よつぎ》には人が骨《ほね》を折《をつ》て養育《やういく》した子を貰《もら》へば持參金《ぢさんきん》も何程か附《つく》なり縱令《たとへ》放蕩《はうたう》を仕たればとて無した金は持參金より引去《ひきさり》離縁《りえん》さへすれば跡腹《あとばら》を病《やま》ずに濟ぞかし我も追々《おひ/\》取年にて近頃大きに弱りし故養子を一人|貰《もら》ひ度《たく》望《のぞ》みと云ふは他ならず何事も拔目《ぬけめ》なく實家の立派なる持參金の澤山《たくさん》有《ある》養子なりなどと云ひ又奉公人が風邪《かぜ》でも引て寢《ね》ると人と入物《いれもの》は有次第なり米が入《いら》なくて能《よい》などと戲談《おどけ》にも云ふ程の吝嗇《りんしよく》成《な》れば養子の周旋《せわ》をする者も無《なけ》れど誰しも欲の世の中なれば身上の太きに愛《めで》て言込者《いひこむもの》も又多かり然共持參金の不足より毎《いつ》も相談|整《とゝ》のはず爰に出入の者の内に古着渡世《ふるぎとせい》の者有りしが彼が周旋《せわ》にて富澤町に甲州屋吉兵衞と云ふ古着渡世の者の次男《じなん》に千太郎と呼て當年二十歳に成《なり》器量《きりやう》と云ひ算筆《さんぴつ》と云ひ殊に古着渡世なれば質屋にも因《ちな》み有て申分|無《なき》若者成れば御當家の御|養子《やうし》にせられては如何にやと相談《さうだん》有りけるに五兵衞は彼の持參金の無《なき》より縁談《えんだん》を斷《ことわ》りければ當家に幼年《えうねん》の頃より奉公して番頭と迄|出世《しゆつせ》をなし忠義|無類《むるゐ》世間《せけん》にて伊勢屋の白鼠《しろねずみ》と云ひ囃《はや》し誰知らぬ者も無き評判の久八は日頃より主人の吝嗇《りんしよく》なるを心に悲しみ居けるが御|儉約《けんやく》成《なさ》るゝは結構《けつこう》の事なれ共御相續の御養子は御家を御|繼《つが》せ成さる大事の御方なり其大切なる御養子持參金を御望み有るは大きな御|了簡違《れうけんちが》ひと申ものなりと思ひ切て忠義一|途《づ》の心より主人五兵衞を種々《しゆ/″\》樣々《さま/″\》と申|諫《いさ》め當家御相續の御養子に候へば持參金の儀は御止りありて只《たゞ》其人をこそ御|撰《えら》みあるが然るべしと道理を盡《つく》して諫言《かんげん》に及びければ流石《さすが》強慾《がうよく》の五兵衞も初めて道理《もつとも》と思ひ終に持參金の念《ねん》を斷《たち》たる樣子なれば久八は此|※[#「圖」の「回」に代えて「面から一、二画目をとったもの」、192-18]《づ》を外《はづ》さず話しなば必ず縁談《えんだん》整《とゝ》のはんと彼の富澤町なる甲州屋吉兵衞の次男千太郎の身持《みもち》を篤《とく》と探《さぐ》りしに何所《いづれ》で訪《とう》ても能《よき》若者なりと賛成《ほめ》ざる者の無かりしかば其趣きを取敢《とりあへ》ず五兵衞に話しけるに忽ち縁談《えんだん》整《とゝ》のひたれば久八の悦喜《よろこび》一方成ず然共《されども》物入を厭《いと》ひの聟入《むこいり》の祝言《しうげん》も表向《おもてむき》にせず客分《きやくぶん》に貰《もら》ひ請《うけ》たるが素《もと》より吝嗇の五兵衞なれば養父子の情愛《じやうあひ》至て薄《うす》く髮も丁稚小僧同樣に一ヶ月六十四文にて留置《とめおき》湯《ゆ》も洗湯《せんたう》へは容易に出さず内へ一日|置《おい》て立る程なれば一事が萬事にても辛抱《しんばう》が出來兼る故千太郎は如何はせんと思案の體を久八は疾《とく》に察《さつ》し何事も心切《しんせつ》を盡し内々にて小遣錢《こづかひぜに》迄も與へ陰《かげ》になり日向《ひなた》になり心配して呉《くれ》けるゆゑ久八が忠々《まめ/\》敷心に愛《めで》て千太郎は奉公に來し心にて辛抱《しんばう》をして居たりけり然るに正徳《しやうとく》三年|癸巳《みづのとみ》の三月四日例年の事とて兩替《りやうがへ》并《なら》びに質古着《しちふるぎ》渡世の仲間の參會《さんくわい》有《あり》皆々《みな/\》兩國の萬八樓へ集まりけるが伊勢屋五兵衞も仲間内《なかまうち》とて月行事《つきぎやうじ》より其の趣きの回状《くわいじやう》のありし折節《をりふし》五兵衞は店に手の拔《ぬけ》られぬ帳合有りとて悴《せがれ》千太郎を呼《よび》我等が名代に萬八へ行き仲間の者にも知己《ちかづき》に成るべしと云ふに千太郎は畏《かしこ》まり候と頓《やが》て支度に掛りしに持參の衣類は商人《あきうど》には立派過ると養父の差※[#「圖」の「回」に代えて「面から一、二画目をとったもの」、193-9]《さしづ》に毎《いつ》もの松坂縞《まつざかじま》の布子に御納戸木綿《おなんどもめん》の羽織《はおり》何所《どこ》から見ても大家の養子とは受取兼る樣子なり其時養父五兵衞は千太郎に云ひける樣今日の馳走《ちそう》は總て割合《わりあひ》勘定《かんぢやう》なれば遠慮《ゑんりよ》には及ばぬなり殘して歸るは損《そん》故《ゆゑ》是へ包んで持歸《もちかへ》れと古びたる油紙《あぶらがみ》と重箱《ぢうばこ》を風呂敷《ふろしき》に包んで渡し今日は別段の事なれば金の入事の有るも知れねば用意に持參せよと澁々《しぶ/\》金一分を千太郎に渡し參會が濟《すみ》次第人には構《かま》はず先へ歸つて來れよと宛然《さながら》丁稚小僧《でつちこぞう》を宿入《やどいり》に出すが如き仕成《しなし》にて名代に遣《つか》はしけるに彼の仲間の若者は萬八の崩《くづ》れより向島《むかうじま》の花見と云ひなしその實《じつ》花街《よしはら》の櫻の景氣を見んと言ひ立ち伊勢五の養子をも連《つ》れ行かんと誘引《さそひ》ければ千太郎は恭《うや/\》しく兩手をつき據《よんど》ころなき用事も有《あれ》ば勝手が間敷は候得共今日は御免《ごめん》有れと云ひければ大勢は酒機嫌《さかきげん》にて聞入ず殊に五兵衞の吝嗇《りんしよく》を平生《へいぜい》憎《にく》みける故|態《わざ》と千太郎を歸さず是非お附合《つきあひ》なされよと無理に引留《ひきとめ》まだ日も高ければ夕刻《ゆふこく》迄には寛々《ゆる/\》としても歸らるゝなり決して御迷惑《ごめいわく》は掛ませぬと厭《いや》がる千太郎の手《て》引《ひき》袖《そで》引《ひき》萬八の棧橋《さんばし》に繋合《もあひ》たる家根船へ漸々《やう/\》にして乘込《のりこま》せり是ぞ千太郎と久八が大難《だいなん》の基《もと》ゐとこそは成りにけれ [#8字下げ]第八回[#「第八回」は中見出し]  然《され》ば彼伊勢屋千太郎は養子の身なれば仲間一同へ程《ほど》能《よく》申|譯《わけ》を爲し逃歸《にげかへ》らんとなせども養父五兵衞が平生仲間|交際《つきあひ》を更《さら》になさず類《たぐ》ひ無き吝嗇《りんしよく》者なれば養子千太郎を連行《つれゆき》て伊勢五の親爺《おやぢ》に氣を揉《もま》せ呉んと一同にて仕組《しくみ》しことゆゑ千太郎の云ふ事を少しも聞入《きゝいれ》ず御養父が若《もし》分《わか》らぬ叱言《こごと》を言れなば仲間一同にて引受《ひきうけ》貴樣《おまへ》に御迷惑《ごめいわく》は懸《かけ》まじ一年に唯《たゞ》一度の參會故夫を外《はづ》し給ふとは卑怯《ひけふ》なりと手引袖引萬八樓の棧橋《さんばし》より家根船に乘込《のりこま》せしが折節|揚汐《あげしほ》といひ南風なれば忽ち吾妻橋をも打越え眞乳《まつち》沈《しづ》んで梢《こずゑ》乘込《のりこむ》と彼端唄《かのはうた》に謠《うたは》れたる山谷堀より一同船を上り十間の白扇子《しらあふぎ》に麗《うら》らかなる春の日を翳《かざ》し片身替《かたみがは》りの夕時雨《ゆふしぐれ》に濡《ぬれ》にし昔の相傘《あひがさ》を思ひ出せし者も有るべし土手八町もうち越して五十|間《けん》より大門口に來て見れば折しも仲《なか》の町の櫻《さくら》今《いま》を盛《さか》りと咲亂《さきみだ》れ晝と雖も花明《はなあか》りまばゆきまでの別世界《べつせかい》兩側《りやうがは》の引手茶屋も水道尻《すゐだうじり》まで花染《はなぞめ》の暖簾《のれん》提灯《ちやうちん》軒を揃へて掛列《かけつら》ね萬客の出入袖を摺合《すりあひ》茶屋々々の二階には糸竹の調べ皷《つゞみ》太皷《たいこ》の音《ね》絶《たえ》る事なく幇間《たいこ》の對羽織《つゐばおり》に色増君《いろますきみ》の全盛を顯《あら》はし其|繁榮《はんえい》目を驚せし浮生《ふせい》は夢の如く白駒《はくく》の隙《ひま》あるを忘る實《げ》に蓬莱《ほうらい》の仙境《せんきやう》も斯る賑《にぎは》ひはよも非じと云ふべき景況《ありさま》なれば萬八樓より翦《それ》たる一同は大門内《おほもんうち》山口巴《やまぐちともゑ》と云引手茶屋へ躍《をど》り込《こめ》ば是は皆々樣御|揃《そろ》ひで能うこそお出《いで》在《あら》れしぞ先々二階へ入《いら》つしやいと家内の者共|喋々《てふ/\》しき世事の中にも親切《しんせつ》らしく其所《そこ》よ其所《こゝ》よと妓樓《まがき》を算《かぞ》へ丁字屋ならば娼妓《おひらん》も澤山《たくさん》有《ある》故《ゆゑ》宜《よか》らんと山口巴の案内にて江戸町二丁目丁字屋方へ一同どや/\登樓《おしあが》り千太郎には頃日《このあひだ》出《で》たばかりなる小夜衣が丁度《ちやうど》似合《にあひ》の相方と見立《みた》てられしが互ひの縁《えに》し如何につき合なればとてまだ日も暮《くれ》ぬきぬ/\に心殘せど一座の手前其の日はどつと陽氣《やうき》に騷ぎ手輕《てがる》く遊《あそん》で立出つゝ別れ/\に歸りけり偖も小夜衣は今日《けふ》※[#「圖」の「回」に代えて「面から一、二画目をとったもの」、194-15]《はか》らずも千太郎の相方に出しより何となく其人の慕《した》はるゝまゝ如何にもして彼の客人《まろうど》を今一度なりとも呼度思ひ其夜は外の客《きやく》へも染々《しみ/″\》勤《つと》めざる程なれば其心の此方《こなた》にも通《つう》じけん千太郎も小夜衣の事を憎《にく》からず思ひ其《そ》の移《うつ》り香《が》の忘《わす》れ難しと雖も養父の手前一日二日は耐へしが何分《なにぶん》物事手に付ず實家《じつか》へ參ると僞《いつは》りて我が家を立出小夜衣が許《もと》へ到《いた》りしに夫と見るより小夜衣は飛《とん》で出《いで》直樣《すぐさま》我が部屋《へや》へ伴《ともな》ひ何くれとなく勤《つと》めを離《はな》れし待遇《もてなし》に互ひの心を打明つゝ變《かは》るまいぞや變らじと末《すゑ》の約束までなせしかば千太郎は養家《やうか》を大事と思ふ心も何時しか忘れて小夜衣の顏を見ぬ夜は千|秋《しう》の懷《おも》ひにて種々《しゆ/″\》樣々《さま/″\》と[#「樣々と」は底本では「種々と」]事にかこつけ晝夜の別《わか》ちも無《なく》通ひける實に若き者の溺《おぼ》れ安きは此道にして如何なる才子《さいし》も忽ち身を亡《ほろ》ぼし家産《かさん》を破る殊《こと》に世間見ずの千太郎と又相手は遊女とは云へまだ生娘《きむすめ》も同樣なる小夜衣のことなれば後先《あとさき》の考《かんが》へも無く千太郎を招き田舍《ゐなか》に在《あり》ては見る事も成らぬ斯《かゝ》る御人と連理《れんり》の契《ちぎ》りを結《むす》ぶ嬉しさは身を捨てこそ有なれと思ふも果敢《はか》なき小女氣《むすめぎ》なり彼の一|生《しやう》の苦勞《くらう》は他人に寄《より》一|雙《さう》の玉手千人|枕《まくら》し一|點《てん》の唇《くちびる》萬客に嘗《なめ》らるゝと云ふ愁《つら》い勤《つと》めの其中の心の底を打明て語るお方は唯一人と小夜衣が誠《まこと》を盡《つく》せば千太郎は彌々《いよ/\》夢中《むちう》になり契情《けいせい》遊女に咎《とが》はなく通ふ客人に咎《とが》有りとは我が事なり願《ねがはく》は明鏡《かゞみ》となつて君が俤《おもか》げを分《うつ》し願は輕羅《うすもの》と成て君が細腰《こし》に[#「細腰に」は底本では「結腰に」]まつはりたしなどと凝塊《こりかたま》り養父五兵衞が病氣にて見世へ出《いで》ぬを幸ひに若い者等を欺《だま》しては日毎《ひごと》夜毎に通ひ詰《つめ》邂逅《たまさか》宅《うち》に寢《ねる》夜《よ》には外を商ふ物賣《ものうり》の聲も花街《くるわ》の夜《よ》商人《あきんど》丁稚《でつち》の寢言《ねごと》も禿《かふろ》と聞え犬の遠吼《とほぼえ》按摩針《あんまはり》の聲迄も都《すべ》て廓中《くるわ》の事を思ひ出す程にして何も斯《かう》して居られぬと又飛出しては夜泊り日泊り家には尻の据らねば終に病中《びやうちう》ながら養父五兵衞の耳に入《い》り直《すぐ》に離縁と憤《いきど》ほるを番頭久八は大いに驚き主人五兵衞へ段々《だん/\》に詫言《わびごと》に及び千太郎には厚く異見《いけん》を加へ彼方《あち》此方《こち》と執成《とりな》しければ五兵衞も漸々《やう/\》怒《いか》りを治め此後を急度《きつと》愼《つゝし》むならばと一ト先《まづ》勘辨《かんべん》にぞ及びける仍《よつ》て久八より猶《なほ》又千太郎に堅く異見をなし呉々《くれ/″\》も愼《つゝし》み給へとて蔭《かげ》に成《なり》日向《ひなた》になり忠義を盡《つく》しければ千太郎も太《はなは》だ後悔に及び暫《しばら》く吉原通ひを止《とゞま》りしと雖も小夜衣の事を思ひ切《きり》しに非ず只々《たゞ/\》便《たよ》りをせざるのみにて我此家の相續をなさば是非とも渠《かれ》を早々《さう/\》身請《みうけ》なし手活《ていけ》の花と詠《なが》めんものをと心に誓《ちか》ひて表面《うはべ》は[#「表面は」は底本では「裏面は」]辛抱したりし故久八は悦び勇《いさ》み猶々《なほ/\》心を用ひ大切《たいせつ》にぞ勤務《つとめ》ける [#8字下げ]第九回[#「第九回」は中見出し]  時に彼町醫師《かのまちいし》村井長庵は既に十兵衞を殺害《せつがい》し奪ひ取たる五十兩又|妹《いもと》お富をも賣代《うりしろ》爲《な》して掠《かす》め取たる金までも悉皆《こと/″\》く遣《つか》ひ捨《すて》今は早一文なしの素《もと》の形相《すがた》と成りければ又候|奸智《かんち》を巡《めぐ》らし段々《だん/\》聞《きけ》ば丁山小夜衣の兩人共に追々《おひ/\》全盛《ぜんせい》に成て朝夕《あしたゆふべ》に通ひ來る客も絶間《たえま》なく吉原にても今は一二と呼るゝとの噂《うは》さを聞《きゝ》此兩人の許《もと》に立越て小遣ひ取つて呉んものと或日丁山小夜衣の許《もと》に到り殺して仕舞た母のお安が病氣にて寢て居るゆゑと白々敷《しら/″\しく》も入用の次第《しだい》を咄《はな》し如何にも差迫《さしせま》りたる體に見せければ兩人とも流石《さすが》は伯父《をぢ》のことゆゑ兩親《ふたおや》とも此|叔父《をぢ》に殺害《ころ》されしとは夢にも知らず特に母が病氣ときゝ姉妹《はらから》二人にて心一|杯《ぱい》出來《でき》る程《ほど》合力《がふりよく》に及びければ強慾《がうよく》非道《ひだう》の長庵は能き事に思ひ毎日々々の樣に無心に行ける程に果《はて》は丁山小夜衣も持餘《もてあま》して斷《ことわ》りを云ひければ折《をり》に觸《ふれ》ては無理なる難題《なんだい》をも云掛《いひかけ》などして殆《ほとん》ど困《こま》り入りしとかや又|有時《あるとき》長庵來りて毎時《いつも》の通り種々《いろ/\》無心を申しけれども丁山も餘り度々《たび/\》のことなれば然々《さう/\》は工面《くめん》も出來ず併し母樣が御病氣ならば主人へ願ひ兩人で引取《ひきとり》何の樣にも看病《かんびやう》致さん何《ど》うぞ然《さう》して給はれと言《いは》れて長庵|驚愕《びつくり》せしがお安も追々《おひ/\》快方《よきかた》なれば近き内に連て來て兩人に逢《あは》して遣りませう金が出來ずば夫でよしとはいひしかど又小夜衣に向《むか》ひ少しにてもと言ければ小夜衣も同じ返事《へんじ》をなしけるにいやさ其方《そなた》は仕合《しあは》せ者|能《よき》客《きやく》が有ると云《いふ》噂《うはさ》は疾《とく》より知て居る尾張屋の客は何《どう》した此の頃は御出がないか而《して》半四郎|近江《あふみ》から御出の人はと口から出任《でまか》せに引手茶屋の名前を並《なら》べ立《た》てる内にアノ山口巴から來る若旦那かへと小夜衣は空然《うつかり》長庵の口に乘《のせ》られ然《され》ばなりその三河町の若旦那は頓《とん》と鼬《いたち》の道《みち》を切たとやら云ふ樣に少共《ちつとも》御出の有らぬのは何した事かと思ふ故御茶屋へ度《た》び/\文《ふみ》を出し待《まて》ども一度の返事《へんじ》もなし何處《どこ》に何《ど》うして居なさるやらとても逢《あは》れぬ者ならば寧《いつ》そ死んだが勝《まし》ならめと打しほれしが顏《かほ》ふり上《あげ》伯父樣|何《どう》ぞ三河町とやらへ往《いつ》て樣子を尋ねて下されと頼《たの》めば長庵|小首《こくび》を傾《かたぶ》け直《すぐ》にも樣子を探《さぐ》つて見樣が必ず短氣《たんき》な事などしまひ先の返事は翌日《あす》する程に少し成りとも小遣ひをと云《いは》れて小夜衣は千太郎が樣子を聞度《きゝたく》思ひしより金子|少《すこ》し渡しければ長庵は夫より直《すぐ》に三河町をさして立歸り頓《やが》て近所の湯屋《ゆや》の二階へ上りて夫となく樣子を聞糺《きゝたゞ》し夫より近邊《きんぺん》の割烹店《れうりや》へ上り竊《ひそ》かに千太郎を呼び出し初めて面會《めんくわい》に及び段々《だん/\》の挨拶も終りければ彼小夜衣よりの言傳《ことづて》を落《おち》もなく物語りを爲《な》すにぞ千太郎は小夜衣の伯父《をぢ》と云ふに心|寛《ゆる》み私し儀|不※[#「圖」の「回」に代えて「面から一、二画目をとったもの」、197-4]《ふと》した事より貴殿の姪《めひ》小夜衣に馴染《なじみ》を重《かさ》ね夫婦の語らひ迄約せし上は貴殿とても一方ならぬ御中なりと詞《ことば》の端《はし》に長庵が曲輪《くるわ》の樣子|具《つぶ》さに噺《はな》し又此程は絶て遠ざかられし故小夜衣は明暮《あけくれ》思ひ煩《わづら》ひて歎息《かこち》恨《うら》みし事などを口から出任《でまか》せ永々と物語り何卒御宅の御|首尾《しゆび》を御繕《おつくろ》ひ有て能程《よきほど》に御尋ね遣《つか》はされなば私し迄も忝けなしと云ひつゝ小夜衣より預《あづか》りたる文を差出しけるにぞ千太郎は取《とる》手《て》も遲《おそ》しと押披《おしひら》き一|下《くだ》り讀《よん》では笑を含《ふく》み二下り讀では莞爾々々《にこ/\》と彷彿《さも》嬉《うれ》し氣《げ》なる面持《おももち》の樣子を篤《とく》と見留て長庵は心に點頭《うなづき》つゝ頓《やが》て返書を請取千太郎よりも小遣《こづか》ひとて金百|疋《ぴき》を貰《もら》ひ請其儘我が家へ戻《もど》り翌日返書は小夜衣へ屆《とゞ》けしが此機に就《つい》て何か一|仕事《しごと》有《あり》さうな物と心の内に又もや奸智を運《めぐ》らして急度《きつと》一ツの謀略《はかりごと》を思ひ付き一兩日過て又々彼三河町に到《いた》り千太郎に面會《めんくわい》し扨若旦那折入て御相談が御座りますゆゑ態々《わざ/\》用を差繰《さしくり》て參りしは外の事にても御座りませぬ彼花街《かのくるわ》の小夜衣が事|木場《きば》の客人よりだら/\急に身受の相談《さうだん》然る處小夜衣は如何《いか》にもして若旦那の御側へ參り度《たく》夫《それ》のみを樂しみに苦界を勤《つと》め居たるに思はぬ人に思はれて藪《やぶ》から棒《ぼう》の身受の相|談《だん》其所《そこ》で彼めも途方《とはう》に暮《くれ》此相談を止にして若旦那の方へ遣《やつ》て呉《くれ》と泣付《なきつか》れ愚老《ぐらう》も不便と存ずれば何《どう》がなして遣《や》り度《たく》は思へども何を云ふにも金銀づく外へ根引《ねびき》をさるゝ時はとても生《いき》ては居られぬと小夜衣が一|※[#「圖」の「回」に代えて「面から一、二画目をとったもの」、197-14]《づ》の心|夫《それ》や是やを心配の餘りまた御部屋住《おへやずみ》の若旦那へ御咄し申すも如何《いかゞ》とは存じたなれども急場《きふば》の事にて十方《とはう》に暮參りまして何《ど》うにか御工風《ごくふう》は御座りますまいかと誠《まこと》しやかに述《のぶ》るにぞ世間知らずの千太郎聞くより大いに仰天《ぎやうてん》し心の内は狂氣《きやうき》のごとく溜息《ためいき》つきつゝ居たりしが如何なしたら能《よか》らんと言《い》ふ尾《を》に付て長庵は然《され》ばにて候外々よりの身受と有れば二百兩や三百兩の金にては勿々《なか/\》六《むづ》かしく候へ共親の病氣と申|遣《つか》はし詐《いつは》りて身請に及ぶ時は僅《わづ》か元の賣金《うりきん》五十兩にて相談になり申すなり何卒《なにとぞ》若旦那の御|工風《くふう》にて其五十兩の金さへ御座れば拙者が萬端|取計《とりはか》らひ身受をなして某《それが》しが宅へ密《こつ》そりさし置きなば何時貴君が御出でも名代床《みやうだいどこ》の不都合なく御|泊《とま》り成るも御勝手次第|幾日《いくか》居續《ゐつゞけ》し給ひても誰に遠慮《ゑんりよ》も内證も入らず然《さう》なる時は小夜衣が命《いのち》の親とも存じます何卒《なにとぞ》五十兩の御|工風《くふう》をと聞て千太郎は夢中《むちう》になり小夜衣を何時《いつ》かは女房に持《もた》んと思ひ居たる處なれば外の客に身受されんこといかにも口惜しく思ひける故長庵に打向ひ成程云はるゝ通り五十兩の金子は私《わたくし》が工風《くふう》爲《し》ましやうとは言ふものゝ五十兩の大金|如何《いかゞ》して拵《こしら》へん何《ど》うして調達《てうだつ》せん者と兎角|當惑《たうわく》しながらもまた小夜衣を受け出し長庵方に差置《さしおい》て折々通ひ樂《たの》しまば此上もなき安心成りと思ふも若氣《わかげ》の無分別《むふんべつ》迷《まよ》ふ心の置所《おきどころ》露《つゆ》の命と氣も付かず不※[#「圖」の「回」に代えて「面から一、二画目をとったもの」、198-7]《ふと》惡心《あくしん》や發しけん竊《ひそ》かに店《たな》の有金の内を幾干《いくら》か掴《つか》み出し身受の金にせんものと急度《きつと》思案《しあん》を定めつゝ再度《ふたゝび》長庵に打向ひ云はるゝ通り相違《さうゐ》なくは如何にもして五十兩|調達《てうだつ》せん宜しく御|頼《たの》み申しますと聞て長庵大いに悦び聊《いさゝ》か相違は仕つらず然《しか》らば何頃《いつごろ》受取《うけとり》に參るべきやと申にぞ千太郎は明後日《あさつて》來り給ひねと約束|固《かた》めて別れを告《つげ》其日は我が家へ立戻り覺悟《かくご》の如く用意なし頓《やが》て約束の日になりしかば長庵の來るのを待《まち》て彼五十兩を渡しけるに長庵は是を懷中《くわいちう》して彌々《いよ/\》明後日迄には小夜衣を身受なし愚老《ぐらう》が宅《たく》へ連《つれ》歸《かへ》れば四五日内に御|出《いで》有《あ》れとて金子を預《あづか》りしと云ふ一|札迄《さつまで》渡《わた》し置《お》き其儘別れて歸りける心の内に長庵は仕濟《しすま》したりと大いに悦び彼五十兩の其金は己《おの》れが榮耀《ええう》酒肴《ざけさかな》遊女狂《いうぢよぐる》ひに遣《つか》ひける然るに伊勢屋千太郎は斯《かゝ》る事とは夢にも知らず心の中に今日は小夜衣が麹町へ來たか翌《あす》は來るかと指屈算《ゆびをりかぞ》へ日の暮《くる》るのを樂しみに漸々《やう/\》と四五日を送りしが密《ひそか》に支度《したく》を調《とゝの》へて見世を拔出《ぬけいだ》し麹町三丁目へ到り其所《そこ》か[#「其所か」は底本では「此所か」]此所かと尋ぬるうちに門札《かどふだ》に村井と表名《へうめい》の有りければ心嬉《こゝろうれ》しく爰が長庵の宅《たく》にて小夜衣は嘸《さぞ》待詫《まちわび》つらんと玄關形《げんくわんかた》ちの履脱《くつぬぎ》へ立入て案内を乞ふに内にては大聲《おほごゑ》あげどうれと云て立出る長庵を見るよりはやく千太郎是は/\伯父樣《をぢさま》此間《このあひだ》は御出下され段々《だん/\》の御世話忝けなし偖御約束の通り今日|參上《さんじやう》致せしと云ふに長庵|最《いと》不審《いぶか》しげに小首《こくび》を傾《かたぶ》け是は/\何方《いづかた》より御越にや何處の御方樣にて候ひしか御病人なるや又御|見舞《みまひ》に上りますのでござるかと思ひも寄らぬ挨拶に千太郎は長庵が戲《たは》むれにやと思ひけれども猶《なほ》も叮嚀《ていねい》によもやお見忘れは成《なさ》るまじ私しは伊勢屋五兵衞の養子《せがれ》千太郎にて候なり段々と小夜衣がとこに付いてはお骨折《ほねをり》何《なに》とも有難く存《ぞん》じ奉つる夫れ付き今日は參上致し候小夜衣も參り居候や御|逢《あは》せ下されたしと云ひければ長庵|彌々《いよ/\》驚怖《おどろき》たる面色《おももち》にて不思議の仰せを承まはり候者|哉《かな》小夜衣とは何のことにて候や夫は全《まつ》たく門違《かどちが》ひにて有るべし然樣のことは夢にも覺え候はず何か御心得|違《ちが》ひ成るべし拙者《せつしや》は町醫村井長庵と申す者にて候と聞より然れば戲《たは》むれにてもなきかと千太郎は大いに驚怖《おどろき》先日私し近邊《きんぺん》の料理茶屋の二階にて御目に懸り眼前《がんぜん》に貴殿へお渡し申したる五十兩の金子を以て貴殿《きでん》の姪《めひ》小夜衣を身請して御當家へ置《おく》とのお約束ゆゑ[#「お約束ゆゑ」は底本では「おゆゑ約束」]金子《きんす》をばお渡し申せしに何故《なにゆゑ》然樣のことを仰せられ候やと申に長庵大いに怒《いか》り這《こ》は怪《けし》からぬことを云《い》ふ人《ひと》かな失禮《しつれい》ながら貴殿は未だ御若年《ごじやくねん》で有りながら御見請申せば餘程《よほど》の逆上《ぎやくじやう》今の間に御療治なければ行末《ゆくすゑ》御案事《おあんじ》申なりと取ても付ぬ挨拶《あいさつ》に千太郎は身を震《ふる》はしアノ白々《しら/″\》しいと言《いふ》時《とき》長庵は顏色《がんしよく》かへて五十兩には何事ぞや拙者は更《さら》に覺《おぼ》えなき大金を拙者に渡したなどとは途方《とはう》も無《なき》事を云はるゝ人哉《ひとかな》恐《おそ》ろしや又五十兩と有れば容易《ようい》成《なら》ざる大金なり夫には何ぞ證據にても有りさうな物と言《いへ》ば其時千太郎如何にも御自分が認《したゝ》められし受取《うけとり》證文《しようもん》是《これ》見《み》られよと云ひつゝ一|札《さつ》を懷中《くわいちう》より取出し長庵が前へ摺寄《すりより》開《ひら》きて見れば這《こ》は如何に文字《もんじ》は消《きえ》て跡形《あとかた》無くたゞ情《なさけ》なき白紙《しらかみ》なり是は長庵が惡計にて跡の證據に成らざる樣《やう》最初《さいしよ》より工《たく》んで置きたる大惡《だいあく》無道《ぶだう》恐《おそろ》しかりける事共なり [#2字下げ]評《ひやう》に曰く證文の文字の消失《きえうせ》しは長庵が計略により烏賊《いか》の墨《すみ》にて認めし故《ゆゑ》成《なら》んか古今に其例《そのため》し有りとかや [#8字下げ]第十回[#「第十回」は中見出し]  古語《こご》に曰く君子は欺《あざむ》くべし罔《しゆ》べからずとは宜《むべ》なる哉《かな》都《すべ》て奸佞《かんねい》の者に欺かるゝは己《おのれ》が心の正直《しやうぢき》より欺かさるゝものなり實《じつ》に其人にして爲《なす》而已《のみ》其の欺《あざむ》く者は論ず可《べか》らず其|才《さい》不才《ふさい》に依るにあらざるか爰に伊勢屋五兵衞の養子千太郎は父の病中を幸ひに店《みせ》の有金の内五十兩|養父《やうふ》の目《め》を掠《かす》め彼小夜衣を根引《ねびき》爲《な》し圍《かこ》ひ置て自儘に我が家内にもせん者と思ひ居たる心より村井長庵の惡計《あくけい》に罹《かゝ》り夫而已《それのみ》ならず金と引替に長庵より受取置たる證文を開いて見れば不思議にも文字《もんじ》は消《き》えて唯《たゞ》の白紙ゆゑ這は如何せし事成かと千太郎は暫時《しばし》惘《あき》れ果《はて》茫然《ばうぜん》として居たりしが我と我が心を勵《はげ》まし餘りと云《いへ》ば長庵殿|眼前《がんぜん》此程料理屋の二階にて貴殿《あなた》の頼《たの》みに任せ手渡し爲したる五十兩を覺え無とは何故ぞ受取證書が白紙に成て居るのも不審《ふしん》の一ツと云ば長庵は大いに笑ひ戲氣《たはけ》と云も程こそあれ覺《おぼ》え違《ちが》ひも事による證據の書附有などと其の白紙《しらかみ》が何に成《なる》然《さう》して見ればお若いが正氣《しやうき》では御座るまい診察《しんさつ》して藥を進ぜん外々《ほか/\》の儀と事變り金子の事故|驚怖《おどろい》たりあたら膽《きも》を潰《つぶ》す所と空嘯《そらうそぶ》ひて莨《たばこ》をくゆらし白々敷《しら/″\しく》も千太郎を世間知らずの息子《むすこ》と見|掠《かす》め先《まづ》寛々《ゆる/\》と氣を落付思ひ定めて歸らるべしヤヨ氣の毒《どく》なる病氣ぞと長庵更に取合《とりあは》ねば千太郎は其儘に戻《もど》るにも戻られず進退《しんたい》爰ぞと覺悟を極《きは》め猶《なほ》長庵に打向ひ是は怪《けし》からぬ御|言葉哉《ことばかな》假令證文は白紙に變りし共|最初《さいしよ》小夜衣が使ひに參られ我を喚出《よびいだ》し三四度御|自分樣《じぶんさま》と引合《ひきあひ》たる家も有り殊に御自分の云はるゝには小夜衣は我が姪《めひ》なれば行末《ゆくすゑ》共に懇《ねんご》ろに私に頼《たの》むと小夜衣が文を持參成れし成ずや夫等の事|柄《がら》よもお忘れも仕給ふまじ夫より後も參られて姪《めひ》の小夜衣が木場《きば》の客へ俄《には》かに受出さるゝことに成夫に付|親許《おやもと》身受にすれば元金《もときん》五十兩にて苦界を出らるゝ故其五十兩の金子を何とかして才覺《さいかく》なし呉よ其金さへ有ば木場の客を出し拔《ぬい》て小夜衣を身受なし貴宅へ置とのお話し故貴殿の言《いは》るゝ其意に任《まか》せ五十兩の金とても勿々《なか/\》に出來兼たれど延引《えんいん》して居る時は外へ身受に成との事故道ならぬ事とは知りながら養父《やうふ》の金を引出《ひきいだ》し命がけにて其金を約束通り貴殿《きでん》に渡し今日は寛々《ゆる/\》小夜衣に逢《あう》て行んと來りしに仁術《じんじゆつ》家業《かげふ》の身を以て現在《げんざい》姪《めひ》の小夜衣をも知ぬ抔とは何故なりや然すれば我を店者《たなもの》と最初よりして見侮《みあなど》り那《あ》の小夜衣を餌《ゑ》ばとなし我を欺き五十兩の金をば騙《かた》り取|巧《たく》みと云を打聞《うちきゝ》長庵は兩眼を濶《くわつ》とむき出し目眦《まなじり》逆立《さかだて》形相《かたち》を改め這は聞|憎《にく》き今の一言此長庵を騙《かた》りなどとは何事ぞや我等は仁術《じんじゆつ》を基《もと》とする醫業なり最初《さいしよ》よりして欺いて五十兩の金を騙《かた》り取たとは不埓《ふらち》の一言今一|言《ごん》聞《きい》て見よ其分には置まじと煙管《きせる》追取《おつとり》身構《みがま》へなし威猛高《ゐたけだか》に罵《のゝし》るにぞ彌々《いよ/\》驚怖《おどろく》千太郎|悔《くや》し涙にかき暮《くれ》て最《まう》是迄と大聲あげ長庵殿そりや聞えぬぞへ今更に然樣にばかり言るゝからは矢張《やつぱり》騙《かた》りに相違なしと半分《はんぶん》云《いは》せず長庵は汝若年者故に何事も勘辨《かんべん》して言はして置ば付上り跡形《あとかた》も無き惡口雜言《あくこうざふごん》最《まう》此上は聞捨《きゝすて》成《なら》ぬ眼に物見せて呉《くれ》んずと千太郎が襟髮《えりがみ》をぐさと掴《つか》んで疊《たゝみ》へ引据《ひきす》ゑ打やら擲《たゝ》くやら煙管《きせる》を取て續け樣《さま》に腕《うで》に任せて打ける程に髮は散々おとろに亂れ面體《めんてい》にも聊か疵を受けぬれば千太郎は最早百年目と思ひきり口惜《くちをし》や汝ぢ其金を騙《かた》り取しに相違無し言譯《いひわけ》なさに此|打擲《ちやうちやく》騙《かた》りめ/\奸賊《かんぞく》めと大音|聲《じやう》に罵《のゝし》れば長庵|増々《ます/\》怒《いか》りを發し其金の五十兩とは何所から出したる金|成《なる》ぞ夫程迄に兎《と》や角《かく》と云事ならば其方が養父の宅へ引摺《ひきずり》行《ゆき》て金の出所|糺《たゞ》して呉ん已に屹度《きつと》穿鑿《せんさく》に及びし上にて黒白《くろしろ》の分《わか》ちを付んと一|刀《たう》を腰《こし》に佩《たばさ》み此|青壯年《あをにさい》いざ行やれと罵《のゝし》りつゝ泣臥《なきふ》し居たる千太郎を引立々々《ひきたて/\》行んとすれば此方《こなた》は胸《むね》に釘《くぎ》打思ひ眼前《がんぜん》養父の預《あづか》り金をば偸《ぬす》み出したる五十兩|宅《たく》へ行れて彼是《かれこれ》と其の事|露顯《ろけん》に及びなば第一養父は豫《かね》ての氣性《きしやう》如何成|騷《さわ》ぎに成やら知れずと思へば是も我が身の難儀《なんぎ》と屹度《きつと》思案を胸に定め先《まづ》待《まち》たまへ長庵殿|最早《もはや》委細は分つたり然ば外には言分《いひぶん》なし勘辨なして下されと[#「下されと」は底本では「下なれと」]千太郎は悔《くや》しくも兩手を突《つい》て詫《わび》ければ長庵|呵々《かゝ》と冷笑《あざわら》ひ夫みられよ最初《さいしよ》より某しが言通り其方が騙《かた》りをば却《かへ》つて我等に塗付《ぬりつけ》んと當途《あてど》もなき事《こと》言散し[#「事《こと》言散し」は底本では「事|言《こと》散し」]若年ながらも不屆至極《ふとゞきしごく》重《かさ》ねて口を愼《つゝし》み給へ若き時より氣を付て惡き了簡《れうけん》出さるゝな親々達《おや/\たち》に氣を揉《もま》せ不幸《ふかう》の上に大不幸《だいふかう》と異見《いけん》らしくも言散しサア何處《いづこ》へなり勝手に行と表《おもて》の方へ突出《つきいだ》し泣倒《なきたふ》れたる千太郎を尻目《しりめ》に掛《かけ》打笑ひまだ行ぬかと大音に叱《しか》り付《つけ》られ口惜《くちをし》乍《なが》ら詮方なく凄然々々《すご/\》我が家へ立戻《たちもど》りぬ跡に長庵|箒《はうき》を採《とり》玄關《げんくわん》の敷臺《しきだい》掃出《はきだ》しながら如何に相手が青年《にさい》でも餘《よ》日がない故とぼけるにも餘程|骨《ほね》が折《をれ》たはへ併《しか》し五十兩の仕業《しごと》だからアノ位なる狂言《きやうげん》はせにや[#「狂言はせにや」は底本では「狂言せはにや」]成舞《なるまひ》と長庵は獨《ひとり》微笑《ゑ》みつゝ居たりけり [#8字下げ]第十一回[#「第十一回」は中見出し]  偖《さて》千太郎は何所《どこ》を何うか我が家へ歸り悔《くや》し涙にかき暮《くれ》ながら二階の小座敷《こざしき》へ竊《そつ》と這入《はひ》り心中に思ふ樣《やう》如何にしても口惜きは長庵なり眼前《がんぜん》渡して其金を知らぬと言《いふ》さへ恐《おそろ》しきに己《おのれ》が惡事を覆はん爲《ため》此我をよく那《あ》の樣に踏《ふん》だり蹴《けつ》たり思へば/\殘念《ざんねん》至極是と言のも我が身を誤《あやま》り不幸の天|罰《ばつ》報《むく》い來て我と苦しむ自業自得《じごふじとく》然《さ》は然ながら此儘に知らぬ面《かほ》には過されず今にも店《たな》の勘定《かんぢやう》せば眼前《がんぜん》知れる五十兩|償《つぐの》ひ方は實家《じつか》へ赴き何とか兄に咄《はな》しなば何うにか成《なら》んと思へども彼の小夜衣の事につき欺《だま》して取れた金などとは何の顏さげて人に言《いは》れん然れば其時|死《し》ぬるより外に方便《てだて》も無き身なれば遲《おそ》かれ早かれ死ぬ此身とても死ぬなら今日只今長庵方へ押掛|行《ゆき》命《いのち》を渠《かれ》に取るゝ共|時宜《じぎ》に寄《よら》ば長庵めを恨みの一|刀《たう》浴《あび》せ掛《かけ》我も其場で潔《いさぎ》よく自殺を爲《なし》て怨《うら》みを晴《はらさ》んオヽ然《さう》じや/\と覺悟を極め豫《かね》て其の身が嗜《たしな》みの脇差《わきざし》密《そつと》[#ルビの「そつと」は底本では「そと」]取出して四邊《あたり》を見廻し拔放《ぬきはな》し元末《もとすゑ》倩々《つく/″\》打|詠《なが》め是ぞ此身の消《き》えて行《ゆ》く露《つゆ》の白刄《しらは》と成けるが義理《ぎり》[#「義理」は底本では「能理」]有《ある》養父《やうふ》や忠々敷《まめ/\しき》那《あ》の久八を始めとして富澤町の實父《じつぷ》にも兄にも先立《さきだつ》不幸《ふかう》の罪お許《ゆる》し成《なさ》れて下されよ是皆前世の定業と斷念《あきらめ》られて逆樣《さかさま》ながら只一|遍《ぺん》の御回向を願ふと云ふも忍《しの》び泣《なき》殊《こと》に他人に有ながら當家へ養子《やうし》に來た日より厚《あつ》く深切《しんせつ》盡《つ》くして呉し支配人なる久八へ鳥渡成《ちよつとなり》とも書置《かきおき》せんと有《あり》あふ硯《すゞり》引寄《ひきよ》せて涙ながらに摺流《すりなが》す墨《すみ》さへ薄《うす》き縁《え》にしぞと筆《ふで》の命毛《いのちげ》短《みじ》かくも漸々《やう/\》認《したゝ》め終《をは》りつゝ封《ふう》じる粘《のり》より法《のり》の道《みち》心ながら締直《しめなほ》す帶の博多《はかた》の一本|獨鈷《どつこ》眞言《しんごん》成ねど祕密《ひみつ》の爲|細腕《ほそうで》成ども我一心長庵如き何の其|岩《いは》をも徹《とほ》す桑《くは》の弓《ゆみ》張裂《はりさく》胸《むね》を押鎭《おししづ》め打果さでや置べきかと裾《すそ》短《みじ》かに支度《したく》を爲し既に一刀|佩《たば》さんて出行《でかけ》んとする其の折柄《をりから》後ろの襖《ふすま》を押《おし》開き立出たるは別人成ず彼の番頭《ばんとう》の久八なれば千太郎は大いに怖《おどろ》き書《かき》置手早く後《うし》ろへ隱《かく》し素知《そし》らぬ振《ふり》して居る側へ久八は膝《ひざ》摺寄《すりよ》せ是申し若旦那《わかだんな》暫時《しばらく》お待《まち》下さるべし如何にも御無念は御道理然共|爰《こゝ》は急《せく》時ならず曩《さき》より私し失禮《しつれい》ながら主人の御|容子《ようす》唯事《たゞごと》ならずと心配《しんぱい》なして襖《ふすま》の彼方に殘らず始終《しじう》を承まはり何にも知ぬ私しさへ悔《くや》しく存《ぞん》ずる程なれば嘸《さぞ》御無念《ごむねん》にも思し召んが他所から出來た事ではなし矢張《やつぱり》お身から求《もと》めた事故人をお恨み成《なさ》るゝな此久八めが申すこと今一通り御聞下され此間より度々《たび/\》に御|異見《いけん》申上たる通り願《ねが》ふ事では御座りませんが今にも萬一《ひよつと》大旦那がお目出度《めでたく》成《なら》れたなら其時こそは此大《このだい》まいの御|身上《しんしやう》悉皆若旦那の物となる假令《たとへ》然樣《さやう》に成すとも僅《わづ》かの事には眼《め》を掛ず惡《わる》い夢《ゆめ》だと斷念《あきらめ》て御|辛抱《しんばう》を成されなば大旦那にも安心《あんしん》致され家督《かとく》を御|讓《ゆず》り有れんと思ひ運《めぐ》らすことも有ば何は扨置《さておき》御家督を御讓り受の有|樣《やう》に御辛抱こそ肝要《かんえう》なれ然樣さへ成ば何事も御心任せに成事と心身《しんみ》に掛《かけ》たる久八が親兄弟《おやきやうだい》も及ばぬ異見に千太郎は只《たゞ》茫然《ばうぜん》として居たりしかば久八は猶《なほ》も詞《ことば》を改ためて若旦那只今は何をお認《したゝ》め成れしやと四邊《あたり》を見れば一通の書置《かきおき》有《あり》是書置は何事ぞと封《ふう》押切《おしきつ》て讀《よみ》下し這は抑《そも》御|狂氣《きやうき》成《なさ》れしか養家《やうか》實家《じつか》の親御達《おやごたち》其お歎《なげ》きは如何成ん夫を不孝とは覺《おぼ》さずやと撓《たゆ》まぬ異見に千太郎も今は思ひを止《とゞ》まりて嗚呼《あゝ》誤《あやま》てり/\更に心を入替《いれかへ》て義理有親の御安心|遊《あそ》ばす樣に是からは屹度《きつと》辛抱《しんばう》する程に其方《そち》も安心《あんしん》して呉と天窓《あたま》を下げて詫《わび》るにぞ久八は其手を取《とり》勿體《もつたい》無い何事ぞや失禮《しつれい》なるも顧《かへり》みず御意見なせしお叱《しか》りも無《なき》のみ成ず速《すみや》かに御志ざしを御改め下さらんとは有難《ありがた》く夫にて安心仕つりぬと悦《よろこ》び云ば千太郎は猶《なほ》手《て》を拱《こまぬ》きて居《ゐ》たりしがとは云物《いふもの》の五十兩|容易《ようい》の金に有ぬ故|如何《どう》して穴《あな》を償《つぐな》はん實家へ何とか方便《はうべん》云《いふ》て時借なりとせんものか外に手段《しゆだん》は更《さら》に無しと胸《むね》に思へども久八にも夫のみは云出し兼《かね》て居たりしを久八|敏《はや》くも悟《さと》り得て又改めて申すやう其長庵とかに騙《かた》られし五十兩の金子《きんす》の穴《あな》其外|是迄《これまで》遣《つか》はれし金の仕埋《しうめ》は私しが御|引受《ひきうけ》申ます必ず/\御|心配遊《しんぱいあそば》されなと何事も忠義《ちうぎ》面《おもて》に顯《あらは》れたる久八が意見に千太郎は伏拜《ふしおが》み返《かへ》す/″\も辱《かたじ》けなし此恩必ず忘却《わすれ》はせじと主從《しうじう》兩人《ふたり》寄擧《よりこぞ》り暫《しば》し涙に沈《しづ》みけり [#8字下げ]第十二回[#「第十二回」は中見出し]  武家《ぶけ》に在ては國家の柱石《ちうせき》商家《しやうか》で申さば白鼠《しろねずみ》なる番頭久八は頃日《このごろ》千太郎の容子《ようす》不審《いぶかし》しと心意《こゝろ》を付て居たりし折から顏色《かほいろ》も常《つね》成《なら》ず息《いき》せきと立戻《たちもど》り突然《いきなり》二階の小座敷へ這入《はひ》りし容子《ようす》啻事《たゞごと》成らずと久八が裏階子《うらばしご》より忍び上り襖《ふすま》の陰《かげ》に彳《たゝず》みて窺《うかゞ》ひ居るとは夢にも知らず千太郎は腕《うで》拱《こま》ぬき長庵に欺かれて五十兩|騙《かた》り取れし殘念さよと覺悟を極めし獨言を委細《ゐさい》に聞て其場へ立出|樣々《さま/″\》諫《いさ》め賺《す》かせし末|畢竟《ひつきやう》花街《くるわ》の小夜衣とか云|娼妓《おいらん》も長庵とは伯父《をぢ》姪《めひ》とかの中成なれば一ツ|穴《あな》の貉《むじな》ならん然すれば勿々|油斷《ゆだん》は成《なら》ず旁々《かた/″\》以て小夜衣が事は判然《さつぱり》思ひ切《きり》再度《ふたゝび》廓《くるわ》へ行《ゆか》れぬ樣此久八が願ひなりと猶《なほ》眞實《しんじつ》に委曲《こま/″\》との意見《いけん》を聞て千太郎は漸々|心落《こゝろおち》居つゝ久八の言通り金子の工夫は又有べし何にもせよ今度の事にて小夜衣に愛想《あいそ》もこそも盡果《つきはて》たり他人に心|恕《ゆる》すなとは能《よく》も言《いひ》たる者|哉《かな》と後悔《こうくわい》表《おもて》に顯《あらは》れければ久八は打喜び禍《わざは》ひが却つて僥倖《さいはひ》なり斷念《あきらめ》給へとて長庵の方へは其後何の懸合《かけあひ》もせざりし程に長庵は五十兩の金を騙《かた》り徳《とく》と彌々|喜悦《よろこび》居たりける然るに養父五兵衞は例《れい》の吝嗇者《りんしよくもの》なれば病中にも店《たな》の事|而已《のみ》心配|爲《な》して居たりしが此程《このほど》追々《おひ/\》快氣《くわいき》に隨《したが》ひ店《たな》の惣勘定《そうかんぢやう》をなさんとの事に久八千太郎は人知らぬ胸を痛《いた》めけるが早くも年月|推移《おしうつ》りて正徳四年と成ければ當春《たうはる》は是非《ぜひ》店卸《たなおろ》しを爲んとて頓《やが》て諸帳面類《しよちやうめんるゐ》を悉皆《こと/″\》く調べ段々惣勘定と立けるに店《たな》の有金五十兩不足しければ猶又勘定|立直《たてなほ》し種々《いろ/\》取調べしかども同く帳合《ちやうあひ》立難《たちがた》く如何に穿鑿《せんさく》なすと雖も番頭久八が引負《ひきおひ》とは流石《さすが》吝嗇《りんしよく》なる五兵衞も心付ず只々《たゞ/\》不審に思ひ外々《ほか/\》の番頭若者に至る迄|疑《うたが》ひを懸《かけ》平日《ふだん》百か二百の端足《はした》錢《ぜに》さへ勘定《かんぢやう》合《あは》ざれば狂氣《きやうき》の如くに騷ぎ立る五兵衞なれば五十兩の事故|鬼神《おにがみ》の如く憤《いきど》ほり居たる所へ番頭久八進み出て私し儀|幼少《えうせう》の時よりの御|恩澤《おんたく》を只今となり仇《あだ》にて報《はう》じ候は何とも申譯なき事ながら此程計らずも遊び過《すご》し五十兩の不足金は全《まつた》く私し儀|引負《ひきおひ》仕つりし故|何卒《なにとぞ》御|慈悲《じひ》の御沙汰|偏《ひと》へに願ひ上ますと彼の千太郎が欺《あざむ》かれし五十兩を既に我が身に引請んとするを暫時《しばし》と引留千太郎進み寄《より》|否々《いへ/\》久八にては御座らぬと言んとするを押留《おしとゞ》め尻目《しりめ》に懸《かけ》て夫と無《なく》知らする忠義の赤心《まごころ》を水の泡《あわ》にさせるも本意なし如何はせんと千太郎が胡亂々々《うろ/\》爲《な》すを久八は我が身の後ろへ引廻《ひきまは》し私しが引負《ひきおひ》に相違なく餘《よ》の者の仕業《しわざ》では御座りませぬと聞より五兵衞大いに怒り汝《おの》れ久八め今迄伊勢五の白鼠《しろねずみ》忠義者《ちうぎもの》よと世間《せけん》でも評判|請《うけ》し身ならずや此五兵衞迄|然樣《さやう》に思ひしは大いなる見違《みちが》ひなり扨も/\五十兩と言ふ大金を遣《つか》ひ捨《すて》しとは何ごとぞや十兩からは大金《たいきん》成《なる》ぞ夫を何ぞや遣《つか》ひ込《こみ》知《し》らぬ顏して主人の眼《め》を拔《ぬ》く大膽者《だいたんもの》めと有合《ありあふ》十露盤《そろばん》おつ取て久八を散々《さん/″\》に打擲《ちやうちやく》爲《な》すを側に見て居る千太郎は我が骨節《ほねぶし》を打るゝ思ひ寧《いつ》そ有體《ありてい》打明てと思ふ樣子を久八は頻りに後へ引止め五兵衞に向ひ何とも御|詫《わび》の致し樣も御座なく御|打擲《ちやうちやく》は扨置《さておき》御|討殺《うちころ》し成《なさ》れる共少しも御|恨《うら》みは申ません御十分に成《なさ》れよと兩手をつかへ頭《かしら》をさげ詫入る處を猶も又めつた打ちに打ち敲《たゝ》き頓《やが》て蹴飛《けとば》し蹴返《けかへ》して直に請人石町甚藏店の六右衞門を呼《よび》に遣《やり》けるに六右衞門は何事やらんと打|驚怖《おどろき》直《すぐ》に其使ひと倶《とも》に來て見れば豈《あに》※[#「圖」の「回」に代えて「面から一、二画目をとったもの」、205-2]《はか》らん久八が主人に折檻《せつかん》請《うけ》る有樣に暫時《しばし》惘《あき》れて言葉もなし五兵衞は皺枯聲《しわかれごゑ》をふり立て如何に請人六右衞門此久八の盜賊《たうぞく》めが五十兩と言大金を汝《おのれ》が奢《おご》りに遣ひ捨て引負《ひきおひ》成《なし》たる上からは直《すぐ》に當人久八を引取|行《ゆき》五十兩の金子を償《つぐな》ひたる上本金をも殘らず納《をさ》めよと言渡されて仰天《ぎやうてん》なし本金とは何事ぞ如何に不埓《ふらち》が有ればとて廿餘年の勤功《きんこう》にて既に支配も任《まか》されたる此久八を丁稚《でつち》小僧か何ぞの樣に打擲《ちやうちやく》さるゝのみならずと思へど久八を一先内へ連歸《つれかへ》り篤《とく》と容子《ようす》を正した上又|詫言《わびごと》の仕樣も有んと言度事《いひたきこと》をじつと堪《こら》へ六右衞門は主人五兵衞に打向ひ扨《さて》段々の御|立腹《りつぷく》御|詫《わび》の致し方も之無く候|就《つい》ては五十兩の引負金《ひきおひきん》何分《なにぶん》直《すぐ》には償《つぐの》ひ難く暫時御|猶豫下《いうよくだ》され度《たし》且又御給金の儀は半《なかば》は頂戴仕《ちやうだいつかま》つり半分《なかば》は御預け置候故日|割《わり》御勘定の程御願ひ申上候當人身分の儀は直樣《すぐさま》引取一札をも差上《さしあげ》申すべく又當人久八に御用の節《せつ》は何時にても同道申べくと事を分て申せども聊《いさゝ》か聞入《きゝいる》景況《けしき》も無く五兵衞は却《かへ》つて憤《いきど》ほり然樣な勝手は相成ず直に勘定して行《ゆか》れよと怒《いか》りけるを猶|種々《さま/″\》詫言《わびごと》なし漸々にして追々に償ふ事を免《ゆる》されしかば直樣《すぐさま》引取の一|札《さつ》を指出《さしいだ》し久八を連歸りけるは無慈悲《むじひ》なりける有樣なり久八は子供《こども》の時より主人を大切と我が身の苦患《くげん》を厭《いと》はず勤《つと》め一人として譽《ほめ》ざる者も無者《なきもの》成《な》るに伊勢五の店《たな》を引負《ひきおひ》して請人方へ引渡されしは[#「引渡されしは」は底本では「引渡されしば」]何か譯《わけ》の有事成んと云も有ば久八は白鼠《しろねずみ》所《どころ》か溷鼠《とぶねずみ》で有たなどと後指をさす者も有しとかや六右衞門は久八を連《つれ》歸りて百日の説法《せつぱふ》屁《へ》一ツとは汝《おのれ》が事なり此六右衞門は人の世話も多く仕《し》たが斯《かゝ》る事を言《いは》れし事なし五十兩と云大金を何に遣《つか》つたこんな馬鹿《ばか》とは知らずして汝《おのれ》が事を人樣に辛抱人《しんばうにん》と譽《ほめ》たのが今となりては面目《めんぼく》ない二階へなりと往《い》きくされ面《つら》を見《みる》のも忌々《いま/\》しいと口では言ど心では何か容子《ようす》の有事やと手を拱《こまぬ》いて居たりけり翌日伊勢屋の養子千太郎は我が爲に久八が昨日《きのふ》の始末《しまつ》と夜の目も合《あは》ず少しも早く六右衞門に逢《あう》て實を明《あか》さんと何《ど》う首尾《しゆび》せしか宅《たく》を出でて本石町なる六右衞門の宅へ到《いた》り久八に逢度《あひたき》由を云ひ入ければ夫と見るより六右衞門は飛《とん》で出《いで》偖々《さて/\》若旦那能くこそ御出なされしぞ千太郎を奧《おく》へ通し久八に引合せければ千太郎は男泣に泣《なき》ながら段々《だん/\》の禮を述《のべ》何と云べき詞もなく我身に代《かは》りて惡事を引受《ひきうけ》アノ一|徹《てつ》なる親父|殿《どの》に罪なき足下《そなた》が打擲《たゝか》れ廿餘年の奉公を贅事《むだ》にして暇《いとま》を引され夫を堪へし昨日《きのふ》の始末|嘸《さぞ》や嘸《さぞ》六右衞門殿には不審《いぶか》しく思はれけん久八は私の爲には命の親《おや》共|言《いふ》べき樣なる恩人《おんじん》なり是非|足下《おまへ》の身の立樣にする程に暫《しば》しの内|勘辨《かんべん》して何ぞ耐《こら》へて下されと久八が前に鰭伏《ひれふせ》ば久八は涙を流し何事も是皆前世の因縁《いんえん》づくと斷念《あきらめ》居《をれ》ば必ず御心配は下さるまじ併しながら時節《じせつ》來りて若旦那の御|家督《かとく》と成れなば其時には此久八を御|呼戻《よびもど》し下されたし夫《それ》のみ願ひ上まする夫に就《つい》ても呉々《くれ/″\》も御辛抱こそ肝要《かんえう》なれと猶も撓《たゆ》まぬ忠義の久八六右衞門も一伍一什《いちぶしじふ》を聞居たりしか久八に向ひ其方が五十兩の大金を遊《あそ》び過《すご》して遣《つか》ひ捨《すて》しとは合點《がてん》行《ゆか》ねど其方が打叩《うちたゝ》かれても一言の言譯《いひわけ》さへもせざりしゆゑ如何成《いかなる》天魔《てんま》が魅《みい》りしかと今が今迄思ひ居たるに全く若旦那の引負を其身に引受《ひきうけ》ての事成か能も斯《かく》は計らひしぞ其方ならでは出來ぬ事と六右衞門は感心《かんしん》なし千太郎に打向《うちむか》ひ初めて承まはりし今度の始末如來樣|家來《けらい》と成《なり》主人と成《なり》し上からは忠義の爲には些いの奉公決して御|心配《しんぱい》に及びませぬ假令《たとへ》何《ど》の樣なる難儀《なんぎ》苦勞《くらう》を致せばとて御主人樣の御爲なら少しも厭《いと》ひは致しませぬと久八と云六右衞門と云|揃《そろ》ひも揃ひし忠義な男義《をとこぎ》千太郎は猶々|穴《あな》へも入たき思ひ六右衞門に打向ひ兩手を合せて伏し拜《をが》み氣の毒《どく》共何共申分の仕樣《しやう》も無しと言を六右衞門是はしたりと其手を取只此上は御心得|違《ちが》ひのなき樣に久八が申通り呉々《くれ/″\》御|辛抱《しんばう》成《なさ》れましと申時千太郎は豫《かね》て用意をしたりけん懷中《くわいちう》より書付《かきつけ》一通取出し扨此書付は久八殿が拙者《せつしや》の引負《ひきおひ》引受《ひきうけ》て[#「引受《ひきうけ》て」は底本では「引受《ひきうけ》けて」]呉られし後日の證據《しようこ》に渡し置《おく》と言《い》ひながら兩人の前にさし置きける其文は [#ここから6字下げ] 入置《いれおき》申一|札《さつ》之事 [#ここから2字下げ] 一金五十兩也 右は我等《われら》養父の金子引負致し候所其|許《もと》[#ルビの「もと」は底本では「とも」]自分に引負金と申立|引受《ひきうけ》呉《くれ》夫が爲養父五兵衞[#「五兵衞」は底本では「五衞門」]より其許|暇《いとま》に相成候段|生々世々《しやう/″\せゝ》の高恩《かうおん》以來とも忘却仕《ばうきやくつかま》つる間敷候|依之《これによつて》我代《わがよ》に相成り候節は急度呼戻し此度の大恩を報ずべく候|爲後日一札仍而如件《ごにちのためいつさつよつてくだんのごとし》 [#ここから4字下げ] 正徳四年四月[#地から4字上げ]千太郎 判 [#ここから7字下げ] 久八 殿 [#ここで字下げ終わり] 斯の如く認《したゝ》めたる[#「認めたる」は底本では「認めにる」]一通なれば六右衞門は押戴《おしいたゞ》き若旦那の御心遣ひ有り難く存じ上ます然らば此一通は私し方慥かに御|預《あづか》り申さんとて久八へ渡しける時に千太郎又々|懷中《くわいちう》より金子一と包《つゝ》み取出し追々《おひ/\》見繼《みつぎ》も致す心なれども是は當座の凌《しの》ぎの爲實父の方より借受《かりうけ》し金子なり之を遣ひ居て下されよと出すを久八はおし返し達《たつ》て辭退《じたい》をなしけれども千太郎は猶《な》ほ種々《さま/″\》に言ひなし漸々《やう/\》金子を差置《さしおき》つゝ我が家へこそは歸りけれ [#8字下げ]第十三回[#「第十三回」は中見出し]  扨《さて》また六右衞門は久八に向《むか》ひ如何にも貴殿《きさま》が心底《しんてい》には勿々《なか/\》引負《ひきおひ》など致す樣|成《なる》者では無と思ひしに豈《あに》※[#「圖」の「回」に代えて「面から一、二画目をとったもの」、207-10]《はか》らんや昨日《きのふ》の始末《しまつ》と思ひの外《ほか》打《うつ》て變《かは》りし今日の時宜《じぎ》異見《いけん》をせしも面目《めんぼく》なし決して心配致すに及ばず伊勢屋の引負金も一|工夫《くふう》して濟《すま》しもせん其方《そなた》は此若旦那樣よりの御|心添《こゝろぞへ》の金子にて何成《なんなり》とも商賣を初める樣にと六右衞門が始終を思ひし深切に久八も大に喜悦《よろこび》何商《なにあきな》ひを初めたら宜《よろ》しからうと工夫を爲《なせ》ども元より大家の支配人の果なれば小商《こあきな》ひの道を知ず右左《とかく》損毛《そんもう》多く夫|而已《のみ》ならず久八は生れ付ての慈悲《じひ》心深く貧《まづ》しき者を見る時は不便心が彌増《いやま》し施《ほど》こすことの好《すき》なる故|儲《まう》けの無も道理《ことわり》なり依て六右衞門も心配なし寧《いつ》そ我弟が渡世《とせい》の先買《さきがひ》となり恥《はぢ》を忍びて紙屑買《かみくづかひ》には成ぬかと聞て久八|暫《しばら》く考へ却つて夫こそ面白《おもしろ》からんと紙屑買にぞなりにけり嗚呼《ああ》榮枯盛衰《えいこせいすゐ》單《ひと》へに天なり命なり昨日迄は兎も角も大店の番頭支配人とも言はれし身が千種木綿《ちくさもめん》の股引《もゝひき》は葱《ねぎ》の枯葉《かれは》のごとくにて木綿|布子《ぬのこ》に紋皮《もんぱ》の頭巾《づきん》見る影も無き形相《なりふり》は商賣向の身拵《みごしら》へ天秤棒《てんびんぼう》に紙屑|籠《かご》鐵砲笊《てつぱうざる》を横にのせ日がな一日買ひ歩行《あるき》戻《もど》れば夜を掛《かけ》撰《えり》わけて千住品川問屋先賣代なして聊《いさゝ》かの利益を得ては幽々《かす/\》に其日々々を送《おく》りけり然ども是を苦《く》にもせず稼《かせ》ぎ溜《たま》れば少しでも伊勢五の穴《あな》を埋めて行心の正直|律儀《りちぎ》者昔しも今も町家には例《ため》し少なき忠義なり是皆村井長庵が惡業《あくげふ》の爲所にして西も東も知らぬ若者の千太郎を欺《あざむ》き多くの人に難儀を掛ること人面《にんめん》獸心《じうしん》の曲者《くせもの》なり長庵が惡事を算《かぞへ》るに第一札の辻にて弟十兵衞を殺害《せつがい》し罪を浪人《らうにん》藤崎道十郎に負せ二ツにはお富を賣り三ツにはお安を三次に頼《たの》み中反圃《なかたんぼ》にて殺させ今又伊勢屋千太郎を欺きて五十兩の金子を騙り取久八をも斯《かく》苦《くる》しめる事是皆|露顯《ろけん》の小口となり彼《かの》道十郎の後家お光が※[#「圖」の「回」に代えて「面から一、二画目をとったもの」、208-6]《はか》らず訴《うつた》へ出る樣に成けるは天命《てんめい》の然らしめたる所なり [#8字下げ]第十四回[#「第十四回」は中見出し]  天の作《な》せる禍《わざは》ひは猶去可し自から作《な》せる禍ひは避《さく》可からずとは雖も爰に寶永《はうえい》七年九月廿一日北の町奉行中山|出雲守殿《いづものかみどの》の掛りにて奸賊《かんぞく》村井長庵が惡計に陷入《おちい》り遂には寃《むじつ》横難《わうなん》に罹り入牢《じゆらう》し果は牢死《らうし》に及びぬる彼道十郎は舊《もと》吉良家《きらけ》の藩士《はんし》なる岩瀬舍人《いはせとねり》とて御近習へ出仕し天晴武文も心懸有し者なりしが不※[#「圖」の「回」に代えて「面から一、二画目をとったもの」、208-10]した事の譯柄《わけがら》にて今は浪人と成《なり》名《な》を藤崎道十郎と更めて居たりしが妻お光は當年三歳に成し悴《せがれ》の道之助を懷《ふとこ》ろにして店請人赤坂傳馬町治郎兵衞店に小切商《こぎれあきな》ひを爲《なす》清右衞門方へ御|引《ひき》渡しと成けるにぞ返す/″\も夫《をつと》道十郎が芝《しば》札《ふだ》の辻に於て十兵衞を殺害に及びしなどとは夢《ゆめ》にも知らぬ無實《むじつ》の難にて入牢なし其事故の分明《あきらか》に別《わか》らぬ内に情無《なさけな》くも牢死に及びける故遂に死人に口なしとて悉皆《こと/″\》く長庵の佞辯《ねいべん》により種々《いろ/\》言廻《いひまは》され夫《をつと》道十郎の罪科《ざいくわ》とは定まりし事無念|骨髓《こつずゐ》に徹《とほ》り女ながらも再度《ふたゝび》願《ねが》ひを上《あげ》夫《をつと》の惡名《あくみやう》を雪《すゝ》ぎ度とは思へども清右衞門は段々《だん/\》意見をなし兎に角に假令《たとへ》再度《さいど》御調べを願ふとも是と云|證據《しようこ》も有ねば公儀《おかみ》に於ても詮方《せんかた》なし先々夫迄の天命なりと諦《あきら》め道十郎殿の紀念《かたみ》に殘せし道之助を一日も早く成長《せいちやう》させて藤崎の家を再興《さいこう》せらるゝが佛へ對《たい》し何よりの追善《つゐぜん》なりと言諭《いひさと》されて悔《くや》し涙に暮ながら唯此上は悴《せがれ》道之助が一日も早く成長なし札《ふだ》の辻《つじ》にて十兵衞とやらを殺害なしたる本人を尋ね出して夫《をつと》道十郎殿の惡名を雪《すゝ》がせん者をと夫より心を定め赤坂《あかさか》傳馬町《でんまちやう》へと引取られ同町にて表《おもて》ながらも最《いと》狹《せま》き孫店《まごだな》を借受《かりうけ》爰に雨露《うろ》を凌《しの》ぎつゝ親子が涙の乾《かわ》く間もなく僅《わづ》かの本資《もとで》に水菓子《みづぐわし》や一本菓子など并《なら》べ置《おき》小商《こあきな》ひの其の隙《ひま》にはそゝぎ洗濯《せんたく》賃仕事《ちんしごと》氷《こほ》る油《あぶら》の燈《あか》りを掻立《かきたて》つゝ漸々《やう/\》にして取續き女心の一ト筋《すぢ》に神佛《かみほとけ》をぞ頼みける然るに光陰《くわういん》は懸河《けんか》の流るゝ如く早八ヶ年を送《おく》りしに夫《をつと》の忌日《きにち》もいつしか八年跡の空《そら》とぞ過行《すぎゆき》ける道之助|今年《ことし》十歳に成けるに親は無とも子は育《そだ》つとやら母の手一ツに育《そだ》て揚《あげ》たる子ながらも生《うま》れ付ての發明者《はつめいもの》殊《こと》に幼稚《いとけな》き心にも母が心盡《こゝろづく》しの程をや察《さつ》しけん孝心《かうしん》怠《おこた》り無《なく》夏秋《なつあき》は枝豆《えだまめ》を賣歩行《うりある》き或ひは母が手業《てわざ》の助《たす》けと成又は使ひに雇《やと》[#ルビの「やと」は底本では「やとは」]はれて其|賃錢《ちんせん》を貰《もら》ひ請《うけ》朝《あさ》な夕《ゆふ》なの孝行《かうかう》は見る人聞人感じける然るに有日《あるひ》道之助は例日《いつも》の通り枝豆《えだまめ》を肩《かた》に掛《かけ》門口《かどぐち》へ出る所へ獨りの男《をとこ》木綿《もめん》の羽織《はおり》に千種《ちくさ》の股引《もゝひき》風呂《ふろ》しき包《づつ》みを脊負《せおひ》し人立止りて思はずも店《みせ》に並《なら》べし水菓子の價《あたひ》を聞ながら其所《そこ》に居たりし道之助を熟々《つく/″\》見て最《いと》不審氣《いぶかしげ》にお前は若《もし》や藤崎道十郎殿の御|子息《しそく》の道之助殿では御座らぬかと云《いふ》聲《こゑ》聞て後家のお光は心|嬉《うれ》しく夫の名を言ふ其人は床《ゆか》し懷《なつか》し何人ぞやと出合頭《であひがしら》に顏《かほ》打詠《うちなが》め見れば此方《こなた》の彼男はお前こそは道十郎殿の御|内儀《ないぎ》お光殿にて有しよな珍《めづ》らしき所にて絶《たえ》て久しき面會《めんくわい》なり拙者《せつしや》事は瀬戸物屋《せとものや》忠兵衞と言れてお光は面《かほ》打《うち》まもり扨は忠兵衞殿にて在せしかと往昔馴染《むかしなじみ》の何とやら懷《なつか》しきまゝ詞《ことば》を改め斯樣に穢苦《むさくる》しき住居《すまひ》なれども此方《こちら》へ御通り下されと最丁寧なる挨拶《あいさつ》に瀬戸物屋の忠兵衞は莞爾《にこ/\》として立入けり此瀬戸物屋忠兵衞と云ふは至つて女|好《ずき》にて殊にお光は後家なりと思ふ者から見れば貧苦《ひんく》の容子《ようす》故一|肌《はだ》脱《ぬい》で世話をなし恩を着《き》せ置思ひを遂んと心の中に目算《もくさん》なし忽ち發《おこ》る煩惱《ぼんなう》の犬《いぬ》よりも猶《なほ》眼尻《めじり》を下げお光殿にも可愛《かあい》さうに若《わか》い身そらで後家になられ年増盛《としまざか》りを惜《をし》い物と戯氣《おどけ》乍《なが》ら御子息道之助殿を能《よく》も女の手一ツにて斯樣《かやう》に御|育養《そだて》有れしぞ併《しか》し其後は御|亭主《ていしゆ》も定めてお出來|成《なさ》れたで有《あら》うに今日は何《いづ》れへかお出かけにやと言へばお光は形《かたち》を改《あら》ためそは怪《けし》からぬ忠兵衞殿の仰《おほ》せかな御冗談《ごじようだん》でも御座りませうが夫《をつと》道十郎が牢死の後にせめて紀念《かたみ》の此子をば成長《せいちやう》させ一日も早く夫の惡名を雪《すゝ》ぎ度《たく》夫而已《それのみ》樂《たの》しみに暮《くら》し居と云ふを打消《うちけ》し忠兵衞は否《いや》然《さう》では有ますまい隱《かく》す程《ほど》顯《あら》はるゝと申如く尚々《なほ/\》怪《あや》しき事にこそ然《さり》ながら今迄|全《まつた》く後家暮《ごけくら》しにて居られしならば少しは何かの御相談相手《ごさうだんあひて》に昔馴染《むかしなじみ》の甲斐《かひ》丈《だけ》は失禮《しつれい》乍らお世話も致し御不自由の事も有なれば御|遠慮《ゑんりよ》なしに言れよと情《なさけ》仕掛《しかけ》の忠兵衞が持《もつ》た病に据《すわ》り込彼方と話《はな》せしが暫《しばら》く有て懷中より金子一分取出し道之助に頼《たの》み近邊《きんぺん》にて酒《さけ》肴《さかな》を買求《かひもと》め酒宴《しゆえん》をこそは初めけれ [#8字下げ]第十五回[#「第十五回」は中見出し]  扨又お光は忠兵衞が酒の相手をなすを五月蠅《うるさく》思《おも》ひ種々《いろ/\》に斷《ことわ》りても忠兵衞は耳にも入れず追々《おひ/\》醉《ゑひ》の廻《まは》るに隨《したが》ひお光に向ひ婬《みだ》りがましき戯《たはぶ》れ事を云出しければお光は大いに驚怖《おどろき》て是は/\忠兵衞樣|夫《をつと》道十郎|不慮《ふりよ》のことにて死去《しきよ》致してより八ヶ年の其間《そのあひだ》悴《せがれ》の脊|丈《だけ》の伸《のび》るのを唯《たゞ》樂《たのし》みに此世を送り人に後指《うしろゆび》を指《さゝ》れぬ私し勿々《なか/\》以て然樣《さやう》成事《なること》思ひ寄《よら》ずお許《ゆる》し成されて下されと云|紛《まぎら》すを忠兵衞は尚《なほ》種々《さま/″\》に言《い》ひ寄《より》つゝ頓《やが》て言葉を和《やは》らげて言ひ出しけるは然云《さういふ》御前の心底《しんてい》を破《やぶ》らするのも氣の毒千萬私しも今迄|決《けつ》して他言《たごん》は致す間敷《まじ》とは思ひしがお前が私の言葉を一寸《ちよつと》なりとも聞《きか》るゝなら私もお前に云事ありお前の連合《つれあひ》道十郎殿|那《あん》な事柄《ことがら》に成《なら》れしは全く誰も知《し》る者なし實はあの折《をり》十兵衞を殺《ころ》した奴は外に有《ある》夫を知て居らるゝかと聞よりお光は飛立《とびたつ》思《おも》ひ其十兵衞を殺した人は別に有とは誰人《たれびと》にや其許樣《そこもとさま》が御|存知《ぞんじ》ならば何卒《なにとぞ》教《をし》へて下されと言ば忠兵衞|莞爾《につこ》と笑《わら》ひ然樣《さう》いはるゝならば教へもせんが然れども其處《そこ》が肝要《かんじんかな》め魚心《うをごころ》有ば水心と味《あじ》な詞《ことば》にお光はほゝ笑《ゑ》み強面《つれなく》なさば隱《かく》さんときつと思案《しあん》を仕直《しなほ》して夫さへ聞《きか》して下さらば如何なる事でも貴方《あなた》次第《しだい》と聞て忠兵衞|夢中《むちう》になりお前の夫《をつと》道十郎殿に寃《むじつ》の難《なん》を着《きせ》たる奴はお前も知ての那《あ》の藪醫者《やぶいしや》長庵|坊主《ばうず》に相違《さうゐ》無し斯《か》うばかりでは譯《わか》らぬが算《かぞ》へて見れば八年|跡《あと》八月廿八日に寅刻《なゝつ》起《おき》して三日ゆゑ例《いつも》の通り平川の天神樣《てんじんさま》へ參詣に出掛《でかけ》た處か早過《はやすぎ》て往來《ゆきゝ》の人はなし雨《あめ》は頻《しき》りに強《つよ》く降《ふり》困《こま》つたなれど信心《しんじん》參り少しも厭《いと》はず參詣なし裏門《うらもん》を出て戻《もど》る頃漸々東が白《しら》み出し雨も小降《こぶり》に成たる故|浮羅々々《ぶら/\》戻る向《むかう》より尻《しり》つぺた迄|引端打《ひつはしをり》古手拭《ふるてぬぐひ》で頬冠《ほゝかぶ》り傘《かさ》をも指ずに濡《ぬれ》しよぼ垂《たれ》小脇差《こわきざし》をば後ろへ廻し薄氣味惡《うすきみわる》き坊主奴《ばうずめ》が來るのを見れば長庵故|傘《かさ》をもさゝず先生《せんせい》には何《いづ》れへお出と迂濶《うつか》り言葉を掛たら彼方はおどろき急《きふ》病人の診察《みまひ》の戻《もど》りと答へし形容《ようす》の不審《いぶかし》く殊に衣類《いるゐ》へ生血《なまち》のしたゝり懸つて有故其の血|汐《しほ》は如何の譯《わけ》やと再度《ふたゝび》問へば長庵愈々|驚怖《おどろき》周章《あわて》嗚呼《ああ》殺生《せつしやう》はせぬ者なり益《えき》なきことを致したり霞《かすみ》ヶ|關《せき》の坂下にて惡《わる》い犬《いぬ》めが吼付《ほえつく》故《ゆゑ》據所《よんどころ》なく拔討《ぬきうち》に犬を斬しが其血が刎《はね》衣類《いるゐ》を如斯《こんな》に汚《よご》せしなりと云つゝ吐息《といき》を吐《つく》體《さま》が何《どう》も怪《あや》しく思はれたり夫のみならず第一に病家《びやうか》へ行に傘《かさ》をもさゝず濡萎《ぬれしよぼ》たれて跣《はだし》とは其の意を得ずと思ひしに跡にて聞《きけ》ば弟《おとうと》なる十兵衞とやら云者が札の辻にて人手にかゝり其|曉《あかつ》きに長庵は病氣なりとて十兵衞が出立するを見送《みおく》りも爲ざりし由|檢使場《けんしば》でも御奉行樣のお前でも申立たる赴きゆゑはてなと思うて居るものゝ人の事にて兎や角と言爭《いひあら》そはんも益《えき》なき事|殊《こと》に私しの女房の云には滅多《めつた》にそんな事を口出しなさば懸《かゝ》り合《あひ》然樣《さう》なる時は大變《たいへん》なれば決して口外《こうぐわい》なさるゝなと言ける故に今迄は人にも決して言ざりしがお前にばかり話《はな》すなり夫ゆゑお前の御|亭主《ていしゆ》の敵《かたき》と言ふは長庵に相違《さうゐ》なしさなサア/\/\咄《はな》した上はお光さん私が事も聞て呉れとお光に突然《いきなり》抱《だ》き附《つく》を其手を取て突除《つきの》けつゝ見相《けんさう》變《かへ》て忠兵衞さん扨は其朝長庵が傘をもさゝず天神樣の裏門前《うらもんまへ》にて逢《あは》れし時口|利《きか》れたは確乎《たしか》な證據《しようこ》夫程證據の有事をなどて今日迄|包《つゝ》まれしや情なき忠兵衞殿|無念々々《むねん/\》と齒噛《はがみ》をなし忽まち眼《まなこ》も血走《ちばし》りつゝ髮も逆立《さかたつ》形容《ありさま》にて斯る證人有上は此趣きを直樣《すぐさま》に御奉行樣へ駈込《かけこん》で彼の長庵を御調べ願ひ夫の惡名《あくみやう》雪《すゝ》ぐべし忠兵衞殿には何處迄も證據《しようこ》と成て下されと直《すぐ》にも駈出《かけだ》すお光が氣色此有樣に忠兵衞は如何《いかゞ》なことをば言ひ出してひよな騷《さわ》ぎに成たりと酒も何處《どこ》へか醒《さめ》て行《ゆき》色《いろ》も戀路《こひぢ》も消果《きえはて》てこはそも如何にと惘《あき》れ果十方に暮て居たりしが忠兵衞は迯《にげ》もされねば是《これ》待《まち》給へお光殿御番所へ駈込《かけこん》でも外事《ほかこと》成ぬ大事の一|條《でう》人の命に關る事先々|篤《とく》と勘考《かんがへ》てと言紛《いひまぎ》らすをお光は聞ず兎にも角にも御奉行所へ訴《うつた》へ出て御|調《しら》べを願うた時は必ず證據《しようこ》人と成て給はれ忠兵衞殿と念《ねん》を押《おせ》ども忠兵衞は茫然《ばうぜん》として答《こたへ》もなく我が家へこそは立歸りぬお光は悴《せがれ》道之助にも其次第を言聞《いひきか》せ其儘|直《すぐ》に支度して店請《たなうけ》人の清右衞門に相談せんと出行《いでゆき》ける [#8字下げ]第十六回[#「第十六回」は中見出し]  口を守《まも》る事|瓢《ふくべ》の如くと又口は禍《わざは》ひの門《かど》舌《した》は禍ひの根《ね》と言る事|金言《きんげん》成《なる》かな瀬戸物屋忠兵衞|計《はか》らず八ヶ年|過去《すぎさり》たる事をお光が色情《しきじやう》にほだされ迂濶《うかつ》と口走《くちばし》り掛り合に成て當惑に及びしも口の禍ひなり然《さり》ながら天に口なし人を以て言《いは》しめ給ふ事長庵が多年の積惡《せきあく》露顯《ろけん》の時節《じせつ》にや有ぬべし然ばお光は忠兵衞が歸りしより早々《さう/\》支度《したく》を爲し直樣《すぐさま》店請人《たなうけにん》の清右衞門方へ到り云々《しか/″\》の譯柄《わけがら》なれば速《すみや》かに此趣きを訴へて夫の汚名《をめい》を雪《すゝ》ぎ度《たき》由一心込て相談に及びければ清右衞門|倩々《つく/″\》聞《きゝ》心の内に一|旦《たん》中山出雲守樣の御|白洲《しらす》にて落着《らくちやく》に成し一件なれば假令《たとへ》聊《いさゝ》か證人の有ばとて容易《ようい》に御取上には成《なる》まじ毛《け》を吹《ふい》て疵《きず》を求《もと》めなば却つてお光の爲ならずと思案《しあん》を極《きは》めてお光に向ひ夫は道理《もつとも》なる次第なれども一|朝《てう》一|夕《せき》の事ならず假令|證據《しようこ》人の有ればとて周章《あわて》て願《ねが》ふ事|柄《がら》ならず殊に北の御番所にて先年《せんねん》裁許濟《さいきよずみ》に成し事故今更兎や角申立るとも入費倒《にふひたふ》れにて贅《むだ》事に成も知れず云ば證文の出し後《おく》れなり夫より最早《もはや》夫《をつと》道十郎殿の事は前世よりの因縁《いんえん》と斷念《あきらめ》られ紀念《かたみ》の道之助殿の成長を樂《たの》しみに暮《くら》し給へと種々《いろ/\》に宥《なだ》めつ透《すか》しつ諫《いさめ》ると雖もお光は更に思ひ止るべき所存《しよぞん》無《なけ》れば猶押|返《かへ》して頼みけるに清右衞門一|圓《ゑん》取用ひ呉ざれば詮術《せんすべ》なさに凄々《すご/\》と我が屋へ社《こそ》は立戻《たちもど》れど熟々《つく/″\》思へば懷《おも》ふ程無念悔しさ止難《やみがた》ければ店請人《たなうけにん》清右衞門をさし置てお光は家主《いへぬし》長助方へ赴き貴君樣《あなたさま》に折入《をりいつ》て密々《みつ/\》御願ひ申度一大事の出來候まゝ態々《わざ/\》參《まゐ》りしなり併し乍ら人樣《ひとさま》の前にては申し上難きことなれば何卒《なにとぞ》内々にて御相談《ごさうだん》願《ねが》ひ上度と言《いふ》[#ルビの「いふ」は底本では「いひ」]により長助は如何にも承知なりとて早速《さつそく》自身《じしん》の家内に向ひ其方は何方《いづかた》なりとも少しの間《あひ》だ行《ゆき》てをれと云れて女房《にようばう》は頬《ほゝ》膨《ふく》らし女房が何で邪魔《じやま》に成《なる》お光殿もお光殿此|晝日中《ひるひなか》馬鹿々々《ばか/\》しいと口には言《いは》ねどつん/\するを長助夫と見て取つて其方が氣を揉事《もむこと》に非ず早々|何處《いづこ》へか行きて居れと叱《しか》り付いざお光殿是へ御座れと奧《おく》の一間へ喚込《よびこめ》ば女房は彌々《いよ/\》角《つの》も生《はゆ》べき景色《けしき》にて密男《まをとこ》は七兩二分|密女《まをんな》に相場は無《ない》と呟《つぶや》きながら格子戸《かうしど》をがたびし明《あけ》て出行《いでゆき》けり跡には長助お光兩人|差向《さしむか》ひなればお光は四方《あたり》を見廻して徐《しづ》かに云けるに内々にて御願ひと申すは外のことには候はず私し夫《をつと》道十郎事八ヶ年|以前《いぜん》寃《むじつ》の難《なん》にて斯樣々々《かやう/\》と有し次第を具《つぶ》さに物語り彼忠兵衞を證據人と爲《な》し私し駈込願《かけこみねが》ひ致し度と涙を浮《うか》めて頼みける容子《ようす》に貞心《ていしん》顯《あらは》れければ長助は感心なし今度忠兵衞が計《はか》らずお前方に過去《すぎさり》たる一|件《けん》を口走《くちばし》りしはお光殿の貞心《ていしん》を天道樣が感應《かんおう》在《まし》まして忠兵衞に云《い》はせし者ならん如何にも此長助が一肌《ひとはだ》脱《ぬい》でお世話致さん然《さり》ながら一|旦《たん》中山樣にて落着《らくちやく》の付し事を訴《うつた》へるわけゆゑ言《いは》は裁許《さいきよ》破毀《やぶり》の願ひなれば一ト通りの運《はこ》[#ルビの「はこ」は底本では「よこ」]びにては貫徹《つらぬく》事|六《むづ》ヶ|敷《し》からんされば長庵とやらが大雨《おほあめ》の降《ふる》に傘《かさ》をもさゝず曉方《あけがた》に平川天神の裏門通りにて行逢《ゆきあひ》たりと云忠兵衞とかの方へ赴《おもむ》き證據人に必ず立と云處を突留《つきとめ》其上|玄關《げんくわん》へ委細《ゐさい》を申し立|若《もし》取上て呉《くれ》ぬ時は駈込《かけこみ》願ひを爲《な》すべし又|幾度《いくたび》駈込《かけこみ》願ひを爲《な》しても御取上に成ぬ時は月番の御老中へ駕訴《かごそ》をすると覺悟を仕て掛《かゝ》るべしと身に引受し長助が最《いと》懇切《ねんごろ》に言聞《いひきか》せければお光は飛立ばかりに喜び早々《さう/\》長助|同道《どうだう》にて忠兵衞方へ赴きける僥倖《さいはひ》なる哉《かな》例令《たとへ》お光が女の身にて何樣に思ふとも外の家主ならんには勿々《なか/\》引請て呉《くれ》る事柄《ことがら》には有らね共此長助と云家主は當時此|廣《ひろ》き大江戸にても三人と言るゝ指折《ゆびをり》の公事好《くじずき》[#ルビの「くじずき」は底本では「ぐじずき」]と名を取し男にて其頃の噂にも朝《あさ》起出《おきいで》て神棚《かみだな》に向ひ先我が身《み》安泰《あんたい》家内《かない》安全《あんぜん》町内|大變《たいへん》と祈《いの》りしと云ふ程の心底故か御番所の腰掛《こしかけ》にて喰《くふ》辨當《べんたう》は何が無《なく》ても別段《べつだん》甘《うま》しと言しとかや何故に町内|大變々々《たいへん/\》と言かと思ふに支配内に變が無《なけ》れば家主は何にも面白く無《ない》と言位の人物にて麻布《あざぶ》に三次郎|芝《しば》に勘左衞門赤坂に此長助と三人の公事|好《ずき》家主なり此長助には望《のぞ》む所の出入なりと直樣《すぐさま》お光が力となりしはお光か貞心《ていしん》[#ルビの「ていしん」は底本では「しんてい」]の貫《つら》ぬく運と言も畢竟《ひつきやう》天より定りて人を制《せい》するの時節《じせつ》到來《たうらい》したりし者か此時彼瀬戸物屋忠兵衞は益《えき》も無事《なきこと》を引出したりと色《いろ》蒼《あを》ざめて我家へ歸來り女房のお富に向ひ突然《いきなり》と證據人に立《たて》て呉《くれ》と道十郎の後家のお光に言れ何と云|紛《まぎ》らしても漸《とん》と聞入れず漸々《やう/\》と[#「聞入れず漸々と」は底本では「聞入れ漸々ずと」]迯《にげ》歸りては[#「迯《にげ》歸りては」は底本では「迯|歸《にげ》りては」]來れ共お光が駈込《かけこみ》願ひにても及ぶ時は必ず我が名を申立べし如何して能《よか》らんやと大息《おほいき》吐《つい》て言けるにぞ女房は聞て大いに驚怖《おどろき》長庵に逢《あう》た話しは容易《ようい》成《なら》ざる事故決して口外《こうぐわい》はなさるなと豫々《かね/″\》おまへに言置しに何故|然樣《さやう》なる一大事を云れし事哉と聞《きい》て忠兵衞は女房の手前ながらも面目なく後悔《こうくわい》顏《かほ》にあらはるれば女房は益々|聲《こゑ》荒《あら》らげ畢竟《ひつきやう》お光さんは後家なる故何か思ふ仔細が有て上り込み者|成《なら》んさも無くば久《ひさ》し振《ぶり》で逢《あう》たお光さんに是迄|噺《はな》さぬ一大事を噺《はな》さう譯《わけ》がない屹度《きつと》お光さんの色香《いろか》に迷ひ私があれ程に言て置た事をも打忘れて自分《じぶん》から迷惑《めいわく》を釀《こしら》へ私に相談も無い者だ夫と云も日頃から身の嗜《たしな》みの惡《わる》い故と早《はや》やきかけし女房は可笑《をかし》くも又|道理《もつとも》なり [#8字下げ]第十七回[#「第十七回」は中見出し]  人の憂《うれ》ひをうれひ人の樂《たのし》みをたのしむと是は又一|己《こ》の豪傑《がうけつ》なり偖《さて》も家主長助は道十郎後家のお光を同道にて忠兵衞の宅《たく》に到り私しは赤坂表町家主長助と申す者なりと初對面《しよたいめん》の挨拶も濟《すみ》扨《さて》段々《だん/\》と此お光より承《うけた》まはりしに御自分《ごじぶん》事八ヶ年以前八月廿八日|未明《みめい》に平川天神御參詣の折節《をりふし》麹町三丁目|町醫師《まちいし》村井長庵にお逢《あひ》なされしとの事道十郎殿|寃《むじつ》の罪に墮《おちい》りしも長庵は其|朝《あさ》不快《ふくわい》にて臥《ふせ》り居り弟の見送《みおくり》にさへ出る事|能《あた》はざりしなどと申立し由なれ共右樣|確固《たしか》なる證據人の有《ある》上《うへ》からはお光殿年來の本意《ほんい》をも達し家主の身に取ても然樣《さやう》なることの知《しれ》し上は打捨《うちすて》ては役儀も濟《すま》ざること故夫々に手配《てくばり》なし御番所へ願ひ出るにより此時の證據人に相違《さうゐ》無く御|立下《たちくだ》されよとお光|倶々《とも/″\》退引《のつぴき》させぬ理詰《りづめ》の談《だん》じに忠兵衞は暫時《しばし》物《もの》をも言はざりしが漸々《やう/\》にして答るやう如何にも御噺《おはなし》申せし通り平川天神の裏門前《うらもんまへ》にて其日の曉《あかつき》長庵に逢《あひ》しに相違これ無ことに付其所は何處《どこ》迄も證據人に相立申べし去《さり》ながら札《ふだ》の辻《つじ》の人殺しが長庵と言ふことの證據人には相立難《あひたちがた》しと言へば長助|點頭《うなづき》夫は如何にも承知《しようち》致《いた》しぬ只平川にて其朝まだき長庵に逢《あひ》たると言ふことを發輝《はつき》と申立て給はらば夫にて宜しと家主長助は忠兵衞を聢《しか》と談じ其の趣《おも》むきの一札を取置|去《され》ばお光殿立歸りて訴訟の支度《したく》に及ばんなれども忠兵衞殿には御迷惑《ごめいわく》なる事に候はんと厚《あつ》く禮を演《のべ》長助お光の兩人は是で此方《こなた》に拔目《ぬけめ》はないと小躍《こをどり》をして立戻り長助は直《たゞ》ちに訴訟書をぞ認《したゝ》めける總《すべ》て公事は訴状面に依《よつ》て善惡《ぜんあく》邪正《じやしやう》を分つは勿論の事なれども其中にも成ると成《なら》ざるとは大いに違《ちが》ひあることなり譬《たと》へば町内に捨物《すてもの》の有りし時|拔身《ぬきみ》の白刄《しらは》なりとも鞘《さや》無《な》き脇差《わきざし》[#「脇差」は底本では「脂差」]何處其處《どこそこ》に捨《すて》これ有候と認《したゝ》めて訴へれば穩《おだや》かに聞ゆるなり依《よつ》て此訟訴書の無事に御取上に成る樣にとて長助は種々《しゆ/″\》に心を配り願書をぞ認《したゝ》めける其文に乍恐《おそれながら》書附《かきつけ》を以て奉願上《ねがひあげたてまつり》候一赤坂傳馬町長助店道十郎後家光奉申上候|去《さんぬ》る寶永七年八月廿八日|拂曉《ふつげう》芝《しば》札《ふだ》の辻《つじ》に於て麹町三丁目|町醫《まちい》村井長庵弟十兵衞|國元《くにもと》へ出立仕候|節《せつ》人手《ひとで》に罹《かゝ》り相果候|其場《そのば》に私し夫《をつと》道十郎所持|印付《しるしつき》の傘《かさ》捨《すて》有之候より道十郎へ御疑念《ごぎねん》相掛《あひかゝ》り候哉其節の御月番中山出雲守樣御奉行所へ夫道十郎儀|病中《びやうちう》御召捕《おめしとり》に相成|入牢《じゆらう》仰《おほ》せ付けられ候處御吟味中牢死仕つり死骸の儀は御|取捨《とりすて》に相成家財は私し母子《おやこ》へ下し置れ候間其後私し儀は店請人《たなうけにん》清右衞門方へ悴《せがれ》倶々《とも/″\》引取り同人の世話にて當時の所へ借宅仕《しやくたくつかま》つり幼少の悴道之助兩人にて八ヶ年來|住居《ぢうきよ》罷《まか》り在《あり》年來夫道十郎事|非業《ひごふ》の死をなし候儀|無念《むねん》止時《やむとき》なく右人殺しの本人|搜索《たづね》出し夫の惡名|相雪《あひそゝ》ぎ申度心|懸居《がけをり》候處私し|元《もと》住居麹町に於て懇意に仕つり候忠兵衞と申者|頃日《このごろ》不※[#「圖」の「回」に代えて「面から一、二画目をとったもの」、215-8]《ふと》私し方へ罷《まか》り越《こし》種々《しゆ/″\》話しの手續きより忠兵衞申|聞《きか》せ呉《くれ》候には先年[#「先年」は底本では「先月」]札の辻の人殺しは村井長庵こそ怪《あや》しけれと口走《くちばし》り候まゝ猶《なほ》其《そ》の實情《じつじやう》を承まはり候に右同日の未明《みめい》には長庵儀前日より病氣にて弟十兵衞の出立《しゆつたつ》をも見送らざる旨|御檢使場《ごけんしば》に於て申立候趣きに候得ども忠兵衞儀同日同刻麹町平川天神へ參詣《さんけい》し歸り同所裏門前に於て行逢《ゆきあひ》言葉《ことば》を替《かは》し候由尤も其節長庵が體裁《ありさま》甚だ以て如何敷《いかゞしき》趣きに有之候旨に御座候之に依て右忠兵衞證據人に相立《あひたて》此段御訴訟申上奉つり候|何卒《なにとぞ》格別《かくべつ》の御慈悲を以つて右忠兵衞儀御|呼出《よびいだ》し御糺しの上長庵|召出《めしいだ》され御吟味成し下し置《おか》れ夫道十郎の惡名|相雪《あひそゝ》ぎ候樣|偏《ひと》へに願上度之れに依《よつ》て此段《このだん》奉歎願《たんぐわんたてまつり》候以上赤坂傳馬町二丁目後家願人みつ 差添清右衞門 家主長助 享保二年三月 南御奉行樣 右の通り訴状《そじやう》認《したゝ》め長助猶も倩々《つく/″\》勘考《かんが》へけるに此事件は一旦中山樣御|白洲《しらす》にて御裁許濟《ごさいきよずみ》に成りし事なれば次第に寄《よる》と訴状を却下《さげもど》さるゝやも計り難く先年は北の御月番なりしかば此度は南の御番所へ出訴《しゆつそ》せん然すれば御役所も違《ちが》ひ殊には此頃勢州山田奉行から江戸町奉行へ御見出しに相成《あひなり》たる大岡越前守樣へ持出しなば御新役《ごしんやく》だけ御力の入られ樣も違はん又|聞所《きくところ》に寄《よれ》ば大岡樣は往昔《むかし》の青砥《あをと》左衞門にも優《まさ》れる御奉行也との評判なれば屹度《きつと》御吟味も下さらんと家主長助|諸《もろ》ともお光は南の役所へ駈込訴《かつこみそ》に及びしかば越前守殿|落手《らくしゆ》致され一通り糺問《たづね》の上追て沙汰に及ぶ旨《むね》申わたされ其日は一同|下《さが》りけり [#8字下げ]第十八回[#「第十八回」は中見出し]  好《すき》こそ物の上手《じやうず》なれと譬《たと》への通り飽迄《あくまで》も公事向《くじむき》に手|馴《なれ》し長助が思ひ通りの訴状御取上に成りしかばお光の喜《よろこ》び一方ならず然るに三四日過て御|呼出《よびだ》しに相成越前守殿願ひ人お光清右衞門長助の三人へ申渡されけるは此訴訟の趣《おもむ》きにては先年同役たる中山出雲守の係りにて裁許《さいきよ》相濟《あひすみ》たる事件《ことがら》を再び申立る樣に聞ゆるなり然ば裁許《さいきよ》を戻すと云ふ者にて輕《かる》からざる儀なり併しながら其|始末《しまつ》に依ては再び吟味爲まじき者にも非ず達て願ひ立ると有れば取上て一通り調べもいたし遣《つか》[#ルビの「つか」は底本では「しか」]はさんが何れとも其|覺悟《かくご》にて願ひ立べしと申されけるに願ひ人のお光は恐《おそ》る/\頭《かうべ》を上げ此事に付|假令《たとへ》如何樣の儀仰せ付らるゝ共|聊《いさゝ》か相違《さうゐ》の儀申上ざるにより御取調べの程|偏《ひと》へに願ひ上奉つる尤も證據人忠兵衞を召出《めしいだ》され御尋ね下されなば委細に相分り候|趣《おもむ》き申立るに越前守殿然らば其忠兵衞に相尋《あひたづ》ぬる時は長庵が始末柄《しまつがら》相分《あひわか》る趣なれども先其方より一應申立べしとの事によりお光|再度《ふたゝび》首《かうべ》を上八ヶ年以前夫道十郎儀芝札の辻に於て十兵衞と申者人手に罹《かゝ》り相果《あひはて》候處其場に道十郎の印《しる》し付に傘《からかさ》捨之有《すてこれあり》しに付御疑ひ罹りしと雖も其傘は長庵方へ忘れ置たる品に相違《さうゐ》なく候|然《しか》るに夫道十郎浪人の貧《ひん》に逼《せま》り十兵衞が四十兩餘の金子を持たる事を知る故|後《あと》を付來りて十兵衞を殺害《せつがい》なし其金を奪ひ取りしに相違なしと御|檢使《けんし》へ長庵より申立たるに依て夫道十郎|召捕《めしとら》れ御吟味中牢死仕つりし也《なり》長庵儀は其朝は前夜より不快《ふくわい》にて弟十兵衞の出立を見送りも致さゞる趣むき是又御檢使の場にて申上再應御調べの節も同じ樣に申立長庵へは御|咎《とが》めもなく相濟《あひすみ》たる所此間忠兵衞|不※[#「圖」の「回」に代えて「面から一、二画目をとったもの」、216-15]《ふと》私し方へ參り申聞せ候には寶永七年八月廿八日|未明《あけがた》に麹町平川天神の裏門《うらもん》前にて忠兵衞|參詣《さんけい》の歸りがけ村井長庵を見請たるに其節は大雨《おほあめ》降《ふ》り居候へ共長庵は傘《かさ》をもさゝず濡ながら來りしに付|何方《いづかた》へ參られ候哉と忠兵衞相尋ね候處|霞《かすみ》ヶ|關《せき》邊《へん》の病家へ參り候|趣《おもむ》き勿論《もちろん》其節《そのせつ》衣類《いるゐ》に血汐《ちしほ》の夥多敷《おびたゞしく》付《つき》有《あり》候に付き是又忠兵衞より如何致され候やと相尋ね候處大いに驚怖《おどろき》候樣子にて申けるにはアヽ殺生《せつしやう》は致さぬもの今犬めが餘り吼付《ほえつき》し故|遂《つひ》拔討《ぬきうち》に斬殺《きりころ》しけるが其血汐の付たる者ならんと云ひて周章《あわたゞ》しく其|儘《まゝ》に別れ候ひし由尤も病氣にて弟の見送《みおく》りもいたさぬ長庵が然樣《さやう》の始末《しまつ》甚だ以て怪《あや》しく存じ候まゝ何卒《なにとぞ》忠兵衞へ御尋ねの上長庵を御調べの程|偏《ひと》へに御願ひ申上ますと申立ければ越前守殿|否《いな》とよ願ひ人光其は容易《ようゐ》成《なら》ざる事件《ことがら》なれば胡亂《うろん》なる儀は取上には成らぬぞ篤《とく》と了簡《れうけん》して申立よ差添《さしそへ》店請《たなうけ》人清右衞門其方儀は八ヶ年以前右の事柄《ことがら》心得居るや又如何なる縁《えん》にて母子共《ぼしとも》世話致し居りしやと尋問《たづね》有《あり》しかば[#「有《あり》しかば」は底本では「有《あり》しかば餘《よ》」]清右衞門|愼《つゝし》んで恐《おそ》れ乍《なが》ら道十郎は私し店受人致し候以前より別段《べつだん》の入懇《じゆこん》に付|店受《たなうけ》人に相成候所右|不慮《ふりよ》の儀《ぎ》出來《しゆつたい》仕つり餘儀《よぎ》[#「餘儀《よぎ》」は底本では「儀《ぎ》」]無《な》く其儘受人の好《よし》みにて引取世話|仕《つかまつ》り罷《まか》り在候八箇年以前|御檢使《ごけんし》[#ルビの「ごけんし」は底本では「ごけんひ」]の場は存じ申さず候へ共其後右道十郎お召捕《めしとり》に相成御|調《しら》べの度毎に私し儀も召出され委細心得罷り在候御調べ筋は右十兵衞事|横死《わうし》致し候場所に道十郎所持の印《しる》し付の傘有之候に付申|譯《わけ》相立難く兩度《りやうど》程《ほど》長庵と突合《つきあは》せ御調べに相成候へ共道十郎は其前より久々|不快《ふくわい》故申開きも心に任《まか》せず遂《つひ》に牢死に及び候に付|彌々《いよ/\》長庵が辯舌《べんぜつ》にて道十郎の罪科《ざいくわ》に相定まり死骸は御|取捨《とりすて》家財《かざい》は妻子へ下し置れ候|旨《むね》其節《そのせつ》仰《おほ》せ渡され候と申立ければ越前守殿御聞有て成程其調べの儀は此越前守が取調べても其通《そのとほ》りなり然るに忠兵衞と申者八箇年|打過《うちす》ぎ只今《たゞいま》と成て右樣の儀申出ると言ふは何ぞ忠兵衞が右長庵に遺恨《ゐこん》にても是ある事には非《あら》ざるか何とも怪《あや》しき證據人なり八箇年以前同役が調《しら》べの節《せつ》上《かみ》に然樣《さやう》の不吟味は是なき筈《はず》なり然《さり》ながら證據人と有る上は右忠兵衞を召出したる上にて追々《おひ/\》吟味《ぎんみ》に及ぶなりと概《あら》まし御|尋問《たづね》有りし儘《まゝ》家主長助へも其旨申渡され今日は先《まづ》引取《ひきとる》べしと有りける故に皆々《みな/\》我が家へ歸りけり翌日直に麹町三丁目瀬戸物屋忠兵衞を御|呼出《よびいだ》しに相成|白洲《しらす》に於て越前守殿其人物を御覽あるに人の惡《あく》を揚《あげ》意趣遺恨《いしゆゐこん》などを含《ふく》み又有りもせぬ事柄《ことがら》を申懸る樣成者に非ざる事を早くも見て取られ如何に忠兵衞其方八箇年以前寶永七年八月廿八日の明曉《あかつき》長庵を麹町平川天神裏門前にて見受たる由|其砌《そのみぎ》りの始末《しまつ》包《つゝ》まず逐《ちく》一申立べしと云はれければ忠兵衞はハツと答《こた》へしまゝ齒《は》の根《ね》も合《あは》ぬばかりにて漸々《やう/\》に申立けるは願ひ人光より申上たる通り相違《さうゐ》御座なくとばかりなれば越前守殿|汝《おの》れ忠兵衞|右樣《みぎやう》の儀を承知して居ながら其節《そのせつ》確《しか》と申上べきの處|只今《たゞいま》迄《まで》打捨《うちすて》置《おき》し段|不埓《ふらち》の至りなり追々《おひ/\》呼出し長庵と對決《たいけつ》申付るなりと一|先《まづ》歸宅《きたく》[#ルビの「きたく」は底本では「きれたく」]させられたり偖て越前守殿此一件は容易《ようい》ならずと内々にて探索《たんさく》有りし所|隱《かく》るゝより顯《あら》はるゝはなしとの古語《こご》の如く彼の札の辻の人殺しは全《まつた》く長庵の仕業《しわざ》に相違なきこと世上の取沙汰《とりさた》もあるにより大岡殿は新役《しんやく》の手際《てぎは》を顯《あら》はさんと思はれ一度の吟味もなく直《すぐ》に麹町名主矢部與兵衞へ内通《ないつう》有つて村井長庵が在宿《ざいしゆく》を篤《とく》と見屆させ置召捕方の與力同心を遣《つかは》されしかば捕方《とりかた》の者共長庵が宅の表裏《おもてうら》より一度に込入たる然るに長庵は諺《ことわ》ざに曰《いふ》臭《くさ》い者の見知《みしら》ずとやら斯かる事とは夢《ゆめ》にも知らず是は何事ぞと驚く機會《とたん》に上意々々と呼《よば》はるを長庵は身を退《しさ》り人違ひにも候べし此長庵に於て御|召捕《めしとり》に相成《あひなる》覺《おぼ》え更になしと大膽《だいたん》にも言拔《いひぬけ》んとするを捕方《とりかた》の人々聲をかけ覺えの有無《うむ》は云ふに及ばず尋常《じんじやう》に繩《なは》に掛れと大勢|折重《をりかさ》なりて取押へ遂に繩をぞ掛たりける頓《やが》て引立られし長庵が心の内には驚怖《おどろけ》ども奸惡《かんあく》長《たけ》し曲者《くせもの》なれば何の調べか知ねども我がした惡事は皆《みな》無證據《むしようこ》何樣《なにやう》に吟味筋が有るにもせよ此長庵が舌頭《ぜつとう》にて左りを糺《たゞ》せば右へ拔《ぬけ》右を問はゞ左りへ綾《あや》なし越前とやら名《めい》奉行でも何の恐《おそ》るゝ事やあらんと高手《たかて》小手《こて》は縛《いまし》めの繩の縷《より》さへ戻す氣で引れ行くこそ不敵《ふてき》なれ。 [#8字下げ]第十九回[#「第十九回」は中見出し]  偖《さて》又大岡越前守殿|役宅《やくたく》の白洲には召捕《めしとり》來りし村井長庵高手小手に縛《いまし》められ砂利《じやり》に居づくまる時に越前守殿|出座《しゆつざ》ありて村井長庵と呼《よばは》るゝ時長庵ハツと答へければ越前守殿|尋問《たづね》らるゝ樣其方儀|去《さんぬ》る寶永七年八月廿八日の未明《みめい》に芝札の辻にて其方弟十兵衞|横死《わうし》の節《せつ》北《きた》の役所へ差出したる口書の儀何と認《したゝ》めたるや覺え有《あら》ば申立べしとの事により長庵は驚きしが少しも其色を見せず空涙《そらなみだ》を流して只今御尋ねに付思ひ出し候ても歎《なげ》かは敷《しき》は私し事其前夜より病氣にて立起も自由|成《なら》ずして當朝《たうてう》弟十兵衞|出立《しゆつたつ》の見送りも致さず獨《ひと》り立せしゆゑ闇々《やみ/\》と人手に掛り相果候事殘念今に忘れ申さず候と泣々《なくな》く申立ければ越前守殿是を聞《きか》れ其節其方が病氣と有《あら》ば見送りの出來ぬは道理《もつとも》なり併《しか》しながら大金を所持《しよぢ》せし者を夜更《よふけ》に出立《しゆつたつ》致させたるは不審《いぶかし》き事なり何故夜明て後出立致させぬそと有りけるに長庵|然《され》ばにて候私儀|呉々《くれ/″\》弟に夜が明て後|出立《しゆつたつ》致《いた》し候樣に申聞せ候へ共|在所《ざいしよ》に殘し置たる妻や娘に一|刻《こく》も早く安堵《あんど》させ度|旅《たび》は朝こそ敢果取《はかど》れば最早《もはや》寅刻《なゝつ》も過《すぎ》たるゆゑ少し歩行《あゆま》ば夜も明《あけ》なんと止むるを聞で出懸《でかけ》しまゝ私しも病氣ながら起上《おきあが》り止る桐油《とうゆ》の袖《そで》振切《ふりきり》首途《かどで》を爲《なし》つゝ賊難に罹《かゝ》りたるは如何なる前世の宿業《しゆくごふ》にやと諦《あきら》め候より外に致し方|無之《これなき》と申立ければ越前守殿|假令《たとへ》弟十兵衞が何と申共一日や二日で歸村《きそん》の成る可《べき》所にも非らざれば強《しひ》ても止むべきが兄たる者の情《じやう》ならずや其方が仕成《しなし》方甚だ以つて其意を得ずと申されければ長庵は病中《びやうちう》故《ゆゑ》心《こゝろ》に任せず今更《いまさら》後悔《こうくわい》仕つり候併し先年中山出雲守樣の御|裁許濟《さいきよずみ》に相成候事と申す時越前守殿|礑《はつ》たと白眼《にらま》れ如何に長庵其方病中にて見送りさへ致し得ぬと申しながら何として其廿八日の未明《みめい》に平川天神の裏門通りを傘《かさ》をもさゝず歩行《ほかう》致したるやと大聲《たいせい》に尋問《たづね》られしかば流石《さすが》の長庵内心に驚怖《おどろく》と雖も然有《さあら》ぬ體《てい》にて這は思ひも寄らぬ御尋問を蒙る者|哉《かな》然樣《さやう》の儀は更に覺《おぼ》え無《なく》御座候と何の氣色も無く申し立ければ大岡殿|覺《おぼ》え無しと云はさぬぞと言はるゝをも待ず長庵其人殺しは浪人道十郎と定《さだ》まり御|吟味濟《ぎんみずみ》に相成たる儀を何故今更に疑ひを以て私しへ仰せ聞《きけ》らるゝやと申立るを越前守殿|聞《きか》れ默《だま》れ長庵其|砌《みぎ》りは確然《しか》とした證據人の無《なか》りし故なり此度は其|節《せつ》の證據人と對決申し付る間其時|有無《うむ》を答《こた》ゆべしと申さるれども長庵は空嘯《そらうそぶ》き一旦御吟味濟に相成たる事件《ことがら》を再應《さいおう》の御調べ直《なほ》しは何とやらん御奉行所の御裁許は兩《ふた》つ有《ある》樣《やう》に存じ奉つると公儀《こうぎ》の裁判所をも恐れず傍若無人《ばうじやくぶじん》の言立《いひたて》なれば越州殿《ゑつしうどの》にも不敵の奸賊《かんぞく》なりと目を着《つけ》られしかども一旦中山殿奉行所にて裁許《さいきよ》の有りし事件《ことがら》なれば何と無く斟酌《しんしやく》有て暫時《しばらく》考《かんが》へ居られしが又猶申さるゝは其折道十郎なる者吟味|詰《づめ》に相成りし譯《わけ》には之なく牢死《らうし》爲《な》したる故其儘に成り居《をり》しなり存生《ぞんしやう》ならば外に吟味の致し方も有りしならん然《しか》るに只今の一言奉行所の不行屆《ふゆきとゞき》の樣に上の御|政度《せいど》を批判《ひはん》に及びし條|彌々《いよ/\》以て不屆き至極|也《なり》右樣の儀を口走《くちばし》り後悔《こうくわい》するなと云はるゝに長庵は猶も減《へ》らず面《がほ》に御吟味の行屆《ゆきとゞか》ざると申たる譯には御座無く全く御|裁許《さいきよ》相濟《あひすみ》たればこそ道十郎が死骸は取捨仰せ付けられ又た家財《かざい》は妻子へ下《くだ》し置《おか》れしと申立る時越前守殿一|層《そう》聲《こゑ》を張揚《はりあげ》默《だま》れ長庵|夫等《それら》の儀を汝《おのれ》に問に非ず道十郎は此儀ばかりに關《かゝ》はらず別《べつ》に仔細有て死骸は取捨申付られたるなり餘事《よじ》の答へには及ばず其方其夜は病中にて他行《たぎやう》致したる覺え無《なし》と言へ共《ども》其證據有りや如何にと尋問《たづね》らるゝ長庵|冷笑《せゝらわら》ひ別に證據と申ては御座無候へ共町役人一同其|曉《あかつ》き私し打臥居《うちふしを》り候所へ參り候間皆|能々《よく/\》存じ居候と云へば越前守殿夫は證據に成難《なしがた》し仍《よつ》て此度|再應《さいおう》調《しら》べに及ぶなり奉行所には證據人有るぞよ夫にては其方に明白《めいはく》の申開き有《あり》やと申さるれば長庵私し病氣故弟十兵衞が夜中の出立を見送る事も出來ぬ身を以て如何《いかん》ぞ他行《たぎやう》などの出來申べきや其|邊《へん》篤《とく》と御|賢察下《けんさつくだ》され度と誠《まこと》しやかに陳《ちん》ずる形容《ありさま》越前守殿見られて態《わざ》と面《おもて》を和《やは》らげられ其方は強情《がうじやう》者なり追て證據人を呼び出し對決申付る其節|閉口《へいこう》致すな依て吟味中|入牢《じゆらう》申付ると後《あと》の一聲高く申渡さるゝに兩人《ふたり》の同心|立懸《たちかゝ》り長庵を引立て傳馬町へと送られしは心地《こゝち》能《よく》こそ見えたりけり嗚呼《あゝ》天《てん》なる哉《かな》命《めい》なる哉《かな》村井長庵弟十兵衞を殺害《せつがい》せし寶永七年[#「寶永七年」は底本では「寶永六年」]八月廿八日の事成るに八ヶ年の星霜《せいさう》を經《へ》し今日|露顯《ろけん》に及ばんとする事|衆怨《しうゑん》の歸する所にして就中《なかんづく》道十郎が無念《むねん》の魂魄《こんぱく》とお光が貞心《ていしん》を神佛の助け給ふ所ならん恐るべし愼《つゝし》むべし。 [#8字下げ]第二十回[#「第二十回」は中見出し]  偖《さて》翌《よく》日大岡殿には願ひ人長助光并びに證據《しようこ》人麹町三丁目瀬戸物屋忠兵衞|相手方《あひてかた》村井長庵とを呼出しになり越前守殿|出座《しゆつざ》有《あり》て一同|呼上《よびあげ》る時大岡殿忠兵衞へ向はれ其方事今日は長庵と對決《たいけつ》申|付《つけ》る間天神の裏門前にて同人に逢《あふ》たる趣き發輝《はつき》と申立よと申渡され次に長庵其方の弟十兵衞出立の朝《あさ》は病中にて有りしと申が平川天神裏門通りを其朝まだきに傘をも持ず歩行せし時其方に行逢《ゆきあ》ひし者あるよし然る上は其節病中との申立は僞《いつは》りならんと有りければ長庵|不審《ふしん》さうなる面色《おももち》して決して他行は勿論《もちろん》門《かど》へも出申さず候と誠《まこと》しやかに申立てけるにぞ然る上は證據人をと申さるゝ時麹町三丁目瀬戸物屋忠兵衞|直《たゞ》ちに白洲へ呼込《よびこみ》と相成長庵の側《かたは》らに蹲踞《うづくま》る是を見て流石《さすが》の長庵|少《すこ》しく顏色《がんしよく》變《かは》りしかば越前守殿|最《いと》徐《しづ》かにいざ長庵夫に居《を》る忠兵衞こそ彼の日の曉《あかつ》きに其方に逢《あひ》し趣きなりと云はれしに長庵は忠兵衞を尻目《しりめ》に掛《かけ》恐れ乍《なが》ら申上候何者が斯《かゝ》る事を言上《ごんじやう》に及び御疑ひを蒙《かうむ》り情け無くも仁術《じんじゆつ》を旨《むね》と仕つり平生《へいぜい》慈善《じぜん》を心懸候某を御召捕に相成し哉と存じ居候所扨は此忠兵衞が仕業《しわざ》成《なる》か夫にて漸々相分り申候此忠兵衞事私しへ對し遺恨《ゐこん》の儀御座候に付|斯《かく》は計《はか》らひ私しを亡者《なきもの》にせんとの巧《たく》みに相違御座なく候と申立るに大岡殿|而《して》其方忠兵衞より請たる遺恨《ゐこん》と云ふは如何の譯《わけ》成《なる》ぞと云はれければ長庵此儀は些《ちと》私しの口よりは申上難く候とて恥入《はぢいり》たる容體《ようす》に見えける故越前守殿兎も角も其方忠兵衞に遺恨を請し次第を審《つまび》らかに申立よと有りしかば長庵然らば言上《ごんじやう》仕つり候|實《じつ》は私し事忠兵衞の妻《つま》富《とみ》と久しく密通《みつつう》致し居候處|煩腦《ぼんなう》の犬《いぬ》追《おへ》ども去らず終《つひ》に先月の半頃《なかごろ》忠兵衞に見顯《みあら》はされ面目も無き次第故私しも覺悟を致し斯成《かくなる》上《うへ》は重置《かさねお》かれ眞《ま》二ツにせらるゝとも致し方無く思ひ切《きつ》て云ひけれど忠兵衞儀は妻に未練《みれん》の有る處より私しばかり殺す譯《わけ》にも相成《あひなら》ず其場をも見遁し呉《くれ》候間此大恩は忘れまじと其以後は急度《きつと》愼《つゝ》しみ罷《まか》り在《あり》候然るに私しを生置《いけおい》ては妻の事心元無く思ひてや謂《いはゆ》る犬の糞《くそ》にて敵きと申如く有《あり》もせぬ事を申上長庵を罪科《ざいくわ》に陷《おと》し入《いれ》己《おのれ》が女房をば其儘に致し置べき忠兵衞が巧《たく》みと心得候|見顯《みあら》はされし其|砌《みぎ》り助け呉《くれ》しは却つて仇《あだ》にて情け無《なき》了簡《れうけん》に候と涙を流して申立しかば越前守殿|倩々《つく/″\》聞《きか》れ扨々《さて/\》珍《めず》らしき事を聞者哉《きくものかな》其趣《そのおもむ》きならば汝は立派な好男子也《いゝをとこなり》併しながら忠兵衞妻は餘程《よほど》好者《ものずき》なりと戯《たは》ふれられしかば長庵|眞顏《まがほ》にて否《いや》さ世には相縁《あひえん》奇縁《きえん》と申事も御座候と申けるは如何にも不敵々々《ふて/\》しき曲者なり越前守殿如何に忠兵衞長庵の申立|而已《のみ》にては胡亂《うろん》なり先月|中旬《ちうじゆん》の頃《ころ》其方が妻《つま》富儀《とみぎ》長庵と密通《みつつう》の場を其方露顯はせし事のありやと尋問《たづね》られしに忠兵衞は然樣《さやう》の儀は一切御座なく候恐れながら私し家内《かない》に限り右樣密通など仕つる者にては御座無く候と申立ける時大岡殿|然《さら》ば其方が妻富を明日|召連《めしつれ》べく旨忠兵衞并に差添《さしぞへ》の町役人へ申渡され白洲《しらす》は引けければ忠兵衞は心も空に立戻り云々《しか/″\》なりと長庵が言掛《いひかけ》し事を咄《はな》すにぞ女房お富は惘《あき》れ果《はて》暫時《しばし》言葉《ことば》もなかりしが夫と云ふも皆お前が埓《らち》も無き事を云ひ出してこんな騷《さわ》ぎに成りしなり初めから私し呉々《くれ/″\》口止《くちどめ》をして置《おい》たるを後家のお光に迷《まよ》ひし故口走りたる事《こと》成《なら》んと立たり居たり狂氣《きやうき》の如く悋氣《りんき》交《まじ》りに騷《さわ》ぐにぞ忠兵衞は更に生《いき》たる心地もなく何《ど》う成事《なること》やと夜の目も合《あは》さず早《はや》翌日にも成りければ止事《やむこと》を得ず夫婦|連立《つれだち》町役人に誘引《いざなは》れ奉行所さして出行《いでゆき》けり頓《やが》て白洲へ呼込《よびこま》れけるに長庵は那《あ》の忠兵衞めが入《いら》ざる事を喋《しやべ》りて斯《かゝ》る時宜《じぎ》に及ばせたれば今日こそは目に物見せんと覺悟を極《きは》めて引居《ひきす》ゑられたる其|折柄《をりから》越前守殿一通り忠兵衞が妻のお富へ尋ねの有りし上《うへ》相方《さうはう》の申立|方《かた》相違《さうゐ》に依て對決申渡す長庵も毛頭《もうとう》他出《たしゆつ》は致さぬとの趣《おもむ》きなり忠兵衞に於ては胡亂なる儀申立ては相濟《あひすま》んぞ心を鎭《しづ》めて對決に及ぶべしと申渡されける依て三人は顏《かほ》を見合せ居たりしが忠兵衞|頓《やが》て長庵に向ひ長庵殿如何に貴殿《きでん》に恨《うら》み有などと云ふ事は思ひも寄《よら》ず然《され》ども八ヶ年以前八月廿八日の[#「八月廿八日の」は底本では「八年廿八日の」]曉《あかつ》き方《かた》平川天神へ私し朝參《あさまゐ》りの戻《もど》り掛《がけ》同所裏門前にて貴殿に逢《あひ》し時|衣類《いるゐ》の血を見て貴殿に尋ねしかば犬を切《きり》しと云れたる事のお覺え有らんと云ふ顏を長庵はつたとねめ付《つけ》汝《おの》れ忠兵衞|貴樣《きさま》も餘程《よほど》愚痴《ぐち》なる奴かな如何に女房に未練《みれん》が有ればとて餘りに憎《にく》き仕方《しかた》なり此長庵が生《いき》て居て心配なるとか又近所で安心《あんしん》成《なら》ぬと思ふなら何所《どこ》へ成《なり》共《とも》引越《ひきこし》なば仔細《しさい》は有るまじ勿論《もちろん》燒《やけ》ぼつくいには火の付《つき》安《やす》き譬《たと》へも有れば不安心に思ふも道理《もつとも》なり然し一|旦《たん》勘辨《かんべん》した事を又別段に手を替《かへ》て此長庵を暗《くら》き所へ迄《まで》入《いれ》たるは餘りの口惜《くちをし》き次第なり最初《さいしよ》斯の如きの了簡《れうけん》ならなぜ男らしくせざるぞや貴樣に日外《いつぞや》申せし通り重《かさ》ねて置て二ツに成《なり》と四ツに成と勝手《かつて》にすべき者をと云ひければ忠兵衞は頭《かしら》をあげ長庵殿には取逆上《とりのぼせ》しか貴殿の云ふ事少しも分からず申せば長庵聞て譯らぬとは麁言《そごん》なり貴樣こそ取逆上《とりのぼ》せしと見《みえ》たり密夫《まをとこ》仕《し》たりと我口より云て居る此長庵を殺さば殺せ覺悟なりと己れが舊惡《きうあく》の顯《あら》はれ口を横道《よこみち》へ引摺込《ひきずりこん》で防《ふせ》がんと猶も奸智《かんち》を運《めぐ》らしけるに忠兵衞の妻お富は長庵が云《いふ》事を始終《しじう》默《もく》して聞居たりしが眞赤《まつか》に成たる顏を上《あ》げ若し長庵殿|言事《いふこと》にも程が有る近所《きんじよ》には居らるれどもお前とは染々《しみ/″\》物《もの》言換《いひかは》した事も無いに私しと密通《みつつう》を仕て居るなどと根も葉も無事《なきこと》を何程《いくら》言《いふ》ても此方《こつち》が知らぬ事なれば構《かま》いは無けれど御|上《かみ》の御前《ごぜん》夫《をつと》の手前私しは面目《めんぼく》ないぞへと云へば長庵|大聲《おほごゑ》揚《あげ》此女め今と成て御上の前夫の手前の憚《はゞか》るも能《よく》出來《でき》た連《つれ》て迯《にげ》て呉《くれ》ろの一|緒《しよ》に殺して呉ろのと言た事を忘れたかと誠《まこと》しやかに罵《のゝ》しればお富は惘《あき》れて涙も出ず暫時《しばし》默《もく》して居る容子《ようす》に大岡殿は長庵が言掛《いひかけ》なりと思はるれど態《わざ》と詞《ことば》を弛《ゆる》められ双方《さうはう》無證據の爭《あらそ》ひなれば猶吟味を遂《とげ》んと申されるを聞《きゝ》忠兵衞は堪《たま》り兼《かね》長庵事私し妻と密通《みつつう》を年來致し居候由|何《いつ》の頃よりの事なるや又其|都度々々《つど/\》の事|合宿《あひやど》は何處《いづこ》成《なる》や長庵へ御|尋問《たづね》の程願ひ上《あげ》ますと申立ければ越前守殿|微笑《ほゝゑみ》ながら如何にも道理《もつとも》なる尋《たづね》なり如何《いか》に長庵|何頃《いつごろ》より通《つう》じ合《あひ》幾日《いくにちのひ》何方《いづかた》にて出合しや有體《ありてい》に申立よと有《ある》にぞ長庵|然《され》ばにて候一兩年以前より度々《たび/\》密通に及び候間日月の儀は失念《しつねん》致し候場所はいつも私宅にて出會候處忠兵衞に先月の中旬頃見付られ候と申ければお富は大いに怒《いか》りまだそんな有《あり》もせぬ事を云ふ人哉第一先月の頃《ころ》は子宮病《まへのやまひ》にて醫者に懸《かゝ》り勿々《なか/\》そんな事はとお富の答へを大岡殿打聞れ斯ては長庵其方の僞《いつは》りに相違なし子宮病《まへのやまひ》と有ばよも奸通《かんつう》は致されまじ然る上は其方先月|密會《みつくわい》の折《をり》忠兵衞に見顯はされしと言ひしは跡形《あとかた》も無事《なきこと》ならんと言はれるを長庵ぬからず成程先月頃は病氣にて密通《みつつう》致さねども唯《たゞ》寢《ね》て居し處を見顯《みあら》はされしと云ひ直《なほ》さんとするを越前守殿大音|揚《あげ》汝《おの》れ長庵初めは密通に及びし處を見付られたりと云ひ只今富が申立に泥《なづ》みてたゞ寢て居た處などと云ひ紛《まぎ》らせし段|重々《ぢう/\》不屆至極なり假令此上如何樣に陳《ちん》ずる共決して申譯は相立ずと天眼通《てんがんつう》の一言に流石の長庵|否《いや》夫《それ》はと云たばかりで答へもなく差俯向《さしうつむい》て居たりしかば大岡殿長庵を見られ依て一事が萬事なり十兵衞を殺害《せつがい》せしも其方が業《わざ》に相違《さうゐ》有《ある》まじ然るを道十郎に寃《むじつ》の罪を負せ公儀を僞《いつ》はる段重々|不埓《ふらち》の奴なり斯成《かくなる》上は有體に申立よと諭《さと》さるれども一言の答へもせざれば其日はみつ[#「みつ」に傍点]并に忠兵衞|夫婦《ふうふ》を下られ其後段々長庵を吟味の上願ひ人光并に店請人《たなうけにん》清右衞門をも呼出され傘《からかさ》の一條其外種々取調べと相成り長庵の惡事|顯然《げんぜん》なりと雖も當人は曾て知らざる旨申|張《はり》何分《なにぶん》白状《はくじやう》に及ばざれば是非無く拷問《がうもん》にかけ石を七枚迄|抱《だか》せると雖も一言も云はざる故|暫《しばら》く拷問を止めし中《うち》追々長庵が惡事數ヶ條|綻《ほころ》びけるは天の容《ゆる》さざる[#「容さざる」は底本では「容さざさる」]所と云ふべきのみ [#8字下げ]第二十一回[#「第二十一回」は中見出し]  爰《こゝ》に彼長庵が惡事の手先《てさき》を働《はた》らき十兵衞の女房お安を吉原の中反圃《なかたんぼ》にて殺害に及びし小手塚《こてづか》の三次|舊名《もとのな》は早乘《はやのり》小僧の三次其頃火附盜賊改め石原清右衞門殿へ召捕に成りしに舊惡《きうあく》追々|露顯《ろけん》しとても助からずと覺悟を極め彼長庵に頼《たの》まれて先年淺草中反圃にて十兵衞の女房お安を殺害《せつがい》なしたる一條逐一白状に及びしかば町奉行所へ引渡に相成其年の舊記《きうき》を御調べ有りけるに「正徳三年十二月十八日 百姓|體《てい》の女の死骸《しがい》年三十七八歳位|衣類《いるゐ》木綿《もめん》手織縞布子《ておりじまぬのこ》木綿じゆばん半纒《はんてん》を着し身の疵所《きずしよ》脊《せ》より腹へかけ切疵《きりきず》一ヶ所脊より突貫《つきとほ》したる疵一ヶ所|咽《のど》へ突込《つきこみ》し疵一ヶ所兩手の指《ゆび》不殘《のこらず》切落《きりおと》しあり右之通り心當の者是有候はゞ月番松野壹岐守役所へ申出べく候事十二月」右は其節《そのせつ》見知りの人も之れなく御取|片付《かたづけ》と相なりしに三次の申立により十兵衞の妻お安なる事相分り彌々長庵の重罪|相顯《あひあらは》れしかば越前守猶長庵を取調べられ三次が白状の趣《おもむ》きを申聞らるゝに長庵心中に是はと仰天《ぎやうてん》なせしかども急度《きつと》腹《はら》を居《す》ゑ是《これ》とても更に知らずとの申立によりて又もや三次を呼出《よびいだ》し突合《つきあは》せの上吟味有りけるに長庵三次に向ひ拙者《せつしや》は村井長庵と申町醫なり貴樣には何と云《いふ》人《ひと》成《なる》や見し事も無き御方なりと素知《そしら》ぬ顏して云ひけるを三次聞て大いに笑ひ何と云はるゝや長庵|老《らう》牢屋《らうや》の苦《くる》しみにて眼も暗《くら》みしや確乎《しつかり》し給へ小手塚の三次なりと云ひければ何ぞ牢内《らうない》の苦しみが強《つよ》ければとて知己《ちき》の人を忘《わす》れんや更に貴樣は知らぬ人なりと再度《ふたゝび》云へば三次は呆《あき》れ果《はて》嗚呼《あゝ》讀《よめ》たり長庵|老《らう》お安の一件を己《おれ》が白状せし故其惡事を隱《かく》さんが爲にとぼけらるゝか其所らは貴殿より此方が苦勞人《くらうにん》最早何も斯も御上へ知れて居る己が白状しねへとてお互《たが》ひに[#「お互ひに」は底本では「お互に」]助からぬ命|也《なり》意地《いぢ》不潔《きたな》く愚※[#「圖」の「回」に代えて「面から一、二画目をとったもの」、224-15]々々《ぐづ/\》せずと奇麗《きれい》に白状して惡徒《あくたう》は又惡徒だけ男らしく云て仕舞と云へば長庵は彌々|空嘯《そらうそぶ》き三次とやらん何を云《いふ》己《おれ》には少しも譯《わか》らぬ繰言《くりごと》然乍《さりなが》ら弟十兵衞の女房お安も拙者の方へ來て居たが思出せば七年あと不※[#「圖」の「回」に代えて「面から一、二画目をとったもの」、224-16]《ふと》家出《いへで》して歸らぬ故《ゆゑ》如何なしたる事ならんと思ひ出た日を命日《めいにち》に佛事を營《いとな》み居たりしが偖《さて》は貴樣が殺したるかと然も驚きたる樣子をなせば三次は最早やつきとなりとぼけなさんな長庵老屋敷へ出すとお安を欺《あざ》むき妹娘を苦界《くがい》に沈《しづ》め浮《うか》む瀬《せ》も無《なき》罪科《つみとが》を虫が知たかお安めが二人の娘に逢《あは》して呉《く》れと晝夜を分《わか》たず口説立《くどきたて》逢《あは》して遣ればお富をも賣《うつ》た惡事が露顯《ろけん》なし内から火事を出す都合《つがふ》可愛想《かはいさう》だがお安をば何處《どこ》かへ連出《つれだ》し人知ず殺して呉《くれ》ろと頼んだことをよもや今更《いまさら》忘《わす》れもしめへと云ふと長庵|落付《おちつき》はらひ夫は其方《そなた》が殺した話し此長庵は知らぬ事御奉行樣宜敷御|推察《すゐさつ》願ひますと申立れば越前守殿|兼《かね》て目を着《つけ》られし如く是又長庵が惡事なりと思はるれ共本人の口より白状《はくじやう》させんと猶も詞《ことば》を和《やは》らげ三次が斯迄《かくまで》申ても覺《おぼ》え無《なき》やと言はるれば長庵|然《され》ばにて候此上|骨身《ほねみ》をひしがるゝとも覺《おぼ》え無事《なきこと》は申上難く候と言ひ募《つの》るにぞ然ば猶後日の調べと再度《さいど》一|同《どう》下《さげ》られ長庵三次の兩人は又も獄屋《ごくや》へ引れける [#8字下げ]第二十二回[#「第二十二回」は中見出し]  爰《こゝ》に又伊勢屋五兵衞の養子《やうし》千太郎は舊《もと》の番頭久八が情《なさけ》にて己《おのれ》の引負《ひきおひ》の金迄も久八が自分に引請《ひきうけ》終《つひ》に是が爲に久八は年來《ねんらい》勤《つと》め白鼠《しろねずみ》と云れし功も水の泡《あわ》となし永の暇《いとま》と成し事其身を捨《すて》て養子《やうし》千太郎の離縁《りえん》を繋《つな》ぎ留《とめ》しは最初《さいしよ》其身が主人五兵衞を説勸《ときすゝ》めて養子となせし千太郎なれば殊更忠義を盡《つく》せしゆゑ千太郎の代とも成るならば舊の支配人に召使《めしつか》はんと堅《かた》く約束なし千太郎より書面《しよめん》迄も久八へ渡し置千太郎も久八が忠義の異見《いけん》骨身《ほねみ》に染渡《しみわた》り一旦迷ひし小夜衣も長庵の姪《めひ》なれば五十兩の騙《かた》りも[#「騙りも」は底本では「驅りも」]同腹《どうふく》にて爲《なし》たる事ならんと思ふ故|愛想《あいそ》もこそもつき果しかば其後は絶《たえ》て廓《くるわ》へ足向もせず辛抱《しんばう》して居たりし程に見聞|人毎《ひとごと》に久八の忠義により伊勢五の養子も人に成たりと譽《ほめ》ければ久八も蔭《かげ》ながら悦《よろこ》びつゝ己《おの》れが今の姿《すがた》も打忘れてぞ居たりける然るに丁字屋の小夜衣は伯父《をぢ》長庵が惡計《あくけい》に罹りて戀しき人の憂目《うきめ》に逢し事よりして愛想《あいさう》を盡されしとは露《つゆ》程も知らざれば外《ほか》に増花《ますはな》の出來もやせしか若《もし》御煩《おわづら》ひでも成れはせぬかと山口巴の[#「山口巴の」は底本では「出口巴の」]若い者や女中《ぢよちう》に樣子を尋《たづ》ねてもお店《たな》へ直《すぐ》には參れねどお文は都度々々《つと/″\》中宿迄《なかやどまで》御屆《おとゞ》け申て置ましたが其處《そこ》へも絶《たえ》て御出の無《ない》よし尤《もつと》も其後お變りなく御|辛抱《しんぼう》との事ゆゑにいづれお出で有ませうと取り留もなき挨拶に詮方《せんかた》盡《つき》て小夜衣は只《たゞ》明暮《あけくれ》に神頼《かみたの》み神鬮《みくじ》辻占《つじうら》疊算《たゝみざん》夫さへ驗《しるし》の有ざれば二|階《かい》廻しの吉六を一寸《ちよつと》と云て小蔭《こかげ》へ招《まね》き今日は何樣《どう》[#ルビの「どう」は底本では「どい」]とも都合《つがふ》[#ルビの「つがふ」は底本では「つのふ」]なし是非若旦那へ此文を手渡しにして今夜にも必ず御出の有やうに其言傳《そのことづて》は斯々《かう/\》と幾干《いくら》か小遣《こづか》ひ握《にぎ》らせれば事に馴《なれ》たる吉六ゆゑ委細承知と請込《うけこみ》つゝ三河町へと急《いそ》ぎ行《ゆき》湯屋《ゆや》の二階で容子《ようす》を索搜《たづね》密々《こつそり》呼出《よびだ》し千太郎に小夜衣よりの言傳《ことづて》を委《くは》しく語りおいらんは明ても暮《くれ》ても若旦那の事のみ云れて此頃は泣《ない》てばつかり居らるゝを何程《なんぼ》御店がお大事でも絶《たえ》てお足《あし》の向《むか》ぬとは餘まり氣強《きづよ》き罪造り何樣《どう》かお都合なされし上|一寸《ちよつと》なりともお顏をみせてと云を打|消《けし》千太郎は是さ吉六殿お前迄が馬鹿《ばか》にして此千太郎を欺《だま》す氣か那《あ》の小夜衣の狐阿魔《きつねあま》面《つら》に似合《にあは》ぬ薄情者《はくじやうもの》お前は知らぬか知らねども彼奴《あいつ》は伯父《をぢ》の長庵と腹《はら》を合せて先々月《せん/\げつ》己《おれ》から金を五十兩|騙《かた》り取たは是々の始末《しまつ》で己の命をも既《すで》に捨《すて》んとせし程の騷《さわ》ぎを爲《させ》て置ながら又今となり逢《あひ》たいとは如何に欺《だま》すが商賣《しやうばい》でも餘りに壓《おし》が強過《つよすぎ》ると取ても付ぬ挨拶に吉六|暫時《しばし》呆《あき》れしが夫は長庵が一|存《ぞん》の惡功《わるだく》みせし事ならん小夜衣さんに限《かぎ》つては其樣《そん》な御人じや御座りません早速《さつそく》歸《かへ》つておいらんへ其御話しを致しませうと吉六|息切《いきせき》立戻《たちもど》り一|伍《ぶ》一|什《じふ》を小夜衣へ話せば小夜衣|仰天《ぎやうてん》し那《あ》の伯父さんの惡巧《わるだく》み大事の/\若旦那を愛想盡《あいそづか》しをさせるとは思へば/\恨《うら》めしと齒噛《はがみ》をなせしが其|儘《まゝ》にウンとばかりに反返《そりかへ》れば姉丁山も駈《かけ》來り漸々《やう/\》にして氣は付共前後正體なく伏居《ふしゐる》を丁山吉六|力《ちから》を付|最《も》一度文を認めさせ又吉六を三河町へ急がし立《たて》て遣ければ猶千太郎を呼出《よびいだ》し小夜衣よりの言傳《ことづて》と有し樣子《やうす》を物語《ものがた》り文も爰《こゝ》にとさし出せど手にだに取《とら》ず千太郎は袖《そで》振拂《ふりはら》ひ立歸るを暫時《しばし》と止め種々《さま/″\》に請勸《ときすゝ》めし故《ゆゑ》澁々《しぶ/\》に文《ふみ》取上て封《ふう》押切《おしきり》讀《よむ》に隨《したが》ひ小夜衣は少しも知らぬ眞心《まごころ》見《み》え伯父長庵が惡事を歎《なげ》き我身を悔《かこ》ち悲《かな》しむ體《さま》如何《いか》にも不便《ふびん》と思ふより忽《たちまち》に狂《くる》ふ心の駒《こま》良《やゝ》引止《ひきとめ》ん樣もなく然樣《さう》なら今宵《こよひ》一|走《はし》りと彼の久八の異見《いけん》も忘《わす》れ何れ返事は逢《あう》ての上と言ば吉六|〆《しめ》たりと雀躍《こをどり》なして立歸りぬ夫《それ》より千太郎は店《たな》の都合《つがふ》を言拵《いひこしら》へ我が家を出ると小夜衣が許《もと》へ其|儘《まゝ》到《いた》りしかば絶《たえ》て久しき逢瀬《あふせ》かと外《ほか》の客をば皆《みな》斷《ことわ》り其宵ば部屋に差向《さしむか》ひ伯父長庵が惡巧《わるだく》み何と御|詫《わび》の仕樣もなく私しまで嘸《さぞ》や憎《にく》しと思すらん然は然《さり》ながら夢《ゆめ》にだも知らぬ此身の事なれば只《たゞ》堪忍《かんにん》をと歎《なげ》かれて終《つひ》に心も打解《うちとけ》つゝ再び迷《まよ》ふ千太郎忠義一※[#「圖」の「回」に代えて「面から一、二画目をとったもの」、227-1]の久八が異見《いけん》の釘《くぎ》を寛《ゆるめ》し事嗚呼是非もなき次第なり。 [#8字下げ]第二十三回[#「第二十三回」は中見出し]  天命《てんめい》は是耶《ぜか》非耶《ひか》と言《いは》るは伯夷傳《はくいでん》の要文《えうぶん》なるべし爰《こゝ》に忠義に凝《こつ》たる彼の久八は辛《から》き光陰《つきひ》は送《おく》れども只千太郎の代に成て呼戻《よびもど》さるゝを樂《たの》しみに古主《こしう》の容子《ようす》を聞居しが此頃人の噂《うは》さには伊勢五の養子千太郎は再度《ふたゝび》小夜衣の許《もと》へ通《かよ》ひ初めしと聞えしかば以ての外《ほか》に驚《おどろ》けども是は全く人の惡口《わるくち》成《なら》ん千太郎樣にはよもや我が異見《いけん》を忘《わす》れはしまじと打過《うちすぎ》けるに或日朝まだきに吉原土手を千住へ赴かんと鐵砲笊《てつぱうざる》を肩《かた》にかけて行過《ゆきすぐ》る折柄《をりから》向ふより御|納戸縮緬《なんどちりめん》の頭巾《づきん》を冠《かぶ》り唐棧揃《たうざんそろ》ひの拵へにて疊《たゝみ》つきの駒下駄《こまげた》を穿《はき》身奇麗《みぎれい》なる若い者|此方《こなた》をさして來掛《きかゝ》るを近寄《ちかより》見《み》れば紛《まが》ふ方なき千太郎成ければ是はと思ひし久八よりも千太郎は殊更《ことさら》に驚怖《おどろ》きしが頭巾《づきん》を取《とり》何喰《なにくは》ぬ顏にて是は久八殿何所へ行《ゆか》るゝや私しは千住の天王樣へ朝參りの歸りなりと云ふ久八|熟々《つく/″\》打詠《うちなが》め涙《なみだ》をはら/\と流し這《こ》は情《なさ》けなき御心哉《おこゝろかな》假令《たとへ》何《なに》と云紛《いひまぎ》らさるゝとも朝歸りは知れてある未だ御身持を直《なほ》し給はぬか今の我が身が辛《つら》いとて御|異見《いけん》申では御座りませぬ皆《みな》御身の爲なれば少しは以前の御難儀を思し召されて御|辛抱《しんばう》を成さる事は出來ぬかや此後《このご》は屹度《きつと》愼《つゝし》むと堅《かた》き誓《ちか》ひの御|言葉《ことば》をよもや忘れは成るまじとかき口説《くどか》れて千太郎は何と答へも面目《めんぼく》なく消《きえ》も入たき風情《ありさま》なり稍《やゝ》有《あつ》て久八に向ひ段々の異見《いけん》我が骨身《ほねみ》に徹《こた》へ今更|詫《わび》んも樣なし以後は心を入替《いれかへ》て急度《きつと》辛抱《しんばう》する程にと泣《なか》ぬばかりに詫《わび》ければ久八も漸々《やう/\》面《おもて》を和《やは》らげ猶《なほ》種々《いろ/\》と異見に及び御歸りの遲《おそ》く相成てはと別れて猶も後見送りしが千太郎は※[#「圖」の「回」に代えて「面から一、二画目をとったもの」、227-15]《はか》らずも久八に行逢《ゆきあひ》面目《めんぼく》なきまゝ兩三日は辛抱《しんばう》なせしが程《ほど》過《すぎ》るに隨《したが》ひ又もや夜|毎《ごと》に通ひ居たりしに其後朝歸りの道《みち》すがら向ふより來るは又々久八なれば夫と見るより千太郎は土手下へ駈下《かけお》り畔傳《あせづた》ひに後《あと》をも見ずに迯《にげ》さりけり斯ることの早兩三度に及びし故|流石《さすが》の久八も憤《いきど》ほり我が忠義の仇《あだ》と成事《なること》如何《いか》にも/\口惜《くちを》しや今一度|逢《あう》て異見せん者をと其後吉原土手の邊《ほと》りへ毎朝早くより久八は出行《いでゆき》蘆簀茶屋《よしずぢやや》の蔭《かげ》に潜《ひそ》みて待つとも知らず三四日|過《すぎ》て飮馴《のみなれ》ぬ酒の二日|醉《ゑひ》に重《おも》き額《ひたひ》を押ながら二本|堤《づつみ》を急ぎ足に歸る姿《すがた》を遣《や》り過し久八は千太郎が後《うし》ろより若旦那お早うと云ふ聲聞て千太郎は迯《にげ》んとするを久八が隙《すか》さず袂《たもと》に取|縋《すが》り此程もあれほど御|諫《いさめ》申せしにお通ひ成るは何事ぞ其後も度々御見かけ申せど此久八に隱《かく》れ廻《まは》り少しも御身の落付ぬは如何なる天魔《てんま》が魅入《みい》りしやと涙を流し足摺《あしずり》しつゝ千太郎が胸《むね》づくしを聢《しか》と捕《とら》へて異見やら又|呟《つぶや》くやら我が正直《しやうぢき》なる心より狂氣《きやうき》の如く身を震《ふる》はしこなたへ御座つて篤くりと此久八が言事を御|聞《きゝ》成《なす》つて下されとまだ朝まだきで人通りの無を幸ひ中反圃《なかたんぼ》の地藏の影へ引摺《ひきずり》行《ゆき》猶《なほ》段々《だん/\》と異見をなすに千太郎も我が身ながら餘《あま》りとや思ひけん一言も言ず只々《たゞ/\》許《ゆる》したまへとばかりにて兎角《とかく》するうち久八が忠義一※[#「圖」の「回」に代えて「面から一、二画目をとったもの」、228-8]に手先迄|凝固《こりかたま》りて千太郎が咽喉《のど》の呼吸《こきふ》を思はずも締《しめ》たるものか千太郎はアツと仰向《のつけ》に倒《たふ》るゝにぞ久八大いに驚怖《おどろき》周章《あわて》是《これ》は如何《どう》して能《よ》からんと田溝《たみぞ》の水を手拭《てぬぐひ》に浸《ひた》して口に含《ふく》ますれど全く息の絶たる樣子に久八今は途方《とはう》に暮《くれ》天《てん》を仰《あふ》ぎ地に伏《ふし》て悲《かな》しみ歎き我が身程世に因果《いんぐわ》なる者はなし主人の養子が引負《ひきおひ》を身に引受てかく恥《はぢ》も若旦那樣を眞人間《まにんげん》にして上たさに厭《いと》はゞこそ猶《なほ》御異見を申氣の如何に凝《こる》とて此手先と我と我が手に喰付《くひつき》しが覺悟を極め此|趣《おもむ》きを御番所へ自ら訴《うつた》へ公《おほや》けの御|法《はふ》通《どほ》りに御仕置を受るが切《せめ》ての罪|滅《ほろ》ぼし[#「罪滅ぼし」は底本では「罪減ぼし」]然樣じや/\と獨《ひと》り言《ごと》頓《やが》て千太郎の亡骸《なきがら》に打向ひ餘《あま》りあなた樣の御身の上の御爲を思ひ込《こみ》斯《かく》の始末《しまつ》に及びし事御|詫《わび》は程なく黄泉《あのよ》にて申上てと伏拜《ふしをが》み夫より一|散《さん》に南の町奉行所へ駈込《かけこみ》私しは主殺しの大罪人《だいざいにん》御定法《ごぢやうはふ》の御|仕置《しおき》願奉つると申たてければ役人共は一時|發狂人《はつきやうにん》と思ひしが容易《ようい》ならざる訴《うつた》へなれば直《すぐ》に一通り調《しら》べ有て繩《なは》を懸《かけ》られ越前守殿の白洲《しらす》へ呼込《よびこみ》と成しかば久八有し次第を逐一に申立し時既に其場所よりも横死《わうし》人の屆《とゞ》け出けるにより先久八は入牢《じゆらう》申付られ檢死《けんし》を其場所へ遣《つか》はし取調べに相成けるに年頃廿二三歳身のうちに疵所《きずしよ》是なく咽《のど》を縊《くび》りし體《てい》にて伊勢屋五兵衞の養子千太郎に相違|無《なき》趣《おもむ》きは久八より申立にて知られし事なれば直《すぐ》に三河町の伊勢屋五兵衞を呼《よび》出しに相成五兵衞より親里《おやさと》の富澤《とみざは》町甲州屋吉兵衞方へ知らす夫より同道《どうだう》にて彼土手下《かのどてした》檢使《けんし》の場へ罷《まか》り出吉兵衞二男にて五兵衞方へ養子《やうし》に遣《つか》はせし千太郎なる旨《むね》口書《こうしよ》になり右に付|死骸《しがい》は五兵衞吉兵衞の兩人へ引渡しに成たりける元より久八が縊《くび》り殺《ころ》したる趣《おもむ》き自訴《じそ》せしかば翌日甲州屋吉兵衞伊勢屋五兵衞久八の伯父《をぢ》六右衞門一同等御|呼出《よびだ》しにて調べとこそは成りにけれ。 [#8字下げ]第二十四回[#「第二十四回」は中見出し]  然程《さるほど》に大岡殿には翌《よく》日|直樣《すぐさま》吉原|土手下《どてした》の人殺し一|條《でう》調《しら》べとなり其人々には駈込訴人《かけこみそにん》石《こく》町二丁目甚兵衞|店《だな》六右衞門方同居久八右久八|伯父《をぢ》六右衞門久八元主人神田三河町伊勢屋五兵衞代金七富澤町甲州屋吉兵衞等なり越前守殿久八を見られ昨日|相尋《あひたづ》ねし通り其方《そのはう》舊主人《もとしゆじん》養子《やうし》千太郎を締殺《しめころ》せし段《だん》最《もつと》も重罪《ぢうざい》なり然ながら後悔《こうくわい》致し自訴《じそ》に及びし段|神妙《しんめう》に似《に》たり其|始末《しまつ》は何故何樣の所業《しよげふ》に及びしや仔細《しさい》有る事ならん眞直《まつすぐ》に申立よと有ければ久八|首《かうべ》を垂《たれ》私し事|計《はか》らずも千太郎を締殺《しめころ》し候別段に仔細《しさい》と申は是無全く誤《あやま》[#ルビの「あやま」は底本では「あやつ」]つて殺せしに相違《さうゐ》御座なく候と申立るに大岡殿否々|只《たゞ》誤《あやま》つて殺せしと云ふこと有まじ何成《なんなり》とも事|柄《がら》を包《つゝ》まず申立よ又六右衞門其方事何等の縁合《えんあひ》を以て此久八をば世話致し居《をる》や且《かつ》此度の義に付心當りも是有《これあら》ば申立よと申されし時六右衞門|愼《つゝし》んで頭《かしら》を上げ私事は生國三州藤川宿に御座候藤川|近在《きんざい》に罷《まか》り在《あり》候兄の久右衞門儀先年|捨子《すてご》を貰《もら》ひ請《うけ》慈《いつく》しみ養育なし廿箇年以前私し方へ連參《つれまゐ》り何方《いづれ》へ成共奉公致させ呉候樣にとの事に付私し世話致し則《すなは》ち三河町伊勢屋五兵衞方へ奉公|住《すみ》致させ候處一事の誤《あやま》りも無奉公を大切に勤めし故主人の氣に適《かな》ひ店の支配《しはい》をも任せられ私し儀も安堵《あんど》致し居候に昨年|不慮《ふりよ》の儀にて永の暇《いとま》に相成廿餘年の勤功《きんこう》を水の泡《あわ》となし其上此度の大罪私しに於ても何故《なにゆゑ》に右樣|所業《しよげふ》致し候|哉《や》更々《さら/\》分明《わかり》申さず候と申立る依て一同へも段々《だん/\》の手續《てつゞき》尋問《たづね》に相成翌日又々久八六右衞門兩人を呼出して猶《なほ》又調べの處六右衞門申立る樣昨日も申上候通り久八儀誤りにもせよ主人を害《がい》し候など申儀は私しに於ても一圓|合點《がてん》參り申さす候|此度《このたび》の一條何分にも其意を得難《えがた》きことに候|當時《たうじ》賤《いやし》き渡世《とせい》を致し居候ても正直《しやうぢき》一三|昧《まい》に出精《しゆつせい》致し居候と申上ければ越前守殿久八に申さるゝは其方事昨日も尋問《たづぬ》る通り千太郎を害《がい》したるには別《べつ》に仔細の有事|成《なら》ん其仔細も有《あら》ば包まず有體《ありてい》に申立よと有りければ六右衞門久八に向ひ御奉行樣の仰《おほ》せなり其次第を包まず委細に申立よ千太郎殿の事に付ては取分《とりわけ》影《かげ》に成《なり》日向《ひなた》に成て心を盡《つく》し又大旦那五兵衞殿へ廿年來|律義《りちぎ》に勤て主思ひの聞えも取たる其方成らずや何とて千太郎殿を締殺《しめころ》したるや我にも更に仔細が譯《わか》らず一伍《いちぶ》一什《しじふ》を御奉行樣へ申上よと六右衞門の言葉に久八涙を流し只今|伯父《をぢ》六右衞門申上たる通り二十箇年以前五兵衞方へ奉公住仕つり居り候處|據《よんど》ころなき譯合《わけあひ》にて私し五十兩の遣《つか》ひ込に相成終に永《なが》の暇《いとま》を受候儀に御座候又千太郎儀を誤つて殺害《せつがい》せしも畢竟《ひつきやう》は其と云懸《いひかけ》しが口|籠《ごも》り何事も皆前世の約束と斷念《あきら》め居候得ば一日も早く御|仕置《しおき》を願ひ上候又伯父樣にも是迄の事と思し召下《めしくだ》されよ兎角《とかく》不屆《ふとゞき》者と御憎《おんにく》しみも候はん殊に長々の世話に預りたる御恩をも報じ申さず未來《みらい》永々《えい/\》の不孝此上なく是ばかりが殘念《ざんねん》に候なり何卒此段御|勘辨《かんべん》下されよと首《かうべ》を砂利《じやり》に摺付|暫《しば》らく泣伏《なきふし》居たりける越前守殿|否《いな》是《これ》には何か深き仔細ありと見て取られ押返《おしかへ》して如何に久八其方事御|所刑《しおき》の儀は願はずとも遁《のが》るゝ事に非ず然《さり》ながら公儀《こうぎ》に於ては事實《ことがら》の分明《ぶんみやう》ならざる上は假にも御|所刑《しおき》には爲給はず其方唯今申たるには千太郎を締殺《しめころ》したるも必竟《ひつきやう》はと言しが五十兩の金子の事ならん其五十兩の引負金《ひきおひきん》と云は如何の譯にて何に遣《つか》ひ捨《すて》しや有體《ありてい》に申立よとの事に至り久八は元より千太郎の引負金を我身に引請《ひきうけ》たる事|情《がら》を今さら云出せば主人千太郎を締殺《しめころ》したる而已《のみ》ならず同人の惡名迄《あくみやうまで》も顯《あら》はすこと本意なしと思ひける故今迄は聊《いさゝ》かも[#「聊かも」は底本では「聊も」]云ひ出さず包《つゝ》み隱《かく》して居たりしが段々《だん/\》嚴重《げんぢう》の尋問《たづね》に公儀《おかみ》を僞《いつ》はらんも恐《おそ》れありと思ひ定めて漸々《やう/\》顏《かほ》を上げ追々事を譯《わけ》ての御尋問に付此上は包まず申上るなり舊《もと》主人伊勢屋五兵衞事世|嗣《つぎ》の男子これなく相應《さうおう》の養子も有《あら》ばと探索《たづね》るうち千太郎事を申込候者これ有しに五兵衞|持參金《ぢさんきん》が無《なく》ては不承知《ふしようち》なる由を承まはり私しより段々と五兵衞へ申進め終に千太郎を養子に致し候儀に御座候然るに千太郎|若氣《わかげ》の誤《あやま》りにて新吉原江戸町二丁目丁字屋半藏抱へ遊女小夜衣に馴染《なじみ》し處同人伯父麹町三丁目町醫師村井長庵に小夜衣が身受金也と欺《あざ》むかれ五十兩|騙《かた》り取れ候由其|節《せつ》千太郎の容子《ようす》怪敷《あやしく》見受候まゝ私し異見を爲し樣子を承まはり候へば云々《しか/″\》なりと申に付千太郎の一時|店《みせ》より持出《もちいだ》せし五十兩を私し引負金《ひきおひきん》と爲《なし》て永の暇《いとま》になりし節千太郎へ呉々《くれ/″\》異見を申以後|急度《きつと》愼《つゝし》み候筈に付私し儀も嬉《うれ》しく存じ五十兩の金子は今以て私しより少しづつ返濟《へんさい》致し居候然るに先日私し事千住の紙屑問屋《かみくづくどひや》[#ルビの「かみくづくどひや」は底本では「かみくづくとんや」]へ參りし途中《とちう》吉原|堤《どて》にて千太郎が朝歸りの體を見受候まゝ其の節《せつ》も厚《あつ》く異見仕つり必ず遊女通ひ相止候|積《つも》りの處兩三日|過《すぎ》又々土手にて見受候得ども私しの姿《すがた》を見るや否《いな》直樣《すぐさま》横町に隱《かく》れ候事三度に及び候故餘り殘念に存じ其翌日より千太郎の戻《もど》り道に待受|居《をり》漸々《やう/\》面會《めんくわい》致し候間土手下より中反圃まで胸《むな》ぐらを取て連行《つれゆき》悔《くや》しいやら悲《かな》しいやらにて夢中《むちう》に成|萬一《もし》手を弛《ゆる》めなば迯出《にげいだ》さんとなす故我知らず強《つよ》く押《おさ》へしに過《あやま》りて咽《のど》の呼吸《こきふ》を止めしにや息の絶《た》えたるに驚《おどろ》きつゝ種々《しゆ/″\》介抱《かいはう》成《なし》けれ共|蘇生《よみがへ》る容子《ようす》も無《なく》暫時《ざんじ》に冷《つめ》たくなり候まゝ當御奉行所へ御訴へ申上候儀に御座候と申立ければ慈仁《じじん》無類《むるゐ》の大岡殿ゆゑ忽《たちま》ち久八の廉直《れんちよく》なるを悟《さと》られ然も有べし/\とて其日は白洲《しらす》を閉《とぢ》られけり。 [#8字下げ]第二十五回[#「第二十五回」は中見出し]  偖《さて》も享保二年四月十八日越前守殿には今日村井長庵が罪科《ざいくわ》悉皆《こと/″\》く調《しら》べ上んとや思はれけん此度の一件に掛《かゝ》り合の者どもを悉皆《のこりなく》呼出《よびだ》され村井長庵は兩度《りやうど》の拷問《がうもん》にても白状《はくじやう》せざる事故|身體《しんたい》勞《つか》れ果《はて》かゝる惡人《あくにん》なりと雖《いへど》も天《てん》定《さだま》りて人を制《せい》するの時節《じせつ》到來《たうらい》なし目も當《あて》られぬ有樣にて繩《なは》つきの儘|白洲《しらす》の中央《ちうあう》へ引据《ひきすゑ》られたり次に久八並びに小手塚三次又神田三河町二丁目|家持《いへもち》質《しち》兩替《りやうがへ》渡世《とせい》伊勢屋五兵衞富澤町の古着《ふるぎ》渡世《とせい》甲州屋吉兵衞新吉原江戸町二丁目丁字屋半藏代文七右半藏|抱《かゝ》へ遊女《いうぢよ》文事丁山|同人《どうにん》妹富こと小夜衣石町二丁目甚藏店六右衞門麹町三丁目|瀬戸物《せともの》渡世《とせい》忠兵衞ならびに同人妻富右町役人共一同|御呼出《およびだ》しと相成り右一件願ひ人赤坂傳馬町二丁目長助店道十郎後家みつ悴《せがれ》道之助右光|店請人《たなうけにん》同所清右衞門右家主長助|都《すべ》て掛《かゝ》り合の者|殘《のこ》らずにて廿有餘人呼出しに相成|偖《さて》大岡越前守殿千太郎父吉兵衞養父五兵衞兩人の名を呼《よば》れ其方共《そのはうども》千太郎の死骸《しがい》引取《ひきとり》候|節《せつ》差出《さしいだ》したる口書《くちがき》の通り相違はこれ無やと尋問《たづね》らるゝに兩人如何にも仰せの通り相違御座なく候と申立ければ大岡殿又六右衞門其方|儀《ぎ》久八の申立に付何ぞ證據《しようこ》ありやと云るゝ時六右衞門は千太郎より久八へ渡《わた》し置たる一|札《さつ》を目安方《めやすかた》へ差出しけるに越前守殿|熟覽《じゆくらん》有て長庵に向はれ其方事|豫々《かね/″\》惡事の段々|露顯《ろけん》に及びたり未だ三次に頼《たの》んでお安を殺《ころ》させたる一條並びに札《ふだ》の辻《つじ》に於て弟十兵衞を殺《ころ》したる儀とも明白《めいはく》なるに何とて白状《はくじやう》に及ばざるやと申されるを聞て長庵は猶も恐《おそ》れず勿々《なか/\》以て左樣の事ども更《さら》に覺《おぼ》え御座無候程に白状《はくじやう》などとは思ひも寄ぬ事なりと大膽不敵《だいたんふてき》にも白状せざれば越前守殿は丁字屋《ちやうじや》半藏|代人《だいにん》文七と呼《よば》れ其方|尋問《たづね》る次第|巨細《こさい》に答《こた》へ成るやと有に文七|徐《しづ》かに頭を上げ私し事半藏の家事を取扱《とりあつか》ひ居候得ば遊女《いうぢよ》に付候事は委細に辨へ居候と申にぞ大岡殿|然《しか》らば抱《かゝ》へ遊《いう》女文事丁山富事小夜衣の兩人は何人の周旋《せわ》にて何れより抱《かゝ》へたるや請人等《うけにんとう》巨細《こさい》に申立よと尋問《たづね》らるゝに文七丁山事は三河國藤川|在《ざい》岩井村百姓十兵衞と申|實親《じつおや》の判《はん》にて麹町三丁目|醫師《いし》長庵儀は右十兵衞の兄なる由にて受人に相立《あひたち》召抱《めしかゝ》へ候又妹小夜衣事は十兵衞|死後《しご》成《なる》故《ゆゑ》に右長庵|賣主《うりぬし》にて小手塚三次と言《いふ》者受人に御座候と申立ける時越前守殿如何に長庵姉は十兵衞に相頼《あひたの》まれ賣しならん妹《いもと》の小夜衣は誰に頼まれて賣渡《うりわた》せしや長庵答へて弟十兵衞|横死《わうし》の後金子は紛失《ふんじつ》致し彌々|身體《しんたい》立行難《たちゆきがた》く十兵衞の妻安に頼まれ賣渡しの節三次を受人に相頼み申候と聊《いさゝ》か憚《はゞか》る色《いろ》なく申立ければ越前守殿|莞爾《につこ》と笑はれ其《そ》りやこそ長庵|汝《なんぢ》の口より追々|尻《しり》を割《わる》ではないか有體《ありてい》に申せよと如何なる惡人《あくにん》とても成|丈《たけ》吟味の上にも吟味致さるゝこそ有り難けれ [#8字下げ]第二十六回[#「第二十六回」は中見出し]  越前守殿には又丁山小夜衣に向《むか》はれ此長庵は其方共の爲に伯父とは云|乍《なが》ら兩親の敵《かたき》なり遠慮《ゑんりよ》に及ばす心得有事は有體《ありてい》に申立よ猶も妹小夜衣には別《べつ》に尋ぬる仔細《しさい》有其方が身の代金は母《はゝ》存生《ぞんしやう》の内母の手にわたしたるやよも母安へは渡すまじ萬一《もし》包《つゝ》み隱《かく》す時は汝等が身の爲に相成《あひなら》ぬぞと有ける時小夜衣は女ながらも心|男々《をゝ》しき生質《さが》なれば大岡殿の詞《ことば》に隨《した》がひ私し苦界へ沈《しづみ》し事は父が人手に掛り其上姉の身の代金も奪《うば》はれしとの事を國元にて聞しより母には氣の違はぬばかりにて國元の家を仕廻《しまひ》私を連《つれ》て麹町の伯父の所へ來て居し中姉に逢《あは》してやると此三次と云人と伯父が申のに欺《だま》され丁字屋へ連《つれ》られ行し儘《まゝ》終《つひ》に身を賣られ是非なく勤《つと》め居《をり》しに其後母は不※[#「圖」の「回」に代えて「面から一、二画目をとったもの」、233-4]《ふと》家出せしまゝ行衞《ゆくゑ》が知れぬと伯父が話せし程ゆゑ私の身の代金は母の手へは請取《うけとり》申まじと申立れば越前守殿然も有《あ》らんコリヤ長庵小夜衣が申立は斯《かく》の通り成《なる》ぞ然《さ》すれば小夜衣が身賣《みうり》の事を後家《ごけ》安より其方へ頼むべき所謂《いはれ》なきにより金子は勿論《もちろん》安に渡す譯《わけ》なし全く小夜衣が申立る通り其方と三次と申合せ姉に逢《あは》して遣《や》ると僞《いつは》りて連出し身を沈《しづ》めしうへ身の代金の三十兩は兩人にて遣《つか》ひ捨《すて》たるに相違《さうゐ》有まじ夫故にこそ三次に頼み後の憂《うれ》ひを除かん爲又お安をも連出して中田圃に於て殺害に及ばせし成らん右は既に三次が申立にて聢《しか》と相分り居る處なり如何に三次其方事追々申立たる通り相違なきやとの糺問《たづね》に三次首を上げ此程申上ました通り十兵衞の後家お安へは妹娘は或屋敷《あるやしき》へ奉公に上《あげ》たと僞《いつは》り私しと長庵|兩人《ふたり》で丁字屋へ三十兩に賣代《うりしろ》なし其内私しは長庵より僅《わづ》かに五兩|貰《もら》ひ候處お安も其後妹娘の行先《ゆくさき》が變《へん》だと思ふたやら兩人の娘に逢《あは》して呉《く》れ/\と長庵に晝夜《ちうや》を分《わか》たず迫《せま》るより逢せて遣れば化《ばけ》の皮が顯《あら》はるゝにより娘に逢すとお安を欺《あざ》むき人なき所へ連出し殺して呉《くれ》ろと長庵に頼まれたるが因果《いんぐわ》づく中反圃にて殺した始末《しまつ》思ひ出しても凄《ぞつ》とする是等の話しを爲《なす》事も兩人の娘へ懺悔也《ざんげなり》と今|眼《め》の前に見る如く云々《しか/″\》是々《これ/\》斯樣ぞとお安が苦痛の死をなしたる其有樣を申立長庵に向ひ此通りだ未練《みれん》らしくとぼけずと立派《りつぱ》に白状《はくじやう》しねへかと三次が話《はなし》を聞よりも思はず知らず聲を揚《あげ》わつとばかりに泣沈《なきしづ》む[#「泣沈む」は底本では「泣死む」]母の横死《わうし》の有樣が眼《め》に見る樣に思はれて姉妹《はらから》二人が心の内《うち》哀《あは》れと言も餘りあり又長庵は是を聞是三次何を云夫は幾度《いくたび》云ても汝《おのれ》が殺した話し夫を又此長庵に白状せよと言て仕舞《しま》へのとは何事ぞ某しに於ては何も言《いふ》ことはない如何樣人間の命を取ほど有て不屆《ふとゞ》きの奴なり此長庵は人を助《たす》くる仁術《じんじゆつ》に此世を送る家業故|機《をり》に觸《ふれ》ては定業《ぢやうごふ》にて病ひの爲に死す人を見てゐるさへも不便なるにまして非業《ひごふ》の死を遂る有樣は嘸々《さぞ/\》恐《おそ》ろしき事ならん拙者《せつしや》のやうに氣の弱《よわ》き者などは見たばかりでも氣を失なふぞ如何にも貴樣は肝《きも》の太《ふと》き男なり是兩人の娘問ず語りの此三次は二人が母の敵《かたき》なるぞ能々《よく/\》御奉行樣へ御願ひ申敵を討《うつ》て貰《もら》ふが能《よい》と懇切《ねんごろ》さうに申|聞《きけ》又|居直《ゐなほ》りて御奉行樣私よりも願ひ上ます妹の安は此三次めが殺せしと承まはる上からは直《すぐ》にも打果《うちはた》すべき奴《やつ》なるに現在《げんざい》妹の敵と名乘《なのる》に側《そば》に居ながら手も出されぬ我が身は如何に口惜《くちを》しと齒《は》がみをなすを熟々《つく/″\》見られ越前守殿心中に何程《なにほど》佞奸《ねいかん》無類《むるゐ》の曲者《くせもの》にても斯迄《かくまで》強惡《がうあく》なる奴《やつ》は他に有まじと歎息《たんそく》されしが其方は惡人に似合《にあは》[#ルビの「にあは」は底本では「にあひ」]ぬ未練《みれん》千萬|成《なる》奴なり安女は小手塚三次が殺したるにもせよその三次をば誰《たれ》が頼《たの》んで殺《ころ》させたるや汝《おの》れ三次に頼んで殺《ころ》させたれば己れが手を下して殺せしより猶《なほ》以《もつ》て不屆《ふとゞき》なり又最前三次と突合せの節三次をば知らぬ者なりと申せしが其後に至り三次は知己《ちかづき》の趣きに申立る等|前後《ぜんご》不都合《ふつがふ》なり且此程より追々《おひ/\》取調《とりしら》べる通り八ヶ年以前に弟十兵衞を芝《しば》札《ふだ》の辻《つじ》に於て殺害《せつがい》に及び姪《めひ》の文を賣たる金子を奪ひ取夫|而已《のみ》ならず浪人道十郎へ右の罪科を悉皆《こと/″\》く塗付《ぬりつけ》終に公儀を欺《あざむ》き寃《むじつ》に陷《おとしい》れたる段證據人忠兵衞が申立の通り聊《いさゝ》か相違なく聞ゆ然るに忠兵衞は恨み有者故右樣の事を申立候などと無體の儀を申|掛《かけ》再度《さいど》忠兵衞夫婦に罪科《ざいくわ》を負せんと致したれ共既に其方の申口相違致したるに付|流石《さすが》に申論《まうしろん》ずる事能はず恐《おそ》れ入たるには非ずや然る上からは一事が萬事を知るべし此上にも申|爭《あらそ》ふに於ては猶《なほ》追々《おひ/\》嚴重《げんぢう》取調べに及ばねば相成ず重ね/″\の憎しみを蒙り自身《じしん》も種々《しゆ/″\》の辛き目に逢《あは》んより事十分に顯《あらは》れたる上は惡徒は惡徒《あくと》だけの肝魂《きもだま》の有者なれば未練《みれん》と人に笑はれんよりも流石《さすが》に潔よき長庵と云るゝやうに白状致して仕舞へと段々理非を譯たる名言を飽まで欺く長庵は眞面《まがほ》に成り是は新しき仰せ哉成程忠兵衞が妻富と密通を仕つりしと申上しは私し此度|寃《むじつ》の難題《なんだい》を申し掛られ餘りと申さば無念《むねん》さに私とても申掛致し候なり其外の儀は恐れ入べき箇條更々之なく何事も仰せの趣《おもむ》きは存《ぞん》じ候はずと事もなげに陳じける時越前守殿コリヤ長庵然らば其方に猶《なほ》新《あたら》しき事を尋問《たづぬる》箇條《かでう》有汝ぢ三河町二丁目の伊勢屋五兵衞養子千太郎を欺《あざむ》き五十兩の金を騙《かた》り取たる段相違なきや此儀は證據人の久八|眼《め》の前に有《あり》如何々々《いかに/\》と糺問《たゞし》有《あり》しに長庵は然《さ》も仰天《ぎやうてん》せし顏色《かほつき》して是は/\又しても御奉行樣の御|難題《なんだい》ばかり私し曾て伊勢屋千太郎などと云名前も知らずましてや五十兩の金子を騙《かた》り取たなどとは存《ぞん》じも寄ぬ事にて候又久八とやらん何故に右樣の儀を申立たるや其意更々|合點《がてん》參らす候|嗚呼《あゝ》長庵が重《かさ》なる不運の時節成か斯迄人々に憎《にく》しみを受る事醫は人を助ける仁術《じんじゆつ》の渡世《とせい》にて陰徳《いんとく》有ば陽報《やうはう》ありとの古語も當に成ず口惜く候と獨《ひと》り言《ごと》を云を越前守殿|汝《おの》れ此上は眼に物見せんと少しく怒《いか》りの色を顯《あらは》されしかば一同の者は顏を見合せ如何なる拷問《がうもん》に掛らるゝやと長庵を憎《にく》しみてぞ居たりけり [#8字下げ]第二十七回[#「第二十七回」は中見出し]  又越前守殿は久八の方を見られ如何に久八五十兩の金子を千太郎が是なる長庵に騙《かた》り取《とら》れたる始末《しまつ》此所にて逐一に申立べしと有ければ久八は愼んで頭《かしら》を上げ私|舊《もと》主人千太郎事|先般《せんぱん》も申上たる通り若氣《わかげ》の誤りより新吉原江戸町丁字屋半藏の抱《かゝ》へ遊女小夜衣の方《かた》へ通ひ詰候處右の長庵事は小夜衣と伯父|姪《めひ》の中に候由にて千太郎と知己《ちかづき》に相成其後千太郎方へ長庵參り申聞候には小夜衣事|木場邊《きばへん》の客人に身受致さるゝにやう相成候得共小夜衣は千太郎の方へ何卒《なにとぞ》參り度由長庵へ呉々相談なせしと雖も金づくの事ゆゑ何共致し方御座無候間金子五十兩|何卒《なにとぞ》才覺《さいかく》致しなば親元身受けに成して木場の客の方は相斷わり長庵宅へ小夜衣を受出し置其上夫婦になすべしと僞言《ぎげん》を千太郎は現在《げんざい》の伯父の申事故|實情《じつじやう》と心得店の有金の内五十兩取出し長庵へ相渡し兩三日過て千太郎は長庵|宅《たく》へ參《まゐ》り小夜衣の事を申せしに長庵儀右樣の金子預りし覺え無之|殊《こと》に逢《あひ》しことも無《なき》人《ひと》なりとて更に取合申さず餘りのことに[#「餘りのことに」は底本では「餘りのにこと」]千太郎段々と掛合に及び候處|却《かへ》つて長庵大いに立腹《りつぷく》なし跡形《あとかた》も無事を言|掛《がけ》候段不屆き者なりとて散々《さん/″\》に打擲《ちやうちやく》に及び候由右の始末|據《よんど》ころなく千太郎は立歸りしかど如何にも殘念《ざんねん》に存じ居候より再度《ふたゝび》長庵方へ罷《まか》り越長庵を刺殺《さしころ》し其身も自害仕つらんと覺悟《かくご》の機《をり》から私し樣子を見受け候まゝ取敢す引止其事柄を段々承まはり種々異見仕つり候處|全《まつた》くは小夜衣に心を取《とら》れしより斯《かゝ》る巧《たく》みに罹《かゝ》りし事故|已來《いらい》は急度《きつと》小夜衣の事は思ひ切と千太郎申候に付長庵に騙《かた》り取《とら》れし五十兩は其儘|取《とら》れ切に致し其五十兩の金子は則ち私しの引負《ひきおひ》金に引受候儀に御座候事と委細《ゐさい》に申立ければ越前守殿小夜衣の方を見られ小夜衣其方事も久八が申立たる事ども覺《おぼ》え有やと尋問《たづね》らるゝに小夜衣は長庵が五十兩の金子千太郎より騙《かた》り取し事は千太郎|存生《ぞんしやう》の節《せつ》私し方へ參られし折柄委細に聞及びし故甚だ悔《くや》しく思ひ居候と有體《ありてい》に申立ける程に越前守殿|點頭《うなづ》かれ引合の者共|悉皆《こと/″\》く申立により長庵が惡事《あくじ》箇條《かでう》明白《めいはく》に了解《わかり》たり因つては猶長庵に問ふ事あり既《すで》に久八の申立る通りにて相違《さうゐ》有《ある》まじきに猶又小夜衣が申立の趣き彌々《いよ/\》以て相違有まじ此上にも陳《ちん》じ僞《いつ》はるやと膝《ひざ》を進《すゝ》めて申されけり [#8字下げ]第二十八回[#「第二十八回」は中見出し]  古語《こご》に謂《いふ》有《あり》其以てする所を觀《み》其由《そのしたが》ふ所を觀《み》其安んずる所を察す人|焉《いづく》んぞ庾《かくさ》ん哉人|焉《いづく》んぞ庾《かくさ》ん哉爰に僞《いつは》り飾《かざ》る者有り然れ共其者の眸瞳《ひとみ》の動靜《どうせい》を察《み》る時は必ず其|眞僞《しんぎ》現《あらは》るゝと宜《むべ》なる哉然れ共|萬一《もし》庸人《ようじん》の奉行となりて強情《がうじやう》奸曲《かんきよく》の者を調べるに於てをや或るひは面體《めんてい》惡氣《にくげ》に心は善良《ぜんりやう》成《な》るも有《あり》或ひに面體《めんてい》柔和《にうわ》にして胸中《きようちう》大膽不敵《だいたんふてき》なる者有|所謂《いはゆる》外面如菩薩《げめんによぼさつ》内心《ないしん》如夜刄《によやしや》と佛《ほとけ》も説給ひし如し然れば[#「然れば」は底本では「然れけ」]其|面體《めんてい》柔和にして形容《なりかたち》も柔和《おとなし》やかなる者の言事は自然と直なる樣に聞ゆれども其事は邪心《じやしん》を含《ふく》み工《たく》める奸賊《かんぞく》も有り面體|見惡《みにく》き者の申立る事は言葉續き荒《あら》らかにして詐《いつは》り飾《かざ》り有《あ》る樣《やう》に聞え品に因ては裁許《さいきよ》の過《あやま》りなしとも云難し然れば鎌倉七世の執權《しつけん》北條時宗を輔佐《ほさ》して問注所《もんちうしよ》の總裁職を勤《つと》め美名を後世に傳《つた》へし青砥《あをと》左衞門尉|藤綱《ふぢつな》は公事訴訟等《くじそしようとう》を聞るゝときは必ず眼を閉塞《ふさぎ》て調べられしとこそ聞えたれ抑々《そも/\》越前守殿此長庵を一目見るより此奴《こやつ》は容易《ようい》ならざる不敵の者なれば尋常《じんじやう》の糺問《たゞし》にては事實《じじつ》を吐《はく》まじと思はれしにより斯《かく》は氣長《きなが》に諭《さと》しながら糺問《たゞ》されしなり然《しか》りと雖《いへど》も長庵は何事も曾て存ぜずと而已《のみ》申立口を閉《とぢ》て居ければ此上は詞《ことば》を以て諭さん樣もなく拷問《がうもん》に及ぶより外はなしと思はれしなり然れども猶《なほ》徐《しづ》かに長庵を見られ如何に長庵|札《ふだ》の辻《つじ》人殺《ひとごろ》しの罪《つみ》を道十郎に負《おは》せし事は既《すで》に忠兵衞と言《いふ》證人あり又千太郎を欺《あざむ》きて五十兩の金子を騙《かた》り取其上千太郎を罵り打擲《ちやうちやく》に及びし事は久八並びに其方|姪《めひ》小夜衣が申立と符合《ふがふ》して明《あきら》かなり又弟十兵衞の女房|安《やす》を殺《ころ》させし事は眼前《がんぜん》に汝が頼みし無宿《むしゆく》三次より疾《とく》白状に及びしことなれば如何に其方|鷺《さぎ》を烏《からす》と爭《あらそ》ふとも遁《のが》るゝことは叶《かな》はず速《すみ》やかに白状せよと諭《さと》されければ大膽無類の長庵も最早《もはや》叶《かな》はじとや思ひけん見る中に髮髯《かみひげ》逆立《さかだち》兩眼《りやうがん》に血《ち》を注《そゝ》ぎ惡鬼羅刹《あくきらせつ》の如き面《おもて》を振上《ふりあ》げ一同の者を礑《はた》と白眼《にらみ》し其|形容《ありさま》に居並び居たる面々《めん/\》何れも身の毛も彌立《よだつ》ばかりに思ひ斯《かゝ》る惡人なれば如何成事をや言出すらんと皆々《みな/\》手に汗《あせ》を握《にぎ》りて控《ひか》へたる其中にも彼丁山小夜衣の兩人はアツといひて砂利《じやり》に鰭伏《ひれふし》戰慄《ふるひわなゝ》き居たりけり長庵は齒《は》をぎり/\と噛締《かみしめ》汝等一同|確乎《たしか》に聞け汝等《おのれら》は揃ひも揃ひし鈍愚《たはけ》なるに其の智慧《ちゑ》の足《たら》ざるを思はず能《よく》も我が事を訴人《そにん》せし者成かな然ながら今日只今迄は假令《たとへ》骨々《ほね/″\》を斷割《たちわら》れ鉛《なまり》の熱湯《ねつたう》は愚《おろ》か水責《みづぜめ》火責《ひぜめ》海老責《えびぜめ》に成とも白状なすまじと覺悟せしが御奉行樣の御明諭《ごめいゆ》により今ぞ我が作《な》せし惡事の段々《だん/\》不殘《のこさず》白状《はくじやう》せんと長庵が其決心は殊勝にも又|憎體《にくてい》なり [#8字下げ]第二十九回[#「第二十九回」は中見出し]  偖《さて》も越前守殿に於ては夫々《それ/″\》確固《たしか》なる證據人《しようこにん》の有事を言《いは》ざる奸惡《かんあく》無類《むるゐ》の大賊に似氣無《にげなき》卑怯《ひけふ》者成と思《おぼ》されしに長庵が今ぞ殘らず白状《はくじやう》なさんとの一言に流石《さすが》惡徒《あくと》は惡徒|丈《だけ》に了簡《れうけん》を改《あら》ためし者かと言葉を和《やは》らげられ白状するとは神妙《しんめう》の至りなりと申さるゝに長庵|眼《め》を見開《みひら》き御奉行越前守殿に益《えき》も無く御骨《おほね》を折《をら》すも恐《おそ》れ入ば今こそ殘らず白状爲すなり仍《よ》つて此長庵が身は刑罰《けいばつ》に成《なる》べけれども魂魄《こんぱく》は此土に止《とゞま》り己れ等一同に思ひ知らするぞ其中にも忠兵衞は第一の大恩人《だいおんじん》なり能《よく》も/\八ヶ年以前のことを事《こと》新《あた》らしく今更に道十郎が後家に告口《つげぐち》なし此長庵が命《いのち》を縮《ちゞ》めさせたるは忝け無《ない》共《とも》嬉《うれ》しいとも禮《れい》が言盡《いひつく》されぬ故今は括《くゝ》られた身の自由《じいう》成《なら》ねば孰《いづ》れ黄泉《あのよ》から汝《おのれ》も直に取殺し共に冥土《めいど》へ連《つれ》て行《ゆき》禮を云から待てゐよ必ず忘るゝ事|勿《なか》れと憤怒《ふんぬ》の目眥《まなじり》逆立《さかだ》つて礑《はつ》たと白眼《にらみ》兩の手をひし/\と握《にぎ》りつめ齒《は》を喰《くひ》しばりし恐怖《おそろ》しさに忠兵衞夫婦は白洲《しらす》をも打忘《うちわす》れアツと云樣立上り迯《にげ》んとするを忽ちに警固《けいご》の者に引据《ひきすゑ》られ悶絶《もんぜつ》なさぬ計りなり稍《やゝ》有《あ》つて泣聲《なきごゑ》出し是申長庵殿|御死《おしに》なされし其後にて私し宅《たく》へ禮《れい》などに御出《おいで》成《なさ》るには及びませぬ私しとても御前《おまへ》には何の恨《うら》みも無《なけ》れども八ヶ年の其|昔《むか》し天神樣の裏門前で逢《あひ》[#ルビの「あひ」は底本では「あつ」]たる事を※[#「圖」の「回」に代えて「面から一、二画目をとったもの」、238-3]《はか》らずもお光殿より尋ねられ迂濶《うつか》り口が辷《すべ》りしを是非《ぜひ》證人《しようにん》に立《たつ》べしとお光殿をば同道なし其處《そこ》に居《を》らるゝ長助殿に談《だん》じ付られ仕方《しかた》もなく斯樣《かやう》のことに成たる譯《わけ》何樣《どう》ぞ勘辨して下されと兩手を合《あは》せて泪《なみだ》を流し詫入《わびいる》[#ルビの「わびいる」は底本では「わいびる」]體《てい》こそ笑止《せうし》けれ長庵は忠兵衞を尻目《しりめ》にかけ默《だま》れ忠兵衞|入《いら》ざる汝《なんぢ》が噪々《おしやべり》より我が舊疵《ふるきず》を再發《さいはつ》させ科人《とがにん》の身と成し事思ひ知れやと言《い》ひながら奉行《ぶぎやう》の方に打向ひ割《われ》るばかりの大音《だいおん》揚《あげ》是迄|爲《な》したる我が惡事を逐一《ちくいち》並《なら》べて御|聞《きか》せ申さん然《さ》は然《さり》ながら自分でも忘《わす》るゝ程の數々《かず/\》なればお忘れなき樣お聞《きゝ》下され此長庵は在所なる岩井村《いはゐむら》に在し頃|博奕《ばくち》崩《くづ》れの喧嘩《けんくわ》より同村に住《すむ》勘次郎を殺す氣もなく打殺し夫より村方を逐轉《ちくてん》して此大江戸へ出てより所々《しよ/\》方々《はう/″\》の小稼《こかせ》ぎは言はずと知れし小盜人《こぬすびと》盜《ぬす》みし金や神農《しんのう》も嘗殘《なめのこ》したる質種《しちぐさ》を資本《もとで》に初めし醫者家業《いしやかげふ》傷寒論《しやうかんろん》は讀《よめ》ねども醫《い》は位《ゐ》なりとて衣服《いふく》で驚《おど》かし馬鹿にて付る藥|迄《まで》舌《した》三寸の匙加減《さじかげん》でやつて退《のい》たる御醫者樣も斯《か》う成ては長棒《ながぼう》の駕《かご》より命《いのち》をしまい肩《がた》ばつた/\と何にもかも夕《ゆふ》べの夢の過たる惡事先第一は現在《げんざい》の弟を殺して此所《こゝ》に居る姪《めひ》のお文の身の代金《しろきん》を奪《うば》ひ取たる後腹《あとばら》は道十郎の傘《からかさ》で廣《ひろ》がる惡事を骨《ほね》さへ折ず中山殿を欺《あざ》むいて道十郎へ疊《たゝ》み付《つけ》又小夜衣を賣代《うりしろ》爲し身の代金は博奕《ばくち》と酒と女郎買ひに遣《つか》ひ失《なく》し其上に又小夜衣の手紙《てがみ》を種《たね》に伊勢屋の養子《やうし》千太郎を旨《うま》くも欺《あざむ》き五十兩と云大金を騙《かた》り取其外二十や三十の小《ちひ》さな仕事《しごと》は數《かず》知《し》れず兎角《とかく》惡錢身に付ず忽ち元の木阿彌《もくあみ》と貧乏陶《びんばふとく》りも干上《ひあが》る時弟の女房のお安めが娘に逢《あは》せろ/\と毎日々々《まいにち/\》迫《せま》るのも惡事を働《はたら》く邪魔《じやま》なるゆゑ子分の三次に申付殺させたるに相違《さうゐ》なし餘《あま》り惡事の身代《しんだい》が能過《よすぎ》るゆゑに年月の過たる事は白状《はくじやう》するも面倒《めんだう》なりと申立ければ越前守殿|呵々《から/\》と打|笑《わら》はれ汝《おの》れ長庵|永々《なが/\》強情《がうじやう》に申陳じ居たりしが只今と成て能も自分の惡事に相違なしなどと白状せし者哉|併《しか》しながら先は神妙《しんめう》のことなりと言れ次《つぎ》に久八に向はれ不便《ふびん》なるは其方なり如何程《いかほど》千太郎の惡敷《あしく》とも主人と名の付《つき》し者を假令《たとへ》過《あやま》りにもせよ締殺《しめころ》したる上からは五逆《ごぎやく》の罪は遁《のが》るゝ道無し然れ共其方の身元は元來|捨子《すてご》なる由|最初《さいしよ》よりの事ども篤《とく》と相尋ね度事なり依て伯父《をぢ》六右衞門に尋問《たづね》ん其方|日外《いつぞや》一寸《ちよつと》申上しが猶委細に久八が人と成の始末申立よと有ければ六右衞門|愼《つゝし》んで首《かうべ》を上《あげ》仰《おほ》せの如く此久八は元三州藤川宿の町外れに捨置《すておか》れし身に御座候(是《これ》より久八の履歴《ことがら》は六右衞門が申立の讀續《よみつゞ》きなれども人情《にんじやう》の貫徹《つらぬか》ざる所も有により讀本《よみほん》の口調《くてう》に換《かゆ》れば諸君《みなさん》怪給《あやしみたまふ》勿《なか》れ) [#8字下げ]第三十回[#「第三十回」は中見出し]  抑々《そも/\》久八は去《さんぬ》元祿《げんろく》の頃《ころ》京都《きやうと》丸山通りに安養寺《あんやうじ》と云大寺有り其門前町に住て寺社《じしや》巨商等《きよしやうとう》へ出入を爲す割烹人《れうりにん》吉兵衞と云者いまだ獨身《どくしん》ゆゑ妻《つま》を勸《すゝ》むる者の多かりしが軈《やが》て良縁《よきえん》有てお久と呼《よば》る女を娶《めと》りけるが容貌《きりやう》人に優《すぐ》れ殊《こと》に裁縫《たちぬひ》を能《よく》し讀書《よみかき》も拙《つた》なからず料理人の女房に成《なし》置《おく》は勿體《もつたい》無きなどと見る人|毎《ごと》に言合《いひあへ》る程成ば吉兵衞は一方成ず思ひ偕老同穴《かいらうどうけつ》の契《ちぎ》り淺《あさ》からず暫時《しばらく》連添《つれそふ》内《うち》姙娠《にんしん》なし元祿二年四月廿八日|玉《たま》の如く成《なる》男子を儲《まう》け夫婦の喜悦《よろこび》假令《たとふ》るに物《もの》無く蝶《てふ》よ花よと慈《いつく》しみ育《そだつ》る中《うち》に間も無|妻《つま》のお久時の流行《はやり》風邪《かぜ》を引《ひき》たるが初めにて一兩日|過《すぐ》る中《うち》に發熱《はつねつ》甚《はなは》だしく次第に病《やま》ひ重《おも》りて更に醫藥《いやく》の効《しる》しも無く重症《ぢうしやう》に赴《おもむ》きしかば吉兵衞は易き心も無《なく》殊《こと》に病ひの爲《ため》に乳《ちゝ》は少しも出ず成りければ妻の看病《みとり》をしつゝ情《なさ》け有《ある》家《いへ》へ乳貰《ちもら》ひに赴《おもむ》き漸々《やう/\》にして育《そだ》つれ共|乳《ちゝ》の足《たら》ざれば泣|沈《しづ》む子よりも猶《なほ》悲《かな》しく思ひ最う此上は神佛《しんぶつ》の加護《かご》に預《あづ》かるより他事無しと吉兵衞は祇園《ぎをん》清水《きよみづ》其外|靈場《れいぢやう》へ祈誓《きせい》を掛《かけ》精神《せいしん》を摧《くだ》きて我が妻の疾《やまひ》平癒《へいゆ》成さしめ給へと祈りしかば定まり有《ある》命數《めいすう》にや日増《ひまし》に勞《つか》れ衰《おとろ》へて今は頼み少なき有樣に吉兵衞は妻の枕邊《まくらべ》に膝《ひざ》さし寄《よせ》彼是《かれこれ》と力をつけ言慰《いひなぐさ》めつゝ何か食《た》べよ藥《くすり》を飮《のみ》ねといと信實《まめやか》に看病《みとり》なせども今ははや臨終《いまは》の近く見えければ夫婦《ふうふ》親子の別れの悲《かな》しさ同じ涙にふし芝《しば》の起《おこ》る日もなき燒野《やけの》の雉子《きゞす》孤子《みなしご》になる稚兒《をさなご》より捨《すて》て行《ゆく》身《み》の親心《おやごころ》重《おも》き枕《まくら》を揚《あげ》兼《かね》る妻のお久は熟々《つく/″\》と夫《をつと》の顏を打詠《うちなが》め物ごしさへも絶々《たえ/″\》に此子を頼む此子をと云《いふ》一|言《こと》が此世の餘波《なごり》涙《なみだ》に濕《しめ》る枕邊《まくらべ》は雨に亂《みだ》れし糸萩《いとはぎ》の流《なが》れに沈《しづ》むばかりなり然ば男乍《をとこなが》らも吉兵衞は狂氣《きやうき》の如く歎《なげ》きつゝ斯《かく》まで妻の顏《かほ》痩《やせ》て昔に變《かは》る哀《あは》れさよと落《おつ》る涙を堰敢《せきあへ》ず空《むな》しき死骸に抱《いだ》き付のう我が妻よ今一度此世に戻《もど》りて給はれや言事《いふこと》有《あり》と臥轉《ふしまろ》び如何《いか》成《なれ》ばこそ此如《このごと》く果敢無《はかなき》縁《え》にしに有りしやと呼《よ》び叫《さけ》べど答へさへ泣《なき》ゐる我子を抱上《いだきあ》げ今日より後は如何にせん果報《くわはう》拙《つた》なき乳呑子《ちのみご》やと聲を放《はな》つて悲《かな》しむを近所の人々聞知りて追々《おひ/\》集《あつ》まり入來り悔《くや》み言《いひ》つゝ吉兵衞に力を付て一同に通夜迄もなし翌朝《よくあさ》は泣々《なく/\》野邊《のべ》の送《おく》りさへ最《いと》懇《ねんごろ》に取行なひ妻の紀念《かたみ》と孤子《みなしご》を漸々《やう/\》男の手一ツに育《そだ》てゝ月日を送りけり [#8字下げ]第三十一回[#「第三十一回」は中見出し]  偖《さて》も吉兵衞は素《もと》より富《とめ》る身ならねば乳母《うば》を抱《かゝ》ゆべき金力《ちから》も無《なく》情け有家へ便《たよ》り腰《こし》を屈《かゞ》めて晝夜を分《わか》たず少し宛《づつ》の貰《もら》ひ乳《ぢ》を成《なし》又は乳《ちゝ》の粉や甘酒《あまざけ》と一日々々を送る體《さま》側眼《わきめ》で見てさへ不便《ふびん》成《なる》に子の可愛《かあい》さの一筋に小半年|程《ほど》過《すご》せしが妻のお久が病中より更に家業も成ぬ上|死後《しご》の物入《ものいり》何や斯《か》やに家財雜具を賣喰《うりぐひ》なし迂濶々々《うか/\》活計《くら》して居たりしが吉兵衞|倩々《つく/″\》思ふ樣獨身成ば又元の出入の家々へ頼みても庖丁《はうちやう》さへ手に持《もつ》ならば少しも困《こま》らぬ我が身なれど此兒の有故|家業《かげふ》も出來ず此上居喰にする時は山をも空《むな》しく失《なく》なす道理《だうり》子供を何處《どこ》へか遣《や》り度《たく》も些《ちつと》は金子を付ざれば貰《もら》うて呉る人もなし又|貰《もら》ひ乳《ちゝ》に行度にも初めの程は機嫌能《きげんよく》呑《のま》せて呉し家にても今日は用事で他行《たぎやう》せり今朝《けさ》から風邪《ふうじや》の心地《こゝち》にて乳《ちゝ》の出樣も少なく成|宅《うち》の子にさへ飮足らねば御氣の毒だと斷《ことわ》りを言れて戻る其《その》つらさ斯《かく》ては終に親子共|餓死《がし》より外に目的《めあて》なし如何成ばこそ斯迄に哀《あは》れの身とは成けるぞや思《おも》ひ廻《まは》せば運《まは》す程妻のお久に別《わか》れしが此身の不運《ふうん》不幸《ふかう》ぞと思案に暮て居たりしが所詮斯樣の姿にて故郷《こきやう》に恥《はぢ》を晒《さら》さんより寧《いつ》そ江戸の淺草にて水茶屋渡世の甚兵衞は從弟《いとこ》の縁《えん》もある事故彼を便《たよ》りて行ならば又|能《よき》手段《しゆだん》も有べきやと心の内に思ひを定め賣殘したる家財《かざい》を集め金に換《かへ》つゝ當歳の子を懷《ふところ》に住馴し京都の我が家を立出て心細くも東路《あづまぢ》へ志ざしてぞ下りけり元より馴《なれ》ぬ旅と云殊に男の懷ろに當歳の子を抱きての驛路《うまやぢ》なれば其|辛《つら》さは云も更なり漸々にして大津の宿を辿《たど》り過《すぎ》打出《うちで》の濱を打越て堅石部《かたいしべ》や草津宿|草枯時《くさがれどき》も今日と暮《くれ》明日《あした》の空も定め無き老の身ならねど坂の下五十三次半ば迄|懷《ふとこ》ろの兒に添乳《そへぢ》を貰ひ當なき人の乳を當に行先々の氣配りに難儀《なんぎ》艱難辛苦《かんなんしんく》とも云《いは》ん方なき事どもなり漸々にして三州岡崎迄は來《きたれ》ども素《もと》より手薄《てうす》の其上に旅の日數も重なれば手當の金子《かね》をも遣込《つかひこみ》殘《のこ》り少なに成ける程に心は彌猛《やたけ》に思へども猶《なほ》如何に共|爲《せん》術《すべ》なく必竟《ひつきやう》斯る難澁《なんじふ》に及ぶと云も兒の有故身の振方《ふりかた》も成ぬなり此上|親子《おやこ》餓死《うゑじに》に成行事の悲《かな》しさよ寧《いつ》そ此子も妻諸共に死んで呉《くれ》なば此樣に今の困苦《こんく》はせざりし者と泣々《なく/\》頼《たの》む貰《もら》ひ乳の足ぬ勝《がち》なる養育《やういく》に繋《つな》ぐ我が子の玉の緒《を》の細《ほそ》くも五|體《たい》痩《やせ》ながら蟲氣《むしけ》も有ぬ健《すこや》かさ縁《えん》有ればこそ親子と成何知らぬ兒に此|憂苦《いうく》を見するも過世《すぐせ》の因縁《いんえん》成《なる》か不便の者をと嘆《かこ》ちしが我から心を鬼になし道途《だうと》に迷ふ親の身を助《たす》かる手便《てだて》は此|乳子《ちご》を捨るより外に思案なしと我が子の寢顏《ねがほ》を打|詠《なが》め涙ながらに心を定め其處よ彼處《かしこ》と思へ共|竟《つひ》に其日は捨兼て同じ宿なる棒端《ぼうばな》の境屋《さかひや》と云|旅籠屋《はたごや》に一宿なして明の朝此所の旅店《やどや》を立出て人の往來《ゆきゝ》の無中に疾《と》く捨《すて》なんと右《と》つ左《おい》つ其場所がらを見歩行《みあるく》折《をり》から早藤川にさし掛り夜も良《やゝ》白《しら》む頃なれば宿外《やどはづ》れなる或家の軒端《のきば》の下に寢たる子をそつとさし置たち出しが又立もどり熟眠《うまひ》せし其顏|熟々《つく/″\》打ながめ偶々《たま/\》此世で親と子に成し縁《えに》しも斯ばかり薄《うす》き契《ちぎ》りぞ情なし然ど汝《なんぢ》を抱へては親子が畢《つひ》に餓《う》ゑ死に外に爲《せん》術《すべ》なきまゝに可愛《いとし》我が子を捨るぞや強面《つれなき》親《おや》と怨《うらみ》なせぞ只《たゞ》此上は善人《よきひと》に拾ひ上られ成長せば其人樣を父母と思ひて孝行《かうかう》盡《つく》すべしと暫時《しばし》涙に昏《くれ》たりしが斯《かゝ》る姿を他の人に見咎《みとが》められなば一大事と二足三足|去《さり》掛《かけ》しが又振返りさし覗《のぞ》き嗚呼《あゝ》我ながら未練《みれん》なりと心で心を勵《はげ》ましつゝ思ひ極めて立去けり [#8字下げ]第三十二回[#「第三十二回」は中見出し]  夫|生《いき》とし生る物子を愛せざるはなし燒野《やけの》の雉子《きゞす》夜《よる》の鶴《つる》皆子を思ふが故に其身の危《あやふ》きをも顧《かへり》みず況《いは》んや萬物の靈《れい》たる人間界《にんげんかい》に於てをや然るに情け無くも吉兵衞は妻の死去せしより身代をば仕舞《しまひ》住馴《すみなれ》し京都《みやこ》を後《あと》になし孤子《みなしご》を抱《かゝ》へて遙々《はる/″\》東《あづま》の空《そら》へ赴《おもむ》く途中《とちう》三州迄は來たれども殆《ほとん》ど困窮《こんきう》に迫《せま》り餘儀なく我が子を藤川宿の町外れに捨《すて》たるは是非もなき次第なり嗚呼《あゝ》勿體《もつたい》なくも一|天《てん》萬乘《ばんじよう》の皇帝《おほぎみ》も世の中|下樣《しもざま》の人情《にんじやう》を知ろしめされ賜うて後水尾帝《ごみづをてい》の御製《ぎよせい》に「あはれさよ夜半《よは》に捨子《すてご》の泣《なき》やむは母にそへ乳《ぢ》の夢《ゆめ》や見つらん」とは夜更《よふけ》て外面《そとも》の方に赤子《あかご》の泣聲《なくこゑ》の聞えしは捨子にやあらんと最と哀《あは》れに聞えたりしが兎角するうちに彼|泣聲《なきごゑ》の止たりしかば如何せしやらんと思ひぬるうち又もや泣出しける程《ほど》に扨《さて》は今《いま》暫《しば》し泣止《なきやみ》しは捨《すて》られし子の夢心《ゆめごころ》に我が母に添乳《そへぢ》せられし所をや見し成んと一入《ひとしほ》哀《あは》れのいやませしと言つる心の御製なり又芭蕉翁《ばせをおう》の句《く》にも「猿《ましら》さへ捨子《すてご》は如何《いか》に秋《あき》の暮《くれ》」是や人情《にんじやう》の赴く處なるらん扨《さて》又藤川宿にては夜明て後《のち》所の人々《ひと/″\》此捨子を見付村役人に屆けなどする中一人の旅僧《たびそう》鼠《ねずみ》の衣《ころも》に麻《あさ》の袈裟《けさ》を身に纒《まと》ひ水晶《すゐしやう》の珠數《ずず》を片手《かたて》に持《もち》藜《あかざ》の杖《つゑ》を突て通りかゝりけるが此捨子を見て杖《つゑ》を止め頓《やが》て立寄りつゝ彼|小兒《せうに》の袖《そで》を廣《ひろ》げ腰《こし》なる矢立を取出して筆《ふで》清《きよ》らかに認《したゝ》められしは「汝《なんぢ》父に疎《うと》まれしに非らず母に疎《うと》まれしに非《あら》ず父母|捨《すて》るに非ず自分の薄命《はくめい》なり元祿二年九月|貧暦《ひんれき》」と書付て其|儘《まゝ》に行過《ゆきすぎ》ける兎角《とかく》する内に村方の役人其外大勢の人|集《あつま》りて地頭《ぢとう》代官所へ訴へ出ければ役人方|見分《けんぶん》の上捨子の儀は村方へ養育申付られ小兒は村方預りと成たるに同村の百姓久左衞門と云者有しが妻|出産《しゆつさん》の後《のち》間《ま》も無く其子病死なし最《いと》本意無く思ひける所乳のあるより村役人に頼まれて此の捨子を預《あづか》り養育《やういく》せしに追々|馴染《なじむ》につれ愛《あい》も優《まさ》りしかば寧《いつ》そ此子を貰《もら》ひ受んと夫婦相談の上村役人に申入しにぞ早速《さつそく》其筋《そのすぢ》へ屆け濟《ずみ》の上米三俵を添《そへ》て彼捨子を久左衞門へ遣《つかは》しける依て名をも久八と附て夫婦の寵愛《ちようあい》淺《あさか》らず養育しけるに一日々々と智慧《ちゑ》付《つく》に隨《したが》ひ他所《よそ》の兒に優《まさ》りて利發《りはつ》なるにより末《すゑ》頼母敷《たのもしき》小兒《せうに》なりと慈《いつく》しみける中月立年暮て早くも七歳の春を迎《むか》へ手習《てならひ》に通《かよ》はせけるに讀書《よみかき》とも一を聞て十を知り兩親《りやうしん》の言葉《ことば》を背《そむ》く事無孝行を盡《つく》す故夫婦の歡《よろこ》び一方ならず久八も手習《てならひ》より歸れば何時も近所の子供と遊びけるが折《をり》に觸《ふれ》ては少しの爭《あらそ》ひより友達《ともだち》子供等が久八の捨子々々と云ければ何とて我が事を捨子々々と云やらんと泣顏《なきがほ》にて我が家へ歸へり久左衞門夫婦に向ひて友達衆《ともだちしう》が喧嘩《けんくわ》がてらに私しの事を捨子々々と毎度|言罵《いひのゝ》しるは何故にやと不審氣《いぶかしげ》に尋《たづ》ねられ久左衞門夫婦は顏見合せ暫時《しばし》默《もく》して居たりしが涙《なみだ》を流《なが》し何故《いか》にも道理《もつとも》なる尋ねなり今日まで云ざりしが實《じつ》は其方事七年前藤川宿の町外《まちはづ》れに棄《すて》て有しなり其時其方の袂《たもと》に書付《かきつけ》て有しは是なりと彼の僧《そう》の落書《らくがき》まで殘り無物語に及びければ久八は子供心に我が身の上を初めて知り棄子《すてご》と云るゝを深く恥《はぢ》たりけん其後は手習を我が家にてなし遊びにも外へ出行《いでゆく》ことなく柔和《おとなし》やかに母の手傳ひをして我が家の内に遊び居るを養父母も其の樣子を見て取|頻《しき》りに其心根を不便に思ひ夫婦相談の上江戸表へ連行《つれゆき》て奉公にてもさするならば立派《りつぱ》な人に成もやせん幸《さいは》ひ弟六右衞門が江戸本石町二丁目に渡世して有ければ是へ往て頼み何れへ成とも奉公に出《いだ》さんものをと忽ち心一|決《けつ》爲し久左衞門は[#「久左衞門は」は底本では「久左右衞門は」]軈《やが》て江戸へと久八を連て下り弟六右衞門に逢《あひ》て事の仔細を委敷《くはしく》話し頼み置つゝ歸りけり因《よつ》て六右衞門|所々《しよ/\》を聞合せけるに神田三河町二丁目にて彼質《かのしち》兩替|渡世《とせい》伊勢屋五兵衞方にて子供を抱《かゝ》へたきよしを聞込早々頼み入れ吉日を撰《えら》んで奉公にぞ遣《つか》はしける [#8字下げ]第三十三回[#「第三十三回」は中見出し]  然《しか》るに此伊勢屋五兵衞と云は古今稀《ここんまれ》なる吝嗇《りんしよく》人にて其|吝《しは》き事譬ふるに物なく所謂《いはゆる》爪《つめ》に火を燈《とも》すとの例《たと》への如くなれば召使《めしつか》ふ下女下男に至る迄一人として永く勤《つと》むる事なく一|季《き》半季《はんき》にて出代る者多き中に久八|而已《のみ》幼年《えうねん》成と雖も發明者にて殊には親に棄られたる其身の不幸を心に忘《わす》れず何事も主人五兵衞の心に恊《かな》ふ樣に萬事に心を配《くば》り曾て外々《ほか/\》の者とは事變り其辛抱は餘所目《よそめ》にも見ゆる程なれば近所近邊の者に至る迄《まで》伊勢五の忠義《ちうぎ》者|々々《/\》と評判高く一年々々と年《とし》重《かさ》なりて終に二十年を送りける故|吝嗇《りんしよく》無類《むるゐ》の五兵衞さへ萬端久八に任せ主人に代りて取扱《とりあつか》ふ樣に成りけるに彌々《いよ/\》人々|賞美《しやうび》して伊勢五の白鼠《しろねずみ》と云れて店向の取締りをも爲すこととなりたりけり因て右捨子の次第を具さに六右衞門より申立ければ大岡殿|熟々《つく/″\》と聞れ再び尋問《たづね》られんとせし時白洲の端《はし》に控《ひか》へし彼富澤町の古着《ふるぎ》渡世甲州屋吉兵衞は先刻《せんこく》より久八六右衞門兩人の申立を聞《きく》度《たび》毎《ごと》に膝《ひざ》を進めて驚怖《おどろき》ながら久八の顏《かほ》をじろ/\と打詠《うちなが》め居たりしが今六右衞門が詞《ことば》の切《きれ》たるを見て恐《おそ》れながら申上ますと正面へ進み出|頓《やが》て越前守殿に向ひ久八事私し二男千太郎を締殺《しめころ》せしと自訴《じそ》仕つりしと雖も全《まつた》く殺《ころ》したるに非ず千太郎事一|體《たい》幼少《えうせう》の頃より持病に癲癇《てんかん》有之候故其場にて右の病ひ差發《さしおこ》り候儀と存じられ候且つ又千太郎儀は久八の恩義を格別に受居しこと成れば勿々《なか/\》以て意趣《いしゆ》意恨《いこん》など有べき樣御座なく候により私しに於て更々《さら/\》恨《うら》みとは存じ申さず候|就《つい》ては格別の御|慈悲《じひ》を以て久八|助命《じよめい》仰せ付られ下し置れ候樣|偏《ひと》へに願ひ上奉つり候と頻りに繰返し/\願ひ立ける程に有合一同の者共昨日迄何とも言ざりし吉兵衞が俄《には》かに遮《さへぎ》つて助命を願ふ事|最《いと》不審《いぶかし》くぞ思ひける扨も此甲州屋吉兵衞と云は其已前京都丸山|安養寺《あんやうじ》門前に住居せし彼の料理人吉兵衞にして東都へ下《くだ》る砌《みぎ》り藤川宿の外《はづ》れへ小兒を棄其後江戸表へ出て從弟《いとこ》の甚兵衞を頼み所々方々の料理の手間取をして居たる中上野の山内へ出入となり四軒寺町|本覺院《ほんがくゐん》の住寺の贔屓《ひいき》に預《あづか》りたり此寺の和尚と云は彼の藤川宿にて先年|棄子《すてご》の袖《そで》へ落書《らくがき》なしたる僧《そう》成《なり》しが或日吉兵衞へ行脚《あんぎや》せし頃の物語りより彼の藤川宿に於て棄子《すてご》の袖《そで》へ落書《らくがき》なしたる事を話けるに吉兵衞心に驚《おどろ》き夫は何時頃《いつごろ》の事なるやと尋問《たづね》ければ和尚は指折算《ゆびをりかぞ》へ元祿二年九月の事なりと聞より吉兵衞は涙を浮《うか》べ其子を棄たるは則ち私しなり其事情《そのことがら》は云々《しか/″\》斯樣々々《かやう/\》の貧苦《ひんく》に迫《せま》り現在《げんざい》我が子を棄たりと我が身の罪をも打忘《うちわす》れて懺悔《ざんげ》なすにより和尚も奇異《きい》の事《こと》に思ひ夫より別して吉兵衞を贔屓《ひいき》になし富澤町古着渡世甲州屋とて身代《しんだい》も可成《かなり》なる家へ入夫《いりむこ》の世話致されたり其後吉兵衞夫婦の中に男子二人を儲け兄を吉之助と名付弟を千太郎と呼|昨日《きのふ》に變《かは》る身代となり我が身の安心なせしに付ても其|昔《むか》[#ルビの「むか」は底本では「むかし」]し京都にて妻のお久の不仕合《ふしあは》せ又藤川の宿|外《はづ》れへ棄《すて》し我が子は其後如何になりしや情《なさけ》ある人に拾はれ育《そだ》ちしかと種々《しゆ/″\》手を盡《つく》し探索《たづね》しかど更に樣子のしれざりしに今六右衞門の物語りにて久八|社《こそ》は彼の時に棄《すて》たる我が子に相違《さうゐ》なしと心の中に分明《わかり》し故《ゆゑ》頻《しき》りに不便《ふびん》彌増《いやま》して只管《ひたすら》命《いのち》を助け度思ふ心の迫來《せきくれ》ば訴へ事も後《あと》や先《さき》揃《そろ》はぬ詞も道理《だうり》なり [#8字下げ]第三十四回[#「第三十四回」は中見出し]  却説《かくて》甲州屋吉兵衞は廿|有餘年《いうよねん》の其昔し東海道の藤川宿へ貧苦《ひんく》に迫《せま》つて棄《すて》たる我が子に場所も有《あら》うに白洲《しらす》にて再會《さいくわい》せんとは思ひきや夢かとばかりに思はれて後先も無く突然《いきなり》と助命《じよめい》は願へど流石《さすが》にも久八|事《こと》は私しの悴《せがれ》なりとも云出し兼|然《さり》とても又|棄置《すておく》時《とき》は五逆の大罪遁るゝ道なし此身を棄ても歎願《たんぐわん》せねば第一|死《しん》だ母親の位牌《ゐはい》の前へも言譯なし久左衞門とか云人の情《なさけ》によりて斯《かく》迄に成人《ひとゝな》りたる者なるか親は無とも子は育《そだ》つとの諺言《ことわざ》も今知られけるとは云物の是迄は苦勞《くらう》辛苦《しんく》を爲し續《つゞ》け現在《げんざい》弟の千太郎の事を思ひて紙屑《かみくづ》を買《かふ》身《み》と迄に零落《おちぶれ》ても眞の人に成んと思ひ赤心《こゝろ》の誤よりも息《いき》の根の止たを直樣《すぐさま》に自ら訴へ主殺しの御|所刑《しおき》願ふ氣なげさよ我が子で有ぞ可愛《かあい》やと抱《いだ》きも仕度親心|立派《りつぱ》な男も三|歳兒《つご》の樣に思はるゝのが子を思ふ人の習ひぞ無理ならじ吉兵衞は嬉《うれ》しいと悲《かな》しとにて前後|揃《そろ》はぬ助命願ひには越前守殿は何か此|助命《じよめい》願《ねがひ》には深《ふか》き譯《わけ》の有|事《こと》やと英才深智の奉行にも事の仔細《しさい》の分り難く暫時《しばらく》頭《かうべ》を傾《かた》ぶけ居らるゝ折柄《をりから》猶《なほ》も吉兵衞は聲《こゑ》震《ふる》はし只今も申上奉つりし通り二男千太郎儀は全く持病《ぢびやう》の癲癇《てんかん》を發したることゝ心得候へば久八の仕業には決して御座なく候殊には現在《げんざい》千太郎の親たる私しより斯《かく》願《ねが》ひ上る上からは聊《いさゝ》か以て久八を恨み申べき存念《ぞんねん》之なく候よしや然《さ》なく候共千太郎が身持を直さん爲に異見《いけん》をなし誤《あやま》つて斯樣の時宜に立至りたる事なれば久八に害心《がいしん》なきは素《もと》よりの儀に御座候依て私しより助命《じよめい》只管《ひたすら》願《ねが》ひ上奉つり候と申立ければ越前守殿|悉皆《こと/″\》く打聞《うちき》かれ如何に其方久八が助命の儀を願ふと雖も其は思ひも寄ず假令《たとへ》平生《へいぜい》何樣《どのやう》に忠義を盡せしことの有しにもせよ主人の悴《せがれ》を過《あやま》つて締殺《しめころ》したるには相違なし然る上は容易《ようい》成《なら》ざる罪人《つみんど》なり嚴重《げんぢう》に申付るは天下の大法《たいはふ》公邊《こうへん》の掟《おきて》なり餘の儀に付て慈悲の取計らひを願ふこと成ば兎も角も計らひ方有べけれ共|主殺《しゆごろ》しの大罪を差免《さしゆる》すとは相成ず然るを強て申立ること其方は町人の身故に公儀《おかみ》の御定法を相|辨《わきま》へぬ所なり得手《えて》勝手《かつて》而已《のみ》申立るなり如何樣汝が願ひに及べばとて天下の御定法には替難《かへがた》しと申さるゝを吉兵衞|再々應《さい/\おう》押返《おしかへ》し否々《いへ/\》久八ことは主人を殺し候と申譯にては決して御座無候と何時までも同じ事を繰返《くりかへ》し/\何の憚《はゞか》る色も無く申立ければ居並びたる人々|甚《はなは》だ氣の毒《どく》に思ひ這《こ》は物に狂《くる》ひしか吉兵衞御奉行樣の御前にて主人の養子千太郎を締殺《しめころ》したりと自訴に及びし久八を主殺しには之無と云は何事ぞや此上如何なる御|叱《しか》りを蒙《かうふ》りやせんと皆々《みな/\》安《やす》き心も無き所に越前守殿には大いに不審《いぶか》られ是吉兵衞久八ことは千太郎を締殺《しめころ》したる趣きを當人《たうにん》の口より申立之有處に却つて其方一人|遮《さへぎ》つて主殺しには之無と申立ること其|謂《いは》れ有やと言葉|和《やは》らかに尋《たづ》ねられければ吉兵衞は先年の始末今更申立るも恥の上の恥とは思へども久八が命《いのち》には代難《かへがた》し然《さり》とて外に申立べきことも無《なく》途方《とはう》に暮《くれ》て居たりけり [#8字下げ]第三十五回[#「第三十五回」は中見出し]  扨《さて》も吉兵衞は今ぞ大事と思ひ切《きり》愼《つゝし》んで又々申立る樣|素《もと》より久八と千太郎とは兄弟に御座候と顏を赤《あか》らめて云ければ越前守殿是を聞れ吉兵衞其方は狂氣《きやうき》にても致したるや取留《とりとめ》もなきこと而已《のみ》申|奴《やつ》かな然ながら千太郎は久八と兄弟なりとは如何の譯にて右樣の儀を申立るや一圓|合點《がてん》の行ぬ事なり其|仔細《しさい》有ば申すべしと云れしかば吉兵衞答ふる樣右の次第は事|長々《なが/\》込入候儀にて全體《ぜんたい》私しは京都《きやうと》下《しも》四條の生れにして其後丸山安養寺門前に住居致し候砌り一人の男子を儲《まう》け候處間もなく妻久こと病死致し候に付病中の物入|葬送《さうそう》の雜費等《ざつぴとう》にて貧苦《ひんく》に迫《せま》り何分小兒の養育も致し難く御當地に一人の從弟《いとこ》之有候間彼を便りて國元を出立《しゆつたつ》致し東海道を罷り下り候へども道中の事故小兒の乳《ちゝ》に困《こま》り果《はて》旅費《りよひ》の貯《たくは》へとても殘《のこ》り少なに成《なり》漸々《やう/\》三州藤川宿迄で參りし折柄|不便《ふびん》には候得共|餓死《がし》せんよりはと存じ同宿の町外《まちはづ》れへ棄兒《すてご》に仕つり候然るに只今六右衞門久八兩人よりの申立を承まはり久八は豫て探索《たづねる》我が子なることを知り驚《おどろ》き入申候|尤《もつと》も其時の證據と申は其後御當地上野の御山内四軒寺町本學院の和尚《をしやう》先年私し藤川宿へ棄兒《すてご》せし跡《あと》へ通り掛り棄兒を見て其|袖《そで》へ落書《らくがき》いたし候由其儀は只今兩人の者より申上候通りなり然るを私し不思議にも本學院の住職《ぢうしよく》より右樣の次第を承《うけた》まはり及び候に付|其以來《それいらい》種々《いろ/\》手を替《かへ》品《しな》を替《かへ》相尋《あひたづ》ね候へども更に行方相分り申さず猶又其後私し事は當時の家へ入夫仕《にふふつかま》つり兩人の子供も持即ち兄を吉之助弟を千太郎と名付候儀に御座候右の久八は藤川宿へ私し棄《すて》たる子に候其上本學院殿の落書《らくがき》且《かつ》又《また》年月日迄も符合《ふがふ》仕つる上は紛《まが》ふ方無き私し惣領《そうりやう》の悴《せがれ》に相違《さうゐ》御座無く候夫故久八は千太郎の爲には兄に候間兄弟と申上候右久八の儀は今日只今始めて承知仕つり候|實々《じつ/\》私しも驚き入候なりと申立ければ大岡殿|威猛高《ゐたけだか》になられ汝《おの》れ吉兵衞其方は不埓《ふらち》成ことを申立る奴《やつ》かな汝ごときの者何事も辨《わきま》へざると覺《おぼ》えたり抑《そも》棄子《すてご》を致したりと有ては容易《ようい》成ざる罪人なり然るを何ぞや汝が罪をも思はず右樣申立るは畢竟《ひつきやう》久八へ千太郎より恩義《おんぎ》を報じさせんとの存意にて右樣の儀を申立久八の助命を願ひしことゝ覺《おぼ》えり詐《いつは》りを構《かま》へ公儀を欺《あざ》むかんとする段不屆き至極なり久八は全く主殺しに相違無しと大いに叱《しか》れしは越前守殿の心の中如何思されてのことやらんと吉兵衞も恐《おそ》れ入てぞ控《ひか》へける [#8字下げ]第三十六回[#「第三十六回」は中見出し]  仁智《じんち》明斷《めいだん》の大岡殿も久八が助命《じよめい》の儀を甲州屋吉兵衞|俄《には》かに願ひ出たるは如何|成《なる》事情《ことがら》有ての儀やと勘考《かんかう》せられし處今吉兵衞が長々《なが/\》しき申立を奇異《きい》のことに思はれしが再度《ふたゝび》熟考《じゆくかう》あるに久八が千太郎を縊殺《しめころ》したるは全く實意《じつい》よりなせし過《あやま》りにして自ら訴へ出御|仕置《しおき》を願ふ所にて恨《うら》みも晴《はれ》たれば一ト通りの歎願《たんぐわん》にてはとても助命|覺束《おぼつか》なく思ひ六右衞門の申立たる棄子に事寄吉兵衞が差當りての作意《さくい》にて斯《かゝ》ることをや云ひ出たるものならんかと一時は思はれけれども又|篤《とく》と容子《ようす》を見らるゝに全く|詐《いつは》りにもあらぬことを悟《さと》られ殊《こと》に慈善《じぜん》を第一に天下の爲下民の安全を心掛らるゝことなれば久八が過《あやま》つて縊殺《しめころ》せしと云ひ無證據《むしようこ》のことなるを自訴《じそ》せしにて赤心《せきしん》の顯《あら》はれたれば如何にもして助け遣はし度と心を勞せられし折からなれば是《これ》幸《さいは》ひと越前守殿工夫有つて重ねて吉兵衞を見られ然らば汝が言《い》ふ通り久八は全く主殺しとは治定《ぢぢやう》致すまじ又其方の棄子《すてご》にして實《じつ》の悴《せがれ》と云ことは生前の儀なれば更に取上る處なし又千太郎儀五兵衞方へ參り居候とは申ながらいまだ養子《やうし》に遣《つか》はしたると云には有まじ畢竟《ひつきやう》當人の樣子|柄《がら》をも五兵衞方にて見屆け其上にて養子に取極めんと奉公人同樣に遣《つか》はし置《おき》たることならん然すれば久八が爲に千太郎ことは傍輩《はうばい》にして未だ主人とは申難し其|傍輩《はうばい》の千太郎の身持を直さんとて誤まつて呼吸《こきふ》を止たると有からは罪科《ざいくわ》も大いに相違なり如何に五兵衞其方と千太郎が樣子|柄《がら》を見屆ける迄は奉公人|同樣《どうやう》召使《めしつか》ひ置しに非ずやとの仰せに五兵衞はハツとばかりに平伏《へいふく》なし如何にも仰せの通りに御座候と答へ申けるに依て久八が主殺《しゆごろ》しの廉《かど》は越前守殿の明斷《めいだん》に依て遁《のが》れる緒《いとぐち》にこそ成にける [#8字下げ]第三十七回[#「第三十七回」は中見出し]  猶《なほ》又大岡殿五兵衞へ尋問《たづね》らるゝ樣千太郎儀は吉兵衞方より奉公に遣《つか》はし置《おき》たるを先達《せんだつ》てより悴又は養子《やうし》などと申立しは往々《ゆく/\》養子にも致す了簡《れうけん》故に右樣申立たる者ならんと有ければ五兵衞は直《すぐ》さまぬからぬ顏《かほ》にて仰せの通り千太郎ことは矢張《やはり》奉公人に召仕《めしつか》ひ居候得共|往々《ゆく/\》は養子に致し申べく所存に御座候事|故《ゆゑ》折々《をり/\》養子又は悴などと申上候段|誠《まこと》に恐《おそ》れ入奉つり候と越前守殿の云れし通りを申立けるこそ笑《をか》しけれ扨さしも種々《いろ/\》樣々《さま/″\》に縛《もつ》れし公事《くじ》成りしが今日の一度にて取調べ濟《すみ》に相成口書の一|段《だん》までに及びけり嗚呼《あゝ》善惡《ぜんあく》應報《おうはう》の著《いちじ》るしきは索《あざな》へる繩《なは》の如しと先哲《せんてつ》の言葉《ことば》宜《むべ》なる哉《かな》村井長庵は三州藤川在岩井村に生立《おひたち》て幼年《えうねん》の頃より心底《こゝろざま》惡《あし》く成長するに隨《したが》ひ惡行《あくぎやう》増長《ぞうちやう》して友達の勘次郎と云者を謂《いは》れ無く撲殺《うちころ》し村方を逐轉《ちくてん》して江戸へ出小川町竹田長生院方へ奉公に住込《すみこ》み奉公中|竊鼠々々《こそ/\》物を盜《ぬす》み溜《ため》其後麹町へ醫業を開き一時|僥倖《さいはひ》を得ると雖も忽《たちま》ち病家《びやうか》も無なりしより惡漢者《しれもの》を集《あつ》めて博奕宿をなし在所《ざいしよ》より遙々《はる/″\》と便《たよ》り來りし弟十兵衞を芝札の辻に於て殺害し年貢《ねんぐ》の未進《みしん》に血の涙《なみだ》にて娘文を苦界《くがい》へ沈めし身の代金を奪《うば》ひ取て其罪を浪人藤崎道十郎に巧言《かうげん》を以て負《おは》せ又妹お富を欺《だま》して同じ丁字屋へ賣渡し身の代金を掠《かす》めとり其上に母のお安を三次に頼《たの》みて殺させ加之《しかのみならず》千太郎を欺《あざむ》きて五十兩の大金を騙《かた》り取猶又同人を打擲《ちやうちやく》なし其數々の惡事一時に露顯《ろけん》して言破《いひやぶ》ること能《あた》はず終に口書《こうしよ》爪印《つめいん》をなすに至る又伊勢屋五兵衞|元《もと》召使《めしつか》ひ久八の如き忠義は町人にめづらしき者なれど過《あや》まつて主殺《しうころ》しの大罪《だいざい》を犯すに至れること恐るべき次第なり然《され》ども天《てん》誠《まこと》を照《てら》し給ふにより大岡越前守殿の如き賢《けん》奉行の明斷《めいだん》に依て遁《のが》れ難き死刑一等を宥められ豆州《づしう》八丈島へ流罪《ながされ》存命《ぞんめい》せしも長庵の大罪に處せられけるも善惡《ぜんあく》應報《おうはう》の然らしむる所にして敢《あへ》て珍《めづら》しからず 享保二年六月廿八日一同|申口《まをしくち》調《しら》べ上《あげ》と相成同日長庵始め引合の者共白洲へ呼込《よびこみ》になり越前守殿|高《たか》らかに刑罰《けいばつ》申渡されける其次第は「三州藤川在岩井村無宿當時江戸麹町三丁目重兵衞店作藏事町醫師村井長庵五十三歳 其方儀《そのはうぎ》三州藤川在岩井村に罷《まか》り在候|砌《みぎ》り同村に於て百姓|勘《かん》次郎を殺害《せつがい》に及び國元を脱走《かけおち》爲《な》し當地へ罷《まか》り出小川町|邊《へん》武家奉公《ぶけほうこう》に身分を詐《いつは》りて住込《すみこみ》奉公中所々にて金銀《きんぎん》衣類等を盜《ぬす》み取右の金を資本《もとで》として當時の住所へ借宅《しやくたく》なし醫業を表に種々の惡事を働《はたら》き第一弟十兵衞國元に於て年貢《ねんぐ》の未進《みしん》に差迫《さしせま》り娘文を其方が世話を以て遊女に賣し身の代《しろ》金四十二兩を持て歸國の節《せつ》丑刻《やつ》の鐘《かね》を寅刻《なゝつ》と詐《いつは》り出立させ置後より見え隱《かく》れに忍《しの》び行芝札の辻にて同人を欺《だま》し討になし其金を奪《うば》ひ取《とり》夫《それ》而已成《のみなら》ず文妹富を欺《あざむ》きて遊女に賣渡し同人の身の代金三十兩をを掠《かす》め取《とり》其後十兵衞|後家《ごけ》安《やす》を己れが惡事|露顯《ろけん》を覆《おほ》はん爲三次へ頼みて淺草|中田圃《なかたんぼ》にて殺害に及ばせ又神田三河町二丁目|家持《いへもち》五兵衞|召使《めしつか》ひ千太郎より五十兩の金子を騙り取候|而已成《のみなら》ず同人を打擲《ちやうちやく》に及び剩《あまつ》さへ惡事の證人忠兵衞夫婦へ無實《むじつ》の難題《なんだい》を申|懸《かけ》邪舌《じやぜつ》を以て罪科を負《おは》せんと工《たく》み右の金子は殘らず酒喰《しゆしよく》遊興《いうきよう》に遣捨《つかひすて》候|段《だん》重々《ぢう/\》不屆至極《ふとゞきしごく》に付町中|引廻《ひきまは》しの上獄門」「武州小手塚村無宿一名早乘事三次三十七歳 其方|儀《ぎ》所々《しよ/\》に於て小盜《こぬす》み致し其上麹町三丁目町醫村井長庵に同意爲し淺草|中田圃《なかたんぼ》に於て三州藤川在岩井村百姓十兵衞|後家《ごけ》安《やす》を殺害《せつがい》致し其外|種々《しゆ/″\》右長庵に加擔《かたん》致し惡事|相働《あひはたら》き候段不屆|至極《しごく》に付|獄門《ごくもん》」「神田三河町二丁目家持五兵衞元召使三州藤川在岩井村百姓久左衞門悴當時本石町二丁目甚兵衞店六右衞門方同居久八二十九歳 其方儀[#「二十九歳 其方儀」は底本では「二十九歳其 方儀」]元主人五兵衞|召使《めしつか》ひ千太郎|身持《みもち》放埓《はうらつ》に付其方兄分の好身《よしみ》を以て千太郎が朝歸りの折柄《をりから》新吉原土手にて其方|行逢《ゆきあひ》見るに忍びず異見《いけん》を爲すこと數度《すど》に及び千太郎|面目《めんぼく》無《な》さに逃《にげ》んと爲すを其方|取押《とりおさ》へるはずみに咽喉《のど》の呼吸《こきふ》を停《とゞ》め相果《あひはて》たる赴き畢竟《ひつきやう》傍輩《はうばい》の心實より爲したる事實と相聞え加ふるに千太郎|實父《じつぷ》吉兵衞外一同よりも助命を願ひ出又其方こと速《すみや》かに自訴《じそ》に及びし段|神妙《しんめう》に付死一等を許《ゆる》され豆州《づしう》八丈島へ遠島《ゑんたう》申付る」「新吉原江戸町二丁目丁字屋半藏代文七 其方儀先年召|抱《かゝ》へ候文こと[#「候文こと」は底本では「候文と」]丁山儀は人主《ひとぬし》請人夫々相違之無候に付|年季《ねんき》勤《つと》め上し上は勝手《かつて》次第たるべし妹富こと小夜衣儀は同人|伯父《をぢ》村井長庵と無宿《むしゆく》三次と申合せ母《はゝ》安《やす》を欺《あざむ》き賣代《うりしろ》成せし處|聢《しか》と身元請人等相調べず抱《かゝ》へ置候段行屆かざるに付|過料《くわれう》三貫文申付る尤も小夜衣事は直《すぐ》に證文|差許《さしゆる》し岩井村百姓十兵衞|身寄《みより》太郎作へ引渡し遣《つかは》すべし」「新吉原江戸町二丁目丁字屋半藏抱遊女ふみ事丁山 富《とみ》事小夜衣 其方共主人へ右之通り申渡し置《おき》候間|心得《こゝろえ》として聞置《きけおく》」「三州藤川在岩井村百姓十兵衞亡身寄太郎作 其方身寄十兵衞二女富こと小夜衣《さよぎぬ》儀は新吉原江戸町二丁目丁字屋半藏より此度其方へ引渡し遣《つかは》し候間|世話《せわ》致し遣《つか》はすべし」「赤坂傳馬町二丁目長助店元麹町三丁目浪人藤崎道十郎後家願人みつ 其方儀願ひ出候|目安《めやす》を取調《とりしら》べる處|事實《じじつ》相違《さうゐ》無之《これなく》且《かつ》永年《えいねん》夫《をつと》無實《むじつ》の罪科《ざいくわ》に逢《あひ》しを歎《なげ》かは敷《しく》心得|貞節《ていせつ》を相守り悴道之助|養育《やういく》に及び罷《まか》り在候段|神妙《しんめう》の至りに候之に依て夫道十郎儀|罪科《ざいくわ》悉皆《こと/″\》く差許《さしゆる》され候|追善《つゐぜん》供養《くやう》勝手《かつて》次第|爲可《なるべく》且又御|褒美《はうび》として銀二枚取せ遣はす」「同人悴道之助 其方儀|實父《じつぷ》道十郎事|牢死《らうし》いたし候後母光の養育を請候より追々《おひ/\》成長に及び候處|幼弱《えうじやく》の身に之あり乍《なが》ら日頃より母に孝養《かうやう》を盡《つく》し罷り在其身は母の助けに相成べくと毎日|晴雨《せいう》を厭《いと》はず未明《みめい》より起出て枝豆《えだまめ》其外時の物を自身《じしん》賣歩行《うりあるき》難澁《なんじふ》をも厭《いと》はず孝行盡し候|段《だん》幼年《えうねん》には似合ざる孝心|奇特《きどく》之事に候|依《よつ》て御|褒美《はうび》として鳥目《てうもく》十貫文|取《とら》せ遣《つか》はす」「麹町三丁目庄兵衞地借瀬戸物渡世忠兵衞同人妻とみ 其方共|儀《ぎ》八ヶ年以前平川天神|裏門《うらもん》前にて町醫師村井長庵こと雨中《うちう》傘《かさ》も持《もた》ず立戻《たちもど》り候を見請候はゞ其|節《せつ》道十郎身分にも關《かゝ》はり候事故|早速《さつそく》にも申立べくの處其儀無く打過《うちすぎ》候段不埓に付屹度申付べきの處此度證人に相立其方が申立に依《よつ》て事實《じじつ》明白《めいはく》に行屆《ゆきとゞ》き候儀も有之に付格別の御|憐愍《れんみん》を以て無構《かまひなし》」「麹町三丁目家主共 其方共 店内に差置《さしおき》候醫師村井長庵儀は身分|慥《たし》かならざる者に之あり候處|存《ぞん》ぜずとは申ながら永年《えいねん》差置候段不屆に付|叱《しか》り置」「神田三河町二丁目家持伊勢屋五兵衞 富澤町家持甲州屋吉兵衞 本石町二丁目甚兵衞店六右衞門 赤坂傳馬町二丁目長助店浪人藤崎道十郎後家|光《みつ》店受人清右衞門 右みつ家主長助 其方共一同取調べ候處別段不都合の筋《すぢ》もこれなく候に付何れも構無《かまへなし》」右之通り一同相心得申べく旨申|渡《わた》され八ヶ年以前中山出雲守殿|調《しらべ》にて無實《むじつ》の横死《わうし》を遂《とげ》し浪人藤崎道十郎が修羅《しゆら》の亡執《まうしふ》も此處に浮《うか》み出て嬉く思ふなるべし果せる哉《かな》惡事の報《むく》い速かに巡《めぐ》り來りてさしも申|詐《いつは》りたる村井長庵が奸謀《かんぼう》も悉皆《こと/″\》く調べ上に相成|初《はじめ》て貞婦《ていふ》お光《みつ》孝子《かうし》道《みち》之助が善報の程は神佛《しんぶつ》の應護《おうご》にも預《あづか》りし物成んと其|頃《ころ》風聞《とりさた》なせしとぞ偖《さて》其翌年に至りて公儀《こうぎ》に有難き大赦《たいしや》の行はれけるに御|上《かみ》にも久八が忠義の程を御|賞感《しやうかん》有《あら》せられし事成れば直《すぐ》に此|大赦《たいしや》の中《うち》へ加へられ終《つひ》に御免にて遠《とほ》き八丈島より歸國にこそは及びけれ依て六右衞門へ引渡《ひきわた》しに相成其後三河町伊勢屋五兵衞にも追々《おひ/\》取年《とるとし》にて養子《やうし》千太郎死去に及びたるより家を讓《ゆづ》るべき子もなく居たる所なる故《ゆゑ》甲州屋吉兵衞へ相談《さうだん》の上六右衞門方より吉兵衞方へ久八を引取《ひきと》り元《もと》主人《しゆじん》五兵衞方へ改《あらた》めて養子にぞ遣《つか》はしける然ば昨日迄《きのふまで》に遠き八丈の島守《しまもり》となりし身が今日は此|大家《たいか》の養子と成《なり》し事實に忠義の餘慶《よけい》天より福《さいは》ひを授《さづ》け賜《たま》ふ所ならん然るに久八は養父五兵衞に事《つか》ふること昔《むかし》に優《まさ》りて孝行を盡《つく》し店《みせ》の者勝手元の下男に至る迄|憐《あは》れみを懸《かけ》正直《しやうぢき》實義《じつぎ》を以て遣《つか》ひける故に一同|擧《こぞ》つて出精《しゆつせい》なし益々《ます/\》伊勢屋の暖簾《のれん》富《とみ》榮《さか》えければ其久八が赤心《せきしん》に感《かん》じて養父五兵衞も生《うま》れ變《かは》りし如く慈善《じぜん》の心を發《おこ》し昔しの行ひを恥《はぢ》己れは隱居して久八に家督《かとく》を讓《ゆづ》りしとぞ爰《こゝ》に又丁山と小夜衣の兩人は程《ほど》なく曲輪《くるわ》を出てたり姉の丁山二世と言替《いひかは》せし遠山《とほやま》勘《かん》十郎と云し人も病死なせしかば其跡を弔《とぶら》ひ小夜衣《さよぎぬ》は千太郎が横死《わうし》せしは我身より起《おこ》りし事と忘《わす》るゝ隙《ひま》のなくばかりなれば在所《ざいしよ》の身寄《みより》太郎作へ引渡《ひきわた》されしゆゑ所々より嫁に貰《もら》はんと言込《いひこむ》者の數《かず》有ども兩親の菩提《ぼだい》の爲《ため》尼《あま》に成らんと姉妹《はらから》兩人《ふたり》心を決し在所《ざいしよ》の永正寺と云|尼寺《あまでら》へ入|翠《みどり》の黒髮《くろかみ》を剃《そり》て念佛《ねんぶつ》三|昧《まい》に生涯《しやうがい》を送《おく》りし事こそ殊勝《しゆしよう》なれ然《され》ば長庵を指《さし》て大膽無敵《だいたんふてき》の[#「大膽無敵の」はママ]惡賊《あくぞく》にして大岡殿|勤役《きんやく》中四五の裁許《さいきよ》なりと世に云|傳《つた》ふると雖も長庵が白状《はくじやう》の際《とき》に至り證據人忠兵衞を怨《うら》むこと卑怯《ひけふ》未練《みれん》の小賊《せうぞく》なり古語《こご》に人の知ること勿《なき》を欲《ほつ》すれば爲《なす》こと勿《なき》に若《しく》なし人の聞《きく》こと勿《なき》を欲《ほつ》すれば言こと勿《なき》に若《しく》なしと宜《むべ》なる哉《かな》嗚呼《あゝ》謹愼《つゝしま》ずんば有べからず。 村井長庵一件[#1段階小さな文字]終[#小さな文字終わり] [#改丁] [#ページの左右中央] 直助權兵衞一件[#「直助權兵衞一件」は大見出し] [#改丁] [#1段階大きな文字]直助權兵衞《なほすけごんべゑ》一件《いつけん》[#大きな文字終わり] [#8字下げ]第一回[#「第一回」は中見出し]  茲《こゝ》に播州《ばんしう》赤穗《あかほ》の城主《じやうしゆ》淺野内匠頭殿《あさのたくみのかみどの》家臣《かしん》大石内藏助《おほいしくらのすけ》始《はじ》め忠義《ちうぎ》の面々《めん/\》元祿《げんろく》十五年十二月十四日|吉良上野介殿《きらかうずけのすけどの》邸《やしき》へ討入《うちいり》と極《きはまり》同月十日に大石内藏助は小山田庄左衞門《をやまだしやうざゑもん》を招《まね》き同志《どうし》の人々《ひと/″\》家内《かない》を片付《かたづけ》支度致《したくいた》すに付て金銀の入用有べし太儀《たいぎ》ながら諸所へ行《ゆか》れ金子を與へ給へとて二百五十兩相渡せしかば心得候と出行《いでゆく》を引留《ひきとめ》其金にて不足も有ば濱町の堀部彌兵衞片岡源吾右衞門にて廿卅の金は借候べしと申渡し又貴樣の刀は寸延《すんのび》と見えたり室内の働《はたら》きには不便《ふべん》なれば是《これ》を進《まゐ》らせんと則光《のりみつ》の二尺五寸[#「二尺五寸」は底本では「五尺五寸」]有しを與へければ忝《かたじ》けなしと押戴《おしいたゞ》き是にて討入の節《せつ》思《おも》ふまゝに働き申さんと喜びて立出しが如何なる惡魔《あくま》に魅入《みいら》れしにや俄然《にはか》に欲心《よくしん》萌《きざ》して此十四日の夜討に入りなば討死|爲《する》か又は切腹なすか二ツの外は出《いづ》べからず幸《さいは》ひ此二百五十兩を路金《ろぎん》として立退《たちのか》ばやと思ひしが毒《どく》を喰《くら》はゞ皿迄《さらまで》とは爰《こゝ》のことなりと片岡堀部前原なんどを廻り大石殿より家々《いへ/\》片付《かたづけ》の金使《かねつか》ひに命ぜられたれども不足の時は各々より二十三十づつ借請《かりうけ》る樣《やう》にと申されたりと云て各々《めい/\》より請取《うけとり》其外《そのほか》衣類《いるゐ》夜具迄《やぐまで》も所々にて借入|何處《いづく》共《とも》なく迯亡《にげうせ》けり是《これ》福貴《ふくき》なり共《とも》人《ひと》百年の壽命は保ち難し瓦《かはら》となりて保《たも》たんより玉となりて碎《くだ》けよとは宜《むべ》なる哉大石と倶《とも》に死しなば美名は萬世に殘るべきを呼呵《あゝ》淺猿《あさまし》きは人欲《じんよく》なり [#8字下げ]第二回[#「第二回」は中見出し]  偖《さて》も同志の人々は小山田庄左衞門が逐電《ちくでん》せしを聞て大いに怒り追掛て討止《うちとめ》んと云しを大石制して其身に惡事有れば夜討の事を泄《もら》す氣遣《きづかひ》なしと止めしが豫《かね》て申合せし四十七人十四日の夜全く本望を遂《とげ》翌朝泉岳寺へ引取けるに大勢の見物は雲霞《うんか》の如く忽ち四方に評判聞えけり爰《こゝ》に庄左衞門が妹《いもうと》は美麗《びれい》にして三|味線《みせん》などよく彈《ひく》故《ゆゑ》品川の駿河屋何某の許《もと》へ縁付けるに庄左衞門が父十兵衞は古稀《こき》に近く腰《こし》は二重に曲居《まがりゐ》るを此駿河屋方へ預《あづ》け置しが十四日の夜討のことを聞き如何に本望遂《ほんまうとげ》たるや子息《せがれ》庄左衞門は高名なしたるかと案事居《あんじゐ》けるに浪士《らうし》泉岳寺へ引取しと聞き二本の杖《つゑ》に縋《すが》り大勢の見物を押分《おしわけ》るに見物山の如くにて近寄事|叶《かな》はず其中に討入の者の名前|書《がき》を賣歩行《うりあるく》故《ゆゑ》買取《かひとり》て見るに寺坂吉右衞門迄名前|有共《あれども》小山田と云は無し這《こ》は記者の間違《まちがひ》ならんと又賣來るを買取《かひとり》見《み》るに同じく漏居《もれゐ》ければ十兵衞|不審《いぶかり》ながら立歸りしが其夜に至り子息《せがれ》庄左衞門|逐電《ちくでん》せし事を始て聞知り切齒《はがみ》を爲て怒り歎きしが夜中に書置《かきおき》を認《したゝ》め腹《はら》掻切《かききつ》て亡《うせ》たりけり是庄左衞門が非道の行ひに因《よつ》て老體の父《ちゝ》斯《かく》成行《なりゆき》しは庄左衞門が不義の手に掛りしも同じ事なり斯《かく》て後《のち》庄左衞門は姑《しばら》く田舍《ゐなか》に潜居《かくれゐ》て外科《げくわ》を習《なら》ひ覺《おぼ》え兩三年立て妻子を引連《ひきつれ》深川萬年町に賣家《うりいへ》を買《かひ》中島《なかじま》立石《りふせき》と改名して醫業を營《いとな》みとせしに殊《こと》の外《ほか》繁昌《はんじやう》致し下男下女を置き妻と娘一人を相手に暫時《しばし》無事に消光《くらし》けり [#8字下げ]第三回[#「第三回」は中見出し]  茲《こゝ》に立石《りふせき》が下男に直助と云ふ者有り元《もと》は信州の生れにして老實《まめ/\》しく働きけるが下女に心を懸《かけ》種々に口説《くどく》と雖も直助は片田舍《かたゐなか》の生れにて此下女は江戸の出生《しゆつしやう》故直助が云ふ事を聞ず兎角《とかく》強面《つれなく》當りしを立石夫婦も知り折《をり》に觸《ふれ》ては笑ひなどしけるを直助は面目なく且《かつ》は遺恨《ゐこん》に思ひ居たるに或夜立石夫婦は酒に醉《ゑひ》て前後も知らず寢入《ねいり》しを見濟《みすま》し其の夜|丑滿《うしみつ》の物凄《ものさびし》き折こそ能けれと直助は寢息《ねいき》を窺《うかゞ》ひ竊《そつ》と起出《おきいで》押入《おしいれ》の中に有る箪笥《たんす》の抽斗《ひきだし》を開け金を奪《うば》ひ取らんとなせしかど錠前《ぢやうまへ》堅固《けんご》なれば急に開《あけ》る事|叶《かな》はず其中に十二歳なる娘《むすめ》不※[#「圖」の「回」に代えて「面から一、二画目をとったもの」、256-15]《ふと》目《め》を覺《さま》し母樣《かゝさん》那《あ》れ直助がと云ふ聲聞き立石が枕邊《まくらべ》にある刀を引拔《ひきぬき》無殘《むざん》にも娘を刺殺《さしころ》せども猶立石は前後も知らず醉臥《ゑひふし》居《ゐ》たるを直助は直樣《すぐさま》上《うへ》に跨《またが》り咽喉《のどもと》を突貫《つきとほ》し一ゑぐりに殺して又《また》箪笥《たんす》の方へ行《ゆか》んとせしに女房は密《そつ》と續いて來るを振返《ふりかへ》り樣三刀四刀に切殺せり其中に下女は表《おもて》へ迯出《にげいで》人殺々々《ひとごろし/\》と呼《よば》はりながら金盥《かなだらひ》を叩《たゝ》き立てしかば近隣の人々|馳付《はせつけ》る樣子を見て金を奪《うば》ふ隙《すき》もなく裏口《うらぐち》より驀直《まつしぐら》に迯出《にげいだ》し行衞《ゆくゑ》も知れずなりにけり(時に正徳四年|冬《ふゆ》十二月義士十三|回忌《くわいき》の時に當り庄左衞門は下僕《げぼく》の爲に切殺されしは然《しか》も大石より與へられし則光の刀なりと小山田が不義《ふぎ》天《てん》奚《なん》ぞ恕《ゆる》し給はんや又直助は御尋ね者となり近き頃まで諸所の關所に直助が人相書《にんさうがき》有《あ》りしを知る人に便《たよ》りて見たることあり實《げ》にや因果は廻《めぐ》る車の如く直助が身の上も思ひ知られたり)其後《そのご》直助は人相書を以て御尋ね者と成し所《ところ》一|向《かう》行衞《ゆくゑ》知《し》れざりしに享保も四年となりし頃は最早《もはや》五六年も立し故《ゆゑ》氣遣《きづか》ひなしとは思へども肩《かた》へ藍《あゐ》にて黶《あざ》の如く入墨《いれずみ》をなし額《ひたひ》にも腮《あご》の形《かたち》を畫《ゑが》き前齒二枚|打缺《うちかき》て名を權兵衞と改め麹町六丁目米屋三左衞門方に米搗《こめつき》に住込《すみこみ》居《ゐ》たるを町方《まちかた》の役人《やくにん》怪しみ早速|召捕《めしとり》て嚴敷《きびしく》拷問《がうもん》に及びしかど一向白状せざれば偖《さて》は直助にては非ざりしかと此段大岡殿へ申立しにぞ越前守殿《ゑちぜんのかみどの》然《さ》も有るべしとて呼び出され如何に權兵衞其方は科《とが》もなき者なるを役人|捕違《とりちが》へて是迄|吟味《ぎんみ》に及びし事氣の毒の至りなり定めし身體も弱《よわ》り手足も利《きく》まじ然《さ》れば此儘に歸しては當分《たうぶん》嘸《さぞ》難儀《なんぎ》なるべし依て金五兩|取《とら》せ遣はす間《あひだ》是にて能々療治をなし渡世を致せ主人三左衞門も權兵衞を介抱《かいはう》して遣《つか》はせ誠に不便《ふびん》のことなりしいざ立てと申さるゝを聞き權兵衞は嬉《うれ》しさ何に譬《たと》へん方なく其金を持て白洲《しらす》を立ち五六|間《けん》行處《ゆくところ》を大岡殿コリヤ直助と呼び掛けられしに天命《てんめい》遁《のが》れ難《がた》くハイと振向《ふりむき》しを夫《それ》縛《しば》れと云るゝを聞き南無三と潛戸《くゞりど》を迯出《にげいだ》さんとなすを同心ばら/\と立懸り忽ち繩《なは》をぞ掛けたりける(是《これ》其身《そのみ》の科《とが》を白状せざる者へ甘《あま》き詞《ことば》を掛け金迄《かねまで》與へられし故《ゆゑ》偖《さて》は我が惡事知ずして命《いのち》助《たす》かり金まで貰《もら》ひたりと嬉《うれ》し悦び何心なく立ち去んとせし時《とき》思《おも》はずも直助と呼び掛けられ渠《かれ》に答へをさせられし秀才《しうさい》頓智《とんち》實《げ》に等閑《なほざり》の及ぶ處に非ず)之に依て又々|吟味《ぎんみ》に及ばれし處一|旦《たん》荒膽《あらぎも》を挫《ひし》がれたれば如何に強膽《がうたん》の者なりとも勿々《なか/\》隱《かく》す事能はず立石が家内三人切殺せし事ども殘らず白状|成《なし》ければ小塚原《こづかはら》に於て終《つひ》に磔《はりつけ》にこそ行《おこな》はれけれ 直助權兵衞一件[#1段階小さな文字]終[#小さな文字終わり] [#改丁] [#ページの左右中央] 越後傳吉一件[#「越後傳吉一件」は大見出し] [#改丁] [#1段階大きな文字]越後傳吉《ゑちごでんきち》一件《いつけん》[#大きな文字終わり] [#8字下げ]第一回[#「第一回」は中見出し]  古人《こじん》曰《いは》く近きを計《はか》れば足《たら》ざるが如く遠きに渡れば乃ち餘り有りと爲す我國《わがくに》聽訟《ちやうしよう》を云ふ者|大概《おほむね》青砥藤綱《あをとふぢつな》大岡忠相《おほをかたゞすけ》の兩氏が明斷を稱す茲に説出《ときいだ》すは其大岡殿勤役中屈指の裁許にして頃は享保年間に越後の國高田の城下を距事《さること》七八里|寶田村《たからだむら》に工藤傳吉《くどうでんきち》と云ふ百姓あり祖父の代より田畑《でんばた》數多《あまた》持ち傳吉が父傳藏の代迄名主役を勤《つと》め父傳藏に至り水損《すゐそん》打續《うちつゞ》き其上|災害《さいがい》并《なら》び至りて田畑殘りなく失ひ悴《せがれ》傳吉十六歳の時《とき》親《おや》傳藏は病死なし母一人殘り孝行《かうかう》を盡しけるに母も父が七|回忌《くわいき》に當《あた》る年《とし》病死なしければ傳吉の愁傷《しうしよう》大方ならず且《かつ》親類《しんるゐ》は只|當村《たうむら》の長《をさ》上臺憑司《かみだいひようじ》而已《のみ》なれ共是は傳吉の不如意を忌《きら》ひ出入をなさず又母は樽見村《たるみむら》の百姓源兵衞の娘にて妹一人あり此妹に家を繼《つが》せ自分は傳吉の家へ嫁入《よめいり》せしに父源兵衞病死の後は妹お早|身持《みもち》宜《よか》らず聟《むこ》を三人迄取りけれ共皆離縁になり其後惡き者と欠落《かけおち》し母方の跡《あと》は斷絶《だんぜつ》せり此外には親類もあらざれば母は臨終《りんじう》の時傳吉に向ひ我が妹お早は其方の爲に實の叔母《をば》なれども先年《せんねん》村を欠落《かけおち》なし今は其の在家《ありか》を知らざれ共我が亡後《なきあと》に巡《めぐ》り逢《あは》ば其方力になりて呉《くれ》よと遺言《ゆゐごん》して終りてより實に親《しん》はなきよりとは斯如《かくのごとき》ならん夫後《そのご》傳吉は人に頼《たの》まれ江戸表へ飛脚《ひきやく》に來たり途中《とちう》鴻巣宿《こうのすじゆく》を通り掛るに道の傍《かた》はらに親子と見ゆるが休み居たり傳吉は何心なく彼女親を見るといと窶《やつれ》たる形《かたち》なれども先年家出せし叔母お早に似たりと思ひしゆゑに立戻《たちもど》り段々樣子を聞きたるに叔母お早に相違なく且つ先年家出せし後此娘お梅と云るを設《まう》け當時は此宿に足を止《と》め人に雇はれ憂《うき》年月を送る旨物語るに傳吉も母の遺言《ゆゐごん》なにくれと話しなどし此上は及ばずながらお力にも成《なら》んと云ふに親子《おやこ》は地獄《ちごく》で佛に逢うたる如くに歡びけるが傳吉は飛脚《ひきやく》の事故一先|袂《たもと》を別ち江戸へ來り用事を濟《すま》せ立ち歸る時に又|叔母《をば》のお早を尋ねしに猶《なほ》段々《だん/\》と難儀《なんぎ》の咄《はな》しをなす故見捨難く近所へ厚《あつ》く禮《れい》を述べ直に越後へ連歸《つれかへ》りぬ扨傳吉は貧《まづし》き暮《くら》しの中にて叔母と從弟《いとこ》[#「從弟《いとこ》」は底本では「從|弟《いとこ》」]を養育《はごくむ》[#「養育《はごくむ》」は底本では「養|育《はごくむ》」]事容易に非ず殊に實家さへ絶《ぜつ》せし叔母に斯く孝行を盡す事人々|譽合《ほめあへ》り扨お梅も當年十八歳傳吉は廿六歳幸ひの縁と心中を聞合《きゝあは》せしに兩人共|得心《とくしん》の樣子故夫婦と成したり斯て傳吉は村の評判《ひやうばん》宜《よろ》しき故親類といひ捨置《すておか》れずと名主|上臺憑司《かみだいひようじ》も出入を始め悴《せがれ》昌次郎も時々に出這入《ではひり》なし居たり [#8字下げ]第二回[#「第二回」は中見出し]  扨て又傳吉は倩々《つら/\》思ふに我が家世々村長成しが父の代より家《いへ》衰《おとろ》へ田畑《たはた》も失ひ剩《あまつ》さへ從弟《いとこ》上臺憑司《かみだいひようじ》に村長役《むらをさやく》を奪《うば》はれ今では人々にまで見落さるゝ口惜《くちをし》さ是も世の有樣と思ひ十六七の時より何卒《なにとぞ》再び家を起《おこ》さんと志ざし牛馬に等《ひと》しき荒稼《あらかせ》ぎして勵《はげ》めども元より母は多病《たびやう》にて始終《しじう》名醫にも掛しかど終に養生《やうじやう》叶《かな》はず亡《むな》しく成しが其|入費《いりめ》多分有る所へ又叔母を養《やしな》ひ妻を持《もち》貧《まづし》き上に貧《まづ》しくならん今の中に江戸に出て五六年も稼《かせぎ》なば能き事も有べしと思ひ或日叔母女房に向ひ此事を直談《ぢきだん》に及びければ大いに驚《おどろ》き是は思ひ掛《かけ》なき事を云るゝものかと我が身親子が飢《うゑ》もせず今日迄|暮《くら》しけるは皆此方の陰《かげ》なり今更老たる叔母此梅|諸共《もろとも》置去《おきざり》にせんとならば勿々《なか/\》止《とめ》はせじ夫ならば其樣《そのやう》に白地《あから》さまに申給はれと云けるにぞ傳吉大いに迷惑《めいわく》し是は/\叔母や女房を置去《おきざり》にせん心なら最初《さいしよ》より諸方を尋ね歩行《あるき》鴻《こう》の巣《す》より態々《わざ/\》連《つれ》ては歸らず私しの江戸へ出るは我が身の利を計《はか》るに非ず五六年も苦《くる》しみなば元の田畑《でんばた》取戻《とりもど》すことも出來左すれば村長にも成る家柄《いへがら》故《ゆゑ》先祖《せんぞ》への孝養《かうやう》と思ひ兼《かね》て心|懸《がけ》置たる錢十貫文之を殘《のこ》し置《おか》ば當時の暮し方は澤山《たくさん》あらん來年は給金の半《なかば》を分《わけ》贈《おく》り申べし待《まつ》は久しき樣なれども只一|筋《すぢ》に勤《つと》め上早々立歸りて元の田地取戻し候はゞ先祖への面目《めんぼく》親への孝行是に増《ます》事なし能々《よく/\》聞分て給はれと申ければ叔母女房も得心《とくしん》して俄《にはか》に旅《たび》の用意《ようい》をなし父母の墓《はか》へ參詣《さんけい》し夫より村長|上臺憑司《かみだいひようじ》方へ行き妻子のことを頼《たの》み置き其日|住馴《すみなれ》たる寶田村を立ち出て東の空へぞ旅立《たびだち》けり時に享保三年九月十日の事なり足《あし》に任《まか》せて行けるに十日の月さし出つゝ暮《くれ》て宿《やど》なき一人|旅《たび》頻《しき》りに急ぎ歩行《あるき》し所にぴかりと光《ひか》る物あり足にて踏返《ふみかへ》せしに女の櫛《くし》なりければ何方の人が落《おと》せしやらんと手に翳《かざ》し見れば鼈甲《べつかふ》の最《いと》古《ふる》びたるにて齒《は》も三ツ四ツ缺《かけ》たり是を拾ひ取り行くほどに一里|塚《づか》の邊《ほと》りより申々御旅人樣是より先に人里なし此宿《このやど》へ御泊り成れと走り來るを見返れば年の頃十三四なる少女なり今日は勞《つか》れたり何所へ泊るも同じ事|案内《あんない》頼《たの》むと家路《いへぢ》を指《さし》て急《いそ》ぎけり [#8字下げ]第三回[#「第三回」は中見出し]  斯《かく》て傳吉は小娘に誘引《いざなは》れ許《と》ある家に入て見れば柱《はしら》は曲《まが》りて倒《たふ》れ軒《のき》は傾《かたぶ》き屋根|落《おち》ていかにも貧家《ひんか》の有樣なれば傳吉は跡先《あとさき》見回し今更立ち出んも如何と見合ける中に小娘は盥《たらひ》へ温湯《ぬるゆ》を汲《くん》で持ち出で傳吉の足を洗《あら》ひ行燈《あんどう》提《さげ》先に立ち座敷へ伴ひ木枕《きまくら》を出し些《ちと》寢轉《ねころ》び給へとて娘は勝手へ立ち行き半時ばかり出で來らず傳吉は頭《かしら》を回《めぐら》し家内《かない》の樣子を窺《うかゞ》ひ見る程に元は相應《さうおう》の旅籠屋と見えて家の作りやう由緒《ゆゐしよ》ありげに見えけれども彼の小娘の外一人もなきは山樵《やまかつ》か盜賊《たうぞく》の棲巣《すみか》ならんと頻《しき》りに怪しくなり逃道《にげみち》を見て置ばやと密《ひそか》に見回す折柄《をりから》壁《かべ》の落たる那方にて最《いと》苦《くる》し氣なる咳《せき》を成《なし》苦聲《うなるこゑ》の聞ゆるにぞ壁《かべ》の穴《あな》よりさし覗《のぞ》くに年の頃五十ばかりの男|病耄《やみほゝ》けて顏色《かほいろ》青《あを》ざめ餘程長き煩《わづら》ひに勞《つか》れたる樣子なり傳吉は此體を見て密《ひそか》に元《もと》の座へ立ち歸り彼は正しく此所の主《あるじ》さては娘の父ならん然れば山賊の隱《かく》れ家《が》にも非ずと安堵《あんど》して在る所へ彼娘の勝手より膳《ぜん》を持ち出で傳吉が前に差し置き嘸《さぞ》やお空腹《ひもじう》候はん私し一人にて煮炊《にたき》致し候ゆゑ急《いそ》ぐとすれども時移《ときうつ》りお待ち兼て在りしならん緩々《ゆる/\》上《あが》りてお休《やす》みなされませと言ふものごしに愛敬《あいきやう》を含《ふく》み至つて賢《かしこ》く見えければ傳吉今更|哀《あは》れに思ひ箸《はし》を下に置き小娘に向ひ斯《かく》廣《ひろ》き家に唯一人立ち働《はたら》き給ふは[#「給ふは」は底本では「廣ふは」]昔しの餘波《なごり》痛《いたま》しく思ふなり殊に病人の有る樣子に見受《みうけ》しが其方《そなた》の父なるか母は在《いま》さずや其方名は何んと申す今宵限《こよひかぎ》りの宿ながら聞まほしと云ひければ娘は忽《たちま》ち涙《なみだ》を流《なが》し有難き今の御言葉身の悲《かな》しさをお話し申さん彼所《かしこ》に臥《ふし》たるは父にて候ふ所其以前は可成なる旅籠屋《はたごや》なりしが私し五歳の時母は相果たり夫よりは家の活業《なりわい》衰《おとろ》へ下女下男に暇を取せ其中にお早と申すを父が後妻《こうさい》とし私が爲《ため》に繼母《まゝはゝ》なりしも家は段々衰へて父は四年以前より苟且《かりそめ》の病ひにて打臥《うちふし》たるが家の事|打任《うちまか》せたる彼のお早どのは夫の病氣を看護《みとり》もせず其上|家財《かざい》着類《きるゐ》金子迄|掻集《かきあつ》め家出なし三年の今日迄|行衞《ゆくゑ》[#「行衞《ゆくゑ》」は底本では「行|衞《ゆくゑ》」]知ず母には實の娘一人ありけるが夫を同伴《ともなひ》て此家を出しは我が家の次第に傾《かたむ》く身代に見切を付て他へ移《うつ》り恩《おん》を仇なる畜生めと病の中に父の腹立《はらだち》此怒りを寛《なだ》めんにも泣《なく》より外の事もなく心|細《ぼそ》さに跡《あと》や先昔は恩《おん》を請《うけ》たる者も今は見放《みはな》し寄付《よりつか》ず身近き親類なければ何語らんも病の親と私しと二人なれば今迄《いままで》御定宿の方々も遂に脇《わき》へ皆取られ只一人も客はなし其上|去々年《をととし》の山津浪《やまつなみ》荒《あれ》たる上に荒果《あれはて》て宿《やど》借《かる》人も猶猶なく親子の者の命の綱《つな》絶果《たえはて》る[#「命の綱《つな》絶果《たえはて》る」は底本では「命の《つな》綱絶《たえはて》果る」]身の是非もなく宿の外《はづ》れに旅人を一人二人づつ無理にお宿を申ても此有樣に皆樣が門口よりして逃《にげ》ゆかれ今日は貴方《あなた》をお止め申し聊《いさゝ》か父が藥の代《しろ》になさんと存じて御無理にもお宿を願ひあげたる事|赦《ゆる》し給へとて泣伏《なきふ》したる娘が體《てい》見るも不便《ふびん》を覺《おぼ》えけり [#8字下げ]第四回[#「第四回」は中見出し]  然《され》ば傳吉お專《せん》が物語りを聞て歎息《たんそく》し扨々世の中に不幸《ふかう》の者我一人にあらずまだ肩揚《かたあげ》[#ルビの「かたあげ」は底本では「たかあげ」]の娘が孝行四年こしなる父の大病を今日迄|看病《かんびやう》疎《おろ》そかならねば爭《いか》で天道|憐《あはれ》まさらん今こそ斯あれ後々は必ず榮華《えいぐわ》の身とならんと我が叔母女房の噂《うはさ》とは夢にも知らずいたりける此ぞ傳吉が叔母お早が事にして此はお早親子も深《ふか》く隱《かく》しける故傳吉は知らざりし偖《さて》何かなと考《かんが》へしが先に拾ひし鼈甲《べつかふ》の櫛《くし》こそ好けれと取り出し是は我等が山間《やまあひ》にて※[#「圖」の「回」に代えて「面から一、二画目をとったもの」、264-14]らず拾ひし品なる故《ゆゑ》之を賣代《うりしろ》なすならば少しばかりの錢にはならん父御の口《くち》に叶《かな》ひし物を調《とゝの》[#ルビの「とゝの」は底本では「とゝろ」]へてなり進《まゐ》らせよと件《くだん》の櫛《くし》を與《あた》へしかば娘は之を押戴《おしいたゞ》き行燈《あんどう》の灯《ひ》に指翳《さしかざ》し一目見るより打ち驚き之は先《さき》つ頃私しが道に遺《おと》せし品にして母の紀念《かたみ》の櫛《くし》なれば家財道具は聊かの物も殘さず賣盡し身に纏《まと》ふべき衣類《いるゐ》さへ今は綴《つゞれ》もあらざれども此品計りは我が母の恩《おん》を忘れぬ心にて生涯《しやうがい》頭《かしら》に頂かんと思ふが故に賣殘しぬ然るを先日|落《おと》して後を種々《いろ/\》と探《さが》し求めて居しなり偖々嬉しき事哉と幾度となく押戴《おしいたゞ》き喜悦《よろこぶ》體《さま》を熟々《つく/″\》見て感心なし今の話しには母御の紀念《かたみ》の此櫛と云はるゝからは片時も忘れ給はぬ孝心《かうしん》を天道樣も憐《あはれ》まれ必ず御惠みなるならん能々|父子《てゝご》を大事になされよ我れ又江戸より歸りの時は再び尋《たづ》ね進《まゐ》らせん名を聞ばやと云ければ父は森田屋銀五郎我が身は專《せん》と呼《よば》れつゝ所に久しき家柄《いへがら》なれども斯《かく》成果《なりはて》しと嘆息の外なかりけり [#8字下げ]第五回[#「第五回」は中見出し]  傳吉は是より江戸表へ着し馬喰町三丁目|信濃屋《しなのや》源《げん》右衞門へ旅宿なし或日案内者を頼み彼方《あなた》此方《こなた》と見物なし江戸第一の靈場《れいぢやう》淺草の觀音へ參詣《さんけい》し能き主取りをなさん事を願ひ夫より口入に頼み奉公口を探《さが》しけるに吉原の廓《くるわ》第一の妓樓《ぢようろや》にて京町の三浦屋に米搗《こめつき》の口有り一ヶ年給金三兩にて住込《すみこみ》日毎《ひごと》に米を搗《つく》を以て身の勤めとはなしにける然るに物|堅《がた》き傳吉は鄭聲《ていせい》音曲《おんぎよく》洞房《どうばう》花燭《くわしよく》の樂《たの》しみを羨《うらや》まず旦《あした》より暮《くる》るまで只管《ひたすら》米を搗《つき》一|粒《つぶ》にても空《むだ》にせず其勤め方|信切《しんせつ》なりければ主人益々悦び多くの米も一向に搗減《つきへり》なく取扱ひ夫より其年の給金《きふきん》を請取るに半分は遣《つかは》し叔母女房の衣食の足《たし》になし殘る所は主人へ預け儉約《けんやく》を第一として勤め居たり [#8字下げ]第六回[#「第六回」は中見出し]  然程《さるほど》に光陰《くわういん》矢《や》の如く傳吉は四五年勤めしが四季の給金|臨時《ふじ》の貰《もら》ひもの等|塵《ちり》積《つも》り山となりて百廿兩程になりし故|宿願《しゆくぐわん》既《すで》に成就したりと頻《しき》りに古郷が懷敷《なつかしく》主人の機嫌を伺ひ越後へ歸り度旨を願ひけるに今三浦屋の白鼠と云はれし者を暇《いとま》をやるは主人も惜《をし》く思ひけれ共|是非《ぜひ》に及ばず首尾能く暇《いとま》を遣《つかは》しければ傳吉大いに悦《よろこ》び豫《かね》て年頃主人へ預けし金百廿兩餘を請取《うけとり》頓《やが》て古郷《こきやう》へ急ぎける斯《かく》て山路に掛り小松原を急ぐ程に身には荒布の如き半纏を纏《まと》ひし雲助二人一里|塚《づか》の[#「塚《づか》の」は底本では「塚の《づか》」]邊より諸共に出て前後より傳吉を引挾《ひつはさ》み親方|骨柳《こり》が重さうに見えるか今日は朝から鐚《びた》一文にもならず少々|揚取《あげと》らせて給はれと骨柳《こり》に手を掛るを傳吉其手を拂《はら》ひ中仙道を足《あし》に懸《か》け年中往來する我等|小揚取《こあげと》らせることはない串戯《じようだん》を爲《し》なと力身《りきん》で見てもびく共せず二人の雲助|嘲笑《あざわら》ひイヤ強い旅人じや雲助は旅人に肩《かた》を貸《かさ》ねば世渡りがならず酒手《さかて》欲《ほし》さに[#「欲《ほし》さに」は底本では「欲《ほし》しさに」]手を出して親にも打れぬ胸板《むないた》を折《をれ》るばかりに突《つ》かれては今日から駄賃《だちん》を取る事出來ずと云ふを旁《かたはら》より一人が往手の道に立ち塞《ふさが》り否《いや》なら否で宜事《いゝこと》なり突《つか》れる咎《とが》は少しもなし何でも荷物を擔《かつが》せて貰《もら》はにや成らぬとゆすり半分|喧嘩《けんくわ》仕懸《しかけ》に傳吉は何とか此場を遁《のが》れなんとせども惡者承知せず彼是|言《い》ふうち其|骨柳《こり》渡せと手を掛るに傳吉今は一生懸命右を拂《はら》へば左より又た一人が腕首《うでくび》を確《しつ》かと取て動《うご》かせず困《かう》じ果《はて》たる折柄此處に來たる旅人あり此有樣を見るよりも衝《つ》と馳掛《はせかゝ》り一人の雲助を取て引擔《ひきかつ》ぎ斗筋打《もんどりうた》せ投付《なげつけ》るに今一人も張倒《はりたふ》し蹴返《けかへ》し乍《ながら》に發打《はつたと》白眼《にらみ》汝等二人は晝日中追落しする不屆者|直樣《すぐさま》捕へ宿場へ連れ立ち御法通りにして呉ん首は入らぬか蠢蟲《うじむし》めと罵りければ惡徒共此勢に恐れけん尻込《しりごみ》して只|眞平御免《まつぴらごめん》と詫《わび》るにぞ夫なら今日は赦《ゆる》して呉んと言捨《いひすて》て是は我等が連れなり率々《いざ/\》御一所にと目配《めくば》せすれば傳吉も夫と悟《さと》りて骨柳を取り打ち連れ立ちて行き乍《なが》ら彼の旅人に打ち對ひ小腰《こごし》を屈《かゞ》め偖々惡者に付られ難儀千萬の處貴君の御救ひにて何事なく誠《まこと》に御禮は言葉に盡し難《がた》しと慇懃《いんぎん》に禮を述《の》べつゝこの旅人を見るに一|癖《くせ》あるべき顏形《かほかたち》なれば如何にもして此者と立ち別れんと漸々《やう/\》野尻宿[#「野尻宿」は底本では「野尼宿」]迄來り近江屋|與惣次《よそうじ》と言ふ旅籠屋へ泊《とま》りける [#8字下げ]第七回[#「第七回」は中見出し]  扨旅籠屋にて年頃《としごろ》十七八ばかり田舍に稀なる女ありと心を留《とめ》てみれば何か見覺《みおぼ》え有る樣にて彼の女も傳吉を見て不審《いぶかし》の顏色《かほいろ》なりけるが連《つれ》の男は湯に入らんと湯殿の方へ到《いた》りし折節彼の女を傳吉は引留《ひきとめ》てお前は何處かで見た樣なれど思ひ出されずと言ば女は傳吉を倩々《つら/\》見て私も見たお方の樣に思ひしが若しや五年前柏原の森田屋へ泊《とま》り給ひし傳吉樣にては御座なきやといふに此方は礑《はた》と手を打ち森田屋の娘子《むすめご》お專どのにて在しよなお前が此所に御座るとは夢《ゆめ》聊《いさゝ》かも知らざりし我等も江戸へ赴《おもむ》きて今度古郷へ歸るゆゑ柏原へ立ち寄りお宅を尋ねしが道にて惡き奴《やつ》に付られ少しも油斷《ゆだん》ならざるまゝ早忽々々《そこ/\》に通り拔しがいつごろ此所へ來られしやと問懸《とひかけ》られ[#「問懸《とひかけ》られ」は底本では「問懸ら《とひかけ》れ」]お專は忽ち涙《なみだ》含《ふく》み父は貴方のお泊りありし其年の暮《くれ》に死亡《みまか》り遂に我家を賣代《うりしろ》なし此旅籠屋は少しの縁由《ゆかり》も有りけるまゝ下女に雇はれ候ふなり先頃|貴方《あなた》の御|惠《めぐ》みに預るのみか取り分て下し給ひし一品は富《とみ》たる人の千金に増《まし》て忘れぬ御恩なり今夜に迫《せま》る貴方の御難儀|大概《たいがい》御察し申たり今夜は私が何|也《なり》とお救ひ申し參らせん御安堵あれと請合《うけあひ》ながらも過さりし親の病苦《びやうく》や身の憂事《うきこと》を思ひ出してや最《いと》としく涙に昏《くれ》て居たりけり傳吉も實《まこと》なる言葉《ことば》に聊《いさゝ》か安堵《あんど》なしたれば猶も物語らんとする所へ彼連《かのつれ》の者の足音せしゆえ空寢入《そらねいり》して居る程にお專も立て出で行けり偖傳吉は金を藁苞《わらづと》より徐《そろ/\》と出し腰《こし》に確《しつ》かと結《ゆひ》つけ之まで風《かぜ》を引たりと僞り一ト夜も湯には入らざるのみか夜もろく/\に目眠《まどろ》まず心を配り在りけるが今夜は彼《か》のお專に委細《くはしく》相談せんと思ふ故少し風も快《こゝろよ》く候へば湯に入りて來らんと湯殿《ゆどの》の方へ立ち出でければお專は疾《とく》に縁側《えんがは》へ立ち出で傍《かた》への座敷《ざしき》へ連れ行て貴方が湯に入り給はんと申さるゝ故|荷物《にもつ》番に御|膳《ぜん》を出し且又|咄《はな》しの内に立せ間敷《まじく》其爲《そのため》に朋輩《ほうばい》を頼み置きたりお咄《はな》しあらば心靜かに咄し給へと最《いと》發明《はつめい》なる働に傳吉は其|頓智《とんち》を感心なし事急ぐなれば摘《つま》んで咄さんが某し江戸表に奉公なし年頃《としごろ》給金其外とも溜置《ためおき》し金百五十兩程に成たり依て此度古郷へ立ち歸り家を興《おこ》し亡《なき》親達《おやたち》へ聊《いさゝ》か孝養《かうやう》に備《そな》へんと出立なす折柄《をりから》輕井澤《かるゐざは》の邊《へん》より彼の曲者《くせもの》と連れに成り道中《みちすが》ら彼の振舞《ふるまひ》に心をつけるに唯者《たゞもの》ならず江戸より付き來りし樣子なり今日も彼者|度々《たび/\》手を出さんとすれ共我も油斷《ゆだん》なく往來の人に交る故其難は免《のが》れたれども今宵《こよひ》一夜が絶體絶命《ぜつたいぜつめい》明日は古郷へ五里|許《ばか》りの處なり今夜を過《すご》せば明日は安堵《あんど》いたすべし何卒今宵の大難を救ひ給へと[#「救ひ給へと」は底本では「救へ給へと」]申しければお專は暫時《しばし》思案の體にてよしや今宵は凌《しの》ぐ共明日道にて如何成る目に遭《あひ》給はんも知れがたし兎角に其金子御身が所持《しよぢ》なし給ひては災ならん私に預《あづ》け給へと言ふに傳吉も豫《かね》てより親孝行は知りしうへ且又|發明女《はつめいぢよ》故《ゆゑ》懷中より金子を出して渡せば確《しか》と懷中して則ち頭に指《させ》し櫛《くし》を出し是はお前樣も知る通り我が爲に千金にも替《かへ》がたき母の紀念《かたみ》にして片時も離《はな》さず祕藏《ひざう》の品|此櫛《このくし》を證據にお渡し申さん鼈甲《べつかふ》の古びたる上に齒《は》の三枚|缺《かけ》て能《よき》證據《しようこ》なれば此度御歸國なし給ひて假令《たとへ》お前がお出なく共此|櫛《くし》さへ持せて遣《つか》はされなば他人にてもお金をお渡し申すべし確《たしか》なる證據故能々此櫛を大切に失ひ給ふなと櫛《くし》を傳吉に渡《わた》しお身金子なく共彼の惡者と明日一所に道連《みちづれ》にならんこと危し今夜の八ツの鐘《かね》を相※[#「圖」の「回」に代えて「面から一、二画目をとったもの」、268-4]《あひづ》に立ち給へとて間道を教《をし》へて一人立せける彼金子をお專が預《あづ》かり金のこと故主人にも深く包《つゝみ》て置きけるとぞ [#8字下げ]第八回[#「第八回」は中見出し]  偖て傳吉は脇道《わきみち》より其の日の八ツ時分に寶田村へ立ち歸り無事に歸國《きこく》のよしを名主方へ屆け置き我が家へこそは歸りける叔母女房は門口《かどぐち》へ出迎ひ偖々五年ぶりにて無事に歸り給ひしことの嬉《うれ》しさよ當年《たうねん》は歸るとの手紙《てがみ》成れ共今時分とは思ひよらず定《さだ》めて暮《くれ》にも成んと存じ居りしに早く歸られて安心なしぬと言ふうちに村中|連《つれ》立ち大勢來りける故叔母も女房も夫々へ挨拶《あいさつ》して居るに名主の憑司《ひようじ》も來り悦びを述《のぶ》る程《ほど》に傳吉も是迄の艱難を物語り偖五時頃皆々|暇《いとま》を告て立ち歸る後に叔母は不思議《ふしぎ》さうに傳吉に向ひ先刻《せんこく》より尋ねやうと存じけるが五六年も奉公なし歸《かへ》られるに風呂敷包《ふろしきづつみ》み[#「風呂敷包《ふろしきづつみ》み」はママ]一つも持ぬとは何《なん》の云譯《いひわけ》だと尋ねければ傳吉は道中にありし始末を物語り彼のお專《せん》より預りし櫛《くし》を出し此だに出しなば誰《たれ》にても金子は渡《わた》し呉《く》れる筈《はず》なれば明日は早々參て受取り來らんと思ふ故此|櫛《くし》は百五十兩の代の品大切なりと申しければ叔母《をば》は大いに悦《よろこ》び偖々《さて/\》夫は危《あやふ》ひこと殊《こと》に百五十の大金は能々心掛ざれば貯《ため》ることは成り難し如何にも斯る大金を溜《ため》る辛苦《しんく》の程察し入る呉々も歡《よろ》こばしきことにこそ而《して》其の櫛《くし》は百五十兩の形《かた》成《なれ》ば佛前へ供《そな》へて御先祖其外|父御《てゝご》にも悦ばせ給へと叔母女房とも口《くち》を揃《そろ》へて申すにぞ傳吉も佛前へ供《そな》へ夫より夜食《やしよく》も濟《すみ》て傳吉は今こそ我家へ立ち歸りし故《ゆゑ》心《こゝろ》落付《おちつ》き草臥《くたびれ》出しにやこくり/\と居眠《ゐねぶ》りけるを叔母は見るより傳吉どのも嘸《さぞ》や勞《つか》れしならんお梅や床《とこ》を敷《しき》[#ルビの「しき」は底本では「きし」]て進《まゐ》らせよと云ひければお梅は夫の床《とこ》を打敷《うちしき》臥戸《ふしど》に伴ひけるに傳吉も安堵《あんど》せしにや枕に着くと其の儘に眠《ねぶ》りけるが翌日の巳刻《よつ》時分漸々|起出《おきいで》顏《かほ》を清め佛前へ向ひ回向《ゑかう》し前夜の櫛《くし》を仕舞《しま》はんと探《さが》せど更に見えざるに叔母に向ひ前夜の櫛《くし》は如何成れしやと問ふに叔母もお梅も口を揃《そろ》へ一向知らずと申すにぞ傳吉は仰天《ぎやうてん》して所々《しよ/\》方々《はう/″\》と尋ねけるに何分見當らず之れによりて家内大いに騷《さわ》ぎたち猶も殘る隈《くま》なく尋ねしに如何にも知れざるゆゑ傳吉も今は詮方《せんかた》なく能々《よく/\》思案《しあん》を巡《めぐ》らすにお專はいたつて正直《しやうぢき》にして殊《こと》に發明の女成ればは[#「成ればは」はママ]櫛《くし》無きも預《あづか》り物を預《あづか》[#ルビの「あづか」は底本では「あづと」]らぬとは申すまじ是より野尻宿へ到り右の譯《わけ》を咄《はな》し金子を受取んと野尻宿へ赴きお專に逢て扨々申分なきことを致したり前夜《ぜんや》歸《かへ》りて櫛《くし》をば百五十兩の形《かた》なりと佛前へ備へ置きけるが今朝《けさ》見れば更になきゆゑ家内中|穿鑿《せんさく》を致すと雖も何分見當らず夫に付き只今參りたり櫛《くし》の代に何程《なにほど》にても取て金子を渡《わた》し給はれと申しければお專は傳吉の顏を熟々《つく/″\》打《う》ち詠《なが》め扨《さて》御前樣は盜賊《たうぞく》に能々見込れ給ひしものと見えたり今朝程《けさほど》お前樣よりお頼みのよしにてお隣家《りんか》なる彌太八とか云る御人が櫛《くし》を御持參有しに間違《まちがひ》も有まじと思ひ右品|引換《ひきかへ》に金子御渡し申したりと櫛《くし》を取《と》り出《だ》して見せければ傳吉は再び仰天《ぎやうてん》なしたりしが心を靜《しづ》め夫は年の頃はいくつ位に候や我が村中に彌太八といふ者なければ我頼みし覺《おぼえ》なし察《さつ》する所前日の惡者の仲間を頼《たの》んで遣《よこ》したるならん五年の間《あひだ》千辛萬苦《せんしんばんく》して貯《ため》たる金子もよく/\我に授らぬ金なり斷念《あきらめ》るより外無しと力を落して茫然《ばうぜん》として居たりけるお專は如何にも氣の毒に思ひ種々《いろ/\》考《かんが》へしに之は全く過日の惡物《わるもの》の業《わざ》に非ず同村中の人|成《な》らん斯《かく》申さば何となく人を誹《そし》る樣なれども私しも係《かゝ》り合ひの事なれば心に思ふ所を申して見んかならずお心に掛《かけ》給ふな實《まこと》に七人の子はなすとも女に心《こゝろ》許《ゆる》すなとの譬《たと》へもありておまへ樣のお留主に女房さんの心變《こゝろがは》りし事もあらんか能々家内に心を用ひ見られよ然《され》ども先何事もなき體《てい》に歸り斯樣々々《かやう/\》にし給へと謀計《はかりごと》を教《をし》へ傳吉をば歸しける [#8字下げ]第九回[#「第九回」は中見出し]  扨て傳吉は其夜《そのよ》亥刻《よつ》過《すぎ》に我が家へ歸りければ女房叔母ともに出で立ち今御歸りなされしや金子は如何にと尋《たづ》ぬるに傳吉|然《され》ばお專殿は留守にて分らず歸りを待んと存ぜしが又々金子|不用心《ぶようじん》ゆゑ明後日參りて受取り來らん先は五ヶ年留守の中《うち》村中の世話《せわ》に成り殊《こと》に百五十兩と云ふ大金を貯《ため》て來りし事なれば村中を明日《あす》呼《よん》で馳走をなさんと思ふなり其用意致すべしと事もなげに申しける女房叔母も其支度を致し村中へ人を廻《まは》し呼びけるにぞ巳刻時分より五六十人一座にて馳走《ちそう》をなし一通り盃盞《さかづき》も廻りければ傳吉はそつと其場をたち表の方へ出れば垣根《かきね》の際《きは》に野尻宿のお專|頭巾《づきん》を眉深《まぶか》に冠《かぶ》り立ち居たり傳吉は密《ひそ》かに宅へ伴ひ忍《しの》ばせて座中を窺《うかゞ》はせたるに此中には其人なしと云ふ故傳吉は又々女房叔母を呼び五ヶ年の中《うち》村中に強《きつ》い御世話に相成しは實に有難き仕合《しあはせ》なり別て上臺|憑司《ひようじ》親子に厚《あつ》き御世話に相成しよし然るに昌次郎いまだみえず御迎《おむか》ひにと申す處へ入り來たり直に傳吉の傍らに着座《ちやくざ》し馳走にぞ預《あづ》かりける傳吉一同へ向ひ私しも江戸表にて宜《よろし》き家へ奉公に有り付き金子少々貯はへたれば古郷《こきやう》の空《そら》もなつかしく罷り歸り候皆々樣へ右の御禮|旁々《かた/″\》麁酒《そしゆ》を進《まゐ》らするなり何も御座らぬ掴《つか》み料理澤山お食《あが》りくだされよと亭主の愛想《あいさう》に人々は大いに悦び盃盞《さかづき》屡々《しば/\》巡るうち時分を計り傳吉は小用に行く體して叔母女房を立せざる樣になし密《そつ》と立ち出でお專に向ひ如何に盜賊《どろばう》は此中に居たりしやと聞きければお專打ち笑ひ實に盜人《ぬすびと》猛々《たけ/″\》しとは虚言ならず今しも後より入り來られ上より八番目に居りたる年若にて色白く太織《ふとおり》の紋付《もんつき》の羽織《はおり》にて棧留《さんとめ》の着物を着たる人こそ間違ひなく彌太八と名乘て參《まゐ》りし人なりと云ふを聞て傳吉は吃驚《びつくり》なし彼は名主殿の子息昌次郎といふ者なり間違《まちが》ひ有ては大變《たいへん》と云ふにお專は決《けつ》して/\間違ふ氣遣ひなし若し又あの人兎に角と爭《あら》そはゞ私が出て白状《はくじやう》させん外に又|慥《たし》かなる證據《しようこ》の品もあり然して江戸表にて金百五十兩|貯《ため》し事道中|難儀《なんぎ》して私に預けし事迄知りし者は外にあるべき樣なし御前樣は彼所へ行《ゆき》て是迄の事を話し金子を彌太八と申す人に奪《うば》はれし事を殘らず物語られ其上にて斯樣々々《かやう/\》なしたまへと牒《しめ》し合せ元の座敷へいで行きけり [#8字下げ]第十回[#「第十回」は中見出し]  却説《かくて》傳吉は酒宴《しゆえん》の席へ出で扨々|折角《せつかく》御招ぎ申しても何も進ずる物もなし併《しか》し今日の座興《ざきよう》に歸國《きこく》なす道中の物語を皆々さま御|退屈《たいくつ》乍《なが》ら御聞下されと申しければ何《いづ》れも夫は一段の事然るべしと聞き居たり傳吉は席《せき》を進みて私し江戸に在りし時は全盛《ぜんせい》の土地柄《とちがら》故主人の光《ひか》りにて百五十兩の金子に有り附き古郷へ歸り舊《もと》の田畑《たはた》を受戻《うけもど》し家を起しなば過行し兩親《りやうしん》へ聊さか孝行の端《はし》にもならんかと悦び勇んでくる道すがら惡者《わるもの》に付かれ是非なく野尻宿の旅籠《はたご》やの下女に彼大金は預《あづ》けて歸り其盜賊の難は遁《のが》れたれ共又々一ツの憂《うれ》ひを増《まし》て件の金子を昨日|騙取《かたりと》られたり其仔細《そのしさい》をおはなし申せば斯樣々々|云々《しか/″\》なりと證據《しようこ》の櫛《くし》の事迄一伍一什を委しく語《かた》りければ皆々|仰天《ぎやうてん》なし夫は又何物が櫛《くし》を以て行しやと興《きよう》を失ひければ憑司を始め叔母女房も大いに驚《おどろ》きたる體《てい》にて眉《まゆ》を寄《よ》せ夫は何共|合點《がてん》の行ぬ事と言ひけるを憑司|席《せき》を進《すゝ》み其は旅籠屋の下女が巧《たくみ》ならん貴樣の方に櫛《くし》はなしと計《はか》りたるに先には鼈甲《べつかふ》の櫛の幾個《いくら》もあらんにより指替《さしかへ》の似寄《により》の品を出して貴樣を欺《あざむ》き歸せしなるべし其女を引捕《ひつとら》へ嚴重《きびしく》[#ルビの「きびしく」は底本では「きびしん」]吟味《ぎんみ》する成れば早速に相分らん憎《にく》き奴《やつ》の仕業《しわざ》かな若しも僞《いつ》はる時は領主へ訴へ吟味《ぎんみ》を願ふならば忽ちに相分らんと申しけるに傳吉|偖《さて》其の盜人は此座中に在りと申しければ皆々夫はと云つて互《たが》ひに顏《かほ》を見合せ居たりしがマア誰《たれ》ならんと申すに傳吉|然《され》ば私し隣《となり》に住《すむ》[#「住《すむ》」は底本では「住《すむ》む」]彌太八と云ふ者の由《よし》申し僞り金子を騙《かた》り取りたるはと云ひながら昌次郎の面《かほ》を見ればぎよつとせしが素知《そし》らぬ體に面《かほ》を背《そむ》ける故傳吉は最早《もはや》耐難《こらへがた》く之れにある昌次郎殿に相違なし慥《たし》かなる證據《しようこ》もある上は爭《あらそ》はず金子を返し候へ萬一爭ひ給はゞ公邊《おかみ》へ訴へ黒白《くろしろ》を分ねば相成ずと言ければ忽ち昌次郎は眞赤《まつか》に成て座を直し此は存じもよらぬことを承《うけた》まはるものかな我等に對《むか》ひ盜賊呼《どろぼうよば》はり其分には相濟ず不屆《ふとゞき》なる申し分也と威猛高《ゐたけだか》になつて申しけるにぞ側《そば》より親《おや》憑司も張肱《はりひぢ》なしコリヤ悴よ傳吉に泥棒呼《どろぼうよば》はりを致され萬一申開き相立ざる時は人手は借《かり》ぬ我自らに手討に爲すぞ惡名《あくみやう》を付られては最早男は立ず急度《きつと》相糺《あひたゞ》して汚名《をめい》を雪《そゝ》げよと親も聲を掛る故《ゆゑ》夫《それ》より双方《さうはう》爭ひ立ち既に喧嘩《けんくわ》にも成んと人々は手に汗《あせ》を握《にぎ》りもて餘しける處へ奧の方よりお專は直《すぐ》と立ち出で座に就《つき》て皆々へ挨拶《あいさつ》するに一座の人々|不審《ふしん》晴《はれ》ず是は何方の女中ぞやとお專が顏《かほ》を打守《うちまも》るに叔母女房も之を見て打驚《うちおど》ろきて居たる時にお專《せん》は穩當《しとやか》に昌次郎に向ひ昨日|一寸《ちよつと》御目に掛《かゝ》り金子百五十兩御渡し申せし彌太八樣|最《もう》私しか參《まゐ》りし上は爭《あらそ》ひ給ふも益《えき》なきこと早々金子を出し給へ此上|猶《なほ》も爭ひ給はゞ外に致し方これ有りと申しけるに昌次郎は猶《なほ》も空嘯《そらうそ》ふき我等は然樣《さやう》の覺《おぼ》えもなく殊《こと》にお前は何處の人か終に逢《あう》たることもなしコリヤ傳吉と申し合せ我等へ遺趣《ゐしゆ》ても有《ある》かして罪を塗付《ぬりつけ》んとするならんイヤ不屆《ふとゞき》なる女めと眼付《ねめつけ》るにお專は少しも騷《さわ》がず彌々爭ひ給はゞ外に見せる物《もの》ありと懷中《くわいちう》より一通の文を取り出し是は一昨日お前樣の歸りし跡《あと》に落《おち》てありし品《しな》故《ゆゑ》何心なく拾《ひろ》ひしが不斗《ふと》此場の役に立つ傳吉殿|讀給《よみたま》へと差出すを傳吉|取上《とりあげ》讀下《よみくだ》すに [#ここから2字下げ] 一筆|示《しめ》し※[#まいらせそうろう、272-9]偖傳吉事江戸より今宵《こよひ》立ち歸り申候まゝ此上は夜々の契《ちぎ》りも相成ずと存じ候へば勿々《なか/\》つかの間も忍《しの》び難く思ひは彌増《いやまし》※[#まいらせそうろう、272-10]夫に付き傳吉こと江戸に於て溜《ため》たる金百五十兩|此度《こたび》持歸《もちかへ》り候途中盜賊に付かれ候ゆゑ野尻《のじり》宿の近江屋|與惣次《よそうじ》と申す宿屋の下女お專へ右の金を預け置き受取候節は此櫛さへ持參《ぢさん》致し候へば誰《たれ》にても引替《ひきかへ》に金子相渡す由承まはり候まゝ右の櫛《くし》を御手元《おてもと》へ差上候明朝早々に野尻宿へ御出で下され金子《きんす》御受取被成候へば私し事は何《いづ》れ近々の中に當所を立ち退《のき》候て何國の果《はて》にても永く夫婦と相成申したくと夫のみ此世の願ひと祈《いの》り居り※[#まいらせそうろう、272-14]どうぞ/\御目《おめ》もじのうへ山々《やま/\》御もの語《がた》り申し上ぐべく候 [#地から10字上げ]あら/\めて度※[#かしく、272-15] [#地から4字上げ]うめゟ [#4字下げ]昌次郎殿へ [#ここで字下げ終わり] と有りけるに座中の人々|彌々《いよ/\》驚き偖は其方が野尻宿の近江屋のお專殿《せんどの》なるか而《して》又持參の此文はと惘《あき》れ果てたるばかりなりお專《せん》は猶《なほ》も座を進《すゝ》み何と此文は覺《おぼ》えが有りませう彌太八とやらの歸りし跡《あと》に此文が落てありしは天命ならん然し左右《とかく》に爭ひ給はゞ此文を以て御上へ訴《うつた》へ御吟味を願ひませう夫とも只今百五十兩出し給ふか如何にぞやと理《り》を詰《つめ》て申しければ昌次郎も一|言《ごん》の答《こた》へもなく赤面《せきめん》閉口《へいこう》したりしは心地《こゝち》能《よく》こそ見えにけれ父上臺憑司|堪《こら》へ兼《かね》て立ち上り昌次郎の襟髮《えりがみ》掴《つか》み疊《たゝみ》へ摺《すり》付け打据《うちすゆ》るにお早は娘お梅が髻《たぶさ》を掴《つか》んで引倒し怒の聲を震《ふる》はしつゝ茲な恩知ず者め傳吉どのが留守中|何時《なんどき》の間にやら不義《ふぎ》いたづら傳吉殿に此伯母が何《なに》面目《めんぼく》のあるべきや思へば憎《にく》き女めと人目|繕《つく》らう僞《にせ》打擲《ちやうちやく》も是れ又見捨て置れねば又人々は取押《とりおさ》へ彼是れ騷動《さうどう》大方ならず時に憑司は其座の人々四五人に何か談《はな》して打ち連れ立ち自分の宅へ戻《もど》りしが間もなく入り來りて傳吉殿此人々と立ち合ひにて悴《せがれ》の部屋《へや》を改《あらた》むると此の通り百五十兩|胴卷《どうまき》の儘《まゝ》仕舞《しま》うて有り是にて候やと差出すに傳吉は篤《とく》と見て成程私しの胴卷《どうまき》なりと云ひつゝ中を改め一錢の紛失《ふんじつ》なしと云ふにぞ然らば受取給へ何分にも親類《しんるゐ》のことなれば此儀は内分に濟《すま》し呉れよと憑司は一|向《かう》誤《あやま》り入り悴《せがれ》は只今|勘當《かんだう》すべしと詫《わび》ける故其座の年寄組合など種々扱ひ金子の歸りし上は先々|穩便《をんびん》に濟し給へと申しければ傳吉は暫《しば》し言葉《ことば》はなかりしが皆々樣の御|扱《あつ》かひにて金子は無事に戻《もど》りしゆゑ私しも内分にて濟《すま》し申すべくと直に硯《すゞり》を引寄て三行半を書《かき》て之は女房梅が離縁状《りえんじやう》なり姦夫の實否《じつぴ》を糺《たゞ》さずして離縁なすは百五十兩の金皆々樣の御|骨折《ほねをり》にて我が手に戻《もど》りし歡《よろ》こびなれば申し分もこれなきことなりお早《はや》どの儀《ぎ》は現在《げんざい》叔母に候あひだ私しが養育《やういく》申べし夫共お梅の方へ參りたくは夫程の手當《てあて》を差上申べしと云ば伯母お早も默然《もくねん》として居たりしが此上にも傳吉殿に養《やしな》はれ申も氣の毒なり梅方へ參り度と申ければ其儀なら私しが貯《ため》たる金子百五十兩の中を半分《はんぶん》分て伯母御が一生の養育料《やういくれう》にと分ち與《あた》へければ其座の人々大いに感心《かんしん》なし傳吉どのは五ヶ年の間天下の御|膝元《ひざもと》の江戸で揉《もま》れた故《ゆゑ》違《ちが》うた者なり是にて相濟《あひすむ》上からは名主殿も御子息の勘當を御|免《ゆる》しなされ又お梅殿傳吉殿|那程《あれほど》捌《さば》けて申さるゝ故嫁御に致されしかるべしと皆々取なせば憑司は一同へ打向《うちむか》ひ此度《このたび》の一條は何と申樣もなき悴《せがれ》の不埓《ふらち》我は何樣御扱かひ有《あり》迚《とて》も勘辨《かんべん》なすべき譯ならねど村中の口添《くちぞへ》に餘り愛相なき事故に曲《まげ》て差赦《さしゆる》せしにより人々は大に悦《よろこ》び傳吉に昌次郎お梅をば詫《わび》させ其夜の中に事を濟《すま》せ叔母も名主方へぞ參りける是は傳吉が留守中《るすちう》おはや憑司は不義《ふぎ》なしお梅は昌次郎と密通《みつつう》に及びて居たるを村中にても薄々《うす/\》知て居る者あれば幸ひと引取り親子共に夫婦となりける又おせんも我身《わがみ》の明《あか》りもたち傳吉へ金も戻《もど》りし上は人々に暇《いと》まを告げ野尻《のじり》へ立ち歸りぬ [#8字下げ]第十一回[#「第十一回」は中見出し]  扨|世話好者《せわずき》の多きは常なるに傳吉か宅へ其夜來し人々は翌朝五六人おせんを野尻《のじり》宿の與惣次方へ送《おく》り行き前夜の始末《しまつ》を話し又傳吉が心の廣きこと恨みある伯母に艱難辛苦《かんなんしんく》して溜《ため》し金の半分を遣《つか》はし其場を濟《すま》せし事迄を落なく語りければ與惣次は大いに感心《かんしん》なし如何にも今の世には得難き人なり殊に女房叔母ともに奇麗《きれい》に向ふへ遣《つかは》し温順《おとなし》き心底なりと傳吉が徳《とく》を譽稱《ほめたゝ》へて止まざりける此の時村人與惣次に申しけるは人家の女房《にようばう》は眞棒《しんぼう》なり傳吉殿も今江戸より戻り大略《たいりやく》元の身代に成らんとなす折柄《をりから》女房が無ては萬事|不都合《ふつがふ》ならん夫に付此方のお專殿を傳吉殿の妻に御|遣《つか》はしあらば實に幸ひならん此度の事はお專殿《せんどの》の働《はたらき》にて不思議に金子手に戻《もど》り殊《こと》に發明なる性なれば何と與惣次殿我々|斯《かく》申も言《いは》ば傳吉殿に牛《うし》を馬《うま》に乘替《のりかへ》させ先の者どもへ見せつけて遣んとおもふ心なり其所は其|許《もと》の胸《むね》一ツ何卒兩人夫婦にさせては呉《くれ》まいかと無造作《むざうさ》に頼《たの》めば與惣次《よそうじ》承知なしお專を養女《やうぢよ》に貰《もら》ひ受け傳吉に添《そは》せることに取極め翌日は吉日なればとて上臺《じやうだい》憑司其他の人を打招《うちまね》き與惣次を舅入《しうといり》一所にして首尾能く婚姻なしける [#8字下げ]第十二回[#「第十二回」は中見出し]  偖《さて》祝儀《しうぎ》も濟《す》みて與惣次と傳吉お專|而已《のみ》なればお專傳吉に打向《うちむか》ひお早どのは私しが養母《やうぼ》にてお梅どのは私しの姉《あね》なり豫《かね》てお咄《はな》し申せし如く私十二歳の時に病氣の父《ちゝ》を捨《すて》て家財《かざい》殘《のこ》らず掻《かき》さらひお梅どのを連《つれ》欠落《かけおち》なせしかば私に逢《あう》ては恥《はづ》かしく夫ゆゑ參らぬと見えたり然乍《さりなが》ら是必ず他人に語り給ふなと言はれて傳吉|吃驚《びつくり》なし其方が咄《はな》せしは我が叔母にて有けるや餘所《よそ》のことぞと聞てさへ憎《にく》しと思ふに其の人は我が叔母女房にて有けるかと驚入《おどろきい》るぞ道理なりお專《せん》又申樣然らば此度の儀も叔母御は必ず村長の憑司殿と譯《わけ》あらん依てお前を倒《たふ》し我が子を夫婦となせし上自分も共に樂《たのし》まんと櫛《くし》を盜《ぬす》ませ金を騙《かた》り取らせしならんと云ふに與惣次|打點頭《うちうなづき》成程お專が言ふ如く毒ある花は人を悦ばせ針《はり》ある魚は汀《なぎさ》に寄る骨肉《こつにく》なりとて油斷は成じ何とぞ一旦兩人の身を我が野尻《のじり》へ退きて暫時《ざんじ》身の安泰《あんたい》を心掛られよと諫めければ傳吉は是を道理《もつとも》と歡こびて或日傳吉は憑司方へ到り此度都合により他所へ引移《ひきうつ》り商賣を致し度と申しければ憑司は傳吉が此村に居る時は何かに面伏《おもぶせ》なるゆゑ是幸ひと早速|承知《しようち》なしたるに傳吉は立歸り少しの田地は人に預け夫婦諸共に野尻《のじり》へ引移りしかば與惣次《よそうじ》も老人故家内の世話は傳吉夫婦に任《まか》せけるに傳吉は正直實義の男なれば何《い》づれも深切《しんせつ》に取扱ひ殊《こと》にお專は發明ゆゑ與惣次も安堵《あんど》なし茲《こゝ》に二三年を送《おく》りける時に寶田村の上臺憑司親子四人の者は傳吉が村中《むらぢう》に居ざるを喜悦《よろこび》奢《おご》り増長して傳吉が人に預けし田地を書入にして金を拵《こしら》へ其上村の持山《もちやま》を村人に相談もせず金三十兩餘に賣《うり》横領《わうりやう》のありければ百姓共は堪忍《かんにん》成難《なりがた》しと高田の役所へ訴へければ役人|吟味《ぎんみ》のうへ憑司事重々不屆の儀に付村役|召放《めしはな》され其上小前の百姓へ早々勘定致すべき旨|嚴敷《きびしく》仰付られけるに依て寶田村にては名主の跡役を見付相願はんとて惣寄合《そうよりあひ》商議《だんがふ》せしに傳吉の親迄代々彼は當村の名主の家なり然らば此度は傳吉へ名主|役《やく》仰せ付られ下さるやうに願はんと評議《ひやうぎ》一決なし其段願ひ出しに付|榊原《さかきばら》家の役人中早速傳吉を召返し寶田村名主役仰付られければ爰《こゝ》に於て傳吉は寶田村《たからだむら》の名主になり昔《むかし》に歸る古卿の錦《にしき》家を求て造作なし夫婦の中も睦《むつま》しく樂き光陰を送《おくり》けり偖又夫に引替上臺憑司は己が惡《あし》きに心付ず之れ皆傳吉夫婦が有故に斯《かゝ》る禍ひに逢たりと理も非《ひ》も分《わか》ず傳吉に村役《むらやく》を取られしとて深く恨《うら》み高田の役人へ手を廻《まは》し此|怨《うらみ》を晴《はら》さんと種々工夫を巡《めぐ》らしけるしかるに高田役所にても先の奉行并びに下役の者ども替り新役になりければ此時ぞと思ひ役人に賄賂《まいない》を遣ひ傳吉のことを惡樣《あしざま》に言なしける傳吉は元正直律義の生れ故|諂《へつら》ふことをせず用向の外は立入ことなければ當時の役人|供《ども》傳吉は行屆ぬ者と思ひしより遂《つひ》に憑司の方を贔屓になしけるが然とて傳吉に落度《おちど》もなく別に咎《とが》むべき筋もなければ其|儘《まゝ》になし置を憑司は何にしても先役《せんやく》に立歸らんと色々|賄賂《まいない》を遣《つか》ひけれども是ばかりは急《きふ》のことにも埓明《らちあか》ず親子商議しけれども金は容易《ようい》に調《とゝの》ひ難く之に依て悴夫婦を江戸表へ稼ぎに出し金子を拵んと旅の用意を致《いた》し日暮《ひぐ》れに寶田村を立出|猿島《さるしま》河原まで來りしが手元の暗《くら》ければ松明を燈《とも》さんとて火打道具を見るに火打|石《いし》を忘《わす》れたり是れより昌次郎はお梅を河原に待せ其身は取て返しける時に昌次郎夫婦は出立の後《あと》に火打《ひうち》が殘《のこ》つて有る故急ぎ忘れしと見えたり屆《とゞ》け呉《くれ》んと親の上臺は後より携《たづさへ》て馳《はせ》たりしが昌次郎とは往違《ゆきちが》ひに成たり偖又|譚《はなし》替《かは》つて此猿島河原は膝丈の水成しが一人の雲助|若《わか》き女を脊負《せおほ》て渡り來りて河原に動《どつ》さりおろし女に向ひ今も道々いふ通り今夜の中女郎に賣こかす程に此己を兄樣《あにさま》とぬかしをれ只た三年の苦みだ斯《かう》己《おれ》に見付つたが百年目|否《いや》でも應《おう》でも賣ずにや置ぬと威《おど》す言葉も荒《あら》ぐれに女は涙の顏を上《あげ》何卒《なにとぞ》免《ゆる》してたべ妾《わたし》は源次郎と言《いふ》夫《をつと》のある身金子が入なら夫より必ずお前に進《まゐら》せん何卒我家へ回してと泣々《なく/\》詫《わび》るを一向聞ず彼の雲助《くもすけ》は眼を剥《むき》だし是程に言ても聞分《きゝわけ》ぬ強情《がうじやう》阿魔《あま》め然らば此所で打殺し川へ投込《なげこむ》覺悟《かくご》をしろと手頃《てごろ》の木の枝《えだ》追取て散々《さん/″\》に打けるをお梅は片邊に見居たりしが迯出《にげいだ》さんとする所を雲助《くもすけ》眼早《めばや》く見咎めて爰にも人が居をつたか今の話しを聞《き》きたる奴《やつ》は逃《にが》しはせぬと飛掛《とびかゝ》つて捕る袂《たもと》を振拂《ふりはら》ひお梅は聲立人殺し人殺しぞと呼所《よぶところ》へ昌次郎の後《あと》追《お》うて此所へ來かゝる親上臺は女のさけびごゑを聞《きゝ》其所に居るのはお梅かと言へばお梅はオヽ父《とゝ》さん何卒《どうぞ》助《たす》けて下されと聞くより上臺は馳寄《はせよ》るに雲助は是を見て邪魔《じやま》だてなすなと棒《ぼう》振上《ふりあげ》打《うつ》て掛るを引外し脇差《わきざし》拔《ぬい》て切懸《きりかゝ》るに彼の雲助は逃|乍《なが》ら女を楯《たて》に受ると見えしが無慘《むざん》や女は一聲きやつと叫《さけ》びしまゝに切下げれば虚空《こくう》を掴《つか》んでのた打《うつ》間《ひま》に雲助又も棒《ぼう》追取《おつとり》上臺が膝《ひざ》を横さまに拂《はら》へば俯伏《うつふし》に倒るゝ所を雲助は乘掛《のりかゝ》りつゝ打のめしたる折《をり》からに昌次郎は歸り來り拔手も見せず雲助が肩先《かたさき》深《ふか》く切付ればウンと倒《たふ》れるを上臺は漸々《やう/\》|起上《おきあが》り一息ほつとつき親子三人は顏《かほ》を見合せ互ひに無事《ぶじ》を悦《よろこ》びつゝ頓《やが》て四傍を見廻せば片邊《かたへ》に女の倒《たふ》れ居て朱《あけ》に染《そみ》息も絶たる樣子《やうす》なりとて憑司は礑《はた》と手を打是と云も元は傳吉から起《おき》たこと然らば此|死骸《しがい》へ昌次郎お梅が着類《きるゐ》を着《き》せ此所へ殘し置き我また別に能《よき》工夫《くふう》ありとてかの曲者並びに女の首《くび》を切《き》つて川へ流し二人の着類《きるゐ》を着せ替て昌次郎夫婦は甲州路《かふしうぢ》より江戸へ赴《おもむ》かせたり [#8字下げ]第十三回[#「第十三回」は中見出し]  偖《さて》又《また》憑司は其夜昌次郎を立せやり草履《ざうり》に血の付たるを持《もち》て傳吉宅へ忍《しの》び込《こみ》庭《には》の飛石《とびいし》へ血を付置き夫より高田の役所へ夜通《よどほ》しに往て訴《うつた》へ捕方《とりかた》を願ひける偖又傳吉方にては斯《かゝ》ることの有りとは夢《ゆめ》にも知らざれども所謂《いはゆる》物の前兆《ぜんてう》ならんとお專が見たる夢《ゆめ》の惡《あ》しければ夫《をつと》傳吉に此事を語《かた》り其|吉凶《きつきよう》を猿島川《さるしまがは》の向ひなる卜ひ者へ出向はれ身の上を占《うらな》ひ貰《もら》へ給はれとお專が勸《すゝ》むるにぞ傳吉も彼方に立出或山路へかゝる所に一人の侍士《さむらひ》に逢《あ》ひ能々見れば先年新吉原の三浦やに勤《つとめ》し頃同家の空蝉《うつせみ》の許《もと》へ毎度《まいど》通ひし細川の家來井戸源次郎にてあり傳吉是はとばかり立止《たちどま》るを先方にも貴樣《きさま》は傳吉ならずやと云ふに久々《ひさ/″\》にて御目に懸《かゝ》りたり何の御用にてと尋《たづ》ねければ源次郎は大いに急込《せきこみ》たる樣子にて然ば貴樣が三浦やの暇《いとま》を取し後|空蝉《うつせみ》を受出《うけいだ》し名も千代と改《あらた》めて我妻となしけるが實親《じつおや》は越後に在るとのこと故彼れが實家《じつか》を尋《たづ》ねんと此地へ來り今朝《こんてう》馬丁《うまかた》の惡漢が我が妻ちよを勾引《かどはかし》何れへか引込みしが跡より追懸《おひかけ》尋《たづ》ぬれ共一方|行方《ゆきがた》知《しれ》ず所々《しよ/\》方々《はう/″\》尋ね居れりと物語《ものがた》りけるに傳吉聞て偖て憎《にく》き奴《やつ》の仕業かな偖々御困りならん何れにか御|商議《さうだん》申上げん程に私し方へお出あれ然共《されども》只今は急ぎの用事して猿島川《さるしまがは》まで罷越《まかりこ》せば今晩にも私し方へ入らせられよ寶田村傳吉とお尋ねあれと互ひに苦勞《くらう》の折柄右と左りへ別《わか》れける斯て傳吉は畑村《はたむら》の占ひ者の宅へ急ぎ行き夢物語《ゆめものがた》りして吉凶《きつきよう》を委細尋ねければ占ひ者暫時|勘考《かんかう》せしが是は大凶《だいきよう》なり其故は斯く/\と傳吉か身に後大難のあることを判斷《はんだん》なして此上|信心《しんじん》[#ルビの「しんじん」は底本では「しんじつ」]が肝要《かんえう》なりと申しけるにお專も大いに心配《しんぱい》なし然らば明日より鹽斷《しほだち》なり斷食《だんじき》なりして信心を致しお前の身に凶事《きようじ》なき樣《やう》に致さんと夫婦は來方《こしかた》行末《ゆくすゑ》を思ひ續けて夜は遲《おそ》く打臥ける翌朝傳吉は神前に向ひて拜するをお專は見てお前《まへ》裾《すそ》に血が付て居るは如何なされしやと問はれて傳吉は驚《おどろき》ながら打返《うちかへ》して見れば裾裏《すそうら》[#ルビの「すそうら」は底本では「よそうら」]所々に血の付て居る故是は不思議《ふしぎ》なる事|哉《かな》昨夜河原にて物に躓《つまづ》きけるを偖は人にても切《きら》れて居たるやと見れば庭《には》の飛石《とびいし》にも草履《ざうり》にて血を踏付《ふみつけ》たる跡ありけるに依《よつ》て草履を返し見れば血の付て居ざるにそ偖《さて》不思議《ふしぎ》成《なる》ことなりとて血を洗《あら》ひ落《おと》さんと夫婦水を汲《くみ》きて庭石《にはいし》を洗はんと爲所《するところ》へ上臺憑司が案内《あんない》にて關田の捕方《とりかた》内へつか/\と入くるに傳吉夫婦は何事やらんと驚《おどろ》くを後眼《しりめ》に掛《かけ》憑司は役人に向ひ御覽の通り飛石は血だらけに候と申す言葉に終ひに役人|上意《じやうい》の聲《こゑ》と諸共《もろとも》に縛《いまし》めける傳吉大いに驚き私し身に取《とり》犯《をか》せる罪は決《けつ》してなしと言ひけれども捕方《とりかた》は耳にも掛《かけ》ず申し分あらば奉行所《ぶぎやうしよ》に於て申すべしと傳吉を引立行くにぞお專は狂氣《きやうき》の如く是は何故の御捕方と後《あと》[#ルビの「あと」は底本では「おと」]背掛《おひかけ》て往きけるが役人傍へも寄せ付ねば詮方泣々我が家に歸り聲を惜《をし》まず嘆《なげ》きしが偖ては前夜の夢は此|前兆《ぜんてう》にて有りけるか然し憑司殿か案内こそ心得ぬ豫て役人を拵《こしら》へての惡巧《わるだく》みか如何せんと獨《ひと》り氣を揉《もむ》折柄《をりから》に近邊の人々も驚きて何故傳吉殿は召捕《めしとら》れしと種々|評議《ひやうぎ》に及《および》頓《やがて》て[#「頓《やがて》て」はママ]女房おせんを連《つれ》組頭百姓代共|打揃《うちそろ》ひ高田の役所へ罷り出御|慈悲《じひ》を願ひけれ共一向取上にならず傳吉は入牢《じゆらう》申付られ女房おせんは村役人へ預《あづ》け遣《つかは》す旨申渡されける [#8字下げ]第十四回[#「第十四回」は中見出し]  時《とき》に享保《きやうほ》十年九月七日越後高田の城主《じやうしゆ》榊原家《さかきばらけ》の郡奉行《こほりぶぎやう》伊藤《いとう》伴《はん》右衞門公事方吟味役小野寺源兵衞川崎金右衞門其外役所へ揃《そろ》ひければ繩付《なはつき》のまゝ傳吉を引据《ひきすゑ》訴訟人《そしようにん》上臺憑司《かみだいひようじ》をも呼出し伊藤は嚴《いか》めしく白洲《しらす》を見廻し如何に傳吉汝|猿島《さるしま》河原にて昌次郎夫婦を殺せしは如何なる仔細《しさい》なるや有體《ありてい》に申せと云ひければ傳吉|漸々《やう/\》頭《かうべ》をあげ恐《おそ》れながら私し愚成《ぐなり》と雖も村役を相勤《あひつと》め御法度《ごはふど》は辨《わきま》へ居《を》れば爭《いか》でか人を殺すべきや殊に憑司父子の者は私し親類《しんるゐ》に御座候へば何故|意恨等《いこんなど》を含《ふく》み申さんやと云ふを默《だま》れ汝人を殺さぬ者か衣類《いるゐ》の裾《すそ》に血《ち》を付け其の上我が入口の飛石へ血の跡《あと》を殘《のこ》すべき此段は憑司が訴《うつた》への通りなり何故に汝が衣類に血のつきたるやと詰《なじ》れば傳吉は私し昨夜《さくや》畑村《はたむら》より日暮《ひぐれ》て歸る時河原にて物《もの》に跌《つまづ》き不審《ふしん》に存じ候が定めて酒に醉《よひ》し人の寢《ね》て居ることゝ存じ咎《とが》められては面倒《めんだう》と脇《わき》へ寄《よつ》て通り拔《ぬけ》しが眞《しん》の闇《やみ》ゆゑ死人とは一|向《かう》存じ申さず今朝|衣類《いるゐ》并《なら》びに庭の敷石《しきいし》等へ血の着《つき》居《を》りしを見出し驚《おどろ》き申候|然《さ》れば昨夜|跌《つま》づきしは全《まつ》たく殺害《せつがい》されし者と初めて心づき候因て殺し人は外に御座候はん恐《おそれ》ながら此儀|御賢慮《ごけんりよ》願《ねが》ひ奉つるといふをも待《また》ず小野寺源兵衞席を進み聲《こゑ》荒《あら》くいかに傳吉|汝《おのれ》邪辯《じやべん》を以て役人を欺《あざむ》く段|不屆《ふとゞき》千萬なり其の申分甚だ暗《くら》く且又|裾《すそ》の血而已に有らず庭のとび石に足痕《あしあと》あるは既に捕手の役人より申立し如く其血を夫婦《ふうふ》にて洗《あら》ひ落《おと》さんと成しゝ機《をり》捕手の者|罷《まか》り越《こし》召捕《めしとり》しと申ぞ是《これ》天命《てんめい》逃《のが》れざる所なり之にても未だ陳《ちん》ずるやと威猛高《ゐたけだか》になつて申けるに傳吉は恐れながら裾《すそ》并《なら》びに敷石《しきいし》に血の着《つき》たるを以て證據と遊《あそば》され候事一|應《おう》御道理《ごもつとも》には候へども私し家内の脇差《わきざし》出刀庖丁《でばばうちやう》の類|刄物《はもの》御取寄《おとりよせ》御吟味下され候へば御|疑《うたがひ》も解《とけ》申べし其上憑司は私しの叔父なり昌次郎は從弟《いとこ》なり又|妻《つま》梅《うめ》は私の先妻にこれあり叔母は憑司が方に居り斯《かく》の如く繋《つなが》る親類ゆゑ假令《たとへ》一|旦《たん》の恨《うら》みあり共親身の者|爭《いかで》か殺さるべきやと義理《ぎり》分明に辯解《いひと》くを川崎金右衞門聲をあげ默《だま》れ傳吉|威《もの/\》しく言葉を飾《かざ》り刄物の吟味を申立るが夫を汝に習《ならは》んや其意趣《そのいしゆ》ある事を言聞さん憑司事先年村持の山を伐《きり》たる咎《とが》に依て村役を退《の》けたり其|跡役《あとやく》は上の思召にて汝を村長に致したる處御意を振《ふる》ふ故村中の者先代憑司が時の取計《とりはか》らひを慕《した》ひ汝が村役を上させ先代憑司に仰付られる樣に願ひたるを第一の意趣《いしゆ》に存《ぞん》じ其上先妻梅事貞實成しをお專とか云ふ宿屋の下女に馴染《なじみ》の出來しまゝ無體《むたい》に離縁《りえん》を致し今は梅事昌次郎の妻と成り夫と中|睦《むつ》まじきを妬《ねた》み昌次郎が柏原《かしはばら》へ行て暮《くれ》て歸るを待伏《まちぶせ》河原にて切殺《きりころ》し猶知れざるやうにと首を切《き》つて隱《かく》すなど言語に絶えし惡業《あくごふ》なりコリヤ首《くび》は何處へ隱したるぞ有體に申すべしと云ふを側《そば》から憑司は額《うな》づきて恐れながら申上げん私し親類とは申せども近頃《ちかごろ》は一向出入も仕つらず候處傳吉は其の朝に限《かぎ》り用事もこれなきに私し方へ參り悴夫婦《せがれふうふ》が柏原《かしはばら》へ行事を承知《しようち》いたし歸りたり只今思ひ合すれば樣子を窺《うかゞ》ひに參りしと相見え候と云ふを聞傳吉は憑司に向ひ思掛《おもひがけ》なきことを申さるゝものかな我あの朝は斯樣々々《かやう/\》の用事にてと云はんとすれば伊藤は打消《うちけし》默《だま》れ傳吉汝何程|僞《いつは》りでも淨玻璃《じやうはり》の鏡《かゞみ》に掛て見るが如く己《おのれ》が罪は知れてあり然らば拷問《がうもん》に掛《かけ》て云はして見せんと笘《しもと》を以て百|許《ばか》り續《つゞ》け打に打せければ憐《あは》れむべし傳吉は身の皮《かは》破《やぶ》れ肉《にく》裂《さけ》て血は流れて身心《しんしん》惱亂《なうらん》し終に悶絶《もんぜつ》したるゆゑ今日の責《せめ》は是迄にて入牢《じゆらう》となり之より日々に責《せめ》られけるが數度の拷問《がうもん》に肉落て最早|腰《こし》も立ず纔《わづ》かに息の通《かよ》ふのみにて今は命の終《をは》らんとなす有樣なり爰に於て傳吉思ふやう斯《かゝ》る無體《むたい》の拷問は偏《ひとへ》に上臺憑司が役人と腹《はら》を合せてなすと見えたり假令幾度|辯解《まをしわけ》する共證據なければとても遁《のが》れ難し長く苦痛《くつう》せんよりは身に覺えなき罪に落《おち》て死を早くなし苦痛を逃《のが》れんものと覺悟《かくご》をぞ極めける或日又々郡奉行伊藤半右衞門は傳吉を呼出し汝が何程|僞《いつ》はりても惡事は最早知れてあり其夜|暗闇《くらやみ》にて昌次郎と爭《あらそ》ひしを聞居《きゝゐ》たる者あつて御領主へ疾《とく》に申上たれば此上|陳《ちん》ずるとも無益《むえき》なりと申しければ傳吉は熟々《つく/″\》と心の中に思ふ樣罪なくして無實の罪に陷《おちい》る我が身にまつはる災厄《まがつみ》とは言ひながら我朝《わがてう》は神國《しんこく》なるに神も非禮《ひれい》を請給ふか正實の頭《かしら》に神《かみ》舍《やど》ると世の諺《ことわざ》も僞《いつは》りかや嗟《あゝ》情《なさけ》なきことどもなりと神を恨《うら》み佛を詫《かこ》ち頻《しき》りに涙に暮居たり伊藤半右衞門は大いに急立《せきたて》一言の答へなきは愈々《いよ/\》僞りなるべし白状せぬからは骨《ほね》を割《わ》つても言はせて見せんと大音《だいおん》に罵《のゝ》しり又もや拷問《がうもん》に懸《かけ》んとす然るに傳吉は最早《もはや》覺悟の事なれば疲《つか》れたる聲をして暫《しば》らく拷問は御用捨に預《あづ》かりたし實は私し昌次郎に恨《うら》みあるにより彼等が歸り道に待伏《まちぶせ》し猿島河原にて二人の者を切殺し首を落《おと》して川へ投入《なげい》れたるに相違これなく候|御定法通《ごぢやうほふどほ》り御所刑《おしおき》仰せ付られ下され度と申立てければ伊藤は聞て然らば傳吉の口書を以て爪印《つめいん》をさせよ又|追《おつ》て呼出さんと牢《らう》へ送りけり又同年九月廿一日同|白洲《しらす》へ呼出しに相成上臺憑司|并《ならび》にお早も罷出《まかりいで》牢《らう》よりは傳吉を繩付にて引出たり時に伊藤半右衞門申けるは憑司其方共|訴《うつた》への趣きにより傳吉を段々|吟味《ぎんみ》致せし所|彌々《いよ/\》兩人を殺したる趣《おもむ》き白状に及びたり依て罪の儀《ぎ》は追《おつ》て仰付らる則《すなは》ち傳吉が口書の趣き承まはれと讀聞《よみきか》せければ憑司は誠に御役所の御|仁惠《じんゑ》を以て悴と嫁の敵を取候事|嘆《なげ》きの中の喜びにして是|偏《ひとへ》に御上の御威光《ごゐくわう》有難《ありがた》き仕合せに存じ奉ると申し述ける體《てい》誠《まこと》しやかに見えしかば傳吉は覺悟《かくご》のことゆゑ只《たゞ》頭《くび》を下て嘆息《たんそく》の外なかりけり今日は皆々白洲を下りける爰に傳吉が妻お專は夫《をつと》の入牢《じゆらう》なしたる日より種々に心を痛《いた》め如何はせんと野尻の與惣次方へも知らせて兎《と》も角《かく》も相談《さうだん》せんと思ひ直に野尻の與惣次方へ往《ゆか》んと支度《したく》をなしたる處へ養父《やうふ》與惣次|息《いき》繼敢《つぎあへ》ず馳來《はせきた》ればお專は打悦《うちよろこ》び挨拶《あいさつ》の先にたつのは涙にて左右|詞《ことば》出《いで》ざれば與惣次はお專に向ひ其|嘆《なげ》きは道理《もつとも》なり昨日聞きたる傳吉の災難《さいなん》直《すぐ》參《まゐ》らうと氣は急《せく》といふとも何も寄《よ》る年に心の如く身は動《うご》かず漸々《やう/\》馳《かけ》出し參りたり仔細《しさい》は何じやと尋《たづ》ぬるにおせんは涙の顏《かほ》を上げ譯《わけ》と申すは云々《しか/″\》ならん彼の夢《ゆめ》の事より衣類并に庭《には》の石に血の跡《あと》があつた夫が證據《しようこ》に入牢《じゆらう》せし事迄|落《おち》もなく咄《はな》し女心の十方に暮《くれ》如何致して宜《よか》らんか今日|貴公《あなた》のお宅へ出向き御|相談《さうだん》を願《ねが》はんと支度をなして居しと語る間も聲を揚《あげ》歎《なげ》き悲《かな》しむ有樣に與惣次は眉《まゆ》を顰《ひそ》めて夫は傳吉が人を殺ししたるに非ず殺した奴《やつ》は外に有るべし然《しか》し憑司が村長を傳吉に奪《うばは》れたりと思ひ違ひ憤《いきどほ》りを含《ふく》み居りしに斯る事出來せしかは其罪を幸ひに傳吉に負《おは》せしなるべし我又高田の家中に知る人多し金子の手當《てあて》して高田に到り夫々《それ/″\》役向《やくむき》へ金を遣ひ傳吉が科《とが》ならざるを執《とり》なし貰《もら》ひ又お專か村方の組合も出て與惣次|共々《とも/″\》種々《しゆ/″\》命乞《いのちごひ》と嘆願《たんぐわん》におよびけれども何分其事|叶《かな》はず其中に七日八日|隙取《ひまどり》ければ早傳吉は罪《つみ》に陷《おち》て昌次郎夫婦を殺せし由|既《すで》に白状に及び最早《もはや》罪の次第も定《さだま》りし上は力及ばずと聞しお專は狂氣の如く又與惣次も力を落《おと》し互《たが》ひに嘆《なげ》き悲《かな》しめ共今は詮方《せんかた》なく種々に心を痛《いた》めたり [#8字下げ]第十五回[#「第十五回」は中見出し]  人の憂《うれ》ひを憂ひ人の樂《たのし》みを樂むは豪傑《がうけつ》好義《かうぎ》の情なり然ば與惣次は如何にもして此|無實《むじつ》の罪を解《と》き命を助せんと種々《しゆ/″\》心を痛《いた》むる折柄《をりから》將軍家《しやうぐんけ》の御名代《ごみやうだい》として禁裏《きんり》の御用にて當時|御老中《ごらうぢう》酒井《さかゐ》讃岐守《さぬきのかみ》殿中仙道|筋《すぢ》を上り道中諸願を取上|領主《りやうしゆ》役人などの非義非道なることは取調《とりしら》ぶるとのことにて明後日は追分邊《おひわけへん》お泊りとの噂《うはさ》を聞《きゝ》與惣次は大いに喜び然ば御|途中《とちう》に待受《まちうけ》て直に願はゞ萬一傳吉が助かることもあらんか且《かつ》はお專が氣をも取直《とりなほ》させんと其のことをお專に話《はな》し早々御|駕籠《かご》へ直《すぐ》に願はんといふにお專は甚《いた》く打喜悦《うちよろこ》び天へも登る心にてそんなら是より些少《ちつと》もはやくと直《すぐ》に與惣次と同道なし中仙道の追分《おひわけ》へ出て聞けば明日は當驛《たうえき》晝御膳《ひるごぜん》なりと言ふゆゑ與惣次お專は漸々《やう/\》胸《むね》落付《おちつけ》願《ねが》ひ書を認《したゝ》め翌日を遲《おそ》しと待請《まちうけ》ける時に享保十年十月十六日|酒井《さかゐ》讃岐守殿|先供《さきとも》通《とほ》り掛らんとする處へ六十ばかりの男と廿三四|歳《さい》の女の如何にも窶《やつ》れたる状|髮《かみ》を亂《みだ》し打しほれし有樣《ありさま》にて竹に差《さし》たる訴訟《そしよう》を以て待居たり酒井樣の先供《さきども》之を見て汝等何者にて願《ねが》ひの筋は何《なに》成《なる》やと云ふ兩人は大地《だいぢ》に手をつき恐《おそ》る/\私し共は越後國|高田領《たかたりやう》の百|姓《しやう》にて是なる女の夫《をつと》無實《むじつ》の罪に落入《おちいり》遠からず死罪《しざい》に決し候へ共未だ存命にて入牢《じゆらう》仕つり居り候何卒|御殿樣《おんとのさま》の御|慈悲《じひ》を以つて誠の御|吟味《ぎんみ》を仰《おほ》せ付られ御助け下さる樣《やう》願《ねが》ひ上げ奉りますと述《のぶ》れば武士一人|殘《のこ》りて夫は不便《ふびん》の事なり今に此所御|通行《つうかう》相成時怖れずと委細に申上よと云ひければ兩人は歡《よろこ》びて今や遲《おそ》しと待居《まちゐ》る處へ宿役人|大勢《おほぜい》領主々々《りやうしゆ/\》の役人先を拂《はら》ひ讃岐守殿|通《とほ》られける時に殿《との》の乘輿《のりもの》來掛る時|先刻《せんこく》殘《のこ》りし武士手を着《つき》榊原遠江守百姓|愁訴《しうそ》願ひ奉つると高聲に披露《ひろう》なすにぞおせんは足許も定らぬまでに悦《よろこ》び漸々|訴状《そじやう》を以て願ひますと差出するに駕籠脇《かごわき》の士《さむらひ》請取駕籠の中に差出《さしいだ》せば酒井侯中より彼《か》の女の樣子を倩々《つく/″\》見らるゝに如何にも痩衰《やせおとろ》へ愁《うれ》ひに沈みし有樣なれば駕籠を暫《しばし》立よと止められ其の女是へと呼るゝ故おせんは乘輿《のりもの》の側へ參り土に手をつき頭《かしら》を下るに讃岐守殿|委細《ゐさい》尋問有りしかばお專一々申上る時又|後《うしろ》に控居《ひかへゐ》るは何者ぢやと有るにおせん彼は私|父《ちゝ》與惣次と申者の由申上げしに讃岐守《さぬきのかみ》殿近習太田|幸藏《かうざう》を呼ばれ其方は後に止り此者どもを今晩《こんばん》の泊《やど》に連參《つれまゐ》れと申されければ幸藏はおせん與惣次に向ひ願の趣きお取上に相成《あひなり》たれば今宵お泊《とまり》の御本陣迄《ごほんぢんまで》罷《まか》り出よと云《い》ひ置《おき》乘輿《のりもの》を追つて走り行くにぞアラ有難《ありがた》や嬉《うれ》しやと飛立《とびたつ》ばかりに打喜悦《うちよろこび》泊りの宿へと急《いそ》ぎ行きしにお專與惣次を一番に呼入《よびいれ》られ酒井侯には公用人澤田源之進井上喜右衞門兩人に委細《ゐさい》相尋問《あひたづね》べき旨仰付られしかばお專與惣次を糺《たゞし》ける時お專面を上《あげ》傳吉が家の貧窮《ひんきう》を嘆《なげ》き江戸表へ奉公に出でたることより憑司が悴《せがれ》昌次郎に金子|騙取《かたりと》られしこと其他《そのた》ありし始末《しまつ》委細申ければ公用人は篤《とく》と聞き終り如何にも訴《うつた》への趣き道理の樣には聞ゆれ共|片口《かたぐち》にては定め難し何れ主人へも申上べき間|旅宿《はたごや》へ下り明朝|罷《まか》り出よとお專與惣次は宿《やど》へ下られける右の條々《でう/\》酒井侯公用人より一々申述ける酒井侯暫く工夫有りて當節領主の役人《やくにん》共|非義《ひぎ》の取捌《とりさば》き是有由豫て聞及びあればと申されて願《ねが》ひの趣き取上と成り翌日《よくじつ》馬廻の武士岸角之丞御下知書を持《もつ》て榊原殿へ達《たつ》せよと早打《はやうち》の直使《つかひ》を立られ榊原家の老臣《らうしん》伊奈兵右衞門へ御用状《ごようじやう》をぞ渡しける御|用状《ようじやう》の趣《おもむ》き [#ここから2字下げ] 此度《このたび》上京に付信州|小田井《をだゐ》宿旅宿の處其領分高田村名主傳吉と申者此度無實の罪《つみ》にて死罪《しざい》に相決《あひけつ》し既に日限り定り候由右傳吉妻專と申者|愁訴《しうそ》有之近年御領奉行代官に依怙《えこ》の取計《とりはから》ひ有て非義成儀《ひぎなるぎ》[#ルビの「ひぎなるぎ」は底本では「ひぎなるが」]多き由|上聞《じやうぶん》に達し此度|道中《だうちう》愁訴《しうそ》あらば取上申べき樣|嚴命《げんめい》を蒙《かうふ》りしに依て右の訴へ御取上に相成|再應《さいおう》の吟味仰せ付られ傳吉儀御用有之に付私しの仕置《しおき》相成ず則ち當月|晦日迄《みそかまで》に罪人傳吉|并《ならび》に相手方|上臺憑司夫婦《かみだいひようじふうふ》其外|專《せん》養父野尻宿百姓|與惣次《よそうじ》江戸表差出大岡越前守役所迄追々|召連《めしつれ》可申候且此度|掛《かゝり》の役人《やくにん》郡奉行伊藤伴右衞門|吟味《ぎんみ》方川崎金右衞門小野寺源兵衞等江戸へ同道可有之右之段主人|讃岐守《さぬきのかみ》より相達《あひたつ》し候之に依て此|旨《むね》貴殿迄《きでんまで》急度《きつと》御意得候以上 [#2字下げ]十月十七日[#地から2字上げ]酒井讃岐守内  勅使河原角兵衞 [#5字下げ]榊原遠江守殿内  伊奈兵衞門殿 [#ここで字下げ終わり] 然るに傳吉は昨夜より牢内《らうない》に切繩《きりなは》を入れて彌々明日|死罪《しざい》と申事故一|念《ねん》唱名《しやうみやう》して豫《かね》て覺悟《かくご》致しける所ろ折節《をりふし》牢役人《らうやくにん》來り傳吉に向ひ偖々《さて/\》其方は仕合者なり既《すで》に死罪に決《けつ》し明日|首《くび》を切《きら》るゝ所其方が妻《つま》は酒井樣のお駕籠《かご》に付|願《ねが》ひたるゆゑ再御吟味《さいごぎんみ》となり明日江戸表へお差出《さしいだ》しに相成と申ことなりと言《いひ》ければ傳吉は夢《ゆめ》に夢みし心地にて誠に神佛未だ我れを見捨《みすて》給はざるやと樣子を窺《うかゞ》ひいたりける時に酒井樣より其の朝《あさ》宿次《しゆくじ》刻限《こくげん》の急使にて江戸御老中大久保佐渡守樣へ[#「大久保佐渡守樣へ」は底本では「大保久佐渡守樣へ」]御用状|到達《たうたつ》なし則ち上聞《じやうぶん》に達《たつ》せられける尤も遠國は皆|寺社奉行《じしやぶぎやう》勘定奉行《かんぢやうぶぎやう》の掛りの所|此度《このたび》は讃岐守より言上《ごんじやう》の趣きは餘程《よほど》入組《いりくみ》し事柄《ことがら》なりと申上られければ將軍家にも再吟味《さいぎんみ》と有れば越前守が宜しからんと大岡殿へ人撰《にんせん》にて仰付られける爰《こゝ》に於て榊原殿より傳吉を軍鷄駕籠《とうまるかご》に入れて役人大勢|守護《しゆご》なし并傳吉|妻《つま》舅《しうと》與惣次及び榊原殿郡奉行伊藤|半《はん》右衞門公用方下吟味川崎金右衞門小野寺源兵衞訴訟人憑司夫婦皆々江戸表へ出立致させ榊原《さかきばら》より役人百人ばかり附添《つきそひ》享保《きやうほ》十午年[#「享保十午年」はママ]十月廿二日江戸着に相成|其段《そのだん》屆出《とゞけいで》しかば傳吉は直取《ぢきとり》大岡請取られ入牢申付られ郡奉行其外は江戸表屋敷又は町方等へ下宿《げしゆく》致しけり偖又享保十年十月廿九日|願人《ねがひにん》憑司夫婦を南町奉行所へ召出されし時|越前守《ゑちぜんのかみ》殿出席有て訴訟人《そしようにん》越後高田領百姓憑司お早とは其方なるか并《ならび》に差添《さしそへ》の者喜兵衞甚右衞門何れも罷出《まかりいで》しやと仰《おほせ》に一同|罷出《まかりいづ》る趣き願《ねがひ》あぐれば右|願書《ねがひしよ》を讀上《よみあぐ》る [#ここから4字下げ] 乍[#レ]恐以[#二]願書[#一]奉[#二]申上[#一]候《おそれながらぐわんしよをもつてまをしあげたてまつりそろ》 [#ここから2字下げ] 越後國|頸城郡《くびきごほり》寶田村百姓憑司并に妻早奉申上候私し同村傳吉と申者親類にも有之候に付先年傳吉江戸表へ奉公|稼《かせぎ》にて罷り出叔母と妻とも國元へ差置《さしおき》候ゆゑ手前|配下《はいか》の儀と申殊に親類にも有之候間留守中母子の者|取續《とりつゞ》き候樣世話いたし置し所傳吉|國元《くにもと》へ立歸り候ては右の恩《おん》を忘れ彼是|難澁《なんじふ》を申懸《まをしかけ》いたし且又道中にて野尻宿與惣次|召仕《めしつかへ》の下女專と申者と密通《みつつう》致し叔母女房留守中|貞節《ていせつ》を相守候者を彼是惡名を付|離縁《りえん》に及び候段重々不屆の至りに御座候其節彼に異見《いけん》差加へ候得共|却《かへつ》て私し并昌次郎と傳吉妻と不義なと有之候樣に申掛離縁に及び候に今母子の身寄處《みよるところ》なく既《すで》に道路に餓死《がし》仕つり候仕合に御座候間見るに忍《しの》びず無據《よんどころなく》手前方へ引取百姓共|取扱《とりあつか》ひにて是非なく嫁《よめ》に仕つり候處之を遺恨《ゐこん》に思ひ音信|不通《ふつう》に仕つり其上に昌次郎夫婦を豫《かね》て狙《ねら》ひ候と相見え柏原と申す所へ夫婦《ふうふ》罷越《まかりこし》候跡より付行日|暮《ぐれ》をはかり兩人を共に殺害《せつがい》し立退候へども天命《てんめい》逃《のが》れ難し庭の飛石《とびいし》に血の跡《あと》これあり且傳吉衣類の裾《すそ》にも血の付居候に付此儀|相顯《あひあらは》れ召捕れ右の段|領主《りやうしゆ》の役人方へ吟味《ぎんみ》願ひ候處傳吉隱すこと能はず切害《せつがい》致し候始末白状に及び候然るに今般《こんぱん》召出《めしいだ》され御吟味を蒙り候上は何卒御|明察《めいさつ》を以御吟味被下置子供二人の解死人《げしにん》に被仰付被下置候へば有難《ありがたき》仕合に存じ奉つり候偏に御|威光《ゐくわう》を以此段|御吟味《ごぎんみ》願上候以上 [#2字下げ]享保十年十月[#地から2字上げ]榊原遠江守領分百姓寶田村 願人 はや[#「願人 はや」はママ] [#5字下げ]南御番所奉行所樣 [#ここで字下げ終わり] 讀上《よみあぐ》るに越前守殿|憑司《ひようじ》を見られ此願書の趣きにては嘸々《さぞ/\》無念《むねん》に思ふなるべし不便の次第《しだい》なり妻早其方の一人の娘を殺《ころ》され嘸《さぞ》愁傷《しうしやう》ならん併し屹度《きつと》傳吉が殺せし共|言難《いひがた》からん而《して》猿島河原より寶田村へ道程《みちのり》は何程あるやと申さるゝにお早は憑司が答《こた》へを待たず四十町許是ありと申立れば越前守殿又其日子供は何時頃《いつごろ》宅を出何方へ罷《まか》り越《こせ》しぞと尋《たづね》らるゝに憑司頭を上げ柏原《かしはばら》と申す所へ用有つて早朝《さうてう》より罷り出しなりと申立れば越前守殿|疵所《きずしよ》は如何なりしやと申さるゝに憑司娘は肩先《かたさき》より切付られ疵は數ヶ所ござりまして首《くび》は隱《かく》せしや更に見えずと云ふに越前守殿首がなくて我が子と云ふこと如何にして知れしぞと仰《おほ》せければ憑司ヘイ着物《きもの》で分りますでござりますと云ふに成程《なるほど》我子ならば着物《きもの》に見覺《みおぼ》えあるは道理《もつとも》なり偖々《さて/\》不便《ふびん》の事哉近々|呼出《よびいだ》す間罷り立てと仰せられけり [#8字下げ]第十六回[#「第十六回」は中見出し] 時に享保《きやうほ》十年十一月五日|牢内《らうない》より傳吉公事宿よりは妻|專《せん》與惣次《よそうじ》等奉行所へ呼出され大岡殿|出座《しゆつざ》有て傳吉を御|覽《らん》ある處に惣身《そうしん》痩衰《やせおとろ》へ如何にも嚴重《きびしき》拷問《がうもん》に掛しと見えて甚《はなは》だ勞《つか》れたる樣|體《だい》なり其歳は三十五六歳|物柔和《ものやはらか》なる體なり妻專は之も痩衰《やせおとろ》へたる有樣にて其|體《てい》哀《あはれ》に見えにけり明智の大岡殿故其と見《み》らるゝ處や有けん詞《ことば》靜《しづ》かに傳吉汝は如何なる意趣《いしゆ》にて親屬《しんぞく》なる昌次郎を殺害《せつがい》せしや憑司《ひようじ》夫婦の者より願ひ書のおもむき只今《たゞいま》讀聞《よみきか》せる間|承《うけた》まはれとありければ目安方《めやすかた》與力《よりき》其願書を讀《よみ》上るに越前守殿又傳吉に向はれ憑司が願ひ書の趣《おもむ》き覺《おぼ》えあるやと云るれば傳吉は漸々《やう/\》に面《おもて》を上げ恐《おそ》れながら申上ます其儀は私し一向に覺《おぼ》え御座りません然るに高田の役所に於て數度《すど》の拷問《がうもん》に逢《あ》ひ骨々《ほね/″\》も碎《くだ》け苦痛に堪兼《たへかね》是非なく無實《むじつ》の罪に陷入《おちい》りし所又々|再應《さいおう》の御吟味|誠《まこと》に有難仕合せに存じ奉ります訴訟人《そしようにん》憑司《ひようじ》は現在《げんざい》私しの伯父ゆゑ如何成前世の業因《ごふいん》かと存じ斷念《あきらめ》無實《むじつ》の罪《つみ》に服《ふく》せしと申立ければ越前守殿是を聞《きか》れ汝《なんぢ》は然樣に申せ共全く覺えなきものが罪に服するの理有べきや又憑司とても跡形《あとかた》もなきことは申まじ然《され》ば其方が申事は眞《まこと》とは受取難し能々《よく/\》明白に申立よと仰らるゝに傳吉は迷惑《めいわく》なる面色《おももち》にて再應《さいおう》の御尋問《ごじんもん》なれども私しは決《けつ》して昌次郎夫婦を殺したる覺《おぼ》えなく且何の意趣《いしゆ》を含《ふく》む事も御座なく殊《こと》に五六年の間江戸へ出奉公仕つり金子百五十兩を貯《たくは》へ國元《くにもと》へ歸りし處私し江戸へ出し跡《あと》にて妻梅と憑司悴昌次郎と密通《みつつう》を致し居《をり》私しが持歸《もちかへ》りし金子百五十兩を其|翌日《よくじつ》預《あづ》け置し所より欺《あざむ》き取しにより其節之なる二度目の妻《つま》專《せん》が計《はか》らひにて憑司方より金子は私しへ差戻《さしもど》し呉《くれ》し故直樣先妻梅は離縁《りえん》の上昌次郎へ遣し其後同村の者共取扱ひにて昌次郎と表向夫婦に致ました梅の母早事は私し實の叔母なれば永《なが》く養《やしな》ひ置べき心得の所叔母早儀は憑司方へ強《しひ》て參り度旨申により其意《そのい》に任せ其|節《せつ》百五十兩の半分を分て遣《つかは》せし程のことゆゑ私し心底御|賢察《けんさつ》下されたく萬一右等の儀を遺恨《ゐこん》に思ふ程ならば五ヶ年の間た千辛萬苦《せんしんばんく》して貯《たくは》へたる金子をいかに叔母成ばとて分ては遣《つか》はしませぬ是|意旨《いし》を含《ふく》まぬ證據なりと申せば越前守其金子は何程《なにほど》にて又江戸表は何《いづ》れへ奉公なし金子を貯《ため》たるやと尋問《たづね》らるゝに傳吉ハイ江戸は新吉原三浦屋四郎左衞門方に五ヶ年相勤め居其内百五十兩|貯《たく》はへし由云ければ大岡殿五ヶ年奉公の内|國元《くにもと》の伯母《をば》と妻《つま》とは如何せしぞと云るゝに傳吉|給金《きふきん》の内半分は國元へ遣《つかは》し半分は主人に預《あづ》け置し處|首尾能《しゆびよく》相勤しとて褒美《はうび》に主人より十兩|貰《もら》ひ又遊女共より餞別《せんべつ》として十兩餘り貰《もら》ひ都合百五十兩餘に相成|持《も》ち歸《かへ》り其内七十五兩伯母に遣《つかは》したりと云立ければ大岡殿其伯母と云は當時《たうじ》憑司が妻早の事なるやと云れ暫時《しばし》考《かんが》へられしが成ほど其方が申立の如くならば如何《いか》にも人を害《がい》する程の遺恨《ゐこん》は有まじ然なから裾《すそ》に血を引《ひく》而已《のみ》か飛石《とびいし》に迄|血《ち》の付居たるはいかなることぞと問《とは》るゝに傳吉|答《こた》へて其夜|畑村《はたむら》へ參り河原にて物に跌《つまづ》きしが眞暗《まつくら》にて何か分《わか》りませぬゆゑ早々立歸り翌朝《よくてう》裾《すそ》に血がつき居たるを見出し其上何者か飛石《とびいし》へ草履《ざうり》にて血の跡《あと》迄付置しか不思議《ふしぎ》に存じ私しの履《はき》し草履《ざうり》を改《あら》ため見たれども血の氣は更に之なく如何して飛石《とびいし》に血が付しかと女房せんと諸共《もろとも》に洗《あらひ》居《を》りし處へ憑司が案内にて直樣《すぐさま》召捕れし上種々|拷問《がうもん》に懸り申分致せ共御聞入相成ず夫故《それゆゑ》據《よんどころ》なく死る覺悟《かくご》致し罪に伏《ふく》したる旨申すにぞ大岡殿コリヤ其方は其|專《せん》と申す女と密通《みつつう》致し居るにより先妻《せんさい》を追出せしと聞《きく》然樣《さやう》なるか傳吉|否《いな》全く然樣の事はござりません先達て道中にて私し難儀《なんぎ》ありし節此專が金子を預《あづか》り呉《くれ》櫛《くし》を形によこしましてと野尻宿《のじりじゆく》にての事柄《ことがら》より彌太八と僞《いつは》りし者に金子を欺《かた》り取れしこと專が勸《すゝ》めにより又村中の者を呼び酒宴を催《もよほ》し梅が不義昌次郎が騙《かた》りの始末|相顯《あひあら》はれ是に因て梅を離縁《りえん》致し夫より同村の懇意《こんい》の者が中だちにて專《せん》を後妻に迎《むか》へたること迄|委細《ゐさい》に申立此儀は寶田村より差副《さしそへ》に來たる者共へ御|尋《たづ》ね下さるれば相分りますと申ければ大岡殿如何樣に其方が申處《まをすところ》聞處《きゝどころ》あり猶追々|吟味《ぎんみ》に及ぶとて其日は一同下られたり其後外々の者一通り吟味《ぎんみ》有し所領主家來の者|奸曲《かんきよく》の取計《とりはから》ひも聞ゆるにより評定所へ差出しに相成たり [#8字下げ]第十七回[#「第十七回」は中見出し]  同年十一月十日|評定所《ひやうぢやうしよ》へ御呼出しに付|訴訟人《そしようにん》相手共|腰掛迄《こしかけまで》相詰《あひつめ》居し處老中若年寄り及び三奉行を始め立合の役人中今日は天下《てんか》の御評定《ごひやうぢやう》日にて諸國より訴訟人|夥多《おびたゞ》しく出張なし居けるに程なく榊原《さかきばら》遠江守領分越後國頸城郡寶田村百姓傳吉一|件《けん》這入《はひり》ませいと呼び込む聲《こゑ》と諸《もろ》ともに訴訟人憑司おはや相手方《あひてかた》傳吉其の外引合共白洲へ出るに傳吉は繩目《なはめ》の儘《まゝ》にて跑踞《かしこま》る同人妻せん與惣次も謹《つゝしん》で平伏《へいふく》なし何れも遠國片田舍の者始めて天下の決斷所《けつだんしよ》へ召出され青《あを》めの大砂利《おほじやり》敷詰《しきつめ》て雨覆《あめおひ》を高々とかけ嚴重《げんぢう》なる白洲《しらす》の體《てい》左右には夫々の役人居ならび威《ゐ》を示《しめ》しつゝ靜まり返て見えけるに各々|戰慄《ふるへ》の止らぬまでに恐《おそ》れ入てぞいたりける今日榊原家の郡奉行伊藤半右衞門同人手代川崎金右衞門小野寺源兵衞及び附副《つきそひ》留守居《るすゐ》等召出されければ此人々は板縁に控《ひか》へたり暫《しばら》くありて老中方を始め若年寄《わかどしより》三奉行並に立合の役人席に着《つか》るゝや大岡殿中央に進《すゝ》まれ大目附|兩脇《りやうわき》に附て立合るゝ時大岡殿には榊原家家來伊藤半右衞門と呼《よば》れ其方の吟味《ぎんみ》にて傳吉は罪に伏したる由然樣なるかとありければ伊藤《いとう》半《はん》右衞門|愼《つゝし》んで彼段々と吟味《ぎんみ》仕つり候處其罪|明白《めいはく》に伏し候段|相違《さうゐ》御座なく然るを同人妻せん何樣成儀申上奉りしや再《ふた》たび御手數《おんてかず》相掛候段|不屆《ふとゞ》き者なりと申けるに越前守殿|成程《なるほど》其方の申所|道理《もつとも》の樣には聞えしが其方も榊原の家來《けらい》にて某が役儀にも准《じゆん》する事故|決斷《けつだん》に如才《じよさい》はあるまじきも人命の重きは豫《かね》て承知《しようち》で有らう罪の疑《うたが》はしきは之を問ず功《こう》の疑《うたが》はしきは之を擧《あげ》よと衣裳《いしやう》に血を引飛石に血《ち》の付たるにて殺したるは傳吉ならんと疑《うたが》はれ拷問《がうもん》の嚴敷《きびしき》に堪兼《たへかね》て罪に伏せしと傳吉並に專より申立しが此儀《このぎ》如何《いか》なるやと云るれば伊藤《いとう》は面《おもて》を上げ恐《おそ》れながら段々《だん/\》吟味《ぎんみ》仕つりし所|意旨《いし》之あり候て殺したりと當人《たうにん》白状仕つり既に爪印迄|相濟《あひすみ》たる上からは彼が罪は明白《めいはく》なりと申せしかば越前守殿イヤ夫は拷問《がうもん》の苦《くる》しみに堪《た》へ兼ね是非なくも罪に伏《ふく》せしと云又昌次郎梅の兩人を殺《ころ》し血が走《はし》りて注《かゝ》らは裾《すそ》而已《のみ》ならず或は襟《えり》又は袖《そで》などへも注《かゝ》るべきに何ぞ裾《すそ》ばかりに引べきや此儀《このぎ》合點《がてん》行《ゆか》ずシテ其|猿島川《さるしまかは》より寶田村迄|道程《みちのり》何程有やと聞るゝに伊藤卅町程の道程《みちのり》なりと答《こた》ふれば大岡殿|斯《かく》道程《みちのり》の有所にて人を害《がい》し草履《ざうり》の裏《うら》に血が付きしとて三十町|程《ほど》歩行《あるき》歸《かへ》らば必ず地を踏《ふみ》付て仕舞《しま》ふべきなり空中《くうちう》を飛行《ひかう》なさばいざしらず我が庭の飛石に草履《ざうり》の形《かた》が血にて明々《あり/\》殘るの所謂《いはれ》なし是《これ》眞《しん》に疑《うたが》ふべき一ツなり然すれば傳吉に意旨《いし》を含《ふくみ》し者猿島川|邊《へん》にて男女の害《がい》されたるを見留《みとめ》之幸《これさいはひ》と傳吉の罪に落《おと》さんと計《はか》りたるも知るべからず殊に其夜は傳吉も同じ河原を歸《かへ》りしを知《しる》其者|草履《ざうり》に血を付《つ》[#ルビの「つ」はママ]て飛石に押《おし》たるものならんか右二ヶ條の趣《おもむ》き而已《のみ》にても心付べき筈《はず》なり是《これ》調《しら》べし人の過《あやま》りにして勿々《なか/\》罪は斷し難《がた》し且又其夜傳吉が參りし占《うらな》ひ者を呼で傳吉の歸りし刻限《こくげん》を尋ねしや又傳吉が脇差《わきざし》其他|刄物《はもの》等をも改《あらた》めしや何《どう》ぢやと云るゝに伊藤は今更一言の申上樣もなく恐《おそ》れ入候と申すにぞ越前守殿之は麁忽《そこつ》千萬なり然《しか》らば一方が訴《うつた》へばかりを聞て拷問《がうもん》に掛るは裁判《さいばん》の法にあらず假令憑司|如何樣《いかやう》に申とも心得有べき筈なり榊原家にても公事|決斷《けつだん》を預《あづか》る者は器量《きりやう》なくて有べきや斯樣《かやう》なる事|辨《わきま》へぬ其方にても有可ざるに事の此所《ここ》に及べるは眞《まこと》に疑《うたが》はしきことどもなり是其方に疑ひの掛《かゝ》り糺問《きうもん》せざるを得ざるなりと仰られければ半右衞門忽ち色《いろ》蒼然《あをざめ》恐れ入て答へなし時に越前守殿コリヤ憑司只今|聞《きく》通りにて裾《すそ》に血の引《ひき》飛石《とびいし》の血ばかりでは其血とも決《けつ》し難《がた》し其方|覺《おぼえ》あらう明白《あからさま》に云立ろと云はれしかば憑司は心中ぎよつとして徐《しづ》かに頭を持上《もたげ》たり [#8字下げ]第十八回[#「第十八回」は中見出し]  大岡殿に向ひ否《いな》昌次郎夫婦を害《ころ》せし者傳吉の外には御座《ござ》なく其故は昌次郎|女房《にようばう》は元傳吉が妻にて傳吉は只《たゞ》今の妻專と密通《みつつう》仕つり母諸共梅は離別《りべつ》せられ道路《だうろ》に餓死《がし》仕るべき有樣なるを私し親戚《しんせき》のことゆゑ二人を引取|世話《せわ》いたし其後昌次郎が妻《つま》に仕つりしが傳吉これを却《かへ》つて妬《ねた》み其上村長役を傳吉へ申付られ候|故《ゆゑ》名主《なぬし》の權威《けんゐ》を以て段々|押領《あふりやう》我意等《がいとう》の振舞《ふるまひ》候故村中私しへ村長を相勤《あひつと》め呉れる樣|内談《ないだん》仕つりしを何方にてか承《うけた》まはり猶々|妬《ねた》み彌増《いやまし》猿島川《さるしまがは》に待伏居り兩人を殺し私しに氣を落《おと》させ向後《かうご》村中より相頼み候共村長役勤め兼《かね》る樣仕つりしに相違《さうゐ》これなく此段何卒|御賢察《ごけんさつ》を願《ねが》ひ奉つると申立れば越前守殿傳吉を見られ只今憑司が申所《まをすところ》にては其|方《はう》人殺《ひとごろ》しに相違《さうゐ》なく又|無體《むたい》に叔母と女房《にようばう》を追出したる由なるが如何《いかに》やと尋問《じんもん》さるゝに傳吉は憑司を怨《うら》めし氣に見遣《みや》り之は先にも申し上し通り私|爭《いかで》か人を殺《ころ》しうべき又た先妻梅儀を離縁《りえん》致せしは昌次郎と不義《ふぎ》顯《あらは》れし故|離縁状《りえんじやう》を遣《やり》し又叔母儀も彼より望《のぞ》みて憑司方へ相越《あひこし》たるは村中|總寄合《そうよりあひ》の席の事にて相違は御座なく此儀は總代《そうだい》差副《さしそへ》の者へお尋《たづ》ね下さらば相分る儀と存じ奉つりますと云に越前守どの其方昌次郎梅兩人不義致せしと云は何か確《たしか》なる證據ありや傳吉此儀は委敷《くはしく》妻せんへお尋《たづね》下さるべしと云に大岡殿はコリヤせん其|譯《わけ》を存て居るやと云へば私し事|未《いま》だ傳吉妻と相成《あひなら》ざる前野尻宿與惣次方に居し時傳吉こと江戸《えど》より國元へ歸り候とて與惣次方へ泊《とま》りしに途中《とちう》より賊《ぞく》に付られ難儀の由私しを見かけ救《すく》ひ呉《くれ》候樣申候此時始めて顏《かほ》を見候へば五ヶ年以前私し實家《じつか》柏原宿の森田屋方へ泊りし旅人《たびびと》にてと夫より其|節《せつ》のことども委《くは》しく申立後父銀五郎|病死《びやうし》致せしより其所を仕舞《しまひ》養父與惣次方へ少しの縁合《えんあひ》を以て居りしに傳吉に巡《めぐ》り逢ひ同人より預《あづか》りし金を昌次郎に欺《かた》られしこと右金子を取戻せし節昌次郎お梅《むめ》の不義|相顯《あひあらは》れ村中寄合し席《せき》にて傳吉よりお梅に離縁《りえん》状を渡したる事迄夫の大事と思《おも》ふ故|云々《しか/″\》斯樣々々《かやう/\》なりとこと落《おち》もなく申上ければ大岡殿|心中《しんちう》にお專が才智《さいち》を感《かん》じられしが態《わざ》とおせんに向はれ其方は其前より傳吉と密通《みつつう》せしと憑司より申立《まをした》てしが此儀如何なるやと問《とひ》ければおせん少しは顏《かほ》を赤《あか》らめイヱ/\五ヶ|年《ねん》前私し在所《ざいしよ》柏原の宿へ一夜|泊《とま》りたれども其節《そのせつ》父銀五郎病中にて私しは十二|歳《さい》一夜の旅宿《はたご》に爭《いかで》然樣《さやう》の儀《ぎ》を致しませうぞ夫より五ヶ年|過《すぎ》まして與惣次方にて出會《であひ》ましたは是れ只一夜|殊《こと》に傳吉の身に深《ふか》き心配《しんぱい》ありて右樣なる猥《みだら》の事の出來|樣《やう》譯《わけ》は御座《ござ》りませんと申上けるに大岡殿然ば何で夫婦《ふうふ》に成《なり》しぞと云るればお專ハイ之はお梅《うめ》どのを去《さり》ました跡で村中より勸《すゝ》められ主人の與惣次も得心《とくしん》の上其の意に任《まか》せ傳吉方へ參りしなり此儀は與惣次《よそうじ》始《はじ》め村中の者《もの》共に尋《たづ》ね下さらば相別《あひわか》りますとの答《こた》へに大岡殿ヤヨ與惣次今專がまうせし通《とほ》りなるやと御|尋《たづ》ねに與惣次又|進《すゝ》み出其儀少しも相違これなく其節《そのせつ》寶田村百姓與次右衞門喜兵衞|助《すけ》右衞門八兵衞四人にて專《せん》を所望《しよまう》に付遣せし事にて則《すなは》ち其喜兵衞助右衞門は此度差添に罷《まか》り居ります故《ゆゑ》に尋下《たづねくだ》さらば相分るべしといふにぞ喜兵衞助右衞門へ尋《たづ》ねられし處二人とも少《すこ》しも相違これなきむね申立《まをしたて》けるに大岡殿|然《しか》らば傳吉は密通《みつつう》ならず委細相分りぬ又|盜難《たうなん》と申は如何なる譯《わけ》ぞ百五十兩と申せば大金なり譯なき女に預《あづ》ける事是又|不審《ふしん》なりと尋《たづね》らるゝに傳吉は猶《なほ》亦《また》答《こた》へて私し五ヶ年以前江戸へ出立の時一宿仕つり候が幼《をさ》なくして父《ちゝ》銀五郎の病氣|介抱《かいはう》の體如何にも孝行《かうかう》の者と見屆是ぞ誠《まこと》ある女と存《ぞん》ぜしにより私し江戸より古郷《こきやう》へ歸り懸《がけ》道《みち》にて惡漢《わるもの》に金子を見込れ甚だ危《あやふ》く心得只今言上せし通り其|志《こゝろ》ざしも知りしゆゑ櫛《くし》と取替に金子を預け其夜の盜難《たうなん》を遁《のが》れたる儀に御座りますと[#「御座りますと」は底本では「座りますと」]云立ければ大岡殿大聲を張揚《はりあげ》コリヤ憑司只今傳吉夫婦が言立る所は如何にも明白《めいはく》なり然すれば其方《そのはう》は公儀を僞《いつは》る罪人《ざいにん》茲《こゝ》な不屆《ふとゞき》者めと白眼《にらめら》るゝに憑司はハツと頭《かうべ》を下げ今更一言の云譯《いひわけ》もなければお早は耐《こら》へず進み出でイエ/\彼等は不義に相違《さうゐ》なしと言へば大岡殿だまれ其方には問《とは》ぬぞそれより先《まづ》其方|誰《たれ》が媒妁《なかうど》にて憑司の妻となりしぞと云れしかばお早《はや》はグツと差《さ》し詰《つま》りヘイ誰《たれ》も媒妁《なかうど》はございませぬが子供等が夫婦《ふうふ》に成ました故憑司と私しも夫婦《ふうふ》に成ましたとの答《こた》へに白洲の一|同《どう》フツと吹《ふ》き出せしが大岡殿|笑《わら》ひを堪《こら》へ白痴《たはけ》者め其方が樣子を見るに傳吉が留守《るす》に不義《ふぎ》猥婬《いたづら》を致し居しなるべし傳吉が叔母《をば》と云は父方が身元を委細《くはしく》申せと言ければ傳吉は茲《こゝ》に於て是非《ぜひ》なく申立る叔母儀は私の母の妹《いもと》にて家の相續《さうぞく》いたせし所|聟《むこ》を三人まで追出《おひだ》し淺治郎と申男の病死《びやうし》後又善九郎と申者と欠落《かけおち》し行衞知れざりしを先年私し江戸へ飛脚《ひきやく》に赴きし時|鴻《こう》の巣《す》宿《じゆく》より連歸り其後私し儀は梅と夫婦《ふうふ》に成叔母を養ひ置しと申立んとせしが是迄《これまで》の勞《つかれ》に息切《いききれ》強く云兼るに付此後は專《せん》其方より申上げ呉よと言ければ其時おせんは首を上お早が身の素性《すじやう》より實家《じつか》森田屋銀五郎の方にて不實《ふじつ》を働《はたら》きし事まで殘りなく申立るに越前守殿|點頭《うなづか》れコレ早|然《さ》すれば汝が不儀の樣子森田屋銀五郎に大恩《だいおん》を請《うけ》ながら其主人宅を取逃《とりにげ》欠落《かけおち》をしたる段|重々《ぢう/\》不屆《ふとゞき》至極の奴《やつ》なり入牢申付る縛《しば》れと有ければ同心共|立懸《たちかゝ》り高手小手に縛《いまし》めたりける夫より憑司が村長を退きしことを尋問《たづね》られしかば憑司はぐつ/\答《こた》ふる樣《やう》私し少し間違《まちがひ》の儀《ぎ》にて村の持山《もちやま》を伐《きり》しゆゑ退役いたし其跡にて傳吉儀役人中へ色々|諛《こ》び竟《つひ》に村長と相成しが傳吉段々|我儘《わがまゝ》押領《あふりやう》等の筋之有るやにて又私しへ村長を相頼《あひたの》みたしと村中の者私しへ内談《ないだん》仕つりましたと申上るに越前守傳吉に向はれ其方役人に賄賂《まいない》を遣《つか》ひ村長に成又|押領《あふりやう》とは何を押領せしと尋問《たづねら》るゝ傳吉只今憑司が申上しは皆《みな》僞《いつは》りにて彼事《かのこと》は村の杉の木を己《おのれ》が了簡《れうけん》にて賣拂《うりはら》ひたるにぞ村方一同|立腹《りつぷく》なし村中よりの願ひに依て退役《たいやく》を仰付られました其頃《そのころ》私《わたく》しは渡世の爲野尻の與惣次方に一兩年も住居《ぢうきよ》いたし居し所村方一同の願《ねが》ひとて役人衆《やくにんしう》より古郷へ召返《めしかへ》され名主役仰せ付られしが其節も辭退仕《じたいつかま》つり憑司儀を取《とり》なし申せど何分村方にて聞濟《きゝずみ》呉《くれ》申さず是とても差添《さしそへ》の者へお尋《たづ》ね下さらば相分り申べくと申立けるに大岡殿|又《また》勘右衞門喜兵衞を見られ傳吉は其頃《そのころ》一兩年村内に居ず松山に在りしや又百姓中|總體《そうたい》の願《ねが》ひにて村長に成しと云が然樣なるや尚又《なほまた》傳吉近頃|押領《あふりやう》あるよしにて元の村長憑司に頼《たの》まんと致せしや申立よと言《いは》れければ兩人は成程傳吉は其|節《せつ》野尻宿與惣次方に居りしを村中の願《ねが》ひにて村長に成しなり傳吉が押領《あふりやう》せしと云|廉《かど》は如何成|儀《ぎ》を致せしや此喜兵衞は一|向《かう》承《うけた》まはり及び申さず若《もし》や勘右衞門は承《うけた》まはりしやと云時勘右衞門は喜兵衞が存《ぞん》ぜぬ事を我等《われら》承まはる筈《はず》なしと申に大岡殿其方共は村方にて何役を勤《つと》むるやと尋《たづ》ねられ喜兵衞は組頭《くみかしら》勘右衞門は百姓|總代《そうだい》の趣き申立つる越前守殿|汝等《なんぢら》知らざれば今憑司の申立は僞《いつは》りと相見える傳吉は廿年來|行衞《ゆくゑ》知れざる叔母を連歸《つれかへ》り飢渇《きかつ》を救ひ從弟梅を妻《つま》として其上五ヶ年の奉公に金子を溜《ため》し實體《じつてい》なる行ひに感《かん》じ村中の者|地頭《ぢとう》に願ひ村長にしたるにまた/\憑司へ歸役《きやく》を願ふことはよもあるまじ然らば憑司は疑《うたが》ひなきにあらじ依て手錠《てぢやう》申付ると有ければ憑司は戰々《わな/\》慄《ふる》ひ出し何か云んとする所だまれと一|聲《せい》叱《しか》られて蹲踞《うづくまり》しぞ笑止《せうし》なる又大岡殿は榊原家の留守居《るすゐ》へ向はれ此度の一條|吟味懸《ぎんみがか》り三人の役人は其方へ屹度《きつと》預け追《おつ》て呼出すべしと言渡《いひわた》されたり [#8字下げ]第十九回[#「第十九回」は中見出し]  再び傳吉|并《なら》びにお專|與惣次《よそうじ》を評定所《ひやうぢやうしよ》へ呼出され大岡|侯《こう》如何に傳吉其方は何故|暗《くら》き夜に提灯《ちやうちん》をも燈《つけ》ずして猿島《さるしま》河原を通《とほ》りしやと尋問《じんもん》せらるゝに傳吉先日申上げ奉つりし如く前夜|專事《せんこと》惡《あし》き夢を見し由にて心に掛《かゝ》る旨申に付|吉凶《きつきよう》を問《とは》んと存じ夕七つ時分に宿《やど》を出しに途中《とちう》にて先年|懇意《こんい》になりし細川家の藩士《はんし》井戸《ゐと》源次郎《げんじらう》に出會し故《ゆゑ》如何なる用向《ようむき》にて此地へ來られしやと問《とひ》しに妻を連《つれ》信州《しんしう》の湯治《たうぢ》に參りしが右妻儀は五歳の時人に勾引《かどわか》され江戸へ參《まゐ》りしに肌《はだ》の守り袋《ぶくろ》に生國は越後高田領の由《よし》書付《かきつけ》有しゆゑ親《おや》に對面《たいめん》致させんとて來りし所|途中《とちう》にて妻を馬丁《うまかた》に奪《うばは》れ一向に知れざる由|承《うけた》まはり氣の毒《どく》に存じ彼是と談話《だんわ》仕つりし中に暇《ひま》取《とり》て遲《おそ》く參り日|暮《くれ》にならざる内《うち》歸《かへ》る心故|提燈《ちやうちん》の用意も仕らず歸りは夜に入|亥刻頃《ゐのこくごろ》にも相成りしと言ければ大岡殿其方は細川《ほそかは》の家來と何れにて心|易《やす》くなりしや傳吉私し先年新吉原|三浦屋《みうらや》にて心|易《やす》く相成りました右|源次郎殿《げんじらうどの》の妻《つま》は三浦やの遊女|空蝉《うつせみ》同人が根引《ねびき》いたし妻となりし故《ゆゑ》に存じ居ますと言にぞ其の者《もの》妻《つま》を失ひしと申せし後其源次郎に逢《あひ》しやと云るれば傳吉其中私し高田御役所へ召捕《めしとら》れし故源次郎には逢《あひ》申さずと云時|傍《かたは》らより與惣次《よそうじ》進み出其源次郎と言人其後|猿島川《さるしまかは》より三里ばかり川下にて女の首《くび》を見付則ち自分の妻の首《くび》成とて殊《こと》の外|歎《なげ》き近所の寺院へ葬《はうむ》りし趣き私し國元に在し中に專ら噂《うはさ》を致しました然共七八里|程《ほど》脇《わき》にて確《しか》とぞんじ申さずとのことに大岡殿|其葬《そのはうむ》りし寺と村の名は知り居るやと問《と》はるゝに與惣次《よそうじ》其は存じ申さずと云爰に大岡殿其|手續《てつゞき》を大概《たいがい》に洞察《みぬかれ》し樣子にて扨ては怪《あやし》き事なりその女を殺《ころ》し又昌次郎梅等が着物《きもの》を着せ置傳吉に難儀《なんぎ》を掛罪に陷《おと》さんと計《はか》りしやも知難し首を隱《かく》す程なれば着類《きもの》をも剥取《はぎと》るべきに夫を殘《のこ》し置しは不審《ふしん》なり追々|吟味《ぎんみ》に及ぶと言るゝ時下役の者|傍《そば》より立ませいと聲を掛《かく》るに各々其日は下りけり重《かさ》ねて大岡殿細川越中守の留守居《るすゐ》を經て井戸源次郎を呼出し其|來歴《らいれき》或は遭難《さうなん》の始末等《しまつとう》逐一尋られたるに傳吉與惣次の口と符合《ふがふ》なしければ尚|尋《たづ》ねられたるに源次郎夫は其處《そこ》より上の方三里|程《ほど》隔《へだ》てし所に男女の死體ありとの風聞|其邊《そのへん》の夫婦《ふうふ》の者の由其|頃《ころ》噂《うは》さ仕つりしなり大岡殿其方は其の邊《へん》にて傳吉と云へる者に逢《あひ》しと申が傳吉方へ尋《たづ》ねたるや源次郎成程傳吉は江戸にて知己《ちかづき》の者故|其邊《そのへん》にて逢《あひ》たれども愚妻《ぐさい》を失ひし折柄《をりから》ゆゑそこ/\に打|過《すぎ》其後寶田村を相尋《あひたづ》ね候所|何成《いかなる》罪にや傳吉領主へ召捕《めしとら》れし由其後|逢《あひ》申さず候と云に大岡殿シテ傳吉は何云《どういふ》縁《えん》にて存じ居るや源次郎然れば新吉原三浦屋にて其節《そのせつ》若い者を致して居《を》りしなりと言立ければ大岡殿又新吉原三浦屋四郎左衞門を呼《よば》れ其方《そのはう》が内に先年越後國高田領寶田村傳吉と云者《いふもの》を若い者に抱《かゝ》へたる事ありやと尋問《たづね》らるゝに成程四ヶ年程以前迄傳吉と言者を抱《かゝ》へ置しことありと云ふに大岡殿其傳吉は其方|召抱《めしかゝ》へ中平常の行状《ぎやうじやう》委敷《くはしく》云上よとあるに此者|儀《ぎ》初《はじめ》の程は米搗《こめつき》に召抱へし所至つて正路《しやうろ》忠實《ちうじつ》の者故二階の客《きやく》の取扱《とりあつか》ひを申付此役を廓《くるわ》にて若《わか》い者と云私し宅に五ヶ年の間|相勤《あひつと》めます中少しも後暗《あとくら》きこともなく實に正直《しやうぢき》正路《しやうろ》の者なりと言ければ大岡殿は其傳吉事|奉公《ほうこう》中給金其外にて百五十兩程|貯《たくはへ》其元《そのもと》へ預け歸國の節|持返《もちかへ》りしと申が然樣成や四郎左衞門如何にも五ヶ年の内に私《わたく》しへ百廿兩|預《あづ》け置歸國の節《せつ》其金を渡し又|出精《しゆつせい》致せし故《ゆゑ》私し手元より褒美《はうび》十兩|遣《つかは》し其外遊女共より餞別《はなむけ》を貰《もらひ》等にて成程百五十兩に成《なり》ましたで御座りませうと云に又大岡殿|尋問《たづねら》るゝ樣先年其の宅の遊女|空蝉《うつせみ》年明後《ねんあけご》井戸源次郎と云者妻に致たる由其事ありしや又同人を抱《かゝ》へし時の手續《てつゞき》を申べしと有しかば四郎左衞門|成程《なるほど》夫は手前|抱《かゝ》へ遊女|空《うつ》せみと申者年明後井戸源次郎樣と申御宅へ縁付《えんづき》しに相違《さうゐ》御座|無《なく》又|抱《かゝ》へたる節《せつ》は其者の二親は相果《あひはて》ましたるとの事にて揚屋《あげや》町善右衞門|養女《やうぢよ》の由善右衞門より年《ねん》一|杯《ぱい》廿五歳までを六歳の時に廿五兩に買取《かひとり》しに相違これなき旨《むね》申立しかば源次郎四郎左衞門の兩人へ追《おつ》て呼出す事有んと云渡《いひわた》され其日は白洲《しらす》を閉《とぢ》られけり是に於て大岡殿|豫《かね》て目を着《つけ》られし通り傳吉は何れにも正路《しやうろ》の者右の河原にて殺《ころ》されたる女は空せみ又一人の男は彼を勾引《かどはかし》たる奴《やつ》ならんが二ツの首《くび》を川へ流《なが》したるに女の首のみ柳《やなぎ》の枝《えだ》に止《とまり》たるは則ち縁《えん》も引ものか左右《とかく》怪《あやし》き所なり必定《ひつぢやう》此公事は願人共の不筋《ふすぢ》ならんと流石《さすが》明智《めいち》の眼力《がんりき》に洞察《みぬか》れしこそ畏こけれ [#8字下げ]第二十回[#「第二十回」は中見出し]  同月二十三日|亦々《また/\》評定所《ひやうぢやうしよ》に呼び出さる大岡殿|端近《はしぢか》く席を進まれ大目附御目附立合にて留役衆|吟味《ぎんみ》書を改めて差出さるゝに大岡殿|頓《やが》て白洲を見られ願人憑司同人妻早相手傳吉同人妻專舅與惣次村役の者喜兵衞[#「喜兵衞」は底本では「嘉兵衞」]勘右衞門榊原家來半右衞門同じく吟味役《ぎんみやく》小野寺源兵衞川崎金右衞門留守居清水十郎左衞門と一々|姓名《せいめい》を呼はれ憑司に向《むか》はれ其方が段々願ひの趣《おもむ》き確固《たしか》なる證據《しようこ》もなし然らば急度《きつと》傳吉が所行《しわざ》とも相分らず麁忽《そこつ》の訴へに及びしは不屆に思はる人命|重《おも》しとする所只々着類ばかり似たりとて兩人の子供《こども》なりと申すと言ども世には染色《そめいろ》模樣《もやう》など同樣|成《なる》着類|着《き》せし者往々あることなり但し死體《したい》に實固《じつこ》なる目當ありしやと云るゝに憑司は御道理《ごもつとも》のお尋に候悴儀は幼年の内に少々|體《からだ》へ彫物《ほりもの》致し候のみならず喧嘩《けんくわ》を致し子供同士|鎌《かま》で肩先《かたさき》へ疵《きづ》を附られ候悴が今に殘《のこ》り居候が何よりの證據《しようこ》に御座りますと云に越前守樣|成程《なるほど》確固《たしか》なる證據ありして其|彫物《ほりもの》は何なる物ぞ憑司ヘイ腕《うで》に力と申す字を大く彫《ほつ》て居ました又大岡殿梅が死體の證據《しようこ》は何じや憑司之は實《しか》とした證據は存《ぞん》じませぬと云ふにぞ越前守殿早我は娘の事|目的《めあて》ありやと仰さるれはお早ハイ現在《げんざい》の一人娘何見違へませう姿《すがた》着類《きもの》と云ひ聊か相違《さうゐ》御座りませんと云へば大岡殿コリヤ早其方が娘の體《からだ》に疵《きず》はないかお早一向に御座りませぬと答るに實固《しかと》さうかと期を押《おさ》れ大岡殿喜兵衞勘右衞門と呼ばれ其方ども其時の事を申立よと尋《たづ》ねらるれば兩人|畏《かしこ》まり領主の役人ども檢視《けんし》相濟《あひすみ》取片付仰付られしまでの儀《ぎ》を申立けるに大岡殿其方とも死骸《しがい》檢視《あらため》の節《せつ》定《さだ》めて立合たるなるべし其の死骸《しがい》に今憑司が申た通り彫物疵《ほりものきず》ありしやと尋ねらるゝ兩人ヘイ力と云ふ字が彫付《ほりつけ》て有しと云立るに女の方は如何じや此方にも聞《き》き込し事あれば僞《いつ》はりを言上《ごんじやう》なせば其方どもゝ入牢申付るぞと仰されければ兩人は少し戰《ふる》へながら女の死體は何事も御座りませんが片々の二の腕《うで》に小さく源次郎命と彫付《ほりつけ》てありまた片々には影物《かげもの》に[#「影物《かげもの》に」はママ]灸を据《すゑ》たる跡ありと云立れば大岡殿お早に向《むか》はれ其方が娘は元|賣女《ばいぢよ》でも致したか源次郎と云名は先夫のでもなしまた昌次郎でもなし何《いづ》れの人《ひと》じや存《ぞん》じたるやと云はるゝに側《そば》より憑司は然樣の義《ぎ》は存じ申さず候へども豫《かね》て嫁梅の腕《うで》にも何か彫たる趣き承まはりし事もありナフお早其|彫物《ほりもの》の事に付ては何とか申せし事ありしがナヽと夫と知らする心の謎《なぞ》を越前守殿聞だまれ憑司汝は何を申すぞ早は此《こ》の方《はう》で吟味《ぎんみ》なすに爰な出過者《ですぎもの》め今早が口より梅が體に疵《きず》などは御ざらぬと申立たるに汝《なんぢ》夫を無理《むり》に申させても取上には相成《あひなら》ぬぞ其源次郎と申はナ細川の家來《けらい》にて井戸源次郎と云者新吉原の三浦屋四郎左衞門|抱《かゝ》への遊女《いうぢよ》空《うつ》せみを年明後《ねんあけご》に妻《つま》となし越後に實親《じつおや》ありと探《たづ》ね行しに同國猿島河原にて人手《ひとで》に掛《かゝ》り其|首《くび》をば川下にて見附《みつけ》たりと申す然すれば其方どもか奸計《かんけい》にて右の死骸《しがい》へ娘《むすめ》悴《せがれ》の着物《きるゐ》を着せ傳吉を罪《つみ》に陷《おと》さんと計りし事|鏡《かゞみ》に懸《かけ》て寫が如し重々不屆の次第|明白《めいはく》に申立ろと大音《だいおん》に云るゝを憑司は恐《おそ》れず傳吉が申するのみを御取上げあるは片手打の御捌《おさば》きと言《いひ》も果《はて》ぬに默《だま》れ憑司|汝《おのれ》極惡《ごくあく》の罪人《つみんど》として公儀《こうぎ》の裁判《さいばん》を片手打《かたてうち》とは何事ぞ其方が悴昌次郎は傳吉が留守中《るすちう》不義致し居し段《だん》重々《ぢう/\》不屆なるを傳吉は其れを知り乍《なが》ら夫となしに梅を速《すみや》かに離縁《りえん》に及び其上叔母へ金子迄を遣《つか》はしたるを阿容々々《おめ/\》と二人ながら引取親子|互《たが》ひに妻と致し其上にも厭足《あきた》らず傳吉を謀《はか》り罪に行《おこな》はんとなしたる條《でう》人畜《じんちく》とは其方共がことなり然るに奉行所の裁判《さいばん》を片手打|依怙贔屓《えこひいき》などと申條不屆者め吟味中憑司は入牢申付る其外双方の者共|猶《なほ》追々《おひ/\》吟味に及ぶと云はれし時|直樣《すぐさま》白洲《しらす》を閉《とぢ》られたり重ねて同月廿五日新吉原三浦屋并に善右衞門を町奉行所へ呼出《よびいだ》され又井戸源次郎も罷《まか》り出しに越前守[#「越前守」は底本では「越後守」]出座有て四郎左衞門其方|抱《かゝへ》の空《うつ》せみと申遊女は善右衞門より買取《かひとり》しとなコリヤ善右衞門其方は空せみと申女を四郎左衞門に賣《うり》しやと其方が實《じつ》の娘か何じや僞《いつは》りを申と入牢の上|拷問《がうもん》申付るぞと云れしに善右衞門は青《あを》くなりハイ彼《かれ》は私しが實の娘にてはござりません伯父《をぢ》の娘《むすめ》なれども兩親相果五歳より引取《ひきとり》養育《やういく》仕つりしと申立る故夫より伯父の名前を始め住所《ぢうしよ》まで調《しら》べられしに追々|口籠《くちごも》り終に答へ出來ざれば越前守殿|仰《おほ》せには其方は胡亂《うろん》なる事を申者かな伯父夫婦は相果《あひはて》て跡《あと》も知れざる由|家主《いへぬし》も確《しか》と覺《おぼ》えず是《これ》疑《うたがひ》の一つ又|空《うつ》せみが實の親なる者越後と申事なり只今《たゞいま》汝に引合《ひきあは》する者ありと井戸源次郎を呼出《よびいだ》され縁側《えんがは》に控へるを源次郎其方は四郎左衞門抱への遊女《いうぢよ》空せみを引取しときあの善右衞門方より貰《もら》ひ請《うけ》しやと尋《たづ》ねらるゝに源次郎成程善右衞門方より貰《もら》ひ請《うけ》たりと云にぞ越前殿三浦屋を呼れ其方《そのはう》抱《かゝへ》の遊女《いうぢよ》空《うつ》せみを井戸源次郎が貰《もら》ひ請《うけ》しとき此善右衞門が源次郎へ我《われ》は空《うつ》せみの親《おや》なりと申したは相違《さうゐ》無《な》きやコリヤ源次郎も先達《さきだつ》て申立たる通り今一|應《おう》申立よとあるに付き源次郎は更に其《そ》の手續《てつゞき》を告《つげ》ければ越前守殿是を聞善右衞門汝が賣渡《うりわた》したる空《うつ》せみは五歳の時|勾引《かどはか》され江戸へ來りしと有り夫を汝《なんぢ》は伯父の娘也と僞《いつは》りを申立てしも今聞|通《とほ》りなり眞直《まつすぐ》に申立よ此上|包《つゝ》み祕《かく》すに於ては急度《きつと》申付るぞと聞て善右衞門ヘイ明白《めいはく》に申上ます私しは然樣《さやう》なる者を勾引《かどはか》しはいたしませんが彼は友達の松五郎と云が連來《つれきた》りまして我姪《わがめひ》なりと段々《だん/\》頼《たの》みまする故據ろなく三浦屋は私し名前にして賣込《うりこみ》たる趣きを申にぞ越前殿其松五郎は何方《いづこ》にありしやとのお尋《たづ》ねに右松五郎は先達《さきだつ》て惡漢《わるもの》八五郎と申者|召捕《めしと》られし時より何處へか逃去《にげさり》其後行方分らざるよし申立ければ越前守殿其八五郎とは先達《さきだつ》て八丈島へ流罪《るざい》申付たる泥《どろ》八が事ならん其|節《せつ》泥八が申口にて相尋《あひたづ》ねし松五郎なる者|行衞《ゆくゑ》知れず勿論《もちろん》其節ならば其方を急度《きつと》入牢申付る儀なれども最早《もはや》年も經し儀故右の松五郎は其方へ尋《たづ》ね申付る來る十日迄に尋ね出し召連出よ其方は家主町内組合へ預《あづけ》申付ると云渡されけり [#8字下げ]第二十一回[#「第二十一回」は中見出し]  斯《か》くて同年|極《ごく》月二日評定所へ又々前々の通《とほ》り役人《やくにん》衆相揃はれ右一件の者《もの》共|總殘《そうのこ》らず御呼び出し追々《おひ/\》白洲《しらす》に呼込に相成|役人衆《やくにんしう》列座《れつざ》致《いた》され時に大岡殿越後國頸城郡寶田村百姓上臺憑司と呼《よば》れ其方儀是迄段々[#「是迄段々」は底本では「傳吉役々」]吟味に及びし所猿島河原|切《きら》れ人[#「切《きら》れ人」は底本では「切《きら》 人」]は其方|悴《せがれ》嫁等の趣き申立ると雖も必ず昌次郎梅とは定め難く其|譯《わけ》は同じ衣裳《いしやう》を着たる者一|郷《がう》の内には往々あるべし殊《こと》に女の死骸《しがい》は井戸源次郎妻|空《うつ》せみが亡骸《なきがら》と思はる然すれば男の方も昌《しやう》次郎にはあるべからず外《ほか》に殺《ころ》したる者有るを不屆の調べに及び傳吉を無實《むじつ》の死に至らしめんとなせし條《でう》不埓《ふらち》の至なり自然後にて昌次郎夫婦がこの世に存命《ながらへ》居《を》らば其方は如何致すぞと申されければ憑司は彌々《いよ/\》我が巧《たく》みの顯《あら》はれしかとは思へども猶ぬからぬ面《おもて》にて恐《おそ》れながら御奉行樣の仰には御座れども着類《きるゐ》帶《おび》繻袢《じゆばん》に至るまで悴に相違御座りませぬと言張を大岡殿|聞《きか》れまだ其樣に強情《がうじやう》を云居るが既《すで》に其日は柏崎《かしはざき》へ昌次郎夫婦して參り夕刻彼所を立歸りしと云にあらずや然らば我が妻を捨《すて》ていまだ一|面識《めんしき》ならぬ他の女と道連《みちづれ》になり人の爲に殺《ころ》さるゝ者が有べきやシテ梅は如何《いかゞ》せしぞ汝公儀の役人を僞《いつは》る重惡者《ぢうあくもの》めと叱《しか》られしにぞ憑司は今更|大息《おほいき》を吐《つき》頭を低《たれ》一言も物《もの》云ず依て越前守は四郎左衞門善右衞門并に井戸《ゐど》源次郎へ一々聲を懸《かけ》られコリや憑司夫に居は四郎左衞門善右衞門|井戸《ゐど》源次郎成ぞ此源次郎が四郎左衞門抱の遊女|空《うつ》せみと云女を買馴染《かひなじみ》其空せみは五歳の時人に勾引《かどはか》され揚屋町善右衞門口入にて神田《かんだ》小柳町松五郎が姪成《めひなり》とて三浦屋へ賣込しが年季明《ねんきあけ》にて源次郎の妻に致し其主人へ願《ねがひ》湯治《たうぢ》の暇《ひま》を貰《もら》ひ信州より越後へ實《じつ》の親《おや》を尋《たづ》ねに參る途中|馬丁《べつたう》に勾引《かどはか》され源次郎諸方を尋《たづ》ねし處猿島河原にて妻が首《くび》を見付たる由コリヤ源《げん》次郎其妻の名は何とか申せしや源次郎私し妻《さい》の幼名《をさなゝ》は上臺千代と守り袋に書付《かきつけ》之あり千代平常申には慥《たし》か越後邊の生《うま》れの由《よし》明暮《あけくれ》實の親を慕《した》ひ居りし故私主人へ暇《いとま》を貰《もら》ひ信州へ參り越後の方を尋ね候處|不慮《ふりよ》の災|難《なん》に逢ひ終には猿島河の下にて首を見付《みつけ》たるは先達て申上候と言にぞ越前《ゑちぜん》守殿何源次郎其方|妻《つま》は右の二の腕《うで》に源次郎命と彫物《ほりもの》をしてをりしならんと云れしかば然樣《さやう》なりと言にぞ越前守源次郎|其節《そのせつ》川上に男女《なんによ》の死體《したい》ありし由女の方は其方が妻の千代に相違なし又左りの腕《うで》に彫物《ほりもの》の痕《あと》ある男は察《さつ》する所|勾引《かどはか》せし馬丁ならん又彼等を殺せしは憑司昌次郎兩人の中《なか》の仕業《しわざ》なる故に首を切て知れざる樣に昌次郎|夫婦《ふうふ》の着類を着置《きせおき》傳吉を罪に陷《おと》さんと巧《たく》みしならん源次郎其方が女房の仇《あだ》は是なる憑司等と思はる憑司是にても猶云分あるか斯の如く明白《めいはく》に相分る上は眞直《まつすぐ》に申立よ僞ると拷問《がうもん》に掛骨を挫ぐ共|言《いは》するが何じや/\と仰らるゝに憑司是は御無體《ごむたい》の仰《おほせ》なり然樣なる覺《おぼ》えは御座らぬと言張《いひはる》にぞ大岡殿は是より一同|調《しらべ》んとて榊原《さかきばら》の家來伊東半右衞門に向《むか》はれ只今聞通り彌々《いよ/\》猿島川原の男女の死骸《しがい》は推量《すゐりやう》に違《たが》はず源次郎妻と馬丁の者と相見える其方が公事《くじ》決斷《けつだん》は甚だ粗忽《そこつ》なり言分有りやと云ふ又與惣次其方は高田へ參りて役人を頼《たの》み傳吉が助命|願《ねが》ひしが叶《かな》はず然ながら種々《いろ/\》に取繕《とりつくろ》ひ牢屋まで飯を送りしと先達て申立しが|其節《そのせつ》役人へ何を遣《つか》はし頼み入たるや此義《このぎ》明白《めいはく》に言上《いひたて》よと云るゝ故與惣次は奉行へ金十兩|其《その》下役人へ十兩|贈《おく》りし[#「十兩|贈《おく》りし」は底本では「十|兩《おく》贈りし」]段を言立《いひたて》[#ルビの「いひたて」は底本では「いたてて」]しかば大岡殿作右衞門へ[#「作右衞門へ」はママ]尋《たづ》ねありしに始《はじ》めは左《と》に右《かく》と陳《ちん》じしがとても包《つゝ》み難《がた》しと存ぜしや寒中見舞《かんちうみまひ》として金子を貰《もらひ》請し旨を申に何か肴《さかな》の類ひならば格別《かくべつ》金子を受るは賄賂《まいない》に當《あた》る不屆《ふとゞ》[#ルビの「ふとゞ」はママ]至極《しごく》なり下役兩人も受しならんとあれば金《きん》二兩づつ貰《もら》ひし旨言立るに大岡殿下役は奉行を見習《みなら》ひ所業《しよげふ》不正《ふせい》なり且賄賂によつて罪《つみ》の有樣を私しなすは此上もなき不屆者《ふとゞきもの》伊東半右衞門は揚屋《あげや》入申付下役二人は留守居へ預《あづ》け遣《つかは》す急度《きつと》戒《いまし》め置と言渡され傳吉は出牢の上|手當《てあて》して宿預け言付|下《さげ》られけり又|極《ごく》月十日傳吉お專與惣次|喜兵衞《きへゑ》勘《かん》右衞門等を奉行所へ呼出され昌次郎|夫婦《ふうふ》の者古郷を出でて何所《なにどころ》か忍《しの》び居んと内々|探索《たんさく》のため昌次郎梅二人の年齡《ねんれい》より風俗を大岡殿|逐《ちく》一|問糺《とひたゞ》されしに就き一同は昌次郎梅が風俗《ふうぞく》を委敷《くはしく》申立且昌次郎の鼻の下に黒《くろ》き黒子《ほくろ》ありと云ければ越前守殿二人|共《ども》多分|存命《ぞんめい》にてあらん其方に手懸《てがか》りはなきやとのことなれども一同|更《さら》に手懸りなき旨《むね》を申又傳吉より先日|御吟味《ごぎんみ》の節思ひあたりしは源次郎|妻《つま》千代事に付て段々《だん/\》御吟味うかゞひしに上臺憑司が娘《むすめ》に候はん此|義《ぎ》は私|幼少《えうせう》の頃《ころ》高田城下の祭禮《さいれい》を見に參り其節憑司の娘千代は人に勾引《かどはかさ》れ行衞《ゆくゑ》知ずとのこと憑司も探索《たんさく》せしが分らざるゆゑ捨置《すておき》たるに先頃御吟味の節《せつ》苗字《めうじ》は上臺名は千代と申よし彼に相違《さうゐ》なし尤も五ヶ|年《ねん》の間三浦屋にて一|處《しよ》に相勤《あひつと》め居れ共同人とは夢《ゆめ》にも存ぜず彼は江戸出生とばかり存《ぞん》じをりました重《かさ》ねて此義をも御吟味下さる樣《やう》願《ねが》ひ上奉つると言に大岡殿|横手《よこて》を拍《うた》れ扨々積惡の報《むく》ふ所は恐《おそろ》しき物かな我が子と知ず憑司が殺し猿島河原へ捨《すて》たるは己が實《じつ》の娘《むすめ》の首なりしとはハテ爭《あらそ》はれぬものなり重ねて吟味致さん追《おつ》て呼出す罷《まか》り立と傳吉を始め一|同《どう》下られけり其後《そのご》大岡殿は何れ昌次郎|夫婦《ふうふ》の者外へは參るまじ江戸|表《おもて》ならんと定廻りの與力同心へ急々|索《たづ》ね申べしと内命《ないめい》有りしとぞ [#8字下げ]第二十二回[#「第二十二回」は中見出し]  先頃越後國|猿島《さるしま》河原より跡《あと》を闇《くら》ましたる昌次郎夫婦の者は親《おや》憑司と計《はか》りて殺《ころ》せし男女の死體《したい》へ己等《おのれら》が着物《きもの》を着《きせ》夫《それ》より信州の山路《やまぢ》にかゝり忍《しの》び/\に江戸へ來りて奉公口《ほうこうぐち》を尋《たづ》ねけれ共相應の口もなく貯《たくは》への路用を遣《つか》ひ切|詮方《せんかた》なく或人の世話《せわ》にて本郷三丁目に裏店《うらだな》を借《かり》己《おのれ》は庄兵衞と改名しお梅は豐《とよ》と改ため庄兵衞|日雇《ひやと》ひとなり細《ほそ》き烟《けむ》りを立つゝ二三ヶ月|暮《くら》しけれ共天道惡事を憎み給ふゆゑ何《どう》幸《さいは》ひのあるべきや偖《さて》又《また》庄兵衞《しやうべゑ》は傘谷《からかさだに》に桂山道宅《かつらやまだうたく》と云醫師ありて毎日雇れ居たり此醫者隨分小金を持《もつ》たる樣子を見|請《うけ》奪《うば》ひ取んと爰《こゝ》に惡念《あくねん》を發《おこ》し或日庄兵衞は不※[#「圖」の「回」に代えて「面から一、二画目をとったもの」、299-6]《ふと》道宅家へ參りしは夜の亥刻過なれども同人は留守《るす》にて近所の長家は皆《みな》戸を閉《たて》有道宅の内《うち》は庄兵衞勝手|覺《おぼ》えし事故|四邊《あたり》に人のなきを幸ひと水口《みづぐち》の半戸を開て這入金子三十兩|着類《きるゐ》品々を奪《うば》ひ取り知ぬ顏して居たりける扨《さて》道宅は家へ歸《かへ》りて見れば勝手《かつて》の戸《と》明放《あけはな》しありて三十兩の金子と着類三品|紛失《ふんじつ》なしたるゆゑ大きに驚《おどろ》き諸方を見るに路次《ろじ》の方水口より這入し樣子《やうす》なり其中に家主《いへぬし》も來り大騷《おほさわぎ》となりしが早々《さう/\》翌日此段大岡殿御番所へ訴《うつた》へ出るに早速|呼《よび》出され段々|尋問《じんもん》となり其日|怪《あやし》き者來らずやと申さるゝに私し留守故|委《くは》しくは存じ仕らず候へども隣家《りんか》の者の噂《うはさ》には日頃雇ひ候庄兵衞と云者參りし樣に存じ候趣き併《しかし》ながら人の咄《はなし》しと云|確《しか》と見屆候義にはこれなくと云ければ大岡殿又々|道澤《だうたく》へ尋問《たづね》らるゝは其日雇に參る庄兵衞と云者《いふもの》は何所にをるものなりやといはれしかば本郷三丁目徳兵衞|店《だな》に住居《ぢうきよ》なし日々雇ひ候者なれども心底《しんてい》を確《かく》と存じ申さず越後邊の出生《しゆつしやう》の者と申立しにより大岡殿以後|手懸《てがゝ》[#ルビの「てがゝ」は底本では「てがゞ」]りともならんかと樣子《やうす》を見せに遣《つか》はされしに役人は家主《いへぬし》徳兵衞を案内に庄兵衞が家を調べんと至《いた》り見しに此節女房は傷寒《しやうかん》にて打臥|床《とこ》に着しまゝ立居も出來《でき》ぬ體なり斯る所へ家主の案内にて役人《やくにん》入り來り家搜《やさが》しをなすよし女房は屏風を立廻《たてまは》し床に掛《かゝ》り有《あり》しが後の方に骨柳《こり》一ツ有しを夫を改めんとなすを妻《つま》は此品は不正《ふせい》の物《もの》ならずと手を出す役人共|拂《はら》ひ退て中を改むるに金子二十兩有て着類《きるゐ》は見えず是は賣代《うりしろ》なせしやと女房を見れば貧家に似合《にあは》ず下に絹物《きぬもの》を着込居るゆゑ脱《ぬが》せて見れば男|小袖《こそで》なり是はと役人共も思ひ直《すぐ》さま手配をなして庄《しやう》兵衞を召捕奉行所へ引き立に成り入牢仰付られ其後《そのご》段々と御吟味になりしが女房|豐《とよ》は病後夫が召捕《めしと》られしよりハツと逆上なし狂《くる》ひ廻《まは》りしかば長家中|皆々《みな/\》番もすれとも動《やゝ》もすれば駈出《かけいで》てあらぬことども罵《のゝし》り廻るにぞ是非なく家主|徳《とく》兵衞并に組合《くみあひ》より願ひ出けるに先達《さきだつ》て御召捕に相成《あひなり》候庄兵衞の妻|豐《とよ》亂心《らんしん》仕つり町内にて種々と介抱《かいはう》且《かつ》養生仕つり候へども晝夜《ちうや》安心相成ず難儀《なんぎ》至極に付何卒御奉行樣にて入牢仰付られ候へば町内《ちやうない》一同有難仕合|也《なり》と申ける是れは毎度《まいど》亂心《らんしん》之者有り家業ならざる中は養生|牢《らう》とて入牢仰付らるゝ故則ち願書取上となり翌日《よくじつ》本郷三丁目徳兵衞|組合《くみあひ》名主付添へ白洲へ罷り出控居るを大岡殿見らるゝに痩衰《やせおとろ》へ眼中|血《ち》ばしりし體《てい》實《じつ》に亂心《らんしん》の樣子なれども傳吉始めより申立し梅の人相《にんさう》に似たる故《ゆゑ》如何にも言葉《ことば》を和《やは》らげられ物靜《ものしづか》に庄兵衞妻其方が名は何と云ぞ又國は何れ成やと問《とは》れしかば豐《とよ》はげら/\笑《わら》ひ出し御奉行|樣《さま》は私《わたし》の名は御存《ごぞん》じないか私の夫は越後國寶田村の昌次郎《しやうじらう》私は梅と申して上臺の若夫婦《わかふうふ》なり夫を知ぬとは扨々《さて/\》可笑や/\と笑ひ狂ふにぞ越前守殿|然《さ》も有べし當人《たうにん》は如何にも亂心《らんしん》の體《てい》ゆゑ入牢申付ると云渡《いひわた》されけり其後又奉行所へ梅を呼出《よびいだ》され亂心《らんしん》ながら其方|生國《しやうこく》は越後高田|在《ざい》寶田村にて父は憑司母は早|夫《をつと》は昌次郎なる由云立しが相違《さうゐ》なきかと尚再三|尋問《たづね》られし上豫て入牢申付られたる庄兵衞を呼《よび》出されしに女房が亂心《らんしん》なし奉行所へ召連|訴《うつ》たへと成《なし》しを少《すこ》しも知らねば如何なる筋《すぢ》のお尋かと心に不審く引出されしが其時大岡殿庄兵衞を見られ其方は何時《なんどき》改名《かいめい》せしぞ其方の名をば何《なん》と申せしと糺《たゞ》されしかば庄兵衞|心中《しんちう》に驚け共元來|不敵《ふてき》の曲者《くせもの》故色にも見せず私|儀《ぎ》は四ヶ年|跡《あと》に仔細あつて改名《かいめい》いたし其以前は吉之介と申し候と云に大岡殿|然《しか》らば其方|妻《つま》名は其以前梅と申せしなるべし夫婦の者改名は四ヶ年|跡《あと》にては無《なく》二三ヶ月前に改名《かいめい》したるならんシテまた其方が生國《しやうこく》は榊原遠江守領分越後高田在寶田村|成《なら》ん其|義《ぎ》汝《なんぢ》の妻梅が申上しぞと仰《おほせら》るゝを聞て庄《しやう》兵衞は默然《もくぜん》として居たりしが又大岡殿仰らるゝ樣其方|何《なん》年|何《なん》月|幾《いく》日何故古郷を立て江戸《えど》へ來りしぞ庄《しやう》兵衞ヘイ二三年|跡《あと》身代《しんだい》零落《れいらく》に付き稼ぎの爲めまかり出しと云ふを大岡殿|否《いな》二三年では有《あ》るまじ二三ヶ月跡ならん夫《それ》とも強情《がうじやう》を云ならば二三年以前に出て何所《いづこ》に住居《すまひ》いたせしぞと尋問《たづね》られしかば庄兵衞は何處迄も云張《いひはる》了見《れうけん》にてハイ國者の所に居《を》りしと云にその所は何所にて名は何と云やと尋問《たづね》られしに淺草|邊《へん》なりしが其の淺草は駒形《こまがた》にて名は兵右衞門と申すとかシテ其の兵右衞門は只だいま以つて其の所ろに住居|致《いた》すやと問|詰《つめ》られしに庄兵衞ヘイ其者《そのもの》當時は身上を仕舞《しまひ》國元へ歸り候と申立るに大岡殿は少《すこ》し聲《こゑ》を張上《はりあげ》られコリヤ庄兵衞其方は種々《しゆ/″\》の事を云奴なり己れは生國越後國頸城郡寶田村上臺憑司が悴《せがれ》昌次郎三箇月以前|猿島《さるしま》河原《がはら》に於て親憑司と謀《はか》り人を殺して汝夫婦の着類を着置《きせおき》其處を立退き今は改名《かいめい》して庄兵衞と名乘其元の名は昌《しやう》次郎|妻《つま》とよ事元の名は梅《うめ》と云者ならん天命にて其方が妻《さい》亂心《らんしん》なし我が手にあり加之《しかのみならず》親憑司早くも先達《せんだつ》て牢舍申附たり同村名主傳吉を罪《つみ》に陷《おと》し入んと計り闇《くら》き夜に昌次郎と兩人《ふたり》にて男女を殺《ころ》し悴娘の着類を着《きせ》兩人の首を切《きつ》て川へ流せし趣《おもむ》き最早兩人より白状《はくじやう》に及びしを己れ此上にも僞《いつは》らんとならば水火の責に掛《かけ》て言《いは》する何《どう》じやと仰《おほ》せに流石《さすが》の庄兵衞も驚《おどろ》き色《いろ》蒼然《あをざめ》戰々《わな/\》慄《ふる》ひ出だし一言の答へもなし大岡殿何じや己れ罪《つみ》に伏《ふく》せしやと云るゝ時庄兵衞は猶《なほ》も遁《のが》るゝだけ脱《のが》れんと思ひ私し全《まつたく》然樣《さやう》なる覺えは之なしと申により大岡殿|斯《かく》兩人は罪に伏《ふく》したれ共此上にも爭《あらそ》はゞ是非なく拷問《がうもん》申し附るとこれより庄兵衞の昌次郎は拷問《がうもん》に掛《かゝ》り種々|責《せめ》られ終《つひ》に人殺しの一條より國を立退《たちの》き江戸へ來り本郷に少しの知己《しるべ》ある故是に落附候所|天命《てんめい》にて召捕られし段申立しかば則ち石|出《で》帶刀《たてわき》より爪印を取て奉行所へ差出しに及《およ》びけりよつて享保《きやうほ》十一年正月二十三日右一|件《けん》につき又々評定所へ前々の通り夫々の役人|列座《れつざ》ある願人憑司并に郡奉行|伊藤《いとう》半右衞門等は牢《らう》より引出され且《かつ》又川崎金左衞門[#「川崎金左衞門」はママ]及小野寺源兵衞相手方傳吉及與惣次村役差添人尚又引合の細川家《ほそかはけ》の家來《けらい》井戸源次郎三浦屋四郎左衞門善右衞門|皆々《みな/\》白洲へ罷《まかり》出ければ目安役與力一々|名前《なまへ》を呼立る時大岡殿|席《せき》を進まれ是迄段々吟味を遂《とげ》し通り最早其方|罪《つみ》に伏したるやと云れしかば憑司は左右《さう》恐《おそ》れぬ體《てい》にて私し悴を殺され爭《いかで》か罪に伏《ふく》し申さんやと申すに大岡殿其方如何に爭《あらそ》ふとも河原の死骸《しがい》は馬丁と空《うつ》せみの兩人にして昌次郎夫婦は存命《ぞんめい》いたし居るぞ然るに傳吉を罪《つみ》に陷《おと》さんと巧《たく》み訴訟《うつたへ》しは重々不屆きなる奴《やつ》かなと云はるゝを憑司|猶《なほ》押返《おしかへ》し恐れ乍ら其死骸が馬丁|並《ならび》に空せみと申|遊女《いうぢよ》なりと云|確固《たしか》なる證據《しようこ》も御座らずといふに越前守殿馬丁には慥《たしか》の證據も非ざれ共女は腕《うで》に源次郎命と彫物《ほりもの》ありし故是なる源次郎の申口にて委細《ゐさい》相譯《あひわか》りしなり又一人は空《うつ》せみを勾引《かどはか》[#ルビの「かどはか」はママ]たる馬丁に相違あるまじ汝|何《いか》に僞《いつは》るとも天命|爭《いかで》か惡を助《たす》けんや早く白状《はくじやう》致すべしと一々|證據《しようこ》を示されければ流石《さすが》の憑司も包《つゝ》むに由なく實は傳吉に村長を奪《うば》はれしと存じ彼《あ》れを亡者《なきもの》となし我また後役《あとやく》にならんと惡心《あくしん》増長《ぞうちやう》せし所役人へ遣はす賄賂《わいろ》の金子に困り悴夫婦を江戸へ稼《かせぎ》に出し給金にて地頭役人を拵《こしら》へ先役に立歸《たちかへ》らんと存じ此ことを村中へ知らせず日暮《ひぐれ》て立出させし所に猿島《さるしま》河原迄|到《いた》り火打《ひうち》道具を失念《しつねん》致したるを心付昌次郎は取《とり》に立戻《たちもど》る時私しは又|宅《たく》にて心付子供等が後《あと》を追駈《おひかけ》昌次郎と途中にて行違ひと成り梅一人河原に待《まち》居たる所雲助|風俗《ふうぞく》の者女を勾引《かどはか》し來り打叩くを傍《かたは》らにて梅は驚き迯出《にげいだ》す所を又其者梅をも捕《とら》へんとて爭ふ所へ私は駈付《かけつけ》夫と見るより切付しに過《あやま》つて彼の女を切殺し又悴は雲助を打果《うちはた》せしかば如何ならんと相談《さうだん》致し傳吉を罪《つみ》に落《おと》さんと二人か首《くび》を切り川へ流し着類を着《き》せ替《か》へ其上傳吉が庭の飛石《とびいし》に血の跡《あと》を附置《つけおき》しに我が手に掛《かけ》しは現在《げんざい》娘千代にてありしか彼が事は行衞《ゆくゑ》知れず然《しか》るに彼は親を慕《した》ひ夫へ願ひ態々《わざ/\》尋ね來りしを不便の事をしてけりと強情《がうじやう》我慢《がまん》を言張し憑司夫婦も恩愛《おんあい》に心の鬼《おに》の角《つの》をれて是まで巧《たく》みし惡事の段々殘らず白状なりたりけり依て大岡殿は外々の者共《ものども》へも右の趣きを言渡《いひわた》され別けて善右衞門には惡者《わるもの》松五郎|欠落《かけおち》中未だ行衞分らざる由につき猶《なほ》尋《たづ》ね申べきむね嚴重《げんぢう》に仰付られしかば憑司はたゞ恐れ入てぞ居たりける斯《かく》の如く追々調べ相|濟《すみ》しに付一同|口書《こうしよ》爪印《つめいん》仰付られ享保十二年[#「享保十二年」はママ]二月二日一同呼出しに相成|例《れい》の如く役人|衆《しう》列席《れつせき》大岡殿夫々|科《とが》の次第申渡されたり [#地から11字上げ]榊原遠江守領分越後國頸城郡寶田村百姓   憑司 [#ここから1字下げ] 其方|儀《ぎ》村長《むらをさ》役をも勤《つとめ》ながら傳吉留守中同人叔母早と密通《みつつう》に及び早を我が家へ引取妻と致し其後村長役を召放《めしはな》され傳吉へ後役《あとやく》申付られしを妬《ねた》く思ひ加之猿島河原に於て現在《げんざい》娘千代事|空《うつ》せみを切害し其罪を傳吉へ負《おは》せん事を榊原遠江守郡奉行伊藤半右衞門|外《ほか》下役二人の者共と相謀《あひはか》り傳吉か無實の汚名《をめい》を申立彼を亡ひし後《のち》己れ跡《あと》に再勤せんと巧《たく》みし條《でう》不屆至極《ふとゞきしごく》に付死罪の上越後國猿島河原に於て獄門《ごくもん》申付る [#地から11字上げ]右同斷            同人妻   はや 其方儀|平常《つね/″\》身持《みもち》宜《よろし》からず數度《すど》夫《をつと》を持《もち》不貞《ふてい》の行ひありしのみならず森田屋銀五郎方の大恩を忘《わす》れ病人を捨置|欠落《かけおち》致し其上我か甥《をひ》傳吉より七十五兩の大金を遣《つかは》したる信義《しんぎ》を忘《わす》れ憑司と密通《みつつう》致し傳吉を計《はか》り殺さんと致し候|條《でう》不屆至極《ふとゞきしごく》に付八丈島へ流罪申付る [#地から11字上げ]憑司悴昌次郎事              庄兵衞 其方儀傳吉先妻梅と奸通《かんつう》に及びしのみならず傳吉|預《あづ》け置候金子を欺《かた》り取《とり》加之《そのうへ》猿島河原に於て名も知れざる馬丁《まご》を切害《せつがい》し自分と梅との衣類|着替《きせかへ》置其罪を傳吉へ負《おは》せん事を親《おや》倶々《とも/″\》相謀り候|條《でう》重々《ぢう/\》不屆至極に付死罪の上猿島河原に於て獄門《ごくもん》申付る [#地から11字上げ]昌次郎事[#「昌次郎事」は底本では「昌次郎」]庄兵衞妻梅事            とよ 其方義夫傳吉の留守中《るすちう》昌次郎と奸通《かんつう》致し剩《あまつ》さへ傳吉|歸國《きこく》の節《せつ》密夫《みつぷ》昌次郎に大金を欺《かたり》取《とら》せ旁々《かた/″\》以て不埓《ふらち》に付|三宅島《みやけじま》へ遠島《ゑんたう》申付る [#地から7字上げ]榊原遠江守家來              伊藤半右衞門 其方儀|重《おも》き役儀《やくぎ》を勤《つとめ》ながら賄賂《まいない》を取《とり》邪《よこしま》の捌《さばき》をなし不吟味《ふぎんみ》の上傳吉を無體に拷問《がうもん》に掛無實の罪に陷《おと》し役儀を失《うしな》ふ條《でう》不屆に付|繩附《なはつき》の儘《まゝ》主人遠江守へ下さる間《あひだ》家法《かはふ》に行ひ候|樣《やう》留守居へ申渡す [#地から7字上げ]右同斷                  川崎金右衞門 其方儀|奉行《ぶぎやう》の申付とは言ながら賄賂《まいない》を取役儀を失ひ無體《むたい》に威權《ゐけん》を弄《ろう》し良民《りやうみん》を無實の罪に陷し入候條不屆に付|繩附《なはつき》の儘《まゝ》主人へ下さる家法《かはふ》に行ひ候樣留守居へ申渡す [#地から7字上げ]右同斷                  小野寺源兵衞 右《みぎ》同《どう》文言《もんごん》 [#地から9字上げ]新吉原奉公人口宿             善右衞門 其方儀松五郎|尋《たづ》ねの所未だ行衞《ゆくゑ》相知れざる趣き空《うつ》せみ事千代|存命《ぞんめい》も是れ有らば入牢の上|屹度《きつと》被仰付之處|當人《たうにん》空《うつ》せみ相果候上は一等を減《げん》じられ江戸構《えどかま》へ申付る [#地から8字上げ]細川越中守家來              井戸源次郎 其方儀|不正《ふせい》の儀もこれなく構《かま》ひなし [#地から4字上げ]新吉原町一丁目              三浦屋 四郎左衞門 右同文言 [#地から11字上げ]榊原遠江守領分越後國頸城郡寶田村名主   傳吉 其方儀不正の儀《ぎ》無之《これなく》而已《のみ》ならず我《わ》が家の衰頽《すゐたい》を再興《さいこう》せんことを年來心掛|貯《たく》はへたる金子を惜《をし》む事なく叔母早へ分與《わけあた》へたるは仁《じん》なり義なり憑司《ひやうじ》昌《しやう》次郎と交《まじは》りを絶《たち》身《み》を退ひたるは智なり又梅を離縁《りえん》して昌次郎へ遣《つかは》し見返《みかへ》らざるは信《しん》なり罪なくして牢屋に繋《つな》がれ薄命《はくめい》を覺悟《かくご》して怨言《ゑんげん》なきは禮《れい》なり薄命《はくめい》を歎《たん》じて死を定めしは勇《ゆう》なり五常《ごじやう》の道に叶《かな》ふ事|斯《かく》の如く之に依て其|徳行《とくかう》を賞《しやう》して傳吉は領主より相當《さうたう》の恩賞《おんしやう》あるべき旨《むね》別段《べつだん》遠江守へ仰せ付らるゝ間此旨留守居へ相心得《あひこゝろえ》よと申渡す [#地から11字上げ]傳吉妻   せん 其方儀|貞實《ていじつ》信義《しんぎ》の烈女《れつぢよ》民間《みんかん》には稀《まれ》なる者なり汝が貞心《ていしん》天も感《かん》ずる所にして斯《かく》夫《をつと》が無實の罪明白に成事|感賞《かんしやう》に勝《たへ》たりとて厚く御|褒詞《はうし》有之 [#地から10字上げ]信濃國水内郡野尻宿            與惣次 其方|儀《ぎ》專《せん》が親と成り傳吉が無實《むじつ》の罪を助けんと財《ざい》を惜《をし》まず眞實《しんじつ》の心より專を助け萬事に心添《こゝろそへ》致し遣《つか》はし候段|奇特《きどく》に思《おぼ》し召《めさ》るゝ旨|御賞詞《ごしやうし》有之 [#地から10字上げ]榊原遠江守領分越後國頸城郡寶田村組頭總代 吉兵衞 [#地から9字上げ]同               百姓總代 勘右衞門 其方共|是迄《これまで》傳吉の證人に相立《あひたち》御吟味《ごぎんみ》の節申口|諛《へつ》らひなく正直に申上候段|譽置《ほめおく》 [#ここで字下げ終わり] 斯の如く賞罰《しやうばつ》夫々仰せ付られ其日の廳《ちやう》は果《はて》にける之より傳吉夫婦は晴天白日《せいてんはくじつ》の[#「晴天白日の」はママ]身となりしのみか領主《りやうしゆ》より帶刀《たいたう》を許され代々村長役たるべき旨|仰付《おほせつけ》られしかば歡《よろこ》び物に譬《たとへ》ん方なく三浦屋の主人并びに井戸源次郎を始め其事に立障《たちさは》りし人々に厚《あつ》く禮を述べ與惣次村役人|同道《どうだう》なし目出度越後寶田村|故郷《こきやう》へ立歸りしかば同村の人々は死せし者の蘇生《そせい》せし思ひをなし傳吉夫婦此度無實の罪は速に消《き》え故郷へ歸りし祝也《いはひなり》とて村中の者を厚《あつ》く饗應《もてなし》たり又郡奉行伊藤伴右衞門は討首《うちくび》川崎金右衞門小野寺源兵衞の二人は帶刀《たいたう》取上領内|構《かま》ひの由夫々領主へ申付られけり斯《かく》て翌年一|週忌《しうき》に當《あた》る頃は上臺憑司昌次郎|空《うつ》せみ伊藤伴右衞門と彼《かの》馬丁等《まごとう》と惡人たりとも刀下《たうか》の鬼《おに》となりしを深く憐《あは》れみ此人々の爲に僧《そう》を多く招《まね》き同村の寺にて大|法會《ほふゑ》を執行《とりおこ》なひ村中へは施行《せぎやう》をなし夫れより後傳吉は倍々《ます/\》其身を愼《つゝし》み村人を憐《あは》れみければ一村|擧《こぞ》つて其徳を稱し領主よりも屡々《しば/\》賞詞《しやうし》を蒙《かう》ふりける又|野尻宿《のじりじゆく》の與惣次の實家は縁類《えんるゐ》の者を以て養子となし其の身は傳吉方へ引取れ一生|安樂《あんらく》に過《すご》しお專も其後子供幾多|設《まう》けければ傳吉が取計《とりはから》ひにて實家森田やの家名《かめい》を相續《さうぞく》なさしめ銀五郎と名乘今に繁昌《はんじやう》なしけるぞお早親子は年立て後上の大赦《たいしや》に逢ひ島より歸りしが傳吉之れも憐《あは》れみ厚く世話なせしに惡人《あくにん》のお早親子も傳吉が徳《とく》に感《かん》じ先非を悔悟《くわいご》すること少なからず終に尼《あま》となり兩人共同村にて人々の菩提《ぼたい》を弔《とむ》らひ終しとかや爰《こゝ》に不思議《ふしぎ》なるは先年罪科に所せられたる上臺昌次郎が未だ梅と姦通《かんつう》せざる以前村中に深《ふか》く契《ちぎ》りし娘有りし所遂に姙娠《にんしん》なしたる儘親元へも掛合《かけあひ》出生《しゆつしやう》の子は男女に係《かゝ》はらず昌次郎方へ引取|約束《やくそく》なりしが娘は程なく男子を産《うみ》たるも産後敢果なく成けるにぞ其親は娘の遺物《かたみ》と生れし幼兒を昌次郎方へ遣《つかは》さず養育《やういく》なしたるが此者|商賣《しやうばい》の都合に寄《より》江戸へ出其後|絶《たえ》て音信《おとづれ》もなさざりしにさすが古郷《こきやう》のなつかしくや有りけん計《はか》らず此度越後寶田村へ立戻《たちもど》り住居をなせしに依《より》此を傳吉は聞及び幸ひ上臺の家《いへ》斷絶《だんぜつ》を嘆《なげ》く折柄故其男子に傳吉より憑司《ひようじ》が田地の外に若干《じやくかん》の地を遣《つかは》し上臺の家を相續《さうぞく》成《なさ》しめける眞に傳吉が行ひは孝道《かうだう》と信義との徳にて無實の罪に落入《おちいり》たるも死を迯《のが》れ一生を榮《さか》ゆる事天の惠《めぐ》みとは云乍《いひなが》ら一ツには大岡越前守殿の明智《めいち》英斷《えいだん》に依《よ》るものなりと專《もつぱ》ら當時《たうじ》人々《ひと/″\》噂《うはさ》をなせしとぞ 越後傳吉一件[#1段階小さな文字]終[#小さな文字終わり] [#改丁] [#ページの左右中央] 傾城瀬川一件[#「傾城瀬川一件」は大見出し] [#改丁] [#1段階大きな文字]傾城瀬川《けいせいせがは》一件《いつけん》[#大きな文字終わり] [#8字下げ]第一回[#「第一回」は中見出し]  茲《こゝ》に江戸《えど》新吉原町《しんよしはらまち》松葉屋半左衞門《まつばやはんざゑもん》抱《かゝへ》の遊女《いうぢよ》瀬川《せがは》夫《をつと》の敵《かたき》を討《うち》しより大岡殿の裁許《さいきよ》となり父の讐迄《あだまで》討《うち》孝貞《かうてい》の名を顯《あらは》す而已《のみ》か遊女《いうぢよ》の鑑《かゞみ》と稱《たゝへ》られ夫《それ》が爲《ため》花街《くるわ》も繁昌《はんじやう》せし由來を尋《たづぬ》るに元《もと》大和國《やまとのくに》南都《なんと》春日《かすが》の社家《しやけ》大森隼人《おほもりはいと》の次男にて右膳《うぜん》と云者《いふもの》有《あり》しが是を家督《かとく》にせんと思《おもひ》父の隼人は右膳に行儀《ぎやうぎ》作法《さはふ》を習《なら》はせんと京都へ登《のぼ》せ堂上方《だうじやうかた》へ宮仕《みやづかへ》させしに同家の女中《ぢよちう》お竹と云ふに密通《みつつう》なし末々《すゑ/″\》の約束迄《やくそくまで》して居たりしを朋友《ほういう》の中にも其女に心を懸《かけ》色々と云寄《いひより》しが早晩《いつしか》大森右膳《おほもりうぜん》と深き中になり居ると云ふ事を聞《きゝ》甚《はなは》だ妬《ねた》ましく思ひ其事柄《そのことがら》を主人へ告《つげ》ければ不義《ふぎ》は家《いへ》の法度《はつと》なりとて兩人共|暇《いとま》となりしかば右膳は女を親許《おやもと》より貰《もら》ひ受《うけ》古郷《こきやう》の奈良へ連戻《つれもど》りしに父は大いに立腹《りつぷく》なし勘當せしかば止《やむ》を得《え》ず右の女と夫婦《ふうふ》になり小細工《こざいく》などして暮《くら》せしに生質《せいしつ》器用《きよう》にて學問も出來其上|醫道《いだう》の心懸《こゝろがけ》も有りし故《ゆゑ》森通仙《もりつうせん》と改名し外科《げくわ》を專《もつぱ》らとして傍《かたは》ら賣藥を鬻《ひさ》ぎ不自由もなく世を送りし中女子一人を儲《まう》け名をお高《たか》とよびて夫婦の寵愛《ちようあい》限《かぎ》りなく讀書《よみかき》は勿論《もちろん》絲竹《いとたけ》の道より茶湯《ちやのゆ》活花等《いけばなとう》に至るまで師を撰《えら》みて習はせしに取分《とりわけ》書を好み童女《どうぢよ》に稀《まれ》なる能書《のうしよ》なりと人々も稱譽《もてはや》しけり此お高一|體《たい》容貌《みめかたち》美麗《うるはし》くして十五六歳に成《なり》し頃は類《たぐひ》なき艷女《たをやめ》なりと見る人毎《ひとごと》に心をぞ迷《まよ》しける[#「迷《まよ》しける」はママ]中《うち》近隣《きんりん》の社人|玉井大學《たまゐだいがく》の若黨に源八と云者《いふもの》ありしが常々《つね/″\》通仙《つうせん》の見世へ來ては話《はな》しなどして出入りしに此者《このもの》至《いたつ》て好色《かうしよく》なれば娘お高を見初《みそめ》兩親の見ぬ時などは折々《をり/\》手《て》を捕《とら》へ又は目顏《めがほ》にて知らせけるに兩親は只一人の娘なれば惡《あし》き蟲でも付《つい》てはならずと心を配《くば》り母は娘の側《そば》を放《はな》れぬやうにする故|何分《なにぶん》云寄《いひよる》に便《たより》なく源八は種々《しゆ/″\》心を盡《つく》しけるが或時《あるとき》下男の與八と云者《いふもの》に酒を振舞《ふるまひ》小遣《こづかひ》など與へて喜ばせ聲を潜《ひそ》めつゝ其方《そなた》の主人の娘お高殿に我等《われら》豫々《かね/″\》心《こゝろ》を懸《かく》る所お高殿も氣のある容體《ようす》なれども御母殿《おふくろどの》が猿眼《さるまなこ》をして居る故|咄《はなし》も出來難《できがた》ければ貴樣に此文を渡《わた》す間《あひだ》能々《よく/\》人目《ひとめ》を忍びお高どのへ渡し色《いろ》よき返事《へんじ》を貰《もら》ひ呉《くれ》よ此事首尾よく行かば禮《れい》は何程も爲《なさ》んと云《いふ》に與八は大いに悦《よろこ》びお高殿も最早《もはや》十六なれば男に氣《き》の有るは知れた事|殊《こと》に貴樣《おまへ》の男ぶりなれば出來る事は此與八が請合也《うけあひなり》と文を預《あづか》り歸りしが或日兩親の居ぬ隙《ひま》を考《かんが》へ右の文を渡《わた》しければお高は容體《かたち》を改め其方《そなた》は主人の娘に戀《こひ》の執持《とりもち》を爲事《なすこと》不埓《ふらち》千萬なり重《かさ》ねて斯樣なる事をなさば爲《ため》になるまいぞと嚴敷《きびしく》辱《はづか》しめて文を返《かへ》しけるに與八は案《あん》に相違し大いに困《こま》り果《はて》しが其儘《そのまゝ》にも爲難《なしがた》ければ早速《さつそく》に源八の方へ到《いた》り日頃は物柔《ものやはら》かなる娘故|譯《わけ》もなく出來樣《できやう》と存ぜしが大きな間違《まちが》ひにて斯々の次第|實《まこと》に御氣の毒千萬と云《いひ》ながら文を返しけるに源八は一|向《かう》腹《はら》をも立《たゝ》ず否々《いや/\》未《まだ》初戀《はつごひ》のお高殿一度や二度では勿々《なか/\》成就《じやうじゆ》すまじ氣永《きなが》に頼むとて又々與八へ酒《さけ》肴《さかな》など振舞《ふるまひ》手拭《てぬぐひ》雪駄等《せつたとう》に至るまで心付或時は蕎麥《そば》など喰《くは》せて頼みしかば與八は又々文をお高へ渡《わたし》種々《しゆ/″\》源八が戀慕《こひした》ふ樣子を物語りければお高は大に憤《いか》り文を投付《なげつけ》一言も云はず直《すぐ》に母へ右の事を話《はな》せしにぞ父も此事を聞《きゝ》然樣《さやう》の者は暇《いとま》を遣《つかは》すに如《しく》はなしと與八へは永《なが》の暇を遣はし其後源八が遊《あそび》に來りし時皆々|折目高《をりめだか》に待遇《もてなし》ける故源八は手持《てもち》無沙汰《ぶさた》に悄々《すご/\》と立歸り是は彼の文の事を兩親の知りし故なりと深《ふか》く遺恨《ゐこん》[#ルビの「ゐこん」は底本では「ゐこれ」]に思《おも》ひけり [#8字下げ]第二回[#「第二回」は中見出し]  夫《それ》人《ひと》の性は善なりと雖ども習慣《ならひ》に因て惡となると云《いひ》又《また》衆生《しゆうじやう》は皆惡人なれど信心《しんじん》の徳に因て惡趣《あくしゆ》を放《はな》れ成佛《じやうぶつ》得度《とくど》なすとも云《いふ》何樣《なにさま》善惡《ぜんあく》相半《あひなかば》すべし偖も源八は彼の與八に暇の出《いで》たるは我故なり今は云寄《いひよる》手蔓《てづる》もなく成りしかば通仙夫婦の者に遺恨《ゐこん》を晴《はら》さばやと思ひて竊《ひそか》に鹿《しか》を一疋殺し通仙が表《おもて》へ建掛《たてかけ》[#ルビの「たてかけ」は底本では「たけかけ」]て置きしを夜中の事故一人も知者《しるもの》なかりけり(南都にては春日《かすが》明神《みやうじん》の愛《あい》し給ふとて古へより鹿殺《しかころし》は科《とが》重《おも》しと云ふ)翌朝《よくてう》所の人々見付けて立騷《たちさわ》ぐ聲を聞き通仙の家内《かない》も起出《おきいで》て見るに鹿の斃《たふれ》て居る故|早々《さう/\》町役人へ屆け奈良奉行へ檢視《けんし》を願ひ出でけるに通仙を呼出《よびいだ》され吟味ありしかど素《もと》より知らざる趣き明白《めいはく》也然れども外に心當《こゝろあた》りの者や有《ある》と種々《しゆ/″\》尋問《たづね》らるゝと雖も一|向《かう》心當りもなしと申に奉行所に於ても其身が殺して己が家の前に置《おく》筈《はず》は無ければ通仙に非《あら》ぬ事は知れながら本人《ほんにん》出《いで》ざるゆゑ所拂《ところばら》ひとなりしかば通仙は是非《ぜひ》なく京都へ引越《ひきこし》苗字《めうじ》を山脇《やまわき》と改ため以前の如く外科《げくわ》を業とすれども南都と違《ちがひ》新規《しんき》の場所故何事も思はしからず漸々に細《ほそ》き煙《けふ》りを立居たるに或日家内の者|愛宕《あたご》へ參りける留宅《るす》へ盜人《ぬすびと》押入《おしいり》賣殘《うりのこ》りし少しの道具を奪取《うばひと》られ彌々|難澁《なんじふ》に迫《せま》り又々大坂へ立越《たちこえ》しが左右《とかく》困窮《こんきう》に困窮を重《かさ》ね終に通仙は病死し跡には母と娘のみ益々《ます/\》貧窮《ひんきう》に迫りしが當頃《そのころ》鯛屋大和《たひややまと》と云者《いふもの》狂歌《きやうか》に名高く俳名《はいみやう》を貞柳《ていりう》と云ひしが此者通仙と入魂《じゆこん》なりし故妻子の難儀を見兼ねて世話をなしける處|尼《あま》[#ルビの「あま」は底本では「あや」]ヶ|崎《さき》の藩中に小野田幸之進《をのだかうのしん》と云人有りしが勘定頭《かんぢやうがしら》を勤《つと》め主用にて常々大坂へ出《いで》金談等《きんだんとう》も取扱ひし故貞柳も懇意《こんい》になり山脇が母子の樣子を話《はな》し御家中内に相應《さうおう》の口も有らば御世話下されよ娘の年は十八にして容顏《きりやう》は沈魚《ちんぎよ》落鴈《らくがん》羞月《しうげつ》閉花《へいくわ》とも謂《いひ》つべき美人なりと申ければ幸之進も獨身《どくしん》者故大きに好《この》もしく思ひ我等|最早《もはや》四十歳に近けれども先《さき》にて構ひなくば母子ともに引取妻に致さんと云ふを夫は重疊《ちようでふ》何分にも御頼み申とて引合《ひきあは》せしに大いに幸之進が心に適《かな》ひ母子共引取て大坂に差置《さしおき》不自由なき樣に金銀を送り半年ばかり世話せしに疾《はや》主人の供にて江戸へ下《くだ》るに付き母子にも路金《ろぎん》并びに手形《てがた》を渡し後《あと》より下り來るべしと申置きし故|頓《やが》て支度を調《とゝの》へ東海道を下り豫《かね》て約束なれば深川の下屋敷へ到着《たうちやく》致《いた》しけるに小野田は三年以前に先妻は相果《あひはて》子供もなく住居も下邸《しもやしき》の事なれば手廣《てひろ》き暮しに付母娘共大きに安堵《あんど》して幸之進を大切に待遇《もてなし》けり夫より又半年程|經過《たち》主用にて又々大坂へ登《のぼ》り尼ヶ崎へも立寄《たちよる》べき事有りて金四百五十兩を預《あづか》り急《いそぎ》の旅なれば駕籠《かご》より乘掛《のりかけ》が宜しと供人も纔《わづか》に引連《ひきつれ》てぞ登りける [#8字下げ]第三回[#「第三回」は中見出し]  偖も小野田幸之進は主命に因《よつ》て江戸屋敷を出立なし大坂へと赴《おもむ》く途中《とちう》箱根も打越《うちこえ》て江尻へ泊《とま》り急ぎの旅なれば翌曉《よくげう》寅刻頃《なゝつごろ》に出立しけるが江尻宿を放《はな》れて十町ばかり野合《のあひ》へ掛る處へ向ふより二人の旅人|通《とほ》り掛《かゝ》り幸之進が馬の脇《わき》を行違ふ時|拔手《ぬくて》も見せず右の片足をばつさり切落《きりおと》しければ幸之進はアツト云《い》ひ樣《さま》馬より落る處を起《おこ》しも立《たて》ず突殺す故|馬士《まご》は仰天《ぎやうてん》なし迯《にげ》んと爲すを一人の旅人|飛蒐《とびかゝつ》て是をも切殺すに供の男は周章狼狽《あわてふためき》後《あと》をも見ずして迯歸《にげかへ》りける故|頓《やが》て盜賊は荷繩《になは》を解《とき》明荷《あけに》の中に在りし金四百五十兩并びに幸之進が胴卷《どうまき》の中にありし二十兩餘りの金と大小《だいせう》衣類迄《いるゐまで》も奪取《うばひとり》行衞も知れず迯去《にげさり》ける依て彼の供人は江尻宿へ引返《ひきかへ》し宿役人へ斷《ことわ》り置《おき》死骸《しがい》を改め飛脚《ひきやく》を以て江戸表へ注進《ちうしん》なし猶《なほ》又《また》其身も立歸りて委《くは》しく申立てければ大守《たいしゆ》よりは公儀へ御屆けの上死骸は引取られしが大守は大いに怒《いから》れ武士たる者一太刀も合《あは》せず殺されて用金を奪《うば》ひ取られし事|他聞《たぶん》も宜しからず當家の恥辱《ちじよく》なりとて改易《かいえき》申付られ尤も憐愍《れんみん》を以て家財は家内へ與へられたれば通仙が後家《ごけ》お竹并びに娘お高は邸《やしき》を追拂《おひはら》はれ富澤町に若松屋金七と云者《いふもの》幸之進と入魂《じゆこん》故此者の方へ引移《ひきうつ》り世話になりけるが如何なる過去《くわこ》の因縁にや漸々小野田が方へ縁付|安堵《あんど》せしに間もなく又もや思ひの外の災難《さいなん》にて再び流浪《るらう》の身となり親子涙の乾《かわ》く隙《ひま》なき所に廿日ばかり立《たつ》中《うち》近所《きんじよ》より出火と云程《いふほど》こそあれ大火となり若松屋金七も類燒《るゐせう》しければ是までの如くは勿々《なか/\》世話にも成難《なりがた》く如何はせんと思ひし折柄《をりから》竹本君太夫と云ふ淨瑠璃語《じやうるりかた》り金七が上方《かみがた》に在りし頃よりの知己《ちかづき》にて火事見舞に來りしを幸ひ小野田が後家の身の上を頼《たのみ》ければ君太夫も大坂者ゆゑ一しほ思ひ遣《や》り夫は嘸《さぞ》御難儀なるべし片田舍《かたゐなか》なれども當分|御凌《おしの》ぎに淺草今戸の町へ御越《おこし》あれとて荷物を運送《はこば》せ引移《ひきうつ》らせけるに日數《ひかず》立《たつ》に隨《したが》ひお高は熟々《つく/″\》思ふ樣幸之進殿盜賊の手に掛《かゝ》り果《はて》給ひしは嘸《さぞ》御無念《ごむねん》に在《おは》すらん殊更《ことさら》武士に有るまじき事と諸人《しよにん》に笑《わらは》れ給ふ事如何にも口惜《くちをし》き次第なり我も女には生れたれども敵《かたき》を討取《うちとり》幸之進殿に手向《たむけ》進《まゐ》らせ度《たし》一ツには行末《ゆくすゑ》永《なが》き浪人の身の上母公の養育にもさし支《つか》へるは眼前《がんぜん》なり且敵を探《さぐ》るに女の身なれば多くの人に交際《まじは》るには遊女に如事《しくこと》なし彼の節《せつ》幸之進殿|所持《しよぢ》せられし大小印形に勿論《もちろん》衣類紙入|胴卷《どうまき》は妾が縫《ぬひ》たれば覺えあり是を證據に神佛へ誓《ちか》ひを掛け尋ね出し敵を討《うた》で置くべきやと一心を込《こめ》て君太夫に對《むか》ひ其許樣《そのもとさま》には常々吉原へ入込《いりこみ》給へば私しの身を遊女に成《なさ》れ其《そ》の身《み》の代金《しろきん》にて母の身の上を御世話下され度|何分《なにぶん》宜樣《よきやう》に御取計ひ給はれと頼みければ君太夫|感心《かんしん》は爲すものゝ又|哀《あは》れを催《もよほ》し實《まこと》に驚き入たる御志操《おこゝろざし》なれども夫よりは貴孃《あなた》の御縹緻《ごきりやう》なれば御縁の口は何程も有るべし我等|豫《かね》て頼《たのみ》置《おき》たれば先《まづ》待《まち》給へと云ふに否《いな》縁付も氣兼《きがね》が否なれば氣樂《きらく》に遊女奉公を勤度《つとめたし》と強《しひ》て望むにより素《もと》より吉原は心安き所故松葉屋半左衞門方へ相談《さうだん》しけるに縹緻《きりやう》[#ルビの「きりやう」は底本では「きりうや」]と云ひ藝《げい》と云ひ殊に歳頃も彼の望む處なれば年《ねん》一|杯《ぱい》二十八までの積《つもり》にて目見しけるに大いに心に適《かな》ひ身代金百五十兩と取極《とりきめ》君太夫が請人《うけにん》にて母の爪印《つめいん》も相濟《あひすみ》新吉原松葉屋半左衞門方へぞ到《いた》りける [#8字下げ]第四回[#「第四回」は中見出し]  然程《さるほど》に新吉原松葉屋にては彼のお高を抱《かゝ》へ樣子を見《みる》に書は廣澤《くわうたく》を學《まな》び琴《こと》は生田流《いくたりう》揷花《いけばな》は遠州流茶事より歌|俳諧《はいかい》に至るまで是を知らずと云ふ事なく殊《こと》に容貌《ようばう》美麗《うるはし》く眼に千金の色を含《ふく》み物事《ものごと》柔和《やはらか》にして名にし負ふ大和詞なれば人《ひと》愛《あい》ありて朋輩《ほうばい》の中も睦《むつま》しく怜悧《れいり》ゆゑ僅《わづ》かの中に廓言葉《さとことば》外《そと》八文字の踏樣迄《ふみやうまで》も覺えしかば松葉屋の喜悦《よろこび》大方ならず近き中に突出《つきだし》にせんとて名を選《えら》みしに初代の瀬川は大傳馬町の或大盡《あるだいじん》に根引《ねびき》せられ其後名を繼《つぐ》程《ほど》の者なければ暫く絶《たえ》たれども是迄瀬川に双《なら》ぶ全盛なし今度《このたび》抱《かゝ》へしお高は元の瀬川に勝《すぐ》れるとも劣《おと》るまじとて瀬川と名を付け新造|禿迄《かぶろまで》を選《えら》び突出しの仕着《しきせ》より茶屋々々の暖簾《のれん》に至る迄も花々敷吉原中|大評判《おほひやうばん》故《ゆゑ》突出《つきだ》しの日より晝夜《ちうや》の客《きやく》絶《たえ》る間なく如何なる老人|醜《みにく》き男にても麁末《そまつ》に扱はざれば人々皆|先《さき》を爭《あらそ》ひ入り來る故實に松葉屋の大黒柱《だいこくばしら》金箱《かねばこ》と持《もて》はやされ全盛《ぜんせい》双《なら》ぶ方なく時めきける中《うち》早《はや》其年も暮て享保七年四月|中旬《なかば》上方《かみがた》の客仲の町の桐屋《きりや》と云ふ茶屋より松葉屋へ上《あが》りけるに三人連にて歴々《れき/\》と見え歌浦《うたうら》八重咲《やへざき》幾世《いくよ》とて何も晝三《ちうさん》の名題《なだい》遊女を上《あげ》廿日程の中に十四五日續けて來りしに何《いつ》も二日づつは居續けに遊びしが或時|遣手《やりて》若い者を呼て我等は八丁堀に旅宿して當分《たうぶん》上方《かみがた》へは歸らぬ積《つも》り上方より御當地は勿々《なか/\》面白《おもしろ》く來年にならば古郷は親類に預《あづけ》江戸住居《えどずまひ》に致さんと思ふなり夫に附て在所へ金五百兩程|取《とり》に遣《つかは》したり今《いま》茲《こゝ》には少しなれども四百兩有れば五六日御亭主へ預けたし其仔細《そのしさい》は我々江の島鎌倉へ參る間|道中《だうちう》の邪魔《じやま》になる故預けて行きたし頼み入と申ければ若い者|遣手《やりて》詞を揃《そろ》へ御茶屋へ御預けなさるゝは格別《かくべつ》此方にては御預かり申まじと云ひけるに其《そ》は大いに道理《だうり》なり茶屋へも話《はな》し其の上にて預け申さん御亭主へ相談《さうだん》して給はれと申故松葉屋にても如何樣《いかさま》上方の大盡なるべしと茶屋を呼《よび》右の話をなしたるに上方の衆は關東者と違《ちが》ひ念《ねん》を入《いれ》候へば物を堅《かた》くする心ならんとて松葉屋桐屋共に立出《たちいで》對面《たいめん》に及びしかば大金を出《いだ》し五六日預かり給はれと謂《いひ》しに桐屋の亭主其御金は御宿《おやど》へ御預けなされては如何に候やと云ふに彼の客然れば宿は懇意《こんい》の者ゆゑ金銀を遣《つか》ふ事を異見《いけん》致せば預ける事|叶《かな》ひ難し其譯《そのわけ》は金を遣ひなくしたりと僞《いつは》り又々五百兩程|在所《ざいしよ》へ取りに遣はしたれば此金は見せ難しとの口上《こうじやう》ゆゑ松葉屋桐屋は金を遣はせるが商賣《しやうばひ》に付き然樣《さやう》に候はゞ御預り申さんと云ふを客は念《ねん》の爲《ため》御兩所より一札を申|受《うけ》我々も念の爲預けたる證文を入れ申さんと硯《すゞり》を取寄《とりよせ》一札を記載《したゝめ》三人の名の下へ印を据《すゑ》て預りの一札と引換《ひきかへ》になし素《もと》より急がぬ旅なれど日和《ひより》を見定め出立致さん夫迄は遊び暮すべしとて猶《なほ》賑《にぎ》は敷《しく》ぞ居續ける其日は夕《ゆふ》申刻《なゝつ》時分《じぶん》にて瀬川が晝《ひる》の客も歸り何か用の有りとて内證《ないしよう》へ行きしに右の一札を女房に讀聞《よみきか》せ居たるを何心なく散《ちら》りと見るに見知りたる書體《しよてい》と云ひ夫幸之進が印形に似《に》たる故主人より借《か》りて熟々《よく/\》見るに田原源八小笠原佐七後藤平四郎と云ふ名前にて夫《をつと》の印形《いんぎやう》は平四郎と云ふ名の下に捺《おし》て有り偖は此者こそ本夫《をつと》を殺したる者なるべけれと思ひ此人は何屋《なにや》より送られし客人なるやと聞けば女房|答《こた》へて夫は桐屋からの客人なり金を四百兩預けられしが何《いづ》れも歴々《れき/\》の人ならんと云ふをそこ/\に聞《きゝ》なし我が部屋《へや》に到《いた》り身拵《みごしら》へして新造禿を引連兵庫屋へ行《ゆく》途《と》中桐屋へ立寄《たちより》歌浦さんの御客は上方の衆かと問《とへ》ば女房|飛《とん》で出《いで》御前樣の御言葉《おものごし》に能《よく》似《に》て御出《おいで》なさると云ふを聞き三人ながら上方《かみがた》ばかりか江戸の衆も一座かと問《とふ》に御三人とも大津《おほつ》とか云ふ所の御方と答ふるを偖は古郷を隱《かく》して大津と僞りしならんと思ひ若《もし》や知つた御方なるか三人の腰《こし》の物を見せてと云ふに女房は何の氣も付《つか》ず出して見せれば平四郎と云ふ者の脇差《わきざし》は紛《まが》ふ方なき夫《をつと》幸之進が差料《さしれう》なり印形と云ひ脇差《わきざし》と云ひ敵は平四郎に極《きはま》つたりと思ひ其平さんとやらの女郎衆はと問《とへ》ば八重咲樣《やへざきさま》と云ふを聞き然《さ》あらぬ體《てい》に其所を立出兵庫屋迄行きしが急病と僞り先松葉屋へ立歸りて心靜《こゝろしづか》に身拵《みごしら》へなし密《そつ》と歌浦が座敷を覗《うかゞ》ふに彼の三人は有頂天《うちやうてん》に成りて遊び戯ふれ居しが其中の一人は豫《かね》て知りたる源八なり是は歌浦が客と聞き素《もと》より心立《こゝろだて》[#ルビの「こゝろだて」は底本では「こゝろざし」]惡《あし》き源八にて兩親の憂《うき》苦勞《くらう》し給ふも渠《かれ》ゆゑとは思へども敵にも有らぬ者を殺しては濟《すま》ず印形と脇差《わきざし》が證據なれば平四郎こそ幸之進が敵なりと思ひ定めて座敷の引《ひけ》るを待居《まちゐ》たり [#8字下げ]第五回[#「第五回」は中見出し]  早《はや》其夜も既《すで》に亥刻《よつどき》過皆々|床《とこ》へ入たる樣子《やうす》にて座敷々々《ざしき/\》も寂《しん》と成ければ瀬川《せがは》は用意《ようい》の短刀《たんたう》を隱《かく》し持《もち》八重咲《やへざき》の座敷へ行《ゆき》八重咲《やへざき》さん/\と呼《よぶ》に八重咲《やへざき》は何の氣《き》も付《つか》ずアイと答《こた》へて廊下《らうか》へ出るを何《なに》か用を頼《たの》み外へ遣置《やりおき》急立《せきたつ》心《こゝろ》を鎭《しづ》めて覗見《のぞきみ》るに平《へい》四郎は夜具《やぐ》に凭《もた》れて鼻唄《はなうた》を唄《うた》ひ居るにぞ能《よく》御出《おいで》なんしたと屏風《びやうぶ》の中に入《いり》主《ぬし》に御聞申事が有《ある》と布團《ふとん》の上へ上《あが》りけれども何《なん》の氣も付《つか》ぬ處《ところ》を夫《をつと》の敵《かたき》覺《おぼ》えたかと云《いひ》さま彼の懷劍《くわいけん》を胴腹《どうばら》へ突込《つきこみ》しかば平《へい》四郎はアツト聲《こゑ》立《たて》仰向《のつけ》に倒《たふ》れ七|轉《てん》八|倒《たう》なす故《ゆゑ》隣の座敷《ざしき》は源八|歌浦《うたうら》なれば此聲《このこゑ》に驚《おどろ》き馳來《はせきた》るを己《おの》れも迯《にが》さぬぞと源《げん》八へ突掛《つきかゝ》るに源八は思《おも》ひも寄ぬ事《こと》なれば驚《おどろ》き周章《あわて》右《みぎ》の手を出《いだ》して刄物《はもの》を挈取《もぎとら》んとせし處を切先《きつさき》深《ふか》く二の腕《うで》を突貫《つきとほ》されヤアと躊躇《たちろく》を隙《すか》さず咽喉《のどもと》へ突貫《つきとほ》さんとしけれども手先《てさき》狂《くる》ひて頬《ほゝ》より口まで斬付《きりつけ》たり源八|悶《もだえ》ながら顏を見ればお|高《たか》なりしにぞ南無《なむ》三と蹴倒《けたふ》して其所《そこ》を飛出《とびいだ》し連《つれ》の佐《さ》七と倶《とも》に後《あと》をも見ずして迯行《にげゆき》けり然ば松葉屋《まつばや》の二|階《かい》は天地《てんち》も覆《くつが》へるばかりの騷《さわ》ぎになり主《あるじ》半左衞門《はんざゑもん》を始として皆々《みな/\》二|階《かい》へ駈《かけ》來り見るに平《へい》四郎は朱《あけ》に染《そみ》苦痛《くつう》の有樣《ありさま》にのた打廻《うちまは》り居《ゐ》る傍《かたは》らに瀬川《せがは》は懷劔《くわいけん》を逆手《さかて》に持《もち》し儘《まゝ》氣《き》を失《うしな》ひて倒《たふ》れ居《ゐ》たりしかば是は何事《なにごと》ならんと氣付《きつけ》を與《あた》へて樣子《やうす》を聞《きく》に敵討《かたきうち》なりと申|故《ゆゑ》半左衞門《はんざゑもん》大《おほ》いに驚き早々《さう/\》町役人《ちやうやくにん》を招《まね》き相談に及ぶ中《うち》若松屋《わかまつや》金《きん》七|竹本君太夫《たけもときみたいふ》并《ならび》に瀬川の母も駈來《かけきた》り皆々《みな/\》樣子《やうす》を聞て天晴《あつぱれ》の手柄《てがら》なりと喜《よろこ》びしが連《つれ》の二人を迯《にが》したる事《こと》口惜《くちをし》と云に半左衞門《はんざゑもん》否々《いや/\》事故《わけ》もなく殺《ころ》さば連《つれ》の二人が一|座《ざ》を遁《のが》るゝ筈《はず》なし何か身に覺《おぼ》え有《あ》ればこそ姿《すがた》を隱《かく》せしと見《み》えたりと云《いふ》中《うち》疾《はや》夜《よ》も明渡りしかば早速《さつそく》町奉行《まちぶぎやう》大岡|越前守殿《ゑちぜんのかみどの》へ訴《うつた》へ出けるに檢使《けんし》の者來りて疵《きず》を改《あらた》め手負《ておひ》の者に樣子《やうす》を聞共一|向《かう》言舌《ごんぜつ》分《わか》り兼《かね》宿《やど》も知れざれば其儘《そのまゝ》手當《てあて》をさせ置《おき》瀬川《せがは》の口書《くちがき》を取て檢使《けんし》は立歸り右《みぎ》の趣《おもむ》き申立しに大岡殿《おほをかどの》迯《にげ》たる手負《ておひ》は深手《ふかで》か淺手《あさて》かと尋《たづ》ねらるれば二の腕《うで》は深《ふか》く顏《かほ》の疵《きず》は少《すこし》ならんと瀬川申候と云《いふ》を聞れ偖々《さて/\》女《をんな》には落付《おちつき》たる答《こたへ》なり市中廻《しちうまはり》の者に下知《げぢ》なし疵《きず》を證據《しようこ》に召捕《めしとり》候へと申|渡《わた》され夫《それ》より瀬川《せがは》并に母お竹《たけ》請人《うけにん》君太夫《きみたいふ》松葉屋《まつばや》桐屋《きりや》以下《いか》呼出され瀬川の本夫《をつと》と云は何者《なにもの》なるやと尋問《たづね》らるゝに瀬川は愼《つゝし》んで首《かうべ》を上《あげ》舊《もと》尼《あま》ヶ|崎《さき》の藩中《はんちう》小野田幸之進《をのだかうのしん》と申者にて主用《しゆよう》有之《これあり》上方へ登《のぼ》り候|時《とき》江尻宿《えじりじゆく》にて盜賊《たうぞく》の爲に切害《せつがい》に逢《あひ》主人の金四百五十|兩《りやう》并《ならび》に其身|用意《ようい》の金《きん》二十|兩《りやう》衣類《いるゐ》大小まで奪《うば》ひ取られ家も斷絶仕《だんぜつつかま》つりしのみか盜賊《たうぞく》の爲に殺害《せつがい》致《いた》されしは武士の恥辱《ちじよく》とて一家中|幸之進《かうのしん》の噂《うはさ》以ての外《ほか》宜《よろし》からず如何《いか》にも口惜《くちをし》く存《ぞんじ》候まゝ神佛へ誓《ちかひ》を掛《かけ》漸《やうや》く敵を討《うち》て候と申立しかば大岡殿|不審《ふしん》に思はれ其方敵の面體《めんてい》豫《かね》て見覺《みおぼ》え居たるや覺束《おぼつか》なしと有しに瀬川《せがは》其事《そのこと》は上方の客《きやく》三人半左衞門へ金四百兩|預《あづ》け候とて證文《しようもん》を取替《とりかは》せしに後藤《ごとう》平《へい》四郎と申名の下に捺《おし》たる印形《いんぎやう》は幸之進の實印に相違《さうゐ》なく然れども夫《それ》ばかりにて定《さだ》め難《がた》しと存《ぞんじ》茶屋《ちやや》へ參《まゐ》り腰《こし》の物を改《あらた》め見候に本夫《をつと》の脇差《わきざし》を所持《しよぢ》致し居に付|彌々《いよ/\》敵に相違《さうゐ》なしと存《ぞんじ》討果《うちはた》して候と答《こた》へるを大岡殿《おほをかどの》聞《き》かれ何樣|道理《もつとも》なる申分なり然ど今一人に斬付《きりつけ》たりと有《ある》は是も敵なりやと尋《たづ》ねらるゝに瀬川《せがは》否《いな》其者は源《げん》八と申て同郷《どうがう》の者にて私《わたく》しへ不義《ふぎ》を申掛候|而已《のみ》ならず私《わたく》し親どもへも甚《はなは》だ迷惑《めいわく》を掛一|體《たい》志操《こゝろざし》宜《よろ》しからぬ者に付同惡と存《ぞんじ》殊《こと》に仇討《あだうち》の節《せつ》妨《さまた》げ致し候故|是非《ぜひ》なく疵《きず》を付候と申ければして又其方|敵討《かたきうち》致《いた》さん爲に遊女|奉公《ほうこう》を勤《つと》めしや外に謂《いは》れ有歟《あるか》と問《とは》るゝに瀬川《せがは》其儀は御覽《ごらん》の通りの老母《らうぼ》一人|有之《これあり》君太夫《きみたいふ》とても永々《なが/″\》世話《せわ》に相成《あひなり》居も心苦|敷《しく》又金七と申者も火難《くわなん》に逢《あひ》氣《き》の毒《どく》に候故|相談《さうだん》の上遊女|奉公仕《ほうこうつかま》つり其金を以て母の養育《やういく》に當候と少しも滯《とゞこ》ほりなく申立る體《てい》如何にも誠心《せいしん》に見えければ大岡殿《おほをかどの》大いに感じられ其方事女には稀《まれ》なる志操《こゝろざし》なり追々《おひ/\》取調《とりしら》べ遣《つか》はさんとて一|件《けん》相濟迄《あひすむまで》瀬川は主人《しゆじん》へ預《あづ》け申|付《つけ》られ皆々下られけり夫より大岡殿《おほをかどの》源八|佐《さ》七が人相《にんさう》疵等《きずとう》を證據に役人に申付られ江戸《えど》近在迄《きんざいまで》も探索《たんさく》あると雖も一|向《かう》行方《ゆくへ》知《しれ》ざりけり [#8字下げ]第六回[#「第六回」は中見出し]  大岡殿|或時《あるとき》役人を呼《よば》れ瀬川《せがは》一|件《けん》の盜賊共數日になれども更に行方《ゆくへ》知れず因《よつ》て其方共|名主《なぬし》へ掛《かゝ》り江戸中の外療醫《ぐわいれうい》を吟味《ぎんみ》して見よ似寄《により》の者あるべきぞと指揮《さしづ》ありしに付八方へ分れて名主《なぬし》へ掛り外療醫者を呼出し取調《とりしら》べ有《あり》しに一|向《かう》右體の怪我人《けがにん》見當らざる由《よし》を申により又外々の名主へ掛り尋けるに下谷《したや》廣小路《ひろこうぢ》に道達《だうたつ》とて表へは賣藥《ばいやく》見世《みせ》を出し置《おき》外療醫《ぐわいれうい》をなす者の申口に當月廿二日の夜|丑滿頃《うしみつごろ》侍《さふら》ひ體の者二人|戸《と》をこぢ明て入來り一人は拔身《ぬきみ》を持《もち》一人は私しを捕《とらへ》て此|疵《きず》を療治《れうぢ》致《いた》せ然もなくば切殺《きりころす》と申候に付《つき》據《よんどこ》ろ無|療治《れうぢ》致し膏藥《かうやく》を遣《つかは》し候處|本復《ほんぷく》次第《しだい》に禮すると云て行方も知れず出行候と申ければ役人《やくにん》住所は何處とも云ざりしかと問ふに道達《だうたつ》夜中に押込《おしこみ》候|程《ほど》の者共に候へば一|向《かう》名《な》や所は申さずと答《こた》ふるにぞ大概《おほかた》其者ならんと思へども手|疵《きず》は何方なりやと尋《たづ》ねるに頬《ほゝ》より口《くち》まで一ヶ所二の腕《うで》四寸ばかり突疵《つききず》之あり兩處《りやうしよ》ともに縫《ぬひ》候と申ければ夫にて分明《わかり》たりとて其段《そのだん》申|立《たて》しかば大岡|殿《どの》暫時《ざんじ》考《かんが》へられ非人小屋《ひにんごや》又は大寺の縁《えん》の下其|外《ほか》常々《つね/″\》人の住《すま》ぬ明堂《あきだう》などに心を付よと申|渡《わた》されしに付役人は八方に眼《まなこ》を配《くば》り諸所を尋《たづ》ねしに一|向《かう》知《し》れざりしが原田平左衞門と云|市中《しちう》廻の同心《どうしん》或夜|亥刻《よつどき》過《すぎ》根津《ねづ》の方より歸《かへ》り懸《かけ》池《いけ》の端《はた》へ來懸《きかゝ》りしに誰やらん堀を越《こえ》垣《かき》を乘越て上野の山内へ入者《いるもの》ありしかば大いに怪《あやし》み田村權右衞門《たむらごんゑもん》へ申斷り内密《ひそか》に清水門より入りて見廻けるに夫ぞと思ふ事《こと》もなけれど中堂の縁《えん》の下何となく怪し氣に思はるゝ故《ゆゑ》傍邊《かたはら》へ身を潜《ひそ》めて窺《うかゞ》ひ居たりしに稍《やゝ》夜の子刻《こゝのつ》頃《ころ》とも覺しき頃|散々《ちら/\》と火の光《ひかり》見《み》えたりしが忽ち消《きえ》し故|彌々《いよ/\》心を鎭《しづ》めて窺《うかゞ》ひたれば莨《たばこ》の火にや有《あり》けん折々《をり/\》見《み》えては消《きえ》るにぞ是は曲者に疑《うたが》ひなしと直《すぐ》に供の者を使に遣《つかは》し奉行所に通じければ直樣《すぐさま》捕方の者|駈來《かけきた》りしが未《いまだ》夜《よ》は明ざるに付《つき》四方へ手配《てくば》りをなし山同心をも借集《かりあつめ》て取卷せ夜明方に原田平左衞門《はらだへいざゑもん》始《はじめ》踏込《ふみこみ》見《み》るに夜具《やぐ》も暖《あたゝ》かに着《き》て二人|眠《ねむ》り居る故是程の騷《さわ》ぎを知らざるは餘程《よほど》の寢惚《ねばう》なるか腰が拔たるかと同心|上意《じやうい》と聲|懸《かけ》飛掛《とびかゝ》つて捕るに驚き漸々《やう/\》目を覺《さま》しけるを矢庭《やには》に二人とも生捕《いけどり》引立《ひきたて》しは心地よくこそ見えたりけり依《よつ》て二人とも入牢申付られしが吉原に在《あり》し手負《ておひ》の平四郎は四日|目《め》に相果《あひはて》し故|檢視《けんし》を遣《つかは》し死骸《しがい》は小塚原へ捨《すて》べき旨《むね》申渡されけれ共内々|松葉屋《まつばや》より葬《はうふ》りけるとかや [#8字下げ]第七回[#「第七回」は中見出し]  然程に上野中堂に於て召捕《めしとられ》たる曲者二人を引出《ひきいだ》し調べられしに瀬川《せがは》が申立し人相并に疵所等迄《きずしよとうまで》相違なき故大岡|殿《どの》曲者に對《むか》はれ其方ども上野《うへの》中堂の縁《えん》の下に隱住《かくれすむ》事何故なるや有體《ありてい》に申立よと有に兩人共一言の返答《へんたふ》も出來|難《がた》き有樣にて俯伏《うつぶし》居《ゐ》るを重ねて其方共夜中|廣小路《ひろこうぢ》醫師《いしや》道達《だうたつ》方へ押込刄物を以て威《おど》し療治《れうぢ》致《いた》させ上野に匿《かく》れ住は身に暗《くら》き處有故ならずや白状《はくじやう》せず共|此科《このとが》に因《よつ》て首はなきものと心得よ因《よつ》ては南都《なんと》以來の舊惡《きうあく》殘《のこ》らず白状致せ左《さ》もなき時は嚴敷《きびしく》拷問《がうもん》申付る苦痛《くつう》致《いた》すは死する身に損《そん》なるべしと申さるゝに源《げん》八佐七の兩人|首《かうべ》を上我々は上方者にて御當地《ごたうち》に知人もなく止《やむ》事を得ず御山内に住居仕《すまひつかま》つり候と申立るを大岡|殿《どの》呵々《から/\》と笑はれ白痴《たはけ》め知人なしとて宿屋もあり汝等《なんぢら》が罪は明白に知《し》れて居るぞ江尻《えじり》に於て小野田幸之進《をのだかうのしん》を殺し四百五十兩の金其外金銀衣類大小を奪ひ取たる事|松葉屋《まつばや》の二|階《かい》にて平四郎|手負《ておひ》ながら白状《はくじやう》に及び殊《こと》に源八は本人なりと申たりサア未練《みれん》らしく隱《かく》すなと申されしかば兩人共一言の答《こた》へもなく居たりしかば大岡|殿《どの》詞《ことば》を和《やは》らげられ能々《よく/\》承《うけた》まはれ只今《たゞいま》も申通り其方共の大罪は知《し》れて有共白状せぬ中は御仕置《おしおき》申付ざる事法令なり因《よつ》て只今《たゞいま》より拷問《がうもん》申付る夫より潔《いさぎ》よく白状して最後《さいご》を清《きよ》くせよ假《かり》にも帶刀《たいたう》せし者は夫丈に名を潔《きよ》く致せと云れけるに源八は覺悟《かくご》をせし樣子《やうす》にて仰《おほせ》の如く我々白状致すべし先第一は南都《なんと》に於て大森通仙《おほもりつうせん》娘お高に戀慕《れんぼ》致《いた》し戀の叶《かな》はぬ意趣《いしゆ》に鹿を殺し通仙《つうせん》の家の前へ置《おき》しにより通仙は奈良《なら》を追拂《おひはら》はれ京都に住居《すまひ》の時|留守宅《るすたく》へ忍び入衣類を奪《うば》ひ取|大津《おほつ》へ立越《たちこえ》賭博を打《うち》佐七平四郎と兄弟分になり上方《かみがた》より東海道《とうかいだう》を稼《かせぎ》折々《をり/\》は江戸へも立出候處|尼《あま》ヶ|崎《さき》家中の侍士《さふらひ》金用にて出立と馬士《まご》の咄を耳に挾《はさ》み神奈川より付て參り江尻《えじり》に於て其|侍士《さふらひ》を切殺し金銀《きんぎん》諸品《しよしな》奪《うば》ひ取候と申立ければ潔《いさぎ》よき白状|神妙《しんめう》なり又|幸之進《かうのしん》を殺せしは誰《たれ》にて馬士《まご》を殺たるは誰なるやと尋《たづね》られしに幸之進を殺たるは私《わたく》しにて馬士を殺し候は平四郎なりと申故シテ松葉屋へ金を預けんとせしは如何なる故ぞと有に源八|其儀《そのぎ》は私し共を確實《たしか》に見せ置松葉屋の案内《あんない》大方|見定《みさだ》め候間同家の金銀|奪取《うばひとら》ん爲故と金子を預《あづ》け候と一々白状に及びしかば是にて落着致し五月九日吉原町引合の者并に尼《あま》ヶ崎の城主|松平縫頭殿《まつだひらぬひのかみどの》[#「松平縫頭殿」は底本では「松平縫殿頭」]留守居等《るすゐとう》殘らず呼出され大岡|殿《どの》右留守居に對《むか》はれ先年|江尻宿《えじりじゆく》に於て松平縫殿頭家來|小野田幸之進《おのだかうのしん》と申者盜賊に切害《せつがい》せられ金銀を奪《うばひ》取れたる由今度其|盜賊《たうぞく》取押へし處|右《みぎ》殘金有之と雖も其|節《せつ》屆《どゞけ》出之なきに付|公儀《こうぎ》へ御取上に相成間其段心得られよと申渡され留守居は恐入|畏《かしこ》まり奉つると云て立歸る次に瀬川《せがは》と呼れ其方|儀《ぎ》夫にて承《うけた》まはれとて源八佐七|南都《なんと》以來《いらい》の事共今一|應《おう》申立よと云れし時兩人|委細《ゐさい》白状なせしかば各々《おの/\》大いに驚き感《かん》じける時に瀬川は謹《つゝし》んで膝《ひざ》を進《すゝ》め扨は源八こそ親夫の敵にて有しを討止さりし事口惜く候と申立るを大岡|殿《どの》否々《いや/\》源八を殺せば事故《こと》明白に解《わか》らず源八|存命《ぞんめい》故に委細《ゐさい》分りしなり殊《こと》に少々にても疵《きず》を付たれば敵を討しも同前知れ難《がた》き惡人共我手に入しは公儀《こうぎ》への御奉公《ごほうこう》親の讐《あだ》のみならず本夫の敵まで討たるは忠孝貞と揃《そろ》ひし烈婦《れつぷ》と云べし吉原町|始《はじま》りしより以降《このかた》斯る遊女有べからずと賞美《しやうび》ありしかば瀬川は云も更《さら》なり抱へ主松葉屋|迄《まで》も面目を施《ほどこ》し其外聞居たる公事訴訟人迄《くじそしようにんまで》感《かん》ぜぬ者ぞ無りける扨《さて》又《また》源八は打首《うちくび》の上|獄門《ごくもん》佐七は遠島《ゑんたう》申渡されしとぞ [#8字下げ]第八回[#「第八回」は中見出し]  此時大岡|殿《どの》松葉屋|半左衞門《はんざゑもん》と呼れ其方|存《ぞん》ぜぬ事とは申ながら盜人の金を預《あづか》りしは不屆《ふとゞき》なり又瀬川事遊女|奉公《ほうこう》御免《ごめん》仰付《おほせつけ》らるゝ同瀬川の身の代金《しろきん》は只今《たゞいま》より後の所存《しよぞん》たるべし尚又|存寄有《ぞんじよりある》やと尋らるゝに半左衞門|謹《つゝし》んで首を上敵討|仕《つかま》つり候程の孝心なる瀬川《せがは》何とて勤《つとめ》をさせ置《おき》候はんや殊更渠等白状の趣《おもむ》きにては私し方へ押入《おしいり》盜み致す所存《しよぞん》の由|盜難《たうなん》を遁れ候も全く瀬川の働《はたら》きに候へば然のみ損《そん》も之なく且又私し抱《かゝ》への遊女敵討|仕《つかま》つりしと申事外聞も宜《よろ》しく旁々《かた/″\》以て一向に申分御座なく候と申により神妙《しんめう》なりと有て盜賊より預《あづか》りし金四百兩は取上の上|富澤《とみざは》町金七|淨瑠璃語《じやうるりかたり》君《きみ》太夫へ渡され其方共|瀬川《せがは》親子の者を世話《せわ》致し候段|奇特《きどく》なり瀬川事討|難《がた》き讐を討其|手筋《てすぢ》にて科人相知れ其身の本望《ほんまう》公邊《かみ》への御奉公|神妙《しんめう》に思召|幸之進《かうのしん》取れ候|金子《きんす》の中四百兩|相殘《あひのこ》り候に付瀬川へ下さるゝ間|母《はゝ》諸共|流浪《るらう》致さぬ樣取計らひ遣《つかは》せと申渡され|皆々《みな/\》有難《ありがた》き旨之を申|喜悦《よろこび》勇《いさ》みて下りけり依て瀬川《せがは》が評判江戸中|鳴渡《なりわた》り諸方より貰《もら》はんと云者|數多《あまた》あれ共|當人《たうにん》は是を承引《うけひ》かず今迄の難澁《なんじふ》とても世に云|苦勞性《くらうしやう》なるべし遁世して父と夫の後《あと》を弔《とふら》ふこそ誠の安樂《あんらく》成んとて幡隨院《ばんずゐゐん》の弟子となり剃髮《ていはつ》染衣《ぜんい》に状を變名を自貞《じてい》と改め淺草《あさくさ》今戸に庵《いほり》を結び再法庵《さいほふあん》と號し母諸共に行《おこな》ひ濟し安く浮世を過《すご》せしとかや庵《いほり》の壁に種々《いろ/\》の和歌《わか》ありけるが其中に [#4字下げ]いけ水《みづ》に夜な/\影《かげ》は映《うつ》れども水もにごらず月もけがさず 其次三代|目《め》の瀬川も名高き遊女《いうぢよ》成しが丁字屋《ちやうじや》の雛鶴《ひなづる》とは常々心安かりしに身請せられし時の文に [#ここから2字下げ] 承《うけた》まはり候へば此廓《このさと》の火宅を今日しも御放《おはな》れ候て凉《すゞ》しき方へ御根引《おねびき》の花《はな》珍敷《めづらしき》新枕《にひまくら》御羨敷《おうらやましき》は物かは殊《こと》に殿には木《き》そもじ樣は土《つち》陰陽《いんやう》を起し陽《やう》は養《やう》にして一|生《しやう》養《やしな》ふを云|卦《け》の表《おもて》萬|人《にん》の養育《やういく》萬人にかしづかれ給ふと御頼母《おたのも》しくも愛度《めでたく》鳥渡《ちよつと》[#「鳥渡」は底本では「鳥」]占《うらな》ひ參《まゐ》らせ候あなかしこ [#地から4字上げ]松瀬 より [#6字下げ]丁雛樣 御もとへ [#ここで字下げ終わり] 其後寛政の頃三代目の瀬川は或大諸侯《あるだいしよこう》の留守居に身請《みうけ》せられしが其人主人の金《かね》を遣《つか》ひ過《すご》し閉門《へいもん》申付けられしに瀬川《せがは》は隙を見て遁亡《かけおち》しければ彼の留守居《るすゐ》は瀬川故に難《なん》を受しに瀬川は我《われ》を捨《すて》て遁しこそ遺恨《ゐこん》なれと自殺して死《し》せしとぞ又瀬川は年頃|云交《いひかは》せし男と連副《つれそひ》しに何時となく神氣《しんき》狂《くる》ひ左右の小鬢《こびん》に角の如き癌《こぶ》出來し故人々彼の留守居《るすゐ》の執念《しふねん》にてや有んと云しが何時《いつ》しか人の見ぬ間に井戸《ゐど》へ身を投《なげ》空敷《むなしく》なりたりけり案《あん》ずるに鬼女の如き面體《めんてい》になりしを恥《はぢ》て死にけるか但《たゞし》亂心にや一人は末《すゑ》に名を上一人は末《すゑ》に名を穢《けが》せりと世に風聞《さた》せしとなん 傾城瀬川一件[#1段階小さな文字]終[#小さな文字終わり] [#改丁] [#ページの左右中央] 畔倉重四郎一件[#「畔倉重四郎一件」は大見出し] [#改丁] [#1段階大きな文字]畔倉重四郎《あぜくらぢうしらう》一件《いつけん》[#大きな文字終わり] [#8字下げ]第一回[#「第一回」は中見出し]  仁《じん》は以て下に厚《あつ》く儉《けん》は以て用《もちゐ》るに足《たる》和《くわ》に而《して》弛《ゆる》めず寛《くわん》に而《して》能《よく》斷《だん》ずと然《され》ば徳川八代將軍吉宗公の御|治世《ぢせい》享保年中大岡越前守|忠相殿《たゞすけどの》勤役《きんやく》中|數多《あまた》の裁許《さいきよ》之ありし中《うち》畔倉《あぜくら》重四郎《ぢうしらう》が事蹟《じせき》を尋《たづ》ぬるに武州|埼玉郡《さいたまごほり》幸手宿《さつてじゆく》に豪富《がうふ》の聞え高き穀物《こくもつ》問屋《とんや》にて穀屋《こくや》平兵衞と言者あり家内三十餘人の暮《くら》しなるが此平兵衞は正直《しやうぢき》律儀《りちぎ》の生質《うまれつき》にて情深《なさけぶか》き者なれば人を憐《あはれ》み助《たすく》ることの多きゆゑ人|皆《みな》其徳《そのとく》を慕《した》ひ敬《うやま》ひける然るに夫婦の中に二人の子供《こども》ありて長男《ちやうなん》は平吉とて二十一歳|妹《いもと》をお浪《なみ》と呼て十八歳なるが此お浪は容貌《かほかたち》衆《しう》に勝《すぐ》れて美麗《うつくし》き上|氣象《こゝろだて》も優美《やさし》ければ兩親《ふたおや》の愛情《いつくしみ》も一方ならず所々《しよ/″\》方々《はう/″\》より縁談《えんだん》を申入るゝ者多かりしが今度《このたび》同宿《どうしゆく》の杉戸屋《すぎとや》富《とみ》右衞門が媒人《なかうど》にて關宿《せきやど》在《ざい》坂戸村《さかとむら》の名主是も分限《ぶんげん》の聞えある柏木庄左衞門《かしはぎしやうざゑもん》の悴《せがれ》庄之助に配偶《めあは》せんとて既《すで》に約束《やくそく》整《とゝの》ひ双方《さうはう》の結納《ゆひなふ》をも取交《とりかは》せしかば兩親《ふたおや》の悦《よろこ》び大方ならず此上は吉日を撰《えら》み一日も早く婚姻《こんいん》をさせんと急《いそ》ぎしが庄左衞門方に當時少々の差合の儀《ぎ》出來《でき》しにより當暮《たうくれ》にと相談《さうだん》極《きま》り專《もつぱ》ら其支度にぞ及びける爰《こゝ》に又有馬|玄蕃頭殿《げんばのかみどの》の浪人畔倉重左衞門と言者あり其悴を重四郎と呼《よび》今年《ことし》二十五歳にて美男《びなん》と言《いひ》殊《こと》に手跡《しゆせき》も能《よく》其上劔術|早業《はやわざ》の名を得し者なるが父重左衞門より引續《ひきつゞ》き手跡の指南《しなん》をして在ける故彼の穀屋平兵衞の悴平吉も此重四郎に從《したが》ひ專《もつぱ》ら筆道《ひつだう》を學びしかば平兵衞|始《はじ》め家内の者迄重四郎を先生々々と最《いと》叮嚀《ていねい》に待遇《もてなし》敬《うやま》ひ居たり或時|店《みせ》の若者等《わかものら》打寄《うちより》彼の先生には劔術《けんじゆつ》の早業《はやわざ》に達《たつ》し給ふと承まはり候が我々も親方の用事ある時は金子《きんす》を持《もつ》て野道《のみち》山路《やまみち》は云も更なり都合《つがふ》に因《より》ては朝《あさ》は星《ほし》を戴《いたゞ》き暮《くれ》には月を踏《ふん》で旅行《りよかう》なす事|往々《まゝ》あるにより先生を頼《たの》み劔術を學《まな》びなば道中|爲《する》にも心強く且《かつ》賊難《ぞくなん》を防《ふせ》ぐ一端共成事なれば此趣きを旦那《だんな》へ願ひ見んとて一同より平兵衞へ斯《かく》と語《かた》りしに平兵衞も道理《もつとも》と思ひ夫は隨分《ずゐぶん》宜《よき》事なれば左《と》も右《かく》も其方達《そなたたち》の隨意《ずゐい》に致すべしと許《ゆる》されしにより若者等《わかものら》は大に悦び早速《さつそく》重四郎の方へ到り此趣きを只管《ひたすら》頼《たの》みしに重四郎も辭《いな》み難く承知せしかば此より畔倉を師匠《ししやう》として主用の間《ひま》には劔道《けんだう》をぞ學《まな》びける是に因て重四郎も毎度|穀屋《こくや》へ出入致しける處に主平兵衞は殊の外|圍碁《ゐご》を好《この》みて相應に打ける故《ゆゑ》折々《をり/\》は重四郎を碁《ご》の相手となせしを以て重四郎は猶も繁々《しげ/\》出入なし居しが偶然《ふと》娘お浪の容貌《みめかたち》の美《うつく》しきを見初《みそめ》しより戀慕《れんぼ》の情《じやう》止難《やみがた》く獨り胸《むね》を焦《こが》せしが寧《いつ》そ我が思ひの情《たけ》を云送らんと艷書《ふみ》に認め懷中しつゝ好機《よきをり》もあらばお浪に渡さんものと來る度《たび》毎《ごと》に窺《うかゞ》ひ居けれ共其|間《ひま》のあらざれば空《むな》しく光陰《つきひ》を打過《うちすぎ》し中《うち》或時重四郎又入り來りけるに平兵衞は相手|欲《ほし》やと思ふ折柄《をりから》なれば重四郎殿|能《よく》こそ御入來《ごじゆらい》ありしぞ率々《いざ/\》一石參らんと碁盤《ごばん》引寄《ひきよせ》重四郎を相手《あひて》に碁《ご》を圍《かこ》み茶菓子《ちやぐわし》などを出して饗應《もてなし》けれども心|爰《こゝ》に在《あら》ざれば見れども見えずの道理《だうり》にて重四郎はお浪にのみ心を奪《うば》はれ居たりし故《ゆえ》打《うつ》石《いし》には眼《め》も止《とま》らず初めの碁《ご》は脆《もろ》く負《まけ》けるに平兵衞は大に悦びて手水《てうず》に立《たち》しを重四郎は是《これ》幸《さひは》ひと娘の部屋《へや》を覗《のぞ》き見れば折節《をりふし》お浪は只《たゞ》獨《ひと》り裁縫《ぬひもの》をなし居たるにぞ頓《やが》て件《くだ》んの文《ふみ》を取出しお浪の袖《そで》へ密《そつ》と入《いれ》何喰《なにくは》ぬ顏《かほ》をして元の座に直《なほ》り早々歸らんとせし所へ平兵衞來り今一|石《せき》と望みけるにより又々一石|打《うち》終《をは》り挨拶《あいさつ》もそこ/\に暇《いとま》を告て立歸り今日こそ我が思ひのたけを通《つう》ぜしからは如何なる返事《へんじ》をなすやらんと一時千|秋《しう》の思ひにて待居《まちゐ》たり却つて説《とく》娘お浪は重四郎が袖《そで》へ入しは何《なに》やらんと出し見れば豈《あに》※[#「圖」の「回」に代えて「面から一、二画目をとったもの」、326-12]《はか》らんお浪樣參る御存じよりと認めたる艷書《ふみ》なりしかば大いに驚き少間《しばし》茫然《ばうぜん》として在けるが良《やゝ》あつて心を定め乳母《うば》に相談せんものと密《ひそか》に乳母を呼て彼の艷書《ふみ》を封《ふう》の儘に見せければ乳母は大いに打驚き是は此儘に捨置難《すておきがた》し旦那樣へ御見せ申さんとて立んと爲《す》るをお浪は引止《ひきとめ》否々《いや/\》那《あの》重四郎樣は兄樣のお師匠《ししやう》なれば此事父上の耳に入る時は元來《もとより》物固《ものがた》き父上ゆゑ若《もし》や手荒《てあら》きことのありもせば兄樣に對し云ひ譯《わけ》なし又重四郎樣へも氣《き》の毒《どく》なり外に思案をしてたもれと言れて乳母《うば》は實《げ》にもと思ひ暫《しば》し工夫に暮《くれ》居《ゐ》たり折柄《をりから》媒人《なかうど》の富右衞門來りしにより是《これ》幸《さいは》ひと乳母は彼の艷書を出して富右衞門に見せければ元來|篤實《とくじつ》の富右衞門なれば以ての外に驚き是は等閑《なほざり》に致し難しと言つゝ此事を主人平兵衞に咄《はな》しけるに平兵衞は是を聞《きゝ》烈火《れつくわ》の如く憤《いきど》ほり惡《につく》き重四郎が擧動《ふるまひ》かな娘と不義せしなどと沙汰ある時は家に瑾《きず》を附るの道理《だうり》なり此上は重四郎を寄附《よせつけ》ぬ事こそ肝要《かんえう》なれと早速番頭を始め皆々へ重四郎は斯樣々々の譯《わけ》ある故《ゆゑ》足を遠《とほ》くする樣此後は店へ來る共|餘《あま》り心安く致すべからずと申し付て後來《のち》をぞ戒《いまし》め置たりける扨又重四郎は一兩日|過《すぎ》て色よき返事を聞んものと穀屋《こくや》へ來り例《れい》の如く店へ上りて種々《いろ/\》咄《はな》しなど爲《なし》けれ共小僧を始め一|向《かう》構《かま》ひつけず茶も一|杯《ぱい》出さずして何か不興氣《ふきようげ》の樣子なれば重四郎は手持《てもち》惡《あし》く平吉殿は如何《いかゞ》成《な》されしやと奧《おく》へ通《とほ》らんとするを番頭《ばんとう》押止《おしとゞ》め今日は主人も平吉も留守《るす》なりと常に變《かは》りし顏色にて重四郎を眦裂《ねめつけ》る體を見て重四郎は奧《おく》へも行れねば其儘《そのまゝ》そこ/\我が家へ立歸り獨り倩々《つく/″\》考《かんが》ふるに毎度《いつ》に變りし今日の樣子且番頭が我を眦裂《ねめつけ》し事合點行ず扨は彼の文を父平兵衞に見せしにや其等《それら》の事より我が足を遠避《とほざけ》んとの事ならん其儀ならば我もまた仕方《しかた》ありとて其夜|穀平《こくへい》方の門邊に到り内の樣子を窺《うかゞ》ひ子僧にても出て來りなば仔細《しさい》を聞かんと身を忍びて居たる所へ丁稚《でつち》音吉が使ひに出しを見て重四郎は心に悦び是を呼掛《よびかけ》何《いづ》れへ參るや其方に少し尋ね度《たき》段《だん》あり先々|此方《こなた》へ來るべしと酒屋へ連行酒肴などを出させて振舞《ふるまひ》つゝ重四郎申けるは某し先刻|其方《そなた》の店へ到りしに番頭の挨拶振《あいさつぶり》何共|合點《がてん》行《ゆか》ざるのみか我を奧へ通さぬは如何なる譯《わけ》なるや知つてならば咄《はな》すべしと尋ねければ流石《さすが》は丁稚《でつち》のことゆゑ酒《さけ》肴《さかな》に釣《つら》れ其事柄は委《くはし》き譯を知ね共先生よりお浪さんへ艷書《ふみ》を贈《おく》られしとやらにて富右衞門殿より大旦那へ見せしゆゑ大旦那より斯々《かく/\》申付られしに依て據《よんど》ころなくお構《かま》ひ申さず夫に付お浪さんも富右衞門殿の世話にて早々|坂戸村《さかとむら》へ縁付《えんづか》るゝ筈《はず》なりと落もなく咄し此事必ず私が申せしと沙汰し給ふなと云捨《いひすて》て歸りしかば跡《あと》に重四郎はホツと溜息《ためいき》を吐《つき》扨《さて》はお浪め富右衞門に彼《あ》の艷書《ふみ》を見せたりしか情《なさけ》なき仕方なり富右衞門も猶以て遺恨《ゐこん》なれ店の者共まで今日の始末《しまつ》思へば/\忌々《いま/\》し寧《いつ》そ蹈込《ふみこ》んで打放し此恨みを晴《はら》さんと立上りしが否《いや》々|荒立《あらだて》ては事の破れ何にもせよお浪を引さらひ女房にすれば男は立つ只《たゞ》惡《につく》きは富右衞門なりよき機《をり》もあらば此遺恨《このうらみ》を晴さんとて其夜は其儘我が家に歸りしが其後|明暮《あけくれ》心懸てぞ居たりける然るに同宿に三五郎と云者あり此三五郎は侠氣《をとこぎ》ある者にて生得《しやうとく》博奕《ばくち》を好み平生|賭事《かけごと》のみを業としけるが或時|博奕場《ばくちば》より戻《もど》り食事をしながら女房に向ひ今朝|土手際《どてぎは》なる庚申堂《かうしんだう》の前へ來たら土橋の所で此|煙草入《たばこいれ》を拾ひしゆゑ中を見たら富右衞門殿へ平兵衞と云手紙が這入《はひつ》てあり然《さ》すれば穀平《こくへい》殿より富右衞門殿へ送つた手紙が有からは落し主《ぬし》は富右衞門殿ならん其邊《そこら》を仕舞《しまつ》たら富右衞門殿の方へ返して來よと云にぞ女房は早々に膳《ぜん》を片付《かたづけ》そんなら一寸《ちよつと》行《いつ》て參りましやうと云所へ重四郎は三五郎に何か咄《はな》しありとて來りしが此咄しを聞てなんだ富右衞門殿の煙草入《たばこいれ》を拾つたドレ/\見せねへと取上見れば富右衞門の方へ平兵衞より送りし手紙なるゆゑ重四郎|忽《たちま》ち惡心《あくしん》を發《おこ》し三五郎に向ひなんと此煙草入を我等二分に買ふべしといふに三五郎|打笑《うちわら》ひ若《もし》々先生|新《あたら》しい時でさへ四五百文位ゐ最《も》う老《おい》こんで七ツ過《すぎ》の代物《しろもの》だ二百がものも有《ある》まいに夫を二分に買《かは》んとは合點の行《ゆか》ぬ事《こと》なりと云ふを重四郎|成程《なるほど》分《わか》らぬ筈よ此品は少し己《おれ》が入用が有て遺恨《うらみ》を晴《はら》す奴《やつ》に目にもの見せんとの思案《しあん》なり友達《ともだち》の好誼《よしみ》に賣て呉《くれ》夫《それ》即金《そくきん》だとて二分取り出してさし置《おけ》ば三五郎は打笑ひ夫程に入用なら持《もつ》て行れよ金は入らぬといふをば重四郎そんなら斯《かう》仕《し》ようと彼の二分を女房に渡《わた》し少《すこし》だが單物《ひとへもの》でも買《かは》れよと無理《むり》に懷《ふとこ》ろへ入れ此事は決して沙汰《さた》なしに頼《たの》むなりと言捨《いひすて》て立歸りしが途中には穀平の丁稚《でつち》音吉に行合けるに重四郎聲を懸《かけ》コレサ音吉|殿《どん》大分《だいぶ》閙《いそが》しさうだが何所へ行のだと尋ぬれば音吉は振返《ふりかへ》り今日は大旦那が關宿《せきやど》の庄右衞門樣の方へ米の代金を取に參られますゆゑ是から供《とも》をして行ますと云ば重四郎夫では今夜は大かた泊《とま》りであらうと云に音吉|否《いや》何《な》に明日《あす》は仲間《なかま》の寄合《よりあひ》が有から遲《おそ》くとも是非今夜は御歸りで御座りますと言《いひ》ながら閙《いそが》しさうに走り行《ゆく》跡《あと》見送《みおく》りて重四郎は大いに悦び獨り心に點頭《うなづき》甘《うま》い/\今夜|利根川堤《とねがはづつみ》に待伏《まちぶせ》して穀平が歸りをばつさりやらかし此烟草入を死骸《しがい》の側《そば》に捨置《すてお》き人殺しを富右衞門に塗付《ぬりつけ》日來《ひごろ》の恨《うら》みを晴《はら》さんと笑《ゑみ》を含《ふく》んで居たりけり [#8字下げ]第二回[#「第二回」は中見出し]  然程《さるほど》に穀屋平兵衞は穀物の代金を受取んとて一人|供《とも》を連《つれ》關宿領《せきやどりやう》坂戸村《さかとむら》なる庄右衞門の方へ到りけるに庄右衞門は久々《ひさ/″\》の御來臨《おいで》なりと種々《いろ/\》馳走《ちそう》して饗應《もてなす》にぞ平兵衞も思はず時刻を移《うつ》せし中穀物の代金百兩受取歸らんとなすを主《あるじ》庄右衞門之を止《とゞ》め最早《もはや》夕暮《ゆふぐれ》なれば今宵《こよひ》は御|泊《とま》り有て明朝早く歸らるべし殊に大金を持《もつ》ての夜道《よみち》なれば無用心《ぶようじん》なり必ず/\御|泊《とま》りあれと勸《すゝ》むるを平兵衞は頭《かうべ》を振《ふり》其《そ》は忝《かたじ》けなけれども明日は餘儀《よぎ》なきことのあるゆゑに是非共|今宵《こよひ》返《かへ》らずば大いに都合|惡《あし》かりなん左《と》に右《かく》御暇《おいとま》申さんと立上れば庄右衞門も止《やむ》を得ず然らば途中の御用心こそ專要《せんえう》なれど心付るを平兵衞は承知《しようち》せりと暇《いとま》を告《つげ》て立出れば早日は山の端《は》に傾《かた》ぶき稍《やゝ》暮《くれ》なんとするに道を急ぎて辿《たど》るうち最早《もはや》全く暮《くれ》過《すぎ》て足元《あしもと》さへも分難《わけがた》ければ豫《かね》て用意の提灯《ちやうちん》を取出し火を點《とも》いて丁稚音吉に持せ足を早めて歩行《あゆめ》ども夏の夜の更《ふけ》易《やす》く早|五時過《いつゝすぎ》とも成し頃名に聞えたる坂東太郎の川波《かはなみ》音高く岸邊《きしべ》に戰《そよ》ぐ蘆《あし》茅《かや》は人丈《ひとたけ》よりも高々と生茂《おひしげ》り最《いと》長《なが》き堤《つゝみ》を便《たよ》りに一|筋道《すぢみち》權現堂《ごんげんだう》の村中へ來懸《きかゝ》る折《をり》しも颯《さつ》と吹來る川風に提灯《ちやうちん》消《きえ》て眞の闇《やみ》となりしかば平兵衞は南無さん明《あか》りが消《きえ》ては一|足《あし》も歩行れぬとて腰《こし》をさぐり用意の火打を取出し漸々《やう/\》蝋燭《らふそく》へ點《とも》しければさあ/\音吉|注意《きをつけ》て又風に火を取れぬやう急げ/\と急立《せきたつ》れば音吉は見返りつゝ旦那樣|近道《ちかみち》に致しませうかと問に平兵衞如何樣|小篠堤《をざさつゝみ》の近道《ちかみち》を行ふと音吉を先に立せ平兵衞は微醉酒《ほろゑひさけ》も醒果《さめはて》て心ばかりは急《いそ》げ共夜道の捗行《はかゆか》ぬを足に任せて小篠堤に來掛る頃は早|北斗《ほくと》の劔先《けんさき》尖《するど》く光りゴンと突《つき》出す子刻《こゝのつ》の鐘《かね》の響《ひゞ》きも身に染《しみ》て最《いと》物凄《ものすご》く聞えけり折柄《をりから》堤《つゝみ》の蔭《かげ》なる竹藪《たけやぶ》の中より面《おもて》を包《つゝ》み身には黒裝束《くろしやうぞく》を纏《まと》ひし一人の曲者《くせもの》顯《あらは》れ出《いで》物《もの》をも云ず拔打《ぬきうち》に提灯《ちやうちん》バツサリ切落《きりおと》せば音吉はきやツと一聲立たる儘《まゝ》土手《どて》より動《どう》と轉《まろ》び落《おち》狼藉者《らうぜきもの》よと呼《よば》はりながら雲を霞《かすみ》と駈出《かけいだ》すに平兵衞も是はと驚き逃《にげ》んとなしたる後《うしろ》より大袈裟《おほげさ》に切付れば呀《あつ》と叫びて倒るゝを起しも立ず止《とゞ》めの一刀を刺貫《さしつらぬ》き懷中《くわいちう》へ手を差入れ彼穀代金百兩を仕合よしと奪《うば》ひ取り何國《いづく》ともなく逃失《にげうせ》けり斯て穀屋にては音吉の知せに悴平吉を始め家内中驚き騷《さわ》ぎ平吉は親重代《おやぢうだい》の脇差|追取《おつとり》音吉を案内として駈出《かけいだ》すを後に續て番頭手代共各々|提灯《ちやうちん》得物《えもの》を引提《ひきさげ》我先にと駈《はせ》出すにぞ親類縁者其外|日來《ひごろ》懇意《こんい》の人々は此知せを聞て何れも驚き集り來るゆゑ幸手宿《さつてじゆく》の騷動《さうどう》大方ならず我も/\と提灯《ちやうちん》携《たづさ》へ駈着《かけつけ》たり是より先平吉は一散に其所へ來て見れば無殘や父平兵衞は肩先《かたさき》より肋《ひばら》へ掛て八寸程切下られ咽元《のどもと》には止めの一刀をさし貫《つらぬ》き見るに見られぬ形状《ありさま》なれば平吉は動《どう》とばかりに倒《たふ》れ伏《ふし》死骸《しがい》に取付|狂氣《きやうき》の如く天に叫び地に轉《まろ》び悲歎《ひたん》に昏《くれ》て居たりしが良《やゝ》ありて氣を取直し涙を拭《ぬぐ》ひ倩々《つく/″\》と父の面《おもて》を打まもり嘸《さぞ》御無念におはすらん汝《おの》れ敵め其儘にして置べきやと四邊《あたり》を見れども人影《ひとかげ》無《な》ければ懷中|何《いか》にと改め見るに金も見えず彼是する折柄《をりから》人々も駈着《かけつけ》此有樣を見るよりも皆々|愁傷《しうしやう》大方ならず然《さ》れど如何とも詮方《せんかた》なきにより早々此趣きを村役人へ屆《とゞ》けしかば幸手宿《さつてじゆく》權現堂兩村の役人とも立合|評議《ひやうぎ》なす中夜は程なく明放《あけはな》れしにぞ早々此段を郡代衆《ぐんだいしう》出張《しゆつちやう》の役所へ訴へ出けるに伊奈《いな》半左衞門殿の手代横田五左衞門深見吉五郎|檢使《けんし》立合の上改め相濟《あひすみ》一先權現堂村の名主仙右衞門方へ引取《ひきとつ》ての調べと相成り横田は平吉に對《むか》ひ其方は平兵衞の悴《せがれ》成《なる》かと問《とふ》平吉|發《はつ》と平伏《へいふく》しける時横田は又其方の親平兵衞儀日頃何か他に意趣遺恨《いしゆゐこん》を受し覺えはなきやと尋ね有に平吉は頭《かしら》を上《あげ》親父儀《おやぢぎ》は是迄|喧嘩《けんくわ》口論《こうろん》など致せしことも之無く日頃人の爲のみ仕つり村方にても譽《ほめ》られ候程の儀故|勿々《なか/\》意趣遺恨《いしゆゐこん》など受ることは聊《いさゝ》かも御座無く候と申立れば横田如何にも然《さ》こそあるべし而《して》金子《きんす》紛失《ふんじつ》の由なれば定めて盜賊《たうぞく》の所業《しよげふ》に相違有まじ因て死骸《しがい》の儀は勝手次第に引取べしと有り又|悴《せがれ》平吉支配人五兵衞村役人差添江戸表へ罷《まか》り出べき由申渡し置《おき》役人は引取けり却説《さても》穀屋にては燈火《ともしび》の消《きえ》たる如く平兵衞の妻并娘お浪の愁傷《しうしやう》大方ならずと雖も詮方《せんかた》なければ厚《あつ》く野邊《のべ》の送りを營《いとな》みけり扨平吉支配人五兵衞村役人同道にて江戸小傳馬町旅人宿|幸手屋《さつてや》茂《も》八方へ到着《たうちやく》し早速此段郡代屋敷へ屆け出けるに直樣《すぐさま》差紙《さしがみ》に付き幸手屋茂八|附添《つきそひ》郡代の白洲《しらす》へ出でければ正面には伊奈半左衞門殿左方には手附手代|威儀《ゐぎ》嚴重《げんぢう》に控へたり此時伊奈殿|徐《しづ》かに武州|幸手宿《さつてじゆく》穀屋平兵衞の悴平吉同人方支配人五兵衞と呼れ去月廿七日の夜|小篠堤《をざさづつみ》權現堂に於て平兵衞儀殺害に逢《あ》ひ懷中の金子を奪《うば》ひ取れし趣き尤も盜賊の所爲《しよゐ》ならば老人の事故金子を奪ひ取とも殺害《せつがい》迄には及ぶまじ何《いづ》れ平兵衞に面體《めんてい》を知れし者と見ゆ殺害致したる上全く金子《きんす》は出來心《できごころ》にて盜《ぬす》み取し者ならん然れば豫々|意趣《いしゆ》有者の所行《しわざ》と思ふなり然樣《さやう》なる心當りも有ば包まず申立よと有に平吉は恐《おそ》る/\頭《かしら》を上《あげ》親共儀は平生《へいぜい》慈悲《じひ》を第一と心懸村方|困窮《こんきう》の人の爲には心を盡し先年|洪水《こうずゐ》の節《せつ》猿《さる》ヶ|股《また》の堤《つゝみ》切《きれ》し時も夫々に救ひ米并に金銀等《きんぎんとう》も差出《さしいだ》せし程の儀故村中の者一同|能《よく》服《ふく》し居候間|勿々《なか/\》遺恨《ゐこん》など受べき覺《おぼ》え無御座候と申立るに半左衞門殿|否々《いや/\》然《さ》に非ず假令《たとへ》陰徳《いんとく》を施《ほどこ》し慈悲《じひ》善根《ぜんこん》を第一として人の害《がい》に成《なら》ぬ氣にても金子の遣取《やりとり》致し商賣《あきなひ》も手廣《てびろ》き事なれば如何なる所に遺恨《ゐこん》の有間敷《あるまじき》者にも非ず又其外にも何《なん》ぞ手掛りは無きと云るゝに平吉ヘイ其|手掛《てがか》りと申ては別《べつ》に御座らねども爰に少々《せう/\》心當り是とても右樣の儀を致す人物には之なく日頃より親類《しんるゐ》同樣《どうやう》に致し親共も相談《さうだん》相手《あひて》に仕つり家内も相應《さうおう》に暮《くら》し居ります故《ゆゑ》是を疑ふ樣も御座なく候と申立るに伊奈殿|否々《いな/\》少《すこ》しにても心當り有れば申立よ而《し》て其者は宿内の者か他村かと有《あり》ける時恐れながら申上ますと支配人《しはいにん》の五兵衞|縁先《えんさき》近《ちか》く這出《はひいで》て只今《たゞいま》平吉が申立し通り右心當りの儀は疑《うたが》はるゝものゝ先も歴々《れき/\》の身代に候ゆゑ何とも申上兼ると云ければ伊奈殿|何々《なに/\》惡《わる》く致すと歴々《れき/\》でも油斷《ゆだん》は成ぬ而て何者なるか包まず申立よとあるに五兵衞其儀は私しより申上んとて平吉に會釋《ゑしやく》なし扨《さて》主人平兵衞儀權現堂小篠堤にて横死《わうし》の節《せつ》死骸《しがい》の近傍《かたはら》に紙煙草入《かみたばこいれ》の落《おち》て有しを後の手懸《てがか》りにもと存じ拾ひ取《とり》能々《よく/\》改《あらた》め見る處同宿にて同商賣を仕つる杉戸屋富右衞門と申者|所持《しよぢ》の品にして又其|煙草入《たばこいれ》の下には主人平兵衞より送りたる手紙が之あり候とて其節《そのせつ》の樣子を委《くは》しく申立しに伊奈殿は夫は屹度《きつと》したる證據《しようこ》なり此方にさし出すべしとの事に付即ち差出しけるに奧州《あうしう》福島《ふくしま》仕立《じたて》の紙煙草入《かみたばこいれ》にして其中に手紙一通あり其文《そのぶん》に [#ここから2字下げ] 鳥渡《ちよつと》申上候昨日は御|馳走《ちそう》に預《あづか》り忝《かたじ》けなく奉存候|然者《しからば》先日御相談致し候|穀物《こくもつ》の儀江戸表へ相廻《あひまは》し申候明後日は關宿《せきやど》庄右衞門殿方へ穀代金《こくだいきん》勘定《かんぢやう》に參り申候|粕壁《かすかべ》の代金八十兩也|大豆《だいづ》の爲替《かはせ》に仕つり候|只今《たゞいま》御受取可被下候|先《まづ》は右の段申上度|如此《かくのごとく》御座候以上 [#2字下げ]六月廿五日[#地から4字上げ]穀屋平兵衞 [#4字下げ]杉戸屋富右衞門樣 [#ここで字下げ終わり] 半左衞門殿|是《これ》を見られて此手紙《このてがみ》は平兵衞の手跡《しゆせき》に相違無《さうゐなき》や又《また》斯樣《かやう》に好《よき》手掛りが有ながら何故《なにゆゑ》先に檢使の節《せつ》差出さぬぞ是《これ》甚《はなは》だ不都合の次第《しだい》なりと尋らるゝに五兵衞は臆《おく》せず然《さ》[#ルビの「さ」はママ]ばにて候|若《わか》主人平吉儀は若年者ゆゑ血氣《けつき》強《つよ》く且又家内手代共の中には血氣の若者も大勢《たいぜい》之あり候により此手紙を出す時は富右衞門を敵《かたき》と心得|仇討《かたきうち》呼《よば》はりなどいたさば容易ならざる事に成行《なりゆき》申べく一ツには右富右衞門と申者は主人も平常《つね/″\》より格別《かくべつ》懇意《こんい》に仕つり居極々手堅き人に候へば勿々《なか/\》今度《このたび》の儀など爲出《しいだ》すべき人物に御座なくと存じ密《ひそか》に私しが取隱《とりかく》し置たりと云にぞ伊奈殿如何樣夫も道理《もつとも》の譯《わけ》聞屆《きゝとゞ》けたり追々《おひ/\》吟味《ぎんみ》に及ぶと申され其日は平吉|始《はじ》め五兵衞其外とも一同下られけり是より伊奈殿には手代《てだい》杉山《すぎやま》五郎兵衞|馬場《ばば》與《よ》三右衞門の兩人に幸手宿《さつてじゆく》の杉戸屋富右衞門を召捕《めしとり》來《きた》るべしと申渡されたり [#8字下げ]第三回[#「第三回」は中見出し]  天に不思議の風雲《ふううん》有り人に不時の禍《わざは》ひありとは宜《むべ》なる哉《かな》爰《こゝ》に杉戸屋富右衞門は去六月廿六日|晝《ひる》立にして商用の爲め栃木《とちぎ》町より藤田|古河邊《こがへん》へ到り暫く逗留《とうりう》なし七月四日晝前に我が家へ歸りければ女房お峰《みね》は出迎ひ先御無事にと打喜《うちよろこ》び而《して》又旦那には村中の大變を御|途中《とちう》にてお聞ありしやと云に富右衞門|否々《いな/\》何事も聞ざりしがそりや又|何云《どういふ》譯《わけ》なりやと尋るにお峰は申樣|貴方《あなた》が御立|成《なさ》れた其翌日の事なるが穀平の旦那が關宿《せきやど》の庄右衞門殿の方へ行《ゆか》れた歸り懸《がけ》權現堂の土手にて殺されしと語《かた》るを聞て富右衞門やゝ何々《なに/\》平兵衞殿がと大に驚《おどろ》き夫は大變《たいへん》な事|而《し》て殺した奴《やつ》は知しかと問ばお峰|風聞《うはさ》には大方|盜賊《どろぼう》の所行《しわざ》ならんとの事夫れに付ては若旦那は朔日《ついたち》より江戸の御|郡代《ぐんだい》屋敷へ御|出《いで》成《なさ》れ未《いまだ》に御歸り成《なさ》らぬが相手が早く知《しれ》れば好《よい》と云に富右衞門何さ天命《てんめい》なれば今に直《ぢき》知《しれ》るで有《あら》う先《まづ》鞋《わらぢ》を脱《ぬが》ぬうち穀屋へ行て來《こ》やうか扨々|腹《はら》が減《へつ》たお峰や一寸一杯|喰込《かつこん》で行うと腰《こし》を掛け居處《ゐるところ》へ當宿の村役人段右衞門と岡引《をかひき》吉藏|案内《あんない》にて八州|廻《まはり》の役人どや/\と押來《おしきた》り上意々々《じやうい/\》と聲を掛《かけ》飛懸《とびかゝ》つて富右衞門を押伏《おしふせ》忽ち高手小手に縛《くゝ》し上れば富右衞門は魂《たまし》ひ天外に飛《とび》茫然《ばうぜん》として惘《あき》れしが是は抑《そも》何科《なにとが》有て此|繩目《なはめ》私し身に取て聊《いさゝ》かも御|召捕《めしとり》になるべき覺《おぼ》え無しと云せも果ず役人は富右衞門を白睨《にら》み付|覺《おぼ》え無しとは白々《しら/″\》しき詐《いつは》りなり去月廿七日小篠堤權現堂の藪蔭《やぶかげ》に於て穀屋平兵衞を切殺《きりころ》し金百兩を奪《うば》ひし段|注進《ちうしん》の者有て召捕なり申|譯《わけ》有《あら》ば役所に於て一々申すべしといふに富右衞門は彌々《いよ/\》仰天《ぎやうてん》し其は何共|合點《がてん》の行ざることなり私しは元來《ぐわんらい》殺生《せつしやう》さへも嫌《きら》ひで虫一つ殺《ころし》た事も無《な》きに人殺しなどとは思ひもよらず殊に平生兄弟同樣に致《いた》す所の平兵衞を何の遺恨《ゐこん》で殺しませう是は全く人違《ひとちが》ひにて候と云に女房お峰も役人に取縋《とりすが》り夫《をつと》富右衞門は勿々《なか/\》人殺しなど仕つる者には御座なく是は必定《かならず》人違ひ何卒《どうぞ》御|宥《ゆる》し成れて下さりませと涙《なみだ》と共に手を合せ詫《わび》るを役人耳にも入ず白睨《にらみ》付てぞ引立ける富右衞門は女房お峰《みね》に向ひ此|儀《ぎ》素《もと》より我が身に覺《おぼ》えなき事《こと》なれば御|郡代樣《ぐんだいさま》の御前にて申譯は致すなり必ず心配《しんぱい》すること勿《なかれ》と云ども流石《さすが》女氣《をんなぎ》のお峰は又も取縋《とりすが》り涙と共に泣詫《なきわび》るを役人共は突退々々《つきのけ/\》富右衞門を引立つゝ問屋場へと連れ來り宿駕籠《しゆくかご》に[#「宿駕籠《しゆくかご》に」は底本では「宿駕《しゆくが》籠に」]乘《のせ》て江戸馬喰町四丁目の郡代《ぐんだい》屋敷《やしき》へ引れしは無殘《むざん》なることどもなり [#8字下げ]第四回[#「第四回」は中見出し]  斯《かく》て杉戸屋富右衞門は繩目《なはめ》の儘《まゝ》にて郡代屋敷の白洲《しらす》へ引居《ひきすゑ》られ伊奈半左衞門殿は吟味《ぎんみ》に及ばれんと其席《そのせき》へ立出られ先《まづ》何成奴《いかなるやつ》ならんと見らるゝ所に面體《めんてい》は柔和《にうわ》にして篤實《とくじつ》らしく見る成れども人は面體に寄《よ》らずと思ひコリヤ幸手宿杉戸屋富右衞門|其方《そのはう》年は何歳《なんさい》成るやと尋問《たづね》られるに富右衞門は當年《たうねん》五十三歳なりと答《こた》ふ伊奈殿其方は先月廿七日の夜|關宿《せきやど》街道《かいだう》權現堂小篠堤に於て同宿穀屋平兵衞を殺害《せつがい》に及び加之《そのうへ》金子を奪《うば》ひ取りたるならん有體《ありてい》に申立よと云れけるにぞ富右衞門は首《かうべ》を上《あげ》私し儀日頃より右平兵衞とは兄弟同樣に仕つる者に候へば然樣《さやう》の儀は毛頭《もうとう》覺《おぼ》え御座なく殊《こと》に其節は私し事|他出《たしゆつ》いたし八九日外に逗留《とうりう》仕つり居《をり》歸宅《きたく》致せし機《をり》其事柄を家内の者より初めて承まはり實に驚き入しゆゑ早速|悔《くや》みに參らんと存じ旅行《りよかう》の儘《まゝ》草鞋《わらぢ》も解《とか》ず空腹《くうふく》に付食事を致し居り候所へ御|捕方《とりかた》の人々參られ御召捕に相なりし次第にて勿々《なか/\》人を殺し金子を盜《ぬす》み取候などと申|儀《ぎ》夢《ゆめ》にも存じ申さず何卒《なにとぞ》御|慈悲《じひ》の段偏へに願はしく存じ奉つると申立れば半左衞門殿聲を張《はり》あげ默《だま》れ富右衞門|汝《おの》れ其節他出とあるからは猶《なほ》以て怪《あや》しきなりシテ他出とは何《いづ》れへ罷《まか》り越《こし》たるぞとあるに富右衞門私し儀《ぎ》は先月二十六日|出立《しゆつたつ》致し古河《こが》の在藤田村の儀左衞門かたへ參り夫より古河《こが》の御城下に商用《しやうよう》御座るゆゑ逗留《とうりう》仕つり二十七日には栃木《とちぎ》町の油屋徳右衞門方へ晝の八ツ時より泊りに着居《つきを》りしにより全く以て右體《みぎてい》の儀は覺え御座なく候と申立ければ伊奈殿|大音《だいおん》に是《これ》富右衞門今汝ぢが何樣《どのやう》に申譯をしても此方には聢《しか》とした證據があるぞ是其方|所持《しよぢ》の煙草入《たばこいれ》が其場に落して有しなり夫を見よと投出《なげいだ》されしに富右衞門は是を視《み》て成程此品は私しの煙草入に相違御座なく候へども是は去月|末《すゑ》に隣村《りんそん》へ用事有て朝《あさ》の内|參《まゐ》りし途中にて落せしにより其節心|付《づき》四五町引返して相尋《あひたづ》ねしと雖も一|向《かう》見當り申さず併《しか》し餘ほど持古《もちふる》し候品と申別段用向の書付も入置ませぬゆゑ其|儘《まゝ》に打捨置候處|如何《いかゞ》仕つりてか其邊《そのへん》にと言せも果《はて》ず半左衞門殿コリヤ其煙草入の中には平兵衞より其方へ遣《つかは》したる手紙が有之しなり然《さ》すれば定めて待伏《まちぶせ》をして殺したに相違《さうゐ》有《ある》まじきぞと申さるゝに富右衞門|恐《おそ》れながら煙草入は私しの品にて又手紙も平兵衞より私し方へ參り候手紙に相違《さうゐ》御座なく候|併《しか》しながら私し儀は豫《かね》て平兵衞方へ出入仕つり候て金子《きんす》は勿論《もちろん》内外《ないぐわい》の世話にも相成候中故平兵衞が娘を關宿《せきやど》へ縁談の媒人《なかうど》迄も仕つり候程のことにて兄弟の如く交《まじは》り候中に付何とて渠《かれ》を殺害など仕つるべきや此儀何分御|賢察《けんさつ》下され御|慈悲《じひ》の程を偏《ひと》へに願ひ上奉つると申立れども伊奈殿は首《かうべ》を振《ふら》れ否々《いや/\》其方が申す所一ツとして申譯は相成ず欲情《よくじやう》に關《かゝ》りては實の親子《しんし》兄弟の中成とも心得|違《ちが》ひの者|往々《まゝ》有《ある》事なれば彌々《いよ/\》陳《ちん》ずるに於ては拷問《がうもん》申付るぞ其方が首《くび》に掛し百兩入の財布《さいふ》は則ち平兵衞を殺し盜《ぬす》み取たるに相違は有まじ夫にても猶《なほ》知らぬと申すかと白眼《にらめ》らるれども富右衞門は實に覺《おぼ》えなきことなるにぞ此百兩の金子は古河《こが》の穀屋儀左衞門方より請取《うけとり》候に相違は御座りませんと少しも臆《おく》せず申立るを半左衞門は大いに憎《にく》く思ひ否々《いな/\》其口上は幾度《いくたび》申すも同じ事なり決して申譯には相成ず猶《なほ》追々呼出すべしと云るゝ時手代の者立ませいと聲を懸《かけ》其日は入牢とぞ相なりける其後松坂町郡代の牢屋敷《らうやしき》に於て無殘《むざん》成かな富右衞門は日々《ひゞ》手強《てづよ》き拷問に掛り今は五|體《たい》悉々《こと/″\》く弱《よわ》り果《はて》物も咽《のんど》を下《くだ》すこと能はず一命既に朝夕《てうせき》に迫《せま》るに付富右衞門|倩々《つく/″\》來方《こしかた》を思ひ行末《ゆくすゑ》を案じけるに今迄一點の罪を犯《をか》せし事もなきに斯る無實《むじつ》の罪を請《うけ》て刄《やいば》に懸《かゝ》り非業《ひごふ》の最期《さいご》を遂《と》げ五體を野外《やぐわい》に曝《さら》し雨露《あめつゆ》に打《うた》れて鳶烏《とびからす》の餌食《ゑじき》と成こと我が恥よりは先祖《せんぞ》の恥辱《ちじよく》なり返《かへ》す/″\も口惜《くちをし》き次第かな女房お峰《みね》も嘸《さぞ》や悲《かなし》[#ルビの「かなし」は底本では「かな」]み歎《なげ》くらんと五|臟《ざう》を絞《しぼ》る血の涙に前後正體無りける良《やゝ》有て心を取直《とりなほ》し我が身ながらも未練《みれん》の繰言《くりごと》兎《と》ても角《かく》ても助かり難き我が一命此上は又々|嚴敷《きびしき》責苦《せめく》を忍《こらへ》んよりは寧《いつ》そのこと平兵衞を殺せしと僞《いつは》り白状して此世の責苦《せめく》を遁《のが》れん者と爰《こゝ》に心を定めしは最《いと》も憐《あは》れの次第なり然ば翌日の調《しら》べに右樣白状致せしにより役人は速《すみや》かに口書《こうしよ》を認《したゝ》め富右衞門に讀聞《よみきか》す [#ここから1字下げ、折り返して2字下げ] 一私し儀《ぎ》穀屋平兵衞と別懇《べつこん》に仕つり候處|關宿《せきやど》在《ざい》坂戸村名主庄右衞門方より穀代金請取歸り候|儀《ぎ》前《ぜん》以て手紙にて承知仕つり候|故《ゆゑ》六月廿七日の夜權現堂小篠堤に待受《まちうけ》殺害《せつがい》致《いた》し金百兩|盜《ぬす》み取候に相違《さうゐ》無御座候依之此段奉申上候以上 [#地から12字上げ]武州幸手宿 [#ここから4字下げ] 七月廿五日[#地から4字上げ]富右衞門 [#ここで字下げ終わり] 此時役人は富右衞門に向ひ何《なん》と慥《たし》かに承知したか彌々《いよ/\》白状の趣きに相違《さうゐ》なくば口書《こうしよ》に爪印《つめいん》致せと右の口書を富右衞門の前へ差付《さしつく》るに富右衞門是を見て殘念《ざんねん》至極《しごく》に思ひ心中|煮返《にえかへ》るが如き涙をはら/\と流《なが》し齒を喰締《くひしめ》ながら爪印《つめいん》も相濟《あひすみ》けるに依て伊奈半左衞門殿より口書《こうしよ》を添《そへ》委細《ゐさい》を書取にして手代富田善右衞門を持《もつ》て月番南町奉行大岡越前守殿へ引渡し相濟ける之に依て大岡殿も一通り吟味の上|口書《こうしよ》并びに書取の通り符合《ふがふ》なすに於ては月番老中|衆《しゆ》へ伺《うかゞ》ひの上|附札《つけふだ》にて御仕置仰せ付らるゝの手續《てつゞ》[#ルビの「てつゞ」は底本では「てつゞき」]きなる故今富右衞門が命は風前《ふうぜん》の燈火《ともしび》の如し再調《さいしら》べに引出さるゝ其有樣數日の拷問に勞《つか》れ果《はて》總身《そうしん》痩衰《やせおとろ》へ鬢髭《びんひげ》は蓬々《ぼう/\》とし淺黄木綿《あさぎもめん》の浴衣《ゆかた》にて青繩《あをなは》に縛《くゝ》られ小手を緩《ゆる》して砂利《じやり》の上に引居《ひきすえ》られし體《てい》此世の人とは見えざりけり白洲《しらす》の正面には大岡越前守殿|着座《ちやくざ》有左の方には御目附|土屋《つちや》六郎兵衞殿|縁側《えんがは》には目安方《めやすがた》の與力《よりき》下には同心に至る迄|威儀《ゐぎ》嚴重《げんぢう》に控《ひか》へたり此時大岡殿は武州幸手宿富右衞門と呼《よば》れ其方歳は何歳《いくつ》成《なる》ぞと尋問《とはれ》しかば富右衞門ハツと平伏し少し顏を上當年五十三歳に相成候と云たる體《てい》顏色《がんしよく》殊《こと》の外《ほか》痩衰《やせおとろ》へ肉《にく》落《おち》骨《ほね》顯《あら》はれ聲《こゑ》皺枯《しわがれ》て高く上《あげ》得《え》ず何樣數日|手強《てづよ》き拷問に掛りし樣子なり大岡殿|此體《このてい》を熟々《つく/″\》見られしが其方日頃|懇意《こんい》に致し恩義《おんぎ》にも相成し同宿成る穀屋平兵衞が坂戸村名主庄左衞門より[#「坂戸村名主庄左衞門より」はママ]金子《きんす》百兩受取し事を存《ぞん》じ居て權現堂村小篠堤にて殺害《せつがい》に及び金子百兩|奪《うば》ひ取し趣《おもむ》き明白に白状《はくじやう》致せしにより口書《こうしよ》も極《きま》り爪印《つめいん》濟《ずみ》の上伊奈半左衞門より引渡《ひきわた》しと相成たり依て一通り糺問《たづぬる》ぞ右《みぎ》口書爪印致せしからは相違無《さうゐなき》や何《どう》ぢや明白に申立よと云《いは》るゝに富右衞門ははら/\と涙《なみだ》を落《おと》しながら漸々《やう/\》に申立る樣は私しこと全く以て平兵衞を殺し金子など取候|覺《おぼ》えは毛頭《もうとう》御座なく候へども是まで段々|嚴敷《きびしき》拷問《がうもん》の苦《くる》しさに堪難《たへがた》く御覽の通りの老體《らうたい》故《ゆゑ》其苦しみを早く免《まぬ》かれ度《たく》寧《いつ》そ未來《みらい》へ參りなば此苦しみも有まじと存じ斷念《あきらめ》て罪を身に引請《ひきうけ》白状《はくじやう》仕つり候なり其實は人を殺し金子を奪ひ取候儀等は毛頭《もうとう》是なく何卒御|賢察下《けんさつくだ》し置れ候樣偏へに願ひ上奉つると涙《なみだ》ながら申立ければ大岡殿聞し召れ汝ぢ右樣申立ると雖も半左衞門方よりの明細書《めいさいしよ》の趣《おもむ》きにては其方の煙草入が平兵衞の死骸《しがい》の側《そば》に落て有しのみならず加之《そのうへ》平兵衞より其方へ宛《あて》たる手紙が中に入有し趣き是等は何《どう》ぢやと申されければ富右衞門其煙草入は去月下旬用向ありて隣村《りんそん》へ參りて途中に於て取落《とりおと》せしに相違《さうゐ》なく其上私し儀は六月二十六日[#「六月二十六日」は底本では「六月二十五日」]|出立《しゆつたつ》仕つり古河の在《ざい》藤田村儀左衞門方へ一|泊《ぱく》致し二十七日は栃木《とちぎ》町油屋徳右衞門の方に罷《まか》り在《あり》私し在所より十二里餘の場所なる故小篠堤にて平兵衞を殺害《せつがい》仕つりし儀は一|向《かう》覺《おぼ》えも無是候と申けるに大岡殿|然《しか》らば半左衞門方にて他村《たむら》宿々《しゆく/″\》の泊り吟味《ぎんみ》は致したで有うと有し時富右衞門|恐《おそ》れながら其儀は一向御|取上《とりあげ》なく只々煙草入を外《ほか》へ落したとは僞《いつは》り其|砌《みぎ》り殺害の場へ落としたに相違あるまじとばかり御|吟味《ぎんみ》が強《つよ》さに是非なく身に覺えは御座らねども其罪を引受白状致し候と申立しかば大岡殿|篤《とく》と富右衞門の相恰《さうがう》を見られし所如何樣にも篤實《とくじつ》面《おもて》に顯《あら》はれ勿々《なか/\》人を殺し盜賊《たうぞく》をする者にあらず併《しか》し今《いま》強《しひ》て吟味する時は裁許《さいきよ》を破り殊に郡代の不詮議《ふせんぎ》と相成事なり然《さり》とて人一人たり共|無實《むじつ》に害《そこな》ふは大事なれば先々《まづ/\》能《よく》實否《じつぴ》を突止《つきとめ》て後《のち》右《と》も左《かく》も取|計《はか》らはんと富右衞門は其|儘《まゝ》入牢申渡されける是より大岡殿|組下《くみした》の同心へ申付られ在方《ざいかた》の樣子を探《さぐ》られけるに幸手宿|其外《そのほか》の評判には權現堂の人殺しは富右衞門にては有まじとの風聞《ふうぶん》故《ゆゑ》六月廿六日より七月四日迄七日の間《あひだ》富右衞門が泊《とま》りし所を詮鑿《せんさく》有に左の通り [#ここから8字下げ] 覺 [#ここから1字下げ、折り返して2字下げ] 一|幸手宿《さつてじゆく》富右衞門|儀《ぎ》商用《しやうよう》に付六月廿七日晝八ツ時|頃《ごろ》私し方へ參り一|宿《しゆく》仕《つかま》つり候處商用|掛合《かけあひ》不相分《あひわからず》猶《なほ》又廿八日も逗留《とうりう》仕つり候廿七日より晝夜《ちうや》共|他出《たしゆつ》不仕私し方に逗留《とうりう》仕居り廿九日|巳刻過《よつどきすぎ》出立《しゆつたつ》致し候此段|相違《さうゐ》無御座候依て御|受書《うけしよ》如斯御座候以上 [#ここで字下げ終わり] [#地から10字上げ]下野國栃木中町 [#4字下げ]八月五日[#地から7字上げ]油屋徳右衞門 [#地から10字上げ]同所  町役人 [#地から8字上げ]中村五兵衞 [#地から11字上げ]同所  問人 [#地から7字上げ]杉村幸右衞門 [#ここから6字下げ] 池田大八樣 馬込藤十郎樣 [#ここから8字下げ] 泊所《とまりどころ》覺《おぼ》え書《がき》 [#ここから1字下げ、折り返して2字下げ] 一|杉戸屋《すぎとや》富《とみ》右衞門儀六月廿六日|朝《あさ》卯刻《むつどき》幸手宿我が家出立致し下總葛飾郡藤田村名主儀左衞門方へ泊《とま》り廿七日朝卯刻|過《すぎ》出立致し下野《しもつけ》都賀郡《つがごほり》栃木《とちぎ》中町《なかまち》油屋徳右衞門方へ泊《とま》り廿八日同所に逗留《とうりう》廿九日|晝《ひる》巳刻《よつどき》過栃木中町を立下總國古河町穀屋儀左衞門方に逗留|致《いた》し七月四日朝五ツ時出立右の通り泊り/\探索《たんさく》仕つり候處|相違無之《さうゐこれなく》別紙《べつし》廿七日泊りの場所栃木中町徳右衞門を上町《かみまち》名主方へ呼寄《よびよせ》猶《なほ》又|逐《ちく》一吟味仕つり書付を取役人共|印形《いんぎやう》取置申候且又古河穀屋儀左衞門方より穀代《こくだい》金百兩富右衞門へ相渡《あひわた》し候|趣《おもむ》き是又呼上|吟味《ぎんみ》仕つり書付|請取《うけとり》申候右の泊《とま》り所|相違《さうゐ》も無御座候以上 [#ここで字下げ終わり] [#4字下げ]八月八日[#地から8字上げ]馬込藤十郎 [#地から9字上げ]池田大八 右の通り出役《しゆつやく》の者|取調《とりしら》べし上書付二通大岡越前守殿へ差出しけるに依《よつ》て越州殿には扨《さて》こそ推量《すゐりやう》に違《たが》はず外に惡賊《あくぞく》有ことと是より專《もつぱ》ら其本人を種々《いろ/\》詮議《せんぎ》されけるとなん [#8字下げ]第五回[#「第五回」は中見出し]  扨も杉戸屋富右衞門に一人の悴《せがれ》あり幼少の節《せつ》疱瘡《はうさう》にて兩眼を失《うしな》ひしかば兩親も大に心を痛め種々|治療《ちれう》に手を盡《つく》せ共更に其|効《しる》しも無く依て田舍座頭《ゐなかざとう》にせんも不便なりと種々に心配を爲居たる所に其頃江戸|長谷川《はせがは》町に城重と言|座頭《ざとう》有|素《もと》幸手出生の者なりしが偶然《ふと》此事を聞故郷の者なれば幸ひ我が養子《やうし》に貰《もら》はんとて其趣きを相談するに富右衞門も早速《さつそく》承知《しようち》なしけるゆゑ此子を養子に貰ひ請《う》けて城富とぞ名らせけるが城富《じやうとみ》の十四歳の時に養父の城重|病死《びやうし》致せし故|養母《やうぼ》を大切に孝養して相應《さうおう》に暮《くら》しける是より前《さき》此城富十二歳の春より按摩《あんま》を業《わざ》として居たりしが或時|住吉《すみよし》町を通りたる時|不※[#「圖」の「回」に代えて「面から一、二画目をとったもの」、338-14]《ふと》竹本政太夫方へ呼込《よびこま》れ療治をなし居ける中《うち》五六人義太夫を習《なら》ひに來りしに元より城富も好の道《みち》故《ゆゑ》我を忘れて聞ながら長く療治《れうぢ》をせしが縁と成て其後|毎夜《まいよ》呼込では揉《もま》せけるに最《いと》上手なれば政太夫も至極《しごく》に歡び療治をさせける處城富は稽古《けいこ》を聞感に妙《たへ》て居る樣子を政太夫は見てコレ按摩殿《あんまどの》貴樣《きさま》は淨瑠璃《じやうるり》が好か何所《どこ》ぞで稽古でも仕たるかと尋ねけるに城富はハイ然《さ》樣で御座りますが未《いま》だ一|向《かう》稽古は致しません親掛《おやがか》りの身の上ゆゑ漸々《やう/\》針《はり》と按摩を稽古《けいこ》致《いた》すばかりで淨瑠璃《じやうるり》は習ひ度は思ひましても手が屆《とゞ》きませぬと云にぞ政太夫|成程《なるほど》然《しか》し夫程好ならば何んと稽古《けいこ》をする氣は無《ない》かと言へば城富夫は有がたう存じます實《じつ》に私しは殊《こと》の外|好《すき》で御座りますれど只今申上る通り親掛りで居《をり》ますれば稽古の代《だい》が思ふ樣には出來ませぬ只々《たゞ/\》習《なら》ひたいと存《ぞん》じまして御弟子樣方の御|稽古《けいこ》を少し聞ても聞取り學問《がくもん》とやら外の御|宅《たく》と違《ちが》うて此方樣の事成れば一口聞ても多きに稽古《けいこ》に成りますと言ふ故《ゆゑ》扨々《さて/\》不便《ふびん》の事なり然程に執心《しふしん》成《な》らば私が教へて遣《やり》ませう貴樣の事だから金は決《けつ》して取らぬが其替《そのかは》りに稽古代《けいこだい》と思うて按摩《あんま》を安くして頼《たの》みますと言ふに城富ハイ夫は何寄《なにより》以て有がたう存じます何卒《どうぞ》お願ひ申ますと是より口移《くちうつ》しに道行の稽古《けいこ》より始めて段々と習《なら》ひ込んで生涯《しやうがい》の一藝にせんものをとの一心と云其上|拍子《ひやうし》の間も宜《よく》殊《こと》に古今の美《び》音なれば太夫も始めは戲談《じようだん》の樣に教へしが今は乘氣《のりき》が來て此奴《こやつ》は物に成さうだと心を入て教へける故天晴|舊來《ふるき》弟子《でし》を追拔《おひぬけ》て上達しければ政太夫も大いに感《かん》じ是より三味線をも習《なら》はせんとて相三味線の鶴澤《つるざは》友《とも》次郎へ咄《はな》して此事を頼《たの》みけるに友次郎も早速《さつそく》承知《しようち》なし其後は三味線を一|層《しほ》身《み》に入れて教へけるに勿々《なか/\》一通り成らぬ上手《じやうず》と成しかば稽古《けいこ》は僅《わづ》か四年の中成れども生質たる藝なりと友次郎も大いに感《かん》じけるとなん斯て城富は當年《たうねん》十七歳と成り所々の出入は養父《やうふ》城重の時より殖《ふえ》其上に三|味線《みせん》淨瑠璃《じやうるり》にて所々方々へ招《まね》かれ今は家内も安樂《あんらく》に暮し養母《やうぼ》も實子の如く不便を加へ亦城富も孝行を盡《つく》し居たり時に享保《きやうほ》八年に至り實父富右衞門の災難《さいなん》のことどもを實母《じつぼ》のお峯が來り委細《ゐさい》に物語りしければ城富は是を聞き大いに驚《おどろ》き甚だ悲《かな》しみつゝ涙を流し只一心に神佛を祈《いの》りける所に享保八年十月十一日|彌々《いよ/\》御|所刑《しおき》の由幸手宿村役人を以て穀屋平吉へ申|渡《わた》され富右衞門妻へも此段申聞られしかば此事を城富は聞より起《たち》つ居つ心配《しんぱい》し其儘《そのまゝ》長谷川町の家を駈《か》け出《だ》し杖を便りに數寄屋橋内の大岡越前守殿の表門際《おもてもんぎわ》へ來たり杖を突立《つきた》て彳《たゝず》む故門番は立出汝ぢは道に迷《まよ》ひし成ん何方へ行のぢやと言ふに城富は涙に咽《むせ》かへりながらハイ/\南御番《みなみごばん》所は何れで御座りますと問《とへ》ば門番の者南御番所は此所《こゝ》なるが何用有て來りしぞ何《なに》か願ひ度《たき》事でも有かと聞れ城富はハイ然樣《さやう》で御座ります御奉行樣へ急《きふ》に御願ひが御座りまして參《まゐ》つた者で御座ります何卒《どうぞ》御取次を願《ねが》ひますと云にぞ門番の者|願《ねが》ひ度《たき》事|有《あら》ば其町内の役人を同道して來り願ふべしと言ふに城富ハイ是は誠《まこと》に差掛《さしかゝ》りまして早急の儀なれば町役人を頼《たの》む間も遲《おそ》なはります何卒《どうぞ》御取次を願ひ上ますとて少しも動《うご》かざれば門番の者も止《やむ》を得ず此事を訴訟所《うつたへじよ》へ屆《とゞ》け門内へ入置て町所家主の名前等を聞けれども一|向《かう》に言ず只|何卒《どうぞ》御奉行樣へ御目に掛《かゝ》り其上にて委細《ゐさい》申上ますとばかりにて盲人《まうじん》の根生《こんじやう》勿々《なか/\》動《うご》かざれば役人も持《も》て餘《あま》して此段を申|述《のべ》けるに大岡殿是を聞れ苦《くる》しからず早々|白洲《しらす》へ廻《まは》すべしとの事により城富を白洲《しらす》へ呼入ければ大岡殿見られて汝ぢは如何なる願ひ有るか予《われ》は大岡越前守なるぞ其方の名は何と申又|住居《ぢうきよ》は何處成ぞ申立よと云れしかば城富は喜びたる體《てい》にて私し儀は城富と申者|長谷川町《はせがはちやう》地主《ぢぬし》嘉兵衞《かへゑ》が地面に居《をり》候と申けるに大岡殿|而《して》又其方は如何成ることの願ひ有て奉行所へ盲人《まうじん》の身にて駈込訴《かけこみそ》に及びしや城富ヘイ御意《ぎよい》に御座ります私し儀は武州埼玉郡幸手宿杉戸屋富右衞門と申者の悴《せがれ》なるが十二歳の時《とき》より江戸長谷川町城重方へ養子《やうし》に參《まゐ》りし者なりと答《こた》ふるに大岡殿|然《しか》らば其方は幸手宿富右衞門が忰《せがれ》成《な》るか當時養父城重といふ者|達者《たつしや》成るや城富ヘイ養父儀《やうふぎ》は三四年以前に病死《びやうし》仕つりました大岡殿|然《しか》らば其方は富右衞門が一|件《けん》に付願ひ出しか城富|御意《ぎよい》に御座ります段々|樣子《やうす》を承《うけた》まはりし所實父富右衞門儀は今日御|仕置《しおき》に相成るとのこと故其|悲《かな》しさは何に譬《たとへ》ん樣も無《なく》又實母儀も嘸《さぞ》や歎《なげ》き申さんと思へば在《ある》に在《あら》れぬ悲しさの餘り押して御願ひに出たることにて私し儀《ぎ》は御覽の如く眼《め》の見えぬ者なれば生きて甲斐なきこと故|何卒《なにとぞ》實父《じつぷ》富右衞門が名代に私しを如何樣《いかやう》の重き御仕置にても爲下され富右衞門儀は御|免《ゆる》しを偏へに願ひ上奉つると涙《なみだ》と共に願ふにぞ大岡殿にも孝心《かうしん》の段|憫然《ふびん》の至りなりと思されけれども今さら止《やむ》を得ざれば汝ぢが申所は道理《もつとも》に似《に》たりと雖も親の罪を子に負《おは》すると言ふ事には成《なら》ず又罪も罪の次第に寄《よ》る況《まして》や其方は他人の養子《やうし》と成りし身《み》成《なら》ずや夫を差置《さしおき》實父富右衞門の代《かは》りに御仕置に致すことは相成《あひなら》ず公儀《かみ》には然樣《さやう》の御規定は無事《なきこと》なるぞと申さるゝに城富は至極《しごく》御|道理《もつとも》の御儀なれども親の罪科《ざいくわ》に代りし事古來より大分《だいぶん》御座る樣に承まはり及びますれば何卒《なにとぞ》御慈悲《ごじひ》を持て父富右衞門儀を御助《おたす》け下されて私しめを名代に御仕置《おしおき》願ひ上奉つると只管《ひたすら》申立て止ざれば大岡殿|成程《なるほど》一通りは道理《もつとも》の願ひ聞屆けても遣《つか》はさんが併《しか》しながら爰を能承まはれ今其方が申儀は實父《じつぷ》富右衞門には孝行《かうかう》の樣成れ共養母へ對《たい》し實母《じつぼ》へ對しても孝行には非ずして却て不孝《ふかう》と云者なり其方《そのはう》が名代に立と言たりとて親富右衞門がオイ夫《それ》と承知もすまじ殊に天下の御定法《ごぢやうはふ》として然樣に自由なることは出來るものに非ず強《しひ》て是を願へば強訴《がうそ》の罪《つみ》となり親富右衞門の外に其方が罪は遁《のが》れぬぞ爰《こゝ》を能々聞き譯よと理《り》を以て諭《さと》されければ城富は段々との御利解《ごりかい》有難き仕合《しあは》せに存じ奉つる然《さり》ながら押《おし》て願へば不孝《ふかう》なりとの御意は不才《ふさい》の私しには解《わか》りません親の爲にするは孝道《かうだう》かと存じますと親富右衞門を助《たす》け度《たき》一心に理も非もなく只々一生懸命に申立けるにぞ越州殿《ゑつしうどの》には何樣《なにさま》愍然《びんぜん》とは思はるれども故意《わざ》と聲を勵《はげ》まされて成程親の爲に一命を捨《すつ》るは孝道《かうだう》に相違無けれ共能承まはれ其方は一|旦《たん》城重方へ養子と成《なり》針治《しんぢ》導引《だういん》の指南を受し上手足を延《のば》して貰ひし恩義《おんぎ》は城重の蔭《かげ》で有《あら》うな然れば師匠《ししやう》なり義理有る養父なり實父よりは猶更|大切《たいせつ》に致さねば相成まじ然るを其方今實父富右衞門の名代《みやうだい》となり御仕置になりて相果たらば何樣《いかさま》富右衞門へ孝行《かうかう》は立にもせよ養母の養育は誰が爲《する》ぞ義理有る養母を捨《すつ》るは不孝《ふかう》此上無しよも富右衞門夫婦の者共も是を悦《よろこ》びは致すまじ依《よつ》て不孝と成ぞ爰《こゝ》の所を能々《よく/\》辨《わきま》へて只此上は富右衞門の亡跡《なきあと》を弔《とむら》ひ佛事|供養《くやう》怠《おこた》りなく致すが孝行《かうかう》なりと申さるゝを聞より城富はハツとばかりに白洲《しらす》へ泣倒《なきたふ》れ嗚呼實父へ孝を立んとすれば養母《やうぼ》へ不孝となり養母へ孝《かう》を盡《つく》さんと思へば實父は御仕置となり是りや何《どう》したら宜《よか》らうぞと大聲《おほごゑ》揚《あげ》て號出《なきいだ》しければ越前守殿は彌々《いよ/\》憫然《ふびん》と思はれしが是や/\其方|其樣《そのやう》に嘆《なげ》き實父に代《かは》らんと申せども最早《もはや》富右衞門はお所刑《しおき》に相成しぞ然《され》ば其富右衞門が蘇生《いきかへ》ると云ふ理《り》は無れども其方の孝心《かうしん》天へ通じ其惠《そのめぐみ》にて實父富右衞門がまた蘇生《そせい》なす間じきものにあらず因て其方は此後《このご》能々《よく/\》實母へ孝行を盡《つく》すべしと厚《あつ》く諭《さと》されし上早速其所の地主嘉兵衞と其|家主《いへぬし》を呼寄られ城富を引渡《ひきわた》しとなり隨分《ずゐぶん》心付けつかはすべき由申付けられけり [#8字下げ]第六回[#「第六回」は中見出し]  扨《さて》も鍼醫《はりい》の城富は我が願ひ叶《かな》はず地主嘉兵衞に引渡《ひきわた》されしかば止を得ず嘉兵衞に伴《ともな》はれ我が家へ立歸り悲歎《ひたん》に暮《くれ》て居たりしが良《やゝ》ありて思ふ樣父の死は是非もなきこと共なり切《せめ》ては父の亡骸《なきがら》を葬《はうむ》りて修羅《しゆら》の妄執《まうしふ》を晴《はら》し申さんとて千住|小塚原《こづかはら》の御仕置場へ到り非人《ひにん》の小屋へ立寄《たちより》些《ちと》御頼み申度ことありて參《まゐ》りたり昨日御仕置になりたる武州幸手宿富右衞門の首《くび》を何卒《なにとぞ》私しに下さります樣《やう》御頼《おたの》み申上ますと云へば非人共是を聞て其儀《そのぎ》は勿々《なか/\》相《あひ》ならず假令御仕置者なりとも首又は死骸など謂《ゆゑ》無《な》く渡して遣《やる》事は成ぬなり夫共御奉行所よりの御差※[#「圖」の「回」に代えて「面から一、二画目をとったもの」、342-5]ならば知《しら》ぬこと何《どう》して/\出來ぬことなり早く歸られよと取合《とりあう》氣色《けしき》もあらざれば城富は力もぬけ杖《つゑ》に縋《すが》りて茫然《ばうぜん》と涙に哽《むせ》び居たりける是を見て非人共は耳語《さゝやき》合《あひ》何と彼の座頭《ざとう》は幸手の富右衞門とやらの由縁《ゆかり》の人と見えるが何《どう》だ少しでも酒代《さかて》を貰《もら》つて首《くび》を遣《やら》うではないかと相談なしモシ/\御座頭《おざとう》さん高くは云れねへが首を極《ごく》内證《ないしよう》でお前に進《あげ》ませうと云ふを城富聞より大いに喜悦《よろこび》夫は/\誠《まこと》に有がたう御座ると云ば非人共|而《して》酒手は何程位《どのくらゐ》置《おい》て行のだへ全體《ぜんたい》遣《やつ》てはならぬことだが己輩《おらたち》の寸志《こゝろざし》で内證で進《あげ》るだから其ことを能《よく》思ひなせへと云を城富聞てハイ酒代は何程《いくら》でも上ますから首《くび》は何卒私しへ下さりませと申に非人《ひにん》共夫ならば大負《おほまけ》にして金二分も置《おか》つしやい城富ハイ夫は御安いこと若し/\然樣ならば何卒富右衞門の首《くび》を御渡し成《なさ》れて下されましと金子《きんす》二分を渡しけるに非人共は受取千人|溜《ため》の方へ行《ゆく》是《こ》れ/\傳助や彼の富右衞門とやらの首《くび》を知て居《ゐ》るかと聞て馬鹿《ばか》を云ねへ今日は三人昨日五人と何《どれ》が何《どう》だか分る者か何でも宜《いゝ》は金さへ取ば仔細なしだ生首《なまくび》一ツ渡して遣《やら》うと云は脇《わき》から一人の非人が夫でも親《おや》の首《くび》だと云から向うにも見知《みしり》が有《あら》う外《ほか》の首では承知しまいと云ば一人の非人|然《され》ばさ何だと云て相手《あひて》は座頭の坊《ばう》だから見分《みわけ》が有物か首さへ遣《やれ》ば宜《いゝ》然樣《さう》して直に下屋敷へ葬むるで有らうから宜《いゝ》はさと云に皆々《みな/\》成程々々と云|乍《なが》ら首一ツ持出《もちいだ》してサア/\御座頭さんと渡しければ城富|是《これ》は/\有難《ありがた》う御座りますと押戴《おしいたゞ》きわつとばかりに泣出《なきいだ》せしが變り果たる此有樣|嘸《さぞ》や御無念で御座りませう然《さり》ながら前世《ぜんせ》の因縁《いんえん》と思召《おぼしめ》し假令私の眼が見えねばとて長い中《うち》には人間の一|念《ねん》眞事《まこと》の人殺しを搜索《さがし》出して修羅《しゆら》の靈魂《みたま》を慰《なぐ》さめん南無阿彌陀佛/\と首《くび》を抱《いだ》きしめ暫《しばら》く涙に暮《く》れ居たり夫より回向院《ゑかうゐん》の下屋敷を聞しに直に側《そば》なる故尋ね行《ゆき》て金子二分取出し葬り呉よと頼みけるに回向院の[#「回向院の」は底本では「同向院の」]庵主《あんしゆ》承知して奇特《きどく》なることなりと是を葬り香華《かうげ》を手向《たむけ》經文《きやうもん》を讀て供養致しければ城富は燒香《せうかう》をして立出|漸々《やう/\》其夜の子刻過《ねのこくすぎ》長谷川町の我が家へ歸り養母并に實母のお峯《みね》も此節在所より來り逗留《とうりう》して居ける故右の樣子を咄《はな》せしにぞ兩人も涙を流して悲《かなし》みけるが愁《うれ》ひの中にも城富の孝心《かうしん》を感じ悦び夜と共に物語りして休《やす》みける城富も晝《ひる》の勞《つか》れによく寢入《ねいり》し夢の中に身の丈《たけ》六尺ばかりの大の男《をとこ》兩眼《りやうがん》大きく髮《かみ》髭《ひげ》蓬々《ぼう/″\》と亂れ最《いと》怪《あや》し氣なる有樣にて悠々《のさ/\》と枕邊《まくらべ》へ來る故夢心に城富は吃驚《びつくり》しける處に彼の男城富に向ひて若し/\御座頭《おざとう》樣何の由縁《ゆかり》もない私しを今日は御葬り下され御|回向《ゑかう》に預《あづか》りしことの有難く御|蔭《かげ》にて未來《みらい》を助かりますにより憚《はゞ》かりながら是より其|報恩《はうおん》に御前樣の蔭身《かげみ》に添て何卒御|立身出世《りつしんしゆつせ》を成るゝ樣私が永く守り上る程に然樣思召し下さるべし返々《かへす/″\》も嬉《うれ》しや忝《かたじ》けなしと云かと思へばコレ城富や/\と兩人の母に起《おこ》されにけるにぞ城富は漸《やうや》くに眼《め》を覺《さま》し然すれば今のは夢にてありしやと大汗《おほあせ》を拭《ぬぐ》ひながら頓《やが》て委細《ゐさい》の譯を物語り扨も不思議《ふしぎ》や今日のことを斯《かく》夢《ゆめ》に見ると云は是《これ》正《まさ》しく父《ちゝ》富右衞門殿が夢《ゆめ》の中に御座られたので有《あら》うと涙と倶《とも》に咄《はな》し合けるが此後富右衞門の女房《にようばう》は一七日|過《すぎ》て幸手宿へ立歸り親類《しんるゐ》中を呼集めて後々の相談《さうだん》彼是《かれこれ》として其年もはや何時しか暮《くれ》に及びたり [#8字下げ]第七回[#「第七回」は中見出し]  明れば享保九年正月三日|竹本政太夫《たけもとまさだいふ》の方にては例年の通り淨瑠璃《じやうるり》の語《かた》り初《そめ》なりとて門弟《もんてい》中打集まり一|入《しほ》賑々《にぎ/\》しく人《ひと》出入《でいり》も多かりける其頃西の丸の老中|安藤對馬守殿《あんどうつしまのかみどの》の家來に味岡《あぢをか》勇右衞門と云ふ仁《ひと》ありしが政太夫を贔屓《ひいき》になし今日も忍びにて語り初《そめ》を聽《きか》んと參られけるが此人より土産として金千|疋《ぴき》三味線彈《さみせんひき》の友次郎へも金五百|疋《ぴき》又政太夫の女房《にようばう》へは縞縮緬《しまちりめん》一疋を贈《おく》られ今日の第一番客なり扨《さて》夕《ゆふ》申刻《なゝつ》頃より[#「申刻頃より」は底本では「刻申頃より」]して立代《たちかは》り入代り語り初《そめ》をなす淨瑠璃《じやうるり》の數々《かず/\》門弟は今日を晴《はれ》と見臺に向ひて大汗《おほあせ》を流《なが》し素人連中《しろうとれんぢう》にも上手《じやうず》の人々は我も/\と聲《こゑ》自慢《じまん》もあれば又|節《ふし》自慢《じまん》もあり最も賑《にぎ》はふ其が中に今宵城富は國姓爺合戰《こくせんやかつせん》鴫《しぎ》と蛤《はまぐり》の段《だん》を語りけるに生得《しやうとく》美音《びおん》の事なれば座中《ざちう》鳴《なり》を鎭めて聽居《きゝゐ》たりしが今《いま》語《かた》り終《をは》りし時一同に咄《どつ》と譽《ほめ》る聲|家内《やうち》に響《ひゞき》て聞えけり此折しも第一の客なる彼の味岡勇右衞門は如何《いかゞ》致しけんウンと云て持病《ぢびやう》の癪氣《しやくき》に差込《さしこま》れ齒を噛《かみ》しめしかば上を下へとの大騷ぎとなり幸《さいは》ひ城富は鍼治《しんぢ》に妙《めう》を得たる故|直樣《すぐさま》療治《れうぢ》を致させしに胸先《むねさき》より小腹《せうふく》の邊りへ一二|鍼《しん》打《うつ》や否《いな》や立所に全快致しけり勇右衞門は持病《ぢびやう》ゆゑ寒暖《かんだん》に付て發《おこ》る時は急に治《をさ》まらぬ症なるに城富の鍼治《しんぢ》にて早速|快氣《こゝろよく》なりける故大いに喜び紙に包《つゝみ》て金二百疋をさし出し城富に遣はして此後折々我が屋敷《やしき》へも參るべしとて厚《あつ》く禮《れい》を述《のべ》ければ是よりして味岡《あぢをか》の方へも出入をなせしが鍼術《しんじゆつ》に於ては大いに妙《めう》を得しとて彼方此方《かなたこなた》に重寶《ちようはう》がられ其後味岡の手引《てびき》にて所々方々と出入も殖《ふえ》たりしが味岡は大岡殿と内縁《ないえん》あれば或日味岡勇右衞門は大岡殿へ出でし所越前守殿|顏色《かほいろ》宜《よろ》しからず持病の癪氣《しやくき》の由申されければ勇右衞門|然《しか》らば其《それ》には誠に奇妙なる鍼醫師《はりいし》是あり私し儀も至つて癪持《しやくもち》にて難儀仕つりし處|不※[#「圖」の「回」に代えて「面から一、二画目をとったもの」、344-10]《ふと》渠《かれ》が鍼治《しんぢ》にて全快いたし其後|暫時《しばらく》發《おこ》り申さず實に上手なる由申述ける故越前守殿|此由《このよし》を聞《きか》れ夫は近頃《ちかごろ》忝《かたじ》けなし早速に呼寄《よびよ》せ療治すべし其者は何所に居やと尋ねらるゝに勇右衞門|其者儀《そのものぎ》は長谷川町に罷《まか》り在《あり》名は城富と申して至つて鍼《はり》に功者《こうしや》に候と申けるにぞ越前守殿早々用人の山本新左衞門《やまもとしんざゑもん》を召《めさ》れ城富を呼寄せ療治《れうぢ》致させ度《たき》由《よし》申されければ新左衞門は畏《かしこ》まりて次へ下り早々|手紙《てがみ》を認めて中間《ちうげん》に持せ遣しける斯くて使ひの者は長谷川町なる城富の宅《たく》へ行《ゆき》て状箱《じやうばこ》を差出し南町奉行所の大岡越前守方より來《きた》りし由を申入けるにぞ城富は大いに驚《おどろ》き養母《やうぼ》に見せ何事ならんか家主《いへぬし》へも屆けんと思ひつれ共《ども》今日は留守《るす》の由ゆゑ如何はせんと先《まづ》養母《やうぼ》に状箱《じやうばこ》を披《ひら》かせ見れば手紙一通有り養母も不審《いぶかし》とは思へ共城富の名宛《なあて》故《ゆゑ》披《ひら》き見ても宜しかるべしと封《ふう》を押開《おしひら》きて見るに [#ここから2字下げ] 以手紙申入候未だ不得御意《ぎよいをえず》候得共|其許之《そのもとの》鍼術《しんじゆつ》聞及《きゝおよび》候に付申入候此度|旦那儀《だんなぎ》癪氣《しやくき》にて甚だ難儀|被致《いたされ》候に付療治請られ度《たく》候間|乍御苦勞《ごくらうながら》[#「|乍御苦勞《ごくらうながら》」は底本では「乍|御苦勞《ごくらうながら》」]今日中に御出被下度|尤《もつと》も拙者宅迄《せつしやたくまで》御入來に預り度候|餘者《よは》其|節《せつ》萬端《ばんたん》可申述候以上 [#地から11字上げ]大岡越前守内 [#2字下げ]二月八日[#地から7字上げ]山本新左衞門 [#4字下げ]城富殿 [#ここで字下げ終わり]  右の通り認《したゝ》めて有りければ城富も老母《らうぼ》も先々《まづ/\》安心《あんしん》なりとて委細畏まり奉つり候と返事《へんじ》を養母に認め貰《もら》ひて使の者を返しける [#8字下げ]第八回[#「第八回」は中見出し]  扨《さて》も城富は手引《てびき》の者を連て其日|晝過《ひるすぎ》に大岡殿の邸《やしき》へ參り山本新左衞門の宅《たく》へ參上の由申入ければ新左衞門同道して奧《おく》へ罷《まか》り出しに大岡殿はナニ城富か近《ちか》う/\早《はや》く來りしよとのことに城富は平伏《へいふく》して※[#「圖」の「回」に代えて「面から一、二画目をとったもの」、345-8]《はか》らず御召に預り有り難き仕合なり然《さり》ながら御前樣には如何遊《いかゞあそば》され候やと申ければ越前殿|然《され》ば癪氣《しやくき》にて四花の邊より小腹《せうふく》へかけきり/\と差込《さしこん》で食事も進まず兎角に鬱《ふさい》でならぬが其方の噂《うはさ》を味岡勇右衞門の咄《はなし》しに依て承知致し呼に遣したり太儀《たいぎ》ながら療治《れうぢ》を頼《たの》むと云るゝにぞ城富|不調法《ぶてうはふ》の私し御召に預りまして有難く候と云つゝ側《そば》へ摺寄《すりより》療治《れうぢ》に掛りしに素《もと》より鍼術に妙を得しことゆゑ癪氣《しやくき》も速かに治《をさま》りければ大岡殿には悦ばれ成程|妙《めう》に好《よい》心持《こゝろもち》に成しと申されるに城富は先々御|休息《きうそく》を遊《あそ》ばされよと申て自分も休《やす》み居たりけるに大岡殿は寢返《ねがへ》りて此方を見られコレ城富|幸手《さつて》の實母《じつぼ》は息才《そくさい》で居かとの尋ねに城富はハツと首《かうべ》を下げ有難き仕合せ何も替りましたる儀も御座りませんと答《こたふ》れば大岡殿其方が親父《おや》富右衞門は扨て/\不便《ふびん》なることぢやが汝ぢが孝行《かうかう》では富右衞門も頓《やが》て蘇生《そせい》するで有《あら》うぞと申されしに城富は不思議《ふしぎ》のことを云るゝとは思へども一|向《かう》其意を得ざれば夫は有難《ありがた》う御座りますが今は早《はや》相果《あひはて》ました親父が再び生ますと申す道理が御座いませうかと云つゝ涙を泣然《ほろり》と落《おと》せしにぞ大岡殿|然《され》ば死したる者の蘇生《そせい》する所以は無《なけ》れ共是城富|其方《そち》は彼の生田源内《いくたげんない》の物語りと云ふ草紙が有が聞たことは無《ない》か城富一向に承まはりしことは御座りませぬ大岡殿其|生田源内《いくたげんない》と云ふ者は無實《むじつ》の罪を受て攝州《せつしう》大坂にて御仕置に行はれしが此源内の娘に豐《とよ》と云ふ大孝行の者が有て父《ちゝ》源内が入牢せし中|讃州《さんしう》の金毘羅權現《こんぴらごんげん》へ誓《ちか》ひを立《たて》我が一命を神《かみ》へ捧《さゝ》げて父の無實の罪に代《かは》らんことを一|心《しん》不亂《ふらん》に祈《いの》りしに今日は早《はや》源内の罪|極《きはま》り御仕置と聞し故娘の豐は其日|父《ちゝ》の引れ行《ゆき》し御仕置場へ行て見るに終に仇《あだ》し野《の》の露《つゆ》と消果《きえはて》しゆゑ泣々《なく/\》も其所を立去り我が家へ歸り神《かみ》へ祈《いの》りしことも贅《むだ》とも成しとて夫より只管《ひたすら》菩提《ぼだい》を吊《とふ》らはんと[#「吊《とふ》らはんと」はママ]思ひ樒《はな》を供へ香を燒《たい》て只々一途に後生を願うて居《ゐる》所に其夜|丑刻《やつどき》頃と思ふ折しも表の戸をとん/\と叩《たゝ》く故是は何者なるやと門《かど》の戸を明て見るに今迄も慕《した》ひ悲《かな》しみ居たる父源内立歸りければ娘の豐は夢現《ゆめうつ》つかと思ひながらも大いに悦びことの仔細《しさい》を尋ぬるに源内は先内に入り我御仕置場にて首を切れしときハツと思《おも》ひしばかりにて其後《そののち》は何も知ず頓《やが》て氣が付て其|邊《あたり》を見廻しけるに首は落《おち》ず何事も無|健全《まめ》息災《そくさい》なり依て我が家へ立歸りしぞと物語《ものがた》りしかば娘は嬉《うれし》く是全く金毘羅樣《こんぴらさま》の御|利益《りやく》ならんと早々|嗽《うが》ひ手水《てうず》にて身を清《きよ》めて金毘羅の掛物を取出し伏拜《ふしをが》みけるに金毘羅の金《こん》の一字は切放れて血汐《ちしほ》滴《したゝ》り有ければ親子の者は一同にハツとひれ伏《ふし》有難《ありがた》し/\とて感涙《かんるゐ》を流しけるが其中に罪人の本人が出て源内は長壽を保《たも》ちしと云事あり是等は即ち理外《りぐわい》の物語りにて天地《てんち》の間に不思議の有しことは擧《あげ》て算《かぞ》へ難し切れて助かる道理は無しと雖も世界の不思議|神佛《しんぶつ》の利益は無にも非ず然《さす》れば其方の父富右衞門も蘇生《そせい》いたす間《ま》じき者でも無い隨分《ずゐぶん》神佛を頼《たの》み奉つりて信心《しんじん》を致すべしとの物語り有りければ城富は有難う存《ぞん》じ奉つりますと正直者《しやうぢきもの》故に萬一大岡殿の申さるゝ通り親が蘇生《そせい》でもすることかと思うて心の中に樂《たのし》み神佛を信心して養母《やうぼ》を大切に致し暮《くら》しける是よりは猶|鍼《はり》の療治も日々に繁昌《はんじやう》して諸家へも呼《よば》れ大岡殿へも時々療治に上りけるに其度々々に越前守殿にも力《ちから》を添《そへ》て下され有難き詞《ことば》を掛られけるとぞ此元は皆全く師の竹本政太夫のお蔭《かげ》なりとて猶更《なほさら》是をも大切にして兩人の母《はゝ》へ孝行を盡《つく》しけるこそ殊勝《しゆしよう》なれ [#8字下げ]第九回[#「第九回」は中見出し]  却て説《とく》畔倉重四郎は小篠堤《をざさづつみ》にて穀屋平兵衞を殺害《せつがい》し百兩の金子を奪ひ取り其上富右衞門に罪を負せ事|落着《らくちやく》して富右衞門は御|仕置《しおき》に行《おこな》はれけるにぞ我が奸計《かんけい》の好機《まんま》と行しを悦《よろこ》び三五郎へも百兩の中三十兩を分《わけ》て遣はし何喰《なにくは》ぬ顏をして居たりける爰《こゝ》に又《また》慈恩寺村にて大博奕《おほばくち》の土場《どば》が出來鴻の巣なる鎌倉屋金兵衞と云ふ名稱《なうて》の博奕打《ばくちうち》が來りて大いに卻含《はづみ》金兵衞は五百兩ばかり勝《かち》し折柄自分の村方に急用《きふよう》出來せしにより急《いそ》ぎ歸村《きそん》せよと飛脚の來りける故|仲間《なかま》に斯《かく》と告《つげ》て振舞《ふるまひ》などをなしつゝ急ぎの用なればとて一|同《どう》へ暇《いとま》を告て子分なる水戸|浪人《らうにん》八田掃部練馬藤兵衞三加尻茂助の三人に跡《あと》を取片付《とりかたづけ》させ自分は急《いそ》ぎのこと故《ゆゑ》一足先へ出立して後《あと》より追《おひ》つくべしと申聞け日の暮頃|慈恩寺村《じおんじむら》を立出けるが時しも享保《きやうほ》八年七月十六日にて盂蘭盆《うらぼん》のことなれば村々にては酒宴《さかもり》を催せしもあり又|男女《なんによ》打交《うちまじ》りて踊《をど》るもあり最《いと》賑《にぎは》しけれども金兵衞は急《いそ》ぎの用なれば却《かへつ》て之を面倒に思ひつゝ足に任《まか》せて歩行《あゆみ》ける此金兵衞の行裝《こしらへ》は辨慶縞《べんけいじま》の越後縮の帷子《かたびら》に銀拵《ぎんごしら》への大脇差し落し差に差て菅笠《すげがさ》深《ふか》く打冠《うちかぶ》り鷲の宮迄來りける爰《こゝ》に畔倉重四郎は此頃|續《つゞ》く不仕合に勝負《しようぶ》の資本薄ければ忽然《たちまち》惡心《あくしん》發《はつ》し鴻の巣の金兵衞が大いに勝《かつ》て在所《ざいしよ》へ立歸るを幸ひ奴《きやつ》を殺し彼者《かれ》が勝し五百兩の金を奪ひ取んと心|懸《がけ》先《さき》へ廻つて鷲《わし》の宮の杉林《すぎばやし》に身を隱《かく》し金兵衞の來るを今や遲《おそ》しと待懸たり金兵衞は斯《かゝ》るべしとは夢《ゆめ》にも知ず慈恩寺村《じおんじむら》にて打勝し五百兩を懷中《くわいちう》し小歌《こうた》を唄《うた》ひながら悠々《いう/\》と大宮村《おほみやむら》へと行ける折《をり》から畔倉は少し遣過《やりすご》しつゝ窺《うかゞ》ひ寄《よつ》て後より大袈裟掛《おほげさがけ》に切付れば流石《さすが》の金兵衞も手練《てなみ》の一刀に堪《たま》り得ずアツと一|聲《こゑ》叫《さけ》びし儘《まゝ》二ツに成て果《はて》たりけり重四郎は呵々《から/\》と打笑ひ仕て遣《やつ》たりと云ながら刀の血《のり》を金兵衞の帷子《かたびら》にて押拭《おしぬぐ》ひ胴卷《どうまき》の五百兩を何の手も無く奪ひ取り懷中せんとする折《をり》から後《あと》より人聲《ひとごゑ》がする故に重四郎は振返《ふりかへ》り彼は定めし子分《こぶん》の奴等《やつら》何も恐るゝにはあらねども水戸浪人奴《みとらうにんめ》は些《ちと》手強《てごは》き奴《やつ》見付られては面倒也《めんだうなり》早々此場を立去んとて雲を霞と駈出しける扨又金兵衞の子分八田|掃部《かもん》練馬《ねりま》藤兵衞|三加尻《みかじり》茂助の三人は跡《あと》を片付大宮にて親分に追付んと鷲の宮なる杉林へ來懸《きかゝ》りしが死骸《しがい》に躓《つま》づき是は何者なるやと能々見るに親分《おやぶん》金兵衞の死骸なれば藤兵衞は大いに驚き先生々々|爰《こゝ》に親分が切《きら》れてと聞《きく》より掃部も駈寄《かけよつ》て能見れば正敷金兵衞の死骸なり南無《なむ》さん何者の仕業《しわざ》ならんと三人は切齒《はがみ》をなして憤《いきど》ほれ共如何とも詮方《せんかた》なければ頓《やが》て懷中を改め見《みる》に是は如何に五百兩の金《かね》は無く偖《さて》は盜賊《たうぞく》の所業《しわざ》ならんと近傍《あたり》を見れば扇子一本|落《おち》てあり藤兵衞手に取あげ能々《よく/\》見るに鐵扇《てつせん》にて親骨に杉田《すぎた》三五郎と彫付《ほりつけ》有りし故掃部大いに怒《いか》り然らば是は幸手《さつて》の三五郎が所業《しわざ》に違《ちがひ》無《な》し今西の方へ駈出《かけだ》して行《ゆく》人影《ひとかげ》を見しが慥《たしか》に三五郎奴成らんと三人|等《ひと》しく此方の土手《どて》へ駈《かけ》よりて見れば二三町|隔《へだて》て西の村を差《さし》て迯行《にげゆく》者あり掃部は彌々|彼奴《あいつ》に相違無し是々《これ/\》藤兵衞|飛脚《ひきやく》を立て家《うち》へ此ことを知らせて遣《や》れ己は直《すぐ》に茂助と共に三五郎を討取んと云ふに藤兵衞|聞《きゝ》て先生私しも一所に行《ゆか》んと申を否々《いや/\》夫では親分の死骸を無宿《むしゆく》にされては成らぬ是非々々|手前《てまへ》は此場の始末《しまつ》をして呉れろと云棄《いひすて》て追駈《おつかけ》行《ゆ》く此掃部と云ふ者は素《もと》より武邊《ぶへん》の達者殊に早足なれば一目散に追行《おひゆく》所に重四郎は一里餘りも退《のひ》たりしが後《うしろ》より駈來《かけくる》人音《ひとおと》有り定めて子分の奴等が來る成らんと深江村《ふかえむら》の入口に千手院《せんじゆゐん》と云ふ小寺有り住持《ぢうぢ》は六十餘歳の老僧にて佛前に於て讀經《つとめ》をして居る故《ゆゑ》重四郎は是幸ひと聲を掛けモシ/\和尚樣《をしやうさま》私しは只今|災難《さいなん》に逢《あう》て追人の懸る者何卒御|慈悲《じひ》を以て御|隱匿《かくまひ》下さるべしと頼みければ老僧は是を聞て扨々夫は嘸《さぞ》難儀《なんぎ》成《なる》べし出家のことなれば何かして救《すく》うて遣はすべし此|天井《てんじやう》の上に不動明王《ふどうみやうわう》を觀請《くわんじやう》して在り彼《あ》れ/\見るべし彼の天井の隅《すみ》の所なりと其所へ這入《はひる》には爰の本堂より位牌壇《ゐはいだん》の後の方から這入がよいそして踏掛る所が有《ある》夫から又天井に切拔《きりぬい》た穴《あな》が有るから其所より這入《はひる》べしと最と深切《しんせつ》に教へけり重四郎は追詰られし事故心中如何はせんと思ふ所に斯《かく》の如く住持《ぢうぢ》の情《なさ》け深く教へて呉《くれ》ける故大いに悦び拜々有難う御座りますと云《いひ》つゝ彼の位牌壇より壁《かべ》に有る足溜《あしだま》りへ足を踏掛《ふみか》け漸々として終《つひ》に天井へ昇り其跡を板《いた》にて元の如く差塞《さしふさ》ぎ先是では氣遣《きづか》ひ無しと大いに安堵《あんど》なし息を壓《こら》して隱れ居たり斯る惡人なれども未だ命數《めいすう》の盡《つき》ざる所にや僧の情《なさけ》に依て危き命を助かりし事ぞ不思議《ふしぎ》なる [#8字下げ]第十回[#「第十回」は中見出し]  扨も八田掃部は騫直《まつしぐら》に追懸《おつかけ》來りしが三五郎めは慥《たしか》に此寺に迯込《にげこん》だるに相違無しと御寺へ駈入眼を配《くば》りながら住持に向ひ若し/\御|寺樣《てらさま》只今人を殺して立退《たちのき》し者が此寺へ駈込《かけこみ》しを慥に見屆たり何所に居り候やお出《だ》し下さる可しと尋《たづね》ければ住持は聞《きゝ》て其《そ》は以ての外のことながら然樣《さやう》な者は參らず定めて門違《かどちが》ひに候はんと云ひつゝ見向《みむき》もせず般若心經《はんにやしんきやう》を讀《よん》で居けるに否々《いや/\》是へ追込しを見屆て參つたり然《さ》れども御出家の儀なれば人を隱《かく》まうは道理《もつとも》の事なるが私し共の爲には親分の仇敵《あだがたき》なれば何卒《どうぞ》出して御渡し下さるべしと押返《おしかへ》して申けれども住持は頭《かしら》を左右に振《ふり》否々《いや/\》此方へは參り申さず來らぬ者を匿藏《かくまう》べき筋も無《なし》とさらに取合ねば掃部は焦立《いらだち》某《それがし》慥に見屆たることなれば斯は申なり夫にても參らぬとならば我等が念晴《ねんばら》しに此御寺を家搜索《やさがし》致さんが此儀は御承知なりやと云ひければ和尚《をしやう》は微笑《ほゝゑみ》夫は御勝手次第に家搜《やさが》しでも何でも致されよと一|向《かう》平氣《へいき》なり掃部然らばとて本堂を始め位牌堂《ゐはいだう》より其下の戸棚迄《とだなまで》がらり/\と明放《あけはな》して見るに中には古《ふる》びたる提灯《ちやうちん》や香奠《かうでん》[#ルビの「かうでん」は底本では「かうでれ」]の臺など有り夫よりして臺所《だいどころ》部屋々々《へや/\》座敷の廻り次の間|茶《ちや》の間|納戸《なんど》雪隱《せついん》は申に及ばず床下迄も殘る隈無《くまな》く尋ぬる處へ茂助も息《いき》を切て駈付《かけつけ》來り兩人にて又々|彼方此方《かなたこなた》と尋ね廻り地内の鎭守稻荷堂或ひは薪部屋《まきべや》物置等《ものおきとう》殘《のこ》らず搜《さが》しけれ共|影《かげ》だに見えざれば掃部は不審《いぶかり》最《もう》此上は和尚を捕《とら》へて詮議すべしと又々本堂へ立歸りコリヤ和尚《をしやう》匿《かく》したるに相違あるまじサア早く出せ但《たゞ》し又何れへ落したるや明白《めいはく》に云へば宜《よ》し云はぬに於ては此方にも了簡《れうけん》が有るぞと詰寄《つめよせ》けれども住持は猶《なほ》自|若《じやく》として只今申せし通り少しも知らぬことなり然るを未《まだ》疑《うたが》ひ有らば勝手《かつて》に致さるべしと申ければ掃部は大いに怒《いか》つてコレ坊主我等は慥《たしか》なる所を見屆て申すなり彌々《いよ/\》言《いは》ぬに於ては斯《かう》すると首筋《くびすぢ》掴《つか》んで引摺出し力に任《まか》せて板縁《いたえん》へ摺付々々《すりつけ/\》サア何だ坊主め白状しろ何處《どこ》へ隱《かく》せしぞ但しは落したかと茂助も諸《もろ》ともに聲を荒《あら》らげて打|据《すゑ》ると雖も知らぬとばかりゆゑ掃部は茂助に繩《なは》を取て來《きた》れと言に茂助は臺所より荒繩《あらなは》を持來《もちきた》りければ和尚を高手《たかて》小手《こて》に縛《しば》り梁《はり》へ釣上《つりあ》げ薪《たきゞ》を以て散々《さん/″\》打てば和尚は眼を開きコリヤ/\假令《たとへ》隱《かく》したりとて出家の境界《きやうがい》今更其を明《あか》すべきや然而《まして》一向知らぬこと此身體は素より假《かり》の世なり殺さば殺せ勝手にしろと云を兩人は聞イヤハヤ此奴《こいつ》硬情《しぶとき》坊主めと云樣力に任せて一打|肋《あばら》を打けるにウンと言て其|儘《まゝ》悶絶《もんぜつ》なせしかば茂助は驚き先生《せんせい》苛酷《ひどい》ことをされたり夫では爰には居ぬに違《ちが》ひも有めへ敵《かたき》は幸手《さつて》の三五郎と知れて居《ゐる》からは先々親分の死骸を葬り相手に油斷をさせ置て不意《ふい》に幸手へ押掛《おしかけ》三五郎を討取《うちとる》工夫《くふう》は幾等《いくら》も有うと言ふに掃部も成程敵は知て居上ならばマア急事《せくこと》もねへが彼が兄弟分の重四郎と云ふ奴《やつ》は少し手強《てごは》ひ奴なり然し侠氣《たてひき》も有奴だから親分の敵を討《うつ》と云聞《いひきか》せ何か助太刀をして呉ろと頼んで見樣《みやう》若し承知すれば此方の味方|否《いや》と言ふならば先《まづ》重四郎を先へ殺して遣《やら》うと二人相談をなし頓《やが》て此寺を立出けり其時畔倉重四郎は彼等が相談せし樣子を天井に潜伏《かくれ》て逐《ちく》一聞屆け時分は好《よし》と天井を飛降《とびお》り和尚を見に釣《つる》し上られた儘《まゝ》死《し》したる體ゆゑ重四郎も流石《さすが》氣の毒に思ひハヽア僧主は僧主|丈《だけ》正直な者然し打殺《うちころ》さるゝ迄云ぬと言ふは武士にも優《まし》た丈夫な精神《たましひ》天晴々々《あつぱれ/\》感心した然し彼の掃部めは三五郎が殺したと心得しは鐵扇《てつせん》を三五郎から借《かり》て來て死人の側《そば》へ落《おと》した故彼等が三五郎と思ひしなり是で好々《よし/\》と獨《ひと》り言を云つゝ臺所へ到りアヽ腹《はら》が減《へつ》た何ぞないかと其所《そこ》らを探《さが》し何か戸棚より取出して飯櫃《めしびつ》を引寄《ひきよせ》十分に食終《くひをは》り夫より悠然《いう/\》と幸手宿へ立歸り此由を三五郎に咄《はな》し密かに喋《しめ》し合せ彼等の子分が金兵衞の敵《かたき》と狙《ねら》ひ來る時は斯樣々々《かやう/\》と手配《てくばり》を成して用心|堅固《けんご》に居たりけり [#8字下げ]第十一回[#「第十一回」は中見出し]  時に文月《ふみづき》廿八日の入相頃《いりあひごろ》金兵衞の子分八田掃部三加尻茂助練馬藤兵衞等三人|打連立《うちつれだつ》て畔倉重四郎が宅《たく》へ入來り先生は御宅かと聲を懸《かく》れば重四郎はイヤ來たなとは思へども何喰《なにくは》ぬ顏にて是は/\珍《めづ》らしく御揃ひで能《よく》こそ御入來|忝《かたじ》けなしと挨拶《あいさつ》なすに頓《やが》て掃部は聲を潜《ひそ》め早速ながら先生へ折入《をりいつ》て御頼み申度事あつて參上致したりと云ば重四郎|其《そ》はまた何事かは知らねども改《あらた》まりし其御詞|日來《ひごろ》よりの懇意と申し貴殿も武士我等も武士の端《はし》くれ見掛て御頼みと有《あら》ば否とは申さぬシテ何事で御座ると問に掃部イヤ外の事でも御座らぬが我々の親分《おやぶん》鎌倉屋金兵衞事|桶川宿《をけがはじゆく》鷲《わし》の宮に於て殺され其上に五百兩と云ふ金子《かね》を取《とら》れしと云も終《をはら》ぬに重四郎|成程《なるほど》金兵衞親方が殺されたと云|噂《うはさ》は聞たれ共人の云事|故《ゆゑ》實正《じつしやう》とも思はざりしが夫なら彌々《いよ/\》人手《ひとで》に罹《かゝ》られしか而《して》敵《かたき》は知しかと聞に掃部|然《され》ば其事に付貴殿へ助太刀《すけだち》を御頼み申|度《たく》何分御|加勢《かせい》下さるべしと云《いふ》にぞ重四郎然らば我等を男一|疋《ぴき》と見込《みこん》で御頼みと有ことなれば何の否《いな》とは申まじ而々《さて/\》其敵《そのかたき》と言《いふ》は何者なるやと申せば掃部はまだ危《あや》ぶみイヤ其事なり先《さき》の相手に依《よつ》ては御|差合《さしあひ》も御座らうと存《ぞん》ずるゆゑ確乎《しかと》した御詞を承知致さぬ中《うち》は些《ち》と敵の名前は申されぬ善惡共《ぜんあくとも》御承知下されたる言御|挨拶《あいさつ》の上御話申べしと言《いふ》に重四郎成程御|道理《もつとも》の儀武士たる者は義を見て爲《せ》ざるは勇《ゆう》無《な》きなりと云詞を尊《たうと》ぶ拙者《それがし》を見込で御頼みとあれば假令《たとへ》親兄弟《おやきやうだい》たりとも義に依ては急度《きつと》助太刀《すけだち》致すべしと言へば掃部は聞て偖々《さて/\》頼母《たのも》しき御|心底《しんてい》感《かん》じ入たり然樣《さやう》御座らば何を隱し申べきや其敵と言《いふ》は貴殿の兄弟同樣に成《なさ》るゝ三五郎なりと聞重四郎驚きし體《てい》にて而《して》其三五郎を敵と申さるゝは何ぞ慥《たしか》な證據有ての儀で御座るかと問《とふ》に掃部|然《され》ばとよ日外《いつぞや》慈恩寺村へ金兵衞が出し所在所より急《きふ》に歸るべしとの使《つかひ》が來り其時我々は跡《あと》へ殘《のこ》り何や彼《か》や取片付《とりかたづけ》親分は先へ戻《もど》りし其|晩《ばん》鷲の宮にて切殺されたる其跡へ我等三人參り合せて見る處に死骸《しがい》の近傍《かたはら》に落て有しは是なり此|鐵扇《てつせん》を取上て見れば牡丹《ぼたん》の繪に裏《うら》には詩を書《かい》て有り又此通り親骨《おやぼね》に杉田三五郎と記してあれば全く敵は三五郎に相違無《さうゐな》し是に依《よつ》て先生に助太刀を御頼み申て討取度存ぜし所なり何卒御頼み申と云へば重四郎如何さま然樣《さやう》のことに御座れば全く三五郎の所爲《しわざ》成《なら》ん併しながら是迄|別懇《べつこん》に致せし三五郎なれ共一旦頼まれし上からは跡《あと》へは引ぬ重四郎如何にも承知致したりと申に掃部は打喜《うちよろこ》び斯《かく》有《あら》んと見込で我々が御頼み申せし上からは早急《さつそく》ながら是より直樣《すぐさま》三五郎の宅へ御同道下さるべしと立上るを重四郎|先《まづ》暫《しば》らくと押止《おしとゞ》め必ず早まり給ふな親分の敵《かたき》は三五郎と知たる上其は宜敷《よろしき》時刻《じこく》を計つて討洩《うちもら》さぬ樣に致すが肝要《かんえう》なり殊に今宵《こよひ》三五郎は宅に居《をら》ず然《さす》れば仕懸《しかけ》て行《ゆく》共《とも》其詮無《そのせんな》しと云ふにぞ掃部是を聞て然らば何《いづ》れへ參りしや其|行先《ゆくさき》を御存じなるか重四郎|然《され》ば今晩《こんばん》は元栗橋《もとくりばし》の燒場隱亡《やきばをんばう》彌十の處に於て長半が出來ると云により夕《ゆふ》申刻頃《なゝつごろ》から行べしと拙者《それがし》をも誘《さそ》ひしか共少し外に用事も有し故三五郎ばかり先へ遣《つか》はし置たり然れば是|得難《えがた》き時節《じせつ》なりと云ふに三人の者是を聞て大に歡《よろこ》び何卒|能《よき》手段《しゆだん》を以て三五郎を討取《うちとる》樣《やう》偏《ひと》へに御頼み申なりと重四郎の意に隨《したが》ひければ然《さら》ば是より案内致すべし彼隱亡《かのをんばう》彌十が方へ到りて三五郎を呼出《よびだ》し置て其時|拙者《せつしや》も助太刀致し首尾能《しゆびよく》敵《かたき》を討せ申べしと重四郎は眞實《まこと》しやかに言ければ掃部を始め茂助藤兵衞等|頻《しき》りと打悦び何分《なにぶん》宜敷《よろしく》御頼み申なりとて是より皆々《みな/\》食事《しよくじ》など致し十分其支度に掛りける扨《さて》又三五郎は豫《かね》て重四郎よりの談話《はなし》もあれば金兵衞が子分等|扇子《あふぎ》を證據となし敵《かたき》と覘《ねら》ふは必定なりと思ひ日頃より用心|堅固《けんご》にして身を戒愼《つゝしみ》居たりしが此日重四郎に用事《ようじ》有《あつ》て隣家《となり》迄|來掛《きかゝ》りし所重四郎が宅《たく》にて囂々《がや/\》と人聲なすゆゑ何事やらんと竊《ひそ》かに身を潜《ひそ》め内の樣子を窺《うかゞ》ひけるに金兵衞が子分共三五郎を敵と覘《ねら》ひて元栗橋へ出掛る相談なりしかば三五郎|扨《さて》は重四郎が彼三人の奴等《やつら》を引出し利根川通《とねがはどほ》りにて殺す了簡《れうけん》なりと悟《さと》り獨り點頭《うなづき》つゝ好々《よし/\》先《さき》へ廻《まは》りて助太刀をして遣《やら》んと尻《しり》引縛《ひつから》げ強刀物《だんびらもの》を落し差《ざし》になし頬冠《ほゝかぶ》り深く顏を隱《かく》し利根川堤《とねがはづつみ》を指《さし》て急《いそ》ぎけり [#8字下げ]第十二回[#「第十二回」は中見出し]  然程《さるほど》に畔倉重四郎は鎌倉屋金兵衞の子分《こぶん》八田掃部練馬藤兵衞三加尻茂助の三人を伴《ともな》ひ我が家《や》を出て元栗橋《もとくりばし》へと急ぎ行く程なく來掛《きかゝ》る利根川堤|早瀬《はやせ》の波《なみ》は水柵《しがらみ》に打寄せ蛇籠《じやかご》を洗ふ水音《みづおと》滔々《たう/\》として其の夜は殊《こと》に一|天《てん》俄《には》かに掻曇《かきくも》り宛然《さながら》墨《すみ》を流《なが》すに似て礫《つぶて》の如き雨《あめ》はばら/\と降來る折柄《をりから》三更《さんかう》を報《つぐ》る遠寺《ゑんじ》の鐘《かね》ガウ/\と響《ひゞ》き渡り最《いと》凄然《ものすご》く思はるればさしも強氣《がうき》の者共も小氣味《こきみ》惡々《わる/\》足に任《まか》せて歩行《あゆむ》中《うち》青《あを》き火の光り見えければ彼《あれ》こそ燒場《やきば》の火影《ひかげ》ならんと掃部は先に立て行程に早《はや》隱亡小屋《をんばうごや》に近接《ちかづく》折柄《をりから》道の此方《こなた》なる小笹《をざさ》の冠《かぶ》りし石塔《せきたふ》の蔭《かげ》より一刀|閃《ひら》りと引拔|稻妻《いなづま》の如く掃部が向う脛《ずね》をずんと切落《きりおと》せば掃部は堪《たま》らず尻居《しりゐ》に動《どう》と倒《たふ》れつゝヤア殘念《ざんねん》や恨《うら》めしや欺《だま》し討とは卑怯《ひけふ》未練《みれん》是重四郎殿何者か我が足《あし》を切りたるぞ疾《はや》く捕《とら》へ給はれと云ふ間あらせず重四郎は心得たりと一|刀《たう》閃《ひら》りと拔より早く練馬《ねりま》藤兵衞を後背《うしろ》よりばつさり袈裟掛《けさがけ》に切放しければ是を見るより三加尻茂助は飛退《とびすさ》り汝《おの》れ重四郎助太刀の案内《あんない》すると僞《いつは》りて此所へ我々を引出し欺《だま》し討《うち》は卑怯至極《ひけふしごく》なり其儀ならばと一刀引拔討て掛るを重四郎心得たりと身を反《かは》し二|打《うち》三|打《うち》打合《うちあひ》しが隙《すき》を見合せ一|聲《せい》叫《さけ》んで肩先より乳の下まで一刀に切放せば茂助はウンとばかりに其儘《そのまゝ》死《しゝ》たる處へ以前の曲者《くせもの》石塔《せきたふ》の蔭《かげ》より現《あらは》れ出るを掃部は倒《たふ》れながら下より横《よこ》に拂《はら》ふにさしつたりと飛違《とびちが》ひ掃部の利腕《きゝうで》切落《きりおと》し二の太刀を脾腹《ひばら》へ突込《つゝこみ》ぐつと一|剌《ゑぐ》りゑぐりし時重四郎は荼比所《だびしよ》の火影《ひかげ》に顏《かほ》見逢《みあは》せヤア三五郎か重四郎殿|好機《しつくり》參つて重疊々々《ちようでふ/\》扨此樣子は先刻《さつき》用事《ようじ》有《あつ》て貴殿の宅へ參りし所何か人聲がする故樣子有んと窺《うかゞ》へば金兵衞が子分共《こぶんども》我を敵《かたき》と覘《ねら》ひ討《うた》んとて先生と同道《どうだう》なし元栗橋《もとくりばし》へ行《ゆか》んとの相談《さうだん》最中《さいちう》は全く其奴等《そいつら》三人を土手迄《どてまで》引出し殺《ばら》して仕舞ふ計略《けいりやく》ならんと悟りし故助太刀せんと先へ廻《まは》り此處にて待伏したればこそ此始末《このしまつ》と語《かた》るを聞て重四郎|成程々々《なるほど/\》好氣味《よいきみ》なり然し此|儘《まゝ》斯《かう》しても置れまいと兩人|呟《つぶや》き居る折から此物音に驚きて隱亡《をんばう》彌十|髭《ひげ》蓬々《ぼう/\》と髮《かみ》振亂《ふりみだ》し手には鴈投火箸《がんどうひばし》を以て出で來れば重四郎は見て其所へ來《く》るのは彌十か是は重四郎樣と云ふ時|手招《てまね》ぎして畔倉|聲《こゑ》を密《ひそ》めコレ彌十今手に掛けし此奴等は皆《みな》宿無《やどな》しなれど此死骸《このしがい》が有ては兎角後が面倒《めんだう》なり何と此奴《こいつ》等を燒《や》き引導《いんだう》を渡して呉《くれ》ろと云ふに彌十聞て日來《ひごろ》の懇意《こんい》に任《まか》せ承知はしましたが燒代《やきだい》は何《どう》してと言を重四郎知れたこと夫三兩と投出せば彌十は其|金《かね》請取《うけとり》つゝ大いに喜《よろこ》び然《さ》ればすつぽり燒《やき》ませうと申にぞ兩人は夫なら彌十頼んだぞ彌十|御案事《ごあんじ》なされますなと三人の死骸《しがい》を集《あつ》めて火屋へ入《いれ》火《ひ》を懸《かけ》ければ重四郎は三五郎を同道《どうだう》して立歸り此ほど奪《うば》ひ取し金子の中百兩を三五郎に分配《わけ》て遣殘《やりのこ》りの四百兩を懷中《くわいちう》なし是迄の所に居るは心惡《こゝろわる》し一先上方へ立越《たちこえ》て何處へか身を落付《おちつけ》んと思ひ近處《きんじよ》近傍《きんばう》へは古郷なる筑後《ちくご》久留米《くるめ》へ赴くと云《いひ》なしてぞ立出ける [#8字下げ]第十三回[#「第十三回」は中見出し]  扨《さて》も重四郎は幸手《さつて》を立出で一先江戸表へ來りて處々《しよ/\》を見物《けんぶつ》なさんと十五六日も逗留《とうりう》して上野淺草吉原兩國芝増上寺|其外《そのほか》處々を見歩行《みあるき》或日[#「或日」は底本では「政日」]又本町通りを彼方此方《かなたこなた》と見物して來かゝる處に髮結床《かみゆひどこ》の前にて往來の人が立噺《たちばな》しをなし居たるを何ごころなく聞に一人の男コレ彌兵衞さん然樣ならば今日は御立で御座るかと云ば彌兵衞ハイ此度《このたび》は私しが立番《たちばん》で御座い升|最早《もはや》今夜|子刻《こゝのつ》には出立なれど丑刻頃《やつごろ》には成ませうと言に彼《か》の男《をとこ》夫《それ》は/\御苦勞|若々《もし/\》彌兵衞さん此節は道中で油斷《ゆだん》を成《なさ》るゝな跡月《あとげつ》も遠州屋と山田屋の飛脚《ひきやく》が切《きら》れたと申すこと御如才《ごじよさい》は有まじけれど隨分《ずゐぶん》御用心が肝要《かんえう》で御座ると心付れば彌兵衞ハイ有難《ありがた》う御座い升私し共《ども》などは誠《まこと》に御方便《ごはうべん》と只今迄は何事にも出會《であひ》ませんと申を彼の男|夫《それ》は結構《けつこう》なこと隨分《ずゐぶん》御達者で御歸り成《なさ》れましハイ然樣《さやう》ならばと別《わか》れ行《ゆく》を重四郎は振返《ふりかへ》り見れば胸當《むねあて》をして股引《もゝひき》脚絆《きやはん》腰《こし》には三度|笠《がさ》を附|大莨袋《おほたばこいれ》を提《さ》げたるは如何にも金飛脚と見えけるゆゑ後《あと》より見え隱《かく》れに附け行て見屆《みとゞけ》たるに瀬戸物町十七屋孫兵衞と云ふ飛脚屋《ひきやくや》へ這入《はひり》けるが今日が立日《たちび》にて店先《みせさき》に手代共|居双《ゐなら》び帳面など認めし此方《こなた》には大勢の若い者|荷拵《にごしら》へを成し馬は外に繋《つな》いで有る樣子なり重四郎是を見て此者が金飛脚《かねひきやく》にて今夜|子刻過《こゝのつすぎ》丑刻頃《やつごろ》には立つと云ふ噺《はな》しなれば曉《あけ》寅刻過《なゝつごろ》には鈴ヶ森へ懸るは必定なり毒《どく》を喰《くら》はゞ皿迄《さらまで》と云ば今宵彼を殺害《ころし》して金を奪ひ取り行掛《ゆきがけ》の駄賃《だちん》にして呉《くれ》んと獨り笑壺《ゑつぼ》に入相《いりあひ》の鐘《かね》諸《もろ》ともに江戸を立出《たちい》で品川宿の相摸屋へ上り飮《のめ》や唄《うた》へとざんざめきしが一寸《ちよつ》と床《とこ》に入り子刻《こゝのつ》の鐘《かね》を相※[#「圖」の「回」に代えて「面から一、二画目をとったもの」、354-13]《あひづ》に相摸屋を立ち出で半醉機嫌《ほろゑひきげん》に鮫洲濱《さめずはま》の繩手道《なはてみち》を辿《たど》り/\て鈴ヶ森に來り並木《なみき》の陰《かげ》に身を忍ばせ彼の飛脚の來《くる》を疾《とし》や遲《おそ》しと待居たり然るに曉《あけ》寅刻頃《なゝつごろ》とも思ふ頃|遙《はる》かに聞ゆる驛路《えきろ》の鈴《すゞ》の音《ね》馬士唄《まごうた》の聲《こゑ》高々《たか/″\》と來掛る挑灯《てうちん》を透《すか》し見れば彼の十七屋《となや》の[#「十七屋の」は底本では「十七家の」]の飛脚に相違なし因《よつ》て重四郎は得たりと尻《しり》引《ひつ》からげて待つほどに定飛脚《ぢやうひきやく》と書《かき》たりし小田原挑灯を荷物《にもつ》の小口《こぐち》へ縊付《くゝりつ》け三度|笠《がさ》を冠《かぶ》りて馬に乘《のり》つゝ是々|馬士《まご》どの今夜は何だか淋《さびし》い樣だ何日《いつも》は最《も》う[#「最う」は底本では「最も」]寅刻頃《なゝつごろ》には徐々《そろ/\》人の往來《ゆきゝ》も有のに鮫洲から爰迄《こゝまで》來中《くるうち》に一人も逢ぬ扨々《さて/\》淋《さび》しいことだぜ馬士《まご》アイサ此節は人通りが少無《すくなく》なつて否はや一|向《かう》に不景氣《ふけいき》なことさ品川歸りも通らねえ隨分《ずゐぶん》氣を附て道中を成《なさ》れましと噺《はな》しながらに行所を此所《こなた》の松陰《まつかげ》より忽然《ぬつ》と出たる畔倉重四郎ものをも云ず馬《うま》の上《うへ》なる飛脚の片足《かたあし》をばつさりと切付《きりつけ》たり飛脚はアツと馬より轉《ころ》げ落るを二の刀《かたな》にて苦《く》もなく切殺《きりころ》しけるにぞ馬士《まご》は大きに驚き仰天《ぎやうてん》して人殺し/\と云《いひ》ながら一目散に迯出《にげいだ》すを重四郎|汝《おの》れ遁《のが》しては後日の妨《さまた》げと飛掛《とびかゝ》つて後背《うしろ》より眞《まつ》二ツに切下《きりさげ》れば馬士《まご》は撞《どう》と倒《たふ》るゝ處を止《とゞ》めの一刀を刺貫《さしとほ》し脆《もろ》い奴だと重四郎は彼の荷物《にもつ》を斷落《きりおと》して荷《に》の中《うち》より四五百兩の金子を奪ひ取つゝ其儘《そのまゝ》此所を悠然《いう/\》と立去り頓《やが》て旅支度《たびじたく》をして相摸路より甲州へ到《いた》り是より所々方々と遊歴《いうれき》なし種々《いろ/\》樣々《さま/″\》樂《たの》しみ居たりける扨《さて》も翌日所の者《もの》共此|體《てい》を見出し大いに驚きて飛脚《ひきやく》と馬士《まご》の殺されたる趣《おもぶ》きを早々鈴ヶ森の村役人《むらやくにん》へ屆けければ村役人は其段訴へ出で早速《さつそく》檢使の役人出張ありて改め等|相濟《あひす》み飛脚の死骸《しがい》は十七屋孫兵衞方へ引渡《ひきわた》しと相成けるとぞ其の昔《むか》し延文《えんぶん》康安《かうあん》の頃伊勢の國司《こくし》長野《ながの》の城主|仁木右京大夫義長《につきうきやうだいふよしなが》は己《おの》れが擅横《ほしいまゝ》に太神宮の御神領迄《ごしんりやうまで》を押領《あふりやう》しければ神主等大いに怒りて此段を訴へ其上|尚《なほ》も義長を恨《うら》みて神罰を蒙《かうむ》らせんものをと思ひ居たり然るに義長は我が儘《まゝ》増長《ぞうちやう》し五十鈴川《いすゝがは》を椻止《せきとめ》て魚類を取り又は神路山《かみぢやま》に分入《わけいり》て鷹《たか》を放《はな》し遊興《いうきよう》は日頃に十|倍《ばい》仕たりける是に依て神主《かんぬし》共五百餘人|集會《あつまり》榊《さかき》の枝に四手を切|掛《かけ》て種々と義長の惡逆《あくぎやく》を申立て彼を蹴殺《けころ》し給ふべしと呪咀《しゆそ》しけるに七日目の明方《あけがた》十歳ばかりの童子《わらべ》に神《かみ》乘遷《のりうつ》り給ひ聲《こゑ》荒《あら》らげ我が本覺《ほんがく》眞如《しんによ》の都を出で和光《わくわう》同塵《どうぢん》の跡《あと》を垂しより已來《このかた》本尊《ほんそん》現化《げんげ》の秋の月は照《てら》さずと云所も無く眷屬《けんぞく》結縁《けちえん》の春の花《はな》薫《かをら》ずと云ふ袖も無《な》し方便《はうべん》の門《かど》には罪有る者を罰《ばつ》し難《がた》く抑々《そも/\》義長の品行《おこなひ》を汝等《なんぢら》天に訴へ祈り呪咀《じゆそ》すること道理《もつとも》なれども彼が三世の其以前《そのいぜん》は義長こと法師にて五部の大藏經を書寫《かきうつ》し此國を治めたり其《そ》の善根《ぜんこん》今生《こんじやう》に報《むく》い來て當國を知行することを得る因て暫《しばら》く其罪を宥《ゆる》し置者なりと御|詫宣《たくせん》有けるとかや然《され》ば此畔倉重四郎も則ち是等の道理《だうり》に有んか前世の因縁《いんねん》も有しことなるか併《しか》しながら是も只《たゞ》暫《しばし》の中《うち》斯る大惡不道も天の免《ゆる》しを蒙りて其身《そのみ》安泰《あんたい》なれ共何ぞ其罪の報《むく》はざらんや後々《のち/\》を見て恐るべし/\ [#8字下げ]第十四回[#「第十四回」は中見出し]  扨も畔倉重四郎は十七屋《となつや》の飛脚を殺して大金を奪《うば》ひ取り夫より所々を遊歴なし東海道《とうかいだう》藤澤《ふぢさは》宿の松屋文右衞門と云ふ旅籠屋《はたごや》へ來り二三日|逗留《とうりう》しけるが退屈《たいくつ》の由にて或日藝妓二三人に松屋の若者又は近所の者共《ものども》などを多く引連《ひきつれ》て江の島へ參詣《さんけい》し其歸りに島の茶屋にて酒宴《しゆえん》を始めけるが又|隣座敷《となりざしき》に是も江の島へ參詣《さんけい》と見えて藝妓二三人を引連《ひきつれ》陽氣《やうき》に酒を呑《のみ》居《ゐ》たるに重四郎が同道《どうだう》したる者皆々|心安《こゝろやす》き體《てい》にて彼是聲など懸合ふ故《ゆゑ》樣子《やうす》を聞ば藤澤第一番の旅籠屋《はたごや》にて大津屋の後家《ごけ》お勇《ゆう》と云者なりとのことに重四郎は彼お勇を能々《よく/\》見《みれ》ば歳《とし》は三十歳《みそじ》を二ツ三ツ越《こえ》中脊《ちうぜい》中肉《ちうにく》にして色《いろ》白《しろ》く眼鼻立《めはなだち》揃《そろ》ひし美人ながら髮の毛の少し薄《うす》きは商賣上《しやうばいあが》りの者と見《み》つ然《さ》れ共《ども》本甲《ほんかふ》の櫛笄《くしかうがひ》を差《さし》銀《ぎん》の簪《かんざし》に付たる珊瑚珠等《さんごじゆとう》いづれも金目の物なり衣類は藍微塵《あゐみぢん》の結城《ゆふき》を二枚|重《かさ》ね唐繻子《たうじゆす》の丸帶《まるおび》をしどけなく結《むす》び白縮緬《しろちりめん》の長繻袢《ながじゆばん》を着せし姿《すがた》天晴《あつぱれ》富豪《ふうか》の後家《ごけ》と見えければ重四郎|亦々《また/\》惡心《あくしん》を生じ幸い後家と有からは何卒《どうぞ》手《て》に入《い》れて暫時《しばらく》足休《あしやす》めに致したしと思ひ夫より言葉を掛け頓《やが》て一座と成て酒宴《さかもり》の中《うち》後家に心有り氣《げ》なる面白可笑《おもしろをかし》き盃盞《さかづき》ことに後家のお勇も如才《じよさい》なき人物《しろもの》故《ゆゑ》重四郎が樣子を熟々《つく/″\》見るに年はまだ三十歳を越《こえ》ぬと見え丈《せい》高《たか》く面體《めんてい》柔和《にうわ》にて眉毛《まゆげ》濃《こ》く鼻筋《はなすぢ》通りて齒並《はなら》び揃《そろ》ひ否《いや》みなき天晴の美男にして婦人《ふじん》の好《すく》風俗《ふうぞく》なり衣類は黒七子《くろなゝこ》の小袖に橘《たちばな》の紋所《もんどころ》を付《つけ》同じ羽折《はをり》を着《き》持物等《もちものとう》に至る迄|風雅《ふうが》でも無《なく》意氣《いき》でも[#「意氣でも」は底本では「意氣何でも」]無く何《どう》やら金の有さうな浪人《らうにん》とお勇《ゆう》は大いに重四郎に惚込《ほれこみ》しが翌日は上の宮へ參詣《さんけい》なし額堂《がくだう》にて重四郎はお勇と只《たゞ》兩人|差向《さしむか》ひの折柄《をりから》お勇は煙草《たばこ》を吸付《すひつけ》差出しながらモシ重さん此程《このほど》は不※[#「圖」の「回」に代えて「面から一、二画目をとったもの」、356-14]《ふと》した御縁で御心安く成ましたところ明日は妾《わたく》しも宿《やど》へ戻《もど》りますが御前さんは是から何邊《いづれ》へ御|越《こし》成《なさ》れますと云ば重四郎笑ひながら然《され》ば何所《いづく》の誰や我を待らんとか申せば何《いづ》れへ落|付《つく》かば我ながらも知ぬ浮世定《うきよさだ》めなき浪人の風に任《まか》せて居る身體《からだ》で御座ると云を聞きお勇|否々《いや/\》夫は眞實《ほんたう》とも存じませんが若御|詞《ことば》のやうなら却《かへ》つて御|羨《うらや》ましく存じます女の身にては見たき處が有ても見られもせず然《さり》ながら御|前樣《まへさま》には最早《もはや》三十に近き御|年頃《としごろ》に見上ますが御住居をお定め成れたなら憚《はゞかり》ながら宜敷《よろしく》御座りませうと云に重四郎|然《され》ばで御座る世間《せけん》を渡り歩行《あるく》も倦果《あきはて》たれども差當り未だ有縁《うえん》の地もないと見えて斯《かく》歩行《あるき》ます何卒《どうぞ》五十か七十の敷金《しききん》でも致して何樣《どのやう》な所でも身を固《かた》め度《たう》思ひますから好《よき》入夫《にふふ》の口でも有ましたなら御世話を御頼み申ますと云にぞお勇は否《いや》最《もう》お前《まへ》さんの樣な御人柄と云|殊《こと》に金の五六十兩御持參と有ば世間に欲《ほし》がる所は降程《ふるほど》御座ります併《しか》し定めて器量《きりやう》の御望み小野《をの》の小町《こまち》か衣通姫《そとほりひめ》の[#「衣通姫の」は底本では「通衣姫の」]樣な手|入《いら》ずの娘をお持《もち》成《なさ》らうと云|思召《おぼしめ》し成んと云ければ重四郎は否々《いや/\》その樣にお嬲《なぶ》り成るゝな我等如き浪人《らうにん》者誰が聟《むこ》に取ませう何樣《どのやう》な所でも先で入《いれ》てさへ呉《くれ》れば夫に厭《いとひ》は御座らぬと云にお勇|然樣《さやう》成《なら》ば女は何《どう》でも宜《よい》と仰しやいますか夫成ば只今一|軒《けん》御座ります其家は間口《まぐち》十三間|奧行《おくゆき》二十五間田地は十石三|斗《ど》の御年貢《ごねんぐ》を納《をさめ》てその跡《あと》が八十四五|俵《へう》程も取入ます大凡《おほよそ》家邸《いへやしき》五百兩諸道具が三百兩餘り抱《かゝ》への遊女が十四五人是を捨賣《すてうり》にしても六七百兩|位《ぐらゐ》都合《つがふ》千五百兩餘の身代で御座りますと聞《きい》て重四郎夫は大層《たいそう》なこと勿々《なか/\》然樣《さやう》な處では先が不承知でと半分云はずお勇は否々《いや/\》縁《えん》と云者は然樣《さう》致した者では御座りません然し御内儀《おかみ》さんに成《なら》んと云ふ人が歳《とし》を取ても卅二歳|少々《ちと》婆々《ばゝ》過《すぎ》ますけれども其代り姑《しうと》も厄介《やくかい》も子供も無《なく》内《うち》は其女獨りにて若|御内儀《おかみ》さんに成ならば其こそ/\貞女《ていぢよ》で御亭主《ごていしゆ》を大切に致して至極《しごく》宜敷《よろしう》御ざいますと申ければ重四郎|夫《それ》は餘《あま》りと申せば能過《よすぎ》ます私し風情《ふぜい》と云にお勇|否々《いへ/\》然樣《さやう》では御座りません御承知なれば御世話《おせわ》致しませう先でも金子の望みは無《なけ》れ共|旅《たび》の御方は尻《しり》が輕《かる》いに依《よつ》て其故《そこ》で先方《むかう》は氣遣《きづかひ》に思ひますから金子を掛て振舞《ふるまひ》でも致すやうに爲《し》たく夫に付金の五六十兩も持參で御|出成《いでなさ》るなら速《すみや》かに御相談が出來ますと云ひながら目顏《めがほ》で夫れと知らする體《てい》を故意《わざ》と重四郎は氣の付ぬ體《ふり》にて夫は願つても無い僥倖《さいはひ》然《さう》いふ口なら金の百兩|位《ぐらゐ》は何《どう》ともして才覺《さいかく》致します何《なん》と御世話を御頼み申すと云にぞお勇は彌々《いよ/\》機《づ》にのり然樣《さう》ならば先方《むかう》へ咄《はな》してウンと云時は御|變替《へんがへ》は成《なり》ません其所《そこ》を御承知で御座りますかと念《ねん》を押《おせ》ば重四郎何が扨武士に二|言《ごん》は御座りませんと云ふにぞお勇は然《それ》を聞《きゝ》てオヽ嬉《うれ》しや申し重四郎樣と云ながら直《つ》と身を寄《よせ》其縁談《そのえんだん》は彼《あ》の大津屋段右衞門の後家《ごけ》にて縁女《えんぢよ》はお恥《はづか》しながらと口籠《くちごも》り顏を赤らめしが思ひ切て妾《わたくし》で御座ります然樣《さやう》御|聞成《きゝなさ》れたら嘸《さぞ》御|否《いや》で御座りませうと云つゝ邪視《ながしめ》に見やりたる其|艷色《うつくし》さにナニ夫が眞實《ほんたう》なら何《どう》して/\此重四郎が身に取ては實に本望《ほんまう》なりと云ふ時《とき》人來りければ二人は素知《そし》らぬ體《てい》にて左右《さいう》へ分《わか》れ其|後《のち》藤澤へ歸りてより猶《なほ》お勇と相談《さうだん》の上《うへ》小松屋文右衞門は幸いに縁家《えんか》なれば親分に頼んでも定めて否《いや》とは云ふまじと爰に於て内談《ないだん》極《きま》りければ重四郎は小松屋文右衞門を親分にして後家《ごけ》お勇の方へ入夫《にふふ》に這入《はひり》名を大津屋段右衞門と改めて先《まづ》暫《しばら》くは落付けり [#8字下げ]第十五回[#「第十五回」は中見出し]  斯《かく》て又|幸手宿《さつてじゆく》なる杉田三五郎は重四郎と共に金兵衞の子分《こぶん》八田掃部練馬藤兵衞三加尻茂助の三人を利根川邊《とねがはべり》にて殺し重四郎が幸手宿を立退《たちのき》金兵衞より奪ひ取りし金の中《うち》百兩を分前《わけまへ》を貰《もら》ひしが惡金《あくきん》身に付ずとの諺《ことわざ》の如く其金は皆《みな》博奕《ばくち》に取られて仕舞《しまひ》今は寢酒《ねざけ》だにも呑事《のむこと》ならず此頃は猶《なほ》打續《うちつゞ》く不仕合《ふしあは》せにて[#「不仕合《ふしあは》せにて」は底本では「不仕合《ふしあは》にせて」]一錢の資本《もとで》にも差支《さしつか》へしかば胸に手を置て考へしが忽ちに一|計《けい》を思ひ付|獨《ひと》り心の中《うち》に喜悦《よろこび》つゝ彼の畔倉重四郎は今藤澤宿にて大津屋《おほつや》と云ふ旅籠屋《はたごや》へ入夫《にふふ》に成《なり》改名して段右衞門と申す由を聞《きゝ》し事あれば先《まづ》彼の方へ行《ゆき》て金を無心《むしん》する時は舊惡《きうあく》を知たる我ゆゑ退引《のつぴき》成《なら》ず四五十兩位の金を貸《かす》に違《ちが》ひ無しと目的《みこみ》をつけ夫より藤澤宿を指《さし》て立ち出でたり然るに重四郎の段右衞門は暫《しばら》くの足休《あしやす》めと思ひの外《ほか》見世《みせ》の繁昌《はんじやう》大分《おほかた》ならず何不足も無き身分と成しかば一|生涯《しやうがい》此家《ここ》にて我は終らんと其後は惡事も成《なさ》ず暮しけるが或日|表《おもて》の方より來りて旦那は御家にかと問者《とふもの》あるを聞て段右衞門は是を見《みる》に幸手宿《さつてじゆく》の三五郎なりしかば是は珍《めづ》らしや先《まづ》此方《こなた》へとて奧の座敷へ通し女房お勇にも我等が浪人《らうにん》致し居し頃|種々《いろ/\》世話に成し人なりと僞《いつは》り酒《さけ》肴等《さかなとう》を前揃《とりそろ》へて[#「取揃へて」は底本では「前揃へて」]三五郎を厚《あつ》く饗應《もてなし》ける然るに三五郎は家の樣子を能々《よく/\》見るに殊の外《ほか》大掛《おほがか》りなりしかば心中大に悦び段右衞門に向かひて我等此節は不仕合《ふしあは》せにて諸事に運惡《うんわる》く資本《もとで》まで負《まけ》失《うしな》ひたり因て此藤澤宿迄|故意《わざ/\》無心《むしん》に來しなり又我等が仕合《しあはせ》好《よく》ば返濟《へんさい》すべき間《あひだ》暫時《しばらく》の中《うち》金子五十兩|貸給《かしたま》はれと申ければ段右衞門も大事を知たる三五郎のことゆゑ否《いや》とも云《いは》れず早速《さつそく》五十兩の金子を取出して返濟《へんさい》には及ばずと渡し先々《まづ/\》寛《ゆる》りと滯留《たうりう》致されよ我等も此家の入夫に這入《はひり》しより以來《このかた》堅氣《かたぎ》と成《なり》しが其前幸手を立退て江戸に滯留中《たうりうちう》鈴が森にて十七屋《となつや》の金飛脚を殺し金子五百兩|奪《うば》ひ取しが惡事の仕納《しをさ》めなりと咄しければ三五郎聞て眉《まゆ》をひそめ夫は博奕打《ばくちうち》や盜賊を殺して取《とる》金《かね》は同じ罪でも罪は輕《かる》し唯の者を殺したるは眞《まこと》の大罪《だいざい》なり因て始終は其身|刀《かたな》の刄《は》くずに懸らん貴殿《おまへ》も堅氣《かたぎ》の商人《あきうど》に成《なら》れし上は此後必ず惡事を爲《し》給ふことなかれと云ながら金を受取歸りしが是を無心の始めとして其後度々來りては無心を云掛《いひかけ》る故段右衞門も今は呆《あき》れ果《はて》てぞ居たりける [#8字下げ]第十六回[#「第十六回」は中見出し]  扨も幸手宿の三五郎は藤澤宿の大津屋方へ度々《たび/\》金の無心に來りし故に此節《このせつ》は段右衞門も厭倦果《あぐみはて》て居たりしが又或時三五郎來り我等《われら》此節《このせつ》不仕合《ふしあはせ》打續《うちつゞ》き殊《こと》の外《ほか》困《こま》るにより金子三十兩|貸《かし》呉《くれ》よと頼みけるに段右衞門も當惑《たうわく》の體にて我此家へ入夫に參りて漸《やうや》く一年ばかりなれば勿々《なか/\》然樣《さやう》に金子を自由には取扱《とりあつか》ひ難く殊に只今《たゞいま》手元《てもと》には一兩の金も是無しと云と雖も三五郎は遙々《はる/″\》是迄《これまで》來りしゆゑ何卒|貸《か》し呉《くれ》よと申に段右衞門|我等《われら》今《いま》は別《べつ》に金儲《かねまう》けも無れば是非もなしと斷《ことわ》るを三五郎は否々《いや/\》何にしても此度は是非共《ぜひとも》貸《かし》くれよ翌日《あす》にも仕合《しあはせ》が好《よけ》れば返すべしとて何分承知せざれば段右衞門も心中に思ふやう彼奴《かやつ》我《わ》が身に惡事のあるを付込《つけこみ》度々無心に來れども貸《かさ》ぬ時は事《こと》面倒《めんだう》に成べしと思案《しあん》を爲《な》して三五郎に向ひ然《さ》までに云《いは》るゝなれば我《われ》今より品川迄用事あつて行《ゆく》間《あひだ》先方《せんぱう》にて才覺《さいかく》致し遣すべしと頓《やが》て身拵《みごしら》へをなし覺《おぼ》えの一刀差込で三五郎|諸共《もろとも》に我が家を出けるが川崎手前にて日の暮《くれ》るやうに量《はか》り道々《みち/\》戯《たはぶ》れ言《ごと》など言て手間《てま》どり名にし逢《あふ》鈴ヶ森に差掛りし頃は稍《やゝ》戌《いつゝ》過《す》ぎにもなりければ重四郎は前後を見返りしに人影もなく丁度《ちやうど》往來も途絶《とだ》えしかばその邊にて殺さんと思へども此奴《きやつ》も勿々《なか/\》の曲者なれば容易《たやすく》は亡《うしな》ひ難し然《さ》れども幸ひ今宵は闇《やみ》にて暗《くら》さはくらし何《いか》にも遣過《やりすご》してと思ひ故意《わざ》と腰を屈《かゞ》めて歩行《あるき》ながら三五郎に向ひ我等近頃|ⰾ癪《せんしやく》にて折々|難澁《なんじふ》致すなりと申ければ三五郎聞て夫は彼の大津屋へ入夫《にふふ》に參《まゐ》つてより金が溜《たま》りし故に腰《こし》が冷《ひえ》るの成《な》んなんど[#ルビの「な」はママ]戯談《たはぶれ》つゝ先へ行を十分に遣過《やりすご》し後《うしろ》の方より物をも云ず切掛しに三五郎も豪氣《さるもの》なれば飛退《とびのき》さまに拔合せ汝れ重四郎め汝《なん》ぢや惡事を知たる我なれば欺《だま》して殺さんとは卑怯《ひけふ》未練《みれん》の仕方なり其儀ならば是より直に公儀《こうぎ》に訴へ穀屋平兵衞を殺して金子百兩を奪取《うばひと》り夫而已《それのみ》ならず慈恩寺村《じおんじむら》にて鎌倉屋金兵衞をも殺害《せつがい》して金を取たること迄《まで》逐一《ちくいち》訴へ呉ん邪魔《じやま》せずと其所《そこ》を開《ひら》いて通しをれと罵《のゝし》るを段右衞門は怒《いか》り汝《おの》れ生《いか》して置ば我が身の仇なり覺悟をせよと切付るを三五郎は心得たりと受流《うけなが》し暫時が程は戰ひしが如何で重四郎に敵するを得んや追々《おひ/\》太刀筋《たちすぢ》亂《みだ》れ四度路《しどろ》になる所を終に眞向《まつかう》より梨子割《なしわり》に割付られ其儘動と倒《たふ》れ二言と云ず死たりけり此時|近傍《かたはら》の非人小屋に乞食《こつじき》共|莚《むしろ》を被《かぶ》[#ルビの「かぶ」は底本では「かげ」]り寢て居たるが兩人の爭ふ聲を聞て恐れをなし莚を首に纒《まと》ひ隙《すき》より密《そつ》と戰ひを覗《のぞ》き居たりしが終に一人の切殺さるゝを見て其まゝ莚《むしろ》を被《かぶ》り震《ふる》ひ/\居たりける段右衞門は此體を見しも一|向《かう》にことゝも爲《せ》ず悠然《いう/\》として我が家へ歸りけるが扨《さて》此所の非人共|斯《かく》と村名主方へ達しければ村役人立合にて檢使《けんし》を願ひ出《いで》改め見るに何者《なにもの》の殺したると云ふ事一|向《かう》に知ず非人共を呼出《よびいだ》して委細《ゐさい》を尋ねし所三五郎が戰ひながらに申たる事又段右衞門が云たる事迄|逐一《ちくいち》申立しかば其趣きを一打書《いちよがき》にして大岡殿の奉行所《ぶぎやうしよ》へ差出しければ大岡殿は殺されたる者の懷中《くわいちう》の紙入を取寄て其中《そのうち》を改められけるに死人《しにん》の宿所は幸手宿と云ふ事|知《しれ》ければ早速《さつそく》其所へ人を遣はし尋ねられける所三五郎と知《しれ》しにより三五郎の女房を呼出《よびいだ》しに相成しかば村役人ども并に三五郎妻お文《ふみ》諸《もろ》ともに江戸表大岡殿御|役宅《やくたく》へ罷《まか》り出し旨《むね》屆《とゞ》けしにより頓《やが》て越前守殿の白洲へ呼入《よびいれ》られ三五郎|妻《つま》お文を見られて其方|夫《をつと》三五郎は何所《いづれ》へ參《まゐ》ると申して何日頃宅を出しやと尋問《たづね》らるゝにお文は恐る/\首《かうべ》を上げ夫三五郎儀一昨日藤澤の大津屋段右衞門|方《かた》へ參り候とて宅を立出《たちいで》候と申立るに大岡殿は彼の非人が申立たる口書を讀聞《よみきか》せられければ女房お文《ふみ》は大いに驚き然らば夫三五郎を殺せしは大津屋段右衞門に相違御座なく候と申立る故《ゆゑ》大岡殿は何を證據《しようこ》に大津屋段右衞門と申立るや不審《ふしん》至極《しごく》なりとありければお文は恐れながら申|上《あげ》ます右《みぎ》藤澤宿大津屋段右衞門と申者は前名《まへな》畔倉重四郎と名乘|筑前《ちくぜん》の浪人にて私しの村方へ先年中《せんねんちう》より參りて幸手宿に住居いたし夫《をつと》三五郎とは博奕《かけごと》の仲間《なかま》にて日來《ひごろ》心安く妾《わたく》し方へも日々《にち/\》立入《たちいり》居《を》り候所心立宜しからぬ者にて先頃同宿の穀屋平兵衞と申す者を殺害致して金子《きんす》百兩を[#「百両」は底本では「五百兩を」]奪取《うばひと》り其後又慈恩寺村にて博奕《かけごと》御座候節|鴻《こう》の巣《す》宿《じゆく》の鎌倉屋金兵衞と申す者を殺して金子五百兩を奪《うば》ひ取り候を妾《わたく》しの夫《をつと》三五郎|能《よく》存《ぞん》じ居《をり》候事故其|譯《わけ》を以て大津屋方へ無心《むしん》に參り候所より段右衞門も又|夫《をつと》三五郎は渠《かれ》が舊惡《きうあく》を存じ候故後日に露顯《あらはれ》ん事を恐れ殺し候儀と思はれ候|然《され》ば甚だ憎《につく》き仕方《しかた》なりと重四郎の段右衞門が惡事を委細《くはしく》申立ければ大岡殿|篤《とく》と聞請《きゝうけ》られ早速に組下《くみした》の同心に申付られ藤澤宿大津屋段右衞門方へ罷《まか》り越《こし》右《みぎ》段右衞門を召捕《めしとり》來るべしと遣はされたり [#8字下げ]第十七回[#「第十七回」は中見出し]  扨又重四郎の大津屋段右衞門は鈴《すゞ》ヶ|森《もり》にて三五郎を殺害《せつがい》して最早《もはや》禍《わざは》ひの根を除《のぞ》きしと大きに悦び藤澤宿なる我が家へ歸り何喰《なにくは》ぬ顏にて居たりける所に役人《やくにん》中は重四郎を召捕《めしとら》んと藤澤宿の村役人《むらやくにん》を案内させ常宿内の捕吏《をかびき》三次并びに子分十四五人を引連て大津屋方の表裏の口より上意々々と呼はりて込入《こみいる》や否《いな》や双方《さうはう》より組付たり段右衞門は惡事《あくじ》露顯《ろけん》と思ふものから心得たりと筋斗《もんどり》打せて投つくれども捕方《とりかた》の者は大勢にて取圍み殊に不意を踏込《ふみこみ》し故に終には折重《をりかさ》なりて段右衞門を高手《たかて》小手《こて》に縛《いまし》め家内の者は宿役人に預けられ段右衞門は江戸表大岡殿の白洲《しらす》へぞ引れける斯くて大岡殿は重四郎の段右衞門を引出《ひきいだ》させ大津屋段右衞門事|前名《ぜんみやう》畔倉重四郎と呼《よば》れ其方は當月《たうげつ》二日の夜《よ》鈴《すゞ》ヶ|森《もり》にて幸手宿の三五郎と申す者を殺害《せつがい》せし趣き包《つゝ》まず白状致せと申されければ段右衞門|面《おもて》を正《たゞ》し私し儀三五郎と申す者を殺害|致《いた》したる覺《おぼ》え一|向《かう》に御座なく候と申立ければ大岡殿|否々《いな/\》覺えの無とは[#「無とは」は底本では「無ことは」]云せぬぞ公儀《おかみ》に於て證據《しようこ》のなきことを糺《たゞ》さるべきやと申さるゝに段右衞門|假令《たとへ》如何樣《いかやう》の證據御座候共其儀は一向に覺え無之《これなく》候と云張《いひはる》にぞ然らば汝ぢ其三五郎と申者|知人《しるびと》にては無やと有に段右衞門|其者《そのもの》は私し儀以前幸手宿に住居の砌《みぎ》り知己人《しりびと》には御座れ共別に恨《うら》みもなき事ゆゑ殺すべき謂《いは》れ更に御座なく候と申立るにより大岡殿|重《かさ》ねて其三五郎|妻《つま》の文《ふみ》と申者を呼出して相尋《あひたづ》ねし所其方儀|先達《せんだつ》て同宿なる穀屋平兵衞と申者を權現堂《ごんげんだう》村小篠堤に於て殺害に及び金子百兩を奪取《うばひと》り其後にまた慈恩寺村にて博奕《ばくち》之有處に鴻《こう》の巣《す》宿《じゆく》の鎌倉屋金兵衞と申者をば鷲《わし》の宮にて殺害に及び金子五百兩を奪《うば》ひ取し趣《おもむ》きなり尋常《じんじやう》に白状致すべしと有ければ段右衞門は少しも恐るゝ景色《けしき》なく是は重々《かさね/″\》思ひもよらぬことを御|糺問《たづね》に成るもの哉《かな》私し儀穀屋平兵衞を殺せしとの仰せなれども右平兵衞儀は豫々《かね/″\》世話にも相《あひ》なり居《をり》しことゆゑ私し儀|恩《おん》をこそ報い申べきに何の遺恨《いこん》ありて切害《せつがい》致さんや[#「致さんや」は底本では「致きんや」]又鎌倉屋金兵衞とやらを切害致したる儀是以て一|向《かう》覺え御座なく候何卒私し儀|罪《つみ》無きの次第《しだい》御|賢察《けんさつ》願《ねが》ひ奉つり候と申立るに越前守殿|否《いや》其儀は猶《なほ》追々《おひ/\》吟味に及ぶ汝ぢ鈴ヶ森にて三五郎を殺せし砌《みぎ》り非人共見屆たるを彼是《かれこれ》と陳《ちん》ずる條不屆きなり吟味中入牢申付ると終《つひ》に其日は夫成《それなり》牢内《らうない》へ下られ其後越前守殿三五郎の妻を呼出《よびいだ》され其方|先達《せんだつ》て申すには段右衞門儀幸手宿の[#「幸手宿の」は底本では「幸宿手の」]穀屋平兵衞|鴻《こう》の巣《す》宿《じゆく》の鎌倉屋金兵衞を殺害《せつがい》せし趣《おもむ》き申立しに依て段右衞門を召捕《めしとり》相糺《あひたゞ》す所一向に存ぜざる由申せり確乎《しかと》段右衞門が仕業《しわざ》に相違無《さうゐなき》やと猶《なほ》又《また》糺問《たゞし》有ければ其儀少も相違御座なく希《ねがは》くは妾《わたく》し事段右衞門に對面|仰《おほ》せ付けられ下《くだ》さる樣にと願ひければ大岡殿其趣きなれば段右衞門儀|其方《そのはう》と近日|對決《たいけつ》申付けん先《まづ》今日《けふ》は引取べしと申渡されけり [#8字下げ]第十八回[#「第十八回」は中見出し]  去程《さるほど》に大岡殿|例《れい》の如く出座《しゆつざ》有て段右衞門を見られ其方儀《そのはうぎ》今日三五郎|妻《つま》文《ふみ》と對決申付るに依り有|體《てい》に申立よ又三五郎妻文儀も[#「三五郎妻文儀も」は底本では「三五妻文儀も」]同樣《どうやう》相心得|先達《せんだつ》て申立し通り幸手宿穀屋平兵衞鴻の巣宿鎌倉屋金兵衞及び飛脚《ひきやく》彌兵衞を殺せしは段右衞門|元《もと》の名は重四郎が仕業《しわざ》に相違無や愈々《いよ/\》相違なきに於ては其段《そのだん》を段右衞門に申|聞《きけ》よと有ければお文は發《はつ》と平伏《へいふく》なし頓《やが》て段右衞門に向ひ貴殿《おまへ》は夫《をつと》三五郎とは兄弟《きやうだい》同樣《どうやう》にして何事に依《よら》ず善惡共に相談相手なれば其方《そなた》の惡事も隱《かく》して遣《やり》何《なに》かにつけ夫は心配して居る程のことなるに如何《いか》なる遺恨《ゐこん》が有て無情《なさけな》くも夫を殺せしや餘《あま》りと言へば恩知らず憎《につく》き仕方《しかた》なりサア尋常《じんじやう》に白状《はくじやう》されよと云ひければ段右衞門|輾々《から/\》と打笑《うちわら》ひ汝《なん》ぢ女の分際《ぶんざい》として何を知《しる》べきや三五郎を殺したなどとは無法《むはふ》な云掛《いひかけ》然樣の覺えは更になし實に汝ぢは見下果《みさげはて》たる奴なり公儀《おかみ》の前をも憚《はゞか》らず有事|無事《ないこと》を饒舌《しやべ》り立|己《おの》がことを種々と申上げたな全體《ぜんたい》汝《おの》れは何と心得居るや汝等夫婦は貧窮《ひんきう》に迫《せま》りて困苦《こんく》するを愍然《ふびん》に思ひ是迄此段右衞門が樣々《さま/″\》と見繼《みつい》で遣《やつ》た其恩義を忘れし爰な恩知ずの大膽者《だいたんもの》とは汝《おの》れがことなり然るを己《おれ》が人殺しなどとは能も/\云をつたな是迄恩を掛しが却つて仇と成たかと云をお文は打消《うちけし》オヤマア夫は何程《なんぼ》口が在と云ても左樣《さう》自由《ちやうはう》なことをいはれたものかソレ貴殿《おまへ》が幸手の町へ來たときは尾羽《をは》打枯《うちから》した素浪人《すらうにん》喰《くふ》や食《くは》ずの身を可愛相《かあいさう》だと云て穀平では始終《しじう》世話を成れ親《おや》同前《どうぜん》に大恩を請《うけ》た其平兵衞さんさへ殺す程の大惡人兄弟|分《ぶん》位《ぐらゐ》の妾《わた》しの夫を殺し兼《かね》る者かと云ば段右衞門何穀平を殺したと馬鹿《ばか》を云へ彼の穀平を殺せし者は杉戸屋《すぎとや》富右衞門とて既に御仕置に成たり然《しか》るに汝《おの》れ今さら何を吐《ぬか》す恍《とぼ》けをるか此女《このあま》めと叱《しか》り付るをお文コレ段右衞門マア強情《がうじやう》も宜加減《いゝかげん》にお仕《し》な夫《をつと》三五郎が庚申堂《かうしんだう》の畑際で拾《ひろ》つて來た烟草入《たばこいれ》其中に穀平から杉戸屋の富右衞門さんの所へ遣《やつ》た手紙が這入《はひつ》て居から杉戸屋の烟草入だと言《いふ》事が知れ然も其時|妾《わたし》が直《すぐ》に持て行うとする所へ貴殿《おまへ》が來て其烟草入を金二分に賣て呉《くれ》ろと小聲《こごゑ》で相談し貴殿が仕組《しくん》だ所業だはね最早《もう》夫《をつと》を殺されたからは隱《かく》さず云が其|仕事《しごと》は權現堂の土手《どて》で穀屋平兵衞を殺し金迄取て其翌日|妾《わた》しの方へ來てお前は狼狽《うろたへ》廻《まは》り幸手宿を立退《たちのか》うと云ふを夫三五郎が止めて烟草入を證據《しようこ》に富右衞門に負《かぶ》せる上は立退《たちのく》に及ばぬ急に立去《たちさら》ば却つて疑惑《うたがひ》が懸《かゝ》ると云れてお前は氣が付|身躰《みこし》を[#「身躰《みこし》を」は底本では「身體《みごしらへ》を」]居《すゑ》たでは無か其時に三十兩と云ふ金を配分《はいぶん》して侠客《をとこ》づくで呑込《のみこん》で居て遣《やつ》たのに金を何で貴殿《おまへ》が貢《みつい》だなどとは不埓《ふとい》云樣《いひやう》だと泣聲《なきごゑ》を出して云ひ募《つの》るを段右衞門聲高に噪《やかま》しい女め如何樣《どんな》にべら/\喋舌《しやべる》とも然樣《そん》なことは夢にも覺えは無《ねえ》汝《おの》れはまア恐《おそろ》しい阿魔《あま》だ女に似合《にあは》ぬ誣言事《こしらひごと》扨は三五郎の敵《かたき》と思ひ違へての惡口《あくこう》成《なら》ん七人の子を成《なす》とも女に心を寛《ゆる》すなとは此ことなりと空嘯《そらうそぶ》いて居たりけるお文は切齒《はがみ》をなしヱヽ忌々《いま/\》しい段右衞門|未々《まだ/\》其後も慈恩寺村にて能《いゝ》張半《ちやうはん》が出來たと云つて夫《をつと》三五郎を誘引《さそひ》に來たれども夫は用向《ようむき》もあれば行《ゆか》れぬと斷《ことわ》りしに其時|貴殿《おまへ》は扇子《あふぎ》を落して來たから貸《かし》て呉《くれ》ろと云ふ故|鐵《てつ》の扇《あふぎ》を貸《かし》て遣《や》つた其日鴻の巣の金兵衞が金五百兩|勝《かち》しを見て汝《おの》れは先へ廻り金兵衞が歸りを待伏《まちぶせ》して切害《せつがい》し死骸の傍《そば》へ貸《かし》て遣《やつ》た扇子を落して置《おき》其|鐵扇《てつせん》に杉田三五郎と名前が彫刻付《ほりつけ》て有しゆゑ夫に嫌疑《うたがひ》の懸《かゝ》るを三五郎も承知して暫時《しばらく》の中《うち》金兵衞を殺したに成《なつ》て居たが是は鐵扇《てつせん》の代《だい》だと百兩の金を汝《おの》れが配分《はいぶん》仕《し》たのを今さら忘れもしまいと一々其|節《せつ》の手續《てつゞき》を云立るに段右衞門ヱヽ夏蠅《うるさい》女め種々《いろ/\》なことを拵《こしら》へて己《おれ》を無實《むじつ》の罪に落《おと》さんと仕居《しを》る然し是は汝ればかりでは有まい誰《たれ》か腰押《こしおし》の者が有らう扨々|恐敷《おそろしき》阿魔《あま》めと云せも果ずお文は彌々《いよ/\》やつきとなり未々《まだ/\》其上に藤澤の大津屋へ入夫に行《ゆく》前《まへ》のこと鈴ヶ森にて十七屋《となつや》の三度飛脚を殺して金を盜み取しことを三五郎へ咄《はな》した時に三五郎が異見をして博奕打や盜人の金を取《とり》又は殺したり共同じ罪でも罪科《つみ》は輕い素人《たゞのひと》を殺すことは古今の強惡《がうあく》なり始終は白刄《しらは》の錆《さび》と成べし必定々々《かならず/\》此後は屹度《きつと》止られよと云たることも三五郎から聞たるぞ今では汝れも大造《たいそう》な身代《くらし》に成たに付昔しの縁《えん》で三五郎も一年越の不仕合《ふしあはせ》故度々無心には行しが都合《つがふ》惣計《しめて》金八十三兩|貸《かし》たに相違は無しサア/\此方《こつち》からして盜人《ぬすびと》の上前《うはまへ》を取たと迄|逐《ちく》一|白状仕《はくじやうし》たならば汝《おの》れも早く申上て仕舞《しまう》がイヽアノ此《こゝ》な大盜人《おほぬすびと》めと砂利《じやり》を叩《たゝ》いて舊惡《きうあく》を算《かぞ》へ立《たつ》れど段右衞門は落付《おちつき》はらい否々《いや/\》博奕《ばくち》は打《うち》ても人を殺し金を盜《ぬす》んだ覺えは無《ない》ぞと云をお文《ふみ》是サ何ぼ妾《わたし》が女でも然樣《さう》お前等《まへたち》に云ひ込《こめ》られては是まで人に姉公々々《あねご/\》と立られた面に濟《すま》ない人を殺し金を取たに相違|無《ない》から其通り申上よと云ふのだ男らしくもないと猛《たけ》り立我を忘れて云ひ募《つの》りけるを段右衞門は猶《なほ》冷笑《せゝわら》ひイヤ/\此|阿魔《あま》め幾何《いくら》八|面《めん》大王鬼《だいわうき》に成ても此身に覺えの無事は然樣《さう》だなどゝは[#「などゝは」は底本では「などどは」]云れぬ者よフヽンと鼻《はな》であしらうを聞いてお文は益々《ます/\》怒《いか》りコレサ/\段右衞門|夫《それ》なら愈々《いよ/\》爾《なん》ぢは穀平を殺さぬと云張《いひはる》かハテ知たことよ身に覺えのなきことは何處迄《どこまで》も此の段右衞門は覺えなしサと云《いふ》にお文は夫なら是程|慥《たしか》な證據《しようこ》が有ても知《しら》ぬと云か段右衞門アヽ騷々《さう/″\》しい女|如《ごと》きが口で云ふ事は證據《しようこ》に成者か爾《おの》れは取|逆上《のぼせ》亂心《らんしん》して居るな但《たゞし》は熱《ねつ》の上言《うはごと》か未練《みれん》な僞《いつは》りを言掛《いひかけ》居《を》るぞと聞よりお文はワツと泣出し掴《つか》み掛らん有樣なれば大岡殿|大音聲《だいおんじやう》に默止《だまれ》爾等《なんぢら》は此所を何處と心得る然《しか》も天下の決斷處《けつだんしよ》なるぞコレ/\段右衞門其方は文を女と輕侮《あなどり》申し伏んとすれども假令《たとへ》婦人《をんな》なりとも逐《ちく》一申立己れが罪迄も明白に白状《はくじやう》するを爾《なん》ぢは只今知ぬ/\と而已《のみ》強情に言張んと爲《する》は不屆至極なり如何程|爾《なん》ぢは陳《ちん》ずるとも大方知たる罪なるぞ眞直《まつすぐ》に白状致せと申されけるを段右衞門是は聞えぬ仰せなり御|奉行樣《ぶぎやうさま》には女の方を贔屓《ひいき》成《なさ》るゝかと言しかば越前守殿大いに怒《いか》られナニ婦人《ふじん》を贔屓するとは不屆の一言|天地《てんち》自然《しぜん》の淨玻璃《じやうはり》の鏡《かゞみ》を立《たて》邪正《じやしやう》を糺《たゞ》し業《ごふ》の秤《はかり》を以て分厘《ふんりん》も違《たがは》ず善惡を裁斷する天下の役人を暗《くら》まさんとなす強情者《がうじやうもの》古今《ここん》稀《まれ》なる此《こゝ》な大惡人め穀屋平兵衞を殺せしに相違《さうゐ》有まじサア申立よと問詰《とひつめ》られしかども段右衞門|然《さ》あらぬ體《てい》にて平兵衞を殺し金《かね》を取し盜賊《ぬすびと》は先達《さきだつ》て穀屋方より願ひに依て杉戸屋富右衞門が既《すで》に御仕置《おしおき》に成しと承知《うけたまは》る然らば又候|外《ほか》に平兵衞を殺した者出る時は御奉行を始め御役人の落度《おちど》成《なら》んか而《して》覺えも無き拙者を強《しひ》られ無實《むじつ》の罪に落《おち》る時は富右衞門は何故に罪の正《たゞし》からざるを御|仕置《しおき》に成れしやと空嘯《そらうそぶ》いて申けるこそ大膽不敵《だいたんふてき》の曲者なり時に大岡殿|呵々《から/\》と笑はれ爾《なん》ぢ舌《した》長《なが》くも申者|哉《かな》然らば一應申附すべし穀平を殺したるは富右衞門にて裁斷《さいだん》濟《すみ》たりと雖も富右衞門は無罪《むざい》なり爾《なん》ぢは大罪人なり若|今《いま》富右衞門が存命《ぞんめい》ならば爾ぢは科人《とがにん》と成やと有しかば段右衞門|冷笑《せゝらわら》ひ一旦御仕置に成し富右衞門が只今此處へ出候はゞ其時は急度《きつと》白状《はくじやう》致すべしと言ければ大岡殿|然《さら》ばとて與力に申付られ豫て養《やしな》ひ置《おき》し富右衞門を只今是へ呼出すべしと有しに與力《よりき》は畏《かしこ》まり候と其儘《そのまゝ》立て行ければ此場に居合《ゐあは》せし者共は互ひに顏を見合《みあはせ》死《しゝ》ける富右衞門が再度《ふたたび》爰へ出べき樣もなし扨々《さて/\》御奉行樣は奇妙《きめう》なことを仰せられると皆々不思議に思ひて居たりける然る所へ與力《よりき》同心《どうしん》付添《つきそひ》杉戸屋富右衞門を白洲《しらす》へ召連《めしつれ》出《いで》しかは大岡殿大音聲に如何に段右衞門|承《うけたま》はれ先年富右衞門|所持《しよぢ》の煙草入《たばこいれ》を以て穀屋平兵衞を殺し其場に落し置《おき》しを種《たね》として富右衞門に罪を塗付《ぬりつけ》しに相違あるまじ其節《そのせつ》富右衞門を段々吟味せしに全く平兵衞を殺さざる由其上に彼の富右衞門其日は宿所《しゆくしよ》に居ず全く人殺《ひとごろ》しは別に有《ある》ことゝ思ひし故《ゆゑ》其時は外の科人《とがにん》の首を以て曝《さら》し既に今年迄三ヶ年の間《あひだ》富右衞門を隱し置たり爾《なん》ぢ是を知ずやと仰せ有ければ流石《さすが》不敵《ふてき》の段右衞門も只《たゞ》茫然《ばうぜん》として暫時《しばらく》物をも言ず俯向《うつむき》て居たりしが何思ひけんぬつくと顏を上《あげ》今迄《いままで》包《つゝ》み隱せし我が惡行《あくぎやう》成程穀屋平兵衞を殺害し金子百兩を奪ひ取りしは拙者《わたくし》に相違|之《これ》なく併《しか》しながら其鎌倉屋金兵衞を殺せし覺えは決して御座無く候と猶々強情に申居たりける [#8字下げ]第十九回[#「第十九回」は中見出し]  螻蟻《ろうぎ》の一念は天へも通《つう》ずとの俚諺《りげん》又|宜《むべ》なるかな大岡殿|此度《このたび》幸手宿三五郎|妻《つま》文《ふみ》の申立を聽《きか》れ武州|鴻《こう》の巣《す》鎌倉屋金兵衞方へ差紙《さしがみ》を遣《つか》はされし處|悴《せがれ》忠助は稍々《やう/\》今年《こんねん》十一歳なる故《ゆゑ》伯父《をぢ》長兵衞は名代《みやうだい》として江戸へ赴《おもむ》かんと調度《したく》を成《なし》金兵衞方に幼少より召使《めしつか》ひし直八と云者|萬事《ばんじ》に怜悧《かしこく》なるに付き之れを召連《めしつれ》鴻の巣を立出《たちいで》江戸馬喰町熊谷屋利八方へ泊《とま》り込《こみ》しが日永《ひなが》の頃なれば退屈《たいくつ》なりとて直八は兩國淺草又は上野《うへの》山下邊《やましたへん》など見物なし廣小路《ひろこうぢ》へ出で五條の天神|前《まへ》へ來りし所に天道干《てんだうぼし》の道具屋《だうぐや》に二尺五寸程の脇差《わきざし》ありしが何やら見覺えのある品|故《ゆゑ》直八は立止《たちとゞ》まり此脇差を手に取上《とりあげ》能々《よく/\》見ば鞘は黒塗《くろぬり》鐺《こじり》は銀《ぎん》鍔《つば》は丸く瓢箪《へうたん》の透《すか》しあり頭《かしら》は角《つの》縁《ふち》は赤銅《しやくどう》にて鶴《つる》の高彫目貫は龍の純金なりしかば直八は心に合點《うなづき》モシ/\道具屋さん此|脇差《わきざし》は何程《いくら》で御座りますハイ其《それ》は無名なれども關物《せきもの》と見えます直價《ねだん》の所は一兩三分に致しませうと云《い》ふを聞直八|其《それ》は高價《たかい》私《わし》は百姓のことだから身には少《すこし》も構《かま》ひは無い見てくれさへ宜《よけ》れば好《いゝ》眞《ほん》の御|祝儀《しうぎ》差《ざし》だ最《もう》些《ちつ》と負て下さい道具屋|否々《いへ/\》此品は堅《かた》い代物《しろもの》なれば夫よりは少しも引《ひけ》やせんと是より暫時《しばし》直段《ねだん》の押引《おしひき》をなし漸く金一兩一分と極《きま》り直八は道具屋に向ひ直《ね》は付たが金子の持合《もちあは》せは少々《せう/\》不足《ふそく》だが漸《やうや》して是を手付として置て行ませうと金一|分《ぶ》取出し翌日《あす》の朝《あさ》殘《のこ》りの金を持て私が取に來《く》る然《しか》し事に寄《よる》と來《こら》れぬ時は御|前《まへ》の内へ直樣《すぐさま》取に遣《やる》から一寸請取を書《かい》て下《くだ》さいと云ふにぞ道具屋は書付《かきつけ》を認《したゝ》め判迄《はんまで》捺《おし》て出しければ直八手に取揚《とりあげ》て讀《よみ》けるに [#ここから12字下げ] 覺 [#ここから2字下げ] 一|脇差《わきざし》               壹|腰《こし》 右《みぎ》代《だい》金壹兩壹分也 [#ここから3字下げ] 内金《うちきん》壹分請取 但《たゞ》し拵《こしら》へ付《つき》貳尺四寸|餘《よ》無名物《むめいもの》縁《ふち》赤銅《しやくどう》鶴《つる》の彫《ほり》頭《かしら》角《つの》目貫|龍《りよう》の純金《むく》丸|鍔《つば》瓢箪《へうたん》の透《すか》し彫《ぼり》鞘《さや》黒塗《くろぬり》鐺《こじり》銀《ぎん》 [#地から12字上げ]下谷町貳丁目 [#2字下げ]六月十七日[#地から9字上げ]道具屋治助 [#ここで字下げ終わり] と書認《かきしたゝ》め有ける故夫なら翌日《あす》又《また》是《これ》を持《もた》せて取に上ますが田舍者《ゐなかもの》は兎角《とかく》迷路《まごつき》易《やす》き故下谷と云ても分《わか》らぬことが有つて間取《ひまどる》から大屋さんの名を書《かい》て下《くだ》されましと言に道具屋ハイ/\家主《いへぬし》は廣《ひろ》次郎と申ますと肩書《かたがき》にして渡しければ直八是で宜と其儘|馬喰《ばくろ》町の旅宿《りよしゆく》へ歸りて長兵衞|并《ならび》に村名主《むらなぬし》源左衞門に向ひ下谷|山下《やました》にて見當《みあた》りし脇差《わきざし》の事を話し是は親方の小刀《わきざし》なり先年|行《ゆく》方知ずとなりし三人の中《うち》練馬藤兵衞へ確《しか》と私が手から貸《かし》て遣《つかは》した代物《しろもの》故行先を能《よく》吟味したら三人の死生《ししやう》の程も知れ親方の敵《かたき》の手筋も分《わか》りさうな者だと聞《きゝ》て長兵衞|夫《それ》は捨《すて》て置れぬことなりと源左衞門并に熊谷屋《くまがひや》の亭主へも相談《さうだん》なし早速|其筋《そのすぢ》へ訴訟《うつたへ》べしとて願書《ぐわんしよ》を認め右道具屋の請取を添《そ》へ町奉行所へ差出たり之に依て翌日同心|原田《はらだ》大右衞門下谷の自身番《じしんばん》へ出張し家主《いへぬし》廣《ひろ》次郎を呼寄られ其方|店《たな》に道具屋治助と申者|是有《これある》る由直樣|召連《めしつれ》來るべしと申渡せしかば廣次郎|畏《かしこ》まり候とて直に治助を同道して來りしに原田治助に向ひ汝ぢは道具|渡世《とせい》をなす治助なるか御意《ぎよい》に御座りますと答るにコレ此請取に覺えあるかと尋ねければ治助は是を見て此請取は昨日《さくじつ》廣小路《ひろこうぢ》の店にて商《あきな》ひを致し手付《てつけ》を請取し時さし出したるなりと云に聢《しか》と夫に相違|無《なき》やと申せば然樣《さやう》に御座りますと云時原田シテ其|脇差《わきざし》は何所から買《かつ》た其賣口は知て居樣《ゐやう》なと云れ治助は甚だ氣味|惡《わる》く思ひながら其品《そのしな》は稻荷町の十兵衞と申者の宿《やど》に於て去《きよ》月の市《いち》に買取《かひとり》たり然し其節は二十品ばかりの買物《かひもの》にて賣主は誰《たれ》やら聢《しか》とは申立|兼《かね》れども右十兵衞の帳面《ちやうめん》に記して御座りますと申せば原田然ば其十兵衞を呼出《よびいだ》すべし尤も跡月《あとげつ》よりの賣上《うりあげ》帳を持參《ぢさん》せよと家主へ達しけるにより家主仁兵衞|早速《さつそく》十兵衞へ此由を云聞《いひきか》せければ十兵衞は又|間違《まちがひ》の品が出たかとて家主同道にて下谷の自身番へ來りしかば早速|呼出《よびいだ》し原田は十兵衞に向ひ去月中《きよげつぢう》[#ルビの「きよげつぢう」は底本では「きよげいぢう」]爾《なん》ぢが宿にて此治助が脇差を買《かつ》たと申が然樣《さやう》に相違無やと尋ぬるに十兵衞脇差を見てヘイ然樣《さやう》では御座れども大勢《たいぜい》の事故|別段《べつだん》變《かは》りし品は覺も御座りますが斯樣《かやう》な品は其日の買取人が參りまして直《すぐ》に引取ます故|聢《しか》と見覺は御座りませんと申に然《さら》ば賣帳《うりちやう》が有《あら》うと云《いは》れ十兵衞は帳面を出し治助どん去月の幾日頃《いくかごろ》だの治助中市と思ひました桃林寺《たうりんじ》門前の佐印《さじるし》か三間町の虎公《とらこう》か何《いづ》れ此兩人の中だと思はれますと云《いへ》ば十兵衞|成程々々《なるほど/\》斯《かう》つと十日は治助どんは燒物《やきもの》獅子《しし》の香爐《かうろ》新渡《しんと》の皿《さら》が五枚松竹梅三|幅對《ふくつゐ》の掛物《かけもの》火入《ひいれ》が一個《ひとつ》八寸|菊蒔繪《きくまきゑ》重箱《ぢうばこ》無銘《むめい》拵《こしら》へ付脇差二尺五寸|瓢箪《へうたん》の透《すか》しの鍔《つば》目貫《めぬき》龍《りよう》の丸は頭|角《つの》縁《ふち》は鶴の彫《ほり》と聞より治助大に悦《よろこ》び宜々《よい/\》夫《それ》だぞ賣人は誰《たれ》だ/\十兵衞|待《まち》なせへよ三間町の虎松《とらまつ》に相違は無いとて原田《はらだ》の前に出《いで》彼《か》の脇差は淺草三間町の虎松と申す者より買入しに相違《さうゐ》御座りませぬと云《いへ》ば原田|然《しか》らば御用は無《ない》引取《ひきとれ》と申渡すに十兵衞は有難《ありがた》しと家主|諸共《もろとも》引取《ひきとり》ける斯て原田大右衞門コレ幸《かう》藏此治助を連《つれ》先《さき》へ東町の自身番へ行《いつ》て淺草三間町の虎松を呼《よん》で置《おけ》己《おれ》は坂本へ鳥渡《ちよつと》廻《まは》つて行《ゆく》からと申付て立出れば手先《てさき》の幸藏《かうざう》は脇差を風呂敷《ふろしき》に包《つゝ》み治助を同道して東町の自身番《じしんばん》へ來り虎松《とらまつ》を呼寄けるに家主《いへぬし》巳《み》之助|差添《さしそへ》て罷《まか》り出《いで》原田の來るを待居《まちゐ》たり暫時《しばらく》有て原田大右衞門は自身番《じしんばん》へ來りければ家主巳之助|這出《はいいで》て私し儀は三間町の家主巳之助と申者なるが何《なに》か御用の筋《すぢ》之有《これあ》る由に付虎松を召連《めしつれ》候と申に原田は是を聞其方が虎松なるか此脇差《このわきざし》を去月十一日[#「去月十一日」は底本では「去年十一月」]稻荷町の十兵衞|方《かた》に於て此《この》治助に賣《うり》たるかとの尋《たづ》ねに虎松|然樣《さやう》なりと答ふれば原田|而《し》て此品《このしな》は何所《どこ》から買出《かひだし》たか其買先を申立よと問《とは》れ虎松是は面倒《めんだう》の品と思ひながら此脇差《このわきざし》は去年《きよねん》十一月|田舍《ゐなか》へ買出《かひだし》に參つたる節《せつ》杉戸宿の林藏《りんざう》と申者の手《て》より買取《かひとり》たるに相違《さうゐ》なしと申立れば愈々《いよ/\》然樣《さやう》ならばもはや御用は相濟だ引取《ひきとる》べしとのことゆゑ治助はホツト溜息《ためいき》を吐《つき》家主廣次郎|同道《どうだう》にて我が家にこそは歸《かへ》りけれ扨《さて》夫《それ》より原田は虎松に向ひ其方明日杉戸へ案内《あんない》を致せ因《よつ》て今日は家主《いへぬし》巳之助|其方《そのはう》へ虎松を預《あづけ》るぞと殘《のこ》る處無く差※[#「圖」の「回」に代えて「面から一、二画目をとったもの」、369-1]《さしづ》有《あつ》て原田大右衞門歸宅致しける依《よつ》て公儀《おかみ》の御詮議《ごせんぎ》は行屆《ゆきとゞ》きしものなりと人々感心したりけり [#8字下げ]第二十回[#「第二十回」は中見出し]  去程《さるほど》に同心《どうしん》原田大右衞門|松野文之助《まつのぶんのすけ》の兩人|何《いづ》れも旅裝束《たびしやうぞく》にて淺草三間町の自身番へ來りければ虎松も豫々《かね/″\》申付られしこと故|支度《したく》をして相待居《あひまちをり》しに付|直樣《すぐさま》案内《あんない》として六月廿日に淺草寺《あさくさでら》の明卯刻《あけむつ》[#ルビの「あけむつ」は底本では「あけむゝつ」]の鐘《かね》と共に立出《たちいで》炎天《えんてん》をも厭《いと》はず急ぎ武州《ぶしう》埼玉郡《さいたまごほり》杉戸宿名主太郎左衞門方へ着《ちやく》し早速《さつそく》に道具屋渡世林藏を呼出せし所|他行《たぎやう》の趣《おもぶ》きにて女房《にようばう》を同道せしと云に原田はアヽ女房では分るまいが折角《せつかく》來たものなら先《まづ》是《これ》へ呼寄せとて林藏の妻を呼出し今日林藏は何所《どこ》へ參りしぞと問《とは》れしかば女房何事か出來《しゆつたい》したかと驚き今日は商賣用《しやうばいよう》にて栗橋《くりはし》[#ルビの「くりはし」は底本では「りりばし」]まで參りました故|申刻過《なゝつすぎ》には大方《おほかた》戻《もど》りませう併《しか》し御役人樣へ申上ます妾《わたく》しの良人《をつと》は當年六十に相成りますが近所《きんじよ》でも佛《ほとけ》林藏と申て何も惡事は是迄《これまで》少《すこ》しも致しましたことは御座りませんが些少《さゝい》なことは御免成《ごめんなさ》れて下さりませと申ければ原田|否《いや》何《なに》も林藏に惡事が有《ある》と云では無《ない》是《これ》へ來《き》さへすれば分ることゆゑ格別《かくべつ》に案《あん》じるに及ばずと云に女房ハイ其《それ》は有難《ありがた》う存《ぞん》じます併《しか》し日頃《ひごろ》から妾《わた》しが異見《いけん》を致すは爰《こゝ》のこと林藏は能《よい》歳《とし》を仕《し》て殊《こと》の外《ほか》女|好《ずき》夫故大方|然樣《さやう》な一|件《けん》でも御座りませうが主有者《ぬしあるもの》に手を出すの密夫《まをとこ》などは致ませんが只々《たゞ/\》錢《ぜに》を持《もち》さへ致すと女郎買《ぢよらうかひ》にばかり行きます是が誠に玉《たま》に瑾《きず》と申ので困《こま》りきりますと頻《しき》りに譯《わけ》もなきことを申立るにぞ原田|始《はじ》め一同笑ひに堪兼《たへかね》最《もう》宜々《よい/\》林藏が戻《もど》り次第に早々《さう/\》知《しら》せろコリヤ家主《いへぬし》嘉右衞門林藏が歸りしならば早速《さつそく》に同道《どうだう》せよと申付られ引取所《ひきとるところ》へ林藏は立戻《たちもど》りし故に家主《いへぬし》嘉右衞門は林藏に斯《かく》と申|聞《きけ》ければ林藏は何事《なにごと》やらんと怖々《こは/″\》ながら其所《そこ》へ出れば町方《まちかた》役人村役人二人共|附添《つきそひ》手先《てさき》の者は立働《たちはたら》き一|同《どう》居並《ゐなら》んで居る故只|肝《きも》を冷《ひや》して戰《ふる》ひ居たり此|時《とき》原田は三間町の虎松に向ひ其|脇差《わきざし》は那《あ》の林藏より買取《かひとり》しに相違|無《なき》やと有に虎松ハイ仰《おほ》せの通り右《みぎ》林藏の手より買《かひ》取しに相違御座りません原田|是《これ》や林藏|今《いま》虎松が申す通り相違|無《なき》や而《して》其脇差は何方《どこ》から買《かひ》取た眞直《まつすぐ》に申立よ僞《いつは》ると汝ぢが爲《ため》に成ぬぞと威《おど》され林藏は恐《おそ》る/\手に取上て能々《よく/\》視畢《みをは》り成程此脇差は慥《たし》かに見覺えました品《しな》是《これ》は幸手宿の者より否々《いや/\》粕壁《かすかべ》の市《いち》で買《かひ》ましたと云に原田始め役人共|其《そ》は何か取留ぬ申口たり林藏|確《しか》と申せ胡亂《うろん》なことを申と直樣《すぐさま》縛《しば》るぞと有けるにぞ元來《ぐわんらい》臆病者《おくびやうもの》のこと故《ゆゑ》林藏はがた/\戰《ふる》ひ齒《は》の根も合《あは》ず居たりしかば家主嘉右衞門は傍《そば》より是々林藏|確乎《しか》とした御答《おこたへ》を申上よ大事《だいじ》な儀ぢやぞと申に林藏|何《なに》と致《いたし》まして嘘《うそ》を申立ませうアノ夫々《それ/\》是は去年の春の事とて栗橋《くりはし》の燒場《やきば》のアノ隱亡《をんばう》の名は慥《たしか》彌十とか申者より錢《ぜに》一貫二百五十文に買受《かひうけ》ましたに相違は御座りませんと申|立《たて》るにぞ原田は是を聞《きゝ》コリヤ林藏|愈々《いよ/\》然樣《さやう》に相違|無《ない》か若《もし》間違《まちが》うては濟《すま》ぬぞと堅《かた》く申|渡《わた》され林藏ハイ/\決して間違ひは申上ませんと云|故《ゆゑ》役人共|然《しか》れば其方|早々《さう/\》栗橋へ案内《あんない》致せと直樣《すぐさま》申刻過頃《なゝつすぎごろ》より出立《しゆつたつ》なし三間町の虎松は是より御|用《よう》濟《ずみ》なりと申渡し役人は林藏を先《さき》に立せて栗橋|宿《じゆく》の名主|代《だい》右衞門方へ到《いた》り無常院《むじやうゐん》なる隱亡《をんばう》の彌十を呼び出せしに彌十は庭の莚《むしろ》の上《うへ》に襦袢《じゆばん》一枚にて控《ひか》へ居たりしを役人共コリヤ彌十|爾《なん》ぢは是なる林藏へ脇差《わきざし》を賣《うり》たることが有《ある》か其《その》脇差は爾ぢの品《しな》か又は何國《どこ》から持《もつ》て來たか明白《めいはく》に申立よと云れ彌十は少《すこ》し口籠《くちごも》りしがイヱ此脇差は私しの家に持傳《もちつた》へし重代《ぢうだい》の品なりと云に役人コレ彌十|爾《なん》ぢが重代の品などは不屆き至極《しごく》なり夫|縛《しば》れと下知《げぢ》しければ手先《てさき》の者|立懸《たちかゝ》り忽然《たちまち》高手《たかて》小手《こて》に縛《しば》り上るに彌十は恐《おそ》れし體《てい》にて何を隱しませう其品《そのしな》は葬禮《さうれい》の時の納《をさ》め物なれども然樣《さやう》申上なば御|疑《うたが》ひが懸《かゝ》らうかと存じ重代《ぢうだい》の品と申上しかど實《じつ》は死人《しにん》の納《をさ》め物なりと申ければ役人|扨々《さて/\》爾《なん》ぢは不屆き者なり此脇差は中仙道《なかせんだう》鴻の巣の鎌倉屋金兵衞と云者の所持《しよぢ》の品にて其子分なる練馬《ねりま》藤《とう》兵衞と云者に貸遣《かしつかは》したる脇差なり然る所其|後《ご》右《みぎ》藤兵衞|等《ら》外《ほか》二人の行衞《ゆくゑ》は今に於て相知《あひしれ》ず然る所|今《いま》藤兵衞が差《さし》て居たる脇差の有からは其方が掃部《かもん》茂助藤兵衞|等《ら》三人の在家《ありか》を存じて居《をる》に相違は有舞《あるまひ》サア眞直《まつすぐ》に白状《はくじやう》せよと意外《いぐわい》に出《いで》られ彌十は南無三|寶《ばう》仕舞《しまつ》たりと思へども然有《さあら》ぬ體《てい》にて否々《いや/\》全く脇差は納《をさ》め物に相違御座りませぬと云ば役人は左右《とかく》汝《なん》ぢは不都合《ふつがふ》なる事を申ぞ脇差を葬禮《さうれい》の納め物となすならば寺へこそ納《をさ》める筈《はず》なれ何ぞ燒場《やきば》へ納めると云|法《はふ》の有《あら》んやサア尋常《じんじやう》に白状致せ不屆者め夫《それ》責《せめ》よと言葉の下より手先《てさき》の者共|笞《しもと》を揚《あげ》て左右より彌十の股《もゝ》を肉の破《やぶ》る程に打|敲《たゝき》ければ彌十は是に堪兼《たへかね》アツと叫《さけ》んで泣出しアヽ御|免《ゆる》し下《くだ》されよ何事も皆《みな》包《つゝ》まず申上ます/\と詫けるに然らば白状すべしと責《せめ》を止《とゞ》め猶強情に陳《ちん》ずれば餘計《よけい》に痛《いた》いめをするぞ而《し》て藤兵衞が所持《しよぢ》の脇差を如何の譯で汝ぢが手に入《いり》たるぞサア/\其譯《そのわけ》白状すべしと問詰《とひつめ》られて彌十は苦痛《くつう》に堪兼《たへかね》迚《とて》も免れぬ處と覺悟をなし然樣《さやう》ならば申|上《あげ》ます此脇差《このわきざし》は一昨々年の七月廿八日の夜の事成しが死人《しにん》に火を掛内に這入《はひり》て伏《ふし》み居し折柄《をりから》燒場の外面《おもて》の方に大喧嘩《おほげんくわ》が始りし樣子故何事かと存じ密《そつ》と出て窺《うかゞ》ひしに闇《くら》き夜なれば一|向《かう》に分《わか》らず暫時《しばらく》樣子を見合居し處幸手宿の畔倉《あぜくら》重四郎と三五郎と申者の聲ゆゑ徐々《そろ/\》立寄《たちより》しに相手の者三人は皆《みな》切殺され是は浪人《らうにん》の八田掃部と并《ならび》に練馬藤兵衞三加尻茂助と申せし者共なり其時重四郎の申には何卒《なにとぞ》此死人を火葬《くわさう》に爲て呉ろと頻《しき》りに頼みしかども私しは後々《のち/\》の[#「後々《のち/\》の」は底本では「後|々の《のち/\》」]事を恐敷《おそろしく》と申して斷りしに重四郎は承知せず貴樣《きさま》に難儀を懸《かけ》ぬ樣に取計《とりはから》ひ方も有から是非々々頼むと申を兎角《とかく》に後難《こうなん》が恐《おそろ》しさに否だと申て立去《たちさら》んと致せし時|斯《この》大事を見られた上は生《いか》して置れぬ言ことを聞《きか》ずば命《いのち》を呉ろと既に切殺さんと致すゆゑ私しも詮方《せんかた》無《な》く後の難儀は辨《わきま》へながら其場の難《なん》には換難く存じ據《よんど》ころなく申に任《まか》せ三人共|火葬《くわさう》に致し骨は殘らず川中へ捨《すて》て仕舞《しまひ》しと白状に及びければ役人其|時《とき》汝ぢは必定《ひつぢやう》金子を貰《もら》ひし成んと申に彌十ヘイ一人|前《まへ》一兩|宛《づつ》貰ひ是非なく燒《やい》て遣《つかは》しましたと悉敷《くはしく》申|立《たて》けるにぞ原田は進み出《いで》而《して》此《この》脇差は爾ぢが取たのか彌十ヘイ納《をさ》め物《もの》同樣《どうやう》に存じましてと言を原田は白眼付《にらめつけ》那《あ》の爰《こゝ》な横着《わうちやく》ものめ定めし汝は脇差ばかりでは有《ある》まじ外々の品も盜《ぬす》み取て賣《うつ》たで有《あら》うと問詰ければ外《ほか》に二本の脇差は騷《さわ》ぎの中《うち》故《ゆゑ》火中へ入て御座りしを氣が附《つか》ず燒て仕舞ましたら何時《いつ》か眞赤《まつか》に成まして役には立ず一本の方は洗箒《さゝら》の樣に成て致し方なければ川へ捨《すて》ましたと申立けるに原田は點頭《うなづき》然らば愈々《いよ/\》相違無かと有《あり》ければ彌十少しも僞《いつは》りは御座りませぬと申すに依《より》道具屋林藏は御|用濟《ようずみ》たり勝手に引取《ひきとる》べし太儀《たいぎ》なりと申渡され家主《いへぬし》嘉右衞門は林藏|同道《どうだう》にて歸りける夫より隱亡《をんばう》彌十は高手《たかて》小手《こて》に縛《いまし》められしまゝ宿籠《しゆくかご》に乘《のせ》江戸表を差《さし》て送らせける其後|種々《しゆ/″\》樣々《さま/″\》吟味有けるに先の申|立《たて》と相違も無きこと故|是《これ》より大惡の本人《ほんにん》たる重四郎の段右衞門と愈々《いよ/\》突合《つきあは》せ吟味とこそは極《きはま》りけれ [#8字下げ]第廿一回[#「第廿一回」は中見出し]  時に享保《きやうほ》十一年七月五日重四郎の段右衞門一|件《けん》の者共を悉皆《こと/″\》く白洲《しらす》へ呼出し軈《やが》て大岡殿彌十に向はれ何《いか》に彌十汝ぢは元栗橋《もとくりはし》にて重四郎三五郎の兩人が掃部茂助藤兵衞の三人を殺せし時|手傳《てつだ》ひて共々《とも/″\》殺したで有うなと故意《わざ》と疑ひの詞《ことば》を設《まう》けられしかば彌十は面《おもて》を正《たゞ》し否々《いや/\》私し儀は其節|喧嘩《けんくわ》の聲を聞《きゝ》付見には出ましたが怖《こは》さは怖し遠方《とほく》に窺《うかゞ》つて居しのみにて漸く少し鎭《しづ》まりし時三五郎重四郎兩人の聲が致すゆゑ傍《そば》に立寄《たちより》夫より右《みぎ》死骸は據《よんど》ころなく頼まれて火葬《くわそう》に致しましたれど勿々《なか/\》以て手傳《てつだひ》などは決して致しません尤《もつと》も其節の手續《てつゞき》は斯々《かく/\》云々《しか/″\》なりと委細《くはしく》申立ければ大岡殿段右衞門を見遣《みやり》コレ段右衞門|爾《なん》ぢは三五郎と申|合《あは》せ元栗橋にて掃部茂助藤兵衞を殺せしは我が推量《すゐりやう》に相違無し然れば鎌倉屋金兵衞を殺したるも汝ならん眞直《まつすぐ》に白状せよともうされければ段右衞門は漸々《やう/\》に眼《まなこ》を開《ひら》き此間|中《ぢう》より申上し通り穀屋平兵衞を殺し又鈴ヶ森にて三五郎を殺し候は全《まつた》く私しに相違なけれども金兵衞を殺したる覺《おぼ》えは毛頭《もうとう》之なしと飽迄《あくまで》も言|張《はる》にぞ大岡殿|詞《ことば》靜《しづ》かに是《これ》段右衞門能く承《うけた》まはれ爾《なん》ぢはよく/\迷《まよ》つた奴と見える假令《たとへ》一人たりとも人殺しの科《とが》極《きはま》る上《うへ》は獄門《ごくもん》に曝《さら》さるゝは知てあるに今《いま》猶《なほ》強情《がうじやう》に申|募《つの》るとも一|命《めい》の助《たす》かる譯は無ぞサア/\尋常《じんじやう》に白状せと言れ夫《それ》とも彌十|爾《なん》ぢが申立たるとは僞《いつは》りなるかと申さるゝに彌十は段右衞門に向ひ是々《これ/\》重四郎ではない段右衞門殿|夫《そん》な譯の分《わか》らぬ強情《がうじやう》は止《よし》にしろ今|奉行《ぶぎやう》樣の仰《おつ》しやる通りだ幾等《いくら》其方《そなた》が隱《かく》して白状|爲《せ》ねばとて命《いのち》の繋《つな》がる事は金輪《こんりん》ざい有《あり》ア爲《し》ねへ夫《それ》迚も三五郎と申合したかは知ねヱが今と成《なつ》ては未練《みれん》な男だ誠《まこと》に苦《くる》しみ惜《をし》みの人間《にんげん》だなア掃部や藤兵衞茂助の二人を殺した時|其方《そつち》が利根川《とねがは》へ死骸を打込《うちこま》ふと[#「打込ふと」は底本では「打込ぬと」]言《いつ》たら三五郎が言には川へ流しては後日《ごにち》が面倒《めんだう》だ幸ひ此彌十に頼んで火葬《くわさう》に爲《し》て貰《もら》へば死骸《しがい》も殘さず三人の影も形《かたち》も無なるゆゑ金兵衞を殺したことも却《かへ》つて彼等三人に疑《うたが》ひが懸《かゝ》る道理だと三五郎の計略《けいりやく》にて已《すで》に火葬を頼んだ其時に若《もし》もと己《おれ》は不|承知《しようち》を言たら汝《おの》れが懷中《ふところ》から金を三兩出て博奕友達《ばくちともだち》の好《よし》みだと言て平《ひら》に頼む故|己《おれ》も詮方無《せんかたな》く燒《やい》て仕舞て骨《ほね》は利根川へ流したに相違は無いぜ是《これ》サ段右衞門今此彌十に顏を合《あは》しては百年めと言《いふ》者サア何《なに》も彼も決然《きつぱり》と男らしく言て仕舞《しまへ》と言《いふ》にぞ段右衞門コレ汝ぢは跡方《あとかた》も無《ない》拵《こしら》へ事を言|掛《かけ》我に罪《つみ》を負《おは》せんと爲《す》る此|乞食《こじき》めと大音《だいおん》に白眼付《にらみつく》ると彌十大いに怒《いか》りて何《なん》だ乞食だと知たことだ隱亡《をんばう》は人間と非人《ひにん》との間《あひ》だは是も渡世《とせい》だ然《さり》ながら此彌十は酒も呑《のみ》長半《ちやうはん》も人並には打|殊《こと》に喧嘩《けんくわ》もするが今迄《いままで》人に疵《きず》とても付たことも無し錢《ぜに》三文でも盜《ぬす》んだ覺えは無そ能《よく》聞《きけ》よ汝《おの》れはな幸手《さつて》の穀屋平兵衞を殺して金百兩を奪《うば》ひ取《と》り其上にて關宿《せきやど》の藤五郎の博奕場《ばくちば》で四人と言者を切て又|堺《さかひ》[#「又|堺《さかひ》」は底本では「又堺《さかひ》」]の町でも鷹助《たかすけ》に手疵を負《おは》せしこと寶珠屋《はうじゆや》大坂屋のことからしてオヽそれ/\其前のことだ栗橋の土手《どて》で眞田商人《さなだあきんど》を殺した事も皆々《みな/\》汝ぢだと疑つて居《ゐる》ぞ此|盜人野郎《ぬすびとやらう》め乞食《こじき》に近い此彌十よりは遙か劣《おと》りし人非人《にんぴにん》めサア言|譯《わけ》が有なら返答《へんたふ》仕《し》ろと大聲《おほごゑ》に言|込《こめ》けるに流石《さすが》不敵《ふてき》の段右衞門も更に無言《むごん》となり此時に至つて大いに赤面《せきめん》爲《し》たる有樣なれども未だ白状は爲《せ》ざりけり [#8字下げ]第廿二回[#「第廿二回」は中見出し]  此時《このとき》越前守殿|高聲《かうしやう》にコレ段右衞門|左右《とかく》に汝《おの》れが罪《つみ》を隱《かく》し鷺《さぎ》を烏《からす》と言黒《いひくろ》[#ルビの「いひくろ」は底本では「いとくろ」]めんとするは扨々不屆き者なりと白眼付《にらみつけ》られ夫より同心《どうしん》に豫て申|付《つけ》置《おき》たる品川宿の馬士《まご》を只今《たゞいま》是へ出《いだ》すべしと言れけば同心は畏《かしこ》まり候と立て行けるが頓て身には半※[#「纏」の「广」に代えて「厂」、373-14]《はんてん》を着《き》て眞向《まむき》より頬《ほゝ》へ掛て切下《きりさげ》られし疵痕《きずあと》あり丈《せい》は低《ひく》く髭《ひげ》は蓬々《ぼう/\》として如何にもみすぼらし氣《げ》なる者を連出《つれいだ》せしかば大岡殿コレ品川宿の馬士《まご》其方は去年《きよねん》十七屋の飛脚を乘《のせ》鈴ヶ森に於て切られし所|汝《なん》ぢは運好《うんよく》も命《いのち》助《たす》かりしが其時の盜人《ぬすびと》は爰に居る段右衞門と言者《いふもの》ならん能々《よく/\》顏を見よ其節《そのせつ》の盜人で有《あら》うがなと申さるゝに馬士《まご》はヘイ御意に御座ります未《いま》だ夜明前《よあけまへ》とは申ながら挑灯《ちやうちん》も御座りました故|隨分《ずゐぶん》慥《たし》かに見覺えて居《をり》ます成程此者に相違は御座りませんと聞《きく》より流石《さすが》の段右衞門も愕然《ぎよつ》と仕《し》て大いに驚きヤア然らば其時の馬士《まご》めで有たか扨々《さて/\》運《うん》の強《つよ》き奴かな頭から梨割《なしわり》にして其上に後日の爲《ため》と思ひ留《とゞ》め迄|刺《さし》たるに助かると言は汝《なん》ぢは餘程|高運《かううん》な者なりと呆《あき》れ果てぞ居たりける時に越前守殿|如何《いか》に段右衞門|金飛脚《かなひきやく》の彌兵衞|并《ならび》に馬士爲八を殺したに相違は有舞《あるまひ》なと問詰《とひつめ》られしかば段右衞門はハツと首を下《さ》げ御意《ぎよい》の通り鈴ヶ森に於て三度飛脚の彌兵衞を殺し金子を奪《うば》ひ取しに聊か相違なしと申立しにぞ大岡殿は馬士《まご》に向はれ其方は最早《もはや》用事の相濟《あひすみ》たり引取れと言《いは》れしかば其儘|馬士《まご》は白洲を立て行《ゆく》跡《あと》に越州殿|呵々《から/\》と笑はれコレ段右衞門汝ぢは是迄《これまで》強情《がうじやう》に申|張《はつ》て一向白状に及ばぬ故|向《むか》う疵《きず》の有《ある》馬士を尋ね出し彼《かれ》に申付て汝ぢを謀《はか》り白状させしなり其|節《せつ》の馬士《まご》は何《なに》として命《いのち》の助《たす》かるべきや然るを我が計略《けいりやく》に陷《おちい》りしも是《これ》天命《てんめい》なり今さら包み隱《かく》さずとも尋常《じんじやう》に惡事を殘らず白状《はくじやう》すべしと鋭《する》どく問糺《とひたゞ》されしかば段右衞門は此時《このとき》初《はじ》めてハツト言《いつ》て歎息《たんそく》なし寔《まこと》に天命《てんめい》は恐ろしきものなり然ば白状|仕《つかま》つらんと居|直《なほ》り扨も權現堂《ごんげんだう》の堤《つゝみ》に於て穀屋平兵衞を殺し金子百兩奪ひ取《とり》其|後《ご》鷲《わし》の宮に於て鎌倉屋金兵衞を手に掛《かけ》て金五百兩を盜み取《とり》猶《なほ》又《また》三五郎と申合せ元《もと》栗橋に於て三人の者を殺害《せつがい》せしより鈴ヶ森にて十七屋の飛脚《ひきやく》を殺し金子《きんす》五百兩|奪取《うばひと》り其後藤澤宿の大津屋と申|旅籠屋《はたごや》へ入夫と相成《あひなり》し處三五郎|度々《どゝ》無心《むしん》に來りしが我《わが》惡事を皆|悉《こと/″\》く知《し》りたる三五郎なる故|後日《ごにち》の妨害《さまたげ》と存じ欺《あざむ》きて鈴ヶ森まで連出《つれいだ》し終に三五郎をも殺害《せつがい》せしに少しも相違御座なく候と殘らず申立ければ大岡殿|聞《きか》れ神妙々々《しんめう/\》と言れし時段右衞門は大岡殿に向ひ恐れながら斯《かゝ》る明奉行の御|糺問《きうもん》を蒙《かうむ》り御吟味|明《あきら》かなる而已《のみ》ならず御|仁慈《じんじ》の程|誠《まこと》に以て恐れ入奉つる何さま世間の噂《うはさ》に相違も之無き賢明《けんめい》の御奉行なり其|御裁許《ごさいきよ》に預《あづか》ること此身の本望《ほんまう》と申すべし返《かへ》す/″\も私しの惡行今更後悔仕つり候然る上は三五郎|女房《にようばう》文《ふみ》元栗橋の隱亡《をんばう》彌十等私しへ係《かゝ》り合の者共の儀は私し故に罪科《ざいくわ》も蒙り候ことゝ存じ奉つるに付|私《わたく》し身分は何樣《いかやう》の御|成敗《せいばい》を仰せ付らるゝとも自業自得《じごふじとく》の儀に候へば聊《いさゝ》かも恨《うら》むる所なし係り合の者共は何卒《なにとぞ》御|慈悲《じひ》の御|成敗《せいばい》願《ねが》はしく存じ奉つり候とて己れが舊惡を悉皆《こと/″\》く白状に及びしかば夫《それ》より口書《こうしよ》を認《したゝ》め重四郎の段右衞門の爪印《つめいん》を押《おさ》せ追《おつ》て沙汰に及ぶと申渡され一同《それ/″\》下《さげ》られけり [#8字下げ]第廿三回[#「第廿三回」は中見出し]  然程《さるほど》に大岡越前守殿には段右衞門|前名《ぜんみやう》畔倉重四郎一|件《けん》に付|享保《きやうほ》十一年十二月|右《みぎ》係《かゝ》り合の者共一|同《どう》白洲《しらす》へ呼《よび》出され夫々《それ/″\》に其|罪科《ざいくわ》を申渡されける [#地から12字上げ]相摸國高座郡藤澤宿 [#地から11字上げ]大津屋段右衞門事 [#地から8字上げ]前名  畔倉重四郎 [#ここから2字下げ] 其方儀《そのはうぎ》權現堂小篠堤に於て幸手宿穀屋平兵衞を殺害《せつがい》し金子《きんす》百兩奪ひ取《とり》其後《そのご》中仙道鷲の宮にて鴻《こう》の巣《す》宿《じゆく》鎌倉屋金兵衞を殺し金子五百兩|盜《ぬす》み取し上剩さへ三五郎と申合せ右金兵衞の子|分《ぶん》掃部茂助藤兵衞等三人の者をも元栗橋《もとくりはし》燒場前《やきばまへ》にて切殺し死骸《しがい》は隱亡《をんばう》彌十に頼み火葬《くわさう》に致し其後鈴ヶ森にて十七屋の三度|飛脚《ひきやく》を殺し金子《きんす》五百兩|奪《うば》ひ取其|後《のち》猶《なほ》又|同所《どうしよ》にて三五郎をも殺害《せつがひ》致し候段|重々《ぢう/\》不屆至極《ふとゞきしごく》に付|町中《まちぢう》引廻《ひきまは》しの上《うへ》千住小塚原に於て獄門《ごくもん》に行《おこ》なふ [#地から11字上げ]武藏國埼玉郡元栗橋宿 [#地から11字上げ]隱亡  彌十 其方儀|平生《へいぜい》身持《みもち》宜《よろし》からず博奕《ばくえき》喧嘩《けんくわ》を好《この》み其後重四郎|并《ならび》に三五郎より頼まれ候とは雖《いへど》も掃部茂助藤兵衞三人の死骸を燒棄《やきすて》其上|右《みぎ》骨《ほね》は利根川《とねがは》へ流し候段|重々《ぢう/\》不屆の所|格別《かくべつ》の御|仁惠《じんゑ》を以て遠島《ゑんたう》申付る [#地から14字上げ]同國同郡幸手宿 [#地から11字上げ]三五郎妻  ふみ 其方|夫《をつと》三五郎儀|平生《へいぜい》身持《みもち》宜《よろし》からず重四郎と申合せ金兵衞の子分|等《ら》三人を元栗橋燒場前に於て殺害《せつがい》し右死骸を隱亡《をんばう》彌十に頼み燒棄《やきすて》させ候段不屆に付|存命《ぞんめい》致し居《をり》候はゞ重《おも》き御|仕置《しおき》にも仰《おほ》せ付らる可《べき》の所《ところ》鈴ヶ森に於て殺害《せつがい》致されしにより其|罪《つみ》を諮《とは》ず右は重四郎の仕業《しわざ》と相分《あひわか》り重四郎儀は町中《まちぢう》引廻《ひきまは》しの上《うへ》獄門《ごくもん》仰《おほ》せ付られ候上は有難く存すべし [#地から7字上げ]相摸國高座郡藤澤宿旅人宿渡世 [#地から6字上げ]小松屋文右衞門 其方儀《そのはうぎ》重四郎を同宿大津屋ゆう方へ入夫致させ候|節《せつ》身元《みもと》をも糺《たゞ》さず世話致し候段|不行屆《ふゆきとゞ》きに付|過料《くわれう》として錢《ぜに》三貫文申付る [#地から8字上げ]長谷川町家主嘉兵衞店針醫師 [#地から11字上げ]盲人  城富 其方儀|平生《へいぜい》養母《やうぼ》に孝行を盡し其上に先年|實父《じつふ》富右衞門御|所刑《しおき》に相成候|節《せつ》自分|身代《みがは》りの儀願ひ出《いで》候段是又實父|母《ぼ》へ孝心の至りに思召《おぼしめ》され候之に依て御|褒美《はうび》として白銀《はくぎん》三枚取せ遣《つか》はす有難《ありがた》く存ず可し [#地から8字上げ]武藏國埼玉郡幸手宿穀物渡世 [#地から6字上げ]杉戸屋富右衞門 其方儀|永々《なが/\》入牢《じゆらう》仰《おほ》せ付られ罷《まか》り在處《あるところ》此度右一件|本人《ほんにん》相分り御|死刑《しおき》仰《おほ》せ付られ候に付|出牢《しゆつらう》仰せ付らる有難く存ずべし [#ここで字下げ終わり] 右の通《とほ》り重四郎一件|落着《らくちやく》と成しは誠《まこと》に天道正直の道《みち》を照《てら》し給ふ所なり然れども其人《そのひと》其罪無して杉戸屋富右衞門は如何《いか》なる其身の業報《ごふはう》にや煙草入《たばこいれ》を落せしより※[#「圖」の「回」に代えて「面から一、二画目をとったもの」、376-17]《はか》らずも無實《むじつ》の罪に陷入《おちいり》一|旦《たん》入牢仰せ付られけるが上《かみ》に聖賢《せいけん》の公《きみ》存《まし》ませば下に忠良《ちうりやう》の臣あつて能《よく》國家を補翼《ほよく》す故に今|斯《かく》明白《めいはく》に善惡《ぜんあく》邪正《じやしやう》をたゞされしかば富右衞門の女房《にようばう》お峰《みね》其子城富は申に及ばず親族《しんぞく》に至る迄|皆《みな》大岡殿の仁智《じんち》を感じ喜悦《きえつ》斜《なゝめ》ならず殊《こと》さらに實子城富は見えぬ眼《め》に涙《なみだ》を流《なが》し先頃大岡殿の申されしに父富右衞門は蘇生《そせい》せまじきものにもあらずとは此事なりと喜悦《よろこぶ》こと限り無く只々《たゞ/\》偏《ひと》へに名《めい》御奉行大岡樣の御|仁慈《じんじ》なりと奉行所の方に向ひ伏拜《ふしをが》み/\感涙《かんるゐ》止《とゞ》めあへざりしも道理《だうり》なり扨《さて》爰《こゝ》に亦穀屋平兵衞の悴《せがれ》平吉は段々《だん/\》吟味《ぎんみ》の末杉戸屋富右衞門は全く無實《むじつ》の罪なること明白に顯《あらは》れ其節の盜賊《たうぞく》は畔倉重四郎なる由を聞及びしかば大いに驚《おどろ》き扨々我等が不明《ふめい》故《ゆゑ》に罪無き杉戸屋富右衞門殿を永々《なが/\》入牢《じゆらう》致させ苦《くるし》めしこと何とも申譯なき誤《あやま》り成りと思ひ平吉は早速《さつそく》杉戸屋富右衞門方へ到つて種々《くさ/″\》樣々《さま/″\》に是迄の始末《しまつ》を詫言《わびごと》なし是は聊《いさゝ》かながら出牢《しゆつらう》の歡《よろこ》び旁々《かた/″\》土産《みやげ》なりとて懷中《くわいちう》より紙に包み目録《もくろく》として金子百兩を差出しければ富右衞門|是《これ》を見て扨々《さて/\》誠《まこと》に以て御|芳志《はうし》の段有難き仕合なり然れども此度の災難《さいなん》かく成行《なりゆく》も宿世《しゆくせ》の業因《ごふいん》なれば誰を恨《うら》み彼を恨みんとは存じ申さず煙草《たばこ》入を落せしことが我が誤《あやま》りなり斯《かゝ》る大金を御|惠《めぐ》み下さるべき謂《いは》れ無しと達《たつ》て辭退《じたい》に及ぶゆゑ平吉は何卒して我々が誤りを詫言《わびごと》なす印《しるし》に渡し度と思ひ是非々々是は御|受納《じゆなふ》成さるべし又此上何成共|相應《さうおう》の儀も候はゞ御|相談《さうだん》下されよ私し力に叶《かな》ふ儀なれば如何樣にも御|助勢《じよせい》申たしと言つゝ無理遣《むりやり》に差置て早々歸宅致しければ富右衞門は此金を持《もつ》て又々穀平方へ到《いた》り御|芳志《はうし》の段|忝《かたじ》けなし然《さり》ながら斯る大金を申|請《うけ》べき譯《わけ》は更《さら》に無しとて種々《いろ/\》に斷《ことわ》りけるを平吉夫にては手前の心に濟《すま》ず平に御受納下されよとて受取ざれば是非無《ぜひな》く富右衞門も右の百兩を貰《もら》ひ受夫より我が旦那寺《だんなでら》へ到《いた》りて是を納《をさ》め惡人ながらも不便《ふびん》なりとて畔倉重四郎を始め彼三五郎鴻の巣なる鎌倉屋金兵衞其|外《ほか》野州《やしう》浪人八田掃部三加尻茂助練馬藤兵衞などの菩提《ぼだい》を弔《とぶら》ひ又元栗橋の隱亡《をんばう》彌十などの安穩《あんをん》に歸島致す樣|祈祷《きたう》を頼み其|後《のち》先祖《せんぞ》の菩提《ぼだい》の爲とて旦那寺《だんなでら》に於て大施餓鬼《おほせがき》を取行ひ杉戸屋富右衞門世話人|頭《がしら》と成《なり》て修行《しゆぎやう》致しけり扨《さて》富右衞門は隱居《いんきよ》なし家督《かとく》は親類《しんるゐ》より相應《さうおう》なる者を呼入て杉戸屋の家名を繼《つが》せ其身は只《たゞ》明暮《あけくれ》念佛《ねんぶつ》の門に入て名號《みやうがう》を唱《とな》ふる外《ほか》他事《たじ》無《なか》りしとぞ依て追々《おひ/\》佛果《ぶつくわ》を得富右衞門は長命《ちやうめい》にて終《つひ》に年齡八十一歳に至り眠《ねむ》るが如く大往生《だいわうじやう》を遂げしとぞ 畔倉重四郎一件[#1段階小さな文字]終[#小さな文字終わり] [#改丁] [#ページの左右中央] 小間物屋彦兵衞一件[#「小間物屋彦兵衞一件」は大見出し] [#改丁] [#1段階大きな文字]小間物屋彦兵衞《こまものやひこべゑ》一件《いつけん》[#大きな文字終わり] [#8字下げ]第一回[#「第一回」は中見出し]  いつはりなき世《よ》なりせばいかばかり人の言《こと》の葉《は》うれしからまじとは朗詠集《らうえいしふ》文詞《ぶんし》の部《ぶ》にも出《いで》てよく人情に適《かな》ひたる歌なれども左右《とかく》人世の欲情は免かれ難《がた》くして僞《いつは》り飾《かざ》る事のなきにもあらず然《され》ば元祿の頃|大坂《おほさか》天滿橋《てんまばし》の邊に與市と云者あり未だ若年にして陽《おもて》には侠客風俗《をとこだてふう》を好むと雖も其質《そのさが》狡猾《わるかしこ》く毎々《つね/″\》新町を始め惡所場を騷《さわが》し諸處に於て強請《ねだり》騙《かた》りなどせしが或時|喧嘩《けんくわ》にて人を過《あや》め[#ルビの「あや」は底本では「なや」]遂に召捕れし上《うへ》久敷《ひさしく》入牢《じゆらう》して居たれども相手方|命《いのち》に恙《つゝが》なく御慈悲を願ひける故《ゆゑ》遠島《ゑんたう》にも成べきを三ヶの津構《つかまひ》にて事落着に及びたり元來《ぐわんらい》船乘《ふなのり》の事なれば夫より堺《さかひ》へ行《ゆき》船頭となりしが左右《とかく》に博奕《かけごと》を好み身持惡きゆゑ人に嫌《きらは》れつゝ三十歳ばかりに成し頃《ころ》船中にて不※[#「圖」の「回」に代えて「面から一、二画目をとったもの」、381-8]《ふと》人の荷物《にもつ》を奪ひ取しより面白く思ひ追々|效《かう》を積《つむ》に隨《したが》ひ同類を集め四國西國邊迄も海賊《かいぞく》を稼《かせ》ぎ十餘年を消光《おくり》けるが其働《そのはたら》き飛鳥の如く船より船へ飛移《とびうつ》り目にも見えざる程《ほど》故《ゆゑ》八|艘飛《そうとび》の與市と渾名《あだな》を取しなり或時|腕首《うでくび》に大疵《おほきず》を請《うけ》其後働く事|叶《かな》はず彼是する中四十歳餘りにもなりしかば元祿の頃大坂を追拂《おひはら》はれてより十五六年も過たる故《ゆゑ》最早氣遣ひも有まじと思ひ勘兵衞《かんべゑ》と名を變《かへ》東堀《ひがしぼり》に住居《すまひ》をなし表向は船乘内證は博奕を渡世として子分も出來《でき》しにより妻を向へしに渠《かれ》が連子《つれこ》の太七と云ふを實子の如くに不便《ふびん》を加へ月日を送り居たりけり其頃大坂堂島に彦兵衞《ひこべゑ》と云者|小間物《こまもの》を渡世となし夫婦さし向ひにて金持《かねもち》と云にはあらねども不自由もなく暮《くら》しけるが彼《か》の勘兵衞の甥《をひ》彌七と云者を人の世話にて先頃《さきごろ》若い者に召抱《めしかゝ》へ荷擔《にかつぎ》にも連れ使ひにも出せしに至極實體に勤《つとむ》る故或時新町の出入先より誂《あつら》への金銀物を持《もた》せ使ひに遣《やり》しに夫切《それきり》一向歸り來らず依て心配なし使ひ先を聞合すれども此方へは來らずとの事故|然《さ》すれば取迯《とりにげ》に相違《さうゐ》なし出入場へ申|譯《わけ》濟《すま》ずとて早速宿に掛合しに勘兵衞大きに驚き扨々|不屆《ふとゞき》なる奴《やつ》四五日御待下さらば尋《たづ》ね出し御返し申さんと申に我等が品にあらず出入先《でいりさき》の誂《あつら》へ物故|一入《ひとしほ》難儀《なんぎ》致すに付早速に御頼み申と云置《いひおき》彦兵衞は新町へも右の段を申入れ八方を尋ぬるに彌七の行方《ゆくへ》更《さら》に知れず神鬮判斷《みくじはんだん》などゝ心配する中新町よりは度々《たび/\》催促《さいそく》に預《あづか》り殊の外《ほか》難儀《なんぎ》なすに依《より》又々《また/\》東堀《ひがしぼり》へ行《ゆき》勘兵衞へ懸合處《かけあふところ》未《いま》だ一|向《かう》手掛《てがか》りも無き由を申せしかば彦兵衞は彌々《いよ/\》困《こま》り果《はて》當人が出ぬ時は新町へ立替《たてかへ》ねばならず依ては氣の毒ながら右《みぎ》代物《しろもの》[#「右《みぎ》代物《しろもの》」は底本では「右|代物《みぎしろもの》」]丈《だけ》の品《しな》才覺《さいかく》有《ある》べしと申を勘兵衞聞入ず勿々《なか/\》急には金子の調達《てうだつ》出來兼る間《あひだ》先《まづ》旦那の方にて御才覺下さるべし彌七|引負《ひきおひ》は追々御勘定申さんと云を彦兵衞|其《そ》は又餘り勝手過《かつてすぎ》る話《はな》しなり其爲《そのため》貴樣請人に非ずや殊に此節我等も金子|不手廻《ふてまは》りにて問屋《とひや》の勘定《かんぢやう》滯《とゞこ》ほり不自由なせば一兩日の中《うち》に勘定致さるべし然《さ》もなき時は向うより出入にされては迷惑《めいわく》致すにより貴樣を相手に御願ひ申さぬ時は誂《あつら》へ主《ぬし》へ相濟ず爰《こゝ》を能々|勘辨《かんべん》し給へと段々事を分《わけ》て云聞《いひきけ》けれども勘兵衞は承知せず三十兩と云《いふ》金《かね》はとても出來《でき》難き故《ゆゑ》縱令《たとへ》公邊沙汰《こうへんざた》に成さるゝ共|御日延《おひのべ》を願ふより外に分別《ふんべつ》なし誂《あつら》へ主《ぬし》への云譯《いひわけ》に公邊沙汰《こうへんざた》になさるべし如何にも受《うけ》申さんとの挨拶なれば是非《ぜひ》なく勘兵衞を家主へ預《あづ》け誂《あつら》へ主《ぬし》の方へも此段を申して日を延《のば》し直《すぐ》に西の御番所稻葉淡路守殿へ願書《ねがひしよ》を差出《さしいだ》したり [#8字下げ]第二回[#「第二回」は中見出し]  是《これ》に依《よつ》て享保三年五月十八日|双方共《さうはうとも》呼出《よびいだ》され淡路守殿彦兵衞に向はれ其方儀彌七は何時《いつ》召抱《めしかゝへ》たるやと尋ねらるゝに彦兵衞|謹《つゝし》んで去年《きよねん》師走《しはす》に召抱候と申を能《よく》勘辨《かんべん》致せ未だ氣心も知れぬ者に金高《きんだか》の品を取扱ひさせる事は些少《ちと》無念《ぶねん》なるべし此以後は隨分《ずゐぶん》氣《こゝろ》を注《つけ》よと申渡されコリヤ勘兵衞其品は彦兵衞|出入場《でいりば》より誂《あつら》へなれば早速《さつそく》辨償《わきまへ》ねばならず奉公人彌七|行方《ゆくへ》知れる迄は右の品々《しな/″\》彦兵衞に聞合せ殘《のこ》らず辨償《わきまへ》て遣《つかは》せと申さるゝに勘兵衞私し儀も所々《しよ/\》相尋《あひたづね》しか共《ども》行方《ゆくへ》知《し》れず右品々とても高金なれば勿々《なか/\》調達《てうだつ》出來難し依ては彌七行方相知るゝ迄彦兵衞|不肖《ふせう》仕つる樣|仰付《おほせつけ》られ下さるべしと申立るを稻葉殿|能《よく》聞《きけ》證文《しようもん》の通《とほり》其方《そのはう》甥《をひ》とある上は當人《たうにん》出《いで》しとて其品なき時は辨償《わきまへ》ずばなるまじ殊《こと》に彦兵衞が所持の代呂物《しろもの》に非ず出入場より預りし品なれば少しも猶豫《いうよ》成難《なりがた》し三日の中に右の品|辨償《わきまへ》よ若《もし》調達出來ぬとあれば申付方が有るぞと嚴敷《きびしく》申渡され右彦兵衞|聞《きく》通《とほ》り勘兵衞へ申渡せし上は右の品|請取《うけとれ》と云はれ兩人并に町役人共下られける斯樣に嚴敷申渡されしは何故《なにゆゑ》と云ふに勘兵衞は大兵《だいひやう》にして色黒く眼《まなこ》大きく額《ひたひ》より口へ掛て大疵《おほきず》の痕《あと》一ヶ所又|小鬢《こびん》の外《はづ》れより目尻に疵痕《きずあと》二ヶ所有り至つて惡相《あくさう》なれば奉公人の欠落《かけおち》合點《がてん》行《ゆか》ずと思はれ斯は申されしなり夫より勘兵衞は早速《さつそく》彦兵衞方へ行《ゆき》勿々《なか/\》三日の中に三十兩の品は出來申さず何卒《なにとぞ》右の品|其許《そのもと》にて御求め下され借用の一札を入《いれ》利足《りそく》は何程《なにほど》にても出し申さんと云へば彦兵衞も氣の毒に思ひ我等も問屋の方|塞《ふさが》り不都合《ふつがふ》なれども此譯《このわけ》を話しなば得心《とくしん》も致す可きかなれども其品は今十五兩と廿兩見せねば出來難きゆゑ貴殿十五兩|才覺《さいかく》し給へ夫にて誂《あつら》へ主の方は片付《かたづけ》べしと云ふに勘兵衞|此節《このせつ》は三兩とても出來難しとて請付《うけつけ》ねば彦兵衞も餘りの事に思ひ夫にては是非に及ばず御公儀次第と挨拶にぞ及びける茲に勘兵衞の妻お貞は元《もと》男勝《をとこまさ》りの女なりしが先の本夫《をつと》に別れしより勘兵衞に六年程|連添《つれそひ》居て此度の一件を聞《きゝ》家内中の衣類《いるゐ》を質入《しちいれ》し又は諸處ヘ無心もなし其上に博奕《ばくち》の堂敷《だうしき》を取らば十兩は出來申さん夫を彦兵衞へ渡して頼み給へ御番所へ度々《たび/\》出《いで》て若《もし》も舊惡《きうあく》が知れなば爲に成るまじと云へども運命《うんめい》盡《つき》たる勘兵衞故其事は少しも氣遣ひなし何《どう》して/\身代が大切大金を出《いだ》してなるものかと云《いふ》中《うち》に早三日立て呼出の日と成り双方《さうはう》罷出《まかりいで》しに勘兵衞其方は何故金子調達致さぬぞ今日中に彦兵衞へ渡せと有りし時|仰《おほせ》の如《ごと》く樣々《さま/″\》才覺《さいかく》仕つれども急に整《とゝの》ひ候はず何卒|日延《ひのべ》の儀を願ひ奉つると云ふを稻葉殿以ての外|叱《しか》られ其方|船持《ふねもち》と彦兵衞が口上に有り船を賣りても差出すべきに不屆なりと申さるれば勘兵衞私し病氣に付き不自由《ふじいう》にて船乘《ふなのり》も出來難く其故|別《べつ》して難澁《なんじふ》仕つり候間|兎角《とかく》出來兼ね恐入候と申を汝出來ぬと言て彦兵衞は如何《どう》して其品を持主へ返《かへ》すべきや此上《このうへ》入牢《じゆらう》と成《なつ》ても出さぬ所存《しよぞん》かと申さるゝに勘兵衞恐れ入り御慈悲《おじひ》を願ひ奉つると平伏《へいふく》して居るゆゑ淡路守殿如何に彦兵衞其方へ申|込《こん》だる事でも有るかと尋ねられしかば彦兵衞|這出《はいいで》勘兵衞儀|不如意《ふによい》に付《つき》金子出來兼當分の内問屋より右の品|借受《かりうけ》追《おつ》て返濟《へんさい》致さんと申し候に付私し儀問屋に借金《しやくきん》も是あり切《せめ》て當金の十五兩も遣《つかは》さねば出來難き旨《むね》申|斷《ことわ》り候と申立るを聞かれ夫は奇特《きどく》なる申|分《ぶん》夫さへ得心《とくしん》せぬは合點《がてん》の行《ゆか》ぬ奴なり手錠《てぢやう》申付明日より三日の内に三十兩調達致せと猶々《なほ/\》嚴敷申渡されけり是|偏《ひとへ》に淡路守殿勘兵衞を怪敷《あやしく》思はれし故なりとぞ其頃《そのころ》海賊《かいぞく》二人召捕れ詮議《せんぎ》有《あり》しに是等は八|艘飛《さうとび》の與市《よいち》と云ふ者の子分にて海賊となりし由申ける故其與市は何方《いづかた》に住居《すまひ》致すやと糺《たゞ》されしに海賊共七八年以前|泉州《せんしう》堺《さかひ》又は安藝《あき》の宮島《みやじま》阿州《あしう》尼子《あまこ》の浦《うら》に相住《あひすみ》海中にて西國大名の荷物船へ飛乘《とびのり》賊を働《はたら》き候が向うに手利《てきゝ》の侍士《さぶらひ》あり疵を請《うけ》夫より働き不自由に相成候とて海賊を廢《やめ》し故今は何方《いづかた》に住居《すまひ》仕つるや存《ぞんじ》申さずと答《こたへ》により其與市の疵は如何樣の大疵にて働き不自由になりたるぞと云《いは》るれば海賊共|額《ひたひ》より口へかけ一ヶ所|小鬢先《こびんさき》より目尻迄《めじりまで》二ヶ所左の腕《うで》より臂《ひぢ》を切られ右の小指一本之なく候と云を聞かれ與市は何方《いづかた》の生れ又年は何歳位《いくつぐらゐ》の男なるや彼の者共|考《かんが》へて歳は四十六|元《もと》大坂生れと承まはり候と申故夫にて宜《よし》早速《さつそく》勘兵衞を召捕《めしと》れと同心を東堀《ひがしぼり》へ向《むけ》られける勘兵衞は斯《かゝ》る事の有《あり》とは知らず明日御番所へ出《いで》未《いま》だ金は出來ぬと云《いは》ば入牢となるに疑ひなしと思ひ彦兵衞方へ掛合《かけあひ》十兩渡す對談《たいだん》に致せし所|俄《にはか》に捕方《とりかた》踏込《ふみこん》で勘兵衞を本繩《ほんなは》に掛《かけ》奉行所へ連行《つれゆか》るゝゆゑ[#「連行るゝゆゑ」は底本では「連行るゝゑゆ」]當人は云ふに及ばず家内の者大いに驚き此度の一件に付て召捕るゝ筈《はず》なしと怪《あや》しみ居たるに勘兵衞は頓《やが》て白洲へ引出《ひきいだ》され彼の海賊共と押竝《おしなら》べての吟味《ぎんみ》に付《つき》双方《さうはう》顏《かほ》を見合せて驚きし樣子を稻葉殿には見て取《とら》れ如何に海賊共與市は手に入《いり》たり此者に相違《さうゐ》有《ある》まじと云はれし時|詞《ことば》を揃《そろ》へ與市に違《ちが》ひなき由申ければ淡路守殿如何に勘兵衞其方儀|豫《かね》て怪敷《あやしき》廉《かど》も之《これ》有《ある》により取調《とりしらべ》に及びし處海賊の與市に違ひなし眞直《まつすぐ》に舊惡を申立よとありしに勘兵衞是は南無三と思ひしが隱《かく》せるだけ隱さんと私し事與市と云《い》ひたる覺《おぼ》え之なし元來《もとより》勘兵衞と申候と陳《ちん》ずるを稻葉殿イヤ汝《なんぢ》隱《かく》すとも茲に居る海賊共は汝が手下《てした》同類《どうるゐ》なりと申し汝先年船中にて働《はたら》きし時手疵を負《おひ》右の小指《こゆび》なきは確《たしか》なる證據なり與市白状致せと申さるゝに勘兵衞は空嘯《そらうそぶ》き如何樣に御尋ねあるとも私し儀《ぎ》與市と申たる儀御座なく候と白状なさねば猶《なほ》海賊共に尋《たづね》らるゝに與市に相違之なくと申にぞ淡路守殿勘兵衞に對《むかは》れ其方|面體《めんてい》の疵は何人《なにびと》に切《きら》れたるや有體に申せと睨《にら》み付らるゝに勘兵衞も命の際《きは》なれば何分白状なさず因て先入牢申付られ劇敷《はげしく》拷問《がうもん》に及びしかば終に舊惡《きうあく》悉皆《こと/″\》く白状しける故右海賊共と一處に引廻《ひきまはし》の上《うへ》獄門《ごくもん》に行はれたり然《され》ば勘兵衞の妻は今更《いまさら》詮方《せんかた》なく漸々《やう/\》に首《くび》を貰《もらひ》て念頃《ねんごろ》に弔《とふら》ひしとかや [#8字下げ]第三回[#「第三回」は中見出し]  因て勘兵衞の妻お貞は倩々《つく/″\》考ふるに彼の彌七が取迯《とりにげ》の事より出入となりて夫《をつと》勘兵衞殿御|仕置《しおき》となられしなり彌七が事さへなければ舊惡《きうあく》露顯《ろけん》もなすまじきものを如何にも口惜《くちをし》き事哉《ことかな》此上は彌七を見當り次第《しだい》討取《うちと》つて夫に手向《たむけ》んと思ひ悴《せがれ》太七を呼《よび》勘兵衞殿は其方の爲《ため》に實《じつ》の親には有ねども六ヶ年の間《あひだ》世話《せわ》になりたれば親に違ひなし彌七を見付次第|討取《うちとつ》て佛へ手向《たむけ》ずば人と云はぬぞと申渡すに太七は此時十八歳に成《なれ》ども餘り義心《ぎしん》少《すくな》き生《うま》れなれば一向其心なし然れども母の命《めい》を背《そむ》き難く委細《ゐさい》承知せしと云《いひ》て夫より種々《さま/″\》に心を付て諸方を尋ね常々《つね/″\》新町へも入込《いりこみ》居たりしに彌七は勘兵衞が御仕置《おしおき》となりたる事を聞《きゝ》最早《もはや》[#ルビの「もはや」は底本では「きはや」]恐《おそ》るゝ者なしと四五日以前に大坂へ立戻《たちもど》り久々にて一|晩《ばん》遊《あそば》んと其年七月十五日の夜新町の茶屋へ這入所《はひりしところ》を太七は見付早々立歸つて母に斯と咄《はな》すに母は大いに悦《よろこ》び勘兵衞が脇差《わきざし》を太七に指《さゝ》せ其身は出刄庖丁《でばばうちやう》を隱《かく》し夜半頃新町橋に到《いたり》て待受《まちうけ》たり彌七は斯る事とは夢《ゆめ》にも知ず其夜は大いにざんざめき翌朝《よくてう》夜明方《よあけがた》に新町の茶屋を立出橋へ掛る處を母親お貞は斯《かく》と見るより夫《それ》切《きれ》よ夫《それ》押《おさへ》よと云《いふ》に太七は慄《ふる》へ居て役に立ざれば母親は衝《つ》と進みより通《とほ》り違《ちがひ》に太七が帶《たい》したる脇差を引拔《ひきぬき》彌七の眉間《みけん》より眼へ掛《かけ》て切付たれば彌七はヤレ人殺し/\とて迯《にげ》んとするを疊《たゝみ》かけて右の腕を切落《きりおと》すに慟《どう》と倒《たふ》るゝ處を太七は慄《ふる》へながら取て押へる中町内より人々立出樣子を聞《きゝ》母子諸共《おやこもろとも》先番屋へ引上《ひきあげ》勘兵衞が後家の家主を呼《よび》段々《だん/\》掛合《かけあひ》の上屆に及びしかば檢使《けんし》出張《しゆつちやう》にて勘兵衞|後家《ごけ》并《ならび》に太七が口書《くちがき》を取直に稻葉淡路守殿吟味に及ばれし處後家は謹《つゝし》んで夫《をつと》勘兵衞舊惡の事は私し共一向|存《ぞんじ》申さず六年以前夫婦と相成《あひなり》し以來|更《さら》に惡事《あくじ》も之なく人の世話《せわ》も致し信心《しんじん》を第一と心掛《こゝろがけ》私くし共に目を掛|勞《いたは》り呉《くれ》候間惡人とは少《すこし》も心得ず又彌七儀は私しには少し身寄《みより》の者故勘兵衞儀奉公の受人《うけにん》と相成候處|渠《かれ》が取迯《とりにげ》より事《こと》發《おこ》りて終に御仕置に相成候得ば御公儀樣《ごこうぎさま》には御道理《ごもつとも》の御仕置にも有べきが私しどもの身には彌七は本夫《をつと》の敵《かたき》故《ゆゑ》討取《うちと》り候に違ひなく如何樣の御仕置に仰付《おほせつけ》られ候とも御恨《おうらみ》とは存じ奉つらずと思ひ込《こ》んで申を聞《きか》れ淡路守殿大いに感《かん》じられ彌七事金高の品を持迯《もちにげ》致し主人彦兵衞に難儀《なんぎ》を掛《かけ》夫が爲勘兵衞事番所へ出たる故|舊惡《きうあく》露顯《ろけん》して御仕置と相成事|畢竟《ひつきやう》彌七より事|起《おこ》りたれば同人儀は召捕《めしとり》次第仕置にも行ふ者なる故其方共へ咎《とが》め申付るに及ばず偖々《さて/\》女には珍敷者《めづらしきもの》なりと大いに賞美《しやうび》致されける是より後お貞は女伊達《をんなだて》となり大の男の中へ立交《たちまじ》りて口を利《きく》に物事能分別し太七を船乘《ふなのり》にして船を補理《こしら》へ名を勘兵衞と改《あらた》めさせ其頃《そのころ》名高《なだか》き女にありしとかや [#8字下げ]第四回[#「第四回」は中見出し]  偖又|堂島《だうじま》の小間物屋彦兵衞は彌七の請人《うけにん》勘兵衞事御仕置に成《なり》しかば大いに驚きしが是非なく三十兩の品を辨償《わきま》へ出入先は濟《すま》せしかども此一件より勘兵衞の舊惡《きうあく》顯《あらは》れし事|甚《はなは》だ不便《ふびん》に思ひ居たるに彌七も又殺されしと聞《きゝ》何となく世間も狹《せま》き心になり其上《そのうへ》借金《しやくきん》も多く面白《おもしろ》からねば一先江戸へ下《くだ》り何をして成《なり》とも金の蔓《つる》に取付かんと工夫《くふう》をなし女房にも相談《さうだん》の上|仕合《しあはせ》能《よく》ば其方共の迎《むか》ひに來るべしと云含《いひふく》め留守の入用にと金二十兩を渡し十二歳と九歳の男子を女房に預《あづ》け尚《なほ》又江戸表より一年に五六兩づつは送る約束《やくそく》にて其身は三十兩|懷中《くわいちう》し享保三年の冬《ふゆ》東《あづま》の空《そら》へ下りたり彦兵衞が女房は至つて縫物《ぬひもの》に妙《めう》を得たる故諸處より頼まれ相應《さうおう》に縫錢《ぬひせん》をも取《とり》其上彦兵衞より請取《うけとり》し金もあれば不自由なく消光《くらす》に付《つけ》本夫《をつと》の開運《かいうん》をぞ祈りける偖彦兵衞は江戸の知己《ちかづき》を便《たよ》りて橋本町一丁目の裏店《うらだな》を借《かり》元來《ぐわんらい》覺《おぼ》えたる小間物を商《あきな》ひ未だ東西も知らぬ土地なれども櫛笄簪《くしかうがひ》の荷《に》を脊負《せおひ》歩行《あるく》に名に負《おふ》大都會なれば日本一の貧《まづし》き人もあれば又《また》双《なら》びなき金滿家《かねもち》もありて大名も棒手振《ぼうてぶり》も押並《おしなら》んで歩行《あるく》を構《かま》はぬ繁昌《はんじやう》の地故出入場はなけれども少しづつの錢儲《ぜにまうけ》は有《ある》により己一人身と云《いひ》元來《ぐわんらい》大坂生れの事なれば儉約《けんやく》して消光《くらす》中《うち》段々得意場も出來|始《はじ》め廿兩ばかりの代呂物《しろもの》も四年目には五六十兩の代呂物《しろもの》を仕込大坂へ年に十五六兩も送りて手許《てもと》に十廿の金も有る故|彌々《いよ/\》面白く稼《かせ》ぎしが今年《ことし》は代呂物も百兩程|仕込《しこみ》金も百兩位はある樣に成しかば大坂へ歸《かへ》らんと思ひしに昨日今日と暮《くら》す中《うち》早《はや》五年の月日を送《おくり》ける或日兩國邊より歸《かへ》る途中《とちう》俄《にはか》に夕立《ゆふだち》降來《ふりきた》り雷《はたゝがみ》夥多敷《おびたゞしく》鳴渡《なりわた》れども雨具《あまぐ》なければ馬喰町の馬場の脇《わき》に出格子《でがうし》の有る家を幸ひに軒下《のきした》に立停《たちどま》り我が宅《たく》も早二三町なれども歸ること叶《かなは》ず雨《あめ》に濡《ぬれ》て居るを格子の中より六十餘の人品《じんぴん》能《よき》老女《らうぢよ》聲《こゑ》を懸《かけ》其許《そのもと》庇《ひさし》の下に居るとも濡《ぬ》れ給ふべし此方へ入《いり》て雨を凌《しの》がれよと念頃《ねんごろ》に申せしかば彦兵衞大いに悦《よろこ》び然《さら》ば仰せに隨《したが》ひ暫時《しばし》雨舍《あまやど》りを願はんと家へ這入《はひれ》ば下婢《をなご》は茶《ちや》煙草盆《たばこぼん》などを持出て挨拶《あいさつ》なし斯《かう》雷《らい》の鳴《なる》に女ばかりにて淋《さみし》き折柄《をりから》故《ゆゑ》晴《はれ》るまで咄《はなし》給へと取卷《とりまき》しかば彦兵衞は元來|辯舌《べんぜつ》能《よく》上方《かみがた》の名所又は女郎屋の體等《さまとう》面白《おもしろ》く咄《はなす》により老女も興《きよう》に入り其許《そのもと》には何方に住宅《すまひ》致され候やと尋ねけるに私しは御近處橋本町|願人《ぐわんにん》坊主《ばうず》の隣《となり》に罷在《まかりあり》て小間物|商賣《あきなひ》致し候と云ふを聞て幸ひ銀《ぎん》の松葉の小《ちひさ》き耳掻《みゝかき》が欲《ほし》しと有る故|直段《ねだん》も安く賣《うり》彼是《かれこれ》する中に雨も止《やみ》しかば暇乞《いとまごひ》して歸《かへ》りけり [#8字下げ]第五回[#「第五回」は中見出し]  偖小間物屋彦兵衞は翌日《よくじつ》手土産《てみやげ》を持《もち》馬喰町馬場の脇《わき》なる彼の女|隱居《いんきよ》の許《もと》へ行《ゆき》昨日《きのふ》雨舍《あまやど》りの禮を言《い》ひて直《すぐ》に商賣《あきなひ》に出しが是より心安くなり宵《よひ》の内など咄《はなし》に行《ゆき》近處《きんじよ》へ出入場の世話をして貰ひけるが或時|貴君《あなた》の御本宅は何方《いづかた》に候やと聞《きけ》ば老女私は馬喰町二丁目[#「馬喰町二丁目」は底本では「馬喰町二丁自」]米屋市郎左衞門と云ふ旅籠屋《はたごや》の隱居《いんきよ》なれども甥《をひ》が居る所は家内も大勢《おほぜい》殊《こと》に客の有る時は百人も押込《おしこむ》故《ゆゑ》逆上《のぼせあが》りて血の道も起《おこ》す程の騷《さわ》ぎ成《なれ》ば私ばかり物靜《ものしづか》に消光度《くらしたく》と別宅致せしなりとの咄《はなし》を聞《きゝ》御本宅へも御出入を仰付《おほせつけ》られ下さるべしと申故米屋へも出入となり其上《そのうへ》急《きふ》に出物などにて金子に差支《さしつかへ》る節其は二三十兩又は五十兩と時借《ときがり》も致し尤も其都度々々《そのつど/\》速《すみや》かに返濟《へんさい》なす故隱居も彦兵衞が堅《かた》き事を知て何時にても用達《ようだて》て呉るのみならず諸處ヘ引付《ひきつけ》出入場も多く出來るに付|明暮《あけくれ》立入《たちいり》隱居《いんきよ》の用事とあれば渡世《とせい》を休《やす》みても致し居たり或時|雨天《うてん》にて彦兵衞は商《あきな》ひを休《やす》み隱居の方《かた》へ遊びに參りしに難波戰記《なんばせんき》の本《ほん》有《ある》を彦兵衞元來|本好故《ほんずきゆゑ》取上《とりあげ》[#「元來|本好故《ほんずきゆゑ》取上《とりあげ》」は底本では「元|來本好故取《ほんずきゆゑとりあげ》上」]見れば鴫野今福《しぎのいまふく》の合戰なり是は古郷《こきやう》のことに付土地の方角《はうがく》も委《くは》しければ面白く覺《おぼ》え口の内にて讀居《よみゐ》たるを見て隱居少し讀《よん》で聞《きか》せられよと申しければ心得たりと聲を上《あげ》て讀《よむ》に辯舌《べんぜつ》も能《よく》支《つか》へると云ふ事なく佐竹家の侍士《さむらひ》大將|澁江内膳《しぶえないぜん》梅津《うめづ》半右衞門|外村《とのむら》十太夫等先陣に進み一の柵《さく》二の柵を打破《うちやぶ》り井上五郎左衞門|飯田左馬助等《いひださまのすけとう》を討取《うちとり》猶《なほ》三の柵片原町なる大學《だいがく》が持場迄《もちばまで》此勢《このいきほ》ひに崩《くづ》れんとする處へ本城より加勢《かせい》として木村長門守重成《きむらながとのかみしげなり》後藤《ごとう》又兵衞|基次《もとつぐ》秀頼公の仰《おほせ》に隨ひ繰出《くりいだ》したりと讀《よみ》て彦兵衞|莞爾《につこ》と笑《わら》ひながら是よりは佐竹樣|大負《おほまけ》と成て御家老衆《ごからうしう》討死《うちじに》致され佐竹左中將|義宣公《よしのぶこう》も危い處へ佐竹六郎殿|駈付《かけつけ》て討死致されたればこそ佐竹樣危き命を助《たすか》り給ひしと咄《はな》しければ隱居は今迄面白く聞居《きゝゐ》たりしが彦兵衞が咄《はなし》を耳にも入《いれ》ず勝手へ立《たつ》て何やらん外の用事をして居るゆゑ彦兵衞も本《ほん》を止《やめ》煙草《たばこ》を呑《のん》で色々咄を仕掛るに隱居は兎角《とかく》不機嫌《ふきげん》故《ゆゑ》手持不沙汰《てもちぶさた》に其日は立歸《たちかへ》りしが彦兵衞は如才《じよさい》なき男なれば偖佐竹樣の勝《かつ》た所を悦《よろこ》び負《まけ》た所を嫌《いや》がるは何か謂《いは》れ有るべしと思ひ翌日《よくじつ》は馬喰町の米屋へ立寄《たちより》小間物を取廣《とりひろ》げ少しの商《あきな》ひを爲《し》ながら市郎左衞門の女房に對《むか》ひ御隱居樣には御年は寄給《よりたま》へど御人柄《おひとがら》勝《すぐ》れ常の御方とは見え申さず如何なる御由緒《ごゆゐしよ》に候やと尋《たづ》ねしに女房笑ひながら此方《こちら》に居給へば御不自由はなけれど佐竹樣の御年寄《おとしより》を廿年|勤《つとめ》られ只今以て三人|扶持《ふち》づつ參る故|徐《しづか》に消光《くらす》のが望みなりとて馬喰町馬場に隱居して居給ふと委細《ゐさい》咄《はな》しけるを聞て彦兵衞大いに後悔《こうくわい》なし道理《だうり》こそ佐竹家の敗軍《はいぐん》心に適《かな》はず仕方こそ有るべしと夫より本屋を尋ね天安記《てんあんき》と云《いへ》る書物を借出《かりいだ》し隱居の方へ行て咄をするに一向機嫌の直《なほ》らぬ樣子なれば彦兵衞も金庫《かねぐら》をなくしてはならずと種々《いろ/\》に機嫌を取《とり》面白《おもしろ》い本を御覽《ごらん》に入申さんと存《ぞんじ》て持參致したり少し讀《よみ》申べし御聞なされよと佐竹殿小田山より落《おと》し掛《かけ》天安《てんあん》が籠《こも》りたる小田の城を一時に攻落《せめおと》したる佐竹家の武功《ぶこう》を辯に任《まか》せ讀上ると隱居は大いに機嫌直り豫《かね》て小田天安を討亡《うちほろぼ》し給ふと云事は聞たれども本を見たる事なきに能《よく》こそ珍敷《めづらしき》事を聞《きか》せられしと打悦び詞の和《やは》らぐを見て大坂|鴫野《しぎの》の合戰は上杉樣|負軍《まけいくさ》になる處を佐竹樣御歳六十になり給ひながら薙刀《なぎなた》を以て向ふ敵に渡《わた》り合《あひ》八九人|薙伏《なぎふせ》られしかば諸軍此勢ひに乘て追討《おひうち》したる故木村も後藤も遂に叶《かなは》ず柵の中へ迯込《にげこみ》しが共大坂の者には夫にては面白からぬに付木村が十分に勝《かち》し樣に書《かき》たると思はれ候と辯を震《ふる》ひて云直《いひなほ》しければ年は取ても女の事故|殊《こと》の外《ほか》機嫌能《きげんよく》緩々《ゆる/\》彦兵衞に馳走なし前々の通り懇意《こんい》に出入をさせたりける或時彦兵衞隱居の方へ來り淺草觀音地内の小間物屋に品物《しなもの》有る故仲間内の直踏《ねぶみ》には十五兩から九十兩まで付上《つけあげ》たれども能々《よく/\》見るに百兩に買ても二十兩位は利の有る代物《しろもの》なれば私し百兩と入札《にふさつ》致《いたし》落札《おちふだ》になりたる故十兩|手附《てつけ》を遣《つかは》し置《おき》し處明日九十兩持參致し代物《しろもの》を請取《うけとり》直《すぐ》に賣ても十四五兩は儲《まうけ》有《あ》り徐々《そろ/\》賣ば三十兩は屹度《きつと》利の有る品何卒九十兩御貸下さるべし直に御入用に候はゞ糶拂《せりはら》ひにして指上《さしあげ》申べし少々《せう/\》手間取《てまどり》ても苦しからずば代物を御預け申て段々|御勘定《ごかんぢやう》致さんと申に隱居は是を聞《きゝ》偖々|困《こまつ》た事哉《ことかな》先月なれば早速用立申さんに當月は霜月《しもつき》ゆゑ何分《なにぶん》貸難《かしがた》く氣の毒なりと申を夫は何故なりやと尋るに然れば豫《かね》て御門跡樣《ごもんぜきさま》へ百兩|上《あげ》たいと思ひ御屋敷より頂戴《ちやうだい》の御目録《おもくろく》又は入ぬ物を賣拂《うりはらひ》漸々《やう/\》百兩|整《とゝの》へし故此|御講《おかう》の内《うち》に上る願ひ是を見給へと百兩包を箪笥《たんす》の抽斗《ひきだ》しより取出して見せけるを彦兵衞大いに感《かん》じ偖々御信心なる事|尋常《なみ/\》の者には勿々《なか/\》出來難き御事なるを能《よく》こそ心掛給ひしと甚《いた》く賞美《しやうび》なし外々にて才覺致候はんと申ければ隱居は暫く考へ脊負葛籠《せおひつゞら》[#ルビの「せおひつゞら」は底本では「せおひつぶら」]一ツ取出し中より猩々緋《しやう/″\ひ》虎《とら》の皮《かは》古渡《こわた》りの錦《にしき》金襴《きんらん》八|反《たん》掛茶入《かけちやいれ》又は秋廣《あきひろ》の短刀五|本骨《ほんぼね》の扇《あふぎ》の三|處拵《ところごしら》への香箱《かうばこ》に名香《めいかう》品々《しな/″\》其外金銀の小道具を見せ是を質に入れたれば小百兩は貸《かし》さうなものなりといひければ彦兵衞大いに悦《よろこ》び當分御入用なくば御貸下さるべし用辨次第早速御返し申さんと日暮過《ひくれすぎ》に右の品々を借請《かりうけ》我家へ立歸り家主八右衞門に頼み右の品を質物《しちもつ》に入れ五十兩|借請《かりうけ》其身も二十兩程は貯《たくは》へたれば少しの事は如何樣にも成《なる》べし明《あけ》なば小間物を引請《ひきうけ》一|儲《まう》けせんと樂み夜の明るを待居《まちゐ》たり扨又米屋の見世にては田舍《ゐなか》より大勢客が泊《とま》り込《こみ》手が廻《まは》らぬ故隱居所の下女を借《かり》て働《はたら》かせしが其の夜は遲《おそ》く成《なり》しかば翌朝|歸《かへ》しけるに早《はや》辰刻頃《いつゝごろ》なるに隱居所の裏口《うらぐち》締《しま》り居て未だ起ざる樣子なれば大いに怪《あやし》み何時《いつ》も早く目を覺《さま》し給ふに合點《がてん》行《ゆか》ずと無理にこぢ明《あけ》て這入《はひり》見れば這《こ》は如何に隱居は無慚《むざん》にも夜具の中に突殺《つきころ》され朱《あけ》に染《そみ》て死したればアツとばかりに打驚き惘《あき》れ果てぞ居たりける [#8字下げ]第六回[#「第六回」は中見出し]  斯《かゝ》りし程に下女は慌狼狽《あわてふためき》近所《きんじよ》の人々に聞ども誰《たれ》知《し》る者もなく早速《さつそく》米屋《こめや》へも知らせければ市郎左衞門は云に及ばず我も/\と駈付《かけつけ》朱《あけ》に染《そみ》たる死骸を見て皆々《みな/\》茫然《ばうぜん》として言葉もなかりしが市郎左衞門|涙《なみだ》を拂ひ何ぞ紛失《ふんじつ》の物はなきやと吟味《ぎんみ》に及ぶ所《ところ》豫々《かね/″\》大切にせし脊負葛籠《せおひつゞら》の無は盜まれたりと覺えしと云時夫は昨日夕方に彦兵衞殿參られ御隱居樣《ごいんきよさま》に願ひお金の代りに四五日|拜借《はいしやく》して行《ゆか》れしと下女が詞《ことば》に其《そ》は又如何の譯成《わけなり》と問ば昨日彦兵衞殿金子の無心を申せし時百兩包を出して見せられ此お講中《かうぢう》に門跡樣《もんぜきさま》へ納る故《ゆゑ》貸事《かすこと》叶《かな》ひ難し其代りに是を貸《かさ》んとてお葛籠《つゞら》を貸給ひしが其お金は如何やと申故|箪笥《たんす》の引出を明て見るに其金《そのかね》なければ偖《さて》は盜賊《たうぞく》の業《わざ》に違なし然れ共其金の在所《あるところ》を知る人はなき筈なり夫とも誰《たれ》ぞ金子《きんす》を見たらしき者はなきやと聞に下女は考《かんが》へ夫も彦兵衞殿より外に見た者は無と申|故《ゆゑ》偖《さて》は下女の留守を知て奪《うば》ひ取たるに疑《うたが》ひなし左右《とかく》此儘《このまゝ》には指置難しとて早々《さう/\》其段|訴《うつた》へ出檢使を願ひしかば程なく檢使《けんし》の役人《やくにん》入來《いりきた》りて疵所《きずしよ》を改め家内の口書《くちがき》をとり何ぞ心當りはなきやと尋《たづ》ねの時右彦兵衞が事を委細《ゐさい》に申立しにぞ是《これ》又《また》町所《ちやうところ》を書記《かきしる》し南町奉行所へ立歸り大岡殿へ申立ければ早速《さつそく》召捕《めしとる》べき旨申渡されしにより同心二人|直《すぐ》に橋本町へ立越《たちこえ》し所《ところ》彦兵衞は他行《たぎやう》致《いた》し淺草へ罷越《まかりこし》たる由ゆゑ途中に待受しを知らず彦兵衞は金の蔓《つる》に有り付たりと悦《よろこ》び勇み望みの荷物を請取《うけとり》是《これ》を那《あゝ》して斯《かう》してと心に悦《よろこ》び我が家《や》を指て立歸《たちかへ》り淺草御門迄來懸る處を上意と聲《こゑ》掛《かけ》忽《たちま》ち召捕れしかば彦兵衞ハツと驚きしが偖は買付たる小間物は盜物《ぬすみもの》なりしかと思ひ馬喰町の番屋《ばんや》へ上られ早々橋本町へ申遣しければ家主《いへぬし》始《はじ》め長屋の者共駈付彼是の世話をなし又は下帶《したおび》鼻紙等迄《はなかみとうまで》心付《こゝろづけ》氣《き》を丈夫に持給《もちたま》へ大方物の間違ならんにより頓《やが》て清き身體になるべしと力を付などする中《うち》彦兵衞は奉行所へこそ引れけれ [#8字下げ]第七回[#「第七回」は中見出し]  偖《さて》も小間物屋彦兵衞は其身《そのみ》罪《つみ》なくして享保《きやうほ》八年|霜月《しもつき》十八日|入牢《じゆらう》となりしが同廿一日馬喰町市郎左衞門并に下女留|隱居所《いんきよじよ》の隣家《りんか》の者町役人等迄呼出有りて大岡殿市郎左衞門と呼上《よびあげ》られ其方|伯母《をば》は何歳に相成やと尋《たづね》らるゝに市郎左衞門|平伏《へいふく》して六十五歳に相成候と申立ければ夫程《それほど》の老人と云殊に女の身なるに何故《なにゆゑ》一|人《にん》指置《さしおき》しやとあるに市郎左衞門其儀は同居仕つるやうに申候へ共私し店の儀は大勢《おほぜい》の泊《とま》り客《きやく》入込《いりこみ》騷《さわ》が敷《しき》を嫌《きら》ひ向島か根岸邊へ隱居《いんきよ》致度《いたしたき》由《よし》望《のぞ》み候へども漸々《やう/\》勸《すゝ》め近所へ差置下女一人付置候|處《ところ》其日《そのひ》野州邊《やしうへん》より男女の旅人五六十人着し其外《そのほか》泊《とま》り客《きやく》大勢《おほぜい》之《これ》あり凡百人ばかり故《ゆゑ》勿々《なか/\》手《て》廻《まは》り兼るに付隱居所の下女を借て手傳《てつだ》はせしに夜《よ》も更《ふけ》し儘《まゝ》其夜《そのよ》は下女事私し方へ泊り翌朝《よくてう》客《きやく》の給仕《きふじ》などを仕舞て立歸り候處右の騷動《さうどう》故《ゆゑ》大いに驚き候由を申立しかば大岡殿|下女《げぢよ》留《とめ》に向はれ只今市郎左衞門が申|立《たて》通《どほ》りなりや又彦兵衞が隱居《いんきよ》を殺し金子を奪《うば》ひ取し者とは如何《いかゞ》して知りたるやと問れしにぞ留は恐《おそ》る/\顏を上《あげ》彦兵衞事常々隱居所へ立入り金銀を隱居《いんきよ》より借請《かりうけ》し事も御座りし處去る十七日右彦兵衞參り小間物《こまもの》の拂《はら》ひを買候に百|兩《りやう》程《ほど》入用《にふよう》故《ゆゑ》九十兩ばかり一|兩日《りやうじつ》借度《かりたき》由《よし》を申せしに隱居は暫時《しばらく》考《かんが》へ正直なる彦兵衞なれば用立度は思へ共《ども》豫《かね》て心願にて御門跡樣《ごもんぜきさま》へ百兩|上度《あげたく》と漸々《やう/\》調《とゝの》へ此お講《かう》の中に指上るに付今は出來難き由を斷《ことわ》り箪笥《たんす》の抽斗《ひきだし》より右の百兩を出して見せしに彦兵衞も隱居《いんきよ》の信心を譽《ほめ》外々《ほか/\》にて才覺《さいかく》致《いた》さんと申|時《とき》隱居《いんきよ》脊負葛籠《せおひつゞら》を取出し是を質に置れなば五六十兩は貸《かし》申べしと云し時夫は忝《かたじけ》なしと持て歸り候|面體《めんてい》殊《こと》の外《ほか》怪敷《あやしく》存《ぞん》じ候と申ければ大岡殿市郎左衞門は如何《いかゞ》存《ぞん》ずるやと尋られしに市郎左衞門其儀は日頃彦兵衞|柔和《にうわ》なる男には候へども舊《もと》大坂《おほさか》生《うま》れゆゑ關東者と違ひ心根《こゝろね》怖敷《おそろしく》十が九ツ彦兵衞に違《ちが》ひ之なしと申立るを能々《よく/\》勘考《かんがへ》見《み》よ質物《しつもつ》を貸て遣す程の懇意《こんい》成《なる》をまさかに忍び込《こみ》殺害《せつがい》は致すまじと思はるれど夫共彦兵衞に相違《さうゐ》なきやと念を押るゝに市郎左衞門は一途《づ》に彦兵衞と思ひ込《こみ》其《そ》の邊《へん》も段々《だん/\》内吟味仕《ないぎんみつかま》つりしに右百兩は隱居儀《いんきよぎ》竊《ひそか》に貯《たくは》へ置しを十七日朝の内《うち》封金《ふうきん》に拵《こしら》へ候へば外に見たる人は決して御座なく彦兵衞にばかり見せたる事に付|何分《なにぶん》怪《あや》しく彦兵衞儀を御吟味遊《ごぎんみあそ》ばされ伯母《をば》の敵《かたき》御取下《おんとりくだ》され候樣にと申ければ大岡殿も道理《もつとも》に思はれ其後彦兵衞を呼出《よびいだ》されし上|其方《そのはう》常《つね》に立入て懇意《こんい》に致し金銀迄《きんぎんまで》借受《かりうけ》る程の隱居《いんきよ》を何故《なにゆゑ》殺害《せつがい》に及び剩《あまつ》さへ百兩の金を奪ひ取りしぞ不屆至極《ふとゞきしごく》なり眞直《まつすぐ》に申せと問糺《とひたゞ》されしかば彦兵衞は意外の事に思ひ私し儀《ぎ》日頃《ひごろ》恩《おん》を請《うけ》候隱居を何とて手に掛け申べきや其儀《そのぎ》は一|向《かう》覺《おぼ》え之なくと申に大岡殿|然共《されども》隱居《いんきよ》が貯《たくは》へたる百兩の金を見たる事有や但《たゞし》知らぬかと申されければ其百兩は存じ居候私し儀《ぎ》淺草《あさくさ》に於て小間物の拂ひ入札仕《にふさつゝかま》つり私し札に落候故十兩手附を遣《つかは》し外に廿兩|持合《もちあは》せ有れども七十兩|足《たり》申さず候間五六日の處七八十兩借用申度と隱居《いんきよ》へ申込候處當金百兩有れども門跡樣《もんぜきさま》へ納る故《ゆゑ》用立難《ようだちがた》しと是非なく相斷《あひことわ》り候に付外にて手段せんと暇乞《いとまごひ》致《いた》せし時質物を貸《かし》呉《くれ》候|間《あひだ》隱居《いんきよ》の志操《こゝろざし》を感じ入《いり》背負《せおひ》葛籠《つゞら》を預り家主を相頼み五十兩の質物に入れ外にて金三十兩|借請《かりうけ》淺草《あさくさ》へ參り荷を引取《ひきとり》歸《かへ》り候途中にて召捕れ其節《そのせつ》彼《か》の隱居人手に懸りし事も承まはり重ね/″\大いに驚き申候と言立るを大岡殿|怪敷《あやしく》思《おも》はれ右百兩は十七日の朝《あさ》包金《つゝみきん》に拵《こしら》へ夕方[#「夕方」は底本では「方方」]其方に見せ隱居《いんきよ》は血《ち》の道にて宵から寢たと有れば外に右の金を知る者なし依ては人殺《ひとごろし》盜賊《たうぞく》の段《だん》有體《ありてい》に白状致せと嚴敷《きびしく》申されけれども決して右體の惡事《あくじ》致《いたし》たる事なしと申|切《きる》故《ゆゑ》是非なく拷問《がうもん》に掛《かけ》日夜《にちや》牢問《らうとひ》嚴《きび》しければ苦痛《くつう》に堪兼《たへかね》寧《いつそ》無實《むじつ》の罪を引受此苦みを免れんと覺悟《かくご》をなし如何にも隱居《いんきよ》を殺し百兩奪ひ取候に相違之なくと白状《はくじやう》に及び口書《こうしよ》爪印《つめいん》をなせしにより終に死罪の上|獄門《ごくもん》とぞ成にける(此彦兵衞|牢内《らうない》に居て煩《わづら》ひ暫時《ざんじ》の中に面體《めんてい》腫脹上《はれあが》り忽ち相容變りて元の體《かたち》は少しもなかりしとぞ) [#8字下げ]第八回[#「第八回」は中見出し]  却《かへつ》て説淺草福井町に駕籠舁《かごかき》を渡世として一人は權三といひ一人は助十とよび二人同長屋に居て貧《まづ》しき暮《くら》しなれども正直ものといはれ妻子をもよく養《やう》育しけるが米屋市郎左衞門が伯母《をば》の殺されたる霜月《しもつき》十七日の夜麻布邊へ客《きやく》を乘行《のせゆき》大《おほ》いに遲《おそ》くなりて丑刻《やつどき》ごろ福井町の我が家へ歸り來るに誰やらん天水桶《てんすゐをけ》にて物を洗《あら》ふ樣子なれども暗《くら》き夜なれば確とも知れず寒《さむ》さは寒《さむ》し足早に路次口へ來て戸を叩《たゝ》くに家主勘兵衞は口小言《くちこごと》たら/\立出《たちいで》今夜《こんや》は常よりも遲かりしぞ以後は少《ちと》早く歸る樣に致されよと睨付《ねめつけ》て木戸を開ける故兩人は渡世《とせい》の事なれば那の樣《やう》に云ずとも宜さうなものと思ひながらも商賣柄《しやうばいがら》[#ルビの「しやうばいがら」は底本では「しやうばらがら」]なれば御不肖《ごふせう》あれ以來御世話になるも御氣《おき》の毒《どく》に付《つき》鍵《かぎ》を御借《おかり》申|置《おき》家内《かない》の者に開閉《あけたて》をさせ申さんと云所へ相長屋《あひながや》の勘太郎立歸り路次の開しを幸ひに直と入るを見て家主勘兵衞は莞爾々々《にこ/\》と笑ひかけ勘太郎殿何所へ行れしやなどと何の咎もなく機嫌能《きげんよく》咄《はなし》ながら家《うち》に入るを見て權三助十の兩人の大いに腹《はら》を立《たて》此方《こちら》は貧乏《びんばふ》しても明白手堅《しらきちやうめん》の駕籠舁《かごかき》勘太郎は商賣なし年中《ねんちう》博奕《ばくち》に騙《かた》りなどを渡世に暮せど大屋へ鼻藥《はなぐすり》を遣《やる》故《ゆゑ》何《なに》をしても小言を言ず此町内にて評判の根生惡《こんじやうわる》の家主勘兵衞め退役《たいやく》でもせよかしと呟《つぶや》きながら[#「呟きながら」は底本では「咳きながら」]家に入|今宵《こよひ》は幸ひ旦那を乘《のせ》て六百文ヅツに有付たりと一|盃《ぱい》酒《さけ》の樂《たのし》みに快よく打臥《うちふし》けるが早夜も明し故助十は權三を起《おこ》し今朝は寒《さむ》ければ早く起て朝湯《あさゆ》へ行《ゆき》暖《あたゝ》まらんと呼覺す聲を聞權三も反起《はねおき》打連立《うちつれだち》て表へ出《いで》昨夜《ゆうべ》此所《ここ》にて何か洗し樣子なるが夜中と云《いひ》合點《がてん》行《ゆか》ずと見れば天水桶《てんすゐをけ》の側《そば》は血に染《そみ》中《なか》の水も淡紅《もゝいろ》になりて居る故不思議に思ひ我々が歸ると勘太郎も直《すぐ》に續《つゞい》て這入《はひり》しが慥《たしか》に勘太郎なるべし喧嘩の戻りか但《たゞし》追落《おひおとし》でもしたか生得《しやうとく》惡黨《あくたう》なれば夜稼《よかせぎ》をなすも知れずと噂《うはさ》しながら錢湯《せんたう》へ行しに朝湯も冬は込合《こみあひ》淨瑠璃《じやうるり》念佛《ねんぶつ》漫遊唄《そゝりうた》中《なか》に一段へ足を踏掛《ふみかけ》ながら昨夜《ゆうべ》馬喰町に人殺の沙汰有しが聞かれしやと尋るに一人の男其事は今朝《けさ》見舞《みまひ》に參りしが米屋の女隱居《をんないんきよ》が殺され百兩盜まれたり此事追付御檢視の御出なるべしと云傍より又一人の男夫は何時頃の事なるやと問《とふ》に然《さ》れば子刻《こゝのつ》時分《じぶん》に隱居小用に起たるを隣の女房が見たと云ば其後《そののち》の事ならんとの噂《うはさ》を聞權三助十は目を見合せ心に合點《うなづき》つゝ程なく我家へ歸り昨夜《ゆうべ》の咄《はなし》は勘太郎に極《きはま》つたり是から錢の遣ひ方に氣を付ろと兩人は人にも語らず心を付居たりしに十日ばかり立と博奕《ばくち》に廿兩|勝《かち》たりとて家の造作を始しが押入《おしいれ》勝手元迄《かつてもとまで》總槻《そうけやき》になし總銅壺《そうどうこ》も光輝《ひかりかゞや》かせしかば偖こそ彼奴《きやつ》に違ひなしと思ふ中《うち》小間物屋彦兵衞と云者《いふもの》隱居《いんきよ》を殺し金百兩奪ひ取りしとて御所刑《おしおき》に成しとの噂を聞權三助十の兩人は怪敷《あやしく》思ひ橋本町八右衞門|店《たな》にも駕籠屋《かごや》仲間《なかま》有《あ》る故彦兵衞が樣子を聞に平常《つね/″\》正直《しやうぢき》にて匇々《なか/\》[#「匇々」は底本では「勿論」]人殺《ひとごろ》しなどなす者に非ず全く拷問《がうもん》強《つよ》く苦き儘《まゝ》に白状なし獄門《ごくもん》に成たりと云ふ評判《ひやうばん》にて大屋殿も三貫文の過料《くわれう》を取《とら》れし由併し大屋殿は惡くない人故地主を呼れ退役《たいやく》には及ばぬと仰渡《おほせわた》され一件相濟たれども彦兵衞は愍然《かあい》さうな事をなしたりと咄《はなす》を權三助十は聞《きゝ》彌々《いよ/\》勘太郎を怪く思ふ中勘太郎は家主《いへぬし》始《はじ》め長家中へも少しづつの金を貸與《かしあた》へし故皆々勘太郎を尊敬《そんきやう》すれども權三助十ばかりは渠《かれ》に一向物をも言ず居たりけり [#8字下げ]第九回[#「第九回」は中見出し]  茲に又彦兵衞の妻子は大坂に殘り居ても江戸表より折々三兩五兩づつの金を送《おく》り商《あきな》ひ向《むき》も追々都合よき旨《むね》便《たよ》り有に付|頓《やが》て金銀を貯《たくは》へ歸り來らんと樂《たのし》み待居たる折柄《をりから》店請《たなうけ》の方より今度彦兵衞の一件を委細《くはしく》知《し》らせ來りしかば妻子は大いに歎《なげ》き哀《かなし》みしが如何にも其知らせを不審《いぶかる》人《ひと》の心は旦夕《あしたゆふべ》に變るものとは云ども彦兵衞殿は平常《つね/″\》餘《あま》り正直過《しやうぢきす》ぎて人と物言など致されし事もなきお人なれば盜みは勿論《もちろん》人《ひと》を殺す樣なる事のあるべき筈なし何共《なにとも》合點《がてん》の行ぬ儀なりと云を子息彦三郎は漸く十五歳なれども發明《はつめい》にして孝心《かうしん》深《ふか》き故母の言葉を倩々《つく/″\》聞《きゝ》落《おつ》る涙を押へ是迄《これまで》父樣《とゝさま》の歸り給ふを待居たる甲斐《かひ》もなく罪《つみ》有《あ》る人となつて御仕置《おしおき》と聞ふる時は此大坂中に評判《ひやうばん》を受るも口惜《くちをし》と父樣はとても浮《うか》まれまじきにより私し事《こと》早々《さう/\》江戸《えど》へ參り實否を承《うけた》まはり自然此書中の如くに候へば骨《ほね》を拾ひ御跡《おんあと》を弔《とぶら》ひ申さんと云を傍邊《かたはら》より弟彦四郎是も漸く十二歳なるが進出《すゝみいで》私《わたし》も參り兄と一所に委細《ゐさい》を聞糺《きゝたゞ》し母樣の御心を慰《なぐさ》めんと申せば母は兄弟の孝心《かうしん》を喜び父樣が世に在《いまし》て此事を聞給《きゝたま》はゞ嘸《さぞ》な歡《よろこ》び給ふべし暫《しば》し涙《なみだ》に昏《くれ》けるが否々年も行ぬ其方們《そなたたち》先々《まづ/\》[#ルビの「まづ/\」は底本では「まつ/″\」]見合《みあはせ》[#ルビの「みあはせ」は底本では「めあはせ」]呉《くれ》と云を兄弟は聞ず敵討《かたきうち》に出ると云にも非ず父樣の樣子を聞《きく》爲《ため》參《まゐ》るに何の怖敷事《おそろしきこと》の有らんやと強て申故母も止め兼《かね》夫程《それほど》に思はゞ兄は支度《したく》次第《しだい》江戸へ赴くべし弟彦四郎は此地に止まり我が心を慰《なぐさ》めよと有に是非共兄樣と一所に出立《しゆつたつ》せんと申を兄彦三郎は押止め今兩人江戸へ赴く時は母人《はゝびと》甚《いとゞ》淋《さび》しく思され猶も苦勞《くらう》を増給《ましたま》はんにより其方は母樣の傍《そば》に止りて慰《なぐさ》め進《まゐ》らせよと漸々《やう/\》宥《なだ》め賺《すか》し正月廿一日いまだ幼弱《えうじやく》の身を以て親と思ふの孝心《かうしん》一|途《づ》に潔《いさぎ》よく母に暇乞《いとまごひ》なし五兩の金を路用にと懷中して其夜は十三|里《り》淀川《よどがは》の船に打乘《うちのり》一日も早くと江戸へぞ下《くだ》りける [#8字下げ]第十回[#「第十回」は中見出し]  然程《さるほど》に彦三郎は習《ならは》ぬ旅《たび》なれども孝心《かうしん》深《ふか》きを天も憐《あはれ》み給ふにや風雨の憂《うれひ》も無《なく》十日餘りも立《たち》[#ルビの「たち」は底本では「たて」]川崎宿《かはさきじゆく》へ着て御所刑場《おしおきば》是より何程《なにほど》あるやと尋《たづね》しに品川の手前に鈴ヶ森と云所こそ天下の御仕置場《おしおきば》なり尤も二ヶ所あり江戸より西南の國にて生れし者は鈴《すゞ》ヶ|森《もり》又《また》東北《とうほく》の國の生れなれば淺草《あさくさ》小塚原《こつかはら》に於て御仕置に行はるゝと云由を聞|然《さ》すれば我父は大坂《おほさか》生《うまれ》なれば鈴ヶ森にて獄門《ごくもん》に掛られたる事《こと》疑《うたが》ひなしと夫より六郷の渡場《わたしば》を越《こえ》故意《わざ》と途中《とちう》を手間取《てまどり》大森《おほもり》の邊りに來りし頃は早《はや》夜《よ》も亥《ゐ》の刻《こく》なれば御所刑場《おしおきば》の邊《あた》りは往來《わうらい》の者も有まじと思《おも》ひ徐々《そろ/\》來懸《きかゝ》りしに夜《よ》更と云殊に右の方は安房《あは》上總《かづさ》の浦々《うら/\》迄《まで》も渺々《べう/\》たる海原《うなばら》にして岸邊を洗ふ波音《なみおと》高《たか》く左りは草木《くさき》生茂《おひしげ》りし鈴ヶ森の御仕置場にして物凄《ものすご》き事云ふばかりなし然れども孝行《かうかう》の一心より何卒《なにとぞ》父《ちゝ》の骨を探《さが》し求め故郷《こきやう》へ持歸りて母に見せんと御所刑場《おしおきば》の中へ分入《わけいり》那方《あなた》此方《こなた》を見廻すに闇《やみ》の夜なれども星明《ほしあか》りに透《すか》せば白き骨の多くありて何れが父の骨《ほね》共《とも》知《し》れず暫時《しばし》躊躇《ためらひ》居《ゐ》たりしが骨肉《こつにく》の者の骨には血《ち》の染《しみ》ると聞し事あれば我が血《ち》を絞《しぼ》り掛て見んと指《ゆび》を噛《かみ》て血《ち》を絞《しぼ》り掛け/\て試《こゝろ》みしに何れも血は流れて骨に入ず斯《かゝ》る所へ挑灯《ちやうちん》の光《ひかり》見《み》えしかば人目に掛り疑ひを受ては如何と早々《さう/\》木立《こだち》の中《なか》へ身をぞ潜《ひそ》めける [#8字下げ]第十一回[#「第十一回」は中見出し]  斯て彦三郎は木蔭《こかげ》に隱《かく》れ居る處に夜駕籠《よかご》の戻《もど》りと見えて一人は挑灯《ちやうちん》を持一人は駕籠《かご》を舁《かつ》ぎ小便を爲ながら何と助十|去年《きよねん》此所《このところ》へ獄門《ごくもん》に懸つた小間物屋彦兵衞那れは大きな間違《まちが》ひ隱居を殺したは勘太郎に違《ちが》ひないと思つては居れど彦兵衞の親類《しんるゐ》でも有るならば格別《かくべつ》滅多《めつた》な人には咄《はなし》も出來ず可愛《かあい》さうに彦兵衞は浮《うか》みも遣《や》らず冥途《めいど》に迷《まよ》つて居るならんと彦三郎が此所に居るとも知らず噂《うはさ》して行過《ゆきすぎ》るを篤《とく》と聞彦三郎は大いに悦《よろこ》び是《これ》偏《ひとへ》に神佛の引合《ひきあはせ》に依て斯る噂を聞者なるべしと思ひ竊《そつ》と木蔭より立出《たちいで》此人々《このひと/\》に尾《つい》て行《ゆき》尋《たづぬ》る者ならば明白に分るべしと後より咄《はな》しを聞ながら行に行共々々《ゆけども/\》果しなく誠《まこと》に始て江戸へ來る事なれば何と云處なるか町《まち》の名も知れざれども其夜《そのよ》丑刻《やつ》時分《じぶん》に或町内の路次を開《ひら》き二人ながら内に入るを見濟《みすま》し直に入ては疑《うたが》ひも有るならん明朝參つて樣子を尋問《たづね》ん一人の名を助十と聞ば知れるに違《ちが》ひなしと其夜は河岸に石《いし》材木《ざいもく》積置《つみおき》し處へ行《ゆき》寄凭《よりかゝ》りて少し睡《まどろ》まんとするに知らぬ江戸と云《いひ》此所《こゝ》は如何なる處やらん若《もし》咎《とが》められなば何と答んと心を苦しめ夜の明るを待事《まつこと》千|秋《しう》を過《すぐ》るが如く漸《やうや》く東の方《かた》白《しら》み人も通る故やれ嬉《うれ》しやと立出《たちいで》往來《ゆきき》の人に茲は何と申所なるやと尋《たづ》ねければ淺草御門なりと答る故《ゆゑ》夫《それ》より東の方《かた》廣《ひろ》き往來《わうらい》へ出て又町の名を聞《きく》に兩國也と云により空《くう》腹なれば食事をなし辰刻《いつゝ》時分《じぶん》になり彼の駕籠舁《かごかき》の入し路次のある町へ到り所の名を聞《きく》に福井町なりと云にぞ豫て見置《みおき》たる權三助十が長屋《ながや》へ入り一通長屋を見廻《みまは》すに四ツ手駕籠《でかご》を前に置たる家ある故《ゆゑ》是《これ》にて聞ば知れるならんと小腰《こごし》を屈《かゞ》め助十樣と申は此方《こなた》に候やと尋《たづね》ければ女房《にようばう》立出《たちいで》何《なん》の御用に候や駕籠《かご》の御入用《おんいりよう》にもあらば助十と申は此方の相棒《あひぼう》ゆゑ仰聞《おほせきけ》られよと申にぞ然樣《さやう》ならば昨夜《さくや》駕籠《かご》に御出《おいで》なされしは助十樣|御《ご》一|處《しよ》に候かと聞に如何にも毎夜《まいよ》一|處《しよ》に駕籠《かご》を舁《かつ》ぎ渡世《とせい》致《いた》すなり何ぞ御用ならば上り給へと申を幸《さいは》ひに草鞋《わらぢ》を脱《ぬい》で上《あが》るに未だ寢《ね》て居たる權三を起《おこ》し右の事を話《はな》せば早速《さつそく》起出《おきいで》て顏《かほ》を洗《あら》ひ見るに十四五の若衆《わかしう》旅裝束《たびしやうぞく》なれば駕籠《かご》の相談《さうだん》と心得て挨拶《あいさつ》をなすにぞ彦三郎差つけながら内々にて御尋《おたづね》申|度事《たきこと》有《あ》つて參上《さんじやう》仕つりしなり助十樣の御名は承《うけた》まはり候へども貴君《あなた》の御名は未だ承《うけた》まはり申さず何と申され候やと問ば私は助十が棒組《ぼうぐみ》權三と申者御用も御座らば仰聞《おほせきけ》られよと申に若年ながら彦三郎は發明故見れば見苦敷《みぐるしく》如何《いか》にも貧窮《ひんきう》の樣子なれば金子《きんす》一分を取出《とりいだ》し始て參上仕《さんじやうつかま》つり内々御聞申度事御座るに付是にて酒《さけ》と肴《さかな》を御買下《おかひくだ》さるべし輕少《すこし》ながら御土産《おみやげ》なりと申故權三も一向に樣子《やうす》了解《わから》ねば辭退《じたい》するを得心《とくしん》せず少《すこ》しなれども御請納下《おうけいれくだ》されねば申|難《がた》しと達《たつ》て差出《さしいだ》す故然ば仰に隨はんと受納《うけをさ》め扨御用の筋《すぢ》はと尋《たづ》ねしに彦三郎|御《お》二|階《かい》にて内々《ない/\》御聞《おきゝ》申|度《たく》人《ひと》の耳へ入れては宜からずと申に付子供と云《いひ》怪《あやし》み乍《なが》ら助十を呼《よび》二|階《かい》へ上り三人|膝《ひざ》を突合《つきあは》せしに彦三郎は聲《こゑ》を潜《ひそ》め御家内樣御聞下されても相成《あひなり》申さずと直《ずつ》と壁《かべ》の際《きは》へ寄り私は大坂《おほさか》堂島《だうじま》の彦三郎と申者なるが昨夜《さくや》御當地《ごたうち》へ到着《たうちやく》致《いた》し未《まだ》宿《やど》も取らず夜の明るを待《まち》早速《さつそく》參上《さんじやう》仕つる其譯は舊冬《きうたう》御仕置《おしおき》に相成し彦兵衞が事《こと》御存《ごぞんぢ》に候はゞ委細《ゐさい》御話下《おはなしくだ》されよと申に兩人は思ひも寄ぬ尋《たづ》ねゆゑ私し共一向に其|彦兵衞殿《ひこべゑどの》と申御人は御知己《おちかづき》にもあらねば存じ申さずと答しかば彦三郎|涙《なみだ》を流《なが》し斯《かく》突然《いきなり》に御尋問《おたづね》申せば御不審《ごふしん》も御道理《ごもつとも》なれど私しは彦兵衞が悴《せがれ》にて當年《たうねん》十五歳に相成一人の母《はゝ》御座《ござ》候|處《ところ》彦兵衞|御仕置《おしおき》に成しと聞て打驚《うちおどろ》き素《もと》より正直なる父彦兵衞人を殺し盜《ぬすみ》などする者に非ず何か謂れの有さうな事と明暮《あけくれ》悲《かなし》み歎《なげ》き一|向《かう》食事《しよくじ》も致さぬ故《ゆゑ》我等《われら》母《はゝ》を諫《いさめ》江戸《えど》へ參り樣子を承まはり申さんと云て大坂を立出昨日六|郷《がう》の渡しを越《こえ》宵《よひ》に鈴《すゞ》ヶ|森迄《もりまで》參《まゐ》りしが切《せめ》て父彦兵衞の骨《ほね》なりとも拾はんと存じ尋《たづね》たれども更に知れ申さず然る處へ各々方《おの/\がた》通《とほ》り掛り給ひ彦兵衞が噂《うはさ》致《いた》されし故《ゆゑ》不思議《ふしぎ》に思ひ直《すぐ》に鈴ヶ森を出て御後《おあと》を尾《つけ》て是迄は參りしなれども夜中《やちう》と云《いひ》御知己《おちかづき》にも有らねば河岸《かし》にある材木《ざいもく》薪《たきゞ》などの蔭《かげ》にて夜を明《あか》し兩國《りやうごく》へ到《いた》りて食事をなし好《よき》時分《じぶん》と存じ只今《たゞいま》參上《さんじやう》仕つりしなり昨夜鈴ヶ森にて助十と御呼《および》成《なさ》れたる故《ゆゑ》夫《それ》を心當《こゝろあて》に助十樣と御尋《おたづ》ね申せしと始終《はじめをは》りを物語りけるに兩人は思はず涙を流し偖々《さて/\》未《いま》だ年も行ぬ身を以て百餘里の道《みち》を下《くだ》り親公《おやご》の骨《ほね》を拾はんとは如何にも孝心《かうしん》の段《だん》感入《かんじいり》たり殊に鈴ヶ森の凄《さみし》き所へ夜中能も一人にて入給ひし者哉|然《さり》ながら死骸《しがい》を貰《もら》ふには非人小屋《ひにんごや》へ手を入れねば勿々《なか/\》知《し》れ難《がた》しと申に否《いな》夫《それ》よりは親彦兵衞が人を殺たるには非ず外に在との御話しゆゑとても死たる彦兵衞が事は是非に及ばず切《せめ》て外に本人があらば其《そ》の科人《とがにん》を出し父彦兵衞が惡名《あくめい》を雪《すゝ》ぎ申度其本人を知らせ給れと渠《かれ》が志操《こゝろざし》を具《つぶさ》に申ければ權三は一|體《たい》涙脆《なみだもろ》き男なるが助十に對《むか》ひ何と此御若衆《このおわかいしゆ》が鈴ヶ森に居たる時に我々《われ/\》通掛《とほりかゝ》るも不思議《ふしぎ》又《また》鈴《すゞ》ヶ|森《もり》にて小便を爲《する》時彦兵衞殿の咄《はなし》をしたも是《これ》神佛《かみほとけ》の御引合《おんひきあはせ》にて其孝心《そのかうしん》を愍《あはれ》み給ふ故ならん爰《こゝ》は一番二人が力を盡《つく》して働《はた》らかにやならぬ其方《そなた》何《なん》と思ふと問けるに助十も素《もと》より正直者《しやうぢきもの》にて勘太とは大《だい》の不和なれば云《いふ》にや及ぶ力を盡《つく》して進《しん》ぜんと申にぞ彦三郎は大に悦《よろこ》びしが江戸不案内の事故如何して宜《よろし》からんか何分にも頼《たの》むとあれば助十は考《かんが》へ彦兵衞殿の居られた家主《いへぬし》八右衞門殿は此邊《このへん》にての口利《くちきゝ》ゆゑ是へ行て相談《さうだん》有《ある》べしと云を彦三郎御長屋中に怪敷《あやしき》人《ひと》有《ある》との事なれば此御家主へ相談は如何《いかゞ》に候はんと尋《たづ》ぬるに權三|打笑《うちわら》ひ爰の家主《いへぬし》は店子の中に依怙贔屓《えこひいき》多《おほ》く下の者を叱《しか》る事は持前なれども表へ出ては口の利《きけ》る大屋に非ず殊《こと》に寄たら當人へ泄《もら》して迯《にが》すも知れざれば彦兵衞殿の家主八右衞門殿を尋《たづね》て能々《よく/\》相談《さうだん》なし給へと勸《すゝ》めるに付彦三郎は御深切《ごしんせつ》の御詞《おことば》忝《かたじ》けなしと打悦《うちよろこ》び内外《うちそと》の事共《ことども》諜合《しめしあは》せ橋本町へぞ急ぎける [#8字下げ]第十二回[#「第十二回」は中見出し]  偖彦三郎は橋本町一丁目家主八右衞門と尋《たづね》しに[#「尋しに」は底本では「尋ねしに」]早速《さつそく》知《し》れければ八右衞門の家に行き對面《たいめん》致せしに八右衞門は彦兵衞の悴《せがれ》彦三郎と聞《きゝ》胸《むね》塞《ふさが》り姑《しばし》言葉も出ざりしが漸々に首《かうべ》を上げ能こそ尋ね參られたり彦兵衞殿は不慮《ふりよ》の事にて相果《あひはて》られ嘸々《さぞ/\》力落《ちからおと》し成《なる》べしと云に彦三郎は涙を流し父事御仕置になりしは是非に及《およば》ず然《さり》ながら其人殺盜賊は彦兵衞に之なく外にあるにより此段御公儀へ訴へ父が汚名《をめい》を雪《すゝ》ぎ申度何卒|御執計《おとりはから》ひを願度依て推參致せりとの言葉の端々《はし/″\》未《いまだ》十五歳の若年者《じやくねんもの》には怪敷《あやしく》思へども又名奉行大岡樣の御吟味に間違《まちがひ》のあるべき樣なし由無事《よしなきこと》を訴へ其許迄《そのもとまで》御咎《おとがめ》を蒙《かうぶ》るは笑止《せうし》千萬但證據有やと尋ぬるに然れば福井町に住《すむ》權三助十と云ふ駕籠舁《かごかき》二人證人なりと申せば八右衞門|首《くび》を傾《かたぶ》け其許《そのもと》何時《いつ》江戸へ參られしやと問《とふ》に彦三郎は今朝《こんてう》福井町へ着《ちやく》し直《すぐ》に承まはり糺《たゞ》し只今|爰許《こゝもと》へ參りしと申ゆゑ彌々《いよ/\》合點行ず段々樣子を聞くに昨夜の事柄《ことがら》より權三助十が話し等《とう》委細《ゐさい》に物語《ものがた》りしかば八右衞門は彦三郎の孝心を大に感《かん》じ早速權三助十を呼に遣《や》り猶《なほ》譯《わけ》を聞《きく》に去年十一月十七日の夜中に歸る機《をり》天水桶《てんすゐをけ》にて血刀を洗《あら》ひ居る者あるに付|能々《よく/\》見るに同長屋の勘太郎と申者なれば怪敷《あやしく》思《おも》ひながら空知《そしら》ぬ振《ふり》に罷在し所右の勘太郎|急《きふ》に二三十兩掛て造作《ざうさく》を致し道具を買《かひ》妻子の身形《みなり》も立派になり二十兩勝た三十兩勝たと博奕《ばくち》に勝た咄《はなし》をする樣子何分|合點《がてん》行《ゆか》ず常には負《まけ》た事ばかり云ひて勝た事を云《いは》ざるに全く金の出處を疑《うたが》はれぬ樣に勝し事を吹聽《ふいちやう》するに疑ひなし其上長屋中へ錢金《ぜにかね》用立家主へも金を貸《かす》故《ゆゑ》勘太郎を二|無《なき》者の樣におもひ我々如き後生《ごしやう》大事《だいじ》と渡世する者は貧乏《びんばふ》を嫌ひ一向に構ひ付ず睾丸《きんたま》も釣方とやら私し共でも得心せぬ故長屋の泥工《さくわん》の棟梁《とうりやう》は年頃と云《いひ》人も尊敬《そんきやう》する者なれば此者を以て勘太郎は店立《たなだて》を致されよ往々は家主の爲にもなるまじと申入たれば大に憤《いか》り却《かへつ》て我々を追立《おひたて》んと爲《なす》故《ゆゑ》泥工《さくわん》の棟梁《とうりやう》家主に異見して相濟《あひすみ》し程の事もあれば馬喰町の隱居殺したるは勘太郎に違《ちがひ》なしと申を八右衞門|聞《きゝ》てなる程勘太郎とやらん疑《うたが》は敷《しき》者《もの》なれども屹度《きつと》隱居を殺したりとも定難《さだめがた》し併し御吟味を願はゞ何か惡事有る者ならんが各々《おの/\》證人にならるゝとも此事を以て訴訟《うつたへ》にはなり難し何か工夫《くふう》の有《あり》さうな事と姑《しばら》く考へしが我等一ツの手段あり彦兵衞|悴《せがれ》彦三郎と申者私し方へ參り正直《しやうぢき》無類《むるゐ》の彦兵衞|勿々《なか/\》盜《ぬすみ》など爲者《なすもの》に非ず何故|辯解《いひわけ》をして助け呉《くれ》ざるや夫にて家主が勤《つとま》るかと惡口致すにより我々|御慈悲願《おじひねがひ》を致したれども公儀にて御吟味の上|御所刑《おしおき》に行はれたる事ゆゑ我々が力《ちから》に及《およば》ずと申せしかば何分|聞入《きゝいれ》ず私し共を切殺《きりころし》親に手向《たむけ》ん是則ち敵討なりと立騷《たちさわ》ぎ候に付皆々打寄異見仕つれども聞入申さず據《よんど》ころなく召連《めしつれ》[#ルビの「めしつれ」は底本では「ふしつれ」]て御訴へ申上ると彦三郎を連て皆々南御番所へ罷出申べし其時|御尋《おたづね》有《あ》らば彦三郎殿|委細《ゐさい》の事故《ことがら》を申上られよ其上|各々《おの/\》方《がた》御差紙《おさしがみ》を以て召呼れ御吟味有るならば必定夫にて彼の勘太郎なるや彦兵衞殿なるや明白《めいはく》に分るべしと申故三人も八右衞門が才智《さいち》を感じ夫より長家の者二三人へ話《はなし》彦三郎をぐる/\卷《まき》に縛上《しばりあげ》名主へも屆置《とゞけおき》召連訴へにぞ及びける(誠に感ずべきは人智《じんち》又恐る可《べき》も人智なり正雪《しやうせつ》は治《をさま》りし天下を押領《あふりやう》せんと巧《たくむ》智慧《ちゑ》の深き事|量《はかる》べからずと雖も英智の贋物《にせもの》にして悉皆《こと/″\》く邪智《じやち》奸智《かんち》と云ふべし大石内藏助は其身|放蕩《はうたう》と見せて君の讎《あだ》を討ちしは忠士の智嚢《ちなう》を振ひ功名を萬世に殘せし正智なり夫程には有《あら》ねども八右衞門が才智《さいち》感ぜずんば有《ある》べからず其謂《そのいはれ》は訴へに及ぶには先彦三郎は宿《やど》を取家主を頼み名主の玄關へ掛《かゝ》り勿々《なか/\》手間取て埓《らち》明《あく》まじ殊に十五歳の彦三郎江戸|不案内《ふあんない》と云《いひ》公邊《こうへん》には馴《なれ》ず又證人の權三助十共明白に口の利《きけ》る者に非ず品に寄《よる》と皆々入牢にもなり理《り》有て罪に陷《おちい》る事も有《ある》べしと思慮《しりよ》し因て斯く計ふ時は彦三郎無法にもせよ親《おや》孝心《かうしん》にして僅か十五歳の者が大坂より遙々《はる/″\》來りて騷《さわ》ぐ共《とも》憎《にく》むべき事に非ず又《また》駕籠舁《かごかき》二人勘太郎事を申立たりとも夜中《やちう》血刀を天水桶に洗ひしは何か謂れあり彦兵衞一件に關係《くわんけい》無《なく》共《とも》兩人申上る言葉も御咎《おとがめ》有《ある》まじ又勘太郎彌々馬喰町の人殺なれば彦三郎が念願《ねんぐわん》も成就《じやうじゆ》する故前後を考へたる事にして八右衞門が分別《ふんべつ》等閑《なほざり》の及ぶ處に非ずといふべし) [#8字下げ]第十三回[#「第十三回」は中見出し]  却説《かくて》八右衞門は彦三郎へ申|含置《ふくめおき》たる通り名主の玄關にて強情《がうじやう》申|張《はる》故是非無召連訴へと相成則ち口上書《こうじやうがき》[#ルビの「こうじやうがき」は底本では「こうじやがき」]を差出せり [#ここから4字下げ] 乍恐《おそれながら》以書付《かきつけをもつて》奉願上《ねがひあげたてまつり》候 [#ここから1字下げ、折り返して2字下げ] 一橋本町一丁目家主八右衞門申上奉つり候|去《さる》冬《ふゆ》御所刑《おしおき》に相成候彦兵衞|悴《せがれ》彦三郎と申者父彦兵衞|無罪《むざい》にして御所刑に相成候事私し申上方|宜《よろし》からざる故也因ては父の敵に候へば討果《うちはたし》彦兵衞に手向《たむけ》度由申候に付公儀の御成敗《ごせいばい》は我々力に及ばずと申聞候へ共一|向《かう》得心《とくしん》仕つらず殊に若年と申大坂より一人|罷下《まかりくだ》り候儀|亂心《らんしん》の樣に相見え旅宿承まはり候處|必至《ひつし》の覺悟《かくご》に御座候間宿も取申さず直樣《すぐさま》私し方へ參り候由にて惡口《あくこう》仕り候に付諸人異見を差加《さしくは》へ候へども物狂敷《ものぐるはしき》體《てい》にて引渡候處も之なく候間|據《よんど》ころなく當人《たうにん》召連《めしつれ》御訴へ申上奉つり候何卒御慈悲を以て彦三郎へ御|利解《りかい》仰聞《おほせつけ》[#ルビの「おほせつけ」はママ]られ大坂表へ罷歸《まかりかへ》り候樣御取計ひ偏《ひとへ》に願ひ上奉つり候以上 [#ここで字下げ終わり] [#地から11字上げ]橋本町一丁目家主 [#地から10字上げ]八右衞門 と之《これ》有《ある》に依《より》早速彦三郎を呼出されしに細引《ほそびき》にて縛《しばり》し儘《まゝ》白洲へ引据《ひきすゑ》たり時に越前守殿|此體《このてい》を見られ是は何か仔細《しさい》有《あり》と敏《はや》くも察せられしかば徐《しづ》かに詞を發《はつ》し如何に彦三郎其方が父彦兵衞事去冬人を殺し金子を盜取《ぬすみとり》し科《とが》に因て御所刑《おしおき》と相成し事八右衞門の存《ぞんじ》たる事に非ず若年の事なれば父の敵と思ふも道理《だうり》なれども今更《いまさら》是非《ぜひ》に及ばず早々大坂へ立歸るべしと申さるゝに彦三郎涙を流し私儀十歳の時父彦兵衞儀江戸へ下りしゆゑ指折算《ゆびをりかぞ》へて歸るを待居りし中に御所刑となりしかば母は明暮《あけくれ》歎《なげ》き悲み病氣も出べきやに存じ候まゝ私し儀江戸へ下り骨《ほね》を拾《ひろ》ひ持歸《もちかへ》らんと母を諫《いさ》め此度江戸表へ參りし途中《とちう》鈴が森と承まはりしまゝ何卒父の骨を拾ひ得て持歸らんと存じ夜に入て種々《しゆ/″\》尋《たづね》探《さが》せ共|何《いづ》れが父の骨なるや相知れ申さず然る處其夜|亥刻時《よつどき》過《すぎ》にも候はん二人の駕籠舁通掛り去年此所にて彦兵衞御仕置になりしが那《あ》の人殺しは彦兵衞に非《あら》ず惡人は外《ほか》に有《ある》由《よし》話《はな》しながら行過《ゆきすぎ》候故後を付て參りし所淺草福井町とやら申町迄|到《いた》り其所の路次《ろじ》へ入候は最早《もはや》丑刻頃《やつどきごろ》とも覺敷《おぼしく》候に付其夜は外にて夜を明《あか》し翌朝右の駕籠屋へ參り段々|相尋《あひたづね》委細《ゐさい》の事故《ことがら》を承まはりしに馬喰町人殺は別人《べつじん》なる由全く彦兵衞の所業《しよげふ》に非ず然るを家主八右衞門|熟々《よく/\》糺《たゞし》も仕つらず御所刑と致候段|殘念《ざんねん》に存《ぞんじ》小腕《こうで》ながらも敵討を仕つる所存なりと申立ければ大岡殿|夫《そ》は其方若年ゆゑに心得違《こゝろえちが》ひなり然ど其人殺は外に有《ある》と申たるは福井町にて何と申者なるぞ名前を申せと云《いは》れければ福井町勘兵衞|店《たな》權三助十と申者|委細《ゐさい》存罷在候間此者より御聞取下《おんきゝとりくだ》され候樣にと願《ねがひ》けるにぞ偖々|其方《そのはう》は孝行者《かうかうもの》なり吟味中八右衞門へ預《あづけ》ると申渡されしかば其日は彦三郎を伴《ともな》ひ橋本町へぞ歸りける [#8字下げ]第十四回[#「第十四回」は中見出し]  大岡殿より差紙《さしがみ》を以て勘兵衞|店《たな》權三助十の兩人尋ねの儀|有之《これある》に付《つき》召連《めしつれ》罷出《まかりいづ》べき旨《むね》達《たつ》されければ家主勘兵衞は兩人を呼《よび》貴樣達は何ぞ惡《わる》い客人を乘《のせ》て物でも取たか但《たゞ》し客人の錢金《ぜにかね》を騙《かたり》でも爲せしか御奉行所へ明日召連罷り出る樣にと御|差紙《さしがみ》を到來《たうらい》し誠に我等|迷惑《めいわく》至極《しごく》なり然れば夜駕籠《よかご》など舁者《かくもの》を店へは置《おか》れぬと申を聞《きゝ》權三は大に腹《はら》を立《たち》賤《いやし》き渡世は致せども然樣な惡事は少しも爲《なさ》ず善か惡かは明日出て聞給《きゝたま》へと平氣の挨拶なれば勘兵衞|是非《ぜひ》なく受書《うけがき》を差出し翌日同道にて南奉行所へぞ出でたりける權三助十の兩人は彦三郎が八右衞門方へ御預《おあづけ》と聞《きゝ》豫《かね》ての都合と覺悟をなし白洲《しらす》へ罷出けるに大岡殿出座有て如何に其方共|先達《せんだつ》て御仕置に仰付られたる彦兵衞|悴《せがれ》彦三郎と申者は何方《いづかた》に於て面會《めんくわい》致したるやと尋ねられしかば兩人ハツと平伏《へいふく》なし私しども先夜大森まで客を乘《のせ》亥刻過頃《よつどきすぎごろ》鈴ヶ森迄歸り來り候處|不※[#「圖」の「回」に代えて「面から一、二画目をとったもの」、402-3]《ふと》彦兵衞の事を思出《おもひだ》し去年此所で御所刑に成りし彦兵衞は正直者《しやうぢきもの》ゆゑ勿々《なか/\》人殺《ひとごろし》夜盜《よたう》等は致すまじ此盜人は外に有《あら》んと申事を誰も聞《きく》人《ひと》は有《ある》まじと存じ噂《うはさ》仕つりし處|御所刑場《おしおきば》の蔭《かげ》に右彦三郎が居て其事を聞きたるにより私しどもの後《あと》に付て參り住居《すまひ》を見置《みおき》翌朝《よくてう》尋ね來りて彦兵衞悴なる由を申|聞《きけ》鈴ヶ森にて私し共の話を承りしにより父彦兵衞の外《ほか》に人殺有らば教《をし》へて呉《くれ》る樣にと涙を流して頼むに付《つき》何故人も怖《おそ》るゝ鈴ヶ森に夜中居たるやと尋ね候へば父《ちゝ》の骨《ほね》を拾《ひろひ》念頃《ねんごろ》に弔《とぶら》ひ度《たく》存《ぞんじ》尋《たづ》ね候と申ゆゑ數多《あまた》の骨の中にて爭《いかで》か是が親の骨と分かるべきやと申候に彦三郎|血《ち》を絞《しぼ》り骨へ掛《かけ》る時は他人《たにん》の骨へは染込《しみこむ》事なく父の骨なれば染込候|故《ゆゑ》指《ゆび》を噛切《かみきり》血《ち》を掛て見候とて噛切《かみきり》たる指を見せしに付《つき》私しどもゝ其孝心を感じて思はず落涙《らくるゐ》仕り如何にも彦兵衞には有之《これある》まじ外に人殺ありと申たるに相違《さうゐ》御座なく候と申ければ大岡殿聞給ひ然《さら》ば馬喰町米屋市郎左衞門|伯母《をば》を殺《ころし》金を取《とり》たる者外に有るやと尋問《たづね》らるゝに兩人ヘイ其人殺しと申は私ども同長屋に罷在る勘太郎と申者ならんと存《ぞんじ》候|旨《むね》申立けるを家主勘兵衞恐れながら進出《すゝみいで》其勘太郎は實體《じつてい》にして渡世向《とせいむき》出精《しゆつせい》[#ルビの「しゆつせい」は底本では「しゆつせし」]仕つる者に付《つき》勿々《なか/\》右體《みぎてい》非道《ひだう》の働きを致す者に候はずと云ふゆゑ大岡殿權三助十と呼《よば》れ今《いま》聞《きく》通り家主は實體者《じつていもの》なりと云ふが何ぞ證據有るやと糺《たゞ》さるゝに兩人其儀は去年十一月十七日麻布迄客を乘行《のせゆき》[#ルビの「のせゆき」は底本では「のせきゆ」]夜《よ》丑刻過《やつどきすぎ》に歸り候處町内の天水桶にて刄物《はもの》を洗《あら》ふ者あり其形容《そのかたち》勘太郎に髣髴《よくに》たりとは存じながら私し共《ども》見屆けるにも及ばざる事ゆゑ路次を家主に開いて貰《もら》ひ内へ入《いり》し時勘太郎も續《つゞい》て後《あと》より這入《はひり》しに付偖は刄物を洗ひしは勘太郎に相違なしと存じ其夜は寢《いね》翌朝《よくてう》天水桶を見て候へば淡紅色《もゝいろ》になり桶にも血の付き有る故勘太郎は何方《いづかた》にて人を斬《きり》しやと存ずる處|昨夜《さくや》馬喰町米屋の女|隱居《ゐんきよ》を殺し金百兩盜みたる者ある由噂仕つるにより扨は勘太郎が仕業《しわざ》なるか但《たゞし》外に喧嘩《けんくわ》でも致したるかと思ふに中裁《なかなほり》の沙汰もなく博奕打《ばくちうち》の喧嘩なれば是非沙汰の有《ある》筈《はず》なるに一向何の咄《はなし》もないは彌々《いよ/\》以て女隱居を殺害したるに違ひなしと思ひし中《うち》家の造作家内の身形《みなり》も立派になり皆々|不思議《ふしぎ》に存じたる所博奕に廿兩勝た三十兩勝たと吹聽《ふいちやう》致せども是は盜賊の名を隱《かく》す心と存ぜしなりと委細申立るに此時大岡殿與力を呼《よば》れ[#「呼れ」は底本では「嘴れ」]何やらん申渡され又家主勘兵衞と呼出《よびいだ》さるゝに勘兵衞は二人を睨《にらみ》ながら進み出づればコレ勘兵衞右勘太郎の商賣《しやうばい》は何を致すと尋ねられしに勘兵衞ハツと云《いひ》し切《きり》暫時《しばら》く返答《へんたふ》出來ざりしが漸《やうや》く季節《とき》の物を商ひ候由申ければ權三助十|否々《いへ/\》と云《いひ》ながら傍邊《かたはら》より進み出で勘太郎渡世と申ては外に之なく年中《ねんぢう》博奕のみ致居候間|怪《あや》敷存じ店中《たなうち》に差置ては家主の爲に成《なる》まじくと思ひ泥工《さくわん》の棟梁《とうりやう》權九郎と申者を以て勘太郎|店立《たなだて》申入候へば勘兵衞|以《もつて》の外に憤《いか》り却て私し共に店立申付候程の事にて何故か勘太郎を贔屓《ひいき》仕つり候と申せしかば茲《こゝ》に於て大岡殿大聲に其方家主をも勤《つとめ》ながら右體《みぎてい》の者は訴へ出べきに僞《いつは》りを以て申立る條勘太郎|同意《どうい》と思はれる因て手錠《ぢやう》申付ると勘兵衞に手錠を掛られ追《おつ》て呼出すとて皆々白洲を下られけり然《され》ば勘兵衞は兩人を恨《うらみ》けるを權三助十は冷笑《あざわら》ひ其許は商賣出精爲者には店立を申付博奕を打《うち》夜盜《よたう》などする者を大切に致さるゝ上は覺悟の前なりと今迄|惡樣《あしざま》に取扱はれたる意趣《いしゆ》晴《ばら》しの心にて存分に云散《いひちら》してぞ立歸りける勘兵衞は早々勘太郎へ右の咄《はなし》をせんと長屋へ行きて見るに疾《はや》勘太郎は召捕《めしとら》れたりと聞きて呆《あき》れ果てたるばかりなり [#8字下げ]第十五回[#「第十五回」は中見出し]  偖も福井町勘兵衞|店《たな》勘太郎|召捕《めしとら》れ入牢申付られしが其後大岡殿|呼出《よびいだし》の上去年|霜月《しもつき》十七日の夜中馬喰町馬場の傍《かたは》らに住居罷在る米屋市郎左衞門|隱居《いんきよ》の老女を殺し金百兩|奪《うば》ひ取りたる事|明白《めいはく》なれば陳《ちん》ずるとも遁《のが》れ難し眞直《まつすぐ》に白状せよと有りければ一向然樣の儀|覺《おぼ》え之なく候と申を然らば汝は何を渡世致すやと問《とは》るゝに勘太郎|拔《ぬか》らぬ面《かほ》にて其季節《そのときどき》の物を商《あきな》ひ仕つり候と申立るを大岡殿季節の商賣と云ふは何を賣《うり》て渡世に致候やと申されしかば夏は瓜《うり》西瓜《すゐくわ》桃《もゝ》の實《み》の類《るゐ》秋《あき》は梨子《なし》柿《かき》の類など商賣仕つると申せども自然《おのづから》言語《ごんご》濁《にごる》故《ゆゑ》イヤ其方家内を檢査處《しらべるところ》賣歩行《うりあるく》荷物《にもつ》一ツもなくして家内にはめくり札|賽《さい》は數多《あまた》ありしなり此返答は何《どう》ぢやと問詰《とひつめ》られしに勘太郎一言の返答も出來兼ねたり越前守殿コレ勘太郎汝は惡黨《あくたう》と云ふ事|疾《とく》に知れて有るぞ又々吟味せば舊惡有るべし苦痛《くつう》せぬ中《うち》白状致せと申さるれども人殺夜盜の覺えなしと云《いふ》故《ゆゑ》入牢《じゆらう》させ置《おき》嚴敷《きびしく》拷問《がうもん》に及びしかど白状せぬにより妻子を呼出《よびいだ》され勘太郎如何致して去年十一月より家内造作諸道具等を立派に致し内々金子を貯《たくは》へしや眞直《まつすぐ》に申せと糺《たゞ》さるゝに女房は慄《ふる》へ出し私し女の事故一向存じ申さずと云ふ時大岡殿其儀勘太郎申には去年十一月十七日の夜に馬喰町米屋の女|隱居《いんきよ》を殺し金を盜みしと白状致したり殊《こと》に其譯《そのわけ》は其方へ咄《はなし》内々博奕に勝《かつ》た積《つもり》に云觸《いひふら》したる由其方隱す共勘太郎白状なれば最早《もはや》遁《のが》れず達《たつ》て隱せば汝も女ながら怪《あやし》き奴《やつ》ゆゑ入牢の上拷問申付けるぞと威《おど》されしかば面色《めんしよく》蒼然《あをざめ》私しは馬喰町にて人を殺したる事は存ぜねども去年|霜月《しもつき》十七日博奕より遲《おそ》く歸りし時如何なる故か面色《かほいろ》宜《よ》からず衣類に血が付居《つきをり》し故樣子を尋ね候に途中《とちう》にて喧嘩を致し切付《きりつけ》たれば其者|迯行《にげゆき》しが跡に落《おと》せし物あるにより拾上《ひろひあげ》て見れば百兩の金を紙《かみ》に包《つゝみ》水引を掛け上書に奉納と書記《かきしる》し有りし事を承まはり候と申立ければ夫にて宜《よし》と女房は其儘《そのまゝ》歸されたり偖大岡殿|智略《ちりやく》を以て勘太郎が妻を問糺《とひたゞ》されしに委細申立たる故勘太郎が爲《なせ》し業《わざ》と知れ拷問嚴敷詮議あれども何分白状なさず因て猶《なほ》又《また》大岡殿白洲へ呼出され其方は一通りならぬ惡黨《あくたう》なれ共|斯程《かほど》の責《せめ》に合《あふ》て白状致さぬは又大丈夫なり然《さり》ながら汝が妻の詞に百兩の金|紙《かみ》に包《つゝみ》奉納《ほうなふ》と書《かき》水引にて結《むす》び有しと申立て有る上は白状せずとも差免《さしゆるす》と云ふ事なし日々苦痛するは却て未練《みれん》と云ふ者なり妻子も倶《とも》に仕置に行ふべきなれども今白状いたさば慈悲《じひ》を以て妻子は助遣《たすけつかは》さん夫とも強情《がうじやう》を申|居《を》らば見る前にて妻子も倶《とも》に入牢申付る惡黨は未練を殘《のこ》さぬ者なり此越前が睨《にら》んだ眼《まなこ》に違《ちがひ》はないぞと申されければ勘太郎も所詮《しよせん》助かり難しと斷念《あきらめ》然らば白状仕つらんとて居直《ゐなほ》り米屋の隱居とは存ぜざれども夜中《やちう》忍込《しのびこ》み切害の上金百兩|奪《うば》ひ取《とり》たるに相違之なくと白状に及びければ神妙《しんめう》なりと申され其金百兩有りし事如何して知りたるやと糺《たゞ》されしに勘太郎其日小間物屋彦兵衞金子無心を致して居る樣子を格子《かうし》の外《そと》にて承まはりしが黄昏頃《たそがれごろ》故《ゆゑ》竊《そつ》と覗《のぞ》きし所百兩包を取出し御門跡へ納める金なりと云ひ又|箪笥《たんす》の引出へ入《いれ》たる處を見ると欲心《よくしん》萌《きざ》し年寄たる女一人|怖《おそる》べきに非《あら》ずと思ひ其夜|忍入《しのびいり》て殺害なし金子奪ひ取り候と其手續きを一々白状に及びしかば茲に於て口書《こうしよ》爪印《つめいん》相濟《あひすみ》又々牢内へ送られける因て彦三郎|始《はじ》め呼出されしに馬喰町米屋市郎左衞門は程經《ほどへ》たる事ゆゑ大に怪《あやし》みながら請書《うけがき》をだし又福井町勘兵衞并に助十權三皆々廿五日南奉行所へ罷出|腰掛《こしかけ》に相詰《あひつめ》呼込《よびこみ》を待《まち》けるに大岡殿|午後《ひるご》未刻過《やつどきすぎ》退出《たいしゆつ》ありて直樣《すぐさま》橋本町八右衞門一件と呼聲《よびこゑ》に連《つ》れ各々白洲へぞ出にける [#8字下げ]第十六回[#「第十六回」は中見出し]  偖享保九年二月二十五日橋本町八右衞門一件一同呼出に付《つき》皆々白洲へ居竝《ゐなら》ぶ時馬喰町市郎左衞門と呼上《よびあげ》られ昨冬霜月十七日の夜其方|伯母儀《をばぎ》切害《せつがい》の上金百兩盜まれし段訴へ出《いで》右盜賊は小間物屋彦兵衞なりと申故我等|利解《りかい》を下し勘辨《かんべん》致す樣に申渡たれど彦兵衞に相違なし伯母《をば》の敵なりとて頻《しきり》に吟味を相願ふ故彦兵衞を糺明《きうめい》に及びし處白状により御所刑に申付られたる事存じの通りなり然るに彦兵衞|悴《せがれ》彦三郎と申者今度大坂より來り彦兵衞事|右等《みぎら》の惡事《あくじ》致す者に非ずと願出るに付段々再吟味に及ぶ處彦三郎が孝心《かうしん》の致す處其方伯母を殺したる者手に入《いり》たり只今其者白状の趣き夫にて承まはれと申渡され又勘太郎に向《むか》はれ其方米屋の女|隱居《いんきよ》を殺し金百兩奪ひ取たる手續《てつゞき》委曲《くはしく》申せと云はれしかば勘太郎其儀は私し事|夕方《ゆふがた》馬喰町馬場の脇《わき》を通り候|機《をり》出格子《でがうし》の中にて金談《きんだん》の聲致すにより何事やらんと承まはりしに彦兵衞事|無心《むしん》の處|折惡《をりあし》く百兩は御門跡に奉納の願ひにて御講中《おかうぢう》に差上る積《つもり》是《これ》見給《みたま》へとて彼女隱居は紙に包みし金子を出して見せたる故|羨敷《うらやましく》思ひ我今百兩有らば安樂なるべし役に立ぬ寺への奉納と存じ何方《いづかた》へ仕舞置やと竊《ひそか》に覗《のぞき》しに重箪笥《かさねだんす》の引出へ入れたるを能々《よく/\》見置《みおき》其夜《そのよ》丑刻頃《やつどきごろ》忍び込み右の金を取らんとする時女隱居目を覺《さま》し何者と聲を立る故是非なく殺し候と申に大岡殿何と市郎左衞門只今|聞《きく》通《とほ》り本人は勘太郎と云ふ者にて彦兵衞には非ず疑《うたが》ひの心より遮《さへぎ》つて申立罪なき者の命を取し事|不埓千萬《ふらちせんばん》云解《いひわけ》有るやと申されしかば市郎左衞門は今更《いまさら》惘果《あきれはて》何共申譯之なく大いに後悔《こうくわい》なし恐れ入り奉つると平伏してぞ居たりける又彦三郎と呼れ其方若年にして孝心《かうしん》深《ふか》き段天に通じ父の惡名を雪《すゝ》ぐ事感ずるに餘りあり又橋本町家主八右衞門并に駕籠舁《かごかき》權三助十其方共彦三郎が孝心を感じ證人となりて惡黨《あくたう》を訴へに及《および》し事|輕《かろ》き身分には奇《き》特の心底なり只今|聞通《きくとほ》り人殺夜盜は勘太郎に相違之なし然樣心得よと云はれしかば彦三郎は云ふに及ばず八右衞門權三助十等|皆《みな》有難《ありがた》き仕合なりと喜びけり時に大岡殿福井町家主勘兵衞と呼上《よびあげ》られ其方家主の身を以て然程《さほど》の惡黨を存ぜず差置き剩《あまつ》さへ格別《かくべつ》懇意《こんい》に致す事如何の心得なるや恐入たるかと叱《しか》られしかば勘兵衞一言もなく平蜘《ひらくも》の如くになり居たり此時權三助十|恐《おそれ》ながらと進み出で此儀市郎左衞門|何樣《どのよう》に願上候とも罪もなき者を御仕置に仰付られ候事|明白《めいはく》の御沙汰とも存ぜず然ども市郎左衞門申立より彦兵衞|御所刑《おしおき》と有《あら》ば下より申上候儀は何事も御取上に相成候や伺《うかゞ》ひ奉つると申出しに彦三郎涙を流し父彦兵衞罪なき事明白に相分り有難く存じ奉つるにより此上の御慈悲《おじひ》に父彦兵衞が死骸《しがい》を下《くだ》し置《おか》れ候樣に願ひ奉つると申|傍《そば》より又八右衞門も進出《すゝみいで》彦三郎儀罪なき父を殺し候|恨《うら》みなりとて私しを敵と申候儀|道《だう》理に存候|然《さ》すれば天下の御奉行樣にも罪なき者を御仕置《おしおき》に仰付られしは同樣ならんか併し尊《たつと》き御方故|其儘《そのまゝ》に相濟候事や私しどもが然樣《さやう》道《みち》に缺《かけ》たる事あらば重き御咎《おとがめ》を蒙《かうぶ》るべし願くは彦兵衞を御返下《おかへしくだ》され候樣に願ひ奉つると申ければ大岡殿|無言《むごん》にて居られし故權三助十は大岡殿を一番|言込《いひこめ》閉口《へいこう》させんと思ひ天下に於て御器量《ごきりやう》第一と云ふ御奉行樣にも弘法《こうぼふ》も筆の過失《あやまち》定《さだめ》て惡口《あくこう》と思召すならんが罪なく死したる彦兵衞が身は如何遊ばさるゝやと口々に申故大岡殿皆々|默止《だまれ》と仰《おほせ》られしを權三助十|默止《だまり》ますまい此一件彦三郎申分相立候樣に御慈悲《おじひ》を願ひ奉つると云ふに八右衞門彦三郎も進出《すゝみいで》權《ごん》三助十|諸共《もろとも》喧《かまび》すしくこそ申けれ [#8字下げ]第十七回[#「第十七回」は中見出し]  扨も越前守殿には暫時《しばらく》默《もく》して居られしが頓《やが》て一同控へ居よと云《いは》れコリヤ彦三郎其方共に彼是《かれこれ》云込《いひこめ》られ此越前一言もなし之に因て彦三郎へ褒美《はうび》を遣《つかは》す夫にて皆々|不肖《ふせう》致せと白洲の外に控へ居たる一人の男を呼出《よびいだ》されしに久しく日の目を見ざりしと見え顏色《かほいろ》は惡《あし》けれ共|能《よく》肥太《こえふと》りたりイザ此者を遣すぞ皆々|對面《たいめん》せよと申されしかば各々《おの/\》不思議に思ひ其人を見れば是《こ》は如何に去冬御仕置になりし彦兵衞なり彦兵衞は彦三郎を見るや否《いな》や白洲をも顧《かへり》みず涙を流し汝は彦三郎なるかと手を取《とり》悦《よろこ》び縋《すが》りしかば皆一同に惘果《あきれはて》たるばかりなり時に大岡殿申さるゝは此彦兵衞儀白状は致せしかど其|口振《くちぶり》と云ひ人體《じんてい》と申し疑《うたが》は敷《しく》思ひ外に罪有る者牢死せしを身代《みがはり》の獄門《ごくもん》になし彦兵衞は助命《じよめい》させ置たり然るに果して勘太郎と云ふ本人出しは我も悦《よろこ》ぶぞ是《これ》偏《ひとへ》に彦三郎が孝心に因る處一ツは八右衞門が取計《とりはから》ひ權三助十の正直《しやうぢき》より起る處又某に對して惡口せしは惡口に似て惡口に非ず其方どもが如き者|町方《まちかた》に有るは我も悦びの一ツなり彦兵衞は渡し遣はす又々追て呼出すとて下《さげ》られしかば皆々悦び勇《いさ》む事|限《かぎ》りなく大岡殿の深慮《しんりよ》を感伏したりけり此外に出會《いであは》せし公事《くじ》訴訟人迄も涙も流し感ぜぬ者は無《なか》りしとぞ扨又大岡殿は市郎左衞門に對《むか》はれ罪を償《あがな》ふには首代《くびだい》と云ふ事あり先達《せんだつ》て其方伯母より借たる雜物《ざふもつ》は富松町質屋六兵衞方にて五十兩|借請《かりうけ》其金を以て小間物荷を買調《かひとゝの》へたる故其小間物は一|旦《たん》取上物《とりあげもの》と成しが今度彦兵衞へ下さるゝなり然上《しかるうへ》は右五十兩并に利息《りそく》を六兵衞方へ遣はさねば相成るまじ彦兵衞事病氣と云ひ大坂へ立歸る路金《ろぎん》にも差閊《さしつかへ》るならんにより右五十兩の金は其方より六兵衞方へ勘定《かんぢやう》致して遣はせ若《もし》難澁《なんじふ》申に於ては此方に存寄《ぞんじより》ありと申渡されしかば委細《ゐさい》畏《かしこ》まり奉つると返答に及びたり又質屋六兵衞其方儀は彦兵衞が預《あづ》け置たる質物《しちもつ》一|旦《たん》盜物《ぬすみもの》となり取上し所今明白に相分り不正の品に之なき上は右五十兩|元利共《ぐわんりとも》彦兵衞より勘定致すべき筈《はず》なれども只今承まはる通り故米屋市郎左衞門より受取と申渡されけり斯《かく》て又勘太郎儀は獄門同人妻子は追放《つゐはう》家財《かざい》取上となり家主勘兵衞は役柄不相應殊に惡黨の勘太郎より金を借請《かりうけ》正直《しやうぢき》成者《なるもの》を追立候儀勘太郎同類に等《ひとし》く重《おも》くも仰付られべく處格別の御慈悲を以て家財取上追放申付られ家主家財勘太郎家財とも權三助十へ下さるゝ間|双方《さうはう》申|合《あはせ》然《しか》るべく住居《すまひ》致せと申渡され又勘太郎|有金《ありがね》六十兩は彦三郎并に權三助十へ廿兩宛下し置れ權三は勘兵衞|跡役《あとやく》となり町の事なれば當分《たうぶん》心添《こゝろぞへ》を八右衞門に申付る又名主儀は日頃《ひごろ》行屆《ゆきとゞか》ざる故家主の善惡も辨《わきま》へざる段|不束《ふつゝか》なり以來|屹度《きつと》心付《こゝろつけ》候樣致すべき旨申渡され一件落着とぞなりける是先に一旦彦兵衞|獄門《ごくもん》と成りしは大岡殿申されし通り獄中にて病死の者の首を切《きり》彦兵衞重罪なればとて面《かほ》の皮を剥《むき》[#ルビの「むき」は底本では「きむ」]て獄門に梟《かけ》られしかば皆々彦兵衞は全く御所刑に成りし事と心得居たるを此度《このたび》斯《かく》明白《めいはく》に善惡を糺《たゞ》されし故世の人彦兵衞は無實《むじつ》の罪に死なざりし事を知り後世《こうせい》に皮剥《かはむき》獄門《ごくもん》とて裁許《さいきよ》の名譽《めいよ》を殘《のこ》されたり 小間物屋彦兵衞一件[#1段階小さな文字]終[#小さな文字終わり] [#改丁] [#ページの左右中央] 後藤半四郎一件[#「後藤半四郎一件」は大見出し] [#改丁] [#1段階大きな文字]後藤半四郎《ごとうはんしらう》一件《いつけん》[#大きな文字終わり] [#8字下げ]第一回[#「第一回」は中見出し]  仁《じん》は以て下《しも》に厚《あつ》く儉《けん》は以て用《もちゐ》るに足《たる》和《くわ》にして弛《ゆる》めず寛《くわん》にして能《よく》斷《だん》ずと眞《まこと》なる哉《かな》徳川八代將軍吉宗公の御代名譽の官吏《やくにん》多しと雖も就中《なかんづく》大岡越前守|忠相《たゞすけ》殿は享保二年より元文元年まで二十年の間《あひだ》市尹《まちぶぎやう》勤役中《きんやくちう》裁許の件々其明斷を稱する事世の人の知る所にして天一坊越後傳吉村井長庵又は小間物屋彦兵衞の皮剥《かはむき》獄門《ごくもん》煙草屋喜八其他種々樣々の裁斷《さばき》有しが茲に説出《ときいだ》す後藤半四郎《ごとうはんしらう》と云者は元《もと》土民の子なれども生質《うまれつき》正直《しやうぢき》にして能五常を守り爾《しか》も天然の大力ありと雖も是を平常《つね》に顯さず仁義を專らになし強きを挫《くぢ》き弱きを助け金銀を惜《をし》まず人の難儀《なんぎ》を救ふ此故に大岡殿の吹擧《すゐきよ》に預りて將軍家の御旗本《おはたもと》となり領地五百石を賜り其子孫徳川氏の末まで連綿《れんめん》と繁昌《はんじやう》せり或人の歌に [#4字下げ]人《ひと》多《おほ》き人の中《なか》にも人ぞなき人になせ人人になれ人 と詠じし心に協《かな》ひしは實に此半四郎のこと成べし茲に其素性《そのすじやう》を尋るに元《もと》讃州丸龜在高野村の百姓半左衞門と云者二人の悴《せがれ》を持《もて》り兄を半作と號《よび》弟を半四郎と云此兄の半作は至つて穩當《をんたう》の生質《おひたち》なれば是所謂|惣領《そうりやう》の甚六とか云が如し然れども惣領の甚《じん》六|々々《/\》と世間にては馬鹿者《ばかもの》の樣に云ども勿々《なか/\》然《さ》にあらず既に諸侯にては御嫡子と稱し町人ならば家の跡取《あととり》又《また》在《ざい》家農家などにては遺跡《ゐせき》樣と云《いふ》惣領《そうりやう》は遺跡《ゐせき》と云《いふ》が道理《もつとも》なり是《これ》を説明《ときあか》せば惣領《そうりやう》に生《うま》るゝは格別《かくべつ》に果報《くわはう》ある事なれば貴賤《きせん》に限《かぎ》らず惣領《そうりやう》は其家《そのいへ》の相續人《さうぞくにん》なり因《よつ》て自然《しぜん》の徳《とく》を備《そな》へて生《うま》れ得《え》しに相違《さうゐ》なく既《すで》に右大將頼朝公《うだいしやうよりともこう》にも源家《げんけ》の御惣領《ごそうりやう》なりしが一|旦《たん》清盛公《きよもりこう》の爲《ため》に世《よ》を狹《せば》められて蛭《ひる》ヶ小島へ流罪《るざい》と成せられたれども終には石橋山に義兵を揚《あげ》られし處其軍利なくして伏木《ふしき》の穴に匿《かく》れ給ひしを梶原が二心より危き御身を助り夫より御運を開かれ其後自身に戰場《せんぢやう》へ向はれし事なく木曽義仲公《きそよしなかこう》追討《つゐたう》の刻《きざみ》は御舍弟範頼義經兩|公達《きんだち》に命ぜられ宇治瀬田の二道より進で一戰に木曽氏を討亡《うちほろ》ぼし續いて兩御舍弟を大將となし一ノ谷の戰ひに平家の十萬騎を討平《うちたひら》げ猶《なほ》又《また》進《すゝ》んで屋島《やしま》壇《だん》の浦《うら》の戰ひに平家を悉皆《こと/″\》く討亡ばして源氏一統の御代となし御自分は鎌倉《かまくら》に居《ゐ》ながら日本|草創《さうさう》武家の天下として武將の元祖と仰《あふ》がれ給ふ事是頼朝公は惣領の甚六なれ共《ども》自然《しぜん》と大徳の備《そなは》られし事斯の如くなり又其御舍弟の兩人は現在其功を顯《あら》はされしかば人々大いに是を稱《たゝ》へ兎角《とかく》利口《りこう》發明《はつめい》の樣に思はるゝなり則ち義經卿近くは眞田幸村《さなだゆきむら》又平家にても知盛卿など皆其類にして漢の高祖の所謂《いはゆる》獵師《れふし》と獵犬《れふけん》の功に違ひ有が如し然りと雖も百姓半左衞門の悴《せがれ》半作より弟半四郎の方は生れ質《つき》働《はたら》きもあり又大力無双なれども温順《をんじゆん》にして兄弟共至つて親に孝行を[#「孝行を」は底本では「行孝を」]盡し兄弟《はらから》の中《なか》睦《むつ》ましく兄は弟を思ひ弟は兄を尊敬《うやまひ》日々《にち/\》農業《のうげふ》耕作《かうさく》油斷《ゆだん》なく精《せい》を出し隙《ひま》ある時は山に入て薪《たきゞ》を樵《こり》或ひは日雇《ひよう》走り使ひ等に雇はれ兩人とも晝夜を分たず稼《かせ》ぎて親半左衞門を大切に養育《やういく》なし殊に半四郎は至て正直律儀なる者故近所隣村の者ども半四郎々々とて何事に寄《よら》ず頼《たの》み使ひて贔屓《ひいき》せしが人にはなくて七癖《なゝくせ》と言如く半四郎事|極《ごく》酒好《さけずき》にて古《いに》しへの酒呑童子《しゆてんどうじ》も三舍を避《さけ》る程の大酒なり然《され》ども喧嘩口論は勿論何程に酩酊《めいてい》なすとも夢中に成て倒《たふ》れ或ひは家業を怠惰《おこたり》しと云事なく只酒を飮を樂《たのし》みとして稼《かせぎ》兄を助ける故人々|心隔《こゝろおき》なく半四郎を用ひしとぞ右半四郎の親類に佐次《さじ》右衞門と云者あり是は相應の百姓にて田地百五十石を所持なし居たりしが或時《あるとき》此佐次右衞門|伊豫國《いよのくに》松山《まつやま》の親類へ金子《かね》五十兩送るべき事ありしに大金の事故|飛脚《ひきやく》を雇ふより年若《としわか》なれ共半四郎の方が慥《たしか》ならんとて右五十兩の金に手紙を添て渡《わた》せしかば半四郎は是を請取て懷中《くわいちう》し急用なれば直《たゞち》に旅支度《たびじたく》して出立《しゆつたつ》せんとするを見て親半右衞門[#「半右衞門」はママ]兄半作ともに是を氣遣《きづか》ひ如何に急用なればとて大金を持《もち》ながら夜道を行《ゆく》は不用心なり早《はや》今日も申刻《なゝつ》下《さが》りゆえ翌《あす》の朝早く出立して參るべしと種々に止《とゞ》めけれ共半四郎は殊に大力と云|氣象《きしやう》も勝《すぐ》れたれば一向承知せず必らず御案事あるな萬一《もし》途中《とちう》にて追剥《おひはぎ》など出逢《であふ》事あらば打倒して仕舞ふ分なり少しも構《かま》はず出行《いでゆき》たり元より足も達者にて一日に四十里づつ歩行《あるく》珍《めづら》しき若者なれば程なく松の尾と云《いふ》宿迄《しゆくまで》來懸《きかゝ》りしに最早|疾《とく》日は暮て戌刻頃《いつゝごろ》とも思ひしゆゑ夜道をするに空腹なる時は途中にて困《こま》るならんと只《と》ある杉酒屋へ入て酒を五合|熱燗《あつかん》に誂《あつら》へ何ぞ肴《さかな》はなきやと問に最早|皆《みな》賣切《うりきれ》鰹《かつを》の鹽辛《しほから》ばかりなりと答へけるを夫《そ》は何よりの品なりとて五合の酒を鹽辛にて忽ち飮干《のみほ》し又五合つけて下《くだ》されと云に亭主は肝《きも》を潰《つぶ》し未《まだ》年《とし》も行《ゆか》ぬ若者なれど怖《おそろ》しき酒飮もあるものと思ひお前さん其樣に飮れますかと聞《きゝ》ければ半四郎は微笑《ほゝゑみ》ナニ一升や二升は朝飯前に飮《やり》ますと云に亭主は惘《あき》れ果《はて》又五合出せしに是をも直《たゞち》に呑《のみ》て飯を喰《くひ》勘定をする機《をり》から表の方より雲助ども五六人どや/\と這入《はひり》來り最《もう》仕舞れしかモシ面倒《めんだう》ながら一|杯《ぱい》飮ませて下せいと云つゝ鉢《はち》にありし鹽漬《しほづけ》の唐辛子《たうがらし》を肴《さかな》に何れも五郎八|茶碗《ぢやわん》にて冷酒《ひやざけ》をぐびり/\と飮居たりしが今半四郎が胴卷《どうまき》より錢を出し酒飯の代《だい》を勘定する處をじろりと見るに胴卷には彼の頼《たの》まれたる金子五十兩|蛇《へび》が蛙《かへる》を呑《のみ》し樣に成て有ければ雲助共|眼配《めくば》せをしながら片隅《かたすみ》へより何か密々《ひそ/\》咄《はな》し合《あひ》直《つい》と半四郎の側《そば》へより是もし息子《むすこ》さん御前は是から何處へ行つしやると云に半四郎は何心なく私《わた》しは是から夜通しに松山迄參りますと云つゝ胴卷《どうまき》を仕舞《しまひ》居るに雲助共それなら夜道は物騷《ぶつさう》ゆゑ駕籠《かご》に乘て御呉《おくん》なせへ夫に今見れば率爾《ぶしつけ》ながら胴卷には大分御金を持て御出なさる樣子是から先は松原で寂寞《さびしい》道だ見れば未《まだ》御年も行ぬ御若衆御一人にては不用心|何《どう》か駕籠《かご》に乘て御出なせへと云に半四郎は大に困《こま》り夫は/\御前方御深切にさう云て下《くだ》さるゝが私しは何《どう》も駕籠が嫌《きら》ひなり然《さ》れども生質《うまれつき》仕合に足が達者で日に廿里三十里は樂《らく》に歩行《あるき》ますから先駕籠は止《よし》に仕ませうと草鞋《わらぢ》の紐《ひも》を締直《しめなほ》し支度をして行んとする故|彼方《かなた》に居る雲助共は大聲《おほごゑ》[#ルビの「おほごゑ」は底本では「かほごゑ」]揚《あげ》ヤイ/\能《よく》[#「能」は底本では「熊」]そんな事で行《いけ》る者か何でも乘て貰《もら》へ/\今時|生若《なまわか》い者が大金を持て夜通しに松山迄|行《ゆく》と云は怪い奴だ飛脚と云ではなし大方若いのが主人の金を盜出《ぬすみだ》したに違《ちが》ひはあるめへ若《もし》達《たつ》て乘ずば酒代《さかて》を貰《もら》へ/\そんな奴に此街道を只《たゞ》通《とほ》られて詰《つま》るものかオイ若衆酒代を貰《もら》ひやしやうと云《いふ》機《をり》しも又表より雲助共三四人どや/\と入來りて大勢|徒黨《とたう》して騙《ゆす》り懸しが中にも酒機嫌の者は面倒《めんだう》なり叩《たゝ》き倒せ打偃《うちのめ》して胴卷の金を取れと騷《さわ》ぎ立オヽさうだ違ひねへ何《どう》で主人の金をせしめたのだ何處《どこ》からも尻《しり》の來《くる》氣遣はねへ〆《しめ》ろ/\と一同に飛懸らんずる樣子《やうす》ゆゑ半四郎は心の中に扨《さて》は此奴等我は年端《としは》も行《ゆか》ぬ若者と侮《あなど》り訝《おつ》な處へ氣を廻し酒代を騙《ゆす》りに懸りしは不屆千萬とは思へ共|故意《わざ》と言葉を和《やはら》げもし/\御前方はマアとんだ事を言《いは》つしやる我はそんな不屆な者ではなく丸龜在《まるがめざい》高野村《かうやむら》の百姓半左衞門が悴《せがれ》半四郎と云者親類から頼まれたる飛脚《ひきやく》にて松山の親類へ行《ゆく》に相違なく急用故に夜道をするが怪い者には決してござらぬと云に雲助共は更《さら》に聞入《きゝいれ》ずそんなら酒代《さかだい》を置て行《ゆけ》只通してなるものかと半四郎一人を取卷《とりまき》ける故半四郎も今は是非なく覺悟《かくご》を極《きは》め猶《なほ》内懷《うちふところ》にて胴卷を確《しつ》かと結び帶をも手早く〆直《しめなほ》し三十六計逃るに如《しか》じと隙《すき》を見合せひよいと身を躍《をどら》せて奴等が股《また》を潜《くゞ》り脱《ぬけ》表の方へ駈出すにヤレ逃すなと追駈《おつかく》るを表に待たる仲間の雲助共おつと兄イさう甘《うま》く行《ゆく》ものかと捕へしを半四郎は振拂ひ行《ゆか》んとすれば雲助共は追取卷《おつとりまき》どつこい遁《にが》して成ものか此小童《このこわつぱ》めどうするか見ろ命《いのち》惜《をし》くば酒代《さかて》を置て行と懷《ふところ》へ手を入れければ最《もう》勘忍《かんにん》はならずと半四郎は其腕を取て逆《さかさ》に捻上《ねぢりあげ》向うの方へ突飛すに大力のはずみなれば蜻蛉《とんぼ》返りを打て四五間先へ倒れたり是を見て雲助共は少し後逡《あとずさり》をなせしがイヤ恐しい奴《やつ》平氣な面《つら》をして居をる夫《それ》惣蒐《そうがか》りにて叩き倒せと手に/\息杖《いきづえ》を振り上打て蒐《かゝ》るに半四郎も酒屋の軒下《のきした》にありし縁臺《えんだい》を押取觀念しろと云ながら片端《かたはし》よりばらり/\と打拂ひければ瞬間《またゝくひま》に八九人の雲助共殘らず擲《たゝ》き倒され這々《はう/\》の體《てい》にて散々に逃行ける故半四郎は其儘|打捨《うちすて》足《あし》を早めて此所を立去りつゝやれ/\危き目に遭《あふ》ものかな何さま親父殿や兄貴《あにき》は夜道は浮雲《あぶ》なき故朝立にせよと言れしは今こそ思ひ當りたれと後悔《こうくわい》なして急ぎけり [#8字下げ]第二回[#「第二回」は中見出し]  偖又雲助共は再び一所に集合《あつまり》己れは脛《すね》を拂はれ汝《われ》は腰を打れたりと皆々|疵所《きずしよ》を摩《さす》り又は手拭《てぬぐひ》など裂《さい》て卷くもあり是では渡世が六ヶ敷と詢言々々《つぶやき/\》八九人の雲助共怪我をせぬ者なかりしかば如何にも殘念なり此意趣晴を仕度《した》けれ共彼奴は勿々《なか/\》一通りの奴にあらず怖しい手利《てきゝ》ゆゑ五人や十人では迚《とて》も叶《かな》ひ難し仲間の者を大勢|談合《かたらひ》早々追駈三里の松原にて待伏《まちぶせ》なし彼奴を打殺し胴卷の金を取て頭割《あたまわり》にせんとて彼是二十人ばかり呼集め何でも奴は恐い早足《はやあし》だと云ひおつたから最《もう》餘程《よほど》行《ゆき》し時分なれ共|未々《まだ/\》三里の松原までは懸る氣遣ひなし本海道を追駈《おひかけ》るより裏道《うらみち》を駈拔《かけぬけ》んとて皆々駈出し頓《やが》て三里の松原に出で大勢の雲助共今や來ると彼方此方《かなたこなた》に潜《ひそ》み手ぐすね引て待伏たり半四郎は神《かみ》ならぬ身の夢にも知ずたどり/\て道芝《みちしば》の露《つゆ》踏分《ふみわけ》つゝ程なくも三里の松原へ差懸るに木の間の月は晃々《くわう/\》とさし昇《のぼ》り最早夜の亥刻《よつ》時分共思ふ頃|良《やゝ》原中《はらなか》まで來りしに最前より待設けたる雲助共松の蔭《かげ》より前後左右に破落々々《ばら/\》と現《あらは》れ出でヤイ/\小童子《こわつぱ》待《まて》先刻《さつき》松の尾の酒屋では能《よう》も/\我等を打倒し居ツたな其意趣晴《そのいしゆばら》しに汝《おのれ》を擲《たゝ》き殺して金も衣類も剥取《はぎとる》なり覺悟|爲《し》をれと詰寄するに流石の半四郎も仰天し南無《なむ》三|方《ばう》斯《かく》大勢に見込れては我が命《いのち》はとても無《なき》ものなり好々《よし/\》叶《かな》はぬ迄も爭《いか》で手込になされんや命の限り腕かぎり叩《たゝ》き散して遣《や》らんものと傍《かたは》らの松の木を楯《たて》に取サア來《こ》い汝等片端より捻《ひね》り殺して呉んずと身構たれ共《ども》手振《てぶら》にて何の得物《えもの》のなきを付込惡者共は聲々に人の來ぬ間に打殺せと先に進みし一人が振揚《ふりあげ》かゝる息杖《いきづゑ》を飛違へ樣《さま》もぎ取て手早く腋腹《ひばら》を突《つき》ければウンと計りに倒れたり續て懸るを引外《ひつぱづ》し空を打せて踉蹌《よろめく》所を直《つ》と飛込で襟元《えりもと》掴《つか》み遙か向へ投退《なげのけ》れば其餘の者共追取卷ソレ打殺せと云まゝに十五六人四方より滅多《めつた》やたらに打懸るに半四郎は只一生懸命奪ひ取たる息杖《いきづゑ》にて多勢を相手に薙立々々《なぎたて/\》四角八面に打合折柄半四郎が持たる杖《つゑ》は忽ち中より折れたりけり因《よつ》て是《こ》は堪《たま》らじと逃出《にげいだ》せば雲助共はソレ逃すなと一同に追駈來るを半四郎は遁《のが》るゝだけは逃延《にげのび》んと一|驂走《さんばし》りに二三町|息《いき》をも吐《つか》ず逃たりしが惡者共は何所迄もと猶も間近《まぢかく》逐來《おひきた》る故に半四郎は如何にもして逃行んとする機《をり》幸ひ脇道《わきみち》の有しかば身を飜《ひるが》へして逃込を惡者共は七八人|裏手《うらて》へ廻り立|挾《はさ》み前後より追迫るにぞ半四郎は彌々《いよ/\》絶體絶命《ぜつたいぜつめい》畑《はた》の縁《ふち》なる榛《はん》の木をヤツと聲かけ根限《ねこぎ》になしサア來れと身構へたり之を見るより雲助ども十七八人|破落々々《ばら/\》と追取卷て打蒐《うちかゝ》るを事共なさず半四郎は力に任せて打合《うちあへ》ども死生知らずの雲助ども十七八人|群《むら》がり立此方は助る味方も[#「味方も」は底本では「味も方」]なく只一人の事なれば大力無双の身なれども先刻《せんこく》よりの打合に今は勢根《せいこん》も盡果《つきはて》たれば傍邊《かたへ》の畔《あぜ》を踏外《ふみはづ》し躚《よろめ》く所を雲助共夫れ/\占《しめ》たぞ今一|息《いき》叩《たゝ》き殺して剥取《はぎとれ》と折重なつて打倒すに半四郎も最早《もはや》叶《かな》はずと一生懸命の聲を揚《あげ》人殺し/\助て呉れ/\と呼はれ共|良《やゝ》夜も更《ふけ》し原中なれば人影とては更になく松吹風の音のみゆゑ雲助共は増々《ます/\》氣《き》を得《え》手取足取引倒し已に斯《かう》よと見えたる折柄一人の武士《さふらひ》此松原を通り懸り其樣子を窺《うかゞ》ふに一人の若者を大勢にて追取卷|組《くん》づ解《ほぐ》れつ戰ふ有樣善か惡かは分らね共若者の働《はたら》き凡人《ぼんじん》ならず天晴の手練かなと感じ乍《なが》らに見て居たるに今|大勢《おほぜい》の雲助に叩《たゝ》き伏《ふせ》られ已に一命も危く見ゆる故《ゆゑ》彼《かの》武士は立上り何は兎《とも》あれ惜き若者見殺しにするも情《なさけ》なし率《いざ》助《たす》けて呉んと鍛《きた》え上たる鐵《てつ》の禪杖《ぜんぢやう》を追取松の蔭《かげ》より躍《をど》り出で茲《こゝ》な欲心衆生の惡漢《わるもの》共命が惜くば逃去べしコレ若衆氣を慥《たしか》に持れよ我等助けて進《まゐ》らせんと聲を懸けるに雲助共は振返りヤア茲《こゝ》な入らざる入道め汝《おのれ》も倶《とも》に成佛させんと打て蒐るを武士は閃《ひら》りと體を引外《ひつぱづ》し然《さ》らば目に物見せんずぞ彼禪杖にて片端よりばらり/\と討倒せば雲助共は大に驚き是《こ》は恐ろしき入道かな命《いのち》有《あつ》ての物種《ものだね》なり逃ろ/\と聲を懸《かけ》後《あと》をも見ずに逃出すを猶武士は鐵杖《てつぢやう》にて中《あた》るを幸ひ打据《うちすゑ》たり因て雲助共は頭《かしら》を打れ脊《せ》も痛《いた》め或は向う脛《ずね》を薙《なぎ》られて皆々半死半生になり散々にこそ逃去けれ武士は是を見て呵々《から/\》と打笑ひ扨も能氣味哉《よききみかな》惡漢共《わるものども》は逃失《にげうせ》たりと云つゝ半四郎の側《そば》に立寄是々氣を確《たし》かに持れよと抱起《だきおこ》して懷中の氣付を與へ清水を掬《むす》びて口に注《そゝ》ぎなどして厚《あつ》く介抱《かいはう》なしけるに半四郎は未だ口は利《きか》ざれども眼を開き追々に息《いき》も入たる樣子を見て先々《まづ/\》強き怪我《けが》もなかりしや而《して》其許《そのもと》は何國の者ぞ又如何成る用事有て夜中只一人此原中を通り懸りしやと問《と》ふに半四郎は漸々に氣を落付《おちつけ》是は/\何方樣かは存ぜね共危き命を御助け下されし事|實《まこと》に有難く此御恩生々世々忘れ申まじ私しは讃州《さんしう》丸龜在《まるがめざい》高野村《かうやむら》の百姓半左衞門の次男半四郎と申者に候が親類《しんるゐ》より頼《たのま》れし急用にて伊豫《いよ》の松山迄參る途中先刻松の尾と申宿にて夜食の機《をり》から雲助ども理不盡に酒代を搖《ゆす》りかけ候|故《ゆゑ》據《よんど》ころなく大勢を打散して逃參《にげまゐ》りし所に早くも惡漢《わるもの》共大勢|徒黨《とたう》して此の如く危き目に出遭《であひ》し也《なり》夫と申も實は親類より金子五十兩を預り居候故此金を目懸惡漢共に付込れし所|僥倖《さいはひ》に貴公樣《あなたさま》の御庇蔭《おかげ》を以て一命を無難に助かり候事呉々有難く候と涙を流して語《かた》りければ旅の武士は始終《しじう》樣子《やうす》を聞《きゝ》其《そ》は不屆《ふとゞき》なる奴輩《やつばら》なり其許《そのもと》若年にして今の働き勿々《なか/\》凡人《ぼんじん》の業とは思はれず天晴農民の悴《せがれ》には珍《めづら》しき者なり某しは豐後府内の浪人にて後藤《ごとう》五左衞門|秀盛入道《ひでもりにふだう》と號《いひ》無刀流の劔術を心懸け諸國武者修行なす者なれば決して氣遣《きづか》ひにするに及ばず尤も猶途中不用心ゆゑ是より其許《そのもと》を松山迄送り遣《つか》はすべし又其許に折り入て咄《はな》し度《たき》事も有により徐々《そろ/\》と歩行《あゆま》れよと申に元來正直なる半四郎ゆゑ少しも是を疑はず誠《まこと》に御深切の段有難く存じ奉つる然らば仰に隨ひ申べしと立上り夜の更《ふけ》しをも厭《いと》ひなく是より兩人打連れ立ち松山|指《さし》てたどりけり實《げ》に後藤秀盛の仁勇|天晴《あつぱれ》の武士と謂つべし扨又五左衞門は道すがら種々の物語りをなし半四郎の樣子を試《ため》し見るに應答《うけこたへ》の言葉遣ひ温順《をんじゆん》にて自然其中に勇氣を含《ふく》み又父兄を大切になす孝悌《かうてい》の備《そな》はり殊に力量早業は目前に見し事ゆゑ心の中に思ふ樣《やう》都《すべ》て藝道《げいだう》を習ひて覺《おぼ》ゆるを人と云習はずして其業に妙を得るを神と云|然《され》ば今此若者百姓にて耕作《かうさく》を業《わざ》とし居ながら自然劔法の妙《めう》を得たる手練あり先刻大勢を相手に討合《うちあふ》有樣《ありさま》勿々《なか/\》凡人ならず加ふるに大力|無双《むさう》にして正直正路に見え父兄《おやあに》に孝悌《かうてい》を盡す樣子|是《これ》天晴《あつぱれ》の若者なり此者を貰《もら》ひ受て我養子となし無刀流の劔法を傳授《でんじゆ》せば虎《とら》の翼《つばさ》を添《そゆ》るが如く古今無双の名人と成べし我が流儀《りうぎ》を後世に殘すは是に増たる事あらじ幸ひ兄は親の家督《かとく》を繼《つぐ》と申せば此者を是非とも貰《もら》ひ受て老の樂みにせんと思案を極《きは》め道々半四郎に此趣きを咄《はな》しけるに半四郎は大いに悦び誠に有難き思《おぼ》し召なり命の親なる貴公樣《あなたさま》の事なれば何として否《いな》むべき樣は御座なく候|間《あひだ》親元さへ承知仕つらば私しは何れとも思し召次第隨ひ奉つらんと申ける故《ゆゑ》後藤《ごとう》は甚《いた》く悦び我等未だ一人も子と云者なきを天も憐《あはれ》み斯る孝子を授《さづ》け給ふならんと心の中にて天地を拜し半四郎と倶《とも》に頓《やが》て伊豫の松山に到り則ち半四郎は頼まれし五十兩の金を親類《しんるゐ》へ渡し夫より又後藤と同道して讃州《さんしう》へぞ立歸りける [#8字下げ]第三回[#「第三回」は中見出し]  然るに半四郎は後藤秀盛《ごとうひでもり》と同道して讃州《さんしう》高野村《かうやむら》へ立歸り我家に到りて父《ちゝ》半左衞門へ途中《とちう》の次第《しだい》を落もなく物語りければ半左衞門は且《かつ》驚《おどろ》き且《かつ》喜《よろこ》び早速《さつそく》秀盛《ひでもり》を請《しやう》じ我子を助けられし恩人《おんじん》なりと厚《あつ》く禮を述て種々|饗應《もてなし》けるに後藤も恙《つゝが》なき歡びを云て暫時《しばらく》酒《さけ》宴交《くみかは》せしが頓《やが》て半四郎を養子に貰《もら》ひ度《たき》由《よし》物語りしに半左衞門も大いに悦び迅速《すみやか》に承知なしければ此に於て萬事の咄《はな》し調《とゝの》ひ五左衞門は直《たゞち》に半四郎を貰《もら》ひ受《うけ》我養子となしたりけり是に因て後藤秀盛は丸龜の城下へ無刀流劔術《むたうりうけんじゆつ》の道場を出せしが此道場日々に繁昌《はんじやう》して殊の外弟子も多く何一ツ不自由《ふじいう》なく暮《くら》しけるに付《つき》後藤は我目矩《わがめがね》を以て貰《もら》ひ請《うけ》し半四郎ゆゑ己れが實子の如くに愛《あい》し半四郎も又《また》能《よく》孝養《かうやう》を盡しけるが其中無刀流の劔術を一|入《しほ》心を盡して教授《けうじゆ》なすに元より神妙《しんめう》を得たる半四郎なれば上達する事一を聞き十を知るの才智《さいち》にして忽ち其奧儀をも極め古今無双《ここんむさう》の達人となりし所に早くも八ヶ年の星霜《せいさう》を送りける中《うち》今は門弟中も大先生より小先生の教へ方が宜等《よきなど》とて皆小先生々々々と半四郎を尊敬《そんきやう》なすの餘り大先生は最《もう》老込《おいこま》れ迚《とて》も小先生には及ぶまじと云を却つて父の五左衞門は我が奧儀《あうぎ》を傳授《でんじゆ》したる甲斐《かひ》ありと悦ぶ事限りなく爰に於て丸龜《まるがめ》の道場は養子半四郎に任《まか》せんと五左衞門は我名の一字を讓《ゆづ》つて後藤半四郎|秀國《ひでくに》と名乘《なのら》せ門弟中《もんていぢう》へも右の趣《おもむ》きを吹聽《ふいちやう》なし五左衞門は是より猶《なほ》我《わ》が流名《りうめい》を國々へ弘《ひろ》めんとて又々諸國|武者修行《むしやしゆぎやう》を志《こゝろ》ざし旅立《たびだち》せんと云に半四郎は是を止《とゞ》め最早御老年の御事此上の御修行にも及《およ》ぶまじければ是までの如く當所《たうしよ》に在《おは》して以後は月雪花《つきゆきはな》の詠《ながめ》を友《とも》となし老を養ひ給ふべし私し儀《ぎ》當時《たうじ》は斯《かく》の如く劔道指南仕つり候樣に相成諸人の尊敬《そんきやう》を受る事皆御父上の御高恩《ごかうおん》なれば切《せめ》て此上の御恩報じには朝夕《あさゆふ》御側《おそば》に在て御介抱《ごかいはう》申上|度《たし》聊かも御不自由はさせ申|間敷《まじく》何卒御止まり下さるゝ樣にと只管《ひたすら》に諫《いさ》めけれども父秀盛は更に聞入ず成程其方が申す志《こゝろ》ざしは忝《かたじ》けなけれども未だ/\我等とても全く老朽《おいくち》たるといふ身にもあらず諸國を見物ながら我が流儀《りうぎ》をも弘めんと思ふなり然りと雖も某《それ》がし萬一病氣の時は何國《いづく》に居《をる》とも早速飛脚を以て知する間其節は迅速《すみやか》に來りて呉《くれ》よ是のみ我等が頼《たの》みなりと申ければ半四郎は是を聞《きゝ》如何さま此儀を強《しひ》て止むる時はもはや老朽《おいくち》たりと云に似《に》て却《かへ》つて不孝になるべしと思ひ夫は仰せまでもなく何時《いつ》にても御用の節は早速《さつそく》に參り候はん其儀は少しも御氣遣《おきづか》ひあるべからずと申ければ五左衞門も安心なし然《しから》ば近日《きんじつ》出立におよばんと是より旅《たび》の用意に及び跡《あと》の道場は半四郎に任《まか》せ置《おき》門弟中へも夫々に別れを告《つげ》後藤五左衞門秀盛入道は此時五十五歳にて先《まづ》關《くわん》八州を志《こゝろ》ざし再び武者修行にぞ立出《たちいで》ける扨又後に殘りし後藤半四郎|秀國《ひでくに》は丸龜の道場を預《あづか》り猶《なほ》追々《おひ/\》に門弟|殖《ふえ》ければ殊の外に繁昌《はんじやう》なし居たるに此程半四郎の實父半左衞門は不計《ふと》風《かぜ》の心地《こゝち》にて煩《わづら》ひ付しかば種々|醫療《いれう》に手を盡《つく》しけれども終に養生《やうじやう》叶《かな》はず相果《あひはて》けり因て兄《あに》半作は勿論半四郎も元《もと》より孝心深き者ゆゑ其愁傷《そのしうしやう》大方ならずと雖も斯《かく》て有べきにあらざれば泣々《なく/\》野邊《のべ》の送りをなし七日々々の追善《つゐぜん》供養《くやう》も最《いと》念頃《ねんごろ》に弔《とむら》ひ兄弟|喪《も》にぞ籠《こも》りける然るに半四郎は豫《かね》ての孝心ゆゑ親の亡後《なきあと》は兄の半作を親の如くに尊敬《うやまひ》假《かり》にも其意に背《そむ》く事なく五節句其外何事によらず自分が門弟中より申受たる金子有時は兄半作へ遣《つか》はして田地《でんぢ》田畑《でんばた》を買求《かひもと》めさせ兄半作の身代を助け孝順なる事誠に稀《まれ》なる深切にして自分は一向に姿態《なりふり》にも構《かま》はず着《きれ》ば着たなり又門弟中より申うけたる金なども何程あるやら勘定もせず少しも欲心《よくしん》のなき人なれば門弟|中《ちう》の中|重立《おもだち》たる者が夫是《それこれ》の取始末《とりしまつ》をなし賄《まかな》ひの世話を致し居る位《くらゐ》の事にて一向世帶には構《かま》はぬ人なり又酒は元より大酒故|日毎《ひごと》に一二升づつ飮ぬ日とてはなく然れども今は何一ツ不自由《ふじいう》なく暮《くら》し居けるが兎角《とかく》に他《ひと》の世話好《せわずき》にて丸龜の城下は勿論|近隣《きんりん》の村々まで困窮《こんきう》の者へは米錢を惜まず施し病人へは醫師《いし》を頼んで藥《くすり》を飮《のま》せなどして貧民を救ふ事を常の樂みとなしければ丸龜《まるがめ》近在《きんざい》にては後藤半四郎を神佛《しんぶつ》よりも有難く思ひ皆々が生神々々《いきがみ/\》と云ひて尊敬なしたりけり扨又後藤五左衞門秀盛入道は讃州《さんしう》丸龜を出立なし夫より東國を廻り諸所にて無刀流の名譽《めいよ》を顯《あらは》し上州|大間々《おほまゝ》迄到りしが此所に道場を開き多くの門弟も出來て繁昌《はんじやう》なし居たりしが兩三年を過《すぎ》秀盛入道は不斗《ふと》煩《わづら》ひ付し處|大傷寒《たいしやうかん》となり殊の外大病ゆゑ門弟中大いに心配なし種々|治療《ちれう》に手を盡《つく》したれ共更に効《しる》しなく今は一|命《めい》旦夕《たんせき》に迫《せま》り頼みの綱《つな》も切果たる體なれば五左衞門|重《おも》き枕《まくら》を上《あげ》漸々《やう/\》と言葉|短《みじ》かに手紙を認《したゝ》め丸龜なる養子半四郎方へ急ぎ飛脚を遣はしたり偖《さて》又《また》半四郎は養父の安否《あんぴ》を案事《あんじ》居たるに不※[#「圖」の「回」に代えて「面から一、二画目をとったもの」、419-17]《ふと》上州|大間々《おほまゝ》よりの飛脚到來せしかば何事やらん急ぎ書状《しよじやう》を披見《ひけん》するに養父秀盛の直筆《ぢきひつ》にて我等此度の病氣殊の外大切と有ける故大いに驚き先《まづ》返事《へんじ》を遣《つか》はさんと早速參上致すべき旨《むね》相認《あひしたゝ》めて飛脚を歸し半四郎は豫て約定《やくぢやう》の通り駈着《かけつけ》んと取物も取敢ず旅の調度を整《とゝの》へ直樣《すぐさま》出立に及ばんとしければ門弟中は肝《きも》を潰《つぶ》し先生には何を急遽《あわたゞし》く旅の用意を成れて何方《いづかた》へ御出成れ候やと問けるに半四郎は早《はや》草鞋《わらぢ》を履《はき》ながら然は各々方も御存知の通り養父《やうふ》秀盛《ひでもり》は當時上州大間々に罷在《まかりあり》候處此程大病にて一|命《めい》旦夕《たんせき》に迫《せま》り候由の飛脚到來せし故今より關東へ罷《まか》り下るなりと有しかば門弟中聞て夫は御道理《ごもつとも》なれども先生餘り御性急《ごせいきふ》かと存じ候|而《し》て又後々の儀は如何なされ候やと申すに半四郎|然《され》ば其事なり後の道場は其許方《そのもとかた》に任せ置により能樣に計らひ給はるべし何れにも師父の大病と聞ては片時《へんじ》も安閑《あんかん》として居る場合にあらざれば兎《と》も角《かく》も高弟衆《かうていしう》が代稽古《だいげいこ》をして間を合せられよ某し儀格別日數の懸る事もあるまじ何分頼み置と云つゝ直樣《すぐさま》出立なしたりけり元より早足《はやあし》の半四郎ゆゑ晝夜《ちうや》となく道を急ぎたれ共名に負《おふ》四國の丸龜より上州大間々迄の道程《みちのり》百九十餘里の所なれば如何に急ぐとも道中に隙取《ひまどり》しかば其中に養父五左衞門は病死なし最早《もはや》門弟中《もんていちう》の世話にて弔《とぶら》ひも出せし跡《あと》へ半四郎着しける故師父の死目《しにめ》に合《あは》ざるを如何にも殘念に思ひ足摺《あしずり》して歎《なげ》き悲《かなし》みけれども今さら詮術《せんすべ》なければ養父の所持したる品々を賣拂《うりはら》ひ諸入用の勘定等をなし又門弟の中《うち》世話になりたる者へは夫々に紀念分《かたみわけ》を遣《つかは》し殘りの金子は葬《はうむ》りし寺へ祠堂金《しだうきん》に寄進なし其外跡々の事共殘る方なく取片付《とりかたづけ》暇乞《いとまごひ》して出立に及ばんとするに門弟中一同に名殘《なごり》を惜《をし》み暫時《しばらく》當所に足を止められ劔道《けんだう》御指南《ごしなん》下され候樣にと強《しひ》て申けるゆゑ半四郎も據《よんどこ》ろなく然らば四十九日の立迄は滯留《たいりう》せんとて此所に止まり養父の門弟に稽古《けいこ》を致し遣《つかは》しけるに門人は大に悦《よろこ》び大先生よりは却《かへつ》て教へ方も宜《よく》業前《わざまへ》も一段上ならんなどと評し彌々《いよ/\》勵《はげ》みけれども半四郎は喪中《もちう》の事故餘り多勢の入來るを厭《いと》ひ加之《そのうへ》田舍《ゐなか》は物固《ものがた》くして四十九日立ざる中は大精進《だいしやうじん》にて魚類《ぎよるゐ》を食する事能はず然《され》ども半四郎は元來大酒にして又|肴《さかな》は魚類を好む故《ゆゑ》精進《しやうじん》には甚だ困《こま》り果《はて》自然力も拔る樣に思ひしかば或日門弟中に向ひ扨々是迄は不思議《ふしぎ》の縁《えん》にて御世話に相成千萬|忝《かたじ》けなく猶又各々方の引止めに因て滯留《たいりう》致したなれ共某し國元にも道場《だうぢやう》是《これ》ある事なれば何時迄《いつまで》も長く逗留《たうりう》も相成難く且歸國がけ江戸表も見物致し度《たく》存ずれば名殘《なごり》は盡《つき》ねども最早御暇申さんと云に門人共も甚だ名殘《なごり》は惜《をし》めども今は止むる言葉もなく然らば御心任《おこゝろまか》せになされよと各自《おの/\》餞別《せんべつ》など贈《おく》りければ遂に別れを告て出立なし江戸表へぞ到りける [#8字下げ]第四回[#「第四回」は中見出し]  偖《さて》又《また》爰《こゝ》に武州《ぶしう》熊谷堤《くまがいづつみ》の外《はづ》れに寶珠花屋《はうじゆばなや》八五郎と云居酒屋あり亭主八五郎は此邊の口利《くちきゝ》にて喧嘩《けんくわ》或ひは出入等之ある時は毎《いつ》も扱《あつか》ひに這入《はひり》ては其騷動《そのさうどう》を鎭《しづ》めけるに渠《かれ》が云事は皆是を用ひるゆゑ人々にも立られ至つて侠氣《をとこぎ》有者《あるもの》なり此八五郎が女房は去年病死して跡には女子一人有けれ共最早三歳にもなりければ乳《ちゝ》も入らず少《すこし》づつ食事を與《あた》へて育《やしな》ひけるゆゑ近所の者後妻を勸《すゝ》めけれども夫は面倒《めんだう》なりとて只一人子の育《そだ》つを樂《たのし》みに小女《こをんな》一人若者二人遣ひて居酒屋《ゐざかや》渡世《とせい》をなし居たり然るに其年十月|中旬頃《なかばごろ》年の頃二十四五歳色白にして鼻筋通《はなすぢとほ》りし男と又元服は致し居れども未だ十八九共云べき最《いと》美麗《あでやか》なる器量の女を連《つれ》たる浪人體《らうにんてい》の者夫婦|連《づれ》とも言べき樣子にて男の衣類は黒羽二重の紋付《もんつき》に下には縞縮緬《しまちりめん》の小袖を着し紺博多《こんはかた》の帶を締《しめ》大小なども相應なるを帶して更紗《さらさ》の風呂敷包み二つ眞田《さなだ》の紐《ひも》にて中を縛《くゝ》り是を肩に引掛《ひきかけ》若き女は上に浴衣《ゆかた》を覆《おほ》ひたれども下には博多縮緬《はかたちりめん》の小袖を二枚着し小柳《こやなぎ》に縫模樣《ぬひもやう》ある帶を締《しめ》兩褄《りやうづま》を取揚《とりあげ》緋《ひ》の蹴出《けだし》を顯《あら》はし肉刺《まめ》にても蹈出《ふみだ》せしと見えて竹の杖《つゑ》を突《つき》ながら足を引摩々々《ひきずり/\》來るは如何にも旅《たび》馴《なれ》ぬ樣子なりしが夫婦|連《づれ》の者|此寶珠花屋《このはうじゆばなや》八五郎の見世に腰《こし》を打懸やれ/\草臥《くたびれ》たりと云て息《いき》を繼《つぎ》休《やす》む故亭主八五郎は茶など運《はこば》せて挨拶《あいさつ》なしけるに若き夫婦は御世話ながらお酒を[#「お酒を」は底本では「お酒屋」]]一|合《がふ》御膳《ごぜん》を二人前出し下されと云ければ亭主は承知なし御肴《おさかな》は何んぞ見つくろひましよと云つゝ煮染《にしめ》に飯と酒を添て持來りければ是は御世話と云ながら夫婦は頓《やが》て一合の酒を飮《のみ》飯《めし》も食《くひ》終《をはり》て身支度をし乍《なが》ら御亭主是から江戸迄何里あるやと問ひけるに亭主は是を聞江戸迄は此所より十六里餘|也《なり》と答《こたふ》るに又夫婦の者|最早《もはや》何時なるやと云ければ頓《やが》てもう七ツ下《さが》りならんと申を聞《きゝ》夫婦の者|然《さ》すれば今より江戸までは迚《とて》も行《ゆか》れまじ切《せめ》て鴻《こう》の巣《す》とやら迄も行れべきやと云に亭主は兩人の樣子を見て失禮《ぶしつけ》ながら足弱《あしよわ》の御女中を御連《おつれ》なされて是から四里八町は餘程《よほど》夜に入ります殊に此|熊谷《くまがい》土手《どて》は四里八町と申ても餘程丁數が延《のび》五里の餘は必ず御座り升夫に惡ひ土手にて機々《をり/\》旅人が切られたりあるひは追剥《おひはぎ》に出會《であひ》強《ひど》いめに逢事ありて誠《まこと》に物騷《ぶつさう》ゆゑ何れにも今晩は此熊谷宿へ御宿《おとま》りあつて明朝はやく御出立なさるが宜しからん入らざることゝ思《おぼ》し召《めし》も有べけれどもまづ/\御用心なさるゝが大丈夫と深切《しんせつ》に咄《はな》し居る機《をり》から近來《ちかごろ》此邊を立廻る駕籠舁《かごかき》の惡漢共《わるものども》門邊《かどべ》を通りかゝりしが兩人の樣子を見て此所へ這入《はひり》來りしかば八五郎は惡《わる》い奴《やつ》が來りしとは思へども報《あだ》をさるゝも嫌《いや》さに默止《もだし》居《ゐ》れば駕籠舁《かごかき》共は夫婦に向ひもし旦那|戻《もどり》駕籠ゆゑ御安直《おやすく》參りやす何卒《どうぞ》お乘《のり》なされといひけるに浪人夫婦は是を聞《きゝ》今より鴻の巣迄行くには刻限《こくげん》も遲《おそ》しと申事なれば此宿に泊《とま》る積り殊に是からの四里八町は餘程|延《のび》て居るとの事ゆゑ夜にもかゝるし其上又大いに物騷《ぶつさう》だとかいふ事なれば先々見合せに致さうと云けるを駕籠舁どもは大いに笑《わら》ひコレ旦那《だんな》何《どう》した事をいひなさる此道中は初めてと見えるゆゑ夫リヤア大方《おほかた》此宿の者が御客を釣《つる》つもりの話しを御聞なされたのだらう四里八町|所《どころ》か此堤《このどて》は僅《わづ》か二里半しかありません今から急いで行《ゆか》ば必らず灯《あか》りのつく時分には鴻《こう》の巣《す》宿《じゆく》へ參りやす我等《わつち》どもはほんの酒代《さかて》丈《だけ》にて何にも構《かま》はず二里半三百文で行《ゆき》ませう其代り少しも立《たて》ずに急ぐから何卒《どうぞ》御乘《おのり》なすつて下せい三百文なら跡《あと》で彼是《かれこれ》と酒代《さかて》などは御誣頼《おねだり》申しは致しやせんと駕籠舁《かごかき》どもは口から出任《でまか》せに欺《あざむ》き勸《すゝ》め四里八町の道を二里半なりと云に浪人夫婦の者道中は始めてといひ江戸表へ急ぐ身なれば終に甘々《うま/\》欺《あざむ》かれ夫なら急いで頼みますと云つゝ此家を立出て連《つれ》の女を駕籠に乘《のせ》男は後《うしろ》に附添《つきそひ》乍ら堤《つゝみ》をさして急ぎけり [#8字下げ]第五回[#「第五回」は中見出し]  偖《さて》又《また》寶珠花屋《はうじゆばなや》八五郎は浪人夫婦の後を見送りアヽ今の若夫婦は惡《わる》い駕籠舁共《かごかきども》に引罹《ひきかゝ》りとんだ目に逢《あふ》ならん我等があれ程《ほど》氣を付て遣《や》るに若い人達《ひとたち》と云ふものは仕方がない後先の勘辨《かんべん》もなく困《こま》りしものなりと申けるに下男の彌助《やすけ》も氣の毒面《どくがほ》に然《さ》やうさ惡い奴に引罹《ひきかゝ》りましたが夫ならとて知らせる譯《わけ》には參らず實に氣の毒な事で御座ると申を八五郎は聞て然共々々《さうとも/\》奴等《きやつら》の邪魔《じやま》をして見ろ後で何樣《どのやう》な意恨《いこん》を報《かへ》されるも知れず此《こん》な間《ま》の惡ひ日には又《また》何《どん》な惡ひ奴が來るか計られねば早く見世を仕廻《しま》つて休むが好《いゝ》といふに下男彌助何さま然樣《さやう》致さんと早々に見世を片《かた》つけ今《いま》戸を建《たて》んとする處へ見上《みあぐ》る如き大兵の武士|鐵《てつ》の禪杖《ぜんぢやう》を引さげつか/\と這入《はひり》來り是々若いもの酒を一升かんをして呉《く》れ然《さ》うして何《どう》ぞ肴《さかな》を出し呉よと云ながら縁臺《えんだい》にどつかと腰《こし》を打掛《うちかけ》やれ/\日の短《みじ》かひ事だ十月の中の十日に心なしの者を遣《つか》ふなとは能《よく》云《いひ》しものだコレ/\若い者大急ぎだ早く酒と肴を出し呉よと云に下男《げなん》彌助《やすけ》は此體を見て大いに驚きハツと思ひながら猶《なほ》もよく/\見るに身の毛《け》も彌立《よだつ》ばかりに恐ろしき長《なが》大小を帶し月代《さかやき》は森《もり》のごとくに生《はえ》て色《いろ》赤黒《あかくろ》く眼《まなこ》尖《する》どく晃々《きら/″\》と光りし顏色にて殊に衣類は羊羹色《ようかんいろ》なる黒のもん付の小袖に古《ふる》き小倉の帶《おび》をしめ長刀形《なぎなたなり》になりたる草鞋《わらぢ》を穿《はき》ながら臑《すね》にて尻《しり》を端折《はしより》また傍邊《かたはら》の杖《つゑ》を見れば鐵《てつ》の延《の》べ金《がね》[#ルビの「がね」は底本では「がな」]にて四尺ばかりも有んかと思はれ然《しか》も握《にぎ》り太《ふと》なる禪杖なり因て下男彌助は戰々《ぶる/\》[#ルビの「ぶる/\」は底本では「ぶるびる」]慄《ふるへ》ながら心のうちには是は何でも盜賊の頭《かしら》に相違なし慥《たし》かに今の駕籠舁《かごかき》どもの仲間ならん飛だ奴が這入《はひり》こんだと思ひ怖々《こは/″\》ながら腰《こし》を屈《かゞ》め折角の御入來なれども眞實《まこと》に御氣のどく千萬|生憎《あやにく》只今《たゞいま》肴《さかな》[#ルビの「さかな」は底本では「さかた」]は賣切しゆゑ見世を仕《し》まはんと存じし處なれば最早御肴は少しも御ざらぬと申に彼《か》の武士《さぶらひ》然《しか》らば酒ばかりにて宜《よろ》しといひければ彌助|否《いへ》其酒も賣切たりと云ばヤレ/\夫は是非もなし大方《おほかた》飯《めし》は有《ある》べきにより出して呉《くれ》よと云へば彌助は首《かうべ》を振《ふり》ナニ/\飯《めし》も皆《みな》賣切《うりきれ》炊《たい》たのは少しも御座らぬといひつゝ武士の方をじろ/\眺《なが》め居るゆゑ武士《さふらひ》は眞實《まこと》に當惑《たうわく》なし然らばいつその事此家に泊《とま》るべし見れば障子《しやうじ》に御泊《おとま》り宿《やど》と記《しる》しあり夫に最《も》はや申刻《なゝつ》[#ルビの「なゝつ」は底本では「こゝつ」]過《すぎ》にもなるべし餘り草臥《くたびれ》たれば泊《とま》りて行んにより飯も寛《ゆる》りと炊《たい》てもらうべし酒も取寄てもらはん此所《ここ》へ泊《とま》るとすれば仔細《しさい》なしと草鞋《わらぢ》を徐々《そろ/\》脱《ぬぎ》かけ座敷へ上らんとするに下男の彌助心の内《うち》彌々《いよ/\》迷惑《めいわく》に思ひ奴《きやつ》に何とか云て何れにも泊《とま》らぬやう追出して仕廻《しまは》んともじ/\手を揉《もみ》ながら今晩《こんばん》は何分|御泊《おとめ》申こと出來難く其譯は今夜村の寄合にて後刻《ごこく》は大勢集まり候間御氣のどくながら御宿《おやど》は御斷《おことわ》り申上ると云けるに武士は其《そ》の樣子《やうす》を篤《とく》と見て大いに立腹なし貴さまは亭主《ていしゆ》か若いものかコレ先《さき》ほどより能々見るに那流《あのなが》しの桶《をけ》に魚もあるに汝《おのれ》はよく虚《うそ》を申なはてさて解《わか》りしなり某しの體裁《ありさま》を見て盜賊か又は食倒《くひたふ》しなるべしと思ひて何を聞ても無い/\と計り云は奇怪なり大方《おほかた》酒《さけ》もあるに相違あるまじと云つゝ武士《さふらひ》はづか/\と立寄《たちよつ》て酒樽《さかだる》の呑口《のみくち》へ升《ます》を宛《あて》がひヤツと一ト捻《ねぢ》り捻りければ酒はどく/\出しゆゑ汝《おのれ》是《これ》ほど澤山酒もあるものを只《たゞ》無々《ない/\》とばかり云ひをつて汝《おのれ》今に誤《あや》まるか辛目《からきめ》見せて呉んと云ながら一升|桝《ます》[#ルビの「ます」は底本では「す」]へ波々《なみ/\》と一ぱい酌《つぎ》酒代《さかだい》は幾干《いくら》でも勘定するぞよく見てをれと冷酒《ひやざけ》の桝《ます》の角《すみ》より一|息《いき》にのみ干《ほし》最《もう》一|杯《ぱい》といひつゝ又々|呑口《のみくち》をねぢり一升桝へ再びなみ/\と酌《つぎ》是をも一|息《いき》に飮終りてコレ若いもの狼藉《らうぜき》に飮逃《のみにげ》などは致さぬぞ某がしが身形《みなり》の惡きゆゑ大方|其所《そこ》ら邊《あた》りの狡猾《あぶれ》ものか盜賊とでも見込だであらう代錢は殘らず拂《はら》ひ遣はすぞコレ路用《ろよう》の金は此通り澤山所持して居ると懷中《くわいちう》の胴卷《どうまき》を取出し夫見よ酒も肴も幾許《いくら》でも出せ喰倒しをするやうな卑劣《ひれつ》の武士と思ふか茲《こゝ》な盲目《めくら》めと云ながら百兩餘りもあらんと思はるゝ胴卷《どうまき》を投出《なげいだ》したるに彌助は再び驚き彌々《いよ/\》奴《きやつ》盜賊に相違なし那《あ》れは何でも何所ぞの家尻《やじり》を切て盜みし金ならん那《あん》な身形《みな》りをして大金を持て居るは愈々《いよ/\》推量《すゐりやう》の通りならん此《こん》な奴に商《あきな》ひをなさば又《また》關《かゝ》り合に成て難儀をするかも知れぬ何れにも斷《ことわ》るより外はなしと彌助は思案を極め成ほど御客《おきやく》さまの云るゝ通り實は酒も肴も御座れ共是は今申通り今晩《こんばん》村《むら》の寄合《よりあひ》に使《つか》ふ仕込の肴《さかな》夫ゆゑ御斷り申せしなり此上は何卒《なにとぞ》御免《ごめん》下さるべしと詫入《わびい》るを武士は一向聞入ず汝《おのれ》又僞りを申ぞと云ながら榮螺《さゞえ》のごとき拳《こぶし》を振上《ふりあげ》飛《とび》かゝつて彌助を打倒さんとするにぞ彌助は大に驚ろき逃出さんとして入口《いりぐち》の障子《しやうじ》に衝中《つきあた》り摚《だう》と倒れしかば此物音に驚き亭主八五郎は奧《おく》より馳《はせ》出《いで》來り先々御客さま御勘辨《ごかんべん》下されよ實は渠《かれ》が申通り今晩村の寄合御座候につき魚は餘分《よぶん》に仕入置しにより私し儀《ぎ》是に居て伺《うかゞ》ひ候はゞ御好通《おこのみどほ》り早速御酒も肴もさし上げ申べけれども何を云にも下男彌助めは近來《ちかごろ》奉公に參りし者ゆゑ其邊の差略《さりやく》は勿論御客樣の見分も一向に出來申さず夫が爲御氣に障《さは》る事を申上しならんが其段は偏《ひと》へに私しに御免じ下され御勘辨《ごかんべん》を願ひ奉つる因ては何なりとも有合の御肴《おさかな》[#ルビの「おさかな」は底本では「おさかた」]をさし上候はんと只管《ひたすら》に詫入《わびいり》ければ武士は忽ち顏色を和《やは》らげ是は/\御亭主の挨拶《あいさつ》却つて痛《いた》み入《いる》惣《そう》じて其方《そなた》の如く理を分て云るれば某し元より事を好《この》まざるにより強《しひ》てと申譯もなしと云ふに亭主は大いに悦《よろこ》びて早々《さう/\》彌助《やすけ》をよび我等より御客《おきやく》さまへ御詫《おわび》も申上たるに早速御勘辨下されたり然れども是に懲《こり》て以來《いらい》よく/\氣を付よ其方《そなた》は餘り正直過《しやうぢきすぎ》るゆゑなり早々御酒のかんを付|鯰《なまづ》の燒乾《やきから》しを煮付《につけ》にして上よと申付るに彌助は諾々《はい/\》と云ながら酒のかんを付肴を拵《こしら》へて出しければ武士は大いに機嫌《きげん》を直《なほ》し最《いと》愉快氣《こゝろよげ》に酒を飮ながら偖々《さて/\》御亭主店先を騷《さわ》がせ氣の毒《どく》千萬|某《それ》がしは業《もと》より生れ付て容體《なりふり》に一|向《かう》構《かま》はぬゆゑ是までも兎角《とかく》人に見下られ殊に見らるゝ如く大いなる木太刀《きだち》を二本さして歩行《あるき》けれども夫《それ》を武者修行と思ふ者一人もなく却て長脇《ながわき》ざしの親方か但《たゞ》し追いはぎ盜賊などの惡漢《わるもの》が扮《やつ》し姿《すがた》と見違へ甚だ迷惑《めいわく》致す事ありと云ひければ亭主は聞て否々《いへ/\》失禮《しつれい》ながら人は見かけに寄ぬものにて韓信《かんしん》とか申人も元は洗濯婆々《せんたくばゝ》の所に食客《ゐさふらふ》に成り居りしとか又人の股《また》を潜《くゞ》りしとか申程に賤《いや》しく見えし由《よし》然《さ》すれば貴公樣《あなたさま》などは御|體《なり》は見惡ふ入《いら》せられても泥中《でいちう》の蓮華《はちす》とやらで御人品は自然《おのづ》から瓦《かはら》と玉程に違ふを見分《みわけ》ざれば目鼻《めはな》のある人とは申さずと云ふに武士は大いに笑ひ夫《それ》は餘り譽過《ほめすぎ》るなりと云つゝ最早《もはや》酒も頓《やが》て三升ばかり飮《のみ》たる故ほろ/\機嫌《きげん》になりコレ亭主貴樣は田舍《ゐなか》に似合《にあは》ず漢土《から》の事など引事《ひきごと》にして云は感心々々《かんしん/\》談《はな》せる男だイヤ面白し/\と暫時《しばし》興《きよう》にぞ入りたりける [#8字下げ]第六回[#「第六回」は中見出し]  説《さて》又《また》亭主八五郎は彼武士に向ひ失禮《しつれい》ながら御客樣の御國は讃州邊《さんしうへん》と存じ候が何《いづ》れの御方に御座候やと云ければ半四郎は不審《ふしん》に思ひ貴樣は如何《いかゞ》して某しの生國を知りたるやと問《とふ》に八五郎は微笑《ほゝゑみ》先刻より伺《うかゞ》ふに御言葉遣ひは讃州のおん言葉《ものごし》に候|間《あひだ》若《もし》やと存じお尋ね申上しなりと申せしかば武士は甚だ感じつゝ御亭主《ごていしゆ》貴樣は記憶《きおく》といひ心懸《こゝろがけ》といひ天晴の男なり察しの通り某しは讃州丸龜に住居して無刀流劔術の指南《しなん》を致し後藤半四郎秀國と申ものなりと云に八五郎は是を聞て大いに驚き扨は御客樣が後藤先生にて在《おは》せしか御縁《ごえん》と云ものは眞實《まこと》に不思議なものなり知ぬ事とは申ながら先刻《せんこく》より大いに失禮仕《しつれいつかま》つりし段《だん》眞平《まつぴら》御免《ごめん》下さるべし只今《たゞいま》上州大間々に御道場を御出し成れたる後藤秀盛先生が毎度《まいど》貴方樣《あなたさま》の御噂《おうはさ》を成れ拙者は未熟《みじゆく》なれども悴《せがれ》の半四郎は古今の達人なりと御噺《おはなし》有しが其半四郎先生に今日|御目《おめ》に懸《かゝ》らんとは夢《ゆめ》さら存ぜざりしなり又其|御身形《おんみなり》は如何なされし事やと問《と》ひければ半四郎|聞《きゝ》て今も云通り某しは生質《うまれつき》容體《なりふり》には一向|頓着《とんぢやく》せず人は容體《みめ》より只心なり何國へ行にも此通り少しも構《かま》はず只々|蕩樂《だうらく》は酒を飮ばかり外には樂《たの》しみと云者なし而《し》て又々亭主には某しが師父《しふ》を如何して存じ居らるゝやと申に亭主は猶《なほ》膝《ひざ》を進め然《され》ば秀盛先生はこの近邊《きんぺん》にも御弟子これ有よしにて時々御指南に御出《おいで》なされて滯留《たうりう》の節《せつ》は毎度《まいど》私方《わたくしがた》にて御宿《おやど》を申上夫ゆゑ大先生の御咄《おはな》しに貴方樣の御噂《おうはさ》を伺《うかゞ》ひしなり併《しか》しながら當冬に相成ては未だ一度も御出なく此秋中迄《このあきぢうまで》は毎月|缺《かゝ》さず御出ありしが如何《いかゞ》なされしにやと申ければ半四郎は始終《しじう》を聞《きゝ》夫《そ》は不思議の縁《えん》なり某し此度此所を通行なすは大間々《おほまゝ》なる我が師父大病の趣《おもむ》き國元へ飛脚到來せしゆゑ丸龜《まるがめ》より急いで上州大間々まで參りし處に何と云ても二百里|近《ちか》くの道程《みちのり》ゆゑ死目の間に合ず遙々《はる/″\》遠路《ゑんろ》を來りし甲斐《かひ》もなく甚だ殘念に存するのみ既に師父の葬送《さうそう》は門弟中|厚《あつ》く世話致し呉し由ゆゑ道場の跡片付《あとかたづけ》など濟《すま》して漸々《やう/\》今日《けふ》此所まで戻《もど》りしなりと此程の事故《ことがら》を涙ながらに物語りしかば八五郎は大いに驚き夫は嘸々《さぞ/\》御愁傷《ごしうしやう》の御事と御察し申上る道理《だうり》こそ當冬《たうふゆ》は御出之なきと存ぜしなり然らば未だ當所の御門弟中《ごもんていちう》は知らざる事ならんにより私《わたく》しより早速《さつそく》申|繼《つぎ》御墓參《おはかまゐ》りも致させんと云けるに半四郎は亭主《ていしゆ》の厚《あつ》き志《こゝろ》ざしを感《かん》じ何分宜しく頼むなりと申せし時《とき》又八五郎は半四郎に向ひ先生|先程《さきほど》は一|旦《たん》申上たれども其實|今晩《こんばん》村《むら》の寄合《よりあひ》と申せしは僞りに候|間《あひだ》今宵《こよひ》は寛々《ゆる/\》お泊《とま》り下さるゝ樣にと申ければ半四郎は莞爾《につこ》と笑ひ夫は幸《さいは》ひもはや時刻《じこく》も遲《おそ》くなりし上《うへ》某しも大いに飮過たるにより御亭主の言葉に隨ひ今夜は世話《せわ》に成べし然《さ》らば今一升|燗《かん》を頼むと言に八五郎は誠《まこと》に珍《めづ》らしき大酒なりと思ひ先々《まづ/\》御寛《おゆる》りと上られよと言つゝコレ/\と彌助を呼び先生樣に最《もう》一升お燗《かん》をつけて上よシテ又《また》徐々《そろ/\》御膳《ごぜん》のお支度をと云ければ彌助は畏《かしこ》まり候と又一升をさし出し夫より四邊《あたり》を立働《たちはたら》く隙《ひま》に傍《かたは》らに立掛ありし鐵の延棒《のべぼう》を故意《わざ》と足にて蹴倒《けたふ》し見るに少しも動《うご》かず因て彌助は目方を引見んと思ひ是《これ》は不調法仕《ぶてうはふつかま》つりましたと云ながら持て座敷《ざしき》へ上んとするに少しも持上《もちあが》らずウン/\と云て力瘤《ちからこぶ》を出し居るにぞ八五郎は此所へ出來り我等《われら》が上んと云ながら引立《ひきたて》んとすれ共同人にも動《うご》かねば八五郎は大いに肝《きも》を潰《つぶ》し是は滅法界《めつぱふかい》に重き御品なり先生|此御杖《このおつゑ》は何程《いかほど》の貫目《おもみ》候やら私し共には勿々《なか/\》持上らずと云ければ後藤は打笑ひ否《いな》多寡《たくわ》の知たる鐵の延棒《のべほう》某しが杖《つゑ》の代りに突《つい》て歩行《あるく》品《しな》目方は十二三貫目も有べし途中にて惡漢《わるもの》などに出會《いであひ》し時には切よりも此棒にて打偃《うちのめ》すが宜しと云つゝ片手にて是を取ひう/\と風を切て振廻す有樣《ありさま》宛然《さながら》麻殼《をがら》を扱《あつ》かふが如くなるにぞ八五郎は是を見て彌々《いよ/\》肝《きも》を潰《つぶ》し先生の大力實に天下《てんか》無双《ぶさう》ならんと見て居たるに後藤はコレ彌助|先刻《さつき》の代りに鳥渡《ちよつと》一本|試《こゝろ》みようかと振上《ふりあげ》ければ彌助は大いに仰天《ぎやうてん》なし御免なされと云より早く奧《おく》を目懸《めがけ》て迯行《にげゆき》けり [#8字下げ]第七回[#「第七回」は中見出し]  然《され》ば寶珠花屋八五郎は半四郎に向《むか》ひ偖《さて》も/\先生は凄然《すさまじ》き御力量哉|加之《そのうへ》劔術は殊さら御熟練《ごじゆくれん》と伺《うかゞ》ひ及び候が今少し貴方《あなた》が御早く御出あらば好《よ》かりしに惜《をし》き事なりと申ければ半四郎は聞て某し今少し早く參らば好《よき》にと云るゝは如何《いか》なる譯《わけ》なるやと問《とふ》に八五郎|然《され》ば御咄《おはな》し申べし先刻越後者の由《よし》若《わか》き夫婦連の侍士《さふらひ》私し見世に御休み成《なさ》れしが逃亡者《かけおちもの》とも見えず身形《みなり》も可なり立派なれども一向に旅馴《たびなれ》ぬ樣子にてイヤモウ意氣地《いくぢ》もなく殊に女は足を痛《いため》しとて杖《つゑ》に縋《すが》りて參りし處惡い駕籠舁《かごかき》どもに付込れ當底《たう/\》欺《あざむ》かれ乘て參りたるが今頃《いまごろ》は此熊谷土手の中程《なかほど》にて路金も女も定めし奪《とら》れ給ひしならんアヽ思ひ出しても可愛《かあい》さうな事を致《いた》せしなり既に其御侍士《そのおさふらひ》が鴻《こう》の巣《す》までも行んと云るゝにより私《わたく》しが右の駕籠屋《かごや》の來らざる中《うち》此熊谷土手は名代の物騷《ぶつさう》なる所にて殊《こと》に四里八丁もある場所ゆゑ必らず夜に入《いる》に付今夜は當宿《たうしゆく》に泊《とま》りて翌《あす》の朝《あさ》早立《はやだち》になされよと御止め申居たる處へ駕籠舁《かごかき》めが這入《はひり》來り終に勸《すゝ》め込て引懸《ひきかけ》行《ゆき》しなり其時|貴方《あなた》樣が御出成れたなら惡漢《わるもの》の五人や十人は忽ちに打散し助《たす》けて遣はされしならんに呉々《くれ/″\》惜《をし》きことをしてけりと咄《はな》せしかば後藤は樣子を聞《きゝ》夫は又何故に惡漢《わるもの》と知りながら教へては遣《やら》ざりしぞ聞が如きにては實《まこと》に痛《いた》はしき事なりと云に八五郎|否《いな》道中の雲介《くもすけ》駕籠舁《かごかき》などと申ものは今日は此所《ここ》に居ると思へば翌《あす》は大坂へ參り又は東海道へ稼《かせぎ》に歩行《あるき》少しも居所《ゐどころ》の極らぬ奴輩《やつばら》ゆゑ若《もし》奴等《きやつら》が仕事の邪魔《じやま》をする時は後日に如何なる報《あだ》をさるゝも計り難く夫故に道中筋《だうちうすぢ》は何れの茶屋小屋にても看々《みす/\》惡漢《わるもの》に引懸《ひつかゝ》りて難儀する旅人があらうとも滅多《めつた》な事は申されずと云ければ半四郎|成《なる》ほど夫は道理《もつとも》なり何にしても可愛《かあい》さうなことゆゑ何《どう》か救ひて遣度《やりたい》ものと兩手を組《くみ》しが可々《よし/\》某しは元來天地の間《あひだ》に差構《さしかまへ》のなき身分主人|持《もつ》ではなし母親は兄半作が世話《せわ》ををするし全く獨立《どくりつ》の天下浪人又義を見てせざるは勇《ゆう》なしと云る事あり某し今より駈着《かけつけ》其者どもを助けて遣《やら》ん是より道程《みちのり》は何程《なにほど》あるやと問ひければ八五郎|然樣《さやう》さ四里八町と申せども多分《たぶん》中頃《なかごろ》で爲す仕事ならん一|筋道《すぢみち》ゆゑ御出《おいで》なされば間違ひなけれ共餘程時刻も後《おく》れたれば贅足《むだあし》ならんといふに半四郎は最早《もはや》立上《たちあが》り假令《たとへ》贅足《むだあし》になればとて元々なり某し一ト走りに追着《おひつき》助《たす》けてやらん大方《おほかた》渠等《かれら》怪我《けが》もあらんにより本道《ほんだう》外科《げくわ》兩人の醫師を頼み置かれよ又《また》燒酎《せうちう》鷄卵《たまご》白木綿等《しろもめんとう》の用意を頼むなり其入用は某しが出すべしとて後藤は路金を胴卷《どうまき》の儘《まゝ》亭主に預けおき悉皆《こと/″\》く用意を申し付て強刀《がうたう》を帶《たい》し鐵の延棒《のべぼう》を引提《ひつさげ》熊谷堤を指《さし》て逸驂《いつさん》にこそ馳行《はせゆき》けり [#8字下げ]第八回[#「第八回」は中見出し]  偖又彼の駕籠舁《かごかき》の惡漢《わるもの》どもは浪人夫婦を甘々《うま/\》と僞り乘て寶珠花屋《はうじゆはなや》を立出しが程なく熊谷堤《くまがやどて》の中程なる地藏堂の前に來り駕籠を撞乎《どつか》と下《おろ》しオイ棒組々々《ぼうぐみ/\》マア寛然《ゆるり》と一ぷくやらかさうやれ/\世話しないことをしたと云ひながら煙草《たばこ》入より摺火燧《すりひうち》を取出してかち/\と火を打《う》ち付《つけ》煙草《たばこ》を呑《のみ》ながら最《もう》爰《こゝ》まで連て來れば此方《こつち》のものだ先《まづ》女《をんな》が捨賣《すてうり》にしても年一ぱい五六十兩が物はある路用《ろよう》も十兩や十五兩はあるに相違なし其外《そのほか》[#「其外」は底本では「相外」]衣類《いるゐ》大小迄《だいせうまで》奪《うば》ひとらば何でも小百兩の仕事だ久《ひさ》し振《ぶり》で甘い酒が呑《のめ》る悦べ/\と云《いふ》聲《こゑ》を浪人夫婦は聞て大いに驚き然すれば渠等《かれら》は豫《かね》て聞たる護摩《ごま》の灰《はひ》とか云へる惡漢《わるもの》ならん是は如何せんと當惑《たうわく》の折から一人の駕籠舁は彼浪人《かのらうにん》に向ひオイ御侍士《おさふらひ》先刻《さつき》熊谷の茶屋から四里八丁の丁場《ちやうば》を二里半だと云て乘《のせ》て來たが實《じつ》は僞りよ此駕籠の中《なか》の代《しろ》物と路用大小等が見込《みこみ》で此所まで汗水《あせみづ》に成て乘せて來たのだ何と肝《きも》が潰《つぶれ》たかヤイ此女は勿論《もちろん》金と大小衣類まで尋常《じんじやう》に渡せば命は助けてやる萬一《もし》否《いな》と云へば命も倶《とも》に貰ふ分の事サア素直《すなほ》に路用を出せといふに又一人も同じく侍士《さふらひ》に向ひ應《おう》然樣《さう》だ殘らず渡したとて損《そん》はあるまいコウ侍士《さふらひ》大方《おほかた》此女は餘所《よそ》の箱入娘《はこいりむすめ》を唆《そゝの》かし云合せて親の金を盜《ぬす》み出して連て逃《にげ》たに相違なし元は只《たゞ》取《とつ》て來たものだ不殘《みんな》渡しても損にはならねへサア/\渡せ/\と立《たち》かゝる故|此方《こなた》は侍士一人なれども女房を駕籠《かご》より出し手早く後《うしろ》へ隱《かく》して楯《たて》になり嗚呼《あゝ》殘念《ざんねん》なるかな斯る惡人とも知らず己れ等如きに欺《あざむ》かれ此所まで來しこと口惜《くやし》けれとは云ふものゝ刀《かたな》の手前《てまへ》假令《たとへ》命《いのち》は捨《すて》るとも汝《おのれ》がまゝに爲《さ》すべきや覺悟をせよと言ひながら腰の一刀|引拔《ひきぬき》つゝ身構《みがま》へなせば惡《わる》ものどもは打笑ひ何の小癪《こしやく》な青《あを》二|才《さい》と息杖《いきづゑ》取《とり》のべ打て蒐《かゝる》を此方は騷《さわ》がず切拂ひ又打込を飛違《とびちが》へ未だ生若《なまわか》き腕ながら一|生《しやう》懸命《けんめい》切捲《きりまく》れば流石に武士の働《はたら》きには敵し難くや駕籠舁ども是は叶《かな》はじと逃出《にげいだ》すを何國迄《いづくまで》もと追行《おひゆく》中《うち》豫《かね》て相※[#「圖」の「回」に代えて「面から一、二画目をとったもの」、429-11]《あひづ》やなしたりけん地藏堂の扉《とびら》を開き七八人の惡漢《わるもの》ども破落々々《ばら/\》其所へ馳出《かけいだ》し女を逃すな擔引《ひつかつ》げと追取卷に女房も今は何とも絶體絶命《ぜつたいぜつめい》如何に此身が女なりとて非道《ひだう》の手込《てごみ》になるべきやと用意の懷劔《くわいけん》拔放《ぬきはな》ち彼方此方を掻潜《かひくゞ》り死もの狂ひに突廻《つきまは》れば惡者どもは是を見てヤア小賢《こざか》しき女の働き叩《たゝ》き倒《たふ》せと犇《ひし》めくを頭立《かしらだち》たる大男は慌《あわ》たゞし氣《げ》に押止《おしとゞ》めコレ/\其女を叩き倒して成者《なるもの》か大事の玉に疵《きず》がつくとそツと生捕《いけどれ》と氣をつけられて惡漢どもよし/\合點《がつてん》承知の濱と遂ひに懷劔を捻取《もぎと》りつゝ手どり足どり旋々《くる/\》まき強情《しぶとひ》婀魔《あま》めと引摺《ひきずり》來《き》て捻《ねぢ》つけ駕籠へ入れんとするを女は爰《こゝ》ぞ一生懸命ヤレ人殺し/\助け給へと泣叫《なきさけ》べは侍士是に心付ヤレ南無三法|何時《いつ》の間《ま》に同類めらが後《うし》ろへ廻り我が女房を捕へしやと飛《と》ぶ如くに馳戻《はせもど》り群《むら》がる中へ切入ど彼方は名に負《おふ》荒《あれ》くれども手に/\息杖棒《いきづゑぼう》ちぎり打合ふ折から又四五人|堤《どて》の蔭《かげ》より顯《あらは》れ出《いで》疊んで仕舞へと罵《のゝ》しり前後左右を追取卷打込棒は雨より繁《しげ》く多勢を相手に侍士は死忿《しふん》を顯はし切り結ぶ心は彌猛《やたけ》に逸《はや》れども終に刀を打落され逡巡處《たぢろくところ》を惡漢《わるもの》ども寄てたかつて侍士を忽ち其所へ打倒《うちたふ》し滅《めつ》た擲《なぐ》りに打据《うちすゑ》たり斯る所へ半四郎は彼早足《かのはやあし》も一|層《そう》遽《はげ》しく堤の彼方へ來懸《きかゝ》りて遙か向うを見渡すに夜中の事ゆゑ夫なりと目當《めあて》は知ねど女の聲ヤヨ人殺し/\助け給へと叫ぶにぞ偖《さて》こそ惡漢御參んなれと猶一|驂《さん》に馳着《はせつき》て用意の延棒《のべぼう》を追取直して躍《をどり》こみて女房を押《おさへ》たる惡漢どもを後ろよりヤツと云ひさま打たふせば瞬間《またゝくま》に二三人ウンとも云はず息《いき》絶《たえ》たり是を此場の始めとして當るを幸ひ片端《かたはし》より破落離々々々《ばらり/\》と薙倒《なぎたふ》す勢ひに惡漢どもは大いに驚き是は抑如何《そもいか》に仁王《にわう》の化身《けしん》か摩利支天《まりしてん》かあら恐ろしの強力や逃ろ/\と云ひながら命からがら逃失《にげうせ》けり又《また》打倒《うちたふ》されし五七人は頭を割《わら》れ脛《すね》を折《をら》れ或は腰骨《こしぼね》[#ルビの「こしぼね」は底本では「こしばね」]腋腹骨《あばらぼね》皆打折れて即死せしもあり適々《たま/\》未だ死《しな》ざるも然も哀れ氣に呻《うめ》く體《さま》心地《こゝち》能《よく》こそ見えたりけれ後藤は是を顧《かへり》みてヤレ/\たはいもなき弱虫《よわむし》めら只一打にて逃散《にげちつ》たりシテ未《まだ》死切《しにきら》ぬ奴輩《やつばら》を斯して置は殺生なり然《さり》とて生返《いきかへ》らせなば又々旅人へ惡さをなす者共なれば止《とゞ》めを刺《さし》て呉んと鐵の棒の先《さき》を咽《のど》の邊《あた》りへ押當《おしあて》て一寸々々《ちよい/\》と葭《よし》で物を突く如く手輕《てがる》に止めを刺し去より後藤は夫婦の者に向ひヤレ/\危き事でありしが最早《もはや》我等が馳着《はせつけ》たる上は心安く思はるべし然《され》ど御浪人には強き怪我《けが》もなかりしやと云に夫婦の者は大いに悦《よろこ》び何《いづ》れの御方かは存ぜねども※[#「圖」の「回」に代えて「面から一、二画目をとったもの」、430-12]《はか》らず我々が危難《きなん》を御助け下され有難く御禮|言葉《ことば》に盡し難し少々は打疵《うちきず》を受たれども然までの怪我にも是なしと云ながら女房は後藤を熟々《よく/\》見《み》るに月代《さかやき》は蓬々《ぼう/\》と生《はえ》眼《まなこ》鋭《する》どき六尺有餘の大男なれば又々仰天なし一旦命を助けられしは嬉《うれ》しく思ひしが是また同じく勾引《かどはかし》か盜人《どろばう》にてあるべし如何して能《よか》らんやと薄氣味惡《うすきみわる》く胡亂々々《うろ/\》するを見て半四郎は是を察《さつ》し是々御浪人我等は此樣に見苦しき身形《みなり》故《ゆゑ》定めて不審《いぶかし》き者と思《おぼ》されんが必ず御心配なさるに及ばず某は讃州《さんしう》丸龜《まるがめ》に住居なす後藤半四郎|秀國《ひでくに》とて劔道《けんだう》指南《しなん》を致す者なるが此度用事あつて上州《じやうしう》大間々《おほまゝ》邊《へん》へ參り先刻歸り道にて熊谷の寶珠花屋といふ酒屋へ立寄《たちより》し處亭主の物語に貴殿御夫婦|惡漢《わるもの》どもの爲に欺かれ定めし御難儀《ごなんぎ》なされんと申事を聞及び武士は相見互《あひみたが》ひ我等も浪人の危難を餘所《よそ》に聞流すは本意《ほんい》ならず思ひ餘程《よほど》刻限《こくげん》は延《のび》たりと申せしかど假令《たとへ》無陀《むだ》になるとも屆くだけは御|助力《じよりよく》致さんと馳《はせ》着しに幸ひ間に合てお救《すく》ひ申たるは我等の本望《ほんまう》先々《まづ/\》安堵《あんど》致されよと申ければ夫婦は漸々安心してホツと溜息《ためいき》を吐《つき》我々夫婦は越後高田の浪人|新藤市之丞《しんどういちのじよう》と申者なり誠に有難き御厚情《ごこうせい》を以て斯樣に我々兩人をお救ひ下されし事千萬|忝《かたじ》けなく存じ奉つると初めて喜びの色《いろ》面《おもて》に顯《あらは》れ兩人土に手を突《つき》て厚く禮を申|述《のべ》ければ後藤は否々《いや/\》其樣に禮を云ふには及ばず夫よりは先《まづ》貴殿の疵所《きずしよ》の手當《てあて》致されよと申に後藤は[#「後藤は」はママ]某の疵は僅《わづ》かばかりなりと云ふを否々少しにても疵は大切《たいせつ》なり自然《しぜん》等閑《なほざり》て波傷風《はしやうふう》にも[#「波傷風にも」はママ]ならば容易ならず先兎も角も先刻の茶屋迄|御同道《ごどうだう》申ての事なりサア遠慮《ゑんりよ》に及ばず此駕籠《このかご》に乘《のら》れよと今惡漢どもの置去《おきざ》りにせし駕籠を引寄《ひきよせ》浪人を乘せたれども舁《かつ》ぎ人《て》のなきゆえ後藤は膝《ひざ》を打《うち》是《これ》はしたり氣の付ざりしがこんな事なら惡漢の二三人を殘して置《おけ》ば能《よか》つたに皆殺せしは是非もなしドレ參らうと半四郎一人にて引擔《ひきかつ》ぎサア/\御女中|先《さき》へ立《たゝ》れよと云つゝ行んとせしが半四郎は大小と鐵《てつ》の禪杖《ぜんぢやう》の邪魔《じやま》に成たれば若《もし》御女中憚りながら此大小と杖《つゑ》を持《もつ》て下されと女に渡すに赤銅造《しやくどうづくり》の強刀と鐵の延棒《のべぼう》なれば大體《たいてい》の男にても容易に持事|叶《かな》はぬ程ゆゑ女房は持《もつ》所《どころ》か大小ばかりにも困《こま》り果て然りとて否《いな》とも云はれず持には持れず如何して宜《よか》らんと身を悶えて居るゆゑ後藤は可笑《をかし》く思ひ是はしたり成程《なるほど》御前さんには持れぬはずどれ此方《こつち》へと引取《ひきとつ》て駕籠の棒へ下緒《さげを》にて縛《くゝ》りつけコレ御女中お前も一所《いつしよ》に乘り給へ然すれば却《かへつ》て道も捗《はか》どらんと云ふに女は否々《いへ/\》どう致して勿々《なか/\》勿體《もつたい》なしと辭退《じたい》なしければナニ遠慮なさるな夜中の事ゆゑ外に誰も見る者なしサア/\乘り給へと手を取て夫婦二人を無理《むり》に一つ駕籠に乘《のせ》是でよしとて半四郎は向《むか》う鉢卷《はちまき》片肌《かたはだ》脱《ぬ》ぎ何の苦もなく引擔《ひつかつ》ぎすた/\道を駈《かけ》ながら酒屋を指《さし》て急ぎけり [#8字下げ]第九回[#「第九回」は中見出し]  扨寶珠花屋八五郎は後藤の出行し後《のち》早々《さう/\》下男の彌助にいひ付《つけ》先《まづ》燒酎《せうちう》鷄卵《たまご》白木綿等《しろもめんとう》を買調《かひとゝの》へ夫より外科《げくわ》へ怪我人ある趣き申|遣《つかは》し招きけるに醫師《いし》は幸ひ在宿《ざいしゆく》なればとて彌助に藥籠《やくろう》を持せて先へ差越《さしこ》し程なく寳珠花屋へ入來《いりきた》りしかば亭主は早速《さつそく》出迎《いでむか》へて座敷へ請《しやう》じしに醫師は四邊《あたり》を見廻し御病人は何《いづ》れに居らるゝやと云《いひ》ければ亭主八五郎然ればなり其病人と申は多分《たぶん》今晩《こんばん》旅人《りよじん》に怪我の有《ある》筈《はず》ゆゑ急度《きつと》今に參るならんといふに醫師は大いに不審《いぶかり》然樣か夫は餘り手廻《てまは》し過《すぎ》たりシテ其怪我人のあらんと云事は如何の譯《わけ》なりやと申ければ八五郎は浪人夫婦の事より後藤半四郎が助《たすけ》に馳着《はせつけ》し始末等|委細《ゐさい》に物語りなどして居たりしが亭主は何にしても餘り手間取《てまどれ》るにより其邊《そこら》まで樣子を見せにやらんと宿駕籠《しゆくかご》を頼みて其用意に及びし所へ後藤半四郎は向《むか》う鉢卷《はちまき》片肌脱《かたはだぬぎ》になり駕籠一|挺《ちやう》へ夫婦二人を乘せ一人にて引擔《ひつかつ》ぎ寶珠花屋の門《かど》へ駈着《かけつけ》是々亭主今歸りたりと表《おもて》の戸《と》を叩《たゝ》きければ八五郎は飛でいで先生《せんせい》樣子《やうす》は如何やと云ながら門の戸|引明《ひきあ》ければ後藤は汗《あせ》を押拭《おしぬぐ》ひ如何《いかゞ》處《どころ》か誠に危き事なり亭主貴樣の云し通り今一ト足《あし》遲《おそ》いと間に合ぬ處なりしが丁度《ちやうど》間《ま》をよく駈着《かけつけ》て惡者共を叩き殺し二人とも救ひて來《き》たと夫婦の者を駕籠より下《おろ》しければ亭主は是を見てヤレ/\夫は御手柄々々《おてがら/\》先生の事ゆゑ定めし斯あらんと存じ仰付《おほせつけ》られ通《とほ》り醫師も招《まね》き置《おき》燒酎《せうちう》白木綿《しろもめん》玉子《たまご》とも調《とゝの》ひ置候なりと云つゝ半四郎|倶々《とも/″\》新藤夫婦を奧へ伴《ともな》ひ醫師に[#「醫師に」は底本では「醫師にへ」]診《みせ》市之丞の疵口を縫《ぬは》せ療治を頼み置《おき》半四郎は又亭主へもよく手當《てあて》を申|付《つけ》一ト間に入て休息《きうそく》しやれ/\草臥《くたびれ》たり拙者《せつしや》は酒を飮《のむ》べしと又々|酒《さけ》肴《さかな》を取寄《とりよせ》酒食《しゆしよく》をなして其夜は臥床《ふしど》へ入にけり偖新藤夫婦は思ひ寄《よら》ざる危難を救はれ萬事の事まで厚《あつ》く世話に成《なり》ければ悦ぶ事|限《かぎ》りなく是も其夜は打臥《うちふし》けるが偖翌日より後藤半四郎は自分の金を出し藥《くすり》其外《そのほか》手厚《てあつ》く世話を致させて先新藤夫婦の身元を尋ねしに此《この》夫婦の者浪人せしは其頃越後高田の城主《じやうしゆ》松平越後守殿《まつだひらゑちごのかみどの》藩中《はんちう》[#ルビの「はんちう」は底本では「はうちう」]にして高《たか》二百石を領《りやう》し側役《そばやく》を勤《つとめ》し者なるが女房は同藩の娘にてお梅と云《いつ》て是も奧を勤居《つとめゐ》たりしに若氣《わかげ》の過《あや》まちとて不義密通《ふぎみつつう》[#ルビの「ふぎみつつう」は底本では「ふぎみつう」]に及びし事|薄々《うす/\》上《かみ》へも聞え御家法《ごかはふ》に依て兩人の一命をも召さるべきの處《ところ》同藩にて五百石を領《りやう》し物頭役《ものがしらやく》を勤むる大橋文右衞門と云者《いふもの》平日《へいじつ》懇意《こんい》に致し仁心《じんしん》も深き人ゆゑ其事を不便に思ひ太守《たいしゆ》より御沙汰のなきうちにと密《ひそ》かに新藤を招き金子二十兩を與《あた》へ早々御家を立退《たちのき》江戸表へ出て奉公をなりとも致し始終《しじう》夫婦になつて暮《くら》されよと懇切《ねんごろ》なる大橋の情《なさけ》に預り兩人が命を助かり江戸表へ參らんと故郷を立出《たちいで》しなりと始終の事とも物語り然るに主《しう》親《おや》のお罰《ばつ》にや途中《とちう》に於て惡漢どもに欺かれ既に一命も失《うしな》はんとせし程の危難に逢《あひ》たるを又|※[#「圖」の「回」に代えて「面から一、二画目をとったもの」、433-2]《はか》らずも貴方《あなた》の御助けに預かりし事|實《まこと》に有難く存じ奉つる此御恩《このごおん》は生々《しやう/″\》世々《せゝ》忘却《ばうきやく》仕まつらず候と夫婦|諸共《もろとも》に涙を流して申しけり [#8字下げ]第十回[#「第十回」は中見出し]  扨も後藤半四郎は夫婦《ふうふ》が長|物語《ものがた》りを[#「長|物語《ものがた》りを」は底本では「長物《ものがた》語りを」]聞て成程若き者は有《あり》うちの事何も是を生涯《しやうがい》の恥《はぢ》となす程の事でもなし古き俚諺《ことわざ》に後難《こうなん》は山にあらず川にあらず人間反覆の中《うち》に在《あり》と云《いふ》いつ何時《なんどき》如何なる難儀|憂目《うきめ》に出會《であふ》も計られず然れど又々《また/\》運《うん》の開《ひら》く事もあるものなり何でも心も正直《しやうぢき》にして大橋殿の恩を忘れぬ樣に致されよ江戸表へ出たなら御夫婦《ごふうふ》とも辛抱《しんばう》して稼《かせ》ぎ大橋殿に恩《おん》を復《かへ》し給ふべし拙者も是より江戸見物致さんと思ふなれば江戸迄は御同道《ごどうだう》申べし先々《まづ/\》心置《こゝろおき》なく寛々《ゆる/\》養生《やうじやう》なすが專一なりとて眞實《しんじつ》に申を聞夫婦は増々《ます/\》悦《よろこ》び心靜《こゝろしづ》かに逗留《とうりう》いたしける中《うち》早くも十日程立疵口も稍《やゝ》平癒《へいゆ》して身體も大丈夫に成《なり》ければ最早江戸表へ出立せんと申に亭主八五郎は是を聞き先《まづ》寛々《ゆる/\》と御逗留遊ばさるべし併《しかし》貴方《あなたがた》には江戸表|不案内《ふあんない》と申事なれば爰に好《よき》幸《さいは》ひあり私し兄江戸馬喰町二丁目に武藏屋《むさしや》長兵衞と申て當時《たうじ》旅宿《りよしゆく》を致して居るにより是へ先御落着ありて寛々《ゆる/\》江戸見物を遊ばされ候はゞ然るべく私し兄の儀を申もいかゞに候へども何《なに》ごとによらず是《これ》は斯《かう》だといふ時は是までも隨分《ずゐぶん》他人さまの御世話を申|氣象《きしやう》に候あひだ失禮《しつれい》ながら御相談《ごさうだん》相手《あひて》にもなる侠氣《をとこぎ》のものに御座候是へ私より手紙《てがみ》を添《そへ》て差上申べしと云ければ後藤始め大いに悦び夫は何よりの幸ひ何分頼むと有りけるに八五郎は後藤《ごとう》并《ならび》に夫婦の者の素性《すじやう》を委《くは》しく書状に認《したゝ》め是を渡《わた》しければ兩人は悦び旅宿代《はたごだい》は勿論《もちろん》醫師《いし》藥禮等《やくれいとう》に至る迄殘らず半四郎より勘定致し翌朝《よくてう》は朝早く起出て支度を調《とゝの》へ夫々《それ/″\》厚《あつ》く暇乞《いとまごひ》に及び後藤半四郎は新藤夫婦を同道《どうだう》なし熊谷を出立して此程は此堤《このどて》にて危ふかりしなどと道すがら語《かた》り合《あひ》つゝ江戸表馬喰町へ來り武藏屋《むさしや》長兵衞方に落着《おちつき》寶珠花屋よりの添書を出しければ亭主長兵衞も弟八五郎よりの手紙も是ある事ゆゑ早速《さつそく》に出來りて夫々に挨拶《あいさつ》に及び御緩《ごゆるり》と御逗留遊《ごとうりうあそ》ばさるべしとて奧座敷を一|間《ま》貸切《かしきり》厚《あつ》く待遇《もてなし》ける故後藤は心置なく思ひ夫より日毎に案内者を連《つれ》ては向島兩國淺草吉原或は芝神明《しばしんめい》愛宕《あたご》又は目黒不動と神社佛閣名所舊跡等を見物して歩行《あるき》氣隨《きずゐ》氣儘《きまゝ》に日々《にち/\》酒《さけ》而已《のみ》多く飮《のみ》凡そ十四五日も逗留せしが後藤は萬事心を付新藤夫婦をも折々誘引せしかど市之丞夫婦は素《もと》より僅の貯《たくは》へにて國《くに》を出《いで》途中にても※[#「圖」の「回」に代えて「面から一、二画目をとったもの」、434-5]らず長逗留なし醫藥其他共後藤の世話になりしとは云《いふ》ものゝ追々に金《かね》も遣《つか》ひ減《へら》しければ此上江戸見物などに遣《つか》ひ捨《すて》る貯へなきゆゑ只《たゞ》禮《れい》のみ云て一度も同道せし事なく日々宿屋にばかり居て誠に退屈勝《たいくつがち》なれば夫婦は額《ひたひ》を合《あは》せ何時まで斯して居るとも段々《だん/\》路用《ろよう》は盡《つき》る而已にて江戸の樣子は知れざるゆゑ奉公するにも何所《どこ》へ頼んで宜《よろ》しきや勝手も分《わか》らず寧《いつそ》の事に何ぞ小商ひにても始《はじ》めて見樣《みやう》かと明暮《あけくれ》身の有付《ありつき》を考へとつ追つ相談なし居たるに或日|此家《このや》の手代《てだい》來《きた》り決して御催促を申《まをす》譯《わけ》には是なく候へども最早《もはや》暫時《しばらく》の御逗留ゆゑ御旅籠《おはたご》も餘程《よほど》溜《たま》りしにより少々にても御拂ひ下さるべきや又は後藤樣の御歸りを御待《おまち》申さんかと後藤始め三人の旅籠代《はたごだい》二十日分十九|貫《くわん》五百文金となして三兩と二百五十文に相成候と云《いひ》つゝ書付《かきつけ》を差出しけるに夫婦は面《かほ》を見合せ暫時《しばらく》答《こたへ》もなかりしかば手代は樣子を見て取《とり》何《いづ》れ又後藤樣の御歸りの上願ひに出んと云て立去《たちさり》しに[#「立去しに」は底本では「立去りしに」]夫婦はホツと溜息《ためいき》を吐《つき》今も今とて相談の折から此家の旅籠の書付《かきつけ》を見るに就《つけ》ても斯《かく》空々《うか/\》他人《ひと》の厄介《やくかい》になりて居るは如何にも心苦しく然りとて是を拂ふ心なしとは云《いふ》ものゝ切《せめ》ては此家の旅籠だけも後藤に聞せず拂ひたしと猶《なほ》種々《さま/″\》に相談なせしに妻のお梅は是までにも櫛《くし》簪《かんざし》などは追々に賣盡《うりつく》し今は着替《きがへ》一つ有而已《あるのみ》なれども此上は其着替《そのきがへ》にても賣代《うりしろ》なし旅籠の代に當《あて》んと申故市之丞も詮方《せんかた》なく然らば我等の着替羽織とも未だ之有《これある》により夫をも共に賣代《うりしろ》なし此家の借《かり》を返さんとお梅に右の三品を取出させ頓《やが》て先の手代を招《まね》き彼三品を前に置《おき》誠《まこと》に恥《はづ》かしき次第なれども道中以來種々の物入にて今は路用《ろよう》も遣《つか》ひ切《きり》當惑《たうわく》の折からなれば此衣類を賣代《うりしろ》なし此方の勘定を致し呉《くれ》られよと云《い》ひけるに手代は甚だ氣の毒顏に否《いや》然樣《さやう》の御事なれば後藤樣の御歸りの上御|相談成《さうだんなさ》れて然るべし此御勘定とても只今《たゞいま》[#ルビの「たゞいま」は底本では「たいゞま」]戴《いたゞ》かねばならぬと申譯にも御座なく今日は見世《みせ》の帳合日《ちやうあひび》故《ゆゑ》先刻《せんこく》一|應《おう》伺ひ候までなりと申を夫婦は否々《いな/\》是までも後藤氏には一方ならず世話になりたれば切《せめ》ては此方の旅籠だけも我々《われ/\》相拂《あひはら》ひ申度平に取計らひを頼むと云にぞ手代も當惑《たうわく》なし如何はせんと考がへ居たるに後ろの襖《ふすま》を押開《おしひら》き御免なされと此家の亭主《あるじ》長兵衞は入來《いりきた》り只今|彼方《かなた》にて御樣子を伺ひ實《まこと》に御志操《おこゝろざし》を感じ候なり然《さり》ながらお三人のお旅籠を御一人|御留守中《おるすちう》に戴き候も心よからず殊には當時|御差支《おさしつかへ》の御樣子|旁々《かた/″\》決して今日|頂戴《ちやうだい》致すに及ばず候間|此御品《このおしな》は左《と》に右《かく》御納め下さるべしと申に市之丞夫婦は亭主の情《なさけ》ある言葉を聞《きく》に付《つけ》猶さら氣の毒に思ひ此上御世話に相成《あひなる》は兎も角も此衣類は當時不用の品ゆゑ何卒《なにとぞ》御賣拂《おうりはら》ひ御勘定下されよと互に爭《あらそ》ひ居る折から半四郎は立歸《たちかへ》りしが今兩人の言葉を聞《きゝ》ながら此所《ここ》へ入來《いりきた》りコレ/\新藤氏其儀は拙者に御任《おまか》せあれと云て亭主長兵衞に向《むか》ひ偖此所に御座る新藤氏夫婦の事は概略《あらまし》貴樣の弟より手紙にて承知も有《ある》べきが是《これ》若《わか》き者の有うち實《じつ》は越後高田の浪人にて同藩の娘をつれ逃來《にげきた》りし譯ゆゑ敢《あへ》て憎《にく》む程のこともなし夫に旅馴《たびなれ》ぬゆゑ熊谷土手にて惡漢《わるもの》に欺《だま》され既に妻をも奪《さら》はれんとする所に八五郎の咄《はな》しにより某|駈着《かけつけ》て惡漢を追散《おつちら》したれば夫が縁《えん》となり御當地までも同道《どうだう》致したるなり何にしても便《たよ》り少《すく》なき夫婦の者|何《どう》か貴樣の世話を以て取續《とりつゞ》きの出來《できる》樣《やう》頼み申度尤も丸々《まる/\》貴樣の厄介《やくかい》に懸《かけ》ると云《いふ》譯《わけ》には非ず是は聊《いさゝ》かなれども何ぞ商賣でも初めさせて下されよと後藤は用意《ようい》の金子を二十兩|取出《とりいだ》し資本《もとで》と云《い》ふ程《ほど》にはなけれども宜しく頼《たのむ》と長兵衞に渡しければ長兵衞は素《もと》より侠氣《をとこぎ》の者ゆゑ否《いや》先生貴方がお連なされたお方なり殊に八五郎よりも頼《たのみ》の書状《しよじやう》參りし事ゆゑ金子などは入《いり》申さず私しが能《よき》樣《やう》に御世話仕つるべきにより決して御心遣ひ成《なさ》れまじ假令《たとへ》宿《やど》には一錢なくとも私しが何れとも工夫《くふう》致すべし先々《まづ/\》此金子は御始末下されよとて其事由《そのことがら》を心快《こゝろよく》請合《うけあひ》けるにぞ半四郎は大いに悦び夫は千萬忝けなし夫にて先《まづ》安心《あんしん》致したり併《しかし》ながら此金は兎も角も貴樣が預《あづか》り置《おい》て下《くだ》されよと金子二十兩を押《お》し返《かへ》して渡し厚《あつ》く夫婦の身の上をぞ頼みける是《これ》陰徳《いんとく》あれば陽報《やうはう》ありとの譬《たとへ》の如く此事《このこと》後年《こうねん》に至つて大岡殿の見出しに預《あづ》かる一|端《たん》とはなりぬ然《され》ば新藤夫婦は是を見聞《みきゝ》して大いに悦びしとは雖も是までも萬事後藤の世話になりしことゆゑ切《せめ》て旅籠代《はたごだい》だけは衣類を賣て拂はんと云《いふ》に夫をも止《とめ》られ猶亦二十兩の資本金《もとできん》まで長兵衞に預けし後藤の深切《しんせつ》何と禮を云べき詞もなく名利《みやうり》の程も恐《おそろ》しと兩人涙に昏《くれ》て居たりしに武藏屋長兵衞は委細《ゐさい》引受《ひきうけ》て世話をなさんと云《いふ》に彌々《いよ/\》打喜び我々夫婦の命を御助け下されるのみならず往々《ゆく/\》身《み》の落付《おちつき》まで御世話下さるとは誠に冥加《みやうが》至極《しごく》有難き仕合なりと繰返々々《くりかへし/\》[#ルビの「くりかへし/\」は底本では「くりかへ/\」]夫婦の者は伏拜《ふしをが》み嬉《うれ》し涙に咽《くれ》たりけり是より半四郎は國元へ出立の用意《ようい》に及び日々《ひゞ》土産《みやげ》など調へしが彌々《いよ/\》明日は出立せんと別《わか》れを告《つぐ》るに長兵衞夫婦の者|名殘《なごり》を惜《をし》み幸ひ大師河原へ參詣《さんけい》ながら川崎宿迄送り申さんと己も支度《したく》をなし翌朝後藤は此家《このや》を立出るに新藤夫婦も別《わか》れを惜《をし》み影見えぬまで見送々々《みおくり/\》後藤の方を伏拜《ふしをが》むこそ道理なれ又長兵衞夫婦は川崎宿まで送らんと同道なしけるに後藤も其志操の厚《あつ》きを感《かん》じ何時迄《いつまで》も名殘《なごり》は盡《つき》ねども又《また》跡々《あと/\》を御頼み申せし新藤夫婦の事もあれば此度《このたび》は大師迄《だいしまで》にて別れ申べけれ重《かさ》ねて金比羅《こんぴら》へ參詣《さんけい》の事もあらば丸龜城下なる拙者《せつしや》の宅《たく》へ必らず立寄《たちよら》れよ又某事も此後《こののち》江戸表へ出《いづ》るならば貴樣の家を定宿《ぢやうやど》となし年中|互《たが》ひに往來《ゆきき》爲度者《したきもの》なりと道々話しながら川崎宿なる萬屋へ到《いた》り同所にて酒飯《しゆはん》も濟《すま》せ頓《やが》て別れを告《つげ》夫より長兵衞夫婦は大師へ參詣《さんけい》してぞもどりける [#8字下げ]第十一回[#「第十一回」は中見出し]  偖又後藤半四郎は是より東海道《とうかいだう》を往《ゆく》に今宵は先《まづ》藤澤《ふじさは》泊《どま》りと心懸《こゝろがけ》鶴見畷《つるみなはて》など打眺《うちながめ》ながら神奈川臺も打越し處に町人體の男半四郎の後《あと》になり先になり來りしが程《ほど》ヶ|谷《や》の先なる燒持坂《やきもちざか》の邊りより彼町人體の男は聲を懸《かけ》若《もし》旦那樣は失敬《しつれい》ながら何方迄《いづかたまで》御上《おのぼ》り遊ばさるゝやと云《いふ》を半四郎は聞て某は四國の丸龜まで戻《もど》る者なりと答るに彼男私しは江州《がうしう》にて候が江戸表へ商《あきな》ひに參り只今歸り道也是から又《また》尾州《びしう》名古屋へ到《いた》り夫より京大坂へ仕入《しいれ》に登り候|積《つも》りに付幸ひ御供同樣に御召連下《おめしつれくだ》さるべし一人の道中と云者《いふもの》は道に倦《あき》るものゆゑ御咄相手《おはなしあひて》に御同道仕つり度と然も馴々《なれ/\》しく申すにぞ後藤は否々《いな/\》某は又《また》道連《みちづれ》の有は大いに嫌《きら》ひなり殊に貴樣は江州者だと云ふが近江《あふみ》盜人《どろぼう》伊勢|乞食《こじき》と云事があり勿々《なか/\》江州の者は油斷《ゆだん》はならずと斷《ことわ》るに彼男それは旦那樣貴方の御聞違《おきゝちが》ひなり近江殿御に伊勢子正直と申ので御座りますナニ近江者が泥坊《どろぼう》と限りますものかと云《いひ》ければ半四郎は否々《いや/\》夫は左《と》も右《かく》もなんだか氣味が惡《わる》し某は一人の方が氣儘《きまゝ》なりとてすた/\早足《はやあし》に急ぎ行くを彼男も同じく早足になり追駈《おひかけ》ながら若旦那樣|何《どう》ぞ御一所に御願ひ申ます貴方樣は見上《みあげ》た所武者修行を遊ばさるゝ御方と存じます御大小なんどは餘程《よほど》長《なが》きもので御立派《おりつぱ》なり私し儀實は仕入の金を所持《しよぢ》致し居り候へば何時《いつ》の道中にても登り下《くだ》りが心遣《こゝろづか》ひでなりません道中は金子の十兩から持つて居ると惡《わる》ものが目を付て油斷《ゆだん》がならず何卒《なにとぞ》御迷惑《ごめいわく》ながら御同道下さらば丁度旦那樣の御供の樣にて惡漢《わるもの》が付《つく》氣遣《きづか》ひなく心丈夫に存じますと云《いふ》に後藤は見向《みむき》もせず夫は貴樣の勝手次第《かつてしだい》にといひ放《はな》し一向構はず行中《ゆくうち》にはや戸塚の棒鼻《ぼうはな》へ入りたるに或料理屋の勝手《かつて》に鰹《かつを》佳蘇魚《まぐろ》鮃《ひらめ》の數々の魚見えければ後藤は一杯やらんと此家《このや》に入て酒《さけ》肴《さかな》を誂《あつ》らへなどする中《うち》彼男も續《つゞい》て入來り是も酒を言付《いひつけ》しに程なく双方《さうはう》へ酒肴を持來《もちきた》りしかば後藤は手酌《てしやく》にて飮居たるに彼町人も大酒飮《おほざけのみ》と見え大なる茶碗《ちやわん》にて引懸々々《ひきかけ/\》飮居る體《てい》に後藤は聲をかけコレ/\町人其方は大分《だいぶん》酒《さけ》が飮る樣子なりといふに彼男は此方《こなた》に向ひイヤモウ酒は大好物《だいかうぶつ》で御座りますと云ひければ半四郎夫は話せる/\其の酒飮は某《それがし》大好《だいすき》なり酒は一人で飮では味《うま》くなし一|杯《ぱい》間《あひ》をせぬかと申に彼町人は得たり賢《かしこ》しと夫は有難し直樣《すぐさま》御間《おあひ》仕つらんと是より後藤の側《そば》へ寄《より》献《さし》つ酬《さゝれ》つ飮合《のみあひ》いが其好む所に辟《へき》すとの如く後藤半四郎は自分が酒好《さけずき》故《ゆゑ》終《つひ》に此男と合口となりて忽ち互ひに打解《うちとけ》つゝ四方八方《よもやま》の物語りをなす中《うち》良《やゝ》酒の醉も回《まは》りしかば後藤は近江《あふみ》盜賊《どろぼう》の一件も礑《はた》と忘《わすれ》て仕舞至極酒の相手には面白く思ひ終に是より道連《みちづれ》となし飮合たる勘定も拙者が拂《はら》ふ否《いや》私しが拂ひますと爭ふ位の中になり其後の勘定は面倒《めんだう》なしに一日代りと極《き》めければ半四郎は大いに歡《よろこ》び道々《みち/\》の咄し相手となし先今夜は藤澤へ泊《とま》らんとて程なく宿屋へ着《つき》たりけり然るに彼|道連《みちづれ》に成し男は元《もと》上總《かづさ》無宿《むしゆく》にて近頃東海道を往返《わうへん》し旅人の懷中《ふところ》を狙《ねら》ふ護摩《ごま》の灰《はひ》の頭なり因て半四郎が所持の金に目を懸《かけ》樣々《さま/″\》にして終に道連となりしかば此夜《このよ》何卒《なにとぞ》して半四郎の胴卷《どうまき》を奪はんと付狙《つけねら》へども後藤に油斷《ゆだん》なきゆゑ終に其閑《そのひま》なく翌日《あす》となりしかば又同道して次の夜は箱根《はこね》を越《こし》三島宿の長崎屋嘉右衞門と云《いふ》旅籠屋へ着《つき》けるに宿の女ども立出《たちいで》是は/\御客樣只今おすましの御湯を上《あげ》ます御草鞋《おわらぢ》は其處へと彼是爲る中に彼男は姉樣《ねへさん》又御世話に成ますと然《さ》も心安き體《てい》に云《いふ》を聞《きゝ》主《あるじ》の嘉右衞門出來りて兩人《ふたり》に挨拶《あいさつ》なし如何さま折々《をり/\》見た事のある男なりと思ひしかば是々《これ/\》女中共|御連樣《おつれさま》がある御草鞋《おわらじ》を始末なし御荷物《おにもつ》を持て御座敷へ御案内せよと指※[#「圖」の「回」に代えて「面から一、二画目をとったもの」、438-5]《さしづ》に連《つれ》て兩人を座敷へ通し御湯《おゆ》も沸《わい》て居《をり》ますと云ゆゑ直《すぐ》さま後藤は彼男と倶《とも》に風呂《ふろ》に入《いり》ながら酒肴を誂《あつ》らへ置《おき》頓《やが》て風呂も仕舞て出來りしに女子どもは酒肴を持出《もちいで》ければ兩人は打寛《うちくつろ》ぎて酒宴《しゆえん》に時刻を移《うつ》しけり [#8字下げ]第十二回[#「第十二回」は中見出し]  偖又半四郎は時《とき》移《うつ》るに隨ひて醉《ゑひ》は十分に發《はつ》し自《おのづ》から高聲《かうせい》になり彼町人體の男に向ひ貴樣の樣なる者は道連《みちづれ》になると茶屋なとへ引づり込《こみ》此樣に打解《うちとけ》て酒を呑合《のみあひ》百年も交際《つきあひ》し如くなして相手の油斷《ゆだん》を見澄《みすま》し荷物又は懷中の金子等を奪《うば》ひ取《とる》護摩灰《ごまのはひ》[#ルビの「ごまのはひ」は底本では「ごまのは」]とかいふ盜人が道中筋には有と申すが貴樣も其樣な類《たぐ》ひならんと正鵠《ほし》をさゝれて彼町人心の内に南無三寶|彼奴《きやつ》め我等を護摩灰《ごまのはひ》と悟《さとり》しかと思ひ故意《わざ》と言葉を和《やは》らげ旦那は訝《おつ》な事を御尋ね成る其の護摩灰と申は私しにて候|御油斷《ごゆだん》成《なさ》るな何樣《どのやう》に貴方《あなた》が御用心を成《なさ》れても御所持の荷物なり金子なり共|奪《うば》ひ取《とら》んと思へば直《すぐ》に取て御目に懸ますと然も戯談《じようだん》らしく己が商賣を明白《あからさま》に云て笑《わらひ》ながら平氣《へいき》に酒を呑で居るゆゑ後藤も心の中に此奴《こやつ》勿々《なか/\》の惡漢なりと思ひければ彌々《いよ/\》酒興《しゆきよう》の體《さま》にもてなし懷中より百兩餘りも有ける胴卷を取出し是見られよ此通《このとほ》り金子もあるが某|兎角《とかく》して其の護摩灰とやら云ふ奴に出會て見度思ひしが貴樣輩《きさまたち》の樣なものに此金を取れまいと云つゝ故意《わざ》と見せびらかし併《しか》し盜人《どろぼう》の隙《ひま》はあれども守人《まもりて》に隙《ひま》はなしとか云なりと大口《おほぐち》開《あい》て打笑ひ其胴卷《そのどうまき》を其所へ投出し置|増々《ます/\》醉《ゑひ》に乘ずる體なれば彼町人の曲者《くせもの》は假令《たとへ》武者修行《むしやしゆぎやう》にもせよ此《こ》の機《き》を外《はづ》さず充分に酒を強付《しひつけ》醉潰《ゑひつぶ》れたる時に奪《うば》はゞ造作《ざうさ》もなしと心に巧《たく》み頻りに後藤の機嫌《きげん》を取|強付々々《しひつけ/\》酒を勸《すゝ》むるに稍《やゝ》三四升ほども飮しかば半四郎は機嫌|斜《なゝ》めならず謠《うたひ》を謠ひ手拍子《てびやうし》を拍《うつ》て騷ぎ立るに隣《とな》り座敷の泊《とま》り客は兎角に騷がしくして眠《ねむ》る事もならず甚だ迷惑《めいわく》なし能加減《いゝかげん》に靜《しづ》まれよと襖《ふすま》一重《ひとへ》を隔《へだ》て聞えよがしに詢言《つぶやき》ければ半四郎は聞つけて大いに立腹《りつぷく》の體にてもてなし靜《しづ》かにしろとは不屆千萬某が錢《ぜに》にて某酒を呑にいらざる口を利《きく》奴等《やつら》なり無刀流の達人《たつじん》後藤半四郎秀國が相手なるぞ率《いざ》出來《いできた》れ片端《かたはし》より捻《ひね》り殺して呉れんと大音聲に呼《よば》はるにぞ連《つれ》の町人は己《おのれ》が仕事の邪魔《じやま》になりてはならずと思ひしかば若々《もし/\》旦那樣《だんなさま》誰《だれ》も何とも申は致しません貴方に對して過言《くわごん》申者の有べきやと種々《さま/″\》に宥《なだ》め賺《すか》しサア/\をつもりに致しませう最早《もはや》押《おつ》つけ子刻《こゝのつ》なり率《いざ》御休み成れましと女子共に四邊《あたり》を片付《かたづけ》させければ後藤は何の蛆蟲《うじむし》同前《どうぜん》の奴輩《やつばら》某を知らざるやと罵《のゝし》りながら胴卷《どうまき》を取て故意《わざ》と腹に周環《ぐる/\》卷《まき》たるまゝ臥床《ふしど》に入《いり》枕《まくら》に付や否《いな》や前後も知らぬ高鼾《たかいびき》に町人も半四郎の側《そば》へ臥《やす》みしかば家内の女子どもは酒肴の道具《だうぐ》を下《さげ》行燈《あんどう》へ油を注足《つぎたし》御緩《おゆるり》と御休みなされましと捨言葉《すてことば》を跡に殘して出行《いでゆき》けり是より家内も夫々に休み座敷々々も一同に深々《しん/\》と更渡《ふけわた》り聞ゆるものは鼾《いびき》の聲ばかりなり然るに彼町人體の男は家内の寢息《ねいき》を考へ居たりしが大概《おほよそ》丑刻《やつ》時分《じぶん》とも思ふ頃|密《そつ》と起上り寢床《ねどこ》にて甲懸《かふがけ》脚絆《きやはん》迄も穿《はき》率《いざ》と云へば逃出《にげだ》すばかりの支度をなし夫より後藤が寢《ね》たる側《そば》に指《さし》より宵の酒宴《さかもり》の時見て置きたる胴卷の金を盜《ぬす》み取んと彼曲者《かのくせもの》は半四郎が寢たる夜着《よぎ》の脇《わき》より徐々《そろ/\》と腹の邊《あたり》へ手を差入《さしいれ》ければ後藤は目を覺《さま》しはて奴《きや》つめが來りしぞと狸寢入《たぬきねいり》をして密《ひそ》かに傍《そば》の夜具を見れば連《つれ》の男見えぬ故扨こそ奴つに相違なし今に取押《とりおさへ》呉《く》れんと空鼾《そらいび》きをかき熟《よく》寢入《ねいり》し體に持成《もてなせ》ば曲者は仕濟したりと彼胴卷を解《ほどき》てそろり/\と引出すゆゑ半四郎は少し體《からだ》を上て引せけるに曲者は爰《こゝ》ぞと思ひ滑々《ずる/\》と引出す處を半四郎は寢返《ねがへ》りをする體にて曲者の首《くび》を股間《またぐら》へ挾《はさ》み足を緘《から》みて締付《しめつけ》けるに大力《だいりき》無雙《ぶさう》の後藤に締《しめ》付られて曲者は言《もの》を云事も叶《かな》はず只《たゞ》眼《め》を白《しろ》く黒《くろ》くなし鼻にて息をするのみなり時に半四郎は大音《だいおん》上《あげ》盜人《どろばう》が這入《はひり》しぞや家内の者共|起給《おきたま》へ/\と呼《よばは》るにぞ夫れと云つゝ亭主は勿論《もちろん》飯焚《めしたき》下男迄一同に騷ぎ立《たち》盜人は何處《いづく》へ這入しと六尺棒或ひは麺棒《めんぼう》又は箒《はゝき》摺子木《すりこぎ》など得物を提《ひつさげ》來り此處よ彼處と立騷ぐ此の騷動に宿合《とまりあは》せし旅人の座敷々々部屋々々迄一同に飛起《とびおき》刎起《はねおき》手に/\荷物を改ため廻り家内の騷動大方ならず半四郎は寢ながら大聲にて何《いづ》れも客人方何ぞ取られし物はなきやと云に一同|未々《まだ/\》改め中ゆゑ確《しか》と分らずなどと云所へ亭主男共は半四郎が座敷へ走來《はせきた》り若々《もし/\》御客樣盜人が這入《はひり》しよしゆゑ爰《こゝ》彼處《かしこ》と改め見れども一|向《かう》に這入し樣子はなし其盜人は何所《どこ》に居《をり》候やと云ければ半四郎は寢たるまゝにて微笑《ほゝゑみ》ながら此處だ/\拙者の股間《またぐら》に居と申ければ大勢一同に御客樣|御虚談《ごじようだん》ばかりと笑ひ出せしかば否《いや》虚談《じようだん》ではなし全く拙者が股間に引挾《ひつぱさ》んで居る然れ共拙者が連《つれ》は見えぬ故先|此奴《こやつ》を改め呉《くれ》よと云れて亭主若い者一同|立懸《たちかゝ》り半四郎の|夜着《よぎ》を捲《まく》り見れば甲懸《かふがけ》脚絆《きやはん》まで穿《はき》旅支度《たびじたく》をなし居けるゆゑ能々《よく/\》是を見て大いに驚き此盜人は御客樣貴方の御連なりといふに半四郎も能々《よく/\》顏を見て成程某の連《つれ》なり奴《きやつ》護摩灰《ごまのはひ》ならんにより糺《たゞ》し呉れんと思ひし處とう/\今宵|引捕《ひつとら》へたり一|體《たい》此奴《こやつ》某が連にはあらねども一昨日《をとゝひ》戸塚《とつか》境《ざか》ひの燒持坂より連に成りたいとて尾《つけ》來《きた》りし者なるが生國《しやうこく》は近江の由なれど江戸へ商ひに出し歸りにて是より名古屋へ回《まは》り其後京大坂へ仕入《しいれ》に上《のぼ》るにより供をさせて呉れよと云ども某は承知せず近江《あふみ》泥坊《どろばう》伊勢《いせ》乞食《こじき》といふ事あれば江州の者に油斷《ゆだん》はならず連は嫌《きら》ひなりと申せしかど達《たつ》て供を致し度し申に付|據處《よんどこ》ろなく同道致せし譯《わけ》拙者も些少《いさゝか》油斷をせぬ故に果して化《ばけ》の皮《かは》を顯《あら》はし今《いま》捕押《とりおさ》へたるは能《よき》[#ルビの「よき」は底本では「いよ」]氣味なりと咄すを聞て家内の者共|然樣《さやう》の御連にてありしか何にしても不屆な奴《やつ》引《ひき》ずり出して叩《たゝ》きのめせと立騷《たちさわ》ぐを後藤は止《とゞ》め否々《いや/\》打擲《ちやうちやく》なして若《もし》打處が惡く殺しもなさば死人に口無却つて面倒《めんだう》なり先々拙者の連こそ幸ひ某しに任《まか》すべし面白き計らひあり命をば助けて遣《やる》がよし誰樣《どなた》も客人方に盜まれし品はなきやといふに隣《とな》り座敷の客は寢惚眼《ねぼけまなこ》にてキヨロ/\しながら拙者は大事の者が見えぬなり早々《さう/\》詮議《せんぎ》成《なさ》れて下されよと云ゆゑ大事な者とは何なりやと問《と》ひけるに客人|些《ちと》申兼たるが御寶《おたから》が紛失《ふんじつ》致し然も昨日《きのふ》買《かひ》たてなりと云ば皆々成程|犢鼻褌《ふんどし》でござるか夫は濟《すま》ぬ事|熟々《よく/\》御改《おあらた》めなされよと申にいくらさがしても一向御座らぬと云時《いふとき》宿《やど》の亭主は若々《もし/\》貴公《あなた》の裾《すそ》の下から何か紐《ひも》が見えます夫ではなきやと言《いは》れて夫はと云ながら客人は内懷中《うちぶところ》へ手を入もじ/\致せしが頓《やが》て越中犢鼻褌《ゑつちうふんどし》を取出し見て是なり/\と申ければ一同どつと笑《わら》ひつゝ今夜は隣《となり》座敷にて大聲を揚《あげ》馬鹿な騷ぎをするゆゑ宵には少《すこ》しも眠《ねふ》られず又夜中にも此騷ぎヤレ/\飛《とん》だ目に逢《あひ》しと云ながら皆々客人は我が寢所《ねどころ》へぞ入にける因て家内の者は大勢《おほぜい》にて盜人を庭へ引出し嬲《なぶ》りものにして遣《やら》んと騷ぎ立を後藤は先々《まづ/\》待《また》れよ某存じ寄《より》あれば決して手荒《てあら》き事はならずと申付未だ夜明までには間も有《ある》べし今一|寢入《ねいり》するにより太儀ながら貴樣達は此奴《こやつ》の番を頼むなりとて半四郎は盜人を高手《たかて》小手《こて》に縛《しば》りあげ傍らなる柱《はしら》へ縛《くゝ》り着置《つけおき》ヤレ/\大騷ぎをしたりと云ながら其身は臥寢《ふしど》に入《いり》たりけり [#8字下げ]第十三回[#「第十三回」は中見出し]  偖《さて》其夜も白々《ほの/″\》と明渡りけるに大勢の客人共は皆々一同に起出《おきいで》嗽《うが》ひ手水《てうづ》を遣《つかう》ゆゑ後藤半四郎も同じく起出《おきいで》て嗽《うが》ひ手水《てうづ》をなせしに客人たち昨晩《さくばん》は飛《とん》だ事で貴方《あなた》も嘸《さぞ》かし御|眠《ねむ》かりしならん道中にて知ぬ連《つれ》は油斷《ゆだん》は成ませぬと云に半四郎|否《いな》皆樣も嘸《さぞ》かし迷惑偖々不屆の奴《やつ》もある者でござると咄《はな》しの折から下女は膳《ぜん》を持來り後藤の方へは一人前を据《すゑ》るゆゑ後藤は是を見てモシ/\女中飯は二人前出して下され夫に酒《さけ》を一升|添《そへ》て呉《くれ》られよと云に下女は承知なして勝手《かつて》へ行《ゆき》しが程なく酒を持來り膳《ぜん》を二人前半四郎の方へ据《すゑ》ければ後藤は柱《はしら》へ縛《しば》り付《つけ》置たる盜人の繩《なは》を解《とき》コレ汝爰へ來て酌《しやく》をせよと茶碗《ちやわん》を出しければ彼曲者《かのくせもの》はヘイ/\と云ながら怖々《こは/\》酒を酌《つぐ》に後藤は大安坐《おほあぐら》をかいて酒を飮ながら何だびく/\するな何故《なぜ》其樣《そんな》に震《ふる》へるぞコレ酒が漏《こぼれ》るぞ落着《おちつい》て酌《つぐ》がよい汝も酒が好《すき》だ一|杯《ぱい》間《あひ》をせよサア/\其|茶碗《ちやわん》がいゝ夫で二三|盃《ばい》飮《のむ》べしと酒を酌《つい》でやり後で飯も食《くふ》がよい今に拙者が手前を料理《れうり》して遣《やる》ぞコレ/\遠慮《ゑんりよ》なく澤山食せよと云て笑ひ居るに彼曲者は如何なる目に逢《あふ》事かと生《いき》たる心地は更《さら》に無《なく》何卒《なにとぞ》旦那樣|命《いのち》ばかりは御助け下されと齒《は》の根《ね》も合ぬ許《ばか》りに詫《わび》ければ半四郎|彌々《いよ/\》可笑《をかし》くよし/\先《まづ》食事をせよと云に曲者は半四郎の心中《しんちう》量《はか》られざれば有難しと口には云て食事をすれ共《ども》一|向《かう》咽《のど》へは通らず戰《ふる》へ居《ゐ》る中《うち》に半四郎も食事を仕舞《しまひ》手《て》を拍《たゝ》きて女を呼《よび》昨夕《ゆふべ》からの旅籠《はたご》酒《さけ》肴《さかな》の代共《だいとも》勘定をといふに女子は御酒代|御旅籠《おはたご》とも二貫七百文なりと書付を出すを半四郎は受取て彼曲者《かのくせもの》に向ひ貴樣は懷中《ふところ》の財布《さいふ》に金があるべし爰《こゝ》へ二分出せ其替りは命は助けて遣《やらう》と云を聞き曲者は最《もう》良《やゝ》横着氣《わうちやくき》を出し金子などはすこしも御座なくと云ければナニなき事の有べきや若《もし》包《つゝ》み隱《かく》さば命を助けぬぞ汝が懷中に持て居るを某し見屆《みとゞけ》たりサア出せ/\と詰寄《つめよる》に曲者は是非なく財布《さいふ》より金子二分取出し然樣《さやう》ならばと差出せしかばソレ見よ持て居《ゐ》ながら少しもなきなぞと未《まだ》僞るは不屆至極《ふとゞきしごく》なりと云ながら握《にぎ》り拳《こぶし》にて横樣《よこさま》に擲倒《はりたふ》さんとする故盜人は大いに恐れアヽ眞平《まつぴら》御免下《ごめんくだ》さるべしと平蜘《ひらくも》の如くになつて詫入《わびいる》にぞ半四郎は二分の金を受とり是で勘定を取《とつ》て呉《くれ》よ夫《それ》二分渡すぞと云に女は受取|行《ゆき》て直《すぐ》に釣《つり》を持來りしかば半四郎イヤ釣はいらぬ[#「いらぬ」は底本では「いらね」]夜中に騷《さわ》がした茶代《ちやだい》に取置《とりおく》べしといひ捨《すて》夫より盜人に向ひ汝よく聞け此程より彼是と二兩ばかりは遣ひしならんが何商賣《なにしやうばい》にても儲《まう》け而已《のみ》あるものでなし時々|見込違《みこみちが》ひにて損《そん》もすることあり然《さ》れば今度から能々人の目利《めきゝ》をして見損じのなき樣に商賣に身を入《いれ》よ馬鹿な奴だと笑ひけるに曲者《くせもの》は只《たゞ》平謝《ひらあや》まりに謝《あやま》り居るゆゑ又半四郎は渠《かれ》を見て汝は命をとる可《べき》奴なれども今日の處は慈悲を以て助《たす》けて遣《つか》はすにより有難く思へと云聞《いひきか》せ居たるに此家の者ども出來り先生|然《さう》は仰せらるれども後日の誡《いまし》めなれば少し私どもにも御任せあれ斯して呉んと手に/\毛を一本づつ引拔《ひきぬき》半分|禿頭頂《はげあたま》にしてぢく/\と血の出る處へ太筆《ふとふで》に墨《すみ》くろ/″\と含ませぐる/\と塗廻《ぬりまは》し夫より鹽水を灌《そゝ》ぎ懸て強く摩《こす》り込《こみ》ければ盜人はヒツ/\と聲を揚《あげ》て困《くるし》む事大方ならず後藤は夫で好々《よし/\》最《もう》寛《ゆる》して遣《やれ》と聲をかけサア汝|斯《かう》印《しるし》を付て遣はすにより以來心を改め眞實《まこと》の人間になるべし萬一又々|惡心《あくしん》萌《きざし》たなれば其時其|小鬢《こびん》の入墨《いれずみ》を水鏡《みづかゞみ》に寫《うつ》し今日の事を思ひ出して心を改ためよと云て此家の下男に追放《おひはな》すべしと渡すに下男どもは面白《おもしろ》半分手取足取|引摺《ひきずり》行《ゆき》宿|外《はづ》れにて突放《つきはな》しければ盜人は命《いのち》辛々《から/″\》這々《はう/\》の體《てい》にて逃去たり偖《さて》又半四郎は夫より宿屋を立出|長《なが》の旅中も滯溜《とゞこほり》なく讃州丸龜へ歸りて舊《もと》の如く無刀流劔道の指南《しなん》をぞ爲して居たりけり [#8字下げ]第十四回[#「第十四回」は中見出し]  扨《さて》又《また》江戸馬喰町二丁目なる武藏屋長兵衞夫婦は後藤半四郎を送り大師河原《だいしがはら》へ參詣《さんけい》して歸りしが豫《かね》て後藤より頼まれし越後浪人新藤市之丞の世話《せわ》をして何になりとも有付《ありつか》せんと思へども新藤夫婦とも此程病氣|付《つき》永々《なが/\》煩《わづら》ひしが六十日程立て漸々《やう/\》快氣《こゝろよく》なりしかば新藤に向ひ偖御前樣方は何迄《いつまで》も只々《たゞ/\》安閑《あんかん》としては居《ゐ》られまじ殊に此程の御病氣にて預《あづか》りの金も多分御遣ひ成れしかば先《まづ》何道《どのみち》なりと世帶《しよたい》を持《もち》何か家業を始め給ふが肝要《かんえう》なり江戸表に誰ぞ知己《しるべ》か又御|國者《くにもの》はなきやと申に夫婦の者は是を聞《きゝ》段々厚き御世話に相成る事千萬忝けなし私し共に江戸は始めてなれば一|向《かう》不案内《ふあんない》にて知人《しるひと》とても更に是なしと云ければ長兵衞は首《くび》を傾《かたむ》け夫では先《まづ》私しが此事御世話を申なれば御武家|出《で》の事ゆゑ浪人職《らうにんしよく》で劔術の道場を出すと云者か但し手習師匠《てならひししやう》でもなされては如何と云に市之丞は赤面《せきめん》の體にて實《まこと》に御恥《おはづ》かしき事なるが劔術は甚だ未熟《みじゆく》竹刀《しなへ》を持ば震《ふるへ》が出《いで》槍《やり》も同樣|手跡《しゆせき》に於ては惡筆の上なしゆゑとんと其方は不得手《ふえて》なりと申に長兵衞は若々其樣に御卑下《ごひげ》なされては[#「御卑下なされては」は底本では「御卑下はされては」]御相談が出來ぬと云を否《いや》さ決して卑下致す譯《わけ》に之なく實に長兵衞樣其方はとても及ばぬ事故|何《どう》か寧《いつそ》の事町人に成度《なりたし》と申ければ長兵衞は腑甲斐《ふがひ》なき事に思へども夫なら先私しが申通りに成《なさ》れて御覽じませ夫には資本金《もとできん》の入ぬやうに紙屑買《かみくづかひ》が宜《よろ》しからんと云《いへ》ば何《いづ》れにも好《よき》に頼むとの事に付終に紙屑買《かみくづかひ》と相談を極《きは》めて名も新藤市之丞にては不似合《ふにあひ》なれば長兵衞は自身の名の頭字を遣《やつ》て長八と改めさせ己《おのれ》は親分になり同町の家主《いへぬし》治兵衞の店《たな》を借《かり》て引越《ひきこ》させ其外萬事長屋の振合迄《ふりあひまで》巨細《こまか》に教へつゝ先《まづ》世帶を持せ萬端長兵衞が世話にて紙屑買仲間《かみくづかひなかま》に入り又橘町の立場へも長八を同道して行《ゆき》敷金《しききん》を入《いれ》御膳籠《ごせんかご》鐵砲笊籠《てつぱうざる》量等《はかりら》を借受《かりうけ》いくら目あつて何程といふ事をも覺《おぼえ》させ又《また》金者《かなもの》は相針《あひばり》はいくらに銅《あかゞね》は潰《つぶし》にして何程といふ相場を聞《きゝ》一々|手覺《ておぼ》えに書留《かきとめ》させて歸りしが夫より長八夫婦は店住《たなすま》ひとなり翌日より籠《かご》を擔《かつぎ》て紙屑《かみくづ》を買に出けれ共元來越後浪人二百石取の新藤市之丞なれば屑《くづ》はござい/\と呼《よぶ》事能はず何所までも無言にて緩々《ゆる/\》と籠《かご》を背負《せおひ》て歩行事《あるくこと》ゆゑ屑《くづ》は少しも買得ず只侍士を見ては我身の上を思ひ出《だし》花は櫻木《さくらぎ》人は武士とは實に道理《ことわり》なり武士程立派なる者はなし夫に引替《ひきかへ》心からとは云ながら二百石の侍士《さむらひ》が紙屑買《かみくづかひ》となり果たること餘りと云ば情なし是と云ふ思案《しあん》の外より出來たる事主親を後《あと》に爲《なし》たる罰《ばち》ならんと獨り心にくよ/\思ひながら行《ゆく》に又向ふより侍士の來るを見ては涙《なみだ》を流《なが》し人に面《かほ》を見らるゝも恥《はづ》かしく思ひて歩行《あるく》ゆゑ肝心《かんじん》の渡世《とせい》の紙屑を少しも買ず慢々《ぶら/\》と下谷邊まで回《まは》りし處長者町へ來りし時は終に日も暮《くれ》しにより道に迷《まよ》つて馬喰町へ歸《かへ》る方角《はうがく》を失ひ種々《いろ/\》聞ても一向に道は知ず途方《とはう》に昏《くれ》しゆゑ長八は番屋を頼み日雇《ひよう》を二百文出して馬喰町まで案内《あんない》を連《つれ》てぞ歸りけるまた親分長兵衞は長八が今日は商賣の出初なれども少しは屑を買得《かひえ》たかと案事《あんじ》らるれば樣子を聞んと長八の家《うち》へ行《ゆき》最早《もはや》長八殿は[#「長八殿は」は底本では「長八郎殿は」]歸られしやと云に女房《にようばう》お梅《うめ》は何《なに》か流《なか》し元《もと》をして居たりしが振返《ふりかへ》りオヤ何誰《どなた》かと存じたら長兵衞さん先々《まづ/\》此方《こちら》へ御上《おあが》り下《くだ》されよとて此程中の禮《れい》を厚く申|陳《のべ》澁茶《しぶちや》ながら汲《くみ》て出しければ長兵衞はコレ/\御構《おかま》ひなさるな時に今日は出初《ではじ》めなるが長八樣はお歸《かへ》りかと云に女房《にようばう》未《ま》だ宿《やど》では歸《かへ》りませんと云へば長兵衞夫は大そう遲《おそ》い事だ如何して居らるゝやと噂《うはさ》の折《をり》から長八は歸《かへ》り來りしが親分《おやぶん》長兵衞の來て居るとは夢《ゆめ》にも知らずオイお梅《うめ》や今《いま》歸《かへ》りたりヤレ/\今日《けふ》は初めてとは云ながら恐《おそ》[#ルビの「おそ」は底本では「おろ」]ろしい目に逢《あつ》た下谷の長者町とか云ふ所へ行《ゆき》て道に迷《まよ》ひ終に二百文出て案内《あんない》を頼んで來た夫故《それゆゑ》此樣《こんな》に遲《おそ》くなり其上|空腹《ひだるく》もありモウ/\脇《わき》の下から冷汗《ひやあせ》が出るはやく飯を食《くはせ》て呉《くれ》よと云ながら内へ這入《はひり》長兵衞を見て間《ま》の惡《わ》るさうにコレハと云しのみにて辭宜《じぎ》をなせば長兵衞は苦笑《にがわら》ひを爲《し》ながら長八に向ひ紙屑買《かみくづかひ》の道に迷《まよ》ひて二百文出し案内を頼みて來ると云者が江戸《えど》廣《ひろ》しと雖もあるべきや餘り馬鹿々々|敷事《しきこと》なり御前も無筆にては豈夫《よも》有《ある》まじ町内々々には町名札があれば其の町名を見ながら歸りても能《よし》夫《それ》は兎《と》もあれ今日は初商ひゆゑ紙屑《かみくづ》は何程|買《かは》れたるやと申に長八は暫時《しばらく》無言なりしが否《いや》も面目なし實に初めてのせゐか少しも屑《くづ》は買へず一日|慢々《ぶら/\》歩行《あるき》て草臥設《くたびれまうけ》なりといひければ流石《さすが》の長兵衞も惘《あき》れ果《はて》物をも云ず面を見詰《みつめ》て居たりしが今日は仕方なし明日《あす》からは精《せい》を出して買《かふ》樣《やう》に致されよ左右《とかく》其樣な事にては江戸《えど》の住居《すまひ》は出來難し先々御|休《やす》みなされと云捨《いひすて》て我家《わがや》へこそは歸《かへ》りけれ [#8字下げ]第十五回[#「第十五回」は中見出し]  偖《さて》又《また》紙屑や長八は親分長兵衞が歸《かへ》りし跡《あと》にて食事をしたゝめ大いに勞《つか》れしとて湯《ゆ》などに這入《はひり》て休《やす》みしが程なく夜も明《あけ》翌日になりければ今日こそは紙屑を買習《かひなら》はんと思ひて先《まづ》淺草御門《あさくさごもん》を出《いで》藏前通《くらまへどほ》りを行に往來も繁《しげ》く何分|間《ま》の惡ければ先《まづ》[#ルビの「まづ」は底本では「さづ」]觀音へ參詣《さんけい》なし矢大臣門《やだいじんもん》より淺草《あさくさ》田圃《たんぼ》へ出《いで》し所前後に人も見えざれば屑《くづ》はござい/\と小《ちひ》さな聲《こゑ》で呼習《よびなら》ひしがまだ人に見らるゝ樣なれども長八は思ひ切て田圃《たんぼ》の中程へ行き全く人の居ざるを見濟《みすま》し大音《だいおん》揚《あげ》て屑《くづ》はございませんか屑はございませんか/\と無闇《むやみ》に呼習《よびなら》つて居たりし處に近所の子供等是を見付てヤア/\皆々《みな/\》早《はや》く來《きて》見《み》なアレ紙くづ買が狐《きつね》に誑《ばかさ》れて田圃の中《なか》で屑はござい/\と呼で一ツ所を往《ゆき》たり來《き》たりして居《ゐ》るが石《いし》を投付《なげつけ》て遣《やら》うと云に子供等は追々《おひ/\》馳集《はせあつ》まり是は可笑《をかし》い/\と手に/\石を取て投付々々《なげつけ/\》アレ/\くづやが狐《きつね》に誑《ばか》された間拔《まぬけ》ヤイ腐脱《ふぬけ》ヤイと惡口しながら猶も石を破落々々《ばら/\》と投付ける故くずや長八大に驚き江戸と云所は恐ろしく子供等までも人氣《にんき》の惡《わる》い所なりと思ひ早々《そこ/\》に田町の方《かた》へ逃出《にげいだ》し此日もくづをば買《か》ひ得《え》ずして歸《かへり》けるが長八は親分《おやぶん》の長兵衞へ行《ゆき》右の咄をなし實に江戸といふ處は人氣が惡いと云ければ長兵衞は是を聞て大いに笑《わら》ひ夫《それ》は人氣の惡《わる》いのではなし御前《おまへ》が田圃中《たんぼなか》を呼《よ》び歩行《あるき》しゆゑ子供のことなれば狐に誑《ばか》されたと思ひ石を投付《なげつけ》しは先に少しも無理はなく至極《しごく》最《もつと》もなり又|御前《おまへ》も以前は二百石取の侍士なれば今《いま》如何《いかに》くづ買に成果《なりはて》たればとて顏《かほ》恥《はづ》かしく大道を呼《よび》歩行《あるく》ことの出來ざるは敢《あへ》て無理とも思はれず依《よつ》て是《これ》からは裏々《うら/\》を回《まは》り先《まづ》知己《なじみ》を拵《こし》らへるが肝心《かんじん》なり夫《それ》に付《つき》彼川柳點《かのせんりうてん》に「日々《にち/\》の時計《とけい》になるや小商人《こあきんど》」と云《いふ》句《く》のありと申に長八は一|向《かう》分《わから》ず夫《それ》は何《なん》と云心に候やと云ば是は川柳點と云て物事の穴《あな》搜《さが》しとも申すべき句なり其心は何商賣《なにしやうばい》にても買つけの得意場《とくいば》を拵《こし》らへるには毎日々々時を違《たが》へず其所を回《まは》れば今何やが來たから最《もう》何時成んと家々にて其商人を當《あて》にするやうになり然《さ》すれば商ひも必《かな》らず殖《ふえ》るものゆゑ御前《おまへ》も町内は申に及ばず裏々《うら/\》を順に廻り今日は好《よき》天氣《てんき》とか又は惡《わる》い風とか御寒《おさむ》いとか御暑《おあつい》とか云て未《まだ》くづは溜《たま》りませんかと一|軒《けん》づつ聞て歩行《あるく》が宜しからん其の中には心安くなり人にも顏《かほ》を知られる樣になる斯の如くして馴染《なじみ》が出來るとくづを買求《かひもとめ》らるゝなり然《さう》さへすると先々で何時《いつも》のくづ屋さんが來《きた》から最早|申刻《なゝつどき》ならん夕膳《ゆふぜん》の支度を仕やうと云ふ樣に成ば得意《とくい》も多くなるにより毎日々々時を違えず回《まは》るが肝要《かんえう》なり今も云通り爰の處の川柳點にて「日々の時計《とけい》になるや小商人《こあきんど》」と吟《ぎん》じられしと云ば長八は感心して成程よく會得《わかり》しとて長兵衞の咄《はなし》の通り翌日《あす》の朝も刻限《こくげん》を極《きめ》て籠を背負《せおひ》て直《すぐ》に隣裏《となりうら》より呼初め一軒づつに今日は結構《けつこう》な御天氣にて御家内樣御揃ひ遊され御|壯健《さうけん》の段《だん》珍重《ちんちよう》に存候偖私しは馬喰町二丁目家主治兵衞店紙屑買長八と申者なり以來《いらい》御見知《おみしり》置《おか》れまして御心安く願ひ上《あげ》ます未《まだ》紙屑《かみくづ》は溜《たま》りませんかと永《なが》口上《こうじやう》にて叮嚀《ていねい》に云て歩行《あるく》故《ゆゑ》裏々《うら/\》の内儀達は大いに笑ひけれども長八は少しも臆《おく》せぬ者にて又其隣へ行と例《れい》の如く永口上を叮嚀《ていねい》に云ひ歩行しなり是長八は以前越後高田の藩中二百石取の新藤市之丞なれば斯《かく》の如き永口上も渠《かれ》が爲には却つて云ひ安き言葉なり夫《それ》より淺草下谷本郷小石川小日向牛込市ヶ谷四ツ谷番町麹町其外日々|廻《まは》りしかば後々《のち/\》は馴染《なじみ》も多く出來《でき》誰《たれ》あつて少しも笑ふ者なく屑屋樣《くづやさん》今日は紙屑が澤山あるゆゑ持て行てお呉《くれ》といふやうになり叮嚀《ていねい》屑屋と方々にて贔屓《ひいき》にされ終には仲間《なかま》にても名を呼《よぶ》ものなく叮嚀屋と云へば長八の事となり段々心安き得意も殖《ふえ》相應に屑も買出《かひいだ》せしかば早晩《いつしか》昔《むか》しの身の上も忘れて追々錢の儲《まう》かるに隨ひ自《おのづ》から商賣に勵《はげ》みが付て長八は毎日々々相變らず裏々《うら/\》の長屋々々を廻りけるに或時神田紺屋町の裏長屋を回《まは》りしが職人體《しよくにんてい》の者五六人にて酒を飮《のみ》居《ゐ》る處へ例の通りていねいに口上を云《い》ふ屑《くづ》やで御座り升と云に職人は酒機嫌《さけきげん》にて屑屋さん下帶《なげし》を買《かは》ねへか紙屑の替《かは》りに鐵釘《くぢら》を買《かは》ねへと云ければ長八はハイとは云ど何の事やら一|向《かう》解《わか》らざれば私しは屑《くづ》ばかりでござりますと云に御前《おめえ》未《まだ》とう四郎江戸|馴《なれ》ねへと見えると笑ひしかば然樣《さやう》で御座ります此間國から出て參りましたと云ふに成程《なるほど》然《さう》であらう今度又屑が有たら遣《やる》べし大きに御苦勞《ごくらう》と云れ長八は何卒《なにとぞ》[#ルビの「なにとぞ」は底本では「なによぞ」]御贔屓《ごひいき》を御願《おねが》ひ申ますと[#「御願ひ申ますと」は底本では「御願申ますと」]其所を立去り夫より所々を回りて我家へ歸るや否や親分《おやぶん》の方へ行《ゆき》親分に御聞申ことがあると云ゆゑ長兵衞は何事ならんと心配《しんぱい》して其譯《そのわけ》を聞くに今日商賣の出先《でさき》神田紺屋町の裏《うら》にて職人衆が酒を飮て居ながら斯樣々々申されしが私には少《すこし》も解《わか》らず何の事なるやと問《とふ》に長兵衞は少し笑ひを含みて夫は職人衆《しよくにんしう》の符號《ふちやう》にて其なげしと云は下帶《したおび》の事なりくぢらとは鐵釘《かなくぎ》の事|股引《もゝひき》をば蛸《たこ》と云ふ是れ皆職人衆の平常《つね》に云ふ符號詞《ふちやうことば》なりと能々|譯《わけ》を云ひ聞せければ長八は大いに悦こび成程|夫《それ》にて解《わか》りしなりと是より紙屑は勿論《もちろん》帶《おび》腹掛《はらかけ》古鐵《ふるかね》の類《るゐ》何にても買込《かひこみ》賣買を精出《せいだ》しけるゆゑ長八は段々と繁昌《はんじやう》して大いに工面《くめん》を直し少しづつ小金も出來て先《まづ》不自由なき身分になりしかば親分長兵衞も世話《せわ》をしたる甲斐ありとて大に悦び猶《なほ》何《なに》くれと心添をぞなしたりける偖又長八世帶を持し其翌年女子一人出生しければ夫婦《ふうふ》の喜び云ばかりなく其名をお幸《かう》と號《つけ》兩人の中の鎹《かすがひ》と此娘お幸が成人するを明暮《あけくれ》樂《たの》しみ暮《くら》しけるとぞ [#8字下げ]第十六回[#「第十六回」は中見出し] 「年《とし》の尾《を》や水《みづ》の流《なが》れと人《ひと》の身《み》は」とは彼《か》の大高源吾が門飾《かどかざ》りの竹を賣歩行《うりあるき》し時《とき》晋子《しんし》其角《きかく》が贈りし述懷《じゆつくわい》の名吟《めいぎん》なる事は世の人の知る所にして實《げ》に定めなきは人の身の上ぞかし偖も越後浪人新藤市之丞が心がらとは云ひながら今は紙屑《かみくづ》屋長八と名乘《なのり》裏店《うらだな》住居《ずまひ》となりしかど追々商賣に身を入る中《うち》月日《つきひ》の關守《せきもり》なくはや十八年の星霜《せいさう》を送りけるが娘お幸は今年《ことし》十七歳となり尋常《なみ/\》の者さへ山茶も出端《でばな》の年頃なるに況《まして》や生質《うまれつき》色白《いろしろ》にして眼鼻《めはな》だち好《よく》愛敬《あいきやう》ある女子《をなご》なれば兩親《りやうしん》は手の中《うち》の玉《たま》の如くに愛《いつく》しみ手跡《しゆせき》縫針《ぬひばり》は勿論淨瑠璃三味線も心安き方へ頼み習《ならは》せ樂み暮《くら》して居ける處に一日《あるひ》長八は淺草觀音へ參詣なし夫より上野の大師へ參らんと車坂《くるまざか》を通り懸りけるに山下の溷際《どぶぎは》に深網笠《ふかあみがさ》の浪人者ぼろ/\したる身形《みなり》にて上には丸に三ツ引の定紋《ぢやうもん》付《つき》たる黒絽《くろろ》の螢《ほたる》も洩《もる》ばかりの古き羽織を着し謠《うた》ひを唄《うた》ひながら御憐愍《ごれんみん》をと云て往來の者に手の内を乞居《こひゐ》けるを長八は何心なく見《み》るに羽織の定紋と云ひ状《なり》恰好《かつかう》大恩受たる大橋文右衞門樣に髣髴《よくに》たるは扨も不思議なりと思ながら腰の早道《はやみち》より錢七八文出して手の内に遣《やり》ければ浪人者是は/\有難う存じますと云し其物語《そのものごし》まで彌々《いよ/\》文右衞門に似《に》たるゆゑ長八は忽ち十八年の昔時《むかし》を思ひ出し萬一《もし》や其の人ならんかと能々《よく/\》笠《かさ》の中を見んとするに浪人者は最早《もはや》日暮方《ひぐれがた》なれば徐々《そろ/\》仕舞《しまひ》て歸る樣子ゆゑ長八は後《あと》に尾《つき》て行けるに下谷山崎町なる油屋といふ暖簾《のれん》の懸《かゝり》し裏《うら》へ這入《はひり》しかば長八も同じく續《つゞ》いて這入見るに九尺二間如何にも麁末《そまつ》なる浪宅《らうたく》なるにぞ長八は内の體《てい》を覗《のぞ》きし處全く大橋文右衞門に相違なきゆゑ御免《ごめん》なされと云ひながら内に入しが互ひに顏を見合《みあはせ》て驚愕《びつくり》なしヤア貴殿は新藤市之丞殿貴方は大橋文右衞門樣と云ふに女房《にようばう》も市之丞を見て是は/\市之丞樣|何《どう》してマア我々が浪宅を御存じなるや先々《まづ/\》些《ちと》是《これ》へ御通り下されと云《いふ》た所が御通りなさるゝ所もなき山崎町乞食長屋の汚穢《むさ》くるしく御氣もじ樣やと言《い》ひながらも簀子《すのこ》の上に莚《むしろ》をしき是へ御上りあれと云《いふ》ゆゑ長八は御構下《おかまひくだ》さるなと其所へ上《あが》り四邊《あたり》を見るに壁《かべ》の方は破れたる二|枚《まい》屏風《びやうぶ》を立回し此方には崩《くづ》れ懸りし一ツ竈《べつゝひ》に炭《すみ》か鑄懸《いかけ》か眞黒に薫《くす》ぶりたる鍋《なべ》一ツをかけ飯《めし》も汁《しる》も兼帶《けんたい》の樣子なり其外|行燈《あんどん》は反古張《ほごばり》の文字も分らぬ迄に黒み赤貝《あかゞひ》へ油《あぶら》を注《つぎ》燈心《とうしん》は僅に一本を入れ又口の缺たる土瓶《どびん》は今戸燒の缺火鉢《かけひばち》の上へ斜《なゝ》めに乘て居る其體たらく目も當られぬ困窮《こんきう》零落《れいらく》向う三軒兩隣は丹波國の荒熊三井寺へ行かう/\といふ張子の釣鐘《つりがね》を背負《せおひ》て一文貰ひの辨慶或は一人|角力《すまふ》の關取|烏《からす》の聲色《こわいろ》何れも乞食渡世の仲間《なかま》にて是等の類皆々長屋づきあひなれ共《ども》流石《さすが》大橋文右衞門は零落《れいらく》しても以前は越後家にて五百石取の物頭役なれば只今市之丞の長八に對面《たいめん》なすに屹《きつ》と状を改め新藤氏には能《よく》こそ御尋《おたづ》ね下されたり誠に一別以來|先《まづ》以《もつ》て御健勝《ごけんしよう》の樣子大悦に存ずると述《のべ》ければ市之丞の長八も久々の對面|故《ゆゑ》に夫々へ挨拶に及び扨大橋氏思ひ出せば早十八年の其昔《そのむかし》彼|貴殿《きでん》の御厚情《ごこうじやう》に依て我々夫婦が一命を助かり剩《あまつ》さへ廿兩といふ金子を御惠下《おめぐみくだ》されし御庇蔭《おかげ》を以て今日まで存命仕つる事千萬有難く存じ奉つり候然るに彼の折《をり》國元《くにもと》を立退《たちのき》江戸表へ罷り出候途中熊谷の土手にて惡漢《わるもの》の爲めに我々兩人既に一命も危ふき難儀に出逢《いであひ》候處丸龜の人後藤半四郎と云ふ人に救れ夫より身の落着方まで世話《せわ》に相成當時は馬喰町にて紙屑買《かみくづかひ》を渡世に致し何《どう》か斯か寒暑《さむさあつさ》のなき樣に暮して居《を》り殊に其後一人の娘を儲《もう》け當年十七歳に成候是と申も皆貴殿の御厚恩《ごこうおん》なれば一度は御禮の書状も差上度《さしあげたく》心得候へども世間へ憚りあるゆゑ夫《それ》も叶《かな》はず只々|明暮《あけくれ》思《おも》ひ暮《くら》し居るにのみに御座候處先づは御揃《おそろ》ひ遊ばし御機嫌《ごきげん》克《よき》御樣子大悦に存じ奉つるとは申ものゝ大橋氏には如何して斯《この》御體《ごてい》たらくに候や存ぜぬこととは申ながら是まで御尋ねも申上ざる段《だん》嘸《さぞ》かし不實の奴と思《おぼ》し召《めし》も候はんが先《まづ》仔細《しさい》を承はり度と申ければ文右衞門|其仔細《そのしさい》と申は最早八ヶ年以前の事にて御家の騷動出來致し忠臣は退《しりぞ》き佞奸邪智《ねいかんじやち》の輩《ともが》ら蔓延《はびこる》に付|身《み》不肖《ふせう》ながらも是を正《たゞ》し些少《いさゝか》忠義を盡さんと心懸しに却て小栗美作が爲に讒《ざん》せられ終に永の暇を給はり其後未だ斯々《かく/\》して居るなり然《され》ども忠臣は二君に仕へずとの金言を守り一錢二錢の袖乞《そでごひ》をしても他家へ仕官の所存更に是なく早晩《いつしか》天道某しが誠を照《てら》し給ふ事あらば歸參仕つる時節もがなと夫のみ心|懸《かけ》罷り在候なり斯樣に困窮《こんきう》零落《れいらく》の身の上御目に掛るも誠に面目なき次第に候と互ひに憂《うき》艱難《かんなん》の物語《ものがた》りをなし暫《しばら》く時をぞ移《うつ》しける [#8字下げ]第十七回[#「第十七回」は中見出し]  却説《さても》紙屑屋長八は段々の仔細《しさい》を聞て甚《いた》く歎息《たんそく》なしたりしが何れ又々近日御尋ね申さんと暇乞《いとまごひ》して立歸り道々大橋の物語《ものがた》りを考へ嗚呼人間の盛衰《せいすゐ》は計《はか》り難きものなりさしも越後家にて五百石取の物頭役をも勤《つと》められし[#「勤められし」は底本では「勤らめれし」]大橋文右衞門殿が今日《けふ》は一文二文の袖乞《そでごひ》を致し居《を》らるゝとは餘りなる零落《おちぶれ》樣《やう》偖《さて》も/\笑止《せうし》千萬なることなり何《どう》かなして昔年の恩報じに當時の難儀を救ひ助け度《たき》者《もの》と種々《いろ/\》に思案しながら我が家へ歸り來りしに女房お梅《うめ》は立出《たちいで》てヤレ/\御歸りなされしか何時《いつ》になく遲《おそ》いにより大いに御|案事《あんじ》申して居たなれど今度の狂言《きやうげん》は刎幕《はねまく》がよいと云事故芝居の切《きり》でも覗《のぞ》いて御出かと思ひましたと云に何サお梅《うめ》芝居《しばゐ》處《どころ》か今日《けふ》珍《めづ》らしい御方に御目に掛り夫故《それゆゑ》大いに遲《おそ》くなりしと申ければお梅夫は又|何誰《どなた》に御逢成《おあひなさ》れましたと問に長八は溜息《ためいき》を吐《つき》マア聞て呉《くれ》今日は思ひの外《ほか》都合《つがふ》よく午前《ひるまへ》に商賣も捗取《はかどつ》たから淺草の觀音樣へ參り夫《それ》より上野の大師さまへ回《まは》らうと車坂まで行《ゆき》し所不思議にも國元の大橋文右衞門樣に御目に懸《かゝ》り斯々《かう/\》いふ事より後《あと》を尾《つけ》て行《い》つて見た處が山崎町の裏住居《うらずまひ》夫《それ》は/\目も當られぬ始末御|新造樣《しんぞさま》なども誠に見る影《かげ》もなきしがなひ體裁《なりふり》御目に懸るさへも否《いや》もう誠に御氣の毒千萬|實《ほん》に/\御痛《おいた》はしき事也大恩受たる大橋文右衞門樣が彼樣《あのやう》に御難儀なさるを餘處目《よそめ》には見て居られぬ何《どう》ぞして那節《あのせつ》下《くだ》されたる二十兩の金子を才覺《さいかく》して今《いま》上《あげ》たなら何樣《どのやう》に御喜びならん何卒御恩報じに進度者《あげたきもの》なれども親分の長兵衞さんにはこんな咄《はな》しも致されまじ何《どう》したら金の才覺が出來るであらうと女房お梅に一|部《ぶ》始終《しじう》を咄《はな》しければお梅は是を聞《きゝ》夫はマア御愛惜《おいとし》い事|然樣《さう》思《おぼ》し召《めす》は成程御|道理《もつとも》恩を受て恩を知ぬは人でなしとは云ものゝ力業《ちからわざ》にも屆《とゞ》かぬは金の才覺|何《ど》うか仕樣が有さうな者と夫婦は膝《ひざ》を突合《つきあは》せて種々《いろ/\》相談なせども何分思案に及ばぬゆゑ寧《いつそ》のこと天にも地にも掛代《かけがへ》なき手の中の玉となしたる娘のお幸を不便なれ共遊女に賣《うり》て金の調達《てうだつ》するより外の工夫《くふう》はなしと恩義に迫《せま》りし夫婦が相談茲に漸く調《とゝの》ひしかば娘お幸を一|間《ま》に招《まね》き妻のお梅は涙《なみだ》ながら此度《このたび》斯樣々々《かやう/\》の譯にて是非ともなければならぬ金ゆゑ親の爲《ため》長い間《あひだ》でも有まじければ何卒|勤《つとめ》の奉公をして呉《くれ》よと事を分て云ひ聞せければ元より利發のお幸と云ひ最早《もはや》年も十七歳花なら今四五分|開《ひら》き初《そめ》しばかりの色娘《いろむすめ》殊には親孝心《おやかうしん》の者ゆゑ兩親の爲とならば此身は如何なる苦界《くがい》の勤《つと》めなりとも厭《いと》はじと早速承知なせしにぞ然《さら》ば何分頼むぞさて彌々《いよ/\》娘の身を賣《うる》ことに決着はなしたれども長八は一向|手懸《てがけ》ざる事故|何所《いづれ》へ頼んで娘を賣《うる》がよからんやと思ひしところ爰に淺草田町に利兵衞といふ紙屑問屋《かみくづどんや》ありけるが此利兵衞は元長八の國者にて以前は出入の町人なりしかば至つて懇意《こんい》なる者ゆゑ長八は利兵衞の方へ行つて右の始末《しまつ》を段々と咄《はなし》て娘を賣て十八年以前なる傍輩《はうばい》の恩金を返さんと思ふよし悉《くは》しく咄《はな》しければ利兵衞も其の志ざしを深く感《かん》じ早《さつ》そく承知なし即ち判人《はんにん》となりて新藤の娘を新吉原江戸町一丁目玉屋山三郎の方へ申こみ目見《めみ》えを致させけるに容貌《かほかたち》も十人|並《なみ》に優《すぐ》れしかば大いに氣に入《いり》だん/\懸合《かけあひ》の末《すゑ》年《ねん》一ぱい金五十兩と相談を取極《とりきめ》て利兵衞は立戻《たちもど》り其段長八へ物語りしに夫婦は利兵衞の骨《ほね》をりを勞《ねぎ》らひ厚く禮をぞ陳《のべ》たりけり偖《さて》翌日にもなりければ長八は娘お幸を伴《とも》なひ判人利兵衞の方へ到り夫より同道して新吉原玉屋山三郎の方へ行《ゆき》約定《やくぢやう》の通《とほ》り金五十兩と引替《ひきかへ》に娘おかうを渡し長八は立歸らんと[#「立歸らんと」は底本では「立歸んらと」]するに豫《かね》て覺悟《かくご》とは云ひながら今更《いまさら》別《わか》れの悲《かな》しさは何《なに》に譬《たとへ》んものもなく親子は胸《むね》も張裂《はりさく》ばかり齒《は》を喰《くひ》しばりて居たりしが斯《かく》ては果じと長八は心を鬼に取なほし奉公大事に身を愼《つゝし》めと言《いひ》ながら立上るにお幸も是を見送りて御兩親とも御無事にと互《たが》ひに後《あと》は言葉《ことば》なく別《わか》るゝ親子が心の中《うち》推量《おしはか》られて哀《あは》れなり因て世話人利兵衞も深切者《しんせつもの》ゆゑ世話料《せわれう》判代等《はんだいとう》一錢も取ず實意《じつい》に周旋《しうせん》に及びけるとなり [#8字下げ]第十八回[#「第十八回」は中見出し]  斯《かく》て長八娘お幸を賣渡《うりわた》し吉原より戻《もど》りて女房お梅に相談の上《うへ》元金《もときん》二十兩に利を添《そへ》て直樣《すぐさま》下谷山崎町の大橋文右衞門の方へ持參《ぢさん》致《いた》さんとは思へども利足を相當に添《そへ》ては何を云ふにも十八年の間の事なれば此金を皆《みな》返《かへ》すとも利足《ひきたら》ず殊に文右衞門は豫々《かね/″\》手堅《てがた》き氣象《きしやう》故《ゆゑ》利足と云ては請取《うけとる》間敷《まじき》により全く禮の心で肴代《さかなだい》とでも名を付廿五兩も遣はさば然《しか》るべし然《さ》すれば殘りの廿五兩を以て資本《もとで》となし是より表へ出《いで》て小切類にても賣夫婦して精《せい》を出し金を貯《たくは》へたる上一年も早く娘の身受をなす工夫こそ專要《せんえう》なれ又親分の長兵衞殿へ此事は決して話《はな》されず娘は屋敷へ當分奉公に出せし積《つも》りにして置べし若《もし》年季《ねんき》に入たなどと云事が知れては夫《それ》こそあゝ云ふ氣象《きしやう》の親分ゆゑ然《さ》ういふ事なら何故《なぜ》己《おれ》に一應相談仕ないなどと必ず喧《やかま》しいこと云に相違なし因て先《まづ》夫《それ》は何所《どこ》までも其積りと長八夫婦は種々《いろ/\》に心配なし是より直樣《すぐさま》廿五兩の金子を持て下谷山崎町なる大橋文右衞門の方へ到《いた》りけるに同じく跡《あと》より續て質屋《しちや》の小僧も此家に入來り私しは表《おもて》の油屋五兵衞方より參りましたが番頭の久兵衞が申|聞《きけ》ますには衣類《いるゐ》大小《だいせう》の質《しち》が一口《ひとくち》最早《もはや》月切《つきぎれ》に相成《あひなり》流《なが》れに出しゆゑ先日一寸御斷り申上げましたが止て置《おけ》との事ゆゑ今日《けふ》迄見合せ置たれども今に何《なん》の御沙汰《ごさた》もなきにより最早流れ切に致します夫《それ》共《とも》利《り》あげを成るなら止め置《おき》ますが餘り段々|日延《ひのべ》に成ばかりに付利上でもなければ然々《さう/\》止置《とめおく》譯《わけ》には參りません今丁度流れ買が來て居《を》りますから賣拂《うりはら》はうと思ひますが何《どう》成《なさ》れますか一寸聞て來《こ》いと申しました文右衞門樣|何《どう》成《なさ》れますと小僧は足元から鳥の立《たつ》樣《やう》に火急《くわきふ》の催促《さいそく》に來りければ大橋は甚だ當惑《たうわく》の體《てい》にて然樣《さやう》かなと暫時《しばし》考《かんが》へしが否《いや》左《と》に右《かく》あれは大切の大小なれば流しては成ぬ品なり是非共|受出《うけいだ》すにより今一兩日|待《まつ》て下されといふに小僧はそれでも御|前樣《まへさま》來る度に日延《ひのべ》ばかりの御口上今日も又一兩日と仰せでは使に來た私しが困《こま》ります其度に譯《わか》らない使をするとて呵《しか》られ又御前の方ぢや能《いゝ》やうなことを云なさるし同じ事を度々の使は否《いや》でござりますが今度こそ間違《まちが》はなければ最《もう》一度番頭さんに然樣《さやう》云てみませうと質屋の小僧は歸り行しかば是を側《そば》に聞居《きゝゐ》たる紙屑屋長八は文右衞門が身の困窮《こんきう》を察遣《さつしや》り成程一文二文の袖乞《そでごひ》をする身の上なれば在《あり》とあらゆる品物《しなもの》は大小までも質《しち》に入たるは道理《もつとも》なり其日々々にさへ差支《さしつかへ》る有樣ゆゑ如何に大切の品なり共|今《いま》は勿々《なか/\》受出《うけだ》す事も成まじ質屋《しちや》よりは流れの催促《さいそく》嘸《さぞ》かし難澁《なんじふ》の事ならんと己れが身分にも競《くら》べて考へしが長八は爰《こゝ》ぞと思ひて廿五兩の金子を出し扨大橋氏|甚《はなはだ》失敬《しつけい》なる申し分には御座れ共此金子は十八ヶ年以前に御恩借《ごおんしやく》致《いた》したる金子|延引《えんいん》ながら返上仕つるにより何卒《なにとぞ》御受納下《ごじゆなふくだ》され候樣に願ひ奉つる誠に彼《あの》節《せつ》貴殿の御厚情ゆゑに我々夫婦只今はどうか斯か致して居るも皆貴殿の御庇蔭《おかげ》にて候然るに貴殿|斯《かく》御零落《ごれいらく》成《なら》れたる有樣を見るに忍びず切《せめ》てもの事に斯樣なる時節にこそ御恩《ごおん》を報《はう》ぜんと存じて持參致したれ因て此金子|何卒《なにとぞ》御受取下さるべしと二十兩の金子を並《なら》べ外に金五兩は御利子と申には是なく御禮《おんれい》の心ばかり御菓子料《おくわしれう》にさし上度《あげたく》と出しければ文右衞門は是を見て忽まち氣色を變《かへ》是は/\新藤氏思ひもよらぬことを仰せらるゝ者かな往古《むかし》は昔し今は今なり一旦貴殿に惠《めぐ》みし金子を如何に某し斯《かく》零落《れいらく》して一錢二錢の袖乞《そでごひ》をなせばとて今更受取り申べき謂《いはれ》なし貴殿が昔の恩を思ひ出し給はば夫にて志《こゝろ》ざしの程は知て居るなり夫に只今《たゞいま》質屋《しちや》より流《ながれ》の催促《さいそく》に來りしを聞れ斯樣の事をなさるゝ段一應御深切の御志ざし忝《かたじ》けなく存ずるなれども貴殿も未だ有福《いうふく》の身になられしと云うでもなければ此金子に於ては決して受取申されず今でこそ斯《かく》困難《こんなん》に及ぶものゝ以前は越後家において祿《ろく》五百石を領し物頭役《ものがしらやく》を相勤《あひつと》めたる大橋文右衞門|清長《きよなが》率《いざ》鎌倉《かまくら》と云ふ時のため武士の省愼《たしなみ》差替《さしかへ》の大小|具足《ぐそく》一|領《りやう》位《ぐらゐ》は所持致し居り候|是《これ》御覽《ごらん》候へと仕舞置《しまひおき》たる具足櫃《ぐそくびつ》并びに差替の大小を古《ふる》き葛籠《つゞら》より取出して此通りと長八の前へ並べて見せければ長八は殆《ほと》んど感心《かんしん》なし流石《さすが》は大橋氏|御省愼《おたしなみ》の程《ほど》感心仕つり候|然程《さほど》迄の御心|懸《がけ》有《ある》とは夢《ゆめ》さら知ず失敬の儀を申上しは甚|面目《めんぼく》なきことに御座候|然《さ》れども以前の御恩を報《はう》ぜんと我々夫婦相談の上《うへ》調達《てうだつ》致して參りたる此金子ゆゑ何卒《なにとぞ》御請取下《おんうけとりくだ》され候樣是非々々願ひ奉つるモシ御新造樣《ごしんぞさま》然樣《さやう》なされて下さらば有難く存じますと云ふに妻は何とか言《い》ひたき體《てい》なるを文右衞門は白眼《にらみ》つけコリヤ新藤氏一|旦《たん》貴殿《きでん》へ惠《めぐ》みし此金子|假令《たとへ》何樣に申され候とも今さら手前に於ては受取《うけとる》所存《しよぞん》決して之なし早々|御持歸《おもちかへ》り下されよ某し當時|困窮《こんきう》に及ぶも是天命なれば何をか憂《うれ》へん又《また》誰《たれ》をか恨《うら》むる所もなし拙者《せつしや》は少々|認《したゝ》め物あれば御免《ごめん》あれ貴殿は緩々《ゆる/\》御咄《おはな》し成るべしと云ひつゝ其身は机《つくゑ》に懸《かゝ》りけり [#8字下げ]第十九回[#「第十九回」は中見出し]  偖《さて》又《また》文右衞門の女房は勝手《かつて》にて番茶《ばんちや》を入れ朶菓子《だぐわし》などを取揃《とりそろ》へて持出《もちいで》たるに長八は大橋が義氣《ぎき》の強きを彌々感じ心中に成程《なるほど》斯《かく》まで零落《れいらく》なしても武士の道を立通《たてとほ》し指替《さしかへ》の大小并びに具足迄|省愼置《たしなみおか》るゝ程の氣質《きしつ》にては勿々《なか/\》此金子を受取ざるも道理《もつとも》なり併《しか》しながら某しも一人の娘《むすめ》を賣《うつ》て昔しの恩を返さんと致したるも水《みづ》の泡《あわ》となり斯々《かう/\》云《いふ》譯《わけ》なりと打明《うちあけ》て咄《はな》しも出來ず而《し》て見れば深切《しんせつ》甲斐《がひ》もなし然《され》ど又《また》斯《かく》いひ出しては今更持て返るは如何にも本意《ほんい》なく置《おい》て行《ゆか》んとすれば受取ずはて何《どう》して宜《よか》らんやと茶を飮《のみ》ながら思案の折柄又々|表《おもて》の質屋《しちや》より先《さき》の小僧が入來りて若《もし》文右衞門樣先刻仰せられしことを番頭《ばんとう》久兵衞に申聞し處久兵衞の申には最早《もはや》月切《つきぎれ》には成《なる》し利上《りあげ》もなき事なれば何時《いつ》までも御|預《あづか》り申事は出來兼《できかね》候|幸《さいは》ひ今《いま》流《なが》れ買《かひ》の道具屋が來合《きあは》せたれば賣拂《うりはら》ひますにより然樣《さやう》御承知下さるゝ樣に申上ろとの事に付《つき》一寸《ちよつと》御斷り申ますと云置て小僧《こぞう》は直《すぐ》に立歸らんとするゆゑ文右衞門は小僧を呼止《よびとめ》イヤ然《さう》云《いふ》ことなら某し直樣《すぐさま》後《あと》より參り番頭に面會の上相談もせんにより少々の中《うち》待《まつ》て呉《くれ》られよと云ながら文右衞門は長八に向ひ某し程《ほど》なく歸《かへ》り申さん間《あひだ》暫時《しばし》の中《うち》御咄《おはな》し成《なさ》れよと云捨て文右衞門は表の質屋《しちや》へと出で行《ゆき》けり跡に猶屑屋長八は種々《いろ/\》と考へしが所詮《しよせん》此金子を以て歸らんことは思ひも寄《よら》ず如何《いかゞ》はせんと座中を見廻すに是幸ひ傍《かたは》らに文右衞門の煙草盆《たばこぼん》ありしかば其の中へ右の金子二十五兩を入置《いれおき》其《そ》の身《み》は素知《そしら》ぬ顏《かほ》して女房に暇乞《いとまごひ》なし歸らんとするに女房は押止《おしとゞ》め市之丞樣|最早《もはや》夫《をつと》文右衞門も程なく歸宅《きたく》致事なれば先々御待下されよと申けれども長八は以前|世話《せわ》に預《あづか》りし者の方に疱瘡人《はうさうにん》是あるゆゑ夫へ是非々々尋ね行《ゆか》ざればならず何卒《なにとぞ》文右衞門樣御歸りあらば宜敷《よろしく》仰《おほ》せ上られ下されよ又々近日|御尋《おたづ》ね申上んと言置《いひおき》長八はそこ/\に暇乞《いとまごひ》して我家に立歸りしに女房お梅は出迎《いでむか》へ御持參の金子《きんす》滯《とゞこ》ほりなく文右衞門|殿《どの》請取《うけとら》れしや如何《いか》にと云ふに長八|首《かうべ》を振《ふ》り否々《いや/\》物堅《ものがた》い文右衞門殿|何《どう》あつても金子をば受取らぬと言張《いひはら》れ實《まこと》に仕樣もなき折《をり》から幸ひ斯々《かう/\》云事にて外《そと》へ出《いで》られし留守中《るすちう》密《そつ》と煙草盆《たばこぼん》の中へ入れ置て歸りたり然れば日々に困《こま》る文右衞門殿ゆゑ質屋《しちや》からは矢《や》の催促《さいそく》彼是《かれこれ》にて右の金子を遣はるゝに相違なし然《さ》すれば某しが志操《こゝろざし》も屆《とゞ》き娘《むすめ》も無陀奉公《むだぼうこう》にならぬと云ふ者|也《なり》と咄《はな》しければ女房お梅も打喜び夫はよくこそ取計《とりはか》らはれたり然《さ》すれば如何に物堅《ものがた》き人にても手元にあるを遣はずには置れまじ先々夫にて少しは胸《むね》が晴《はれ》たりと長八夫婦は悦びつゝ咄《はなし》に時刻《じこく》を移《うつ》しけり [#8字下げ]第二十回[#「第二十回」は中見出し]  偖《さて》又《また》大橋文右衞門は表《おもて》の質屋《しちや》へ行《ゆき》て番頭《ばんとう》久兵衞に逢《あひ》種々《いろ/\》相談の上漸く一兩日|止置事《とめおくこと》に取極《とりきめ》て歸り來りしに新藤市之丞の見えざれば女房お政《まさ》に向ひ市之丞は如何《いかゞ》致《いた》せしやと云ひければお政然れば新藤氏は良人《あなた》の御歸り迄《まで》と御止め申たなれ共《ども》以前世話になられし家《うち》に疱瘡人《はうさうにん》が是ある由にて是非|見舞《みまひ》に行《ゆか》ねば成ぬにより何《いづ》れ又々近日御尋ね申さん宜敷《よろしく》申|上《あげ》呉《くれ》よと云はれて御歸り成れしと云ふに文右衞門|然《さう》でありしか市之丞と云《い》ふ男《をとこ》は義心《ぎしん》盛《さか》んにして誠に奇特《きどく》なる者なり昔し助けし恩を忘れず今我等|斯《かく》困窮《こんきう》零落《れいらく》せしを察《さつ》し廿五兩の金子を工面《くめん》して持來りしは天晴|頼母敷《たのもしき》志《こゝろ》ざしとは云へ共|曩《さき》に某し一|旦《たん》惠《めぐ》みし金子を今さら請取《うけとつ》ては我等が一分立ず是に依て堅《かた》く斷《こと》わりを申せしゆゑ早々《さう/\》歸《かへ》りしと見えたりさぞかし本意《ほい》なく思ひしなるべしと云ひながら文右衞門|煙草《たばこ》を呑《のま》んと煙草盆《たばこぼん》を引寄《ひきよせ》見《み》れば是《こ》は如何《いか》に市之丞が持來りし廿五兩の金子《きんす》包《つゝみ》の儘《まゝ》火入《ひいれ》の脇《わき》に有ければ文右衞門は女房お政を呼《よ》び此金子は何如《いかゞ》[#「何如」はママ]致《いた》したるやあれ程《ほど》に斷《こと》わりたるを知りながら市之丞より受取《うけとり》置《おき》しか大方|女《をんな》のいらざる猿智慧《さるぢゑ》にて我が留守《るす》を幸ひに兎《と》も角《かく》も御預《おんあづか》り申さんなどと云て受取たるに相違|有《ある》まじエヽ汝《おの》れは腑甲斐《ふがひ》なき女かな武士の女房には似合《にあは》ぬ心底《しんてい》斯《かく》零落《れいらく》しても大橋文右衞門なるぞ心まで困窮《こんきう》はせぬ汝《おのれ》は然《さ》までさもしき根生《こんじやう》になりたるやと女房お政を叱《しか》りつけしにお政は驚き是《これ》は/\餘りに御推量《ごすゐりやう》過《すぎ》たり良人《あなた》の御氣象《ごきしよう》を存じながら何《どう》しに請取|置《おき》申すべき疑ひ給ふも品《しな》にこそよれ實に私しは存ぜぬことなり察《さつ》するところ市之丞殿も折角《せつかく》に持參《ぢさん》致《いた》されたる金子ゆゑ良人《あなた》が御受取なきを本意《ほい》なく思ひ私しにも知らさぬやうに煙草盆《たばこぼん》の中に入置《いれおき》て歸られたるに相違あるまじとて言葉に淀《よど》みなければ文右衞門も何樣《なにさま》と思ひ然《しから》ば市之丞が此の中へ入て置たるに相違なからん何《なに》にしても此金子を受取ては某しが一|分《ぶん》立《たゝ》ず又《また》和女《そなた》は市之丞が住所《ぢうしよ》を知て居《ゐる》かと問《とひ》けるにお政は然樣《さやう》さ只馬喰町とのみ承まはりましたと申ければ文右衞門は宜々《よし/\》何《いづ》れにも此金子は返さねばならぬ馬喰町へ行《ゆき》て紙屑買《かみくづかひ》の市之丞と聞ば知れぬ事はあるまじ明《あけ》なば直樣《すぐさま》一走《ひとはし》りと文右衞門は夜《よ》の明《あけ》るを待《まち》起出《おきいで》て早々に支度をなし二十五兩の金子を財布《さいふ》に入て市之丞が家を尋ねつゝ馬喰町へと急ぎ行《ゆ》き此邊に新藤市之丞と云ふ紙屑買《かみくづかひ》はなきやと一丁目より二丁目三丁目四丁目まで悉皆《こと/″\》く尋ねけれ共少しも知れず是《こ》は知れぬ筈《はず》の事なり以前は新藤市之丞にもせよ今は浪人《らうにん》して屑屋長八と改名《かいめい》したる者なれば裏々《うら/\》は申に及ばず自身番《じしんばん》へ懸《かゝ》りて尋ねけれ共一向知らざる由《よし》を申自身番にて新藤市之丞などと云《いふ》六ヶ敷《むづかしき》名《な》の人は紙屑買《かみくづかひ》にはあるべからず夫《そ》は大方《おほかた》浪人者《らうにんもの》の間違《まちが》ひなる可《べし》と云ゆゑ文右衞門は當惑《たうわく》なせしかど是非共《ぜひとも》尋ねて金子を返さんと思ひければ猶|裏々《うら/\》へも這入込《はひりこみ》此御近所に紙屑買《かみくづかひ》を渡世にする新藤市之丞と申者の宅《たく》は御存じなきやと問《とふ》に此町内には御用の屑買は御座らぬなどと云て大いに笑《わら》はれければ大橋も今《いま》は是非無《ぜひなく》尋厭倦《たづねあぐみ》て下谷山崎町の我家へ歸り偖《さて》も/\困《こまり》し事也馬喰町へ行て表店《おもてだな》は言《いふ》に及ばず裏々まで四丁の間《あひだ》細《こま》やかに尋ね探《さが》したれ共新藤と云ふ紙屑買《かみくづかひ》一向に知れず何《なに》[#ルビの「なに」は底本では「なは」]しても大切の預り物《もの》萬一此金子に於て間違ひにても有なば猶々市之丞へ對《たい》して言譯《いひわけ》なし何《いづ》れにも此上尋ね探《さが》して返へさねばならず然《さ》れど夫《それ》迄も斯して置は心遣ひ殊に隣《とな》り近所は皆々|不肖《ふせう》の渡世をする族而已《やからのみ》丹波の荒熊三井寺へ行《ゆか》う/\と云張子の釣鐘《つりがね》或は鉢叩《はちたゝ》き願人坊主などと云者許りなれば勿々《なか/\》油斷は少しも成ず若《もし》此金子の有事を知りて付込れなば如何なる變事《へんじ》の出來んも知れず何《いづ》れにも又々明日馬喰町へ行きて尋ね當り次第市之丞へ渡す迄は甚《はなは》だ以て心遣ひなりと云に女房も夫《そ》は御道理《ごもつとも》なり今日は終日《ひねもす》尋ね倦《あぐ》まれ嘸《さぞ》かし御勞《おつか》れならんにより貴郎《あなた》は宵《よひ》の中《うち》御臥《おやす》みありて夜陰《よは》よりは御心だけも眠《ねむ》り給はぬ樣いたし度と申に否々《いな/\》今宵《こよひ》とても臥《やす》むに及ばず兩人して寢《ね》ず番《ばん》をせんと云故然らば兩人の間に置《おき》互《たが》ひに心付|合《あは》んと夫婦して二十五兩の金子を中へ置《おき》風《かぜ》の音《おと》にも飛起るやうにして夜もすがら寢《ね》もやらず守り居けるが深々《しん/\》と更行《ふけゆく》に從ひ文右衞門は過去來《すぎこしかた》我身の上を思ひ出し偖《さて》も/\如何成事にて斯迄|武運《ぶうん》に盡果《つきはて》たるこの身かな以前は越後家にて五百石の祿《ろく》を頂戴《ちやうだい》し物頭役をも勤《つと》め大橋文右衞門とも云はれたる武士《さふらひ》が人の金ゆゑ寢ず番を勤める事餘りと云へば口惜《くちをし》き次第ぞや是といふも小栗美作《をぐりみまさか》が讒言《ざんげん》ゆゑなり今更|悔《くや》む共|詮方《せんかた》なけれど天道誠を照《てら》し給はゞ何《いつ》の世にか歸參する事もあらんとは云《いふ》ものゝ今《いま》一錢二錢の袖乞《そでごひ》をして其日々々を暮《くら》し兼《かね》るも二君に仕へぬ我魂魄《わがたましひ》武士の本意と思へども實《げ》にあぢきなき浮世《うきよ》かなと一人涙を流したる問《とは》ず語《がた》りの心の中思ひ遣《やら》れて憐《あは》れなり [#8字下げ]第二十一回[#「第二十一回」は中見出し]  然《しか》るに女房お政は夫《をつと》文右衞門が問《とは》ず語りを側《そば》にて熟々《つく/″\》聞居たりしが堪《こら》へ/\し溜涙《ためなみだ》夜半の時雨《しぐれ》と諸共にワツとばかりに泣出せしかば文右衞門は是を見返《みかへ》りコリヤお政何が其樣に悲《かな》しくて泣《なき》をるやと云ひければ女房お政は漸々《やう/\》に顏を上《あげ》何ゆゑに泣とは餘りに心なき仰かな只今《たゞいま》良人《あなた》がお一人言《ひとりごと》[#ルビの「ひとりごと」は底本では「ひとりごく」]聞《きく》に付ても今の身の上《うへ》情《なさけ》ない共しかないとも思へば/\口惜《くちをし》く嘸《さぞ》御無念に思召さん如何に物堅き|御氣象《ごきしやう》とて日々の困窮《こんきう》の其中に二十五兩と云ふ此金の眼前《がんぜん》に有《あ》りながら御歸しなさるとの御志ざしは武士道の義理一|應《おう》は御道理《ごもつとも》なれ共市之丞殿が昔の恩義《おんぎ》を報《むく》はんと故意々々《わざ/\》遣《つか》はされたる此金なれば假令《よしや》其儘《そのまゝ》御受取なされたとて何の不義理が有《ある》べきぞ殊に今日も今日とて表の質屋《しちや》よりは度々の催促《さいそく》若《もし》や流れに出る時は僅《わづか》十二三兩の金子にて大切の大小《だいせう》を失《うしな》はるゝも口惜《くちをし》く夫も金子なければ仕方もなし眼前《がんぜん》此所に有《ある》金《かね》を武士の意氣地《いきぢ》と云《い》ひながら遣ふ事さへならぬとははて何《どう》したら宜《よから》んやと女房お政はくよ/\と女心の一|筋《すぢ》に昔しを忍び今の身の敢果《はか》なき體《さま》を喞《かこ》ちつゝ如何《いか》なる因果と泣沈《なきしづ》むにぞ文右衞門は状《かたち》を正《たゞ》しコレお政其方は何とて其樣に未練《みれん》なることを申ぞ浪人しても此清長《このきよなが》が妻ならずや夫に何とて以ての外|聞苦《きゝぐる》しき世迷言《よまひごと》急度《きつと》省愼居《たしなみをり》申すべし是此金子は受納《うけをさ》めたりとて何も仔細《しさい》なき事は汝が申さずとも承知なれ共|然《さ》ある時は先にも申如く一旦|他人《ひと》に惠《めぐ》みたる金子を如何に零落《れいらく》なせばとて取戻せしと云れんことも無念《むねん》なり又是迄年來|磨上《みがきあげ》たる武士の魂魄《たましひ》何ぞ再び變《へん》ずる事あらんや渇《かつ》しても盜泉《たうせん》の水を飮《のま》ず熱しても惡木《あくぼく》の蔭《かげ》に舍《やど》らず君子は清貧《せいひん》を尊ぶとこそ云へり今一錢二錢の袖乞《そでごひ》しても心|清《きよ》きが潔《いさぎ》よし人間萬事塞翁が馬ぢや又《また》好《よき》春《はる》に花を詠《なが》める時節もあらん斷念《あきらめ》よと夫婦互に力を添《そ》へ合《あひ》憂《うき》物語《ものがた》りに時移りしに頓《やが》て塒《ねぐら》を放るゝ鳥の聲に夜は白々《しら/″\》と明渡りければ女房お政は徐々《そろ/\》と勝手に立出《たちいで》麤朶《そだ》折《をり》くべて飯《めし》の支度に懸《かゝ》り文右衞門は嗽《うがひ》などして其所《そこ》らを片付《かたづけ》偖《さて》飯《めし》も仕舞ければ是より文右衞門は又々馬喰町へ行《ゆき》市之丞を尋ね探《さが》さんとする處へ表の質屋より例《れい》の小僧が來り一昨日|御出《おんいで》遊ばし御對談《ごたいだん》の上今一兩日|待《まち》呉《くれ》よとの御頼み承知したれども其後|今日《けふ》迄も一向に御沙汰是なく候間今日中猶豫いたし明日は是非々々|相流《あひなが》し候により然樣《さやう》御承知下されよと門口より言放《いひはな》し小僧は急ぎて歸りけり [#8字下げ]第二十二回[#「第二十二回」は中見出し]  偖質屋よりは今日中|猶豫《いうよ》致し明日は是非とも質物《しちもつ》相流し候旨|斷《ことわ》りに來りければ文右衞門は途方《とはう》にくれ如何はせんと女房お政に相談《さうだん》なしけるにお政も太息《といき》を吐《つき》那《あ》の一口は大小ばかり賣拂ひても金五十兩程になるべし|其外《そのほか》小袖《こそで》合羽《かつぱ》の類まで彼是六十兩餘の金目《かねめ》の品々を僅かに十二三兩位に預けし切《ぎり》流しては餘り口惜《くちをし》き事に候はずや因て考ふるに一|先《まづ》此金子にて請出《うけいだ》し其上外方へ賣拂ひ候はゞ相應《さうおう》の代金手に入べし其時市之丞殿持參致されたる金子だけ返濟《へんさい》致す共|遲《おそ》からぬ事ゆゑ其中の融通《ゆうづう》に遣《つか》はれたならば市之丞が折角の志《こゝろ》ざしも通り又《また》貴郎《あなた》の御義心も貫《つらぬ》くと申もの双方《さうはう》の御趣意も立て宜く候まゝ是非々々|然樣《さやう》に成《なさ》れよと申ければ文右衞門は暫時《しばら》く考へしが成程是は其方《そなた》の申通り一時の融通《ゆうづう》に此金を借用したりとて返《かへ》しさへなせば我が一分も立又市之丞の志ざしも貫《とほ》りて遣はすと云もの實《じつ》に那《あ》の大小を此儘《このまゝ》流して仕舞は餘り殘念《ざんねん》なり然《さら》ば先此金子にて請出し我が年來の懇意《こんい》なる稻葉丹後守樣の藩中へ持參して能《よき》直段《ねだん》に賣拂はんと文右衞門は漸々《やう/\》承知なし市之丞が遺したる金子廿五兩の内を以て表の油屋《あぶらや》五兵衞の方へ行《ゆき》番頭久兵衞に逢《あひ》て流れの一件段々と延引《えんいん》に相成甚だ氣の毒千萬なり夫に付今日は右の品物を賣拂《うりはら》はんとのお使|御道理《ごもつとも》にて候然るに幸ひ昨晩《さくばん》外《ほか》より融通《ゆうづう》致したる金子是あるにより右の品々|受出《うけいだ》し候間|御面倒《ごめんだう》ながら御取出し元利共《ぐわんりとも》何程《なにほど》に相成候や勘定して下されと云ひければ番頭久兵衞は大いに驚き心の中《うち》に思ふ樣此品々を今更受出されては心當《こゝろあて》が違《ちが》うたり是と云も此質物は外《ほか》の代呂物《しろもの》と違ひ五ヶ月限りの約束《やくそく》にて凡六十兩程は固《かた》く直段のある品を僅か金十二兩|貸《かし》てあるゆゑ流れになりて賣《うり》拂へば金四十五兩は儲《まう》かるなり其四十五兩の金子は皆己が懷中《ふところ》へ入《いれ》帳面面《ちやうめんづら》は筆の先にて能《よき》樣《やう》にごまかし置んとの胸算用《むなさんよう》夫と云も平生文右衞門は一文二文の袖乞《そでごひ》をして居けるゆゑ大丈夫請出す氣遣《きづか》ひなしと踏《ふみ》たればこそ嚴重《きびしく》催促《さいそく》をしたりしに今請出されては甚だ心當《こゝろあて》が相違《さうゐ》したりと番頭久兵衞は小首を傾《かたぶ》けしが又心中に考ふるやう此品物を殘《のこ》らず受出すと云ば仕方なけれども勿々《なか/\》今十兩からの金子の出來る筈《はず》はなし大方《おほかた》大小《だいせう》計《ばか》り請《うけ》ると云ならん其處で拔差《ぬきさし》は出來ずと斷《こと》わり流させ呉んと思ひければ久兵衞は文右衞門に向《むか》ひ質物を受出さんとの御事《おんこと》承知仕つり候へ共一品にても拔差《ぬきさし》は手前にて迷惑《めいわく》に候間殘らず御受なさるゝなら格別《かくべつ》其方《そなた》の勝手に大小ばかり請樣《うけやう》などと仰られても其儀は出來申さずと云ければ文右衞門|聞《きゝ》て夫は御道理《ごもつとも》の事なり今殘らず請出す間《あひだ》元利《ぐわんり》何程《なにほど》か勘定して下されと云《いふ》故《ゆゑ》番頭久兵衞は飽迄《あくまで》見込《みこみ》違《ちが》ひになりしかば心の中にては甚だ忌々《いま/\》しく思へ共|詮方《せんかた》なく勘定致し見るに元利十三兩二分外に時貸《ときがし》が六百文右の通りと文右衞門が前に差出《さしいだ》しければ文右衞門は是を見て是は/\御世話《おせわ》と云《い》ひながら財布《さいふ》の中《うち》よりぞろ/\と一分金にて十三兩二分取出し殘《のこ》らず勘定して質物を受取《うけとり》我が家をさしてぞ歸りける [#8字下げ]第二十三回[#「第二十三回」は中見出し]  偖文右衞門は我が家《や》に歸りて衣類大小を能々《よく/\》改め見るに品數《しなかず》も相違《さうゐ》なく幸ひ今日は雨天《うてん》にて貰《もら》ひにも出られず直樣《すぐさま》是《これ》より稻葉侯の御家中へ大小を賣《うり》に參らんと今《いま》質《しち》より受出して來たる衣服《いふく》并《ならび》に省愼《たしなみ》の大小を帶《たい》し立派なる出立《いでたち》に支度なして居たる處へ同じ長家に居る彼張子《かのはりこ》の釣鐘《つりがね》を背負《せおひ》て歩行《あるく》辨慶がのそ/\と出きたりモシ/\文さん今日は雨降《あめふり》で御互に骨休《ほねやす》み久し振《ぶり》なれば一|口《くち》呑《のむ》べし夫に今さんまの生々《なま/\》としたるを買《かひ》あつたから是で一ぱい遣《やり》やせう先《まづ》何は兎もあれ私しの宅《たく》へ御出《おいで》なせへと門口《かどぐち》から聲《こゑ》を懸《かけ》ければ文右衞門は是を聞て夫は忝けないが生憎《あひにく》今日は少々|差掛《さしかゝ》りたる用事のあるゆゑ何れ又此後のことに致すべしと申しけるに辨慶は打笑《うちわら》ひコウ/\文さん其樣に稼《かせ》ぐには及ぶまじ今より貰《もら》ひに出るには遲《おそ》し是非々々來なせへと忙《せは》しなく云ひければ文右衞門|否《いや》私《わた》しは今から稻葉丹後守樣の御屋敷まで參らねばならぬ用事が有《ある》と云に辨慶は猶《なほ》門口《かどぐち》を這入《はひり》ながらオイ/\貴樣は勇《いさま》しき根性《こんじやう》だな日々一文づつ貰ひ居ながら稻葉丹後守樣の御屋敷へ罷《まか》り出《いづ》るなどと餘《あま》り口巾《くちはゞ》ツたきことを云ものかなと大いに笑《わら》ひつゝ[#「大いに笑《わら》ひつゝ」は底本では「大《わら》いに笑ひつゝ」]文右衞門の容體《なり》を見るに上には黒羽二重《くろはぶたへ》の紋付《もんつき》下《した》には縞縮緬《しまちりめん》の小袖博多の帶《おび》に唐棧《たうざん》の袴《はかま》黒羅紗の長合羽を着し大小を凜々《りゝ》しく帶《たい》して如何にも立派なる武士《さぶらひ》に出立《いでたち》居《ゐ》たりしかば是はと驚き然《さう》云事《いふこと》なら是非に及ばずと云直《いひなほ》し早々此家を立出しが偖々《さて/\》不思議《ふしぎ》なる事もあるものかな此山崎町へ來りて我等《われら》が仲間に入《いり》袖乞《そでごひ》に出る者が今日は斯の如く立派なる身形《みなり》にて然も稻葉樣へ行《ゆく》と云は何分《なにぶん》合點《がてん》行《ゆか》ず文右衞門は舊《もと》越後家の浪人と聞及《きゝおよ》びしが苦し紛《まぎ》れに切取り強盜《がうたう》をせしに相違なしと思ひければ夫より三井寺の辨慶は長屋中を觸歩行《ふれあるき》しに仲間なる丹波の荒熊《あらくま》又は皿廻《さらまは》し烏《からす》の聲色《こわいろ》遣《つか》ひなど皆々此浪宅へ來り樣子を覗《のぞ》き見て成《なる》ほど/\辨慶の云通り文めが今日の身形《みなり》は何でも只事ではなしと噂《うはさ》區々《まち/\》なるに辨慶は少し鬱氣《ふさぎ》し樣子にて己《おら》ア日來《ひごろ》仲間の事ゆゑ文右衞門とは心安くして度々《たび/\》酒も飮合《のみあひ》しが那《あ》んな身形《みなり》をして出るに[#「出るに」は底本では「出ばれ」]直に探索方《たんさくがた》の御手に會《あふ》は必定なり萬一《もし》縛《しば》られもする時は己も直《すぐ》に引合《ひきあひ》を食ふも知ず困《こま》りしことと咄しければ荒熊《あらくま》は聞て然共々々《さうとも/\》文右衞門めが召捕《めしとら》れなば手前は第一番の引合にて同類《どうるゐ》同樣《どうやう》なりと云ければ辨慶は勃然《むつ》として其樣《そんな》に馬鹿にするな己《おら》に於《おい》ちやア憚りながら少しも後《うし》ろ暗《くら》い事など仕た事アネヘと彼是咄し會《あひ》て乞食《こつじき》仲間は些少《ちと》妬《ねた》ましき心より種々に氣を揉《もみ》居たりけり偖又彼油屋の番頭久兵衞は文右衞門が質物《しちもつ》を受出《うけいだ》して歸りし跡《あと》に茫然《ばうぜん》と手を拱《こまね》ぎて居たりしが彼浪人め一|文貰《もんもらひ》の身分にて僅《わづか》二三日の中に十三兩と云金子の出來樣|筈《はず》なし融通《ゆうづう》せし金なりと云とも奚《なん》ぞ袖乞に十兩からの金子を貸《かす》人《ひと》の有べきやはて不思議なる事もあるものだ何《どう》した譯の金なるやと良《やゝ》暫《しばら》く考へしが而《し》て見れば一文貰ひの苦紛《くるしまぎ》れに奴《きやつ》切取《きりとり》強盜《がうたう》をなすか又は家尻《やじり》にても切しならん渠《かれ》は元浪人者だと云から表向《おもてむき》は一文貰ひ内職《ないしよく》には押込《おしこみ》夜盜《よたう》をするに相違なし兎角《とかく》然樣《さう》なければ金の出來る筈《はず》はなし假令《よしや》然樣なくとも我が胸算《むなさん》の相違なれば奴《きやつ》を盜賊に陷《おと》し未だ遣ひ殘りの金もあらばせしめて呉《くれ》んと忽ちに惡意《あくい》を發《おこ》し丁度此日質の流れを賣たる百兩と云金が見世にあるゆゑ是を取隱《とりかく》し置《おき》早々文右衞門の方へ行て金の出所《でどころ》を聞糺《きゝたゞ》し若《もし》出所《しゆつしよ》明らかなれば夫までの事萬一|胡亂《うろん》の申口ならば見世に在《あり》し百兩の金を文右衞門が盜《ぬす》み取《とり》しと云懸《いひかゝり》て同人が所持の金子を體能《ていよく》騙《ゆす》り取んと工夫《くふう》にこそは及びけれ此油屋五兵衞方の番頭久兵衞と云ふは元上總無宿の破落者《ならずもの》なりしが其後東海道筋にて護摩灰《ごまのはひ》を働らき前書に顯《あら》はし置たる通り後藤半四郎の道連《みちづれ》となり三島宿の長崎屋と云ふ旅籠屋《はたごや》に於て半四郎が胴卷《どうまき》の金子を盜取《ぬすみとら》んとして引捕へられ片々の小鬢《こびん》の毛を拔取《ぬきとら》れ眞黒に入墨《いれずみ》をされて命《いのち》辛々《から/″\》逃《にげ》し奴《やつ》なり然れども少しは是に懲《こり》しと見え其後は惡き事もなさず中年にて奉公に住込《すみこみ》隨分身を愼《つゝ》しみ居ければ主人五兵衞は此久兵衞が年頃といひ萬端《ばんたん》如才《じよさい》のなき者ゆゑ大いに心に適《かな》ひ好者《よきもの》を置當《おきあて》しとて終に番頭となし見世の事は久兵衞一人に任《まか》せしなり尤も五兵衞の悴《せがれ》に五郎藏と云ふ者有けれ共是は人並《ひとなみ》外《はづ》れし愚鈍《おろか》にして見世の事等一向に解《わから》ざれば此番頭久兵衞などには宜樣《いゝやう》に扱はれ主人か[#「主人か」は底本では「主人が」]奉公人かの差別もなき位の事なり又《また》親父《おやぢ》の五兵衞と云者は是迄商賣向には勿々《なか/\》如才《じよさい》なけれ共|酒《さけ》も好《すき》女も好にていゝ年をしながら此處彼處《ここかしこ》へ圍《かこ》ひ者をなし其上|屡々《しば/\》女郎買にも行《ゆき》家《うち》の下女には手を付て懷妊《くわいにん》させて金を取られいやはや女を好むことは鷄《にはとり》にも似《に》たりと云程のことなれば近來《ちかごろ》家内《かない》の不取締《ふとりしま》りは勿論なり故に何事に寄《よら》ず番頭久兵衞が一人にて宜樣《よきやう》に掻廻《かきまは》して居ければ終に又昔しの惡心《あくしん》再發《さいはつ》なし此度文右衞門が質《しち》の一件とても己が氣儘《きまゝ》に取計らはんとし又主人の金子百兩を盜《ぬす》み取て文右衞門へ塗付《ぬりつけ》んと巧《たく》み家内は誠に亂脈《らんみやく》にて主人はあれ共なきが如く此久兵衞一旦は改心《かいしん》の形《かたち》に見ゆれども茲に至つて又々|本性《ほんしやう》を顯《あら》はし大橋文右衞門に百兩の云懸《いひかゝ》りをするといふ大惡不道《だいあくぶだう》の曲者なり然《され》ば根が惡心のある者は如何にしても善心には成難《なりがた》きものと見え往々《わう/\》召捕《めしとら》るゝ盜人《ぬすびと》ども入牢《じゆらう》の上御裁許に逢《あひ》追放《つゐはう》又は入墨或は遠島と夫々に御咎《おとがめ》を仰付らるゝにより迅速《すみやか》に正路《しやうろ》の人になるべき筈《はず》なれども又人間に出る時は以前《いぜん》に一|層《そう》惡事の効を積《つみ》遂《つひ》には其身を亡《うし》なひ惡名を萬世に流すを見《み》れば惡は惡に亡《ほろ》ぶる事誠に是非もなき次第《しだい》なり又《また》主人《あるじ》五兵衞は其人を知らず只《たゞ》己の慾《よく》を恣《ほしい》まゝになせしゆゑ遂には家の滅亡《めつばう》を招くと云《いふ》是《これ》亦《また》淺猿《あさま》しき事にこそ [#8字下げ]第二十四回[#「第二十四回」は中見出し]  偖又大橋文右衞門は支度《したく》調《とゝの》ひしかば稻葉家の藩中へと出行し跡《あと》へ彼の油屋五兵衞の番頭久兵衞は入來り文右衞門さんは御家《おうち》にかと云ながら直《つぐ》と上り込《こむ》ゆゑ女房お政は是を見てヤア油屋の番頭さん折惡《をりあし》く宿《やど》では留守なれども先《まづ》一ぷくあがりませ又《また》今朝程《けさほど》は何かと御世話に成《なり》殊《こと》に約束の月も切《きれ》て度々|御催促《ごさいそく》をも受《うけ》誠にお氣の毒と云を久兵衞ナニ夫は商賣の事ゆゑ厭《いと》ひませんが若《もし》内儀《おかみ》さん承まはるも餘り率爾《ぶしつけ》ながら能《よく》急《きふ》に金子が出來ました尤も外より御融通《ごゆうづう》なされたとか仰せなれども金子《かね》と云ふものは勿々《なか/\》容易《ようい》には調《とゝの》ひ難きもの最早《もはや》濟《すみ》し事ながら既《すで》に流れ買に賣拂はんとする處なりしが彼金《あのかね》は何處《どこ》から御融通なされしにや些《ちと》申し惡《にく》き事なるが御立腹《ごりつぷく》なさるな内儀樣《おかみさん》一文|貰《もらひ》の袖乞《そでごひ》をする身分にて昨日《きのふ》までも出來ざりし金が一夜の中《うち》に十三兩餘りと云《いふ》大金の調ひしとは誠に不測《ふしぎ》なり是に依《よつ》て失禮ながら御問ひ申す事なりと云ければ女房お政は聞《きい》て夫は久兵衞さん訝《おつ》な事を御尋ねなさる成程《なるほど》今此樣に零落《れいらく》して一文貰をする身なれば不審《ふしん》に思ひなさるも御道理《ごもつとも》なれど此金子の出來しと云譯を委細《くはしく》御物語り申せば永《なが》き事なるが一寸摘んでお咄《はな》し致さん此金子と云は最早十八年以前の事にて元《もと》私《わたく》しの國許《くにもと》越後の高田に居たる頃同じ家中新藤市之丞と云者ありしが同役の娘と密通《みつつう》に及びし事|薄々《うす/\》役人どもの耳《みゝ》に入御家の御法《ごはふ》を破《やぶ》りし者なれば捨置《すておか》れずとて既に兩人共一命にも關はる處を夫《をつと》文右衞門が情《なさけ》に依て兩人が命を助《たすけ》んと二十兩の金を與へて江戸表へ立退《たちのか》せたるに其後夫婦になりて取續《とりつゞ》き今にては先《まづ》相應《さうおう》に暮して居ると申事其助けたる市之丞に此ほど廻《めぐ》り逢《あひ》し處我々夫婦此樣に浪人して困窮《こんきう》に及ぶを見兼ての深切《しんせつ》先年の恩報《おんがへ》しなりとて一昨日《をとゝひ》夕方《ゆふがた》に廿五兩と云金子を調達《てうだつ》して持參致されし譯ゆゑ何も別に不審《ふしん》に思はるゝ事は是なしと金の出所を白地《あからさま》に咄《はな》すを聞て番頭久兵衞成程世の中には義理《ぎり》の堅《かた》い深切なる者もあれば有者《あるもの》併《しかし》ながら夫が眞實《ほんたう》の人間なるべし其市之丞殿とか申方は當時《たうじ》何方に住居致され候やと申にお政は打案《うちあん》じ左樣さ私しも未だ江戸の樣子《やうす》は不案内なれ共たしか馬喰町邊とかにて紙屑買を渡世《とせい》になし居ると申されしなりと云ければ久兵衞は茲ぞ付込處《つけこみどころ》なりと思ひ然《さ》すれば其市之丞殿の家主の名前《なまへ》又當時本人の名は何と申され候や紙屑買をするに苗字《めうじ》つき新藤市之丞にても有まじと云にお政否|家主《いへぬし》の名は承まはらず又當人の名も當時は替《かは》り居るならんが此程中《このほどちう》逢《あひ》し時には以前の名前新藤市之丞と許《ばか》り申|居《をり》しなりと云に久兵衞は彌々《いよ/\》しめたりと思ひ夫では内儀樣少し胡亂《うろん》なお咄しなり家主の名も知ず當人《たうにん》の名前も分らぬとは如何にも受取《うけとら》れぬ事《こと》而《し》て見れば兎にも角にも其金の出所が怪《あや》しいと云つゝ充分《じうぶん》心の中に笑《ゑみ》を含《ふく》み道理《だうり》こそ一夜の内に金の工面《くめん》が出來たるなれ夫に付て御談《おだん》じ申す事があり昨日《きのふ》の朝《あさ》流れる品を賣た代金百兩包みの儘《まゝ》帳箱《ちやうばこ》の上に差置《さしおき》つひ事に紛《まぎ》れて仕舞のを忘れしが此方《こちら》の旦那が歸られたる跡《あと》にて心付《こゝろづき》見《み》るに其の金子何れへ紛失《ふんじつ》せしにや一向分らず因て嚴重《げんぢう》に家内を詮議《せんぎ》なしたれども何分知れず是は知《しら》ぬ筈《はず》の事なり其《そ》は文右衞門さんが不※[#「圖」の「回」に代えて「面から一、二画目をとったもの」、463-4]《ふと》した出來心夫も無理《むり》とは思はず斯《かく》貧窮《ひんきう》致さるゝゆゑ如何に手堅《てがた》き人にても心の駒《こま》の狂ふのは是有《これあり》うちなり然《さり》とて其儘|捨《すて》ても置れず迷惑《めいわく》なすは我等のみ因て其百兩の金子は早々《さう/\》御返《おかへ》し下されよ然《さ》すれば人の耳にも入《いら》ず内々事を濟《すま》さん程にサア/\素直《すなほ》に御返しあれと思《おもひ》も寄《よら》ぬ言懸《いひがかり》に女房お政は大に驚き夫《そ》りやマア久兵衞さん途方《とはう》もない百兩の金子をば文右衞門が取《とり》しなどとは跡形《あとかた》もなき云懸《いひがか》り假令《たとへ》戲談《じようだん》にもせよ然樣の事を申されては聞捨《きゝずて》にならず夫には何か證據が有《あつ》て申さるゝにやと見相《けんさう》を變て申に久兵衞は冷笑《あざわら》ひ否々《いや/\》人は見かけに寄ぬもの其時|其所《そこ》に居合《ゐあは》せたは文右衞門殿ばかりゆゑ盜まれたるに相違《さうゐ》なし盜人《ぬすびと》猛々《たけ/″\》しとは此事なりと云ひければお政は彌々《いよ/\》やつ氣となり私しを女と侮《あなど》りて當事《あてこと》もなき言懸《いひがか》り成程一夜の中に金の出來たるを不思議《ふしぎ》と云《いは》るれど夫は只今も申せし通り新藤市之丞が持《もつ》て來たる金なるに御前は何と思ひしにや無體《むたい》を云《い》ふも程があるとお政は無念《むねん》の切齒《はがみ》をなすに久兵衞は落《おち》つきはらひオイ/\御内儀《おかみさん》其樣に逆《たつ》み上《あが》りになるからは猶々|怪《あや》しく思はれるマア能々《よく/\》氣《き》を鎭《しづ》めて御聞あれその市之丞とやらが家主の名も知れず殊《こと》に當人の名前《なまへ》住居《ぢうきよ》も知《しら》ずとは是怪しき證據の第一なり廿五兩といふ大金を受取《うけとり》ながら其人の名前住所をも聞《きい》て置《おか》ぬと申さるゝは元《もと》が不正《ふせい》の金子《かね》故《ゆゑ》に確《しか》と出所《でどころ》は云《いは》れぬ筈《はず》何でも百兩は此方《こつち》の旦那が盜み取たるに相違なし四の五の言《いは》れずと只今返されよサア/\如何にと詰《つめ》よるにぞお政は無念《むねん》さ口惜《くちをし》さ叫《わつ》と計りに泣出し成程當人の名前住所をも聞《きか》ずに置たるは手前の越度《をちど》なれども夫《をつと》に於て其の樣なる不埓《ふらち》を致す者でなし浪人しても大橋文右衞門|素《もと》は越後家にて五百石の祿《ろく》を領《りやう》し物頭役《ものがしらやく》をも勤《つとめ》たる武士《さふらひ》なり夫を何として不義不道《ふぎふだう》の盜み心を發《おこ》すべきと怒《いか》りつ泣つ爭《あら》さうに番頭久兵衞は左右《とかく》に冷笑《あざわら》ひナニサ其樣に子供|欺《だま》しの泣聲を出しても其手は勿々《なか/\》食《くは》ぬ夫よりは御前方も一文|貰《もら》ひの苦し紛《まぎ》れ貧《ひん》の盜みに戀《こひ》の歌とやら文右衞門さんが不※[#「圖」の「回」に代えて「面から一、二画目をとったもの」、464-2]《ふと》出來心《できごころ》にて盜まれしと言つた方が罪が輕《かる》い其所は私《わた》しが心一つで取計らひ質を受たる十三兩の金子は負《まけ》てあげ樣《やう》程《ほど》に跡の金を殘らず御返しなされ然すれば此事は是切《これきり》にして上るなり夫が一番|上分別《じやうふんべつ》憖《なまじ》ひに押《おし》を強く云拔《いひぬけ》樣《やう》とても然樣|甘《うま》くは欺《だま》されず是が表向《おもてむき》になる時は文右衞門さんは甚《はなはだ》御氣の毒だが御吟味中|入牢《じゆらう》トヾの迫《つまり》は首がなし命あつての物種《ものだね》なればサア/\殘りの金子を渡されよ何《どう》だ/\と責付《せめつけ》るを此方は増々《ます/\》聲ふるはせ最《もう》此上《このうへ》は爭ふより今に夫《をつと》が歸りなば直樣《すぐさま》分る事柄なり金の出所は市之丞より受取たるに相違《さうゐ》なしと終には互に大音《だいおん》揚《あげ》云爭《いひあらそ》ひて居たりけり [#2字下げ]評《ひやう》に曰く如何に久兵衞|奸惡《かんあく》なりとも此方《こなた》には拔目《ぬけめ》なければ惡謀《あくぼう》も行ふ事能はず然るを二度まで來りし市之丞が當時の住所《ぢうしよ》名前等も聞置ざりしは全く文右衞門の無念《むねん》なり然ば久兵衞其落度に付込み|斯《かく》難題《なんだい》を申懸るのみか己が見世の百圓[は#「百圓は」はママ]密かに我が圍《かこ》ひ女の方へこかせし奸曲《かんきよく》に逢ひ文右衞門は終に身の難儀《なんぎ》となるは其人にして此過失《このあやまち》あるは時の不幸と云べき而已 [#8字下げ]第二十五回[#「第二十五回」は中見出し]  扨《さて》又《また》大橋文右衞門は久々にて稻葉丹後守殿|藩中《はんちう》へ行一別以來の挨拶《あいさつ》に及び扨拙者儀|浪人《らうにん》の後斯樣々々の次第に因て困窮《こんきう》なし餘儀なく家《いへ》重代《ぢうだい》の品も質入なせし處此度月切に相成既に流れんとの[#「流れんとの」は底本では「流れんのと」]趣き度々《たび/\》催促《さいそく》を受|殆《ほとん》ど當惑《たうわく》なすと雖も詮方《せんかた》なく年來|祕藏《ひざう》せし差替の大小僅かの金にて他人手《ひとで》に渡んこと如何にも殘念《ざんねん》に存じ貴殿は豫々《かね/″\》御懇望《ごこんまう》[#ルビの「ごこんまう」は底本では「ここんまう」]もありし品ゆゑ御買取を願はんと持參なしたりと申に彼方も大橋の困窮《こんきう》を察し迅速《すみやか》に購《あがな》ひ呉《くれ》しかば文右衞門は喜びて代金を受取我が家を指して歸《かへ》り來りしに何やら路次《ろじ》の中|騷《さわが》しければ早々來り見るに油屋番頭久兵衞と我が女房《にようばう》が何か爭ひ居たるゆゑ文右衞門は兩人に向ひて何事の爭《あらそひ》か譯《わけ》は知ね共互に大音《だいおん》揚《あげ》近所《きんじよ》へ對し外聞《ぐわいぶん》惡《わる》し靜に譯《わけ》を咄《はな》すべしと云に女房《にようばう》お政は夫《をつと》の歸りしを見て是は好所《よきところ》へ御歸りなり今久兵衞さんが來られて餘り無法《むはふ》な事を言懸《いひかけ》らるゝにより思はず大きな聲を出せしなり其譯《そのわけ》は一昨日《をとゝひ》[#「一昨日」はママ]良人《あなた》が質物《しちもつ》の日延をして歸りし後にて心付し處油屋の見世にありし百兩の金が紛失《ふんじつ》したるに付|良人《をつと》が盜《ぬす》み取たるに違《ちがひ》なし然なければ一文|貰《もら》ひの貧窮《ひんきう》浪人《らうにん》が十三兩三分と云|質《しち》をすら/\請《うけ》出す筈がないと云るゝにより其|質《しち》を請し金は新藤市之丞と申人が昔し貸たる金を返すとて持て來た金なりと譯を申ても聞入《きゝいれ》ず質《しち》を受た丈の金はまけて遣るから殘りの金を返せ/\と無理《むり》無體《むたい》のことを申さるゝなりと泣《なき》ながら仔細《しさい》を語りしかば文右衞門は是を篤《とく》と聞しが夫は不埓《ふらち》千萬の申懸なりと大いに立腹《りつぷく》し是より又久兵衞と文右衞門の言爭《いひあらそ》ひになりければ長屋《ながや》中の者|追々《おひ/\》此|騷動《さうどう》を聞付けそれ事こそ出來たり我々《われ/\》が云ぬ事か一|文貰《もんもらひ》の素浪人《すらうにん》俄《には》かに大造《たいそう》立派《りつぱ》な身形《みなり》をして稻葉丹後守樣の屋敷へ行などと云しが果《はた》して表《おもて》の質屋《しちや》にて百兩の金が紛失《なくな》りし由|恐《おそ》ろしき盜人《ぬすびと》もあるものかな而《し》て見れば是までも諸所《しよしよ》へ盜賊《たうぞく》に這入《はひり》しに違ひなし此間もお内儀さんが浴衣《ゆかた》の古いのを二枚賣たいと云ひしが那《あ》れも盜《ぬす》み物ならんなどと種々《いろ/\》に噂《うはさ》をなし兎も角も一ツ長屋に居れば我々まで引合《ひきあひ》になるも知れず日來《ひごろ》一口《ひとくち》づつ呑合《のみあひ》し者は今さら仕方なし皆々恐れ用心《ようじん》してぞ居たりける偖文右衞門久兵衞の兩人は増々《ます/\》云募《いひつの》り假令《たとへ》今|浪人《らうにん》しても大橋文右衞門ぞや他人の金などに目を懸んや某しが質物《しちもつ》を受出せし金は愚妻《ぐさい》よりも申せし通り新藤市之丞と云者より受取たる金に相違《さうゐ》なく其譯《そのわけ》は斯樣々々と馬喰町中《ばくろちやうぢう》尋《たづ》ね歩行《あるき》たる事まで委しく申聞ると雖《いへど》も久兵衞は少しも聞入《きゝい》れず否其新藤市之丞と云は町所家主も知れず當人《たうにん》が今の名前さへ知れぬ位の事なる由是第一|怪《あや》しき證據なり又|不審《ふしん》なるは一夜の中に大金の出來る筈《はず》もなし何でも御前が質物流《しちもつなが》れの云|譯《わけ》に來た時帳箱の上に置《おき》し百兩の金子が紛失《ふんじつ》したれば御前が盜《ぬす》みしに違《ちが》ひなし質《しち》を受たる十三兩三分は勘辨《かんべん》するにより殘《のこ》りの金を只今|返《かへ》されよと云ふに文右衞門扨々|聞譯《きゝわけ》のなき男かな然れば是非《ぜひ》に及ばず是を見て疑《うたが》ひを晴《はら》されよと云つゝ豫《かね》て省愼《たしな》み置《おき》たる具足櫃《ぐそくびつ》并《なら》びに差替《さしかへ》の大小までも取出し此通り國難《まさか》の時の用意も致し居る拙者なり他人の物を盜《ぬす》むなどと云|卑劣《ひれつ》の武士《さふらひ》にあらず是にても疑ひは晴《はれ》[#ルビの「はれ」は底本では「なれ」]ぬかと云ふに久兵衞は大口《おほぐち》開《あい》て打笑《うちわら》ひイヤサ盜人《ぬすびと》たけ/″\しいとは貴殿《きさま》の事なり此品々を省愼《たしな》み置たるとは是《これ》又《また》僞《いつは》りなるべし大方皆|盜《ぬす》み取たる物ならん茲な大盜人《おほぬすびと》めと樣々に惡口《あくこう》なしければ元より武道《ぶだう》を琢《みが》く大橋文右衞門|賊名《ぞくみやう》を負《おは》せられては最早《もはや》了簡《れうけん》ならず今一度言て見よ己れ其座《そのざ》は立せじと刀《かたな》追取《おつとり》膝《ひざ》立直《たてなほ》し怒《いかり》の目眥《まなじ》り釣上《つりあげ》て發打《はつた》と白眼《にらみ》付けれ共久兵衞は少しも驚く氣色なく否《いな》盜人《ぬすびと》に相違《さうゐ》なし百兩盜みし大盜賊《おほどろばう》と大聲|揚《あげ》て鳴《なり》わめけば爰に至りて文右衞門は耐忍《こらへ》兼一|刀《たう》すらりと拔放《ぬきはな》し只一|打《うち》と振上《ふりあげ》るに久兵衞は大に驚きヤア人殺し/\と罵《のゝし》りながら表ての方へ一|目驂《もくさん》に逃出《にげいだ》せば汝れ何條|逃《のが》さんやと路次《ろじ》を放《はな》れて追行《おひゆく》折柄《をりから》火附盜賊改《ひつけたうぞくあらた》めの組與力《くみよりき》笠原粂之進と云者手先兩人を引連《ひきつれ》て今此所を通り掛りけるが文右衞門|拔身《ぬきみ》を振て久兵衞を追駈《おひかけ》行を見留夫|捕縛《めしとれ》と云ふより早く手先兩人づか/\と走《はし》り寄《よ》り上意と聲かけ文右衞門并びに久兵衞とも忽《たちま》ち高手小手に縛《いまし》め兩人ながら自身番《じしんばん》へ引行けるに是を見るより近所の者ども馳集《はせあつま》り自身番の前は見物の人|山《やま》の如く夫が爲|往來《わうらい》も止るばかりの騷《さわ》ぎにて皆々文右衞門に指《ゆび》さし彼が乞丐頭《がうむね》長屋に居たる浪人《らうにん》者此油屋と云質屋にて金を百兩|盜《ぬす》みし大盜人《おほどろばう》元《もと》は越後浪人にて劔術《けんじゆつ》の達人《たつじん》たりとか云が今御|召捕《めしとり》になる時|捕方《とりかた》の者を七八人|投付《なげつけ》たれども漸々《やう/\》折重《をりかさ》なりて捕押《とりおさ》へ自身番《じしんばん》へ上られたり何《な》んでも大盜人《おほどろばう》にて手下《てした》が百人ばかりもありと云|咄《はな》しなり然れども表向《おもてむき》は一文|貰《もら》ひの袖乞《そでごひ》をして居たと云などと虚《うそ》にも理を付て噂《うは》さしけるゆゑ彌々《いよ/\》人々|集《あつま》り來り自身番の前は錐《きり》を立る地もなき程なれば番人《ばんにん》は鐵棒《かなぼう》を引出し皆々人を拂ひ退《のけ》るに笠原粂之進は大橋文右衞門并びに油屋の番頭久兵衞の兩人を其所へ引据させ一通り吟味《ぎんみ》に及びし處文右衞門は元より潔白《けつぱく》の武士《さぶらひ》ゆゑ些《いさゝ》かも包《つゝ》み隱《かく》さず新藤市之丞より返濟《へんさい》したる金子の譯《わけ》又久兵衞が百兩の云懸《いひがか》りをなし盜賊《たうぞく》の惡名を負《おは》せんとしたるを殘念《ざんねん》に存じ怒《いか》りの餘り打捨《うちすて》んと思ひ詰《つめ》たる事由迄《ことがらまで》委細《ゐさい》に申立たり又久兵衞は己れが惡巧《わるだく》みを押隱《おしかく》し是非々々《ぜひ/\》[#ルビの「ぜひ/\」は底本では「ぜんひ/\」]百兩の云懸《いひがか》りを通して文右衞門を盜賊《たうぞく》に落し呉んとの了簡ゆゑ一文貰ひの身分《みぶん》にして俄然《にはか》に金策《きんさく》の出來たる譯《わけ》又店にて百兩の金が紛失《ふんじつ》したるは斯樣々々と辯《べん》に任《まか》せて申立ければ其通り双方《さうはう》の口書《くちがき》を取久兵衞は吟味《ぎんみ》中主人五兵衞へ預《あづ》けられ文右衞門は直樣《すぐさま》頭《かしら》の小出兵庫殿《こいでひやうごどの》へ差出しと相なり吟味中《ぎんみちう》入牢《じゆらう》申付られける又文右衞門が女房《にようばう》お政は家主へ預けとなり長屋の者共にて嚴《きび》しく宅番《たくばん》を申付置|頓《やが》て與力《よりき》笠原《かさはら》は引取けり [#8字下げ]第二十六回[#「第二十六回」は中見出し]  扨文右衞門女房お政は家主|預《あづ》けとなりて宅番《たくばん》まで付し事なれば少《すこ》しも身動《みうご》きならず只々《たゞ/\》夫文右衞門が此度の災難《さいなん》を歎《なげ》き悲《かな》しむ事大方ならず明暮《あけくれ》涙《なみだ》に沈《しづ》み何なれば天道《てんだう》誠《まこと》を照《てら》し給はぬにや國にては惡人《あくにん》小栗美作《をぐりみまさか》が爲に讒《ざん》せられ終に浪人《らうにん》して斯《かく》零落《れいらく》困窮《こんきう》に及び其上にも此度斯る無實《むじつ》の難にあふ事はよく/\武運《ぶうん》に盡果《つきはて》たりしか夫に付ても恨《うら》めしきは新藤市之丞殿が當時の名前并びに町所等《ちやうどころとう》を委《くは》しく聞置ざりし事然れども彼方にても今は何と改名《かいめい》せし位の事は話しも有べき筈《はず》なるに夫等に氣の付ぬとは餘り迂濶《うくわつ》なりし那《あ》れ程までに馬喰町を尋ね探《さが》されても知れぬには仕方なしあはれ今にも市之丞殿が來たりなば夫は災難《さいなん》を遁《のが》れなんと女心のやるせなく天《てん》に歎き地に喞《かこ》ち或ひは己を悔《くや》み市之丞を怨《うら》み種々樣々に悲《かな》しみつゝ何卒して夫文右衞門殿が身の證《あか》りの立工夫を授け給へ何か無實の難を逃《のが》るゝ樣なさしめ給へと神佛を一|心《しん》不亂《ふらん》に念じ居たりしが不※[#「圖」の「回」に代えて「面から一、二画目をとったもの」、467-11]《ふと》隣《となり》の話しの耳の入女房お政は心付是は當時天下に名譽高き御奉行と評判《ひやうばん》ある大岡越前守樣へ駈込《かけこみ》訴訟をして夫文右衞門が身の證《あか》りの立樣に御慈悲《ごじひ》を願ふより外はなし直樣駈出さんかと一|※[#「圖」の「回」に代えて「面から一、二画目をとったもの」、467-12]《づ》に思ひ詰《つめ》たれども如何にも宅番《たくばん》嚴敷《きびしく》して一寸の間も門を出る事能はず然ども此お政は貞節と云|流石《さすが》に元は五百石取の大橋文右衞門が妻なれば氣象《きしやう》に於ても男勝《をとこまさ》りゆゑ何卒|隙《すき》を見て逃《にげ》出し御奉行所へ駈込《かけこま》んと心懸《こゝろがけ》てぞ居たりける又宅番に當りし長屋の者共|代々《かはる/″\》に來りては閑《ひま》に任せて噂《うはさ》をなすに當座|利合《りあひ》を推《おし》て全く文右衞門が盜人なりと思ひ居けるゆゑお政に向ひお前の亭主《ていしゆ》と云者は恐ろしき大盜人《おほぬすびと》大方まだ/\油屋の百兩許りにてはあるまじ所々方々にて稼《かせ》ぎたる事もあらん今迄此方の仲間《なかま》には他人の物を掠取《かすめとる》などと云者一人もなし家業は此上もなき賤《いや》しき一文|貰《もら》ひなれども心まで其樣に卑賤《いやしく》はならず餘りと云ば馬鹿々々しい是|内儀《かみ》さん私し共まで文右衞門樣の連累《まきぞひ》を喰《くつ》た樣な者此通り宅番をして居ては家業に出る事もならず此方の頥《あご》が乾《ひ》て仕舞ぞや此罪《このつみ》は皆お前の亭主へ懸て行よく/\の業《ごふ》つくばりなりと己等が迷惑《めいわく》紛《まぎ》れに種々|恥《はづ》かしめければ是を聞居るお政の辛《つら》さ殘念《ざんねん》さ辯解《いひわけ》なすとも實《まこと》にせず口惜涙《くやしなみだ》に咽《むせ》返る心の中ぞ哀《あは》れなり然るに天の助けにや或夜《あるよ》戌刻《いつゝどき》とも思ふ頃下谷|車坂《くるまざか》より出火して火事よ/\と立騷ぎければ宅番の者ども大いに驚き皆々我家へ歸り見るに早火の紛は[#「紛は」はママ]破落々々《ばら/\》と來たり殊に風も烈《はげ》しければ今にも燒《やけ》て來るかと皆々|周章狼狽《あわてふためき》手に/\荷物を運《はこ》び片付るゆゑ文右衞門が宅番する者一人もなし因てお政は是ぞ天の助けと大いに悦《よろこ》び此暇《このひま》に逃出《にげいだ》して御奉行大岡越前守樣の番所へ駈込訴訟《かけこみそしよう》をなさんと手早《てばや》く支度にこそは及びけれ [#8字下げ]第二十七回[#「第二十七回」は中見出し]  扨《さて》又《また》お政は手早く重代《ぢうだい》の具足櫃《ぐそくびつ》を脊負《せおひ》差替《さしがへ》の大小を引抱《ひつかゝ》へ用意の金子を懷中《くわいちう》なし然《さ》も甲斐々々《かひ/″\》しき出立《いでたち》にて逃出さんとするところへ火事騷《くわじさわ》ぎの中なれ共家主|吉兵衞《きちべゑ》は大切の囚人《めしうど》の女房ゆゑ萬一|取逃《とりにが》しもせば役儀《やくぎ》に關《かゝ》ると駈着《かけつけ》來り今《いま》逃出んとするお政を引捕《ひきとら》へ大事の御預り者|何《いづ》れへ行るゝやと咎《とが》むるにお政は南無三と思ひ無言にて袖《そで》振拂《ふりはら》ひ駈出《かけいだ》すをコレ/\未《ま》だ燒《やけ》ては來《こ》ぬぞ此騷《このさわ》ぎを幸ひに逃《にげ》やうとて逃《にが》[#ルビの「にが」は底本では「にか」]しはせじと又引止るをお政も今は一生懸命|邪魔《じやま》し給ふなと云ながら用意の九寸五分を晁《きら》りと引拔《ひきぬき》[#ルビの「ひきぬき」は底本では「ひたぬき」]家主《いへぬし》目懸《めがけ》て突《つ》きかゝるに吉兵衞は大いに驚きヤア人殺《ひとごろ》し/\と後《あと》をも見ずに逃出せばお政は爰《こゝ》ぞと混雜紛《こんざつまぎ》れに込合《こみあふ》人《ひと》を押分々々《おしわけ/\》車坂下の四ツ辻《つじ》まで逃來りしが今此處は火先にて四方より落合《おちあふ》人々押合々々|勿々《なか/\》通りぬける事能はず殊に上野近邊の出火ゆゑ其頃上野の御|消防《ふせぎ》は松平陸奧守殿(伊達家《だてけ》)にて太守も出馬有しかば持口々々を嚴重に固《かため》られたり又仁王門の方《かた》御加勢には松平安藝守殿(淺野家《あさのけ》)の同勢にて詰切《つめき》る其外|町方《まちかた》に於ては近年大岡越前守の下知にて江戸中の鳶《とび》の者をいろは四十八|組《くみ》となし[#「いろは四十八組となし」は底本では「いろ四十八組となし」]町方火消《まちかたひけし》をば申付られたり是に依て此町|火消《ひけし》共一同に押出して火掛りをなし又武家方にては十人火消を始《はじ》め諸侯方《しよこうがた》方角《はうがく》火消《ひけし》等夫々に持場々々へ詰《つめ》かけるゆゑ其混雜《そのこんざつ》云《いふ》ばかりなし其上御使番|火事場《くわじば》見廻《みまは》り并に火元見等東西へ乘違《のりちが》へ乘違《のりちが》ひ駈通《かけとほ》るゆゑ車坂下四ツ辻の邊は老人及び女子供等には勿々《なか/\》通《とほ》り難《がた》く只々人の波《なみ》を打《うつ》のみなり斯《かゝ》る處へ引續いて南町奉行大岡越前守殿出馬あり今此車坂下の四ツ辻を通《とほ》り懸《かゝ》られし處|流石《さすが》に町奉行の威權《ゐけん》あれば町方の者先へ立《たち》往來《わうらい》を開《あけ》よ/\と制しけるゆゑ人々|動搖《どよ》めき合て片寄《かたよら》んとする時彼の文右衞門が女房お政は具足櫃《ぐそくびつ》を脊負《せおひ》差替《さしがへ》の大小等を引抱《ひきかゝ》へし事なれば女の力にては人を押分難《おしわけがた》く其處《そこ》此處《こゝ》と揉《もま》れ踉蹌中《どよめくうち》思はず其處へばたりと倒れ伏《ふし》既に人にも踏《ふま》れんとするを大岡殿馬上より是を見られ那《あ》の女《をんな》助《たす》けよと聲を懸《かけ》らるゝに先に進みし同心畏まり候と馳寄《はせよつ》てお政を引起し怪我《けが》はなきやと問を見て大勢の人々|成程《なるほど》天下の名奉行と譽《ほめ》るも道理《もつとも》此混雜《このこんざつ》の中にても仁慈《じんじ》の御差※[#「圖」の「回」に代えて「面から一、二画目をとったもの」、469-8]《おさしづ》然《され》ば其下に使へる役人も斯《かく》の如しと感じ合《あへ》り此の時お政は大岡殿と聞て悦ぶこと限りなく是は全く神佛《かみほとけ》の御引合《おひきあは》せ成べし既に駈込訴訟《かけこみそしよう》をせんと思ふ折から幸ひ此所にて行逢《ゆきあふ》のみか今も今とて御助け下《くだ》されたる御慈悲深き御奉行樣御取上あるは必定也《ひつぢやうなり》是ぞ夫《をつと》の運《うん》の開《ひら》き時《どき》直樣《すぐさま》爰《こゝ》にて願はんと心を決しつか/\と進みよりつゝ大岡殿の馬の轡《くつわ》に取り付て夫《をつと》の身にとり一大事の御願ありと申にぞ前後を固《かた》めし家來を始め與力同心|打驚《うちおどろ》き是は慮外《りよぐわい》なり御出馬|先《さき》殊に轡《くつわ》へ取り付とは抑《そも》氣違《きちがひ》か亂心《らんしん》か女め其處《そこ》を放《はな》しをれ不禮に及ばは切り捨るぞ大膽不敵も程こそあれ退《しさ》れ/\と大音に叱《しか》りながらに縋《すが》る手を引放さんとなしけれ共お政は一※[#「圖」の「回」に代えて「面から一、二画目をとったもの」、469-13]《づ》に我が夫《をつと》の無實の罪を辯解《いひとか》んと凝固《こりかた》まつたる念力ゆゑいつかな轡《くつわ》を少しも放さず夫《をつと》の命《いのち》に關《かゝ》はる大事何卒御慈悲に御取上を願ひ奉ると聲《こゑ》震《ふる》はせ引ども押ども動かねば同心大勢立掛り強情《しぶとき》女《をんな》め下《さが》らぬかと無體《むたい》に引立《ひきたて》行《ゆか》んとするを大岡殿は此體《このてい》を見られコレ/\手荒《てあら》き事をして怪我《けが》を致させまじ渠《かれ》が夫《をつと》の一大事と申は何か仔細のある事ならんと左《と》に右《かく》願ひの筋《すぢ》取上て遣はすべし然れども今は此|混雜《こんざつ》ゆゑ後《のち》に趣意《しゆい》は聞んにより一|先《まづ》其者を上野町なる名主の方へ送り遣はせ而《して》又《また》斯《かく》込合《こみあふ》中《なか》なれば其具足櫃大小等は其方ども持參せよと指揮《さしづ》あるに同心は畏《かしこ》まり候とて直樣《すぐさま》手早く具足櫃を脊負《せおひ》差替の大小九寸五分其外都合五本の刀《かたな》を引抱《ひきかゝ》へてお政を引連《ひきつれ》上野町の名主佐久間|某方《それがしかた》まで送り行《ゆき》此者并びに具足櫃其外|後刻《ごこく》まで預るべしと申渡し又々火事場へ引返しけり是則ち享保四年|極月《ごくげつ》十三日の夜の事にて漸々《やう/\》火事も鎭《しづ》まりしかば上野の御固《おんかた》めは勿論《もちろん》武家方《ぶけがた》人數《にんず》町火消等《まちひけしら》も夫々に引取けるにより大岡越前守殿には火事場より引揚《ひきあげ》がけ直《たゞち》に上野町の名主佐久間某の方《かた》へ立寄《たちよら》れ文右衞門の女房お政を呼出し願ひの趣き一通り糺《たゞ》しにぞ及ばれける [#8字下げ]第二十八回[#「第二十八回」は中見出し]  扨大岡越前守殿には佐久間某しの玄關へお政を呼出《よびいだ》されければお政は我が願ひ御取上《おとりあげ》に相成事|冥加《みやうが》至極《しごく》有難《ありがた》しと思ひ平伏《へいふく》して居たるに其方|儀《ぎ》夫《をつと》が一大事の願ひと申せど先《まづ》其方は何處《いづく》の者にて當時|何《いづ》れに住居致すや有體《ありてい》に申立よと云れければお政は愼《つゝし》んで首《かうべ》を上《あげ》私し事は越後高田の浪人大橋文右衞門と申者の妻《つま》政《まさ》と申者にて八ヶ年以前夫婦御當地へ罷出《まかりいで》下谷山崎町吉兵衞|店《たな》に罷在し處浪人の身の上《うへ》なれば追々|困窮《こんきう》零落仕《れいらくつかま》つり只今にては往來に立《たち》一錢二錢の合力《がふりよく》を請《うけ》漸々《やう/\》其日々々を暮《くら》し居候と申|陳《のぶ》るに越前守殿又其方が願ひと申は如何《いか》なる事なるやと尋《たづ》ねられければお政其儀は夫《をつと》文右衞門事此程無實の罪にて火附盜賊|改《あらた》め小出兵庫樣御手へ召捕《めしとら》れ入牢相成し事|故《がら》に御座候と申に大岡殿|而《し》て其方が申處にては殊の外《ほか》困窮《こんきう》の身の上に聞ゆれども此具足櫃《このぐそくびつ》又差替の大小等を見れば餘程《よほど》立派《りつぱ》の品なるが斯程《かほど》の品を所持するは甚《はなは》だ以て不審《ふしん》なり其道具は如何致して所持《しよぢ》するやと申されしかばお政は平伏《へいふく》して恐れながら此道具と申は夫《をつと》文右衞門國元より持參致したる品々にて萬一|舊主《きうしゆ》へ歸參仕《きさんつかま》つる事もありし時の爲《ため》省愼《たしなみ》置《おき》し道具に御座候と申を越前守殿聞れ成程《なるほど》然《しか》らば先《まづ》中《なか》を改め見んとて具足櫃《ぐそくびつ》を近く運《はこ》ばせ蓋《ふた》を開かんとせられしに錠前《ぢやうまへ》が卸《おろ》し有ければ鍵《かぎ》はあるやと問るゝにお政はハツと心付|其鍵《そのかぎ》は夫《をつと》文右衞門が所持致し候又|入牢《じゆらう》仕つり候と申ければ大岡殿町役人へ向《むか》はれ此町内に錠前屋《ぢやうまへや》あるべし早々是へ呼出《よびいだ》せと申されしかば家主《いへぬし》佐兵衞は畏まり奉つると直樣《すぐさま》馳出《はせいだ》し町内の錠前屋吉五郎と云者の門《かど》を遽《あわ》たゞしく叩《たゝ》き起し急用あれば爰《こゝ》開《あけ》給へといふに吉五郎は戸《と》を明《あ》けながら急用とは如何《いか》なることにやと申しければ佐兵衞は息《いき》をきりながら今《いま》名主樣《なぬしさま》の玄關《げんくわん》にて御奉行樣の御調《おしら》べがあるゆゑ貴樣を直《すぐ》に連《つれ》て來たるべしとの仰せなりと云ふに吉五郎は是を聞て大いに肝《きも》を潰《つぶ》し夫《そ》は又何事なるやと惘《あき》れ居《ゐ》たり一|體《たい》此《この》吉五郎と云者は極《ごく》正直《しやうぢき》にて人のよき事《こと》竟《つひ》に一度も人と物爭《ものあらそ》ひなどしたる試《ため》しなく町方住居の者には稀《まれ》なる故皆々近所にても佛吉々々《ほとけきち/\》と渾名《あだな》なす程の者なれば今御奉行樣が直《ぢき》の御調《おしら》[#ルビの「おしら」は底本では「なしら」]べと聞て暫時《しばらく》無言なりしが稍々《やう/\》震《ふる》へ聲を出し夫《それ》は又何御用なるやと云に家主は大方貴樣の見覺えあるべし今夜などは火事場にて何《なに》か働《はたら》きし事あらんと云ば吉五郎は猶々《なほ/\》驚き否々《いへ/\》私しに於て然樣《さやう》なる不埓《ふらち》を致せし覺《おぼ》え更に是なしと云に家主はコレサ此處《ここ》にて何を云とも役《やく》には立ず覺えなければ早く來《き》たり御奉行樣の前にて辯解《いひわけ》致《いた》されよと家主は吉五郎を促《うな》がして名主の玄關へ同道なせしに正面《しやうめん》には大岡殿を始め與力同心列を正《たゞ》して嚴重に居並《ゐなら》びければ吉五郎は彌々《いよ/\》色《いろ》蒼然《あをざめ》齒《は》の根《ね》も合《あは》ぬ迄《まで》に慄《ふる》へながら家主の後《あと》に蹲踞《ゐすくま》るにぞ越前守殿是を見られ是へ/\と申さるゝに吉五郎は今にも首《くび》を切られるかと思ひ何分《なにぶん》慄《ふる》へて足も踏止《ふみとま》らぬを漸々《やう/\》大岡殿の前へ罷出《まかりいで》て平伏《へいふく》し何卒《なにとぞ》御慈悲《おじひ》の御沙汰を願ひ奉つる私しは是まで人の物《もの》とては塵《ちり》一|本《ぽん》にても盜《ぬす》みし覺《おぼ》え御座なく日|來《ごろ》正直に致せしゆゑ私しの事を皆々|佛吉《ほとけきち》と渾名《あだな》を付る位《くらゐ》なれば少しも惡事《あくじ》は仕つらず何卒|命《いのち》ばかりは御助け下されよと泣聲《なきごゑ》を出して申しければ大岡殿は微笑《ほゝゑま》れコレ/\其方は正直者《しやうぢきもの》と云事《いふこと》豫《かね》て某しも聞及んだり何《なに》も汝《なんぢ》に惡事有て調《しら》べる譯《わけ》にてはなし安心せよ今此|調《しら》べ者に付て其具足櫃を明《あけ》んと思へども合鑰《あひかぎ》なし是に依て其方を呼《よび》に遣《つかは》したり必らず/\心配《しんぱい》するに及ばず早々|此所《ここ》へ合《あふ》べき鑰《かぎ》を持參して此錠前《このぢやうまへ》を開《あけ》よと申されしかば漸々《やう/\》吉五郎はホツと太息《といき》を吐《つき》ヤレ/\有難き仰せ畏まり奉つると蘇生《よみがへ》りたる心地《こゝち》にて直樣《すぐさま》馳歸《はせかへ》り多くの鑰《かぎ》を持參なし種々《いろ/\》合《あは》せ見て具足櫃《ぐそくびつ》の錠前《ぢやうまへ》を開《あけ》けるとなり此事錠前を破りて開《あけ》なば隨分容易に開《あく》べきなれど假令《たとへ》奉行職の者なりとも他人《ひと》の所持品の錠前《ぢやうまへ》を手込《てごみ》に破る事はならず因て故意々々《わざ/\》鐵物屋《かなものや》を呼出《よびいだ》して開《あけ》させられたるなり是奉行職をも勤《つと》むる者の心得は萬事|斯《かく》の如し此事我々の上《うへ》にある時は自然《しぜん》面倒《めんだう》なりとて他人《ひと》の物にても錠前《ぢやうまへ》を叩《たゝ》き開《あけ》よなど云事なしとも云難《いひがた》し假《かり》にも錠前《ぢやうまへ》を破るは關所《せきしよ》を破りしも同樣にて其罪至つて重《おも》し注意《こゝろづけ》ずんばあるべからず [#8字下げ]第二十九回[#「第二十九回」は中見出し]  閑話休題《あだしことばさておき》吉五郎は錠前《ぢやうまへ》を開《ひら》きて差出せしかば大岡殿自身に具足櫃の中《うち》を改めらるゝに中《なか》には紺糸縅鐵小脾《こんいとをどしてつこざね》の具足《ぐそく》一|領《りやう》南蠻鐵桃形《なんばんてつもゝなり》の兜《かぶと》其外|籠手《こて》脛當《すねあて》佩楯《はいだて》沓等《くつとう》六|具《ぐ》とも揃へて是あり又《また》底《そこ》の方《かた》に何《なに》か疊紙《たゝみ》の樣なる包《つゝみ》あり是を引出して見らるゝに至て重き者にして堅《かた》く封印《ふういん》あり其上書《そのうはがき》に慶長五年關ヶ原合戰|軍用金《ぐんようきん》大橋文右衞門|源清澄《みなもとのきよずみ》と書付《かきつけ》あり是に依て越前守殿一應お政へ斷《ことわ》られし上《うへ》封を開《ひらい》てみらるゝに小判にて金百兩あり大岡殿心中に甚《はなは》だ感じられ是は全く由緒《ゆゐしよ》ある武士なり兎角零落に及んでも萬一の時の爲《ため》にと先祖《せんぞ》の意を受て省愼置事《たしなみおくこと》天晴《あつぱれ》の心懸なりと思はれ又其儘元の通りに仕舞て夫《それ》より大小二|腰《こし》九寸五分まで能々《よく/\》改めらるゝに何《いづ》れも天晴れの作物《わざもの》にして尋常の武士《さぶらひ》の所持し難き程の道具なり因て越前守殿|彌々《いよ/\》感《かん》じられお政へ向ひ其方|夫《をつと》文右衞門が無實の罪にて入牢《じゆらう》致せしとは如何なる事なるや一々申立よとありしにお政は答《こた》へて私《わたくし》夫婦八ヶ年浪人の身の上ゆゑ油屋五兵衞方へ衣類《いるゐ》大小等《だいせうとう》質物《しちもつ》に預《あづ》け置《おき》し處約束の月切《つきぎれ》に相成|質屋《しちや》よりは度々《たび/\》の催促《さいそく》なれども其品々を請出す事も叶《かな》はず一日々々と申|延置《のべおき》候|中《うち》彼方《かのかた》にては流れ買に賣拂《うりはら》ふと申事に御座候然るに十八ヶ年以前|國許《くにもと》に在し時同家中の新藤市之丞と申者|若氣《わかげ》の過失《あやまり》にて同藩の娘と不義に及びし事《こと》役人共の耳に入《いり》主家《しゆか》の法に依て兩人とも一命を召《めさ》れんとするを夫《をつと》文右衞門|不便《ふびん》に存じ密《ひそ》かに金子二十兩を與へて助け遣《つか》はしゝ處其市之丞夫婦の者當時馬喰町に住居の由《よし》不※[#「圖」の「回」に代えて「面から一、二画目をとったもの」、472-15]《ふと》此間中《このあひだぢう》久々《ひさ/″\》にて尋ね來り對面致し候に我々夫婦|零落《れいらく》の體《てい》を見て氣の毒と存ぜしにや此程二十五兩の金子を持參《ぢさん》し先年の恩報《おんがへ》しなりとて差出し候得ども元來|夫《をつと》文右衞門は田舍育《ゐなかそだち》の頑固《かたくな》ゆゑ一|旦《たん》惠《めぐ》み遣はしたる金子を今更受取ては武士の一分が立ずと申て押返《おしかへし》候處|其節《そのせつ》又々右の質屋より月切の品々|彌々《いよ/\》流《なが》れ買《かひ》へ賣拂ふ由《よし》申來りしに付き文右衞門事其掛合に質屋へ參りし留守中に市之丞は歸宅仕《きたくつかま》つり候其後|夫《をつと》文右衞門質屋より歸り煙草盆《たばこぼん》の中《うち》を見候に先刻差戻せし廿五兩の金子是あり候ゆゑ扨《さて》は市之丞|達《たつ》て渡さんと云しを我《われ》受取らざれば本意なく思ひ密《ひそ》かに此中へ入置て歸りしならん何《なん》にしても此金を請取《うけとり》ては我が以前の志ざしを無《む》にするなりとて翌《よく》早朝市之丞の方へ尋ね行き馬喰町を終日|彼是《かれこれ》と探《さが》しけれども今は其者の名前が改《かは》り居るにや一向に在家《ありか》知れず據《よんど》ころなく持歸りて翌日《よくじつ》猶又尋ね行き是非々々市之丞に返さんと申|居《をり》し折柄《をりから》又々質屋より嚴敷《きびしき》催促《さいそく》ゆゑ然らば先《まづ》其金子を以て質物を請出し賣拂ひて後《のち》に市之丞へ返しても仔細なしと私し共兩人相談の上《うへ》二十五兩の内《うち》十三兩三分にて質物《しちもつ》を請出し申候然るに油屋五兵衞方番頭久兵衞と申者私し方へ參り昨日まで一文なしの袖乞《そでごひ》が急《きふ》に大金の出來る筈《はず》なし文右衞門が彼の店《みせ》へ參りし時|帳箱《ちやうばこ》の上に置たる百兩の金子が紛失《ふんじつ》したるにより必らず文右衞門が盜《ぬす》み取りしに相違なし其金にて質物《しちもつ》を受出せしならんなどと跡形《あとかた》もなき言懸《いひがか》りを申すゆゑ質《しち》を請出したるは市之丞より遣はしたる金子なりと其譯《そのわけ》を申せしかども一|向《かう》に聞入ず終に夫《をつと》に向ひ盜賊《たうぞく》呼《よば》はりを致すゆゑ夫《をつと》も腹《はら》に居《すゑ》兼《かね》既に久兵衞を切捨んと同人の逃出し候後を追懸《おひかけ》し處に折惡敷《をりあしく》御加役方笠原粂之進殿に出會《であひ》直《たゞ》ちに召捕れ候に付|夫《をつと》は右の段々一々|辯解仕《まをしわけつかま》つり候へ共御聞入なく入牢と相成|誠《まこと》に歎《なげ》かはしく存じ奉つり候因て右申上候|紙屑屋《かみくづや》新藤市之丞の在家《ありか》さへ相知候へば金子の出所《でどころ》も分り文右衞門が百兩の盜賊に之《これ》なき事も明白に相分り候間何卒御慈悲を以て此段明白に御|糺問《きうもん》下し置れ候樣|偏《ひとへ》に願ひ上奉つると委細《ゐさい》申|述《のべ》ければ越前守殿一々|聞置《きゝおき》たりとの事にて一|先《まづ》お政を下《さげ》られしが此事一應加役方へ掛合の上ならでは吟味《ぎんみ》に取掛り難《がた》き儀なれども渠《かれ》が申し立て如何《いか》にも不便《ふびん》なりと思はれしかば大岡殿の英斷《えいだん》を以て直樣《すぐさま》下谷山崎町の質屋渡世油屋五兵衞并びに番頭久兵衞とも呼出《よびいだ》し置べき旨申付られしゆゑ頓《やが》て町役人へ山崎町質屋五兵衞并びに同人|召遣《めしつかひ》久兵衞等一同|揃《そろ》ひしなら是へ呼出すべしと有ければ町役人畏こまり同道《どうだう》して罷出るに油屋五兵衞は豫《かね》て聞居たる文右衞門が百兩の一|件《けん》ならんと思ひければ一|向《かう》平氣《へいき》にて其所《そこ》へ出るを越前守殿見られ家持《いへもち》五兵衞其方は質屋渡世とあるが質物《しちもつ》は何ヶ月限りに貸遣《かしつか》はすやと申されければ五兵衞は平伏《へいふく》なし御定法通り八ヶ月|限《かぎり》に預り置候と申に越前守殿然らば浪人大橋文右衞門が質物《しちもつ》ばかり五ヶ月限り流《なが》れに出《いだ》せし由是には何か仔細《しさい》の有ことなるや有體《ありてい》に申立よと云れしかば五兵衞は大いに心|組違《ぐみちが》ひしゆゑグツト云て暫時《しばし》答《こたへ》もなかりしが其儀は私しは辨《わき》まへ申さずと云を大岡殿聞れ此儀|其方《そのはう》辨《わきま》へずとは不都合《ふつがふ》なり己れが渡世を知らぬ筈《はず》はなし愚《おろか》なる事を申さずとも五ヶ月限りの譯《わけ》有體《ありてい》に申立よとあるに五兵衞は彌々《いよ/\》當惑《たうわく》なし此儀は何卒番頭久兵衞へ御尋ね願ひ奉つり度《たく》私しは老年《らうねん》に及び候まゝ見世《みせ》質物《しちもつ》取引の儀は同人へ萬事任せ置候間一|向《かう》辨《わきま》へ申さず候と云ければ大岡殿久兵衞に向《むか》はれ其方は五兵衞の見世を萬事《ばんじ》引受《ひきうけ》居《ゐ》る由《よし》如何なる譯《わけ》にて文右衞門の質物《しちもつ》而已《のみ》五ヶ月限りに貸遣《かしつかは》したるや此儀申立てよと申さるゝに久兵衞は先刻より五兵衞へ尋問中《たづねちう》腹《はら》の中にて種々《いろ/\》考へ置し故文右衞門方より五ヶ月限りに受出《うけいだ》すべき對談《たいだん》ゆゑ其意に任せ約定仕つり候事に御座候|然《さ》も是なく候へば御定法通《ごぢやうはふどほ》り八ヶ月の期限《きげん》に御座候と云ければ越前守殿|微笑《ほゝゑ》まれ然らば文右衞門は餘程|物好《ものずき》と見える質《しち》を置《おく》程《ほど》の者が己れより月數を縮《ちゞ》めて約定なすとはハテ不審《ふしん》なり夫れは暫《しばら》く置《おき》其方儀文右衞門は百兩の金子を盜み取りたる盜賊なりと申せし由《よし》此儀は慥《たし》かなる證據ありや如何《いか》にと有ければ久兵衞|爰《こゝ》ぞと思ひ其儀は文右衞門|事《こと》質物《しちもつ》流《なが》れの云譯《いひわけ》に五兵衞の見世へ參りし節流れ品を賣拂ひ候代金を帳箱《ちやうばこ》の上に置候處文右衞門歸りし跡《あと》にて右百兩の金子を仕舞《しまは》んと存ぜしに紛失《ふんじつ》致し種々《いろ/\》詮議中《せんぎちう》其翌朝《そのよくてう》文右衞門十三兩三分程の質物を受出し申候因て其樣子《そのやうす》を考へ候に一|文貰《もんもら》ひの身分と云殊に右《みぎ》質物《しちもつ》流《なが》れの議前日まで度々催促仕つり候ても出來申さず候金子が一夜の中《うち》に調達《てうだつ》出來《しゆつたい》候|筈《はず》是なく彼是|不審《ふしん》に存じ候間百兩の金子は文右衞門|盜《ぬす》み取し事と推量《すゐりやう》仕まつり私しより内々《ない/\》詮議《せんぎ》に及び十三兩三分は文右衞門に遣はし殘りの金子を返さば勘辨《かんべん》致《いた》すべき旨《むね》申せし處文右衞門は新藤市之丞と申者より遣したる金子にて質物《しちもつ》受出《うけいだ》し候なりとの云譯《いひわけ》に候へども右市之丞と申者は當時|紙屑買《かみくづかひ》にて馬喰町邊に住居と計り申し居り其の町所家主名前すら確《しか》と相知れざる由《よし》を申候是全く不正の金子ゆゑ出所《でどころ》を定《さだ》かに云聞《いひきけ》ざる事にて手證《てしよう》は見屆ず候へ共是等の儀共思ひ合《あは》すれば全く文右衞門百兩の盜賊に相違なしと存じ奉つり候依て右十三兩餘質物を受出《うけいだ》し候分は勘辨《かんべん》致し遣はし殘金《ざんきん》だけを返し候樣にと申せしに却て渠《かれ》は盜人の惡名を付しなどと殊《こと》の外《ほか》立腹《りつぷく》して私しを切殺さんと刀を拔放《ぬきはな》し追懸候節加役方の御手へ召捕れ申候何卒此段|御糺明下《ごきうめいくだ》し置れ文右衞門百兩の金子を返し呉《くれ》る樣|偏《ひと》へに願ひ上奉つり候と申立たり是に因て大岡殿は篤《とく》と聞居られしが久兵衞儀|辯舌《べんぜつ》巧《たく》みに申立る處は一應|道理《もつとも》の樣に聞ゆれども是と云ふ慥《たし》かなる證據もなし殊に此久兵衞は片小鬢《かたこびん》に入墨《いれずみ》ありて如何にも惡黨《あくたう》らしき者ゆゑ奴《きやつ》めが百兩|盜《ぬす》んで文右衞門になすり付んずる巧みなりと流石《さすが》御名譽《ごめいよ》高《たか》き奉行衆ゆゑ敏《はや》くも茲《こゝ》に眼《め》を着《つけ》られしなり [#8字下げ]第三十回[#「第三十回」は中見出し]  扨又越前守殿は久兵衞に向はれ只今《たゞいま》汝が云處一應|道理《もつとも》の樣に聞ゆれども云《いは》ば無證據にして文右衞門が誠《まこと》の盜賊とも定め難し渠《かれ》全く盜まぬ時は其方の云懸《いひがか》りと云ふ者にして無體の惡口に及びし上は文右衞門に切殺されぬが先《まづ》は仕合せ其節《そのせつ》殺《ころ》されなば死損《しにぞん》なり併《しか》し又盜みたる金と極めたる印《しるし》にてもあるにや質物を請《うけ》に來た時十三兩三分の金は能《よく》改めしなるべし何ぞ極印《ごくいん》にても有しや何《どう》ぢやと申さるゝに久兵衞イヤ何も極印は御座なく候へ共《ども》渠《かれ》の身分にて一夜の中《うち》に金の出來る筈《はず》は是なしと同じ事を申立るゆゑ越前守殿コリヤ久兵衞其金子は市之丞より持參《ぢさん》なりと申ではないか今にも市之丞の在家《ありか》さへ知れなば金子の出所《でどころ》は慥《たしか》に知れるぞ汝が云所は無證據なり證據なき事は公儀《かみ》に於ては御取上にはならず殊に又汝が内々《ない/\》詮議《せんぎ》をして文右衞門へ十三兩三分は負《まけ》て遣《やり》殘金を返さば勘辨《かんべん》せんなどと自分|了簡《れうけん》にて取計《とりはか》らふは甚だ以て不審《ふしん》の至にして主人持《しゆじんもち》にはあるまじき不屆《ふとゞき》なり汝は探索方《たんさくかた》の手先《てさき》でも致すかと申されしに久兵衞は甚だ恐れ如何致しまして然樣《さやう》な事は仕つらず私しは油屋《あぶらや》五兵衞が見世の番頭を勤《つと》め居《をり》ますと云《いへ》ば越前守殿夫れは知れたこと又|汝《われ》は文右衞門が宅へ何時《いつ》行《ゆき》たるやと尋ねらるゝに久兵衞私しは文右衞門が拔身《ぬきみ》を以て追駈《おひかけ》ましたる時に參りしが其節加役方の笠原粂之進樣の御供《おとも》へ突當《つきあた》り直《すぐ》に御召捕に相成候と申ければ越前守殿|否《いや》さ幾日頃《いつかごろ》に文右衞門方へ言懸りに參りしぞと有に久兵衞は拔《ぬか》らぬ面《かほ》にて恐れながら云懸りには參りませんと云しかば大岡殿|默止《だまれ》久兵衞|汝《なんぢ》確《しか》とせし證據も無《なき》事を申は則ち云懸りならずや然《さ》らば幾日《いつか》に文右衞門方へ參りしや其日限《そのにちげん》を申せと云るゝに久兵衞夫れは今月八日に御座候と申に越前守殿然らば其夜前《そのやぜん》紛失《ふんじつ》したる百兩と申す大金をなぜ早々訴へには出ぬ等閑《なほざり》置く事は甚だ怪しいぞ汝も嚴敷《きびしく》吟味《ぎんみ》をせねばならぬ奴《やつ》なり先《ま》づ主人五兵衞へ屹度《きつと》預け置け愼《つゝ》しみ罷りあれコリヤ町役久兵衞は主人五兵衞へ屹度《きつと》預け置く能々其方共心付けよとありしかば家主吉兵衞[#「家主吉兵衞」は底本では「家主喜兵衞」]畏まり奉つるとて直樣《すぐさま》五兵衞久兵衞の[#「五兵衞久兵衞の」は底本では「五兵衞は久衞門の」]兩人を引連《ひきつれ》て下《さが》りけり又文右衞門女房お政は家主吉兵衞へ預けとなり越前守殿は文右衞門が所持の具足櫃《ぐそくびつ》并に大小等奉行所へ止置《とめおく》と云渡され一同夫々に引取と相成たり因てお政は願ひの筋《すぢ》取上《とりあげ》となりしを悦ぶ事限なく猶又|夫《をつと》文右衞門が災難《さいなん》を遁るゝ樣にと神佛を念《ねん》じ居たりけり扨又大岡越前守殿には直樣《すぐさま》翌《よく》十四日火附盜賊改め役小出兵庫殿へ掛合《かけあひ》の上大橋文右衞門を町奉行の手へ引取《ひきと》られ翌々日《よく/\じつ》享保四年|極月《ごくげつ》十六日初めて文右衞門の一件|白洲《しらす》に於て取調《とりしら》べとなり越前守殿出座有て文右衞門をみらるゝに久《ひさ》しく[#「久《ひさ》しく」は底本では「久敷《ひさしき》」]浪々なし殊に此程は牢舍《らうしや》せし事|故《ゆゑ》甚《はなは》だ窶《やつ》れ居ると雖も自然と人品《じんぴん》よく天晴の武士《さぶらひ》なりしかば大岡殿|徐《しづ》かに言葉を發しられ越後高田浪人大橋文右衞門其方|儀《ぎ》當時《たうじ》山崎町家主吉兵衞|店《たな》に罷在《まかりあり》袖乞《そでごひ》致《いた》し居る由|然程《さほど》零落《れいらく》の身分にて油屋五兵衞方へ入置《いれおき》たる質物受出しの節十三兩三分と申す金子|俄《にはか》に調達《てうだつ》せし由右の金子は元より所持なるや又は外々より融通《ゆうづう》致したるや一夜の内に金子調達せしは其方|業體《げふてい》に似合《にあは》ず不審《ふしん》なり悉《くは》しく申立よと云るゝに文右衞門は愼《つゝし》んで首《かうべ》を上《あげ》右金子の譯は十八年以前|國許《くにもと》に罷り在候節同家中に新藤市之丞と申者私し同役《どうやく》の娘と密通《みつつう》に及びしを重役共|薄々《うす/\》聞込《きゝこみ》捨置《すておか》れずと既に兩人ながら一命にも關《かゝ》はるべき場合に立到り候に付き某し不便《ふびん》に存じ二十兩の金を惠《めぐ》み助けて遣はせし所江戸表へ罷り出でたるよし然るに其後《そののち》私し儀八ヶ年以前越後家を浪人仕つり御當地へ罷《まか》り出《いで》下谷山崎町吉兵衞店に住居罷り在候に不※[#「圖」の「回」に代えて「面から一、二画目をとったもの」、476-18]《ふと》此程|中《ぢう》右市之丞尋ね參り久々にて面會仕つり互《たが》ひに身の上の物語《ものがた》りに及び候處私し夫婦|零落《れいらく》困窮《こんきう》仕り候を市之丞義|見兼《みかね》候や一兩日|過《すぎ》候と金子二十五兩持參致し先年の恩報《おんほう》じなりとて差出し候へども私し儀一|旦《たん》市之丞に惠《めぐ》みたる金子を今如何に困窮《こんきう》なせばとて請取候ては昔しの志ざしをも無《む》に致すにより固《かた》く相斷り候て受取申さゞるを市之丞は本意《ほい》なく存じたるにや私し儀質物流れの掛合に參り候留守に煙草盆《たばこぼん》の中《うち》へ人知れず入れ置て歸りしを私し歸宅後《きたくご》見出し候間|直樣《すぐさま》翌朝《よくてう》市之丞の宅《たく》を尋ね右の金子を返さんと馬喰町へ到《いた》りて段々《だん/\》承《うけた》まはり候へども何分市之丞の住所相知れ申さず據《よんど》ころなく宿元《やどもと》へ歸り候然るに質屋よりは又々流れの催促《さいそく》ゆゑ兎《と》も角《かく》も此金子を融通《ゆうづう》いたし質物を請出し候後|賣拂《うりはら》ひ市之丞の金子を揃《そろ》へて返さんと存じ右の中《うち》十二兩三分をもつて質物を受出し候に相違御座なく然《しか》るに油屋五兵衞番頭久兵衞と申者|袖乞《そでごひ》の身分にて一夜の中に大金の出來る筈《はず》はなしその節見世の帳箱の上に置《おき》たる流れ品を賣候百兩の金子|紛失《ふんじつ》致せしに付右は私し盜《ぬす》み取候に相違なしと理不盡《りふじん》なる云懸《いひかけ》仕つり候ゆゑ私し儀市之丞より差越《さしこし》たる金子の譯《わけ》を申聞ると雖も一向|双合《とりあは》ず[#「双合ず」はママ]却て盜賊の汚名《をめい》を付け種々に惡口申|募《つのり》候何分|勘辨《かんべん》なりがたく久兵衞を切捨んと存じ候|機《をり》御加役方笠原久米之進殿に召捕れ斯《かく》繩目《なはめ》の恥辱《ちじよく》を蒙り候事|口惜《くちをし》き次第に存じ奉つり候右新藤市之丞なる者《もの》住所《ぢうしよ》相知《あひし》れ候へば私し虚言《きよげん》に之なき旨《むね》御分り相成べき儀に付何卒|御威光《ごゐくわう》を以て同人住所|御糺《おたゞ》しの上御吟味成し下され候樣願ひ奉つり度《たく》尤も私し儀市之丞が住所《ぢうしよ》名前等|確《しか》と承まはり置ざるは不念《ぶねん》の至り恐れ入り奉つり候|呉々《くれ/″\》も御慈悲を以て是等の儀を御糺明下《ごきうめいくだ》し置れなば久兵衞申|懸《かけ》の段は明白に相分り候儀ゆゑ此段恐れながら御賢慮下《ごけんりよくだ》し置れ候樣|偏《ひとへ》に願ひ上げ奉つり候と文右衞門は如何にも無念《むねん》の體《さま》面《おもて》に顯《あら》はれ拳《こぶし》を握《にぎ》り齒《は》を切齒《くひしば》りて一伍一什《いちぶしじふ》を悉《くはし》く申立しかば越前守殿は此趣きを篤《とく》と聞れしが今文右衞門が申す口と又女房お政の申す口と少しも違《たが》はず符合《ふがふ》せし而已《のみ》ならず斯《かく》困窮《こんきう》の中に具足一領差替の大小并に具足櫃の中《なか》には關ヶ原の軍用金百兩其|儘《まゝ》貯《たくは》へ置し程の心懸なれば文右衞門盜賊に是なき事は明白《めいはく》なり然《さ》れども百兩を盜みし當人の出《いで》ざる中は文右衞門の片口《かたくち》のみにて免《ゆる》す譯《わけ》には成り難く尤も百兩の紛失《ふんじつ》は言掛りなしたる久兵衞こそ怪《あや》しき者なれと敏《とく》に眼《め》を着《つけ》られけれども是とても未だ聢《しか》としたる證據なければ詮方《せんかた》なしよつて文右衞門に向はれ其方申立の儀はこの越前|聢《しか》と聞置たり猶追々吟味に及ぶコリヤ文右衞門|嘸々《さぞ/\》無念《むねん》なるべけれども大法に因て吟味|中《ちう》入牢《じゆらう》申付ると云渡され扨大岡殿には直樣《すぐさま》急の差紙にて翌十七日には横山町馬喰町兩國邊の紙屑買を殘《のこ》らず呼出《よびいだ》されければ紙屑買共は不測《ふしぎ》に思ひ中には少しづつ内證物《ないしようもの》など買し心覺《こゝろおぼ》えのある者は思ひ過《すご》しより俄《にはか》に逃亡《かけおち》を[#「俄《にはか》に逃亡《かけおち》を」は底本では「俄《には》に逃亡《かかけおち》を」]するもあり彌々當日に相成ければ名主町役人|差添《さしそひ》にて屑買《くづかひ》一同南町奉行所の腰掛《こしかけ》へ相揃《あひそろ》ひ頓《やが》て呼《よび》込に隨ひ白洲《しらす》へ這入《はひり》て傍《かたは》らを見るに浪人大橋文右衞門|繩付《なはつき》の儘《まゝ》控《ひか》へ居る其外|繩取役《なはとりやく》同心等嚴重に詰合《つめあひ》けり又正面には大岡越前守殿出座有て砂利《じやり》の間《あひだ》に屑屋一同平伏なし居るを見られコリヤ浪人文右衞門其方が申立し新藤市之丞と云者此中に居《ゐ》るやと申さるゝに文右衞門|頭《かしら》を上《あげ》夫れ是と見分しが又大岡殿へ向ひ此中には市之丞|見當《みあた》り申さずと云ければ越前守殿|然《さ》らば一同|下《さが》るべしと有に屑屋の面々《めん/\》は何事やらんと思ひの外《ほか》迅速《すみやか》に下《さげ》られければ一同ホツと溜息《ためいき》を吐《つき》て引取けり因て文右衞門は歎息《たんそく》なし御威光《ごゐくわう》を以て屑屋一同御呼出し下置れ一々|見分《みわけ》候へ共新藤市之丞の相知申さゞるは誠に是非《ぜひ》なき次第にして能々|武運《ぶうん》の盡果《つきはて》たる身の仕合せなりと無念の涙に伏沈《ふしゝづ》[#ルビの「ふしゝづ」は底本では「ふしをが」]み居たりしかば越前守殿も氣の毒に思はれ猶《なほ》亦《また》追々《おひ/\》吟味《ぎんみ》の致し方もあらん然樣《さやう》存ぜよとて又々傳馬町へぞ下《さげ》られける扨も斯迄《かくまで》に市之丞を尋ねられしかども更に其人の知れざるは左右《とかく》文右衞門が運《うん》の拙《つたな》き處なるべし [#8字下げ]第三十一回[#「第三十一回」は中見出し]  扨又彼の新藤市之丞當時紙屑屋長八は或日女房お梅に向ひ此程文右衞門の留守中《るすちう》廿五兩の金を煙草盆《たばこぼん》の中へ置ては來りしが今日あたりは遣《つかは》れしならんか武士の意氣地《いきぢ》を立るとは云ものゝ餘り物堅《ものがた》き人かなと文右衞門が噂《うはさ》をなし夫に付ても娘お幸は嘸《さぞ》かし辛《つら》き勤《つと》めならんなどと密々《ひそ/\》咄《はな》しの折から親分の武藏屋長兵衞は長八|殿《どの》家《うち》にかと聲を懸《かけ》ながら入來りしに長八夫婦が巨燵《こたつ》の中に差向《さしむか》ひ何か睦《むつま》じき咄しの樣子ゆゑ長兵衞は見て是はしたり相惚《あひぼれ》の夫婦は又《また》格別《かくべつ》樂《たのし》みな物私は此年になつても隨分《ずゐぶん》浦山《うらやま》しいと放氣《おどけ》交《まじ》りに贅口《むだぐち》を云つゝ同く炬《こ》たつに這入《はひり》しに女房お梅は振返《ふりかへ》りオヤ長兵衞樣能こそ御入下されしと少し赤《あか》くなりしが早々《さう/\》流《なが》し元ヘ行甲斐々々しく酒肴の支度をして居るに長兵衞は長八に向ひ此頃《このごろ》は此方《こつち》の娘がさつぱり見えぬが風にても引しかと問ければ長八は今の噂《うはさ》を聞れしかと思へども何喰《なにくは》ぬ顏《かほ》にて何も變ることは御座らねどお幸は能《よき》世話人《せわにん》ありて此間《このあひだ》備前樣《びぜんさま》の御屋敷へ見習奉公《みならひぼうこう》に出ましたと云に長兵衞は僥倖《しあはせ》なり併ながら押詰《おしつめ》ての數《かぞ》へ日に嘸々《さぞ/\》物《もの》が懸《かゝ》りしならん我等も夫と知るならば何ぞ祝《いは》うて遣《やる》ものを知ざるを仕方もなし時に長八さん今度《こんど》據《よんど》ころなき事にて是非々々|貴郎《おまへ》を頼み度事あつて來《きた》が頼まれて呉ねへかと云で長八夫は何の用かは知ね共|萬端《ばんたん》御世話になる貴方《あなた》ゆゑ私しで間に合事なら決して否とは云ません御遠慮《ごゑんりよ》なく御咄《おはなし》なされと云ば長兵衞は喜び然《さう》請合《うけあつ》て呉れば拙者《せつしや》も實《まこと》に頼みいゝ實は私しが兄に清兵衞と云者ありしが若き中は蕩樂者《だうらくもの》にて箸《はし》にも棒《ぼう》にもかゝらぬ人間なりしに先年|上方《かみかた》へ行と云て宅《うち》を出た限《ぎり》一|向《かう》便《たより》もないゆゑ私しも兄弟《きやうだい》の情《じやう》にて今頃は何國《いづく》に何をして居けるやら行當り爲撥《ばつたり》死《しに》はせぬかなどと案じて見たが其後三年ばかり立と不※[#「圖」の「回」に代えて「面から一、二画目をとったもの」、479-10]《ふと》讃岐《さぬき》の丸龜より書状《しよじやう》が屆いたゆゑ夫を見ると日頃|案《あん》じ暮《くら》せし兄清兵衞よりの手紙《てがみ》に付《つき》懷《なつか》しくはあれども蕩樂者《だうらくもの》ゆゑ何《どう》せ善事《ろく》な譯《わけ》では有まじと封《ふう》を開《ひら》き見るに今では極《ごく》の辛抱人《しんばうにん》になりし由當時|丸龜《まるがめ》にて江戸屋清兵衞と云ては立派《りつぱ》な旅籠屋《はたごや》になりて暮《くら》し居ると云《いふ》趣《おもむ》きの手紙也依て漸々《やう/\》私しは安心なし夫より此來《このかた》互《たがひ》に書状の音信《たより》して居たりしと話す所へお梅はお燗《かん》が出來ましたから一ツ御|上《あが》りなされましと湯豆腐《ゆとうふ》の鍋《なべ》と陶《とくり》を持來るに長兵衞是は先刻《さつき》の口止《くちどめ》が併しお氣の毒と笑ひながら豬口《ちよく》を取《とり》酒《さけ》と湯《ゆ》の辭儀《じぎ》は仕ない者なりお燗《かん》が能《よい》中《うち》と波々《なみ/\》受《うけ》是《これ》より長兵衞長八の兩人は酒を呑《のみ》ながら今も云通り兄も近來《ちかごろ》にては丸龜中先一番の旅籠屋だとの評判《ひやうばん》さ其所《そこ》で人間の運と云者は知れぬ者元はと云へば些細《ささい》な居酒屋にて亭主《ていしゆ》が死んだ後《のち》は後家一人ゆゑ漸々《やう/\》浣《すゝき》洗濯《せんたく》人仕事《ひとしごと》を片手間《かたてま》にして其日々々を暮《くら》し居たりしが如何なる縁《えん》か其|後家《ごけ》の處へ兄清兵衞が這《はひ》り込《こみ》夫《それ》より辛抱《しんばう》して段々と稼《かせ》ぎ出し夫に又女房が勿々《なか/\》針仕事《はりしごと》が能《よく》爰《こゝ》彼處《かしこ》にて頼まれ夫婦にて稼《かせぎ》しかば忽《たちま》ち三四年の間《あひだ》に金が出來て普請《ふしん》をなし旅籠屋《はたごや》となり夫に又兄は元より小料理《これうり》が好《すき》にて隨分《ずゐぶん》庖丁《はうちやう》に妙《めう》を得たれば江戸風《えどふう》に氣が利《きい》て居るとか云れて評判《ひやうばん》よく少光陰《わづか》の中に仕出して段々《だん/\》と普請《ふしん》も建直《たてなほ》し今にては勿々《なか/\》立派《りつぱ》なる身上《しんしやう》になりしといふ金毘羅《こんぴら》へ行たる者が歸りての咄《はな》しなり丸龜にて江戸屋清兵衞と云ば一番の旅宿《はたごや》だと云事なれば歡《よろこ》び旁々《かた/″\》尋《たづ》ね度は思ひしか共五日や十日にては行事も出來ず只々《たゞ/\》蔭《かげ》ながら悦《よろこ》ぶばかりなりし處此度兄清兵衞|大病《たいびやう》にて九|死《し》一|生《しやう》と云事を申|越《こし》たれば是非々々|存生《ぞんしやう》の中に面會《めんくわい》致し度今にては私しも親はなし親のなき後は兄は親同前なりと云ば是非|逢《あひ》に行《ゆく》積《つも》りなり併し是も早《はや》押迫《おしつま》つて數《かぞ》へ日にはなるし彼是又暮の始末《しまつ》にて旅立所《たびだちどころ》ではなけれ共|兄弟《きやうだい》一|生《しやう》の別れなれば何有ても逢《あは》ねばならず夫に付|長旅《ながたび》の事ゆゑ心の知れぬ者を供に連ては道中が心遣ひなれば貴樣|何卒《なにとぞ》一所に行呉《ゆきくれ》よと餘儀なく頼みけるに長八も否《いや》とも云れぬ親分長兵衞の事なれば始終《しじう》を聞て長八は成程|御道理《ごもつとも》の事なり兄樣へ一生の別れと申せば假令《たとへ》元日《ぐわんじつ》であらうが大晦日《おほみそか》で有うが是は行ねばならず直に今より御供《おとも》を致さんと心能承知なしければ長兵衞は大いに悦喜《よろこび》夫では私しも大いに安堵《あんど》したり夫なら斯仕樣御前が行て呉《くれ》ると跡《あと》は女一人なれば世帶《せたい》が費《つひえ》るからとてもの事に世帶を仕舞《しまひ》お梅《むめ》樣《さん》は我等の方へ來て居るがいゝ然樣《さう》すれば跡《あと》の苦勞《くらう》もなし安心なりと萬事に拔目《ぬけめ》なき長兵衞何樣公事宿商賣程有て行屆《ゆきとゞ》く事|勿々《なか/\》感心《かんしん》成《なる》ものなり扨是より翌日《よくじつ》早々長兵衞は家主へ斷《ことわ》り世帶《せたい》を片付《かたづけ》女房お梅を親分の長兵衞方へ預《あづ》け長兵衞長八の兩人は旅《たび》の用意を調へ讃州丸龜を指《さし》て急ぎ發足《ほつそく》なしたりけり是に因て大橋文右衞門の一件に付兩國邊の紙屑屋殘らず呼出《よびいだ》されて文右衞門へ引合せありけれども證人になるべき肝心《かんじん》の新藤市之丞が居ざりしなり市之丞の長八が讃州丸龜へ發足《ほつそく》せしは十二月十四日の事にして紙屑屋一同|呼出《よびいだ》されしは同月十七日なれば僅に二三日の相違《さうゐ》にて證人の出ざるゆゑ文右衞門一|件《けん》落着《らくちやく》に餘儀なく年を越て翌年|享保《きやうほ》五年の春《はる》と相成けり [#8字下げ]第三十二回[#「第三十二回」は中見出し]  扨又馬喰町二丁目なる武藏屋長兵衞は兄清兵衞が大病《たいびやう》との手紙故子分の長八を供に連《つれ》道中《だうちう》を急ぎて大坂まで上り此所より船《ふね》に乘し處《ところ》機《をり》よく海上も穩《おだや》かにて滯留《とゞこほ》りなく讃州丸龜へ到着《たうちやく》し江戸屋清兵衞と尋ねしに直樣《すぐさま》知れければ行て見るに咄《はな》しよりも大層《たいそう》なる構《かま》ひにて間口八間に奧行廿間餘の旅籠屋にて働《はたら》き女十二三人見世番料理番の下男七八人又勝手には菰《こも》かぶりの酒樽《さかだる》七八本を並べ其前には大盤臺《おほばんだい》に生魚《なまうを》山《やま》の如く仕入|板前《いたまへ》煮方《にかた》其外とも都て江戸風を專《もつぱ》らとなし料理屋旅籠屋|兼帶《けんたい》なり因て間毎々々《まごと/\》には泊《とま》り客《きやく》あり又一時の遊興《いうきよう》に來る客も多く殊の外|繁昌《はんじやう》なる見世なれば長兵衞も心の中に是は聞しに増《まさ》る家のかゝりかなと思ひながら内へ入コリヤ長八荷物は此處へ卸《おろ》すべしヤレ/\草臥《くたびれ》しと云つゝ上り端《ばた》に腰をかければ大勢の者立出御早う御着なされました御草鞋《おわらぢ》を解《とき》ませう御洗足《おせんそく》をと盥《たらひ》へ湯を汲《くみ》て持出し奧《おく》の御座敷《おざしき》が明て居ります彼處へ入せられまし御|酒《さけ》で御座りますか御|膳《ぜん》をあげますかと云ながら茶を汲で出すに長兵衞は姉樣酒も御膳も緩《ゆるり》と後にてよし早速ながら聞度事がある此方の兄の病氣《びやうき》は如何なり九死一生の大病《たいびやう》と云手紙が來りしが何な樣子なるか未だ存生《ぞんしやう》なりやと藪《やぶ》から棒《ぼう》に聞ゆゑ女共は膽《きも》を潰《つぶ》し御客樣は變な事を仰《おほ》せられます此方の家には兄だの大病人《たいびやうにん》だのと云は御座りません男衆も大勢ありますが旦那樣に若衆ばかり皆達者で居ります夫は大方《おほかた》門違《かどちが》ひで御座りませうと申に長兵衞|否々《いや/\》門違《かどちが》ひにてはなし此方《こつち》の家は江戸屋清兵衞と云ならんと云を女ども聞て此丸龜にて江戸屋清兵衞と申は此方ばかり夫では違《ちが》ひ御座りませんと云に長兵衞|礑《はた》と膝《ひざ》を拍《うち》オヽ然樣《さう》だ餘り思ひ過しをして跡先に聞し故分らぬはず夫なら此方の旦那清兵衞と云は私しの兄なるが此節《このせつ》大病《たいびやう》を煩《わづら》ひ居ると云事|未《いまだ》死《し》にはせぬか達者《たつしや》で居ますかへ九死一生の病人と聞かれ知らぬ筈《はず》なりと云時長八|傍邊《かたはら》よりモシ/\旦那に江戸の馬喰町から人が參りしと云てお呉《くれ》と申せば女供は何事なるや樣子しれぬゆゑ奧の方へ走り行モシ旦那樣江戸の馬喰町から御客樣で御座りますと云ば亭主清兵衞は不審《ふしん》に思つて馬喰町からの客人とは合點《がてん》行ずと考《かんが》へ居るに又々|後《あと》からも女共が來り旦那樣|變《へん》な客人で御座ります奧座敷《おくざしき》が明て居ますから御通りなされ御酒にしますか御膳を上《あげ》ますかと申たらナニ酒も御膳も後《あと》にてよし兄は大病にて九死一生だと云手紙が來しが未だ生《いき》て居るかと御尋ねなされたが何だかさつぱり譯《わけ》が分りませんと云を聞清兵衞|漸々《やう/\》考《かんが》へ付手を拍てオヽ然樣か分《わかつ》たりと云ながら店へ駈出《かけいだし》ければ女共は彌々《いよ/\》譯《わけ》が分らず只《たゞ》呆《あき》れ果《はて》てぞ居たりける是出し拔《ぬけ》の事ゆゑ豈《よも》や弟長兵衞が[#「弟長兵衞が」は底本では「弟清兵衞が」]年の暮《くれ》に押迫《おしつま》つて來やうとは思はず尤《もつと》も是まで平常《つね/″\》逢度《あひたく》思《おも》ふ一心より九死一生の大病なりと手紙に嘘《うそ》を書《かき》て遣《つか》はしたる事ゆゑ早速《さつそく》には思ひ出さず暫時《しばし》考へしが漸々《やう/\》の事にて江戸より弟が來りしかと心付|俄《には》かに周章《あわたゞ》しく出來り見るに年こそ寄《より》たり弟の長兵衞に相違《さうゐ》なき故清兵衞は大いに悦《よろこ》び是は/\長兵衞能こそ來て呉しなり豈夫《よもや》今年の中に來ては呉《くれ》まじと思ひ居たりしに能も/\遠路《ゑんろ》の所を尋ねて呉しぞ先々|草鞋《わらんぢ》を解《とい》て上るべし二人|連《づれ》か御前樣大きに御苦勞なり先々御|上《あが》りなされ是々お初お粂《くめ》我等は何を胡亂々々《うろ/\》して居やる早く洗足《せんそく》の湯を以て來ぬか氣のきかぬ奴等《やつら》だナニ其所にある夫なら早く草鞋《わらんぢ》を解《とき》何ぜ洗足《せんそく》をせぬのだと清兵衞は嬉《うれ》し紛《まぎ》れに女共を叱《しか》り散《ちら》して彼の是のと世話《せわ》をやき大勢《おほぜい》居《ゐ》ながら餘り目はしの利《きか》ぬ奴等《やつら》だ兄と云ば某しが弟に違《ちが》ひなし何故早く然樣《さう》云ないなどと無理《むり》ばかり云中に長兵衞長八の兩人は足を洗《あら》ひ仕廻《しまう》故清兵衞は先へ立サア/\遠慮《ゑんりよ》なしに奧へ/\と兩人を[#「兩人を」は底本では「兩人は」]伴《ともな》ひ行先久々にての對面《たいめん》互ひに堅固《けんご》にて目出たしと挨拶《あいさつ》に及ぶ中早や商賣柄《しやうばいがら》とは云ながら女房も如才《じよさい》はなく酒と肴を取揃《とりそろ》へ自身《じしん》に持來たれば清兵衞は長兵衞に向ひ嘸々《さぞ/\》草臥《くたひれ》しならん然樣《さう》何時までも畏《かしこ》まり居ては究屈《きうくつ》なりモシ/\御連《おつれ》の衆《しゆ》御遠慮《ごゑんりよ》なさるなコレサ平《たひら》に/\と是より皆々|寛《くつろ》ぎ兄弟久し振《ぶり》にての酒宴《しゆえん》となり女房も傍《そば》にて酌《しやく》をしながら初對面《しよたいめん》の挨拶《あいさつ》をなしければ[#「なしければ」は底本では「なしけれだ」]清兵衞は弟に向ひ長兵衞是は我等が女房なり以後|心安《こゝろやす》く頼む又|遇々《たま/\》來りしに兄嫁《あによめ》などと思ひ遠慮《ゑんりよ》しては面白《おもしろ》からず平《ひら》に心安くなし呉よ若《もし》供《とも》の衆《しゆ》遠慮《ゑんりよ》があつては惡《わる》い心安く御頼《おたの》み申と兄弟中の水入《みづい》らず献《さし》つ酬《おさ》へつ良《やゝ》暫《しば》し酒宴《しゆえん》にこそは及びけれ [#8字下げ]第三十三回[#「第三十三回」は中見出し]  扨又長兵衞は兄の清兵衞に向ひ先達《さきだつ》ての手紙の樣子《やうす》にては大病にて九死一生との事なれば大いに心配《しんぱい》致せしなれ共《ども》節季《せつき》師走《しはす》の事ゆゑ勿々《なか/\》旅立《たびたち》などは出來難《でぎがた》き所《ところ》なるが萬一の事にてもある時は死に目にも逢《あは》れずと思ひて取物《とるもの》も取敢《とりあへ》ず俄《にはか》の旅立《たびだち》隨分《ずゐぶん》道《みち》を急いで來た處に今樣子を見れば大丈夫《だいぢやうぶ》にて煩《わづら》ひし樣子は一|向《かう》見《み》えぬか那の手紙は如何なる譯でありしやと云ければ清兵衞は天窓《あたま》を掻《かき》成程《なるほど》不審《ふしん》は道理《もつとも》の事實は我等が大病なりと手紙に記《かき》て遣《やり》しは虚言《うそ》なり譯《わけ》を聞て呉《くれ》尋常《あたりまへ》の手紙にては手前も一|軒《けん》の主人《あるじ》容易《ようい》に出て來る氣遣《きづかひ》はないと思ひしゆゑ我等が謀計《はかりごと》にて九死一生なりと云て遣《やれ》ば如何に遠國《ゑんごく》にても殊《こと》に寄たら來るべしと思ひての事なりしが斯《かく》面《かほ》を合て見れば我等が謀計《はかりごと》の當《あた》りしなり今にては見らるゝ通り相應《さうおう》に身上《しんじやう》も仕上たれば貴樣が今度遣ひし二人の路用金位《ろようきんぐらゐ》は損をば懸《かけ》ぬ能《よき》江戸|土産《みやげ》を遣《つか》はすにより緩々《ゆる/\》と滯留《たうりう》して金毘羅樣《こんぴらさま》へも參りたり江戸にもなき珍《めづ》らしき船遊山《ふなゆさん》でもして春になつてから[#「なつてから」は底本では「なつたから」]緩《ゆる》りと歸るがよし然すれば我等も都合して貴樣|達《たち》を送りながら江戸見物に行《ゆか》うと思ふゆゑ久《ひさ》し振《ぶり》にて又貴樣の處の世話にならうかと兄弟《きやうだい》誠《まこと》を明し合《あひ》久々《ひさ/″\》にての對面《たいめん》に餘念もなき物語《ものがたり》にぞ及びける斯《かゝ》りし程に長兵衞は先兄の無事なるを悦《よろこ》び心の中には此位《このくらゐ》なら節季《せつき》師走《しはす》の中を來らず共能にと思ひけるゆゑ兄さん御前は夫でよからうが私は道々も明暮《あけくれ》お前の事のみ案《あん》じられて斯して態々《わざ/\》來《くる》からは切《せめ》ては死目《しにめ》に逢度《あひたし》と思ひて何なにか苦勞《くらう》をしたか知ぬほんに一時に十年ばかり壽命《じゆみやう》を縮《ちゞめ》たと怨《うら》みを云ば清兵衞否モウ其話は何か己《おれ》に負《まけ》てくれ往昔《むかし》の樣に蕩樂《だうらく》をして貴樣の厄介《やくかい》に成には勝《まし》だらう實は此樣に仕上た身上を見せ度と思うての事なりと云に長兵衞は夫も然樣かと咄《はな》しの折柄《をりから》時に兄さん此丸龜に後藤半四郎と云|劔術《けんじゆつ》の先生在しが今にても居らるゝやと問ければ清兵衞聞て夫は當時此四國中には肩《かた》を双《なら》ぶるものなき劔術《けんじゆつ》の大先生なり其上|見懸《みかけ》に依ず慈悲《じひ》深《ふか》い御人にて金銀に少しも目を懸ず若《もし》貧窮者《ひんきうもの》や病人のある時は醫者《いしや》に懸て下されたり金銀を施《ほどこ》されたり珍《めづ》らしき氣象《きしやう》の先生なれば近郷近在《きんがうきんざい》にては生神《いきがみ》先生々々《せんせい/\》と人々が敬《うやま》ふ位《くらゐ》なり夫に又我等の處は格別《かくべつ》に御贔屓《ごひいき》にて女房は針《はり》仕事を能する故後家で居た時分には後藤先生の浣《すゝ》ぎ洗濯《せんだく》から衣類を殘らず仕立たれば何なにか御心安くなし今でも縮緬類《ちりめんるゐ》は時々此方へ仕立に遣はさるゝが昔《むかし》と違ひて商賣《しやうばい》が忙《いそが》しけれ共お馴染《なじみ》ゆゑまさかに今では出來ませんとも云れず其度に仕立て進《あげ》るなり夫に又先生は極《ごく》酒好《さけずき》にて毎日《まいにち》店《みせ》へ酒を飮《のみ》に御出なさるが誠《まこと》に氣さくな御人にて我等の所の酒を飮では外の店《みせ》のは飮《のめ》ないとて御|宅《たく》で飮《あが》る時には御弟子衆に五升三升づつ取に御|遣《つかは》しなさる實に古今の酒好先生なりと兄弟《きやうだい》噂《うはさ》を爲《なし》居《ゐ》たり [#8字下げ]第三十四回[#「第三十四回」は中見出し]  扨又清兵衞は弟長兵衞に盃盞《さかづき》をさしながら貴樣は如何して後藤先生を知つて居るやと問に長兵衞然ば縁《えん》と云ふ者《もの》は奇代《きだい》な者にて今度《こんど》共《とも》に連《つれ》て來りし此人は舊《もと》越後《ゑちご》高田《たかた》の浪人にて若き時同家中の娘を連《つれ》て江戸へ逃來《にげきた》る時に在所《ざいしよ》の熊谷宿《くまがやしゆく》の弟八五郎が見世に休み夫より駕籠屋《かごや》の惡漢《わるもの》に引罹《ひつかゝ》り既《すで》に路用《ろよう》も女房も取れ命《いのち》さへ危《あやふ》き處後藤先生が上州《じやうしう》大間々《おほまゝ》なる師父《しふ》の大病にて行れたる歸り道に是も八五郎が見世へ休まれて不※[#「圖」の「回」に代えて「面から一、二画目をとったもの」、484-9]《ふと》したる事から八五郎は此衆《このしう》夫婦《ふうふ》が惡漢《わるもの》に引罹《ひつかゝ》りたる事を物語りしに後藤先生は其若者《そのわかもの》不便《ふびん》なれば助けて遣《つか》はさんと云れて熊谷《くまがや》土手《どて》へ追駈《おつかけ》行《ゆき》駕籠屋《かごや》の惡漢《わるもの》共を叩《たゝ》き散《ちら》し此衆《このしう》夫婦《ふうふ》を御助けなされ八五郎が家へ連て來り疵所《きずしよ》を養生《やうじやう》なし夫より八五郎も那通《あのとほ》りの氣象者《きしやうもの》故《ゆゑ》不便《ふびん》と思ひ手紙を添《そへ》て私が所へ此衆夫婦と後藤先生三人を送り越せし故後藤先生と相談《さうだん》して此長八をば私しが世話をして世帶《せたい》を持《もた》せ今では親分子分の間柄《あひだがら》今度|頼《たの》んで供に連《つれ》て來りしも此|譯也《わけなり》又其節先生が廿兩と云う金を出して此衆夫婦を世話をして呉《くれ》よと御|頼《たの》みゆゑ私も左《と》に右《かく》と相談《さうだん》の上紙屑商賣を初めさせし處|僥倖《しあはせ》に繁昌《はんじやう》して今では先《まづ》不足《ふそく》もなく暮《くら》し居りて十七歳になる娘一人|儲《まう》けたり概略《あらかた》後藤先生の眞實《しんじつ》に御世話下されたる譯《わけ》は右申通りゆゑ今度|幸《さいは》ひ私が供をしながら昔しを忘れず[#「忘れず」は底本では「忘れづ」]後藤先生へ御尋《おたづ》ね申て厚《あつ》く御禮《おんれい》をも申上させんと思《おもひ》連《つれ》て來し譯なり此樣又機の好幸ひなる事もなし併し月日の立のは早き者にて今年にて十八年以前の事と委細《くはしく》咄《はな》しければ清兵衞扨は然樣なることにて御知り人になりしか成程《なるほど》縁《えん》と云者は不思議《ふしぎ》なる者なり咄《はな》して見れば貴樣たちは親分子分私しは又後藤先生とは大《だい》の御懇意《ごこんい》なりと云つゝ不※[#「圖」の「回」に代えて「面から一、二画目をとったもの」、485-1]《ふと》四邊《あたり》を見廻《みまは》し遂《つひ》話《はな》しに身が入《いり》大分《だいぶん》夜《よ》が更《ふけ》たり嘸々《さぞ/\》草臥《くたびれ》しならん今夜は寛々《ゆる/\》と休むがよしと漸々|盃盞《さかづき》を納《をさ》め女どもに云付て寢床《ねどこ》を敷《しか》せ各々《おの/\》臥所《ふしど》に入たりける扨《さて》翌日《よくじつ》にも成ければ武藏屋長兵衞并に長八は後藤先生へ尋ね行んと思ひ主人《あるじ》の長兵衞へ[#「長兵衞へ」はママ]何ぞ土産《みやげ》をと相談《さうだん》しけるに長兵衞は[#「長兵衞は」はママ]遠方を來た事ゆゑ土産《みやげ》も持《もた》ぬとて矢張《やはり》酒《さけ》がよし外《ほか》の物は何を上ても其樣にお悦《よろこ》びなされず酒さへ上ると夫は/\何よりのお悦びなり我も同道《どうだう》せんにより夫は我等が宜樣《よきやう》にするとて五升入の角樽《つのだる》へ酒を入|熨斗《のし》を付一尺餘りの鯛《たひ》を二|枚《まい》肴籠《さかなかご》に入てサア/\是では隨分《ずゐぶん》[#ルビの「ずゐぶん」は底本では「ずるぶん」]恥《はづ》かしからずと支度《したく》をなし是より三人|連《づれ》にて丸龜城下なる後藤半四郎の方へと到《いた》りけり又後藤方にては此日は丁度《ちやうど》稽古日《けいこび》にて多《おほく》の門弟《もんてい》聚《あつま》り竹刀《しなひ》の音《おと》懸聲《かけごゑ》等|喧《かま》びしく今|稽古《けいこ》眞最中《まつさいちう》なる所へ三人は玄關《げんくわん》に懸《かゝ》り案内《あんない》を乞ひければ奧《おく》より竹具足《たけぐそく》を着《つけ》今《いま》面《めん》小手《こて》を取たるばかりにてせい/\と息《いき》を切《きり》ながら一人の門弟《もんてい》取次《とりつぎ》に出を見て長兵衞[#「長兵衞」はママ]|會釋《ゑしやく》なし私しは江戸表馬喰町の新藤市之丞と申者に候が久々にて後藤先生の御機嫌伺《ごきげんうかゞ》ひに參上仕りたり此段《このだん》宜《よろし》く御取次下《おんとりつぎくだ》さるべしと云に門弟の者右の由を後藤へ申けれども今《いま》稽古《けいこ》の眞最中《まつさいちう》[#ルビの「まつさいちう」は底本では「まつさいうち」]にて取次の云事は少しも耳《みゝ》に入ず稽古《けいこ》の邪魔《じやま》なりと叱《しか》り付られ門弟は膽《きも》潰《つぶ》して又々|玄關《げんくわん》へ立出《たちいで》若《もし》名前《なまへ》が違《ちがひ》はせぬかと聞に長八|否《いや》相違《さうゐ》御座なく先年熊谷土手にて御世話に預《あづか》りたる者にて候と云ば門弟は然樣かと云ながら稽古場《けいこば》へ行て見るに今後藤は稽古を休《やす》み息《いき》を入て居けるゆゑ怖々《こは/″\》前へ行先生只今の者に能々|承《うけた》まはりし處熊谷にて御世話になりたる者のよしに候と云ば後藤は是を聞何と云る熊谷にて世話に成し者だと夫れはへんな事なり其者|大方《おほかた》藤《ふぢ》の局《つぼね》であらうが某《それが》しは是まで女に心安き者はなき筈《はず》なりと淨瑠璃《じやうるり》狂言《きやうげん》の洒落《しやれ》を云ゆゑ門弟には少しも譯《わか》らず當惑《たうわく》して居るを後藤は是々其者の名前は何と申やと云に新藤市之丞と申せしと聞や否《いな》や後藤扨とは[#「扨とは」はママ]云ながら稽古《けいこ》の形體《なり》にて玄關《げんくわん》へ出來り是は/\珍《めづ》らしや市之丞殿能こそ參《まゐ》られたり而《して》また長兵衞殿清兵衞殿も同道《どうだう》か何れも珍《めづ》らしき人々先々此方へ/\と云ながら一間《ひとま》へ通しやれ/\久々《ひさ/″\》なりと互《たが》ひに一|別《べつ》以來の情《じやう》を述《のべ》夫々《それ/″\》挨拶《あいさつ》に及びしが此度兄の病氣の間違《まちがひ》とも云はざれば金毘羅樣《こんぴらさま》へ參詣旁々《さんけいかた/″\》昨夜《さくや》此清兵衞方へ到着仕《たうちやくつかま》つり取敢《とりあへ》ず御|機嫌伺《きげんうか》がひながら先年の御|禮《れい》に市之丞同道にて參上仕《さんじやうつかま》つりしと申ければ後藤は喜《よろこ》びて清兵衞に向ひ貴樣の所の此客人達《このきやくじんたち》は少《すこ》し仔細《しさい》有て昔し馴染《なじみ》の者なり其仔細《そのしさい》は後《あと》にて寛々《ゆる/\》咄《はな》すべし時に長兵衞殿此清兵衞殿と云男は勿々《なか/\》如才《じよさい》なき者なり夫の又女房が縫針《ぬひはり》の業《わざ》は大の上手《じやうず》にて某しも仕立物《したてもの》を度々《たび/\》頼《たの》むなりと語るに清兵衞は傍邊《かたはら》より進《すゝ》み此長兵衞儀は私しが實《じつ》の弟《おとゝ》に候と申せしかばナニ長兵衞殿は貴樣の弟|成《なり》とや然樣《さやう》か縁《えん》と云者は不思議なる者なり然すれば三人ながら親分子分兄弟の中別して遠慮《ゑんりよ》はいらぬ先《まづ》打寛《うちくつろ》ぎて咄《はな》すべしと是より後藤は稽古《けいこ》を休《やす》み弟子中へ斷《ことわ》りて歸し遣《や》り再《ふたゝ》び座敷《ざしき》へ來りしに清兵衞は五升入の角樽《つのだる》に鮮鯛《せんたひ》一|折《をり》を添《そへ》て出し先生是は餘り御麤末《おそまつ》なれども長兵衞長八兩人の御土産《おんみやげ》なり御受納《ごじゆなふ》下さる樣御願ひ申上ると云ば後藤は此品々を見て是は/\手厚《てあつ》き土産《みやげ》何よりの好物《かうぶつ》然《しか》も澤山《たくさん》に惠《めぐ》まれ千萬|忝《かたじ》けなし清兵衞貴樣の店の酒を飮では外の酒は一|向《かう》飮《のめ》ぬ何《なに》も結構々々《けつこう/\》と大いに悦《よろこ》び直樣《すぐさま》肴《さかな》を調理《こしらへ》酒《さけ》を開《ひら》き酒宴《しゆえん》にこそは及びけれ [#8字下げ]第三十五回[#「第三十五回」は中見出し]  扨長八は先年熊谷土手にて助《たすけ》られたる事より廿兩の金子を惠まれたる事まで厚《あつ》く禮《れい》を述《のべ》其後夫婦とも暫時《しばらく》病氣なりしが漸々《やう/\》全快なし夫《それ》より長八と改名して紙屑買となりしに僥倖《しあはせ》よく追々《おひ/\》繁昌《はんじやう》して先不自由もなく暮《くら》す中お幸と云《いふ》娘迄《むすめまで》儲《まう》けたる事など物語《ものがた》り是と云も皆先生の御庇蔭《おんかげ》なりと厚《あつ》く禮《れい》を云に後藤も喜《よろこ》び夫《それ》は長兵衞の深切《しんせつ》と貴樣の運《うん》の能《よき》ゆゑなりなどと種々樣々の話《はな》しに移《うつ》りしが其日は暇《いとま》を告《つげ》て江戸屋へ歸《かへ》り頓て其年も暮《くれ》正月にもなり家々の年禮も濟《すみ》しかば半四郎は幸ひ好《よき》道連《みちづれ》なれば當春《たうはる》は江戸表へ出《いで》て無刀流劔術の道場を開《ひら》かんと思ひ立當地の道場をば高弟に讓《ゆづ》り長兵衞長八兩人十四五日逗留の中に半四郎は支度を調《とゝの》へ[#「調《とゝの》へ」は底本では「調|へ《とゝの》」]長兵衞長八を連れて江戸屋清兵衞に分《わか》れを告《つぐ》るに清兵衞も萬端世話をなし土産物《みやげもの》は先達て便船に頼《たの》み置路用金等迄長兵衞に遣《つかは》し互《たが》ひに暇乞《いとまごひ》に及びて讃州を出立なし三人は道中|滯《とゞこ》ほりなく江戸馬喰町なる武藏屋の見世へ到着しければ家内は一同に出迎《いでむか》へ道中|恙《つゝが》なく歸りしを悦《よろこ》ぶ事限りなし其中にも日々に待居《まちゐ》たりしは長八が女房お梅にて歸るや否《いな》や長八を一ト間に呼び去年極月中旬町御奉行所より[#「町御奉行所より」は底本では「町奉御行所より」]此邊の紙屑問屋并に屑買を一同に御呼出《およびいだし》にて御尋《おたづね》ありしが段々其樣子を聞しに山崎町に居る浪人者が百兩の金を盜《ぬす》み其金にて質物《しちもつ》を受出《うけいだ》したる事露顯して召捕《めしとら》れ其盜賊の引合なりと申事にて如何にも樣子《やうす》が氣に懸《かゝ》り萬一文右衞門樣の御身の上に關《かゝは》る事ではある間じきやと思へども御前さんも長兵衞樣も留守《るす》の事なり外《ほか》に咄《はな》し逢《あふ》人《ひと》もなし實《まこと》に女の身の悲《かなし》さは只々蔭ながら文右衞門樣を御案じ申ばかり兎角私は氣懸《きがか》りなりと女房の咄《はな》しを聞て長八は眉に皺を寄成程夫は氣に懸るは道理なり己も屑買はすれどもナニ不正の品を買ものか併し何にしても變な事と小首を傾《かたむ》けしが否《いな》是は質物を受出《うけいだ》したるに付露顯したると云ば分りしなり夫は彼の廿五兩の金よりの事ならん其節質屋より質物が流《なが》れるとて度々嚴敷催促なりしが右の金にて其品を受出《うけいだ》せしゆゑ疑《うたが》ひの懸《かゝ》りしも知れず是と云も袖乞《そでごひ》の身分にて云ば不相應なる大金の事ゆゑ疑ひの懸《かゝ》るまじとも云難し何にしても文右衞門樣が盜賊などなさる氣遣《きづか》ひなけれど己も聞《きゝ》ては捨《すて》て置《おか》れず何分氣に掛《かゝる》により明日は早々山崎町へ行て文右衞門樣を御尋《おたづね》申さんと夫婦相談に及びたり扨翌日にもなりければ長八夫婦は早朝《さうてう》より兩人して山崎町|乞丐頭長屋《がうむねながや》なる大橋文右衞門方へと志ざしてぞ出行ける [#8字下げ]第三十六回[#「第三十六回」は中見出し] 「我が影《かげ》の我を追《おひ》けり冬《ふゆ》の月《つき》」と人之を疑《うたが》ふ時は柳《やなぎ》の掛《かゝ》り紙鳶《たこ》も幽靈《いうれい》かと思《おもひ》石地藏《いしぢざう》も追剥《おひはぎ》かと驚《おどろ》くが如《ごと》し然ば大橋文右衞門の女房お政は夫《をつと》の身の上を種々に案じ居《ゐ》たるに豈計らんや紙屑屋長八夫婦御免なされと云ひながら入來《いりきた》るを見ると等《ひと》しく挨拶《あいさつ》もせざる中に長八に獅齒付《しがみつき》胸元《むねもと》取《とつ》て捻居々々《ねぢすゑ/\》爰《こゝ》な市之丞殿の恩知らず御前の置て行たる金ゆゑ夫文右衞門は盜賊の疑《うたが》ひ掛《かゝ》りて召捕《めしとら》れ入牢となりし無實の災難夫に奚《なん》ぞや去暮中御奉行所へ紙屑買を一同御呼出になり御尋《おたづ》ねありし時は一向に其場へ面出《かほだし》もせず夫ゆゑ今に夫《をつと》の證《あか》りも立ず不實と云ふも餘《あま》りあり御前の在家《ありか》さへ知れなば文右衞門の身分は直樣《すぐさま》證《あか》りが立御免のあるに相違《さうゐ》なし恨《うらめ》しきは市之丞殿と女心《をんなごころ》の一※[#「圖」の「回」に代えて「面から一、二画目をとったもの」、488-2]に迫《せま》り口惜紛《くやしまぎ》れに市之丞へ喰付呉んとするゆゑにお梅は惘《あき》れて茫然たりしがマア/\御新造樣其所を御放し下されよ恨《うら》みは御道理《ごもつとも》なれども夫《それ》には種々《いろ/\》譯《わけ》があり先々御氣を鎭《しづ》めて一|通《とほ》り御聞下され度と長八|諸共《もろとも》宥《なだ》むると雖どもお政は更に聞入ず否々私し共に何か恨《うら》みのあつてしたる業ならん私しの夫《をつと》は召捕《めしとら》れ入牢《じゆらう》となり此寒氣に若や牢死したなら私しは如何せん恩を仇で報《かへ》すとは御前方夫婦の事サア/\只今直に夫文右衞門が身の證《あか》りを立出牢させて下されと泣《なき》つ恨《うらみ》つ掻《かき》口説を市之丞夫婦は一々|御道理《ごもつとも》には御座れども何卒御新造樣私し共の申事を一通り御聞なされて下さりませ貴方《あなた》の樣《やう》に仰《おつ》しやつた計《ばか》りでは譯《わけ》が分《わか》りませず私共の申事を御聞成れた其上にて不實の廉《かど》も御座るなら如何樣共思召次第に成されましと種々樣々に宥《なだ》め賺《すか》しければお政は漸々《やう/\》に手を放《はな》すにぞ長八は襟《えり》かき合せ其譯と云は舊冬|此方《こなた》へ參《まゐ》りし後親分の長兵衞に頼《たの》まれ十四日の日に出立《しゆつたつ》[#ルビの「しゆつたつ」は底本では「しめつたつ」]して讃州丸龜へ參《まゐ》り昨晩江戸表へ歸りし處女房お梅が去暮中紙屑屋仲間一同御番所へ御呼び出になりし始末《しまつ》を咄《はな》せしゆゑ何《なに》にしても文右衞門樣の御身の上《うへ》が案《あん》じらるゝにより急《いそ》ぎ只今|御尋《おたづ》ね申せし譯《わけ》又《また》大恩《だいおん》請《うけ》たる文右衞門樣に何《なに》意恨《いこん》あつて御難儀《ごなんぎ》になる事を仕出《しいだ》しませう全《まつた》く舊冬|御呼出《およびいだ》しの節は丸龜へ參《まゐ》りし留守《るす》の事又|貴方《あなた》へ置《おい》て參りたる廿五兩の金は私し共夫婦|相談《さうだん》の上一人の娘を吉原《よしはら》へ身賣《みうり》せし[#「身賣せし」は底本では「身賣して」]金子にて慥《たしか》なり夫《それ》と申も十八ヶ年以前の御恩|報《がへ》しと存《ぞん》じて致《いた》したる其金故に却《かへつ》て文右衞門樣の仇《あだ》となりしは誠《まこと》に御氣毒《おきのどく》とも何《なに》とも申樣も御座なく殊《こと》に又肝腎の町所名前をも申置ず夫是《それこれ》にて無實の御難儀を掛《かけ》しこと誠に面目次第も御座なく候との物語《ものがた》りを聞て女房お政は大いに驚《おどろ》き扨は然樣な事にてありしかと今さら恨《うら》みを云しが面目なく而て又其一人娘を吉原へ勤《つと》め奉公に遣《やら》れたとは扨も/\悼《いた》はしき事如何に昔《むか》しの恩あればとて夫程までに御夫婦が御|心盡《こゝろづく》しを成《なさ》れしものを勝手の事而已云並べ無恥《はすは》な者と思されんは返《かへ》す/″\も恥《はづ》かしやと面《かほ》赤《あか》らめて詫入《わびいる》にぞ長八夫婦はナニ/\其樣に仰《おほせ》られては却て私し共も面目なし何は兎もあれ然樣|云事《いふこと》なら直樣是より家主を同道なし御奉行所へ訴《うつた》へ出《い》でて文右衞門樣の證人となり早々御差免しに相成樣御|願《ねがひ》申候はん必《かなら》ず/\御|心強《こゝろつよ》く思し召下《めしくだ》されよと長八夫婦は暇乞《いとまごひ》して急《いそ》ぎ馬喰町へと歸りけり茲《こゝ》に又後藤半四郎は旅籠屋長兵衞方に滯留して居けるが今日長八夫婦の者見えぬゆゑ長兵衞を呼長八は何れへ行《ゆき》たるやと問に長八は何か急用《きふよう》ありとて下谷の山崎町へ參りしと答へければ半四郎|然樣《さう》か親類《しんるゐ》にても有て行たるやと云に否何か外の用達に參りし樣子なるが山崎町と云處は乞丐頭長屋《がうむねながや》ばかりあつて浪人者や物貰《ものもら》ひの住居する所なりと云ば半四郎|夫《それ》では長八は二人して一|文《もん》貰《もら》ひにでも出掛《でかけ》しか歸り/\能《よく》稼《かせ》ぐ男なりと大いに笑《わら》ひ居《ゐ》たる所へ長八夫婦は歸り來りしかば後藤は是を見て長八|貴樣《きさま》は何《いづ》れへ行しや何《どう》だ貰《もら》ひはありしかと云ば否先生御戯談所では御座りません實《じつ》に大變《たいへん》が出來ましたといふを聞長兵衞夫は何が大變《たいへん》だと云に長八|誠《まこと》に大變なり親分に御相談申さねばならず夫《それ》に付《つけ》ても是まで親分には隱《かくし》て御咄《おはな》し申さざりしが私し共夫婦は豫《かね》て御存じの通り國元《くにもと》を逃亡《かけおち》なし江戸へ出《で》て來《きた》りしも元《もと》はと云ば同家中なる大橋文右衞門と云人の情《なさけ》にて兩人が命《いのち》を助《たす》かり殊《こと》に廿兩と云《いふ》金迄《かねまで》も惠《めぐ》まれ路用として江戸へ來りし譯《わけ》なるが道中にても先生の御恩になり又親分の厚《あつ》き御世話にて今日までも無難に暮《くら》し居《ゐ》るも是皆樣の大恩《だいおん》なり然《しか》るに去年の極月|初旬《はじめ》淺草《あさくさ》の觀音樣より上野の大師樣へ參詣せんと下谷の車坂を[#「下谷の車坂を」は底本では「下谷車車坂を」]通《とほ》り懸《かゝ》りしに深編笠《ふかあみがさ》を被《かぶ》りて黒絽《くろろ》の羽織《はおり》のぼろ/\したるを着《き》如何にも見寥《みすぼら》しき容體《なり》をして謠《うた》ひを唄《うた》ひながら御憐愍々々《ごれんみん/\》と云つゝ往來に立《たつ》て袖乞をする者あり其者の羽織《はおり》の紋が丸《まる》に三つ引ゆゑはてな羽織《はおり》の紋と言葉遣《ことばづか》ひと云大橋文右衞門に能《よく》似《に》て居《ゐ》るが若《もし》や浪人でもして零落されたることかと思ひて有合《ありあひ》の錢《ぜに》を七八|文《もん》遣《やり》しに有難うと云《い》ふ其聲音迄文右衞門に寸分|違《ちが》はず餘《あま》り不思議に思ひしかば立止《たちとゞ》まつて笠《かさ》の内《うち》を見樣と思ふ中其浪人は日暮《ひぐれ》なれば仕舞《しまひ》て歸る樣子《やうす》なれども蟲《むし》の知らせしか文右衞門に違《ちが》ひなしとこゝろへ夫より後《あと》を尾《つけ》て見屆《みとゞ》けしに山崎町の乞丐頭《がうむね》長屋《ながや》へ這入《はひり》しかば其所を尋《たづ》ねて見るに果《はた》して大橋氏なるゆゑ私しもハツと思ひて何の言葉《ことば》も出ざりしが漸々《やう/\》の事にて段々《だん/\》樣子《やうす》を聞に八ヶ年以前主家の騷動にて浪人なし斯樣々々《かやう/\》との咄《はな》しに付私しは膽《きも》が潰《つぶ》れるのみか如何にも氣《き》の毒《どく》に存じヤレ/\國元では五百石取の物頭役《ものがしらやく》大橋文右衞門と云れた人が今一|文《もん》貰《もら》ひの袖乞とは情《なさけ》なしとも哀《あは》れとも餘りの事の困窮《こんきう》零落《れいらく》と思へば/\思ふ程《ほど》何分《なにぶん》其儘《そのまゝ》見ては居られぬにより直樣宿へ歸り女房お梅に相談《さうだん》の上昔しの恩報《おんはう》じに娘《むすめ》お幸《かう》を吉原《よしはら》の玉屋山《たまやさん》三郎方へ五十兩に身賣《みうり》して其内廿五兩を文右衞門の宅《たく》へ持參《ぢさん》なし昔《むか》しの恩報《おんはう》じなりと差出《さしいだ》せし處《ところ》物堅《ものがた》き文右衞門なれば何と云ても請取《うけとら》れず私しも仕方なき故|考《かんが》へ居たる中文右衞門は留守《るす》になりたるを幸《さいは》ひ何も云ずに右廿五兩を煙草盆《たばこぼん》の中へ入れ置《おき》て歸《かへ》りたり然《しか》るに其金にて文右衞門が質物《しちもの》を請出《うけいだ》せし處一文|貰《もら》ひの浪人者が一夜の中に金の出來る筈《はず》はなし殊に文右衞門が流れの云譯《いひわけ》に來たる時に帳箱の上に置《おき》たる百兩の金子|紛失《ふんじつ》したる故何でも文右衞門が盜《ぬす》みとりたるに違《ちが》ひなしと質屋《しちや》の番頭久兵衞と云者が云懸《いひかゝ》りて彼是と爭《あらそ》ひとなりしに文右衞門は盜人《ぬすびと》の惡名《あくみやう》を付られたるを殘念《ざんねん》に思ひ切て捨《すて》んと逃出《にげいだ》す久兵衞を追懸《おひかけ》し折《をり》火附盜賊改《ひつけたうぞくあらた》め役小出兵庫樣の御組下笠原粂之進とか云ふ人に召捕《めしとら》れ入牢《じゆらう》となりしを文右衞門の女房が大岡樣へ御直訴訟《ごぢきそしよう》をなし夫が爲|舊冬《きうたう》此《こ》の邊《へん》の紙屑屋を御奉行所へ御呼出しになり文右衞門へ引會《ひきあは》されし所《ところ》其節《そのせつ》折惡《をりあし》く私しが御當地に居合せざれば文右衞門が金子の出所《しゆつしよ》明《あきら》かならず因つて今に入牢《じゆらう》なし居る由實に親分大變が出來たるなりと云ば私しの親切《しんせつ》が却《かへつ》て仇《あだ》となり恩《おん》ある人に難儀《なんぎ》を掛《かけ》し樣なるもの然れば私しも斯《かう》しては居られぬゆゑ是より直《すぐ》に御奉行所へ駈込訴《かけこみそ》を致し其金の證人に成うと思ふにより何卒《どうぞ》親分《おやぶん》願書《ぐわんしよ》を認《したゝ》めて下されと一|伍《ぶ》一|什《じふ》の物語りを長兵衞は聞て成程《なるほど》夫は大變な事貴樣の遣《つか》はしたる金より疑《うたが》ひを請《うけ》て無實《むじつ》の難《なん》に陷《おち》しと聞ては如何にも見て居られぬは道理《もつとも》なり願書《ぐわんしよ》は元より商賣柄《しやうばいがら》認《したゝめ》るのに手間隙《てまひま》は入らず然ば長八ナゼ貴樣は娘《むすめ》を賣しや可愛《かあい》さうに只一人娘のお幸を身賣《みうり》せず共廿五兩の金子は何れ共出來やうに此長兵衞と云親分が付て居るぞ然程《さほど》の事なら我等に相談《さうだん》するがよし私しも馬喰町での武藏屋長兵衞旅籠屋仲間にて人にも知られし男|也《なり》長兵衞の子分が一人娘を賣《うつ》たなどと云れては此長兵衞が面目《めんぼく》なし如何にも捨《すて》ては置れぬことなら最初《さいしよ》より斯樣《かやう》々々の譯也《わけなり》と咄《はな》しもあれば假令《たとへ》手元《てもと》に金は無《なく》ても廿五兩位の金は何れとも融通《ゆうづう》は出來る者を我等に咄《はな》しもなく大事の娘を賣などとは長八貴樣にも似合《にあは》ぬ心底《しんてい》なり先達《さきだつ》て云し時は屋敷《やしき》へ奉公《ほうこう》に遣《つか》はしたりとよくも人を欺《あざ》むきしなど申に長八は額《ひたひ》を撫《なで》否《いや》然樣《さやう》云るゝと實に面目《めんぼく》次第もなし併し年中御世話にばかりなり其上|節季《せつき》師走《しはす》押迫《おしつめ》ての金の才覺《さいかく》餘《あま》り心なしに御話《おはな》しも出來ぬゆゑ據《よんど》ころなく淺草田町の利兵衞と云國者を頼んで江戸町の玉屋山三郎方へ賣《うり》し譯《わけ》誠《まこと》に申|譯《わけ》御座らぬと申せば長兵衞よし/\お幸は不便《ふびん》なれ共|今更《いまさら》詮方《せんかた》なし其中には受出す樣に仕やう先夫は後《あと》の事|差當《さしあた》[#ルビの「さしあた」は底本では「さしあて」]つて文右衞門樣の一|件《けん》片時《かたとき》も捨《すて》ては置れず早々《さう/\》願書を認《した》ためんと用意《ようい》にこそは懸《かゝ》りけり [#8字下げ]第三十七回[#「第三十七回」は中見出し]  扨又長兵衞は願書を認《した》ためんとするに先より傍《かたは》らに酒《さけ》を呑居《のみゐ》たりし後藤半四郎は長八が話しを聞夫は何にしても氣《き》の毒《どく》なる事なり併し其金を返せし處は實に頼母敷《たのもしき》心底《しんてい》なるが今の咄《はな》しの樣子《やうす》にては其大橋氏へ百兩の金が紛失《ふんじつ》したと言懸《いひがか》りし油屋の番頭こそ不屆《ふとゞき》なる奴《やつ》なれ浪人しても帶刀《たいたう》する身が盜賊《たうぞく》の惡名《あくみやう》を付られては其分に差置《さしおか》れずと云は道理《もつとも》なり番頭久兵衞とか云《いふ》奴《やつ》こそ怪《あや》しき曲者《くせもの》其者《そのもの》を嚴敷《きびしく》吟味《ぎんみ》せば文右衞門殿の證《あか》りは立に相違なし是長八貴樣|案内《あんない》をしやれ某し是より直樣油屋へ踏込《ふみこん》で久兵衞とか云ふ奴を引捕《ひつとら》へて聞糺《きゝたゞ》し呉《くれ》んと帶《おび》〆《しめ》直《なほ》して立上りたり後藤は元來《ぐわんらい》仁心《じんしん》深《ふか》く正直《しやうじき》正路《しやうろ》の人なれば斯の如き事を聞時は頻《しき》りに憎《にく》く思はれ他人《ひと》の事にても何分《なにぶん》捨《すて》置れぬ性質《せいしつ》なり是犬は陽《やう》にして正直なる獸《けもの》ゆゑ猫《ねこ》狸《たぬき》其外《そのほか》魔性《ましやう》の陰獸《いんじう》を見る時は忽地《たちまち》噛殺《かみころ》すが如し己《おのれ》が性《せい》に反《はん》して陰惡《いんあく》を巧《たく》むものは陽正《やうせい》の者是を見分《けんぶん》するに忍《しの》びざる所なり故に此半四郎も己正直なる心より番頭久兵衞が邪《よこ》しまなるを聞て立腹《りつぷく》し殊に又今酒を飮《のん》だる一ぱい機嫌《きげん》ゆゑ猶々《なほ/\》憤《いきど》ほり烈《はげ》しく直《たゞち》に油屋の見世へ踏込《ふみこん》で番頭久兵衞を引捕《ひきとら》へ目に物見せて呉《くれ》んずと罵《のゝ》しる聲《こゑ》を聞一ト間の襖《ふすま》を颯《さつ》と押開《おしひら》き御免成《ごめんなさ》れと長兵衞の弟なる中仙道熊谷宿の寶珠花屋《はうじゆはなや》八五郎此所へ入來たり是は/\後藤先生新藤市之丞樣|誠《まこと》に久々の御目|通《どほ》り先々御|機嫌《きげん》克《よく》恐悦《きようえつ》に存じ奉つる道理《だうり》こそ先程《さきほど》より一ト間の内にて御|咄《はな》しの聲《こゑ》を承《うけた》まはるに扨も能《よく》似《に》たるお聲《こゑ》なりと存ぜし處果たして後藤先生なりと云ば一同も是はと驚《おどろ》き長兵衞は八五郎に向ひ貴樣は何時頃《いつごろ》出府《しゆつぷ》したるや己は昨日歸つたばかりゆゑ未《ま》だ家《うち》の御|客《きやく》も知らざりしと云に八五郎いや私は此間中より來て居るが兄貴《あにき》は四國へ行て未だ歸らずと云し誠《まこと》に思案《しあん》に餘りし事が出來て心配《しんぱい》なりと云を傍《かたはら》より後藤はコリヤ八五郎殿|誠《まこと》に久し振《ぶり》なり貴樣の世話に成しも稍《やゝ》十七八年にもなるべし思へば一と昔し半の餘なるが貴樣の娘は無事《ぶじ》に成人《せいじん》せしなるべし最早《もはや》年頃《としごろ》ゆゑ聟《むこ》にても貰《もら》ひしか變《かは》る事もなきやと尋ねられ八五郎は否《いな》御|尋《たづ》ね下され有難《ありがた》く其娘の事にて今度《こんど》出府《しゆつぷ》致せしなり長兵衞殿先一通り聞て下され兄貴《あにき》も知らるゝ通り去年《きよねん》秋《あき》中山崎町に居る國者の山田屋佐兵衞が仲人《なかうど》にて先は質屋渡世土藏もあり地面《ぢめん》も持《もち》て相應《さうおう》の身上との事ゆゑ相談《さうだん》なし油屋五兵衞の息子《むすこ》五郎藏と云者へお秀を百兩の持參金にて支度《したく》も夫《それ》相應《さうおう》にして嫁《よめ》に遣《やつ》た所が其聟殿《そのむこどの》が餘程《よほど》拔作《ぬけさく》にて仕方なしと雖ども折角|縁《えん》有《あつ》て行たる者なれば先々《まづ/\》今《いま》少《すこ》し辛抱《しんばう》せよと云聞《いひきけ》居《ゐ》たる處其舅と云者は大の女好《をんなずき》にて嫁《よめ》の寢所《ねどころ》へ來ては口説《くどき》たてる由《よし》誠《まこと》に惘《あき》れ果《はて》たる事なり夫にまだ大變なる事あり其店の番頭久兵衞と云者は恐《おそろ》しい惡黨《あくたう》にて是も主人の嫁《よめ》の處へ毎夜々々|這掛《はいかけ》る由右の譯《わけ》なれば人にはなしも出來ず兎角《とかく》娘《むすめ》も居耐《ゐたゝま》れぬ故《ゆゑ》此間中|駈出《かけいだ》し來りし也《なり》因て離縁《りえん》にする積《つも》りにて媒酌《なかだち》へ段々《だん/\》掛合《かけあひ》し處親亭主を見捨《みすて》て出行たる女なれば持參金《ぢさんきん》道具《だうぐ》は勿論《もちろん》離縁状《りえんじやう》まで出す事はならぬと云張《いひはり》誠《まこと》に困《こま》り果《はて》たる故《ゆゑ》其|儘《まゝ》捨《すて》ても置れず故意々々《わざ/\》出府《しゆつぷ》して自身《じしん》掛合處《かけあふところ》に聟《むこ》は大馬鹿《おほばか》なり舅《しうと》の五兵衞は何日行ても一寸とも會《あは》ず唯店の久兵衞と云者ばかり一人彼是云て何れにも埓《らち》が明《あか》ず尤も向うが何樣に惡敷《あしき》とも親亭主を見捨《みすて》たと云|廉《かど》があるゆゑ道具《だうぐ》衣類《いるゐ》は云までもなく百兩の持參金《ぢさんきん》はとても返す氣遣《きづか》ひなしと思ふゆゑ夫《それ》は損《そん》をしても構《かまは》ぬが何分《なにぶん》離縁状《りえんじやう》を出さぬには甚《はなは》だ困《こま》り果《はて》たり何にしても番頭久兵衞と云|奴《やつ》の面《つら》の憎《にく》さ言葉《ことば》にも陳《のべ》られず兄さん何か仕方はあるまいかと云ふを傍邊《かたはら》に聞居たりし後藤は彌々《いよ/\》立腹《りつぷく》し夫は如何にも油屋の奴輩《やつばら》不屆《ふとゞき》なり何にしても其久兵衞と云《いふ》奴《やつ》が惡者《わるもの》に相違なし主從《しゆじう》して嫁《よめ》へ不義《ふぎ》を仕懸《しかけ》るとは大膽不敵《だいたんふてき》なり其上|離縁状《りえんじやう》を出さぬなどとは彌々|捨置《すておか》れず此一件は貴樣|達《たち》承知《しようち》しても此の後藤半四郎が承知《しようち》ならぬ是より直《すぐ》に某し自身《じしん》に行て百兩の持參《ぢさん》も衣類《いるゐ》諸道具《しよだうぐ》離縁状《りえんじやう》までも殘らず取て遣《つか》はすべし又向うにて種々《いろ/\》云て其品々を出さぬに於ては主從|倶《とも》に引摺出《ひきずりだ》し奉行所へ召連《めしつれ》訴訟《そしよう》して一言も言《いは》せぬ樣にせねばならぬコリヤ長兵衞久五郎[#「久五郎」はママ]貴樣|達《たち》案内《あんない》を頼むサア/\山崎町へ行油屋へ押込《おしこん》で遣らんと云故長兵衞と久五郎の[#「久五郎の」はママ]兩人は甚《はなは》だ心配《しんぱい》なし先生《せんせい》貴公《あなた》の御氣象《ごきしやう》では御立腹《ごりつぷく》なさるゝも御道理《ごもつとも》なれど先々|能《よく》咄合《はなしあふ》て大ぎやうにならぬ樣に懸合《かけあふ》が宜しく何れにも明日の事に致す積《つも》りなれば兎《と》も角《かく》も御鎭《おしづ》まり下されよと漸々に宥《なだ》めけり [#8字下げ]第三十八回[#「第三十八回」は中見出し]  然《され》ば後藤半四郎は明日こそ是非々々|某《それが》し同道すべし待構《まちかま》へたり扨《さて》又長八は何にしても大橋文右衞門樣の御事を跡廻《あとまは》しにはならぬと云を長兵衞久五郎の[#「久五郎の」はママ]兩人今其事を訴《うつた》へなば第一|貴樣《きさま》始め我々《われ/\》まで其一件に身體《からだ》を縛《しば》られて仕廻《しまう》により先《まづ》離縁状《りえんじやう》を取《とり》此一件を片付て後に大橋樣の一件に懸《かゝ》らんと相談《さうだん》を極め左《と》に右《かく》明日|仲人《なかうど》佐兵衞を連《つれ》て山崎町へ行《ゆき》懸合《かけあふ》事にせんと申すに後藤も是非々々同道すべしと云ふゆゑ長兵衞八五郎は甚だ心配なし若《もし》先生を同行して行時《ゆくとき》は餘り強氣《がうぎ》なる事をして大騷動《おほさうどう》を仕出《しいだ》さねばよいがと思ふゆゑ今一|應《おう》私《わたく》し共《ども》限《かぎ》りにて掛合《かけあひ》夫にても埓《らち》明《あか》ざる節は先生に願はんと申に後藤は何《なに》貴樣《きさま》達《たち》其樣に心配する事はなし某しとてもまんざら如才《じよさい》の事はせず先《まづ》斯樣《かやう》にすべし拙者《せつしや》が八五郎殿の弟分《おとゝぶん》になり親類なりと云つて行ば仔細《しさい》無《なし》貴樣達は先へ行て一通り懸合《かけあは》れよ某しは其中|表《おもて》に待居《まちゐ》て彌々《いよ/\》貴樣達の掛合|埓《らち》が明ずば其時に油屋へ踏込《ふみこん》で掛合遣さん其|積《つも》りにしては如何と云ば皆々《みな/\》承知《しようち》なしたりけり扨|翌日《よくじつ》に相成ければ後藤半四郎は長兵衞八五郎同道にて山崎町へ行《ゆき》先《まづ》仲人《なかうど》の山田屋佐兵衞方へ立より今日は是非々々娘が離縁状《りえんじやう》を貰《もらは》ねばならず夫に付我等兄弟共へ咄《はな》せし所が持參金《ぢさんきん》衣類道具等までも損をして離縁状計り取とは餘り馬鹿氣《ばかげ》た事とて不承知《ふしようち》を申餘り無法の挨拶《あいさつ》なりと云に付今日其弟を同道して參りしなり御苦勞ながら御出下されよと云に仲人《なかうど》佐兵衞は[#「佐兵衞は」は底本では「左兵衞は」]是を聞《きゝ》モシ八五郎さん御前に弟はなき筈《はず》なるが其弟と申さるゝは今迄|何地《いづれ》に御在《おいで》なされしやと問ければ八五郎は拔《ぬか》らず御前さんの御存じなきも道理《もつとも》なり幼少《えうせう》の時|里《さと》に遣して其儘《そのまゝ》縁切《えんきり》になし置しが今にては段々《だん/\》出世《しゆつせ》して四國の丸龜に於て劔術の師匠《ししやう》をなし居けるが此節江戸見物に出來りし故兄弟久々の對面《たいめん》にて何やかや咄《はな》したる譯《わけ》なり夫に付今日同道して來たりしと云ふに佐兵衞は然樣《さやう》なるか道理こそ私しは知らぬ筈なりと是より半四郎長兵衞長八仲人佐兵衞を同道して油屋へ掛合《かけあひ》に到《いた》り半四郎をば門口に待《また》せ置《おき》長兵衞八五郎佐兵衞の三人は油屋の見世へ上り込に此日油屋五兵衞親子は大橋文右衞門の一件にて奉行所へ呼出《よびいだ》しになりて見世《みせ》には番頭久兵衞只一人帳場に控《ひか》へ居たりしかば三人の者は先《まづ》一通りの挨拶《あいさつ》に及び扨久兵衞殿此間中より度々《たび/\》御懸合《おかけあひ》申せし通り娘事先は御縁《ごえん》のなき譯《わけ》成《なれ》ば何《どう》か今日こそは離縁状《りえんじやう》を遣《つか》はされて下され早《はや》斯樣《かやう》になりて當人の氣の進まぬものを無理に押付て元の鞘《さや》に納《をさ》めると云《いふ》譯《わけ》には參《まゐ》らず私しどもの方にても彼是《かれこれ》と申日に御懸合の筋《すぢ》もあると云ものゝ其所《そこ》を申て見れば實《み》も蓋《ふた》もなき譯《わけ》勘辨《かんべん》して云《いは》ずに居るが花なり何《どう》か離縁状を出して下されと云に番頭久兵衞は空眠《そらねぶ》りをして居たりしが否《いな》其事《そのこと》は前々より申通り親《おや》亭主《ていしゆ》を見捨て逃出したる嫁に離縁状は遣《やら》れぬと主人も申|聞《きけ》られ殊《こと》に今日は兩旦那《りやうだんな》とも留守《るす》ではあるし假令《よしや》又《また》内《うち》に御出なされて御|咄《はな》し申た所が親《おや》夫《をつと》に暇を呉た女へ直《すぐ》素直《すなほ》に離縁状を御出しなさいとは傍《はた》からも云れぬなり若旦那にも存じ寄りありと云《いは》れし故|右《と》にも左《かく》にも離縁状は出されぬから何れとも御前方の存分《ぞんぶん》になさるが能《よい》と聲《こゑ》荒《あら》らかに云放《いひはな》したり [#8字下げ]第三十九回[#「第三十九回」は中見出し]  扨又長兵衞は八五郎が掛合《かけあひ》を聞き番頭さんには一|應《おう》御道理《ごもつとも》の樣なれ共決して親《おや》亭主《ていしゆ》を見捨《みすて》たと云譯《いひわけ》にてはなく嫁《よめ》の方にもよく/\居耐納《ゐたたま》れぬ譯《わけ》ある故也八五郎の娘ばかり惡きとも云難《いひがた》く夫を彼是《かれこれ》と洗《あら》ひ立《たて》をすれば舅《しうと》五兵衞殿は勿論《もちろん》御前までへも恥辱《ちじよく》を與《あた》ふる譯なれば私し共の方にて云ぬ中が花なり御前とても此見世《このみせ》の支配人《しはいにん》同樣に御出なされば御前の取計らひ一つにて何れとも成《なる》ことと思はれる私しどもゝ同じ御咄《おはなし》許《ばか》りを何時迄も致すは迷惑《めいわく》なり殊に又私しの末の弟が六《む》ツケ敷《しく》云《い》ふゆゑ何か最初《さいしよ》より申通り持參金《ぢさんきん》の百兩衣類道具代等は兎も角も離縁状《りえんじやう》ばかりを遣はされて下され然《さ》すれば御前の方は十分ならんと申に久兵衞コレ馬鹿《ばか》な事を云なさるな御前|親類書《しんるゐがき》にも八五郎殿の外《ほか》に弟はなき筈なりよし分つたり是は定めて出入師とか公事師《くじし》とか云ふ者を連《つれ》て來りしならん面白《おもしろ》し/\何でも連て來《く》るがよし此久兵衞が相手なり親夫に暇を呉《くれ》た女に離縁状は勿論《もちろん》持參金《ぢさんきん》などは少しも返す事成ず率《いざ》公事師《くじし》にても何でも連て來るべし此方よりこそ願ひ出べきと思ふ處なり此久兵衞が相手になれば奉行所へ出樣が公方樣《くばうさま》の御前であらうが立派《りつぱ》に言開《いひひら》きて見せるサア/\何《いづ》れとも勝手にせられよと大聲に罵《のゝし》りければ佐兵衞[#「佐兵衞」はママ]八五郎の兩人は心中に此處《こゝ》へ後藤先生を呼込《よびこん》では必らず騷動《さうどう》にならんと思ひ腹の立のを堪《こら》へ/\て久兵衞を宥《なだ》め離縁状を取んとすれ共彼|勿々《なか/\》聞入《きゝいれ》ず猶々|募《つの》りて不法を云ゆゑ據《よんど》ころなく後藤半四郎を呼に此方の後藤は先刻《せんこく》より表に立て懸合《かけあひ》の樣子を聞居《きゝゐ》たりしが元より氣象《きしやう》濶達《くわつたつ》の人故ぢり/\氣を焦《いら》ち今に見よと腕《うで》を摩《さす》つて待《まつ》處に八五郎が呼込や否や油屋の見世へ躍《をど》り上《あが》りたり其體《そのてい》赤銅造《しやくどうづく》りの強刀《がうたう》を帶し段織《だんおり》小倉の大縞《おほじま》なる馬乘袴《うまのりばかま》を穿《うが》ち鐵骨の扇を持て腕捲《うでまく》りなしたる勢ひ仁王の如き有樣ゆゑ番頭久八[#「番頭久八」はママ]アツと云て奧《おく》へ逃入《にげいら》んとするを半四郎は腕さし伸《のば》して久兵衞の首筋《くびすぢ》引掴《ひつつか》み忽ち其所へ捻伏《ねぢふせ》玄翁《げんおう》の如き拳《こぶ》しを振上《ふりあげ》久兵衞が面體を二ツ三ツ打叩く故久兵衞は大いに恐れ何卒御免下され御侍士樣《おさぶらひさま》何《どう》ぞ命ばかりは御助け下さりましと只管《ひたすら》詫入《わびいる》を後藤は猫の仕置をするやうに鼻づらを疊《たゝみ》へ摺付《すりつけ》々々己れが此店の久兵衞とか云《いふ》奴《やつ》か汝《おのれ》番頭の身を以て大膽不敵《だいたんふてき》にも亭主が馬鹿なりとて主人の嫁《よめ》へ不義を仕掛《しかけ》る人外者《にんぐわいもの》めと又々鼻づらをこするゆゑ御免々々と泣叫《なきわめ》くを是|能《よく》聞《き》け汝は主人五兵衞とやらと兩人して嫁《よめ》のお秀へ不義を仕掛るは主從共|揃《そろ》ひも揃ひし畜生《ちくしやう》ども因《よつ》て嫁のお秀も居耐《ゐたゝま》れず終に逃出《にげいだ》せしなり夫に奚《なん》ぞや親亭主を見捨て駈出《かけいだ》したる女故離縁状を出されぬの持參金道具迄も渡されぬなどとは極惡不道《ごくあくぶだう》の申分只今持參金の百兩衣類諸道具へ離縁状を添《そへ》て出せ若《もし》出さぬに於ては汝《おの》れ斯《かう》して呉《くれ》んと又々|拳《こぶし》を振上ければ久兵衞は兩手を上げアヽ何卒《どうぞ》御勘辨《ごかんべん》下されよ仰《おほせ》の通り持參金も離縁状も殘らず差上申べし何卒《なにとぞ》御助け下さる樣|偏《ひと》へに願ひ奉つると涙を流して謝《あや》まるにぞ後藤は漸々《やう/\》勘辨して遣はさんと云ながら引起しよく/\顏を見たりしがはて汝《おの》れは何處《どこ》でか見た樣な奴オヽ夫々《それ/\》片小鬢《かたこびん》の入墨《いれずみ》にて思ひ出したり汝は/\不屆なる奴と白眼《にらみ》付られ久兵衞は再び驚《おどろ》き何とぞ御武家樣|御慈悲《ごじひ》を願ひ奉つると何か樣子有氣に疊へ天窻《あたま》[#ルビの「あたま」は底本では「あまた」]を摺付《すりつけ》々々|詫入《わびいり》つゝ持參金の儀は此節店の都合も御座れば二三日御待下さるべし荷物并びに離縁状の處は兩主人歸り次第《しだい》申|聞《きけ》今晩《こんばん》にも直に御宿所まで持參仕り候はんにより呉々《くれ/″\》も是までの不都合《ふつがふ》御勘辨《ごかんべん》下さる樣|偏《ひと》へに/\願ひ上奉つると震《ふるへ》ながら平蜘《ひらくも》の如くになりて申ゆゑ後藤は稍《やゝ》言葉を和《やは》らげ然らば屹度《きつと》間違《まちがひ》なく馬喰町二丁目武藏屋長兵衞方へ持參せよ若《もし》又|違約《ゐやく》に及ばは直樣《すぐさま》汝を引連《ひきつれ》訴訟《そしよう》するぞ急度《きつと》間違へなと申先是にて概略《あらまし》極《きま》りしなり率《いざ》皆々歸るべしと後藤は立上るに三人も倶《とも》に出立しが仲人《なかうど》佐兵衞へ別れを告げ馬喰町《ばくろちやう》を指《さし》て歸りける [#8字下げ]第四十回[#「第四十回」は中見出し]  扨《さて》道々長兵衞八五郎は後藤に向ひ彼の久兵衞と云ふ奴は先生を見ると大いに肝《きも》を潰《つぶ》せし樣子にて無闇《むやみ》に手を合せて御慈悲々々《おじひ/\》と謝《あや》まりたる可笑《をかし》さよ尤も先生の勢が凄《すさま》じいゆゑ誰も先生の顏を見ると恐るれども別して彼奴《きやつ》は色|蒼然《あをざめ》て慄《ふる》へ出せしが何でも先生を知つて居る樣子何れ譯《わけ》のあることならんと云ふ半四郎は聞《きゝ》て夫は其筈《そのはず》なり某し先年國へ歸る時東海道|戸塚《とつか》の燒餠坂《やきもちざか》より[#「燒餠坂より」はママ]彼奴《きやつ》が道連《みちづれ》になりし處其夜三島の宿へ泊りしに拙者の寢息《ねいき》を考へ胴卷《どうまき》の金を取んとしたる騙子《ごまのはひ》なり其時|彼奴《きやつ》を引捕《ひきとら》へしに宿屋の者ども寄集り片小鬢《かたこびん》の毛を引拔て入墨《いれずみ》をなしたるなり因て某し彼奴を戒《いま》しめ以後惡心出しなら其の入墨を水鏡《みづかゞみ》に映《うつ》し見て心を改めよと云て逃し遣はしたる奴なれば拙者《せつしや》が顏を見るや否《いな》や肝《きも》を潰《つぶ》したるはず廻《めぐ》り/\て今日又拙者に再會するとは因果な奴なりと久兵衞が舊惡《きうあく》を咄《はなし》しかば長兵衞八五郎は始終《しじう》を聞て扨々|然樣《さやう》なるか如何さま渠《かれ》が小鬢《こびん》に半分|眞黒《まつくろ》に入墨をしてありしが飛《とん》だ不屆《ふとゞき》なる奴先生が御出下されしゆゑ早速《さつそく》埓《らち》が明《あき》しなり彼奴先年の舊惡《きうあく》を云れては堪《たま》らぬ故夕方までには屹度《きつと》離縁状を持て來るに相違《さうゐ》なし先には大きに案《あん》じ先生が正直《しやうぢき》の心より又如何なる騷動《さうだう》が出來樣かと思ひしに斯して見ると先生を御連《おつれ》申ただけもつけの幸ひ案《あん》じるより産《うむ》が安いとは此事なるべしと道々《みち/\》話《はな》し乍《ながら》馬喰町《ばくろちやう》へぞ歸《かへ》りける是より長兵衞長八は相談《さうだん》して大橋文右衞門の一件を證人《しようにん》になりて訴へ出んと願書を認《したゝ》め掛るに後藤半四郎も是を聞き長兵衞殿|拙者《せつしや》の名前も書入られよ然《さ》すれば引合《ひきあひ》ゆゑ御呼出しになるに違ひなし其節奉行所にて久兵衞が舊惡《きうあく》を申立|吟味詰《ぎんみつめ》を願はゞ百兩の盜人《ぬすびと》も大方番頭久兵衞の仕業に相違《さうゐ》有まじ又貴樣は公事宿《くじやど》の商賣柄|拙者《せつしや》が事は兄弟とか親類とか云て名前を書加へられよと申に長兵衞|畏《かしこ》まり候と其處《そこ》は馬喰町《ばくろちやう》にて八十二|間組《けんぐみ》の公事宿だけあれば筆を揮《ふる》つて願書を認《した》ため直に翌朝《よくてう》南町奉行大岡越前守殿へ訴訟《うつたへ》出《いで》しかば越前守殿には願書を取上になり追《おつ》て沙汰《さた》に及ぶとの事にて其日は下られけり扨又山崎町なる油屋五兵衞の番頭久兵衞は今日|※[#「圖」の「回」に代えて「面から一、二画目をとったもの」、497-10]《はか》らずも寶珠花屋《はうじゆばなや》八五郎の娘お秀《ひで》が離縁状《りえんじやう》の一件に付後藤半四郎に再會《さいくわい》して大いに驚きしと雖も先々離縁状を馬喰町へ持行後藤先生に慈悲《じひ》を願ひて以前の惡事を云はれぬ樣に頼《たの》まんと思ひ若旦那《わかだんな》五郎藏が奉行所より歸るを今や/\と待居《まちゐ》たり此番頭久兵衞は大膽不敵《だいたんふてき》なる奴なれども今後藤に舊惡を云るゝ時は己油屋の店に居る事ならず因て早々|離縁状《りえんじやう》を出して此一件は掛り合を免《まぬ》かれ而して文右衞門へ言懸《いひがか》りし百兩は何所までも申張て渠《かれ》に被《かぶ》せ己《おの》れは其儘《そのまゝ》ぬく/\と油屋に居る了簡《れうけん》なり然れば半四郎長兵衞長八の三人が大橋文右衞門の爲に證人《しようにん》となりて奉行所へ訴へ出し事は神ならぬ身の夢《ゆめ》にも知らず是|天罰《てんばつ》の然らしむる所にして久兵衞が極惡《ごくあく》露顯《ろけん》の小口とこそはなりにけれ扨も享保《きやうほ》五年三月五日油屋五兵衞并びに同人家内は奉公人《ほうこうにん》に到るまで一人も殘《のこ》らず呼出しと相成しかば家主五人組一同|差添《さしぞへ》奉行所へ罷出《まかりいづ》るに程|無《なく》白洲《しらす》へ呼込《よびこみ》になり願人相手方とも居並《ゐなら》びし時に大岡殿|出座《しゆつざ》有て吟味《ぎんみ》にこそは及ばれたり此大岡殿は吟味《ぎんみ》の節《せつ》何時《いつ》も目を眠《ねぶ》りて居られたりと昔し足利家の御世《みよ》名奉行《めいぶぎやう》と世に稱《たゝ》へたる青砥《あをと》左衞門尉藤綱も訴訟《うつたへ》を聽《きく》時は必らず目を眠りて居られしとぞ夫は又何故と云に假令《たとへ》いかなる名奉行にても元來|凡人《ぼんにん》の身なれば其人の顏色を見て愛惡《あいを》の心生ずるは是人情なり然すれば知らず/\依顧贔屓《えこひいき》の沙汰《さた》にも成ゆくにより心に親疎《しんそ》のなきやうにと眼《め》を眠《ねむ》りて訴訟を聽れたりとぞ何さま容貌《かほかた》ち優《いう》にやさしく見えると雖も心に惡を巧《たく》む者あり又顏色|蓬《おど》ろにして恐ろし氣《げ》なる者も心は實《まこと》に竹を割《わり》たる如き善人あり或ひは言葉を巧みに人を罪に落とすもあり又|己《おのれ》十分の理を持ながら訥辯《とつべん》の爲に言伏られて無實《むじつ》の罪《つみ》に陷《おつ》るもあり其善惡《そのぜんあく》を糺《たゞ》されるは表眼《へうがん》を眠り心眼《しんがん》を以て是を見る時は其|邪正《じやせい》自然に感ずると云ふ [#8字下げ]第四十一回[#「第四十一回」は中見出し]  偖《さて》大橋文右衞門一件|關《かゝ》り合《あひ》山崎町|質渡世《しちとせい》家持《いへもち》五兵衞并びに同人家内の者奉公人に至るまで一同|呼出《よびだ》しになりし處此の番頭久兵衞のみ名前《なまへ》之《これ》なきに付《つき》彼一人は留守《るす》をして家に殘りし也《なり》是は大岡殿深き思慮《しりよ》あるが故に久兵衞一人は故意《わざ》と差紙に名前を載《のせ》ず外の奉公人を呼出《よびいだ》して久兵衞が平日|身持《みもち》の樣子を聞糺《きゝたゞ》さんとの事なる由|時《とき》に越前守殿白洲を見られ下谷山崎町家持五兵衞|悴《せがれ》五郎藏其方|年《とし》は何歳《なんさい》になるや又《また》妻《さい》はあるかと尋ねらるゝに五郎藏はひよくりと天窓《あたま》を上《あげ》じろ/\四邊《あたり》を見廻しながら私しの年は慥《たし》か廿二歳ばかりにて妻《つま》は御座りましたが私しを嫌《きら》ひ此間《このあひだ》御出《おで》やりましたと自他《じた》も分らぬ事を一向|恥《はぢ》る景色《けしき》もなく云ければ越前守殿は微笑《ほゝゑ》まれ是は餘程|拔作《ぬけさく》なりと思はれし故|其儘《そのまゝ》にして若い者重助へ向はれ其方年は何歳《なんさい》になるや何頃《いつごろ》より五兵衞方に奉公致し居《を》るか有體《ありてい》に申立よと云れしに重助はハツと答えて私し儀當年廿二歳にて幼少《えうせう》の時より五兵衞方へ參り最早《もはや》十年程相勤め罷《まか》り在候と申を大岡殿聞れ大分其方は神妙者《しんめうもの》と見える昨年より當年へかけ傍輩《はうばい》の中《うち》に暇《いとま》を取て下《さが》りしと云ふ者か又は不首尾《ふしゆび》にて暇《ひま》を遣《やり》しとか何か五兵衞方をいでし者はなきやどうぢやと有に重助ヘイ當六月中|迄《まで》七年ばかり勤《つと》めし傍輩《はうばい》に藤助と申す者御座りしが眼病《がんびやう》にて下《さが》りしもの其外には出《で》ました者は一向御座りませんと申しければ越前守殿なるほど其の藤助は今以て歸參は致さぬか未《いま》だ眼病《がんびやう》を煩《わづら》ひ居《を》るやどうぢやとあるに重助|御意《ぎよい》の通り今以て眼病にて惱《なや》み居りますと申せば大岡殿其藤助が家内《かない》の樣子は何《どう》ぢや兩親はあるか又渡世は何をして居るや存じ居らば一々申立てよと云はるゝに重助ハイ兩親《りやうしん》はなきとのこと藤助の妹《いもと》が一人御座り年は十九歳ばかりにて未だ亭主《ていしゆ》も是なき由《よし》なりと申しければ大岡殿其者は人の世話にでもなりて居る樣子かと申さるゝに重助は困《こま》りし面色《おももち》にて其樣《そのやう》は一向存じませぬと云ば大岡殿汝は傍輩の事《こと》故《ゆゑ》病氣|見舞《みまひ》に行《ゆき》しならん夫れとも見舞には行ぬか何《どう》ぢや少しにても僞るに於ては其方の爲にならぬぞコリヤ主人五兵衞並に悴の五郎藏などは見舞《みまひ》に行《ゆき》たで有うどうぢやと云るゝに重助|否《いや》私し共も主人も參りし事は一度も御座|無《なく》併《しか》し番頭久兵衞は折々《をり/\》見舞《みまひ》に參り候と申せしかば大岡殿|左樣《さやう》かと申され此事を手帳《てちやう》へ留置《とめおか》れたり又若い者の喜七に向はれ其方|生國《しやうこく》は何國《いづく》にて年は何歳なるやと尋ねらるゝに喜七私し生國は下總國|行徳《ぎやうとく》にて年は十九歳也と答へ夫れより越前守殿は松三郎金藏下男彌助に至る迄|何《いづ》れも生國|歳等《としとう》を聞《きか》れ好々《よし/\》下《さが》れ/\と申されければ皆々|白洲《しらす》を出《いで》て腰掛《こしかけ》へ下《さが》りたり此時|漸々《やう/\》十歳ばかりに成《なる》[#ルビの「なる」は底本では「なり」]小僧の三吉と云ふ者有りけるが主人五兵衞始め此所《こゝ》へ出《いで》し人々吟味の濟《すみ》次第《しだい》一人づつ段々と下《さが》りて今は主人の悴五郎藏と己《おのれ》のみ只二人白洲に殘されければ心細《こゝろぼそ》くやありけんめそ/\と涙を流して泣居《なきゐ》るに[#「泣居るに」は底本では「汝居るに」]大岡殿三吉を見らるゝに如何《いか》にも物賢《ものかし》こく利口《りこう》さうなる小僧ゆゑ此者を欺《だまし》て能々《よく/\》聞糺《きゝたゞ》さば百兩の盜賊も知れるに相違なしと最初《さいしよ》より目を着《つけ》られしかば斯の如く後《あと》へ廻されしなり然《さ》れば先《まづ》再び馬鹿子息《ばかむすこ》五郎藏を糺《たゞ》さんと思はれ越前守殿コリヤ五郎藏其方の妻《さい》は何故|汝《なんぢ》が家《いへ》を出《いで》しや又當人は親類中より參りし者かと申さるゝに五郎藏|否《いや》親類から參つたのでは御ざりませんが一|所《しよ》に寢《ね》るのが嫌《きら》ひで御出《おいで》やりました貰《もら》つたから親類で有りましたが出て行けば他人でござりますどうぞ御奉行樣私しの内儀《おかみさん》を御歸《おかへ》し下さる樣偏へに御願ひ申ますと眞面目《まじめ》で云ふゆゑ居並《ゐなら》びし役人共一同笑ひに耐兼《たへかね》眞赤《まつか》に成て居るにぞ越前守殿も笑《わら》はれながら好々《よし/\》御威光《ごゐくわう》を以て近々に取戻《とりもど》して遣はさん而《して》又其方は家内にて怕《こはい》ものは誰なるやと尋ねられければ五郎藏ハイ私しの怕者《こはいもの》は番頭の久兵衞でござります毎度私しを恐《おそ》ろしく叱《しか》り付《つけ》たり怕《こはい》眼《め》で白眼《にらめ》ますから久兵衞ほど怕者《こはいもの》は御座りません夫れに引替《ひきかへ》若い者重助は誠に好者《よきもの》にて若旦那々々々と云て大事にして呉《くれ》ますと申すに越前守殿夫れにて分つたり下《さが》れ/\と申されしかば私しの御内儀《おかみ》さんは呉々《くれ/″\》も御歸《おかへ》し下《くだ》さいましと言つゝ白洲を立て下りけり跡《あと》には彼の十歳ばかりなる三吉小僧のみ彌々《いよ/\》一人殘され其上《そのうへ》早《はや》日《ひ》は暮《くれ》て白洲へは灯《あか》りがつき四邊《あたり》森々《しん/\》として何《なに》とやら物凄《ものすご》く成しかば三吉は聲を揚《あげ》て泣出《なきいだ》すゆゑ越前守殿は言葉《ことば》靜《しづか》にコリヤ/\三吉|最少《もつ》と前へ出よ何も怕事《こはいこと》はなし泣《なく》な/\サア/\好物《いゝもの》を遣はさうと饅頭《まんぢう》を紙に載《のせ》て與へられ是を喰《たべ》よ/\手前は一番利口者オヽ賢《かしこ》い奴だサア遠慮《ゑんりよ》せずに喰《たべ》よ/\と申さるゝに其處《そこ》は子供ゆゑ菓子《くわし》を見ると直樣《すぐさま》莞爾々々《にこ/\》しながら押頂《おしいたゞ》きて懷中《ふところ》へ仕舞《しま》ふ故《ゆゑ》大岡殿コレ/\小僧|其處《そこ》で喰《たべ》よと言はれしかば三吉ヘイ有難う御座いますが家《うち》へ持《もつ》て行《ゆき》番頭|樣《さん》に見せてから喰《たべ》ないと叱《しか》られますと申すに大岡殿オヽ然樣《さう》か手前は利口者《りこうもの》だサア夫れなら今一ツ遣はさうと此度は自身に縁側《えんがは》まで持出《もちいで》られ手渡しにして直《すぐ》に喰《たべ》よ/\と申されしに三吉は彌々《いよ/\》莞爾々々《にこ/\》として饅頭《まんぢう》を喰居《くひゐ》るに越前守殿|何《どう》だ三吉其方の年は幾歳《いくつ》になると聞れけるに三吉は早少し馴染《なじみ》の付《つき》し體《さま》にてハイ私は當年十歳になりますと答へければオヽ十歳になるか能《よく》答《こた》へが分る至極《しごく》温和《おとなし》い奴ぢや今《いま》尋ねる事を一々申立よ素直《すぐさま》に云ば家《うち》へ歸して遣《や》る又《また》虚《うそ》を云ば家へも歸さず宿入《やどいり》にも遣《やら》ぬぞよ三吉其方は番頭久兵衞の供《とも》をして車坂の藤助の家へ行たであらう公儀《おかみ》では能《よく》御存じなるぞと申さるゝに三吉は成程|時々《とき/″\》久兵衞樣の供をして參りましたアヽ御奉行樣には能知て御出でなさいます私しは家《うち》に居るより供《とも》をして行《ゆく》方《はう》が餘程《よつぽど》能《よう》御座いますアノ久兵衞さんが何時《いつ》もと違つて藤助さんの所へ行《ゆく》時《とき》には莞爾々々《にこ/\》して饅頭《まんぢう》だの羊羹《やうかん》だの又錢だのと種々《いろ/\》[#ルビの「いろ/\」は底本では「いみ/\」]な物を呉《くれ》ますし其上|供《とも》の時|計《ばか》りは久兵衞さんが少しも叱《しか》りません家に居ると毎日々々|叱《しか》られて計《ばか》り居りますと云ひければ越前守殿も莞爾々々《にこ/\》されながら然樣《さやう》か能《よく》其方は咄《はな》しが分る夫《それ》から番頭の供をして藤助の處へ行《ゆく》と番頭は何をして居ると尋ねらるゝに小僧《こぞう》アノ藤助さんの方《はう》へ行《ゆく》と久兵衞さんは直《すぐ》に二|階《かい》へ上《あが》りお民《たみ》さんと云ふ美麗《うつくしい》姉《ねえ》さんと何だか咄《はな》しをしてお出《いで》なされます其時は何時《いつ》でも久兵衞さんが私しに山下へ行て源水でも輕業《かるわざ》でも見て來《こ》いと言て錢を五十文か百文づつ呉《くれ》ますから私しは山下へ行《ゆき》遊んで來ては又供をして家《うち》へ歸りますと云ひしかば大岡殿成程|然《さう》して又其|眼病《がんびやう》で下《さが》つて居る藤助は何をして居ると問《とは》るゝに小僧ヘイ藤助さんは下の火鉢《ひばち》の傍《そば》に居て色々な面白い咄《はな》しをしたり甘《うま》い物などを呉《くれ》ますと云ば越前守殿|然樣《さう》か其藤助の家《うち》は車坂の通りにて右より左へ行《ゆく》好《いゝ》所《ところ》だらうなと申されしに小僧|然樣《さう》さアノ大井戸より左の方へ行くと水菓子屋《みづぐわしや》の裏《うら》でございますと云ふを大岡殿|然樣《さよう》よ/\其大井戸の先《さき》で有るだらう抔《など》申さるゝに小僧オヤ御奉行樣には能く御存じで御出《おいで》なされますと驚くを大岡殿ムヽ三吉其方は利口者なれば家《うち》へ歸つても今云し事を決して誰《たれ》にも咄《はな》すまいぞ若《もし》咄《はな》すと又々呼び出して今度は歸さぬぞよと有るに小僧は平伏《へいふく》なし決して申しは致しませんと答へければ大岡殿|夫《それ》で好《よし》サア歸れ/\と申さるゝを聞き小僧三吉は發《ほつ》と息《いき》をつきて白洲より出で來り夫れより腰掛《こしかけ》へ行きけるに皆々打より三吉手前一人|跡《あと》に殘つて嘸《さぞ》怕《こはか》つたらう何を御奉行樣が御聞き成れたと問ひければ三吉は内心に爰《こゝ》だと思ひ只《たゞ》何歳《いくつ》になるの家《うち》は何所《どこ》だの父や母は有るかのと御聞なされたる[#「御聞なされたる」は底本では「御きなされたる」]計《ばか》りなりと云ふゆゑ皆々|然樣《さやう》であつたかと隱《かく》すとは心も付ずサア/\餘《よ》ほど夜も更《ふけ》たれば急ぐべしと一同|揃《そろ》ひて山崎町の油屋へぞ歸りける [#8字下げ]第四十二回[#「第四十二回」は中見出し]  扨又番頭久兵衞は今日文右衞門の一件にて五兵衞始め一|同《どう》呼出《よびいだ》されしゆゑ流石《さすが》の惡黨《あくたう》も如何《いかゞ》成行《なりゆく》やと竊《ひそ》かに心配なし居たる折柄|※[#「圖」の「回」に代えて「面から一、二画目をとったもの」、501-13]《はか》らず後藤半四郎入り來り退引《のつぴき》させずお秀の離縁状は取《とら》れる事になりしかば若旦那五郎藏歸り來らば早々離縁状を認《したゝ》めさせ馬喰町なる半四郎の方へ持行《もちゆか》んと思ひ居たるに漸々《やう/\》夜に入りて一同歸り來りしゆゑ久兵衞は脛《すね》に疵《きず》持《もつ》身《み》なれば斯《かく》間《ま》の惡《わる》き機《をり》には御奉行所にても何か面倒《めんだう》なることありしならんと思ひ離縁状の一件は後《あと》になし直樣《すぐさま》家主吉兵衞方へ行き今日《けふ》御番所にて御尋ねの一件は如何《いかゞ》なる儀にやと聞くに吉兵衞は家《うち》の者に聞けば直樣《すぐさま》分る事を故意々々《わざ/\》此所まで聞に來る事もないと思へば私しは差添《さしそひ》なれば皆々の後《あと》に居《ゐ》たるゆゑ何の御尋ねやら一向に聞取れずと云ければ久兵衞は是非なく立歸《たちかへ》り店《みせ》の重助喜助松五郎[#「松五郎」はママ]金次等に聞けるに皆々只油屋へ何時頃《いつごろ》奉公に來て歳《とし》は幾《いく》つだと云ふ御尋ねばかりにて外には何も仔細《しさい》なしと云ふを彼の馬鹿息子《ばかむすこ》五郎藏は莞爾《にこ/\》と笑ひながら己《おれ》は嬉《うれし》い事がある女房お秀を取返して下さると仰せられ誠に優《やさ》しき御奉行樣なりと一人《ひとり》悦び居たりけり又小僧の三吉は白洲へ一人|取殘《とりのこ》され泣《なき》しと云て皆々に笑はれたる故《ゆゑ》家《うち》へ歸るや否《いな》や店《みせ》の隅《すみ》に小《ちひ》さく成て居るゆゑ番頭久兵衞は三吉を呼び手前|一人《ひとり》跡《あと》に殘されたと云ふが御奉行樣が何を御聞なされたか咄《はな》して聞《きか》せよと云共《いへども》大岡殿より豫《かね》て口止《くちど》めありしかばさらに物を云ず默止《もくし》居《ゐ》るにぞ久兵衞は急込《じれこみ》ヤイ三吉何を申し上《あげ》たるや己れ云はざるに於ては斯《かう》するぞと頬《ほう》を爪捻《つめり》尻《しり》を爪捻《つめり》種々《いろ/\》にして責問《せめとへ》ども一向に云はざるゆゑ久兵衞扨は此小僧めが車坂のお民の一件を申し上《あげ》たるに相違なしと察《さつ》しければ此上《このうへ》押《おし》ても聞ず夫よりは先《まづ》五郎藏に咄《はな》して離縁状を認めさせ早々|持《もつ》て行《ゆか》ねば後藤が又々|踏込《ふみこん》で來たると云しかば是は差當《さしあた》つての難儀と思ひ若旦那々々と二|階《かい》へ連れ行き扨《さて》外《ほか》の事にてもなく今日|御前《おまへ》さんのお留守にお秀さんの伯父《をぢ》なりとて後藤半四郎と云ふ浪人者が來り斯樣々々《かやう/\》の掛合になり是非離縁状を出せとの事なるが若《もし》遣《やら》ずに置けば大變な騷動《さうどう》に成行《なりゆく》ゆゑ早々|去状《さりじやう》を御書《おかき》なされと申すに五郎藏は甚だ不承知なる面《かほ》にて返詞《へんじ》もせざれば久兵衞は種々《いろ/\》に説勸《ときすゝ》むると雖も五郎藏は却て腹《はら》を立て今日御奉行樣がお秀を取戻《とりもど》して遣はすと仰せられた故離縁状は何樣《どう》しても書《かゝ》ずと云ふに番頭久兵衞は甚だ困《こま》り果《はて》否《いや》然樣《さやう》なる事を云はれたとて離縁状を遣《やら》ずに置けば今にも後藤半四郎が來るに違《ちが》ひなし然《さ》すれば家内中|鏖《みなご》ろしにすると云て歸られたり劔術遣《けんじゆつつか》ひの浪人なれば勿々《なか/\》切り兼《かね》は致すまじ又お秀ばかり女にてはなし私しが外《ほか》に美《うつく》しい女を嫁《よめ》に貰《もら》ひて上《あげ》ます程に是非とも去状を御出し成《なさ》れと威《おど》しつ賺《すか》しつ漸々《やう/\》の事にて離縁状を認めさせ是を以て早々馬喰町なる武藏屋長兵衞の方へ到り後藤半四郎に對面《たいめん》して去状を渡し持參金の百兩並びに道具類は何卒兩三日の間御待ち下《くだ》さるべし然《さ》すれば相違なく御渡し申さんと半四郎へ呉々《くれ/″\》約束《やくそく》して立ち歸りしが久兵衞は道々心に考ふる樣今日三吉めが車坂の一件を御奉行所へ申し上《あげ》たる樣子ゆゑ兎《と》も角も惡事の顯《あらは》れ口《くち》になりたり然《さ》れば所詮《しよせん》斯《かう》しては居《ゐ》られず何でも足元の明《あか》るい中《うち》に高飛《たかとび》をするより外に思案はなしと忽然《たちまち》元《もと》の惡心を起《おこ》し其夜家内は寢鎭《ねしづ》まり良《やゝ》丑刻半《なゝつはん》[#ルビの「なゝつはん」はママ]共《とも》思ふ頃《ころ》不※[#「圖」の「回」に代えて「面から一、二画目をとったもの」、503-2]《ふと》起出《おきい》で豫《かね》て勝手は知りしゆゑ拔足《ぬきあし》さし足して奧へ忍び行き佛壇《ぶつだん》の下より三百五十兩の大金を盜み出《いだ》し是をば胴卷《どうまき》に入れて確《しつか》と懷中《くわいちう》にて縛《しば》り夫れより又土藏へ忍び入り質物《しちもの》の中にて何《いづ》れも金目なる小袖類を盜みとり風呂敷《ふろしき》に包みて背負《せおひ》傍邊《かたへ》に在りし鮫鞘《さめざや》の脇差を腰にぶつこみ猶又|拔足差足《ぬきあしさしあし》をして裏口より忍び出で草鞋《わらんぢ》を履《はき》て逃去《にげさら》んとする時馬鹿息子の五郎藏が小便に起《おき》戸惑《とまど》ひなしつゝ暗紛《くらまぎ》れに久兵衞へ突當《つきあた》りしかば久兵衞は驚きながら透《すか》し見てモシ若旦那|御靜《おしづ》かに成れましと云ば五郎藏も大いに驚きヤア貴樣は久兵衞か草鞋《わらんぢ》を履《はい》て今より何所へ行《ゆく》のだと聞れて久兵衞は南無三寶《なむさんばう》見|咎《とが》められしか最早《もはや》斯《かく》なる上は是非に及ばず毒《どく》を喰《くら》はゞ皿《さら》までと腰なる一刀拔くより早く聲《こゑ》立《たて》させじと五郎藏が口の中へ突貫《つきとほ》し二ツ三ツ[#「二ツ三ツ」は底本では「二ツ二ツ」]刺《ゑぐ》りしかば五郎藏は七轉八倒なすのみにて其儘《そのまゝ》息《いき》は絶果《たえはて》たり頓《やが》て久兵衞は一刀を鞘《さや》に納め周章狼狽《あわてふためき》五郎藏の死骸《しがい》を庇間合《ひあはひ》へ捨置《すておき》て早足《はやあし》に逃出《にげいだ》し手拭ひにて深く頬冠《ほゝかむ》りをなし膽《きも》太《ふと》くも坂本通りを逃行く機《をり》から向うより町方の定廻り同心手先三人を連《つれ》吉原より返りと見えて此方《こなた》へ來るゆゑ久兵衞は仕舞《しまつ》たりと思ひながら早足《はやあし》に軒下《のきした》へ廻り天水桶《てんすゐをけ》の蔭《かげ》へ隱れんとする處をソレ怪しき曲者《くせもの》召捕《めしとれ》と聲の下より手先の者三人|破落々々《ばら/\》と立懸り上意々々と云ながら取て押《おさ》へ忽ち繩《なは》をぞ懸《かけ》たりける因て久兵衞は逃損《にげそん》じたりと思ひながらも遁《のが》るゝだけは云拔《いひぬけ》んと何卒|御免《おゆる》し下されよ私しは決して怪しき者に候はず偏《ひとへ》に御勘辨《ごかんべん》を願ひますと云ば手先の者《もの》何《なん》だぐず/\云ふ事たアネヘ貴樣は怪しい奴に相違《さうゐ》ない夜中|無提灯《むぢやうちん》にて其樣《そん》な大包みを背負《せおひ》形容《なり》にも似合《にあは》ぬ鮫鞘《さめざや》の脇差《わきざし》をさし是は大方|其處《そこ》らで盜み來りしならん殊に草鞋《わらんぢ》を履《はき》是れ何《どう》しても泥棒《どろぼう》と云ふ看板《かんばん》を掛て居る樣なものだサア此方へ來いと直樣坂本の自身番へ引上しに出役岡村七兵衞|馬籠《まごめ》藏《くら》十郎の兩人|控《ひか》へ居る前へ久兵衞を引き据《すゑ》て先《まづ》雜物《ざふもつ》を改るに質物と見え皆《みな》質札《しちふだ》の付たる儘《まゝ》にて大風呂敷に一包みあるゆゑヤイ汝《おのれ》は何《いづ》れの者ぞ尋常に申立よと有りしかば久兵衞は俯向《うつむき》居《ゐ》たりしが首《かしら》を上《あげ》私しは山崎町油屋五兵衞方の番頭を勤《つと》め久兵衞と申す者にて何も決して怪《あや》しき者には御座なく候と申すに馬籠《まごめ》岡村の兩人此包みは如何致したる品なるやと尋ねければ久兵衞は拔《ぬか》らぬ面《かほ》にてヘイ是は下質《したしち》へ下《さげ》に參る品で御座りますと云ふに兩人ナニ下質へ下《さげ》に行《ゆく》かとコレ宜加減《いゝかげん》な虚《うそ》を云《いへ》夜中|草鞋懸《わらんぢがけ》にて下質《したじち》へ下《さげ》に行《ゆく》奴《やつ》がある者か爰《こゝ》な不屆者《ふとゞきもの》め有體《ありてい》に白状せよ眞直《まつすぐ》に申立なば公儀《おかみ》にも御慈悲が有ぞと云つゝ久兵衞の脇差《わきざし》を改めるに鮫鞘《さめざや》にて縁頭《ふちかしら》其外立派なる腰《こし》のものなれば中身《なかみ》を見《みん》と拔放《ぬきはなし》ければ鍔元《つばもと》より切先《きつさき》まで生々《なま/\》しき血汐《ちしほ》の付|居《ゐる》にぞコレヤ汝《おのれ》は大膽不敵なる奴かな是が何より證據なり何處《どこ》で人を殺し夜盜《よたう》をして來りしぞ尋常に云て仕舞へ何《どう》で汝《われ》が命《いのち》は無者《なきもの》だ幾《いく》ら隱しても遁《のが》れる譯《わけ》には行《ゆか》ないぞコリヤ町役人油屋五兵衞を呼出すべしと云ければ畏《かしこ》まり候と町役人走り行き油屋の表《おもて》を叩《たゝき》けれども今日は奉行所へ一同|罷出《まかりいで》勞《つかれ》にも熟《よく》寢《ね》こみ居て何分|起出《おきいで》ぬゆゑ裏口に廻り見るに如何さま久兵衞が逃出したる所らしく戸など明放《あけはな》しありしかば家《うち》へ入て家内の者を起し此方《こなた》の番頭久兵衞が今《いま》自身番へ上《あげ》られたるに付五兵衞殿を起して呉《くれ》よと云ふに夫はと云て家内皆々|騷《さわ》ぎ立て五兵衞を起しければ五兵衞も驚き何《なに》にしても大變なりと考《かんが》へ居《ゐ》る中町役人共は若《わか》い衆《しう》若衆内々に怪我人《けがにん》はなきか改め見よと云ふに一人の若い者若旦那の五郎藏樣が御見えなされぬが何所《どこ》へ御出《おいで》なされしやと申すに一同|何樣《なにさま》是《これ》は不思議と云ふを聞き主人の五兵衞は出來《いできた》りナニ悴《せがれ》がみえぬと夫れは何所《どこ》へ行たかと家内中を探《さが》せ共《ども》一向に影《かげ》も見えず猶《なほ》隈《くま》なく探《さが》し求《もと》むる中《うち》裏口《うらぐち》の庇間合《ひあはひ》に五郎藏が倒れて居たりと大聲《おほごゑ》揚《あげ》て呼はるゆゑ夫れと云て手燭《てしよく》を照《てら》し行《ゆき》て見るに口中を刺《ゑぐ》られ朱《あけ》に染《そ》みて居りしかば是は大變々々と云《いふ》聲《こゑ》に親父の五兵衞も駈付《かけつけ》て五郎藏が殺されたりとは夫れは如何《いかゞ》せし事ぞと死骸を見てヤヽ是はと尻餠《しりもち》を搗《つき》起《おき》る事もならず悲《かなし》むにぞ家内中上を下へと騷動しける所へ坂本の自身番よりは矢の使《つか》ひにて御役人が御待兼《おまちかね》なり五兵衞殿を早く連て來《きた》られよとの事《こと》成《なれ》ども五兵衞は悴《せがれ》を殺され心|顛倒《てんだう》して只《たゞ》其處《そこ》よ此所《ここ》と胡亂《うろ》つき居けるゆゑ町役人は叱《しか》り付《つけ》自身番《じしんばん》[#ルビの「じしんばん」は底本では「じしんだん」]へと急《いそ》ぎけり [#8字下げ]第四十三回[#「第四十三回」は中見出し]  却説《さても》油屋五兵衞は町役人に伴《ともな》はれ坂本の自身番へ到《いた》りしに豫々《かね/″\》心を緩《ゆる》して召仕《めしつかひ》し番頭久兵衞は高手小手に縛《いまし》められ居たるゆゑ五兵衞は久兵衞を見るや否《いな》や汝《おのれ》は/\人面獸心《にんめんじうしん》なる奴かな五年|以來《このかた》目を懸て遣はしたる恩を忘れよくも悴《せがれ》五郎藏を突殺《つきころ》し金銀質物を盜み出せしよな悴の敵《かたき》思ひ知れやと云ながらも飛懸《とびかゝ》りて押伏《おしふせ》んとするゆゑ役人は聲をかけコリヤ/\五兵衞|控《ひか》へ居《を》れ此方にて召捕《めしとり》たる罪人を手込《てごめ》にせんとは不屆なり愼んで此方の調べを受《うけ》よと叱《しか》り付《つけ》るに五兵衞はハツと心付是は實《まこと》に恐れ入り奉つる彼奴《かやつ》に悴を殺されたる無念の餘り御役人樣の御前をも忘《わす》れ不禮《ぶれい》仕つり候段|眞平御免下《まつぴらごめんくだ》さるべしと云ば役人聞て夫《そ》は不便の儀なり而《して》又其手續きは如何なる事ぞと尋ぬるに五兵衞|渠《かれ》は私し方へ五ヶ年以前より奉公に參り至極《しごく》實體《じつてい》に勤め居《をり》ますゆゑ年頃も相應に付き番頭に取立《とりたて》店《みせ》の事ども任《まか》せ置候處今宵悴五郎藏を殺害仕つり金子三百五十兩を盜《ぬす》み取《とり》猶《なほ》又《また》奧藏《おくぐら》へ忍び入り質物品々並びに脇差《わきざし》一|腰《こし》を持出《もちいだ》し候やに存じられ候へどもいま確《しか》と取調べ行屆き申さず候と云ひければ其段久兵衞を糺《たゞ》すに同人も今更《いまさら》陳《ちん》ずる事能はず今宵《こよひ》の事共白状なしけるにぞ一々|口書《くちがき》を取り翌朝町奉行大岡越前守殿役宅へ送《おく》りに相成たり是に因て油屋五兵衞よりは右の始末を巨細《こさい》に認め五郎藏の死骸《しがい》檢使《けんし》を願ひ出でけるに早々役人來りて死骸《しがい》を改ため五兵衞始めの口書《くちがき》を取り大岡殿へ差出せしかば大岡殿此久兵衞は浪人《らうにん》文右衞門が豫《かね》て關《かゝ》り係《あひ》の者なればとて直樣《すぐさま》白洲へ呼出され調べにこそは懸《かゝ》られけれ然《さ》れば久兵衞は繩付《なはつき》の儘《まゝ》砂利《じやり》の上《うへ》に蹲踞《うづく》まるに大岡殿是を見られ下谷山崎町|家持《いへもち》五兵衞召仕ひ久兵衞其方生國は何國《いづく》にて年は何《なん》歳なるや又《また》何頃《いつごろ》より五兵衞方へ奉公|住《ずみ》致したるや有體に申立よと云はるゝに久兵衞私し生國は上總國《かづさのくに》東金《とうがね》にて五ヶ年以前より五兵衞方へ奉公|住《ずみ》致し居《をり》歳《とし》は當年四十二歳に相成候と申しければ越前守殿|而《し》て又其方|如何成《いかなる》所存にて五兵衞の悴を殺害致したるや|且《かつ》又《また》金子三百五十兩並びに質物品々|脇差等迄《わきざしとうまで》盜《ぬす》み取りたるに相違なきやと有るに久兵衞は今更《いまさら》遁れぬ處と覺悟《かくご》を極《きは》めしかば仰せの通り不※[#「圖」の「回」に代えて「面から一、二画目をとったもの」、505-17]《ふと》出來心にて金子質物等を盜《ぬす》み逃出《にげいだ》さんとせし機《をり》五兵衞悴五郎藏に見咎《みとが》められ候間|據《よんど》ころなく殺害致し立退《たちのき》申候此儀は全く出來心に付何卒御慈悲に命《いのち》ばかりは御助け願ひ奉つり候と然《さ》も初心らしく申を越前守殿|此奴《こやつ》勿々《なか/\》横道《わうだう》なりと思はれコリヤ久兵衞其方は去年極月中旬浪人文右衞門事五兵衞の店にて百兩の金を盜《ぬす》みたりとの言懸りは是れも其方が仕業《しわざ》なるべし有體に白状せよと申さるゝに久兵衞|心《こゝろ》の中《うち》に今度の事は其節《そのせつ》五兵衞と突合《つきあはせ》になり一旦白状したれば今さら爲術《せんすべ》なけれども百兩の金は何所《どこ》までも文右衞門に負《おは》せ渠《かれ》をも倶《とも》に殺さんと思ひしかば恐れながら此度の儀は御尋ねの通りに相違《さうゐ》御座《ござ》なく候へ共百兩の金は文右衞門が盜《ぬす》み取りしに違《ちが》ひ御座なく候と申しければ越前守|否《いな》汝《なんぢ》は然樣《さやう》申せども文右衞門の人體《にんてい》盜賊《たうぞく》などすべき者に非ず其は全く馬喰町なる紙屑屋長八より遣はしたる金子にて質物《しちもつ》を受出《うけいだ》したりと申す此儀相違なく聞ゆるぞ眞直《まつすぐ》に白状致せと有るに久兵衞ナニ其者は長八にては是なく新藤市之丞と申す紙屑買《かみくづかひ》の由に御座候|併《しか》し同人の住所を尋ね候處知れざる由《よし》を申し金子の出所不定に御座候|間《あひだ》百兩の金は文右衞門が盜《ぬす》み取《とり》しに相違御座なく候と云張《いひはり》しかば越前守殿|聲高《こゑだか》によく承まはれ汝《なんぢ》は何程|辯《べん》を巧《たく》みに陳《ちん》じ僞《いつ》はる共此方には慥《たし》かなる證人あるぞ證據なきことは強《しひ》て問糺《とひたゞ》さず如何程に強情《がうじやう》を申すとも汝《おのれ》が一命は助かる事でなし彌々《いよ/\》陳《ちん》じ僞《いつ》はるに於ては證人を此處《こゝ》へ呼び出すぞ何《どう》ぢや夫れにても云はぬかと申さるゝを久兵衞は猶《なほ》恐《おそ》れず假令《たとへ》誰《たれ》が出《いで》ましても存ぜぬ事は何時《いつ》までも存じませんと云ふに大岡殿コリヤ未だ其方は強情《がうじやう》を申か扨々《さて/\》大膽《たいたん》なる奴かな然《しか》らば證人を呼出《よびいだ》し引合せんとて下役へ差※[#「圖」の「回」に代えて「面から一、二画目をとったもの」、506-12]《さしづ》あれば武藏屋長兵衞紙屑屋長八の兩人白洲へ呼び込みになり其所《そこ》へ罷り出るを越前守殿見られ馬喰町二丁目武藏屋長兵衞|並《ならび》に前名新藤市之丞|當時《たうじ》紙屑屋長八|其《その》方|共儀《どもぎ》此程|訴《うつた》への趣き|今《いま》一應|其所《そこ》にて申し立よ且又|去《さん》ぬる十二月中越後高田浪人大橋文右衞門へ尋ねの儀に付|紙屑問屋《かみくづとんや》並《なら》びに屑買等一同呼出したる|節《せつ》其方江戸内に住居致し|居《をり》しや又旅行留守中にてもありたりや其|仔細《しさい》包《つゝ》まず申し立よと申さるゝに長八|愼《つゝ》しんで答る樣私し儀は元越後高田の藩中に候處今より十八ヶ年以前|若氣《わかげ》の過《あや》まちにて同役の娘と不義に及び主家の法に依て一命をも|召《め》さるべきの處物頭役大橋文右衛門の情《なさ》けにて助けられ廿兩の金子を惠《めぐ》み呉《くれ》候を路用にいたし江戸表へ罷《まか》り出《いで》候節中仙道熊谷堤に於て惡漢《わるもの》に出逢《いであ》ひ私し共夫婦一命も危き機《をり》から讃州丸龜の浪人後藤半四郎と申す者に救《すく》はれ猶又右半四郎より金子廿兩を惠《めぐ》み呉《くれ》候て江戸表馬喰町まで同道いたし其後是に控《ひか》へ居り候長兵衛の世話《せわ》に相成|紙屑渡世《かみくづとせい》を致し罷り在候處|去《さん》ぬる十二月中私し儀上野の大師へ參詣《さんけい》の途中《とちう》上野車坂下にて大橋文右衛門に廻《めぐ》り逢ひ夫れより同人宅へ參り樣子を尋ね候處文右衛門は八ヶ年以前|國表《くにおもて》越後家《ゑちごけ》浪人《らうにん》いたし當時は山崎町に住居《すまひ》悉皆《こと/″\》く困窮《こんきう》零落《れいらく》に及び往來に立て袖乞を致し漸々《やう/\》其日々々を送り候と申す事故私し儀甚だ氣の毒《どく》に存じ十八ヶ年以前の恩義《おんぎ》を報《はう》ぜんと思ひ一人の娘を新吉原江戸町一丁目玉屋山三郎方へ身の代金《しろきん》五十兩にて年季《ねんき》勤《つと》めに遣はし右五十兩の中二十五兩を大橋の方へ持參仕り候處文右衛門儀|武士《ぶし》の意氣地《いきぢ》を立て一|旦《たん》惠《めぐ》み遣はしたる金子を今受取ては一分立ずと申して何分|請取《うけとり》申さず是に依て私し儀も折角《せつかく》娘《むすめ》まで賣たる金を請取られざる事|實《まこと》に本意なく存じ文右衛門が油屋五兵衛と申す質屋へ質物流れの懸合《かけあひ》に出行《いでゆき》候留守中|密《ひそ》かに煙草盆の中へ入れ置て罷り歸り候處是に控《ひか》へ居る長兵衛が兄の大病にて讃州丸龜へ參るに付《つき》同道致し呉《くれ》よと申すにより幸《さいは》ひ先年|大恩《だいおん》受《うけ》し後藤半四郎へも謝禮《しやれい》旁々《かた/″\》尋ねたくと存じ十二月十四日長兵衞私し兩人御當地を出立致し讃州丸龜へ罷越《まかりこし》候事に候へば|舊冬《きうとう》屑屋《くづや》一同御呼出しの節は御當地に罷り在り申さず漸々《やう/\》一昨日江戸表へ立歸り私し妻より舊冬《きうたう》屑屋《くづや》一同御呼出しの樣子を承まはり候に付《つき》文右衛門の安否《あんぴ》を尋ね候處御|召捕《めしとり》に相成候由ゆゑ大いに驚き取敢《とりあへ》ず今般《こんぱん》御訴へ申上奉つり候儀に御座候|右《みぎ》故《ゆゑ》文右衞門質物を受出せしは全く私しより相贈《あひおく》り候金子に相違之なく勿々《なか/\》文右衛門儀盜賊など仕つり候者に候はず何卒《なにとぞ》御慈悲《ごじひ》を以て同人儀出牢仰せ付られ下し置《おか》れ候樣偏へに願ひ上奉つり候と一|伍《ぶ》一什《しじふ》を殘らず申し立しかば越前守殿長八が眞實《しんじつ》を甚だ感《かん》じられ且《かつ》は文右衛門夫婦の申す口《くち》と少も相違せざるゆゑ然《さ》もあるべしと思ひ夫《それ》よりまた久兵衛に向はれ其方も今申す通り前名新藤市之丞當時|屑屋《くづや》長八が申立たる通り文右衛門が質物《しちもつ》を受出せし金子は長八より贈《おく》り遣はしたるに相違なしと申す然《さ》すれば其方百兩の金子を盜み取り罪を文右衛門に負《おは》せんとせしに相違あるまじコリヤ久兵衛よく承まはれ文右衛門が家内を吟味《ぎんみ》せしに殘金十一兩|餘《よ》在《あ》りたり是を思へば文右衛門|盜賊《たうぞく》でなき事は明白《めいはく》なり斯程《かほど》に證據ある上は汝何程陳ずる共|詮《せん》なき事ぞ痛《いた》き思ひをせぬ中に白状せよサア何《どう》ぢや云ぬか汝《おのれ》如何に強情なり共云せずには置ぬ不屆《ふとゞき》なる奴哉と白眼《にらま》るれ共久兵衞は少しも恐るゝ面色《けしき》無《なく》假令《たとへ》文右衛門儀百兩の盜賊に御座なく候共私しは其金一向に存じ申さずと云ひ居たるにぞ流石《さすが》の大岡殿も扨々|強面《しぶとき》奴《やつ》なりと惘《あき》れられしが好々《よし/\》然《さ》あらば白状するに及ばず汝《われ》に逢せる者有り驚くなとて直樣《すぐさま》車坂下六兵衛|店《たな》藤助並びに妹お民を呼出しとなる是は久兵衛が圍《かこ》ひ置し女なれば此二人の者出なば如何に強惡《がうあく》なる久兵衞にても最早《もはや》陳《ちん》ずる事能うまじと思はれたり然れ共久兵衛は兎角《とかく》己《おのれ》が命《いのち》はなき者と思ひしゆゑ百兩の一件は是非々々文右衛門に負被《おつかぶ》せ倶《とも》に抱込《だきこん》で殺す了簡《れうけん》なり然《さ》る程に藤助並びに妹お民の二人は家主六兵衛差添にて罷り出《いで》白洲へ平伏なすにぞ久兵衛是はと思ひしが此者兄弟出し上《うへ》は露顯《ろけん》するに相違なしと心の中に思案を極《きは》め猶も工夫《くふう》をなし居たり [#8字下げ]第四十四回[#「第四十四回」は中見出し]  扨《さて》も番頭久兵衛は種々事を左右に寄《よせ》百兩の盜賊は大橋文右衛門に相違《さうゐ》なき旨《むね》申し立ると雖も大岡殿は心眼《しんがん》を以て善惡を見拔《みぬか》れ追々證人等も引合せらるゝことになりしかば流石《さすが》強惡《がうあく》の久兵衞も巧《たく》みし事ども彌々露顯と觀念《くわんねん》なし居たり然《され》ば越前守殿の裁許は實に天眼通を得たりと云ふべし是も其頃の事とかや江戸神田鎌倉河岸に豐島屋十右衛門と云《いふ》名譽《めいよ》の酒店《さかや》あり渠《かれ》は中興《ちうこう》の出來分限にて元は關口《せきぐち》水道《すゐだう》町の豐島屋と云ふ酒屋の丁稚《でつち》なりしが永々の年季《ねんき》を實體に勤め上しかば豐島屋の暖簾《のれん》を貰《もら》ひ此鎌倉河岸へ居酒屋の店を出せし處當時|常盤《ときは》橋外通り御堀浚《おほりざら》ひ御普請《ごふしん》最中《さいちう》に付《つき》渠《かれ》が考へにて豆腐《とうふ》の大田樂《おほでんがく》を拵《こしら》へ是を居酒とともに安價《やすく》賣《うり》けるゆゑ日々大勢の人夫此豐島屋へ居酒を呑《のみ》田樂《でんがく》を喰《くら》ひに來りしに渠《かれ》如才《じよさい》なき者なれば我身代に取付《とりつく》は此時なりと思ひ愛想《あいさう》能《よく》酒も負《まけ》て酌《つぎ》ければ其の繁昌《はんじやう》大方ならず日毎に三十貫文餘りの利潤《りじゆん》を得て忽ちに大身代となりて酒店をも開《ひら》しかど[#「開《ひら》しかど」はママ]昔しを忘れぬ爲とて居酒の店は其儘《そのまゝ》に商賣なし今以て繁昌致しけり此の者素より日蓮宗を信仰《しんかう》なし己の菩提所《ぼだいしよ》は牛込《うしごめ》の宗伯寺なりしが終に一|大檀那《だいだんな》となり寄進の品も多く又|雜司《ざふし》ヶ|谷《や》の鬼子母神《きしぼじん》金杉《かなすぎ》の毘沙門天《びしやもんてん》池上《いけがみ》の祖師堂《そしだう》などの寶前《はうぜん》へ龍越《りうこし》と云ふ大形の香爐《かうろ》を供へ何《いづ》れも豐島屋十右衛門と云ふ奉納《ほうなふ》の銘《めい》あり是れ亦今以て存すと云ふ或日此豐島屋の店へ往來者大勢入り込み例《れい》の如く居酒を飮居たりしが其中に年の頃六十餘と見ゆる老人《らうじん》獨酌《どくしやく》にて一二合飮て其後代錢は拂ひたれども酒の醉《ゑひ》廻《まは》りしにや頻《しき》りに睡眠《ねむり》居たるが不※[#「圖」の「回」に代えて「面から一、二画目をとったもの」、509-3]《ふと》目《め》を覺《さま》し蹌踉《ひよろ/\》しながら一二丁程行し頃彼の老人|血眼《ちまなこ》になりて豐島屋の店へ立歸り最前|我《わが》腰掛《こしかけ》居《ゐ》たる邊を胡亂々々《うろ/\》と何やら尋ねる樣子なりしが側《そば》なる者に對《むか》ひ私しは最前此所にて酒を飮《のみ》代錢は拂ひたれども心氣の勞《つか》れにて思はず暫時《しばし》居眠《ゐねふ》り眼覺《めざめ》て後此所を立ち出で途中にて心付懷中を見し處に大事の財布《さいふ》を取落せり其の財布の中には命にも替難《かへがた》き金廿兩入置たれば若|何方《どなた》ぞ御拾《おひろ》ひ成れし御方あらば何卒御渡し下されよとほろ/\涙を飜《こぼ》しながら申しける故|在合《ありあふ》人々|興《きよう》を醒《さま》し我々は財布の樣なる物は一向見掛けずと云けれ共尚ほも五月蠅《うるさく》其處斯處《そこここ》と尋ね廻りける故|店《みせ》の者共是を聞て此者は盜人か騙《かた》りならんと思ひけるにコレ爺殿《おやぢどの》貴殿《おまへ》が二十兩と云ふ金を取落したるとや夫は夢《ゆめ》にても見しならん萬一《もし》實《まこと》に落したり共此所の店にては有まじ夫れは外を搜《さが》されよ斯《かう》見《み》た處が二十兩は扨置《さておき》二兩の金も持るゝ樣な人物《ひとがら》ならずと散々に罵りければ老人は首《かうべ》を振《ふり》然《さう》言るゝは道理《もつとも》なれど其金子には仔細ありと云ふをも聞ず大勢の若い者|此爺《このおやぢ》めは我等が店へ難題《なんだい》を言掛る騙《かたり》なりとて一同立掛り打擲《ちやうちやく》して表へ突出《つきいだ》しければ大聲揚て泣出《なきいだ》し如何にも皆々疑はるゝは是非なけれど私しは搖《ゆす》り騙《かた》りをする樣な者にては決して之なしと種々《いろ/\》申し譯をなせ共皆々聞入れず早々立去べしと追遣《おひや》るにぞ老人は是非もなく/\涙《なみだ》を拂《はら》ひすご/\立歸らんとなしける處に此豐島屋の向うを立場《たてば》として日|毎《ごと》に出て居たる駕籠舁《かごかき》あり今日も此處にて往來の客を進め居たりしが今老人の突出《つきいだ》されしを見て餘りの勞《いた》はしさの儘彼の老人を小蔭《こかげ》へ指招《さしまね》き其許《おまへ》は先刻《さつき》豐島屋にて酒を飮歸りし跡に何かは知ず木綿《もめん》の財布らしき物落て有しを店の若い者|拾《ひろ》ひ取り何處《どこ》へか隱せしを我等|彼所《かしこ》にて能く見屆けたり其品は正しく其許《そのもと》の財布ならん然《さ》れ共今の如く其許《おまへ》を打擲致す程の次第なれば今と成ては勿々《なか/\》直《すぐ》素直《すなほ》には出すまじけれ共餘り其許《おまへ》の勞《いた》はしさに此事を内々知せ申すなりと云ければ老人は是を聞て力を得《え》扨々御親切|忝《かた》じけなし私しは本所松坂町に住む七右衞門と申す者なるが其金の譯と云ふは我等女房三年越の大病にて打臥《うちふし》居《を》り惣領の悴《せがれ》は風眼《ふうがん》にて種々《いろ/\》療治致せ共當春よりとう/\兩眼共|潰《つぶ》れ何共詮方なく我等は老年に及びし上《うへ》重病人に掛りて商賣等も致さず益々困窮に迫《せま》り今日を凌《しの》ぎ兼るより種々《いろ/\》工夫《くふう》致せ共外に手段もなきまゝ家内相談づくにて不憫《ふびん》ながら一人の娘を吉原角町の海老屋《えびや》へ勤め奉公に賣渡し身の代金《しろきん》二十兩血の涙にて受取持歸る途中餘りの悲《かな》しさに胸《むね》の塞《ふさが》りしまゝ切《せめ》てもの憂晴《うきはら》しと豐島屋へ立寄て一合飮しに心氣の勞《つか》れより我を忘れて暫時《しばし》睡眠《ねむり》不※[#「圖」の「回」に代えて「面から一、二画目をとったもの」、510-5]《ふと》目を覺《さま》し立歸りしに財布の見えねば南無三と取て返して探《さが》せし處只今の次第ゆゑ此上は親子三人|飢死《うゑじに》より外なしと覺悟致せしと涙を拭々《ふき/\》語《かた》りければ駕籠舁《かごかき》は始終を聞《きゝ》彌々《いよ/\》氣の毒に思ひ此事に於ては我等證人と也申すべきにより急ぎ御奉行所へ願ひ出で申さる可《べ》しと云にぞ七右衞門は最《いと》嬉《うれし》く直樣《すぐさま》彼の駕籠舁《かごかき》久七を同道して南町奉行所へ訴へ出でたりけり然《され》ば訴訟所《うつたへしよ》にて一通り尋ねの上《うへ》白洲へ呼び入れられ大岡殿|出座《しゆつざ》あつて七右衞門并に駕籠舁《かごかき》久七の申す旨《むね》を篤《とく》と聞れ其儘兩人とも留置《とめおか》れ急ぎ豐島屋十右衞門へ差紙にて早々罷出づべき旨|達《たつ》しられければ豐島屋にては大いに驚き何事ならんと主人十右衞門は心も心ならず急ぎ御番所へ出る處に早速《さつそく》白洲へ呼び入れられ大岡殿は十右衞門を見られ今日《けふ》其方|店先《みせさき》に金子の落し物はなかりしやと尋ねらるゝに十右衞門は首《かうべ》を上《あげ》私し儀今日他出仕つり只今歸宅の處へ御差紙に付留守中の儀は未だ承まはり申さず候間御尋ねの趣き罷り歸り店の者共を篤《とく》と吟味《ぎんみ》仕《つかまつ》りし上《うへ》御|請《うけ》申し上《あぐ》べしと申しければ大岡殿願ひ人七右衞門并に駕籠舁《かごかき》久七を呼ばれ七右衞門の落せしと云ふ金子は如何樣の財布へ入れ置《おき》しやと問《とは》るゝに七右衞門は斯樣々々《かやう/\》の縞柄《しまがら》なりと其模樣《そのもやう》を委細《ゐさい》申し立てける時越前守殿大聲にソレ其者共を縛《しば》れよと下知に隨ひ同心立ち掛りて七右衞門久七の兩人を高手小手に縛《いまし》めたり斯《かゝ》りし程に兩人の者共大いに驚き是は何故《なにゆゑ》と嘆《なげ》きければ越前守殿|呵々《から/\》[#ルビの「から/\」は底本では「とら/\」]と笑はれ盜人《ぬすびと》猛々《たけ/″\》しとは汝等が事なり其金子は此間|盜《ぬす》まれし者有て疾《とく》に此方へ訴へたり然るを知らずして訴へ出《いで》たる事是|天罰《てんばつ》なり依ては汝等其金を盜《ぬすみ》しに相違《さうゐ》なしソレ引立《ひきたて》よと申さるゝにぞ同心|直樣《すぐさま》引立《ひきたて》假牢《かりらう》へぞ入れたりける其時越前守殿十右衞門に向はれ今其方承まはる如く右の金は盜《ぬす》み物なり日々其方店へは大勢入り込む事《こと》故《ゆゑ》萬一落て有るまじき物にも非ず能々吟味致し今日中に申し出づべし捨置て若後日申し出るに於ては其罪《そのつみ》重《おも》く盜賊の同類《どうるゐ》たるべし家内の者共|屹度《きつと》穿鑿《せんさく》を遂《とげ》早々|否《いな》やを訴へよと嚴敷《きびしく》申渡されしかば豐島屋大いに怖《おそ》れ早々立歸り手代始め一同|呼出《よびいだ》し今日大岡樣|斯々《かく/\》仰せ渡されたれば萬一右の金子を拾ひしものあらば隱さず申し出よと言渡しけるに若者のうちに一人|發規《はき》と返詞《へんじ》をせざる者ありしが稍《やゝ》あつて此者申すは先刻掃除を致し候處|隅《すみ》に財布樣の物《もの》是有《これあり》し故|拾《ひろ》ひ置き候とて差し出せしかば改め見しに金二十兩入て有しに付十右衞門は早速奉行所へ持參《ぢさん》なし右の段申し立て財布を差出《さしだ》しけるに越前守殿最初|假牢《かりらう》へ入置れし兩人の願ひ人を繩付《なはつき》のまゝ再び白洲へ呼出され其方共訴へ出し財布は是《これ》成《なる》べしと渡され先に汝等へ繩《なは》を掛《かけ》盜人|盜《ぬす》み物と云し故夫なる豐島屋大に驚き騷《さわ》ぎ早速吟味行屆て其金を出したり然《さ》も無ては押包《おしつゝ》み容易に出すまじと思ひし故《ゆゑ》斯《かく》は計《はから》ひしなり偖々《さて/\》汝等|窮屈《きうくつ》に有しならん早繩《はやなは》を解免《ときゆる》し此金子を請取すべしと申渡されければ七右衞門久七の兩人は始めて其譯を悟《さと》り實《まこと》に有難き仕合せなりと涙を流して喜びけり猶又大岡殿七右衞門を呼《よば》れ汝が證人|駕籠舁《かごかき》久七は奇特《きどく》なる者ゆゑ渠《かれ》が親切にて其金汝が手へ戻《もど》りしなり因ては二十兩の内十兩久七へ遣すべし其代りに汝が娘の勤め奉公の苦難《くなん》をば助け遣《つかは》さんコリヤ十兵衞[#「十兵衞」はママ]と呼《よば》れし時十兵衞[#「十兵衞」はママ]は始終の樣子を聞て大岡殿の頓智《とんち》に舌《した》を卷《まき》實《まこと》に恐れ入て冷汗《ひやあせ》を流し居たりしゆゑ急に答へも出《いで》ず平伏するを大岡殿見られ其方知らざる事とは申ながら其金子《そのきんす》を押隱《おしかく》し置しは下人共の不屆にして其方平生の申付方|行屆《ゆきとゞ》かざる故なり因て下人共儀|屹度《きつと》御仕置《おしおき》にも仰せ付けらるべき筈《はず》なれ共用捨致し遣す其代り七右衞門が娘《むすめ》を早々其方請出すべし其上にて同人を其方《そのはう》へ屹度《きつと》預《あづ》くる間吉原勤め年季《ねんき》だけは汝が方へ差置べし若此娘の儀に付|異變《いへん》之有《これあら》ば早速此方へ訴へ出《いで》よと申渡されければ七右衞門は此事を聞《きく》より彌々《いよ/\》有難く思ひ聲を揚《あげ》て悦び涙に昏《くれ》たりけり又豐島屋十兵衞[#「十兵衞」はママ]は有難き仕合せ委細畏まり奉つるとて立歸《たちかへ》りしが此事番頭始めへ相談に及びし處右の女を預《あづか》る儀《ぎ》は迷惑《めいわく》千萬の事なり生物《いきもの》の事故如何なる異變《いへん》あらんも量《はか》り難し然る時は又|御咎《おとが》めの程も知ざれば請出せし上何分にも願ひ上て娘を親元へ引渡《ひきわた》すより外に了簡《れうけん》なしと評決して其段奉行所へ願ひ出でければ大岡殿聞屆られ親元へ相對に致すべき旨《むね》申渡されしにより其段豐島屋より親元へ掛合《かけあひ》猶又|双方《さうはう》より伺《うかゞ》ひ濟《ずみ》の上豐島屋より衣類其外殘る所なく支度して金子も幾干《いくばく》か相添七右衞門方へ娘を送りたり誠《まこと》に孝心《かうしん》の餘慶《よけい》報《むく》い來て苦界《くがい》を遁《のが》れ駕籠舁《かごかき》の實意を以て此事早速|裁許《さいきよ》に相成り其上大岡殿の當意即妙《たういそくめう》七右衞門娘の悦び譬《たとふ》るにものなしと此頃此儀|專《もつぱ》ら評しけるとかや彼番頭久兵衞は己が盜みし金を大橋文右衞門へ言掛り此七右衞門は己が落《おと》せし金を言掛りなりとて打擲を請《うけ》其|事柄《ことがら》相反すと雖も各自《おの/\》其|邪正《じやしやう》を洞察《みぬか》れし裁許天晴明斷と言つべし [#8字下げ]第四十五回[#「第四十五回」は中見出し]  扨又大岡越前守殿には文右衞門一件|段々《だん/\》吟味《ぎんみ》の末《すゑ》下谷車坂町六兵衞|店《たな》藤助の兄弟を呼出《よびいだ》されしかば久兵衞は彌々《いよ/\》絶體絶命《ぜつたいぜつめい》と覺悟《かくご》は爲《する》ものゝ又何とか言拔《いひぬけ》んと心に工夫《くふう》をなし居たり時に大岡殿藤助に向はれ其方は油屋五兵衞方へ何頃《いつごろ》より奉公|住《ずみ》致し又|何頃《いつごろ》眼病《がんびやう》にて暇《いとま》を取《とり》しやと申さるゝに藤助私し儀は十六歳の時より五兵衞方へ參り七ヶ|年《ねん》相勤《あひつと》め候處昨年|春中《はるぢう》より眼病を煩《わづら》ひ勤《つと》め兼《かね》候|故《ゆゑ》七月中暇を取て宿《やど》へ下り居《をり》候と云ければ越前守殿其方|歳《とし》は何歳にして兩親又は妻なども有りやと尋ねらるゝに藤助私し年は廿二歳兩親は先年《せんねん》死去仕《しきよつかま》つり妻も御座なく只今《たゞいま》は妹《いもと》の世話に成《なり》漸々今日を暮《くら》し罷り在候と申すを越前守殿聞れ夫れは不審《ふしん》の事なり妹の手一ツにて今日を暮すと申せども渡世は何をして居るや但《たゞ》し又妹が人の世話《せわ》にでもなりて居るかどうぢや其方主人方の番頭久兵衞は汝が處へ常々《つね/″\》出入《でいる》と申すが全く然樣《さやう》か公儀《かみ》にては能《よく》御存知なるぞ僞るに於ては其方の爲に相成ず明白に申立よと有りしに藤助は大《おほ》いに恐れ私し儀《ぎ》久々眼病にて甚だ難澁《なんじふ》仕つり今日を暮《くら》し兼《かね》候ゆゑ妹の民こと番頭久兵衞の世話に相成《あひな》り右にて今日を過《すご》し居り候と云ければ越前守殿成程|然《さ》もなくば女の手一ツにて暮《くら》しの立《たつ》筈《はず》はなし而《して》又去年十二月中旬に久兵衞より何ぞ預りたる物はなきやと問《とは》るゝに藤助は少し考《かんが》へ其儀《そのぎ》私しは聢《しか》と辨《わき》まへ申さず妹民へ御尋ね願ひ上奉つると申せしかば越前守殿お民に向《むか》はれ其方は久兵衞より何《なに》か預《あづ》かりたる物はなきやどうぢやと尋ねらるゝにお民は先刻《せんこく》より慄《ふる》へ居たりしが漸々《やう/\》面《おもて》を上《あげ》去年の暮《くれ》十三日に久兵衞さんより百兩の金子を私しへ渡《わた》されて是れは手前《てまへ》に遣《つか》はすにより何にても買求《かひもと》めよとて貰《もらひ》ましたと申立ければ久兵衞|傍《かたは》らにて是を聞《きゝ》コリヤお民《たみ》己れは跡形《あとかた》もなき事を云ふ女なり何時《いつ》己《おれ》が手前に百兩などと云ふ大金を預《あづけ》しやコレ宜加減《いゝかげん》に虚《うそ》を吐《つけ》と恐ろしき眼色にて白眼《にらみ》付けるを大岡殿見られコレ/\久兵衞當所を何と心得居る虚實《きよじつ》は此の方にて聞分《きゝわ》けるぞ爰《こゝ》な横道者《わうだうもの》めと大聲に叱《しか》られしかば大膽不敵の久兵衞も威光《ゐくわう》に恐れ一縮《ひとちゞ》みと成て控《ひか》へ居るに大岡殿コリヤ民其方久兵衞より貰《もら》ひし百兩は如何致せしやと有りければお民は久兵衞の方《かた》を見ながら右の金子にて櫛《くし》簪《かんざし》又正月|着《ぎ》の小袖|帶《おび》など種々《いろ/\》拵《こしら》へ兄藤助にも着物《きもの》を調《とゝの》へて遣はしましたが未だ餘程《よほど》殘《のこ》りをりますと申すに越前守殿コリヤ久兵衞今其方も聞《きく》通《とほ》り己《おのれ》が世話《せわ》をして置《おく》女が暮《くれ》の十三日に百兩の金を貰ひて種々《いろ/\》品物《しなもの》を求めたりと申すではないか其の百兩の金子は如何《いかゞ》して所持《しよぢ》せしや主人の金を盜《ぬす》み取り無證據なりとて文右衞門に塗付《ぬりつけ》んと巧《たく》みしに相違あるまじ不屆至極《ふとゞきしごく》の奴なり汝は一年何程|給金《きふきん》を取て居るや其金|盜《ぬす》まざれば何方《いづかた》より出したる金子なるや明らかに白状せよ斯程《かほど》に證據のある事を何時《いつ》まで陳《ちん》じ居るぞ未練《みれん》な奴ぢやと申されしかば久兵衞はお民を發打《はつた》[#ルビの「はつた」は底本では「ほつた」]と睨《ねめ》つけヤイ爰《こゝ》な恩知らずの畜生女《ちくしやうをんな》め百兩の金《かね》を此久兵衞より預けし覺《おぼ》えはなし何時《いつ》預けしや能《よく》了簡《れうけん》して見ろ己《おれ》は夢《ゆめ》にも知らぬ事をべら/\喋《しやべ》りをると然《さ》も恐ろしき顏色にて睨付《ねめつけ》ければお民も今更一生懸命に泣聲《なきごゑ》を出し久兵衞さん御前こそ虚《うそ》を御吐《おつき》なさる私しは御奉行樣より有體《ありてい》に申せとの仰せ故|包《つゝ》まず申上るのさ決して私しを恨《うら》んで下さるな御前は主殺《しゆころ》しの上《うへ》夜盜《よたう》をしたとか言ふ事|迚《とて》も命は助からぬから男らしく正直《しやうぢき》に白状して御仕舞《おしまひ》なオイ久兵衞さん私しとても御前の恩は忘れはせぬが公儀《おかみ》を僞るは恐《おそろ》しいゆゑ正直に申上ます必らず恨《うら》んで下さるなと云ふに久兵衞|最早《もはや》仕方《しかた》なしとは思へ共猶強情を張《はつ》て居るを大岡殿コリヤ久兵衞是れにても己《おのれ》は白状せぬかと云るゝに久兵衞は左右《とかく》に伏せず一|向《かう》覺《おぼ》え御座りませぬと申ければ大岡殿|聲高《こゑだか》に扨々|汝《おのれ》は強情なる奴かな然らば猶《なほ》又《また》引合《ひきあは》する者あり彼の者是れへと申さるゝに同心ハツと答へて馬喰町二丁目八十二軒組武藏屋長兵衞方旅人後藤半四郎|這入《はひり》ませいと呼込《よびこむ》に久兵衞は是を聞《きい》て大いに驚き色《いろ》蒼然《あをざめ》て控《ひか》へ居たり時に後藤半四郎は今日《けふ》呼出《よびだ》しに付先刻より呼込《よびこみ》あるを今や/\と待兼《まちかね》たるゆゑ直樣浪人臺へ罷り出《いで》一向|容體《なりふり》にも構はず控へたり然《さ》れば久兵衞は半四郎を見て彌々驚き眼を閉《とぢ》頭《かしら》を下げて居けるに大岡殿如何に半四郎|渠《かれ》の證據を申立よと云れしかば後藤は久兵衞を見るや否《いな》や忽ち怒り心頭《しんとう》に發《はつ》しヤイ久兵衞|汝《おのれ》は大膽不敵の惡黨《あくたう》なり先年三島の一件を打忘れ益倍《ます/\》惡心増長して今度大橋文右衞門へ百兩の云懸《いひかかり》をせし事|言語同斷《ごんごどうだん》の曲者《くせもの》なり汝《おのれ》是を盜み取て文右衞門に負《おはせ》んとの惡巧《わるだくみ》又主人五兵衞が悴五郎藏の嫁《よめ》に不義を仕懸《しかけ》しゆゑお秀は耐兼《たへかね》て逃出《にげいだ》したるを却て親《おや》夫《をつと》を見捨《みすて》て出《いで》し女には持參金道具類とも返す事はならずなどと汝一人の取計《とりはから》ひにて引止置《ひきとめおき》渡さざるは皆横領せんの巧《たくみ》ならん爰な大惡人めと白眼《にら》み詰《つめ》しが大岡殿へ向ひ某し儀當年より十八ヶ年以前劔術の師なり養父なりの後藤五左衞門と申す者《もの》諸國修行《しよこくしゆぎやう》に出し所上州大間々にて病死仕り候|砌《みぎり》早速同地へ罷り越《こし》師父の追善《つゐぜん》を營《いとな》み其後罷り歸り候節中仙道熊谷土手にて越後浪人新藤市之丞と申す夫婦の者《もの》惡漢《わるもの》に取卷《とりまか》れ難儀致し候を見るに忍びず某がし惡黨《あくたう》を追散《おひちら》し夫婦を救ひ夫より熊谷宿寶珠花屋八五郎と申す旅籠屋《はたごや》へ止宿致し市之丞|疵《きず》養生致させ候處江戸表へ罷り出度《いでたき》由《よし》申候に付右八五郎兄なる江戸馬喰町二丁目武藏屋長兵衞方へ彼夫婦《かのふうふ》の者を送り屆《とゞ》け猶少しの手當《てあて》を遣はし夫婦の身分を長兵衞に頼《たの》み置《おき》某しは國表丸龜へ立歸り候節東海道戸塚宿より江州商人と申す者|道連《みちづれ》に相成其夜三島宿の長崎屋と申す宿屋へ止宿仕つり候所夜中に至りて右《みぎ》連《つれ》の男某がしが寢息《ねいき》を考へ所持の金子を盜み取んとするにより引捕《ひきとら》へて金子は取り返し以來心を改めよとてよく/\異見《いけん》を差加《さしくは》へ候節宿屋の者共|馳來《はせきた》りて渠《かれ》が片小鬢《かたこびん》の毛を拔取《ぬきとり》入墨《いれずみ》を致せしに付猶又|渠《かれ》惡心|出《いで》しなら水鏡《みづかゞ》みなり共|移《うつ》して改心せよと申し含《ふく》め逃し遣はせし奴は即ち是なる久兵衞に御座候然るに某し儀《ぎ》此度《このたび》江戸表《えどおもて》見物《けんぶつ》として長兵衞方へ止宿仕まつり候處折節長兵衞弟熊谷宿寶珠花屋八五郎も出府致し居《をり》面會仕《めんくわいつかま》つり候に同人娘儀江戸下谷山崎町油屋五兵衞悴五郎藏と申すものゝ方へ縁付《えんづき》候へども家内|不熟《ふじゆく》且《かつ》は此久兵衞事嫁の秀へ不義を仕懸候趣きにて右秀儀|里方《さとかた》へ逃歸り候に付|據《よんど》ころなく離縁仕つらんと掛合に及び候處是なる久兵衞一人不當のみを申|募《つの》り持參金道具代は勿論親亭主に暇《ひま》を呉《くれ》候女に離縁状は出し申さゞる由を申して一|向《かう》取合《とりあひ》申さず依て秀親八五郎|歎《なげ》き候間不便に存じ某し油屋五兵衞方へ掛合《かけあひ》に參り候に豈《あに》はからんや番頭久兵衞と申すは先年三島宿にて一|旦《たん》取押《とりおさ》へたる騙子《ごまのはひ》なれば渠《かれ》も驚きし樣子にて大いに恐れ早速離縁状は差出《さしいだ》し候へども右の通り素《もと》よりの惡漢《わるもの》ゆゑ是まで如何樣の惡事を爲《なせ》しやも計り難し此度浪人文右衞門の一件も久兵衞が仕業《しわざ》に相違《さうゐ》是《これ》なきやに存じられ候間何卒御|糺明《きうめい》の上《うへ》文右衞門出牢仰せ付られ候樣願ひ奉つると事《こと》明細《めいさい》に申立ければ越前守殿聞置たりとのことにて[#「ことにて」は底本では「にことて」]如何に久兵衞白状せぬかと申さるゝに久兵衞は差俯向《さしうつむき》し儘《まゝ》一|向《かう》無言《むごん》なれば半四郎は堪《こら》へ兼《かね》ヤイ久兵衞某し罷り出《いづ》る上は如何程|陳《ちん》じても役《やく》には立ぬ有體に白状して仕舞《しまひ》言《いは》ざるに於ては此半四郎が目に物見するぞと白眼《にらみ》付《つく》るに久兵衞はハツと平伏《ひれふせ》しが最早此の上は是非なしと思案を極《きは》め漸々《やう/\》に首《かうべ》を上《あげ》て文右衞門に申しかけし百兩の金《きん》實は己れが盜み取て藤助妹へ遣はしたる始末等殘らず白状に及びしかば是に於て久兵衞は口書《こうしよ》爪印《つめいん》申付られけり是即ち幕府《ばくふ》の規則《きそく》にして假令《たとへ》如何樣に證據物等|之有《これあ》り其者の惡事《あくじ》判然《はんぜん》たりとも當人の口より白状に及ばぬ中は爪印《つめいん》申付られぬ事なり然《され》ば斯樣《かやう》に念《ねん》を入て吟味を詰《つめ》らるゝとかや [#8字下げ]第四十六回[#「第四十六回」は中見出し]  然程《さるほど》に久兵衞は口書爪印と成《なり》けるゆゑ大橋文右衞門は出牢申付られしかば去年十二月より今年三月まで概略《およそ》四ヶ月の間《あひだ》無實《むじつ》の難に苦《くる》しみしも天日明かにして終に其濡衣《そのぬれぎぬ》を干《ほし》ければ當人は申に及ばず女房お政の歡喜《よろこび》言ん方なく迅速《すみやか》に腰懸まで迎ひに來り是偏へに御奉行の明斷に因《よる》所なりと白洲の方に向ひて頻《しき》りに伏拜《ふしをが》み嬉《うれ》し涙に昏《くれ》たりけり時に後藤半四郎は再び大岡殿に向ひ恐れながら某し御奉行樣へ願ひ上《あげ》奉つり度《たき》儀御座候右は先刻申上し寶珠花屋八五郎娘秀離縁の儀に付油屋久兵衞方より[#「油屋久兵衞方より」はママ]持參金并びに道具類等《だうぐるゐとう》未だ返し呉《くれ》申さず候間|何卒《なにとぞ》御威光《ごゐくわう》を以て右の金子道具共殘らず相渡し呉《くれ》候樣の御沙汰|成下《なしくだ》され度《たく》此段偏に[#「偏に」は底本では「偏ひに」]願ひ奉つると申ければ大岡殿|點頭《うなづか》れて直樣《すぐさま》八五郎を呼出《よびいだ》され其方娘を五兵衞方へ縁付《えんづけ》し處今度|離縁《りえん》に及びたれども未だ持參金道具類を請取《うけとら》ざる由《よし》持參金の高《たか》は何程なるや申し立べしと有に八五郎は何事なるやと思ひしに斯《かゝ》る尋ねなれば意外に喜び娘が持參金は百兩に御座候と申立ければ大岡殿五兵衞を見《み》られ其方は嫁《よめ》秀《ひで》を離縁《りえん》に及びし處未だ持參金道具類とも返さざるよし不埓《ふらち》なり今日中に殘らず返すべし持參金を切金などには相成ぬぞ此段|屹度《きつと》申渡すぞと嚴敷《きびしく》申付られたり因て五兵衞は爲術《せんすべ》なく畏まり奉つるとて夫れより一同|腰懸《こしかけ》へ下《さが》り五兵衞は八五郎に向ひ今仰せ渡されの儀《ぎ》は何卒持參金ばかりにて勘辨《かんべん》致し呉《くれ》られよと申ければ側《そば》に聞居たりし後藤半四郎は進みより否々《いや/\》道具類とても決して勘辨相成ず彼是云て埓明《らちあけ》ずは貴樣が嫁《よめ》のお秀へ毎夜々々不義を仕懸し始末を申立て御吟味《ごぎんみ》を願ふべしと云ふに五兵衞は甚だ赤面《せきめん》なし夫れは如何にも迷惑《めいわく》仕つるにより其處《そこ》はどうかと申すを半四郎は否々《いや/\》底《そこ》も葢《ふた》も入《いら》ぬ彼是云るゝなら御吟味を願ふ而已《のみ》なりと云ければ五兵衞は殆んど爲方《せんかた》なく然《さ》あらば取揃《とりそろ》へて御返し申すべしと云ふに半四郎夫れは云ふまでもなし急度《きつと》返さば其儘《そのまゝ》若《もし》今日中に返さざるに於ては又候訴へんと嚴敷《きびしく》云ふゆゑ五兵衞は終に金百兩并びに諸道具とも戻《もど》しけるとなり右相談の濟《すみ》し頃大岡殿又々一|同《どう》呼込《よびこま》れコリヤ五兵衞其方が久兵衞に盜《ぬす》まれたる三百五十兩は其儘《そのまゝ》汝へ下《さげ》遣はす併《しか》し召仕ひ久兵衞を盜賊と知ず差置《さしおき》浪人文右衞門へ無實の賊名《ぞくみやう》を負《おは》せんと云懸りたる其罪甚だ輕《かる》からず是に依て文右衞門へ詫金《わびきん》百兩遣はすべし尤も改めて猶申渡すで有う然樣《さやう》心得よと有るに是又五兵衞は是非なく發《はつ》と平伏して仰せ畏まり奉つると申すに大岡殿は後藤へ向はれ半四郎右の詫金《わびきん》は其方へ取立方《とりたてかた》申付る間五兵衞へ懸合《かけあひ》に及び受取次第文右衞門へ相渡し申すべしと云れ夫れより又文右衞門を呼れ右詫金《みぎわびきん》百兩を其方|請取《うけとら》ば長八が娘の身請をなし親元へ歸すべし殘り金の儀は其方存じ寄《より》次第《しだい》に致せと申されければ文右衞門は有難く畏まり奉つる旨《むね》申すに又大岡殿は下谷車坂町六兵衞|店《たな》藤助と呼《よば》れ其方儀久兵衞より預《あづか》り置《おき》たる百兩の金子は殘り何程|是《これ》あるやと尋ねらるゝに藤助|恐《おそれ》ながら私し儀|困窮《こんきう》の身分に付《つき》借錢等相拂ひ當時三十五兩殘り有り候と申を大岡殿聞れ然《しか》らば其金三十五兩は公儀《かみ》へ御取上になるぞ然《さ》れども藤助|能《よく》承はれ右の金子は元《もと》不正の金ゆゑ不足の分まで殘らず御取上に相成る筈《はず》なれ共其方永々の眼病にて盲人《まうじん》同樣に付|格別《かくべつ》の御慈悲を以て殘金三十五兩だけ御取上に相成る間有難く存ずべしと申渡され此日は一|同《どう》下《さげ》られけり扨翌日七日の差紙にて一件|關係《かゝりあひ》の者一同呼出され落着とぞ相成ける是《これ》享保五年三月七日なり時に大岡越前守殿|白洲《しらす》に出座有て申渡し左の通り [#地から12字上げ]下谷山崎町 [#地から13字上げ]家持 [#地から11字上げ]五兵衞 [#ここから2字下げ] 其方儀|盜賊《たうぞく》とは知《しら》ざるとも召使《めしつか》ひ久兵衞へ家業向《かげふむき》打任《うちまか》せ候により浪人文右衞門へ難儀《なんぎ》を掛《かけ》候段重々|不埓《ふらち》に付|屹度《きつと》咎《とが》め申付べきの處|格別《かくべつ》の御憐愍《ごれんみん》を以て御沙汰|之《これ》なき間文右衞門へ詫金《わびきん》百兩遣はすべし [#地から12字上げ]下谷車坂町 [#地から11字上げ]六兵衞店 [#地から11字上げ]藤助 其方儀久兵衞を盜賊《たうぞく》と知らずと雖も不正の金子を預《あづか》り置事《おくこと》不屆に付|屹度《きつと》咎《とが》め申付べきの處|格別《かくべつ》の御憐愍を以て過料錢七貫文申付る [#地から16字上げ]右 [#地から12字上げ]藤助妹 [#地から11字上げ]たみ 其方儀兄藤助眼病中|孝養《かうやう》を盡し候段|奇特《きどく》に思《おぼ》し召《めさ》れ御褒美《ごはうび》として青差《あをざし》五貫文|下《くだ》し置る有難く存ずべし [#地から11字上げ]馬喰町二丁目 [#地から7字上げ]武藏屋長兵衞 [#地から12字上げ]同人方旅宿 [#地から13字上げ]浪人 [#地から8字上げ]後藤半四郎 其方共儀新藤市之丞外萬事|世話《せわ》致し候段|神妙《しんめう》に思《おぼ》し召《めさ》れ御褒美として白銀十枚ヅツ下し置る有難く存ずべし [#地から11字上げ]馬喰町二丁目 [#地から8字上げ]前名新藤市之丞 [#地から10字上げ]當時屑屋 [#地から11字上げ]長八 其方儀先年の恩義を忘れず文右衞門へ金子《きんす》返報《へんぱう》致し候|志操《こゝろざし》[#ルビの「こゝろざし」は底本では「こゝろざ」]神妙《しんめう》に思し召れ御褒美として青差五貫文下し置る有難く存ずべし [#地から8字上げ]新吉原江戸町一丁目 [#地から9字上げ]玉屋山三郎代 [#地から11字上げ]彦助 [#地から13字上げ]淺草田町 [#地から10字上げ]喜《き》六|店《たな》判人《はんにん》 [#地から10字上げ]利兵衞 其方共儀長八|娘《むすめ》身受《みうけ》相談《さうだん》の儀は公儀《かみ》に於ても孝心を御賞し有るに付《つき》利欲《りよく》に關《かゝは》らず深切《しんせつ》に懸合《かけあひ》を遂《とげ》遣はすべし [#地から15字上げ]屑屋《くづや》 [#地から12字上げ]長八娘 [#地から11字上げ]かう 其方儀親孝行の段|奇特《きどく》に思し召れ御褒美として白銀《はくぎん》五|枚《まい》下《くだ》し置《おか》る有難く存ずべし [#地から11字上げ]元油屋五兵衞 [#地から13字上げ]召仕《めしつかひ》 [#地から10字上げ]久兵衞 其方儀主人の金子を盜み取《とり》剩《あまつ》さへ主人悴五郎藏を殺害致し候段重々不屆に付江戸中引廻しの上《うへ》淺草に於て磔《はりつけ》に申付る [#ここで字下げ終わり] 右《みぎ》相濟《あひすみ》屑屋長八は娘お幸の戻《もど》りしを喜び頓《やが》て聟《むこ》を娶《とり》て小切店に商賣替《しやうばいがへ》をなし家内益々|繁昌《はんじやう》しけるとぞ又大橋文右衞門は心懸《こゝろがけ》天晴《あつぱれ》なる者に付《つき》目を懸《かけ》遣《つか》はすべきの由奉行所より町役人へ内意も之有《これあり》し旨《むね》古主《こしゆ》松平越後守殿へ聞え早々歸參となり元知《もとち》五百石に復し物頭役申付られ忠義を盡しけるとなり其後此一件落着の趣《おもむ》き越前守殿より將軍家へ言上の砌《みぎ》り後藤半四郎の噂《うはさ》を申上られしかば其者の武藝《ぶげい》を試《こゝろ》みんとの上意にて半四郎を吹上《ふきあげ》へ召出《めしいだ》され御旗本十八人まで劔術試合を仰せ付けられ八代將軍吉宗公|上覽《じやうらん》有し處後藤に敵する者一人もなく皆々|打負《うちまけ》ければ將軍家|殊《こと》の外御賞美有て新知二百石下し置れ御旗本に御取立《おとりたて》相成ければ半四郎の喜《よろこ》び譬《たとふ》るにものなく是より後藤喜三郎秀國と改名して忠勤《ちうきん》を勵《はげ》み家《いへ》富榮《とみさか》えけるとなん 後藤半四郎一件[#1段階小さな文字]終[#小さな文字終わり] [#改丁] [#ページの左右中央] 松田お花一件[#「松田お花一件」は大見出し] [#改丁] [#1段階大きな文字]松田《まつだ》お花《はな》一件《いつけん》[#大きな文字終わり] [#8字下げ]第一回[#「第一回」は中見出し]  爰《こゝ》に備前國《びぜんのくに》岡山御城主高三十一萬五千二百石松平|伊豫守殿《いよのかみどの》の藩中《はんちう》松田喜内《まつだきない》と云ふ者|有《あり》代々岡山に住居《ぢうきよ》せしが當時の喜内は壯年《さうねん》なるに兩親を亡《うしな》ひ未だ妻をも娶《めと》らず獨の妹お花と云るを家に養ひ置|纔《わづか》に兄弟二人の家内にして祿高《ろくだか》五百石を[#「五百石を」は底本では「五千石を」]を領し外に若黨《わかたう》二人|下婢《げぢよ》一人中間小者共主從九人の暮《くら》しなり扨此喜内は學問を好み軍學武藝にも達し物|堅《がた》き生質《せいしつ》なれば諸方より妻を勸《すゝ》むる者あれども妹を他へ縁付《えんづけ》ざる中は迎《むか》へ難し殊に我等未だ三十にも足ざれば急ぐにも及ばずとて請引《うけひか》ざるにぞ當時の若者には珍敷《めづらしき》人|也《なり》と一家中|譽《ほめ》ざる者は無りける又妹お花と云は當年十六歳にて容顏《ようがん》の美麗《びれい》なるは我朝の小町|唐土《もろこし》の楊貴妃《やうきひ》をも欺くべく然らば同家中は素より岡山中に双ぶ女は有まじと評判高かりければ是又諸方より嫁《よめ》に貰《もら》はんと云者|最《いと》多けれども兎角喜内が心に適《かな》はず宜《よき》に挨拶《あいさつ》して打過ける茲に喜内の若黨《わかたう》に吾助と云者有しが此お花を深く思ひ初主人の妹とは知ながら折々|可笑《をかし》き想振《そぶり》などして袖|袂《たもと》を曳《ひき》けれども此吾助元來|醜《みにく》き男にて勿々《なか/\》お花が相手になるべき器量《きりやう》ならず殊に若黨なれば尚更|請引《うけひく》樣もなければ只一人|胸《むね》をぞ焦《こがし》ける然るは其頃同家中に高五百石を領す澤井佐太夫の次男に友次郎といふ者あり當年十九歳にて古今無双の美男なりしが早晩《いつ》の程にかお花と割《わり》なき中となり喜内が當番《たうばん》の留守の夜などには竊《ひそか》にお花が閨《ねや》に忍び來り語らう事も稀に有しかば彼の若黨の吾助は此樣子を覺り口惜き事限りなく彌々《いよ/\》胸を苦しめて居たりけり斯て或夜の事喜内は當番にて留守成しかば例の如く友次郎はお花の部屋に忍び來りしを吾助は聢《しか》と見濟《みすま》し此由を御殿へ行て旦那へ申上二人の不義《ふぎ》を顯《あらは》し日來《ひごろ》の無念を晴し呉れんと直樣《すぐさま》御殿へ走り行き只今|急用《きふよう》有て參りたり早々喜内樣に御目に懸《かゝ》りたしと云入けるに頓《やが》て喜内は何事成哉と立出るを吾助は待兼《まちかね》て聲を密《ひそ》め御令妹《おいもとご》お花樣御事|豫《かね》て澤井友次郎殿と不義成れし事私し存じ居候へども確《たしか》なる事を見ねば旦那樣の御耳《おんみゝ》にも入難《いれがた》しと存《ぞんぜ》し處今宵も御當番の御留守を窺《うかゞ》ひ友次郎殿事お花樣の御部屋《おへや》へ忍び來られたり此事|確《たしか》に見屆け候故御|注進《ちうしん》申上候と云ければ喜内は騷《さわ》ぎたる體《てい》もなく吾助其方|供《とも》を致せと云ながら直樣《すぐさま》自宅に立歸りお花が部屋に直《つ》と這入《はひれ》ばお花はハツト仰天《ぎやうてん》して友次郎を夜着《よぎ》の中に手早く隱《かく》し側《そば》に有し友次郎が脇差《わきざし》を引拔て兄上|御免《おゆる》し下されと云より早く咽喉《のんど》にグサと突立《つきたて》んと爲るを喜内は手早く押止《おしとゞ》め其方は豫《かね》て出家の望み有て相州鎌倉なる尼寺《あまでら》へ參り度|心願《しんぐわん》の由夫故|豫《かね》て我に暇《いとま》を呉よと申せしを今迄は許《ゆる》さゞりしが夫程迄に思ひ詰《つめ》し事なれば止《とめ》たりとも止るまじ因て只今身の暇《いとま》を遣《つかは》すべし其方|出家《しゆつけ》致すからは此以後|對面《たいめん》は叶《かな》はぬぞ然《さり》ながら女の身にて遠路の處身を衞《まも》る者なくては叶はずと云ながら彼《か》の友次郎が脇指《わきざし》をお花に渡し此脇指を肌身《はだみ》離《はな》さず何事も相談して怪我《けが》なき樣に暮すべしと懷中《くわいちう》より二包《ふたつゝみ》の金子と藥の入し印籠《いんろう》を取出し是は纔《わづか》ながら兄よりの餞別《せんべつ》なり二品を持て早々出立せよと云つゝ其儘《そのまゝ》お花が部屋を立出ればお花は元より友次郎も夜着の中より喜内が後影《うしろかげ》を伏拜《ふしをが》み頓《やが》て兩人は支度をなし二包《ふたつゝみ》の金と藥を押戴《おしいたゞ》きて懷中に納《をさ》め何方を當と定め無れど見咎《みとが》められては一大事と鼠竊々々《そこ/\》に岡山を立退《たちのき》けり偖《さて》喜内は翌日になり私しの妹花と申者|豫《かね》て出家遁世《しゆつけとんせい》の望《のぞ》み有之に因《より》止事《やむこと》を得ず昨夜身の暇《いとま》を遣はし候と太守へ屆け出ければ[#「屆け出ければ」は底本では「屆け出けれが」]夫にて事故なく濟《すみ》けるが濟《すま》ぬは彼の若黨吾助胸にて二人の不義の樣子を現在に見屆ければ必定《ひつぢやう》物|堅《がた》き喜内の事故二人共に手討に爲《なす》べし然れば是迄の無念《むねん》も晴《はれ》るなりと思ひて告たりしに案に相違の喜内が計ひ金迄|持《もた》せ落《おと》して遣《やり》其上喜内よりの申聞にはお花事は豫《かね》て出家の望み有により暇を遣せしなり夫を不義者などと申|觸《ふら》せし段|不埓《ふらち》千萬なりと大いに叱《しか》られしゆゑ吾助は喜内の心を知らねば片贔屓《かたひいき》なる仕方《しかた》と[#「仕方と」は底本では「代方と」]深く喜内を恨《うら》みつゝ此返報《このへんぱう》は今に思ひ知すべしと爰に於て喜内を殺し恨みを晴さんとの惡念《あくねん》芽《きざ》しけるこそ恐ろしけれ斯て吾助は好《よき》機《をり》あれかしと[#「機あれかしと」は底本では「機あれかしらと」]隙《ひま》を窺《うかゞ》ひけるに喜内は何事も愼み深く其上武術に達しければ憖《なまじ》ひに手出を成《なし》て仕損じては一大事と空敷《むなしく》半年餘りを過しけるが或時喜内は不※[#「圖」の「回」に代えて「面から一、二画目をとったもの」、524-18]《ふと》風邪《ふうじや》に冒《をか》されて臥《ふし》たるに追々熱氣強く十日餘りも床に着ければ其間若黨二人一夜代り/\に次の間へ打臥《うちふし》夜中の藥を煎《せん》じなどしけるが今宵は吾助の番に當りて例の如く次の間に寢て居たりしに喜内は熱氣《ねつき》少し薄《うす》らぎたるにや其夜は心快《こゝろよ》げにすや/\と眠れる樣子なれば吾助は心に思ふ樣今喜内殿病に疲《つか》れ眠《ねむ》りたるなれば假令《たとへ》寢首《ねくび》を掻《かく》共《とも》正體は有まじ豫ての怨みを晴すは此時なりと常に案内知たる事なれば先《まづ》納戸《なんど》へ到《いた》り喜内が衣類と金子二百兩を取出し一包にして夫より密《そつ》と雨戸一枚を外し置《おき》件《くだん》の包を飛石《とびいし》の上に置|徐々《そろ/\》[#「徐々」は底本では「除々」]下《おり》て庭口と門の扉《とびら》を開き迯《にぐ》る道を補理《こしらへ》置《おき》て元の座敷へ歸り喜内が寢息《ねいき》を考ふるに喜内の運の盡にや有けん正體もなく能寢入り居るにぞ吾助は心に歡《よろこ》び用意の刀を拔放し喜内が寢たる上に打跨《うちまたが》り言《もの》をも云ず柄《つか》も徹《とほ》れと咽喉《のどもと》を刺貫《さしとほ》せば喜内はアツと聲を立しが元來物に動ぜぬ人なれば心を鎭めて考ふるに咽《のど》に貫きし刀の刄右の方を向て有し故左りの方へ跳起《はねおき》て枕元に有し短刀を拔き汝《おのれ》曲者御參なれと切て掛れど病に疲《つか》れし上|痛手《いたで》をさへ負たれば忽ち眼《め》昏《くら》みて手元の狂ひし故《ゆゑ》吾助が小鬢《こびん》を少し切しのみ尻居に撞《どう》と倒れたり吾助は切付られてハツと駭《おどろ》き迯《にぐ》る機會《はずみ》に行燈《あんどう》を蹴返《けかへ》して暗がりと成ければ此所ぞと滅多切《めつたぎり》に斬散《きりちら》しける程に喜内は左の手を切れたり茲に於て喜内は是非なく聲を立て皆々|出會々々《であへ/\》[#ルビの「であへ/\」は底本では「であひ/\」]と云程こそあれ吾助は見咎《みとがめ》られては一大事と豫て拵へ置たる迯道《にげみち》より彼の一包を携《たづさ》へて何處《いづく》ともなく迯失《にげうせ》けり其後へ若黨下部等は喜内が聲を聞付て走り集りしが行燈は消て闇がりなれば狼狽《うろたへ》廻り漸々《やう/\》に灯《ひ》を燈《とも》し見るに是は如何に主人喜内は朱に染て俯臥《うつふし》に倒れ居るにぞ皆々仰天して抱《いだ》き起し呼生るに暫くして喜内は息を吹き返し有し樣子を委敷《くはしく》物語り重て若黨の忠八と云ふ者を側《そば》近《ちか》く招き寄汝は我が方に幼少より勤め魂《たまし》ひをも見拔し故申殘すなり我吾助を一打に爲んと思ひしに眼《め》昏《くら》みたれば纔《わづか》に小鬢《こびん》少しを斬剥《きりそぎ》しのみ取り迯したる段殘念千萬|也《なり》我死なば右の由明白に太守へ訴へて家財殘らず相改め請取の役人中へ引渡すべし其節《そのせつ》見苦敷《みぐるしき》振舞《ふるまひ》無き樣皆々へ申付よ又|具足櫃《ぐそくびつ》の内にある貞宗の短刀と用金五百兩の内二百兩は汝預かりて何卒國々を廻りて妹お花に遣《つかは》し呉《くれ》よ又百兩は右の路用として汝に遣《つかは》すなり殘りの二百兩は汝を始め下人共一統に遣さん間《あひだ》配當《はいたう》すべし此旨我|遺言《ゆゐごん》なりと役人中へ申達し麁忽《そこつ》なき樣に致すべしと云を忠八は涙と倶《とも》に聞終り御意の旨|委細《ゐさい》畏《かしこ》まり奉つり候お花樣には屹度《きつと》御目に懸り此二品を御渡し申御遺言の旨趣《おもむき》も御傳へ申すべし然れど敵《かたき》吾助未だ遠くは參るまじ追止《おひとめ》て恨みを報ぜんと刀《かたな》追取《おつとり》立上るを喜内は待てと呼止《よびとめ》今|汝《なんぢ》追行《おひゆく》共《とも》最早《もはや》時刻《じこく》も移りたれば其甲斐有るまじ汝其|志操《こゝろざし》あらばお花に廻り逢《あひ》し上|我《わが》無念を晴し呉《くれ》よと云うを此世の名殘にて廿八歳を一期とし終に果敢なくなりければ最早《もはや》歎《なげ》きても詮《せん》なしと忠八は主人の遺言《ゆゐごん》の趣きを下人共に委細に告|倶々《とも/″\》に喜内が死骸を夜着の内に納《をさ》め其由|目附役迄《めつけやくまで》訴へ出ければ早速檢使入り來りて死骸を檢《あらた》め忠八より遺言の趣きを委細《くはしく》聞て立歸りし後《のち》種々《いろ/\》評議ありしに當時喜内に親類もなく子は猶更有ねば是非なく家斷絶に及びけり因て忠八は遺言《ゆゐごん》の通り家財殘らず太守へ差上貞宗の短刀《たんたう》と金五百兩のみを殘し置其中金二百兩は下女下男五人へ旦那の紀念《かたみ》なれば何迄《いつまで》も御恩を忘れず御回向《ごゑかう》申せと[#「御回向申せと」は底本では「御回向せと」]云ひ聞せて配分《はいぶん》しければ皆々|涙《なみだ》ながらに押戴《おしいたゞ》き散々《ちり/″\》にこそ出行けれ夫より先に忠八は喜内の死骸を寺院に葬《はうむ》り石碑《せきひ》を建て回向料《ゑかうれう》など厚《あつ》く寄附し萬事手落なく濟《すま》せければ下人共を下たる跡にて明朝屋敷を引拂ひ候旨屆け出其|翌朝《よくてう》件《くだん》の二品を[#「二品を」は底本では「男二品を」]腰に付泣々岡山の城下を立て或松原に差掛りしが此方の松蔭《まつかげ》より黒き頭巾《づきん》にて面《おもて》を隱せし一人の侍士《さぶらひ》四邊《あたり》を見廻し立出て忠八暫しと云|聲《こゑ》に驚き見返《みかへ》れば彼の侍士が黒き頭巾を脱《ぬぐ》[#ルビの「ぬぐ」は底本では「ねぐ」]を能々見るに澤井友次郎の父佐太夫なりしにぞ忠八は再び驚《おどろ》きて一|禮《れい》成《なせ》ば佐太夫も會釋《ゑしやく》して此方へと云て以前の松蔭《まつかげ》へ連行《つれゆき》扨も此度喜内殿の横死《わうし》嘸々《さぞ/\》愁傷《しうしやう》ならん其方も知て居らんが友次郎の事に付ては大恩の有る喜内殿故|某《それが》[#ルビの「それが」は底本では「それがし」]しも早速參り御世話も致す可《べき》筈なれども世の義理《ぎり》有《あれ》ば思ひながら打過にせしが扨今朝其方が出立と聞及びて最前《さいぜん》より此所《こゝ》に待居《まちゐ》たりしなり友次郎事は勘當《かんだう》致せし者故某しより何も助言《じよげん》は致さねども喜内殿の大恩を思はゞお花殿に力を添《そへ》敵《かたき》吾助を討取べしと其許心付れしならば其由悴に告て給るべし又此金子は纔《わづか》ながらお花殿へ進《しん》じ申度とて金二百兩の包を出し外に金五十兩是は其方が路用《ろよう》の足に致すべしと二包の金子を渡せば忠八は其|志操《こゝろざし》を感心し主人《しゆじん》末期《まつご》に及びお花殿へ紀念金《かたみきん》として二百兩預かり居候へば是にて事足ぬには有まじけれど折角の御|志操《こゝろざし》故私し御預り申|屹度《きつと》御屆け申すべし又友次郎樣へも只今の御|言葉《ことば》は私しの存じ寄も同樣に御座候へば憚《はゞか》りながら御助言《ごじよごん》申上候はん然《され》ども私し事は主人より路用として數多の金子を貰《もら》ひ請て候へば御思召《おぼしめし》の程は重々《ぢう/\》有難く存ずれども此金子は返納《へんなふ》仕つりたしと云を佐太夫は押返《おしかへ》し夫しきなる僅《わづか》の金子を彼是と云れては却《かへつ》て痛み入なり平に受納《うけをさ》めらるべしと種々《さま/″\》に云ければ忠八今は辭《じ》し難《がた》く二包の金子を押戴《おしいたゞ》き然《さら》ば是にてお別れ申さんと云を佐太夫も止め兼《かね》て呉々《くれ/″\》も首尾能《しゆびよく》本望《ほんまう》を遂目出度歸國有べし猶もお花殿の事頼み入と茲に佐太夫忠八の兩人は涙ながらに別れけり [#8字下げ]第二回[#「第二回」は中見出し]  然程《さるほど》に忠八は岡山の城下|外《はづれ》なる松原にて澤井佐太夫に別れ何を當と指て行べき方も無れど先京大坂は繁華《はんくわ》の地なれば若《もし》やお花樣御夫婦の彼處《かしこ》に止まり給はんも※[#「圖」の「回」に代えて「面から一、二画目をとったもの」、527-8]り難し彼是と思はんよりは先《まづ》大坂へ登《のぼ》り夫より京都と段々《だん/\》尋ねんと吉備津浦《きびつのうら》より便船《びんせん》せしに日々|追手風《おひてかぜ》打續き十日目にて大坂川口へ着船《ちやくせん》しければ夫より大坂に足を止め日毎に新町|道頓堀《だうとんぼり》或は順慶《じゆんけい》町の夜見世など人立多き所に行てはお花夫婦并に吾助が所在《ありか》を尋ね探《さが》せども是ぞと思ふ手掛りも無《なく》斯て在事《あること》二百日餘りに成しかば最早《もはや》大坂にては有まじ京都に行て尋ね見んと其夜伏見|登《のぼ》りの船に乘て翌朝伏見に着せしが此處も繁華《はんくわ》の土地なればとて三日|程《ほど》逗留《とうりう》して尋ぬれ共夫ぞと思ふ人もなく然らば京都へ登《のぼ》らんと此處を立出三條の龜屋と云る旅籠屋《はたごや》に宿《やど》りしに當所は大坂と違ひ名所古跡も多く名にし負《お》ふ平安城《へいあんじやう》の地なれば賑しきこと大方|成《なら》ず祇園《ぎをん》清水《きよみづ》を始として加茂北野金閣寺其外|遊所《いうしよ》はもとより人立|繁《しげ》き方へ行ては尋ぬれども此處にも更に手掛りなく彼是と半年ばかりも暮しける中《うち》或日|雨《あめ》強《つよ》く降《ふり》て流石の忠八も此日は外へも出ず宿屋に一人|徒然《つれ/″\》に居たりしに此家の亭主|出來《いできた》り偖も折惡敷《をりあしき》雨天にてお客樣には嘸かし御退屈《ごたいくつ》成《なら》んと下婢《げぢよ》を呼《よび》飪《にばな》を入菓子など出して待遇《もてなす》にぞ忠八も折柄《をりから》宜《よき》咄相手《はなしあひて》と種々の物語をなしけるうち亭主申けるは一昨年の夏《なつ》祇園祭《ぎをんまつり》の時にて候ひしが私し方へ年頃《としごろ》廿歳ばかりの男と十六七の女中の御武家方《ごぶけがた》と見ゆる人と祭《まつり》見物に登られ二夜泊りて歸られしが其日の晝頃《ひるごろ》立戻られて大切の印籠《いんろう》を忘れたれば何とぞ吟味致し呉《くれ》よと云《いは》れし故座敷々々を殘らず尋ぬれども一|向《かう》に知《しれ》申さず尤も祭の時分なれば客人多く私し方ばかりにて五十人|餘《よ》の相客《あひやど》なれど若や先へ立れし人が間違《まちがひ》られ荷の中《なか》へ入て行れしも※[#「圖」の「回」に代えて「面から一、二画目をとったもの」、528-3]《はか》り難し氣の毒ながら私し方には之なしと申せしに夫婦の衆《しう》は大に力を落されあの印籠は大恩ある人より紀念《かたみ》同樣《どうやう》に貰ひし品なれば失ひては濟難《すみがた》し然りながら忘れて立しが此方の過《あやま》ちなれば是非もなしと悄然《しほ/\》として立れたり扨其後二日|程《ほど》過《すぎ》て右の印籠を下女が座敷の袋戸棚《ふくろとだな》より見付出し候が然ればとて何處の何某《なにがし》と云《いふ》御人なるか聞ても置ねば御屆け申べき便《たよ》りもなし併し言葉遣ひは中國筋の御人と見請たれば其後は中國《ちうごく》言葉の御客と見る時は若や斯樣《かやう》の人は御存じ無《なき》や御逢成る事も有らば其の節|取落《とりおと》されし印籠は私し方に確にお預《あづか》り申置候へば此由を御通じ下《くだ》さる可《べし》とお頼み申せしが今に知《しれ》ず餘り雲を掴《つか》む樣《やう》成《なる》御頼み事|也《なり》とて呵々《から/\》と笑ふを忠八は倩々《つら/\》聞て何やら其樣子は友次郎御夫婦に似《に》て其上印籠を紀念《かたみ》同樣《どうやう》と云しも謂れ有《ある》筋《すぢ》なりと思ひしかば忠八は膝を進め御亭主《ごていしゆ》只今の物語り拙者少し心當《こゝろあた》り有苦しからずば其印籠を鳥渡《ちよつと》拜見《はいけん》は成間敷哉と云に亭主は其は何より易《やす》き事|也《なり》とて下女を呼《よび》て其印籠を取寄《とりよせ》忠八に渡し此品にて候と云にぞ忠八手に取て一目見に黒地《くろぢ》に金にて丸に三ツ引の紋《もん》散《ちら》し紛ふ方なき主人喜内が常に腰に提られし印籠なれば思ず涙《なんだ》を落とせしが故《わざ》と笑《わらひ》に紛《まぎら》し再び亭主に對《むか》ひ此印籠は拙者が心當りの人の所持品に相違なし然《さ》りながら斯《かく》申せし計《ばか》りにては不審は晴まじ彼の夫婦の面體は斯樣々々《かやう/\》には有ざりしやと云うに亭主は手を拍《うつ》て仰の通り少しも違はず何でも物ごとは話して見なば譯《わか》らぬものなり貴君樣に此お話しをせずば大切の品を何時《いつ》までも預《あづか》り居るか知れざりしに今日元の主へ返へすべき便《たよ》りを得しは實に不思議《ふしぎ》の幸ひなり然らば此印籠貴方樣へ御渡し申べし何卒|先樣《さきさま》へ御屆け成れて下さる可《べし》と悦びて言《いひ》けるにぞ忠八も又大に悦び然《しか》らば此品は拙者|慥《たしか》に預り參る可し併《しかし》別《べつ》に證據もなく受取て參らんも心|能《よか》らねば以前|失《うしな》ひたる持主を同道致して御挨拶に參るまでの間だ金子三兩御預け申置べしと云を亭主は押|止《とゞ》め夫程迄に堅《かた》く仰せらるゝものを何故疑ひて金子などお預り申|可《べき》や其儀は御無用《ごむよう》なりと云にぞ忠八は亭主が侠氣《をとこぎ》に感じて懷中より金百疋取出し是は餘りに輕少《けいせう》なれども此印籠を探し出せしと云女中に遣《つかは》し給へと渡しけれども亭主は手にだも取ず某し旅籠屋商賣を致《いたし》居《を》れば御客樣の物品の紛失《ふんじつ》爲《する》は某しが不調法なり然るに探《さが》し出したればとて女中共へ斯樣《かやう》なる御心遣ひを蒙る謂《いは》れなしと一向に受|納《をさ》めねば忠八は止事を得ず其意に隨ひ彼の印籠を請取《うけとつ》て状《かたち》を改め是に就て尋ね申|度事《たきこと》有《あり》右夫婦の者は此家を立て何國へ參り候や存て有ば教《をし》へられよと云に亭主暫く考へて何國と申す先は存ねども出立《しゆつたつ》の時大津へ出る道を問れし樣子|確《たしか》に覺え居《をり》候へば若や江戸の方へでも御|出《いで》にては有間敷哉是も聢と定めては申されずと云を聞て忠八は大いに悦《よろこ》び然る上は今より直《すぐ》に出立す可《べし》と云を亭主は押止《おしとゞ》め此大雨に勿々《なか/\》御出立は相成るまじ其上|最早《もはや》申刻《なゝつどき》も過《すぎ》たれば大津迄出給はぬ内に日は暮《くれ》申すべし夫よりも今宵は此所に泊られて翌《よく》未明より立給ふが御便利成べしと申ければ忠八も實《げ》にもと思ひ其夜の内に是迄《これまで》の宿賃を拂ひ外に茶代として二百疋を遣はしければ此|度《たび》は亭主も辭《いな》み難く受納め酒肴など出して饗應《もてなし》けれども忠八はお花等が行方《ゆくへ》を聞より少しも心《こゝろ》落付《おちつか》ず酒も宜程に濟し夜着引冠りて寢たれ共餘りの嬉《うれ》しさに其夜はまんじり共せず翌朝《よくてう》未だ暗き中に起出《おきいで》食事抔もそこ/\仕舞て大津の方へ立出けり [#8字下げ]第三回[#「第三回」は中見出し]  是より先に友次郎お花の兩人は喜内が情《なさけ》にて金子二百兩と藥の入し印籠を貰ひ請備前岡山の城下を泣々立出しが何處へ行て身を寄《よせ》んと云方もなく然ばとて岡山|近所《きんじよ》にも住居も成難く兎角此邊に居《をら》んよりは遠路ながら江戸へ赴《おもむ》かば諸侯も多き處と聞《きゝ》及べば能《よき》主取りも成べしとお花にも此由を云聞せ旅裝《たびよそほ》ひは道々調へんと先《まづ》二百兩の金を百兩はお花の胴に附させ殘りの百兩を自分に所持して慣《なら》ばぬ旅を陸路より漸々大坂迄|着《つき》ければ先《まづ》此所にて暫く休足すべしとて或《ある》旅籠屋に逗留して住吉天王寺を始め所々を見物《けんぶつ》しければハヤ五月も過《すぎ》六月の初旬となり炎暑強き頃なれば凉風の立迄《たつまで》當所に逗留して秋にもならば江戸へ下り主取《しゆどり》せんと云をお花は聞て成程暑さの時分道中は堪難《たへがた》き物ならんが然《さり》とて此所に浮々と長逗留して路用を遣ひ减《へら》さば主取も爲《し》給ふに萬事不都合|成《なら》ん少しの暑さへ耐へ江戸に落付《おちつき》て安心なすが増ならずやと云も其理有ば友次郎も然らば出立の用意《ようい》すべしと宿へも其由を物語り享保二年六月五日の夕《ゆふ》船《ふね》に乘て翌六日の朝伏見へ着船したりける折柄《をりから》祇園祭《ぎをんまつ》りなれば參詣として大坂より船にて京へ登《のぼ》る者引も切ず其時友次郎はお花に對《むか》ひ其方も見聞《みきく》通り祇園祭の由にて此通りの見物なり此處よりは僅《わづか》に三里と云ば好機なれば祭りをも見たる序《ついで》に名所|古跡《こせき》をも見物爲べし江戸へ下りては重て見物に上るも難かるべしと云ばお花も悦《よろこ》び見物いたし度といふにぞ友次郎はお花を連て人の後《あと》に付行程に頓て京都九條通りへ出《いで》此處《ここ》にて宿屋を尋けるに三條通りにありと教《をし》ゆるゆゑ即ち三條通りへ行き龜屋と云家に泊《とま》りしに祇園祭りとて見物人の相宿《あひやど》多く漸々八疊の間を二ツに仕切て其處へ落付未だ日も高ければ其日は東山《ひがしやま》邊を見物なし翌日は又祇園會の山鉾《やまぼこ》などを見て歸りには御所より北山の方を見物《けんぶつ》する處友次郎は元よりお花も始めて都の地を踏事《ふむこと》なれば見る物聞く物毎に耳目を驚かさゞる事なけれ共《ども》少しも早く江戸へ行んと云《いふ》心頻りなれば僅に二|夜《よ》泊《とま》りて龜屋方を出立せしが斯る混雜の中《なか》成《なれ》ば友次郎は喜内に貰ひ受けたる印籠を取落し一里餘行て思出し那《あれ》は大切の品なれば紛失させては濟難《すみがた》し此處迄來りて取て返へすは太儀なれども印籠には代難《かへがた》しとて取て返し龜屋に至り右《みぎ》の由を云て尋ねけれども一向に知れず是非なく其處を立出て其夜|大津《おほつ》に泊り翌日は未明《みめい》より立て名にし負《おふ》近江《あふみ》八景を眺めつゝ行程に其以前大津を立し時より後《あと》に成り先に[#「先に」は底本では「老に」]成て行しは町人體《ちやうにんてい》の一人の旅人なり友次郎夫婦は何の氣も付ず瀬田《せた》の橋の手前なる茶店に腰打掛けて休みし時彼の旅人も其店へ這入《はひり》煙草など吸《すひ》ながら友次郎等に對ひ貴君方には何へ御越有哉と云掛られ友次郎は豫て道中には騙子《ごまのはひ》と云もの有と聞及び居ければ弱《よわ》みを見せては成まじと思ひ我等は中國の者なるが主人の用事により夫婦|連《づれ》にて江戸表へ參《まゐ》るなりと云へば彼旅人は夫こそ誠に幸ひなり私し事は大坂|天滿邊《てんまへん》の町人にて候が此度江戸の店へ用事有りて罷越《まかりこし》候に付幸ひの御道連苦しからずば今晩の御泊りより御同宿《ごどうしゆく》致し度と云れて友次郎は迷惑せしが然有《さあら》ぬ體にて夫は幸ひの事なり相宿の儀は兎も角も先|道連《みちづれ》に成申さんとて是より彼の男と同道《どうだう》して行程に彼旅人は旅馴《たびなれ》たる者と見えて此邊の名所々々知らざる處もなく此處《こゝ》に見ゆるが比良《ひら》の高嶺彼處が三井寺|堅田《かただ》石山などと案内者の如く教《をし》ふるにぞ友次郎夫婦は我知《われし》らず面白き事に思ひ猶樣々に此處は何《なに》彼處《かしこ》は何と尋るに元より辯舌優れし者故夫々に答へ追々《おひ/\》京大坂の話遊女町芝居などの事迄尾に尾を付て物語りけるにぞ夫婦は旅の憂《うさ》をも忘れ歩行《あゆみ》もさして太儀《たいぎ》に非ざれば流石は若き人心|能《よき》道連《みちづれ》を得たりと打悦び互ひに笑ひつ笑はれつ何時か草津《くさつ》石部《いしべ》も夢の間に打過て水口の驛に着し頃は夏の日なれども早《はや》申刻《なゝつ》過《すぎ》共思はれける八九里の道を咄《はなし》に浮たて歩行し事故お花は餘程|草臥《くたびれ》たる樣子なり友次郎とても久敷《ひさしく》京大坂に逗留し今日|踏出《ふみだ》しに大道を歩行たる事なれば今宵は早く共此宿に泊《とま》らんと云けるを彼の男は否々《いや/\》夏の旅は是から先が肝要《かんえう》なりお花樣とやらには駕籠を傭《やと》ひて進らせん何分僅の道故先の宿迄《やどまで》行《ゆき》給へ晝中と違ひて夕方はまた格別|歩行能《あゆみよき》ものなりと[#「|歩行能《あゆみよき》ものなりと」は底本では「歩|行能《あゆみよき》ものなりと」]勸められ餘儀《よぎ》なく夫婦も水口を立出けり [#8字下げ]第四回[#「第四回」は中見出し]  斯くて澤井友次郎は彼の町人の勸《すゝ》めにより水口の宿外れよりお花を駕籠に乘《のせ》其身は町人と共に咄|等《など》爲乍《しなが》ら駕籠の後《あと》に付て行《ゆく》程に一里餘りにして大野と云《いへ》る建場《たてば》に來りしが友次郎は過つて草鞋の緒《を》を切ければ履替《はきかへ》んとしける中彼の町人は傍に寄《より》最早《もはや》日も暮るに近ければ此建場は休まずに行べし草鞋を手早く履《はき》て追付《おひつか》れよと云捨《いひすて》駕籠を急がせ遣けるにぞ友次郎今直に履替れば暫く待《まち》給へと云を耳にも掛ず彼の町人は聞えぬ體《ふり》して急《いそ》ぎ行ゆえ友次郎は心ならねば草鞋《わらぢ》を履や否直に駈《かけだ》し追付んと急迫《あせれ》ども駕籠は何《いづれ》に行しや見えず猶も追付んと足に任《まか》せて急ぎけれども一向に影だに見えざれば餘りの不審《いぶかし》さに向ふより來る二三人の旅人に各々方は斯樣々々《かやう/\》の駕籠に行逢《ゆきあひ》給はずやと問けるに知ずと云も有しが其中の一人が其|駕籠《かご》は今方|確《たしか》此後の松原から南の横道《よこみち》へ一人の男が付て急ぎ行しと云にぞ偖は彼の町人と見えしは惡者《わるもの》にて有けるか欺かれしこそ殘念なれ未だ遠《とほく》は行まじ退止《おひとめ》てお花を取返《とりかへ》さずして置|可《べき》やと宛然狂氣の如く以前の旅人が教《をしへ》たる横道《よこみち》を指て急ぐ程に何時の間にか日は全くに暮果《くれはて》たり然ども宵月の時分なれば少しも撓《たゆ》まず何處迄もと追行ども更に駕籠の見えざるのみか問《とは》んと思ふ人にも絶《たえ》て逢ざれば若此儘尋ね得ずばお花は如何に成やらんと案事《あんじ》る程猶胸安からず暫しも猶豫《いうよ》ならざれば足に任せて追程に何時《いつ》しか廣き野中へ出|道《みち》幾筋《いくすぢ》となく有ければ何に行て能事《よきこと》かと定め兼四方を眺めて立止まりしが遙《はるか》向《むか》うにちら/\と燈の光り見るにぞ友次郎は大に歡《よろこ》び何は兎もあれ彼處は人里有處と思はるれば湯にても水にても一ツ貰《もら》ひて息《いき》を休め其上にて又尋ねんと燈火《ともしび》の見ゆる方を當に歩行《あゆむ》事大凡一里許と思ふ頃燈火の光《ひかり》は見えず成けるにぞ彌々《いよ/\》途方にくれ斯ては詮方なし然ばとて斯《かう》しては居られず何にしても此道《このみち》を行ば人里へ出ぬと云事は有まじと心を勵《はげま》して歩行まんとしけるに是まで何里《なんり》共《とも》なき道を走りたる事故大いに足を痛め歩行難きを引摺々々《ひきずり/\》又もや十四五町も歩行しと思ふ時漸々一|軒《けん》の家有所へ出《いで》たりける友次郎は心嬉しく偖は最前《さいぜん》燈火《ともしび》の光《ひかり》見えしは此家成りけるかと心に點頭《うなづき》立寄《たちよつ》て見るに門《かど》の戸を堅く閉て早《はや》寢《ね》たる樣子也《やうすなり》然れども此所を起《おこ》して尋ねずば何《いづれ》にも尋ぬる方あるまじと思ひ門の戸を敲《たゝ》きて呼起《よびおこ》すに未だ内には寢ざるにや年寄たる嫗《をんな》の聲にて應と言て門の戸を開《あけ》友次郎の顏を見て何所より來給ふやと問れて友次郎は小腰を屈《かゞ》め夜|更《ふけ》て御老人を駭かし申事何共氣の毒千萬なり某は旅の者にて先刻《せんこく》一人の惡漢に出合《いであひ》連《つれ》の女を見失ひ夫を尋ねんが爲に所々方々と駈廻《かけめぐり》しが不案内と言《いひ》殊《こと》に夜中の事故道に踏迷ひ難儀《なんぎ》致す者|也《なり》何とも申兼たる[#「申兼たる」は底本では「中兼たる」]事ながら湯にても水にても一|椀《わん》戴《いたゞ》き度と言ば主の老女は打合點《うちうなづき》夫は何とも御氣の毒千萬なり先此所へ上りて緩々《ゆる/\》と休み給へとて圍爐裏《ゐろり》に掛たる古藥鑵より湯茶を汲《くん》で差出す其待遇體《そのもてなしぶり》の念頃なるに友次郎も心|落付《おちつき》暫《しば》らく息を休めて扨老女に打對ひ率爾《そつじ》ながら此處は何と言《いふ》所にて東海道の宿迄は道法《みちのり》何程是有やと尋ぬるに老女は答へて此處は大野の在にて街道《かいだう》迄は二里餘りも有ぬべし只今承まはれば御連《おつれ》を見失ひ此所迄後を追駈て走り詰《づめ》にて來給《きさたま》[#ルビの「きさたま」はママ]ひしと成《なれ》ば定《さだ》めてお草臥の事ならん今より何《いづれ》を尋ね給ふ共夜中にては知申まじ見|苦《ぐる》しさを厭ひ給はずば今宵は此所にて夜を明し明なば早く此村の者を傭《やと》ひ大勢にて尋ね給へと云れて友次郎はお花の事の心に係れば暫《しば》しも落付《おちつく》氣《き》は無れども先刻よりの足の勞《つか》れに今は一歩も歩行べき樣《やう》なければ老女が言葉を幸ひに容を改め夜中《やちう》參り御世話に成《なる》ばかりも氣の毒なるに一夜の宿は何共御頼み申兼れ共|見《み》らるゝ通り足を痛《いた》め居れば實は今より一足も歩行難し依て仰に任せ何の端《はし》に成とも一夜を明し申|度《たし》必ず御世話は御無用と云にぞ老女は然ばとて盥《たらひ》に水を汲て友次郎に足を濯《すゝ》がせ圍爐裏に柴を折焚《をりたき》ながらお旅人には定めて物欲《ものほし》く思はれんなれ共《ども》此處等は街道へ遠《とほ》ければ魚類は乾魚も買《かひ》難し今朝炊たる麥飯に鹽漬の茄子《なす》あり是にて厭ひたまはずは飢を凌《しの》ぎ給ふ迄に進《まゐ》らせんと膳を出すにぞ友次郎は大いに悦び是は/\辱《かたじ》けなし然らば遠慮なく戴き申さんとて飢《うゑ》たる腹へ五六椀を食し今は腹合《はらあひ》も直り漸く人心地付しが荷物《にもつ》は殘らずお花の乘《のり》たる駕籠に付しかば着物《きもの》は汗《あせ》に成たれども着替る事さへ成ず然《され》共夫等を厭ふべき時ならねば飯を喰《くひ》仕舞《しまひ》て老女に一禮を述《のべ》圍爐裏に寄《より》て煙草をぞ呑居《のみゐ》けるに老女は膳を片寄ながら礑《はた》と手を拍《うち》私しは隣村迄今宵の中に是非行ねば成ぬ用有しを事に取紛《とりまぎ》れて打忘れたり折角の御客に留守を預《あづ》けるはお氣の毒ながら手間の入る事《こと》にあらねば暫時留守して給はるべし定めて勞れ給へし成らんに着せ進らせん夜の物もなし當所《たうしよ》は殊に蚊《か》の多ければ爐に蚊遣りを仕掛て其の邊りに寢轉び草臥《くたびれ》を休め給へ何卒|暫時《しばし》頼み進らすと云つゝ立ち上りて門の戸引き閉め出て行きけり [#8字下げ]第五回[#「第五回」は中見出し]  跡には友次郎只一人思ひ廻《まは》せば廻す程お花の事が心に係《かゝ》り眠《ねむ》らんと爲れども心|冴《さえ》其上夜の更るに隨ひて漸次に蚊《か》は多くなり右左より群付《むれつく》にぞ斯ては勿々《なか/\》眠られずと起上りて圍爐裏に柴を折くべ居る時しも此方の納戸《なんど》共覺しき所にて何者やらん夥多《おびたゞ》しく身悶《みもだ》えして苦しむ音の聞ゆるにぞ友次郎は膽《きも》を潰《つぶ》し何事成んと耳を濟《すま》し窺ふに聲は聞えねども足摺《あしずり》して苦しむ樣子の一しほ始めに彌増《いやまし》ければ何共|合點《がてん》行ず心成ずも密《そつ》と立上り襖の透間より差覗《さしのぞ》くに納戸の中には灯りもなく小さき火鉢に蚊遣《かやり》の仕掛《しかけ》有しが燃落《もえおち》て薄暗き側に聢とは見えねども細引にて縛られたる一人の女居たり友次郎は發《はつ》と思ひ能々見るに此は如何に己《おのれ》が尋ね探《さが》すお花なりければ驚きながらも嬉しさ限りなく直樣《すぐさま》走り入て其體を見るに身は細引《ほそびき》にて縛られ口には猿轡を箝《はめ》てあり友次郎は見も悼ましく先《まづ》縛《しば》りし繩を解捨《ときすて》猿轡《さるぐつわ》をも取《と》り除《のく》るに解《とく》手遲しとお花は友次郎に抱付《いだきつき》流石《さすが》に餘處を兼しか聲をも立ず泣けるを友次郎は諫《いさ》め勵まし泣てのみ居ては事分らず樣子如何にと問掛《とひかく》ればお花も屹度《きつと》心付涙を拂ひ妾が此處まで[#「此處まで」は底本では「此まで處」]連られ來りしには種々|樣子《やうす》有《あれ》ども夫は道々御話し申さん夫れよりは先急ぎ此所を遁《のが》れねば二人とも如何なる憂目《うきめ》に逢んも知れ難し少も早く落付《おちつき》給へと云ば友次郎は何か仔細《しさい》は分らねども然らばとて手|早《ばや》く草鞋《わらぢ》履《はか》しむればお花も有合の草鞋を足に引掛《ひつかけ》二人手を取り裏口《うらぐち》より忍び出《いで》しは出たれども何《いか》に行ば街道《がいだう》ならんと思ひながらも一|生懸命《しやうけんめい》の場所なれば足に任せて走る程に何程《なにほど》來りしかは知らざる中《うち》夏の夜の明安く東雲《しのゝめ》近く成しと覺えて行先に驛路の鈴の音《ね》人足《にんそく》の聲など遙に聞えければ友次郎もお花も始《はじ》めて蘇生《よみがへり》たる心地して扨は街道に近く成しぞと猶も道を急ぐ程に頓《やが》て宿場《しゆくば》共思はるゝ所へ出し頃は夜は白々《ほの/″\》と明放《あけはな》れ往來の旅人も多く有ければ兩人は漸々《やう/\》心落付初めて勞れを覺え先《ま》づ此邊にて一息《ひといき》繼《つか》んと茶見世に立寄て腰を掛ければ茶店の親父《おやぢ》は茶を汲《くみ》て出しながら二人の樣子を見て不審《いぶかし》さうに貴君方には夜前は水口へ御泊にて有しかと尋ねられ友次郎は包み難《がた》く我々は昨日《きのふ》惡漢《わるもの》に出逢夜通しに此所迄遁れ來し者なり此|宿《しゆく》は何と申すやといへば親父《おやぢ》は氣の毒さうに夫は嘸《さぞ》かし御難儀の事成ん此處は土山宿にて街道筋なれば最早《もはや》惡者《わるもの》の追《おひ》來る憂ひなし緩りと御休み成るべしと深切《しんせつ》の言葉に友次郎も頼母敷思ひ此所にて草鞋|買調《かひとゝの》へてお花に履せ自分も履替などして厚《あつ》く一禮述立出しがお花は是迄に息をも繼《つが》ず歩行續けし事なれば友次郎は夜前の始末《しまつ》を話すべき隙《ひま》なかりしが最早惡者の追ひ來るべき心|遣《づか》ひなしとてお花は友次郎に打向《うちむか》ひ昨日大野とやら云|建場《たてば》を出しより駕籠舁共頻りに急ぐ故妾も不審《ふしん》に思ひ貴君《あなた》の事を尋ぬれば駕籠舁共《かごかきども》の云にはお連樣は跡より續いて來給ふなり早く行ねば日が暮《くる》ると尚も急ぎける故妾も實に然《さる》事と思ひ居し内日は暮て人一人も通《とほ》らぬ野原へ舁込だり貴方には續《つゞ》いて來給ふかと度々|問《とへ》ども其後は駕籠舁共は聞ぬ體《ふり》して一向に返事もせず斯て餘程の道を走りしと思ふ時|怪《あやし》き一ツ家に駕籠を舁込しが主《あるじ》の老女一人居り其時彼の町人と思ひし男私しに對《むか》ひ最早此所迄來る上は如何に叫《さけ》ぶとも詮なし翌日は京の遊女町へ連|行《ゆき》て金にする積《つもり》なれば其心得にて此姥樣《このおばさん》の處に今宵悠々と泊り居よと云れて偖は惡漢に欺《たば》かられしか殘念や口惜やと遁《のが》れんとすれ共《ども》先づは四人の[#「四人の」はママ]荒男《あらをとこ》勿々《なか/\》遁《のが》すべき樣無れども然ばとて阿容々々《をめ/\》として遊女などに賣るべきや心を勵《はげ》まし隙を見合せ迯出《にげいだ》せしが女の甲斐なさ終に又《また》捕《とら》へられたり因て彼等は云樣|斯《かう》して置《おけ》ば又々|迯《にげ》んも知れずとて有合細引にて縛《いまし》めらるゝ時に胴卷に入し百兩の金をさへ見附られ暗々と奪《うば》ひ取れ納戸の柱《はしら》に縛り付られ彼の百兩の金は四人にて取分《とりわけ》になし三人の男は其の儘《まゝ》歸《かへ》りたり然るに其跡へお前樣のお出《いで》有し故彼の老女は私しの連なるを知り心能宿を貸し置|密《ひそ》かに以前の三人に知らせお前樣を殺さんとて隣村《となりむら》まで行くと云て出行し其樣子は納戸の中にて殘らず聞ては居《をり》ながら猿轡を嵌《はめ》られたれば聲を立る事さへ成ず夫故《それゆゑ》に那樣に物音をさせてお知《し》らせ申せしに夫と察《さつ》してお前樣納戸に入りて私しを助《たす》け下されし故危き所を遁れ候ひし然ながら面目《めんぼく》なきは百兩の金を取られしことと云ば友次郎は始終《しじう》を聞終りて彼百兩の金子を失ひたるは止事を得ず怪我《けが》のなかりしが幸ひなり實に浮雲《あぶな》き事成しと語りつ聞つ兩人は道を急ぎて辿りけり [#8字下げ]第六回[#「第六回」は中見出し]  夫よりして友次郎|夫婦《ふうふ》は路次《ろじ》の油斷《ゆだん》なく少しも早く江戸に到《いた》り如何《いか》にもして身の落付《おちつき》を定めんものと炎暑《えんしよ》の強きをも厭《いと》はず夜を日に繼《つい》で行《ゆく》程《ほど》に早晩《いつしか》大井川をも打渡《うちわた》り箱根の峠《たうげ》も難なく越え藤澤の宿《しゆく》に泊《とま》りたる其夜友次郎は俄《にはか》に熱氣《ねつき》強《つよ》く起り悶《もだ》え苦みけるにぞお花の驚き一方ならず土地《ところ》の醫者を頼みて見せけるに是は大暑《たいしよ》の時分に道中を爲《し》給ひし故|邪氣《じやき》を冒込《おひこみ》其が俄《にはか》に發したるのにて先づ申さば霍亂《くわくらん》なりとて藥を置て戻《もど》りしにぞお花は早速《さつそく》煎《せん》じて飮《のま》するに其夜の明方頃になり友次郎は夥多敷《おびたゞしく》吐《はき》けるが夫より大いに熱《ねつ》も醒《さめ》すや/\と眠《ねむ》る樣子なるにぞお花は少しは安堵《あんど》せしに其翌日より友次郎の右の足に大きさ茶碗《ちやわん》を伏《ふせ》たる程の腫物《しゆもつ》出來て病《いた》む[#「病《いた》む」はママ]こと甚だしく自由には起居《たちゐ》も成ざればお花は又もや駭《おどろ》きて以前の醫者を呼《よび》て見するに此度は醫師も首《かうべ》を傾け是は何共|名付《なづけ》難き腫物《しゆもつ》なり何にもせよ口を明て毒を取らねば大事に成んも知れず大切なる腫物《しゆもつ》なれば隨分《ずゐぶん》お大事に成るべしとて煎藥《せんやく》と膏藥《かうやく》とを調合《てうがふ》して置て行ければお花は彌々《いよ/\》胸《むね》安《やす》からず醫者の教《をし》へたる通り腫物に膏藥《かうやく》を貼《はり》煎藥《せんやく》を勸めて看病《かんびやう》に暫時《しばし》も油斷《ゆだん》有ね共如何成事にや友次郎が腫物《しゆもつ》は元の如くにて一|向《かう》口《くち》も明《あか》ず痛《いた》みは少づつ緩《ゆる》む樣なれども兎角に氣分《きぶん》宜《よろ》しからず惱《なや》み居けるぞ傷《いたま》しや友次郎も最早日付にしても江戸へ着《つか》るゝ處迄|來《き》て居ながら情《なさけ》なき此|病氣《びやうき》と心のみ速《はや》れども其|甲斐《かひ》なく妻のお花も夫の心を汲分《くみわけ》ては悲しくも又|口惜《くちをし》きを一人心を取|直《なほ》し夫の氣を落《おと》さぬやう可笑《をかしく》もあらぬことにまで笑ひ慰《なぐさ》め居たりしが兎角《とかく》藥の効驗《しるし》もなく夏も去《さり》秋も過てはや其年も暮《くれ》になりけれども一向に驗《しるし》も見えず斯《かく》て居ること既《すで》に一年餘りに成ければ路用《ろよう》の貯《たくは》へとてもお花が所持《しよぢ》せし百兩は惡漢《わるもの》に奪ひ取れ友次郎が持《もち》し百兩も岡山を立しより是迄に過半《くわはん》遣《つか》ひ捨《すて》し上此處にて斯一年餘りの病氣に藥代《やくだい》は元より旅籠《はたご》其の外の物入りに大概《たいがい》遣《つか》ひ失し今は貯《たく》はへも殘《のこ》り少なになりければ斯《かく》ては當所に長く逗留《とうりう》も成難し然ばとて夫《をつと》の病氣今少し快方《こゝろよく》ならねば出立も成まじとお花は一人心を痛《いた》めつゝ又四五ヶ月も滯留《たいりう》せし中終に路金《ろきん》は殘《のこ》りなく遣《つか》ひ捨《すて》夫よりは櫛《くし》を賣《うり》簪《かんざ》しを賣《うり》て其日の旅籠《はたご》となせしが此さへ彼の惡漢《わるもの》に出會《であひ》し時夫婦の衣類《いるゐ》を包《つゝ》みし荷物《にもつ》を奪《うば》ひ取れし事ゆゑ最早《もはや》賣物《うりもの》もなく詮方《せんかた》なければ胸《むね》を苦《くる》しむるばかりなり然るに此|旅籠屋《はたごや》の主人と云は元《もと》江戸にて相應《さうおう》に暮せし町人ながら當所へ移《うつ》り宿屋を始めし者にて侠氣《をとこぎ》ある生《うま》れ付なれば友次郎が長《なが》の病氣にお花が苦勞《くらう》する樣子を見て氣《き》の毒《どく》に思ひ種々《いろ/\》心を付《つけ》慰《なぐさ》めしが此程は貯《たくは》へも乏《とぼ》しく成りしと見え猶々《なほ/\》心勞《しんらう》する體《てい》の如何にも不便《ふびん》なりと思ひしにぞ或時友次郎が座敷《ざしき》へ例《れい》の如く見舞《みまひ》に來り御|客《きやく》には今日の御樣子は如何に哉《や》と尋ぬれば折節《をりふし》友次郎は眠《ねむ》りにつきお花は枕元《まくらもと》に藥《くすり》を煎《せん》じて在《あり》しが夫と見るより言葉《ことば》を改《あらた》め是は/\御深切《ごしんせつ》に毎々《いつも/\》御尋《おたづ》ね今日は何よりも心|能《よき》樣子にてすや/\眠《ねぶ》り居候と云を亭主は聞《きゝ》て夫は/\先何より重疊《ちようでふ》なり而て御|食事《しよくじ》などは如何やと云ふにお花は食事も氣分《きぶん》も快《よ》き折には隨分《ずゐぶん》給《たべ》候が氣分の塞《ふさ》ぐときは無理《むり》にも給《たべ》られぬと申て溜息《ためいき》ばかり吐居《つきをり》兎角《とかく》に果敢々々敷《はか/\しく》驗《しるし》も見えず實に困《こま》り入候とほろりと翻《こぼ》す一|雫《しづく》を見せじと瞼《まぶた》をしばたゝき夫《それ》に就《つい》ては長々《なが/\》逗留《とうりう》の間《あひだ》種々《いろ/\》と別段《べつだん》の御|厄介《やつかい》になり何とも御氣の毒千萬と云ば亭主は能《よき》咄《はな》しの機《しほ》と思ひ何時まで御|逗留《とうりう》ありしとて手前は夫が商賣《しやうばい》なれば少しも世話《せわ》とは思ひませぬが御良人《おつれあひ》は御大病なり其樣なことには決《けつ》して御心遣ひなく何時|迄《まで》も緩々《ゆる/\》と御|逗留《とうりう》成れまし然ながら斯樣申せば何とも失禮《しつれい》千萬《せんばん》なれども永々《なが/\》の御|逗留《とうりう》と云|殊《こと》には御良人《おつれあひ》の御病氣にて御物入《おんものいり》も莫大《ばくだい》ならん縱令《たとへ》餘計《よけい》の御貯《おんたく》はへ有とも斯して在れなば追々《おひ/\》殘《のこ》り少なになり旅先《たびさき》は別て心細《こゝろぼそ》くも思ふものなり金銀は湧《わく》物《もの》なれば今なくとも出來る時節《じせつ》も有事《あること》故《ゆゑ》若《もし》其樣な事にて御|心配《しんぱい》なさるは御無用なり縱令《たとへ》御貯《おたくは》への路金《ろぎん》盡《つき》たりとも御病氣|御全快《ごぜんくわい》迄は御心|靜《しづか》に御|逗留《とうりう》成るべし其間は何に寄《よら》ず御入用有ば仰《おほせ》られよ又少々の金子なれば隨分《ずゐぶん》御|用立《ようだて》申べし必ず然樣な事に御遠慮《ごゑんりよ》あるべからずと深切《しんせつ》なる亭主の言葉にお花は涙《なみだ》を流して打歡《うちよろこ》び是迄|種々《いろ/\》と厚く御世話に預《あづか》りし上只今の其御|言葉《ことば》此御|恩《おん》は命《いのち》に代《かへ》ても報《はう》じ難《がた》し實は御|察《さつし》の通り僅《わづか》の路銀《ろぎん》を遣《つか》ひ盡《つく》し此程は櫛《くし》簪《かんざ》しを拂《はら》ひしも最早《もはや》夫さへ殘りなく誠《まこと》に當惑《たうわく》の折柄《をりから》なるに御深切《ごしんせつ》の御言葉に甘《あま》え何とも鐵面皮《あつかま》しき御願ひなれども今少し夫《をつと》の病氣の快《なほ》る迄御慈悲に滯留《たいりう》を御頼み申たく夫に付て又一ツの御願ひ有何の御役にも立まじけれど切てもの御恩《ごおん》報《はう》じに私しを御女中|衆《しゆ》の中へ御加へ下され御客樣の御給仕にても御させ成《なさ》れて下さりませと云ば亭主は打案《うちあん》じ夫は入ぬ御心配《ごしんぱい》なり御武家に御|育《そだ》ち成れし御身が宿屋の女の手傳《てつだ》ひも成まじ然ながら手前に然樣な心は塵程《ちりほど》も有ねども貯《たくは》へなくて滯留《たいりう》するは氣の毒と御|心遣《こゝろづか》ひが有ては却《かへつ》て惡《あし》ければ御|言葉《ことば》に隨《したが》ひ御|客《きやく》が多く手の足ぬ時は御頼み申べしと言《いは》れてお花も少しは安堵《あんど》し臥《ふし》たる友次郎を搖起《ゆりおこ》し此事を内々《ない/\》話《はな》しければ友次郎も悦《よろこ》びて何分共に願ひ候と言《いは》れて亭主も夫婦の者の其|心根《こゝろね》を察《さつ》し遣《や》り本意《ほんい》ならぬ事には有《あれ》ど終《つひ》に其意《そのい》にまかせけり [#8字下げ]第七回[#「第七回」は中見出し]  夫よりしてお花は日夜《にちや》下婢《をなご》の中に立|交《まじ》り勝手|元《もと》の事など働《はたら》くにぞ亭主はいとゞ不便に思ひ家内の者に言|付《つけ》てお花を恤《いた》はらせければ下婢《をなご》仲間《なかま》にてもお花を麁略《そりやく》にせず力の入事《いること》などはさせざりけり然ともお花は身を粉《こ》にしてなり恩を報《はう》ぜんものと思へば如何なる賤《いやし》き業《わざ》をも少しも厭《いとは》ず客が來れば夜具の上下《あげさげ》風呂《ふろ》に浴《い》れば脊中《せなか》を洗《あら》ひ或時は酒の給仕《きふじ》などにも出るにお花は容顏《かほかたち》麗《うるは》しければ是を慕《した》ひ多くの旅人の中には種々なる戯《たはぶ》れ事を云掛る人など有て五月蠅《うるさく》も腹|立敷《だたしき》折《をり》も有ども何事も夫の爲且は情《なさけ》ある亭主への恩報《おんはう》じと思へば氣を取直《とりなほ》して宜程《よきほど》にあしらひつゝ月日を送りけるに或時旅人多く泊《とま》り合せし中に一人の若黨體《わかたうてい》の武士あり風呂《ふろ》に入たる樣子《やうす》なるにぞお花は例の如く老實《まめ/\》しく湯殿《ゆどの》へ到りお湯の加減《かげん》は如何や御脊中《おせなか》を流《ながし》申さんと云へば彼の旅人は否湯も宜|加減《かげん》なり決て構《かま》ふべからずと云ながら此方を見返《みかへ》り不※[#「圖」の「回」に代えて「面から一、二画目をとったもの」、538-9]お花の顏を見て彼の旅人は驚きたる樣子にて小聲になり貴娘《あなた》はお花樣にては無きや如何の譯《わけ》で此家にと云れてお花は薄暮《うすぐら》ければ面貌《おもざし》は知れざれど我が名を呼は不審《ふしん》なりと彼の旅人の顏を能々《よく/\》見るに岡山に在《おはせ》し時數年我が家に使ひたる若黨の忠八にて有ければ餘《あま》りの事に言葉も出ず女の細き心にて斯《かゝ》る賤《いやし》き姿《すがた》に成しを絶て久敷|逢《あは》ざりし若黨に見らるゝ事の恥《はづか》しくも口惜《くちをし》く又嬉しさも取交《とりまぜ》て先立涙を押拭ひ其方は忠八にて有けるか恥《はづか》しき此身の姿是には種々《いろ/\》話《はなし》もあり聞度事も多《おほ》けれ共《ども》此處では話しも成難し友次郎樣も此家に在るれば後に緩《ゆる》りと語るべしと云に忠八は點頭《うなづき》て然らば友次郎樣に御目《おめ》に懸《かゝ》りたる上何かの御話も仕つらん私しも仔細《しさい》有て御二人樣の御行方《おんゆくへ》を那地《あち》此地《こち》と尋《たづ》ね居しが此所で御目に懸らうとは夢にも存ぜずと云時|勝手《かつて》にて御花さん/\と呼《よぶ》聲《こゑ》の聞ゆるにぞ然らば後にと云捨て御花は頓《やが》て立去けり斯《かく》て忠八は三年|越《ごし》尋《たづ》ね詫《わび》たるお花に※[#「圖」の「回」に代えて「面から一、二画目をとったもの」、538-16]《はか》らずも今宵《こよひ》廻《めぐ》り逢たることなれば一時に豫《かね》ての望《のぞ》み足ぬと湯もそこ/\にして上り夕飯《ゆふはん》も仕舞《しまひ》お花の知せを今や/\と待中に程なくお花は出來り此方へと云《いふ》案内《あんない》につれ忠八は後《あと》に付て行ける程《ほど》に友次郎が病に臥《ふし》たる一間に到りしかば忠八は座敷《ざしき》に入り先友次郎が病氣の樣子を見て大に驚き其故《そのゆゑ》を如何にと問に友次郎は漸々に枕を上《あげ》誠に我々二人が不義《ふぎ》今更|悔《くや》みて詮なく又其方に對面するも面目なき仕合せなり我れ此病氣を煩《わづら》はぬ先に不義《ふぎ》不孝《ふかう》の天罰《てんばつ》ならんか此所まで來る道すがら種々の艱難《かんなん》に逢《あひ》路《ろ》用の金をさへ失ひし其概略《そのあらまし》を語らんに兩人が岡山《をかやま》を立退《たちのき》しより陸路《くがぢ》を大坂へ登《のぼ》り廿日餘り休足《きうそく》せしが少《すこ》しも早く江戸へ到り身の落付《おちつき》を定めんと同所を出立せし其|折柄《をりから》祇園祭《ぎをんまつり》ありと聞京都に立寄り見物して行んと彼地に到り過《あやま》ちて大切たる印籠《いんろう》を失ひ夫より江戸に下らんとして大津《おほつ》の宿外《しゆくはづ》れより惡漢に付れ終にお花を奪《うば》ひ取れ斯樣々々《かやう/\》の譯《わけ》にて取返《とりかへ》せしが其の節《せつ》荷物《にもつ》と[#「荷物と」は底本では「荷物も」]路金百兩を奪はれたり然ながら我懷《わがふとこ》ろに遣《つか》ひ殘りの金六十兩|餘《よ》も有ければ是にて江戸へ下《くだ》り取付んと思ひ夫より道を急ぎて當所《たうしよ》迄來りし所此病氣に取付《とりつか》れ假初《かりそめ》の樣なれどもハヤ二年越しの長煩《ながわづら》ひに貯はへ殘らず遣《つか》ひ捨其上お花の櫛《くし》笄《かうが》ひ迄も賣盡《うりつく》し外に詮方《せんかた》も無りしに此家の主人がお花の苦勞する樣子を見て悼《いたま》しく思ひ或日我が眠《ねむ》り居る時此座敷へ來りお花に對ひ縱令《たとへ》貯《たくは》への路金は盡たり共然樣な事に少しも心遣《こゝろづか》ひなく病氣|全快《ぜんくわい》ある迄|看病《かんびやう》して緩《ゆる》りと滯留《たいりう》致すべしと情ある言葉を頼みに貯へはなけれども不自由なく暮《くら》し居れば切《せめ》ては少の手助《てだす》けでもして亭主の恩に報はんとお花が心付にて下婢の中に立交《たちまじ》り賤き身と成下《なりさが》りし事是|偏《ひとへ》に天の惡《にく》しみ給ふ處と今更思ひ當りしと有し樣子を物語れば忠八は驚《おどろ》き歎《たん》じ此處に夫程|御滯留《ごたいりう》有とも知らず所々方々尋ね[#「尋ね」は底本では「お尋ぬ」]廻りしこそ愚なれ併し今宵《こよひ》此家に泊らずば御目にも掛《かゝ》らず江戸迄行んものを是誠に天道の引合せ給ふ處成べしと云つゝ潜然《ほろり》と[#「潜然と」はママ]目に涙を浮めけるにぞお花は怪みて側《そば》に摺寄《すりよ》り此方の事のみ云て御國許の樣子は如何にや其方が私共の行衞《ゆくゑ》を尋ぬると云も不審《いぶかし》夫《それ》は置て兄君《あにぎみ》喜内樣にも澤井の父樣にも御|機嫌《きげん》能《よき》か物堅いお生れながらお兄樣は早三十にも成給へば御内方でも迎へ給ひしか樣子は如何にと問懸《とひかく》れば友次郎も諸《もろ》ともに絶《たえ》て久敷|古郷《こきやう》の樣子少しも早く聞度と云れて忠八兎や云ん角や云んと胸《むね》の中一人|苦《くる》しめ居たりけり [#8字下げ]第八回[#「第八回」は中見出し]  扨《さて》も忠八はお花夫婦に問掛《とひかけ》られ何とか云て宜からんと一人胸を苦めしが何時迄か包み隱さんと心を定め四邊《あたり》を見廻《みまは》し聲を潜《ひそ》めてお兩人樣|御尋《おたづね》なくとも申上ねば成ぬ大切の事あり其仔細と言は一昨年の事にて候ひしが私し同樣に御|家《いへ》に御奉公致し居候吾助事何故かは存じ候はねども喜内樣の御病氣の節《せつ》御看病《ごかんびやう》を致しながら人々の寢入りたる樣子を考《かんが》へ喜内樣の御病氣|勞《つか》れにて眠り給ひしを見澄《みすま》し一刀に御|咽元《のどもと》を指貫《さしつらぬ》き候ひぬ然ども勇氣の喜内樣故|刺《さゝ》れながらも跳返《はねかへ》し給ひ短刀にて唯一|討《うち》にと切掛《きりかけ》給ひしが御病中と云|深手《ふかで》を負《おは》れし上なれば御|眼《め》眩《くら》みて吾助が小鬢《こびん》を少し斬れしのみ折柄《をりから》燈火《ともしび》消《きえ》ければ吾助は是を幸ひと滅多切に切散《きりちら》し闇《やみ》に紛《まぎ》れて何國ともなく遁失《にげうせ》たり其時始めて喜内樣には御聲を上《あげ》られしにぞ私し始め皆々ソレと言《い》つて馳付《はせつき》候ひしにお悼《いたま》しや深|手《で》何ヶ所も負《おひ》給ひ御養生《ごやうじやう》叶《かな》ふべくも候はず其時喜内樣には私しを近く召れ敵は吾助と見屆《みとゞけ》ながら打洩《うちもら》しぬる事|殘念《ざんねん》なり汝は幼少より家に仕へて性根《しやうね》をも見拔《みぬき》たれば申し殘す一儀あり我死なば具足櫃《ぐそくびつ》の内に貞宗《さだむね》の短刀と用金の貯《たくは》へ五百兩|有《あり》其内金二百兩と短刀《たんたう》はお花が行衞を尋ね出し紀念《かたみ》なりとて渡し呉《くれ》よ又百兩は汝が路用に遣《つか》はし殘り二百兩は下人共へ配當《はいたう》すべし其外の品は一切手を付ず取調て御見分《ごけんぶん》の御役人へ御|渡《わた》し申すべしと細々《こま/″\》御遺言《ごゆゐごん》有て終に亡《むなし》く成給ひし然ば泣々|仰《おほ》せの如く取計ひ御|石碑《せきひ》をも建立《こんりふ》して御後の取|賄《まかな》ひ萬事|濟《すま》せ後下人共へは御|紀念《かたみ》金を分與へて暇を取せ私し事は翌朝《よくてう》岡山の城下を出立《しゆつたつ》致せしに城下外れの松原にて友次郎樣の親公佐太夫樣に端《はし》なく御目に掛《かゝ》り斯樣々々《かやう/\》の仰《おほ》せ有しと友次郎へ教訓《けうくん》の言葉とお花へ贈《おく》る二百兩の金を預《あづか》りし事又其身も路金《ろぎん》にとて五十兩の金を貰《もら》ひしを辭退《じたい》すれども聞入なければ據ころなく受納めたることまで始終《しじう》の樣子を委敷《くはしく》物語ればお花は元より友次郎も夢かとばかり打驚き涙は落て瀧の如く中にもお花は心も亂《みだ》るゝばかりに泣悲《なきかな》しみ暫時《しばし》は正體《しやうたい》も非ざりしが何思ひけん友次郎が脇差《わきざし》を拔《ぬく》より早く既《すで》に自害《じがい》すべき有樣なるにぞ忠八は遽《あわ》て押止《おしとゞ》め御花樣には如何《いか》なれば御生害《ごしやうがい》を成れんとは仕給《したま》ふや兄君の御|成行《なりゆき》を御聞成れ御心にても亂れ給ひしかと言《いへ》ばお花は涙を止《とゞ》め是程の大變を聞《きゝ》しなれば少しは心の亂《みだ》れもせん此度吾助が兄君を害《がい》せしは皆《みな》我身《わがみ》より起りしことと思はるゝなり其の譯《わけ》は日外《いつぞや》よりして吾助事我が身に度々《たび/\》不義を云|掛《かけ》しかども心に染まねば強面くも返事《へんじ》も爲《なさ》ざりしに不※[#「圖」の「回」に代えて「面から一、二画目をとったもの」、541-4]《ふと》した事より恥《はづ》かしながら友次郎樣と互に思ひ思はれて終に割なき中と成《なり》しを吾助は疾《とく》に知《しり》しと覺《おぼ》しく是を口惜《くちをし》き事に思ひけん妾《わらは》一日友次郎樣を部屋《へや》に忍《しの》ばせたることを兄君に申上二人ともに戀《こひ》の意恨《いこん》憂目《うきめ》を見せて夫を腹慰《はらいせ》に爲《せん》と思ひし處兄上には我身と友次郎樣とを夫《それ》となく其夜の中に落し給ひしかば夫より吾助は愚《おろか》にも兄君を怨《うら》み斯《かゝ》る大變《たいへん》を生ぜしなれば然は我が身の不義《ふぎ》より大切な兄《あに》君を亡《うしな》ひたるなり日外《いつぞや》部屋《へや》にて自害《じがい》せば此大變は起るまじきに死後《しにおく》れたるこそ口惜《くちをし》けれ今更死ぬとも詮《せん》なけれども切《せめ》ては命を捨《すて》て成と兄君への申譯をせんものと又もや刄《やいば》を取直《とりなほ》すを友次郎は痛《いた》みも忘れ叶《かな》はぬ足にて躄《いざ》り出先|刄《やいば》を拏取《もぎとり》て其方が申處も道理《だうり》なり我とても其|折《をり》潔《いさぎ》よく切腹せば斯る事にも成《なる》まじきを命を惜《をし》み落延《おちのび》しは今更|後悔《こうくわい》至極《しごく》なり然しながら今|其方《そなた》にせよ我にせよ假令《たとへ》生害《しやうがい》したりとも何面目《なにめんぼく》あつて喜内殿に地下にて言譯が成べきや夫よりも我思ふには敵吾助を尋《たづ》ね出て首《くび》取《とつ》て亡魂《ばうこん》を祀《まつ》らば少しは罪を贖《あがな》ふに足るべきか心を鎭《しづ》めて熟《とく》と思案を致すべしと言れてお花も成程《なるほど》と思ひしが友次郎の言葉に隨《したが》ひければ忠八も安堵《あんど》して先喜内が紀念《かたみ》に遣《つか》はしたる貞宗《さだむね》[#ルビの「さだむね」は底本では「さだむぬ」]の短刀と金二百兩并びに佐太夫がお花《はな》へとて贈《おく》りたる金二百兩を胴卷《どうまき》の中より取出し二人の前に並《なら》べ又彼の印籠《いんろう》を取出して日外《いつぞや》失《うし》なひ給ひしと有りし印籠は是にては候はずやと言ば二人は大いに驚《おどろ》き如何にして此品の其方の手に入しやと言に忠八は是には長《なが》き御|物語《ものがた》りあり一通り御聞下さるべしとて岡山の城下外れにて佐太夫に別れしより吉備津の便船《びんせん》に乘り大坂へ着《つき》同所に半年餘も逗留《とうりう》し夫より京都に到り三條通りなる龜屋と言るに宿を取此所にも半年餘《はんとしあま》りも居て友次郎樣夫婦の所在《ありか》を尋ねしかども一向に知ず然るに或日|雨《あめ》降《ふり》て外へも出られねば空《むな》しく宿屋に在し所宿の亭主の物語《ものがたり》にて此印籠を得しのみならずお二人樣の御行方《おんゆくへ》も大方知ければ其|翌朝《よくてう》京都を立出江戸へと心指《こゝろざし》夜《よ》を日に繼《つい》で急《いそ》ぎしに不測《ふしぎ》にも當宿にて御面會申せしなりと始終《しじう》の樣子を物語《ものがた》れば友次郎夫婦は歎《なげ》きの中にも印籠の再び手に入しことを喜び且龜屋の亭主の侠氣《をとこぎ》なるを感《かん》じ其の夜は積《つも》る物語に夜を更《ふか》し翌日《よくじつ》に成て此家の亭主を招《まね》き國許《くにもと》より是なる家來《けらい》參り合せて金子も手に入たれば御案事《ごあんじ》下さるまじ是よりは主從三人に成て御世話《おせわ》も増《ます》ならんが今少し御厄介《ごやつかい》に成たしと言けるに亭主もいとゞ歡《よろこ》び夫は何より重疊《ちようでふ》なり日外《いつぞや》より申通り御逗留《ごとうりう》の事は何時《いつ》迄にても仔細《しさい》なしとて此日は酒肴など出して忠八を饗應《もてなし》ける斯《かく》てお花は喜内に貰《もら》ひたる印籠《いんらう》の中に何ぞ友次郎が藥《くすり》に成べき品は無かと一ツ/\に開て見るに其中に腫物《しゆもつ》一切の妙藥《めうやく》と記したる一包の藥有りければお花は大に悦《よろこ》び友次郎にも忠八にも是を見せ試《こゝろ》[#ルビの「こゝろ」は底本では「ことろ」]みに用ひては如何《いかゞ》やと言《いへ》ば友次郎は何にもせよ腫物《しゆもつ》一切の藥と有ば用ひるとも障《さは》りには成まじとて包《つゝ》みを披《ひら》きて見るに中に用ひ方まで委敷《くはしく》記《しる》し有にぞ大いに便りを得て其藥を紙《かみ》へ伸《のべ》て腫物《しゆもつ》の上に貼置《はりおき》けるに其|夜《よ》亥刻頃《よつごろ》より痛む[#「痛む」は底本では「病む」]事甚だ敷《しく》曉方《あけがた》に成て自然《しぜん》と潰《つひ》え膿《うみ》の出る事|夥多敷《おびたゞしく》暫時《しばらく》有て痛《いたみ》は忘《わす》れたる如く去《さり》ければ少しづつ動《うご》かし見るに是迄|寢返《ねがへ》りも自由に成ざりし足が膝《ひざ》を立ても痛《いた》む事なき故友次郎は云に及ばずお花忠八も甚《いた》く悦《よろこ》び斯《かく》ては日ならず江戸へ下らるべしと猶|怠《おこた》りなく看病《かんびやう》せしかば五日目には起居《たちゐ》の成樣になり十日目|頃《ごろ》は座敷の中を歩行程に成ければ最早《もはや》大丈夫なり此處《こゝ》より通《とほ》し駕籠《かご》にせば日着《ひづけ》に江戸へ着すべしと友次郎は其日亭主を呼《よ》び明朝出立の事を話《はな》し是迄|長々《なが/\》厚《あつ》き世話《せわ》に成し事をお花と倶《とも》に禮を述《のべ》旅籠賃《はたごちん》の外に肴代《さかなだい》など遣《つか》はし下婢共《げぢよども》にも少しづつの心付して友次郎お花をば駕籠《かご》に乘《のせ》忠八は後《あと》に付て藤澤宿《ふぢさはしゆく》を立出けり [#8字下げ]第九回[#「第九回」は中見出し]  話頭《はなし》異《かは》りて爰に松田の若黨《わかたう》吾助は主人喜内を討果《うちはた》して豫《かね》ての鬱憤《うつぷん》を散じ衣類一包みと金子二百兩を盜み取|闇《やみ》に紛れて備前國岡山を立去しが豐前國《ぶぜんのくに》小倉《こくら》の城下に少しの知音《ちいん》有ければ此に便りて暫く身を隱《かく》し其後何れに成とも落付《おちつき》を定めんものと先づ小倉を心指て漸々|辿《たど》り着其人を尋ねけるに是は四年|跡《あと》に江戸表へ引越《ひつこし》たりと言にぞ吾助は頼《たの》む木蔭《こかげ》に雨《あめ》漏《もる》心地《こゝち》して尚も種々と聞合するに當時は江戸本郷邊に呉服物《ごふくもの》の見世を出し當所より織物類《おりものるゐ》を取|登《のぼ》せる程の身代になりしと聞少しく落付《おちつき》然《しか》らば是より江戸へ下り本郷へ尋ね行て身の落付を頼まんと思ひけれども元來吾助は船に弱《よわ》き生れ付なれ共|暗《くら》き身《み》故《ゆゑ》便船《びんせん》を求《もと》め播州《ばんしう》室《むろ》の津に到《いた》りけり當所は繁華《はんくわ》の湊《みなと》にて名に聞えたる室《むろ》の早咲町《はやざきまち》など遊女町《いうぢよまち》軒《のき》を連《つら》ねて在ければ吾助は例の好色《かうしよく》者と言ひ懷中には二百兩の金もあり先此處にて勞《つか》れを慰め鬱《うつ》を晴さんと五六日|早咲《はやさき》に逗留《とうりう》して居たりしが不※[#「圖」の「回」に代えて「面から一、二画目をとったもの」、543-6]心に思ふやう此處にて金銀を遣《つか》ひ捨《すて》んよりは江戸へ行て身を落付《おちつけ》後《のち》心の儘に樂まんと夫より室を立て其夜は姫路《ひめぢ》に泊《とま》り三日にて大坂へ着せしかども江戸へ下《くだ》る心|頻《しき》りなれば暫しも止《とゞま》らず東海道は人目|繁《しげ》ければ若や岡山の人に逢《あひ》もせば面倒《めんだう》なり木曾路《きそぢ》より中仙道《なかせんだう》を行に如《し》く事なしと路次を急ぐ程《ほど》に日ならずして板橋《いたばし》の宿に着にけり然るに吾助江戸は始てなれば何れが本郷にや西も東も分らぬ故小倉にて聞《きゝ》たる通り本郷二丁目にて呉服商賣《ごふくしやうばい》をする桝屋《ますや》久藏と云者と尋ねしに其頃新店なれども評判《ひやうばん》よきにや直に知ければ吾助は大いに悦《よろこ》び先《まづ》見世《みせ》に行て樣子を見るに間口《まぐち》は六七間|奧行《おくゆき》も十間餘|土藏《どざう》は二戸前あり聞しに増《まし》て大層《たいそう》なる暮《くら》し成りければ獨心中に歡び是程の暮しならば我等一人|位《ぐらゐ》何《どの》やうにも世話して呉《く》れるならんと小腰《こごし》を屈《かゞ》めて見世へ這入《はひり》我等は元備前岡山にて御懇意《ごこんい》に致したる者なり何卒《なにとぞ》御亭主《ごていしゆ》に御目に懸り度《たし》と云ければ店の者は奧へ到り主人久藏に斯と告いざ勝手口より御通り有べしと案内《あんない》するにぞ吾助は勝手口に到り此處にて草鞋《わらぢ》などを脱で奧《おく》へ通るに主人久藏も立出て先《まづ》互《たがひ》の恙《つゝが》なきを祝し合|扨《さて》久藏言出けるに偖《さて》も貴殿《きでん》には備前岡山なる城下に能《よき》奉公口《ほうこうぐち》有て主取なし給ふ由承まはりたるのみにて其後は絶《た》えて音信《いんしん》も聞ず其中に我等は御當地へ引越《ひきこし》たれば猶以て御無沙汰《ごぶさた》に打過《うちすぎ》しに而て此の度如何なる故有て岡山より江戸には下り給ひしといふを吾助は聞て我等事|御存《ごぞん》じの通り岡山にて主取は致したれども高が若黨《わかたう》奉公なり何時|迄《まで》勤《つと》めたりとも詮《せん》なしと奉公の中|種々《さま/″\》なる内職致し辛《からう》じて漸々《やう/\》五十兩の金子を溜《ため》たれば何卒大坂か江戸へ出此金を資本《もとで》にして一|稼《かせ》ぎ仕つり度《たく》と思ひ一|先《まづ》小倉に行て貴殿《きでん》にも御相談致し其上|何《いづ》れとも決し申さんと遙々《はる/″\》小倉《こくら》へ赴《おもむ》きしに貴殿は江戸へ御引移りの由|承《うけた》まはり然らば直樣江戸へ下り御目に懸《かゝ》り萬事の御相談|相手《あひて》に御頼《おたのみ》申さんものと遠路《ゑんろ》の處をも厭はず態々《わざ/\》御尋ね申たりと辯舌《べんぜつ》に任せて言葉を巧《たく》みに言たりける [#8字下げ]第十回[#「第十回」は中見出し]  抑々《そも/\》本郷二丁目なる桝屋久藏《ますやきうざう》と言る者は元《もと》備前岡山在の百姓の子にして吾助とは元來《ぐわんらい》懇意《こんい》成しが此久藏十八九歳の頃《ころ》豐前國小倉なる織殿《おりどの》へ奉公に行段々|精勤《せいきん》して金を蓄《たく》はへ後江戸へ轉居《ひきうつ》りて今|斯《かゝ》る大層《たいそう》の暮しはすれども生得《しやうとく》律義《りちぎ》の男にて少も惡氣《わるき》なく人の言事を何に寄ず眞實《まこと》なりと思ふにぞ此度も吾助が言葉を眞實《まこと》と思ひ聊《いさゝ》か疑ふ心なく奉公の中に五十兩金を蓄《たくは》へたりとは若いには珍《めづら》しき人なりと感ぜしかば吾助に向ひ遠路《ゑんろ》のところ態々《わざ/\》御尋ね有て御身の落着《おちつき》を御頼み成《なさ》れ度との趣き承知致したり然ながら我等も近頃《ちかごろ》御當地へ引移《ひきうつ》り未だ昨今の事故|何《いづ》れに御周旋《おせわ》致すべしと言|懇意《こんい》の方もなきが幸ひ此節我等|店《みせ》の者無人にて手廻り兼れば當時御身の落付の定《さだ》まる迄我等方に逗留《とうりう》有て店をも手傳《てつだ》ひ給はらば此方も大に仕合《しあは》せなりと言にぞ吾助は打歡び然《しか》らば仰の通り是より當分の内お役《やく》には立まじきがお見世のお手傳《てつだ》ひ仕つらんと是より桝屋方に逗留《とうりう》して店の手傳ひなど爲《し》けるに元より奸才《かんさい》に長し奴なれば手代の中に立|交《まじ》り人の爲事《なすこと》迄|己《おのれ》引取てする樣に働《はたら》くゆゑ久藏は吾助の立|振舞《ふるまひ》を見て能人を得たりと歡びける斯《かく》て吾助は桝屋方に居ること凡そ半年餘りなるが生《うま》れ得ての好色《かうしよく》者なれば家内に召使《めしつか》ふ下女に折々《をり/\》不義など仕掛《しかけ》れども既に前章にも言《い》ふ如く至て醜《みにく》き男ゆゑ誰あつて心に從《したが》はんといふ者なかりしに其頃此桝屋へ上總の在方より奉公《ほうこう》に來りしお兼《かね》といふ女今年十七歳なるが丁《ちやう》百には餘程|足《たら》ぬ生れ付にて下女仲間にても馬鹿々々《ばか/\》とて遊びものにされる者あり吾助は思ふやう此女ならば必定《ひつぢやう》我が言ことを肯《きく》べし當座の慰《なぐさ》みものには是にても無《なき》には増《まし》成《なら》んと或時お兼を捕《とら》へて樣々に口説《くどき》遂《つひ》に無理|往生《わうじやう》に本望を遂げるに此女|根《ね》が愚《おろか》者なれば段々吾助に欺《あざむ》かれ折々忍び逢《あひ》ける内|何時《いつ》[#ルビの「いつ」は底本では「いか」]しか腹《はら》に子を妊《やど》し月の重なる儘《まゝ》に人目にも立程に成《な》りければ吾助も是には殆ど當惑《たうわく》して種々と思案し一の巧みを思ひ付たれば或夜おかねと忍び寢《ね》の物語りに我等如何なる縁《えん》有《あ》りてか其の方と斯《かく》深き中なりと腹に子まで妊せし上は末長《すゑなが》く夫婦に成べき所存《しよぞん》なり然ながら今は互に奉公《ほうこう》の身《み》故《ゆゑ》自由《じいう》には成難し然れども追々月も重《かさな》りては奉公《ほうこう》も成まじ因て一先宿へ下り墮《おろ》すとも産《うむ》ともして又々奉公に出られよ尤も宿へ下るに只は下《さげ》られまじ切《せめ》て二兩か三兩の金を持せて遣度《やりたき》者なれども知らるゝ如く我等は此家へ奉公はすれども給金《きふきん》を取身分にも有ねば一兩の工面《くめん》も成難き夫故に種々《いろ/\》工夫《くふう》せしに一ツの計略を思ひ付たり其|譯《わけ》と言は其方《そなた》も定めて知て居らん飯焚《めしたき》の宅兵衞は數年奉公して給金《きふきん》も餘程《よほど》旦那|方《がた》に預け有る由然るに彼の宅兵衞は日頃《ひごろ》より其方に心|有《ある》樣子《やうす》なれば厭惡《いや》で有うが如何《いか》にもして彼が心に隨ひ一度にても枕を交《かは》し呉《くれ》よ然《さう》さへすれば腹の子も宅兵衞が胤なりと云立るとも仔細《しさい》なし其の上にて彼より金を取《とり》夫にて身輕《みがる》になる時は其方も我等も安心と云ふものなり若又不承知ならば我等も詮方《せんかた》なし其方とても金子もなく宿《やど》へ下りては宿の手前も惡《あし》からんなどと種々《さま/″\》に欺《だま》し賺《すか》しければ元來|愚《おろか》なるお兼のことなれば甘々《うま/\》と吾助に欺《あざむ》かれ終《つひ》に其の言葉に隨ひ宅兵衞に言寄る便《たよ》りをぞ待にける爰に飯焚《めしたき》の宅兵衞と云は桝屋《ますや》久藏が豐前《ぶぜん》小倉に居る時よりの飯焚にて生得《しやうとく》愚鈍《ぐどん》なる上最も吝《しは》く一文の錢も只は遣《つか》はず二文にして遣はんと思ふ程の男なれども至極《しごく》の女好にて年は五十を越《こ》えたれども折々は夜鷹《よたか》などを買ひ行て家を明る事もあり又は下女共には優《やさ》しき事を言|掛《かけ》恥《はぢ》をかく事も度々《たび/\》なれども其を恥《はぢ》とも思はず近頃は彼お兼に思ひを掛け時々《とき/″\》袖褄《そでつま》を引けるに一向に承知《しようち》もせざりしが或夜《あるよ》宅兵衞一人居る臺所《だいどころ》へお兼は何か用有て來りしを宅兵衞|好《よき》機《をり》と思ひ戯れ寄《よ》りけるに思ふより易く心に隨《したが》ひければ宅兵衞は天へも昇る嬉さにて夫より二三度も忍び合し其の内お兼は懷妊《くわいにん》の樣子を物語るに宅兵衞は吃驚《びつくり》し何として能《よか》らんと云ふをお兼は聞豫て吾助に入|智慧《ぢゑ》されし事なれば宅兵衞に對《むか》ひ今更斯なる上は何共《なんとも》詮方《せんかた》なし何れへ成とも連退《つれのい》て是非共女房にして給はるべしといはれて宅兵衞は五十を越《こ》えて十六七の娘を如何《いか》に思ひても女房にはされず偖《さて》も當惑《たうわく》千萬と思案《しあん》すれども元來|愚鈍《ぐどん》なる生れ付故工夫も出ず困《こま》り切し體《てい》を見てお兼は今更斯なりては奉公も成難《なりがた》し若|此儘《このまゝ》切《きれ》る御心なら手當《てあて》をして給る可《べ》し其金にて宿へ下り身輕に成たしと云にぞ宅兵衞は然爲《さうする》には何程の金が有ば宜《よき》やと問ば先少くとも五兩なければ宿へ下り身輕には成《なら》れまじと云れて宅兵衞は是《これ》には又|當惑《たうわく》の樣子なればお兼は顏色《かほいろ》を變て扨は私を慰《なぐさ》み者にして女房にもせず金も出さずお前は構《かま》はぬ了簡《れうけん》成ん其心ならば私も此儘《このまゝ》には濟《すま》し難《がた》し迚《とて》も生ては居られねば此通り旦那樣《だんなさま》に申上お前の首へも繩を懸ねば此|腹立《はらだち》[#ルビの「はらだち」は底本では「はちだち」]は止難しと云れて宅兵衞は彌々《いよ/\》仰天《ぎやうてん》し種々《さま/″\》とお兼を宥《なだ》め賺《すか》し然らば金五兩|渡《わた》す間夫にて身輕《みがる》になり必ず沙汰《さた》なき樣にすべしとて澁々《しぶ/\》五兩の金を遣《やり》けるこそ愚《おろか》なりける事どもなれ [#8字下げ]第十一回[#「第十一回」は中見出し]  偖もお兼は宅兵衞を欺《あざむ》きて金五兩を取しかば竊に悦び吾助に逢《あひ》て其由を知《しら》するに吾助も大に悦びしが又一ツの計略を思ひ付お兼に對《むか》ひ扨々其方の智慧《ちゑ》の程|感心《かんしん》せり其|働《はたらき》にては女房にしても末頼|母敷《もしく》思ふなり夫に就《つい》て爰に一ツの相談あり夫婦の中に隱し隔《へだて》をするに異な物なれば何事も包まず打|明《あけ》て言べし豫々《かね/″\》其方の宿は他人と聞たれば二兩|持行《もちゆく》とも世話の仕樣に異《かは》りは有まじ然れば五兩の金を皆《みな》持行《もちゆき》て宿へ遣《やる》は溝《どぶ》へ捨《すて》るより無益《むえき》なり夫より五兩の中二兩を宿へ持行《もちゆき》身輕《みがる》に成る入用に遣はし殘りの三兩は我等|預《あづか》り居て頓《やが》て夫婦になる時|帶《おび》にても又何にても其の方の好みの品を拵《こしら》へる足《たし》にせば便利成べしと云れ生得《しやうとく》愚《おろか》なるお兼故是を眞實《まこと》と思ひ終に吾助の言葉の如く二兩の金を持《もち》宿《やど》へ下りたり然るに惡事千里の諺《ことわざ》の如く早晩《いつしか》吾助がお兼と言合せ飯炊《めしたき》の宅兵衞より金五兩を欺《あざむ》き取《とり》しと言《いふ》事家内の者の耳《みゝ》に入《いり》見世にても取々《とり/″\》の噂《うはさ》ありけるを吾助は聞て心に思ふやう此事|若《もし》も宅兵衞が聞《きか》ば事|六《むづ》かしかるべし夫のみ成《なら》ず見世の者にも顏を見らるゝ樣にて何となく居惡《ゐにく》く成たり最早《もはや》江戸の勝手《かつて》も分《わか》りたれば此處《こゝ》に居ず共又外に宜處《よきところ》は幾許《いくら》も有るべしと或時主人久藏に對《むか》ひ我等|豫々《かね/″\》日光《につくわう》の御宮を拜見《はいけん》仕りたき心願《しんぐわん》なりしに幸ひ此度|能《よき》道連《みちづれ》の出來候へば參詣致し度《たく》候なり因て暫時《しばし》の間お暇《いとま》を願ひ度と言ければ久藏は僞《いつは》りとは心付ねば夫は何より好《よき》事なり我等も豫《かね》て心願なれば同道《どうだう》致し度ものなれども商賣《しやうばい》に暇なければ此度は殘念《ざんねん》ながら同道も成難し其|許《もと》は我等方の奉公人と言にも非《あら》ねば勝手次第に參詣|有《ある》べしと餞別《せんべつ》として金子三兩|遣《つか》はしけるに吾助は思ひしより首尾能《しゆびよき》を悦《よろこ》び禮《れい》もそこ/\支度《したく》を整《とゝの》へ其日《そのひ》出立せしが日光と云は元來|虚《うそ》なれば夫より芝邊《しばへん》へ行て四五日|身《み》を隱《かく》し居たりける然るに其頃芝明神前に藤重《ふぢしげ》と云る淨瑠璃語《じやうるりかた》りの女有しが容貌《かほかたち》衆人に勝《すぐ》れ心|優《やさ》しき者なる故|弟子《でし》も多く日々《ひゞ》稽古《けいこ》の絶《たゆ》る隙なく繁昌しける此所へ吾助は不※[#「圖」の「回」に代えて「面から一、二画目をとったもの」、547-6]《ふと》稽古せんものと這入込《はひりこみ》たるが好色者《かうしよくもの》の癖《くせ》なれば藤重《ふぢしげ》が嬋娟《あてやか》なる姿に迷《まよ》ひ夫よりは稽古に事|寄《よ》せ日夜|入浸《いりびた》りに行きけるが流石《さすが》に云|寄便《よるたよ》りもなく空敷《むなしく》月日を過《すご》したり然共吾助は喜内を害《がい》し奪ひ取し金も二百兩の中《うち》多《おほ》くも遣《つか》はず隱《かく》し持しかば其の金の有《ある》に任《まか》せて藤重《ふぢしげ》が好《この》むと云物を調《とゝの》へて遣《やり》其外|劇場《しばゐ》見物花見遊山などにも同道して只管《ひたすら》氣に入るゝやうにぞ仕掛ける夫は偖置《さておき》爰に澤井友次郎夫婦|并《なら》びに若黨《わかたう》忠八は藤澤宿を立て其の日の中に江戸に着《つき》先《まづ》馬喰町の宿屋に足を止《とゞ》め此處にても尚《なほ》種々《いろ/\》に療治せしかば友次郎の病《やまひ》は全く快《こゝろ》よくなりければ夫よりは忠八と諸倶《もろとも》所々《しよ/\》方々《はう/″\》を廻《めぐ》り敵の行方《ゆくへ》を尋ねしかど未だ天運《てんうん》の定《さだ》まらざるにや一向に手懸りさへもなく空《むなし》く其年も暮《くれ》て明れば享保五年となり春も中旬《なかば》過て彌生《やよひ》の始となり日和《ひより》も長閑《のどか》に打續き上野|飛鳥山《あすかやま》或ひは隅田川《すみだがは》などの櫻見物《さくらけんぶつ》に人々の群集《ぐんじゆ》しければ今ぞ敵《かたき》を尋ぬるに幸《さいはひ》の時節なりとて日毎《ひごと》群集《ぐんじゆ》の中に紛《まぎ》れ入て尋けるに似たりと思ふ人にも逢《あは》ざれば最早《もはや》江戸には居るまじ是よりは何國《いづく》を尋ねんと主從三人|額《ひたひ》を集めて相談《さうだん》すれども是ぞと云|能《よき》思案《しあん》も出ざれば先《まづ》今《いま》暫時《しばし》江戸を尋ね夫にても手係《てがか》りなくは其時何國にも行《ゆく》べしと是より又心を配《くば》りて所々尋ね廻りしが頃は三月十五日|梅若祭《うめわかまつり》とて貴賤《きせん》老若の別《わかち》なく向島の賑《にぎは》ひ大方ならず然るに此日は友次郎|腹痛《ふくつう》故忠八一人向島へ行《ゆき》て[#「行《ゆき》て」は底本では「行《ゆ》ゆて」]隅田川の堤《つゝみ》を彼方此方と往來の人に心を止めて歩行《あるきゆき》けれども更に似た人もなく早日も西山《せいざん》に傾《かたむ》きしかばいざ旅宿《りよしゆく》へ歸《かへ》らんとて三圍の下より渡し船に乘《のり》川中迄《かはなかまで》[#ルビの「かはなかまで」は底本では「かはなきまで」]漕出《こぎだ》したる時向うより數人|乘合《のりあひ》し渡し船來り行違《ゆきちが》ひさま其の船の中を見るに廿二三の女を同道《どうだう》したる男は疑ひもなき敵と狙《ねら》ふ吾助にて有れば忠八は汝《おの》れ吾助と言《い》ひながらすツくと立《た》ち上《あが》る間に早瀬《はやせ》なれば船は疾《はや》三|反《たん》ばかり隔《へだた》りし故其の船返せ戻せと呼はれ共|大勢《おほぜい》の乘合《のりあひ》なれば船頭は耳にも入ず其|中《うち》に船は此方の岸《きし》に着《つき》けれとも忠八立たりし儘《まゝ》船より上《あが》らず又もや元の向島《むかうじま》の方へと乘渡り群集《ぐんじゆ》の中を八方へ目《め》を配《くば》りて吾助を尋ね廻《まは》りしかど何方へ行しやら混雜《こんざつ》の中と云|殊《こと》に時刻《じこく》も延引《えんいん》したれば終《つひ》に行方は知れざりけり忠八は殘《のこ》り多き事|限《かぎ》りなけれども早《はや》黄昏《たそがれ》に及び詮方《せんかた》なければ一先旅宿へ歸り友次郎樣お花樣にも此事を物語り方便《てだて》を以て尋ねんものと其日はすご/\立歸《たちかへ》りぬ [#8字下げ]第十二回[#「第十二回」は中見出し]  扨も忠八は馬喰町なる旅宿《りよしゆく》に歸《かへ》りてお花夫婦に打對《うちむか》ひ今日向島の渡舟《わたし》にて斯々《かく/\》の事ありしと告げれば夫婦は悦ぶ事大方ならず只行方を見定《みさだ》めざりしは殘念《ざんねん》なれども江戸の中にさへ居らば尋ぬるにも便《たよ》りよし然《さり》ながら彼奴《かやつ》も惡漢《しれもの》なれば其方と面《おもて》を合せしからは浮々《うか/\》江戸に落《おち》付ては居るまじ翌日《あす》は暗《くら》きより起出《おきいで》て其の方は品川の方より段々《だん/\》に尋ぬべし我は千|住《ぢゆ》板橋《いたばし》など出口々々を尋ね見んとて翌朝《よくてう》寅刻《なゝつどき》より起出《おきいで》て友次郎忠八の兩人は品川と千住の方へ尋ねにこそは出行けれ爰に又|桝屋《ますや》方にては吾助が日光《につくわう》へ行とて出しより早《はや》五六ヶ月になれども歸《かへ》り來ざれば偖《さて》は宅兵衞を欺《あざむ》き金を取し事の顯《あらは》れんを恐《おそ》れて逃亡《かけおち》せし者ならんと店《みせ》にて取々の噂《うはさ》をなしければ此事|早晩《いつしか》宅兵衞が耳に入始て欺《あざむ》かれたる事を知り口惜《くちをし》さ限《かぎ》りなく如何にもして此恨《このうら》みを報じ度は思へども流石《さすが》に打明《うちあけ》て主人にも言難《いひがた》き譯合《わけあひ》なれば一人心を苦《くるし》め居たりしが馬鹿《ばか》程《ほど》怖《こは》きものはなしとの諺《ことわ》ざの通り宅兵衞は思ひ詰《つめ》てや或時主人にも告ずして大岡越前守殿の役宅《やくたく》へ右の仔細《しさい》を自身に訴《うつた》へ出ければ越前守殿一|應《おう》糺問《きうもん》の上|桝屋《ますや》久藏を呼出《よびいだ》され吾助を召捕迄《めしとるまで》宅兵衞事主人預け申付るとて下られける斯て又吾助は隅田川《すみだがは》の花見に藤重《ふぢしげ》を同道《どうだう》して到りしに計《はか》らず渡船《わたしぶね》にて忠八と面を合せしかば心の中《うち》安《やす》からず若《もし》やお花夫婦も當地《たうち》に來りて我を兄の敵《かたき》と聞尋ね居んこと※[#「圖」の「回」に代えて「面から一、二画目をとったもの」、549-1]《はか》り難《がた》し三十六計|迯《にぐ》るに如ずとか云ば一先|何《いづ》れになり身を隱《かく》し時《とき》過《すぎ》て又江戸へ來るが上策《じやうさく》ならんと俄《にはか》に旅立《たびだち》の用意《ようい》せしが然《さり》とて是迄《これまで》に心を盡《つく》せし那《あ》の藤重《ふぢしげ》を一夜なりとも手に入ずして別れんこと口惜し今宵《こよひ》竊《ひそか》に忍行《しのびゆき》て咄《はなし》をなし我が心に隨《したが》はゞ直に同道して立退《たちのく》べし若《もし》不承知ならば止事を得ず手足を縛《しば》りてなりとも思ひを晴《はら》すべしと其夜|近所《きんじよ》合壁《がつぺき》の寢靜《ねしづま》りたる頃藤重が家に忍《しの》び行て見るに是は如何に何程《なにほど》開《ひら》かんとしても戸《と》は釘《くぎ》にて外《そと》より打《う》ち付《つけ》て有ば少しも開《あか》ず内の樣子を窺《うかゞ》ふに灯《あかり》の氣も見えず能々《よく/\》見るに表の戸に貸店《かしだな》と云《いふ》紙札《かみふだ》の貼付《はりつけ》ある故是は門違《かどちが》ひせしかと四邊《あたり》を見廻《みまは》すに間違ひにも非《あら》ず吾助は何分|不審《ふしん》晴《はれ》ねば直樣《すぐさま》家主方を起して藤重《ふぢしげ》は何方《いづかた》へ引移《ひきうつ》りしやと尋ぬるに家主は答へて然《され》ばなり藤重《ふぢしげ》は久敷《ひさしく》我等|店《たな》に住居致せしが俄《にはか》に田舍《ゐなか》の伯母《をば》の方より迎《むか》へ來りしとて宵《よひ》の程に家を片付《かたづけ》我等に渡し出立致したりと云れて吾助は力を落し扨其の行先は何れ成と問ば家主は打案《うちあん》じて慥《たしか》には知らねども今宵《こよひ》は千住|泊《どま》りとか申したりと云を聞て直に家に歸り旅《たび》支度を成し千|住《ぢゆ》を指《さし》て急《いそ》ぎけり諺《ことわざ》に云己人を欺《あざむ》かんとすれば人又|己《おのれ》を欺《あざむ》くと藤重は吾助に思はれ物をも多く貰《もら》ひ花見|遊山《ゆさん》などに連《つれ》らるゝを甚だ心|能《よく》は思はねども商賣柄《しやうばいがら》なれば愛敬《あいきやう》を失ひては成ずと表面《うはべ》には嬉《うれ》しき體《てい》をなして同道せしが其折々|無理《むり》なる戀《こひ》を云掛られ夫さへ心に障《さは》らぬ樣|云拔《いひぬけ》て居しに今日|隅田川《すみだがは》の渡船《わたしぶね》にて誰かは知ず行違《ゆきちが》ひに面を見合せしより俄《にはか》に吾助が顏色變り狼狽《うろたへ》たる體《てい》を利發《りはつ》の藤重なれば早くも怪《あや》しと推《すゐ》し其上|今宵《こよひ》夜更《よふけ》て遊《あそ》びに來るべしと約束されしも氣味《きみ》惡《わる》ければ家主に頼み其身は室町なる心安き者の方へ暫《しばら》く行て居る程に留守《るす》は當分《たうぶん》明家《あきや》の積りにして若吾助が尋ね來らば斯樣々々《かやう/\》に云|拵《こしら》へて給るべしと頼み置けるにぞ右の如く家主より返答《へんたふ》せしなり此藤重と云は前《さき》に姑《しうとめ》へ孝を盡し大岡殿より御褒美《ごはうび》を戴《いゞた》きし津國屋の嫁お菊にて其後人の世話《せわ》により舊《もと》習《なら》ひ覺《おぼえ》し藝《げい》の善《よけ》れば斯る業《なりは》ひに世を送りしなり然ば狂言《きやうげん》とは夢《ゆめ》にも知ず吾助は足に任《まか》せて急《いそ》ぐ程に芝神明前をば寅刻《なゝつ》に立て千住大橋迄は未だ暗《くら》き中に來れども春の夜の明|易《やす》く掃部宿《かもんじゆく》に掛《かゝ》る時は早白々と明《あ》け渡り稍《やゝ》人面《ひとがほ》も見ゆる頃思ひも依《よら》ぬ後《うし》ろより吾助|待《まて》と聲を掛られ驚きながら見返る處を上意々々と呼はり捕方《とりかた》の者十人餘りばら/\と掛り折重《をりかさな》りて終に繩《なは》をぞ掛《かけ》けるに吾助も喜内より劔術《けんじゆつ》柔術《じうじゆつ》を學び得て覺えある惡漢《しれもの》なれ共|不意《ふい》と云|多勢《たぜい》にて押伏《おしふせ》られし事故|汚面々々《をめ/\》と召捕《めしとら》れけり斯て又友次郎は其朝馬喰町の旅宿を曉《あけ》寅刻《なゝつ》に立出て板橋の方へ到《いた》り吾助を尋ぬれども何の手係《てがか》りもなきにぞ然らば千住の方を尋ねんとて飛鳥山下《あすかやました》通りより段々千住の方へと赴《おもむ》く途中にて五六人の男が歩行《あるき》ながらの噂《うはさ》に今朝《こんてう》千住にて召捕《めしとら》れたる者有しが小鬢《こびん》に餘程の古《ふる》き太刀疵《たちきず》の有程の者故何でも只者《たゞもの》には有まじと云を聞て友次郎は小首《こくび》を傾《かたぶ》け小|鬢《びん》の疵《きず》とは少く心當りありと後《あと》に尾《つき》て追々《おひ/\》噂《うはさ》を聞ながら行に年の恰好《かくかう》面體《めんてい》の樣子尋ね探《さが》す吾助に紛《まぎ》れ非ざれば直《たゞち》に掃部宿《かもんじゆく》の自身番に懸《かゝ》りて委細《くはしく》尋ぬるに斯樣々々の人にて名は吾助と云者と咄《はな》しけるにぞ友次郎は足摺《あしずり》して我板橋を後《あと》にして千住を先に尋ねなば吾助に出逢本望を達すべきに公儀の御手に召捕《めしとら》れては詮方《せんかた》なし一先旅宿に歸《かへ》りて分別を定むべしと悽々《すご/\》馬喰町へ戻りけり [#8字下げ]第十三回[#「第十三回」は中見出し]  扨も捕方《とりかた》の同心より吾助事千住にて召捕《めしとり》し段|屆《とゞ》けに及びければ大岡越前守殿には先吾助に入牢《じゆらう》申付られ一兩日|過《すぎ》て引出され其外|桝屋久藏《ますやきうざう》飯焚《めしたき》宅兵衞|元《もと》桝屋《ますや》の下女お兼など呼出され扨て吾助お兼の兩人に對《むか》はれ汝等|主家《しうか》にありながら密通《みつつう》せしのみならず懷妊《くわいにん》せしを人に塗付《ぬりつけ》んと謀《はか》り吾助兼相談の上|飯焚《めしたき》宅兵衞を欺《あざむ》き不義《ふぎ》不貞《ふてい》の振舞《ふるまひ》をなし金子五兩|騙《かた》り取たる段|不屆至極《ふとゞきしごく》なり眞直《まつすぐ》に白状せば御憐愍《ごれんみん》の御沙汰も有べし包《つゝ》み隱《かく》さば屹度《きつと》拷問《がうもん》申付んと申されければお兼は更に生《いき》たる心地《こゝち》せずわな/\震《ふる》へて居けれども吾助は少《すこし》も恐れたる體《てい》なく仰《おほせ》には候へども私し事是なる兼と密通《みつつう》致せし事|毛頭《もうとう》御座なく然ば宅兵衞より金子を騙《かた》り取しなどと申事|夢《ゆめ》にも覺えこれなく候|察《さつ》する所是は定めて宅兵衞が兼と密通《みつつう》致し懷妊《くわいにん》させ是非なく金子を兼に遣はし候所今更金子惜く相成其|故《ゆゑ》根《ね》もなきことを申立私し共より金子《きんす》をねだり取らんと云彼が巧《たくみ》に候はんと申立れば越前守殿はお兼に對《むかは》れ汝吾助と申合せ宅兵衞を欺きしは相違無《さうゐなき》や少しにても僞《いつは》り飾《かざ》らば苦敷《くるしき》思ひを爲べしと言和《ものやは》らかに申されけるにお兼は漸々《やう/\》面《おもて》を上《あげ》震《ふる》ひ聲して仰せの通り相違御座なく如何にも吾助殿と申合せ宅兵衞殿を欺《あざむ》き金子五兩|貰《もら》ひ受候と申立るに越前守殿|點頭《うなづ》かれ如何に吾助兼は既に白状《はくじやう》に及びたり斯ても未だ陳《ちん》ずるやと種々《さま/″\》に事を分て詮議《せんぎ》有《あり》ければ終に右の段々《だん/\》白状致しける依て猶《なほ》沙汰《さた》に及ぶべしとて吾助兼の兩人は入牢《じゆらう》申付られ宅兵衞は元の如く主人久藏に預けられ其の日は白洲《しらす》を閉《とぢ》[#ルビの「とぢ」は底本では「とざ」]られけり然ば吾助白状はなすと雖も落着《らくちやく》に致されざるは越前守殿吾助が面體《めんてい》の太刀疵《たちきず》と云|何樣《なにさま》一|癖《くせ》有《ある》べき惡漢《わるもの》と見られし故|内心《ないしん》には今一應吟味致し舊惡《きうあく》有ば糺明《きうめい》有んと思はれしなりとぞ然るに其日馬喰町の宿屋同道にて大岡殿御役宅へ愁訴《しうそ》致せし者あり越前守殿|取上《とりあげ》られて早速《さつそく》吟味《ぎんみ》あるに此《これ》別人《べつじん》ならず備前岡山の藩中《はんちう》松田喜内が家來忠八なり越前守殿一通申立よと有しかば忠八|首《かうべ》を上私し主人喜内儀病氣にて平臥《へいぐわ》罷《まかり》在候節私し同樣|若黨《わかたう》を勤《つと》め居候吾助と申者|夜中《やちう》竊《ひそか》に主人喜内を刺殺《さしころ》し出奔《しゆつぽん》致し候に付夫より右喜内妹花と申者と同人|連合《つれあひ》澤井友次郎并びに私し三人にて吾助が行方《ゆくへ》を尋ね恨《うらみ》を報《むく》い申度とて三ヶ年の間|苦辛《くしん》を厭《いと》はず所々《しよ/\》尋ね廻《めぐ》り候處漸々此程|隅田川《すみだがは》の渡船《わたしぶね》にて面《おもて》を合せしが不運にも取り迯《にが》せしによりその後|猶《なほ》又手|配《くば》りして相尋《あひたづ》ね候|折柄《をりから》此間千住に於て召捕《めしと》られ候段承まはり及び候然る上は若も吾助事|死罪《しざい》にても仰付られ候へば是迄の辛苦《しんく》も水《みづ》の泡《あわ》となり本望《ほんまう》を遂得《とげえ》ず殘念《ざんねん》此上なく候に付|恐《おそ》れ多き儀に候へ共吾助事|死罪《しざい》御免|仰《おほせ》付られ候樣御|慈悲《じひ》の御沙汰願上奉まつり度と申立る時越前守殿|倩々《つら/\》聞居られしが不※[#「圖」の「回」に代えて「面から一、二画目をとったもの」、551-13]《ふと》眼《め》を開き呵々《から/\》と打笑はれ我今朝よりの吟味に勞《つか》れしにや居眠《ゐねぶ》り居て只今汝が申せしこと委敷《くはしく》は聞取り得ざりし然りながら此程|召捕《めしとら》へたる吾助と云る者は今日白状に及びたるが死罪《しざい》に成べき程の罪にもあらず依て明後日《みやうごにち》未刻《やつどき》に追放《つゐはう》申付る筈なり汝等が尋ぬる吾助とやらは必定《ひつぢやう》人|違《ちが》ひならん疑《うたが》は敷《しく》ば明後日|追放《つゐはう》の場所へ到《いた》り對面すべしかならず御府内にて麁相《そさう》なる儀いたすこと勿れとて下られけるに忠八は思はず眼中《がんちう》に涙《なみだ》を浮《うか》め大岡殿の仁心《じんしん》を悦び感《かん》じ飛《とぶ》が如くに馬喰町の旅宿《りよしゆく》へ戻《もど》れば友次郎お花は今日の首尾《しゆび》如何なりしと右左《みぎひだり》より問掛《とひかけ》るに忠八は越前守殿の仁智《じんち》の概略《あらまし》を物語り然れば明後日は豫《かねて》の本望《ほんまう》成就《じやうじゆ》仕つらんと云けるにお花は元來友次郎も雀踊《こをどり》して喜び是《これ》偏《ひと》へに大岡殿の仁心《じんしん》より出る處なりと南の方を向て夫婦|諸共《もろとも》伏拜《ふしをが》み夫れより貯《たくは》への金銀にて敵討《かたきうち》の支度《したく》晴《はれ》やかに拵《こしら》へ其日の來るを待詫《まちわび》けり然程に大岡越前守殿には一日|隔《おき》て次の日此|程《ほど》の通り吾助お兼宅兵衞|其外《そのほか》關係《かゝりあひ》の者共を呼出し先吾助お兼の兩人に向はれ吾助事は兼に種々なる惡事を申|含《ふく》め宅兵衞と通《つう》じさせ金子五兩を欺《あざむ》き取せ其中三兩を私欲《しよく》に遣《つか》ひ候|段《だん》不仁《ふじん》不義《ふぎ》の仕方《しかた》なり因て三ヶの津《つ》構《かまひ》の上|中追放《ちうつゐはう》申付る又|兼事《かねこと》は同罪とは申ながら元來《ぐわんらい》愚《おろか》なる生得《しやうとく》と相見え淺果《あさはか》なる致し方故|輕追放《けいつゐはう》の上江戸|構《かま》ひ申付る次に宅兵衞事は吾助等が巧《たく》みは人外なれども其の巧みに陷《おちい》り兼と密通《みつつう》したるは汝が愚《おろか》なる故なり然ば金子を取れたるは自業自得《じごふじとく》と言べし此以後心を改め女色に迷《まよ》ふ事|勿《なか》れと有て其餘《そのよ》は構《かまひ》なしと申渡され此事|落着《らくぢやく》なしたりけり斯て其日|未刻頃《やつどきごろ》吾助お兼の兩人は追放《つゐはう》に成しかば何を當《あて》に行べき方もなく品川宿を打過《うちすぎ》ける時吾助はお兼に對《むか》ひ斯《かく》なる上は最早《もはや》詮《せん》なし是よりは約束の通り其方《そなた》と夫婦になり何《いづれ》へ成共行て暮すべし其の中には又|能《よき》了簡《れうけん》も出んかと云ばお兼は成程《なるほど》夫婦|倶々《とも/″\》に稼《かせ》がば暮《くら》されぬ事は有まじ夫に付ても宿へ預置《あづけおき》たる那兒《あのこ》には乳《ちゝ》を飮《のま》せる者もなく嘸《さぞ》[#「さぞ」は底本では「さぜ」]や泣《ない》て居る成《なら》ん吾助殿能思案は候はずやと涙《なみだ》ながらに物語るを吾助は聞敢《きゝあへ》ず今更小兒の事など言たればとて詮方《せんかた》なし捨《すて》た氣に成て斷念《あきらめ》よと何《いか》にも薄情《はくじやう》なる吾助の言葉にお兼は忘《わす》れんとすれども忘れられず心ならずも歩み行に此時後の方より日來《ひごろ》の恨《うら》み思ひ知やと聲《こゑ》掛《かけ》誰《たれ》やらん拔討《ぬきうち》にお兼が肩《かた》より乳の下《した》掛《かけ》て切下《きりさげ》ければお兼は堪らずアツと云て倒《たふ》れたり吾助は驚き何者の所爲《しわざ》なるかと見返へれば是|則《すなは》ち別人《べつじん》ならず彼の飯焚《めしたき》の宅兵衞なれば吾助は大いに怒り汝《おのれ》如何なれば掛る振舞《ふるまひ》を爲ぞやと云《いは》せも敢ず宅兵衞は怒《いか》れる聲を張上《はりあげ》て汝等が此程《このほど》の致し方如何にも心根《しんこん》に徹《てつ》し殘念《ざんねん》なる故訴へ出たる所大岡樣の御仁心《ごじんしん》にて汝等が命|恙《つゝ》がなきことを得たれば我が恨みは猶《なほ》晴難《はれがた》し先《いで》我が刄《やいば》を請《うけ》て見よと眞向《まつかう》に振翳《ふりかざ》して切て懸《かゝ》る此時吾助は身に寸鐵《すんてつ》も帶《おび》ざれども惡漢《しれもの》なれば少《すこし》も恐れず傍《そば》に落たる松の枯枝《かれえだ》を追《おつ》取て右に請《うけ》左《ひだ》りに流し暫《しば》し戰ひ居たりしが吾助は元來《もとより》劔術《けんじゆつ》を心得たる男なれば宅兵衞が隙《すき》を窺《うかゞ》ひ持たる太刀《たち》を打落し痿《ひる》む處を續《つゞ》け打に面《おもて》を目掛《めがけ》て討ければ宅兵衞は眼《まなこ》昧《くら》みて蹌踉《よろめく》を吾助は得たりと落たる刀を拾ひ取|眞向《まつかう》より唐竹割《からたけわり》に切下《きりさげ》たれば何かは以て堪《たま》るべき宅兵衞は聲をも立ず死したりけり吾助は一|息《いき》吐《つい》て傍《あたり》を見廻し宅兵衞が懷中《ふところ》を掻探《かきさぐ》り持合《もちあは》せたる金子五兩二分を奪ひ取り仕合せ宜と獨笑《ひとりゑみ》してお兼が死骸《しがい》を見遣《みやり》もせず鈴《すゞ》ヶ|森《もり》の方へと走《はし》り行こそ不敵《ふてき》なれ [#8字下げ]第十四回[#「第十四回」は中見出し]  惡《あく》裏《うら》に有者は天《てん》是《これ》を罰《ばつ》し惡《あく》表《ほか》に顯《あらは》るゝ者は人是を誅《ちう》すとかや偖《さて》も吾助は宅兵衞を易々《やす/\》と殺《ころ》し懷《くわい》中の金五兩二分と脇指《わきざし》を奪《うば》ひ取其上|足手搦《あしてがら》みなるお兼さへ其處に命を落せしかば誠に勿化《もつけ》の幸ひなりと悦びながら足を早めて馳《はし》る程に頓《やが》て鈴ヶ森へぞ指懸《さしかゝ》りける斯る所に並木《なみき》の蔭より中形《ちうがた》縮緬《ちりめん》の小袖の裾《すそ》高《たか》く端折《はしをり》黒繻子《くろじゆす》の帶《おび》を脊《せ》にて堅《かた》く結《むす》び緋縮緬《ひぢりめん》の襷《たすき》を懸《かけ》貞宗《さだむね》の短刀《たんたう》を右の手に持|顯《あらは》れ出たる一人の女《をんな》行先《ゆくさき》に立塞《たちふさが》り汝《おのれ》大惡《だいあく》無道《ぶだう》の吾助大恩有る主人と知りながら兄君《あにぎみ》を害《がい》し岡山を立|退《のき》し事定めて覺え有べし今爰に逢《あひ》しは天の賜《たま》もの疾々《とく/\》勝負《しようぶ》を致す可しと云時又此方の並木《なみき》の蔭《かげ》より一人は小紋紬《こもんつむぎ》の小袖一人は小紋木綿《こもんもめん》の布子《ぬのこ》に股引《もゝひき》脚絆《きやはん》甲斐々々《かひ/\》敷出立にて二腰《ふたこし》を横たへたるが兩人等く顯《あらは》れ出如何に吾助今は遁《のが》れんと爲《する》共《とも》道《みち》なし早々《さう/\》恨《うら》みの刄《やいば》を受よと双方より詰寄るは是なんお花友次郎忠八等の三人なり其時吾助は發《はつ》と驚《おどろ》きしが元來|強氣《がうき》の曲者《くせもの》なれば呵々《から/\》と打笑ひヤア小癪《こしやく》なり我を敵と云汝等こそ兄親の目を忍びたる不忠《ふちう》不義《ふぎ》の曲者《くせもの》なり又汝等が兄喜内は善惡《ぜんあく》邪正《じやしやう》の別《わか》ちなく親《した》しきを愛し疎《うと》きを惡《にく》む誠《まこと》に國を亂《みだ》すの奸臣《かんしん》なる故我|討《うち》取て立退《たちのき》しを汝等は愚昧《ぐまい》なれば是を覺《さと》らず我を敵《かたき》と付|狙《ねら》ふ事|偏《ひとへ》に麁忽《そこつ》の至りなり然ながら強《しひ》て勝負《しようぶ》を望《のぞ》むと成ば片《かた》ツ端《ぱし》より我手に掛《かけ》今の迷《まよ》ひを覺して呉《くれ》んと彼の宅兵衞を殺して奪ひ取たる脇指《わきざし》を引拔て一討《ひとうち》とお花を目掛《めがけ》討《うつ》て掛《かゝ》るをお花は心得たりと貞宗《さだむね》の短刀《たんたう》を以て切結《きりむす》ぶに女なれども喜内の妹ゆゑ豫《かね》て手に覺《おぼ》えも有其上兄の敵《かたき》と思ひ一心|籠《こめ》て切立《きりたて》れば吾助も侮《あなど》り難《がた》くや思ひけん爰を專途《せんど》と戰ふ程に友次郎も忠八も手に汗《あせ》を握《にぎ》り目ばたきも爲《せ》ず控《ひか》へたりお花吾助の二人は右に拂へば左に支へ一上一下と祕術《ひじゆつ》を盡して踏込々々《ふみこみ/\》戰《たゝか》ふ程に吾助は名を得し曲者《くせもの》なりお花は心|猛《たけ》く勇めども流石《さすが》女の悲《かな》しさは尖《するど》き吾助の刄《やいば》を對戰《あしらひ》兼《かね》思はず後退《あとずさ》りなし小石に礑《はた》と躓《つまづ》き倒《たふ》るゝを吾助は得たりと太刀《たち》振上《ふりあげ》只《たゞ》一刀に討たんとするやお花は眞《ま》二ツと見えし時友次郎が曳《えい》と打たる小柄《こづか》の手裏劍《しゆりけん》覘《ねら》ひ違《たがは》ず吾助が右の肱《ひぢ》に打込みければ忽ち白刄《しらは》を取り落すにぞお花は直くと立上り樣吾助が肩先《かたさき》五六寸|胸板《むないた》懸《かけ》て斫込《きりこん》だり然れども吾助は死《しに》もの狂ひ手捕《てどり》にせんと大手を廣《ひろ》げ追つ捲《まく》りつ飛掛るをお花は小太刀《こだち》を打振々々《うちふり/\》右に潜《くゞ》り左に拂ふを吾助は猶も追廻《おひまは》り進んでは退き退《ひき》ては進み暫時《しばし》勝負は見ざりしに忠八は先刻《せんこく》より拳《こぶし》を握《にぎ》りて控《ひか》へ居《を》りしが今吾助が眼の前へ來りし時|足《あし》を伸《のばし》て渠《かれ》が向ふ脚《ずね》を浚《すくひ》しかば流石《さすが》の吾助も不意を打れて眞逆《まつさか》さまに倒るゝをお花は透《すか》さず駈寄《かけよつ》て左の腕《うで》を打落《うちおと》せば吾助は起《おき》んと齒切《はがみ》を爲す友次郎お花忠八|諸共《もろとも》押重《おしかさな》り十分止めを刺貫《さしとほ》し終に首をぞ刎《はね》たりけり斯《かゝ》りし程に所《ところ》の村役人《むらやくにん》等は二ヶ所にての騷動《さうどう》を聞傳て追々に馳集り先友次郎等を取圍《とりかこ》み事の樣子を聞けるに友次郎は容《かたち》を改《あらた》め我々《われ/\》は元岡山の藩中松田喜内と申者の親類にて右喜内の敵《かたき》吾助と云者を狙《ねら》ひ討《うた》んと三年の間所々を尋《たづ》ね廻《まは》り千|辛《しん》萬|苦《く》し今日此處にて出會年來の本望を達したり然る上は如何樣にも所《ところ》の作法《さはふ》通りに行はれよと少も惡《わる》びれず答ければ村役人共然らば暫《しばら》く控《ひか》へ給へとて當所の名主又品川宿の役人共も立合《たちあひ》一同|評議《ひやうぎ》の上當所の御|代官《だいくわん》へ訴へければ早速《さつそく》役人中|出張《しゆつちやう》有《あり》て敵討《かたきうち》の體《てい》見分《けんぶん》あり先友次郎等三人は御沙汰《ごさた》有迄《あるまで》名主方に控《ひかへ》居べしとて番人を嚴重《げんぢう》に付|置《おき》扨《さて》此由を備前岡山の城主《じやうしゆ》松平伊豫守殿《まつだひらいよのかみどの》江戸屋敷へ問合せに及びけるに此方の元《もと》家來《けらい》に相違なきに依引取申度との事なれば此趣《このおもむ》き友次郎等へ申|聞《きけ》近々《きん/\》伊豫守殿|御邸《おやしき》へ引渡すべき間|其用意《そのようい》有べしとの事故三人の悦《よろこ》び大方ならず其日の來るを今や/\と待程に其後岡山侯より迎《むか》への人|數《ず》來り大名《だいみやう》小路《こうぢ》の上屋敷へ三人を引取れたり折柄《をりから》太守《たいしゆ》には岡山|在《ざい》城中なれば家老中《からうちう》對面有て此度《このたび》の手柄《てがら》拔群《ばつぐん》[#ルビの「ばつぐん」は底本では「ばつくん」]なりと賞美《しやうび》有りて遠《とほ》からず岡山表へ差下《さしくだ》すべき旨申渡され夫より五日程|過《すぎ》て又家老中より奉書《ほうしよ》到來《たうらい》致し明朝《みやうてう》江戸表|發足《ほつそく》有べし尤も道中|警固《けいご》の爲|足輕《あしがる》十人を差添《さしそへ》らるとの事なれば友次郎等は有難き旨《むね》請《うけ》をなし翌朝《よくてう》未明《みめい》に發足《ほつそく》せしが三人の中お花友次郎は通|駕籠《かご》忠八は願ひに因てお花の駕籠の側《そば》に付添《つきそふ》事を許《ゆる》され其外十人の足輕《あしがる》は前後に立並《たちなら》び若や道中にて非常《ひじやう》の事も有ばとて專《もつぱ》ら用心をぞ爲たりけり斯て始の夜は藤澤宿にて泊り以前世話に成たる旅籠屋《はたごや》何某《なにがし》が家に行て厚《あつ》く禮《れい》を述《のべ》けるに亭主も此程|鈴《すゞ》ヶ|森《もり》にての敵討《かたきうち》の事此邊迄|隱《かく》れなく遖《あつぱ》れ御本望《ごほんまう》を達せられし段《だん》先々大悦なりと祝《しゆく》し倶《とも》に悦び其夜は酒《さけ》肴《さかな》など出して種々に待遇《もてなし》けるにぞ友次郎等は以前に異《かは》らぬ主《あるじ》の侠氣《をとこぎ》を感じ厚《あつ》く禮物《れいもつ》を贈《おく》りて夫より路次《ろじ》を急《いそ》ぐ程に日成ずして岡山に着《ちやく》せしかば即日《そくじつ》太守《たいしゆ》へ目見申付られ花事《はなこと》は一旦出家の望み有由にて出國致せし處兄喜内が凶變《きようへん》を聞心を俗《ぞく》に改《あらた》め千|辛萬苦《しんばんく》して首尾能《しゆびよく》兄の敵を討し段|誠《まこと》に女|丈夫《ぢやうふ》共云べし又友次郎事も花を助け敵を討《うた》せし段|信義《しんぎ》厚《あつ》く賞《しやう》するに餘り有依て父佐太夫に申|諭《さと》し勘當《かんだう》を免させ今より花と夫婦になり松田の家を相續《さうぞく》致すべしと有て又忠八も庭口《にはぐち》より召れ太守《たいしゆ》へ目見を免《ゆる》され其方|賤《いやし》き若黨の身にて主人を助け大功《たいこう》有し段|神妙《しんべう》なり依て今より十人|扶持《ふち》下され足輕《あしがる》小頭《こがしら》申付るなりと家老中より三人へ執達《しつたつ》に及びければお花友次郎は云に及ばず忠八まで君恩《くんおん》の忝《かたじ》けなきに感涙《かんるゐ》止め敢ず何れも重々《ぢう/\》有難《ありがた》き段御|請《うけ》申上て引|退《しりぞ》き夫より友次郎は改めて松田の養子となり養家《やうか》の名跡《めいせき》を繼《つい》で松田喜内と改名《かいめい》しお花を妻となし舊領《きうりやう》五百石を賜《たまは》り又忠八は足輕《あしがる》小頭《こがしら》となりて兩家共|代々《だい/\》岡山に繁昌《はんじやう》せしとぞ寔《まこと》に君君たる時は臣《しん》臣たりと云|古語《こゞ》の如く岡山侯|賢君《けんくん》に在《まし》ます故に喜内|不幸《ふかう》にして僕《ぼく》の爲に討《うた》るゝと雖も其|妹《いもと》に又《また》勇婦《ゆうふ》有て仇を討《うち》家を起せり友次郎も始はお花が色香《いろか》に迷《まよ》ひ出國《しゆつこく》したる過《あやま》ちは有ども後《のち》にお花が助太刀《すけだち》して美名《びめい》を世上《せじやう》に上たる事是|偏《ひとへ》に岡山侯の賢良《けんりやう》なるより下にも又斯る人々ありしと其頃世上に噂《うはさ》せり 松田お花一件[#1段階小さな文字]終[#小さな文字終わり] [#改丁] [#ページの左右中央] 嘉川主税一件[#「嘉川主税一件」は大見出し] [#改丁] [#1段階大きな文字]嘉川主税《かがはちから》一件《いつけん》[#大きな文字終わり] [#8字下げ]第一回[#「第一回」は中見出し]  人は只|實心《じつしん》を旨とし苟且《かりそめ》にも僞《いつは》り欺《あざむ》く事勿れと然るを言行相反し私欲を逞《たくま》しうなす者必ず其の身を亡《ほろぼ》すこと古今珍しからずと雖も人世の欲情《よくじやう》を脱《だつ》するは難き事ならんか茲に當時嘉川平助高吉と云る御旗本《おはたもと》あり先祖は輕き御家人なれども柳澤出羽守殿大老職の頃同家へ謟諛《へつらひ》段々と立身なし有難くも五代將軍綱吉公の御治世《ごぢせい》の時|遂《つひ》に御旗本の列に入り高二千五百石まで加増ありて相應の役柄を勤《つと》めし家なり然るに平助は四十の歳を越《こす》と雖も未だ一子なく家名の斷絶《だんぜつ》せん事を歎き親類《しんるゐ》どもと相談《さうだん》の上小十人組頭金松善四郎とて高七百石を領せし御旗本の二男|主税之助《ちからのすけ》と云へる者|人品《じんぴん》歳頃《としごろ》とも相應《さうおう》なるにより是を乞ひて嘉川の養子に貰ひし處に其後平助は藤五郎藤三郎と云へる二人の男子を儲《まう》けしかば主税之助を貰《もら》ひしことを悔《くゆ》れども一旦養子とせし上は是非なしとて其後|家督《かとく》を主税之助に讓《ゆづり》しが其砌《そのみぎ》り平助は主税之助に對《むか》ひ我今度汝を養子とせしにより今度|家督《かとく》を讓《ゆづ》ると雖も其方の跡式《あとしき》は我が實子たる藤五郎藤三郎の内|器量《きりやう》を見立て讓り呉《くれ》よ此事承知なれば兩人とも汝の悴《せがれ》に致すべしと言けるに主税之助畏まり奉つる仰の如く兩人とも某し悴に仕つり嘉川の名跡《みやうせき》は必ず兄弟の内に繼せ候はん此樣決して御案事有べからずと立派に請合ければ平助は甚だ悦《よろこ》び我等死後には何分|宜敷《よろしく》[#ルビの「よろしく」は底本では「よろりく」]頼《たの》み申と堅《かた》く申付置たり然るに幾程も無く平助は六十歳を一|期《ご》として病死《びやうし》しけるにより主税之助は養父の頼の通り兄弟の内に家督《かとく》繼《つが》せんと我が子の如く愛《いつく》しみ育《そだて》しが其中に主税之助も實子を儲け名を佐《すけ》五郎と呼び寵愛《ちようあい》淺《あさ》からず何時しか先代平助の遺言《ゆゐごん》を忘《わす》れ己が實子佐五郎に家督《かとく》を讓らんと思ひ立ち夫に就ては藤五郎藤三郎兄弟を亡者《なきもの》にせずんば此事行ひ難しと茲に惡心《あくしん》萌《きざ》せしこそ嘉川家|滅亡《めつばう》すべき基《もとゐ》と後に知られける然《され》ば近頃藤五郎兄弟の事は何に依ず惡樣《あしさま》に罵《のゝし》り機《をり》に觸《ふれ》ては三度の食を斷《たち》て與へざる事なども有しかば藤五郎は倩々《つく/″\》思《おも》ふやう實子佐五郎出生以來養父母には我が兄弟を疎《う》とんずること甚しければ兄弟の中へはとても家督《かとく》は讓《ゆづ》るまじ家名《かめい》相續《さうぞく》の出來ぬものなれば身を我儘に暮んと心を決し晝夜酒色に耽《ふけ》りしが頃は享保《きやうほ》二年六月下旬大岡越前守殿役所へ神田豐島町居酒屋の亭主源右衞門と云ふ者御訴へ申上るとて駈込《かけこみ》ければ役人早々奉行へ申立けるに何等の趣意なるや篤《とく》と糺《たゞ》すべしとのことに付き役人は源右衞門に尋問《たづね》るに私し儀|居酒商賣《ゐざけしやうばい》仕つり候に今朝一人の侍士《さぶらひ》入來《いりきた》り亂心《らんしん》と相見え家内の者と彼是《かれこれ》口論《こうろん》致し諸道具を投散し其上刀を拔立騷ぎ候に付|據《よんど》ころなく捕押《とりおさ》へ置候間何卒御|慈悲《じひ》を以つて同人|宿元《やどもと》へ御引渡し成下され候樣願ひ奉つり候と申により其段役人より奉行へ申立しかば越前守殿|聞屆《きゝとゞ》けられ早速《さつそく》召捕《めしとり》方申付られしにより同心兩人源右衞門に案内させ右酒屋に到りて彼のものに對《むか》ひ其方《そのはう》亂心《らんしん》と相見え居酒屋《ゐざかや》を荒《あら》し家内を騷《さわが》す段不屆なり因て奉行所へ召連行《めしつれゆく》により然樣《さやう》心得よと申し渡しければ彼の者大いに怒り我は嘉川主税之助《かがはちからのすけ》が悴藤五郎なり町奉行所などへ相越《あひこす》べきものに非ずと云て種々《さま/″\》に惡口《あくこう》なしけれども役人は頓着《とんちやく》なく其儘引立|連歸《つれかへ》りて白洲《しらす》に引据《ひきすゑ》置き大岡殿の前へ出《いで》樣子を相糺《あひたゞ》し候處嘉川主税之助|惣領《そうりやう》藤五郎と申者に候と御|旗本《はたもと》の事故|内々《ない/\》申立てければ越前守殿是を聞れ扨々|不行跡《ふぎやうせき》千萬なり是を表向きの沙汰となす時は渠《かれ》が父の家名にも關《かゝは》るべしとて思案の上白洲へ出座有て藤五郎を見られ其方儀帶刀をも致す身分を以て不行跡《ふぎやうせき》に及ぶ事言語に絶《た》えたる不屆なり汝は浪人か併し住所は何方なるや豈夫《よもや》住所は有まじ無宿《むしゆく》であろうなと尋ねらるゝに藤五郎は越前守殿の心を悟らず否々《いな/\》拙者儀は斯《かく》砂利《じやり》の上に於て御吟味を受べき身分に御座なく候と云へば大岡殿ナニ汝《おのれ》は砂利《じやり》の上處か名もなきものならんと有に否《いな》拙者《せつしや》は嘉川主税之助|悴《せがれ》藤五郎と申す者なりと云へば越前守殿オヽ然らず藤五郎の家來と申すか然ば亂心《らんしん》と見えるに依《より》吟味《ぎんみ》は追て致す先|入牢《じゆらう》申付ると有て假牢《かりらう》に入置れ早速此段嘉川主税之助方へ申入らるゝ樣|其許《そのもと》御子息《ごしそく》藤五郎殿家來と申神田豐島町酒屋にて酒興《しゆきよう》の上|亂暴《らんばう》に及候者有之に付此方へ召捕《めしとり》置候間用役の者一人早々御|差越《さしこし》成《なさ》るべしとの事なれば嘉川の屋敷《やしき》にては大いに驚き是は概略《おほかた》藤五郎の事|成《なら》んが大岡殿の仁心《じんしん》にて藤五郎家來と申越れしと見えたりとて早速《さつそく》用人の伴《ばん》佐《すけ》十郎と言者《いふもの》越前守殿役所へ罷出ければ越前守殿佐十郎を呼れ其方主人藤五郎|召使《めしつかひ》の者|亂心《らんしん》と相見え豐島町居酒屋源右衞門と申者の方へ參り家内を騷《さわが》したるに依て此方へ召捕《めしとり》置たり但し吟味致すべきなれども亂心に紛《まぎ》れなき故今日引渡し遣す尤も由緒《ゆゐしよ》も是有家來ならば隨分《ずゐぶん》念《ねん》を入て療治《れうぢ》を差加へ病氣中は座敷牢《ざしきらう》へなりとも入置が宜からんと申されければ佐十郎ハツと平伏《へいふく》なし段々御|懇情《こんせい》の御言葉有難く畏《かしこ》まり奉つる主人も定めて忝けなく存候はん早速|罷《まか》り歸《かへ》り御示の如く屹度《きつと》相守らせ申べく候と涙を流して打喜び夫より藤五郎を請取《うけとり》駕籠《かご》に乘せ急《いそ》ぎ屋敷へ連歸《つれかへ》りて委細《ゐさい》を主税之助へ申述ければ主税之助は大いに憤《いきど》ほり偖々《さて/\》不屆千萬の次第奉行所の差※[#「圖」の「回」に代えて「面から一、二画目をとったもの」、561-7]《さしづ》なれば少しも猶豫《いうよ》ならずと早速座敷牢を補理《しつらひ》是へ閉籠《とぢこめ》置たりけり然らば大岡殿の心にては藤五郎は先代平助の實子なるにより一旦の不身持さへ改めなば往々《ゆく/\》家督《かとく》を讓《ゆづ》る者ならんと思はれ何所迄《どこまで》も家來の體に取扱《とりあつか》はれしは實に特別《とくべつ》の慈悲《じひ》と云べきを却て主税之助は是を好《よき》機會《しほ》なりと藤五郎を廢《はい》して實子|佐《すけ》五郎に家督《かとく》を繼《つが》せんと思ひ公儀《こうぎ》へは長男藤五郎は多病と申立己が實子佐五郎を惣領《そうりやう》に相立度旨願ひし處願の通り仰付られしゆゑ主税之助は豫《かね》ての望みの如くなりしとて大いに悦《よろこ》びしと雖も先代よりの家來は左右《とかく》藤五郎兄弟を贔屓《ひいき》なすにより渠等《かれら》在《あり》ては實子佐五郎の爲にならず此上は藤五郎兄弟をなきものとせんと惡心《あくしん》彌増《いやまし》て先《まづ》藤五郎より方を付んとて一日に漸《やうや》く食事一度づつを與へ干殺《ほしころ》さんとこそ巧《たく》みけれ然《され》ば無慚《むざん》なるかな藤五郎は其身|不行跡《ふぎやうせき》とは云ながら僅《わづ》か三|疊《でふ》の座敷牢《ざしきらう》に押籠《おしこめ》られ炎暑《えんしよ》の甚はだしきをも凌《しの》ぎかね些々《さゝ》たる庇間《ひあはひ》の風を待《まつ》身《み》となりし哀《あは》れさは譬《たとへ》ん物《もの》もなかりけり茲に腰元《こしもと》お島と言は其以前より藤五郎が密《ひそか》に情《なさけ》をかけし女なれば此程の體裁《ありさま》を慕《いと》ほしく思ひ人目を忍びて朝夕の食事其外何くれとなく心を配《くば》り居たりしに當家の用人|伴《ばん》佐《すけ》十郎|建部《たてべ》郷《がう》右衞門山口|惣《そう》右衞門の三人は先殿平助の代より勤め殊《こと》に[#「殊《こと》に」は底本では「殊に《こと》」]山口惣右衞門は藤五郎の傅役《もりやく》にて幼少《えうせう》より育て上《あげ》己は當年七十五歳になり樂勤《らくづとめ》を申付られし身なれば此程の有樣《ありさま》を見て深く心を痛め主人|主税《ちから》之助へ種々藤五郎の詫言《わびごと》をなし出|牢《らう》有べきやう申しければ主税之助大いに立腹《りつぷく》し又しても/\藤五郎の事を意見立《いけんだて》なす條《でう》不屆なり重ねて藤五郎の事を申さば暇《いとま》を出さんと慘々《さん/″\》に叱《しか》りければ惣右衞門は是非なく我家へ歸り佐《すけ》十郎|郷《がう》右衞門の兩人を招《まね》き先年先殿平助樣の御|遺言《ゆゐごん》もありしを當殿《たうどの》には左右《とかく》無理《むり》非道《ひだう》の取計ひなるにより此後御兄弟の御身の上如何樣の儀出來んも知れず御兩人を何分御頼み申と涙を流して内々相談致しければ此事を主税《ちから》之助に告る者ありて種々惣右衞門を讒言《ざんげん》なせしにぞ主税之助も始終《しじう》は邪魔《じやま》と思ひ居たるゆえ是幸ひとて惣右衞門に永の暇を申渡しければ惣右衞門は豫《かね》て覺悟《かくご》の事とは云ひ先代よりの勤功《きんこう》もあるを情《なさけ》なしとは思へども是非なく妻と悴《せがれ》を引連《ひきつれ》嘉川の邸《やしき》を立退《たちのき》けり然れども其の節同役の伴《ばん》建部《たてべ》の兩人へ返す/″\も藤五郎兄弟の事を頼み置て其身は神田三河町二丁目千右衞門店なる裏長屋《うらながや》へ引越《ひつこし》浪々《らう/\》の身となり惣右衞門七十五歳女房お時五十五歳|悴《せがれ》重《ぢう》五郎二十五歳親子三人|幽《かす》かに其日を送《おく》り居たり然るに嘉川主税之助《かがはちからのすけ》は惣右衞門に永の暇を遣してより今は意見《いけん》する者なく益々《ます/\》惡事《あくじ》増長《ぞうちやう》なし藤五郎を彌々《いよ/\》干殺《ほしころ》さんと嚴《きび》しく食止《しよくどめ》をし其上弟藤三郎當年|僅《わづ》か五歳に成を惡《にく》みて種々|折檻《せつかん》なし剩《あまつ》さへ藤三郎の乳母お安と言女をも永の暇《いとま》を遣したり其|譯《わけ》は此乳母先代平助の時より奉公《ほうこう》に來り譜代《ふだい》同樣の極《きめ》にて藤三郎の乳母となせしかば藤三郎を愛《いつく》しむ事生の親にも勝《まさ》りて彼是《かれこれ》と執成《とりなし》けるを主税之助夫婦は甚く憎み我子の爲に邪魔《じやま》成《なら》んと終に咎《とが》なきお安を牛込神樂坂水茶屋兄吉兵衞の方へ歸しけり斯《かく》先代よりの家來に暇を出し新規《しんき》に抱へる者共には用人|立花左仲《たちばなさちう》安間《あんま》平左衞門又中小姓には安井伊兵衞|孕石《はらみいし》源兵衞其外|徒士《かち》六人の者を近付《ちかづけ》主税之助は彌々《いよ/\》惡心|増長《ぞうちやう》して藤五郎の命は此節に至りて實に風前の燈火《ともしび》よりも猶《なほ》危《あや》ふけれども只|腰元《こしもと》のお島一人|密《ひそ》かに是を勞《いたは》り漸々と命を保ち居るのみなり然《さ》れば新規《しんき》抱《かゝ》への用人安間平左衞門と言は當年四十歳餘りなれども心|飽《あく》まで邪《よこ》しまにして大膽不敵《だいたんふてき》の曲者《くせもの》なり此者金銀を多く所持《しよぢ》なし嘉川家|身代《しんだい》の仕送《しおくり》をするにより主人も手を下げ萬事一人の計ひなれば邸《やしき》内の者此平左衞門を恐れ誰一人|詞《ことば》を返す者もなきゆゑ平左衞門は我儘《わがまゝ》増長《ぞうちやう》し其上ならず年に似げなく大の好色者にてお島の容貌《かほかたち》美《うつ》くしきに心を掛《かけ》間《ま》がな隙《すき》がなお島を口説《くどき》けれ共|勿々《なか/\》承引せず却て平左衞門を辱《はづか》しめ惡口《あくこう》しける故平左衞門は其身の惡き事も思はず渠《かれ》が惡口を大いに憤ほり心中に偖《さて》は此女は藤五郎と言男のある故に我を強面《つれなく》爲《なす》成《なら》んと思ひ夫より種々《いろ/\》と藤五郎兄弟の事を憎《にく》みて主人主税之助の前へ出藤五郎殿を生置《いけおく》時は建部《たてべ》伴《ばん》の兩人の者は御先代よりの御家來故彼の御兄弟の事を思ひて渠等《かれら》兩人御|支配向《しはいむき》へ如何の事を申出べきやも量難《はかりがた》し假令|然《さ》なきにもせよ藤五郎殿を盜《ぬす》み出さんと此程より渠等《かれら》が樣子を窺《うかゞ》ひ見るに其|萌《きざ》しなきにしも非ずと申ければ元より無智短才の主税之助故是を實と思ひ然らば此上は如何はせんと相談なすに平左衞門は得たりと聲を潜《ひそ》め竊《ひそか》に毒殺《どくさつ》せん事一の手なるべし先藤五郎殿さへ亡者《なきもの》にする時は跡《あと》に障《さは》りなしと言へば主税之助大きに悦《よろこ》び好機《よきをり》のあれかしと見合せ居けるとなり [#8字下げ]第二回[#「第二回」は中見出し]  然《され》ば嘉川主税之助は何卒《なにとぞ》して藤五郎を害せんと思ひ新規《しんき》抱《かゝ》へ入れ用役《ようやく》安間平左衞門と種々談合致しけるを腰元《こしもと》お島此事を竊《ひそか》に知りける故大いに打驚き早々此由を内々にて伴《ばん》建部《たてべ》の兩人へ告知らせければ伴建部の兩人も甚だ駭《おどろ》き此儀一日も打捨置難《うちすておきがた》し御兄弟|諸倶《もろとも》に主税之助樣の計略に係《かゝ》り御命を失はるゝ時は嘉川の御家名|斷絶《だんぜつ》せん事|必定《ひつぢやう》なり如何はせんと兩人|竊《ひそか》に額《ひたひ》を合せて談ずると雖も好《よき》分別《ふんべつ》も出ざれば先々此儀山口|惣《そう》右衞門に相談《さうだん》せんと夫より伴《ばん》佐《すけ》十郎は急ぎ神田三河町二丁目山口惣右衞門の方へ到りて對面《たいめん》の上右の一條を種々と談合《だんがふ》しければ山口も毒殺のことを聞大いに駭《おどろ》き其許《そのもと》の云るゝ如く此事少しも延し難し若|打捨置《うちすておく》時は一大事ならんにより片時も早くお島と申合せ御兄弟諸共一先盜み出し其後支配へ屆け何卒して先《せん》御主人の御|血脉《けつみやく》を絶《たゝ》さぬ樣に致しなば我々《われ/\》が臣たる道も立により此上は急ぎ御二方を救ひ進らせん事|專要《せんえう》なり此儀御兩所の力を偏《ひとへ》に御頼み申なりと言ければ佐《すけ》十郎は合點《うなづき》何樣《なにさま》御尤も至極なれば早々郷右衞門お島ともに申合せ取計ふべけれども御兄弟を救ひ出せし上御二方を隱匿《かくまひ》進《まゐ》らするは何方が宜しからんと申せば其儀は少しも心を勞されな年こそ寄たれ此惣右衞門御兄弟を隱し置|頓《やが》て愛度《めでたき》御家督に居《すゑ》奉《たてま》つらん必ず/\氣遣ひ仕給《したま》ふまじと請合ければ佐《すけ》十郎然らば豫《かね》て申通り勿々《なか/\》手延になり難ければ今明日の中是非とも御救ひ申べし何《どの》道にも一と先|爰許《こゝもと》へ御連申さんと堅く約束なし佐《すけ》十郎は急《いそ》ぎ立歸りて此段建部郷右衞門にも話しければ建部も深く悦びつゝ夫より竊《ひそか》に右の由を腰元のお島にも話し置其節は必ず頼むと示合せて互に能《よき》機《をり》を窺ひ居たりし處頃は享保三年十二月廿一日朝より大雪降りて其寒き事誠に堪難く何國も銀世界となり庭の木立は時ならぬ花を生ぜしかば主税之助は新參《しんざん》の用役《ようやく》安間平左衞門|立花左仲《たちばなさちう》其外氣に適《あひ》たる佞臣《ねいしん》どもを集め雪の寒を凌がんと晝より酒宴《しゆえん》を催《もよふ》せしが呑《のめ》や謠《うた》へと調子づき追々|亂酒《らんしゆ》になり夜に入ると雖も猶更に各自《おの/\》謠ひ淨瑠璃《じやうるり》にだみ聲を張上《はりあげ》遂にはすてゝこ踊《をどり》やかつぽれと醉に乘ぜし有樣は何時果べきとも見えざりけり然るに伴建部の兩人は[#「伴建部の兩人は」は底本では「伴建部兩人のは」]先代よりの用役ゆゑ兎角《とかく》煙《けぶ》たく思に付此|酒宴《しゆえん》の席へ呼ざるを兩人は是ぞ屈竟《くつきやう》の幸ひ此|機《をり》にこそ我々が望みを達せんと竊に悦び猶彼是と心を配りしが今宵《こよひ》は是非共過さじと女房にも此事を話し其方は御|裏門《うらもん》に待受て藤三郎樣の御供をなし神田三河町惣右衞門の方迄|立退《たちのく》べし藤五郎樣には[#「藤五郎樣には」は底本では「藤三郎樣には」]我々御供を致し後より行んほどに必ず共に仕損《しそん》ずまじと申含め置|豫々《かね/″\》相※[#「圖」の「回」に代えて「面から一、二画目をとったもの」、564-10]《あひづ》の支度してお島が手引を相待けり然るに奧にては夜の更行《ふけゆく》に隨ひ酒宴の騷ぎも漸次《やう/\》に薄《うす》らぎ最早座敷も引て皆々席を退き臥床《ふしど》に入ければ夜は深々《しん/\》と降積《ふりつも》る雪に四邊《あたり》の䔥然《しめやか》にて鼾《いひき》の聲のみ聞えるにぞ伴《ばん》建部《たてべ》の兩人は今や/\と窺ふ機《をり》お島は藤三郎を抱上《いだきあげ》小用《こよう》に連行《つれゆく》體《てい》に持成《もてなし》座敷々々を忍び出て漸々《やう/\》に錠口《ぢやうぐち》へ來りければ待儲《まちまうけ》たる兩人は密《そつ》と請取りお島は佐十郎の耳に口を寄せ先《まづ》藤三郎樣の御事を計ひ夫より御兩人|倶《とも》に御庭の垣を越てお小座敷より忍入藤五郎樣の入せらるゝ處へ御出候へと申ければ佐十郎|打點頭《うちうなづき》呉々《くれ/″\》も頼むと言置《いひおき》兩人共に先藤三郎樣を連行《つれゆか》んと其處《そこ》を立去《たちのき》出るに雪は彌々《いよ/\》降頻《ふりしきり》其寒き事絶え難く漸々と裏門口へ出れば豫て宵より伴建部兩人の妻女お松お花は夫と云い合わせて有る事なれば寒きを厭はず待居たりしが斯と見よりお松は立|寄《より》藤三郎を肌《はだ》に脊負《せおひ》お花と供に三河町を指て急ぎけり又伴建部の兩人は腰元お島が働きにて難なく藤五郎の押込《おしこめ》ある組牢《くみらう》の處に到り見るに哀なる哉藤五郎は主税之助が惡心により日外《いつぞや》より日々食物を斷《たゝ》れてあれば惣身《そうしん》痩衰《やせおとろ》へ眼は窪《くぼ》み小鼻も落て此世の人とも見えざるゆゑ兩人の用人は涙《なみだ》を流し是が嘉川家の若殿樣の有樣なるか扨々淺ましき御事なり少しも早く御|連退《つれのき》申さんと兩人して組牢《くみらう》の柱《はしら》を一本音のせぬ樣に漸々|引拔《ひきぬき》郷《がう》右衞門は藤五郎を脊負《せおひ》て夫より座敷々々を忍び出れど若《もし》此期《このご》に臨《のぞ》みて出合者《いであふもの》有《あら》ば最早一|生懸命《しやうけんめい》に討果《うちはた》さんと伴|佐《すけ》十郎は前後左右に眼を配《くば》りながら刀を拔持《ぬきもち》て郷右衞門の後に添藤五郎を守護《しゆご》なし漸々と忍び出以前の裏門の潜りを開て外へ出立ホツと一|息《いき》吐《つき》夫《それ》より兩人は惣右衞門の方へと走りたり扨《さて》又《また》三河町なる山口惣右衞門は此事を晝《ひる》の中に伴建部の兩人より申|越《こし》たれども惣右衞門は此節病氣にて起居《たちゐ》も自由ならざれば今宵《こよひ》邸《やしき》内へ行《ゆき》働《はたら》く事能はず又悴重五郎は九月中より御|代官《だいくわん》の供をして他國へ行し故是も今度の用に立ず斯|打臥《うちふし》居て御兄弟樣の遁《のが》れ來らるゝを待事《まつこと》本意なさよと宵より頻に聞耳を立てゝ枕をもたげ我身の病苦は打忘《うちわす》れて幾度《いくたび》となく家内のものを門へいだしては氣を焦《いら》ち只々藤五郎兄弟を待詫《まちわび》てぞ居たりけり [#8字下げ]第三回[#「第三回」は中見出し]  斯《かく》て其夜も追々《おひ/\》に更渡《ふけわた》り早《はや》子刻《こゝのつ》も過|丑刻《やつ》の鐘《かね》も遙《はるか》に聞え軒端《のきば》を誘引《さそふ》雪風の身に染々と冷るに何此|眞夜中《まよなか》の大雪に伴《ばん》建部《たてべ》の計りし事ゆゑ首尾能《しゆびよく》御屋敷《おやしき》は遁《のが》れ出給ふ共自然と途中にて凍えは爲給《したま》はぬか嘸《さぞ》や夜道は御難儀ならんと老の心のやるせなく女房に對《むか》ひコレお時やアヽ何も己は御二人樣の事が案事《あんじ》られてならぬ今夜も彼是|最《もう》今に寅刻《なゝつ》なれば今迄沙汰のないは萬一《ひよつと》渠等《かれら》が仕|損《そん》じはせまいかと此胸《このむね》が落付《おちつか》ぬ我年こそ寄れ此病氣でさへ無《なき》成《なら》ば第一番に御邸《おやしき》より御二人樣を御|連《つれ》申さんに佐《すけ》十郎郷右衞門の兩人にのみ骨《ほね》を折《をら》せ斯《かく》のめ/\と我が宅に居ん事眞に云|甲斐《かひ》なしとは言《いひ》何分病には勝難し偖々《さて/\》何か仕樣《しやう》は有まいか萬一此事を仕損《しそん》じなば御二人の御命にも關《かゝ》はるならんと起《と》つ臥《おひ》つ氣を揉《もむ》機《をり》しもゴウゴウと耳元近く聞ゆるは東叡山《とうえいざん》の寅刻《なゝつ》の鐘《かね》コリヤ斯うして居られぬと物に縋《すが》りて立上り蹌踉《ひよろめく》足《あし》を踏しめつゝ二足三足|端《はし》近く出行|機會《とたん》裏口に人の足音爲ければ惣右衞門は耳引立て那《あれ》お時何やら裏《うら》で聲がするコレさお時早く行や行て見て來やれ是さ/\と急立《せきたて》られ女房は早々に立出誰殿かと云に彼の者小聲にて然言《さういう》聲《こゑ》はお時樣やれ/\嬉《うれ》しやと言を聞《きゝ》門《かど》の戸を明ればお松お花の兩人は藤三郎と倶《とも》に雪まぶれに成しを打拂《うちはら》ひて内に入お松は藤三郎を脊《せ》より下《おろ》しければお時は是を見てやれ/\若樣《わかさま》か此のお寒いのに能《よく》先《まづ》御出遊ばしたお松樣もお花樣も嘸《さぞ》かし御寒《おさむ》いことで御座んせう先々早ふ此方へと案内《あんない》しけるに兩人は藤三郎を伴《ともな》ひ奧《おく》へ這入《はひれ》ば惣右衞門は待構《まちかまへ》し事ゆゑ我を忘れて打喜《うちよろこ》びやれ/\嬉しや南無|金毘羅《こんぴら》大權現《だいごんげん》心願《しんぐわん》成就《じやうじゆ》有難やと泪《なみだ》を流して伏拜《ふしをが》みテモマア此寒さに御機嫌《ごきげん》よくと藤三郎を撫摩《なでさす》りなどする中に伴佐十郎|建部《たてべ》郷右衞門の兩人はお島が働きにてなんなく藤五郎を救《すく》ひ出《いだ》し是も同じく脊に負《おひ》ながら此處へ急《いそ》ぎしに男の足故程なく來りければ皆々大に悦《よろこ》び合《あひ》先是にて一|安堵《あんど》と一同に太《ふと》き息《いき》をホツと吐《つき》夫より皆々火鉢に寄て雪に濡《ぬれ》たる衣《きぬ》など乾《ほし》ながら郷右衞門云|樣《やう》斯《かく》二方樣共首尾能|盜《ぬす》み出せしゆゑ明日は必定《ひつぢやう》御邸《おやしき》にて尋ね探《さが》さん然すれば豫《かね》て御邊が此處に住居せらるゝを知事《しること》なれば是非共|爰《こゝ》へ尋ね來るべきにより御兄弟樣|此儘《このまゝ》爰《こゝ》には差置參らせ難し此儀如何せんと相談《さうだん》せしかば惣右衞門は點頭《うなづき》其儀は先《せん》殿樣の御恩に成し御出入りの陸尺《ろくしやく》七右衞門は男氣の者にて須田町《すだちやう》一丁目に住居致せば此者を頼みて渠《かれ》か方へ御二方共に竊《ひそか》に忍ばせ申さんと某し豫てより思ひしか共此病氣にて渠《かれ》の方へ行事能はず夫故未だ渠には申談ぜざれども貴殿《きでん》より御頼みあらば承知《しようち》致《いた》さんと云に郷右衞門其儀は至極《しごく》然《しか》るべきにより片時も早く某し是より須田町一丁目へ馳參《はせまゐ》り陸尺《ろくしやく》七右衞門に折入《をりいつ》て頼み申べしと立上るを皆々夫は何共此大雪にと云けれども郷《がう》右衞門|是迄《これまで》の處をさへ爲課《しおほ》せし事なれば此上の駈歩行《かけあるき》に雪位はおろかなり殊に是より須田町までは僅《わづか》の道《みち》ゆゑイデ片時《へんじ》も早く到《いた》らんと此處を立出七右衞門の方へぞ急《いそ》ぎける程《ほど》もなく須田町一丁目へ來り七右衞門の門を叩《たゝ》きて案内《あんない》申入ければ七右衞門の家内は夜中の事ゆゑ不審《いぶかり》何れの邸《やしき》よりの使にや未《いま》だ夜の明《あけ》ざるに來る事|能々《よく/\》火急《くわきう》の用向ならんと思ひ尋ねければ郷右衞門は據《よんど》ころなき要用《えうよう》にて罷越《まかりこし》たり七右衞門|在宿《ざいしゆく》なれば面談《めんだん》申度と言入《いひいれ》けるに七右衞門在宿に候と答へながら出迎《でむか》ひ是は/\郷右衞門樣何御用にて斯《かく》早《はや》く御出なされしやと申ければ郷《がう》右衞門|然《され》ば未だ夜の中より來りしは貴樣《きさま》が男氣を見掛《みかけ》て竊《ひそか》に頼《たの》み度一條ありと云を聞《きゝ》七右衞門|然《され》ば先|此方《こなた》へと一間へ通《とほ》しけるに郷右衞門聲を潜《ひそ》め藤五郎兄弟の事を委細《ゐさい》に語りければ七右衞門夫は/\とばかりにて惘《あき》れ居たりしかば建部は膝《ひざ》を進《すゝ》め右の次第ゆゑ何卒御二人樣を暫《しばし》の内|隱匿呉《かくまひくれ》らるゝ樣|偏《ひとへ》に頼《たの》み申と言《いひ》ければ七右衞門は元來《もとより》男氣の者なるに付|段々《だん/\》郷右衞門の物語りを聞《きゝ》主税之助が惡意を憎《にく》み殊更《ことさら》先代の厚恩《こうおん》を受し者故委細を汲取《くみとつ》て郷右衞門に向ひ扨々恐れ入たる御物語り御二方《おふたかた》樣の事は私しが身に代《かへ》ても御引受《おひきうけ》申し上《あげ》御世話仕つるべければ必ず/\御氣遣《おきづか》ひ成《なさ》れまじと世に頼母《たのも》しく引請ければ郷右衞門は大いに悦び然《しか》らば明方迄《あけがたまで》には御連《おつれ》申さんにより呉々《くれ/″\》も頼《たの》むなりと云ひ置て立歸りしに七右衞門も斯《かく》請合《うけあひ》し上はとて己も郷右衞門の後《あと》より大雪をも厭《いと》はず三河町なる山口惣右衞門の方へ到り猶《なほ》も惣右衞門に對面《たいめん》して委細《ゐさい》己《おのれ》が心底《しんてい》を語《かた》りければ惣右衞門始め一同七右衞門の氣質《きしつ》を感《かん》じ惣右衞門は病氣|故《ゆゑ》萬事心に任せず迚《とて》偏《ひとへ》に郷右衞門を頼《たのみ》ける故七右衞門は委細|呑込《のみこみ》然る上は佐《すけ》十郎樣郷右衞門樣とても此方《こなた》に在《あら》れては宜しからず御兄弟樣の御供して手前の方へ御越《おこし》成《なさ》るべしとて伴《ばん》建部《たてべ》夫婦の者も倶《とも》に主從都合六人を早速我方へ連歸《つれかへ》り何是《なにこれ》となく心切《しんせつ》に世話をなしける事|實《げ》に頼《たの》母しき男氣《をとこぎ》なり [#8字下げ]第四回[#「第四回」は中見出し]  斯《かく》て翌《よく》廿二日の朝《あさ》嘉川家の人々藤三郎の見《みえ》ざるを不審《ふしん》に思ひし所藤五郎を入れ置きし囹《をり》も破《やぶ》れ其上伴建部等も居らざれば大いに驚き騷《さわ》ぎ邸内《やしきうち》の者共を殘らず呼出《よびいだ》し吟味に及びけれ共皆々一|向《かう》に知らざる旨《むね》申ければ主税之助は憤怒《いきどほり》是れ必らず腰元《こしもと》お島の手引《てびき》にて藤五郎兄弟を佐《すけ》十郎郷右衞門の兩人に盜み出《いだ》させしに相違|有《ある》まじ然《さ》すれば先づ三河町二丁目の惣右衞門が方を尋ね見《み》るべしと有て早速|孕石《はらみいし》源兵衞安井伊兵衞の兩人を呼《よ》び三河町なる右《みぎ》惣右衞門の方へ探《さぐり》に遣はし置き猶《なほ》又《また》安間平左衞門立花左仲の兩人を相手に種々と相談《さうだん》に及びけるに兩人も是《これ》は正《まさ》しく殿《との》の御考への通り伴建部と申し合せお島の手引に疑《うたが》ひなしとの事ゆゑ夫れよりお島を呼付《よびつけ》藤五郎兄弟は其方が手引《てびき》して佐十郎郷右衞門の兩人に盜《ぬす》ませしに相違有るまじ眞直《まつすぐ》に申せと責掛《せめかけ》若し此事を言ざるに於ては仕樣《しやう》が有るぞと威《おど》し付けれどもお島は努々《ゆめ/\》手引など致せし覺《おぼ》え之《これ》なしと答ふるを聞き安間立花の兩人目をむき出し汝《なんぢ》何故《なにゆゑ》に知れたる事を陳《ちん》ずるやあり樣に申すべしと頻《しき》りに責付《せめつく》ると雖もお島は恐るゝ面色《けしき》もなく假令《たとへ》如何樣に仰せらるゝ共私しは更らに存じ申さず殊に伴《ばん》建部《たてべ》の御兩所は此|御邸《おやしき》の案内は私しより能く存じ居らるれば何として私し風情《ふぜい》の手引を頼みに斯《かゝ》る大膽《だいたん》なることを致され申さんや此所能々御|推察下《すゐさつくだ》さるべしと申しければ主税之助は疊《たゝみ》を蹴立《けたて》扨々|口《くち》賢《かしこ》く云ひぬかす女め汝《おのれ》より外に此手引《このてびき》をする者なし然《さる》に因て汝を詮議《せんぎ》するぞ有樣に吐《ぬか》せばよし若し此上にも取隱《とりかく》さば憂目《うきめ》を見せんと云へども知ぬとばかりゆゑ立花左仲は立掛《たちがゝ》りお島を引立《ひきたて》て庭《には》に連行《つれゆき》衣類《いるゐ》を剥《はぎ》て雪《ゆき》に氷《こほ》りし松の木に縛《しば》り付《つけ》割竹《わりたけ》を以てサア有體に云々《いへ/\》と嚴《きびし》く打擲《うちたゝ》き種々手を替《かへ》責《せむ》ると雖もお島は更に屈《くつ》せず後には眼《まなこ》を閉《とぢ》て一向に物を言はざれば主税之助は彌々《いよ/\》怒り此奴《こやつ》勿々《なか/\》澁太《しぶとき》女なり此上は槍玉《やりだま》に上《あげ》て呉んずと云ひつゝ三間|柄《え》の大身の槍を追取|鞘《さや》を外《はづ》して小脇《こわき》に抱込《かひこみ》お島に對《むか》ひサア汝言はぬか何《どう》ぢや言ぬと此槍が其の美しき體《からだ》に御見舞申すぞ是でも言はぬか/\と既に突《つく》べき勢ひゆゑ安間平左衞門は是を押止《おしとゞ》め暫時《しばし》御待ち下されよと言ふ處へ安井孕石の兩人は立ち歸りければ主税之助は兩人を見《みる》や否《いな》や樣子は何《ど》うぢや行衞《ゆくゑ》は知れたるかとの尋ねに兩人言葉を揃《そろ》へ仰せに隨ひ三河町二丁目を種々《いろ/\》と穿鑿《せんさく》仕つり候處|居酒《ゐざけ》商賣の裏長屋《うらながや》にて漸々《やう/\》と尋ね當り彼の惣右衞門に仰せの趣きを申し聞かせ樣子を探《さぐ》り候へども藤五郎樣御兄弟の行衞《ゆくゑ》は一向に存じ申さずと申し其上《そのうへ》惣右衞門は病氣にて臥居《ふしを》り又《また》彼《かれ》が悴《せがれ》重五郎も他國へ行《ゆき》しよしにて家内には只《たゞ》惣右衞門夫婦のみ居《をり》候まゝ種々《いろ/\》尋ね候へ共何分知らざる由ゆゑ夫れより近所|合壁《がつぺき》にて承たまはり候と雖どもこれと申す取留《とりとめ》たる儀は御座なく候とぞ申しける [#8字下げ]第五回[#「第五回」は中見出し]  然《され》ば主税之助は大いに氣を焦《いら》ち左《と》に右《かく》今度の儀を惣右衞門の知らざる事の有るべきやと足摺《あしずり》して急遽《あせる》ゆゑ立花左仲は進み出《いで》只今兩人の申す如くにては勿々《なか/\》穿鑿《せんさく》行屆《ゆきとゞ》くまじ此儀今一應私し三河町へ罷り越《こし》一手段仕つり度《たし》と云ければ主税之助は大いに悦び然らば其方|猶《なほ》此上の穿鑿《せんさく》致すべしと云けるに夫れより左仲は直樣《すぐさま》三河町にと馳行《はせゆき》たり偖《さて》主税之助は又々お島の傍《そば》へ行《ゆき》汝先程より種々《いろ/\》と尋ぬれども一向に白状せず扨々|憎《にく》き女めと言樣《いひざま》又も槍を追取て種々《さま/″\》と威《おど》しけれどもお島は觀念《くわんねん》せし體《てい》にて眼を閉《とぢ》し切《ぎり》一言も發せず居るゆゑ平左衞門は豫《かね》てお島に心あるにより又々|押止《おしとゞ》め先々《まづ/\》御待ち成さるべし手引は渠《かれ》が致せしにもせよ盜《ぬす》み出せしは伴建部の兩人なれば此者どもの有家《ありか》さへ知るれば藤五郎殿御兄弟の行衞《ゆくゑ》も知れ候はん其の上にて如何樣《いかやう》とも御存分に遊ばされて遲《おそ》からずと取りなす處へ立花左仲|息急《いきせき》と歸り來れば如何に左仲|手係《てがか》りなりとも知れたるかと尋ぬるに左仲答へて左《さ》ん候ふ私し三河町へ參り見候處彼等兩人申す如く惣右衞門は全くの病氣にて又|悴《せがれ》の重五郎も御代官の供《とも》をして他國へ行しに相違なし因て渠《かれ》が隣家《りんか》の者を種々《いろ/\》に賺《すか》し其夜の樣子を相探《あひさぐ》り候處一人の者の申し候には夜前《やぜん》深更《しんかう》に及びて惣右衞門方へ人出入《ひとでいり》の有し樣子に相聞え候と申す故《ゆゑ》猶々《なほ/\》穿鑿《せんさく》致し候處其後|陸尺《ろくしやく》の七右衞門が惣右衞門方へ來りて種々《いろ/\》の話しの體《てい》なりと申し候|然《さ》すれば彼の惣右衞門も自分の方に置《おく》時は忽ちに知れんことを思ひ御先代よりの御出入の縁《えん》を以て陸尺《ろくしやく》の七右衞門を頼み匿《かくま》ひ置《おき》候と相見え候然すれば藤五郎樣御兄弟は須田町一丁目なる陸尺の七右衞門の方に匿《かくま》ひ置くに紛《まぎ》れ御座なく候《さふらふ》としたり顏にて言ひければ主税之助大いに喜び成ほど其方が穿鑿《せんさく》能《よく》も行屆きたり扨々|憎《にく》き奴輩《やつばら》かな此儘|捨置《すておく》時は事の破れなれば假令《たとへ》病氣なりとも直樣《すぐさま》惣右衞門めを引摺《ひきずり》來れ我れ自身吟味せんと敦圉《いきまき》荒《あら》く申しけるを安間平左衞門は是れを制《せい》し惣右衞門|事《こと》舊《もと》は御家來に候とも當時は御|暇《いとま》の出でたる者ゆゑ是非は兎《と》も角《かく》も彼の方へ連退《つれのき》匿《かくま》ふと申す程のことなれば渠等《かれら》も根深《ねぶか》く巧《たく》みたると相見え候へば勿々《なか/\》以て容易の儀には參るまじ然《さ》れば何事も此方にて後手《ごて》に成《なら》ざる樣に表向《おもてむ》き御吟味|御請《おうけ》成《なさ》るべしと申しければ主税之助は是を聞て大いに駭《おどろ》き若《もし》此事|表立《おもてだて》吟味を請《うけ》る時は是非共今迄の惡事を彼等より逐《ちく》一申し立て露顯《ろけん》に及ばん我れ夫れを言解《いひとか》ん道なし是れ自ら石を抱《いだ》き深き淵《ふち》に臨むの道理にして何れの道にも負公事《まけくじ》なり何か外に能《よき》思案こそ有らまほしけれ此儀兩人にて我れを救ひ呉《くれ》よと申しけるに平左衞門も左仲も此體《このてい》を見て苦々《にが/\》しく思ひ左樣に御心《おこゝろ》弱《よわ》くては叶《かな》ふまじ是れ迄の事共も豫《かね》て其御覺悟なくしては成るまじくと存ぜしに只今の御樣子にては聊《いさゝ》かも其御覺悟《そのおかくご》なく成《なさ》れし事と相見えたり然《さり》ながら今更夫れを彼是《かれこれ》と申すも詮《せん》なき事に候へば先々《まづ/\》御心を鎭《しづ》め給へ篤《とく》と御相談の手段も御座候ふべし古語《こご》にも遠《とほ》き慮《おもんぱ》かりなきときは近き憂《うれ》ひありと申すは正《まさ》しく是なるべし然《され》ども三人|寄《よる》時《とき》は文珠《もんじゆ》の智慧《ちゑ》此平左衞門左仲御|附《つき》申し居《をる》中《うち》は御安心|成《なさ》れ能々御思案候べしと種々相談しける中《うち》良《やゝ》半日餘りお島が雪の中に縛《いまし》められ身神《しんしん》ともに冷凍《ひえこゞ》え人心地《ひとごこち》もなき體《てい》を見て平左衞門は差※[#「圖」の「回」に代えて「面から一、二画目をとったもの」、570-9]《さしづ》をなし藤五郎を押籠《おしこめ》置《おき》たる牢《らう》の中へ入れさせ番をつけて差《さし》おきたり [#8字下げ]第六回[#「第六回」は中見出し]  然《さ》れば嘉川主税之助は我子の愛に眼《まなこ》昧《くら》み終に其家名を失ふに至る事|是《これ》汝《なんぢ》に出《いで》て汝に歸るの古言|宜《むべ》なるかな此度|伴《ばん》佐《すけ》十郎建部郷右衞門の兩人藤五郎兄弟を救《すく》ひ出《だ》し山口惣右衞門并びに陸尺《ろくしやく》の七右衞門と申し合せ兄弟の者を深《ふか》く匿《かくまは》んとする故《ゆゑ》主税之助は詮方《せんかた》なく安間平左衞門立花左仲を相手に種々《いろ/\》と相談せしが寧《いつそ》此方《このはう》より支配《しはい》へ委細《ゐさい》屆書《とゞけがき》を差出し表向《おもてむき》吟味を請《かう》べしと頓々《やう/\》に決定して立花左仲は頓《やが》て支配へ書面を持參《ぢさん》せんと爲時《するとき》安間平左衞門は左仲を呼止《よびとめ》御邊《ごへん》此書面の趣意を能々|腹《はら》へ入れ置き若《もし》宮崎内記儀|直々《ぢき/\》御尋ねあらば其時こそ日頃の智辯《ちべん》を振《ふる》ひ宜しく申し爲し給ふべしと何か耳語《さゝやき》[#ルビの「さゝやき」は底本では「たゝやき」]ければ左仲は微笑《ほゝゑみ》此書面は貴殿の認められしことなれば我れ能々|腹《はら》に納《をさ》めて持參致し某し日頃の能辯《のうべん》を以て天晴|上首尾《じやうしゆび》に仕課《しおほ》せ申すべしとて獨り誇《ほこ》り顏《がほ》に支度を調《とゝの》へ飯田町なる支配宮崎内記殿の邸《やしき》へと急ぎしかば程なく宮崎殿の邸《やしき》へ到《いた》り同家の用人|溝口《みぞぐち》三右衞門に面會《めんくわい》して右の段委細申し入れ御屆《おんとゞ》け書面は主税之助|持參《ぢさん》致すべきの處病氣に付き拙者より差出し候|旨《むね》申し述《のべ》ければ三右衞門是を請取《うけとり》左仲を控《ひか》へさせ置て内記殿の前に出で嘉川主税之助用人立花左仲の口上を申し述《のべ》屆書差し出しけるに内記殿は是れを披見《ひけん》せられし所其書面に曰く [#ここから6字下げ] 書付《かきつけ》を以《もつて》申上候 [#ここから2字下げ、折り返して3字下げ] 一|先達《せんだつ》て御屆申上置候|嫡子《ちやくし》藤五郎儀昨夜中|座敷牢《ざしきらう》を破り弟藤三郎並びに家來《けらい》伴《ばん》佐《すけ》十郎建部郷右衞門の者共とも行方《ゆくへ》相知れ申さず其上私し居間《ゐま》に之有《これあり》候金子百兩|紛失《ふんじつ》仕つり候是等の儀は右《みぎ》家來共兩人の仕業《しわざ》と存じられ候|勿論《もちろん》同人共|舊來《きうらい》思ひ掛の事も御座候處其事を果さず候に付|亂心《らんしん》の藤五郎を誘引《さそひ》出し惡巧《わるだく》み致すべく存念と推察《すゐさつ》仕つり候之に因て渠等《かれら》御召捕之上其|筋《すぢ》御吟味下し置れ候|樣《やう》仕つり度此段書付を以て御屆申上候 [#ここで字下げ終わり] [#5字下げ]享保三年十二月廿三日[#地から4字上げ]嘉川主税之助 印 [#8字下げ]宮崎内記殿 右の如くの屆書なれば宮崎殿|眉《まゆ》に皺《しわ》を寄《よせ》られ一通り自身《じしん》承《うけた》まはらんにより其立花左仲とやらを是へ呼出《よびいだ》すべしと申されけるに用役の溝口三右衞門は早速《さつそく》左仲を呼出しけるに内記殿見られ只今差出しの屆書の趣き篤《とく》と披見《ひけん》致し候處此儀|容易《ようい》ならざることなり尤も先達《せんだつ》て差出せし屆け書に藤五郎儀病氣と申す事は是あれ共|嫡子《ちやくし》并に弟藤三郎まで一夜の中に家出《いへで》致し行方《ゆくへ》相知れず加之《そのうへ》家來兩人も逃亡《かけおち》せしなどゝは何か其意を得ざる事共にて甚だ家事|不取締《ふとりしまり》なることなり殊に其家來は家の重役と云ひ先代より召使《めしつか》ひし者の趣きなれば旁々《かた/″\》以て怪敷《あやしき》ことに思はるゝ併し家來の儀は兎も角も子息の行方《ゆくへ》知れざることは一寸の間《ま》も打捨《うちすて》置れざる儀ゆゑ主税之助|自分《じぶん》參向《さんかう》有られるやうに早々|罷《まか》り歸りて急度《きつと》申聞べしと申渡され内記殿には主税之助|不參《ふさん》の儀甚だ等閑《なほざり》なりと申さぬばかりの樣子にて少し憤《いきど》ほりを含《ふく》まれければ左仲は其心を汲取《くみとり》て大いに恐れ入り仰せの趣き畏《かしこ》まり奉つり候へども先刻《せんこく》私しより申上候通り誠に折惡《をりわる》く主人主税之助事病氣に候間|據《よんど》ころなく家來を以て右の段申上奉つり候|何卒《なにとぞ》格別《かくべつ》の御慈悲を以て右書面の趣き御聞取成下され候はゞ此上もなき有難き仕合《しあは》せに存じ奉つり候と云へば内記殿|然《しか》らば其方|名代《みやうだい》に罷り出《いづ》る程の者なれば萬一答へが出來るかと申さるゝに左仲|不肖《ふせう》乍《なが》ら主人の家事|向《むき》は支配をも仕つり候私しに御座候へば大概《おほむね》の所は御答への儀申上候はんと云に依て内記殿内心に此者の樣子を見らるゝ處|一癖《ひとくせ》あるべき奴と思はれしかば暫《しばら》く思案《しあん》の體《てい》に見えたりけり [#8字下げ]第七回[#「第七回」は中見出し]  扨も内記殿は左仲が樣子|佞辯《ねいべん》奸智《かんち》の曲者《くせもの》と見て取り大いに怪《あやし》まれけれ共|先《まづ》一ト通り事を糺《たゞ》して見んと思はれ猶又左仲に對《むか》ひ其方儀家の支配を致し候故|概略《おほむね》答へんとの事なるが然らば其方に尋ぬべし書面に是有《これある》所の建部《たてべ》郷右衞門|伴《ばん》佐《すけ》十郎の兩人|舊來《きうらい》の思ひ立ちとは如何なる譯なるぞ此儀心得居るかと申さるゝに左仲は爰《こゝ》ぞと思ひ其の事故《ことがら》は嫡子《ちやくし》藤五郎|亂心《らんしん》仕つり候に付|先達《せんだつ》て御屆申上候弟|佐《すけ》五郎を以て家督《かとく》に仕つり候儀を右兩人の者共|不得心《ふとくしん》にて藤五郎弟藤三郎を嫡子《ちやくし》に立てべき旨《むね》主人へ度々|相勸《あひすゝ》め候得共藤三郎儀は未だ幼少《えうせう》と申し其上|多病《たびやう》の生《うま》れ付に御座候ゆゑ主人主税之助|承知《しようち》仕つらず候を渠等《かれら》兩人|野心《やしん》を差挾《さしはさ》み候事と相見え候と邪辯《じやべん》を震《ふる》つて申しければ内記殿は是を聞かれ其方の申す通りなれば其|建部《たてべ》郷右衞門|伴《ばん》佐《すけ》十郎の兩人は先代平助以來よりの家來と相見えたり當主主税之助は先代平助の實子《じつし》藤五郎兄弟の中を家督《かとく》を致すべき遺言《ゆゐごん》を受たる趣きなれば藤五郎を廢《はい》する以上は藤三郎を家督《かとく》になすべきは順當《じゆんたう》なるを世評《せひやう》の樣子にては何《ど》うやら主税之助が甚だ欲情《よくじやう》に關《かゝ》り自身《じしん》實子の佐五郎を家督《かとく》に致せしとの事餘人は兎《と》もあれ此内記が心には是れ甚《はなは》だ如何《いかゞ》のことに思はるゝなり然《さ》れば渠等《かれら》兩人は先平助の代より舊來《きうらい》の家來共の事故藤五郎が病身《びやうしん》の時は弟《おとゝ》の藤三郎に家督《かとく》を繼《つが》せんと思ふは理の當然ゆゑ藤三郎を順養子《じゆんやうし》に爲《なさ》ねば成ず否《いや》サ是は只某しが話なり尤も夫には又|種々《しゆ/″\》の込入《こみいつ》たる仔細《しさい》も有べし併《しか》しながら建部郷右衞門|伴《ばん》佐《すけ》十郎兩人の家來は先平助へ對しての義理|合《あひ》も思ひ彼是《かれこれ》にて弟藤三郎を家督《かとく》にせん事を主人主税之助へ勸《すゝ》めしならん然るを主税之助不得心とあらば右等の事に付|主從《しうじう》の中《なか》不和《ふわ》に罷り成しと相見たりと有しかば左仲も理の當然《たうぜん》ゆゑ是非《ぜひ》なく御意《ぎよい》の通りと申けるに又|居間《ゐま》の金子百兩|紛失《ふんじつ》せし趣き是は郷右衞門|佐《すけ》十郎兩人の其夜|逐電《ちくでん》の事故彼の金子は渠等《かれら》兩人が盜《ぬす》み取し事と主税之助始め皆々|疑《うたが》ふと見えたりと申さるゝに御意《ぎよい》の如く此金子ばかりは全《まつた》く渠等《かれら》兩人の者が盜み取しに聊《いさゝ》か相違御座なく候と申しければ内記殿コリヤ其方|左樣《さやう》申す上《うへ》は其金子|渠等《かれら》が盜《ぬす》みしと云ふ屹度《きつと》した證據有りや全く折惡敷《をりあしく》紛失《ふんじつ》の事故渠等を疑ふものならん汝が今申す通《とほ》りにて慥《たしか》なる證據有て申すが如し然らば其證據より承《うけた》まはらんと申されければ流石《さすが》奸智《かんち》の左仲なれども一句も出ず居るを何《どう》ぢや證據有りやと言《いは》るゝに左仲恐れ入りましたと閉口《へいこう》なせしかば内記殿|益々《ます/\》不審《ふしん》に思はれ其は折惡《をりわる》き事故疑ふも道理《もつとも》なれど今汝が如く申す時は證據にても有るかと思はる兎角《とかく》紛失物《ふんじつもの》などは人を疑ひし後にて手前に有る事もあれば此儀は右兩人を召捕《めしとり》篤《とく》と吟味の上ならでは決定《けつぢやう》仕難《しかた》し其儀如何とあれば今汝が申す方此内記甚だ信用《しんよう》せずとの詞《ことば》の中に拵《こしら》へ事と正鵠《ほし》を指《さゝ》れしにぞ左仲はグツと再度《ふたゝび》閉口《へいこう》の樣子ゆゑ良《やゝ》あつて内記殿何は兎《と》もあれ藤五郎兄弟の者の行方《ゆくへ》又家來兩人の在所《ありか》とも早々尋ぬべし此義|考《かんが》ふるに渠等《かれら》兩人の者主人の子息《しそく》を誘引出《さそひだ》せし事餘の儀にあらず藤五郎病氣の上は藤三郎を家督《かとく》に爲《せん》と其の事|上向《かみむき》へ願ふ存念《ぞんねん》ならん然樣《さやう》の儀ならば奚《なん》ぞや斯《かく》せず共致し方如何程も有べきに忠義の志《こゝろざし》は却つて主家の害《がい》とならん併《しかし》ながら屆けの趣き聞置なり呉々《くれ/″\》も右の者ども行方《ゆくへ》は早々吟味致し若し市中《しちう》に居《ゐる》を見|當《あた》らば屹度《きつと》其處に張番を付け置き此方と并に町奉行へ屆け出よ必ず權威《けんゐ》を施《ほどこ》す事なく成丈《なるたけ》穩便《をんびん》にすべし萬一|手荒《てあら》がましき事相聞えなば屹度《きつと》沙汰《さた》に及ぶぞ又此度の儀は輕《かる》き事にあらねば早速御用番の若年寄《わかどしより》衆に進達《しんたつ》に及ふべし此旨主人へ篤《とく》と申聞けよとて席《せき》を立れしかば左仲は思ひの外《ほか》なる事ども故早々|屋敷《やしき》へ歸《かへ》りけり [#8字下げ]第八回[#「第八回」は中見出し]  然《しか》るに立花左仲は宮崎内記殿にて種々《いろ/\》尋ねられし事ども委細《ゐさい》主人へ申|聞《きけ》んと急ぎ立歸りて主税之助の前へ出《いで》ければ主税之助は待草臥《まちくたびれ》し機《をり》ゆゑ直樣聲を懸《かけ》如何に左仲内記殿の方にて何《なん》と云れしや何《どう》ぢや/\と急立《せきたち》て尋ぬるに左仲は未だ座にも着《つか》ぬ樣《さま》故《ゆゑ》甚だ答へに困《こま》りける主税之助は其次第を聞んと頻《しきり》に急ぎしかば左仲は太息《といき》を吐《つき》今日私し宮崎樣の御屋敷へ罷り越《こし》御屆書を差上げし處内記樣早速|御逢《おあひ》成《なさ》れて御屆け書《がき》の趣き逐《ちく》一御|尋問《たづね》有りける故其次第を申立候處|先《まづ》御聞濟《おきゝずみ》の樣には候へども何か此方の御樣子《ごやうす》を内記樣|御聞込《おきゝこみ》ありて豫《あらか》じめ御悟《おさとり》成《なさ》れたる體《てい》に御座候其上|伴《ばん》建部《たてべ》の兩人が事は御前の成《なさ》れ方宜しからざる故と仰せられ況《まし》て此事は輕《かる》からざる儀故|早速《さつそく》御用番へ進達《しんたつ》成るゝ間|然樣《さやう》心得よとの仰せに候と申しければ主税之助は是れを聞き面色《かほいろ》青然《あをざめ》偖々夫れは困《こま》り入しことなりと頭《かうべ》を低《たれ》て弱《よわ》りし體《てい》に安間平左衞門は傍《そば》に居たりしが冷笑《あざわら》ひ否早《いやはや》御前の樣に御心弱くては表向《おもてむき》吟味《ぎんみ》の時は甚だ覺束《おぼつか》なし都《すべ》て物事は根深《ねぶか》く謀《はか》り決して面色《かほいろ》に出さぬ樣なさねばならぬ事なり然るを斯《かく》の如き御樣子《ごやうす》にては對決《たいけつ》なしに忽ち[#「忽ち」は底本では「忽ら」]負公事《まけくじ》と成り申すべし此上の處御心を大丈夫になし給ふべし後には斯《かく》申す安間平左衞門|控《ひか》へて居《を》れば假令《たとひ》大山が崩《くづ》れ來る共少しも御心勞に及ばずと力を付れども主税之助は兎角《とかく》安心せず否々《いや/\》然《さ》う手輕く申せども内記殿の心中が何《どう》も心配なれば公事の始末《しまつ》を話して見よ佐《すけ》十郎郷右衞門の兩人へ惣右衞門と云ふ古狸《ふるだぬき》が後見《こうけん》をすれば是は容易の公事《くじ》でなし那《あ》の惣右衞門めは年《とし》こそ老込《おいこみ》たれど並々《なみ/\》の者に非ず彼《かれ》是《これ》評定所へ出《いづ》るならば此方が是迄の惡事を申立るは必定《ひつぢやう》なり然《さ》すれば我等に吟味|係《かゝ》らんにより其時は如何に返答《へんたふ》して宜《よか》るべきや是平左衞門|能《よき》分別《ふんべつ》を教《をし》へよサア平左衞門|何《どう》ぢや/\と急立《せきたて》ければ平左衞門は微笑《ほゝゑみ》ながら夫|等《ら》のことは物の數《かず》に足《たら》ずと申を主税之助シテ其時は何《どう》申|了簡《れうけん》なるや早く云て聞《きか》せと云へば平左衞門はせゝら笑ひ然《さり》とては御氣の小い事なり何《なに》是式《これしき》の事御心|勞《らう》に及ぶべきや先其時の事は臨機應變《りんきおうへん》と申事あり今|爰《こゝ》にて申事は更に役に立《たち》申さず其|相手《あいて》の樣子先の出次第《でしだい》にて何《どう》變《へん》ずるも量り難し此所にて申事は勿々《なか/\》其節の間に逢《あふ》ものに非ず假令《よしや》考《かんが》へて今申た所が本の足袋屋の看板《かんばん》なり然ながら然程《さほど》御案事《おあんじ》有らるゝことならば先《まづ》御|安堵《あんど》の爲|少《すこ》し御心の休《やす》むやうに申上げん先以て外《ほか》までもなく渠等《かれら》兩人を金子の盜賊《たうぞく》と申立置たれば御吟味の節彼是申すとも右盜賊の罪《つみ》を遁《のがれ》ん爲に惣右衞門を語《かたら》ひ忠義ごかし藤五郎殿[#「藤五郎殿」は底本では「藤五殿」]御兄弟を誘引出《さそひだ》し候儀と存《ぞん》ずる旨を仰立《おほせたて》られなば其事のみにて渠等《かれら》に罪《つみ》は歸《き》し候なり其上主と家來の事なれば此公事《このくじ》に於ては御前に九分の強《つよ》みが之あるゆゑ事の次第《しだい》を仰せらるゝ時は是渠等が一ツの申|開《ひら》きに困り候事|目前《もくぜん》にて候若又|對決《たいけつ》になり候とも藤五郎殿の不行跡《ふぎやうせき》は一|度《たび》町奉行《まちぶぎやう》の手にも係《かゝ》りたる程の仕合《しあは》せなれば疑ひは先へ掛る道理に候藤五郎殿も何《どう》で命《いのち》はなき男又藤三郎殿は有りても幼少《えうせう》なり兎角《とかく》邪魔《じやま》になるは惣右衞門郷右衞門|佐《すけ》十郎の三人にて其《そ》の中《うち》にも先郷右衞門|佐《すけ》十郎の兩人をば討取《うちとら》ば此度の公事は必定《ひつぢやう》勝利《しようり》ならん右兩人を討取《うちとり》手段《てだて》を一|刻《こく》も早《はやく》成《な》さるが捷徑《ちかみち》なりと申ければ主税之助は首を傾《かたぶ》け兩人を討取は公儀の方が濟《すむ》まじと云へば平左衞門|呵々《から/\》と打笑ひ扨々《さて/\》夫では何の謀計《はかりごと》も行ひ難し能《よく》思召《おぼしめし》ても御覽|有《ある》べし先|渠等《かれら》は盜賊《たうぞく》の事故|召捕《めしとら》んと致せし所|手向《てむか》ひ仕つり候故|據《よんど》ころなく討取候と申に何の譯《わけ》の候べき萬一|此事《このこと》手違《てちが》ひに成し處が半知《はんち》と思召《おぼしめ》さば公事は勝なりと言を聞て主税之助は漸々《やう/\》打合點《うちうなづき》然らば切首《きりくび》の多兵衞其外|新參《しんざん》の者共に此事内分で頼み置んと金銀を遣し郷右衞門|佐《すけ》十郎を討取ば又々|禮《れい》の仕方《しかた》ありと申付ければ元より惡者共《わるものども》の事ゆゑ金銀に眼《め》が晦《くれ》喜び勇みて請合|日夜《にちや》三河町より須田町邊を忍びて付覗《つけねら》ひけり扨《さて》又《また》支配の宮崎内記殿は先日《せんじつ》嘉川家の一件に付家來の立花左仲|持參《ぢさん》の屆書の趣を月番の若年寄衆《わかとしよりしう》へ進達《しんたつ》致されし處此儀容易ならずと有て早速《さつそく》年寄衆《としよりしう》の評議となりたり其頃《そのころ》天下の御政事に關《あづ》かる人々には老中|間部《まなべ》越前守殿同|井上《ゐのうへ》河内守殿同|久世《くぜ》大和守殿同|大久保《おほくぼ》長門守殿|若年寄《わかどしより》石川近江守殿同黒田豐前守殿同|土岐《とき》丹後守殿なり右の人々《ひと/″\》立會《たちあひ》嘉川家一件|種々《いろ/\》評議是ある所土岐丹後守殿進み出られ今度の一條主税之助儀先一|應《おう》は宜《よろし》からぬやうに聞ゆれども又|逐電《ちくでん》せし用人共も合點《がてん》行《ゆか》ざる儀なり金子《きんす》盜取《ぬすみとり》候罪を遁《のが》れんが爲に主税之助が申通り計ひし事かも知れず是は町奉行《まちぶぎやう》に申付て彼の兩人の家來《けらい》を糺明に及ばせ其後《そののち》評定所にての吟味|然《しか》るべしと云れければ一同|此儀《このぎ》宜《よろ》しからんと早速《さつそく》大岡越前守殿へ達し有ければ越前守殿|思案《しあん》の上|定廻《ぢやうまは》り同心へ申付られ藤五郎藤三郎並びに佐《すけ》十郎郷右衞門の行衞を吟味致すべき旨に付|同心《どうしん》は委細《ゐさい》畏《かしこ》まり候とて夫より先《まづ》山口惣右衞門|浪宅《らうたく》を探索《たんさく》せんと三河町二丁目の[#「三河町二丁目の」は底本では「三河町三丁目の」]家主方《いへぬしかた》へ罷越其方店子山口惣右衞門と云へるは嘉川主税之助の浪人《らうにん》にて裏屋《うらや》に住居《ぢうきよ》と聞御用是ある間只今|自身番屋《じしんばんや》まで召連れ來るべしと申し渡しければ家主《いへぬし》は畏《かしこ》まり候と惣右衞門へ其段申達しけるに惣右衞門は豫て覺悟の事もあれば年は寄共《よれども》流石《さすが》武士ゆゑ何の恐氣《おそれげ》もなく家主同道にて自身番へ出ければ定廻り同心は立出其|許《もと》儀《ぎ》嘉川主税之助方に勤仕《きんし》致し居《をり》し事ありやと申ければ仰の通《とほり》當夏中《たうなつちう》迄勤仕罷在り候と云ふに同心|點頭《うなづき》今度嘉川家より公儀《こうぎ》へ御屆《おとゞけ》に及ばれしは嫡子《ちやくし》藤五郎次男藤三郎並に家來|伴《ばん》佐《すけ》十郎建部郷右衞門も去廿二日の夜《よ》逐電《ちくでん》の趣きなり因《よつ》て御老中方より町奉行へ吟味の儀仰せ付られし故《ゆゑ》今日其行方を尋《たづ》ね出さん爲御邊を是|迄《まで》招《まね》き申たり以前の好みを以て若彼の者共を竄《かくま》ひ置《おき》も致しなば早速《さつそく》相渡し申すべし此儀|取隱《とりかく》し候はゞ其許の爲になるまじと云《いふ》を聞惣右衞門は豫《かね》て斯《かく》あらんと心得し事ならば少も動ぜず心の中に未だ佐《すけ》十郎郷右衞門より訴《うつた》へ出ざる中|公儀《かみ》より尋ね出されし時は渠等《かれら》定めて手都合《てつがふ》惡《あし》かりなんと思ひ何《なに》も隱《かく》すべきにはあらね共先爰に知らざる體《てい》に申方|宜《よろ》しと思案《しあん》なし御問尋《おたづね》には候へ共其の儀《ぎ》決《けつ》して覺え御座なく候尤も以前の好も候へば某しを便《たよ》りて參り候はゞ竄《かくま》ひもいたすべけれども未だ手前《てまへ》へは參り申さず主税之助方よりは昨日《さくじつ》尋ね參り候間右の旨《むね》を答《こた》へて歸し候と申ければ同心然らば聢《しか》と左樣《さやう》か萬一《もし》後日に顯《あらは》れなば決して爲に成《なる》まじ併《しか》しながら參らざる儀なれば是非《ぜひ》に及ばず先吟味中家主へ屹度《きつと》預申付る惣右衞門も左樣《さやう》相《あひ》心得よ時に陸尺七右衞門の宅は何方ぢや惣右衞門|御邊《ごへん》は知らざるやと思ひ掛なき尋ねに日頃《ひごろ》大丈夫《だいぢやうふ》の惣右衞門なれ共《ども》ハツと仰天《ぎやうてん》なし七右衞門の宅《たく》は須田町一丁目に候と答へしかば定廻り同心《どうしん》は事に馴《なれ》しゆゑ樣子《やうす》を見て取|偖《さて》は此上七右衞門を吟味《ぎんみ》すれば相分《あひわか》るべしと心に合點《がてん》して夫より須田町一丁目なる七右衞門方へと急ぎ赴きたり [#8字下げ]第九回[#「第九回」は中見出し]  古昔《むかし》宋《そう》の文帝《ぶんてい》の頃《ころ》魏《ぎ》の中書學生に盧度世《ろとせい》と云者あり崔浩《さいかう》の事に坐し亡命《にげ》て高陽《かうやう》の鄲羆の[#「鄲羆の」はママ]家に竄る官吏《やくにん》羆《ひ》の子を囚《とらへ》て之を掠治《たゞす》羆《ひ》其子を戒《いまし》めて曰君子は身を殺て仁《じん》を成故に汝死す共云べからず其子固く父の命を守《まもる》官吏《やくにん》火《ひ》を以て其|體《たい》を燒《やき》種々《しゆ/″\》責問《せめとふ》と雖も終《つひ》に言ずして死すと云夫と是とは變れども陸尺《ろくしやく》七右衞門は卑賤者《いやしきもの》に似氣《にげ》なく豪侠《がうけふ》にして義《ぎ》を好《この》むが故に山口惣右衞門始め三人の頼みに因て藤五郎兄弟並びに伴建部の夫婦ども上下《じやうげ》六人を我が家に連歸《つれかへ》り何くれとなく厚く周旋《せわ》をして匿《かくま》ひ置《おき》しに嘉川家にては藤五郎兄弟并に家來《けらい》伴建部の兩人共|逐電《ちくでん》なし加之《そのうへ》主税之助居間の金子百兩|紛失《ふんじつ》せし旨《むね》[#ルビの「むね」は底本では「むな」]を其|筋《すぢ》へ屆出ければ|町奉行《まちぶぎやう》大岡越前守殿より藤五郎の兄弟始め家來の者共を穿鑿《せんさく》として同心《どうしん》出張《しゆつちやう》なし山口惣右衞門は町方|預《あづ》けに相成し由《よし》其上三河町より直樣此方へ役人中參らるゝ趣《おもむ》きも惣右衞門より内々《ない/\》知《し》らせ越《こ》しけれども七右衞門は覺悟《かくご》の事故|聊《いさゝ》か驚く氣色もなく早速《さつそく》に伴建部の兩人へ此事を話《はな》し猶《なほ》三人|打寄《うちより》相談をなすに何《どう》せ隱し立は成まじき間御呼出し次第|罷出《まかりいで》吟味《ぎんみ》を請《うけ》んと思ひて相待《あひまつ》所に程なく定廻り同心自身番に來りて七右衞門を呼び出すに付七右衞門は即《すなは》ち自身番へ罷出し所|役人《やくにん》申ける其の方儀|此度《このたび》山口惣右衞門の頼《たの》みに依《よ》つて嘉川藤五郎兄弟并に建部|郷《がう》右衞門伴|佐《すけ》十郎の人々を匿《かくま》ひ置《おく》條《でう》三河町に浪宅致す山口惣右衞門の白状なりとあびせ掛《かけ》因《より》ては如何の筋合《すぢあひ》之有《これあり》渠等《かれら》を匿ひ置ぞ眞直《まつすぐ》に申立よと言ければ七右衞門少も屈《くつ》する面色なく御意《ぎよい》の如く私し儀《ぎ》四人共匿ひ置候に相違《さうゐ》御座なく候|尤《もつと》も此儀は私し事先嘉川平助樣|御代《ごだい》格別《かくべつ》の御厚恩《ごこうおん》に相成候間|今度《このたび》御世話申候|儀《ぎ》を恐《おそ》れながら一通り申上べし當代主税之助樣は誠に驚《おどろ》き入たる御方にて己が實子に迷《まよ》ひ平助樣御實子の御二方樣を非道《ひだう》になされ殊に藤五郎樣へは食物を止《とゞ》めて干殺《ほしころ》さんと成され又藤三郎樣の未《いまだ》御幼少者《おちひさいもの》を朝夕《あさゆふ》に打擲《うちたゝ》き夫は/\苦々《にが/\》敷事に御座候|斯《かく》申上るを御胡亂《ごうろん》と思召《おぼしめ》さば是まで嘉川樣の奧向に勤めし者に御尋ね下さるゝが論より證據《しようこ》相分《あひわか》り候夫れゆゑに平助樣御代の御用役《ごようやく》は山口樣も私し方に居らるゝ二人の衆も藤五郎樣御兄弟の御命が危《あやふ》く存ずる故|斯《かく》の次第に成行申せしなり私し儀は賤敷《いやしき》身分《みぶん》に候へ共《ども》聊かたりとも僞《いつは》りなど申者では御座なく又人樣の難儀《なんぎ》を見ては居られぬが私しの持前《もちまへ》故《ゆゑ》是非《ぜひ》なく彼の人々を竄《かくま》ひしに相違《さうゐ》御座なく候何れ双方《さうはう》御|糺《たゞ》しの上は明白に相分り申べく殊に只今の御用人中は非道《ひだう》の者共にて殿へ惡智慧《わるぢゑ》を加《くはへ》候由私しは數年の出入|屋敷《やしき》の事故先一旦の難儀《なんぎ》を救《すく》ふ心に候へども斯《かく》御尋ねの上は包《つゝ》まず申上るにより御役人樣方の御慈悲《おじひ》を以て宜敷御取計ひ下されよと憚る所なく申ければ役人も只|合點《うなづき》居《ゐ》たりしが兎《と》に角《かく》藤五郎|始《はじ》めを渡すべしと申により七右衞門は則ち藤五郎藤三郎|并《ならび》に佐《すけ》十郎|郷《がう》右衞門を引連役人へ渡しければ同心人々を請取直樣立歸りて此段|委細《ゐさい》に大岡殿へ申立けるに則ち越前守殿夫は苦々しき事なりとて急《いそ》ぎ御|月番《つきばん》の老中方へ申上られしにより老中方の仰《おほ》せには吟味中藤五郎藤三郎の兩人は先《まづ》先《せん》平助の親類《しんるゐ》共へ預《あづ》け置《おき》佐《すけ》十郎|郷《がう》右衞門の兩人を篤《とく》と取糺《とりたゞ》せし上は兎《と》も角《かく》も相分るべしと有しかば越前守殿承知仕つるとて退出《たいしゆつ》後《ご》早速《さつそく》佐《すけ》十郎郷右衞門の兩人を呼出されたり [#8字下げ]第十回[#「第十回」は中見出し]  偖も大岡殿は退出《たいしゆつ》後《ご》早速《さつそく》佐《すけ》十郎|郷《がう》右衞門の兩人を呼《よび》出し今度の趣意《しゆい》を尋《たづ》ねられければ兩人謹んで平伏《へいふく》なし私し主人の先代平助儀|當主《たうしゆ》主税之助《ちからのすけ》養子《やうし》に參《まゐ》られ候後兩人の男子《だんし》を儲《まう》け候は則ち藤五郎藤三郎にて是を主税之助の子となし御|家督《かとく》を讓《ゆづり》呉《くれ》候樣平助|末期《まつご》に遺言《ゆゐごん》仕つりしを其節は主税之助も屹度《きつと》請合《うけあひ》私ども兩人|並《ならび》に惣《そう》右衞門等證人同樣其|席《せき》に罷《まかり》在候所主税之助實子|佐《すけ》五郎出生の後は先平助|遺言《ゆゐごん》に戻《もど》り[#「戻《もど》り」はママ]我が子に家督《かとく》を繼《つが》せんと種々《しゆ/″\》惡謀《あくぼう》を構《かま》へ藤五郎を強面《つれなく》致《いた》さるゝこと誠に朝夕目も當《あて》られぬ次第故私し共三人の者|種々《いろ/\》と諫《いさ》め候へ共|聊《いさゝ》かも取用《とりもち》ひ之なく非道の所置日々に増長《ぞうちやう》致すに付藤五郎も若氣《わかげ》にて是を情なき事に思ひ或時は放蕩《はうたう》の擧動《ふるまひ》等御座候故是又其儘に打捨難《うちすてがた》く諫《いさ》めつ宥《なだ》めつ致し候中|不※[#「圖」の「回」に代えて「面から一、二画目をとったもの」、578-17]《ふと》藤五郎|不行跡《ふぎやうせき》のこと御座りしを主税之助は幸ひに亂心と申|立《たて》座敷牢《ざしきらう》に押込《おしこめ》我が實子《じつし》佐《すけ》五郎を嫡子《ちやくし》に相立《あひたて》其上二男の藤三郎まで亡者《なきもの》にせんと種々《しゆ/″\》難題《なんだい》を申ては毎日《まいにち》打擲《ちやうちやく》致し若《もし》是を意見立《いけんだて》致し候者是あれば早速《さつそく》暇《いとま》を出さるゝゆゑ其後は誰一人諫め申者御座なく剩《あまつ》さへ新參《しんざん》の家來を愛し古參《こさん》の私し共は除者《のけもの》の如くに致し家政《かせい》を亂し候に付山口惣右衞門は餘《あま》りに見兼て諫《いさ》め候を殊《こと》の外|憤《いきど》ほり直樣《すぐさま》永の暇《いとま》を申付其後|新參《しんざん》の家來を相手に藤五郎藤三郎共を害《がい》せんとの密談《みつだん》致候を腰元の島と申者|竊《ひそか》に聞知私し共へ告知《つげしら》せ候間|據《よんど》ころなく兩人申合せ藤五郎兄弟を救《すく》ひ出し候事に御座候之に依て何卒《なにとぞ》主税之助を召出《めしいだ》され右等の儀|御吟味《ごぎんみ》の上嘉川の家名《かめい》相立《あひたつ》樣|御慈悲《おじひ》を以て御|説諭《せつゆ》成《な》し下され候樣願ひ奉つり度候と申立ければ大岡殿篤と是を聞れ其方の申|立《たて》相違も有間敷《あるまじき》なれど右口上の趣き書面《しよめん》に致し差出すべしと有しかば佐《すけ》十郎|郷《がう》右衞門の兩人|口書《こうしよ》を認め差出す其文に曰く [#ここから2字下げ、折り返して3字下げ] 一私し共《ども》兩人儀は先主《せんしゆ》嘉川平助|以來《いらい》より勤仕《きんし》罷在《まかりあり》候處|當主《たうしゆ》主税之助|養子《やうし》に參られ候後平助儀藤五郎藤三郎の二|子《し》を儲《まう》けられ候に付《つき》主税之助|養《やしな》ひ子《ご》に仕つり成長《せいちやう》の後兩人の内へ家督《かとく》相|讓《ゆづ》り呉《くれ》候樣平助病死|以前《いぜん》主税之助へ遺言《ゆゐごん》仕つり其|節《せつ》私し共|并《ならび》に當時《たうじ》永《なが》の暇に相成し山口惣右衞門等其席に罷《まかり》在|承知《しようち》仕つり候儀に御座候處其後主税之助|實子《じつし》佐《すけ》五郎出|生《しやう》以來《いらい》藤五郎|兄弟《きやうだい》を憎《にく》み非道《ひだう》の所置《しよち》御座候より藤五郎儀|若氣《わかげ》の至《いたり》にて不行跡《ふぎやうせき》御座候を幸《さいは》ひに同人を廢《はい》し候は是非《ぜひ》なき次第《しだい》に付弟藤三郎を嫡子《ちやくし》に致すべき旨《むね》私し共|諫《いさ》め候を主税之助儀不承知にて同人|實子《じつし》佐《すけ》五郎を嫡子《ちやくし》に立られ候|然耳《しかのみ》ならず藤五郎|并《ならび》に藤三郎儀は先平助實子に付|始終《しじう》佐《すけ》五郎|爲《ため》に相成《あいなり》申さずと存じられ候|哉《や》藤五郎は座敷|牢《らう》に押入《おしいれ》食物《しよくもつ》を相|止《とゞ》め藤三郎儀は幼少《えうせう》に之有候を種々《しゆ/″\》難題《なんだい》申付|朝暮《てうぼ》折檻《せつかん》仕つり責《せめ》殺さん覺悟と相見え候間私し共心配仕つり候處|彌々《いよ/\》藤五郎兄弟を亡《うしな》ひ候べき内談《ないだん》を腰元《こしもと》島《しま》と申者聞|知《し》り是を私し共に知らせ候により嘉川家一大事と相心得《あひこゝろえ》右|島《しま》を案内に致し當十二月廿二日の夜《よ》奧《おく》へ忍び入り藤五郎|并《ならび》に藤三郎の兩人を一先《ひとまづ》盜《ぬす》み出し候に紛《まぎ》れ御座なく候然る處當主主税之助より其夜|居間《ゐま》の金子百兩紛失の由申立候は其身の惡事を押隱《おしかく》し申べき爲《ため》私し共へ御|疑《うたが》ひ相|掛《かゝ》り候樣にと心得|斯《かゝ》る儀を申|掛《かけ》仕つり候かと存《ぞん》じられ候之に依て何卒|明白《めいはく》之御吟味願ひ奉つり度《たく》此段|書取《かきとり》を以て申上げ奉つり候以上 [#ここで字下げ終わり] [#地から8字上げ]元《もと》嘉川主税之助|家來《けらい》 [#5字下げ]享保三年十二月廿七日[#地から4字上げ]建部《たてべ》 郷右衞門 印 [#地から16字上げ]同 [#地から6字上げ]伴《ばん》 佐《すけ》十郎 印 右の如く書取《かきとり》差出《さしいだし》候に付大岡殿|篤《とく》と一覽|致《いたさ》れ追々吟味に及ぶ兩人共吟味|中《ちう》揚屋入《あがりやいり》申付ると申渡され夫より右《みぎ》書面を老中方へ差出されしに付老中方始め若年寄《わかとしより》大目付御目付三奉行の評議となり嘉川主税之助は吟味當日迄|閉門《へいもん》を仰付《おほせつけ》られたり尤も當年十二月も早《はや》月末《つきすゑ》殊《こと》に歳暮《せいぼ》かた/″\來春の御用|始《はじ》めまで嘉川家の一件は御|差《さし》置との事にて何方も歳暮《せいぼ》又は新年の壽《ことぶ》き賑々敷《にぎ/\しく》御用も多ければ其|中《うち》に正月も立て早二月となりしにぞ近日《きんじつ》嘉川家の一條も吟味に取り掛《かゝ》らんとの事どもなり [#8字下げ]第十一回[#「第十一回」は中見出し]  時に嘉川主税之助は我が實子《じつし》の愛欲《あいよく》に眼《まなこ》闇《くら》みて家の亂《みだ》れは一向構はず彼安間平左衞門始め新參の家來を相手《あひて》に只管《ひたすら》惡事を相談《さうだん》して居る中大岡殿は伴《ばん》佐《すけ》十郎建部郷右衞門の兩人より委細の事故|聞糺《きゝたゞ》され吟味の當日《たうじつ》まで主税之助|閉門《へいもん》仰《おほ》せ付られしに付《つき》主税之助を始め嘉川の家來どもは今度《こんど》の一件の縺《もつ》れはお島の手引《てびき》に相違なしと其後も晝夜《ちうや》責《せめ》さいなみ終《つひ》に打殺し死骸は何方へか捨置《すておき》知《し》らざる體《てい》になし居たるにお島の親里《おやざと》住吉町吉兵衞方より此儀に付大岡越前守殿奉行所へ訴《うつた》へ出ければ越前守殿|早速《さつそく》白洲《しらす》へ呼出《よびいだ》され目安訴状を披き見るに [#ここから6字下げ] 乍[#レ]恐以[#二]書付[#一]奉[#二]願上[#一]候 [#ここから2字下げ、折り返して3字下げ] 一|住吉《すみよし》町忠八店吉兵衞申上奉つり候私し娘《むすめ》島《しま》と申者三年以前より御旗本《おんはたもと》嘉川主税之助樣御屋敷へ腰元《こしもと》奉公に差出《さしいだ》し置《おき》候處當人へ用事之あり昨年冬中より度々《たび/\》御屋敷へ罷出候へ共|何《なに》か御取込《おんとりこみ》の儀御座候由にて一向に御逢《おんあは》せ下《くだ》さらず何共|合點《がてん》行《ゆか》ざる事と存じ居候中世間の風説《ふうせつ》惡《あし》き儀を承はり候|間《あひだ》猶《なほ》又《また》御屋敷へ罷出當人へ達て對面致し度旨願ひ候處御用人安間平左衞門殿を以て仰聞《おほせきけ》られ候には島儀《しまぎ》去《さんぬ》る十二月廿二日の夜|盜賊《たうぞく》を手引に及び候に付御手討に相成たりとて島|持參《ぢさん》の道具《だうぐ》而已《のみ》御下下《おんさげくだ》され候得共|死骸《しがい》は御渡し下《くだ》されず因て甚だ打驚き愁傷《しうしやう》仕つり候處|右《みぎ》道具《だうぐ》の中《なか》に娘島儀|豫《かね》て覺悟致し候事と相見え遺書《かきおき》一通之あり候に付之を披見《ひけん》仕つり候に主人とは申ながら餘り御|情《なさけ》なき致され方と存じ候|間《あひだ》切《せめ》ては御慈悲《おじひ》を以て死骸だけも御|下《さ》げ下《くだ》され候樣仕つり度《たく》之に依て此段歎願奉り候以上 [#ここで字下げ終わり] [#地から11字上げ]住吉町忠八店 [#5字下げ]享保四年二月[#地から9字上げ]願人  吉兵衞 印 [#地から10字上げ]家主  忠八 印 右の如く讀上《よみあげ》ければ越前守殿大いに驚《おどろ》かれ扨《さて》は嘉川家の一件|彌々《いよ/\》主税之助の惡事に相違なしと思はれ吉兵衞に向ひ其島《そのしま》と申は其方の娘なれば死骸を下《さげ》て貰《もら》ひ度思は道理《もつとも》なり嘸《さぞ》其方が心には|殘念《ざんねん》なる事にあらん是も所謂《いはゆる》過去《くわこ》の約束|事《ごと》ならんか然共餘り苛酷《むごき》仕方《しかた》ゆゑ其方が胸中《きようちう》察《さつ》し入る尤も嘉川家の事に就て大分《たいぶん》入組たる筋あれば近々《きん/\》に評定《ひやうぢやう》も是有るべしシテ又其方が願ひし時娘の死骸|何《なん》として渡さばやと尋ねられしかば吉兵衞|涙《なみだ》に咽《むせ》びながら其儀は嘉川家の御用人《ごようにん》平左衞門殿の申さるゝには御|手討《てうち》になりたる者ゆゑ此方にて取置《とりおき》たり然樣《さやう》存《ぞん》ずべしとのことで御座りましたが其平左衞門と申人は恐《おそろ》しい人で大層《たいそう》な見識《けんしき》にて私しを睨《にら》み付猶何とか申たならば又私しをも手討《てうち》に致しさうな勢《いきほ》ひなりしと云ば大岡殿夫は何時頃《いつごろ》手討《てうち》に成し樣子なるやと有に吉兵衞ハイ何時頃《いつごろ》で御座りますか日も申|聞《きけ》られず大概《おほかた》海川へでも死骸を打|捨《すて》られしならん何時が命日やら一向分らず定めて娘は迷《まよ》うて居る事にやと思へば涙《なみだ》の乾《かわ》く間《ひま》も御座りませんと人目も恥《はぢ》ず泣《なき》居《ゐ》たるに越前守殿も甚だ氣の毒《どく》に思はれ扨々《さて/\》非道《ひだう》の致し方なり宜々《よし/\》程なく吟味を遂て遣はすシテ其|遺書《かきおき》を持參《ぢさん》致居るかと問るゝに御意《ぎよい》の如く持參《ぢさん》仕つりしと吉兵衞は懷中《ふところ》より取出して指出《さしいだ》しければ越前守殿是を見らるゝに手跡《しゆせき》も見事にして其文章も勿々《なか/\》能《よく》譯《わか》りしかば則ち目安方へ渡され目安方|高々《たか/″\》と讀上《よみあげ》る其|文《ぶん》に [#ここから6字下げ] 申|殘《のこ》し參《まゐ》らせ候事  (裏書《うらがき》)正月廿五日夜封す [#ここから2字下げ] 久々《ひさ/″\》御《おん》めもじも致し申さず御|懷《なつか》しさのまゝ聊《いさゝ》かの人目を忍び書殘《かきのこ》し參らせ候|扨《さて》當《たう》御屋敷の殿樣《とのさま》御|親子《おやこ》の御|中《なか》兎角《とかく》惡《あ》しく去年夏中より藤五郎樣御事|座敷牢《ざしきらう》御|住居《すまひ》にて召上りものもろくろく進ぜられざる程の仕合《しあは》せ御|最惜《いとをし》き事申ばかりも御座なく又御|弟子《おとゝこ》藤三郎樣も殿樣奧樣の御|惡《にく》しみ深く未《いま》だ御|幼少《えうせう》の御身を旦暮《あけくれ》御折檻《おせつかん》遊ばし日夜おん涙《なみだ》の乾《かわ》く間もなく誠に/\御愍然《いぢらしく》存じ上參らせ候|夫《それ》に付御|先代《せんだい》よりの御用人|衆《しう》と御|相談《さうだん》申上去る十二月廿二日の夜御二方樣を御|救《すく》ひ出し申上候處其事私しへ疑《うたが》ひ掛《かゝ》り夫は/\誠に恐《おそろ》しき責苦《せめく》を受候御事詞にも筆にも盡《つくし》がたく斯樣《かやう》の儀を御|知《しら》せ申上候も不孝とは存じ候へども始終《しじう》の所私しの命はとても御座なき事と存《ぞん》じ候へば最早此世にての御目《おめ》もじは出來|難《がた》く先立不孝は御|免《ゆる》し下され度候尤も大殿樣は大惡人ながら御|氣象《きしやう》甚だ甲斐なき御方に御座候處御用人安間平左衞門殿と[#「安間平左衞門殿と」は底本では「安同平左衞門殿と」]申人は實に情なき者にて其の心の恐ろしき事|鬼《おに》とも蛇《じや》とも譬《たと》へ難《がた》き大惡人に御座候|往昔《むかし》より惡逆《あくぎやく》非道《ひだう》の者の咄《はな》しも承《うけた》まはり候へども此平左衞門殿程の大惡非道の人を未《いま》だ承まはり申さず候此人|近來《ちかごろ》御屋敷へ御|召抱《めしかゝ》へに相成て皆《みな》此者より殿《との》樣へ惡敷事を御勸め申上候まゝ元來《もとより》惡心《あくしん》の有せらるゝ殿樣ゆゑ一方《ひとかた》ならず御意に入《いり》日々惡事のみ相談あるにより私し事も遠からず平左衞門殿の手に係《かゝ》り候はんと思ひ定《さだ》め※[#まゐらせさうらふ、582-16]私し亡後《なきあと》は何の樣子も御存なく御歎《おなげき》も有らんかと存じ此事|故《がら》あら/\書殘《かきのこ》し參らせ候|猶《なほ》委《くは》しく申上度候へども少時間の隙《ひま》を見合認め候まゝ別して筆も廻り兼《かね》候|宜《よろ》しく御|推《すゐ》もじ願上參らせ候かしく [#地から4字上げ]しまより [#ここから6字下げ] 御兩親樣《ごりやうしんさま》 [#ここで字下げ終わり] 斯の如くの遺書《かきおき》を越前守殿|聞《きか》れ如何にも憐《あは》れの事に思はれしかば心中に扨は其島が殺されし死骸は思當《おもひあた》りし事も有とて考へ居られけり [#ここから8字下げ] ○越前守|殿《どの》寺社奉行より掛合《かけあひ》の張面[#「張面」はママ]取寄《とりよせ》らるゝ[#「取寄らるゝ」は底本では「寄取らるゝ」]事 [#ここから9字下げ] 并二ヶ寺より訴《うつた》への事 [#ここで字下げ終わり] 然ば大岡殿はお島が遺書《かきおき》を[#「遺書を」は底本では「遺書と」]熟《とく》と聞かれて嘉川家の一件|豫《あらか》じめ推量《おしはか》られ右島と申す女の殺されし事は正月廿五日|過《すぎ》の事と思はるゝにより當二月二日|寺社《じしや》奉行黒田|豐前守《ぶぜんのかみ》より兩奉行所へ掛合《かけあひ》ありし節《せつ》の帳面を持參せよとて取寄《とりよせ》られ御覽あるに寺社奉行所へ千住燒場《せんじゆやきば》光明院《くわうみやうゐん》より訴への寫し左の通り [#ここから2字下げ、折り返して3字下げ] 一昨夜|亥刻《よつどき》前淺草阿部川町|了源寺《れうげんじ》切手を持參致し所化僧《しよけそう》一人檀家三人|差添《さしそへ》棺桶《くわんをけ》送《おく》り越候處掛|合《あひ》中右棺桶を置捨《おきすて》に致し候間相改ため候に女の死骸《しがい》にて變死《へんし》に紛《まぎ》れ御座なく候依て御|檢使《けんし》願ひ奉《たてま》つり候|以上《いじやう》 [#地から9字上げ]千住《せんじゆ》 [#ここから4字下げ] 二月二日[#地から7字上げ]光明院 [#ここから8字下げ] 寺社御奉行所樣 [#ここで字下げ終わり] 右檢使の書取《かきとり》寫《うつ》し左の通り [#ここから2字下げ] 年頃《としごろ》廿一二の女|惣身《そうしん》に打疵《うちきず》多《おほく》して[#「打疵《うちきず》多《おほく》して」は底本では「打疵《うちきお》多《ずほく》して」]殺《ころし》候樣子に相見申候尤も衣類《いるゐ》は紬縞小袖《つむぎじまこそで》二枚を着し黒純子《くろどんす》の龍《りう》の模樣《もやう》織出《おりだし》の丸|帶《おび》を締《しめ》面部《めんぶ》眉《まゆ》左《ひだり》の方に古《ふる》き疵《きず》の痕《あと》相見《あひみえ》候 [#ここで字下げ終わり] 淺草|了源寺《れうげんじ》より訴《うつた》への寫《うつ》し [#ここから1字下げ、折り返して2字下げ] 一|昨夜《さくや》當寺の切手を持參《ぢさん》致し所化僧《しよけそう》一人檀家三人|差添《さしそへ》千住燒場光明院へ火葬《くわさう》の者送込候處其後所化僧|檀家《だんか》共|棺桶《くわんをけ》捨《すて》置逃去候由|光明院《くわうみやうゐん》より掛合越候へども當寺に於て右樣の覺え御座なく候に付此段|御屆《おんとゞけ》申上|置《おき》候|以上《いじやう》 [#地から10字上げ]淺草《あさくさ》阿部川町《あべかはまち》 [#ここから4字下げ] 二月二日[#地から10字上げ]了源寺 [#ここから8字下げ] 寺社御奉行所樣 [#ここで字下げ終わり] 右の通り書留《かきとめ》之有るに付《つ》き越前守殿吉兵衞に向はれ其方|娘《むすめ》島は當年|何歳《なんさい》に成やと問るゝに吉兵衞ヘイ同人《どうにん》は當年廿一歳に相成ますと申ければ越前守殿|然《しか》らば同人左の眉《まゆ》の方に古疵《ふるきず》の痕《あと》はなかりしやと申さるゝを聞《きゝ》吉兵衞不|審《しん》に思ひ御|意《い》の如く幼少《えうせう》の時|不※[#「圖」の「回」に代えて「面から一、二画目をとったもの」、584-8]《ふと》怪我《けが》を致せしが其|痕《あと》が今に殘《のこ》り在しを娘が人|相《さう》に係《かゝ》ると人々が申せしとて平常《つね》に苦勞致し居《をり》しが此度|斯樣《かやう》の死を遂《とげ》ると云は云|當《あて》たることと思はれ一しほ歎《なげ》かは敷《しく》存じ候と申立ければ大岡殿然すれば其方が娘の死骸は千|住《ぢゆ》燒場《やきば》光明院《くわうみやうゐん》に之|有《ある》間彼の處へ行《ゆき》早々《さう/\》引取り葬《はうむ》り得させよと有て右兩所より訴《うつた》へ出し書付《かきつけ》の趣《おもむ》きを委敷《くはしく》申聞られしにより吉兵衞は其|始末《しまつ》を聞より大いに驚き扨は娘島事は嘉川主税之助殿の手に係《かゝ》り非道《ひだう》の最期《さいご》を遂《とげ》しに相違なし定めて彼の惡人の安間平左衞門めが仕業《しわざ》より出し事ならん思へば/\怨《うら》めしきは主税之助殿|主從《しうじう》なりと或は怒《いか》り或は歎き大聲上て泣居たるは如何にも氣の毒《どく》なる有樣なり夫より下役人は差※[#「圖」の「回」に代えて「面から一、二画目をとったもの」、584-13]《さしづ》して吉兵衞を勞《いた》はり爰を下らせしが大岡殿は早々右の趣きを老中《らうぢう》方へ申立られ不日《ふじつ》評定所《ひやうぢやうしよ》に於て吟味有べきとの事なり [#8字下げ]第十二回[#「第十二回」は中見出し]  善惡《ぜんあく》邪正《じやしやう》も判然《あらは》るゝ期《とき》至れるかな頃《ころ》は享保四年の二月に時の町奉行大岡越前守忠相殿住吉町吉兵衞の願《ねが》ひ出し一件|逐《ちく》一|聞糺《きゝたゞ》され老中方へ申立られ掛《かゝ》り役人|評議《ひやうぎ》の上右關係の者共評定所へ呼び出され吟味あるべしと定まり尤も此度は最初《さいしよ》より見込《みこみ》の儀も是《これ》あるに付當日の吟味は越前守へ仰せ付られしにより早速《さつそく》小普請《こぶしん》支配《しはい》宮崎内記殿へ明九日|支配下《しはいした》嘉川主税之助并に同人家來安間平左衞門の兩人吟味|筋《すぢ》之《これ》有に付|差出《さしいだ》さるべき旨|剪紙《きりがみ》を以て達せられければ宮崎内記殿|委細《ゐさい》承知致したりと有て即刻《そくこく》此段嘉川主税之助并に親類《しんるゐ》へ達せられし處翌九日親類山内三右衞門是は百俵五人|扶持《ふち》の輕《かる》き御家人にて先平助の伯父なり同人并に小普請《こふしん》組頭《くみがしら》等|附添《つきそひ》警固《けいご》なし駕籠へ乘せて罷出評定所|腰掛《こしかけ》に相控《あひひか》へ御|下知《げぢ》を待れけるに今日は月並《つきなみ》の評定日なれば士農工商《しのうこうしやう》儒者《じゆしや》醫師《いし》或は順禮《じゆんれい》古手買《ふるてかひ》追々に罷り出控へ居ける中役人|方《がた》家々の定《ぢやう》紋付たる筥挑灯《はこぢやうちん》を照《てら》し行列《ぎやうれつ》正《たゞ》しく出仕有に程なく夜も明渡《あけわた》り役人方|揃《そろ》はれしかば稍《やゝ》有《あつ》て嘉川主税之助一件の者共|呼込《よびこみ》になり武家の分は玄關にて大小を受取|屏風圍《びやうぶかこ》ひの内へ控《ひか》へさせ置《おき》平民の分は白洲《しらす》の溜《たま》りへ控へたり時に案内に隨ひ各自《おの/\》吟味の席に罷《まか》り出れば白洲には雨|障子《しやうじ》を高く掛渡《かけわた》し御座敷|向《むき》[#ルビの「むき」は底本では「むぎ」]的歴《きらびやか》なる事|誠《まこと》に目を驚かすばかりなり扨主税之助は入側《いりがは》右の方に着座《ちやくざ》なし引續きて附添の小普請《こぶしん》組頭末座に親類石原文右衞門山内三右衞門|縁側《えんがは》には家來《けらい》安間平左衞門罷出其|有樣《ありさま》最《いと》憎々《にく/\》しき面魂ひにて一|癖《くせ》有《ある》べき者と言ねど面に顯《あらは》れつゝ吟味を今やと相待|居《ゐ》たり扨《さて》役人方の上席は老中井上河内守殿|若年寄《わかどしより》大久保長門守殿石川近江守殿[#「石川近江守殿」は底本では「石貝近江守殿」]|寺社《じしや》奉行黒田豐前守殿左の方には大目付《おほめつけ》有馬出羽守殿|御《おん》目付松浦與四郎殿其外評定所|留役《とめやく》御徒士《おかち》目付《めつけ》小人《こひと》目付《めつけ》に至るまで威儀《ゐぎ》を正《たゞ》して列座《れつざ》あり此時大岡越前守殿掛り故直と席《せき》を進まれければ目安方《めやすかた》聲《こゑ》高々《たか/″\》と小普請組宮崎内記支配嘉川主税之助同人家來安間平左衞門と呼上《よびあげ》る時各々一同に平伏《へいふく》す頓《やが》て越前守殿|目安《めやす》方に建部郷右衞門|伴《ばん》佐《すけ》十郎兩人の口書をと申されければ目安方《めやすかた》是《これ》を讀上たり因て大岡殿主税之助に向はれ只今《たゞいま》承まはる通り伴佐十郎建部郷右衞門の兩人より申立たり此儀《このぎ》如何《いかゞ》やと尋《たづ》ねられければ主税之助首を上其の義は渠等《かれら》兩人盜賊に相違御座無く候處|己等《おのれら》の罪《つみ》を遁《のがれ》ん爲|然樣《さやう》の儀《ぎ》を申立候事と存じられ甚だ不屆《ふとゞき》なる者共に御座候先渠等兩人|拙等方《せつしやかた》に[#「拙等方に」はママ]勤中も種々《しゆ/″\》不埓《ふらち》の筋《すぢ》有之候者共にて兎角《とかく》某しを輕《かろ》んじ奇怪《きくわい》至極《しごく》に存じ居候と申を聞《きか》れ越前守殿コレ主税之助|其許《そのもと》の樣《やう》に取所もなき事を申されては聊《いさゝ》かも返答《へんたふ》と云に非ず先渠等が罪《つみ》有《ある》事は有《ある》樣《やう》に申され又渠等より申立たる條々《でう/\》は其許《そのもと》神速《すみやか》に申開かるべしと申けるにぞ主税之助は元來《ぐわんらい》愚《おろか》成《なる》上《うへ》其身《そのみ》の行《おこな》ひ甚だ非道《ひだう》の事のみ故《ゆゑ》越前守殿の詞《ことば》に怕恐《おぢおそ》れハツとさし支たる體を見て安間平左衞門は生得《しやうとく》大膽不敵《だいたんふてき》の曲者《くせもの》成《なれ》ば主人の答を齒痒《はがゆ》きことに思何とか口を利たき體に控居たり [#8字下げ]第十三回[#「第十三回」は中見出し]  再び越前守殿主税之助に向《むか》はれ其許《そのもと》は先代《せんだい》平助の養子《やうし》に相成し後《のち》平助は藤五郎藤三郎の兩人を儲《まう》けしに付平助末期に藤五郎兄弟は家の血筋《ちすぢ》故其許の養子となし家督《かとく》を讓《ゆづ》り呉候樣呉々遺言ありし時|急度《きつと》承知《しようち》致し居《をり》ながら何故に藤五郎兄弟を廢《はい》し實子|佐《すけ》五郎を嫡子《ちやくし》に致されしやと尋ねられければ主税之助夫等の儀は仰《おほせ》に候へども藤五郎は其躬《そのみ》不行跡《ふぎやうせき》にして勿々《なか/\》異見《いけん》も聞入ず其上亂酒により一|度《たび》は公儀《かみ》の御苦勞にも係《かゝ》りし者に付|押籠《おしこめ》相廢《あひはいし》候と答《こたへ》ければ越前守殿其は一應聞えたれども何故に藤五郎の食物《しよくもつ》を止《とゞ》められしや又藤三郎は幼少《えうせう》なるを非道《ひだう》に折檻《せつかん》致さるゝこと我子|佐《すけ》五郎の爲に行末《ゆくすゑ》惡《あ》しかりなんと思ひ渠等《かれら》兄弟を殺さすとの心底《しんてい》なるや然樣《さやう》の惡心を起《おこ》し我が子の爲と存ずる淺猿《あさまし》き心|偖々《さて/\》苦々《にが/\》しき所爲《しわざ》なり斯《かく》淺果《あさはか》なる惡事何として其身の望《のぞ》みを遂ることなるべきや因て其許も能々《よく/\》我身を顧《かへり》みられよ古語《こご》にも父《ちゝ》父《ちゝ》たれば子《こ》子《こ》たり父《ちゝ》父《ちゝ》たらざれば子《こ》子《こ》たらずと云に非ずや然る故に此度《このたび》の如き家の騷動《さうどう》を引出《ひきいだ》すなり加之《そのうへ》御邊の居間《ゐま》の金子|紛失《ふんじつ》は伴佐十郎建部郷右衞門の兩人が盜取《ぬすみとり》しと云事|確固《たしか》なる證據《しようこ》有《あり》や是とても其身の惡事を隱《かく》さんが爲に跡方もなき空言《そらごと》を申|立《たて》渠等《かれら》兩人に惡名《あくめい》を付る其許の巧み甚だ以て言語《ごんご》に絶《たえ》たり此儀辯解ありやサア如何に返答致されよと高聲《かうせい》に申されたる有樣|威權《ゐげん》鋭《するど》ければ主税之助はハツと言て生膽を取れし如く色|蒼然《あをざめ》つゝ震《ふる》ひ出《いだ》し一言の答へも成《なら》ず其儘|平伏《へいふく》なしけるを大岡殿見られ心に此奴は大惡|成《なれ》共取に足《たら》ざる愚人《ぐにん》なり然すれば是迄なしたる惡事は悉皆《こと/″\》く安間平左衞門の勸し業と察せられしかば平右衞門に[#「平右衞門に」はママ]對《むか》はれ主税之助|家來《けらい》安間平左衞門とは其方の事かと申されたる其聲|自然《しぜん》と骨身に答へしにや流石《さすが》に不敵《ふてき》の平左衞門もハツと平伏なしたる體《さま》甚だ恐れし樣子なり其時越前守殿|最《いと》徐《しづ》かに尋ねらるゝ樣其方は嘉川の屋敷へ何時頃より奉公住致せしやと申さるゝに平左衞門三ヶ年以前奉公住仕つり候と申ければ大岡殿|然《しか》らば先主《せんしゆ》は何方なるやと有に平左衞門先主人は京都に御座候と云へば大岡殿ナニ京都と申か其方の言葉《ことば》は京|訛《なま》り少しもなく關東言葉の樣に聞ゆるぞ而《し》て先主《せんしゆ》の名前は何と申すぞと云はるゝに平左衞門は堂上方《だうじやうかた》に奉公致し候と申しければ大岡殿|堂上方《だうじやうかた》に勤仕《きんし》せしと云ふか生國は何方にて武家《ぶけ》か町人か百姓か有體《ありてい》に申せと云はるゝに平左衞門ヘイ決して僞《いつは》りは申し上ず私し生國は相州なれ共京都へ參り久々《ひさ/″\》奉公仕つり居《をり》しと申立ればナニ生國は相州とな然《さ》すれば大久保家の家中の者なるかと問るゝに平左衞門|否《いな》然《さ》樣には之無私し親は農人《のうにん》に候が私し儀|幼少《えうせう》より武道を好み候故|當時《たうじ》武家の奉公致し候と言ければ越前守殿|能《よく》こそ有體に申たり尤も其方が言はずとも汝が素性《すじやう》は大概《おほかた》知れたり此上は何事も包《つゝ》まず明白に申せ若《もし》僞《いつは》らば爲にならぬぞシテ農人の悴《せがれ》なれども武邊《ぶへん》を好《この》むと申が其方親類に武家は有かと申さるゝに平左衞門|否《いや》私し親類に武家は一人もなく候と申立れば越前守殿又主税之助に對《むか》はれ其|許《もと》平左衞門を召|抱《かゝ》へる節《せつ》親類|書《がき》は何と有しや親類は町人百姓のみなりしか夫は町人百姓のみにても苦《くる》しからざれども其請人は何《なに》と申すが致したるやと尋《たづね》られしに主税之助答へて其節の奉公請《ほうこううけ》は手前出入の多兵衞《たへゑ》と申者に御座候と云ければ越前守殿其多兵衞と申者|商賣《しやうばい》は何を渡世《とせい》に致居るやと有に主税之助多兵衞は渡り徒士《かち》を業《げふ》と仕つり候と言へば所は何處にて苗字《めうじ》は何と申やと問《とは》るゝに住所は小柳《こやなぎ》町一丁目にて切首《きりくび》多兵衞と稱《となへ》候と申を聞れ大岡殿ナニ苗字《めうじ》は切首と申かと言れて主税之助ハツト赤面《せきめん》して是は甚だ惡敷《あしき》事を言たりと思ひ心中大いに當惑《たうわく》の景色にて否|苗字《めうじ》は存《ぞん》じ申さずと云に大岡殿ナニ苗字は知らぬとや夫《それ》は又|麁忽《そこつ》千萬シテ平左衞門は始何役に召抱《めしかゝ》へられしやと申さるれば主税之助|渠《かれ》には用役を申付候と云ふを越前守殿|否々《いや/\》然樣《さやう》にては有まじ大身小身とも其家の用役と申は重《おも》い儀にて其上聞ば山口惣右衞門|伴《ばん》佐《すけ》十郎建部|郷《がう》右衞門などと申家付の家來《けらい》も[#「家付の家來《けらい》も」は底本では「家付の家《けらい》來も」]ありし趣《おもぶ》きなるに何用有て多分《たぶん》の家來を召抱へしや先代平助は御役を勤むる頃《ころ》より右三人の用役にて事足《ことたり》たるを其|許《もと》の代に成て家來を殖《ふや》せしは何か存じ寄にても有ての事なるや又山口惣右衞門は何故有て永《なが》の暇《いとま》申付られしや當時|渠《かれ》は三河《みかは》町に浪宅を構《かま》へ居ども町役人などの申には至て手堅《てがた》き者の由其上|舊來《きうらい》の家來と言|老功《らうこう》の者なれば萬事の取締りには至極《しごく》宜《よろ》しからんに此儀は其|許《もと》の心得違ひを妨《さまた》げる故ならんと有しに主税之助其儀は平助以來の家來共|種々《しゆ/″\》不調法《ぶてうはふ》も之あり又私し儀を輕蔑《ないがしろ》に仕つる事法外にて誠に輕き者は致方之なく候間|據《よんど》ころなく永の暇《いとま》申付候|存寄《ぞんじより》故|新規《しんき》に家來を召抱へ候と云ば越前守殿|否々《いや/\》渠《かれ》が輕蔑《ないがしろ》になすには有間じ是は正しき舊來《きうらい》家付の家來に付其|許《もと》の我意《がい》を異見《いけん》に及び兎角《とかく》邪魔《じやま》に成故ならん然樣《さやう》の空言《そらごと》を止《やめ》て有體に申されよ假令《たとへ》如何樣《いかやう》に包み隱《かく》すとも大|概《がい》此方へ知れてあれば今更|陳《ちん》ずるは詮《せん》なきことなり又平左衞門其方の奉公|請《うけ》に立て貰《もら》ひたる切首《きりくび》の多兵衞と申は如何《いか》樣成|由緒《ゆかり》あつて請人に成しやと申さるゝに平左衞門は面倒《めんだう》な事を尋ねらるゝと思ひながら右《みぎ》多兵衞が弟の願山《ぐわんざん》と申京都智恩院に所化《しよけ》を勤め居《を》り候|頃《ころ》私し儀は堂上方に勤仕《きんし》の事故右願山と度々《たび/\》出會仕つり至つて別懇に致せし其好身にて私し儀|浪人後《らうにんご》江戸表へ出多兵衞方の世話《せわ》に相成候と申ければ越前守殿其願山と申者は今以て智恩院《ちおんゐん》に居るや但し雲水《うんすゐ》の身分なるやと問《とは》るゝに平左衞門|渠《かれ》も當時は雲水の身分と相成兄多兵衞の方に來りて同居《どうきよ》仕つり居り候と言しかば越前守殿|礑《はた》と手を拍《うた》れ夫にて概略《およそ》分《わか》つたり先月《せんげつ》[#「先月《せんげつ》」はママ]初旬《はじめ》了源寺の所化《しよげ》と僞《いつは》りたる坊主は正《まさ》しく其の願山で有うと何樣《なにさま》其方の別懇《べつこん》にする曲者ならん此儀は何《どう》ぢやと思ひ掛《がけ》なき事を尋《たづ》ねられければ平左衞門は夫はと吃驚仰天なせし樣子なりしが元來《もとより》大膽不敵《だいたんふてき》の曲者なれば莞爾《くわんじ》と笑是は/\思ひ掛《がけ》なき御尋ね私し儀|其儀《そのぎ》は一向に存じ申さず候と然も知らぬ體《てい》に申けるにぞ越前守殿此體を見られ扨々|此奴《こやつ》めは餘程|念《ねん》の入たる曲者なりと思《おも》はれ否々汝如何樣に陳《ちん》ずるとも此方には屹度《きつと》したる證據《しようこ》あり其上|未《ま》だ/\其方に聞事あり腰元《こしもと》島の事は何ぢや是も其方が一|向《かう》知らぬと申さば主税之助に言《いは》するぞ然《さ》すれば其方は卑怯《ひけふ》未練《みれん》と言れんにより惡黨《あくたう》は惡黨だけに潔《いさぎ》よく白状《はくじやう》せよ假令此上如何程隱すとも主税之助始めの惡事を天《てん》奚《なん》ぞ免《ゆる》すべきや然るに事を左右《さいう》に寄せ彼是陳ずるは天命《てんめい》を知らぬと云者なり主人主税之助は惡人ながら又|愚直《ぐちよく》の處もあり其方は此期《このご》に及でも未《いま》だ運の盡《つき》たるとは思ずや此越前守が見る處|汝《なんぢ》は勿々《なか/\》立派《りつぱ》なる惡黨成れど一度|帶刀《たいたう》もせし身なればサア武士《ぶし》らしく白状なし名を潔《きよ》くせよと申されければ平左衞門は心中《しんちう》に偖々音に聞えし名奉行《めいぶぎやう》だけありて何事《なにごと》も天眼通《てんがんつう》を得られし如き糺問《きうもん》アラ恐しき器量哉《きりやうかな》と暫時默止て居たりけり [#8字下げ]第十四回[#「第十四回」は中見出し]  斯て天眼通《てんがんつう》を得たる大岡殿が義理《ぎり》明白《めいはく》の吟味にさしも強惡《きやうあく》の平左衞門一言の答へもならず心中|歎息《たんそく》して居たりしかば越前守殿|然《さ》もあるべしと思はれ乃至《よしや》其方此上|富婁那《ふるな》の辯《べん》を振つて何程申掠るとも島が一條に付ては確《たしか》なる證據《しようこ》あり本月|朔日《ついたち》千住燒場へ島の死骸《しがい》を置捨に致したる事相違是有まじ又た千住光明院淺草了源寺より訴へ出し書面《しよめん》もあり右等を只今|爰《こゝ》に於て讀聞《よみきか》すべし主税之助諸共|能々《よく/\》聞《きか》れよと申さるゝ言葉《ことば》の下より目安方《めやすかた》役人書面を讀上げる [#2字下げ]光明院檢使願書面|本件《ほんけん》第十一回目に記載《かきのせ》有に付茲に除《のぞ》く依て其回と見合せ讀給へ 右《みぎ》檢使《けんし》書取《かきとり》の寫《うつ》し [#2字下げ]前《ぜん》同斷《どうだん》 淺草了源寺よりの訴《うつた》へ書面《しよめん》 [#2字下げ]前《ぜん》同斷《どうだん》 越前守殿コリヤ平左衞門何と斯樣《かやう》の屆書是有る上は其方儀《そのはうぎ》主税之助と申合|島《しま》を害《がい》して其死骸を隱《かく》さん爲淺草了源寺よりの送《おく》りなりと僞《いつは》りを構へ其|手段《てだて》をせし所光明院にて差拒《さしこば》みし故彼處へ棺桶《くわんをけ》を置捨に致たるに相違有まじ其上《そのうへ》島《しま》の親住吉町吉兵衞よりの歎願書《たんぐわんしよ》も是あり夫《それ》も序に讀聞せよと云るゝに又々|目安方《めやすかた》の者右の書付《かきつけ》を讀上《よみあげ》る [#2字下げ]住吉町吉兵衞願書は本件《ほんけん》第十一回目に記載《かきのせ》之あるに付|爰《こゝ》に除《のぞ》く因て其回と見合せ讀給へ 因《よつ》て平左衞門は増々《ます/\》心中に驚くと雖も猶《なほ》も其の色を見せず默止《もくし》て居たりしかば大岡殿少し聲《こゑ》を張上られコリヤ平左衞門|是《これ》まで主税之助が爲せし惡事《あくじ》は皆汝が勸《すゝ》めし處ならん併《しか》し汝程の惡才《あくさい》有者が何故又島が死骸《しがい》の始末は斯《かく》淺果《あさはか》なる工夫をなして置捨《おきすて》に致したるやと申されければ平左衞門此ことを聞《きゝ》然《しか》る上は切《せめ》て我が身の罪だけも遁《のが》れんと忽ち奸智《かんち》を廻《めぐ》らし恐《おそ》れながらと首を上御意の如く誠に天命《てんめい》遁難《のがれがた》きものにして島が死骸取隱し方|淺果《あさはか》なりとの仰《おほ》せ此平左衞門|身《み》に取何程か恥《はづか》しきことに御座候|是《これ》に付ては種々申上度儀御座候へども其事|詳《つまび》らかに申上る時《とき》は主人の惡事に御座候尤も斯成行し上は是非《ぜひ》に及ばず罪は殘《のこ》らず私しへ仰付《おほせつけ》られ下され候へば有難く存じ奉つり候と言葉《ことば》巧《たく》みに申立ければ此時大岡殿|彼奴《きやつ》此場の變《へん》を見て又|惡計《あくけい》を設けしよなと思はれけれども態と心付《こゝろづか》れざる體《てい》にて成程罪は殘《のこ》らず其身に引受度と申事|奇特《きどく》の申條なれども主税之助が科は最早|遁《のが》るべき道なし依て主人《しゆじん》の儀なりとも今更《いまさら》包《つゝ》み隱すは却て未練《みれん》の至りなり有體《ありてい》に白状して罪に伏《ふく》すべしと有に平左衞門|心中《しんちう》にしめたりと思ひ仰《おほせ》の如く主人の惡事《あくじ》を申上なば臣たるの道を失《うしな》ふのみならず我が身の罪《つみ》を遁《のが》れん爲の樣に思召《おぼしめし》の程恐入り候間|差控《さしひか》へ候へども右樣御尋ねに付|止《やむ》を得ず有體《ありてい》に申上候はん私し儀三年以前|當《たう》主人《しゆじん》に抱《かゝ》へられ候節|實《じつ》は中小姓を相勤候處夫より段々《だん/\》取立《とりたて》られ用人に相成候後|先代《せんだい》よりの古老《こらう》たる山口惣右衞門に永《なが》の暇《いとま》を申付られ候然れどもいまだ先代よりの用人《ようにん》佐《すけ》十郎郷右衞門と申者御座候を兩人《りやうにん》共に差置《さしおき》[#ルビの「さしおき」は底本では「さしおか」]私しめに而已《のみ》用事申付られ餘り首尾《しゆび》の宜き故|合點《がてん》行《ゆか》ずと存じ居候處|或夜《あるよ》主人儀私しを竊《ひそか》に招《まね》かれ人々を拂つて申されけるは藤五郎藤三郎の兩人《りやうにん》を如何《いか》樣にも致し無者《なきもの》にして我が子|佐《すけ》五郎に家督《かとく》を讓《ゆづ》り度思ふにより力を添《そへ》呉《くれ》る樣にとの頼《たの》みに付我が子の愛《あい》に迷《まよ》ふは凡夫の常《つね》とは申ながら扨《さて》は斯る巧みの有故に私し儀を斯迄《かくまで》に取立し事やと存じ仰天《ぎやうてん》は仕つり候へども萬一|荒立《あらだて》に成らんかと心を鎭《しづ》め其後機を見合せ意見《いけん》致し候へども勿々《なか/\》以て用いひまじき樣子《やうす》に付兎に角事を永く延す中には又致し方も有べしと内外《ないぐわい》承知《しようち》の體に待《もて》なし先主人の氣に適《かな》ふ樣に致し置《おき》其中には佐《すけ》十郎郷右衞門の兩人と内談《ないだん》の上猶又主人を諫《いさ》め申さんと存じ種々《いろ/\》心を碎《くだ》き居しに渠等《かれら》兩人の者は却て私しを疑ひ夫よりして傍輩《はうばい》中も自然と宜からず成行《なりゆき》候へども兎角《とかく》渠等兩人へ私《わたく》しの本心を顯し實《まこと》を見せて篤と相談《さうだん》せんと思ふ中|佐《すけ》十郎郷右衞門兩人は藤五郎藤三郎を盜《ぬす》み出し候|故《ゆゑ》扨《さて》は渠等兩人も主人の惡意《あくい》を察《さつ》しけれるにや兄弟を盜《ぬす》み出しうへ訴《うつた》へ出る存念《ぞんねん》と心付南無三寶是は逸《はや》りたることをなし公邊《かみ》へ御苦勞を掛《かけ》なば兄弟の命《いのち》は助《たすか》る共嘉川の家は滅亡《めつばう》ならんにより此上は最早是非もなし心に染《そま》ぬ事なれ共|佐《すけ》十郎郷右衞門ら兩人を罪《つみ》に落《おと》し主家《しゆか》の滅亡を救《すく》はんと據《よんど》ころなく愚案《ぐあん》を以て主人の居間《ゐま》の金百兩|紛失《ふんじつ》せしこと申立て候是は跡方《あとかた》なき僞《いつは》りに候へ共右樣申立るに於ては御上にても佐《すけ》十郎郷右衞門の兩人に疑《うた》がひ掛《かゝ》らんにより藤五郎|兄弟《きやうだい》を盜み出せしは己等が罪を遁《のがれ》ん爲|忠臣《ちうしん》ごかしに爲せし儀と申立一旦の主恩《しゆおん》を報《むく》い候心得に御座候ひし又島の事も然の通り主人の申付に任《まか》せ殺して仕舞《しまう》は安《やす》けれども渠《かれ》は女に似氣《にげ》なき忠節者《ちうせつもの》ゆゑ切《せめ》て命ばかりも救ひ得させんと種々に主人を諫《いさ》め候て一先|渠《かれ》を當分《たうぶん》押込《おしこめ》置《おき》て猶《なほ》助《たすけ》候半んと存ぜし中相役の立花左仲と申者竊に主人《しゆじん》と申合せ絞殺《しめころ》し其儀に付右等の儀は全く後《あと》にて承《うけたま》はりたる事《こと》ゆゑ萬事の儀ども相違《さうゐ》仕つりて候と申|立《たて》けるを先刻《せんこく》より主税之助は聞居たりしが耐《こら》へ兼|默《だま》れ平左衞門今となりて然樣なる儀を口賢《くちかしこ》くも申が此度《このたび》の事は皆其方の勸《すゝ》めしに非ずや然すれば此惡事《このあくじ》の元は其方なり夫を都合よきやうに申さば我《われ》又《また》言事《いふこと》澤山《たくさん》有と申に平左衞門|呵々《から/\》と笑《わら》ひ是は未練《みれん》の事を仰せらるゝ物かなと言《いふ》をナニ未練《みれん》とは其方の事なりと爭《あらそ》ふ時大岡殿コリヤ兩人|共《とも》默止《だまれ》と聲を掛られ平左衞門は此方|吟味中《ぎんみちう》なり主税之助|控《ひか》へませいシテ平左衞門|我《われ》は思《おも》ひの外なる忠臣者《ちうしんもの》ぢや然すれば其方に罪《つみ》は有ども又其方を憎《にく》むべきに非ず猶《なほ》其後《そのあと》は何《どう》ぢやと云るゝに平左衞門其御沙汰は恐入候何事も皆私し儀全く行屆《ゆきとゞ》かざる故成ば何處迄《どこまで》も私し儀|罪《つみ》に陷《おちい》り候と然も忠臣《ちうしん》らしく申ければ大岡殿|是《これ》平左衞門其方が惡事は最早《もはや》夫迄《それまで》なるか未々《まだ/\》申儀が澤山《たくさん》有んサア何《どう》ぢや今少申立ぬか其方が申し立てねば此方より尋《たづね》ることありと申されければ平左衞門は底氣味《そこきみ》惡《わる》く答へも發規《はき》と爲《せ》ざりけり [#8字下げ]第十五回[#「第十五回」は中見出し]  斯て大岡殿は安間平左衞門を種々に糺《たゞ》されける所さしも世に轟《とゞろ》く明奉行《めいぶぎやう》の吟味故|其言葉《そのことば》肺肝《はいかん》を見透《みすか》す如くにて流石《さすが》の平左衞門も申掠る事能はずと雖も奸智《かんち》に長《たけ》たる曲者《くせもの》ゆゑ忽《たち》まち答への趣意を變じて其身の罪《つみ》を遁《のが》れんと胸中に巧《たく》み佞辯《ねいべん》を震《ふる》ひけるを大岡殿は猶《なほ》も心長く聞居られければ平左衞門は十分に奸智《かんち》を逞《たく》ましうし主税之助の惡事《あくじ》を其の身に引請《ひきうけ》主人を救ふ體《てい》に見せ掛兎角私しの不調法故|此上《このうへ》は私しを如何樣にも仰付《おほせつけ》られ主人儀は何卒|御仁惠《ごじんけい》の御沙汰願ひ奉つると申立けるに大岡殿|呵々《から/\》と笑《わら》はれコレ平左衞門其方の申處至つて忠臣《ちうしん》の樣に聞《きこ》ゆるなり併《しか》しながら爰に少し解《げ》せぬことが有ぞ其は住吉町吉兵衞の娘《むすめ》島《しま》が殺《ころ》されぬ以前|豫《かね》て覺悟《かくご》せしと見えて渠が遺書あり其|文言《もんごん》を見《み》るに彼の島《しま》は其方を大分《だいぶ》怖《こは》がりし樣子なり此儀は何ぢやと申さるゝに平左衞門|否《いや》ナニ別て怖《こは》がりしと申事は之《これ》なき筈に候と云へば大岡殿|夫《それ》を讀聞《よみきか》せよと有る時目安方彼の遺書《かきおき》を讀上《よみあげ》る [#2字下げ]遺書《かきおき》文言《もんごん》本件第十一回目に記載あり其回と合《あは》せ讀給べし 越前守殿|何《どう》ぢや平左衞門|那《あれ》にても島を救《すく》ふ心なりしやと申されけるを平左衞門は少《すこし》も臆《おく》せず仰には候へども私《わたく》し儀主人の前を憚《はゞか》り表向は島を強面《つれなく》致《いた》したるゆゑ島は女心に私しを實に恐ろしき者と存ぜしと思《おも》はれ候と申を大岡殿|否《いや》汝は種々に言掠《いひかす》むると雖も詞《ことば》の前後《ぜんご》皆符合せず其島は女にこそあれ汝も申通り天晴《あつぱれ》の忠節者《ちうせつもの》殊《こと》に其利發《そのりはつ》なる事は男も[#「男も」は底本では「 も」]及ぶまじ然すれば其方が主人の手前を憚りて島を強面《つれなく》せし事を渠《かれ》爭《いかで》悟《さと》らざるものあるべきや然《しか》るを渠が恐《おそ》るゝは是《これ》全《まつた》く其方が惡心《あくしん》ある事疑ひなし何樣に奸智《かんち》の辯を振《ふる》ふ共此越前守が眼力《がんりき》にて見拔《みぬき》たるに相違なし無益の舌の根《ね》動《うごか》さずともサア眞直《まつすぐ》に白状せよと申さるゝに平左衞門コハ情《なさけ》なき事を伺ひ候もの哉私し儀聊かも言葉《ことば》を飾《かざ》らず主人の惡事《あくじ》を身に引請《ひきう》けん事を願ひし處却て右樣の御疑ひを蒙る事《こと》餘《あま》り殘念なりと云はせも果《はて》ず大岡殿|大音《だいおん》に默止れ平左衞門汝未だも奸智《かんち》の辯《べん》を以て公儀を欺《あざむ》かんとするか其儀越前守は疾《とく》より承知なり加之《しかのみ》ならず問に任《まか》せて主人《しゆじん》の惡事を申立る段|實《まこと》の忠臣《ちうしん》奚ぞ斯る擧動《ふるまひ》あるべきや茲な重々《ぢう/\》不屆者《ふとゞきもの》め夫《それ》引下《ひきおろ》せと下知の下より忽《たちま》ち平左衞門を縁《えん》より下へ引下し高手小手に縛《いまし》めたり然ば大膽不敵《だいたんふてき》の平左衞門も大岡殿の烈敷《はげしき》言葉《ことば》に一句も出ず繩目《なはめ》に及ぶぞ心地よし扨《さて》又《また》大岡殿は老中方《らうぢうかた》に向はれ主税之助并に家來《けらい》平左衞門儀|只今《たゞいま》吟味仕つり候通り是迄の惡事相違御座なくにより先《まづ》主税之助儀は他家《たけ》へ御預け仰せ付られ追ては吟味《ぎんみ》然るべきやと申し述られければ老中方にも至極《しごく》道理《もつとも》との事にて大岡殿吟味の致され方《かた》を感心《かんしん》あり夫より役人《やくにん》へ評議中主税之助は御小人《おこびと》目付《めつけ》警固《けいご》に及び席《せき》を下りて屏風《びやうぶ》のうちへ入置《いれおき》平左衞門は入牢《じゆらう》申渡されしが主税之助儀は交代《かうたい》寄合《よりあひ》生駒大内藏へ御預けと定《さだ》まりたり此生駒家の先祖《せんぞ》は讃州《さんしう》丸龜《まるがめ》の城主《じやうしゆ》にして高十八萬石を領《りやう》し豐臣家《とよとみけ》の御代には老中の一人にして生駒雅樂頭と號し天晴《あつぱれ》武功《ぶこう》の家柄《いへがら》なり其後徳川家に隨《したが》ひ四代目にして家中に騷動《さうどう》起《おこ》り既に家名|斷絶《だんぜつ》すべきの處親類藤堂和泉守殿歎願により羽州由利郡矢島に於《おい》て高八千石を賜り交代《かうたい》寄合に成され屋敷は下谷竹町にて拜領《はいりやう》致れたり斯樣《かやう》の家柄故此度主税之助を御預けなさるゝ|旨《むね》老中井上河内守殿より奉書《ほうしよ》を以て達せられしかば生駒家に於て早速《さつそく》用意《ようい》に及びお預かり者|請取《うけとり》として差出す家來左の如し [#ここから8字下げ] 騎馬《きば》       一人            士分       五人 足輕《あしがる》       十人            乘物《のりもの》       一挺 [#ここで字下げ終わり] 是《これ》に因て生駒家々來より奉書《ほうしよ》の請書一|通《つう》評定所へ差出《さしいだ》す [#ここから2字下げ] 御奉書《ごほうしよ》拜見《はいけん》仕つり候御預りの者有之候由|別紙《べつし》御書付の通《とほり》家來共《けらいども》評定所迄爲請取差出し申候|恐惶謹言《きようくわうきんげん》 [#ここから4字下げ] 二月十九日[#地から6字上げ]生駒大内藏 [#ここから10字下げ] 太田《おほた》備中守殿 井上《ゐのうへ》河内守殿 松平《まつだひら》右京太夫殿 本多《ほんだ》伊豫守殿 [#ここで字下げ終わり] 斯て生駒家の家來は評定所の門前《もんぜん》に控居て御下知を待《まち》ける時に御徒目付《おかちめつけ》青山三右衞門玄關に立出て生駒家より差出《さしいだ》しの人數《にんず》揃《そろ》ひたるやとの尋《たづね》にハツと答《こた》へて同家《どうけ》の用人《ようにん》金子忠右衞門同留守居役加川新右衞門の兩人罷り出|御達《おんたつ》し通り人數相揃ひ控《ひか》へ罷り在候と答《こた》へければ青山三右衞門玄關番に差※[#「圖」の「回」に代えて「面から一、二画目をとったもの」、594-5]《さしづ》なし然らば先《まづ》各々方《おの/\がた》是《これ》へ控有べしと案内《あんない》に連《つれ》評定所の座敷に暫時《ざんじ》控《ひか》へ居たりけり [#8字下げ]第十六回[#「第十六回」は中見出し]  偖《さて》も生駒家の用人《ようにん》留守居等は玄關脇《げんくわんわき》の座敷に控《ひか》へ居けるに暫時《しばらく》有て御徒目付青山三右衞門再び出立迎の乘物《のりもの》に締《しま》りの儀御心得有べきやと云へば金子《かねこ》忠右衞門加川新右衞門の兩人|御念《ごねん》の入たる御尋ね締《しま》りの儀は錠前《ぢやうまへ》に及ばざる旨御書付に任《まか》せ錠は付申さず候へども警固《けいご》の儀《ぎ》は人數別段|覺悟《かくご》仕つり候と答《こた》へ彼是《かれこれ》する中夜に入り御徒目付御小人目付案内にて嘉川主税之助を玄關《げんくわん》に送り出せしかば生駒家の用人《ようにん》金子忠右衞門玄關に手《て》を突《つき》今日|嚴命《げんめい》に因て主人生駒|大内藏《おほくら》へ貴君樣を御預け相成しに付御迎へとして用人金子忠右衞門|留守居《るすゐ》加川新右衞門|參向《さんかう》仕つり候と云へば主税之助は會釋《ゑしやく》して是は/\御大儀《ごたいぎ》某《それが》しこそ嘉川主税之助なり以後《いご》何かと御世話に相成ん宜《よろ》しく御頼み申すと言ひながら則ち乘物《のりもの》に乘移《のりうつ》るに生駒家の人數《にんず》前後を固《かた》めて引取りけり夫より役人方一同|退散《たいさん》に付大岡殿も評定所より歸宅《きたく》され即刻定廻り同心《どうしん》を呼《よば》れて小柳町一丁目に住居《ぢうきよ》致す切首多兵衞并に同居の弟《おとゝ》願山と申す僧《そう》を召捕《めしとる》べしと有りければ畏《かしこ》まり候とて同心は早速《さつそく》其夜小柳町近邊に到り能々|聞糺《きゝたゞ》すに幸ひ此夜多兵衞願山共|居宅《きよたく》に在て惡黨《あくたう》共を集《あつ》め大博奕を始め居たり多兵衞は廣袖《ひろそで》の小袖を着し三ツ布團《ぶとん》の上に大安坐《おほあぐら》をかきて貸元《かしもと》をなし願山|坊主《ばうず》は向鉢卷にて壺を振宵より大勢《おほぜい》車座《くるまざ》に居並《ゐなら》び互に勝負《しようぶ》を爭《あらそ》ひしが一座の中に目玉《めだま》の八と云ふ惡者は今宵《こよひ》大いに仕合せ惡《わる》く一文なしに負《まけ》て詮方《せんかた》盡《つき》しかば貸元の多兵衞に向ひコレ親分|資本《たね》を貸《かし》て呉れ餘り敗軍《はいぐん》せしと云へば多兵衞は何《なに》が二貫や三貫の端錢《はしたぜに》を負《まけ》たとて大敗軍も無《ねへ》もんだ其樣な少量《けち》な事を聞|耳《みゝ》は無《ね》へ此馬鹿八めと罵《のゝし》るにぞ目玉の八は負腹《まけばら》にて心地宜らぬ折柄《をりから》故大いに怒《いかり》ナニ馬鹿八だと此拔作め口の横に裂《さけ》た儘《まゝ》に餘り大造を吐露《ぬかす》な飛《とん》だ才六めだ錢を貸す貸《かさ》ぬは兎《と》も角《かく》も汝の口から馬鹿八とは何のことだ今|一言《ひとこと》云《ぬか》したら腮骨《あごぼね》を蹴放《けはな》すぞ誰だと思ふ途方《とはう》もねへと云へば|切首《きりくび》は眼を剥《むき》出し大音に汝《おのれ》云《いは》せて置ば方※[#「圖」の「回」に代えて「面から一、二画目をとったもの」、595-5]《はうづ》がないびんしやんとすると張倒《はりたふ》すぞと敦圉《いきまき》切つて罵《のゝし》るをナンダ張倒すイヤ置て呉れ汝等に張倒されてお溜《たま》り飜《こぼ》しか有るものか爰《こゝ》な強曝《がうさら》しめと互に口から出放題《ではうだい》に惡口を吐散せしが多兵衞は終《つひ》に堪《こら》へ兼《かね》直立《つゝたち》さま茲な馬鹿八めと既に飛掛《とびかゝ》らんと爲《す》るを目玉も同く立上り小癪《こしやく》な汝《おの》れが否《いや》汝がと打て掛《かゝ》れば此方も負《まけ》ず仲間喧嘩《なかまげんくわ》のどツたばた燭臺《しよくだい》を踏倒すやら煙草盆を蹴飛すやら打つ擲《うた》れつ掴《つか》み合《あひ》果《はて》は四邊も眞《しん》の闇《やみ》上を下へと返《かへ》しけり斯る騷《さわぎ》を見濟して捕手の役人聲々に上意々々と踏込《ふみこむ》にぞ惡者《わるもの》共は是を聞コリヤ堪《たま》らぬと一|目驂《もくさん》闇《やみ》を幸ひ這《はう》々に後をも見ずして逃去《にげさり》けり役人は外の者に構《かま》ひなく終《つひ》に多兵衞願山の兩人を捕押《とりおさ》へ高手小手に縛《いまし》めつゝ夫より家内を改《あらた》めて町内へ預《あづ》け兩人を引立歸り其夜は假牢《かりらう》に入置|其段《そのだん》越前守殿へ申立しかば越前守殿には右翌日に至り先達《せんだつ》て揚屋《あがりや》へ入置《いれおか》れたる郷右衞門|佐《すけ》十郎の兩人を出され御吟味中嘉川平助|親類《しんるゐ》山内三右衞門へ御|預《あづけ》を申付られたり此三右衞門は小身《せうしん》の上至て貧窮《ひんきう》の處へ己《おのれ》夫婦《ふうふ》とも都合四人の口故日々の賄《まかな》ひに甚だ難儀《なんぎ》致しけるを須田町の七右衞門は聞及び例《れい》の侠氣《をとこぎ》なれば早速《さつそく》三右衞門の方《かた》へ來りて何《なに》くれと見繼《みつぎ》深切《しんせつ》に世話《せわ》をなしけるゆゑ三右衞門は甚《はなは》だ七右衞門の氣性《きしやう》を感《かん》じ喜《よろこ》びける [#8字下げ]第十七回[#「第十七回」は中見出し]  天《てん》明《あきら》かにして善惡《ぜんあく》の賞罰有りと然れば切首の多兵衞|僧《そう》願山《ぐわんざん》諸共《もろとも》多年の積惡《せきあく》遁《のが》れ難く享保《きやうほ》四年二月十二日大岡殿の白洲《しらす》に引出さるゝに多兵衞は今年三十六歳|弟《おとゝ》願山は三十二歳なり大岡殿|先《まづ》切首の多兵衞を呼《よば》れコリヤ多兵衞其方の異名《いみやう》を切首と申す由|夫《そ》は何故に然樣《さやう》の名を付て置にやと尋《たづ》ねらるゝに多兵衞は首《かうべ》を上《あげ》恐《おそ》れながら私し儀|御覽《ごらん》の如く此首筋《このくびすぢ》から脊へ掛けて切込《きりこま》れし疵が御座るゆゑ人|呼《よん》で渾名《あだな》を切首と申候と云ければ[#「云ければ」は底本では「云はれば」]大岡殿見られて成程|汝《なんぢ》が首筋《くびすぢ》には大きなる疵《きず》が見える其疵は又|何《どう》して付られしぞ隱《かく》さずに申せと云れければ多兵衞はナニ隱《かく》しませう此疵は一昨年の夏中《なつぢう》供先《ともさき》にて喧嘩《けんくわ》御座候節陸尺の七右衞門と申者に切《きら》れ此通《このとほ》りの疵に相成しと申ければナニ供先の喧嘩《けんくわ》で切れ夫故其疵に成たるとな夫《それ》は何時《いつ》の事なるやと有に多兵衞それは享保《きやうほ》二年の夏五月|端午《たんご》の式日《しきじつ》私し出入|屋敷《やしき》嘉川主税之助樣親類中へ禮《れい》に廻勤《くわいきん》致され候故私し徒士《かち》を仕つり神田明神下にて小川町の五千石取の太田彦十郎樣に出會《であひ》しまゝ互ひに徒士《かち》の者双方の名前を呼上|行違《ゆきちが》ひ候節嘉川家の供頭が御|駕籠《かご》の戸《と》を引外《ひきはづ》し狼狽《うろたへ》廻るを見て太田樣の陸尺共が聲々《こゑ/″\》に此土百姓の大馬鹿者《おほばかもの》め戸の明建《あけたて》も知らぬか知らすば教《をしへ》て遣ふ稽古《けいこ》に來いと散々《さん/″\》に惡口致候ゆゑ嘉川樣の事に付此多兵衞めも堪《こら》へ兼《かね》て進寄《すゝみより》つひ一言《ひとこと》二言《ふたこと》々爭《いひあらそ》ひし中双方|錆刀《さびがたな》を引き拔切合處に太田樣の方には中|小姓《こしやう》徒士《かち》などにも手利《てきゝ》の者之あり其上|陸尺《ろくしやく》の七右衞門は力《ちから》もありて能《よく》働《はたら》き候然るに嘉川樣の方には中|小姓《こしやう》孕石《はらみいし》源兵衞|安井《やすゐ》伊兵衞を始め私し并びに陸尺《ろくしやく》中間迄《ちうげんまで》必死《ひつし》になりて戰ひし故一時は太田樣の方|引色《ひきいろ》に相成候然るに太田樣の陸尺共《ろくしやくども》豫々《かね/″\》此多兵衞に遺恨《ゐこん》あり其故は彼《かの》七右衞門と申者元嘉川家の陸尺|頭《がしら》を勤《つと》め居たりしに今の主税之助樣の代《だい》になりし頃《ころ》陸尺の出入を取替られし時私し口入仕つり外《ほか》より入込ませ彼《か》の七右衞門は出入を止《やめ》られ申候此|怨《うら》み有るに因つて此日の喧嘩《けんくわ》を幸ひに陸尺《ろくしやく》の七右衞門|惡口雜言《あくこうざふごん》を申し其上太田樣の者共此多兵衞の働きにて引色になりたるを七右衞門大いに憤《いきど》ほり雷《らい》の如く喚《おめ》いて忽《たちま》ち嘉川樣の者共を追返《おひかへ》し中《なか》にも私しを目掛けて追來《おひきた》り後《うし》ろより大|袈裟《げさ》に切り付申候是に因《より》て嘉川家の者ども散々《さん/″\》に逃退き漸《やうや》く喧嘩も鎭り屋敷へ歸りし後此事|内濟《ないさい》にて相濟《あひすみ》たり然れ共私し儀首筋より脊《せ》へ掛《か》けて大疵《おほきず》あるに付其時より異名を切首《きりくび》と人々申候と少しく自慢《じまん》がてらに長々《なが/\》と申ければ大岡殿成程其|遺恨《ゐこん》もある故陸尺の七右衞門は今度《このたび》の一件に世話を致して居《ゐ》ると見ゆる先《ま》づ夫は兎《と》も角《かく》も多兵衞汝が世話で嘉川家へ奉公住《ほうこうずみ》致せし安間《あんま》平左衞門と申者は其方|何《なん》の縁《えん》に因《よつ》て請人になりしやと尋ねらるゝに多兵衞其の安間《あんま》平左衞門儀は私しの弟《おとゝ》願山の懇意にせし縁《えん》を以て渠《かれ》が請人《うけにん》は仕り候と云へば大岡殿然らば其方|弟《おとゝ》の願山儀は以前京都|智恩院《ちおんゐん》の弟子《でし》なりしかと申さるゝに多兵衞|否《いへ》然樣《さやう》でも御座りませぬ然らば何《どう》ぢやヘイ弟願山儀は江戸|表《おもて》の寺《てら》にて出家《しゆつけ》致せしと申すを大岡殿ナニ江戸表の寺ぢや江戸表とばかりでは一|向《かう》解《わか》らず何と申寺なるや眞直《まつすぐ》に申せと云れけり [#8字下げ]第十八回[#「第十八回」は中見出し]  偖《さて》も大岡殿は多兵衞の異名《いみやう》切首《きりくび》と云《いふ》譯《わけ》を尋《たづ》ねられし處多兵衞は少しく誇《ほこ》り面《がほ》に喧嘩の次第まで委細《くはしく》申立しにより其物語《そのものがた》りの中《うち》廉々《かど/\》此節の一件に思ひ當りしことなど有ける故《ゆゑ》夫《それ》となしに長々と多兵衞の申を聞居られしが其後《そののち》渠《かれ》が弟願山の事に及《およ》び江戸表の寺《てら》は何方の徒弟《とてい》なるやと糺《たゞ》さるゝに至りて多兵衞はハツと心付|大《おほ》いに狼狽《うろたへ》し樣子《やうす》を越前守殿は敏《はや》くも見て取《と》られ何ぢや多兵衞云へぬか云へまい其寺は淺草|阿部川町《あべかはちやう》了源寺《れうげんじ》であらうコリヤ多兵衞先達て了源寺の所化《しよけ》と爲り燒場《やきば》切手《きつて》を持參《ぢさん》なし島の死骸《しがい》を千住の燒場光明院へ持込《もちこみ》棺桶《くわんをけ》を其處へ置捨《おきすて》にして逃失《にげうせ》し由又其時檀家と僞《いつは》り參《まゐ》りたる者も三人是有る趣き兩寺より訴へ出しなり其|節《せつ》のことは其方も其一人ならん此事有體に白状《はくじやう》せよ萬一|隱《かく》し立なさば嚴《きび》しく申付方有ぞと大音《だいおん》に言《いは》れしかば多兵衞は大岡殿の威權《ゐけん》に呑《のま》れわな/\爲《し》ながら心中に想《おも》ひけるは此事斯まで悟《さと》られし上はとても言紛《いひまぎら》すこと叶はず寧《いつそ》有の儘《まゝ》に申て仕舞はんと覺悟《かくご》を極《きは》め其の儀全くは嘉川の殿樣に頼まれ私儀は施主《せしゆ》に立ちて參りしに相違御座なく候と申を大岡殿聞れ成程《なるほど》汝は至極《しごく》諦《あきら》めの宜《よき》奴《やつ》能こそ眞直《まつすぐ》に白状致せしぞシテ殘りの二人は何者《なにもの》なるやヘイ是も矢張《やつぱり》嘉川樣の御家來《ごけらい》安井伊兵衞孕石源兵衞の兩人に候と言に大岡殿|宜々《よし/\》然《さ》うで有《あ》らうダガ又其の禮《れい》として主税之助より金子を何程《なにほど》取たイヤサ何程取て頼まれたと申事よと有ければ多兵衞は否々《いや/\》金子《きんす》は少しも貰《もら》ひませぬと云へば大岡殿|馬鹿《ばか》な事を云へ金でも貰《もら》はずに其樣《そんな》事を爲《す》る白痴《たはけ》が有者《あるもの》か取たなら取たと申せ何も其方が頼《たのま》れる程で金子を取たとて別《べつ》に恥《はぢ》にも成ぬ又其方の身分で其金を取ぬと申たとて別《べつ》に褒《ほめ》る處もない今申通金子を取て頼《たの》まれしとて罪の處は同じ事だぞと申さるゝに多兵衞は彌々《いよ/\》閉口《へいこう》なし實に恐れ入ました金子を別《べつ》に取て頼《たの》まれたと申ではなく少々《せう/\》計《ばか》りの酒代《さかだい》を貰《もら》ひしと云に夫は何程《いくら》だと問《とは》るればハイ一兩貰ひ候と申を大岡殿大いに笑《わら》はれコウ多兵衞|夫《それ》は餘《あま》り安いものぢやたつた一兩|位《ぐらゐ》で頼《たの》まれたか併《しか》し其の趣ぎに相違なきやとあるに多兵衞其儀は少《すこ》しも相違御座なく候と答れば大岡殿オヽ能《よく》是迄《これまで》白状致した此上の處決して陳《ちん》ずるな先是迄の處では其方の身分《みぶん》に構《かま》ひないぞ爰《こゝ》を能々《よく/\》得心して以後|尋《たづぬ》る節《せつ》は有樣に申立よ先|引立《ひきたて》いとの下知に隨ひ同心|引立《ひきたて》て入替り願山《ぐわんざん》を白洲へ引据るに大岡殿|渠《かれ》を見られコリヤ了源寺《れうげんじ》の所化《しよけ》を勤《つとめ》たる願山とは汝かことかハテサア驚くな其方が白状せぬ前に汝の兄《あに》切首《きりくび》の多兵衞が殘《のこ》らず白状して仕舞《しまつ》たは何も今更《いまさら》隱《かく》すには及ばぬイヤ汝《おの》れは勿々《なか/\》並々《なみ/\》の奴《やつ》ではないコレ願山能承まはれ汝が兄の多兵衞は潔《さつぱ》りとして小氣味《こきみ》の能《よい》奴《やつ》ぢや其方も兄《あに》の通りすツぱりと白状せよ主税之助に頼《たの》まれ島の死骸《しがい》を燒場《やきば》へ送りし時金子は何程取しぞ隱《かく》さず申せと云はるゝに願山は大いに驚き扨々《さて/\》兄は腑甲斐《ふがひ》なき奴《やつ》とは思へども今更《いまさら》陳《ちん》ずる事も出來ざれば其儀は嘉川樣に頼《たの》まれし節《せつ》金二兩|貰《もら》ひしと申ければ大岡殿笑はせられ汝《おのれ》も安い人間ぢや併《しか》し兄より利發《りはつ》者兄の多兵衞は主税之助に頼《たの》まれて島の施主《せしゆ》に立ながらたツた一兩|貰《もら》つたと申其方は二兩|貰《もら》つたと云ふが兄の施主役《せしゆやく》より汝は坊主《ばうず》丈《だけ》佛に付ては骨《ほね》が折《をれ》る了源寺の似せ切手を拵《こしら》へ又其外の氣配《きくば》りも坊主でなければ萬事|行屆《ゆきとゞ》かず其の上|掛合《かけあひ》も致す旁々《かた/″\》以て汝は大役で有たナ先々《まづ/\》其儀は夫で宜《よ》し/\シテ願山《ぐわんざん》汝が[#「願山《ぐわんざん》汝が」は底本では「願|山汝《ぐわんざん》が」]世話を致せし安間平左衞門と云ふ者は何《ど》う云ふ縁《えん》で心安く成しや此儀《このぎ》有體《ありてい》に申せと問《とは》るゝに願山は此事なりと思ひしかば其平左衞門儀は私し京都|智恩院《ちおんゐん》に居りし頃《ころ》度々|渠《か》れと出會《であひ》し故《ゆゑ》夫より懇意《こんい》になり其後私し儀御當地へ參るに付|渠《かれ》も又御當地へ下《くだ》り私しを頼《たの》みまするに因《より》世話《せわ》を致し候と申ければ大岡殿其平左衞門は京都に|居《をり》し節《せつ》何れに奉公《ほうこう》致したヘイ日野大納言樣《ひのだいなごんさま》に勤居《つとめを》りましたナニ日野家に居つたと其方は智恩院《ちおんゐん》に居た故夫で渠が世話を致したか御意《ぎよい》に御座ります大岡殿イヤハヤ夫《それ》は甚だ申口が暗《くら》いぞ其方智恩院に居つて度々《たび/\》出會《であひ》たる者を世話致すと申は第一心得ぬ事なり此後も京都に於て度々出會し者が此地へ下《くだ》らば皆《みな》世話《せわ》を致すか何《どう》ぢや京都に居る時平左衞門のみ出會《であひ》て外の者には出會《であは》ざりしか此儀は何ぢやと有に願山《ぐわんざん》恐《おそ》れながら然樣《さやう》の儀には御座なく平左衞門事は彼《か》の地《ち》にて別段《べつだん》懇意《こんい》に致せしゆゑ渠《かれ》の世話は仕つりしと云へば大岡殿|是《これ》さ願山汝|如何程《いかほど》申ても申口が闇《くら》し平左衞門|其方《そのはう》何《な》にか由縁《ゆかり》にてもあるか又は餘儀なき事にても有《あり》しか一|向《かう》左樣《さやう》なる儀もなく只々《たゞ/\》汝は京都にて渠《かれ》と度々|出會《であひ》別段《べつだん》懇意《こんい》に致したと申が然《さ》ほど別懇《べつこん》ならば渠が生國なども定めて聞たで有らう渠が生國は何國ぢやヘイ生國《しやうこく》は存《ぞん》じませぬハテサテ更《さら》に取處もない併《しか》しながら渠には何ぞ恩義にても受しことあるや然《さ》も是なき時は一向に申口は立まい何ぢや答へが出來《でき》ずば夫は追《おつ》ての事平左衞門が日野家に勤《つとめ》しは何時頃《いつごろ》の事なるやと有《ある》に願山ヘイ四年以前に御座候と申ければ大岡殿オヽ四年以前は享保《きやうほ》元年何月|迄《まで》勤《つと》めて居つたぞ願山答へて四年以前の十二月の中旬頃迄《なかばごろまで》勤《つと》めて居りましたと存じます大岡殿然らば其の時の平左衞門が名は何と申たと尋《たづ》ねらるれば願山《ぐわんざん》は暫《しば》らく考へ種々《いろ/\》の名もと云掛《いひかけ》しが否《いへ》矢張《やはり》安間平左衞門と申まして御座りますと云へば大岡殿コレ/\願山然うでは有るまい外《ほか》に名が有つた筈《はず》ぢやとてものことにすツぱりと云て仕舞《しまへ》最《も》う隱《かく》しても皆《みな》知《し》れて居《を》るサア眞直《まつすぐ》に申せと云るゝに願山は何《なに》かぐず/\云ひ兼《かね》る體《てい》を見られ大岡殿イヤハヤ意氣地《いくぢ》のなき坊主《ばうず》め疾《とく》より知れてある事を汝《おのれ》隱《かく》しだてをする大馬鹿《おほばか》めコリヤ其大帳《そのだいちやう》を是へと申さるゝ時目安方ハツと差出《さしいだ》すを取《とり》て見らるれば享保元年の帳に [#地から12字上げ]日野家《ひのけ》の家來《けらい》逐電《ちくでん》の者 [#地から7字上げ]安田平馬 [#地から4字上げ]三十九歳 [#地から6字上げ]佐々木靱負 [#地から4字上げ]三十六歳 [#ここから2字下げ] 右《みぎ》兩人の者|去《さ》る廿一日の夜|逐電《ちくでん》仕つり候に付御斷り申上候 [#ここで字下げ終わり] [#地から16字上げ]日野《ひの》大納言|内《うち》 [#ここから4字下げ] 享保元年十二月廿八日[#地から10字上げ]雜掌《ざつしやう》 [#ここで字下げ終わり] 斯の如く帳面に書留《かきとめ》之有り右日野家|家來《けらい》逐電《ちくでん》の始末は毎年八月十五日|城州《じやうしう》男山石清水八幡宮|放生會《はうじやうゑ》に付|參向《さんかう》の公家衆《くげしう》あり抑々《そも/\》此《この》正八幡宮は[#「正八幡宮は」は底本では「正天幡宮は」]其|昔時《むかし》 應神天皇を勸請し奉つり本朝《ほんてう》武家《ぶけ》の祖神なり就中源家に於ては殊《こと》の外《ほか》御尊敬《ごそんきやう》あること御先祖《ごせんぞ》八幡太郎義家公此|御神《おんかみ》の御寶前に於て御元服あつて八幡太郎と稱《しよう》し奧羽《あうう》の夷賊《いぞく》安倍貞任[#「安倍貞任」は底本では「阿倍貞任」]同宗任を征伐《せいばつ》あられしも悉々《こと/″\》く此八幡宮の神力《しんりき》に因所なれば實《じつ》に有難き御神《おんかみ》なり然ば末代《まつだい》に至る迄此御神を武門《ぶもん》の氏神《うぢがみ》と尊《あが》め奉つる事世の人の皆知る處なれば爰に贅言《ぜいげん》せず因て當時將軍家より社領《しやりやう》一萬石御|寄進《きしん》あり斯《かゝ》る目出度御神なれば例年八月十五日御祭禮の節《せつ》放生會《はうじやうゑ》の御|儀式《ぎしき》あり近國《きんごく》近在《きんざい》より其日參詣なす者數萬人及び八幡山崎淀一口其近邊は群集《ぐんじゆ》一方ならず淀《よど》の城主稻葉丹後守殿より毎年《まいねん》道普請《みちぶしん》等丈夫に申付られ當日は警固《けいご》の役人罷出て往來の非常を戒《いまし》めらる然れば今年も參向《さんかう》の公家衆《くげしう》は御三方にして例年の如く御先は花山院《くわざんゐん》中納言有信卿菊亭大納言定種卿勅使は日野大納言定立卿なり [#8字下げ]第十九回[#「第十九回」は中見出し]  斯《かく》て參向《さんかう》の公家衆例年の通り八幡宮御|寶前《はうぜん》に於て御|神拜《しんはい》終《をはり》御式路淀の城下に差掛られしが茲に木津川《きづがは》淀川《よどがは》[#「淀川」は底本では「淀」]桂川《かつらがは》と云ふ三所の大川あり是に大橋小橋孫橋といへる三橋を架渡《かけわた》し領主《りやうしゆ》稻葉家の普請《ふしん》にて今日公卿方此橋を御通行あるにより同家より警固《けいご》の人數嚴重に御道筋《おみちすぢ》を固めしが稻葉家の運や惡かりけん花山院殿と菊亭殿《きくていどの》の御二方は難なく通り給ひしが勅使大納言殿の御駕籠此孫橋へ差掛られし時|桁《けた》中途《ちうと》より折れて橋板五枚ばかりと共に日野家の御|先供《さきども》水中に落入や否や續いて大納言殿の陸尺も踏外《ふみはづ》し忽ち御|駕籠《かご》も水中へ落入既に沈《しづ》まんとする有樣に周章狼狽《あわてふためき》陸尺共は足を踏直《ふみなほ》して上らんと爲を見て稻葉家警固の者共大に驚き驚破《すはや》一大事の出來たりと大勢《おほぜい》馳來《はせきた》りて飛込々々《とびこみ/\》難なく御|駕籠《かご》も救《すく》ひ上たり尤も御駕籠半分程は水中に落入しと雖も稻葉家の役人共爰を專途《せんと》と身を惜《をし》まず働《はたら》きしゆゑ[#「働きしゆゑ」は底本では「働しきゆゑ」]大納言殿御怪我もなく御|旅館《りよくわん》へ御|供《とも》して入奉つり御裝束《おしやうぞく》を召替られ御|歸洛《きらく》有しは誠《まこと》に危き御ことなり然らば御同勢中水中に落入し者凡廿人ばかりにして此日彼の所化《しよけ》願山《ぐわんざん》も日野家へ傭《やとは》れ醫師の代を勤め大納言殿の御供に列《れつ》せしが運《うん》能《よく》水難《すゐなん》を遁《のが》れたれ共外に水死の者五人[#「五人」はママ]あり御|道具《だうぐ》荷物《にもつ》の類も落入て以の外の大騷動なれば稻葉家より水練に勝れし者を數十人撰み水中を彼方此方と尋廻《たづねまはり》漸々《やう/\》に兩人の水骸《しがい》を始め御道具類を引揚けれども御大切の御|太刀《たち》は一|向《かう》に知れず是は正しく水勢《すゐせい》早《はや》き大河なれば川下へ流《なが》れしならんとて川下の方をも猶《なほ》又人數を増して探《さが》しけれ共更に御太刀の知れざりける此の御太刀は全《まつた》く安田佐々木兩人の侍士が此騷ぎを幸ひに取隱《とりかく》し是を種として稻葉家より金子《きんす》を欺罔《ゆすり》取んと巧《たく》みしことなり此時の落首《らくしゆ》に [#ここから4字下げ] ちはやふる神代《かみよ》も聞《き》かず淀川《よどがは》に      烏帽子《ゑぼし》着《き》ながら水くゞるとは [#ここで字下げ終わり] 然《され》ば今日の變事《へんじ》に付稻葉家に於ては大いに心配《しんぱい》致され取敢《とりあへ》ず日野殿の御|機嫌伺《きげんうかゞ》ひとして家老《からう》の中を遣《つか》はされんと城代稻葉|勘解由《かげゆ》を以て京都日野方へ參入致させ種々《しゆ/″\》の音物《いんもつ》山の如く贈られて今日の變事《へんじ》を詫《わび》入太守も深《ふか》く心配《しんぱい》致さるるに付大納言樣御|機嫌伺《きげんうかゞ》[#ルビの「きげんうかゞ」は底本では「きげけんかゞ」]ひとして參上仕つり候と申述るに日野家の青侍士《あをざむらひ》安田平馬佐々木|靱負《ゆきへ》の兩人|兼《かね》て申し合せ今度の儀を幸《さいは》ひ稻葉家へ捻込《ねぢこみ》大金を掠《かす》め取るべしと思ひし機《をり》から故大いに悦《よろこ》び兩人は立出是は/\勘解由《かげゆ》殿には能《よく》こそ御入來只今の御口上の趣《おもふ》き痛《いた》み入候主人儀は別段變る事も是なく併し此度の儀は 勅使《ちよくし》として石清水《いはしみづ》へ御參向の御道筋なれば豫々《かね/″\》道《みち》橋《はし》修繕等是有るべきの處右の始末《しまつ》勿々《なか/\》言語《ごんご》に絶《たえ》たる事急ぎ此趣き關東へ申達し江戸表の御|差※[#「圖」の「回」に代えて「面から一、二画目をとったもの」、601-18]《さしづ》に任せ申べき間|然樣《さやう》心得られ此段丹後守殿へ申達さるべしと然《さ》も仰々《ぎやう/\》しく云ければ勘解由《かげゆ》は甚だ當惑《たうわく》の體にて此儀江戸表へ伺ひ候存じ寄に候はゞ某し斯《かく》推參《すゐさん》仕つらず只々何分にも御兩人の御|熟懇《じゆくこん》を以て波風なく御|執計《とりはから》ひ下され候樣頼み奉つり候と申ければ此樣子を見て安田佐々木兩人は仕濟《しすま》したりと心中に悦び彌々《いよ/\》※[#「圖」の「回」に代えて「面から一、二画目をとったもの」、602-3]に乘て大柄面《おほへいづら》をし此儀大納言殿には元より穩便《をんびん》を好まるゝと雖も御|同行《どうかう》成《なさ》れし御|兩卿《りやうきやう》方の手前もある故|餘儀《よぎ》なく斯は御談じ申せしなり然《さり》ながら爰に一つお頼み申度儀御座候其事御承知に候はゞ拙者共何とか工夫《くふう》致し取り扱ひ申すべく其の譯《わけ》は近來《きんらい》當家も勝手向《かつてむき》至《いたつ》て不手廻《ふてまは》りに付殊の外御難儀成れ見らるゝ如く御殿の普請《ふしん》も打捨置《うちすておき》候次第ゆゑ此度の御|謝物《しやもつ》の御心得にて少々|金子《きんす》を御家より御用立られては如何や然《さ》有《あ》る時は双方共無事にして宜からんと云を聞勘解由は打喜び金子にて相濟《あひすむ》事なれば何とか取計ひ申すべしシテ其の金高は何程なるやと申に安田佐々木の兩人は右金高は先《まづ》水死《すゐし》二人の代り金二千兩御|道具《だうぐ》の中御太刀一|口《ふり》銘《めい》は來國行《らいくにゆき》是は別て御大切の御品成ば此代金千兩外御道具代金三百兩都合三千三百兩右の如く借用致され度《たし》と書付を出しければ勘解由は眉《まゆ》に皺《しわ》を寄《よせ》扨々《さて/\》是は餘り大金|若《もし》此事世間へ相知れ候時は双方《さうはう》共宜からず此儀は御|用捨《ようしや》に預《あづ》かり度と申けるを兩人は聞て大に憤《いきど》ほり然らば勝手次第如何樣とも仕つる三千三百兩を大金と申さるゝが御主人丹後守殿御|身上《しんじやう》に較《くら》べて見る時は實《まこと》に易きこと十萬石餘の大名少々の金子を出し兼て此方より申達なば家も領地《りやうち》も棒《ぼう》に振るべし大切の 勅使御參向の砌《みぎ》り橋の手薄《てうす》にて水中へ落されしと有ては 天子へ刄向《はむか》ふも同然|逆罪《ぎやくざい》の咎《とが》遁《のが》るべからず爰を存じて無事に扱はんと申を彼是御邊申さるゝからは詮方《せんかた》なく此趣き江戸表へ早々《さう/\》達し申さんと言放《いひはな》しければ勘解由大いに驚き先々御待ち下さるべし全く金子を惜《をし》むに非ず此上は兎《と》も角《かく》も仰《おほ》せに任すべしと早速金子を取寄せ日野家へ用金と號して右の高三千三百兩|進上《しんじやう》致し何分宜敷頼み上ると申し置《おき》て勘解由は立歸り諸司《しよし》代松平丹波守殿へは此事を輕《かる》く屆に及びたり然れ共松平殿は内々《ない/\》承知致され日野家の致し方を甚だ憎《にく》まれ又稻葉守も[#「稻葉守も」はママ]卑怯《ひけふ》未練《みれん》の事なりと申されけるとなり [#8字下げ]第二十回[#「第二十回」は中見出し]  扨《さて》も城代《じやうだい》稻葉勘解由は主《しう》家を大切に思ふが故|是非《ぜひ》なく三千三百兩の金子を差《さし》出し此度の一件事故なく濟《すま》せしかば先は稻葉守[#「稻葉守」はママ]上下の者|安堵《あんど》[#ルビの「あんど」は底本では「あいど」]はなしたれども未だ淀川へ沈《しづ》みし太刀の出ざれば毎日人夫を出して淀川の上下を吟味に及けれど一向知れざれば因て暫《しばら》く其儘に打|過《すぎ》誰《たれ》一人此事を安田佐々木兩人の惡巧《わるたく》みと知る者なく斯|惱《なやみ》しは是非もなし然るに安田佐々木の兩人は充分|事《こと》調《とゝ》のひしと大いに喜び三千三百兩の金を密《ひそ》かに分取《わけとり》にして毎日物見遊山に出かけしは是則ち三日極樂とも謂つべし尤《もつと》も安田は強慾《がうよく》の曲者《くせもの》ゆゑ此金子を一向に遣ず佐々木の奢《おごり》を見て苦々《にが/\》しき事に思ひ御邊斯大金を遣ふ時は忽《たちま》ち足が付諸司代より直に吟味と成んにより此金を資本として何ぞ吉事《よきこと》に有付工夫をなし給へと異見しけれども佐々木は一向聞入ず湯水の如くに遣ひける故果たして松平丹波守殿此事を聞込《きゝこま》れ扨こそと早速《さつそく》吟味をせんとて日野家へ承まはる可《べき》儀有之候間安田|平馬《へいま》佐々木|靱負《ゆきへ》の兩人當役所へ差出さるべしと達しられしかば日野家に於ては何ごとならんと怪しまれしが安田佐々木の兩人は豫《かね》て覺《おぼ》えのあることなれば素知《そし》らぬ面は爲すものゝ心中に南無三|寶《ばう》と思ひ其夜|竊《ひそか》に兩人并びに願山とも申合せ跡を暗まし逐電して江戸表へぞ下りける是に因《よつ》て日野家より右の旨《むね》所司《しよし》代へ屆られければ松平殿甚だ殘念に思はれ此段江戸表へ達し是より兩人の行方《ゆくへ》御尋ねとなりたりけり扨又安田は江戸にて安間平左衞門と改名して願山の兄《あに》多兵衞を頼《たの》み彼の金子を以て何方《いづかた》へか住込|仕送《しおく》り用人に成んと心掛けしに幸ひ嘉川家にて仕送り用人を召|抱《かゝ》へたしとのことに付多兵衞を請人《うけにん》として主税之助方へ住込しなり寔《まこと》に此平左衞門は斯の如くの曲者ゆゑ大岡殿再度願山を吟味なさんと工夫有て日野家よりの屆を調べられし上又|白洲《しらす》を見られコリヤ願山其平左衞門には外に名が有筈なり其頃は汝《なんぢ》も同じ京都に居たる故知つて居ならん何ぢや答《こたへ》が出來ずば此方より云つて聞《きか》せん彼は日野家の雜掌《ざつしやう》安田平馬と云し者ならん四年以前|逐電《ちくでん》の節《せつ》書上《かきあげ》に三十九歳とあり歳頃も丁度《ちやうど》似合なり汝隱し立をすると其方にも罪が掛るぞ有體に白状致せと有ければ願山は仰天《ぎやうてん》して思ふ樣は斯まで委《くは》しく知らるゝ上はとても叶《かな》はぬ處と覺悟をなし京都にありし頃佐々木安田の兩人は惡巧《わるだくみ》により稻葉家の家老稻葉勘解由を欺《あざむ》き金三千三百兩を掠《かす》め取しことを始め其外の惡事等|迄《まで》殘《のこ》らず申立ければ大岡殿能白状致した猶《なほ》追《おつ》て吟味に及ぶと申さるゝに下役《したやく》の者立ませいと聲《こゑ》懸《かけ》頓《やが》て願山を退ぞかせけり [#8字下げ]第二十一回[#「第二十一回」は中見出し]  諺《ことわ》ざに其事|爾《なんぢ》に出て爾に復《かへ》ると宜《むべ》なる哉此言や所化《しよけ》願山の白状《はくじやう》に因て再度日野家の一件委|細《さい》吟味有るべしと大岡殿|差※[#「圖」の「回」に代えて「面から一、二画目をとったもの」、604-7]《さしづ》あつて平左衞門を呼び出されしに平左衞門は又何をか尋《たづ》ねらるゝやと白洲《しらす》に蹲踞《かしこま》る時に大岡殿平左衞門を見られ汝先年日野家に於て雜掌役《ざつしやうやく》の節は安田平馬と名乘しかと尋ねられければ平左衞門|吃驚《びつくり》なせしかども飽《あく》まで大膽《だいたん》者ゆゑ此事何所までも押隱《おしかく》さんとおもひ私し儀は然樣《さやう》の名にては御座なく候と云へば大岡殿|打笑《うちわら》はれイヤ平左衞門又しても隱《かく》し立を致すか汝は存じの外|未練《みれん》な奴《やつ》ぢや汝が懇意《こんい》にせしと云願山が其方并に靱負《ゆきへ》の事まで殘らず白状《はくじやう》に及びたるぞ其方と靱負《ゆきへ》兩人にて勘解由を欺《あざむ》き三千三百兩|掠《かす》め取し事|眞直《まつすぐ》に申立よと云はれしかば扨《さて》は願山が白状せしか此上は是非《ぜひ》もなしとて心を定め京都《きやうと》日野家に仕へし節《せつ》の惡事《あくじ》殘らず白状に及ければ大岡殿|神妙《しんめう》なりシテ又其方は何故京都を逃亡《かけおち》致せしぞ及|靱負《ゆきへ》は其後|如何《いかゞ》なせしやと尋《たづ》ねらるゝに平左衞門其儀は只今《たゞいま》申上し通り稻葉殿より贈《おく》られし金子を分取《わけとり》に致し靱負《ゆきへ》は日々|遊興《いうきよう》に遣《つか》ひ候により所司代は不審《ふしん》におもはれしにや日野家へ御|訊尋《たづね》の儀有之に付我々兩人差出べき旨《むね》掛合《かけあひ》御座候間右の大金を掠《かす》め取し事萬一|露顯《ろけん》に及ぶ時は主人の家の難儀《なんぎ》ならんと存じ兩人申合はせ逐電《ちくでん》仕つり候と申立しにぞ然《しか》らば又々|吟味《ぎんみ》に及ばんと先今日は下《さが》れと有て此段|早速《さつそく》老中《らうぢう》方へ申達されければ井上《ゐのうへ》河内守殿より稻葉侯城代稻葉勘解由へ聞糺《きゝたゞ》すべき儀有之間勘解由を江戸表へ早々《さう/\》差下《さしくだ》し大岡越前守役所へ差出さるべしとの達《たつ》しに稻葉家に於ては大いに驚《おどろ》き急使《はやうち》を以て國元へ申遣はせしかば國元にても種々《いろ/\》評議に及び是は先達《せんだつ》て大金を差出せし御咎ならん此度江戸表へ罷《まか》り出る時は必ず切腹《せつぷく》にても致さずんば申|譯《わけ》立難しとの事にて誰一人|勘解由《かげゆ》に附添《つきそひ》下向《げかう》せんと云者なく其座白けて見えにける豫て覺悟《かくご》の勘解由は進み出て各々《おの/\》は此度の儀を恐れらるゝにや主人の仰せ殊に御奉書《ごほうしよ》の上は一|刻《こく》も延引すべからず最初《さいしよ》より某しは此儀に係り此度の御召《おんめし》も皆々勘解由の所業《しわざ》なれば只今より我一人下向致さん各々は御|國許《くにもと》を守られよと云ひ捨て我が方へ歸り妻子《さいし》にも此ことを物語《ものがた》り此度の一件申|譯《わけ》なくは我主家の爲自害致さんにより其時は汝等必ず歎《なげ》くべからずと能々《よく/\》後《あと》のこと共申置勘解由は發足《ほつそく》なし道中取|急《いそ》ぎて日ならず江戸小川町の上屋敷へ着し其旨|太守《たいしゆ》へ申ければ|丹後守《たんごのかみ》殿早速御召有つて日野家の一件御|訊尋《たづね》申に勘解由は委細を申述此事|少《すこし》も御苦勞|遊《あそ》ばられな私し宜敷申譯仕らんとて御前を退き到着の旨老中方へ御屆けに及びけるに大岡越前守殿|役宅《やくたく》へ罷《まかり》出べき段御達に付勘解由は翌日|未明《みめい》に南町奉行所へ出にける大岡殿|出座《しゆつざ》有て其方事先達て 勅使《ちよくし》石清水《いはしみづ》八幡宮へ御參向の砌《みぎり》日野家歸路の災難に付|種々《しゆ/″\》取扱ひ其節金三千三百兩同家へ贈《おく》りしと云ふ事相違|無《なき》やと訊尋《たづ》ねられしかば勘解由は平伏《へいふく》なし御尋ねの如く其節損じ候|御道具《おだうぐ》代金《だいきん》と致し差出せし事相違御座なく候と申けるに大岡殿附添の留守居へ向はれ然らば今日は先《まづ》退《たい》出致すべし追て呼出す間吟味中|屹度《きつと》愼《つゝし》ませ置べしと申渡され夫より又此段京都所司代松平丹波守殿へ急使《はやうち》にて申送られければ松平殿是を聞れて偖《さて》こそと思され急ぎ日野家へ使者を以て申入らるゝは此度江戸表より問合《とひあは》せの儀有之る間大納言殿御内|雜掌《ざつしやう》一人早々江戸表へ下向有るべし尤も道中の儀滯りなく此方より申付|差添《さしそへ》人一人同道致させ申べしとの口上なり日野家に於ては大きに驚《おどろ》き是は先達て逃亡《かけおち》せし安田佐々木の事ならん然し何樣《どのやう》なる間違ひ有るも知れずと殊の外大納言殿御苦勞に御召《おぼしめさ》れ家老山住河内へ其段|仰《おほせ》られければ山住聞て君少しも尊慮《そんりよ》を苦しめ給ふまじ私し關東へ下り申|開《ひら》き仕つらん此儀全く稻葉家の不覺《ふかく》と申ものなれば頓《やが》て歸京仕つり吉左右《きつさう》申上奉つらんと申て山住は江戸表へ下向致しけるに所司代《しよしだい》よりは豫て此旨|急使《はやうち》を以て老中方へ通達に及ばれしかば大岡殿へ達《たつ》せられ到着《たうちやく》の翌日山住河内を奉行所へ呼出され越前守殿|對面《たいめん》有に山住は謹《つゝし》んで平伏《へいふく》なし某儀《それがしぎ》は日野家の御内山住河内と申者に候此度御用有るに付|召呼《めしよば》れしは如何なる儀に候やと申ければ大岡殿|然《さ》れば此度の事餘の儀に非ず先年|石清水《いはしみづ》八幡宮|放生會《はうじやうゑ》の節大納言殿參向致され其頃歸路に淀の孫橋《まごばし》落て大納言殿始め大勢《おほぜい》の人夫其外御道具類水中に流れ候と承《うけた》まはる其|砌《みぎり》日野家より稻葉丹後守方へ此事を種々《しゆ/″\》に申入られ稻葉の使者より金子三千三百兩取れ候段|其頃《そのころ》御内の安田平馬佐々木|靱負《ゆきへ》兩人の計《はか》らひにて其實右兩人の者是を取候由なれども日野家に於《おい》て是を心得居られ候や其|眞僞《しんぎ》を糺《たゞ》さん爲御邊を召寄たりと申されければ山住は御尋ねの趣き成程|然樣《さやう》の儀も御座候故兩人の者|逐電《ちくでん》仕つり候儀と相見え候併し其節|私《わたく》し儀は病氣にて引籠《ひきこも》り居《を》り一向存じ申さず渠等《かれら》兩人の私欲《しよく》により稻葉家の使者を欺き大金を取し事は相違御座なく併し主人儀は一向存じ申さず候事ゆゑ全く欺《あざ》むかれ候は使者の不覺ならんか卑《いやし》くも日野大納言は清華《せいくわ》の一人何ぞ金銀を奪《うば》ひ取事の候べき此儀は渠等《かれら》を御吟味下されよと申ければ大岡殿|聢《しか》と然樣《さやう》かと有に仰の通に候と申て山住は退出《たいしゆつ》爲《し》たりけり [#8字下げ]第二十二回[#「第二十二回」は中見出し]  斯《かく》て大岡殿山住河内が申に因《より》て早速稻葉勘解由を呼出され其方先達て差出せし金子《きんす》日野家にては一向知らざる由全く其方の不覺《ふかく》にして安田佐々木の兩人に欺《あざむ》かれ掠《かすめ》取るゝ條《でう》家老も勤むる身に似合《にあは》しからず立歸り猶《なほ》屹度《きつと》愼《つゝし》み罷り在べしと以の外に叱《しか》られしかば勘解由は駭《おどろ》き答べき言葉なく寥々《すご/\》と屋敷へ歸り此段主人へ申しければ丹後守殿大きに驚かれ扨々《さて/\》金子《きんす》は惜《をし》むに足らずと雖も我|思慮《しりよ》なく青侍士《あをざむらひ》共に欺かれしなどと人口に懸《かゝ》らんこと殘念《ざんねん》なり併し今更|悔《くゆ》るも益《えき》なし兎に角愼み罷在|公儀《かみ》の御沙汰を待《まつ》べしと申付られしかば勘解由は我が家に歸り一|間《ま》に籠《こも》りて居たりしが獨《ひと》り倩々《つら/\》考ふるに我大金を掠《かす》め取られ剩《あまつ》さへ主人の名迄|穢《けが》せし事何として人に面の向られべきや此上は切《せめ》て自害して申譯せんと覺悟を極《きは》め終《つひ》に切腹《せつぷく》せしこそ哀《あは》れなれ然《され》ば此由丹後守殿聞れて甚《いた》く周章《しうしやう》ありしかど詮《せん》なければ早速老中方へ屆《とゞけ》られしに付其の段大岡殿へ達せられしかば大岡殿此上はとて平左衞門を嚴敷《きびしく》拷問《がうもん》に掛られし所|終《つひ》に包《つゝ》み藏《かく》す事能はず是迄の惡事《あくじ》追々《おひ/\》白状にぞ及びける又平左衞門が宅を穿鑿《せんさく》なせしに遣《つか》ひ殘《のこ》りの金子六百兩出たり(是は勘解由より欺《あざむ》き取し金子八百兩|有《あり》しを立花|左仲《さちう》は此|騷動《さうだう》を聞と|等《ひとし》く安間《あんま》の宅《たく》へ忍《しの》び入二百兩|奪《うば》ひ取りて逐電《ちくでん》せしかば嘉川《かがは》家|宅番《たくばん》の者より此段大岡殿へ屆け出しなり)然ば平左衞門の惡事《あくじ》彌々《いよ/\》明白《めいはく》なりと雖も彼の佐々木|靱負《ゆきへ》が行方を猶《なほ》吟味《ぎんみ》有べしと是を尋ねらるゝに平左衞門|渠《かれ》は先年日野家を逐電《ちくでん》の節《せつ》大津迄同道せしが夫より分れて渠《かれ》は三井寺の方へ行私し儀は願山《ぐわんざん》諸共《もろとも》に江戸へ下向致せしにより其後|靱負《ゆきへ》の行方|更《さら》に心得申さずと云ゆゑ然らば是非《ぜひ》に及ばず併し其方|生國《しやうこく》は相州《さうしう》と申たれども是又|僞《いつは》りならん眞直《まつすぐ》に申せと有ければ平左衞門|彌々《いよ/\》驚《おどろ》き斯《かく》見透《みとほ》さるゝ上はとても叶はじと思ひ私し生國《しやうこく》實《じつ》は江州《がうしう》井伊家《ゐいけ》の藩《はん》にて山田|藤馬《とうま》と申者の悴《せがれ》に候處|幼少《えうせう》の頃《ころ》兩親に別れ我|儘《まゝ》に身を持崩《もちくづ》し十七歳の時|浪人《らうにん》仕つり其後京都に出て日野家に奉公致し候と茲に至つて實の素性《すじやう》を白状《はくじやう》に及びけり [#8字下げ]第二十三回[#「第二十三回」は中見出し]  茲《こゝ》に又佐々木靱負は日野大納言殿に仕へ同勤《どうきん》安田平馬と申合せ稻葉家の老臣《らうしん》稻葉勘解由を十分に欺《あざむ》き大金を掠《かす》め取安田と兩人|分取《わけどり》になし其金をもつて遊興《いうきよう》なしける中平馬靱負の兩人相尋ねべき儀《ぎ》是《これ》あるに付|所司代《しよしだい》御役宅《おやくたく》へ差出すべく旨日野殿へ掛合《かけあひ》ありしかば南無《なむ》三|寶《ばう》と思ひ兩人申合其の夜の中に日野家を逐電《ちくでん》して願山《ぐわんざん》を誘引《さそひ》大津|迄《まで》來《きたり》しが不※[#「圖」の「回」に代えて「面から一、二画目をとったもの」、607-14]《ふと》心中に思ひけるは我々斯三人打連立ては豫《かね》て諸司代《しよしだい》も目を着《つけ》しやうゆゑ江戸|表《おもて》へも注進《ちうしん》ありしは必定なり然樣の所へ空然々々《うか/\》と行見付られなば一大事我は泉州《せんしう》堺《さかひ》に少々|知音《しるべ》有により彼方へ尋ね行身の落付を定めんと覺悟《かくご》なし我は三井寺を見物なし後《あと》より追付んとて平馬《へいま》願山《ぐわんざん》と袂《たもと》を分ち頓《やが》て泉州《せんしう》堺《さかひ》を心指して行けるに日の中は世間を憚《はゞか》るにより夜に入りて伏見《ふしみ》より夜船《よふね》に打乘《うちのり》翌朝《よくてう》大坂八|軒屋《けんや》へ着茲にて緩々《ゆる/\》と休み日の暮《くる》るを待て夜食の支度《したく》して爰を立出泉州|堺《さかひ》に着し知音《ちいん》の方を尋ねけるに其知音と云は至つて貧敷《まづしく》日々人に雇《やと》はれ幽《かす》かなる煙《けふ》りも立兼ねるものなりしが先爰に匿《かく》れて逗留《とうりう》し能き傳手《つて》を以て片田舍へ引籠《ひきこも》り遣ひ殘《のこ》りし金にて何とか能|思案《しあん》なすべしと思ひて彼是半月餘りも過《すご》しけるに知音《しるべ》の者は日々の暮しに指閊《さしつか》え難儀《なんぎ》の樣子《やうす》なるにぞ靱負《ゆきへ》は氣の毒に思ひ或日|懷中《くわいちう》より金五兩取り出し紙へ捻《ひね》りて主《あるじ》に對《むか》ひ御邊《ごへん》今日の營み是ぞと申程の事もなく日々雇の稼《かせぎ》を致さるゆゑ我れ永々|逗留《とうりう》なす事甚だ氣の毒に思ふなり是は少しなれども先《まづ》暮《くら》し方の足にも致されよと渡すに主は大いに驚《おどろ》き是は思ひも寄《よら》ぬ事を仰《おほ》せらるゝものかな我等|御覽《ごらん》の如く是ぞと申|業《たつき》もなき故其日の手當《てあて》も甚だ乏《とぼ》しきを見兼《みか》ね給ふは御道理《ごもつとも》なれども我等事|生《うま》れ付|無能《むのう》ゆゑ是非なく斯《かく》暮《くら》し候まゝ日々|進《まゐ》らする物も心に任せず右さへ御厭《おいと》ひなくば假令《たとへ》此上何時迄居らるゝとも決して御氣遣ひに及ばずとて押返《おしかへ》しければ靱負《ゆきへ》は首《かうべ》を振《ふり》否々《いや/\》然に非ず此は此程|手土産《てみやげ》にても持參すべきなれども其代りに進ぜるなりと種々申て漸々《やう/\》受納《うけをさ》めさせ猶《なほ》靱負《ゆきへ》は申樣我等未だ少々の資本《しほん》もあれば何ぞ一|目論見《もくろみ》致し度思ふなり何と金貸渡世《かねかしとせい》は如何有らんと相談《さうだん》なせば主は駭《おどろ》き御身何程の金を持給ふか知ねども當地の金貸渡世《かねかしとせい》は大坂《おほさか》掛《かけ》て極大身代《ごくだいしんだい》の者なりと云に靱負《ゆきへ》は否《いや》彼《か》の大身代の金貸渡世とは違ひ小體《こてい》に致し手早く高利《かうり》を貸《かさ》んと思ふなりと申せば主は聞て夫は何共申|難《がた》し當時の人氣にては甚だ危《あやふ》し熟《とく》と考へ給へと云ふゆゑ靱負《ゆきへ》は先々急ぐ事にも非ずと其日は夫なりにて主も雇の約束《やくそく》あれば出行ける扨靱負は後に倩々《つく/″\》と思案《しあん》して今渠と話見たれども當時にて右樣の渡世をする時は京都へ程近ければ勿々《なか/\》危し何れにも片田舍《かたゐなか》へ引込《ひつこん》で外は工夫せんと思ひしが兎角《とかく》心落付ず彼是と考へ居たる中主も歸り來りければ靱負は主に對《むかひ》當地は斯土地|柄《がら》も能事ゆゑ上手なる易者《えきしや》あらずやと云ひければ主は點頭《うなづき》當所には名高《なだか》き易者《えきしや》にて白水翁《はくすゐおう》と申あり寔《まこと》に名人なりと云ひければ靱負《ゆきへ》は大きに悦び然らば今日は最早《もはや》夕陽《せきやう》に及びしゆゑ明日參るべしとて目録《もくろく》など用意《ようい》に及びけり抑々《そも/\》此|白水翁《はくすゐおう》と云《いふ》は能《よく》人の禍福《くわふく》吉凶《きつきよう》を判斷《はんだん》し成敗《せいはい》を指《さす》に其人の年|齡《れい》月日時を聞て卦《け》[#ルビの「け」は底本では「けい」]を立|考《かんが》へを施《ほど》こし云ふ事實に神《かみ》の如く世の人の知る處なり扨翌日にも成りければ靱負《ゆきへ》は其身の吉凶《きつきよう》を見ることゆゑ沐浴《もくよく》して身體《しんたい》を清《きよ》め彼の白水翁《はくすゐおう》の方へ到りて頼みければ白水翁靱負に對ひ年|齡《れい》生れし月日等を聞|卦《け》を立て良《やゝ》久敷《ひさしく》考へ居たりしが靱負に向ひ此|卦《け》は甚だ占《うらな》ひ難し早く歸り給へと云ふに靱負《ゆきへ》如何にも心得ぬ面色《おももち》にて某しの卦は何故に占《うらな》ひ難《がた》きや察する所|卦《け》の表《へう》吉《よ》からざれば白地《あらは》に示し難きならんか然ども故意《わざ/\》參《まゐ》りしこと故何事なりとも忌憚《いみはゞか》りなく占《うらな》ひ下されよと云ひければ白水翁|頭《かしら》を左右《さいう》に振《ふり》我元より言葉《ことば》を飾《かざ》らざるが故に其許の易《えき》は申されずと云ふ靱負問て今も申如く假令如何なることなりとも苦しからず夫を聞ん爲斯來りしなり是非とも語り給へと云ひければ白水翁|左程《さほど》に申さるゝことならば是非なきにより語り申さん先づ此|卦《け》に因《よる》時《とき》は其|許《もと》正《まさ》に死《し》し給ふべしと申に靱負《ゆきへ》は呵々《から/\》と笑《わら》ひ何人か世に生れて死せざるの道理《だうり》あらんや我幾年の後死するや白水翁《はくすゐおう》曰く今年死し給はん今年何月に死すべきや今年今月死し給ふべし今月幾日に死するや今年今月今日死し給ふべしと云にぞ靱負《ゆきへ》は心中大いに憤《いきどほ》りて再度《ふたたび》問ひけるは時刻《じこく》は何時なるや白水|答《こた》へて今夜三|更《かう》子《ね》の刻《こく》に死し給はん靱負は思はず詞《ことば》を荒《あら》らげ今夜實に死しなば萬事|夫限《それかぎ》り若《もし》死せずんば明日|貴殿《きでん》を只は差置難《さしおきがた》しと云に白水翁夫は道理《もつとも》なり其許明日まで恙《つゝが》なくんば來つて我首《わがくび》を取給へと申せば靱負は渠《かれ》が言葉《ことば》の強《つよ》きを聞て彌々《いよ/\》憤《いきど》ほり白水を床《ゆか》より引下し拳《こぶし》を上て既《すで》に打《うた》んとなす此時|近邊《きんぺん》の者先刻よりの聲高《こゑだか》を聞付何ことやらんと來りしが此體《このてい》を見て周章《あわて》て捕押《とりおさ》へ種々靱負を宥《なだめ》ける故靱負は心付我は今日|蔭《かげ》の身なり殊に京都へ程近き所にて斯《かく》騷《さわ》がしきことを仕出し萬一京都の人の目にも掛る時は此身の一大事に及ばんと人の中裁《ちうさい》を幸ひに早々|立歸《たちかへ》りしが[#「立歸りしが」は底本では「立歸りがし」]靱負は主に對ひ白水翁の方へ參り斯樣々々《かやう/\》云々也《しか/\なり》と有し事共|物語《ものがたり》しかば主は驚き白水翁が斯申時はと思ひながら靱負の樣子を見るに今夜|子《ね》の刻《こく》に死する者が斯《かく》健《すこや》かに有べき樣もなし如何なれば翁《おう》が斯樣の事を云しかと不審《ふしん》するも道理《ことわり》ぞかし然れば靱負は甚だ氣色《きしよく》を損《そん》じ居ける故主は昨日|貰《もら》ひし金子《きんす》にて酒《さけ》肴《さかな》を調《とゝの》へ來り左右《とかく》物《もの》事は祝《いは》ひ直さば凶《きよ》[#ルビの「きよ」はママ]も吉《きち》に變《へん》ずべしと申|勸《すゝ》め兩人して酒宴《しゆえん》を催《もよほ》せしが靱負《ゆきへ》は元より好《すき》な酒《さけ》ゆゑ主が氣轉《きてん》の熱《あつ》がんに氣を取直して快《こゝろ》よく獻《さし》つ酬《さゝ》れつ飮《のみ》居《ゐ》たりしが何時しか日さへ暮果《くれはて》て兩人共|睡眠《ねむり》の氣ざし肱《ひぢ》を枕《まくら》にとろ/\と睡《まどろ》むともなしに寢入《ねいり》しが早三|更《かう》の頃《ころ》靱負は不※[#「圖」の「回」に代えて「面から一、二画目をとったもの」、610-1]《ふと》起上《おきあが》り其のまゝ爰を飛出《とびいだ》しける故主は何事なるやと狼狽《うろたへ》ながら後より追馳《おひかけ》行しに其|疾《はや》き事|飛《とぶ》が如く勿々《なか/\》追着《おひつく》事能はず待ね/\と呼止《よびとむ》れど靱負は一向|耳《みゝ》にも入ず足に任せて馳行《はせゆき》しが頓《やが》て海邊《うみべ》に到り波《なみ》の上を馳行《はせゆく》事|陸地《くがち》を歩行《あゆむ》がごとくなれば主は膽《きも》を消《け》しアレヨ/\と呼はりける其間に靱負は遙《はる》か沖《おき》の方へ行し樣子なれども星明《ほしあか》りゆゑ今は定かに見え分ず主は漸々《やう/\》に波打際《なみうちぎは》へ馳《はせ》來りて透《すか》し見れば早靱負が姿《すがた》は影《かげ》もなく末白波《あとしらなみ》となり行しは不思議《ふしぎ》と云ふも餘りありと暫時《しばし》呆然《ばうぜん》と海原《うなばら》に立たりしが何時《いつ》迄斯て居るとも更に其|甲斐《かひ》なければ詮方《せんかた》盡《つき》て立歸りしが如何にも不思議は晴《はれ》ざりしとぞ [#8字下げ]第二十四回[#「第二十四回」は中見出し]  偖又嘉川主税之助の用人安間平左衞門と共に惡事《あくじ》に加《くはゝ》りし立花左仲は主人主税之助并に同役平左衞門共に評定所《ひやうぢやうしよ》へ呼出されしかば我身の事を倩々《つら/\》考ふるに我今此屋敷を出て何方へ仕官を望む共|召抱《めしかゝ》へらるべき樣なし然とて空然々々《うか/\》當屋敷に居る時は頓《やが》て平左衞門同樣に呼出さるべし尤も我|差《さ》せる罪《つみ》を作りし事はなしと雖も主人并に平左衞門の惡事に掛りし事も有れば其罪申し開くべき道なし猶又お島の事も我主人と共に責惱《せめなやま》せし事もあり全く殺《ころ》せしは平左衞門なれども彼是《かれこれ》と惡に與《くみ》せし事なれば何れの途《みち》にも申譯立難し如何はせんと種々《いろ/\》工夫《くふう》を運《めぐ》らしけるに平左衞門が金子を所持《しよぢ》なす事を豫《かね》て知りければ或夜安間が宅へ忍入|箪笥《たんす》の錠をこぢあけ二百兩の金を盜《ぬす》み取其儘屋敷を忍び出夜に紛《まぎ》れて千住の方へと行たりけり此左仲は元《もと》下總《しもふさ》銚子在《てうしざい》の百姓の悴なりしが江戸へ出て御旗本を所々《しよ/\》渡り侍士《さぶらひ》を勤め夫より用人|奉公《ほうこう》をなし流れ/\て嘉川家へ入《いり》込しに當時嘉川の評判《ひやうばん》惡《あし》き故|自《おのづ》から知音《ちいん》の人も遠《とほ》ざかりしにより常陸《ひたち》筑波《つくば》山の近邊に少しの知音を便《たよ》り行んと千住へ出筑波を指《さし》て急ぎしが先江戸|近邊《きんぺん》を夜の中に通り拔《ぬ》け流石《さすが》晝中は人目を憚《はゞか》り密《ひそ》かに彼の盜み取し二百兩の金にて宿場《しゆくば》の飯盛《めしもり》女を揚げて日を暮し夜に入るを待て其處を立出で夫より松戸の渡しも漸々《やう/\》通り越|小金《こがね》が原《はら》に差掛りけるに扨|物淋《ものさび》しき原中ゆゑ先腰なる摺燧《すりひうち》を取出《とりいだ》し松の根に尻《しり》打掛《うちかけ》煙草|燻《くゆ》らす折柄|後《あと》より尾來《つけきた》りしと見えて一人の大の男腰に長刀《なががたな》をぶつ込み左仲の側《そば》へ衝《つ》と來りて旅人は何れへ行るゝや日の中は能き慰《なぐさ》みをなし夜を掛ての一人旅樣子あり氣な御人なり我等は夜道《よみち》が大いに勝手《かつて》なれば御同道申べし其火を爰へ貸給へと竹火繩《たけびなは》を左仲が煙管《きせる》の元《もと》へ差出《さしいだ》すにぞ左仲は愕然《ぎよつ》となし思はず震《ふる》へ出せし體を見るより彼の者は莞爾《につこ》と笑ひ左仲が側へ同じく腰《こし》打掛《うちかけ》旅人《りよじん》は何等の用《よう》にて斯《かく》夜道を致さるゝやと云ひけるに左仲は最初《さいしよ》より一言も云はず居たりしが彼の者の容體《ようだい》を見て大いに恐れ渠《かれ》紛《まぎ》れもなき盜賊なるべし我渠を見しより思はず恐怖《おそれ》し事故我弱みを見て斯《かく》馴々敷《なれ/\しく》傍《そば》へ寄《より》種々《いろ/\》と申なるべしと思ひ内心には甚だ怖恐《おそれ》しなれども爰ぞ我身の一大事一生懸命に肱《ひぢ》を張落付たる體《てい》にて我等は行先未だ決せず其譯は我《われ》召使《めしつか》ひたる仲間《ちうげん》に貯への金子を一|昨夜《さくや》奪《うば》はれ逐電《ちくでん》致せし故夫を捕へんと斯《かく》夜道も厭はず通るなり御邊《ごへん》は又|何故《なにゆゑ》此處を今時分通らるゝやと申ければ彼者《かのもの》は左仲が樣子は晝の中より篤《とく》と見濟し又左仲が懷中《くわいちう》に金子《きんす》のある事も知りたれば斯《かく》後《あと》より尾來《つけきた》りし故今左仲が申を聞て大いに笑ひ御身は賊《ぞく》に逢《あ》ひ夫を捕へん爲《ため》追行《おひゆく》と云給へど千住にて今朝より暮方迄《くれがたまで》女を相手に快樂《たのしみ》日の暮てより夜道をさるゝ事今の話に符合《ふがふ》せず誠《まこと》の事を云ひ給へと詰《なじ》るに左仲は御邊《ごへん》は何人なれば先程より我等《われら》を種々《いろ/\》と嘲哢《てうろう》せらるゝぞと思はずも少し言葉《ことば》を荒く云ひければ彼《か》の者申しけるは我等が名を聞度《きゝたし》と云ふ事なら何より易《やす》し我は此街道《このかいだう》で強盜を働き道玄次郎《だうげんじらう》と云ふ賊《ぞく》の頭なり御身如何に我を欺き遁《のが》れんと思ふ共|斯《かく》折込《をれこ》んだら最早佛の仲間入尋常に其懷中の金を渡して行ば命《いのち》と衣類は見遁《みのが》すのみならず三朱や一分の路用は呉《くれ》て遣《やる》又惡く情張《じやうはる》と是非に及ばず此世の暇を取するばかり手短《てみじか》の話が先斯した處だ何れなりとも御望み次第|何《どう》だネ旅の衆《しう》其懷ろは御前が彼の飯盛の揚代《あげだい》を拂《はら》ふ時篤と見て置夫故跡を尾《つけ》たのサ又|此方《こな》さんも其金は何《どう》やら盜《もの》した樣だが盜《もの》した物なら盜《もの》するは私が商賣ぢやサアきり/\と渡さぬか命までを貰ふとは申さぬと云れて左仲は力身《りきみ》も拔《ぬ》け齒の根も合ずくづ/\と是非なく懷中より金百兩の包《つゝみ》を取出し盜賊に渡せば是々夫では濟《す》まぬ惡ひ根性《こんじやう》だ斯《かく》直段《ねだん》の極つて居る者をサア淡泊《さつぱり》と男らしく渡して仕舞へと云れて又も殘りの金を殘らず取出し盜賊の前に差出せば次郎は莞爾《につこ》と打笑ひ夫れで能い心持《こゝろも》ちだらうドリヤ路用ははずんで呉《くれ》ようと額銀《がくぎん》一ツ投出《なげだ》しサア是で何處へなりと行《ゆき》をれへ言捨道玄次郎は悠々《いう/\》と金を懷中《くわいちう》して何國ともなく立去けり左仲は跡に大汗《おほあせ》拭《ふ》き偖々危ふきめに逢しと呟《つぶや》きながら道玄次郎が投《なげ》出したる一分の金を拾《ひろ》ひ上げ是が路用か情なやと塵《ちり》打拂《うちはら》ひ常陸《ひたち》の方へと急ぎしが未だ夜も深ければ左仲は原中を辿《たど》り/\て行《ゆく》程に心細くぞ思ひけり(此道玄次郎と云は當時|盜賊《たうぞく》の張本《ちやうほん》にて手下の者百五六十人もあり諸所にて押込み夜盜を働きし曲者《くせもの》なれども終に運盡て是も大岡越前守殿に召捕《めしと》られ刑罰に行はれしとなり) [#8字下げ]第二十五回[#「第二十五回」は中見出し]  斯《かく》て立花左仲は危《あやふ》くも此所を逃《のが》れ漸々命は助りしと云ふものゝ盜み得し金は賊《ぞく》の爲に奪《うば》はれ路用にせよとて投出せし僅《わづ》か一分の金を拾ひ取心細くも夜の道を行所に遙《はる》か向ふに火の光りの見えければ不思議に思ひ此原は未だ人里《ひとさと》までは程あるを彼處《かしこ》に火の光り見ゆるは如何にも心得《こゝろえ》ずと思ひ段々《だん/\》近《ちか》づきて樣子を見れば野火《のび》を焚《たき》て居る者あり皆|怪氣《あやしげ》なる[#「怪氣《あやしげ》なる」は底本では「怪|氣な《あやしげ》る」]荒男ゆゑ左仲は又もや賊ならんと仰天《ぎやうてん》は爲《なし》たれども今更立戻るべきやうもなく心ならずも彼の火の許《もと》へ行しに彼者ども左仲を見付|扨々《さて/\》暫く客《きやく》を待設《まちまう》けたりと云ひつゝ兩人|直《ずつ》と立上り左仲を中に取圍《とりかこ》みサア懷中の金を置て行《ゆけ》若《もし》彼是《かれこれ》いふ時は是非に及ばず荒療治《あられうぢ》だぞと兩人左仲が手を取に左仲は最早《もはや》一|生懸命《しやうけんめい》腰《こし》の一|刀《たう》拔《ぬ》き放し切《きつ》て懸ればソリヤ拔《ぬい》たぞと兩方より手に/\晃《きらめ》く山刀《やまがたな》請《うけ》つ流しつ切結《きりむす》ぶ左仲は茲ぞ死物狂ひと働け共二人の賊は事ともせず斬立々々《きりたて/\》切捲《きりまく》れば終に左仲は斬立られ這《こ》は叶《かな》はじと逃《にげ》行を一人の賊は後より小手《こて》を伸《のば》して袈裟掛《けさがけ》に左の肩先《かたさき》四五寸ばかりエイト云樣切下れば左仲はアツと反返《そりかへ》るを今一人が眞向《まつかう》よりざツくり切たる一太刀《ひとたち》に二言と云はず死してけり二人は血刀|押拭《おしぬぐ》ひ先久し振《ぶ》りの山吹色《やまぶきいろ》と懷中へ手を入れてヤアないはコリヤどうぢやと二人は不審《ふしん》晴《はれ》やらず猶も懷中を掻探《かきさぐ》り財布《さいふ》を引出し振つて見て二人は吃驚《びつくり》ヤアたツた一分の本尊樣《ほんぞんさま》淺草の觀音樣は一寸八分だたツた一|分《ぶ》とは情ないと何分|不審《ふしん》晴《はれ》やらず今朝見て置た此仕事どうした表裡《へうり》の瓢箪《へうたん》ぢやと呆《あき》れ果たるばかりなり(此二人の賊は道玄《だうげん》次郎が手下なり左仲が樣子を千住にて見て取|能《よき》代呂物《しろもの》と付つ廻しつ居たりしが左仲は夜道に此原を通る樣子故大いに悦《よろこ》び先へ廻りて網を張しを頭《かしら》の道玄次郎は渠等《かれら》より其知せもなき故一向知らず千住|宿《じゆく》にて左仲が樣子を見付しかば此原の入口にて左仲に追付《おひつき》十分に仕事をせしなり又手下の兩人は更《さら》に此事知らざれば今斯の如く左仲を殺《ころ》して金のなきに呆《あき》れたり然ば左仲は一度助かりし命《いのち》も終《つひ》に手下の者の手に掛《かゝ》りて果しは是《これ》天《てん》の惡《にくし》みならんか)斯《かゝ》る處へ道玄次郎はのさ/\と來掛り此體《このてい》を見て大いに笑《わら》ひ二人の手下に打對《うちむか》ひ役にも立ぬ無駄骨折《むだぼねをり》扨《さて》も働《はたら》き薄《うす》い奴等と云はれて二人は大いに怖《おそ》れ無益《むえき》の殺生致せしと天窓《あたま》掻《か》き/\閉口《へいこう》したる其有樣ぞ見苦《みぐる》しき次郎は重《かさ》ねて申樣此樣な仕事《しごと》を爲ぬ樣に以後は必ず注意《きをつけ》ろと叱《しか》り散して兩人の手下を連《つれ》て立去ぬ [#8字下げ]第二十六回[#「第二十六回」は中見出し]  然《され》ば嘉川主税之助|家來《けらい》安間平左衞門の兩人は多年《たねん》の積惡《せきあく》一時に顯《あらは》れ又々此度|再應《さいおう》の吟味に及ばれける處に安間平左衞門はとても遁《のが》れぬ處と覺悟《かくご》をなしたりし事なれば尋ねの廉々《かど/\》明白《めいはく》に白状に及びし故|其次《そのつぎ》に願山を呼《よび》出されて其方京都に有りし時《とき》日野家に於ては何役《なにやく》を勤め罷在《まかりあり》しぞと申さるゝに願山も最早《もはや》覺悟の事なれば私し儀京都に居候節日野家の醫師《いし》に雇《やと》はれ折々供も勤めし所|※[#「圖」の「回」に代えて「面から一、二画目をとったもの」、613-14]《はか》らずも安田平馬佐々木|靱負《ゆきへ》の惡事に與《くみ》し京都を逐電《ちくでん》して平左衞門|諸倶《もろとも》に嘉川家へ入込み此度《このたび》の惡事に携《たづさ》はり島が死骸《しがい》を千住の光明院へ捨置《すておき》候又了源寺に居しは十三ヶ年以前の事にて其頃同寺|旦那《だんな》中川佐太郎と申者を葬《はうむ》り候節兄多兵衞と申合せ是《これ》を夜中に掘出《ほりだ》[#ルビの「ほりだ」は底本では「ほだだ」]し其の死骸の衣類《いるゐ》等を殘《のこ》らず剥取《はぎとり》申候處此儀|顯《あらは》れしに付早々|逐電《ちくでん》致《いた》し候と一々白状に及びければ即ち其|趣《おもむ》きを淺草|阿部《あべ》川町了源寺へ申|遣《つかは》されしかば了源寺にては大いに驚《おどろ》き早速|所化僧《しよけそう》一人罷出右の段《だん》相違《さうゐ》之なき旨《むね》委細《ゐさい》申立又願山儀は常々《つね/″\》身持|宜《よろし》からず第一|淫酒《いんしゆ》の二ツに耽《ふけ》り其上|博奕《ばくち》を仕つり剩《あまつ》さへ和尚《をしやう》の居間へ忍《しの》び入衣類金銀を盜《ぬす》み取逐電致し候者なりと申立ければ越前守殿此|趣《おもむ》きを聞《きか》れよし/\猶《なほ》追《おつ》て呼出すこと有《ある》べしと申|渡《わた》され了源寺の所化《しよけ》は下られけり其後《そのご》評定所へ嘉川一件の者ども殘《のこ》らず呼出《よびいだ》さる其の人々|左《さ》の通《とほ》り  嘉川主税之助同人家來|安間《あんま》平左衞門|切首《きりくび》多兵衞|僧《そう》願山嘉川家々來|孕石《はらみいし》源兵衞|安井《やすゐ》伊兵衞嘉川藤五郎|建部《たてべ》郷《がう》右衞門|伴《ばん》佐《すけ》十郎山口惣右衞門|陸尺《ろくしやく》七右衞門右の者一同|白洲《しらす》へ罷《まか》り出ければ老中《らうぢう》井上河内守殿|若年寄《わかどしより》大久保長門守殿石川近江守殿|寺社《じしや》奉行黒田豐前守殿大|目付《めつけ》有馬出羽守殿御目付松浦|與《よ》四郎殿を始《はじ》め評定所《ひやうぢやうしよ》留役《とめやく》御勘定|吟味《ぎんみ》役御|徒士《かち》目付御小人目付其|外《ほか》の役人列座あり其時町奉行大岡越前守殿|例《れい》の如く席《せき》を進《すゝ》まれコリヤ主税之助其方儀嘉川平助|養子《やうし》の身として先平助以來の家來《けらい》を我意《がい》に任《まか》せ永《なが》の暇《いとま》を差遣《さしつかは》し藤五郎藤三郎の中を嫡子《ちやくし》に相立《あひたつ》べきの處に左はなくして己《おの》れが實子《じつし》たる佐《すけ》五郎を以て嫡子《ちやくし》に立養父平助の遺言《ゆゐごん》を破《やぶ》りしのみならず惡意《あくい》を起《おこ》し藤五郎藤三郎を亡《うしな》はんと爲《なし》たる段《だん》彌々《いよ/\》相違《さうゐ》なきやと申されければ主税之助は恐入て惡事相違御座なく候と申けるに大岡殿又平左衞門に對《むか》はれ其方《そのはう》詞《ことば》に似合《にあは》ぬ大膽不敵《だいたんふてき》の曲者《くせもの》なり先年京都日野家に於て稻葉丹後守の老臣《らうしん》稻葉勘解由を欺《あざむ》きて三千三百兩の金子《きんす》を掠《かす》め取り其後《そのご》切首《きりくび》多兵衞が世話を以て嘉川主税之助方へ隨身《ずゐしん》なし追々《おひ/\》申立たる如くの惡意《あくい》を差挾《さしはさ》みし段相違無かと申さるゝに平左衞門其事儀相違無御座候と申立れば又大岡殿には切首《きりくび》多兵衞|并《ならび》に僧《そう》願山主税之助家來孕石源兵衞安井伊兵衞建部郷右衞門伴|佐《すけ》十郎陸尺七右衞門[#「陸尺七右衞門」は底本では「六尺七右衞門」]|皆々《みな/\》出て居るかと有《ある》時《とき》一同に罷《まかり》出候と申に越前守殿|其方《そのはう》共一同是まで申立たる趣《おもむき》相違なきやと申さるゝに一同相違御座なく候と答に及びたり時に越前守殿|然《しか》らば一|同《どう》口書《こうしよ》爪印《つめいん》申付るとあつて口書《こうしよ》爪印《つめいん》相濟《あひすみ》今日《こんにち》は一同下る可《べし》追て呼出すと申|渡《わた》されければ其日《そのひ》は一同に下りけり然《され》ば此度《このたび》の一|件《けん》大岡殿|格別《かくべつ》に力を盡《つく》されしは京都|堂上方《だうじやうがた》の御内《みうち》に關係《かゝはる》の事|故《がら》なればなり然《され》ど四海に轟《とゞろ》く明智《めいち》の忠相《たゞすけ》殿ゆゑ始終《しじう》の所まで洞察《みとほ》されて嚴敷《きびしく》問《たづね》られければ大惡《だいあく》無道《ぶだう》の安間平左衞門も終に白状に及び口書も相濟《あひすみ》御|咎《とがめ》の次第を一々に取|調《しらべ》て進達《しんたつ》に及ばれしかば右書面を老中方一覽|有《あら》れし處|明白《めいはく》なる捌《さば》き故將軍家へ伺の上伺ひの通《とほ》りたるべき旨《むね》の下|札《ふだ》にて相下《あひさげ》られけり是に因《よつ》て嘉川一件の者ども落着《らくちやく》とこそ成にけれ [#ここから2字下げ] 大岡殿|吟味《ぎんみ》により安間平左衞門が惡事《あくじ》當人《たうにん》より追々《おひ/\》白状に及びしと雖も渠《かれ》は並々《なみ/\》ならぬ曲者なれば未《いま》だ殘《のこ》らずの白状には有《ある》べからずと思はれ猶《なほ》種々《いろ/\》と糺《たゞ》されけれども其外《そのほか》の事は一|向《かう》に申立ず因《よつ》て何卒《なにとぞ》京都にて彼《か》れと同勤したる佐々木|靱負《ゆきへ》を召捕《めしとり》吟味せんとて諸方へ手を廻《まは》され詮議《せんぎ》ありしかども更《さら》に其行衞《そのゆくゑ》知れざるに付|切《きつ》ては立花左仲にても召捕《めしとら》んと是《これ》又《また》探索《たんさく》ありし處|彼《かの》左仲は小金《こがね》ヶ|原《はら》にて切殺《きりころ》されしと云ふことの知れしかば左仲は詮《せん》なし呉々《くれ/″\》も靱負を尋《たづ》ね出さんと又々|諸國《しよこく》へ手を廻《まは》されけれ共靱負の在家《ありか》少しも知ず其中《そのうち》西國へ差出《さしいだ》されたる探索《たんさく》の者より靱負は泉州《せんしう》堺《さかひ》にて入水《じゆすゐ》せしと云事を申立しかば然《さ》ある時は先《まづ》是迄《これまで》にて平左衞門が罪の次第|落着《らくちやく》に致すべしとて嘉川一|件《けん》の者共|口書《こうしよ》申付られ落着の調《しら》べを老中方へ差出《さしいだ》されしとなり 評《ひやう》に曰《いは》く此嘉川家一|條《でう》は大岡殿大いに御|心勞《しんらう》なされしは第一貳千五百石の御旗本を失《うしな》はん事を格別《かくべつ》に惜まれけれども主税之助は至て愚智《ぐち》短才《たんさい》に在ながら其心は大惡の生付《うまれつき》故《ゆゑ》更《さら》に取處もなく切《せめ》て半知《はんぢ》も殘し賜《たま》はる樣にと大岡殿|肺肝《はいかん》を碎《くだ》かれけれども主税之助がなせる所爲《しよゐ》悉皆《こと/″\く》宜《よろ》しからざるに付甚だ口惜《くちをし》き事に思はれ又|家來《けらい》山口惣右衞門|伴《ばん》佐《すけ》十郎建部郷右衞門の三人の忠臣《ちうしん》の志操《こゝろざし》深しと雖も主人主税之助が所爲《しよゐ》に押潰《おしつぶ》され渠等三人の忠志《ちうし》は|然《さ》程に見えず又陸尺七右衞門の深切《しんせつ》も右の如し又|賤《いや》しき女なれ共|腰元《こしもと》お島が忠節天晴なる事男にも勝《まさ》りしなり是等《これら》の忠節も皆《みな》主税之助一人の愚惡《ぐあく》の爲め空敷《むなしく》嘉川家|斷絶《だんぜつ》に及びし事是非なき次第なり [#ここで字下げ終わり] [#8字下げ]第二十七回[#「第二十七回」は中見出し] [#ここから1字下げ] 然《され》ば嘉川家一|件《けん》大岡殿|追々《おひ/\》吟味詰の上一同口書相濟しかば彌々《いよ/\》享保四年三月廿二日一同|呼出《よびいだ》され大岡殿申渡し左之通り [#地から15字上げ]小普請組《こぶしんぐみ》 [#地から11字上げ]宮崎内記《みやざきないき》支配《しはい》 [#地から9字上げ]嘉川主税之助《かがはちからのすけ》 [#ここから2字下げ] 其方儀《そのはうぎ》先《せん》平助《へいすけ》養子《やうし》に相成候節約束を背《そむ》き藤五郎藤三郎の兩人を廢《はい》し我子|佐《すけ》五郎に家督《かとく》を繼せん爲《ため》種々《しゆ/″\》惡事等《あくじとう》企《くはだ》て候段|不屆《ふとゞき》に思召《おぼしめし》改易《かいえき》の上八丈ヶ島へ遠島《ゑんたう》仰付《おほせつけ》らる [#地から15字上げ]同人《どうにん》家來《けらい》 [#地から9字上げ]安間《あんま》平左衞門 其方儀《そのはうぎ》先年京都日野家に勤《つとめ》中《ちう》種々《しゆ/″\》惡事《あくじ》に及び其上嘉川主税之助方に於て主人《しゆじん》の惡事を助け先代平助|嫡子《ちやくし》藤五郎藤三郎に無禮《ぶれい》法外《はふぐわい》の儀を働き侍女《こしもと》島《しま》を絞殺《しめころ》し候|段《だん》重々《ぢう/\》不屆《ふとゞき》に付《つき》獄門《ごくもん》申付る [#地から13字上げ]淺草《あさくさ》阿部川町《あべかはまち》 [#地から11字上げ]了源寺《れうげんじ》舊《もと》所化《しよけ》 [#地から13字上げ]願山《ぐわんざん》 其方儀《そのはうぎ》出家《しゆつけ》の身《み》として淺草阿部川町了源寺にて盜賊《たうぞく》に及び其上京都日野家に於て惡人共に荷擔《かたん》なし又此度嘉川主税之助に頼《たのま》れ島が死骸を了源寺|所化《しよけ》と僞《いつは》り千住燒場《せんぢうやきば》光明院へ置捨に致候段|重々《ぢう/\》不屆《ふとゞき》に付死罪申付る [#地から11字上げ]嘉川主税之助《かがはちからのすけ》假抱《かりかゝへ》 [#地から15字上げ]徒士《かち》 [#地から12字上げ]多兵衞《たへゑ》 其方|儀《ぎ》常々《つね/″\》身持《みもち》不行跡《ふぎやうせき》而已《のみ》成ず今度主税之助申付により島《しま》の死骸を弟願山と馴合《なれあひ》光明院へ捨置《すておき》に致其上主税之助に頼《たのま》れ建部郷右衞門|伴《ばん》佐《すけ》十郎の兩人を討殺《うちころさ》んと存所々|尾睨《つけねら》ひ候段重々不屆に付三|宅島《やけじま》へ遠島《ゑんたう》申付る [#地から11字上げ]嘉川《かがは》主税之助家來 [#地から10字上げ]孕石《はらみいし》源兵衞 [#地から18字上げ]同 [#地から10字上げ]安井伊兵衞 其方共儀《そのはうどもぎ》主人申付とは云ひながら惡事《あくじ》に荷擔《かたん》致《いたし》候に依て江戸|構《かまへ》申付る [#地から9字上げ]嘉川主税之助|養子《やうし》總領《そうりやう》 [#地から10字上げ]嘉川《かがは》藤五郎 其方儀嘉川家|嫡子《ちやくし》の身分を以て常々|不行跡《ふぎやうせき》の由沙汰有之の處|當時《たうじ》病氣《びやうき》にて存命も量《はか》り難き由是に因《よつ》て全快まで親類《しんるゐ》へ御預仰付らる [#地から10字上げ]嘉川主税之助|舊《もと》家來《けらい》 [#地から9字上げ]建部《たてべ》郷右衞門 [#地から18字上げ]同 [#地から11字上げ]伴《ばん》佐《すけ》十郎 [#地から18字上げ]同 [#地から9字上げ]山口《やまぐち》惣右衞門 其方共儀|忠節《ちうせつ》の計ひとは申乍ら用役《ようやく》の身分《みぶん》を以て家事不|取締《とりしまり》に致《いた》し候段屹度叱り申付る [#地から9字上げ]須田町《すだちやう》一丁目|治兵衞店《ぢへゑたな》 [#地から11字上げ]七右衞門 其方儀|先代《せんだい》嘉川平助に恩《おん》も有之り候由にて藤五郎藤三郎|建部《たてべ》郷右衞門|伴《ばん》佐《すけ》十郎右四人|匿《かくま》ひ候|段《だん》深切《しんせつ》の致方《いたしかた》に候|得共《えども》身分不|相應《さうおう》なる儀に付《つき》以後法外之なき樣心掛べし [#地から14字上げ]故《もと》平助|二男《じなん》 [#地から10字上げ]嘉川《かがは》藤五郎 其方儀|格別《かくべつ》の思召を以て先知《せんち》八十俵下し置れ新規《しんき》召出《めしいだ》さる [#ここで字下げ終わり] 是《これ》新規《しんき》御|取立《とりたて》に相成|僅《わづか》に家名存せしは大岡殿の仁智《じんち》に因る所なり 嘉川主税一件[#1段階小さな文字]終[#小さな文字終わり] [#改丁] [#ページの左右中央] 小西屋一件[#「小西屋一件」は大見出し] [#改丁] [#1段階大きな文字]小西屋《こにしや》一件《いつけん》[#大きな文字終わり] [#8字下げ]第一回[#「第一回」は中見出し]  都會《とくわい》の土地は殊更《ことさら》に繁昌《はんじやう》競《きそ》ふ大江戸の中にも目貫《めぬき》は本町通り土一升に金一升といふに違《たが》はぬ商家の櫛比《しつぴ》土庫《ぬりこめ》高《たか》く建連ね何れも魯《おろか》は有らざる中《なか》に同町三丁目に數代《すだい》續《つゞ》く小西長左衞門といふ藥種屋《やくしゆや》あり間口凡そ二十間|餘《あま》りにして小賣店《こうりみせ》問屋店《とひやみせ》の二個《ふたつ》に分ち袖藏《そでぐら》あり奧藏あり男女|夥多《あまた》の召仕ありて何萬兩といふ身代《しんだい》なれば何《なに》暗《くらか》らず送りゆく主個《あるじ》長左衞門は今茲《ことし》(享保二年)五十の坂を二つ三つ越え妻《つま》のお賤《しづ》は是も又四十を五《いつ》つ六《む》つ越《こえ》たるが子《こ》といふ者は長三郎とて今茲十九になる男子一|個《にん》然《さる》に此長三郎は生《うま》れ附ての美男にて女の如き者なれば誰《たれ》言《いふ》ともなく本町|業平《なりひら》又《また》小西屋の俳優息子《やくしやむすこ》と評判殊に高《たか》かるより夫婦は何卒《なにとぞ》能《よき》嫁《よめ》取《とつ》て樂隱居《らくいんきよ》をば爲ん物と朝暮思ひ消光《くらし》けるが長三郎は若きに似氣《にげ》なく浮《うき》たる意《こゝろ》は毫《すこし》もあらで物見遊山は更にも言《い》はず戸外《おもて》へ出る事を嫌《きら》ひたゞ奧まりたる一室《ひとま》に籠《こも》り書籍を繙《ひもと》き讀事《よむこと》を此上もなき快樂《たのしみ》と爲しつゝ月日を送りけるに惡きは惡き能《よき》はまた能《よき》とて之を苦《く》にするは是また親の常《つね》なれば長左衞門夫婦の者は長三郎の温順《おとなしき》を反《かへ》つて苦《く》に病《や》み年頃《としごろ》に成し身にしてあの如く外《そと》へも出ねば癆症《らうしやう》も發《おこ》りやすらん一個《ひとり》の外《ほか》掛替のなき者なるを病《やまひ》起《おこ》らば如何《いかに》せんと長年《ながねん》勤《つとむ》る管伴《ばんたう》の忠兵衞を聘《よ》び事の由を話して折《をり》も有しならば息子を戸外《おもて》へ伴ひ出し保養《ほやう》をさせて下されと言《いへ》ば忠兵衞心得て主個《あるじ》の前を退出《まかりいで》けり其年もはや彌生の初旬|木々《きゞ》の梢《こずゑ》に花《はな》咲出《さきいで》徐々《そよ/\》と吹く春風も自然《おのづから》なる温暖さ然ども息子《せがれ》長三郎は例の如く籠りゐる障子《しやうじ》を開て忠兵衞が若旦那樣|相變《あひかは》らず今日も御本《ごほん》で御座りますかと進み這入《はひる》に此方は見返へりオヽ誰《たれ》かと思へば管伴《ばんたう》忠兵衞|昨今《さくこん》水揚《みづあげ》の荷物《にもつ》ありて店は大層《たいそう》いそがしいと聞しに今頃何用にて「ヘイ水揚|物《もの》も御座りましたが夫も大略《あらかた》結了《かたづい》て少の閑《ひま》を得ましたより參りし解《わけ》も外ならず時も彌生《やよひ》の好時節上野|隅田《すみだ》の花も咲出《さきいで》何處も彼所も賑《にぎは》ふゆゑ貧富《ひんぷ》を問ず己が隨意《まゝ》割籠《わりご》を造り酒器《さゝへ》を持ち花見に出で積鬱《せきうつ》を散じる中に和君《あなた》のみは斯《かう》垂籠《たれこめ》て御本をのみお讀《よみ》で有ては身體《からだ》の毒《どく》またお目の毒に成ますれば少《すこし》は戸外《おもて》へお出なされ青い物でも御覽《ごろう》じたらお氣も晴《はれ》やうお目にも能らうと夫で花見をお勸《すゝめ》申しに參りましたと[#「參りましたと」は底本では「參りましたしと」]言《いひ》ければ長三郎は片頬《かたほ》に笑《ゑ》み今に初ぬ和郎《そなた》の親切《しんせつ》主人思ひは有難けれど憖《なま》じ戸外へ出る時は反《かへ》つて身の毒《どく》目の毒なれば只《たゞ》居《ゐ》馴染《なじみ》し居間に居て好な書物を讀《よみ》ながら庭の青葉を眺《ながめ》てゐるが此身の藥《くすり》で有ぞかしと言を忠兵衞|押返《おしかへ》し這《こ》は若旦那のお言葉とも覺《おぼえ》ずお庭《には》と雖も廣くもあらず況《まし》てや書物に意《こゝろ》を入《いる》れば第一お目の毒なれば戸外《おもて》へ出て爛漫たる櫻の盛《さか》り山水の望《ながめ》は素《もと》より四方《よも》の人が花に遊行《あくがれ》酒《さけ》に醉ひ打戲るゝ景状《ありさま》を御覽にならばお目の藥と再度《ふたゝび》言はれて氣色《けしき》ばみ忠兵衞夫等を目の藥と爲《なす》か知ねど然《さ》にあらず目には忌可《いむべ》き物|十《とう》ありと或《ある》醫者どのに聞たりしに中にも風に中《あた》るを忌《い》み又白き物を見るを忌《い》む今や開花《かいくわ》の時節《じせつ》とて打續たる日和《ひより》なれば上野|隅田《すみだ》も人もや出《いで》ん然《さす》れば彼所《かしこ》は打ち水|爲可《なすべ》き者もあらざれば塵芥《ほこり》は立て風吹ば眼《まなこ》に入て目の毒なり又櫻は赤《あか》き樣に見ゆれど素《もと》之《こ》れ白き物なれば散行《ちりゆ》く樣を見やりつゝ空《そら》に知れぬ雪《ゆき》ともいひ雪に見まがう云々《しか/″\》と古歌にも多く讀出《よみいで》たれば其の白き物を好《この》んで見んこと則ち眼の毒なる可し又花の下《もと》は醉人《すゐじん》騷客《さうかく》所狹《ところせまき》まで雜沓《ざつたう》すれば喧嘩《けんくわ》口論|間々《まゝ》ありて側杖打るゝ人もあり然るを浮加々々《うか/\》其所へ至り設《も》し災難《さいなん》に會《あふ》ときは父母への不孝此上なし我は君子に非れども危《あやふ》き事には近寄《ちかよ》る可からず部屋《へや》に耳《のみ》居て花のなき庭を眺て消光《くらし》なば書物《しよもつ》を讀ため身に徳《とく》付《つ》き戸外へ出ねば父母《ちゝはゝ》も案じ給ふの愁《うれひ》なし我は見ぬ世の人を友《とも》とし樂《たのし》みゐるこそ樂みなれと最《いと》物堅き長三郎が回答《いらへ》に膠《にべ》なく言放《いひはな》すに忠兵衞今は詮方《せんかた》なく是ほど迄に勸めるに承引《うけひく》景状《けしき》あらざるは世に偏屈《へんくつ》なる若旦那と霎時《しばし》呆《あき》れて居たりしが屹度《きつと》意《こゝろ》に思ひ附く事や有けん膝《ひざ》を進めモシ若旦那樣|和君《あなた》は今人立多き花見の場所《ばしよ》へ立寄|設《もし》も災難に會《あは》ば無上《こよなき》親不幸《おやふかう》と仰あれど夫は夫れ其一を知て其二を知ざる最《いと》淺慮《あさはか》な思し召|和君《あなた》が戸外《おもて》へもお出なさらず内《うち》に耳《のみ》居て書物|計《ばか》り讀で御座るが上もなき親不孝にて御座りませうと言はれて此方《こなた》は面色《めんしよく》更《かへ》コレ忠兵衞|和郎《そなた》は氣でも違《ちがひ》しか學問もせず遊び歩行《あるか》ば親不孝共も言《いふ》可《べ》けれど吾儕《わし》は性來好でもあり勸《すゝめ》られても遊には「サヽ其所に一つのお話しあれば意《こゝろ》を鎭《しづめ》てお聞なされ和君《あなた》は此家の一|粒種《つぶだね》何萬兩といふ身代《しんだい》を相續爲る御身ゆゑ學問に凝《こり》夜歩行《よあるき》一ツ爲《なさ》らざるも然《さう》なくては叶《かなは》ねどとは言へ善惡二つながらお案《あん》じ爲《なさ》るは親御の常《つね》況《まし》てや外にお子とてなき和君《あなた》が餘り温順《おとなし》すぎ設《も》し病氣でも出はせぬかとお案じなされて玉くしげたに[#「玉くしげたに」は底本では「玉くじげたに」]親樣《おやさま》が此忠兵衞をお呼《よび》なされて息子《せがれ》をば責《せめ》て花見か芝居へ抔《など》遣て欝《うつ》をば晴《はら》させてと仰《おほせ》が有て候へば先花見をばお勸《すゝめ》申せば兎《と》にも角《かく》にも偏《かたよ》りし事のみ被仰《おつしやり》お出《いで》なくば御兩親樣が折角のお心盡しも無《む》に成て返つて掛《かけ》る御心配《ごしんぱい》學問なさるが親不孝《おやふかう》と申すは茲《こゝ》の次第なりと一什を明《あか》すに打聞|息子《むすこ》腕《うで》叉《こまね》いて默然たりしが漸々《やう/\》にして首を上《あげ》世に有難き御|慈愛《いつくしみ》を傳承りて勸たる和郎が言葉を用《もち》ひずして博識《はくしき》振《ぶり》たる我答へ今更《いまさら》思へば面目《めんぼく》なし花はともあれ父母の意《こゝろ》を休むる其の爲に明日は花見に行《ゆく》可《べ》ければ必ず惡《あし》くな思ひ給ひそと和郎《そなた》よりして言て呉て流石《さすが》孝子《かうし》の解《とけ》安く答へにければ忠兵衞も夫《それ》拜承《うけたまは》り何より安心|斯《かく》と申さば御兩親も嘸《さぞ》お喜び爲《なさ》る可し夫では明日お辨當《べんたう》の支度も致せばお供《とも》には店の和吉をお連《つれ》なされ上野《うへの》成共《なりとも》隅田《すみだ》成ともお心任せの方へ至り終日お遊び爲されませ和吉も今年《ことし》は十四なれば貴君《あなた》のお供《とも》には恰好《かくかう》と嬉《うれ》しき餘り忠義の忠兵衞己れ一|個《にん》饒舌廻《しやべりまは》し其座を退《しりぞ》き奧《おく》へ至り偖斯々と夫婦に話《はな》せば二人は息子《せがれ》の孝心《かうしん》譽《ほ》め又忠兵衞を勞《ねぎら》ひて明日《あす》の支度に左《と》や右《かく》と心を勞《らう》すは世の中の渾《すべて》の親の情《じやう》成可し斯て其翌日に成しかば朝《あさ》より辨當《べんたう》など製造《こしらへ》て之を重箱《ぢうばこ》に入|風呂敷《ふろしき》に包みて和吉に脊負《せおは》せて待間《まつま》程なく長三郎は身姿《みなり》を繕ひ部屋の中より立出《たちいで》來り兩親始め忠兵衞にも挨拶《あいさつ》成て和吉を引連《ひきつれ》出《いで》はしたれど騷《さわが》しき所は素より好まねば王子《わうじ》邊《あたり》へ立越て楓《かへで》の若葉《わかば》若緑《わかみどり》を眺《ながめ》んにも又上野より日暮《ひぐらし》里などへ掛る時は渠《かれ》醉人の多くして風雅《ふうが》を妨げ面白《おもしろ》からねば音羽通を眞直《まつすぐ》に護國寺|首《はじ》め波切不動《なみきりふどう》へ參詣|爲《し》て田圃道を緩々《ゆる/\》王子へ行可しとて小川町へと掛《かゝり》けるに和吉は大きに望《のぞみ》を失ひ花見と言《いへ》ば上野か隅田《すみだ》又は日暮里飛鳥山人の出盛《でさか》る面白《おもしろ》き所へ行が本統《ほんとう》なるに如何常より偏屈《へんくつ》成《なる》若旦那とは言ながら遠《とほ》き王子へ態々行夫も賑《にぎは》ふ日暮里をば嫌《きら》ひて見榮《みばえ》なき土地《とち》の音羽を通て行と云は世に珍《めづら》しい人も有と口には言ねど幼稚心《こどもごころ》の腹の中にて思ひ續《つゞけ》進《すゝま》ぬ足を引《ひき》ずりながら後《あと》に從ひ音羽町の七丁目迄來りしが長三郎は此時は頻に腹痛《ふくつう》なし初め堪《こら》へ難なく成しかば厠《かはや》に入《いら》んと思へども場末《ばすゑ》の土地とて借《かり》んと思ふ茶屋さへ非《あら》ぬに困《こう》じたり [#8字下げ]第二回[#「第二回」は中見出し]  此所等《ここら》あたりは場末《ばずゑ》の土地とて厠《かはや》を借《から》んと思へども茶屋さへ無に困《こう》じたる長三郎の容子《ようす》を見て和吉は側の裏《うら》へ入り其所此所《そこここ》見れば汚《きたな》げなる惣雪隱《そうせついん》ありたれば斯と告《つぐ》るに喜びて其所へ這入《はひり》て用を足し出《いで》つゝ手をば洗《すゝが》んと見れば雪隱《せついん》の角の柱に五合樽の片手《かたて》を斷《き》り引掛あれど中には水なし困じて側《そば》に待ゐたる和吉に吩咐《いひつけ》井戸の水を汲《くま》せんとなし其|節《せつ》に此|眞向《まむか》ひの棟割長家《むねわりながや》建續《たてつゞ》けたる其中にも一|層《そう》汚《きたな》く荒果《あれはて》し最《いと》小狹《せうけふ》なる家の中に五十四五なる老人|一個《ひとり》障子一枚|押開《おしひら》き端近《はしちか》ふ出物の本を繰廣《くりひろ》げ見てゐたりしが今長三郎が手を洗《あら》ふ水のなきをば困《こう》じゐる容子《ようす》を計らず庭越《にはごし》に見やりて此方《こなた》に打向ひ茲等邊《こゝらあたり》に見も懸《かけ》ぬ立派《りつぱ》な姿《なり》は定《さだ》めし通行の方である可きに水がなければお困《こま》りならん此方へ這入て遠慮《ゑんりよ》なく手をばお濯《すゝぎ》なさるがよいと言れて喜《よろこ》び會釋《ゑしやく》して破《やれ》し垣根の切戸《きりど》を明《あ》け廣くも非ぬ庭へ進むに老人|背後《うしろ》を見返《みかへ》りておみつ水を掛《かけ》て上《あげ》なと言れてハイと答へなし勝手口《かつてぐち》より立出るは娘なる可《べ》し年齡《としのころ》まだ十七か十八|公《こう》松《まつ》の常磐の色《いろ》深《ふか》き緑の髮は油氣《あぶらけ》も拔れど脱《ぬけ》ぬ天然《てんねん》の美貌《びばう》は彌生の花にも増り又|中秋《なかあき》の新月《にひづき》にも劣《おとら》ぬ程なる一個の佳人《かじん》身には栲《たへ》なる針目衣《はりめぎぬ》を纒ひて其|容《さま》賤《いやし》げなれども昔し由緒《よし》ある者なるか立《たち》擧動《ふるまひ》は艷麗《しとやか》にて縁側へ出|擂盆《すりばち》の手水鉢より水をすくひ手に注《そゝぎ》しは縁の端《はし》男は手をば洗ひながら見れば娘は比《たぐ》ひ稀《まれ》なる美女にて有れば是までは女を如夜叉《によやしや》と思ひ込し最《いと》物堅《ものがた》き長三郎も流石《さすが》木竹《きだけ》に非れば此時|初《はじめ》て戀風《こひかぜ》の襟元《えりもと》よりして慄《ぞつ》と染《し》み娘も見たる其人は本町|業平俳優息子《なりひらやくしやむすこ》と綽名《あだな》の有は知らざれど比《たぐ》ひ稀《まれ》なる美男なれば是さへ茲に戀染《こひそ》めて斯いふ男が又有らうか斯《かう》いふ女が又有らうかと互《たがひ》に恍惚《みとれ》茫然《ばうぜん》と霎時《しばし》言葉もあらざりしが稍々《やう/\》にして兩個《ふたり》が心附《こゝろづい》ては羞《はづか》はしさに發《はつ》と面に紅葉《もみぢ》して長三郎は手を拭ひ主個《あるじ》親子に禮を演《のべ》和吉を引連《ひきつれ》立出ながら跡へ心の殘《のこ》りけるが見返り/\路次口《ろじぐち》へ出でゆく姿を娘もまた殘り惜氣《をしげ》に見送りける斯くて長三郎は戸外《おもて》へ出ながら思ひ續《つゞけ》る娘がこと彼《あゝ》いふ女を妻と爲《し》たらば男に生《うま》れし甲斐《かひ》あらんに我《われ》も妻をば持《もつ》身《み》なれば返《かへ》つて親に話せし上|否々《いや/\》夫も自身《じぶん》の口から斯々なりとは言惡《いひにく》し如何はせんと取《と》つ置《おい》つ思ひ廻《まは》せば廻すほど我身ながらにもどかしく最早《もはや》花見に行可く氣もあらねば此方へ歸り掛《かゝ》るに和吉は狼狽《あわて》て袖を引《ひき》モシ若旦那|然《さう》行《いつ》ては「イヤ吾儕《わし》は花見にはモウ行《ゆか》ぬ是から家へ歸《かへ》るなり」と言捨《いひすて》足を早めるに和吉は本意《ほい》なき面地《おもゝち》にて夫では花見は止《やめ》になつたか然《さう》して見ば辨當を此音羽《このおとは》まで脊負《しよつ》て來て又《また》脊負《しよひ》返《かへ》す遠方御苦勞何の事はない辨當の供をして來た樣な物だと吻《つぶや》き/\本町へ歸る途中《とちう》も長三郎思ひ惱《なやみ》し娘がこと言はぬも辛《つら》し言も又恥しゝとは懷中《ふところ》育《そだ》ちの大家の息子《むすこ》の世間《せけん》見ず胸に餘て立歸るも餘《あまり》に早《はや》しと思ふより如何したことと兩親が問ば先刻《せんこく》音羽まで參りましたが腹痛《ふくつう》にて何分《なにぶん》心地《こゝち》惡《あし》ければ王子へ行ずに立歸りしと答へて欝々《うつ/\》部屋に入り夜具《やぐ》引擔《ひきかつぎ》て打臥《うちふし》しが目先に殘るは娘の姿《すがた》眠《ねむ》らんとするに眠《ねむ》られず忘れんとするに忘《わす》られず夢《ゆめ》と現《うつゝ》の境を行く戀病《こひやみ》なりとは露知《つゆしら》ぬ兩親大きに氣を揉《もみ》て相藥など與ふるうち其日の申刻《なゝつ》下《さが》る頃《ころ》淺草邊まで掛取《かけとり》に行たる忠兵衞歸り來て聞《きけ》ば斯々《かう/\》言わけと主個《あるじ》が話すに打驚《うちおどろ》きお否《いや》と仰せ有たるを無理《むり》にお勸《すゝめ》申したは此忠兵衞ゆゑ夫がため御病氣《ごびやうき》起《おこ》らば大變《たいへん》なりと先《まづ》取敢《とりあへ》ず長三郎の部屋へ至りて障子《しやうじ》の外《そと》まで來りし時に中にては魔《おそは》るゝやら寢言《ねごと》やらサアお出なさい有難うと判然《はつきり》言《いひ》しが其跡は何を言《いひ》しか譯も解《わか》らず忠兵衞|不審《ふしん》に思ひながら障子を開《ひら》いて内に入る音《おと》に此方《こなた》は目を覺《さま》せば忠兵衞|膝《ひざ》を摺寄《すりよせ》て今日の事は旦那樣より伺《うかゞ》ひまして折角《せつかく》のお花見にさへお出《いで》がなしと聞て驚き御容子《ごようす》を伺《うかゞ》はんとて障子《しやうじ》の外《そと》へ參りし節《をり》に寢言《ねごと》なるか夫かあらぬか如此《これ/\》と和君《あなた》は仰せ有ましたが熱《ねつ》もあらぬに今の御言葉どうも合點《がてん》が參りませぬ然すれば病氣と仰被《おつしやる》は嘘《うそ》にて途中《とちう》で何事か有しを胸に思うてゞ御座りませうが如何《いか》なることか此忠兵衞にお話《はな》しを如何《どうぞ》なされて下されませと星《ほし》を刺《さゝ》れて長三郎|發《はつ》と計に顏《かほ》赤《あから》め面目なげに見えけるが漸々にして首《かうべ》を下げ和郎《そなた》を初め兩親に語《かたる》もいとゞ面伏《おもぶせ》と思ふ計《ばか》りに言も出さず心地《こゝろ》惡《あし》しと打伏しが然《さう》問《とは》れては包《つゝむ》に由なし實は今日音羽まで行《ゆき》たる時に箇樣々々《かやう/\》厠《かはや》へ入んと七丁目の鹽煎餠屋《しほせんべいや》と炭團屋の裏へ這入て用を足《た》し出たる後《のち》に淨水《てうづ》に困《こま》る節《をり》から斯々《かく/\》の娘を見染ぬ世に二個となき美人なれば漫《そゞろ》に戀しく思ひつゝ此美婦人《このびふじん》に比《くら》ぶれば櫻も爭《いか》で物かはと花見を爲《なす》氣《き》も失果《うせはて》て立歸りしが氣も結《むすぼ》れ床《とこ》へ這入て忘れんと目睡《まどろむ》夢《ゆめ》の其中に水を呉《くれ》しを見たりしが偖《さて》は寢言《ねごと》を言たるか面目なしと計りにて一|伍《ぶ》一什《しじふ》を語りけるを聞《きゝ》忠兵衞は呆《あき》れ果《はて》吐息《といき》を吐《つい》てゐたりしが一個點頭此方に向ひ能く游《およ》ぐ者は溺《おぼ》るゝとやら平常《へいぜい》よりして女|嫌《ぎら》ひで學問にのみお凝《こり》なさるゝ和君《あなた》が計ず見染れば思ひの程も又|強《つよ》し然《さ》は然ながら夫程まで御執心《ごしふしん》なる女兒《をなご》なら假令《たとへ》旦那樣御夫婦が何と仰が有らうとも此管伴《このばんたう》が引受て急度《きつと》和君の思ひをば叶《かなへ》る樣に致しますれば必ずお案《あん》じ成されますなと言ば長三郎は莞爾《につこり》笑《わらひ》忠兵衞|何分《なにぶん》能き樣にと言《いふ》より外に言葉なきを聞流しつゝ奧へ至り主個《あるじ》夫婦に今日の始末《しまつ》箇樣々々《かやう/\》と話しけるに夫婦《ふうふ》の者も膝《ひざ》を打ち如何《いかに》懷中《ふところ》育《そだち》といへ何故《なぜ》云々《これ/\》とは言ずして思ひ惱《なやみ》し愚《おろか》さよ今まで夜歩行《よあるき》一つせず親孝行な長三郎|設《も》し氣に入し者あつて素生《すじやう》正《たゞ》しく心立の能《よき》者あらば賤《いやし》き勤の藝者にもあれ娼妓にもあれ又は如何《いか》なる身分《みぶん》よき人の娘は言も更なり賤《いやし》き者の娘なりとも金に飽《あか》して貰《もら》ひ取り嫁《よめ》に爲んと思ひしに今日|計《はから》ずも氣《き》に入た女を見染て來たといふは此|上《うへ》もなき大幸《さいはひ》なれば御苦勞ながら管伴《ばんたう》どの明日《あす》にも先の家《うち》へ行き身元正しき者ならば婚儀《こんぎ》を言込《いひこみ》下されよとは言聞が如き體《てい》では支度の程も覺束《おぼつか》なければ夫等は一|式《しき》此方で致して遣《やつ》て苦《くるし》くなき故此儀も心得給ひねと一個子《ひとりこ》だけに子に甘《あま》き親は言葉《ことば》も行屆《ゆきとゞ》き落なく言れて忠兵衞が是も一つの安心と委細《ゐさい》承知《しようち》し店《みせ》の方へ行しに頃は春の日もやゝ暮初《くれそめ》て石町の入相《いりあひ》の鐘《かね》響《ひゞ》きけり斯て管伴《ばんたう》忠兵衞は此|婚姻《こんいん》を言込は何より安き事ながら只《たゞ》云々《これ/\》と言許りで向うの名さへも知《しら》ざる所へ突然《いきなり》行《ゆき》ても話し難し要《えう》こそあれと考《かんが》へしが漸々《やう/\》思ひ附事ありて明日|疾《とく》起出《おきいで》音羽の方へ至るに附《つい》ては案内者に和吉を連《つれ》て參りますと主個《あるじ》に言て俄《にはか》の支度|辨當《べんたう》包《つゝ》み吹筒《すゐづつ》携《さ》げ和吉を呼で今日は吾儕《わし》が花見に行なれば辨當を脊負《しよひ》供《とも》をしてと言ば和吉は首《かうべ》を振《ふり》何の用かと思ひましたら今日も亦花見のお供《とも》吾儕《わたし》は昨日《きのふ》若旦那に連《つれ》られて行き懲々《こり/\》したれば何卒《なにとぞ》之は長松どんか留吉どんに代らせてと言をも聞《きか》ずに打笑ひ然《さう》でもあらうが若旦那とは違《ちが》つて吾儕《わし》のは物《もの》も喰《くは》せ錢《ぜに》もやる故|是非共《ぜひとも》に「夫では和郎《あなた》はあの所と違《ちが》つて上野か向島「イヤ矢張《やつぱり》行先は王子にて然《しか》も音羽へ出て行く積《つも》り「ヲヤ/\夫では昨日《きのふ》と同《おな》じだと鬱《ふさ》ぐ丁稚《でつち》に錢を取せ急がし立れば幼稚の習《なら》ひ錢《ぜに》を貰ひし嬉《うれ》しさに初の不平《ふへい》も何處《どこ》へやら後《あと》に引添《ひきそひ》出行きつ音羽の村へ差掛《さしかゝ》り七丁目まで來りければ確《たしか》に茲等《こゝら》と忠兵衞が歩行《あるき》ながら四邊《あたり》を見たりぬ [#8字下げ]第三回[#「第三回」は中見出し]  其時《そのとき》管伴《ばんたう》の忠兵衞は四邊《あたり》を見れば聞《きゝ》しに違ず鹽煎餠屋《しほせんべいや》と炭團屋《たどんや》の路次《ろじ》の有しに茲ぞと點頭《うなづき》和吉|雪隱《せついん》へ這入ゆゑ一所に來《こ》よと言ながら裏《うら》へ這入れば和吉はまた今日《けふ》も此裏の雪隱へ這入|樣《やう》では花|見《み》の程も覺束《おぼつか》なしとぞ思ひける忠兵衞雪隱にて用を足《た》し立出《たちいで》見れば水はなく向ふの家《いへ》に話しの老人《らうじん》障子を開《ひら》きて書を讀《よみ》ゐたるに是なる可しと庭口《にはぐち》より進み入つゝ小腰《こごし》を屈《かゞ》め眞《まこと》に申し兼たれどもお水《みづ》を少々《せう/\》下されませと言ば老人|承引《うけひき》てお光や掛て上《あぐ》るやうと言葉の下《した》に立出る娘は水を注《そゝ》ぎ掛け忠兵衞なれば恍惚《みとれ》もせず其儘|奧《おく》へ入たれば能《よく》は見ねども一寸《ちよつと》見《み》るさへ比ひ稀《まれ》なる美婦人と思へば家《うち》の若旦那が見染《みそめ》て思ひ惱《なやむ》も道理《だうり》要こそあれと主個《あるじ》に向ひチト率爾《そつじ》なるお願ひにて申し出すも出しにくきが吾儕《わたくし》は本町三丁目|小西屋長左衞門《こにしやちやうざゑもん》方の管伴《ばんたう》にて忠兵衞と申す者なるが今日出番かた/″\にて御覽《ごらん》の通り丁稚《こぞう》を連《つれ》王子へ花見に行《ゆく》積《つも》りで辨當《べんたう》なぞも容易《ようい》致し[#「容易致し」はママ]參りましたれど早《はや》草臥《くたびれ》殊には腹《はら》も空《すき》しより茲等《こゝら》で開いて一|杯《ぱい》と思へど通に掛茶屋も有ねば實《じつ》は困《こう》じてをりしが只今《たゞいま》水を頂《いたゞ》いたを御縁《ごえん》に致して願ひまするは此お縁側《えんがは》を霎時《しばし》の中お貸《かし》なされて[#「なされて」は底本では「下されて」]下さらば酒器《さゝへ》を開《ひら》きて腹《はら》を繕《つくろ》ひぶら/\行ます積なるが如何《いかゞ》なもので御座りませうと言ば主個《あるじ》は片顏《かたほ》に笑み何《なん》の事かと思ひしが素《もと》より安き其|御無心《ごむしん》浪人者の疲世帶《やせしよたい》むさくろしきをお厭《いと》ひなくば其所《そこ》は冷《ひえ》れば此方《こなた》にてと座敷の中へ花莚《はなござ》を敷《しか》せて二個《ふたり》を招《せう》ずるに此方は喜び有難《ありがた》き旨を演《のべ》つゝ上へ登り風呂敷包《ふろしきづつみ》を解開《ときひら》き辨當を出し吹筒《すゐづつ》の酒を飮んと爲《なし》けるを主個の老人《らうじん》押禁《おしとゞ》[#ルビの「おしとゞ」は底本では「お とゞ」]め彌生と言ど未だ寒きに冷酒《れいしゆ》は身體《からだ》の毒《どく》なればツイ温《あたゝ》めて差上んと娘に吩咐《いひつけ》温めさせ料理は御持參《ごぢさん》なされたれば此方で馳走《ちそう》の爲樣《しやう》もなし責て新漬《しんづけ》の香物《かうのもの》なりともと言へば娘は心得《こゝろえ》て出して與ふる饗應振《もてなしぶり》此方は主個に酒盞《さかづき》を薦《すゝむ》る物から親子ともに下戸《げこ》なればとて手にだも觸《ふれ》ず詮方《せんかた》なければ一個《ひとり》にて傾けながら四方八方《よもやま》の話《はなし》の中に容子《ようす》を見れば昔し由縁《よし》ある人なる可し親子の立擧動《たちふるまひ》尋常《じんじやう》ならず親は篤實《とくじつ》面《おもて》に顯《あらは》れ娘は孝行|自然《しぜん》と知れまた容貌も勝《すぐ》れたれば忠兵衞ほと/\感心《かんしん》なし主個《あるじ》の方《かた》のうち向ひお見申せばお宅樣《たくさま》はお二個|限《ぎり》にてお孃樣《ぢやうさま》は失禮《しつれい》ながら美麗《うつくし》きお生れ質《つき》にて御座りますが定めしお婿樣《むこさま》をお取にてと問《とは》れて老人|一滴《ひとしづく》ホロリと泪《なみだ》を翻《こぼ》しながら初て逢《あつ》た此方衆に話すも最《いと》ど面伏《おもぶせ》ながら不※[#「圖」の「回」に代えて「面から一、二画目をとったもの」、628-6]《ふと》した事から此樣に吾儕《わし》の家にて酒食《しゆしよく》するも何かの縁と思ふ故|我身《わがみ》の恥《はぢ》を包もせで話すを聞《きい》て下されかし素《もと》吾儕《それがし》は有馬家にて祿《ろく》五百石を頂戴なし小姓頭を勤《つとめ》たる大藤武左衞門と云者なるが夫婦《ふうふ》の中《なか》に子と言は是なるお光《みつ》たゞ一人|然《しか》るに妻は七年前|世《よ》を早《はや》くせし以來《このかた》は何にも彼にも只二人|偖《さて》我口《わがくち》より此樣な事を申すは自負《じふ》に似《に》たれど吾儕《おのれ》は性來《せいらい》潔白《けつぱく》にて只正直を旨となし苟《かり》にも曲《まがり》し事は嫌《きら》ひ善は善惡は惡と一筋《ひとすぢ》にいふ者なれば如何《いかに》せん水《みづ》清《きよ》ければ魚《うを》住《すま》ずの譬《たとへ》に洩《もれ》ず朋輩の讒言《ざんげん》に依り浪人なし此|裏借家《うらじやくや》へ移《うつ》り住み近頃|多病《たびやう》になりたれど心持のよき其日は此護國寺の門前へ賣卜《ばいぼく》に出|僅《わづか》の錢を取つて親子が活計《たつき》となすも今茲《ことし》で丁度《ちやうど》三年越し他に樂みもあらざれど娘も最《いと》も孝行《かうかう》にして呉る故|夫《それ》のみが此上《このうへ》もなき身の喜《よろこ》び是も今茲《ことし》はモウ十七|婿《むこ》を取《とら》ねば成ざれど貧乏消光《びんばふぐらし》の浪人者の家《うち》へは來る者あらじと思へば|何處《いづこ》へなりとも嫁《よめ》に遣んと思ふにも似ず相應の縁邊《えんぺん》なければ其儘に背丈《せたけ》の延《のび》たを抱《かゝへ》てをると偖《さて》心配な者でもありと語《かた》る一什を打聞く忠兵衞|渡《わた》りに船とて大いに喜び拜承《うけたまは》りたるお身の上一人娘を餘所《よそ》他《ほか》へ御縁付といふ事ならば最《いと》似附《につか》はしき縁談《えんだん》が御座りまするが如何《いかゞ》であるかと申すは外《ほか》の事ならず吾儕家《わたくしども》の若主人は十九に成《なり》て箇樣々々《かやう/\》お孃樣《ぢやうさま》とは年齡《としごろ》から容貌の程も一|對《つゐ》なれば此方へ嫁《よめ》にお貰ひ申す譯には參りますまいかと問ば主個《あるじ》は首《かうべ》を振《ふ》り本町通りの小西屋というては名高《なだか》き藥種問屋江戸|指折《ゆびをり》の豪商《かねもち》にて誰《たれ》とて知ぬ者もなき大身代《おほしんだい》の嫁に成とは娘が出世《しゆつせ》此上なき喜びなれども此方《こなた》はまた見る影もなき浪人者《らうにんもの》釣合《つりあは》ざるは不縁の基《もと》決して是を相應《さうおう》せし縁邊なりとは言難ければ御|深切《しんせつ》の程|有難《ありがた》けれど此義はお斷《ことわ》り申すべしと言れて望を失ひたる忠兵衞今は詮術《せんすべ》なければ昨日《きのふ》息子《せがれ》長三郎が花見に出たる其折に計《はから》ず茲《こゝ》の雪隱に入り水を頂《いたゞ》き手を洗《あら》ふ節《をり》[#ルビの「をり」は底本では「をら」]に見染て箇樣々々《かやう/\》と息子《せがれ》が寢言兩親がことより自己《おのれ》が來りたれど只《たゞ》一向《ひとむき》にも言入かね實は斯々《かく/\》計《はから》ひて御懇意《ごこんい》になり此話しを言出したりといと事實《じじつ》を明して演《のべ》たるに主個《あるじ》は礑《はた》と横手《よこて》を打ち偖は然《さう》いふ解《わけ》ありしか夫にて思ひ合すれば供《とも》をなされし丁稚《でつち》どの如何やら吾儕《わし》は見たやうな最前よりして考へ居りしが昨日來りし人で有しか然《そん》なら水を上《あげ》し方が足下《そくか》の家の息子《むすこ》なりしかとは知ねども容姿《みなり》もよく若きに似氣《にげ》なく物柔《ものやはらか》で折屈《をりかゞみ》能《よ》き人なれば娘《むすめ》持《もつ》身《み》は早くも目が附き何處《いづこ》の息子か知ざれど美男《びなん》の上に温順《おとなし》やと同《おなじ》事なら斯《あゝ》いふ人に娘を遣《やり》たき物なりと然《さる》大家とは知ざれば一個《ひとり》意《こゝろ》に思ひゐたるが息子殿には不束《ふつゝか》なる娘お光を夫程に思《おぼ》し召《めし》て給はるからは此方も今は推辭《いなむ》に術《すべ》なし吾儕《おのれ》は承諾《しようだく》致したが女兒《むすめ》は如何と振返《ふりかへ》り問れてお光は先程より父と客《きやく》との物語《ものがた》り昨日見染めた其人は然る大商人《おほあきうど》の息子《むすこ》にてしがない消光《くらし》に追《おは》るゝゆゑ繕《つくろ》ひもせず花香《はなか》もなき此身の姿《すがた》がお目に止《とま》り夫程迄に戀慕うて下さるといふ有難さ勿體《もつたい》なやと計《ばかり》にて嬉《うれ》しさ交《まじ》る恥《はづ》かしさに塵《ちり》のみ捻《ひね》りてゐたるゆゑ今改めて父親《ちゝおや》に問れたりとて回答《いらへ》も出來ず押默止《おしだまつ》てゐる横顏《よこがほ》を見やりて父は打笑ひ勝《ませ》た樣でも未《まだ》幼稚《こども》兎角《とかく》縁談の事|等《など》は恥《はづか》しいのが先に立ゆゑ判然《はつきり》返事《へんじ》も出來ぬ物だが一|生《しやう》連添《つれそふ》本夫《をつと》の事|否《いや》な者をば無理《むり》やりに行とは決して言はせねど昨日《きのふ》向ふは其方《そなた》をば見染た程の事といひ吾儕《わたし》も息子《むすこ》を能く見たれば和女《そなた》も定めし見たで有《あら》う然《さ》すれば見合《みあひ》も濟だと言物|殊《こと》に息子殿は戀病《こひやみ》で早く安否《あんぴ》が聞たいと管伴《ばんたう》どのも急がるれば其所《そこ》で和女《そなた》に問《とふ》なれば遠慮《ゑんりよ》をせずに回答《いらへ》を爲《なし》ねと言るゝ程猶|彌増《いやます》未通女心《おぼこごゝろ》の初戀《はつこひ》に慕《した》ふお方と縁の糸《いと》結《むす》んで解《とけ》て末長く添るゝ事も父親が承知《しようち》とあれば[#「あれば」は底本では「あれど」]竟《つひ》斯々と言んとすれど言《い》ひ兼《かね》しが斯ては果《はて》じと思ふよりハイ吾儕《わたくし》は彼方《あのかた》なれば實に嬉しう御座りますと有か無かは聲出して思ひ切《きつ》てぞ言たる儘發と面《おもて》に紅葉《もみぢ》して座にも得堪《えたへ》ず勝手の方へ逃《にぐ》るが如く行たるは娘意《むすめごころ》ぞ然も有可し父は見やりて打笑ひお聞《きゝ》の如く娘お光も承知した事なれば吉日を撰《えら》び結納《ゆひなふ》のお取交《とりかはせ》も致さんと言れて忠兵衞|胸《むね》撫下《なでおろ》し夫|拜承《うけたまは》り安堵《あんど》しました實は云々《これ/\》若旦那に誓つて置し事なれば設《も》し御|承知《しようち》のない時は如何《いかゞ》爲《なさ》んと腹《はら》の中で一方|成《なら》ず心配を致して居しが先《まづ》は重疊《ちようでふ》左樣《さやう》御座らば立歸り喜《よろこ》ばせし上又|改《あらた》めて出まする事に仕つれば何分《なにぶん》宜敷《よろしく》お頼申すと喜《よろこ》びを演《のべ》別《わか》れを告|取散《とりちらせ》し辨當など始末《しまつ》をなして舊《もと》の如く風呂敷に押包せ丁稚《でつち》に脊負《せおは》せ勇《いさみ》進《すゝ》んで歸りけるが和吉は霎時《しばらく》側《かたへ》に在て二個《ふたり》が話しを熟々《つく/″\》聞《きゝ》主個《あるじ》の息子が昨日《きのふ》茲《こゝ》より歸りし譯《わけ》も今日は又|態々《わざ/\》爰《こゝ》まで忠兵衞が來りて汚《むさ》き家《うち》をも厭《いと》はず酒を飮《のみ》たる事までも今はさつぱり分《わか》りしが餘り咄《はな》しの出來すぎて花見は又も廢止《やめ》になり再度《ふたゝひ》遠《とほ》き音羽より辨當箱《べんたうばこ》を脊負《しよひ》戻《もど》せしに幼稚意《こどもごゝろ》に管伴《ばんたう》を恨む罪《つみ》もなかりけり [#8字下げ]第四回[#「第四回」は中見出し]  偖《さて》も管伴《ばんたう》忠兵衞は歸ると其儘今日の始末《しまつ》を落《おち》なく話したりけるに主個《あるじ》夫婦《ふうふ》はほゝ笑《ゑ》み容貌《きりやう》許《ばか》りか[#「許《ばか》りか」は底本では「許《ばか》かりか」]心操《こゝろばえ》も又其|素生《すじやう》も勝《すぐれ》たる女で有らば言分なし追て⮔人《なかうど》を立表向|遣《つか》はすなれど善《ぜん》は急《いそ》げ且は一子《せがれ》にも安心を爲《させ》るが能《よき》ゆゑ箇樣々々《かやう/\》の結納《ゆひなふ》造《つく》り明日|遞與《わたし》て變改《へんがい》なき樣致してと云れて忠兵衞|心《こゝろ》を得《え》つ主個《あるじ》が前を退《まが》ると其まゝ長三郎が部屋へ行《ゆ》き先方がこと兩親《りやうしん》がこと萬事|上首尾《じやうしゆび》なるよしを告《つげ》れば是さへ喜びて忽地《たちまち》心地は能く成けり忠兵衞|直《たゞち》に結納《ゆひなふ》を揃《そろ》へる中に其日は暮行《くれゆ》き明日《あす》朝《あさ》の間《ま》に品々を釣臺《つりだい》三|荷《が》に積登《つみのぼ》せ我家の記章《しるし》染拔《そめぬき》たる大紋付の半纒《はんてん》を着せたる漢《をとこ》六個《むたり》に擔《かつ》がせ音羽へ至り路次口に待《また》せ置つゝ進入り昨日《きのふ》の禮《れい》を演《のべ》たる上|⮔人《なかうど》を立て良辰《よきひ》を撰び結納持參なす可き所ろ思ひ立《たつ》日《ひ》が吉日《きちにち》と主人も申し候へば差附《さしつけ》がましく候へど今日|品々《しな/″\》持參したれば何卒お受取《うけとり》下されと水引掛し目録書《もくろくがき》を出せば大藤受取て世に婚禮《こんれい》には用《もち》ひる日《ひ》と又|忌《いむ》可《べ》き日と有といへども何《いづれ》も附會《ふくわい》の説《せつ》の多くて取可き所ろも更《さら》になし然は云へ世俗《せぞく》に從はずば和郎《そなた》の方の如何《いかゞ》にやと思ふ計りに良辰《よきひ》を撰《えら》みてと言はしたれど此方《このはう》にては素《もと》より日には構《かま》ひなければ今日|結納《ゆひなふ》幾久《いくひさ》しく受納致すと目録書を押頂《おしいたゞ》けば忠兵衞は路次《ろじ》の外《そと》なる者を呼込《よびこ》み三荷の釣臺《つりだい》運《はこ》ばせて油團を掲げ其中より取出《とりいだ》したる柳樽《やなぎだる》も家内《かない》喜多留《きたる》と記《しる》しゝは妻を娶《めとる》の祝言にや麻《あさ》を白髮《しらが》とかい附しは麻の如くに最《いと》直《すぐ》に共《とも》白髮《しらが》まで消光《くらす》なる可し其の外《ほか》鯣《するめ》を壽留女《するめ》とするなど皆《みな》古實《こじつ》なる書振《かきぶり》の二樽五種とは言ながら何《いづ》れも立派《りつぱ》に製《したて》たれば只さへ狹《せま》き此家は所せまきまで並《なら》べ立られ坐《すわ》る間《ひま》さへ有らざりけり主個《あるじ》は何やら娘お光に私語《さゝやき》示《しめ》せばお光は心得|何程《なにほど》づつかの祝儀《しうぎ》を包み與ふるほどに六個《むたり》の者は管伴《ばんたう》を經て禮を演べ早用なしと忠兵衞が言《いへ》るに何《いづ》れも空《から》釣臺を擔《かつい》で本町へと歸りける跡に忠兵衞|懷中《ふところ》より金子二百兩|取出《とりいだ》し此方の望《のぞ》みに縁談《えんだん》を無理に願ひし事なればお支度《したく》其他に和君の方へ御物入《おんものいり》を掛ましてはと思《おも》ふよりして此金は其所《そこ》に記しゝ帶代《おびだい》に差上ますれば失敬ながら御受納《ごじゆなふ》の上是を以てお支度《したく》の程《ほど》希《こひね》がふと言ば大藤|景色《けしき》ばみ甲斐なく消光《くらす》浪人ゆゑ貯《たくは》への程も覺束《おぼつか》なしと思うて斯《かく》は言るゝかは知《しら》ざるなれど武左衞門支度金を取《と》り娘《むすめ》をば嫁《よめ》に遣たと言れなば實《まこと》の嫁《よめ》には非して金に其身を任《まか》しける妾々《めかけてかけ》も同樣にて末代《まつだい》までも家名の汚《けが》れ娘持身は殊更に婿《むこ》迎《むか》へるか嫁に遣《やる》か爲《なさ》ねば成ぬは生《うま》れし日より知てをりたる事なれば其|入用《いりよう》にと豫《かね》てより貯へ置たり金子ありて貧苦《ひんく》の中にも失はざれば今度の支度に事|缺《かゝ》ず此事《このこと》はしもお光はまだ知ねば共に是を見て疑《うたが》ひ晴《はら》せと言ながら衝《つ》と立上り床の間に飾置《かざりおき》たる破果《やれはて》し具足櫃《ぐそくびつ》の葢《ふた》かい遣り除け底《そこ》を探《さぐ》つて一包の金《かね》取出《とりいだ》し二個《ふたり》に示し爰に百兩あるからは必ず心配《しんぱい》無用なりと浪人しても流石は武士《ものゝふ》用意の金を貯へは實《げ》に色も香も最《いと》深《ふか》き山吹色とぞ知《しら》れたり娘は初《はじめ》て見《み》たる金今日まで明《あか》しも爲《なし》給はで貯へ置て下さるも此身の上を思《おぼ》し召《めし》親の慈悲《じひ》こそ有難けれど又今更に有難涙忠兵衞|意《こゝろ》に面目《めんぼく》なく御浪人なるお身の上を輕視《かろしめ》斯《かく》と申すにあらねど主人が寸志《すんし》を其儘に申し述しが支度金とお見做《みなし》ありては面目なく殊《こと》にお嗜《たしな》みの大金を拜見《はいけん》致し汗顏《かんがん》の外は之なく候へば此二包は持歸り主人に篤《とく》と申し聞候なればお立腹《りつぷく》をと云ば武左衞門|面《おもて》を和柔《やはらげ》否《いや》とよ此儕《おのれ》が心志《こゝろざし》の徹らば爭《いか》で怒《いか》る可き然ども折角《せつかく》持參せし金を其まゝ持返《もちかへ》らば和郎《そなた》は幼稚《こども》の使《つかひ》に等《ひと》しく主人に言譯あらざる可し就《つい》ては一度|受納《じゆなふ》したれど此方《こなた》は見らるゝ如くにて親子《おやこ》の外《ほか》に人もなければ結納持せて遣難し依て此まゝ此金は其|婿殿《むこどの》に上下料《かみしもれう》に送りたりとて返し給ひぬ然すれば和郎《そなた》の役目も立《たゝ》んと信あり義あり何から何まで拔目のあらざる言葉《ことば》に感《かん》じ忠兵衞は只《たゞ》拜々《はい/\》と言受なして金を納め我家へ歸り夫婦《ふうふ》の者に一伍一什を告ければ二人は流石《さすが》武士《ぶし》は武士いと見上《みあげ》たる親子の者と思へばいよ/\頼《たの》もしく婚姻する日を急ぐ物から大家《たいけ》の事ゆゑ出入《でいり》の者まで萬事行屆かする其爲に支度に掛《かゝり》て日を送りまだ當日さへ定《さだ》めざりけり偖《さて》も此方は裏店《うらだな》に開闢《かいびやく》[#ルビの「かいびやく」は底本では「かいびくく」]以來《いらい》見し事なき釣臺三荷の結納物を擔《かつ》ぎ入ける爲體《ていたらく》に長家の者は目を驚《おどろ》かし何處《いづこ》へ行やと思ひしに思ひ掛なき大藤の家へと擔入《かきいれ》たりければ偖は娘のお光さんが何處《どこ》ぞへ嫁《よめ》に行事かアノ結納の容子では先は大家の思はるゝが成程《なるほど》彼兒《あのこ》は容貌《きりやう》が能く音羽小町と綽名《あだな》にさるゝ程にてあれば氏《うぢ》なくて玉の輿に乘る果報《くわはう》愛度《めでたく》其日|消光《くらし》の賣卜者の娘が大家の嫁《よめ》に成なら親父殿まで浮び上り左團扇《ひだりうちは》に成で有らうと然ぬだに口やかましきは棟割長屋《むねわりながや》の習慣《ならひ》とて老婆も嚊《かゝ》も小娘もみな路次口に立集《たちつど》ひ姦《かしまし》と讀むじだらくの口唇《くちびる》翻《かへ》す餞舌《おちやつぴい》塒《ねぐら》求《もと》むる小雀の群立騷《むらだちさわ》ぐ如くなり斯くとはいざや白髮交《しらがまじり》の髮を結びて手拭|冠《かぶ》り拭《たへ》の[#「拭の」はママ]布子《ぬのこ》の裾《すそ》端折《はしをり》片手《かたて》に古《ふる》びし岡持下げ足元輕く立歸る老婆《らうば》は長屋の糊賣《のりうり》お金營業仕舞て這入來《はひりく》る姿《すがた》を見るより夥多《おほぜい》が和女《おまへ》は隣《となり》の事といひ常から親しくなさるゝゆゑ彼所《あすこ》の事は御存じだらうが今日《けふ》是々と結納を賣卜者《うらなひしや》の家へ持込だか先は何處《どこ》だか御存かへと問れて此方《こなた》は寢耳に水|皆《みな》さん方も知ての通り吾儕《わたくし》は子もなく本夫《ていしゆ》に遲《おく》れ一箇《ひとり》者ゆゑ營業に出るとき家に錠を卸《おろ》し隣《となり》へ頼《たのみ》歸《かへ》ればまたヤレ火を呉れの湯を呉のと貰《もら》ひに行て一つ家も同じ樣《やう》にはしてゐる故夫程立派な結納《ゆひなふ》が來る程ならば吾儕《わたくし》にも何とか話《はなし》が有りさうな物で有るのに無のは不思議《ふしぎ》吾儕が聞て上やうと先に進《すゝめ》ば夥多《おほぜい》は後《あと》に從ひ雜路々々《ぞろ/\》と皆門口まで來りしが別《わか》れて己《おの》が家々に思ひ/\に入《いり》にけるお金は門《かど》より聲を掛《かけ》這入ば長屋の噂《うはさ》に違《たが》はず最美事なる品々が所狹まで並びゐたるに如何《どう》した者と裡問《うちとへ》ば武左衞門は昨日《きのふ》より今日までの事|委敷《くはしく》演べ箇樣々々《かやう/\》の事ありて急に今日結納の取交《とりかは》せをばしたれば婚姻《こんいん》の日は先方より言越《いひこし》參らば直にしても致せるやうに爲て置たく就ては娘が天窓《あたま》の物《もの》帶《おび》も衣類《いるゐ》も箪笥《たんす》長持《ながもち》其外一|式《しき》新撰《あたらし》く整《とゝの》へんとは思へども是等に男は役《やく》に立ず然とて親類《しんるゐ》縁者《えんじや》とても有らねば萬事《ばんじ》を頼みたく今日は和女《そなた》の歸りをば實は二個《ふたり》で待てゐたりと言ばお金は斑《まばら》なる齒《は》を顯《あらは》して打笑ひ然いふ目出度お話と聞ては吾儕《わたし》も實に嬉《うれ》しく斯いふ事を申すのもチト失禮《しつれい》では有りますが常にお柔《やさ》しいお光《みつ》さん吾儕《わたし》は自分の子の樣に思つてゐませば營業《しやうばい》を休んでなりと駈歩行《かけあるき》御用を達て上《あげ》ますよ是といふのも親孝行《おやかうかう》を神《かみ》や佛《ほとけ》がお守りなすつて此上もない幸福《さいはひ》が參つた事で御座りませうとお金も共に打喜《うちよろこ》び是より後は營業を終了《しまう》とお光の方に至り萬事の相談《さうだん》買物《かひもの》なんどに深切《しんせつ》盡《つく》せば親子は喜び親類《しんるゐ》代《がは》りに當日はお金も其所の席《せき》に臨《のぞ》みよろしく頼《たのむ》と此者の衣類《いるゐ》も帶《おび》も拵《こしら》へやりしにお金はいよ/\嬉しさ増《ま》し自慢《じまん》たらだら此事を長家は素《もと》より四邊《あたり》へも吹聽《ふいちやう》なせば其邊へ發《はつ》と噂《うはさ》の立行て或は之れを羨《うらや》むあり或は之を妬《ねた》むもありて衆口《しうこう》喋々《てふ/\》當分《たうぶん》はお光の事のみ云あへるを耳《みゝ》に入たる家主の庄兵衞|俄《にはか》に安からず思うて一人心を定め此|婚姻《こんいん》を妨《さまた》げんと謀《たくみ》し奸計《かんけい》※[#「圖」の「回」に代えて「面から一、二画目をとったもの」、633-7]《づ》に當り竟《つひ》にお光が汚名《をめい》を蒙《かうむ》り赤繩《せきじよう》絶《たえ》たる所より白刄《しらは》を揮《ふる》つて奸《かん》を鋤《す》き白洲《しらす》に砂石《しやせき》を掴《つか》むてふ最《いと》爽快《さうくわい》なる物語は亦《また》回《くわい》を次ぎ章を改め漸次々々に説分くべし [#8字下げ]第五回[#「第五回」は中見出し]  月《つき》明瞭《あきらか》ならんとすれば浮雲《ふうん》之を覆《おほ》ひ花|美麗《うるはし》からんとすれば風雨之を破《やぶ》る寸善《すんぜん》尺魔《せきま》の俚言《ことわざ》むべなる哉大藤武左衞門の女兒《むすめ》お光は孝行の徳《とく》は孤《こ》ならず隣家《となり》の老婆《らうば》が婚姻《こんいん》の事如斯と徇《ふれ》歩行《あるく》より思はぬ事の起りて喜ぶ幸ひも今ふり變《かは》る災禍《わざはひ》の素《もと》を如何と尋るに此裏長家の家主を庄兵衞というて今茲《ことし》廿年《はたち》餘り二つに成り未だ定まる妻《つま》もなく母のお勝《かつ》と二個消光《ふたりぐらし》を爲《なせ》ども茲等は場末《ばずゑ》にて果敢々々しき店子《たなこ》もなければ僅か許《ばかり》の家主にては生計《たつき》の立ぬ所より庄兵衞は片手《かたて》業に貸本をもて營業と爲ぬ又同町に山田|元益《げんえき》といふ醫師《いしや》あり是は這《こ》れ庄兵衞が兄にて幼名《をさなゝ》を庄太郎といひしが性來《しやうらい》善《よ》からぬ品行《おこなひ》ありて賭博《とばく》を好み酒《さけ》を飮み親に苦勞《くらう》を掛ることも度々あれば父は怒《いか》り久離《きうり》を切て勘當《かんだう》せしに渠《かれ》方々《はう/″\》を彷徨《さまよふ》うち少く醫師の道を覺え町内へ來て山田元益と表札《へうさつ》を掲《あ》げ門戸《もんこ》を張れども素《もと》より拙《つたな》き庸醫《ようい》なれば病家は最《いと》も稀々《まれ/\》にて生計《くらし》の立つほど有らざれば内實《ないじつ》賭博《とばく》を旨とすれば父の怒《いかり》はいよ/\強く勘當《かんだう》免《ゆれ》ん樣もあらねば其儘《そのまゝ》にして過行しが去年父親は死去《みまかり》しに母は女氣《をんなげ》の心|弱《よわ》き所へ持込《もちこみ》詫言《わびごと》せしかば故なく濟《すん》で今ははや往通《ゆきかよひ》をなす中に成しに元益は兄といふを笠に打着《うちき》て庄兵衞に無理《むり》を言うこと度々なれど庄兵衞意に心能らず思うて言葉《ことば》爭《あらそ》ひせし後は久しく往通《ゆきかよひ》もなさで居しが庄兵衞は疾《とう》より大藤の女兒《むすめ》お光に戀慕《れんぼ》なしつゝ忍び/\袖褄《そでつま》を引者ながら彼方は路傍《ろばう》の柳に等《ひとし》く浮氣《うはき》の風の吹くまに/\靡《なび》く女に非れば打腹立《うちはらだち》て言懲《いひこら》さんとは思へども家主なればと堪《こら》へて程よく紛《まぎら》はし其まゝにして過すに庄兵衞|情慾《じやうよく》いよ/\募《つの》りお光は我を嫌《きら》ふにあらねど未だ未邊女氣《おぼこぎ》の[#「未邊女氣《おぼこぎ》の」はママ」]うら羞《はづか》しく發揮《はき》と問答《へんじ》を爲さざるなる可し就ては氣永《きなが》く口説《くどく》時は竟に意に從ふならんと思ふにも似《に》ず其娘は今度本町の小西屋へ縁談《えんだん》究《きま》り箇樣々々と糊賣《のりうり》お金が話したるを聞より此方の庄兵衞は今迄|手活《ていけ》の花とのみ思ひゐたりし女をば他へ取るゝ無益しさ如何はせんと取置《とつおい》つ胸《むね》を碎《くだき》つ寢食《しんしよく》も忘るゝ計に考へしが不※[#「圖」の「回」に代えて「面から一、二画目をとったもの」、634-8]《ふと》思ひ附きお光をば手に入んこと外になし此|婚姻《こんいん》の妨《さまた》げせば渠《かれ》自然《おのづから》此方《こなた》へ靡《なび》かん噫《あゝ》然なりと思案せしが此|方策《はうさく》に困《こう》じ果《はて》就《つい》ては惡き事に掛ては敏《かしこ》き者は兄の元益是に相談なして見ばやと先元益が方へ至るに博奕《ばくち》に負《まけ》の込《こみ》たるか寢卷《ねまき》一枚奧の間に煤《すゝ》ぶりゐたるが夫と見て誰《たれ》かと思へば弟の庄兵衞何と思つて出て來たか知ねど兄に無禮《ぶれい》を云ひ謝罪《わび》にも來ねば此方もまた今日まで出入も爲《せ》なかつたが一體何で來たのだと問《とは》れて此方は天窓《あたま》を掻《か》きツイ先頃はお互に蟲《むし》の居所の惡《わる》い所から言葉|戰《たゝか》ひ爲《し》たれども考へ見れば吾儕《わし》が惡いと斯《かう》謝罪《あやまつ》た上からは主は素より舍兄《あに》のこと心持をば取直し何卒力に成て下せへと云ば元益|點頭《うなづき》て然事|柄《がら》さへ解《わか》つた事なら素より同胞《きやうだい》何を云ふ然し改まつて力に成てと言のは如何《どう》いふ次第だかと問れて庄兵衞はお光が事一|伍《ぶ》一什《しじふ》を打明し斯いふ解《わけ》ゆゑ邪魔《じやま》を入れ其|婚禮《こんれい》を茶々風茶《ちや/\ぷうちや》に爲《し》たらば女は吾儕《われ》の物と究《きはめ》てはゐるが手段に困《こま》り其所で兄貴に相談に來たが趣向《しゆかう》は無物《なきもの》かと問はれて元益笑ひ出し世に自惚《うぬぼれ》と瘡氣《かさけ》のない者はないとぞ言に違《たが》はずお光は未だ手に入ねば此|婚禮《こんれい》が破談《はだん》に成てもお主の方へ來るか來ねへか其所の所は解《わか》らぬが是を破つて自分の方へ引入やうとは流石《さすが》に弟感心したゆゑ力に成て其|婚禮《こんれい》を破談《はだん》にしやう。夫ぢやア爲《やつ》て下さるか如何《いかに》も吾儕《われ》がことを構《かま》へ爲《し》て見せようが此|姿《すがた》では如何《どう》も斯《かう》も詮方《しかた》がねへ付ては身姿《みなり》を拵《こせへ》るだけ金をば五兩貸てくれ。ムヽ五兩と云ては吾儕《おれ》の身では大金ながら後刻《のち》までに急度《きつと》調達《こしらへ》持《もつ》て來《くる》が然して金の入用と邪魔《じやま》の手段は如何いふ解《わけ》か安心するため聞せてと云ば元益庄兵衞の耳の邊《ほとり》へ口さし寄せ何事やらん稍《やゝ》霎時《しばらく》私語《さゝやき》示《しめ》すを聞中に此方は莞爾《にこ/\》笑ひ出し聞了つては横手を拍《う》ち成程々々|奇々《きゝ》妙計《めうけい》必ず當るに相違なし夫なら直に金の算段《さんだん》。急度《きつと》相違のない樣に直に調達致して來ようとつかと戸外《おもて》へ出たるは其日も已に暮合《くれあひ》すぎなり开《そ》も此家には妻子もなく一個住《ひとりずみ》にて玄關番《げんくわんばん》を兼た飯焚《めしたき》の男一人在れど是さへも使に出たる後なれば同胞《きやうだい》如何なる密談《みつだん》せしや知者《しるもの》絶《たえ》て無りけり斯て後庄兵衞は翌朝《よくあさ》五兩の金を調達《こしらへ》兄元益に遞與《わたせ》しに此方は心得其金もて質《しち》に入たる黒紋附《くろもんつき》の小|袖《そで》羽織《ばおり》を受出し近所の竹輿屋《かごや》へ吩咐《いひつけ》て醫師|陸尺《ろくしやく》。三人|仕立《したて》切棒《きりぼう》の竹輿《かご》路次口《ろじぐち》へ据《すゑ》させ自己《おのれ》は夫に乘り方々と聲《こゑ》掛《かけ》させながら本町へこそ到りけれ竹輿舁《かごかき》豫《かね》て心得ゐれば同町三丁目の藥種《やくしゆ》店小西屋長左衞門の前に下《おろ》し戸を引開《ひきあけ》て直しける雪踏《せつた》の鼻緒《はなを》の最《いと》太《ふと》き心を隱す元益が出てしづ/\進み入に店の者等は之を見れば年《とし》未《ま》だ三十路《みそぢ》に足《たら》ざれど人品《じんぴん》骨柄《こつがら》賤《いや》しからず黒羽二重《くろはぶたへ》に丸の中に桔梗《ききやう》の紋《もん》附《つき》たる羽織《はおり》を着なし竹輿《かご》の體裁《ていさい》陸尺《ろくしやく》の容子を見ても何某と稱るゝ御殿醫先生ならんと思へば一同|敬《うやま》ひまづ此方へと上座《じやうざ》へ招《せう》すに元益更に辭する色なく最《いと》鷹揚《おうやう》に挨拶《あいさつ》して打ち通りつゝ座に附ば今日は管伴《ばんたう》忠兵衞が不在なるに依り帳場《ちやうば》にゐる主人長左衞門は立出て敬々《うや/\》しく挨拶《あいさつ》なしお茶《ちや》を上《あげ》よと云ければ和吉《わきち》は番茶を茶碗《ちやわん》に汲《く》みイザと計りに進めけり發時《そのとき》主個《あるじ》は此方に向ひ御用の筋《すぢ》は如何なる品と問へば元益|茶碗《ちやわん》をば先下に置き懷中《くわいちう》より一枚の紙取出し如何も少々の買物《かひもの》にて氣の毒ながら此方の店は藥種《やくしゆ》が能きゆゑ態々《わざ/\》と遠方《ゑんぱう》よりして參りたれば此の十一|味《み》を何れもみな一|兩目《りやうめ》づつ調合《てうがふ》なし極細末《ごくさいまつ》にして貰《もら》ひたいと出すは身姿《みなり》も能き事ゆゑ定めし高金の品のみならんと思うて開き讀下《よみくだ》せば然に非ずして極安《ごくやす》き物のみなれば呆《あき》れながら委細《ゐさい》承知《しようち》を仕つりぬ只今《たゞいま》藥研《やげん》に掛ます間《あひだ》霎時《しばらく》お待ち下されと云つゝ夫を和吉に遞與《わたし》製造《せいざう》方へ廻させしは多少を論《ろん》ぜぬ商個《あきうど》の是ぞ實に招牌《かんばん》なる可《べ》し偖《さて》細末《さいまつ》の出來る間と元益に四方八方《よもやま》の話しを爲ながらも餘りに不審《ふしん》と思ふ故此方に向ひて膝《ひざ》を進めちと失禮《しつれい》な事では御座れど營業《しやうばい》ゆゑに貴君樣に伺ひまするは外でもなき只今|仰《おほ》せ附《つけ》られし彼お藥の調合にて弊家共も代を累《かさ》ね此營業を致しをれども箇樣な藥の合せ方初めて拜見《はいけん》致しますが一體是は何病に驗《きゝ》ますものか苦《くるし》からずばお教へなされて下されませと云ば元益打笑ひ成程是は貴主方が見ても一向解らぬも道理にこそあれ此藥は素《もと》漢方家《かんぱうか》の配劑《はいざい》ならず愚老《ぐらう》先年長崎にて醫道《いだう》修業を爲しをり不※[#「圖」の「回」に代えて「面から一、二画目をとったもの」、636-3]《ふと》阿蘭陀《おらんだ》の名醫より傳習《でんじゆ》したりし稀代《きたい》の妙藥《めうやく》テレメンテーナと稱物《いふもの》にて則ち癲癇《てんかん》の良劑《りやうざい》なり然れども今の品《しな》耳《のみ》ならず阿蘭陀《おらんだ》人より傳へられたる奇藥《きやく》を二種《ふたいろ》加《くは》ゆるゆゑ如何程|重《おも》き癲癇《てんかん》なりともたゞ一二服を服用すれば忽地《たちまち》全快なさんこと霜《しも》に沸湯《にえゆ》を注ぐに等き世にも怪有《けう》なる奇劑《きざい》なるは是迄|夥多《あまた》の人に用ゐ屡々《しば/\》功驗《こうけん》を示せしより今度|音羽《おとは》町の浪人《らうにん》大藤武左衞門の娘お光が矢張《やはり》癲癇《てんかん》の患《うれ》ひありとて愚老《ぐらう》の方へ療治《れうぢ》をば頼に來しゆゑ診察《しんさつ》するに數年の病のかうぜしなれば我妙藥《わがめうやく》の力にても到底《つまり》全快|覺束《おぼつか》なければ一時は之を斷《ことわ》りしが父なる者の云るには今度|娘《むすめ》は江戸向の大家の嫁《よめ》に望《のぞ》まれしが病《やまひ》有ては相談も出來ねば深《ふか》く押隱《おしかく》し疾《は》や結納《ゆひなふ》を取交し近日|婚姻《こんれい》致す事に成しに依ては行《ゆき》早々《さう/\》病《やまひ》起《おこ》らば如何にせん故に根切《ねきり》にあらずともと頼《たの》まれたるより今日わざ/\此方へ參りし事なりとまづ大略《あらま》しを語りけり [#8字下げ]第六回[#「第六回」は中見出し]  其道を以て計《はか》る時は君子と雖も計り得るに易《やす》しとかや扨も山田|元益《げんえき》はお光の婚姻《こんれい》を妨《さまた》げるため此小西屋の店へ來り癲癇《てんかん》なるよし餘所ながら咄《はなし》出せば主個《あるじ》を初め並ゐる店の者共等も顏《かほ》見合《みあは》せてゐたりけるに爲《し》て遣《やつ》たりと意《こゝろ》に笑《ゑ》み猶《なほ》も主個《あるじ》に打向ひ今の女兒《むすめ》の行先は大身代《だいしんだい》の由なれば此|婚姻《こんいん》の首尾《しゆび》よく成らば女兒《むすめ》計りが僥倖《さいはひ》ないで親《おや》まで浮《うか》び上る事ゆゑ是非とも是を爲《し》遂《とげ》たし然ども隱《かく》して遣《やり》たる病氣が一日二日の中に起らば折角《せつかく》なしゝ婚姻《こんいん》も破談《はだん》になりて寶《たから》の山へ入ながらにして手を空《むなし》く戻《もど》るが如き事ある可し因て到底《たうてい》治《なほ》らずとも藥の功驗《きゝめ》で二月三月起らずにゐれば其後に假令《たとへ》發《はつ》する事ありとも早《はや》夫《それ》までには夫婦《ふうふ》の中に人情《にんじやう》と云が起《おこ》り來れば癲癇《てんかん》ありとて離縁《りえん》には成る氣遣《きづかひ》も有まいからと云れて見れば其やうな物とも思ひ上治《うはなほ》して致してやらねば其親子が折角《せつかく》得たる出世《しゆつせ》の道の妨《さまた》げ爲やう思はるれば先の家へは氣の毒ながら偖《さて》斯《かく》までには爲たりしと何氣なき體《てい》咄《はな》す節《をり》藥の細末《さいまつ》出來しとて持《もち》來るより受取つ錢を拂ひて長居は惡しと會釋《ゑしやく》をなして元益は店を立出《たちいで》竹輿《かご》に乘り首尾《しゆび》よく行しと舌を吐《は》き我家を差て歸りけり跡《あと》見送《みおく》つて長左衞門思ひ掛けざる醫師の咄《はな》しに只管《ひたすら》呆《あき》れて言葉も出ず茫然《ばうぜん》として望みをりしが影《かげ》さへ見ず成《なり》し頃やう/\我《われ》に歸りつゝ慌忙《あわてゝ》奧《おく》に走り入り今の次第を斯々《かう/\》と話すに妻も且|呆《あき》れ且は驚く計りにて夫婦《ふうふ》交《かたみ》に面《おもて》を合せたゞ吐息《といき》のみ吐《つき》ゐたりぬ斯《かゝ》る所ろへ管伴《ばんたう》の忠兵衞外より歸り來り居間へ至るに長左衞門は待兼《まちかね》たりし風情《ふぜい》にてオヽ忠兵衞か遲《おそ》かりし和郎《そなた》は此家に長の年月|勤《つとめ》て居て今にては管伴《ばんたう》とまで用ゐらるゝ身《み》で有る故に大事の/\一個息子《ひとりむすこ》へ取る嫁《よめ》も吾儕等《わしら》三個《みたり》は皆目《かいもく》見ず和郎に任《まか》した今度の一|件《けん》それを何ぞや探《さぐ》りもせず何故あつて彼樣《あのよう》な病持《やまひもち》をば引摺《ひきず》り込み結納《ゆひなふ》までも取交《とりかは》せしぞ息子《せがれ》の意《こゝろ》に叶《かなう》たる者にてあらばとは云《いふ》たれど惡ひ病があつても能《よ》いと我々夫婦は決して云ぬに和郎《そなた》は左樣な女兒《むすめ》とも知ずに縁《えん》を組せし無念《ぶねん》か又は知ども當座《たうざ》のみ能《よ》ければ能《よい》との不實心で知て居ながら横着《わうちやく》を極《きはめ》し譯《わけ》か聞《きか》ま欲《ほし》と腹の立まゝ藪《やぶ》から棒《ぼう》にまくり立《たて》つゝ云《いひ》ければ忠兵衞|呆氣《あつけ》に取《とら》るゝ耳《のみ》少も合點《がてん》行ざれどもお光の事とは大方に推《すゐ》せばいよ/\分《わか》り兼《かね》猶《なほ》押返《おしかへ》して問けるに主個《あるじ》は今方店へ來し醫師が述《のべ》たるテレメンテーナの藥の事より大藤の女兒《むすめ》は斯《かう》と話したるが和郎は大事な主人の嫁《よめ》が途中《とちう》なんどで轉倒《ひつくりかへ》り天窓《あたま》へ汚《むさ》き草履《ざうり》草鞋《わらぢ》を載《のせ》られ恥を世の中へ晒《さら》してゐても大事ないかと怒《いか》りの言葉《ことば》も無理ならず此方も是を婚姻《こんいん》の邪魔《じやま》なす者の所爲《しわざ》と知ねば彼奸計《かのかんけい》を信實《まこと》となし貴妃《きひ》小町にも勝るとも劣はせじと思ふ程なる美人であれば其樣な病も素《もと》より有るまじと思ふが故に近所《きんじよ》隣家《となり》の人にも更に平常の行跡《ぎやうせき》さへも聞事なく縁《えん》を組《くみ》しは身の過失《あやまり》この娘にして其病ありとは嗚呼《あゝ》人は見掛に依《よら》ざる物かと嘆息《たんそく》なしてゐたりしが漸々《やう/\》にして此方《こなた》に向ひ然《さる》惡病のあると知らば假令《たとへ》若旦那《わかだんな》がどの樣に戀慕《こひした》ひて居給ふとも決してお世話は致すまじきに全く知ずに爲《なせ》し事故|不行屆《ふゆきとゞき》の其|廉《かど》は平に御|勘辨《かんべん》下さる可し然《さう》して此上の御|思案《しあん》は何の思案に及ぶ可き直《すぐ》婚姻を變改《へんがい》してと言はれて忠兵衞|度《と》胸《むね》を突《つ》き仰《おほせ》御道理《ごもつとも》では御座りますれど先から好みし縁談《えんだん》ならず此方よりして若旦那が見染《みそめ》て無理に貰《もら》ひに行き此|管伴《ばんたう》の目の黒い中に如何なる事ありとも離縁《りえん》はされぬと受合《うけあひ》しを今更|斯《かう》と申しては參り兼れば此事のみはと言《いふ》を主個《あるじ》は押返《おしかへ》し假令《たとへ》ば無理に貰《もら》ひしとて婚姻なしゝ譯《わけ》にもなく本の結納《ゆひなふ》だけ取交《とりかは》した事にてあれば仔細有まじ夫をば強《しひ》て否《いや》と云《いふ》は和郎《そなた》は病氣を知ての事か。全く以て是から先に行て呉るか。サア。サア夫はの詰《つめ》臺詞《ぜりふ》忠兵衞今は詮方《せんかた》無《なけ》れば左樣御座らば此由を若旦那へ一|應《おう》話してと云ども主個《あるじ》は更に肯《きか》ず何の息子《せがれ》に話すに及ばう如何《いかに》戀慕《こひした》ふ美人でも覆轉《ひつくりかへ》つて泡《あわ》を吹く者と知なば戀路《こひぢ》は覺《さめ》ん息子《せがれ》は吾儕《わし》が能樣《よきやう》に言ゆゑ和郎《そなた》は音羽町へ早く行《ゆき》ねとせり立られ忠兵衞今は理の當然《たうぜん》に迫《せま》られたれば一句も出ず力《ちから》投首《なげくび》腕組《うでぐみ》して進まぬ足を進めつゝ音羽を差て行にける神ならぬ身の此方には然《さ》る災禍《わざはひ》の配《おこ》り來て無き名を負《おひ》しと露知《つゆしら》ぬお光が嫁入《よめいり》の支度の好惡《よしあし》父親とも又お金とも相談して調《とゝの》へければ衣類《いるゐ》諸道具《しよだうぐ》今は殘らず揃《そろ》ひたるに大家の事故先方にては夥多《あまた》の支度ある事にて未だ調《とゝの》はぬか婚姻《こんいん》の日をば何日《いつ》とて云うて來ぬかモウ今日あたりは來然《きさう》な物と親父《おやぢ》が言《いへ》ば女兒《むすめ》もまた戀しい人と二世の縁《えん》結《むす》ぶに附て嬉《うれ》しさの一日《ひとひ》を千秋《ちあき》と思へども言はるゝ度に恥《はづ》かしさの先立なれば果敢々々《はか/″\》しき回答《いらへ》もなくて面《おも》はゆげ斯《かゝ》る所ろへ門の戸開け這入《はひり》來るは小西屋の一番|管伴《ばんたう》忠兵衞なれば夫と見るより父親《てゝおや》は最《いと》笑《ゑま》し氣《げ》に迎へ上げ忠兵衞どのか能く來ませし今日等は定めし婚姻の日限《にちげん》究《きめ》にお出が有らうと今も今とて娘と二個《ふたり》噂《うはさ》を致して居《を》りし所ろマア/\此所へコレ娘何を迂濶《うつかり》致してをるお茶を上ぬか如何ぞやと待遇振《もてなしぶり》の厚《あつ》き程|此方《こなた》はいよ/\意《こゝろ》に恥《は》ぢ言出惡《いひいでにく》く背後《そびら》には汗《あせ》する計《ばか》りに在りたるが斯ては果《はて》じと口を開き決してお構ひ下さるな今日はチト申上兼し次第が有て參りたり夫と申すは餘の事ならずお娘御樣《むすめごさま》とお約束を致しましたる吾儕《わたくし》方の主人の息子《せがれ》長三郎こと實は先日より病氣に附き種々《いろ/\》醫藥を撰《えら》ぶ物から功驗《しるし》は毫《すこ》しもあらずして次第|漸次《しだい》に重《おも》り行き昨今にては到底《とても》此世の人には非じと醫師も云ひ吾儕共《わたくしども》も思ひますれば節角《せつかく》お娘御を迎《むかへ》申しても祝盃《さかづき》さへも致さぬうち後家《ごけ》と爲《なす》のが最惜《いとほし》ければ此度の縁はなきものと思し絶念下《あきらめくだ》さるやと申して參れと長左衞門が吩咐《いひつけ》に依て態々《わざ/\》參りましたるが實《まこと》にお氣の毒の次第にてと言《いひ》たる儘《まゝ》に戸外《おもて》へ飛出《とびだ》し跡《あと》をも見ずして逃《にげ》行きけり此方の父女《おやこ》は思ひも因ぬ管伴《ばんたう》忠兵衞が斷りに夢《ゆめ》かと計り驚きつ又は呆《あき》れて顏《かほ》見合《みあは》せ少時《しばし》言葉もあらざりしがお光は呀《わつ》と聲立て其所へかつぱと打伏つ前後《ぜんご》正體《しやうたい》なき叫《さけ》びぬ父も泪《なみだ》に目を潤《うるほ》せしが此方に向ひてコリヤ娘必ず泣な我も泣じ和女《そなた》を育《そだ》て此年月|能《よき》婿《むこ》取んと思ふ所へ幸ひなるかなと今度の婚姻|無上《こよなき》親娘《おやこ》が悦びを思ひ附ても亡《な》き母が生《いき》て居《をり》なば嘸《さぞ》や嘸《さぞ》悦ぶならんと今日迄も樂しみ居たる甲斐もなく忽地《たちまち》斷《ことわ》るとの變改《へんがい》如何なる事に原因《もとゐ》候や知らねど一度約束して結納《ゆひなふ》までも取|交《かは》せしに斯《かく》言來る所を見れば幾許《いくら》大家の由緒《ゆゐしよ》ある家のと云《いふ》ても町人は町人だけで詮方《せんかた》なし必ず喃々《くよ/\》思ふなよと勵《はげま》しながら父親も同じ袂を潤《うるほ》はしぬ娘はやう/\顏を揚《あ》げ女と生れし甲斐《かひ》なさは百年《もゝとせ》の苦樂他人に在りと常から教を受まつれば本夫《をつと》を持《もた》ば生涯《しやうがい》を任《まか》して朝暮《あさゆふ》仕へんと思ひし事も空頼《そらだの》み仇し縁《えにし》に成ることゝ知ば年頃貧苦の中にも失ひ給はで吾儕《わたし》の爲に祕置《ひめおか》れたる用意金を盡して爲し支度さへ今|浪費《むだづかひ》に成りたるは悔《くやし》き限りに候へど夫も是非なきことながらモウ結納《ゆひなふ》を取|交《かは》せし後にてあれば同衾《ひとつね》は爲《なさ》ねど已に夫婦で有ると今故なく離縁されては吾女《わたし》は世間へ此顏が向られませねば如何なる越度《をちど》如何なる粗想《そさう》で離縁されしか其趣きを小西屋へ一度掛合|吾儕《わしら》の身體《からだ》の明りの立やうに何卒《どうぞ》なされて下されませと理《ことわ》り迫《せめ》たるお光の述懷《じゆつくわい》無實《むじつ》に陷《おちい》り樂みし赤繩《せきじよう》茲《こゝ》に絶しと知ぬは憐れといふも魯《おろか》なりけり [#8字下げ]第七回[#「第七回」は中見出し]  父は泪《なみだ》を拂ひつゝ娘に向ひて又云やう其|述懷《じゆつくわい》は然《さる》事ながら設《もし》此先が武士なりせば今更になり箇樣《かやう》な事を面目《めんぼく》なくて云ても來《く》るまじよし又云て來たればとて此方《こなた》も承引《ひきうけ》其明の立ざる中は使の者を爭《いかで》阿容々々《をめ/\》返す可き然るを先が町人にて素《もと》町人と云《いへ》る者は利に耳《のみ》走りて恥を思はず義理には暗《くら》き者なるゆゑ斯《かゝ》る事さへ云出すならん然るを此方は人がましき者と思うて理窟《りくつ》を云《いふ》は所謂《いはゆる》乞食《かたひ》に棒打《ぼううち》にて毫《すこし》も役に立ざれば腹の立のは無理ならねど此は是までの事と斷念《あきらめ》必ず案じる事なかれと説《とけ》ど諭《さと》せど娘氣の亂れ染ては麻糸《あさいと》の解《とく》よしもなき其|節《をり》から隣の家の糊賣《のりうり》お金例の如く營業《なりはひ》を終了《しまう》て今がた歸り來り我家へ入て荷を卸《おろ》し重能《ぢうのう》代《がは》りの石決明貝《あはびがひ》を携《たづさ》へ隣の家へ至り火を貰《もら》はんと行き見れば年が年中|物爭《ものあらそ》ひ一つなしたる事もなき家には似氣《にげ》なく親と子がさも不快氣《ふくわいげ》なる面地《おもゝち》して然も泪《なみだ》を翻《こぼ》しゐればお金は不審と眉《まゆ》に皺《しわ》平常《へいぜい》からして親子中の能《よい》と云のは音羽中へ響《ひゞい》て親に孝行な其お光さんが何した譯でと問ど親子は嘆息《たんそく》の外に回答《いらへ》もあらざれば一所に置ては面倒《めんだう》というてお金は無理やりにお光を我家へ連行《つれゆき》つ何で喧嘩《けんくわ》をなされたと問ばお光は面はゆ氣《げ》に物|爭《あら》そひせし解《わけ》ならず二個《ふたり》泪を翻《こぼ》してゐたるは斯樣々々の次第なりと婚姻|破談《はだん》に成し事を包《つゝま》ず告ればお金は驚きあれ程までに手を下て貰《もら》ひに來りし小西屋で今更《いまさら》俄《にはか》に斷りに來のは何とも合點《がてん》行《ゆか》ぬと云たる耳《のみ》にて詮方《せんかた》なければお光を慰め家へ歸し吾儕《おのれ》も大藤武左衞門に會つて悔《くや》みを云《いひ》にける物語|二枝《ふたつ》に分《わか》る不題《こゝにまた》忠兵衞は主命なれば詮方なく最《いと》云難《いひがた》き事の由を親子の者に云傳へ其所《そこ》をば遁《にげ》も出せしが設《も》し追掛《おひかけ》らる事もやと意《こゝろ》の恐れに眞暗《まつくら》散方《さんばう》跡をも見ずして我家へ歸《かへ》り向ふの始末|斯々《かう/\》と咄《はな》して汗《あせ》を拭《ぬぐ》ひけり夫婦は聞て先は安堵《あんど》此事|一子《せがれ》に云ん物と思へど未だ暇に乏《とぼ》しく咄しもせねば和郎《そなた》まづ一子《せがれ》に篤《とく》と此|由《よし》をと云れて最《いと》ど迷惑《めいわく》ながら否《いや》とも云ねば部屋へ行き今朝《こんてう》店《みせ》へ一|個《にん》の醫師《いしや》の來たりしことよりして親公《おやご》のいかりに詮方なく向ふを斷《ことわ》り歸へりしまで一伍一什《いちぶしじふ》をはなしけるにきく長三郎は宛然《さながら》に髮揷《かざし》の花をば散したる心地《こゝち》せられて茫然《ばうぜん》たりしが面色《めんしよく》を變《か》へ膝をすゝめコレ管伴《ばんたう》どの忠兵衞どのそも/\大藤の女兒《むすめ》おみつは父母の女房にするというて婚姻《こんいん》いひ込《こみ》しことならずこの長三郎が彼《かれ》を見染《みそめ》和郎《そなた》を以て結納《ゆひなふ》まで取交したるなかなれば假令|癲癇《てんかん》の病ありとも吾儕《わし》が能《よい》というならばそれまでにして父母《ちゝはゝ》も敢《あへ》て左《と》や右《かう》いふ筋《すぢ》有るまじ夫をして病有るものはと云《いふ》解《わけ》ならば一|應《おう》は我に話して縁組を變更《へんがへ》す可きに然なくてその當人なる我耳《わがみゝ》へは毫《すこし》も入ず和郎をもて變更さするは如何なることぞ父母も父母なり和郎も和郎あまりと云《いへ》ば餘りなる壓制業《おしつけわざ》とや云|可《べ》けれ又一|方《ぱう》より云時はお光に斯《かゝ》る病ありとも开は大道にて轉覆《ひつくりかへ》り泡《あわ》を吹《ふき》たる所をば見たるに非で店へ來し何《いづ》れの者やら名も知ぬ醫師が云たることなれば是また證據と爲に足ず然るに夫を眞實《まこと》となし斷りたりしは麁忽《そこつ》千萬此方は現《げん》に見たるといふ證據あらねば其|醫師《いしや》の云しが嘘《う》そにて大藤の娘《むすめ》に病の氣も有らぬを疾《はやり》て斷り後に至り斯と心の就く事あらば只《たゞ》面目《めんぼく》なき耳《のみ》ならず本町の小西屋こそ大|身代《しんだい》で有りながら事理の解《わか》りし者なきや出所不定の醫師の言葉に迷《まよ》ひて病もなき娘《むすめ》を病有とぞ思ひ詰め結納《ゆひなふ》までも取交せし其|縁談《えんだん》を斷りしは最《いと》笑《わら》ふ可き事なりと世間の人の口の端に掛《かゝ》りし時は我身と父母の恥《はぢ》のみならず小西屋の暖簾《のれん》に疵《きず》の附ことならずや故に縁談|破談《はだん》の事は吾子《わたし》は決して承引《うけひき》難し然れども其實病あつて父母がお光を嫌《きら》ひ給ふと云事なれば長三郎は假令《たとへ》焦《こが》れて死する迄も是非縁組とは云ざるなれば只今《たゞいま》直《すぐ》に癲癇《てんかん》と云る證據を上て來て見せなば[#「見せなば」は底本では「見せねば」]此のまゝ許《ゆる》しもせん設《も》し然もなくは醫師の云ひし言葉は嘘《うそ》と思ふゆゑ父母に迫《せま》りて病に係《かゝは》らずお光を如何でも女房に爲ねば成らぬと居丈高《ゐだけだが》辯舌《べんぜつ》尖《するど》く演立《のべたて》たる理《り》の當然に忠兵衞は一|句《く》も出ず首を垂《た》れ考《かんが》へ見れば長三郎が云に違はず渠《かの》お光の病氣といふは何處の者やら譯《わか》らぬ醫師が云し耳《のみ》にて實際《じつさい》見たる譯ならねば今に成ては其病の有無とても計《はから》れずと少《すこし》迷《まよ》ひの晴《はれ》來れば晴る程なほ面目なきは初《はじめ》よりしてお光が上を能も探《さぐ》らぬ過失《あやまり》なりしと思ひ附ては中々に辯譯《いひわけ》なけれど首《かうべ》を揚げお年若には似《に》給はで事理|明瞭《あきらか》なる今のお言葉御尤にて返《かへ》す可き言《こと》の葉《は》とても候はず然ども今將《いまは》た貴君《あなた》樣が旦那樣御夫婦に仰《おほ》せられてはお家の騷《さわ》ぎ只《たゞ》何《なに》事も忠兵衞が不行屆《ふゆきとゞき》に起《おこ》りし事ゆゑ一度は斷り候えども如何樣とも爲し彼娘の病氣の有無を問合せ再回《ふたゝび》御縁《ごえん》の結《むす》ばる樣致しますれば暫時く吾輩《おのれ》にお預け下されませと思ひ入りてぞ詫《わび》けるに長三郎は面を和《やはら》げ夫ほどまでに云なりせば此回《このたび》は許し遣《つか》はす可ければ今日よりして五日の中に設《もし》病氣有る物ならば有とぞ云る確《たしか》な證據を取て其|旨《むね》吾輩《おのれ》に云ね又無時には縁談《えんだん》再回《ふたゝび》結《むす》びて高砂《たかさご》を謠《うたへ》る樣に取計《とりはから》ふ可し夫も五日の中に限りぬ設《も》し日限を過す時は我も堪忍《かんにん》爲難《しがた》ければ双親《ふたおや》に向ひ此事を詳細《くはしく》云て意中を聞ん和郎《そなた》も是を心得てと嚴重《きびしく》云れて忠兵衞は詮方《せんかた》なけれど言受し部屋を退《しりぞ》き投首《なげくび》なし五日の中に善惡二つを身一つにして分る事の最《いと》難《かた》ければ思案に暮《くれ》るに最前《さいぜん》よりも部屋の外にて二個《ふたり》が問答《もんだふ》立聞《たちぎき》せし和吉は密と忠兵衞の側《そば》へ差寄り袂《たもと》を控へ人なき座敷へ引入て委細《ゐさい》は彼所《あれ》で聞ましたが思ひ設けぬ今度の一件|吾儕《わし》も最初《さいしよ》に若旦那のお供をなして彼所へゆき夫から和君のお出の時もお供を致して最初《さいしよ》からの事|柄《がら》は皆《みな》知《しつ》てゐるにあの娘御に限ては然《さう》いふ病の有る事とは思はれざれど有といひ又《また》若旦那の被仰處《おつしやるところ》も道理と思へど五日の中にどうして夫《それ》を探《さぐ》り給ふか吾儕《わたし》も共に案じられてと云ば忠兵衞|點頭《うなづき》て年より怜悧《さかしき》和郎《そなた》の心配吾儕も切迫《せつぱ》に詰《つま》つた故|先《まづ》云るゝ通り五日をば承知をなして受合たれど何を當《あて》にも雲を闇《やみ》。然いふ譯なら此事は秒時《しばらく》吾儕にお任せなさい彼近所へ行《ゆき》夫とはなく病が有か非《あらざ》るかを聞定て來て參ますから成程是は大人《おとな》より幼稚《こども》の方《はう》が遠慮がなくて聞には至極《しごく》能《よか》らうから何分頼と管伴《ばんたう》に云はれて心得|打點頭《うちうなづき》優《ませ》たる和吉は其儘に立出音羽へ至しが何處《いづこ》で問《とは》んと思案に暮《くれ》先《まづ》大藤が住居なる路次へ思はず入にけり [#8字下げ]第八回[#「第八回」は中見出し]  怜悧《りかう》な樣でも幼稚なる和吉は家《うち》を立出て音羽の町へ至りつゝ路地へは入しが何處で聞んと其所等《そこら》迂路々々《うろ/\》爲しゝ末《すゑ》但《と》見れば大藤が隣《となり》の家にて老婆一|個《にん》膳《ぜん》に向ひ夜食《やしよく》と云へど未だ暮ぬ長日の頃の飯急《めしいそ》ぎ和吉は見やりて打點頭《うちうなづき》會釋《ゑしやく》をなして内へ這入ば小僧さん糊《のり》ならばモウ無よイエ/\糊では有りませんがチト物が承《うけたま》はりたくてと云はしたれど究《きまり》が惡《わる》く暫時《しばらく》文字々々《もじ/\》手《て》を揉《もみ》ながら四邊を見返《みかへ》り聲を密《ひそ》め變な事をお聞申す樣ですが隣《となり》のお家の大藤武左衞門樣の娘のお光さんは癲癇病《てんかんびやう》だといふ事です全く然で御座りますかと問ば此方は其|娘《むすめ》が婚姻|破談《はだん》の事に就き胸の有也無也《うやむや》晴ざるをり今癲癇と言《いは》れては口惜《くやしく》もあれ忌々《いま/\》しければ赫《かつ》と怒つて箸《はし》を捨《すて》衝《つ》と立上り飛掛《とびかゝ》り和吉が首筋《くびすぢ》取《とる》より早く其所へ引附目を怒《いか》らしコレ小僧|和主《てまへ》は何處《どこ》の者かは知ねど大藤の娘お光さんに癲癇が有るるとは何の謔言《たはごと》彼《あの》お光さんは容貌《きりやう》能《よ》く親孝心で優《やさし》[#ルビの「やさし」は底本では「やさ」]くて癲癇所ろか病氣は微塵《みぢん》聊《いさゝ》かない人を癲癇病とは何の事一|體《たい》何處から聞て來た而《そし》て和主《てまへ》は何處の者だサア云聞んと老婆の憤激《ふんげき》和吉は苦《くるし》き息《いき》を吐《つ》き然《さう》被仰《おつしやら》れては一言も御座りませねば申し升が何卒此手を放して下さい息《いき》がはずんで溜《たま》りませぬと云ばお金は手を緩《ゆる》め然《さう》して如何だと再度《ふたゝび》問《とは》れ今は包《つゝみ》もならざれば自己《おのれ》は本町小西屋の召仕《めしつかひ》なることより婚姻とまで極《きまり》しが今朝《こんてう》箇樣々々《かやう/\》の醫師《いし》來りて大藤の娘お光は云々《かく/\》と云たりしに主個《あるじ》長左衞門は大きに驚き直《すぐ》管伴《ばんたう》の忠兵衞をもて此方へ斷りに遣《よこ》せしが子息長三郎は聞て怒《いか》り忠兵衞を説破《せつぱ》して五日の間《あひだ》に癲癇《てんかん》の有無《うむ》を調《しらべ》て來る樣《やう》にと云れて困り切たる景状《ありさま》見るに忍びず吾儕《わたし》が負擔《うけおひ》爰迄聞に來りしと一什《しじふ》を演《のべ》て泪組《なみだぐ》み咄《はなし》を聞てお金の驚き息子が見染めて取ぬまでも二百兩といふ大金《たいきん》を支度金《したくきん》にまで遣《よこ》した小西屋今日に成り婚姻を變更《へんがへ》するとは物の不思議と思つてゐたが此咄《このはなし》でやう/\素《もと》は譯《わか》つたり然ども醫師といふ奴が態々《わざ/\》彼所《かしこ》へ行し上《うへ》あらぬことさへ並《ならべ》しは何《どう》考《かんが》へても合點《がてん》行《ゆか》ずモシ小僧どん其醫師の年齡《としごろ》恰好《かつかう》その他に是ぞと云ふ目印はハイ登時《そのとき》吾儕《わたし》は家にゐたゆゑお茶も出たり話にも聞惚《きゝほ》れよく/\見ましたが年の頃は二十七八|丸《まる》顏にして色黒く鼻《はな》は低《ひく》くて眉毛《まゆげ》濃《こ》く眼《まなこ》尖《するど》く其上に左の目尻《めじり》に豆粒程《まめつぶほど》の大きな黒子《ほくろ》が一つあり黒|羽二重《はぶたへ》の衣物《きもの》にて紋は丸の中に確《たしか》に桔梗《ききやう》と言れてお金は横手を拍《う》ち其の人體《にんてい》で考へれば醫師と云るは町内の元益|坊主《ばうず》に極《きはま》つたりと云は面體《めんてい》のみならず黒《くろ》羽二重に桔梗の紋は掛替《かけがへ》のなき一丁|羅《ら》渠奴《きやつ》小西屋の店《みせ》へ行き隣の女に惡名を付しは大方《おほかた》弟なる此家主の庄兵衞めに頼れての業《わざ》なる可し渠《かの》庄兵衞は日頃《ひごろ》よりお光さんには深く戀慕《れんぼ》し度々|口説《くどけ》ど云う事を肯《きか》ぬ所より遺恨を含《ふく》み元益坊主を頼込み此婚姻を邪魔《じやま》をしようと無き事|云《いは》せし物なる可し夫にて思ひ合すれば先刻|營業《あきなひ》の歸り路《みち》元益坊主の裏手を通ると庭《には》の障子《しやうじ》を開放《あけはな》し庄兵衞と二人して並《なら》んで酒を飮《のん》でをり先《まづ》は首尾《しゆび》よく行て來たゆゑ必定《ひつぢやう》破談に成るだらうと咄してゐたは氣が付ねど常には中《なか》の惡《わる》き兄弟《きやうだい》今日のみ一つ座敷に在て酒|汲交《くみかは》すは稀代《きたい》なことと思つてゐたが咄しの樣子と彼是《かれこれ》考《かんが》へ合すればいよ/\渠奴《きやつ》に相違ない惡さも惡き二個《ふたり》の者如何してくりようと拳《こぶし》を握《にぎ》り向ふを佶《きつ》と見詰たる手先に障《さは》る箸箱《はしばこ》をば掴《つか》みながらに忌々《いま/\》しいと怒りの餘り打氣《うつき》もなく側《かたへ》に茫然《ぼんやり》坐《すわ》りゐて獨言をば聞ゐたる和吉の天窓《あたま》を箸箱《はしばこ》にて發矢《はつし》と打《うて》ば打れて驚きお金は氣にても違《ちが》ひしかと思へばキヤつと云さまに其所を飛出し遁行《にげゆき》ける此聲により糊賣《のりうり》お金はやう/\夫と心付き其の人にてもあらざるに怒りの餘り打たるは面目《めんぼく》なけれど聞捨《きゝすて》には成ぬは今の元益の一條|直《すぐ》此事をお光さんにと云よりお光は翌日《あした》の仕掛《しかけ》か米淅桶《こめかしをけ》を手に携《さげ》て井戸端へとて行ん物とお金の前を通り掛ればお金は夫と見るよりもお光を呼入《よびいれ》今の次第和吉が來りし事よりして斷りたるは癲癇《てんかん》と云|觸《ふら》したる元益が所爲《しわざ》に因《よる》こと是はまた家主庄兵衞が戀慕《れんぼ》に出で云々《かく/\》なりし一|伍《ぶ》一什《しじふ》を委敷《くはしく》語《かた》るを聞お光|破談《はだん》の事の原因はやう/\解《わか》りし物ながら怒《いかり》に堪ぬは家主が其|奸計《かんけい》は口惜《くちをし》き如何はせんと計りにて涙に暮《くる》る女氣の袖を濕《しめ》らせゐたりしが稍《やゝ》有《あ》つて顏を揚げ俄《にはか》の破談は如何した事と親子二個が一|方《かた》ならず心配致して居し所ろ今|拜諾《うけたまは》りしお話しにて吾儕《わたし》が無き名を負たりし次第はきつぱり譯《わか》りましたが今此事を親父さんに話しを致せば武士|堅氣《かたぎ》無實の惡名《あくみやう》附《つけ》られてはと怒つてどんな間違に成《なら》うも知ねば明日《あした》にても氣の落附《おちつい》た其時に吾儕が徐々《なんとか》に云ますから何卒|和君《あなた》からはお話なくハイ夫は承知しましたが餘り憎《にく》い爲方《しかた》ゆゑ明日に成たら親父に話して急度掛合にと飽《あく》まで籠《こも》る親切を謝《しや》しつゝお光は泣顏《なきがほ》隱し井戸端へ行き釣上《つりあぐ》る竿《さを》を直なる身の上も白精《しらげ》の米《よね》と事變り腹いと黒き其人が堀拔《ほりぬき》井戸の底《そこ》深《ふか》き謀計《たくみ》に掛り無實の汚名《をめい》を蒙りたるも最前《さいぜん》まで澄《すむ》か濁《にごる》か分らざりしが今は譯《わか》れど濡衣《ぬれぎぬ》を干《ほす》よしもなき身の因果《いんぐわ》と思ひ廻せば廻すほど又も泪《なみだ》の種なるを思ひ返へしてゐる節《をり》から後の方より背中《せなか》を叩《たゝ》きモシお光さんお光さんと云者のある誰ならんと振返《ふりかへり》つゝ打見やれば元益方にて祝酒《いはひざけ》を汲交《くみかは》しゐて歸り來る庄兵衞なれば此方は發と怒りの餘に飛附てと逸《はや》る意《こゝろ》を押鎭《おししづ》め誰かと思へば大家《おほや》さん大層《たいそう》御機嫌で御座りますねヘイヤ澤山《たんと》もやらねど今|其所《そこ》で一寸《ちよつと》一杯やつたばかりさ夫は然《さう》とお光さん今日|新版《しんぱん》の本が出來《でき》て未だ封切《ふうきり》もしないのが澤山あるが日が暮《くれ》たら迫《せめ》て畫《ゑ》だけも見にお出|而《そし》て今夜は母親《おふくろ》は大師河原の親類へ泊り掛《がけ》にと行て留守|内《うち》には吾儕《わたし》一人限《ひとりぎり》ゆゑ必ずお出の色目|遣《づか》ひお光は恨《うらみ》を晴《はら》したく思ふ折《をり》から云々と言《い》はれて大きに意《こゝろ》に喜び其|上《うへ》ならず母親も留守《るす》と云るは序《ついで》よしと早くも思案《しあん》し莞爾《につこり》笑《ゑ》み夫は嘸《さぞ》かし面白ふ御座りませうが甲夜《よひ》のうちは親父《おとつさん》も起きてをり世間も何だか騷々《さう/″\》しく本も讀《よん》でも身に成ませねば二更《よつ》でも打て親父が寢てから密《そつ》と忍んでゆき御本《ごほん》を拜見《はいけん》致しますから何卒《どうぞ》夫までお寢なさらずにお待なすつて下さいと言《いひ》つゝ一寸《ちよつと》男の顏|横目《よこめ》で見たはお光の方に深き意の有とも知ず音羽小町と言るゝ程の美人《びじん》にてらされ庄兵衞五|體《たい》宛然《さながら》蕩《とろけ》る如く何《いつ》もピンシヤン爲《す》る娘が今日に限つて自分の方《はう》から夜が更《ふけ》たらば忍んで行うと言のは夢か現《うつゝ》かや是も矢張《やつぱり》小西屋が破談に成た故で有うあゝ悦ばし嬉しとて手の舞《まひ》足の踏《ふむ》所も知ざるまでに打喜《うちよろこ》び夫では晩《ばん》に待てゐるから急度《きつと》で有るよと念を押《おし》莞爾《にこ/\》顏して我家へ這入《はひり》しあとにお光はまた米《こめ》淅了《とぎをは》り我家の中に入し頃は護國寺の鐘《かね》入相《いりあひ》を告《つげ》ければ其所等《そこら》片付《かたづけ》行燈《あんどう》に火を照し附け明るけれど暗《くら》からぬ身を暗くされし無念に父の武左衞門心濟ねば鬱々《うつ/\》と今日も消光《くらし》てお光に向ひ面白からぬ事のみにて身體《からだ》も惡く覺ゆるに床をば延《のべ》て少の間《あひだ》足を叩《たゝい》て呉《くれ》ぬかと言れてハイと答へながら押入|開《あけ》て取出す蒲團は薄き物ながら恩いと厚き父親《てゝおや》に我身の上より苦勞を掛け未《ま》だ此上にもお嘆《なげき》を掛る不孝の勿體《もつたい》なさと口には言ねど心の中思ひ續《つゞ》けて蒲團を敷《しき》イザと勸《すゝむ》る箱枕《はこまくら》のみならぬ身の親父が横に成たる背後《うしろ》へ廻り腰より足を摩《さす》り行手《ゆくて》弱《よわき》腕《かひな》も今宵|此仇《このあだ》を斃《たふ》さんお光の精神是ぞ親子が一世の別れと究《きはま》る心は如何ならん想像《おもひやる》だに悼《いたま》しけれ [#8字下げ]第九回[#「第九回」は中見出し]  女兒《むすめ》が優《やさ》しき介抱に心《こゝろ》緩《ゆる》みし武左衞門|枕《まくら》に着《つき》てすや/\と眠りし容子にお光は長息《といき》夜具打掛て密《そつ》と退《のき》側《かたへ》に在し硯箱を出して墨を摺流《すりなが》す音も憚《はゞか》り卷紙《まきがみ》へ思ふ事さへ云々《しか/″\》と書《かき》つゞる身生|命毛《いのちげ》の筆より先へ切てゆく冥途《めいど》の旅と死出の空我身は今ぞ亡き者と覺悟をしても親と子がたゞ二人なる此住居然るを吾儕《わがみ》が先立てば誰とて後で父樣《とゝさま》の御介抱をば申し上ん夫を思へば捨兼《すてかね》る生命を捨ねば惡名を雪《すゝぐ》に難き薄命《ふしあはせ》お目覺されし其後に此|遺書《かきおき》を見給はゞ嘸驚きもなさる可く又お歎もなさる可しと思ひ廻せば廻《まは》すほど死で行身は悲歎《かなしみ》もあらねど後へお殘りなさる其悲歎は如何ならん不孝はお許《ゆる》し下されと口には云ねど意の中おもひ續《つゞけ》て打詫《うちわぶ》る涙は胸《むね》にせぐり來て呀《わつ》と計に泣出さんと爲しが父や目を覺《さま》さんと袖を噛〆《かみしめ》堪《こら》ゆるは泣より辛《つら》き手の震《ふる》へ筆の運《はこ》びも自在ならねど漸々《やう/\》にして始終《しじう》の事を記し終りて確《かた》く封《ふう》じ枕元なる行燈《あんどう》の臺に乘置《のせおき》稍《やゝ》しばし又も泪《なんだ》に暮たりしが斯ては果じ我ながら未練《みれん》の泪と氣を取直《とりなほ》し袖もて拭《ぬぐ》ひ立上り母の紀念《かたみ》の懷劍《くわいけん》を取出し拔て行燈《あんどう》の火影《ほかげ》に佶《きつ》と鍔元より切先《きつさき》掛《かけ》て打返し見れども見れども曇《くもり》なき流石《さすが》は業物《わざもの》切味と見惚て莞爾と打笑《うちわら》ひ鞘《さや》に納めて懷中《ふところ》へ忍ばせ父の寢顏《ねがほ》を見て餘所《よそ》ながらなる辭別《いとまごひ》愁然《しうぜん》として居たる折早くも二|更《かう》の鐘《かね》の音《ね》は耳元《みゝもと》近《ちか》く聞ゆるにぞ時刻《じこく》來りと立上り音《おと》せぬ樣に上草履《うはざうり》を足に穿《うが》つて我家を密《そつ》と拔出《ぬけい》で家主《いへぬし》の庄兵衞方へ至り見れば此方《こなた》は待《まち》に待たることゆゑ未《ま》だ寢《ね》もやらず茶を沸《わか》し菓子を整《とゝ》のへ坐《すわ》り居て夫《それ》と見るよりお光さんか定《さだ》めし甲夜《よひ》からお出で有らうと待草臥《まちくたびれ》て居りたるにと云へばお光も莞爾《にこやか》に吾儕《わたし》も早く來たいのは山々《やま/\》なれど父親《おとつさん》がお寢なさらぬので家が出られず只《たゞ》氣《き》を揉《もん》でゐた所ろ今方《いまがた》お休《やす》みなされたのでやう/\出て參《まゐ》りましたと云つゝ上りて火鉢《ひばち》の側《そば》身をひつたりと摺寄《すりよせ》て坐《すわ》れば庄兵衞|魂魄《たましひ》も飛して現《うつゝ》を拔《ぬか》しながら見れば見るほど美《うつ》くしきお光はいとゞ面《おも》はゆげの形《かたち》に此方《こなた》も心中《こゝろ》時《とき》めき言《いは》んと[#「言《いは》んと」は底本では「言《いは》はんと」]しては口籠《くちごも》る究りの惡《わる》きを隱《かく》さんと思へば立て箱《はこ》の中《うち》より新《あたら》しき本《ほん》種々《いろ/\》取り出し之を御覽《ごらん》と其所《そこ》へ置《おけ》ばお光は會釋《ゑしやく》し行燈《あんどう》を引寄《ひきよせ》頻《しき》りに見る側《そば》で茶を汲《く》み菓子《くわし》を薦《すゝ》めながら其の横顏《よこがほ》をつく/″\と眺《なが》めて意《こゝろ》に思《おも》ふやう自分《じぶん》の方から更《ふく》るを待ち親《おや》を寢かして來《く》る樣《やう》なは今宵《こよひ》泊《とま》らん積ならん何《いつ》まで斯《かう》してゐたらばとて果《はて》しなければ此方《こなた》より誘《いざな》ひ立ねば未通女《をとめ》の事ゆゑ面伏《おもぶせ》にも思《おもふ》可《べ》しと一人《ひとり》承知《しようち》し押入《おしいれ》より夜具《やぐ》取出し其所へ床《とこ》敷延《しきのべ》てお光に向ひ吾儕《わたし》は御免《ごめん》を蒙《かうむ》[#ルビの「かうむ」は底本では「からむ」]るゆゑ和女《おまへ》は緩慢《ゆつくり》御覽《ごらん》なさいと言つゝ床《とこ》の中に入しが何でう眠《ねむ》りに着る可き只《たゞ》此方《こなた》のみ窺《うかゞ》ひ居《ゐる》うち又告|渡《わた》る鐘《かね》の音は子の刻《こく》なれどもお光は寢《ね》ずいよ/\本《ほん》に見入《みいる》體《てい》に庄兵衞今は堪《たま》りかね夜具《やぐ》の中《うち》より手を出《だ》しお光の手を取りぐつと引ば此方は發と顏《かほ》赤《あか》らめしが振拂《ふりはら》ひもせず讀さしたる本をば顏へ押當《おしあて》ながら引るゝ儘に床の上へ倒れ掛りし姫柳《ひめやなぎ》風《かぜ》に揉るゝ景状《ありさま》[#ルビの「ありさま」は底本では「さりさま」]なり庄兵衞是は首尾よしと思ふ間もなく娘のお光夜具の襟《えり》をば庄兵衞の顏へすつぽり掛けながら口の所を左手《ゆんで》にて押へ附れば庄兵衞は息《いき》の詰《つま》りて苦《くるし》さに何をするぞと云《いは》せもせず右手に懷劍《くわいけん》拔《ぬく》間《ま》もなく柄《つか》をも徹《とほ》れと脇腹《わきばら》へ愚刺《ぐさ》と計りに差貫《さしつらぬ》けば何ぞ溜《たま》らん庄兵衞は呀《あつ》と叫も口の中押へ附られ聲出ず苦き儘に悶《もがき》けるをお光は上へ跨《またが》りて思ひの儘にゑぐりければ七|轉《てん》八|倒《たう》四|肢《し》を振《ふるは》し虚空《こくう》を掴《つか》んで息絶《いきたへ》たりお光はほつと長息《といき》吐《つ》き夜具《やぐ》かい退《のけ》てよく/\見れば全く息は絶果《たえはて》て四邊は血汐《ちしほ》のから紅《くれな》ゐ見るもいぶせき景状《ありさま》なり不題《こゝに》大藤《おほふぢ》武《ぶ》左衞門は娘が出しを毫《すこし》も知ず臥《ふし》てをりしが甲夜よりして枕に着たるゆゑなるか夜半の鐘に不斗《ふと》目《め》を覺し見れば側《かたへ》にお光のをらぬに扨《さて》は雪隱《せついん》へでも行きたるかと思うてやほら寢返《ねがへ》りなし煙草《たばこ》を呑《のま》んと枕元を見る行燈《あんどう》の臺《だい》の上に書置《かきおき》[#ルビの「かきおき」は底本では「かくおき」]の事と記したる一|封《ぷう》ありて然も之れ娘お光の手跡《しゆせき》なれば一目見るより大きに驚き直に飛起《とびおき》封じ目を開く間《ま》遲《おそ》しと讀下す其の文體《ぶんてい》は此度の小西屋の婚姻|破談《はだん》の儀は家主庄兵衞の爲る業にて這《こ》は日頃より如此《しか/″\》の擧動《ふるまひ》ありしが开《そ》を聞入ぬ所ろより兄元益と云へる者と語ひ今朝同人を小西屋へやりテレメンテーナの事を言せ俄《にはか》に破談《はだん》に成たる事是等は絶て知ざりしが最前《さいぜん》和吉と云る小僧が隣《となり》のお金の許《もと》へ來り聞に參し其|節《をり》に箇樣々々《かやう/\》の事を話しお金は營業《なりはひ》よりの歸り道二人が話しの容子《ようす》を聞き殘らず吾儕《わたくし》に話したるより其無念やる方なく渠《かれ》を殺して身の汚名《をめい》を雪《すゝが》ん物と思ふより庄兵衞に會ひ云々と申すに因て僥倖《さいはひ》なれば只今よりして彼方へ赴《おもむ》き仇《あだ》を殺して身の明を立んと思へど我私しの恨《うらみ》を以て他人を殺さば罪科《ざいくわ》脱《のが》るところもなければ生《いき》て憂恥《うきはぢ》晒《さら》さんより其の場を去ず自害《じがい》して相果て申せば先立《さきだち》まする不孝はお許し下されかしと今死る身を氣丈《きぢやう》の女兒《むすめ》筆の前後少も亂《みだ》れず一|伍《ぶ》一什《しじふ》を記しあるにぞ見る武左衞門一|句毎《くごと》に或は驚き或は嘆《たん》じ又悲しみ又は感じ暫時《しばし》言葉もいでざりしは女兒《むすめ》の生命に係《かゝは》る大事《だいじ》猶豫《いうよ》なすべき所に非ずと思へば寢衣《ねまき》の儘《まゝ》にして我家を立出で家主の門口へ行き戸を引開《ひきあけ》見ればお光は已《すで》にはや庄兵衞をば刺留《しとめ》つゝ今や自害《じがい》をなさんとする景樣《ありさま》なるに大きに慌忙《あわて》ヤレ待《まて》暫《しば》しと大聲《おほごゑ》を揚《あげ》んと爲《なし》しが夜隱《やいん》のこと設《もし》も長家へ漏聞《もれきこ》え目を覺まされなば一大事と思へば側《そば》へ立寄て刄《やいば》持《もつ》手《て》を確《しつか》り禁《とゞ》め聲を密《ひそ》めて云るやう娘《むすめ》逸《はやま》る事なかれ委細《ゐさい》の事は書置《かきおき》にて逐《ちく》一|諒知《しようち》なしたりし流石《さすが》は大藤武左衞門の娘だけあり無き名を負《おひ》し遺恨《ゐこん》を晴《はら》す其爲に刄《やいば》を振つて仇《あだ》を斃《たふ》す實に見上げたる和女《そなた》が心底《しんてい》年まだ二十歳《はたち》に足らざる少女の爲可き業《わざ》にはあらざりける男|勝《まさり》の擧動《ふるまひ》こそ親|恥《はづか》しき天晴《あつぱれ》女然れども人を殺し置き自儘《じまゝ》に生害《しやうがい》なすと云は天下の大法知ぬに似《に》て武士《ぶし》たる者の爲こと成ず依て暫時《しばらく》死《し》を止《とゞま》り夜《よ》明《あけ》るを待ち奉行所《ぶぎやうしよ》へ名乘て出て相應《さうおう》なる處分《しよぶん》を受るが至當《したう》なれば先其|刄《やいば》を納《をさめ》ずやと斯《かゝ》る節《をり》にも老功なれば物に動ぜず理非《りひ》明白《めいはく》演《のべ》て諭《さと》せし父が言葉《ことば》にお光はやう/\承知して刄《やいば》の血《のり》を押拭《おしぬぐ》ひ鞘《さや》に納《をさめ》て腰《こし》に帶《おぶ》れば父は再度《ふたたび》此方《こなた》に向ひ此家に長居する時は眞夜中《まよなか》なりとも如何なる人に知れて繩目《なはめ》の恥《はぢ》を受んと言も計られねば早く立去り支度《したく》をしてと云にお光も心得て父|諸共《もろとも》に家を出《いで》門《かど》の戸立て我屋へ歸り武左衞門は此一件を最《いと》も委敷《くはしく》認《したゝ》めたる訴状《そじやう》一通を造《つく》りし上親子支度をなす中に疾《はや》明《あけ》近く東の方の白み來るに時刻よしと音羽を立出奉行所へと頻《しき》りに足を急《いそが》せしが知者《しるもの》絶《たえ》てあらざりけり夜明し後に長家の者は一同|起出《おきいで》夫々の業《げふ》に就《つけ》ども家主の庄兵衞方は戸も明ず夫のみならず長家中では早起《はやおき》なりと評判する武左衞門の家も戸が開《あか》ねば不思議に思ひて起して見んとお金を首《はじめ》四五人が先家主の方へ至り雨戸を叩《たゝき》て呼物から答《いらへ》はなきゆゑ戸へ手を掛れば瓦羅利《からり》と開くにいよ/\不審《ふしん》と進み這入《はひれ》ば這《こ》は如何に主個《あるじ》庄兵衞は何者にか殺害《せつがい》されたる物と見え血汐《ちしほ》に染《そま》りて床《とこ》の上に倒《たふ》れゐるをば見て驚き顏《かほ》見合《みあは》する計りなり就ては大藤武左衞門の家も未だに戸が開ねば是さへ設《もし》やと一同が疑ふ餘り彼方《あなた》へ至り戸を引開れば是はまた家は裳脱《もぬけ》のから衣《ころも》被《き》つゝ馴《なれ》にし夜具《やぐ》蒲團《ふとん》も其まゝあれど主はゐず怪有《けふ》なる事の景況《ありさま》に是さへ合點《がてん》行《ゆか》ざりけり [#8字下げ]第十回[#「第十回」は中見出し]  長屋の者の一同は捨置難《すておきがた》き二つの珍事《ちんじ》中《なか》にも家主庄兵衞が殺されたるは大變《たいへん》なりと其の兄《あに》山田元益の許へも斯と報知《しらせ》るに元益驚き駈《はせ》來り家内を改め見たる所ろ何一つだに紛失《ふんじつ》をなしたる物も非《あらざ》れば這《こ》は盜賊《たうぞく》の業ならず遺趣切《ゐしゆぎり》ならんと思ふ所へ大師河原へ泊りに行し母のお勝《かつ》は歸り來り夫と見るより死骸《しがい》に取附《とりつき》前後|不覺《ふかく》に叫《さけ》びしが偖《さて》有る可きにあらざれば此|趣《おもむ》きを訴《うつた》へ出|檢視《けんし》を乞《こ》うて其上に山田と計て死骸をば泣々《なき/\》寺へ葬《はうむ》りけり不題《こゝにまた》其頃の北町奉行は大岡越前守|忠相《たゞすけ》というて英敏《えいびん》活斷《くわつだん》他人《ひと》に勝《まさ》り善惡|邪正《じやせい》を照すこと宛然《さながら》照魔鏡《せうまきやう》の如くなる實に稀代《きだい》の人なりしが此頃音羽七丁目の浪人大藤武左衞門父子奉行所へ駈込《かけこん》で娘お光こと云々《しか/″\》個樣《かやう》の譯ありて家主庄兵衞を手に掛けたれば相當《さうたう》の御處分《ごしよぶん》下されかしと委細《ゐさい》訴状《そじやう》に認《したゝ》めつゝ自首《じしゆ》して出しに忠相ぬし這《こ》は捨置《すておか》れぬ事共なりと先親子をば止《と》め置き音羽の方をば探《さぐ》らするに書面《しよめん》に違《たが》はず庄兵衞は何者にか殺されしとて檢視《けんし》を願ひ出たる耳《のみ》かは其の朝《あさ》よりして大藤親子は欠落《かけおち》なして行衞《ゆくゑ》知ねば設《もし》や父子の業ならずやと噂《うはさ》なすよし聞《きこ》えければ又小西屋方を窺《うかゞ》はするに茲は召仕《めしつかひ》の丁稚《でつち》和吉|糊賣《のりうり》お金の許《もと》へ至り委細《ゐさい》を聞《きく》より大きに驚き直《すぐ》立歸りて管伴《ばんたう》に如此《しか/″\》の由|話《はなし》たりしに忠兵衞もまた驚嘆《きやうたん》し此事|主個《あるじ》[#ルビの「あるじ」は底本では「おるじ」]夫婦を首《はじ》め息子《せがれ》長三郎にも話《はな》したるに息子は然もこそあらんと思ひ夫婦は頻《しきり》に麁忽《そこつ》を悔《く》い再度《ふたゝび》婚姻を結んとて翌日忠兵衞を音羽町へ遣《やり》たりしが此時|已《すで》に家主は殺され父子《おやこ》は行衞《ゆくゑ》の知《しれ》ぬとて長家は鼎《かなへ》の沸《わく》が如く混雜《こんざつ》なせば詮方《せんかた》なく立返へりつゝ云々と三個《みたり》に告て諸共《もろとも》にお光の安否《あんぴ》を案じゐるよし確《たしか》に知たる忠相ぬし獨《ひと》りつく/″\思ふ樣お光は奇才《きさい》容貌《ようばう》とも人に勝《すぐ》れし耳《のみ》ならず武士の眞意《しんい》を能く辨《わきま》へ白刄《しらは》を揮《ふる》つて仇を斃《たふ》すに其父もまた清廉《せいれん》にて是を隱《かく》さず名乘《なのつ》て出る親子|微妙者《いみじきもの》なれば何卒《なにとぞ》お光を扶《たすけ》てやらんとは思へども天下の大法《たいはふ》人を殺さば殺さるゝ其條目は脱《のが》れ難し如何はせんと計りにて霎時《しばし》思案《しあん》に暮《くれ》たるがやう/\思ひ附《つく》ことありてや一個《ひとり》點頭《うなづき》有司《いうし》に命じ庄兵衞の母お勝《かつ》。山田元益。糊賣《のりうり》お金。小西屋長左衞門。を呼出し初て白洲《しらす》を開きける此|命《めい》彼方此方へ通ずるに元益親子は庄兵衞の仇《あだ》の御|詮議《せんぎ》なる可しと思へどもお金の呼出さるゝを不審《いぶかし》みつゝ伴《ともな》ひ出また小西屋は何ごとやらんと愕《おどろ》くよりして長左衞門病氣と稱して出もせず其代人は管伴《ばんたう》忠兵衞|丁稚《でつち》和吉を供《とも》に連れ奉行所へ出|腰掛《こしかけ》へ和吉を待せ進みける斯て大岡忠相ぬしは一同白洲へ呼込たる後お光親子を繩附《なはつき》の儘《まゝ》にて其所へ引出せば此方は見やりて思ひ掛ずと驚くの外《ほか》言葉《ことば》なし登時《そのとき》忠相ぬし一同に向ひ山田元益母勝の訴《うつた》へに依て家主庄兵衞を殺《ころ》したる曲者《くせもの》を吟味《ぎんみ》せし所ろ同長屋の浪人《らうにん》大藤武左衞門が娘お光の所爲《しわざ》なるよし渠等《かれら》自ら名乘出たるに依て明なれば今日|審判《しんばん》を開かんとす此旨《このむね》一同心得よと宣告《のりしめ》さるゝに此方の者は思ひ依ざる人殺しも豫《かね》て疑《うた》がひ居たりしに元益親子は進み出庄兵衞を殺害《せつがい》なしたるはお光なりとは夢《ゆめ》にも知ねど渠等《かれら》親子は其の朝より行衞《ゆくゑ》知ずに成しかば設《もし》やと思ひ居たるに疾《はやく》も名乘て出る段《だん》愕《おどろ》き候外はなし就ては上のお慈悲を以て亡庄兵衞が草葉《くさば》の蔭《かげ》の追善にさへなりますやう御|計《はから》ひこそ願はしけれと申し上るに忠相《たゞすけ》ぬし承知しながら此方に向かひ小西屋長左衞門代忠兵衞其方々にては此お光を嫁《よめ》に貰《もら》はんと言入《いひいれ》已《すで》に結納《ゆひなふ》までも取交せしを如何なれば俄《にはか》に變更《へんかう》せしぞ此事|逐一《ちくいち》申し上よと言れて忠兵衞おそる/\一|端《たん》斯《かく》とは約したれど箇樣々々の醫師《いし》來りて彼お光こそ癲癇病《てんかんやみ》なりとテレメンテーナと言ふ藥のことを述《のべ》たる上に又言やう依て主人は大きに驚き其後の始末《しまつ》は云々《しか/″\》なりと申上れば忠相《たゞすけ》ぬし然もあらん然もある可しお光が訴へも夫に符合《ふがふ》し無《な》き名を負《おひ》て婚姻《こんいん》の破談《はだん》に成しは庄兵衞が日頃よりして我戀《わがこひ》の協《かなは》ぬことを無念に思ひ兄元益を彼方へ遣《つかは》し癲癇《てんかん》病と言せしより事の茲には及べるなりと深くも遺恨《ゐこん》に思ひつゝ偖《さて》こそ庄兵衞を殺害《せつがい》なしたるならめ如何元益其方弟の頼を受け小西屋へ行きし事あるかと問れて此方は形《かたち》を改《あらた》め這《こ》はお奉行のお言葉とも覺えず身《み》不肖《ふせう》ながら山田元益|仁術《にんじゆつ》とする醫道《いだう》をもて身の營業《なりはひ》となすものが爭《いか》で左樣な惡き事に荷擔《かたん》致して濟《すむ》可きかは此|儀《ぎ》御賢察《ごけんさつ》を希《こひねが》ふと口には立派《りつぱ》に言物から意《こゝろ》の中には密計《みつけい》の早くも顯《あらは》れ夫ゆゑに弟は最期《さいご》を遂《とげ》たるかと愕《おどろ》くの外あらざりけり忠相ぬしは點頭《うなづい》て醫師の面目《めんぼく》然も有《ある》可しコレ金庄兵衞の爲に元益が小西屋へ至りしとは其方が言出しお光に語りし所ろより此|騷動《さうどう》には及びしが夫には確な證據《しようこ》があるか。ハイ外に證據《しようこ》とても御座りませねど吾儕《わたくし》が營業《あきなひ》[#ルビの「あきなひ」は底本では「ありなひ」]よりの歸り途《みち》元益方の裏手《うらて》を通《とほ》ると箇樣々々の話しをば。イヤ夫計《そればかり》では證據に成らぬ外に確《たしか》なことはないか今日|呼出《よびだ》しゝ忠兵衞も其日は家に居らずして來りし醫師をば見ずと言《いへ》り依て確な事にあらねば證據《しようこ》なりとは申されぬ篤《とく》と考へ申上げよと言れてお金は小首を傾け霎時《しばし》考へゐたりしが漸々《やう/\》にして首《かうべ》を上げ外に證據《しようこ》と申しまするは小西屋の小僧《こぞう》和吉《わきち》と申すが吾儕方《わたくしかた》へ參りしをり店へ來りてお光さんに癲癇《てんかん》があると言たる醫師《いしや》は年齡《としごろ》云々《しか/″\》にて又|面體《めんてい》は箇樣々々《かやう/\》然も羽織《はおり》には丸《まる》の中に桔梗《ききやう》の紋《もん》が附《つい》てゐたと申に因て日頃より見知る山田元益に面體《めんてい》恰好《かつかう》計《ばかり》でなく羽織《はおり》の紋《もん》も相違なければ確に夫とお光さんに話しを致して候ひしが其|醫師《いしや》こそは小西屋の小僧和吉が見知をれば御呼出に相成ば即座に解《わか》り申す可しと云うに忠相ぬし此方に向かひ長左衞門代忠兵衞其の和吉といふ召仕は只今にても宅にをるか。ヘイ未だ召仕をりまして今日も同道致し只今お腰掛《こしかけ》に控《ひか》へをりまする。ムヽ夫は實によい手都合《てつがふ》ソレ呼込《よびこめ》の聲の下《した》忽地《たちまち》和吉は呼び入れらるゝに巍々《ぎゝ》堂々《だう/\》たる政府の白洲《しらす》一同|居並《ゐなら》び吟味《ぎんみ》の體《てい》に和吉は見るより幼稚意《こどもごころ》に大きに恐れハツと計りに平伏せしが側《かたへ》を見れば先《さき》つ頃店へ來りてお光のことを云々《しか/″\》言たる醫師の居るにぞ又|驚《おどろ》きてヤア和主《おまへ》はと一言いひしが御|場所柄《ばしよがら》あとは言葉も出さざりけり此方の元益|最前《さいぜん》は確《たしか》の證據のあらざれば仁術《にんじゆつ》をもて業となす醫師ゆゑ惡き荷擔《かたん》はせずと奉行に向ひ立派《りつぱ》に云ひ眩《くろ》めんとこそ計りしが今|我面《わがかほ》を見知たる和吉が出しに發《はつ》と計り驚《おどろ》き怖《おそ》れて面色《めんしよく》土《つち》の如くに震《ふる》ひ出せば忠相《たゞすけ》ぬしを首《はじめ》として並居る一同|母親《はゝおや》のお勝も偖《さて》は其の醫師は元益なりしかと計りに呆《あき》れて顏《かほ》を見合せゐたりぬ忠相《たゞすけ》ぬしは呼び出せし和吉に言葉《ことば》はあらずして元益《げんえき》の方へ打向ひ其方|最前《さいぜん》も申す通り醫《い》は仁術《にんじゆつ》を以て業となせば小西屋方へ行たることは決してあるまじと思ふゆゑ和吉は茲へ呼び出したれど最早《もはや》吟味《ぎんみ》を爲にも及ばじ依て小西屋へ參りし醫師《いし》は何れの者やら解《わか》らずとせん就《つい》て其方も醫師の事ゆゑ今|越前《ゑちぜん》が問たきことありそも/\醫師は螢雪《けいせつ》の學の窓《まど》に年を重《かさね》人の生命《いのち》を預《あづか》る者ゆゑ天下の條目《でうもく》成敗《せいはい》の道も少は心得つらんが中にも重き罰《ばつ》といふは婚姻《こんいん》妨《さまだ》げの罪科《ざいくわ》なり之をば重《おも》く爲時は死罪《しざい》の刑に處する可し又|輕《かる》くなす其時は遠島と爲《する》が制規《せいき》なるが其方之等を知たるかと時に取ては氣轉《きてん》の問條此方は聞も及ばざれど名高き奉行は言《こと》の葉《は》に僞《いつ》はりあらじとおもひしかば如何にも仰《おほ》せの通りにて心得ゐるよし答へけり [#8字下げ]第十一回[#「第十一回」は中見出し]  登時《そのとき》大岡忠相ぬし再度《ふたゝび》元益に向ひて云やう其方|親子《おやこ》は庄兵衞の殺されたるより其の敵《かたき》を討《うつ》て呉《くれ》よと願ひ出たるをり武左衞門|親子《おやこ》の者は正《まさ》しく庄兵衞を殺したりと訴へ出たらば敵《かたき》と言は武左衞門の娘光なる事云ずして明瞭《あきらか》なり因て光をば處刑《しよけい》せんとは思へども處刑|爲難《しがた》き次第あり开は如何と尋《たづぬ》るに只今も申す通り婚姻|妨《さまた》げの罪科《ざいくわ》は重くて死罪輕くて遠島《ゑんたう》なり然るに庄兵衞事|自己《おのれ》みつに戀慕《れんぼ》して小西屋との婚姻を妨《さまた》げんと何國《いづく》の者やら相分《あひわか》らざる醫師を遣し世に有りしとも覺えざるテレメンテーナといふ藥の事を吹聽《ふいちやう》し結納までも取|交《かは》せし婚姻を妨げ致す段その罪最も重ければ光の手に掛《かゝ》りて相果《あひはて》ずとも上《かみ》に於て死罪に處し處刑場《しおきば》の土と爲《なす》可きところ高運《かううん》にも光が手に掛りたれば捨札《すてふだ》に惡名を殘し非人に左右《さいう》せらるゝ事なく席薦《たゝみ》の上にて相|果《はて》先祖[#「先祖」は底本では「先組」]|累代《るゐだい》の香華院《ぼだいしよ》に葬られ始終《しじう》廟食《べうしよく》の快樂《けらく》を受るは之れ則ち光が賜物《たまもの》にして仇《あだ》乍《ながら》も仇ならず反《かへ》つて恩《おん》とこそ思ふ可けれ依て元益親子は光を恨《うら》む事を止《やめ》て厚《あつ》く庄兵衞が跡《あと》を吊《とむら》ふ[#「吊ふ」はママ]可し元益は又其母勝こと年《とし》[#ルビの「とし」は底本では「とり」]寄《より》て相續人《さうぞくにん》の庄兵衞に死別《しにわか》れ然こそ便《びん》なく思ふ可ければ元益は醫業《いげふ》を廢《はい》して更《さら》に音羽町の町役人となり庄兵衞の跡《あと》を相續して母《はゝ》勝《かつ》に孝養《かうやう》を盡《つく》し大事に掛《かけ》て遣す可し大藤武左衞門娘みつ事は婚姻《こんいん》妨《さまた》げを爲たる庄兵衞|上《かみ》に於て死罪《しざい》にも行ふ可きの所ろ上へはお手數《てかず》を掛《かけ》ずして十八年の少女には似氣《にげ》なく武士の娘とは言ながら白刄《しらは》を揮《ふる》つて庄兵衞を討《うち》即座《そくざ》に自害《じがい》し果《はて》んと爲しは上のお手數《てかず》を省《はぶ》くの御奉公《ごほうこう》天晴《あつぱれ》なる擧動《ふるまひ》なり父武左衞門は自儘《じまゝ》に死《し》なんとする娘を止め夫《それ》を引連|事柄《ことがら》を委細《ゐさい》に述《のべ》て自首《じしゆ》する段|法度《はつと》を重じ上を敬《うやま》ふ武士の面目《めんぼく》さもあるべし因て兩人は人殺しの罪《つみ》さし免《ゆる》せば此旨|有難《ありがた》く心得よ夫と指揮《さしづ》に小役人は二人が繩目《なはめ》を免《ゆる》しけり忠相ぬし忠兵衞に打向ひ小西屋長左衞門代人忠兵衞其方事|主人《しゆじん》の申し附とは言|乍《ながら》出所《しゆつしよ》不定《ふぢやう》の醫師《いし》の言葉を信《しん》じ結納《ゆひなふ》取交《とりかは》し迄|濟《すみ》たる婚姻を破談《はだん》に致すこと不埓《ふらち》千萬なる事なれど斯《かく》事柄《ことがら》の相分り光に病のあらざる事|判然《はんぜん》致す上は長左衞門|夫婦《ふうふ》長三郎に於《おい》ても光を嫁《よめ》に致さん事仔細あるまじければ只今より親子の者を引取《ひきとり》行《ゆ》き親類方へ預《あづけ》置《お》き其所にて萬事支度を整へ吉日を撰んで婚姻を取結《とりむす》ぶ可し光は天晴の者なれば此度は斯云《かくいふ》越前守|冰人《なかうど》と成《なり》て取すれば早々婚姻を行ふ方よからん此事|只《たゞ》に忠兵衞のみならず光親子の者も心得て能からうと仰《おほせ》ありしはお光親子は家主庄兵衞を手に懸《かけ》たる者なれば解放《ときはな》せしとて直《すぐ》音羽《おとは》へ返《かへ》さば如何なる災禍《わざはひ》起《おこ》らんも計られず又|渠《かの》親子《しんし》も家主を害《がい》せし土地へは歸り難しと推《すゐ》して斯は言しなるべし忠相ぬし又も忠兵衞に打向《うちむか》ひ此度は珍事《ちんじ》忽地《たちまち》にして斯善惡を分ちし事一は糊賣《のりうり》お金が親切《しんせつ》と丁稚《でつち》和吉の忠義に依《よれ》ば和吉は此まゝ引連歸りて目を掛《か》け使《つか》ふは勿論《もちろん》なる可く金はまた光《みつ》親子《おやこ》と共に親類《しんるゐ》方へ預け置き爾來《じらい》光《みつ》が召使いとして一生を易《やす》く消光《おくら》す可し是にて一件|落着《らくちやく》したりと述給ふ程に小役人は落着《らくちやく》一同立ませいと諸聲《もろごゑ》合《あは》して言にける實に曇《くも》りなき裁判《さいばん》は人を損せず理を迫《せめ》て自然《しぜん》と知せる天下の大法《たいはふ》早《はや》亡《な》き身とまで覺悟《かくご》せしおみつ親子は不測《ふしぎ》に助り然のみならず戀《こひ》しと言|郎《をとこ》の許《もと》へ縁《えん》づくやう再度《ふたゝび》結《むす》ぶ赤繩《せきじよう》に有難泪《ありがたなみだ》は白洲《しらす》なる砂《すな》を濕《しめ》らす其|喜《よろこ》びお勝は初《はじめ》て庄兵衞の惡《わる》きを知て小西屋へ行しは兄の元益なれば是も如何なる祟《たゝり》や有んと元益と共に胸《むね》安《やす》からず思ひゐたるに慈悲深《じひぶか》く山田が事は問給はで是を庄兵衞が代《かは》りとなし養親《やうしん》が義《ぎ》を托《たく》し給ふに二個《ふたり》は生《いき》たる心地《こゝち》して砂《すな》に頭《かしら》を埋《うづむ》る許《ばか》り又忠兵衞は忠相ぬしが活機《くわつき》明斷《めいだん》凡《ぼん》ならで今《いま》更《あらた》めて婚姻《こんいん》結《むす》び⮔人《なかうど》とまで成給はんと述給《のべたま》はるの有難さは是のみならず和吉お金も思ひ掛《がけ》なきお奉行のお聲掛りは一世の榮《はれ》巨萬《きよまん》の金を貰《もら》ひしにも勝る嬉しさ喜ばしさ何れも怪我《けが》なき一同は打連《うちつれ》御門《ごもん》を出にけり斯て元益は音羽町へ立歸り我家を終了《しまひ》て母の方へ同居なし醫業《いげふ》を廢止《はいし》て家主となり名も庄兵衞と改めて先非《せんぴ》後悔《こうくわい》一方《ひとかた》ならず能く母親に仕へつゝ長屋の者をも憐《あはれ》みしに其の家次第に豐《ゆたか》になり他人の信用も得たりければ或者の世話に依て妻を迎《むか》へ之が腹《はら》に男女|夥多《あまた》の子を産《うま》せいよいよ榮《さか》え行けるに母のお勝も大いに安堵《あんど》し常に念佛《ねんぶつ》三|昧《まい》の道場《だうぢやう》に遊び亡《な》き庄兵衞が菩提《ぼだい》を弔《とむら》ひ慈悲《じひ》善根《ぜんこん》を事としたれば九十餘|歳《さい》の長壽《ちやうじゆ》を保《たも》ち大往生《だいわうじやう》の素懷《そくわい》を遂《とげ》たりと不題《こゝにまた》忠兵衞はおみつ親子お金和吉を伴《ともなひ》て奉行所を下り主人方の親類呉服町の何某屋へ至り今番所の歸りにて箇樣々々《かやう/\》の始末なれば是なる三個《みたり》を暫しが間《あひだ》預《あづか》り呉よと言けるに爰の主個《あるじ》も此話しは朧氣《おぼろげ》ながら聞ゐたれば斯《かく》即座《そくざ》に落着《らくちやく》せしを喜び少《すこし》も異議《いぎ》はあらずして三|個《にん》を奧の座敷へ通しぬ扨忠兵衞は和吉を引連《ひきつれ》主人の方に立歸り主個《あるじ》夫婦長三郎の前にて今日《けふ》奉行所の容子《ようす》をば逐《ちく》一|演説《えんぜつ》したる上三|個《たり》を呉服《ごふく》町の親類方へ預《あづけ》置《おき》て歸りたるまで委細のことを述たるに親子はおみつが庄兵衞を殺《ころせ》しことを首《はじめ》て知《しり》容儀《きりやう》優《すぐ》れし耳《のみ》ならず又|志操《こゝろばえ》も人に優《すぐ》れ流石《さすが》は武士の胤《たね》ほどありて斯る擧動《ふるまひ》を爲《せ》しこと小西屋の嫁《よめ》と爲といふとも羞《はづか》しからぬ女なりと長三郎は殊更《ことさら》に戀慕《こひしたふ》心の増《まさ》りゆき夫婦は夫とも意附《こゝろづか》で醫師《いしや》の言たる言葉を信とし縁談《えんだん》斷《ことわ》り此|騷動《さうどう》に及びたるをば後悔《こうくわい》の外には更にあらざりけり然ども大藤親子の者|糊賣《のりうり》老婆《ばうも》[#ルビの「ばうも」はママ]お金まで彼方に在ては捨置難《すておきがた》しと三個《みたり》が衣類其の他をも此方より持せやり忠兵衞をして音羽町の二軒の家を終了せて少《すこし》の家財《かざい》を爰に運《はこ》び小西屋には裏手の明地《あきち》へ更に武左衞門が隱居所《いんきよじよ》を營《いとな》み普請《ふしん》出來《しゆつたい》の其の上は爰より嫁入《よめいり》をさせんと計りぬ然るに大岡忠相ぬしは町奉行の身を持《もち》て之が⮔人《なかうど》に立んと言しは元益等が恨《うらみ》を含《ふくま》んをば恐れての事ならんか町人の身として奉行を⮔人《なかうど》に立んこと世に勿體《もつたい》なき譯なればと親類一|同《どう》連署《れんしよ》して此|件《くだり》は辭退《じたい》し終りぬ兎角《とかく》するうち新築《しんちく》全《まつた》く出來《しゆつたい》せしかば親子お金を其所に移し黄道吉日《くわうだうきちにち》を撰《えら》びて立派に婚姻《こんいん》を取結《とりむす》ぶに二個《ふたり》は思《おも》ひ思《おも》はれし中なれば其親みは一方ならす男女|夥《あまた》の子を擧《まう》けしに中なる一|個《にん》は成長の後|有馬家《ありまけ》へ召出《めしいだ》され家臣と成て大藤の家名を再興し武左衞門は一生を安樂《あんらく》に送りお金は終身《しうしん》不足《ふそく》なく此家に仕《つか》へ管伴《ばんたう》忠兵衞は此度の一件に附き盡力《じんりよく》一方《ひとかた》ならざれば褒美《はうび》として宅持《たくもち》の通ひ管伴《ばんたう》となり和吉も種々《くさ/″\》の褒美《はうび》ありしが三年の後長左衞門夫婦は隱居し長三郎は主個《あるじ》となり和吉は元服《げんぷく》して二番|管伴《ばんたう》となり其家ます/\榮《さか》えたり [#ここから2字下げ] 大岡|忠相《たゞすけ》ぬしが勤役《きんやく》中の捌《さばき》にて人の耳目《じもく》を驚かせし事|枚擧《まいきよ》するに暇《いとま》あらざるほど多き物から中にも殊に勝《すぐ》れたるは天一|坊《ばう》が裁判《さいばん》なり之は物の本にも作り又|芝居《しばゐ》にても脚色《しくみ》講談《かうだん》落語《らくご》は更にも言ず其他|種々《さま/″\》の物にも見え其の筋に大同小異《だいどうせうい》ありと雖も其主意とする所は微賤《びせん》の一|僧侶《そうりよ》吉宗ぬしの落胤《らくいん》と稱し政府《せいふ》に迫《せま》る事急にして其|證跡《しようせき》も明かなれば天下の有司《いうし》彼に魅入《みいれ》られ既にお世繼《よつぎ》と仰《あふ》がんと爲たりしを一人大岡越前守のみ夫が邪曲《じやきよく》を窺《うかゞ》ひ知《しり》身命《しんめい》を投打《なげうち》て既往《きわう》今來《こんらい》を尋ね遂に奸計《かんけい》を看破《みやぶ》つて處刑《しよけい》せしといふ有名《いうめい》の談話にて斯《かゝ》る奸物を發顯《みあらはす》こと忠相ぬしの外能く凡庸《よのつね》の奉行の爲し得可きことにあらねば傳へて美談《びだん》となす物から又聞く所ろに依ば彼天一坊なる者は實に吉宗ぬしの落胤《らくいん》に相違なく將軍未だ紀州に在るとき侍女《じぢよ》と轉《まろ》び寢《ね》の夢《ゆめ》を結びて懷姙《くわいにん》なしゝ一子なるが民間《みんかん》に成長して後|未見《みけん》の父君《ちゝぎみ》將軍と成しかば證據|物《もの》を携《たづさ》へて訴へ出たるなればよしお世繼《よつぎ》とせざるまでも登用《とりあげ》てもて生涯《しやうがい》を安く送らん事|最々《いと/\》容易《ようい》の業《わざ》ながら忠相ぬしつら/\渠《かれ》を見るに貴介《きかい》公子《こうし》の落胤《らくいん》に似氣《にげ》なく奸佞《かんねい》面に顯れ居れば意《こゝろ》許《ゆる》せぬ曲者《くせもの》なりと夫が成立《なりたち》よりの事柄を探り看るに實に忠相ぬしが思ふに違はず腹黒《はらくろ》にして品行《ひんかう》能らず天下の主個《あるじ》と爲は更なり落胤《らくいん》として所領《しよりやう》の少も宛行《あておこな》ふて扶助《ふじよ》する時は後に到りて徳川の爲に害をば爲可き者と早も見て取り知たれば我思ふよし云々と吉宗《よしむね》ぬしに言上《ごんじやう》せしに君又|英敏《えいびん》明才《めいさい》にていよ/\政治《せいぢ》を改良《かいりやう》して公方《くばう》の職を萬世《ばんせい》不朽《ふきう》に傳へんといふ素志《そし》なれば今大岡の言るを聞如何我|胤《たね》なればとて然る曲者《くせもの》を採用《さいよう》し後に害《がい》をば殘《のこ》さんこと武將《ぶしやう》の所爲に有ざれば天下の爲に彼をして強《しひ》て僞者《にせもの》と言詰《いひつめ》て宜敷《よろしく》刑《けい》に行ふ可し是を爲す者其方の外には決して有可からず能せよかしと内命《ないめい》ありしに忠相ぬしも推辭《いなむ》に術《すべ》なく遂に天一をして僞者《にせもの》とし二葉《ふたば》の中に摘《つみ》たるなりとの事實に然るか否《いなや》を編者未だ識別《しきべつ》すること能《あた》ざれど設《もし》果《はた》して信《しん》ならしめば吉宗《よしむね》ぬしが賢明《けんめい》なるは言計《いふばか》りもなく僞《にせ》を僞《にせ》として其の惡《あく》を訐《あば》き奸《かん》を鋤《すき》賊《ぞく》を滅《めつ》するは之奉行職の本分《ほんぶん》なれば僞者《にせもの》の天一坊を見顯《みあらは》すは然のみ大功とは稱するに足ねど眞《しん》の天一坊を僞《にせ》として能《よく》天下の爲に是を滅《めつ》せしは智術《ちじゆつ》萬人に越え才學《さいがく》四海に並ぶ者なき忠相ぬしに有らざれば誰人《たれびと》か能く此機變《このきへん》を行なひ君をしていよ/\賢明《けんめい》ならしめ民をしてます/\欣慕《きんぼ》の念《ねん》を起さしむるに至らん空前絶後《くうぜんぜつご》の名奉行なるがゆゑ後に年功に依て三千石より一萬石に加増《かぞう》し大名の中に加へられたり然ども町奉行にして大名に任《にん》ぜられたるも先例《せんれい》なく大名にして町奉行を勤《つとめ》たるも先例《せんれい》なければ此時忠相ぬしは町奉行を止《やめ》られて更《さら》に寺社奉行に任ぜられしなど未だ例《ためし》なき美目《びもく》を施《ほどこ》し士庶《ししよ》人をして其徳を慕《したは》せ今に至るまでも名奉行と言る時は只に忠相ぬし一|個《にん》に止《とゞま》るが如く思ひ大岡越前守の名は三歳の小兒といへども之を知《しり》頻《しきり》に明斷《めいだん》を稱《たゝへ》るこそ人傑《じんけつ》の才《さい》稀世《きせい》の人といふ可し是等を今茲に喋々《てふ/\》する事殊に無益《むえき》の辯《べん》に似《に》たれど前にも已《すで》に述《のべ》たるが如く此小西屋の裁判は忠相ぬし最初《さいしよ》の捌《さばき》にして是より漸次《しだい》に其名を轟《とゞろ》かし末世《まつせ》奉行の鑑《かゞみ》と成たる明斷《めいだん》に因《ちなみ》て忠相ぬしが履歴《りれき》とその勳功《くんこう》の大略《あらまし》とを豫て傳へ聞《きゝ》異説《いせつ》天一|坊《ばう》さへ書記《かきしる》して看客《かんかく》の覽《らん》に供《そな》ふるなれば看客此一回を熟讀《じゆくどく》して忠相ぬしが人と成り腹《はら》にをさめ而して後に前段の落着《らくちやく》の場を見たまはゞ宛然《さながら》越前守を目前にみるが如きの思ひある可し然れども編者が筆《ふで》鈍《にぶ》き上|緒數《ちよすう》毎回《まいくわい》限《かぎ》りあれば其情《そのじやう》充分《じうぶん》に寫《うつ》す事|難《がた》し恐らくは角《つの》を斷《きつ》て牛を斃《たふ》すの嘆なき能はず夫等は偏へに御海容《みゆるし》を乞ふのみ [#ここで字下げ終わり] 小西屋一件[#1段階小さな文字]終[#小さな文字終わり] [#改丁] [#ページの左右中央] 雲切仁左衞門一件[#「雲切仁左衞門一件」は大見出し] [#改丁] [#1段階大きな文字]雲切仁左衞門《くもぎりにざゑもん》一件《いつけん》[#大きな文字終わり] [#8字下げ]第一回[#「第一回」は中見出し]  當《まさ》に秋霜《しうさう》となるとも檻羊《かんやう》となる勿れと此言や男子《だんし》たる者の本意《ほんい》と思ふは却《かへつ》て其方向を誤《あやま》るの基《もと》にして性《せい》は善なる孩兒《がいじ》も生立に隨《したが》ひ其質を變《へん》じて大惡無道の賊となるあり然ば雲切仁左衞門|抔《など》も其一にして今の世までも惡名を殘したる其|物譚《ものがたり》を茲に説出すに頃は享保《きやうほ》年中|甲州《かふしう》原澤村《はらざはむら》に佐野|文右衞門《ぶんゑもん》と言《いひ》て有徳《うとく》に暮《くら》す百姓あり或時文右衞門は甲府表に出て所々見物なし日も西山に傾むきける故に佐倉屋《さくらや》五郎|右衞門《ゑもん》といふ穀物問屋へ一|泊《ぱく》を頼《たのみ》たり此佐倉屋と云は文右衞門より毎|度《ど》米穀《べいこく》を送りける故|平常《つね/″\》心安き得意《とくい》に付|早速《さつそく》奧へ請《しやう》じ種々《いろ/\》饗應《きやうおう》なしけるが此の家の娘におもせといふは今年《ことし》十六歳にして器量《きりやう》も十人並に勝《すぐ》れし故文右衞門は年若にて未だ妻もなき身なれば不※[#「圖」の「回」に代えて「面から一、二画目をとったもの」、659-8]《ふと》此娘《このむすめ》に執心《しふしん》なし竊《ひそか》に文を送しにおもせも文右衞門が男|振《ぶり》優《いう》に艷《やさし》く甲府の中にも多く有まじき樣子《やうす》に迷《まよ》ひ終《つひ》に人知ず返書《へんしよ》を取り交《かは》し二世の誓《ちかひ》を立たりけり然るにおもせの親五郎右衞門は此|事《こと》を聞《きく》より一度は怒《いか》りけれ共佐野文右衞門は有福《いうふく》の暮《くら》しと言殊には人|柄《がら》も宜《よき》若者なれば人を以て掛合《かけあひ》の上おもせを文右衞門の方へ遣《つかは》せしにより思ひ思はれし中なれば兩人の喜《よろこ》び大方ならず最《いと》睦敷《むつまじく》暮しけるに程なく懷妊《くわいにん》して一人の男子を儲《まう》け其名を文藏と呼て夫婦の寵愛《ちようあい》言《いふ》ばかりなく蝶《てふ》よ花よと育《そだ》てけるに早《はや》文藏も三歳に[#「三歳に」はママ]なりし頃《ころ》父の文右衞門|不※[#「圖」の「回」に代えて「面から一、二画目をとったもの」、659-13]《ふと》風《かぜ》の心地にて打臥《うちふし》けるが次第に病氣|差重《さしおも》り種々《いろ/\》養生《やうじやう》手《て》を盡しけれ共其|驗《しるし》なく終《つひ》に享保元年八月十八日歸らぬ旅に赴《おもむ》きけり因《よつ》て女房おもせは深く歎《なげ》きしが今更|詮《せん》なきことと村中の者共打|寄《より》て成田村なる九品寺《くほんじ》へ葬送《さうそう》なし一|偏《ぺん》の烟《けふり》として跡《あと》懇切《ねんごろ》に弔《とふら》ひたり此おもせは至《いたつ》て貞節者《ていせつもの》にて男|勝《まさ》りなりければ未だ年若《としわか》なれども後《ご》家を立てゝ三歳なる[#「三歳なる」はママ]文藏を守立《もりたて》て奉公人の取締《とりしまり》も行屆《ゆきとゞ》きしかば漸次々々《しだい/\》に勝手《かつて》宜《よく》なりし故所々へ貸金|等《とう》もいたし番頭に忠兵衞と言者《いふもの》を召抱へて益々|内福《ないふく》にぞ暮《くら》しける然るに享保十一年には最早《もはや》文藏二十四歳となりければ能《よき》嫁《よめ》をとらんと近所《きんじよ》の心|易《やす》き者を頼みて種々《いろ/\》穿鑿《せんさく》せしが兎角|長《なが》し短《みじか》しにて相談《さうだん》も調《とゝの》はざるうち文藏は忠兵衞を召連れ駿州《すんしう》へ米の拂ひ代金を受取に到りて駿《すん》府町の問屋《とひや》なる常陸《ひたち》屋佐兵衞と云者の方へ泊りし所佐兵衞が悴《せがれ》に佐五郎といふものありて歳も同じ頃なれば心|安《やす》く致しけるに佐五郎思ふには斯《かく》懇意《こんい》には致せども文藏事は餘りに手堅《てがた》く何時も金錢を大切に致し一|向《かう》に遣ふといふことなし我《われ》度々《たび/\》勸《すゝ》むれ共大の堅固《かたや》にて一|向《かう》聞入《きゝいれ》ず然ども此の度は是非とも誘引《さそひ》出《いだ》さんと文藏に向ひ此處《こゝ》の二丁町は天下御免の場所ゆゑ一度は見物《けんぶつ》あれと無理に勸《すゝ》むる故毎度の勸《すゝ》め然々《さう/\》斷《ことわ》るも氣の毒と思ひ或日《あるひ》夕暮《ゆふぐれ》より兩人同道にて二丁町へ到り其處此處《そこここ》と見物して行歩《あるく》中常盤屋と書し暖簾《のれん》の下りし格子《かうし》の中におときといふ女の居りしが文藏|不※[#「圖」の「回」に代えて「面から一、二画目をとったもの」、660-8]《ふと》恍惚《みとれ》し體《さま》に彳《たゝず》みける佐五郎ははやくも見付《みつけ》何《なに》か文藏に私語《さゝやき》其家へ上りしが病《やみつき》にて文藏は現《うつゝ》になり日夜《にちや》おときの方へ通《かよ》ひ詰《つめ》ける故番頭の忠兵衞は以ての外の事なりと思ひ段々《だん/\》異見《いけん》を加ゆると雖も勿々《なか/\》用ひる面色《けしき》もなく言ば言程|猶々《なほ/\》募《つの》りて多分の金子を遣《つか》ひ捨《すて》るにより忠兵衞も持餘せし故|國元《くにもと》へ歸りて母親へ右の段を咄《はな》しけるに母のおもせは眞赤《まつか》になり夫は以ての外の事|夫《をつと》なき後は我等が育《そだて》あげし文藏なれば母親の甘《あま》く育しと言れては世間の手前|濟難《すみがたく》殊には又畜生同然の遊女などに迷《まよ》ひては先祖《せんぞ》へ對しても申譯なしと大に怒《いか》りしを忠兵衞は先々《まづ/\》と宥《なだ》め置夫より親類中へも内談《ないだん》をなし一|先《まづ》文藏を駿府《すんぷ》より連れ歸り打寄て種々《しゆ/″\》異見に及びしかど文藏は何時かな思ひ切《きる》樣子もなく假令《たとへ》不孝と云《いは》れ勘當受る共是非に及ばずと思ひ切て申ける故|然《しから》ば忠兵衞も致し方なく然程《さるほど》に思ひ詰給《つめたま》ふ上は暫時私しへ御|任《まか》せ有べし必ず思し召違《めしちが》ひ有て短氣《たんき》の事など爲給ふなと種々に諭《さとし》置きて忠兵衞は御家《ごけ》のおもせが機嫌を見合《みあは》せ文藏樣は只一人の御子と云那程までに御執心《ごしふしん》の事なれば彼女を請出《うけいだ》し御|嫁《よめ》になされて然べし欠替《かけがへ》のなき御子の事|萬一《もし》御|不了簡抔《ふれうけんなど》あらば何と成《なさ》れ候や爰《こゝ》の所を貴方樣《あなたさま》も篤《とく》と御考へ遊ばし曲《まげ》て御聞入あるべしと詞を盡して申勸めしかば母おもせは女郎《ぢよらう》は畜生《ちくしやう》同前と思へ共只一人の子と云《いひ》支配人《しはひにん》の忠兵衞が申勸る事故詮方なく然る上は是非《ぜひ》に及ばず其女を受出申べし我等は隱居《いんきよ》を致さんと泣々《なく/\》申けるを忠兵衞は是を聞御|道理《だうり》の樣《やう》なれ共|先々《まづ/\》受出して御覽あるべし強《あなが》ち女郎と申ても畜生同樣の者ばかりも是なしと段々母親を説諭《ときさと》して文藏に右《みぎ》の段|咄《はな》しければ文藏は天へも上る心地《こゝち》して最《いと》嬉《うれ》しく忠兵衞を神か佛の樣に伏拜《ふしをが》み夫より文藏は忠兵衞を同道《どうだう》して駿府《すんぷ》へ赴き彼常盤屋《かのときわや》へ行《ゆき》て身請の事を亭主へ懸合金百十五兩にて彌々《いよ/\》お時《とき》を身請と相談《さうだん》調《とゝの》ひしかば忠兵衞は常盤屋の亭主に向ひ斯の如く身請をなす上は彼の女の身元は何れ成や承《うけた》まはり度《たし》と尋ねけるに亭主は是を聞《きゝ》何樣《なにさま》御道理の御尋ねなり彼女の身元は當國|木綿島《もめんじま》村の生れにて甚太夫《じんだいふ》と云者の娘なれば里《さと》へ渡りを付て御引取《おんひきとり》成るべしと申ゆゑ夫《それ》より忠兵衞は早速《さつそく》甚太夫の方へ掛合《かけあひ》しに父甚太夫も大いに喜び萬事すら/\と根引も濟《すま》しかば文藏お時の兩人を駕籠《かご》に乘《のせ》忠兵衞は附添《つきそひ》原澤村へと急ぎ立歸りしに母のおもせは如何《いか》なる者を連來やと日々《にち/\》案じ居ける所へ皆々歸り來りければ早速忠兵衞を招きて樣子を尋ねしに右のお時は木綿島村の甚太夫《じんだいふ》といふ百姓にても家柄《いへがら》の者の娘なりしが年貢《ねんぐ》の未進《みしん》に付據ころなく常磐屋へ勤《つと》め奉公に出して未だ間《ま》もなきに渠《かれ》運《うん》強《つよ》くして此方の旦那樣に受出され勤めの月日もなき故外の遊女とは大に違《ちがひ》人品《ひとがら》もよしと申に付少しは安心なし居たるに何樣文藏は申に及ばず姑《しうとめ》にも能《よく》仕《つか》へ奉公人迄|行渡《ゆきわた》りの能ければ母のおもせは思ひの外歡びて近所の者へも私しの嫁《よめ》は夫婦中も睦敷《むつまじく》殊《こと》に私しを大切になし呉《くれ》候事若き者には珍《めづ》らしくお前樣方も嫁を取るゝならば女郎が宜《よろ》しきなどと今は却《かへつ》て自慢《じまん》を爲《なす》程《ほど》なれば家内|睦《むつま》しく暮し居たりけり [#8字下げ]第二回[#「第二回」は中見出し]  然《しか》るに或日《あるひ》五十歳ばかりの男來りて忠兵衞に逢《あひ》私し事は木綿島村《もめんしまむら》の甚太夫殿より頼まれて來りし者なるがお時樣の父公《ちゝご》甚太夫殿此節|俄《にはか》に大病とて打臥《うちふし》居られ候間此|由《よし》お時樣へ御咄し下さるべしと申|故《ゆゑ》忠兵衞は早速《さつそく》に此段をお時へ咄しければお時は是を聞て驚愕《びつくり》なし如何|成《なる》急病《きふびやう》にやと甚だ案じ歎《なげ》き夫文藏へ此事を語りしに文藏も驚き外ならぬ事故《ことゆゑ》手代忠兵衞へ如何せんと相談なせば忠兵衞は打案じ此度お時樣爰へ來り給《たま》ひ今|直《すぐ》に親公《おやご》の病氣なりとて行給はゞ世間の聞えも惡し是は御夫婦連にて身延《みのぶ》へ參詣《さんけい》とて御出の方《かた》宜《よろ》しからんと申にぞ其段母へも咄しければ母は大の堅法華《かたほつけ》の事なる故|尤《もつと》もの事なりとて許《ゆる》せしに付お時は大に喜び早々《さう/\》其用意をなし名主林右衞門へも頼み置《おき》て近所へは身延《みのぶ》參詣《さんけい》と披露《ひろう》し忠兵衞へ跡の事|共《ども》言含《いひふく》め文藏お時は下男吉平が實|體《てい》なる者故是を供《とも》に召連《めしつれ》て主從三人頃は享保十二年十月十日|原澤村《はらさはむら》を出立なし夫より鰍澤《かぢかさわ》の御|關所《せきしよ》へ掛るが路順《みちじゆん》なり都て甲州は二重《ふたへ》の御關所あり土地は御代官《ごだいくわん》の支配ゆゑ御關所手形を願ふべきなれども日數《ひかず》も掛るにより御關所をば拔道《ぬけみち》を廻りて通らず切石《きりいし》下山《しもやま》と急ぎ來りしが猶身延へも往《ゆか》ず萬澤《まんざは》の御關所へ掛《かゝ》りしが是又手形なくては通行ならず依て此處をも廻り道をして行んと思へども土地|不案内《ふあんない》の事ゆゑ茶屋へ寄り問合《とひあは》せて通らんと思ひ立寄しに此茶屋に先より三人連の男|休《やす》み居たりしが今文藏の一|群《むれ》來りて御關所の拔道を通る樣子を聞何か三人私語合ひ此處を出立《たちいで》窺《うかゞ》ひ居たり此三人の中|頭立《かしらたち》たる一人は甲州にて名高き惡漢《わるもの》韮崎《にらさき》出生《しゆつしやう》の雲切仁左衞門といふ者なり若年《じやくねん》の頃《ころ》より心|剛《がう》にして眞影流《しんかげりう》の劔術《けんじゆつ》を好み天晴《あつぱれ》遣人《つかひて》なりしが或時|雷《らい》落《おち》て四方眞暗となりしに仁左衞門は事ともせず拔打《ぬきうち》に覆《おほ》ひ下りし雲の中を切けるに不思議《ふしぎ》や鼬《いたち》の如き獸二ツになつて落《おち》けるゆゑ人々大いに驚き是より雲切仁左衞門と渾名《あだな》せり今一人は手下にて肥前の小猿《こさる》といふ者|又《また》一人は同く肥前長崎|在方村《ざいかたむら》と云ふ所の出生《しゆつしやう》向《むか》ふ見ずの三吉と云者なり扨て文藏夫婦は此茶屋にて拔道《ぬけみち》の樣子を聞|駕籠《かご》を雇ひて打乘《うちのり》萬澤《まんざは》の廻り道へ來掛《きかゝ》るを見て小猿は仁左衞門に向ひ是《これ》は必ず能《よき》鳥《とり》なれば五兩や十兩には有付《ありつく》べしと云を聞《きゝ》傍《そば》より三吉は面白し/\彼奴《きやつ》を威して取《とら》んと駈《かけ》出すを仁左衞門は押|止《とゞ》め汝が器《うつは》は小細々々《ちひさい/\》今懷中の物を取のみにては面白からず後の種《たね》にする工風《くふう》あり先《まづ》其方兩人は斯樣々々《かやう/\》に致せと言付萬澤の御關所を通りて先へ行拔今や來ると待居たり文藏夫婦の者は斯る事のありとは夢《ゆめ》にも知《しら》ず甚太夫が病氣の事を案じ急ぎて來懸りしに向ふ見ずの三吉|肥前《ひぜん》の小猿兩人は目明《めあか》し風俗《ふう》に拵《こしら》へ其所へ直《すぐ》と出立汝等女を連て天下の御|關所《せきしよ》を廻り道《みち》せし事|不屆《ふとゞき》なりと咎《とがめ》れば文藏夫婦は是を聞て仰天《ぎやうてん》なし兩手を地に突何卒御見|遁《のが》し下されよと詫けれ共|惡漢《わるもの》共は勿々《なか/\》聞入ず大切なる御關所何と存じ拔道《ぬけみち》を致せしやと申故兩人は途方《とはう》に暮て答《こた》へも出來ざれば三吉小猿は汝等《なんぢら》役所へ來れとお時文藏並に供《とも》の吉平三人へ繩を掛《かけ》ければ三人は只《たゞ》夢《ゆめ》に夢見し心地にて引立《ひきたて》られつゝ行所に身の丈《たけ》六尺有餘の大男《おほをとこ》黒羽二重《くろはぶたへ》の小袖《こそで》に黒八丈の羽織|朱鞘《しゆざや》の大小《だいせう》十手《じつて》取繩《とりなは》を腰《こし》に提《さげ》のさ/\と出來りしに小猿三吉は腰《こし》を屈《かゞめ》是は/\御役人樣|斯樣々々《かやう/\》の者を召捕《めしとり》候と申しければ彼役人打笑て夫は我等請取て一|應《おう》取調《とりしらべ》んと云ながら文藏に向ひ其方は何國の者にて何用有て何方《いづかた》へ行にや眞直《まつすぐ》に白状致せと申けるに文藏はがた/\震《ふる》へながら私しは原澤村《はらざはむら》百姓文藏と申者に候が是なる妻の里|木綿島村《もめんじまむら》の父が急病ゆゑ見舞《みまひ》に罷《まか》り越《こし》候間何卒御慈悲にて御通し下され候樣願ひ奉つると言《いひ》ければ彼の侍士は點頭其は不便《ふびん》の事なり此|儘《まゝ》引立《ひきたて》行《ゆく》時《とき》は御法通り磔《はりつ》けなれば何卒助けて遣《つかは》し度《たく》と暫《しば》し工風の體《てい》に見えしが汝等|親《おや》孝行の志《こゝろ》ざしにめで我一|了簡《れうけん》を以て見遁《みのが》し遣はさん併ながら手先の者共へ酒代《さかだい》にても遣はさねば相成らずと申を聞《きゝ》文藏は蘇生《よみがへり》たる心地にて大に喜びこれこそ地獄の沙汰も金《かね》次第と目明《めあか》し方の兩人へ[#「兩人へ」は底本では「兩人の」]所持《しよぢ》せし有金三十七兩を殘らず差し出だしければ彼の役人どもは其の金子《きんす》を請取り此の事決して口外《こうぐわい》致すまじと申渡し何國ともなく立去けり然《され》ば文藏夫婦は役人の後影を伏拜み實に有難き御|慈悲《じひ》なり然ながら我々身延山を僞《いつは》りし佛罰《ぶつばつ》にて空恐しき目に逢しならん早々御|詫《わび》をすべしと下|男《なん》吉平へ申付て原澤村へ立歸《たちかへり》させ番頭《ばんとう》忠兵衞へ内談の上金子を取寄せ身延山へも金十兩を納《をさ》めて御|詫《わび》をなし漸々《やう/\》日數を經《へ》て駿州|木綿島村《もめんじまむら》へ十月十五日に着たりける然るに甚《じん》太夫は平常《へいぜい》痰持《たんもち》にて急にせり迫《つめ》けるが三四日の内に思ひの外|全快《ぜんくわい》し先|常體《つねてい》なれば夫婦は早速《さつそく》對面なせしに甚太夫は兩人が遠方《ゑんぱう》の所を深切《しんせつ》に尋ね來りし事を深く喜び彼是と饗應《もてなす》にぞ夫婦も安心し此度|途中《とちう》にて少々|入費《ものいり》も是ありしにより甚だ少しながらと金子二十兩を土産に贈りければ甚太夫は彌々《いよ/\》其の志ざしを感じ緩々《ゆる/\》逗留《とうりう》ありて旅勞《たびつか》れを休められよと言に夫婦の者は一兩日|逗留《とうりう》なし頓て暇乞《いとまごひ》して木綿島村を出立し三人打|連《つれ》故郷《こきやう》へこそは歸りけれ然《され》ば文藏夫婦は此度廻り道をなして金子を遣《つか》ひし事必らず口外《こうぐわい》爲《なす》べからずと吉平へも堅《かた》く口止《くちどめ》して濟し居たりしが誰《たれ》知《し》る者もなく其年も早《はや》十二月となりて追々《おひ/\》年貢《ねんぐ》の上|納《なふ》金を下作《したさく》より集《あつめ》けるを文藏の代になりては別《べつ》して毎年《いつ》も都合《つがふ》能《よく》年々|實入《みいり》も殖《ふゑ》るに往々《ゆく/\》は舅《しうと》甚太夫も此方《こなた》へ引取べしと姑《しうとめ》も申により喜び居たりけり扨《さて》又《また》雲切仁左衞門は彼三十七兩の金を小猿|向見《むかふみ》ずの兩人へ十兩宛|分與《わけあた》へ己は十七兩の金を懷中《ふところ》になし日々|遊《あそ》び暮《くら》しけるが仁左衞門は兩人に向ひ此上某し大金を儲ける手段《しゆだん》を考へ置たり此事|首尾能《しゆびよく》行時は此後|盜賊《たうぞく》を止《やめ》其金を以て末《すゑ》を安樂《あんらく》に暮しなん若又惡事露顯する時は互ひに命を落す而已《のみ》なり今一|働《はたら》きなすべしと申ければ兩人は異議《いぎ》に及ばず然ば大金|儲《まうけ》に掛らんと其|相談《さうだん》をなし居たり然るに其年の十二月五日原澤村の名主《なぬし》用右衞門の方へ木綿合羽《もめんがつぱ》を着したる旅の侍士《さふらひ》一人入來り其方へ少々尋ね度|仔細《しさい》ありと申にぞ名主用右衞門は何事なるやと思ひ早速《さつそく》座敷へ通して茶|烟草盆《たばこぼん》を出し挨拶《あいさつ》に及びける處彼|侍士《さふらひ》用右衞門に向ひ當村に文藏と申者はなきやと尋ぬるに用右衞門何|樣《さま》文藏と申者當村に罷《まかり》在候と答へければ侍士は點頭其文藏が身の上に近頃何ぞ後暗《うしろぐら》き事はなきや其方より内|糺《たゞ》し致すべしと申けるに用右衞門は大に驚き文藏儀平常|實體《じつてい》にて慈悲《じひ》深《ふか》き者ゆゑ然樣の事有べき筈《はず》なしと思へども先彼侍士を欵待《もてなし》置て早々文藏方へいたり只今我等方へ御侍士一人御入にて斯樣々々《かやう/\》の御尋ねあり貴樣に後暗き事の有べき樣なけれど一|應《おう》申聞ると申せしに文藏は内心《ないしん》ぎよつとなせしかども素知《そしら》ぬ體にて其は一向心當りもなしと申を用右衞門は押返《おしかへ》し篤《とく》と考《かんが》へられよと尋ねけれども文藏|立腹《りつぷく》の體《てい》に見えしかば用右衞門も何樣《なにさま》と思ひ立歸りて此旨《このむね》を侍士へ申|述《のべ》けるに然らば此段申上べしと云て侍士は立歸たり因て名主用右衞門は不思議《ふしぎ》の事に思ひ竊《ひそか》に心|痛《つう》してぞ居たりける [#8字下げ]第三回[#「第三回」は中見出し]  さて又同く十月二十七日の[#「十月二十七日の」はママ]暮方《くれがた》名主用右衞門方へ五六人の侍士來りし故《ゆゑ》用右衞門|肝《きも》を冷《ひや》して出|迎《むか》ひける所|先《さき》に立し者|此御《このお》侍士を案内せし我々《われ/\》は江戸南町奉行大岡越前守樣御組中田甚太夫殿の手先《てさき》の岡引《をかぴき》なりと云ければ用右衞門は増々《ます/\》驚きけり(今《いま》此處へ來りし役人體の者は雲切仁左衞門の手下《てした》なる三吉小猿の兩人にて甲府邊《かふふへん》の者三四人を錢《ぜに》五百文づつにて雇ひ供に召連たるなり)時に小猿《こざる》の甚太夫は用右衞門を呼び當村《たうむら》の百姓文藏方へ案内致すべしと申故用右衞門は狼狽《うろたへ》廻りて組頭《くみがしら》百姓|代《だい》組合の者|等《とう》大勢呼集め是は先日のことならんと恐る/\案内致しけるに此文藏の宅は長屋門《ながやもん》にて土藏七戸前其外|納屋等《なやとう》數多ありて番頭忠兵衞初め下男十人下女五人馬三疋の大福家《だいふくか》なりし處夜五ツ時|頃《ごろ》御用《ごよう》提灯《ちやうちん》を先に立|名主《なぬし》組頭《くみがしら》一同に案内して入來りしゆゑ文藏は何事《なにごと》ならんと大いに驚きし中|上意《じやうい》と聲《こゑ》掛《かけ》主人夫婦を高手小手に縛《いまし》めければ母は仰天《ぎやうてん》しながら如何の譯にて候や悴儀《せがれぎ》は御|召取《めしとり》に相成べき惡《わる》さを致す者にあらずと泣々《なく/\》詫言《わびごと》なしけるを小猿の甚太夫は母に向ひ文藏夫婦は去《さんぬ》る十月中萬澤の御關所を廻《まは》り道を致し候江戸|町奉行《まちぶぎやう》大岡越前守殿へ相聞え今日|召捕《めしとり》に向ひたり其節|供《とも》に召連し下男なる趣《おもむ》き是亦差出すべしとて吉平をも召捕ければ母のおもせは種々《いろ/\》と歎きけれ共小猿の甚太夫は首《かうべ》を振《ふり》其方何樣に歎くとも江戸表よりの御|差※[#「圖」の「回」に代えて「面から一、二画目をとったもの」、665-9]《さしづ》なれば差免《さしゆる》し難《がたし》併《しか》し子の罪は親に懸らざれど母をば村役人へ急度《きつと》預け置《おき》奉公人は番頭忠兵衞|始《はじ》め殘らず是又村役人へ預申付るなり居宅《ゐたく》の儀は村の百姓共申合せ晝夜番《ちうやばん》を致すべしと申渡し家内|諸式《しよしき》米倉迄《こめぐらまで》殘《のこ》らず改めの上中田甚太夫の封印《ふういん》を付其外|帳面《ちやうめん》へ書留《かきとめ》るに米千八百五俵|麥《むぎ》五百三十俵並に箪笥《たんす》長持《ながもち》數《す》十|棹《さを》村役人|立合《たちあひ》にて改め相濟《あひすみ》其夜|寅半刻《なゝつはんどき》事濟に相成|山駕籠《やまかご》三|挺《ちやう》を申付て是へ文藏夫婦に下男吉平を乘《のせ》明日《みやうにち》巳刻迄《よつどきまで》に當所の御|代官《だいくわん》簑《みの》笠《かさ》之助殿御|役宅《やくたく》へ召連て罷り出べしと急度《きつと》申渡し村役人共より預り書面《しよめん》を請取《うけとり》小猿の中田甚太夫は我手の者共を召連|立歸《たちかへ》りけり因て彼是《かれこれ》する内に夜も明離《あけはな》れければ名主用右衞門は文藏に向ひ今更《いまさら》申は詮《せん》なき事ながら此間御役人御出にて御|内《ない》糺《たゞ》しの節に取扱《とりあつか》ひなば又々如何樣にも内談《ないだん》の致し方も是あるべき所其節心付かざるこそ殘念《ざんねん》の事共なれ今と成ては是非《ぜひ》に及ばずと申けるに母のおもせを始め皆々《みな/\》何といふべき詞《ことば》もなく唯《たゞ》涙《なみだ》に咽《むせ》び歎き悲《かなし》むより外はなかりけり [#8字下げ]第四回[#「第四回」は中見出し]  扨も文藏夫婦並に下男《げなん》吉平は翌朝《よくてう》大勢村の者を差添御代官簑笠之助殿御役宅へ召連《めしつれ》罷《まか》り出昨夜御預の囚人《めしうど》を同道仕つり候と申立ければ御代官所にては不審に思ひ其儀一|向《かう》此方に於て覺《おぼえ》なき事なりと申されける故|名主《なぬし》用《よう》右衞門は進|出《いで》昨夜大岡越前守樣御組の由中田甚太夫と申され候御仁が御|召取《めしとり》なされ明朝《みやうてう》當御役所《たうおやくしよ》へ差出し候樣にと仰せ付られ候に付則ち召連候と申せしかば御代官《ごだいくわん》の方にては是を聞れて扨々《さて/\》不審《ふしん》の事共なりと大岡の下役人共當地へ來り一應の斷りもなく支配所《しはいしよ》へ踏込《ふみこみ》候段何共|合點《がてん》行ざる儀なり其上前以て内談もなく當役所へ三人の囚人を引渡し候儀|旁々《かた/″\》其《そ》の意《い》を得《え》ず然れども囚人と有《あれ》ば打捨置がたしとて此段甲府御城代|八木丹波守《やぎたんばのかみ》殿酒井大和守殿へ申|達《たつ》されける故評議の上先御|勘定奉行《かんぢやうぶぎやう》へ差出し然るべしとの事に付|夫《それ》より江戸表御勘定奉行酒井壹岐守殿へ差出《さしいだ》されければ酒井殿の方にても關所破《せきしよやぶ》りとあるからは輕からぬ科人なり然れ共大岡殿の手先《てさき》にて召捕《めしとり》し者なるを此方にて裁許《さいきよ》は成り難し兎に角大岡へ引渡候方ならんとの事にて越前守殿御役所へ引渡と相成たり仍《よつ》て大岡殿村役人を召出《めしいだ》され一應糺されけるに十二月廿七日夜御組の中田甚太夫殿と申す御仁御出張にて文藏夫婦《ぶんざうふうふ》御召捕《おんめしとり》相成御代官へ引渡し候樣|仰《おほ》せ渡され米穀《べいこく》金銀|諸道具《しよだうぐ》藏|等迄《とうまで》殘《のこ》らず封印の上御引取相成候間其通り御代官所へ召連《めしつれ》訴《うつた》へ出候處一|向《かう》御存じ是《これ》なきとの事にて夫《それ》より御勘定奉行へ御引渡し相《あひ》なり猶《なほ》又《また》當御役所へ相廻候と申立るを聞《きか》れ越前守殿|直樣《すぐさま》中田甚太夫を呼出《よびいだ》され其方名前を僞りしは何か遺恨《ゐこん》にても有者の仕業《しわざ》か又は盜賊の巧《たく》みならん何れにも篤《とく》と吟味《ぎんみ》致すべしと有《あり》て文藏夫婦を呼出し越前守殿文藏を見られ其方儀|去《さる》十二月二十七日の夜當方の下役《したやく》と名乘《なのり》し者に召捕れ候趣き其節の手續《てつゞき》明白に申立よと尋ねられければ文藏は涙《なみだ》を流しながら其節は名主用右衞門案内にて私宅へ御役人樣御出成れ一言の御糺《おたゞ》しもなく私し夫婦を御召捕《おめしとり》相成しは斯樣々々《かやう/\》なり私し母并に下人共は村役人へ御預け家内《かない》の番は村方|百姓等《ひやくしやうら》へ仰付《おほせつけ》られ諸色《しよしき》土藏《どざう》とも殘らず御役人樣|御封印《ごふういん》にて其後御引取の所|其節《そのせつ》明日|巳刻《よつどき》簑笠之助樣御役所へ相送り候樣仰せ渡され候て御役人樣御|立歸《たちかへ》り相成候然るに簑笠之助樣御役にては一|向《かう》御存《ごぞん》じ是なき段《だん》仰《おほ》せ聞《きけ》られ候と委細《ゐさい》に申上しかば大岡殿名主用右衞門へ對はれ此儀は何ぞ文藏へ意趣遺恨《いしゆゐこん》にても是ある者の心當《こゝろあた》りはなきやと申さるゝに用右衞門|暫時《しばらく》考へ文藏儀は至て實體《じつたい》なる者ゆゑ意趣遺恨等《いしゆゐこんとう》請《うく》べき者に候はず然れども去年十二月五日何れより御出《おいで》成《なさ》れ候や御侍士樣御一人私し方へ御越にて文藏に何ぞ[#「何ぞ」は底本では「侍何ぞ」]不審なる儀はなきやと御尋ねゆゑ早速《さつそく》文藏へ承《うけた》まはり合せ候處一向|何《なに》も覺え是なく候と申候に付其段申上候に其御士儀何か御考への體《てい》にて御歸り成され候然るに其の後二十七日の日斯樣々々の次第に候と申立ければ大岡殿又用右衞門へ尋ねらるゝ樣《やう》其方の支配なれば文藏が家内《かない》の樣子《やうす》も能《よく》知《しり》つらん何ぢやと申されしに用右衞門|仰《おほせ》の如く私し支配に候へば文藏の樣子は能《よく》存《ぞん》じ居《をり》候|先《さき》にも申上候通り渠《かれ》は一|體《たい》實體《じつてい》なる者にて平常《へいぜい》慈悲《じひ》深《ふか》く又女房と申候は駿府《すんぷ》二丁町の遊女《いうぢよ》なりしを請出し候が是又心懸よき女にて奉公人より小前《こまへ》百姓共迄も平常《つね/″\》譽《ほめ》候て家内|和合《わがふ》いたし居候と申立ければ大岡殿然れども文藏夫婦の者近頃何方へ歟《か》行《ゆき》し事は是なきやと尋ねられしに[#「尋ねられしに」は底本では「尋とねられしに」]用右衞門去年十月中に夫婦|身延山《みのぶさん》へ參詣仕つり候儀|御座《ござ》ると申立れば大岡殿其儀二十七日に召捕候節吟味は致さずや又萬澤の御關所|近邊《きんぺん》には萬澤|狐《ぎつね》と申居るが故殊によりて化される事も有なり其節途中に於て何ぞ怪敷《あやしき》事はなかりしやと尋ねらるゝを聞《きゝ》文藏は大いに[#「大いに」は底本では「大さに」]驚き恐れながらと進み出御奉行樣の御眼力誠に恐れ入奉つり候其節萬澤の脇《わき》にて目明し二人に出會《であひ》私し共三人に繩《なは》を掛《かけ》候處へ御役人樣御出ゆゑ愈々《いよ/\》六《むづ》かしからんと思ひし機《をり》地獄《ぢごく》の沙汰《さた》も金《かね》次第とやらにて有金三十七兩を差出し御内分に成下され相濟《あひすみ》申候然るに十二月二十七日の夜御役人樣御出御座候處右は萬澤《まんざは》にて出會候目明の面體《めんてい》に能《よく》似寄《により》候と申を大岡殿|篤《とく》と聞《きか》れしが早速《さつそく》同心山本彌太夫を呼出され文藏宅の樣子を改め來るべしと申付られしにより彌太夫は直樣《すぐさま》原澤村《はらさはむら》名主用右衞門同道にて甲州原澤村なる文藏の宅に到《いた》り番頭《ばんとう》忠兵衞を呼出して家内土藏の封印《ふういん》を切解《きりとき》箪笥《たんす》長持《ながもち》等一々改むる時忠兵衞は文庫《ぶんこ》藏の長持《ながもち》を明此中に金千百八十兩|入置《いれおき》候と申に右の金《かね》見《み》えざれば大いに仰天し幾度となく探し求むれども少しの金と違ひ大金《たいきん》の事故|紛《まぎ》れべきやうもなく如何にも不思議のことなりと惘《あき》れ果たる趣を彌太夫は見て扨は奉行衆の鑑定《かんてい》通り盜賊の仕業《しわざ》にて似役人をなせしならんと思ひ早速立歸りて右の趣き巨細《こさい》に申し立てければ大岡殿然らば文藏夫婦の者外に惡事もあらざるゆゑ助け遣さんと思はれけれども關所破《せきしよやぶ》りと言ては磔《はりつけ》に成べき大法ゆゑ種々《いろ/\》に工夫ありて又々文藏夫婦を呼出され其方夫婦とも顏色|殊《こと》の外惡し如何致せしやと申されければ文藏は恐る/\首《かうべ》を上私し共儀此間中より病氣に御座候と申立るに[#「申立るに」は底本では「申るに立」]何樣《なにさま》不便《ふびん》のことなり此上病氣|重《おも》りては成ずと有て宿預けに申付られたり斯る囚人《めしうど》を宿預《やどあづ》けといふは誠に深き御慈悲《おじひ》なりと見聞人毎に泪を流し大岡殿の仁心《じんしん》を感じけり又大岡殿には其中に似《にせ》役人をせし盜賊《たうぞく》を吟味せんと所々|探索《たんさく》を申付られけり扨又彼の雲切仁左衞門肥前の小猿《こざる》向ふ見ずの三吉の三人は似《にせ》役人となりて原澤村の名主《なぬし》始めを首尾よく欺むき文藏方にて金千百八十兩|盜《ぬす》み取しかば仁左衞門は三吉|小猿《こざる》に向ひ斯樣《かやう》に仕合よく行《ゆき》し智嚢《ちなう》古の諸葛孔明《しよかつこうめい》我朝の楠|正成《まさしげ》も及ぶまじとは云ふものゝ是まで夜盜《よたう》追剥《おひはぎ》人殺し等の數擧て算へ難し此上盜賊をなさば終《つひ》には首をも失はん然《され》ば汝等に此金を三百兩|宛《づつ》遣《つか》はし殘り五百兩は我が物となし此|後《ご》盜賊を止め此金子を以《もつて》各々《おの/\》金堅氣《かねかたぎ》の業《たつき》を始め町人になり百姓になり了簡《れうけん》次第に有附べし併此以後は三人共に音信不通《いんしんふつう》になし假令《たとへ》途中などにて出會とも挨拶《あいさつ》も致すまじと約束を定め分殘《わけのこ》りの八十兩は當座《たうざ》の祝ひに遣《つか》ふべしとて三人一同に江戸表へ出立なし先吉原を始め品川或ひは深川と所々にて遊《あそ》びけるが頓《やが》て彼八十兩を遣《つか》ひ仕舞《しまひ》しかば三人は約束の如く思ひ/\に別れけり夫より雲切仁左衞門は本郷六丁目へ住居《ぢうきよ》して家名を甲州屋と呼《よび》米商賣《こめしやうばい》を始めけるが元より拔《ぬけ》めなき者ゆゑ次第に繁昌《はんじやう》なし此所彼處の屋敷又は大町人などの舂入《つきいれ》を請《うけ》合ければ俄《にはか》に手|繰《くり》能《よく》金銀も殖《ふゆ》るに付《つき》地面を求めて普請《ふしん》をなし今は男女五六人の暮しに成し處近所の者の世話にて女房を持《もち》家内|睦《むつ》まじく繁昌《はんじやう》致しけり扨又|肥前《ひぜん》の[#「肥前《ひぜん》の」は底本では「肥|前の《ひぜん》」]小猿は本町二丁目にて賣《うり》家を求《もと》め名を肥前屋小兵衞と改め糶呉服《せりごふく》を初めければ是《これ》又《また》所々《しよ/\》の屋敷に出入も殖《ふえ》段々《だん/\》と勝手も能成《よくなり》凡夫《ぼんぷ》盛《さかん》なるときは神も祟《たゝ》らずといふこと宜《むべ》なるかな各自仕合能|光陰《つきひ》を送りたり然るに小兵衞は尾張町の呉服|店《だな》龜屋《かめや》の番頭仁兵衞といふ者に取入《とりいり》呉服物を二三百兩づつ預りて商賣《しやうばい》しける所に此仁兵衞|頓死《とんし》して一向|勘定合《かんぢやうあひ》の分らざるを僥倖《さいはひ》に肥前屋小兵衞は二百八十兩程の代物《しろもの》を只取《たゞとり》になし是より増々仕合せ能《よく》相成けるに付|間口《まぐち》三間半の店を開《ひら》き番頭手代小僧共五六人|召仕《めしつか》ひ何れも江戸者を抱へるゆゑ何事も商賣向に明《あか》るく繁昌《はんじやう》なすに付て小兵衞は女房を持《もた》んと思ひ是も工風《くふう》して御殿女中の下りを尋ね宿の妻として都合《つがふ》よく日増《ひまし》に内|福《ふく》と成たりけり夫に引替向ふ見ずの三吉は三百兩の金を配分されしかば其金を懷中して所々を徘徊《はいくわい》なし專《もつぱ》ら賭博に身を入又大酒を呑己が有に任せて女郎|藝者《げいしや》を買《かひ》金銀を土砂《つちすな》の如く遣《つか》ひ捨る故に程なく三百兩の金も遣ひなくし今は漸々《やう/\》丸の内の本多家の大部屋《おほべや》へ轉《ころ》げ込|飯《めし》を貰ひて喰居《くひゐ》たりしが追々《おひ/\》寒さに向ふ時節なれど着物は古浴衣《ふるゆかた》一ツゆゑ如何共爲方なく不※[#「圖」の「回」に代えて「面から一、二画目をとったもの」、669-7]《ふと》大部屋を立出し頃は享保十六年十一月なりしが三吉は種々《しゆ/″\》工夫して本所《ほんじよ》柳原|町《まち》に舂《つき》屋の權兵衞といふ者あり此者は豫《かね》て知人《しりびと》なる故是を頼《たの》みて欺かばやと思ひ常盤橋御門を出てふら/\本町二丁目へ來懸《きかゝ》りし所に左側《ひだりがは》に肥前屋と書たる暖簾《のれん》懸《かゝ》り居たりしかば是も肥前《ひぜん》の者ならん彼の小猿めも同《おな》じ國なりしが今は如何《いかゞ》成しや我は元同國片村の名主の腹より出たる者なるが此體に成果たり併し此間迄は三百兩の金を持居たれども今は一文もなしなどと獨《ひと》り呟《つぶや》きながら通る所に肥前屋より小僧《こぞう》を一人供に連て出行《いでゆく》者の體小猿に髣似《よくに》たりしかば三吉は後《あと》を尾《つけ》て能々是を窺《うかゞ》ひみるに小猿に相違なきゆゑ心中に悦《よろこ》びしに小兵衞もちらりと振り返り見て奴《やつ》は三吉めなりと思ひ恐れしにぞ知ぬ顏にて早足《はやあし》に行過る所を三吉は猶《なほ》後より尾來るゆゑ小兵衞は彌々恐れ種々に逃廻《にげまは》ると雖も三吉は尾慕《つきした》ひければ小兵衞は足に任《まか》せて逃歩き夜に入て漸々歸り我が家の表口《おもてぐち》より入時後に尾《つき》て三吉は直《つ》と入來り御免なさいと言ながら店先《みせさき》に腰を掛私しは元御|知己《ちかづき》の者なれば此家の旦那に御目に懸《かゝ》り度と申に番頭手代はじろ/\顏を見ながら其の段主人へ申通じけるに小兵衞は殊の外《ほか》困《こま》り入只今|留守《るす》にて何方へ參り候や相知《あひしれ》ずと申べしと言付ければ手代は立出其|旨《むね》申聞るを聞き三吉然らば御|歸《かへり》迄|相待《あひまつ》申|可《べし》と言て上り込《こみ》一向|動《うご》かぬ故小兵衞も是非なく密と勝手《かつて》の方より出て表《おもて》へ廻り只今歸りし體《てい》にて三吉を見付是は珍《めづ》らしやと表へ呼出し向ふ横町の鰻屋《うなぎや》へ上《あが》りて物語りけるに三吉は膝《ひざ》を進め扨々《さて/\》面目なき仕合《しあはせ》なれども誠に此體なれば何卒《なにとぞ》少々の合力を御頼み申と言懸《いひかけ》られ小兵衞は是非なく懷中に在合し金六兩三分を殘らず出し遣《つかは》しければ三吉は大に歡《よろこ》び昔し馴染《なじみ》とて御無心申せしに早速《さつそく》多分の金子御貸下され忝けなし是を元手《もとで》に一商賣に有附今の御恩を報《はう》ぜんと口から出次第申しけるを小兵衞は打聞此後は豫て申合せし通り必ず我等《われら》方へ參られ候事無用なりと申せしかば三吉は天窓《あたま》を掻《かき》仰《おほ》せの如く此後は決して立寄《たちよる》まじと堅《かた》く約束なし猶又|綿入羽織《わたいればおり》一ツを貰ひ夫より本所柳原町なる舂屋權兵衞を尋けるに權兵衞は故郷《こきやう》へ引込《ひきこみ》たる由|土地《ところ》の者申故三吉は力なく又々|安宅《あたけ》の方へ到りしに當時は所々に切店《きりみせ》有て引込ける故ぶらりと是へ上り大に酒を飮《のみ》一分ばかりも遣ひ其夜は遊びて翌朝立出|朝飯《あさめし》を表にて喰居《くひゐ》たりし時|防《ふせ》ぎ傳吉といふ者に出合互に昔し語《がた》りをなし夫より此傳吉方に食客《ゐさふらふ》となり居けるが此傳吉は先年甲州へ行《ゆき》ける折雲切仁左衞門方に少しの中居たる事ありて三吉と兄弟《きやうだい》同樣にせし者なり夫故《それゆゑ》今傳吉方に遊《あそ》び居たるに傳吉は三吉が金を持て居る事を見し故是を謀《はか》りて博奕《ばくち》を勸《すゝ》めしかば固より好む事ゆゑ直樣《すぐさま》引懸《ひつかゝ》り專《もつぱ》ら博奕をなして居たりけり [#8字下げ]第五回[#「第五回」は中見出し]  斯て彼三吉は又々|博奕《ばくえき》に引懸《ひきかゝ》り肥前屋小兵衞方にて貰ひし彼《かの》六兩は殘らず負《まけ》て仕舞元の通りの手振《てぶり》となりけれ共|綿入《わたいれ》羽織ばかりは殘り有事故種々|思案《しあん》なし此上は如何共|詮方《せんかた》なければ元へ立歸るより外なしと本町二丁目なる肥前屋《ひぜんや》小兵衞の方へ行御|免下《めんくだ》されと店へ上《あが》るゆゑ番頭大に困《こま》り折角《せつかく》の御出に候へども主人小兵衞儀は留守《るす》にて御目に懸《かゝ》り候事相|叶《かな》はずと斷りけるを三吉然らば御歸り迄御待申べしとて以前の如く居込《ゐこむ》樣子《やうす》故今日は遠方《ゑんぱう》へ參りしにより歸りの程も計《はか》り難しと申ければ三吉は我等是非々々御目に懸《かゝ》らねば相成|難《がた》き用事あり二日にても十日にても御歸宅を相待《あひまち》申べしと歸氣色はなかりしにぞ店の者は殆《ほとん》ど當惑《たうわく》なし殊に小兵衞の女房は御殿下《ごてんさが》り故此體を覗《のぞ》き見て甚だ驚き小兵衞へ早々《さう/\》歸し給へと迫《せま》りしかば小兵衞も難儀《なんぎ》千萬に思ひ番頭を以て主人小兵衞儀は仕入方に參《まゐ》り候間何日|頃《ごろ》罷《まか》り歸り申べくや程合も計り難《がた》く候に付先々御歸りありて四五日も立《たち》候はゞ又々|御入《おんいり》下さるべしと云せければ三吉は是を聞て腹《はら》を立今こそ肥前屋の旦那などと横柄面《わうへいづら》をして居れども元はといへば己《おれ》と同樣に人をゆすり取又は追落《おひおと》しをしたる事もあり今己が斯の如く落《おち》ぶれたればとて其|好《よし》みを以て少々の見繼《みつぎ》位はなしても能《よき》筈《はず》なり若今己が御手に逢《あふ》時《とき》は同罪なりと大聲を出すにぞ小兵衞は甚《はなは》だ迷惑《めいわく》なし此|樣子《やうす》にてはとても素直《すなほ》には歸るまじと夫より旅の支度《したく》をし又裏口より密《ひそか》に立出《たちいで》門の外より今歸りしと聲を懸ながら内へ入けるに人々|旦那《だんな》の御歸りと言を聞三吉は最前《さいぜん》より待居し事なれば小兵衞に向《むか》ひ少々御咄し申度事ありといふに小兵衞は三吉を奧《おく》の間へ連行《つれゆき》女房へも引合《ひきあは》せ此人は舊《もと》國元にての久々馴染なれば今宵は奧座敷にて咄《はな》しを致すべしと兩人は一間に入て内談《ないだん》するに小兵衞は三吉に向《むか》ひ貴樣は能《よく》積《つも》りても見られよ一人二三百兩|分取《わけとり》なし此の上は各自|家業《かげふ》に有附べし因ては以後|音信《いんしん》不通と云事を仁左衞門始三人|堅《かた》く言葉を交《かは》して別かれしにあらずや然るに此間《このあひだ》も六兩三分と言金子を譯なく合力《がふりよく》し間もなく其形にて又々|參《まゐ》らるゝ事餘りなる仕方なり昔《むか》しとは違ひ今は眞面目《まじめ》に日々の利潤《りじゆん》を以て其日を送る我等なれば最早此上は何共《なんとも》仕方《しかた》なしと云けるを三吉|額《ひたひ》を押《おさ》へ夫は道理の事ながら我等|何程《なにほど》稼《かせ》ぎても不運にして斯の體と相成ども今一度商賣に取付度|何卒《なにとぞ》昔《むか》しの好みを以て救《すく》ひ給はれと申ければ小猿《こさる》は暫く考へ然《しか》らば雲切仁左衞門方へも行《ゆき》て頼み見られよと言けるに三吉其事も思《おも》はぬにはなけれ共|當時《たうじ》仁左衞門は何所《いづれ》に居るや一|向《かう》行方《ゆくへ》を知ず若御存じあらば教へ給《たま》はれと申せしかば當時仁左衞門は本郷六丁目にて甲州屋仁左衞門と言《いふ》大富家なり是へ便て相談《さうだん》あらば又|好《よき》話《はな》しも有べし尤《もつと》も我等は仁左衞門と申合せし以來出會は致さゞれども餘所《よそ》ながら樣子を承《うけ》たまはり居るなりと咄《はな》しけるに三吉は大に悦《よろこ》び然らば翌日《あす》にも直樣《すぐさま》本郷へ行んといふを小猿《こざる》は聞《きゝ》てとてものことに百兩ばかりも誣頼《ねだり》夫にて取付商賣をいたさるべし是までの如くにてはならぬゆゑ篤《とく》と認《みと》めし事を致されよと言ければ三吉|納得《なつとく》なし先以|御教《おんをしへ》忝けなし併《しか》し如何いたして誣頼《ねだり》申べきやと聞に小猿夫は豫々《かね/″\》出入は申すまじと堅く申合せし事なれ共斯樣々々の譯《わけ》にて詮方《せんかた》なく參りたりと申されよと言含《いひふく》めしかば三吉は委細《ゐさい》承知《しようち》して立歸り翌日本郷六丁目へ尋ね行て表より甲州屋仁左衞門殿とは此方にて候やと申入ければ番頭は然樣に御座候と答ふるに然《さ》らば御主人仁左衞門殿へ御目《おんめ》に懸《かゝ》りたし仰《おほ》せ入られ下さるべしと言入しかば仁左衞門何心なく立出《たちいで》見《み》るに以前の三吉なれば惡《わる》い奴《やつ》が來りしと思へども詮方《せんかた》なく先一間へ連行其方は何故|尋《たづ》ね來りしやと申に三吉は面目《めんぼく》無氣《なげ》に私し事|爲《する》事なす事手違ひになりて誠に難澁仕つり今は早行べき所もなく豫《かね》て兄弟分の小猿《こざる》にも借金百兩ばかりも出來此上如何とも致《いた》し方なき折から此度大岡樣の御手に召捕《めしとら》れし所小猿が工夫《くふう》にて岡引衆を頼《たの》み旦那衆へ内々百兩|贈《おく》りて見遁《みのが》しにして貰ふ筈なれども右の金子に差支《さしつか》へ候間|何卒《なにとぞ》百兩御|貸《かし》下さるべし其百兩の金子なくては岡引衆《をかびきしう》も勿々《なか/\》承知いたされず御手に逢《あひ》候はゞ萬一|拷問《がうもん》に懸り苦《くる》し紛れに古への原澤村の一件などを申し出す間《ま》じきとも云難く然すれば御|互《たがひ》の身に關《かゝ》はる事故|何分《なにぶん》にも見遁して貰ふより外なし其|手段《しゆだん》は金子なりと眞顏《まがほ》に成て語りければ仁左衞門も其事《そのこと》に至らば誠に身の大事なりと心に納め是非なく百兩|工夫《くふう》して相渡しける故三吉は大に悦《よろこ》び是《これ》誠《まこと》に命《いのち》の親なりと押戴き其の金を懷中し立出けるが百兩といふ金《かね》を只取になせし故|直《すぐ》に吉原町へ行《ゆき》て拾兩ばかり遣ひ奢《おご》り散《ちら》し殘り九十兩を持てぶら/\淺草へ出《いで》ける處|遠乘馬《とほのりうま》十四五疋|烈敷《はげしく》乘來《のりきた》りしかば三吉後へ逃《にげ》んとする機《をり》其の馬一疋|斜《なゝ》めに駈出し往來《わうらい》の者を踏倒す故三吉は狼狽《うろたへ》て漸々|馳拔《はせぬけ》諏訪町へ來り酒屋へ這入て懷中を見るにいつ落せしや九十兩の金《かね》見えざりければ三吉は駭驚仰天《びつくりぎやうてん》して立歸り猿眼《さるまなこ》に成て能々尋ねけれ共|人通《ひとゞほ》り多き所ゆゑ一向に跡形《あとかた》もなし依て又々元の手ふりとなりければ再《ふたゝ》び本郷の甲州屋へ行仁左衞門に右の事を物語《ものがた》りて無心を言《いひ》けるに仁左衞門は大いに難澁《なんじふ》に思ふと雖も詮方なく又々金子を遣《つかは》しけるが是をも又遣ひ切《きり》て本町の小猿の方へ無心《むしん》をいひ又本郷の仁左衞門と兩家へ打て違《ちが》ひに無心を言懸《いひかけ》[#ルビの「いひかけ」は底本では「なひかけ」]否《いな》と言ば以前の事を大聲にて並《ならべ》る故仁左衞門も殆《ほとん》ど困り入けるが急度《きつと》工夫《くふう》をなし本町の肥前屋へ來り内々《ない/\》相談に及びけるは彼三吉事とても生置《いけおき》ては我々が身の詰《つま》りなれば謀計《はかりごと》を以て渠《かれ》を切て捨んと談合《だんがふ》なし夫より三吉を欺《だま》し久々なれば三人同道して御殿山の花見に行《ゆく》べしと申しければ三吉大いに悦《よろこ》び直樣《すぐさま》行んと三人|打連立《うちつれだち》頃は享保十七年三月十八日御殿山にて花見をなし酒の機嫌《きげん》に古《いにし》への物語りなどして品川より藝者《げいしや》を呼《よび》大酒盛となりて騷ぎ散す中|早《はや》日《ひ》も暮相《くれあひ》と成ければ仁左衞門は頓《やが》て身を起《おこ》し我等は今宵《こよひ》據《よんど》ころなく用事あれば泊る事はならざれども淺《あつ》さり遊んで歸らんと夫より新宿《しんじゆく》の相摸屋へ上《あが》りしが其夜九ツ時分品川を三人連にて立出|高輪《たかなわ》へ來りし時仁左衞門|大音《だいおん》揚《あげ》コレ三吉汝は先年《せんねん》甲州にて金子|配分《はいぶん》せし砌方々申合せしを一向に用ひず我等兩人へ無體《むたい》に難儀《なんぎ》を懸る事|度々《たび/\》に及ぶ如何に惡逆無道《あくぎやくむだう》の者《もの》なり共恥を知ざるは人間《にんげん》にあらずといふ儘に引捕《ひつとらへ》ければ三吉は大に驚き逃出《にげいだ》さんとする所を肥前の小猿|飛懸《とびかゝ》りて拔打《ぬきうち》に右の腕を打落すに雲切仁左衞門は大脇差《おほわきざし》を引拔て三吉が眞向より殼竹割《からたけわり》に切割りければ三吉は吁《うん》とも云《いは》ず二ツに成て死したりけり仁左衞門は小猿に向ひ先々《まづ/\》是にて安心《あんしん》せりとて彼死骸を海《うみ》へ投込《なげこみ》歸《かへ》りしゆゑ此事知る者なかりしが固《もと》より同氣|相求《あひもとむ》る者ども故是より折々は出會《いであひ》けるに兩人とも三吉に金子を多く取《とら》れしかば勝手向《かつてむき》不如意《ふによい》になりしより今一度|大稼《おほかせ》ぎをなし是限《これかぎり》にせんと兩人申合せて又々|惡心《あくしん》を起《おこ》しけること是非なけれ [#8字下げ]第六回[#「第六回」は中見出し]  偖又|其頃《そのころ》兩換町に島屋《しまや》治兵衞とて兩替屋ありけるが肥前屋《ひぜんや》小兵衞は此家へ度々《たび/\》兩換の事にて行店の者にも心安《こゝろやす》く成て篤《とく》と樣子を窺ふに概略勝手も分《わか》りしかば是ぞ好《よか》らんと思ひ仁左衞門へ島屋の事を語《かた》りければ夫こそ屈竟《くつきやう》の事なりとて兩人|相談《さうだん》の上《うへ》同く十七年十月二十八日の夜|雨《あめ》は車軸を流し四邊《あたり》は眞闇《まつくら》なれば是ぞ幸ひなりと兩人は黒裝束《くろしやうぞく》に目ばかり頭巾《づきん》にて島屋の店へ忍び入|金箱《かねばこ》に手を掛出さんとする機《をり》番頭太藏は眼《め》を覺まし大音に盜人々々《どろばう/\》と聲を立るゆゑ仁左衞門小猿は逃出《にげいで》んとする所に大勢|追來《おひきた》りしかば止《やむ》を得ず三人程|切拂《きりはら》ひて其場を逃去《にげさり》金はまんまと奪ひ取|仕合《しあはせ》よしと兩人五百兩宛|配分《はいぶん》して悦び別れけり然ば彼《かの》兩替屋にては翌朝|早速《さつそく》町奉行所へ訴へ出ければ大岡殿島屋の手代《てだい》を呼出《よびいだ》され一通り尋ねらるゝに若《わか》い者左吉重次郎千次郎の三人|手負《ておひ》の趣き又盜まれし千兩は一昨日|蓮池《はすいけ》御藏より受取候金子にて殘らず私し方の極印《ごくいん》を打置候と見本の金を差出せし故大岡殿夫より江戸中兩換屋は申に及ばず諸商人《しよあきんど》共迄一同に此段《このだん》觸示《ふれしめ》されけり扨《さて》又肥前屋小兵衞は盜《ぬす》みし金の五百兩を配分《はいぶん》して大に歡びしが是ぞ天罰《てんばつ》の歸する處にして右の町觸《まちぶれ》の出し日は留守にて心得ず越後屋に反物《たんもの》の借《かり》百三十兩あるを跡の爲《ため》なれば先是を拂《はら》はんと思ひ越後屋へ右の小判《こばん》を持參し拂ひけるに越後屋にては甚だ心中《しんちう》不審《ふしん》に思ひけれ共|是迄《これまで》間違もなき肥前屋小兵衞|事故《ことゆゑ》渠《かれ》へ申も如何なりと此段《このだん》を奉行所へ訴《うつた》へければ早速右の百三十兩を取上られて改めの上兩替町の島屋治兵衞を呼出され此金《このかね》を見よと渡さるゝに治兵衞は改め見て此金に相違《さうゐ》御座なく候と申立しかば直樣《すぐさま》本町二丁目の肥前屋小兵衞へ捕方を差向《さしむけ》らるゝに捕方の面々肥前屋へ行向《ゆきむか》ひ上意と[#「上意と」は底本では「申上意と」]聲を懸ける故家内の者共大に驚きけるを小兵衞今は是迄《これまで》なりと思ひ一尺八寸の刀を引拔《ひきぬき》捕手の者へと打懸るに左右《さいう》より立寄し二人|飛違《とびちが》ひ十手を以て請流しける中一人の同心|後《うしろ》へ廻りて白刄《しらは》を打落し右の手を捻上《ねぢあげ》終《つひ》に召捕て奉行所へ引立《ひきたて》ければ大岡殿小兵衞を見られ其方事去る十月二十八日夜兩替町島屋治兵衞方へ忍《しの》び入《いり》三人に手を負《おは》せ金子千兩を盜《ぬす》み取《とり》しならんと尋ねられけるに小兵衞は最早《もはや》遁《のが》れぬ所なり何日迄陳じ居て拷門《がうもん》に[#「拷門に」はママ]懸《かゝ》らんよりは速かに白状《はくじやう》し罪に歸《き》せんと覺悟をなして其夜の事共《ことども》一々白状に及びたり扨《さて》又《また》本郷の甲州屋仁左衞門は本町の肥前屋小兵衞が召捕《めしとら》れし事を聞ける故|南無三《なむさん》と思ひしが熟々《つく/″\》工夫《くふう》をなすに所詮我此所を遁《のが》れたり共|天罰《てんばつ》爭《いかで》か免《まぬ》かるべきと屹度《きつと》覺悟を極め我思ふ仔細《しさい》ありとて妻へ離縁状を渡し又番頭其外店の者一同へ金を與へて暇《いとま》を出《いだ》し夫より南町奉行大岡殿の役宅《やくたく》へ訴《うつた》へ出私し儀は元雲切仁左衞門と申|是々《これ/\》の惡事ありと白状《はくじやう》に及びたり依て大岡殿|渠《かれ》が勇氣を深く感ぜられ汝《なんぢ》惡人ながらも英雄《えいゆう》なり能こそ自身《じしん》に名乘出しと申されて其日は入牢《じゆらう》と相成けり其後《そののち》仁左衞門小猿の兩人を呼出《よびいだ》され其方共江戸へ出でざるうちは何方に罷《まか》り在《あり》しぞと尋られし處仁左衞門私し儀は甲州に住居《ぢうきよ》仕り候と申立ければ大岡殿|然《しか》らば汝等享保十一年[#「享保十一年」はママ]十二月廿七日|似《にせ》役人と相成て原澤村の百姓文藏夫婦を召捕《めしとり》て金を盜《ぬす》み取候に相違《さうゐ》は有まじと申されければ小猿は顏色《がんしよく》變《かはり》て俯向居たるに仁左衞門は莞爾《につこ》と笑ひ何樣世の人|賢奉行《けんぶぎやう》と稱《たゝ》へ進《まゐら》する程有て御明察の通り私共儀享保十一年[#「享保十一年」はママ]十月萬澤の御|關所《せきしよ》手前《てまへ》に休《やすみ》居候處に原澤村の大盡夫婦にて廻道《まはりみち》せしを付込|似《にせ》役人と相成三吉小猿を目明《めあかし》となし私儀は御役人の體《てい》にて夫婦を召捕《めしとり》金子三十七兩を出させ其場を見遁《みのがし》申候其後十二月|初旬《はじめ》手下《てした》の者を原澤村の名主方迄|遣《つかはし》樣子《やうす》を探置《さぐりおき》同月廿七日又候似役人と相成名主方へ罷越案内致され彼大盡《かのだいじん》夫婦を召捕家内は申すに及ばず土藏へ封印《ふういん》を附置《つけおき》有金千百八十兩|盜取《ぬすみとり》申候此時盜取し金を資本《もとで》に致し銘々《めい/\》家業に有付以後は盜賊《たうぞく》を相止《あひやめ》申可と三人申合せ小猿三吉の兩人へ三百兩宛私は五百兩|分取《わけとり》候て夫より御當地へ出《いで》小猿は呉服店私しは穀物見世《こくもつみせ》を出し候處彼三吉儀は三百兩の金子を遣《つか》ひ捨《すて》候ては私し共兩人を尋ね來り無心《むしん》を申事度々に及び甚だ難澁《なんじふ》仕つるにより小猿と申合せ餘儀《よぎ》なく御殿山の花見と申し三吉を欺《だま》して連行《つれゆき》高輪にて切殺し死骸は海へ打捨申候然れども天罰《てんばつ》にて三吉に兩人とも身代《しんだい》を荒され借金多く相成候に付今一度|盜賊《たうぞく》を致し身代を直《なほ》し商賣を致し候はんと存じ小猿と申合せ十月二十八日の夜《よ》兩替町《りやうがへちやう》島屋《しまや》治兵衞方へ忍び入金千兩盜み取り五百兩宛|配分《はいぶん》仕つり是を盜《ぬす》みをさめと存じ候處其金は目印《めじるし》の極印《ごくいん》ありしとは夢にも存じ申さず小兵衞が遣《つか》ひ候より事|顯《あらは》れ斯の仕合《しあはせ》に相成候段是ぞ天罰《てんばつ》にて恐れ入奉り候と少しも未練《みれん》なく一々白状に及びける故大岡殿|神妙《しんめう》なりと申され又小兵衞に向はれ只今仁左衞門が申に相違なきやと尋ねらるゝに小兵衞も是非《ぜひ》なしと覺悟《かくご》をなし聊《いさゝ》かも相違之なき旨申立しかば口書《こうしよ》爪印《つめいん》申付られ仁左衞門小猿の兩人は鈴が森にて獄門《ごくもん》の刑に行はれたり扨《さて》又《また》原澤村の百姓文藏夫婦を呼出《よびいだ》され其の方共身延山へ參詣の途中《とちう》關所を通るのは如何《いかゞ》と存じ廻り道を致し候と申せども此儀甚だ不審《ふしん》千萬なり此萬澤村には昔より惡狐《あくこ》ありて是を萬澤|狐《ぎつね》といふよしを我《われ》聞居たり然れば其方共萬澤の關所|破《やぶ》りにては是なく全《まつた》く萬澤狐に誑《たば》かされ萬澤の裏道を彷徨《さまよひ》しならん依て其虚に乘じ汝等《なんぢら》盜賊《たうどく》[#ルビの「たうどく」はママ]に金子三十七兩|奪《うば》はれしに相違なからん然すれば何ぞ關所破りといふにあらんや然れば汝等に罪なきにより御|構《かま》ひなしと申し渡されしかば文藏夫婦は言《い》ふも更なり名主組頭を始め附添《つきそひ》の村役人共一|統《とう》夢かとばかり打喜《うちよろこ》び大岡殿の仁心《じんしん》を感じけるとなり 雲切仁左衞門一件[#1段階小さな文字]終[#小さな文字終わり] [#改丁] [#ページの左右中央] 津の國屋お菊一件[#「津の國屋お菊一件」は大見出し] [#改丁] [#1段階大きな文字]津《つ》の國《くに》屋《や》お菊《きく》一件《いつけん》[#大きな文字終わり] [#8字下げ]第一回[#「第一回」は中見出し]  鐘《かね》一ツ賣《うれ》ぬ日はなし江戸の春とは幕府《ばくふ》の盛世《さかん》なる大都會の樣を纔《わづか》十七文字に綴《つゞ》りたる古人の秀逸にして其町々の繁昌は詞《ことば》を盡し難く別《わけ》て神田は土地柄《とちがら》とて人の心も廣小路《ひろこうぢ》横筋違いの僻みなき直《すぐ》なる橋の名の如く實《げ》に昌平《しやうへい》の御代なれや甍《いらか》双《なら》べし軒續き客足絶ぬ店先《みせさき》は津國屋松右衞門とて小間物を商ひ相應《さうおう》の活計《くらし》をなし妻お八重との中《なか》に二人の子を儲《まう》け長男を松吉と呼《よ》び既に嫁をも娶り妹をお粂と名付《なづけ》是も淺草田原町なる花房屋彌吉方へ縁付《えんづけ》樣子《やうす》も好とて夫婦|倶々《とも/″\》安心なし最早悴松吉に世を讓り氣樂《きらく》隱居《いんきよ》をせんものと思ひ居たりし折《をり》から不※[#「圖」の「回」に代えて「面から一、二画目をとったもの」、679-7]|目違《めちがひ》の品を買込《かひこみ》みす/\損毛をなせしが始にて二三度|打續《うちつゞ》き商ひの手違《てちが》ひより松右衞門は心を痛《いた》め遂《つひ》に病氣となりてたうとう床に着きければ家内の心配|大方《おほかた》ならず醫者よ藥《くすり》と種々《しゆ/″\》に手を盡し看護《みとり》に怠り無りしかども松右衞門は定業《ぢやうごふ》にや四十二歳を一期となし果敢《はか》なく此世を去《さり》にける不仕合せも續《つゞ》けば續くものにて惣領《そうりやう》の松吉も風邪《かぜ》の心地とて打臥しが是も程なく冥土《よみぢ》の客となりしかば跡に殘りし母と嫁《よめ》の悲歎云うばかりなく涙に暮果《くれはて》暗夜《あんや》に燈火《ともしび》を失ひたる如く只|茫然《ばうぜん》として居たりけり然ば段々と打ち續きたる冗費《ものいり》に今は家藏《いへくら》も云に及ばず假令家財雜具迄も賣拂《うりはら》へばとて勿々《なか/\》借金《しやくきん》の方に引足ず母子倶々種々に心を碎《くだ》けども女の身と云殊に大金《たいきん》の事なれば如何とも詮方《せんかた》なく何分是は淺草なる娘の方へ相談なすに如《しく》ことなしとて早々娘を呼寄《よびよせ》て相談しけるに此お粂は元來《もとより》生質《うまれだて》善《よか》らぬ者なれば唯手前勝手の事のみ言て一|向《かう》世話《せわ》もなさゞれば母は大いに立腹《りつぷく》なし親の難儀《なんぎ》を見返《みかへ》らぬとは鳥獸に劣《おと》りし奴《やつ》親でもなし子でもなし見下果たる人非人《にんぴにん》と切齒《はがみ》をなせども又外に爲《す》べき樣も有ざれば家財雜具《かざいざふぐ》[#ルビの「かざいざふぐ」は底本では「かざいだうぐ」]を人手に渡し其身は嫁と諸共《もろとも》に淺草諏訪町にて裏店を借請《かりうけ》注《すゝぎ》洗濯《せんたく》賃仕事《ちんしごと》をなし細き煙を立《たて》けるが嫁のお菊は老實《まめ/\》しく立働き孝養《かうやう》怠《おこた》り無りしかば母のお八重も大に喜こび睦《むつま》しくこそ暮《くら》しけれ此お菊は未だ二十《はたち》を一ツ二ツ越《こえ》し歳《とし》なれば後家を立さするも愍然《ふびん》ゆゑ聟養子を取か然なくば外に縁付《えんづけ》なば一生の身の治《をさま》りにも成べしと姑《しうとめ》は勿論懇意の者共迄も色々《いろ/\》勸むると雖もお菊は一向|承引《うけがは》ず母樣始め皆樣の仰を背《そむ》くには有ねども今更|聟《むこ》を迎へなば亡夫《なきをつと》に言譯なく夫とても母樣《はゝさま》の御心休めに成事ならば更々《さら/\》厭《いと》ひは致さね共《ども》今聟を取《とる》時《とき》は其人に氣兼ありて母樣への孝行も自然《しぜん》怠《おこた》る道理なれば少しも望みに候はず又|外々《ほか/\》へ縁付《えんづく》などとは思ひも寄《よら》ぬ事何卒此事ばかりは御免《おゆる》しをと一向|承引《うけひく》氣色《けしき》もなければ姑女《しうとめ》始め人々も其孝貞を深く感じ再度勸むる言葉もなく其意に任《まか》せて打過けり斯て光陰《つきひ》の經《たつ》程に姑女お八重は是まで種々《さま/″\》辛苦《しんく》せし疲《つか》れにや持病の癪《しやく》に打臥《うちふし》漸次《しだい》に病氣差重りしにぞお菊は大いに心を痛め種々|療養《れうやう》に手を盡し神佛《かみほとけ》へも祈りしかど其|驗《しるし》も甞《かつ》てなく後には半身《はんしん》叶はず腰も立ねば三度の食《しよく》さへ人手を借《かり》るほどなれどもお菊は少しも怠らず晝は終日《ひねもす》賃仕事《ちんしごと》或ひは注《すゝ》ぎ洗濯《せんたく》をなし夜は終夜《よもすがら》糸繰《いとくり》などして藥の代《しろ》より口に適ふ物等を調《とゝの》へ二年餘りの其間を只一日の如く看病《かんびやう》に手を盡せども全快の樣子《やうす》は見えず彼是する中に享保四年も早十二月の中旬《なかば》と成しに長々《なが/\》の病人にて入費《ものいり》等も多く勿々《なか/\》女の手一ツにては三度の食事《しよくじ》さへ成難く諸方の借方《かりかた》は段々と言延したれ共|最早《もはや》此暮には切《せめ》て半金づつ成共拂はねば濟ず然《され》ばとて外に詮術《せんすべ》もなく相談相手になる筈の人は田原町へ縁付し娘お粂《くめ》なれ共母が長々の病氣の中も漸々《やう/\》一度|見舞《みまひ》に來りしばかりにて其節も心配の樣子もなく劇場《しばゐ》の咄などしてそは/\と戻りし限《きり》其後は見舞の使《つかひ》だに差越《さしこさ》ず如何に不人情成ばとて實母《じつぼ》の病氣を案じぬとは人非人とも無義道《むぎだう》とも譬《たと》へがたき者なりと心の内には思へ共|色《いろ》にも出さず只一|心《しん》に稼《かせ》ぎけれど燒石《やけいし》へ水の譬《たとへ》の如くなれば左《と》やせん右《かく》やと獨《ひと》り心を苦しめしが若《もし》此事母樣の御|耳《みゝ》に入ては猶々病氣の障りと包む程|猶《なほ》心苦しく思案に昏《くれ》て居る中に早十二月も廿五日と迫《せま》りしかば今四五日の間に金子|調達《てうだつ》なさゞれば一夜明るより母樣に藥も進《まゐ》らせられず然《さり》とて何程|考《かんが》へても降《ふつ》て來る金も有まじ寧《いつそ》田原町へ到《いた》り是程迄に難儀の譯を打明《うちあけ》て頼みなば假令《たとへ》日常《ふだん》は左《と》も右《かく》も切《きる》に切れぬ親子の中|豈夫《よもや》餘事《よそごと》とは見過ごすまじ是も母への孝行なれば出來ぬ迄も一|應《おう》相談致すべしと心を決し母の機嫌を窺《うかゞ》ふに折節《をりふし》母は氣分《きぶん》宜げにすや/\と寢入たる樣子《やうす》なれば是|幸《さいは》ひと悦びつゝ諏訪町より田原町迄|遠《とほ》き道にも有ねば日《ひ》は暮たれども宵《よひ》の間《ま》に一走りと行燈《あんどう》を點《とも》し煎《せん》じ上たる藥をば歸りて飮《のま》せる樣に爲《な》し置立出んとなせし時|如何《いかゞ》しけん風も無に今|燈《とも》したる行燈の灯《ひ》の不※[#「圖」の「回」に代えて「面から一、二画目をとったもの」、681-3]《ふと》消《きえ》ければ心|宜《よか》らぬ事とは思ひながらも又元の如く灯を燈《とも》し門の戸を堅《かた》く閉《しめ》て立出たり折柄|師走《しはす》の末なれば寒風《かんぷう》肌《はだへ》を貫《つらぬ》く如きを追々の難儀に衣類は殘ず賣拂《うりはら》ひ今は垢染《あかじみ》たる袷に前垂帶《まへだれおび》をしめたるばかり勿々《なか/\》夜風は凌《しの》ぎ難きを耐忍《たへしの》びて田原町に到りけるに見世には客有りて混雜《こんざつ》の樣子なれば裏へ廻りて勝手口より密《ひそか》に差覗《さしのぞ》くに今日は餅搗《もちつき》と見えて備《そなへ》を取もあれば熨斗《のし》を延もあり或は鱠《なます》を打者も在て大勢の手傳ひ臺所《だいどころ》に居並《ゐなら》び大取込の樣子を見てお菊は太息を吐《つき》嗚呼《あゝ》昔《むかし》神田に居る時は我が家が斯《かく》賑《にぎは》しかりしが世が世なればとて僅《わづか》の間に此樣に零落《おちぶれ》るも前世よりの約束事成べし夫に付ても此の家に縁付《えんづき》しお粂殿是程の身代《しんだい》に在|乍《ながら》一人の母さまの貧苦《ひんく》を餘所《よそ》に見るとは何云心の人なるぞ殊には自分の身勝手《みがつて》のみ云散《いひちら》すは鬼か蛇《じや》か思へば/\情《なさけ》なやと愚痴の出るも道理なり偖裏口より入んと思ふに灯《あかり》は萬燈《まんどう》の如く大勢なる他人の居る中へ斯《かく》窶然《みすぼらし》き姿にて這入《はひら》ん事此家の手前も有ば如何《いかゞ》せんと少間《しばし》彳《たゝず》み居たりしに傍《かたへ》に寢て居し一疋の犬|怪《あや》しく思ひてや齒を剥出し吠付《ほえつく》にぞお菊は驚き思はずも裏口の障子を引明《ひきあけ》駈込《かけこま》んと爲《する》に臺所に居たる男共|見咎《みとが》め誰だ/\と言ながら立出|窶然《みすぼらし》き姿を見て乞食《こつじき》とや思ひけんコリヤ今頃に來たとて餘り物もなし貰ひ度ば翌日《あす》早く來《こ》よと云れてお菊は忽然《たちまち》胸《むね》塞《ふさが》り口惜|涙《なみだ》に哽《むせ》びながらも好序と思へば涙を隱し成程|斯樣《かやう》な見苦敷|姿《なり》をして參りし故|乞食《こじき》との御見違へサラ/\御無理ならねども私し事は津國屋の嫁《よめ》菊と申者にて此御|家《いへ》の御新造樣に少し御噺申度事有て參りたれば此|由《よし》御|通《つう》じ下さるべしと云に彼の男はじろ/\と顏を見ながら奧へ入しが頓《やが》て立出|折角《せつかく》の御出なれども今日は折惡《をりあし》く餅搗にて客も大勢あり一方成ぬ取込故御目に掛りて御|噺《はなし》も成難く御|氣《き》の毒《どく》ながら御用もあらば明日にも御出あるべしと云にぞお菊は餘りの仕方《しかた》と腹は立共色にも見せず重《かさ》ねて男に向ひ今宵は御取込にて御話も成ずと有て推《おし》て申も如何《いかゞ》なれども御母樣の御身の上に就《つき》急《きふ》に御話申さねば成ぬ事故|鳥渡《ちよつと》なりとも御目に掛り度《たく》存じますれば御|邪魔《じやま》ながら最一|應《おう》御取次下されよと頼みけるに彼男は點頭《うなづき》て奧へ入しのみ待ども/\何の返事《へんじ》もなく彼是する中《うち》早《はや》淺草寺の初夜を報《つぐ》る鐘耳元に響き渡り寒風《かんぷう》肌膚《はだへ》を刺《さす》が如く一|入《しほ》待遠《まちどほ》く思ふに就我家の事を氣遣《きづか》ひ若《もし》母樣が御目を覺され此身の居らぬを尋ねはし給はぬか然共|折角《せつかく》是迄來りしを話も爲《なさ》ずに歸らん事餘りに殘惜《のこりをし》と猶も返事を待程に漸々《やう/\》にして十六七の下女立出|此方《こなた》へ御通りなされと言にぞお菊は悦び後《あと》に就《つい》て通るに勝手の脇《わき》なる一間へ誘《いざな》ひ今に御新造樣お逢なるべしと云|置《おき》立去《たちさり》しが茶一ツ出さず小半時ばかり立て漸々《やう/\》此家の女房お粂立出て偖々《さて/\》珍《めづら》しや適《たま》の御出に折惡《をりあし》く取込にて大に御待せ申せしと言ばお菊は莞爾《につこ》と笑ひ否々《いへ/\》私しこそ御|忙《いそが》しき中へ參り御|暇《ひま》をお缺《かゝ》せ申し御氣の毒なりと互に挨拶|終《をは》りてお菊は膝を進め早速ながら今宵|態々《わざ/\》參りしこと餘の儀にあらず御前樣にも豫て御存じの通り母樣の永《なが》の御病氣|假初《かりそめ》ながらも三年越なれば入費《ものいり》多きゆゑ私しの手一ツにては勿々|引足《ひきたら》ず御醫者樣の御禮も此春より未だ少しも致さねば此春には切《せめ》て金子の一兩も上《あげ》ねば來春からは母樣へ御藥も上《あげ》られぬ譯《わけ》殊《こと》に米《こめ》薪《まき》其外とも追々拂ひが滯ほり其|催促《さいそく》をされる度一時|延《のば》しに致し居れども最早《もはや》此暮には是非半金も遣《やら》ねばならず夫故|種々《いろ/\》心配致せど何分私しの稼《かせぎ》では其日々々を暮す迄にも引足《ひきたら》ず其中にも私しは三度の物を一度|喫《たべ》る樣に致て少《すこし》にても母樣の御口に適物を調へて進《あげ》んと思へども夫さへ心の儘ならず然《され》ども鰻《うなぎ》を進《あげ》たらお力も付ふかと存|夜業《よなべ》に糸を繰《くり》し代にて鰻を買《かひ》に行かんとせしが能々《よく/\》思へばお夜食《やしよく》のお米も無《なけ》れば詮方なく進度《あげたき》鰻も買うこと成ず是程|切《せつ》なき譯なれば御相談は爰の處お前樣もお良人《つれあひ》のお手前もあらんが唯今申通りの譯なれば御氣の毒なれ共《ども》何卒金子三兩夫共|御都合《ごつがふ》惡《わる》くば二兩にても宜《よろし》く母樣の御病氣の御全快迄御貸下さる樣御願ひ申上ますと拜《をが》みつ泣つ頼み入《いり》此金子の出來し事を母樣へ早く御|知《しら》せ申せば何程か御|喜悦《よろこび》ならん何分にも此場を御|救助《すくひ》下されと詞を盡して頼みけるをお粂は碌々《ろく/\》耳にも入ず適々《たま/\》の御無心と云殊には母のことなれば何樣《どのやう》にも都合して上度《あげたき》は山々なれども當暮《たうくれ》は未だ掛先《かけさき》より少も拂ひが集まらず其外《そのほか》不都合だらけにて頓《とん》と金子は手廻り兼ればお氣の毒ながら御|斷《ことわ》り申ます勿々《なか/\》私し風情《ふぜい》の身にて人の合力《がふりよく》など致す程の器量《きりやう》はなし外々《ほか/\》にて御都合成れよと取付端もなき返《へん》答にお菊は餘りの事と呆《あき》れ果《はて》少間《しばし》言葉も無りしが然《さり》とて外々へ相談|爲《なす》べき當も無ければ口惜さを堪《こら》へ成程|當暮《たうくれ》は御不都合との事なれば是非もなき次第なり斯樣申さば御聞取りによりて御腹も立れんが憚《はゞか》りながら此御|身代《しんだい》にて僅《わづか》二兩か三兩の金子なれば御都合《ごつがふ》の成ぬ事も有まじ又御前樣の爲にも掛替《かけがへ》なき一人の母樣が御|命《いのち》にも係《かゝは》る大事の時故今一應|御思案《ごしあん》成《なさ》れ何卒此場を御|救助《すくひ》下さるべし然すれば何程か御孝行にも相成べし此場さへ凌《しの》げば後《あと》の處は私しの命に代ても母樣に御不自由はさせ申まじ何分にも茲の處を御願ひ申と涙を流して頼みけれども女房お粂は鼻《はな》で會釋《あしらひ》那《あれ》も孝行是も孝行と其|度《たび》毎《ごと》に金を貸ては私どもの腮《あご》が干上《ひあが》る元々神田に居られし時は不自由もなき身代《しんだい》成しを母樣始めお前方の仕樣の惡さに今の困窮然ば御自分の不始末《ふしまつ》から不自由|成《なさる》る事なれば私共《わたしども》の知《しる》事ではなし今私が構立《かまひだて》をして倶に貧乏《びんばふ》する時は夫《をつと》に對して何と云譯が成べきぞ然はなく共お粂の里《さと》は貧窮《ひんきう》なりと云るゝ度の肩身《かたみ》の狹《せま》さ恥しさ御氣に障《さは》るかは知ね共私し共は寢衣《ねまき》にも着られぬ樣な衣物《きもの》を着《き》然《さ》も窶然《みすぼらし》き姿にてお前に致せ母にせよ私しの家へ來られては内外の手前も面目なし此以後共に格別《かくべつ》の御用もなきに御出は御無用と厭《あく》まで惡口《あくこう》を吐散《はきちら》し恥《はぢ》しむるを先刻よりお菊は無念|堪《こら》へしが思はずワツと泣出しお前はな/\強欲《がうよく》非道《ひだう》の大惡人今|眼前《がんぜん》母樣の御命に迄|係《かゝは》る難儀《なんぎ》其《それ》を見返らぬのみならず罪科《つみとが》もなき母樣を然《さう》惡樣《あしさま》に云なすとは何云《どういふ》貴妹《おまへ》のお心やらシテ又今のお答《こたへ》では假令《たとへ》此後母樣が死給《しにたま》ふ共|構《かま》はぬとか私の爲には義理ある姑女《しうとめ》貴妹《おまへ》の爲には實の母樣假令何でも人間の皮《かは》を被《かぶ》りし者ならば其《そん》な非道は云れぬ筈《はず》貴妹の樣な恩知ずの人には此上頼みもすまじ此末共に親類とは思はぬなりと腹|立《たち》紛《まぎ》れ思ふが儘《まゝ》に云|散《ちら》し挨拶《あいさつ》もなく立歸るをお粂は顏を膨《ふく》らしてアヽ其樣な貧乏神《びんばふがみ》は門《かど》へ寄せるも不吉《ふきち》なり早く退出せ追出せと呟《つぶや》きながらそこ/\に奧の方へぞ入にける [#8字下げ]第二回[#「第二回」は中見出し]  斯《かく》て津國屋の老母お八重は偶然《ふと》目を覺《さま》し四邊《あたり》を見るに嫁《よめ》お菊の見えざれば如何せしやと延上《のびあが》りて見廻せども勝手にも居ざる樣子《やうす》ゆゑ獨《ひとり》倩々《つく/″\》思ふ樣我長々の病氣にて腰《こし》も立ず身體自由ならぬ大病を斯る貧窮《ひんきう》の其中にお菊が手一ツにて今日と凌《しの》ぎ翌日《あす》と暮せど追々《おひ/\》重《かさ》なる借金に切なき事も多からんに孝行深き嫁《よめ》なれば苦敷《くるしき》顏も見せねども最早《もはや》節季《せつき》に押し移れば嘸《さぞ》かし苦勞を爲《す》る成ん此事病氣の中にも案事《あんじ》られ少しなりとも手助けと思へど叶はぬ病の身我さへなくば何方へなりとも縁付《えんづい》て此苦勞はさせまじきものを可哀《かあい》や我故|身形《みなり》も構《かま》はず此寒空《このさむそら》に袷《あはせ》一ツ寒き樣子は見せねども此頃は苦勞の故か面痩《おもやせ》も見えて一入《ひとしほ》不便に思ふなり今宵は何方《いづかた》へ行しにや最早|初更《しよや》近きに戻《もど》り來《こ》ねば晝は身|形《なり》の窶然《みすぼらし》く金の才覺《さいかく》にも出|歩行《あるか》れぬ故夜に入て才覺に出行しか女の夜道は不用心《ぶようじん》若《もし》惡者《わるもの》に出會《であ》はぬか提灯《ちやうちん》は持ち行しか是と云も皆我が身の在《ある》故なり生甲斐《いきがひ》もなき身を存命《ながらへ》孝行の嫁《よめ》に苦勞をさせんよりは寧《いつそ》死《し》ぬるぞ増《まし》ならん今宵の留守を幸ひに首を縊《くゝつ》て死なんものと四邊《あたり》を探《さぐ》り廻りけるに不※[#「圖」の「回」に代えて「面から一、二画目をとったもの」、684-9]《ふと》細帶《ほそおび》の手に障《さは》れば是幸ひと手繰寄《たぐりよせ》枕元《まくらもと》なる柱の根へ夜着《よぎ》布團《ふとん》を積重《つみかさ》ね其上へ稍《やつ》と這上《はひあが》り件《くだん》の紐《ひも》の兩端《りやうはし》を柱の上へ縛付《しばりつけ》首に卷つゝ南無阿彌陀佛の聲《こゑ》諸倶《もろとも》夜着の上より轉《まろ》び落れば其|途端《はずみ》に首|縊《くゝ》れ終にぞ息は絶《た》えたりける却《かへつ》て説《とく》お菊は田原町にて金の相談せしに金を貸《かさ》ぬのみか種々《さま/″\》の惡口|雜言《ざふごん》を云れ腹立紛《はらたちまぎ》れに罵《のゝし》り散し愛想盡《あいそづか》して立出しが外に便るべき先|無《なけ》れば如何はせんと思案《しあん》しながら歸る道にて俄《にはか》に胸騷《むなさわ》ぎ爲《する》ゆゑ不※[#「圖」の「回」に代えて「面から一、二画目をとったもの」、684-12]《ふと》心付是迄遂に夜に入て家を明ける事なきに今日は鳥渡《ちよつと》宵の間にと思ひしが存じの外に手間取しゆゑ母樣は目を覺《さま》されしならん然《さ》すれば我が歸りの遲《おそ》きを案じ持病《ぢびやう》にても起《おこ》しは爲給《したま》はぬかと思へば暫時《しばし》も猶豫《いうよ》ならずと足を早めて我が家に歸《かへ》り來て見るに是は如何に老母は首を縊《くゝ》りて死居《しにゐ》るにぞお菊は驚き周章《あわて》て縋《すが》り付涙とともに呼叫《よびさけ》べど最早|疾《とく》に事切て手足も氷のごとく蘇生《よみがへる》べきの樣もなければお菊の愁傷《しうしやう》一方ならずワツとばかりに泣沈《なきしづ》む聲を聞付|隣家《りんか》の人々何事やらんと追々《おひ/\》駈着《かけつけ》此體を見て大いに駭《おどろ》き憂《うれ》ひに沈みしお菊を助け起し且《かつ》恤《いたは》り且慰め相談なし此由早速|公儀《こうぎ》へ訴へ出べきや又内分に濟《すま》すべきか何にも致せ娘のことなれば田原町へ此由申遣し其上にて何れとも計ふべしとて直樣一人の男田原町へ駈行《かけゆき》老母が變死《へんし》の樣子を知らせければ早速娘夫婦は來りて死骸《しがい》を檢《あらた》めし後お粂はお菊に向ひ母樣が變死の樣子《やうす》仔細ぞ有ん如何《いかゞ》なりと問ばお菊は涙を押拭《おしぬぐ》ひ私し留守《るす》の中に此如く成行《なりゆき》給ひしと答へしをお粂《くめ》は冷笑《あざわら》ひ否《いや》然樣《さやう》にては有まじ病氣に疲《つか》れし母樣ゆゑ勿々《なか/\》自身にて首を縊《くゝ》り給ふ程の氣力《きりよく》は無《なき》筈《はず》なり察《さつ》する處長々の病氣に看病《かんびやう》も夏蠅《うるさし》と思ひお前が縊《くび》り殺したる成べしと思ひ掛《がけ》なき難題《なんだい》を言懸《いひかけ》られお菊は口惜《くやし》きこと限りなく屹度《きつと》膝《ひざ》を立直し是は思ひも依ぬ事を仰《おほ》せらるゝもの哉《かな》云掛《いひかゝり》されるも程がある勿體《もつたい》ない母樣を何故に殺すべき長々《なが/\》の御病氣なれば我が命《いのち》に代《かへ》てでも御|全快《ぜんくわい》あるやうにと神に祈り佛を念じ永の年月及ぶだけ看病《みとり》に心を盡せし事は私が口から申さずとも御長家中の人々も能御存じなり夫程辛苦なしながら何しに手に懸《かけ》殺《ころ》しませう然《しか》るに他の事と違《ちが》ひ斯《かく》難題を云懸《いひかけ》られては私しの一分立難し何を證據に私しの所業《しわざ》なりと云るゝとや血眼《ちまなこ》になりて言けるにぞお粂《くめ》の良人《ていしゆ》は押止《おしとゞ》め今此處にて爭ひしとて詮《せん》方なき事なり我等も了簡《れうけん》あれば出る處へ出て屹度《きつと》糺《たゞ》すべしと言置《いひおき》家主相長屋の者へも我等|所存《しよぞん》あれば今晩の始末|委細《ゐさい》に御奉行へ訴へ出る間|上《かみ》より御|沙汰《さた》ある迄はお菊を屹度お預け申すなりと言《い》ひ捨《す》て夫婦|連立《つれだち》田原町へ歸《かへ》り即刻《そくこく》老母變死の始末より此儀は嫁《よめ》菊と申者の仕業《しわざ》と推察《すゐさつ》仕つり候間御吟味願ひ上奉つるとの趣きを訴訟に認《したゝ》め月番の町奉行大岡越前守御役所へ訴へ出たりけり是により諏訪《すは》町の家主長屋の者どもも内分《ないぶん》に濟《すま》せることもならねば一同相談を爲すにお菊が常々《つね/″\》の孝心|勿々《なか/\》母を殺すやうなる事は有間敷《あるまじ》けれ共|皮想《うへ》から見えぬが人心なれば若や田原町なる夫婦の者の言如く成んも計《はかり》難し先お菊に屹度《きつと》したる番人を付置て此始末を早々訴へ申すべしとて月番の大岡越前守殿|御役宅《おやくたく》へ書付《かきつけ》を以て訴へにこそ及びけれ [#8字下げ]第三回[#「第三回」は中見出し]  斯《かく》て其|翌朝《よくてう》淺草諏訪町へ檢使《けんし》の役人出張相成老母の死骸《しがい》を篤《とく》と吟味ありてお菊を始め同長屋の者の口書《くちがき》を取お菊を腰繩《こしなは》にて引連《ひきつれ》られ即日《そくじつ》の吟味となり願人淺草田原町小間物商賣花房屋彌吉同人妻粂并に淺草諏訪町家主組合長屋の者殘らず召出され一同白洲へ呼込《よびごみ》になりしかば一番にお菊は腰繩にて引出され砂利《じやり》に蹲《うづく》まる時越前守殿|出座《しゆつざ》あつて願人花房屋彌吉同人妻粂と呼れ其方共願ひ出たる通り菊事|姑女《しうとめ》を締殺《しめころ》したるに相違なきやと申さるれば彌吉は愼《つゝし》んで首《かうべ》を上仰の通り老母儀長々の病氣なる故此者|看病《かんびやう》致さん事を五月蠅《うるさく》存じ人知れず締殺し候に相違之なく然るを自殺の樣に申立候共|長病《ちやうびやう》に疲《つか》れ候者自身に首は縊《くゝ》る程の氣力あるべき樣も御座なく是第一の不審《ふしん》にて候私し妻事は昨夜|書付《かきつけ》にも認《したゝ》め上候通り右老母が實の娘に御座候へば何分にも御|吟味《ぎんみ》願ひ奉つり候と申立けるを越前守殿聞れてお菊に向はれ如何に菊其方は何故に姑《しうとめ》を締殺したるや眞直《まつすぐ》に申立よとありけるにお菊はしとやかに申樣|恐《おそれ》ながら申上奉つり候私事|姑女《しうとめ》を締殺し候覺え毛頭《もうとう》御座なく元私し事は賤《いやし》き者の娘にて津國屋が未《まだ》神田に住居《ぢうきよ》致せし節同人店に居候中兩親も死に果《はて》候ひしを不便に思ひ私しを引取嫁に致《いたし》呉《くれ》候大恩は勿々《なか/\》私し一生の中に報じられ間敷《まじく》と存じ心の及ぶだけは孝行を盡《つく》し度心得に候處|運《うん》惡《あ》しく舅《しうと》を暫時《しばし》の中に失ひ其上借財多く出來|止《やむ》ことを得ず家財殘らず分散《ぶんさん》いたし姑《しうとめ》と兩人にて淺草諏訪町に裏店《うらだな》を借受賃仕事或は洗濯など致し纔《わづか》に露命を繋《つな》ぎ居候中又もや姑の三年越の長煩《ながわづら》ひに入費《ものいり》も莫大《ばくだい》にて困窮に困窮を重候へ共茲ぞ恩の報じ際《どき》と存じ夜の目も眠ず賃苧《ちんを》をうみて看病|怠《おこ》たりなく致せし事は家主始同長屋の者をお尋ありても相知申すべく候|斯《かく》難儀《なんぎ》の暮を致し居候に付|當暮《たうくれ》には藥代其外諸方の買掛り都合六七兩にも相成申候事ゆゑ此|節《せつ》半金《はんきん》も遣はさず候はねば來春よりは姑《しうとめ》に藥を飮せること成難く然りとて私しの働きにては夫だけの金子|勿々《なか/\》調《とゝの》ひ申さず途方に暮居り候然る處是に居る彌吉妻粂事は私し姑女《しうとめ》の實の娘に御座候へども私し方不仕合せに相成|姑女《しうとめ》が三|年《ねん》越《ごし》煩《わづら》ひ居候ところ其中|漸々《やう/\》一度見舞に參りしのみにて其後使一度さし越候事御座なく候因て此度の難儀《なんぎ》の次第申候とも相談は致しくれ間敷《まじく》とは存ぜしなれども現在《げんざい》母《はゝ》の命《いのち》にも係り候事故何とか又話も出來申すべきやと存じ昨夜|宵《よひ》の内|姑女《しうとめ》事快よく眠り居しに付此間に參りて相談致すべしと田原町へ到り右の譯《わけ》を委細に話し金子三兩|若《もし》成《なら》ずば二兩にても宜しく貸|呉《く》れる樣然うなき時は母に藥も飮されずと頼みし所|取付《とりつく》端《は》もなき返答の上大いに私しを恥《はづか》しめ候然れども外に頼むべき方も御座なく候故|口惜《くちをし》さを堪《こら》へ猶種々頼み入候へども一向|取合《とりあひ》も致さず候まゝ是非なく立歸りし所如何なる仔細《しさい》か姑事首を縊《くゝ》り居候ゆゑ打驚き種々|介抱《かいはう》いたし呼生《よびいかし》しかども其甲斐なく候故途方に暮居し處此物音を聞付て相長屋の人々集り來り實《じつ》親子《おやこ》の事なればとて早速《さつそく》田原町へ右の樣子を申遣せし處彌吉|粂《くめ》同道にて參り死骸を檢《あらた》め見《み》私《わたく》しの仕業《しわざ》成と申かけ其由訴へ出し事にて何を證據に然樣の儀を申立候|哉《や》假令《たとへ》私し命を召れ候とも姑《しうとめ》を締殺《しめころ》せし覺え毫程《つゆほど》も御座なく候何卒私しの心底《しんてい》御察し下され度願上候と仔細《しさい》包《つゝま》ず思ひ込で申立ければ越前守殿|點頭《うなづか》れ諏訪町の家主其外長屋の者に向はれ只今《たゞいま》菊が申立し通りなるかと尋ねらるゝに家主《いへぬし》始《はじ》め皆々恐る/\進み出只今菊が申上候通り常々|渠《かれ》が孝行なることは長屋一統感心致し居候然るを姑《しうとめ》を締《しめ》殺候者|渠《かれ》なりと彌吉夫婦の者より願出候|段《だん》私ども一|統《とう》心得難く存じ候と申立れば越前守殿は彌吉夫婦を見られ昨夜菊事其方が家へ金子|無心《むしん》に參りし哉と尋《たづね》らるゝにお粂は夫《をつと》の答へを待ず仰《おほせ》の通り昨夜私し方へ金子用立|呉《くれ》候樣申參り候へども當暮は種々《いろ/\》物入《ものいり》も多く其上懸先より未《いまだ》少《すこ》しも拂ひを請取らず夫《をつと》彌吉も心配《しんぱい》致居候中ゆゑ假令私し身内の者なりとも金子《きんす》を貸くれと申すも餘り心なきことと存じ斷《ことわ》り申候と云ひける時越前守殿其方は母の病中《びやうちう》に一度見舞に參りしと菊が申立しが夫に相違なきやと訊尋《たづね》られければお粂は少し詞《ことば》の淀《よど》みしが私し方甚だ無人《ぶにん》にて私し店に居申さず候ては用向差支へ候ゆゑ漸々《やう/\》一度見舞に參り候と申立るに越前守殿夫は何時頃《いつごろ》の事なりと云るればお粂は指を折《をり》暫時《しばし》考《かんが》へ居しが去年の四月|頃《ごろ》と覺え候と申立る此時越前守殿は彌吉に向はれ彌吉其方は一度も見舞《みまひ》に參らざりしやと尋ねらるれば彌吉は大に赤面《せきめん》なし私し事は日々出入場の用向|繁多《はんた》にて存じながら不沙汰致し粂を名代に遣せしのみと申立けるに越前|殿《との》然《さら》ば菊が姑女《しうと》を締殺せしと申事《まをすこと》は何ぞ證據にてもある哉と糺問《たづね》られしに彌吉夫婦は言葉を揃《そろへ》外に證據とては御座なく候へども三年|越《ごし》煩《わづら》ひ居候者が自身に首を縊《くゝ》る程の氣力は御座なく候はん其上菊事私し方にて金子|調達《てうたつ》致さず候を遺恨《ゐこん》に存じて母を締殺《しめころ》し候事と存じられ候へば能々《よく/\》菊を御吟味下され度願上奉つると申立るを越前守殿打聞れ扨々《さて/\》汝等は理も非も知らざる誠《まこと》に無法者なる哉汝只今何と申せしぞ去年の四月只一度|見舞《みまひ》しのみと申したるにはあらずや然れば母の容體《ようだい》今頃は氣力衰へたるか増たるかは知らざる成べし然るを長病《ちやうびやう》故《ゆゑ》氣力《きりよく》衰《おとろ》へ自身に首を縊《くゝ》ることは成ずなどと當推量《あてすゐりやう》を申立夫のみ成ず金子を貸ぬと夫《それ》を遺恨に存じ姑《しうとめ》を殺せしなどと申せども然《さ》樣の儀が證據に相成べきか萬一|夫《それ》が爲菊が殺したるにもせよ母の命《いのち》に係《かゝは》ると申たるに金を貸ぬは汝等《なんぢら》が心得違ひより母を殺す譯に相當り汝が手にて殺せしも同然《どうぜん》なり我人を遣はして死骸を能々|檢査《あらため》させしに其の死せし體自身に首を締《しめ》たるに相違なし其上家主惣長家の者一同の申處皆菊を譽《ほめ》ざるはなし今菊が申す處は皆理の當然《たうぜん》にして汝等が申條は甚だ不都合なり現在《げんざい》母の三年越に煩《わづら》ふを假令何程商賣が閙敷《せはしく》とて一度見舞し外《ほか》使《つかひ》にても容體を問《とは》ざるとは餘りと申せば不孝の至りと云べし彌吉は聟《むこ》なるが粂は實の娘なり然れば母親《はゝおや》の困窮と言ひ病氣と聞ば菊より借用致し度由申入ずとも汝等《なんぢら》が身代《しんだい》を半|分分《ぶんわけ》にしてなりと救助《すくふ》べきが至當なり其《それ》を僅《わづか》二三兩の金をも貸ず只今に至り證據もなき事を公儀《かみ》へ申立候|段《だん》不屆者めと白眼《にらま》れしかば彌吉夫婦は戰慄《ふるへ》出し恐れ入て居たりける [#8字下げ]第四回[#「第四回」は中見出し]  其時越前守殿|重《かさ》ねて彌吉夫婦に向はれ汝等|未《いまだ》菊を疑ふ樣子ある故|具《つぶさ》に申聞すべし我菊が姑《しうとめ》の死骸を檢査《あらため》さする序《ついで》に家探《やさが》しを致させしに夜具衣類迄姑女の着たるは格別《かくべつ》垢染《あかじみ》も爲ず綿なども澤山に入てあり又菊が分は唯《たゞ》今夫に着て居る外は何一ツなきが然《され》ども破れたる骨柳《こり》一ツあり其中に反古《ほご》を裏返《うらかへ》して綴《とぢ》たる帳面一册あり披《ひら》き見るに姑《しうとめ》が日々の容體大小便の度數迄|委敷《くはしく》記載《しるし》てありしとて即《すなは》ち是へ差出せり仍《よつ》て披き見るに其の深切に認め有事此一條を以ても菊が姑を殺《ころ》さゞる事分明なり斯ても菊が仕業《しわざ》なりと疑ふ哉《や》と申されしかば彌吉も粂も恐れ入て今更《いまさら》面目なく聊かも疑念《ぎねん》是なき段申立たり依て越前守殿お菊が腰繩《こしなは》を宥《ゆる》し解せられ諏訪町の家主|長屋《ながや》の者に向はれ汝等《なんぢら》も聞通り老母を殺せし事菊が仕業《しわざ》に非ず自害に相違なし去ながら何故に斯る成行《なりゆき》に成しやらん汝等思ひ當《あた》ることはなきかと尋問《たづね》らるゝに家主其外は言葉を揃《そろ》へ何故と申儀|確《しか》と存じ候はねども常々《つね/″\》老母《らうぼ》が我々に申候には嫁が孝行《かうかう》に致して呉《くれ》るは嬉《うれ》しけれども生甲斐なき我が身が居るゆゑ孝行なる嫁に苦勞《くらう》を掛《かけ》老先《おいさき》の有者を此儘に朽《くち》さするは憫然《あはれ》なり是を思へば早く死ぬるが増ならん抔《など》申により皆々《みな/\》寄《よつ》ては諫《いさ》め候ひしが若や是までの言葉の通り嫁に苦勞を爲ん事を厭《いと》ひ自ら縊れ死したるにもや候はんと申立ければ越前守殿は我も然樣思ふなり然る上は老母の死骸《しがい》は其儘菊に下さるべし又今迄身|貧《ひん》なる處姑女に事《つか》へ孝行を盡《つく》せし段|上《かみ》にも定めて御|滿足《まんぞく》に思召ならん依て御|褒美《はうび》として銀五枚取せ遣《つかは》すと申渡され諏訪町家主組合長屋の者一同に下られ又彌吉粂事は現在《げんざい》母姑女の續き合に在ながら其身の吝《しはき》より困窮《こんきう》難儀《なんぎ》の場所も見返らず剩《あまつ》さへ老母自害致し候|證據《しようこ》をも見出さずお菊が仕業なりと申立|公儀《かみ》へ御苦勞を懸し段麁忽不義の致し方に付重き御|咎《とが》めにも申付べきの處格別の御|憐愍《れんみん》を以て重過料《おもくくわれう》申付ると有て此事は先《まづ》双方《さうはう》落着《らくちやく》に及びけるが誠《まこと》に越前守殿ならずば斯手早く黒白も判るまじと人々申合りしとぞ昔時《むかし》唐土《もろこし》漢《かん》の代に是と能《よく》似たることあり趙氏《てうし》の妻《つま》若き時夫を亡《うしな》ひ未《いまだ》子《こ》も無りしが其後|夫《をつと》を持ず姑に事《つか》へて孝行を盡くしけるに元より其|家《いへ》貧《まづし》ければ麻《あさ》をうみ機《はた》を織て朝夕|姑女《しうとめ》を養ふ事|夫《をつと》の世に在し時よりも厚《あつ》かりしかば姑女の思ひけるは嫁《よめ》は未《いまだ》年若くして鰥《やもめ》となり一人の子供もなきに久敷《ひさしく》我に事へて孝行成は嬉けれども斯《かく》て年寄ば頼む方もなくならんこそ最惜《いとをし》けれ孝行なる嫁の志操《こゝろざし》を我故に何時《いつ》迄か苦しめて世に存命《ながらへ》んよりはとて密《ひそか》に首を縊《くゝり》て死したりしに此姑に一人の娘ありて我が母を嫁の締殺《しめころ》したるならんと思ひ時の鎭臺《ちんだい》へ訴へ出けるに鎭臺|不詮議《ふせんぎ》にて孝行なる嫁を罪に行ひけるに天其不政を憎《にく》み給ひしが其處三年の間|雨《あめ》降《ふる》事なく飢饉《ききん》成しにより其後鎭臺を代られたり後の鎭臺此事を怪《あやし》みて或博士《あるはかせ》に占《うらな》はするに日外《いつぞや》罪《つみ》無《なく》して殺されたる嫁の祟《たゝ》り成んと云ければ鎭臺には大に駭かれ塚《つか》を建《たて》て是を祀《まつ》り訴へたる娘を罪に行ひ前《さき》の鎭臺の官を剥《はが》れしかば天も漸々《やう/\》受納《じゆなふ》有てや是より雨《あめ》降《ふり》出して三日三晩|小止《こやみ》なく因て草木も緑《みどり》の色を生ぜしとかや趙氏が妻とお菊が孝心は和漢一|對《つゐ》の美談《びだん》と謂《いつ》つべし 津の國屋お菊一件[#1段階小さな文字]終[#小さな文字終わり] [#改丁] [#ページの左右中央] 水呑村九助一件[#「水呑村九助一件」は大見出し] [#改丁] [#1段階大きな文字]水呑村九助《みづのみむらきうすけ》一件《いつけん》[#大きな文字終わり] [#8字下げ]第一回[#「第一回」は中見出し]  夫《それ》聖代《せいだい》には麟鳳《りんほう》來儀《らいぎ》し仁君《じんくん》の代には賢臣《けんしん》聚《あつま》ると理《うべ》なるかな我が朝《てう》徳川《とくがは》八代將軍|有徳院殿《いうとくゐんでん》の御代に八賢士あり土屋相摸守《つちやさがみのかみ》松平右近將監《まつだひらうこんしやうげん》加納遠江守《かなふとほたふみのかみ》小笠原若狹守《をがさはらわかさのかみ》水野山城守《みづのやましろのかみ》堀田相摸守《ほつたさがみのかみ》大岡越前守《おほをかゑちぜんのかみ》神尾若狹守《かんをわかさのかみ》是なり然るに其有徳院殿の御代|享保《きやうほ》二年大岡越前守町|奉行《ぶぎやう》と成始めて工夫の捌《さば》きあり其原因を尋るに本多長門守|領分《りやうぶん》遠州|榛原《はいばら》郡水呑村千五百石の村名主《むらなぬし》九郎右衞門が實の弟に九郎兵衞と云者|有《あり》平生《へいぜい》より心《こゝろ》正《たゞ》しからず其が菩提《ぼだい》所に眞言宗《しんごんしう》大石山不動院と云寺|有《あり》此住寺も又大の道樂《だうらく》者にて同氣相求るの諺《ことわざ》に泄《もれ》ず九郎兵衞と平生《つね》に親しくなしけるが九郎兵衞は豫て袋井宿《ふくろゐじゆく》三笠屋《みかさや》甚《じん》右衞門が抱《かゝ》へ遊女お芳を買|馴染《なじみ》互《たが》ひに惡からず思ひ居たりしうち或時不|動院《どうゐん》と馴合《なれあひ》彼のお芳を盜み出し寺へ匿《かくま》ひ置しが其後|彌生《やよひ》の節句《せつく》となりて庭にてお芳に田樂を燒《やか》せ法印始九郎兵衞其外土地の破落戸《ならずもの》五六人集り酒を呑《のみ》皿小鉢《さらこばち》を叩《たゝ》き或は唄《うた》ひ或は踊《をど》りなどして樂みけり却説《さても》袋井の甚右衞門は此程《このほど》お芳の逃亡《かけおち》なせしは的《てつ》きり九郎兵衞の所業ならん然すれば不動院などに匿れ居るも知れずと流石《さすが》は商賣柄《しやうばいがら》だけ敏《はや》くも勘《かん》を付村の探訪《めあかし》薩摩傳助《さつまでんすけ》赤貝《あかがひ》六藏の二人を連《つれ》咽《のど》の乾《かわ》[#ルビの「かわ」は底本では「かげ」]きし體にて此寺へ這入り水を乞《こひ》て飮《のま》んとし乍《なが》ら樣子を窺《うかゞ》ひ居たるにお芳は味噌《みそ》が足《たら》ぬとて臺所へ來り老僕《おとな》に味噌を出させるを甚右衞門は見付け己《おのれ》はお芳にあらずやと言ひざま引捕《ひきとら》へ直に召し連《つれ》訴《うつた》へんと言ふを不動院が聞付て中へ立入りしかば然ば御|坊《ばう》に御|任《まか》せ申すとて夫より懸合《かけあひ》の上金三十五兩今宵中に才覺《さいかく》して渡すべしと約束《やくそく》を極め甚右衞門外兩人の者も其の夜は寺に泊《とま》りける此日は三月節句の事なれば村方《むらかた》所々《じよ/\》にて宵の中は田舍唄《ゐなかうた》又は三味線など彈《ひき》て賑ひ名主九郎右衞門方へも組頭《くみがしら》佐治右衞門|周藏《しうざう》忠内《ちうない》七左衞門等|入來《いりきた》り座頭に儀太夫を語せ樂みながら酒宴《しゆえん》をなし夜九ツ時《どき》過《すぐ》る頃佐治右衞門忠内の兩人は暇乞《いとまごひ》して歸り家内も寢靜《ねしづ》まりて夜も八ツ時と思しき頃《ころ》勝手《かつて》の方より一人の盜賊《たうぞく》忍《しの》び入り年|貢《ぐ》の取集め金五六十兩|用箱《ようばこ》に有けるを盜み出さんとする處《ところ》に主人《あるじ》九郎右衞門は目を覺《さま》しヤレ泥坊《どろばう》と聲を立しかば盜賊は吃驚《びつくり》なし用箪笥《ようだんす》を抱《かゝ》へて逃出《にげいで》んとするを九郎右衞門|飛懸《とびかゝ》り遁《のが》さじものをと押へるを盜人《ぬすびと》振《ふ》り拂《はら》ひ突退《つきのけ》つゝ互に組付|英々《えい/\》と揉《もみ》合聲に驚き家内の者ども馳來《はせきた》り棒《ぼう》よ繩《なは》よと呼《よば》はり/\漸々《やう/\》高手《たかて》小手《こて》に縛《いまし》めたり然ども面體は眞黒《まつくろ》に墨《すみ》を塗《ぬり》たるゆゑ何者とも見分らず此|騷《さわ》ぎを聞し周藏《しうざう》七左衞門の兩人も馳來り勝手より手燭《てしよく》を取寄る此時村の小使《あるき》三五郎は臺所《だいどころ》に寢《ね》て居たりしが物音《ものおと》に驚き金盥《かなだらひ》を叩立《たゝきたて》しかば一村二百軒の百姓|夫《そり》やこそ名主殿へ盜賊が這入《はひつ》たぞ駈付《かけつけ》て打殺《うちころ》せと銘々《めい/\》得物々々《えもの/\》を携《たづさ》へて其處へ來りヤア盜人は面を墨《すみ》にて塗《ぬり》たるぞ洗《あら》ひて見よと聲々《こゑ/″\》に罵《のゝし》り盜人の面を水にて洗ひ落せば這は如何に弟九郎兵衞なりしかば座中《ざちう》の人々|惘《あき》れ果《はて》て皆《みな》脱々《ぬけ/\》に歸りける組頭《くみがしら》の兩人は據《よんど》ころなく跡に殘《のこ》りて兄九郎右衞門は相良《さがら》へ突出《つきだ》すと云うを種々《しゆ/″\》と取扱ひ漸々《やう/\》涙金《なみだきん》として金五兩|遣《つかは》し勘當《かんだう》とこそなりにけれ是に因て袋井の者三人はお芳を引立《ひきたて》連《つれ》歸る然ば九郎兵衞は仕損《しそん》ぜしを忌々《いま/\》しく思ひ仁田村の八と云ふ獵人《かりうど》の宅《たく》へ引越《ひつこし》居《ゐ》る處へ手先の幸《かう》八と云ふ者此事を嗅付《かぎつ》け郡代役所《ぐんだいやくしよ》へ引行入牢させけるを兄《あに》九郎右衞門聞|込《こみ》流石《さすが》憫然《あはれ》に思ひ内々《ない/\》取繕《とりつくろ》ひをなしけるに因つて領分構《りやうぶんかま》ひとなり九郎兵衞は夫より駿河國|府中《ふちう》に知る人|在《ある》により遙々《はる/″\》と尋ね行き此處に三ヶ月程居たれども兎角《とかく》人請惡く彌々《いよ/\》落付《おちつき》難きに付|煮染《にしめ》たる樣な單衣《ひとへもの》を着《き》縫止《ぬひとめ》のはせ返りし菅笠《すげがさ》と錢は僅《わづか》百廿四文ばかりの身上にて不※[#「圖」の「回」に代えて「面から一、二画目をとったもの」、694-13]《ふと》立出《たちいで》江戸へ行んとせしが又甲斐國へ赴かんと籠坂峠《かごさかたうげ》まで到りしが頃は六月の大暑|故《ゆゑ》榎《えのき》の蔭《かげ》に立寄《たちより》清水《しみづ》を掬《むす》びて顏の汗《あせ》を流し足を洗ひ嗽《うがひ》などして暑《あつさ》を凌《しの》ぎ休《やす》らひ居たり此處は景色もよく後ろは須走《すはし》り前は山中《やまなか》の湖水と打眺《うちなが》め居る彼方の坂《さか》より行衣《ぎやうい》に襷《たすき》を懸《かけ》て金剛杖《こんがうづゑ》を突ながら鈴《すゞ》の音《ね》と倶《とも》に來る富士同者あり渠《かれ》も此處に休み水を呑《のみ》足を投出し居るに九郎兵衞是を見て嗚呼|御前《おまへ》は羨《うらや》ましい私《わし》は今此|湖水《こすゐ》に身を投やうか此帶で首を縊《くゝ》らうかと思ひ居たりと云ふを富士同者イヤ若衆《わかいしゆ》夫は大きな了簡違《れうけんちが》ひ誰しも若《わか》い時は一日に[#「一日に」は底本では「一時に」]迫詰《せりつめ》て然樣《さう》[#「然樣《さう》」は底本では「然《さう》樣」]云《いふ》氣にもなる者一體此方の國は何處で名は何とゝ聞かれ九郎兵衞は口から出任せ我が家には金《きん》の茶釜《ちやがま》も有《ある》樣《やう》に大層《たいそう》を云一萬兩程|遣《つか》ひ込《こみ》親父《おやぢ》から勘當《かんだう》を請たりと話すを同者|實《まこと》と思ひ私は相摸領《さがみりやう》[#ルビの「さがみりやう」は底本では「さがみみやう」]御殿場の者にて小前《こまへ》の百姓條七と云者だが上田《じやうでん》が六石三斗中田が七枚半山が七ツ有《あれ》ば親子《おやこ》三人|暮《ぐらし》故《ゆゑ》十日や廿日は麥飯《むぎめし》さへ承知《しようち》なれば貴殿《あなた》一人位は苦にはせぬ其中に何|商《あきな》[#ルビの「あきな」は底本では「あなき」]ひでもするか但しは又《また》奉公《ほうこう》にでも出るかよも死ぬには増《まし》で有うから己《おれ》が在所《ざいしよ》へ御座れと深切《しんせつ》に云ければ九郎兵衞夫は千萬|忝《かたじ》けなしと追從たら/\連立《つれたち》つゝ御殿場へ來りて條七方の同居《どうきよ》となり半年《はんねん》ばかりも厄介《やくかい》に成し中條七は馬を一|匹《ぴき》飼《かひ》て追《おは》せける故九郎兵衞も今は行處なければ條七の弟分になつて三年程|稼《かせ》ぐ中|茲《こゝ》に條七女房お鐵《てつ》と云ふは三歳になる娘《むすめ》お里もありながら何時しか九郎兵衞と怪敷《あやしき》中と成しにぞ或日九郎兵衞と云合せ土地《ところ》の鎭守《ちんじゆ》白旗《しらはた》明神《みやうじん》の森《もり》にて白鳥《はくてう》を一羽取是を料理《れうり》して鴈《がん》と僞《いつは》り食せけるに不思議や條七は五十日|經《たつ》か經《たゝ》ぬに髮《かみ》も脱《ぬけ》癩病《らいびやう》の如く顏色《がんしよく》も變り人|交際《つきあひ》も出來ぬやうに成ければお鐵《てつ》は仕濟したりと打|悦《よろこ》び條七に打|向《むか》ひお前は入聟《いりむこ》の身斯る業病《ごふびやう》になりては先祖《せんぞ》へ濟《すま》ず早く實家へ歸り呉《くれ》よと最《いと》つれなくも言ければ條七も詮方《せんかた》なく前世《ぜんせ》の業と斷念《あきらめ》るより外なしと女房娘を九郎兵衞に頼み跡《あと》の事まで念頃《ねんごろ》に話しける九郎兵衞故意と斷り云しか共女房の親類《しんるゐ》共打寄|否《いや》癩病《らいびやう》にては村へ置れぬ定法《ぢやうはふ》なれば是非共跡を引受《ひきうけ》られよと折入て頼《たのみ》しにより九郎兵衞は漸々《やう/\》承知《しようち》して入夫となり六石三斗の田地《でんち》を質入《しちいれ》なし金十兩|借請《かりうけ》條七に渡《わたし》ければ條七は是非なく金毘羅參《こんぴらまいり》と云箱を首《くび》に懸《かけ》數年|住馴《すみなれ》し故郷《こきやう》を後《あと》に立出《たちいで》けり然ば九郎兵衞は是より百姓になり消光處《くらすところ》に良《よか》らぬ事のみ多ければ村方にても持餘《もてあま》し何《いづれ》も呆《あき》れ果ては居けれども九郎兵衞は狡猾《わるかしこ》き者故|勿々《なか/\》越度《をちど》を見せず惡事《あくじ》の腰押《こしおし》或ひは賭博《かけごと》の宿《やど》などして食客《ゐさふらふ》の五六人は絶《たえ》す追々|田畑《たはた》も賣拂《うりはら》ひ水呑同樣の困窮《こんきう》となり凡十四五年居る中|女房《にようばう》も死亡《みまかり》今では娘と只《たゞ》兩人差向ひてに漸々其の日を送《おく》りけり茲に又|遠州《ゑんしう》水|呑村《のみむら》名主《なぬし》九郎右衞門は五ヶ年以前|病死《びやうし》なし名主|跡役《あとやく》は當村の惣左衞門と云者に申付られしかば悴《せがれ》九助は當年廿歳に成共《なれども》今は昔《むかし》に引替《ひきかへ》て困窮《こんきう》なし借金も多かりしゆゑ母は氣病が終《つひ》に大病となり今は此世の頼《たのみ》も少く或日|枕邊《まくらべ》近く九助を呼寄《よびよせ》父樣《とゝさま》死なれし以來種々不幸が打續《うちつゞき》斯《かく》貧窮《ひんきう》となりしこと如何にも殘念なれば其方|何卒《なにとぞ》辛抱《しんばう》して田畑《でんぱた》も元の如くに取|戻《もど》し河口九郎右衞門が名跡《みやうせき》を建呉よ又|弟《おとゝ》九郎兵衞は當時|駿河國《するがのくに》御殿場に居る由今は心も直りしならんと思へば其方の爲には現在《げんざい》の伯父《をぢ》なる故一度は公父《てゝご》の戒名《かいみやう》を屆け呉よと涙と供《とも》に九助が手を取り顏を倩々《つく/″\》と打|眺《なが》め息《いき》も絶々《たえ/″\》に遺言《ゆゐごん》なすにぞ九助は迫來《せきくる》涙を呑込々々《のみこみ/\》何とて然樣に心|弱《よわ》き事を云るゝや何卒氣を勵《はげ》まし少しも早く全快《ぜんくわい》爲《なし》給へとて種々に勞《いたは》りけれども終《つひ》に介抱の驗《しるし》もなく母は正徳元年七月二十一日病死し菩提所《ぼだいしよ》不動院《ふどうゐん》に葬《はうむ》り月堂《げつだう》貞飾《ていしよく》信女《しんによ》と云戒名に哀《あはれ》を止めけり村方にては九助の孝心を感じ親類《しんるゐ》始め皆々|打寄《うちより》厚《あつ》く世話をなし後|懇切《ねんごろ》にぞ弔ひける夫より後九助は獨身《どくしん》となり艱難《かんなん》に暮《くら》しける中にも亡父母《ばうふぼ》の遺言《ゆゐごん》片時も忘れず朝夕の回向《ゑかう》怠《おこた》りなく勤《つと》め一人工風を爲《なし》居《ゐ》たり然るに此時江戸へ出訴《しゆつそ》の事|組頭《くみがしら》出府致すべき處|種々《いろ/\》取込《とりこみ》のことあるにより飛脚《ひきやく》を村方より立ると云を九助は聞込何卒|私《わたく》しを飛脚に遣《やつ》て下されと云ければ皆々《みな/\》承知《しようち》して申付しゆゑ幸ひ御殿場へ立寄《たちより》伯父《をぢ》九郎兵衞にも逢度《あひたく》思ひ支度《したく》をなし家内の事を能々《よく/\》頼み股引脚半草鞋にて御用と云|繪府《ゑふ》を首に掛沼津|宿《しゆく》より足高山の裾通《すそどほ》りを行ける後から旦那々々馬を取つせへ安價く乘せへ戻《もどり》だから酒代《さかて》だと云を聞付け九助は若《もし》馬士殿是から御殿場へは何位《どのくらゐ》あらふ日一ぱいに行れ樣かアヽ御殿場迄は四里半だから少し暮《くれ》ますべい御殿場より外《ほか》に泊《とま》る樣な村も無から御殿場迄行つせい私は御殿場へ戻《もど》る馬だ三百文に負《まけ》るから四里半|乘《のら》つせへと云ふ九助も獨《ひと》り旅では有是非御殿場へと思へば幸ひと相談《さうだん》を極《きは》め馬に乘て馬士と話し行處に向ふより横に乘たる田舍《ゐなか》馬六七|疋《ひき》鼻《はな》を揃へて來るを件《くだん》の馬士|見付《みつけ》て是御用だ繪符だ/\若い衆《しう》オイ/\と云ふに面々《めん/\》ばた/\と飛下《とびおり》る故九助は是サ馬士殿|下《おろさ》ず共|宜《いゝ》に憫然《かあひさう》な何さ惣體《そうたい》に根方の奴等《やつら》はずるいから時々《とき/″\》目《め》に合せて置ねへと成やせん時に旦那|急《いそぎ》なら箱根を御|越《こし》成《なさ》れさうなものだに矢倉澤通《やぐらざはとほり》は何か御用でも御座りますか今宵は御殿場一番の富士屋へ御泊申ませう何程《なんぼ》田舍《ゐなか》でも御泊り成れて御覽じませ海道にも餘り御座《ござり》やせんと云に九助はノウ馬士殿私は尋《たづね》る人が有が此方に聞たら知れやうか誰《たれ》で御座ります然れば元は御殿場の者ではない最早《もはや》十五六年|以前《いぜん》に來て今では村の人に成たとの咄《はな》しイヤ御殿場も上下《かみしも》掛《かけ》て二百軒餘有から名を聞ぬ中は知れやせん成程然樣で有う元は遠州《ゑんしう》の者在所に居る時は九郎兵衞と云たが今は何と云かと云顏を件《くだん》の馬士は熟々《つく/″\》見て手綱《たづな》を止め然いふ此方は遠州|相良《さがら》水呑村《みづのみむら》から來なされたか如何にも我は水呑村の百姓なりハヽア胡瓜《うり》の種は盜とも人種は盜まれぬとハテ見れば見る程|違《ちがひ》ない十六年|以前《いぜん》別《わかれ》た兄九郎右衞門が悴《せがれ》の九助ぢやなお前は伯父《をぢ》の九郎兵衞樣かと互《たがひ》に吃驚《びつくり》馬より轉《まろ》び落手《おちて》に手を取|交《かは》し悦《よろこ》び涙《なみだ》に咽《むせび》けり姑《しばら》くして馬士《まご》云樣話は宅《うち》で出來るから日の暮《くれ》ぬ中|馬《うま》に騎《のら》つせへ否《いや》伯父《をぢ》樣と知ては勿體《もつたい》ない馬鹿《ばか》を云へ御殿場迄《ごてんばまで》の旦那殿《だんなどの》と讓合《ゆづりあ》う中何時か我家の表《おもて》へ來りしが日は西山へ入て薄暗《うすくら》ければ外より是お里|遠州《ゑんしう》の兄が來たと云にお里は應《あい》と云出る此家の構《かま》へ昔は然るべき百姓とも云るれど今は壁《かべ》落《おち》骨《ほね》顯《あらは》れ茅《かや》の軒端《のきば》の傾《かたむ》きて柱《はしら》に緘《から》む蔦葛《つたかづら》糸瓜《へちま》の花の亂《みだ》れ咲《ざ》き住荒《すみあら》したる賤《しづ》が家に娘のお里は十七歳|縹致《きりやう》は人に勝《すぐ》れしかど容體《なりふり》もなく缺茶碗《かけぢやわん》に[#「缺茶碗に」は底本では「缺花碗に」]澁茶《しぶちや》を酌《くん》で差出す盆《ぼん》も手薄《てうす》な貧家《ひんか》の容體《ありさま》其の内に九助は草鞋《わらぢ》の紐《ひも》を解《とき》足《あし》を洗ひて上に上《あが》り先お里へも夫々《それ/″\》の挨拶《あいさつ》して久々《ひさ/″\》の積《つも》る話しをなす中に頓《やが》てお里が給仕《きふじ》にて麥飯《むぎめし》を食終《くひをは》りし後九助は金二兩|土産《みやげ》に出し九郎右衞門が遺言《ゆゐごん》并びに伯父《をぢ》樣の分米《ぶんまい》の田地《でんぢ》十二石手を付ずに今以て村|預《あづ》けに成て居ますと話すを九郎兵衞は聞て大いに悦び我等儀《われらぎ》段々《だん/\》の不仕合《ふしあは》せ故今は古郷《こきやう》忘れ難く何か此上は娘お里を手前の女房になし親の名跡《みやうせき》を立て呉と潸々《さめ/″\》と涙《なみだ》を落《おと》せしかば九助は母の遺言《ゆゐごん》もあり殊に亡後《なきのち》は伯父《をぢ》は親なりお前樣は村方の處を何なりと片付《かたづけ》て置れよ私しは江戸の用事|濟《すみ》次第|引返《ひきかへ》し古郷《こきやう》へ御同道《ごどうだう》致しませうと一|宿《しゆく》して申合せ翌朝《よくてう》江戸へ赴きける九郎兵衞は跡にて村役人|始《はじ》め親類へも委細《ゐさい》話せば皆々は厄病神《やくびやうがみ》を拂《はら》ふ樣に心得居屋敷并に少の畑《はた》は親類へ引取九郎兵衞親子は九助が戻りを待居たり [#8字下げ]第二回[#「第二回」は中見出し]  偖も九助は江戸の用向|滯《とゞこ》ほりなく相辨《あひべん》じ歸り掛《がけ》に又々御|殿場《てんば》へ立寄《たちより》伯父九郎兵衞の親子を同道なし古郷《こきやう》水呑村へ立歸り夫より直に當時の名主《なぬし》惣左衞門方へ九郎兵衞同道にて參りければ惣左衞門は昔より九郎兵衞と相口《あひくち》故|早速《さつそく》領主《りやうしゆ》の役場《やくば》へ申立歸村の儀を取計ひ豫《かね》て預《あづか》りの田地十二石餘り九郎兵衞へ相渡し娘お里を九助が妻と致させて是より互《たがひ》に稼《かせ》ぎける然れども只今は親九郎右衞門が讓《ゆづ》りの田地は質《しち》に入てあるゆゑ伯父の田地のみにて萬事足ぬ勝なる上九郎兵衞も徐々《そろ/\》地金《ぢがね》を出し九助を意地《いぢ》め入聟《いりむこ》同樣に囂《やか》ましく朝夕《てうせき》云ける故九助も何卒|亡《なき》母が遺言《ゆゐごん》[#ルビの「ゆゐごん」は底本では「ゆるごん」]の如く田地を請け戻《もど》し度と豫《かね》て心|懸《がけ》居たることなれば江戸へ出て一|稼《かせ》ぎなさんと思ひ九郎兵衞とも種々相談なせし上女房お里にも得心《とくしん》させ夫より九助は支度をなし江戸表にて奉公すべしと暇乞《いとまごひ》して出立なし既《すで》に藤枝《ふぢえだ》より岡部《をかべ》を過て宇都谷|峠《たうげ》に到れば絶頂《ぜつちやう》の庵室《あんしつ》地藏尊《ぢざうそん》の境内《けいだい》に西行《さいぎやう》の袈裟掛《けさかけ》松あり其所の脇《わき》へ年の頃五十位と見ゆる旅|僧《そう》のやつれたるが十歳許りの女の子を引立來り彼の僧《そう》目《め》を剥出《むきだ》し是サ此子は怖《こは》い事はない此伯父と一所に歩行々々《あゆめ/\》と引摺《ひきずり》行を娘はアレ/\勘忍《かんにん》して下されませ母樣《かゝさま》が待て居ますと泣詫《なきわび》るを旅僧《たびそう》は扨々《さて/\》囂《やか》ましい強情者《がうじやうもの》めと無理無體《むりむたい》に引摺々々《ひきずり/\》行處へ九助は何|氣《げ》なく行掛《ゆきかゝ》りければ彼の娘は九助を見るより大いに悦び小杉《こすぎ》の伯父樣此|坊主《ばうず》が勾引《かどはかし》ますアレ/\伯父樣々々《をぢさま/\》と云れて九助は何ぢやと立止《たちとゞまる》を旅僧は是を見と等く是は堪《たまら》ぬと其儘後をも見ずに逃行《にげゆき》けり斯て彼の娘は九助に向ひ御前樣の御|蔭《かげ》にて助かりたり今の坊主は私しを無理無體《むりむたい》に引立て柴屋寺《しばやでら》の畑屋《はたや》から茲迄連て來ましたゆゑ勾引《かどはかし》と存じ小杉の伯父樣と申ましたので御座いますと云ひけるにぞ九助は扨々《さて/\》子供に似合《にあは》ぬ利發者《りはつもの》家は何處《どこ》ぞと尋ぬるに阿部川宿《あべがはじゆく》の兆《てう》といふ者の娘|節《せつ》と申者なりと申せば九助は憐然《あはれ》に思ひサア/\宅迄《うちまで》送つて遣《や》らんと手を引つゝ阿部川宿の宅《たく》へ到《いたり》見るに母は中氣《ちうき》にて手足|協《かなは》ず一人の娘を相手《あひて》に難儀《なんぎ》の樣子なり娘お節は母に向ひ右の次第を委細《くはしく》話せば母は大いに驚き且《かつ》悦《よろこ》び九助に逢て厚《あつ》く禮を述《のべ》今宵は此家に泊り給へと達《たつ》て止《とゞ》めけるゆゑ其夜は其處へ泊りしに娘お節は米《こめ》をとぎ味噌《みそ》を摺《す》り最《いと》忠實《まめ/\》しく働《はたら》く體《さま》如何にも孝子と見えけるゆゑ九助も不便《ふびん》に思ひ勝手元迄《かつてもとまで》手傳《てつだ》ひて少し乍《なが》ら母公《はゝご》に何ぞ進《まゐ》らせられよと錢一|貫文《くわんもん》を遣《やり》ければ母子は有難|涙《なみ》だを流し幾度となく伏拜《ふしをが》みたり扨も翌朝九助は懇切《ねんごろ》に暇乞《いとまごひ》して此屋を立出|道中《だうちう》を急ぎ日ならず江戸に着ければ知己《しるべ》の周旋《せわ》にて日本橋|室《むろ》町三丁目の番人に抱《かゝ》へられ勤《つとめ》けるが元來|正直《しやうぢき》の九助故町内の氣請《きうけ》能《よく》月に三貫文の外に草履《ざうり》草鞋《わらんぢ》其他荒物|飴《あめ》など賣ける中|駿河《するが》町越後屋三家の掃除《さうぢ》を引請しにより彼是月に二兩位に成りしとぞ或夜|廻《まはり》の節|霜月《しもつき》末《すゑ》の事にて寒氣|烈敷《はげしく》雪は霏々《ちら/\》と降出しゝ中を石町の鐘と倶《とも》に子刻《ねのこく》の拍子木を打乍ら小路々々《こうぢ/\》を廻らんと桐山《きりやま》三|甫《ほ》が見世の角迄《かどまで》來りし時足の爪先《つまさき》へ引掛る物ありしゆゑ何心なく取上見れば縮緬《ちりめん》の財布《さいふ》なりしかば町内を廻り仕舞《しまひ》取出し改《あらた》め見れば小判八十兩ありて外には書付《かきつけ》もなきゆゑ驚《おどろ》きながら早々《さう/\》町役人へ屆けしに行事《ぎやうじ》打寄相談の上|訴《うつた》へ出|猶《なほ》町内へも札を出し公儀にても御詮議《ごせんぎ》ありし處更に請取《うけと》る人の出ることもなく一年|程《ほど》經《へ》て後番人九助儀町役人共|差添《さしそへ》町奉行所へ罷《まかり》出べき旨|差紙《さしがみ》に付家主五人|組《ぐみ》名主同道にて罷《まかり》出けるは舊冬《きうたう》九助が拾《ひろ》ひし金八十兩|殘《のこ》らず下し置れしにより九助始め町役人一同有難く頂戴《ちやうだい》して歸り殊《こと》に九助は夢《ゆめ》かとばかり打悦《うちよろこ》び居たりし處其夜|子刻《ねのこく》頃廿四五の男|番屋《ばんや》をホト/\敲《たゝ》きて入來り御目に懸《かゝ》るは初《はじめ》てなれど私《わたく》し事|去年《きよねん》の冬金子を落《おと》したるは斯々《かく/\》なりと段々譯を咄し其節請取に罷出ませうとは存じたれども大金を粗末《そまつ》に致したる儀に聞えも惡《わる》く其の上世間へパツと露顯《ろけん》致しては奉公《ほうこう》も出來ぬ故彼是と心を痛《いた》めながら今日まで待合《まちあは》せて居ましたが今日|承《うけたま》はればお前樣へ公儀《おかみ》より下され候由に付右の御談《おはなし》を申上|度《たく》と云ふ其|譯《わけ》は私し一人の母《はゝ》を持ますが當年《たうねん》七十三歳其上|病氣《びやうき》にて久々|難儀《なんぎ》致し居り只今にも死《し》にますれば見送《みおく》り方も出來|兼《かね》ます故御前樣へ折角《せつかく》下されしを御|無心《むしん》申も如何なれど何卒《どうぞ》其金をと涙《なみだ》を流して申にぞ九助は元來《もとより》正直者《しやうぢきもの》故我が身の上に引當《ひきあて》て氣《き》の毒《どく》に思ひ直樣《すぐさま》八十兩の金を取出し扨々夫は御難儀《ごなんぎ》至極《しごく》殊《こと》に御老母の病氣|養生《やうじやう》の爲に落《おと》したる金を欲《ほし》いと云るゝ趣《おもむ》き御|道理《もつとも》千萬|併《しかし》此金は去冬《きよふゆ》夜廻りの節《せつ》我等拾ひ町内《ちやうない》より御訴へ申上置し所|落主《おとしぬし》無《な》きゆゑ今日我等へ下されしなれば親公《おやご》の爲と有ば進《しん》ぜ申べし町所家主名前は何と云るゝと聞《きけ》ば彼の者然ればなり町所名前などを申位なら去年|紛失《ふんじつ》の節訴へて戴《いたゞ》きますが私しは奉公の身の上なれば金は入らねど只《たゞ》老母《らうぼ》の病を治し度一心にて出ましたに名前を申さねば御渡し下されぬとなら是非《ぜひ》もなしと涙にむせぶ有樣如何にも實情《じつじやう》に見えければ九助は感じ扨々御前は孝心|厚《あつ》き御人故|殘《のこ》らず渡《わた》して進ぜませうと財布《さいふ》の儘《まゝ》渡せしにぞ彼の者大いに悦《よろこ》び全く御|蔭《かげ》にて老母の療治《れうぢ》も出來ますと押戴《おしいたゞ》き/\猶《なほ》遠《とほ》からず御禮《おれい》に上りますが少しも早く母へ見せ悦ばせ度存じますと叮嚀《ていねい》に禮を述てぞ歸りける依て九助は本意なく思へ共親孝行の爲とあれば更に惜《をし》共せず頓《やが》て門《かど》の締《しまり》をなさんと爲《する》に上り口の草鞋《わらぢ》草履《ざうり》などの中に何やら帛《ふくさ》に包《つゝみ》しものありて其|匂《にほ》ひ芬々《ふん/\》たり不審《いぶかり》ながら披《ひら》きて見れば金の五六寸四方の箱《はこ》の中に名香《めいかう》あり是は那《あ》の人が落して行しならん今に心付ば取に來るべしと思しが待てども參らざれば其の夜は寢《いね》翌朝九助|茶《ちや》を飮《のん》で居る處へ二丁目の番人作兵衞といふ者來り四方《よも》山の咄《はなし》の中此|匂《にほひ》を嗅《か》ぎ不審に思ひながら歸ると程なく定廻《ぢやうまは》りの同心《どうしん》來りて行事を呼寄《よびよせ》名香《めいかう》紛失《ふんじつ》につき内々の御|調《しら》べゆゑ藥屋《くすりや》共へ吟味致す樣申付るを聞《きゝ》番人作兵衞は勝手より這出《はいいで》旦那樣|不思議《ふしぎ》の事が御座ります三丁目の番の所にて云々と話せば同心は夫と九助を呼寄《よびよせ》て吟味《ぎんみ》なすに其の品は昨夜|草鞋《わらぢ》を買に來りし者が落して參りし故取置ましたと言にぞ早速《さつそく》取寄て見改めたるに内々御|詮議《せんぎ》の品に相違《さうゐ》なく因て送り状《じやう》を認《したゝ》め九助を町奉行所へ送りたり時に享保二年九月廿一日大岡越前守殿町奉行始めての白洲《しらす》なれば別て與力《よりき》同心《どうしん》の役々|威儀《ゐぎ》嚴重《げんぢう》に控へし所へ九助は怖々《おづ/\》罷出るに越前守殿之を見られ其方手元に之有し伽羅《きやら》一兩目餘入たる金の香箱《かうばこ》は細川越中守方より訴へに及びし紛失《ふんじつ》の品なり其方如何して所持《しよぢ》致せしや有|體《てい》に申せと云はれしかば九助は首《かうべ》を上私し小屋へ十九日の夜|子刻《こゝのつ》過|頃《ころ》草鞋を買《かひ》に參りし者が歸りし後に右の品が御座りしゆゑ其者が落せしことと思ひ取に戻《もど》らば遣《つかは》さんと存じて差置《さしおき》ましたと申立るに越前守殿否其方は町内の番人も致す身ゆゑ落し物と知らば町役人共へ話聞せ其の上にて町内へ札《ふだ》でも出すか又は公儀《こうぎ》へ訴ふべき筈《はず》なるを何故其儘に差置たるぞと有ば九助ヘイ恐《おそれ》ながら大方|直《すぐ》に取りに參《まゐ》り[#「參《まゐ》り」は底本では「參り《まゐ》」]ませうかと存《ぞんじ》まして其儘|姑《しばら》く差置ましたと云に越前守殿|否々《いや/\》其方は町役人の下を致《いたし》ながら申分が暗《くら》いぞ大方金でも取て人から預《あづか》りたるならんと申さるれば九助は眞面《まがほ》に成イヱ/\全く以て然樣な儀には御座りませぬと云にぞ大岡殿は町役人共へ九助が日頃町内の勤方《つとめかた》は如何やと尋問《たづね》られしに九助儀は極の正直者にて去年の十一月|下旬《げじゆん》夜廻りの時金八十兩|拾《ひろ》ひ其の節私し共へ申聞し上御訴へに及び置し處|落主《おとしぬし》之無きに付一昨十九日右金子を九助へ下し置れましたと申立るに越前守殿ジツと九助が顏を見られしか暫時《しばらく》控《ひか》へよと申さるゝ時|常盤橋《ときはばし》御門番松平|近江守殿《あふみのかみどの》番頭《ばんがしら》夏目《なつめ》五郎右衞門より差出したる者兩人足輕|小頭《こがしら》一人|足輕《あしがる》六七人附|添《そひ》罷出しに其者共の風俗《ふうぞく》何れも棧留《さんとめ》綿入の上へ青梅の袷《あはせ》羽織を着年は廿四五歳にて差出しの書面は左の通り [#ここから12字下げ] 覺 [#ここから2字下げ、折り返して3字下げ] 一|此者《このもの》共儀|今曉《こんげう》寅刻《なゝつどき》頃主人近江守|持場《もちば》御橋の中程に於て口論《こうろん》箇間敷《がましき》儀申|募《つの》り居候故番所より聲掛《こゑかけ》追拂はんと致せし處一圓|退去《たいきよ》仕つらず互いに掴《つか》み合金八十兩を双方《さうはう》自分の物の由申爭ひ候段御|場所柄《ばしよがら》をも顧《かへり》みず不屆きの次第故|早速《さつそく》取押へ町名家主等|相尋《あひたづ》ね候へ共何か取留《とりとま》らぬ申|口《くち》にて至極《しごく》怪敷《あやしく》存じ候間其儘差出候に付御吟味下さるべく候以上 [#ここで字下げ終わり] [#地から10字上げ]松平《まつだひら》近江守|家來《けらい》番頭《ばんがしら》 [#4字下げ]九月廿二日[#「九月廿二日」はママ][#地から7字上げ]夏目《なつめ》五郎右衞門 [#地から10字上げ]同人《どうにん》家來|給人《きふにん》兼《かね》目付《めつけ》 [#地から10字上げ]荒川源助《あらかはげんすけ》 [#8字下げ]大岡越前守樣 [#13字下げ]御役所 右《みぎ》讀終《よみをは》る時役人立出て兩人|請取《うけとり》松平近江守殿家來は早々退けり時に越前守殿二人の者を見られ其方《そのはう》共身分は何なりやと尋《たづね》らるゝ一人進み出私しは下谷山崎町源次郎と申者私しの金《かね》を此者が自分《じぶん》の金なりと申て無理《むり》に取んと致せし故|竟《つひ》に大きな聲《こゑ》を出し御見付にて叱《しか》られ候と申立るに今一人も進み出|恐《おそ》れながら申します私しは神田佐久間町一丁目|番組《ばんぐみ》宿屋《やどや》上州屋|軍助《ぐんすけ》方手代利三郎と申者私の金を此源次郎我が金だと申候と又々|爭《あらそ》はんと爲すゆゑ越前守殿兩人共|默《だま》れと聲を懸《かけ》られ其方共此金子八十兩は如何樣の筋《すぢ》で爭《あらそ》ふぞ富《とみ》でも取《とつ》たか又は拾つたのかと申さるゝに兩人はハイとばかりにて答へも爲ざればコリヤ何致《どういた》したサア有體《ありてい》に申立よと有ければ漸々《やう/\》利三は頭《かうべ》を上夫は私しの親共より讓《ゆづり》金なりと云に越前守殿然すれば汝等は兄弟か兩人|否《いへ》と云ば越前守殿ソレ縛《しば》れとの聲に連《つれ》兩人を高手《たかて》小手に縛《いまし》め左右へ引|据《すゑ》たり此時九助は其者の顏を見て吃驚《びつくり》なしコレ/\貴殿《こなた》ゆゑに私は此|通《とほり》御番所へ送られ迷惑《めいわく》致せり貴殿が落して置た帛紗包《ふくさつゝみ》大方取に來るで有うと思ひ今日迄|待《まつ》て居しにヤレ/\嬉《うれ》しやと涙《なみだ》を流しながら正面《しやうめん》に向ひ右の帛紗《ふくさ》包を落《おと》したるは此者なりと申立るに大岡殿其者に向はれ汝は此帛紗包を室町《むろまち》三丁目番小屋の前に忘《わす》れ置たる由|汝《おのれ》が盜《ぬすん》だか但しは同類《どうるゐ》の手から請取たかと糺《たゞ》さるゝに盜賊は空嘯《そらうそぶ》いて一向存じ申さず殊に那者《あのもの》は見た事もなき人なりと云九助は大いに急立《せきたち》全く那《あの》者が草鞋《わらぢ》を買に參りしと申せしは僞《いつは》り今は何を隱《かく》しませう去年|夜廻《よまは》りの節金八十兩拾ひたるを此程御番所より戴《いたゞ》きし其夜此者が參り斯々申て其金を持歸りし後に其|帛紗包《ふくさつゝみ》が落て有しと申に夫は此金かと財布《さいふ》の儘《まゝ》投出《なげだ》さるゝを九助は見て是で御座りますと申にぞ越前守殿|點頭《うなづか》れ[#「點頭《うなづか》れ」は底本では「頭點《うなづか》かれ」]九助|汝《おのれ》は餘《あま》り正直《しやうぢき》過《すぎ》る此上我が金だと云者有ば公儀《かみ》へ訴にて渡せ決《けつし》て相對《あひたい》で渡すなハテサテ正直な奴も有ばあるもの御用|相濟《あひすん》だぞ連歸《つれかへ》れと有ければ町役人共九助を連て歸りけり [#8字下げ]第三回[#「第三回」は中見出し]  斯て九助は五ヶ年の間|辛抱《しんばう》をなし殊に今度《このたび》奉行所より賜《たまは》りし金を合すれば百六七十兩の金子にも成しゆゑ古郷《こきやう》へ歸《かへり》豫《かね》ての望みの如く先祖《せんぞ》の跡を立んと出立の支度《したく》して伯父《をぢ》始めへの土産物《みやげもの》を種々《しゆ/″\》整《とゝの》へ江戸錦繪淺草海苔|館林《たてばやし》團扇《うちは》其外|田舍《ゐなか》相應《さうおう》の品々を買求《かひもと》め荷造《にづく》りをして町内の飛脚屋《ひきやくや》十七屋《とをつや》より先へ廻《まは》し夫より名主《なぬし》家主|町代《ちやうだい》は申に及ばず懇意《こんい》の先々へ暇乞《いとまごひ》に參りしに何れも餞別《せんべつ》をぞ呉れしかば稍《やゝ》二百兩近くの金を胴卷《どうまき》へ入古郷を指《さし》て旅立ちしが先|阿部川《あべかは》へ立寄先年のお兆《てう》を尋ねけるに二三年以前|相果《あひはて》娘お節は親類《しんるゐ》へ引取れし由|故《ゆゑ》偖々《さて/\》變り果たる浮世かなと呟《つぶや》きながら鞠子《まりこ》の宿《しゆく》も越《こえ》宇都谷|峠《たうげ》に懸《かゝ》りしに蔦《つた》の細道《ほそみち》時雨《しぐれ》來て心|細《ほそ》くも現《うつゝ》にも夢にも人に逢ぬ日《ひ》と辿《たど》り/\て岡部より早《はや》藤枝《ふぢえだ》に來りし頃|跡《あと》になり先になり怪《あや》し氣《げ》なる者二三人付|添《そひ》來れば故譯《わざ》と相良街道《さがらかいだう》へは這入《はひら》ず既に瀬戸川迄來りし時日は西山《せいざん》に沈《しづみ》しかば惡漢《わるもの》共兩人|前後《あとさき》より引|挾《はさ》み御旅人|酒代《さかて》を貰ひ度と云に九助は種々《いろ/\》と云譯をすれ共兩人の惡漢《わるもの》更に聞入ず直《つ》と立寄て左右より手を引張《ひつぱり》し故今は是非なく盜賊々々《どろばう/\》人殺々々《ひとごろし/\》と呼叫《よびさけ》ぶに向ふより正面《しやうめん》に島田講中と書《かき》水《みづ》の[#「書《かき》水《みづ》の」は底本では「書《かきみづ》水の」]丸の合|印《じるし》の[#「合|印《じるし》の」は底本では「合印《じるし》の」]小田原|提灯《ちやうちん》を提《さげ》半|合羽《かつぱ》の穴より鮫鞘《さめざや》の大脇差を顯はし水晶《すゐしやう》の長總《ながふさ》の珠數《じゆず》を首に懸し一|個《こ》の男|來懸《きかゝ》りしが此|容子《ようす》を見るより物をも云ず忽ち一人の盜賊の腕首《うでくび》掴《つか》んで瀬戸川へ眞逆《まつさかさ》まに投込ば生死《しやうし》は知れず成にけり後に殘りし惡漢|共《ども》我等が仕事の邪魔《じやま》爲《す》るなと兩人|等《ひと》しく飛《とび》掛るを彼男は引捕《ひつとら》へ汝等は往來に網《あみ》を張旅人の懷中《くわいちう》胴亂《どうらん》に目を掛けて追剥《おひはぎ》強盜《がうたう》を爲んとする命《いのち》知《し》らずめ己を誰《たれ》とか思ふ東海道五十三次|音《おと》に聞えて隱れのない題目講《だいもくかう》の講頭《かうかしら》水田屋藤八を見忘れたか汝等能く聞け身延山《みのぶさん》の會式《ゑしき》戻《もど》り罪作りとは思へども見るに忍びぬ此場の時宜《しぎ》命《いのち》は暫時《ざんじ》助《たす》け船七十五里の遠江灘《とほたふみなだ》天窓《あたま》の水先押|曲《まげ》て尻を十|分《ぶん》卷《まく》り帆《ほ》に早く湊《みなと》へ逃《にげ》込て命ばかりの掛り船ドリヤ梶《かぢ》を採《とら》ふかヱイと二人を左右へ一度に投付れば惡漢共《わるものども》は天窓《あたま》を抱へ雲を霞《かすみ》と逃失けり藤八は後見送りおつなせりふの機會《はずみ》からヤア逃るは/\時に御旅人|怪我《けが》は無かと九助を勞《いたは》り介抱なし先々今宵は私が宅《うち》へ御泊り成いと夫より九助を同道して藤八は我が家へ來り門口《かどぐち》よりサア御客だ御湯を取れと亭主の聲に家内の者は立出《たちいで》てソリヤ旦那樣が御歸《おかへり》と云つゝ一|同《どう》出迎《でむかう》を藤八は是々途中から御客を連て來たと云|中《うち》に十六七の娘|甲斐々々《かひ/″\》敷《しく》盥《たらひ》に湯を取て持《もち》來り御洗ひ成れましと顏を見るより彼の娘はヤアお前は水呑村の九助樣と吃驚《びつくり》すれば九助も驚き然樣《さう》云|此方《こなた》は阿部川のお節殿と早々《さう/\》足を洗ふ中《うち》娘は藤八に向ひ旦那樣此お方は先年|御恩《ごおん》を請た御人で御座りますと聞て藤八も驚き然《さ》れば豫て話の九助殿人を助けたれば又|助《たす》けらるゝアヽ陰徳《いんとく》あれば陽報《やうはう》ありとはテモ不思議と是より座敷に到《いた》り互に一伍一什《いちぶしじふ》の物語りをなし九助殿|明日《あす》は私が送つて進度《あげたい》が據《よんど》ころない用事が有る故參る事は出來ず去りながら又途中にて何樣《どのやう》な事が有まいものでもなし然る時は百日の説法《せつぽふ》屁《へ》一ツとやらなれば金子などは先私に預けて明後日頃《あさつてごろ》村方の親類衆でも遣《つか》はさるゝか又|確乎《たしか》な使をお立《たて》成《なさ》れよ其時の證據《しようこ》には幸ひ御延《みのぶ》の貫主《くわんしゆ》樣に曼陀羅《まんだら》の裏書を願つて書て頂いた是は私が骸《からだ》にも替《かへ》られぬ大切の品なれどお前に渡すサア金と引替に致さんと藤八が深切《しんせつ》に九助も安堵《あんど》し百八十兩の金を預置《あづけおき》何角《なにか》と懇切《ねんごろ》に禮を延べ又家内へも聊《いさゝ》か心付などして藤八方を翌日|辰刻頃《たつどきごろ》出立古郷水呑村へぞ歸りける土産物《みやげもの》は飛脚《ひきやく》にて先へ送りし事故[#「送りし事故」は底本では「送り事し故」]|伯父《をぢ》九郎兵衞女房お里も待居たる處なれば皆々|出迎《でむか》ひ悦び合《あふ》に九助は其足にて名主《なぬし》惣左衞門是は先年病死して悴《せがれ》惣内《そうない》當時名主役|勤《つと》め居るゆゑ同人方へ參り其外|組頭《くみがしら》左治衞門|周藏《しうざう》始め村中一同へ廻り歸村の旨申聞ける故先方よりも皆々大勢|悦《よろこ》びに來り中にも九郎兵衞は江戸の首尾《しゆび》を聞ゆゑ九助も段々始終の話より歸り掛けの道中にて斯樣々々《かやう/\》島田|宿《じゆく》の水田屋が情《なさけ》曼陀羅《まんだら》の話等を爲し明日は金を請取に參るとて十界の曼陀羅を佛壇《ぶつだん》へ上置其夜は九助も旅勞《たびつか》れゆゑ前後も知らず休みしが翌朝|佛壇《ぶつだん》を見れば日蓮上人|直筆《ぢきひつ》十界の曼陀羅見えざるにより家内は大騷《おほさわ》ぎとなりて直樣菩提所|不動院《ふどうゐん》を招き卜筮《うらなひ》を頼みけるに此は色情より事起りて盜人は家内にあり女《をんな》成べし後には公事《くじ》出入にも成ん隨分身を愼《つゝし》まれよと云て歸りしが此時|土地《ところ》の醫師高田|玄伯《げんぱく》通り掛しをも呼込み又々|占考《うらなひ》を頼みけるに錢《ぜに》六文を並べて占《うらな》ひ此盜賊は男で御座ると云ながら歸去《かへりさり》けるにぞ九助は種々と工夫し其儘四里廿一丁を一|息《いき》に飛が如く水田屋へ到り息を繼々《つぎ/\》紛失《ふんじつ》の話をなしければ藤八は先|此方《こなた》へと云まゝ九助は座敷へ通りけるに正面《しやうめん》に十界の曼陀羅を飾《かざ》り左右に燈明《とうみやう》香花《かうげ》を備へ有しかば是はと驚き問に藤八は然《さ》ればなり今朝御親類の周藏と云る人此|曼陀羅《まんだら》と引替に金は持參致されしと聞てそれは老人で御座るかと云ふに藤八|否《いや》皆未|若《わか》い御人其外に喜平治《きへいぢ》にも[#「喜平治にも」は底本では「喜平治もに」]來られしと語るに九助夫は皆|年齡《とし》が違ひますと聞藤八ハヽア成程《なるほど》違ふ筈だ跡で此方にも少し胡亂《うろん》の儀思ひ當る事も御座れば私《わたくし》が明日參つて吟味致さんにより村中の者を御|招《まねぎ》あれと申故左樣なら御苦勞ながら斯樣々々《かやう/\》に致して招き置ん程に何分御頼《たの》み申と約束して立歸り九助は伯父《をぢ》に向ひ折惡敷《をりあしく》先方が留守《るす》にて分《わか》らざれども久々《ひさ/″\》家内の者村中の世話になりし事ゆゑ名主組頭|親類《しんるゐ》を始め招いて濁酒《にごりざけ》でも飮《のま》せ度《たし》と相談の上人を廻し支度をして待うち翌日に成しかば名主|鵜川惣内《うがはそうない》後家お深組頭周藏佐治右衞門|傳兵衞《でんべゑ》木祖《きそ》兵衞親類には千右衞門喜平治|金助《きんすけ》大八丈右衞門兩|隣《となり》の善右衞門|孫《まご》四郎辰六|角《かく》右衞門其|外《ほか》多人數《たにんず》入來り九郎兵衞八右衞門|久《きう》七八内忠七六之助などは分家《ぶんけ》故皆々勝手働き先代が取立《とりたて》し百姓三五郎辰八等は水を汲《くみ》米を炊《かし》ぎ村方大半|呼寄《よびよせ》ての大饗應《おほふるまひ》故村の鎭守《ちんじゆ》諏訪《すは》大明神の神主《かんぬし》高原備前《たかはらびぜん》并びに醫師|玄伯等《げんぱくら》を上座に居て料理の種々《くさ/″\》は興津鯛《おきつだひ》の吸物《すひもの》鰯《いわし》に相良布《さがらめ》の奴茹《ぬた》の大|鮃濱燒《ひらめはまやき》鰌《どぜう》の鼈煑《すつぽんに》などにて酒宴《さかもり》を始め一順《ひとゝほり》[#ルビの「ひとゝほり」は底本では「ひとほり」]盃盞《さかづき》も廻りしかば九助は密《そつ》と座を立裏口へ出て待處に水田屋藤八|密《ひそか》に來りければ此方《こなた》の小座敷へ案内なし三五郎を相手《あひて》に差置《さしおき》伯父九郎兵衞の前は道連《みちづれ》の人が尋ねて參りしと申|置《おき》しに藤八は軈《やが》て酒宴の席を覗《のぞ》き見れば二ツ髷《まげ》の後家の側《そば》に居る巴《ともゑ》の紋《もん》付《つき》たる黒の羽織を着せし者と其|傍《そば》に居る花色《はないろ》の布子《ぬのこ》を着《き》酌《しやく》をして居る兩人なりと云に那《あ》れは當時の名主|惣内《そうない》今一人は名主の手代|源藏《げんざう》と云者なり扨々|憎《にく》き奴かな今に目に物見せて呉んと云つゝ何喰《なにくは》ぬ顏色にて九助は座敷へ出今日皆々樣を御|呼立《よびたて》申せども是と云|興《きよう》もなく候へば只々御|氣根《きこん》に御|上《あが》り下されよと云に周藏は取|敢《あへ》ず此周藏佐治右衞門を始め神主樣御醫師樣|親方《おやかた》の後家樣其外|皆々《みな/\》十分に下《くだ》されたサア/\勝手の手傳衆《てつだひしう》大勢ぢや御|亭主《ていしゆ》も一ツ御|上《あが》り成れと猪口《ちよく》を指《させ》ば傳兵衞も又|進《すゝ》み出《いで》九助殿此傳兵衞も今は隱居《いんきよ》しましたが先親方《せんおやかた》九郎右衞門殿の頃より懇意とは申ながら當年八十一歳で御座る否《いや》サ化《ばけ》も致さぬが何と九助殿江戸も私が若い時とは違《ちが》ひ日《ひ》に増《まし》月に増《まし》繁昌《はんじやう》で御座らう何と珍《めづ》らしい事はないかなと云ふ機《しほ》に九助は膝《ひざ》を進め別段《べつだん》何も珍らしき事も御座らぬが差當《さしあた》り不思議《ふしぎ》と申は私が江戸表にて千|辛《しん》萬苦《ばんく》して貯《たくは》へた金子が一昨夜|紛失《ふんじつ》致《いたし》[#ルビの「いたし」は底本では「いた」]ました其譯は定めし皆々樣も御|聞《きゝ》成《なさ》れたで御座らうが其金子は島田宿《しまたじゆく》の水田屋へ預け置右の代りに持て參りし證據《しようこ》の日蓮樣《にちれんさま》の直筆《ぢきひつ》の曼陀羅《まんだら》一昨夜|中《ちう》に私が所で紛失《ふんじつ》し誠に五年の辛苦は水の泡《あわ》と成ましたと語るに一座の者共夫は何《どう》か詮議《せんぎ》の爲樣《しやう》は無事哉と云ば九助はイヱ夫に就て御話が御座ります天道《てんだう》と云者は爭《あらそ》はれぬもので正直《しやうぢき》の頭《かうべ》を照らし給ふ故其盜人が知ましたと云を聞《きゝ》惣内|親子《おやこ》はハツと面《かほ》を赤らめしを組頭《くみがしら》の佐治右衞門は氣も付《つか》ず進み出夫は他國の盜人《ぬすびと》か村内の者か憎《にく》き奴なり早々《さう/\》吟味さつしやれと張肱《はりひぢ》を爲に九助はイエサ外々《ほか/\》でも御座りません那《あ》のと惣内の面《かほ》を見れば惣内|顏《かほ》を背《そむ》けるを思ひ切て茲に御座る名主《なぬし》樣ハイ惣内殿シテ同類は手代《てだい》物書《ものかき》の源藏と語《かた》るを聞より名主の後家《ごけ》お深は急立《せきたち》ナニ九助殿|貴樣《きさま》は親類と云《いひ》念頃《ねんごろ》の中《なか》年|若《わか》でも惣内は村役も致す者|滿座《まんざ》の中での泥坊《どろばう》呼《よば》はり酒興《しゆきよう》と云ては|濟《すみ》ませぬと詰寄《つめよせ》るを九助は微笑《ほゝゑみ》私は氣違ひでもなく酒亂でもなければ證據《しようこ》の無《ない》事は申しません曼陀羅《まんだら》を盜《ぬす》み取り島田宿の中町水田屋藤八方へ參られて九助が親類周藏と僞《いつは》られしは惣内殿喜平次と騙《かた》りしは源藏右兩人曼陀羅を證據に百八十兩を騙《かた》り取と云を源藏は嗚呼《あゝ》是此源藏を盜人とは大それた何を證據にと目に角《かど》立《たつ》れば惣内|膝《ひざ》立直《たてなほ》し名主役の惣内を盜人などとは言語同斷《ごんごどうだん》なり九助品に依り筋《すぢ》に因ては了簡《れうけん》成難《なりがた》しと聞|皆々《みな/\》四方より九助を取|卷《まき》たり [#8字下げ]第四回[#「第四回」は中見出し]  是を機《しほ》に九郎兵衞は此方より飛《とん》で出九助の髻《もとゞ》りを掴《つか》み取て捻伏《ねぢふせ》齒《は》を喰切《くひしめ》拳《こぶし》を固《かた》めて散々《さん/″\》に叩き居《すゑ》汝《おの》れは太《ふと》い奴《やつ》江戸へ出て金を貯《ため》親父が質田《しちた》を取返《とりかへ》すの又は百八十兩|貯《たくは》へたの貰つたのと虚言《うそ》八百を吹散《ふきちら》し其實一文なしで家へのたり込《こみ》其上名主殿を始め源藏までを盜賊《たうぞく》呼《よば》はり組頭衆《くみがしらしう》や年寄衆《としよりしう》へ此|伯父《をぢ》が何の面向《かほむけ》が成ものか盜人《ぬすびと》猛々敷《たけ/\しい》とは汝が事なり兄九郎右衞門殿の位牌《ゐはい》へ對して此九郎兵衞が云|譯《わけ》立《たゝ》ぬ汝が親九郎右衞門に成代《なりかは》り此伯父が勘當する出て失《うせ》ろと猶も打擲《ちやうちやく》なす處へ暫《しばら》く/\と聲《こゑ》懸《かけ》一間より直《つゝ》と出るや否《いな》や九郎兵衞を取て突退《つきの》け名主手代を左右へ押分《おしわけ》て動乎《どつか》と居《すわ》りし男を見れば下に結城紬《ゆふきつむぎ》の小袖二ツ上は紺紬《こんつむぎ》に二ツ井桁《ゐげた》の紋所《もんどころ》付《つき》し小袖を着五本手縞の半合羽《はんかつぱ》を羽折《はをり》鮫鞘《さめざや》の大脇差を手に持たり是別人ならず島田宿の旅籠屋水田屋藤八成ば別て惣内源藏の兩人は愕然《ぎよつ》としたる樣子にて俯向《うつむき》居るに藤八は一同へ向ひ茲な名主惣内殿并に手代の源藏兩人|盜賊《たうぞく》と見たは違ひなしコレ名主手代の衆《しう》昨日《きのふ》の朝《あさ》此九助殿の親類周藏嘉平次と云《いつ》て確な證據《しようこ》日蓮樣の曼陀羅《まんだら》を持參なし引|替《かへ》にして百八十兩の金を能も騙《かた》り取れたなイヤサ東海道五十三|次《つぎ》品川から大津《おほつ》まで名を賣て居る此水田屋藤八を能も誑《だま》し騙《かた》つたなサア此上は相良《さがら》の役所へ拘引《おびき》出《だ》し面《つら》の皮を剥《むい》て遣《や》らなければ此藤八の蟲が落付《おちつか》ぬ未だ此上にも爭はゞ片端《かたはし》から覺悟をしろと大音《だいおん》に罵《のゝし》られし惣内源藏の兩人は今更何とも言葉なく穴へも入《いり》たき樣子なり然《され》どもお深《ふか》九郎兵衞は双方《さうはう》より進出コレ此方は藤八殿とやら千五百石の束《たばね》もする庄屋役を如何《いか》に年若《としわか》なればとて盜賊|呼《よば》はりは何事ぞ是には確《たしか》な證據でも有ての事か是サ組頭|默言《だまつ》て御座つては濟《すみ》ますまいと怒《たけ》り立れば組頭の周藏傳兵衞も呆《あき》れ居しが漸々進み出コレ藤八殿餘り大《おほ》きな聲をさつしやるな小聲《こごゑ》でも解《わか》ります先當時の役頭《やくがしら》を盜賊|呼《よばは》り確《たしか》な證據なくては云れぬ事|段々《だん/\》聞《きく》に九助が親類と私等《わしら》が名をも騙《かた》られては猶《なほ》以て迷惑《めいわく》至極《しごく》と云|傍《そば》より嘉平次も然樣々々《さやう/\》我等は百姓|代《だい》も致す者|殊《こと》に組頭《くみがしら》と申て名を騙《かた》り眞間《まんま》と欺《だまし》て御在《ござ》つたりと云を藤八|如何《いか》にも是を御覽じろと一通の書付を出《いだ》し其節證據の曼陀羅を取替行るゝ事故請取も糸瓜《へちま》も入ぬ譯なれど深切づくの預《あづか》り物|生若《なまわか》い衆の御出に付|念《ねん》の爲|取《とら》ずとも宜《い》い請取までサア御覽じろと差出すを各々取上げ披《ひら》き見るに [#ここから12字下げ] 覺《おぼえ》 [#ここから3字下げ] 一金百八十兩也 右九助よりの預け金|確《たしか》に請取《うけとり》申候|處《ところ》實正《じつしやう》なり後日の爲《ため》請取證《うけとりしよう》仍《よつ》て如件 [#地から17字上げ]水呑村九助親類 [#1字下げ]十一月二日[#地から14字上げ]周藏《しうざう》 印《いん》 [#地から13字上げ]喜平次《きへいじ》 印《いん》 [#6字下げ]水田屋《みづたや》藤八樣 [#ここで字下げ終わり] 周藏喜平次始め一同此請取を見て此|手跡《しゆせき》は源藏なり周藏が印形《いんぎやう》は名主《なぬし》惣内殿の印形喜平次のは源藏が判《はん》是《これ》は如何にと周藏はお深に對ひコレお深殿此通りだが未《まだ》若《わか》い年《とし》をして周藏や喜平次が名を騙《かた》るとはハテ大盜賊《おほどろばう》と惣内を睨《にら》めば後家《ごけ》お深は堪《こら》へず悴惣内を押伏せ打擲《ちやうちやく》なせば源藏は堪り兼逃出す所を九助が親より召使ひの三五郎飛で出|突然《いきなり》襟髮《えりがみ》掴《つか》んで捻倒《ねぢたふ》しコリヤヽイ源藏汝は能《よく》も/\己が旦那を馬鹿にしたな汝《うぬ》は水呑村の水呑百姓なりしを先《せん》旦那の御蔭にて一人前の百姓に取立られたる其|恩儀《おんぎ》を忘れ盜人《ぬすびと》に同意爲す爰な畜生《ちくしやう》めと云聲聞て勝手に働き居りし若い者又は九助が家附《いへつき》の親類小前の輩《ともが》ら十二三人|襷懸《たすきがけ》にて面々飛出し彌々《いよ/\》大騷ぎとなりし故藤八は兩手を上《あ》げ是々皆なの衆《しう》先々《まあ/\》靜《しづか》にせられよ此れ處か未々《まだ/\》お負《まけ》がある是を惣内殿|貴方《あなた》覺えが有うなと投出《なげいだ》す姫路《ひめぢ》革の三徳を見て惣内はヤア是はと云を藤八はオヽ吃驚《びつくり》する筈《はず》貴方《きさま》が歸つた其跡に落して置た此三徳中は六|韜《たう》三略の卷ドリヤ/\讀で聞せやう皆の衆《しう》膽《きも》を潰《つぶ》さずにマア落付て聞給へダガ九郎兵衞殿|此方《こなた》の娘も偖々|枇杷葉湯《びはえふたう》誰にも渠《かれ》にも大振舞情の深い人さんぢや而《して》又庄屋の後家《ごけ》樣よ此方の息子《むすこ》も物喰《ものくひ》宜《よし》何を喰ても中《あた》るめへサア聞なせへ/\ [#2字下げ]一|筆《ふで》申上參せ候扨々思ひ掛なく九|印《しるし》出拔《だしぬけ》に歸國致し途方に暮參せ候豫々夫婦になり度|祈《いのり》居候へども此の後は寛々《ゆる/\》御げんもじも心元《こゝろもと》なく存《ぞんじ》參せ候 藤八サア聞なせへ是が序開《じよびら》き是からが追々魂丹だと一調子張上て [#2字下げ]此上は當處を立退《たちの》き鳥《とり》棲《すま》ぬ山の奧《おく》虎《とら》臥《ふ》す野邊《のべ》も厭《いと》ひなく御連添下され度夫のみ念じ上參らせ候右に付九助事江戸にて百八十兩|貯《たくは》へたる金子島田|宿《じゆく》中町の旅籠屋《はたごや》にて水田屋藤八と申方へ預け置割符の曼陀羅《まんだら》持歸り申候 藤八|何《どう》だ村の衆《しう》膽《きも》が芋《いも》にも化《ばけ》さうなもので御座らうサア/\茲が肝腎《かんじん》だ [#2字下げ]其曼陀羅を持參致せば誰にても右の金子《きんす》を引替《ひきかへ》に渡し候由|承《うけた》まはり候まゝ竊《ひそか》に其曼陀羅を其方《そなた》樣へ御渡し申候間金子首尾能御請取下され度《たく》金子さへ有ば何國《いづく》の浦にても心の儘と存候へば一時も早く立退度《たちのきたく》夫のみ祈り居參せ候猶委細の事は源藏殿より御|聞下《きゝくだ》さるべく候何も心|急《せか》れ候へば先は荒々《あら/\》申上參せ候めで度《たく》かしく[#「かしく」は崩し字] [#地から8字上げ]さ 印《しるし》 より [#12字下げ]惣樣《そうさま》へ と讀了《よみをは》り藤八サア是でも汝等《うぬら》は爭ふかと云れて九郎兵衞は今更面目なさに娘お里を引据此猥婬者めと人前|繕《つくら》ふ打擲《ちやうちやく》に後家《ごけ》のお深も猶惣内を打|据《すゑ》る故一同見ても居られず組頭《くみがしら》周藏佐治右衞門傳兵衞|木祖兵衞《きそべゑ》長百姓喜平次善右衞門[#「善右衞門」は底本では「喜右衞門」]|神主《かんぬし》備前《びぜん》醫師《いし》玄伯等|各自《おの/\》中に立入《たちいり》先《まづ》双方《さうはう》共に預りて此日は皆々引取しがお里は組頭周藏へ預け其夜|猶《なほ》又周藏方へ惣内始め寄合て心得違ひの趣きに扱《あつか》ひを入れ百八十兩の金子を殘らず戻《もど》しければ九助はお里を是迄の縁と斷念《あきらめ》殊に伯父の娘なれば嚴《きび》しき事も成難しと千|辛《しん》萬|苦《く》して貯《ため》たる金の中を五十兩|分與《わけあた》へ離縁《りえん》なせしかば村中の者共も又中に立入|双方《さうはう》和談《わだん》の上お里を惣内の女房とし續て伯父の九郎兵衞も惣内方へ介抱人《かいはうにん》に這入《はひり》お深と夫婦になりて消光《くらし》居たり其後九助は親九郎右衞門が質に入置たる田地を請戻し譜代《ふだい》の召使《めしつかひ》三五郎を鍬頭《くはがしら》として元の如くに家を起しければ家付きの親類周藏喜平次を始|感心《かんしん》なし獨身《どくしん》にては不自由《ふじいう》ならんと島田宿《しまだしゆく》の水田屋へ到りて種々相談の上|姪《めひ》のお節を貰《もら》ひ度由を云入ければ藤八も一|同《どう》の深切《しんせつ》を感じ喜びお節を己が養女《やうぢよ》として支度《したく》も立派に調へ水呑村九助方へぞ送りける茲に又惣内は九郎兵衞に惡智慧《わるぢゑ》を加れ村中の山林《さんりん》を賣《うり》或ひは質入《しちいれ》などにせし事|顯《あらは》れければ村方小前一|統《とう》百五十軒|集合《しふがふ》して惣内が不埓《ふらち》の筋《すぢ》を算《かぞ》へ立《たて》那樣成《あのやうなる》名主は役に立ずと連判《れんばん》を以て組頭へ差出せしに依《より》組頭《くみがしら》共|種々《いろ/\》宥《なだ》め扱ひけれども勿々《なか/\》一同|承知《しようち》せざれば止《やむ》を得ず領主《りやうしゆ》役場《やくば》へ申立て惣内は名主|役《やく》取|上《あげ》られたり扨又惣百姓|連印《れんいん》を以て九助は親の跡故是非跡役仰付らるゝ樣にと本多長門守殿郡奉行へ願書《ねがひしよ》を差出しければ願ひの通り川口九助へ名主申付られ村方の者喜び睦しく暮しけり [#8字下げ]第五回[#「第五回」は中見出し]  茲に又|駿府《すんぷ》の加番衆《かばんしゆ》松平玄蕃頭殿の家來《けらい》に石川安五郎と云ふ若侍士《わかざむらひ》ありしが駿府二丁目の小松屋の抱《かゝ》へ遊女|白妙《しろたへ》が許《もと》へ通ひ互ひに深くなるに付|廓《さと》の金には迫《つま》るの習ひ後には揚代金《あげだいきん》も滯《とゞこ》ほり娼妓《しやうぎ》が櫛笄《くしかうがひ》衣類《いるゐ》までも無《なく》しての立引に毎晩《まいばん》通ひ居たりしが早晩《いつしか》二階を謝斷《せかれ》しが煩惱《ぼんなう》の犬に追《おは》れ猶《なほ》懲《こり》ずまに忍び通ひける中《うち》或夜《あるよ》若《わか》い者共の目に懸《かゝ》り引捕《ひつとら》へられ桶伏《をけふせ》にぞせられける是は据風呂桶《すゑふろをけ》を伏《ふせ》其上へ大いなる石を上《あげ》鐵砲を引拔《ひきぬき》其穴より僅《わづか》に食物を入るのみ其樣彼の軍鷄籠《とうまるかご》を伏たる如くなり古昔《むかし》廓《くるわ》と唱《とな》へ大門《おほもん》御免の場所には之ありしとなり然ば白妙《しろたへ》は大いに歎《なげ》きしが或日|饅頭《まんぢう》二ツを紙に包み禿《かむろ》躑躅《つゝじ》を密《そつ》と招《まね》き是を桶《をけ》の穴《あな》より入れさするに安五郎|忝《かたじ》けなしと何心なく饅頭《まんぢう》を二ツに割《わる》に中に少《ちひ》さく疊《たゝみ》し紙ありければ不審《ふしん》に思ひ披《ひら》き見るに [#2字下げ]今宵《こよひ》子刻頃《こゝのつどきごろ》廓《くるわ》を立退《たちのき》候|積《つも》り委細《ゐさい》は大門番重五郎が情《なさけ》にてお前樣は柴屋町へ[#「柴屋町へ」はママ]先へ御出なされお待合《まちあ》はせ下さるべし何事も御げんもじの節と申|殘《のこ》し參らせ候かしく と認《したゝ》めて有《ある》故《ゆゑ》安五郎は此兩三日|桶伏《をけふせ》の恥辱《ちじよく》に逢《あひ》無念《むねん》至極《しごく》に思ひ晝夜《ちうや》寢《ね》もやらず居る處成ば文を見て扨は重五郎|日頃《ひごろ》我に辛《つら》く當りしは却《かへつ》て情《なさけ》有《あり》し事かと龍門《りうもん》の鯉《こひ》天へ昇《のぼ》り無間地獄《むげんぢごく》の苦痛《くつう》の中へ彌陀如來《みだによらい》の御來迎《ごらいかう》ありて助を得たる心地して大いに悦び今や時刻《じこく》と待居たりしが心の緩《ゆるみ》よりとろ/\と睡眠《まどろむ》中《うち》雷《らい》の落たる如き物音に夢は破《やぶ》れて四邊《あたり》を見れば晴《はれ》渡りたる北斗の光《ひかり》晃々《ぴか/\》として襟元《えりもと》へ落る木滴《きしづく》に心付見れば桶《をけ》は側《そば》に打返して有しにぞ彌々《いよ/\》不審《ふしん》に思ひ彼方此方《かなたこなた》と見廻す中彼の重五郎は柳の小蔭《こかげ》より衝《つ》と立出小聲にてアヽ若《もし》安五郎樣私は白妙樣《しろたへさま》には遁《のが》れぬ縁の有者此の處にての長談《ながばなし》は無益なり少しも早く鞠子《まりこ》の奧の柴屋寺《しばやでら》へ御出成れて御待あれ委細《ゐさい》は白妙樣から御|話《はなし》有ん私しも後より花魁《おいらん》の供をして追着《おひつき》ます早う/\と云ければ安五郎はオヽ何も云ぬ重五郎殿|忝《かたじ》けないと空を霞《かすみ》に遁《のが》れ出|頓《やが》て阿部川を打越《うちこえ》て柴屋寺へと急《いそぎ》ける(柴屋寺と言は柴屋宗長が庵室《あんしつ》にして今|猶《なほ》在《あり》と)既に其夜も子刻《こゝのつ》の拍子木《ひやうしぎ》諸倶《もろとも》家々の軒行燈《のきあんどん》も早引て廓《くるわ》の中も寂寞《ひつそり》と往來《ゆきゝ》の人も稀《まれ》なれば時刻《じこく》も丁度|吉野屋《よしのや》の裏口《うらぐち》脱《ぬけ》て傾城《けいせい》白妙名に裏表《うらうへ》の墨染《すみぞめ》の衣を假《かり》の隱れ簑《みの》頭巾《づきん》の上に網代笠《あじろがさ》深《ふか》くも忍ぶ大門口|相※[#「圖」の「回」に代えて「面から一、二画目をとったもの」、710-18]《あひづ》の咳《せき》に重五郎其所へ御座るは花魁《おいらん》かと言れて白妙|回顧《ふりむき》オヽ重さんか安さんはへ其安さんは最《もう》疾《とく》に鞠子《まりこ》へ行て待てゞ在ば暫時《ちつと》も早くと打連立《うちつれだち》彌勒《みろく》町を後《あ》とになし渡り求むる阿部川の此方の岸へ着《つく》船《ふね》へ飛乘《とびの》る機會《とたん》に後《うしろ》からヤレ待居《まちを》らう重五郎と追駈《おつかけ》來るは別人ならず江尻《えじり》の宿の落破戸《ならずもの》儀右衞門と[#「儀右衞門と」はママ]云男なり最《いと》も白妙が馴染客《なじみきやく》にて是迄多くの金銀を遣ひ手にも入ず白妙を今失ひては口惜《くちをし》しと追駈《おつかけ》來り逃亡者《かけおちもの》を渡せばよし萬一渡さずば汝れ迄刀の錆《さび》にして遣ると氷の如き一刀|引拔《ひきぬき》終《つひ》に重五郎を切殺《きりころ》し心|急《せき》たる其餘り煙草《たばこ》入を落せしを氣も付ず跡《あと》晦《くら》まして逃去《にげさ》りけり其|隙《ひま》に船は向うへ着しかば白妙は急ぎ船より上りて柴屋寺へ馳來り安五郎に逢《あひ》今何者か追來たり斯々なりと物語り何分此所は危ふしと云にぞ安五郎も打驚き然らば早々|落延《おちのび》んと白妙の手を取此所を立出て島田宿なる水田屋藤八方へ到り豫て侠氣《をとこぎ》の事を聞及べば是迄の始末を語り當分我等兩人を匿《かくま》ひ呉る樣にと只管《ひたすら》頼《たの》みけるに男を磨《みが》く藤八ゆゑ早速《さつそく》承知《しようち》はなしけれども當所は街道端《かいだうはた》[#ルビの「かいだうはた」は底本では「かいだうばこ」]にて人の目にも付易し幸ひ相良領《さがらりやう》の水呑村にて九助と云ふは我等が親類なれば同所へ行て居られよ其中には二丁町の[#「二丁町の」は底本では「二十町の」]方は片を付て進ぜますと受合九助への手紙《てがみ》を書《かい》て渡せば二人は悦《よろこ》び厚《あつ》く禮を述て直樣水呑村へと立出けり爰に水呑村の鵜川惣内は名主|退役《たいやく》の後|彌々《いよ/\》村中の氣請《きうけ》惡《あし》く加之《そのうへ》九助の金の一件より盜賊の惡名《あくみやう》は消《きえ》ず身代は日に増に傾《かたむ》きけるが是に引かへ九助方は益々《ます/\》繁昌《はんじやう》なすを見るに付聞に付口惜さ限りなく何事か有《あれ》かしと窺ひ居たりし中金谷村に大法會《だいほふゑ》ありて續合《つゞきあひ》の事故九助惣助九郎兵衞お里等も其席へ到りしに此時九助は混雜《こんざつ》の紛《まぎ》れに紙入《かみいれ》を忘れて小便《せうべん》に立しを惣内九郎兵衞は面《かほ》を見合せ點頭《うなづき》ながら竊《そつと》其紙入《そのかみいれ》を取|隱《かく》し法事も濟し後|何喰《なにくは》ぬ顏にて其場を立|去《さり》途中へ出て彼の紙入を改め見るに金五兩二分と島田宿の水田屋藤八より九助へ送りし手紙あり是は何かの種に成んと九郎兵衞は懷中《くわいちう》なし五兩二分の金を得たれば久々《ひさ/″\》にて一|杯《ぱい》飮《のま》ふと或料理屋《あるれうりや》に立入《たちいり》九郎兵衞惣内夫婦三人|車座《くるまざ》になり獻《さし》つ酬《おさへ》つ數刻《すうこく》酌交《くみかは》せしが良《やゝ》夜《よ》も戌刻過《いつゝすぎ》漸《やうや》く此家を立出九郎兵衞は殊の外の酒機嫌《さけきげん》にて踉々《よろ/\》蹌々《ひよろ/\》とし乍ら下伊呂村《しもいろむら》の外《はづ》れへ來掛《きかゝ》りし頃は早《はや》亥刻《よつ》に近くて宵闇《よひやみ》なれば足元も暗《くら》くお里は大いに草臥《くたびれ》しと河原の石に腰《こし》を掛るに九郎兵衞惣内も同く石に腰《こし》を掛《かけ》火打道具《ひうちだうぐ》を取出し煙草《たばこ》くゆらせ居たりしが九郎兵衞は彌々《いよ/\》醉《ゑひ》が廻り頻《しきり》にほく/\居眠《ゐねふる》に終《つひ》に其所へ正體《しやうたい》もなく打臥《うちふし》たり依て惣内お里は夫に當惑《たうわく》なし何か醉《ゑひ》の醒《さめ》る藥はなきやと考へしに惣内は不※[#「圖」の「回」に代えて「面から一、二画目をとったもの」、712-1]《ふと》心付此宿外れに藥種屋有ば夜中ながらも呼起《よびおこ》して早々藥を求め來らんお里は其|中《うち》九郎兵衞殿を介抱《かいはう》せよと言置て尻引からげ馳行《はせゆき》けり然《さ》なきだに白晝《ひる》さへ人通りなき相良の裏道《うらみち》殊に夜中なれば人里遠く麥搗歌《むぎつきうた》鳥《とり》の宵鳴《よひなき》遙かに聞え前は名に負《おふ》大井川|海道《かいだう》一の早瀬にて蛇籠《じやかご》を洗ふ波の音は狼みの遠吼《とほぼえ》と倶《とも》に物凄《ものすご》くお里は頻《しき》りに氣を揉《もめ》ども九郎兵衞は前後も知らず高鼾《たかいびき》折から川の向よりザブ/\と水を分《わけ》此方《こなた》へ來る者ある故お里は是を透《すか》し見るに生憎《あひにく》曇りて黒白《あやめ》も分ず怖々《こは/\》ながら蹲踞《つぐみ》居れば件《くだん》の者は河原へ上《あが》り背《せ》より一人の女を下しコレ聞よ逃亡者《かけおちもの》と昨日から付纒《つきまと》ひつゝやう/\と此所へ引摺《ひきず》り込《こむ》までは大に骨《ほね》を折せたぞサア是からは汝《うぬ》が身を彌勒町《みろくまち》なる吉野屋へ拘引《つれ》て行て渡さうかそれより直《すぐ》に濱松へ賣て呉《くれ》るが早道《はやみち》だイヤ/\歩行《あるけ》と引立るに女は涙聲《なみだごゑ》震《ふる》はせ私は其樣な者ではない二世|迄《まで》掛《かけ》し夫の有身金が欲《ほし》くば此|邊《へん》に知る人あれば其家まで行たる上は幾干《いくら》でも望《のぞ》みの通り上ます程に何卒|免《ゆる》して/\と詫るを何だ喧《やかま》しい贅言《たはごと》云ずと此|己《おれ》を叔父だと云《ぬか》せば濟《すむ》事だと罵《のゝし》る聲の耳に入《いり》九郎兵衞は不※[#「圖」の「回」に代えて「面から一、二画目をとったもの」、712-10]目を覺《さま》し猶も樣子を打聞《うちきく》に詫《わび》る一人の女の聲扨は我今|眠《ねぶ》りし中|惡物《わるもの》共がお里を捕《とら》へ勾引《かどはか》さんとなす事ぞと寢ぼけ眼に立上り汝《おのれ》曲者《くせもの》遁《のが》さじと聲を知るべに打掛れば彼の曲者《くせもの》は驚きながら見付られては後日の妨《さまた》げムヽと點頭《うなづき》傍邊《かたへ》に落し松の小枝《こえだ》を取より早くオヽ合點《がつてん》と受止つゝ強氣《がうき》無慚《むざん》に打合に年は寄ても我慢《がまん》の九郎兵衞茲に專途《せんど》と戰へども血氣《けつき》盛《さか》んの曲者に薙立《なぎたて》られて堪得《たまりえ》ず流石の九郎兵衞|蹣々《よろ/\》と蹌《よろめ》く處を滅多《めつた》打無念々々と跡退《あとじさ》り既に斯よと見えける處へ惣内は息切《いきせき》と引返し來り爭《あらそ》ふ聲を聞や否《いな》ヤア叔父樣《をぢさん》か惣内か此奴はお里を追駈《おつかけ》し盜賊《たうぞく》なるぞと呼《よば》はるに惣内心得|脇差《わきざし》を拔より早く切付れば流石《さすが》不敵の曲者も二人が太刀先に恊《かな》ひ難く河原の方へ逃行《にげゆき》しが以前の女の彷徨《さまよひ》[#「彷徨」は底本では「彷彿」]居たるを其儘に引抱へ又|駈《かけ》出せば九郎兵衞は遣らじと後より飛《とび》掛れば忌々《いま/\》敷やと惡漢は女を撞《どう》と投出す機會《はずみ》に切込九郎兵衞が刄《やいば》に叫《あつ》と一聲|叫《さけ》び女の體は二ツになり無慚《むざん》の最期に惣内はお里と心得心も空《そら》汝《おのれ》女房の敵《かたき》めと追詰々々切|結《むす》び九郎兵衞|諸共《もろとも》曲者を終《つひ》に其場へ切|伏《ふせ》たり斯て兩人はホツと一|息《いき》吐《つく》處へお里も遁《やが》て駈《かけ》來り其所に御|在《いで》は父樣かといふ聲|聞《きい》てオヽお里か能マア無事でと親子三人|怪我《けが》のないのを悦び合中|遠山影《とほやまかげ》に差|昇《のぼ》る月の明りに透《すか》し見て然すれば此等の者共はと男女の死骸に當惑《たうわく》する色を見てとり九郎兵衞は其方《そのはう》兩人《ふたり》は豫《かね》てより望《のぞみ》の如く江戸へ行《ゆき》充分《しつかり》金を貯《ため》るがよい己も其中後より行んと彼の兩人の着類を剥取《はぎとり》惣内お里へ着替《きかへ》させ跡の始末は斯々と耳に口|寄《よせ》囁《さゝや》きつゝ暫時《ちつと》も疾《はや》く立去れと指揮に點頭《うなづき》夫婦の者は先刻《さつき》盜《ぬすみ》し九助の金の遣ひ殘りを受取て親父樣無事でと打分れ江戸の方へぞ急ぎける斯て九郎兵衞は二人の首《くび》を切落し傍邊《かたへ》に小高き岳《をか》の有しかば小松《こまつ》の根を掘《ほり》て埋《うづ》め又死骸の傍邊へは彼盜し紙入《かみいれ》を落し置是で好《よし》迚《とて》翌朝|領主《りやうしゆ》の役場へ出惣内夫婦昨夜|大井河原《おほゐがはら》下伊呂村にて切殺され罷在《まかりある》由人の知せにより早速《さつそく》馳付《はせつけ》見屆候處全く同人夫婦に相違無之其傍邊に九助の紙入|落《おち》之有《これある》により同人所|業《わざ》と存じ候旨訴へに及びけり茲《こゝ》に又九助の女房お節は今年《ことし》は實母《じつぼ》の七|回忌《くわいき》にも當るに付上|新田《しんでん》村|無量庵《むりやうあん》の住職《ぢうしよく》大源《だいげん》和尚と申は善知識《ぜんちしき》にて人の尊敬《そんきやう》も大方ならずと承まはれば是へ布施《ふせ》を上て回向《ゑかう》を願ひ度と夫九助へ頼みければ九助も其孝心を感じて今金谷村より歸りし草臥足《くたびれあし》をも厭《いと》はず再び白米五升と鳥目《てうもく》二|貫文《くわんもん》を自身に背負《せおひ》行《ゆき》大|源和尚《げんをしやう》へ回向を頼みしかば和尚も其|志操《こゝろざし》を感じ懇切《ねんごろ》に供養《くやう》をなして後九助の額を熟々《つく/″\》と見|貴殿《こなた》は大なる厄難《やくなん》あり是は遁《のが》れ難きにより隨分《ずゐぶん》愼《つゝし》みを第一に致されよと申を聞て九助は大に驚き立歸《たちかへ》りしが途中下|伊呂村《いろむら》の堤《つゝみ》にて一人の武士に出|逢《あひ》たり武士は小腰《こごし》を屈《かゞ》め若《もし》斯樣々々《かやう/\》の女に逢《あひ》給はずやと問掛《とひかけ》られ九助は一向見掛ぬ旨|答《こた》へれば彼者又水呑村に九助殿と申人が御座るかと聞《きく》故《ゆゑ》ハイ其九助は私しで御座ると云に夫は幸《さいは》い某しは松平|玄蕃守《げんばのかみ》家來石川安五郎と申者樣子有て今御|尋《たづね》申處なりと懷中《ふところ》より書簡《てがみ》を出して渡し何れ妻を尋ね出して後其方へ參《まゐ》らんにより其節はよきに頼むと約《やく》しつゝ安五郎は又々後の方へ引返《ひきかへ》しける九助は彼の手紙を見れば島田宿の藤八よりの名宛《なあて》なれば披《ひら》き見るに安五郎|白妙《しろたへ》の兩人を匿《かく》まひ呉《くれ》よとの頼み故其儘懷中なし夜に入しかば急ぎ歸る河原にや何やら跌《つまづ》きしが死骸《しがい》とも氣が付ず行過たり彼の安五郎は九助に分《わか》れ妻の行方を尋る中|彌生《やよひ》の空も十九日|子待《ねまち》の月の稍《やゝ》出て朧《おぼろ》ながらに差かゝる堤《つゝみ》の柳《やなぎ》戰々《そよ/\》と吹亂《ふきみだ》れしも物|寂寞《さびしく》水音《みづおと》高《たか》き大井川の此方の岡《をか》へ來|掛《かゝ》るに何やらん二|疋《ひき》の犬が爭《あらそ》ひ居しが安五郎を見ると齊《ひと》しく咥《くは》へし物を取|落《おと》し何所ともなく逃行《にげゆき》けり安五郎は彼の品《しな》を何やらんと立寄見れば女の生首に犬の齒形の殘りて居れば驚きながら猶《なほ》よく/\見るに見違方《まがうかた》なき白妙《しろたへ》が首故ヤヽ是はと吃驚《びつくり》なし首を抱《だき》上げ胡鷺々々《うろ/\》聲コリヤ白妙|何《どう》いふ事で此有樣何者の所業ぞや何國に影《かげ》を隱すとも此|讐《あだ》を討ずに置べきやと血眼になりて怒《いか》れども歎くに甲斐なき此場の時宜《しぎ》實《げ》に哀《あは》れを止《とゞ》めける [#8字下げ]第六回[#「第六回」は中見出し]  時に後ろの方に當り生者必滅《しやうじやひつめつ》會者定離《ゑしやじやうり》嗚呼《あゝ》皆是|前世《ぜんせ》の因縁《いんえん》果報《くわはう》南無阿彌陀佛と唱ふる聲に安五郎は振返《ふりかへ》り見れば墨染《すみぞめ》の衣に木綿《もめん》の頭巾《づきん》を肩《かた》まで掛け杖に縋りし一人の道人なりしにぞ安五郎は側《そば》に立寄|貴僧《きそう》は何所の御出家なるか知らねども是なるは某《それが》しの妻にて候が如何なる前世の因縁《いんえん》にや今日|※[#「圖」の「回」に代えて「面から一、二画目をとったもの」、714-8]《はか》らずも何者にか首を切られ胴《どう》さへ見えぬ此|形容《かたち》何卒《なにとぞ》御情に御|弔《とむら》ひ下され度と涙ながらに頼みければ出家は點頭《うなづき》其は心|易《やす》き事かな早々《さう/\》生死の迷《まよ》ひを離れて涅槃《ねはん》の道に引導すべければ是より我が庵《いほり》に參られよとて夫より上新田村の無量庵へ同伴《どうはん》なし懇切《ねんごろ》に弔ひければ安五郎は厚《あつ》く禮を述《のべ》其身は故郷《こきやう》へ赴《おもむ》く由申|暇乞《いとまごひ》して立出たり扨又郡奉行松本理左衞門方にては九郎兵衞の訴により九助を早々《さう/\》召捕《めしとる》べしと下|役《やく》手代黒崎又左衞門市田武助の兩人に申付て手先《てさき》の者を召|連《つれ》九郎兵衞の案内《あんない》にて九助方へ踏込《ふみこみ》來り上意と聲《こゑ》掛《かけ》忽ち九助を高手小手に縛《いまし》めければ九助は膽《きも》を潰《つぶ》し是は何事なりやと云けるを役人は發打《はつた》と睨《にら》み何事とは白々《しら/″\》し其方昨夜大井河原下伊呂村の辨天堂《べんてんだう》の前にて先名主《せんなぬし》惣内夫婦を切殺《きりころ》[#ルビの「きりころ」は底本では「きりころし」]したる段《だん》九郎兵衞が注進《ちうしん》に因て明白《めいはく》なれば則ち召捕《めしとる》なりと云ければ九助は彌々《いよ/\》驚て此九助人などを殺《ころ》しましたる覺《おぼ》えは決して御座なく是は定めし人|違《ちが》ひならんと種々《いろ/\》言解《いひとき》ける側《そば》より女房お節も取縋《とりすが》り九助は勿々《なか/\》人殺《ひとごろ》しなど致す者では御座りませぬ何卒御|堪忍《かんにん》成《なさ》れて下されと倶々《とも/″\》に泣詫《なきわび》る斯る處へ譜代《ふだい》の三五郎も馳《はせ》來り其所へ平伏《ひれふし》御役人樣九助儀は勿々《なか/\》人など殺す樣な者では御座りませぬと右左《みぎひだり》より取付|詫《わび》るを役人は其方共の存じたる事に非ずと取て突退《つきの》け九助を引立る故九助は是非なき事と諦《あきら》めお節三五郎の兩人に對ひ必ずともに騷《さわ》ぐに及ばず我が身に覺えなき事なれば御役人樣の前で申|解《わけ》をなし今に戻《もど》ると宥めるを下役《したやく》共は贅言《たはごと》云せず引立よと遠慮會釋《ゑんりよゑしやく》もあら/\しく足輕《あしがる》に繩《なは》を取せ相良《さがら》の城下へ引立行き郡奉行役所の白洲《しらす》へ引出したり此時上座には松本《まつもと》理左衞門下役手代左右に並《なら》び理左衞門|發打《はつた》と睨《にら》みコリヤ九助|汝《おのれ》が伯父九郎兵衞の訴へに依ば其方儀昨夜下伊呂村に於て惣内夫婦を斬殺《きりころ》し後日に知ざる樣|首《くび》を切落し取|隱《かく》し置たる由|有體《ありてい》に白状せよと云ければ九助は首を上《あげ》全く以て然樣の覺《おぼ》え御座なく元來《もとより》惣内夫婦に意趣もなければ殺す道理がと半分《はんぶん》云せず理左衞門は大聲に默止《だまれ》愚人《たはけ》め今朝|檢使《けんし》吟味の節《せつ》死骸《しがい》の傍邊《かたはら》に汝が鼻紙入の落てありしのみならず其紙入の中には島田屋《しまだや》の[#「島田屋の」はママ」]藤八方より汝へ送《おく》りたる手紙も有《あり》殊《こと》に汝の衣服の裾《すそ》に血の付たるを女房に洗はせ庭《には》へ干《ほし》て置たと有是等が確《たし》かな證據《しようこ》なり然れども未《いま》だ爭ふか不屆者《ふとゞきもの》めと言れて九助は彌々《いよ/\》呆《あき》れ果私しの紙入は昨日|金谷《かなや》村|法事《ほふじ》の場所にて紛失《ふんじつ》なし又衣類のすそへ血の付は金谷村の法事より歸りて後再び上新田村の無量庵《むりやうあん》へ相越し妻が實母《じつぼ》の回向《ゑかう》を頼み夫より戻りの途中《とちう》大井村の河原にて宵闇の暗紛《くらまぎ》れに躓《つまづ》きしにて生醉《なまゑひ》の寢て居し事と存じ其儘罷歸り今朝見ればすそは血だらけ故|始《はじめ》て驚きまして御座ると云に理左衞門|其《そ》は胡論《うろん》なる申條言解|暗《くら》いぞ茲を何處と心得て然樣な前後揃ぬ儀を申す全く汝が殺したに相違有まいサア明白《めいはく》に申せ云ぬに於は膝《ひざ》を挫《ひし》ぎ石を抱《だか》せても云するぞと威猛高《ゐたけだか》に叱り付けれども九助は決して僞りは申上ませぬと云を理左衞門は少《すこ》しも聞入ず追々吟味致さんが先今日は入牢《じゆらう》申付るとて此日は調もなかりける扨も九郎兵衞は早く九助を殺して己が科《とが》を遁れんと思ひ田地《でんぢ》を質入《しちい》れなし漸々《やう/\》金を拵へて郡奉行松本理左衞門を始め手代四人へ賄賂《まいない》を遣《つかは》しけるに下役の黒崎《くろざき》又左衞門は異儀《いぎ》なく承知なし又々願上の手續《てつゞき》を内々|差※[#「圖」の「回」に代えて「面から一、二画目をとったもの」、715-16]《さしづ》しければ九郎兵衞は渡りに舟と再び願書《ぐわんじよ》を差出せしゆゑ翌日差紙にて九郎兵衞夫婦並に村役人付|添《そへ》出《いで》る處に九助も牢《らう》より繩付にて引出され又前日の如く嚴《きび》しく責問《せめとひ》けるに九助は夢さら覺えなき事故是は餘の者の仕業《しわざ》に相違之なしと申立れ共理左衞門ナニ惣内夫婦に遺恨《ゐこん》はないと申せども遺恨ありしに違ひないソレ九郎兵衞が願書を讀聞《よみきか》せいとて是を讀むに [#ここから2字下げ、折り返して3字下げ] 一水呑村|先《せん》名主惣内|後見《こうけん》九郎兵衞并に妻《さい》深申上奉つり候|當名主《たうなぬし》九助と申者は私共の甥《をひ》に御座候處|數年《すねん》困窮《こんきう》に付家内相談の上江戸表に奉公|稼《かせ》ぎに罷出候|右《みぎ》留守中《るすちう》は私共并に九助妻里のみ取續《とりつゞき》も相成兼候故右惣内方より時々《じゝ》合力《がふりよく》受《うけ》漸《やうや》くに取續《とりつゞき》罷在候處五ヶ年目に九助歸村仕つり留守中《るすちう》妻《さい》里惣内と不義《ふぎ》致《いたし》候と申立|惡名《あくみやう》相付《あひつけ》私し共親子を追出し候故私し儀惣内方|後見《こうけん》も致し居《をり》候間|介抱《かいはう》人に相成|娘儀《むすめぎ》は惣内妻に致させ候然る處九助儀は江戸表より同道《どうだう》仕つり候哉又は途中《とちう》より連參《つれまゐ》り候哉|節《せつ》と申女を引入《ひきいれ》直樣《すぐさま》後妻《こうさい》に仕つり候全く此節を妻に致《いたす》べく了簡《れうけん》にて私し共親子に惡名《あくみやう》を付《つけ》追出し候儀と存じ奉つり候其後右九助多分の金子にて質地取戻し其上《そのうへ》新《あら》たに田地《でんぢ》買請《かひうけ》當時名主役|仕《つかま》つり候へ共|私欲《しよく》押領《あふりやう》宜しからざる儀共多く有之に付惣内|歸役《きやく》願ひも致させ度《たく》小前《こまへ》の百姓共|時々《とき/″\》寄合も有之由之に依て其等《それら》の儀を無念に存じ當九助|夜《よ》惣内夫婦|金谷村《かなやむら》よりの歸を待受《まちうけ》切害《せつがい》致し首は切捨《きりすて》取隱《とりかく》し候へ共兩人とも衣類に覺え之ある而已《のみ》ならず悴共の事故|手足《てあし》骸等《からだとう》にも覺え之あり相違なき儀に御座候|加之《そのうへ》右《みぎ》死骸の傍邊に九助|紙入《かみいれ》落《おち》有之《これあり》又紙入の中には島田宿藤八より九助へ送り候手紙も有之候事其節御檢使樣方御改め通りに御座候全く九助|儀《ぎ》惣内夫婦を切害《せつがい》致《いたし》候に相違無之儀と存じ奉つり候に付|何卒《なにとぞ》御慈悲を以て兩人の解死人《げしにん》御吟味下《ごぎんみくだ》し置《おか》れ候樣仕つり度依之此段願ひ上奉つり候以上 [#ここで字下げ終わり] [#地から10字上げ]水呑村|先《せん》名主惣内後見 [#4字下げ]享保二年二月廿三日[#地から9字上げ]願人《ねがひにん》    九郎兵衞 [#地から12字上げ]同人《どうにん》妻《さい》 [#地から10字上げ]ふか [#地から10字上げ]親類《しんるゐ》肩書  善兵衞 [#地から9字上げ]仁右衞門 [#地から10字上げ]組頭《くみがしら》肩書  傳兵衞 [#地から9字上げ]木祖兵衞 サア何ぢや汝《おのれ》五ヶ年の間江戸へ奉公《ほうこう》に出し留守中《るすちう》家内の者惣内が扶持を受し恩をも思はず惣内に不義《ふぎ》の汚名《をめい》を負せ己れが外《ほか》にて語合《かたらひ》し女を妻に致さんが爲罪なき伯父の娘恩ある惣内《そうない》へ惡名を付|先妻《せんさい》を離縁《りえん》に及びし段不屆き至極と窘付《きめつけ》るを九助は無念《むねん》の事に思ひ恐ながら全く以て遺恨などとは存も付ませぬ儀にて既《すで》に惣内と不義《ふぎ》ある女房|憎《にく》い奴《やつ》とは存候へ共現在伯父九郎兵衞が娘故義理を考《かんが》へ不義せし者へ金迄《かねまで》付け渠《かれ》が存念通り惣内方へ遣す程の儀に御座れば何しに恨を殘しませうぞ何分|御慈悲《ごじひ》の御吟味《ごぎんみ》願ひ奉つると申を理左衞門《りざゑもん》は默言《だまれ》と叱《しか》り其方伯父九郎兵衞へ金子を遣し一旦《いつたん》奇麗《きれい》に里を離縁《りえん》致したなれ共惣内方へ再縁《さいえん》なせしを見て未練《みれん》を遺せしならん又金子等|遣《つかは》したも定めし扱人《あつかひ》の差略《さりやく》で有う彼是を遺恨《ゐこん》に存じ惣内夫婦の者を殺し疑ひの心を晴ぬ爲に兩人の首を取隱《とりかくせ》し奸計《かんけい》に相違はない恨はないなどと申がコリヤ云譯は闇《くら》い首《くび》は何處へ隱したサア眞直《まつすぐ》に申せと睨《にら》め付るに九助はイヘ決して覺えは御座りません此間《このあひだ》も申上ます通り十九日に金谷村《かなやむら》へ參り又|夕《ゆふ》申刻《なゝつ》過《すぎ》より上新田村に到《いた》りて夜に入|迄《まで》彼方に居し故人を殺したる覺えは御座りません因《よつ》て猶更《なほさら》兩人が首の有處存じ居る筈がと云んとするを理左衞門默止と止めコレ九助其方|他行先《たぎやうさき》が怪しい殊《こと》に願書《ぐわんしよ》の趣きにては其方|名主役《なぬしやく》に[#「名主役に」は底本では「主役に」]相成り私慾を構へ村方難儀に付村役人小前の者共相談の上|退役《たいやく》を願ひ惣内に歸役《きやく》致さんと申|内談《ないだん》を聞無念に存じ惣内夫婦を殺したに相違《さうゐ》ないぞと押付《おしつけ》るに九助は伏《ふく》せずイヘ/\然樣《さやう》な儀は毛頭《もうとう》覺《おぼ》え無之先惣内山林の竹木を隱し伐《ぎり》仕つり其外小前へ勘定に押領《あふりやう》の筋《すぢ》が御座りまして退役《たいやく》仕つりし事は既《すで》に御役所にても御調御座りました儀又私し儀は村役人《むらやくにん》總《そう》百姓の勸《すゝ》めにより餘儀《よぎ》なく親共勤めましたる跡故名主役を相勤めます殊に惣内|歸役《きやく》の相談《さうだん》の儀などは一向承まはりし事も御座なく假令右體の儀御座ればとてそれを遺恨《ゐこん》に思べき筈《はず》もなく右體の儀は跡形《あとかた》もなき僞《いつは》り事と存ずると云語を繼《つぎ》組頭周藏進み出只今名主九助申上まする通り惣内《そうない》歸役《きやく》の相談などと申|儀《ぎ》は勿々《なか/\》思ひも付ぬ事其は九郎兵衞が僞はりにして九助は素《もと》より正直者に御座れば何卒《なにとぞ》御慈悲を願ひ上ますと言を又默言と叱り付汝は何者《なにもの》だと問《とふ》にハイ組頭《くみがしら》で御座ります名は何と云うヘイ周藏と申しますと答ふるに理左衞門コリヤ汝《おのれ》には尋《たづ》ねぬ控《ひかへ》て居れ不埓《ふらち》な奴《やつ》と白眼付《にらみつける》をイエ九助の正直《しやうぢき》なる事は村中の譽者にて誰知らぬ人も御座りませぬと云を理左衞門又|汝《おの》れ口を利《きく》か糺明《きうめい》を云付るぞと威《おど》せば周藏は吃驚し老人の事故|慄《ふる》へ居るを後より三五郎|這出《はいいで》て只今|組頭《くみがしら》周藏申上しに相違なく九助儀は一文一錢の勘定も粗末は御座なく小前《こまへ》の者共へ憐《あはれみ》を掛けと云を理左衞門|默止《だまれ》汝《おのれ》又何ぢやと有れば三五郎はハイ私しは百姓代三五郎と申者で御座りますと云《いふ》に理左衞門ナニ百姓代と申か控て居れと云ふをイヤ控ますまい九助が事は村役人《むらやくにん》へ御|聞《きゝ》なされませ隣村の名主共へ御尋ねなされても日來の行状《ぎやうじやう》は知れますと申を理左衞門|大音《だいおん》に默止《だまれ》三五郎と云をイヘ默止ますまいと云ば何役人へ對ひ不屆の一言牢へ打込《うちこむ》ぞと叱《しか》り付れば三五郎はハイ/\牢へでも檻《をり》でも勝手の處へ入度ば入さつしやい何ぼ御奉行でも理《り》より外《ほか》には御座るまい依怙贔屓《えこひいき》などを云つしやるなと肱《ひぢ》を張ば理左衞門大いに怒りヤイ汝《おの》れ役人に對《むか》ひ再應《さいおう》の口|答《こた》へ不屆《ふとゞ》きな奴ソレ縛《しば》れと差※[#「圖」の「回」に代えて「面から一、二画目をとったもの」、718-11]《さしづ》をなすに三五郎は理左衞門を睨み隨分《ずゐぶん》縛《しばら》つしやい私は痩《やせ》ても枯《かれ》ても三石八斗八升の御|田地《でんぢ》持《もち》水呑村の三五郎と云殿樣の御百姓で御座ります憚《はゞか》りながら然樣《さやう》云《いふ》後《うしろ》ぐらい片贔屓《かたひいき》な御|捌《さばき》は見た事が御座らぬと云うにぞ理左衞門堪へ兼イヤ渠《かれ》を縛《しば》れと云聲の下々《した/\》役人はつと立掛《たちかゝ》るを周藏木祖兵衞種々と詫入《わびいり》漸々《やう/\》三五郎を外の腰掛《こしかけ》へ出しゝかば跡は寂寞《ひつそり》となり理左衞門|大音《だいおん》揚《あげ》コリヤ九助|假令《たとへ》右《みぎ》を左りに云|拔《ぬけ》んと爲る共二十日の朝《あさ》其方が衣類の裾《すそ》へ血汐《ちしほ》を引《ひき》其上|汝《おの》れが紙入藤八よりの手紙が入てありしを落《おと》して置たからには云譯《いひわけ》は有まいぞと言ふに九助は其儀は此|間《あひだ》より申上ます通り私し妻の母の法事《ほふじ》と辯解《いひわけ》せんとするを理左衞門はコレ又同じ事を幾度《いくたび》申たとて辯解《いひわけ》[#ルビの「いひわけ」は底本では「いひかけ」]にはならぬ全く惣内夫婦を殺したに相違なけれど勿々《なか/\》大體《たいてい》のことでは白状《はくじやう》すまじ牢問《らうどひ》申付るぞとて此方を向コリヤ九郎兵衞夫婦氣遣|爲《す》るな子供等が解死人《げしにん》は取つて遣すぞ立て/\追て呼出すと申渡したり [#8字下げ]第七回[#「第七回」は中見出し]  斯《かゝ》りし程に九郎兵衞は理左衞門を始め下役人又々|賄賂《まいない》を遣《つか》ひ奉行へ金十五兩下役人へ三兩づつ牢屋掛《らうやがか》りへ金二分づつを贈《おく》りしゆゑ九助は石を抱《いだ》く事十三度其外種々樣々に品を替て責られし故今は一|命《めい》も危《あやふ》きとの事を妻のお節は聞《きゝ》及び有るにもあられぬ[#「あられぬ」は底本では「あれぬ」]思ひなれば村役人|倶々《とも/″\》お慈悲願ひに出けれども其|度々《たび/\》役場にて叱《しか》りを請る而已《のみ》少《すこ》しも取上らるゝ事などなく又|差添《さしそへ》の村役人共も其|度毎《たびごと》に九助の仕業《しわざ》に之なき趣きを申立れども證據《しようこ》なき故取|上《あげ》られず皆々|歎息《たんそく》の外なかりしに獨《ひとり》三五郎は譜代《ふだい》の主筋《しうすぢ》故何分九助が無實《むじつ》の災難を遁《のが》れさせ度《たく》思ひ此上は家老方へ御|嘆《なげ》き申より外なしと豫々《かね/″\》心掛居ける中|或日《あるひ》本多家の長臣《ちやうしん》都築外記《つゞきげき》中村|主計《かずへ》用人|笠原《かさはら》常右衞門の三人が相良《さがら》の用達《ようたし》町人|織田《おだ》七兵衞が下淀川《しもよどがは》村の下屋敷《しもやしき》へ參られ終日《しゆうじつ》饗應《きやうおう》になる由を聞出し今日ぞ旦那さまをお助申時なりと大に悦び一|通《つう》の願書を認《したゝ》め天へも登《のぼ》る心地にて梅ヶ|橋《はし》といふ處に待|請《うけ》しに聞しに違《たが》はず夜に入《いる》と右三人の供人《ともびと》定紋付《ぢやうもんつき》の箱挑灯《はこちやうちん》を先に立|道《みち》を照して來りける故三五郎は土橋《どばし》の口に平伏し恐《おそ》れながら願書御取上願ひ奉ると差出すを都築外記《つゞきげき》は願の筋有ば其支配の役人より向々《むき/\》の役人へ願ひ出よと差戻《さしもど》せど三五郎は猶さし出し其御役人方御取上げ御座らぬにより據《よんど》ころなく貴所《あなた》さまへ御願ひ申上ますとて動《うご》かねば[#「動かねば」は底本では「動かねが」]籤九|度山《どやま》目付《めつけ》中村|主計《かずへ》はイヤ外記《げき》殿|夫《それ》は取上るに及びますまい打捨《うちすて》て歸られよと云を外記は否々《いや/\》一通り聞たる上相計らはんと屋敷へ連歸り委細《ゐさい》を聞|糺《たゞ》し三五郎が忠義を感心《かんしん》なし家來を付て理左衞門方へ遣はし此者儀は忠義者|故《ゆゑ》能々《よく/\》吟味を遂られよと申送りしかば松本《まつもと》理左衞門も餘儀《よぎ》なく畏《かしこ》まる趣《おもむ》ぎ返答《へんたふ》に及び置《おき》夫より三五郎を呼出し汝|支配《しはい》の奉行を差越《さしこし》御家老|外記《げき》殿へ直訴《ぢきそ》に及び候段|不屆至極《ふとゞきしごく》の奴なりと眼玉《めだま》を剥出《むきだ》し叱《しか》り付ればヘイ如何樣に申上ましても御取|上《あげ》御座らず九助儀は無實《むじつ》の災難《さいなん》に陷ります事見るに堪兼候と云を理左衞門大音上げ默止《だまれ》此方は善惡を糺《たゞ》す奉行|職《しよく》なるぞ私しが事で濟ものか九助事は確乎なる證據有により數日《すじつ》吟味なす所なり如何に土民《どみん》なればとて理非《りひ》を辨《わきま》へぬ申條牢舍申付べき奴なれども彼老|中《ぢう》より忠義の者と申越されし故村役人へ屹度《きつと》預け置《おく》此上|直訴《ぢきそ》にも及ぶ時は村役人共|屹度《きつと》申付ると叱《しか》り散《ち》らし歸しければ三五郎は殘念には思へども今更|仕樣《しやう》もなく寥々《すご/\》と村役人に伴《ともな》はれ我が家へこそは歸りけれ扨《さて》又九助は晝夜《ちうや》嚴敷《きびしく》拷問《がうもん》牢問《らうどひ》に掛《かゝ》り骨節《ほねふし》も挫《ひし》げるばかりに弱り果今は息《いき》も絶々《たえ/″\》と成て頼みなき世の有樣に熟々《つく/″\》思ひ巡《めぐ》らす樣如何なれば掛《かゝ》る無實《むじつ》の罪に罹《かゝ》りし事ぞ是も前世の業因《ごふいん》ならんと斷念《あきらめ》ながらも餘《あま》りと云へば情《なさけ》なし是|全《まつた》く伯父《をぢ》九郎兵衞が賄賂《まいない》を以て役人の手を借《かり》無理無體《むりむたい》に我を殺さんとなす成ん然すれば何程|苦痛《くつう》に堪《たへ》るとも終《つひ》には命を失はずには置れまじ此上は一日も早く苦痛《くつう》を遁《のが》るゝこそ優《まし》ならめ然《さり》ながら如何なる因果の報いにや我|幼少《えうせう》にて父に後《おく》れ艱難辛苦《かんなんしんく》の其中に又母をも亡《うしな》ひしかど兩親の遺言《ゆゐごん》を大事に守り江戸にて五ヶ年の千|辛《しん》萬苦《ばんく》も水の泡《あわ》蟻《あり》の塔《たふ》を組《くみ》鶴《つる》の粟《あは》を喰《くふ》が如く五體の膏血《かうけつ》を絞《しぼ》り蓄《たくは》へたる金が今思へば我が身の讐敵《あだがたき》とは云ものゝ親の勤《つとめ》し村長役《むらをさやく》を勤なば親々が未來《みらい》の悦びと思込しが却て怨みを受る基《もとゐ》となり無實の大|難《なん》を蒙《かうむ》りたるか情《なさけ》なきは九郎兵衞殿如何なる前世の敵《かたき》同士《どうし》か現在《げんざい》血《ち》を分し伯父|甥《をひ》の中で有|乍《なが》ら娘や婿《むこ》が敵《かたき》なりと後家のお深に昏《くる》められ解死人《げしにん》願ひは何事ぞと姑くは人をも怨《うら》み身をも悔《くや》みて泣沈《なきしづ》みしが嗚呼《あゝ》我ながら未練《みれん》なり此上|拷問《がうもん》強《つよ》ければとても存命思ひも寄ず此苦みを請《うけ》んよりは惣内夫婦を殺したりと身に引受て白状なし娑婆《しやば》の苦患《くげん》を遁《のがれ》んものと心を爰に決せしが然《さ》るにても罪に陷り尸《かばね》を野原に晒《さら》さん事我が恥よりも先祖に對し面目なし嘸や跡にてお節を始《はじ》め三五郎等が歎《なげ》くで有んと越方《こしかた》行末《ゆくすゑ》を思ひ遣《や》り又も泪に昏《くれ》し機《をり》丑刻《やつ》の鐘《かね》鐵棒《かなぼう》の音と諸共に松本理左衞門は下役《したやく》二人下男五六人召連|自分《じぶん》獄屋《ごくや》に來り鍵番《かぎばん》に戸口を明けさせ九助を引立て拷問所へ引出し理左衞門は上座《じやうざ》に直り是迄|屡々《しば/\》拷問に及べども酢《す》の蒟蒻《こんにやく》のと云|掠《かす》め今に白状致さぬ故今日は此理左衞門が自身に拷問《がうもん》を見聞せん強情《しぶとい》奴《やつ》めと一|調子《てうし》引上げコリヤ者共九助を拷問せよ一|體《たい》汝等《なんぢら》が手弱《てよわ》い故なり今日は我が見る前なれば責殺しても苦ふないヤイ九助覺悟を致せ湯責《ゆぜめ》火《ひ》責水責|鐵砲《てつぱう》責|海老《えび》熊手《くまで》背割《せわり》木馬《もくば》しほから火の玉《たま》四十八|具《ぐ》の責に掛るぞヤイ/\責よ/\との聲諸とも獄卒《ごくそつ》共ハツと云樣|無慘《むざん》なる哉《かな》九助を眞裸《まつぱだか》にして階子《はしご》の上に仰向《あふむけ》に寢かし槌の枕をさせ荒繩《あらなは》にて縊《くゝ》り付大|釜《がま》に汲《くみ》込みし大川の水を理左衞門|屹度《きつと》見て夫々|嚴敷《きびしく》水を喰はせろ用捨する奴は同罪なるぞときよろつく眼《まなこ》と共に下知し既に水責に及んとする處に九助は豫て覺悟の事なれば是御役人樣先々|拷問《がうもん》を暫く御待下されよと云に理左衞門はイヤ成ぬ此間より數日の責に白状せぬ強情者《がうじやうもの》是非《ぜひ》今日は骨を挫《ひし》き肉を叩《たゝ》きても[#「叩きても」は底本では「叩ぎても」]言さにや置ぬ譫言《たはごと》拔《ぬか》すな夫責よと下知なすを九助は猶も苦《くる》し氣に其責には及びませぬ只今白状致しますと云に理左衞門はナニ白状致すとか然ば眞直《まつすぐ》に白状致せハイ今日迄|種々《いろ/\》と陳《ちん》じましたが我程御役人樣の御察の通り惣内夫婦を殺しましたに相違《さうゐ》御座りませぬ此上は如何樣《いかやう》に御|仕置《しおき》も恨《うら》みとは存ませぬと煮立涙と諸共に白状に及びしかば理左衞門は打笑ひ彌々《いよ/\》夫に相違は有まいな夫見よ疾から然樣申さば責られて痛いめはせぬのに何程《なにほど》僞《いつは》りても天の御|罰《ばつ》人を殺して知れずに居るものかソレ役所へ引廻せとて役所へ引行《ひきゆき》早速《さつそく》下役人に口書を認《したゝ》めさせ白洲に於て是を讀み上る [#ここから2字下げ、折り返して3字下げ] 一|私《わたく》し儀|豫々《かね/″\》遺恨《ゐこん》有之《これあり》候に付三月十九日の夜|下伊呂《しもいろ》村大井川端にて惣内并に同人妻を切害仕り候に聊《いさゝ》か相違|無之《これなく》恐入《おそれいり》奉《たてま》つり候之に依て如何樣の御仕置に仰付られ候とも御領主樣《ごりやうしゆさま》へ對し御恨《おんうらみ》は少も御座なく候以上 [#ここで字下げ終わり] [#地から11字上げ]水呑村名主 [#4字下げ]享保二年四月廿四日[#地から11字上げ]九助 理左衞門コリヤ九助サア爪印《つめいん》致せと書付を差出《さしいだ》せば九助は是を見てワツとばかりに血の涙を流しながら爪印を爲《なし》たりけり因てり理左衞門は早速《さつそく》九郎兵衞夫婦を呼出し兩人に向ひ其方共願ひに因て九助を段々《だん/\》吟味致す處其方|悴《せがれ》惣内夫婦を大井河原に於て殺害《せつがい》致したる段相違なき趣き白状《はくじやう》に及ぶ同日|口書《こうしよ》爪印|相濟《あひすみ》たる上は近々《きん/\》所刑《しおき》仰付らるゝ惣内夫婦の解死《げし》人は取て遣《つか》[#ルビの「つか」は底本では「つかは」]はすぞ然樣に相心得よと然も爲《し》たり面《がほ》に申ける九郎兵衞夫婦は有難き旨を申上九助を八打《はつた》と睨《にら》みサア九助汝は/\憎《にく》き奴なり御役人樣の御|蔭《かげ》曇《くも》らぬ鏡に移るがゆゑ神國の御罰にて今白状に及びたるが能氣味なりと罵《のゝし》るを女房お深も倶々《とも/″\》にコレ九助|能《よく》も嫁のお里に惡名を付け其上に悴惣内夫婦の者を殺したる爰な大|惡人《あくにん》めと泣聲に成て窘付《きめつけ》れども九助は只《たゞ》眼《め》を閉《とぢ》て物言ず居たりしは誠に覺悟を極しと見え最《いとゞ》哀《あはれ》ぞ増《まさ》りける [#8字下げ]第八回[#「第八回」は中見出し]  偖《さて》も郡奉行松本理左衞門は夫々申渡し相濟《あひすみ》早《はや》退座《たいざ》せんとなしける處に百姓三五郎申上ますと云ながら白洲《しらす》へ飛込《とびこむ》ゆゑ下役どもソレと取押《とりおさへ》[#ルビの「とりおさへ」は底本では「とりおさ」]るを猶も聞入ず大音《だいおん》揚《あげ》今は何をか隱《かくし》申さん惣内夫婦を殺せしは全く私しなり何卒《なにとぞ》御所刑に仰付《おほせつけ》られ下さるべしと云ば理左衞門は面色を變三五郎を白眼《にらみ》其方は先達《せんだつ》て前後|揃《そろ》はぬ儀を家老中へ直訴《ぢきそ》に及び甚だ不屆《ふとゞ》き至極に付入牢申付べき奴なれ共|古主《こしゆ》九助が事の願ひ忠義らしく聞ゆる故村役人に預け遣はしたり然るに又|右體《みぎてい》の儀を申出る段《だん》不埓《ふらち》なり村役人共其奴を引立歸れ御取上は無ぞと叱り付るを三五郎は否々彼の人殺しは私しに相違なく夫を人違ひ成れては御役儀が立ますまいと窘《きめ》付れば理左衞門は爰な強情者め其惣内夫婦を殺しましたは私しに相違《さうゐ》ないと既《すで》に九助が白状に及び口書《こうしよ》爪印迄《つめいんまで》相濟たり夫を今更人殺は汝なりと名乘出る事|狂氣《きやうき》でも致したか然なくば最初《さいしよ》九助|入牢《じゆらう》中の節《せつ》何故《なぜ》名乘て出ぬ此奴察する處人殺は汝《おのれ》なりと忠義めかして名乘出るならば九助めは助る事も有うかなどとの奸計ならん早々村役人共引立よと言《いふ》に三五郎は又否決して立ますまい私しも解死《げし》人に成事を好んで出しからに筋《すぢ》の無事は申立ず素《もと》より九助は慈悲深き生れ付故勿々人など殺すべき者に之なく全く拷問《がうもん》の嚴しきと私しを助《たす》け樣との兩條にて白状致せし事に相違《さうゐ》なく既に九助が今日|口書《こうしよ》と聞えし故科なき者を殺すは如何にも不便《ふびん》に付止を得ず名乘出しなり因て下死人は此三五郎めに聊《いさゝか》も違ひ御座らぬと白洲に鰭伏《ひれふし》少しも動かねば役人は勿論《もちろん》村役人共持餘し叱りつ宥《なだ》めつ漸々に白洲を引立|公事《くじ》人の溜《たま》りへ引出したり時に九助が女房お節は今日九助が白状《はくじやう》に依て口書《こうしよ》爪印《つめいん》相濟《あひすみ》近々所刑になるとの事を聞《きゝ》狂氣《きやうき》の如く悲《かな》しみ歎きしが切《せめ》ては夫の命乞をせんものと相談の爲島田宿の水田屋藤八が許《もと》へ行んと駈出《かけいだ》せし途中にて折《をり》よく藤八に出會《であひ》ければお節は大いに悦び九助は斯々なりと咄すに藤八も然《され》ばなり私も其事にて出來りしと云つゝ兩人同道して直に役所へ來りしに白洲は引たれども外の溜《たま》りの中に九助は繩付《なはつき》の儘《まゝ》居けるを見て藤八お節は走り寄《より》問《とは》んとすれど迫《せま》り來る涙に言葉もなかりけり [#2字下げ]牢内《らうない》より出入の節|科《とが》人の側《そば》へ親戚《みより》を寄《よす》る事は法度《はつと》なれど江戸と違《ちが》ひ村方の人足のみにて知り合《あひ》の百姓ども故知らぬ顏にて煙草《たばこ》くゆらし居たりしとぞ 扨も九助は數日《すじつ》拷問《がうもん》の苦痛《くつう》に堪兼《たへかね》身に覺えなき人殺しの罪を白状に及ぶ程のことなれば總身《そうしん》肉《にく》落《おち》頬骨《ほゝぼね》高く眼は窪《くぼ》み色|蒼然《あをざめ》髯髭《ひげ》蓬々《ぼう/\》としたる體彼の俊寛僧都《しゆんくわんそうづ》が鬼界ヶ島の俤《おもか》げも斯《かく》やとばかり思はれて藤八お節も目も眩み心も消え入る體なりしが漸々《やう/\》に涙を拂《はら》ひて藤八に摺寄《すりより》コレ九助殿變り果たる此姿見るに付ても日々の拷問《がうもん》苦痛《くつう》は嘸《さぞ》かしと思ひ遣《やら》るゝなり併ながら何云譯で人殺しと白状致されしやら如何に責《せめ》らるゝが苦《くる》しいとて殺しもせぬ者を殺したとは辛抱《しんばう》甲斐《がひ》のなき事ぞ假令《たとへ》骨《ほね》が舍利《しやり》になればとて知らぬ事は何處迄《どこまで》も知らぬとは何故云はれぬぞと云を九助は聞終|瀧《たき》の如く涙を流し是は/\藤八樣御|心切《しんせつ》なる其お詞《ことば》素《もと》より人は殺さねど日々夜々の拷問《がうもん》嚴《きび》しく假令《たとへ》白状なさねばとて迚《とて》も助かる命《いのち》にあらずと斷念《あきらめ》し故一時も早く此世の苦痛を遁んと覺悟を極《きは》めし此九助|皆《みな》是迄《これまで》の約束|事《ごと》コリヤお節是が一|生《しやう》の別れぞと聞てお節は殊さらに絶入《たえいる》ばかりに泣伏を藤八はコレ/\お節|何《どう》した者だ切《せめ》て九助が死なぬ中|逢《あは》せて遣度《やりたく》漸々《やう/\》と是迄|折角《せつかく》駈《かけ》付しに何にも言ず泣《なき》居ては切角《せつかく》逢し甲斐《かひ》もなし云|度《たき》事の有ならば早《はや》く云てと急立るにお節は漸々顏を上《あげ》夫《をつと》の姿を打まもり又も玉なす涙の雨《あめ》聲さへ出ず縋《すが》り寄《より》私も一所に死にたしと身を慄《ふる》はして歎く體《さま》道理《ことわり》せめて哀れなり九助も瞼《まぶた》を屡瞬《しばたゝ》き是お節|其方《そなた》は此九助と夫婦に成たるは前世《ぜんせ》よりの惡縁ならん我は天地の神祇《しんぎ》も照覽《せうらん》あれ人など殺せし覺えは露聊《つゆいさゝ》かもなきなれど是皆伯父九郎兵衞が惡巧《わるたく》みより無實の罪に陷《おちい》る事と推量《すゐりやう》はなしながら證據《しようこ》なき故|辯解《いひわけ》立《たゝ》ず是と云も先立れし親々への孝行と思ばこそ不義|淫奔《いたづら》せし先妻《せんさい》お里憎ひ奴とは思へども眼前伯父の手前もあり向ふよりこそ取る金を此方《こつち》からして金まで付|離縁《りえん》なしたる其|情《なさ》けは結句《けつく》此身の仇《あだ》となり役人|衆《しう》の詞にも所詮《しよせん》存命《ぞんめい》協《かな》はぬと云れしなれば此|覺悟《かくご》然《され》ど其方は此事の御|咎《とがめ》はよも有まい程に御所刑濟ば田畑《でんばた》居屋敷《ゐやしき》家作《かさく》家財《かざい》は其方へ下さるゝで有うゆゑ殘らず其を賣代《うりしろ》なし其金を持《もち》藤八樣へ相談申て何方なりと再び縁を求《もと》めよや其後|自然《しぜん》我事を思ひ出せし日もあらば只一|遍《ぺん》の回向《ゑかう》をと云ばお節は恨《うら》めしげに九助の面《かほ》を打まもり夫は又|聞《きこ》えぬ仰《おほせ》ぞや御前に別れて外々《ほか/\》へ縁付《えんづく》やうな私ぢやない氣の弱《よわ》い事を云ず共コレ父樣《とゝさま》何卒《どうぞ》九助が命乞《いのちごひ》をと云後より下役《したやく》立出コリヤ/\科人《とがにん》へ逢せて遣るは役人の慈悲《じひ》くど/\と何時迄《いつまで》居るのだサア立々と聲を懸《かけ》るに藤八は懷中より金二分を出し密と袂《たもと》へ入れ何分にも九助が事お慈悲の御取扱《おとりあつか》ひを願ひ上ますと慇懃《いんぎん》に申ければ下役人|點頭《うなづき》否《いや》夫は案じるな囚人《めしうど》は大切に致さねば成《なら》ぬことは上《かみ》からも再應《さいおう》御|觸《ふれ》の有儀なり併し今|遇《あは》せた事は他へ云まいぞと徐々《そろ/\》九助を引立れば藤八お節は何分《なにぶん》にもと挨拶《あいさつ》なし兩人は九助を見送るに九助も此方を振返《ふりかへ》り互ひに見交《みかは》す顏と顏|是《これ》今生《こんじやう》の暇乞《いとまごひ》と三人が涙は玉霰《たまあられ》見送り見返り別れけり藤八は我と心を勵《はげ》まして宜々《よし/\》お節是からは御|家老邸《からうやしき》へ駈込《かけこん》で藤八が命を的《まと》に今《いま》一度御願申て此公事を引繰返《ひつくりかへ》さで置べきや然樣《さう》ぢや/\と立上るを私も倶《とも》に命を的《まと》とお節も續《つゞい》て立上り是非ともお願ひ申た上お聞入《きゝいれ》のない時は御家老樣の御|玄關《げんくわん》で其儘|舌《した》を喰切《くひきり》つゝ死して夫の身代《みがは》りにと云ば藤八|打點頭《うちうなづき》オヽ能《よく》云た其|位《くらゐ》度胸《どきよう》を据《すゑ》ねば裁許《さいきよ》は破れぬサア/\來いと出立る機會に此所へ息せきと島田宿なる問屋場《とひやば》の五助と言《いふ》者|駈《かけ》來り大汗《おほあせ》たら/\コリヤ藤八殿々々々名主樣より至急用《しきふよう》の御手紙早々御歸りなされましと聞て藤八|何事《なにごと》と状箱《じやうばこ》取上《とりあ》げ開き見れば [#ここから2字下げ] 急使《きふし》を以|啓達《けいたつ》令《せし》め候|豫々《かね/″\》道中御奉行樣御|觸《ふれ》有之候將軍|家《け》御|代替《だいがは》り御|巡見使《じゆんけんし》松平縫殿頭《まつだひらぬひのかみ》樣|梶川《かぢかは》庄右衞門樣御|先觸《さきぶれ》參り來月《らいげつ》中旬頃《ちうじゆんごろ》御|止宿《ししゆく》の由に御座候尤も此度は先々の御巡見とは違ひ格別《かくべつ》に御|念《ねん》も入|公事訴訟《くじそしよう》其外|奸曲《かんきよく》私欲《しよく》の節も御|糺明《きうめい》有之に付所々より願ひ出候者も多く御手間取成れ候由故|道端《みちばた》譜請《ふしん》御|宿割等《やどわりとう》申付候之に依て貴樣《きさま》早々《さう/\》歸宅《きたく》致さるべく候以上 [#ここから4字下げ] 四月廿四日[#地から6字上げ]名主  儀右衞門 [#地から5字上げ]問屋  六郎右衞門 [#ここから8字下げ] 水田屋藤八殿 [#ここで字下げ終わり] と讀上しが此藤八は旅籠屋《はたごや》肝煎と言宿人足の世話をもしける故是は又惡い處へ御巡見《ごじゆんけん》ハテ急に歸らねば成《なら》ずコレ五助や御巡見樣は未《ま》だ山向《やまむかう》かハイ藝州の御飛脚《おひきやく》の噺には櫓澤《やぐらざは》通りが一昨日頃で有うと申ましたと聞《きい》て藤八ハテ御巡見《ごじゆんけん》街道《かいだう》は櫓澤《やぐらさは》竹の下スリヤ今頃は沼津吉原富士の根方邊と手を組で思案《しあん》の容子成《ようすなり》しが礑《はた》と横手を拍《うち》是お節願うてもなき幸ひが出來たぞ嗚呼《あゝ》是が矢張《やつぱり》天道樣の御|助《たす》けぢやヤレ嬉しや忝《かたじ》けなやサア己と一所に來やれと云どお節は合點《がてん》行《ゆか》ずデモマア九助が切れる故御家老樣へと半《なか》ばも云《いは》せずナニ願ひも糸瓜《へちま》も入ものかと云節[#「云節」はママ]お節は未だ解せずデモ爪印《つめいん》が濟だ上は捨て置たら夫の命《いのち》夫《それ》故|御駕籠《おかご》へ駈付《かけつけ》てと藤八一人呑込でお節を急立《せきたて》連行《つれゆく》にぞお節は一向樣子が解らず父樣《とゝさま》何處へ行のだと不審の顏に藤八はハテ知れた事今度の御|巡見《じゆんけん》使は上樣の御代替りの御名代云ば昔《むかし》の最明寺《さいみやうじ》諸國の善惡《ぜんあく》聞糺《きゝたゞ》す爲にと御座る御役人九助が事を御駕籠訴《おかごそ》に行《ゆく》か行ぬか天下の吟味|叶《かな》はぬ迄も願つて見ん夫で行ねば是非もない夫《をつと》が大事《だいじ》と思ふなら己と一所に願ひ出よと聞てお節は飛立《とびたつ》思ひ夫なら父樣|寸時《ちつと》も早ふ御駕籠訴とやら云事をイヤサ何も彼も己に任《まか》せて一|所《しよ》に來い細工《さいく》は流々《りう/\》仕上《しあげ》を見やれサア/\早く支度してと云にお節も一|生懸命《しやうけんめい》村役人へ預《あづけ》の身なれど跡は野となれ山坂を足に任せて走り行相良の城下を放れつゝ夫九助が命乞《いのちごひ》と思ふ計りの力草《ちからぐさ》島田宿迄一息に來りし頃は夜も戌刻《いつゝ》水田屋へこそ着にけり [#8字下げ]第九回[#「第九回」は中見出し]  斯《かく》て藤八はお節を同道《どうだう》して島田宿の我が家へ歸り宿場《しゆくば》の用向《ようむき》萬事の儀は弟岡崎屋藤五郎へ頼み置《おき》寄場《よせば》へ人を走らせ雲助|頭《がしら》信濃《しなの》の幸八を呼寄《よびよせ》駕籠《かご》二|挺《ちやう》人足三人づつ尤も通し駕籠なれば大丈夫《だいぢやうぶ》な者をと云《いふ》に幸八は委細《ゐさい》承知《しようち》なしシテ又親方|何處迄《どこまで》御出と聞《きく》に藤八は然《され》ばサ先は確《しか》と知れぬが大概《おほかた》箱根|前後《ぜんご》位《ぐらゐ》と思へば能《よし》と云を聞て幸八は心得《こゝろえ》其夜の中に部屋《へや》から撰《えらん》で呉服屋の六|團扇《うちは》の源|入墨《いれずみ》七箱根傳助小僧の吉品川の松|抔《など》何《いづれ》も當宿の腕《うで》こき六人|體《からだ》へは赤合羽《あかがつぱ》を羽折《はをり》各自向ふ鉢卷《はちまき》をなし腰《こし》に挾《はさみ》しは叺莨入《かますたばこいれ》手には竹の息杖《いきづゑ》を携《たづさ》へ曉寅刻《あけなゝつ》に皆門口へ來て親方御支度は宜《よし》かと大聲に云ば水田屋の家内《かない》は立出是は御苦勞々々々今|旦那《だんな》は御出なさると云中藤八出來りしが先其|打扮《いでたち》は紺縞《こんじま》の上田の袷《あはせ》に紺紬《こんつむぎ》の盲縞《めくらじま》の羽織|濃《こひ》御|納戸《なんど》の半合羽を着|鮫鞘《さめざや》の大|脇差《わきざし》を帶し晒《さらし》の手拭を首に捲付《まきつけ》門口へ出て何も太儀《たいぎ》今度は此の藤八が一世一代命を的《まと》の願ひ筋《すぢ》娘を連て行《ゆか》ねばならぬ近くて沼津《ぬまづ》か三島《みしま》遠《とほ》くて小田原|大磯《おほいそ》なり夫迄は行まいが太儀《たいぎ》ながら手前|達《たち》精《せい》出して呉《くれ》骨は盜《ぬすま》ぬと云に雲助共聞て口々に何親方の事だから斯《かう》云《いふ》時にでも骨《ほね》を折《をら》ずば何時恩を返すときが有うナアと云時下女が熱《あつ》がんの酒と茶碗を持出《もちいだ》せば雲助どもは是は有難う御座りますと手ん/″\に五六|杯《ぱい》ヅツ引《ひつ》かける所へ藤八ソレ肴《さかな》と銘々《めい/\》に金二分|宛《づつ》遣《やる》に雲助はイエ親方是は入やせんと辭退《じたい》なすを馬鹿を云な肴《さかな》が無《なく》て呑《のま》れるものか又骨折は別だぞと云中お節も出來たるに女房娘を始めとして皆々|門《かど》へ送り出|風呂敷包《ふろしきづつみ》は駕籠に付サア/\急いで遣《やつ》て呉《くれ》と云に何れも合點《がつてん》と二|挺《ちやう》の駕籠を舁上《かきあげ》れば御機嫌能《ごきげんよ》うと一同に見送る中に女房は呉々《くれ/″\》お節が頼み事|首尾能《しゆびよく》成就《じやうじゆ》なす樣にと云に藤八|莞爾《につこ》と笑ひ其處《そこ》に拔《ぬか》りが有者かと夜明烏《よあけがらす》と諸《もろ》ともに寢《ね》ぐらを放れ行《ゆく》空《そら》は花の島田を後《うしろ》になし急《いそ》ぐに瀬戸《せと》の染領《そめりやう》や清《きよ》き小川を打渡り心は正直《しやうぢき》一|遍《ぺん》の實意ぞ深き洲崎村《すさきむら》五里の八幡《やはた》も駕籠の中|祈誓《きせい》を籠《こめ》し櫻山|巡《めぐ》る麓《ふもと》に風|薫《かほ》[#ルビの「かほ」は底本では「ほを」]る時は卯月《うづき》の末の空花の藤枝《ふぢえだ》はや過て岡部に續く宇都《うつ》の山|蔦《つた》の細道|十團子《とほだんご》夢か現《うつゝ》にも人にも遇《あは》ぬ宇都の谷と彼の能因《のういん》が昔を今に振《ふり》も變らぬ梅若葉|鞠子《まりこ》の宿を通り拔|阿部川《あべかは》にこそ來りけれ藤八お節の兩人は傍邊《かたへ》の茶屋へ駕籠を下《おろ》させ暫時|憩《いこ》ひながら藤八は茶屋の亭主に向ひ此度|公方樣《くばうさま》御代替の御巡見樣《ごじゆんけんさま》御通りの由|最《もう》何處《どこ》らまで御出成れたで有うと問に茶屋の亭主はハイ此間からの騷《さわ》ぎで御座りますが未だ此邊《このへん》へ御出は御座りませぬ併《しかし》昨日|雲州《うんしう》の御飛脚《おひきやく》が咄《はなし》には箱根を一昨日とやら御|越《こし》成《なさ》れまして富士の根方廻はりが二三日掛ると仰られましたから今日|邊《あた》りは三島で御座りませうと云を聞と等く藤八は又々|夫《それ》急《いそ》げと聲を懸《かけ》るに雲助ども合點《がつてん》と駕籠|舁上《かきあぐ》れば木枯《こがらし》の杜《もり》を那方《あなた》に此方なる賤機山《しづはたやま》を心指て行手は名に負駿河の府中|午刻《まひる》も過て巴河《ともえがは》音《おと》にぞ知るゝ濱續《はまつゞ》き清水|久能《くのう》は右の方は左にとりて富士見山|茂《しげ》る夏野の草薙《くさなぎ》の宮を力に伏拜《ふしをが》み江尻《えじり》の宿や興津川《おきつがは》薩陲峠《さつたたうげ》は七ツ過|手許《てもと》も暗《くら》き倉澤の間《あひ》の建場を提灯|燈《つけ》由井の宿なる夷子屋《えびすや》に其夜は駕籠を舁込《かきこん》だり斯て藤八宿屋の主《あるじ》に委細《ゐさい》の樣子を聞くに今宵は原の御泊なりと云に漸々《やう/\》心も落付《おちつき》夫より願書を認め是お節明日中には御巡見樣《ごじゆんけんさま》方へ御願ひ申上るにより必ず氣を大丈夫に持申上る事を能考へ置と云ばお節は彌々《いよ/\》打喜び實《まこと》に何から何まで厚い御世話有難う御座りますと言けるが終夜《よもすがら》寢《ね》も遣らず心|急《せく》儘《まゝ》一番|鳥《どり》の鳴《なく》や否や起出つゝ支度調へ藤八|諸共《もろとも》曉《あけ》寅刻比《なゝつごろ》より宿屋を乘出し蒲原《かんばら》の驛外《しゆくはづれ》にて夜も明渡《あけわた》り辨慶《べんけい》清水六代御前松並木も打越て岩淵《いはぶち》の渡りに來り暫時《しばし》休息なし頓《やが》て富士川の逆卷《さかまく》水も押渡り岩をも徹《とほ》す念力《ねんりき》の岩手の村や四日市見上る方は富士の峯|夫《をつと》の命《いのち》取止《とりとめ》て鶴芝《つるしば》龜芝青々と齡《よはひ》ぞ永く打續き麓の裾野《すその》末廣く天神山や馬場川口|柴橋《しばはし》大宮|木綿島《もめんじま》吉原|驛《じゆく》も打過て日脚《ひあし》も永き畷道《なはてみち》未刻《ひつじ》下《さが》りに來懸たり斯る折から遙か彼方より露拂ひ右左に立下に/\笠をとれ馬の牽綱《ひきつな》を詰《つめ》よと制《せい》し來れるは將軍家|御朱印《ごしゆいん》入《いれ》の長持なり藤八は未だ御巡見使《ごじゆんけんし》の來らるゝとは思はぬ故|傍邊《かたへ》の馬士《まご》に對《むか》ひ何方樣《どなたさま》の御通行ぢやと問に馬士は打笑ひ是を知られぬか御順見樣ぢや疾《はや》く下《おろ》さツしやれと云を聞藤八は何|御順見樣《ごじゆんけんさま》ぢやヤレ嬉しやと駕籠から轉《ころ》げ落ぬ許《ばか》りに下立《おりたち》コリアお節サア/\己《おれ》と一所に此方に居やれと道の傍邊《かたはら》に兩人|跪居《つくばひゐ》る中麻上下を着せし驛《しゆく》役人ども先に立下に/\と往來の者を制しながら來るに程なく正使《せいし》御目付代御使番高二千石松平縫殿頭殿|先箱《さきばこ》赤熊《しやくま》二本道具|徒士《かち》小姓《こしやう》馬廻り持槍は片鎌の黒羅紗|長柄《ながえ》簑箱《みのばこ》對箱《つゐばこ》草履取引馬|鞍覆《くらおひ》は黒羅紗丸に蔦《つた》の紋所《もんどころ》引續いて公用人給人其外上下七八十人萬石以上の格式《かくしき》なり副使《ふくし》は御勘定梶川庄右衞門殿槍挾箱長柄其外引揃へ行列正しく通行あるに藤八は夫と見るより豫《かね》て用意の訴状《そじやう》を青竹に挾《はさ》み往來の傍らに平伏なし大音上で願ひ上ますと青竹を差出せば松平|縫殿頭《ぬひのかみ》殿駕籠を止めよと聲を懸《かけ》らるれば駕籠脇《かごわき》の侍士石井彌兵衞右の訴状を受取り駕籠《かご》の中へ差出すを縫殿頭殿一通|披見《ひけん》致され彌兵衞兩人を是へ呼《よべ》と申さるゝに彌兵衞は畏《かしこ》まりコリヤ兩人共近ふ出よとの指揮《さしづ》に隨ひ藤八お節ハツと進みて平伏す時に縫殿頭殿コレ彌兵衞|其所《そこ》にて樣子を聞《きけ》と願書を渡されしかば彌兵衞は左の手に願書を持ちながら跪踞《つまだち》其方儀は願書の面《おもて》に有《ある》通り當國島田の藤八と申者か又夫なる女はと問に藤八ハツと答へ是は私が養女節と申者にて遠州|榛原郡《はいばらごほり》相良領《さがらりやう》水呑村九助妻なりと申立れば縫殿頭殿是を聞《きか》れ其方共顏を上よと有しに兩人は恐る/\少し面《かほ》を上《あぐ》る時|駕籠《のりもの》の中より熟々《つく/″\》と見らるゝに(此時は所謂《いはゆる》誠心《せいしん》の虚實《きよじつ》眞僞《しんぎ》面《おもて》に表《あらは》るゝを見分る緊要《きんえう》の場なりとぞ)兩人は氣を詰《つめ》て控《ひか》へながら願書御取上の有無《うむ》は如何や又|咎《とがめ》にても蒙《かうむ》る事|歟《か》と心配し居しに頓《やが》て縫殿頭殿彌兵衞を呼れ兩人が體を見るに僞らざる樣子|自然《しぜん》面に顯《あらは》るゝにより願書の趣き一通り糺明《たゞし》遣《つか》はせと言《いは》れ駕籠をと有に徐々《しづ/\》乘籠《のりもの》を舁出《かきいだ》すにぞ彌兵衞は跡に殘り其方どもの訴状御取上げ是ある間今夜の御本陣《ごほんぢん》は吉原|驛《じゆく》なるにより汝等同所に到り下宿して御沙汰を相待べしと申渡すを兩人ハツと鰭伏《ひれふす》時《とき》彌兵衞は吉原驛の役人を呼|那《あれ》なる兩人の者共|今宵《こよひ》御吟味の筋《すぢ》有之に付其方共に屹度《きつと》預《あづく》る間願人共を粗略《そりやく》に致すなと申渡し其|儘《まゝ》駕籠に追尾《おひつき》けり然《され》ば藤八はヤヽ御取上下さると歟ハヽア有難や嬉しやと涙を流し頭を大地へ摺付々々《すりつけ/\》伏拜《ふしをが》めばお節も餘りの嬉しさにウンと後へ仰向反《のけぞり》し儘《まゝ》暫《しば》し正氣を失たり [#ここから2字下げ] 俚諺《ことわざ》に富《とみ》を取て目を廻し身代に苦みし者|漸々《やう/\》金の蔓《つる》に有付《ありつき》ヤレ/\嬉しやと思ひ病氣付事あり是心の弛《ゆるみ》より出るとかや茲に畏くも 人皇百九代 後水尾《ごみづのを》天皇には至て和歌を好ませられ後々《のち/\》三十六|歌仙《かせん》を御|撰《えら》み遊ばされし事あり此事|世《よ》の人の知る所なり時に元和《げんな》九年徳川二代將軍家御|上洛《じやうらく》あられしかば京都の繁華《はんくわ》前代未聞《ぜんだいみもん》なり然るに其年の十月頃時の關白《くわんぱく》二條左大臣殿の諸大夫《しよたいふ》にて[#「諸大夫にて」はママ]取高《とりだか》七石二人|扶持《ふち》なる河島伯耆守《かはしまはうきのかみ》と云る人|或日《あるひ》只一人|祇園《ぎをん》の社へ參詣なし祇園|豆腐《どうふ》と云を賣る家に立寄しに一人の女|早々《さう/\》膳《ぜん》を持出いざ御上り成れましと出す時その女 [#ここから4字下げ] 雪《ゆき》ならば梢《こずゑ》にとめてあすや見《み》んよるのあらしの音《おと》ばかりして [#ここから2字下げ] と詠《えい》じける故|流石《さすが》公家《くげ》の侍士《さふらひ》感心し腰《こし》の墨斗《やたて》を取出し今一度|吟《ぎん》じ聞せよと云に女は恥らひし體にて口籠《くちごも》るを河島|其方《そち》の名は何と云ぞと聞に女はヘイかぢと申ますと答しかば夫より河島立歸り二條殿へ右の歌を差上しに二條家|御感《ぎよかん》の餘り其|儘《まゝ》奏聞《そうもん》なし給へば賤敷《いやしき》女にも斯《かゝ》る風流《ふうりう》有けるよと即座《そくざ》に御|歌《うた》所へ遣《つか》はされ歌仙《かせん》へ加《くは》へさせられ又|北面《ほくめん》北小路《きたこうぢ》從五位下|東大寺《とうだいじ》の長吏《ちやうり》[#ルビの「ちやうり」は底本では「ちやうし」]若狹守藤原保忠《わかさのかみふぢはらやすたゞ》 勅使《ちよくし》として祇園へ至《いた》り 勅使なりと聲を掛ければ茶屋にては吃驚《びつくり》なし狼狽《うろたへ》廻るを 勅使は此家に梶《かぢ》と申女|居《を》る由此所へ出《いだ》しませいと云るゝに彌々《いよ/\》仰天《ぎやうてん》しながら何事やらんと漸々《やう/\》連出しかば 勅使は其方は冥加《みやうが》に叶《かな》ひし者|哉《かな》汝が詠歌《えいか》殿下《でんか》へ相聞え其上 當吟《たうこん》の 叡覽《えいらん》に備《そな》へられし所|名歌《めいか》なりとて仙歌へ御|加《くは》へ遊ばされ猶《なほ》又 叡感《えいかん》の餘り 御|宸筆《しんひつ》を下し置《おか》る有難く頂戴《ちやうだい》せよと函《はこ》を出せばおかぢは押戴《おしいたゞき》拜見《はいけん》して涙を流し斯る卑《いやし》き賤《しづ》の女《め》が腰折《こしをれ》も和歌の徳《とく》とて恐多《おそれおほ》くも關白殿下《くわんぱくでんか》へ聽えしも有難さ云ん方なきに況てや十|善《ぜん》萬|乘《じよう》の君より御|宸筆《しんぴつ》とはと云つゝ前へがツくり平伏《へいふく》致すと思ひしに早晩《いつしか》死果《しにはて》居《ゐ》たりしとぞ依て遺骸《なきがら》は洛外《らくぐわい》壬生《みぶ》の法輪寺《ほふりんじ》に葬《はうむ》り今におかち女の墳《はか》同寺《どうじ》にありて此|和歌《わか》殘《のこり》けるとかや [#ここで字下げ終わり] 然ばお節が目を暈《まは》せしとて大騷動《おほさうどう》となり人々|立騷《たちさわ》ぐにぞ縫殿頭《ぬひのかみ》殿是を聞れ女が心底《しんてい》を感心有て印籠《いんろう》の中なる氣付を出し駕籠脇《かごわき》の者に渡され立歸りて是を與へよとありしにぞ駕籠脇《かごわき》の侍士《さふらひ》立|戻《もど》りて彼の藥《くすり》を與へしかば藤八は押戴《おしいたゞ》き重々《ぢう/\》有難き仕合なりとて宿役人|倶々《とも/″\》介抱《かいはう》なせしに漸々《やう/\》氣の付ければ驛《しゆく》役人同道にて直《すぐ》に吉原|驛《じゆく》伊豆《いづ》屋|甚《じん》助方へ到《いた》り本陣の御沙汰を今や遲《おそ》しと待居たり既に其|日《ひ》も暮近《くれちか》き頭一人|足輕《あしがる》八ツ字蔦《じつた》と云字の目引《めひき》に紺《こん》の看板《かんばん》着《き》たる小《こ》者を連て伊豆屋へ來り藤八お節|同道《どうだう》致すべしと云渡せば兩人は驚破《すは》やと悦び宿役人同道して本陣の勝手《かつて》口へ廻り右の段を申|込《こみ》けるに良《やゝ》あつて是へ通せと有ければ本陣の次の縁側《えんがは》先へ兩人を呼出す此時|正面《しやうめん》には松平|縫殿頭《ぬひのかみ》殿少し下りて右の座へ梶川《かじかわ》庄右衞門殿次には公用人《こうようにん》櫻井文右衞門田村治兵衞此方には川上|貞《さだ》八石川彌兵衞|浦野《うらの》紋《もん》兵衞|縁側際《えんがはぎは》には足輕《あしがる》五六人|非常《ひじやう》を警《いま》しめ廣庭《ひろには》には吉原宿名主問屋|本陣《ほんぢん》組頭宿役人並居たり公用人櫻井文右衞門兩人が願書《ぐわんしよ》を以て入側《いりかは》に進み出島田宿藤八同人養女節と呼《よぶ》時用人ハツと平伏なすを見て其方共儀遠州水呑村名主九助と申者の身分に因て今日御|駕籠訴《かごそ》に及びし段御|取上《とりあげ》に相なりしは今度上樣御|代替《だいかはり》に付御|仁政《じんせい》の始め諸國へ御|巡見使《じゆんけんし》を相立てらるゝは御|領《りやう》私領《しりやう》とも忠信|孝義《かうぎ》の者を見いだし且つは其所の役人|自然《しぜん》私欲《しよく》の筋《すぢ》等之れあり下々の者|難澁《なんじふ》致す向もあらば夫々御|糺明《きうめい》仰付《おほせつけ》らるゝ御|趣意《しゆい》なり依て上樣御|目代《もくだい》との仰を蒙り駿《すん》遠《ゑん》三|尾《び》の四ヶ國の巡見使《じゆんけんし》として松平縫殿頭|罷越《まかりこ》せし處なり然ば其方共願ひの筋江戸表へ御差出に相成天下の御|評定《ひやうぢやう》にも相成に付願書の趣き一通り御|吟味《ぎんみ》有之により有難く存ずべしとの仰にけり扨是より一通り糺問《たゞし》の上藤八お節の兩人江戸表へ差立《さしたて》となりたり [#8字下げ]第十回[#「第十回」は中見出し]  夫《それ》任《にん》ずるに其人を擇《えら》めば黜陟《ちつちよく》明《あき》らかにして刑罰《けいばつ》中《あた》らざるなく實《まこと》に百姓をして鼓腹《こふく》歡呼《くわんこ》せしむ諺《ことわ》ざに曰其人を知らんと欲すれば其の使《つか》ふ者を觀《み》よと故に八代將軍|吉宗《よしむね》公は徳川氏中|興《こう》の君と稱《たゝ》へ奉つる程の賢明《けんめい》に在《まし》ませば其下皆其|任《にん》に適《かな》はざるなく今般の巡見使松平|縫殿頭《ぬひのかみ》殿も藤八お節が訴訟《うつたへ》を一|目《もく》して其事|僞《いつは》りならざるを知り即夜《そくや》旅館《りよくわん》に呼寄《よびよせ》一通り糾問《たゞし》に取掛られたり然れば藤八お節の兩人は願ひの趣《おもむ》き御|取上《とりあげ》に相成し事|實《まこと》に有難き仕合《しあはせ》なりと涙《なみだ》を流し平伏してぞ居たりける時に縫殿頭《ぬひのかみ》殿公用人櫻井文左衞門藤八に向ひ夫なる節と申女は如何なる身分の者にて其方養女に致せしぞと申すに藤八|謹《つゝし》んで面《おもて》を上げ渠《かれ》は當|阿部川驛《あべかはじゆく》の勘五郎と申百姓の娘にして右勘五郎|妻《さい》兆《てう》と申者は私し妹に候へ共實は姪《めひ》の續《つゞ》きに罷《まか》りなり候然る處同人儀|幼年《えうねん》の頃より不仕合《ふしあはせ》の者にて五歳の時|父《ちゝ》勘五郎に別《わか》れ母|兆《てう》が手一ツで育《そだ》てし處九歳の春《はる》又母|兆《てう》中|症《しやう》に相成候て幼少の身にて日々|往來《わうらい》の人に僅《わづか》の物を商《あきな》ひ其|餘力《よりよく》を以て母を養《やしな》ひ居候に付私し如何にも不便《ふびん》に存じ親子共引取べき旨|種々《しゆ/″\》申聞候へ共今更|厄介《やつかい》に相成候は不本意《ふほんい》なりとて聞入申さず五ヶ年の長病《ちやうびやう》を只一日の如く甲斐々々《かひ/″\》しく看護《みとり》仕つりし其孝行を土地《ところ》の人も聞傳《きゝつた》へて賞《ほめ》者にせられしが遂に其|甲斐《かひ》なく十四歳の砌《みぎ》り右母|病死《びやうし》仕つり他に頼《たよ》るべき處もなきにより夫より節を私し方へ引取し事なりと申せば文左衞門ムヽ扨は姪《めひ》の事故|娘《むすめ》に致して九助方へ縁付《えんづけ》遣《つかは》したかと申に藤八は仰の通りなれ共《ども》夫には因縁《いんえん》の御|咄《はなし》あり右節事母|兆《てう》を介抱《かいはう》の中十歳の際《とき》勾引《かどはか》され既に何國《いづく》へか連られべき處九助儀江戸表|出府《しゆつふ》の節其場所を通り合せ此|難儀《なんぎ》を救ひ遣《つかは》し其夜節方へ一宿仕つり艱難《かんなん》の體《てい》と孝心の程を感じ九助より錢《ぜに》一貫文|遣《つか》はして翌朝《よくてう》九助は江戸表へ出立いたせし由其後|節儀《せつぎ》私し方へ引取し處|段々《だん/\》其節の事共を物語り今一度其人に逢《あひ》禮《れい》を申|度《たき》由《よし》日來《ひごろ》申居しに夫より五ヶ年を相|立《たち》私しは日蓮宗《にちれんしう》故十月|會式《ゑしき》に甲州|身延山《みのぶさん》へ參詣の戻《もど》り瀬戸川迄歸り來りし時|盜賊《たうぞく》に出會《であひ》し旅人|難儀《なんぎ》の體《てい》故見兼まして其|盜賊《たうぞく》を追散《おひちら》し私し儀|幸《さいは》ひ旅籠屋《はたごや》の事に付右の旅人を連戻り泊《とめ》候|機《をり》是なる節は其旅人を見るより吃驚《びつくり》致し此が以前の恩人《おんじん》水呑村の九助なりと申により私しも外《ほか》ならず思ひ段々《だん/\》承《うけた》まはるに九助儀大金を持參《ぢさん》致し居る由故|翌日《よくじつ》送り屆け度と存候處私し儀|據《よんど》ころなき宿の用にて同道致し兼《かね》るに付|無用心《ぶようじん》ゆゑ金子は私し預《あづか》り渠《かれ》へは日蓮上人の曼陀羅《まんだら》を渡し置右を證據《しようこ》に持參致さば金子は引替《ひきかへ》に渡すべき約束仕つり九助は歸宅《きたく》仕つりしなり其譯は私しの宿より九助村方迄は六里程の行程《みちのり》にて大井|河原《がはら》[#「河原」は底本では「江原」]續《つゞき》ゆゑ甚だ街道|物騷《ぶつさう》に存じ昨日の如く途中《とちう》盜賊《たうぞく》にも付られなば如何《いかゞ》故村方へ立歸り親類共にても兩三人|同道《どうだう》にて來らば大|丈夫《ぢやうぶ》と心得斯の通り取計ひしと申ければ文左衞門シテ其金は何程にて其|滯《とゞこ》ほりなく九助に渡せしやと問に藤八は然ばにて候其金高は百八十兩にて其|翌日九助が親類なりとて周藏《しうざう》喜平《きへい》次と申者兩人彼の曼陀羅《まんだら》を持參《ぢさん》仕つりし故引替に渡し遣せし處其日の未刻頃《やつどきごろ》に九助私し方へ參り昨日|預《あづか》り歸りし大切《たいせつ》の曼陀羅《まんだら》紛失《ふんじつ》致し申譯なき仕合せなりとて如何にも當惑《たうわく》の體に申故其|曼陀羅《まんだら》は先刻|親類《しんるゐ》の者持參致し預《あづか》り金と引替《ひきかへ》手前へ聢《しか》と請取まで取置《とりおき》し趣き申聞候と云を[#「云を」は底本では「云は」]聞文左衞門は夫は親類と申て請取に參つたは僞者《にせもの》だなと云に藤八は御意《ぎよい》に御座ります因て私し九助と計略《はかりごと》を示合《しめしあは》せ九助|歸國《きこく》の祝《いは》ひと申|振舞《ふるまひ》を致させ村中の者を呼寄《よびよせ》私し竊《ひそか》に參りて見まするに周藏と名乘りしは村の名主源藏[#「名主源藏」はママ]又喜平次と申せしは右名主の手代源藏と申者にて偖《さて》又|茲《こゝ》に不思議な事は渠等《かれら》二人が戻りし後に三|徳《とく》が落《おち》てありしが其中に九助の妻《さい》里《さと》と申者九助が留守中《るすちう》名主惣内と密通《みつつう》致し曼陀羅《まんだら》を盜《ぬす》みて同人へ送り彼の金を騙《かたり》取其後村方を出奔《しゆつぽん》致す申合《まをしあは》せの文《ふみ》在《あり》しにより私し是を以て九助の證人《しようにん》となり右の金子を取返《とりかへ》し候處九助妻と申者は九助の厄介《やつかい》になり居る伯父九郎兵衞の娘にて九助とは從弟續《いとこつゞ》きに候と云ば文左衞門はハテサテ込入《こみいり》し儀ぢやなと言を藤八は又語を繼ぎ其上九助伯父九郎兵衞と申者も名主惣内母|後家《ごけ》と密通《みつつう》致し居り尋常《なみ/\》ならぬ中ゆゑ親類|内《ない》相談《さうだん》の上にて里へ金五十兩付て離縁《りえん》いたし其後惣内と夫婦に相なり伯父九郎兵衞も介抱《かいはう》人と名を付惣内母へ後家|入夫《にふふ》に這入《はひり》しなり又九助の親類共は私し姪《めひ》節を九助の妻に致し度段相談仕つるにより一方ならぬ深き縁《えん》と存じ私し養女に致し同人方へ遣《つか》はせしなりと事|細密《こまか》に申ければ文左衞門は委細《ゐさい》相別《あひわか》りたりとて夫よりお節に向ひ其方只今藤八が申通に相違無かと云にお節はハイ相違は御座りませぬと申時文左衞門シテ此度九助が難儀《なんぎ》と云譯は人|殺《ごろし》の科人《とがにん》とて無實の罪に陷たる趣き願書《ぐわんしよ》に見ゆるが猶《なほ》又|口上《こうじやう》を以て委敷《くはしく》申立よと有る藤八は膝《ひざ》を進め右惣内名主役|勤中《つとめちう》押領《あふりやう》彼是《かれこれ》宜らざる儀之ある旨|小前《こまへ》百姓一同より申立により名主|退役《たいやく》と相なり猶村中相談の上九助儀を惣内|跡役《あとやく》に御領主樣へ願ひ出九助儀名主役仰付られ相勤居候處當三月十九日夜下伊呂村大井河續きの河原に於て右惣内夫婦何者の爲に切害《せつがい》せられしか二人共に首は切て取|隱《かく》し胴《どう》ばかり殘り居りしを伯父九郎兵衞惣内の母諸共《はゝもろとも》九助が仕業《しわざ》なりと訴訟《うつたへ》出しに依て召捕《めしとら》れ晝夜|拷問《がうもん》強《つよ》きにより九助は是に堪難《たへがた》く己《おのれ》が科《とが》ならぬ事を身に引受|無理《むり》白状《はくじやう》に及びしかば終に口書《こうしよ》極《きはま》り爪《つめ》印も相濟《あひすみ》明日頃御所|刑《おき》に相成由ゆゑ斯《かく》火急《くわきふ》に願ひ奉つると申立るを縫殿頭殿《ぬひのかみどの》先刻より熟々《つく/″\》聞居られしが頓て膝《ひざ》を進められ夫は何か仔細《しさい》の有さうな事シテ然樣に拷問《がうもん》に掛るには何か證據《しようこ》がなくてはならず何ぞ遁《のが》れ難き證據にても有しやと尋《たづね》らるゝに藤八|謹《つゝし》んで答ふる樣先月二十日は節が實母《じつぼ》の七年|忌《き》祥當なるにより大井川の東上新田村と申處に尊《たふと》き御僧《ごそう》が在る故何卒母の供養《くやう》を頼み度と夫九助に申せしに九助も姑の事に付金谷村より歸りし草臥足《くたびれあし》をも厭《いと》はず自身に夕《ゆふ》申刻過《なゝつすぎ》より右の寺へ參る其夜|亥刻近《よつどきちか》き頃|宅《たく》へ戻《もど》り來る途中|下《しも》伊呂村の河原にて死人に跪《つまづ》きたれども宵闇《よひやみ》なれば物の文色《いろ》も分《わか》らず殊に夜陰《やいん》の事故氣の急《せく》まゝ早々|宿《やど》へ戻りて其夜は打臥《うちふし》翌朝|門《かど》の戸を明《あけ》候節衣類の裾《すそ》に血の付居しを妻|節《せつ》が心付如何なる事ぞと申せしに九助も驚き昨夜|河原《かはら》にて跪《つまづ》きしが酒に醉《ゑひ》し人の倒《たふ》れ伏居《ふしゐ》る事と思ひしに怪我人《けがにん》にてもありしかと語《かた》り居し時九郎兵衞が案内にて領主《りやうしゆ》の捕方《とりかた》入來り有無《うむ》を言《いは》せず召捕|入牢《じゆらう》申付られしに依り私ども大に驚き段々《だん/\》樣子を承《うけた》まはり候へば九郎兵衞夫婦|田地《でんち》を質に入《いれ》金子を役人|衆《しう》へ遣《つかは》したと申事是は人の噂《うはさ》なれば聢《しか》とは申上兼れ共九郎兵衞夫婦の者|甚《はなは》だ怪《あや》しく存じ候と事|細密《こまか》に長々《なが/\》と申立ければ[#「申立ければ」は底本では「申立けれる」]縫殿頭殿《ぬひのかみどの》にはシテ其法事を頼に參りし寺の名は何《なに》と申又其事|故《がら》を申立なば定めし其|和尚《をしやう》をも呼出《よびいだ》し九助が寺へ參りし刻限《こくげん》歸宅《きたく》の時刻《じこく》等も取|糺《たゞし》ありしならんと申さるゝに藤八|然《され》ば其儀を九助より度々申立ると雖役人衆|一向《いつかう》取|上《あげ》も御座なく只|白状《はくじやう》致せ/\とのみ日々|拷問《がうもん》嚴敷《きびしく》何分|苦痛《くつう》に堪《たへ》かね候に付餘儀なく身に覺もなき人|殺《ごろし》の趣きを白状致せしと此所に居る節と私へ九助より申しましたと云時お節も首《かうべ》をあげ只《たゞ》今藤八が申上し通りゆゑ夫の命《いのち》を何卒御助け下る樣にと申に縫殿頭殿コリヤ其方ども九助|入牢中《じゆらうちう》何《どう》して會《あひ》其|話《はなし》を聞きしぞよもや白洲で話したでも有まいと尋ねられしかば節はハツと語《ご》が閉《ふさ》がり只もぢ/\して居る故藤八は又進み出《いで》右の一件は一昨日|御慈悲《おじひ》願ひに節を召連れ領主役場の腰掛《こしかけ》へ參りし際《とき》九助は爪印《つめいん》濟《すみ》に成とて腰掛の圍《かこひ》の中に居し故實は下役人へ少の贈物《おくりもの》を致し其人の心入にて腰掛《こしかけ》の小|蔭《かげ》で此世の暇乞《いとまごひ》を致せとて遇《あは》せられ其|節《せつ》委細《ゐさい》に承《うけた》まはりし儀にて既に御所刑も獄門《ごくもん》とか申事なれば只今頃九助は何なりましたか何卒して助け遣《つかは》し度此段|偏《ひとへ》に願ひ奉つると如何にも火急《くわきふ》の歎願《たんぐわん》に聞ゆれども未だ盡さゞる[#「盡さゞる」は底本では「盡さゝる」]所あるにより縫殿頭殿は猶《なほ》念《ねん》を押《おさ》れ其方|最初《さいしよ》九助江戸奉公中に百八十兩と云大金を貯《たくは》へたと有が右は如何樣の儀で貯しぞと申さるゝに藤八其儀|承《うけた》まはりし處江戸|駿河《するが》町の町内抱へ番人を相勤《あひつと》め店先《みせさき》にて小商《こあきな》ひ仕つり千|辛《しん》萬苦致して貯へし由申聞し也《なり》と云ふに松平殿なる程《ほど》町内の番人などと云は隨分《ずゐぶん》金の出來る者と聞込んだが僅《わづ》か五年|許《ばか》りの中に百八十兩とは餘り大金《たいきん》の事ならずやと有にお節は其儀は九助が毎度話しますには金八十兩町内に落《おと》し物が御座りしとか其落主が知れませぬ故御|奉行《ぶぎやう》樣へ訴へました處其後も落し人が出ませぬにより大岡樣とやら申御奉行樣より拾ひ主九助は正直者《しやうぢきもの》との御|譽《ほめ》の上右の金子《きんす》八十兩を其儘|戴《いたゞ》きしが其節も何か種々《いろ/\》と取込だ事が御座りしとか申事其後歸國の節|越後屋《ゑちごや》とやらから金二十兩程貰ひ町内地主樣家主樣から十兩ヅツ貰ひ自分が貯《たくは》へし金も四五十兩餘にて其|外《ほか》町内の方々より餞別《せんべつ》を贈《おく》られ都合百五十兩程に成しとの事成と云に縫殿頭殿《ぬひのかみどの》如何樣藤八其|通《とほり》に相違無かと申されしかば藤八其儀は節が只今申上し通り毛頭《もうとう》相違は御座|無《なく》何卒御|慈悲《じひ》の吟味願ひ奉つると申時縫殿頭殿|副使《ふくし》の梶川《かぢかは》庄右衞門殿に向はれ御聞なされた通《とほり》渠等《かれら》が願ひの赴《おもむ》き相違なく聞こゆるによりとに右《かく》領主の所置を差止置此段江戸表御老中方へ早々|御用状《ごようじやう》にて申|遣《つかは》し公邊《かみ》の御|裁許《さいきよ》に任せ候方よからんと存ずるが如何やと有るに梶川氏も同意の趣き申さるにより縫殿頭殿《ぬひのかみどの》又藤八お節に向れコレヤ藤八節兩人の者此度江戸表へ差送り天下の御吟味に成る間然樣相心得一|先《まづ》下宿へ下り控《ひか》へ居れと申し渡されければ兩人はハツと平伏し喜《よろこ》び涙に昏《くれ》たりける夫より松平殿《まつだひらどの》は給人竹中直八郎を呼出《よびいだ》されて其方は江戸表へ兩人を同道《どうだう》なし邸《やしき》へ連參《つれまゐ》り御用状《ごようじやう》を御月番の老中方へ差出し御下知次第掛の奉行へ兩人を引渡し候上|再《ふたゝ》び旅行《りよかう》先へ來るべしと申付られ又給人|牧野《まきの》小左衞門を呼出され其方は早追《はやおひ》にて遠州|相良《さがら》へ參り長門守《ながとのかみ》用人共へ此書状を相渡すべし是は水呑村百姓一件江戸表へ差立《さしたて》再《ふたゝ》び吟味に相成事故此方より遣す書状|否《いな》は申さぬ筈なれども本人の爪印《つめいん》相|濟《すみ》候などと難澁《なんじふ》申|間敷《まじき》にも非ず其節は此儀を拒《こば》めば主人長門守爲にも相成《あひなる》まじき段|屹度《きつと》申渡し且《かつ》右《みぎ》掛《かゝり》の諸役人迄|殘《のこ》らず迅速《すみやか》に出府致す樣に申渡すべし早々急げと云れしかば畏《かしこ》まり候とて牧野小左衞門は吉原|宿《じゆく》役人に早駕籠《はやかご》一|挺《ちやう》申渡し其夜の子刻過《こゝのつすぎ》に吉原宿を乘出《のりいだ》し相良《さがら》の城下《じやうか》へと急ぎけり [#8字下げ]第十一回[#「第十一回」は中見出し]  茲《こゝ》に又水呑村の百姓三五郎は主人九助が無實の災難《さいなん》を逃《のが》れさせんと種々|工夫《くふう》をなしけれども領主の役人共|勿々《なか/\》取上げなく却て當時村|預《あづけ》の身となりしかばいとゞ殘念《ざんねん》至極に思ひ此上は神佛《しんぶつ》の應護《おうご》に非ずんば遁《のが》れ難かるべしとて一七日の間荒行を始め晝夜《ちうや》共に六ツ時に水垢離《みづこり》を取て鎭守へ百度參りを致しける其七日の滿《まん》ずる日の暮方《くれがた》山の上よりして颯《さつ》と吹下《ふきおろ》す風に飄然と眼の前に吹落《ふきおと》す一枚の牌《ふだ》あり手に取て見るに立春《りつしゆん》大吉《だいきち》護摩祈祷《ごまきたう》守護《しゆご》可睡齋《かすゐさい》と記したれば三五郎は心に思ふやう彼の可睡齋《かすゐさい》と云ば東照宮《とうせうぐう》より御|由緒《ゆゐしよ》ある寺にして當國の諸侯《しよこう》も御歸依寺也因ては可睡齋へ參り委曲《くはしき》事を話し實意を打明《うちあけ》て御願ひ申なば命乞《いのちごひ》の事|協《かなは》ぬ儀は有まじ然なり/\と其儘|駈出《かけいだ》して見付驛なる可睡齋《かすゐさい》の臺所へ駈込《かけこみ》三五郎は手を突《つき》何卒御|住持樣《ぢうぢさま》に御目通りを願ひ度と云けるに役僧《やくそう》は其方は何者なるやと問《とふ》に三五郎ハイ私しは相良領水呑村の百姓三五郎と申者御住持樣へ直《ぢき》に御目通の上御願ひ申上度儀御座るにより參りしなり何卒《なにとぞ》御|執次下《とりつぎくだ》さるべしと申ければ役僧は己《おれ》に申ても解《わか》るものを百姓の分際《ぶんざい》として御|直《ぢき》に申上たしなどとは無禮なりと少し怒《いか》りを含《ふく》みて汝は當山を何と心得居る駿《すん》遠《ゑん》參《さん》三ヶ國の總祿所《そうろくしよ》八百ヶ寺の觸頭《ふれがしら》寺社奉行直支配の寺なるぞ其住職《そのぢうしよく》の大和尚《おほをしやう》へ直談《ぢきだん》致などとは不屆至極なりと云に三五郎は否《いや》夫は御前樣の仰なくとも承知で御座る寺社《じしや》奉行樣の御直支配は扨置《さておき》假令《たとへ》宮樣《みやさま》御門跡樣でも御願申上からは御|逢《あひ》下されぬと云儀は憚《はゞか》りながら御座るまじ御|釋迦樣《しやかさま》は淨飯王《じやうはんわう》と云天子樣の御子なるが世を御|救《すく》ひの爲なれば惡病人《あくびやうにん》は勿論五十二類の者迄にも御|教化《けうげ》遊ばされしと承りしと云に役僧は益々《ます/\》怒《いか》り其方は高慢《かうまん》の儀を云|奴《やつ》かな釋迦《しやか》の時は釋迦の時今の時代《ときよ》は又今の時代なりと申を三五郎は何分承知せず然樣なら御|釋迦樣《しやかさま》の時は極樂《ごくらく》へ遣《やり》今の時代は地獄へ御|引導《いんだう》成《なさ》れますか憚《はゞか》りながら出家《しゆつけ》の御身分は何と御|心得《こゝろえ》成《なさ》れますぞと顏色《かほいろ》變《かへ》て言ひければ役僧は己《おのれ》不屆至極《ふとゞきしごく》な奴なり汝《おのれ》は大方|搖《ゆす》り騙《かたり》に相違は有まいコリヤ男共此|奴《やつ》を追出《おひいだ》せ夫《それ》擲《たゝ》き出せといふ聲を聞より下男共は手に/\棒縢《ばうちぎり》を[#「棒縢を」はママ]携《たづさ》へて追立んとすれども三五郎は少しも騷《さわ》がず擲《たゝく》なら勝手《かつて》に擲《たゝ》かつせい何を以て出家の口から私を搖《ゆす》りだの騙《かたり》だのとは云つしやる昆虫《むしけら》迄も殺さぬを殺生戒《せつしやうかい》とは申さずや罪なき一人の百姓を打|擲《たゝか》んとは出家に似氣《にげ》なき成れ方お釋迦樣は親を殺《ころ》し主《しう》を殺す五|逆《ぎやく》の罪人《ざいにん》でも濟度《さいど》なさるゝに此御寺を見込て御願ひに參りし土民《どみん》の申事を御聞|入《いれ》なき時は是非に及《およば》ねども兎に角|和尚樣《をしやうさま》に御目に掛り一|通《とほ》り願ひ上げ協《かなは》ぬ時は歸《かへ》る分の事私より決して手出は致さぬと云つゝ其所に居し凝《こる》にぞ弟子《でし》番僧《ばんそう》は立騷《たちさわ》ぐを方丈《はうぢやう》聞かれ何事なるやと尋《たづね》らるゝに水呑村百姓三五郎と申者御逢を願ひ度と申|出《いで》しが百姓の分際《ぶんざい》にて御|直《ぢき》に御目通りは叶ひ難《がた》[#ルビの「がた」は底本では「がこ」]しと申せしかば斯《かく》の仕合なりと言に方丈《はうぢやう》は其者是へ通《とほ》せと申さるゝゆゑ侍者《じしや》の坊主|立出《たちいで》コレ各々方《おの/\がた》鎭《しづ》まられよコリヤ百姓|和尚樣《をしやうさま》御|逢《あひ》成《なさ》るゝに因て此方へ通るべしと言を聞て三五郎是は有難しと後に尾《つい》て大方丈を通拔《とほりぬけ》鼓樓《ころう》の下を潜《くゞ》りて和尚の座敷の縁側《えんがは》へ罷《まか》り出平伏なすに此時|可睡齋《かすゐさい》は靜かに緋《ひ》の衣《ころも》の袖をかき合せながら三五郎を見遣られ相良領《さがらりやう》の百姓三五郎とやら愚僧《ぐそう》へ如何なる用事あつて參りしぞと尋ねらるゝにぞ三五郎はハツと答へ最前《さいぜん》より無禮の儀ども申上しを御咎《おとが》めもなく却て御|目見《めみえ》仰付《おほせつけら》れし事|冥加《みやうが》至極《しごく》有難き仕合《しあは》せなり方|丈《ぢやう》樣へ御願ひと申すは別儀《べつぎ》にあらず私し主人儀無實の罪に陷《おちい》り近々御所置に相成《あひなる》に付何卒御|衣《ころも》の袖を御|掛《かけ》なされて御たすけ下さる樣に願に罷《まか》り出しと云ければ可睡齋《かすゐさい》は眉《まゆ》を顰《ひそ》め夫は如何樣の儀なるやと言《いは》るゝに三五郎は九助が是までの事柄《ことがら》を一伍一什《いちぶしじふ》物語り右に付私し儀|主人《しゆじん》の身代り御仕置に相成樣願しかど夫さへ御|取上《とりあげ》なければ此上は何卒|貴僧《あなた》樣の御慈悲|御情《おなさけ》で九助が一命|御助《おんたす》け成れて下さらば誠《まこと》に有難う御座りますと申せば可|睡齋《すゐさい》聞《きゝ》てイヤ佛道《ぶつだう》は人を助くるが趣意《しゆい》なりとて王法《わうはふ》有りての佛法なれば國の政事《せいじ》に口出しはならず又役人と雖も筋道《すぢみち》なくして人を害《がい》すべきや其九助と云者|假令《たとへ》此|度《たび》人を殺さず共是迄に何か惡事が有か但し前世《ぜんせ》で人でも殺したる因果《いんぐわ》の報《むく》いなるべし然すれば何も悔《くや》むには及ばず皆是因果の歴然《れきぜん》なり雜法轉輪《ざつはふてんりん》と諦《あきら》めよと言るゝに三五郎は押返し然樣《さやう》でも御座らんが其處《そこ》が御|出家《しゆつけ》の役|首《くび》の座へ坐《すわ》る者を何卒御救ひ成れて下されよと只管《ひたすら》に頼みけれども可睡齋は首《かうべ》を振《ふり》汝よく聞《きけ》よ佛法と言共今は末法なり釋迦《しやか》の時代とは事|異《かは》り愚僧《ぐそう》が如き不徳《ふとく》にては勿々《なか/\》有罪の者を現世《げんせ》にて救う事は成|難《がた》し因て國法を立て是を仕置《しおき》す然れば及ずながら未來《みらい》は救ひも遣さうが現世の罪人を救う事は協はずと申さるれば三五郎は猶も首《かうべ》を縁《えん》に摺付《すりつけ》其處が御衣役御|圓頂役《つむりやく》なれば諸役人も一|了簡《りうけん》異《かは》り殊には御|寺格《じかく》と申彼是助る儀も御座らんにより何卒|命乞《いのちごひ》成下《なしくだ》さるゝ樣|偏《ひとへ》に願ひ奉つる此事御聞入下さらば假令《たとへ》私しの骸《からだ》は如何樣に相なるとも聊かも苦《くる》しからず何卒主人の一命をと涙を流し手を合せ鰭伏々々《ひれふし/\》歎く體《てい》忠義の心|底《てい》顯《あらは》れしかば可睡齋も感心なし善哉々々《よきかな/\》汝が志操《こゝろざし》感心致したり力《ちから》の及ぶ丈《だけ》は救ひ遣はさんと云しかば三五郎はハツとばかりに平伏なし有難|涙《なみだ》に咽《むせ》び頓《やが》て暇《いとま》を告て臺所《だいどころ》へ下り所化《しよけ》へも厚《あつ》く禮を述《のべ》居たる處へ奧の方より侍僧《じそう》出來《いできた》り明日は未明《みめい》の御供|揃《そろ》ひにて相良まで御出あるにより陸尺《ろくしやく》仲間《ちうげん》を支度《したく》すべしと申渡しけるを三五郎は聞て彌々《いよ/\》身に染々《しみ/″\》と有難く思ひて立歸れり時に享保二年四月廿七日今日は九助の一件|落着《らくちやく》なし死罪《しざい》獄門《ごくもん》と相定り家老中《からうぢう》諸役人町役所立會の上申渡す事故本多長門守家老本多外記[#「本多外記」はママ]既に支度に及びて玄關先《げんくわんさき》に駕籠《かご》を寄《よせ》巳刻《よつ》の太鼓を相待處へ對《つゐ》の先箱《さきばこ》天鵞絨《びろうど》袋入《ふくろいり》の立傘等を持ち緋網代《ひあじろ》の乘物《のりもの》にて可睡齋城門へ乘込《のりこみ》來るゆゑ門番人下座をなしながら可睡齋樣《かすゐさいさま》と呼上れば執次《とりつぎ》の者は立出て書院へ案内す可睡齋は外記に對面して時候の挨拶《あいさつ》終《をは》り後に九助が命乞《いのちごひ》の趣きを申入らるゝに外記は仰《おほせ》の趣き委細承知仕つり候へ共《ども》既に口書《こうしよ》爪印《つめいん》濟《すみ》たる上は今更致方なく候間然樣に思召るべしと云を可睡齋押返し愚僧《ぐそう》態々《わざ/\》推參《すゐさん》致し右の趣き御|聞濟《きゝずみ》是なきに於ては退院《たいゐん》致すべき存寄《ぞんじより》に候と思ひ入て申されけるにぞ外記は殊の外《ほか》迷惑《めいわく》に思ひ然樣の思召ならば曲《まげ》て一等罪を輕《かろ》く致すは格別《かくべつ》二人迄の人殺しあればとても助命の儀は相成難《あひなりがた》し何《いづ》れ共に是より出席致し今一應吟味の上罪を一段輕く申付る樣取り計はんと申に可睡齋も止《やむ》を得ず何分にも九助が助命に相成樣《あひなるやう》御取計ひをば頼入候なりと厚《あつ》く申|置《おか》れ旅宿《りよしゆく》なる相良の功徳寺へ引取けり斯て程なく巳刻の太鼓も鳴《なり》たる故外記は役所に出けるに早《はや》同役《どうやく》の中村|主計《かずへ》用人小笠原常右衞門柳生源藏大目附武林軍右衞門|物頭《ものがしら》には里見※[#「圖」の「回」に代えて「面から一、二画目をとったもの」、737-13]右衞門橋本九兵衞目付朝比奈七之助|徒《かち》目付岩本大藏勘定奉行兼郡奉行松本理左衞門代官黒崎又左衞門市田武助町奉行|緒方《をがた》求馬《もとめ》等出席ありて足輕《あしがる》共は白洲を固めたり [#8字下げ]第十二回[#「第十二回」は中見出し]  偖《さて》又白洲の縁側《えんがは》には町奉行下役郡方手代々官迄殘らず綺羅《きら》びやかに居並び今日は九助に切繩を掛て引|据《すゑ》九郎兵衞夫婦村役人周藏喜平次木祖兵衞三五郎下伊呂村名主藤兵衞組頭|惣體《そうたい》引合人殘らず罷り出村役人より去《さんぬ》る廿四日|節儀《せつぎ》逐電《ちくてん》いたせし旨屆け出一同|外記《げき》が出席を待けるに可睡齋との掛合《かけあひ》に依て時刻《じこく》延引《えんいん》なし漸々只今出席にて傍邊《かたはら》の人々へ會釋《ゑしやく》して上席に直りしかば松本理左衞門は進み寄九助が爪印を差出すを外記は取上げ口書を熟々《つく/″\》見て九助儀|斯《かく》まで白状致し口書へ爪印までなすからは聊かも相違は有まじ然れ共爪印は逆手《さかて》なり手を逆《ぎやく》に致し押たるは怪しむべし此儀吟味を遂《とげ》られしかとあるに理左衞門は眉《まゆ》に皺《しわ》を寄《よせ》仰《おほ》せの通り逆手《さかて》なれども夫は渠《かれ》が得《え》手勝手にて押たるも知れず左角《とかく》白状が證據にて爪印は實《まこと》の掟《おきて》までなれば其邊の尋は致し申さずと答ふるにぞ外記は首《かうべ》を振《ふり》否々左樣の取計は有之まじ假令《たとへ》白状致すとも口書爪印なければ所刑《しおき》には致さぬ筈《はず》なり然るを白状さへなせば爪印は何でも宜《よい》と申ては爪印を押《おさ》せるに及ず是は其身の中|骨《ほね》の端《はし》にて證印《しよういん》爲《な》す事なれば爪印は輕からぬ儀ゆゑ猶一通り糾《たゞ》され然るべく存ずる也とあるにぞ理左衞門は是非なく九助に向ひコリヤ九助其方儀此程爪印の節|掌《てのひら》を上へ返して押たる者と相見え爪印が逆《さかさ》に成て居るはコリヤ如何の譯なりやと云ければ九助はハツトばかりにて一言の返答《へんたふ》もなく只|落涙《らくるゐ》に沈《しづ》み俯向《うつむい》て居たるにぞ理左衞門は迫込《せきこん》でコリヤ何ぢや御重役方よりの御不|審《しん》なるぞ汝《おの》れ何心なく押たのか但《たゞし》指《ゆび》に痛所《いたみしよ》にても有て逆《ぎやく》に押たるやコリヤ何ぢや/\と迫《せき》立れど九助は一向無言にて只|無念《むねん》の顏色《ぐわんしよく》をなし切齒《はがみ》を爲しながら涙を流し居たりける外記は仔細《しさい》ぞ有んと上座より聲を掛け如何に九助|不分明《ふぶんみやう》なる爪印の致方眞實に申すべしと有しかば九助はハツと頭《かしら》を上げて家老中の席を然も恨《うらめ》し氣《げ》に見上げしが外記の方に向ひ流石《さすが》は御當家の御重役程有て能《よく》こそ御尋ね下されたり實の處は人を殺したる覺えは御座らねども責苦の嚴敷故に所詮《しよせん》實事を申上たりとも必ず御取上はなき事と心得|寧《いつそ》一思ひに斬《きら》れし方が増ならんと覺悟を極め無實の罪を引受て兩人の者を殺せしと白状《はくじやう》は致せしなれども此身にとりて覺えなきこと故至極|殘念《ざんねん》に存じ爪印の節《せつ》恐《おそ》れながら上を怨《うら》む心より我を忘れて逆手《さかて》に捺《おし》まして御座ると申ければ理左衞門大いに憤《いきど》ほり大の眼《まなこ》を剥《むき》出して九助を發打《はつた》と睨付《ねめつけ》コリヤ/\其方は只今御重役の一言にのさばり若や命も助るかと未練《みれん》にも今となりて諄言《よまひごと》を申條|不屆至極《ふとゞきしごく》なりと大聲にて叱《しか》り付外記に向ひ只今御聞の通りなれば何も仔細《しさい》は御座候はずと云ふを外記は否々|何《どう》やら少し吟味が殘つたかと考ると言ふ時同役の中村|主計《かずへ》進み出否外記殿此上御尋ねなさるゝに及ばず假令《たとへ》如何樣に拷問《がうもん》が強《つよ》いと申たとて身に覺えのなき者ならば白状は致すまじ然るを今此方にて不審《ふしん》致す詞の緒《を》に付て彼是《かれこれ》申は可謂《いはゆる》引れ者の小|唄《うた》とやら取に足ずと申せしかば外記も暫時《しばし》默止《もくし》居たりしを理左衞門は得たりと九助に向ひ其方は言語道斷《ごんごだうだん》の惡人なり先日獄屋に於て白状致せしを今又|然樣《さやう》の空言《そらごと》を申上ば汝《おのれ》又《また》骨《ほね》を碎《くだ》き肉を醢《ひしほ》にしても云さすぞ少しく甘《あま》き詞《ことば》を懸《かく》れば直樣事を兩端に申立る條《でう》不屆至極なりと勃然《やつき》となりて怒るにぞ九助は二言と返答《へんたふ》もせず居たりしかば理左衞門は家老中へ對《むか》ひ此期《このご》に及んで斯の如きの始末《しまつ》言語同斷の曲者《くせもの》ゆゑ彌々《いよ/\》今日御|所刑《しおき》に行ひ然るべしと申時|主計《かずへ》は點頭《うなづき》如何《いか》樣|御法《ごはふ》の如く申渡て宜からんと云を聞理左衞門は開き直りて高らかに [#ここから2字下げ] 其方儀《そのはうぎ》先《せん》名主惣内妻さとは先妻《せんさい》に有之候へども一旦|離縁《りえん》致し候上は違論《ゐろん》之なき筈の處右體の儀を根に持惣内へ遺恨《ゐこん》を含《ふく》み去る二月十九日下伊呂村|辨天堂《べんてんだう》前大井河原に於て右惣内さと兩人を殺害《せつがい》致し候段不屆至極に付水呑村下伊呂村引廻の上|獄門《ごくもん》申付る [#ここで字下げ終わり] と申渡し又水呑村先名主惣内|介抱人《かいはうにん》九郎兵衞并に同人妻村方役人及び下伊呂《しもいろ》村役人共と呼時一同ハツと答ふるにぞ理左衞門は何れもへ向ひ九助儀先名主惣内夫婦に遺恨是れあり殺害に及び候段一々|白状《はくじやう》に及びしに不屆|至極《しごく》に付|引廻《ひきまは》しの上|獄門《ごくもん》仰付らるゝなり左樣存ぜよ其外の者共は不埓《ふらち》の筋《すぢ》も之なきにより構《かま》ひなしと申渡せば皆々《みな/\》ハツと平伏なし一|件《けん》引合《ひきあひ》の者共は退きけり此時家老|外記《げき》は不審《ふしん》少《すく》なからず思へども證據も之なき事故|強《しひ》ても論《ろん》じ難《がた》く其|席《せき》を退き可睡齋《かすゐさい》の旅宿に到《いた》り對面《たいめん》の上天下の大法《たいはふ》は破《やぶ》り難き趣きを申述|後《あと》念頃《ねんごろ》に法養《ほふやう》の事を頼みける然ば無殘《むざん》なる哉《かな》水呑村の九助は豫《かね》て覺悟《かくご》とは言ながら我が罪ならぬ無實の災難《さいなん》今更|怨《うら》んで甲斐《かひ》なしと雨なす涙に面を浸《ひた》し首うな垂《たれ》て面目なげに目を閉《とぢ》口には稱名《しようみやう》唱《とな》へ未來《みらい》を頼み彌陀如來|救《すく》はせ給へと口の内今ぞ一期と看念《かんねん》なし水淺黄色《みづあさぎいろ》の袷《あはせ》の上に切繩《きりなは》を懸《かけ》馬の上に縛《しば》り付られ眞先には捨札|紙幟《かみのぼり》を立與力同心|警固《けいご》をなし非人《ひにん》乞食《こつじき》取込で相良《さがら》の町へ引出されしは屠所《としよ》の歩行の未の上刻是を見んとて群集《むれつど》ふ老若男女おしなべて哀《あはれ》の者よ不便《ふびん》やと云ぬ者こそなかりけれ斯《かゝ》る所に向ふよりして早駕籠《はやかご》一|挺《ちやう》ワヤ/\と舁來《かききた》り人足どもは夫御早なり片寄々々《かたよれ/\》御用々々と聲を懸つゝ制しければ引廻《ひきまは》し者は道の傍《かたは》らへ寄居るを早の侍士《さむらひ》所刑《しおき》者と聞より駕籠《かご》の簾《すだれ》を撥退《はねのけ》見るに先に立たる捨札に水呑村九助と書付けありしかば領主《りやうしゆ》の檢使《けんし》役人是へ/\と[#「是へ/\と」は底本では「々々是へと」]聲を掛しかば仕置掛りの者ども吃驚《びつくり》なし當日の檢使《けんし》與力村上權左衞門田中大七の兩人馬より下り立駕籠の前に來りて拙者《せつしや》共は本多長門守《ほんだながとのかみ》家來村上權左衞門田中大七と申者今日人殺し科人《とがにん》水呑村名主[#「水呑村名主」は底本では「水呑名主村」]九助儀|獄門《ごくもん》の仕置に付《つき》檢使《けんし》申付られ只今|刑場《けいぢやう》へ臨《のぞ》む所に候然るに貴所樣《きしよさま》には如何の御方にて又何等の御用之あり拙者共を御|呼留《よびとめ》成《なさ》れ候やと申に早打ちの侍士|莞爾《につこ》と笑ひ御道理《ごもつとも》の御|訊問《たづね》拙者儀は御代替りにつき將軍家の御目代|巡見使《じゆんけんし》松平縫殿頭殿家來牧野小左衞門と申者此度|御領内《ごりやうない》水呑村名主九助一件江戸表へ御差出の御用状|持參《ぢさん》致したり當地|重役衆《ぢうやくしう》に御意《ぎよい》得《え》る間|所刑《しおき》者は是より引返されよと申せば兩人の檢使《けんし》答る樣御巡見樣よりの御|差※[#「圖」の「回」に代えて「面から一、二画目をとったもの」、740-10]《さしづ》とあれば仔細《しさい》も有之間じく候え共拙者共|役儀《やくぎ》に候へば此處に控へ罷在《まかりあ》り重役共の下知次第引取るべし依《よつ》て直樣《すぐさま》引返《ひきかへ》し[#「引返し」は底本では「引迄し」]候儀は御差※[#「圖」の「回」に代えて「面から一、二画目をとったもの」、740-11]に隨ひ難しと申ければ小左衞門は是は御道理《ごもつとも》なる儀某し早々重役衆に御|達《たつ》し申べし沙汰の有|迄《まで》御|控《ひか》へあれと云|捨《すて》駕籠を急《いそ》がせんとなす時兩人は暫《しば》しと聲掛今日は當所|評定《ひやうぢやう》落着日《らくちやくび》に付役人共町役所に相詰《あひつめ》居るにより直《ぢき》に役所へ御出有て然《しか》るべしと申にぞ小左衞門承知なし町役所へと急ぎ行|頓《やが》て遠州|榛原郡《はへばらごほり》相良《さがら》の城下|根來《ねごろ》町役所へ横着《よこづけ》に乘込《のりこみ》たり然《され》ば詰合の役人共大いに驚き何事やらんと早速尋ぬるに諸國巡見使松平|縫殿頭《ぬひのかみ》使者牧野小左衞門なりと云ながら駕籠より立出刀|引提《ひきさげ》役所の上座へ通《とほ》りければ諸役人下座へ引下り一同|平伏《へいふく》す時に小左衞門重役衆と聲を掛るに家老本田外記[#「本田外記」はママ]中村|主計《かずへ》進み出一通り挨拶《あいさつ》畢《をは》る時兩人は何等の御用に候や伺ひ奉つらんと申ければ小左衞門は状《かたち》を改め今度主人縫殿頭より使者の趣きは長門守殿御|領分《りやうぶん》水呑村百姓名主九助一件に付用人共より各自方《おの/\がた》への御用|状《じやう》先《まづ》御披見《ごひけん》成れよと首に掛たる御用状を相渡せば外記《げき》は之を請取|封《ふう》押切て讀上るに [#ここから2字下げ] 以剪紙《きりがみをもつて》得御意《ぎよいえ》候|然《しかれ》ば今般《こんぱん》主人縫殿頭儀|台命《たいめい》を蒙り駿《すん》遠《ゑん》三|尾《び》濃《のう》四ヶ國[#「駿遠三尾濃四ヶ國」はママ]巡見として罷越し駿州吉原宿|泊《とまり》の節長門守殿御|領分《りやうぶん》水呑村名主九助妻|節《せつ》并に駿州島田宿藤八と申者|愁訴《しうそ》の趣き吟味に及び候所|再應《さいおう》糺明《きうめい》の筋有之に付右の段江戸表御老中方へ縫殿頭より御屆けに及び右節藤八とも差立《さしたて》相成候間本人九助并に九郎兵衞夫婦下伊呂村々役人其外|掛合《かゝりあひ》の者一同勘定奉行兼郡奉行松本理左衞門始め掛り役人殘らず江戸表へ早々差出し三番町松平縫殿頭屋敷迄|相送《あひおく》らるべく旨申入候|樣《やう》縫殿頭申付候之に依て此段御|達《たつし》に及び候以上 [#地から13字上げ]松平縫殿頭家來 [#ここから4字下げ] 四月廿六日[#地から14字上げ]櫻井文左衞門 [#地から15字上げ]田村治太夫 [#ここから8字下げ] 本多長門守樣 [#ここから14字下げ] 御用人中 [#ここで字下げ終わり] 斯《かく》の如き文面に詰合の役人共は一同|茫然《ばうぜん》たるばかりなりしが俄《にはか》に役所は大|騷動《さうどう》となり科《とが》人九助は早々引き返させよと早馬にて乘着《のりつけ》させ又|領主《りやうしゆ》には在國故家老共より申達し巡見使へは畏《かしこ》まり奉つるとの御請書を差出し郡奉行其外|掛役々《かゝりやく/\》へは出立の儀申渡す等其|混雜《こんざつ》鼎《かなへ》の沸《わく》が如くなり茲に又九助は引廻しの馬の上に縛《くゝ》られ既に相良《さがら》の城下|外《はづれ》まで引れ來り今|刑場《けいぢやう》へ臨《のぞ》まんとする時江戸の方より來りし早打《はやうち》の侍士《さむらひ》に引止《ひきとめ》られ檢使の役人を始め暫時《しばし》其所に待居《まちゐ》ければ[#「待居ければ」は底本では「侍居ければ」]此は如何なる事やと思ひける中程もあらせず城下の方より汗馬《かんば》に鞭《むち》を當《あて》御巡見使よりの御|差※[#「圖」の「回」に代えて「面から一、二画目をとったもの」、741-16]《さしづ》なり九助を早々|引戻《ひきもど》せと大音《だいおん》に呼はるを聞《きゝ》檢使の役人を始め警固《けいご》の人々|驚破《すは》とて其儘城下へ引返せば九助は今死ぬる身と思ひ定めしに俄《にはか》に引返せし事如何なる譯やと夢に夢見し心地して只《たゞ》茫然《ばうぜん》たる計《ばか》りなり斯て四月廿八日|囚人《めしうど》九助を還羅鷄籠《とうまるかご》に乘せ徒目附《かちめつけ》足輕《あしがる》目附等|警固《けいご》なし其の外松本理左衞門黒崎又左衞門|市田《いちだ》武助|栗坂《くりさか》藤兵衞|抔《など》吟味《ぎんみ》掛の役人|何《いづれ》も駕籠《かご》に打乘《うちのり》又九郎兵衞夫婦村役人共大勢付|添《そひ》本多家用人|笠原《かさはら》常右衞門惣取締として江戸表へ出立なしたりけり [#8字下げ]第十三回[#「第十三回」は中見出し]  偖又松平縫殿頭殿の給人竹中直八郎は藤八お節が願書《ぐわんしよ》并びに御|用状《ようじやう》等江戸表へ持參《ぢさん》し御用番の老中松平|右近將監《うこんしやうげん》殿へ差出し御下知に依てお節藤八の兩人は町奉行大岡越前守殿へ引渡せり然ば越前守殿には藤八お節を一通り吟味の上小傳馬町三丁目竹屋權八方へ預けられ其後五月十二日に九助九郎兵衞を始め關係《かゝりあひ》の者一同本多家より差送りに成しかば九助は入牢《じゆらう》九郎兵衞夫婦并に村役人共は馬喰町三丁目伊勢屋惣右衞門方へ下宿《げしゆく》申付られ下伊呂村役人は納《をさ》め宿淺草平右衞門町坂本屋傳右衞門方へ下宿松本理左衞門始め掛役人は主人方へ預けに相成たり却て説《とく》駿河《するがの》國府中|彌勒《みろく》町二丁目なる小松屋にては抱《かゝ》へ遊女《いうぢよ》白妙《しろたへ》が家出《いへで》せしとて大に驚き手を廻して諸所方々を尋ね探《さが》せしに行方《ゆくへ》知れざれば此は必定《ひつぢやう》桶伏《をけふせ》にしたる石川安五郎が爲業《しわざ》に相違有まじと人々言居ける所に大門《おほもん》番の重五郎が阿部《あべ》川の河原《かはら》にて何者にか切殺され死骸《しがい》は河原に有之との事なれば此は渠《かれ》は番人の事ゆゑ白妙《しろたへ》を追駈行《おひかけゆき》殺《ころ》されしものならんとて早速《さつそく》河原に行て見るに重五郎が死骸《しがい》の傍《かたは》らに萌黄羅紗《もえぎらしや》の煙草入《たばこいれ》落《おち》て居たる故中を改むるに巴屋《ともゑや》儀左衞門樣と云書状二三通外に買物樣《かひものやう》に手控小帳《てひかへこちやう》あり依て小松屋より駿府町奉行桑山下野守殿へ訴へければ支配内《しはいうち》なるにより先|江尻《えじり》宿の巴屋儀左衞門を差紙《さしがみ》にて呼出し吟味《ぎんみ》ありし處儀左衞門心中に驚けども遁《のが》るだけ遁ば遁《のが》れんものと私し儀は十六日に彌勒《みろく》町へ參り其節吉野屋と申大門前の酒屋の表にて大神樂《だいかぐら》の舞居《まひをり》しを暫時《ざんじ》見物致し候中|煙草《たばこ》入を奪《うばは》れしと見えて御座らぬ故諸所尋ね中に候と申を桑山《くはやま》殿然樣では有まじ段々《だん/\》其方が樣子を糺《たゞ》せしに小松屋の抱《かゝへ》遊女《いうぢよ》白妙《しろたへ》に執心《しふしん》して只今迄も度々安五郎とか申者と口論《こうろん》にも及びし趣き聞えたり然すれば汝大門番重五郎を殺す心は有まじけれど渠《かれ》安五郎白妙が逃亡《たうばう》を追駈《おつかけ》し節何か間違《まちがひ》にて殺したに相違は有まじ包《つゝ》まず申立よと問詰《とひつめ》らるれども儀左衞門は白状《はくじやう》せず否々《いや/\》全《まつたく》以て殺せし覺えは御座なく尤も白妙と申遊女は兩三度も呼て遊し事御座候へども私しは妻子《さいし》も有身に候へば人を殺《ころ》す迄には迷《まよ》ひ申さず煙草入は全く盜《ぬす》まれし品に相違御座なくと云ければ桑《くは》山殿には打笑みコリヤ能思うても見よ其煙草入は實盜み取られしものならば僅《わづ》か其|場所《ばしよ》より二十町内外の處に有べき筈なし其方が申處にては煙草入は安五郎重五郎兩人の中にて盜《ぬす》み取し樣に聞ゆるが確《しか》と然樣かコリヤ汝が行状《ぎやうじやう》能《よく》知たり日頃|不正《よろしから》ざる趣きなれば疑《うたが》はしき廉々《かど/\》少からず吟味《ぎんみ》中|入牢《じゆらう》申付ると言渡されけり此儀左衞門の女房をお粂《くめ》と云しが夫《をつと》が此の災難《さいなん》は必竟《ひつきやう》安五郎が仕業《しわざ》なれば渠等《かれら》が在處《ありところ》知《し》れる上は夫が無|實《じつ》の難は遁《のがれ》なんにより何卒《なにとぞ》して安五郎を尋ね出《いだ》し夫《をつと》の災難《さいなん》を助けんには神佛《しんぶつ》の加護《かご》に非ざれば爲難《なしがた》し幸ひ遠州秋葉三尺|坊《ばう》の應護《おうご》を祈《いの》らん者と一|※[#「圖」の「回」に代えて「面から一、二画目をとったもの」、743-8]《づ》に思ひ込《こみ》しかば夫よりして秋葉山へ遙々《はる/″\》と登しが本社は女人禁制《によにんきんせい》なるゆゑ上る事ならず因て玉垣《たまがき》の外にて祈《いの》り居しに早晩《いつしか》夜に入ければいざや私が家へ戻らんと崖《がけ》の道へ來|掛《かゝ》るに茶店《ちやみせ》の仕舞《しまひ》たるが在しにぞ是れ屈竟《くつきやう》なりと笹《さゝ》の葉を身《み》に※[#「纏」の「广」に代えて「厂」、743-10]《まと》ひ手拭《てぬぐひ》にて頭《かし》らを包《つゝ》み此處に這入《はひり》通夜をなし一心に夫《をつと》が災難を遁《のが》れる樣になさしめ給へと立願《りふぐわん》をぞ籠《こめ》たりける此所は名に負《おふ》周智郡《すちごほり》大日山の續《つゞ》き秋葉山の絶頂《ぜつちやう》なれば大樹《だいじゆ》高木《かうぼく》生茂《おひしげ》り晝さへ暗《くら》き木下闇《このしたやみ》夜は猶さらに月|暗《くら》く森々《しん/\》として更行《ふけゆく》樣に如何にも天魔《てんま》邪神《じやしん》の棲巣《すみか》とも云べき峯《みね》には猿猴《ましら》の木傳ふ聲谷には流水|滔々《たう/\》と而《して》木魂《こだま》に響《ひゞき》遠寺《ゑんじ》の鐘《かね》も最《いと》物|凄《すご》く遙に聞ば野路《のぢ》の狼《おほかみ》吼《ほえ》て青嵐|颯々《さつ/\》と梢《こずゑ》を鳴し稍丑滿頃とも思ふ頃|怪《あや》しや遙《はる》か麓《ふもと》の方よりがさ/\わさ/\と小笹《をさゝ》茅原《かやはら》押分《おしわけ》て來る氣態《けはひ》なればお粂は屹度《きつと》氣を鎭《しづ》めて汝《おのれ》今頃|登山《とざん》なすからは強盜《がうたう》か但し又我が如き心願にて夜參りする者なるか何にもせよ訝《いぶ》かしと星明《ほしあか》りに透《すか》し見れば旅人と思《おぼ》しく菅笠《すげがさ》眞白《まつしろ》に光りたり茲《こゝ》に又彼の石川安五郎は上新田村の無量庵《むりやうあん》を出立|先《まづ》豐浦《とようら》雲里《うんり》の方へ行んものと道を急ぎしに※[#「圖」の「回」に代えて「面から一、二画目をとったもの」、743-16]らずも踏迷《ふみまよ》ひ喘《あへ》ぎ/\漸々《やう/\》秋葉の寶前《はうぜん》に來りしが此時は早《はや》眞《ま》夜中にてゴーン/\と鳴《なり》しは丑刻《やつ》の鐘《かね》なれば最早《もはや》何へも行難し麓《ふもと》へ下れば狼《おほかみ》多く又夜|深《ふけ》に本坊を起《おこ》す共起はせまじ幸ひ此茶店にて夜を明さんと呟《つぶや》きつゝ茶店《ちやみせ》に入てお粂が通夜《つや》して居《をる》共知らず上り込《こん》だり扨もお粂は大膽不敵《だいたんふてき》の女なれば先方の心は知らざれ共|闇《くら》さは闇《くら》し息《いき》を堪《こらへ》て居る中|既《すで》に寅刻《なゝつ》の鐘《かね》も聞え月は梢《こずゑ》の間に顯《あらは》れ木の間/\も現々《あり/\》と茶店《さてん》の中まで見え透《すく》ゆゑ安五郎は不※[#「圖」の「回」に代えて「面から一、二画目をとったもの」、744-2]《ふと》此方《こなた》を見返れば笹簑《さゝみの》着《き》たる者の居るにぞ是はと吃驚《びつくり》し然るにても斯る山中に人の居るこそ訝《いぶか》しけれ但し妖怪《えうくわい》の所爲《しよゐ》なるかと疑《うたが》ひつゝ聲を掛け夫なる者は何者ぞ旅人《りよじん》か又は山賊《さんぞく》の類《たぐゐ》なるか狐狸《こり》なるか應《こた》へをせよと傍《かたは》らへ摺寄《すりよ》ればお粂は疾《とく》より心得居し事ゆゑ一向|驚《おどろ》かずアイサ私しは盜賊《たうぞく》山賊《さんぞく》の類でなく又|狐狸《こり》にても候はず大願《だいぐわん》有て當山へ籠《こも》りし者なり本社|拜殿《はいでん》は女人|禁制《きんせい》故此|茶屋《ちやや》にて通夜《つや》を致し候因て貴所には何れの御方にて候哉と問返《とひかへ》され安五郎は又驚き扨々《さて/\》女子には珍《めづ》らしき者かな如何なる心願《しんぐわん》かは知らねども斯る深山《しんざん》へ籠《こも》らるゝ事|感《かん》じ入たり某しは信州へ秋葉越《あきばごえ》して參らんと思へども一人|旅《たび》ゆゑ泊《とめ》てはなく斯る深山《しんざん》に踏迷《ふみまよ》ひ漸々是まで參りし者なれば必《かなら》ず心を隔《おき》給ふな最早《もはや》夜明《よあけ》にも間はあるまじ夫までは先《まづ》暫時《しばらく》此所に休息《きうそく》致さん又其|許《もと》には定めて此|近邊《きんぺん》の御人成んと聞にお粂も此人|盜賊《たうぞく》などにあらずと安心し打解《うちとけ》し體《さま》にて傍《そば》へ寄私しは駿州|江尻《えじり》の者なりと云ながら面《かほ》を透《すか》し見て吃驚《びつくり》なしヤア此方樣は石川安五郎樣と云に安五郎も顏《かほ》を透《すか》[#ルビの「すか」は底本では「かす」]し見て然樣云其方も何やら見た樣な御内儀《ごないぎ》其許はと云をお粂は聞私しは江尻宿の絹商人《きぬあきうど》にて巴屋《ともゑや》儀左衞門が女房粂と申者此方樣故に夫儀左衞門は無實《むじつ》の災難《さいなん》大門番《おほもんばん》の重五郎を殺《ころ》したとて今は入牢《じゆらう》の苦《くるし》み夫も誰故此方樣が小松屋の抱《かゝへ》遊女《いうぢよ》白妙《しろたへ》を盜《ぬす》み逐電《ちくでん》し夫のみならず大門番の重五郎を殺し罪《つみ》を夫《をつと》へ塗《なす》られし殘念《ざんねん》さに何卒此方樣に出會《であひ》夫《をつと》が罪《つみ》を免《ゆる》されんと此|秋葉《あきは》樣へ誓願《せいぐわん》込《こめ》たる一心|屆《とゞ》きて今|此處《ここ》にて出會しも嗚呼《あゝ》忝《かたじ》けなしと宮居《みやゐ》の方を伏拜《ふしをが》むを見て安五郎はアヽ若コレ御内儀|粗忽《そそう》な事を申されな小松屋の遊女|白妙《しらたへ》を連て立退《たちのき》しは此安五郎に違《ちが》ひなけれど然ながら其節我は鞠子《まりこ》の柴屋寺《しばやでら》へ先に參りて白妙《しろたへ》の來るを待《まつ》て居し故其場の樣子は知らず跡《あと》にて白妙に聞くに彼の大門番の重五郎といふは元《もと》白妙《しらたへ》が親元遠州|濱松《はままつ》天神町《てんじんまち》松下|專庵《せんあん》と云醫師に召遣《めしつかは》れし古主筋《こしゆすぢ》故其夜の都合《つがふ》をなして白妙を逃《にが》したが又儀左衞門殿も一體《いつたい》白妙《しろたへ》が馴染《なじみ》の客にて是も其夜白妙を阿部河原《あべがはら》まで追駈《おつかけ》來られ重五郎と問答《もんだふ》中白妙は船《ふね》に飛乘《とびのり》柴屋寺《しばやでら》まで參りしなり其後樣子を聞ば重五郎は船場《ふなば》にて横死《わうし》の由|是《これ》全《まつた》く儀左衞門殿が手に掛《かけ》られしに相違《さうゐ》なし然れば御内儀必ず我を恨《うら》み給ふな是皆|自業自得《じごふじとく》と諦《あきら》められよと申をお粂は聞も終《をは》らず濶《くわつ》と急込《せきこみ》是は卑怯《ひけふ》なり安五郎殿白妙と逃亡《かけおち》せしのみか何が證據《しようこ》で重五郎を家來筋と言《いは》るゝや死人《しにん》に口なし所詮《しよせん》爰《こゝ》にて兎《と》や角《かく》云とも理非《りひ》は解《わか》らず夜《よ》明《あけ》なば是非《ぜひ》にも駿州《すんしう》まで同道なし善惡《ぜんあく》を分てお貰《もら》ひ申さにやならぬと血眼《ちまなこ》になりて申にぞ安五郎は當惑《たうわく》なし我等とても段々の不仕合《ふしあはせ》折角《せつかく》連退《つれのい》たる白妙には死別《しにわか》れ今は浮世《うきよ》に望《のぞ》みもなければ信州《しんしう》の由縁《ゆかり》の者を頼み出家《しゆつけ》遁世《とんせい》を遂《とぐ》べしと存ずるなり何とて僞《いつは》りを申べきと問答の中に疾《はや》曉《あけがた》に近《ちか》くなりければ安五郎は急《いそ》ぎ立去《たちさら》んとしけるをお粂は先《まづ》待《また》れよと引|止《とめ》る故安五郎は面倒《めんだう》なりと突飛《つきとば》すを又も飛付《とびつく》女の一|念《ねん》止《とま》らぬ遣らじと爭《あらそ》ひける中茶屋の簀《す》の子《こ》を撞乎《どつかり》踏拔《ふみぬき》罵《のゝし》り合て挑《いど》みける此物|音《おと》本坊《ほんばう》へ聞えしにや何事ならんと朝《あさ》看經《かんきん》の僧侶達《そうりよたち》下男諸共十六七人手に/\棒《ぼう》を携《たづさ》へて駈付《かけつけ》見れば是は如何に餘りし黒髮《くろかみ》を振亂《ふりみだ》せし廿四五歳の女と三十|近《ぢか》き色白《いろしろ》き男と組《くみ》つほぐれつ爭ひ居たしかば扨は此奴等《こやつら》色事《いろごと》の喧嘩《けんくわ》にてもなすかや併し見て居られぬとて漸々に双方《さうはう》を引分《ひきわけ》委細《ゐさい》の樣子を聞て所の代官《だいくわん》首藤《すどう》源兵衞より公儀《こうぎ》御代官二|股《また》の陣屋《ぢんや》大草《おほくさ》太郎左衞門殿へ差出し一通り吟味の上駿府へ差送《さしおく》りに相なり石川安五郎は揚《あが》り屋入申付られ其後同所町奉行|桑山下野守《くはやましもつけのかみ》殿|種々《しゆ/″\》吟味《ぎんみ》ありしかど重五郎を殺せし覺えなく又|白妙《しろたへ》が身寄《みより》の者の申立るにより白妙が親|濱松《はままつ》の松下|專庵《せんあん》後家《ごけ》を呼出し吟味《ぎんみ》有けれども事|柄《がら》確《しか》と分らず小松屋よりは安五郎|多分《たぶん》脇《わき》へ賣たで有んとの訴へなり又儀左衞門の女房も訴へ出しに付|無量庵柴屋寺《むりやうあんしばやでら》を呼出さねば分らずとて江戸|表《おもて》へ差出しに相成たり時に石川安五郎廿七歳|江尻宿《えじりじゆく》商人《あきうど》巴屋儀《ともゑやぎ》左衞門三十一歳同人妻粂二十五小松屋小兵衞并|彌勒《みろく》町々役人江尻宿々役人|差添《さしそへ》江戸町奉行大岡越前守殿へ差送られしかば駿府《すんぷ》町奉行|桑山殿《くはやまどの》よりの調書《しらべがき》を以て一通《ひととほり》吟味《ぎんみ》これあり安五郎は揚屋《あがりや》入《いり》儀左衞門は入牢《じゆらう》同人女房粂は長屋預け申付られ駿府御代官太田三郎四郎殿へ柴屋寺|住持《ぢうぢ》を差出す樣又遠州|相良本多《さがらほんだ》長門守殿家來へ同領内上|新田《しんでん》村|無量庵《むりやうあん》を差出すべき旨差紙を出されたり [#8字下げ]第十四回[#「第十四回」は中見出し]  享保《きやうほ》二丁酉年五月十八日南町奉行大岡越前守殿白洲へ一件の者一同呼出され一々呼込になりしが縁側《えんがは》には本多長門守殿留守居始め郡奉行代官等今度吟味掛りの者ども白洲右の方に九郎兵衞夫婦左の方には藤八お節少し引放《ひきはな》れて本繩《ほんなは》足枷《あしほだ》に掛り九助平伏す時に大岡越前守殿本多長門守|家來《けらい》と呼れ九郎兵衞が願書を是れへ差出せと申さるゝに本多家の留守居《るすゐ》ハツと答へて懷中《くわいちう》より取出し目安《めやす》方へ差出すを大岡殿の御覽に入目安方之を讀上る [#ここから2字下げ、折り返して3字下げ] 一本多長門守領分遠州|榛原郡《はいばらごほり》水呑村百姓九郎兵衞同人|妻《さい》深《ふか》右兩人願ひ上奉つり候當村名主九助儀は私しども甥《をひ》に御座候に付私し娘里儀を九助と娶合《めあはせ》置《おき》候處右九助儀先年江戸表奉|公《こう》へ罷《まかり》出候に付里并びに私しども跡へ殘り居り九助留守中取續き方|難澁《なんじふ》仕つり候を親類|惣内《そうない》儀毎度世話致呉候然る處九助歸國仕つり候てより種々|難題《なんだい》申掛自分旅行中島田宿藤八|召使《めしつかひ》節《せつ》と申者と密通《みつつう》仕つり貞節《ていせつ》に留守《るす》相守《あひまもり》居候里に種々|惡名《あくみやう》を付|離縁《りえん》致すべく段申重々|不埓《ふらち》に御座候間其節異見差加へ候へども却て私しを恨み遺恨《ゐこん》に思ふか悴《せがれ》惣内と里と不|義《ぎ》致居る旨申掛|離別《りべつ》致候故私しども親子|道路《だうろ》に餓死《がし》も仕つるべく候處惣内儀見兼候儘私し共を引取《ひきとり》世話《せわ》致《いたし》呉《くれ》其後百姓共取持にて惣内へ里を娶合《めあはせ》候然るに九助は是を遺恨《ゐこん》に存じ私し方へは不通に仕つり其上惣内夫婦を付狙《つけねら》ひ候事と相見え金谷村へ惣内夫婦罷越候歸りを跡《あと》より尾《つけ》來り夜に紛《まぎ》れて兩人を切害《せつがい》仕つり立|退《のき》候へども天命《てんめい》遁《のが》れ難く其場に九助|懷中物《くわいちうもの》落《おち》有之《これあり》同人衣類の裾《すそ》へも血《ち》を引居候に付此|儀《ぎ》御訴へ申上候により召捕られ御領主御役人樣|御吟味《ごぎんみ》の處九助儀包み課《おほ》せず終《つひ》に白状《はくじやう》に及び申候然る所今に又々召出され御吟味を蒙り候|何卒《なにとぞ》御慈悲《おんじひ》を以て惣内夫婦解死人に仰付られ下し置れ候はゞ有難《ありがた》き仕合《しあは》せに存じ奉つり候以上 [#地から10字上げ]遠江國榛原郡水呑村百姓 [#ここから5字下げ] 享保二年五月[#地から9字上げ]九郎兵衞(印) [#地から10字上げ]同人妻  ふか(爪印) [#ここで字下げ終わり] 大岡越前守殿《おほをかゑちぜんのかみどの》是を聞《きか》れコリヤ九郎兵衞云願書の趣《おもむ》きにては嘸《さぞ》かし無念《むねん》に有ん如何にも不便のことなり女房|深《ふか》も一人の子息《しそく》を殺され老行《おいゆく》夫婦の路頭《ろとう》に迷《まよ》ふは後世の杖を奪《うばは》れ嬰兒《えいじ》の乳房《ちぶさ》を隱されたるやうなるべし併《しかし》此事|屹度《きつと》九助が殺したると聞受難と申さるゝに兩人は憤然《ふんぜん》となり否々《いや/\》相違御座りませんと云ふ大岡殿コリヤ九郎兵衞夫婦其方共が悴《せがれ》や娘の殺されし所は何と云地所なるやと有に九郎兵衞はヘイ大井川《おほゐがは》の端《はし》下伊呂村《しもいろむら》辨天堂《べんてんだう》の前なりと云ければ而て其《そ》の下《しも》伊呂村辨天堂の前より水呑村迄は何程なるや又惣内夫婦は其日何用有て何時に宅《たく》を出《いで》しぞと尋問《たづね》らるゝに金谷村に法用《はふよう》有て晝前《ひるぜん》巳時頃《よつどきごろ》より參りしと申しければ大岡殿には其節《そのせつ》九郎兵衞夫婦は宅《たく》に居しやと尋ねらるに私しども兩人も法用の席《せき》へ同道《どうだう》仕つりたしと[#「仕つりたしと」はママ]申せしかば然らば歸りの節《せつ》も同道ならんに悴夫婦の切害《せつがい》に遭《あひ》し時|只《たゞ》見ても居る間じ如何せしぞと問詰《とひつめ》られ九郎兵衞はグツと差迫《さしせま》りしが然あらぬ面にてヘイ其節は私し共兩人は少々《せう/\》先へ戻《もど》りしゆゑ悴夫婦の殺されし事は存じ申さず翌朝《よくてう》村《むら》の者が知らせに驚き其場所へ到り見屆け候處兩人は數《すう》ヶ|所《しよ》の疵《きず》にて首《くび》は御座なくと申せば大岡殿ナニ首が紛失《ふんじつ》致し居りしや夫は又如何なる事ぞと問《とは》るゝを九郎兵衞是は後日《ごにち》詮議《せんぎ》の時首さへ無れば知れまじとて九助|取隱《とりかく》せしなりと云ば大岡殿シテ又首のなき者を悴《せがれ》夫婦と何して知りしぞと有に九郎兵衞夫は衣類|恰好《かつかう》にて相分《あひわか》りしと申せば大岡殿ナニ衣類《いるゐ》恰好《かつかう》で分つたと申か成ほど我が子なれば衣類恰好の見覺《みおぼ》えあるは道理《もつとも》なり扨々《さて/\》不便《ふびん》な事を致した九助へ吟味を遂《とげ》解《げ》死人を取て遣すぞと云るゝゆゑ九郎兵衞夫婦は〆《しめ》たりと思ひ莞爾々々《にこ/\》面《がほ》に居たりけり大岡殿は九助に向はれ面を上いと云れ同人の面體《めんてい》を篤《とく》と見らるゝに年の頃《ころ》三十歳ばかり顏色《がんしよく》痩衰《やせおとろ》へ肉《にく》落《おち》骨《ほね》顯《あら》はれ何樣《いかさま》數日|拷問《がうもん》に苦しみし體なり扨又女房お節を見らるゝに渠《かれ》とても顏色《がんしよく》更《さら》に人間《にんげん》の潤《うるほ》ひなく色《いろ》蒼然《あをざめ》て兩眼を泣脹《なきはら》し櫛卷《くしまき》に髮を取りあげ如何にも痩衰《やせおとろ》へたる其體《そのてい》千辛萬苦の容子《ようす》自然と面に顯はれたり正直《しやうぢき》の頭《かうべ》に舍《やど》り給ふ天神地祇云ず語《かたら》ず神明《しんめい》の加護《かご》にや大岡殿夫婦の體《てい》最《いと》憐然《あはれ》に思されコリヤ九助其の方は如何なる意趣《いしゆ》有て親類|縁者《えんじや》たる惣内夫婦を大井河原《おほゐがはら》に於て殺したるぞ願人九郎兵衞夫婦よりの願書前に讀聞《よみきか》[#ルビの「よみきか」は底本では「よみかき」]せたれば承知《しようち》ならん一々覺え有るか何ぢやと尋問《たづね》らるゝに九助ははら/\と涙を流し※[#「圖」の「回」に代えて「面から一、二画目をとったもの」、748-3]《はか》らず公儀《こうぎ》の御|調《しら》べに相成し事|冥加《みやうが》至極《しごく》有難く存じ奉つる然らば現在の儘《まゝ》申上候はんが私し儀何等の意趣も之なき惣内夫婦を殺《ころ》し申べき此儀何卒御|推察《すゐさつ》願《ねが》ひ奉つると申しければ大岡殿|倩々《つく/″\》聞れ汝は然樣に覺え無事を何故《なにゆゑ》に人殺しと白状《はくじやう》に及び剩《あまつ》さへ爪印《つめいん》まで致したるぞと是に九助は怨《うら》めし氣に本多家の役人を見遣り御意の通り私し一向覺え御座なき趣《おもむ》き委細に申上げ候へども御領主の役人衆《やくにんしゆ》御聞入是なく毎日々々の拷問《がうもん》嚴敷《きびしく》石を抱せ海老《ゑび》に掛らるゝ事既に十三度に及び皮肉《ひにく》も切破《きれやぶ》れ骨《ほね》も碎《くだく》るばかりの苦痛《くつう》に堪兼《たへがね》是非なく無實の罪に陷《おち》し所此度是なる妻《さい》節恐れ多くも松平縫殿頭樣へ御|駕籠訴《かごそ》仕つりしより江戸|表《おもて》へ召出され再應《さいおう》の御|吟味《ぎんみ》に預《あづか》ること有難仕合に私し風情《ふぜい》の女房が願を御取上げ相成し事一夫一婦の願ひをも捨給《すてたま》はぬ[#「捨給はぬ」は底本では「捨給ひぬ」]聖代《せいだい》賢《かしこ》き御代とは申ながら土民の事に付天下の御役人樣へ御|苦勞《くらう》掛奉つる事|冥加《みやうが》の程《ほど》も恐しく此末の申|譯《わけ》立《たゝ》ず此儘死罪に相成とも少も御|怨《うらみ》とは存奉つらずと申立ければ大岡殿コリヤ九助其方は然樣に申ても一|向《かう》に跡《あと》方もなき儀を九郎兵衞とても訴《うつた》へは爲まじ虚《きよ》は實《じつ》を以て爲すと云ことありと云るゝに九助は愼《つゝ》しみ恐《おそ》れながら私し儀は以前五ヶ年|程《ほど》江戸へ罷《まか》り出奉公仕つり金百八十兩|貯《たくは》へ國|許《もと》へ戻《もど》りし處江戸稼ぎの留守中先妻里儀|先名主《せんなぬし》惣右衞門[#「惣右衞門」はママ]悴惣内と不義《ふぎ》仕つり剩《あまつ》さへ私しの金子を其翌日惣内に騙取《かたりとら》せしを那《あれ》に控居《ひかへを》る藤八が計《はか》らひにて金子は殘《のこ》らず取|戻《もど》し候間先妻里の不埓《ふらち》はあれども親類《しんるゐ》中故右金子の中を分手當も仕つり離別《りべつ》致せし所同村百姓共の世話《せわ》にて不義の相手惣内方へ取持仕つり又伯父九郎兵衞儀も幸《さいは》ひ惣内親惣左衞門は相果《あひはて》母親《はゝおや》深《ふか》ばかりゆゑ渠《かれ》が方へ參り度と申に任《まか》せ里に付て伯父をも遣はせしなり恐《おそ》れながら私しが心底《しんてい》斯《かく》の如く何卒御|賢慮《けんりよ》を願ひ奉つり候|遺恨《ゐこん》に存ずる心底ならば不埓《ふらち》の先妻は申に及ばず伯父九郎兵衞へ千辛萬苦致して貯《たくは》へたる金を遣はす理の御座るべき是れ私しが遺恨《ゐこん》を含《ふく》まぬ證據《しようこ》に候と申せば大岡殿には五年に二百兩に近き大金《たいきん》を貯へたる稼は武家町人は何れへ奉公《ほうこう》致したるぞと有るに九助然れば御|恥《はづか》しきことながら日本橋室町三丁目のといふ時大岡殿如何さま番人の九助なりしと云るれば九助は然樣に候と答《こたふ》るに大岡殿成程今はみいらの如くに骸《からだ》は碎《くだ》かれ昔の形容《なりかたち》なきゆゑ心付ざりしが其|砌《みぎり》は正直過て上の御厄介になりたる汝《なんぢ》今|更《さら》昔しの事を彼是と勘考《かんかう》するに今度の儀も篤實《とくじつ》過《すぎ》汝が身の難儀《なんぎ》に成しかも量り難し水清ければ魚《うを》棲《すま》ず人明らかならば交《まじ》はり少なしとは汝が事ならん扨々|憫然《あはれ》至極《しごく》と姑《しば》らく默止《もくし》て居られしかば白洲《しらす》は寂《しん》と靜《しづ》まりたり良《やゝ》有りて大岡殿再び九助に向はれ番人を勤《つと》め中天より授《さづ》かる金とは云ながら千|辛《しん》萬|苦《く》せし金の中八十兩と[#「八十兩と」はママ]申大金を不義の女房《にようばう》并に伯父九郎兵衞へ能く分て遣はせしぞ伯父《をぢ》は母方か父方《ちゝかた》かと問はるゝに九助こたへて亡夫《ばうふ》九郎右衞門まで七代の間水呑村|名主《なぬし》を仕つり九郎兵衞は九郎右衞門の弟《おとゝ》なれ共一|體《たい》若年《じやくねん》よりといはんとせしが伯父の讒訴《ざんそ》は如何とぞ心ろ付|亡夫《ばうふ》の勘當《かんだう》を受け十七年の間|相摸《さがみ》國御|殿場《てんば》村に居りしを私し親共死去の節《せつ》戒名《かいみやう》を屆《とゞ》け呉よとの遺言《ゆゐごん》も有之に付其後村方の飛脚《ひきやく》序《ついで》に九郎兵衞の在所を尋|逢《あひ》同人御殿場にて養《やしな》ひし娘里諸共|古郷《こきやう》へ引取候と申ければ大岡殿には父《ちゝ》なき後は伯父を父に代るの心得|奇特《きどく》なことぞ而て又|深《ふか》は其の右に[#「右に」はママ]如何なる縁續《えんつゞ》きなるやと言るゝに九助はヘイ元《もと》母《はゝ》方の伯父|嫁《よめ》なれども惣左衞門|死去《しきよ》せし後當時又九郎兵衞に連添《つれそひ》居《ゐ》れば伯母とは云候と申せば大岡殿|成程《なるほど》汝が申口にては惣内を害《がい》する程の意趣《いしゆ》も有まじなれ共《ども》汝の衣類《いるゐ》の裾《すそ》に血《ち》を引又|所持《しよぢ》の鼻紙《はながみ》入が殺害《せつがい》人の傍邊《かたはら》に落《おち》て在しと申が此儀は如何なるぞと糺《たゞ》さるゝに九助は其儀は同日私し儀も金谷村の法會《ほふゑ》の席《せき》へ參り居り混雜《こんざつ》の砌《みぎり》鼻紙入を置忘《おきわす》れ小用に立し中|紛失《ふんじつ》仕まつりしにより諸所相|搜《さが》し候へども一向に見當り申さず餘儀《よぎ》なく歸宅仕つりしところ其節私し妻の實母年回に付上新田村なる無量庵《むりやうあん》の大源和尚《だいげんをしやう》へ供養を頼み度と妻《つま》申候により私しの爲にも姑《しうとめ》の儀故|草臥《くたびれ》足をも厭《いと》はず夕《ゆふ》申刻過《なゝつすぎ》より右の寺へ參り暫時物語等致し居|存外《ぞんぐわい》遲《おそ》なはり夜|亥刻《よつどき》近《ちか》き頃《ころ》上伊呂村迄[#「上伊呂村迄」はママ]歸り來りし時河原にて何やらに跪《つまづ》きたれども宵闇《よひやみ》なれば物の文色《あいもん》は分らず只《たゞ》人の樣子ゆゑ酒《さけ》に醉《ゑひ》し者の臥《ふせ》り居し事と心得氣の急《せく》まゝ能も糺《たゞ》さず早々歸宅仕り其夜は直樣《すぐさま》打臥《うちふし》翌朝《よくてう》起《おき》出門の戸を明候折|衣類《いるゐ》の裾《すそ》に血《ち》の付居しを妻節が見付如何いたせしやと申され私しも驚《おどろ》き考《かんが》へ然すれば昨夜河原にて跪《つまづ》きしは生醉に之なく怪我人にても有しや且《かつ》昨日金谷村|法會《ほふゑ》の席《せき》にて鼻紙入を失ひ種々相尋候へども見當《みあた》らずなど物語り居し機《をり》から九郎兵衞が案内《あんない》にて御領主の役人入來り有無を云せず召捕《めしとら》れ申候然れば右鼻紙入の紛失と云ひ其夜切害人の傍邊《かたはら》に落《おと》し之有し事ども如何にも不思議《ふしぎ》と存候間其邊を御吟味下さるゝ樣御領主の役人衆《やくにんしゆ》へ度々申立候へども更に御取上御座なく只々《たゞ/\》人|殺《ごろ》しの儀を白状せよとのみ嚴しく仰聞られ其後|種々《さま/″\》の拷問《がうもん》に掛る事二十五度の中石を抱《いだ》き海老責《えびぜめ》になる事十三度何程申|解《わけ》致し候とも少《すこ》しも御聞入なく候まゝ寧《いつそ》此世の苦痛《くつう》を遁《のが》れんと存じ身に覺えなき罪に陷《おち》候と申ければ大岡殿には而て其方鼻紙入|紛失《ふんじつ》の詮議《せんぎ》は之なきやと云はるゝに九助夫等の儀は一向御|糺《たゞ》しは御座なくと申せば越前守殿|暫時《しばらく》考られコリヤ九助其方は當時の妻節とは豫々《かね/\》密通《みつつう》致し居しゆゑ渠《かれ》を入んが爲先妻へ無實の汚名《をめい》を負《おは》せ追《おひ》出したる旨《むね》九郎兵衞よりの訴状面《そじやうめん》に見ゆるが此儀申|解《わけ》ありやと有に九助は全く以て右樣《みぎやう》の事は御座なくと委細の事故《ことがら》を申立んとする機後に控へし藤八|恐《おそ》れながら其儀は私しより申上んと進み出全く申樣の筋《すぢ》には御座なく先以て是なる節と申女は私し姉《あね》の娘にて駿河《するが》國阿部川出生の者に候所姉|聟《むこ》相|果《はて》幼少《えうせう》の身を以て母の長病を介抱《かいはう》致せし孝行|大人《おとな》も及び難く然るに或時《あるとき》不※[#「圖」の「回」に代えて「面から一、二画目をとったもの」、750-12]《ふと》勾引《かどはか》されしを九助江戸へ出府の砌《みぎり》途中《とちう》にて渠が厄難《やくなん》を救ひ遣し其後五年過て九助儀は百八十兩餘の大金を所持仕つり江戸より歸國の旅中《りよちう》瀬戸川《せとがは》にて難儀の機《をり》私し儀[#「私し儀」は底本では「私し姉」]身延山へ參詣の歸り掛け幸ひに行逢見兼しまゝ盜賊《たうぞく》共を追散《おひちら》し私し方へ伴ひ立歸りしなり其|頃《ころ》は私し姉儀|病死《びやうし》仕つりしにより節は私し方へ引取置候處九助と顏《かほ》を見合せ互《たがひ》に不思議の再會《さいくわい》を喜び候と言を聞れ大岡殿は扨々人を助れば助けらるゝ天の惠《めぐみ》爭《あらそ》はれぬものと申さるゝに藤八は仰《おほせ》の如く九助儀大金を持て歸村の程|覺束《おぼつか》なしと私し儀存じ右の金を預り歸村後兩三人|連《つれ》にて請取《うけとり》に參り申べしと約束《やくそく》いたし私しより日蓮上人|直筆《ぢきひつ》の曼陀羅《まんだら》を九助に渡し右を證據に金子と取|替《かへ》遣《つかは》し候筈の所翌日九助の親類《しんるゐ》周藏喜平次と申者の由にて曼陀羅を持參仕つりし故預りし金子を渡《わた》し遣せしに其日の夕暮《ゆふぐれ》九助|蒼《あを》くなりて馳來りしに付何事にやと相|尋《たづ》ね候所曼陀羅|紛失《ふんじつ》の次第斯樣々々と片息《かたいき》になつて申聞候により私し工夫仕つりし所此儀他村の者の知べき程の間合《まあひ》之なく何れ村中の者ならんと心付候まゝ同人歸村の祝《いは》ひと名付水呑村惣中を呼集め大|振舞《ふるまひ》致すべく其節私し密《ひそ》かに參り見候はゞ右曼陀羅を盜み取私し方へ騙《かたり》に參り候者相知申べしと相談《さうだん》仕つり九助儀は直樣《すぐさま》水呑村へ立歸り歸國の振舞と申翌日村中を呼集め酒宴|最中《さいちう》私し儀密に同人方へ參り勝手《かつて》より窺《うかゞ》ひ見候處昨日九助|親類《しんるゐ》周藏と名乘しは名主惣内|喜《き》平次と申せしは同人手代源藏と申者に付九助へ其|段《だん》申聞|取押《とりおさ》へて吟味仕りしに九助|留守《るす》中同人|妻《つま》里《さと》事惣内と密通《みつつう》に及び居九助|持歸《もちかへ》り候曼陀羅を盜《ぬす》み取惣内へ送《おく》り遣はし惣内儀源藏と申合せ私し方へ參り金子|騙《かた》り取しに相違《さうゐ》是なき旨|相顯《あひあらは》れ候|併《しか》しながら村中の者共名主の事ゆゑ氣の毒に存じ中へ立入|種々《しゆ/″\》取|扱《あつか》ひ里儀は何となく離縁《りえん》と云事に相成九助より申上し通り金子は惣内より取戻《とりもど》し候まゝ右の中ちを五十兩九郎兵衞里兩人の養育料《やういくれう》として遣《つかは》し候儀に御座候其後九助同村の周藏喜平次木|祖《そ》兵衞等が取持《とりもち》にて私し姪《めひ》節儀を九助と配偶《めあはせ》たき由申により私し養女に仕つり同人方へ遣《つかは》せし儀に御座れば何も不義《ふぎ》の徒《いたづ》ら者のと私養女に難曲《なんくせ》を付るに及ぬ事|委細《ゐさい》は村役に御聞下されなば委細《くはしく》御分りに相成候と云にぞ大岡殿コリヤ周藏木祖兵衞百姓|代《だい》喜《き》平次今藤八が申通りに相違《さうゐ》なきやと有に三人の者共一同に毛頭《もうとう》相違之なくと申せしかば大岡殿|然《しから》ば[#「大岡殿|然《しから》ば」は底本では「然《しか》ば」]九助が申處一々理のある樣に相聞ゆ猶《なほ》追《おつ》て吟味に及ぶと申さるゝ時|下役《したやく》の者一同立ませいと聲を掛其日は白洲を閉《とぢ》られけり [#8字下げ]第十五回[#「第十五回」は中見出し]  斯《かく》て又|享保《きやうほ》二年五月廿六日|双方《さうはう》共明廿七日|辰《たつ》の刻《こく》評定《ひやうぢやう》所へ罷《まかり》出べき旨|差紙《さしがみ》あり依て願人相手方|殘《のこ》らず評定所|腰掛《こしかけ》へ未明《みめい》より相|詰《つめ》る抑も評定所に於て吟味《ぎんみ》のありしは寛永八年二月二日町奉行島田|彈正忠殿《だんじやうのちうどの》宅《たく》へ老中方其外役々|寄合《よりあひ》公事沙汰《くじさた》ありしが始めにて其後|酒井《さかゐ》雅樂頭《うたのかみ》酒井|讃岐守《さぬきのかみ》殿并に老中方の屋敷《やしき》へ寄合れしに寛永十二年十一月十日御|城内《じやうない》に評定所を定められ十二月二日より評定所に於て役々寄合あり夫より毎月二日十二日廿二日を定日とせられ元祿《げんろく》二巳年八月廿五日より必ず御|目付《めつけ》は立合事に相成しなり然《され》ば此日も老若方《らうにやくがた》を始として兩御目付三奉行|諸有司《しよいうし》小役人に到《いた》るまで皆其家々の定紋《ぢやうもん》付きたる箱提灯《はこぢやうちん》を燈《とぼ》し立行列正しく評定所へ出席せられ威儀《ゐぎ》嚴重《げんぢう》に列座さるゝ有樣實にや日本の政所《まんどころ》曇《くも》らぬ鏡の天下の善惡|邪正《じやしやう》を明らかに吐出《はきだ》す流れる龍《たつ》の口|偖《さて》又諸國よりの訴訟《そしよう》人共|士農工商《しのうこうしやう》出家《しゆつけ》沙門《しやもん》醫者《いしや》山伏《やまぶし》の諸民に至るまで皆々相詰|罷在《まかりあれ》ば程なく本多長門守|領分《りやうぶん》遠州|榛原郡《はいばらごほり》水呑村九助一件|這入《はひり》ませいと呼込《よびこみ》になり一同ハツと答へ願人相手方其外村役人共付|添《そひ》白洲へ繰込《くりこむ》九助は領主より引渡《ひきわた》しの儘《まゝ》いまだ足枷《あしほだ》を打れ繩目《なはめ》嚴敷《きびしく》栗石《くりいし》の上に蹲踞《かしこま》り其次に女房節|舅《しうと》藤八とも謹《つゝし》んで平伏《へいふく》す又右の方には訴訟人九郎兵衞夫婦其外引合の者村役人等居並びしが何れも遠國|邊鄙《へんぴ》の者始めて天下の決斷所へ出ければ白洲の巍々堂々《きらびやか》なるに恐怖《きようふ》なし自然《しぜん》と戰慄《ふるへ》居たりける又た本多家の役人松本理左衞門始め吟味掛りの者一同|留守居《るすゐ》付添《つきそひ》縁側《えんがは》へ罷《まかり》出左の方には目安方與力其上に留役衆《とめやくしゆう》白洲《しらす》の左右には十手|捕繩《とりなは》を持同心|跪踞《ひざまづき》居る時に警蹕《けいひつ》の聲と諸《もろ》ともに月番の老中|志州《ししう》鳥羽《とば》の城主高六萬石從四位侍從松平右近|將監《しやうげん》源|乘包《のりかね》殿上座に着座《ちやくざ》あり右の方三|疊《でふ》程《ほど》下り若年寄上州|館林《たてばやし》の城主高五萬石從五位|に朝散太夫《てうさんのたいふ》太田備中守源|資晴《すけはる》殿引き續いて寺社奉行|丹羽《たんば》國永井郡|園部《そのべ》の領主高二萬六千七百石從五位朝散太夫小出信濃守|藤原英貞《ふぢはらひでさだ》殿大目付には上田|周防《すはうの》守|義隣《よしちか》殿町奉行中山出雲守殿大岡越前守殿|公事方勘定《くじかたかんぢやう》奉行|駒木根《こまぎね》肥後《ひごの》守殿|筧《かけひ》播磨《はりまの》守殿御目付杉浦貞右衞門殿浦井權九郎殿出座あり大岡殿正面|端近《はしちか》く進み出られ右の方に中山殿其の右に大目付御目付立合たり其外勘定吟味役衆|祐筆《いうひつ》衆勘定衆兩支配勘定に至る迄《まで》公事《くじ》立合の役々出席あり此時大岡越前守殿本多長門守家來松本理左衞門と呼れ其方儀は長門守郡方役人として此度九助一件|吟味《ぎんみ》いたし候|趣《おもむ》きの處其方|詮議《せんぎ》強《つよ》く因て九助事|白状《はくじやう》致し罪に伏せしと有|然樣《さやう》に相違無《さうゐなき》やと尋問《たづね》らるゝに理左衞門|首《かうべ》を上仰の如く九助儀吟味仕つりし處明白に白状致し罪に相伏《あひふく》し口書《こうしよ》爪印《つめいん》迄仕つり科《とが》の次第《しだい》申し渡し相|濟《すみ》候處九助妻節并に舅藤八|何樣《いかやう》の儀を存付《ぞんじつき》候にや一旦罪に伏したる九助儀を今更公儀へ御苦勞を掛奉つり候儀恐れ入り奉つり候全く九助|妻《さい》舅《しうと》藤八とも不埓《ふらち》至極《しごく》成者共なりと申ければ大岡殿成程其方が申如く一旦|裁許《さいきよ》濟《すみ》たるを破《やぶ》らんと爲事|恐《おそれ》を頼みざる[#「頼みざる」はママ]段|不埓《ふらち》の至りなるが併し理左衞門天下の政事も大小名の家の政事《せいじ》も理《り》に二ツは是なく其方は長門守家にては此越前守同樣の役儀をも勤れば[#「勤れば」は底本では「勤をば」]決斷には如才有まじ夫《それ》人《ひと》の命の重き事は申さずとも承知ならん然ばよく/\吟味に念を入《いれ》囚人《めしうど》九助が罪を訊糺《とひたゞ》し罪に伏《ふく》せざる中は是《これ》を罪せず況《いは》んや罪の疑《うたがは》しきは輕く賞《しやう》の疑しきは重くすと是賞を重んじ罪を輕《かる》くする事の理なり其方共が吟味《ぎんみ》は定めて九助の衣類の裾《すそ》に血《ち》の染《そみ》たると鼻紙《はながみ》入の落てありしとを以て證據《しようこ》となし人殺しは九助と牢問《らうどひ》に及びしならん依て九助は呵責《かしやく》の苦痛《くつう》に堪《たへ》兼て其罪に陷入《おとしいれ》しを其方は一途に人殺しは九助なりと心得しに相違《さうゐ》有まじと申さるゝを理左衞門は己《おのれ》が落度にならんを恐《おそ》れ強《しひ》て云張んと思ひければ否々《いへ/\》落《おち》なく吟味仕つりし所全く意趣《いしゆ》有て惣内夫婦を切害《せつがい》せし趣き白状仕つり其上爪印まで相濟候なりと云に大岡殿イヤサ其所が所謂《いはゆる》虎《とら》を畫《ゑがき》てならざれば却《かへつ》て狗《く》に類《るゐ》すと云が如く似て非なる者の間違ひ安き所なり因て篤と糺明《きうめい》せざれば無實に人を殺す事|往々《まゝ》あり是等は此上もなき天の憎《にく》む處なり餘り嚴敷《きびしく》拷問《がうもん》に掛らるれば所詮《しよせん》斯る苦痛《くつう》を爲《せん》よりはなどと罪なき者も覺悟に及ぶ事あり是を屈死と云其方是等の儀は申さずとも心得あるべきなれどもいまだ吟味に足ざる所ありと申されしかば理左衞門は否《いや》私し取調《とりしらべ》候處にては血汐《ちしほ》の一儀|而已《のみ》にても九助が人殺し明白なるに況んや其日他行仕つりしと翌朝九郎兵衞夫婦訴へ出其場所に鼻紙入《はながみいれ》[#ルビの「はながみいれ」は底本では「ほながみいれ」]の落《おち》てありしかば何より確《たしか》な證據《しようこ》なりと申|張《は》るを大岡殿|押返《おしかへ》されコリヤ理左衞門夫が其方|役儀《やくぎ》に疎《うと》きと申者九助が殺《ころし》たる惣内夫婦が死骸《しがい》は數ヶ所の疵《きず》とあり然すれば右の血汐《ちしほ》九助が裾《すそ》而已《のみ》ならず外々へも掛《かゝ》るべきに左はなく裾《すそ》ばかりへ着《つき》しも不審《ふしん》なり又九助が申立には其夜|上新田村《かみしんでんむら》より歸り掛下伊呂村へ來懸りし途中《とちう》にて躓《つまづ》き其の節何者か倒《たふ》れ居りしに血汐を引たりとあり然ば九助出先|無量庵《むりやうあん》をも呼出し九助が歸宅《きたく》の刻限《こくげん》をも取調《とりしらべ》申べき筈《はず》なるに其儀是なきよし又|死人《しにん》の傍邊に同人の鼻紙《はながみ》入が落てありし趣きなれども右の品は同日|晝《ひる》の中九助儀|金谷村《かなやむら》の法會の席にて失《うしな》ひし品なりと申然すれば同人に恨《うらみ》ある者是を盜《ぬす》み取人殺しの罪《つみ》を九助に負《おは》せんと其場所へ落し置しも計《はか》り難《がた》し依ては鼻紙入|紛失《ふんじつ》の事柄をも篤と取糺《とりたゞ》すべきの處是以て一向其沙汰なく|只々《たゞ》裾《すそ》に血《ち》を引《ひき》たると落てありし鼻紙入とを以て人殺《ひとごろ》しは九助なりと見|留《とめ》嚴《きび》しく拷問《がうもん》に掛し事甚だ其意を得ざる取計《とりはから》ひなりとありしかば理左衞門其儀は九助何樣申立候とも渠《かれ》が裾《すそ》に血《ち》を引居《ひきをり》候|而已《のみ》か所持の品も落て在しからは全く九助が所業《しわざ》に相違《さうゐ》之なく假令《たとへ》拷問《がうもん》に掛かり候とて身に覺えなき事は白状《はくじやう》仕つらざる筈なり前《さき》より申上候通り口書書《こうしよがき》爪印《つめいん》まで相|濟《すみ》候は全く渠《かれ》が白状に因ての儀に候と何時《いつ》にても同じ事を申立るにより越前守殿心の中には扨々|強情《がうじやう》なる者とは思はれしかど猶《なほ》詞《ことば》を和《やは》らげられ然らば吟味の節《せつ》刄物《はもの》は何なる品にて切害《せつがい》致せしや又九助が家内の刄物等|詮議《せんぎ》いたし血の跡にても殘り居|怪敷《あやしく》思ふ品にても是ありしや其邊の糺明《きうめい》屆《とゞ》きしやと有しに理左衞門はグツと言し切《きり》暫時《しばし》返答《へんたふ》なければ大岡殿サテ此儀は何ぢやと再|應《おう》尋問《たづね》らるれども理左衞門は面色《めんしよく》青《あを》くなり赤《あか》くなり額に玉《たま》の汗《あせ》を流《なが》しうぢ/\として返答《へんたふ》なさゞるより大岡殿少し聲《こゑ》を張上《はりあげ》られコリヤ理左衞門其方は先刻《せんこく》より某しが相尋問る事ども一向に應《こた》へなきは糺明《きうめい》行屆《ゆきとゞ》かざる儀と存ずる彌々《いよ/\》其|邊《へん》の取|調《しらべ》もなきは役柄に不似合の致方《いたしかた》不埓《ふらち》至極なり只九郎兵衞が申立のみを取上九助を召捕《めしとり》拷問《がうもん》に及びし事夫は本田家《ほんだけ》の[#「本田家の」はママ]作法《さはふ》なるや政事《せいじ》は大小有とも法は天下の法なり人の道《みち》は天下の道なり道と法とは私しに暗《くら》ますべからず然るに其の方の如きが裁許《さいきよ》不穿鑿《ふせんさく》は云までもなく法外の裁斷《さいだん》と申すべし其の方も領主の公事《くじ》決斷《けつだん》を預かる者ならずや斯る無智《むち》短才《たんさい》の輩《とも》がらに此重き役儀を申し付るこそ重役も左程《さほど》目の無きものどもにもあるまじ殊に其の方が面體《めんてい》斯《かく》まで愚鈍《うつけ》者とも見えず是程の辨《わき》まへなきこともあるべからず是には何か仔細《しさい》あらんとじり/\眞綿《まわた》で首を締《しめ》るが如き糺問《きうもん》に理左衞門ハツとばかりに溜息《ためいき》を吐き自然惣身|戰慄《ふるへ》出しは見|苦《ぐる》しかりし體裁《ありさま》なり大岡殿には又黒崎又左衞門市田武助の兩人に對はれ其の方どもは理左衞門が下役として九助の所刑方萬事申|談《だん》じたる趣き倶々《とも/″\》不吟味なるぞと言るゝに又左衞門其の儀は私くし事毎度同役武助と申合せ種々|異見《いけん》も仕まつり役儀と申ながら餘り手|強《づよ》くばかり致しては實意《じつい》の吟味に之なき段申聞ると雖も左右《とかく》立腹《りつぷく》仕まつり私し九助へ荷擔《かたん》致し贔屓《ひいき》の樣にも申され迷惑《めいわく》に付上役の儀ゆゑ餘儀《よぎ》なく其|儘《まゝ》申通りに仕つり候と申ければ大岡殿夫は矢張《やはり》其方共が不詮議《ふせんぎ》なり左程に思はば何故《なぜ》重役《ぢうやく》に訴へぬぞ假令《たとへ》頭《かしら》たり共|趣意《しゆい》に違ふことありと知つゝ重役へも訴へぬは左右《とかく》[#ルビの「とかく」は底本では「ととく」]心得違《こゝろえちがひ》なりと云れしかば兩人一言もなく恐入《おそれいつ》て平伏す因て大岡殿また九郎兵衞夫婦を見遣《みや》られ只今|承《うけた》まはる通り九助が裾に血の付て居るの鼻紙入が落てありしのとばかりでは甚はだ分明《ぶんみやう》ならず然ば篤《とく》と思慮《しりよ》いたし事故明白に申立よと有りしにぞ九郎兵衞は神妙《しんめう》らしく徐々《そろ/\》首《かうべ》を上げ恐《おそ》れながら悴《せがれ》惣内夫婦を殺せし者九助より外には御座なく其|譯《わけ》と申は先悴惣内が女房里は九助よりも申上し通り同人の先|妻《さい》に御座候處九助儀只今の妻節と密通《みつつう》致《いたせ》居し故私し共|親《おや》子を邪魔《じやま》に致《いた》し罪《つみ》なき者に罪を着《き》せ離縁《りえん》仕つりしにより私し共|路頭《ろとう》に迷《まよ》ひ候を村内の者共|達《たつ》て勸《すゝ》めに任《まか》せ里儀を惣内妻に致《いた》候[#「致《いた》候」はママ]夫を九助儀今|更《さら》未練《みれん》にも遺恨《ゐこん》に存親類中も不通《ふつう》に相成|加之《そのうへ》同人名主役申付られしより村長《むらをさ》の權威《けんゐ》を振《ふる》ひ私欲《しよく》押領《あふりやう》多く小前の者ども難儀《なんぎ》仕つるに付村中寄り合ひ又々惣内を歸役《きやく》致させんと内談《ないだん》いたせし儀を何時か九助|承知《うけたま》はり其事を憤《いきど》ほり妬《ねた》み居り候ゆゑ下伊呂村|辨天堂《べんてんだう》前《まへ》に待伏《まちぶせ》致し惣内夫婦を殺したるに毛頭《もうとう》相違御座なく何卒明白の御吟味|偏《ひとへ》に願ひ奉つると矢張《やはり》同じ事を申立れば大岡殿是を聞れ心に思はれけるは老中方始め諸役人の前にて今一|應《おう》明白の吟味を聞せんと故意《わざ》と徐《しづ》かに詞《ことば》を發《はつ》せられオヽ九郎兵衞|能《よく》こそ委細《ゐさい》に申|立《たて》たりコリヤ九助其方は只今九郎兵衞が申立に因《よれ》ば左右《とかく》伯父女房とも無體に追出したる樣なり此儀|如何《いか》なるぞと問るゝに九助は愼《つゝし》んで答《こたふ》るやう其等《それら》の儀は先日御詮議の節も申上し通り先妻里儀は惣内と不義《ふぎ》仕つりし而已《のみ》か藤八へ預け候金子を騙《かた》り取べき爲《ため》曼陀羅《まんだら》を盜み惣内へ贈《おく》り又|翌日《よくじつ》酒宴《しゆえん》の席にて藤八に見顯《みあら》はされ候處惣百姓共|取扱《とりあつか》ひにて惡名《あくみやう》を付ず離縁いたし又當時の妻節義と私し密通など致し候事|毛頭《もうとう》是なく妻に貰《もら》ひ受候は斯々なり加之私し名主役申付られ候以來|私欲《しよく》押領等《あふりやうとう》の儀仕つりし覺《おぼ》え聊《いさゝ》かも御座なく候と巨細《こさい》の手續《てつゞき》明かに申立猶御不審の廉《かど》も候はゞ村役人へ御尋問下さらば事|故《がら》委細御分りに相《あひ》なるべしと申立しかば越前守殿其事故は先日も申立たる趣意《しゆい》なれども先妻《せんさい》里惣内と不義致せしと申は聢《しか》としたる證據《しようこ》にてもありしかとあるに九助其儀は藤八へ御|尋《たづ》ね願ひ奉《たてま》[#ルビの「たてま」は底本では「たてまつ」]つると申に大岡殿|如何《いか》に藤八其方委細の事を心得居かと申されければ藤八|進《すゝ》み出右の儀は先日申上し通り九助|宅《たく》にて村中|惣振舞《そうふるまひ》の節惣内事|強《がう》情を申|募《つの》り居に付き其前日私方へ騙《かた》りに參《まゐ》りし時|落《おと》して行《ゆき》し里よりの文《ふみ》を取出し何れもの前にて讀聞《よみきか》せ其|文言《もんごん》は九助事江戸|表《おもて》より持歸《もちかへ》り候金百八十兩|島田宿《しまだじゆく》藤八へ預《あづ》け是あり曼陀羅と引替に渡《わた》す約束《やくそく》故《ゆゑ》曼陀羅を盜取《ぬすみとり》送《おく》り遣《つかは》し候間右の金子を請取《うけとり》其後兩人にて逃亡《かけおち》致《いた》さんとあるゆゑ一座の者共大いに驚《おどろ》き惣内も終《つひ》に一言もなく閉口《へいこう》いたし候と申ければ大岡殿シテ其文は其方今に所持《しよぢ》致《いたし》て居るかと云はるゝに藤八|否《いへ》其後村中役人|立會《たちあひ》相談《さうだん》の上里の離縁状に添《そへ》て惣内方へ遣したりと云に大岡殿然らば九郎兵衞が申立とは大いに相違《さうゐ》いたし居なり此義節は如何心得居るや猶《なほ》委細《ゐさい》申立よと有しかばお節は恐《おそ》る/\首《かうべ》を上私し先年|駿河國《するがのくに》阿部川村に母と一所に居十一歳の節一人の出家《しゆつけ》に勾引《かどはか》され宇都《うつ》の谷《や》地藏堂《ぢざうだう》まで引行《ひきゆか》れし處幸ひ向ふより參《まゐ》る旅《たび》人のあるにより時に取ての作意《さくい》にて小杉《こすぎ》の叔父《をぢ》樣と聲《こゑ》を掛しにより彼の僧《そう》は驚《おどろ》き私しを放《はな》して逃《にげ》出せしかば其旅人に災難《さいなん》を救《すく》はれ阿部川の宿まで送《おく》り呉《くれ》し時|始《はじ》めて九助と申事を承《うけた》まはり彼是《かれこれ》日暮《ひぐれ》方に相成りしまゝ一|禮《れい》の心にて一夜を泊《とめ》候ひし處|却《かへつ》て私し親子《おやこ》の難儀《なんぎ》の體を見兼|餘計《よけい》の錢《ぜに》を惠《めぐ》まれ其後五ヶ年の後九助江戸より歸國の節《せつ》藤八方へ一|泊《ぱく》致せし時私しも藤八方に居不思議に再會《さいくわい》仕つりしかど其節は途中《とちう》にて胡麻灰《ごまのはひ》に出合九助|難儀《なんぎ》致す趣意《おもむき》に付金子のことに心|遣《つか》ひ仕つり居り先年の禮さへ熟々《しみ/″\》申候|間合《まあひ》御座なく候まゝ不義など致し候事は努々《ゆめ/\》御座なく候と巨細《ことこまやか》に申立けるにぞ大岡殿なる程|齒《は》に布《きぬ》着《き》せぬ明白なる答《こたへ》なりコリヤ藤八節を九助方へ遣せしは水呑村々役人共其方へ掛合て貰《もら》ひ請《うけ》しと有が如何やと尋問らるゝに藤八ヘイ御意《ぎよい》の通り九助|親類《しんるゐ》中周藏左次右衞門|木祖《きそ》兵衞喜平次|與《よ》右衞門大八|善《ぜん》右衞門|孫《まご》[#ルビの「まご」は底本では「よご」]四郎八人の代として周藏喜平次の兩人|媒妁《なかうど》となり私し姪《めひ》を達《たつ》て所望《しよまう》に付遣せしに相違御座なく然も此度周藏喜平次木祖兵衞|等《など》罷出居により何卒御尋|願《ねが》[#ルビの「ねが」は底本では「ねがひ」]ひ奉《たてま》つり候と申|故《ゆゑ》大岡殿コリヤ水呑村々役人周藏木祖兵衞喜平次と呼《よば》るゝに何れも平伏なせば大岡殿は只《たゞ》今藤八が申立る通り相違なきやと有に何れも仰《おほ》せの通りなりと申ければ大岡殿然らば節と九助夫婦の儀は夫是《それこれ》の義理《ぎり》にて繋《つなが》れし天地|和合《わがふ》の縁《えん》にて双方《さうはう》の申口により事分明なり九助其方島田宿|泊《とまり》の節《せつ》盜賊《たうぞく》の難《なん》とは如何なる譯《わけ》ぞ又百八十兩と申ては大金なるに其方|馴染《なじみ》も薄《うす》き藤八へ預けしは如何の手續なりしや猶《なほ》明白《めいはく》に申せと尋問らるに九助は先日も申上し通り百八十兩|餘《あま》りの大金を江戸表より所持《しよぢ》仕つり歸國の節|箱根《はこね》山向ふより怪《あやし》き者兩三人後になり先になり付參り既《すで》に瀬戸川《せとがは》まで來かゝりし時は三人の者|難題《なんだい》を申|掛《かけ》甚だ難澁《なんじふ》仕つり一命にも及ばんとなす機《をり》是なる藤八|身延《みのぶ》山|參詣《さんけい》の歸り掛け幸ひ其處へ差掛《さしかゝ》り私し難儀《なんぎ》の體を見兼右の三人を片端《かたはし》より擲《たゝ》き倒《たふ》して私しを救《すく》ひ呉同道致し同人宅まで立歸りし處只今節より申上し通り阿部川村の兆《てう》と申者の娘《むすめ》節が居合《をりあは》せ藤八は同人|叔父《をぢ》なる由|承《うけた》まはり候處其翌日藤八申には水呑村まで送り度は存《ぞん》ずれども據《よんど》ころなき用事あるにより用心の爲《ため》所持《しよぢ》の金を藤八方へ預け置き歸村の上親類共にても兩三人同道にて請取に參るべし夫迄の證據《しようこ》に此|曼陀羅《まんだら》を渡し置ん此品は身延《みのぶ》山代|代《だい》貫主《くわんしゆ》の極ある日蓮上人|直筆《ぢきひつ》の曼陀羅なり一時も放《はな》されぬ大切の品なれ共金の引替《ひきかへ》の爲|預《あづけ》んと申|渠《かれ》が思操《こゝろざし》の信實《しんじつ》に感《かん》じ命にも替難《かへがた》き大金を預《あづ》けし事なりと申せしかば大岡殿人々の申立を篤と聞れ如何樣一々|道理《もつとも》至極《しごく》に聞ゆるなり扨九郎兵衞|深《ふか》の兩人只今|承《うけた》まはる通《とほ》り其方共の申立とは皆《みな》相違《さうゐ》致し居るぞ汝等公儀を僞《いつは》り訴訟《うつたへ》出る條|不屆《ふとどき》至極《しごく》なりと睨《にら》まれけるに兩人ハツと云て慄《ふるへ》出せしがお深は猶|強情《がうじやう》に假令《たとへ》渠等《かれら》何と申上候共九助と節の不義致せし事は相違御座|無《なく》と何かまだ云んとするを大岡殿|默止《だまれ》汝《なんぢ》には問ぬぞ其方は先名主惣左衞門が後家にあり乍《なが》ら誰か媒妁《なかうど》にて九郎兵衞の妻《つま》にや成しやと申さるゝにお深《ふか》はシヤア/\として否《いへ》誰《たれ》も媒酌人《なかうど》は御座なくと云に大岡殿|大音《だいおん》にて大|白痴《たはけ》め天有ば地あり乾坤《けんこん》和合|陰陽《いんやう》合體《がつたい》して夫婦となる一夫一婦と雖も私しに結婚《けつこん》なすべからず然《しか》るを汝等が子供達夫婦になりたれば其親々も夫婦になつて苦《くる》しうないと思《おも》ふか汝等が容子《ようす》を見るに九助の留守中|悴《せがれ》惣内儀里と不義《ふぎ》を致せしは汝等兩人が豫《かね》て不義致し居《をる》を見習《みなら》ひしなるべし不埓《ふらち》至極《しごく》の奴《やつ》ぢや九郎兵衞申開きありやと云れしかばグツと差支《さしつかへ》一言もなく尻込《しりごみ》なすにより追々吟味に及ぶ下れと云るゝ時下役の者立ませいと聲《こゑ》掛《かけ》一同|白洲《しらす》を下られけり然《さ》れば老中方初め諸役人も今日の吟味大岡殿の明察《めいさつ》通《どほ》りならんと感《かん》じられたり [#8字下げ]第十六回[#「第十六回」は中見出し]  其後《そののち》又々評定所の白洲を開《ひら》かれ以前の如く老中方|始《はじ》め諸役人出座ありし時|縁側《えんがは》に控《ひか》へたる遠州|榛原《はいばら》郡上新田村|禪宗《ぜんしう》無量庵《むりやうあん》の大源和尚《だいげんをしやう》進《すゝ》み出|彼方《あれ》に罷仕る九郎兵衞と申者と何卒|愚僧《ぐそう》が掛合《かけあひ》を御免下されなば御吟味|筋《すぢ》も早く御分りに相成申べしと申|立《たて》けるに大岡殿其儀は何成《なになり》共|苦《くるし》からず差免《さしゆる》すとありしかば無量庵は少《すこ》し白洲の方に向ひコレ九郎兵衞定めて愚僧《ぐそう》を見覺《みおぼ》えあらんと云れて九郎兵衞は無量庵を下より見上げ何か吃驚《びつくり》せし樣子なりしかば無量庵は微笑《ほゝゑみ》是九郎兵衞|愚僧《ぐそう》に逢《あひ》ては一言の申譯は有まいと言に九郎兵衞は然あらぬ體《てい》にて合點《がてん》の行《ゆか》ぬ貴僧《きそう》が一言|最前《さいぜん》より容子《ようす》を聞《きけ》ば上新田村無量庵の庵主《あんしゆ》とか申事|尤《もつと》も水呑村より三里に近《ちか》き隣村《りんそん》なれども此九郎兵衞|素《もと》より歸依《きえ》なければ御|坊《ばう》の顏《かほ》を見るは此御白洲が始《はじ》めてなり一言も有のないのと言るゝは如何なる事やと空嘯《そらうそぶ》いて居《ゐ》たりしかば無量庵は然樣で有う人間《にんげん》と生《うま》れて恩《おん》を知らぬを畜生《ちくしやう》に等《ひと》しと云己等如き恩も情《なさけ》も知らぬ犬《いぬ》に劣《おと》りし者は忘《わす》れしやも知れず某しは元《もと》相摸《さがみ》の國|御殿場《ごてんば》村の百姓條七がなれの果《はて》なり抑其方は勘當《かんだう》請《うけ》し身にて一|宿《しゆく》の泊《とま》る家さへなきを我|富士詣《ふじまう》での下向《げかう》の砌《みぎり》駕籠坂《かごさか》峠《たうげ》にて始めて出會《であひ》汝《なんぢ》が死《しな》んと云を不便《ふびん》に思ひ連戻《つれもど》り我が宿に差置六七年|養《やしな》ひ置《おき》し中其恩義を忘《わす》れ我が女房と密通《みつつう》なし此條七を追出し田地家|屋敷《やしき》家財迄《かざいまで》奪《うばひ》取んと謀計《はかり》て白鳥《はくてう》を鷺《さぎ》なりと僞《いつは》り喰《くは》せ我を癩病《らいびやう》になし妻子親族に疎《うと》ませたり故に餘儀なく我古郷を立去て原の白隱禪師《はくいんぜんし》の御弟子となり日毎に禪道《ぜんだう》の教化《けうげ》を得て忽ち開《ひら》く悟道《ごだう》の明門《みやうもん》無位《むゐ》眞人《しんじん》至極に治《ぢ》したる白鳥の毒氣殊更|師《し》の坊より大源《たいげん》と法名を賜《たま》はり無量庵の主に直《なほ》りたり然るに汝は計略《けいりやく》首尾能《しゆびよく》行《おこな》ひしと心得我が女房を妻《つま》となし我が娘里を子と呼《よび》て終《つひ》に我が家を押領《あふりやう》なせしが其後|博奕《かけごと》に身代《しんだい》を失ひ御殿場を立退しと聞えたり然《さ》すれば惣内の妻の里は汝が娘に非《あら》ずして此|坊主《ばうず》が娘なり夫に付て我感ずる處あり彼《かの》大井河原|辨天堂《べんてんだう》の前にて相果《あひはて》し二人の死骸《しがい》は惣内里には有べからず定めし是には仔細《しさい》のあらんサア返答せよ何とするやと板縁《いたえん》を叩《たゝい》て詰《つめ》ければ九郎兵衞發と赤面《せきめん》しながらも汝こそ不屆者なれコリヤ條七汝は癩病《らいびやう》となり妻子の捨《すて》處に困《こま》りしを此九郎兵衞が引取世話をして遣せしを忝《かたじ》けないとも言ず恩を仇なる其惡口然樣なる邪心《じやしん》者故|惡病《あくびやう》をも引請しなり我が身の因果《いんぐわ》も感《かん》ぜぬ無得心《むとくしん》者と云ふ無量庵|呵々《から/\》と笑《わら》ひ汝今愚僧をば見た事もなしと云しが扨々俗家に云|盜《ぬす》人|猛々《たけ/″\》しとは汝が事なり今更|斯《かゝ》る惡人に交《かは》す詞《ことば》はなけれども釋迦《しやか》は又三界の森羅《しんら》萬|象《しやう》捨給《すてたま》はず汝の如き大惡人|善《ぜん》道に導《みちび》き度思ふがゆゑ及ばずながら出家に列《つら》なる大源が申處を能々《よく/\》承まはれ此上は汝|積惡《せきあく》を懺悔《ざんげ》なし本心に立歸れと睨付《にらみつけ》られ九郎兵衞は一言もなく閉口《へいこう》せし樣子を大岡殿|篤《とく》と見られコリヤ九郎兵衞今大源が申を聞《きけ》ば汝は|重々《ぢう/\》の強惡《がうあく》言語に絶たる者なり依て吟味中入牢申付るとの聲の下より同心ばら/\と立掛《たちかゝ》り高手《たかて》小手《こて》に縛《いまし》めたり又ふか儀も九郎兵衞と密通に及び萬事|宜《よろし》からざる致方不屆至極なり依て手錠《てぢやう》宿預《やどあづ》け申付ると有て是又手|鍔《がね》腰繩《こしなは》に掛られけり夫より大岡殿九助に向はれ其方|段々《だん/\》吟味を遂《とぐ》る處一々|明白《めいはく》に申立ると雖も其方儀先頃無量庵へ闇夜《あんや》の節《せつ》提灯《ちやうちん》の用意もなく參りしとあり其|刻限《こくげん》篤《とく》と申立よと云れければ九助夫は去る三月十九日は私し妻節が實母七回|忌《き》の逮夜《たいや》に當り候間上新田村無量庵の住寺は生佛《いきぼとけ》の樣に近郷《きんがう》近村にて申|唱《とな》ふるにより何卒|回向《ゑかう》を頼み度旨申聞候故私しは金谷村より歸りし草臥足《くたびれあし》なれ共其|孝心《かうしん》に愛《めで》無量庵大源和尚の庵へ參りし頃は夕《ゆふ》申刻過《なゝつどきすぎ》にして暫時物語いたせし間歸宅は其夜|亥刻頃《よつどきごろ》と申に大岡殿又無量庵に向はれ九助が參りし刻限《こくげん》歸宅《きたく》の刻限とも尋問《たづね》らるに九助同樣の答へなり時に九助は無量庵に向ひ其節|那方《あなた》の仰せには|厄難《やくなん》の相《さう》あるにより能《よく》愼《つゝし》めとの事故|何《どう》致《いたし》たなら遁《のが》るゝ事やと御聞《おきゝ》申たれば前世の因縁《いんえん》に因《より》此世に於て災難《さいなん》に逢《あふ》なれば遁るゝ事はなり難し然ども命には恙《つゝが》ないとの仰《おほせ》なりしが今日までは先《まづ》露命《ろめい》を繋《つない》で居りしなりと云を聞れ大岡殿然らば汝無量庵より直《すぐ》に戻《もど》りしかとあるに九助仰の如く其夜|戌刻過《いつゝどきすぎ》同所を立出一里ばかり參りし大井川の河原を打越下伊呂村の堤《つゝみ》へ掛りし時は空も曇《くも》り眞闇《まつくら》にて四邊《あたり》は見えねども急ぎて歸る途中思はず武士《さぶらひ》に突當《つきあた》り段々樣子を承はりしに連《つれ》の女の行衞《ゆくゑ》を尋る由其人は駿府御城番樣の御家來なる石川安五郎と申御方の趣きにて私し妻節の里水田屋藤八の手紙を持て私し方へ尋《たづね》參《まい》る處なりしとて右の手紙を見せられし故|同道《どうだう》致さんと存ぜしに連《つれ》の女の在處《ありか》未《ま》だ知れぬにより尋ね出し同伴《どうはん》の上|參《まゐる》と申され右等《みぎら》の話にて甚だ手間取亥の刻近き頃たどり參りし處辨天堂の前にて躓《つまづ》きたれども刻限《こくげん》は延引致し氣は急《せく》により死人共|心付《こゝろづか》ず其儘歸宅いたし翌朝相良へ御|召捕《めしとり》に相成し事は此程申上し通りに候と申せば大岡殿シテ其|武士《さぶらひ》の連の女の在所《ありか》は知れたるかと問るゝに九助ヘイ其儀は只今申上し通り私し事は相良へ召捕《めしとら》れしにより其後の儀は一向存じ申さず然ども藤八は存《ぞんじ》居《をる》やも計《はか》り難しと申ければ大岡殿又藤八と呼れ其方安五郎とは如何樣の縁《えん》有《あり》て九助方へ手紙を添《そへ》て遣したるやと有に藤八は其安五郎殿が連立《つれだち》參られし白妙《しろたへ》と云《いふ》女は私し遠縁《とほえん》の者濱松天神町なる醫師《いし》の娘に候間此縁を以て九助が方へ手紙を添《そへ》て送りし處其翌日安五郎が私し方へ參られ申聞らるゝには大井河原にて我が女房の首を拾《ひろひ》たる節|機《をり》好《よ》く無量庵の大源和尚通り掛られしより回向《ゑかう》を頼みたるに憫然《あはれ》に思はれ首を葬《はうむ》り呉《くれ》られしと物語りを聞居し處へ又水呑村の聟《むこ》九助が大難を受たりとの知せに付|吃驚《びつくり》致せし儘安五郎殿へは早々《さう/\》に挨拶《あいさつ》を成《なし》直樣水呑村へ飛《とぶ》が如くに參りし故|跡《あと》の事は一向に心得申さずと云ふ然るに當時《そのころ》石川安五郎の一件駿府町奉行にて取調《とりしらべ》られ彌々《いよ/\》大門番の重五郎は巴屋儀左衞門が殺せしとの事なれども白妙其外種々引合も多く是に因て江戸町奉行大岡殿へ引渡し相成しかば九助方|引合《ひきあひ》として今日石川安五郎も呼出され白洲の縁側《えんがは》に控へ居たり然ば大岡殿石川安五郎と呼《よば》れ其方儀妻を同道致し遠州濱松へ罷越たる趣きに相違なきやと有に石川安五郎はハツト平伏《へいふく》なし仰の如く私し妻の實家は遠州濱松天神町松島專庵と申町醫師に[#「申町醫師に」は底本では「町申醫師に」]候間同人方へ參る心得にて同道仕り候|尤《もつとも》主人へは湯治仕つる旨屆け候て罷越たるに相違御座なくと申立たり [#ここから2字下げ] 因《ちなみ》に云此石川安五郎は駿府御城番松平|玄蕃頭《げんばのかみ》殿家來と云且水田屋藤八よりの内談も有しにより抱《かゝ》へ主小松屋の方にても亡逃《かけおち》屆を願ひ下になし安五郎の方へ身請せし事に取計ひし故今度安五郎は白妙《しろたへ》を妻と申立しことなり看客《かんかく》怪《あやし》み給ふ事なかれ [#ここで字下げ終わり] 扨又大岡殿|尋問《たづね》らるゝは其筋|本道《ほんだう》を往《ゆか》ずして大井川の川下へ掛り九助方へ立寄んと致せし者なるやと云《いは》るゝに然《さ》れば私し妻儀は水田屋藤八親族の者に候へば同人方へ立寄り夫より同人|聟《むこ》の水呑村名主九助の方へも立寄候心得にて大井川を相良の方へ參らんと存じ島田より馬を傭《やと》ひ未刻《やつどき》過《すぎ》同所を出立|致《いた》し河袋《かはぶくろ》と申處迄は私し儀馬に附添《つきそひ》參りたるが山王の宮脇にて小便を致し居る中見失ひ候に付後を追掛《おひかけ》しに上新田村の土手に右の馬は草《くさ》を喰《く》ひ居候が妻も馬士《まご》も行衞《ゆくゑ》更に知れ申さず候間東西を尋ね廻り往來《わうらい》の人々に承はるに今此先へ馬士が女を引立て行たりと申により猶ほ後《あと》を追駈《おつかけ》候中とくに日は暮|方角《はうがく》も分《わか》らず彷徨《さまよひ》居《を》りしうち※[#「圖」の「回」に代えて「面から一、二画目をとったもの」、761-7]《はか》らずも九助に出會段々の物語りに手間取《てまどり》追々夜も更行《ふけゆく》に隨《したが》ひ月も出しかば夫を便りに探《さが》し廻る中大井川の彼方なる岡の方に何やら犬の噬《くはへ》て爭ひ居し體《てい》ゆゑ立寄《たちより》しに犬は其品を置て一|驂《さん》に逃《にげ》行しまゝ右の品を取上見るに女の生首《なまくび》なり仍《よつ》て月影《つきかげ》に透《すか》して猶|熟々《つく/″\》改し處|紛《まが》ふ方なき妻白妙が首に候間何者の所業なるやと一時は胸《むね》も一|杯《ぱい》に相成我を忘れて周章《しうしやう》仕つり居候|機《をり》から上新田村[#「上新田村」は底本では「上新田町」]|無量庵《むりやうあん》の住僧通り合はせ皆是前世の約束なりと御|教化《けうげ》ありて右の首を無量庵に葬り呉られ候と云に大岡殿シテ其邊《そのへん》に男の首は無《なか》りしやと申されければ安五郎否男の首は見當《みあた》り申さず候へ共其後大井川邊に男女首なき死骸是ある趣き承まはりし故同所へ罷越見候處女の方は妻の恰好《かつかう》に似寄《により》候へども衣類相違仕つり居により不思議《ふしぎ》に存じ候中右の死骸は水呑村元名主惣内夫婦のよしにて既に人殺し九助|捕押《とりおさへ》に相成候趣きに付外に妻の死骸は見當り申さず其儘に打過申候と答へしかば大岡殿|始終《しじう》を篤《とく》と聞《きか》れ何樣《なにさま》仔細《しさい》ぞあるべし偖々《さて/\》不便《ふびん》の至り也《なり》而《し》て其方が妻の敵は一向知れぬかと有に安五郎|然《され》ば其後一向に手掛りも御座なく候と答ふるゆゑ猶《なほ》追々《おひ/\》吟味に及ぶとて一同|白洲《しらす》を下《さげ》られ老中方始め役々《やく/\》退出《たいしゆつ》せられけり [#8字下げ]第十七回[#「第十七回」は中見出し]  茲《こゝ》に又遠州水呑村の先名主《せんなぬし》惣内夫婦は九郎兵衞が計ひに任せて江戸表へ出府なし靈岸島《れいがんじま》邊《へん》に國者の居るを便りて參り此者の世話にて八町|堀《ぼり》長澤《ながさは》町の裏店《うらだな》を借受|惣内《そうない》は甚兵衞と改名《かいめい》し又里はお豐《とよ》と改め少々《せう/\》の小商《こあきな》ひを始めしが素より爲馴《しなれ》ざる事にて肩《かた》を痛《いた》め足《あし》を勞《つから》し爲る事成す事|損毛《そんまう》のみ多く早《はや》此頃は必至《ひつし》と差迫《さしせま》り今日にも難澁《なんじふ》致《いたし》ける是ぞ誠《まこと》に天の憎《にく》しみを受し者なればお里のお豐は洗濯《せんたく》をし又惣内の甚兵衞は日傭《ひよう》に駈歩行《かけあるき》手紙使《てがみづかひ》や土《つち》こね草履《ざうり》取又は荷物《にもつ》を擔《かつ》ぎ何事に依ず追取稼《おつとりかせぎ》を爲し漸々其日を送りしが或日|番町邊《ばんちやうへん》の屋敷《やしき》の中間部屋《ちうげんべや》に小博奕《こばくち》ありて不※[#「圖」の「回」に代えて「面から一、二画目をとったもの」、762-5]《ふと》立入しに思ひの外|利運《りうん》を得たり素《もと》より好《この》む道なれば其後は彼方此方と博奕場《ばくちば》を廻《まは》り歩行《あるき》けるに斯る惡黨《あくたう》も運《うん》の向事ありしにや三度に二度は必らず勝《かち》て少しく懷中《ふところ》の暖《あたゝ》まりしかば彌々《いよ/\》能事《よきこと》に思ひ追々|大賭場《おほとば》へも立入|博奕《ばくち》の仲間に入たりけり然るに六月|末《すゑ》より七月へかけて四五度|續《つゞ》けて打負《うちまけ》しより又々大いに困窮《こんきう》なし一時勝たる節《せつ》拵《こしら》へし夫婦の衣類《いるゐ》は申に及ばず家財《かざい》道具《だうぐ》を皆《みな》賣盡《うりつく》し今は必至《ひつし》の場合に至りければ何がなして猶《なほ》資本《もとで》を拵《こしら》へ大|賭場《とば》を張《はら》んと思ひ日夜|工夫《くふう》なし居たりしが茲に甚兵衞は先頃より日雇《ひよう》などに雇《やと》はれし南茅場《みなみかやば》町の木村道庵《きむらだうあん》と云醫師あり獨身《どくしん》なれども大の吝嗇《りんしよく》者ゆゑ小金を持て居るよしを甚兵衞聞出しければ彼が留守《るす》へ忍び入て物せんと茲に惡心《あくしん》を生じ旦暮《あけくれ》道庵《だうあん》が宅《たく》の樣子を窺《うかゞ》ひ或夜《あるよ》戌刻頃《いつゝごろ》來《きた》りて見れば表は錠前《ぢやうまへ》を卸《おろ》しありしかば甚兵衞勝手は豫《かね》て覺え居れば今日こそ好機《よきをり》なれと裏口《うらぐち》へ廻《まは》り水口を押《おし》て見れば案《あん》の如く掛錠《かけがね》掛《か》けざる樣子故シテ遣《やつ》たりと直《つい》と入り居間《ゐま》の箪笥《たんす》を引明《ひきあけ》て金三四十兩|懷中《ふところ》に入れ立上《たちあが》る處に横面《よこつら》へ冷《ひや》りと觸《さは》る物あり何かと疑《うたが》ひ見れば縮緬《ちりめん》の單物《ひとへもの》浴衣《ゆかた》二三枚と倶に衣紋竹《えもんだけ》に掛てありしにぞ毒《どく》喰《くは》ば皿《さら》迄と是をも引外《ひきはづ》して懷中へ捻込《ねぢこみ》四邊《あたり》を窺《うかゞ》ひ人足の絶間《たえま》を考へ又元の水口より立出|何喰《なにくは》ぬ顏《かほ》にて我が家を指《さし》て立歸りたり道庵《だうあん》は此日|病家《びやうか》にて手間《てま》取|漸々《やう/\》夜《よ》亥刻《よつどき》近き頃歸り來り灯《あかり》を點《とも》して四邊《あたり》を見るに座敷を取|散《ちら》しあれば不審《ふしん》に思ひ其|邊《へん》を改めしに金子四十三兩と縮緬《ちりめん》の單物《ひとへもの》又|木綿《もめん》千|筋《すぢ》の單物|眞岡《まをか》中形《ちうがた》の浴衣《ゆかた》三枚|紛失《ふんじつ》せり因て家主孫八へ委細《ゐさい》を咄《はな》して訴へに及しに翌《よく》日定廻りの同心《どうしん》孫八方へ出張にて道庵《だうあん》へ心當りの有無《うむ》を尋《たづ》ね有しかば道庵《だうあん》別《べつ》に心當りは御座なくと申に然らば日頃出入致す貧乏人《びんばふにん》又は心|易《やす》く致し朝夕《てうせき》小遣錢《こづかひぜに》などを貸《かし》遣《つかは》せし者はなきやと有に道庵は暫時《しばし》考《かんが》へ別に是ぞと申者も御座|無《なく》候へども貧困人《ひんこんにん》は三四人迄出入致し申候其者の名前一人は先妻《せんさい》の甥《をひ》源次郎と申只今本郷|金助《きんすけ》町に罷り在當年四十五六歳に相|成《なり》家内|困窮《こんきう》には候へども正直《しやうぢき》者にて金子|貸遣《かしつかは》し候ても約束《やくそく》の時日には屹度《きつと》返濟《へんさい》致し殊に當時御小人目付を勤居《つとめをる》其外には傳八と申して私し方に二三年も奉公《ほうこう》致し是も篤實《とくじつ》者にて金の番人に致すとて心遣ひのなき者にて深川一|色《しき》町に八百屋《やほや》を仕つり當時は妻をも持居《もちを》り候又|小網《こあみ》町三丁目河内屋と申|古着《ふるぎ》屋の裏《うら》に九郎兵衞と申|藥種《やくしゆ》屋の若い者にて以前《いぜん》より出入を仕つり今に毎日《まいにち》の樣に參る者あれども是も至て正直者なりと云ば同心《どうしん》は最《もう》外《ほか》に朝夕《あさゆふ》出入る者は無かと申ければ道庵|猶《なほ》打案《うちあん》じ八丁堀長澤町に居る甚兵衞と申者|元《もと》遠州|邊《へん》の生《うま》れの由其日稼の貧窮《ひんきう》にて折々《をり/\》日雇《ひやと》ひにも致し召遣《めしつか》ひし事御座れ共《ども》此者も在所《ざいしよ》に居し頃は名主役も勤《つと》めし由に承まはりしが成程日|傭取《ようとり》には人|柄《がら》も宜しく折に觸ては留守《るす》居をも頼みし事御座候へど聊《いさゝ》かも曲りし心はなき樣に存られ是まで安心致し居其外|別段《べつだん》内外心安く致す者も御座らぬと申立るに同心はシテ其甚兵衞とやらんは一人者か又|女房《にようばう》持かとの尋問《たづね》に女房|持《もち》なりと答《こたへ》しかば道庵《だうあん》の申|口《くち》を一々|書留《かきとめ》て道庵を歸し猶《なほ》種々《しゆ/″\》工風《くふう》の上先八丁堀長澤町の自身番屋《じしんばんや》へ行《ゆき》家主《いへぬし》源兵衞を呼出し店子《たなこ》甚兵衛の[#「甚兵衛の」は底本では「源兵衞の」]身元《みもと》を糺《たゞ》しけるに[#「糺しけるに」は底本では「糺けるに」]渠《かれ》は當四月同人店へ引|移《うつ》り夫婦|共《とも》三州者の由にて隨分《ずゐぶん》實體《じつてい》らしく相見え候へ共女房は此節|煩《わづら》ひ居るとの事に付早速甚兵衞を自身番屋《じしんばんや》へ呼出し段々と吟味《ぎんみ》に及ぶ中外一人の同心《どうしん》は甚兵衞の家内を取調《とりしら》ぶるに道庵方にて紛失《ふんしつ》せし單物一枚出たる故女房は家主へ預《あづけ》甚兵衞は直に召捕《めしとり》猶《なほ》懷中《くわいちう》其外所々改めし所|胴卷《どうまき》に金十二兩餘あり又同人宅の床下《ゆかした》に金二十八兩是あり都合四十兩の金出しにより其金を所持《しよぢ》せし事故を糺されしに申口|不分明《ふぶんめい》[#ルビの「ふぶんめい」は底本では「ぶぶんめい」]故町奉行所へ送りになり入牢申付られたり因て女房は大いに驚《おどろ》き己病中なれども夫の罪の輕《かる》く濟やうにとて茅場町《かやばちやう》の藥師《やくし》に朝參《あさまゐ》りを始めし所或日|俄《にはか》雨に逢堂前にて晴間《はれま》を待《まち》し中|無量庵《むりやうあん》も雨舍《あまやどり》に駈込《かけこみ》不※[#「圖」の「回」に代えて「面から一、二画目をとったもの」、763-17]《ふと》種々《しゆ/″\》の物語より親子の名乘《なのり》をなしお里は今さら夢の覺《さめ》たる如く後悔《こうくわい》して惣内と姦通《かんつう》せし事の始より九助を罪《つみ》に陷《おと》し夫より影《かげ》を隱《かく》して江戸表へ出《いで》今《いま》難澁《なんじふ》をする迄の事どもを詳《つぶさ》に語りければ大源和尚《だいげんをしやう》は大いに驚き此日はお里に分れ其後和尚は白洲《しらす》にてお里より聞たる委細《ゐさい》の事を申立しにより段々《だん/\》吟味《ぎんみ》の上終に甚兵衞は包《つゝ》み課《おほ》せず因て元惣内と申せし事より其外人殺し等の事まで明細《めいさい》白状《はくじやう》に及びしとぞ [#8字下げ]第十八回[#「第十八回」は中見出し]  享保二|丁酉年《ひのとゝりどし》十月廿二日|双方《さうはう》一|統《とう》又々|評定所《ひやうぢやうしよ》へ呼出しに相成前規の通役人方出座にて公事《くじ》人名前一々呼立濟て大岡越前守殿九郎兵衞を見られ其方願書の趣き段々《だん/\》取調《とりしら》べし所|確《たしか》なる證據《しようこ》もなし然らば屹度《きつと》人殺は九助とも定め難きを麁忽《そこつ》の訴へに及び候段|不屆《ふとゞ》き至極《しごく》なり夫人の命の重《おも》きことは云迄もなきを只衣類の血と鼻紙入の落て有しを以て證據《しようこ》となし申立ると雖も首《くび》もなき兩人の死骸《しがい》故|確《たしか》なる證據とは申難し別に何ぞ確なる證據にてもありやと申さるゝにお深《ふか》は九郎兵衞が答《こた》へをも待ず進み出御|道理《だうり》の御尋問|悴《せがれ》惣内は幼少《えうせう》の頃私しが毎度|灸《きう》を据《す》ゑしによりて灸|痕《あと》これ有又子供同士の口論に鎌《かま》で疵《きず》を付られし痕も御座候へば縱令《たとへ》首《くび》はなくとも悴と申者は確《たしか》と見|留《とめ》しと申ければ大岡殿シテ其|疵痕《きずあと》[#ルビの「きずあと」は底本では「あときず」]は何れに有やと尋問らるゝに左りの肩《かた》より脊へかけ四寸程もありと云へば大岡殿又|里《さと》が死骸《しがい》の證據《しようこ》は何ぢやとあるにお深是は嫁《よめ》とは申ながら私しには聢《しか》と知れませぬと答へしかば大岡殿は九郎兵衞に向はれコレ其方は永く養《やしな》ひし娘《むすめ》の死骸《しがい》なれば見覺《みおぼ》えが有ん何ぞ目的《めあて》はなきやと申さるゝに九郎兵衞答へて渠《かれ》は現在《げんざい》一人の娘なれば何見違ふことの候べき姿《すがた》と申又衣類と云と申を大岡殿コレ九郎兵衞娘が體《からだ》に疵處《きずしよ》其外證據はなきやと云るゝに九郎兵衞は然樣で御座ると云ば大岡殿|聢《しか》と左樣かと念《ねん》を押《おさ》るゝに九郎兵衞仰の通りなりと答へしかば大岡殿コリヤ村役人周藏木祖兵衞惣内夫婦|横死《わうし》の節|檢使《けんし》と立會《たちあひ》の上にて其方共も改めたで有ん兩人の死骸《しがい》如何《いかゞ》なりやと有に周藏木祖兵衞は首を上仰の通り御領主の役人檢使の節改めし處|肩《かた》より脊《せ》へかけ疵《きず》が有之候へ共惣内は何時の間に斯る大|疵《きず》を拵《こしら》へしやと一同|不審《ふしん》に存じたりと申せば大岡殿は而《し》て女の方は何ぢや僞《いつは》りを申な此方にも聞込し儀も有ぞ有體《ありてい》に申立よと申さるゝに周藏木祖兵衞の兩人は其女の骸《かばね》も改《あらた》めし處身肉に疵等《きずとう》は御座らねども只二の腕に安五郎二世と彫物《ほりもの》が御座候と申を大岡殿聞れてナニ安五郎二世と有たかコリヤ九郎兵衞其方が娘《むすめ》は以前|賣女《ばいぢよ》でも致したか安五郎二世と有は九助か惣内の幼名《えうみやう》にても有しかと申さるゝに九郎兵衞は以外《いぐわい》の事なれば答へに當惑《たうわく》なせしが否《いへ》然樣なものでは御座らぬと申をお深は傍邊よりモシ九郎兵衞殿其|彫物《ほりもの》は[#「其彫物は」は底本では「其殿彫物は」]此|間《あひだ》ソレ小《ちひ》さく有たと云れたではないかと九郎兵衞へ眼《め》で知らせる樣子なるを大岡殿は見て取れ大|音《おん》に默止《だまれ》此出|過者《すぎもの》め汝《おのれ》に尋問《たづね》はせぬぞ只今九郎兵衞が申には里の骸《からだ》に疵《きず》は無いとあり又汝も嫁《よめ》ではあれど知らぬと答へしには非ずや然るを今村役人共が申立るを聞て九郎兵衞に取拵《とりこしら》へごとを云はせんとする心底《しんてい》不屆きなり安五郎と云は是に居る松平玄蕃頭家來石川安五郎なるぞ渠《かれ》駿府《すんぷ》二丁目小松屋の抱《かゝへ》遊女《いうぢよ》白妙《しろたへ》と申を身請して妻と致し右妻の古郷へ夫婦連にて罷越《まかりこし》途中《とちう》大井川の端《はた》にて何者の所業《しわざ》共知れず殺され其|首《くび》は下伊呂《しもいろ》村の岡《をか》にて犬《いぬ》がくはへ爭《あらそひ》居たりしを見付しと安五郎申たり又今一人男の首《くび》は同所を少し放《はな》れし岡《をか》の小松《こまつ》の根がたを犬の掘《ほり》し跡より顯《あらは》れ出たるが其者は藤枝宿《ふぢえだじゆく》の馬丁《うまかた》松五郎と申者の由是亦同村の者ども申立たり然すれば九郎兵衞|親子《おやこ》の奸計《かんけい》にて右の死骸《しがい》へ惣内夫婦の衣類《いるゐ》を着《き》せ置《おき》兩人の首を取隱し九助を罪に陷《おと》さんと謀計し事|鏡《かゞみ》に影《かげ》の移《うつ》るが如し依ては惣内夫婦の者|存命《ぞんめい》いたし居ならん|重々《ぢう/\》不埓《ふらち》至極の奴輩《やつばら》なり汝等が巧《たく》み此越前が白眼《にらみ》し處決して相違あるまじ如何に/\と申さるれ共九郎兵衞は猶も恐《おそ》れず是《こ》は御奉行樣の仰共存せず現在我子供等の存命《ぞんめい》致し居る者を人手に掛し抔と忌《いま》はしき儀を訴出る者の有|可《べき》や殊《こと》には九助が申上る事|而已《のみ》御取上に相成只々私しを御|叱《しかり》は恐《おそれ》ながら御奉行樣の依怙贔屓《えこひいき》と申ものと云を大岡殿聞ナニ九郎兵衞依怙贔屓と申か能承はれ天下の裁斷《さいだん》を爲《する》者|聊《いさゝ》かたりとも私しの意《い》を以て依怙《えこ》の沙汰《さた》をなすべきや都《すべ》て汝が申立は僞り飾ゆゑ本末不都合の事而已多く聟《むこ》の惣内は九助が留守中に里と不義致し汝《おのれ》は惣内母と密通《みつつう》に及び居しは畢竟《ひつきやう》子供等が不義を汝等が執持《とりもち》致せしも同前なり然《しか》るに九助は其等の儀を怒《いから》ずして速かに離別に及び父が遺言《ゆゐごん》を重《おも》んじ不埓《ふらち》の伯父女房等に大切《たいせつ》の金子を配分《はいぶん》致《いたし》遣たるを好事として義理《ぎり》も人情もなき惣内方へ入|込《こみ》夫《それ》にても尚《なほ》倦足《あきたら》ず無罪の九助を咎《とが》に陷《おと》し罪科に行はせんと巧《たくみ》し段人面獸心とは汝がことなり今見よ確成《たしかなる》證據《しようこ》を出し二言とは吐《はか》せぬぞ又同じ衣類《いるゐ》を着たるは一|郷《がう》に往々《まゝ》ある事|加之《そのうへ》女が死骸も他人にて白妙《しろたへ》に相違なし然らば惣内里では有まじサア有體《ありてい》に白状致せ左右《とかく》強情を申|居《をり》只今にも惣内夫婦が出たなら汝《われ》は何と申譯致んぞと申さるゝにお深は又進み出恐れながら女は別人《べつじん》かは存ぜねども悴儀は衣類《いるゐ》のみ似《に》たるのみに是なく帶《おび》脚絆《きやはん》迄相違御座らぬと左右強情に言張《いひはる》に大岡殿大聲に又しても入ざる差出《さしで》口|默止《だまれ》其日は九郎兵衞同道にて惣内夫婦|金谷《かなや》村の法會《ほふゑ》の席《せき》へ參《まゐ》り歸りも同道なりしに九郎兵衞は途中《とちう》より聊か先へ戻りしと申ではないか然《しか》るに惣内は己《おのれ》の女房の影《かげ》を隱《かく》し態々他の女を連《つれ》て殺《ころ》される程の間合もあるまじ夫を強《しひ》て申なら里は宅へ戻《もど》りしかと有にお深|否《いゝへ》歸《かへ》りは致さぬと云にぞ大岡殿此|頑愚《たはけ》め己が連出したる女房《にようばう》里を脇へ遣し又他の女を連て殺されたなどと然樣《さやう》に自由に成《なる》と思ふか公儀《こうぎ》を僞《いつは》り掠《かすめ》んとする横道《わうだう》者めコリヤ安五郎|今《いま》一應白妙が事故を九郎兵衞始めへ申|聞《きか》せよと有に安五郎ハツト答て其儀は先日《せんじつ》よりも申上し通り故郷《こきやう》へ參る途中《とちう》妻《つま》白妙を馬士《まご》に奪《うばは》れ其後首ばかりを下伊呂村の岡《をか》にて拾《ひろ》ひ上《かみ》[#ルビの「かみ」は底本では「あげ」]新田村の無量庵へ頼み葬《はうむ》りしとの手續きを委細に申述ければ大岡殿コリヤ九郎兵衞ふか[#「ふか」に傍点]那《あれ》を聞《きい》たか而《し》て又安五郎其方が妻には二の腕《うで》に安五郎二世と黥《いれず》みあると云が然樣《さやう》かとあるに安五郎はハツと云て赤面《せきめん》しければ大岡殿コレ安五郎其河原の男女の死骸は察《さつ》する處《ところ》馬士が其方の妻を勾引《かどはか》さんとする折《をり》人違《ひとちが》ひ等にて九郎兵衞か惣内の中にて兩人を殺し其始末に困《こま》りし處より首を切て知れぬ樣になさん爲《ため》衣類を着せ替《かへ》九助を罪に陷《おと》さんと致せしものと思はる然すれば其方の女房の敵《かたき》は是に居る九郎兵衞なるぞと云るゝに九郎兵衞は思はずハツと云て顏色《がんしよく》變りたり大岡殿是に構《かまは》れずコリヤ藤枝宿《ふぢえだじゆく》問屋《とひや》儀左衞門并に馬士《まご》權兵衞馬持八藏と呼れコレ八藏其方召使松五郎と申馬士の首は下伊呂村の岡にありて死骸は見えざる趣きを注進《ちうしん》せしが其後も見當らぬかと問るゝに八藏|仰《おほせ》の通《とほ》り首のみ見當りしにより其後|體《からだ》をも所々|相探《あひさが》し候へ共一向に知れ申さず尤も下伊呂村《しもいろむら》の河原に男女の死骸これある趣きに付|樣子《やうす》相|尋《たづ》ね候處夫は最寄《もより》の百姓夫婦なりとか申ことゆゑ其外には心あたりも御座なくと申にぞ大岡殿|然樣《さう》して其松五郎の出生は何國にて平常《ふだん》の行状は如何なる者なるぞと有に八藏|然《され》ば其松五郎儀は信州伊奈郡の者とのみ申居しが道中馬士などは素《もと》より本國も聢《しか》と相知申さず平常《へいぜい》は然まで惡人とも心得ざりし處|追々《おひ/\》跡にて承まはるに一體|勾引《かどはかし》など致せし者との由なりと申ければ大岡殿コレ九郎兵衞八藏の申立を聞しや那《あ》の通り女は安五郎が女房男は藤枝《ふぢえだ》宿の馬士松五郎に相違《さうゐ》も有まじ斯《かく》の如く明白《めいはく》に相分《あひわか》りたる上は眞直《まつすぐ》に申上よ僞《いつは》りを云ば嚴敷《きびしく》拷問《がうもん》を申付るぞ骨を碎《くだ》きても云せずに置べきや如何に/\と有に九郎兵衞は猶も強情《おしつよ》く是は誠《まこと》に以て御|無體《むたい》なる仰|哉《かな》私し申上る儀に聊かも僞りは御座なくと云張《いひはる》にぞ大岡殿|否《いや》僞りなしとは云さぬぞコレ/\本多長門守家來共只今承まはる通り大井河原の男女の死骸《しがい》は推察《すゐさつ》する所石川安五郎妻と今一人は其を勾引《かどはか》せし馬士《まご》松五郎に相違有まじ依ては其方共の決斷《けつだん》甚だ暗《くら》く依怙贔屓《えこひいき》の沙汰《さた》に聞ゆるぞ此申譯があらば申聞よとあるに本多家の役人共追々吟味|詰《づめ》の樣子を聞今さら何とも陳《ちん》ずべき樣なく赤面《せきめん》閉口《へいこう》なし甚だ恐れ入候旨答へければ大岡殿には彌々《いよ/\》以て申|譯《わけ》なきやと申さるゝに三人口を揃《そろ》へ何とも申譯御座なくと申にぞ越前守殿只今に相成申譯なしと申せども其奉行頭人たる者|過《あやま》ち有ば則ち領主の罪領主の罪は則ち將軍家の罪なり民は國の源《もと》無罪の民を罰《ばつ》する時は士《し》以て徒《と》たるべし一夫|憤《いきどほ》りを含《ふく》めば三年雨降ずと云|先哲《せんてつ》の語あり百姓は國の寶人の命は千萬金にも換難《かへがた》し然るを正直《しやうぢき》[#ルビの「しやうぢき」は底本では「しやうぢく」]篤實《とくじつ》なる九助を無實の罪に陷《おと》し入しは奉行の不明《ふめい》なり其不明なる者に重《おも》き役儀を申付たるは其領主の落度也《おちどなり》夫此度の一件は其方共必ず九郎兵衞より賄賂《わいろ》を請しに相違有まじと正鵠《ほし》をさゝれて理左衞門はグツト言て暫く無言《むごん》なりしが否《いや》然樣《さやう》の儀は御座なくとぐづ/\答ければ大岡殿|假令《たとへ》其方|陳《ちん》ずるとも不吟味の罪は遁《のが》れぬぞ此上にも申|掠《かすめ》んとなさば餘儀なく拷問《がうもん》にも掛ねばならず然すれば武士の恥辱《ちじよく》は申に及ばず主人へ猶|恥《はぢ》を與る道理なりサア尋常に申立よと言るゝに理左衞門最早|遁《のが》れぬ所と覺悟をなし實は九郎兵衞より時候《じこう》見舞として聊《いさゝ》か到來《たうらい》せしと申ければ大岡殿其は何程|貰《もら》ひしと云に理左衞門金十五兩貰ひたりと申せば大岡殿ナニ金十五兩とやコレ理左衞門時候見舞とあらば魚鳥《ぎよてう》の類か他國の産物《さんぶつ》ならば格別《かくべつ》役柄《やくがら》をも顧《かへり》みず金子を受納《じゆなふ》なせしは即ち賄賂也《わいろなり》下役黒崎又左衞門市田武助其方共も受納《じゆなふ》致せしならんと有に兩人は今上役の理左衞門が白状なせし上は密《かく》すも益《えき》無《なし》と思ひ上役の申付に違背《ゐはい》も如何と存じ金三兩づつ受納せしと言ければ大岡殿假令上役の申付なりとて不正《ふせい》の金を受しは重々《ぢう/\》の不屆《ふとゞき》なり三人共|揚《あが》り屋入申付ると言れ又九郎兵衞の方を見られてコリヤ九郎兵衞只今其方へ見するものが有夫を見て驚くなソレ/\彼の兩人を引出せとの指揮《さしづ》に隨《したが》ひ同心は惣内を本繩《ほんなは》に掛引出せば後《あと》より女房お里も手鎖《てがね》にて家主付添立出る九郎兵衞夫婦は是を見るよりもハツト驚《おどろ》き呆《あきれ》たる體なるにぞ大岡殿は何と九郎兵衞夫婦の者此兩人は知らぬ者か當春大井川の端《はし》下伊呂村に於て九助の爲に切害《せつがい》されしと汝等が訟訴《うつたへ》出たる惣内夫婦は今江戸本[#「江戸本」はママ]八丁堀長澤町と云所に罷在《まかりあり》又々|不埓《ふらち》の儀有て召捕《めしとり》吟味なせしに委細《ゐさい》白状に及《および》たり然《さり》ながら相果《あひはて》たる惣内|夫婦《ふうふ》此世に居べき筈《はず》なければ是は必定|幽靈《いうれい》か又は狐狸《こり》の類か惣内に化たるか予《よ》が目には見分らず汝等は親子の事故|目利《めきゝ》も屹度《きつと》知れるで有う幽靈か又|化生《けしやう》か何ぢや汝等が目には何と見えるコレ九郎兵衞ふか頭を上て能《よく》見留《みとめ》よコリヤ惣内此程申立し如く大井川の端《はた》にて人殺しをせし趣き今一|應《おう》申聞よと聞るゝに今さら面目なき體にて私し儀里と夫婦に相成しより段々《だん/\》村中の氣請《きうけ》の惡敷《あしく》なり役儀は九助へ申付られ家も淋《さび》しく成行中にて母は日増しに奢《おごり》増長《ぞうちやう》し追々《おひ/\》困窮《こんきう》に迫《せま》りし折から九助が江戸表にて金子を蓄殖《たくはえ》たる趣きを聞て羨敷《うらやましく》存じ私し夫婦も江戸へ出稼《でかせ》ぎ度《たく》は存じたれども外聞《ぐわいぶん》も惡く彼是|延引《えんいん》致し居中金谷村に法會《ほふゑ》ありて九郎兵衞|諸共《もろとも》里を連て罷越《まかりこし》歸宅の節夜分大井川の端迄參りし處九郎兵衞は酒の醉《ゑひ》にて河原の石に凭《もたれ》て熟睡《じゆくすゐ》いたし眼《め》の覺《さめ》ぬゆゑ私し儀藥を買に參り漸々《やう/\》に戻り來りしに九郎兵衞は何者かを相手に戰《たゝか》ひ居により左《と》に右《かく》助《たす》けんと存じ宵闇《よひやみ》の暗紛《くらまぎ》れに切付たるは女の聲ゆゑ偖は女房を切たるかと狼狽《うろたへ》たる處に傍邊《かたはら》より男一人打て掛りしを兩人して追廻《おひまは》し漸々に討留《うちとめ》熟々《よく/\》見れば男も女も知らぬ者に付大いに驚きしを九郎兵衞は了簡《れうけん》ありとて私し共の衣類と渠《かれ》等の衣類|着替《きかへ》させ一時も早く立退《たちの》く樣にと申故|跡《あと》も氣遣敷《きづかはしく》は存ずれども九郎兵衞が申|詞《ことば》に任《まか》せ其所より直樣《すぐさま》江戸表へ罷出改名とう致し居候なりと申立ければ大岡殿コレ九郎兵衞|渠《かれ》が申は僞《いつは》りか惣内が白状に相違有まじ左右《とかく》未練《みれん》に爭はずとも最早《もはや》有體《ありてい》に白状致せと申さるゝに流石《さすが》奸惡《かんあく》の九郎兵衞も茲に至て初めて觀念《くわんねん》なし今は何をか包み申さん只今惣内が申上しに相違御座なく渠《かれ》が藥を調《とゝの》へに[#「調へに」は底本では「調へし」]參りし跡にて女の泣聲《なきごゑ》致すにより里が勾引《かどはか》され候事|哉《や》と存じ惡者と戰《たゝか》ひ居候中惣内|立戻《たちもど》り來兩人にて其者を追掛《おひかけ》河原の方へ到り暗紛《くらまぎ》れの出會頭《であひがしら》に切込たれば女の叫《さけ》ぶ聲に里を切しことやと驚きながら漸々《やう/\》件《くだん》の男をも切害《せつがい》仕つり其|中《うち》月も出候に付|熟々《よく/\》見候へば男女兩人とも存ぜぬ者ゆゑ一時當惑は致せしが今更致し方も無之ゆゑ茲に惡計《あくけい》を考へ出し豫《かね》て妬《ねた》ましき九助に此人殺しの科《とが》を負《おは》せ渠《かれ》を亡《なき》者にせんと存じ惣内夫婦の者の衣類を死人へ着替《きせかへ》惣内お里兩人が影を隱《かく》させ其日|法會《ほふゑ》の席《せき》にて盜み置《おき》たる九助の鼻紙入《はながみいれ》を後の證據に死骸の傍邊《かたはら》に落し置又|悴《せがれ》夫婦と申立る爲死人の首を切《きり》小半道程傍なる丘《をか》の小松の根へ隱《かく》し埋《うづ》め置《おき》扨惣内夫婦切害に逢たる旨領主の郡奉行へ訴へ出二十兩餘の賄賂《まいない》を遣《つか》ひ九助を殺さんと致せしは如何なる天魔《てんま》の魑入《みいり》しやと今更|後悔仕《こうくわいつかま》つるも詮《せん》なき事なれば切《せめ》ては罪障《ざいしやう》消滅《せうめつ》の爲《ため》懺悔《ざんげ》仕つるなり因ては御殿場村の條七娘里儀の不義も何も斯《か》も引纏《ひきまとめ》て惡事は此九郎兵衞なれば御|法《はふ》通《どほ》りの御|所刑《しおき》を願ひ奉つると委細《ゐさい》白状に及びしかば大岡殿|神妙《しんめう》なりと有て又お深に向はれ只今《たゞいま》九郎兵衞が申通り相違なきやと尋問《たづね》らるゝに最早一|言《ごん》の強情《がうじやう》も言難《いひがた》く恐れ入たりと申にぞ大岡殿夫れ見よ天に眼《まなこ》なしと雖も是を見天に耳なしと雖も是を聞《きゝ》正邪《せいじや》判然《はんぜん》たるは天道の照し給ふ處なり其罪成ぬ九助が無實は今日|顯然《げんぜん》たる上からは出牢《しゆつらう》を申付村役人共へ預け遣《つかは》す其外松本理左衞門始め吟味方役人并に九郎兵衞ふか惣内里等は爪印《つめいん》申付ると有て何れも口書爪印とぞなりにける [#8字下げ]第十九回[#「第十九回」は中見出し]  時に享保《きやうほ》二年十二月廿五日一|同《どう》白洲《しらす》に於て申渡され左の通り [#地から11字上げ]本多長門守《ほんだながとのかみ》家來《けらい》 [#地から8字上げ]松本《まつもと》理《り》左衞門 [#ここから2字下げ] 其方儀《そのはうぎ》重《おも》き役儀をも勤ながら百姓九郎兵衞より賄賂《わいろ》の金銀を受《うけ》夫《それ》が爲《ため》不都合《ふつがふ》の吟味に及び罪《つみ》なき九助を一|旦《たん》獄門《ごくもん》に申付候條|重々《ぢう/\》不屆至極《ふとゞきしごく》に付大小|取上《とりあげ》主家《しうか》門前拂《もんぜんばらひ》申付る [#地から11字上げ]本多長門守家來 [#地から8字上げ]黒崎《くろざき》又左衞門 [#地から10字上げ]市田武助《いちだぶすけ》 其方|共《ども》支配とは申ながら松本理左衞門申|趣《おもむ》きに相任《あひまか》せ賄賂《わいろ》の金銀|受納《じゆなふ》致せし而已《のみ》ならず不|都合《つがふ》の吟味に及び候條不屆至極に付|主家《しうか》門前拂申付る [#地から11字上げ]本多《ほんだ》長門守|領分《りやうぶん》 [#地から6字上げ]遠州《ゑんしう》榛原郡《はいばらごほり》水呑村百姓 [#地から10字上げ]九郎兵衞 [#地から4字上げ]酉《とり》五十七歳 其方儀若年より不身持《ふみもち》に付兄九郎右衞門|勘當《かんだう》を受け相摸國《さがみのくに》御|殿場《てんば》村百姓條七世話に相成居候中|惡法《あくはふ》を以て條七を難病に罹らせ同人|妻《つま》鐵《てつ》と密通《みつつう》の上條七を追出し家屋敷《いへやしき》田畑《たはた》家財等《かざいとう》迄|押領《あふりやう》致し條七娘里を押て自分養女に致し甥《をひ》九助が信實にて古郷へ連歸り候節九助へ里を娶合《めあはせ》家内《かない》不如意《ふによい》に付九助江戸表へ奉公に出候留守中娘さと村役人惣内と不義致し其身も惣内母ふか[#「ふか」に傍点]と密通《みつつう》に及び九助より配分《はいぶん》の金子を取り里を惣内妻に致し其後下伊呂村にて石川安五郎|妻《つま》并《ならび》に馬士《まご》松五郎を切殺し惣内夫婦を密かに立退せ同人夫婦|切害《せつがい》に逢《あひ》し趣きに訴へ出九助を罪に陷《おと》さんと謀計《はかり》上を僞《いつは》りし始末《しまつ》公儀を恐れざる種々惡事|重々《ぢう/\》不屆至極《ふとゞきしごく》に付死罪の上|獄門《ごくもん》申付る [#地から11字上げ]本多長門守《ほんだながとのかみ》領分《りやうぶん》 [#地から5字上げ]遠州《ゑんしう》榛原郡《はいばらごほり》水呑村|先《せん》名主 [#地から7字上げ]當時《たうじ》八町|堀《ぼり》長澤《ながさは》町 [#地から8字上げ]源《げん》兵衞|店《だな》惣内事 [#地から11字上げ]甚兵衞 [#地から4字上げ]酉《とり》二十七|歳《さい》 其方儀村役中|不正《ふせい》の儀多く殊《こと》に九助妻里と密通《みつつう》に及び九助|親類《しんるゐ》と僞《いつは》り水田屋藤八方より金子百八十兩餘|騙《かた》り取り其後下伊呂村にて石川安五郎妻|并《なら》びに馬士《まご》松五郎の兩人を切害《せつがい》なし九郎兵衞と申合せ其所《そこ》より出奔《しゆつぽん》致《いた》し甚兵衞と改名《かいめい》の上長澤町源兵衞|店《たな》に罷在《まかりあり》裏茅場町《うらかやばちやう》醫師《いし》木村道庵方へ忍《しの》び入金子四十三兩|其外《そのほか》衣類《いるゐ》品々|盜《ぬす》み取候|始末《しまつ》重々《ぢう/\》不屆|至極《しごく》に付|引廻《ひきまは》しの上|獄門《ごくもん》申付る [#地から11字上げ]本多長門守領分 [#地から5字上げ]遠州《ゑんしう》榛原《はいばら》郡水呑村先名主 [#地から9字上げ]惣左衞門|後家《ごけ》 [#地から12字上げ]ふか [#地から4字上げ]酉四十六歳 其方儀|悴《せがれ》惣内不屆の儀を押隱《おしかく》し九郎兵衞を後見《こうけん》人と名付我が家へ入れ密通《みつつう》に及びし而已ならず同人と申合九助へ無實《むじつ》の申|掛《かけ》をなし亡なはんとせし段不屆至極に付|村拂《むらはらひ》申付る [#地から12字上げ]惣内《そうない》妻《つま》 [#地から12字上げ]さと [#地から4字上げ]酉二十一歳 其方《そのはう》儀|養父《やうふ》九郎兵衞申付とは云ながら夫九助が所持《しよぢ》の曼陀羅《まんだら》を盜《ぬすみ》惣内へ相|渡《わた》し藤八より金子を騙《かた》り取せ候段不屆至極に付|遠島《ゑんたう》をも仰《おほせ》付らるべきの所|實父《じつぷ》條七當時出家大源が願《ねが》ひに依《より》罪《つみ》一等を宥《ゆる》させられ輕構《けいかまひ》申付る [#地から9字上げ]駿州《すんしう》江尻宿《えじりじゆく》百姓 [#地から10字上げ]儀左衞門 [#地から4字上げ]酉三十二歳 其方儀《そのはうぎ》石川安五郎小松屋|遊女《いうぢよ》白妙《しろたへ》同道にて立退《たちのき》候節私しの趣意《しゆい》を以て追掛《おひかけ》彌勒《みろく》町番人重五郎と申者|支《さゝ》へ候を切害《せつがい》に及び候段|不埓《ふらち》至極《しごく》に付死罪申付る [#地から12字上げ]同人妻 [#地から12字上げ]くめ [#地から4字上げ]酉二十四歳 其方儀重五郎|切害人《せつがいにん》は石川安五郎とのみ心得|強《しひ》て訴《うつた》へに及び候條心得違ひなり之に依て嚴敷《きびしく》叱《しか》り置く [#地から11字上げ]松平玄蕃頭《まつだひらげんばのかみ》家來《けらい》 [#地から9字上げ]石川安五郎 [#地から4字上げ]酉二十六歳 其方儀|吟味《ぎんみ》致し候處|別段《べつだん》の惡事《あくじ》無之とは申ながら不行屆の儀も有之候故主人方にて遠慮《ゑんりよ》申付る [#地から6字上げ]駿州《すんしう》相良領《さがらりやう》水呑村名主 [#地から12字上げ]九助 [#地から4字上げ]酉二十七歳 其方儀吟味|相遂《あひとげ》候所|聊《いさゝ》かも惡事是なく且亡父の遺言《ゆゐごん》を守《まも》り不埓の伯父を呼戻《よびもど》し養ひ候而已ならず其後大金をも分與《わけあた》へし所|數月《すげつ》無實《むじつ》の罪にて[#「無實の罪にて」は底本では「無實にの罪て」]入|牢《らう》致し居し段|不便《ふびん》に思召《おぼしめさ》れ且つ至孝の者に付|苗字《めうじ》帶刀《たいたう》差許《さしゆる》す樣領主へ仰付らる之に依《よつ》て村役の儀は前々之通り心得べし [#地から12字上げ]九助妻 [#地から12字上げ]せつ [#地から4字上げ]酉十九歳 [#地から11字上げ]駿州《すんしう》島田宿《しまだじゆく》 [#地から9字上げ]水田屋藤八 其方共儀|聟《むこ》夫等《をつとら》の災難《さいなん》を歎き艱難辛苦《かんなんしんく》の上公儀|巡見使《じゆんけんし》へ訴《うつたへ》出申立|明了《あきらか》なるにより善惡判然と相|顯《あらは》れ九助の寃罪《ゑんざい》を雪《そゝ》ぎし信義《しんぎ》貞操《ていさう》の段厚く譽《ほめ》置《お》く [#地から10字上げ]遠州《ゑんしう》上新田村《かみしんでんむら》 [#地から10字上げ]無量庵《むりやうあん》住持《ぢうぢ》 [#地から12字上げ]大源 [#地から11字上げ]駿州《すんしう》鞠子宿《まりこじゆく》 [#地から10字上げ]柴屋《しばや》寺|住持《ぢうぢ》 [#地から12字上げ]宗久 其方共儀[#「其方共儀」は底本では「其方儀共」]|不埓《ふらち》の筋《すぢ》も之なし構《かま》ひなし [#ここで字下げ終わり] 其外|双方《さうはう》付添《つきそひ》の役人共|右《みぎ》の通り申|渡《わた》せしにより其|旨《むね》心得《こゝろえ》よと申渡されける實にや大岡殿の裁斷《さいだん》明鏡《めいきやう》に物を移《うつ》すが如く|後世《こうせい》其|才量《さいりやう》を稱《たゝ》へるも宜《むべ》なる哉《かな》 水呑村九助一件[#1段階小さな文字]終[#小さな文字終わり] 底本:「大岡政談」帝國文庫、博文館    1929(昭和4)年4月15日発行 ※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。 ※活字の回転、印刷のかすれは注記なしとしました。 ※大見出し「解題」において、「衛」と「衞」、「本多源右衞門」と「本多源左衞門」、「煙草屋喜八」と「烟草屋喜八」の混在は、底本通りです。 ※大見出し「解題」の誤植を疑った箇所を、「明治秘史疑獄難獄」一元社、1929(昭和4)年6月30日発行の表記にそって、あらためました。底本と同じ表記のため確認できなかったところはママ注記としました。 ※大見出し「大岡政談首卷」において、「公事訟訴《くじそしよう》」と「公事訴訟《くじそしよう》」、「諫鼓」と「諫皷」の混在は、底本通りです。 ※大見出し「天一坊一件」において、「懷妊」と「懷姙」、「遠州屋彌次六」と「遠藤彌次六」と「遠藤屋彌次六」、「駒木根肥後守」と「駒木根肥前守」、「野山市十郎」と「野々山市十郎」、「高間左膳」と「高間大膳」、「錢屋四郎左衞門」と「錢屋四郎右衞門」、「堀田相模守」と「堀田相摸守」、「所司代」と「諸司代」、「密《ひそ》か」と「密《ひそか》」、「成るべし」と「成べし」、「尋《たづ》ね」と「尋《たづね》」、「願《ねが》ひ」と「願《ねがひ》」、「昔《むかし》」と「昔《むか》し」、「掘出《ほりだ》す」と「掘出《ほりだし》たり」と「掘出《ほりだ》されし」と「掘出《ほりいだ》し」、「大坂」と「大阪」、「欠」と「缺」、「弔《とふ》らひ」と「弔《とふら》ひ」、「某《それがし》」と「某《それが》し」、「初《はじめ》」と「初《はじ》め」、「四十七兩二分」と「四十七兩二歩」、「互《たが》ひに」と「互《たがひ》に」、「思召《おぼしめ》し」と「思召《おぼしめし》」、「引籠《ひきこもり》」と「引籠《ひきこも》り」、「欲《ほし》」と「欲《ほ》し」、「包《つつ》み」と「包《つゝ》み」、「手懸《てがかり》」と「手懸《てがか》り」、「立去《たちさ》り」と「立去《たちさり》」、「窺《うかゞ》へ」と「窺《うか》がへ」、「仕《つか》まつ」と「仕《つかま》つ」の混在は、底本通りです。 ※大見出し「天一坊一件」において、「御短刀」に対するルビの「おたんたう」と「おんたんたう」、「種々」に対するルビの「しゆ/″\」と「いろ/\」と「さま/″\」、「老中」に対するルビの「らうちう」と「らうぢう」、「笈摺」に対するルビの「おひずる」と「おひずり」、「親父」に対するルビの「おや」と「ちち」と「おやぢ」の混在は、底本通りです。 ※大見出し「天一坊一件」において、ご落胤誕生、澤の井死亡年の元号、干支の表記に「寛永二申年」と「寛永《くわんえい》三年」と「寶永二年|戌《いぬ》」と「寶永二年」と「寶永三|戌年《いぬとし》」と「寶永二年の」と「寛永二申年」と「寶永二酉年」と「寶永《はうえい》二酉年」と「寶永三酉年」と揺れが生じているのは、底本通りです。 ※大見出し「天一坊一件」において、お三婆殺人事件発生の日付が「享保《きやうほ》三|丙申《ひのえさる》年|霜《しも》月十六日」と「享保《きやうほ》元申年十一月廿八日」揺れが生じているのは、底本通りです。 ※大見出し「天一坊一件」の誤植を疑った箇所を、「大岡政談 天一坊実記全」鶴聲社、1886(明治19)年3月出版の表記にそって、あらためました。底本と同じ表記のため確認できなかったところはママ注記としました。ただし、底本と同じ表記の人名、地名は「大岡政談1〔全2巻〕」東洋文庫、平凡社、1984(昭和59)年7月10日初版第1刷発行の表記で確認して、あらためました。 ※大見出し「白子屋阿熊一件」の誤植を疑った箇所を、「大岡仁政録 白子屋阿熊之記」錦耕堂、1886(明治19)年3月出版の表記にそって、あらためました。底本と同じ表記のため確認できなかったところはママ注記としました。 ※大見出し「煙草屋喜八一件」において、「致《いたし》」と「致《いた》し」、「不屆《ふとゞ》き」と「不屆《ふとゞき》」の混在は、底本通りです。 ※大見出し「煙草屋喜八一件」の誤植を疑った箇所を、「大岡仁政録 煙草屋喜八之伝」錦耕堂、1886(明治19)年3月出版の表記にそって、あらためました。底本と同じ表記のため確認できなかったところはママ注記としました。 ※大見出し「村井長庵一件」において、「八ヶ年」と「八箇年」、「本覺院」と「本學院」、「武田長生院」と「竹田長生院」、「預《あづ》かる」と「預《あづか》る」、「成るべし」と「成べし」、「献」と「獻」、「悲《かなし》み」と「悲《かな》しみ」、「手續《てつゞ》き」と「手續《てつゞき》」、「虫」と「蟲」、「戯」と「戲」、「絲竹」と「糸竹」、「審《いぶかし》く」と「審《いぶか》しく」、「願《ねが》ひ」と「願《ねがひ》」、「訟訴書」と「訴訟書」、「不屆《ふとゞ》き」と「不屆《ふとゞき》」、「昔《むかし》」と「昔《むか》し」、「お安」と「御安」の混在は、底本通りです。 ※大見出し「村井長庵一件」において、「種々」に対するルビの「いろ/\」と「しゆ/″\」と「さま/″\」、「何卒」に対するルビの「どうぞ」と「なにとぞ」、「然樣」に対するルビの「さやう」「さう」、「私」に対するルビの「わたくし」と「わし」、「大聲」に対するルビの「おほごゑ」と「たいせい」、「貴殿」に対するルビの「きでん」と「おまへ」と「あなた」と「きさま」、「仕業」に対するルビの「しわざ」と「しごと」、「都度々々」に対するルビの「つと/″\」と「つど/\」の混在は、底本通りです。 ※大見出し「村井長庵一件」において、道十郎牢死の「寶永七年九月廿一日」と「寶永七年九月廿七日」の混在は、底本通りです。 ※大見出し「村井長庵一件」の誤植を疑った箇所を、「大岡仁政録 村井長庵之記」鶴聲社、1884(明治17)年6月出版の表記にそって、あらためました。底本と同じ表記のため確認できなかったところはママ注記としました。 ※大見出し「直助權兵衞一件」の誤植を疑った箇所を、「大岡名誉政談」鶴聲社、1887(明治20)年出版の表記にそって、あらためました。 ※大見出し「越後傳吉一件」の誤植を疑った箇所を、「大岡政談」銀花堂、1887(明治20)年出版の表記にそって、あらためました。底本と同じ表記のため確認できなかったところはママ注記としました。 ※大見出し「越後傳吉一件」において、「伊藤伴右衞門」と「伊藤半右衞門」と「伊東半右衞門」、「道澤」と「道宅」、「鴻の巣宿」と「鴻巣宿」、「森田や」と「森田屋」、「猿島河」と「猿島川」の混在は、底本通りです。 ※大見出し「傾城瀬川一件」の誤植を疑った箇所を、「大岡名誉政談」鶴聲社、1887(明治20)年出版の表記にそって、あらためました。 ※大見出し「畔倉重四郎一件」において、「松屋文右衞門」と「小松屋文右衞門」、「十七屋」と「十七家」、「鈴ヶ森」と「鈴が森」の混在は、底本通りです。 ※大見出し「畔倉重四郎一件」において、「十七屋」に対するルビの「となや」と「となつや」と「とをつや」の混在は、底本通りです。 ※大見出し「畔倉重四郎一件」の誤植を疑った箇所を、「大岡名誉政談」鶴聲社、1887(明治20)年出版の表記にそって、あらためました。 ※大見出し「小間物屋彦兵衞一件」の誤植を疑った箇所を、「大岡仁政録小間物屋彦兵衛之伝」荒川藤兵衛、1886(明治19)年2月出版の表記にそって、あらためました。 ※大見出し「後藤半四郎一件」において、「分《わか》らず」と「解《わか》らず」、「天窻」と「天窓」、「某《それがし》」と「某《それが》し」の混在は、底本通りです。 ※大見出し「後藤半四郎一件」の誤植を疑った箇所を、「大岡名誉政談」鶴聲社、1887(明治20)年出版の表記にそって、あらためました。 ※大見出し「松田お花一件」において、「お兼」と「おかね」のの混在は、底本通りです。 ※大見出し「松田お花一件」の誤植を疑った箇所を、「大岡名誉政談」鶴聲社、1887(明治20)年出版の表記にそって、あらためました。 ※大見出し「嘉川主税一件」において、「小金ヶ原」と「小金が原」の混在は、底本通りです。 ※大見出し「嘉川主税一件」の誤植を疑った箇所を、「大岡名誉政談」鶴聲社、1887(明治20)年出版の表記にそって、あらためました。底本と同じ表記のため確認できなかったところはママ注記としましたが、本文での表記が一意の場合はそれにあわせました。 ※大見出し「小西屋一件」において、「許《ばか》り」と「許《ばかり》」、「お光」と「おみつ」、「冰人」と「⮔人」の混在は、底本通りです。 ※大見出し「小西屋一件」において、「老婆」に対するルビの「ばうも」と「らうば」の混在は、底本通りです。 ※大見出し「小西屋一件」の誤植を疑った箇所を、「大岡名誉政談」鶴聲社、1887(明治20)年出版の表記にそって、あらためました。底本と同じ表記のため確認できなかったところはママ注記としましたが、本文での表記が一意の場合はそれにあわせました。 ※大見出し「雲霧仁左衛門一件」において、「おとき」と「お時」、「兩換町」と「兩替町」、「常盤屋」と「常磐屋」の混在は、底本通りです。また、仁左衛門らが文蔵夫婦から金を騙し取った日付が「享保十二年」と「享保十一年」と混在するのは底本どおりです。 ※大見出し「雲霧仁左衛門一件」の誤植を疑った箇所を、「大岡名誉政談」鶴聲社、1887(明治20)年出版の表記にそって、あらためました。底本と同じ表記のため確認できなかったところはママ注記としましたが、本文での表記が一意の場合はそれにあわせました。 ※大見出し「津の國屋お菊一件」の誤植を疑った箇所を、「大岡名誉政談」鶴聲社、1887(明治20)年出版の表記にそって、あらためました。 ※大見出し「水呑村九助一件」において、「利三」と「利三郎」、「喜平治」と「喜平次」と「嘉平次」、「川口」と「河口」、「お梶」と「おかぢ」、「お里」と「おさと」、「お深」と「おふか」、「ハツと」と「ハツト」、「櫻井文右衞門」と「櫻井文左衞門」、「田村治兵衞」と「田村治太夫」、「巴屋儀左衞門」と「巴屋儀右衞門」、の混在は、底本通りです。 ※大見出し「水呑村九助一件」において、「白妙」に対するルビの「しろたへ」と「しらたへ」の混在は、底本通りです。 ※大見出し「水呑村九助一件」において、九助江戸滞在中の白洲が「享保二年九月廿一日」、その帰村後になる久助の惣内夫婦殺害容疑に関する願書日付「享保二年二月廿三日」、久助口書における「享保二年四月廿四日」、続く大岡越前守の白洲「享保二丁酉年五月十八日」の混在は、底本通りです。 ※大見出し「水呑村九助一件」において、惣内夫婦殺害日時について「二月二十九日」と「三月二十九日」の混在は、底本通りです。 ※大見出し「水呑村九助一件」の誤植を疑った箇所を、「大岡名誉政談」鶴声社、1887(明治20)年出版の表記にそって、あらためました。 入力:石塚一郎 校正:みきた 2019年4月26日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(https://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。