金魚 鈴木三重吉 ------------------------------------------------------- 【テキスト中に現れる記号について】 《》:ルビ (例)長雨《ながあめ》 |:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号 (例)大分|經《た》つて [#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定    (数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数) (例)𢌞 /\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号) (例)一字/\ *濁点付きの二倍の踊り字は「/″\」 -------------------------------------------------------  町に金魚を賣る五月の、かうした青い長雨《ながあめ》の頃になると、しみ/″\おふさ[#「ふさ」に傍点]のことが思ひ出される。今日も外にはしと[#「しと」に傍点]/\と蜘蛛の糸のやうな小雨が降る。金魚の色ばかりを思ひ浮べても物淋しい。おふさ[#「ふさ」に傍点]を思へばうら悲しい。  二人はあの青山の裏町の、下二た間《ま》と二階一と間だけの小さい家《うち》に住んでゐた。  はじめて世に出す作にかゝつてゐた私は毎晩夜學へ講義に行く外は、晝はいちんち二階に籠つて一字/\に血も黒くなるやうな思ひをして、一つところを消したり直したりばかりして、狂人のやうになつて書いてゐた。おふさ[#「ふさ」に傍点]はその間下でたつた一人、悄んぼりと、下手な手習ひなぞをして坐つてゐた。今から思へばそれも半分は體の惡いせゐ[#「せゐ」に傍点]だつたのだらうけれど、おふさ[#「ふさ」に傍点]はその頃は所つ中はき/\しない顏ばかりして、欝ぎ込んでゐた。  私にはおふさ[#「ふさ」に傍点]のさういふ心持も解つてゐた。おふさ[#「ふさ」に傍点]が私のところへ來てゐることが母親の方へ知れてからは、絶えず手紙で以てしつつ[#「しつつ」に傍点]こく責められて、一ん日も延び/\した心持がしないらしいといふことは私も察《さつ》してゐた。それでも私はあれの母親が何と言つて來ても、おふさ[#「ふさ」に傍点]には手紙を出させなかつた。しまひには母親は私へ當てゝさま/″\の事を言つて來る。そんなものはおふさ[#「ふさ」に傍点]には見せはしないけれど、母親からの手紙だと見れば、何が書いてあるかはおふさ[#「ふさ」に傍点]にも解る。そんな事で、私に對してもすまない/\といふ念が、おふさ[#「ふさ」に傍点]の心を痛めてゐるといふことも解つてゐた。けれども私は書かうとする事が甘く書けないと無暗にいら[#「いら」に傍点]/\して、そんな事に思ひやりもなく、罪もないおふさ[#「ふさ」に傍点]に當り散らすことが度々であつた。くさ[#「くさ」に傍点]/\して下へ下りて來てもおふさ[#「ふさ」に傍点]がたゞ自身のことばかりを考へ入つてゐるやうに、涙ぐんだ目もとを伏せて、火のない火鉢の傍に坐つてしよんぼり[#「しよんぼり」に傍点]してゐるのを見ると、私は、おふさ[#「ふさ」に傍点]が、私と私の事業とに何の同情も持たないで、自分勝手のことばかりにくよ[#「くよ」に傍点]/\してゐでもするやうに思はれて、一人土の中にでもゐるやうな、ゐたゝまれない寂しさにいら/\して、おふさ[#「ふさ」に傍点]の沈んだ頸足《えりあし》に髮の解《ほつ》れの下《さが》つてゐるのをかこつけに、ものゝたしなみのない、自墮落な女だと言つて八釜しく叱りつけたりした。私がかれこれ半歳も入院した後《あと》だつたので、行李の中の二人のものが一つもなくなつてゐるやうな貧しさも、私にひがみ[#「ひがみ」に傍点]を起させた。或時はおふさ[#「ふさ」に傍点]の態度を曲解して、そんなに貧乏が辛《つら》いくらゐなら、こんなところにゐないで出て行つてしまへと言つて、夜遲くおふさ[#「ふさ」に傍点]を突き出さうとしたこともあつた。  その他《ほか》に、いろんなことで隨分無理を言つてがみ/″\叱りつけたのも、今から思へばみんな私が惡いのだけれど、その時には、一途におふさ[#「ふさ」に傍点]を惡んで當り散らした。それでもおふさ[#「ふさ」に傍点]はすべてが自身の罪のやうに、どんなことをされても言はれても、たゞ默つて怺へてゐた。時には私も、おふさ[#「ふさ」に傍点]をひどく叱りつけた直ぐあと[#「あと」に傍点]で、自分が無理だつた事を悔いて、おふさ[#「ふさ」に傍点]が涙を隱しながら、かひ/″\しく使ひなぞに出て行つたあとに、私は先刻《さつき》まで彼女が仕かけてゐた乏しい解《ほぐ》し物が束ねてあるのを寂しく見守りながら、自分のやうな男の妻になつた彼女の運命を、憫れと思ふ事も度々あつた。  けれどもその時分の私は、遂に自分自身よりより多く憫れなものを知らなかつた。私は先《せん》の女についておふさ[#「ふさ」に傍点]に打ち明ける事の出來ない或深い苦痛を抱いてゐた。併《しか》もそんな中で、一行/\に血を吸ひ取られるやうな思ひをして、苦しい作を續けなければならなかつた。私はおふさ[#「ふさ」に傍点]を叱り附けたりした後に、いきなりおふさ[#「ふさ」に傍点]の手を取つて、一人とめどなき涙に暮れることもあつた。私が泣けばおふさ[#「ふさ」に傍点]も譯を知らないなりに私のために涙ぐんだ。おふさ[#「ふさ」に傍点]は、自分より外にはだれ一人私がたより[#「たより」に傍点]にするものがないのを知つてゐた。私がどんな事をしても、どのやうな事を言つても、おふさ[#「ふさ」に傍点]はそれが當然のことのやうに默つて受け入れてゐた。  併し、私だつてたゞ苛々《いら/\》した心持ばかりで生きてゐた譯でもない。二人はやつぱり年若い夫と妻とであつた。おふさ[#「ふさ」に傍点]は今でも、私のために辛かつた事は忘れ盡して、たゞ、女として與へられたいろ/\の享樂をのみ考へて眠つてゐてくれるやうな氣がする。それだけ私は、彼の女に對して一つも夫らしい仕向けをしてやらなかつたかのやうに、おふさ[#「ふさ」に傍点]に與へた苦勞ばかりを追憶して、いぢらしいあの女の不仕合せな命數を憫れに思ふ。何が彼女の得た享樂ぞ。物蔭に置かれた黒ずんだ鉢に、咲いて萎れた、質素な花のやうに寂しいあの女よ。  不仕合せなおふさ[#「ふさ」に傍点]は、私の作がやう/\出來上らうとする時分になると、或日どこがどう惡いともなくふら/\と床についた。私が作に浸つてゐた長い間のいろんな氣苦勞に疲れたのだらうと私は憫れに思つて、何もくよ/\しないで當分じつと寢てゐて見るがいゝと言つて、やさしく介抱してやつた。おふさ[#「ふさ」に傍点]は牛乳は厭、何は厭だと言つて、何をも食べようとしない。何にも欲しくはありません、たゞかうしてじつとしてゐさせて戴けばその内には直りませう、あなたは私のことなぞに心配をなさらないで、序に早く書き上げて下さいと言ひながら、無理に起きて出て、私の食事の世話をしてくれたりする。或ときはもうすつかりよく[#「よく」に傍点]なつたやうな氣がすると言つて、床を疊んでつれ/″\の編み物なぞをして坐つてゐた。  それは丁度かういふ青い小雨の續く或日であつた。私は朝から二階に閉ぢ籠つて書いてゐた。外を見ると、窓のぢき前の、黒ぼけた屋根に張つた蜘蛛の巣に、疎《まばら》に溜る程の小雨が、絶え間もなくじめ/″\降り頻つた。  それが、午後になつて不圖氣が附くと、いつの間にか、空の眞つ青い雨上りとなつて、久しぶりで、黄色い生々《いき/\》した日影が、窓に迫つた屋根瓦の、黒い濕り氣の上に射してゐた。  見ると、そこには、下から覗いた桐の梢の、潤ひ重なつた青葉の蔭に、雀の子が一匹、珍らしく探し當てた日向を嬉しむやうに、枝から枝に飛び移つて餘念もなく戲れてゐる。  すると下からおふさ[#「ふさ」に傍点]が上《あが》つて來て、雨が晴れて氣分がからり[#「からり」に傍点]となつたから、そこらあたりまで出て、買物をして來たいといふ。私が勢のいゝ返事をすると、おふさ[#「ふさ」に傍点]は子供のやうな笑顏をして下《お》りて行つたが、それから大分|經《た》つても容易に門口《かどぐち》の鈴《りん》の音がせぬ。もう出かけたのか知らと、息休め旁下りて見ると、一つしかない不斷着の帶を、着換へたネルの着物の上に結んだおふさ[#「ふさ」に傍点]は、小暗い三疊の鏡臺の前に俯《うつ》伏して泣いてゐる。どうしたのかと聞けば、おふさ[#「ふさ」に傍点]は涙に汚《よご》れた顏を上げて、髮が澤山拔けるから悲しいといふ。こんなに、いくらでも拔けるんですのと言ひながら、油|染《じ》みた櫛に引つかゝつた拔け毛を見せる。片方の手にも、拔けたのを溜めて持つてゐる。私は、そんな下らない事に泣く奴があるものかと、わざと作り笑ひをして言ひながら、行くなら早く行けよと勵まして出したけれど、さうして出て行く後《うしろ》影を格子越しに見送つて、おふさ[#「ふさ」に傍点]が前と較べて、くつきりと力なげに痩せたのを見て、それがみんな自分のした事のやうに、濟まないやうな憫れな心持がした。いつもは見馴れて何《なん》とも思はないでゐたけれど、今氣が附いて見ると、いかにも脆い姿になつてゐる。何を買ひに行くのだか私もそこらまで附いて行つてやらうかと思ふ。けれどもその内におふさ[#「ふさ」に傍点]は露路を出てしまつた。  私は再び二階へ上つたけれど、おふさ[#「ふさ」に傍点]が歸るまでは何だか落ちつかれなかつた。書きかけてもペンが動かないので、紙の上へ意味のない惡戲書《いたづらが》きをしてゐる内に、いつしか、憫れなあの女の、私についての長い苦勞のあとが、考へるともなく考へ浮べられた。  どこまで行つたものか、いつまでもおふさ[#「ふさ」に傍点]は歸らない。もう屋根に當る日足も段々と夕方に近く蔭ばみになるのにまだ歸つて來ない。私は氣になるから表通りまで出て、傘屋の店先に立つて、通りの兩方を見𢌞はした。  すると丁度向うからおふさ[#「ふさ」に傍点]がとぼ/\と歸つて來る。金魚を買つて來たらしい。硝子の入れものを糸で下《さ》げて、悄んぼりと歸つて來る。私は二人がより早く近づき得るために、こちらからも歩いて行つた。  どこまで行つたのかと聞くと、私《あたし》どうしたんですか、歸る途中で急に息が苦しくなつて歩けなくなつたものですから、どうしたらいゝかと思つて、少らくあそこのところで休んでゐました、すみませんがこれを持つて下さいませんか、と金魚の入れものを渡すのであつた。眞つ蒼い苦しさうな顏をしてゐる。何《なん》ならこの足で直ぐ醫者へ伴《つら》つて行つて、見て貰つて來ようぢやないかと、私は氣を引き立てるやうにさう言つたが、それよりも早く家《うち》へ歸つて横になりたい、醫者へ行かなければならないやうなら、明日《あす》にでも行けば濟む事だからと言つて、おふさ[#「ふさ」に傍点]はその儘一緒に家《うち》へ歸つた。  おい、大丈夫か、しつかりしろと、私は障子につかまつて上るおふさ[#「ふさ」に傍点]にさう言ひながら、押入れから蒲團を出して敷いてやると、おふさ[#「ふさ」に傍点]は、おや、すみません、あなたにそんな事をして頂いてはと、そのまゝ崩れるやうに蒲團の上に伏《ふ》せつたかと思ふと、不意にがぶり[#「がぶり」に傍点]と敷蒲團の上に血を吐き出した。  その時の私の愕きを、私は今でもたつた昨夜の事のやうに目に浮べ得る。じつとしてゐよ、かもふものか蒲團ぐらゐ、もう吐きたくはないか、いゝのか、と言つたきり、自分も涙ぐんで、おふさ[#「ふさ」に傍点]の俯《うつ》伏した背中を抱くやうにしてゐた。おふさ[#「ふさ」に傍点]はおろ/\と泣いて、私はもうどうなつてもいゝけれど、私が寢附けばあなた[#「あなた」に傍点]のお仕事がと、僅かにさう言つて、絶え入るやうに泣き崩れた。  その夜、私はじつとおふさ[#「ふさ」に傍点]の枕元に坐つたまゝ、おふさ[#「ふさ」に傍点]が力のない目を閉ぢて、やう/\と微かな寢息になつた蒼ざめた眠りを見護つた。私は夜中過までまんじりともしずに、夜が更けると、おふさ[#「ふさ」に傍点]はかうして何日かの後にたうと亡くなつてしまふのではあるまいかと考へた。枕もとには、夕方おふさ[#「ふさ」に傍点]が買つて來た金魚が、夜つぴて藥壜と共に並べて置いてあつた。  金魚の色はいつ思ひ出してもうら悲しい。おふさ[#「ふさ」に傍点]を思へばうら悲しい。 [#地付き](明治四十四年六月) 底本:「鈴木三重吉全集 第二巻」岩波書店    1938(昭和13)年5月15日第1刷発行    1982(昭和57)年2月8日第2刷発行 入力:林 幸雄 校正:noriko saito 2010年7月5日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。