透明人間 ハーバート・ジョージ・ウエルズ 海野十三訳 ------------------------------------------------------- 【テキスト中に現れる記号について】 《》:ルビ (例)黒馬旅館《くろうまりょかん》 |:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号 (例)一|週間《しゅうかん》 [#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定 (例)[#4字下げ]黒馬旅館《くろうまりょかん》の客《きゃく》[#「黒馬旅館の客」は大見出し] ------------------------------------------------------- [#4字下げ]黒馬旅館《くろうまりょかん》の客《きゃく》[#「黒馬旅館の客」は大見出し] [#7字下げ]影《かげ》のような男[#「影のような男」は中見出し]  怪物《かいぶつ》!  そうだ、怪物にちがいない。  怪物《かいぶつ》でなくて、なんだろう? 科学《かがく》が発達《はったつ》した、いまの世の中に、東洋《とうよう》の忍術使《にんじゅつつか》いじゃあるまいし、姿《すがた》がみえない人間《にんげん》がいるなんて、これは、たしかに変《へん》だ。奇怪《きかい》だ!  しかし、それは、ほんとうの話だった。怪物《かいぶつ》ははじめに、ものさびしい田舎《いなか》にあらわれた。それからまもなく、あちこちの町にも出没《しゅつぼつ》するようになったのである。たいへんな騒《さわ》ぎになったことは、いうまでもない。  その怪物《かいぶつ》の姿《すがた》は、まるっきり見《み》えないのである。すきとおっていて、ガラス、いや空気《くうき》のように透明《とうめい》なのだ。諸君《しょくん》は、そんなことがあるもんか――と、いうだろう。だが、待ちたまえ!  怪物《かいぶつ》が、はじめて田舎《いなか》のその村にやってきたのは、たしか二月もおわりに近い、ある寒《さむ》い朝のことだった。身《み》をきるような風《かぜ》がふいて、朝から粉雪《こなゆき》がちらちら舞《ま》っていた。こんな寒い日は、土地のものだって外を出あるいたりはしない。  その男は、丘《おか》をこえて、ブランブルハースト駅《えき》から歩《ある》いてきたとみえ、あつい手袋《てぶくろ》をはめた手に、黒いちいさな皮《かわ》かばんをさげていた。からだじゅうを、オーバーとえりまきでしっかり包《つつ》んで、ぼうしのつば[#「つば」に傍点]をぐっとまぶかにおろし、空気《くうき》にふれているところといったら、寒《さむ》さで赤くなっている鼻《はな》さきだけであった。なんともいいようのない、ぞっとするようなふんいきを、あたりにただよわせながら、黒馬旅館《くろうまりょかん》のドアをおしひらいてはいってきたのである。 「こう寒《さむ》くちゃあやりきれない。火だ! さっそくへやに、火をおこしてもらいたいな」  酒場《さかば》へ、ずかずかとはいってくるなり、ぶるるんと、からだをゆさぶって雪《ゆき》をはらいおとし、黒馬旅館の女あるじに向かって、そう言った。  いまどき、めずらしい客《きゃく》である。こんな冬の季節《きせつ》に、しかもこんなへんぴな土地に、旅《たび》の商人《しょうにん》だってめったにきたことはないのだ。おかみさんは、びっくりもし、なげだされた二枚の金貨《きんか》をみると、すっかりよろこんでしまった。 「とうぶん、とめてもらうから」  客《きゃく》をへやに案内《あんない》すると、暖炉《だんろ》に火をもやしてたきぎをくべ、台所《だいどころ》でお手伝いにてつだわせて、おかみさんはせっせと食事《しょくじ》のしたくをした。  スープ皿《さら》、コップなどを客室《きゃくしつ》にはこんで、食卓《しょくたく》のよういをととのえた。暖炉《だんろ》の火はさかんにもえて、ぱちぱちと音をたてている。  ところが、火にあたっている客《きゃく》はこちらに背《せ》をむけたまま、ぼうしもオーバーもぬごうとはしないで、つっ立っている。中庭《なかにわ》にふりつもる雪をみつめながら、なにか考えているようだった。オーバーの雪がとけて、しずくが床《ゆか》のじゅうたんの上にしたたり落ちていた。 「もし、あのう、おぼうしとオーバーを、おぬぎになりましたら? 台所《だいどころ》でかわかしてまいりますわ」 と、おかみさんが声をかけた。 「いいんだ」  ふりむきもしないで、客が、ぶっきらぼうに言った。おかみさんはあわてて、残りの皿をとりに台所へもどった。  料理《りょうり》をはこんで、もういちど客室《きゃくしつ》にきてみると、客はまだ、さっきとおなじ姿勢《しせい》で窓《まど》のほうをむいていた。 「お食事《しょくじ》のよういができました」 「ありがとう」  へんじはしたが、うごこうともしなかった。おかみさんがでていくと、男は、さっと食卓《しょくたく》に近づいた。そして、スープをせっかちにすすり、パンやベーコンをがつがつと食べはじめた。  つぎに、おかみさんがハム・エッグを皿《さら》にのせて、軽《かる》くドアをたたいて客室《きゃくしつ》にはいっていくと、とたんに、男はナプキンを食卓《しょくたく》の下になげ、それをひろうようなかっこうをして、身をかがめて口におしあてた。 (おやっ?) と、おかみさんは思った。  ぼうしとオーバーはやっとぬいで、暖炉《だんろ》のまえのいすにおいてある。長ぐつは、炉《ろ》のかこいの金具《かなぐ》のうえにおいてあった。 「これはあたしが、かわかしてまいりましょう」  金具がさびちゃあこまる、とおもって、長ぐつを取りあげながら、おかみさんが言った。 「ぼうしは、いじらんでおいてくれ」  陰《いん》にこもったふくみ声で、客《きゃく》はぴしりと言った。おかみさんはおどろいて、客のほうを見た。客はかの女をにらんでいる。  おかみさんは、ぎくっとして、その場にたちすくんでしまった。なんという顔をしているのか……。男の口から下はナプキンにかくれて見えないが、青いめがねをかけたその顔は、頭から顔じゅうをほうたいでぐるぐる巻《ま》き、ほうたいの白い中から鼻《はな》だけが赤くのぞいていて、そのぶきみさは、全身《ぜんしん》の毛がそうけ立つほどだった。 「あっ」 と、あやうく声をたてるところだった。男は茶色のびろうどの服のえりを立てて、顔をうずめている。 「いいかい、そのぼうしにはさわらんでくれ!」  もういちど、男が、こんどははっきりと言った。 「もうしわけありません」  おかみさんはぼうしだけ残して、オーバーなどをかかえこむと、にげるように客室《きゃくしつ》をとびだして台所《だいどころ》にもどった。  ひとりきりになると、男は窓《まど》ぎわにいって、まだ昼間《ひるま》だというのに、カーテンをひいた。へやのなかが、きゅうに、うす暗くなった。 [#7字下げ]なに者《もの》だろう?[#「なに者だろう?」は中見出し]  男は、じつによく食べた。  カーテンをひいて、へやがうす暗くなると、それで安心《あんしん》したのか、食卓《しょくたく》につくと、まるで三日も四日もたべずにいたかのように、皿《さら》のなかの物をかたっぱしからたいらげていった。  黒馬旅館《くろうまりょかん》のおかみさんは、なんとも気もちのわるい客《きゃく》をとめたもんだと、考えこんでいたが、この男がまさか怪物《かいぶつ》であろうとは気がつかない。ぶっきらぼうで、ぶあいそうな客だとはおもうが、なにしろ先払《さきばら》いで宿料《やどりょう》に二枚の金貨《きんか》をわたしている。わるい気もちはしなかった。 (あの人はかわいそうな人なんだよ、きっと! ひどいけがをしてるらしいよ。どこで、どんなけがをしたか知《し》らないが、かわいそうに……。だけど、ほうたいだらけのまっ白《しろ》なあの顔《かお》には、ぞっとするわ。まるで化《ば》けものみたいだもの)  おかみさんは台所《だいどころ》の暖炉《だんろ》の火で、客《きゃく》のオーバーや長ぐつをかわかしながら、そんなことを考えていた。 (ナプキンで口をかくしているところをみると、口のまわりに、大けがをしたんだよ。ぞっとしたりしては、気のどくだわ)  しばらくして、おかみさんが食事《しょくじ》のあと片づけに客室《きゃくしつ》にはいっていくと、客はパイプでたばこをくゆらしていた。顔の下半分《したはんぶん》にはマフラーをまきつけて、パイプを口にさしこむのに、マフラーをゆるめようとはしないで、口もとをかくすようにしてパイプを吸《す》っていた。  暖炉《だんろ》の火が青めがねにうつって、赤々《あかあか》とゆらいでいるが、どんな目をしてこちらを見ているか、とおもうと、やはり、ぶきみさが先に感じられてくるのだった。  めずらしく、客のほうからしゃべった。 「ブランブルハースト駅《えき》に、荷物《にもつ》をおいてきたんだが、どうやったら取りよせられるね?」 「おや、それはおこまりでしょう。さあ、この雪《ゆき》では……それに、こんな田舎《いなか》ですからね。たのむといって、すぐに、人手がいいあんばいにございませんわね」  男はほうたいだらけの頭で、うなずいていたが、 「こまるなあ。どうしても、きょうじゃあだめかね?」 と言った。 「きょうじゅうには、むりでございますよ」 「あすになるか? なんとか早く、とどけさせる方法はないものかな? 馬車《ばしゃ》ならいってこられそうなものだが……」  がっかりしたようすで、なおもつづけた。  おかみさんは、この雪ではとてもだめだろうと、客のようすを探《さぐ》るようにながめながら、説明《せつめい》した。 「それがむりなんですよ。このうら山には、とてもけわしい場所がありますんでね、馬車《ばしゃ》なんか通れやしませんよ。去年《きょねん》でしたか、馬車《ばしゃ》がひっくりかえりましてね、お客さんと馬車屋《ばしゃや》が死《し》にました。とんだ災難《さいなん》で、まあ、こんな日には、おやめになったほうがようござんすね」 「なるほど、災難って、そういったもんかね」  男はそれいじょう、たってたのもうとは言わなかった。 「マッチをとってくれんか」  パイプをマフラーのあいだから口にさしこんで、おかみさんからマッチをうけ取った。そしておかみさんに背《せ》をむけると、窓《まど》ぎわにいって、カーテンのすきまから中庭《なかにわ》の雪《ゆき》をながめたまま、ひとことも口をきこうとはしない。おかみさんは、はっとして、へやをでていった。  ふしぎな男は、夕がたまで、へやにとじこもっていた。 [#7字下げ]怪物《かいぶつ》の顔《かお》[#「怪物の顔」は中見出し]  ふるびた時計《とけい》が四時をうった。あたりはいつのまにか、うす暗《ぐら》くなっていた。  宿《やど》のおかみさんは、さっきから、もうなん度も時計《とけい》をながめてはためらっていた。 (四時だわ、どうしてもあのお客《きゃく》さまのところにいって、お茶のご用をきいてこなくては………だけど、どうしたのかしら、わたしはどうもあのお客《きゃく》さまの前にゆくのが、気がすすまないんだけど……)  おかみさんは、また一、二分考えていたが、きゅうに勇気《ゆうき》をふるい起こして、さっと立ちあがった。そのとき、いきおいよく戸をあけて、 「おお! おかみさん、えらく降《ふ》りだしたじゃねえか。いやになるねえ、いつまでも寒くて、この大雪《おおゆき》じゃ、わしのぼろ靴《ぐつ》で歩くのはこたえまさあね」 と、大声でいいながら、戸口《とぐち》でぶるぶるっと雪をはらって、時計屋《とけいや》のテッディ・ヘンフリイが寒《さむ》そうにはいってきた。  外では、まだ雪《ゆき》がやすみなく降《ふり》りつづいている。 「ああ、テッディさん! まったく、こう寒《さむ》くてはやりきれないわね」  おかみさんは、こう言いながら、時計屋《とけいや》が片手《かたて》にぶらぶらとぶらさげている修理道具《しゅうりどうぐ》のはいったふくろを見《み》た、とたん、いいことを思《おも》いついた。それは、 (テッディといっしょにあの客《きゃく》のところへゆく) ということだった。そこで、 「テッディさん、いいところへきてくださったわ、ちょうど、お客部屋《きゃくべや》の時計《とけい》を見てもらいたいと思っていたのよ。あのへやの時計《とけい》ときたら、動くのは、ちゃんとまちがいなく動くし、時間《じかん》だって、元気《げんき》よく打つんだけど、針《はり》だけがいつも六時を指したきりなのよ。どうしたのかしら?」 「へんだねえ、ちょっくら、見てみましょう」  テッディは首《くび》をかしげながら言った。おかみさんは、かれをつれて、れいのふしぎな客《きゃく》の部屋《へや》のドアをかるくたたいた。  へんじはなかった。が、おかみさんはさっさとドアをひらいて、部屋へはいりこんだ。 「眠《ねむ》っておいでらしいわ」  おかみさんは、ひとり言のようにひくくつぶやいた。  男は、暖炉《だんろ》の前のひじかけいすに、ふかぶかと体《からだ》をうずめて、ほうたいだらけの頭をかしげ、うとうとと、いねむりをしているらしかった。  灯《ひ》のついていない部屋《へや》は暗《くら》かった。ただ赤々《あかあか》とさかんに燃《も》えている暖炉《だんろ》の火が、あたりをぼんやりと照らしだしていた。  男は、うつぶせになったまま、身動《みうご》きもしない。 「まあ、なんて暗《くら》いんだろう。灯《ひ》をつけないから、なんにも見えやしない」  いままで、明るい台所《だいどころ》にいたおかみさんには、なにもかもが、ぼんやりと見えた。 「もし、だんなさま」  声をかけて、ひと足、男のほうに近づいた。と、つぎの瞬間《しゅんかん》、 「あっ!」  おかみさんは、ぶっ倒《たお》れるかと思うほどおどろいてしまった。ひょいと見た男の顔が、なんと怪物《かいぶつ》そのままの不気味《ぶきみ》な顔をしているではないか!  暖炉《だんろ》の火をうつして、赤く光る色眼鏡《いろめがね》、顔いちめんにぐるぐるまきにしたほうたい、そしてなによりおそろしく思えたのは、ぽっかりと深いあなのように開いている大きな口だった。まるで顔の下半分《したはんぶん》が、すっかり口にかわったのではないかと思うほどだった。 「う、うーん」  おかみさんのびっくりした声に目をさましたのか、男は、ゆらりと体《からだ》を動かし、眠《ねむ》そうにいすから立ちあがった。 「あっ」  男は、目の前にたまげた顔で立ちすくんでいるおかみさんを見ると、あわてて、襟巻《えりまき》のはしで口のあたりをかくそうとあせった。  その間に、おかみさんは、やっとの思いで、気をとりなおし、 「だんなさま、時計屋《とけいや》が時計をなおしにまいりましたので、ちょっと……」 「時計をなおすのかい? いいだろう――」  男は、とりつくろったようすで、重々《おもおも》しくこたえた。 「では、テッディさん、ちょっと、待っててください。すぐランプをとってきますからね」  おかみさんは、逃《に》げるようにへやからでてきた。時計屋も、怪《あや》しげな客《きゃく》の姿《すがた》を見て、どぎもをぬかれ、部屋《へや》にはいらずに、おかみさんが引っかえしてくるのをじっと待《ま》っていた。 「お待ちどおさま!」 と言って、おかみさんは、ランプを片手《かたて》にもち、時計屋《とけいや》をうながすような目をして、もういちど部屋にはいっていった。時計屋があとにつづいた。  男は、部屋のまん中につっ立っていた。時計屋は、おずおずと、 「おじゃまではございませんか? お客《きゃく》さま」 と言うと、男はちらりと色眼鏡《いろめがね》をきらめかして、 「いや、かまわんとも」 と、ごうまんな態度《たいど》でこたえた。時計屋《とけいや》は、なにやら、ぞっと背《せ》すじが冷《つめ》たくなるような、いやな感じをうけた。できることなら、時計の修理《しゅうり》などはほうりだして、この部屋《へや》からでていきたくなった。  と、男は、こんどはおかみさんにむかい、 「おかみさん! ぼくのほかにはだれも、この部屋《へや》にはいらせない約束《やくそく》だったね」 と、つめたい声で不満《ふまん》そうに言った。おかみさんは、たじたじと後《うし》ろにさがり、 「ですけど、時計《とけい》だけは――」  なおしておかなくては、あなたがおこまりになるでしょうと、言うつもりだったが、おそろしさのために、そのあとの声がつづかなかった。 「むろん、時計《とけい》は正確《せいかく》でなくてはいけないよ。だが、ぼくは、この部屋《へや》にいつでもひとりで静《しず》かにいたいのだ。だれもはいってこないように気をつけてもらいたいね」  ぶきみな男にどなりつけられると、時計屋《とけいや》は逃《に》げだしたくなった。もじもじ、手足を動かした。それをみると、男は、すぐに、 「だけど、時計《とけい》をなおしてくれるのに文句《もんく》をいうつもりはないよ。けっこうだよ。なおしてもらおう。きみ、さっそく、やってくれたまえ」  時計屋《とけいや》のヘンフリイは、すくわれたように大いそぎで時計にとびつき、修理《しゅうり》にかかった。  男は暖炉《だんろ》をうしろにして、両手を背中《せなか》でくみあわせ、また、おかみさんにむかって、 「おかみさん、時計がなおってからでいいから、お茶をいれてくれたまえ」  おかみさんは、 「ただいま、すぐ持ってまいりますわ」 と、いうより早く、出ていこうとした。男は、 「おっと、待ってくれたまえ、ブランブルハースト駅《えき》にある、ぼくの荷物《にもつ》をとりよせるようにたのんでくれたかね」 「配達屋《はいたつや》にたのんでおきましたから、あすの朝早くとどきます」 「あすの朝……こん夜のうちに、とってくるわけにはゆかないかね」 「ええ、だめでございますよ」  おかみさんは、むかっ腹《ぱら》をたてていた。と、みると男は、にわかにものやわらかいようすになり、 「じつはね、おかみさん。ぼくは科学者《かがくしゃ》なんだよ。いままではこのひどい寒《さむ》さがこたえて、気分《きぶん》がすぐれなかったうえに、疲れきっていたので、なにをやる元気もでなかったが、ここで休《やす》んでいるうちにやっと元気がでたんだよ。となると、もうじっとしていられないんだ。すぐにも実験《じっけん》にとりかかりたくてね……これがぼくの性分《しょうぶん》なんでね」  人のいいおかみさんは、これを聞くと、たちまち、この男を怪《あや》しんだり、いやがったりしたことを後悔《こうかい》して、 「さようでございましょうとも、で、駅《えき》にございますお荷物《にもつ》の中に、実験道具《じっけんどうぐ》をおいれになっていらっしゃるのでございますか?」 「そうなんだ。全部《ぜんぶ》はいっているんだ」  男は、おかみさんがじぶんを信用《しんよう》しはじめたと見て、また話しつづけた。 「ぼくがこの片田舎《かたいなか》のアイピング村へやってきたのは、だれにもじゃまされないで、思うように研究《けんきゅう》をやりたいからなんだよ。実験《じっけん》をやってる最中《さいちゅう》にさまたげられると、たまらないからね。それに、ぼくは、ちょっとけがをしてね」 (やっぱりそうだったんだわ。この方は怪《あや》しい人じゃなかったのよ。お気のどくに……ずいぶんひどいけがをなさったらしいわ)  おかみさんは、心のなかでそう思った。男は、よわよわしい調子《ちょうし》で、 「そのうえ、けがのために視力《しりょく》がすっかりよわってしまってね。ときどき痛《いた》みだすと、何時間も暗《くら》がりの中で、じっとしていなければならないんだ。痛《いた》みの起こったときのつらさときたら、まったくたえられないほどなんだよ。そんなときに、だれかに部屋《へや》にはいってこられると、とてもいやなんでね。だから、きみもよく心えていてもらって、ぼくの部屋へ他人《たにん》をいれないでくれたまえ。しずかに休んでいたいんだからね」 「わかりました。よく気をつけますわ。そんなひどいおけがを、どうしてなさいましたの?」  おかみさんは同情《どうじょう》のこもった声で、やさしくたずねた。すると男は、 「話はそれだけだ」  うってかわった冷《つめ》たさで言い、おかみさんが二度と口をひらかないように横をむいた。  おかみさんがでてゆくと、男はヘンフリイが時計《とけい》の修理《しゅうり》をやっているのを、じっと見つめはじめた。  ヘンフリイは、さっきからだまりこんで、せっせと手を動かしている。  針《はり》をぬき、文字盤《もじばん》をはずし、なかの機械《きかい》をひっぱりだした。  かれはねんいりに機械《きかい》をしらべた。男がじっとながめているので、かれはなんとなく気味《きみ》がわるくて、仕事《しごと》をしている手が思うように動かなかった。  十五分ほどたつと、時計《とけい》はすっかりなおったが、ヘンフリイは、いつまでもぐずぐずと機械《きかい》をいじっている。時《とき》がたつにつれて恐《おそ》ろしさがうすらいでくると、かれは、 (この奇妙《きみょう》な男の正体《しょうたい》を見きわめてやれ!) と、いう気になっていた。どうにかして、男と話すおりをつかみたいと思ったが、だめだった。  男は、口をきかないばかりか、身動《みうご》きひとつしないで、じっとつっ立っていた。  眼鏡《めがね》のレンズが、青白く光ってヘンフリイを見つめている。  ヘンフリイは、たまらなくいらいらしてきた。 (ちえっ、なんていやなやつだろう。ぞっとするよ。まるで化物《ばけもの》とむきあってるような気もちだよ。人間《にんげん》なら人間らしく、きょうはひどく寒《さむ》いねぐらいのことは、言ったらよさそうなもんだよ。ぶあいそうなやろうだ。が、こういつまでもだまってても、らちがあかねえや。ひとつこちらから先に、声をかけてやろう)  かれは決心《けっしん》して、男の顔を見あげ、 「この天気は――」  とたんに、するどい声がとんできた。 「さっさと仕事《しごと》を片づけて、でていったらどうだ?」  男は、どなりたいのをやっとがまんしているらしく、ふるえる声で言った。ヘンフリイはまっさおになった。男は、かさねて、 「短針《たんしん》をじくにはめれば、すむんじゃないか。さっきから見ていると、やらないでもいいことばかりやってるみたいだぞ」  ヘンフリイは、ぎょっとした。男はなにもかも見すかしているのだ。  恐《おそ》ろしさで体《からだ》が、がたがたふるえてきた。大あわてで仕事《しごと》をすませ、道具《どうぐ》を片づけると、あたふたと部屋《へや》をでていった。  台所《だいどころ》にくると、ヘンフリイは、いそがしそうに働《はたら》いているおかみさんに、 「さようなら」 と、ふきげんなみじかいあいさつを残《のこ》して、さっさと、雪《ゆき》がふる外へとびだした。  道にはすっかり雪がつもっていた。 「ちくしょうめっ! なにが科学者だい。学者ってものは、もうすこし上品《じょうひん》なもんだよ。大きなつらをしやがって……あいつは悪魔《あくま》かもしれねえぞ」  時計屋《とけいや》は、道々《みちみち》、思いつくかぎりの男のわる口をつぶやいた。それでも、やはりむしゃくしゃしていた。 [#7字下げ]気をつけたがいいぜ![#「気をつけたがいいぜ!」は中見出し]  時計屋《とけいや》がどんどん歩いて、グリーソン屋敷《やしき》のかどまできたとき、のんきな顔で馬車《ばしゃ》を走らせてくるホールにばったりと出あった。 「よう! どうしたい、ヘンフリイ! 浮かねえ顔で、やけにいそいでるじゃねえか」  ホールがくったくのない声をはりあげた。  ホールは、怪《あや》しい男が泊《と》まった黒馬旅館《くろうまりょかん》のあるじなのだ。かれはみるからに人の好いのんき者で、ホール夫人に気にいるように、てきぱき働《はたら》くことなど、ぜったいにできない男だった。  ホールの仕事《しごと》といえば、ときどき、シッダーブリッジ駅《えき》まで馬車《ばしゃ》を走らせ、荷物《にもつ》をはこんでくるのが、せいぜいだった。  いまも、駅《えき》からのかえり道で、いつもとおなじようにホールは途中《とちゅう》で、さんざん世間話《せけんばなし》に油《あぶら》を売ってきたところである。  ヘンフリイは、ホールに声をかけられると、いんきな声で、 「ホール、おめえのとこには、へんな客《きゃく》がとまっているな」 「なんだって?」  お人よしのホールは、すぐに馬車《ばしゃ》をとめて、時計屋《とけいや》のほうへのりだしてきた。 「おめえ、知らねえのかい? あのみょうちきりんな顔の客《きゃく》のことを……」  ホールは首《くび》をふった。ヘンフリイは、 「おれもおどろいたぜ。おかみさんが客間《きゃくま》の時計《とけい》をなおしてくれっていうんで、いっしょに客間にはいったらさ、顔じゅうほうたいだらけの、色眼鏡《いろめがね》をかけて、おっそろしく口の大きな、へんな顔の客がいるじゃねえか。おどろいたの、なんのって……おったまげたよ」  ホールはおどろいて、口をぽかんとあけてきいていた。それをみると、ヘンフリイはますます熱心《ねっしん》に、客のようすをしゃべりたてた。 「あれはおめえ、よくねえやつかもしれねえぞ。じぶんでは科学者《かがくしゃ》だなんて言ってるが……どうだか、わかったものじゃねえ。あいつは、変装《へんそう》してるのかもしれないぜ。どこかで悪事《あくじ》を働《はたら》いて、それをかくすために、ああいうかっこうをして、なるべく人を近よせないでおくつもりかもしれないね」 「うちのやつは知ってるのかね?」  ホールが、心ぼそそうな声をだした。 「もちろんだよ。おかみさんもおかみさんだよ。なんだって、あんな男をとめる気になったんだろう? おれが宿屋《やどや》のあるじなら、相手の顔をよくよくながめ、名まえをたしかめてから、泊《と》めるか、泊めないか決めるね。女ってものは、よそものっていうと、とかく信用《しんよう》しがちなものさね。まして科学者《かがくしゃ》なんていうと、なおさら信用《しんよう》するがね。部屋《へや》をかりて、名まえを言わねえような男は、ろくな人間《にんげん》じゃねえやね」  人がいいばかりで、頭の働《はたら》きのにぶいホールは、ぼんやりと、 「そう言うもんかね」 「あたりまえだよ。しかし、おかみさんは、一|週間《しゅうかん》のけい約《やく》をむすんでしまったんだ。いまさら、あいつがどんな悪者《わるもの》だったとしても、一週間のあいだは追いだすことはできないんだ。あすになると、あいつのいう実験道具《じっけんどうぐ》とやらが、どっさりはこびこまれるらしいぜ。なんの実験《じっけん》をするつもりだかわからないがね」 「ふうん」  ホールは、心配《しんぱい》そうに考えこんでしまった。ヘンフリイは、なおもくどくどと、 「用心《ようじん》したほうがいいぜ。おれのおばさんもね、ヘイスティングズでやはり宿屋《やどや》をやっているがね。見なれぬ客がえらく大きなりっぱなかばんをさげてきたのをみて、すっかり信用してしまったのさ。ところがそのかばんは中がからっぼで、それに気づいたときは、たくさんの宿料《やどりょう》をふみたおされて、逃《に》げられたあとだったんだ。おめえたちも、怪《あや》しい客《きゃく》には、よくよく気をつけたほうがいいぜ」 「ありがとう、ヘンフリイ。こいつはどうも、うちのやつにちょっくら、言ってきかせなくてはなるまい。これから大いそぎで帰ろう」  すっかり不安になった黒馬旅館《くろうまりょかん》の主人《しゅじん》ホールは、馬にひとむちあてると、いちもくさんに家へむかって走った。  いきおいこんだホールが家にとびこむと、 「おまえさん! いつまで外をうろうろしてたんだい? また油《あぶら》を売ってたね。そうでなくて、こんなにながく時間がかかるはずがないじゃないの!」  ホール夫人《ふじん》のがみがみとどなりつける声がとんできた。 「なに……それが、あの……その」 と、いままでの元気はどこへやら、ホールは叱《しか》られた猫《ねこ》のようにいくじなくちぢまって、しばらくたってから、やっとこさで、 「おまえ、新しいお客《きゃく》があったってね。いったいどんな方だい?」 と、おずおずしながら聞いた。 「だれに聞いたの? ヘンフリイがおしゃべりしたのね。どんな方って……りっぱな方よ。あなたになんか、あの方のことを話したってわかりゃしないわ。科学者《かがくしゃ》なんですって」  それからあとは、いくらホールが聞いても、気のないへんじをしてごまかしてしまった。 (ちえっ、あいつ、おれにかくしだてをする気だな。いいよ。おれはじぶんの目で、そのへんな客《きゃく》ってやつを見てやるから――)  ホールは、おかみさんにいくら聞いても、それいじょうは話さないとわかると、だまって決心《けっしん》をした。  九時半になった。怪《あや》しい客《きゃく》も眠《ねむ》りこんだらしく、黒馬旅館《くろうまりょかん》は物音《ものおと》ひとつしなくなった。 「やつも眠《ねむ》ったらしいね。どれ、ひとつ、どんなやつだかしらべてこよう」  ホールは立ちあがり、足音《あしおと》をしのばせると、むこう見ずにも、客間《きゃくま》にそろそろとしのびこんでいった。思ったとおり、客《きゃく》は、ふかぶかとベッドにもぐりこんで眠《ねむ》っていた。  ホールは、きょろきょろとあたりを見まわし、机《つくえ》のうえいっぱいに、むずかしそうなこまかい数字《すうじ》をかきこんだ紙《かみ》が散《ち》らばっているのをみると、ばかにしたようすで、 「ふふうん!」 と、鼻《はな》のさきでせせら笑って、ひきあげた。  お人よしのホールは数字《すうじ》をかきこんだ紙を見ただけで、このへんな客《きゃく》が、おかみさんの言うとおり、学者《がくしゃ》なのだと思いこみ、すっかり安心してしまったのである。  一方、おかみさんは、主人《しゅじん》にむかっては、きっぱりと強がりを言ったものの、内心《ないしん》はやはり、客《きゃく》のことが気になってしかたがなかった。  ベッドにはいってからも、夜っぴて大きなかぶらのようにまっ白な、ぶきみな顔に追いかけられる夢《ゆめ》をみて、うなされつづけた。 [#7字下げ]ちょっとした事件《じけん》[#「ちょっとした事件」は中見出し] 「おはようございます。荷物《にもつ》を持ってあがりました」  馬車屋《ばしゃや》のフィアレンサイドが、つぎの朝はやく元気のいい声をひびかせて、馬車《ばしゃ》をひき、黒馬旅館《くろうまりょかん》にやってきた。  寝《ね》ぶそくらしく、はれぼったい目をしたおかみさんが、主人《しゅじん》のホールといっしょにでてきた。 「ごくろうさま」 「きょうは、きのうの雪《ゆき》のために、道がひどいぬかるみになっていて、えらい難儀《なんぎ》でしたよ」  フィアレンサイドが、二人の顔をみるなりこぼした。が、二人は、かれの言葉《ことば》などまるで耳にはいらぬようすで、馬車《ばしゃ》につまれている、ふうがわりな荷物《にもつ》に見とれていた。  ふつうの人間《にんげん》の持物《もちもの》らしいのは、トランクだけだった。トランクは二個あった。そのほかの荷物《にもつ》ときたら、何《なん》ともいえずふうがわりなのだ。なにをつめてあるのか、中の物がこわれぬように麦《むぎ》わらをぎゅうぎゅう間《あいだ》につめこんだ籠《かご》が十二、三|個《こ》。それにぶあつな本をおしこんだ箱《はこ》が数えきれないほど、そのほかにもえたいのしれぬ荷物《にもつ》が山とつまれている。  ホールは馬車《ばしゃ》に近より、籠《かご》の中に手をつっこみ、詰物《つめもの》の麦《むぎ》わらをかきわけてさぐった。  中は、ガラスびんらしい。おかみさんは、客をよびにいった。 「荷物《にもつ》がきたんだって?」  男はうれしそうに、声をあげてとんできた。みるとおどろいたことに、男は、へや着《ぎ》のうえから、オーバーを着、帽子《ぼうし》をかぶり、手ぶくろをはめ、ごていねいにえりまきまでしっかりと身につけていた。  フィアレンサイドもホールも、男の身じたくが、あんまりものものしいのに、あっけにとられて、ぼんやりとかれの顔を見ていた。男は、せきこんで、 「ずいぶん待たされたよ。さっそく運《はこ》びこんでくれたまえ」  言いながら、待《ま》ちきれないように、荷馬車《にばしゃ》のうしろにまわり、籠《かご》のひとつに手をかけようとした。  そのとき、フィアレンサイドがつれてきていた犬《いぬ》が、とつぜん、かれの姿《すがた》をみて、毛をさかだて、ものすごいうなり声をあげた。  男は、気にもせず、 「いいかい、どれもだいじなものだから、気をつけて運んでくれたまえよ」 と、いいつけ、玄関《げんかん》の石段《いしだん》をあがりかけた。とたんに、犬《いぬ》はひときわ高くうなり声をあげ、ぱっと男の手にかみついた。 「うわっ!」  男は、大声をあげた。びっくりしたホールとフィアレンサイドは、 「こらっ、こいつめ! なにをするのだっ」 と、あわててどなりつけ、フィアレンサイドは犬《いぬ》をぶちのめそうと、むちをふりまわした。  そのとき、男は、目にもとまらぬす早さで、ぱっと力まかせに犬《いぬ》をけとばした。  ふいをくらった犬《いぬ》は、よろよろとよろめいたが、こんどは、猛然《もうぜん》とうなり声《ごえ》をあげ、もう一度男におそいかかったとみるや、その足に、がぶりっとかみついた。  びりびりと、ズボンがさける音がした。 「ひゃあっ!」  とびあがったフィアレンサイドが、 「こんちくしょうめ、こんちくしょうめ」 と、さけびながら、こんどこそ、したたか犬《いぬ》をたたきのめした。  きゃんきゃんと犬《いぬ》は悲鳴《ひめい》をあげ、車の輪《わ》のあいだに逃《に》げこみ、小さくなった。  すべてが、あっという間のできごとだった。  気まずい空気《くうき》がみんなのあいだに流《なが》れた。男は、かみさかれた手袋《てぶくろ》とズボンのすそを、しゃがみこんでしらべていたが、そのままくるりとむきをかえ、いちもくさんに旅館《りょかん》の中にかけこみ、足音《あしおと》もあらく、じぶんの部屋《へや》にはいってしまった。  フィアレンサイドは、やっと我《われ》にかえった顔つきで、 「でてこい! わるいやつだ。とんだいたずらをしくさって。お客《きゃく》さまのズボンをかみやぶったではねえか……」  そして車の輪《わ》のあいだから、おく病《びょう》そうにこちらをうかがっている犬に、むちをふりまわしてみせた。  ホールは、まだ、ぼんやりとつっ立っていた。フィアレンサイドが浮《う》かぬ顔で、 「ホール、あのお客《きゃく》さまにけがはなかっただろうかね?」 「ひどくかみつかれなさったようだったけど、おれ、ちょっと、部屋《へや》へいって、ようすをうかがってこよう」  ホールは、あたふたとかけだした。廊下《ろうか》までくると、これも浮《う》かない顔で歩いてくるおかみさんにばったりとあった。 「フィアレンサイドの犬《いぬ》が、お客《きゃく》さまの手と足にかみついたんだ」  ホールはせきこんで、眉《まゆ》をしかめながら言った。が、おかみさんは、ちょっと、うなずいたきり、足もとめないですれちがってしまった。  客《きゃく》の部屋《へや》のドアは、ひらいたままだった。 「お客さま、おけがはありませんでしたか?」  ホールは、声をかけ、なにげなく部屋《へや》にはいろうとした。  窓のカーテンはすっかりおろされ、部屋の中はうす暗《ぐら》かった。その中に手首《てくび》からさきのない腕《うで》が、にゅっとかれのほうにつきだされ、のっぺらぼうのまっ白な大きな顔が、うす青い三つの深《ふか》い穴《あな》をあけて、空中《くうちゅう》に浮《う》いていた。  あっと思うひまもなく、ホールは、なにものともしれぬ強《つよ》い力に、どんと胸《むね》をつかれ、ひとおしに廊下《ろうか》につきだされてしまった。 「うわあっ!」  よろめきながら、ホールがさけぶと、その目のまえに、ドアがばたんと音をたててしまった。  ホールは、しばらく、ドアを見つめて、ぼんやり考えこんでいた。 「これは、いったい、どうしたってことなんだ。どこのどいつがおれの胸《むね》をついて、廊下《ろうか》にほうりだしやがったというのだ……」  さっぱりわけがわからない。  いっぽう、宿屋《やどや》のまえは、ものめずらしげにあつまってきた村の人びとで、黒山《くろやま》の人だかりになっている。  フィアレンサイドは、その人たちを相手《あいて》に、さっきのできごとを、くりかえしくりかえし話していた。 「おれがとめるひまもないほどのすばやさで、こいつは、がぶりとお客《きゃく》さまの足にかみついたんだ。へいぜいおとなしいやつだのに、どうしてあんならんぼうなことをやったのか、さっぱりわからねえ」  フィアレンサイドは頭をふりふり、いく度《たび》も言った。 「だけどさ、ふしぎじゃないかねえ。ただ立っているだけの人に、なんだってかみついたのかしら?」  話をきいていたおかみさんのひとりが、口をはさんだ。雑貨屋《ざっかや》のハクスターがもっともらしいようすで、 「そうだよ、われわれがここに立っていても、こいつはかみつかないのにさ」 「だけど、もとはって言えば、フィアレンサイドがこんなろくでなしの犬《いぬ》をかっているのが、大さわぎをおこすもとなんだよ」  また、ほかのひとりがいった。  ひとりがだまれば、ひとりがしゃべり、旅館《りょかん》のまえはたいへんなさわぎだった。  このさわぎの中に、ホールは魂《たましい》をなくした人間《にんげん》のように、ぼうっとしていた。  目ざとく見つけたおかみさんは、 「おまえさん、どうしたの? なにかあったのかい?」 「いいや、なんでもねえ」  ホールはうつろな目《め》で、集《あつ》まってきた人たちを見ていた。 [#7字下げ]その荷物《にもつ》は?[#「その荷物は?」は中見出し]  おしゃべりに夢中《むちゅう》になっていた村人たちは、その男がいつのまにか、その部屋《へや》から玄関《げんかん》にでてきていたのに、いっこうに気づかなかった。 「う、うう、わんわん!」  車のかげに小さくなっていたフィアレンサイドの犬が、きゅうにはげしくほえたてた。 「あっ!」  思わずふりかえった人びとは、玄関《げんかん》に不気味《ぶきみ》な人かげをみて、ぎょっと顔色《かおいろ》をかえた。  そのとたん、 「馬車屋《ばしゃや》、なにをぐずぐずしているんだ! はやく荷物《にもつ》をはこべ!」  すご味《み》のあるどなり声が、あたりをふるわせてひびいた。  フィアレンサイドが、びくっと飛《と》びあがり、ホール夫人《ふじん》は棒立《ぼうだ》ちになった。  村人は、くものこをちらすように、後もみずにちっていった。  馬車屋《ばしゃや》は、しばらくためらっていたが、勇気《ゆうき》をふるって男に近より、 「だんなさま。あいすみませんことで……おけがはありませんですか? なんとも、はや、申しわけありません」  ぺこぺことわびた。男は、じろりと馬車屋《ばしゃや》をにらみ、 「けがなんかせんよ。かすり傷《きず》ひとつしてないんだ。それより早く荷物《にもつ》をはこべ」 と、おうへいな態度《たいど》で言った。  馬車屋《ばしゃや》とホールの手で、荷物《にもつ》は男の部屋《へや》にはこびこまれた。  男はすぐさま荷物をほどきにかかった。じれったそうに、間《あいだ》につめた麦《むぎ》わらをほうりだし、中のガラスびんをひとつずつ、だいじそうにとりだした。どのびんにも液体《えきたい》や粉末《ふんまつ》がつまっている。  男は、おびただしい数《かず》のガラスびんをとりだすと、こんどは試験管《しけんかん》をとりだした。  つぎに、はかり、そのつぎは、えたいのしれぬ機械《きかい》だった。 「やれやれ、これですっかりとりだしたぞ。ぶじに荷物《にもつ》がとどいてなによりだ。うすのろの馬車屋《ばしゃや》め、おれのだいじな荷物《にもつ》をだいなしにしないかと、はらはらしたよ」  男は、ほっとしたようにつぶやき、麦《むぎ》わらや空籠《あきかご》、空箱《あきばこ》で、すっかり部屋《へや》が汚《よご》れてしまったのも、気かつかぬようだった。 「さあ、さっそく、とりかかろう」  男は、息《いき》をつくひまもなく、窓《まど》のちかくに機械《きかい》をならべ、実験《じっけん》にとりかかった。  いつのまにやら、暖炉《だんろ》の火はきえ、底《そこ》びえのする寒《さむ》さがしんしんとせまっていた。  しかし、男は暖炉《だんろ》の火が消えたことなど、これっぽっちも気にしていなかった。  試験管《しけんかん》をならべ、毒薬《どくやく》とかかれた茶色《ちゃいろ》のびんをとりあげると、試験管の中に、たらたらと、三、四|滴《てき》の液《えき》をたらしこんだ。  こんどは、それを火にかけ、また、ほかの薬品《やくひん》のふたをとった。  男は、ながい間、こうしてなにもかもわすれ、ただ実験《じっけん》にねっちゅうしていた。  時はすぎ、いつのまにか、昼《ひる》がきていた。ドアをたたく、かるい音がひびいた。  男はすこしも気づかない。おかみさんが、昼の食事《しょくじ》をはこんできたのだった。  ドアをたたく音は、しばらくつづいていた。男は、むちゅうで試験管《しけんかん》をふっていた。  たまりかねたおかみさんは、とうとう、だまってはいってきた。 「まあ! これは……」  ひと足ふみこんだおかみさんは、たちまちしかめっ面《つら》になって、ふきげんな声をはりあげた。  部屋《へや》がだいなしになっている。わらくずがちらかり、古《ふる》トランクがなげだされ、空籠《あきかご》がほうりだされてある。  おかみさんはいきなり、腹《はら》だちまぎれに、テーブルの上の麦わらを手荒くほうりだした。  がしゃんと、食事《しょくじ》の皿《そら》をその上に、音をたててなげだした。  男は、はじめて、「おやっ?」と、いうように顔をあげた。 「お食事《しょくじ》をもってまいりましたわ」  おかみさんは男をにらんで、つっけんどんに言った。  男はへんじもせず、うつむいたままで、テーブルの上においてある眼鏡《めがね》を大いそぎでとりあげてかけると、やっと、ゆっくりとおかみさんのほうにむきなおった。  男の動作《どうさ》はすばやかった。しかしおかみさんは、その間《ま》に目玉《めだま》がぬけ落ちて、ぽかりと二つの深《ふか》い穴があいているような男の顔に気づいていた。が、なにくわぬ顔でつっ立っていた。男はいたけだかに、 「この部屋《へや》に用があったら、ノックをしてからはいってもらいたいね」 「ノックはいたしましたわ。なんどもなんども。でも、だんなさまが、お気づきにならなかったんですよ」 「それはしたかもしれんさ。しかしだね。この実験《じっけん》は一|分《ぷん》もはやく完成《かんせい》させなくてはならんのだ。じゃまがはいるとひどくめいわくするんだ。ドアがあく音がするだけでも気がちってこまる。いちど言ったことは、かならず守《まも》ってもらいたいね」  おかみさんはぷんぷんして、 「わかりました。それでしたら、お部屋《へや》に鍵《かぎ》をおかけになったらいかがですか?」 「なるほど、そうだったな。では、これからは鍵をかけることにしよう」  男は、落ちつきはらってこたえた。おかみさんはなおさらいまいましそうに、 「よろしかったら、この麦《むぎ》わらを片づけましょうか? ひどくよごれて……」  男はぎろりとおかみさんをにらみ、きっぱりと、 「ふれんでもらいたいね。この麦わらであなたにひどくめいわくがかかるというのなら、その分だけ金《かね》をとってくれたまえ。えんりょなしに勘定書《かんじょうがき》につけておいてくれればいいよ」  これを聞《き》くと、いままでぷりぷり腹をたてていたおかみさんが、急《きゅう》にねこなで声で、 「それはおそれいります。どのくらいお掃除代《そうじだい》をいただけましょうか?」 「一シリングでいいだろう?」 「けっこうですわ」 「では一シリングとつけておきなさい。勘定《かんじょう》をするときにいっしょに払《はら》うから」 「ありがとうございます。ではどうぞ、お食事《しょくじ》をなさってくださいませ」  おかみさんは礼《れい》をいい、テーブルかけをひろげて、食事《しょくじ》のしたくをととのえ、逃《に》げるように部屋《へや》をでていった。台所《だいどころ》へもどりながら、 「なんておかしな人だろう。でも、掃除代《そうじだい》が一シリングならわるくないわ」 と、つぶやいた。 [#7字下げ]うわさ話《ばなし》[#「うわさ話」は中見出し]  黒馬旅館《くろうまりょかん》に平和《へいわ》はなくなってしまった。このいなかの旅館《りょかん》は、いつもひっそりと静《しず》かで、一番《いちばん》客《きゃく》のたてこむ夏の間でさえ、たいして変《か》わったことがあるわけでなく、おだやかな毎日がくりかえされていた。  ところが、奇妙《きみょう》な男がやってきてからというものは、おかみさんも主人《しゅじん》のホールもすっかり落《お》ちつきをなくしてしまい、ともすれば暗《くら》い気もちにおそわれるのだった。  男の部屋《へや》からひきとってきたおかみさんは、くるくると忙《いそが》しげに働《はたら》きつづけていたが、心の中では、ずっと男のことを考えつづけていた。  客《きゃく》の部屋は、一日中ひっそりと静かだった。  夕方、とつぜん、れいの客の部屋から、ものすごい音がひびいてきた。  がちゃーん、がちゃがちゃがちゃ!  ガラスびんや試験管《しけんかん》がぶつかりあったらしい、はげしい音だった。 「たいへんだ!」  おかみさんはひと声さけぶと、手にしていた鍋《なべ》をほうりだし、台所《だいどころ》からよこっとびにとびだしていった。  どん、どんどん……。  はげしく客《きゃく》の部屋《へや》の戸《と》をノックした。なんのこたえもない。  どーんと体《からだ》ごとぶつかってみた。しかし、ドアは内《うち》がわから、しっかりと錠《じょう》がかかっている。  こんどは、ドアにぴったりとくっつくと、じっときき耳《みみ》をたてた。  部屋《へや》の中からは、男のわめく声が聞こえてきた。 「だめだ、また失敗《しっぱい》だ。どうもうまくいかんぞ。三十万かな、いや、四十万かな、なにしろたいした数《かず》だ。おれはだまされたのかな? こんなことをやっていたら、一生かかってもできあがらないぞ、こまったなあ」  怒《いか》りと悲《かな》しみにしずんだ声だった。  それっきり、しばらく声はとぎれていたが、また、気をとりなおしたのか、 「やっぱりがまんしてつづけよう。ここで投《な》げだしては、いままでの苦心《くしん》も水の泡《あわ》だ。それにしても、こんど、あいつに会ったら、ただではすまさんぞ」  おかみさんには、なんのことかわからなかったが、いかにも意味《いみ》ありげな言葉《ことば》だった。  おかみさんは、全身《ぜんしん》を耳《みみ》にして、男の声を聞いていた。  そのとき、 「こんにちは、おかみさん。いっぱいのませておくんなせえ」  大声《おおごえ》をあげて、入口《いりぐち》の酒場《さかば》に客《きゃく》がはいってきた。 「ああ、もうすこし聞いていれば、なんのことだかわかるかもしれないのに……」  おかみさんは舌《した》うちをしながら、酒場《さかば》にでていった。  部屋《へや》のさわぎはおさまったらしく、それっきり二度とさわぎはおこらなかった。ときどき、いすがきしむかすかな音と、びんがふれあうひびきが、かすかにきこえるだけだった。  いっぽう、馬車屋《ばしゃや》のフィアレンサイドは、黒馬旅館《くろうまりょかん》にきみょうな客《きゃく》の荷物《にもつ》を運《はこ》んだ日の夜おそく、アイピング村のはずれのちいさなビヤホールで、一|杯《ぱい》かたむけながら、いつまでもいきおいこんでしゃべりつづけていた。  あいては、時計屋のテッディ・ヘンフリイともうひとりの村の男だった。 「おれはこの年になるまで、あんな変《へん》なやろうは見たことがねえよ。おれの犬《いぬ》が、あいつの足をがぶりとやったとき、おれはたしかに見たんだよ。あの男の足はまっ黒なんだ」 「ほんとうかい? 人間《にんげん》の足がまっ黒《くろ》だなんてことがあるものかなあ」 「おれの言うことをうたぐるのかい? おれはちゃんと見たんだぜ。ズボンのさけ目と手袋《てぶくろ》のやぶれたところから、はっきり黒《くろ》ん坊《ぼう》のようにまっ黒な肌《はだ》がみえたんだ。おめえなんか、どう思っていたかしらねえがね」  フィアレンサイドは、酔《よ》いのまわってきたビールのいきおいもあって、テーブルをたたきながら、がんとして言いはった。ヘンフリイはまだ半信半疑《はんしんはんぎ》で、 「だとすると、おかしいじゃないか? あいつの鼻《はな》はちゃんと白いんだぞ」 「そうだよ。おめえの言うとおり、やつの鼻は白いんだ。だからさ、おれが考えるのに、たぶんあいつの体《からだ》はあちこち色がちがうんだろう。白いところと黒いところがあってさ。まだらになってるだろうよ。だもんで、やつは恥《は》ずかしがって、あんなにえり巻《まき》やオーバーをしっかり身につけて、かくしてるんだよ」 「まるでシマ馬《うま》みたいじゃないか。白と黒のまだらだなんて、はっはっは」 「はっはっはっはっ」  三人は声をあわせて笑《わら》いころげた。いつまでたっても、かれらの話《はなし》はつきそうもなかった。 [#7字下げ]夕《ゆう》ぐれになると[#「夕ぐれになると」は中見出し]  馬車屋《ばしゃや》のフィアレンサイドと時計屋《とけいや》のヘンフリイの口から、黒馬旅館《くろうまりょかん》にとまったきみょうな客《きゃく》のことは、たちまちのうちにアイピング村にひろまっていった。  うわさはうわさを生んで、村人たちはよるとさわると男の話でもちきりだった。  しかし、村人たちはかれの姿《すがた》を見かけることは、ほとんどなかった。男はたいてい部屋《へや》にこもりきりで、いっしんに実験《じっけん》をつづけていたからだ。日曜日《にちようび》に、村の人たちがみんなそろってでかける教会《きょうかい》へもこないし、日曜だからといって、ゆっくりやすむということもなかった。  ふるくからの習慣《しゅうかん》をまもって、平和に暮《く》らしている村の人たちは、この男のやることが気まぐれで、ひどく変わっているように思えた。 「黒馬旅館《くろうまりょかん》では、よくあんな変《か》わった客《きゃく》をとまらせておくねえ。どんな考えでいるんだろう」  村人は、ホールやおかみさんのホール夫人に聞こえぬところでは、よくこんなことをささやきあった。ホールは、こんなかげ口を耳にはさむと、 「おい、どうかして、あの客《きゃく》をことわるわけにはゆかないのかい?」 と、いやな顔をしながらホール夫人に言った。かれはその客《きゃく》がきらいだった。廊下《ろうか》でばったり顔をあわせるようなことがあっても、わざとよこをむいて、虫《むし》が好《す》かないことをあからさまにしめしたりした。  おかみさんは、主人《しゅじん》が客《きゃく》のことを言いだすと、できるだけひややかな態度《たいど》をとり、いかにもりこうぶった口ぶりで、 「ただ虫《むし》がすかないからって、あんなに金《かね》ばなれのいいお客《きゃく》さんをことわる人があるものですか。夏になって絵かきさんたちが避暑《ひしょ》にくるまでは、気むずかしくても、きちんきちんとお勘定《かんじょう》を払《はら》ってくれるお客を、だいじにしなくてはね」  こういわれると、ホールはだまりこんでしまった。  ところが、金《かね》ばなれのいいはずの男も、四月にはいると、そろそろふところがさびしくなってきたようすだった。それまでは、たびたびおかみさんの顔をしかめさすようなことをしでかしても、そのたびに、さっさとよぶんのお金をはらって、ホール夫人に叱言《こごと》をいわせるようなことはなかったが、四月になってからは、目にみえて金ばらいがわるくなってきた。  こうなると、さすがのおかみさんも、ときにはいやな顔を見せるようになってきた。  その日も、ホールとホール夫人《ふじん》がおそい昼食《ちゅうしょく》をとっていると、その部屋《へや》からいらいらと歩きまわる客《きゃく》の足音《あしおと》がひびき、そのうちにはげしい怒《いか》り声《こえ》とともに、壁《かべ》になにかをぶつけるけたたましい音がきこえてきた。 「おい、またはじまったじゃないか。いまにあの部屋《へや》はめちゃめちゃになって使いものにならなくなるぞ。おれがいったように、あんなえたいのしれないやつは、早く追いだしてしまったほうがよかったんだ」  ホールがおかみさんにむかって言った。 「うるさいねえ。なにかって言えば、つべこべとうるさいことばかり」  おかみさんは高びしゃに言った。しかし、ホールも負けてはいなかった。 「なんだい、あんなへんな客《きゃく》を泊《と》めるくらいなら、いっそ化物《ばけもの》でもとめたほうが気がきいてるよ。まだ夜もあけないうちから起きだして、いそがしそうに動きまわるかと思うと、昼《ひる》すぎてやっとベッドをはなれて、ゆっくりたばこをすいながら、なん時間ものこのこと部屋を歩きまわっている。ときによると一|日中《にちじゅう》なんにもしないで、暖炉《だんろ》のまえでいねむりばかりしているときもあるじゃないか。ことに、このごろのいらいらしてるようすときたら、ただじゃないよ。とんでもないことをしでかさないうちに、でていってもらったほうがいいぜ」  二人のあらそいはいつまでたってもおわりそうもなかった。ことに客《きゃく》の金《かね》ばらいがわるくなってからは、よけいにホールが、おかみさんにしつこくいや味《み》をいいはじめた。  さわぎは黒馬旅館《くろうまりょかん》の中だけではなかった。このごろアイピング村では、日が暮れるがはやいか人びとは、しっかりと戸口《とぐち》の錠《じょう》をかけ、いつまでも寝《ね》ないでいる子どもにむかって、 「いつまでも寝ないでいると、黒馬旅館《くろうまりょかん》のこわい男がやってくるぞ」 というのだった。村人《むらびと》たちは夕ぐれ時、頭から手の先まですっかりつつみこんだかっこうで、人通《ひとどお》りの少ないうら道とか、木のしげりあった暗《くら》いじめじめした場所を散歩《さんぽ》しているれいの男にでくわすと、子どもだけでなく大人《おとな》でさえ、ひやっと背《せ》すじにつめたい水を浴《あ》びせかけられたような気分《きぶん》になった。 [#4字下げ]怪《あや》しい客《きゃく》の正体《しょうたい》[#「怪しい客の正体」は大見出し] [#7字下げ]牧師《ぼくし》の家の怪盗《かいとう》[#「牧師の家の怪盗」は中見出し]  四月になった、とある日、とうとうたいへんな事件《じけん》が持ちあがってしまった。  事件《じけん》というのは、牧師館《ぼくしかん》に気味《きみ》のわるいどろぼうがはいったことなのだ。  夜あけもまぢかな、人の寝《ね》しずまったしずかな時間《じかん》だった。 「おやっ?」  牧師《ぼくし》の夫人《ふじん》は、そっとベッドに起きあがり、耳をすませた。じぶんのねむっている部屋《へや》のドアが一度あいて、またしまる音を聞いたような気がしたのである。  しかし部屋《へや》には、なんのかわりもない。気のまよいかなと、夫人《ふじん》がよこになりかけると、となりの部屋《へや》から、ぱたぱたと、はだしで歩く足音《あしおと》がはっきりときこえた。 「あなた」  夫人《ふじん》は、ふるえながら牧師《ぼくし》をゆり起こした。 「どろぼうよ。ほら足音《あしおと》が……ね、階段をおりていったでしょう」  牧師《ぼくし》は、夫人《ふじん》の言うとおりに、はっきり足音がしているのをきくと、さっとガウンをはおりスリッパをつっかけて部屋《へや》をでた。  下のへやから、ごとごとと机《つくえ》のひきだしをあける音がする。 「ほら」  つづいてでてきた夫人《ふじん》が、そっとひじをつついた。 「よし」  牧師《ぼくし》は、大またに寝室《しんしつ》へひっかえすと、やにわに、すみっこにおいてあった火《ひ》かき棒《ぼう》をにぎりしめ、足音をしのばせて、音のするほうへとおりていった。  階段《かいだん》の中《なか》ほどまでおりたとき、 「くっしゃん!」 と、大きなくしゃみの音が、あたりのしずけさをやぶってひびいた。びくっと、牧師《ぼくし》はたちどまった。それっきり音はやんだ。牧師《ぼくし》は、またそろそろとおりていった。 「書斎《しょさい》だな」  牧師《ぼくし》は、かたくくちびるをかみしめて、机《つくえ》をかきまわすひくい音のきこえている書斎へ、ひと足ずつ近づいていった。  書斎《しょさい》のドアは、ほんのすこしひらいている。まっさおな顔でついてきた夫人《ふじん》をうしろにかばいながら、牧師《ぼくし》は、そっとのぞきこんだ。 「ちくしょうめ! どこへしまってやがるんだろう」  口ぎたなくののしる声といっしょに、ぼーっとマッチのもえる音がして、黄色《きいろ》なろうそくの光がゆらいだ。 「おお、ここだ! こんなところへかくしていたんだな」  どろぼうは喜《よろこ》びの声をあげ、金貨《きんか》をちゃらちゃらとならした。 「うぬっ!」  牧師《ぼくし》は、火《ひ》かき棒《ぼう》をにぎりしめた。  どろぼうのやつは、とうとう牧師《ぼくし》がだいじにためていた金貨《きんか》を見つけたらしい。 「あれを盗《ぬす》まれてはたまるものか。わしがながい間かかって、やっと二ポンド十シリングためたんだぞ」  もう、ためらうひまはない。牧師《ぼくし》は、 「このやろう!」  どなるといっしょに、ドアをけとばして、おどりこんだ。 「あっ!」  いると思ったどろぼうの姿《すがた》は、どこにも見えない。どこへもぐったというのだろう。ただ机《つくえ》の上にともされたろうそくの灯《ひ》が、ゆらゆらとゆれているばかりだった。  二人は、ぽかんと顔を見あわせた。 「たしかにここにいましたよ」  夫人《ふじん》が言った。牧師《ぼくし》は机《つくえ》の下をのぞきこんだ。夫人はカーテンのかげをさがした。  そのとき、かすかに部屋《へや》の空気《くうき》がゆれて、だれかが部屋《へや》をでてゆくけはいがした。  が、やはりだれもいないのだ。 「金貨《きんか》はなくなっていますよ」  夫人《ふじん》がさけんだ。 「うん、ろうそくだってともっている。だれかがこの部屋にいたことはたしかだよ」 「こんなおかしなことって、あるものでしょうか?」  夫人は歯《は》をがちがちいわせて、ふるえていた。  と、またもや、廊下《ろうか》で大きなくしゃみがきこえた。 「いるぞ」  牧師《ぼくし》は、はじかれたように廊下《ろうか》にとびだした。あらあらしい足音《あしおと》は廊下《ろうか》をかけぬけ、台所《だいどころ》のうら口のかんぬきを、らんぼうにひきあけているらしい。  牧師が台所《だいどころ》にとびこんだしゅんかん、戸はあけられ、かすかな人のけはいが外へむかってかけだしたようだった。しかし、牧師の目には、やはりなにも見えなかった。  牧師《ぼくし》と夫人《ふじん》は、まっさおな顔を見あわしたまま、いつまでもいつまでも、じっと立っていた。  姿《すがた》のないどろぼうが牧師館《ぼくしかん》におしいったといううわさは、その日のうちに、アイピング村じゅうにひろまっていった。 [#7字下げ]家具《かぐ》がおどる[#「家具がおどる」は中見出し]  牧師館《ぼくしかん》が姿《すがた》のないどろぼうにひっかきまわされていたころ、黒馬旅館《くろうまりょかん》の女あるじホール夫人《ふじん》は、 「おまえさん、起きてくださいよ。ぐずぐずしていてはこまりますよ」  さかんに亭主《ていしゅ》のホールをたたき起こしていた。二人は、お手伝いのミリーよりも早く起きて、いつものように穴蔵《あなぐら》にしこんだビールにサルサ根《こん》からとった液《えき》をまぜ、いちだんと味《あじ》をよくしようというのだ。  おかみさんは、まだ寝ぼけまなこをこすっているホールをひったてて、穴蔵《あなぐら》におりていったが、 「おや、サルサ根《こん》の液《えき》のはいったびんを持ってくるのをわすれたよ。ちょいとおまえさん、大いそぎでとってきておくれよ」 「よしきた」  ホールは気がるにひきうけ、じぶんの部屋《へや》からいいつかったびんをとりだし、穴蔵《あなぐら》へゆく階段《かいだん》をかけおりようとした。 「おやっ! 玄関《げんかん》のとびらのかんぬきがはずれているぞ」  ホールはびんを片手《かたて》に、ぽかんとドアの前につったって、ゆうべたしかに玄関《げんかん》のドアはしめたはずだ、と思った。 「そうだ。おれがろうそくをもって、うちのやつが家じゅうの戸じまりをしてまわったんだから、まちがいないな。それに、はて、あの客《きゃく》の部屋《へや》の戸《と》もあいてたようだったぞ」  ホールはそのまま、おくへひっかえして、客部屋のドアをおしてみた。案《あん》のとおり、ドアは苦《く》もなくひらいた。  客《きゃく》の姿《すがた》はどこにもみえない。ベッドの中はもぬけのからで、ぬぎちらした服《ふく》があたりにちらばっている。ホールは、おかみさんのところにかけおりていった。 「おいおい、ジャニイや、ヘンフリイが言ったとおり、あの客は大悪党《だいあくとう》らしいぜ」  おかみさんは、それをきくとかんしゃくをおこしてどなった。 「なにをねぼけたことを言ってるのさ。しっかりおしよ」 「ねぼけてなんかいねえよ。客《きゃく》は部屋《へや》にいねえし、玄関《げんかん》のかんぬきははずれているんだ。が、やつの服《ふく》は部屋《へや》にほうりだしてあるんだが。とすると、はだかででかけたのかな?」 「おまえさん、それはほんとの話かい?」 「ほんとうとも……信《しん》じないなら、おまえ、じぶんの目でみてみな」  おかみさんは顔いろをかえ、とっとっと階段《かいだん》をのぼっていった。ホールはあとにつづいた。  穴蔵《あなぐら》の階段《かいだん》をのぼって一階にでたときだった。大きなくしゃみが、近くできこえた。  おかみさんはホールのくしゃみだと思い、ホールはおかみさんのだと考えて、おたがいに気にとめなかった。 「あら、ほんとにいないわ。へんだねえ、どうしたってんだろう」  おかみさんは、さっさと部屋《へや》にはいりこんで、ベッドにさわりながらさけんだ。  そのとたん、すぐうしろで、くすんくすん鼻《はな》をすする音がした。おかみさんはすこしも気づかなかった。 「おまえさん、ちょっときてごらんよ。まだ夜あけ前だってのに、このベッドは起きてから一時間もたってるように、すっかりつめたくなってるんだよ」 「どれどれ」  ホールも、おくればせに近よってきた。  このときだった。世にもふしぎな、だれに言っても信《しん》じてもらえそうもないことが、とつぜんに起こりはじめた。  まずさいしょは、ふとんがくるくるとまかれ、ぱっとベッドの外にとびだした。つぎには柱《はしら》にかかっていた帽子《ぼうし》が、きりきりとちゅうに舞《ま》って、二、三|回転《かいてん》したかと思うと、矢のようにおかみさんの顔めがけてぶつかってきた。 「ああっ!」  おかみさんが帽子《ぼうし》をさけようと、右にむいたとたん、こんどは洗面台《せんめんだい》のスポンジがとんできた。つぎはズボン、そのつぎは服《ふく》、恐怖《きょうふ》に顔をひきつらして、かの女が部屋《へや》をうろうろと逃《に》げまどうと、どこからともなく、からからとあざ笑《わら》うつめたい声がきこえてきた。  さいごに、いすがすうっと宙《ちゅう》にうかんだ。とみるまに、おかみさんめがけて、すごいいきおいで飛んできた。 「たすけてっ!」  おかみさんは悲鳴《ひめい》をあげて、にげまどった。いすはおかみさんの背中《せなか》にぴたっとくっついた。 「あれっ! たすけて、だれかきて!」  なきさけぶおかみさんを、いすはぐいぐいとおし、部屋《へや》の外につきだした。ホールは這《は》うようにして、いっしょに外にころがりでた。  ばたんと、二人のうしろでドアがいきおいよくしまった。  二人が命《いのち》からがら、台所《だいどころ》まで逃《に》げのびると、お手伝いのミリーがかけつけてきた。  やっとこさでじぶんの部屋《へや》におちついたとき、ホール夫人《ふじん》は、うわ言のように、 「ゆうれいだわ、きっとそうだ。そうでなければ、いすやズボンが、まるで生き物のようにとび歩くはずがないわ。ホール、すぐに玄関《げんかん》のかぎをかけてちょうだい。あの男が帰ってきても中へ入れないように、早く、早く」 「ジャニイ、気をしずめなさい。ほら、これをぐっとひと口のんでごらん。ずっと気分《きぶん》がしずまるから」  ホールがうろうろしながら、気つけ薬《ぐすり》をおかみさんの口におしあてた。 「へんだ、へんだと思っていたんだけど……やっぱりあの男はわるい魔法《まほう》をつかうんだわ。おっかさんの代《だい》からのだいじな家具《かぐ》に、悪霊《あくりょう》をふきこんだんだわ。でなければ、いつもおっかさんが腰《こし》かけていた、あのなつかしいいすが、わたしに飛びかかってくるはずがないわ」 「さあ、ジャニイ、もうひと口飲みなよ。おまえはえらくこうふんしてるよ」  ホールが一|心《しん》になだめた。  やがて夜がすっかり明けはなれ、明るい太陽《たいよう》の光がまばゆくかがやきはじめると、黒馬旅館《くろうまりょかん》には、鍛冶屋《かじや》のウォッジャーズ、雑貨屋《ざっかや》のハクスターがよび集められた。  しかし、だれひとり、この奇怪《きかい》な話をきいて、これからどうすればいいか、はっきりと言える者はいなかった。  相談《そうだん》はおなじところをめぐって、いつまでたってもらちがあかない。  ついに、ウォッジャーズがホールにむかって、 「これはやはり、おまえが客人《きゃくじん》の部屋《へや》にいって、どういうわけでこんな奇怪《きかい》なことが起こったのか、よくよくわけをきかしてもらってくるのが、いちばんいい方法《ほうほう》じゃないかね」 と言いだした。これには、すぐにみんながさんせいして、お人よしのホールは、のこのこと客《きゃく》の部屋《へや》にでかけていった。 「お客さま、ちょっとうかがわせておもらい申《もう》してえだが――」  ホールがまのびした声をかけた、とたん、 「うるさい、でてゆけ!」  すさまじい声といっしょに、ホールは胸《むね》ぐらをどーんとつかれて、ばったりたおれた。 [#7字下げ]魔術師《まじゅつし》か?[#「魔術師か?」は中見出し]  り、りりりーん! もうれつな勢《いきお》いでベルがなった。  これで三|度目《どめ》だ。あの化けものの客部屋《きゃくべや》からである。 「なんどでもならすがいいわ。だれがいってやるもんか。あんな男は悪魔《あくま》に食われて死んでしまえばいいんだ」  おかみさんは、長いすによこになったきり、にくにくしそうに言って、起きあがろうともしない。  あれっきり客《きゃく》の部屋《へや》にはよりつく人もない。おかみさんは朝食《ちょうしょく》をもってゆかなかった。きっと客は、腹《はら》をすかせて弱《よわ》りきっているのだろう。  昼《ひる》ちかくになると、おかみさんはいいにおいをたてて、じゅうじゅうと肉《にく》をやきはじめた。  たまりかねた男は、台所《だいどころ》の戸口《とぐち》にたって、 「おかみさんはいないかね? すぐに、へやへきてくれ」  はや口に言って、姿《すがた》をけした。 「ふん、お呼びかね」  おかみさんはうしろ姿《すがた》に毒《どく》づきながら、ちょっと考えて、勘定書《かんじょうがき》をひょいと盆《ぼん》の上にのせ、客《きゃく》のへやにはいっていった。 「お勘定《かんじょう》でございますか?」  盆《ぼん》をつきつけながら、おかみさんはすまして言った。 「なにを言ってるんだ。だれが勘定だといった。ぼくはまだ朝食もくってないんだぜ。なぜ、ぼくの食事《しょくじ》の支度《したく》をしてくれないんだ。ベルをならしても知らんぷりだ。ぼくは仙人《せんにん》じゃないぞ。飯《めし》もくわずに生きていられるか」 「おやおや、お食事《しょくじ》のさいそくでございますか? では、わたくしにもさいそくさせてくださいませ。お勘定《かんじょう》をしていただきたいんです」 「三日まえに言っただろう。まだ金《かね》を送ってこないんだよ」 「あたしは二日まえに、ちゃんと申《もう》したはずですわ。これいじょうお金を送ってくるのなんか待《ま》っていられないんです。あなたさまは朝の食事がほんのすこしおくれたからって、がみがみとお叱《しか》りになりますが、あたしどもはもう、五日もお勘定《かんじょう》をまっておりますよ」 「な、なにを言うんだ。人をぺこぺこの空《す》きっ腹《ぱら》にさせておいて……け、けしからん。じつにけしからん」 「けしからんのは、そちらですよ。食事のさいそくをなさるくらいなら、さっさとお勘定《かんじょう》をはらってからにしていただきたいですね。わたしのほうが、よっぽどさいそくしたいですよ」  この言葉《ことば》は、さすがに男の心にぐさりとつきささったらしい。男はにわかにおとなしくなり、 「まあ、そう腹をたてないでくれたまえ。じつは、ないと思った金が、おもいがけなくポケットの中にすこしばかり残っていたんだ」 「ええっ!」  とたんにおかみさんの頭に、さっき村の人がかけこんで話したばかりの牧師館《ぼくしかん》のどろぼうのことが、さっと頭にひらめいた。なんとなく思いあたるものがあった。  そこで、ずばりとたずねた。 「お金があったんですって? いったい、どこで手にお入れになったのかしら……」  みるみる男のようすがおちつきを失《うしな》い、はげしい怒《いか》りにぶるぶるふるえ、じだんだをふんでどなった。 「なにをぬかす。失礼《しつれい》なやつめ!」  おかみさんはすこしもひるまず、 「ちっとも失礼じゃございませんわ。お勘定《かんじょう》をいただくにしろ、朝の食事《しょくじ》を用意《ようい》しますにしろ、そのまえにぜひともはっきりうかがっておきたいことがございます。お客《きゃく》さまは、いったいどうやって、いすに魔法《まほう》をかけてあやつり、いつのまに部屋《へや》からぬけだし、また、いつお帰《かえ》りになったのですか? なんのことわりもなく、空気《くうき》のように、かって気ままに出入りなさってはめいわくでございますよ。それに――」  男は、 「うるさい、やめろ、やめろ!」  ものすごいけんまくでどなりちらし、足をふみならした。 「ようし、きさまたちがそんな料《りょう》けんなら考えがあるぞ。おれがどんな人間《にんげん》か、おまえらにわかるはずはないんだ。が、知りたければ知らせてやろう。見ておくがいい!」 [#7字下げ]恐怖《きょうふ》の一瞬《いっしゅん》[#「恐怖の一瞬」は中見出し]  怒《いか》りくるった男は、ついにじぶんから正体《しょうたい》をあらわしたのだった。 「見よ!」  男は手袋《てぶくろ》をはめた手をふりまわし、 「おれがどんな人間《にんげん》か知りたければしらせてやろう。よく見ておけ!」  そのすさまじさに、おかみさんはちぢみあがってしまった。  男は、ぱっと手をひろげると、つるりとひとなで顔《かお》をなでおろした。  すると、顔のまん中に、ぽかりと穴《あな》があいた。 「さあ」  男は手ににぎったものを、おかみさんの手のなかにおしつけた。  みるまに変わってしまった男の顔に、どぎもをぬかれてしまったおかみさんは、男のわたすものを、ひょいとうけとった。  が、ひと目みるなり、かなきり声をあげてほうりだしてしまった。  鼻《はな》だ! たったいままで男の顔にくっついていた鼻なのである。  ピンク色に光った鼻は、ごろごろと床《ゆか》をころがっていった。 「だれかきて!」  おかみさんの必死《ひっし》のさけびに、ホールや酒場《さかば》にいた男の連中《れんちゅう》がどやどやとかけつけてきた。  男は、その連中のまえで、ゆうゆうと眼鏡《めがね》をはずし、帽子《ぼうし》をとった。  かけつけた連中は、立ちすくんで息《いき》をのみ、男のやることをながめているばかりだった。  こんどは、ほうたいをぐるぐるほどきはじめた。  人びとは、ほうたいの下から、どんなおそろしい顔があらわれるのか、と考えただけでも、おそろしさにぞっとして、じっとしていられなくなった。うき足だったひとりが、 「こいつあたいへんだ!」  大声をあげると、わっとばかり、ひとりのこらず逃《に》げだしてしまった。  ホール夫人だけは、足がすくんで、その場にとりのこされていた。  男の顔から、ほうたいがつぎつぎととられてゆくにつれて、どうしたというのだろう?――  そのあとには、なにもなくなってしまったのである。考えていたような恐ろしい顔も、みにくい顔もあらわれてはこずに、男の顔はかき消え、首《くび》なしの怪人《かいじん》がそこにつっ立っていた。  首なしの化《ば》けものは、そのまま、玄関《げんかん》にかけだしていった。  入口の酒場《さかば》により集まって、がやがやとさわいでいた村の連中に、ホール、それからお手伝《てつだ》いのミリーがけたたましい悲鳴《ひめい》をあげて、玄関《げんかん》のとびらをおしあけて、こぼれ落《お》ちるようにわっと外へとびだした。  それからあとのさわぎは、お話するまでもなかった。  人びとは遠《とお》まきに黒馬旅館《くろうまりょかん》をとりかこんで、 「頭がねえそうだよ。ほんとにねえんだ。帽子《ぼうし》をとって、ほうたいをはずしたら、その下にあるはずの頭がなかったってんだ」 「ばかを言え。そんなことがあるはずがねえよ」 「ほんとだってば、おや、巡査《じゅんさ》のジャッファーズがきたよ。化《ば》けものをつかまえにきたんだ」  旅館《りょかん》をとりかこんでいた人びとは、わっと巡査をとりかこんで、おもい思いにしゃべりたてた。巡査《じゅんさ》は、いばって、 「頭があろうがなかろうが、わしはやつをつかまえなければならん」 「そうです、そうです。お巡《まわ》りさん、さあ、つかめえてくだせえ」  ホールは、まっすぐに玄関《げんかん》にすすみ、入口のドアをいきおいよくあけた。  ジャッファーズは、えらい元気でとびこんでいった。  旅館《りょかん》のうす暗《くら》い台所《だいどころ》のすみに、首のない人間《にんげん》が、片手にかじりかけのパン、片手にチーズの大きな切れをもってたっている。 「あれですっ!」  ホールがさけんだ。 「なんだ、きさまたち! なにしにはいってきやがった」  首《くび》なしの化物《ばけもの》の、首《くび》のあたりと思われるあたりから、怒《おこ》った声がきこえてきた。 「ほほう、ずいぶん変わったやつだな。しかし首があろうがなかろうが、わしは逮捕状《たいほじょう》をもってきてるんだから、からだだけでもつかまえていくぞ」  巡査《じゅんさ》は、ぱっと男めがけてとびかかった。男はさっとうしろにとびさがり、パンとチーズを巡査《じゅんさ》めがけてなげつけた。 「こんちくしょう! てむかう気か……」  巡査《じゅんさ》はまっかになって怒《おこ》った。ホールはせいいっぱい気をきかせて机《つくえ》の上のナイフをとり、ちょうど応援《おうえん》にかけつけた鍛冶屋《かじや》のウォッジャーズにわたした。  男はさわぎが大きくなったので、かんかんに腹《はら》をたてたらしく、いきなり巡査の顔をいやと言うほどなぐりつけた。 「あっ!」  ふいをうたれた巡査《じゅんさ》は、一瞬《いっしゅん》たじろいだが、猛然《もうぜん》と男にくみついていった。  けとばす、つきとばす、すごい格闘《かくとう》がはじまった。  巡査《じゅんさ》は、苦心《くしん》のすえに相手の首《くび》をしめあげた。もちろん、見えない首をしめあげるのだから、ずいぶんおかしなものだったが、巡査は一生けんめいだった。  男は苦しがって、巡査のむこうずねをけとばした。 「足をつかまえてくれ!」  巡査《じゅんさ》は、痛《いた》さをこらえてさけんだ。ホールが足をおさえにきたが、まごまごするうちに、あばら骨《ほね》のあたりを音がするくらいけとばされて、胸《むね》をおさえてしゃがみこんでしまった。  男はふいに、 「うむ!」 とさけぶと、ばか力をだして巡査《じゅんさ》をなげとばし、あべこべに巡査を下にくみしいてしまった。 「こいつはいけねえ」  巡査《じゅんさ》のはた色が悪いとみたウォッジャーズは、おく病風《びょうかぜ》にふかれて、戸口《とぐち》のほうへ逃《に》げだした。そこへ、 「おーい、たすけにきたぞ!」 と、ハクスターと馬車屋《ばしゃや》がかけこんできた。  巡査《じゅんさ》とウォッジャーズが、ほっとしたとたん、戸棚《とだな》から、がらがらとガラスびんが三つ四つころがりおち、鼻《はな》をつくいやなにおいが部屋いっぱいにひろがった。 [#7字下げ]首《くび》のない男[#「首のない男」は中見出し] 「こうさんするよ」  なにを思ったのか、巡査《じゅんさ》をおさえつけていた手をはなして、首《くび》なし男は立ちあがった。  みれば、頭ばかりか、右手も左手もなくなっている。手袋《てぶくろ》がぬげてしまったからだ。  巡査《じゅんさ》は、すばやく起きなおり、威厳《いげん》をつくろいながら、男に手錠《てじょう》をはめようとして、なさけない声を出した。 「こいつはいかん、どこへ手錠《てじょう》をはめればいいんだ、見当《けんとう》がつかんぞ」  みんなは、ぎくっとして顔を見あわせた。 「ああっ! やつは靴《くつ》をぬいだぞ、靴下《くつした》もぬいだ。あれっ! 足がない」  ホールが、とんきょうな声をあげた。  怪しい男は、うずくまって靴下《くつした》をぬいだと思うと、こんどは上着《うわぎ》をぬぎ、チョッキのボタンをはずしはじめた。  それは世《よ》にもふしぎな光景《こうけい》だった。  服《ふく》だけが宙《ちゅう》に浮かび、そして、まるで生命《せいめい》のあるもののように動いて、一枚一枚ぬぎすてられていくのだ。  人びとはあっけにとられて手も足もでず、ぼんやりとながめるばかりだった。  男は、さっさとボタンをはずし、チョッキをぽいとぬぎすてた。シャツだけになった。  そのとき、巡査《じゅんさ》があわてて大声でさけんだ。 「やめさせろ! 服をみんなぬがさせると、たいへんなことになるぞ! すっかり見えなくなって、つかまえられなくなるんだ」 「そうだ、そうだ、いまのうちにつかまえてしまえ!」  しかし、すでに男は、手ばやくなにもかもぬぎすてていたので、いまとなっては、あちこち動きまわっている白いシャツだけが、怪《あや》しい男のありかをしめしているだけになった。  シャツの袖《そで》がひるがえると、ホールの顔にものすごいげんこつがとんできた。  巡査《じゅんさ》がシャツめがけてとびついていく。ヘンフリイはうしろからせまっていったが、したたか耳たぶのあたりをなぐりつけられて、悲鳴《ひめい》をあげた。  そのうち、シャツがくねくねと気味《きみ》わるく動き、人間《にんげん》がぬぎすてるようにまるまったと思うと、ぽんと窓《まど》ぎわになげすてられて、怪《あや》しい男は完全《かんぜん》にその姿《すがた》を消《け》してしまった。  かれをつかまえる手がかりは、なんにもなくなったのである。 「気をつけろ、ドアをしめろ。外へださないようにして、なんでもいいから、手にさわったものはみんなつかまえて、なぐりつけろ!」 「ほら、いた!」 「いや、こっちだ!」  だれもかれもむやみに空間《くうかん》をなぐりつけるばかりで、なんのたしにもならなかった。 「おい、おれをなぐるとはけしからんぞ!」 「おまえをなぐったんじゃないんだよ。あいつはふわふわ浮いてたんでなぐりつけたんだが、やつめ、うまくかわしやがったらしいな。そのはずみでおまえさんをかすったんだ」  人びとは、むやみにさわぎ、へとへとにつかれてきた。  そのとき、巡査《じゅんさ》はかれとハクスターの間に動く、いようなけはいを感《かん》じた。 「やつだ!」  かれは、見当をつけてとびついた。手ごたえがあり、男のがっちりとした体《からだ》をつかまえたとたんに、首《くび》をぐいとしめあげられた。 「つかまえたぞ!」  巡査《じゅんさ》は、首《くび》をしめられて紫色《むらさきいろ》になりながら、一生けんめいにさけんだ。  男は、ひどい力で巡査をしめつけながら、しだいに玄関《げんかん》のほうにでてきた。それにつれて人びとも右に左によろめきながら外へおしだされていった。  男と巡査がもつれるように玄関《げんかん》のふみ段《だん》まできたとき、巡査はもう息《いき》もたえだえになっていた。 「えーい!」  男は、かけ声といっしょに、巡査《じゅんさ》をぶるんとふりまわして、地面になげとばした。巡査は、ひと声うめき声をあげると、その場にばったりと倒《たお》れたまま、動かなくなってしまった。 「わあっ、化《ば》けものがきたぞ! 巡査《じゅんさ》がたおされた! やられないうちに逃《に》げろ!」  村びとは後もみずに、つきあたったりつまずいたりしながら、右へ左へ、くもの子をちらすように逃《に》げていった。  人っこひとりいなくなった道に、巡査《じゅんさ》のジャッファーズだけが、気をうしなってよこたわっていた。 [#7字下げ]逃走《とうそう》[#「逃走」は中見出し]  アイピング村から二キロほどへだたったところにある丘《おか》の中腹《ちゅうふく》に、ひとりのこじきがすわっていた。  名をトーマス・マーヴェルという男で、お人よしですこしばかり頭の働《はたら》きがにぶく、ぶくぶくふとったしまりのない顔をして、頭にはおそろしく時代がかったシルクハットをちょこんとのっけていた。  かれはさっきから目のまえの草のうえに、二|足《あし》の長靴《ながぐつ》をきちんとならべて、つくづくと見いっていた。  片方《かたほう》はいままではいていた長靴《ながぐつ》で、片方はさっきもらったばかりの長靴だ。  いままでの分は、足にぴったりとしてはき心地《ごこち》はよかったが、ひどい古靴《ふるぐつ》で、雨がふると、じくじくと水がしみこんできた。  もらったばかりのほうは、古くてもなかなかりっぱな品《しな》だったが、かれの足にはすこし大きすぎた。 「どっちをはいたらいいのかな? 水のしみこむのはいやだし、だぶだぶのやつをはくのもいやだし」  トーマスは、さんさんとかがやく太陽《たいよう》の下で、いつまでも、どちらをはくか迷《まよ》いつづけて、ぼんやりと靴《くつ》をみながらすわっていた。 「どちらも長靴《ながぐつ》だが、古《ふる》ぼけてるな」  トーマスのうしろでふいに人の声がした。トーマスは、ふりかえりもせずに、 「そうなんですよ。どっちもいただきものですがね。いままでのやつは水がはいるんです。あっしは、いつも靴はこのへんでいただいておるんですよ。このあたりの人たちは、おうようで情《なさけ》ぶかいですよ」 「ばかを言え、このへんのやつらはみんないやなやつらばかりだ!」 「そうですかね。だが、わたしはそう思いませんね。この靴だっていただきましたしね」  トーマスは、こう言ってふりかえった。  ところが、どうしたわけだろう。いまのいままでしゃべっていた男が、どこにも見あたらないのだ。 「だんな、いったいどこにいらっしゃるんで?」  かれは、きょろきょろと見まわした。  風で木の枝《えだ》がゆれているばかりで、だれひとりいない。 「おやおや、おや? おれはよっぱらったのかな? それとも……」 「こわがらなくてもいいよ。おれはちゃんといるんだから」 「ひゃあ! だんな、どこにいらっしゃるんですか、こわがるなって言われたって、こわくなりますよ」 「こわがらなくてもいいと言ってるじゃないか、おちつけよ。おまえにおれの姿《すがた》がみえなくても、いることは、ちゃんとここにいるんだから」  トーマスは、あわてて丘《おか》の上をぐるぐる見まわした。どこを見ても人っこひとりいなかった。生きているものは、あたりのこずえを飛びまわっている小鳥《ことり》だけだ。 「助けてくれ! おれはどうかしてしまったよ。空から声がふってくるなんて、ただごとじゃねえや」 「おちつけ、おれは化《ば》けものじゃないよ。それに、おまえが気がちがったんでもない。おれのいうことを信用《しんよう》しろ。でないと、石をぶつけるぞ」 「だって、だんな、どこにおいでなんです?」  トーマスの声がおわるかおわらないかに、小石がひょいと地面から舞《ま》いあがったと思うと、びゅっと風をきってかれの肩をめがけてとんできた。 「ひゃあ!」  トーマスがわめいて逃《に》げだそうとしたとたん、目に見えないなにかに、どすんと力いっぱいおしとばされて、ひっくりかえってしまった。 「さあ、これでもおれのいうことを信《しん》じないか?」  トーマスは、やっとこさで起きあがると、草の上にすわりこんで、ふてくされてこたえた。 「どうでもしろ、おれにはなんのことやら、さっぱりわからねえや。ひとりでにとんでくる石だの、空中《くうちゅう》からふってくる声だの……気味《きみ》のわるいことはやめにしてもらいたいね」  すると、空中の声はやさしくなり、トーマスをなだめるように、 「おれの姿《すがた》がおまえに見えないからって、おれは怪《あや》しい人間《にんげん》ではないんだ。ただわけがあっておれの姿は空気《くうき》とおなじで、すきとおっていてだれにも見えないんだ」 「えっ、おれのことをからかわないでくだせえよ。いくらおれがこじきだからって、ばかにしてもらいますまい。すきとおって姿のない人間なんて、いるわけがありませんよ」 「ところがいるんだよ。いま、おれの体《からだ》にさわらせてやるからな」  あっけにとられているトーマスの手が、だれかの手につよくにぎられた。  トーマスは、おずおずしながら手さぐりであたりをなでまわすと、なるほど、たくましい男の体《からだ》が、はっきりと手ざわりでさぐれた。 「こいつはおもしれえや、だんなはほんとにいたんですね。だが体《からだ》がすきとおってしまったなんて、ずいぶんふしぎですねえ。だんなの腹の中には、なにもはいってないんですか? パンだのチーズだの食べれば、腹の中に見えるでしょう」 「それはそうだよ、消化《しょうか》してしまうまでは見えてるよ」 「なるほど、しかし、どうしてそんなふしぎな体になりなさったのですかね?」 「それにはながい話《はなし》があるんだ。しかし、そんなことをおまえに話してきかせたって、わかりはしないよ。それよりおれがこうしておまえのあとをつけてきたのは、話したいことがあるからなんだよ」 「おれにたのみたいことですって……いったい、それはなんですね?」  トーマスは、目をくりくりさせてきいた。 「じつは、おれははだかなので、いろいろのことでこまりきっているんだ。大いそぎで着る物を手にいれてもらいたいんだよ。それから寝《ね》る所《ところ》とな――ほかにもいろいろやってもらいたいことはあるが、とりあえずそれだけを、おまえの力でぜひなんとかしてくれ」 「着る物を手にいれろとおっしゃるんですか、なんだか、あっしは頭がぐらぐらしてきたようだ。すこし落ちついて、ゆっくりと考えさせてくだせえ。だれひとりいない丘《おか》からいきなり声がして、なんにも見えねえのに、さぐればたしかにだんながいらっしゃる。体《からだ》がすきとおっているんだそうだが……そしてこんどは着物《きもの》とねる所を手にいれろとおっしゃる。あっしは、すっかりめんくらってしまいましたよ」 「いまさら、ぐずぐず言うな。透明人間《とうめいにんげん》のわしが、おまえをえらんだんだ。おれのために働《はたら》いてくれ。そうすればお礼《れい》はたっぷりやるよ。わかったな」  そして透明人間《とうめいにんげん》は、大きなくしゃみをした。 「そのかおり、おまえがおれをうらぎってみろ、どんなことになるか、おもい知らせてやるからな」  男は、言いおわってぽんとトーマスの肩《かた》をたたいた。トーマスは、きゃっと恐怖《きょうふ》のさけび声《ごえ》をあげ、 「と、とんでもねえ。うらぎったりするものですか……心配《しんぱい》しねえでも大丈夫《だいじょうぶ》ですよ。あっしにできることなら、なんでもいたしますよ――なんなりと言いつけてくだせえ」  トーマスは、気のどくなほど、はげしくふるえながら言った。 [#4字下げ]怒《いか》る透明人間《とうめいにんげん》[#「怒る透明人間」は大見出し] [#7字下げ]酒場《さかば》の中[#「酒場の中」は中見出し]  その日は復活祭《ふっかつさい》だった。  アイピング村では、朝はやくから村じゅうの年よりも若いものも晴着《はれぎ》を着《き》かざって、うきうきしていた。  黒馬旅館《くろうまりょかん》では、亭主《ていしゅ》のホールと雑貨屋《ざっかや》のハクスターは、とりとめのないばか話をだらだらとつづけていた。そこへ、あらあらしくドアをおして、ひとりの男がはいってきた。  古《ふる》びたシルクハットを頭にのせた、ずんぐりとした小がらの男で、ひどく、しんけんな顔つきで、わきめもふらず酒場《さかば》にはいってくると、つかつかととおりぬけて、おくの客部屋《きゃくべや》のほうへ歩いていった。浮浪者《ふろうしゃ》のトーマスだ。  そのすばやさときたら、はっと気づいたときには、もう男はおくの客部屋《きゃくべや》のドアをあけていた。 「おっと、お客《きゃく》さん、お客さん、そこはいまではお客さん用に使っていないんですよ。もどってきてくだせえ」  ホールが、まのびのした調子《ちょうし》でどなった。  男はへんじもしなかったが、まもなく、むっつりした顔でもどってくると、酒場《さかば》にきて、ききとれないほどひくい声で、酒を注文《ちゅうもん》して飲みはじめた。 「おい、かわったやつじゃねえか。気をつけたほうがいいぜ」  ハクスターがホールにささやいた。  男は、ぐいぐいと流《なが》しこむようにたてつづけていく杯《はい》ものみ、口のはたをてのひらでぬぐうと立ちあがって、中庭《なかにわ》にぶらりとでていった。  たばこに火をつけ、ぶらぶらと庭《にわ》を歩きまわっている。いかにも、ものうそうだった。  が、ハクスターは、男がときどき、ちらりと客部屋《きゃくべや》の窓《まど》にするどい視線《しせん》を送っているのを見のがさなかった。  どさり!  重い物が窓《まど》からおちる音がした。男は身をかがめて、落ちてきたテーブルクロスに包《つつ》んだ大きな包みと、三|冊《さつ》のノートを、小わきにかかえこむとみると、うさぎのようなすばやさで木戸《きど》から大通《おおどお》りへ走りでた。 「どろぼう!」  さっととびあがったハクスターは、いちもくさんにかれのあとを追った。 「どろぼうだっ! つかまえてくれ!」  ホールも、ハクスターのあとを追ってかけだした。  外には、あかるい日の光がさんさんとふりこぼれ、着かざった人びとがのどかにゆききしていた。  シルクハットをかぶり、大きな包《つつ》みをかかえたおかしな人かげは、風のように街路《がいろ》をかけぬけ、街《まち》かどをまがって丘《おか》へむかって走っていった。 「どろぼうだ! つかまえてくれ」  ホールとハクスターは声をかぎりにわめいた。しかし、往来《おうらい》の人びとは、あっけにとられて、ただ見送っているばかりだった。  とある街《まち》かどまできたとき、やっとこさで男に追いついた。 「こんちくしょうめっ! もう逃《に》がさんぞ、つかまえたぞ!」  おどりかかったと思ったそのとき、ハクスターは、目に見えないなにものかに、むこうずねを力《ちから》いっぱいけとばされた。 「わっ!」  ふいをうたれたハクスターはもんどりうって道にたおれ、それっきり気を失ってしまった。  つづいて同じようにおどりかかっていったホールも、ものの見事《みごと》に投《な》げとばされ、腰《こし》の骨《ほね》をしたたかうって起きあがれなくなった。  シルクハットの男は、そのまま、すごいいきおいで丘《おか》のほうへ姿《すがた》を消していった。 [#7字下げ]正体《しょうたい》が知《し》れると[#「正体が知れると」は中見出し]  夕ぐれがせまってきた。  シルクハットをかぶったれいの男が、ぶなの並木《なみき》をぬうようにして、ブランブルハースト街道《かいどう》をいそぎ足で歩いていた。  テーブルクロスの包《つつ》みとノートは、やはりだいじそうに小わきにかかえている。  いつのまにか、トーマスの足どりがしだいにおそくなり、のろのろと悲しげな顔つきで考えこみながら歩いていると、空中《くうちゅう》からせかせかした声がひびいてきた。 「おい、さっさと歩け。なにを考えてるんだ。また、さっきのようにおれをまいて逃《に》げようというのかい? こんど逃《に》げてみろ、ただではおかないからな」 「逃《に》げようなんて、そんなことは考えてませんよ。あっ、そんなに肩《かた》をつっつかねえでくだせえ。おいら、いまに傷《きず》だらけになってしまいますぜ」  トーマスは、しおしおとこたえた。空中《くうちゅう》の声はなおも意地《いじ》わるく、 「いいか、こんど逃《に》げようとしたら、殺《ころ》してやるからな」 「とんでもねえ。おいら、あんたをまいて逃《に》げようなどとは、これっぽっちだって考えていませんよ。ただ、どこでまがったらいいかわからなくて、あのまがり角へはいりこんじまったんですよ。あっしはこのへんの道はちっとも知らねえんです。そんなおそろしいことを言わねえでくだせえ」  浮浪者《ふろうしゃ》のトーマスは、いまにも泣《な》きだしそうだった。目にみえて元気を失《うしな》い、あきらめきったようすで、とぼとぼと歩きつづけた。  空中《くうちゅう》の声は、もちろん言わずとしれた透明人間《とうめいにんげん》である。  かれは黒馬旅館《くろうまりょかん》でうばってきた衣類《いるい》と、研究《けんきゅう》ノートの包《つつ》みをトーマスにもたせ、どこへゆこうとしているのか、しきりに先をいそいでいた。 「なあ、トーマス、アイピング村のばか者どもが、考えなしの大さわぎをおっぱじめやがったおかげで、おれの姿《すがた》が透明《とうめい》で着物《きもの》を身につけさえしなければ、だれにも姿をみられなくなるってことを、みんなに知られてしまったんだ。いまいましいじゃないか。そこで問題《もんだい》はこれから先どうするかってことだ。どうせ、やつらはおれを追いまわすにきまってるだろうし……なにかいい考えはないか」 「だんな、あっしにいい考えなんてあるはずがないですよ」  しばらく二人は、だまって道をいそいだ。しだいに夕やみがあたりをつつんで、遠くの家の灯《ひ》がちらほらと見えてきた。  トーマスは疲《つか》れきっていた。小わきにかかえた包《つつ》みが、しだいに下にずり落ちていった。 「おい、ぼやぼやするな。しっかりと荷物《にもつ》をかかえて歩《ある》け。そのノートはだいじなんだ。なくすんじゃないぞ、しっかり持ってろ!」  いきなりするどい声がして、トーマスの肩《かた》をぐいと透明人間《とうめいにんげん》がついた。トーマスはあわてて、ずるずると包《つつ》みをひきあげ、しっかりとかかえなおしてから、泣き声をあげ、 「だんな、だんなはあっしをなんに使おうとおっしゃるんで……はじめは旅館《りょかん》からだんなの荷物《にもつ》をもちだす手伝いをしてくれとおっしゃった。それがすむと、あっしの役目《やくめ》はおわったはずなのに、やはりあっしをはなしてはくださらねえで、こうして荷物をかかえてだんなのいくほうへつれてゆきなさる。いったい、どういうお気もちなんでごぜえますか?」 「つべこべいうな、おまえみたいなやつでもおれにはいり用なんだ。それに、いまにわしが仕事《しごと》をやりはじめれば、どうしてもおまえの手伝いがいるようになるのだ」 「なにをおやりなさるのかしらねえが、あっしはとても、だんなの役には立ちましねえ。だいいち、じまんではねえが、力はないし、そのうえ、心臓《しんぞう》もよわいんです。せいぜい、さっきぐらいのことしかやれねえですよ。度胸《どきょう》はねえし、びくびくしながら手伝ったところで、あんまり役にもたたねえでしょう」 「力がないのはこまるな、見かけだおしなのか……まあいいさ、それに、なにもびくびくすることはないんだ。おれはだいそれたことをたくらんでいるわけじゃないし、おれがいつもくっついててやるから、おれのいうとおりにやればいいんだ」  トーマスは首《くび》をすくめ、ちょっと考えていたが、思いきって、 「だんながいくらこわがらなくてもいいとおっしゃっても、あっしはうす気味《きみ》わるくて死にてえくらいでさあ。いってえ、どんなことをあっしにしろとおっしゃるんで……あっしだって、いやならいやとおことわりできる権利《けんり》があるんですがね」 「だまれ! だまれ、だまれ。だまっておれのいいつけどおりにしていればいいんだ。おまえは利口《りこう》な人間《にんげん》じゃないし、あまり役に立ちそうもないが、おれのいいつけどおりにやりさえすれば、おれはいつもおまえを守《まも》っていてやろう」  透明人間《とうめいにんげん》は、強い力でぐっとトーマスの手首をつかんで、しかりとばした。 「わかってますよ。どうせ、あなたがあっしをはなしてくれないぐらいのことは、知ってまさあね」  トーマスは、シルクハットをかぶった頭をたれ、しずみきって歩いていった。  村をすぎていったじぶんには、あたりはとっぷりと日がくれ、美しい星《ほし》がきらきらと空にかがやきはじめていた。 [#7字下げ]ポート・ストウ村で[#「ポート・ストウ村で」は中見出し]  よく朝の十時ごろ、トーマスはポート・ストウ村にたどりついた。  旅《たび》のほこりをあび、つかれた顔をして村はずれの宿屋《やどや》のまえのベンチにすわりこんでいた。  ベンチの上にはれいのノートが三|冊《さつ》、革《かわ》ひもでしばっておいてある。テーブルクロスの包《つつ》みのほうは、とちゅうで透明人間《とうめいにんげん》の気がかわり、ブランブルハーストをでたところの松林《まつばやし》ですててしまったのである。  トーマスのようすはひどくへんだった。せかせかとあたりを見まわし、なんども、なんどもポケットに手をつっこんでは、しきりになにかをさがしているようすだった。  一|時間《じかん》あまりもトーマスはベンチにすわって、こんな奇妙《きみょう》なことをくりかえしてやっていた。 「やあ、いいお天気じゃありませんか」  ほがらかな声がひびいて、船員《せんいん》ふうの気さくそうな男が、新聞《しんぶん》を片手《かたて》にトーマスに近づき、ベンチに腰かけた。 「そうですね」  トーマスはぎくっとしてふりかえり、気ののらないようすでこたえた。しかし、男はトーマスのようすに気をわるくするでもなく、ひどくあいそうよく、 「暑《あつ》くもなし寒《さむ》くもなし、じつに気もちのいい朝だ。あなたは、どちらからおいでなさったね」 「遠くからですよ」 「ははあ、おやっ、そこにおいていなさるのは本ですかい?」  本と聞かれてトーマスは、はっとして大あわてにノートをひざの上にのせた。そのひょうしにかれのポケットで、ちゃらちゃらと金貨《きんか》の音がした。  男は、目をまるくして、しげしげとトーマスを見つめた。ほこりで汚《よご》れきったトーマスの服装《ふくそう》に、金貨の音はどう考えても似《に》つかわしくなかったからだ。しかし、その船員《せんいん》は、すぐに前とおなじあけっぴろげな態度《たいど》になって、 「おれは、本なんてものはなん年間《ねんかん》も読んだことがねえが、ずいぶんめずらしいことを書いたのがあるそうだね。その本にもかわったことが書いてあるかね」 「そりゃあそうでさ」  トーマスは、気がかりらしく、ちらっと相手《あいて》の顔を見て、つづいてあたりを見まわした。 「しかし、けさの新聞《しんぶん》には、本にまけないほどめずらしいことがのってるぜ」 「そうですかね」 「なんだ、おめえ、まだ新聞を読んでいないのかい? 姿《すがた》の見えねえ人間ってのが、あらわれたそうで、でかでかと書きまくってあるよ」  とたんにトーマスは、おちつかなくなってしまった。口をもぐもぐと動かし、むやみにほっぺたをひっかいてから、きこえないほどのほそい声で、 「透明人間《とうめいにんげん》ですって、いったいどこにそいつがあらわれたんですね。オーストラリアか、アメリカですかい?」 「ばかを言いたまえ、そんな遠くの話ではないんだ。この土地にあらわれたんだ」 「えっ!」  トーマスは、ぐるぐるっと心配《しんぱい》そうにあたりを見まわした。 「はっはっは、この辺《へん》といってもこのベンチのまわりじゃねえよ。この近くの村にだよ」 「ああ、そうですか、で、その透明人間《とうめいにんげん》はなにをしようってんですかね?」 「あばれたいだけあばれたってことだ。なにしろ体《からだ》が見えねえんだから、どんなことだってやれるさ。だれもつかまえることも、とめることもできないからね。昔《むかし》、おとぎ話にあったのが、ほんとのことになったんだね」 「そうですか、あっしはこの四日間、新聞ってやつを見たことがねえんでしてね」 「透明人間《とうめいにんげん》がはじめて暴《あば》れだしたのは、アイピング村がはじまりだそうだ」 「それで……」 「その人間はどういう男なのか、アイピング村にくるまではどこに住《す》んでいたのか、どんなことをしていたのか、さっぱりわかっていないそうだ。ほら、この新聞をみてみたまえ、アイピング村の怪事件《かいじけん》って書いてあるだろう」 「なるほど、それではやはり、ほんとうの話なんですね。信じられねえようだが……」 「そいつは、はじめ黒馬旅館《くろうまりょかん》にとまっていたんだそうだ。頭にほうたいをまいて服《ふく》をきこんでいたから、だれひとり透明人間《とうめいにんげん》だなんて気づかなかったそうだ」  トーマスは、そっとあたりを見まわしてからうなずいた。 「だが、ついに化《ば》けの皮《かわ》のはがれるときがきたんだ。アイピング村の連中《れんちゅう》は、そいつが透明人間《とうめいにんげん》とわかったので、大格闘《だいかくとう》をやってつかまえようとしたが、なにしろ相手《あいて》の姿《すがた》はみえないんだ。いたずらにさわぎまわるばかりで、とうとう逃《に》げられたということだ。」 「へえ、ふしぎな話ですな。で、アイピング村であばれてから、透明人間《とうめいにんげん》はどこへいったのでしょうね」 「さあ、たしかなことではないらしいが、ポート・ストウ方面《ほうめん》へむかったようすだって書いてあるぜ。おれたちのいるこの村へ、透明人間《とうめいにんげん》なんていうおかしなやつにやってこられるのは、ありかたくないね」 「まったくですよ。なにしろ姿《すがた》がみえないんですからね」  トーマスは船員《せんいん》の話をききながらも、まわりの物音《ものおと》に気をくばっていた。かすかな風の動きでも、ききのがさないようにしていた。 [#7字下げ]じつは、その……[#「じつは、その……」は中見出し]  そして、あたりにかれの主人《しゅじん》の透明人間《とうめいにんげん》の姿がなさそうだと見きわめをつけると、 「あっしはぐうぜんなことから、あなたのいまおっしゃった透明人間《とうめいにんげん》を知っているんですよ」 「えっ? おまえが知ってるというのかい?」 「へえ、そうなんですよ。わしがやっと知りあったときのことを聞いてくだせえ。が、びっくらしねえでくだせえよ。たいへんかわったことなんだから」 「そりゃあそうだろうよ。いいよ、びっくりしねえから話してきかせなよ」 「あっしは、透明人間のようにおそろしいやつに、いままで会《あ》った……」  言いかけてトーマスはふいに、 「いててて、おおいてえ!」  苦しそうにさけび、片手で耳をおさえ、片手で本をつかんで、体《からだ》をまげておかしな腰《こし》つきでベンチから立ちあがった。  透明人間《とうめいにんげん》は、いつのまにか、トーマスのところに帰ってきていたのだ。  トーマスが、見しらぬ船員にかれのことをしゃべりそうになると、ぐいぐいとトーマスの耳をつまみあげた。  トーマスは、透明人間が帰《かえ》ってきていたと知ると、おそろしさでふるえあがってしまった。  もう、かれのことを船員《せんいん》にしゃべるどころではない。透明人間に耳をひっぱられ、ずるずるとくっついていくだけだった。  しかし、そんなこととは夢《ゆめ》にも知らない船員《せんいん》は、びっくりしてトーマスをのぞきこみ、 「おいおい、どうかしたのかい? どこが痛《いた》いのだ?」 と心配《しんぱい》そうにたずねた。トーマスはじりじりとベンチから遠《とお》ざかってゆきながら、 「歯《は》が痛《いた》いんだよ。急にいたみだしたんで、おおいてえ、いてえ」  しかし、トーマスのようすはどこか変《へん》だった。歯が痛いと言いながら、片手《かたて》で耳をおさえて、片手《かたて》でノートをしっかりとつかんでいる。船員は、うさんくさそうにトーマスをじろじろと見て、 「おい、どうしたんだい? 透明人間《とうめいにんげん》のことを話すと言ったじゃないか?」 「うそでさ。いっぱいかついだだけですよ」  トーマスが苦《くる》しそうにこたえると、船員《せんいん》はむかっ腹《ぱら》をたてたらしく、 「新聞にだってのっているんだ。透明人間はたしかにいるんだ。なんだ、透明人間を知ってるなんて言って、人をかつぐ気だったのか? しかし、きさまがやつのことをしらなくても、透明人間はいるんだぞ」 「新聞《しんぶん》だって、でたらめを書くこともありますよ。あっしは、このうそをつきはじめたやつを知ってるんですよ。やつの口から透明人間《とうめいにんげん》なんていうでたらめが話されて、ほうぼうへひろまっていったんですよ」  船員は、半信半疑《はんしんはんぎ》でトーマスの顔をじっと見つめた。 「だが、新聞にのっているし……りっぱな人たちが証人《しょうにん》になってるしな」 「うそですよ。うそですよ。だれがなんと言ったってうそにきまってますよ。ばかばかしい、透明人間《とうめいにんげん》なんてものが、いまの世の中にいるはずがないじゃありませんか」  トーマスは必死《ひっし》になって、がんこに言いはった。船員はおもしろくない顔をして、 「それほどはっきりうそとわかっているなら、なんだってはじめにうそだと言わねえんだ」 「なにっ!」  二人は、ぐっとにらみあった。いまにもどちらからか、げんこのつぶてが飛んできそうなあんばいだった。 「トーマス、ぐずぐずするな、おれといっしょにくるんだ」  とつぜん、空中《くうちゅう》から声がした。  トーマスは、はっとしたようで、そのまま、おかしな腰《こし》つきでひょこひょこ歩きだした。 「逃《に》げるのか」  船員がうしろからどなった。 「逃げるもんか」  トーマスはくるりとむきなおろうとしたが、あべこべにつきとばされるように、前へとんとんとつんのめった。  そして、それっきり後《あと》もみずに船員《せんいん》から遠ざかっていった。  だれかと言いあらそいでもしているようなつぶやきが、いつまでも聞こえていた。  船員は、大またをひろげ腰《こし》に両手をあてがって、遠ざかっていく相手をにらみつけ、 「あいつは新聞《しんぶん》が読めねえんだよ。なにがうそだい。目を大きくあけて新聞をみろ、ちゃんとくわしく書いてあるから、まぬけめ!」  声のつづくかぎり、どなりまくっていた。 [#7字下げ]空中《くうちゅう》を飛《と》ぶ金貨《きんか》[#「空中を飛ぶ金貨」は中見出し]  このことがあって二日ほどたったとき、またまた船員《せんいん》は、世にもふしぎなできごとにであった。  船員は、じぶんの部屋《じぶん》でゆっくりとコーヒーをすすっていた。  たっぷり砂糖《さとう》をほうりこんだ、濃《こ》いコーヒーをうまそうに飲みながら、かたわらの新聞をながめていると、 「おおい、あにき、あにきいるかい」 と、われるように戸をたたく者がいる。 「だれだい? しずかにしろ、戸がこわれるじゃないか。戸をたたくのをやめて入ってこい」  ころがりこんできたのは、かれのなかまのわかい船《ふな》のりだった。 「なんだい、ひどくあわてて……どんな大事件《だいじけん》が起こったっていうのかい? えっ、おまえ、透明人間《とうめいにんげん》にでもぶつかったというのかね?」  船員はなかまの顔を、にやにや笑って見ながら声をかけた。 「いいや、透明人間じゃない。だが、おなじようにへんなふしぎなことなんだ」 「ふしぎなこと? まあいいから落ちつきなよ。コーヒーをごちそうするから、ゆっくり話したらどうだい」  やがて、熱《あつ》いコーヒーがはこぼれ、わかい船《ふな》のりはひと息《いき》つくと、まだこうふんのさめないようすで話しだした。 「おどろいたの、なんのって、きょうのようにおどろいたことは、いままで一度だってありはしねえよ、あにきだってその場にいあわせたら、きっと目の玉がひっくりかえるほどおどろくにちがいないよ」 「おれがおどろくか、おどろかないか、そんなことはいいけど、その話というのはどんなことなんだい? おまえはかんじんのことはちっとも話してねえぜ」 「うん、それだよ。おれが朝はやくセント・マイクル小路《こうじ》を歩いていたんだ。まだ時間が早かったので、街《まち》はしいんとしていて、通っている人は、おれのずっと先を歩いている年よりきりで、ほかに人かげは前にも後《あと》にも見えなかった。おれはこんど乗っていく船や、ゆく先の港《みなと》のことを考《かんが》えて歩いていた。その時、どういうきっかけだったかわからないが、ひょいとよこの壁《かべ》に目をやった」 「うん、それで……」 「そのとたんに、おどろいたねえ。ひとにぎりの金貨《きんか》が、壁《かべ》にそって空中《くうちゅう》をふわふわととんでいるんだ。それを見たときのびっくりしたこと……おれは思わずなんども目をこすったよ。が、なん度見なおしても、ほんものの金貨だ。かなりの早さで飛《と》んでいくんだ。じっと見つめているうちに、すこしおどろきがおさまると、欲《よく》がむらむらっと起こったんだ」 「その金貨《きんか》を、じぶんのものにしようとしたのかい?」  船《ふな》のりはいつのまにか、わかいなかまのふしぎな話にひきずりこまれて、熱心《ねっしん》にきいていた。 「おはずかしいが、そうなんだ。あたりに人はいない、金貨《きんか》は持主《もちぬし》がいるようではなし、ちょうど手のとどくところをとんでいるんだ。おれは、一枚や二枚ちょうだいしたって、たいして悪くはあるまいと考えたので、ひょいと手をのばして、その金貨《きんか》をつかもうとした」 「うまくつかめたのか?」 「いいや、手をのばしたとたん、いきなり強い力でなぐり倒《たお》されて、その場にばったりとたおれてしまった。ひどく腰《こし》をうってのびてしまったが、かろうじて痛《いた》みをこらえて立ちあがったときには、金貨《きんか》はちょうちょうが舞《ま》うように、ふわふわとマイクル小路《こうじ》のかどを消えていったんだ」 「おまえ、夢《ゆめ》でも見ていたのじゃないか? ゆうべ、ぐっすり眠《ねむ》ったのかい?」  船《ふな》のりが疑《うた》ぐりぶかい調子《ちょうし》でいうと、わかいなかまは、不平《ふへい》そうにほおをふくらし、 「いやになるなあ、あにきまでがそんなことを言うのですかい? おれの腰《こし》は、その時すごい力でなぐり倒《たお》されて、いやっというほど地面にうちつけたので、いまでもずきんずきん痛《いた》んでますよ。おれだってさっきまで、金貨《きんか》が空中《くうちゅう》をふわふわ飛《と》ぶなんてことがあるとは思ってませんでしたよ。だけど、はっきりじぶんの目でみたんです。これよりたしかなことはありませんよ。おれは金貨《きんか》がマイクル小路《こうじ》のかどに消《き》えてゆくまで、じっと見ていて、その足であにきのところへかけつけてきたんだよ」 「そうか、では、まんざらうそでもなさそうだし、おまえが寝《ね》ぼけていたわけでもないんだね。とすると、ずいぶんふしぎな気味《きみ》のわるい話じゃないか」 「そうなんだよ。おれも金貨《きんか》が見えてる間は無我《むが》むちゅうだったが、金貨が消えてしまったとたん、ぞっとしたね。がたがたとふるえてきて、どうしてもとまらねえんだ。このごろは変《へん》なことばかり続《つづ》くじゃないか。透明人間《とうめいにんげん》だなんて恐《おそ》ろしいやつのことを、新聞がでかでか書きたてたと思うと、金貨が空中《くうちゅう》をとびまわる。おれはなんとなくおそろしくてしかたがないよ」  船《ふな》のりは、その時、なぜともなく宿屋《やどや》の前で会ったシルクハットをかぶったみょうな男のことと、そのとき空中《くうちゅう》からきこえた声のことをふっと思いだした。 (おれも頭がどうかしているのかな。あのときふいに空中《くうちゅう》から声がきこえてきたような気がしたが……そら耳だと思っていたが、もしかすると、ほんとに空中からきこえたのかもしれないぞ。金貨が空中を飛《と》ぶなら、空中から声がきこえてもふしぎではないかもしれん)  ひとりで考えこんでしまった。わかいなかまもだまりこんで、やけにたばこばかりすっていた。  金貨《きんか》が空中《くうちゅう》を飛《と》ぶということは、事実《じじつ》だったらしい。  その証拠《しょうこ》にポート・ストウ村では、一日じゅう、ほうぼうの物かげやへいのそばを、金貨《きんか》がふわふわと飛んでいた。  そのようすを見たという人はいく人もあった。 「ええ、そうですよ。人もいなければ動物もいません。ただ金貨《きんか》だけがふわふわとかなりの速《はや》さで飛《と》んでるんですよ。わたしが近づいたとたんに、どこへともなく消えてしまったんです」  かれらは口をそろえて言った。 「そしておどろくじゃありませんか。その金貨《きんか》は、どうも、ほうぼうの金庫やぜに箱《ばこ》からとびだしてきたものらしいんですよ。村の銀行《ぎんこう》の金庫《きんこ》からも、ちょうど片手《かたて》でつかめるほどの金貨《きんか》と、紙できちんと巻《ま》いた貨幣《かへい》とが、ふいに空中《くうちゅう》に舞《ま》いあがり、おどろく行員《こういん》をしり目《め》に、ふわふわと飛《と》んで銀行《ぎんこう》をでてゆき、表通《おもてどお》りにとびだすと、そのまま見えなくなってしまったそうだ」  ふしぎなことのあったのは、銀行《ぎんこう》だけではなかった。  食料品《しょくりょうひん》をうっているこじんまりした店では、客《きゃく》につり銭《せん》をわたすために主人《しゅじん》が銭箱《ぜにばこ》のふたをあけた。そのとたん、主人《しゅじん》はすぐ身近《みぢか》に人のけはいがせまるような感じをうけた。 「おやっ?」  主人《しゅじん》は、あたりを見まわしたが、もちろん、店さきでまだ卵《たまご》を熱心《ねっしん》に見くらべている客よりほかに、だれもいなかった。  主人《しゅじん》が銭箱《ぜにばこ》からつり銭《せん》をつまみだそうとすると、さっと銭箱の中のひとつかみの金貨が空中へ舞《ま》いあがった。 「きゃっ!」  主人《しゅじん》は悲鳴《ひめい》をあげて、舞《ま》いあがった金貨のゆくえを見まもるばかりだった。主人の悲鳴におどろいた客も、空中《くうちゅう》をとびながら店をでて大通りへ金貨が逃げていくのを見ると、すっかりたまげて、つり銭もうけとらず、いちもくさんにわが家へ逃げていった。  ポート・ストウ村は、ひっくりかえるようなさわぎになってしまった。  ほうぼうの店や宿屋《やどや》から、手につかめるほどずつの金貨《きんか》が空中《くうちゅう》をとんで消《き》えていった。  あちらの通りや、こちらの街《まち》かどで、人びとは金貨《きんか》の飛《と》んでいるのを見かけたが、人が近づくとふしぎなことに、金貨はさっと身をひるがえすようにかき消えてしまった。  こうして、ほうぼうの金庫《きんこ》や銭箱《ぜひばこ》から舞《ま》いあがってきた金貨のゆくえを知ったら、村の人たちは、いまよりもっとおどろいたにちがいない。  金貨《きんか》は人目をさけて、街《まち》の通りを飛びつづけて村はずれまでやってくると、そこの小さな宿屋《やどや》のまえで、おどおどとあたりを見まわして心配《しんぱい》そうに立っている、古《ふる》びたシルクハットをかぶった男のポケットに、吸いこまれるようにはいっていった。 [#7字下げ]たすけてくれ![#「たすけてくれ!」は中見出し]  バードック町は、うしろになだらかな丘がある。丘のふもとのバスの停留所《ていりゅうじょ》のすぐ前の酒場《さかば》『銀《ぎん》ねこ』では、さっきからまるまるとふとったおやじが、むちゆうになって、ひとりの客《きゃく》をあいてに、さかんに、競馬《けいば》の話をまくしたてていた。  あいての男は、おやじとはまるっきりはんたいの、やせてひょろひょろした顔いろのわるい男で、商売《しょうばい》は馬車屋《ばしゃや》だ。  おやじの言葉《ことば》に、ときどきあいづちをうちながら、ビスケットにチーズで、ちびちびと酒《さけ》を飲んでいた。 「なんだい? 表《おもて》のほうがだいぶさわがしいようじゃないか」  とめどのないおやじの話をうちきるように馬車屋が言って、立ちあがると、うす汚《ぎた》ないカーテンのすきまから、丘《おか》のほうをのぞいてみた。 「おい、なんだか、おおぜいの人が駈《か》けていくぜ」 「どれどれ、ほんとうだ。火事かもしれねえな」  酒場《さかば》のおやじが気のない調子《ちょうし》で言ったとたん、ばたばたと足音が近づき、ドアをさっとひらいて、あの浮浪者《ふろうしゃ》のトーマスがとびこんできた。  髪《かみ》をふりみだし、息《いき》をはずませて、上着《うわぎ》のえりもはだけてしまっている。れいの古《ふる》びたシルクハットは、とっくにどこかへすっとんだらしく、頭へのっかっていなかった。  飛《と》びこんでくるなり、トーマスは恐怖《きょうふ》におののきながら、大声でさけんだ。 「やつが追ってくるんだ。あっしのあとを追って……助けてくだせえ。透明人間《とうめいにんげん》に追われているんです」 「透明人間《とうめいにんげん》がくるって……そいつはたいへんだ。おいっ! ドアを閉《し》めろ、ドアを閉めろ!」  酒場《さかば》じゅうの者《もの》が色を失《うしな》ってさわぎたてた。ちょうどきあわせていた警官《けいかん》は、さすがにほかの者たちよりは落ちついており、すぐに表《おもて》のドアをしっかりとしめてやった。  おやじも台所のほうへすっ飛《と》んでいくと、うら口のドアを力いっぱい、ひっぱってしめた。 「さあ、もう大丈夫《だいじょうぶ》だよ」  警官《けいかん》が言ったが、トーマスは泣《な》きださんばかりの声をふりしぼって、 「あっしをかくしてくだせえ。どこかおくのほうの鍵《かぎ》のかかる部屋《へや》にかくしてもらいてえんです。やつがあっしを追っかけてくるんです。あいつはどんなところへでもはいってきますよ。あっしのことを殺《ころ》そうと思っているんです」 「どんなやつかしらないが、ここまでくれば大丈夫《だいじょうぶ》だよ。ドアはしめたし、そちらに警官《けいかん》もいらっしゃるんだ」  すみっこで、ひとりで酒《さけ》をのんでいた、黒いひげをはやしたアメリカなまりの男が言った。  と、そのとき、ドアがはげしくたたかれた。 「透明人間《とうめいにんげん》だ! はやくどこかへかくしてくだせえ。こんどみつかれば、きっと殺《ころ》されてしまうんだ。おお、神さま!」 「この中へはいったらいいだろう」  おやじが、カウンターのはね板をあげた。トーマスはあわててとびこんだ。  その間じゅう、ドアをたたく音はひっきりなしにつづいた。 「だれだ?」  警官《けいかん》がどなりながらドアに近づいた。トーマスは、それをみると泣き声をふりしぼって、 「戸をあけねえでくだせえ。たのむからあけねえでくだせえ」  黒ひげの男が、 「外で戸をたたいているのが、透明人間《とうめいにんげん》だというのか。どんなやつか、見たいものだな」  その言葉《ことば》がおわるかおわらないうちに、すさまじい音をたてて、表通りのほうの窓ガラスがわれた。 「きゃっ!」  トーマスがふるえあがって絶叫《ぜっきょう》した。 「さあ、こちらへ来《こ》い」  おやじは気をきかせてトーマスをおくまった部屋《へや》にかくし、鍵《かぎ》をかけてやってから、もとのところへもどってきた。  外では、かけまわるたくさんの人の足音とさけび声がいりみだれて、たいへんなさわぎだった。  警官《けいかん》はドアに近より鍵穴《かぎあな》から外をのぞき見しながら、 「ほんとに透明人間《とうめいにんげん》らしいな。警棒《けいぼう》をもってくればよかった」  黒ひげの男も警官のあとにつづき、 「ねえ、かまわないから、かんぬきをぬいてドアをおあけなさい。やつがはいってきたら、ぼくがこいつに物を言わせましょう」  そして、手にしたピストルを警官《けいかん》の目のまえに、にゅっとつきだしてみせた。  ピストルをみると警官《けいかん》は、あわてて手をふり、 「とんでもない、そいつはこまるよ、きみ。そんなものをふりまわして、相手が運わるく死んでみたまえ、殺人罪《さつじんざい》になってしまうよ」 「へっへっへ、そんなことは心えていますよ。やつを殺《ころ》してしまうようなへまはやりませんよ。足をねらいますよ。おれは足をねらう名人《めいじん》なんだよ。さあ、かんぬきをはずしなさい」  カーテンのすきまから外のようすをうかがっていたおやじは、あわててうしろをふりかえり、 「わたしをうたんでくださいよ」 と、どなった。 「さあ、こい!」  黒ひげの男は身がまえ、さっとピストルを背《せ》にかくした。  警官《けいかん》は、ちょっと思案《しあん》していたが、いきなりかんぬきを、さっとひきぬいた。  しかし、ドアはしまったままで、人がはいってくるけはいはさらにない。  二分たち、三分たった。やはり、なんのかわったこともなかった。  三人が息《いき》をころしてドアを見つめていると、奥《おく》の部屋《へや》から、ひょいとトーマスが頭をだし、 「家《いえ》じゅうのドアは、みんなしめてありますかい? 透明人間《とうめいにんげん》のやつは、きっとぐるっとまわって、開《ひら》いてるドアをさがしてみますぜ。悪魔《あくま》のように、ぬけめのねえやつですからね」 「そいつはたいへんだ。うち口のドアはあけたまんまだ。ちょっとわたしはいってくる。こちらはおまえさんたちにたのみますぜ」  ふとったおやじは、ころがるようにかけだした。トーマスは顔をひっこめ、ばたんとドアをしめ、鍵《かぎ》をしっかりとかけた。  やがて、かけもどってきたおやじは、手に大きな肉切包丁《にくきりぼうちょう》をぶらさげ、心配《しんぱい》そうに、 「庭《にわ》の木戸《きど》も通用口《つうようぐち》のドアも、みんなしめるのをわすれていたんだ。そのうえ、庭の木戸はあけっぱなしになっていたんだが……」 「透明人間《とうめいにんげん》が、そこからはいりこんだんじゃないか?」  気の早い馬車屋《ばしゃや》が、おやじが話しおわらないうちに、こわそうにさけんだ。 「調理場《ちょうりば》にお手伝いが二人いたが、だれもはいってきたけはいはなかったそうだ」 「しかし、ゆだんはならないぞ!」  警官《けいかん》はあたりを、ぐるぐると見まわしながらいった。黒ひげの男は、ぐっとピストルをにぎりなおして、調理場《ちょうりば》のほうをにらんだ。  そのとき、ぎ、ぎぎいっーと、おくの部屋《へや》のドアが、はげしくきしむ音がしたと思うと、あっと思うまもなく、ぱっと大きくあけはなされた。 [#7字下げ]酒場《さかば》の事件《じけん》[#「酒場の事件」は中見出し]  トーマスのかなきり声がひびいた。それはちょうど蛇《へび》にみこまれた小鳥の、悲《かな》しいさけび声に似ていた。 「それっ!」  三人はカウンターをとびこえて、かけつけた。黒ひげの男のピストルがなった。  と、同時に、おくの部屋《へや》の鏡《かがみ》が音をたててくだけ落ちた。 「助けてくれ! だれかきてくれ!」  トーマスは、目に見えぬ人にひきずられながら、じたばたともがいている。  三人は顔を見あわせてためらった。敵《てき》の姿《すがた》は、ぜんぜん見えないのだ。どうやってトーマスをかれの手からうばい返《かえ》して助けてやればいいのか、さっぱりわからなかった。  そのひまにトーマスは、ずるずるとひきずられて、おくの部屋《へや》から調理場《ちょうりば》へひきずりこまれていった。棚《たな》からフライパンや鍋《なべ》が、けたたましい音をたててころがり落ちた。 「どけろ! どけろ!」  警官《けいかん》はおやじをおしのけ、トーマスの首《くび》すじをおさえている手があると思われるあたりに、ぎゅっとしがみついた。 「ええい! じゃまするな」  恐《いか》りにもえた声がして、警官《けいかん》はものの見事《みごと》に、その場になぐりたおされた。  トーマスは必死《ひっし》になって、ドアのとっ手にしがみついたが、なんのかいもなく、みるまにひきずられていった。後《あと》からとびこんできた馬車屋《ばしゃや》とおやじは、めちゃくちゃに手足をふりまわしているうちに、とうとう、透明人間《とうめいにんげん》の体《からだ》のどこかをつかまえた。 「つかまえたぞ! みんなこい! ここにやつがいるぞ!」 「いたぞ! 透明人間《とうめいにんげん》がいたぞ」  二人は、つかまえたが最後《さいご》、どんなことがあってもはなすものかと、むしゃぶりついてあばれまわっている。  さすがの透明人間《とうめいにんげん》も、トーマスをつかまえていて、二人を相手《あいて》では、戦《たたか》えるわけがない。 「ちくしょうめ!」  いまいましげに舌《した》うちして、トーマスをはなした。二人がむやみにあばれて、げんこつをぶんぶんふりまわすので、透明人間《とうめいにんげん》もいささかもてあましてきたらしい。 「うん、なんだって、じゃまをしやがるんだ。おまえらの知ったことじゃないんだ」  透明人間と二人は、はげしく取っ組みあってあばれた。  そのうち、やっと起きあがった警官《けいかん》も加勢《かせい》にかけつけ、両《りょう》うでを水車《みずぐるま》のようにふりまわして、目に見えぬ敵《てき》におどりかかっていった。  トーマスは、あばれまわっている人たちの足もとを這《は》いまわりながら、必死《ひっし》で逃げだす道をさがしている。  調理場《ちょうりば》での大乱闘《だいらんとう》が二十分もつづいたころ、 「おや、おかしいぞ。やつはどこへいっちまったんだ。外へ逃げたのか?」  黒ひげの男が、ふいに、きょろきょろとあたりを見まわしてさけんだ。 「中庭《なかにわ》へ逃げたんだ。敵《てき》は中庭だ」  警官《けいかん》がまっさきにたって、中庭にとびだそうとした一|瞬《しゅん》……。  ぴゅうっ――と風をきって屋根《やね》がわらが、かれの頭をかすめて飛んできた。  調理台の皿小鉢《さらこばち》が音をたてて、みじんにくだけ散《ち》る。 「ようし、おれがひきうけた」  黒ひげの男は、ひと声たかくさけんで、警官の肩《かた》ごしにピストルをつきだし、つづけざまに五発、透明人間のいるらしい方向《ほうこう》にむけてぶっぱなした。弾《たま》はうなりを生《しょう》じて飛《と》んでいった。ピストルの音がしずまると、庭《にわ》はしいんとしずまりかえった。  かわったことは、なにも起こらなかった。 「五発うったぞ。こいつが一番ききめがあったろう。もう、だいじょうぶだ。透明人間の死がいを探《さが》そうじゃないか」 [#4字下げ]恐《おそ》るべき発見《はっけん》[#「恐るべき発見」は大見出し] [#7字下げ]ケンプ博士《はくし》の来客《らいきゃく》[#「ケンプ博士の来客」は中見出し]  その日の夕方、ケンプ博士《はくし》は、こじんまりしたかれの書斎《しょさい》で、書きものをしていた。  博士《はくし》の家は町をみおろす、丘《おか》のうえに建っている。そこからは、丘のふもとの『銀《ぎん》ねこ』酒場《さかば》や、バスの停留所《ていりゅうじょ》が、ひと目でみることができた。おだやかな静かな町で、これといって騒がしい事件がおこらない平和な町であった。  博士《はくし》のへやの書《しょ》だなには、ぎっしりと本がつまっている。自然科学《しぜんかがく》、薬理学《やくりがく》の本がおもで、窓《まど》ぎわの机《つくえ》には、けんび鏡《きょう》、スライド、培養《ばいよう》えき、くすりのびんなどが、いちめんにならべてあった。  とつぜん、ピストルの音がした。ピストルの音は一|発《ぱつ》だけではなかった。つづけざまに、五発の銃声《じゅうせい》が夕空《ゆうぞら》にこだまして、街《まち》の静寂《せいじゃく》をやぶった。  博士《はくし》は気がかりになってきた。  この平和な街《まち》にピストルの音がひびくのは、きっとなにか起こったにちがいない。 「なんだろう?」  博士《はくし》は南がわの窓《まど》をおしひらいて街《まち》を見おろした。  いつもとかわらぬしずかな景色《けしき》だったが、しばらく耳をすませていると、ちょうど、『銀《ぎん》ねこ』酒場《さかば》のあたりで、がやがやとさわぐただならない人声《ひとごえ》が、風にのってきこえてきた。 「酒場《さかば》のあたりだな」  博士《はくし》はつぶやいて、なおもじっと、夕方の街《まち》を見おろしていた。  夕空《ゆうぞら》はしだいにくら闇《やみ》のいろにつつまれ、ほそい新月《しんげつ》が夢《ゆめ》のような姿《すがた》をみせ、星《ほし》もふたつみっつ数をましていった。  港《みなと》にとまっている汽船《きせん》に、あかりがつき、きらきらと宝石《ほうせき》のようにきらめいているのが、とりわけ美しく思われた。  博士《はくし》は、いつかピストルの音のしたことなどわすれてしまっていた。  さわぐ声もきこえなくなっていた。  博士《はくし》は窓《まど》をしめ、もう一|度《ど》、机《つくえ》のまえにすわった。一時間ほどたったとき、玄関《げんかん》のベルがはげしくなった。応対《おうたい》にでていくお手伝いの足音がした。  しかし、それっきり、なんの音さたもなかった。 「おかしいな? だれか訪《たず》ねてきたのではなかったのかな?」  博士《はくし》は、ふと気になった。大いそぎでお手伝いをよび、 「いまのベルは、郵便配達《ゆうびんはいたつ》だったのかね?」 「いいえ、だんなさま。それがおかしいのでございますよ。ベルはたしかになりましたのに、玄関《げんかん》にはだれもいないのです。おおかた、子どものいたずらでございましょう」 「子どものいたずらか」  お手伝いがひきとっていくと、博士《はくし》はスタンドを手もとにひきよせ、一生けんめいに書き物をはじめた。  部屋《へや》の中はしずかで、時をきざむ時計《とけい》の音だけがきこえている。夜の二時になった。  博士《はくし》は書きかけの書類《しょるい》から頭をあげると、 「もう二時か、そろそろ眠くなってきたな、疲《つか》れもしたし、こん夜はこれでおしまいにしよう」  大きくのびをして、灯《あかり》をけすと、階下《かいか》の寝室《しんしつ》へおりていった。  博士《はくし》はひどく疲《つか》れていた。頭がおもい。  こんな時、博士《はくし》はいつも愛用《あいよう》のウィスキーを少し飲んで、ぐっすり眠《ねむ》ることにしていた。 「こん夜もすこし飲んで眠《ねむ》ろう」  博士《はくし》はひとり言をいって、上着《うわぎ》とチョッキをぬいだままの姿《すがた》で台所《だいどころ》におりていった。  ウィスキーのびんをさげて、ひっかえしてきたとき、階段《かいだん》の下にしかれているマットに、ひと所、黒いしみができているのが目についた。 「だれだろう? こんなところにしみをつけて……」  博士《はくし》はぶつぶつ言いながら、ひょいと身をかがめて、そのしみをながめた。しみは、ちょうどかわきかけた血のように見えた。 「おかしいな、血かな?」  博士《はくし》は指《ゆび》さきで、そっとさわった。思ったとおりだった。 「だれがこんなところに血をおとしたのかな?」  にわかに胸《むな》さわぎがして、暗《くら》い予感《よかん》がしてきた。  博士《はくし》は、考えながら寝室《しんしつ》にやってきた。  と、そこでもまたかれは、おそろしいことに出会《であ》ってしまった。  なにげなく手をかけようとしたドアのハンドルが、血でまっかにそまっているのだ。  これはただごとではない。  博士《はくし》の全身《ぜんしん》の血《ち》が、さっとひいていくようだった。かれの頭には、その時、夕方|書斎《しょさい》できいたピストルの音が、ありありと浮《う》かんでいた。  おそろしいことが起こりつつあるのではなかろうか?  博士《はくし》はきっとした表情《ひょうじょう》になり、ゆだんなくあたりを見ながら、しずかに部屋《へや》にはいっていった。  しかし博士《はくし》が考えたように、警官《けいかん》のピストルで傷《きず》ついたギャングはいなかった。  ギャングはもちろん、ねこの子《こ》一ぴきすら部屋《へや》にはみえない。  ただ、ベッドの上のふとんが乱暴《らんぼう》にめくられ、血でよごされ、そのうえ、シーツがびりびりにひきさかれていた。  ギャングは、警官《けいかん》に追われて、この家に逃げこみ、ついさっきまでこの寝室《しんしつ》にしのびこんでいたにちがいない。 「そうだ。きっとそうにちがいない。なによりの証拠《しょうこ》に、ベッドにいままで人が腰《こし》かけていたらしいくぼみができているじゃないか」  博士《はくし》は血《ち》ですっかりよごれたベッドのまわりを、念《ねん》いりにしらべた。 「いつのまにしのびこんだのかな?」  博士《はくし》がふしぎそうにつぶやいた、そのとき、 「やあ、しばらくだったじゃないか、ケンプ!」  いかにもなつかしそうによびかける声が、耳のはたでひびいた。 「あっ!」  ふいをうたれてかれは、けげんそうに部屋《へや》じゅうをぐるぐる見まわした。  どこにも声の主《ぬし》の姿《すがた》はない。 「だれだね?」  博士《はくし》の声はうわずっていた。しかし、こんどは返事《へんじ》がなかった。  ただ部屋《へや》をよこぎって歩く足音がして、洗面所《せんめんじょ》のカーテンが、生き物のように動き、するするとひらいたと思うと、すぐにもとのようにしまった。  博士《はくし》は声をのみ、ぶきみに動くカーテンをみつめて棒立《ぼうだ》ちになっていた。 [#7字下げ]傷《きず》ついた透明人間《とうめいにんげん》[#「傷ついた透明人間」は中見出し]  それから五分もたったであろうか……。  博士《はくし》には、ながい時間がたったようにも思われた。  もう一度カーテンがゆれ動き、なかから、ぼんやりと、血《ち》のにじんだほうたいでぐるぐる巻きにした頭があらわれてきた。  頭だけだ。空中《くうちゅう》にぼんやり浮《う》かびあがったほうたいまきの頭は、目もなければ鼻《はな》もない。いや頭ぜんたいがないのだ。ほうたいだけが、しっかりとまきつけられている。  もちろん手も足もありはしない。  たいていの者なら、ひと目みただけで気絶《きぜつ》してしまうところだ。  が、気丈《きじょう》な博士はまっさおになりながら、じっとそのふしぎなものを見つめていた。 「ケンプ!」  ふしぎなものは博士をよんだ。 「え?」 「おどろいてるな。ぼくはグリッフィンなんだよ。ほら大学《だいがく》で同級《どうきゅう》だったグリッフィンだよ。おぼえてるだろう」 「グリッフィンだって……なにをばかなことを……この化《ば》けものめ!」  博士《はくし》はいきなり、ほうたいのほうへ手をのばした。と、どうだろう……。  人の体《からだ》にふれたではないか!  ぎょっとして手をひっこめ、まじまじと空中《くうちゅう》にうかぶおかしなものをみた。 「おちついてくれよ、ケンプ。おれはまちがいなくグリッフィンなんだ。ただおれはふとしたことで体《からだ》がすきとおってしまい、人の目に見えなくなってしまったんだ。世間《せけん》のやつらが透明人間《とうめいにんげん》だとさわいでいるだろう」  透明人間《とうめいにんげん》は目に見えぬ手で、しっかりと博士《はくし》の手をにぎりしめて、いっしんに話した。  しかし、博士《はくし》は、その手をふりほどき、めちゃめちゃに手をふりまわして、透明人間にぶつかってきた。 「しずかにしろ! ケンプ、話せばわかることなんだ、話をきいてくれ」 「なにを、このやろう、このばけものめ。話《はなし》もなにもあるものか、ふんづかまえてやるぞ」 「だまれ、おれがおまえなんかにつかまるものか……」  透明人間《とうめいにんげん》は、むかっ腹《ぱら》をたてたらしく、とうとう、博士《はくし》の足をえいっとすくい、ベッドの上にほうりだし、大声をあげて助けをよびそうにしている口の中へ、シーツのはしをぐっとねじこんだ。博士《はくし》は、こうなっては手足をばたばたさせて、もがくばかりだった。 「しずかにしてくれたまえよ、ケンプ。きみをおどしたり、きみに害《がい》をくわえるつもりできたんではないんだ。ぼくはいまこまっているんだ。きみの助けがほしくてやってきたんだよ」  博士《はくし》は、このうえ手むかってもむだだと考えたのか、おとなしくなった。透明人間《とうめいにんげん》は、口におしこんだシーツをとりのぞき、 「ねえ、きみ、どうかぼくの言うことを信《しん》じてくれたまえ。ぼくは大学《だいがく》にいたときと同じグリッフィンなんだ。ただ、あることで姿《すがた》が見えなくなったが、人さまの目に見えないだけで、ぼく自身《じしん》は、なんにも変《か》わったことはないんだ。心《こころ》も体《からだ》も昔《むかし》のままのグリッフィンなんだよ」  博士《はくし》は物わかりのいい人だったし、頭の慟きのするどい人だったので、姿《すがた》の見えないほうたいの化《ばけ》ものの言葉《ことば》に真実《しんじつ》のあることを見ぬき、 「ずいぶんきばつな話だが、話をきけばあるいはわかるかもしれん。話してみたまえ。それにきみの言うように、わしの目には、きみの姿《すがた》は見えないが、たしかに体《からだ》はあるらしいな。わしの手がたしかにさわったし、きみの腕《うで》がわしをなげとばしたからな」 「そうなんだ、そうなんだ。たしかにぼくは頭もある手足もあるんだ……。おそろしい化《ば》けものなんぞじゃないんだ。ただ研究《けんきゅう》の結果《けっか》でこんなことになってしまったんだ」 「研究《けんきゅう》の結果《けっか》だって? 研究の結果できみが透明人間《とうめいにんげん》になったというのかい?」 「そうだよ」 「信《しん》じられないね。だいいち、透明人間《とうめいにんげん》がグリッフィンだと言ったところで、たしかにかれだという証拠《しょうこ》はないわけだ。顔をみることもできんし……もっとも声はグリッフィンらしいが」 「きみ、まだそんなことを言うのかい……ぼくはまちがいなくグリッフィンだよ。ゆっくり話せば疑《うたが》いははれるよ。信じてくれたまえ、ケンプ!」 「では、話してみたまえ」 「話そう、が、そのまえにすまないがウィスキーと食事《しょくじ》と着《き》る物《もの》がほしいんだよ。じつはけがをしているので、傷《きず》はいたむし疲れきっているんだよ」 「食《た》べ物《もの》に着物《きもの》だって……すこし待《ま》ちたまえ、なにかあるだろう。が、家のものをさわがしたくないから、まにあわせだよ」  博士は、落《お》ちつきをとりもどしていた。科学者《かがくしゃ》らしく、ちみつに頭を働かし、このふしぎな透明人間《とうめいにんげん》の秘密《ひみつ》をできるかぎり探《さぐ》りだしてやろうと考えていた。 「なんでもけっこうだよ。死ぬほどつかれているんだ。なにか食べてゆっくりと眠《ねむ》りたいだけなんだ」  博士は衣裳戸棚《いしょうとだな》から、古くなったガウンをとりだして、 「これでまにあうかね?」 「けっこうだよ。それにズボン下とくつした、そしてスリッパがあれば申し分ないが……」  空中《くうちゅう》の声がへんじをするといっしょに、博士《はくし》の手からガウンがとりあげられ、空中《くうちゅう》でばたばたとゆれていたが、そのうち、透明人間《とうめいにんげん》が着《き》こんだらしく、しゃんと立ってボタンがひとつずつかけられていった。 「やれやれ、これで身じたくがととのったよ。あとはウィスキーに食べ物があればいいんだ。裸《はだか》で腹《はら》をすかせているのは、まったくつらいよ。まだ夜になると裸ではこおりつきそうに寒いし、腹《はら》がすいてたおれそうになるし、まったくつらかったよ」  透明人間《とうめいにんげん》は、服《ふく》をきてしまうと、ゆっくりといすに腰《こし》をおろした。 「ねえ、ケンプ。早くウィスキーを飲《の》ませてくれないか」  透明人間《とうめいにんげん》は、せかせかとさいそくした。 「いま持《も》ってくるよ。だが、こんなきちがいじみたことにであうのは、生まれてはじめてだよ。ぼくは催眠術《さいみんじゅつ》にかかっているのかな?」 「ばかなことを言いたまえ、ぼくは催眠術なんぞやらないよ」  博士は、足音をしのばせて台所におりてゆくと、冷《ひ》えたカツレツとパンを手にしてもどってきた。 「ウィスキーはここにある。さあ食べたまえ」  博士《はくし》はサイドテーブルにそれらをならべると、ほうたいとナイト・ガウンの化《ば》けものに声をかけた。ウィスキーをグラスについでやると、ナイト・ガウンの袖《そで》が動いて、すっとグラスを持ちあげた。グラスを持ちあげたというより、グラスがひとりで空中《くうちゅう》に浮かびあがっていったような感じだった。  口のあたりと思われるところでグラスがかたむくと、みるまにウィスキーは飲みほされた。 「ああ、うまい」  つぎに、カツレツが空中《くうちゅう》に舞《ま》いあがった。つづいてパンも……。 「なるほど、見えないよ。で、傷《きず》をしているといったが、どこを傷つけられたんだね」 「傷《きず》はたいしたことはないんだ」  透明人間《とうめいにんげん》はがつがつと口いっぱいにほおばって、むさぼるように食べながら言った。  見るまにウィスキーも食べものも、へっていった。 「ああ、うまい、それにしてもぼくがほうたいをさがしてまよいこんだのが、きみの家だったとはふしぎだな。ぼくは運《うん》がよかったよ。こん夜は泊《と》めてもらいたいね。ひさしぶりにゆっくり眠《ねむ》りたいんだ。ベッドを血《ち》でよごしてすまなかったね。体《からだ》は透明《とうめい》になっていても、血だけはかたまると見えてくるんだよ……。そのためにさっきも、あやうくつかまるところを、きみの所ににげこんでたすかったんだ」 「また、どうしてピストルでうちあいなんかやったんだね」 「ばかなやつが、ぼくの金《かね》を盗《ぬす》もうとしたんだ。そいつはぼくがなかまにしようと思ってた男だのに……」 「そいつも透明《とうめい》なのかい?」 「いいや、かれはふつうの人間《にんげん》だよ。あいつはぼくを恐《おそ》れてびくびくしていたくせに、ぼくをうらぎろうとしたんだ。あいつめ、こんど会《あ》ったらぶち殺《ころ》してやる。ちくしょうめ!」  透明人間《とうめいにんげん》は、はげしく体《からだ》をふるわして怒《おこ》りだした。ナイト・ガウンがそれにつれてぶるぶるとふるえた。  博士《はくし》は、グリッフィンが大学生のころから、ひどくおこりっぽい感情のはげしい男だったのを思いだして、一生けんめいになだめた。透明人間《とうめいにんげん》は、ようやく怒《いか》りをしずめ、 「ぼくは武器《ぶき》をつかったりなんかしなかったんだ。それだのに、やつらはおれにむかって、つづけざまにピストルをうつんだ。たいていのやつらはぼくをこわがって、ぼくを追《お》っぱらおうとして乱暴《らんぼう》するんだよ」 「なるほど、が、きみがそんな体《からだ》になったいきさつを、話してきかせてほしいな」 「それはゆっくり話すよ。そのまえに、たばこがほしいんだが」  博士《はくし》はいわれるままに、たばこを透明人間《とうめいにんげん》にあたえた。ところが、見るからに奇怪《きかい》なことが起こった。それは透明人間が、うまそうにたばこを吸《す》いはじめると、たばこの煙《けむり》が流れるにしたがって、口《くち》からのど、そして鼻《はな》と、そのかたちがぼんやりとうきあがってきたのだ。 「ありがたい。きみのおかげで、寒《さむ》さからも空腹《くうふく》からものがれることができたよ。そのうえ、おちついてたばこをすうことまでできたんだ。まったく感謝《かんしゃ》するよ。しかし、ケンプ、きみは学生時代《がくせいじだい》と、ちっとも変わっていないな。きみのようにどんなときでも落ちつきはらって、てきぱきと物ごとをかたづけてゆける人間こそたよりになるんだ。これからどうか、ぼくをたすけてくれたまえ」  透明人間《とうめいにんげん》が言った。博士は、じぶんもちびちびとウィスキーをのみながら、 「いったいきみはぼくに、なにをやれというのだね。ぼくは人をたすけるどころか、ぼく自身どうしたらいいかと思いまよっているんだよ」 と、博士《はくし》はくらい表情《ひょうじょう》でこたえた。そのうち透明人間《とうめいにんげん》は、にわかにうめき声をあげ、体《からだ》をえびのようにまげ、頭をかかえこんだ。  熱《ねつ》がでてきて、傷《きず》がいたみはじめたのだ。 「きみ、この部屋《へや》で朝までゆっくり眠《ねむ》りたまえ。そうすればきっと、あすの朝は気分《きぶん》もさわやかになるだろうから……」  博士は親切《しんせつ》にすすめた。ところが透明人間《とうめいにんげん》は、苦《くる》しそうにうなり声をたてながら、どうしても眠《ねむ》ろうとしなかった。 「きみ、えんりょしないで眠りたまえ。そうすれば気分もよくなるし……」  透明人間は、なにを思ったのか、しばらくだまって博士をじっと見つめていたが、 「ぼくは、心をゆるした人間につかまるのはいやだね」 と言った。博士《はくし》はぎくりとした。  なにもかも見すかしたような透明人間《とうめいにんげん》のことばは、博士《はくし》の心をぐさりと突《つ》きさした。 [#7字下げ]友《とも》をどうしよう[#「友をどうしよう」は中見出し] 「ぼくがきみを警官《けいかん》の手にわたすなんて、そんなばかなことがあるものか……ぼくを信《しん》じてゆっくりとやすみたまえ」  しかし、透明人間《とうめいにんげん》はどこまでも用心《ようじん》ぶかかった。部屋《へや》のなかをねんいりに見わたしてから、ふたつの窓《まど》をしらべ、そしてドアの鍵《かぎ》をあらため、警官《けいかん》がまんいちかれをおそうことがあっても、逃げだす道があることをたしかめてから、やっと、よこになった。 「おやすみ」  博士が透明人間《とうめいにんげん》に言って、ドアをしめようとすると、急《きゅう》にナイト・ガウンがすーっと近《ちか》づいてきて、 「だいじょうぶだろうね、ケンプ。ぼくをゆっくりねむらしてくれるね。警官《けいかん》にわたしはしないだろうね」  博士《はくし》は顔いろをかえ、 「わすれたのかい。たったいま、やくそくしたじゃないか。よけいな心配《しんぱい》をしないで、ぐっすりやすみたまえ」  ドアをしめると、すぐに中から鍵《かぎ》をかける音がした。  博士《はくし》は、 「やれやれ、とうとうじぶんの寝室《しんしつ》から追いだされてしまった。まるっきり、夢《ゆめ》をみているのか、気がちがっているのか……わけがわからない」  なんども頭をふりながら、廊下《ろうか》をゆっくりと歩いて書斎《しょさい》にはいった。  博士《はくし》は、ぐったりといすに身をなげだして、もの思いにしずんでいたが、 「そうだ、新聞《しんぶん》を見れば、なにか手がかりがつかめるかもしれんぞ」  ぽつりとひとり言《ごと》をもらし、いくとおりもの新聞《しんぶん》をかきあつめ、机《つくえ》の上にひろげて、むさぼるように読みはじめた。  どの新聞《しんぶん》も、アイピング村でのさわぎが、大げさに書きたてられている。 「ふうん、村人をなぐりたおしてあばれまわったというのか……なんて乱暴《らんぼう》なことをするのだ。えっ、なに、巡査《じゅんさ》はなぐられて気《き》ぜつしたっていうのか。そして宿屋《やどや》の女主人《おんなしゅじん》はおそろしさのために、寝こんでしまったのか。なんというおそろしいことをやる男だ」  博士《はくし》は、ぼんやりと前方《ぜんぽう》を見つめて、考えこんでいたが、ぽとりと新聞を手から落としてしまった。いくら考《かんが》えても、この奇怪《きかい》な事件《じけん》ははっきりしない。  博士《はくし》は、長いすによりかかって眠《ねむ》ろうとしたが、目がさえて、寝《ね》つかれそうもなかった。  やがて、窓《まど》から、しらじらと朝のひかりが流《なが》れこんできたが、博士はまだふいに飛《と》びこんできたやっかいな透明人間《とうめいにんげん》を、どうしようかと思いなやんでいた。 「やれやれ、これでやつが起《お》きだしてくれば、また、服《ふく》だけの化《ば》けものと、しかつめらしい顔をして話し、なんにもないところへ、たべものがつぎつぎと消えていくのを見ていなくてはならないのか。どうかして、この災難《さいなん》からのがれるすべはないかな」  へいぜいは頭のするどさをほこり、どんなことでもあざやかにかたづけてしまう博士《はくし》も、思ってもみなかった透明人間には、すっかり手をやいたらしかった。  夜がすっかりあけはなたれると、お手伝いが朝の新聞をかかえてやってきた。  博士は、お手伝いにむかい、 「いいか、朝食《ちょうしょく》を二人まえ用意《ようい》して、ここまでもってきなさい。そしてわしが呼《よ》ぶまで、二|階《かい》へかってにくることはならんよ。わかったな」 「はい」  お手伝いは、博士が研究であたまをつかいすぎて、気が変になったのではないかと、心配しはじめた。  博士《はくし》は、お手伝いがはこんできた熱《あつ》いコーヒーをすすると、いくらか気分《きぶん》がはっきりした。  朝の新聞《しんぶん》をひろげ、透明人間《とうめいにんげん》のことが書かれているところを、ねんいりに読んだ。 「新聞には、透明人間は狂人《きょうじん》になったにちがいないと書いてあるぞ。じっさいやつは、気がくるっているにちがいない。なにをやりだすか、わかったもんじゃない。しかも空気《くうき》のように自由《じゆう》な身だ。悪事《あくじ》をやりだせば、こんなおそろしい敵《てき》はない。そいつがおれの家《いえ》にまいこんできたんだ。それにやつは、昔《むかし》の友だちのグリッフィンだというのだから……」  博士は机《つくえ》のまえに、どっかりと腰《こし》をおろすと、ながい間、頭をかかえて考えこんでいた。 「おお、どうしてそんなことができよう――友《とも》だちの信《しん》らいをうらぎるなんて……。だが……たとえ友だちであっても――」  博士《はくし》は、思いまよったすえ、ひきだしから便《びん》せんをとりだすと、ペンを走らせだした。  書いてはすて、書いてはすて、博士はなんども書きなおして、やっと一|通《つう》の手紙《てがみ》をかきあげると、封《ふう》をして、宛名《あてな》をしたためた。  それには肉太《にくぶと》の博士《はくし》のいつもの字で、 『ポート・バードック署《しょ》 アダイ警部《けいぶ》どの』――と書かれてあった。 [#7字下げ]光《ひかり》と色《いろ》[#「光と色」は中見出し]  透明人間《とうめいにんげん》は起きあがるやいなや、あばれはじめた。けさはひどく、きげんがわるいらしい。  いすをなげとばし、洗面所《せんめんじょ》のコップをたたきわった。  もの音で博士《はくし》が、あわててかけつけてきた。 「どうしたのだ? なにか気にいらないことでもあるのかい?」 「なに、頭の傷《きず》がすこしばかりいたみだしたので、気分《きぶん》がすぐれないんだ。いやな気もちがするんだ」  博士《はくし》はだまって、ちらばっているガラスのかけらをひろいあつめ、 「きみのことが、すっかり新聞にのっているよ。世間《せけん》は透明人間《とうめいにんげん》のうわさでもちきりらしい。ただ、ぼくの家にきみがしのびこんでいることは知らないがね」 「うるさいやつらだ! なぜぼくを、しずかにしておいてはくれないんだろう」 「それはむりだよ。世の中は、物わかりのいいやつばかりでできてやしないんだ。そいつらは、どこまでもきみをつかまえようとさわぐだろうね。そこで、これからどうするかね? むろん、ぼくはできるかぎりの手伝《てつだ》いはするよ。だが、きみはいったい、どうしたいと思ってるのかね」  透明人間《とうめいにんげん》は考えこんでいるらしく、ベッドのはしにすわりこんだまま、だまっている。  ケンプ博士《はくし》は、しばらくしてから、さりげなく、 「書斎《しょさい》に朝食《ちょうしょく》のよういをさせてあるよ」 と、さそった。透明人間《とうめいにんげん》はすなおに立ちあがり、博士《はくし》のあとについて書斎《しょさい》にはいってきた。  ゆうべとおなじように、ナイト・ガウンだけが、すーっと食卓《しょくたく》のまえにすわりこんで、手も口もなんにも見えないのに、どんどん食べはじめた。  はじめて見たときほどおどろかなかったが、やはりへんな光景《こうけい》だった。  食事《しょくじ》がおわりかけたころ、ケンプ博士《はくし》は、 「これから先《さき》のことを相談《そうだん》するまえに、なぜきみがそんな体《からだ》になったか、くわしく話してもらいたいね」  透明人間《とうめいにんげん》は、ナプキンをとりあげ、ゆっくりと口のあたりと思われるところをふき、 「かんたんなことなんだ。きみだって説明《せつめい》をきけば、なーんだ、と思うよ。奇跡《きせき》がおこったのでも、なんでもないさ」 「きみには、かんたんかもしれないが、ほかの者にとっては、奇跡《きせき》とおなじくらいふしぎなことだよ」 「はっはっは」  透明人間《とうめいにんげん》は、ケンプ博士《はくし》に会ってからはじめて、ゆかいそうに笑《わら》った。 「さて、それではなにから話そうかな。ぼくが、はじめ医学《いがく》を勉強《べんきょう》していたことは、きみも知っているとおりだ。その後《あと》、ふとしたことから医学を研究《けんきゅう》することをよして、物理学《ぶつりがく》にうつったんだ。ことに光《ひかり》の反射《はんしゃ》とか屈折《くっせつ》とかが、ぼくの興味《きょうみ》をとらえてしまったんだ」 「昔《むかし》からきみは、そういうことを研究《けんきゅう》するのがすきだったじゃないか」 「そうだよ。しかも、この研究《けんきゅう》は人があまりやっていないので、いくらでも研究することが残《のこ》されているのが、若いぼくには、たまらない魅力《みりょく》だったのだ。まだ二十二才のわかい科学者《かがくしゃ》だったぼくには、これに一|生《しょう》をささげて、いつかは世間《せけん》のやつどもを、あっといわせるような研究《けんきゅう》をやりとげようと決心《けっしん》したんだ」  透明人間《とうめいにんげん》は、いつもの、いんきくさい世《よ》をのろったような声とはまるでちがう、わかい張《は》りのある声で話しつづけた。 「それからのぼくの頭には、研究《けんきゅう》のことよりほかは、なにもなかったね。寝《ね》てもさめても考えるのは、研究《けんきゅう》のことばかり――六ヵ月ほどたったとき、はっと思いついたことがあったのだ」 「どんなことだ」 「きみも知っているとおり、物が見えるということは、光が物にあたったとき反射《はんしゃ》するか、そのまま吸収《きゅうしゅう》されてしまうか、または光がおれまがる具合《ぐあい》によって、いろいろな色とか、形とかが、それぞれの姿《すがた》をもって目にみえるので――光のこの三つの働《はたら》きがなかったら、われわれは物をみることができないわけだ」 「そうだ」 「たとえば、われわれが赤い布《ぬの》をみるとするね。赤くみえるのは、太陽《たいよう》の光線《こうせん》のなかで赤い色のところだけを布《ぬの》が反射《はんしゃ》して、あとの色はみんな吸《す》いこんでしまうからなんだ。また光をぜんぶ反射《はんしゃ》してしまえば、白くきらきらとかがやいてみえるだろう。そしてふつうのうすいガラスが、光のすくないうす暗いところなどでは見にくいわけは、光をほとんど吸収《きゅうしゅう》しないし、はねかえすことも、おれまがる度合《どあい》もすくないからなんだ」  透明人間《とうめいにんげん》はむちゅうで、しゃべりまくっている。ケンプ博士《はくし》はあきれ顔をして、じっと相手《あいて》の声をきいていた。 「そのガラスをこなごなにして、水のなかに入れてみたまえ。たちまち見えなくなってしまうだろう。これは水とガラスは、光がおなじような具合《ぐあい》におれまがるからなんだ。これから考えをすすめてゆけば、なにもガラスを水中《すいちゅう》に入れなくても、水の中に入れたとおなじように見えなくすることができるはずだろう」 [#7字下げ]ガラスと人間《にんげん》[#「ガラスと人間」は中見出し] 「そうだ。しかし、人間《にんげん》はガラスとちがうからな!」 「そんなことはない。人間はガラスとおなじように透明《とうめい》だよ」 「そんなむちゃな話はないよ」 「むちゃな話ではないんだ。りっぱにすじみちのとおっている話だよ。人間だって血液《けつえき》の赤い色と毛髪《もうはつ》の色などをとりのぞけば、体《からだ》じゅうが無色《むしょく》で透明《とうめい》になってしまうんだ。ガラスとたいしてちがわないよ」  ケンプ博士《はくし》は透明人間《とうめいにんげん》のきばつな考えに、ただうなずくばかりだった。透明人間のことばはますます熱《ねつ》をおびてきた。 「ぼくがこれを考えついたのは、ロンドンを去ってチェジルストウにいたときだ。今から六年ほど前のことになるがね。その時のぼくの先生《せんせい》のオリバー教授《きょうじゅ》というのは、じつに根性《こんじょう》のまがった男で、学者《がくしゃ》のくせに学問《がくもん》や実験《じっけん》に身を入れないで、世間《せけん》のひょうばんや名声《めいせい》ばかりに気をとられているのだ。だから、ぼくはだれにも秘密《ひみつ》で、研究《けんきゅう》をすすめていくことにしたのだ」 「だれの手もかりないで、きみひとりでかい?」 「そうだ。ぼくは研究《けんきゅう》が完成《かんせい》したそのとき、ぱっと世間《せけん》に発表《はっぴょう》して、一夜で天下《てんか》に名をとどろかせてやろうと考えたんだ。研究はおもうとおりに進んだ。そのうち、思いもかけない大発見をしたのだ。これはぼくの手がらではないんだ。ぐうぜんなことで、おもいがけないたまものが、さずかったというわけだ」 「ずいぶん大げさなんだね。いったい、どんな大発見なんだい?」 「きみ、おどろいてはいけないよ。ぼくは血《ち》を無色《むしょく》にすることができるということを見つけたんだよ。血《ち》を無色《むしょく》にすることができれば、人間を透明《とうめい》にすることができる、というわけだ。人間の体《からだ》の血液《けつえき》を透明《とうめい》にしてしまえば、体じゅうが透明になるわけだからな。そうなれば、ぼく自身《じしん》、透明になることはわけないというわけさ。もちろん、そのために体《からだ》に害《がい》があってはなんにもならないが、その点《てん》は自信《じしん》があったのだ」 「な、なんだって……なんということを考えだしたのだ。おそろしい人だね、きみは」 「おどろくのもむりはないよ。それを発見したぼく自身、しばらくの間は、ぼうぜんとしていたくらいだからね。ぼくはその夜のことを、いまでも、はっきりとおぼえているよ――。研究室《けんきゅうしつ》にいるのはぼくひとりで、ひっそりとしずまりかえっていた。ぼくはじぶんのこの発見にすっかり興奮《こうふん》してしまい、じっとしていられなくなった。窓《まど》をおしひらいて、夜空《よぞら》にしずかにまたたいている星をみあげ、いくどか、おれも透明《とうめい》になれるんだぞと、くりかえしてつぶやいた。それでいくらか落ちつきをとりもどしたんだよ」 「そうだろうね。その気もちは、ぼくにもわかるようだが……」 「ねえ、きみ、考えてみたまえ。すがたを消《け》して思いのままをやるのは、人間の昔《むかし》からのあこがれだったじゃないか。おとぎ話のなかの魔法使《まほうつか》いとおなじになれるんだ。こんなすてきなことがあるだろうか。それをぼくがやりとげたんだ」  透明人間《とうめいにんげん》は、いきおいこんで話しつづけた。せきをきった水のように、とまることをしらぬようにさえ思われた。ケンプ博士《はくし》はしずんだようすで、かれの話に耳をかたむけていた。 「これで、ながい間、ばかな主任教授《しゅにんきょうじゅ》に見はられながら、苦心《くしん》したかいがあったと思ったね。田舎《いなか》の大学で頭のさえない学生をあいてに心にそまない授業《じゅぎょう》をして、毎日をみじめにすごしてきたぼくが、これはどの成功《せいこう》をしようとは、だれも考えなかったろう。しかし、この研究をかんぜんなものにするために、それからさらに三年の年月、むがむちゅうで研究《けんきゅう》をつづけたんだ。ところが三年たってみると、この研究《けんきゅう》を完成《かんせい》させるには、どうしても金《かね》がたりないということに気づいたんだ」 「金《かね》が……」 「そうだ」  透明人間《とうめいにんげん》は吐《は》きすてるように言って、だまりこんでしまった。 [#7字下げ]研究《けんきゅう》の鬼《おに》[#「研究の鬼」は中見出し]  ケンプ博士《はくし》もだまりこんで、じっとナイト・ガウンだけの人間《にんげん》を見つめていた。  ながい間、なんの物音もしなかった。  ふと、透明人間《とうめいにんげん》が口をひらいた。 「金がなければ、ぼくの研究《けんきゅう》をつづけることはできない。やむをえず、おやじの金《かね》を盗《ぬす》んでしまったんだ……」 「おとうさんの金を盗んだって……きみが?」 「うん、ところがそのお金は、おやじのものではなかったんだ――。そして……おやじはそのために自殺《じさつ》をしてしまったんだ」  ケンプ博士は、くらい目つきで、透明人間《とうめいにんげん》をみつめた。 「ぼくのそのころ、チェジルストウの家をひきはらって、ロンドンのポートランド街《がい》にもどっていた。部屋《へや》をかりてすんでいたんだ。おやじの金をぬすんで、いろいろな実験《じっけん》にいるものを買いととのえたので、ぼくの研究《けんきゅう》は気もちがいいほど具合よくすすんでいったんだ」  ケンプ博士はうなずいた。そして心のなかで、 (なんというつめたい男だろう。やつは研究の鬼《おに》になってしまったんだ。やつの心には、もうあたたかい人間の血《ち》が通っていないのかもしれない。おそろしいことだ) と考えていた。が、透明人間は博士《はくし》の心のなかのことなどは気にもかけず、 「おやじの葬式《そうしき》は風のつめたい、さむい寒い日だったよ。ぼくはおやじがさびしい丘《おか》の中腹《ちゅうふく》にほうむられるのをみても、考えるのはただ研究《けんきゅう》のことばかりで、さびしいとも悲《かな》しいとも思わなかったんだ。葬式《そうしき》をすませてじぶんの部屋《へや》にかえってきたときには、はじめて生きているかいがあると思ったよ。ぼくはむちゅうになって研究《けんきゅう》にとりかかった」  透明人間《とうめいにんげん》は、ふと口をつむぐと、くらい顔ですわりこんでいる博士《はくし》に、 「きみ、つかれたのかい? 顔いろがさえないようだ」 「いや、なんでもない。さあ、つづけたまえ。それからどうなったんだ」 「そのときすでに研究《けんきゅう》は、九|分《ぶ》どおりできあがっていたんだ。その大体《だいたい》のことは、浮浪者《ふろうしゃ》がもち逃《に》げしたノートに、暗号《あんごう》をつかって書いてある。あいつめ、おれのノートを取りやがって……どんなことをしてもとりかえしてやるぞ。うらぎったやつには、思いしらせてやる!」  透明人間《とうめいにんげん》はあの浮浪者《ふろうしゃ》のことを思いだし、研究の話をするのもわすれて、さんざんにののしりはじめた。すると、博士《はくし》が、 「研究《けんきゅう》のほうのことをきかせてくれたまえ。そしてどうなったんだい?」 「ついに待ちのぞんでいた日がきたんだ。その日の実験《じっけん》には白い羊毛《ようもう》を使ってみたんだ。実験《じっけん》はうまくいって、白い羊毛がじっと息《いき》をころしてみつめているぼくの目のまえで、けむりのように色がしだいにうすくなり、やがて、すーっと消《き》えていってしまったんだ。その光景《こうけい》は、なんともいいようのないくらい、ぶきみなものだったよ」 「それで……」 「白い羊毛《ようもう》がすっかり消《き》えて、ぼくの目に見えなくなったときには、まるで信《しん》じられない気がしたよ。ぼくはそっと、羊毛《ようもう》をおいたあたりをさわってみた。すると、どうだ! やはり羊毛《ようもう》はまえとおなじ場所に、ちゃんとあるんだ。そのときのぼくの気もちといったら、うれしいような、気味《きみ》のわるいような、変《へん》な気もちだったよ」  ケンプ博士《はくし》は口のなかで、そっとつぶやいた。 「信《しん》じられん話だが………うそではなさそうだ」  そして透明人間《とうめいにんげん》に、ひとやすみしないかと言《い》い、ポケットからたばこをとりだした。  透明人間は一本ぬきとると、火をつけて口にくわえた。と言っても、やはり空中《くうちゅう》にたばこがういているように見えるだけである。 「つぎの研究には、ねこをつかったんだ」 「生きてるねこをかい?」 「もちろんさ。そのねこは階下《かいか》にすむ、ひとり者《もの》の老婆《ろうば》のかわいがっているねこなんだ。ぼくは血《ち》のいろをうすめる薬《くすり》やらそのほかの薬やらを、苦心《くしん》してそのねこにのませたんだ。そして薬《くすり》で、ねこを眠《ねむ》らせておいた。ねこがつぎに目をさましたときには、羊毛とおなじように、けむりのようにきえていたんだ」 「ねこが透明《とうめい》になってしまったって……?」 「そうだ。もっともすこし失敗《しっぱい》したところもあって、うまく消《き》えうせてはしまわなかったがね。うまくいかなかったところは、ひとみと爪《つめ》だ。ねこは薬《くすり》をのませると同時《どうじ》に、ひもでしばって逃《に》げださぬようにしておいたんだ。そのうちに気をとりもどして、起きあがったときには、からだはかんぜんに消《き》え、ふたつのほそい目と爪《つめ》だけが、部屋のなかにゆうれいのように浮《う》いていたんだ」 「ぶきみな話だ! それに、ねこがかわいそうじゃないか」  ケンプ博士《はくし》は、とがめるように言った。 「持主《もちぬし》の老婆《ろうば》が、ねこを探《さが》しにきて、『わたしのねこが、こちらにきているでしょう。たしかになき声がしていましたよ』と、がなりたて、部屋《へや》の中をじろじろとのぞきこんだが、ねこはクロロフォルムでねむらせてあったので、見つかるはずはない。うさんくさそうになんどもながめまわしてから、やっとひきあげていったよ。おかしかったねえ」 「透明《とうめい》になってしまったねこは、その後《ご》、どうしたんだね」 「さあ、どうしたかね。透明《とうめい》になると、ひどくあつかいにくくてね。つかまえようとしてもつかまえることができない。そして、にゃあにゃあ、なきつづけているので、とうとう、うるさくなって、窓《まど》をあけてそとへ追いだしてやったよ」 「すると透明《とうめい》ねこは、いまでもどこかをさまよっているというわけだね」 「生《い》きていればね。だが、おそらく死《し》んでいるだろう。目に見えないねこに、えさをやる人もいないだろうからね」 「そうか、かわいそうに……」  博士《はくし》は、なんにもないところに、ねこの丸《まる》いひとみがふたつ、みどり色にひかり、かなしそうに食べ物をもとめてなく声だけがきこえる光景《こうけい》を、ありありと思いうかべて身ぶるいした。 「ぶきみなことだ!」 [#7字下げ]グリッフィン透明《とうめい》になる[#「グリッフィン透明になる」は中見出し]  つぎに透明人間《とうめいにんげん》が話しだしたのは、いよいよかれ自身《じしん》の体《からだ》が、どのようにして透明にかわっていったか、ということだった。 「一月のことだったよ。雪《ゆき》のふる前の日で、おそろしくさむい日だった。ながい研究《けんきゅう》のつかれがでたのか、気分《きぶん》はすぐれず、いつものように実験《じっけん》をつづける元気《げんき》もなかったんだ」  透明人間《とうめいにんげん》はつかれたようすもなく、また話しはじめた。 「四年の間、あけてもくれても、ただ研究《けんきゅう》を完成《かんせい》させることだけを考えてくらしていたが、もともとわずかばかりしかなかった金は、ほとんど使いはたしてしまい、体《からだ》もくたくたにつかれきると、なにをするのもいやになってしまった。ぼんやりと丘《おか》にのぼって子どもたちがあそんでいるのをながめていたが、そのうち、ぼくの体《からだ》が透明《とうめい》になって人目につかなくなったら、こんなみじめな境遇《きょうぐう》からぬけだし、いろいろときばつな、ゆかいなことができるのではないかと、考えたんだ」 「それできみは、体《からだ》を透明《とうめい》にするおそろしい仕事にとりかかったのかね?」 「そうなんだ。ぼくは下宿《げしゅく》にかえると、さっそく薬《くすり》の調合《ちょうごう》にかかったんだ。そこへ前からぼくのことをうさんくさい目でみていた下宿《げしゅく》のおやじが、文句《もんく》を言いにきたんだ。おやじは部屋じゅうをじろじろながめまわして、『あんたはいったいこの部屋《へや》で、どんな仕事をしているんですかね、へんなにおいがしたり、夜っぴてガス・エンジンがうなったり……おかげで下宿《げしゅく》じゅうの人間《にんげん》が、おちおち暮《く》らすこともできないではありませんか。人には言えねえ怪《あや》しげな研究《けんきゅう》でもやっているんじゃありませんか……とんだめいわくをかけられたら、たまったものじゃありませんからな』と、くどくどといつまでもいいつづけるので、ぼくはとうとうかんしゃくを起こして、『うるさい! でていけっ!』と、どなってやったんだ」 「らんぼうだね!」 「しかたがないさ。おやじは、ぼくにどなられると、かんかんになっておこりだした。ぼくはついにがまんしきれなくなって、おやじのえり首《くび》をつかむと、ドアのそとへ力《ちから》いっぱいなげだしてやったよ。これでぼくは、この下宿《げしゅく》からもでてゆかねばならないことになってしまったんだ」  透明人間《とうめいにんげん》の着《き》ているナイト・ガウンが、はげしくぶるぶるとふるえた。そのときのことを思いだして、もういちど腹《はら》をたてているらしかった。 「こんなわからずやのおやじがいては、とてもじぶんの研究《けんきゅう》をこのままぶじにつづけることはできない、とわかったので、ぼくはすぐにつぎの手段《しゅだん》を考えだした。大いそぎで薬品《やくひん》の調合《ちょうごう》にとりかかり、それができあがると、夕方《ゆうがた》から夜にかけて、ぼくは体《からだ》を透明《とうめい》にするその薬《くすり》をのみつづけたんだ――」  ケンプ博士《はくし》は、そのとき口をもぐもぐさせて、なにか言いかけたが、そのまま、透明人間《とうめいにんげん》の話をだまってききつづけた。 「夜ふけになったとき、薬《くすり》のために、ぼくはたまらないほど気もちがわるくなってしまった。いすにぼんやりと腰《こし》かけていると、だれかがドアを力いっぱいたたくんだ。ぼくは動く気がしないので、ながいあいだ放《ほう》っておいたが、どうしてもノックをやめないんだ。たまりかねてドアをあけると、下宿のおやじが立っていて、なまいきな態度《たいど》で一枚の紙きれをさしだしたが、ひょいとぼくの顔をみると、目玉《めだま》がとびでるほどおどろいて、紙《かみ》きれをその場にほうりだして、ころがるように逃げていったよ」 「どうしたというのだい? そのおやじは……」 「ぼくも鏡《かがみ》をみるまでは、わけがわからなかったんだ。が、おやじが逃《に》げだしてから、鏡をみて、やっと、やつのふるえあがったわけがわかったよ。ぼくの顔がまっ白にかわっていたんだ。すきとおるほど白くね」 「白く?………」 「そうだ。予期《よき》したようにね。それから夜あけまでの苦《くる》しみは、ぼくも予期しなかったことなんだ。皮膚《ひふ》はもえるように熱《あつ》くなり、体《からだ》じゅうが、かっかっとほてって、その苦しさときたら、いまにも気絶《きぜつ》して、それっきり死んでしまうかと、たびたび思ったほどだった。歯《は》をくいしばってがまんしたが、うめき声はひとりでに高くなり、ついにぼくは気絶《きぜつ》してしまったんだ」  ケンプ博士《はくし》は、おそろしさに身ぶるいしながら、心のなかで、 (やつの魂《たましい》は悪魔《あくま》にみいられているにちがいない。でなければ、ふつうの人間《にんげん》に、そんなおそろしいことがたえきれるはずがないんだ) と、思っていた。透明人間《とうめいにんげん》は、じぶんの話にすっかりむちゅうになって、博士《はくし》のことなどわすれてしまっているようだった。 「こんど気がついたときは夜あけだったよ。はげしい苦《くる》しみはやんでいたが、ひどい疲《つか》れでくたくたになっていた。明けがたの光が窓《まど》からさしこんだとき、ぼくはじぶんの手をみて、おどろきとよろこびといっしょになった、言いようのない声をあげたんだ。なぜって――両手がくもりガラスのような色になってたんだ。そして、じっと見つめているうちに、両手はどんどん透きとおって、夜がすっかり明けきったころには、まったく透明《とうめい》になってしまったんだ」 「両手《りょうて》といっしょに、体《からだ》じゅうも透明《とうめい》になったのかい?」 「もちろんだ。一番さいごまで色が残っていたのは爪《つめ》だったね。じぶんで決心《けっしん》してやったことだが、こうして成功《せいこう》して全身《ぜんしん》が透明《とうめい》になってしまうと、さすがのぼくも、たいへんなことをやったなと、心おだやかでなかった。もう一度ベッドにもぐりこんで、昼《ひる》ちかくまでゆっくり眠《ねむ》って元気《げんき》をとりもどすと、研究《けんきゅう》に使った機械《きかい》や道具《どうぐ》を二度ともとにできないように、めちゃめちゃにしておき、ここからでていくじゅんびに取りかかった。」 「なぜ機械《きかい》をこわしたんだい?」 「ほかの者に、ぼくの研究をかぎつけられないためさ。そこへまた夜のあけるのをまちかねた下宿《げしゅく》のおやじが、くっ強《きょう》な若者《わかもの》を二人もつれて、『化《ば》けものやろうめ、きょうこそは、なにがなんでも追いだしてやるからな。腕《うで》づくでも追っぱらう気なんだ』といきまきながら、ドアをおしやぶってはいってきた。ぼくは、入れちがいにそとへでていったよ。もちろん、やつらはすこしも気づかなかった。部屋《へや》のなかにぼくの姿《すがた》がみえないので大さわぎをしていたよ」  そこで透明人間《とうめいにんげん》はおかしそうに、くっくっくっとふくみ笑《わら》いをして、また話しだした。 「やつらがぼくの部屋《へや》をひっかきまわしてさわいでる間に、ぼくは、おやじの部屋《へや》にもぐりこんでようすを見ていたんだ。さわぎはだんだん大きくなって、下宿《げしゅく》の人間《にんげん》はひとり残《のこ》らず、そのうえ出入《でい》りの商人《しょうにん》たちまでがぼくの部屋《へや》にはいりこんで、実験《じっけん》の機械《きかい》や薬品《やくひん》をいじりはじめたんだ」 「それで……」 「ぼくはそのようすを見ながら、ふと、『こいつらのように無学《むがく》なやつどもがさわいでいる間はよいが、そのうちに学問《がくもん》のあるやつがこれを見にきて、ぼくの研究《けんきゅう》をかぎつけるようなことになるかもしれない』と考えたんだ」 「だってきみは、機械《きかい》をこわしておいたんだろう?」 「そうだ。だが、それで安心はしていられないよ。そこで永久《えいきゅう》にぼくの研究《けんきゅう》を秘密《ひみつ》にしておく方法を考えだしたんだ」 「どんな方法だい? そんなことができるのかい……」 「完全《かんぜん》な方法《ほうほう》だよ。ぼくは、ぼくの部屋《へや》でさわいでいた連中《れんちゅう》がすっかりひきあげると、そっと、おやじの部屋から、ぼくの部屋にひきかえして、そのへんにある書類《しょるい》や紙《かみ》くずを山とつみあげ、マッチをすって、火をつけてやった。燃《も》えあがるのをみて、その上にふとんやいすをつみかさね、さいごにゴム管《かん》をひっぱって、ガスをふきださせたんだ。ガスはすぐに燃《も》えあがり、たちまち、ふとんもいすもめらめらと火《ひ》をふきだした。ぼくは、そこまで見とどけると、そっと玄関《げんかん》から、街《まち》へしのびでていったよ。いやな下宿《げしゅく》におさらばしてね」 「それじゃあ、きみは、放火《ほうき》してきたというのかい?」 「そうさ。それよりほかに、ぼくの研究《けんきゅう》を永久《えいきゅう》に秘密《ひみつ》にしておける方法があるかね? ないだろう」  博士《はくし》には、そのときの透明人間《とうめいにんげん》の声が、地獄《じごく》のそこからきこえてくる悪魔《あくま》の声のようにおもえた。 [#7字下げ]街《まち》にでた透明人間《とうめいにんげん》[#「街にでた透明人間」は中見出し] 「街《まち》へふみだしてみて、ぼくははじめて透明《とうめい》になったことをゆかいに思ったよ。ぼくがうしろから、通行人《つうこうにん》の帽子《ぼうし》をはじきとばしたり、肩《かた》をぽんとたたいたら、そいつはどんなにおどろいた顔をするだろうかと思うと、まったく考えただけで、ふきだすほどうきうきしてきたんだ。ぼくは街《まち》をあちこちと気ままに歩いていった。ところが、夕方《ゆうがた》ちかくなると、ぼくはすっかり弱《よわ》ってしまった。よくはれたあたたかい日だったが、一月になったばかりだもの、まっぱだかではたまったものではないよ。ぼくは歩きながら、がたがたふるえどおしだった」 「はっはっはっ、いくら透明人間《とうめいにんげん》になっても、人間はやはり人間だよ。ま冬《ふゆ》にはだかでいられるものか」  ケンプ博士《はくし》は、はじめて気味《きみ》よさそうに笑い声をたてた。 「笑《わら》いごとじゃないよ。日がかたむきかけてくるにつれて、寒《さむ》さはいっそうひどくなった。ちょうどブルームズベリイ広場《ひろば》をぬけようとしていたときだ。ぼくは大きなくしゃみをひとつした。まわりにいた人たちが、いっせいにふしぎそうにあたりを見まわした。とたんに、近よってきた白い犬《いぬ》が、ぼくをかぎつけたのか、わんわんとほえたててとびかかってきたんだ」 「透明《とうめい》になっていても、犬にはわかったのだろうか?」 「犬にはわかるらしいね。かぎつけるんだ。いまいましい話だが、それからぼくはラッセル広場《ひろば》まで犬に追われて、力のかぎり走りつづけたよ。ラッセル広場には、まだ人だかりがしていた。犬からのがれてほっとしたのもつかのま、また、つぎの災難《さいなん》がふりかかってきたんだ」 「つぎの災難っていうのは、どんなことだったのだい?」 「こんどは子どもに見つけられたんだ。もちろんぼくの姿《すがた》を見つけるはずはない。ぼくはつかれはてていたので、ひと休《やす》みしようと思って、博物館《はくぶつかん》のまっ白な階段《かいだん》をのぼっていったんだ。その近くで子どもたちが幾人《いくにん》も遊んでいたよ。そのひとりがふいに大声でさけんだんだ。 『あっ、みてごらん! おばけの足あとだよ。ほらほら、はだしの足あとが階段《かいだん》につぎつぎとついてるよ。おかしいなあ――だあれも登《のぼ》っていってないのに、足あとだけがくっついているよ』この声をきいた時には、ぼくはぎょっとして、どうしていいか、わからなくなってしまったね。進めば足あとがつくし、立ちどまっていれば、だれかがつかまえにあがってくるだろう。このときのぼくの気もちをさっしてくれたまえ」 「それで、どうした?」 「そのうち、子どもの声で、やじ馬《うま》がぞろぞろと集まってきだした。こうなっては逃げるよりほかはない。足あとがつこうが、そんなことにかまっていられなくなって、ぼくは、すぐそばでまごまごしている若い男をつきとばすと、いちもくさんにかけだした。やじ馬たちはわけもわからず、ただ足あとをたよりにわいわいと追っかけてきたんだ」 「とんだ災難《さいなん》にあったものだな」 「まったくだ。なんども街《まち》かどをまがって、めくらめっぽう逃《に》げていくうちに、足のうらのぬれていたのが乾《かわ》いてきて、足あとがはっきりつかなくなってきた。しめたと思って、物かげにかくれ、足のどろをすっかりはらい落として、ゆっくりと休《やす》み場所《ばしょ》をさがして歩きだしたんだ。追っかけてきたやつらは、うすくなって、ついに消えてしまった足あとをさがして、その辺《へん》をうろうろしていたよ」 「やれやれ、透明《とうめい》になっても、いいことばかりじゃないね」 「それはそうだ。だが、もちろん、すてきなことだってあるからね。かけまわっているうちに体はぽかぽかあたたまってきたが、すっかり風邪《かぜ》をひいたらしく、しきりにくしゃみがでるのには閉口《へいこう》したよ。落ちついてみると、ぼくの下宿《げしゅく》のある街《まち》にきてたんだ」  透明人間《とうめいにんげん》は、ケンプ博士《はくし》になにもかも話してしまうつもりらしく、いっしんに話しつづけている。博士は、なにか、落ちつかないようすだが、それでも、じっとかれの話をきいていた。 「そのうち往来《おうらい》の人たちが、きゅうに、なにかさけびながら、いっさんにかけだしていった。人数《にんずう》はつぎつぎにふえてゆき、やがて火事だとわかったときには、どうもぼくの下宿《げしゅく》のあたりと思われる方向《ほうこう》から、もくもくとまっ黒な煙《けむり》がすごいいきおいで、電話線《でんわせん》とかさなりあった家のむこうに見えてきたんだ。それをみて、ぼくは、ほっとしたね。これでぼくの秘密《ひみつ》は安全《あんぜん》だ――そう考えると同時に、なにか新しい勇気《ゆうき》がわいてくるような気がしたんだ」  透明人間《とうめいにんげん》は、一気にここまでしゃべってきたが、なにを思ったか、いすにふかぶかと身をしずめて、だまって考えこんだ。  ケンプ博士《はくし》は、ちらりと窓《まど》のそとに、すばやい一べつをなげ、だまってすわっていた。 [#4字下げ]うらぎられた透明人間《とうめいにんげん》[#「うらぎられた透明人間」は大見出し] [#7字下げ]透明人間《とうめいにんげん》の秘密《ひみつ》[#「透明人間の秘密」は中見出し] 「透明人間《とうめいにんげん》になるということは、はじめぼくが考えたほど、すばらしい、ゆかいなものではなかったんだ。寒《さむ》いからといって服《ふく》をきれば、透明人間でいることができなくなる。透明人間でいようと思えば、寒くても服《ふく》をきることができなくなるばかりか、もっとこまることが起こってきたんだ」  しばらくだまっていた透明人間は、ゆっくりと話しだした。 「はだかでいるより、もっとこまることというと、どんなことだい?」  ケンプ博士は、つかれてしまっていたので、気のりのしない調子《ちょうし》できいた。 「おそらく、きみには想像《そうぞう》もつかないことだろう。透明《とうめい》でいるために服をきないでいると、食べ物を口に入れることができないんだ。なぜって、考えてみたまえ……ぼくがはだかのままでパンをたべるとするね。パンはぼくの口にはいったときから、のどをとおり、胃《い》にとどき消化《しょうか》してしまうまで、人の目にさらされてしまうのだ。体《からだ》の中にはいった食べ物がそのまま空中《くうちゅう》に浮《う》いてみえるなんて、考えただけでもぞっとすることだろう。ぼくはそんなことになるのはいやだ。が、そうすれば、ぼくはいくら腹《はら》がすいていても、パンひとかけ口にすることができなくなるんだ」 「なるほど、そこまではぼくも考えつかなかったよ。そうすると、透明《とうめい》になるのも考えものだね」 「もちろん、こまることもあればいいこともある。けれども新しい生活《せいかつ》にふみだしたいじょうは、いやでもやりぬくほかはないんだ。いまとなっては身《み》をよせる家もなければ、たよりにする人もない。働《はたら》いて金《かね》をもうけ、その金で楽しくくらすなどということは、夢《ゆめ》にも思えない身の上になってしまったんだ」  透明人間《とうめいにんげん》の声は、しみじみとさびしそうだった。  ケンプ博士《はくし》も、さすがにかれの変わった境遇《きょうぐう》に同情《どうじょう》して、 「それできみは、それからどうしたんだい?」 「どうするといって、ぼくは道のまん中につっ立ったまま、どうしていいかわからなくなってしまったんだよ。雪《ゆき》ははげしく降《ふ》りだし、寒さと空腹《くうふく》はたまらなくぼくをせめたてるんだ。ぼくはただ雪の中からのがれて、屋根《やね》の下でゆっくりとやすんで、腹《はら》いっぱい食べたいと、そればかり考えていたよ」 「そうだろうね。で、それから……」 「そのうえ、これこそ思いもかけなかったことだが、雪の中にじっとしていると、体《からだ》に雪がつもって、たちまち、ぼくの体のりんかくがぼーっと浮かびあがってくるんだ。これにはまったくへいこうしたね。ぼくは身をきるような北風《きたかぜ》が、雪といっしょに吹きつけてくる道を、あてどもなくさまよいつづけたんだ」 「なぜどこかの家の物おきへでも、もぐりこんで、雪の中を歩きまわることからだけでもまぬがれなかったんだ。食べ物にありつくことはできなくても、寒《さむ》さだけはいくらかしのぎやすいのではないか?」 「ぼくだって、それは考えたんだ。ところがロンドンじゅうの家という家は一軒《いっけん》のこらずドアをしめ、鍵《かぎ》をかけているので、いくらぼくが透明人間《とうめいにんげん》でも、もぐりこむすきさえなかったんだ。だがぼくはそのとき、ふいにすばらしいことを考えついたんだよ」  透明人間は、そのときのことを思いだしたのか、いきいきとした声になって、 「デパートのなかにもぐりこめば、ぼくのほしい物はなんでも手にはいる。それにデパートならはいるにもでるにも、なんの苦労《くろう》もないし、どうして早くこのことに気がつかなかったかと思ったね。ぼくはすぐ、ぞろぞろとひっきりなしに客《きゃく》が出入りしているデパートにもぐりこみ、閉店《へいてん》するのをまっていたんだ。やがて店がしまって店員《てんいん》たちがでていってしまった。店の品物《しなもの》はすっかり片づけられ、灯《ひ》はけされて、あれほどにぎわっていたデパートも、しーんとなってしまった。ぼくはうす暗《ぐら》くなった店の中をわがもの顔《がお》で歩きまわって、下着《したぎ》やくつ下などの売場《うりば》から、ふかふかしてあたたかそうな下着やくつ下をとりだして身につけた」 「ほっとしたろう」 「きみの言うとおりだよ。服装《ふくそう》をすっかりととのえおわり、体《からだ》があたたまってくると、こんどは地下室《ちかしつ》の食堂《しょくどう》におりていって、そこに残っていた肉《にく》やパンやチーズを、いやというほどつめこんだんだ。おまけにおいしい果物《くだもの》や菓子《かし》まで食べられるのだから、まるで天国《てんごく》のようだったよ。体《からだ》もあたたまり、腹《はら》ごしらえもできると、にわかに眠《ねむ》くなったんだ。さっそくふとんの売場《うりば》のふかふかした羽根《はね》ぶとんの山の上によこになり、めずらしくのびのびとした気分でねむりに落ちていったのだ」 「まるでおとぎ話にでもでてきそうな話じゃないか……」 「ここまではよかったんだ。だが、朝になるとおもしろくないことがもちあがったんだ。目がさめたときには、すっかり夜があけ、明るい太陽《たいよう》がさしこんでいて、出勤《しゅっきん》してきた店員《てんいん》の話し声や掃除《そうじ》をする音がきこえていた。あわててしまったぼくは羽根《はね》ぶとんの山をすべりおりて、どこから逃げたらいいかと、あたりを見まわしたとたん、羽根ぶとんの山が音をたててくずれおちたんだ。あっと思ったぼくは、思わず横っとびにかけだすと、目ざとい店員《てんいん》のひとりが、大声で、『あっ、首《くび》のない人間《にんげん》がいるぞ! あやしいやつだっ!』とさけんだんだ」 「そりゃあ、きみ、店員だって、さぞやびっくりしたろうさ」  ケンプ博士《はくし》は、ものかげから走りだした首《くび》のない人間を見つけた店員《てんいん》たちのようすを思いうかべて、デパートじゅうがひっくりかえるさわぎになったろうと考えていた。 「ここでつかまってはたいへんだと思ったので、死にものぐるいで逃げまわったんだ。逃げるにつれて、きれいにかざられてあった花びんがぶつかりあってくずれ落ちる、電気スタンドがころがる、おもちゃの山がくずれる、さいごに食堂《しょくどう》をかけぬけて、ベッドの売場《うりば》から洋服《ようふく》ダンスのならんでいるところへ逃げこんで、そのかげで、着ているものをすっかりぬぎすてて、もとの透明《とうめい》な姿《すがた》になって、追手《おって》につかまるのをまぬがれたんだ」 「やれやれ、苦労をするではないか……」 「こんなわけで、せっかく手にいれた服はすっかりぬぎすててしまったので、ぼくはもとのはだかで、ふたたび雪のふる街《まち》へさまよいでなくてはならなくなってしまった。ぼくはデパートをそっとしのびでると、むやみに腹《はら》がたってたまらなかった。  しかし腹をたててみても、どうにもなるものではなし、ぼくはまえと同じように寒《さむ》さとうえになやまされだしたのだ」 「けっきょく、うえをしのいで、たっぷり眠《ねむ》れたというだけだったのだね。それでもいいではないか……」 「ちっともよくないよ。ぼくが一番のぞんでいるのは、服を手にいれることなんだ。服を身につけ、帽子《ぼうし》をかぶり、マスクでもつければ、どうやら人前《ひとまえ》をごまかして、暮《く》らしていけるのではないかと思ったんだ。ぼくはついにロンドンのはずれのうすぎたない横町《よこちょう》にある古着屋《ふるぎや》にしのびこんで、ほしい物を手に入れ、できればお金《かね》もついでに手にいれることにしたんだ」 「金も手に入れるというのか?」 「そうだ。この古着屋《ふるぎや》でも、いくども見つかりそうになって、ひやひやしたよ。おやじというのは、かわった男で、おそろしく耳がするどくて、ぼくのかすかな足音をききつけ、『どうもおかしい、だれかこの家にしのびこんでるにちがいない』と、ひとり言《ごと》をいうと、ピストルを片手《かたて》に家中《いえじゅう》をぐるぐるまわりはじめたんだ。おかげでぼくは古着《ふるぎ》の山を目のまえにみながら、どうすることもできなかったのだ」  透明人間《とうめいにんげん》は、その男のことを思いだしたのか、急《きゅう》にいらいらした口ぶりになって、 「いやな男だったよ。うたがい深《ぶか》くておく病《びょう》で、しまいには家じゅうのドアにも窓《まど》にも、かぎをかけはじめたんだ。ぼくがどこからも逃《に》げることができないようにしておいて、ピストルで射《う》ちとろうとしたんだ。ぼくはそれを知ると、かっとなってしまった。こんなやつに射《う》たれてたまるものか、ぼくは階段《かいだん》をおりかけていたおやじのうしろにせまると、いきなり、古いすをふりあげて、やつの頭をちからまかせになぐりつけてやった」 「頭をなぐったって! なんてらんぼうなことをするんだ。古着屋《ふるぎや》はきみになぐられるようなことをなにもしていないよ……考えてみたまえ」 「らんぼうする気はなかったんだ。ただ、ぼくはその古着屋《ふるぎや》で服をきて、すがたをととのえなくては、こまるんだ。それだのにおやじは、ぼくを追《お》いまわして、ピストルで射《う》つつもりなんだから……。ぼくは追いつめられて、心ならずも乱暴《らんぼう》をはたらいたというわけなんだ。おやじは物もいわずに、その場にたおれたので、手もとにあった古着《ふるぎ》でぐるぐるまきにしばりあげ、さるぐつわをかませた。そして、ぼくは手ばやく服を身につけ、だいどころにいって、たらふくパンとチーズをたべ、コーヒーをのんでから、帽子《ぼうし》をまぶかにかぶり、マスクをつけた。ちょっと見たぐらいでは、透明人間だと気づかれないように身じたくをととのえて、ゆうゆうとその古着屋をでてきた」 「で、きみはおやじをそのまま、ほうりっぱなしにしてかい?」  博士《はくし》は顔いろをかえてさけんだ。透明人間《とうめいにんげん》はおちつきはらって、 「もちろんだよ。あとでやつは、さんざん苦心《くしん》して自由《じゆう》の体《からだ》になっただろう。そうとうきつくしばってやったからな」  博士《はくし》はしばらく思いなやんでいるようすで、青ざめた顔をうつむけて考えこんでいたが、 「それできみは、やっと人なみの生活《せいかつ》ができるようになったのだね」 と、ほそい声でいった。 「いや、人目の多いロンドンでは、やはりうまくいかなかったよ。食事をしようと思えば、どうしても透明《とうめい》なぼくの顔を給仕人《きゅうじにん》や、客《きゃく》の目にさらさないかぎり、肉のひときれも口にいれられないんだ。透明人間なんて、ほんとうに情《なさけ》ないものだよ。人目をおそれて、いつもびくびくしながら暮《く》らさなくてはならないんだからね」 「で、アイピング村へは、どうしていったのだい?」 「研究《けんきゅう》をつづけたくていったんだよ」 「研究をつづけるためにだって? だってきみの研究は完成《かんせい》して、望《のぞ》みどおり透明《とうめい》になったじゃないか……」 「しかし、きみ、考えてくれたまえ。体《からだ》が透明《とうめい》になったおかげで、ぼくはほかの人間《にんげん》が持つことのできない力をもつことができるようになった。だが、そのかわり、ぼくは何もかも失《うしな》ってしまったんだ。科学者《かがくしゃ》として名をあげてみても、ぼくの姿《すがた》がみえないのでは、どうにもしようがないだろう。あたたかい家庭《かてい》をつくって楽しく暮らすことも、友だちとゆかいに話しあうことも、永久《えいきゅう》にできなくなったのだ。ぼくはたったひとりぽっちで暮らすほかはなくなったのだ。ただ、たったひとつの望《のぞ》みは、もとの体《からだ》にかえることができる薬《くすり》を発見《はっけん》したいということなんだ。その研究《けんきゅう》のために、しずかなアイピング村へいったわけだよ」 「なるほど、そんなわけだったのか……」  博士《はくし》は、ナイト・ガウンの化《ば》けもののような透明人間《とうめいにんげん》をみつめた。そこに友人のグリッフィンがいる。かれはながい間、胸にたまっていた思いをケンプ博士《はくし》にうちあけて、ほっとしたのか、ゆったりといすに腰かけて、たばこに火をつけた。 [#7字下げ]悪魔《あくま》と天使《てんし》[#「悪魔と天使」は中見出し] 「ところで、きみはこれから、どうするつもりだい? なんのために、このバードック町にやってきたんだ?」  はじめに下宿《げしゅく》で放火《ほうか》、つぎに、古着屋《ふるぎや》でおそろしい殺人《さつじん》をやりかけている。よくもわずかの間に、とんでもないことを仕出《しで》かしたものだと、むかしの友人のかわりはてた異様《いよう》なすがたをながめながら、ケンプ博士《はくし》がたずねた。 「うん。ぼくがここにきたのは、国外《こくがい》にのがれたかったからさ。はだかで暮らすのには、イギリスはまだ、寒《さむ》すぎるよ。洋服《ようふく》をきればすぐ人にあやしまれて、追いまわされるし、ぼくは、もっと暖《あたた》かい地方へいってしまいたいと思って、この港町《みなとまち》へきたのだ」 「それで?」 「ここからは、フランス行きの便船《びんせん》がでる。フランスへわたり、汽車《きしゃ》でスペインへいって、そこからアフリカのアルジェリアへいくつもりだ。アルジェリアなら、姿《すがた》をけしてはだかで暮らしても、いっこう寒《さむ》くはないだろうからね」 「アフリカにいくのか?」 「そうだ。ぼくの秘密《ひみつ》がしれてしまったからには、もう、どうしようもない……。ところが、それには、ぼくひとりではやれないのだ。ぼくが荷物《にもつ》をもって歩くわけにはいかない。そうすると、このまえの金貨《きんか》が空中《くうちゅう》をとぶような騒《さわ》ぎになって、すぐ、大さわぎになってしまうんだ。そこで、あの浮浪者《ふろうしゃ》をやとったんだが、だいじな研究《けんきゅう》ノートと金《かね》をもって、にげてしまった」 「浮浪者は警察《けいさつ》にいるよ」 「えっ、あいつが……」  透明人間《とうめいにんげん》が、すっくと立ちあがった。  そのとき、玄関《げんかん》のベルがなった。  ベルの音をききつけると、透明人間《とうめいにんげん》はケンプ博士《はくし》から二、三歩とびさって、 「あれは、なんだ?」 と、するどく言いはなった。 「なにも聞こえないが……」 「いや、二階へあがってくる足音だ」 「気のせいだよ」  警官《けいかん》がきたことを、あいてにさとられまいとして、ケンプ博士《はくし》は、おだやかに言った。 「ちょっと見てくる」  博士がとめようとしたが、透明人間《とうめいにんげん》はドアに近づいていった。  すると、博士がドアを背にして、その前に立ちふさがった。 「なんだ、きみは! じゃまをするのか」  入口に近づけまいとする博士《はくし》から、ぱっと跳《と》びのいて、透明人間は身《み》がまえた。 「おれをだましたな!」  その声は、怒《いか》りにふるえていた。 「警官《けいかん》をよびやがって、よくも裏切《うらぎ》ったな……裏切り者め!」  透明人間《とうめいにんげん》はガウンの前をひらくと、すばやく、下に着ているものを脱《ぬ》ぎはじめた。  この男を、この部屋《へや》から外に出してはならない。博士はドアを後《うし》ろ手《で》に開いて廊下《ろうか》にとびだし、バタンと閉《し》めた。カギがない。透明人間が内側《うちがわ》から開けようとして、博士がにぎる把手《とって》をひねった。その力は、ものすごく強かった。博士はドアを開けさせまいとして、奮闘《ふんとう》した。ドアのすき間《ま》からガウンの腕《うで》がのびた。博士はのどを絞《し》めつけられ、把手をはなした。博士はガウンの怪物《かいぶつ》に突きとばされた。  博士《はくし》からの手紙で、いそいで駆《か》けつけた、バードックの警察署長《けいさつしょちょう》アダイ警部《けいぶ》は、玄関《げんかん》からホールを通って階段《かいだん》をのぼりかけたところで、目に見えない怪物と戦っている博士を見て、立ちすくんでしまった。 「なんだ?」  怪物《かいぶつ》と戦う博士《はくし》は、倒されたり起きあがったりしながら、二階の廊下《ろうか》から階段《かいだん》のおどり場へのがれてきた。怪物のガウンが宙を飛んできて、博士におそいかかって倒した。目の前のできごとに、びっくりしている署長《しょちょう》を、ガウンの化《ば》けものがなぐり倒した。  起きあがろうとする署長《しょちょう》を、怪物《かいぶつ》は階段《かいだん》から下にけり落として、動けなくしてしまった。階下《かいか》には応援《おうえん》の警官《けいかん》が二人いた。二人はあわてて、宙《ちゅう》を飛ぶガウンを追いまわした。追いまわすうち、ガウンは一階のホールの天井《てんじょう》へパッと舞《ま》いあがったかと思うと、落ちてきて、そのまま、へなへなっと動かなくなった。  玄関《げんかん》のドアが、人影《ひとかげ》もないのに開いて、バタンと閉《し》まった。  署長《しょちょう》は起きあがったが、顔をしかめて、また、へなへなとすわった。そこへ、透明人間《とうめいにんげん》との格闘《かくとう》で傷《きず》だからけの顔となった博士《はくし》が、ふらふらになって階段《かいだん》を降りてきて、くやしそうに言った。 「しくじった。にげてしまった」 [#7字下げ]大捜査陣《だいそうさじん》[#「大捜査陣」は中見出し]  透明人間《とうめいにんげん》があばれまわるのを見ただけでなく、したたかになぐられ、階段《かいだん》からけり落とされて動けなくなるほどの目にあいながら、アダイ署長《しょちょう》は、なおも信じられないという顔をしていた。  そんな顔の署長《しょちょう》に、血《ち》だらけの腫《は》れあがった顔のケンプ博士《はくし》が、ぐずぐずしてはいられないと、せきこんで言った。 「あいつは気がくるっている。このまま逃がしておいたら、どんなひどいことをしでかすか、わかりませんよ。けさも、これまでにやってきたことを、得意《とくい》になって話すんですからね。あきれたもんです。署長! あの男はもう、かなりたくさんの人を傷《きず》つけています。これからもっと暴《あば》れまわって、町や村のひとたちを恐れさせてやるんだと話していました」 「かならず逮捕《たいほ》してみせます」  署長《しょちょう》がこたえた。 「大至急《だいしきゅう》、警官《けいかん》の非常召集《ひじょうしょうしゅう》をおこなって、この町から透明人間《とうめいにんげん》がにげだせないようにすることです」 「こころえています。さっそく召集して、道という道に見はりを立てて、あの怪物《かいぶつ》がにげられないようにしましょう」 「汽車《きしゃ》や船《ふね》に乗って、逃げられないように、駅《えき》や港《みなと》にも見はりをつけてほしいですな。あの男は、かけがえのない物と考えているノートを取りもどすまでは、この町をはなれないと思います。その浮浪者《ふろうしゃ》のトーマスは、警察《けいさつ》に保護《ほご》してあるんでしょうな」 「ぬかりはありませんよ、博士《はくし》! そのノートのことも」 「透明人間《とうめいにんげん》をつかまえるには、食物《しょくもつ》をあたえないことです。ねむらせないことです。この二つのことを実行《じっこう》することです」 「なるほど」  署長《しょちょう》がうで組《ぐみ》してうなずいた。 「たべものは手のとどかないところにしまっておき、透明人間が家の中にはいれないように、町じゅうの家が、戸《と》や窓《まど》にカギをかけておくことです」 「さっそく署《しょ》へもどって、作戦を立てるとしましょう」  署長は立ちあがって、博士といっしょに歩きながら話をきいた。 「やつは食物《しょくもつ》をのみおろすと、消化《しょうか》するまでは体の中のものが見えるので、しばらくは、どこかに隠《かく》れてやすまねばならんのです。ここが、こちらのねらいです。それと、犬をですな……犬を、できるだけたくさん、かり集めることです」 「ほほオ、透明人間《とうめいにんげん》は犬には見えますかな」 「見えないことは、われわれ人間とおなじですが、犬はにおいで嗅《か》ぎつけるんです。これは透明人間が、犬にかみつかれて弱ったと、じぶんで話してたことですから、まちがいありません」 「名案《めいあん》ですな。ハルステッド刑務所《けいむしょ》の看守《かんしゅ》たちが知ってる男に、警察犬《けいさつけん》を飼《か》っておる男がいるそうですから、さっそく手配《てはい》しましょう」  こうしている間に、博士《はくし》の屋敷《やしき》からにげだした透明人間が、なにをしでかすか知れないと思うと、ケンプ博士は気が気でなかった。 「透明人間《とうめいにんげん》のもう一つの弱いところは、凶器《きょうき》を持ってあるけないことです。鉄棒《てつぼう》とかナイフとか、太いステッキのような物は、手ごろの武器《ぶき》……つまり凶器になりますが、あの男がこれらの物を手にして歩くと、鉄棒やナイフが宙《ちゅう》を浮いてうごくことになるので、すぐ気づかれてしまいます。ですから、やつが凶器を持ってあるく心配《しんぱい》はありませんが、凶器につかわれそうな物は、どの家でも、かくしておくように知らせてもらいたいのです」 「ごもっともな意見《いけん》です。その方針《ほうしん》で、かならず逮捕《たいほ》してみせます」  アダイ署長《しょちょう》はこたえた。 「もう一つ、だいじなことがあります」 「なんです?」 「ガラスの破片《はへん》を道路《どうろ》にまきちらすのです。透明人間《とうめいにんげん》は、はだかで、はだしで歩いていますから、これは効《き》きめがありますよ。すこし残酷《ざんこく》なやりかたですが、そんなことは言っておられませんので」 「スポーツマンシップに欠《か》けるようですが、お考えどおり、ガラスの破片《はへん》をよういさせましょう。目に見えない怪物《かいぶつ》に、あばれられては大変《たいへん》ですからな」 「あの男は、むかしのグリッフィンとは人が変わってしまった。けだものになって、気がくるっているのです」  博士《はくし》はアダイ署長《しょちょう》がよんだ辻馬車《つじばしゃ》に乗って、署長といっしょにバードックの警察署《けいさつしょ》にいそいだ。 [#7字下げ]石切場《いしきりば》の殺人《さつじん》[#「石切場の殺人」は中見出し]  ケンプ博士《はくし》の家をとびだしてからの透明人間《とうめいにんげん》のゆくえは、どこに行ってしまったのか、さっぱりわからなかった。  港町《みなとまち》ポート・バードックの人びとは、その日の朝のうちは透明人間の話もうわさにすぎなかったものが、午後になると、ほんものの怪物《かいぶつ》が町にあらわれたと知って、大さわぎになった。  なにしろ人の目に、その姿かたちが見えないのである。道をあるいていて、いきなりなぐられても防《ふせ》ぎようがない、というのだ。音もなく家に忍びこまれても、これまた、見えないのだから、どうしようもない。町の人は不安にかられていた。げんにその朝、道で遊んでいた子どもの一人が、いきなり何者ともしれないものに突きとばされて、ケガをしている。その場にいあわせた子どもたちは、友だちを突きとばしたものを、だれも見ていないのだ。  透明人間《とうめいにんげん》の危害《きがい》から町の人を守るには、怪物《かいぶつ》を捕《とら》えることである。そのための警察《けいさつ》の手配《てはい》は着々《ちゃくちゃく》とすすみ、おもったよりはやく、町のこれぞと思うところに、警官が動員《どういん》されていた。  騎馬巡査《きばじゅんさ》が町をねり歩いては、戸締《とじま》りをげんじゅうにするよう、家々によびかけた。小学校は午後三時には授業《じゅぎょう》をうち切って、児童《じどう》を帰宅《きたく》させた。町の人は、三人四人と組んで自警団《じけいだん》をつくり、鉄砲《てっぽう》やこん棒《ぼう》をもって警戒《けいかい》にあたった。港《みなと》の船着場《ふなつきば》、汽車《きしゃ》の停車場《ていしゃば》、おもだった道の出入り口。バードックの町を中心にして三〇キロの半径《はんけい》の円にはいる地域《ちいき》の町や村が、透明人間の出没《しゅつぼつ》にそなえたのである。  透明人間《とうめいにんげん》にたいする注意書《ちゅうきがき》が、ケンプ博士《はくし》とアダイ署長《しょちょう》の名をそえて、町のいたるところに貼《は》りだされた。食物《しょくもつ》をとらせないこと、眠る場所をあたえないことなどが、書かれてあった。警戒《けいかい》は万全《ばんぜん》であった。  ところが、透明人間のゆくえは、どうなったのか。その日の朝、遊んでいる子どもを突きとばして、ケガをさせたのは、たしかに透明人間のしわざにちがいないが、それから先、どこへ行ったのか、音さたないのである。  ポート・バードックの町のうしろは、高原《こうげん》になっている。その遠くまでつづく高原には森もある。透明人間《とうめいにんげん》はおそらく、その森で、ひと休みしているのではないかと、ケンプ博士《はくし》も署長《しょちょう》も、そのように考えていた。  ケンプ博士《はくし》は、透明人間《とうめいにんげん》はかならず町にもどってくると思っていた。食物《しょくもつ》をもとめてのためか。それだけではない。博士に裏切《うらぎ》られたことへ、仕返《しかえ》しをするために、夜になったら、きっと、博士の家にあらわれるものと信じていた。  夕方になった。透明人間のゆくえがわからないまま、遠くへにげられたのではないかと、みんないらいらしているところへ、町から一六キロはなれたところで起こった、殺人《さつじん》のニュースがとどいた。むろん、その事件《じけん》を調べたその土地の警察《けいさつ》からである。奇妙《きみょう》な事件であった。  そこはバードック卿《きょう》の荘園《しょうえん》のある高原《こうげん》の静かな土地で、荘園ではたらく執事《しつじ》が、じぶんの住居《すまい》に昼の食事にかえるとちゅう、殺《ころ》されたのである。  もうながいことバードック卿の荘園で執事をつとめるウィックスティード氏は、おだやかな人柄《ひとがら》で、ひとににくまれたり、けんかをしたりするような人でなかった。昼になると、荘園の木戸から一五〇メートルほどはなれたところにある住居《すまい》にもどって、食事をするのが日課《にっか》となっており、草原《そうげん》をとぼとぼ横切る執事《しつじ》を、その日も近所の女の子が見ていた。 「おじさーん」  いつものように声をかけると、いつもならすぐ、にこにこした執事の笑顔《えがお》と、おどけた返事がかえってくるのに、おじさんはステッキをふりまわして、女の子には見向きもしないで、通りすぎたというのだ。 「おじさん、なにしてるの?」  女の子は、太った執事《しつじ》のあとを追った。おじさんは、おかしなことをしていた。見ると、一本の鉄《てつ》の棒《ぼう》が、執事があるく前に浮かんで、ふらふらとゆれているではないか。女の子は、びっくりした。世にもふしぎな宙《ちゅう》に浮く鉄棒《てつぼう》を追って、おじさんはステッキでその鉄棒を、たたき落とそうとした。  すーっと、鉄棒がにげた。 「この化《ば》けものやろう!」  口にしたこともないきたないことばを、おとなしい執事《しつじ》が、めずらしく吐《は》きすてた。つづいて、このやろう……このやろう、と夢中《むちゅう》で鉄棒《てつぼう》にステッキで、なぐりかかっていった。  宙《ちゅう》に浮いた鉄棒と執事《しつじ》とのたたかいは、ブナ林をぬけて、なおもつづいた。おじさんは汗《あせ》をかいて、へとへとになり、それでもあきらめずに、なんとかして鉄棒の化けものをたたき落として正体《しょうたい》を見破《みやぶ》ろうと、追いつづけ、ついにその鉄棒を石切場《いしきりば》といらくさ[#「いらくさ」に傍点]の茂《しげ》みのあいだに追いつめたのである。  そこで執事《しつじ》ウィックスティード氏は、鉄棒の化けものの猛反撃《もうはんげき》をくった。ただ、残酷《ざんこく》としか言いようのない、無残《むざん》な殺《ころ》されようであった。頭はたたき割《わ》られ、腕《うで》はへし折られて、これがあの温厚《おんこう》な人の姿であるか、と憤《いきどお》りを感じさせるほどに、ひどいものだった。 「あいつのやったことです。透明人間《とうめいにんげん》のしわざです」  ケンプ博士《はくし》がニュースを聞いて、署長《しょちょう》にいった。 「かならず逮捕《たいほ》してみせます。この町にはいってきたら、こんどこそ逃がしはしない」  アダイ署長《しょちょう》は博士《はくし》と、これからの打合わせをした。 「ぼくは家に帰って、透明人間《とうめいにんげん》があらわれるのを待つことにします」  博士が警察署《けいさつしょ》をでると、外には夕闇《ゆうやみ》がせまり、夜になろうとしていた。街角《まちかど》には警備《けいび》のひとが立ち、三人四人と隊を組んだ見張りの者が、町の通りをあるきまわっていた。 [#7字下げ]透明人間《とうめいにんげん》の最期《さいご》[#「透明人間の最期」は中見出し]  きんちょうのうちに一夜があけたが、なにごともなかった。町に透明人間《とうめいにんげん》があらわれた話はなく、ケンプ博士《はくし》の屋敷《やしき》にも、透明人間は近づいてこなかった。  その朝もぶじに過ぎて、おそい昼の食事を博士がしていたときである。一|通《つう》の手紙が舞《ま》いこんできた。切手《きって》を貼《は》らないので、郵税《ゆうぜい》二ペンスの不足《ふそく》となっている。透明人間からのものだ。消印《けしん》はヒントンディーン局《きょく》。どこかで紙を盗《ぬす》んで書いて、ポストに投げこんだものとみえる。  ――よくも裏切《うらぎ》って、おれを苦しめたな。こんどは、かならず、きさまを殺《ころ》してやる!  差出人《さしだしにん》の名は書いてないが、透明人間、すなわちグリッフィンからの手紙にちがいなかった。  消印のヒントンディーン局のある町からここまで、一時間あれば、やってこられる道のりである。博士《はくし》は食事をやめて、窓《まど》ぎわに寄って外を見た。それから家政婦《かせいふ》にいいつけて、家じゅうの窓や戸のカギを調べさせた。どこにも手落ちはなく、透明人間が忍《しの》びこむすきは、どこにもない。そこへ警察署長《けいさつしょちょう》が、しんぱいしてやってきた。玄関《げんかん》のドアを開くのも、人ひとりがやっと通れるくらいの細目《ほそめ》にして、署長を入れる用心ぶかさで、博士は署長を中にいれると、透明人間《とうめいにんげん》からの手紙をわたして見せた。 「あなたをねらって、ここへ……」 「かならずきますよ。もう、そのへんをうろついてるかも知れません」  博士《はくし》がそう言ったとき、ガチャーンと、ガラスが砕《くだ》ける音が、二階のどこかでした。 「二階の窓《まど》だ!」  ポケットにかくしておいた銀色の小型《こがた》ピストルをにぎって、博士は二階にかけあがった。署長がそのあとにつづいた。書斎《しょさい》にかけこむと、庭に面《めん》した三つの窓のうち二つが、めちゃくちゃにガラスをたたき割《わ》られていて、床《ゆか》いちめんに、ガラスの破片《はへん》がちらばっていた。  ケンプ博士《はくし》は、まだ破《やぶ》られていない三つ目の窓《まど》に目をはしらせると、ピストルをぶっ放《ぱな》した。ガラスはたま[#「たま」に傍点]に撃《う》ちぬかれてひび割れ、三|角状《かくじょう》の破片《はへん》となって内側へ落ちた。 「やつがいましたか」  署長《しょちょう》が目を大きくしてきいた。 「いや、ここまでは登《のぼ》ってこられませんよ。ねんのために、ぶっ放《ぱな》したのです」  ドスン……と階下《かいか》で破目板《はめいた》をたたき破《やぶ》る音がした。つづいて、窓《まど》ガラスがやぶられた。しかし、一階の窓には、のこらず鎧戸《よろいど》がつけてある。かんたんには侵入《しんにゅう》できないだろう。 「警察犬《けいさつけん》をつれてきましょう。用意してあるんです。十分とかかりません」  署長《しょちょう》はケンプ博士《はくし》からピストルを借《か》りて、外にでた。ところが、アダイ署長が芝生《しばふ》の上を門に近づいて、中ほどにきたときである。目に見えない怪物《かいぶつ》が、署長を襲《おそ》った。  はじめ、いきなりなぐり倒された。署長がピストルで応戦《おうせん》した。起きあがったが、けり倒されてピストルを奪《うば》われ、手をあげて家のほうへ歩きだしたが、ピストルを取り返そうとして射ち倒されてしまった。ピストルは透明人間《とうめいにんげん》の手にわたったのである。二人の警官《けいかん》が、かけつけてきた。博士《はくし》は用心ぶかく二人をなかにいれた。そのときはもう、裏《うら》にまわった透明人間が、物置《ものおき》から探《さが》しだした手斧《ておの》で、ガンガン、台所《だいどころ》のドアを叩《たた》きこわしてるところだった。 「あれは?」 「透明人間《とうめいにんげん》だ。ピストルを持っている。残りのたま[#「たま」に傍点]は二発……署長《しょちょう》は射《う》たれた」  おどろく警官《けいかん》に説明《せつめい》して、博士《はくし》は火かき棒《ぼう》を手にして、台所に向かった。それに二人の警官も火かき棒を持って、あとにつづいた。  ガンガン………バリバリッと、がんじょうなドアは叩《たた》きやぶられ、見えない手が突きだしたピストルが、博士めがけて、二度、火を噴《ふ》いた。博士と警官二人は広いホールに逃げて、ホールに入ってくる透明人間を包囲《ほうい》するように身《み》がまえ、火かき棒を前に突きだして敵を待った。  そこへ、手斧《ておの》が頭上の高さに回転《かいてん》しながら、ホールに飛びこんできた。大乱闘《だいらんとう》となった。 「ケンプ! きさまと勝負《しょうぶ》だ」  怒《いか》りにふるえる声がした。警官《けいかん》のひとりが、くるいまわる手斧を、火かき棒でたたき落とした。もう一人の警官は見えない足で、け倒《たお》された。そのあいだにケンプ博士《はくし》は、窓《まど》から庭へとび降り、町に向かって走った。それに気がついた透明人間《とうめいにんげん》は、警官《けいかん》をなぐり倒すと、ちくしょう! とさけんで、ケンプ博士のあとを追った。別荘《べっそう》がつづく高台《たかだい》をかけ抜けると、町へ下るながい坂になっている。町へにげれば、追ってくる透明人間を、そこで捕《とら》えることができると博士は考えていた。はだしの足音が、すぐうしろに追っている。  博士は走って走って、まっ青になって走った。砂利《じゃり》や石ころが、ごろごろしている道をえらんで走った。透明人間との間が少しはなれた。やっと、町の入口に走りついた。 「透明人間がきたぞーっ」  さけびながら博士は、町の大通りを、鉄道馬車《てつどうばしゃ》の駅《えき》のほうへ走った。駅の前に広場がある。その広場には砂利の山があり、シャベルを持った工夫《こうふ》がはたらいていた。 「透明人間《とうめいにんげん》だ、にがすな」  手に手に棒をにぎりしめた町の人が、わっと飛びだしてきて、博士のゆくての道をふさいだ。 「裏切《うらぎ》りやがったな!」  透明人間がま近にきたな、と感じた瞬間《しゅんかん》、ケンプ博士は、したたかに顎《あご》に一|撃《げき》をくらった。倒れたところを脾腹《ひばら》をけられ、つづいて胸を重いものがおさえつけ、のどをしめつけられた。  工夫《こうふ》の一人が、博士《はくし》の上になっている透明人間のせなかを、シャベルでなぐりつけた。手ごたえがあった。また、なぐった。すると、こんどは博士が上になり、警官《けいかん》もくわわって、透明人間の手や足をおさえつけた。姿《すがた》を見せない透明人間が、ぐったりとなった。博士のあいずで、みんな手をひいて立ちあがった。 「あっ?」  群衆《ぐんしゅう》に囲まれた広場の、博士《はくし》の足もとの地上に、はじめはかすかに、それから少しずつ……半透明《はんとうめい》の人の形をした物が姿をあらわし、まもなく、若い男の裸《はだか》の傷《きず》だらけの体《からだ》がよこたわっているのが、見えてきた。透明人間グリッフィンの最期《さいご》である。[#地付き](おわり) 底本:「透明人間」ポプラ社文庫、ポプラ社    1982(昭和57)年7月第1刷    1984(昭和59)年9月第5刷 入力:京都大学電子テクスト研究会入力班(大石尺) 校正:京都大学電子テクスト研究会校正班(大久保ゆう) 2010年7月31日作成 2013年1月21日修正 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。