わか紫 泉鏡花 ------------------------------------------------------- 【テキスト中に現れる記号について】 《》:ルビ (例)山《やま》 |:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号 (例)小砂利|交《まじ》り [#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定    (数字は、JIS X 0213の面区点番号またはUnicode、底本のページと行数) (例)睜 ------------------------------------------------------- [#ページの左右中央] [#ここから3字下げ] みつぎもの  裏関所  丁か半か  室咲  日金颪  神妙候 御曹子  黒影白気  梅柳 [#ここで字下げ終わり] [#改ページ] [#5字下げ]みつぎもの[#「みつぎもの」は大見出し] [#7字下げ]一[#「一」は中見出し]  伊豆のヒガネ山《やま》は日金と書いて、三島峠、弦巻山《つるまきやま》、十国峠と峰を重ね、翠《みどり》の雲は深からねど、冬は満山の枯尾花、虚空に立ったる猪《いのしし》見るよう、蓑毛《みのげ》を乱して聳《そび》えたり。  読本《よみほん》ならば氷鉄《ひがね》といおう、その頂から伊豆の海へ、小砂利|交《まじ》りに牙《きば》を飛ばして、肌《はだえ》を裂《つんざ》く北風を、日金|颪《おろし》と恐《おそれ》をなして、熱海の名物に数えらるる。  冬季にはこの名物、三日|措《お》き五日措きに、殺然として襲い来るが、二日続くことはほとんどない。翌日は例のごとく、嘘のように暖く、公園の梅はほんのりと薫って、魚見岬《うおみざき》には麗《うらら》かな人集合《ひとだかり》。熱海の土地は気候が長閑《のどか》で、寒の中《うち》も、水がぬるみ、池には金魚がひらひらと、弥生《やよい》の吉野、小春日の初瀬を写す俤《おもかげ》がある。  さてこの物語の起った年は、師走から春の七草かけて、一たびも日金が颪《おろ》さず、十四五年にも覚えぬという温暖《あたたか》さ、年の内に七分咲で、名所の梅は花盛り、紅梅もちらほら交って、何屋、何楼、娘ある温泉宿《ゆやど》の蔵には、雛《ひな》が吉野紙の被《かつぎ》を透かして、あの、ぱっちりした目で、密《そっ》と覗《のぞ》いても見そうな陽気。  時ならぬ温気《うんき》のためか、それか、あらぬか、その頃熱海|一町《ひとまち》、三人寄れば、風説《うわさ》をする、不思議な出来事というのがあった。仔細《しさい》はない、崖《がけ》の総六が背戸の、日当《ひあたり》の良《い》い畑地に、二月の瓜よりもなお珍とすべき、茄子《なす》の実が生《な》りました。  総六は、崖の、と呼ぶ、熱海の街を突切《つっき》って、磧《かわら》のような石原から浪打際へ出ようとする、傍《かたわら》の蠣殻《かきがら》屋根、崖の上の一軒家の、年老いた漁師であるが、真鶴崎《まなづるがさき》へ鰹《かつお》の寄るのも、老眼で見えなくなったと、もう鈎《はり》の棹《さお》は持って出ず、昼は人仕事の網の繕《つくろい》、合間には客を乗せて、錦《にしき》の浦遊覧の船を漕《こ》ぐのが活計《なりわい》。  仇《あだ》しあだ浪いとまなみ、がらがらと石を捲《ま》いて、空ざまに駈《か》け上る、崖の小家《こや》の正面に、胡坐《あぐら》を総六とも名づけつびょう、造りつけた親仁《おやじ》のように、どっかりと臀《いしき》を据え、山から射《さ》す日に日向《ひなた》ぼっこ、海に向うて朝から晩、暮れると、浪枕、やあ、ころりとせ。  沖から遠眼鏡《とおめがね》で望んだら、瞬《またたき》する間も静まらず、海洋《わだつみ》の蒼《あお》き口に、白泡の歯を鳴らして、刻々島根を喰削《くらいけず》らんず、怖しき浪の頭《かしら》を圧《おさ》えて、巌窟《いわや》の中に鎮座まします、世に頼母《たのも》しき一体の羅漢の姿に見えるであろう。  総六親仁は、最初、この茄子の種を齎《もた》らして、背戸へこぼして行ったのは、烏に肖《に》て翼違い、雉子《きじ》のようでやや小さく、山鳥かと思うと嘴《くち》の白い、名を知らぬ、一羽の鳥であったという。  かつその鳥は、小春日の朝、空が曇って、大島が判然《はっきり》と墨で描いたように見えた時、江浦《えのうら》、吉浜の空を伸《の》して、遠く小田原の城の森から、雲の上を飛んで来て、ふうわり、足許《あしもと》へ来て留った、そこから苗が出来たというのであるが、鳥はこの親仁が、名を知らぬものだったかも計られぬ。  小田原よりか、函嶺《はこね》からか、それとも三島、日金の方か、たとい家は崖の上でも、十里は見通し得る筈《はず》がない。惟《おも》うに、親仁の産神《うぶすな》は彼処《かしこ》であるから、かく珍らしい、伊豆紫の若茄子に、烏帽子《えぼし》を着せ、狩衣《かりぎぬ》召させて、一粒種のお鶴という、娘の婿にでもする気であろう。  暮に取立ての初穂を、まず新しい苞入《つといり》にして、切火を打って、ここから七里ある、小田原なる城の鎮守、親仁が産神に、謹上《つつしんでたてまつる》。 [#7字下げ]二[#「二」は中見出し]  師走の末の早朝《あさまだき》、藍《あい》の雲、浅葱《あさぎ》の浪、緑の巌《いわ》に霜白き、伊豆の山路の岨《そば》づたい、その苞入《つといり》の初茄子を、やがて霞の靉靆《たなび》きそうな乳の辺《あたり》にしっかと守護して、小田原まで使をしたのは、お鶴といって、十六の、明くれば七になる娘。  お鶴は総六の小屋に生れて、そこでこの年まで育ったので、あたかも浪の打附《ぶつか》って様々に砕くるのが、旭《あさひ》に輝き、夕陽《ゆうひ》に燃え、月にあらわれ、時雨にかくるる、牡丹《ぼたん》の花に、雌雄の獅子《しし》の狂う状《さま》を自然に彫刻《きざ》んで飾ったような、巌を自然の石垣は、二階屋に住むものの馴《な》れた階子段《はしごだん》に異ならず。  鞠《まり》がはずんで潮《うしお》に取られ、羽根が外れて海に落つれば、切立《きったて》のその崖を、するすると何の苦もなく、蟹《かに》を捕え、貝を拾い、斜《ななめ》に飛び、横に伝い、飜然《ひらり》と反《かえ》る身の軽さ。小児《こども》同士が喧嘩して及ばぬ敵の迫る時も、腕白な悪戯《いたずら》を薪雑木《まきざっぽ》で追わるる時も、石垣が逃げ場所で、ぴたりとひそんで縋《すが》るとそのまま、衣服《きもの》の裳《すそ》のそよそよと、潮に近き唐撫子《からなでしこ》、手に取る術《すべ》はなかったそうな。  泳ぎはもとより、木も攀《よ》ずれば、峰も谷も駈《か》け歩行《ある》く。  中にも大島を遥《はる》かに望んで、真鶴の浜に対向《さしむか》う、熱海の海の岸一帯、火山が砕けた巌を飛び飛び、魚見岬に行《ゆ》く間、小石《さざれいし》にも白波や、貝殻にも潮の花。さらさらと、さらさらと、ちらちらと乱れる上を、真珠に似たる爪尖《つまさき》で、お鶴は七八ツの時分から、行ったり来たり我が庭同様。  しかも人となるに従うて、天の成せる麗質あり。  手も足も庇《かば》わずに、島の入日に焼かれながら、日金颪を浴びながら、緑の黒髪、煙れる生際、色白く肥えふとりて、小造りなるが愛らしく、その罪のなさ仇気《あどけ》なさも、蝴蝶《ちょう》の遊ぶに異ならねど、浪打際に岩飛ぶ風情を、土地の者は渾名《あだな》して、千鳥々々というのであった。  娘ならば、竜宮のもうし児《ご》であると称《とな》えても、茄子の種子《たね》を云々《うんぬん》より、恐らく聞くものは疑うまい。その色の白いばかりも、この辺《あたり》に類はないから、人々は総六が自讃する、怪しき鳥の挙動《ふるまい》にはさもなくて、湯河原の雲を攀《よ》じ、吉浜の朝霽《あさばれ》や、真鶴の霜毛に駕《が》して、名だたる函嶺の裏関越え、小田原の神に使した、美しき使者をこそ、皆口々に讃《ほ》め称《たた》えつれ。  さて、お鶴がその日の扮装《いでたち》には、頬に浪打つ黒髪を、頸《うなじ》に結んで肩にかけ、手織|縞《じま》の筒袖《つつそで》は曠着《はれぎ》も持たねば、不断のなり、襦袢《じゅばん》の襟と帯だけは、桔梗《ききょう》の花、女郎花《おみなえし》、黄菊白菊の派手模様。これは湯宿の込合う折は、いつでも手伝いに行《ゆ》く習《ならい》。給仕に出た座敷の客の心づけたものであろう、その上に、白金巾《しろかなきん》の西洋|前垂《まえだれ》。  この前垂は、去《さん》ぬる頃、旅籠屋《はたごや》の主人たち、三四人が共同で、熱海神社の鳥居前へ、ビイヤホオルを営んだ時、近所から狩催《かりもよお》した、容眉《みめ》好《よ》き女《むすめ》の中に交《まじ》って、卓子《テエブル》の周囲《まわり》を立働いた名残《なごり》であるのを、白きはものの潔く、清らかに見ゆればとて、親仁が指図で礼服なり。  芳紀《とし》正に二八《にはち》ながら、男女《おとこおんな》も雌雄《めお》の浪、権兵衛も七蔵も、頼朝も為朝も、立烏帽子《たてえぼし》というものも、そこらの巌《いわお》の名と覚えて、崖に生えぬきの色気なし、形《なり》にも態《ふり》にも構わばこそ。 [#5字下げ]裏関所[#「裏関所」は大見出し] [#7字下げ]三[#「三」は中見出し]  父爺《おやじ》の総六が吩咐《いいつ》けのまま、手織縞の筒袖に、その雪のような西洋前垂、背《せな》へ十字に綾取《あやど》って、小さく結んだ菊模様の友染唐縮緬《ゆうぜんとうちりめん》の帯お太鼓に、腰へ捌《さば》いた緑の下げ髪、裳《すそ》短こうふッくりと、白きは脚絆《きゃはん》の色ならず、素足に草履|穿占《はきし》めた、爪尖の薄紅《うすくれない》。石高路《いしたかみち》を物ともせず、独り早朝《まだき》の霜を踏む。  山懐《やまふところ》のところどころ、一帯に産出する蜜柑《みかん》の林に射入《さしい》る旭《あさひ》に、金色《こんじき》の露暖かなれど、岩の衝《つ》と突出《つきい》でた海の上に臨んでは、路《みち》の下を掻《か》い潜《くぐ》って、崖の尾花を越す浪に、有明月の影の砕くる、冬の朝まだ七時というのに、早や吉浜を過ぎ、真鶴を越して、江の浦さして行く途中。  灰色の網の中空から斜めに颯《さっ》と張ったよう、中だるみに四方|濶《かっ》と、峰の開《あ》けた処がある。中に一条《ひとすじ》、つるくさ交りの茅萱《ちがや》高く、生命《いのち》を搦《から》むと芭蕉の句の桟橋《かけはし》というものめきて、奈落へ落《おつ》るかと谷底へ、すぐに前面《むこう》の峠の松へ、蔦蔓《かずら》で釣ったように攀《よ》ずる故道《ふるみち》の、細々と通じているのが、函嶺の裏関所の旧跡《あと》である。  娘はここへ来るまでに、ただその一台を見た、熱海通いの人車鉄道、また人力車など通うにも、上の新道《しんみち》を行くのであって、この旧道を突切《つっき》れば、萩の株に狼の屎《ふん》こそ見ゆれ、ものの一里半ばかり近いという、十年の昔といわず、七八年以前までは駕籠《かご》で辿《たど》った路であろう。  もとより恐るる処にあらず。  娘はかねて聞いて来た、近道をするつもりの、峰の松を目的《めじるし》に、此方《こなた》の道の分れ口、一むら薄《すすき》立枯れて、荒野《あれの》の草の埋《うも》れ井に、朦朧《もうろう》として彳《たたず》むごとき、双《ふたつ》の影ありと見えたるにも、猶予《ためら》わず衝《つ》と寄った。 「ほうい、兎かと思った。吃驚《びっくり》すら。」 「何だ、人間か。」  濁声《だみごえ》斉《ひと》しく、じろりお鶴に眼《まなこ》を注いだ、霧はなけれど、ぼやけた奴等《やつら》。そのむら尾花の蔭に二台、空腕車《からぐるま》を曳《ひ》きつけて、踞《しゃが》んで、畜生道の狛犬《こまいぬ》見るよう、仕切った形、睨《にら》み合って身構えた、両人とも背のずんぐり高い、およそ恰好《かっこう》五十ばかりで骨組の逞《たく》ましい、巌丈《がんじょう》づくりの、彼これ車夫。  お鶴も思いがけなかったか、ぴたりと草履を霜に留めて、透かして差覗《さしのぞ》くようにした。尾花は自然の傍示|杭《ぐい》、アノ山越えて来イやんせ、この谷|辿《たど》って行かしゃんせ、と二筋道へ枯残る。車夫は新道の葉かげから、故道《ふるみち》の穂ずれに立った、お鶴の姿をきょろきょろと、ためつ、すがめつ。 「よう、合の子だな」 「目が黒い、髪も黒いぞ。」 「フム。」 「神巫《みこ》のような娘ッ児《こ》だ。」  一人、膝頭《ひざがしら》と向う脛《ずね》、露出《むきだ》した間に堆《うずたか》い、蜜柑の皮やら実まじりに、股倉《またぐら》へ押込みながら、苦い顔色《がんしょく》。 「あの児《こ》、あの児、姉《あんね》え。」  と呼びかけられ、ぱッちりとした目を睜《みは》って、豊《ゆたか》な頬を傾けたが、くっきりとした眉のあたり、心懸《こころがか》りのない風情。  他の一|人《にん》がこれをうかがい、 「へへ、べらぼうめ、慌てやがって、蜜柑を咎《とが》めに来たのじゃねえや。」  さては盗んだものそうな。 「なあ、姉《あね》え、此方《こんた》にも一ツ遣《や》ろうか、はは、正直に黙っていら。」 「あの児《こ》、こっちへ来や、ちょっと来ねえ、好《い》い相談があるが、どうだ。」 [#7字下げ]四[#「四」は中見出し] 「何だ何だ、蜜柑を遣る。かう死んだ小児《がき》でも思い出したか、詰《つま》らねえ後生気を起しやがるな、打棄《うっちゃ》っておけというに、やい。」 「うんにゃ、後生気どころじゃねえ、ここ一番という娑婆《しゃば》ッ気だ、伝九《でんく》。」  とすくすくと鬚《ひげ》の生えた、山猫のような口を突出し、対手《あいて》の耳に囁《ささや》くと、伝九と呼ばれた一|人《にん》は、歪《ゆが》めて聞いていた面《つら》に、もっての外な、ニヤリと笑む。 「な。」 「そうか、うう、そうか、面白かんべい、へへへへへへ、おい、姉え。」 「待ちねえ待ちねえ、待ちねえよ。」  薄《すすき》の霜に入残る、有明月の消え行く状《さま》、覗《のぞ》いている顔が彼方《かなた》へ、茅萱《ちがや》の骨に隠れんとした、お鶴は続けさまに呼び留められ、あえて危《あやぶ》む様子もなく、 「あい、私。」 「お前《めえ》だお前だ、お前に限ることだ、なあ、雲平《うんぺい》おじい。」 「まあ、姉え、ちょっと来ねえよ。」  雲平なるもの、板昆布《いたこぶ》のような袖口から、真黒《まっくろ》な手を出して、図太く浚《さら》え込む形で手招く。 「何さ。」  と声も気も軽《かろ》う、衝《つ》と身を反《そら》して歩《あゆみ》を向けた。胸に当てたる白布には折目正しき角はあれど、さばいた髪のすらすらと、霜枯すすきの葉よりも柔順《すなお》。 「よう、妙な扮装《かたち》だぜ。」と雲おじい、更《あらた》めてつくづく視《なが》める。 「だから神巫《みこ》見たようだというのよ。」 「己《お》らまた、柱暦の絵に描《か》いた、倭武尊《やまとたけ》様かと思った奴さ。」  悠々として、掻《か》いはだけた、膝の皿に牛蒡《ごぼう》の肱《ひじ》で、憎躰《にくてい》な頬杖なり。  雲おじい、蒼痣《あおあざ》かと、刺青《ほりもの》の透いて見える、毛だらけの脇腹を、蜜柑の汁の黄《きば》みついた五本の指で無意味に掻き、 「時に姉え、お前《めえ》、どこだ。」 「熱海なの。」 「は、御花主場《おとくいば》だ、あんまり見かけねえ。」 「車夫《くるまや》さんは小田原?」  と、めりはりが判然《はっきり》して、人見知りはせず、愛々しい。  伝九|頷《うなず》き、 「図星々々。」 「その図星だ、一番きゅうと極《き》めてえもんだ。」 「まず、じらす内が楽《たのし》みよ。」と蜜柑の皮を掴《つか》んでは、ほたほたと地板《じびた》へ打附《ぶつ》ける。  お鶴は何の気もつかず、 「私は海岸なの、おじさんたちは、お客様を送っちゃ町の旅籠《はたご》の方へばかり行くんでしょう、だから知らないんだわ。」  雲おじい頷いて、 「成程《なッ》、可《いい》わえ、それじゃ水心ありの方だの、こう、姉え、そしてお前どこへ行く。」 「小田原。」 「何が小田原、」 「相談は極《きま》ってら。」  目を見合わせて北叟笑《ほくそえ》みした、伝九、更めて、面《つら》を捻向《ねじむ》け、 「ええ、姉え、ちくとんべい、お前にの。」 「己達《おらたち》が頼みてえ事があるんだ。」 「素直に肯《き》かねえじゃ不可《いけね》えぞ。」  お鶴は涼《すずし》い目を下ぶせに、真中《まんなか》にすらりと立って、牛頭馬頭《ごずめず》のような御前立《おんまえだち》を、心置なく瞰下《みおろ》しながら、仇気《あどけ》なく打傾いて、 「頼みッて?」 「おう、姉え、お前の胸にあるものだ。」 「ここへ打《ぶ》ちまけて見せてくんろ。」  といって伝九郎上目づかい、 「こう姉え、知ってるか、ちょうどお関所にかかるこの道の岐《わか》れる処は、ここン処だ。つい今年の三月、熱海へ奉公に出ておった、お前ぐれえな新造《しんぞ》がの、親里の吉浜へ、雛の節句に帰るッて、晩方通りかかっての、絞殺《しめころ》された処だぜ、なあ、おじい。」 「そうよ、恐《おっか》ねえ処《とこ》よの、何でもいうことを肯《き》かねえじゃあ。」 [#5字下げ]丁か半か[#「丁か半か」は大見出し] [#7字下げ]五[#「五」は中見出し] 「へいへいへい、何旦那ちょいとその、洒落《しゃれ》に遣りましたばかりなんで、へい、大した天下を望むような謀叛《むほん》を起したではござりやせん。」  雲おじいは眩《まば》ゆそうな顔をして、皿の兀《は》げた天窓《あたま》を掻く。 「全くもちまして、娘ッ児《こ》をどうのこうの、私等《わしら》ア御覧なさりやすとおり、いい年紀《とし》でござりやす。」  伝九郎は揉手《もみで》でびたびたお辞儀する。  二人の車夫を屹《きっ》と見ながら、お鶴を庇《かぼ》うて立ったのは、洋装した一個中脊の旅客であった。  濃い藍《あい》の鳥打帽、厚い毛皮の外套《がいとう》を、襟を立てて、顔の半ばから膝の下。鼠のずぼんの裾《すそ》が見え、樺色《かばいろ》の靴を穿《は》き、同一《おなじ》色の皮手袋、洋杖《ステッキ》を軽くつき、両個《ふたつ》の狼を前にしつつ、自若たるその風采《ふうさい》、あたかも曲馬師の猛獣に対するごとく綽々《しゃくしゃく》として余裕あり。  時に真鶴の山中は、当世風の扮装《いでたち》した一《いつ》のこの旅客を得て、はじめて湯治場へ行く道の、熱海街道となったのである。はじめ、その山、その岩、その霜、蜜柑畑も枯薄《かれすすき》も、娘の姿も車夫の状《さま》も、浮世に遠き趣ならずや。 「洒落にしろ宜《よ》くないな、黙っちゃ通られん洒落じゃないか、乱暴な事をする、可哀相に。」  といいかけて、半ば隠れて顔は見えぬが、在原業平《ありわらのなりひら》の目かずらかた俤《おもかげ》で、あとなる娘を顧みた。  薄日は射《さ》したがまだ融《と》けぬ、道芝に腰を落して、お鶴はくの字形《なり》に手を小石。親まさりの爪尖尋常に白脛《しらはぎ》を搦《から》んだまま衝《つ》と横に投出した、肩肱《かたひじ》の処々《ところどころ》、黒土に汚れたるに、車夫等が乱暴のあとが見えて、鈴かと見える目は清《すず》しく、胸のあたりに張《はり》はあるが、落胆《がっか》り疲れた様子である。けれども、さして心を傷《いた》めた趣のあるにもあらず、茅花《つばな》々々|土筆《つくつくし》、摘草に草臥《くたび》れて、日南《ひなた》に憩っているものと、大《おおい》なる違はない。  自分が手籠《てご》めになろうとしたのを、折よく来かかって扶《たす》けてくれた、旅客に顔を見られたが、直ぐにとこうの口も利かず、鬼に捉《と》られた使の白鳩《しらはと》、さすがに翼を悩《あや》めたらしゅう、肩のあたり、胸のあたり、黒髪も打揺らぐは、朝風のさそうにあらず、はずんで呼吸《いき》をつくのであった。 「此奴等《こいつら》、ほんとうに悪い洒落だ。」  また呟《つぶや》くがごとくいう。  伝九郎苦り切った面《つら》を上げ、 「でもその全く、へい、洒落に違いはござりやせんので、なあ、おじい。」 「此奴が申し上げる通りでござりやす。」  しり込みするのを右瞻左瞻《とみこうみ》、 「むむ、まあしかしお前方、素直にそうやって、折れてくれて、お互に幸だ。  朝とはいっても全然《まるっきり》、こうやって、前後に人通りのない山路《やまみち》だ、風体の悪い……おい、悪く聞くな。」 「へへへへへ、どういたしやして。」  と雲おじい、膝に手を置いて突出した、臀《しり》へ頸《うなじ》を捻《ね》じ向けて、己《うぬ》が風体をじろりじろり。 「大の男が二人|懸《がか》りで、この娘さんを押伏《おっぷ》せようとしているのを見ちゃ、旅空の烏だって、黙って見ては通られないから、私も夢中で飛込んだが。  しかしだ、朝ッぱら口あけ仕事の邪魔をする、畳んでしまえ、とか何とかいって、むきになってかかられてみたが可《い》い。  別にまた武者修行でも来れば可《よ》し、さもなけりゃ私だって、お前たちにゃ一人にも敵《かな》やしない。一堪《ひとたま》りもなく谷底へ投《なげ》られるんだ、なあ、おい、そんなもんじゃないか。」  今度は伝九郎が、 「どういたしやして、へへへへへ。」 [#7字下げ]六[#「六」は中見出し] 「処を、清く、恐入ってくれたというもんだから、双方無事で、私も大《おおき》に技倆《きりょう》を上げたが、いってみりゃ、こりゃ、お前方のお庇《かげ》だよ。」  上衣《うわぎ》の肩の動くまで快げに打笑い、 「就《つい》てはお前達が、洒落だという、その洒落が、ちとどうにか、ものになる相談をしようと思うが、一体何の洒落かね、こう見た処、どうもまんざら、この娘さんを手籠めにしようとしたようでもないな。」  いわれて雲平、 「旦那、綺麗な姉さんにゃ姉さんでござりやすが、から孫みたようなものを捉《つかめ》えて、色気で、どうこうというわけじゃなかったんで。へい、実は、少々御法度の、へい、手慰みを遣らかしておりましたんで。」  伝九郎もようよう窮屈そうな腰を伸《の》した。 「ほんの出来心なんでござりやすよ、この節は、人車鉄道が敷けましたに就いて、こちとら、からッきし仕事といってござりやせん。  ところが昨日《きのう》珍らしく、箱根から熱海へ廻ろうという二人、江戸の客人がござりやして、このおじいと棒組で、こうやって二台|曳《ひ》いて参《めえ》りやした。  小田原を昨日《きのう》八ツ時分に出ましたんで、熱海へ着いて、対孝館へ送り込みましたが、昨夜《ゆうべ》、もう十二時《ここのつ》頃。  五両と三両|纏《まとま》った、穀《こく》の代を頂いたんで、ここで泊込みの、湯上りで五合《ごんつく》極《き》めた日にゃ、懐中《ふところ》も腕車《くるま》も空《から》にして、土地《さと》へ帰らなけりゃならねえぞ。どうせ戻り腕車はねえんだで、悪くすると、お客をのせて山|越《ごし》を、えッちら、おッちら、こちとらが分際で、一晩湯治のような寸法になりそうだ。一番このまんまで引返《ひっかえ》せと、へい、おじいも気が合って、そこで、もし。  一膳めし屋で腹を拵《こさ》えて、夜通し、旦那、がらがら石ころの上を二台、曳摺《ひきず》って、夜一夜《よっぴて》山越しに遣って来やしてね。明け方ちょうどここン処《とこ》まで参りやすと、それ、旦那。」  と谷の方を瞰下《みおろ》した、雲おじいも斉《ひと》しく其方《そなた》を。  旅客はかえって、娘をちょいと見たのである。 「お関所でござりやしょう、里心というんじゃねえんだが、妙てこに昔懐しくなりやしてね。」 「へい、私等《わっしら》、こう見えて、へへ、何も見得なことはござりやせんが、これで昔の雲助でござりやす。息杖で背後《うしろ》へ反っくり返るのと、楫棒《かじぼう》を握って前のめりに屈《かが》むんじゃ、から、見た処から役割が違いやさ。  ああ、ああ、ここいら、一面に、己達《おれッち》の巣だったい。東海道は五十三次、この雲助が居ねえじゃ、絵にも双六《すごろく》にもなるんじゃねえ。いざ、道中となった日にゃ、お大名でも、飛脚でも、品川から忘れねえのは、富士の山と、お関所と、大井川と雲助かい。  女づれの遊山《ゆさん》旅に、桔梗一本折ればといって、駕籠を舁《かつ》いだおじさんに渡りをつけねえじゃならなかったに、名物の外郎《ういろう》は、偶《たま》にゃ覚えた人があろか、清見寺の欄干から、韮山《にらやま》の虹《にじ》を見たって、雲助を思い出す後生|願《ねがい》は一人もねえ。  ものの三十年と経《た》たねえ内に、変れば変る世の中だ。どうだ伝九、この、お関所あとを見るにつけ、ぼけた金時じゃあるめえし、箱根山を背後《うしろ》に背負《しょ》って、伊豆の海へ巌端《いわばな》から、ひょぐるばかりが能じゃあるめえ。ちょうど尾花の背景《うしろ》もある、牛頭馬頭《ごずめず》で眼張《がんば》りながら、昔の式《かた》を遣ってみべいと、」 「おじいが言うのは私《わっし》の図星。そこで旦那、共喰の手慰み、鉄拐博奕《てっかばくち》を切ッつけやした。なんこから狐になって、はたいた方が愚に返って、とうとうね、蜜柑の種を勘定しながら、地体お星様は丁か半か、とあけ方の天井へ、一服吹かしております処へ、ひょッくり、その姉さんが来たんでね。」 [#7字下げ]七[#「七」は中見出し]  おじい傍《かたわら》から引取って、 「ええ、旦那、つい串戯《じょうだん》に、一番《ひとつ》驚かしてくれようと、おう、姉や、とそれ、雲助声を出しやしたが、棲折笠《つまおりがさ》に竹の杖、小袖の上へ浴衣を着て、緋《ひ》の褌《ふんどし》にもつれながら、花道を出るのと違って、方《かた》なし、おどかしが利きやせん。  権現様の出開帳《でがいちょう》に、お寺の門によたれている、躄《いざり》ほどにも思わねえか、平気で、私かいッて傍《そば》へ来るだ。」 「雲助の御威光、こうまでに衰えたか、とあんまり強腹《ごうはら》だから、ちと凄味《すごみ》に、厭だと吐《ぬ》かしや、と押被《おっかぶ》せて、それから、もし、あの胸にかけていやす、その新しい苞《つと》の中をね、開けて見せろッて申しやした。」  守護《まもり》のように、ちゃんと斜めにかけているのを、旅客はまたこの時|顧《み》たのである。  と同時に、お鶴も俯向《うつむ》いて熟《じっ》と視《なが》めた。 「旦那、これがその申上げた洒落というんで、実は、おじいの思いつきでござりやしてね。」 「へい、」 「苞《つと》からポンと出た処《とこ》勝負、ものは何でも構わねえ、身ぐるみ賭けると、おじいが丁で、私《わっし》が半。」 「姉や、こう開けてくんねえ、というと旦那、てんづけ頭《かぶり》をふるんでさ。べらぼうめ、どこだと思う、場所が場所だに己達《おれッち》だ。  汝《うぬ》、その、胸を開けて、出来立ての乳首《ちッくび》を見せろ、という難題だって、往生しねえじゃならねえわ。苞《つと》に入れたは何だか知らねえ、血で書いた起請《きしょう》だって、さらけ出さずに済むものか、と立身上《たつみあが》りで、じりじり寄って行きますとね。」 「旦那、魅込《みこ》まれたようにあとびっしゃりをしながら、厭《いや》だ、神さまへお初にお目にかけるもんだから、途中で開けることはならないッて申しやす。  親にも見せねえ膚《はだ》だって了簡《りょうけん》をするもんか、一体そン中ア何だッて聞きやすとね。  茄子《なす》よ、と吐《ぬ》かすだろうじゃござりやせんか。  人をつけ、いかに陽気が陽気だって師走空に茄子《なすび》があろうか、小馬鹿にしやがる。」 「むっとしやした。そこで旦那が、御覧じやした通りの体裁、や、抜けつ潜《くぐ》りつ、こや[#「こや」に傍点]の軽いのにゃ飽倦《あぐね》ッちゃって、二人とも大汗になって、トド打掴《ふんづかま》え、掛けたのを外しにかかると、俯向《あおむ》けに倒れながら、まだ抵抗《てむか》う気だ。二人が手とその娘の手先と、胸で指相撲のような騒ぎの処へ、旦那が割込んで来なすったんでね。」 「なあ、おじい。」 「そうよ。」  といって頷《うなず》いたが、 「大したゆきさつじゃございやせんがね、根がそれ、昔の懐しさに、雲助の式《かた》をやッつけた処でござりやすで、いきなり、曲者《くせもの》とか、何とかいって、旦那がギックリとおいでなさりゃ。  もうかれこれ三十年|以来《このかた》というもの、もがりも、ねだりも、勾引《かどわかし》も、引落《ひきおとし》も何にもしねえ。戸籍|検《しら》べのおまわり様にゃ、這出《はいだ》してお辞儀をして、名前の傍《わき》に生年月《うまれねんげつ》、日までを書いてある親仁だけれど、この山路に対したって、黙っちゃ引込《ひっこ》まれねえんだ。」 「函根の大地獄が火を噴いて、蘆《あし》の湖《こ》が並木にでもなるようなことがあったら、もう一度、焚火《たきび》で秋刀魚《さんま》の乾物《ひもの》を焚《や》いて、往来へ張った網に、一升徳利をぶら下げようと思わねえこともねえんでね。」 「たかが、今時《いま》のお前《めえ》さん。」 「医者だか、学者だか知らねえけれど、畳むに仔細《しさい》はねえんだが。 (野暮はよせ、金子《かね》にせい。)」 「(金子だ、金子だ。)ッてのッけから、器用に拵《さば》いておくんなすったで、こりゃ、もし。」  からりと笑って、 「私等《わっしら》の氏神様だ。」 「へへへへ、南無大明神でいらっしゃる。そこで、ひょこひょこ、それかように、」  トひょいと頭《こうべ》を下げた、小田原無宿の太々《ふてぶて》しさ、昔の状《さま》こそしのばるれ。あら、面白の街道や。 [#5字下げ]室咲[#「室咲」は大見出し] [#7字下げ]八[#「八」は中見出し] 「危《あぶな》いこと! 姉さん、もうちっとで、賭博《ばくち》の賽《さい》ころになろうとした。」  旅客は娘に引添うて、横から胸を抱くように、美《うつくし》い手袋で、白い前掛を払いながら、親身の妹《いもと》に語るごとく、 「ほんとうに、危いじゃないか。あんな無法な奴等だから、それこそ、谷底へでも投《ほう》り出されてみたが可い、丁も半もあったものか。姉さんのこの星のような綺麗な目が、飛出してしまうだろう。  身体《からだ》が大事だ、どんな家だって、財《たから》だって、自分にかえられるものはない、分ったか。」 「はい。」  といったが小さな声、男の腕に肩をもたせて伏目《ふしめ》に胸に差俯向《さしうつむ》く、お鶴はこの時立っていた。  日の光は、あからさまに根の見ゆる、草の中へ淡くさして、枯れてしげれるむら薄《すすき》は、燈火《ともしび》の影ぞと見ゆる、薄くれないに包まれたが、二人が立って背《せな》にした、山の腹は、暖かく照らされて、そこに実った黄金《こがね》の枝は、露に蜜柑の薫《かおり》を籠《こ》めて、馥郁《ふくいく》として滴る気勢《けはい》。  朝晴の蒼《あお》き大空は、軽いが頭《こうべ》に近いよう、彼方《かなた》にごろごろと音がして、黒きかたまりの緩やかに畝《うね》り畝り、遠ざかり行く、車、雲助、その行くあたりちらちらと、白い雲の動いて見ゆるは、狭間《はざま》に漏るる青海原《あおうなばら》、沖に静《しずか》な鴎《かもめ》の波。 「さ、もう可い、もう可い。」  旅客は腕車《くるま》を見送りながら、お鶴の塵《ちり》を払ったあとを、背《せなか》一つ撫でて離れ、 「怪我はせんか、どこも痛みはしないかな。」 「はい。」  とやや判然《はっきり》答えて、お鶴はむッくりした清らかな肱《ひじ》を、頬に押当てる姿して、倒れた時の土を見た。  その時まで、雲助どもの乱暴を、打腹立《うちはらだ》って拗《す》ねたる状《さま》、この救い人《て》に対してさえ、我ままに甘えて曲《くね》るか、捗々《はかばか》しく口も利かずにいたのであった。  肱を曲げたまま、瞳をくるりと、花やかに旅客を見向き、 「どこも何ともないのよ。」 「その手は。」 外套《がいとう》の襟の上に、凜々《りり》しい眉を顰《ひそ》めていった。 「いいえ、痛みはしませんの。私、だって、私、突倒されたんですもの、口惜《くやし》いわ。」  急に唇を屹《きっ》と結び、笑くぼを刻みながら涙を堪《こら》えて、キリリと鳴《なら》す皓歯《しらは》の音。  旅客は洋杖《ステッキ》を持った手を拡げて、案外、と瞻《みまも》ったが、露に濡れたら清めてやろう、と心で支度をする体《てい》に、片手を衣兜《かくし》に、手巾《ハンケチ》を。  やがて、曇《くもり》は晴れたのである。  涙の名残《なごり》は瞳の艶《つや》、莞爾《にっこり》と打微笑《うちほほえ》み、 「二人とも強いんですもの、乱暴ッちゃありゃしない。」 「いや、お前の方が乱暴だ。道理こそ、人殺《ひとごろし》とも、盗人とも、助けてくれとも泣かないで、争っていたっけが、お前、それじゃ、取組み合う気で懸《かか》ったのか。」 「はあ、喧嘩したんです。私、喰いついてやったり、引掻《ひっか》いたり、一生懸命だったんです。でも負けたわ。」  と勇ましくいいかけたが、フトそのお転婆を極《きま》りの悪そう、お鶴が面《おも》はゆげに見えたのは、案内記には記さぬ不思議。  わざとたしなめる口ぶりで、 「当前《あたりまえ》だな、途方もない。」 「でも、そうしないと、無理に、あの、その苞《つと》を。」  その苞は、ここにこの娘の胸に、天女が掛けた羯鼓《かっこ》に似ていた。 「捕られて、中を見られるんですもの、あんな奴に見せるのは厭。」 「だから、だから今そういって聞かしたではないか。  どんな大事のものだって、身体《からだ》と取っかえこにしてなるものかな。  このさきもある事だよ。」 [#7字下げ]九[#「九」は中見出し] 「はい。」  とばかり不承不承、返事も恩人なればこそ、承《う》けひく気色はちっともない。  旅客は再び、差寄って、 「よ、ほんとうに気を着けなよ。  今の車夫もそういったが、お前何か、それを持って小田原まで行くんだというではないか。  気にかけないものだというと、瞽女《ごぜ》が背負《しょ》った三味線箱、たといお前が藁《わら》づつみの短刀を、引抱《ひっかか》えて歩行《ある》いた処で、誰も目をつけはしないもんだが。  そうやって、人に見せまい、必ず手をつけさすまい、と秘《かく》しているだけ、途中何となく気が寄って、まあ、魔がさすとでもいうものか、思いがけない邪魔が入る。  またこの前《さき》、どんな事で、誰が見ようとしないとも限らない、――その時だ。  今のように、身体《からだ》で庇《かば》って、とんだ怪我でもしちゃ不可《いか》ん、気をつけるんだよ、きつと[#「きつと」はママ]、可《いい》か、分ったかね。」  熱心に教えながら、お鶴の姿を左から、右へぐるりと一|廻《まわり》。  その歩行《ある》く方へ瞳を動かし、ぱちり音するかと二ツ三ツ瞬いて聞いていた。 「じゃ、あの、見せろッていいましたら、出しても可《よ》くって? 貴下《あなた》。」 「可かろうとも。」 「神様に見せない前に。」  と口早に附け加えた。 「神様に。」 「ええ。」  その顔を上げた時、はらりと顔にこぼれかかる、髪《びん》の[#「髪《びん》の」はママ]毛を、指に反らして払い、 「孔雀《くじゃく》みたいな、あの、翡翠《かわせみ》みたいな、綺麗な鳥が来て、種をこぼして行きました。  小田原の神様が、おとっさんに、拵《こしら》えろッていったんですって。  ですから、あの、これは神様のものなんでしょう。」  見詰めつついう気構《きがまえ》に、逆《さから》わず打頷《うちうなず》き、 「そうか、神様のものか。むむ、そして、苞《つと》の中は茄子《なすび》だといったが、まったくかい。」 「は、お初穂を上げに行くんです。あの、これが小さな、紫色の苗になりましてから、白髪《しらが》のおとっさんが、あのね。  死んだおっかさんが着ていました、桃色の切《きれ》だの、浅葱《あさぎ》の切だの、いろいろ継合わしたちゃんちゃんこを着ちゃ、背戸へ出て、十国峠へ日が昇るの、大島へ月が入るの、幾度見たか知れないの、丹精して出来たんですもの。  おかしくッてねえ。だって鳥の羽みたいな五色のを被《き》て、おとっさんは、種を持って来た神使鳥《つかいどり》のようじゃなくッて。  それから今度、おつかいに持って行く、私だって……何なのよ。  過日《こないだ》ッからお精進をしたんです。今朝は、髪を洗って、あけ方お湯を貰ったんです。  すっかり身体《からだ》を清めて来ました。」  さらぬだにこの風采《ふうさい》を、まして、世に、かくまで清き媛《ひめ》やある。  旅客は恍惚《うっとり》、引入れらるる状《さま》であった。 「それを、それを、あの、だって、大事にして見るんなら、まだ何ですけれども、賭博《ばくち》の目に、よもうッていうんですもの。  私、殺されても見せないんだわ。」  しばらくして面《おも》正しゅう。 「もっともだ、至極その筈《はず》だ、成程。  昨日《きのう》通りがかりに、小田原の鎮守の社《やしろ》へ、参詣《さんけい》をして来たが、御城の石垣の白いのが、鶴の巣籠《すごもり》のように見える。森《しん》として、神寂《かみさ》びた森の中の、小さな鳥居に階子《はしご》をかけて、がさり、かさこそと春の支度だろう。輪飾《わかざり》を掛けていたっけ。  神主のその顔が、大《おおき》な猿のように見えて、水干烏帽子《すいかんえぼし》を着ていたのが、何となく神々《こうごう》しかった。  誠は神に通ずとやらいうから、大方神様の方でも、姉さん、お前の行くのを待っておいでなさるんだろう。けれどもだ。」  日はまたかげって尾花白く、薄雲空に靉靆《たなび》く見ゆる。 [#7字下げ]十[#「十」は中見出し] 「小田原の神に、霊《たましい》がおあんなさればなおの事、捧げられる供物、お初穂が、その品物のために、若い娘の身に、過失《あやまち》のあることをお望みはなさりはせん。  な。」  と再び肩に手を。 「こんな可愛い姉さんにするまでに、第一お前のお父《とっ》さんの、丹精を思って御覧……幾歳《いくつ》だ。」 「六。」と低声《こごえ》である。 「六? 十六か、それまでにゃ、それこそ、その十国峠に日の出るの、大島に月の沈むのを、幾たび見たか知れやしない。  佳《い》い児《こ》だ、いうことを肯《き》いて、身体《からだ》を大事にしなけりゃ不可《いけない》よ。まったくだ、はるばる使に来てくれる姉さんを、小田原のお宮でも、どんなに御心配だか知れやしない。」  背掻《せなか》い撫《な》でて、もの優しく、 「分ったか。」 「はい。」  旅客は勇んで口軽に、 「佳《い》い娘《こ》、佳い娘。」 「じゃ貴下《あなた》。」 「むむ。」 「もしか、あの、今度のような事がありましたら、出して見せても可《よ》くってね。」 「可いともさ。」 「なに、それでは貴下のおっしゃることは、神様の心とおんなじなの。」 「同一《おなじ》だとも!」  お鶴は何かいそいそして、 「だから私が酷《ひど》いことされようとした時に、助けに来て下すったんだよ。神様ねえ、神様ですねえ、貴下は。」  と、つかつかと擦り寄ると、思わずたじろいで退《しさ》ったが、 「ああ、神様だ。」  いった声に力がこもって、ついた杖《ステッキ》の尖《さき》が幽《かすか》にふるえた。娘のための方便ながら、勿体なくや思いけむ。と見ると瞼《まぶた》に色を染めて、慌《あわただ》しげにいい直した。 「お前にだけは神様です。」 「ではね、途中でまた誰かに捉《つか》まるとね、今度は私、素直に見せてやりましょう。  それでもね、あの、お宮様へ行かない前に、他所《よそ》の人に見せるのは口惜《くや》しいんですから、私、貴下にお目にかけるわ。」  とて、直ぐに手を、胸なる苞《つと》の両端へ。 「お待ち、待て待て。」  急におさえたが、黙って、しばらくして、目の色が定まった。 「見せてくれるか、じゃ、見よう。熱海の公園は咲いたろう、小田原でも莟《つぼみ》を見た、この陽気。年内からもう春だ、夢に見てさえ可いというもの、どれ。」  手巾《ハンケチ》を引出して、根笹《ねざさ》は浅く霜をのせたが、胸に抱いたら暖かそうに、またふッくりと日の当る、路傍《みちばた》の石|一個《ひとつ》、滑らかな面《おもて》を払うて、そのまま、はらりと、此方《こなた》へとて。  浅葱《あさぎ》の紐《ひも》は白い頸《えり》から、ふさふさとある髪を潜《くぐ》って、苞《つと》は両手に外された。既にその白魚《しらお》の指のかかった時、雪なす衣《きぬ》の胸を通して、曇りなき娘の乳《ち》のあたりに、早や描かれて見えるよう。 「可愛らしくッて、綺麗ですよ。」  薄紫の花一輪、紅《べに》の珊瑚《さんご》に、深みどりの、海の色添う小さな枝、実は二ツついたりけり。  旅客も杖《ステッキ》をたてかけて、さしむかいに背を屈《かが》め、石を掻抱《かいだ》くようにして、手をついて実を視《なが》めたが、眦《まなじり》を返して近々と我を迎うる皓歯《しらは》を見た。あわれ、茄子《なす》、二ツ、その前歯に、鉄漿《かね》を含ませたらばとばかり、たとえん方《かた》なく﨟長《ろうた》けて、初々しく且つ媚《なまめか》しい、唇を一目見るより、衝《つ》と外套の襟を落した。美丈夫と艶《えん》なる少女は、ふと飛立つように身を起した。  娘の髪にも旅客の肩にも、石の上なる貢《みつぎ》にも、ひらりと射《さ》したは鳥の影。  仰いで空を、赫《かっ》として何《な》にも見えず、お鶴|耳許《みみもと》、まぶちのあたり、日は紅《くれない》に燃ゆるよう。 [#7字下げ]十一[#「十一」は中見出し]  轟々《ごうごう》と音がして、背後《うしろ》の山の傾斜面を、途端に此方《こなた》に来るものあり。  罪を鳴らす鼓か、と男は慌《あわただ》しく其方《そなた》を見た。あらず、人車鉄道の、車輪隠れて、窓さえ陰、ただ、橙色《だいだいいろ》に列《つらな》った勾配のない屋根ばかり、ずるずると曳《ひ》いて通る。  それが蜜柑の木の間《あわい》。しかも会社が何週年かの祝日にやあたりけむ、かかる山路に、ひらめく旗、二|人《にん》の方《かた》にそよそよと靡《なび》いて、天|麗《うらら》かに祝える趣。  と見る見る頂から下り道、真鶴あたりの樹立《こだち》の梢《こずえ》、目の下の森をさして、列車は颯《さっ》と逆落《さかおと》し、風に綾《あや》ある紅《あか》、白、蒼《あお》、いろいろの小旗の滝津瀬、ひらひらと流るる状《さま》して、青海さして見えなくなる。  娘はそれを見送るように、真うしろに旧《もと》来た方《かた》、男に背を向けてぞ立ちたる。  さて旅客は、手ずから包を旧《もと》のようにして、静《しずか》に提げてお鶴の傍《そば》へ。  黙って背後《うしろ》から、密《そ》とその頸《うなじ》にはめてやると、苞《つと》は揺れつつ、旧の通りにかかったが、娘は身動きもしなかった。四辺《あたり》には誰《たれ》も居ない。  と視《なが》むれば、その浅葱《あさぎ》の紐が、丈なる髪を、肩のあたりで仕切ったので、乱れた手絡《てがら》とは風情異り、何となく里の女が手拭を掛けたよう、品を損ねて見えたので、男は可惜《あたら》しく思ったろう。  手袋の一ツをはずして、手を、娘の、鬢《びん》の下に差入れた。おのずから得《え》ならぬ薫《かおり》、襟脚の玉暖かく、衝《つ》と血の湧いた二の腕に、はらはらと冷くかかった、黒髪の末|艶《つや》やかに飜《ひるがえ》り、遮るものはなくなった。これにも娘は熟《じっ》として、柔順《すなお》に身をまかせていたのである。 「じゃあ、気をつけて行《ゆ》くんだよ。」 「貴下《あなた》は熱海へいらっしゃるの。」 「ああ、そうさ。」 「今の人車だと訳はありはしませんのねえ。歩行《ある》いて行っては大変ですわ。」 「お前こそ、女の足で随分じゃないか。」 「いいえ、車なんか危なっかしくッて不可《いけ》ません。ずんずん駈《か》け出して行って来るの、何とも思いはしませんよ。」 「私も実は人車はあやまる。屋根は低いのに揺れると来て、この前頭痛で懲々《こりこり》したから、今度は歩行《ある》くつもりで、今朝小田原からたって来たが、陽気は暖かだし、海端《うみばた》の景色は可《よ》し、結句|暢気《のんき》で可い心持だ。しかし私は片道だが、お前は向うで泊るのかい。」 「あの、おつかいをして、直ぐに今日帰るんです。」 「ざっと行きかえり十四五里、しかもこの山路《やまみち》を、何だか私は、自分の使いにでも遣るようで、気の毒でならんのだ。」  娘は嬉しそうに……何にもいわず。 「しかし、神ごとだというんだから、今の雲助とは訳が違って、金銭《ぜにかね》ずくでは仕方がない、じゃ、これで別れるよ。」 「…………」  男は再び、深く外套の襟を立てた。 「御苦労だな。」  と支《つ》いたる洋杖《ステッキ》、踵《きびす》を返した霜路《しもじ》の素足、静《しずか》に入れ交《ちが》って、北と南へ。 「おお。」  心着いて旅客はまた、うなだれて行《ゆ》く娘を呼んだ。 「ちょいとお待ち、大切なことを忘れた。折角、その珍らしい、めで度いものを見せてくれたに、途中だ、礼の仕ようがない。心ゆかしにこれを上げよう、これでもここらに散《ちら》ばった落葉朽葉よりいくらか増《まし》、志は松の葉だ。  さあ、手帳がある、それから鉛筆、これはね、お前の胸にかけたものと、同一《おなじ》紫の色なんだから。」  渡すを、受ける、熟《じっ》と手を、そのまま前垂の胸に入れて、つッと行く白い姿、兎が飛ぶかと故道《ふるみち》へ。此方《こなた》は仰ぐ熱海の空、颯《さっ》と吹く風に飜って、紺の外套の裾が煽《あお》った。  ケケコッコ――谺《こだま》に響く鶏《とり》の声、浦の苫屋《とまや》か、峠の茶屋か。 [#5字下げ]日金颪[#「日金颪」は大見出し] [#7字下げ]十二[#「十二」は中見出し] 「へい、夫人《おくさま》、真平《まっぴら》御免下さりまし、へい、唯今《ただいま》は。」  毛は黒いが額は禿《は》げ、面長《おもなが》な、目は円《まろ》く、頬の肉は窪んだけれども、口許《くちもと》に愛嬌《あいきょう》ある、熱海の湯宿伊豆屋の帳場に喜兵衛といって、帳面とともに古い番頭。  と按摩《あんま》が御用を聴く形、片手を廊下へ、密《そっ》と障子。  中は八畳に寝床を二ツ、くくり枕の傍《かたわら》には、盆の上に薬の瓶、左の隅に衣桁《いこう》があって、ここに博多の男帯、黒|縮緬《ちりめん》の女羽織、金茶色の肩掛《ショオル》など、中にも江戸|褄《づま》の二枚小袖、藤色に裳《もすそ》を曳《ひ》いて、襲《かさ》ねたままの脇開《わきあけ》を、夜目にも燃ゆる襦袢《じゅばん》の袖、裙《すそ》にもちらめく紅梅に、ちらりと白足袋が脱いであり。  そのうしろなる襖《ふすま》の絵の、富士の遠望《とおみ》に影を留《とど》めて、藻脱《もぬけ》の主は雪の膚《はだ》。空蝉《うつせみ》の身をかえてける、寝着《ねまき》の衣紋《えもん》緩やかに、水色縮緬の扱帯《しごきおび》、座蒲団に褄浅う、火鉢は手許に引寄せたが、寝際に炭も注《つ》がなければ、尉《じょう》になって寒そうな、銀の湯沸《ゆわかし》の五徳を外れて、斜《ななめ》に口を傾けたるも旅の宿の侘《わび》しさなり。紫紺の紐は胸にあれども、結ばず、絣《かすり》の書生羽織を被《かぶ》ったように引《ひっ》かけた。厚衾《あつぶすま》二組に、座敷の大抵狭められて、廊下の障子に押《おし》つけた、一閑張《いっかんばり》の机の上、抜いた指環《ゆびわ》、黄金《きん》時計、懐中ものの袱紗《ふくさ》も見え、体温器、洋杯《コップ》の類、メエトルグラス、グラムを刻んだ秤《はかり》など、散々《ちりぢり》になった中に、しなやかに肱《ひじ》をついて新聞を読む後姿。  やや傾けたる丸髷《まげ》の飾《かざり》の中差の、鼈甲《べっこう》の色たらたらと、打向う、洋燈《ランプ》の光透通って、顔《かんばせ》の月も映ろうばかり。この美人《たおやめ》は、秋山氏、蔦子《つたこ》という、同姓|保《たもつ》の令夫人。芳紀《とし》の数とやや斉《ひと》しい、二十五番の上客である。しがみ着いて凭《よ》りかかった、机の下で、前褄を合せながら、膝を浮して此方《こなた》を見向き、 「番頭さん?」 「へい。」  お辞儀、つい目の前に居られたので、向うへ頭を下げるゆとりがなく、頤《おとがい》を引込めて手を支《つ》いた。 「さあ、お入んなさい。今日はまたどうしたのか、大変に寒いのね。」  と火鉢の上に、白やかな手を翳《かざ》した。 「どうもこの、日金颪《ひがねおろし》が参りますと、熱海は難でござりまする。まあ、夜分になりましてから可《いい》塩梅《あんばい》に風もちと凪《な》ぎましてござりますが、朝ッからの吹通しで、そこいらへ針がこぼれましたように、ちくちくいたしますでござります、へい。  つきましてでござりますが、ええ、夫人《おくさま》、唯今はどうも、とんだお騒がしゅう、さぞまあ吃驚《びっくり》、お驚き遊ばしましてござりましょう。いや、とんだ事で。」とちと渋面。  令夫人、手を揉《も》みながら婀娜《あだ》に肩を震わして、 「まあ、閉めて此方《こちら》へお入りなさい。」 「それでは御免を蒙《こうむ》りまして、や、こりゃ、お火が足《た》しのうなりました。」  ぽんぽんぽんと手を拍《う》つ。早や初夜過ぎの寂《しん》として、四辺《あたり》へ響いたが返事がない。 「もう可《よ》ござんす、床を取ってしまったから。何ね、炭を継ごう継ごうと思いながら、つい懐手をすると不精になるんです。急に寒いもんだから恐しくいじけてしまって。」と火箸を取って品《しな》よく微笑む。 「さぞお身体《からだ》に障りましょう。時に。」  中腰で四辺《あたり》を眗《みまわ》し、 「旦那様はお風呂でござりますか、お塩梅はいかがでいらっしゃいます。」 「どうもね、こう寒いと直《じき》に障ってなりません。つい今しがた蒸湯へおいでなさいました。大方今夜は一晩でしょう、咳《せき》が酷《ひど》くって、寝られないで困りますよ。」  と、しめやかにいうのであった。 「ですが一番|宜《よろ》しいそうで、旦那様のような御病体は、是非その、蒸湯に限ると申します。しかし地の下の穴蔵のような処でござりますで、なおの事、吃驚《びっくり》遊ばしたでござりましょう。何しろ、大地震でござりますから、いや、はや。」 [#7字下げ]十三[#「十三」は中見出し] 「ほんとうに、騒ぎだったのね。」  夫人は落着いたもののいいよう。  喜兵衛番頭、せき心で口早に、 「だッたの、なんのとおっしゃって、熱海中|引《ひっ》くりかえるような大事《おおごと》、今にも十国峠が、崩れて来るか、湯の海になるかという、豪《えら》い事でござりました。貴女様《あなたさま》、夫人《おくさま》は。」 「私はどうもしやしなかったよ。」 「何か早や夢のよう、この世のことか、前世のことか、それとも小児《こども》の時のことでござりましょうか。先刻《さっき》の今が、まるで五十年昔あった、火事か大洪水《おおみず》、それとも乱国、戦国時分かと思われますような、厭《いや》な、変な、凄《すご》いような、そうかと申すと、おかしいような、不思議なような、さればといって、また現在目の前にちらついておりますような、妙な心持でござりまして、いや、もう、この大地震は忘れましても、道具の、出たり引込《ひっこ》んだり一件は、向後《きょうご》いくつになりましても、決して忘れますことではござりません、と申しあげます内も、ぞッといたしまして、どうもこの、」  床の間のあたりが陰気に暗い。  喜番、据腰《すえごし》に手を突き出し、真顔に天井を仰ぎながら、 「魔のせいでござりましょう、とな、皆《みんな》が、内々申合っております次第で、へい。  そこで夫人《おくさま》。  かねてお聞及びの、あの、崖の総六と申します親仁《おやじ》が許《とこ》の不思議な一条。」  これは聞えていたと見え、 「ああ、あの、お茄子《なす》の事ですか。」 「その儀、その儀にござりますが、へい、何か見馴《みな》れません綺麗な鳥が、種をこぼして行ったと申して、熱海中の吉瑞《きちずい》、神業《かみわざ》じゃと、皆《みんな》が、大抵めでたがりました事でござりますが、さてこうなってみますると、それが早や魔の業《わざ》で、種を啣《くわ》えて来ましたのは、定めし怪鳥《けちょう》、鵺《ぬえ》じゃろうかに手前どもが存じまする。  一体当地にこの春大地震があると、口を合わせましたようにいい出しましたのも、根はその総六が許《とこ》の茄子《なすび》から起りました事。  何しろ、暮の内から御覧の通り、師走の二十日《はつか》前後に、公園の梅が七分咲きで、日中綿入を襲《かさ》ねますと、ちと汗が出ますくらいでござりました。  それも当熱海の事でござりますから、さまで不思議とも存じません。畢竟《ひっきょう》は冬向暖いのを取柄に、湯治にいらっしゃりますわけで、土地の自慢とも存じたでござります。  その内に崖の総六が背戸の畑に、茄子が生えたと申すので、はじめは誰もほんとうにはいたしませなんだが、立派に紫の花が咲いて、霜除《しもよけ》に丹精した、御堂のような藁束《わらづか》の中に、早や小指ほどなが一体。  茄子殿を一体も、異なものでござりますけれど、親仁が神事《かみごと》じゃと申すので、位がつきまして、その、一体お生《な》りなされた、などと見て来たものが申しますで、余り陽気違いじゃが。  一富士二鷹三茄子と申す儀もあり、むかし聖人の代《よ》には冬向き出来たものであろう、めでたい、と申す内に、御初穂を取りまして、お鶴ってその親仁の娘が。  はあ、はあ、旦那様も夫人《おくさま》も御存じ。あの鳩のような美《うつくし》い目をした、さよう。手前などへも、手の入《い》ります時は、ちょいちょいお給仕の手伝いに参りますが、腕白でな。  その癖、熱海一という別嬪《べっぴん》でござりますが、から野鳥《のどり》でござりまして、よく御存じでいらっしゃらないで、悪く御串戯《ごじょうだん》をなさるお客様は、目潰《めつぶ》しの羽ばたきをされてお怒りなさります。またよく御承知の方は恐ろしく御贔屓《ごひいき》で、あの娘の渾名《あだな》が通りました、千鳥の一曲、所望じゃなどとおっしゃりまする。  それが、使ではるばる小田原の総鎮守、城の森のお宮まで、暮に持って行ったでござります。十四五里日帰りにいたしまして、へい、何、そのくらいの事は、あの娘にゃわけなしで、手前どもが朝飯を頂きます時分、もう真鶴を越して、お関所にかかりましたという話。  これは帰ってから手前どもへ参った時、ききましたのでござりますが。ええ、首尾よくお宮へ献納いたして、一《ひとつ》、この度、何々して奇特の段神妙候、藤原の何某《なにがし》、びたりと判の据わった大奉書を戴《いただ》いて、崖へ戻りますと、それから、皆様へお目にかけますというので、娘がいつも世話になります、湯宿々々の主人の許《とこ》へ、一ツずつ九軒ばかり、ずらりと配りましたのでござります。」  ここで番頭苦笑一番。 「どこの主人も慾張《よくば》っておりますから、大層縁起がって、つるりと鵜呑《うのみ》。地震の卵と知れてからは、何とも申されぬ心持。」 [#7字下げ]十四[#「十四」は中見出し] 「中には諺《ことわざ》にも申します、一口|茄子《なす》に食《し》てやるは可惜《あったら》もの、勿体ないと、神棚へ上げて燈明《みあかし》の燈心を殖《ふや》しまして、ほほう、茄子ほどな丁子《ちょうじ》が立った、と大層縁起がっていたのもありまするそうでござりますが、さあ、それが大地震の前兆だとなると、不気味千万。  取棄てようにも、下そうにも、揺れ出しそうで手がつけられませず。そうかといって、そのままにしておけば、それなりに転げ落ちて、そこから大地が破《わ》れるだろうと、愚にもつきませんが気が寄って取越苦労、昇天する蛇玉《じゃだま》でも祭籠《まつりこ》めたように、寝る間も気扱いをしましたそうで。  手前主人などは、その鵜呑みの方でござりましたから、腹の中をくるくる廻って、時々|咽喉《のど》へつかえると、癪持《しゃくもち》同然。そのたんびに目を白ッ黒いたして悩みましてござりまする。」 「いかなこッても、ほほほほ。」 「へい、いえ、それでも貴女様、何《なん》しろこの騒ぎをいたそうという前兆でござりまするから、風説《うわさ》をほんとうにしましたぐらいは、何でもござりません。  そうかと思う、兆《しるし》を見せて下すった、天道様の思召《おぼしめし》じゃ、まんざら、熱海を海になすって、八兵衛|鯛《だい》、理右衛門|鰈《がれい》、鉄蔵|鰒《ふぐ》、正助|章魚《だこ》なんぞに、こちとらを遊ばそうというわけでもあるまい。  してみれば、この茄子は、災難よけのお守護《まもり》だ、と細かに刻んで、家中《うちじゅう》持っておりました処《とこ》もござります。  それがと申すと、はじめは瑞祥《ずいしょう》だと申しましたのを、娘が奉納して帰りました時分から、誰いうとなく、この春は大地震がある、大地震があるといい出しまして、手前なんざ、一日に五六たび、違った人の口から聞きましたのがはじまりでございまして。  ええ、最初、やはりあの竹でござりました。番頭さん、この頃に大地震がありますッてね、と帳場へ来て申しますから、何を馬鹿な、と気にも留めませんで、それから二階の六番へ。  ちょうどこの上のお座敷でござります、そこへ機嫌ききに参りますると、六十五になる御法体《ごほったい》の隠居様。番頭どのや、厭な風説《うわさ》があるの、今湯殿で聞いて来ました。三人が五人、皆《みんな》大地震があるといっておられたが、とこうでござりましょう。  へい、いいえ、一向に存じません、さようなことが、と申したものの、ちと変な気になって、下へ下りますと、暖簾《のれん》から、内のおかみさんが半分からだを出していなすって、喜兵衛や、湯の熱さにかわりはないかい、大地震があるというから、と屈託そう、ちと血の道|気《け》な処、青ざめておいでなさる。  そこへ勝手口から、魚を仕入れて来た金公と申します板前が、大変な風説《うわさ》です、地震の前で海があおっと見えまして、この不漁《しけ》なこと御覧じやし、蠣《かき》、鮑《あわび》、鳥貝、栄螺《さざえ》、貝ばかりだ、と大|呼吸《いき》をついております。  私は肥満《ふと》っているから遁《に》げられぬ、と鍋釜《なべがま》の前で貧乏ゆすり。  処へ、毎朝海岸まで、お太陽《ひ》さまを拝みに行きます、旦那が、出入りの賀の市という按摩《あんま》と、連立って帰りました。  門口《かどぐち》で分れる時、お互だ、しかし、かえってお前のような不具《かたわ》が無事に助かるもんだ、とこういって台所へ。  喜兵衛出て見ろ、何と妙な日の色だぜ。  さあ、こうなると、がッがあッと、昼夜に三度ずつ、峠の上まで湯気が渦まいて上ります、総湯の沸きます音が物凄《ものすご》うなりましたわ。  気のせいか、熱湯を引いてあります土間を踏むと、足の裏が焦げますようなり、魚見岬へ水柱が立ったといえば、誰が乗るともなく、船がずんずん漕《こ》ぎ出して行く、影法師が見えるといいます。  土地の人気にかかわるからと、なりたけはお客様に、かくしておくにゃおきましたものの、七草が過ぎます時分から、もう、ちらほら、そのために、たってお帰りになりますのが、手前どもばかりじゃござりません、あちらに二組、……こっちに三組。」 [#7字下げ]十五[#「十五」は中見出し] 「またそうまでにはなさらぬお方も、いざ、という時の御用心に、手廻りのものなんざ、御寝《げし》なります時、枕許《まくらもと》へお引きつけ遊ばしてお置きになります始末。  そうでもござりましょうか、――先刻《さっき》の騒動の最中、この家ならびで二軒さきの玉喜屋の表二階で、仁王立になって、ばらばら、ばらばら、大道へ品物を投げ出していた方がござりますそうな。  へい。」といったまま、きょとん。 「だって、地震だって、恐しい騒ぎだけれど、ちっとも揺れもどうもしないんだもの。」  喜番、呼吸《いき》をつめて、ややあって、 「成程《なあッ》。」  といい、 「でござりますな、そこでござりますな、いかにも揺れはいたしません。また根もない地震に、大地が揺れたり、三階建がぐらついたりしては堪《たま》ったものじゃござりません。  けれども夫人《おくさま》、貴女様は、ちゃんとここへ、魂が落着いておいでなさりますからで。  どうして手前なぞは、そりゃ地震、と聞いたが最後。  先刻、あの騒《さわぎ》の時は、帳場に坐っておりましたが、驚破《すわ》というと、ただかっといたして、もうそれが、地《じ》の底だか、天上だか分りません。  天窓《あたま》がぐらぐらとすると、目がくらんでしまいまして、揺れるか、揺れんか、考えておりますようなゆとりはないのでござります。  主人は真先《まっさき》に、戸外《おもて》へ、鉄砲玉のように飛出しました。おかみさんも、刎起《はねお》きて、突立《つった》ったにゃ突立ちましたが、腰がふらついて歩行《ある》けませんので、大黒柱につかまって、おしッこをするように震えています。手前は、その、……四這《よつんば》いに這いました。  座敷々々のお客人も一時《いっとき》に湧《わ》きましてな、一人として静《じっ》となすっていらっしゃったお方はないので、手前どもにゃ僥倖《しあわせ》と、怪我をなすった方もござりませんが。  それでも竹、へい、あの粋《いき》がった年増《としま》の女中でござります。あれは貴女、二階の七《しち》番からお膳《ぜん》を下げまして、ちょうど表階子《おもてばしご》の下口《おりぐち》へかかりました処で、ソレ地震でござりましょう。ドンと腰を抜きました拍子に、トントントントンと、一段ずつ俵が転がったように落ちたでござります。どういう拍子か、背中を強く擦剥《すりむ》きまして、灸《きゅう》のあとから走るように血が流れたんで、二ツに裂けたという騒動、もっともひきつけてしまいました、へい、何、別条はござりません。  落胆《がっかり》して、お腹《なか》が空《す》いたと申して、勝手でお茶漬を掻込《かっこ》んでおるでござりますが、な。  機会《はずみ》と申すは希代なもので、竹がその腰をつきます時に、投《ほう》りましたお膳でございますが、窓からぽんと物干の上へ飛び出しまして、何と、小皿も箸《はし》も、お茶碗なんざ蓋《ふた》をいたしましたままで、お月様へ供えまする体《てい》、や、どうも。」 「まあ。」 「あとで大笑いいたしたことでござります。まず手前どもでは珍事がその位で済みましてございますが、お向うの伊東屋なぞでは、貴女、御夫婦抱き合って、二階から戸外《おもて》へお飛びなすって、大怪我をなさいました方がござります。  何しろ、一時は人の波が沸きましたように、上下《うえした》へ覆《かえ》しまして、どどどど廊下を駈《か》けます音、がたびし戸障子の外れる響《ひびき》、中には泣くやら、喚《わめ》くやら、ひどいのはその顛倒《てんどう》で、洋燈《ランプ》を引《ひっ》くらかえして、小火《ぼや》になりかけた家もござりますなり。  一体何屋の二階から騒ぎ出したとも、どこの内証から、喚きはじめたとも分りません。  一騒ぎ鎮まりましてから、門口では隣ずから、内では部屋々々の御見舞。仲間うち、土地のもの、お客様方に伺いましても、そら、地震だと、轟《ごう》となったのが、ちょうど九時半、ちとすぎ、かれこれ十時とも申しまして、この山の取着《とッつ》きから海岸まで、五百に近い家が、不思議に同一《おなじ》時刻。  まあまあ、かねて大地震がある、大地震があると申しておりましたので、どこか一軒、神棚から御神酒《おみき》徳利でも落ちましたのを、慌てて地震と申したのが、家から家へ、ものの五分間ともたちませぬ内に、熱海中、鳴り渡りました儀かとも存じまするが。」 [#7字下げ]十六[#「十六」は中見出し] 「そういたしますると、東の詰《つめ》で、山に近い対孝館あたりが、右の徳利一件で、地震の源かとも思われまする。  殊にそれ、湯の噴出《ふきだ》します巌穴《いわあな》が直《じ》き横手にござりますんで、ガタリといえば、ワッと申す、同一《おなじ》気の迷《まよい》なら、真先《まっさき》がけの道理なのでござりますが、様子を承りますと、何、あすこじゃまた、北隣の大島楼が、さきへ騒いだとか申します。  それじゃ起因《おこり》は海の方、なるほど始終、浪が小石を打《ぶ》ッつけます、特別その音でも聞違えて、それで慌てたかとも存じられますが、またそれにいたしますと、北のはずれの菱屋《ひしや》では、南隣がさきへ鳴り立ったと申しますな。東も、西も、その通《とおり》。何でも申合わせたように、影も形もない大地震が、ぐるぐる渦を巻いて、熱海を揉《も》みましたので、通り魔のせいでもござりましょうか。  何でもこの騒ぎがなくッちゃ治《おさま》りません、因縁事とも相見えまして、町をはなれました、寺も、宮も。鎮守の神主殿は、あの境内の大樟《おおくす》へかじりついたと申しますなり、妙蓮寺の和尚様は、裏の竹藪《たけやぶ》へ遁込《にげこ》みましたと申します。  あの方たちさえ、その驚き工合《ぐあい》、御覧《ごろう》じまし、我等風情が、生命《いのち》の瀬戸際と狼狙《うろた》えましたも、無理ではなかろうかように考えまする、へい。」 「そうですね、あんまり物音が烈《はげし》いから、私はまた火事ででもあるのか知らんと思ったよ。」 「ええええ、火事と申せば洪水《おおみず》のようでもござりまして。中にも稀有《けう》な事でござりましたのは、貴女、万歳楽万歳楽と、屋根にも物干にも物凄う聞えます内、戸外《おもて》通りはどうした訳か。  ずらりと、道具衣服の類。  革鞄《かばん》もござりますれば、貴女、煙草《たばこ》盆、枕、こりゃ慌てて抱えて出たものがあると見えます。葛籠《つづら》、風呂敷包、申上げます迄もござりません。それから夜具、かねて心得た人があると見えまして、天窓《あたま》へ被《かぶ》って、地震の時はと、瓦《かわら》の用心でござりましょう。扱帯《しごきおび》がずるずると曳摺《ひきず》っていたり、羽織がふうわり廂《ひさし》へかかっておりますな、下駄、蝙蝠傘《こうもりがさ》、提灯《ちょうちん》、正《まさ》しく手前方の前なんぞは、何がどう間違ったものでござりますか、大《おおき》な洗濯|盥《だらい》が転がっておりましたわ。  何の事はござりません。右の品々が、山から突抜けに海岸まで、大通りへ、ちりちりばらばら。裏道小町はさもなかったそうでござりますが、通《とおり》一筋道は、まるで、諸道具、衣類、調度が押流されました体裁《ていたらく》、足の踏所もござりませなんだ。  こりゃ現に、手前、軒下へ出て見ましたが、降ったか、湧《わ》いたか、流れて来たか、何のことはござりません、皆《みんな》翼が生えて飛んで来て、空から雁《がん》が下りたと申す形体《ぎょうたい》。  唯今《ただいま》は凄いほど、星がきらついて参りましたが、先刻、その時分は、どんよりして、まるで四月なかばの朧月夜《おぼろづきよ》見たような空合、各自《てんで》に血が上っておりましたせいか、今日の寒さに、皆《みんな》汗を掻《か》いたでござります。  あとが哄《どっ》と笑いになって、陽気に片附けば、まだしもでござりますに、喚《わめ》いたものより、転んだもの、転んだものより、落ちたもの、落ちたものよりゃ、また飛《とん》だもの、手まわり持参で駈出したわ、夜具をかぶって遁《に》げ出したわ、怪我をしたわ、と罪の重いものほど、あんまりその智慧《ちえ》の無さ、斬《き》られた夢を見て目をまわしたような外聞でござりますから、誰一|人《にん》、己《おれ》が騒いだというものはござりません、その二階から飛んだといった、御夫婦のような大怪我は格別。  大概の打傷、擦傷、筋を違えなどは、内分にして、膏薬《こうやく》も焼酎《しょうちゅう》も夜があけてから隠密《こっそり》という了簡《りょうけん》。  ありようは手前なども、少々手負。が、遁傷《にげきず》でござりまして、女中どもの前もいかが、へい、知らん顔で居りまするようなわけ。  でござりまするから、往来ちりぢりの衣類諸道具、いつの間にやら、半時も経《た》ちませぬ内に、綺麗に掃いたように無くなりました。誰が取り入れたということもござりませんで。  余りさっぱり。  最初その車に積んだら、大八にざっと四五十台とも覚えましたのが、地震が鎮まりますと忽然《こつねん》で、盆踊りのあとじゃござりませんから、鼻紙一枚落ちちゃいず、お祭のあとでござりませんから、竹の皮|一片《ひとひら》見えなくなってしまったでござりますわ。」 [#5字下げ]神妙候[#「神妙候」は大見出し] [#7字下げ]十七[#「十七」は中見出し] 「これ等はごく御用心の宜《よろし》い方で。なるほど、揺れません地震でござりましたもの、いくらでも荷は出せますが、しかしその荷物を投《ほう》り出していた方が、白い浴衣を着た、見上げるような大入道だったと、申して、例のどんよりした薄明《うすあかり》じゃござりますし、ちょうどその時分、どこからともなく衣類《きもの》や鞄《かばん》などが降った最中、それを見たものが、魔ものじゃと申します。  また同一《おなじ》時刻に、降って来る荷物の中、落ちて来る衣類の中を、掻い潜《くぐ》り掻い潜り、溜《たま》った上を飛び越え飛び越え、浪に乗って行くように、ずッと山の手から、海ッぷちまでを、みだれ髪で、丈《せ》の小造《こづくり》な、十五六とも見える、女が一人、蝶鳥なんどのように、路を千鳥がけに、しばらく刎《は》ね廻っておりましたが、ただもう四辺《あたり》は陰に籠《こも》って、烈《はげし》い物音がきこえますほど、かえって寂《しん》として、駈出したものも軒下に突伏《つっぷ》したり、往来に転んだきりだったり。  通ったはその小娘ばかりで、やがて床屋から小火《ぼや》が出て、わッという紛れにそれなりけり。  どこへ消えましたやら、見えなくなったと申しますが、いずれな……魔《いっけん》がな。  何でも熱海を掻攪《かきみだ》して、一時《ひときり》お遊びになりましたものと見えます。  とその茄子《なす》でござりますで。」 「ああ、それが、」  番頭は一呼吸《ひといき》つき、 「それが、根元《もと》と申しますのは、地体この地震の風説《うわさ》は、師走|以来《こちら》の陽気から起ったのでござりましょう。それとても年内に梅が咲きますくらいは何とも気にはなりませんが、ただ、茄子が生《な》ったのは、前代未聞じゃ、と申して、それからの事で。  特《こと》に、小田原へ使いに参った娘から聞きますと、それをまた、宮で受け取った神官《かんぬし》と申すのが、容易なりません風体。  森々《しんしん》と樹の茂った、お城の森の奥深く、貴女様、高く上りますのでござりますが、またこの石段がこわれごわれで、角の欠けた工合《ぐあい》、苔《こけ》の蒸しました塩梅《あんばい》、まるで、松の鱗《うろこ》が、蛇の幹を攀《よ》じますようで、上に御堂《みどう》、これも大破。  お鶴が石壇にかかりますと、もう遥《はる》か奥に、鏡が一面、きらきらと蒼《あお》い月のように光ります前に、白丁《はくちょう》を着た姿が見えたといいます。  境内は常磐樹《ときわぎ》のしとりで水を打ったかと思うばかり、塵《ちり》一《ひと》っ葉《ぱ》もなしに、神寂《かみさ》びまして、土の香がプンとする、階段の許《とこ》まで参りますと、向うでは、待っていたという形。  希代ではござりませんか。  神職は留守じゃが、身が預る、と申したのが、ぼやっと、法螺《ほら》の貝を吹きますような、籠った音声《おんじょう》。鼻から頤《おとがい》まで、馬づらにだぶだぶした、口の長い、顔の大きな、脊《せい》は四尺にも足りぬ小さな神官《かんぬし》でござりましたそうな。ええ、夫人《おくさま》。」と陰気になる。  夫人は寂しい顔して、袖を掻合わせて、しばらくして、 「まあ、厭ねえ。」 「でその、廊下から屈《かが》んで乗り出し、下から跪《ひざまず》いて出しました娘の貢物《くもつ》を受け取つて[#「受け取つて」はママ]、高く頂き、よたりと背後《うしろ》むきになりますると、腰を振ってひょこひょこと、棟から操《あやつり》の糸で釣るされたような足取りで、煤《すす》けた板戸の罅破《ひびわ》れた形《なり》の口へ消えますと、やがて、お三方を据えて、またよたよたと持って出ましたのが、前《ぜん》申上げました、大奉書で。  件《くだん》の(神妙候)は、濃い墨で、立派に書いてござりますそうなが、(藤原|何某《なにがし》、)と名|書《がき》の下へ、押しました判というのが、これが大変。」 [#7字下げ]十八[#「十八」は中見出し] 「書き判を、こうの、こうの、こうこう、こう! でもござりませんければ、朱肉を真四角《まっしかく》、べたりでもござりません。薄墨でな、ひょろりと掌《てのひら》を一ツ圧《お》しました、これが人間でござりません。  およそ嬰児《あかんぼ》の今開けました掌ぐらい、その痩《や》せましたこと、からびた木《こ》の葉で、塗《なす》りつけました形、まるで鳥で。  そうかと思いますとまた、墨の染《にじ》んだあとが、さもさも獣《けだもの》の毛で、猿《えて》そっくり。  見たものの話でござりますが、これを一目の時、震え上って、すぐに地震、と転倒《てんどう》いたしましたそうで、ここで誰も大地震の前触《まえぶれ》を、虚言《そらごと》とは思いませんようになりました。  処を日増の暖気で、その心持の悪い事と申したら、今日にも、明日にも、今にもと、帯を解いて寝るものはなかったのでござりまする。  すると、今朝ッからのこの寒気。峠の霜は針の山、熱海はたちまち八寒地獄、日金がおろして来ましたので、烈しい陽気の変りよう、今日が危い、とまた誰いうとなく、湯殿の話、辻の風説《うわさ》、会うものごとに申し伝えて、時計の針が一つ一つ生命《いのち》を削りますようで、皆、下衣《したぎ》の襟を開けるほど、胸が苦しゅうござりましたわ。  その癖朝の内から蒼《あお》い玻璃《ビイドロ》見たような晴天で、昨日《きのう》も一昨日《おとつい》も、総六が崖の上から、十国峠の上に三日続けて見ましたという、つくね芋の形をした重い雲が影もないので、せめてもの心やりにしました処、暮六ツ前から、どんよりいたしましたのが、日が暮れると、あの朧《おぼろ》、風《かぜ》が小留《おや》んだと思いますと、また少し寒さが戻りまして、変に暖くなる、と気のせいでござりましょうか。厭にあかりが薄暗くなったでござります。滅入《めい》って息が詰《つま》りそうで、ぼんやり、手前などは、畳を見詰めておりました。  その畳の目が貴女様。  むくむくと持上って、␼《ぱっ》と消えて、下の根太板《ねだいた》が、凸凹《でこぼこ》になったと思うと、きゃッという声がして、がらがら轟《ごう》、ぐわッと、早や、耳が潰《つぶ》れて、四《よつ》ン這《ば》いの例の一件。  いや、何とも早や異変なことで。」  調子づいて語り果てた、番頭ふと心着いて、 「へへへへへ。」  何ともつかず笑ったが、大分夜が更けたという顔色《かおつき》。 「しかし、何事もなくッて可《い》い塩梅《あんばい》だったのね。」  夫人は、さして退屈らしくも見えなかった。 「へいへい、お庇《かげ》さまで、まずこれで、今夜から枕を高う寐《ね》られまする。へい、ざっと事済《ことずみ》。  こうまた気が揃ったように大地震々々と申しましては、何事かございませんでは、無事に果てますものではないでござります。  ははははは。」  機会《きっかけ》もなしにまた笑い、 「まあ、まあ、御安心を遊ばして御寝《げし》なりまし、と申しました処で、夫人《おくさま》は何も手前どものように、ちっともお驚きなりませんのでござりますから、別に。」  といって、照れ坊主、禿《は》げた処をまっすぐに指で圧《おさ》え、 「ええ、ついその一月ばかりの屈託が抜けました嬉しさで、貴女様はお馴染《なじみ》の余り、とんだ長話をいたしました。  慌てもの、臆病もの、大寄合のお伽話《とぎばなし》。夜分|御徒然《ごとぜん》の折から、お笑い草にもあいなりますれば、手前とんだその大手柄でござりまする。」 「いえ、まさかとは思っても、こないだ中のような風説《うわさ》を聞くと、好い心持はしませんよ、私も気になっていたんです。」  火箸に手を載《の》せ、艶麗《あでやか》に打微笑《うちほほえ》み、 「おめでとう。」 「へいッ。」  と手をつき、 「おめでとう存じまする。」 [#5字下げ]御曹子[#「御曹子」は大見出し] [#7字下げ]十九[#「十九」は中見出し] 「ですが地震はただ可《い》い加減な、当推量じゃあったでしょうが、何なの、崖の総六の娘さんとかが、小田原へ貢物《みつぎもの》を持って行って、怪《あやし》い神主に、受取を貰って来た、判に獣《けだもの》のような手のあとが押してあったというのはほんとう?」  喜番この時立ち構えで、腰を廊下へ退《ひ》きながら、 「ええも、それは貴女様、ほんとうの事でござりますとも。」 「真暗《まっくら》な森の中の破れたお堂に、神主は留守だといって、その鼻と口と一所にだぶだぶと突出した大顔の、小さな人……何だか気味が悪いことね。」  と座敷の三ツの隅を見たら、もっとも座にした片隅だけは、洋燈《ランプ》を置いて明るかった。 「全く変でござりますよ。」 「内じゃお客様が多いから、離れた処で、二室《ふたま》借りておくけれど、こんな時はお隣が空室《あきま》だと寂《さびし》いのね。ほほほほほ、」  但し自からその怪《あやし》みを消して笑ったので。軽《かろ》からぬ肺病のため、しばらく休養をしているけれども、正に蒸風呂に籠《こも》れり、とあった、秋山氏は、名高き……県の警部長である。  良人《おっと》の職掌に対しても、であるけれども、病ゆえには心弱く、夫人は毎夜、更けて静《しずか》な湯殿の廊下を、人知れずお百度というもの踏む。  折から身に染む物語。 「大方何ね、その娘に、魔がさしたとでもいうんだろうね。」 「御意、御意にござりまして、へい、娘とは申しません、一体崖の親仁《おやじ》の許《とこ》に魔が魅《さ》しましたのでござりましょう、その相伴をいたしました熱海中がかくの騒動。彼家《あすこ》も無事なれば宜《よろ》しゅうござりますが、妙齢《としごろ》の娘、ちと器量が好《よ》過ぎますので、心配なものでござります。  などと申しますと、手前岡焼でもいたしますようで、ははははは。」  老功に笑って退《の》け、仰向《あおむ》いて障子を窃《そっ》と。 「まず、おしずまりなされまし、お座敷へも、とんだお邪魔がさしました。」  しかり、魔か、鬼か、崖の総六が小屋に、魅入ったのは事実であった。  翌日になって一切明白。当時関八州を横行《おうぎょう》して、変幻出没、渚《なぎさ》の網に陽炎《かげろう》の影《かげ》も留《とど》めず、名のみ御曹子万綱《おんぞうしまんつな》と、音に聞えた大盗あり。  鐘も響かぬ山家《やまが》にさえ、寝覚《ねざめ》に跫音《あしおと》轟《とどろ》いたが、哄《どっ》と伊豆の国を襲ったので、熱海における大地震は、すなわち渠等《かれら》が予言の計略。  文武官、農、工、商、思い思いに姿を変じた、御曹子が配下の賊徒、八面に手分をなし、湯宿々々に埋伏《まいふく》して、妖鬼《ようき》家《や》ごとを圧したが、日金颪に気候の激変、時こそ来たれと万弩《まんど》一発、驚破《すわ》! 鎌倉の声とともに、十方から呼吸を合はせ[#「合はせ」はママ]、七転八倒の騒《さわぎ》に紛れて、妻子珍宝|掴《つかみ》次第。  就中《なかんずく》、風呂敷にも袂《たもと》にも懐にも盗みあまって、手当《てあたり》次第に家々から、夥間《なかま》が大道へ投散らした、霰《あられ》のごとき衣類調度は、ひた流しにずるずると、山から海へ掃き出して、ここにあらかじめ纜《もや》った船に、堆《うずたか》く積み上げた。  宝の山を暗まぎれ、首領《かしら》の隠家に泳がそうと、潵《しぶき》のかかる巌陰《いわかげ》に艪《ろ》づかを掴んで、白髪《しらが》を乱して控えたのは、崖の小屋の総六で、これが明方|名告《なの》って出た。  ただ、万綱はじめ、手下の誰彼《たれかれ》幾十人、一人として影を見せず、あとは通魔《とおりま》の鳴《なり》を鎮めて、日金颪の凪《な》ぎたるよう。  さればこそ土地のものは、総六に魔が魅《さ》したといった。正直の通った親仁は、やがて、ただ通りがかりの旅の客に、船を一|艘《そう》頼まれたとばかり、情を解せざる故をもて、程なく囚《ひとや》を免《ゆる》された。  と前後して、崖の小屋に一個の人物。 [#7字下げ]二十[#「二十」は中見出し]  年紀《とし》の頃三十四五の客が出来た。その人、眉秀で、鼻|隆《たか》く、白皙《はくせき》俊秀にして盲《めし》いたり。長唄を歌って美音、尺八を吹き、琴を弾じ、古今の物語をよくして、弁舌|爽《さわや》かに、世話講談の座敷が勤まる。就中《なかんずく》琵琶《びわ》に堪能《たんのう》で、娘に手をひかれながら、宿屋々々に請ぜられて、安《やすら》かに、親娘《おやこ》を過ごすようになった。  ここで諸人横手を拍《う》って、曰く、はるばる小田原の鎮守に貢した、神妙候奇特につき、総六の産神《うぶすな》が下したもうた婿であると。この何者かは誰にも分らぬ。  単《ひとり》これを知るものは、秋山警部長の夫人蔦子であった。  番頭が辷《すべ》り出て、廊下に跫音《あしおと》の消えたあと、夫人はかねて、しかなさんと期したるごとく、すらりと立った衣《きぬ》の音、障子に手をかけ、まず、紙を隔てて、桟に﨟《ろう》たけた眉を載せた。  やがて、細目に密《そっ》とあけると、左は喜兵衛の伝った方《かた》、右は空室《あきま》で燈影《ひかげ》もない。そこから角《かく》に折れ曲って、向うへ渡る長廊下。両方壁の突当《つきあたり》は、梯子壇《はしごだん》の上口、新しい欄干《てすり》が見えて、仄《ほのか》に明《あかり》がついている。此方《こなた》に水に光を帯びた冷い影の映るのは一面の姿見で、向い合って、流しがある。手桶《ておけ》を、ぼた――ぼた――雫《しずく》の音。寂《しん》として、谷の筧《かけひ》の趣あり。雲|山岫《さんしゅう》に湧《わ》くごとく、白気|件《くだん》の欄干を籠めて、薄くむらむらと靉靆《たなび》くのは、そこから下りる地の底なる蒸風呂の、煉瓦《れんが》を漏れ出《いづ》る湯気である。  眗《みまわ》して、音なく閉め、一足運びざまに身を反《そら》した、燈火《ともしび》を背にすると、影になって暗さがました、塗枕の置かれたる、その身の閨《ねや》のふちを伝うて、膨《ふく》らかな夜具の裳《すそ》、羽織の袖が畳に落ちると、片膝を軽くついた。  手を上に載せて、斜めに差覗《さしのぞ》くようにして、 「お出な。」  むッくり下から掻い上げ、押出すようにするりと半身、夜具の紅裏《もみうら》牡丹花《ぼたんか》の、咲乱れたる花片《はなびら》に、裙《すそ》を包んだ美女《たおやめ》あり。  いかなる状《さま》にや結いにけむ、手絡《てがら》の切《きれ》も、結んだるあとの縺《もつれ》もありながら、黒髪はらりと肩に乱れて、狂える獅子の鬣《たてがみ》した、俯伏《うつぶせ》なのが起返る。顔には桃の露を帯び、眉に柳の雫《しずく》をかけて、しっとりと汗ばんだが、その時ずッと座を開けて、再び燈《ともしび》を蔽《おお》うて住《すま》った、夫人を見つつ恍惚《うっとり》と、目を円《つぶ》らかに瞻《みまも》った、胸にぶらりと手帳の括《くくり》に、鉛筆の色の紫を、太白の糸で結んで、時計のように掛けたのは、総六の娘お鶴。 「よく、お前、呼吸《いき》を殺していられてね、苦しいだろう、湯か、お水《ひや》でも上げようかい。」  膝さし寄せてひそめきいう。 「いいえ、私、沢山、水を飲みました。」  振仰向《ふりあおむ》いて手をついたり。 「お水《ひや》を?」 「あの、お床の中で、」 「床の中で?」 「はい、私、海の中で、水潜《みずくぐ》りをしますように、一生懸命に、呼吸《いき》をしないでいたんです。  でもしばらくですもの。  もう堪え切れなくッて、沢山《どっさり》水を飲みました。私、泳げますようになってから、潜っていて、水を飲みましたのは、これでたった二度なんです。ですから、あの、水を飲みましたからこんなですよ。」  とわなわなふるえが留《とど》まらず、髪も揺《ゆら》いであはれで[#「あはれで」はママ]あった。 「可哀相ねえ、よく辛抱をおしだった。  でもね、そうしないと、今時分、思いがけない処にお前が居るんだもの、直《すぐ》に気がつかれて、怪《あやし》まれないじゃ済みません。  それにね、何、お鶴さん。」  夫人は一際声を密《ひそ》め、 「ここの内の番頭がね、ああ見えて、内証《ないしょ》で警察の御用なんか聞くんだから。」 [#7字下げ]二十一[#「二十一」は中見出し] 「それが談話《はなし》に来たんだもの、私はもうてっきり。お前さんたちのした事が分って、この宿でも紛失ものが知れたから、旦那に相談にでも来た事と思って、何か聞いている内も、はらはらして気が気じゃなかったの。  もう方々でも鎮まって、かれこれ盗《と》られたものの気の附く時分なんだけれど、騒ぎがあんまり酷《ひど》かったから、まだ皆《みんな》心が落着かないでいるんだよ。  もう今に知れます。そうすると、直《すぐ》にまた番頭が遣って来ます、何だか、私は、お前が何だか。」  とみこうみたる目の優しさ。 「可哀相でならないから、委《くわ》しく、いろんな話を聞いてみたいけれど、そんな、悠長な間はないんだもの。そうでもない、旦那が蒸湯から、帰っていらっしゃらないとも限りませんから、また逢える事もありましょう。さあ、今の中《うち》。  おお、そうして何かい、その手帳と、鉛筆なの。その人が呉《く》れたというのは、」 「ええ。」  両手を支《つ》いたまま、がッくりと頷《うなず》くと、糸を引いて、ばたりと畳へ、衾《ふすま》にかくれて取乱した、衣紋《えもん》をこぼれてはらりと開く。  これ見てといわぬばかり、 「奥様。」  と悄《しお》れていう。  何心なく取ろうとして、思わず背後《うしろ》へ手を退《ひ》いた。 「まあ、気味の悪いこと。」  お鶴は屹《きっ》と顔を上げて、清《すずし》い瞳に怨《うらみ》を籠め、 「ちっとも、あの汚いことはありません、私、いつもこの胸の処に持っております。」と判然《はっきり》いうのと顔を合わせた。  あわれ、何しに御身《おんみ》の膚《はだえ》に汚《けが》るべき。夫人はただかつてそれが、兇賊《きょうぞく》の持物であったことを知って、ために不気味に思ったのである。  しばらく熟《じっ》と見守ったが、 「ああ、悪かった、雲はかかっても晴れれば月、私のいったのはそうではない。考えれば、旦那の御病気、肺病はうつるもの、うつるといってそれを厭《いと》って、一度お持ちなすったものを、人がもし嫌ったら、私の心はどんなだろう。  たとえ騙賊《かたり》でも、盗賊《どろぼう》でも、お前に取っては大事な御主人。  私が悪うござんした。」  としみじみいって、燈《ともし》を躱《かぼ》うた身体《からだ》を傍《わき》へずらしながら、その一ペエジを差覗《さしのぞ》いて、 「おや。」 「…………」 「紫の鉛筆で、私の座敷の目星いものを取っておいで、と書いたわねえ。」 「あの、その人は、この家《うち》の二階に泊っていたんです。」 「そうだってね。」 「そしてどこよりか、念にかけていたんですって。でも貴女《あなた》が、ちっともお騒ぎなさいませんから、此室《こちら》で仕事が出来なくッて、それで、あの尋常《ただ》の方なら可いけれど、恐いお役人様なんで、手が出せなかったようで口惜《くやし》いからッて、これを私に書きましたの。」 「そのために来たのかい。まあ、」  と今更見詰めながら、 「何と思って、ええ、厭だっていわれなかったかい。」 「…………あの、あの方がいったんですから。家来は大勢居ましたけれど、誰も手出しが出来ないんですって。」 「そうねえ。」  あの方だから、というものを、夫人は諭すべき言《ことば》もなく、 「大勢居て?」 「はい、十四五人。」 「何、そうして魚見岬の下だって。」 「あの、大《おおき》な巌《いわ》だの、小《ちいさ》な巌だの、すくすくして、浪の打ちます処に、黒くなって、皆《みんな》、あの、目を光らかして、五百羅漢みたように、腰かけているんです。」 [#5字下げ]黒影、白気[#「黒影、白気」は大見出し] [#7字下げ]二十二[#「二十二」は中見出し] 「じゃ、お前が、あの方という人はえ?」 「あの方は、一番高い尖《とん》がった巌の上に、真暗《まっくら》な中に、黒い外套《がいとう》にくるまって、足を投げ出して、皆《みんな》の取って来たものを指環《ゆびわ》だの、黄金《きん》時計だの、お金子《かね》だの、一人々々、数をいいますのを、黙って聞いておりました。」  かえって夫人がさしうつむいた、顔を見るだに哀《あわれ》さに、傍《かたえ》へそらす目の遣場《やりば》、件《くだん》の手帳を読むともなく、はらはらと四五枚かえして、 「星があっても暗かったろう。」 「遠くの沖で時々浪が光ります、あのこの鉛筆のような紫色に。  その他《ほか》は、闇《やみ》だったんです。」 「でも、よく手帳へ書けたのね。」 「蒼《あお》い色に燃えますマッチを摺《す》るんです。そうすると、明《あかる》くなって、巌《いわ》に附着《くッつ》いた、皆《みんな》の形が、顔も衣服《きもの》も蒼黒くなって、あの、大《おおき》な鮪《まぐろ》が、巌に附着いておりますようで、打着《ぶつか》ります浪の潵《しぶき》が白くかかって見えました。  前刻《さっき》、奥様がお座敷にいらっしゃらない処へ入って、私、よっぽど盗《と》ったんです。そうして洋燈《ランプ》を吹消して出ようとして見ますと、あの向うの蒸風呂の壇を上っておいでなすって、どこへも遁《に》げられませんから、洋燈を消して、壁に附着いて屈《かが》んだんです。  でも、ずんずんいらっしゃって、座敷へ入りそうになりましたから、私、蒼い灯をつけて威《おどか》したでしょう。  え、え。  でも、恐がらないで、おや、お前かいッておっしゃいました。  あの時摺ったマッチですわ。  私、ここに持っております。」  と、帯の間に手を入れる。 「可いよ。可いよ、見なくっても大事ないよ。」  余りの事に、さるにても、なお瞻《みまも》らるるお鶴の顔。 「でも何、先刻《さっき》私を威《おどか》したのは、あれはお前が考えたの。」 「いいえ、ここへ来ましょうと、巌《いわ》を下ります時に、暗がりから、誰だか教えてくれたんです。」 「何といって、さあ。」  夫人は忍び音《ね》を震わした。 「対手《あいて》は婦人《おんな》だ、それに、お百度を踏もうという信心者だから、遣損なったら、威すと可い。遁《に》げるだけは仔細《しさい》はないッて、」 「あれ、そんなことまで知っているのかねえ。」 「はい、そしてあの、十二時を過ぎてから、お百度をなさいますから、その隙《ひま》にッて、いいましたんです。でも、来て、あの姿見の向うの流しの硝子戸《がらすど》から覗《のぞ》きますと、映りましたのは私ばッかりで、奥様はお座敷にも廊下にも見えなさいませんから、この間と思って、飛込んだんでございますわ。」 「であの、そこへ集っただけで皆《みんな》?」 「いいえ、仕事をするとすぐに。」  ちりちりばらばら。 「三島へ遁げるのもありますし、峠を越して函嶺《はこね》へ行ったのもございますし、湯河原を出て吉浜、もうその時分は、お関所|辺《あたり》で、ゆっくり紙幣《さつ》を勘定しているものもあろうし、峠の棄石《すていし》へ腰をかけて、盗んだ時計で、時間を見ているのもあるだろうッて、浪の音の合間々々に、皆《みんな》が話していたんです。」 「大概どのくらいな仕事だとか、その人はいっちゃいなかったの。」 「内端《うちわ》に積りまして一万円ばかりですって。」 「大変なこッたねえ、それから、何、お鶴さん、その人の名は何というの。いいえ、大丈夫、私の命がなくなっても、とお百度を拝んでいる、観音様の御名にかけて、きっと人にはいわないから。」 「万綱っていうんです。」 「ああ、そうでしょう。それからその手下の衆《しゅ》の名は知らないかい。」 「はい、地震が済むと、私と二人で、そこら歩行《ある》きながら、巌の上へ参りました、しばらく経《た》ちますと、一人来たり、三人来たり、ぴちゃぴちゃ、潮のふるえる音がしました。  あの方が、皆《みんな》揃ったかッていいました。」 「そうすると……」 [#7字下げ]二十三[#「二十三」は中見出し] 「来るだけは不残《のこらず》来ました。誰々だって、そういいましたら、伊豆の伊八、四丁艪《しちょうろ》の甚太夫、鯰《なまず》の勘七、縄抜の正太郎、飛乗の音吉、秋刀魚《さんま》の竹蔵、むささびの三次、――あのこの人の声だったんです、私に奥様のことを教えましたのは、」  夫人はお鶴の記憶の可いのと、耳の敏《さと》い、利発さと、そのかくのごとき運命とに、ただ何となく慄然《ぞっ》とした。 「それから、あの、」  小指を折って、 「吹雪の熊太、韋駄天弥助《いだてんやすけ》、書生の源、あの、太い声で、六尺坊の悪右衛門っていったんです。」  蔦屋の二階に仁王だちで、通《とおり》へ礫《つぶて》なげに贓物《しろもの》をこかしていた。大道に腰を抜いたものの、魔神が荒るると見たというは、この入道の事なりけり。 「お待ち。」  と夫人が声をかける。裏階子《うちばしご》を上る音、ただトントンと聞えて止《や》む。  耳を澄まして、 「どうも、気がせいてならないけれど、このままでは案じられるねえ。  ああ、何なの、そうしてお前の帰るのを、そこで待っているのかい。」 「あらためて私の許《とこ》を、皆《みんな》にひきあわせて、おかみさんにするんですって。」 「おかみさんに、お、お前それが嬉《うれし》いの。」 「はい。」と猶予《ため》らわず答えたのである。  夫人はやや言《ことば》急に、 「じゃあ、お前、盗賊《どろぼう》が好《すき》なの、悪いこととは思わないの。」 「いいえ、盗賊《どろぼう》することも、する人もいけませんけれど、だって、あの方なんですもの。そしてもう、もう私、おかみさんになりました。」  と、身の置所なさそうに、この時ばかりはおろおろして、 「もう他《ほか》に、他にお嫁入する処はないんですって。」 「誰が、誰がそういいます。」 「おじいさん。」 「おじいさん、お前には御両親、おとっさんもおっかさんもないのだってね、おじいさんは何なの、その人が盗賊《どろぼう》だってことを知らないのかい。」 「はじめは存じませんでした。はじめての晩、内へ泊りに見えました時は、どこのかお邸《やしき》の、若様だとそう思っていたんですって。」 「まあ、泊りに行ったのかねえ、ここに、書いてあるのがそうだね。」  先刻《さっき》から目に留ったは、それ、ひらがなの走りがき、鉛筆で美しく=晩に=と一行。行を分けて=お前=と書き、=の許《とこ》へ=とまた項を別に=泊りに行《ゆ》くよ=と記してある。 「どこで、こんなことをいわれたの。」 「この二階なの。あの、山路《やまみち》でこれを貰いましてから、私大事にして首へかけて、お、お乳の下へかくしていたの。  三日の日に、この内が忙《いそがし》いから、お給仕の手伝に来たんです。  そして二階の八番へ行きました時、その方に逢ったんですわ。  いろいろおもしろい話をして聞かせてねえ。  それから、私、その時も白い前垂《まえだれ》をかけていました。おかしい、およし、今に所帯を持ってから、そしてから掛けて台所へ出るが可い、取っておしまい。  そのかわり、お前にあげようと思って、宿で頼んで、間に合わせに拵《こしら》えておいたからッて、畳紙《たとうがみ》に入っていたの。私はその方の奥様が着るのかと思ったんです。綺麗な衣服《きもの》を出して、扱帯《しごき》もありました。  私、おじいさんに見せてから、といいましたけれど、いいえ、着て御覧、ここでッて、それから帯も自分で〆《し》めてやろう、結びようが下手だって、結んでくれたんです。  袖が長くて、その人の手に巻きつきますから、袂《たもと》を肩へかけて廻ったんです。でも、あの、恥かしいから、こうして、襟を啣《くわ》えておりました。  でもあの、襦袢《じゅばん》の中から、このねえ、貰った手帳が見えましたもんですから、返せッていいました。」 [#7字下げ]二十四[#「二十四」は中見出し] 「頭《かぶり》をふったの。だって厭《いや》なんですもの。あの時貰ったんですからこれは厭。衣物《きもの》はいらないわッて、私ねえ。それでも返せッていうから、泣きそうになったんです。  惜《おし》むんじゃないんですって。  つい、気がつかずにいたけれど、この紫色の鉛筆は、粉が目に入ると、目が潰《つぶ》れて、見えなくなってしまうんですって。  おもちゃに持たしておくと険呑《けんのん》だから、実は、今夜にも宿で聞いて、私ン許《とこ》まで取戻しに行《ゆ》こうと思っていた処だったッて、そういいます。  きっと削りませんからッて、私強情を張りましたら、それでは、きっと誰にも見せるなよ。そして二人一所に居る時でなくっては、鉛筆を使ってはならない、きっとだぞッていいましてね。  ちょうど二人ばかりだから、とそれじゃ今つかってみよう、お前は、と私に、今夜はこの伊豆屋へ寝るのかとお聞きでしたわ。  泊るつもりだったんです。  そうすると、手帳へこんやおまえのとこへとまりにゆくよ[#「こんやおまえのとこへとまりにゆくよ」に傍点]、と、あの、これを書きましたから、私|引手繰《ひったく》って、脱いだ筒袖と前垂とを抱《かか》えるか抱えないに、家《うち》へ駈《か》け出して帰ったんです。  帳場で、どうした鶴坊ッて、番頭さんがいいましたけれど、そんな事は構わない。  おじいさんに、帰ってそういったら、いそがしがって掃除をして、神様棚へお燈明を上げました。  すぐに出かけたの。  私はお米ばかりのお飯《まんま》を磨《と》いだり、炊《た》いたりしたの。おじいさんは、甘鯛と、鮪《まぐろ》と買って、お酒を提げて戻ったんです。  でも来ないんでしょう。  おじいさんは肱枕《ひじまくら》をして寝てみたり、いつにない夜延《よなべ》をしたり。  私は崖の上へ立って見ていました。夜中にねえ、いい月の明《あかる》い道を、大きな外套の裾が風に吹かれながら来たわ。  私もびゅうびゅう海の方へ、袂だの、裾だの吹かれて、高い処に立っていたもんですから、寒かったろうッて、いきなり外套の下へ抱いてくれたの。寒くはなかったんですが、私、嬉しくッて震えたの。  その晩なの、奥様《おくさん》、おかみさんになったんですって。  おじいさんは、その時は何んにも知らなかったんですけれど、あとで今度の相談をしたとき、泣きましたっけ。私も泣いたわ。  しっかりしろ、生命《いのち》と亭主は二ツなしだ。俺《おれ》が若い時の、罪障が報《むく》ったっぺ、可いわ、娘の支度と婿殿へ引出《ひきで》ものをかねて、一番、宝船を漕《こ》いでまかしょ、お正月だ、祝えッて、大酒をのんだんです。  ですから、あの、すっかり船へ積み込んで、人の知らない処につけていますわ。  私が帰って披露を済むと、それからどこかへ漕いで行くんだって待っているんです。」  夫人は黙って聞くうちに、幾たびか目をしばたたいた。 「お鶴さん。」  と声が曇ると、 「…………。」黙ってこれも打悄《うちしお》れる。 「世間に人もないように、皆《みんな》が、岬《みさき》の巌《いわ》になんぞ集って、もしか捕《つかま》ったらどうします。」  と優しくいったが、何となく人をおさうる威が籠《こも》った。  これにはお鶴が事もなげ、 「いいえ、大丈夫、寅《とら》の刻までは海獺《あじか》を極《き》めて、ここに寝ていたって警察なんぞ、と六尺坊主がいったんです。」 「その方は、」 「え。」 「お前のその方は何てったの。」  おのずと居坐《いずまい》が更《あらた》まって、夫人の声は凜々《りり》しかった。 「真鶴へ鮪の寄るのが、番小屋から見えるまでは心配なしだと申しました。」  夫人、 「そう。」  と頷《うなず》くはしに、懐に手を差入れ。衝《つ》と一通の書の、字の裏が透いて見えて、いまだ封じないままなるを取って、手に据え、 「お前のおじいさんも何といいました。どういうことか知らないけれど、一粒種の可愛いお前に、盗賊《どろぼう》の婿を娶《と》ったのは、少《わか》い時の、罪のむくいだというんじゃないか。  悪い事をすればきっとそれだけの罪をうけねばならんのです。  御覧!  この手紙はね、私の旦那が今しがた、蒸風呂の中で、お書きなんだよ。  此家《ここ》の番頭に持たせて、熱海の警察へ直ぐに届けろッて、いいつかって来たんだがね。  地震は盗賊の巧《たくみ》だから、早く出口々々へ非常線というものを張って下さい、魚見岬の下あたりには一団《ひとかたま》り居るだろう、手強《てごわ》い奴、と思うから、十分の手当をして、とちゃんとお認《したた》めなすったの。」  わなわなとお鶴は震えた。 「揺れもどうもしないけれど、あんまり騒ぎが酷《ひど》かったから、あんな、穴蔵のような中にいらっしゃるんだから、ちょいと見舞に行った時、あの、お前が忍んだ時。」  夫人はこの時一段低い、廊下の向うの、新しい欄干《てすり》から階子段《はしごだん》を伝うて下りた。  下り切った風呂の口と、上とに電燈はついているが、段は中程にまた一個《ひとつ》、燈《ともしび》を要するだけ長い。  ここを下りるは、肺病患者より他《ほか》にはなく、病人は、また大抵、風呂に長時間|籠《こも》るので、夜は殊にほとんど通うものがない、といっても可いので。  木は新しいが、陰々と、奈落に一足ずつ踏込むような、段階子を辿《たど》る辿る、一段ごとに底の方は、深く、細く、次第に狭《せば》んで、足も心も引入れられそう。  されば、髪飾《かみかざり》、絹の彩《あや》、色ある姿はその折から、風呂の口に吸い込まれて、裳《もすそ》は湯気に呑まるるのである。  下り立つと浮世が遠い。  燈《ともしび》は朦朧《もうろう》と夫人の影を薄く倒した。  二足ばかり横へ曲ると、正面に、蒼《あお》く瘠《や》せたる躯《むくろ》を納めて、病も重き片扉。  夫《つま》も籠れる心細さ。力なく引手に手をかけ、裳《もすそ》を高く掻《か》い取って、ドンと圧《お》すと、我ながら、蹴出《けだし》の褄《つま》も、ああ、晴がましや、ただ一面に鼠の霧、湯花の臭気《におい》面《おもて》を打って、目をも眉をも打蔽《うちおお》う土蜘蛛《つちぐも》の巣に異ならず。 (蔦か。) (旦那様、)と答えたが、湯殿は約十畳余、さまで広くもない中に、夫の姿を認めたのは、ややしばらくの後《のち》であった。  今更ながらいかなる状《さま》ぞ。  煉瓦《れんが》で畳んで四方壁、ただその扉ばかりを板に、ぐるりと廻して二三段、高く低く、飛々に穿《うが》った穴、幾多の屍《かばね》を中に埋《うず》めて崩れ残った城の壁の、弾丸《たま》のあとかと物凄《ものすご》い。その一ツ一ツから、濃厚なる湯の煙、綿を束《つか》ねて湧《わ》き出《い》でて、末広がりに天井へ、白布を開いて騰《のぼ》る、湧いてはのぼり、湧いてはのぼって、十重《とえ》に二十重《はたえ》にかさなりつつ、生温い雫《しずく》となって、人の膚《はだえ》をこれぞ蒸風呂。  患者が顔を差寄すれば、綿なす湯気は口に漲《みなぎ》り、頬を蔽《おお》い、肩を包み、背に拡《ひろが》り、腰に纏《まと》うて、やがて濛々《もうもう》としてただ白気となる。  足、手、幽《かすか》な肉の一塊、霧を束ねて描ける状《さま》よ。さればかく扉を開ける音信《おとずれ》があっても、誰なるかを見る元気はない。たといここに、天津乙女の、麗《うるわ》しき翼を休めたとて、縋《すが》る力も絶えたのが、三人といわず、五人といわず、濃く薄く湯気の動くに連れて、低くむらむらと影が行交う。  一時《ひとしきり》、吸い草臥《くたび》れて、長々と寝たるもあれば、そのあとへ、這《は》い寄って、灰色の滑らかな背を凹《なかくぼ》に伸ばしながら両手で穴に縋るもあり、ぐッたりと腰を曲げて臍《へそ》へ頭をつけるもあり、痩せた膝に、両手を組んでいるのもあり、なえつかれたようになって、俯伏《つっぷ》した女も見えた。中に一人、壁の根に跪《ひざまず》き、もの打念ずる状《さま》して、高く掌《てのひら》を合わせたものの、白き頸《うなじ》の湯煙《ゆけぶり》ほぐれて、黒髪の色と分れた時、夫人の目はやや馴《な》れて、その良人の口に、一点|煙草《たばこ》の火の燃えつつあるを認め得た。はじめはそれを、燈《ひ》の光と見分くることさえ出来ぬのであった。  秋山氏は、真中《まんなか》に据えた大《おおい》なる大理石の円卓子《まるテエブル》に肱《ひじ》をつき、椅子にかかって憩いながら、かりそめに細巻をくゆらしていたので、もっとも裸体《はだか》で、纏《まと》えるは一片《ひとひら》の布あるのみ。痩せたる上に色さえ朧《おぼろ》、見る影もない状《さま》ながら、なお床を這い板に僵《たお》るる患者の中《うち》に、独り身を起していた姿、連添う身に、いかばかりの慰藉《いしゃ》なりけむ。  吐《と》いきをしつつ、立寄って、 (お塩梅《あんばい》はいかがです。) (こうしていりゃちっとは可い。)  と打棄《うっちゃ》ったようにいって、 (何か用か。) (はい、余りけたたましゅうございましたから、お見舞に上りました。この間から風説《うわさ》のございました地震なんでございます、とうとうほんものにして騒ぎまして、ただ今ようよう鎮まりましたのでございます。あの、御存じでございませんので。) (いいや、ここじゃちっとも知らん。また地震だといって、驚きもせん。たとい地《じ》の底に沈んだ処で、まあ、こんなものだろうと思えば、仔細《しさい》なしじゃ。)  周囲に蠢《うごめ》く患者の光景《ありさま》。 (とても娑婆《しゃば》じゃないからな、どうだ、まるで白い鰻《うなぎ》の、のたくッている体裁じゃないか、そういう自分は何か。)  ほとんど失望の声を放って、自から嘲《あざ》けるがごとくいった、警部長|疾篤矣《やまいあつし》。  夫人はハッと首《こうべ》を垂れた。  時に、 (何か、別に誰も、賊難にあったという話は聞かんか。)  夫人は、思いがけないことだったが、 (いいえ。)とありのままを答えたのである。 (まだ分るまい、蔦、巻紙と硯《すずり》箱を。)  これへ、と湯殿で命じたので。 (お硯箱、お手紙でも。) (うむ、もう座敷へ行くのは大儀じゃ、意気地《いくじ》はない。)  傲然《ごうぜん》としてしかも寂しく高らかに、 (はは、はは、はははは、) (……………………) (疾《はや》くせい。)  引返《ひっかえ》して扉《と》をあけると、重い湯気は、娑婆へ返すように、どッと夫人を押出した。身の健《すこや》かなる夫人は、かえって、かッと上気して眩暈《めまい》を感じて、扉を閉めながら蹌踉《よろめ》いたが、ばらばら脱ぎ散らした上草履乱れた中に、良人のを見て、取って揃えて直しながら、袖にも襟にも、纏いついて消えもやらぬ霧のまま、急いで旧《もと》の欄干口。夫人がこのときの風采《ふうさい》は、罪あるものを救うべく、疾《や》めるものを癒《いや》すべく、雲に駕《が》して往《ゆ》き還《かえ》る神々しい姿であった。廊下を出ると、風が冷い。  誂《あつら》えられたを調えて、再び良人の前に行った時、警部長は、天窓《あたま》を掴《つか》むようにして、堅く卓子《テエブル》に突伏《つっぷ》していた。  耳は掌《たなそこ》で蔽《おお》うたが、気勢《けはい》に、たちまち、蒼ざめた、顔を上げて、 (ここへ出せ。) (は、)  と袖から卓子へ。  まだ持ったままだった巻莨《まきたばこ》を、ハタと床に擲《なげう》つと、蒸気が宙で吸い消した。  椅子を引き寄せ、筆を取って、さらさらと認《したた》めたのが、ここに夫人の、お鶴にさとした文言であった。  書き果てると、著しく警部長の眉の顰《ひそ》むが見え、 (ああ、厭じゃ、が、黙っちゃおられん。何も見まい、聞くまいと思うに、この壁を透して、賊どもが、魚見の巌《いわ》にかたまりおるのが、月夜の遠距離のように歴然《ありあり》と見える。)  といった、眼《まなこ》の光|爛々《らんらん》として、 (蔦、こう神経が過敏になっちゃ、疾《やまい》は重いな。)  夫人は再び二階の廊下、思わず映る姿見に、消えも入らんず思う時、座敷の燈《ともしび》が滅したのであった。 [#5字下げ]梅柳[#「梅柳」は大見出し] [#7字下げ]二十五[#「二十五」は中見出し] 「お鶴さん、分りましたか、旦那のこのお手紙が私の手にある内だったから可《い》いけれど、もう一足で、番頭に渡るとね、今頃は、皆《みんな》が捕まっているかも知れません、もしか、その人が牢へ行ったらどうするの。  お前はきっとそうしたら一所に行くとおいいだろうが、おかみじゃ、牢の中で、同棲《いっしょ》に置いては下さいません。第一お前、今ここで、私がお前を帰さなかったら、どうしてその人に逢えますね。」  思い切って声強く、差寄る膝に手をかけた。お鶴は思わず取縋《とりすが》って、忍び音《ね》にわっと泣いた。  背《せな》に夫人も頬をあて、堪《こら》えず、はらはらと落涙して、 「おお、可哀相に、そんなかい。お前だって、私だって、良人を思うに二つはない。誰が、誰が、お前を帰さないでおくものか、警察へやるものか。  お前、夜中に崖に立って、その人を待った時、寒かろうって、あの、外套の下へ入れて抱いてくれたの。」  とそのまましっかと抱きしめた。  膝なる俤《おもかげ》、背《せな》なる髪、柳と梅としめやかに、濡れつつ、しばし密《ひっそ》とせり。 「さ。」  手を取って、顔を上げさせ、右手《めて》の指環を凝視《みつめ》ながら、するりと抜いて、胸に垂れたるお鶴の指へ。 「私が祈ってあげるんだよ。  それからね、この手紙を、このままお前にあげるからね、大事にして、持って行って、その人に見せるんですよ。  ああ、構いません。私の落度になっても可いの、そのかわりね、心がおありだったら、どうぞ旦那の病気が直るように、お鶴さん、お前も念じて下さいな。」  お鶴は頭《つむり》おもたげに、首垂《うなだ》れながら合点《がってん》々々。  夫人も斉《ひとし》く頷《うなず》いたが、 「まあ、盗賊《どろぼう》の大将に、警部長の病気本復、私も愚痴になったわね。」  莞爾《にっこり》したが、目を拭《ぬぐ》い、 「どれ、ちゃんとして、手帳、鉛筆も。こうしていては目につきます。」  と、立たせて、胸に秘めさせた、手紙も持ち添え、しっかりと内懐へ入れさせて、我が前髪の触るるあたり、帯の皺《しわ》をのしてやりつつ、 「そしてその人にいうんですよ、これこれのものがいいました。賊でも心があるだろう、お宝は盗んでも、こんな可愛い娘《こ》を盗んではなりませんと、可いかい。  さ、もうおいで、夜が更けた。」  と送り出すように座敷を出たが、前後《あとさき》に隈《くま》はあれど、蔽《おお》うものなき廊下の燈《あかり》。  はらりとかけたり羽織の片袖。瘠《や》せた夫人は膨《ふく》らかに、児《こ》の宿ったる姿して、一所になって渡ったが、姿見の前になると、影が分れて飜然《ひらり》と出た。  お鶴は胸が躍ったろう、別れの=さらば=いうのも忘れて、そのまま手水流《ちょうずながし》の傍《かたえ》の窓。  硝子戸《がらすど》を引きあけると、下は坂の、二階ではないが、斜めに土塀。  一度、顔を出して覗《のぞ》いて見て、ふり向いて夫人を見た、双の瞳の、露に宿れる星の色。  燦然《さんぜん》として星はあれど、涙に曇って暗かったか、ひらりと蒼い火、マッチを擦って、足場をしばし計ると見えし。 「は、」と声かけて、するりと抜けた、土塀の上を足溜《あしだまり》。姿は黒き窓となンぬ。  夫人はしばらく、姿見を背《せな》にして、熟《じっ》とそっちを瞻《みまも》ったが、欄干《てすり》の方に目をやって、襦袢《じゅばん》の袖で眉をかくした。  そのおくれげを掻いた時、壁の中の俤《おもかげ》は、どんなに、美しかったろう、柔和《やさし》く気高かったろう。大慈! 大悲! 我心、我力、良人の病を癒《いや》すべく、頼母《たのも》しいような気がしたので、急に何となく嬉しそうに、いそいそ座敷へ帰ろうとして、思わず、よろよろと背後《うしろ》に退《すさ》った。  一段高い廊下の端、隣座敷の空室《あきま》の前に、唐銅《からかね》で鋳《い》て鏽《さび》の見ゆる、魔神の像のごとく突立《つった》った、鎧《よろい》かと見ゆる厚外套、杖《ステッキ》をついて、靴のまま。  大跨《おおまた》に下りて、帽を脱し、はたと夫人の爪尖《つまさき》に跪《ひざまず》いて、片手を額に加えたが、無言のまま身を起して、同一《おなじ》窓に歩行《あゆ》み寄った。深夜に鼠の気勢《けはい》もさせず、帽とともに小脇にかかえた杖《ステッキ》よりも身を細く、小さな口から、するりと抜けると、硝子窓は向うから、音もなく、するりとおのずからしまるのが、姿見にありありと映って、夢の覚際《さめぎわ》かと見えたのである。  さて、蒸風呂の中で認《したた》めた、警部長の准逮捕状《じゅんたいほじょう》には、偉大なる反響があった。一旦夫人の情《なさけ》に因って、八方へ遁《のが》れた、万綱の配下の兇賊、かねて目指された数《すう》をあまさず、府、県、町、村、いうに及ばず、津々浦々にいたるまで、最寄《もより》々々に名告《なの》って出た。  御曹子はしからず。ただ崖の客の盲《めし》いたるは、紫鉛筆の粉のためといい伝えて、いずれも意外の毒に舌を巻くばかり。自らその罪を責めて、甘んじて享《う》くべき縲紲《るいせつ》を、お鶴のために心弱り、獄《ひとや》の暗《やみ》よりむしろつらい、身を暗黒に葬ったのを、秘《ひそか》に知るは夫人のみ。  程過ぎてつれづれに、琵琶を、と秋山の命で、座敷に招いた事がある。  盲目《めしい》は、あかい手絡《てがら》をかけた、若い女房に手を曳《ひ》かれて来たが、敷居の外で、二人ならんで恭《うやうや》しく平伏《ひれふ》した。  夫人は一目、ああ、その赤い手絡は見られまい、色の白いのが、さぞ、紫の涙を、とあわれさに顔を背けたが、良人のあるに襟を正した。  けれども、その時の眼《まなこ》の光は、かつて、蒸風呂の中におけるがごとき、爛々たるものではなかった。警部長は軽快したから。 [#地から1字上げ]明治三十八(一九〇五)年一月 底本:「泉鏡花集成2」ちくま文庫、筑摩書房    1996(平成8)年4月24日第1刷発行 底本の親本:「鏡花全集 第九卷」岩波書店    1942(昭和17)年3月30日発行 初出:「新小説 第十年第一卷」    1905(明治38)年1月 ※底本の編者による脚注は省略しました。 入力:門田裕志 校正:染川隆俊 2020年8月28日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(https://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。