貧民倶楽部 泉鏡花 ------------------------------------------------------- 【テキスト中に現れる記号について】 《》:ルビ (例)在原伯《ありわらはく》 |:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号 (例)夫人|貞子《ていこ》 [#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定    (数字は、JIS X 0213の面区点番号またはUnicode、底本のページと行数) (例)轔 -------------------------------------------------------  六六館に開かるる婦人慈善会に臨まんとして、在原伯《ありわらはく》の夫人|貞子《ていこ》の方《かた》は、麻布《あざぶ》市兵衛町《いちべえちょう》の館《やかた》を二頭立の馬車にて乗出《のりい》だせり。  いまだ額に波は寄らねども、束髪に挿頭《かざ》せる花もあらなくに、青葉も過《すぎ》て年齢《とし》四十に近かるべし。小紋|縮緬《ちりめん》の襲着《かさねぎ》に白襟の衣紋《えもん》正しく、膝《ひざ》の辺《あたり》に手を置きて、少しく反身《そりみ》の態《すがた》なり。  対の扮装《いでたち》の袖《そで》を連ねて侍女《こしもと》二|人《にん》陪乗し、馭者《ぎょしゃ》台には煙突帽を戴《いただ》きたる蓄髯《ちくぜん》の漢《おのこ》あり、晏子《あんし》の馭者の揚々たるにて主公の威権|想《おも》うべし。浅葱《あさぎ》裏を端折りたる馬丁《べっとう》二|人《にん》附随《つきしたが》い、往来狭しと鞭《むち》を挙げぬ。  かくて狸穴《まみあな》の辺《ほとり》なる狭隘路《せまきみち》に行懸《ゆきかか》れば、馬車の前途《ゆくて》に当って往来の中央《まなか》に、大の字に寝たる屑屋《くずや》あり。担《にな》える籠《かご》は覆りて、紙屑、襤褸切《ぼろきれ》、硝子《がらす》の砕片《かけ》など所狭《ところせま》く散乱して、脛《すね》は地を蹴《け》り、手は空《くう》を掴《つか》みて、呻吟《しんぎん》せり。  奮《はず》み行く馬の危《あやう》く鰭爪《ひづめ》に懸けんとしたりしを、馭者は辛うじて手綱を控え、冷汗|掻《か》きたる腹立紛れに、鞭を揮《ふる》いて叱咤《しった》せり。 「こら、そこを退《ど》かんか馬鹿な奴《やつ》だ。」  夫人は端然として傍目《わきめ》も振らず、侍女《こしもと》二人は顔見合せ、吐息《といき》と共に推出《おしだ》す一言、「おお危い。」  屑屋は眼《まなこ》を閉じ、歯を切《しば》り、音するばかり手足を悶《もだ》えて、苦痛に堪えざる風情なりき。  避《よ》けて通らん術《すべ》も無く、引返すべき次第にあらねば、退《の》けよ、退《すさ》れと声を懸くれど、聞着けざるか道を譲らず、馬丁《べっとう》は焦立《いらだ》ちてひらりと寄せ、屑屋の襟首むずと攫《つか》めば、虫の呼吸《いき》にて泣叫ぶを、溝際に突放して、それというまま砂烟《すなけむり》を揚げぬ。  この時酒屋の檐下《のきした》より婀娜《あだ》たる婦人《おんな》立出《たちい》でたり。薄色縮緬の頭巾《ずきん》目深《まぶか》に、唐草模様の肩掛《ショオル》を被《き》て、三枚|襲《がさね》の衣服《きもの》の裾《すそ》、寛闊《かんかつ》に蹴開きながら、衝《つ》と屑屋の身近に来《きた》り、冷然として、既に見えざる車を目送しつつ、物凄《ものすご》き笑《えみ》を漏らせり。屑屋は呻吟の声を絶たず。婦人はその顔を瞰下《みおろ》して、「こう、太の字太の字。」 「おい。」と眼を開けば、 「もう可《い》い、起きな。何という不景気な顔色《がんしょく》だよ。」 「笑いごっちゃアありませんぜ。根っから儲《もう》からねえ役廻《やくまわり》だ。」  と屑屋は苦も無く起上りぬ。健全無病の壮佼《わかもの》なり。知らず何が故に疾病《やまい》を装いて、貴婦人の通行を妨げしや。  頬被《ほおかぶり》を取りて塵《ちり》を払い、「危険《けんのん》々々。御馬前に討死をしようとした。安くは無い忠臣だ。」  婦人は打笑み、「その位な事はしたって可いのさ。」 「あんまり好《よ》かあねえ。何《なん》しろ対手《あいて》が四足二疋だ。」 「踏まれたら因果よ。白馬《しろうま》を飲む祟《たた》りだわな。」 「可笑《おかし》くもねえ。」と落散る屑ども拾い込みてまた手拭《てぬぐい》に頬を包み、 「姉様《ねえさん》、用は相済《あいすみ》かね。」 「あいよ、折角お稼ぎなさい。」 「御念には及びやせん。はい、さようなら。」と立別れ、飯倉の方へ急ぎつつ、いと殊勝に、「屑はござい。」  婦人は後《うしろ》に佇《たたず》みて、帯の間より手帳を取出し、鉛筆をもて何やらん瞬《またたき》もせず書き認《したた》め、一遍読返して、その紙を一枚引裂き、音低くしてしかも遠きに達《いた》る口笛を吹鳴らせば、声に応じて駈《か》け来る犬あり。婦人はこれを見て、「じゃむこう」蓋《けだ》しその名ならむ。  裾に絡《から》めば踞《つくば》いて頸《うなじ》を撫《な》で、かの紙片《かみきれ》を畳みて真鍮《しんちゅう》の頸輪《くびわ》に結び附け、 「京橋――毎晩新聞社――京橋――毎晩新聞社。」と語るがごとく呟《つぶや》くがごとく繰返しつ。 「そら、よし、御苦労だね。」 (じゃむこう)といえる飼犬は、この用をすべく馴《な》らされたれば、猶予《ためら》う色無く頭《こうべ》を回《めぐ》らし、頷《うなず》くごとくに尾を掉《ふ》りて、見返りもせで馳走《はせ》去りぬ。  三十分を経たらんには、この書信は毎晩社の楼上なる担当記者の掌《て》に落ちんか。 「おい、車夫様《わかいしゅさん》。」  婦人は振返りて手招きすれば、待たせたりし一人の車夫、腕車《くるま》を曳《ひ》きて近寄りぬ。 「じゃあこれから直ぐ。」「六六館へ?」  打頷《うちうなず》けば轔々《りんりん》として走りぬ。  深窓の美姫《びき》、紅閨《こうけい》の艶姐《えんそ》、綾羅錦繍《りょうらきんしゅう》の袂《たもと》を揃えて、一種異様の勧工場、六六館の婦人慈善会は冬枯に時ならぬ梅桜桃李《ばいおうとうり》の花を咲かせて、暗香《あんこう》堂に馥郁《ふくいく》たり。  在原夫人は第三区の受持にて、毛糸の編物を商いたまう。番頭は麹町《こうじまち》の姫様《ひいさま》にて、小浜照子という美人、華族女学校の学生なり。  前面《むかい》の喫茶店は、貴婦人社会に腕達者の聞え高き深川子爵|何某《なにがし》の未亡人《びぼうじん》、綾子《あやこ》といえる女丈夫にてこの会の催主なり。三令嬢一夫人を随《したが》えて、都合五人の茶屋女、塗盆《ぬりぼん》片手に「ちょいと貴下《あなた》。」 「御休息《おやすみ》なさいまし。」「いらっしゃいな。」と玉の腕《かいな》も露《あら》わに襷《たすき》懸けて働きたまえば、見る者あッというばかり、これにて五十銭の見世物《みせもの》とは冥加《みょうが》恐しきことぞかし。  金縁の目金《めがね》を掛けたる五ツ紋の年少《わか》紳士、襟を正しゅうして第三区の店頭《みせさき》に立ちて、肱座《ひじつき》に眼を着くれば、照子すかさず嬌態《しな》をして、 「御購《おもと》め下さいまし、貴下《あなた》、なるたけお働き申しますよ。何に遊ばす、これ、これが可《よ》うございますよね。」と牡丹形《ぼたんがた》の肱座を取って突附けられ、平民と見えてどぎまぎしつ、 「はッはッお何程《いくら》で遣わされまする。」と震い声。照子はくすくす、「五十五銭にいたしておきます、一閑張《いっかんばり》のお机にはうつりが好《よ》うございますよ。一円ならお剰銭《つり》をあげましょうか。」とはどこまでも男を下げられたり。 「いえ、銅貨で重うございますが。」と間の悪そうに勘定して、肱座を引《ひっ》たくり、早足に歩み行くを、「もし、もし、ちょいとあの。」と呼返され、慌てて戻り、「何ぞ粗相をいたしましたか。」「御勘定違いでございましょう。二銭だけ不足です。」と判然《はっきり》言われて真赤《まっか》になり、「それははや何とも。」と蝦蟇口《がまぐち》を探りつつ、これでもまだまだ見えをする気か、五銭の白銅|一個《ひとつ》渡して見返りもせぬ心の内、今度呼んだら剰銭《つり》は要らぬと、腹を見せる目的《つもり》の処《ところ》、何がさて如才なく令嬢は素知らぬ顔なり。  年少紳士|胆《きも》を抜かれてうっかりと佇《たたず》めば、 「御休息《おやすみ》なさいまし。」と茶店の姫様《ひいさま》。  はッと思う眼の前《さき》へ深川夫人|衝《つ》と寄って、 「貴下《あなた》、お茶一ツ。」と差出すに蒼《あお》くなりて、 「出口はどこでございます。」とは可哀《あわれ》やもう眼が見えぬそうな。  入替《いりかわ》りて洋服の高等官吏、「嬢様お精が出ますね、令夫人《おくさま》御苦労でございます。」なかなか場数功者《ばかずごうしゃ》かな。  照子は軽く挨拶《あいさつ》して、「これはようこそ。何ぞ御気に召したものはございませんか。」 「ありますともさ、ははは、ありますともさ。まずこれが可《よ》し、それからこれも可しと、〆《しめ》て三個《みッつ》頂戴いたします。ちょいと御勘定下さい。」  照子は頤《おとがい》にて数え、「二円八十銭……。」と言い懸けて莞爾《にっこ》と笑い、「お安いものよ、ねえ貴下。」予算よりは三倍強なるに「えッ。」と眼《まなこ》を睜《みは》りしが、天なるかなと断念《あきらめ》て、「以後は正札附になすってはどうです、その方がお手数が懸《かか》りますまい。」  我慢強き男というべし。 「御注意|難有《ありがと》う存じます。」と伯爵夫人が御会釈あり。取出《とりい》だすは折目無き五円|紙幣《さつ》。「これで。」と差出《さしい》だせば、「はいはい。」と取って澄《すま》したもの、剰銭《つり》を出《い》ださん気色も無し。官吏始めて心着き、南無三《なむさん》失策《しくじ》ったりと思えども、慈善のための売買なれば、剰銭を返せと謂《い》い難く、「こりゃ体《てい》のいい強奪《ぶったくり》だ。」と泣寝入に引退《ひきさが》りぬ。後《あと》に二人は顔見合せ、徳孤《とくこ》ならずと笑壺《えつぼ》に入《い》る。  店頭に今度は婦人、この会場に入《い》るものは、位ある有髯《ゆうぜん》男子も脱帽して恭敬の意を表せざるべからざるに、渠《かれ》は何者、肩掛《ショオル》を被《かつ》ぎ、頭巾目深に面を包みて、顔容《かおかたち》は見えざれども、目は冷《ひやや》かに人を射て、見る者を慄然《ぞっ》とせしむ。  照子の顔をじろりと視《なが》め、「おい、姉様《ねえさん》。こりゃ何程《いくら》だい。」  冴《さ》えたる月に一片の雲|懸《かか》れり。照子は顰《ひそ》みぬ。 「ちょいとお婆様《ばあさん》。」  婦人は照子の答えざるを見て、伯爵夫人を婆様|呼《よば》わり、これもまた異数なり。「おや、返事をしないね。耳が疎《うと》いのか、この襯衣《しゃつ》を買って進《あ》げよう。」  と答えざれども無頓着《むとんじゃく》、鳶色《とびいろ》の毛糸にて見事に編成《あみな》したる襯衣を手に取り、閉糸《とじいと》をぷつりと切りぬ。  これのみにても眼覚《めざま》しきに、肩掛《ショオル》をぱっと脱棄《ぬぎす》てたり。慈善会場の客も主《あるじ》も愕然《がくぜん》として視《なが》むれば、渠はするすると帯を解きて、下〆《したじめ》を押寛《おしくつろ》げ、臆《おく》する色なく諸肌《もろはだ》脱ぎて、衆目の視《み》る処、二布《ふたの》を恥じず、十指の指《ゆびさ》す処、乳房を蔽《おお》わず、膚《はだえ》は清き雪を束《つか》ね、薄色友禅の長襦袢《ながじゅばん》の飜《ひるがえ》りたる紅裏《もみうら》は燃ゆるがごとく鮮麗《あざやか》なり。世に馴《な》れては見えたまえど、もとより深窓に生育《おいた》ちて、乗物ならでは外《おもて》に出《い》でざる止事無《やんごとな》き方々なれば、他人事《ひとごと》ながら恥らいて、顔を背け、頭《かしら》を低《た》れ、正面より見るものなし。  秋水を佩《は》ける将校もあり、勲章《くんしょう》を帯べる官吏もあり、天下有数の貴婦人、紳士、前後左右を擁せる中に、半身の裸美《らび》自若として突立《つった》ちたるは、傍若無人の形状《ありさま》かな。 「何だ。」「何者だ。」「野蛮|極《きわま》る。」「狂人《きちがい》だ。」と一時に動揺《どよ》めく声の下より朗《ほがらか》に歌うものあり。  色は天下の艶《えん》たり、心はすなわち女中の郎。  喝采《やんや》と手を拍《う》つもの五七人。  婦人は毀誉《きよ》を耳にも懸けず、いまだ売買の約も整わざる、襯衣を着けて、膚《はだえ》を蔽い、肩を納め、帯を占《し》め、肩掛《ショオル》を取りて颯《さ》と羽織り、悠々として去らんとせり。 「盗人《ぬすっと》待て。……」と伯爵夫人は一方ならぬ侮辱を蒙《こうむ》りて、堪《こら》え堪えし腹立声。 「何を。」色をも変ぜず見返る婦人。  照子嬢も声鋭く、「それは売物です。」と遣込《やりこ》むれば、濶歩《おおまた》に引返し、「だから最初《はじめ》に聞いたじゃないか、価値《ねだん》が解《わか》れば払うのさ。」  憎さも憎しと伯爵夫人、「二円。」と恐しき懸《かけ》を謂《い》う。  婦人はちっとも驚かず、「それじゃ二十銭|剰銭《つり》を下さい。」 「まだ何にも請取りません。」と貞子の方は真面目《まじめ》なり。 「先刻《さっき》五円払いました。」  照子は聞くより怒気心頭を衝《つ》きて面《おもて》を赤め、 「騙局《かたり》です、失敬な。夫人《おくさん》巡査を呼びましょう。」と愛々しき眼に角立つれば、 「はい、引渡しましょう。秋や定。」と急込《せきこ》むにぞ、側に侍《さぶら》いける侍女《こしもと》二|人《にん》、ばらばらと立懸くるを、遮って冷笑《あざわら》い、 「こうこう騒ぎなさんな。塵埃《ほこり》が煽《た》つによ。お前様方《まえさんがた》は美くしい手で恐しい掴取《つかみどり》をしなさるね。今のあの男は二円八十銭の買物をして、五円渡して去《い》ったじゃないか、そこで私《あっし》の買物が二円さ、可《よ》しかえ。合計四円と八十銭になるんだね。」「えー。」二人の呆《あき》るるを、それ見よと畳懸《たたみか》け、 「銅貨じゃ重いわ。二十銭|銀貨《ドル》で呉《く》んな。」と空嘯《そらうそぶ》きつつ小膝を拍《う》ち、「おっと、まだ有る。目金をかけた若い衆が、二銭の不足に五銭と払った、その三銭も返すんだよ。」  夫人はギクリ、照子は無言。  天下泰平町内安全、産ある者は仁者《じんしゃ》となり、産無き者は志士となりて、賢哲天下に満ちたれば、六六館の慈善会は今にはじめぬ大当《おおあたり》。  就中《なかんずく》喫茶店は、貴婦人社会にさるものありと衆《ひと》も識《し》りたる深川綾子、花の盛《さかり》の春は過ぎても、恋草茂る女盛り、若葉の雫《しずく》滴たるごとき愛嬌《あいきょう》を四方に振撒《ふりま》き、多恨多情の八方睨《はっぽうにらみ》に大方の君子を殺して黄金《こがね》の汁を吸取ること長鯨《ちょうげい》が百川《ひゃくせん》を吸うがごとし。助《す》けて働く面々も、すぐり抜きたる連中《れんじゅう》が腕に縒《より》否|襷《たすき》を懸けて、車輪になりて立廻るは、ここ二番目の世話舞台、三階|総出《そうで》大出来なり。  されば一|皿《べい》の菓子、一|盞《さん》の珈琲《コオヒイ》に、一円、二円と擲《なげう》ちて、なおも冥加に余るとなし、我も我もと、入交《いりかわ》り、立替る、随喜の輩《ともがら》数うるに勝《た》うべからず。  収入満と唸《うな》るといえども、常住の寡慾《かよく》に肖《に》もやらで、慈善の慾《よく》は極り無く、貪るばかりに取込みても人に施すにはいまだ足らずと、身を粉《こ》にし、骨を折る、賢媛《けんえん》、閨秀《けいしゅう》の難有《ありがた》さよ。  さるにても暢気《のんき》の沙汰《さた》かな。我に諂《へつら》い我に媚《こ》ぶる夥多《あまた》の男女を客として、貴《とうと》き身を戯《たわむれ》に謙《へりくだ》り、商業を玩弄《もてあそ》びて、気随《きまま》に一日を遊び暮らす。これをしも社会が渠等《かれら》に与うるに無形の桂冠《けいかん》をもってする爾《しか》き慈善事業というべきか、と皮肉なことはいいっこなし。  渠等がこれに因って得る処の気保養たるや、天がその徳に酬《むく》ゆる寸志のみ、また怪《あやし》むに足らざるなり。  閑話休題《それはさておき》。  とんとん拍子に乗《のり》が来て、深川夫人は嫣然顔《にこにこがお》、人いきりに面|熱《ほて》りて、瞼《めのふち》ほんのり、生際《はえぎわ》に膏《あぶら》を浮べ、四十|有余《あまり》の肥大《でっかい》紳士に御給仕をしたまいながら、「あら貴下《あなた》、よくってよ。」などとやっていたまいし折柄|騒動《さわぎ》のはじまりたるなり。知らざりき、我々にもかかる不如意のあらんとは。  在原夫人と照子嬢は散々に罵倒《ばとう》されて、無念の唇を噛《か》みたまえば、この神聖なる慈善会を、汚《けが》し犯すは何等の外道《げどう》と、深川綾子も喫茶店より、第三区に赴きて固唾《かたず》を飲んで聞《きき》たまえり。  件《くだん》の婦人は落着払い、その冷《ひやや》かなる眼色《めつき》にて、ずらりと四辺《あたり》を見廻しつ、「さっさとしないか。おい、お天道様は性急《せっかち》だっさ。」  飽くまで侮る一言《ひとこと》に、年齢少《としわか》にて気嵩《きがさ》の照子は、手巾《ハンケチ》を噛占《かみし》めて、口惜涙《くやしなみだ》を、ついほろほろ。  夫人はさすが年紀《とし》の功、こは癈疾《かったい》と棒ちぎり、身分に障ると分別して、素直に剰銭《つり》を出《い》ださるれば、丁寧に員《かず》を検し、繻子《しゅす》の帯にきゅっと挿《はさ》みぬ。  これを見て照子は声震わし、「あの男は其方《そち》の何だえ。親類かい、知己《ちかづき》かい。」  いいも終らざるに婦人《おんな》は答えぬ。「あれかい、あれは私の宿六――てッちゃあお前様《まえさん》に解るまい。くわしく謂《い》えば亭主のことさ。」  照子は眼中に涙を湛《たた》えて、屹《きっ》と婦人《おんな》を凝視《みつめ》ながら、「それでは。」となお謂わんとすれば、夫人|密《ひそか》にその袂《たもと》を控え、眼注《めくばせ》して停《と》めらる。振切って、 「いえ、可《よ》うございます。これ、それではあの近視眼《ちかめ》は……いえ、謂わして下さいよ。他人《ひと》の金銭に其方《そち》が関係する権利はあるまい。一体近視眼は其方の何だい。」  と、ぽんと一本参りたまえば、待構えし体《てい》にて平然と、「ありゃ私《あっし》の男妾《おとこめかけ》さ、意気地《いくじ》の無い野郎さね。」一同聞いて唖然《あぜん》たり。  渠《かれ》がいう処のしらじらしさ、虚言《うそ》は見透きて明《あきらか》なれど、あらずというべき証拠なければ、照子は返さん言葉も無く、悄《しお》れて首《こうべ》を低《た》れたまいぬ。  この時まで無言にて傍観せられし深川夫人、何か心に頷《うなず》きながら、突立《つった》ちたる婦人《おんな》の背《せな》を、しなやかに不意打して、 「モシ貴女《あなた》。」 「エー。」と振返るに引被《ひっかぶ》せて、 「済んだらこちらへいらっしゃいな、お茶一つあげましょう。」と風流《みやび》に屈《かが》む柳腰。  屹《きっ》と視《み》て、「フフ、此奴《こいつ》はちっと骨がある。」  兵法《ひょうほう》に曰く柔よく剛を制すと、深川夫人が物馴《ものな》れたる扱《あつかい》に、妖艶《ようえん》なる妖精《ばけもの》は火焔《かえん》を収め、静々と導かれて、階下《した》なる談話室兼事務所に行《ゆ》けり。  群集は崩れ、雑沓《ざっとう》鎮まり、一条の紛乱はかくしてようやく鎮撫《ちんぶ》に帰しぬ。  野分《のわき》の後《あと》は寂寞閑《ひっそりかん》。  夫人も令嬢も太《いた》く得意を減殺《げんさい》されて、気焔|大《おおい》に衰えたり。  それより照子、鬱々《うつうつ》として愉《たのし》まず、愁眉《しゅうび》容易に開けざるにぞ、在原夫人は語《ことば》を尽して、賺《すか》しても、慰めても頭痛がするとて額を押《おさ》え、弱果てて見えたまえば、見るに見かねて侍女等《こしもとども》、 「姫様《ひいさま》こういらっしゃいまし。」一まず彼室《かなた》の休息所へ、しばし引込みたまうにぞ、大切なる招牌《かんばん》隠れたれば、店頭|蕭条《しょうじょう》として秋暮の歎《たん》あり。  これではならぬ、と御迎《おむかえ》の使者相望めば、御機嫌を見計らいて侍女《こしもと》は慰むる。「あんなあばずれのいった言《こと》は、ナニ、蚊《か》が鳴いたのだと思召《おぼしめ》しまし。御気分が癒《なお》りましたら、二階へお出《い》で遊ばしませんか。」「そうさね。」とどちらつかず。「在原の夫人《おくさま》ばかりでは何にも売れはいたしませんよ。」「ナニ、まさか。」と口にはいえど、さもあらんという顔色《かおつき》。 「それに、姫様。」と侍女は仔細《しさい》らしく小声になり、 「福助《あれ》がもう来ます時分、ここにいらっしゃると見落しますよ。」  と乳《ち》の下三寸に銃口《つつぐち》を向ければ、 「それじゃ行《ゆ》こうか。」とは罪がなし。  御迎の使者またもや到来、「モシ姫様、どうぞ来て下さい。貴女《あなた》でなければならぬそうです。」 「度々御苦労ね、今|直《じき》に。」と照子の答に、使者面目を施して、ばたばたにて引返すを、此方《こなた》の侍女|追縋《おいすが》りて、 「ちょいとちょいと、若旦那はまだ来ないの?」と肩を叩く。「えーどこの。」と勘の悪さ。「米沢町のさあ。」「ああ、新駒屋《しんこまや》かね。」「大きな声だよ。まあ来たかい。」「今しがた来たっけよ。」「それ、姫様、ちゃっとちゃっと。」 「あいよ。」と嬉しそうに、慌《あわただ》しく立上れば、御使者《おつかい》番は気の毒そうに、「そうしてもう帰っちまったわ。」「えっ。」と驚く侍女より照子は先にべったり坐《すわ》り、「私はもう。」と失望落胆。半巾《ハンケチ》をびりりと喰裂きて、「車夫に、支度《したく》を。直ぐ帰る。」  これがそれ慈善会中に第一流の貴女《レデー》なり。  応接所の戸をぴんと閉めて、人払《ひとばらい》の上|立籠《たてこも》れるは深川綾子と怪しき婦人《おんな》。  綾子は後向《うしろむき》にて顔は見えず、片手を卓子《テエブル》に、片手を膝に、端然《ちゃん》と澄まして、敵の天窓《あたま》を瞰下《みおろ》したり。  以前《さき》の勢《いきおい》に似もやらで、婦人《おんな》は少しく悄《しお》れし体《てい》、袖を重ねて俯向《うつむ》きたり。惟《おも》うに博学多才なる深川夫人が慈善会を代表して、渠《かれ》が暴行を戒めしに、屈服したりしものならんか。弁論今や終局して、綾子は渠が服罪を待たるる様子。  されども婦人《おんな》は徹頭徹尾口を結びて開かざるなり。綾子はまた、 「尤《もっと》も不束《ふつつか》なものが寄合っていたすのでございますもの、行届かぬがちには相違ございません。少しの過失《あやまち》があるからって、直ぐああいう愛想尽《あいそづかし》をなさいますのは、そりゃ貴女《あなた》無情《つれない》ではございませんか。  この会を一呑みになすった先刻《さっき》の振舞、私も呆れながら感心しました。で、きっと私共の会に対して不平がおありなさるんでしょう、就いては御意見がございましょう、それを承りたいものですね。」  と真綿で首、  上靴の爪先《つまさき》にて床をとんとんと叩きつつ渠が返事を促せど、聾《ろう》せるがごとく死灰のごとし。  あたかもこの時「新聞。」と戸を叩きて呼ぶものあり、綾子は椅子をずらしてちょいと振向き、 「後で可《い》いよ。」  外《おもて》より推返《おしかえ》して、「この会のことが出ております。」 「そう、ではこちらへ。」  小使|恭《うやうや》しく入来《いりきた》りて卓子《テエブル》の上にそれを載《の》せつ、一礼して退出《すさりい》ずるを、と見れば毎晩新聞なり、綾子は傍《かたえ》に推遣《おしや》りて、 「サ、どうでございます。」といよいよ迫る。  今まではさも殊勝なりし婦人《おんな》、電《いなずま》のごとき眼を新聞に注ぐと斉《ひと》しく身を反《そら》し、伸《のび》を打ち、冷切《ひえき》ったる茶をがぶり、口に含み、嗽《うがい》して、絨毯《じゅうたん》の上に、どっと吐出《はきいだ》し、「何だい、しみったれな。貴婦人のお茶一つてい御馳走《ごちそう》はこんなものか。」  容子《ようす》ががらりと打って変り、「鷹《たか》の爪でも出すだろうと面倒ながら交際《つきあっ》た。人愉快《ひとおもしろく》もねえ駄味噌《だみそ》を並べて、あたら寿命を縮めたね、こう、お綾|様《さん》。」  と、一面識も無き者の我名を呼ぶに綾子は呆れ、婦人《おんな》の顔を瞻《みまも》るのみ。委細構わず馴々《なれなれ》しく、 「去年、旦那が死歿《なくな》って、朝夕淋しくお暮しだろう。慈善だの、何だのと、世間体はよしにして、情夫《いろおとこ》でも御稼ぎなさいな。私やもう帰ります。」と、襟|掻合《かきあわ》して立上り、「そうそうその新聞のね、三枚目を読んでみな。お前達の薬があるよ。」これを捨台辞《すてぜりふ》にして去らんとするを、綾子は押止《おしとど》め、 「御待ちなさい。」  婦人《おんな》は冷淡に、「何も用が……」 「いいえ、ございます。」と綾子は熱心。 「何さ、こっちに無いってことさ。そっちに用がおありでも、私やちっとも構いません。」冷々然として言放てば、とめても無益《むやく》と綾子は強いず、「しかしこのままお別れは残惜《のこりおし》い。お住居《すまい》は? せめてお名だけ。」と余儀無く問えば、打笑いて、 「私の家は日本中サと謂《い》えば豪気だが、どこと定《さだま》って屋根は持たぬ。差当り四谷《よつや》近辺の橋の下で犬と寝ている女乞食。」「え!」「丹《たん》と申す、お転婆さ。」  婦人慈善会は三日続きの予定なりし、初日よりあやかし[#「あやかし」に傍点]がつき二日目の早朝《あさまだき》、六六館へ出懸くる途次、綾子は内談の条《すじ》ありて在原夫人を市兵衛町の館《やかた》に見舞えり。  客室《きゃくま》に通りて待たるれば、侍女《こしもと》に襖《ふすま》を開かせ、貞子の方《かた》静々と立出《たちいで》らる。 「これは早朝から。」「イエ、どう致して。」「好《よ》いお天気で。」と挨拶終りぬ。  綾子、袱紗包《ふくさづつみ》を開きて、昨日《きのう》の毎晩新聞を取出《とりいだ》し、「時に。」と開直りて、「ま、これを。」と仔細《しさい》ありげ。 「何でございます。」と眼を注ぐ、三枚目に左《さ》のごとき雑報あり。 [#ここから4字下げ] ○今朝麻布|狸穴《まみあな》にて、疾病《しっぺい》、飢餓、交々《こもごも》起り、往来に卒倒して死に垂々《なんなん》とせる屑屋あり。交番も程遠く近隣に人無ければ、誰ありて介抱するもの無く、一杯の水を恵むもあらず、屑屋は人心地も無く呻《うめ》きおりぬ。折から二頭立の馬車を駆りて、ここを過ぐるものあり。これ慈善会に赴かんとする在原貞子の途次なりき。しかるに万死の貧民に向って道を譲らざる無礼を責め、無慙《むざん》なる馬丁《べっとう》は渠《かれ》を溝際に投飛ばして命縷《めいる》将《まさ》に絶えなんとする時、馬車は揚々として立去れり。 車中の婦人はこれが始終を見物しながら、貴族たる権威の発表せられしを歓《よろこ》べる色ありきという。 [#ここで字下げ終わり] 「一体事実でございますか。」と綾子は眉を顰《ひそ》めて問えり。  貞子の方は言葉縮まり、窮して応《こた》うる処を知らず。  読来りて眉動き、読去りて蒼《あお》くなりぬ。  見る間に太る額の蒼筋《あおすじ》、癇癪持《かんしゃくもち》の頭痛|病《やみ》にて、中年以来|丸髷《まるまげ》に結いしこと無き難物なれば、何かはもって堪《たま》るべき。呼鈴《よびりん》を烈《はげ》しく鳴《なら》して、「矢島をこれへ。」と御意あれば、畏《かしこ》まりて辷出《すべりい》づる婢《おはした》と入違《いりちがい》に、昨日《きのう》馬を馭《ぎょ》せし矢島由蔵、真中の障子を開きて縁側に跪《ひざまず》き、 「もはや御耳に達しましたか、何ともはや恐入りました。」と続様《つづけさま》に額を下ぐ。  夫人は御褥《おしとね》を辷《すべ》らしたまいつつ、「金次に早速|暇《いとま》を出しゃ、其方《そち》もきっと謹むが可《よ》かろう。」との御立腹。 「はッ、仰《おおせ》一応|御道理《ごもっとも》、御言《おことば》を返しましては恐多くござりまするが、あれが死にましたは何も金次の知ったことではござりませぬ。」  綾子も夫人もぎょっとして、「ええ、死んだと。」 「はッ、いつも朝御飯を戴いて外《おもて》へ出ますのが、今日は御玄関が開くとそのまま飛出しました。これが前兆と申すのでございましょうか、誠に争われぬもので、御愁傷様《ごしゅうしょうさま》。」  と恐入るは、ちと筋道が違うようなり。  夫人は訝《いぶか》り、「これこれ、其方《そち》は血迷うていやるようじゃ、落着いて申すが可い、死んだといやる、何がどうしたのじゃ。」  矢島も怪訝《けげん》な顔色《かおつき》にて、「御手飼の狆《ちん》が屠犬児《いぬころし》に。」 「おや……」と夫人は血相変え、火箸《ひばし》を片手に握りしまま、衝《つ》と立上って矢島を睨附《ねめつ》け、「ヌ――」とばかり、激怒して口が利けず。  新聞にてたたか[#「たたか」に傍点]れし口惜《くちおし》さと、綾子に対して言訳なさと、秘蔵の狆の不幸とが一時《いっとき》に衝突して、夫人の剣幕さながらダイナマイトのごとくなれば、矢島は反返《そりかえ》って両手を前に突出《つきいだ》し、「で……で、下手人はその場を去らず、と……捕えました。死骸《しがい》は御玄関、きっ……きっと敵《かたき》を。」と呂律《ろれつ》もしどろ。 「貴女《あなた》ちょいと。」失礼といいもあえず、夫人はずるずると裳《もすそ》を引摺《ひきず》り、玄関へ駈出《かけいだ》したまう。「ああだもの。」と歎息して、綾子は後に思案投首。  撲殺《なぐりころ》して占《し》め損い、遁《に》げんとして馬丁《べっとう》に見露《みあらわ》され、書生のために捕えられて、玄関に引摺込《ひきずりこ》まれし、年老いたる屠犬児《いぬころし》は、破褞袍《やれおんぽう》を衣《き》て荒縄の帯を〆《し》め、踵《かかと》の辺《あたり》は摺切れたる冷飯草履《ひやめしぞうり》を片足脱ぎて、花崗石《みかげいし》の上に平蜘蛛《ひらぐも》。  可憐《あわれむべし》お手飼の狆は、一棒を撲《くら》ってころりと往生し、四足《しそく》を縮めて横たわりぬ。  貞子の方は奥より駈出で(見るに眼も眩《く》れ心も消え、)と絃《いと》に乗るまでにはあらざるも、式台の戸より隙見《すきみ》して、一方ならぬ御愁傷《おなげき》なり。書生は殊更にかっぷと唾《つば》を拳《こぶし》に打占め、 「不屈《ふとどき》な奴だ、恣《ほしいまま》に動物を殺傷《せっしょう》するとは容易ならぬ犯罪だ。金どんどうしてくりょうな。」と件《くだん》の拳固に、はッはッと気勢《きおい》を吹く。  金次は仰山に自然木《じねんぼく》の杖《ステッキ》を構え、無事に飽倦《あぐ》める腕を鳴して、 「野郎め、飛んだことをしやがった。平民の野良犬も多いのに、何も選好《えりごのみ》をして華族様の御手飼を殺《や》らずともの事だ、奥様に知れようものなら、金次一生の越度《おちど》とならあ、忌々《いまいま》しい。汝《うぬ》、どうして腹を癒《い》よう。」と、地板《じびた》をどしん。  屠犬児は震上《ふるいあが》り、「あ、皆様手荒きことをなされますな、畜生の死んだのは取返す法もあれ、人間の身体《からだ》はこれ撲《なぐ》ると疵《きず》が附きまする。」 「知れた事だ。汝等《うぬら》のような蛆虫《うじむし》は撲殺したって仔細《しさい》は無《ね》え。金次どうだ。」「撲《や》っちまえ。」と、拳《こぶし》と杖《ステッキ》の空《くう》に躍るを、「待った。」と間《なか》に割込むは、夫人《おくさま》の後を追うて、勝手口より出《いで》たる矢島、「今聞いた、何か、活《いか》す法もあると謂《い》ったな、なろう事なら活《いか》して戻せ。汝《きさま》も無事じゃ、我等も満足、自他の幸福というものじゃ。さ、どうじゃ。」  と平和《おだやか》に謂出《いいい》だせば、屠犬児は顔を擡《あ》げて、「何の雑作もござりませぬ。初手からそう出さっしゃれば、訳は無いに、余計なことに御騒ぎなされる。やれやれ。」と起上りて、「襟首を放した、放した。」  書生も馬丁も没面目、手持不沙汰に控えたり。屠犬児は腰を捻《ひね》りて、狆を手許《てもと》に掴寄《つかみよ》せ、 「この骨《こつ》だ。それ。」と懸声して、やっと一番活を入るれば、不思議や四足《しそく》をびりびりびり。一同これはと驚く処に、 「も一つかい。」とまたごつん。  たちまち蘇生《よみがえり》て悲鳴を揚げ、太《いた》く物に恐れし状《さま》にて、狆は式台に駈上《かけあが》れば、やれ嬉しやと奥様は戸を引開け抱《いだ》き上げて、そのまま奥へ、ふいと御入。  しばらくして、侍女《こしもと》立出で、「矢島|様《さん》お奥で召します。その人を連れまして庭口からお露地へ。」  こはそも華族の御身《おんみ》として、かったいものの屠犬児に、直接《じきじき》御面会《おあい》は心得ずと、矢島は思えど、主命なれば、来《きた》れ、と渠《かれ》を麾《さしまね》きて、庭口より露地へ廻れば、夫人は縁側に褥《しとね》を移して、綾子と二人並び坐しつ。引退《ひきさが》りて腰元一人、三指にて侍《はん》べれり。 「はッ、御意に依って召連れました。」屠犬児はただおずおず。「これへ近う。」と仰せらる。  この屠犬児恐しき家業には似もやらで、至極|実体者《じっていもの》、地に平伏《ひれふ》し、 「唯今《ただいま》は御慮外をいたしまして、恐入ってござります。命を繋《つな》ぐためとは申せ、因業《いんごう》な活計《くらし》でござりまして、前世《さきのよ》の罪が思い遣られまする。」と啜上《すすりあ》げて、南無阿弥《なむあみ》と小声にて唱え、「じゃと申して、土を噛《かじ》っては腹《おなか》が承知いたしませぬ処から、余儀なく悪いことを致しまする。ああ、この世からの畜生道、良《い》い死目には逢われますまい。果敢《はかな》いことでござります。」  潸然《さんぜん》として溢《こぼ》す涙に真心見えて哀《あわれ》なり。 「老年《としより》が罪を造るのも貧ゆえです。ねえ、貴女《あなた》。」と綾子眼をしばたたけば、貞子は頷《うなず》きて、「定や、あれを遣わすが可い。」  侍女《こしもと》は畏《かしこま》りて一包の金子《かね》を持出で、 「御情《おなさけ》だよ、頂戴しな。」と痩《や》せたる掌《てのひら》に握らすれば、屠犬児は樹に魚《うお》を獲たる心地、呆れて窪《くぼ》める眼を睜《みは》りぬ。  綾子は少しく乗出だし、「他《ほか》に渡世の道が無いでもあるまい。ちっとじゃが資本《もとで》にして、そういう穢《けが》らわしい商売は休《や》めたが可《よ》い。お前はどこの者だえ。」  溢《あふ》るるばかりの情《なさけ》の露《あらわ》れ、屠犬児は袖を濡《ぬら》して、「ああ、忝《かたじけの》うござります。何たる、神様か、仏様か、お庇《かげ》で清く死なれまする。はいはい、私《わたくし》風情にここと申す住所《すみか》もござりませぬ。もう御暇《おいとま》を下されまし。」と揉手《もみで》をしつつ後退《あとじさり》。  御両方《おふたかた》無言にて頷きたまえば、再び矢島に導《みちびか》れ、門を出でて三拝せしが、見送る人眼のあらずなれば、ニヤニヤと笑うて、ペロリと舌。 「占めた、占めた。」と呟《つぶや》きつつ立去る裾をひしと啣《くわ》えて引留めたる一頭の犬あり。 「屠犬児を引張《ひっぱ》るなあ、どこの犬だい、ずうずうしい。」首を捻《ひね》りて、「ほい、じゃむこう。姉御《あねご》はどうした。」 「ここに居るよ。」  と辻便所より女乞食、膚《はだえ》の色の真白きに、海松《みる》のごとき袷《あわせ》を纏《まと》えば、泥に塗《まみ》れし残《のこん》の雪。破草人《やぶれかがし》の笠を被《かぶ》りてよぼよぼと杖《つえ》に縋《すが》り、呼吸《いき》づかい苦しげに――見せ懸けたるのみ、実はしからず。 「おい。」と屠犬児を呼《よび》近附け、「呉れたろう。」「貰《もら》ったよ。姉御の先見|露違《つゆたが》わずだ。」と先刻の包を取出だして、「あててみさっし。」 「片手がものだ。……ね、それ、違いなし違いなし。」  屠犬児は天窓《あたま》を掻《か》きて、「むこうがおめでたいだけにちっとは冥利《みょうり》が悪《わり》いようだ。はて、体《てい》の良《い》い騙取《かたり》じゃねえか。」  女乞食は微笑《ほほえ》みて、「何のお前、罪にならぬ盗人は白日御免の世の中だによ。どう、五円だけ油を掛けよう。」 [#ここから4字下げ] 在原貞子、深川綾子、両夫人の徳に感化して兇悪なる屠犬児心を飜して良民となれり。噫《ああ》偉《おおい》なるかな、其仁《そのじん》禽獣《きんじゅう》に及ぶ……と無暗《むやみ》にお誉《ほ》めなさるべく候。 [#ここから3字下げ] 毎晩新聞社にて――清ちゃん行《ゆき》。 [#ここで字下げ終わり]  紙片《かみきれ》に記して読返し、「これじゃ一両がものはあるわね。」  在原夫人の屠犬児に金子《かね》を恵みたるは、蓋《けだ》し綾子の勧誘に因れり。 「ああしておいて様子を見ましょう。もし今日のことがまた新聞に出ますようだと、何物か我々社会の挙動を探って世に曝露《ばくろ》しようと企《くわだて》るものがあるのです。そうした日には私共《わたくしども》もその心得が無ければなりません。で、試してみたのです。どっちみち今日の恵《めぐみ》は御為《おため》に悪いことはございません。」と座蒲団《ざぶとん》を撥《は》ねて、「これは早朝から御邪魔申しました。それではなりたけお早く御出《おいで》下さいまし、一足御先へ。」と座を開けば、 「もうちと宜《よろ》しいじゃございませんか。」「いえ、まだ用事もございます。さようなら六六館《あちら》で御待ち申します。」貞子は昨日《きのう》の今日にて気が進まず、「ふとすると失礼致すかも知れません。悪《あし》からず。」綾子は怪《あやし》み、「何ぞ御差支《おさしつかえ》がございますか。」  貞子夫人は額を押えて、「はい、血の道が起りました。」  蓋《けだ》し無理ならぬ仰《おおせ》なり。  病気を強いてとも謂《い》い難く、「それは不可《いけ》ませんね。御大切《おだいじ》になさいまし。しかし大抵なら御待ち申しますから……」  言葉を残して綾子は静々、「御帰《おかえり》ッ。」と書生が通ずれば、供待《ともまち》の車夫、踞《つくぼ》うて直す駒下駄を、爪先に引懸《ひっか》けつ、ぞろりと褄《つま》を上げて車に乗るを、物蔭より婢《おはした》が覗《のぞ》きて、「いつ見ても水が垂るようだ。」  この腕車《くるま》勢《いきおい》好《よ》く我善坊を通る時、出合頭《であいがしら》に横小路より異様なる行列|練出《ねりい》でたり。  朽葉色《くちばいろ》に垢《あか》附きて、見るも忌わしき白木綿の婦人《おんな》の布を、篠竹《しのだけ》の頭《さき》に結べる旗に、(厄病神)と書きたるを、北風に煽《あお》らせ、意気揚々として真先《まっさき》に歩むは、三十五六の大年増《おおどしま》、当歳の児《こ》を斜《ななめ》に負うて、衣紋《えもん》背の半《なかば》に抜け、帯は毒々しき乳《ち》の上に捩上《よれあが》りて膏切《あぶらぎ》ったる煤色《すすいろ》の肩露出せり。顔色青き白雲天窓《しらくもあたま》の膨脹《ふく》だみて、頸《えり》は肩に滅入込《めいりこ》み、手足は芋殻《いもがら》のごとき七八歳《ななつやつ》の餓鬼を連れたり。次に七十二三の老婆、世に消残る頭《かしら》の雪の泥塗《どろまみれ》にならんとするまで、太《いた》く腰の曲りたるは、杖の長《たけ》の一尺なるにて知れかし。這《は》うがごとくに、よぼよぼ。続くは十五六の女、蒼面《そうめん》、乱髪、帯も〆《し》めず、衣服も着けず、素肌に古毛布《ふるげっと》を引絡《ひきまと》いて、破れたる穴の中よりにょッきと天窓を出だせるのみ、歩を移せば脛股《けいこ》すなわち出ず、警吏もしその失体を詰責《きっせき》せんか、我は貧民と答えて可なり。  その他肥えたる豕《いのこ》あり、喪家《そうか》の犬の痩《や》せたるあり。毛虫、芋虫、蛆《うじ》、百足《むかで》、続々として長蛇のごとし。  中陣には音楽家あり。破三味線《やぶれざみせん》、盲目《めしい》の琴、南無妙《なむみょう》太鼓、四ツ竹などを、叩立て、掻鳴《かきなら》して、奇異なる雑音遠くに達《いた》る。  棍棒《こんぼう》を取れる屠犬児《いぬころし》、籠を担える屑屋、いずれも究竟《くっきょう》の漢《おのこ》、隊の左右に翼たり。  また先刻《さき》に便所より顕《あらわ》れしお丹といえる女乞食、今この処に殿《しんがり》せり。  総勢数えて三十余人、草履あるいは跣足《はだし》にて、砂を蹴立て、埃《ほこり》を浴び、一団の紅塵《こうじん》瞑朦《めいもう》たるに乗じて、疾鬼《しっき》横行の観あり。  綾子は袖にて顔を蔽《おお》いぬ。  車夫は飛ぶがごとくに馳《は》す。  咄嗟《とっさ》にお丹乞食は、一種異様の光を帯びたる眼をもて屹《きっ》と見送り、「あの邸《やしき》さ。」と綾子を指《ゆびさ》して、「秀坊を入れとく内は。」傍《かたわら》の者に囁《ささや》きぬ。  一列の疫病神は、天を畏《おそ》れず地を憚《はばか》らず、ましてや人に恥ずる色無く、おもむろに大道筋を練って通り、芝――町なる六六館の門前に到《いた》れる時、殿《しんがり》なせるお丹乞食、「ここだよ――ここだよ。」  声の下、鳴物の音を静めて、常山の蛇《くちなわ》まず鎌首を侵入せり。  門衛|遽《あわただ》しく遮って、「こらこら、ここは寺院《てら》じゃないぞ。今日|葬式《とむらい》のあるなあ一町ばかり西の方だ。」  と早口に罵《ののし》れば、旗を持てる先達《せんだつ》の女房、両足を広げてずいと立ち、 「うんにゃよ、葬礼饗応《とむらいぶるまい》を貰いに来やしねえ。こちとらこう見えてもね、乞食じゃねえのス、ちと買物をしべえから御通しなさいやし。」と妙な言草。門番呆れて、「汝等《きさまら》何が買えるもんか。干葉《ひば》や豆府の滓《から》を売りやしまいし、面桶《めんつう》提げて残飯屋へ行《ゆ》くが可《い》い、馬鹿め。」  女房|聞咎《ききとが》めて、「何だとえ、馬鹿にしなんな。これでも米を食う虫一疋だ。兵隊屋敷の洗流《あらいながし》にもしろさ。憚《はばか》りながら御亭主は鉄道馬車の馬糞《まぐそ》を浚《さら》いやす、強《きつ》い掙人《かせぎにん》さね。門番の癖に生意気な、干葉を売らぬもよく出来た。糸爪野郎《へちまやろう》。」と一通《ひととおり》の婦人《おんな》には真似てもみられぬ色気無しの悪口雑言。 「ブッ失敬な奴だ。」と眼《まなこ》を瞋《いか》らし、「たって入りたくば切符を買え、切符を。一枚五十銭だぞ、汝等《うぬら》に買える理窟は無いわい。」と怒鳴る。  老婆これを聞きて、よぼよぼと進出《すすみい》で、「いえもし二分が一分でも無銭《ただ》で遣《や》ろうとおっしゃりましても切符は真平《まっぴら》でござるよ。聞いて下さいやしこうじゃわいな、お前さん、過日《いつか》切通《きりどおし》の枳殻寺《からたちでら》で施米があると云うから、この足で、鮫《さめ》ヶ橋から湯島|下《くんだ》りまで、お前様《まえさん》、小半日|懸《かか》って行ったと思わっしゃれ、そうすると切符を渡して、なお前様、明日《あした》来い、米と引替えるというではござらぬか。何がお前様、翌《あす》が日のことを構うていられるようなこちとらではござらぬじゃて。腹が立つまいことか、御察しなされませ。内に寝ていてさえ空腹《ひだる》うてならぬ処へなまなか[#「なまなか」に傍点]遠路《とおみち》を歩行《ある》いたりゃ、腰は疼《いた》む、呼吸《いき》は切れる、腹は空《へ》る、精は尽きる、な、お前様、ほんにほんに九死一生で戻りやしたよ。老人《としより》の謂《い》うことと牛の尻の何とやらは外れぬげな、これからも有ることじゃで、忘れてもああいうことはなされますな。明日一両下さるより今の一厘半《ぶんきゅう》が難有《ありがた》い儀にござる。ほんのことさ、お前様、なろうならば米よりは御飯《おまんま》を下さいやし、御飯よりはまた老人《としより》にはお粥《かゆ》が好《よ》うござる。何のこれ、嘘は申しませぬ。有りようの処は初鰹《はつがつお》を戴いてから煮て食うわけには参りませぬじゃ。実《まこと》にはや因果でござる。はいはい南無阿弥陀仏《なむあみだぶつ》。」と長談議、何を云うやら他愛《たわい》無し。  門衛の持余《もてあま》すを見て、微笑《えみ》を含みたるお丹乞食、杖をもって門の柱を、とん。「同宿、構わずに、しけ込めしけ込め。」 「うむ、合点《がってん》だ。」  急先鋒《きゅうせんぽう》の屠犬児、玄関へ乱入する、前面を立塞《たちふさ》ぎて喰留むるは護衛の門番、「退《すさ》れ、推参な!」というをも聞かず、無二無三に推込《おしこ》めば、 「ええ、此奴《こいつ》等。」と拳《こぶし》を揮う。 「ちょっ、面倒だ。」と衝《つ》と寄りて、門番の両手を扼《とりしば》るは、昔関口流皆伝の柔術家《やわらとり》、今零落して屠犬児、弥陀平《みだへい》というは世を忍ぶ仮の名にて、本名あるべき親仁《おやじ》なり。  捉《とら》うる処法に合《かな》えば、門番は立竦《たちすくみ》になりて痛疼《いた》さに堪《たま》らず、「暴徒が起った。大《た》……大……大変、これ、一大事じゃ、来てくれい。」  と血声を揚ぐるに、何事ならんと二三人靴音高く馳出《はせい》でつ、この体《てい》を見て、それと組附く。  三人|懸《がかり》を悠々とあしらいながら、「ここ構わずに、ソレ入った入った。」  商品陳列場の通路には、はや毛虫ども、うようよぞろぞろ。手分して一区ごとに三人ぐらいずらりと行渡る。  お丹乞食は左右を見廻し「もう可《よ》かろう。」というを合図に、  万口《ばんこう》一声、「ああ空腹《ひだる》い。」  かくして後《のち》、思い思いに敵を見立てて渡合う。例の口汚《くちぎたな》の女房は、若手の令嬢組の店頭《みせさき》に押立《おった》ち、口中|得《え》ならぬ臭気《におい》を吐きて、 「姉《ねえ》や、何でも可いから早く呉んねえ。見さる通り子持だによって、そのつもりでの、頭数三人前。」と天外より来《きた》る分らぬ言分。  令嬢等呆れ果てて顔見合せ、唖然として言葉無し。 「はて、返事が無《ね》えの、可《よ》し可し。」と籃《かご》に籠《も》りたる菓子を掴《つま》めば、堪《こら》えかねて、 「お前何をする失礼な。」と極附《きめつ》けたまうを鼻ではじき、「ふむ、どうもしやあしねえ、下さるものを頂きますのさ。慈善会とやら何とやらといって、御慈悲の会じゃげな。御辞儀無しに貰おうという腹さ、空腹《ひもじ》い腹だね。はははは。」と高笑《たかわらい》、「そこでお撮《つま》で召食《めしあが》る、む、これは旨《うめ》え。」と舌鼓、「餓鬼|泣《ほ》えめえよ。」と小児《こども》にも与えて散々に喰散らす、怪《け》しからぬことなり。  令嬢方は背後《うしろ》を向き、何かひそひそ囁《ささや》きしが、店を棄置き、姿を隠せり。  屑屋はまた貴婦人を捕えて罵詈讒謗《ばりざんぼう》、「あ、あ良《い》い匂《におい》だ咽返《むせかえ》るようだ。」と鼻を突出してうそうそと嗅《か》ぎ、「へん、咽《むせ》も返るが呆れも返らあ、阿蘭陀《オランダ》の金魚じゃねえが、香水の中で泳いでやあがる。や、また塗った塗った、その顔は何だい、まるで白粉《おしろい》で鋳出したようだ。厚きこと土蔵《くら》の壁に似たりよ、何の真似だろう、火に熱《や》けぬというお呪詛《まじない》かも知れねえ。」  と正面よりお顔を凝視《みつ》めて、我良苦多《がらくた》の棚下《たなおろし》。貴婦人は恥じ且つ憤りて、頭《こうべ》を低《た》れて無念がれば、鼻の先へ指を出して、不作法千万。 「なあ、おかみ様《さん》、その面の皮|一枚《いちめえ》引《ひん》めくる方が、慈善会よりよっぽど良《い》い慈善《ほどこし》になるぜ。こちとらの大家|様《さん》が高い家賃を取上げて適《たまさか》に一杯飲ます、こりゃ何も仁《なさけ》じゃねえ、いわば口塞《くちふさぎ》の賄賂《まいない》さ、怨《うらみ》を聞くまいための猿轡《さるぐつわ》だ。それよりは家賃を廉《やす》くして私等《わっちら》が自力で一杯も飲めるようにしてくれた方がほんのこと難有《ありがて》えや。へこへこ御辞儀をして物を貰うなあちっとも嬉《うれし》くねえてね。そしてまた無暗《むやみ》に施行《ほどこし》々々といいなさるが、ありゃお前《めえ》、人を乞食扱にするのだ。  目下の者を憐《あわれ》むんじゃなくって軽蔑《けいべつ》するのだ。トまず謂《い》ってみたものさ。お前様方《めえさんがた》が人中で面《つら》を曝《さら》して、こんな会をしなさるのは、ああ、あの夫人《おくさん》は情《なさけ》深い感心な御方だと人に謂われたいからであろう。  その時は、誰か頂くものがなければなるまい。してみると貰うて進ぜる方がまだお前達《めえたち》の面《かお》を好《よ》くして、名を売ってやる恩人だ。勘定すれば一銭も差引無し、こちとらは鰹節で、お前様方が旨《うめ》え汁を吸うといったようなものだ。  そこでそれ、お前達が人に誉《ほ》められるために私等《わっちら》に税金をお出しなされる。今日はそれを取上げに来やした。志《こころ》ありだけ寄来《よこ》さっせえ。」と大声に喚立《わめきた》つれば、ここの夫人も辟易《へきえき》して、休息所へふいと立つ時、 「おっ、臭《くせ》え、ふわふわ湯具を蹴出すない。」と鼻を掴《つま》みて舌を吐きぬ。  ちょいと雛形《みほん》がこんなもの。三十余人の貧民等、暴言を並べ、気焔《きえん》を吐き、嵐、凩《こがらし》、一斉《いっとき》に哄《どっ》と荒れて吹捲《ふきま》くれば、花も、もみじも、ちりぢりばらばら。  興を覚まして客は遁出《にげだ》し、貴婦人方は持余して、皆休息所に一縮《ひとちぢみ》。  貧民城を乗取《のっと》りて、 「さあ、これからだよ。売溜《うりだめ》の金子《かね》はいくらあろうと鐚一銭《びたいちもん》でも手出《てだし》をしめえぜ。金子で買って凌《しの》ぐような優長な次第《わけ》ではないから、餓《かつ》えてるものは何でも食いな。寒い手合は、そこらにある切《きれ》でも襯衣《しゃつ》でも構わず貰え。」とお丹の下知《げじ》に、狼《おおかみ》は衣《ころも》を纏《まと》い、狐《きつね》は啖《くら》い、狸《たぬき》は飲み、梟《ふくろう》謡えば、烏は躍り、百足《むかで》、蛇《くちなわ》、畳を這い、鼬《いたち》、鼯鼠《むささび》廊下を走り、縦横|交馳《こうち》、乱暴|狼藉《ろうぜき》、あわれ六六館の楼上は魑魅魍魎《ちみもうりょう》に横奪《おうだつ》されて、荒唐|蕪涼《ぶりょう》を極めたり。  この時|最寄《もより》の交番より巡査|真黒《まっくろ》になりて駈附《かけつ》けつ、暴行を制せんとすれば、お丹先んじて声を懸け、 「おい、皆《みんな》静まった。」  一同直ちに粛然とせり。  巡査は気を抜かれていささか手持不沙汰、今更|疾呼《しっこ》しても張合無ければ、少々|声音《こわね》に加減をして、 「汝等《きさまら》、ここをどこだと思ってる。」  お丹|衝《つ》と進みて、「はい芝区――町、六六館。」 「そないなことは謂わずとも知っちょるわい。」 「でも御訊《おき》き遊ばしたからさ。」  巡査は頬を膨らして、「黙れ。場所柄も弁別《わきま》えず乱暴をいたしおる。棄置かれぬ奴等だ。華族方の尊威を汚《けが》すのみならず、恣《ほしいまま》にここの売物を啖《くら》いよったは盗人《どろぼう》だぞ。」  と睨付《ねめつ》くれば、火事はどこだという顔色《かおつき》。 「へい、さようかね。」と頓興声《とんきょうごえ》。 「さようかねとは何だ。」「でも貰って食べたんですわ。」 「誰が汝等《きさまら》に遣るというもんか。」お丹真顔になりて、「だがね、皆《みんな》で頂戴いたしますというと黙ってどこかへお隠れなすったから可《い》いのだろうと思いまして……」  巡査はじれ込み、「一体全体ここをどこだと思っちょるんだ。」「くどいねえ、芝区――町、六六館です。」  巡査弱って、「こりゃ、無茶だ。」「何でございますと。」「考えてみい、世が世なら、汝《きさま》達が拝むと即座に眼が潰《つぶ》れるような御夫人方だ、何だって汚らわしい乞食風情に御言語《おことば》を下さるものか。」  お丹は感じ入りたる状《さま》して、「さようでしたかい、さようとは存じませず、まあ。飛んだことをいたしました。つい一言《ひとこと》ならぬとおっしゃれば可いのにさ。ねえ、旦那。しかし出来たことなら詮方《しかた》がございません。」 「仕方がないって済まされんぞ。それにこの会は何も汝等《きさまら》に施行《ほどこし》をするんじゃない、収入額《あがりだか》は育児院へ寄附に相成るのだ。」 「だって物事はそう規則通りには参りません、旦那、医者を御覧なさいな。急病人の方へは先に駈附けるじゃございませんか。育児院は、ナニ、養生をしてるので、私等《わたしども》は九死一生、餓死《うえじに》、凍死《こごえじに》をしようとする大病人、ちょいとそれ繰廻《くりまわし》を附けて下すっても可《よ》かろうと思いましてね。」と手前勝手の一理窟。 「そんならなぜそのように神妙に御慈悲を願わない。」 「はい、貧乏人に式作法はございません。」 「汝《うぬ》、言いたい三昧《ざんまい》なことをいやあがる。何《なん》しろ家宅侵入だ。処分するぞ。」  といってみたものなり。これだけの人数を食客《いそうろう》に背負込《しょいこ》みては警察|大難儀《おおなんぎ》。  お丹|片頬《かたほ》に微笑《えみ》を含み、「じゃあ御拘引《おつれ》下さいますかね。」巡査少し慌てて、「どこへ。」「はてさ、御役所へ。」「何い。」と眼《まなこ》を睜《みは》れば、お丹笑い出し、「実はね、宿六滅法不景気で、山の神や、小児連中《こどもれんじゅう》、顎《あご》が干上るもんですから、多時《しばらく》お扶持《ふち》を頂いて来いって、こんなに申しますので、お言語《ことば》は渡《わたり》に舟、願ったり叶《かな》ったりでございます。」 「何もたって拘引《こういん》するとは言わん。」 「いいえ、御遠慮には及びません、どうぞお拘引《つれ》なすって。」  警官は持余しぬ。さりとて不問にも帰し難ければ、「ともかくも戸外《おもて》へ出ろ。」と数珠形《じゅずなり》に引立てて戸外へ出ずれば、今まで荒れに荒れた屠犬児、神妙に畏《かしこま》りて、「へいへい私《わたくし》も御一所に。」  護送されたる一列の貧民は、果報|拙《つたな》くして御扶持を頂くことを得ざりき。渠等《かれら》は青山の僻地《へきち》なる権田原《ごんだわら》にて放鳥《はなしどり》となりぬ。「はいさようなら。」と巡査に別れて、お丹は一同とともに直ぐ目の下なる鮫《さめ》ヶ橋の塒《ねぐら》に帰れり。  午後四時頃、麹町永田町なる深川夫人の邸《やしき》の庭へ、垣より潜入《くぐりい》りたる茶褐色の犬あり。 「おや、どこから来たのだろう。」  と呟《つぶや》きつつ縁側に出《い》でたるは、年紀《とし》の頃十六七、色白の丸ぽちゃにて可愛らしき女《むすめ》、髪は結立《ゆいたて》の銀杏返《いちょうがえし》、綿銘仙の綿入を着て唐縮緬《とうちりめん》の帯御太鼓|結《むすび》、小間使といふ風なり。名を秀《ひで》という、どこかで聞いたことのあるような。 「奥様御覧遊ばせ、お松どんちょいとお出《いで》よ。三太夫|様《さん》、吉造|様《さん》。」  と珍しからぬ一匹の犬に、夫人をはじめ、朋輩《ほうばい》の女中、御家老より車夫に到るまで、家族のありたけ呼立てしが、返事をするもの一人も無し。  理《ゆえ》あるかな、今宵は館《やかた》に来客ありとて、饗応《もてなし》の支度、拭掃除《ふきそうじ》、あるいは室の装飾に、いずれも忙殺されつつあり。 「ああ、誰も……」と前後を見廻し、屹《きっ》と頷《うなず》き、帯の間に秘持《かくしも》てる紙片《かみきれ》を取出だしつ、くるくると紙捻《こより》にして、また左右に眼を配り、人のあらぬを見定めて。 「じゃむこう。」うわっ。 「おいで、おいで。」と手招きすれば、先より気色を窺《うかが》いたる、(じゃむこう)衝《つ》と来たる。頭《こうべ》を撫で、かの紙片を首環《くびわ》に結附《ゆいつ》け、指にてぐいと押込むとたんに、後架《かわや》の戸ぱたりと開く。見返れば綾子夫人、「秀、何をしている。」  秀はおどおど、「はい、何、あの……まあ、ちょいと御覧遊ばせ、飛んだ良い犬でございますねえ。飼われているのかして綺麗ですよ。上手にちんちんを致します、それそれ。あら、御廻《おまわり》も旨《うま》いこと、ほほほほ。」とわざとらしく笑い、「おやおや、犬に夢中になってサ、まあどうも飛んだ失礼、ただいま御手水《おちょうず》を差上げます。」  あたふた飛んで来て柄杓《ひしゃく》を取れば、両手を出して濯《ゆす》ぎながら、跪坐《ついい》る秀をじっと御覧じ、「秀。」屹としたる御召に、少し顔の色を変えて「はい……い。」綾子は声に力を籠《こ》めて、「お謂《い》いでないよ。」語は一句、無量の意味を含めたり。  小間使は情を解せず、返事に行詰《ゆきつま》りて無言なり。 「お謂《いい》でないよ。」と繰返して、「今に御客も来るし、今朝のね、彼の件[#「彼の件」に傍点]はきっと謂わないだろうね。」と幾多の危懼《きぐ》、憂慮を包める声音《こわね》、==お謂でないよ==は符牒《ふちょう》のようなり。ただ秘密あれば従って符牒あり。彼とこれとは背と腹のごとし。両々相待ちて(彼の件[#「彼の件」に傍点])という物体となる。(なぞと拈《ひね》る奴さ)  ==今朝のね、彼《あ》の件《こと》==というに到りて、小間使は直ちに呑込み、「何の奥様、誰が饒舌《しゃべり》ますもんですか。」「ああ、そうだろうとは思うけれども、きっとかえ。」  秀は誓うがごとく、「はい、きっと。」 「きっとだよ。」御念の入ること夥《おびただ》し。  夫人が態度の厳粛なりしは、犬の手品を見附けたる故にはあらで、「きっと。」をいわんとて、屹《きっ》とせるなりと、小間使は観察しつ。ほっと一呼吸《ひといき》、汗を入れぬ。心の内で、「まず可《よ》かった。」「あら、口笛の音《ね》がするよ。」と綾子は耳を欹《そばた》てたり、戸外《そと》にて喨々《りょうりょう》と二声三声、犬は疾風のごとく駈出だして、「変だ。」と思うまに見えずなりぬ。 「秀。」  小間使はまたギクリ。 「飼主が戸外《おもて》に居たと見えるよ、犬を内へ入れたのは何だか気懸《きがかり》ではないかい。」「はい、気味が悪うございますねえ。」 「皆《みんな》にそう申して夜分は気を着けるが可《よ》い。」「三太夫|様《さん》に申しましょう。」  おや、風説《うわさ》をすれば、三太夫、罷出《まかりい》でて、「はッ番町の姫様《ひいさま》、御入来《おんいり》にござりまする。」  先登《せんとう》第一は小浜照子、在原夫人その後より、追次取次来る客は皆慈善会にて見たりし顔なり。蓋《けだ》し今宵の集会は、前日の慰労と兼て将来の方向を談ぜんため。  なおかつ今度は貧民に容易ならざる汚辱を蒙《こうむ》り、大《おおい》に貴婦人社会の体面を傷《きずつ》けたれば、この際|屹《きっ》と決心する処なかるべからずと、綾子が檄《げき》を飛ばせるなりき。 「大分|賑《にぎやか》じゃの。」  と唐突《だしぬけ》に襖《ふすま》を開け、貴婦人、令嬢、列席の大一座、燈火の光、衣服の文《あや》、光彩|燦爛《さんらん》たる中へ、着流《きながし》に白縮緬《しろちりめん》のへこおびという無雑作なる扮装《いでたち》にて、目まじろきもせで悠然《ゆらり》と通る、白髪天窓《しらがあたま》の老紳士、これは御前《ごぜん》と一同が座を譲るこそ道理なれ。裏の木戸口を隔《へだて》にて、庭続の隣家の殿、かつて政事をも預りしが行年ここに五十六、我|老《おい》たりと冠《かん》を挂《か》けて幕の裡《うち》に潜《ひそ》みたまえど、時々黒頭巾出没して、国五郎という身で人形を使わせらる。下座語《げざがたり》の懐へ、どろんと消え、ひょいと出る、早替《はやがわり》の達人と、浮世床にて風説《うわさ》の高き、正三位《しょうさんみ》勲《くん》何等、大木戸伯爵と申すはこれなり。  綾子が夫、在世のみぎりは伯のために無二の忠臣なりければ、それが死去せし後《のち》も未亡人《びぼうじん》に目を懸けたまい、深川家一切の後見をせり。  ごく気の軽《かろ》き御前にて、案内も請《こ》わで御意のまま木戸口より御入《おんいり》ある。 「あ、いずれもそのままそのまま。」と避けんとする者を手もて制し、好《よ》き処に座を占めて、「これが勝手じゃ構わずと大事ない。私《わし》が来たからとてそう改まっては不可《いかん》じゃ。このとおり寝衣《ねまき》のままじゃがの、実はもう寝ようと思いおった処、若い人の声が聞えるもんじゃで、急に浮世が恋しゅうなっての、とうとう娑婆《しゃば》へ出て参った。」と呵々《かか》と笑い、葉巻をはたきてまた咬《くわ》え、「さて、何か、家《うち》の御主人から聞けば慈善会へ毛虫が集《たか》ったそうじゃな。いや、定めし御困りじゃったろ。怪《け》しからん、また毎晩新聞で悪口《あっこう》を申したってな、悪い奴らじゃ。」  と烟草《たばこ》を差置き、唇を両三度|手巾《ハンケチ》にて押拭《おしぬぐ》い、その手をすぐに返して髯《ひげ》を扱《しご》く。  年紀《とし》は孫ほどの照子、強請《ねだ》るがごとき口吻《くちぶり》にて、 「御前、どうか遊ばして下さいよ。私等《わたくしども》は口惜《くやし》くて口惜くて仕様が無いの、ああいう乱暴な貧民は何人あろうと、一人々々ふん縛《じば》るわけには参りませんか。」 「不可《いけ》ません、そういたすとまた新聞で散々悪体を申すだろうじゃございませんか。」とは在原夫人、御自分|経験《おぼえ》があればなり。 「新聞が邪魔になるのは私等《わしら》に限らぬと見える。御夫人方にも目の瘤《こぶ》じゃの。面倒なら停止をさそうか。」「そういたして頂きましょうか、ねえ。貴女《あなた》。」と在原夫人左右に問えば、「そうね、それが可《よ》うございましょう。」とのこらず同感。 「いいえ、悪うございましょう。」と綾子一|人《にん》異議を唱えて、 「それでは、非《あら》を蔽《おお》うのです、それにあの新聞も、在原の夫人《おくさん》が屠犬児《いぬころし》に御恵みなすったことなどは、大層|誉《ほ》めたではございませんか。今停止をさせたでは卑怯《ひきょう》に当りますよ。」 「さようじゃの。」  と伯爵は頷《うなず》きたまえり。 「仕様がありませんね、どういたしましょう。」「こうしてはどうです。」「それも不可《いけ》ません。」「やはり仕様がありません。」などと小田原|評定《ひょうじょう》果し無し。  伯爵は懊悩《うるさ》がり、「そんなに急《あせ》らんでもまあ可《え》えわい。心配なさるな、どうにかなる。時に、才子は今夜来ていないかの。」綾子「百田様《ももたさん》?」伯は「うう」「は、参っております。」「どこへ行った。」とありける時、 「御前いらっしゃいまし。」と敷居|越《ごし》に一礼する二十四五の好男子、伯爵|太《いた》く渠《かれ》を愛して才子々々と召たまう。実の名は時次郎といえり。深川家とは親類|交際《つきあい》、しばしば出入して家人のごとし。これこの家の後見が、渠《かれ》を挙《あげ》て綾子の世継とせんずる内意あるによる。  今宵も席の周旋に来《きた》りいるなり。 「さ、ここへ入れ。」と傍《かたわら》に座を給《たま》い、「婦人方の席へ我《おれ》一人孤城落日という処じゃ。や、何方《どなた》も沸切《にえき》らぬ堅い談話《はなし》はまたの日するとして面白く談話《はな》そうではないか。なあ。」と見返れば、「それが可《よ》うございましょう。」時次郎は御意次第。  照子は一番に大賛成、「御前また戦《いくさ》の談話を遊ばせな。あの貴下《あなた》が命からがらで御遁《おに》げ遊ばす処が一番|愉快《おもしろ》い。」  伯爵は苦笑《にがわらい》。「うふふふ、我《わし》を如燕《じょえん》になさる。そういうことをいわるると恐怖《おっかな》い談話をするぞ、怪談を。」と仰《おお》する折しも、庭にて犬の鳴く声|頻《しきり》なり。 「夫人《おくさん》、大層|吼《ほ》えおるな。」  とさすがは後見気を着けたまえば、 「は、先刻《さっき》怪訝《おかし》な……犬が入りました。」 「ちょっと、私《わたくし》が……あの見て参じます。」と茶の道に侍《さぶろ》うたる小間使の秀、御次へスルリ、辷出《すべりい》でて東の縁の雨戸一枚外して取るや否や、わんと飛付くを、叱《しっ》――叱りながら、ちょいと妙な手附をして、帰天斎手品の早業《はやわざ》「じゃむこう、御苦労だね。」とごく小声。犬は一散に引返《ひっかえ》して、垣を潜《くぐ》りて出でたる外には、提灯《ちょうちん》提げて彳《たたず》む女。 「見せな。」と渠を引寄せて頸環《くびわ》に結べる紙片《かみきれ》を取り、灯影《ほかげ》に透かして、読めば曰《いわく》、 [#4字下げ]小田原評定に過ぎず候 「可《よ》し。」と呟《つぶや》きて提灯ふっと消し、「これは可《い》いとして、お秀の身に、もしひょっと……ああ、気に懸《かか》る。」  と垣に寄添い、うっかりとする背後《うしろ》に靴音、はっと見返る眼の前《さき》へ、紅燈一|閃《せん》、衝《つ》と立つは、護衛のために見巡る巡査。  婦人《おんな》はちょいと小腰を屈《かが》め、「旦那、四谷へはどう参ります。」 [#ここから4字下げ] じゃむこうに御託《おことづけ》の昼間の書信|慥《たしか》に落手いたし候、好材料に候えども、お前様身に取りては極めて危険なものを見られ候。いかなる難儀あらむも計り難く候あいだ、屹度《きっと》御用心なさるべく候。(彼の件[#「彼の件」に傍点])を見届け候以上は此《こ》の家に最早用は無之《これなく》且つ居ては御身《おんみ》危《あやう》く候まま、明日にも暇《ひま》をお取りなさるべく候―― [#ここで字下げ終わり]  細字《さいじ》をもって認《したた》めたる警戒は、此方《こなた》より「小田原評定|云々《うんぬん》。」と記しやりたる書信を引換《ひきかえ》に、「じゃむこう」の首輪を経て小間使秀の手中に落ちたり。廊下人無き処にて秀は読過一遍、「ああ、そうだ。おお、恐怖《こわ》いことね。早速お暇を頂こう。ちょうど可い久濶《ひさしぶり》で祖母様《おばあさん》の顔も見られる。」  紙片《かみきれ》は寸断し去って袂《たもと》に葬り、勝手|許《もと》に退《さが》らんと歩み来《きた》る、片隅の闇中《くらがり》より、黒きもの、ぬっと出《い》づ。お秀「きゃっ!」と飛退《とびすさ》れば、とんきょう声で「ばあっ。」と驚かす。善《よ》からぬ洒落《しゃれ》なり。  小間使は腹を立て、「誰だい、ひと、愉快《おもしろ》くもない、お巫山戯《ふざけ》でないよ。」と叱言《こごと》を謂《い》う。 「そんなに怒りたまうな。僕だ、僕だ。」と傍《そば》に寄るは百田なり。「おや、貴下《あなた》ですね。」とお秀は俯向《うつむ》き、思えらく、「そんなら怒るのではなかったっけ。」什麼生《そもさん》この心中は、――少しあのナンと知るべし。時次郎は馴《な》れ馴れしく、「堪忍おしよ。驚いたろう可哀そうに。」「は、い。」とただ逆気《のぼせ》る。 「あのね、お前にね。」と突然お秀の袂を捕えて、ちょいと小あたりにあたって見れば、小間使はもう真赤《まっか》、こいつものになると、時次郎は声を密《ひそ》め、「内証で相談がある。まあ、ちょいとちょいと。」曳《ひ》かるる袖を払わんとはせで、「御串戯《ごじょうだん》を。」と口の内、夢路を辿《たど》りて小蔭の暗闇《くらがり》。時次郎はひたと寄添い、 「すこしお依頼《たのみ》がある。肯《き》いてくれないか。」お秀は虫の音《ね》「どういたしまして。」 「肯《き》くかい。」「いいえ。」「ン、じゃ嫌か。」「どうですか。」と四辺《あたり》を見る。「悪く初心ぶるな、もう知ってる癖に。」「あら、存じませんよ。」と手をもじもじ。  生殺与奪の権は我が掌中にあり、時次郎時分は可《よ》しと、「何むずかしいことは無いのさ。こうすればそれで可い。」とやにわに帯に手を懸くれば、わなわな震えて、「あれ。」と竦《すく》む。「おっと驚くべからず、この男色気無しだ。秀|様《さん》実はね、大木戸の御前が例の串戯《じょうだん》に妖怪談話《ばけものばなし》をお始めなすって、もとこの邸は旗本の居た所で、癇癪持《かんしゃくもち》の殿様がお妾《めかけ》を殺したっさ、久しいものだがその妄念が残っていて、今でも廊下へ幽霊が出ると謂って、婦人方を恐怖《こわ》がらせた奴よ。黙って聞いていれば何事も無かったのに、照子|様《さん》が、それ御存じの知ったかぶりだ。(御前、そんなことがあるもんですか、科学上から)ナンノッテ滅茶々々に打破《ぶっこわ》したもんだ。すると御前も負けぬ気で、(それでは幽霊の出るという邸の廊下のはずれまで貴嬢《あなた》一人で行って来ることが出来ますか)(何時《なんどき》でも)というので、ね、秀様、今に番町のがここへ行《や》って来るのさ。あんまり生意気だから一番《ひとつ》威《おど》してやろうと思って、私があすこに隠れていたがね、男がやると差合《さしあい》だ、ちょうど可いからお前に頼む、ね、幽霊にならないか。愉快《おもしろ》いよ。」  と口説くように言含むる、あのナンノが依頼《たのみ》なれば、秀は嬉しき思入れ、「しかし可《よ》うございますかね。悪戯《いたずら》をいたしても。」「構うもんか、内の夫人《おくさん》も御隣のも呑込んでお在《いで》なさるるから可い、そこで帯をお解きといったんだ。そのままじゃあ落《おち》が来ないよ。そうして思切って髪も毀《こわ》しな。」「まア髪を。」お秀は鬢《びん》を圧《おさ》えて顰《ひそ》みぬ。「今度結う時は島田にするさ、その方がうつりが可い。」「何とでもおっしゃいまし。」「それとも丸髷に結わしてみようか。」「もう、よござんす。」とむっとする。「おやまた怒ったか、笑ってくれ、拝む。拝む、おっと笑った、さてさて御機嫌が取悪《とりにく》いぞ。またもや御意の変らぬうちだ。」と抱竦《だきすく》めて元結《もとゆい》ふッつり。 「あれ、不可《いけ》ませんよう。」「可いてことさ。」せりあううちに後毛《おくれげ》はらはら、さっと心も乱髪《みだれがみ》、身に振かかる禍《まがつび》のありともあわれ白露や、無分別なるものすなわちこれなり。  お秀はただほっとして「あら、嫌否《いや》、私はもうどうしょうねえ。」と身を悶《もだ》ゆる間《ま》に帯解けて、衣服《きもの》も脱がされ、襦袢《じゅばん》一つ、してやったりと躍る胸を、時次郎は色にも見せず、「寒いか、埋合《うめあわせ》はきっとなあ。」「はい。」と震える。背《せな》を叩きて、「風邪を感《ひく》な。」  杉戸|遣戸《やりど》の隙間より凩《こがらし》漏れて冷《ひやや》かに、燈籠の灯影《ほかげ》明滅して、拭磨《ふきみが》かれたる板敷は、白く、青き、光を放てり。  奥座敷にて多人数が笑語の声の断続して柱に響くも物寂《ものさ》びぬ。  廊下に長く揺曳《ようえい》せる婦人の影は朦朧《もうろう》として描ける幽霊に髣髴《さもに》たり。  忽爾《こつじ》跫然《きょうぜん》として廊下の端に、殺気を帯びて、人影|露《あらわ》る、近づくを見れば小浜照子。影を隠して秀は潜《ひそ》みぬ。  既にして間近に来《きた》れり、あたかもこの時|四隣《しりん》寂寞《せきばく》気結《きけつ》沈声《ちんせい》、陰々として、天井黒く壁白し。  照子は屹《きっ》と眼を注ぎぬ。  異様の姿、するりと出づ。  きゃっ……と一声、あっ……と一声、続いて起る金切声、「来て下さい来て下さい。」  呼ぶ時遅し五六人、今の二人の魂消《たまぎ》りしに何事ならんと駈附けつ、真先《まっさき》なるは時次郎、「照子様、どうなさいました、幽霊が出ましたかね。」と笑いながらふとむこうを見て、「や……妙なものが僵《たお》れている。何だ。やはり人らしい。しかも女だ。誰だろう。」  肩と鳩尾《みずおち》に手を懸けて後抱《うろろだき》[#ルビの「うろろだき」はママ]に引起す、腕を伝うて生暖《なまぬる》きもの、たらたらたら。「ええ」と引込《ひっこ》め臭《におい》を嗅《か》ぎ、「腥《なまぐさ》いな。」と呟《つぶや》く時、綾子は引摺《ひきず》りたる小袖の裳《もすそ》、濡れて、冷く、脛《はぎ》に触るるに、「あれ、気味の悪い。」と撮《つま》み上げ、裾裏《すそうら》を返して見て、  かれこれ同時に、「血、血、血!……」 「血」「血」「血」と貴婦人方は鸚鵡返《おうむがえ》し、皆五六尺|飛退《とびすさ》る。  時次郎は熟《とっく》と検《けん》し、「うむ、心臓《むね》に小刀《ナイフ》が。……」言懸けて照子を視《み》れば、眦《まなじり》釣って顔色|蒼《あお》く、唇は戦《わなな》けり。召したる薄色の羽織の片袖|血潵《ちしぶき》を浴びて紅《くれない》の雫《しずく》滴る。 「モシ照子様。」と突く真似をして「お殺《や》んなすったね。」と時次はいう。  照子は心気|昂進《こうしん》して、あえてものをも言わざりし。この時ようやく、太き呼吸《いき》、「ああ、幽霊。」と投出すようなり。 「幽霊。……」と時次郎は呟き、「なるほど幽霊と見える、怪《け》しからん風体です。夫人《おくさま》、燈火《あかり》をずっと、はい、宜《よろ》しい。おや、御邸の。」  綾子も覗《のぞ》きて、「秀だよ。」と只呆《ひたあきれ》。 「どうしてこんな。」とさも訝《いぶか》しげに時次が謂えば、「まあ、あられもない扮装《なり》をしてどうしたというのだろう。好《よ》く御覧、秀に限ってそういう取乱した風をする婦人《おんな》じゃないよ。」「何ぞが妖《ば》けたのではございませんか。」と誰方《どなた》か罪の無いことをおっしゃる。 「いえ、妖《ば》けたのに相違はありませんが、これはやはり、秀自身が妖けたのです。照子様、もしやおどかしはしませんでしたか。」 「ああ、ひょいと飛出して吃驚《びっくり》させたよ、私夢中で……」と震えていらせらる。 「なる、それで解りました。夫人《おくさま》、小間使が好奇心で、照子様をおどしたので、謂わば自業自得というものです。」「そうね、もういけなかろうか、可哀そうに。しかし失礼な、私の大切な御客様をおどそうなんて、飛んでもない。大方|通魔《とおりま》に魅入られて、ふいと気が違ったのかも知れないよ、照子|様《さん》には済まないけれども、ああ可哀そう。」  と熱き露、清《すずし》き眼より溢《あふ》るる処へ、後馳《おくればせ》の伯爵悠々と参りたまい、「何じゃ騒しいな。ふ、ふ、あ、あ、それは結構。何さ、しかし心配には及ばぬよ。殺されたものは損、照子殿は豪《えら》い功《てがら》じゃ、妖物《ばけもの》を斬《き》ったとあれば立派なものじゃ。けれどもな、少々は金が要るじゃ。」と頤《おとがい》にて死骸《しがい》を指したまい、「これが親許《おやもと》は。」綾子答えて、「鮫ヶ橋に老婆一人、黒瀬縫とか承わりました。」「うむ、さようか。それに手当をしてやれ。老婆だとあればさぞ愚痴っぽく泣くじゃろの。」「御意にござります。」と時次が申す。 「それがちと面倒じゃ。可《よし》、可、これは駿河台の御隠居を煩わすとするじゃ。説法が旨《うま》いで、因果を含めるに可《い》いわい。」「仏《ぶつ》を御学び遊ばして御道徳抜群にいらせられますれば、至極よろしゅうござりましょう。」「お前これから駿河台へ行っての、次第《わけ》を申して御老体御苦労じゃが、鮫ヶ橋まで御出向《おでむき》のあるように、なりたけ内証での、そこを旨く、可いか。」「はッ。」「何でも怨む者さえ無ければ物ごとは円く納《おさま》る。検屍《けんし》にはあのナンノをな、それから、ナニはナニして、ナンノを、ナンノを。」  ナンノで皆解ると見え、時次郎は委細承知。「畏《かしこま》りました。」 「さ、これで可《よ》し。皆様《みなさん》、あちらで。」と手を揮《ふ》ってのたまうを好《よ》き汐時《しおどき》と、いずれもするするはらはらと裳《もすそ》を捌《さば》きて御引取。  後に残る三人は眼と眼と眼にて、薄雪とは似ても非なる三人笑。  伯爵は鷹揚《おうよう》に、 「綾。」 「は。」 「首尾よく殺したな。」と怪しき御言葉。  時次郎手を支《つか》えて、「恐悦に存じまする。」  一人の父は納豆を売りに朝|疾《と》く起きて出行《いでゆ》きぬ。後は孤《みなしご》なる女の児《こ》、年紀《とし》は七歳《ななつ》ばかりなるが、大人の穿切《はきき》らしたる草履を引摺《ひきず》り、ばたばたと駈《か》けて来て、小石に躓《つまず》き、前へのめり、しばらくは起きも上らず。「あれ」と婦人《おんな》の声、木賃宿の戸を開けて、内より出づる一人の美人、顔|美麗《うるわ》しく姿優なり。片手に洗髪《あらいがみ》を握りながら走り寄りて、女の児を抱起《だきおこ》して「危いねえ。」と労《いたわ》る時、はじめてわっと泣出だせり。 「おお可哀そうに痛かったかい、まあまあお召が砂だらけだ。どこも擦剥《すりむ》きはしなかったの。え、掌《てのひら》を、どれお見せ、ほんとにねえ。」と何を持ちしか汚穢《むさ》き手に、温《あたた》き口を接《つ》けて、呼吸《いき》を吹懸け撫でてやり、「さあ、もう可いからお泣きでないよ。おお、泣止《なきや》みましたね、好《い》い児《こ》好い児。何を御褒美に上げようかしら、ああ良《い》い品《もの》があったっけ、姉様《ねえさん》とさあ一所に光来《おいで》。」と手を曳《ひ》きて家に入《い》り、黒くなりたる櫃《ひつ》の上に、美しき手毬《てまり》のありしを、女の児に与うれば、気味悪そうに手に取りて、「こりゃ何。」と怪訝顔《けげんがお》。「手毬だよ。知らないの。」「手毬って何。」とさっぱり解らず。  美人は優しき眼にてじっと視《み》れば、いかさまかかる遊戯品は知らぬも道理の扮装《みなり》なり。不便《ふびん》なものよと思うにぞ、 「これはね、こうするものだよ、見ておいで。」と袂《たもと》を啣《くわ》えて一《ひ》い二《ふ》ウ三《み》い四《よ》ウ、都の手振なよやかに、柳の腰つきしなやかなるを、女の児は傍目《わきめ》も触《ふ》らず、首傾けて恍惚《みと》れいる。  ここはいずこぞ鮫ヶ橋、白日闇《はくじつあん》の木賃宿にしかき姿あるは怪《あやし》むべし。  火鉢に懸けたる土瓶の煮ゆる音、ジュー。  二三十つきたる美人はこれに心着きて手を留《とど》め、 「おや、忘れていた、もう煮詰ったようだ。」と蓋《ふた》を取れば、煎薬の香|芬々《ふんぷん》。すぐに下して、「お前ねえ。」と女の児を見返れば、頻《しき》りに毬を弄《もてあそ》べり。美人は微笑《えみ》を含みて、「つけますかい。」 「いいえ。」と少し嬌羞《はにか》む。 「戻ってまた教えて進《あ》げよう。お前がお在《いで》でちょうど可い。誰も居ないから留守しておくれ。妾《わたし》はね、この御薬を持って裏のお婆様《ばあさん》の処へちょいと行って来る。」「あいあい。」と頷《うなず》けば、手早く髪を束《つか》ねて櫛《くし》にて押《おさ》え、土瓶片手に出行《いでゆ》きけり。  入違いに二人の男、どかどかと上込《あがりこ》み、いきなり一人が匍匐《はらばい》になれば、一人は顎《あご》を膝に載せて脛《すね》を抱え、「ねえ、おい素敵に草臥《くたび》れたな。」 「まったくさ、ドテやゲバを取ろうとって、あくせく掙《かせ》ぐ気が知れねえ。」 「知れねえと謂《い》えばどうもいまだに知れねえ。」「何が。」「この木賃宿の所有主《もちぬし》がよ。」「やっぱり姉御《あねご》が持ってるのだろう、御庇《おかげ》でこちとらは屋根代いらずだ。」「でも始終ここに居ないじゃねえか。」 「だって時々|出張《でば》って来らあ。」 「そりゃそうと此家《うち》の姫様《ひいさま》は何の妖《ばけ》たのだろう。」 「怪《あやし》いほど美《い》い女だな。しかしなんぼ何でも木賃宿にいらっしゃるものを、姫様とはつかぬ語呂だぜ。」「うんにゃ、あのまた気高い処から言語《ことば》付の鷹揚な処から容子《ようす》がまるで姫様よ。おいら気が臆《おく》れて口が利悪《ききにく》い。」「その癖優しい嬢《こ》だ。」「可愛らしいぜ。いつかも見りゃ一心不乱に毛糸の編物さ。」 「何でも姉御がかくまっておくらしいな。」「うむ、そうさ。だが処もあろうのにここは非道《ひど》いや、もうおいら達あ、姉御が世話をする婦人《おんな》だから指一本もさしもせず、またささしもしねえが、煎詰《せんじつ》めた破落漢《あぶれもの》ばかり集る処へどういう気だろう。」「何でもいいやい、お丹姉さんの遊ばすことだ。」「でも気に懸《かか》るかしてこの頃は毎晩|泊《とまり》に来て、御両人様抱ッこで寝るぜ。」 「何、抱ッこで寝るッ、若い奴等、気の悪《わり》い談話《はなし》をしてるな。」と表の戸がらりと開け、乱髪の間より鬼の面をぬっと出すは、これ鉄蔵という人間の顔なり。これに怖《おび》えてかの女の児は遁出《にげだ》したり。 「へん、新造を抱きたがる癖に、一廉《ひとかど》お年寄の気でやあがる。」  鉄蔵はのさのさ入りて大胡坐《おおあぐら》。「これでも子持の親父様《とっさん》だ。」「そういやあ竹坊はどうした。二三|日《ち》見えねえぜ。」「彼奴《あいつ》あ、こかしたよ。」と平気で謂《い》う。「そりゃ旨《うめ》えことをした。」「いかさま棄てる神あればかい。土橋のいうあの御面相で買手があったか。」鉄蔵は澄《すま》して煙草《たばこ》の粉《こ》をすぱすぱ、「何女郎じゃねえ。」という声、戸外《おもて》に洩《も》れて、(不審立聴く)一個《ひとり》の婀娜的《あだもの》、三枚|襲《がさね》に肩掛《ショオル》を着て縮緬《ちりめん》の頭巾|目深《まぶか》なり。  一人は起返りて、「ふむ、それでは茶屋か。」 「いんや。」  一人は膝を立直し、「温泉か。」 「大違い。」 「はてな、田舎へでも。」「やっぱり市中さ、新網《しんあみ》の仁三《にさ》によ。」「ふむ、野師《やし》の親方。」「うむ、そうだ。」「彼奴《あいつ》も呆《あき》れた茶人だなあ。」鉄蔵は真面目《まじめ》な顔「なに妾《めかけ》じゃねえて。」「はあ、あの女《むすめ》なら見世物に出すかも知れねえ、大方そうだろう。」「似寄の者さ。」と言懸けて少し猶予《ためら》い「あのの、家《うち》の阿魔《あま》に犬の皮をの。」二人、「ええ――」と反返《そりかえ》る。  鉄蔵は落着払い、「妙なものを拵《こせ》えさしてそれをば見世物に出そうというのよ。」 「途方もねえ。」「恐《おっ》そろしい。」 「勿論、女《あま》もなに泣面《べそ》は掻《か》かないで一昨日《おととい》去《い》った。」と煙管《きせる》をこつこつ。  背後《うしろ》にすっくと突立《つった》つお丹、一部始終を聞きしなり。一声鋭く、「鉄、談話《はなし》がある。奥へ来や。」  お丹|突然《いきなり》、「畜生――」と一喝して長羅宇《ながらう》の煙管を押取《おっと》り、火鉢の対面《むこう》に割膝して坐りたる鉄の額を砕けよと一つ撲《ぶ》つ。  不意を啖《くら》って眼《まなこ》眩《くら》み「痛《いてえ》。」と傷を圧《おさ》えしが、血を視《み》て、「えッ非道《ひど》いことを。」  梟眼《きょうがん》赫《かっ》と睜《みひら》けば、お丹も顔色|蒼《あお》ずみて真白き面《おもて》に凄味《すごみ》を帯び、眉間《みけん》に透《とお》る癇癪筋《かんしゃくすじ》、星眼鋭く屹《きっ》と睨《にら》み、「ム、悔《くや》しいか。人間ならくってかかんな、対手《あいて》になろう。犬、畜生、人非人《ひとでなし》、四這《よつばい》になれ、尻尾を掉《ふ》れ。」  詈《ののし》る剣幕に胆《きも》を抜かれ、鉄蔵茫然とする処を飛かかって咽喉《のんど》を扼《やく》し、「ええ、賭博《ばくち》に負けたか、食えねえか、それほど金子《かね》が欲《ほし》くばな、盗賊《どろぼう》をしな、人を殺せ、けだものに女《むすめ》を売るとは、野郎本気の沙汰じゃねえ、どれ、性根を着けてやろうよ。」  と急所を取って突廻せば、鉄蔵は虫の呼吸《いき》、「姉《あね》え、御免ねえ、苦《あ》、苦《あ》、放してくんねえてば、苦しい、むむ。」と苦み掙《もが》くを煙管の乱打、「死ぬる死ぬる。」と呻《うめ》き叫ぶを殺しかねざる気色なり。 「お前非道いよ、まあお待ち。」とお丹の腕に縋《すが》りたるは今|戸外《おもて》より帰りし美人。 「いえ、お放しなさいまし、この大それた人非人《ひとでなし》。活《い》かしちゃあおかれません。」「そう謂《い》わずにさ、口でいっても解るではないかねえ。ようさ、私に預けておくれってば。」と身を楯《たて》にして、鉄を庇《かば》い、宥《なだ》めても制《とど》めても頭《かしら》を掉《ふ》って肯《がえん》ぜず、「よう、頼むよ。後生だから。」と心弱き美人は声曇らすに、お丹ようやく手を弛《ゆる》べ、衝《つ》と座に直りて煙管を杖、片手に煙草を引寄せたり。  美人は鉄を労《いたわ》りて、「お前、何悪いことをしやったえ。お丹はあの通り気短《きみじか》だから恐怖《こわ》いよ。私が詫《わび》をしてあげる。」  と抱起さんとすれば、鉄蔵慌てて身を起し、「ええ、勿体ねえ。お前様《まえさん》、私《わっち》の身体《からだ》は汚《けが》れておりやす。」 「まあ眉間から血が出て。」と懐紙《ふところがみ》にて押拭《おしぬぐ》う、優しさと深切が骨身に浸《し》みこむ、鉄はぶるぶる。「もう、可うございます。いえもう何ともありません。」と後退《あとずさり》。  幅狭き布子《ぬのこ》の上掻《うわがえ》を引張《ひっぱ》り合せて、膝小僧を押包み、煮染めたような手拭《てぬぐい》にて、汗を拭《ふ》き拭き畏《かしこま》り、手をつきて美人の顔、じっと見詰むる眼に涙。 「ああ、あ、娘もちょうどお前様の妙齢《としごろ》で、……で……」  と男泣き、此奴《こいつ》生れて最初《はじめて》なるべし。  お丹はこれを見て莞爾《にっこ》とし、「泣いてくれるか、え、鉄しおらしいの、おお、よく泣く、もっと泣きな。」  かく謂いつつ立上りて、するりと帯を解き、三枚|襲《がさね》を颯《さ》と脱ぎて、顎《あご》で押えて袖畳《そでだたみ》、一つに纏《まと》めてぽいと投出し、 「もう可いからお泣きでない。通貨《なま》が無いからそれを曲入《まげ》て、人身御供《ひとみごくう》を下げておいで、仁三が何か言句《もんく》をいおう。謂ったら私の名をいいな。」薄着になりし情《なさけ》の厚さ。  鉄は左右無《そうな》く手に取らず、「飛んでもないこと姉御どうしてこれが借りられよう。罰が中《あた》る。」とためらえば、「何だな、お前のようでもない。」美人もまた、「どういう次第《わけ》だか知らないけれど、折角あんなにお謂いのだから持って行くが可いよ。」 「どうも済まねえ。実はその家主の少禿《すこはげ》ががみがみいって癪《しゃく》に障ってしようがねえもんで、つい。」「くどいわね。何でも可いから早くしなよ。」「済まねえ済まねえ実はその。」「くどいてばさ。」  と言放てば、「む、そんなに謂ってくんなさりゃ己《おれ》も男だ借りやしょう。」と肩を聳《そびや》かし、眼《まなこ》を据え、「この様《ざま》だから済《な》せやせん、そのかわりにゃ姉御、俺《おら》あ死にます。」這般《しゃはん》の決心十を併さば、もって一郷を動すに足るべし。  打撲《うちみ》、挫《くじき》、整骨《ほねつぎ》、困る人には施行《ほどこし》療治いたし候。西の内二枚半に筆太に、書附けたる広告の見ゆる四辻《よつつじ》へ、侠《いなせ》な扮装《いでたち》の車夫一人、左へ曲りて鮫ヶ橋谷町の表通《おもてどおり》、軒並の門札《かどふだ》を軒別に覗《のぞ》きて、「黒瀬ぬい、と、ええ、黒瀬と、さっぱり知れねえぞ、こっちは土方職、次は車力、引越荷車|仕候《つかまつりそろ》か、お次は何だ、鋳掛屋かい、差替りまして蝙蝠傘直《こうもりがさなおし》、さあさあ解らねえ。ふむまた売卜乾坤堂《うらないけんこうどう》、天門堂とすれば可い、一番《ひとつ》みてもらいたいくらいだ、向《むこう》は仕立屋、何、仕立物いたしますか、これは耳寄、仕立屋に(ぬい)が居ようも知れねえ。試《ためし》だ、ちょいと聞いてみよう。」  所外《おもて》より、「あい、御免ねえ。」  内にて女の声、「何でございますえ。」 「ええ、少々伺いたいもんで、もし、この辺に黒瀬というのは。」「さっぱり存じませんね、裏へ廻って御聞きなさい。」「これは御世話。」  と取って返す辻の角、茶綾子《ちゃりんず》の被布を召したる切髪の気高き老婦人、腕車《くるま》の傍《かたえ》に彳《たたず》みたるが、「三吉々々。」と召したまい、「知れたか。」「どうもへい。」と天窓《あたま》を掻《か》けば、 「不可《いかん》のう、早くしや早くしや、小児《こども》が集《たか》って煩悩《うるさ》いからの。」  と見れば貧民の童男、童女《どうにょ》、多人|数《ず》老婦人の身辺にありて、物珍しげに天窓より爪先《つまさき》までじろりじろり。 「餓鬼等何を見るんでえ。」と三吉|眼《まなこ》を刮《む》きて疾呼《しっこ》すれば、わいわいと鯨波《とき》を揚げて蜘蛛《くも》の子の散るがごとし。 「これから裏っ手の方を探します。少々どうぞ。」とまた駈出《かけだ》して、三吉裏手へ回れる時は、宿鴉《しゅくあ》しきりに鳴きて鐘声|交々《こもごも》起る、鮫ヶ橋一落の晩景うたた陰惨の趣あり。 「さて難儀《なんぎ》だ、弱り切るぜ。ほんにさ、猫の額ほどな処で二十六|間《けん》と尋ねたが分らねえ。あたかも芥子粒《けしつぶ》を選分《えりわ》けるような仕事だ。そうしてまた意地悪く幾たびでもこの総後架《そうごうか》に行当たるには恐れる。雪隠で詰腹《つめばら》を切る体《てい》だね、誠にはやなんとも謂われねえ臭気《におい》だぞ、豪傑に支《つか》えたと見えてここらじとじとする。薄汚《うすぎたね》え。」と爪立てしてひょい、「南無三《なむさん》、踏んだ。」と渋面造って退《すさ》る顔へ何やらん冷《ひや》りとする。 「ほい、これは。」  ずぶ濡《ぬれ》の破褞袍《やれぬのこ》、蓋《けだ》し小児の尿汁《にょうじゅう》を洗わずして干したるもの、悪臭鼻を抉《えぐ》って髄《ずい》に徹《とお》る。「やれ情無い、ヘッヘッ。」と虫唾《むしず》を吐けば、「や、膳《ぜん》の上へ唾《つば》を吐くぞ。」と右手《めて》なる小屋にて喚《わめ》く声せり。  三吉慌てて駈出《かけい》だし、立停《たちどま》って胸を撫で、「ありゃ何だ。やっぱり人間が住んでたのか。ヘンよしてもくりゃ、憚《はばか》りながら、犬の小屋としか思われねえ。さてまた意地悪く一軒も燈明《あかり》を点《つ》けぬぞ、夜だか昼だか一向無茶だ。」と四廻《あたり》をきょろきょろ、「ふむ、此家《ここ》でもう一度尋ねてみべい。」  倒れ懸けたる表の戸、手をもて開くるを要せず、身を斜《ななめ》にして容易《たやす》く入《い》るに、いまだ燈火を点ぜざれば、ただこれ暗澹《あんたん》物色を弁ぜず。悪臭|縷々《るる》来《きた》りて人を襲えり。 「ちょいと御免なさい、御免なしい。」と三吉|的処《あてど》も無しに声を懸けて、奥より人の出づるを待てば、 「誰方《どなた》へ。」と唐突《だしぬけ》に打驚き、「少しものが。……」と謂えば「何だの。」と立ちたる膝の辺《あたり》に声するに、三吉また驚きて、 「おや、黒闇《くらやみ》がものを言うぜ。」と反返《そりかえ》りしも道理なり。  鮫ヶ橋|界隈《かいわい》の裏長屋は、人を容《い》るる家と謂わんより、むしろ死骸を葬る棺と云うべし。土間無く、天井無く、障子|襖《ふすま》無く、壁一重にて隣を分ち、大戸一枚道路を隔てる、戸に接してわづかに三畳|乃至《ないし》五六畳の一室あるのみ。三吉が膝とほぼ直角をなして(はてむずかしい形容だ、)打臥《うちふ》したる天窓《あたま》ありしが、この時むくと起直りて、 「団扇《うちわ》の骨はいまだに仕上りませぬ。」と皺枯声《しわがれごえ》、「いえさ、ちと御聞き申したいんで。」「何、何、我《おら》あ、今年はもう七十五になっての、耳が疎《うと》いに依って大きな声で謂わっしゃい。」「こりゃ大難だ。婆様《ばあさん》あのの。」「あいあい。」「あののお前、黒瀬ぬいという婆様を知らねえかい。」「あい、知っておりやす。したがお前様は親類《みより》の人かね。」「ウンヤ、秀坊というその娘っ子のことでちと用があるんだ。」半ばは聞取得ず。「ま、待たっしゃれ今燈明を点《つ》ける。」と膝行《いざり》歩きて、燧火《マッチ》か、附木か、探す様子。江戸児《えどっこ》焦《じ》れ込み、「こう早く教えてくんねえ。御前様が待っていなさらあ。」  促《せた》げても頓着《とんじゃく》せず、何とか絶えず独言《ひとりごち》つつ鉄葉《ブリキ》の洋燈《ランプ》に火屋《ほや》無しの裸火、赤黒き光を放つと同時に開眸《かいぼう》一見、三吉|慄然《りつぜん》として「娑婆《しゃば》じゃねえ。」  今まで我にものを謂いし老婆は活《い》きたる骸骨《がいこつ》なりき。ずたずたになれる筵《むしろ》の上に、襤褸切《ぼろきれ》、藁屑《わらくず》、椀《わん》、皿、鉢、口無き土瓶、蓋《ふた》無き鍋《なべ》、足の無き膳《ぜん》、手の無き十能、一切の道具|什物《じゅうもつ》は皆|塵塚《ちりづか》の産物なるが、点々散乱してその怪異いうべからず。古物千歳を経て霊ありというものあるいはこれか。老婆の他《ほか》にまた一人あり。味噌漉《みそこし》に襤褸を纏《まと》いて枕とし、横様《よこさま》に臥して動かざるは、あたかも死したる人のごとし。  老婆はそれを指《ゆびさ》して、「この死人《しびと》がその黒瀬ぬいでござんやす。」  三吉|蒼《あお》くなりて、「何、死んだと?」「はいさ、お前様、昨日《きのう》から腹が痢《くだ》って、正午過《ひるすぎ》に眼を落しました、誰も葬るものがござらぬで、な、お前さん。」と突然三吉の袂《たもと》を掴《つか》みて、 「懸合《かかりあい》だ。始末さっせえ。」「滅相なことを謂わあ、飛んでもねえ。こう、これさ離せといえば。」「うんにゃ、離さねえ。どうでも懸合だ。」と武者振着く。 「ええ、死神のような奴、取附かれて堪《たま》るものか。」力に任して突飛ばせば、婆々《ばばあ》へたばる、三吉|遁《にげ》る、出合頭《であいがしら》に一人の美人、(木賃宿のあの人の)宵月の影|鮮麗《あざやか》なり。  擦違うて三吉、「や。」と立停《たちど》まるを、美人は知らずに行過ぎて、件《くだん》の老婆の家に入れば、何思いけん後をつけて、三吉は戸外《おもて》に潜《ひそ》みぬ。 「ちょいとお婆様《ばあさん》、あの病人はどうしたえ。」と美人が見舞う、その声音《こわね》に耳を澄して、「いよいよそれじゃ。」と三吉四辻へ引返せば、老婦人は待飽倦《まちあぐ》み、亭として佇《たたず》みつつ手にせる蝙蝠傘《こうもりがさ》を打掉《うちふ》るごとに、はっと散りてはまた集る、飯に寄る蠅、群る小児、持余してぞ居られける。 「三吉。どうしたものじゃ余り遅いの。」と御機嫌|好《よ》からず。三吉|頻《しき》りに天窓《あたま》を掻《か》きて「へい、どうもお待遠様、誠に相済みません、しかし、御前様やっとのことで知れました。」「ああ、解ったと申すか。」「へい。ところでその、黒瀬という婆々《ばばあ》はもう死歿《なくなり》ました。」「えほんとうに?」「まったくでございます。」「そんなら用は無い、もう帰邸《かえる》としようの。」「ま、お待ち遊ばせ。」と三吉は得々として、「大変なものを見附けました。もし、御前様、光子様を。」  いう事いまだ終らず、老婦人は顔色《がんしょく》動き、「何といやる。」車夫ますます得々として、「えい、奥様を見付けたのでございます。方々探して知れなかったも道理、こんな処に隠れていらっしゃるんだもの、今日の御足《おみあし》は徒《むだ》にはなりませなんだ。いかが計《はから》いましょう。」  老婦人はしばし沈吟《ちんぎん》して、「可《よ》し、すぐに引摺《ひきず》って来い、連れて帰る。」「いえ、森に居る鳥は、籠《かご》の中に居るように手軽くは押《おさ》えられませぬ。少し手間が取れますがお待ち遊ばしますか。」  老婦人は空を仰ぎ、「日和癖《ひよりくせ》じゃ、また曇った。」 「降りませんうちに、じゃあこうなさいまし、そこらで車夫を呼んで参りますから、御前様は一足お先へ、私はお後から奥様を引張《ひっぱ》って帰ります。」 「よきように計え。」  とあれば、三吉走行きて屈竟《くっきょう》の壮佼《わかもの》を雇来《やといきた》り、 「若衆《わかいしゅ》、駿河台《するがだい》だよ、可いか、頼んだぞ、さあお召し。」  老夫人は蹴込《けこみ》へ片足、「脱心《ぬかる》まいぞ。」  三吉は腕を叩きて、「確《たしか》に、請合いました。」「よくせい。」とひらりと召す。梶棒《かじぼう》を挙げて一町ばかり馳出《はせい》だせる前面《むかい》より、颯《さ》と駈来《かけきた》る一頭の犬あり。わんと吼《ほ》ゆるを除《よ》けて通る、腕車《くるま》と行違い遣過《やりす》ごして、立停《たちどま》るはお丹なり。  鼠縮緬《ねずみちりめん》の頭巾の裡《うち》より、冷《ひやや》かなる瞳を放ちて「フウ、駿河台の猫股婆《ねこまたばば》、縄張|中《うち》へ踏込んだな。」  お丹かく呟《つぶや》くや否や、鼬《いたち》のごとく道を走り、跡を追い、辻車に飛乗って、呆るる客待の車夫の手に帯の間より財布を投付け、 「何でも可い、その、あの腕車《くるま》、早く追越せ。」 「なに、目を落したとえ、それはまあ。」と三吉が見て奥様と称《とな》えし美人。汚き畳へ駈上《かけあが》れば、 「うむ。」と腰を伸《のば》して老婆は起き、「やれ、汚穢《むそ》うござります。」藁屑《わらくず》を掻寄《かきよ》せて一処《ひとつ》に集め、 「せめてこの上へ、貴女《あなた》、御衣服《おめしもの》が台無しでや。」  槌《つち》で庭掃く追従《ついしょう》ならで、手をもて畳を掃くは真実《まこと》。美人は新仏《しんぼとけ》の身辺に坐りて、死顔を恐怖《こわごわ》覗《のぞ》き、 「可哀相なことをしたねえ。今朝私が薬を飲ましに来た時の容体ではまだこんな急なこともあるまいと思っていたに。お婆様《ばあさん》なぜ取返しのならぬことをしてくれたえ。しばらくでも介抱した私やほんとに名残《なごり》が惜《おし》い。」と愁然《しゅうぜん》として襦袢《じゅばん》の袖、御目《おんめ》を赤く染《そめ》たまえば、老婆も貰泣《もらいなき》する処へ、三吉会釈も無くずッと入り、 「奥様、御迎いッ。」 「ええ。」と美人は顧みて、「あれ。」と身を震わし、おがみ手をしかと合せて、「こうだから、よ、よ、三吉。」とおろおろ声、蛇に狙《ねら》わるる蛙のごとし。 「いいえ、不可《いけ》ません。御前様のおっしゃりつけです。どうしても御連れ申します。」「そうはいわずに見遁《みの》がしておくれ、頼むわねえ。」「なりません素直になさらなきゃあ、是非が無《ね》え、お気の毒だが手籠《てごめ》にする。」  と手に唾《つば》して躍りかかれば、「あれ、後生だから後生だから。」  謂いつつ燈《ともし》をふっと消す、後は真暗《まっくら》、美人は褄《つま》を引合せて身を擦抜けんと透《すき》を窺《うかが》い、三吉は捕えんと大手を広げておよび腰、老婆は抜かして四《よつ》ン這《ばい》、いずれも黙《だんまり》。三吉やがて呼吸を計り、ここぞと飛附き空《くう》を抱《いだ》き、はずみ抜けして膝を折り、老婆の背《せな》に両手をつけば、べったりと潰《つぶ》れてうむと呻《うめ》くを、例の死骸と思うにぞ三吉は胆《きも》を冷《ひや》して、 「ひゃあ死人に魔が魅《さ》した。」  と飛退《とびの》く隙《ひま》に雀の子は、荒鷲《あらわし》の翼《つばさ》を潜《くぐ》りて土間へ飛下り素足のまま、一散に遁出《にげい》だすを、遁《のが》さじと追縋《おいすが》り、裏手の空地の中央《なかば》にて、暗夜《やみ》にも著《しる》き玉の顔《かんばせ》、目的《めあて》に三吉|衝《つ》と寄りて曳戻《ひきもど》すを振切らんと、美人したたか身を急《あせ》れば、髷《まげ》崩れ、装《なり》乱れ、帯はするする、裳《もすそ》ははらはら、いとしどけなくなれるに恥じて、はや一歩《ひとあし》も移し得ず、肩をすぼめて地にひれふし、活《いき》たる心地更に無し。  三吉は左手《ゆんで》を伸べて白き頸《うなじ》を掻掴《かいつか》み、「ええ、しぶとい、さあ立て、立たねえとこうするぞ。」と高く翳《かざ》せる右手《めて》の拳《こぶし》を、暗中よりしっかと扼《やく》して、抑留《おさえと》めたる健腕あり。  拳は宙に立ちたるまま上へも下へも動かばこそ、三吉ぎょっとして、「や、汝《うぬ》は。」「天狗《てんぐ》だ。」と呵々《からから》と笑い、「二才めばたばたすると二つに裂くぞ。」  かく謂うは誰《た》ぞ、飲鬼窟《がきくつ》の健児、老いたる屠犬児《いぬころし》弥陀平なり。  駿河台の老婦人は、あわれ玉の輿《こし》に乗らせたまうべき御身分なるに、腕車《くるま》に一人|乗《のり》の軽々《かろがろ》しさ、これを節倹《しまつ》ゆえと思うは非なり。  仰々しく馬車を走らして往来を妨げんは、老人の娑婆塞《しゃばふさげ》と後指《うしろゆび》指されんも憂たてし、髪切払いて仏に仕うる身の徒歩歩《かちあるき》こそ相応《ふさわし》けれ、つまりは腕車も不用なれど、家名に対してそうもならねば、止《や》むことを得ず三吉の健脚を労するだに心苦しく思《おぼ》すとなむ。  読者御存じの都合ありて、間に合せの車夫に腕車を曳《ひか》せ、今や鮫ヶ橋より帰館の途次、四ツ谷見附に出でて、お堀端を走ること十間ばかり、ふと顕《あらわ》れたる中年増《ちゅうどしま》、行違いざま、慌《あわただ》しく「あれ若い衆《しゅ》様《さん》、心棒が抜けてるよ。」車夫は仰天して立停《たちど》まりぬ。「ああ危い。」と年増は溜息《ためいき》。 「どうも姉様《ねえさん》難有《ありがと》う。」車夫は輪軸を検せんとて梶棒を下すを暗号《あいず》に、おでん燗酒《かんざけ》、茄小豆《ゆであずき》、大福餅の屋台|店《みせ》に、先刻《さき》より埋伏《まいふく》して待懸けたる、車夫、日雇取《ひようとり》、立ン坊、七八人、礫《つぶて》のごとくばらりと出で、腕車の周囲《めぐり》を押取巻《おっとりま》く。 「や、や、狼藉《ろうぜき》。」と驚きたまう老婦人の両の御手《おんて》を左右より扼《とりしば》りて勿体無くも引下ろせば、一人は背後《うしろ》より抱竦《だきすく》め、他は塩ッ辛き手拭を口に捻込《ねじこ》み猿轡《さるぐつわ》。老婦人を載せたる車夫は不意の出来事に呆れて立ちしが、手籠《てごめ》に逢わるるを見るに忍びず、「やい此奴《こいつ》等、何をしやがるんでえ。」と客|贔屓《びいき》。 「若い衆! 大目に見ておくれ、この御客は私が買うよ。」  と年増は紙幣《さつ》を取出《とりいだ》して二三枚握らすれば、車夫はにわかに笑顔になり、「ちと、もし、御手伝を致しましょう。」現金な野郎なり。 「それ、これで。」と年増が解きて投与うる扱帯《しごき》にて老婦人の眼をぐるぐる巻にし、仰向《あおむけ》に突転ばして、「姉御、荷造が出来た。」といえば、 「引担《ひっかつ》げ。」「おっと合点。」  軽《かろ》やかに肩に懸け、「ほい、水気が無《ね》えから素敵に軽い。」「まるで苧殻《おがら》だ、」「お精霊様の、おむかえおむかえ。」とつッぱしる。  これ皆お丹がなせる業《わざ》なり。  狼藉者の一隊はさすがに警官を憚《はばか》りて、大坂を下りんとする交番の此方《こなた》に猶予《ためら》いぬ。「それ目潰《めつぶし》。」とお丹の指揮《さしず》に手空《てあき》の奴等、一足先に駈出《かけい》だして、派出所の前にずらりと並び、臆面《おくめん》もなく一斉に尾籠《びろう》の振舞、さはせぬ奴は背後《うしろ》より手を拍《たた》きて、「鳴るは滝の水。」と囃《はや》し立つる前代未聞の悪戯《いたずら》に、巡査何とて黙すべき。「こらっ――」  見張員と休息員と無頼漢等を引挟《ひっぱさ》んで、片手に一人ずつ引掴《ひッつか》めば、洩《も》れたる者も逃げんとはせず。 「へん他人《ひと》の家《うち》へ垂込みやしめえし、何のこれ往来だ。」「田圃《たんぼ》にしてみや肥料《こやし》になるぜ。」  としらふ[#「しらふ」に傍点]で冷罵《おひゃ》れば、巡査は全身の怒気《いかり》頭上に上りて、「無礼者め。」ともう血眼《ちまなこ》、二ツ三ツ撲《なぐ》りつける。 「ヤ撲《ぶ》ったな。ああ、痛え。」「おお、痛え。済まねえやい、木や土で造《こせ》えた木偶《にんぎょう》じゃねえ。」「血のある人間だ、さあどうする。」とくってかかる混雑紛れ、お丹等老婦人を見咎《みとが》められず、やすやすと通抜けたり。 「はてな、地獄の戸が開《あ》いた。」  車夫三吉を取挫《とりひし》ぎて、美人を労《いたわ》りたる屠犬児《いぬころし》は、訝《いぶ》かしげに傾聴せり。  渠《かれ》が立てる処より間|遥《はるか》に隔りたる建物の戸を開閉《あけたて》する音なるが、一種特別の響《ひびき》あれば、闇夜《やみ》にも屠犬児は識別せるなり。 「誰だ誰だ。」と呼ばわれば、答は無く、ややありて二人|三人《みたり》の跫音《あしおと》の小刻《こきざみ》に近付きつ、「私だよ。」というはお丹の声、「おやどうしなすった。」お丹は闇中《くらがり》を透《すか》し見て、「談話《はなし》の邪魔がいるようだね。」「いえ、こりゃお姫様《ひいさま》。」「光子様は分ってる、まだ一人いやしないか。」「ほい梟《ふくろう》のようだ。居《お》りますよ。」「誰だい。」「これはね、駿河台のそれ猫股婆の車夫なんで、私が折よく乗合わせなかろうもんなら、光子様を手籠《てごめ》にして連れて行く処でごぜえましたぜ。」「だから私が貴女《あなた》に外へ御出掛けなさいますなと申すのに、とうとう見付られておしまいなすった。」光子は「堪忍しておくれ。」と侘《わび》しげにいう。 「まあ、可《よ》うございます。ちょっと、其奴《そいつ》を縛っちまいな。」「ちゃんと可いように拵《こせ》えてありやす。」「そりゃ早い手廻《てまわし》だね、ではね、お前。」と後《うしろ》に控えし壮佼《わかもの》を見返りて、「どこかへ明日まで封じておきな。」「あいあい親方請取ろうか。」「そら渡すぞ。」と屠犬児が片手で突けば、飛んで来る、三吉を引抱《ひんだ》きて、壮佼《わかもの》は闇夜《やみ》に消えぬ。 「貴女《あなた》御心配には及びません。ここにお置き申すも今夜っきり、明日は立派に駿河台の若殿様にお逢わせ申す。」「ほんとうかい。」「何、嘘をいいますものか。」「嬉しいねえ。」と光子はいそいそ。 「そのかわり、今夜の中《うち》にどんな恐しい事がありましょうとも眼を塞《ふさ》いで我慢なさい、過日《いつか》お茶の水で身を投げて死のうとなすった、その気でね。」と意味ありげに言含め、「そこでの、黒瀬の婆様《ばあさん》を葬ってやろうと思って用意をしたお棺はね、ちと道具に使用処《つかひどころ》[#ルビの「つかひどころ」はママ]がある、後でここへ持たしてお寄来《よこ》し。」  屠犬児は怪《あやし》みて、「それじゃ死体はどうなさいます。」「あれはね、筵《むしろ》に包んで担ぎ出して、番町の小浜という邸《やしき》へ行って、玄関見附に大きな松の木があるから好《よ》さそうな枝を見繕って、ぶら下げて来るように、権と八に一役おつけ。」「はて怪《け》しからねえ。何のためだね。」「ちと思わくのあることさ。光子|様《さん》は私と一所に、地獄で妙な人に逢わせるよ。」  先刻《さき》に兇徒《きょうと》の手籠《てごめ》に逢いしは、黄昏《たそがれ》の頃なりき。されば早や夜ならむ、居《お》る処は、天か、地か、はたまた土蔵か、穴蔵か、眼は開きたれども一物《いちぶつ》を弁ぜず、闇《くら》きことあたかも盲せるごとくなるに、老婦人はただ自失せり。  されど心|豪《ごう》にして気韻高き性《さが》なれば、はしたなく声を立てず、顛倒《てんどう》して座を乱さず、端然としていたまえり。  まことや既に仏果を得て、勇猛精近の行《おこない》堅固に、信心不退転の行者なれば、爾《しか》き黒暗闇《こくあんあん》の裡《うち》に処しても真如《しんにょ》の鏡に心を照《てら》せば、胸間|霽《は》れたる月のごとく、松の声せず鏡の音無きも結句静処を得たりと観じ、寂寞《せきばく》として水晶の数珠|爪繰《つまぐ》りて泰然たり。  ややありて戸の外に物凄《ものすご》き婦人《おんな》の声して、 「駿河台の御隠居様、貴女《あなた》は御嫁女《およめご》の光子様を余り非道に遊ばしたゆえ、地獄へ御連れ申しました。ここをどこだと御思い遊ばす。」  言下《ごんか》に老婦人は色を作《な》しぬ。  婦人の声は後《うしろ》に廻り右よりまた左より、同一言を繰返せり。それより寂《せき》として天地に声無し。  すべての人、光明に逢えば眼に愉快を感じ、闇中にある時は心に苦痛を見る。もしそれ老婦人をしてかくてあることを久しからしめば、終《つい》に必ず狂せむ。不意に音あり、戸は開きぬ。同時に照射入《さしい》る燈火の影に乱髪、敝衣《へいい》の醜面漢、棍棒《こんぼう》を手にして面前に来《きた》れり。  老婦人は見ざるがごとく、秋毫《しゅうごう》も騒げる色無し。渠《かれ》はあえて害を加えんとはせで、燈火をそこに差置きたるまま、身を飜《ひるがえ》して戸外に去りぬ。  と見れば、四方は荒壁なる五坪ばかりの土間の中に筵《むしろ》の上に載せられたるものあり。  つい眼の前には板戸のごとき大肉俎《おおまないた》の据《すえ》られしに、犢《こうし》大の犬の死体|四足《しそく》を縮めて横《よこた》われるを、いまだ全く裂尽《さけつく》さで、切開きたる脇腹より五臓六腑|溢出《あふれい》で、血は一面に四辺《あたり》を染めたり。ここかしこに犬の首、猫の面《つら》、手とも謂わず足とも謂わず切断して棄てたるが、三々五々|相交《あいまじわ》る。  また四斗樽《しとだる》三箇を備えて、血と臓物を貯えしが、皆ことごとく腐敗して悪臭|生温《なまぬる》く呼吸を圧し、敷きたる筵は湿気に濡れ、じとじとと濡《うるお》いたり。  地に転《まろ》びたる犬の首は、歯|露《あらわ》れ舌を吐き、串に刺したる猫の面は、眼《まなこ》を閉《ふさ》がず髯《ひげ》動く。渠等《かれら》が妄執|瞑《めい》せず、帰せず、陰々たる燈火に映じて動出《うごきい》ださんばかりなる、ここ屠犬児の働場《はたらきば》にして、地獄は目前の庖廚《ほうちゅう》たり。  眼のごとく髪のごとく口のごとく頬のごとく一切その人の姿のごとき猫股婆もぎょっとして、色を失い、身を震わし、固く結べる唇より一語ようやく黙を破れり。  渠は呟《つぶや》きぬ、「浅ましや。」  とたんに外面《そとも》に女の声して呵々《からから》と打笑いぬ。  試《こころみ》に問う、天下の人いかに、外に忠実なる僕《しもべ》のごときは、内に暴戻《ばうれい》なる[#「暴戻《ばうれい》なる」はママ]旦那なり。出《い》でては仁慈優愛なるもの、入《い》っては残忍|酷薄《こくはく》にて、隣家《となり》の娘に深切なるもの、己《おの》が細君には軽薄なり。我子の嫁には鬼のごときも、他人の妻には仏のごとく、動物憐護を説く舌は、かえって奴婢《ぬひ》を叱責《しっせき》せずや。乞食に米銭を擲《なげう》つ仁者《じんしゃ》、悩める親に滋味を供せず。芸者に粋《すい》な御客人、至って野暮な御亭主なり。弟子に経綸《けいりん》を教うる人、家庭の教育整い難し。友の棺《ひつぎ》を送るもの、親類の不幸を弔わず、役所に出でては尻尾を振り、宅へ帰れば頭を振る。なお金銭におけるごとく、+《プラス》−《マイナス》[#「−」は縦中横]出入《でいり》の相違は天地|懸隔《けんかく》、月鼈《げつべつ》雲泥《うんでい》、駿河台の老婦人もまたこの般の人なりき。  外部より刺戟《しげき》を与えて、内心の悔悟をうながせしお丹は時分を見計いて、老婦人の前に出《い》で相対して座を占めぬ。 「お初に御目に懸《かか》ります。」  老婦人はものをも言わず威儀を整え儼然《げんぜん》たり。お丹はおもむろに説出《ときい》だしぬ。「今晩は、貴女《あなた》の御威勢にも憚《はばか》りませずとんだ失礼をいたしました。しかし止《や》むことを得ません次第、まあ御聞き下さいまし。実は先々月の中旬《なかごろ》でござりました、夜更《よふけ》にお茶の水橋を通りまして、品格《ひん》の好《い》い、美麗《うつくし》い、お年紀《とし》の若い御婦人が身を投げようと遊ばす処を危《あやう》くお止め申したのが、もし、御隠居様、貴女の御邸の光子様でございます。とかように申せば、なぜあの方が死のうとなすったかは貴女のお胸にございましょう。私も驚きました、御慈悲深い、お情深い、殊に仏学をお修めなすって、道徳抜群という風説《うわさ》の高い貴女のお嫁御があんなに薄命でお在《いで》なさろうとは、はい、夢にも思いはしませんでした。」  と屹《きっ》と老婦人の面《おもて》を見たる瞳は閃然《せんぜん》として星のごとく、渠《かれ》は太《いた》く愁色《しゅうしょく》ありき。恐怖の色も顕《あらわ》れながら、黙して一言《ひとこと》も応答《いらえ》をなさず。  お丹はまた語を続けぬ、「しかし死のうとなさったまでには、大抵のお酷《いじ》めようではございますまい、よっぽど御骨折でございましたろうねえ。」  罵殺《ばさつ》一番、老婦人は強いて平気を装いつ、毫《ごう》も屈する状《かたち》無し。  お丹は冷《ひやや》かなる微笑《えみ》を含みて、「私も初《はじめ》のうちは御実家《おさと》へお戻りのあるように、勧めてはみましたけれど、あなた方の重い御身分では、姑御《しゅうとめご》が邪慳《じゃけん》だからって、ついちょいと軽々しく、産《うみ》の親御に顔は合わされぬとおっしゃるので、ま、ただいままで私が大切《だいじ》におかくまい申しました。」  ちょいと句切って睨《ね》めッ競《くら》、双方しばらく無言なり。  急に声を励まして、「そんなにお憎《にくし》みの光子様をなぜまた連戻そうとなさいますね。馬車で公然と御迎えになりますれば、私は喜んであの方をお渡し申します。車夫に手籠《てごめ》にさせようなんて飛んでもないことを遊ばす処では連れて帰ってまた虐《いじ》めようという御思慮《おかんがえ》としか思われません。それは貴女虫が好《よ》過ぎると申すんです。及ばずながら私が光子様をお庇《かば》い申せば、夜叉《やしゃ》、羅刹《らせつ》を駆《かり》集めて、あなた方と喧嘩《けんか》をしてなりと毛頭御渡し申しませんが、事を好んでするではなし。ナニ、お望《のぞみ》ならば差上げましょう。その代りただでは不可《いけ》ません、邪慳な姑をさらりと罷《や》めて、慈愛な母親になってやる、と私の前で御誓い下さい。」  渠は依然として黙を修《しゅ》せり。  お丹は詰寄りて、「さもなければ質として、御手の御数珠を私が預《あずか》りましょう、どっちか一つ御返事なさい。貴女、まあどうでございます。」と咄々《とつとつ》人に迫り来《きた》る。  ここに到りて老婦人はもはや黙することを得ず、凜《りん》たるさりながらやや震《ふるい》を帯びたる声にてはじめて一言、「華族じゃぞ。」  老婦人はこれより前《さき》、惨絶残尽《さんぜつざんじん》なる一|場《じょう》の光景を見たりし刹那《せつな》、心|挫《くじ》け、気|阻《はば》みて、おのがかつて光子を虐待《ぎゃくたい》せしことの非なるを知りぬ。なお且つ慙愧《ざんき》後悔して孝順なる新婦を愛恋の念起りしなり。されど剛愎《ごうふく》我慢なるその性《さが》として今かく虜《とりこ》の辱《はずかしめ》を受け、賤婦《せんぷ》の虐迫に屈従して城下の盟《ちか》いを潔しとせず、断然華族の位置を守りてお丹の要求を却《しりぞ》けたるなり。 「御承知下さいませんか、どちらもいけませんか。」  老婦人は屹《きっ》として「華族じゃぞ。」 「何《なん》でございます。」  老婦人は始終一徹、 「華族じゃぞ。」平民にものはいわずとまた黙せり。  お丹少しく怒《いかり》を帯びて、戸外《おもて》に向い、「こう一件を連れて入《へえ》んな。」  ややありて黒く痩《や》せたる小男と、青く肥《ふと》りたる大男と、両々光子を挟《さしはさ》みて、引立々々|入来《いりきた》れり。 「そこへ。」とお丹が座を示せば、老婦人の前に光子を押据え、牛頭馬頭《ごずめず》左右に屹立《きつりつ》せり。  光子は涙浮びたる眼を開きて、わずかに老婦人を瞥見《べっけん》せるのみ、打戦《うちおのの》きて手足を竦《すく》め、前髪こぼれて地に敷くまで、首《こうべ》を垂れて俯向《うつむ》きぬ。  老婦人は顔をも背けず正面に光子を瞰下《みおろ》しいよいよますます傲然たり。  お丹は小刻《こきざみ》に座を進め、「サ、犠牲《いけにえ》に捧げます。お打ち遊ばせ、お抓《つめ》り遊ばせ、この頃ようようなくなりましたこのお身体《からだ》に生疵《なまきず》をまたいくらでもお付けなさい。どんなにでもお責めなさいな。ちっとも故障は申しません。そのかわりに、お邸へ連れてお帰りになりますからは、若殿様と御両人《おふたり》を快く添わしてあげて、これまでのような非道なことは忘れてもなさらぬように、それとも不縁に遊ばすなら、光子様に自由を与えて、決して干渉をなさらぬように、お憎みのありったけ、今晩いじめ切っておしまいなさい。お動きなすって御成敗がなさり悪《にく》くば、縛りましょう、釣上げましょう、さあさあ、どうとも御望み次第。」  と胴を据えたる詰問《つめひらき》、老婦人は死灰のごとし。  お丹|焦《じ》れて、「何もそんなに尋常ぶって、御辞退にも及びますまい。餓《ひもじ》い腹なら食べるが可《い》いのさ。」  老婦人は奥歯を噛切《かみし》め、御気色《みけしき》荒く、「華族じゃぞ。」「華族がどうした。」「華族じゃぞ。」「フム解りました。料理の塩梅《あんばい》が悪いから、華族様のお口には合《あわ》ぬとおっしゃるのでございましょ。これは実《まこと》に私が粗相。どう、そんなら汁に加減をしようか。鉄、熊、押えろ、動かすな。」  声に応じて牛頭馬頭は光子を仰様《のけざま》に引倒し、一人が両手、一人が両足、取って押えて動かさず。「ああれ。」光子は虫の声。  老婦人は心の内、「華族じゃぞ。」  お丹はひしと光子の胸に片膝乗懸け、笞《しもと》を挙げて打たんとしつ、老婦人を睨殺《げいさつ》して、「留めはすまいね。」  無言。  力を籠《こ》めて、「留めはすまいね。」  老婦人は蒼《あお》くなりて、「華族じゃぞ。」  かくまでしたらば我《が》を折らんとかねてより思いしには似で、飽くまで老婦人の剛情なるに、後へ退《ひ》かれぬ羽目になり、止《や》むことを得ず手を下《おろ》しつ。お丹がその時の心中いかに。  光子は苦悶《くもん》して悲鳴を揚げ、右に左に枕を代えて、長き黒髪地を掃きしが、最後の一撃は手元狂いて打処《うちどころ》や悪《あ》しかりけむ、うむとのけぞりて渠《かれ》は絶せり。 「ほい。」「これは。」と二人は吃驚《びっくり》。  お丹は脈を伺いて、「ああ失策《しまっ》た。」と叫びしが、気を変えて冷笑《あざわら》い、「おい婆様《ばあさん》、お前の口に合うように料理をしたばかりに、とうとうこの嬢《こ》を殺したよ。」  といいつつ震えている二人を顧み、「あのう、押入に繋《つな》いだ車夫《くるまや》を出してやんな。おい婆様《ばあさん》。」  老婦人を後目《しりめ》に懸け、「もう用はこれなし、帰《けえ》してやる。」  駿河台のお邸にては、夜《よ》に入《い》りても御前様の御帰館無きより、心当《こころあたり》を問合せ、御親類中へ使者を向くるに、いずくにも見えさせたまわず、皆目|御立寄《おたちより》これなきよし。  さては珍事じゃ大変じゃと、邸内一統|煤掃《すすはき》という見得で騒出《さわぎだ》し、家令はまず何はともあれ、警察へ届けて出る。御奥の老女は御神籤《おみくじ》を下《おろ》しに行《ゆ》く。  主《しゅう》思《おもい》のお婢《はした》はお稲荷様《いなりさま》へお百度を踏みにと飛出して、裏町へ回り焼芋を二銭買い、袂《たもと》へ納《い》れて御堂《みどう》に赴き、お百度をいいまえに歩行《ある》きながらそれをむしゃむしゃ、またと得難き忠臣なり。  家扶は探検使として差向けらる、書生二人を引従《ひきしたが》え、御前様のお出先は、何しろ四谷、最寄《もより》近所は草を分けても穿鑿《せんさく》せんと、杖《ステッキ》を携え、仕込杖《しこみづえ》を脇挟み、さも事々しく打立ちてお茶の水を渡ると家扶の武智「敵は本能寺じゃ、続き召され。」と芳原さしてどろんとなる。  府下の処々《ところどころ》より旧藩士の面々が御家の大事と早車にて乗附くる。御出入《おでいり》の商人、職人、盆栽のお見出しに預りたる植木屋までが、驚破《すわ》鎌倉と馳《はせ》参じ、玄関狭しと詰懸け詰懸け、夜《よ》一夜《ひとよ》眠らで明くる頃、門内へ引込みたる母衣懸《ほろがけ》の人力車、彼はと見れば、こりゃどうじゃ。 「御帰館《おかえり》――」と叫ぶにつれ、老婦人|衝《つ》と出《い》でて、式台に成らせたまえば、一同眼の覚めたる心地して、万歳を哄《どっ》と唱え、左右にずらりと平伏するを、見向《みむき》もせで、足疾《あしばや》に仏室《ぶつま》の内、隔《へだて》の障子を閉切りたまいぬ。 「はて、面妖《めんよう》な。只事《ただごと》でない。」と家令を先に敷居越し、恐る恐る襖《ふすま》を開きて、御容顔を見奉れば、徹夜の御目《おんめ》落窪《おちくぼ》みて、御衣服《おめしもの》は泥まぶれ、激しき御怒《おいかり》の気色|顕《あらわ》れたり。 「はッ恐れながら。」と冒頭《まえおき》して、さて御機嫌を伺えば、枯れたる声を絞らせたまい、「退《さが》りや、退りや。」と取っても附けず。  家令は少しくにじり出で、畳を額に埋《うず》みながら、「これは仰《おおせ》とも覚えませぬ。一晩御帰邸相成りませぬで一統の者の心痛いかばかり、まずは御安泰にて恐悦に存じまする。さりながら御顔の色も尋常《ただ》ならず、一同安心のなりまするよう、仔細《しさい》御申聞《おんもおしき》けのほどを、はッはッ。」とさようしからばで言上するのを、老婦人は皆まで聞かず、「退りやと申すに。」「はッ御意に逆いまするか、しからば是非に及びませぬ。」と家令は居直り、「御目通《おめどおり》叶《かな》わぬ遠慮さっしゃい。」と郷右衛門めかしておおせを伝え、直ちに御前を退散して、御供の車夫に様子をたたけば、三吉がらてきという鬱《ふさ》いだ顔色、ほっとせし気味にて長歎息《ためいき》吐《つ》き、「何だってお前様《まえさん》、滅茶苦茶に真闇《まっくら》だあ、どうも人間|業《わざ》じゃねえぜ。己《おら》あ恐怖《おっかな》かったのなんのって、お前様|対手《むこう》が天狗だと名告《なの》るから堪《たま》るめえじゃねえか、いまだに震《ふるい》が留まらねえや。」とがたがた胴震、「ね、この通りだ。全体|己《おら》あ呼吸《いき》があるのかよく見てくんねえ。生きていようか、ねえ、おい。」  と他愛《たわい》の無きこといい寝入に前後も知らず早や鼾《いびき》。仔細は更に解らねども怪我も無ければまず安心と、上下|一呼吸《ひといき》吐《つ》く間もあらせず、眼《まなこ》鋭く、頬《ほお》瘠《や》せて髯《ひげ》蓬々《ぼうぼう》と口を蔽《おお》い、髪は蓬《おどろ》と乱懸《みだれかか》りて、手足の水腫《みずぶくれ》に蒼味を帯びたる同一《おなじ》ような貧民一群、いまだ新らしき棺桶《かんおけ》を、よいしょと背負込《しょいこ》み、門の内に入《い》ると斉《ひと》しく、一人が巻持てる紙旗を颯《さ》と開けば、(塚町光子様|御遺骸《ごいがい》)と墨黒に書きたるを、真先《まっさき》に押立てて、憚《はばか》る色なく、玄関に横附にして異口同音、「頼む、頼む。」 「どうれ。」と出て来た取次はこの体《てい》を見て呆果《あきれは》て、ただもう「えッ。」と謂《い》いたるのみ、蛙のごとく眼をぱちくり。「何でも可《い》い。」「隠居殿が御承知だ。」「鮫ヶ橋から奥様の死骸を届けに来たのだ。」「ぐずぐずせずに取次げやい。」と口々に呼ばわれば、「何だ何だ騒々しい。」と書生二人飛んで出《いで》しが、あまりのことに辟易《へきえき》して、茫然《ぼうぜん》と見物せり。 「ええ華族様は気の長いもんだ。」「素直に待ってちゃあ埒《らち》が明かねえ。」「蹈込《ふんご》め。」と土足のまま無体に推込《おしこ》む、座敷の入口、家令と家扶は襷《たすき》を綾取《あやど》り、袴《はかま》の股立《ももだち》掻取《かいと》りて、大手を広げて立塞《たちふさが》り、「汝《うぬ》、昼盗賊《ひるどろぼう》狼藉者《ろうぜきもの》。」「さあ一足でも入るが最後、手は見せぬぞ。」  と叱附《しかりつ》くるを耳にも懸けず、口を揃え、 「やいやい隠居はどこへ隠れた、昨夜《ゆうべ》の死骸を持って来たぞ。受取れ受取れ。」と呼ぶ声、隅から隅まで鳴渡る。  家令家扶堪えかね、目配《めくばせ》して、「山本、熊田、其奴《そやつ》等|撲《たた》け。」と昔取りたる杵柄《きねづか》にて柔術《やわら》も少々心得たれば、や、と附入りて、えい、といいさま、一人を担いで見事に投げる。  これに気を得て勇《いさみ》をなし、二人の書生は腕を叩き拳《こぶし》を揮《ふる》うて躍懸《おどりかか》れば、撲《う》たれぬ前《さき》に、「あ痛《いつ》、」「お痛《いて》。」と皆ばたばた。  算を乱して仰向《あおむけ》にどたりと倒れ、畳を蹴立《けた》て、障子を揺《ゆすぶ》り、さア殺せ、苦《くるし》いわい、切ないわい、死ぬぞ、のたるぞ、と泣喚《なきわめ》くに、手の附けようもあらざれば、持余したる折こそあれ、奥にて呼ぶ声、叫ぶ声、廊下をとどろと走る音、襖《ふすま》の開閉《あけたて》騒がしく、屋根を転覆《かえ》した混雑に、あれはと驚く家令の前へ、腰元一人|転《こ》けつ、まろびつ、蒼くなりて走り出《い》で、いきせき奥を指さして、 「大《た》、大《た》、大変です。もし、御前様が御自害じゃ。」 「あ!」と家令は腰を抜かす。  疫病神どもこれを聞くより、そら遁《に》げろと、跳起《はねお》きて、棺は棄置き、雲を霞。  鮫ヶ橋に馳《はせ》戻りて、一部始終を告げ知らせばお丹、「ふむ。」といったきり。しばらくものも謂わざりしが、やがて歎息して、「ああ、遣過ぎた。あの婆様《ばあさん》もさすがだの、わざと私が殺してみせて、活《い》かして光子|様《さん》を棺に入れて駿河台へやったのは、隠居がいくら強情でも、柔順《すなお》に宅《うち》へ入れるであろうと思った思案は浅かったよ。その身に懸《かか》ったことからして、あの婆様が死んでみりゃ、可哀そうに光子様はあれっきり……チョッ惜《おし》いことを。」  光子は尼になりきという。  麹町の華族、小浜正道氏の門内に、ひたと犬の鳴きたる夜《よ》あり。番人幾たびも見巡《まわ》りしが、何事も無くて夜は明けぬ。  門長屋の兵六老爺《ひょうろくおやじ》、大手を開けに朝|疾《と》く起出でて、眼と鼻を摩《こす》りながら、御家の万代《よろずよ》を表して、千歳《ちとせ》の翠《みどり》濃《こまや》かなる老松《おいまつ》の下を通りかかれば、朝霜解けた枝より、ぽたり。  兵六震い上りて、「おお、冷《つめて》え。老人《としより》に冷水《ひやみず》、堪《たま》ったもんじゃねえ。」と呟《つぶや》きつつ、打仰ぎて一目見るより、ひええ! と反《そ》って飛退《とびすさ》り、下駄を脱ぎて、手に持ちはしたれども、腰の骨の蝶番《ちょうつがい》がっくり弛《ゆる》みてただの一足も歩かれず、くしゃりと土下座して、へたへたになり、衣服《きもの》をすっぽりと引被《ひきかぶ》りて、南無阿弥陀仏《なむあみだぶつ》南無阿弥陀仏。  門外に靴音して、朝巡回《あさまわり》の巡査、松の木の縊死《いし》を認めて、戸を叩き、「開門、開門。」  と音訪《おとな》う処へ、新聞配達、牛乳配達、往来を掃きに出でたる向《むかい》の親仁《おやじ》、隣の小僧、これを見付けて寄集り、「なるほどこれじゃ、道理で恐しく犬が吠えた。」 「もし、こりゃやっぱり喰詰めたのでございましょうね。」 「さればさ、年寄だからどの道色気ではねえて。」と、くだらぬ下馬評。 「貴下《あなた》、この邸はいつでも晩《おそ》く戸を開けますか。」と巡査は問う。「いいえ、旦那、兵六という門番が名代《なだい》の疾起《はやおき》なんで、今朝はどうしたというのでしょう。」 「何でも敲《たた》くが可《い》い。」とんとん。老爺《おやじ》は念仏三昧《ねんぶつさんまい》。 「どうでもしてくれ。南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏。」とんとん、「勝手にしろさ、毀《こわ》さば毀せだ。南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏。」がんがんがん、「そりゃ、えらくなって来た。この腰が立つか立たぬか。もうこうなったら根競《こんくらべ》だ。南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏。」  外には焦《じ》れて二三人一同に、どしんどしんどしん。兵六老爺|胆《きも》を据えてびくともせず。いよいよ烈《はげ》しく敲立《たたきた》つるに、玄関をがらりと開けて、執事の日下部《くさかべ》、「門番の衆、門番の衆、開門。」と呼立つる。 「これは大変奥と表で挟討《はさみうち》だ。そりゃ可《い》いが天窓《あたま》の上にござるぶらんこがどうもはや、今朝は我《おら》が一生の厄難だ。殺さば殺せさ、南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏。」  呼べど叫べど答ざれば、「老爺《おやじ》め、また疝気《せんき》でも起しおったな。」走出でて門を開けばはや往来には人の山、津浪のごとく流込むに、「こりゃ何事じゃ。」と執事はきょろきょろ。「貴下《あなた》はお邸の方かな。松の木に縊死《くびくくり》があるで。」と巡査に謂《い》われてまた驚き、婆々《ばばあ》の死骸を見て三度|吃驚《びっくり》「やれ首を縊《くく》った、松の木が。」と慌《あわただ》しく触込んだり。 「凶事がある前兆《しらせ》じゃよ、昨夜《ゆうべ》は夢見が悪かった。早速|護摩《ごま》でも焚《た》かせねばお邸から縊死《くびくくり》を出してどうするものじゃ。」と令夫人《おくさま》は大きに担ぐ。殿様のごときは黒くなりて、「一度あることは二度というぞ。あの松の木今の間に伐《きり》倒せ。」と苛立《いらだ》ちたまう。  照子は腰元を召して、「門内に変死があるというね。どんな様子だかお前行って見ておくれ。」次第によらば、枯骨《ここつ》を拾わん思召《おぼしめし》、慈善家は違ったものなり。  腰元やがて復命すらく、「乞食より汚穢《きたな》い婆々《ばばあ》です、さうして塩茄子《しおなすび》のように干乾《ひから》びておりますよ。おお、胸の悪い、私が今参りました時は死骸の懐中を検《しら》べておりました。もし、姫様《ひいさま》書附がございましてね、町所《ちょうどころ》が、ああ何とやら、皆《みんな》が申しましたっけ。何でも鮫ヶ橋の者だそうで、名が……そうそう黒瀬ぬい。」「黒瀬ぬい――私は聞いたような。」としばらく考え、「あのそれじゃ。」と顔|真蒼《まっさお》。 「おや、御存じ。」と腰元に顔を見られて少しく狼狽《うろた》え、「直ぐ出懸けるよ。」とふいと立つ。「どちらへ。」「深川様のお邸まで。」「それではお召替遊ばしまし。」「なに、これで可い。」と紫地の行燈袴《あんどんばかま》、学校行の扮装《いでたち》そのまま。  もはや時刻と例のごとく、車夫は玄関に待懸けたり。照子はわくせく気を急《あせ》らし、腰元附添い駈出《かけい》でて、永田町へ…… 「御急ぎッ。――」  門内の群集を分けて車上の照子は、老婆の死骸に面《おもて》を背けつ、それより深川家の式台まで矢を射るごとく乗附けて、かねて別懇のなかといい、殊に心の急《せ》きたれば、案内も謂《こ》わで夫人の居間。 「夫人《あなた》、今日は。」と立ちながらまず挨拶《あいさつ》。  綾子はぞろりと外出《そとで》の装《なり》、繻珍《しゅちん》の丸帯を今|〆《し》めて、姿見に向いたるが、帯留の黄金《きん》金具をぱちんと懸けつつ振返りて、 「おや、照子|様《さん》。飛んだ事ですねえ。」と先《せん》を取られて謂《い》いそそくれ、「え。」と照子は希有《けぶ》な顔色《かおつき》。 「私も今出懸けましょうと思って、御覧の通りちょいと支度をいたした処です、御一所にまいりましょうか。」  一つも解らぬことを対手《あいて》は丸呑《まるのみ》にして、承知之助、照子は呆れて、「夫人《あなた》どこへ、そうして何が、あの何でございますの。」  とぼっとしたことをいう。 「駿河台の御隠居様が、今朝急病で御逝去《おなくなり》なすったって。」「ええ。」「訃音《しらせ》がありましたよ。あら、貴嬢《あなた》は御存じではなかったの、まあ御坐り遊ばせ。」  と友禅の座蒲団《ざぶとん》を直して、桐火桶《きりひおけ》を推出《おしだ》したまい、 「何ですか大層お急《せ》きだことね。まア落着いて。」  と気を着けられて、照子はほっと呼吸《いき》、「夫人《あなた》、この間のね、秀の祖母様《ばあさん》というのはたしか。」「黒瀬ぬい。それがどうしましたえ。」と懸念げなり。 「夫人《あなた》どう致しましょう、その婆様《ばあさん》がね、家《うち》の松の木で首を釣ったの。」綾子も色を変じて、「ほんとうですか。」「今頃はどんなでしょう、私の来た時でさえ門の内は人で一杯。」と照子は後《うしろ》見らるる風情、そわそわして落着かず。  綾子はじっと俯向《うつむ》きしが、ややありて潜《ひそ》みたる顔を上げ、「照子|様《さん》、内証ですよ、高い声では申されぬが、駿河台の御隠居様の急病というのは、まあまあ表向《おもてむき》で、実は何か、鮫ヶ橋の方のものに間接にお殺されなすったようです。私共が願ってあすこへ行っておもらい申した、それから事が起ったそうで、申訳もありません、今の貴嬢《あなた》の御談話《おはなし》といいどうも私の考えでは、鮫ヶ橋は容易ならぬ処です。いつかそれ慈善会を打毀《うちこわ》した、あの恐しい女乞食も鮫ヶ橋の者ですよ。こう申せば何ですが、四ツ谷の空の一方には、妖《あやし》い雲が立上って穏《おだやか》ならぬ兆候《きざし》が見えて、今にも破裂しそうで、気に懸《かか》ってなりません。打棄《うっちゃ》っておいてはお互の身の上でしょう。私の思いますには、彼等の心の和《やわら》ぐように折角恩を被《き》せて、ねえ貴嬢。」と何やらん囁《ささや》かれしが、小声にて聞取れず。照子が辞して帰りし後《のち》、深川夫人は腕車《くるま》を命じ、所々方々奔走あり。流石《さすが》は綾子、半日にて多数の貴婦人を一致せしめし。  その結果。  寺院は随一の華主《とくい》なる豆府《とうふ》屋の担夫《かつぎ》一人、夕巡回《ゆうまわり》にまた例の商売《あきない》をなさんとて、四ツ谷|油揚坂《あぶらげざか》なる宗福寺に来《きた》りけるが、数十輛の馬車、腕車《わんしゃ》、梶棒《かじぼう》を連ね輪を駢《なら》べて、肥馬|嘶《いなな》き、道を擁し、馭者《ぎょしゃ》、馬丁《べっとう》、車夫の輩《ともがら》、手に手に桝《ます》を取りて控えたる境内には、一百有余の俵を積み、白米|筵《むしろ》に山をなせり。  音楽|妙《たえ》に、読経の声清く、庫裡《くり》も本堂も人ならざる処無き意外の光景にひたと呆れぬ。  これ蓋《けだ》し深川綾子の建案にて、麹町の姫様《ひいさま》檀那《だんな》となり、あまたの貴婦人これを扶《たす》け、大法会を修《しゅ》して縊死《いし》の老婆を追善し、併せて鮫ヶ橋の貧民の男女を論ぜず、老少を問わず、天窓数《あたまかず》一人に白米一斗、無慮一百石を散ぜんとする未曾有《みぞう》の施行《せぎょう》なりき。 「へい、真平《まっぴら》御免なさい。少々どうぞ。」と豆府屋おずおず、群集を分けて入《い》らんとすれば、比々として排《なら》べる車に支《つか》えて、台を担うて歩むべからず。膝の辺《あたり》に手を下げて、「若い衆《しゅ》頼むよ、通してくんねえ。」車夫は傲然《ごうぜん》として、「べらんめえ、この混雑の中へ入《へえ》れるもんか、眼を開けてものをいいなよ。顔を洗えさ。邪魔だ邪魔だ。」と推出《おしいだ》しぬ。  豆府屋|蹌踉《よろよろ》して踏《ふみ》こたえ、「がみがみ謂《い》うない、こっちあ商売だ。」と少しく勃然《むっ》とする。「何い、商売がどうしたと。」大喝一番腕まくりして向い来《きた》るに、ぎょっとして飛退《とびすさ》り、怨めしげに法会を視《なが》めて多時《しばし》は去りもやらず、彼がその日の収入に大《おおい》なる影響あればなり。  時に年老いたる屑屋《くずや》あり。包を背負うたる洗濯|婆《ばば》あり。おなじく境内に入《い》らんとせしが、また車のために抑留さる。 「おやおや大変だ。弱ったことの、洗濯物をうんと仕上げて持って来たのに、こりゃまあどうじゃ。」と老婆は呟《つぶや》く。傍《かたわら》より件《くだん》の屑買《くずや》、「私《わし》ゃまた一日《ついたち》と十五日が巡回日《まわりび》で今日も遣《や》って来たのじゃが、この様子では入ってから商《あきない》は出来ぬらしい、やれさても。」と大きに愚痴《こぼ》す。 「え、薄汚い、悪臭い、貧乏神が夫婦連《めおとづれ》でやって来やあがった。とッとと退《の》いたり、邪魔にならあ。」と馬丁《べっとう》の喚散《わめきち》らせば、 「やれやれ情《なさけ》ない、のう、お前様《まえさん》。」老爺《おやじ》頷《うなず》き、「御慈悲をば頼んでみるじゃ。」と二人は土下座をして平突張《へッつくば》り、「はいはい申兼《もうしかね》ましたことなれど、この洗濯賃を的《あて》にして、今日はまだ御膳《ごぜん》を頂戴《いただ》きましねえ。」「私《わし》も今日が書入日《かきいれび》でござりまする。この御寺に、月に二斎を楽《たのし》みにいたしております。どうぞ一番《ひとつ》御上人様へ御取次下されまし。」  皆まで謂わせず、「何だ御取次い、糞でも啖《くら》え、華族様|御直《おじき》の馬丁だわ。やい、門番扱いにしやあがる。死損いめ。」妙な処で威張ったもの。  老婆は額を地に擦付《すりつ》け、「はいはい、誠に早や推付《おしつけ》がましゅうございまするが、御見懸け申せば、はいはい、どうやら御施米《おせまい》がござる様子、少々ずつ御遣し下されまし。」「へい、御願《おねがい》でござりまする。」と二人は手を合わせて拝みぬ。  馬丁|面《おもて》を和《やわら》げて、「ふん何か、きさま達は鮫ヶ橋の者か。」こちらは正直「いえ、青山でござりまする。」「私は麻布の今井町でござります。」「ン、それでは不可《いけ》ねえ。なあおい。」と謂えば一人が頷き、「今日は鮫ヶ橋に施行が出るんだあ、他所《よそ》のものじゃ埒《らち》があかねえ。」 「そうおっしゃらずに。」「もし御慈悲。」「ふん。」と鼻を空にして構い附けず。主命を辱しむること、見よ、かくのごとし、既に仁恵といういずくんぞ越人《えつじん》と秦人《しんじん》とを分たん、されどもこれを則《おきて》と謂わば、また論ずるに足らざるなり。  二人は取附く島も無く、落胆《がっかり》して、「ああ情《なさけ》ない、我《おら》あ素手では帰《けえ》られましねえ。」「私《わし》もさ今日を的《あて》にして昨夕《ゆうべ》から何も食わねえ。」と声を放ちて泣き出《いだ》せば、 「やい、愚図々々してるとこうだぞ。」足を揚げて老爺《おやじ》を蹴飛ばし、襟を掴《つか》みて老婆を突遣《つきや》る。地に転《まろ》びてようよう起《た》ち、力無ければ争い得ず、悄然《しょうぜん》として立去るを、先刻《さき》より見たる豆府屋は、同病相憐の情に堪えず、 「こう老爺様《じいさん》まあ待ちねえ、婆様《ばあさん》ちょいと。」と呼留めて、売溜《うりだめ》の財布より銅貨四銭|取出《とりいだ》し、二人の手に頒《わか》ち与えて、「親方持だから資本《もとで》へは手が出せぬ。余りちっとだが芋でも買いねえ。」二人は再三辞退して、ようやくこれを受納め、「ああ、お若いに御奇特な。」「やれ嬉しや、難有《ありがた》い。」  と打って変って喜悦の涙、襤褸《つづれ》の袖を分ちけり。  時既に黄昏《たそがれ》ぬ。正午頃より今に至るまで、米を計りて待構えたる鮫ヶ橋の貧民等恩に浴せんとて来《きた》る者無く、貧童一|人《にん》の影だに見えず。さなきだに葬礼法会ありしと聞けば、魚《うお》の腸《はらわた》に寄する鳶《とび》のごとく十里を遠しとせざる輩《やから》が、しかも丁寧に告知らせしに、召《めし》に応ぜざるはそもいかに、貴婦人方は本意《ほい》なげなり。  心利きたる馬丁《べっとう》等、素早く坂を駈下《かけお》りて、谷町通に大音に、「御救米《おすくいまい》が出るになぜ来《こ》ない。」「下され物だ下され物だ。辞退は失礼に当るぞ。」「早く出ろ、直ぐに来い。」と声|嗄《か》るるまで触流すを、ござんなれと待居たる、究竟《くっきょう》の破落漢《あぶれもの》、軒下あるいは塀の蔭よりばらばらと飛出《とびいだ》して、お使番を引僵《ひきたお》し、蹴って踏んで撲《くら》わして、「此奴等《こいつら》、人を乞食にしやあがる。へん、よしてもくりや、余計なお世話だ。」 「早く帰って汝等《うぬら》の主人に(あばよ)といえッて、お丹様のお言《ことば》だい。」  黄昏の頃油揚坂より続々として曳出《ひきい》だす、馬車、腕車数十輛、失望、不平、癇癪《かんしゃく》などいう不快なる熟字を載せたるは、これ貴婦人の帰途《かえるさ》にて、徒《むだ》になりたる百余俵の施与米を荷車に積みて逆戻り、笑止なりける次第なり。  轔々《りんりん》、轟々《ごうごう》、轣轆《れきろく》として次第に駈行《かけゆ》き、走去る、殿《しんがり》に腕車一輛、黒鴨仕立《くろがもじたて》華やかに光琳《こうりん》の紋附けたるは、上流唯一の艶色《えんしょく》にて、交際社会の明星と呼ばるる、あのそれ深川綾子なり。  夫人は過日の慈善会以来、世に不如意あるを知初《しりそ》めつ、かねてより人類の最下層に鬱積《うっせき》せし、失望不平の一大塊、頃日《けいじつ》不思議の導火を得て、世の幸福を受けつつある婦人級と衝突なし、今にも破裂爆発して、玉石一様ならしめんと、企つるをば密《ひそ》かに識《し》り、独り自身《みずから》胸を痛めて予防の策を講ずる折から、この度の出来事を好機として、暗に鮫ヶ橋の貧民等と和を整えん予算なりしに、天を怨み、地を恨み、宇宙間の万象を一切|讐敵《あだ》として、世にすねたる神仏の継子等《ままッこら》、白米一斗の美禄を納《い》れず、御使番を取拉《とりひし》ぎて表《あらわ》に開戦を布告せり。  もしそれ下界の阿修羅王、八万四千の眷属《けんぞく》を率《い》て、蒼海《そうかい》を踏み、須弥山《しゅみせん》を挟《さしはさ》み、気焔《きえん》万丈《ばんじょう》虚空を焼きて、星辰《せいしん》の光を奪い、白日闇《はくじつあん》の毒霧に乗じて、戟《ほこ》を掉《ふる》い、斧《おの》を振い、一度《ひとたび》虚空に朝せんか、持国広目ありとというとも、これよりして多事ならんと、思去り思来たりて、綾子は車上に憂悶《ゆうもん》せり。  夫人は瞑目《めいもく》沈吟《ちんぎん》して、腕車はいずこを走るやらんしばらくは現《うつつ》なり。 「ええッ此奴《こいつ》。」と度外れの大声に耳を驚かして眼を開けば、梶棒《かじぼう》をがたりと下《おろ》して、「夫人《おくさま》提灯《ちょうちん》を点《つ》けますからちょいとどうぞ。」と車夫の吉造、婦人《おんな》を一人輪の下に轢《ひ》かんとせし、ようよう車を踏留《ふみとど》め、胆《きも》を潰《つぶ》せしむかばらたち、燐寸《マッチ》にあたりて二三本折っぺしょり、ますます苛《いら》ち、「命知らずの馬鹿者め、何だって往来に坐ってるんだ。我《おれ》が腕に覚えがあって旨《うま》く立停《たちど》まったればこそ、さもなけりゃ、頭を破《わ》るか、脛《すね》を折るか、どうせ娑婆《しゃば》の者じゃねえ、そりゃ我《おれ》だって暮合に無燈火《あかりなし》も悪かったけれど、大道|中《なか》に坐ってる法はねえ。」  と擦《こす》っては消し擦っては消し、ようよう点《つ》けたる提灯の燈明《あかり》に照《てら》せば、煉瓦《れんが》の塀と土蔵の壁との間なる細き小路に、窶《やつ》れたる婦人|俯伏《うつぶし》になりて脾腹《ひばら》を押《おさ》え、鞠《まり》のごとくに身を縮《すく》めて呼吸《いき》も絶ゆげに苦《くるし》めり。肩の辺《あたり》に負《おわ》れかかりて、茶褐色の犬一頭、飼主の病苦を憂慮《きづか》いてそを看護《みと》らんと勤むるごとし。  車夫は別に気にも留めず、「へい、お待遠様。」  と夫人に謝して再び梶棒を上げんとせり。  綾子夫人は、待てしばし、過日《いつか》も狸穴《まみあな》の辺《ほとり》にて在原夫人にかかりし事あり。その時|渠《かれ》は病者を見棄てて大きに面目を失いぬ。殷鑑《いんかん》遠からず、一歩を過《あやま》たば我はた無情の人にならんと、泥除《どろよけ》を叩きて口早に、 「ちょいとお待ち。」  押留めて、「吉造、見受けた処病気のようだよ。容体を診てやるが可《い》い。」「およしなさいまし。この頃は乞食が憐《あわ》れっぽく見せようために、ああやっちゃあ誑《だま》しますよ。」「そういうことをいうものではない。可いから聞いてご覧。」  とたしなめられて不承々々、「こうこう夫人《おくさま》のお声がかりだ。空《あだ》おろそかには思うめえぜ、どうしたのだな。え、おい、どこか悪いか。」  悩める婦人は顔も得《え》上げず、病苦に声も切れ切れにて、「あ痛《いつ》、あ痛々々、冷えましたせいか差込みまして……」「ふむ、持病の癪《しゃく》か。よくあるやつだ、家《うち》はどこだい。」「はい、家と申しては、……別にどこも。」と呼吸《いき》の下にて答えたり。 「そりゃ、ござったわ。いやにしんみりと持懸けたな。夫人《おくさま》油断なさいますな。慈悲を垂れると附上ってなりません。」夫人は頭《こうべ》を振らせたまい、「またそんなことを。可哀相に土の上では冷えて堪《たま》ったものではない、行って腕車《くるま》を雇っておいで、家《うち》へ連れて行って介抱しよう。」蓋《けだ》し思わくのあればなり。 「滅相なことをおっしゃる、飛んでもない、こんな者をお邸へ入れますのは、疫病神を背負込《しょいこ》むと同《おんな》じです。ままよ、癪の虫を揉殺《もみころ》して立処《たちどころ》に癒《なお》してやる、まんざら嘘でもないようだ。全体癪の介抱は、色男の儲役《もうけやく》だが、対手《あいて》がこの状《ざま》ではおさまらねえ。手を入れたら虱《しらみ》を揉《も》み潰《つぶ》すくらいが取柄だ。弱ったな。」  と呟《つぶや》きつつ、提灯差附け凝視《みつ》むれば、身装《みなり》こそ窶々《やつやつ》しけれ、頸筋《えりすじ》の真白きに、後毛《おくれげ》の匂《におい》こぼるる風情、これはと吉造首を捻《ひね》って、「しっかりせい。」襟よりずっと手を差入れ、「それ、こたえたか。」ぐっと圧《お》す。  婦人は苦《あっ》と身悶《みもだ》えして、仰向《あおむけ》に踏反返《ふんぞりかえ》り、苦痛の中にも人の深切を喜びて、莞爾《にっこり》と笑める顔に、吉造魂飛び、身体|溶解《とろ》け、団栗眼《どんぐりまなこ》を糸より細めて、「夫人《おくさま》、こりゃ是非お助け遊ばせ、きっといい人の落魄《おちぶれ》たんです。」  綾子は頷《うなず》き、「早く腕車《くるま》を見て来ておくれ。」「いえ、今が大事な処、ここで手を放すと反《そ》ってしまいます。」「だって、お前、いつまで道端でそんなことを。これ。」「へい、もう少々。どうも放し悪《にく》い。」「早くおしよ。」ときめつけられて詮方《せんかた》なく一散に駈《か》け出《いだ》し、口の裡《うち》で、「御自分が独身《ひとりみ》だと思って、ちとお焼芋の方だ。どうもならねえ。」  室数《まかず》多けれども至って人《ひと》寡少《すくな》なる深川の館《やかた》は、その夜より賑《にぎ》わしくなれり。綾子が厚き情《なさけ》にて、ただにかの婦人のみならず、なお彼に附随せる犬をも加《あわ》せて養いぬ。  新らしき食客は、暖かき褥《しとね》に臥《ふ》し、良薬を賜わりて、疾病直ちに癒《い》えたり。渠《かれ》は旧《もと》旗本の嬢《むすめ》なりき、幼にして両親を失い、嫁して良人《おっと》を失い、人に計られて財《たから》を失い、餬口《ここう》のために家を失い、軒下に眠ること実に旬余、辛酸を喫して癪《しゃく》に閉じられてすでに絶せんとせるとき、綾子のために救われしなり、と渠は語りぬ。  翌日早朝、犬はいずくにか出行《いでゆ》きて、半日見えず、午後に到りて帰り来《きた》りぬ。 「夫人《おくさん》、好事門を出でずと申しましたけれども、ああ、善きことは致したいもの、これ御覧《ごろう》じまし。」と三太夫が書斎に齎《もたら》したる毎晩新聞。  綾子手に採り披《ひら》き見れば、深川夫人乞食を救う、と標題《みだし》に圏点《けんてん》を附してその美徳を称讃し、気味悪きまで賞立《ほめた》てたり。  綾子は莞爾《にっこり》、「こんなに謂われてはかえって迷惑、あの女はどうしているね。」「何か頻《しき》りに働いておりまする。」「幸《さいわい》、人手もなし、眼を懸けて使うが可いよ。」「はッ、はッ。」  綾子は急に思出して、独言《ひとりごと》のように、「あ、御隣家《おとなり》へ御見舞に上らねばなるまい。」三太夫は呑込顔、「ありゃ、御沙汰止《ごさたやめ》に遊ばされい。大木戸の御前の御病気には、何かその、婦人が一切禁物だと申すことで、小間使が二人、先日|宿許《やどもと》へ下げられました。御台様《みだいさま》も一間なる処に御籠《おこもり》の様子。御枕許御用人の衆が羽織|袴《はかま》で詰めおるげにござりまする。たとえ御見舞にお越し下されましても、なかなか通すことではござりませぬ。宜《よろ》しく拙者めにおおせ附けられまし。」と真顔でいう。  綾子は顔を赧《あか》めて、「そんなら私は見合せよう、何ぞを見計らっての、其方《そのほう》がお伺いに参るように。」  とあれば、「はッ、――はッ。」とお受申して、次の間へ辷出《すべりい》でぬ。  深川夫人の廃物利用はすこぶる好果を奏したり。女乞食の掘出しもの、恩に感じて老実《まめ》々々しく、陰陽《かげひなた》なく立働き、水も汲《く》めば、米も磨《と》ぎ、御膳《ごぜん》も炊けば、お針の手も利き、仲働《なかばたらき》から勝手の事、拭掃除まで一人で背負《しょ》って、いささかも骨を惜《おし》まず。上下をすべて切って廻せば、水仕《みずし》のお松は部屋に引込《ひっこ》み、無事に倦飽《あぐ》みて、欠伸《あくび》を噛《か》むと雑巾を刺すとが一日仕事、春昼|寂《せき》たりという状《さま》なり。  渠がこの家に来《きた》りし以来、吉造|垢《あか》附きたる褌《ふどし》を〆《し》めず、三太夫どのもむさくるしき髭《ひげ》を生《はや》さず、綾子の頸《えり》も撫《な》ずるように剃《そ》りて参らせ、「あれ、御髪《おぐし》が乱れております。お気味が悪くも撫附けましょう。」とは、さてもさても気の着いた、しかも無類の容色好《きりょうよ》し、ただ眼中に凄味《すごみ》を帯びて、いうべからざる陰険の気あり。「ああッ凄い。」と吉造|無暗《むやみ》に嬉しがり、三太夫は人相|早学《はやまなび》を眼鏡で覗《のぞ》き、「なる程、ただものでない相じゃ。」  日数《ひかず》経《ふ》れども旧《もと》を忘れず、身を謙《へりくだ》りてよく事《つか》うるまたなき心を綾子は見て取り、一夜《あるよ》お傍《そば》近く召したまいて、「妙なことを訊《き》くようだが。……」と言淀《いいよど》みし声を密《ひそ》め「お前、子を持ったことがあるのかい。」  婦人《おんな》は冷《ひやや》かなる眼をぱっちり、綾子は射られて慄然《ぞっ》とせり。微笑を含みて、「はい、お薬も存じております。」 「嫌なことをいう人だ。」綾子はその無礼を怒りて顔を背けつ、机に凭《よ》りぬ。  一家声なし、雨|蕭々《しょうしょう》。  翌朝《あくるひ》になると三太夫、婦人《おんな》を呼附け、言葉も容子《ようす》も改《あらたま》りて、「暇《ひま》を遣る。」と藪《やぶ》から棒。  婦人《おんな》は愕《おどろ》きたる状《さま》にて、「何ぞ不調法でもいたしましたか、誠に行届きません不束者《ふつつかもの》、お気に入りませぬ事がございましたら、そうおっしゃって、どうぞ御勘弁下さいまし。」「何かは存ぜぬが夫人《おくさま》の御意じゃ、柔順《すなお》にお受け申して退散せい。」と御家老真四角なり。  婦人《おんな》は悄然《しょんぼり》、「もう一度|夫人《おくさま》に御執成《おとりなし》遊ばして、お許されまするよう、恐入りますが、貴老《あなた》から。」「罷《まかり》成らぬ。別に何を毀損《こわ》したというではなし、ただ御家風に合《あわ》ぬじゃで、御詫《おわび》の仕様も無いさ。」「でもございましょうが、そこをどうぞ。」「うんや。」  と頑として肯《がえん》ぜず。  婦人《おんな》は気色を変えて、「老爺様《じいさん》。」 「なにいッ。」と引込《ひっこ》んだ眼を刮出《むきだ》す。 「私《わっし》あ行《ゆ》く処が無《ね》えんだよ。宿無しだッてことはお綾|様《さん》承知の上だ。こう、お店《たな》の嫁じゃアあるまいし、家風に合わぬもよく出来た。お国猿め、江戸へ来たらちとものいいに気を着けねえ。」と満腔の毒を一瀉《いっしゃ》して浴《あび》せかくる。 「何と申す!」三太夫は驚きながらも居丈高《いたけだか》。 「行く処が無えというんだよ。」「や、此奴《こいつ》太々《ふてぶて》しい、乞食《こつじき》非人の分際で、今の言草は何だ。夫人《おくさま》の御恩を忘れおったか、外道《げどう》め。」と声を震わし、畳を叩きていきまけば、ニタニタと北叟笑《ほくそえみ》、「フフン、御恩ゴオンと、ニコライの鐘みたいにいけすかない音《ね》をお出しでない。御恩だけのことはこっちでもしてある。お前さん、言訳ばかりの小さな眼でも盲目《めくら》でないから見ていたろう。私《わっし》あね、御飯《おまんま》を食べるだけはきちんと働いておいたつもり。昔はちょいとした恩義に感じて田舎の御家来が、生命《いのち》までも棄てたものさ。ありゃ、主人が狡猾《こうかつ》で、旨《うま》く正直なものを操ったのさ、考えてみたがいい。たかがぽんぽち米《まい》少々で命と取換えてたまるものか。私はもとより忠義でないが恩知らずとはいいなさんな。するだけのことをすれば可いのさ。何と老爺様《おじいさん》一言も無かろうね。」とまくし立てて、怯《ひる》むところへ単刀直入、「しばらく足を洗ったために、乞食|夥間《なかま》を省《はぶ》かれた。面桶《めんつう》持って稼がれねえ。今この家を出るが最後、人間の干物になります。皆これも夫人《おくさん》の御庇《おかげ》だから、何も彼もそっちが懸合《かかりあい》だ、飼殺《かいごろし》にしておくんなさい。」と足を出したる高ゆすり。  三太夫は胸へ込上げ、老人《としより》のあせるほど、気ばかり苛《いら》ちてものもいわれず、眼玉を据えて口をぱくぱく、芥《あくた》に酔うたる鮒《ふな》のごとし。 「老爺《じじい》を対手《あいて》じゃ先行《さきゆき》がしない。可《よ》し、直接《じかづけ》に懸合《かけあ》おう。」とふいと立って奥へずかずか。「ま、ま、待ちおれ汝《うぬ》。」と摺下《ずりさが》りたる袴の裾《すそ》踏《ふみ》しだき、どさくさと追来る間に、婦人《おんな》は綾子の書斎へ推込《おしこ》み、火桶の前に突立《つった》てば、振返る夫人の顔と、眼を見合せて佶《きっ》となりぬ。「姉様《ねえさん》、談話《はなし》がある、座蒲団《ざぶとん》を敷いておくれ。」 「汝《おのれ》はな汝はな。」と武者振附く三太夫を突飛ばして、座蒲団を引張出《ひっぱりだ》し、棒ずわりの[#「棒ずわりの」はママ]膝をくずして、 「狆《ちん》や猫でも蒲団に坐るよ。柔かい足を畳にじかでは痛いやだね。御免なさいよ。」と帯の間より煙草入《たばこいれ》を抜出して、「ちょいと憚《はばか》りですが、そこいらに、煙管《きせる》は無いかね。」 「やい、不貞腐《ふてくされ》。」と車夫の吉造、不意に飛込んで、婦人《おんな》の髻《たぶさ》鷲掴《わしづか》みにしてぐいと引けば、顔をしかめて、「あ痛《いつ》、つつつつつ」と拳《こぶし》に手を懸け、「無体な、何をするんだねえ。」 「何も彼もあるものか、様子は残らずあっちで聞いた。夫人《おくさま》の御居室《おいま》へ踏込みやがって、勿体ない。人も無げなことをしやあがる。愛想の尽きた阿魔ッ女《ちょ》だ。汝《うぬ》を贔屓《ひいき》に目が眩《くら》んで、今までは知らなかったが、海に千年、川に千年、劫《こう》を経た古狸、攫出《つかみだ》してお汁《つけ》の実にする、さあ失《う》せろ。」と力一杯。 「ああ豪《えら》い、お前様《まえさん》は男だから力があるよ。負けました負けました。おほほほほほ、強い人だね。」と平気で笑えば、吉造少しく拍子抜《ひょうしぬけ》、「一体|汝《うぬ》あ何者だい、尋常《ただ》の鼠《ねずみ》じゃなさそうだ。」「あい、私《わっち》あ、鮫ヶ橋で丹という、金箔《きんぱく》附の乞食だよ。」  言いもあえず膝立直して、「じゃむこうじゃむこう。」と口笛|鏘鏘《しょうしょう》。  綾子夫人は蒼《あお》くなりぬ。 (じゃむこう)は召しに応じて、大《おおい》なる顔を、縁側に擡《もた》げて座敷を窺《うかが》い、飜然《ひらり》と飛上りて駈来《かけきた》り、お丹の膝に摺《すり》寄れば、髻《もとどり》を絡巻《からま》ける車夫の手を、お丹|右手《めて》にて支えながら、左手《ゆんで》を働かして、(じゃむこう)の首環《くびわ》を探り、紙片《かみきれ》を引出して、悠々と皺《しわ》を伸《の》しつ、「そんなにしなさんな、頭痛がすらあね。今出て行くよ、まあ、お待ち、引かれ者の小唄とやらを、ここでちょいと吟じよう。」 [#ここから4字下げ] 深川綾子の先達て、女乞食を救いたるは、廃物を買いて虚名を売り、給金無しの下婢《かひ》を得て奇利を占めんず政略なりし、今また経費を節減せんとて、行《ゆ》く処なく帰る家なき女乞食を追出《おいい》だせり。 [#ここで字下げ終わり] 「なんとどうでございます。声が悪くって節は附かぬが、新聞種には面白いよ。大方こんな事だろうと、昨夜《ゆうべ》の中《うち》に拵《こせ》えておいた。」  綾子、「それは何です。」  お丹、「毎晩新聞の材料で、探訪員の原稿です。」  綾子は太き呼吸《いき》を吐《つ》き、「ああ是非がない。吉造、その手を放しておやり、三太夫、その婦人《おんな》は私を殺すよ、しかし大切なお客様だ。」  お丹は勝手次第に綾子の箪笥《たんす》より曠着《はれぎ》を取出《とりいだ》し、上下《うえした》すっかり脱替えて、帯は窮屈と下〆《したじめ》ばかり、裳《もすそ》を曳摺《ひきず》り、座蒲団二三枚積重ねて、しだらなき押立膝《おったてひざ》、烟草《たばこ》と茶とを当分に飲み分けて、飽けば火鉢の縁《へり》に肱《ひじ》つき、小楊枝《こようじ》にて皓歯《しらは》をせせりながら、「こう、お松どん、何か食べてえものは無えか。好んでみや、遠慮は不沙汰だ。なに、鰻丼《うなどん》だえ、相も変らずだの、五ツ六ツ誂《あつら》えて来るが可い。大盤振舞をしてやろう。さてとまずお台所お松の方《かた》の召上る物はぐい極《きまり》となったが、私は何にしよう。鰻の匂《におい》も鼻に附いて食いたくなし、鯛《たい》は脂肪《あぶら》濃し、天麩羅《てんぷら》はしつッこいし、口取も甘《あまっ》たるしか、味噌吸物は胸に持つ、すましも可いが、恰好《かっこう》な種が無かろう。鮪《まぐろ》の刺身は噯《おくび》に出るによ。こうだに因ってと、あるよあるよ。白魚《しらお》をからりッと煎《い》り上げて、鷹《たか》の爪《つめ》でお茶漬が、あっさりとして異《おつ》う食わせる。可いかい。この辺に無かったら、吉造を河岸《かし》へ見にやんな。ついでにお茶請の御註文が、――栄太楼の金鍔《きんつば》か、羊羹《ようかん》も真平《まっぴら》だ。芝の太々餅《だいだいもち》芳《かん》ばしくって歯につかず、ちょいといいけれど、路《みち》が遠いから気の毒だ。岡野のもなか[#「もなか」に傍点]にて御不承なさるか。そうそう藤村の鹿《か》の子が可い。風月堂のかすてらも悪《あ》しからず、引包《ひっくる》めて二両ばかり買うが可い。それから家《うち》の漬物はさっぱり気が無いの、土用|越《ごし》の沢庵、至って塩の辛きやつで黙らそうとは圧《おし》が強い。早速当座漬を拵《こせ》えて醤油《おしたじ》も亀甲万《きっこうまん》に改良することさ。」と朝から晩まで食|好《ごのみ》、食《くい》草臥《くたび》れれば、緞子《どんす》の夜具に大の字|形《なり》の高枕、ふて寝の天井の圧《おし》に打たれて、潰《つぶ》れて死なぬが不思議なり。  綾子はこれを見て見ぬふり、黙許して咎《とが》めざれば、召使のものは為《せん》術《すべ》なく、お丹の命令に唯々諾々《いいだくだく》。独り三太夫は御家の滅亡近きにあらんと、夜の目も合わず心痛なし、追放案を提出して、しばしば綾子に迫るといえども、ちと仔細《しさい》ありてと、おおするのみ。心はあかしてのたまわねど、太《いた》くもの思《おもい》に沈ませたまい、軽快|濶達《かったつ》なりし昨日《きのう》に似ず、憂鬱《ゆううつ》沈痛になりたまえば、どうして良かろうと、ご家来も呆れ果ててぞいられける。  誰《たれ》も天窓《あたま》のおさえ手なければ、お丹はいよいよ附上りて、我儘《わがまま》日に日に増長なし、人を人とも思わぬ振舞、乱暴狼藉言語に絶えたり。  一日珍しく、在原夫人、深川の館《やかた》に訪れぬ。  外出好《そとでずき》の綾子夫人が一室《ひとま》にのみ垂込めて、「ぱっとしては気味が悪い、雨戸を開け勿《な》。」といわるるばかり庭の面《おも》さえ歩行《ひろ》わせたまわず。毎夜々々湯を召すさえ物憂く見えたまえば、気鬱《きうつ》の疾病《やまい》や引出《ひきいだ》したまわむ、何か心遣《こころやり》の術《すべ》は無きかと頭《こうべ》を悩ます三太夫、飛んで出《い》で、歓迎《よろこびむか》え、綾子の居間に案内せり。  夫人も大きに喜びたまい、睦《むつま》じやかなる談話《はなし》の花を、心無くも吹散らす、疾風一陣障子を開けて、お丹例のごとく帯もしめず、今起き出でたる風情にて、乱れ姿に広袖《どてら》を引懸《ひっか》け、不作法に入来《いりきた》りて、御両方《おふたかた》の身近に寄り、突然《いきなり》匍匐《はらばい》になりて頬杖《ほおづえ》つき、貞子の顔を上眼にじろじろ。 「綾|様《さん》、こりゃどこのお婆様《ばあさん》。」  綾子は堪《たま》らず、「あれえ!」と血を絞る声を立てられしが、衝《つ》と座を立ちて駈出《かけい》だし、一室《ひとま》の戸を内より閉じて、自らその身を監禁せり。  貞子の方《かた》はいと不興げにそのまま帰らせたまいける。綾子は再び出で来《きた》らず、膳を進《まい》らせんと入行《いりゆ》きたる下婢《かひ》のお松を戒めて、固く人の出入を禁じぬ。  その後《のち》室内沈静にして、些々《ささ》たる物音も聞えぬ事あり、時ありては畳を蹴立てて噪《さわ》がしき響《ひびき》の起る折あり、突然、きいーきいーと悲鳴をあげて、さもくやしげに泣く音《ね》も聞ゆ。 「ああ、申訳のない事だ、御主人は女性《にょしょう》なり、我《わし》が一家を預りながら、飛んだ悪魔をお抱えあるを諫《いさ》めなんだが不念《ぶねん》至極、何よりもまずこの月の入用《いりよう》をまだ御手許《おてもと》から頂かぬに、かの悪魔めが食《くい》道楽、通帳《かよい》で取込んで借《かり》が山のごとし、月末にどしどし詰懸けられると、なんぼむこうが平民でも、華族じゃからって払わぬわけには行《ゆ》かぬ。十重二十重《とえはたえ》に囲まれては、老功な武者でも籠城《ろうじょう》がしにくいぞ。ええ情《なさけ》ない、お家の没落を見てどうしておめおめと生きておられよう、先殿《せんとの》への申訳、まッこの通り。」  と、三太夫はお丹へのつらあてに、眼鏡を懸けて刀を選出《えりだ》し、座を構え、諸肌脱ぎ、皺腹《しわばら》に唾《つば》をなすり、白刃《しらは》を逆手《さかて》に大音声、「腹を切る、止めまいぞ、邪魔する奴は冥土《めいど》の道連《みちづれ》、差違えるぞ、さよう心得ろ。」  と繰返して呼ばわれど、留《とど》めんとするものなし。「なに止められて堪《たま》るものか。故障の入らぬ内に、おおそうじゃ。」と切尖《きっさき》をちょいと中《あ》てて震上《ふるえあが》り、「武士が、武士が、」と歯切《はぎしり》して、ぐっとまでにはならぬけれど、ほんとに突いて、「うわッ、死《しん》だあ。」と疵《きず》を押《おさ》え、血眼《ちまなこ》になりて、皺枯声《しわがれごえ》を振絞り、「もう一抉《ひとえぐり》で死にます。この手の動くが最後でござる。ちょいとでもやれば直ちに死にます。ただほんのもう一抉。」と肩で呼吸《いき》。  障子の外には人気勢《ひとけはい》して、くすくす笑い、三太夫は大粒の涙ほろほろ、刀をからりと投棄てて、「切った割に血の出ぬは、むむ、今日は血を流すと、荒神様が祟《たた》る日だ。やれ六根清浄《ろっこんしょうじょう》、切腹をする日でない。」と御見合《おみあわせ》。  もとより親仁《おやじ》が一生の智慧《ちえ》を出したる茶番にて、お丹の心を挫《ひし》がんためのみ。仕方を見せて見物を泣かせる目算《つもり》のあてはずれ、発奮《はずみ》で活歴を遣って退《の》け、手痍《てきず》少々負うたれば、破傷風にならぬようにと、太鼓大の膏薬《こうやく》を飯粒にて糊附《はりつ》けしが、歩行《あるく》たびに腹筋《はらすじ》よれて、跛《びっこ》曳《ひ》き曳き、「あ痛《いつ》、あ痛。」その志よみすべし、(しかし馬鹿らしい。)  綾子が一室に籠《こも》りてより、三日目の夕まぐれ、勝手口の腰障子をぬっと開けて、面《つら》出す男、「姉御《あねご》、姉御。」と二人|連《づれ》。  来《きた》れる二個《ふたり》の眷属《けんぞく》は三界無宿の非人にて、魔道に籍ある屠犬児《いぬころし》、鳩槃荼《くはんだ》、毗舎闍《びしゃじゃ》を引従え、五尺に足らざる婦人《おんな》ながら、殺気|勃々《ぼつぼつ》天を衝《つ》きて、右の悪鬼に襖《ふすま》を開けさせ、左の夜叉《やしゃ》に燭《しょく》を持たせ、栄華の空より墜落して、火宅の苦患《くげん》を嘗《な》めつつある綾子を犯す乞食お丹、自堕落の態《てい》引替えて悪魔の風采《ふうさい》凜々《りんりん》たり。  綾子は照射入《さしい》れる燈火に射られて、呀《あ》と叫びて跳上りぬ。  屠犬児は衝《つ》と寄りて、綾子を捕えて押据えつ。お丹は襖を密閉して、夫人の前にむずと坐す。  綾子は頤《おとがい》を襟に埋《うず》めぬ。磨《みが》かぬ玉に垢《あか》着きて、清き襟脚|曇《くもり》を帯び、憂悶《ゆうもん》せる心の風雨に、艶《えん》なる姿の花|萎《しぼ》みて、鬢《びん》の毛頬に乱懸《みだれかか》り、俤《おもかげ》太《いたく》く窶《やつ》れたり。 「綾子|様《さん》、今私が改めて貴方《あなた》に御尋ね申したいは、先月の末頃までこの邸に勤めました、お秀という小間使ね、あれはどこへ参りました。」 綾子は震えぬ。  お丹は屹《きっ》と居直りて、「ああ、御返事はなりますまい、あの朝、大木戸伯と貴女《あなた》とが一つ閨《ねや》に居たところを、お秀がうっかり見着けたので、(綾子が、⦅お言いでないよ⦆を繰返して小間使を警《いま》しめし、あの件なるものすなわちこれなり。)直ぐその晩小浜照子に刺された事は知っている。あの女《こ》は幽霊の真似をして人を威《おど》して慰むような剽軽者《ひょうきんもの》ではございません。必ず誰かが教唆《きょうさ》して殺されるように仕組んだので、教唆したものは綾子|様《さん》、大木戸伯と貴女《あなた》の他《ほか》には、私に心当りは無い。もっとも御自分ではなさらないで、お秀がいやを謂《い》われぬ者を手先に使ってさせたでしょう。なぜだといえば、あの娘《こ》が活《い》きている中《うち》は、二人の寝覚《ねざめ》が悪いから、殺した、いや照子に殺させたに違いありません。ほんとうに許されないのは貴女です。人を殺しても守りたいほど、そんなに名誉が大切なら、なぜ不品行《ふしだら》をなさるんです。年紀《とし》は若し、容色《きりょう》は佳《よ》し、なるほど操は守られますまい、可《よ》し情夫《いろおとこ》が千人あろうと、姦夫《まおとこ》をなさろうと、それは貴女の御勝手だが、人殺《ひとごろし》をしても仁者と謂われ、盗人《どろぼう》をしても善人と謂われて、肩幅広く居なさるのが、それが私は憎いんです。一体|法網《ほうもう》を潜《くぐ》るものは、お天道様が罰する筈《はず》だけれど、それも片手落な事もあって、北向の家はいつもいつも寒いようでは、あてになったもんじゃない。私が今晩|唯今《ただいま》、貴女を罰してみせましょう。もとよりお秀を教唆《そそのか》して死地に陥《おと》したは貴女という推量ばかりで証拠は無いが、私は検事でもなく、判事でもございません、罪の軽重は論じない。ただ貴女が貴女の心に罪がこれだけあると思うほど、可い加減に罪を受けて、それだけ苦しめば可いのです。もしまた青天白日の御心なれば、平気でいらっしゃればそれで可い。誓って冤罪《えんざい》はお被《き》せ申しません。どれ、そんなら、雲を掴《つか》んで、裁判しようか。」  綾子夫人は半ば死して、半ば器械的に傾聴するのみ。 「それ手を貸しな。」と号令一発。  かねてより命じけむ、夜叉羅刹《やしゃらせつ》は猶予《ためら》わず、両個《ふたり》一斉に膝を立てて、深川夫人の真白き手首に、黒く鋭き爪を加えて左右より禁扼《とりしばり》、三重《みえ》襲《かさ》ねたる御襟《おんえり》を二個《ふたり》して押開き、他目《ひとめ》に触《ふ》らば消えぬべき、雪なす胸の乳《ち》の下まで、あらけなく掻《かき》あくれば、綾子は顔を赧《あか》めつつ、悪汗《おかん》津々《しんしん》腋下《えきか》に湧《わ》きて、あれよあれよと悶《もだ》えたまう。両の乳房を右顧左眄《とみこうみ》て、お丹はなぶり且つ嘲《あざけ》り、「ふむ、大分《だいぶん》大きくなった乳嘴《ちくび》にぼっと色が着いて、肩で呼吸《いき》して、……見た処が四月《よつき》の末頃、もう確かだ。それで可しと、掻合せてやんなよ、お寒いのに。」  両個《ふたり》はただちに手を引きぬ。  綾子は呼吸《いき》ある人形なりき。 「綾子|様《さん》、このごろの習慣《ならわし》で、寡婦《やもめ》の妊娠《はらむ》のは大変な不名誉です。それに貴女《あなた》のその腹《おなか》は誰の種だか、御自分で解りますまい。大木戸伯のか、百田時次郎、ね、御存じのあの好男子だか、どちらのだか知れますまい。下世話にいえば何とか講だ、恥の骨頂です。お秀の事はさて置いてと、この件《こと》を通信して明日の新聞に間に合うように直ぐ(じゃむこう)を走らせよう。深川夫人と名を載せます。」  綾子は聞くより慌《あわただ》しく、「私やもう何にも謂わない。さ、お前に殺されてやる。後生だからそれだけは止しておくれ。」  お丹は綾子を瞻《みまも》りて、「おいでなすった。そのお言葉があったら差上げようと、これを用意しておきました。御覧下さい海外旅行券です。交際社会のクインとまで謂わるる貴女《あなた》、今醜聞を新聞に出されては、とても日本にお出《いで》なさることは出来まいと思って、私がほんの寸志、これを進《あ》げますから、外国へお遁《に》げなさい。そうすればしばらく記事を猶予して上げましょう。そのかわり貴女が横浜を出帆する時、電報を懸けて下さい。それと同時に紙上へ載せます。東京市中は破《わ》れるばかり風説《うわさ》をしましょう。しかし、もう荒波の音に紛れて貴女の耳には入りません。」と早い手廻《てまわし》。  綾子は肯《き》かず、「いいえ、人が私を罵《ののし》る声は苔《こけ》の下まで定かに聞える。私の身体《からだ》をお前に遣るから、生爪を剥《は》いで火で焚《や》くとも、逆《さかさ》に釣って干殺《ほしころ》すとも、ずたずたに斬《き》って肉を啖《くら》うとも、血を絞って啜《すす》るとも、お前の手で出来るだけのことをして、どうでもして堪忍せよ。」と清《すず》しき御眼《おんめ》に暗涙あり。  お丹は冷然として、「不可《いけ》ません。私は探訪員の義務として、貴女のことを通信するのは、大変な価値《ねうち》があるので、今度の新聞|材料《だね》は人の生命《いのち》が要ったくらい。どうしても堪忍しません。ただ私の謂うことを聞いて海外へいらっしゃい。何なら露西亜《ロシア》へでもお出《いで》なさいな。」  綾子は呟《つぶや》くごとく、「それでは日本からまるで放逐されるようなものだ。」「まずそうですね。」と冷笑一番、「いやいや、どうしても外国へ行《ゆ》く気は無い、ではこうしておくれ。今ここで、お前の眼の前で、自……自殺をする。身体《からだ》は死んでしまうから、ただ名誉だけ助けておくれ。」  と肺肝を絞る熱涙滴然、もって人類の石心を和《やわら》ぐべく鉄腸を溶解《とか》すべし。  されど悪魔《サタン》は冷々然、「自殺をするほどの罪があると、貴女の心に思うのなら、いつでもなさいまし。毒薬を飲むの? 咽喉《のど》を突くの? 笛を掻斬《かきき》る時|後《うしろ》へ反《そ》ると、もう、手が利かなくなって死損います。背後《うしろ》から私が抱いていて上げましょう。モルヒネならちょうど死なれる分量を――御存じなくば見積って、私の掌《て》から飲ましてあげましょうか。」これ鬼言なり。  綾子は喜べる色ありき。「それではモルヒネ……お前目分量で飲ましてくれるか。」「お安い御用です、いつでも。」「そうしたらあの件《こと》を新聞へは出さないだろうね。」と念を推せば、思いも寄らぬ顔色《かおつき》にて、「いいえ、それはなりません。貴女が自殺をなさればまた一つ新らしい材料が出るから、実に愉快《おもしろ》い。深川綾子はこういう次第で自殺をしたと、その理由《わけ》を書添えて、早速通信をしてやります。(じゃむこう)がまた好《よ》い材料《たね》のある時は、嬉しそうに尾を掉《ふ》って勢《いきおい》よく駈《か》けるんですもの。」その心の冷《ひやや》かなること月を浴びたる霜のごとし、天下の熱血を氷化し得む。  綾子は再び独言《ひとりご》ち、「それでは死んでも仕様がない。」ああ窮の極、自殺も出来ず、「これ。死……死んでも不可《いけ》ないのか。」と最後の運命に問い試む。  お丹は世に最も深刻なる法官の音調もて、「死は万罪を償うという、甘《うま》い御都合には参りません。しかし御心中はお察し申す。それほど名誉が大切なら、なぜあの件《こと》を見られた当座に、飛かかって秀を殺してその手を返して咽候《のど》を[#「咽候を」はママ]切って、御自害をなさらなかった。外でもない、貴女の地位は罪を隠すことが出来るので、人殺《ひとごろし》をして今が今まで、賢夫人の名を保っていたのだ、それ其《それ》がごく宜《よろ》しくない。法律で罰することの出来ないものは、心の鬼に責めさせて、活《いか》さず殺さず、万劫《ばんごう》苦しめるのが一番良い。」  綾子は失望の悲声を放ちて、「ええ、どうしても仕様がないのか!」「はい死ぬことさえ出来ません。」  綾子は茫然瞳を据えて、石に化せるもの数分時、俄然《がぜん》跳起《はねお》きて、「ああ、懊悩《うるさ》い。」  身悶《みもだ》えして帯を解棄て、毛を掻挘《かきむし》り髷《まげ》を毀《こわ》せば、鼈甲《べっこう》の櫛《くし》、黄金笄《きんこうがい》、畳に散りて乱るる態《すがた》、蹴出す白脛《しろはぎ》裳《もすそ》に絡《から》み、横に僵《たお》れて、「ええ、悔しい!」柳眉《りゅうび》を逆立て、星眼血走り、我と我《わが》手に喰附けば、右の無名指に二個《ふたつ》嵌《は》めたる宝石入の指環《ゆびわ》を噛《か》みて、あっと口を蓋《おお》えるとたん、指より洩《も》れて鮮血《なまち》たらたら、舌を切りぬ。歯を折《くじ》きぬ。されども苦痛を感ずる体《てい》なく、玉の腕《かいな》を投出《なげいだ》して、空《くう》を抱《いだ》きて胸に緊《し》め附け、ニタリと笑いて、「時|様《さん》、おお、可愛いねえ。」  果《はて》は衣服を脱棄てて、媚《なま》めかしき乳も唇より流るる血汐《ちしお》に塗《ま》みらしつつ、 「御前、誰も見はいたしませんよ。ナニ、お位牌《いはい》の前だって、貴方《あなた》もねえ、死んだ夫は近視《ちかめ》でした。」  魔属もさすがに面《おもて》を背けぬ。  お丹は視《なが》めて平然たり。  綾子はまた膝を折りて端坐しつ、潸然《さんぜん》と泣出だしぬ、たちまちきゃっと絶叫して、転げ廻りつ苦《くるし》み掙《もが》き、 「秀、秀、私が悪かった。ああああ、苦しい。堪《たま》らない、あれッ、あれッ。」と跳《おど》り上りて室内を狂奔せるが、あたかも空中にものありて綾子を掴《つか》みて投げたるごとく、仰様《のけざま》に打倒れぬ。それより裸美人|寂《せき》として、大理石の像に肖《に》たり。  ただその心臓は音するばかり、波立つごとく顫動《せんどう》せるに、溢敷《こぼれし》きたる黒髪|揺《ゆら》ぎて、千条《ちすじ》の蛇《くちなわ》蠢《うご》めきぬ。  お丹は始終を見物して、「ふむ、狂人になるだけの罪を造った婦人《おんな》と見える。可《よ》し。」と呟《つぶや》きて、「さあ、帰ろう。」  門を出づる時、屠犬児《いぬころし》が、「姉御あんまりだ。」「酷《ひど》いじゃねえか。」とその気色を物色《うかが》えば、自若として、「なにまだ、あんな目に逢わせるのが二三人あるよ。」 [#地から1字上げ]明治二十八(一八九五)年七月 底本:「泉鏡花集成2」ちくま文庫、筑摩書房    1996(平成8)年4月24日第1刷発行 底本の親本:「鏡花全集 第二卷」岩波書店    1942(昭和17)年9月30日発行 初出:「北海道毎日新聞」    1895(明治28)年7月 ※「究竟」と「屈竟」、「お謂《い》いで」と「お謂《いい》で」、「わづかに」と「わずかに」、「瘠」と「痩」、「踏込」と「蹈込」の混在は、底本通りです。 ※底本の編者による脚注は省略しました。 入力:門田裕志 校正:染川隆俊 2020年10月28日作成 2022年9月10日修正 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(https://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。