金時計 泉鏡花 ------------------------------------------------------- 【テキスト中に現れる記号について】 《》:ルビ (例)片辺《かたほとり》 |:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号 (例)際|此《この》 [#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定    (数字は、JIS X 0213の面区点番号またはUnicode、底本のページと行数) (例)挘 ------------------------------------------------------- [#7字下げ]上[#「上」は中見出し] [#ここから9字下げ] 広告 [#ここから4字下げ、折り返して6字下げ] 一 拙者昨夕散歩の際|此《この》辺一町以内の草の中に金時計一個遺失致し候間御拾取の上御届け下され候|御方《おんかた》へは御礼として金百円呈上|可仕候《つかまつるべくそろ》 [#ここから8字下げ] 月  日               あーさー、へいげん [#ここで字下げ終わり]  これ相州西鎌倉|長谷《はせ》村の片辺《かたほとり》に壮麗なる西洋館の門前に、今朝より建てる広告標なり。時は三伏《さんぷく》盛夏の候、聚《あつま》り読む者|堵《と》のごとし。  へいげん[#「へいげん」に傍線]というは東京……学校の御雇《おやとい》講師にて、富豪をもって聞ゆる――西洋人なるが、毎年この別荘に暑を避くるを常とせり。  館内には横浜風を粧《よそお》う日本の美婦人あり。蓋《けだ》し神州の臣民にして情を醜虜《しゅうりょ》に鬻《ひさ》ぐもの、俗に洋妾《ラシャメン》と称《とな》うるはこれなり。道を行《ゆ》くに愧《はず》る色無く、人に遭えば、傲然《ごうぜん》として意気|頗《すこぶ》る昂《あが》る。昨夕へいげん[#「へいげん」に傍線]と両々手を携えて門前を逍遥《しょうよう》し、家に帰りて後、始めて秘蔵せし瑞西《スウィッツル》製の金時計を遺失せしを識《し》りぬ。警察に訴えて捜索を請わんか、可はすなわち可なり。しかれども懸賞して細民を賑《にぎ》わすにしかずと、一片の慈悲心に因りて事ここに及べるなり、と飯炊《めしたき》に雇われたる束髪の老婦人、人に向《むか》いて喋々その顛末《てんまつ》を説けり。  渠《かれ》は曰く、「だから西洋人《あっちのひと》は難有《ありがた》いよ。」  懸賞金百円の沙汰《さた》即日四方に喧伝《けんでん》して、土地の男女老若を問わず、我先にこの財《たから》を獲《え》んと競い起《た》ち、手に手に鎌を取りて、へいげん[#「へいげん」に傍線]門外の雑草を刈り始めぬ。  まことや金一百円、一銭銅貨一万枚は、これ等の細民が三四年間粒々辛苦の所得なるを、万一|咄嗟《とっさ》にこの大金を獲ば、蓋《けだ》し異数の僥倖《ぎょうこう》にして、坐して半生を暮し得べし。誰か手を懐にして傍観せんや。  翌日はとみに十人を加え、その翌日、またその翌日、次第に人を増して、遂に百をもって数うるに到れり。渠等《かれら》が炎熱を冒して、流汗面に被《こうむ》り、気息|奄々《えんえん》として労役せる頃、高楼の窓半ば開きて、へいげん[#「へいげん」に傍線]帷《とばり》を掲げて白皙《はくせき》の面《おもて》を露《あらわ》し、微笑を含みて見物せり。  かくて日を重ねて、一町四方の雑草は悉《ことごと》く刈り尽し、赤土露出すれども、金時計は影もあらず。  草刈等はなお倦《う》まず、怠らず、撓《たゆ》まず、ここかしこと索《もとむ》れども、金属は釘の折《おれ》、鉄葉《ブリキ》の片《はし》もあらざりき。  一家《いっけ》を挙げ、親族を尽し、腰弁当を提げて、早朝より晩夜まで、幾日間炎天に脳汁を煮《に》られて、徒汗《むだあせ》を掻《か》きたる輩《ともがら》は、血眼《ちまなこ》になりぬ。失望してほとんど狂せんとせり。  されど毫《ごう》も疑わざりき。渠等はへいげん[#「へいげん」に傍線]君の富かつ貴《たっと》きを信ずればなり。  渠等が労役の最後の日、天|油然《ゆうぜん》と驟雨《しゅうう》を下して、万石の汗血を洗い去りぬ。蒸し暑き雑草地を払いて雨ようやく晴れたり。土は一種の掬《きく》すべき香《におい》を吐きて、緑葉の雫《しずく》滴々、海風日没を吹きて涼気秋のごとし。  へいげん[#「へいげん」に傍線]この夕《ゆうべ》また愛妾を携えて門前に出でぬ。出でて快げに新開地を歩み行けば、松の木蔭に雨宿りして、唯《ひた》濡《ぬ》れに濡れたる一個の貧翁あり。  多くの草刈|夥間《なかま》は驟雨《ゆうだち》に狼狽《ろうばい》して、蟻のごとく走り去りしに、渠《かれ》一人老体の疲労|劇《はげ》しく、足|蹌踉《よろぼ》いて避け得ざりしなり。竜動《ロンドン》の月と日本のあだ花と、相並びて我《わが》面前に来《きた》れるを見て、老夫は慌《あわただ》しく跪《ひざまず》き、 「御時計は、はあ、どこにもござりましねえ。」  幾多の艱難《かんなん》の無功に属したるを追想して、老夫は漫《そぞろ》に涙ぐみぬ。  美人は流眄《しりめ》にかけて、 「ほんとに御苦労だったねえ。」と冷《ひやや》かに笑う。  へいげん[#「へいげん」に傍線]は哄然《こうぜん》大笑して、 「日本人《ジャパニイス》の馬鹿!」  と謂《い》い棄てつ、おもむろに歩を移して浜辺に到れば、一碧《いっぺき》千里|烟帆《えんばん》山に映じて縹渺《ひょうびょう》画《え》のごとし。  へいげん[#「へいげん」に傍線]美人の肩を拊《う》ちて、 「人間は馬鹿な国だが、景色の好《い》いのは不思議さ。」  と英語をもって囁《ささや》きたり。  洋妾《ラシャメン》はへいげん[#「へいげん」に傍線]の腕に縋《すが》りつつ、 「旦那もう帰ろうじゃございませんか。薄暗くなりましたから。」 「うむ、そろそろ帰ろうか。あの門外の鬱陶《うっとう》しい草には弱ったが、今ではさっぱりして好い心持だ。」 「ですけれども、あの人足|輩《だち》はどんな気持でしょうね。」 「やっぱり時計が見着からないのだと想って、落胆《がっかり》しているだろうさ。」 「貴下《あなた》はほんとに智慧者《ちえしゃ》でいらっしゃるよ。百人足らずの人足を、無銭《ただ》で役《つか》ってさ。」 「腰弁当でやって来るには感心したよ。」 「ほんとにねえ。あのまあ蛇のいそうな草原を綺麗に挘《むし》らして、高見で見物なんざ太閤様も跣足《はだし》ですよ。」 「そうかの。いや、そうあろう。実は自分ながら感心した。」  と揚々として頤髯《あごひげ》掻い撫ずれば、美人はひたすら媚《こび》を献じ、 「ねえ貴下、私《わたくし》はなんの因果で弱小《けち》な土地《とこ》に生れたんでしょう。もうもうほんとに愛想が尽きたんですよ。」  へいげん[#「へいげん」に傍線]は頷《うなず》きて、 「そうありたい事だ。こういっちゃ卿《おまえ》の前だが、実に日本人《ジャパニイス》は馬鹿さな。しかしあんまり不便《ふびん》だ。せめて一件の金時計を蔭ながら拝ましてやろうか。」  と衣兜《かくし》を探りて、金光|燦燗《さんらん》たる時計を出だし、恭《うやうや》しく隻手《かたて》に捧げて遥《はるか》に新開地に向い、陋《いやし》み嘲《あざ》けるごとき音調にて、 「そらこれだ、これだ。」  途端に絶叫の声あり、 「あれえ!」  と見れば美人は仰様《のけざま》に転《まろ》び、緑髪は砂に塗《まみ》れて白き踵《かかと》は天に朝せり。  太《いた》く喫驚せるへいげん[#「へいげん」に傍線]は更に驚きぬ、手中の金時計はすでに亡《な》し。 [#7字下げ]中[#「中」は中見出し] 「おい大助。」  卒然従者を顧みて立住《たちとど》まれる少年は、へいげん[#「へいげん」に傍線]等を去ること数十歩ばかり後《うしろ》の方《かた》にありて、浪打際を散歩せるなり。父は小坪に柴門《さいもん》を閉じ、城市の喧塵《けんじん》を避けて、多日《しばらく》浩然の気を養う何某《なにがし》とかやいえる子爵なり。その児《こ》三郎|年紀《とし》十七、才名同族を圧して、後来多望の麟麟児《きりんじ》なり。  随《したが》う壮佼《わかもの》は南海の健児栗山大助。 「若様何でございます。」 「我《おれ》が謂《い》った通り、金時計は虚言《うそ》だ。」  その声すでに怒《いかり》を帯びたり。 「どうしてお解りになりました。」 「今二人で饒舌《しゃべ》ってたろう。」 「私《わたくし》には解りませんが、しきりに饒舌《しゃべ》っておりましたな。」 「うむ、解るまいと思って人の聞くのも憚《はば》からず、英語ですっかり白状した。つまり百円を餌《えば》にして皆《みんな》を釣ったのだ。遺失《おとし》たもないものだ、時計は現在持っている。汝《おまえ》も我《おれ》の謂うことを肯《き》かんで草刈をやろうものなら、やっぱり日本人《ジャパニイス》の馬鹿になるのだ。」  血気|勃々《ぼつぼつ》たる大助は、かくと聞くより扼腕《やくわん》して突立《つった》つ時、擦違う者あり、横合よりはたと少年に抵触《つきあた》る。啊呀《あなや》という間に遁《に》げて一間ばかり隔りぬ。 「掏摸《すり》だ!」  三郎が声と共に大助は身を躍らして、むずと曲者の頸髪《えりがみ》執って曳僵《ひきたお》し、微塵《みじん》になれと頭上を乱打す。 「手暴《てあら》くするな。」  と少年は大助を制して、更に極めて温和なる調子にて、 「おい盗《と》ったろう。」  掏摸は陳じ得ず、低頭して罪を謝し、抜取りたる懐中物を恐る恐る捧げて踞《うずく》まりつ、 「どうぞお見逃しを願います。」  少年は打笑いつつ、 「何、突出しやせん。汝《きさま》はなかなか熟練《なれ》たものだ。」 「飛んだことをおっしゃいます。」 「いやその手腕《うでまえ》を見込んで、ちっと依頼《たのみ》があるのだ。」  大助は愕然《がくぜん》として若様の面《おもて》を瞻《みまも》りぬ。 「この懐中物《かみいれ》もやろう。もっと欲《ほし》くばもっと遣ろう。依嘱《たのみ》というのは、そらあすこへ行《ゆ》く、あの、な、」  とへいげん[#「へいげん」に傍線]を指《ゆびさ》して、 「彼奴《あいつ》の持っている時計を掏《す》ってくれんか。」  その意を得ざる掏摸は、ただへいへいと応《こた》うるのみ。  大助は驚きて、 「ええ、若様滅相な。」 「いや少し了簡《りょうけん》があるのだ。」  拘摸は事も無げに頷《うなず》きて、 「じゃあの金時計ですね。」 「汝知ってるのか。」 「そりゃちゃんと睨《にら》んであります。あんな品は盗っても、売るのに六ヶしいから見逃《みの》がして置くものの、盗ろうと思やお茶の子でさあ。」 「いや太々《ふてぶて》しい野郎だなあ。」  と大助は呆然たり。 「汝も聞いたろう、あの長谷の草刈|騒動《さわぎ》を。」 「知ってる段ですか。」  三郎は告ぐるに実をもってすれば、 「へえあの毛唐が!」  と掏摸だになお憤慨の色を表わせり。 「若様|此奴《こいつ》は離すと、直《じき》に逃げてしまいますよ。」 「こう、情無いことを謂いなさんな。私《わっち》ゃこんなものでもね、日本が大の贔屓《ひいき》さ。何の赤髯《あかひげ》、糞でも喰《くら》えだ。ええその金時計は直《すぐ》に強奪《ひったく》って持って来やす。」  かかりし後、へいげん[#「へいげん」に傍線]はその簪《かんざし》の花を汚《けが》され、あまつさえ掌中の珠を奪われたるなり。 [#7字下げ]下[#「下」は中見出し]  三郎は掏摸の奪いたりし金時計を懐にしつ、健児大助を従えて、その夕《ゆうべ》月下にへいげん[#「へいげん」に傍線]の門を敲《たた》きぬ。  誰何《すいか》せる門衛に、我は小坪の某なり、約束の時計を得たれば、あえて主公に呈《まい》らせんと来意を告げ、応接室に入《い》るに際して、執事は大助を見て三郎に向い、 「時計を御拾得《おひろい》の方は貴下《あなた》ですな。この方は何用でいらっしゃいました。」  三郎いまだ答えざるに、大助は破鐘声《われがねごえ》を揚げて、 「俺《おら》あ下男だ。若様の随伴《とも》をして来たのだ。」 「そんなら供待《ともまち》でお控えなさい。」  と叱するごとく窘《たしな》めたり。大助は団栗眼《どんぐりまなこ》を睜《みひら》きて、 「汝《てめえ》達の指図は承《う》けねえ。さあ若様御一所に入りましょう。」  執事はこれを遮りて、 「いいえなりません。応接室へは、用事のある客の外は、一切他人を入れませんのが、当家の家風でございます。」  へいげん[#「へいげん」に傍線]は金時計を失いて、たちまち散策の興覚め、すごすご家に帰りて、燈下に愛妾と額を鳩《あつ》めつつ、その失策を悔い且つ悲しみ、怏々《おうおう》として楽《たのし》まざりし。しかるに突然珍客ありて、告ぐるに金時計を還さん事をもってせり。へいげん[#「へいげん」に傍線]は快然|愁眉《しゅうび》を開きしが、省みれは衷《うち》に疚《やま》しきところ無きにあらず。もし彼にして懸賞金百円を請求せんか。我にあらかじめ約あれば駟《し》も及ばず、今はたこれをいかんせむ。  身を一室に潜めて、まずその来客を窺《うかが》えば、料らざりき紅顔の可憐児、二十歳《はたち》に満たざる美少ならんとは。這奴《しゃ》、小冠者《こかんじゃ》何程の事あらん。さはあれ従者に勇士の相あり。手足皆鉄、腕力想うべしと、へいげん[#「へいげん」に傍線]漫《そぞろ》に舌を捲《ま》き、すなわち執事をして大助を遠ざけしめむとしたるなり。  大助は敵の我を忌むを識《し》りて、小主公《わかだんな》の安否|心許《こころもと》なく、なお推返《おしかえ》して言わんとするを、三郎は遮りて、 「宜《よろ》しい彼室《あっち》で待ってな。」 「だって若様。」 「可《い》いよ。」  と眼もて語れば、大助は強うるを得ず、 「ええ、どこで待つのだ。案内しろ。」 「静《しずか》にせんか、何という物言いだ。」  と三郎は警《いまし》めぬ。  執事は大助を彼方《あなた》の一室《ひとま》へ案内し、はたと閉ざして立去りける跡に、大助は多時《しばらく》無事に苦《くるし》みつ、どうどうとしこ[#「しこ」に傍点]を踏みて四壁を動かし、獅子のごとき力声を発《いだ》して、満腔の鋭気を洩《もら》しながら、なお徒然に堪えざりけり。  応接室にては三郎へいげん[#「へいげん」に傍線]と卓子《テエブル》を隔てて相対し、談判今や正に闌《たけなわ》なり。洋妾《ラシャメン》も傍《かたえ》に侍したり。渠《かれ》は得々としてへいげん[#「へいげん」に傍線]の英語を通弁す。  この時三郎を軽んずるごとく、 「一体貴下は何御用でお出でなすったのです。拾った物なら素直に返して、さっさとお帰りなすったら可いじゃございませんか。」 「お黙んなさい。時計と交換《ひきかえ》にお礼の百円を戴きに来ました。」 「品物を拾って、それを返すのに礼金を与れと、そちらからおっしゃる法はございますまい。」 「いえ、普通《ただ》拾って徳義上御返し申すのなら、下さるたって戴きません。しかし今度のは――こう謂っちゃ陋《さも》しい様ですが――礼金が欲しさに働きましたので、表面《おもてむき》はともかく、謂わば貴下に雇われたも同《おなじ》でございます。それに承れば、何か貧乏人を賑《にぎ》わすという様な、難有《ありがた》い思召《おぼしめし》から出た事だと申しますが。」  と弁舌流るるごとく、滔々《とうとう》として論じ来《きた》るに、へいげん[#「へいげん」に傍線]等はこは案外とおもえる様《さま》にて、 「それじゃ御持参の時計を拝見いたしましょう。」 「これです。」と懐より時計を出だして指示《さししめ》せば、 「どれどれ。」と取らんとするをさはさせず、三郎は莞爾《かんじ》として、 「違えば他《ほか》に遺失人《おとしぬし》を探します。貴下のなら百円下さいまし。」  彼方《あなた》もさる者|詭弁《きべん》を構えて、 「あれとは違いますが、やっぱり私《わたくし》の時計で、それは先刻《さっき》掏摸《すり》に盗《と》られた品だが。怪しからん、どこでお拾いなすった。」と暴《あら》らかに詰《なじ》れば、三郎少しも騒がず、 「そんなら掏摸《すり》が遺失《おとし》たのでしょう。何しろ私は御門外の一町以内で拾って来ました。」  へいげん[#「へいげん」に傍線]は大喝して、 「小僧、汝《きさま》は掏摸だ。」 「そういう者が騙拐《かたり》だ。」 「何を。」と眼《まなこ》を瞋《いから》して、はたと卓子《テエブル》を打てば、三郎は自若として、 「ちと仔細《しさい》があって、貴下が人は知るまいと思っている事を、私《わたくし》はよく知っております。文明国の御方にも似合わない、名誉ということを御存じがありませんか。私はむしろ貴下の御為《おため》を思って計らうのですが、どうでございます。」  と朱唇|大《おおい》に気焔《きえん》を吐けば、秘密のすでに露《あらわ》れたるに心着きて、一身の信用地に委せむことを恐るれども、守銭|奴《ど》は意を決するあたわず。辞窮して、 「蒸暑い晩だ。」  とへいげん[#「へいげん」に傍線]は窓に立寄りて海を望み、たちまち愕然《がくぜん》として退《すさ》りぬ。 「へいげん[#「へいげん」に傍線]殺せッ。」  と叫ぶものあり。続いて起る吶喊《とっかん》の声。  月は中天にありて一条の金蛇《きんだ》波上に馳《は》する処、ただ見る十数|艘《そう》の漁船あり。篝《かがり》を焚《た》き、舷《ふなばた》を鳴して、眼下《めのした》近く漕《こ》ぎ寄せたり。こはこの風説早くも聞えて、赤髯奴《せきぜんど》の譎計《けっけい》に憤激せる草刈|夥間《なかま》が、三郎の吉左右《きっそう》を待つ間、示威運動を行うなり。大助これを見て地蹈韛《じだんだ》を踏みて狂喜し、欄干に片足懸けて半身を乗出だしつ。 「も一番《ひとつ》やれ!」  と大音声に呼ばわれば、舟なる壮佼《わかもの》声を揃えて、 「へいげん[#「へいげん」に傍線]殺せ。」と絶叫す。  洋妾《ラシャメン》は耳を蔽《おお》いて卓子に俯し、へいげん[#「へいげん」に傍線]は椅子に凭《よ》りて戦《おのの》きぬ。  三郎は欣然《きんぜん》として、 「日本人《ジャパニイス》の馬鹿が、誑《だま》された口惜《くやし》さに貴方を殺すという騒動《さわぎ》です。はッはッ馬鹿な奴等だ。」  へいげん[#「へいげん」に傍線]は色を失して、 「私《わたくし》、私、何を欺《あざむ》きました。」 「浜で御自分がおっしゃった言《こと》をお忘れですか。」  へいげん[#「へいげん」に傍線]はあるいは呆れ、あるいは愕《おどろ》き、瞬《またたき》もせで三郎の顔を瞻《みまも》りたりしが、やや有りて首《こうべ》を低《た》れて、 「決して欺きません、証拠がございまする。」  顔色《がんしょく》土のごとく恐怖せる洋妾《ラシャメン》を励まして、直ちに齎《もら》らしめたる金貨百円を、三郎の前に差出《さしいだ》せば、三郎は員《かず》を検してこれを納め、時計を返附して応接室を立出で、待構えたる従者を呼べば、声に応じて大助猛然と顕《あらわ》れたり。  三郎は笑《え》ましげに、 「これをみんなに分けてやれ。」  大助は金貨を捧げて、高く示威運動艦隊に示しつつ、 「衆《みんな》見ろ、髯《ひげ》から取ったこの百円を、若様が大勢に分けてやるとおっしゃる。」  その声いまだ訖《おわ》らざるに、どっと興る歓呼の声は天に轟《とどろ》き、狂喜の舞は浪を揚げて、船も覆《かえ》らむずばかりなりし。 [#地から1字上げ]明治二十六年(一八九三)六月 底本:「泉鏡花集成1」ちくま文庫、筑摩書房    1996(平成8)年8月22日第1刷発行 底本の親本:「鏡花全集 第一卷」岩波書店    1942(昭和17)年7月30日第1刷発行 初出:「侠黒兒」少年文學、博文館    1893(明治26)年6月28日 ※初出は尾崎紅葉「侠黒兒」の附録です。 ※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。 入力:門田裕志 校正:清角克由 2014年8月21日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。