礫川徜徉記 永井荷風 ------------------------------------------------------- 【テキスト中に現れる記号について】 《》:ルビ (例)倦果《あきは》て |:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号 (例)情味|聊《いささか》 [#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定    (数字は、JIS X 0213の面区点番号またはUnicode、底本のページと行数) (例)晷  [#…]:返り点  (例)遷喬楼在[#二]懸崖上[#一] -------------------------------------------------------  何事にも倦果《あきは》てたりしわが身の、なほ折節にいささかの興を催すことあるは、町中の寺を過る折からふと思出でて、その庭に入り、古墳の苔を掃《はら》つて、見ざりし世の人を憶《おも》ふ時なり。  見ざりし世の人をその墳墓に訪《と》ふは、生ける人をその家に訪ふとは異りて、寒暄《かんけん》の辞を陳《のぶ》るにも及ばず、手土産たづさへ行くわづらひもなし。此方《こなた》より訪はまく思立つ時にのみ訪ひ行き、わが心のままなる思に耽《ふけ》りて、去りたき時に立去るも強《しい》て袖引きとどめらるる虞《おそれ》なく、幾年月打捨てて顧《かえりみ》ざることあるも、軽薄不実の譏《そしり》を受けむ心づかひもなし。雨の夜のさびしさに書を読みて、書中の人を思ひ、風静なる日その墳墓をたづねて更にその為人《ひととなり》を憶ふ。この心何事にも喩《たと》へがたし。寒夜ひとり茶を煮る時の情味|聊《いささか》これに似たりともいはばいふべし。  わが東京の市内に残りし古碑|断碣《だんけつ》、その半《なかば》は癸亥《きがい》の歳《とし》の災禍に烏有《うゆう》となりぬ。山の手の寺院にあるもの、幸にして舞馬《ぶば》の災《わざわい》を免《まぬか》れしといへども、移行く世の気運は永く市廛《してん》繁華の間に金石の文字を存ぜしむべきや否や。もしこれ杞人《きじん》の憂ひにあらずとなさんか、掃墓の興は今の世に取残されしわれらのわづかにこれを知るのみに止りて、われらが子孫の世に及びては、これを知らんとするもまた知るべからざるものとはなりぬべし。  掃墓の間《かん》事業《じぎょう》は江戸風雅の遺習なり。英米の如き実業功利の国にこの趣味存せず。たまたまわれ巴里《パリー》にありてこれあるを見しかど、既に二十年前のことなれば、大乱以後の巴里の人士今なほ然るや否や知るべくもあらず。江戸時代にありて普《あまね》く探墓の興を世の人に知らしめし好奇の士は、『江戸名家墓所一覧』の一書を著せし老樗軒《ろうちょけん》の主人を以てまづはその鼻祖ともなすべきにや。『墓所一覧』の梨棗《りそう》に上《のぼ》せられしは文政紀元の春なること人の知るところなり。  春秋の彼岸は墓参の時節と定められたり。しかれども忘れられたる古墳を尋ね弔《とむら》はんには、秋の彼岸には晷《ひあし》既に傾きやすく、やうやうにして知れがたき断碑を尋出して、さて寺の男に水運ばせ苔《こけ》を洗ひ蘿《つた》を剥《はが》して漫漶《まんかん》せる墓誌なぞ読みまた写さんとすれば、衰へたる日影の蚤《はや》くも舂《うすつ》きて蜩《ひぐらし》の啼《な》きしきる声|一際《ひときわ》耳につき、読難き文字更に読難きに苦しむべし。春の彼岸には風なほ寒くして雨の気遣《きづか》はるる日もまた多きをや。花見の頃は世間さわがしければ門をいづる心地もせざるべし。八重の桜も散りそむる春の末より牡丹《ぼたん》いまだ開かざる夏の初こそ、老躯《ろうく》杖をたよりに墓をさぐりに出づべき時節なれ。長き日を歩みつづけて汗ばむ額も寺の庭に入れば新樹の風ただちにこれを拭ひ、木の根石の端に腰かくるも藪蚊《やぶか》いまだ来らず、醜草《しこぐさ》なほはびこらざれば蛇のおそれもなし。苔蒸す地の上には落花なほみだれてあり。日の光にかがやく木の芽のうつくしさ雨に打れし墓石の古びたるに似もやらねば、亡き人を憶ふ心落葉の頃にもまさりてまた一段の深きを加ふべし。  ことし甲子《かっし》の暮春、日曜日にもあらず大祭日にもあらぬ日なり。前夜の雨に表通《おもてどおり》も砂ほこりをさまりて、吹き添ふ微風に裏町の泥濘《ぬかるみ》も大方はかわきしかと思はれし昼過。丸《まる》の内《うち》より神田《かんだ》を過ぎて小石川原町《こいしかわはらまち》なる本念寺《ほんねんじ》に大田南畆《おおたなんぽ》の墓を弔ひぬ。われ小石川|白山《はくさん》のあたりを過る時は、必《かならず》本念寺に入りて北山《ほくざん》南畆[#「南畆」は底本では「南畝」]両儒の墓を弔ひ、また南畆が後裔《こうえい》にしてわれらが友たりし南岳《なんがく》の墓に香華《こうげ》を手向《たむ》くるを常となせり。震災の時これらの墳墓いかがなりしや。殊に南畆の墓碑はこの兆域《ちょういき》にても形大なるものなれば、倒れ砕けはせざりしやと心にかかりてゐたりしが、この日行きて見るにその位置少しく変りしのみにて石は全《まった》かりき。南岳の墓は本《もと》のところに依然として立ちたり。自然石にて面に大田南岳墓。碑陰にまつくろな土瓶《どびん》つゝこむ清水かなの一句を刻す。これ南岳の句にして小波巌谷《さざなみいわや》先生書する所、石もまた巌谷翁の貲《し》を捐《す》てて建てられしものなり。われ初て南岳と交《まじわり》を訂《てい》せしは明治三十二年の頃清朝の人にして俳句を善くしたりし蘇山人羅臥雲《そさんじんらがうん》が平川天神祠畔《ひらかわてんじんしはん》の寓居においてなりけり。南岳|諱《いみな》は亨《とおる》。野口幽谷《のぐちゆうこく》の門人なり。初《はじめ》陸軍士官学校に入らむとして体格検査に合格せざりしかば、素志を翻《ひるがえ》して絵事《かいじ》に従へるなり。その初《はじめ》武を以て身を立てんと欲せしはその家世〻征夷府に仕へて徒士《かち》たりしによれるもの歟《か》。南岳|少《わか》くして耳|聾《ろう》せり。人と語るに音吐《おんと》鐘の如し。平生奇行に富む。明治卅八年秋八月|日魯《にちろ》両国講和条約の結ばれし時、在野の政客暴民を皷煽《こせん》し電車を焼き官庁を破壊す。輦轂《れんこく》の下|巡邏《じゅんら》を見ざること数日に及べり。市民|各《おのおの》その欲する所を恣《ほしいまま》にする事を得たりしかば、南岳白日衣をまとはず釣竿を肩にして桜田門外に至り綸《いと》を御溝《おほり》に垂れて連日鯉魚十数尾を獲《え》て帰りしといふ。また大婚式記念郵便切手の発行せられし時都人各近鄰の郵便局に赴き局員に請《こ》ひて、記念当日の消印《けしいん》を切手に捺《なつ》せしむ。南岳|輙《すなわち》春画を描きたる絵葉書数葉を手にし郵便局の窓に抵《いた》りて消印を請ふ。局員裏面の絵画に心づかず消印をなすこと三、四葉にして初て驚愕の声を発す。この時おそし南岳|猨臂《えんぴ》を伸べ絵葉書を奪つて疾走す。後に人に語つて曰《いわ》くこれ洵《まこと》に敝家《へいか》の宝物なり。子孫の繁栄を祝するものけだしこれに優るものあるを知らずと。その為人《ひととなり》おほむねかくの如し。かつて上野なる日本美術協会の展覧会に出品して褒状《ほうじょう》を得たり。褒賞授与の日|川端玉章《かわばたぎょくしょう》手づからこれを南岳に与へしに、南岳一礼して手に取るや否や、寸断して脚下に放棄し、悠々としてその席に還りて坐す。満堂の画人皆色を失ふ。南岳おもむろに鄰席を顧て曰く諸君驚くことなかれ、我狂するにあらず。唯平生川端玉章の為人を好まず、従つてその手に触れしもの我これを受《うく》ることを欲せざるのみと。爾来|復《ふたたび》浮名を展覧会場に争はず。閑居自適し、時に薬草を後園に栽培して病者に与へ、また『田うごき草』と題する一冊子を刊刻してその効験を説く。人|戯《たわむれ》に呼んで田うごきの翁《おきな》となせり。南岳また年々土中に甕《かめ》を埋めて鈴虫を繁殖せしめ、新凉の節を待つてこれを知友に頒《わか》つ。南岳を知るものの家秋に入つて草虫|琳琅《りんろう》の声を聴かざる処なし。知友また呼ぶに鈴虫の翁を以てす。南岳は弓術の達人にしてまた水府流《すいふりゅう》遊泳の師たりき。大田南畝《おおたなんぽ》が先人自得翁の墓誌を見るに、享保二十年七月、将軍吉宗公中川狩猟の時徒兵の游泳を閲《けみ》するや自得翁|水練《すいれん》に達したるを以て嘉賞する処となりしといふ。されば南岳の水練に巧なるけだし来由する所ありといふべきなり。大正四、五年の頃南岳四谷の旧居を去つて北総市川の里に徙《うつ》り寒暑昼夜のわかちなく釣魚《ちょうぎょ》を事とせしが大正六年七月十三日白昼江戸川の水に溺れて死せり。人その故を知るものなし。あるひは言ふ水中にあつて卒中症を発したるならんと。時に年四十|又《ゆう》三なり。その配《はい》中村氏は南畆先生が外姑《がいこ》の後裔《こうえい》なり。容姿艶麗そのいまだ嫁せざるや近鄰称するに四谷小町《よつやこまち》の名を以てしたりしといふ。某男某女あり。嗣子《しし》名は大。家を継ぎしが本年の春病んで歿したりしと。われこの日始てこれを寺僧に聞得て愕然《がくぜん》たりき。因《ちなみ》にしるす南岳が四谷の旧居は荒木町|絃歌《げんか》の地と接し今岡田とかよべる酒楼の立てるところなり。この日兼てより写し置かんと思ひゐたりし南畝が室《しつ》富原氏の墓誌を手帳にしるす。墓誌の終に悼亡《とうぼう》の詩六首を刻したり。『蜀山集』に出でたればここに録せず。  本念寺を出で白山権現《はくさんごんげん》の境内をよこぎりわづかに人力車を通ずべき垣根道を北へと歩み行けば、坂の下に蓮久寺とよべる法華寺あり。これ去年|癸亥《きがい》七月十二日わが狎友《こうゆう》唖々子《ああし》井上精一君が埋骨のところなり。門に入るに離々たる古松の下に寺の男の落葉掃きゐたれば、井上氏の塋域《えいいき》を問ふ。導かれて行くにいまだ一周忌にも到らざれば、冢土《ちょうど》新にしていまだ碑碣《ひけつ》を建てず。傍《かたわら》なる妣《はは》某氏の墓前に香華を手向《たむ》けて蓮久寺を出づ。われは今日に至りても唖々子既に黄土に帰せりとの思をなすこと能《あた》はず。この日子のわれと共にあらざるは前夜の酒を病みなぞして約に背《そむ》きて来らざるが如き心地のせらるるのみ。世に竹馬《ちくば》の交《まじわり》をよろこべるものは多かるべしといへども、子とわれとの如く終生よく無頼の行動を共にしたるものは稀なるべし。学生の頃悪少年を以て目せられしものは、儕輩《せいはい》の中《うち》子とわれとの二人なり。十六、七の頃には倶《とも》に漢詩を唱和し二十の頃より同じく筆を小説に染めまた倶に俳諧に遊べり。わが狎妓《こうぎ》の窃《ひそか》に子と情を通じたるものあり。子の情婦にしてわれのこれを奪ひしものまたなしとせず。けだし這般《しゃはん》の情事は烟花場裏一夕の遊戯にして新五左衛門《しんござえもん》等の到底解し得べきところに非《あら》ざるなり。われ田舎の人より短冊を乞はるることあるや常に唖々子が句を書して責《せめ》を塞《ふさ》げり。われ俳才なく自作の句を記憶せず。これを憶《おも》ふ時子の名吟まづわが念頭に浮びいづるを以てなり。旧交を追想して歩を移すほどに、いつしか白山御殿町《はくさんごてんまち》を過ぎ、植物園に沿ひたる病人坂に出づ。坂の麓に一古寺あり。門に安閑寺の三字を掲げたり。ふと安閑寺の灸とて名高き艾《もぐさ》を售《う》りしはこの寺なり。われら稚《いとけな》き頃その名を聞きてさへ恐れて泣き止みしものをと心づけば、追想おのづから縷々《るる》として糸を繰るが如し。その頃植物園門外の小径は水田に沿ひたり。水田は氷川の森のふもとより伝通院《でんずういん》兆域のほとりに連り一流の細水|潺々《せんせん》としてその間を貫きたり。これ旧記にいふところの小石川の流にして今はわづかに窮巷の間を通ずる溝阬《こうこう》となれり。ああ四十年のむかしわれはこの細流のほとりに春は土筆《つくし》を摘み、夏は蛍を撲《う》ちまた赤蛙を捕へんとて日の暮るるをも忘れしを。赤蛙は皮を剥ぎ醤油をつけ焼く時は味よし。その頃|金富町《かなとみちょう》なるわが家の抱車夫《かかえしゃふ》に虎蔵とて背に菊慈童《きくじどう》の筋ぼりしたるものあり。その父はむかし町方《まちかた》の手先なりしとか。老いて盲目《めしい》となり忰《せがれ》虎蔵の世話になり極楽水の裏屋に住ひゐたり。虎蔵わが供をなして土筆を摘み赤蛙を捕りての帰道、折節父の家に立寄り夕餉《ゆうげ》の菜《さい》にもとて獲たりしものを与へたり。貧しき家の夕闇に盲目《めしい》の老夫のかしらを剃りたるが、兀然《ごつぜん》として仏壇に向ひて鉦《かね》叩き経|誦《よ》める後姿、初めて見し時はわけもなく物おそろしくおぼえぬ。わが家の女中ども虎蔵がおやぢはむかし多くの人を捕へ拷問なぞなしたる報《むくい》にて、目も見えぬやうになりしなりと噂せしが、虎蔵もやがてわが家より暇《いとま》取りし後いつか牛込警察署の刑事となり、わが十七、八の頃一番町の家に来りて、ゆうべは江戸川端の待合《まちあい》にて芸者の寝込を捕へたりなぞ、その後家に来りし車夫に語りゐたりしを聞きし事ありき。極楽水の麓を環《めぐ》りし細流のほとりには今博文館の印刷工場聳え立ちたれば、その頃仰ぎ見し光円寺の公孫樹《いちょう》も既に望むべからず。小家の間の小道を上りて久堅町《ひさかたまち》より竹早町《たけはやちょう》の垣根道を過ぐるにかつて画伯|浅井忠《あさいちゅう》が住みし家の門前より、数歩にして同心町《どうしんちょう》の康衢《こうく》に出づ。電車砂塵を捲《ま》いて来徃《らいおう》せり。道の向側は切支丹坂《きりしたんざか》に通ずる坂の下口にて、旧丹後舞鶴の藩主牧野家の黒板塀、玄関先の老樹と共に四十年のむかしに変る所なければ、なつかしさのあまり覚えず歩を止む。切支丹坂より茗荷谷《みょうがだに》のあたりには知れる人の家多かりき。今はありやなしや。電車通を伝通院の方に向ひて歩みを運べば、ほどなく新坂《しんざか》の降口《おりくち》あり。新樹の梢《こずえ》に遠く赤城の森を望む。新坂にはわが稚き頃大学総長浜尾氏の邸《やしき》、音楽学校長伊沢氏の邸、尾崎咢堂《おざきがくどう》が僦居《しゅうきょ》、門墻《もんしょう》を連ね庭樹の枝を交へたり。この坂車を通ぜざりしが今はいかがにや。電車通を行くことなほ二、三町にしてまた坂の下口《おりくち》を見る。これ即《すなわち》金剛寺坂《こんごうじざか》なり。文化のはじめより大田南畝の住みたりし鶯谷《うぐいすだに》は金剛寺坂の中ほどより西へ入る低地なりとは考証家の言ふところなり。嘉永板の切絵図《きりえず》には金剛寺の裏手多福院に接する処|明地《あきち》の下を示して鶯谷とはしるしたり。この日われ切絵図はふところにせざりしかど、それと覚しき小径に進入らんとして、ふと角の屋敷を見れば幼き頃より見覚えし駒井氏の家なり。坂路を隔てて仏蘭西人アリベーと呼びしものの邸址《やしきあと》、今は岩崎家の別墅《べっしょ》となり、短葉松植ゑつらねし土墻《ついじ》は城塞めきたる石塀となりぬ。岩崎家の東鄰には依然として思案外史《しあんがいし》石橋《いしばし》氏の居《きょ》あり。遅塚麗水《ちづかれいすい》翁またかつてこのあたりに鄰を卜《ぼく》せしことありと聞けり。正徳《しょうとく》のむかし太宰春台《だざいしゅんだい》の伝通院《でんずういん》前に帷《とばり》を下せしは人の知る処。礫川《こいしかわ》の地古来より文人遊息の処たりといふべし。さてわれは駒井氏の門前より目指せし小路を西に入るに、ここにもまた幼き頃見覚えたりし福岡氏の門あり。福岡氏は維新の功臣なり。門前の小径は忽《たちまち》にして懸崕《けんがい》の頂《いただき》に達し紐《ひも》の如く分れて南北に下れり。崕下に人家あり。鶯谷は即このあたりをいふなるべし。さるにても南畝が遷喬楼《せんきょうろう》の旧址はいづこならむ。文化五|戊辰《ぼしん》の年三月三日、南畝はここに六秩《ろくちつ》の賀筵《がえん》を設けたる事その随筆『一話一言』に見ゆ。大窪詩仏《おおくぼしぶつ》が『詩聖堂詩集』巻の十に「雪後鶯谷小集得庚韻《せつごうぐいすだににすこしくあつまりてこういんをえたり》」と題せるもの南畆の家のことなるべし。その作に曰く [#ここから2字下げ] 遷喬楼在[#二]懸崖上[#一]  〔遷喬楼《せんきょうろう》は懸崖《けんがい》の上《うえ》に在《あ》り 闌干方与[#二]赤城[#一]平  闌干《らんかん》は方《まさ》に赤城《せきじょう》と平《たい》らなり 霞気不[#レ]消連旬雪  霞気《かき》も消《け》さず連旬《れんじゅん》の雪 万瓦渾如[#レ]粧[#二]水晶[#一]  万瓦《まんが》は渾《すべ》て水晶《すいしょう》を粧《よそ》うが如《ごと》し 疑在[#二]広寒清虗府[#一]  疑うらくは広寒清虚《こうかんせいきょ》の府《ふ》に在《あ》るかと 四望生[#レ]眩総瑩瑩  四望《しぼう》は眩《げん》を生《しょう》じて総《すべ》て瑩瑩《えいえい》たり 主人愛[#レ]客兼愛[#レ]酒  主人 客を愛し兼《か》ねて酒を愛し 暇日開[#レ]宴迎[#レ]客傾  暇日《かじつ》 宴《えん》を開《ひら》き 客を迎《むか》えて傾《つく》す 衣冠何須挂[#二]神武[#一]  衣冠《いかん》何《なん》ぞ須《もちい》ん神武《しんぶ》に挂《かけ》ることを 与[#レ]身并忘刀筆名  身《み》と与《とも》に并《あわせ》て忘《わす》る刀筆《とうひつ》の名 我是江湖釣漁客  我《われ》は是《こ》れ江湖《こうこ》の釣漁《ちょうぎょ》の客 平生不[#三]曾接[#二]冠纓[#一]  平生《へいせい》曾《かつ》て冠纓《かんえい》に接《せっ》せず 十里泥濘深[#レ]於[#レ]海  十里 泥濘《でいねい》 海よりも深けれども 今日肯来訂[#二]酒盟[#一]  今日 肯《あえ》て来たりて酒盟《しゅめい》を訂《むす》ぶ 唯応[#三]爛酔報[#二]厚意[#一]  唯《た》だ応《まさ》に爛酔《らんすい》して厚意《こうい》に報《むく》ゆべく 対[#レ]君不[#レ]酔作麼生  君と対《たい》して酔《よ》わずんば作麼生《いかん》せん〕 [#ここで字下げ終わり]  また六樹園《ろくじゅえん》が狂文『吾嬬《あずま》なまり』に鶯谷のさくら会と題する一文ありて、勾欄《こうらん》の前なる桜の咲きみだれたるが今日の風にやや散りそむといへど、今はそれかとおぼしき桜の古木もさぐるによしなし。このあたり今は金富町《かなとみちょう》と称《とな》ふれど、むかしは金杉《かなすぎ》水道町にして、南畆が[#「南畆が」は底本では「南畝が」]いはゆる金曾木《かなそぎ》なり。懸崖には喬木《きょうぼく》なほ天を摩《ま》し、樹根怒張して巌石の状《さま》をなせり。澗道《かんどう》を下るに竹林の間に椿の花開くを見る。人家の犬|籬笆《りは》の間より人の来るを見て吠ゆ。宛然|田家《でんか》の光景なり。細径に従つて盤回すればおのづから金剛寺の域《さかい》に出づ。寺はわづかに堂宇を遺すのみにして墓田は尽《ことごと》く人家となりたれば、旧記に見る所の実朝《さねとも》の墓も今は尋ぬべきよすがもなし。本堂の前を過ぎ庫裏《くり》と人家との間の路地に入るに、迂回して金剛寺坂の中腹に出でたり。路地の中に稚《おさな》き頃見覚えし車井戸なほあるを見たり。大都の康荘《こうそう》は年々面目を新にするに反して窮巷屋後《きゅうこうおくご》の湫路《しゅうろ》は幾星霜を経るも依然として旧観を革《あらた》めず。これを人の生涯に観るもまたかくの如き歟《か》。人一たび勢利の巷《ちまた》に奔馳《ほんち》するや、時運に激せられて旧習に晏如《あんじょ》たる事|能《あた》はず。たまたま鄰人の新聞紙をよみて衣服改良論を称《となう》るものあれば忽《たちまち》雷同して、腰のまがつた細君にも洋服をまとはしめ、児輩の手を引いて、或時は劇場に少女歌劇を見、或時は日比谷街頭に醜陋《しゅうろう》なる官吏の銅像を仰いでその功績を説かざるべからず。然るに独《ひとり》吾輩の如き世間無用の間人《かんじん》にあつては、あたかも陋巷の湫路今なほ車井戸と総後架《そうごうか》とを保存せるが如く、七夕《たなばた》には妓女と彩紙《いろがみ》を截《き》つて狂歌を吟じ、中秋には月見団子《つきみだんご》を食つて泰平を皷腹するも、また人のこれを咎《とが》むることなし。幸なりといふべし。  金剛寺坂の中腹には夜ごとわが先考《せんこう》の肩|揉《も》みに来りし久斎《きゅうさい》とよぶ按摩《あんま》住みたり。われかつて卑稿『伝通院《でんずういん》』と題するものつくりし折には、殊更に久を休につくりたり。久斎姓は村瀬名は久太郎といへり。その父寅吉といへるは幕府の御家人《ごけにん》なりしとか。わが家金富町より一番町に移りし頃久斎は病みて世を去り、その妻しんといへるもの、わが家に来りて炊爨《すいさん》浣滌《かんでき》の労を取り、わづかなる給料にて老いたる姑《しゅうとめ》と幼きものとを養ひぬ。わが父三たび家を徙《うつ》して、終《つい》に燕息《えんそく》の地を大久保村に卜せられし時、衡門《こうもん》の傍なる皀莢《さいかち》の樹陰に茅葺《かやぶき》の廃屋ありて住むものもなかりしを、折から久斎が老母重き病に伏したりと聞き、わが母上ここに引取り、やがて野辺《のべ》のおくりをもなさしめ玉ひけり。しん深くこの恩義に感じてや、先考《せんこう》館舎を捐《す》てられし後は、一際《ひときわ》まごころ籠めてわが家のために立ちはたらきぬ。大正七年の暮われ先考の旧居を人に譲り琴書を築地の僦居《しゅうきょ》に移せし時、しんは年漸く老い、両眼既におぼろになりしかば、その忰《せがれ》の既に家を成して牛込築土《うしごめつくど》に住みたりしをたより、次の年の春|暇《いとま》を乞ひてわが許を去りぬ。去るに望みて、御用の節にはいつにても御知らせ下さりましさしづめ来月の大掃除にはお手つだひに上りませうと言ひゐたりしがそのかひもなく、一月あまりにして突然身まかりし趣、忰のもとより言越《いいこ》し来《きた》りぬ。享年六十余歳。流行感冒に罹《かか》りて歿せしといふ。しん逝《ゆ》きて後ここに幾年、わが家再びこれに代るべき良婢を得ざりき。しんは武州南葛飾郡新宿の農家に生れ固《もと》より文字を知るものにもあらざりしかど、女の身の守るべき道と為すべき事には一として闕《か》くところはあらざりき。良人《おっと》にわかれて後永く寡《か》を守り、姑を養ひ、児を育て、誠実の心を以てよく人の恩義に報いたり。われ大正当今の世における新しき婦人の為す所を見て翻《ひるがえ》つてわが老婢しんの生涯を思へば、おのづから畏敬の念を禁じ得ざるも豈《あに》偶然ならんや。しんの墓は小日向水道町《こびなたすいどうちょう》なる日輪寺にありと聞きしのみにて、いまだ一たびも行きて弔《とむら》ひしことなければ、この日初夏の晷《ひあし》のなほ高きに加へて、寺は一牛鳴《いちぎゅうめい》の間にあるをさいはひ杖を曳きぬ。路傍に石級《せききゅう》あり。その頂《いただき》に寺の門立ちたり。石級の傍別に道を開きて登るに易《やす》からしむ。登れば一望|忽《たちまち》曠然として、牛込赤城《うしごめあかぎ》の嵐光《らんこう》人家を隔てて翠色《すいしょく》滴《したた》らむとす。供養《くよう》の卒塔婆《そとば》を寺僧にたのまむとて刺《し》を通ぜしに寺僧出で来りてわが面を熟視する事|良久《しばらく》にして、わが家小石川にありし頃の事を思起したりとて、ここに端《はし》なく四十年のむかしを語出せしもまた奇縁なりけり。  やがて寺のしもべ来りて兆域《ちょういき》に案内す。兆域は本堂のうしろなる丘阜《きゅうふ》にあり。石磴《せきとう》を登らむとする時その麓なる井のほとりに老婆の石像あるを見、これは何かと僕《しもべ》に問へば咳嗽《せき》のばばさまとて、せきを病むもの願《がん》を掛け病|癒《いゆ》れば甘酒を供ふるなりといへり。この日も硝子罎《ガラスびん》の甘酒四、五十本ほども並べられしを見たり。霊験《れいげん》のほど思ひ知るべし。  日輪寺を出で小日向水道町を路の行くがままに関口に出で、目白坂の峻坂を攀《よ》ぢて新長谷寺《しんちょうこくじ》の樹下に憩《いこ》ふ。朱塗《しゅぬり》の不動堂《ふどうどう》は幸にして震災を免れしかど、境内の碑碣《ひけつ》は悉くいづこにか運び去られて、懸崖の上には三層の西洋づくり東豊山《とうほうざん》の眺望を遮断《しゃだん》したり。来路を下り堰口《せきぐち》の瀑《たき》に抵《いた》り見れば、これもいつかセメントにて築き改められしが上に鉄の釣橋をかけ渡したり。駒留橋《こまとめばし》のあたりは電車製造場となり上水の流は化して溝※[#「さんずい+賣」、178-2]《こうとく》となれり。鶴巻町の新開町を過れば、夕陽《せきよう》ペンキ塗の看板に反映し洋食の臭気|芬々《ふんぷん》たり。神楽坂《かぐらざか》を下り麹町《こうじまち》を過ぎ家に帰れば日全く昏《くら》し。燈を挑《かか》げて食後|戯《たわむれ》にこの記をつくる。時に大正十三年|甲子《かっし》四月二十日也。 底本:「荷風随筆集(上)」岩波文庫、岩波書店    1986(昭和61)年9月16日第1刷発行    2006(平成18)年11月6日第27刷発行 底本の親本:「荷風隨筆 三」岩波書店    1982(昭和57)年1月18日第1刷発行 ※「漢詩文の訓読は蜂屋邦夫氏を煩わした。」旨の記載が、底本の編集付記にあります。 ※ルビは新仮名とする底本の扱いにそって、ルビの拗音、促音は小書きしました。 ※誤植を疑った箇所を、親本の表記にそって、あらためました。 ※「南畝」と「南畆」の混在は、底本通りです。 ※表題は底本では、「礫川徜徉記《れきせんしょうようき》」となっています。 入力:門田裕志 校正:阿部哲也 2010年5月28日作成 2019年12月29日修正 青空文庫作成ファイル: 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