向嶋 永井荷風 ------------------------------------------------------- 【テキスト中に現れる記号について】 《》:ルビ (例)向島《むこうじま》 |:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号 (例)大正|壬戌《じんじゅつ》 [#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定    (数字は、JIS X 0213の面区点番号またはUnicode、底本のページと行数) (例)〻  [#…]:返り点  (例)雖[#レ] 〔〕:アクセント分解された欧文をかこむ (例)〔Vers le passe'〕 アクセント分解についての詳細は下記URLを参照してください https://www.aozora.gr.jp/accent_separation.html -------------------------------------------------------  向島《むこうじま》は久しい以前から既に雅遊の地ではない。しかしわたくしは大正|壬戌《じんじゅつ》の年の夏森先生を喪《うしな》ってから、毎年の忌辰《きしん》にその墓を拝すべく弘福寺の墳苑に赴《おもむ》くので、一年に一回向島の堤《つつみ》を過《よぎ》らぬことはない。そのたびたびわたくしは河を隔てて浅草寺《せんそうじ》の塔尖を望み上流の空|遥《はるか》に筑波の山影を眺める時、今なお詩興のおのずから胸中に満ち来るを禁じ得ない。そして悵然《ちょうぜん》として江戸|徃昔《おうせき》の文化を追慕し、また併せてわが青春の当時を回想するのである。  震災の後わたくしは多く家にのみ引籠っているので、市中繁華の街の景況については、そのいわゆる復興の如何を見ることが稀である。それに反して向島災後の状況に関しては、少くとも一年一回来り見るところから、ややこれについて語ることが出来るような気がしている。吾妻橋《あずまばし》を渡ると久しく麦酒《ビール》製造会社の庭園になっていた旧佐竹氏の浩養園がある。しかしこの名園は災禍の未だ起らざる以前既に荒廃して殆《ほとんど》その跡を留《とど》めていなかった。枕橋のほとりなる水戸家の林泉は焦土と化した後、一時土砂石材の置場になっていたが、今や日ならずして洋式の新公園となるべき形勢を示している。吾人《ごじん》は日比谷青山辺に見るが如き鉄鎖とセメントの新公園をここにもまた見るに至るのであろう。三囲《みめぐり》の堤に架せられべき鉄橋の工事も去年あたりから、大に進捗したようである。世の噂をきくに、隅田川の沿岸は向島のみならず浅草《あさくさ》花川戸《はなかわど》の岸もやがて公園になされるとかいう事である。思うに紐育《ニューヨーク》市ハドソン河畔の公園に似て非なるが如きものが、ここに経営せられるのではなかろうか。とにかく隅田川両岸の光景は遠からずして全く一変し、徃昔の風致は遂に前代の絵画文学について見るの外《ほか》全く想像しがたきものとなってしまうのである。  隅田川に関する既徃の文献は幸にして甚《はなはだ》豊富である。しかし疎懶《そらん》なるわたくしは今日の所いまだその蒐集《しゅうしゅう》に着手したわけではない。折々の散歩から家に帰った後|唯《ただ》机辺に散乱している二、三の雑著を見て足れりとしている。これら座右の乱帙中《らんちつちゅう》に風俗画報社の明治三十一年に刊行した『新撰東京|名所図会《めいしょずえ》』なるものがあるが、この書はその考証の洽博《こうはく》にして記事もまた忠実なること、能《よ》く古今にわたって向島の状況を知らしむるものである。明治三十一年の頃には向島の地はなお全く幽雅の趣を失わず、依然として都人観花の勝地となされていた。それより三年の後[#割り注]明治三十四年[#割り注終わり]平出鏗二郎《ひらでこうじろう》氏が『東京風俗志』三巻を著した時にも著者は向嶋桜花の状を叙して下の如く言っている。「桜は向嶋最も盛なり。中略[#「中略」は1段階小さな文字]三囲の鳥居前より牛《うし》ノ御前《ごぜん》長命寺の辺までいと盛りに白鬚《しらひげ》梅若《うめわか》の辺まで咲きに咲きたり。側は漂渺《ひょうびょう》たる隅田の川水青うして白帆に風を孕《はら》み波に眠れる都鳥の艪楫《ろしゅう》に夢を破られて飛び立つ羽音《はおと》も物たるげなり。待乳山《まつちやま》の森|浅草寺《せんそうじ》の塔の影いづれか春の景色ならざる。実に帝都第一の眺めなり。懸茶屋《かけぢゃや》には絹被《きぬかつぎ》の芋|慈姑《くわい》の串団子《くしだんご》を陳《つら》ね栄螺《さざえ》の壼焼などをも鬻《ひさ》ぐ。百眼売《ひゃくまなこうり》つけ髭《ひげ》売|蝶〻《ちょうちょう》売|花簪《はなかんざし》売風船売などあるいは屋台を据ゑあるいは立ちながらに売る。花見の客の雑沓狼藉《ざっとうろうぜき》は筆にも記しがたし。明治三十三年四月十五日の日曜日に向嶋にて警察官の厄介となりし者酩酊者二百五人喧嘩九十六件、内《うち》負傷者六人、違警罪一人、迷児《まいご》十四人と聞く。雑沓狼藉の状《さま》察すべし。」云〻  わたくしはこれらの記事を見て当時の向嶋を回想するや、ここにおのずから露伴幸田《ろはんこうだ》先生の事に思到《おもいいた》らなければならない。  そもそも享保のむかし服部南郭《はっとりなんかく》が一夜|月明《げつめい》に隅田川を下り「金竜山畔江月浮《きんりゅうさんはんにこうげつうく》」の名吟を世に残してより、明治に至るまで凡《およそ》二百有余年、墨水《ぼくすい》の風月を愛してここに居《きょ》を卜《ぼく》した文雅の士は勝《あ》げるに堪えない。しかしてそが最終の殿《しんがり》をなした者を誰かと問えば、それは実に幸田先生であろう。先生は震災の後まで向嶋の旧居を守っておられた。今日その人はなお矍鑠《かくしゃく》としておられるが、その人の日夜見て娯《たのし》みとなした風景は既に亡びて存在していない。先生の名著『讕言《らんげん》長語』の二巻は明治三十二、三年の頃に公刊せられた。同書に載せられた春の墨堤《ぼくてい》という一篇を見るに、 [#ここから1字下げ、折り返して3字下げ] 「一、塵いまだたたず、土なほ湿りたる暁方《あけがた》、花の下行く風の襟元《えりもと》に冷やかなる頃のそぞろあるき。  一、夜ややふけて、よその笑ひ声も絶《たえ》る頃、月はまだ出でぬに歩む路明らかならず、白髭あたり森影黒く交番所の燈のちらつくも静なるおもむきを添ふる折ふし五位鷺《ごいさぎ》などの鳴きたる。  一、何心もなくあるきゐたる夜、あたりの物淋しきにふと初蛙の声聞きつけたる。  一、雨に名所の春も悲しき闇の中を街燈遠く吾妻橋まで花がくれに連《つら》なれるが見えたる。  一、日ごろは打絶えたる人の花に催されてなど打興じながら柴の戸を排《ひら》き入り来りたる。  一、裏道づたひいづくへともなく行くに、いけがきのさま、折戸のかかりもいやしげならず、また物々しくもあらぬ一構の奥に物の音のしたる。  右いづれかをかしからざるべき。」 [#ここで字下げ終わり]  明治三十一、二年の頃隅田堤の桜樹は枕橋より遠く梅若塚のあたりまで間隙《かんげき》なく列植されていたので、花時の盛観は江戸時代よりも遥に優っていたと言わなければならない。江戸時代にあっては堤上の桜花はそれほど綿密に連続してはいなかったのである。堤上桜花の沿革については今なお言問《こととい》の岡に建っている植桜之碑を見ればこれを審《つまびらか》にすることができる。碑文の撰者浜村蔵六の言う所に従えば幕府が始《はじめ》て隅田堤に桜樹を植えさせたのは享保二年である。ついで享保十一年に再び桜桃柳百五十株を植えさせたが、その場所は梅若塚に近いあたりの堤に限られていたというので、今日の言問や三囲の堤には桜はなかったわけである。文化年間に至って百花園の創業者|佐原菊塢《さわらきくう》が八重桜百五十本を白髭神社の南北に植えた。それから凡《およそ》三十年を経て天保二年に隅田村の庄家阪田氏が二百本ほどの桜を寺島《てらじま》須崎《すさき》小梅《こうめ》三村の堤に植えた。弘化三年七月洪水のために桜樹の害せられたものが多かったので、須崎村の植木師宇田川総兵衛なる者が独力で百五十株ほどを長命寺の堤上に植つけた。それから安政元年に至って更に二百株を補植した。ここにおいて隅田堤の桜花は始て木母寺《もくぼじ》の辺より三囲堤に至るまで連続することになったという。しかしこの時にはまだ枕橋には及ばなかった。それは明治七年|其角堂永機《きかくどうえいき》の寄附と明治十三年水戸徳川家の増植とを俟《ま》って始て果されたのである。以後向島居住の有志者は常に桜樹の培養を怠らず、時々これが補植をなし、永くこの堤上を以て都人観花の勝地たらしむべく、明治二十年に植桜之碑を建てて紀念となした。建碑について尽力した人の重《おも》なるものは、その時には既に世を去っていた成島柳北《なるしまりゅうほく》と今日なお健在の富商大倉某らであった事が碑文に言われている。かくの如く堤上の桜花が梅若塚の辺より枕橋に至るまで雲か霞の如く咲きつらなったのは、江戸時代ではなくしてかえって明治十年以後のことであったのだ。梅若神社の堂宇の新に建立せられたのもその頃のことである。長命寺門前の地を新に言問ヶ岡と称してここに言問団子《ことといだんご》を売る店のできたのもまたこの時分である。言問団子の主人は明治十一年の夏七月より秋八月の末まで、都鳥の形をなした数多《あまた》の燈籠《とうろう》を夜々河に流して都人の観覧に供した。成島柳北は三たびこの夜の光景を記述して『朝野《ちょうや》新聞』に掲げた。大沼枕山《おおぬまちんざん》が長命寺の門外に墨水観花の碑を建てたのも思うにまたこの時分であろう。  かつてわたくしはこの時分の俗曲演劇等の事を論評した時明治十年前後の時代を以て江戸文芸再興の期となしたが、今向島桜花のことを陳《のべ》るに及んで更にまたその感がある。  明治年間向島の地を愛してここに林泉を経営し邸宅を築造した者は尠《すくな》くない。思出《おもいいづ》るがままにわたくしの知るものを挙《あげ》れば、華族には榎本梁川《えのもとりょうせん》がある。学者には依田学海《よだがっかい》、成島柳北がある。詩人には伊藤聴秋《いとうていしゅう》、瓜生梅村《うりゅうばいそん》、関根癡堂《せきねちどう》がある。書家には西川春洞《にしかわしゅんとう》、篆刻家《てんこくか》には浜村大澥《はまむらたいかい》、画家には小林永濯《こばやしえいたく》がある。俳諧師には其角堂永機、小説家には饗庭篁村《あえばこうそん》、幸田露伴、好事家《こうずか》には淡島寒月《あわしまかんげつ》がある。皆一時の名士である。しかし明治四十三年八月初旬の水害以後永くその旧居に留ったものは幸田淡島其角堂の三家のみで、その他はこれより先既に世を去ったものが多かった。堤上の桜花もまた水害の後は時勢の変遷するに従い、近郊の開拓せらるるにつれて次第に枯死し、大正の初に至っては三囲堤のあたりには纔《わずか》に二、三の病樹を留むるばかりとなった。浜村蔵六が植桜之碑には堤上桜樹の生命は大抵人間と同じであるが故に絶えずこれが補植に力を竭《つく》さなければならぬと言われている。しかし大正の都人士に対しては石碑の文の如きは全く顧る所とならなかった。  江戸時代隅田堤看花の盛況を述るものは、大抵|寺門静軒《てらかどせいけん》が『江戸繁昌記《えどはんじょうき》』を引用してこれが例証となしている。風俗画報社の『新撰東京名所図会』もまた『江戸繁昌記』を引きこれを補うに加藤善庵《かとうぜんあん》が『墨水観花記』を以てしている。わたくしは塩谷宕陰《しおのやとういん》の文集に載っている「遊墨水記」を以て更にこれを補うであろう。  静軒の文は天保に成ったもの、宕陰の記は慶応改元の春に作られたものである。宕陰が記の一節に曰く、「凡ソ墨堤十里、両畔皆桜ナリ。淡紅濃白、歩ムニ随テ人ニ媚《こ》ブ。遠キハ招クガ如ク近キハ語ラントス。間《まま》少シク曲折アリ。第一曲ヨリ東北ニ行クコト三、四曲ニシテ、以テ木母寺ニ至ツテ窮《きわま》ル。曲曲回顧スレバ花幔《かまん》地ヲ蔽《おお》ヒ恍トシテ路ナキカト疑フ。排《おしひら》イテ進メバ則《すなわち》白雲ノ坌湧《ふんよう》スルガ如ク、杳《よう》トシテ際涯ヲ見ズ。低回スルコト頃《しばら》クニシテ肌骨皆香シク、人ヲシテ蒼仙ニ化セシメントス。既ニシテ夕陽林梢ニアリ、落霞飛鳧《らっかひふ》、垂柳疎松ノ間ニ閃閃《せんせん》タリ。長流ハ滾滾《こんこん》トシテ潮ハ満チ石ハ鳴ル。西ニ芙蓉《ふよう》ヲ仰ゲバ突兀万仞《とっこつばんじん》。東ニ波山ヲ瞻《み》レバ翠鬟《すいかん》拭フガ如シ。マタ宇内ノ絶観ナリ。先師|慊叟《こうそう》カツテ予ニ語ツテ、吾京師|及《および》芳山ノ花ヲ歴覧シキ。然レドモ風趣ノ墨水ニ及ブモノナシト。洵《まこと》ニ然リ。」云〻  江戸名家の文にして墨水桜花の美を賞したものは枚挙するに遑《いとま》がない。しかし京師《けいし》および吉野山の花よりも優っていると言ったものは恐らく松崎慊堂《まつざきこうどう》のみであろう。慊堂は昌平黌《しょうへいこう》の教授で弘化元年に歿した事は識者の知る所。その略伝の如きはここに言わない。  隅田川を書するに江戸の文人は多く墨水または墨江の文字を用いている。その拠るところは『伊勢物語』に墨多あるいは墨田の文字を用いているにあるという。また新に濹という字をつくったのは林家《りんけ》を再興した述斎《じゅっさい》であって、後に明治年間に至って成島柳北が頻《しきり》にこの濹字を用いた。これらのことはいずれも風俗画報社の『新撰東京名所図会』に説かれている。  林述斎が隅田川の風景を愛して橋場の辺に別墅《べっしょ》を築きこれを鴎窼《おうそう》と命名したのは文化六年である。その詩集『濹上漁謡』に花時の雑沓を厭《きら》って次の如くに言ったものがある。 [#ここから2字下げ] 花時濹上佳    〔花時《かじ》 濹上《ぼくじょう》佳《よ》し 雖[#レ]佳慵[#レ]命[#レ]駕  佳《よ》しと雖《いえど》も駕《が》を命《めい》ずるに慵《ものう》し 都人何雑沓     都人《とじん》何《なん》ぞ雑沓《ざっとう》して 来往無[#二]昼夜[#一]   来往《らいおう》すること昼夜《ちゅうや》を無《なみ》するや 或連[#レ]袂歌呼    或《あるい》は袂《たもと》を連《つら》ねて歌呼《かこ》し 或謔浪笑罵     或は謔浪笑罵《きゃくろうしょうば》す 或拗[#レ]枝妄抛    或は枝《えだ》を拗《お》りて妄《みだ》りに抛《なげす》て 或被[#レ]酒僵臥    或は酒に被《よ》いて僵臥《きょうが》す 游禽尽驚飛     游禽《ゆうきん》は尽《ことごと》く驚《おどろ》きて飛《と》び 不[#レ]聞綿蛮和    聞かず 綿蛮《めんばん》の和《わ》するを 何若延[#二]日時[#一]   何若《いかに》か日時《にちじ》を延《の》ばせば 暫遅春花謝     暫《しばら》く遅《おそ》く春花《しゅんか》謝《しゃ》せん 花謝人絶[#レ]踪    花《はな》謝《しゃ》し人《ひと》踪《あと》を絶《た》ちて 羸驂始可[#レ]跨    羸驂《るいさん》始《はじ》めて跨《またが》る可《べ》し 高樹緑陰敷     高《たか》き樹《き》は緑《みどり》の陰《かげ》を敷《し》き 草嫩堪[#レ]充[#レ]茵   草《くさ》は嫩《わか》く茵《しとね》に充《あつ》るに堪《た》う 葭短不[#レ]碍[#レ]舸   葭《あし》は短《みじか》く舸《おおぶね》も碍《さまた》げず 撥[#二]百冗[#一]以遊   百冗《ひゃくじょう》を撥《すてさ》りて以《もっ》て遊ぶ   中略        中略 清和属[#二]首夏[#一]   清和《せいわ》は首夏《しゅか》に属《ぞく》す 境勝固天真     境《きょう》の勝《すぐれ》ることは固《もと》より天真《てんしん》にして 芳葩及外仮     芳《かんば》しき葩《はな》は及《とも》に外仮《げけ》なり 惟当[#下]遭[#二]斯辰[#一]  惟《た》だ当《まさ》に斯《こ》の辰《とき》に遭《あ》いて 屡倚[#中]水畔榭[#上]   屡《しばし》ば水畔《すいはん》の榭《うてな》に倚《よ》るべし〕 云〻。 [#ここで字下げ終わり]  述斎は濹上に遊ぶべき時節の最も佳《よ》きは花の散った後若葉の頃であるとなした。これは柳北が『花月新誌』に言うところと全く符合している。明治十年五月の『花月新誌』載する所の「|詰[#二]濹上遊客[#一]文《ぼくじょうのゆうかくをなじるぶん》」に曰く、「ソレ我ガ濹上ノ桜花ヲ以テ鳴ルヤ久シ。故ニ花候《かこう》ニ当テハ輪蹄《りんてい》陸続トシテ文士雅流俗子婦女ノ別ナク麕集《きんしゅう》シ蟻列シ、繽紛狼藉《ひんぷんろうぜき》人ヲシテ大《おおい》ニ厭《いと》ハシムルニ至ル。シカシテ風雨一過香雲地ニ委《ゆだ》ヌレバ十里ノ長堤寂トシテ人ナキナリ。知ラズ我ガ濹上ノ勝ハ桜花ニ非ズシテ実ニ緑陰幽草ノ候ニアルヲ。モシソレ薫風南ヨリ来ツテ水波紋ヲ生ジ、新樹空ニ連ツテ風露香ヲ送ル。渡頭《ととう》人稀ニ白鷺|雙々《そうそう》、舟ヲ掠《かす》メテ飛ビ、楼外花尽キ、黄鸝《こうり》悄々《しょうしょう》、柳ヲ穿《うが》ツテ啼ク。籊々《てきてき》ノ竿、漁翁雨ニ釣リ、井々《せいせい》ノ田、村女烟ニ鋤ス。一檐《いちえん》ノ彩錦斜陽ニ映ズルハ槖駝《たくだ》ノ芍薬《しゃくやく》ヲ売ルナリ。満園ノ奇香微風ニ動クハ菟裘《ときゅう》ノ薔薇ヲ栽《うう》ルナリ。ソノ清幽ノ情景|幾《ほと》ンド画図モ描ク能《あた》ハズ。文詩モ写ス能ハザル者アリ。シカシテ遊客|寥々《りょうりょう》トシテ尽日《じんじつ》舟車ノ影ヲ見ザルハ何ゾヤ。」およそ水村の風光初夏の時節に至って最佳なる所以《ゆえん》のものは、依々たる楊柳と萋々《せいせい》たる蒹葭《けんか》とのあるがためであろう。往時隅田川の沿岸に柳と蘆《あし》との多く繁茂していたことは今日の江戸川や中川と異る所がなかった。啻《ただ》に河岸のみならず灌田《かんでん》のために穿った溝渠の中、または人家の園池にも蒹葭は萋々《せいせい》と繁茂していた。蜀山人《しょくさんじん》が作にも [#ここから2字下げ] 金竜山下起[#二]金波[#一]  〔金竜山下《きんりゅうさんか》に金波《きんぱ》を起《お》こし 砕[#二]作千金[#一]散[#二]墨河[#一] 千金《せんきん》を砕作《さいさく》して墨河《ぼくが》に散《ち》る 別有[#三]幽荘引[#二]剰水[#一]  別《べつ》に幽荘《ゆうそう》の剰水《じょうすい》を引《ひ》ける有《あ》りて 蒹葭深処月明多     蒹葭《けんか》深《ふか》き処《ところ》月明らかなること多《すぐ》れり〕 [#ここで字下げ終わり] という絶句がある。然るに今日に至っては隅田川の沿岸には上流|綾瀬《あやせ》の河口から千住《せんじゅ》に至るあたりの沮洳《そじょ》の地にさえ既に蒹葭|蘆荻《ろてき》を見ることが少くなった。わたくしはかつて『夏の町』と題する拙稾《せっこう》に明治三十年の頃には両国橋の下流|本所《ほんじょ》御船倉《おふなぐら》の岸に浮洲《うきす》があって蘆荻のなお繁茂していたことを述べた。それより凡《およそ》十年を経て、わたくしは外国から帰って来た当時、橋場の渡《わたし》のあたりから綾瀬の川口にはむかしのままになお蘆荻の茂っているのを見てしばしばここに杖を曳き、初夏の午後には葭切《よしき》りの鳴くを聴き、月のあきらかな夜には風露の蕭蕭《しょうしょう》と音する響を聞いて楽んだ。当時隅田川上流の蒹葭と楊柳とはわたくしをして、セーヌ河上の風光と、並せてまたアンリ・ド・レニエーが抒情詩を追想せしめる便りとなったからである。今日文壇の士に向って仏蘭西《フランス》の風光とその詩篇とを説くのは徒《いたずら》に遼豕《りょうし》の嗤《わらい》を招ぐに過ぎないであろう。しかしわたくしは隅田川の蒹葭を説いて適《たまたま》レニエーの詩に思及ぶや、その詩中の景物に蒹葭を用いたものの尠《すくな》からぬことを言わねばならない。  ヂェー・ワルクの編輯《へんしゅう》した『仏蘭西現代抒情詩選』の中、レニエーの部の冒頭に追憶の意を唱《うた》った 〔Vers le passe'〕 の一篇が掲げられている。その初の一節に、 [#ここから2字下げ] 〔Sur l'e'tang endormi palpitent les roseaux.〕 〔Et l'on entend passer en subites bouffe'es,〕 Comme le vol craintif l'invisibles oiseaux, 〔Le le'ger tremblement de brises etouffe'es.〕 静なる池のおもてに蘆は俄《にわか》に打ちそよぎつ。 そは遮《さえ》ぎられたる風の静なる顫動《せんどう》 さながら隠れし小禽《ことり》のひそかに飛去るごとく さとむらがり立ちて起ると見れば消え去るなり。 [#ここで字下げ終わり] また Odelettes と題せられた小曲の中にも、次の如きものがある。 [#ここから2字下げ] Un petit roseau m'a suffi 〔Pour faire fre'mir l'herbe haute〕 〔Et tout le pre'〕 Et les doux saules Et le ruisseau qui chante aussi; Un petit roseau m'a suffi 〔A faire chanter la fore^t.〕 蘆の細茎《ほそぐき》。その一|条《すじ》をとりてわれかつて笛吹きし時 たけたかく伸びし野の草はおろかや 牧場は端《はて》より端にいたるまで あるいはしなやかなる柳の木 ささやかなる音して流るる小川さへ 皆一|時《とき》に応《こた》へてふるへをののぎぬ。 蘆の細茎の一すぢは過ぎし日かつてわれをして 深き林にも歌うたはしめき。 [#ここで字下げ終わり] かくの如きパストラルの情趣は日本に帰って来た後に至っても、久しくわたくしの忘れ得ぬものであったので、わたくしはいつも蘆荻の繁った地を捜《もと》めて散歩した。しかし蘆荻蒹葭は日と共に都市の周囲より遠《とおざ》けられ、今日では荒川放水路の堤防から更に江戸川の沿岸まで行かねば見られぬようになった。中川の両岸も既に隅田川と同じく一帯に工場の地となり小松川の辺は殊に繁華な市街となっている。  蒹葭は秋より冬に至って白葦黄茅《はくいこうぼう》の景を作る時殊に文雅の人を喜ばす。流行唄《はやりうた》にも「枯野ゆかしき隅田堤」というのがある。「心も晴るる夜半の月、田面《たのも》にうつる人影にぱつと立つのは、アレ雁金《かりがね》の女夫《めおと》づれ。」これは畢竟《ひっきょう》枯荻落雁の画趣を取って俗謡に移し入れたもので、寺門静軒《てらかどせいけん》が『江頭百詠』の中に [#ここから2字下げ] 漁舟丿乀影西東   〔漁舟《ぎょしゅう》丿乀《へつふつ》して影《かげ》西東《せいとう》 白葦黄茅画軸中    白葦黄茅《はくいこうぼう》 画軸《がじく》の中《うち》 忽地何人加[#二]点筆[#一]  忽地《こっち》として何人《なんぴと》か点筆《てんぴつ》を加《くわ》え 一縄寒雁下[#二]秋空[#一]  一縄《いちじょう》の寒雁《かんがん》 秋空《あきぞら》を下《くだ》る〕 [#ここで字下げ終わり] と言った絶句と同工異曲というべきである。 『江頭百詠』は静軒が天保八年『江戸繁昌記』のために罪を獲《え》て江戸払《えどばらい》となってから諸方に流浪し、十三年の後隅田川のほとりなる知人某氏の別荘に始めておちつく事を得た時、日々見る所の江上の風光を吟じたもので、嘉永二年に刊刻せられた一冊子である。『江頭百詠』は詼謔《かいぎゃく》を旨とした『繁昌記』の文とは異って静軒が詩才の清雅なる事を窺知《うかがいし》らしむるものである。静軒は花も既に散尽《ちりつく》した晩春の静なる日、対岸に啼く鶯の声の水の上を渡ってかすかに聞えてくる事のいかに幽趣あるかを説いて下の如くに言っている。「凡ソ物ノ声、大抵隔ツテ聴クヲ好シトス。読書|木魚《もくぎょ》琴瑟《きんしつ》等ノ声|最《もっとも》然リトナス。鳩ノ雨ヲ林中ニ喚《よ》ビ、雁ノ霜ヲ月辺ニ警シメ、棊声《きせい》ノ竹ヲ隔テ、雪声ノ窓ヲ隔ツ。皆愛スベキナリ。山行伐木ノ声、渓行水車ノ声|並《とも》ニ遠ク聴クベシ。遊舫《ゆうほう》ノ笙《しょう》、漁浦ノ笛モ遠ケレバ自ラ韻アリ。寺鐘、城鼓モ遠ケレバマタ趣キナキニアラズ。蛙声ノ枕ニ近クシテ喧聒《けんかつ》ニ堪《た》ヘザルガ如キモ、隔ツレバ則チ聴クベシ。大声モト聴クニ悪シ。林ヲ隔ツレバ則チ趣ホボ水車ニ等シ。カツ村ノアルコトヲ報ズルヤ山行中人ヲシテ喜意ヲ生ゼシム。コレマタ愛シテ聴クベキナリ。馬ノ蒭《まぐさ》ヲ食フ。モトヨリ何ノ趣アランヤ。独《ひとり》寒駅ノ泊リ壁ヲ隔テテコレヲ聞ケバ大ニ趣ヲ成ス。晁氏ガ小雨暗々トシテ人寐ネズ。臥シテ聴ク羸馬《るいば》ノ残蔬《ざんそ》ヲ齕《か》ムトイフトコロコレナリ。鶯声ノ耳ニ上ル近キモマタ愛スベシ。今水ヲ隔テテコレヲ聴ク。殊ニ趣アルヲ覚ユ。」  寺門静軒が『江頭百詠』を刻した翌年[#割り注]嘉永三年[#割り注終わり]遠山雲如《とおやまうんじょ》が『墨水四時雑詠』を刊布した。雲如は江戸の商家に生れたが初《はじめ》文章を長野豊山《ながのほうざん》に学び、後に詩を梁川星巌《やながわせいがん》に学び、家産を蕩尽《とうじん》した後一生を旅寓に送った奇人である。晩年|京師《けいし》に留り遂にその地に終った。雲如の一生は寛政詩学の四大家中に数えられた柏木如亭《かしわぎじょてい》に酷似している。如亭も江戸の人で生涯家なく山水の間に放吟し、文政の初に平安の客寓に死したのである。  遠山雲如の『墨水四時雑詠』には風俗史の資料となるべきものがある。島田筑波さんは既に何かの考証に関してこの詩集中の一律詩を引用しておられたのを、わたくしは記憶している。それは [#ここから2字下げ] 年年秋月与[#二]春花[#一] 〔年年《ねんねん》 秋《あき》の月《つき》と春《はる》の花《はな》と 行楽何知鬢欲[#レ]華   行楽《こうらく》して何《なん》ぞ知《し》らん鬢《びん》華《しろか》らんと欲《ほっ》するを 隔[#レ]水唯開川口店   水《みず》を隔《へだ》てて唯《た》だ開《ひら》く川口《かわぐち》の店《みせ》 背[#レ]隄空鎖葛西家   隄《つつみ》を背《せ》にして空《むな》しく鎖《とざ》す葛西《かさい》の家 紅裙翠黛人終老    紅裙翠黛《こうくんすいたい》 人《ひと》は終《つい》に老《お》い 冷※[#「虫+捷のつくり」、194-15]寒烟路自賒   冷※[#「虫+捷のつくり」、194-15]寒烟《れいちょうかんえん》 路《みち》は自《おの》ずから賒《とお》し 憔悴一般楊柳在    憔悴《しょうすい》一般《いっぱん》の 楊柳《ようりゅう》在《あ》りて 風前猶剰旧夭斜    風前《ふうぜん》に猶《な》お剰《あま》す旧夭《きゅうよう》の斜《なな》めなり〕 [#ここで字下げ終わり] の一篇である。これによって三囲堤の下にあった葛西太郎《かさいたろう》という有名な料理屋は三下《さんさが》りの俗謡に、「夕立や田をみめぐりの神ならば、葛西太郎の洗鯉、ささがかうじて狐拳《きつねけん》。」と唱《うた》われていたほどであったのが、嘉永三年の頃には既に閉店し、対岸|山谷堀《さんやぼり》の入口なる川口屋お直の店のみなお昔日《せきじつ》に変らず繁昌していたことが知られる。  川口屋の女主《おんなあるじ》お直というは吉原の芸妓であったが、酒楼川口屋を開いて後天保七年に隅田堤に楓樹を植えて秋もなお春日桜花の時節の如くに遊客を誘おうと試みた。この事は風俗画報『新撰名所図会』に『好古叢誌』の記事を転載して説いているから茲《ここ》に贅《ぜい》せない。  わたくしの言わむと[#「言わむと」はママ]欲する所は、隅田川の水流は既に溝涜《こうとく》の汚水に等しきものとなったが、それにもかかわらず旧時代の芸術あるがために今もなお一部の人には時として幾分の興趣を催させる事である。わが旧時代の芸文はいずれか支那の模倣に非《あ》らざるはない。そはあたかも大正昭和の文化全般の西洋におけるものと異るところがない。我国の文化は今も昔と同じく他国文化の仮借《かしゃく》に外ならないのである。唯|仔細《しさい》に研究し来《きた》って今と昔との間にやや差異のあるが如く思われるのは、仮借の方法と模倣の精神とに関して、一はあくまで真率《しんそつ》であり、一は甚しく軽浮である。一は能《よ》く他国の文化を咀嚼《そしゃく》玩味《がんみ》して自己薬籠中の物となしたるに反して、一は徒《いたずら》に新奇を迎うるにのみ急しく全く己れを省《かえりみ》る遑《いとま》なきことである。これそも何が故に然るや。今人《こんじん》の智能古人に比して劣れるが故か。将《はた》また時勢の累《わざわい》するところか。わたくしは知らない。わたくしは唯墨堤の処々に今なお残存している石碑の文字を見る時|鵬斎《ほうさい》米庵《べいあん》らが書風の支那古今の名家に比して遜色《そんしょく》なきが如くなるに反して、東京市中に立てる銅像の製作西洋の市街に見る彫刻に比して遥に劣れるが如き思《おもい》をなすのみである。江戸旧文化の支那模倣は当代の西洋模倣に比較して、誰か優劣なしと言い得るものがあろう。 [#地から2字上げ]昭和二年|丁卯《ていぼう》五月稿 底本:「荷風随筆集(上)」岩波文庫、岩波書店    1986(昭和61)年9月16日第1刷発行    2006(平成18)年11月6日第27刷発行 底本の親本:「荷風隨筆 四」岩波書店    1982(昭和57)年2月17日第1刷発行 ※「漢詩文の訓読は蜂屋邦夫氏を煩わした。」旨の記載が、底本の編集付記にあります。 ※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。 ※ルビは新仮名とする底本の扱いにそって、旧仮名部分のルビの拗音、促音は小書きしました。 入力:門田裕志 校正:阿部哲也 2010年5月28日作成 2019年12月12日修正 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(https://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。