桑中喜語 永井荷風 ------------------------------------------------------- 【テキスト中に現れる記号について】 《》:ルビ (例)編輯人《へんしゅうにん》 |:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号 (例)経歴|遠山左衛門尉《とおやまさえもんのじょう》 [#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定    (数字は、JIS X 0213の面区点番号またはUnicode、底本のページと行数) (例)※[#「卓+戈」、220-2] ------------------------------------------------------- [#7字下げ]一[#「一」は中見出し]  なにがしと呼ぶ婦人雑誌の編輯人《へんしゅうにん》しばしばわが廬《ろ》に訪《と》ひ来りて通俗なる小説を書きてたまはれと請《こ》ふこと頻《しきり》なり。そもそも通俗の語たるやその意解しやすきが如くにしてまた解しがたし。僕一人の観て以て通俗となすもの世人果して然りとなすや否やいまだ知るべからざるなり。通俗の意はけだし世と共に変ずべきものなるべし。川柳《せんりゅう》都々逸《どどいつ》は江戸時代にあつては通俗の文学なりき。しかして今日は然らず。今日もしつぶさに『末摘花《すえつむはな》』のいふ処を解釈し得ば容易に文学博士の学位を得べし。むかし女郎の無心手紙には候かしくの末に都々一なぞ書き添るもの多かりしが、今日大正の手紙には童謡とやら短歌とやら書きつけて性の悶《もだえ》を告ぐとか聞けり。されば今日の男女に喜ばるべき通俗小説をものせんとせば、筆を秉《と》るに先んじてまづ今日の下情《かじょう》に通暁せざるべからざるなり。下情に通暁せんにはその眼光水戸黄門の如くなるにあらざれば、その経歴|遠山左衛門尉《とおやまさえもんのじょう》に比すべきものなくんばあるべからず。ここにおいてや通俗小説の述作|豈《あに》それ容易の業《わざ》ならんや。人おのおの好むところあり。下戸《げこ》あり。上戸《じょうご》あり。上戸の中《うち》更に泣くものあり笑ふものあり怒るものあり。然れども下戸上戸おしなべて好むところのものまたなきにあらず。淫事|即《すなわち》これなり。当今の人これを呼んで性の要求となす。なほ車夫の四辻を十字街といひ芸妓の手踊を舞踊とよぶが如し。当世人の言語一として新聞記者の口吻《こうふん》に似ざるはなし。厭《いと》ふべきなり。  通俗の本旨既に色欲淫事にあり。然りとすれば一たび筆を通俗の小説に秉《と》らんとするもの、淫事を他にしてまた何をか描かんや。『源氏物語』は我国淫本の権輿《けんよ》なり。泰西《たいせい》にボッカーズの『浮世双紙』、ナワール女王の『懺悔録《ざんげろく》』等あり。漢土に『飛燕外伝』、『雑事秘』の類あり。近世に至つて『紅楼夢』『金瓶梅』の如き、皆読む者をしてアヂな気を起さしむ。  淫書の見解また時によりて変ず。古人の眉《まゆ》を顰《ひそ》めて淫書となせしもの、今人《こんじん》見て必しも然りとなさざるものあり。今人の世に害ありとなすもの、将来において果して然るや否や知るべきにあらず。宮古路《みやこじ》の浄瑠璃は享保《きょうほ》元文《げんぶん》の世にあつては君子これを聴いて桑間濮上《そうかんぼくじょう》の音となしたりといへども、大正の通人は頤《あご》を撫《な》でて古雅|掬《きく》すべしとなす。けだし時世変遷の然らしむるところなり。大正|癸亥《きがい》の年の夏、女記者お何といふものあり。夫の目を忍びて小説家某と密通し、事の露《あらわ》れんとするや姦婦姦夫|倶《とも》に為すところを知らず、人跡断えたる山中の一ツ家に隠れ、荒淫幾日、遂に相抱いて縊死《いし》す。日を経て悪臭数里に漂ひ人の初てこれを知るや、死屍既に腐爛して性の陰陽を弁ぜず、眼球頭髪倶に脱落して蛹《うじ》雲集せしといふ。当世の才子佳人これを伝唱して以て絶代の佳話となす。そのいふ所を聞くに、道徳を超越して能《よ》く本能を満足せしめたるが故なりと。狂言作者|古河黙阿弥《ふるかわもくあみ》のかつてその戯曲『鵜飼の篝火《かがりび》』をつくるや狼の羣《むれ》をして山中の辻堂に潜《ひそ》める淫婦の肉を喰つて死に致さしむ。その意は勧善懲悪にありしなり。これに由つてこれを観れば、道徳審美の観念時と共に浮動することあたかも年々時様の相異るに似たりといふべし。  ああ、大正の世人既に姦淫|双斃《そうへい》の事を説いて以て盛世の佳話となす。この時に当つて僕|独《ひとり》耳を掩《おお》うて鄙語《ひご》聴くに堪へずとなすが如きは甚《はなはだ》通俗の本旨に戻《もと》るものなり。いやしくも筆を通俗小説に秉《と》らんとするものの為すべき所にあらざるや論を俟《ま》たず。僕今芸者の長襦袢《ながじゅばん》を購《あがな》はんがために、わが生涯の醜事を叙し出して通俗小説に代へ以て売文の貲《し》を貪《むさぼ》らんとす。老羸《ろうるい》なほかくの如くにして聊《いささか》時運に追随することを得たりとせんか、幸何ぞよくこれに若《し》くものあらんや。  僕年|甫《はじ》めて十八、家婢に戯《たわむ》る。『柳樽《やなぎだる》』に曰く「若旦那夜は拝んで昼叱り。」とけだし実景なり。翌年|独《ひとり》芳原《よしわら》の小格子《こごうし》に遊び、三年を出でざるに、東廓南品、甲駅、板橋、凡そ府内の岡場所《おかばしょ》にして知らざる処なきに至る。二十四歳海外に渡航するや五大洲各国の娘子軍《じょうしぐん》と※[#「卓+戈」、220-2]《げき》を交《まじ》へ皆|抜羣《ばつくん》の功あり。然《しかれ》どもなほ安《やすん》ぜず、窃《ひそか》に歎じて曰く宮本武蔵は※[#「けものへん+非」、220-3]々《ひひ》を退治せり。洋人の色に飢るや綿羊を犯すものあり。僕|未《いまだ》能《よ》くここに到るを得ずと。年三十にして家に帰るや、爾来《じらい》ここに十有余年、追歓索笑虚日あるなし。妓《ぎ》を家に納《い》るる事数次。自ら旗亭を営むこと両度。細君を追出してまた迎る事前後三人。今年、馬歯|蚤《はや》くも桑年《そうねん》に垂《なんな》んとして初めておくびの出るを覚えたり。『操草紙《みさおぞうし》』といへる書に曰く「まことに色の世の中なればとかく戯れ遊ぶべし。人間わづか五十年といへど四十からはぱつとも遊びにくし。その内も十七、八までは何の心もなく世をくらせば差引残り二十二年ほどなり。それさへ半分は寝て過せばわづか十一年なり。それも悉く通ひ詰にする人あらんやうもなければ、よく遊んでからが、高が五十年の中にまる十年とは遊ばれぬ人間世と知るべし。」と。ああ、僕夜半夢覚めてつらつら四十余年の生涯を顧るに、身|蒲柳《ほりゅう》の質にしてしかも能く人一倍遊びたりと思へば、平生おのづから天命をまつ心ありしが故にや、ことしの秋の大地震にも無辜《むこ》の韓人を殺して見んなぞとの悪念を起さず。火事場の稼ぎにもゴムの鎧《よろい》に身を固むることを忘れざれば天狗《てんぐ》の鼻柱《はなばしら》遂に落るの憂なく、老眼今なほ燈下に毛蝨《けじらみ》を捫《ひね》つて当世の事を談ずるの気概あり。家にはたびたび狐狸妖怪|棲《す》み家《か》をなせしといへども、幸にして産を破るに至ざりしは何たる果報ぞと、今になりては妖婦の魔力よりも僕が身の安泰かへつて不思議とやいふべき。 [#7字下げ]二[#「二」は中見出し]  卯《う》の年に生れて九星四緑《きゅうせいしろく》に当るものは浮気にて飽きやすき性《しょう》なりといへり。凝性《こりしょう》の飽性ともいへり。僕はそもそもこの年この星の男なり。さるが故にや半年と長つづきした女はなし。大抵は三月目位にて、庭の花にはあらねど時候の変目《かわりめ》が色のかはり目とはなるなりけり。然れどもこれは後より言ふはなしにて始より一季半季ときまりをつけて掛るわけではさらさらなし。初手《しょて》は随分この女ならば末の末までもと、のぼせ上るが常なるを、さうと見て取るや否や、この男殺すも活《いか》すも勝手次第と我儘の仕放題《しほうだい》しはじめるは女なり。男の目に女子が天性の欠点ありありと見えすいて来るは正にこの時ぞかし。初は嚔《くさめ》一ツも男の見る前には遠慮せしを、髪かたち身じまひは勿論なり。一ツ寝の床に寐相《ねぞう》をかまはず寐言《ねごと》歯ぎしりに愛想をつかさるるとは知らで、たまたま小言の一も言はるれば、一図《いちず》に薄情とわるく気を廻して、これよりいよいよ何かにつけて悋気《りんき》の角を現す。悋気は女の慎しむべきところ。女にして悋気を慎しまば、その他の欠点は男大抵はこれを許しこれを忍ぶべし。悋気をつつしむ愚婦の徳は廻気《まわりぎ》はげしき才女にまさること万々《ばんばん》なり。つらつら女子が悋気のありさまを思ひ見るに、その境遇性質体格によりて一様ならず、女子の悋気はなほ男子の欝憤に同じきものなれば、その行に発する所おのづからその為人《ひととなり》を現すものなり。顳顬《こめかみ》に即功紙《そっこうし》張りて茶碗酒引かける流儀は小唄《こうた》の一ツも知らねば出来ぬことなるべく、藁人形《わらにんぎょう》に釘打つ丑《うし》の時《とき》参《まいり》は白無垢《しろむく》の衣裳に三枚歯の足駄《あしだ》なんぞ物費《ものいり》を惜しまぬ心掛すでに大時代《おおじだい》なり。格子先に男の胸倉取つて泣きわめくは古今通例の下世話にして罪はなし。羽織の紐より帯ネキタイなんぞの結目に気をつけ、甚しきはすぐと男の懐中へ手を入れ移香《うつりが》をためすが如きに至つては浅間しくもまたいやらしき限りなり。事あるごとにおのれが衣類髪のものを箪笥《たんす》にしまひ鍵をかけて切口上に離縁申出す女房あり。また何かといふとすぐに駈け出して親類友達の家なぞへ行つて泊る女房あり。いづれも三日打捨てて置けば必ず向より詫を入れて還ること、あたかももう来ねへぞといふお客|必《かならず》その晩に来るが如し。夜中に鴨居《かもい》へ細帯を引掛け、あるいは井戸端《いどばた》をうろついて見せる女、いづれも人の来つて留めるを待つこと、これまた袂を振つて帰る帰るとわめく甚助親爺《じんすけおやじ》と同様なり。人知れず硫酸モルヒネ猫不入《ねこいらず》なんぞ飲むものなきにしもあらねど、こは啻《ただ》に痴情のなす所のみにあらず、男に入揚《いれあ》げ貢《みつ》ぎし後ぽんと捨てられなぞしたる揚句《あげく》の果にして、色情のほかに金銭のいざこざ大《おおい》にあるものと知るべし。女の財宝に心ひかるること哀れにもまたおそろし。然るが故に、新聞雑誌の議論にかぶれたる新しき女の、ともすれば貞操|蹂躪《じゅうりん》の訴訟に金銭を獲《え》んとしてかへつて弁護士の喰物となるも、色よりは慾のあやまちなり。尤《もっとも》この手合《てあい》の女、大抵|悪摺《わるずれ》したる田舎出のものにあらざれば市中|小商人《こあきんど》の娘にして江戸ツ児にはなき事なり。僕先年三田慶応義塾に勤めし頃|娶《めと》りしもの、湯嶋聖堂の裏手に相応の店を張りし商家の娘なりしが、離縁のはなしに親元より五百円ほしき由《よし》申出でたれば持たせつかはしたる事あり。東京の女にもかかる例あれば参考のため記《しる》し置くなり。その後売女の手切金《てぎれきん》につきてはまた別に記すべし。世には売女とさへいへば貪欲甚しきやうに思ふものありといへども、いざ手切金のだんになりて話さへわかれば案外さつぱりとしたものにて、わづかばかりの目腐《めくさ》れ金《がね》に人の足を運ばせるはかへつて素人《しろうと》に多し。一口物《ひとくちもの》に頬を焼くといふ古人の金言思ふべきなり。 [#7字下げ]三[#「三」は中見出し]  女子の悋気《りんき》はなほ恕《ゆる》すべし。男子が嫉妬《しっと》こそ哀れにも浅間《あさま》しき限りなれ。そもそも嫉妬は私欲の迷にして羨怨《せんえん》の心|憤怒《ふんぬ》と化して復讐の悪意を醸《かも》す。野暮《やぼ》の骨頂《こっちょう》なり。血気の少年はさて置き分別盛《ふんべつざかり》の男が刃物三昧《はものざんまい》無理心中なぞに至つては思案の外《ほか》にして沙汰のかぎりなり。およそ森羅万象一つとして常住なるはなし。時に昼夜あり節に寒暖あるは自然の変化なり。変化に先立ちてこれが備《そなえ》をなさざれば遣繰身上《やりくりしんしょう》いかでか質の流を止めんや。夜ごと枕並ぶるおのれが女の心に気もつかで、飽かれて後に怨《うら》み、怨みて後に怒るは愚にあらずや。怨み憤《いきどお》るに先立ちて先見の明なかりしおのれが檮昧《とうまい》を愧《は》づべきに、未練に未練を重ねて離行く女の後を追ひ、是が非にも己《おの》が実意の底を見せて改心させんと片意地になるが如きは以ての外の不量見《ふりょうけん》なり。そもそも男女の恋仲、仁義道徳を説いて然る後に出来合ふものにあらず、初手の馴れ染めは唯ふとした気のまよひより起るものなれば、相手の心変りを責めて引戻すに義理を論じ人情を説くも詮方《せんかた》なし。むかし思へば見ず知らずとは小唄の文句にもあることなれば、それもこれも皆一ツ時の縁なり。片時たりとも嬉しき夢を見ただけが徳と思はば誰をか怨み何をか悲しまんや。  僕天性浮気の身なれば従つて嫉妬《しっと》の執念薄く、嫉妬の執念薄きほどなれば、いやがるものを無理無体にくどきなびかせんとの執着は更になし。さりとて気ざな咳払ひして据膳《すえぜん》ならでは喰ひやせぬといふほどの自惚《うぬぼれ》もなければ、まづ小当りに当つて出来やすきを取る。出来やすきを取るが故に捨てるも捨てられるも皆その時の運とあきらめるは年来僕の取り来りし道にぞありける。岡目八目《おかめはちもく》これを見て頻《しきり》に襤褸買《ぼろかい》といひしも一理なきにあらざるべし。襤褸買は安物買《やすものがい》の銭《ぜに》失ひをいふ。その意一|文《もん》惜しみの百損に同じといへども、これ畢竟《ひっきょう》その結果を見ての推論なるべし。人誰か完全を望まざるものあらん。然りといへども小人《しょうじん》にして珠《たま》を抱けば必《かならず》過《あやまち》あり。鏡に面《つら》をうつして分を守るは身を全うするの道たるを思はば襤褸買必しも百損といふを得んや。一張羅《いっちょうら》の晴着に空模様ばかり気にしては花見の興も薄かるべし。日の暮るるも知らで遊び歩くは不断着の尻端折《しりはしょり》にしくぞなき。さればや僕少壮の頃|吉原《よしわら》洲崎《すさき》に遊びても廓内《かくない》第一と噂に高き女を相方《あいかた》にして床の番する愚を学ばず、二、三枚下つたところを買つて気楽にあそぶを得手《えて》となしけり。肌合面白く床の上手なるものかへつて二、三枚下つた処にありしぞかし。然るを世の嫖客《ひょうきゃく》といふものは大抵土地の評判を目当にして女を選び、新聞の美人投票に当りしものなぞ買ふを名誉とす。これ医者ならば博士は皆名医なりと思ひ、宮内省《くないしょう》御用と銘打ちし菓子は皆上等と心得て安心する輩《やから》なり。名義に拘泥《こうでい》する風習勿論昔よりこれありしといへども近来に至つてますます甚しきは何ぞや。新橋芸者の品定《しなさだめ》にもすぐと一流二流の差別をつけるはまだしも忍ぶべし。文学絵画の品評にまでとかく作家の等級をつけたがるは何たる謬見《びゅうけん》ぞや。尤《もっとも》かくの如き謬見に捉はるるは田舎出の文士に多し。田舎出の文士に限つて世評を気にかけ売名に汲々として新春年賀の端書《はがき》にもおのれが著書の目録なんぞを書きつらぬるが癖なり。僕西洋より帰り来りし頃には文壇売名の悪風いまだ今日の如く甚しからざりしが大正四、五年の頃より文壇のみならず世間の風潮全く一変したり。芸者も文士画工と同じく売名に憂身をやつすもの追々に増加し踊三味線のさらひの如きも劇場博覧会その他公開の場所へ持出し新聞紙に芸評を掲げらるるを無上の名誉となすに至れり。この悪風の生ずる処一つには遊芸師匠の教唆《きょうさ》によるものにして、師匠は芸者の名を借りて門戸を張らんとし新聞におさらひの評判出るを以て流派の面目と思ひなしたり。烟花狭斜《えんかきょうしゃ》の風俗かくの如く新聞紙を利用して売名をのみ専《もっぱら》となすに至つては粋《すい》も意気もあつたものにあらず。粋といひ意気といふ江戸伝来の風儀なくなれば三味線弾は広告屋の楽隊と異る所なく芸者は簡単なる醜業婦にして、まづは生きたる共同便所ともいふべきものとはなるなり。病毒少くして揚代《あげだい》廉《やす》ければ醜業婦の能事《のうじ》は畢《おわ》るなり。ここにおいてや明治四十一、二年の頃より大正三、四年の頃まで浅草十二階下、日本橋浜町蠣殻町《にほんばしはまちょうかきがらちょう》辺に白首《しろくび》夥《おびただ》しく巣を喰ひ芸者娼妓これがために顔色なかりき。その頃芸者買の勘定どの位かと考ふるに、待合席料《まちあいせきりょう》一円、芸者|祝儀枕金《しゅうぎまくらがね》共二円、玉代《ぎょくだい》一本二十五銭、女中祝儀三拾銭を以て最低とす。新橋にてもこの程度にて遊べるところ路地《ろじ》の小待合《こまちあい》には随分ありたり。神楽坂富士見町四谷《かぐらざかふじみちょうよつや》辺ならば芸者壱円にて帯を解くものもありしかど名ばかりの芸者にて長襦袢《ながじゅばん》は胴抜《どうぬき》のメレンスなり。然るに浜町の白首、俗に高等[#「高等」に傍点]とよびしもの衣裳容貌山の手の芸者に劣らざるものにして待合席料一円、女|並《なみ》五、六十銭より上玉《じょうだま》一円どまりにて別に女中の祝儀は取らず。これ女の揚代より四分を待合が取るゆゑとか聞きぬ。御泊りとなれば芸者は十一時より翌朝まで玉《ぎょく》だけでも十二本の規則《きめ》なるに、浜町は女二円にて事済みなり。かくの如く浜町のあそびは芸者買の半分にも足らざるほどにしてしかも振られるといふ事なければ流行《はや》ること夥《おびただ》しく、遂に芸者組合より苦情出で内々その筋へ歎願密告せしかば大正五年四月の頃より時の警視総監西久保某といへる人命令を部下の角袖《かくそで》に伝へてどしどし市中の白首を召捕《めしと》りけり。以後浜町蠣殻町辺には白首の優物《ゆうぶつ》跡を絶ち、芝神明境内《しばしんめいけいだい》、柳原郡代屋敷《やなぎわらぐんだいやしき》なぞ維新前後よりありし魔窟も忽《たちまち》一掃せられしは、そぞろ天保寅年《てんぽうとらどし》のむかしも思ひ出されたり。その代り山の手の芸者が売淫この時よりいよいよ公然黙許の形となり芸者連名帳にれいれいと枕金の高を書出す勢とはなりけり。まづ僕が多年の実歴を回想して市中|色町《いろまち》の盛衰を語るべし。 [#7字下げ]四[#「四」は中見出し]  明治三十年の頃僕|麹町一番町《こうじまちいちばんちょう》の家に親の脛《すね》をかじりゐたり。門を出でて坂を下れば富士見町の妓家《ぎか》軒先に御神燈《ごじんとう》をぶら下げたり。御神燈とは妓の名を書きたる提灯《ちょうちん》をいふなり。毎日学校への往《ゆき》かへりに提灯の名を早くも諳《そらん》じ女同士が格子戸《こうしど》の立ばなしより耳ざとく女の名を聞きおぼえて、これを御神燈の名に照し合すほどに、いつとなく何家の何ちやんはどんな芸者といふ事、一度も遊ばざるに蚤《はや》くこれを知る身ぞ賢かりける。  或日、行き馴れし近処の床屋《とこや》に行きしに僕より五ツ六ツ年上の若い衆。この店の忰《せがれ》なり。今日は親爺が親戚の法事に行きて留守といふを幸《さいわい》頻《しきり》に新宿ののろけ最中、がらりと店の硝子戸《ガラスど》引きあけざま、兄さんといふ嬌声《きょうせい》。前なる鏡に映りし姿、年の頃十七、八、つぶしに大きな平打《ひらうち》の銀簪《ぎんかんざし》、八丈《はちじょう》の半纏《はんてん》に紺足袋《こんたび》をはき、霜やけにて少し頬の赤くなりし円顔《まるがお》鼻高からず、襟白粉《えりおしろい》に唐縮緬《とうちりめん》の半襟《はんえり》の汚れた塩梅《あんばい》、知らざるものは矢場女《やばおんな》とも思ふべけれど、僕は例の御神燈にて駿河家の抱《かかえ》小しまといふ名まで既に知つたるこの土地の芸者なり。小しまは大阪格子を後にしたる上框《あがりかまち》へ腰をかけ、散らばつた『都新聞《みやこしんぶん》』の間より真鍮《しんちゅう》の長羅宇《ながラウ》取り上げながら、兄さん、パイレートの絵はたまつたかへ。貰ひに来たんだよ。と泥だらけの駒下駄《こまげた》はきし両足をぶらぶらさせ大きな叭《あくび》する顔を鏡に映して見てゐる様子かへつてあどけなし。後にて店の若衆《わかいしゅ》にきけば腹ちがひの妹とやら言はれて何ともつかず此方《こちら》が気まりわるくなり、更に近処の烟草屋で内々にきいて見れば、宇都宮とやら高崎とやらにて半玉《はんぎょく》に出てゐたりしがその後のわけは知らず去年帰つて来てこの土地から出たとの事。二七不動《にしちふどう》の縁日《えんにち》、三番町や九段下《くだんした》の寄席《よせ》にても折々顔を見合す中《うち》或日突然|向《むこう》よりにつこりと、笑顔を向けられて、僕その時は真赤になりしが、翌日はもう我慢がならず、横町の稲荷《いなり》の鄰に何庵とかいふ蕎麦屋《そばや》の二階より口をかけて小しまを呼べば、すぐに来て、あら、お酒がいらないのなら、待合《まちあい》さんから呼べばいいのに。つうえいぢやないか。と忝《かたじけな》き忠告。富士見町の妓風二十年前既にかくの如く開けたものなり。そも富士見町の妓家待合いつの頃より開け始めしにや。維新以前九段の坂上は馬場なりしといふ。富士見町は武家屋敷のみにして怪し気なる女師匠は麹町三丁目辺町家の間にありしのみなりとぞ。明治十六年|酔多道士《すいたどうし》の著《あらわ》せし『東京妓情』には麹町の名を掲《かかぐ》るのみにして明に所在の地を示さず。明治十八年『東京流行細見記』には府下一般芸者之部といふ条《くだり》に、富士見町の部、小春、小ぎく、小とく、小すず、長吉の五名を出せるのみ。  僕の初めてこの地に遊びし頃妓家既に二、三十軒を富士見町に算し、十五、六軒を三番町に数へ得たり。待合の富士見町にあるもの菊の家、梅月、寿鶴(後に相模家)、常磐木、寿々村の如き今なほ僕の記憶するところなり。三番町には求友亭の名を記憶するのみにて余は悉く忘却す。料理屋に万源あり。紅葉《こうよう》小波《さざなみ》の門人ら折々宴会を催したるところなり。鰻屋《うなぎや》の大和田《おおわだ》また箱を入れたりしが陸軍の計吏《けいり》と芸者の無理心中ありしより店を閉《とざ》したり。今日電車通に繁昌せる魚久は当時魚屋にて仕出しをなせしのみ。三番町表通に大周楼といふ牛肉屋に接して小料理や魚清あり。麹坊派《きくぼうは》の文士画家一時競つて魚清の娘お清を挑《いど》む。その遂に何人《なんびと》の手に落ちしや知らず。お清後に半元服して三番町に待合を営みゐたるを見たり。その頃また五番町英国公使館裏手の坂道に快々亭とかいふ西洋料理屋ありて、その娘お富が嬌名はこのあたりに広々としたる坂本牧場に鳴く牛の声と共に近隣に聞え渡りしも、今よりして顧れば都の中とは思はれぬのどけさなり。招魂社《しょうこんしゃ》の馬場の彼方《かなた》に琉球屋敷あり。筒袖《つつそで》の着物に帯を前で結び、男も長き簪《かんざし》に髪を結ひたる琉球人の日傘手にして逍遥せしさま日もおのづから長き心地せり。韓国もいまだ滅びずしてありしかばその公使館もまた下二番町にありて、この二箇処へ出入りして道ならぬ栄耀《えいよう》をなす女らを人々皆|後指《うしろゆび》さして、琉球や朝鮮の毒を受けたら最後骨がらみになると言ひはやしき。二七不動に近き路地裏に西京汁粉《さいきょうしるこ》の行燈《あんどう》かけて、萩《はぎ》の袖垣《そでがき》に石燈籠《いしどうろう》置きたる店口ちよつと風雅に見せたる家ありけり。ここに年の頃は二十一、二、色は白けれど引臼《ひきうす》の如き尻付《しりつき》、背の低く肥《ふと》りたる姿の見るからにいやらしき娘こそ、琉球人の囲者《かこいもの》との噂高くして、束髪に紫縮緬の被布《ひふ》なぞ着て時々|月琴《げっきん》の稽古《けいこ》に行くとは真赤な虚言《うそ》、その実は琉球屋敷の手すきに錦町《にしきちょう》辺の高等下宿へもかせぎに行くといふ事なりしが、僕も跡をつけて見たわけではなし。年月たちて明治四十一年の頃、僕友達に案内せられて、浜町二丁目五徳庵といふ鳥料理の近くなる小待合《こまちあい》に上りし時、上《あが》り花《ばな》持出る女中をふと見れば、まがふ方なくかの琉球屋敷へ出入の女なりしぞ奇遇なる。浜町の景況この女のはなしにて聞知るところ尠《すくな》からず。次の如し。 [#7字下げ]五[#「五」は中見出し]  明治四十一、二年の頃、浜町二丁目十三番地俚俗|不動新道《ふどうじんみち》といふあたりに置屋《おきや》と称《とな》へて私娼を蓄《たくわう》る家十四、五軒にも及びたり。界隈《かいわい》の小待合より溝板《どぶいた》づたひに女中の呼びに来るを待ち、女ども束髪に黒縮緬《くろぢりめん》の羽織《はおり》、また丸髷《まるまげ》に大嶋の小袖といふやうな風俗にて座敷へ行く。その中には身なり人柄、昼中見てもまんざらでもなき者ありし故誰いふとなく高等とは言ひなしたり。あくまで素人らしく見せるが高等の得手《えて》なれば、女中の仕度して下へ行くまでは座敷の隅に小さくなつて顔も得上《えあ》げず、話しかけても返事さへ気まりわるくて口の中といふ風なり。始め処女の如きはやがて脱兎《だっと》の終を示す謎とやいふべき。席料その他一切の勘定三円を出ざる事既に述べたり。浜町を抜けて明治座前の竈河岸《へっついがし》を渡れば、芳町《よしちょう》組合の芸者家の間に打交りて私娼の置家《おきや》また夥しくありたり。浜町の女と区別してこれを蠣殻町《かきがらちょう》といへり。蠣殻町は浜町に比ぶれば気風ぐつと下りたりとて、浜町の方にては川向《かわむこう》の地を卑しむことあたかも新橋芸者の烏森《からすもり》を見下すにぞ似たりける。当時東京市中の私窩子《しかし》を訪《たず》ね歩むに、本所立川の入口|相生町《あいおいちょう》の埋立地に二階建の家五、六軒ありて夜は公然と御神燈をかかげてチヨイトチヨイトと客を呼びゐたり。中洲真砂座《なかすまさござ》といふ芝居の横手の路地にも銘酒屋|楊弓場《ようきゅうば》軒を並べ、家名小さく書きたる腰高障子《こしだかしょうじ》の間より通がかりの人を呼び込む光景、柳原の郡代、芝神明、浅草公園|奥山《おくやま》等の盛況に劣らず。山の手にては四谷津の守なる芸者家町の凹地に銘酒屋七、八軒ありしが暫時にして取払ひとなる。下谷《したや》池《いけ》の端《はた》、湯嶋天神境内《ゆしまてんじんけいだい》、また京橋築地あたりの小待合の中には、いづこより連れて来るか知らねど素人を専《もっぱら》とする家各四、五軒づつはありけり。京橋区役所裏の玉の家といふはこの道にて名高き由。銀座二丁目上方屋といふ花骨牌《はなガルタ》売る店の前の路地に菊泉とかいふ待合は近処の鳥屋牛肉屋の女中|洗湯《せんとう》のかへりにお客を引込むところとか聞きぬ。青山三聯隊の裏手にて墓地に接したる凹地にも明治四十二、三年の頃より達磨茶屋でき、また赤坂新町辺芸者家に接したる裏町にも白首《しろくび》いつとはなく集り住みて人の袖を引きしが、この二箇処いづれも大正五年以後妖婦の跡を絶ちぬ。下谷佐竹ヶ原、根津《ねづ》、入谷《いりや》、芝愛宕下《しばあたごした》、小石川柳町、早稲田鶴巻町《わせだつるまきちょう》辺、いづれも話には聞きたれど、これらは親しく尋ね究むる暇なかりしものなればここには記さず。およそ明治の末年東京市内にありし私窩子の風俗、名家の文章にその跡を留めたるもの、本郷丸山の風俗の一葉女史が名作『にごりえ』に描かれたるを以て第一となすべし。『にごりえ』は明治二十八年の作なり。その一節に曰く、「店先へ腰をかけて駒下駄《こまげた》のうしろでとんとんと土間を蹴るは二十《はたち》の上を七つか十か引眉毛《ひきまゆげ》に作り生際《はえぎわ》、白粉《おしろい》べつたりとつけて唇は人喰ふ犬の如く、かくては紅《べに》も厭らしきものなり。お力《りき》と呼ばれたるは中肉の背恰好《せかっこう》すらりつとして洗ひ髪の大嶋田《おおしまだ》に新わらのさわやかさ、頸元《えりもと》ばかりの白粉も栄《は》なく見ゆる天然の色白をこれみよがしに乳《ち》のあたりまで胸くつろげて、煙草すぱすぱ長煙管《ながギセル》に立膝《たてひざ》の無作法《ぶさほう》さも咎《とが》める人のなきこそよけれ。思ひ切つたる大形の浴衣《ゆかた》に引かけ帯は黒繻子《くろじゅす》と何やらのまがひ物、緋《ひ》の平《ひら》ぐけが背の処に見えて言はずと知れしこのあたりの姉さま風なり。(略)店は二間間口《にけんまぐち》の二階造り、軒《のき》には御神燈《ごじんとう》さげて盛《も》り塩《しお》景気よく、空壜《あきびん》か何か知らず銘酒《めいしゅ》あまた棚の上にならべて帳場《ちょうば》めきたる処も見ゆ。勝手元《かってもと》には七輪《しちりん》を煽《あお》ぐ音折々に騒がしく、女主《あるじ》が手づから寄《よ》せ鍋《なべ》茶碗むし位はなるも道理《ことわり》、表にかかげし看板を見れば仔細《しさい》らしく御料理とぞしたためける。云云。」これによつて看《み》るに、襟元《えりもと》ばかりの白粉に顔は天然の色白きを誇りたるお力が化粧、今日大正十三年の女子が厚化粧に比すれば瀟洒《しょうしゃ》の趣《おもむき》売女とは思はれぬなり。さて明治三十二、三年頃|後藤宙外《ごとうちゅうがい》『松葉かんざし』とかいへる小説に浅草公園|楊弓場《ようきゅうば》のことを描きたり。四十三、四年頃にいたりて正宗白鳥《まさむねはくちょう》浜町の私窩子を描き、小栗風葉《おぐりふうよう》は鶴巻町辺の酌婦《しゃくふ》の事を小説に書きしことあるやうに覚えしが今その名を憶ひ得ず。暫く後考《こうこう》を俟《ま》つ。およそ明治中葉以降芸者のことを書きたる小説|汗牛充棟《かんぎゅうじゅうとう》もただならぬに、地獄白首のことを書きたるものに至つては晨星寥々《しんせいりょうりょう》たるの感あるは何ぞや。芸者の内幕《うちまく》を穿《うが》つて書けば通人といはるるに引かへて、白首の事より外《ほか》には知らぬ人といはれては、文士もいささか気まりがわるくなるものと見えたり。 [#7字下げ]六[#「六」は中見出し]  星移れば物|換《かわ》りて人情もまた従つて同じからず。吉原のおいらんを歌舞の菩薩《ぼさつ》と見て崇《あが》めしは江戸時代のむかしなり。芸者を粋《すい》なり意気《いき》なりと見てよろこびしも早や昨日の夢とやいふべき。明治五年|新富町《しんとみちょう》の劇場舞台開きをなせし時、新柳二橋《しんりゅうにきょう》の歌妓両花道に並んで褒詞《ほうし》を述べたる盛況は久しく都人の伝称せし所なりけり。宴席に園遊会に凡そ人の集るところに芸者といふもの来らざれば興を催す事|能《あた》はざりしは明治年間四十余年を通じての人情なりけり。年改れば新年の宴あり年尽きんとすれば忘年の催《もよおし》あり。知人の旅行するごとに送別の宴あり。還《かえ》り来るごとに歓迎の会あり。会開かれて酒出れば必《かならず》芸者現る。芸者現れてお座付《ざつき》を弾《ひ》けば、客酔うて必《かならず》かくし芸をなす。たまたま為さざるものあれば一座|挙《こぞ》つてこれを強《し》ゆ。ここにおいて世に出で人に交らんとするものは日頃|窃《ひそか》に寄席《よせ》に赴き葉唄《はうた》都々一《どどいつ》声色《こわいろ》なぞを聞覚えて他日この難関に身を処するの用意をなす。あたかも大正の今日西洋料理の宴会に臨むもの、何処でおぼえて来るものやら知らねど、大抵テーブルスピーチとかいふものを心得ゐるが如し。往時宴会の隠芸《かくしげい》は愚劣なれども滑稽にして罪はなし。旦那はほんとにいいお声だよ。すみには置けませんよと芸者にほめらるるを生涯の面目とはなせしなり。今日青年諸君の好んで為さるるテーブルスピーチに至つては弁巧と才気とをこれ見よがしの振舞さてもさても片腹痛し。大勢《おおぜい》食事の折柄《おりから》腹こなしに一席弁じたくば亜米利加人《アメリカじん》が食卓の祈祷《きとう》の如きまだしも我慢がなりやすし。風俗時勢の新旧を問はず宴会といふものほど迷惑千万なるはなし。同じく飲む酒も親しき友二、三人と騒がしからぬ旗亭《きてい》に対酌すれば夜廻《よまわり》の打つ拍子木《ひょうしぎ》にもう火をおとしますと女中が知らせを恨むほどなるに、百畳にも近き大広間に酔客と芸者の立ちつ坐りつする塵煙、燈下に濛々として人の顔さへ見えわかぬが中に、諸君我輩の叫声に耳を掩《おお》ひつつ干物《ひもの》の如き塩焼の肴《さかな》打眺めて坐する浮世の義理また辛《つら》しといふべし。幸田露伴先生宴会の愚劣なるを痛罵《つうば》し宴席の酒を以て鴆毒《ちんどく》なりと言はれしが世の人の心はまたさまざまなり。小人数で料理屋に上つて芸者を呼ぶよりは、宴会が結句|割徳《わりどく》の安上りと胸算用《むなざんよう》して出席する下賤《げす》もあり。頻《しきり》に名刺の交換を迫つて他日人の名を利用して事をなさんとする曲者《くせもの》もあり。火事場泥棒の如きかかる輩《やから》は芸者を口説くにも容貌や芸なぞは二の次にして金まはりのよささうな女にねらひをつけ、年上であらうと何であらうと構はず、此方《こちら》からちやほやと機嫌を取つて入込むが常なり。新聞社の営業係、小会社の外交員なぞにはこの類《たぐい》の曲者多しといへり。されば新橋辺にて家持《いえもち》の芸者は色仕掛のお客と見れば用心なしあまりしげしげ呼ばるる時は芸者の方より体《てい》よく返礼をなして後の難儀を避くる由《よし》。そもそも三十年前にあつては応来《オーライ》芸者と称して通人の眉《まゆ》を顰《ひそ》めたる新橋の妓《ぎ》、今はかへつて御客の狡猾《こうかつ》なるに恐れをなすといふに至つては人心の下落|呆《あき》るるの外はなし。 [#7字下げ]七[#「七」は中見出し]  言ふべき事とかく岐路《わきみち》へそれたがるには我ながら閉口なり。さても僕の初めて芸者の帯解く姿を見たりしは既に記せし如く富士見町の寿鶴といふ待合《まちあい》にして、勘定何もかも一切にて金参円を出でざりし。その頃は半助《はんすけ》といふ言葉も通用しまた壱円のことを大そうらしく武内《たけのうち》に面会せんなぞといふもあり。当時売女の相場、新吉原|仲《なか》の町《ちょう》角海老《かどえび》の筋向《すじむかい》あたりにありし絵草紙屋《えぞうしや》にて売る活版の細見記を見ても、大見世《おおみせ》の女の揚代《あげだい》金壱円弐拾銭にて、これより以上のものはなかりし。以て一般を推すべし。さて僕も富士見町ばかりでは所詮山の手の土臭く井戸の蛙の譏《そしり》もうしろめたしと思へる折から、神田連雀町《かんだれんじゃくちょう》金清楼の宴会にて、講武所|駒《こま》の家《や》の抱《かかえ》小みつといへるが水を向けるをこれ幸ひと、一人先に金清楼を出で小みつが教ゆる外神田《そとかんだ》佐久間町河岸の船宿《ふなやど》小松家といふに行き土蔵《どぞう》づくりの小座敷に女の来るを待ちたりけり。これは明治三十二、三年のことなり。そのころには自由廃業といふ言葉もまだ耳新しく『二六新報』の記者が吉原の小格子をあらし廻る事をさしていふものとのみ思へる人もありしほどなれば、芸者屋仲間にはまだ全国芸妓組合なぞといふものなく、営業の区域を限る許可地とか称するきまりもなかりしやうなり。芸者その頃冬の夜道を向嶋あたりへ遠出《とおで》に行く時、お高祖頭巾《こそずきん》をかぶるもありき。四角なる縮緬《ちりめん》の角に糸を輪にして付け、それを耳朶《じだ》にかけてかぶるなり。小袖《こそで》には糸織縞に意気な柄多くありたり。芸者襟付の不断着《ふだんぎ》に帯は必《かならず》引掛《ひっかけ》にして前掛《まえかけ》をしめ、黒縮緬五ツ紋の羽織《はおり》を着て素足《すあし》にて寄席《よせ》なぞへ行きたり。毛織のショール既にすたれて吾妻《あずま》コート流行。絹はんけちを三角に二折《ふたつおり》となして頸《くび》に巻きて口をかくし、金縁薄色の黒眼鏡をかける。男も同じく絹はんけちに黒眼鏡、天鵞絨《ビロード》の鳥打帽《とりうちぼう》、大嶋か何かの筒袖《つつそで》の羽織、着物は市楽《いちらく》か風通織《ふうつうおり》にて、帯は幅広し。小指に金の見留印《みとめいん》の指環、黒八丈の前掛をしめ、雪駄《せった》ちやらちやらと鳴して歩く。これ色男がりたる気障《きざ》な風なり。芸者が座敷より帰つて来る刻限を計り御神燈《ごじんとう》の火影《ほかげ》に格子戸《こうしど》の外より声をかけ、長火鉢《ながひばち》の向へ坐つて一杯やるを無上の楽しみとす。すべて妓家の模様を書きしるせしもの既に言ひしが如く汗牛充棟《かんぎゅうじゅうとう》なればここには除けり。好奇の人左に掲ぐる図書について見玉はば、明治年間花柳風俗の変遷おのづから歴然たるものあらん歟《か》。 [#ここから2字下げ] 柳橋新誌 二巻 明治七年出板成嶋柳北著 柳巷絃妓全盛揃 一巻 松本重清画酔月亭撰 新橋雑記 二巻 明治十一年十一月三十日出板松本万年著 東京新繁昌記 六巻 明治七年四月出板服部誠一著 東京妓情 三巻 明治十六年十月出板酔多道士著 花柳事情 三巻 明治十三年十二月板酔多道士著 新橋芸妓評判記 初編 明治十四年九月出板中村呉園著 東京粋書 初編 明治十四年五月出板野崎城雄著 銀街小誌 初編 明治十五年二月出板槎盆子著成嶋柳北序 芸娼妓評判記 一巻 明治十八年八月出板粋多道人著 通人必携 一巻 明治十七年四月出板二代目花笠文京著伊東橋塘序 仙洞美人禅 一巻 明治十七年十一月出板三木愛花著 東都仙洞綺話 一巻 明治十五年十二月出板三木愛花著 東都仙洞余譚 一巻 明治十六年八月出板三木愛花著 東京遊覧記 一巻 明治廿一年十月出板竹外居士原田真一著 東京流行細見記 明治十八年七月出版 当時全盛絃妓細軒記 明治三庚午版流行道人著 柳橋芸者名寄 出板年月不詳 全盛北里花魁列伝 第一編第二編 明治十四年十二月出板桜洲散史大久保常吉著三木愛花序 龍山北誌 二巻 明治十二年十二月四日出版一名花街春史服部誠一閲桑野鋭戯著 娼妓節用 一巻 明治十七年出板三木愛花原作戯蝶子補綴 新橋八景芸者節用 一巻 明治十七年出板三木愛花原作戯蝶子補綴 日本橋浮名歌妓 一巻 明治十七年出板山田春塘著伊東橋塘閲 東京芸妓評判録 初編 明治三十七年出板著者不詳 よし原 一巻 [#割り注]明治廿四年二月出板大文字楼静江序角海老楼金龍句稲本楼八雲詩松の家露八句其他の題詞あり年英挿画[#割り注終わり] 太平楽娼妓演説 [#割り注]明治二十四年二月廿四日出版八幡楼高尾序川上鼠文序烏有山人筆記娼妓てこ鶴の演説[#割り注終わり] 東都の名妓 大正六年出版川尻清潭岡村柿紅共編 [#ここで字下げ終わり] これ僅に僕の経目せしものを挙げしに過ぎざるなり。山田春塘の著『日本橋浮名歌妓』は明治十六年六月|檜物町《ひものちょう》の芸妓叶家歌吉といへるもの中橋の唐物商《とうぶつしょう》吉田屋の養子安兵衛なるものと短刀にて情死せし顛末《てんまつ》を小説体に書きつづりしものにしてこの情死は明治十三年九月新吉原品川楼の娼妓盛糸と内務省の小吏《しょうり》谷豊栄が情死と相前後して久しく世の語り草とはなれるなり。品川楼盛糸がことは当時『有喜世《うきよ》新聞』に『心中比翼塚《しんじゅうひよくづか》』とか題して浄瑠璃風に文飾して書きつづりしものあり。また春亭史彦といふ人のつづりし『北廓花盛紫《さとのはなさかるむらさき》』と題せし草双紙《くさぞうし》もあり。これらを採りて明治三十二、三年の頃|伊原青々園《いはらせいせいえん》『都《みやこ》新聞』に続物小説を執筆せしを伊井一座の壮士役者これを芝居に仕組み赤坂溜池演伎座にて興行したり。明治年間にありし情死にして小説戯曲に仕組まれしもの先《まず》この二ツ位なるべし。広津柳浪《ひろつりゅうろう》が小説『今戸心中』は京町二丁目中米楼にありしものとか聞きしがその文体|力《つと》めて実録となる事を避くるが如くなれば例外とすべし。世の噂は七十五日といはるるに心中沙汰のみ世に永く語り伝へらるるはこれ畢竟《ひっきょう》小説戯曲の力による事近松門左衛門が浄瑠璃の例を引くにも及ぶまじ。明治四十五年の春新橋|信楽新道《しがらきじんみち》の政中村家政代とよびし芸者、俳優中村又五郎を怨みて硫酸を飲んで死したり。されど小説にかきつづりて世に伝へんとする好事家《こうずか》もなかりしかば化けて出る噂もほどなく消えてしまひけり。大正の世となりて女優松井おすまの縊死《いし》、新華族|芳川《よしかわ》の娘おかまが出奔《しゅっぽん》、医者浜田の娘おえいの自殺なんぞ、皆|痴情《ちじょう》のためにその身を亡し親兄弟に歎をかけ友達の名を辱《はずかし》めたる事|時人《じじん》の知るところなり。浜田の娘おえいは猫|入《い》らずといふ殺鼠剤《さっそざい》を服して最後を遂げたりしより無分別の若き男女思案に余ることあれば今にこの薬を購《あがな》ふもの絶えやらずといふ。猫入らずは即むかしの石見銀山《いわみぎんざん》なり。明治三年|猿若町《さるわかちょう》のおきぬといふ女金貸の旦那をこの毒薬にて殺せし事ありてより、石見銀山の名久しく人の口にいひ伝へられしが世は変りてその名もまたいつか異りたり。往時編笠かぶりて心中の沙汰なぞ唄《うた》ひ歩みし読売《よみう》り今は縁日《えんにち》の夜の唱歌となるもまた物同じくしてその名のみ同じからざる一例となすべし。書生風したる男のヴァイオリンひきて卑し気なる調子にて物うたふは、これを名づけて何節といふにや知らざれど、その謡《うた》ふところを聞くに賤しき語にて簡単に事の次第を伝へたるものあり。後世の史家|必《かならず》見て以て風俗史の資料となすべし。 [#ここから2字下げ] ああ悲しやな悲しやな、 恋しき君に先立たれ、 今は語らむ人もなし。 思へば衣裳も手につかず、 幕の下りるを待兼ねて、 忍泣きする舞台裏。 いとも哀れな須磨子嬢《すまこじょう》。 恋しき嶋村抱月《しまむらほうげつ》の、 お跡をしたふ死出《しで》の旅。 [#ここで字下げ終わり] こはたまたま僕の記憶に存せる語句を摘記したるに過ぎず。街頭の俗謡といへども固《もと》より作者の存するあり。当時教科書編纂者のなすが如くだまつて他人の文を盗用するは礼にあらず。故に一言して妄《みだり》にその断片を採つてここに録する所以《ゆえん》を述ぶ。 [#7字下げ]八[#「八」は中見出し]  追懐は老者無上の慰楽となす所なり。明治四十一年秋、僕西洋より帰来りし時木曜会の文人僕のために祝宴を開かんとて、ああでもないかうでもないと相談の末おもひおもひに姿をやつして上野停車場に集り、それより浅草辺を遊び歩きて一泊することとなしぬ。九月半の事なり。花見時《はなみどき》にもあらぬ白昼なれば、もし身分職業がら仮装を厭ふ者は会費の外に罰金五円を出してあやまる事になしたり。然るに当日午後の四時を期して上野停車場の待合室に集るものを見れば会長|巌谷小波《いわやさざなみ》先生を始めとして十四、五人の会員一人として罰金を出すものなくいづれも車夫《しゃふ》、牛乳配達夫、職人、行商人等に身をやつしたり。その中にて小波先生は双子縞《ふたこじま》の単衣《ひとえ》に怪し気なる夏羽織《なつばおり》、白足袋《しろたび》雪駄《せった》にて黒眼鏡をかけし体《てい》、貸座敷の書記さんに見まがひたる。また大田南岳《おおたなんがく》の山高帽《やまたかぼう》に木綿の五ツ紋、小倉《こくら》の袴《はかま》をはきて、胸に赤十字社の徽章《きしょう》をさげたる。この二人は最上の出来栄《できばえ》なりけり。同勢十四、五人徒歩して浅草公園を一巡し千束町《せんぞくまち》一丁目松葉屋といふ諸国|商人宿《あきんどやど》に入りて夕飯を食し、さておもひおもひに公園の矢場《やば》銘酒屋をひやかすあり、玉乗り源氏節《げんじぶし》の踊を見に行くあり吉原|小塚原《こづかっぱら》の女郎屋をぞめき歩くもあり、やがて松葉屋に帰りて一泊す。蒲団《ふとん》の不潔なるを恐れて外泊するものはまた罰金を取る約束なれば一同帰り来つてここに一夜を明し翌朝朝飯すませし頃折好く表に紅勘《べにかん》が三味線弾いて来りしを呼上げ祝儀を奮発していろいろの芸をやらせ、宿屋を引き上げて一同竹屋の渡しを渡り、桜のわくら葉散りかかる墨堤《ぼくてい》を歩みて百花園《ひゃっかえん》に休み木母寺《もくぼじ》の植半に至りて酒を酌みつつ句会を催したり。木母寺の植半は旅宿をかねたる酒楼にてその頃は芸者を連れし泊込みの客多かりしが二、三年を出でずして或会社のこれを買ひ取りて倶楽部《クラブ》とやらになせしより木母寺の境内再び紅裙《こうくん》のひらめくを見ず、梅若冢《うめわかづか》の柳を見ても黄昏一片麋蕪雨《こうこんいっぺんびぶのあめ》と柏如亭《かしわぎじょてい》が名吟を思ふべき人もなくなりたり。日の暮れんとする午後五時となれば鐘淵紡績《かねがふちぼうせき》会社工場の汽笛人の耳を劈《つんざ》き草木の葉をもふるひ落さんとす。川霧立まよふ頃の夕まぐれ、ここの渡しをいそぎ橋場の岸近くなる時|真崎稲荷《まっさきいなり》の森かげをぬひて廓《くるわ》の灯を望み見たりし情景も明治四十一年の頃には既に過ぎし世の語り草なりけり。言問《こととい》のほとりにも中の植半とて名高き酒楼ありしが大正のはじめには待合風の料理屋となり女夫風呂《めおとぶろ》とか名付けし鏡張りの浴室評判なりしが入浴中に情死を遂げしものありて忽《たちまち》客足絶えほどなく家も取壊しになりしと聞けり。秋葉神社のほとりには有馬温泉とよぶ連込みの茶屋大正五、六年頃までありしやに覚ゆ。向嶋にてこのたぐひの茶屋といへば入金《いりきん》の繁昌《はんじょう》久しきものにして蜆汁《しじみじる》の味またいつまでも変らぬこそ目出度《めでた》けれ。僕大正八年の春築地より雪見に誘はれて立寄りし事ありしが蜆汁の味十年のむかしに変らず玉子焼も至極暖なりし故|床《とこ》の間《ま》に掛けたりし柴田是真《しばたぜしん》が蜆の茶懸《ちゃがけ》も目に残りて今に忘れやらず。秋葉に秋葉芸者とて三囲《みめぐり》土手下の芸者とは別の組合出来たりしは大正改元の頃にやあらん。帯さへ解かざる手練《しゅれん》の早業《はやわざ》流行せしかば、一時禁止となりしがほどもなく再興して三囲の古き仲間に合体せし由。これは大正七、八年の頃なるべきか。およそ大正の世となりて都下に新しく芸者屋町の興りしもの一、二箇処に止まらず。麻布網代町《あざぶあみしろちょう》、小石川白山《こいしかわはくさん》、渋谷荒木山《しぶやあらきやま》、亀戸天神《かめいどてんじん》なんぞいつか古顔となり、根岸《ねぎし》御行《おぎょう》の松《まつ》、駒込神明町《こまごめしんめいちょう》、巣鴨庚申塚《すがもこうしんづか》、大崎五反田《おおさきごたんだ》、中野村|新井《あらい》の薬師《やくし》なぞ、僕今日四十を過ぎての老脚にては殆《ほとんど》遊歴に遑《いとま》あらざる次第なり。新開《しんかい》の町村に芸者屋町を許可するは土地繁昌を促すがためといへり。あたかも辺陲《へんすい》不毛の地に移民を送りて開墾を企《くわだつ》る政策の如し。都下近郊の水田を埋め樹木を乱伐し貸家を建てて町となすに売女を公認して繁華を謀《はか》るにも及ばざるべきに、当世人がいはゆる発展策と称してよろこぶところのもの大抵この類にあらざるはなし。かへすがへす文学雑誌と売女との増加は慷慨《こうがい》の士にあらざるも誰かこれを見て寒心せざらんや。ナゾト肩をいからしながら、こつそりと遊びに行く山の手の小待合、賤妓を待つ間の退屈しのぎに筆をチャブ台《だい》の上に執る。時これ大地震のあくる年春もまだ寒きバラックの御二階において金阜山人《きんぷさんじん》しるす。 底本:「荷風随筆集(下)」岩波文庫、岩波書店    1986(昭和61)年11月17日第1刷発行    2007(平成19)年7月13日第23刷発行 底本の親本:「荷風随筆 一〜五」岩波書店    1981(昭和56)年11月〜1982(昭和57)年3月 ※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。 ※ルビは新仮名とする底本の扱いにそって、ルビの拗音、促音は小書きしました。 入力:門田裕志 校正:米田 2010年9月5日作成 2011年4月2日修正 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。