江戸芸術論 永井荷風 ------------------------------------------------------- 【テキスト中に現れる記号について】 《》:ルビ (例)我邦《わがくに》 |:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号 (例)家屋|什器《じゅうき》 [#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定    (数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数) (例)〻 /\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号) (例)おの/\ *濁点付きの二倍の踊り字は「/″\」 〔〕:アクセント分解された欧文をかこむ (例)〔Au torse e'pais, aux te'tons rouges;〕 アクセント分解についての詳細は下記URLを参照してください http://www.aozora.gr.jp/accent_separation.html ------------------------------------------------------- [#2字下げ]浮世絵の鑑賞[#「浮世絵の鑑賞」は大見出し] [#7字下げ]一[#「一」は中見出し]  我邦《わがくに》現代における西洋文明模倣の状況を窺《うかが》ひ見るに、都市の改築を始めとして家屋|什器《じゅうき》庭園衣服に到《いた》るまで時代の趣味一般の趨勢《すうせい》に徴して、転《うた》た余をして日本文華の末路を悲しましむるものあり。  余かつて仏国《ふつこく》より帰来《かえりきた》りし頃、たまたま芝霊廟《しばれいびょう》の門前に立てる明治政庁初期の官吏某の銅像の制作を見るや、その制作者は何が故《ゆえ》に新旧両様の美術に対してその効果上相互の不利益たるべきかかる地点を選択せしや、全くその意を了解するに苦しみたる事あり。余はまたこの数年来市区改正と称する土木工事が何ら愛惜《あいせき》の念もなく見附《みつけ》と呼馴《よびな》れし旧都の古城門《こじょうもん》を取払ひなほ勢《いきおい》に乗じてその周囲に繁茂せる古松を濫伐《らんばつ》するを見、日本人の歴史に対する精神の有無《うむ》を疑はざるを得ざりき。泰西の都市にありては一樹の古木|一宇《いちう》の堂舎といへども、なほ民族過去の光栄を表現すべき貴重なる宝物《ほうもつ》として尊敬せらるるは、既に幾多漫遊者の見知《けんち》する処《ところ》ならずや。然《しか》るにわが国において歴史の尊重は唯《た》だ保守|頑冥《がんめい》の徒が功利的口実の便宜となるのみにして、一般の国民に対してはかへつて学芸の進歩と知識の開発に多大の妨害をなすに過ぎず。これらは実に僅少《きんしょう》なる一、二の例証のみ。余は甚《はなはだ》しく憤りきまた悲しみき。然れども幸ひにしてこの悲憤と絶望とはやがて余をして日本人古来の遺伝性たる諦《あきら》めの無差別観に入《い》らしむる階梯《かいてい》となりぬ。見ずや、上野の老杉《ろうさん》は黙々として語らず訴へず、独《ひと》りおのれの命数を知り従容《しょうよう》として枯死《こし》し行けり。無情の草木|遥《はるか》に有情《ゆうじょう》の人に優《まさ》るところなからずや。  余は初めて現代の我が社会は現代人のものにして余らの決して嘴《くちばし》を容《い》るべきものにあらざる事を知りぬ。ここにおいて、古蹟の破棄も時代の醜化もまた再び何らの憤慨を催さしめず。そはかへつてこの上もなき諷刺的滑稽《ふうしてきこっけい》の材料を提供するが故に、一変して最も詭弁的《きべんてき》なる興味の中心となりぬ。然れども茶番は要するに茶番たるに過ぎず。いかに洒脱《しゃだつ》なる幇間《ほうかん》といへども徹頭徹尾|扇子《せんす》に頭《かしら》を叩《たた》いてのみ日を送り得べきものに非《あら》ず。余は日々《にちにち》時代の茶番に打興《うちきょう》ずる事を勉《つと》むると共に、また時としては心ひそかに整頓《せいとん》せる過去の生活を空想せざるを得ざりき。過去を夢見んには残されたる過去の文学美術の力によらざるべからず。これ余が広重《ひろしげ》と北斎《ほくさい》との江戸名所絵によりて都会とその近郊の風景を見ん事を冀《こいねが》ひ、鳥居奥村派《とりいおくむらは》の制作によりて衣服の模様器具の意匠を尋ね、天明《てんめい》以後の美人画によりては、専制時代の疲弊堕落せる平民の生活を窺《うかが》ひ、身につまさるる悲哀の美感を求めし所以《ゆえん》とす。 [#7字下げ]二[#「二」は中見出し]  浮世絵は余をして実に渾然《こんぜん》たる夢想の世界に遊ばしむ。浮世絵は外人の賞するが如く啻《ただ》に美術としての価値のみに留《とど》まらず、余に対しては実に宗教の如き精神的|慰藉《いしゃ》を感ぜしむるなり。特殊なるこの美術は圧迫せられたる江戸平民の手によりて発生し絶えず政府の迫害を蒙《こうむ》りつつしかも能《よ》くその発達を遂《と》げたりき。当時政府の保護を得たる狩野家《かのうけ》即《すなわ》ち日本十八世紀のアカデミイ画派の作品は決してこの時代の美術的光栄を後世に伝ふるものとはならざりき。しかしてそは全く遠島に流され手錠《てじょう》の刑を受けたる卑しむべき町絵師の功績たらずや。浮世絵は隠然として政府の迫害に屈服せざりし平民の意気を示しその凱歌《がいか》を奏するものならずや。官営芸術の虚妄《きょもう》なるに対抗し、真正自由なる芸術の勝利を立証したるものならずや。宮武外骨《みやたけがいこつ》氏の『筆禍史《ひっかし》』は委《つぶ》さにその事跡を考証叙述して余すなし。余また茲《ここ》に多くいふの要あるを見ず。 [#7字下げ]三[#「三」は中見出し]  浮世絵はその木板摺《もくはんずり》の紙質と顔料《がんりょう》との結果によりて得たる特殊の色調と、その極めて狭少なる規模とによりて、寔《まこと》に顕著なる特徴を有する美術たり。浮世絵は概して奉書《ほうしょ》または西之内《にしのうち》に印刷せられ、その色彩は皆|褪《さ》めたる如く淡《あわ》くして光沢なし、試みにこれを活気ある油画《あぶらえ》の色と比較せば、一ツは赫々《かくかく》たる烈日《れつじつ》の光を望むが如く、一ツは暗澹《あんたん》たる行燈《あんどう》の火影《ほかげ》を見るの思ひあり。油画の色には強き意味あり主張ありて能《よ》く制作者の精神を示せり。これに反して、もし木板摺の眠気《ねむげ》なる色彩中に制作者の精神ありとせば、そは全く専制時代の萎微《いび》したる人心《じんしん》の反映のみ。余はかかる暗黒時代の恐怖と悲哀と疲労とを暗示せらるる点において、あたかも娼婦《しょうふ》が啜《すす》り泣きする忍び音《ね》を聞く如き、この裏悲《うらがな》しく頼《たよ》りなき色調を忘るる事|能《あた》はざるなり。余は現代の社会に接触して、常に強者の横暴《おうぼう》を極むる事を見て義憤する時、飜《ひるがえ》つてこの頼りなき色彩の美を思ひその中《うち》に潜める哀訴の旋律《メロディ》によりて、暗黒なる過去を再現せしむれば、忽《たちま》ち東洋固有の専制的精神の何たるかを知ると共に、深く正義を云々《うんぬん》するの愚なることを悟《さと》らずんばあらず。希臘《ギリシヤ》の美術はアポロンを神となしたる国土に発生し、浮世絵は虫けら同然なる町人《ちょうにん》の手によりて、日当り悪《あ》しき横町《よこちょう》の借家《しゃくや》に制作せられぬ。今や時代は全く変革せられたりと称すれども、要するにそは外観のみ。一度《ひとたび》合理の眼《まなこ》を以《もっ》てその外皮《がいひ》を看破《かんぱ》せば武断政治の精神は毫《ごう》も百年以前と異《ことな》ることなし。江戸木板画の悲しき色彩が、全く時間の懸隔なく深くわが胸底《きょうてい》に浸《し》み入りて常に親密なる囁《ささや》きを伝ふる所以《ゆえん》けだし偶然にあらざるべし。余は何が故か近来主張を有する強き西洋の芸術に対しては、宛《さなが》ら山嶽《さんがく》を望むが如く唯|茫然《ぼうぜん》としてこれを仰ぎ見るの傾きあるに反し、一度《ひとたび》その眼《め》を転じて、個性に乏しく単調にして疲労せる江戸の文学美術に対すれば、忽ち精神的|並《ならび》に肉体的に麻痺《まひ》の慰安を感ぜざるを得ず。されば余の浮世絵に関する鑑賞といひ研究といふが如き、元《もと》より厳密なる審美の学理に因《よ》るものならず。もし問ふものあらば余は唯特別なる事情の下《もと》に、特別なる一種の芸術を喜ぶと答へんのみ。いはんや泰西人の浮世絵に関する審美的工芸的研究は既に遠く十年以前全く細微に渉《わた》りて完了せられたるにおいてをや。 [#7字下げ]四[#「四」は中見出し]  余は既に幾度《いくたび》か木にて造り紙にて張りたる日本伝来の家屋に住《じゅう》し春風秋雨《しゅんぷうしゅうう》四季の気候に対する郷土的感覚の如何《いかん》を叙述したり。此《かく》の如く脆弱《ぜいじゃく》にして清楚《せいそ》なる家屋と此の如く湿気に満ち変化に富める気候の中《うち》に棲息《せいそく》すれば、かつて広大堅固なる西洋の居室に直立|闊歩《かっぽ》したりし時とは、百般の事|自《おのずか》ら嗜好《しこう》を異にするはけだし当然の事たるべし。余にしてもしマロック皮の大椅子《おおいす》に横《よこたわ》りて図書室に食後の葉巻《はまき》を吹かすの富を有せしめば、自《おのずか》らピアノと油絵と大理石の彫刻を欲すべし。然れども幸か不幸か、余は今なほ畳の上に両脚《りょうきゃく》を折曲げ乏しき火鉢《ひばち》の炭火《すみび》によりて寒《かん》を凌《しの》ぎ、簾《すだれ》を動かす朝《あした》の風、廂《ひさし》を打つ夜半《やはん》の雨を聴《き》く人たり。清貧と安逸と無聊《ぶりょう》の生涯を喜び、酔生夢死《すいせいむし》に満足せんと力《つと》むるものたり。曇りし空の光は軒先に遮《さえぎ》られ、障子《しょうじ》の紙を透《すか》してここに特殊の陰影をなす。かかる居室に適応すべき美術は、先《ま》づその形《かたち》小ならざるべからず、その質は軽からざるべからず。然るに現代の新しき制作品中、余は不幸にしていまだ西洋の miniature《ミニアチュウル》 または銅板画《どうばんが》に類すべきものあるを見ず。浮世絵|木板摺《もくはんずり》はよくこの欠陥を補ふものにあらずや。都門《ともん》の劇場に拙劣なる翻訳劇|出《い》づるや、朋党《ほうとう》相結《あいむす》んで直ちにこれを以て新しき芸術の出現と叫び、官営の美術展覧場に賤《いや》しき画工ら虚名の鎬《しのぎ》を削れば、猜疑《さいぎ》嫉妬《しっと》の俗論|轟々《ごうごう》として沸くが如き時、秋の雨しとしとと降りそそぎて、虫の音《ね》次第に消え行く郊外の侘住居《わびずまい》に、倦《う》みつかれたる昼下《ひるさが》り、尋ね来《きた》る友もなきまま、独《ひと》り窃《ひそか》に浮世絵|取出《とりいだ》して眺《なが》むれば、ああ、春章《しゅんしょう》写楽《しゃらく》豊国《とよくに》は江戸盛時の演劇を眼前に髣髴《ほうふつ》たらしめ、歌麿《うたまろ》栄之《えいし》は不夜城《ふやじょう》の歓楽に人を誘《いざな》ひ、北斎広重は閑雅なる市中《しちゅう》の風景に遊ばしむ。余はこれに依《よ》つて自《みずか》ら慰むる処なしとせざるなり。 [#7字下げ]五[#「五」は中見出し]  近世的の大詩人ヴェルハアレンの詩篇に、そが郷国《きょうこく》フランドルの古画に現はれたる生活慾の横溢《おういつ》を称美したる一章あり。 [#ここから2字下げ] Art flamand, tu les connus, toi Et tu les aimes bien, les gouges, 〔Au torse e'pais, aux te'tons rouges;〕 〔Tes plus fie`rs chefs-d'oe&uvres en font foi.〕 〔Que tu peignes reines, de'esses,〕 〔Ou nymphes, e'mergeant des flots,〕 〔Par troupes, en roses i^lots,〕 〔Ou sire`nes enchanteresses,〕 Ou Pomons aux coutours pleins, Symbolisant les saisons belles, Grand art des maitres ce sont elles, Ce sont les gouges que tu peins. フランドルの美術よ、汝《なんじ》こそはよく彼《か》の淫婦《いんぷ》を知りたれ。よくかの乳房《ちぶさ》赤く肉|逞《たくま》しき淫婦を愛したれ。フランドルの美術の傑作はいづれかその証《しるし》ならざる。 その妃《きさき》を描き女神《めがみ》を描き、或《ある》は紅《くれない》の島に群れなして波間《なみま》に浮ぶナンフ或は妖艶《ようえん》の人魚の姫。 或はまた四季の眺めを形取《かたど》る肉付《にくづき》のよきポモンの女神。およそフランドル名家の描きし大作は、皆これかの淫蕩《いんとう》なる婦女にあらざるなきを。 [#ここで字下げ終わり]  この詩章を読みて卑猥《ひわい》なりとなすものあらば、そはこの詩章の深意を解すること能はざるものなり。ヴェルハアレンはフランドルの美術に現れし裸体の婦女によりて偉大なる人間の活力を想像し賞讃《しょうさん》措《お》く能はざりしなり。彼は清浄と禁慾を主としたる従来の道徳及び宗教の柵外《さくがい》に出《い》で、生活の充実と意志の向上を以て人生の真意義となせり。永劫《えいごう》の理想に向つて人生意気の赴く所、ここに偉大の感情あり。悲壮の美あり、崇高の観念あり。汚辱《おじょく》も淫慾も皆これ人類活力の一現象ならずして何ぞ。彼の尊ぶ所は深甚《しんじん》なる意気の旺盛《おうせい》のみ。 [#ここから2字下げ] Dans la splendeur des paysages, 〔Et des palais, lambrisse's d'or,〕 〔Dans la pourpre et dans le de'cor〕 〔Somptueux des anciens a^ges,〕 〔Vos femmes suaient la sante',〕 Rouges de sang, blanches de graisse; Elles menaient les ruts en laisse, 〔Avec des airs de royaute'.〕 絶佳《ぜっか》明媚《めいび》の山水《さんすい》、粉壁朱欄《ふんぺきしゅらん》燦然《さんぜん》たる宮闕《きゅうけつ》の中《うち》、壮麗なる古代の装飾に囲繞《いじょう》せられて、フランドル画中の婦女は皆|脂肪《あぶら》ぎりて肌《はだ》白く血液に満ちて色赤く、おのが身の強健に堪へざる如く汗かけり。これらの婦女は恣《ほしいまま》にその淫情を解放して意気揚々いささかの羞《はず》る色だもなし。 [#ここで字下げ終わり]  これ欧洲新思想の急先鋒《きゅうせんぽう》たるヴェルハアレンが郷土の美術を詠じたる最後の一章たり。フランドルはもと自由の国たり。フラマン人は西班牙《スペイン》政庁の羈絆《きはん》を脱するや最近十九世紀の文明に乗じて一大飛躍を試みたる国民たり。ヴェルハアレンが Rubens, Van Dyck, Teniers ら十七世紀の名画を見その強烈なる色彩に感激したるは毫《ごう》も怪しむに足らざるなり。しかして余は今自己の何たるかを反省すれば、余はヴェルハアレンの如く白耳義人《ベルヂックじん》にあらずして日本人なりき。生れながらにしてその運命と境遇とを異にする東洋人なり。恋愛の至情はいふも更なり、異性に対する凡《すべ》ての性慾的感覚を以て社会的最大の罪悪となされたる法制を戴《いただ》くものたり。泣《な》く児《こ》と地頭《じとう》には勝つべからざる事を教へられたる人間たり。物いへば唇《くちびる》寒きを知る国民たり。ヴェルハアレンを感奮せしめたる生血《なまち》滴《したた》る羊の美肉《びにく》と芳醇《ほうじゅん》の葡萄酒《ぶどうしゅ》と逞《たくま》しき婦女の画《え》も何かはせん。ああ余は浮世絵を愛す。苦界《くがい》十年親のために身を売りたる遊女が絵姿《えすがた》はわれを泣かしむ。竹格子《たけごうし》の窓によりて唯だ茫然《ぼうぜん》と流るる水を眺《なが》むる芸者の姿はわれを喜ばしむ。夜蕎麦売《よそばうり》の行燈《あんどう》淋《さび》し気《げ》に残る川端の夜景はわれを酔《え》はしむ。雨夜《あまよ》の月に啼《な》く時鳥《ほととぎす》、時雨《しぐれ》に散る秋の木《こ》の葉、落花の風にかすれ行く鐘の音《ね》、行き暮るる山路《やまじ》の雪、およそ果敢《はか》なく頼りなく望みなく、この世は唯だ夢とのみ訳《わけ》もなく嗟嘆《さたん》せしむるもの悉《ことごと》くわれには親《した》し、われには懐《なつか》し。 [#7字下げ]六[#「六」は中見出し]  浮世絵は元より木板画にのみ限られたるにあらず。師宣《もろのぶ》、政信《まさのぶ》、懐月堂《かいげつどう》等《とう》の諸家は板画《はんが》と共に多く肉筆画の制作をなせしが、鳥居清信《とりいきよのぶ》専《もっぱ》ら役者絵の板下《はんした》を描き、宮川長春《みやがわちょうしゅん》これに対して肉筆美人画を専らとせしより、中古《ちゅうこ》の浮世絵はやや確然として肉筆派と板下派との二流に分るるの観ありき。しかして明和《めいわ》二年に至り、鈴木春信《すずきはるのぶ》初めて精巧なる木板|彩色摺《さいしきずり》の法を発見せしより浮世絵の傑作品は多く板画に止《とど》まり、肉筆の制作は湖龍斎《こりゅうさい》、春章《しゅんしょう》、清長《きよなが》、北斎らの或る作品を除くの外《ほか》、多く賞讃するに足るものなきに至りぬ。浮世絵肉筆画の木板摺に及ばざる理由は、専らその色彩の調和に存す。木板摺においてはそが工芸的制作の必然的結果として、ここに特殊の色調を生じ、各色の音楽的調和によりて企てずして自《おのず》から画面に空気の感情を起さしむるといへども、肉筆画にありては、朱《しゅ》、胡粉《ごふん》、墨《すみ》等の顔料《がんりょう》は皆そのままに独立して生硬なる色彩の乱雑を生ずるのみ。これ画家の罪にあらずして日本画の物質的材料の欠点たり。今諸家の制作を見るに、木板色摺のいまだ進歩せざりし紅絵《べにえ》の時代においては、板下画家はその色彩の規範を常に肉筆画に仰ぎたれども、後《のち》には全く反対となり、肉筆画の色彩をばかへつて木板画に倣《なら》はんとするに至りぬ。ゴンクウルは歌麿が蚊帳美人《かちょうびじん》の掛物《かけもの》につきて、その蚊帳の緑色《りょくしょく》と女帯《おんなおび》の黒色《こくしょく》との用法の如き全く板画に則《のっと》りしものとなせり。肉筆画の木板画に及ばざる他《た》の理由は布局《ふきょく》の点なり。木板画は春信以後その描かれたる人物は必ず背景を有しここに渾然《こんぜん》たる一面の絵画をなす、然らざれば地色《じいろ》の淡彩によりてよく温柔なる美妙の感情を誘《いざな》へり。然るに此《かく》の如きは全く肉筆画の企て得ざる処とす。試みに今|土佐《とさ》狩野|円山《まるやま》等各派の制作と浮世絵とを比較するに、浮世絵肉筆画は東洋固有の審美的趣味よりしてその筆力及び墨色《ぼくしょく》の気品に関しては決して最高の地位を占むるものにはあらざるべし。唯《ただ》木板彩色摺において始めて動かしがたき独特の価値を生ず。浮世絵の特色は板画にあり。板画の特色は優しき色調にあり。これがために浮世絵は能《よ》く泰西の美術に対抗し得るなり。 [#7字下げ]七[#「七」は中見出し]  新しき国民音楽いまだ起らず、新しき国民美術なほ出《い》でず、唯《た》だ一時的なる模倣と試作の濫出《らんしゅつ》を見るの時代においては、元《もと》よりわが民族的芸術の前途を予想する事|能《あた》はざるや論なし。余は徒《いたずら》に唯《ただ》多くの疑問を有するのみ。ピアノは果して日本的固有の感情を奏するに適すべきや。油画と大理石とは果して日本特有なる造形美を紹介すべき唯一《ゆいいつ》の道たりや。余は余《あま》りに数理的なる西洋音楽の根本的性質と、落花落葉虫語鳥声等の単純|可憐《かれん》なる日本的自然の音楽とに対して、先《ま》づその懸隔の甚《はなは》だしきに驚かずんばあらず。余は日本人の描ける油画にして、日本の婦女と日本の風景及び室内を描けるものに対しては常に熱心なる注意を怠《おこた》らず。然れども余は不幸にしていまだかつて油画の描きたる日本婦女の髷《まげ》及び頭髪《とうはつ》に対し、あるひは友禅《ゆうぜん》、絣《かすり》、縞《しま》、絞《しぼり》等の衣服の紋様《もんよう》に対して、何ら美妙の感覚に触れたる事なく、また縁側《えんがわ》、袖垣《そでがき》、障子、箪笥《たんす》等の日本的|家居《かきょ》及び什器《じゅうき》に対して、毫《ごう》も親密なる特殊の情趣を催したる事なし。余はしばしば同一の画家の制作につきて、その描ける西洋の風景は日本の風景よりも遥《はるか》に優秀なるが如き感をなせり。一歩を進めて妄断《もうだん》する事を憚《はばか》らざれば油画は金髪の婦女と西洋の風景とを描くに適するものといふべし。余は決して邦人の制作する現代の油画を嫌《きら》ふものにあらず、然れども奈何《いか》にせん、歌麿と北斎とは今日《こんにち》の油画よりも遥によく余の感覚に向つて日本の婦女と日本風景の含有する秘密を語るが故に、余はその以上の新しき天才の制作に接するまで、容易に江戸の美術家を忘るること能はずといふのみ。日本都市の外観と社会の風俗人情は遠からずして全く変ずべし。痛ましくも米国化すべし。浅間《あさま》しくも独逸《ドイツ》化すべし。然れども日本の気候と天象《てんしょう》と草木《そうもく》とは黒潮《こくちょう》の流れにひたされたる火山質の島嶼《とうしょ》の存するかぎり、永遠に初夏晩秋の夕陽《せきよう》は猩々緋《しょうじょうひ》の如く赤かるべし。永遠に中秋月夜《ちゅうしゅうげつや》の山水《さんすい》は藍《あい》の如く青かるべし。椿《つばき》と紅梅《こうばい》の花に降る春の雪はまた永遠に友禅模様の染色《そめいろ》の如く絢爛《けんらん》たるべし。婦女の頭髪は焼鏝《やきごて》をもて殊更《ことさら》に縮《ちぢら》さざる限り、永遠に水櫛《みずくし》の鬢《びん》の美しさを誇るに適すべし。然らば浮世絵は永遠に日本なる太平洋上の島嶼に生るるものの感情に対して必ず親密なる私語《ささやき》を伝ふる処あるべきなり。浮世絵の生命は実に日本の風土と共に永劫《えいごう》なるべし。しかしてその傑出せる制作品は今や挙《あ》げて尽《ことごと》く海外に輸出せられたり。悲しからずや。 [#地から1字上げ]大正二年正月稿 [#改丁] [#2字下げ]鈴木春信の錦絵[#「鈴木春信の錦絵」は大見出し] [#7字下げ]一[#「一」は中見出し]  浮世絵|板画《はんが》は元禄《げんろく》享保《きょうほう》の丹絵《たんえ》漆絵《うるしえ》より寛保《かんぽう》宝暦《ほうれき》の紅絵《べにえ》となり、明和《めいわ》年間に及び鈴木春信《すずきはるのぶ》によりてここに始めて精巧なる彩色板刻《さいしきはんこく》の技術を完成し、その佳麗《かれい》なるが故を以《もっ》て吾妻錦絵《あずまにしきえ》の名を得るに至れり。春信|出《い》でて後、錦絵は天明《てんめい》寛政《かんせい》に至り絢爛《けんらん》の極に達し、文化《ぶんか》以後に及びて忽《たちま》ち衰頽《すいたい》を醸《かも》すに至れり。今これら浮世絵各時代の制作品を把《と》つてこれを通覧するに、余は鈴木春信の板画によりて最も深き印象を与へられたり。  春信の板画には菱川《ひしかわ》一派の板画に現はれたる元禄時代の放胆なる筆勢は全く消滅してまた尋ぬべくもあらず。然《しか》れども奥村《おくむら》一派の作に窺《うかが》ふべき柔和なる元禄時代の他の一面はここに一種古雅の風致となりて存せるものあり。しかして天明寛政時代の精密なる写生の画風いまだ起るに至らず。されば春信の板画は過去の粗大と将来の繊細との中間に立ちて独《ひと》り温雅優美の情を恣《ほしいまま》にするものといふべきなり。  春信板画の特徴は一見まづその題材によつて明かなり。春信は自《みずか》ら役者似顔絵を描かずと称し、専《もっぱ》ら美人を描きまたこれに配するに美貌《びぼう》の若衆《わかしゅ》を以てせり。余の最も愛玩《あいがん》措《お》く能《あた》はざるものは即《すなわ》ちこれら年少相思の男女を描けるものとす。  試《こころみ》に余の記憶を去らざるこの種の画様《がよう》を記述せしめんか。その一《いつ》は桜花爛漫《おうからんまん》たる土塀《どべい》の外に一人の若衆|頬冠《ほおかむ》りにあたりの人目を兼ねて彳《たたず》めば、土塀にかけたる梯子《はしご》の頂より一人の美女結び文《ぶみ》を手に持ち半身を現はしたり。その二は一樹《いちじゅ》の垂楊図《すいようず》の上部を限る霞《かすみ》の間《あいだ》より糸の如きその枝を吹きなびかす処、大《だい》なる菱形《ひしがた》の井筒《いづつ》を中央にして前髪姿の若衆|縞《しま》の着流《きなが》し羽織|塗下駄《ぬりげた》の拵《こしら》へにて居住《いずま》ひ、井筒の上に頬杖《ほおづえ》して見えざる井の底を指《ゆびさ》す。これと相対《あいたい》して帯長き振袖《ふりそで》の少女立ちながら袂《たもと》重げに井筒の上に片手をつき前身を屈して同じく井の底を窺《うかが》ひたり。その三は太く黒き枠《わく》を施したる大なる書院の窓ありてその障子《しょうじ》は広く明け放され桜花は模様の如く薄墨《うすずみ》の地色《じいろ》の上に白く浮立ちたり。この模様風の背景をひかへし人物もまた極《きわ》めて人形らしく、その男は小姓《こしょう》の吉三《きちざ》その女は娘お七《しち》ならんか。女は立膝《たてひざ》して何事をか訴へ引留《ひきと》むるが如く寄添《よりそ》へば、男は決然と立つて袴《はかま》の紐《ひも》を結び直しつつも心引かるる風情《ふぜい》にて打仰ぐ女の顔をば上より斜《ななめ》に見下ろしたり。これらの外《ほか》、階子段《はしごだん》に腰かけて懐中より文《ふみ》読む女の後《うしろ》に美しき少年の佇立《たたず》みたるあり。あるひは鳥居の見ゆる茶屋の床几《しょうぎ》に美しき団扇売《うちわうり》の少年茶屋の娘らしき女と相対したるあり。あるひはまた細流《さいりゅう》に添ふ風流なる柴垣《しばがき》のほとりに侍女を伴ひたる美人|佇立《たたず》めば、彼方《かなた》なる柴折戸《しおりど》より美しき少年の姿|立出《たちい》で来れるが如き、いづれも情緒纏綿《じょうしょてんめん》として尽きざるものなり。  余は井筒に倚《よ》れる男女の図に対して何《なん》の理由なく直《ただち》にマアテルリンクの戯曲 〔Pelle'as et Me'lisande〕 の一齣《いっせき》を聯想《れんそう》せり。古今の浮世絵にして男女相愛の様《さま》を描きしもの枚挙《まいきょ》に遑《いとま》あらず。然れども春信の板画の如く美妙に看者《かんしゃ》の空想を動《うごか》すものは稀《まれ》なり。春信の板画は布局《ふきょく》設色《せっしょく》相共《あいとも》に単純を極む。その人物は製作の年代に従ひ結髪《けっぱつ》に多少の差を見るといへどもいづれの画《え》においても常に同一の容貌をなし、年齢身分等の差別のみか時には男女の判別さへ僅《わずか》にその衣服と髷《まげ》とによりてこれを知るに過ぎず。さればかの黒色《こくしょく》と白色《はくしょく》との強き対照によりて有名なる雪中相合傘《せっちゅうあいあいがさ》の図の如きは両個《りょうこ》の人物共に頭巾《ずきん》を冠《かぶ》れるがため男女の区別全く判明しがたきものとはなれり。春信の描く処の男子は尽《ことごと》く前髪ある美少年にして、女子は必ず長大なる一枚の櫛《くし》をさしたる島田《しまだ》あるひは笄髷《こうがいまげ》に結び、差髱《さしたぼ》長く後《うしろ》に突出《つきだ》したる妙齢のものたり。しかしてこれら人物の姿勢も容貌に等しく常に一定の典型に陥れるのみならず写生に遠ざかる事むしろ甚《はなはだ》しきものあり。  凡《およそ》芸術の制作に関するや、殊《こと》に東洋の美術において、科学の知識の必要なるや否やにつきては容易に断言する事|能《あた》はざるものあり。春信の板画の幽婉《ゆうえん》高雅にして詩味に富めるはむしろ科学の閑却に基《もとづ》けるものの如し。春信の男女は単にその当時の衣服を着するのみにしてその感情においては永遠の女性と男性とに過ぎざるなり。さるが故に今日《こんにち》の吾人《ごじん》に対してもなほ永久なる恋愛の詩美を表現する好個《こうこ》の象徴として映ずる事を妨げざるなり。不自然なる姿勢は幽婉の境《さかい》を越えてしばしば神秘となり、これに配置せられたる単純なる後景《こうけい》はあたかもパストラル曲中の美なる風景に等しく両々相伴うて看者の空想を音楽の中《うち》に投ぜしむ。かの爛漫《らんまん》たる桜花と無情なる土塀と人目を忍ぶ少年と艶書《えんしょ》を手にする少女と、ああこの単純なる物象《ぶっしょう》の配合は如何《いか》に際限なき空想を誘起せしむるか。柳しだるる井のほとりに相対して黙然《もくねん》として見るべからざる水底《すいてい》を窺《うかが》ふ年少の男女、そも彼らは互《たがい》の心と心に何をか語り何をか夢見んとするや。今もしこれらの図にして精密なる写生の画風を以てしたらんには特殊の時代と特殊の事相《じそう》及び感情は忽《たちまち》看客《かんかく》の空想を束縛し制限すべし。春信は寔《まこと》に最少の手段によりて最大の効果を得べき芸術の秘訣《ひけつ》を知りたる画家たりしといふべし。 [#7字下げ]二[#「二」は中見出し]  鈴木春信の好んで描けるこれら小説的恋愛の画題は奥村政信《おくむらまさのぶ》また石川豊信《いしかわとよのぶ》らのしばしば用ひたるものにして、敢《あえ》て春信|一人《いちにん》の手によりて浮世絵|中《ちゅう》に現されたるものにあらず。春信の得意とする艶麗なるその意匠はその筆法と色彩とを合せて共に奥村派の諸先輩に負ふ処あり(鈴木春信は北尾重政《きたおしげまさ》と同じく西村重長《にしむらしげなが》の門人なりと称せらる。西村重長は奥村派より出でたる画工なり)。凡そ文芸の歴史は必ず各時代の傑出せる一家を中心としてあたかも波浪の起伏するが如き状《じょう》をなし、漸次に時代の推移を示すものなり。今これを春信について見るに春信は宝暦年代にありては鳥居清満《とりいきよみつ》と拮抗《きっこう》し、明和に入りて嶄然《ざんぜん》として頭角を現はすや、当時の浮世絵は悉《ことごと》く春信風となれり。明和七年春信|歿《ぼっ》するやその門葉《もんよう》中より磯田湖龍斎《いそだこりゅうさい》出で安永《あんえい》年代の画風を代表せり。湖龍斎が明和年代の板画には春信に酷似するもの多かりしが、安永二、三年以後に至りその筆勢は次第に強硬となり、布局は整頓《せいとん》し、一体の画風春信に比すれば著しく綿密となれり。これ安永年代一般の画風にして、やがて春章《しゅんしょう》清長《きよなが》政演《まさのぶ》ら天明の諸家を経て後《のち》、浮世絵は遂《つい》に寛政時代の繊巧|緻密《ちみつ》の極点に到達せるなり。  今寛政の画風を代表せる栄之《えいし》歌麿《うたまろ》豊国《とよくに》らと明和年代を代表せる春信の板画とを把《と》りてこれを比較すれば、江戸文明の傾向につきてその時代精神の変転せる跡を窺ふに難《かた》からざるなり。元禄において江戸演劇を創生し享保|元文《げんぶん》年代に至つて河東節《かとうぶし》を出《いだ》したる都会特殊の芸術的感情は、宝暦明和の円熟期を限界となし安永天明を過ぎて寛政に及ぶや、ここに全く異《ことな》れる新傾向を生じたるなり。浮世絵と並びて之を演劇、音曲《おんぎょく》、文学に徴するもその痕《あと》また歴然たるものあり。  鈴木春信の可憐幽婉なる恋愛的画題は単純にして余情ある『松の葉』の章句あるひは「薗八《そのはち》」の曲節を連想せしむるものならずや。湖龍斎が全盛期の豊艶なる美人と下《くだ》つて清長の肉付よき実感的なる美人の浴後裸体図等に至つては漫《そぞろ》に富本《とみもと》の曲調を忍ばしむる処あり。更に下つて歌麿豊国に至るやその正確にして切迫せる写生の気味は最早《もは》や何らの音楽的幻想をも許さず、ひたすら写像の明媚《めいび》に対する造形的快感を覚えしむるのみ。歌麿が晩年(文化の頃)における「道行《みちゆき》」の諸板画と春信の作とを比較する時、吾人はまづ異《ことな》れるこの二種の芸術を鑑賞せんには全然|別様《べつよう》の態度を取らざるべからざる事に心付くべし。歌麿全盛の寛政年代はこれを文学について見る時は、諷刺《ふうし》滑稽《こっけい》の黄表紙《きびょうし》はその本領たる機智《きち》の妙を捨てて漸《ようや》く敵討《かたきうち》小説に移らんとし、蒟蒻本《こんにゃくぼん》の軽妙なる写実的小品は漸く順序立ちたる人情本に変ぜんとするの時なり。正確なる写生によつて浮世絵より音楽的情調を奪ひ去りしものは歌麿なり。しかしてまた浮世絵をして整然たる完全の絵画たらしめ、古今の日本画中最も現実の生活に接近せる生きたる美術たらしめしものもこれまた歌麿なり。歌麿の「道行」は彼が生涯の諸作を通じて決して上乗《じょうじょう》の者にあらざれども、詩歌的男女の恋愛に配するに醜き馬子《まご》あるひは老爺《ろうや》の如き人物を以てし、従来の浮世絵が取扱ひ来りし美麗なる画題中に極めて突飛《とっぴ》なる醜悪の異分子を挿入《そうにゅう》したる一事《いちじ》は甚《はなはだ》注意すべき事とす。歌麿と相並んで豊国もまた『絵本|時世粧《いまようすがた》』において見る如く、皺《しわ》だらけの老婆が髪を島田に結ひ顔には処々《ところどころ》に膏薬《こうやく》張り蓆《むしろ》を抱《かか》へて三々伍々《さんさんごご》相携へて橋辺《きょうへん》を歩む夜鷹《よたか》を写生したる画家なり。此《かく》の如く文化年代の浮世絵に至つて頗《すこぶ》る顕著となりし極端なる写実の傾向は、爛熟し尽せる江戸文明の漸く廃頽期《はいたいき》に向はんとする前兆を示すものならずや。北斎、国貞《くにさだ》、国芳《くによし》らの画家に至つてはそれらの画題は忽《たちま》ち平凡となり最初春章の門人|春英《しゅんえい》の作中に見たる幽霊の図の如きも文政《ぶんせい》天保《てんぽう》度《ど》の画家にあつては実に残虐を極むる血塗《ちまぶ》れの半死人にあらざれば満足せられざるに至れり。国貞と春信とを一堂の下《もと》に集むれば誰《たれ》か時勢の推移に驚かざらんや。 [#7字下げ]三[#「三」は中見出し]  鈴木春信は可憐なる年少の男女相思の図と合せて、また単に婦人が坐臥《ざが》平常の姿態を描き巧《たくみ》に室内の光景と花卉《かき》とを配合せり。彼が描く処の室内の光景及び庭上階下窓外の草木《そうもく》は人物と同じく極めて単純にしてまた極めて写生に遠ざかりたるものなり。浮世絵における和蘭画《オランダが》幾何学的遠近法の応用は既に正徳《しょうとく》享保頃に流行せし劇場内部の光景または娼楼《しょうろう》大広間見通しの図等においてこれを見たりしといへども、後年《こうねん》鳥居清長らの描きし天明寛政頃の背景に比較すれば甚《はなはだ》粗放なるものなりき。明和年代の春信においてこれを見るも寛政画家の試みたるが如き正確なる遠近法はいまだ完成せられざりしなり。春信ら明和時代の画家の描ける縁側、障子、欄間《らんま》、天井等の角度は、著しく平坦《へいたん》にして、窓、垣、池などに咲く花は人物家屋に比してその権衡《けんこう》を失したれば、桜花は常に牡丹《ぼたん》の如く大きく、河骨《こうほね》の葉はさながら熱帯産の芭蕉《ばしょう》の如し。されどこれらの稚気と未完成とは直《ただち》に以て春信独特の技倆《ぎりょう》となさざるべからず。これらの欠陥よりして春信のあらゆる特徴は発揮せられつつあるなり。  余の貧しき詞藻《しそう》は幽婉典雅等、既に使ひ馴《な》れたる文字《もんじ》の外《ほか》、春信が美女を形容する事能はず。されどもし同好の士にして各自おもむろに、『絵本|春《はる》の錦《にしき》』、『絵本|青楼美人合《せいろうびじんあわせ》』等について眺むるところあらば、春信が女はいづれも名残《なごり》惜しき昼の夢より覚《さ》めしが如き目容《まなざし》して或《ある》ものは脛《はぎ》あらはに裾《すそ》敷き乱しつつ悄然《しょうぜん》として障子に依《よ》りて雨|斜《ななめ》に降る池の水草《みずくさ》を眺めたる、あるひは炬燵《こたつ》にうづくまりて絵本読みふけりたる、あるひは帯しどけなき襦袢《じゅばん》の襟《えり》を開きて円《まろ》き乳房《ちぶさ》を見せたる肌《はだえ》に伽羅《きゃら》焚《た》きしめたる、いづれも唯《ただ》美し艶《なまめか》しといはんよりはあたかも入相《いりあい》の鐘に賤心《しずこころ》なく散る花を見る如き一味《いちみ》の淡き哀愁を感ずべし。余は春信の女において『古今集』の恋歌《こいか》に味《あじわ》ふ如き単純なる美に対する煙の如き哀愁を感じて止《や》まざるなり。人形の如き生気なきその形骸《けいがい》と、纏《まと》へる衣服のつかれたる線と、造花の如く堅く動かざる植物との装飾画的配合は、今日《こんにち》の審美論を以てしては果していくばくの価値あるや否や。これ余の多く知る処にあらざる也《なり》。余は唯|此《かく》の如き配合、此の如き布局よりして、実に他国の美術の有せざる日本的音楽を聴《き》き得ることを喜ぶなり。この音楽は決して何らの神秘をも哲理をも暗示するものにあらず。唯|吾人《ごじん》が日常|秋雨《あきさめ》の夜に聞く虫の音《ね》、木枯《こがらし》の夕《ゆうべ》に聞く落葉《おちば》の声、または女の裾の絹摺《きぬず》れする響《ひびき》等によりて、時に触れ物に応じて唯何がなしに物の哀れを覚えしむる単調なるメロデーに過ぎず。浮世絵はその描ける美女の姿態とその褪《さ》めたる色彩とによりて、いづれも能《よ》くこの果敢《はか》なきメロデーを奏するが中《なか》に、余は殊《こと》に鈴木春信の板画によりて最もよくこれを聴き得べしと信ずるなり。 [#7字下げ]四[#「四」は中見出し]  以上は春信の作品に対する散漫なる余の感想を記《しる》したるに過ぎず。もし浮世絵の画工として十分に春信の価値を知らんとせば少しく浮世絵板画発達の跡を尋ねざるべからず。  浮世絵の板画が肉筆の画幅に見ると同じき数多《すうた》の色彩を自由に摺出《すりいだ》し得るまでには幾多の階梯《かいてい》を経たりしなり。浮世絵木板摺の技術は大津絵《おおつえ》の板刻に始まり、菱川師宣《ひしかわもろのぶ》の板画|及《および》書籍|挿画《さしえ》に因りて漸次に熟練し、鳥居派初期の役者絵|出《いづ》るに及びて益〻《ますます》民間の需要に応じ江戸演劇と相並《あいならび》て進歩発達せるなり。然れども当時の板画は悉《ことごと》く単色の墨摺《すみずり》にして黒色《こくしょく》と白色《はくしょく》との対照を主とし、これに丹《たん》及び黄色《おうしょく》褐色《かっしょく》等を添付したれども、こは墨摺の後《あと》に筆を以て補色したるものなるが故に、いまだ純然たる色摺板物《いろずりはんもの》の名称を下《くだ》し得べきものにては非《あら》ざりき。此《かく》の如き手摺《てずり》の法は進んで享保に至り漆絵《うるしえ》と呼びて黒色の上に強き礬水《どうさ》を引きて光沢を出し更に金泥《きんでい》を塗りて華美を添ふるに至りしが、やがて寛保二、三年(西暦一七四二年あるひは三年)奥村政信の門人|西村重長《にしむらしげなが》、一枚の板木《はんぎ》にて緑色《りょくしょく》及び紅色《こうしょく》二度摺の法を案出するや、浮世絵はここに始めて真正なる彩色板刻の技術に到達するを得たりしなり。この二色摺は即ち紅絵《べにえ》と称するものにしてその発明当初においては極めて小形の板画のみに応用せられたり。されば大判《おおばん》のものには従来の丹絵《たんえ》及び漆絵《うるしえ》依然として行はれたりしが漸次一般の浮世絵師の採用する処となり、その発明者西村重長と相並んで当時の名手と称せられし石川豊信鳥居清満らの制作専らこの二色摺となるに及び、正徳享保の原始的なる手彩色《てさいしき》の板画は漸次廃滅するに至りき。(紅絵の起原は享保の始め頃和泉屋権四郎なるものこれを作り始めたりとなせども、西人最近の研究はこれを否定し、当時の紅絵と称するものは純然たる彩色板刻ならずしてやはり手彩色の板物ならんと推断せり、しかして純然たる二色摺の出たるは、米人フェノロサが多年の研究によりて寛保二、三年なるに疑ひなきことを得たるが如し。また従来日本の書物には多く紅絵と漆絵とを同一視すれども、これまた西人の研究により、紅絵中には漆を施すものと施さざるものあるが故にこれを区別し、紅絵を二色または三色摺板画と呼び、漆絵は丹絵と共に手彩色墨摺板画の部に入れたり。)  此《かく》の如く二色摺板画は寛保三、四年に始まりしが数年ならずして、宝暦元年頃(一七五一、二年)に至るやいつともなく緑紅の中《うち》より緑色の分解によりて黄色を作り、また紅色《こうしょく》の上に藍色《あいいろ》(青)を摺りて紫を得、以て三色摺となしぬ。こは最初|何人《なんぴと》の企てたる処なるや判然せざれども、宝暦元年頃における鳥居清満の制作板画において、殊にその用法の顕著にして巧妙なるを以て、最近欧米の研究者は一般に清満を以て二色摺を三色に進歩せしめたる功労者となせり。紅緑二色の間に藍色(青)を点じて、色彩の調和を破る事なく、巧《たくみ》にその画面を複雑ならしむるは清満が板画の特徴なり。清満は最初灰色がかりし濁りたる藍色を用ゐて調和を保たしめ、また全体に褐色の助けを借りて紅《あか》と緑を暗くし、その藍色を暗然たる橄欖色《かんらんしょく》となすなど、常に藍色の応用に苦心したりしかど、かへつて純粋なる藍色をそのままに施す事は、後進者たる春信出でてこれを敢てせしより、清満もまたその例に傚《なら》はざるを得ざりき。  寛保末年より宝暦末年に至るまで凡《およ》そ二十年間、浮世絵師の色彩に対する観念の時々刻々発達するに従ひ、彩色板刻に対する経験も円熟し来れり。今や正に一大進歩を促さずんばあらず。二色摺紅絵の発明者と称せらるる西村重長の門人鈴木春信は石川豊信鳥居清満と相伍《あいご》して多年三色摺の経験を積みしが、明和二年に至り、板木師《はんぎし》金六《きんろく》なる者をして遂に見当摺《けんとうずり》と称して、各色《かくしょく》に従ひ板木を別々にするの法を取らしめたり。従来二色摺(紅絵)三色摺と称せしは皆一枚の板木のみにより(清満の三色摺中には紅絵の板木の外になほ他の色板を用ゐたるものあり)色の上に色を重ねて、他の色を摺出《すりいだ》せしものなるが、この度《たび》各色ごとに板木を異にするに及びて、自由にいかなる多数の色をも摺出す事を得るに至りぬ。浮世絵は最早《もはや》吹きぼかし[#「吹きぼかし」に傍点]と雲母摺《きらずり》の二術を後世の画工に托《たく》せしのみにして、その佳美なる制作品は世人をして汎《あまね》く吾妻錦絵と呼ばしむるに至れるなり。  春信はわが工芸史上、彩色板刻術の完成者たる名誉を担《にな》ふと共に、また浮世絵画面の大きさを決定したる功績を有す。菱川奥村及び鳥居派の墨摺絵また丹絵には頗《すこぶ》る大形《おおがた》の紙を用ゐたる大判のものありしが、二色摺(紅絵)に至りて浮世絵板画は漸《ようや》く二種の定まりたる形式を取りぬ。一ツは小形の竪絵《たてえ》にして、一ツは極めて細長き柱絵《はしらえ》(柱かくし絵また長絵)なり。春信は紅絵より転じて錦絵を制作するに当り、紅絵の取り来りし小形の竪絵を改めて方形となしぬ。これ人物と背景との布局を整頓せしめ、以て純然たる一幅の画《が》をなさしむるに便なるがためなり。彼は紅絵に見るが如く空間を白紙《はくし》のままに残す事を許さず、壁、天、地等にそれぞれ淡く軟《やわら》かき色を施し以て画面に一種の情調を帯ばしめたり。これ浮世絵の人物板画がその背景の色調に注意し初めし最初の現象にして、彼は明和二年錦絵発明の後《のち》、板刻の技術の漸く進歩するに従ひ次第に背景を綿密ならしめ、河流、庭園、海浜等の風景を描き出《いだ》しぬ。これらの山水画的|後景《こうけい》は清長歌麿に及びて益〻進歩し、遂に北斎広重に至つて純然たる山水画をなせり。  次に記述すべきは柱絵のこととす。柱絵と称する極めて狭長なる板画の様式はフェノロサの研究によれば既に延享《えんきょう》二年頃鳥居清重の作にその実例を見るといへども実際柱にかけ用ゐしは後年の事なりといふ。この様式は方形なる平たき板画と異りたれば画工は自《おのずか》ら別種の意匠をなさざるべからず。今柱絵の人物を描かんとするに当り、もしその全身を現はさんには、人物を小さくせざるべからず。然《しか》れば甚《はなはだ》しく上下の空虚を生ずべし。ここにおいて、この特別なる様式の中に適応すべき特殊の布局を案出せんとする画工が苦心の跡を尋ぬるは最も興味ある事なり。鈴木春信は明和年代において柱絵を流行せしめたる画家なり。彼は立ちたる遊女の姿の半面を描き細長き紙面をして、すらりとしたる女の風姿を現はすに最も適当なる形式たらしめぬ。あるひは反《そ》り返るほど後《うしろ》に振向きたる若衆の顔を描き、半分しか見えざる仇《あだ》な身体付《からだつき》によりて巧《たくみ》に余情を紙外に溢《あふ》れしめたり。梯子段《はしごだん》を描きて上《のぼ》りまた下《お》りんとする婦女の裾より美しき脛《はぎ》を窺《うかが》はしむるは、最も柱絵に適当すべき艶麗なる画題なるべし。細長き画面の上部を二階となし階段によりて男女の相逢《あいあ》ふさまも悪《あ》しからず。柱絵は春信の後継者たる湖龍斎に至りますます複雑多様となり、またますます妖艶|淫卑《いんぴ》の画題を選みき。  春信が板画の彩色はその幽婉なる画題と同じく、あたかも薄暮の花を眺むるが如し。彼は自在に多数の反対色を用ふれども巧みにこれを中和すべき間色《かんしょく》の媒介を忘れざるが故に、その画面は一見甚だ清楚《せいそ》にして乱雑ならず、常に軽く軟かき感情を与ふ。ジイドリッツ曰《いわ》く、春信の用ゆる色は皆曇りたる色なり。彼は色彩の効果をばその対照に求めずして、むしろ影の調和と間色の用法とによりてこれを得ん事を勉《つと》めぬ。ペルヂンスキイもまた春信の色彩を以て曇りたる色となし、時としてあるひは平坦に過ぐるの嫌《きらい》あれども、鮮明にして清楚なる感覚を与ふる力あり。かかる色彩は畢竟《ひっきょう》幽雅なる趣味性より発するものにして、吾人は一度《ひとたび》排列的なる色彩の絢爛《けんらん》に倦《う》むや、此《かく》の如き可憐にして高雅にまた親密なる芸術に立返らん事を欲して止《や》まずと論じぬ。  余はフェノロサが試みたる最も専門的なる研究を略述してこの画家の評論を終るべし。春信が明和二年始めて多数の板木を用ゐて錦絵を案出したりし当時の制作は最も上乗《じょうじょう》のものにして、仏国《ふつこく》の浮世絵|蒐集家《しゅうしゅうか》中には特に明和二年板の春信のみを集むるものありといふ。翌明和三年の制作を見るに背景は漸く複雑となり、四年には重厚なる褐色(代赭《たいしゃ》)を用ゆる事その板画の特徴となりぬ。しかしてこの年の人物(婦女)はその鬢《びん》漸く高く膨《ふくら》みたる事を認む。五年に至りその画風はますます繊細となり再び純粋の紅色《こうしょく》を用ゆると共にまた軟き緑色《りょくしょく》を施すを常とせり。婦女の髪は頂において幅広く眼は一直線をなして直径の如くに中央を横切りたり。六年の制作において人物は益〻細長く、顔もまた長くなりて、その鼻は権衡を失するまで大きくせられたり。七、八年には鼻のみならず、人物の頭部をも長大ならしめしが、こは独《ひと》り春信のみならず、この年頃における春信風の画家一般の傾向にして、正《まさ》しく時代風俗の変遷に基くものなるべし。しかしてこの年頃の春信が板画にはかの雪中相合傘の図の如くしばしば黒色と白色とを対照せしめて重《おも》なる色彩となせるを見る。此《かく》の如くフェノロサの研究は各時代の画家の制作全部を蒐集してその色彩及び筆勢を比較し、人物の風俗及び形状の微細なる差違等によりて、元より制作の年号を記する事|甚《はなは》だ稀なる浮世絵に向つて、悉《ことごと》くその年次を穿鑿《せんさく》し出しぬ。彼はこの方法によりて、春信が最終の制作を以て確乎《かっこ》として安永元年また二年なりと断言せり。これは元より相応の論拠あるべしといへども、春信の歿年は明和七年七月十七日なること、その同時代の人|蜀山人《しょくさんじん》の記録中(『半日閑話』)にも見ゆれば、やや穿鑿に過ぎてかへつて誤謬《ごびゅう》を生じたるの感なくんばあらず。暫《しば》らく記《き》して後考《こうこう》を俟《ま》つ。  春信の絵本にして世に伝ふるもの凡そ左の如し。 [#ここから2字下げ] 絵本古錦襴    三冊  宝暦十二年江戸山崎金兵衛板 絵本諸芸錦    三冊  宝暦十三年江戸山崎金兵衛板 絵本花かづら   三冊  明和元年江戸山崎金兵衛板 絵本さざれ石   三冊  明和三年江戸山崎金兵衛板 絵本千代の松   三冊  明和四年江戸山崎金兵衛板 絵本童のまと   三冊  明和四年江戸美濃屋平七板 絵本八千代草   三冊  明和五年江戸山崎金兵衛板 絵本操草     一冊  明和八年板(春信歿後の板也) 絵本続江戸土産  二冊  安永九年京都菊屋安兵衛板 絵本春の錦    二冊  明和八年江戸山崎金兵衛板(色摺及墨摺の二種あり) 絵本青楼美人合  三冊  明和七年板(色摺及墨摺両種あり) [#ここで字下げ終わり] [#改丁] [#2字下げ]浮世絵の山水画と江戸名所[#「浮世絵の山水画と江戸名所」は大見出し] [#7字下げ]一[#「一」は中見出し]  浮世絵はその名の示すが如く児女《じじょ》の風俗俳優の容姿を描くを以《もっ》て本領とす。然《しか》れども時代の好尚《こうしょう》と画工が技能の円熟とによりてやがて好個の山水風景画を制作するに至れり。  由来浮世絵と西洋画とは共に写生を主とする点において相似たる所あり。西洋画の山水は人物画の背景より漸次分離独立せしものにしてその始《はじめ》は和蘭陀《オランダ》十七世紀の絵画に起り十八世紀を経《へ》十九世紀|仏蘭西《フランス》ロマンチズムの時代に及びて完成せり。山水画は即《すなわ》ち人物画発達の後《のち》に起りしものなり。今これをわが浮世絵について見るもまたその揆《き》を一にす。浮世絵風俗画は鈴木春信《すずきはるのぶ》勝川春章《かつかわしゅんしょう》鳥居清長《とりいきよなが》より歌麿《うたまろ》春潮《しゅんちょう》栄之《えいし》豊国《とよくに》の如き寛政《かんせい》の諸名家に及び円熟の極度に達せし時、ここに葛飾北斎《かつしかほくさい》一立斎広重《いちりゅうさいひろしげ》の二大家現はれ独立せる山水画を完成し江戸平民絵画史に掉尾《とうび》の偉観を添へたり。  余はここに北斎広重二家の山水を論ずるに当り、先《まず》浮世絵山水画発達の経路を尋ねてその一を奥村政信《おくむらまさのぶ》以来広く行はれたる浮絵《うきえ》遠景図に帰し、その二を以て天明《てんめい》年間江戸に勃興《ぼっこう》せし狂歌の影響なりとなさんと欲す。浮世絵は鈴木春信以後勝川春章|磯田湖龍斎《いそだこりゅうさい》らの画工によりて年々その布局と色彩とを複雑ならしめしが、天明に入《い》るや風俗画の背景既に純然たる一幅の好山水《こうさんすい》をなせるものあるに至れり。鳥居清長が三枚続児女江之島詣《さんまいつづきじじょえのしまもうで》の図の背景の如きまた喜多川《きたがわ》歌麿が隅田川渡船《すみだがわわたしぶね》の如き即ちこれなり。時代の気運は漸《ようや》く風俗画の外《ほか》に独立せる山水を要求するに至れるなり。ここに元文《げんぶん》享保《きょうほう》の頃より浮絵と称《とな》へ来りし一種の遠景図あり。娼楼《しょうろう》劇場の内外《ないがい》または忠臣蔵|曾我十番切《そがじゅうばんぎり》並《ならび》に諸国の名所神社仏閣の図等を描きたるものにして、寛保《かんぽう》延享《えんきょう》の頃の漆絵《うるしえ》紅絵《べにえ》には早くも西洋風の遠近法を用ひて巧《たくみ》に遠見《とおみ》の景色と人物群集の状《じょう》とを描き出《いだ》せり。奥村政信鳥居|清満《きよみつ》ら皆人物画の制作以外に、かかる浮絵の板下《はんした》を描きたりしが、安永《あんえい》年代に至りて歌川豊春《うたがわとよはる》専《もっぱ》ら遠景名所の図を描き出せしより大《おおい》に流行を極め、寛政に及ぶや早くも粗製濫出の傾きを生ぜり。今安永時代の最も精巧なる浮絵を見るにその色彩はかつて湖龍斎の好んで用ひたる褐色《かっしょく》を主とし、これに黄《きば》みたる紅色と緑色とを配合したる処|甚《はなはだ》調和を得たり。しかしてその布局は和蘭陀|銅板画《どうばんが》を模倣したる稚《おさな》き技巧のためにかへつて一種愛すべき風趣を帯びたり。安永年代の浮絵は元より和蘭陀銅板画の模倣なるが故に江戸名所の風景と共にまた西洋風の寺院市街|溝渠《こうきょ》の景をも描きたり。歌川豊春|北尾重政《きたおしげまさ》二家につぎて天明年代には葛飾北斎もまた勝春朗《かつしゅんろう》の名にて浅草金龍山《あさくさきんりゅうざん》、芝愛宕山《しばあたごやま》、亀井戸天神《かめいどてんじん》、吉原大門口《よしわらおおもんぐち》等の浮絵を描きたる事|尠《すくな》からず。浮絵は後年《こうねん》北斎広重によりて完成せられたる浮世絵風景画の前提と見るべきものなり。天明の初め四方赤良《よものあから》、唐衣橘洲《からころもきっしゅう》、朱楽菅江《あけらかんこう》らの才人江戸に狂歌を復興せしむ。狂歌の流行はここに摺物《すりもの》と称する佳麗なる板物《はんもの》並に狂歌集絵本類の板刻《はんこく》を盛んならしむるに及びて、浮世絵の山水画はために長足の進歩をなし得たり。江戸名所を描ける絵本を尋ぬるに、遠くは菱川師宣《ひしかわもろのぶ》の『狂歌|旅枕《たびまくら》』、近くは宝暦《ほうれき》初年|西村重長《にしむらしげなが》の『江戸土産《えどみやげ》』及び明和《めいわ》に入りて鈴木春信が『続江戸土産』の梓行《しこう》あるに過ぎざりしが、天明年代に至るや北尾政美《きたおまさよし》が『江戸名所鑑《えどめいしょかがみ》』(三巻)鳥居清長の『物見《ものみ》ヶ|岡《おか》』(二巻)喜多川歌麿の『江戸爵《えどすずめ》』(三巻)北尾重政の『吾妻袂《あずまからげ》』(三巻)の類《るい》続々として出板せられたり。しかしてこれらの絵本はいづれも当時著名の狂歌師の吟咏《ぎんえい》を画賛となせり。狂歌集『狂月望《きょうげつぼう》』及『銀世界《ぎんせかい》』に挿《はさ》みたる歌麿の山水は今日《こんにち》欧洲人の称賛して措《お》かざる逸品なり。此《かく》の如く江戸名所を課題とせる狂歌の流行は江戸名所の風景に対する都人士《とじんし》の愛好心を増進せしむると共に、自《おのずか》らまた画工の風景に対する観察を鋭敏ならしめその布局を純化せしむるに多大の効果ありしや明かなり。狂歌は絵本と摺物においてよく浮世絵の山水画を完成せしめたるのみならず、また浮世絵の花鳥画においても見るべきものを出《いだ》さしめたり。歌麿の絵本『百千鳥《ももちどり》』並に『虫撰《むしえらみ》』の如き即ち然り。吾人《ごじん》は元禄《げんろく》時代の美術を鑑賞するに当り一蝶《いっちょう》及び宗珉《そうみん》らの制作に関して俳諧の感化を拒みがたしとなさば、天明寛政の平民美術についてはその勢力隠然狂歌にありしといふことを得べし。 [#7字下げ]二[#「二」は中見出し]  葛飾北斎は狂歌全盛の時代に出で、浮絵の名所絵に写生の技を熟練せしめたる後《のち》、寛政八年頃より司馬江漢《しばこうかん》につきて西洋|油画《あぶらえ》の画風を研究し、これに自家特有の技術を加へて北斎一流の山水をつくり出《いだ》せり。その一枚摺|錦絵《にしきえ》は富嶽三十六景《ふがくさんじゅうろっけい》、諸国滝巡《しょこくたきめぐ》り、諸国名橋奇覧《しょこくめいきょうきらん》、琉球八景《りゅうきゅうはっけい》等にして絵本には『江都勝景一覧《こうとしょうけいいちらん》』(寛政十一年板)『東都遊《あずまあそび》』(享和二年板)『山復山《やままたやま》』(文化元年板)『隅田川両岸一覧《すみだがわりょうがんいちらん》』(文化三年板)等あり。錦絵の山水については余《よ》別に葛飾北斎論の中《うち》に言ふ処多ければここには専ら絵本につきて語らんとす。北斎の名所絵本はいづれも狂歌の賛をなしたるものにして後年の傑作たる富嶽三十六景及び諸国滝巡り等に比すればいまだ全く独特の技倆《ぎりょう》を発揮したるものとはいひがたし。例《たと》へば『勝景一覧』の如きを見るに、夕焼の雲と霞《かすみ》とを用ひて遠景を遮断《しゃだん》せしめし所は古代の大和絵巻《やまとえまき》を見るが如く、また人物の甚しく長身なるは歌麿の感化を脱せざるの憾《うら》みあり。されどこれらの絵本の中《うち》その最も優《すぐ》れたる『隅田川両岸一覧』を見れば、北斎が夙《つと》に写生の技《ぎ》に長じたりし事|並《ならび》にその戯作者《げさくしゃ》的観察の甚《はなはだ》鋭敏なりし事とを窺《うかが》ひ得べし。それと共にこの時代の北斎にはかへつて後年大成の期《ご》に及んでしばしば吾人に不満足を与ふる支那画《しなが》の感化いまだ甚しく顕著とならざる事を喜ばずんばあらず。富嶽三十六景と諸国滝巡りとはその設色の布局と相俟《あいま》つて北斎をして不朽ならしむる傑作品なれども、その船舶その人物樹木家屋|瓦《かわら》等に何となく支那らしき趣《おもむき》を覚えしむ。例へば東都駿河台《とうとするがだい》の図、佃島《つくだじま》の図、あるひは武州多摩川《ぶしゅうたまがわ》の図の如き、一見|先《ま》づ日本らしからぬ思ひあり。これに反して『隅田川両岸一覧』はその筆力いまだ全く自在ならざる処あれども、文化初年の江戸に対する忠実なる写生は能《よ》く吾人をしてその希望するが如き都会的情調に触れしむ。 『隅田川両岸一覧』は三巻より成る。その画面は絵巻物を繰りひろぐるが如く上巻より下巻まで連続して春夏秋冬の四時《しじ》に渉《わた》る隅田川両岸の風光を一覧せしむ。開巻第一に現れ来《きた》る光景は高輪《たかなわ》の夜明《よあけ》なり。淋《さび》し気《げ》に馬上の身を旅合羽《たびがっぱ》にくるませたる旅人《たびびと》の後《あと》よりは、同じやうなる笠《かさ》冠《かむ》りし数人の旅人相前後しつつ茶汲女《ちゃくみおんな》の彳《たたず》みたる水茶屋《みずちゃや》の前を歩み行けり。水茶屋の葭簀《よしず》は幾軒となく見渡すかぎり半円形をなしたる海岸に連《つらな》り、その沖合《おきあい》遥《はるか》なる波の上には正月の松飾りしたる親船、巍然《ぎぜん》として晴れたる空の富士と共にその檣《ほばしら》を聳《そびや》かしたり。第二図は頭巾《ずきん》冠《かぶ》りし裃《かみしも》の侍《さむらい》、町人、棟梁《とうりょう》、子供つれし女房、振袖《ふりそで》の娘、物《もの》担《にな》ふ下男など渡舟《わたしぶね》に乗合《のりあい》たるを、船頭|二人《ふたり》大きなる煙草入《たばこいれ》をぶらさげ舳《へさき》と艫《とも》に立ち棹《さお》さしゐる佃の渡しなり。第三図は童児二人|紙鳶《たこ》を上げつつ走り行く狭き橋の上より、船の檣《ほばしら》茅葺《かやぶき》屋根の間に見ゆる佃島の眺望にして、彼方《かなた》に横《よこた》はる永代橋《えいたいばし》には人通《ひとどおり》賑《にぎや》かに、三股《みつまた》の岸近くには(第四図)白魚船《しらうおぶね》四《よ》ツ手《で》網《あみ》をひろげたり。桜の花さく河岸《かし》の眺め(第五図)は直ちに新緑|滴《したた》る元柳橋《もとやなぎばし》の夏景色(第六図)と変じ、ここに包《つつみ》を背負ひし男一人橋の欄干に腰かけ扇を使ふ時、青地《あおじ》の日傘《ひがさ》携へし女芸者二人話しながら歩み行けり。その傍《かたわら》に尻端折《しりぱしょり》の男一人片手を上げて網船賑ふ河面《かわづら》の方《かた》を指さしたるは、静に曇りし初夏の空に時鳥《ほととぎす》の一声|鳴過《なきす》ぎたるにはあらざるか。時節はいよいよ夏の盛《さかり》となれり。中巻第一図と第二図とは本所御船蔵《ほんじょおふなぐら》を望む両国広小路《りょうごくひろこうじ》の雑沓《ざっとう》なり。日傘|菅笠《すげがさ》相重《あいかさな》りて葭簀《よしず》を張りし見世物小屋《みせものごや》の間に動きどよめきたり。さて両国橋納涼の群集と屋形船《やかたぶね》屋根船の往来《ゆきき》(中巻第三図)を見て過《すぐ》れば、第四図は新柳橋に夕立降りそそぎて、艶《なまめか》しき女三人袖吹き払ふ雨風に傘をつぼめ跣足《はだし》の裾《すそ》を乱して小走《こばし》りに急げば、それと行違ひに薄べりと浴衣《ゆかた》を冠りし真裸体《まはだか》の男二人雨をついて走る。首尾の松の釣船《つりぶね》涼しく椎木屋敷《しいのきやしき》の夕蝉《ゆうせみ》(中巻第五図)に秋は早くも立初《たちそ》め、榧寺《かやでら》の高燈籠《たかとうろう》を望む御馬屋河岸《おんまやがし》の渡船《とせん》(中巻第六図)には托鉢《たくはつ》の僧二人を真中《まんなか》にして桃太郎のやうなる着物着たる猿廻《さるまわ》し、御幣《ごへい》を肩にしたる老婆、風呂敷包《ふろしきづつみ》背負ひたる女房、物売りの男なぞ乗合ひたり。駒形堂《こまかたどう》の白壁に日脚《ひあし》は傾き、多田薬師《ただのやくし》の行雁《ゆくかり》(中巻第七図)に夕暮迫れば、第八図は大川橋の橋袂《はしたもと》にて、竹藪《たけやぶ》茂る小梅の里を望む橋上《きょうじょう》には行人《こうじん》絡繹《らくえき》たり。岸の上なる水茶屋には赤き塗盆《ぬりぼん》手にして佇立《たたず》む茶汲《ちゃくみ》の娘もろとも、床几《しょうぎ》に憩《いこ》ふ人々面白げに大道《だいどう》芸人が子供集めて長き竹竿《たけざお》の先に盥《たらい》廻しゐるさまを打眺めたり。中《ちゅう》の巻ここに尽く。  下巻は浅草観音堂の屋根に群鴉《ぐんあ》落葉《らくよう》の如く飛ぶ様を描き、何となく晩秋暮鐘の寂《さび》しきを思はせたるは画工が用意の周到なる処ならずや。第二図|三囲《みめぐり》の堤を見れば時雨《しぐれ》を催す空合《そらあい》に行く人の影|稀《まれ》に、待乳山《まつちやま》(下巻第三図)には寺男一人|落葉《おちば》を掃く処、鳥居際《とりいぎわ》なる一樹の紅葉《こうよう》に風雅の客|二人《ににん》、小紋の羽織にふところ手《で》して逍遥《しょうよう》するを見るのみ。冬枯の河原はますます淋しく、白鷺一羽水上に舞ふ処《ところ》流れを隔てて白髯の老松《ろうしょう》を眺むるは今戸《いまど》の岸にやあらん(下巻第四図)。ここに船頭|二人《ににん》瓦《かわら》を船に運べるあり。やがて橋場の渡《わたし》に至るに、渡小屋《わたしごや》の前(下巻第五図)には寮《りょう》にでも行くらしき町風《まちふう》の女づれ、農具を肩に煙管《きせる》銜《くわ》へたる農夫と茅葺屋根の軒下に行きちがひたり。遥なる木母寺《もくぼじ》の鉦鼓《しょうこ》に日は暮れ、真崎稲荷《まっさきいなり》の赤き祠《ほこら》に降る雪の美し(下巻第六図)と見る間《ま》もなく、神明《しんめい》の社《やしろ》に来《きた》れば(下巻第七図)烏帽子《えぼし》の神主三人早くも紅梅の咲匂《さきにお》へる鳥居に梯子《はしご》をかけ注連飾《しめかざり》にいそがはし。かくて年は暮れたり。画工は正月の松飾《まつかざり》整ひたる吉原の廓《くるわ》に看客《かんかく》を導き、一夜明くれば初春迎ふる色里の賑《にぎわい》を見せて、ここにこの絵本を完了す。  北斎の精密なる写生は挿入《そうにゅう》せしその狂歌と相俟つて、見るものをしておのづからその時代の雰囲気中《ふんいきちゅう》にあるの思《おもい》をなさしむ。当時の芸術はその時代とその風景のみならず総《すべ》ての事物に対して称賛と感謝の情とを以て感興の最大源泉となし、江戸と称する都会のいかに繁華にその生活のいかに面白くいかに楽しきかを描き示さんと勉《つと》めたり。一立斎広重の山水画もまたこの意義において多く江戸の市街と郊外の風光を描き出《いだ》しぬ。 [#7字下げ]三[#「三」は中見出し]  広重の山水中江戸の風景を描きしものを挙《あ》ぐるに、名所江戸百景、江戸近郊八景、東都名所、江都勝景《こうとしょうけい》、江戸高名会亭尽《えどこうめいかいていづくし》、名所江戸坂尽《めいしょえどさかづくし》なぞ題されたる一枚摺錦絵あり。また『江戸土産《えどみやげ》』(十巻)『狂歌江戸名所図絵《きょうかえどめいしょずえ》』(十六巻)等の絵本あり。  一立斎広重は北斎と相並んで西欧の鑑賞家より日本画家中恐らくは空前絶後の二大山水画家なるべしと称せらる。この両大家はいづれも西洋画遠近法と浮世絵在来の写生を基《もとい》として幾度《いくたび》か同様の地点を描きたり。然れどもその画風の相同じからざるは一見して瞭然《りょうぜん》たるものあり。北斎は従来の浮世絵に南画《なんが》の画風と西洋画とを加味したる処多かりしが、広重は専《もっぱら》狩野《かのう》の支派たる一蝶の筆致に倣《なら》ひたるが如し。北斎の画風は強く硬《かた》く広重は軟《やわら》かく静《しずか》なり。写生の点において広重の技巧はしばしば北斎より更に綿密なるにかかはらず一見して常に北斎の草画《そうが》よりも更に清楚《せいそ》軽快の思《おもい》あらしむ。これを文学に譬《たと》へんか北斎は美麗なる漢字の形容詞を多く用ひたる紀行文の如く、広重はこまごまとまたなだらかに書流《かきなが》したる戯作者《げさくしゃ》の文章の如し。されば吾人は既に述べしが如く北斎がその円熟期における傑作品の往々《おうおう》にして日本らしからぬ思をなさしむるに反し、広重の作品に接すれば直《ただち》に日本らしき純粋なる地方的感覚を与へらる。日本の風土を離れて広重の美術は存在せざるなり。余は広重の山水と光琳《こうりん》の花卉《かき》とを以て日本風土の特色を知解せしむるに足るべき最も貴重なる美術なりとなす。  北斎は山水を把《と》りてこれを描くに当り山水それのみには飽き足らず常に奇抜なる意匠を設けて人を驚かせり。これに反して広重の態度は終始依然として冷静なるが故にやや単調に傾き変化に乏しき観なきに非《あら》ず。暴風電光急流を以て山水を活動せしむるは北斎の喜んでなす処。雨と雪と月光とまた爛々たる星斗《せいと》の光によりて唯《ただ》さへ淋しき夜景に一層の閑寂《かんじゃく》を添へしむるは広重の最も得意とする処なり。北斎の山水中に見出さるる人物は皆|孜々《しし》として労役す。然らざれば殊更《ことさら》に風景を指《ゆびさ》して嘆賞し若《も》しくは甚しく驚愕《きょうがく》するが如きさまをなせり。然るに広重が画図《がと》中には猪牙《ちょき》を漕《こ》ぐ船頭も行先を急がぬらしく、馬上に笠を戴《いただ》く旅人は疲れて眠れるが如し。江戸繁華の街衢《がいく》を行くものもまた路傍の犬と共に長き日を暮らしかぬるが如き態度を示せり。両家の作品が示す両様の傾向によりて吾人はまたこの二大山水画家の性情の全く相反せる事を知るに難《かた》からず。  北斎は描くに先立ちて深く意識し、多く期待し、常に苦心して、何らか新意匠|新工夫《しんくふう》をなさずんば止《や》まざる画家なるべし。然るに広重は更に意を用ふるなく唯見るがまま興の動くがままに筆を執るに似たり。これを同じ早筆《そうひつ》の略画に見るも北斎のものは決して偶発的ならず、苦心熟練の余《よ》僅《わずか》にここに至れるが如き観あれども、広重の略画に至つては看《み》る者をしていかにもその場限りの即興に発したるものらしき思ひあらしむ。されば今浮世絵板下絵師として両者の彩色《さいしき》を比較すれば広重は北斎の如く苦心する所更になかりしが如し。殊にその晩年安政時代の板行《はんこう》にかかる名所江戸百景の如き、その意匠の奇抜にして筆勢の軽快なるにかかはらずその着色中の赤と緑の如きは吾人をして大《おおい》に失望せしむるものあり。広重は従来の日本画の如く輪廓《りんかく》の線を描くには悉《ことごと》く墨色《ぼくしょく》を用ひ、彩色は唯画面の単調を補ふ便宜となしたるに過ぎず。されど単純なる二色|若《も》しくは三色の配置によりてかへつて巧《たくみ》に複雑美妙なる効果を収むる所|何人《なんぴと》もよく企て及ぶ所にあらず。例へば雲の白きに流るる水の青きと夕照《ゆうやけ》の空の薄赤きとを対照せしめたる、あるひは夜の河水《かわみず》の青きが上に空の一面に薄黒《うすくろ》く、この間《あいだ》に苫船《とまぶね》の苫の黄《きいろ》きを配したる等、極めて簡単|明瞭《めいりょう》なるその配色はこれがためにかへつて看るものをして自由に時間と空気と光線の感覚を催さしむるの余地を与へたり。米国人フェノロサは明治三十一年小林氏の主催したりし浮世絵展覧会の目録において広重が愛宕山の図につき論じて曰《いわ》く「遠く海を描きて白帆を点綴《てんてつ》したるは巧に軟風を表《あらわ》しまた自《おのずか》ら遠景において光線の反射を示せり。小さき人物は広重と同時の英国大画家タアナアの如くしばしば杭《くい》の並べる如き観あれどこれまた風景中の諸点を強むる力あり。」また永代橋の図につきては「船の意匠は根本的また文法的と称すべし。鮮明なる二種の色調と黒白《こくびゃく》とを併《あわ》せ用ゐて各部を異らしめたる所、共に強烈なる油絵の顔料《がんりょう》といへどもよくこれに及ぶ事|能《あた》はざるべし。余はホイッスラアの最《もっとも》有名なる銅板画よりもむしろ本図を好む。」と。この訳文|甚《はなはだ》佶倔《きっくつ》にして作品の説明簡略なるがため当時の会場を記憶せざるものにはこれらの賛辞のいかなる板画についてなされたるや明かに知る由なし。然れども広重板画の特徴を窺《うかが》ふに足れり。  広重の江戸名所を描けるものその一は東都名所あるひは江都勝景と題せし横絵なり、その二は名所江戸百景と題せし竪絵《たてえ》なり。この二種は同じ江戸の市街|及《および》その近郊の風景を描きたるものなれど、板刻《はんこく》の年代|並《ならび》に横と竪との様式の相違よりして自《おのずか》ら別種の画風を示したり。横絵の東都名所は東海道五十三次《とうかいどうごじゅうさんつぎ》と同じくその布局は細密なる写生に基《もとづ》き、その色彩また甚しく濃厚ならざるが故に吾人が常に一般の浮世絵に対して要求するが如き色調の妙味を覚えしむ。これに反して名所江戸百景は惜しい哉《かな》その布局の写生を離れ筆勢奔放意匠甚だ奇抜なるにかかはらず板行絵《はんこうえ》としての色彩甚だ美妙ならず、殊にその赤と緑の濃く生々《なまなま》しきは大《おおい》に吾人を失望させしむ。これによつて見るも天保《てんぽう》以降浮世絵板刻の技術の年《ねん》一年|如何《いか》に低落し行きしかを知るに足るべし。ゴンクウルはその著『歌麿伝』の終《おわり》において広重がしばしばその板行絵の色摺をして歌麿盛時の如くならしめんと企てたれど遂《つい》に不可能なりし事を記《しる》したり。  広重が描ける東都名所(横絵)の全部を蒐集《しゅうしゅう》してあたかもゴンクウルが北斎歌麿に対せしが如く細大|漏《もら》さずこれを説明せんことは今余の微力のよくする所ならず。故に唯《た》だ広重が好んで同じ場所をば幾種となくさまざまに描きなしたる重《おも》なる図を採りて更にその中《うち》の二、三を選ぶこととせり。  先《まず》江戸|大城《たいじょう》に近く、外桜田《そとさくらだ》の弁慶堀《べんけいぼり》より大名屋敷の白壁打続く霞《かすみ》ヶ|関《せき》の傾斜は広重の好んで描きし地点なり。一つは夕立晴れたる夏の午後と覚《おぼ》しく、辻番所立てる坂の上より下町《したまち》の人家と芝浦《しばうら》の帆影《はんえい》までを見晴す大空には忽然《こつぜん》大きなる虹|斜《ななめ》に勇ましく現はれ出《いで》たる処なり。されど道行くものは子供をつれ傘打ちつぼめし女の外《ほか》には誰《たれ》一人この美しき虹には気も付かぬ様子にて、大小に羽織袴の侍も小紋の夏羽織の町人も本家|枇杷葉湯《びわようとう》の荷箱また団扇《うちわ》の荷を担《かつ》ぐ物売の商人も、皆|大《だい》なる菅笠に顔をかくし吹風《ふくかぜ》に烈《はげ》しくもその裾を打払はれ聊《いささ》か行悩める如き有様を見せたり。これ坂の上の甚《はなはだ》高きことを想像せしめんとする画家の用意の周到なる所なるべし。他《た》の一図は次第に高くなり行く両側の御長屋《おながや》をばその屋根を薄墨色《うすずみいろ》に、その壁を白く、土台の石垣をば薄き紺色にして、これに配するに山王祭《さんのうまつり》の花車《だし》と花笠の行列をば坂と家屋の遠望に伴はせて眼のとどかんかぎり次第に遠く小さく描き出《いだ》せしものなり。上より見下《みおろ》す花笠日傘の行列と左右なる家屋との対照及びその遠近法はいふまでもなく爽快《そうかい》極《きわま》りなき感を与ふ。  永代橋より佃島|鉄砲洲《てっぽうず》にかけての風景。また高輪より品川に及ぶ半円形の海岸とは水と空とこれに配合する橋と船とによりて広重をして最も容易に最も簡単なる好画図《こうがと》を作《な》さしむ。先《まず》画面の下部に長き橋梁《きょうりょう》を斜《ななめ》に横《よこた》はらしめよ、しかして淋しき夜駕籠《よかご》と頬冠《ほおかむり》の人の往来《ゆきき》を見せ、見晴らす水面《すいめん》の右の方《かた》には夜の佃島を雲の如く浮ばせ、左の方には新地《しんち》の娼楼に時として燈火《とうか》を点じて水上に散在する白魚船《しらうおぶね》の漁火《ぎょか》に対せしめよ。あるひは大《だい》なる夜泊《やはく》の船の林なす檣《ほばしら》の間《あいだ》に満月を浮ばしめ、その広漠《こうばく》たる空に一点あるかなきかの時鳥《ほととぎす》、または一列の雁影《がんえい》を以てせよ。これ広重の常に試みる所の最も簡単にしてまた最も情趣深き都会山水画の特徴たり。  江戸の市街が雪によりて随処にその美観を増すは人の知る処なり。今これを広重の作品に徴するにそが雪景の作中にて最も傑出せる好画図をなさしめたる処は御茶《おちゃ》の水《みず》、湯島天神《ゆしまてんじん》石段、洲崎汐入堤《すさきしおいりづつみ》、芝藪小路《しばやぶこうじ》等にして向島《むこうじま》、日本橋、吉原土手等においてはかへつてさしたる逸品をなさしめざりき。浅草観音堂|年《とし》の市《いち》を描くに雪を以てし、六花《りっか》紛々《ふんぷん》たる空に白皚々《はくがいがい》たる堂宇の屋根を屹立《きつりつ》せしめ、無数の傘の隊をなして堂の階段を昇り行く有様を描きしは常に寂寞《せきばく》閑雅を喜ぶ広重の作品としてはむしろ意外の感あり。  三囲《みめぐり》、橋場《はしば》、今戸《いまど》、真崎《まっさき》、山谷堀《さんやぼり》、待乳山《まつちやま》等の如き名所の風景に対しては、いかなる平凡の画家といへども容易に絶好の山水画を作ることを得べし。いはんや広重においてをや。されど爰《ここ》に注意すべきことあり。広重は歌川|豊広《とよひろ》の門人にして人物画をもよくしたるにかかはらず、隅田川の風景を描くにさへ強《し》ひて花見の喧騒《けんそう》を避け、蘆荻《ろてき》白帆《はくはん》の閑寂をのみ求めたる事なり。東都名所の中《うち》その画題を隅田川|花盛《はなざかり》となしたる図の如きを見よ。先《まず》丘陵の如くに凸起《とっき》したる堤を描き、広々《ひろびろ》したる水上より花間《かかん》を仰見《あおぎみ》て、僅《わずか》に群集の来往《らいおう》せるさまを想像せしむるに過ぎず。さればこの水上にも妓《ぎ》を載せ酒を酌《く》むの屋形船なく、花を外《よそ》なる釣舟と筏《いかだ》と鴎《かもめ》とを浮ばしむるのみ。この傾向は吉原を描きし図において殊に顕著なるを覚ゆ。広重の好んで描ける吉原は華麗を極めし不夜城の壮観にあらずして、頬冠《ほおかむり》の人|肌寒《はださむ》げに懐手《ふところで》して三々五々|河岸通《かしどおり》の格子外《こうしそと》を徘徊《はいかい》する引四時過《ひけよつすぎ》の寂しさか(『絵本江戸土産』巻六)然らずば仲之町《なかのちょう》の木戸口《きどぐち》はあたかも山間の関所《せきしょ》の如く見ゆる早朝の光景(江戸百景の中《うち》廓中|東雲《しののめ》)なり。仲之町夜桜の盛《さかり》とても彼は貧しげなる鱗葺《こけらぶき》の屋根をば高所《こうしょ》より見下したる間《あいだ》に桜花の梢《こずえ》を示すに止《とど》まり、日本堤《にほんづつみ》は雪に埋《うも》れし低き人家と行き悩む駕籠の往来《おうらい》に、後朝《きぬぎぬ》の思よりもむしろ駅路の哀感を誘《いざな》はしむ。この点において広重は徹頭徹尾|覊旅《きりょ》の詩人たり。見ずや彼の描ける吉原には何《なん》となく宿場らしき野趣を蔵する所なからずや。軒挑灯《のきちょうちん》を連ねし仲之町の茶屋もその洒脱《しゃだつ》なる筆致の下《もと》には自《おのずか》ら品川|板橋《いたばし》等の光景と選ぶ所なし。天保十三年|浅草山《あさくさやま》の宿《しゅく》に移転を命ぜられし江戸三座劇場の賑《にぎわい》も、また吉原と同じく、広重の名所絵においては最早《もはや》春朗《しゅんろう》豊国らの描きし葺屋町《ふきやちょう》堺町《さかいちょう》の如き雑沓を見ること能はず。広重は顔見世乗込《かおみせのりこみ》の雑沓、茶屋|飾付《かざりつけ》の壮観を外《よそ》にして、待乳山の老樹|鬱々《うつうつ》たる間より唯|幾旒《いくりゅう》となき幟《のぼり》の貧しき鱗葺《こけらぶき》の屋根の上に飜《ひるがえ》るさまを以て足れりとなし、また芝居木戸前《しばいきどまえ》の光景を示すには、月光の下《もと》に劇場|已《すで》に閉ぢ行人《こうじん》漸《ようや》く稀《まれ》ならんとして、軒下なる用水|桶《おけ》のかげには犬眠り夜駕籠客を待つさまを描いて自《おのずか》ら広重独特の情趣を造出《つくりいだ》せり。浅草観音堂の境内《けいだい》を描くに当つても彼の特徴は水茶屋|土弓場《どきゅうば》また奥山|見世物場《みせものば》等の群集に非ずして、例へば雷門《かみなりもん》の大挑灯《おおちょうちん》を以て勢《いきおい》好《よ》く画面の全部を蔽《おお》はしめ、その下に無数の雨傘を描きたるが如きものとはなれり。 [#7字下げ]四[#「四」は中見出し]  広重の山水につきては江戸名所よりも日本全国の風景と対照して、特に論ずべきこと多きは言ふを俟《ま》たざるなり。然れどもそは他日に譲りて、ここには北斎及び広重の両大家につぎて同じく江戸の風景を描きたる昇亭北寿《しょうていほくじゅ》と、一勇斎国芳《いちゆうさいくによし》の板物《はんもの》を一覧して筆を擱《お》かんとす。  昇亭北寿は葛飾北斎の門人にして文化頃の浮絵名所絵の中にその名の署したるものあり。それよりやや後年の作と覚しき一枚摺山水画は尽《ことごと》く和蘭陀画を模倣したる一種特別の画風を示したれど、いかなる故にやその伝記は和洋いづれの書物にも詳《つまびらか》ならず。『浮世絵類考』には姓氏を示さずして唯《ただ》両国|薬研堀辺《やげんぼりへん》に住し文政頃の人となすのみ。  北寿の板物は今日《こんにち》伝ふる処のもの僅に三、四十種を越えざるべし。当時浮世絵を専業となせる画工の制作いづれも甚《はなはだ》多数なるより考ふれば、北寿はあるひは専門の浮世絵師にてはなかりしにや。あるひはその画風のあまりに奇異なるがため北斎|北渓《ほくけい》らの間に立ちては遂に世の迎ふる所とならざりしにや。伝記の考究は暫《しばら》く措《お》き、今その板画を見るに北寿は直接に和蘭陀画の影響を受け西洋風の遠近法と設色法と時には光線をも木板摺《もくはんずり》の上に転化応用せんと企てたる画工なり。これ敢《あえ》て北寿|一人《いちにん》に始りしには非ず。当初浮絵の大家にして歌川派の祖たる歌川豊春の如きは和蘭陀|銅板画《どうばんが》よりヴェニス、アムステルダム等の風景をそのまま模写してこれを木板色摺となせし事ありき。されど文化以降それらの綿密なる浮絵は全く衰微し北斎の新山水起るや、北寿もまた従来の浮絵を棄《す》ておのが好む方向に進まんとせり。今その特徴を説明せんがため道灌山《どうかんやま》の一図を引きて例とせんか。歌川豊春北尾重政の浮絵に比すれば布局は著しく簡明となりしに反してその設色はやや複雑にしかも大《おおい》に調和する所あり。即ち北斎が富嶽三十六景においてなせしが如く北寿もまた全画面の彩色中《さいしきちゅう》その根調《こんちょう》となるべき一色《いっしょく》を選びて常にこれによつて諧音的の効果を奏せんとする苦心を示したり。(道灌山の図を見るものは直《ただち》に黄色《こうしょく》を帯びたる淡く軟かき緑色《りょくしょく》とこれに対する濃き緑《みどり》と藍《あい》との調和に感じまた他の一作洲崎弁天海上眺望の図においては黄色と橙色《とうしょく》との調和を見るべし。)なほ道灌山の図についていふべきは、左方《さほう》に立つ崖《がけ》の側面を画《えが》くに北寿は三角形の連続を以てし、またその麓《ふもと》に横《よこたわ》る広き畠をば黄《き》と緑と褐色の三色を以て染分けたる格子となし、これを遠近法によりて配列せしめたる事なり。もし北寿をして今一歩を進ましめんか日本における最初の立方体画家となりしや知るべからず。  北寿の板物を見るものはまた彼が好んで雲を描くがために必《かならず》その画面には空と水との大《だい》なる空間を設けたる事を知るべし。洲崎弁天海上の眺望と題したるもの、また御茶の水より富士を見たるもの、あるひは銚子《ちょうし》の海浜、隅田川|真崎《まっさき》等を描きし風景の如き、その空中に漂ふ大《だい》なる白雲《はくうん》は家屋樹木と共にこれらの図の布局をなすに当つて欠くべからざる要件の一となれり。此《かく》の如く山水画の制作につきて空と雲とに意を用ゐたるは日本画家中この北寿の外《ほか》にはいまだ何人《なんぴと》もなさざる所なりき。彼の師たる北斎は和蘭陀画の感化を喜ぶ事決して北寿に劣るものならざれども後年に至るもなほしばしば日本在来の棚曳《たなび》く霞を横《よこた》はらしめて或時は不必要と認むる遠景を遮断《しゃだん》するの方便となし、或時は高処を示すの手段となしたり(ペルヂンスキイは北斎が描く霞の形状をば西洋手袋の指先を並べたるが如しといへり)。広重は四条《しじょう》派の山水に見るが如き濃淡を以て巧みに樹木風景を曇らす霞を描きたれど、晴天の青空に浮動する雲につきては一度《ひとたび》も北寿の如くに留意する所なかりき(北斎の絵本『富嶽百景』三巻中には雲を描きしもの尠《すくな》からず殊に初巻快晴の不二の図は鱗雲《うろこぐも》に似たるものを描きて甚《はなはだ》よし然れどもこの絵本は晩年の作にして年代よりいへば北寿の後なるべし)。  北寿の新開拓は更にその山水画に光線を表示せんと企てたる事なり。洲崎弁天の図は黄色《こうしょく》と橙色《とうしょく》との濃淡を以てしたる家屋堂宇のためによく日光の感覚を現し得たれども、山谷堀入口の図においては地上に横《よこた》はる家屋人物の陰影を描かんとしてこれがために遠近法にまで甚だしき錯誤を生ぜしめぬ。されど北寿の山水画に対しては西洋画模倣に基《もとづ》く幼稚なる技巧と、制作上の無邪気なる誤謬《ごびゅう》とは、最初よりこれを認容せざるべからず。如何《いかん》となればこれらの大欠点はかへつて素人画《しろうとえ》の妙味なる一種特別の風韻をなす所以《ゆえん》なればなり。余が北寿を以て浮世絵専業の人にはあらざるべしとの疑ひを抱《いだ》きしはその板物中かつて一の美人風俗画を見ず、その山水は日本画としても西洋画としても共にその技巧の甚しく未熟なるにかかはらず何となく風韻に富み感情の洒脱なる所あるが故なり。  浮世絵の山水画を論じて歌川豊春、北尾政美より葛飾北斎、一立斎広重を挙げ、加ふるに昇亭北寿を以てすれば今や余す所のもの一勇斎国芳あるのみ。国芳は三世豊国(国貞)と共に光栄ある江戸浮世絵の歴史を結了せしむる最後の一人《いちにん》たり。  明治五年向島|三囲《みめぐり》稲荷の境内にその門人らの建立《こんりゅう》せし国芳の碑あり。これを見るに国貞巧[#二]於閨房美人仕女婉淑之像[#一]先生長[#二]於軍陣名将勇士奮武之図[#一]と刻したれども国芳は決して武者奮戦の図をのみよくせしにはあらず、その描ける範囲は美人花鳥山水|諷刺滑稽画《ふうしこっけいが》に及べり。西洋画写生の法を浮世絵の人物に施してよく成功せる点はむしろ北斎の上に出づといふも過賞にあらず(浅草観音堂内奉納の絵額に一ツ家の姥《おうな》の図あり)。一度《ひとたび》その秘戯画に現はれたる裸体画を検するものはその骨格の形状正確にして繊巧を極めし線の感情の能《よ》く敗頽《はいたい》的気風に富める漫《そぞろ》に歌麿を思はしむる所あるを知るべし。仏人 Tei-san が美術史に曰く、「国芳の作画は常に活動の気に満ちその描線の甚だ鮮明正確なるしばしば称賛に価すべきものあり。しかしてその色彩には好んで赤と藍とを混和せしめたる極めて明快なる林檎色《りんごいろ》の緑を用ひ文化以前の木板絵に見るが如き色調の美妙を示す所あり。されど或時は全くその反対に、人物奮闘の状《じょう》を描ける図に至つては色彩をしてこれと一致せしめんがため殊更《ことさら》多数の色を設けて衝突混乱せしむ。」  国芳の山水画には東海道及東都名所の二種あれどもいづれもその数《すう》多からず。東海道の作は重《おも》に鳥瞰図《ちょうかんず》的なる山水村落の眺望を主とし、東都名所は人物を配置して風景中に自《おのずか》ら江戸|生粋《きっすい》の感情を溌剌《はつらつ》たらしめたり。東都名所新吉原と題したる日本堤夜景の図を見よ。中空《ちゅうくう》には大なる暈《かさ》戴《いただ》きし黄《きいろ》き月を仰ぎ、低く地平線に接しては煙の如き横雲を漂はしたる田圃《たんぼ》を越え、彼方《かなた》遥かに廓《くるわ》の屋根を望む処。一|梃《ちょう》の夜駕籠|頻《しきり》と道をいそぎ行く傍《かたわら》に二匹の犬その足音にも驚かず疲れて眠れる姿は、土手下の閉ざせる人家の様子と共に夜もいたく深《ふ》け渡りしのみか、雨持つ空に月の光もまた朧《おぼろ》なる風情《ふぜい》を想像せしめて余りあり。羽織に着流しの裾をかかげ、ぱつちに雪駄《せった》をはきし町人の二人連《ふたりづれ》あり。その一人《ひとり》は頬冠りの結目《むすびめ》を締め直しつつ他の一人は懐中に弥蔵《やぞう》をきめつつ廓をさしておのづと歩みも急《せわ》し気《げ》なる、その向《むこう》より駒下駄《こまげた》に褞袍《どてら》の裾も長々と地《ち》に曳《ひ》くばかり着流して、三尺《さんじゃく》を腰低く前にて結びたる遊《あそ》び人《にん》らしき男一人、両手は打斬《うちき》られし如く両袖を落して、少し仰向《あおむき》加減に大きく口を明きたるは、春の朧夜《おぼろよ》を我物顔《わがものがお》に咽喉《のど》一杯の声張上げて投節《なげぶし》歌ひ行くなるべし。  浮世絵師の伝記を調べたる人は国芳が極《きわめ》て伝法肌《でんぽうはだ》の江戸児《えどっこ》たる事を知れり。この図の如きは寔《まこと》によくその性情を示したる山水画にあらずや。吾人は寂寞《せきばく》閑雅なる広重の江戸名所において自《おのずか》ら質素の生活に甘《あまん》じたる太平の一士人《いちしじん》が悠々《ゆうゆう》として狂歌俳諧の天地に遊びし風懐《ふうかい》に接し、また北斎の支那趣味によりては江戸時代の老人の温和なる道徳的傾向を窺ひ得べしとすれば、国芳の風景よりしては女芸者を載せたる永代橋|下《した》の猪牙舟《ちょきぶね》、鉄砲洲石垣の鯊釣《はぜつり》、また隅田川|鰻《うなぎ》かきの図等いづれも前《ぜん》二|家《か》の有せざる江戸|気質《かたぎ》の他の一面を想像し得べし。しかしてもしこれら国芳の板画を以て更に寛政及びその以前の画家の作に比較すれば全くその外形を異にしたる背景風俗と共に幕末の人心のいかに変化せしかを想像するに余《あまり》あり。国芳画中の女芸者は濃く荒く紺絞《こんしぼり》の浴衣《ゆかた》の腕もあらはに猪牙の船舷《ふなべり》に肱《ひじ》をつき、憎きまで仇《あだ》ツぽきその頤《おとがい》を支《ささ》へさせ、油気《あぶらけ》薄き鬢《びん》の毛をば河風の吹くがままに吹乱《ふきみだ》さしめたる様子には、いかにも捨身《すてみ》の自暴《やけ》になりたる鋭き感情現れたり。湖龍斎が画中の美人の物思はしく秋の夜の空に行雁《ゆくかり》の影を見送り、歌麿が女の打連立《うちつれだ》ちて柔かき提灯《ちょうちん》の光に春の夜道を歩み行くが如き、安永天明における物哀れにまで優しき風情は嘉永《かえい》文久《ぶんきゅう》における江戸の女には既に全く見ることを得ざるに至りぬ。  浮世絵の人物画も山水画と共に一勇斎国芳を殿《しんがり》としてここにその終決を告げたり(国貞〈三世豊国〉の死は国芳に後《おく》るる事三年乃ち元治元年なり)。国芳の門人中(芳幾《よしいく》芳年《よしとし》芳虎等)明治に入《い》りてなほ浮世絵の制作をつづけしもの尠《すく》なからざれども、こは明治における江戸美術の余命とやがてはその全滅の状況を尋ねんとするものに対して悲惨なる材料となるのみ。 [#地から1字上げ]大正二年六月稿 [#改丁] [#2字下げ]泰西人の見たる葛飾北斎[#「泰西人の見たる葛飾北斎」は大見出し] [#7字下げ]一[#「一」は中見出し]  日本の芸術家中泰西の鑑賞家によりてその研究批判の精細を極《きわ》めたるもの、画狂人|葛飾北斎《かつしかほくさい》に如《し》くものはあらざるべし。邦人今更この画工について言はんと欲するも既にその余地なきが如き観あり。泰西人の北斎に関する著述にして余の知れるものに仏国の文豪ゴンクウルの『北斎伝』。ルヴォンの『北斎研究』あり。独逸《ドイツ》人ペルヂンスキイの『北斎』。英吉利《イギリス》人ホルムスが『北斎』の著あり。仏蘭西《フランス》にて夙《つと》に日本美術の大著を出版したるルイ・ゴンスはけだし泰西における北斎称賛者中の第一人者なり。ゴンスは北斎を以《もっ》て日本画家中の最大なるものとするのみに非《あら》ず、恐らく欧洲美術史上の最大名家の列に加ふべきものとなし、譬《たと》へば和蘭《オランダ》のレンブラント仏蘭西のコロオ西班牙《スペイン》のゴヤとまた仏国の諷刺《ふうし》画家ドオミエーとを一時に混同したるが如き大家なりとなせり。  葛飾北斎はそもそも何が故に斯《か》くの如く尊崇せられたるや。邦人に取りては北斎そのものの研究よりもこの問題むしろ一層の興味ありといはずんばあるべからず。余はこれに答へてその理由の一を以て、北斎の捉《とら》へたる画題の範囲の浩瀚無辺《こうかんむへん》なることいまだ能《よ》く東洋諸般の美術を通覧せざりし西欧人をして驚愕《きょうがく》措《お》く能《あた》はざらしめたるに依《よ》るものとなす。次は北斎の画風の堅実なる写生を基本となしたる点|自《おのずか》ら泰西美術の傾向と相似たる所あるに依るものとなす。北斎の真価値は実にこの写生に存するなり。西人《せいじん》の永く北斎を崇拝して止《や》まざるは全くこれがためにして我邦人の中《うち》動《やや》もすれば北斎を卑俗なりとなすものあるもまたこれがためなり。文化《ぶんか》以降北斎の円熟せる写生の筆力は往々《おうおう》期せずして日本画古来の伝統法式より超越せんとする所あり。されば宋元《そうげん》以後の禅味を以て独《ひとり》邦画の真髄と断定せる一部の日本鑑賞家の北斎を好まざるはけだしやむをえざるなり。これに反して泰西の鑑賞家は北斎によりて始めて日本画家中最も己《おのれ》に近きものあるを発見し驚愕歓喜のあまり推賞して世界第一の名家となせしに外《ほか》ならざるなり。次に北斎の描きたる題材の範囲の浩洋《こうよう》複雑なるは独《ひと》り泰西人のみならず、厳格なる日本の鑑賞家といへどもまた聊《いささか》一驚せざるを得ざるべし。日本の画家にして北斎の如くその筆勢の赴《おもむ》く処、縦横無尽に花鳥、山水、人物、神仙、婦女、あらゆる画題を描き尽せしもの古来その例なし。北斎は初め勝川春章《かつかわしゅんしょう》につきて浮世絵の描法を修むるの傍《かたわら》堤等琳《つつみとうりん》の門に入りて狩野《かのう》の古法を窺《うかが》ひ、後《のち》自《みずか》ら歌麿《うたまろ》の画風を迎へてよくこれを咀嚼《そしゃく》し、更に一転して支那画の筆法を味《あじわ》ひまた西洋画の法式を研究せり。しかもそが天稟《てんぴん》の傾向たる写生の精神に至つては終始変ずる事なく、老年に及びてその観察はいよいよ鋭敏にその意気はいよいよ旺盛《おうせい》となり、凡《およ》そ眼に映ずる宇宙の万象《ばんしょう》一つとして写生せずんば止《や》まざらんとするの気概を示したり。これ北斎をして自《おのずか》ら一派一流の法式を墨守《ぼくしゅ》するの遑《いとま》なからしめたる所以《ゆえん》ならずや。この点において北斎は寔《まこと》に泰西人の激賞するが如く不覊自由《ふきじゆう》なる独立の画家たりしといふべし。 [#7字下げ]二[#「二」は中見出し]  北斎の制作は肉筆の絵画、板刻《はんこく》の錦絵《にしきえ》、摺物《すりもの》、小説類の挿画《さしえ》、絵本、扇面《せんめん》、短冊《たんざく》及びその他の図案等、各種に渉《わた》りてその数の夥《おびただ》しきこと、ルイ・ゴンスの『日本美術』によれば少くとも三万種を越えたるべしといふ。今その重《おも》なる制作中|殊《こと》に泰西人の称美するものを掲ぐれば第一は『北斎漫画』十五巻及びこの類の絵本なり。第二は富嶽三十六景、諸国滝|巡《めぐ》り、諸国名橋奇覧等の錦絵なり。第三は肉筆掛物中の鯉魚《りぎょ》幽霊または山水。第四は摺物なり。美人風俗画は比較的その数少くまた北斎作中の上乗《じょうじょう》なるものにあらず。 『北斎漫画』十五巻は北斎を論ずるものの必《かならず》一覧せざるべからざるもの也《なり》。ゴンクウルの言《げん》を借りていへば、あたかも種紙《たねがみ》の面《おもて》に蛾《が》の卵を産み落し行くが如く、筆にまかせて千差万様《せんさばんよう》の画《え》を描きしものにして、北斎のあらゆる方面の代表的作品とまた古来日本画の取扱ひ来りし題材|並《ならび》にその筆法とを一瞥《いちべつ》の下《もと》に通覧せしむる辞彙《じい》の如きものなり。さればゴンクウルを始めとして泰西鑑賞家の『北斎漫画』に対する説明|及《および》批判の中《うち》には独り北斎の芸術のみならず日本一般の風俗伝説文芸に関して云々《うんぬん》する所|甚《はなはだ》多し。彼らが北斎に払ひし驚愕的称賛の辞は単に北斎|一人《いちにん》のみに留《とど》まらず日本画全体に及ぼして然《しか》るべきもの尠《すくな》からず。然れども余は一々これを論別して、北斎の価値を限定せんと欲するものにあらず。これ無用の徒事《とじ》たるのみに非ず、複雑なる北斎の作品に関する複雑なる評論をして更に一層の繁雑を来《きた》さしむるの嫌《きらい》あればなり。例へば北斎が描ける幽霊の図を批評するに当り、日本人の妄想《もうそう》が幽霊を作出《つくりいだ》せし心理作用にまで溯《さかのぼ》りて論究せんとするが如きは画論の以外に馳《は》せたるものといふべし。いはんや浮世絵の幽霊は画工が迷信の如何《いかん》を証するものたらんよりは、これ当時の演劇及小説との関係を示すものなるをや。泰西人が浮世絵の鑑賞にはこの種の論法尠からず用意周到に過ぎてかへつて当を得ざるものといふべし。 『北斎漫画』を一覧して内外人の斉《ひと》しく共に感ずる所のものは画工の写生に対する狂熱と事物に対する観察の鋭敏なる事なり。北斎は士農工商の生活、男女老弱の挙動及姿勢を仔細《しさい》に観察し進んで各人の特徴たる癖を描き得たり。『北斎漫画』のよく滑稽《こっけい》諷刺に成功して西人《せいじん》をして仏国漫画の大家ドーミエーを連想せしめたる所以《ゆえん》は此《ここ》にあり。余は北斎の筆力を以て同時代の文学者中|三馬一九《さんばいっく》の社会観察の甚《はなはだ》辛辣《しんらつ》なるに比較せんと欲す。  浮世絵中の漫画はもと北尾政美《きたおまさよし》の得意とする所なりき。政美の初《はじめ》て『蕙斎人物略画式《けいさいじんぶつりゃくがしき》』を出《いだ》せしは寛政《かんせい》七年にして『北斎漫画』初篇|梓行《しこう》に先《さきん》ずること正に二十年なり(寛政七年北斎は菱川宗理《ひしかわそうり》と称し多く摺物を描けり)。されば『北斎漫画』の由《よ》つて来れる処は蕙斎の『略画式』にありしや知るべからず。蕙斎の漫画は北斎に比すれば筆致|甚《はなはだ》穏健にして芸術的感情の更に洗練せられたるものあれども滑稽諷刺の一事に至つては到底北斎の深刻に及ぶべくもあらず。一は浮世絵師中の最も清淡なるもの、一は最も複雑なるものなり。一は貴族的にして一は平民的の最も甚だしきものなり。この両漫画は画工の性格|並《ならび》に画風の相違を示すと共にまた時代の好尚の著しく変化せるを語るものなり。江戸末期の芸術における写実の傾向は演劇絵画文学諸般に渉《わた》りて文化以降深刻の余り遂《つい》に極端に走れり。『北斎漫画』中これらの証《しょう》となすもの多し。武士の大小をたばさみて雪隠《せついん》に入《い》れる図の如きは、一九が『膝栗毛《ひざくりげ》』の滑稽とその揆《き》を一にするものならずや。 [#7字下げ]三[#「三」は中見出し]  仏蘭西人テイザン著す所の日本美術論は北斎の生涯及画風を総論して甚《はなはだ》正鵠《せいこく》を得たるものなり。左に抄訳して泰西人の北斎観を代表せしめんと欲す。  テイザン曰《いわ》く北斎の特徴と欠点とは要するに日本人通有の特徴と欠点なり。即《すなわち》事物に対して常にその善良なる方面のみを見んとする事なり。余りに了解しやすき諧謔《かいぎゃく》及び辛辣《しんらつ》に過ぐる諷刺とを喜ぶ事なり。運命論者の如く殆《ほと》んど未来に対して何らの考慮憂苦をも有せざる事なり。祭礼と芝居とを狂愛する事なり。貧なればよく質素に甘《あまん》ずといへども僅少《きんしょう》の利を得れば直《ただち》に浪費する癖《へき》ある事なり。常に中庸を尚《とうと》び極端に馳《は》する事を恐るる道徳観を持《じ》する事なり。事物の根本的性質を究《きわ》めんとするに先《さきん》じその外形より判断を下して自《みずか》ら皮相的心理状態に満足せんとする事なり。かるが故に万事全く理想的傾向を有せざる事なり。日々《にちにち》平常の生活難に追はれて絶えず現実の感情より脱離する事なきも、しかもまたその中《うち》自《おのず》から日本人生来の風流心を発露せしむる事なり。これを以て観《み》れば北斎の思想は根本よりして平民的また写実的たりといふべきなり。浮世絵派の画人は北斎の以前においても皆写実を基《もとい》となしたるは勿論《もちろん》の事なり。然れども自《おのずか》ら一種の法式典型を組織せずんば止《や》まざる所ありしが北斎の写実に至つては更に一歩を進めたり。北斎が観察力は真に驚くべきものあり。彼は多年感触の世界の研究とその描写とに従事したるの結果、宇宙百般の事物は彼の眼には何らの苦悩悔恨をも蔵せざるが如くに反映したり。看《み》ずや北斎は獄門にかけたる罪囚の梟首《きょうしゅ》に対して、その乱れたる長き頭髪は苦悩の汗に濡《ぬ》れ、喰縛《くいしば》りたる唇《くちびる》より真白き歯の露出せるさまを見ても、なほかつ平然としてこれを写生せるが如き、あるひはまた彼が一派一流の狭き画法に拘泥《こうでい》するの遑《いとま》なかりしが如き、これ皆その観察力の鋭敏なると写生の狂熱|熾《さかん》なるによるものに非らずして何ぞや。されば北斎は自《みずか》ら正確なる写生をなし得たりと信ずる時は意気揚々として、その著『略画早指南《りゃくがはやおしえ》』の序にも言へるが如く、わが描く所の人物|禽獣《きんじゅう》は皆紙上より飛躍せんとすと。かくて北斎は写実家の常として宛《さなが》ら仏国印象派の傾向と同じく美の表現よりも性格の表現に重きを置かんとするに似たり。彼は題材の高尚なると卑俗なるとを弁ぜざりき。これ日本の上流社会が北斎の技倆《ぎりょう》を了解する事|能《あた》はざりし最大の原因たらざるべからず。  さて北斎はその写実主義を実行するに当り如何《いか》なる方法に依りたるや。今これを人物画について見れば人物の動作を現はすに四肢の綿密なる解剖によらずしてひたすら疎大なる描線の力を以てせんとしたり。また山水画においては樹木《じゅもく》台榭《だいしゃ》の部分的検索、並にその完成を俟《ま》たず、専《もっぱ》ら風景全体の眺望を描かんとしたり。これ綜合的《そうごうてき》なる法式の下《もと》に甚《はなはだ》尋常一様の手段を取りたるに過ぎずといふべし。裸体の研究|如何《いかん》と見るに、北斎は人物の体格及活動の姿勢とを簡略に節約すべき線の筆力によりて能く筋肉の緊張を描き得たりといへども、解剖の知識に至つてはいまだ十分なりといひがたし。これ泰西画家のなすが如く陰影によつてモデルを看《み》る事の便宜を知らざりしがためなり。此《かく》の如き欠点あるにかかはらず人物の挙動、顔面の表情、または人体のあるひは突進しあるひは後退する状《じょう》を描くに当りて、北斎の手腕のいかに非凡なるかは、『漫画』第二巻の仮面の図、第八巻の盲人の顔等において甚《はなはだ》顕著なり。なほ一層の好例は第三巻中の相撲《すもう》、第八巻中の無礼講《ぶれいこう》、及狂画|葛飾振《かつしかぶり》なるべし。狂画葛飾振の図中には痩細《やせほそ》りし脚《あし》、肉落ちたる腕、聳立《そばだ》ちたる肩を有せる枯痩《こそう》の人物と、形《かたち》崩《くず》るるばかり肥満し過ぎたる多血質の人物との解剖を見るべく、またかの筍掘《たけのこほ》りが力一杯に筍を引抜くと共に両足を空様《そらざま》にして仰向《あおむき》に転倒せる図の如きは寔《まこと》に溌剌《はつらつ》たる活力発展の状を窺《うかが》ふに足る。北斎は人の笑ふ時|怒《いか》る時また力役《りきえき》する時、いかにその筋肉の動くかを知り能くこれを描き得たる画家なり。  北斎が咄嗟《とっさ》の動揺を描くに妙を得たるはなほ『漫画』十二巻中|風《かぜ》の図についてこれを見るべし。図中の旅僧は風に吹上げられし経文《きょうもん》を取押へんとして狼狽《ろうばい》すれば、膝《ひざ》のあたりまで裾《すそ》吹巻《ふきまく》られたる女の懐中よりは鼻紙|片々《へんぺん》として木葉《このは》に交《まじわ》り日傘|諸共《もろとも》空中に舞飛《まいと》べり。一人の男は背後より風に襲はれて体《たい》の中心を失はんとし、腕を上げ手をひろげて驚けば、その傍《かたわら》には丁稚《でっち》らしき小男|重箱《じゅうばこ》に掛けたる風呂敷《ふろしき》を顔一面に吹冠《ふきかぶ》せられて立すくみたり云々《うんぬん》。  英国人ホルムスは『漫画』第七巻中|奔波《ほんぱ》の図につきて論じて曰く、レンブラント、ルウベンスまたタアナアの描ける暴風の図は人をして恐怖の情を催さしむといへども暴風の齎《もたら》し来る湿気《しっき》の感を起さしむる事|稀《まれ》なり。コンスタアブルは湿気の状を描き得たれども暴風の狂猛を捉ふる事|能《あたわ》ず、然るに北斎にあつては風勢《ふうせい》のいかに水を泡立《あわた》たせ樹木を傾倒しまた人馬を驚かすかを知れり。 [#7字下げ]四[#「四」は中見出し] 『北斎漫画』及この種類の絵本はいづれも薄き代赭《たいしゃ》藍《あい》または薄墨を補助としたる単彩の板画なり。されば北斎が彩色《さいしき》板画の手腕を見んと欲すれば富嶽三十六景、諸国滝巡り、名橋奇覧、詩歌写真鏡《しいかしゃしんきょう》の如き錦絵を採らざるべからず。これらの諸作はいづれも文政《ぶんせい》六年以後に板行《はんこう》せられしものにして、北斎が山水画家としてまた色彩家としてその技倆の最頂点を示したる傑作品たるのみに非らず、その一は司馬江漢《しばこうかん》が西洋遠近法の応用、その二には仏国印象派|勃興《ぼっこう》との関係につきて最も注意すべき興味ある制作なりとす。  ここに暫《しばら》く葛飾北斎が画家としての閲歴を見るに、彼は宝暦《ほうれき》年間に生れその齢《よわい》歌麿より少《わか》き事|僅《わずか》に七年なり。然れどもその画風筆力の著しき進境を示したるは歌麿の歿後《ぼつご》、文化|中葉《ちゅうよう》の事にして、年既に四十歳を越えてより後《のち》の事なり。彼が司馬江漢の油絵並に銅板画《どうばんが》によりて和蘭画《オランダが》の法式を窺ひ知りしは寛政八年頃、年三十余歳の時にして、当時の浮絵《うきえ》及絵本に多く名所の風景を描きたり。その後《ご》文化の初め数年に渉《わた》りては専《もっぱら》馬琴《ばきん》その他の著作家の稗史《はいし》小説類の挿絵を描き、これによつて錦絵摺物等の板下絵《はんしたえ》においてはかつて試みざりし人物山水等を描くの便宜を得、大《おおい》にその技を練磨《れんま》したり。加ふるに文化末年名古屋に赴《おもむ》くの途次親しく諸国の風景を目睹《もくと》し、ここに多年の修養|自《おのずか》ら完備し来りて、文政六年|年《とし》六十余に至り初めて富嶽三十六景図の新機軸を出《いだ》せり。これを以て見るも北斎は全く大器晩成の人にして、年七十に及んで初めて描く事を知りたりと称せしその述懐は甚だ意味深長なりといふべし。  富嶽三十六景中|今《いま》試みに江戸日本橋の一図を採りてこの種類の板画全般を想像せしめんとす。日本橋の図は中央に擬宝珠《ぎぼうしゅ》を聳《そびやか》したる橋の欄干と、通行する群集の頭部のみを描きて図の下部を限り、荷船の浮べる運河を挟《はさ》んで左右に立並ぶ倉庫の列を西洋画の遠近法に基《もとづ》きて次第に遠く小さく、その相迫りて危く両岸《りょうがん》の一点に相触れんとする辺《あたり》に八見橋《やつみばし》と外濠《そとぼり》の石垣を見せ、茂りし樹木の間《あいだ》より江戸城の天主台を望ませたり。富士山は天主の背後に棚曳《たなび》く霞《かすみ》の上(図の左端)に高く小さく浮び出《いだ》さしむ。この図を一見して感受する所のものは遠近法に基く倉庫及び運河の幾何学的布局より来る快感なり。しかしてこの快感は北斎新案の色彩によりて更に一層の刺戟《しげき》を添ふ。  北斎新案の色彩とは何ぞ。彼は日本橋|橋上《きょうじょう》の人物倉庫船舶等の輪廓を描くに日本画の特色たる墨色《ぼくしょく》の線を廃し、全画面の色調を乱さざらんがため緑と藍との二色《にしょく》の線を以てしたり。しかしてその描線もまた彼が常用する支那画の皴法《しゅんぽう》に依らず、能ふ限り柔かく細き線を用ひたれば、或《ある》部分は色彩の濃淡中に混和して分別《ぶんべつ》しがたきものあり。これ西洋画または南画没骨《なんがぼっこつ》の法に倣《なら》ひて、日本画より線を除却せんと企てたるものには非ざるか。北斎はここにおいて支那画の典型に遠ざかると同時に浮世絵在来の形式を超越し、しかしてまた自己の芸術の基礎を覆《くつが》へさざる範囲において甚だ適度に西洋画の新感化を応用したるものといふべし。さればこれらの山水板画は北斎の制作品中その最も傑出したるものとなすべきなり。  北斎の山水板画はその素描と布局の甚《はなはだ》写生的なるに反し、その彩色は絵画的快感を専らとしたり。再び日本橋の図について見るに、全色彩の根調となるべき緑と黄とに対照して倉庫の下部に淡紅色《たんこうしょく》を施し屋根瓦《やねがわら》に濃き藍を点じたるが如き、あるひはまた浅草本願寺の屹立《きつりつ》せる屋根を描きたる図中その瓦の色と同様なる藍と緑を以て屋根瓦を修繕する小さき人物を描きたるが如き、あるひはまた深川万年橋《ふかがわまんねんばし》の図において橋上の人物は橋下《きょうか》の船及び両岸の樹木と同様の緑色《りょくしょく》を以て描き出《いだ》されたるが如き、これ皆天然の色彩を離れて専ら絵画的快感を主としたるものならずや。これら新案の設色法は思ふに肉筆の制作と異なりてなるべく手数《てすう》を簡略ならしめんとする彩色板刻の技術上偶然の結果に出でたるや知るべからず。然れども今これを絵画的効果の上より論ずれば決して軽々《けいけい》に看過《かんか》すべきものに非ざるなり。仏蘭西印象派の画人ら初めて北斎がこれらの板画を一見するや、その簡略明快なる色調の諧和を賞するのみならず、あたかも当時彼らが研究しつつありし外光主義の理論と対照して大《おおい》に得る処ありとなせしものなり。色彩を以て絵画の趣旨となす仏蘭西印象派の理論は宇宙の物象は吾人《ごじん》日常の眼を以て見るが如く物象その物には何ら特殊の定まりたる色彩を有するものに非ず、空気及光線の作用により時々刻々全く異りたる色を呈するものなりとなす。この理論に照《てら》して彼ら印象派の画家は北斎の山水板画を以てその最も成功せる例証となしたり。富士三十六景中快晴の富士と電光の富士とがその一は藍色《らんしょく》の光線に染められ、その一は全く異りたる赤色となれるが如き、彼らはこれを以て凡《およ》そ物の陰影は黒く暗く見ゆるものにあらずかへつて照《てら》されし物体と同様の色彩のやや柔げられたるものならざるべからずとなしたるその新理論に適合するものとなしたり。これと共に北斎板画の単純明快なる色調は専ら根本的なる太陽の七色にのみ重きを置かんとする彼らの主張と全く一致するものとなしたり。  此《かく》の如く浮世絵画工中北斎の最《もっとも》泰西人に尊重せられし所以《ゆえん》は後期印象派の勃興に裨益《ひえき》する所多かりしがためなり。クロード・モネエが四季の時節及|朝夕昼夜《ちょうせきちゅうや》の時間を異にする光線の下に始終同一の風景及物体を描きて倦《う》まざりしはこれ北斎の富士百景及富士三十六景より暗示を得たるものなりといはる。ドガ及ツールーヅ・ロートレックが当時自然主義の文学の感化を受けその画題を史乗《しじょう》の人物神仙に求めず、女工|軽業師《かるわざし》洗濯女《せんたくおんな》等専ら下賤《げせん》なる巴里《パリー》市井《しせい》の生活に求めんと力《つと》めつつあるの時、北斎漫画は彼らに対して更に一段の気勢を添へしめたり。殊にドガの踊子軽業師、ホイスラアが港湾|溝渠《こうきょ》の風景の如き凡《すべ》て活躍動揺の姿勢を描かんとする近世洋画の新傾向は、北斎によりてその画題を暗示せられたる事|僅少《きんしょう》ならず。  北斎は寔《まこと》に近世東西美術の連鎖なり。当初|和蘭陀《オランダ》山水画の感化によりて成立し得たる北斎の芸術は偶然西欧の天地に輸送せられ、ここに新興の印象派を刺戟したり。しかしてこの新しき仏蘭西の美術の漸《ようや》く転じて日本現代の画界を襲ふの時、北斎の本国においては最早《もは》や一人《いちにん》の北斎を顧《かえりみ》るものなし。北斎の制作品は今大半故国の地を去りて欧米鑑賞家の手に移されたり。江戸時代において最も廉価なりし平民美術は殆《ほとん》ど外人占有の宝物となり終れり。わが官僚武断主義の政府しばしば庶民に愛国|尚武《しょうぶ》の急務を説けり。尚武は可なり。彼らのいはゆる愛国なるものの意義に至つては余輩|甚《はなはだ》これを知るに苦しむ。 [#改丁] [#2字下げ]ゴンクウルの歌麿及北斎伝[#「ゴンクウルの歌麿及北斎伝」は大見出し] [#7字下げ]一[#「一」は中見出し]  ゴンクウル兄弟両家《けいていりょうか》の合作せる小説戯曲の仏蘭西《フランス》十九世紀後半の文壇に重きをなせるは汎《あまね》く人の知る所なり。兄エドモン・ド・ゴンクウルは弟ジュウルの歿後《ぼつご》その齢《よわい》漸《ようや》く六十に達せんとするの時、新《あらた》に日本美術の研究に従事し先《まず》歌麿《うたまろ》北斎《ほくさい》二家の詳伝を編纂《へんさん》せり。そもそもゴンクウルがこの新研究に着手したりしはその著『歌麿伝』の叙にも言へるが如く、浮世絵は即《すなわち》十八世紀の美術たるが故なり。彼は既にその弟ジュウルと共に仏国十八世紀の貴族|名媛《めいえん》及《および》女優の史伝を編み、また同時代の仏国絵画の評論三巻を合著《がっちょ》せり。当時十八世紀における此《かく》の如き特殊の風俗流行|並《ならび》に美術の研究は専門の史家といへども、いまだ着目せざりし所なるを以《もっ》て、この事|既《すで》に漸新《ざんしん》なるに加へてまたその考証研究の態度も従来の史家とは全く趣《おもむき》を異にしたり。ゴンクウルはその探索|蒐集《しゅうしゅう》せる資料を鑑賞し玩味《がんみ》しこれによりてひたすら芸術的感覚の美に触れん事を求めたり。然《さ》ればその十八世紀に対する考証研究の態度は毫《ごう》も詩歌小説創作の心境と異る所なく熱烈にしてまた繊細なる感情に満ちたり。佳麗なる仏国の十八世紀はゴンクウルの芸術的感覚を衝動して止《や》まざりしなり。偶然江戸時代の応用美術品を手にするやこの仏国十八世紀の追慕者は忽《たちま》ち日本十八世紀の称賛者となれり。  十八世紀日本美術の研究に関するゴンクウルの計画は頗《すこぶる》浩瀚《こうかん》なるものなり。彼は先《ま》づ画家五人を挙《あ》げ、次に蒔絵《まきえ》、鋳金《ちゅうきん》、彫刻、象牙細工《ぞうげざいく》、銅器、刺繍《ししゅう》、陶器各種の制作者中|各《おのおの》一人《いちにん》を選び、その代表的制作品を研究し、応用美術が完全に自由美術の品位と境域にまで到達せる処は世界に唯《ただ》日本あるのみなりとの論断を下さんと欲したり。然れども不幸にしてその志を果さず僅《わずか》に歌麿北斎二家の詳伝を著したるのみにして千八百九十六年病みて巴里《パリー》の寓居《ぐうきょ》に歿したりき。  歌麿伝は千八百九十一年(明治二十四年)に出《い》づ。当時英仏の好事家《こうずか》中浮世絵を愛玩するもの漸《ようや》く多く、これに関する著述の出版また尠《すくな》からざりき。然れども特に一画家を選み来つて全巻これが研究に費せしものなし。ゴンクウルの歌麿伝は正にその鼻祖《びそ》なり(欧米における浮世絵研究の一章を参照せよ)。該書は十八世紀日本美術なる総称の下に『青楼《せいろう》の画家歌麿』と題せられ全巻を二篇に分《わか》てり。第一篇は専《もっぱ》ら『浮世絵類考《うきよえるいこう》』に基《もとづ》きて歌麿が生涯を記述し、漸次制作の錦絵《にしきえ》につきて解説に批評を交《まじ》へまたこれに必要なる日本一般の風俗伝説につきて懇切に記述する所あり。第二篇は歌麿の制作を分類して肉筆及|黄表紙《きびょうし》絵本類の板下《はんした》並《ならび》に錦絵|摺物《すりもの》秘戯画等となし、各品《かくひん》につき精細にその画様と色彩とを説明せり。  今これを通読するに画家の伝記は従来の『浮世絵類考』に拠《よ》りたるがためその誤謬《ごびゅう》をも合せ伝へたる点|尠《すくな》からず。また評論中にはひたすら重きを歌麿に置かんと欲せしが故か動《やや》もすればその以前の画工|鳥居清長《とりいきよなが》鈴木春信《すずきはるのぶ》らを軽《かろん》ぜんとする傾《かたむき》あり。今日《こんにち》浮世絵の研究は米国人フェノロサその他新進の鑑賞家出でて細大|漏《もら》す処なく完了せられたるの後《のち》溯《さかのぼ》つてゴンクウルの所論を窺《うかが》へば往々《おうおう》全豹《ぜんぴょう》を見ずして一斑《いっぱん》に拘泥《こうでい》したるの譏《そしり》を免れざるべし。然れどもゴンクウルは衆に先《さきん》じて浮世絵に着目したる最初の一人《いちにん》たり。その著歌麿伝の価値は此《かく》の如き白璧《はくへき》の微瑕《びか》によりて上下《じょうげ》するものに非《あら》ず。歌麿一家の制作に対するその詩人的感情の繊細と文辞の絶妙なるに至つては永く浮世絵研究書中の白眉《はくび》たるべし。殊《こと》に歌麿板画のいひ現《あらわ》しがたき色調をいひ現すに此《か》くの如き幽婉《ゆうえん》の文辞を以てしたるもの実に文豪ゴンクウルを措《お》いて他に求むべくもあらず。  今二、三の例を挙げんか。吉原仁和賀《よしわらにわか》朝鮮行列|七枚続《しちまいつづき》の錦絵につきて唐人《とうじん》の衣裳《いしょう》つけたる芸者の衣裳の調和せる色彩に対してゴンクウルの言ふ所次の如し。 [#ここから1字下げ] 「藍《あい》緑《みどり》紫《むらさき》及び黄色《きいろ》を以てなされたるこの図の色調は全体に緑がかりたる支那陶器の模様を見るの思ひあらしむ。かかる色彩は歌麿のみならずその以前より日本画家の肉筆においてもまた重大なる要素たりき。」  青楼十二時《せいろうじゅうにとき》の図につきては宛《さなが》ら人の心を毟《むし》るが如き色調の軟《やわら》かさを述べていふ、 「この淡紅色《たんこうしょく》の薄さはあたかも綾羅《りょうら》を透《すか》して見たる色の如く全く言葉もていひ現し能《あた》はざるほどあるかなきかの薄さを示したり。紫は鳩《はと》の胸毛の如くに美しくも色《いろ》褪《さ》めたるもの、また緑は流るる水の緑なるが如く、藍は藍|染《ぞ》めの布の裏地を見る心地《ここち》にも譬《たと》へんか。その朦朧《もうろう》としたる薄墨の色に至りてはむしろ或《ある》鮮明なる色の遠き遠き反映を以て染めしが如く定めがたき色なり。」  また曰《いわ》く、「これら衣裳の色彩によつて見るに日本の婦人は欧洲人が鮮明単一なる色を欲するとは全く異りて遥《はるか》に芸術的なる天然物そのままの色彩を好むものといふべし。日本の児女がその身に纏《まと》はんとする絹布《けんぷ》の白さは魚類の腹の白さ(即《すなわ》ち銀白色)なり。また淡紅色《たんこうしょく》は紅味《あかみ》を帯びたる雪の色(即ち蒼白《あおじろ》き淡紅色)なり。藍は藍がかりし雪の色(即ち明快なる藍)及《および》空の黒さ(即ち濁りし藍)及び桃花《とうか》を照す月色《げっしょく》(即ち紅味を帯びたる藍)なり。黄色《こうしょく》は蜂蜜《はちみつ》の色(即ち明《あかる》き黄色《きいろ》)の如し。赤色《せきしょく》は棗《なつめ》の実の赤色にして烟《けぶ》れる焔《ほのお》の色(黒き赤)と銀色《ぎんしょく》の灰色(灰の赤)とに分たれ、緑には飲料茶の緑、蟹甲《かいこう》の緑、また玉葱《たまねぎ》の心《しん》の緑(黄味《きいろみ》ある緑色)、蓮《はす》の芽の緑(明《あかる》き黄味《きいろみ》ある緑)等あり。これらの眼に見て美しき混和されたる色彩、愛すべき濃淡を有する色彩は欧洲人の見て以ていはゆる不調和 Fausse なる色彩と称するものなり。」 [#ここで字下げ終わり]  此《かく》の如く歌麿の錦絵に現れたる光沢なき弱き色調はゴンクウルの賞讃|措《お》く能はざる所にして彼は篇中|到《いた》る処《ところ》語を変へ辞を重ねてその説明に倦《う》まざりき。その中《うち》左の一節の如きは最も簡単にまた最も巧《たくみ》に歌麿|板物《はんもの》の色彩を形容し得たるものといふべし。 [#ここから1字下げ] 「いまだかつてわれはいかなる国にも斯《か》くまで心地よく消行《きえゆ》く如き調和せる彩色摺《さいしきずり》を見たる事なし。この色彩は画面を洗ひし水桶《みずおけ》の底に沈澱《ちんでん》したる絵具を以て塗りたる色の如くむしろ色と呼ばんよりは色なる感念《かんねん》を誘起せしむる色づきし雲の影とやいはん。」 [#ここで字下げ終わり]  色彩の妙《みょう》と相俟《あいま》つてゴンクウルは歌麿が立花《りっか》音曲《おんぎょく》裁縫化粧|行水《ぎょうずい》等日本の婦女が家居《かきょ》日常の姿態を描きてこれに一種いふべからざる優美の情とまた躍然たる気魄《きはく》を添へ得たる事を絶賞したり。こは決して過賞に非ず。天明《てんめい》寛政《かんせい》の浮世絵師にして婦女の写生を得意となしたる清長|栄之《えいし》歌麿三家の中《うち》歌麿はその最《もっとも》繊巧|緻密《ちみつ》なるものたり。ゴンクウルがこの種の一枚絵につきて総評する所左の如し。 [#ここから1字下げ] 「歌麿は三枚|続《つづき》五枚続また七枚続の如き大《だい》なる板画を制作したる後、一枚絵にてその数六枚七枚十枚十二枚、時には二十余種にて一組の画帖《がじょう》となるべきものを夥《おびただ》しく描きたり。その板刻の年代は前述せし大《だい》なる続物《つづきもの》と同時のものなきにあらざれど多くはその以後なりとす。今この種の一枚絵を見るに続物の大作におけるよりもかへつて能《よ》く日本の婦女がその日その日をいかにしてその家《いえ》その庭の中《うち》に送れるかを窺ひ得るなり。或者は紅《べに》を唇《くちびる》に塗り或者は剃刀《かみそり》にて顔を剃《そ》りつつあり。遊女は頤《おとがい》の下に読みさしの書物を挟《はさ》みつつその帯を前にて結び町家《ちょうか》の女は反対に両手を後《うしろ》に廻《まわ》して帯を引締めんとせり。反物《たんもの》の片端《かたはし》を口に啣《くわ》へて畳み居るものもあれば花瓶《かへい》に菖蒲《しょうぶ》をいけ小鳥に水を浴びするあり。彫刻したる銀煙管《ぎんぎせる》にて煙草《たばこ》呑むものあり。あるひは琴を弾じ画《え》を描きまたは桜の枝に結び付くべき短冊《たんざく》に歌書けるものあり。あるひは矢を指にして楊弓《ようきゅう》を弄《もてあそ》びあるひはお亀《かめ》の面《めん》かぶりて戯るるものあり。斯《かく》の如き日本の婦女日常の動作を描かんとするや筆力を主とする簡勁《かんけい》なる手法にのみ拠るべきものならず、極力《きょくりょく》実地の写生に基き各種の動作に伴ふ見馴《みな》れたる手付《てつき》姿勢態度を研究せざるべからず。これによりて初めて日本なる人種の特色とまたその時代の各階級の特色となるべき固有の手振《てぶり》態度を描き得るなり。これを例するに日本の女の物思ふ時片手の上に首《うなじ》を支《ささ》へ物|聴《き》かんとする時|跪《ひざま》づきたる腿《もも》の上に両手を置きやや斜《ななめ》に首を傾けて物いふさまその消行《きえゆ》くが如き面影《おもかげ》のいかに風情《ふぜい》深きや。あるひはまた平《ひら》たく畳の上につくばひて余念もなく咲く花を仰ぎ見たる、あるひは膝《ひざ》を崩《くず》して身を後《うしろ》ざまに覆《くつがえ》さんばかりその背を軽く欄干に寄掛《よせか》けたる、あるひは両肱《りょうひじ》を膝の上につき書物の上にその顔を近寄せ物読み耽《ふけ》りたる、あるひは片手に小さき鏡をかかげ他《た》の手を後に廻して髱《たぼ》の毛を掻《か》き上げたる、あるひはこの国特有の美しき手道具漆器の類《たぐい》を細く美しき指先に持添へたる、あるひは形《かたち》可笑《おか》しき手付に盃《さかずき》を取上げたる、凡《すべ》て懶気《ものうげ》なる姿の美しさ、また畳の上に身をつくばはせたる艶《なまめか》しさ。吾人《ごじん》はこれら歌麿の一枚摺によりて始《はじめ》て日本の婦女の最も窺《うかがい》がたき日常の姿を窺得《うかがいう》るなり。  さまざまなるこれらの姿と形とまたそれぞれに愛すべき一幅の画面をなしたり。看《み》よ。日本の女が障子のかげにうつうつと物思ひに暮れたる姿のいかに美しきや。あるひは若き娘の戸口に坐《すわ》りて両手を後《うしろ》に身を支へ片足を物の上に載せ下駄《げた》の脱落《ぬけお》ちたる片足をぶら下げたる、あるひは美しき芸者の供《とも》するものに箱を持たせて雪もよひのいとど暗き夜《よ》を恐るるが如くに歩み行く姿のいかに艶《えん》なるや。あるひは若き女二人互に身を畳の上に投げ出し両肱《りょうひじ》をつき手先を組合せて指相撲《ゆびずもう》をなせる、あるひはまた二人《ふたり》の小娘連れ立ちてその一人《ひとり》は他の肩に片手をかけ、掌《てのひら》を合せて参詣《さんけい》の祈願を凝らしたるなぞ一々には説尽《ときつく》しがたし。  今これら歌麿が美女の長く身にまとひたる衣服の着様《きざま》を見るに腰と腿のあたりにて宛《さなが》ら延板《のべいた》を当《あて》たる如くに狭く堅く引締められ下の方に行くに従ひて次第に寛《ゆる》く足元に至りて水の如くに流れ渦巻《うずま》きたり。ゼッフロア氏はこれを譬へて刀剣の反返《そりかえ》りたる趣きありとなしたるは寔《まこと》に言ひ得て妙なりといふべし。」 [#ここで字下げ終わり]  ゴンクウルはなほ章を新《あらた》にして「子宝合《こだからあわせ》」の如き錦絵によりて日本の婦女の小児《しょうに》を背負ひあるひは抱きあるひは乳を呑ませあるひは小便さするさまに至るまで精細にまた物珍し気にこれを記述したり。 [#7字下げ]二[#「二」は中見出し]  日本画の線と色とは如何《いか》なる程度まで婦女の裸形《らけい》を描き得るや。歌麿の錦絵|鮑取《あわびとり》の図三枚続はこの問題を考究するに必要欠くべからざる参考品なるべし。歌麿以前既に石川豊信《いしかわとよのぶ》鳥居清満《とりいきよみつ》鈴木春信|磯田湖龍斎《いそだこりゅうさい》の諸家いづれも入浴|若《も》しくは海女《あま》の図によりて婦女の裸体を描きたり。然れども皆写生に遠し。鳥居清長に及びて浮世絵の画風は一変して近代的写生的となるを得たり。歌麿は清長の画風を承継して更に一層の繊巧を加へたるもの。ゴンクウルの言を借り来れば線と形式とを更に整頓《せいとん》せしめたるものなり。清長歌麿二家において浮世絵は発達の頂上に達したり。然《さ》れば歌麿の裸体画は日本画中最も写生に近き標本となすに足るべし。これをゴンクウルの所論について見るに、 [#ここから1字下げ] 「この鮑取三枚続は婦人の裸体をば最も明晰《めいせき》なる手法によりて描出《えがきいだ》したるもの也《なり》。吾人はこれに因《よ》つて独《ひと》り歌麿のみならず一般の日本画家が裸形に対する了解の如何《いかん》とまた描写の方法の如何を窺ひ得べし。歌麿の裸体画には解剖の根柢完全に具備せられたれどその一抹《いちまつ》一団《いちだん》の中《うち》に節略せられたる裸形は書体風《カリグラフィック》の線によりて凡《すべ》て局部の細写《さいしゃ》を除きたるがため、そののつぺりとしたる細長き体躯《たいく》何となく吾人が西洋画に用ゆる写生用の人体模形《マンカン》を見るの思《おもい》あらしめたり。この丈《たけ》高く細長き女の真白《まっしろ》き裸体は身にまとへる赤き布片《ふへん》と黒く濃き毛髪とまた蒼然《そうぜん》たる緑色の背景と相俟《あいま》つて真《しん》に驚愕《きょうがく》すべき魔力を有する整然たる完成品たり。」 [#ここで字下げ終わり]  歌麿の描ける女の常に甚《はなはだ》しく長身なるは浮世絵を通覧するものの直《ただち》に心付く処なるべし。歌麿以前にありては春信湖龍斎|春章《しゅんしょう》らいづれも扁平《へんぺい》にして丸顔の女を描きたり。然るに歌麿はまづ橢円形《だえんけい》の顔を作り出《いだ》してその形式的なる面貌《めんぼう》の中《うち》にも往々|生々《いきいき》したる精神を挿入《そうにゅう》し得たるは従来の浮世絵画中かつて見ざる所なり。無論歌麿の女の面貌といへども日本画家の通有なる一定の形式を脱せず。その唇は二枚の小さき花弁《かべん》の如く、その鼻は美しき貴公子《きこうし》の鼻と異なる所なく必ず細き曲線に限られ、またその眼は二つの穴の真中に黒点を添へたるに過ぎず。されど此《かく》の如く死したる典型の中《うち》歌麿はその技術の最も円熟したる時代にありては全く不可思議なる技能を以て能《よ》く個人の面貌の異なる特徴を描出《えがきいだ》し見るものをしてしばしばかの動《うごか》すべからざる典型の如何《いかん》を忘却せしむる事あり。ゴンクウルは此《かく》の如き賛辞に附記して歌麿の女の丈《たけ》高きはこの画家が日本の女を事実よりも立派に美麗になさんと欲したるがためなり。専ら遊女を描くに努めたる彼は弁才天女《べんざいてんにょ》の如く婦女を理想化せんと欲したるなり。されどその姿勢態度動作に関してはあくまで自然たらん事を努めたりといへり。 [#ここから1字下げ]  米国人フェノロサの所論は聊《いささ》かゴンクウルと異なる所あればここにその大略を記述す。歌麿美人の身体及び面貌の甚だしく細長となりしは寛政の中頃《なかごろ》より後《のち》の事なり。こは甚だしく髷《まげ》の大形《おおがた》なるを好みしこの時代一般の風俗に基因したるものにして決して画家一個人の企てに因りたるものとはいひがたし。されば寛政末年より享和《きょうわ》の始めに至る時代風俗の変遷と共に歌麿美人の身長もまた極端に馳《は》せ遂《つい》にその特徴たる廃頽《はいたい》的情味を形造《かたちづく》るに至りしが享和の末よりはややその身長の度を減ずるに従ひ、文化時代の繊巧は往々にして以前の優美温雅の趣きを失はしむるに至りぬ云々《うんぬん》。 [#ここで字下げ終わり]  歌麿は婦女の姿態を描くの外《ほか》また花鳥をよくす。絵本『百千鳥《ももちどり》』『虫撰《むしえらみ》』また『汐干《しおひ》の土産《つと》』等における動植物の写生はその筆致の綿密なること写真機もなほ及ばざるほどなり。また山水画は『銀世界』及び『狂月望《きょうげつぼう》』等の絵本において石燕風《せきえんふう》の雄勁《ゆうけい》なる筆法を示したり。摺物《すりもの》扇《おうぎ》地紙《じがみ》団扇絵《うちわえ》等に描ける花鳥|什器《じゅうき》の図はその意匠|殊《こと》に称美すべきものあり。ゴンクウルはこれらをも細大漏らす事なく精細に記述し批評したる後《のち》巻末に歌麿が秘戯画の説明を加へたり。ゴンクウルは歌麿の死を以て単に文化二年の事件に坐して三日間|入牢《じゅろう》したるが故のみとなさずむしろ多年婦人美の追究にその健康を破壊したるがためならんと思惟《しい》しその秘戯画については殊に著者独特の筆を振《ふる》つて叙述の労を取りたり。鑑賞の眼識に富みたる仏国の文豪が江戸美術固有の秘戯画に対して如何なる観察をなしたるかはいふまでもなく甚だ興味ある事なり。然れども遺憾ながらここにこれを訳述する事|能《あた》はざるを以て、唯ゴンクウルが何らの道徳的判断を下さず純然たる芸術的興味に基《もとづ》き自由に完全にこれを観察しなほかかる場合には往々浮世絵師の喜んでなす突飛《とっぴ》なる滑稽《こっけい》頓智《とんち》の妙《みょう》を能く了解したる事、並《ならび》に絵本『歌枕《うたまくら》』と題せし秘戯画中には歌麿が自身の肖像と覚しきものを描きたる事を記すに留《とど》む。  ゴンクウルはそが愛好する歌麿の伝を著したる後《のち》四年を経て(千八百九十五年十二月即明治二十八年)更に葛飾北斎の詳伝を公《おおやけ》にしたり。これ著者の死に先《さきだ》つこと僅《わずか》に一年なり。十八世紀日本美術に関する第二の著述は画家の生涯及びその制作に対する考証の精密なること前著『歌麿』に優《まさ》る所あり。北斎|逝《ゆ》きてよりその時まで僅に半世紀を経たるに過ぎざりしが、その正確なる伝記の漸《ようや》く不明ならんとするに当つてゴンクウルが研究考証は泰西の美術界に貢献する所|僅少《きんしょう》ならざりしといふ。彼はその序にいへる如く北斎の本国においてはあたかもその頃(明治二十五年)飯島半十郎《いいじまはんじゅうろう》著『葛飾北斎伝』二巻の出版せられたるを知りこれをも参照したりしがなほ足れりとせず、当時|巴里《パリー》にありし日本の骨董商《こっとうしょう》林忠正《はやしただまさ》なる者の助けを借りその蒐集せし資料に基きて彼|自《みずか》らの Hokousai《ホクサイ》 を著したり。 [#ここから1字下げ] (林忠正の蒐集せし北斎伝の資料は巴里の好事家《こうずか》にして浮世絵蒐集家たるビングの依頼によりて為《な》されたるものなりしを、林はいかなる故にやこれをビングに渡さずしてゴンクウルに売却したりとて、一時《いちじ》巴里の好事家中に物議《ぶつぎ》を生じたる事ありしといふ。) [#ここで字下げ終わり]  ゴンクウルはその北斎伝中|頻《しきり》に林忠正の名を掲げかつその蒐集せる資料の甚だ貴重にして従来刊行されたる日本の書籍にも見るべからざるもの多き事を説けり。然《さ》ればゴンクウルの北斎伝は林忠正との合著《がっちょ》と見るも可ならんか。今ゴンクウルの著書中に散見せる林氏の所説を見るに浮世絵|並《ならび》に江戸文学一般に関する解説考証いづれも正確にして自《おのずか》ら一家の趣味鑑識を備へたり。これに由《よ》つて見れば林氏は尋常一様の輸出商人にあらざることを知るべし。千九百二年巴里において林忠正はそが所蔵の浮世絵並に古美術品を競売に附するに際し浩瀚《こうかん》なる写真版目録を出版せり。この書《しょ》今に到《いた》るもなほ斯道《しどう》研究者|必須《ひっす》の参考書たり。林氏は維新後日本国内に遺棄せられし江戸の美術を拾ひ取りてこれを欧洲人に紹介し以て欧洲近世美術の上に多大の影響を及ぼさしめたる主動者たりといふべきなり。  林忠正の経歴は『大日本人名辞書』に掲げられたり。その略に曰《いわ》く、 [#ここから2字下げ]  林忠正は越中高岡《えっちゅうたかおか》の人にて父を長崎言定《ながさきことさだ》といふ。旧富山藩の士|林太仲《はやしたちゅう》に養はれ幼き時より義父に就《つ》きて仏蘭西《フランス》語を学びぬ。維新の際福井藩の貢進生《こうしんせい》となり大学南校に入りそのいまだ業を卒《お》へざるに先立ちて偶《たまたま》起立工商《きりつこうしょう》会社の巴里《パリー》博覧会に陳列所を設《もうく》るの挙あるを聞き、陳列所の通弁を兼《かね》て売子となり仏国に渡航したり。博覧会閉会の後《のち》巴里に留《とどま》り修学せんと欲したれど学資に乏しかりしかば志を変じ商估《しょうこ》となり、その宿泊せる下宿屋の一室に小美術舗《しょうびじゅつほ》を開きぬ。時に明治十七年の正月元旦なり。忠正は日々《にちにち》巴里市内を行商せしが業務|忽《たちまち》繁栄し幾《いくばく》もなくして一商店を経営するに至りぬ。明治三十三年万国博覧会の巴里に開設せられし時、駐仏公使|曾根荒助《そねあらすけ》に推挙せられ博覧会事務長官に任ぜられ日本出品事務所所長となり斡旋《あっせん》の功によりて正五位勲四等に叙せられたり。明治三十六年巴里の林商店を引払ひて東京に帰り、明治三十九年四月十日病んで歿せり。 [#ここで字下げ終わり]  ゴンクウルは林忠正の蒐集したる資料に基き北斎伝を著したる翌年、死するに臨み遺書を認《したた》めてその所蔵の浮世絵その他の美術品を尽《ことごと》く競売に附せしめたり。彼はその生涯の慰安たりし絵画人形絵本その他の美術品が博物館と呼ばれし冷《ひややか》なる墳墓に輸送せられ、無頓着《むとんちゃく》なる観覧人の無神経なる閲覧に供せられんよりは、むしろ競売者の打叩《うちたた》く合図《あいず》の槌《つち》の響と共に四散せん事を望みしなり。これ骨董蒐集の楽事《らくじ》を同趣味の後継者に譲与するものなればなり。此《かく》の如く骨董鑑賞家がその秘蔵品を競売に附するの方法は一時巴里好事家の間に流行し、ヂヨオ、バルブットオ諸家の蒐集品もまた同じく散逸したりき。ここに一言《いちげん》すべきはゴンクウルが遺品競売の全金額はその遺書に基き親族の反対ありしにもかかはらずやがてゴンクウルアカデミイ(私立文芸院)設立の基本財産となりぬ。ゴンクウル文芸院は千九百三年仏国政府より公然学芸の団体たる認可を得たり。当初の会員十人の中七人はゴンクウルが生前中に定めたるものにして、いづれも自然派|若《も》しくは印象派の小説家を以て組織せられたり。会員は年俸六千|法《フラン》貨を支給せられ年々新進作家の著作を審査し傑作と認めたるものに対して賞金五千|法《フラン》を贈るといふ。 [#改丁] [#2字下げ]欧米人の浮世絵研究[#「欧米人の浮世絵研究」は大見出し] [#ここから2字下げ] 千九百十年再版 W. von Seidlitz の著 A History of Japanese Colour-Prints(『日本彩色板画史』)総論中、欧米人の浮世絵に関する研究の沿革を記して頗《すこぶ》る精細なるものあり。因つてその大要を訳述する事左の如し。 [#ここで字下げ終わり]  そもそも日本の浮世絵が始《はじめ》て欧洲の社会一般の注意する処となりしは千八百六十二年(文久《ぶんきゅう》二年)万国博覧会の英京|倫敦《ロンドン》に開かれたる時なり。浮世絵はその年英国より Havre《アーブル》港を経て仏蘭西《フランス》に転送せらるるや当時|巴里《パリー》にありし画家 Stevens《スチヴンス》, Whistler《ホイスラア》, Diaz《ヂア》, Fortuny《フォルチュニイ》, Legros《ルグロ》 ら直ちにこれに着目しぬ。Manet《マネエ》, Tissot《チッソオ》, Fantin《ファンタン》 Latour《ラツール》, Degas《ドガ》, Carolus《カロルユス》 Duran《デュラン》, Monet《モネエ》 の諸画家また続いて浮世絵を集めき。就中《なかんずく》巴里の銅板画家《どうばんがか》 Bracquemond《ブラックモン》, Jacquemart《ジャックマアル》 及びセエヴル陶器組合の工芸家はこの新しき美術界の発見に対して最も熱中せり。あたかも好《よ》しこの時 Cernuschi《チェルヌスキ》, Duret《ヂュレエ》, Guimet《ギメエ》, 〔Re'gamey《レガミー》〕 の如き旅行家の日本より帰来して盛《さかん》に日本の風土と美術を称美するあり。文学者には Goncourt《ゴンクウル》, |Champ fleury《シャンフルウリイ》, Burty《ビュルテイ》, Zola《ゾラ》 あり。出版商には Charpentier《シャルパンチエー》 工芸家には Barbedienne《バルブヂエーン》, Christofle《クリストフル》, Falize《ファリーズ》 なぞいへる人々皆日本美術の賛美者となりぬ。ルウヴル美術館の絵画保管役たりし Villot《ヴィヨオ》 の如きは衆に先んじて浮世絵|蒐集《しゅうしゅう》の計画をなしぬ。此《かく》の如く浮世絵研究の気運|漸《ようや》く熟せし時千八百六十七年(慶応《けいおう》三年)万国博覧会の巴里に開始せらるるに及び日本美術の勝利は確定せられり。巴里における日本美術愛好家の一団は 〔Socie'te'《ソシエテ、》 du《デュ、》 Jinglar《ジャングラル》〕 の会名の下《もと》に毎月《まいげつ》一回郊外のセエヴルに晩餐《ばんさん》の集会をなすに至りぬ。  翌千八百六十八年幕府|瓦解《がかい》して江戸は東京となり日本美術は日本の国土と並びて欧洲人の眼前に展開せられき。しかして墺国維納《おうこくウインナ》に開かれし千八百七十三年(明治六年)の万国博覧会|及《および》七十八年(明治十一年)の巴里万国博覧会は共に欧洲人に対して日本美術に関する知識を得さしめぬ。(巴里博覧会において若井某は日本美術の紹介について最も勉《つと》むる処ありき。)  千八百七十年代の半頃《なかばごろ》に至り日本政府もまた一個の博物館を東京に設立し自国の古美術品を蒐集し始めぬ。山高《やまたか》氏始めてその館長となりしが千八百八十年代の半頃奈良に第二の博物館設立せらるるに当り、山高氏はこれが管理となり、九鬼子爵《くきししゃく》代つて東京博物館長となりぬ。京都の博物館は千八百九十五年(明治二十八年)に設けられしものにして山高氏またその長たり。  今日《こんにち》欧洲諸国において日本美術の重要なる陳列蒐集をなせるものを挙《あ》ぐれば次の如し。  和蘭《オランダ》 Leyden《ライデン》 の美術館に納めらるる日本美術品は独逸《ドイツ》人 Siebold《ジイボルト》 の蒐集したるものなり。ジイボルトは蘭領|印度《インド》軍隊の医官にして千八百二十三年(文政《ぶんせい》六年)より三十年(天保《てんぽう》元年)まで日本に滞在し絵画|掛物《かけもの》凡《およ》そ八百種を携へ帰りしといふ。  千八百六十二年(文久二年)倫敦大博覧会に際し Sir Rutherford Alcock その蒐集せる木板画の陳列をなしぬ。John Leighton 翌年五月一日 Royal Institution においてアルコック蒐集品の説明を試む。然《しか》れどもこは専《もっぱ》ら十九世紀(文化《ぶんか》以降)の木板画に関するものなりしが如し。  千八百八十二年(明治十五年)独逸ブレスロオの Gierke《ジルケ》 教授|伯林《ベルリン》の Kunstgewerbemuseum(工芸美術館)においてその所蔵せる日本画二百点を陳列しき。伯林 Print-Room にはその以前より既に多少の日本板画を蒐集するものありしがジルケ教授の所蔵品陳列せらるるに当り、普国《ふこく》政府はこれを購《あがな》ひて Print-Room に移しぬ。ジルケ教授は日本絵画史の編纂《へんさん》に従事せしかどその業成らざるに先立ちて千八百八十年代に歿《ぼっ》しき。  英国の美術館 British Museum は千八百八十二年(明治十五年)英貨三千|磅《ポンド》(凡そ我が三万円)を投じてその当時東京帝国医科大学の雇《やとい》教師たりし Dr. William Anderson をして日本及支那の絵画凡そ二千余種を購はしめたり。  巴里においては一個人にして日本画の蒐集をなすもの甚《はなは》だ多く Gonse《ゴンス》, Bing《ビング》, Vever《ヴェヴェール》, Gillot《ジョオ》, Manzy《モンヂイ》, Rouart《ルアール》, Galimart《ガリマル》 の諸氏に次いで Koechlin《コクラン》, 伯爵 Camondo《カモンド》 らはその最も著名なるものとす。これら日本美術の愛好家は、各自の蒐集品を一括して千八百八十三年(明治十六年)既に一大展覧会を催しつづいて九十年(明治二十三年)には浮世絵|板物《はんもの》のみの特別展覧会を開きぬ。Salle Durand Ruel において九十三年(明治二十六年)広重《ひろしげ》の山水画のみを限りてこれを陳列したる事ありき。  巴里ルーヴル美術館の東洋部には蒐集品多からずといへどもなほ浮世絵板物を閑却せず、Guimet《ギメエ》 博物館及び 〔Bibliothe`que Nationale〕(巴里図書館)にもまた日本の絵本類あり。(巴里図書館の日本絵本類は Duret《ヂュレエ》 の担当して蒐集せしものなり。)〔Socie'te' des Japonisants〕(日本狂愛会)は会員五十人より成りて今なほ毎月一回開会せられつつあり。また 〔Muse'e des Arts De'coratifs〕(装飾美術陳列館)に催さるる個人所蔵の浮世絵展覧会は千九百〇九年(明治四十二年)より始まりぬ。  英国にありては千八百八十八年(明治二十一年)Burlington Fine Arts Club(バアリングトン美術倶楽部)において浮世絵板物展覧会の挙ありしより同好者の団体組織せられぬ。英国の蒐集家中にては Edgar《エッガア》 Wilson《ウィルソン》 の所蔵品最も優《すぐ》れたりといふ。然れどもその数《すう》において世界に冠たるは米国 Boston《ボストン》 市の Museum of Fine Arts(美術館)にして屏風《びょうぶ》衝立《ついたて》類四百種、肉筆画四千種、板画類一万種に達すといふ。こは同美術館のために専ら教授 Ernest《アーネスト》 Francisco《フランシスコ》 Fenollosa《フェノロサ》 の蒐集せし処にして教授は日本帝国博物館に招聘《しょうへい》せられて十二年間日本に滞在したる事あり。その生涯を日本美術の研究及びその分類の事業に費したる人にしてその個人としての所蔵品中には頗《すこぶ》る貴重なるもの多かりしといふ。  米国人にて日本美術蒐集家として有名なるは市俄古《シカゴ》の Charles J. Morse, Fred. W. Gookin 及び紐育《ニューヨーク》の George W. Vanderbilt らにして Francis Lathrop(紐育人)の如きは鳥居清長《とりいきよなが》の画《え》のみにても百七十種を集めしといへり。Dr. Bigelow はボストンにおいて北斎の展覧会を催し夥《おびただ》しくその制作品を陳列したる事ありき。  独逸にては伯林に Koepping, Liebermann あり Munich に Stadler あり。Frankfurt に Frau Straus-Negbaur あり、その他 Greifswald の Jaekel, Leipzig の 〔Mosle'〕, 〔Du:sseldorf〕 の Oeder, Freiburg (Breisgau) の Grosse らの諸氏|皆《みな》浮世絵所蔵家としてその名を知られたる者なり。伯林 Print-Room 所蔵品のことは既にいひたり。同市の Kunstgewerbemuseum(工芸美術館)は日本浮世絵の宝庫たらんことを期し絶えずその蒐集に勉《つと》めつつあり。Hamburg《ハンブルグ》 の 〔Museum fu:r Kunst und Gewerbe〕(美術及工芸美術館)にも多数の板画あり、Dresden《ドレスデン》 の Print-Room また新《あらた》に浮世絵蒐集の事業に着手しぬ。  此《かく》の如く浮世絵木板画に対する一般の趣味と知識の増進するに従ひこれに関する著述の世に出《いづ》るもの漸《ようや》く多し。千八百七十九年出版アンダアソンの著『日本美術史』A History of Japanese Art (Transaction of the Asiatic Society. Vol. VII.) は、浮世絵板画をも含み日本絵画一般の歴史に関する正確なる著述にしてこの種の出版物中最初のものたり。アンダアソンは次いで千八百六十六年 The Pictorial Arts of Japan(『日本画論』)と題する美装の書(Edition du Luxe)二巻を著しまた同年英国美術館の購求せし支那及び日本画の目録を編纂《へんさん》して精細に説明する処あり、しかして千八百九十五年 Portfolio 五月号に出《いだ》せし Japanese Wood-Engraving(日本の木板画)においては浮世絵史の大要を簡易に記述しぬ。アンダアソンに次いで、ブレスロオの教授ジルケは千八百八十二年伯林工芸美術館においてその所蔵品を陳列するに当りこれが目録を編纂しぬ。ジルケ教授のこの著述は簡短《かんたん》なれども日本美術に対する著者独創の意見の頗《すこぶ》る見るべきものあり。翌八十三年には仏蘭西人 Gonse《ゴンス》 の尨大《ぼうだい》なる著書 L'Art Japonais(『日本美術』二巻)出でぬ。第一巻は日本画及浮世絵に関するものにして、専ら西洋美術家の見地よりして日本の絵画を批評了解せんとしたる著者の計画は最も斬新にしてまた不成功にてはあらざりき。ゴンスのこの著述出づるや米人フェノロサは Review of the Chapter on Painting in Gonse's L'Art Japonais(最初横浜において出版せられし後千八百八十五年ボストンにて再刊せらる)と題してゴンスが日本美術上における北斎の地位を余りに重視したる事を非難しこれが正当なる判断を下したれども、また彼はゴンスが西人《せいじん》に対して了解しやすからざる光琳《こうりん》の芸術を明瞭《めいりょう》に説明して誤りなからしめし事を賞賛して止《や》まざりき。フェノロサはゴンスに対するこの論文において遠く日本画発達の淵源《えんげん》に溯《さかのぼ》りてよくこれを批判したり。これに因つて世人《せじん》は汎《ひろ》くフェノロサが日本美術について最も広大深刻なる見解を有する人なるを知りぬ。千八百八十五年|丁抹国《デンマークこく》の美術家 Madsen なる人 Japansk Malerkunst(『日本絵画論』)と題する小冊子を著しぬ。文辞佳麗|論鋒《ろんぽう》鋭利にしてしかも芸術的感情に富みたる完全なる好著なりしが、惜しむべし丁抹語にて書かれたるがため広く世の迎ふる所とならざりき。されどもしその翻訳を試みるものあらんか今日《こんにち》といへどもなほ日本画の精神を探《たず》ぬるに絶好の便宜となるや疑ひなし。  欧米における日本美術の研究はかくして千八百八十九年更に新進の著述家を出すに至りて大《おおい》に研究検索の範囲を拡張せしめたり。ハンブルグの人 Brinckmann が日本の諸美術及工芸に関する著述の第一編|即《すなわ》ちこれなり。著者は肉筆画と板画とを合せてここに渾然《こんぜん》たる大美術史を編纂したれどもその所論は殊更《ことさら》北斎を過賞したればフェノロサの研究によるよりもかへつてゴンスに拠りたるものと言はざるべからず。巴里の Bing《ビング》 は美麗なる月刊雑誌 Japon Artistique(『日本の美術』)を編輯《へんしゅう》しよく原画の趣を伝へたる精巧なる挿画とまた英仏独三国語の解説とによりて極力日本趣味の普及に勉《つと》めたり。千八百九十年以来東京においては『国華《こっか》』の発行あり。その掲ぐる古画の複製はビングより更に一層美なるものあれども僅《わずか》に一部の人の眼に触るるのみ。千八百九十年 〔E'cole des Beaux-Arts〕(巴里美術学校)に開かれたる諸家蒐集品陳列会絵入目録の出版(ビングの解説あり)並に翌九十一年 Burty 所蔵品絵入目録の(Leroux 解説あり)の出版とは共に巴里の好事家《こうずか》のために浮世絵板画研究の道を示して余蘊《ようん》なからしめたり。この時までは巴里の好事家中よく浮世絵を知るものは甚《はなはだ》少数に過ぎざりしなり。この年(明治二十四年)Goncourt《ゴンクウル》 の歌麿伝出でぬ。欧洲において日本の画家一人を主題としたる出版物はけだしこれを以て嚆矢《こうし》となす。次いで千八百九十六年北斎伝出でしがその編纂の資料はもとビングの需《もとめ》によりて一日本人の蒐集せしものなりしを、この日本人はビングを欺きその資料をゴンクウルに二重転売したりしといふの故を以て一時|大《おおい》に物議を醸《かも》したり。ビングが北斎伝出版の計画は此《かく》の如くゴンクウルの先鞭《せんべん》を着《つく》る所となりしがため中止するのやむなきに至れりといふ。広く独逸の社会に購読せらるる Muther《ムッテル》 の著書 Geschichte der Malerei im XIX. Jahrhundert(『十九世紀画人史』)はまた日本浮世絵の紹介を試みたれどもその挿絵の狭小にして解説の余りに簡略なる僅に浮世絵の何たるかを窺《うかが》はしむるに過ぎず。これに比すれば英人 Anderson《アンダアソン》 が Portfolio (1895) に掲載したる Japanese Wood-Engraving(日本の木板画)は同じく通俗平易の紹介なれども参考の資料とするに足るべき挿絵あるが故に遥《はるか》に優《まさ》れるものといふべし。  かくて浮世絵に関する著述は千八百九十六年の始《はじめ》に及び遂《つい》にその研究の最も斬新にしてまた恐らくはその終極たるべき完全無欠の良著を得たり。これ即ちフェノロサが同年|紐育《ニューヨーク》に開かれたる浮世絵名家展覧会のために編輯したる目録(Catalogue of the Masters of Ukiyoye)なりとす。著者の博識はよく豊富なる材料を精選し各方面に渡れる専門的研究をして細微を極めしめたり。しかしてその文章を見るにまた頗る遒勁《しゅうけい》なるをや。フェノロサは浮世絵|板物《はんもの》中最も上乗《じょうじょう》なるもの凡《およ》そ四百種を採れるの傍《かたわら》板物の研究に必要なる板画家の肉筆制作凡そ五十種を合せてその制作の年代に基《もとづ》き順次にこれを配列し個々につきて精細なる説明を施すと共に浮世絵一般の歴史についてもまた合せ論ずる処ありき。斯《かく》の如き研究の法はいまだかつて何人《なんぴと》も企て得ざりし処にしてこれによりて吾人は始めて一目瞭然として各画家の制作年限とまたその画風の変化を知ると共にこれを一括して明和《めいわ》二年(一七六五年)より嘉永《かえい》三年(一八五〇年)に至る浮世絵全盛の各時代を通覧し得たり。この書出でてより斯界《しかい》の研究は最早《もはや》その第二次とすべき一局面の細密なる蒐集以外主要の点に付《つい》ては全く為《な》すべき余地なきに至りしといふも過賞にあらず。フェノロサの研究は浮世絵の各流派を挙げて漏らす処なく堅実にして綿密を極めたり。さればもし此《かく》の如き研究の方法を移して欧洲美術史の上に施すものありとせんか、敢《あえ》てその全史に渉《わた》らざるもよし限られし一時代につきてもよく堅実なる研究の基礎となるべきや疑ひなし。彼は十九世紀後半(嘉永以後)に輩出したる多数の浮世絵師の如きは全くこれを顧みざりしといへども決して一派一流の画家にのみ偏する事なく広く各派の一般を見しかして後《のち》常に見識ある美術史家のなすが如く各流派の中《うち》よりその代表者と見るべき比較的少数の画家を選び出《いだ》せり。なほフェノロサがその編纂目録において浮世絵板物の一枚ごとにその出板《しゅっぱん》年代を記載したるは頗る驚愕《きょうがく》すべき事とす。こはその発見者自身の語るが如く、かかる古美術品の制作年次の如き、元より絶対的に数字の誤りなしとは断言し得べからず。凡《すべ》て記載されたる年数に近きものたるは勿論《もちろん》なるべしといへども、斯界《しかい》の研究者は必ずや見て以てフェノロサが推断の誤謬《ごびゅう》なきに驚かざるを得ざるべし。浮世絵一枚々々の出板年数は一見容易なるが如しといへどもしかも唯《ただ》漫然として各板画の画風筆法等を比較するが如き事にては決して発見し得べきものにあらず。浮世絵板物には幸《さいわい》にも大抵画工の署名あればフェノロサはこれによりて画工の生死年次を参考としたるは勿論たるべしといへども、その板画出板の年次に至つては例《たと》へば宝暦《ほうれき》より寛政《かんせい》に至る浮世絵全盛期中、西村重長《にしむらしげなが》の寛保《かんぽう》三年(一七四三年)における、鈴木春信《すずきはるのぶ》の明和二年(一七六五年)における、あるひは鳥居清長《とりいきよなが》の天明《てんめい》三年(一七八三年)における、また喜多川歌麿《きたがわうたまろ》の寛政七年(一七九五年)における制作といふが如く明確に年数を決定し得べきものは甚だ少《すくな》し。然らばフェノロサがこの穿鑿《せんさく》に関して最も主要なる手掛《てがか》りとなせしものは何ぞや。そは唯画中の人物を見てその結髪《けっぱつ》の形状によりしのみ。されどこれとて明瞭に毎年流行の変化を示して誤りなからしむるものならず。殊に日本の流行に関しては欧洲におけるが如く毎年の変化を記録したるものなし。然れどもフェノロサが専ら画中婦女の衣服及び結髪の変化に重きを置きしはこれを以て大抵出板の年号を記載したる板刻絵本類の挿画に比較せんと欲したるがためなり。この絵本類は実にフェノロサをして驚くべき発見をなさしめたる基礎たりしなり。彼は紐育《ニューヨーク》展覧会陳列品及びその編纂目録にはこれら板刻絵本類を編入せざりしかど、あたかも彼が浮世絵板物に対照せしむるに肉筆画を以てしたるが如く、もしこれら板刻の絵本をも参照せしめたらんには、彼が研究上相互の関係も更に一目瞭然として、吾人は各画家の板物一枚々々につきてこれを絵本に描かれたる人物の流行及び風俗の変化に徴し得べきが故に、一層得る所多くまた彼が研究に対しても更に深く信服することを得たりしなるべし。  フェノロサは千九百〇八年九月二十一日心臓を病みて倫敦《ロンドン》に歿せり。惜哉《おしいかな》その計画せし日本の絵画及浮世絵板物に関する完全なる一大美術史は脱稿せられずして止みしといへども前述したる紐育展覧会目録の外《ほか》に千八百九十八年(明治三十一年)東京に開かれたる展覧会の目録あり。小冊子なれども斯界の研究書として欠くべからざるものにして、また別に美装したる Masters of Ukiyoye(『浮世絵の名家』)の著あり。  千八百九十七年(明治三十年)英国 South Kensington Museum(南ケンシングトン美術館)の役員 Edward F. Strange の簡易なる History of Japanese Wood-Engraving(『日本板画史』)出版せらる。この書|元《もと》より美術の評論を除外したるには非《あら》ざれども、多くは浮世絵師の伝記雅号及び住居等、凡《すべ》て直接絵画に関係少きことのみを記述し、必要なる制作品の事につきては僅に数行の文字《もんじ》を費すのみ。この書の欠点はそれのみならず、浮世絵の沿革につきて全然誤りたる見解をなせることなり。著者は思ふに十九世紀(享和《きょうわ》文化以降)の浮世絵のみを知るものと覚しく、専ら十九世紀を主としてかへつて十八世紀(元禄《げんろく》末期より寛政の終に至る)を疎《おろそか》にする所あり。然るに浮世絵の歴史上十八世紀は最も必要なる時代にして、十九世紀に至りては北斎広重二家の外|殆《ほとん》ど他に見るべきものなきにあらずや。編中一つとして著者の研究の如何《いかん》を思はしむるに足るものなくかつ往々にして利のために筆を取りたるが如き形跡歴然たり。日本美術を研究せんと欲するものにとりてむしろ有害無益の悪書といはざるべからず。ストレンヂはこの書を著すに当り浮世絵研究の一大基礎たるべきフェノロサが千八百九十六年編纂の目録をも決して参照する所なかりしが如し。しかして彼は千九百〇四年更にまた Japanese Colour-Prints(『日本の彩色木板画』)なる一書を売り出せり。  千八百九十七年 Seidlitz《ザイトリッツ》 の A History of Japanese Colour-Prints(『日本彩色板画史』即ちこの翻訳の原書なり)の第一版出づ。千九百年巴里人 Duret 仏蘭西国立図書館の購求せし絵本類の目次を編纂しこれを出版せり。千九百二年以後浮世絵の競売目録多く出版せらる。皆研究の好材料たり。千九百四年以来順次に出版せらるる独逸人 Perzinski の著書は短きものなれど各編ごとに一画家を捉《とら》へてこれを論評せり。同国人 Kurth は千九百七年歌麿につきて該博なる研究の結果を公表したり。 [#ここから2字下げ]  訳者|曰《いわく》。クルトは歌麿に次《つい》で写楽《しゃらく》の研究を出せり。千九百五年仏人 Marquis de Tressan 亭山《ていざん》なる雅号を以て Notes sur l'art japonais(『日本美術史』)二巻を著す。千九百十二年米人 Dora Amsden の The Heritage of Hiroshige 出づ。斯《かく》の如く欧米各国において浮世絵及び日本美術に関する出版物の夥多《かた》なる余は本論文の原著者がその巻末に挙げたる書目につき諸雑誌掲載の論文を除き単行本として公《おおやけ》にせられしもののみを数へてなほ七十余種の多きに及べるを見たり。仏人テイザンの『日本美術史』序論中|左《さ》の一節は興味あるが故に併《あわ》せ訳して左に録す。 [#ここで字下げ終わり]  欧洲人は維新以前にあつては僅に和蘭《オランダ》及|葡萄牙《ポルトガル》人が長崎出島《ながさきでじま》にてその土地の職人に製造せしめたる輸出向の陶器漆器を見るの外《ほか》日本の美術については全く知る所なかりしなり。その時代の輸出陶器は大抵支那製の模造にして意匠模様の如きも多年慣用せられたる最も形式的のものなりしが故に深く珍重する所とならざりき。されど漆器のみはこれに反して夙《つと》に欧洲人を驚かせし事は千六百年代のマザラン宮殿|宝什目録《ほうじゅうもくろく》に徴するもまた明かなり。やや降《くだ》つて路易《ルイ》十五世及十六世の治世に至るや日本漆器の流行|甚《はなはだ》盛《さかん》となりぬ。今日《こんにち》巴里ルウヴル美術館に陳列せらるる王妃マリイ・アントワネットの所蔵品を看《み》れば当時日本漆器の尊ばれたる事|遥《はるか》に陶器に優《まさ》りし事を知るに足るべし。然れども欧洲人はなほいまだ光琳の蒔絵《まきえ》、春信の錦絵《にしきえ》、整珉《せいみん》の銅器、後藤《ごとう》の目貫《めぬき》等については全く知る所なかりしが、維新の戦禍に際してこれらの古美術品一時に流出するやゴンクウル、ブュルチー、ゴンス、ギメエ、バルブットオの如き仏国の好事家《こうずか》狂奔してこれが蒐集と鑑賞とに従事したり云々《うんぬん》。 [#地から1字上げ]大正三年稿 [#改丁] [#2字下げ]浮世絵と江戸演劇[#「浮世絵と江戸演劇」は大見出し] [#7字下げ]一[#「一」は中見出し]  徳川氏の覇業《はぎょう》江戸に成るや、爰《ここ》に発芽せし文華をして殊《こと》に芸術の方面において、一大特色を帯ばしめたる者は娼婦《しょうふ》と俳優なり。太平の武士町人が声色《せいしょく》の快楽を追究して止《や》まざりし一時代の大《だい》なる慾情は忽《たちま》ち遊廓《ゆうかく》と劇場とを完備せしめ、更に進んでこれを材料となせる文学|音曲《おんぎょく》絵画等の特殊なる諸美術を作出《つくりいだ》しぬ。暫《しばら》く事を歴史に徴するに、わが劇場の濫觴《らんしょう》たる女歌舞伎《おんなかぶき》の舞踊は風俗を乱すの故《ゆえ》を以《もっ》て寛永《かんえい》六年に禁止せられ、次に起りし美少年の若衆《わかしゅ》歌舞伎もまた男色《だんしょく》の故を以て承応《しょうおう》元年に禁止せられて野郎《やろう》歌舞伎となりぬ。日本演劇発生の由来は全く一時代の公衆が俳優の風姿を愛慕する色情に基《もとづ》きしといふも不可ならず。女優|並《ならび》に遊女の女歌舞伎、また玩童《がんどう》の若衆歌舞伎、いづれにせよそが存在の理由は専《もっぱ》ら演技者の肉体的勢力にありて、歌舞音曲はその補助たりしや明かなり。寛文《かんぶん》延宝《えんぽう》以降時勢と共に俳優の演技|漸《ようや》く進歩し、戯曲またやや複雑となるに従ひ、演劇は次第に純然たる芸術的品位を帯び昔日《せきじつ》の如く娼婦娼童の舞踊に等しき不名誉なる性質の幾分を脱するに至れり。これと共に公衆の俳優に対する愛情もまたその性質を変じて、例《たと》へば武道|荒事《あらごと》の役者に対しては宛《さなが》ら真個《しんこ》の英雄を崇拝|憧憬《しょうけい》するが如きものとなれり。古今東西の歴史を見るも実に江戸時代におけるが如く公衆の俳優を愛したる例証はこれあらざるべし。江戸の市人《しじん》は俳優に対して不可思議なる熱情を有したり。彼らは啻《ただ》に演劇を見て喜ぶのみならず更にこれを絵画に描きて眺《なが》め賞したり。浮世絵の役者似顔絵はこれら必然の要求に応じたるものにして、その濫觴は浮世絵板画の祖ともいふべき菱川師宣《ひしかわもろのぶ》なるべし。山東京伝《さんとうきょうでん》はその著『骨董集《こっとうしゅう》』において延宝|天和《てんな》の頃《ころ》既に俳優|坊主小兵衛《ぼうずこへえ》を描ける一枚絵ありし事を言へり。寛文十年板『垣下徒然草《えんかつれづれぐさ》』、延宝六年板『古今役者物語《ここんやくしゃものがたり》』等の評判記には皆当時俳優の肖像を挿入《そうにゅう》せり。以て元禄《げんろく》以前既に俳優肖像画の行はれたるを知るべし。然《しか》れどもその流行|最《もっとも》盛《さかん》なるに至りしは元禄年代|鳥居清信《とりいきよのぶ》出でてより後《のち》なりき。本年演劇珍書刊行会において翻刻せし鳥居清信が『四場居百人一首《しばいひゃくにんいっしゅ》』(全一冊)は元禄六年の板にして、この珍書は日本演劇|並《ならび》に浮世絵研究者に取りて二様《によう》の興味を感ぜしむ。一は清信がいまだ豪健|放恣《ほうし》なる一家の画風を立《たつ》るに到《いた》らず、専《もっぱ》ら師宣の門人|古山師重《ふるやまもろしげ》を中間《ちゅうかん》にして菱川派の筆法を学びたる時代の制作を窺《うかが》ふ一例とするに足ればなり。第二は卑俗なる俳優の画帖《がじょう》を作るに画工は『小倉《おぐら》百人一首』の如き古典の体裁を取りたる事なり。こは浮世絵のみならず江戸平民の諸有《あらゆ》る美術文学を通じて現はれたる特徴にして、厳粛なる支那日本の古典よりその意匠を借来《かりきた》りてこれを極《きわ》めて卑俗なるものに応用する時は爰《ここ》に自《おのずか》ら滑稽《こっけい》機智の妙を感ぜしむべし。俳優の紋処《もんどころ》並にその系図を『武鑑《ぶかん》』に比したる『明和伎鑑《めいわぎかん》』の如き、あるひは天明《てんめい》八年京伝が描ける『狂歌五十人一首』の画像の如き皆江戸平民の考案せる芸術的遊戯の特色を示すものならずや。余は鳥居清信が『四場居百人一首』において輪廓を描ける線の筆力と、模様風なる人物の姿勢と、また狂歌を散《ちら》し書きにしたる文字と絵画との配合につきて殊に美妙なる快感を禁ずる能《あた》はず。  元禄年間は元祖|団十郎《だんじゅうろう》が創意せる荒事の新技芸都会の人目《じんもく》を驚かしたる時なり。鳥居清信がいはゆる鳥居風なる放肆《ほうし》の画風を立《たて》しは思ふに団十郎の荒事を描かんとする自然の結果に出《いで》たるものならん歟《か》。清信が役者一枚絵は元禄以降|正徳《しょうとく》年中において次第に流行しその後継者たる鳥居派二世の絵師|清倍《きよます》に至りて益〻《ますます》流行を極め、これがために元禄時代菱川師宣の盛時に流行したりし墨摺《すみずり》絵本類の板刻は享保《きょうほう》に至りて大《おおい》に廃《すた》れたりといふ。(元文《げんぶん》に入り西川祐信《にしかわすけのぶ》出づるに及び絵本は再び流行せり。)鳥居清倍と同時代に二世|清信《きよのぶ》あり。その画《が》は元祖清信が歿年《ぼつねん》(享保十四年)の頃より寛延《かんえん》三年の頃まで続いて出《いで》しが故に、時として元祖清信の作と混同して大《おおい》に今日《こんにち》の研究者を苦しましむ。役者絵は以上鳥居派の三画工並にその門人の外《ほか》に、奥村政信《おくむらまさのぶ》及びその門人のこれを描けるもの尠《すくな》からず。以上諸画工の役者絵は皆墨摺の板行絵《はんこうえ》に彩色《さいしき》を施したる丹絵《たんえ》臙脂絵《べにえ》漆絵《うるしえ》の類なり。寛保《かんぽう》三、四年に至り始めて色摺《いろずり》の紅絵《べにえ》現はれ一枚絵の外また役者似顔の団扇絵《うちわえ》漸《ようや》く流行せり。浮世絵色摺の発達につきては余既に鈴木春信《すずきはるのぶ》論の中《うち》に述べしが如く、元禄より元文を過ぎ寛保に及ぶまで凡《およそ》五十年間は仮に西洋美術史上の用語を以てすればいはゆる「復興期以前《プリミチフ》」の時代に相当すべし。今それら宝暦《ほうれき》以前の浮世絵に現はれたる役者絵を以てこれを演劇の歴史に対照せしめんか、『役者名物袖日記《やくしゃめいぶつそでにっき》』(明和八年板)に載せたる時代分《じだいわけ》を見るに作弥九兵衛《さくやきゅうべえ》玉川千之丞《たまがわせんのじょう》多門庄左衛門《たもんしょうざえもん》らの俳優出でたる寛永承応の頃を劇道の大昔となし、延宝元禄の頃|続狂言《つづききょうげん》道具《どうぐ》口上《こうじょう》など始まり俳優には中村伝九郎、中村|七三《しちさ》、永島茂右衛門《ながしまもえもん》、宮島伝吉、藤田小三郎、山中平九郎、市川団十郎ら声名ありし時代を中昔《なかむかし》となしぬ。正徳より享保の末《すえ》は末昔《すえのむかし》と呼び看板道具等美を尽し狂言むづかしくなりたる時代にて、市川団十郎松本小四郎|富沢半三郎《とみざわはんざぶろう》小川善五郎|早川伝五郎《はやかわでんごろう》沢村宗十郎《さわむらそうじゅうろう》大谷広治《おおたにひろじ》らの俳優をばその代表として掲げたり。当時の丹絵漆絵紅絵を蒐集《しゅうしゅう》しこれら古代俳優の舞台姿をば衣裳《いしょう》の紋所《もんどころ》によりて考証|穿鑿《せんさく》するは吾《われ》ら好事家《こうずか》に取りて今なほ無上の娯楽たり。  寛保の末年浮世絵は西村重長(奥村政信門人)の工夫によりて初めて純然たる彩色板刻《さいしきはんこく》(二色板紅絵)の法を発明し宝暦に入りてその技《ぎ》益〻進歩せり。この時演劇は既に今日《こんにち》吾人《ごじん》の目睹《もくと》するが如く、セリ出《だし》、廻《まわり》道具、がんどう返《がえし》等あらゆる舞台装置の法を操座《あやつりざ》より応用し、劇場の構造|看客《かんきゃく》の観覧席をもまた完備せしめき。  宝暦年代は鳥居派三世の絵師|清満《きよみつ》(清倍子)の全盛期なり。清満は浮世絵史上において二色摺紅絵を三色摺に進歩せしめし功労を有す。石川豊信《いしかわとよのぶ》らと並んで頗《すこぶ》る妖艶《ようえん》なる婦女の痴態《ちたい》を描きまた役者絵も尠《すくな》しとせず。然れどもこの時代には役者絵の流行既に享保元文時代の如く盛んならず、その板刻|時《とき》に甚《はなはだ》粗雑となるの傾きありき。しかしてこの衰勢を挽回《ばんかい》せしめたるものは実に役者絵中興の祖と称せらるる勝川春章《かつかわしゅんしょう》なりとす。 [#7字下げ]二[#「二」は中見出し]  勝川春章は肉筆専門の浮世絵師|宮川長春《みやがわちょうしゅん》につきて夙《つと》に色彩の妙技を学び得たり。あたかも好《よ》し宝暦過ぎて明和改元の翌年浮世絵板刻の技術は鈴木春信並に板木師金六《はんぎしきんろく》の手によりて肉筆画に異ならざる完全なる彩色摺《さいしきずり》の法を工夫《くふう》し得たり。春章が役者絵は独逸《ドイツ》人ザイトリッツの『日本板画史』によれば明和元年を以て始まるといふ。春章がこの時代の板画は役者絵風俗画共にその曇りて軟《やわら》かき色調、専ら春信に倣《なら》ふ処多かりしが、明和末年より安永に入《い》るやその筆力は忽《たちま》ち活気を帯びその色彩は甚だ絢爛《けんらん》となり、ここにいはゆる勝川派の特徴を明かにせり。仏蘭西《フランス》人ゴンスは彼を以て鳥居派の豪健に春信の柔和繊細を交《まじ》へたるものとなせり。今《いま》鳥居派奥村派の描ける丹絵漆絵の役者絵と、春章が勝川派の特徴を歴然たらしめし安永時代の役者絵を取りてこれを比較すれば一見して如何《いか》にその画風の写生に近《ちかづ》きしかを知るべし。宝暦時代の鳥居清満が紅絵の役者を見るも、吾人はなほ画中人物の衣裳に紋処《もんどころ》なかりせば容易にその俳優の誰なるかを弁ずること能はざるべし。然るに春章の錦絵《にしきえ》に至りては、例へば四世団十郎(五粒)三世団蔵(市紅)元祖|歌右衛門《うたえもん》(歌七)元祖中村|仲蔵《なかぞう》(秀鶴)等の如き、その容貌《ようぼう》の特徴往々にして身体付《からだつき》の癖をも交へたれば、朧気《おぼろげ》ながら各優の芸風をさへ想像せしめんとす。役者似顔絵は勝川春章|出《い》でて全くその趣きを一新したりしなり。古来鳥居奥村両派の画《え》に見たる太くして円味《まるみ》ある古風の線は今や細く鋭く鮮明となり、衣裳の模様は極めて綿密に描き出《いだ》されその色彩はいはゆる吾妻《あずま》錦絵の佳美を誇ると共に、舞台の道具|立《だて》はそのまま役者絵の背景に移され布局上最も重大なる一要素となりぬ。また図中人物が筋肉の緊張を示さんとしてその四肢の線に紅隈《べにくま》を施したるも春章の創意する所なりといふ。  春章が役者絵には宝暦時代より承継せる細長き細絵《ほそえ》(一枚また三枚続もあり)と大判《おおばん》の錦絵とあり。その数《かず》いづれも夥《おびただ》しきが中《なか》に余の一見して長く忘るる能はざるものは、内地にて目撃したる原板画よりも、むしろ外国蒐集家の所蔵品の写真版にせられたるものなり。独逸人クルトの著『東洲斎写楽論《とうしゅうさいしゃらくろん》』の巻末に添へたる挿絵の中《うち》、春章が暫《しばらく》の図は橘《たちばな》の紋《もん》染抜きたる花道の揚幕《あげまく》を後《うしろ》にして大《だい》なる素袍《すおう》の両袖|宛《さなが》ら蝙蝠《こうもり》の翼《つばさ》ひろげたるが如き『暫《しばらく》』を真正面より描《えがき》しものにて、余はその意匠の奇抜なるに一驚せり。また巴里《パリー》人ジヨオ蒐集板画目録中|岩井半四郎《いわいはんしろう》が座頭《ざとう》に扮《ふん》せる所作事《しょさごと》の図あり。扇地紙《おうぎじがみ》の襖《ふすま》を後《うしろ》にして大黒頭巾《だいこくずきん》を冠《かぶ》り荒き縞《しま》の袴《はかま》はきたる座頭が手に杖《つえ》を持ち、片足をば足袋《たび》の裏を見するまで差上げて踊れるその姿の軟かにしてまた勢《いきおい》あるさま、余は眺むる中《うち》に図中|自《おのずか》ら出語《でがたり》の三味線と足拍子《あしびょうし》の響《ひびき》をさへ聞くが如き心地《ここち》せり。  春章はそれら一枚絵の外《ほか》に俳優似顔の絵本をも出《いだ》せり。『役者《やくしゃ》国《くに》の華《はな》』(出板年次不詳)『絵本舞台扇《えほんぶたいおうぎ》』(明和七年板色摺三冊)その続編(安永七年板色摺二冊)並《ならび》に『役者《やくしゃ》夏《なつ》の富士《ふじ》』(安永九年板墨摺一冊)等なり。『役者夏の富士』は舞台に出でたる役者を描かずして、そが平素日常の素顔《すがお》を取りその住宅庭園の後景を配合せしめたる処、役者絵始まりてよりいまだかつてその例なき新意匠なり。後年《こうねん》に至り歌川|豊国《とよくに》専らこの意匠を取りて名声を博しぬ。また『役者国の華』はジヨオ蒐集板画目録に出でたるその中《うち》の一図(傾城《けいせい》に扮せる中村七三郎と五郎に扮せるものと覚しき市川純蔵両人を大なる盃に載せ後《うしろ》に菊花と紅葉を描けり)によりて画風より推察すれば明和初年の出板なるべしと思はるれどわれいまだその原本を見るの機会なきを遺憾なりとす。 『絵本舞台扇』及びその続編は春章|並《ならび》に同時代の画工|一筆斎文調《いっぴつさいぶんちょう》の合作せるものにして明和安永における江戸大坂両都の俳優を一覧するの便あり。この絵本はまた鈴木春信の『青楼美人合《せいろうびじんあわせ》』(五冊)『春《はる》の錦《にしき》』(二冊)と共に色摺絵本中の最も古くまた最も精巧なるものとして板画研究者の珍重する処たり(明和以前の絵本は皆墨摺にして色摺はなし)。 『絵本舞台扇』を繙《ひもと》くものは春章は専ら立役《たちやく》また実悪《じつあく》の俳優を描き、文調は重《おも》に瀬川菊之丞《せがわきくのじょう》(王子路考)中村松江《なかむらまつえ》(里公)岩井半四郎(杜若)の如き女形《おんながた》若しくは市川春蔵《いちかわはるぞう》佐野川市松《さのがわいちまつ》の如き若衆形《わかしゅがた》を描けるを見るべし。これ文調が役者絵の特徴にして彼は一枚絵においても決して春章の如く活動せる役者絵を描かず常に女形の物静かに優しく佇《たたず》める姿を択《えら》べり。さればその色彩もまた春章の如く褐色《かっしょく》(柿色)と黒色《こくしょく》の対照によれる画面の活躍を欲せず、常に春信の色彩軟かき調和を慕ひて不透明なる間色《かんしょく》を用ひまた時として湖龍斎《こりゅうさい》に見るが如き淡き透明なる丹《たん》を点ず。一筆斎文調が板画の色彩は浮世絵中最も上乗《じょうじょう》のものに比して劣ることなし。  明和安永時代は斯《かく》の如く春章文調が役者絵の全盛時代なりしが天明に入りて両者の板画は漸《ようや》く稀《まれ》になりぬ。春章は天明以後その晩年をば壮時の如くに再び肉筆画の制作のみに送りき(春章は寛政四年に歿し文調は寛政八年に逝《ゆ》けり)。天明年代の役者絵は春章の門人|春好《しゅんこう》春英《しゅんえい》の手に成り、またこの時代より近世浮世絵史上の最大画家と称せらるる鳥居清長の嶄然《ざんぜん》として頭角を顕《あらわ》すあり。時代はかくして寛政に移り清長の退くを待ちて歌川豊国出でぬ。 [#7字下げ]三[#「三」は中見出し]  天明時代の役者絵を論ずるに先立ちてここに一言《いちげん》すべきは劇場内外の光景を描ける風俗的|景色画《けいしょくが》のこととす。元文より寛保延享寛延に至る頃奥村政信|及《および》その一派の画工は室内の遠景を描ける大板《おおばん》の紅絵《べにえ》漆絵《うるしえ》を出《いだ》せり。即ち大名屋敷あるひは青楼の大広間に男女《だんじょ》打集《うちつど》ひて遊宴せるさままたは人形芝居を見る処なぞを描きたるものにて、和蘭陀風《オランダふう》の遠近法はこの時既に浮世絵に応用せられ天井と襖《ふすま》の遠くなるに従ひて狭く小さく一点に集り行くさま、今日《こんにち》吾人が劇場にて弁慶《べんけい》上使《じょうし》の場《ば》または妹脊山《いもせやま》館《やかた》の場《ば》の書割《かきわり》を見るに似たり。この種類の遠景図は当時|浮絵《うきえ》と呼びしものなり。余は奥村政信が堺町《さかいちょう》の町木戸《まちきど》より片側《かたかわ》には中村座片側には人形芝居|辰松座《たつまつざ》の櫓《やぐら》を見せ、両側の茶屋|香具店《こうぐてん》の前には男女の往来せるさまを描きしものを見たり。政信はまた観客の雑沓《ざっとう》せる切落《きりおとし》と両側桟敷《りょうがわさじき》のはづれに小さく舞台の演技を見せたる劇場内部の図をも多く描きぬ。これらは演劇並に劇場内部の構造を知らしむるが故に演劇史の研究上最も必要の参考品たり。かかる大板の浮絵は宝暦に入りて鳥居清満が紅絵を最後とし色摺《いろずり》錦絵|出《いづ》ると共に暫《しばら》く杜絶《とぜつ》せしが安永に及び歌川豊春の浮絵となりて更にその流行を増しぬ。豊春の浮絵は政信清満の板物《はんもの》ほど大判ならざれどその着色は家屋の木材を描くに濃き代赭《たいしゃ》を用ひこれに橙黄色《とうおうしょく》と緑色とを配したる処また別種の趣あり。然れども浮絵は天明以後に及び一般に甚しく粗製のもの多くなりぬ。  吾人は豊春の浮絵において安永時代の芝居町《しばいまち》並に各座劇場内の光景を窺《うかが》ふに当りてここにまた北尾重政《きたおしげまさ》の描ける絵本をも一見せざるべからず。重政は鈴木春信の門人にして勝川春章一筆斎文調及び歌川豊春らと並びて明和安永間の名手なり。重政の劇場を描ける絵本は墨摺《すみずり》三冊にて『戯場風俗栄家種《ぎじょうふうぞくさかえぐさ》』と題しその画風は全く鈴木春信に似たり。この書は明和四年の板にして勝川春章が『役者夏の富士』に先立つ事十余年なれば思ふに劇場の風俗を描ける絵本中の最も古きものなるべし。  巻《かん》を開けば図は先《ま》づ武家屋敷長屋の壁打続きたる処にして一人《ひとり》の女窓のほとりに彳《たたず》み頬冠《ほおかむり》せし番付売《ばんづけうり》を呼止めて顔見世《かおみせ》の番付|購《あがな》ふさまを描きたり。繁華の橋上《きょうじょう》に乗込《のりこみ》の役者を迎ふる雑沓の光景(第二図)より、やがて「吹屋町《ふきやまち》を過《すぐ》れば薫風《くんぷう》袂《たもと》を引くに似た」る佐野川市松《さのがわいちまつ》が油店《あぶらみせ》。石畳の模様に同の字の紋所染めたる暖簾《のれん》のかげには梳櫛《すきぐし》すき油など並びたり。二月十五日は中村座の祝日《いわいび》とかや。進上《しんじょう》の飾物《かざりもの》山をなし(上巻第四図)やがて顔見世中村座|木戸前《きどまえ》の全景(上巻第五図)より市村座劇場内(第六図)を見て過《すぐ》れば、再び芝居町の名物|高麗《こうらい》せんべいの店先《みせさき》(第七図)に花菱《はなびし》の看板人目を引き、名代福山《なだいふくやま》の蕎麦《そば》(中巻第一図)さては「菊蝶《きくちょう》の紋所花の露にふけり結綿《ゆいわた》のやはらかみ鬢付《びんつけ》にたよる」瀬川《せがわ》の白粉店《おしろいみせ》(中巻第八図)また「大港《おおみなと》の渦巻《うずまき》さざれ石の巌《いわお》に遊ぶ亀蔵《かめぞう》せんべい」は御伽羅《おんきゃら》の油《あぶら》「花橘《はなたちばな》の香《か》につれ」て繁昌《はんじょう》する永斎堂《えいさいどう》が店先(中巻第四図)大小立派なる武士の艶《なまめ》かしき香具《こうぐ》購ふさまさすが太平の世の風俗目に見る如し。重政がこの絵本にはその他なほ楽屋裏の新道《しんみち》に編笠《あみがさ》深き若衆形《わかしゅがた》の楽屋入りを見せ、舞台のうしろに囃子方《はやしかた》腰かけて三味線|弾《ひ》きゐる傍《かたわら》に扮装せる役者の打語《うちかた》れるあり。あるひは楽屋|稲荷町《いなりまち》の混雑、中二階《ちゅうにかい》女形部屋《おんながたへや》の体《てい》、また欞子窓《れんじまど》に縄暖簾《なわのれん》下《さ》げたる怪しき入口に五井屋《ごいや》と記《しる》して大振袖《おおふりそで》に駒下駄《こまげた》の色子《いろこ》過ぎ行くさまを描きしは蔭間茶屋《かげまぢゃや》なるべきか。 [#7字下げ]四[#「四」は中見出し]  明和安永は勝川春章|並《ならび》にその一派が鳥居派に代りて役者絵を流行せしめたる時代なりしが、天明に及びて浮世絵なる平民画壇の中心点は再び鳥居派四世の画工|清長《きよなが》に移り来りぬ。清長は浮世絵発達の歴史上その創始者なる菱川師宣《ひしかわもろのぶ》また錦絵の発明者なる中興の祖|鈴木春信《すずきはるのぶ》と並びてこれらの三大時期を区別せしむべき最も重要なる地位を占む。歌麿《うたまろ》、春潮《しゅんちょう》、栄之《えいし》、豊国《とよくに》ら近世浮世絵の諸流派は悉《ことごと》く清長が画風の感化を蒙《こうむ》りたるものにして、浮世絵は清長及びそが直接の承継者歌麿の二人《ににん》に及びてその最頂点に達したり。それと同時にやがて一定の形式に陥るべき淀滞《ていたい》衰微の源泉もまた実にこの二人より生ぜしなり。  清長の描ける風俗画の美人は古今の浮世絵を通じてその容貌姿勢最も健全|豊艶《ほうえん》にして四肢の比例最も美しく自然なり。役者似顔の板行絵《はんこうえ》を見るも安永年代においては専ら勝川春章に倣《なら》ふ所ありしが、天明に入りてその技|漸《ようや》く円熟するや、清長は美人画の人物に異ならざる自由自然なる固有の筆法を以て役者の舞台姿を描きたり。清長の好んで描く所は浄瑠璃所作事《じょうるりしょさごと》の図にして役者の後《うしろ》に出語《でがたり》の連中《れんじゅう》を合せ描きたり。この時代の出語を見るに富本常磐津《とみもとときわず》の太夫《たゆう》には裃《かみしも》を着けず荒き縞《しま》の羽織を着たるものあり。天明五年鳥居清満歿するや清長は鳥居派四世をつぎその年の顔見世より寛政十年に至るまで、毎年|三座《さんざ》劇場の番付看板を描きぬ。こは似顔の錦絵と異りて鳥居派古来の筆法を用ひたり。元祖清信以来この一派固有の画風は清長に至りて今や僅かに劇場の看板と番付絵にのみその名残《なごり》を留《とど》めぬ。  喜多川歌麿も安永天明の間《かん》豊章《とよあき》の名を以てしばしば役者似顔絵またはせりふ役者|誉詞《ほめことば》の表紙絵を描きぬ。然《さ》れどもさしたる特徴なければ論ぜず。吾人は唯《ただ》歌麿がかつて役者似顔絵を描かずとなせし『浮世絵類考《うきよえるいこう》』の選者が誤謬《ごびゅう》を明かにせんとするのみ。鈴木春信も役者絵を描かずとなされたれどこもまた誤れり。  さて寛政年代に入り鳥居清長に代りて役者似顔絵の名人となりしものは浮世絵師中|今日《こんにち》の日本人にもなほ広くその名を知らるる初代歌川豊国なり。豊国は歌川|豊春《とよはる》の門人なれどもその初期の板画は筆法及び色彩共に鳥居清長に倣《なら》へり。清長時代の浮世絵師はその門人たると否とに論なく一般に甚しく清長の感化を蒙《こうむ》りし事あたかも明和年代の浮世絵が鈴木春信を中心とし安永年代が勝川春章を中心となしたるに異ならず。豊国が板画の最良なるものは大抵寛政年代のものにして享和に及ぶや美人画の人物|及《および》その容貌等は固定せる歌麿の形式に倣ひ次《つい》で晩年に至りては画風全く頽廃《たいはい》して遂に門人|国貞《くにさだ》らの後《あと》に随《したが》はんとするの傾きありき。  豊国の役者一枚絵はその種類甚だ多し。その中《うち》役者舞台絵姿と題する全身一人立《ぜんしんいちにんだち》の図と東洲斎写楽が雲母摺《きらずり》に同じき大首絵《おおくびえ》最もよし。豊国は此《かく》の如く年々各座の当狂言《あたりきょうげん》を描きて倦《う》まざりしのみならずまた別に俳優の衣裳《いしょう》鬘《かつら》をつけざる日常の姿を描きこれに四季折々の花鳥《かちょう》あるひは景色《けいしょく》を配合したり。この新意匠は大《おおい》に世の好評を博し豊国以後もその門人国貞国政また菊川英山《きくかわえいざん》ら皆これに倣ひて同じ図案を反復する事その限《かぎり》を知らず。菖蒲《しょうぶ》の花咲乱れたる八橋《やつはし》に三津五郎《みつごろう》半四郎歌右衛門など三幅対《さんぷくつい》らしき形して彳《たたず》みたる、あるひは両国花火の屋形船《やかたぶね》に紺絞《こんしぼ》りの浴衣《ゆかた》も涼し気《げ》に江戸三座《えどさんざ》の大達者《おおだてもの》打揃《うちそろ》ひて盃《さかずき》を交《かわ》せるさまなぞあまりに見飽きたる心地す。  似顔絵本は勝川春章が『舞台扇』『役者夏の富士』以来久しく杜絶《とぜつ》したりしが豊国に至りて再び流行せり即ち左の如し。 [#ここから2字下げ] [#割り注]似貌《にがお》絵本[#割り注終わり]俳優楽室通  一冊  豊国国政画|三馬《さんば》撰 寛政十一年板 戯子名所図会  三冊  馬琴《ばきん》撰 寛政十二年板 [#割り注]容貌写真[#割り注終わり]俳優三階興《はいゆうさんがいきょう》  二冊  三馬撰 享和元年板 [#割り注]三戯場[#割り注終わり]俳優三十二相  一冊  馬琴撰 享和二年板 役者此手嘉志波《やくしゃこのてかしわ》  二冊  焉馬《えんば》撰 享和三年板 俳優相貌鏡  二冊  享和三年板 [#ここで字下げ終わり]  この中《うち》彩色板刻の最も精巧なるは『俳優三階興』と『役者此手嘉志波』なり。『俳優三階興』は式亭《しきてい》三馬がその序文に言へるが如く春章が絵本『夏の富士』を焼直したるものに相違なし。然れども図中の風俗並に役者の時代を異にせるとその色摺の調子甚だ美妙なるとによりて豊国が板画を検せんとするものの必《かならず》一覧せざるべからざるものたり。この絵本の色彩は歌麿が『吉原年中行事《よしわらねんちゅうぎょうじ》』と同じく各色《かくしょく》の間に配合せられし緑《みどり》黄《き》の二色《にしょく》は常によく全画面の色調を温和ならしめたり。  巻中《かんちゅう》殊に余の好む所の図二、三を選ばしめんか。上冊には桟敷後《さじきうしろ》の廊下より御殿女中大勢居並びたる桟敷を見せ市川八百蔵《いちかわやおぞう》桐《きり》の谷《や》門蔵《もんぞう》御挨拶《ごあいさつ》に罷出《まかりい》でお盃を頂戴《ちょうだい》する処今の世にはなき習慣《ならわし》なれば興いと深し。林泉《りんせん》のさま見事なる料理屋の座敷に尾上松助《おのえまつすけ》胡弓《こきゅう》の調子を調べつつ三絃《さんげん》手にせる芸者と居並び女形《おんながた》の中村七三、松本小次郎の二人《ふたり》が箱引《はこひき》の戯れなすさまを打眺めたり。下巻には楽屋|総浚《そうざら》ひのさま面白く尾上|雷助《らいすけ》の腰掛けて髪を結《ゆ》はする床屋《とこや》の店先《みせさき》、大谷徳治《おおたにとくじ》が湯帰りの浴衣《ゆかた》に手拭《てぬぐい》を額《ひたい》にのせ着物を小脇《こわき》に抱《かか》へて来かかるさまも一興なり。暗き夜の空より雨|斜《ななめ》に降りしきる橋袂《はしたもと》、縞の合羽《かっぱ》に単衣《ひとえ》の裾を端折《はしょ》りし坂東又太郎《ばんどうまたたろう》を中《なか》にしてその門弟|三木蔵七蔵《みきぞうしちぞう》らぶら提灯《ちょうちん》に路《みち》を照しつついづれも大きなる煙草入《たばこいれ》下げたる尻端折《しりはしょり》、雨傘《あまがさ》打並べて歩み行くさま何《な》にとなく江戸らしい好《よ》い心持なり。巻末に市川|白猿《はくえん》牛島《うしじま》の隠宅にて成田屋と自筆の提灯を嵐雛助《あらしひなすけ》に遣《つか》はす処、これ人のよく知る逸話なるべし。 [#7字下げ]五[#「五」は中見出し]  豊国よりやや先立ちて寛政の初年に東洲斎写楽なる画工あり。写楽は役者似顔絵専門の板下《はんした》絵師なりしが極端なる写実の画風当時の人気に投ぜず暫時にしてその制作を中止せり。維新以後外国人の浮世絵研究|盛《さかん》なるに及びても写楽はなほ重んぜられず日本美術研究の開拓者と称せられし米人フェノロサの如きも写楽の俳優肖像画を以て醜陋《しゅうろう》なりとなしき。然るに巴里《パリー》においてはカモンド伯を初め写楽を愛するもの漸《ようや》く多く遂に写楽は浮世絵師中最大の画工と見なさるるに至れり。昨年独逸人クルトの出版せる書籍中には今日まで我邦人《わがほうじん》すらかつて見ざりしほどの珍品をも網羅《もうら》し尽せり。これによつて窺へば写楽の似顔絵は細絵《ほそえ》の全身画も多けれど無比の傑作とすべきはやはり世人知る所の雲母摺《きらずり》なるべし。当時歌麿の美人画にも肖像画の地色に銀色の雲母《きら》を敷きたるもの多し。思ふにこれ当時の画工が鏡の面《おもて》に人の顔の映りしさまを見せんとしたる新意匠なるべし。そはともあれ今日写楽の似顔絵を見るに雲母《きら》は人物背後の装飾として最も面白く感ぜらる。余は独仏の好事家《こうずか》が写楽を珍重するは単に好奇の念のみにはあらず、その布局その色彩及び顔面輪廓の描線等、油絵肖像画の新発展につきて多大の参考となるがためなるべしと思為《しい》せざるを得ず。写楽の似顔絵を熟視せよ。松本幸四郎《まつもとこうしろう》が高麗格子《こうらいごうし》の褞袍《どてら》に鉢巻《はちまき》して片手の指先にぼんやりと煙管《きせる》を支《ささ》へさせたるが如き、錦絵の線と色とが如何《いか》によく日本人固有の容貌|並《ならび》に感情を描出《えがきいだ》せるか。余は日本人の皮膚の色とその朦朧《もうろう》たる顔面並にやや遅鈍なる輪廓は写楽の手法を以てするの外《ほか》決して他にこれを現はすの方法なかるべしと信ずるものなり。写楽が女形《おんながた》の肖像は奇中《きちゅう》の奇《き》傑作中の傑作ならんか。岩井半四郎、松本|米三郎《よねさぶろう》の如き肖像を見れば余は直《ただち》に劇場の楽屋において目《ま》のあたり男子の女子に扮したる容貌を連想す。濃く塗りたる白粉《おしろい》のために男にもあらず女にもあらぬ一種怪異なる感情は遺憾なく実写せられたり。この極端なる画風は俳優を理想的の美貌と定めたる伝来の感情に牴触《ていしょく》する事|甚《はなはだ》しきがためこの稀有《けう》なる美術家をして遂に不評のために筆を捨つるのやむなきに至らしめき。写楽は元《もと》安房《あわ》の産にして能役者たりしといふの外《ほか》その伝記甚だ詳《つまびらか》ならず。  豊国が晩年文化の頃よりその門人国貞の時代は来れり。国貞の役者似顔画を蒐集せば文化より明治に至らんとする六十年間の幕末演劇史を一覧するに同じかるべし。国貞は豊国の名をつぎてその晩年「古今役者似顔大全《ここんやくしゃにがおたいぜん》」百余枚を描きぬ。これ鳥居清信以来春章文調清長らの似顔絵を模写したるものなれどその色彩とその画風とは甚だ近世的にして古風の趣《おもむき》少く懐古の料《りょう》となすに足らず。国貞が最上の錦絵は文化文政の頃のものたる事|余《よ》別に「衰頽期の浮世絵」において論ぜんと欲するが故ここには言はず(鳥居派五世清満の事も同じ論文に記したれば略す)。  役者絵は此《かく》の如く菱川師宣より国貞国芳及びその門葉《もんよう》の小画工に至るまで江戸二百余年を通じて連続したり。今延宝元禄より元治《げんじ》慶応に及ぶ俳優画を蒐集してこれを一覧せんには、浮世絵各派画風の推移は自《おのずか》らまた各時代の俳優が芸風の変化に思到《おもいいた》らしむべし。そもそも一技芸の起らんとするや、そが創始時代の制作には必ず原始的なる粗野の精力とこれを発表する簡朴《かんぼく》なる様式との間《あいだ》に後人《こうじん》の見て以て窺知《うかがいし》るべからざる秘訣《ひけつ》を蔵するものあり。元禄宝永の演芸は鳥居派初期の丹絵《たんえ》の如く豪放の中《うち》稚気を帯びたる精神はその簡易にしてしかも突飛《とっぴ》なる形式と相俟《あいま》つてここに不可思議なる雅趣を示せしものなるべし。享保に入りては河東節《かとうぶし》その他の音曲《おんぎょく》劇場に使用せられ、俳優には二世団十郎、元祖宗十郎ら出《い》で、後世の模範となるべき芸道の故実《こじつ》漸く定まりたる時代なり。これを浮世絵に見れば鳥居派の外《ほか》新《あらた》に奥村一派の幽婉《ゆうえん》なる画風と漆絵の華美なる彩色《さいしき》現はれぬ。劇場がしばしば風紀の紊乱《びんらん》と衣裳の華美なるにつきて禁制を蒙《こうむ》りしもこの時代にして、江戸平民の文化は刻々円熟の期に達せんとせり。四世団十郎、初代菊之丞ら出でたる宝暦より明和安永年代は啻《ただ》に絵画演劇のみにあらず、江戸平民固有の文学美術が尽《ことごと》く関西伝来の感化を脱してその特質を明かにしたる時代なり。江戸演劇も思ふに文調春章の時代においてその内容形式共に完備円熟し尽してやや複雑に流れ天明寛政に至りてはまた浮世絵と同じく漸次繊巧に傾くの弊に陥りしなるべし。原武太夫《はらぶだゆう》が宝暦末年の劇壇を罵《ののし》り、享保の芸風を追慕して止《や》まざりし『隣《となり》の疝気《せんき》』または手柄岡持《てがらのおかもち》が壮時の見聞《けんぶん》を手記したる『後《あと》は昔物語《むかしものがたり》』等を繙《ひもと》きて年々の評判記と合せ読み、これを浮世絵の役者似顔絵に対照せしむれば、また往時の演劇を想像するの一助とならん歟《か》。役者似顔絵は絵画として独立の価値並に興味あるは勿論なりといへども、われらに取りてはその以上になほ幾多の利益と趣味ある事を附記せざるべからず。今や時勢の変遷と共に江戸演劇も何らか特別なる保護の方法を講ずるにあらずんば、漸次破壊滅亡せんとするの時、吾人は二百年来の役者似顔絵並に劇場の風俗画に対して殊に愛惜《あいせき》の情を深くせずんばあらざるなり。  この蕪雑《ぶざつ》なる研究の一章は審《つまびらか》に役者絵の沿革を説明せんと欲するよりも、むしろこれに対する愛惜の詩情を吐露せんとする抒情詩《じょじょうし》の代用としてこれを草したるのみ。考証の事に関しては識者|幸《さいわい》に教《おしえ》を垂《た》るるに吝《やぶさか》なることなかれ。 [#地から1字上げ]大正三年稿 [#改丁] [#2字下げ]衰頽期の浮世絵[#「衰頽期の浮世絵」は大見出し] [#7字下げ]一[#「一」は中見出し]  浮世絵は寛政《かんせい》文化《ぶんか》の盛時を過ぎ、文政《ぶんせい》に入《い》りて改元の翌年|先《ま》づ春章《しゅんしょう》の後継者たる勝川春英《かつかわしゅんえい》を失ひ、続いて漫画略筆の名手|鍬形蕙斎《くわがたけいさい》(文政七年歿)を逝《ゆ》かしめ、また歌麿《うたまろ》の好敵手たりし歌川豊国《うたがわとよくに》(文政八年歿)を失ひぬ。浮世絵はその錦絵《にしきえ》なると絵本なるとを論ぜず共に著しき衰頽《すいたい》を示せり。時勢は最早《もはや》文政|天保《てんぽう》以後の浮世絵師をして安永《あんえい》天明《てんめい》時代の如く悠然《ゆうぜん》として制作に従事する事を許さざるに至れり。錦絵は歌麿以後江戸随一の名産と呼ばれ、美術の境《さかい》を出でて全く工芸品に属し、絵本は簡単なる印刷|出板物《しゅっぱんぶつ》となりぬ。浮世絵は社会の需用あまりに多くして遂《つい》に粗雑なる商品たるのやむなきに至りしなり。五渡亭国貞《ごとていくにさだ》一勇斎国芳《いちゆうさいくによし》以下の豊国門人、また菊川英山《きくかわえいざん》、渓斎英泉《けいさいえいせん》、鳥居清峰《とりいきよみね》らは不幸なるこの時代を代表すべき画工なり。(広重《ひろしげ》北斎《ほくさい》の事は余|既《すで》に「浮世絵の山水画と江戸名所」と題せし論文に言ひたればここに論ぜず。)  今これら諸家の制作を見るに、美術としての価値|元《もと》より春信《はるのぶ》清長《きよなが》栄之《えいし》らに比する事|能《あた》はざれど、画中男女が衣服の流行、家屋庭園の体裁《ていさい》吾人《ごじん》今日《こんにち》の生活に近きものあるを以《もっ》て、時として余は直《ただち》に自己現在の周囲と比較し、かへつて別段の興あるを覚ゆ。国貞国芳らの描ける婦女は春信の女の如く眠気《ねむげ》ならず、歌麿の女の如く大形《おおがた》の髷《まげ》に大形の櫛《くし》をささず。その深川《ふかがわ》と吉原《よしわら》なるとを問わず、あるひは町風《まちふう》と屋敷風とを論ぜず、天保以後の浮世絵美人は島田崩《しまだくず》しに小紋《こもん》の二枚重《にまいがさね》を着たるあり、じれつた結びに半纏《はんてん》を引《ひっ》かけたるあり、絞《しぼり》の浴衣《ゆかた》を着たるあり、これらの風俗今なほ伝はりて東京妓女《とうきょうぎじょ》の姿に残りたるもの尠《すくな》しとせず。その家屋も格子戸《こうしど》欞子窓《れんじまど》忍返《しのびがえ》し竹の濡縁《ぬれえん》船板《ふないた》の塀《へい》なぞ、数寄《すき》を極《きわ》めしその小庭《こにわ》と共にまた然《しか》り。これ美術の価値以外江戸末期の浮世絵も余に取りては容易に捨つること能はざる所以《ゆえん》なり。  文政八年初代豊国歿するや、その門人歌川|国重《くにしげ》自《みずか》ら二代豊国の名を犯しぬ。本郷《ほんごう》に住みしを以て本郷豊国といふ。今日|坊間《ぼうかん》において往々初代豊国の筆《ふで》と称して国重の画《が》を売るものあり。国重は師の名を犯せしが名声|揚《あが》らざりしかば幾何《いくばく》もなくして業を廃せしといふ。その作|元《もと》より初代豊国に比する事|能《あた》はざれど今日に至りてこれを見れば同門の国貞|国政《くにまさ》らと並びて更に軒輊《けんち》なし。役者似顔一枚絵|並《ならび》に二枚続《にまいつづき》はその彩色《さいしき》濃艶ならざる処かへつて国貞が晩年(三代豊国)の作に優《まさ》れり。美人風俗画においても六郷川渡船三枚続《ろくごうがわわたしぶねさんまいつづき》の如き聊《いささ》か寛政名手の俤《おもかげ》なきに非《あら》ず。(飯島半十郎著『浮世絵師便覧』には国重を豊重となしたり。『関根氏名人忌辰録』に国重〈二代豊国〉天保六年歿年五十九とあり。)  国重の名|漸《ようや》く忘れらるるを待ちて(弘化《こうか》二年)歌川国貞また自《みずか》ら先師の名を継ぎ同じく二代豊国と称しぬ。国貞は天明六年に生れ元治《げんじ》元年七十九歳を以て歿したればその長寿とその制作の夥《おびただ》しきは正に葛飾北斎《かつしかほくさい》と頡頏《きっこう》し得べし。然《しか》れどもその制作中の最も佳良なるものは悉《ことごと》く豊国の名を継がざりし以前にして、殊《こと》に文化時代の初期の作には時として先師豊国に匹敵すべきものなきにあらず。今西洋人の所論を参照するに仏蘭西《フランス》人 Teisan《テイザン》 は曰《いわ》く、 [#ここから1字下げ] 「国貞が初期の作は往々にしてその師豊国に比すべきものあり。役者似顔絵を見るにその面貌《めんぼう》と衣裳《いしょう》の線を描ける筆力は遒勁《しゅうけい》なり。その挙動と表情とは欧洲人の眼には聊か誇張に過ぐるの嫌《きら》ひあれどこは日本演劇の正確なる描写ならざるべからず。国貞の役者絵には彩色を施さざる白き地紙《じがみ》に人物を濃く浮立たせたるもの多し。この種類の中《うち》にて吾人は藍色《あいいろ》の濃淡殊に美しき衣裳をつけたるものを称美す。然れども彼はまた全く反対の方法を取り、黒ずみたる背景の山水に鮮明なる衣裳の色彩を対照せしむる事あり。吾人の蒐集品《しゅうしゅうひん》中にてその一例を求むれば、空に連なる薄暗き夜の山は濃き紫に、前方なる河水《かすい》は黒き藍色に彩《いろ》どられたり。この河辺《かへん》に佇《たたず》める婦女の衣裳を見るに、薄桃色にぼかされし木立《こだち》の裾模様《すそもよう》は月光を浴びたるさまを見せんとて薄青く透き通るやうに描かれたり。これ正《まさ》しく仏国印象派の画論が物体は決して定まりたる色彩を有するものに非ず、照す所の光線により変化するものたりとの理論に適合するものと見るも可なり。国貞はまた常に薄紅《うすべに》薄藍《うすあい》の如き薄色地の衣裳と、殊更《ことさら》に濃くしたる黒色《こくしょく》を用ゆる事を好む。国貞の風景画には名所の山水を背景となし半身の人物を描ける東海道名所絵の続物《つづきもの》あり。然れども山水としてその最も上乗《じょうじょう》なるものは伊勢《いせ》二見《ふたみ》ヶ|浦《うら》日出《ひので》の景《けい》、または Gillot《ジョオ》 蒐集板画目録中に載せられたる三枚続にして、樹木茂りし丘陵の彼方《かなた》遥《はるか》に雪の富士|巍然《ぎぜん》として聳《そび》え、水流るる街道《かいどう》の杉並木に旅人を配置したるものなどなるべし。この外《ほか》に広重の描ける山水に人物を合作せしものあり。」(Notes sur l'art japonais) [#ここで字下げ終わり]  種彦《たねひこ》の小説『田舎源氏《いなかげんじ》』の挿絵《さしえ》並《ならび》にその錦絵《にしきえ》は共に国貞の描く所にして今日《こんにち》なほ世人に喜ばる。『田舎源氏』は国貞が晩年の画風を窺《うかが》ふべき好標本たり。その人物は皆演劇の型より成れる一定の形式によりて誇張せられ、その彩色は殊更に絢爛《けんらん》たらん事を務め全体の調子に注意する処なし。これ即《すなわ》ち国貞風の極彩色《ごくさいしき》にして当時の人目《じんもく》を驚かしたるものなり。余はこの濃厚なる国貞の『田舎源氏』に対して国芳の得意とせる武者合戦の錦絵を以て流行の両極端を窺ふに足るものとなす。国貞は美貌の侍女《じじょ》貴公子が遊宴の状《じょう》によりて台榭《だいしゃ》庭園《ていえん》の美と衣裳|什器《じゅうき》の繊巧とを描出《えがきいだ》して人心を恍惚《こうこつ》たらしめ、国芳は武者奮闘の戦場を描き美麗なる甲冑《かっちゅう》槍剣《そうけん》旌旗《せいき》の紛雑を極写《きょくしゃ》して人目を眩惑《げんわく》せしめぬ。国芳の武老絵は古来|土佐派《とさは》に属せし領域を奪ひ以て浮世絵の範囲を広めたるものと見るも可ならんか。余は浮世絵師中ややデラクロワ、メイソニエーを連想せしむべき画家ある事を喜ばずんばあらず。  国貞と国芳とは共に豊国歿後歌川派中の最も卓越せる画家にして、当時二家の競争は、「葭《よし》がしげつて渡場《わたしば》の邪魔になり」といふかの川柳においても想像せらるる如く、時には互に反目《はんもく》嫉視《しっし》せるや知るべからず。五渡亭国貞は「歌川を疑はしくも名乗り得て二世の豊国|贋《にせ》の豊国」の落首《らくしゅ》に諷刺《ふうし》せられしといへどもとにかく歌川派の画系をつぎ柳島《やなぎしま》と亀井戸《かめいど》とに邸宅を有せしほどなれば、当時の地位は国芳の上にありしや明かなり。(『安政見聞録』中亀井戸辺震災の状を描ける図に歌川豊国が倉付の立派なる邸宅を見せたるものあり。)然れども画家としての手腕は余の見る処《ところ》国芳はしばしば国貞に優れり。国貞の作には常に一定の形式ありて布局の変化少くまた溌剌《はつらつ》たる生気に乏し。(余の友人板倉氏の説に国貞の風俗画の佳良なるものは歌麿の画題と布局とをそのままに模写したるもの多しとぞ。)余は国貞の板画においては必ず粉本《ふんぽん》の臭味《くさみ》を感ずるに反し、国芳においては時として西洋画家の制作に接する如き写生の気味《きみ》人に迫るものあるを見る。国芳が写生の手腕は葛飾北斎と並んで決して遜色《そんしょく》あるものにあらず。「東都名所」と題する山水画中の人物の姿勢、あるひは「生写百面相《いきうつしひゃくめんそう》」と題する小冊子の顔面の表情よくこれを証して余りあり。国芳は最初国貞と共に役者似顔を描きしが世評よろしからざりしかば、筆を『水滸伝《すいこでん》』の人物その他の方面に転じたりといへども、今日《こんにち》の批評眼を以てこれを見ればこは彼に取りてはかへつて幸福なりしなり。国貞の画題は殆《ほとん》ど役者と美人との外《ほか》に出でざれど、国芳に至りては山水花鳥武者並びに美人役者絵等その範囲|甚《はなは》だ広し。余は「浮世絵の山水画と江戸名所」なる題名の下に聊《いささ》か国芳の事を論じたればここには新着の西洋美術雑誌に出でたる仏人《ふつじん》 Gaston《ガストン》 Migeon《ミジョン》 の所論を掲ぐ。 [#ここから1字下げ] 「歌川国芳(寛政九年生文久元年歿)は国貞に優る事明かなり。国芳の描ける活気ある風景画の或物《あるもの》はけだしこの種類《ジャンル》中の逸品たると共にまた浮世絵|板物《はんもの》を通じてその最も偉大なるものたり。今 Rouart《ルアール》 氏の所蔵せる東都名所|御廐川岸驟雨《おんまやがししゅうう》の図を見るに、前方に大《だい》なる雨傘さして歩める人物をして対岸の遠景と対峙《たいじ》せしめたる処《ところ》奇抜なり。しかして遠景の大雨《たいう》にかすみ渡れるさまは薄墨の描法|真《しん》に驚くべきものあり。Henri《アンリー》 Vever《ヴェヴェール》 が蒐集中の一板画もまた甚だ好《よ》し。図中二女を載せたる小舟の後《うしろ》に立てる船頭はその姿勢不自然ならず。荒々しく角張《かどば》りたる橋杭《はしぐい》の間《あいだ》よりは島と水との眺望あり。これ日本の風景中の最も美なるものなり。(訳者思ふにこれ永代橋下の猪牙船《ちょきぶね》を描ける「東都名所|佃島《つくだじま》」と題する図のことなり。)  雪中の光景もまた大《おおい》に称賛せざるを得ず。小止《おや》みもなく紛々として降来《ふりく》る雪に山はその麓《ふもと》なる海辺《うみべ》の漁村と共に埋《うずも》れ天地寂然《てんちせきぜん》たる処、日蓮上人《にちれんしょうにん》と呼べる聖僧の吹雪《ふぶき》に身をかがめ苦し気《げ》に山路《やまじ》を昇《のぼ》り行く図の如きは即ち然り。(訳者曰くこれ日蓮上人一代記八枚続の中《うち》佐渡ヶ島の図の事なり。)されど以上述べたるは皆例外の逸品にして吾人の浮世絵なる美術が気息奄々《きそくえんえん》としてしかもなほ容易にその死期に到達せざりしは全くこれら例外なる傑作ありしがためなるを知る。」(〔Art et De'coration, fe'vrier 1914〕) [#ここで字下げ終わり] [#7字下げ]二[#「二」は中見出し]  国貞国芳と並びてこの時代に輩出したる歌川派の画工は国政《くにまさ》(文政七年歿、年三十八)国丸《くにまる》(文政年間歿、年三十余)国安《くにやす》(天保七年歿、年三十余)国長《くになが》(文政中歿、年四十三)国直《くになお》(安政元年歿、年六十二)等|枚挙《まいきょ》に遑《いとま》あらず。その技倆《ぎりょう》も各自最も得意とする所を採りてこれを比較せば容易に優劣を弁じがたし。国政の作にては大きく半身を描ける役者似顔絵中甚だ良きものあり。国安国長には浮絵《うきえ》(名所遠景)の中《うち》時に賞すべきものあるを見ゆ。国丸の作にて余の管見に入りしもの国貞が文化中の美人画に類するもののみ。国直に至りては歌川派中余の最も愛好する画工にしてその板画は文化年間の作と覚しき名所浮絵、美人風俗画、殊に人情本の挿絵中に忘るべからざるもの多し。『増補浮世絵類考』に国直は豊国の門に入るに先立ちて明画《みんが》を学びまた自《みずか》ら北斎の画風に親しみ、新《あらた》に一家を成さんとの意ありし事を記せり。これは訛伝《かでん》にあらざるべし。今親しくその画《が》を看《み》るに風景美人共に国貞系統の歌川派の画工とは幾分かその趣を異にする処あり。国直の浮絵は上野《うえの》二《ふた》ツ堂《どう》、浅草雷門《あさくさかみなりもん》の如き、その台榭《だいしゃ》樹木《じゅもく》の背景常に整然として模様に斉《ひと》しき快感を覚えしむ。しかしてこれに配置せられたる群集|雑沓《ざっとう》の状もまた模様風にして宝暦《ほうれき》頃|鳥居清満《とりいきよみつ》が紅絵《べにえ》の風景を想起せしむるものあり。この特色は風俗画に至りて最も著しく婦女の姿態と家屋|路地《ろじ》等の後景《こうけい》を配合せしむる事|頗《すこぶ》る巧妙なり。為永春水《ためながしゅんすい》の小説『梅暦《うめごよみ》』の続篇たる『辰巳《たつみ》の園《その》』以下『梅見船《うめみのふね》』に至る幾十冊の挿絵は国直の描く処にして余は春水の述作と併《あわ》せて深くこの挿絵を愛す。深川の妓家《ぎか》、新道《しんみち》の妾宅《しょうたく》、路地の貧家等は皆模様風なる布置《ふち》構図の中《うち》自《おのずか》ら可憐《かれん》の情趣を感ぜしむ。試みに二、三の例を挙げんか。『辰巳の園』巻の二を繙《ひもと》けば深川妓家の二階に四、五人の女寝そべりて、或者は長々しき手紙書きし後《あと》と覚しく、長煙管《ながぎせる》にて煙草盆の火入《ひいれ》を引寄せんとすれば、或者は昼寝の枕《まくら》より顔を上げ、今や盛装して出で行かんとする朋輩《ほうばい》の後姿《うしろすがた》を見返りたり。或者は裾踏み乱したるまま後手《うしろで》つきて起直《おきなお》り、重箱《じゅうばこ》の菓子取らんとする赤児《あかご》のさまを眺《なが》め、或者は独《ひと》り片隅《かたすみ》の壁によりかかりて三味線を弾《ひ》けり。文反古《ふみほご》にて腰張《こしばり》せる壁には中形《ちゅうがた》の浴衣《ゆかた》かかりて、その傍《かたわら》なる縁起棚《えんぎだな》にはさまざまの御供物《おくもつ》賑《にぎわ》しきが中《なか》に大きなる金精大明神《こんせいだいみょうじん》も見ゆ。『梅見船』第一巻「お房《ふさ》寄場《よせば》に物の本を読む所」と題したる挿絵もまた妓家の二階にして、「火の用心」と「男女共無用の者二階へ上《あが》るべからず」と張紙したる傍《かたわら》の窓下には、女の鏡台多く据《す》ゑ並べありて、数人の歌妓《かぎ》思ひ思ひに艶《なまめか》しき身の投《なげ》ざまを示したり。若き男女《だんじょ》の相倚《あいよ》り相戯《あいたわむ》るるさまに至りては元より枚挙に遑《いとま》あらざれど、その中《うち》『英対暖語《えいたいだんご》』第三巻に男は屏風《びょうぶ》引廻《ひきまわ》したる夜具の上に起直り楊枝箱《ようじばこ》片手に草《くさ》楊枝を使へば、半《なか》ば開きし障子《しょうじ》の外の縁先には帯しどけなき細面《ほそおもて》の女|金盥《かなだらい》に向ひて寝起《ねおき》の顔を洗はんとするさまなぞ、柔情《にゅうじょう》甚だ忘るべからざる心地《ここち》す。  余はこれらの挿絵につきて斯《かく》の如く無限の興味を覚えて止《や》まざるなり。その理由は啻《ただ》に男女相思の艶態に恍惚たるがためのみに非《あら》ず、人物と調和せるその背景が常に清洒《せいしゃ》なる小家《こいえ》の内外《ないがい》を描き、格子戸《こうしど》小庭《こにわ》欞子窓《れんじまど》より枕《まくら》屏風《びょうぶ》長火鉢《ながひばち》箱梯子《はこばしご》竈《かまど》等に至るまで、貧し気《げ》なれど清潔にしてまた何となく楽し気なるさまを示したればなり。国貞の『田舎源氏』はその庭園台榭什器衣裳の佳麗を尽して、能《よ》く貴公子と仕女《しじょ》との遊興を描けるものとなさんか。国直が人情本の挿絵はこれに反して小ぢんまりとしたる裏住居《うらずまい》の生活の余裕を描き示したるものといふべし。『梅見の船』巻七《まきのしち》に挿入したる半次郎が猿寺《さるでら》の住家《すみか》の図は、土佐派古画の絵巻物に見ると同じき方法を取り屋根を除きて上方《じょうほう》より斜《ななめ》に家の内外《ないがい》と間取《まど》りのさまを示したり。家は腰高《こしだか》の塗骨《ぬりぼね》障子を境にして居間《いま》と台所との二間《ふたま》のみなれど竹の濡縁《ぬれえん》の外《そと》には聊《ささや》かなる小庭ありと覚しく、手水鉢《ちょうずばち》のほとりより竹の板目《はめ》には蔦《つた》をからませ、高く釣りたる棚の上には植木鉢を置きたるに、なほ表側の見付《みつき》を見れば入口の庇《ひさし》、戸袋《とぶくろ》、板目《はめ》なぞも狭き処を皆それぞれに意匠して網代《あじろ》、船板《ふないた》、洒竹《さらしだけ》などを用ゐたれば、今日《こんにち》吾人の眼より見れば貧しきこの裏屋も風流閑雅なる隠宅の如き観あり。こは少しく別問題なれども日本の器具家屋に竹材《ちくざい》を用ふる事の範囲並にその美術的価値を論ずるは最も興味ある事なり。これにつきては既に英人サトウ、独逸人 Hans Sporry 等の著書あり。余は此《ここ》にそれらの一例として江戸平民の住家《じゅうか》における竹材の用法と意匠との最も繊巧なるを見んがため、貝殻《かいがら》散りたる深川の新道《しんみち》に峰次郎が窓の竹格子を間《あいだ》にしてお房と相語る処(『梅見船』巻九)また柳川亭《やながわてい》といへる水茶屋《みずぢゃや》店先の図(『梅見船』巻十)を挙ぐべし。これらの家屋は杉板と竹と網代の用法意匠余りに繊巧にして清洒なるがため風雨を凌《しの》ぐ家屋と見んよりはむしろ精巧なる玩具《がんぐ》の如き観なしとせず。  歌川国直が色摺《いろずり》絵本の中《うち》に豊国の『時勢粧《いまようすがた》』に模したる『美人今様姿《びじんいまようすがた》』二巻あり。豊国の作は寛政風俗を見るに便なるが如く国直の作は文政時代の風俗史料となすに足るべし。然れども絵画としては先師の模倣に過ぎざればここに論ぜず。 [#7字下げ]三[#「三」は中見出し]  以上述べたる国貞国芳国直ら豊国門下の画工にはまた更に無数の門弟の随従するあり。文政天保以後の平民画壇は実にこれら歌川派の群小画家を以て満たされたり。しかしてこの系統以外に立てる画工の中《うち》その重《おも》なるものを尋《たずぬ》れば先《ま》づ指を菊川英山渓斎英泉の二人《ににん》に屈せざるべからず。菊川英山は狩野《かのう》派の一画家菊川英二なるものの子にして、渓斎英泉また英二の門人たりし事ありといへば、この二人はその名の示すが如く同門の画家たりしなり。然れども各自の特色は相同じからず。(英泉の美人一枚絵中稀に英山に似たるものあり、文化末年の作なるべし。)  菊川英山の板画は文化の初年に始りて天保に及べり。英山は文化初年鳥居清長歿し続いて喜多川歌麿世を去りし後《のち》初めは豊国と並び後には北斎と頡頏《きっこう》して一時《いちじ》浮世絵界の牛耳《ぎゅうじ》を把《と》れり。文化六、七年より文政三、四年に至る十年間は英山の全盛時代にして専《もっぱ》ら歌麿の画風並にその題目を取りて三枚続または一枚絵の美人画あるひは柱かくし絵を出《いだ》しぬ。今その最も良好なるものを見るに二代歌麿の板画よりもかへつてよく先代歌麿の面影を忍ばしむ。その色彩も黒色《こくしょく》と淡紅色《たんこうしょく》とに対して淡緑色《たんりょくしょく》または黄色《こうしょく》を調和せしむる所|時《とき》として清長を連想せしむ。今日《こんにち》英山の価値は穏和なる模擬の手腕|能《よ》く過去の名家を追想せしむる処にありとなすも酷評にはあらざるべし。英山は晩年に至り板元《はんもと》の請求に応じて北斎の筆法に模し名所絵をも出せり。然れども英山の制作を通じてこれを一覧するに役者似顔絵の如きも多くは美人を配合して常に柔和艶麗の情に富ましめたり。これこの画家の特色となすに足るべし。漆山《うるしやま》氏の『浮世絵年表』に従へば菊川英山は慶応《けいおう》三年八十一歳にて歿したりといふ。  渓斎英泉は北斎を連想すべきその漫画と魚屋北渓《ととやほくけい》に倣《なら》ひたる藍摺《あいずり》の支那画山水とまた広重に似たる名所絵並に花鳥によりて、西洋人の著書中には十九世紀中葉の浮世絵師中|錚々《そうそう》たるものとなされたり。かの大判の竪絵《たてえ》鯉魚《りぎょ》滝上《たきのぼ》りの図は外人|斉《ひと》しく称美する処なれども、余はそれよりも英泉の作中にては名所絵と美人画とを採らんと欲す。美人画中殊に吉原遊女の一枚絵は巧《たくみ》に各楼の妓風《ぎふう》を書分けたるの故を以て大《おおい》に世の好評を博したりといふ。名所絵は広重に似てその筆勢やや粗放なる処あり。これその性情の然らしむる処ならん歟《か》。英泉は一筆庵可候《いっぴつあんかこう》と称して戯作《げざく》の才あり。その性行|放縦無頼《ほうしょうぶらい》なりし事より推察するに画工としてもまた頗《すこぶ》る覇気《はき》ありしなるべし。されば英泉は筆にまかせて種々なる題材を描きしかど当時美人役者絵の画工としては国貞のあるあり。花鳥山水には北斎広重の二家あり。武者絵にはまた北斎と国芳のあるあり。草筆《そうひつ》の漫画には北斎広重また夙《つと》に世の称美する処となれり。これら知名の画家の間《あいだ》に立ちて英泉は遂に望むが如き自家の地位を定むるの機会なかりしが如し。英泉は嘉永《かえい》元年に歿せり。年五十九。  安永天明間の名手勝川春章の流派はその門人|春好《しゅんこう》(文政十年歿)春英(文政二年歿)らを過ぎ、春亭《しゅんてい》(文政三年歿)春扇《しゅんせん》(二代春好)に至りて衰滅せり。春亭は『歌舞妓年代記』の挿絵に鳥居の古画または先師春章の縮写をなせしといへどもその画風は年と共に勝川派を捨て専ら歌川豊国に倣はんとせり。春扇も歌川風の草双紙《くさぞうし》を描きし後《のち》遂に板下画《はんしたえ》より陶器の焼付画《やきつけえ》に転じぬ。  これと共に鳥居派もまた天明寛政の名家たる清長の歿後鳥居清峰二代清満と改め僅《わずか》に家名を継げるのみ。清峰は明治元年八十二歳を以て歿するまで鳥居派世襲の本業たる江戸三座劇場の看板及|番附《ばんづけ》を描きし傍《かたわら》、美人画役者絵の板刻あれども共に歌川派の画風に倣ひてしかもまた国貞に及ばず。 [#7字下げ]四[#「四」は中見出し]  文政天保以後の浮世絵はかくして漸次滅亡に近《ちかづ》けり。北斎は嘉永二年に死し広重は安政五年の悪疫に斃《たお》れ、国芳は文久元年を以て世を去るや、江戸の浮世絵は元治元年|古稀《こき》の長寿を保ちし国貞の死去と共にその終局を告げしとなすも不当には非ざるべし。されど事実はなほそれら諸家の門人の業をつぎて明治に及べるもの尠《すくな》からず。余は宛《さなが》ら夜半の落月を見るが如き感慨を以て明治における衰滅期の浮世絵に接せんとす。  一立斎《いちりゅうさい》広重をつぐに二代また三代目広重あり。国貞の後《のち》には二代目国貞(明治十三年歿)、五雲亭貞秀《ごうんていさだひで》、豊原国周《とよはらくにちか》(国周は二代国貞門人)らあり。国芳の門下には芳虎《よしとら》芳年《よしとし》芳宗《よしむね》芳幾《よしいく》ら残存せり。西洋人の著書には大抵芳年を以て最終の浮世絵師となし、これに加ふるに国芳門下より出でたる河鍋曉斎《かわなべきょうさい》を以てし、あるひは団扇絵《うちわえ》摺物《すりもの》の板下画に巧《たくみ》なるの故を以て柴田是真《しばたぜしん》を挙げ、あるひは色摺板本を出せし故を以て菊池容斎《きくちようさい》、幸野楳嶺《こうのばいれい》、渡辺省亭《わたなべせいてい》を加ふるものあり。然れども吾人が見解を以てすれば容斎楳嶺省亭の三家は浮世絵師として論ずべきものに非ざれば、余はこれを除外し代ふるに鮮斎永濯《せんさいえいたく》尾形月耕《おがたげっこう》の二人を浮世絵師中に編入せんと欲す。  概括してそれらの浮世絵はその価値いよいよ美術に遠ざかりて唯《ただ》風俗史料|若《も》しくは好事《こうず》の料たるに留《とどま》る。安政開国以後江戸よりやがて東京と変じたる当時の社会及び政治風俗の変遷は一として錦絵に描かれざるはなし。衰滅期の浮世絵は全く今日《こんにち》の新聞紙に等しき任務を帯びぬ。黒船渡来と浦賀《うらが》の海防|並《ならび》に異人《いじん》上陸接待の状《じょう》を描ける三枚絵は髷《まげ》と髯《ひげ》との対照、陣笠《じんがさ》陣羽織と帽子洋服との配列|寔《まこと》にこれ東西文化最初の接触たり。慶応義塾図書館にはこれらの錦絵を蔵する事多し。その中《うち》余は日本の力士を大きく仁王《におう》の如く米国水兵を小さく小児《しょうに》の如くに描き、日本の力士が軽々《かるがる》と米俵を両手に一ツ一ツ持上げたるさまを見て米国水兵の驚愕《きょうがく》せるさまを示したるものと、また一ツは米国水兵|数多《あまた》車座《くるまざ》になりて日本料理の膳《ぜん》に向ひ大きなる料理の鯛《たい》を見て驚き騒げる様を描きしものあるを記憶す。横浜の居留地|漸《ようや》く繁華となるや異人館にて異人飲食遊歩の光景、または遊廓にて異人遊興の状を描けるもの続々として出板せられぬ。余は浮世絵師が実地の観察の及ばざる処を補ふにしばしば戯作者風の可笑味《おかしみ》多き空想を以てし半《なかば》支那|半《なかば》西洋の背景に浮世絵在来の粉本に基《もとづ》ける美人を配合するなぞかへつて能く怪訝《かいが》好奇の感情を表白せる事を喜ぶ。浮世絵師の技倆は甚だ低落せしといへどもなほ感情なき写真機に優《まさ》れり。試みに五雲亭貞秀の署名ある一図(三枚続)を取りて例証とせんか。緑と紅《くれない》にて彩《いろ》どりし花毛氈《はなもうせん》を敷詰めたる一室の正面には大《だい》なる硝子窓《がらすまど》ありて、異国の旗立てし四、五|艘《そう》の商船海上に泛《うか》びたるさまを見せたり。天井よりはビイドロの大《だい》なる燈明《とうみょう》を下げその下なる円《まる》き食卓を囲める三、四人の異人は皆《みな》笠の如き帽子を戴《いただ》きて飲食す。その間々《あいだあいだ》なる椅子《いす》には裲襠《しかけ》着たる遊女同じく長柄《ながえ》のコップを持ち、三絃|弾《ひ》きゐる芸者と打語《うちかた》れり。これ岩亀楼《がんきろう》の娼女《しょうじょ》洋銀三枚の揚代《あげだい》(この事文久三年板『珍事五ヶ国横浜ばなし』に出づ)にて異人館に招がれたる処なるべし。  時勢の変遷に従ひ名所絵も従来の「江戸名所東海道五十三次」は「東京横浜名所一覧図」(三世広重画)「東京名所三十六|戯撰《ぎせん》」(昇斎一景画)などとなりぬ。芳虎が「東都八景」は英語にて表題を書きチョン髷のままなる市民の群れ集りて汽車汽船人力車の如き新時代の交通機関を驚き眺むる様を示しぬ。浮世絵は実にその名の示すが如く社会百般の事|挙《あげ》て描かずといふ事なし。政治経済の事は二枚続または三枚続の諷刺画となりて販売せられぬ。当時|会津《あいづ》を主とする佐幕の諸藩と薩長《さっちょう》以下勤王諸藩の軋轢《あつれき》は、女師匠の稽古屋《けいこや》に若衆の入り込む体《てい》を借り、あるひは五月幟《ごがつのぼり》の下《もと》に子供が戦遊《いくさあそ》びをなす体《てい》に倣ひて最も痛快|辛辣《しんらつ》に諷刺せられき。百鬼夜行《ひゃっきやこう》の図と鳥羽絵《とばえ》の動物漫画とは、さまざまなる寓意《ぐうい》の下に描直《かきなお》され、また当時物価の高低は富土講《ふじこう》の登山あるひは紙鳶《たこ》の上下によりて巧に描示《えがきしめ》されたり。これら無数の諷刺画中最も奇抜なるものは大抵国芳|狂斎《きょうさい》二家の筆にして芳虎芳年芳幾らこれにつげり。余は今日《こんにち》の新聞紙雑誌等に見るポンチ画《え》に比すれば、浮世絵師が滑稽|頓智《とんち》の妙と観察の機敏なるに驚かずんばあらず。  浮世絵は此《かく》の如く漸次社会的事変の報道となり遂に明治五年芳幾が一枚絵には明かに『東京日日新聞』の名称を付するに至りぬ。然れども浮世絵従来の美人並に役者絵も決して杜絶《とぜつ》したるには非ず。国周は専ら役者狂言の図を描き二代目の国貞(梅蝶楼と号す)は美人と『田舎源氏』とを描けり。余は猩々《しょうじょう》狂斎の背景に二代目国貞が新柳二橋《しんりゅうにきょう》の美人を描きたる一枚絵に時として佳《よ》き者あるを見たり。維新当時は国事多端にして政府はなほ市井の風俗を顧《かえりみ》る遑《いとま》なかりしかば画工は憚《はばか》る処なく女湯の内部または『田舎源氏』の遊戯に見立てて御殿女中の裸体雪合戦を描く事を得たり。然れども須臾《しばらく》にして国内平定するや政府|大《おおい》に教育の道を講じ俳優芸人にも教導職の名を与ふるに及び、浮世絵師もまたその品位を高めんと欲し錦絵に歴史の画題を取りぬ。この風潮を代表するものは即ち月岡芳年《つきおかよしとし》にして、余は劇壇における団十郎と浮世絵における芳年とを以て好一対の芸術家となさんとす。文政天保時代において画家北斎が文学者|馬琴《ばきん》とその傾向を同じうし共に漢学趣味によりてその品位を高めしが如く、芳年は王政復古の思想に迎合すべく菅公《かんこう》楠公《なんこう》等の歴史画を出《いだ》して自家の地位を上げたり。さればその画風の夙《っと》に北斎に倣ふ処ありて一種|佶屈《きっくつ》なる筆法を用ひしもまた怪しむに足らず。余は芳年の錦絵にては歴史の人物よりも浮世絵固有の美人風俗画を取る。風俗三十二相(三十二枚|揃《そろ》ひ)は晩年の作なれどもその筆致の綿密にして人物の姿態の余情に富みたる、正《まさ》にこれ明治における江戸浮世絵最終の俤《おもかげ》なりといふべし。  明治二十五年芳年は多数の門人を残して能くその終《おわり》を全《まっと》うせしが、その同門なる芳幾は依然として浮世絵在来の人物画を描きしの故か名声漸く地に落ち遂に錦絵を廃して陋巷《ろうこう》に窮死せり(明治三十七年七十三歳を以て歿す)。然れども今日《こんにち》吾人の見る処芳幾は決して芳年に劣るものならず。もし芳年を団十郎に比せんか芳幾は正に五世菊五郎なるべし。余は芳幾の春色三十六会席《しゅんしょくさんじゅうろくかいせき》その他において、明治年間に残りし江戸|狭斜《きょうしゃ》の風俗に接する事を喜ぶ。また役者絵の中《うち》西洋写真の像より思ひ付きて俳優似顔をば線を用ひずして凡《すべ》て朦朧《もうろう》たる淡彩の色を以て描きしはその奇異なる点まさに寛政の写楽が似顔絵に比するも過賞にあらざるべし。  明治年間の浮世絵は斯《かく》の如く北斎国芳国貞ら江戸時代の画工につきて親しくその薫陶《くんとう》を受けたる門人の明治に残りしもの相前後して不帰の客となるに従ひ一歩々々滅亡の期を早めたり。明治の浮世絵は実に北斎国芳国貞らが制作の余勢に外《ほか》ならざる也《なり》。されば明治に生れて明治の浮世絵師に学びたる画工は最早《もは》やその画風その精神共に江戸浮世絵の系統を継ぐものならず。余は今明治年間残存の江戸浮世絵師が歿年を掲げて浮世絵滅亡の状《じょう》を想見せんとす。 [#ここから2字下げ] 明治元年    鳥居清満歿  [#割り注]鳥居派五世初名清峰年八十二[#割り注終わり] 明治十三年   歌川国貞歿  [#割り注]二世国貞年五十八[#割り注終わり] 明治十九年   歌川豊宣歿  [#割り注]初代国貞の孫なりといふ[#割り注終わり] 明治二十年   池田綾岡歿  [#割り注]団扇絵摺物に巧みなり年七十一[#割り注終わり] 明治二十二年  河鍋暁斎歿  [#割り注]初め一勇斎国芳門人後に狩野洞白門人年五十九[#割り注終わり] 明治二十三年  小林永濯歿  [#割り注]狩野永悳門人板下画多し年四十八[#割り注終わり] 同       松本芳延歿  [#割り注]国芳門人年五十三[#割り注終わり] 明治二十四年  柴田是真歿  [#割り注]蒔絵師なり団扇絵摺物の板下画を好くす年八十五[#割り注終わり] 明治二十五年  月岡芳年歿  [#割り注]国芳門人年五十四[#割り注終わり] 同       鳥居清満歿  [#割り注]五世清満次男初名清房鳥居派六世をつぐ年六十一[#割り注終わり] 明治二十七年  歌川広重歿  [#割り注]初代広重門人広政と称す二世広重家を捨るや代て広重と称す年五十三[#割り注終わり] 明治三十七年  落合芳幾歿  [#割り注]国芳門人年七十三[#割り注終わり] [#ここで字下げ終わり]  天保以後近世の浮世絵師が伝記並に興味ある逸話は関根氏の『浮世画人伝』その他に委《くわ》しく出でたり。よろしく参照すべし。 [#地から1字上げ]大正三年稿 [#改丁] [#2字下げ]狂歌を論ず[#「狂歌を論ず」は大見出し]  一歳《ひととせ》われ頻《しき》りに浮世絵を見る事を楽しみとせしがその事より相関聯《あいかんれん》して漸《ようや》く狂歌に対する趣味をも覚ゆるやうになりぬ。我は狂歌を以《もっ》て俳諧《はいかい》と『松の葉』所載の小唄《こうた》と並《ならび》に後世の川柳《せんりゅう》都々一《どどいつ》の種類を一括してこれを江戸時代|専《もっぱら》庶民の階級にありて発達したる近世俗語体の短詩として看《み》つつあるなり。今《いま》小唄川柳都々一の三形式については暫《しばら》く言はず、先《まず》俳諧と狂歌とについて見るにこの二者はその歴史的関係|互《たがい》に相深くその趣味また相似たる処|鮮《すくな》からず。凡《およ》そ和歌といひ連歌《れんが》といひまた狂歌といひ俳諧といふ。各《おのおの》その名称と詠吟の法則とを異にすといへども、もしこれを或《ある》形式の短詩として看来《みきた》るや、全く同工異形にしてその差別|往々《おうおう》弁じがたきものあり。これ既に柳亭種彦《りゅうていたねひこ》が『用捨箱《ようしゃばこ》』にいふところ。世人しばしば俳諧|附合《つけあい》の両句を通読して狂歌となしたるもの多きを論じ、『犬筑波《いぬつくば》』の [#ここから2字下げ] 月かくす花のこえだのしげきをば   きりたくもありきりたくもなし こぎ出《いだ》す船にたはらを八《やつ》つみて   四こくはうみの中《たか》にこそあれ [#ここで字下げ終わり] 等の例を掲げたり、生白庵行風《せいはくあんゆきかぜ》が『古今夷曲集《ここんいきょくしゅう》』を見れば宗鑑《そうかん》貞徳《ていとく》ら古俳人として名ありしものの狂歌を載せて作例となせるもの多し。いづれも両者|甚《はなはだ》相近きを知らしむるものならざらんや。  元禄《げんろく》以前にありては俳諧は決して正風《しょうふう》以後におけるが如く滑稽《こっけい》諧謔《かいぎゃく》の趣を排除せざりしなり。余は滑稽諧謔を以て俳諧狂歌両者の本領なりと信ずる也《なり》。滑稽諧謔は実にこの両詩形の因《よ》りて以て発生し来りし根本の理由にあらずして何ぞや。そもそもわが邦人《ほうじん》固有の軽妙滑稽の性行は仏教の感化によりて遠く戦国時代に発芽《はつが》したり。南北朝以来戦乱永く相つぎ人心|諸行無常《しょぎょうむじょう》を観ずる事従つて深かりしがその厭世《えんせい》思想は漸次時代の修養を経てまづ洒脱《しゃだつ》となり次《つい》で滑稽諧謔に慰安を求めんとするに至れり。一休禅師《いっきゅうぜんじ》の逸事長く世人を喜ばしめたるもこれがためにあらずや。兼好法師《けんこうほうし》が『徒然草《つれづれぐさ》』には既に多分の滑稽を帯び来れり。猿楽《さるがく》を見るに謡曲の厭世的傾向に相対《あいたい》して狂言の専ら滑稽を主材となしたるは最もよく我が所論を証明するものなり。滑稽諧謔は徳川氏の治世《ちせい》に及び上下一般を通じていよいよその時代の精神をなすに至るの観あり。浅井了意《あさいりょうい》戸田茂睡《とだもすい》井原西鶴《いはらさいかく》の著作いづれもその証《しょう》となすに足る。試みに明暦《めいれき》三年江戸大火の惨状を記述したる『武蔵鐙《むさしあぶみ》』を見よ。一市人|酔中《すいちゅう》火災に遇《あ》ひ長持《ながもち》の中《なか》に入れられて難を逃《のが》れ路傍に放棄せらる。盗賊来つて長持を破るにその中《うち》に人あるを見て驚いて逃ぐ。酔人|目覚《めざ》めて四顧《しこ》焦土となれるを見その身既に地獄にあるものと誤りなす一条の如きは、即ち仏教的悲哀と滑稽との特徴をして甚《はなはだ》顕著ならしめたるものなり。戸田茂睡が江戸名所の記『紫《むらさき》の一本《ひともと》』、浅井了意が『慶長見聞記《けいちょうけんぶんき》』等また然《しか》り。『紫の一本』上野|車坂《くるまざか》の条を見んか、 [#ここから2字下げ] この坂は廻りもせず、めぐりもせず、なぜに車坂といふぞ。理《り》をつけて答へよといふ。遺佚《いいつ》答へてこの車坂は二つありやといふ。陶々子《とうとうし》がいやこの坂ばかりにて一ぢやといふ。遺佚がいふ車二つあらばまはるべし、一つならばまはらぬはずよといふ。折ふし夕風涼しく行袖《ゆくそで》を留むるやうなれば遺佚がよむ。 [#ここから4字下げ] あちこちとめぐりてこゝに車坂      打くたびれて腰をひくなり [#ここで字下げ終わり]  下つて安政大地震《あんせいおおじしん》の事を記載せし『安政見聞録』を見るにこの変災を報道記述するに煎薬《せんやく》「妙《みょう》ふりだし」をもぢり、または団十郎『暫《しばらく》』の台詞《せりふ》になぞらへたるが如き滑稽の文字《もんじ》甚だ多し。江戸の都人は最も惨澹《さんたん》たる天変地妖《てんぺんちよう》に対してもまた滑稽諧謔の辞を弄《ろう》せずんば已《や》む能《あた》はざりしなり。滑稽の精神は徳川時代三百年を通じて一貫せる時代精神の一部たりしや遂《つい》に誣《し》ふべからざるなり。  和歌は『万葉集』の撰《せん》ありて後《のち》吟咏《ぎんえい》の法式厳然として一定せられたり。滑稽諷刺の意をあらはさんとするやたまたま落首の一変体ありしといへどもいまだ完全なる一形式をなすに至らざりき。徳川氏の治世に及びて一般文化の発達と共にここに俳諧狂歌の新体を生じたるは決して偶然にあらず。この二者は和歌の貴族的なるを砕いて平民的に自由ならしめたるに外《ほか》ならず。  俳諧は元禄時代|芭蕉《ばしょう》出《いづ》るに及びて革新せられたり。芭蕉のいはゆる正風《しょうふう》を称道したるは按《おも》ふに当時俳諧師の品性|甚《はなはだ》堕落しつづいて俳諧本来の面目たりし軽妙滑稽の意義|随《したが》つて甚《はなはだ》俗悪野卑に走りしを見て、ここに一種清新幽雅の調《ちょう》を出《いだ》さんと欲したるものなるべし。然れどもその咏吟を見れば、 [#ここから2字下げ] 飯蛸《いいだこ》の寺を持つべき顔もなし  芭蕉 弁慶は夏もかこみの羽織かな  同《おなじく》 なりにけりなりにけりまで年の暮  同 [#ここで字下げ終わり] の如き、正風といへども決して滑稽諧謔を排斥したるに非《あら》ざるを知るに足る。也有《やゆう》が芭蕉翁画像の賛にも [#ここから2字下げ] 富貴|誠《まこと》に浮雲《ふうん》  滑稽初めて正風《しょうふう》 [#ここで字下げ終わり] といへり。  俳諧は正風体の刷新によりてますます世の迎ふる所となりしが、狂歌は卜養《ぼくよう》貞柳《ていりゅう》未得《みとく》らの以後その吟咏に工《たく》みなるものなかりしが故か、一時やや振《ふる》はず、安永末年《あんえいばつねん》朱楽菅江《あけらかんこう》唐衣橘洲《からころもきっしゅう》四方赤良《よものあから》ら青年狂歌師の輩出するを待つて始めて再興せられたり。元禄|及《および》その以前狂歌|勃興《ぼっこう》の状《じょう》を窺《うかが》ひ知らんとせば建仁寺雄長老《けんにんじゆうちょうろう》が『新撰狂歌集《しんせんきょうかしゅう》』、半井卜養《なからいぼくよう》が『卜養狂歌集』、生白庵行風《せいはくあんゆきかぜ》が『古今夷曲集』、石田未得《いしだみとく》が『吾吟我集《ごぎんがしゅう》』、油烟斎貞柳《ゆえんさいていりゅう》が『置土産《おきみやげ》』等あり。『卜養狂歌集』を見るに当時|士人《しじん》の狂歌を愛吟したる消息を知るに便なるものあり。狂歌は当意即妙を旨としてしばしば寒暖応答の辞に代へられたり。 [#ここから2字下げ] 元日にある人の許《もと》へ行《ゆき》ければ、喰《くい》つみを出《いだ》し、ことぶきをのべて後《のち》、これを題にして、めでたく歌よめと侍《はべ》りければ [#ここから4字下げ] 大《おお》だひにほんだはらをばおこし米《ごめ》      かきとるかやに我ぞよろこぶ [#ここから2字下げ] といひければ、ぬし感じて、いまだ喰つみと海老《えび》とところかちぐり残りければ、このものどもうらみ侍らん、今一首歌よめとあれば [#ここから4字下げ] 喰つみてところとえびの髭《ひげ》くらべ      まけかちぐりとあらそひやせん [#ここで字下げ終わり]  生白庵行風の選びたる『古今夷曲集』には狂歌の由来|甚《はなはだ》高遠なることを知らしめんがためか聖徳太子の吟作なりとて「照る月のなかなる物の大弓《おおゆみ》はあぞちにたちて的《まと》にあたらず」また和泉式部《いずみしきぶ》が「南無仏の御舎利《みしゃり》を出《いだ》す七《なな》つ鐘《がね》むかしもさぞな今も双調《そうちょう》」等の吟咏を掲げまた一休禅師|沢庵和尚《たくあんおしょう》らの道歌《どうか》をも交《まじ》へたれどやや牽強附会《けんきょうふかい》の嫌《きらい》あり。後年《こうねん》四方赤良の一派狂歌の再興を企つるや元禄前後における先人の選集中永く狂歌の模範とすべき吟咏は大抵再選してこれを『万載集《まんざいしゅう》』『才蔵集《さいぞうしゅう》』等に載せたり。  蜀山人《しょくさんじん》の狂歌におけるや全く古今に冠《かん》たり。しかしてその始めて狂歌を吟ぜしは按《おも》ふに明和《めいわ》三、四年の交《こう》年二十歳の頃《ころ》なるべし。『奴労之《やっこだこ》』『一話一言《いちわいちげん》』等蜀山人が随筆を見るに江戸にて始めて狂歌の会を催せしは四谷忍原横町《よつやおしはらよこちょう》に住みし小島橘洲《こじまきっしゅう》にしてその時集れるもの大根太木《おおねのふとき》、飛塵馬蹄《とびちりばてい》、大屋裏住《おおやのうらずみ》、平秩東作《へづつとうさく》ら四、五名に過ぎざる事を記したれど不幸にしてその年月《ねんげつ》を詳《つまびらか》にする事|能《あた》はず。蜀山人始め寝惚《ねぼけ》先生と号して狂詩集を梓行《しこう》せしは明和四年十九歳の時にしてその先輩平秩東作|平賀鳩渓《ひらがきゅうけい》らと始めて相知れり。さればこの時既に狂詩と共に狂歌の吟咏ありしや明かなり。安永より天明《てんめい》末年あたかも白河楽翁公《しらかわらくおうこう》の幕政改革の当時に至るまでおよそ二十年間は蜀山人の戯作《げさく》界に活動せし時にして狂歌の名またこの時において最も高かりき。寛政《かんせい》改元の年蜀山人四十に達しその父を失ふ。この年あたかも楽翁公の天下に令して奢侈《しゃし》の風を戒め洒落本《しゃれぼん》の作者を懲罰するあり。この前年蜀山人既に狂歌の事よりして小普請入《こぶしんいり》を命ぜらる。ここにおいて志《こころざし》を改め、聖堂の試験に応じて及第するや狂歌の名を後進の真顔六樹園《まがおろくじゅえん》にゆづりて幕吏《ばくり》(支配勘定)となり事務に鞅掌《おうしょう》するの傍《かたわら》旧記を閲覧して『孝義録《こうぎろく》』の編纂《へんさん》をなせり。然れども文化《ぶんか》初年長崎赴任の後|駿河台《するがだい》に移り住みし頃より再び文壇に接近し『南畝帖千紫万紅《なんぼちょうせんしばんこう》』『南畝|莠言《ゆうげん》』等の出板《しゅっぱん》を見るに至れり。  文政《ぶんせい》六年蜀山人七十五歳を以て逝《ゆ》く。これより先安永天明の交《こう》蜀山人と相並びて才名を馳《は》せたる平秩東作、朱楽菅江、唐衣橘洲、手柄岡持《てがらのおかもち》ら皆世を去り、狂歌の盛衰は浅草庵市人《あさくさあんいちんど》、鹿都部真顔《しかつべのまがお》、宿屋飯盛《やどやのめしもり》、奇々羅金鶏《ききらきんけい》らの手に依托せられぬ。この道|幸《さいわい》にして年と共にあまねく世人の喜び迎ふる処となりしが、その調《ちょう》はその普及と共に漸《ようや》く卑俗となり、殊《こと》に天保《てんぽう》以降に及んでは全く軽口地口《かるくちじぐち》の類《るい》と択《えら》ぶ処なきに至れり。  天明寛政の頃は独《ひと》り狂歌の全盛を極めたるのみにあらず江戸諸般の文芸美術|悉《ことごと》く燦然《さんぜん》たる光彩を放ちし時代なり。ここに浮世絵と狂歌とは絵本|及《および》摺物《すりもの》の板刻《はんこく》によりて互に密接なる関係を有するに至れり。即《すなわち》北尾政演《きたおまさのぶ》が『狂歌五十人一首』の如き、喜多川歌麿《きたがわうたまろ》が『絵本|虫撰《むしえらみ》』、『百千鳥《ももちどり》』、『狂月望《きょうげつぼう》』、『銀世界《ぎんせかい》』、『江戸爵《えどすずめ》』の如きまた北尾政美《きたおまさよし》が『江戸名所鑑《えどめいしょかがみ》』、北尾|重政《しげまさ》の『絵本|吾妻袂《あずまからげ》』、葛飾北斎《かつしかほくさい》が『東都遊《あずまあそび》』、『隅田川両岸一覧《すみだがわりょうがんいちらん》』、『山復山《やままたやま》』等の如き美麗なる絵本並に無数の摺物は皆これ狂歌の吟咏あつてしかして後これがために板刻せられたるもの。浮世絵師|窪俊満《くぼしゅんまん》は尚左堂《しょうさどう》と号してまた狂歌に工《たくみ》なりき。今歌麿が『絵本虫撰』の序を見るに、 [#ここから2字下げ] けふなん葉月《はづき》十四日の夜《よ》、野辺《のべ》にすだく虫の声きかんと、例のたはれたる友どちかたみにひきゐて、両国《りょうごく》の北よしはらの東、鯉《こい》ひさぐ庵《いお》さきのほとり隅田の堤《つつみ》に氈《むしろ》うち敷《しき》て、おの/\虫のねだんづけの高きひくきをさだめんとす、故《ゆえ》ありて酒と妓《おんな》とをいましめたれば、わきめよりはしは虫のゑんとやいふべき、なにがし寺のねぶちの声、虫の音にまじりてほの聞ゆるなど、かのくえんしの建立《こんりゅう》ありし姫宮《ひめみや》の持仏堂《じぶつどう》も思ひ出られて哀れなり。されば朝市のふるものあつかひよと人いふめれど、たゝにやはとて、長嘯子《ちょうしょうし》のえらび玉《たま》へる諸虫歌合せの跡を追《おっ》て、恋のこゝろのざれ歌をのばへ侍《はべ》るに、兎角《とかく》して夜もふけ侍《はべり》し、江山風月《こうざんふうげつ》常のあるじなければ、地《じ》しろをせむる大屋《おおや》もあらねど、草のむしろのまらうどゐはなく、虫こそあるじなれとて、露けき方《かた》にうち向ひて、ねもころにぬかづきて立《たち》ぬ、これなん三百六十のひとつなかまのいやなりけらし [#ここで字下げ終わり]  これ宿屋飯盛が文にして画賛に尻焼猿人《しりやけのさるんど》(抱一《ほういつ》)以下天明の狂歌師が吟咏を採録したり。狂歌絵本は当時最も流行し最も美麗なる製本をなせり。然れどもその起源は既に浮世絵発達の当初にあり。余いまだその書を見る事|能《あた》はずといへども天和《てんな》年間|菱川師宣《ひしかわもろのぶ》が絵本『狂歌旅枕《きょうかたびまくら》』といふものありといふ。元禄年代には鳥居清信《とりいきよのぶ》が『四場居《しばい》百人一首』の如き享保《きょうほう》年代|西川風《にしかわふう》の『絵本|鏡《かがみ》百首』の如きまた長谷川光信《はせがわみつのぶ》が鯛屋貞柳《たいやていりゅう》の狂歌に絵を添へたる『御伽品鏡《おとぎしなかがみ》』の如きものあり。  天明六年北尾政演が描ける『狂歌五十人一首』は天明狂歌の萃《すい》を抜きたるものその板画と相俟《あいま》つて狂歌絵本中の冠たるものなり。今その中《うち》の数首を転載しいまだ狂歌の趣味を知らざるものの参考に供せんとす。 [#ここから2字下げ] 春きては野も青土佐《あおとさ》のはつ霞《がすみ》一《ひと》はけ引くや山のこしばり [#地から5字上げ]腹唐秋人 をしなべて山々染むるもみぢ葉の朱《しゅ》にまじはれば赤松もあり [#地から5字上げ]飛塵馬蹄 橋の名も柳がもとのつくだぶねかけて四《よ》ツ手《で》をあげ汐《しお》の魚《うお》 [#地から5字上げ]山道高彦 うき涙ふるき屏風《びょうぶ》の蝶《ちょう》つがひはなれ/″\になるぞかなしき [#地から5字上げ]糟句斎よたん坊 あなうなぎいづくの山のいもとせにさかれて後に身をこがすとは [#地から5字上げ]四方赤良 [#ここで字下げ終わり]  後《のち》文化|辛未年《かのとひつじのとし》宿屋飯盛が撰したる『狂歌作者部類』は政演の『五十人一首』に傚《なら》ひたるものなるべし。狂歌はそもそもその当初より名所を咏ずるに適す。名所絵本と狂歌の関係の最も親密なるはけだし当然の事なり。天明七年北尾政美が絵本『名所鑑』はこの種類中の先駆にして安政三年広重の描ける『狂歌江戸名所|図会《ずえ》』はその最終のものの中《うち》最も見るべきものなるべし。  維新の後|世態《せたい》人情一変して江戸の旧文化漸次衰滅するや狂歌もまたその例に漏れざりき。ここに唯《ただ》独《ひと》り俳句の然らざるものあり、豈《あに》奇ならずとせんや。俳句は狂歌と同じく天保以後甚だ俗悪となりしが明治に及び日清戦争前後に至りて角田竹冷《つのだちくれい》正岡子規《まさおかしき》の二家各自同好の士を集めて大《おおい》に俳諧を論ぜしより遽《にわか》に勃興の新機運に向へり。あたかもこの時に当り小説家の淵叢《えんそう》たりし硯友杜《けんゆうしゃ》の才人元禄文学の研究と共にまた盛んに俳句を咏ぜしは斯道《しどう》の復興に与《あずか》つて甚《はなはだ》力ありしなり。然れども大正年間に及びていはゆる新傾向の称道を見るに至り俳諧も遂に本来の面目《めんもく》体裁《ていさい》を破却せられ漸く有名無実のものとならんとす。これ現代俳句界の趨勢《すうせい》なり。何を以てか俳句本来の面目となすや。仏教的哀愁と都人《とじん》特有の機智《きち》諧謔《かいぎゃく》即ちこれなり。この二者あつて初めて俳諧狂歌は生れ来りしなり。然るに今や現代人の感情にはこの二者漸くその跡を絶たんとす。何が故にその跡を絶つに至れるや。これ他なし我邦《わがくに》固有の旧文化破壊せられて新文化の基礎遂に成らず一代の人心甚だ軽躁《けいそう》となりかつ驕傲《きょうごう》無頼《ぶらい》に走りしがためのみ。江戸時代の文化には儒教|並《ならび》に仏教の根拠あり西洋諸国近世の新文化にはまた宗教及び哲学の根拠|頗《すこぶ》る確固たるものあり。然るが故に社会百般の現象時として甚だ相容《あいい》れざるが如きものありといへども一度《ひとたび》その根柢《こんてい》に窺《うかが》ひ到《いた》れば必ず一貫せる脈絡の存するあり。独りわが現代文化の状況に至つてはその赴《おもむ》く処|渾沌《こんとん》として捕捉しがたし。今や文壇の趨勢既に『万葉』『古今集』以来古歌固有の音律を喜ばずまた枕詞《まくらことば》掛言葉《かけことば》等邦語固有の妙所を排《しりぞ》けこれに代ふるに各自辺土の方言と英語翻訳の口調《くちょう》を以てせんとす。そもそも俳諧狂歌の類は江戸泰平の時を得て漢学和学の両文学|渾然《こんぜん》として融化《ゆうか》咀嚼《そしゃく》せられたるの結果偶然現はれ来りしもの、便《すなわ》ち我邦《わがくに》古文明円熟の一極点を示すものと見るべきなり。然《さ》ればわが現代人のこれに対して何らの愛情何らの尊敬また何らの感動をも催さざるは現代社会一般の現象に徴して敢《あえ》て怪しむに足らざるなり。  余常に『伊勢物語《いせものがたり》』を以て国文中の真髄となし、芭蕉と蜀山人の吟咏を以て江戸文学の精粋なりとなせり。もしこれに注釈を施すとせんか正にわが邦《くに》古今の文学に渉《わた》りて論ぜざるべからざるべし。凡《すべ》て根柢あるものは含蓄の味《あじわい》あり含蓄の味《あじわい》はいよいよ味《あじわ》つていよいよ深し。斯《かく》の如きを以て真の文明となすべきなり。 [#地から1字上げ]大正六年稿 [#改丁] [#2字下げ]江戸演劇の特徴[#「江戸演劇の特徴」は大見出し]  今日《こんにち》旧劇と称せらるる江戸伝来の演劇に対する改革刷新の運動も既に久しきものとなりぬ。明治二十九年の末に出版せられし坪内逍遥《つぼうちしょうよう》氏が『梨園《りえん》の落葉《おちば》』森鴎外《もりおうがい》氏が『月草《つきぐさ》』の二書を繙《ひもと》けば当時諸家の企てし演劇改革の状況を知るに難《かた》からず。依田学海《よだがっかい》福地桜痴《ふくちおうち》森田思軒《もりたしけん》石橋忍月《いしばしにんげつ》岡野紫水《おかのしすい》坪内逍遥ら諸氏の名を回想するにつけても演劇改革の事業は今日《こんにち》後進の吾人《ごじん》に取りては既に演劇そのものと相並びて歴史的興味を覚えしむる処|尠《すくな》しとせず。芝居と呼べる徳川時代の平民美術を取りてこれを改造せんと欲したる当時の学者紳士の計画は明治十八、九年頃より三十年代に渉《わた》りて最も盛んなりしがいつしか衰微し、現今の劇壇は専《もっぱら》少壮文学者の西洋近代劇の翻訳|及《および》その試演に忙殺せられ古き芝居につきては新聞記者のいはゆる劇評以外多く論ずるものなきに至りぬ。  余は爰《ここ》に西洋審美学の学理に照して江戸演劇を解剖分析しこれを評価するの必要を見ず。そは森先生が『月草《つきぐさ》』の書中「思軒居士《しけんこじ》が耳の芝居目の芝居」と題する論文その他においてハルトマンが学説を引きつぶさにこれを説明せられたればなり。余は今日となりては江戸演劇を基礎としてこれが改造を企てんよりはむしろそは従来のままなる芝居として観《み》ん事を欲せり。演劇改革の事業とその鑑賞|玩味《がんみ》の興《きょう》とは自《おのずか》ら別問題たるべし。  江戸演劇は舞踊と合せてこれを貴族的なる能楽に対照し専《もっぱら》江戸平民美術として見る時余は多大の興味を感じて止《や》まざるなり。これがためには聊《いささ》かの改造もかへつて厭《いと》ふべき破壊となる。余の江戸演劇に対して感ずる興味は凡《すべ》てその外形にあり。たまたま戯曲の内容につきて感ずる所ありとなすもそは外形の美によりて偶然に感動するに外《ほか》ならず。  拍子木《ひょうしぎ》の音《おと》と幕明《まくあき》の唄《うた》とに伴ひて引幕《ひきまく》の波打ちつつあき行く瞬間の感覚、独吟の唄一トくさり聴《き》きて役者の花道《はなみち》へ出《いづ》る時、あるひは徐《おもむ》ろに囃子《はやし》の鳴物《なりもの》に送られて動行《うごきゆ》く廻舞台《まわりぶたい》を見送る時、凡てこれらの感覚は唯《ただ》芝居らしき快感といふ外《ほか》何らの説明を付する事|能《あた》はずといへども要するに江戸演劇を措《お》きては他《た》に求むる事|能《あた》はざるものならずや。その他だんまり、セリ出し、立廻《たちまわり》の如き皆|然《しか》り。  依田学海福地桜痴の諸家|市川団十郎《いちかわだんじゅうろう》と相結びていはゆる活歴史劇《かつれきしげき》を興《おこ》すや、道具|衣裳《いしょう》の歴史的考証を専《もっぱら》とし舞台上の絵画的効果を閑却せしより、その弊風今日に及びてもなほ歌舞伎座の新作物においてこれを見る。今それらの新劇と古き芝居とを比較するに、古人が戯曲の演奏に際し色彩の調和に巧妙なりし事想像するに余りあり。市川家|荒事《あらごと》を始め浄瑠璃《じょうるり》時代物の人物についてこれを見れば思半《おもいなかば》に過《すぐ》るものあるべし。  江戸演劇は囃子、唄、鳴物、合方《あいかた》、床《ゆか》の浄瑠璃、ツケ、拍子木の如き一切の音楽及び音響と、書割《かきわり》、張物《はりもの》、岩組《いわぐみ》、釣枝《つりえだ》、浪板《なみいた》、藪畳《やぶだたみ》の如き、凡て特殊の色調と情趣とを有せる舞台の装置法と、典型に基《もとづ》く俳優の演技並びにその扮装《ふんそう》とこの三要素の綜合《そうごう》して渾然《こんぜん》たる一種の芸術を構成したるものなり。さればこの中《うち》の一を改むれば忽《たちまち》全体を毀損《きそん》するに終る。俳優にして江戸演劇の鬘《かつら》をつけ西洋近世風の背景中に立つが如きは最も嗤《わら》ふべき事とす。一を改めんとすれば宜《よろ》しく根本より凡ての物を改めざるべからず。  釣枝、立木《たちき》、岩組、波布《なみぬの》、浪板の如き甚《はなはだ》しく不自然なる大道具《おおどうぐ》は宛《さながら》浮世絵における奥村政信《おくむらまさのぶ》鈴木春信《すずきはるのぶ》らの美人画の背景にひとし。その写実に遠ざかりたる色彩と形状とは能《よ》く江戸演劇の性質に調和し、爰《ここ》に浮世絵と同じく模様風なる美術をなす。余はしばしば浮世絵の特徴につきて画中美人の衣服が周囲の居室、窓、縁側、柴折戸《しおりど》等に対しいふべからざる音楽的調和をなせる事を説きぬ。この見解は直《ただち》に江戸演劇の舞台に転用する事を得るなり。本舞台いつもの処に置かれたる格子戸《こうしど》は恋人を見送る娘をして半身《はんしん》をこれに倚《よ》らしめ、以《もっ》て艶麗《えんれい》なる風姿に無限の余情を添へしめ、忠臣義士が決然|家《いえ》を捨てて難に赴《おもむ》かんとする時、一層その英姿を引立たしむる等その活用の範囲|挙《あ》げて数ふべくもあらず。『二十四孝』十種香《じっしゅこう》の場《ば》の幕明を見たるものは必ず館《やかた》の階段に長く垂敷《たれし》きたる勝頼《かつより》が長袴《ながばかま》の美しさを忘れざるべし。浅倉当五《あさくらとうご》が雪の子別れには窓の格子こそ実《げ》に恩愛の柵《しがらみ》なれ。  学海桜痴両|居士《こじ》が活歴劇流行の頃《ころ》は唄《うた》鳴物《なりもの》並に床《ゆか》の浄瑠璃はしばしば無用のものとして退けられたり。彼らは江戸演劇を以て純粋の科白劇《かはくげき》なりと思為《しい》したるが如し。然れどもこはいまだよく江戸演劇の性質を究《きわ》めざる者の謬見《びゅうけん》なり。余は江戸演劇を以て仏蘭西《フランス》のオペラコミックの如き物に比較せんと欲するなり。如何《いかん》となれば江戸演劇は三絃《さんげん》を主とする音楽なくしては決して成立するものにあらず。出這入《ではいり》の唄《うた》合方《あいかた》は俳優が演技の情趣を助け床の浄瑠璃は台詞《せりふ》のいひ尽《つく》し能はざる感情を説明す。或《ある》論者は今なほチョボの文句の甚《はなはだ》拙劣にしてしかもまた無用の説明に過ぎざることを説けどもこは徒《いたずら》にその辞句のみを見て三絃の合《あい》ノ手《て》とその節廻《ふしまわし》を度外に置きたるがためのみ。例《たと》へば床の浄瑠璃の「後《あと》には一人《ひとり》母親が」とかあるひは「すかせばすやすや幼児《おさなご》が」といふが如きは文字の上より見れば全く無用の説明に相違なしといへどもその語る節廻と合ノ手とは決して然らざるものなり。余は床《ゆか》と囃子《はやし》の連弾《つれびき》掛合《かけあい》の如き合方《あいかた》を最も好むものなり。『鬼一法眼《きいちほうげん》』菊畑《きくばたけ》の場にて奴虎蔵《やっことらぞう》が奥庭《おくにわ》に忍び入らんとして身がまへしつつ進み行くあたりの床《ゆか》の三絃を聴かば誰かチョボを無用なりとせん。  江戸演劇に用ひらるる鳴物は独《ひと》り三絃の合方のみに留《とど》まらず本釣鐘《ほんつりがね》、時《とき》の鐘、波の音、風の音、雨車《あまぐるま》の如きを初めとし、谺《こだま》、碪《きぬた》、虫笛《むしぶえ》、トヒヨの如き簡単に自然の音響を模したるものも皆それぞれに舞台の音楽的情調を作るに効果あり。僅《わずか》に大太皷《おおだいこ》を打叩《うちたた》きて能《よ》く水声《すいせい》風声《ふうせい》等を想像せしむるが如き簡単なる技巧は到底複雑なる西洋オペラの企て得ざる処にして、此《かく》の如きは敢《あえ》て芝居の鳴物のみならず文学絵画諸般の芸術を通じて東洋的特徴の存する処ならざるべからず。余は江戸演劇を鑑賞するに当りこの綜合芸術は全く江戸浮世絵とその傾向を同じうするものたる事を知れり。浮世絵は庶民日常生活の外形を模写せんと欲する娯楽的写実の精神より出でしがその表現の方法はしばしば写生を離れて特殊なる模様風《デコラチフ》の美術をなしぬ。江戸演劇もまた通俗一般の人情を写す現実主義の芸術なれどしばしば吾人の想像すべからざる奇怪の外形を取れり。浮世絵は美麗軽快にしてまた頗《すこぶ》る軟弱なる芸術なり。しかして芝居には毫《ごう》も高遠の思想深刻の人生観を含む事なし。然れども時として能く人情の機微を穿《うが》つ事あたかも浮世絵の写真に優《まさ》る事あるに似たり。浮世絵には思付きの妙あり芝居には滑稽《こっけい》諧謔《かいぎゃく》なくんばあらず。本雨《ほんあめ》といひ糊紅《のりべに》の仕掛《しかけ》といふが如き舞台における極端なる部分的の写実は浮世絵師が婦女の頭髪と降雨《こうう》とを一本々々に描きたるに比すべし。この二種の技芸は共に徹頭徹尾その発生したる時代と人種の特色を有し毫《ごう》も外来思想の感化|若《もし》くは模倣の痕《あと》を有せず。これ余をして深く尊敬と興味とを覚えしむる最大の理由とす。敢て絵画演劇のみにはあらず音曲《おんぎょく》浄瑠璃絵画彫刻等の諸美術よりして広く日常一般の生活娯楽流行及思想に至るまで、江戸と呼べる鎖国の時代ほど超然として他に妨げらるるものなく能くその発達を遂げたるもの、恐らくは他国他人種の文明にその比を見ざる処ならん歟《か》。  余|一度《ひとた》び西洋より帰り来りて久しく看《み》ざりし歌舞伎座を看るや、日本の芝居における俳優の科白《せりふ》の西洋の演劇に比して甚だしく緩漫《かんまん》冗長なるに驚きぬ。俳優は皆奇異なる鬘《かつら》と衣裳とのために身体の自由を失ひたるものの如く、台詞《せりふ》の音声は晦渋《かいじゅう》にして変化に乏しきこと宛《さながら》僧侶《そうりょ》の読経《どきょう》を聞くの思《おもい》ありき。殊に余の困却したるは舞台と観客席との区域分明ならざる事なりき。演劇の幻想界と観客の現実界とは両花道《りょうはなみち》、チョボ床《ゆか》、囃子方《はやしかた》、その他劇場一般の構造によりて甚だしく錯雑せる事なりき。然れども日に月に日本従来の生活に馴《な》れ、また機会あるごとに勉《つと》めて芝居と接近するに従ひ、漸次に鑑賞と批評との興を催すに至りぬ。凡《およ》そ人種または時代を異にせる芸術に接して能くその性質を明かにせんと欲すれば先《ま》づそのものに密接して怪訝《かいが》の念を去らしむるにあり。江戸の演劇におけるや舞台と観客席との錯雑はむしろその特色となすべきなり。『幡随院長兵衛《ばんずいいんちょうべえ》』が芝居|喧嘩《けんか》の場の如き、『梅《うめ》の由兵衛《よしべえ》』が長吉殺《ちょうきちごろ》しの場の如き、殊更《ことさら》に俳優をして観客の群集中に出没せしむるが如きは西洋近代の文学論を以てしては殆《ほと》んど解釈すべからざるものたるべし。然りといへども此《かく》の如きは独り芝居のみならず江戸の諸芸術にはしばしばその傾向を同じくするものなしとせず。浮世絵を見るに強《し》ひて画中の人物をして屏風《びょうぶ》の山水または七福神の掛物の如き背景と相混同せしめて機智の妙を誇るあり。染模様《そめもよう》には文字と絵画との区別を不明ならしめて一の図案となすものあり。小説物語には作者|自《みずか》ら出でて本文《ほんもん》と関係なき勝手の広告をなす事しばしばなり。西洋にても伊太利亜《イタリヤ》の喜劇には幕明《まくあき》に作者の現れ出づるもの往々にしてこれありといふ。要するにその時代とその国の特産物として看《み》る時これらの奇習は甚《はなはだ》尊し。向揚幕《むこうあげまく》より役者の花道に出でんとする時、大向う立見《たちみ》の看客の掛声をなすは場内の空気を緊張せしむるに力ある事|唄《うた》鳴物《なりもの》に優《まさ》る事あり。引幕の意匠|彩色《さいしき》もまた大道具と並びて演劇以外の演劇に大《おおい》なる関係あり。  江戸演劇は戯曲よりも先《まず》俳優を主とし、俳優の美貌《びぼう》風采《ふうさい》によりて常に観客の好劇心と密接の関係を保《たもた》しむるものなれば、シェーキスピヤの戯曲『ラシインの悲劇』の如く単に文学としてのみ独立して存在するものに非《あら》ず。されば今日《こんにち》の吾人が江戸演劇の演奏を見るや戯曲と合せてその時代の衣服の流行俗謡の変遷等につきてもまた全く無関心たる事|能《あた》はざらしむ。江戸演劇はこれに附随する種々なる技芸遊戯を生ぜしめたり。先づ文学としては役者評判記《やくしゃひょうばんき》また劇場案内記《げきじょうあんないき》等の類にして、絵画としては鳥居《とりい》勝川《かつかわ》歌川《うたがわ》諸派の浮世絵、流行としては紋所《もんどころ》縞柄《しまがら》染模様《そめもよう》の類なり。その他|羽子板《はごいた》、押絵《おしえ》、飴細工《あめざいく》、菊人形、活人形《いきにんぎょう》、覗機関《のぞきからくり》、声色使《こわいろつかい》の雑技あり。この中《うち》浮世絵と流行の模様とは時勢のために江戸演劇の演奏全く断絶する事ありとなすも、長くその価値を認識せらるべし。  既に述べしが如く余は江戸演劇の演奏をして能ふかぎり従来の形式と精神とを保持せしめん事を希《こいねが》ふものたり。これに対して一部分の改革の如きは決して真正なる新時代の新演劇を興す所以《ゆえん》のものに非ず。江戸演劇の齎《もたら》す過去の習慣と伝統とは吾人の情緒《じょうしょ》を支配すること余りに強大なり。然るが故にもし吾人にして新しき演劇を興さんと欲すれば、戯曲の制作、演技の方法、劇場の構造等、凡《すべ》て江戸演劇とは根本よりして発生の途《みち》を別にせざるべからず。かつて学海居士《がっかいこじ》近くは坪内博士に至るまで諸先輩の企てし演劇改良策の遂《つい》に一として永遠の成功を収むる事|能《あた》はざりしは、皆江戸演劇を基礎とし、あるひはこれより出発して新しきものを考案せんと欲せしがためなり。新演劇の構成につきて余の思ふ処は他日これを論述するの機会あるべし。爰《ここ》には専ら旧劇の完全なる保存を主張し、古芸術愛惜の精神は新興芸術の発達に対して毫《ごう》も直接の関係なき別種の事たるを明瞭《めいりょう》にせんと欲するのみ。こはあたかも土佐《とさ》狩野《かのう》の古画と西洋油画とを区別して論ずるに均《ひと》し。余は新旧両様の芸術のためにその境界を区別するの必要を感じて止《や》まず。両者の混同より起る損害は一は古きものを破損し一は新しきものの発達を阻害すればなり。例へば江戸演劇の旧脚本を取り来りてこれを改竄《かいざん》するが如きその罪これより大なるはなし。  余は旧劇と称する江戸演劇のために永く過去の伝統を負へる俳優に向つて宜《よろ》しく観世《かんぜ》金春《こんぱる》諸流の能役者の如き厳然たる態度を取り、以て深く自守|自重《じちょう》せん事を切望して止まざるものなり。元来江戸演劇は時代の流行に従ひ情死喧嘩等の社会一般の事件を仕組みて衆庶の娯楽に供せし通俗なる興行物《こうぎょうもの》たりしといへどもこれは全く鎖国時代の事にして、今日の如く日々《にちにち》外国思潮の襲来|激甚《げきじん》なる時代において此《かく》の如き自由解放の態度はむしろ全体の破壊を招かんのみ。江戸演劇は既に通俗なる平民芸術にはあらで貴重なる骨董《こっとう》となりし事あたかも丹絵売《たんえうり》が一枚|幾文《いくもん》にて街頭にひさぎたる浮世絵の今や数百金に値《あたい》すると異なる事なし。  明治の革命起りて世態《せたい》人情|忽《たちま》ち一変するや江戸の美術工芸にしてよく今日までその命脈を保てるもの実に芝居と踊三味線《おどりしゃみせん》とあるのみ。浮世絵は月岡芳年《つきおかよしとし》を最後として全く絶滅し、蒔絵《まきえ》鋳金《ちゅうきん》の技《ぎ》は是真夏雄《ぜしんなつお》を失ひて以後また見るべきものなきに至りぬ。飜《ひるがえ》つて今日の西洋諸国を見るに外来の影響は皆自国の旧文明に一新生命を与へ以てその発達進歩を促したるに独《ひとり》我国にありては外国の感化は自国の美点を破却しその根柢《こんてい》を失はしむるに終れり。見よ仏蘭西の美術は日本画の影響によりて聊《いささか》も本来の面目を傷《きずつ》けられたる事なきに反し、日本画は油画のために全くその精神を失ひしに非ずや。西洋の工業|一度《ひとたび》日本に入《い》るや日本の諸器物は全く美術としての価値を失ひしといへども西洋の諸工芸品に至りては巧《たくみ》に日本の意匠を応用してかへつて一大進歩を示せり。日本人は西洋より石版銅版の技《ぎ》並に写真の術を習得せんがためには浮世絵木板の技術をして全く廃滅せしめずんばあらざりき。大正改元以後西洋演劇の輸入一代の流行を来《きた》すや、これがために江戸演劇も漸次に破壊滅亡の兆候を示さんとす。余は今日の状態にして放任せしめんか、十年を出《いで》ずして旧劇は全く滅亡すべしと信ず。ああわが邦人の美術文学に対する鑑識の極めて狭小薄弱なる一度《ひとた》び新来の珍奇に逢著《ほうちゃく》すれば世を挙げて靡然《びぜん》としてこれに赴《おもむ》き、また自己本来の特徴を顧みるの余裕なし。これいはゆる矮小《わいしょう》なる島国人《とうこくじん》の性質また如何《いかん》ともすべからざるもの歟《か》。進んで他を取らんとすればために自己伝来の宝を失ふ。一を得て一を失へば要するに文明の内容常に貧弱なる事|更《さら》に何らの変る処なし。明治維新以来東西両文明の接触は彼にのみ利多くして我に益なき事|宛《さながら》硝子玉《がらすだま》を以て砂金に換へたる野蛮島の交易を見るに異ならず。真に笑ふべき也《なり》。 [#ここから2字下げ] この一章を草せし後《のち》図らず森先生の「旧劇の未来」と題する論文(雑誌『我等《われら》』四月号所載)を読みぬ。旧劇は最早《もは》やそのままにては看《み》るに堪《た》へざれば、全くこれを廃棄するか然らざれば改作するにありといふ。これ余の卑見とは正反対なるを以て余は大《おおい》に※[#「りっしんべん+危」、184-5]懼《きく》疑惑の念を抱《いだ》けり。余の論旨は旧劇は改作を施さざる限りなほ看るに足るべしといふにあり。何が故ぞ。余は常に歌舞伎座帝国劇場の俳優によりて演ぜらるる旧劇中|殊《こと》に義太夫物《ぎだゆうもの》の演技に至りては、写実の気多き新芸風しばしば義太夫の妙味を損せしむるに比較し、宮戸座《みやとざ》あたりに余命を保つ老優の技を見れば一挙一動よく糸に乗りをりて、決して観客を飽かしめざる事を経験し、余は旧劇なるものは時代と隔離し出来得るかぎり昔のままに演ずれば、能狂言《のうきょうげん》と並びて決して無価値のものに非らずと信ずるに至りしなり。旧劇は元《もと》より卑俗の見世物《みせもの》たりといへども、昔のまま保存せしむれば、江戸時代の飾人形《かざりにんぎょう》、羽子板、根付《ねづけ》、浮世絵なぞと同じく、休みなき吾人日常の近世的|煩悶《はんもん》に対し、一時の慰安となすに足るべし。専制時代に発生せし江戸平民の娯楽芸術は、現代日本の政治的圧迫に堪へざらんとする吾人に対し(少くとも余一個の感情に訴へて)或時は皮肉なる諷刺となり或時は身につまさるる同感を誘起せしめ、また或時は春光《しゅんこう》洋々たる美麗の別天地に遊ぶの思《おもい》あらしむ。沙翁劇《さおうげき》を看んとせば英文学の予備知識なからざるべからず。ワグネルを解すべき最上の捷路《しょうろ》は手づからピアノを弾じて音譜《おんぷ》を知る事なるべし。江戸演劇を愛せんと欲せばすべからく三味線を弄《もてあそ》ぶの閑暇と折々は声色《こわいろ》でも使ふ、馬鹿々々しき道楽気《どうらくぎ》なくんばあらざるべし。余は江戸演劇を以ていはゆる新しき意味における「芸術」の圏外に置かん事を希望するものなり。 [#ここで字下げ終わり] [#地から1字上げ]大正三年稿 底本:「江戸芸術論」岩波文庫、岩波書店    2000(平成12)年1月14日第1刷発行    2006(平成18)年11月15日第8刷発行 底本の親本:「荷風全集 第十四巻」岩波書店    1972(昭和47)年3月 ※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。 ※ルビは新仮名とする底本の扱いにそって、ルビの拗音、促音は小書きしました。 入力:門田裕志 校正:米田 2010年11月17日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。