第二邪宗門 北原白秋 ------------------------------------------------------- 【テキスト中に現れる記号について】 《》:ルビ (例)饑《う》ゑ |:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号 (例)人|轢《ひ》き [#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定    (数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数) (例)玕 ------------------------------------------------------- [#1字下げ]円燈[#「円燈」は大見出し] [#2字下げ]飢渇[#「飢渇」は中見出し] あな熱し、あな苦し、あなたづたづし。 わが熱き炎の都、 都なる煉瓦の沙漠、 沙漠なる硫黄の海の広小路、そのただなかに、 饑《う》ゑにたるトリイトン神の立像《たちすがた》、 水涸れ果てし噴水《ふきあげ》の大水盤の繞《めぐり》には、 白琺瑯《はくはうらう》の石の級《きだ》ただ照り渇き痺《しび》れたる。 そのかげに、紅《あか》き襯衣《しやつ》ぬぎ 悲しめる道化芝居の触木《ふれぎ》うち、 自棄《やけ》に弾くギタルラ弾者《ひき》と、癪持《しやくもち》と、 淫《たはれ》の舞の眩暈《めくるめき》、 さては火酒《ブランデイ》かぶりつつ強ひて転《ころ》がる酔漢《ゑひどれ》と、 笑ひひしめく盲《めくら》らは西瓜をぞ切る。 あな熱し、あな苦し、あなたづたづし。 既に見よ、瞬間《たまゆら》のさき、 仄《ほの》かなる愁《うれひ》の文《あや》にしみじみと 竜馬《りうめ》の羽うらにほひ透き、揺れて縺《も》つれし 水盤の水ひとたまり。 あるはまた、螺を吹く神の息づかひ 焔に頻吹《しぶ》きひえびえと沁みにし歌も 今ははや空《から》びぬ、聴くは饑《う》ゑ疲れ 鉛になやむ地の管《くだ》の苦しき叫喚《さけび》。 あな熱し、あな苦し、あなたづたづし。 虚空《こくう》には銅色《あかねいろ》の日の髑髏《どくろ》転《まろ》びかがやき、 雲はまた血のごと沈黙《しじ》に鎔《とろ》けゆき影だに留めず。 ただ病める東南風《シロツコ》のみぞ重たげに、また、たゆたげに、 腐れたる翼《つばさ》の毒を羽ばたたく。 七月末の長旱《ながひでり》、今しも真昼、 煉獄の苦熱の呵責《かしやく》そのままに 火輪車《くわりんしや》駛《はし》り、石油泣き、瓦斯の香《か》喊《わめ》き、 真黒げに煙突震ふ狂ほしさ、その騒かしさ。 誰《たれ》ぞ、また、けたたましくも、 朱《あけ》の息引き切るるごと、 狂気なす自動車駆るは。 あな熱し、あな苦し、あなたづたづし。 狂気者《きちがひ》よ、人|轢《ひ》き殺せ。 癪持《しやくもち》よ、血を吐き尽せ。 掻き鳴らせ、絃《いと》切るるまで。 打ち鳴らせ、木の折るるまで。 飛びめぐれ、息の根絶えよ。 酔へよ、また娑婆《しやば》にな覚めそ。 盲《めしひ》らよ、その赤き腸《はらわた》を吸へ。 あはれ、あはれ、 この旱《ひでり》つづかむかぎり、 汝《な》が飢渇《きかつ》癒えむすべなし。 あな熱し、あな苦し、あなたづたづし。 [#2字下げ]わかき喇叭[#「わかき喇叭」は中見出し] 苦しげに喇叭《らつぱ》吹く息《いき》、 苦しげに喇叭《らつぱ》吹く息《いき》、 汝はゆきていづくにかへる。 心臓のあかきくるめき そを洩れて吹きいづるなる。 なやましき霊《たま》のひとすぢ いと冷《ひ》やき水の音色《ねいろ》に。 毒《どく》ふかき邪欲《じやよく》の谷に 淫楽《いんらく》の蝮《くちばみ》まとふ、 はたや身は痺《しび》れとろけて 断《た》ちがたきほだしに悩《なや》む。 狂念《きやうねん》のめくらむ野辺《のべ》ゆ 挑《いど》み搏《う》つ硫黄《いわう》の炎《ほむら》、 また苦《にが》き檻《をり》のおびえに くれなゐの破滅《はめつ》をさそふ。 さまだるる恋慕《れんぼ》のあへぎ 蒸しよどみ、かくてなやめど われは吹く、息もほつほつ うらわかき霊《たま》の喇叭《らつぱ》を。 かげ暗《くら》き恐怖《おそれ》の垂葉《たりは》 そのなかに赤き実熟るる。 わが夢《ゆめ》はあなその空に 濡《ぬ》れつつも燃《も》ゆる悲愁《かなしみ》。 濡れつつも燃《も》ゆるかなしみ そが犠牲《にえ》に吹きいづるなる。 かぎりなき生命《いのち》の苦痛《くつう》 かぎりある胸《むね》の力《ちから》に。 あはれ、なほ、喇叭《らつぱ》吹く息《いき》、 あはれ、なほ、喇叭《らつぱ》吹く息《いき》、 汝《な》はゆきていづくにかへる。 [#2字下げ]青き葉の銀杏のはやし[#「青き葉の銀杏のはやし」は中見出し] 青き葉の銀杏《いてふ》の林、 細《ほそ》らなる若樹《わかき》の林。 はた、青き白日《ひる》の日《ひ》かげに、 葉も顫《ふる》ふ銀杏《いてふ》の林。 そのもとを北へかすめる、 ひややけき路《みち》のひとすぢ、 かすかにも胡弓《こきゆう》まさぐり、 ゆめのごと、われはたどりぬ。 青き葉の銀杏《いてふ》の林 行き行けど路《みち》は尽きなく。 細《ほそ》らなる若樹《わかき》のはやし、 頬白《ほほじろ》の鳴《な》く音《ね》もきかず。 すすりなく愁《うれひ》の胡弓《こきゆう》、 葉の顫《ふる》ひ、青き日かげ。 さはひとり、われとさすらひ、 われと弾《ひ》き、聴《き》きもほれつつ、 日もすがら涙さしぐむ、 青き葉のかげをゆく身は。 それとなきもののかぜにも、 弱《よわ》ごころ耳しかたむけ。 たちとまり、ながめ、みかへり、 あはれさの絃《いと》をちからに。 ひそやかに、また、しづやかに、 にほやかに尋《と》めもなやめば。 薄《うす》らなる青の絹衣《すずし》も、 いつしかに露にしなえぬ。 さあれ、なほ弾《ひ》きゆく胡弓《こきゆう》、 はてもなき路《みち》のゆく手に。 いつまでかかくて泣きつつ、 いつまでかかくもあるべき。 あはれ、あはれ、銀杏《いてふ》の林、 青き青き若樹《わかき》の林。 [#2字下げ]森の奥[#「森の奥」は中見出し] 森の奥ほのかにくらし。 夏のすゑ、長月はじめ、 あはれ、日も薄らうすらに、 薄黄《うすぎ》なる歎《なげき》沁みゆく 浮羅爛勤《はうのき》の広葉の青み、 あるはまた大木《おほき》の胡桃《くるみ》、 憂愁《わづらひ》のかげのふかみに、 燃《も》えのこる熱き日ざしは 黄に透かし暮れて薫れる。 そのなかに妙《たへ》にしづかに 物おもふ白馬《はくば》のあかり。 それやはた、夏の日の神 夕ぐれに騎《の》りやわすれし。 紅《くれなゐ》の手綱の色も、 白がねの鐙も、鞍も、 いとほのに夢の照妙《てるたへ》 ただ白し、ほのかに白し。 そをめぐり秋の笙《しやう》の音《ね》 蕭《しめ》やかにひそかに愁ふ。 響かふは角《つぬ》の音色《ねいろ》か、 病める果《み》か、饐《す》えゆく歌か。 かくてまた暗き葉越に 鳩の笛沁みはわたれど。 薄黄《うすぎ》なる光の透かし、 ひとすぢの昨《きそ》のほめきに、 ほの白う暮れてたたずむ 物おもふ色のしづけさ。 森はいまほのかにくらし。 [#2字下げ]円燈[#「円燈」は中見出し] 薄暮《くれがた》の谿間《たにま》の恐怖《おそれ》。 今宵《こよひ》またかなたに点《とも》る 紅《くれなゐ》の円《まろ》き燈《ともしび》。 そを知るや、知らずや、なほも なやましきにほひの奥《おく》に うづくまり黙《つぐ》むひとむれ。 真白《ましろ》なるゆめの水牛《すゐぎう》、 しかはあれど、なべて盲《めし》ひし 獣《けもの》らの重《おも》き起伏《おきふし》。 盲《めし》ひしは瞳のみかは、 ものにぶく、闇《やみ》にくぐもる もろもろのこころごころも。 かくてあな幾夜《いくよ》か経《へ》にし。 言《もの》いはず、かうべもあげず、 さあれども物《もの》待《ま》つごとし。 深《ふか》みゆく恐怖《おそれ》の沈黙《しじま》。 そのなかに今宵《こよひ》も消《き》ゆる 紅《くれなゐ》の円《まろ》き燈《ともしび》。 [#地から3字上げ]四十一年六月 [#2字下げ]尋《と》めゆくあゆみ[#「尋めゆくあゆみ」は中見出し] いと高くいと深くいと静《しづ》にいと蕭《しめ》やげる 夜《よ》の森のかげ、暗《くら》く冷《ひやゝ》なる列《つらね》のもとを、            われはあゆむ。 いと高くいと暗くいと密《みつ》にいとほのかなる 細《ほそ》らなる赤楊《はんのき》の列《つらね》、そのもとの底の底を            われはあゆむ。 いと高くいと深く沈みたる憂愁《うれひ》のもとを、 真素肌《ますはだ》のましろなる、衣《きぬ》つけぬ常若《とこわか》の矜《ほこり》もて            われはあゆむ。 赤楊《はんのき》のとある梢ありとしも見へぬ空のけはひ、 あはれその枝に色紅き小鳥の如《ごと》も星の見ゆる。            あはれひとつ いと高くいと深くいと静《しず》にいと蕭《しめ》やげる 夜《よ》の森のかげ、暗く冷《ひやや》なる列《つらね》のもとを、            われはあゆむ。 さあれ今|言《もの》いはぬ獣《けもの》忍びやかに蹤《つ》きぞ来《き》ぬる。 昨日《きのふ》より去年《こぞ》より生《あ》れしより、否《あらず》、前世《さきのよ》より            蹤《つ》きか来ぬる。 かかる夜《よ》のとある梢|哀《あは》れその空に星の見えつ。 紅き星紅き星ほのかにもわれは知れり、            かかるゆめも。 いと高くいと深くいと冷《ひや》にいと蕭《しめ》やげる 夜《よ》の森のかげ、ふとし、あな、路《みち》は落つる。            あらぬ谷間。 哀《あは》れ哀《あは》れあらぬ谷にいと暗《くら》く霊《たま》や落つる。 真素肌《ますはだ》の悲哀《かなしみ》よ血の香《か》する荊棘《いばら》のなかを            いかにわけむ。 足音《あのと》のす、言《もの》いはぬ獣《けもの》忍《しの》びかにひき帰《かへ》すらし。 哀《あは》れまたひとつ星、見もあへぬ闇のかなたに            はたや消ゆる。 忽《たちまち》にものの呻吟《うめき》、やはらなる足に触《ふ》れつつ そこここの血の荊棘《いばら》あなやその暗《くら》き底より            赤子啼きいづ。 [#地から3字上げ]四十一年六月 [#2字下げ]我子の声[#「我子の声」は中見出し] われはきく、生《うま》れざる、はかりしれざる 子《こ》の声《こゑ》を、泣《な》き訴《うた》ふ赤《あか》きさけびを。 いづこにかわれはきく、見えわかぬかかる恐怖《おそれ》に。 かの野辺《のべ》よ、信号柱《シグナル》は断頭《くびきり》の台《だい》とかがやき、 わか葉《ば》洩《も》る入日《いりひ》を浴《あ》びてあかあかと遙《はる》に笑《わら》ひき。 汽車《きしや》にしてさてはきく、轢《し》かれゆく子らの啼声《なきごゑ》。 はた旅《たび》の夕まぐれ、栄《は》えのこる雲《くも》の湿《しめり》に、 前世《さきのよ》の亡《な》き妻《つま》が墓《はか》の辺《べ》の赤埴《あかはに》おもひ、 かくてまた我《われ》はきく追懐《おもひで》の色とにほひに、 埋《う》もれたる、はかりしれざる子《こ》の夢《ゆめ》を、胎《たい》の叫《さけび》を。 帰《かへ》りきてわれはきく、ひたぶるに君抱くとき、 手力《たぢから》のほこりも尽《つ》きて弱心《よわこゝろ》なやむひととき、 たちまちに心《こゝろ》つらぬく 赤き子の高《たか》き叫《さけび》を。 [#地から3字上げ]四十一年六月 [#2字下げ]声なき国[#「声なき国」は中見出し] 声《こゑ》もなき薄暮《くれがた》の国、 追憶《おもひで》のこなたなるほの暗《くら》き闇《やみ》、 哀《あは》れ、さは冷《ひやや》けき世の沈黙《しじま》、恐怖《おそれ》の木《こ》かげ、 何処《いづこ》より見ゆるともなく出《いで》て来《こ》し思《おもひ》の女《をみな》 清《きよ》らなる真素肌《ますはだ》の身の独《ひとり》ほのかに暮《く》るる。 声《こゑ》もなき国の白楊《はくやう》、 列《つら》長《なが》う両側《もろがは》に顫《ふる》へわななき、 色《いろ》青《あを》き蝋《らふ》の火のほの暗《くら》みおびゆるごとく、 広《ひろ》きより狭《せば》み暮れゆく其果《そのはて》の遠《とほ》き切目《きれめ》に、 仄《ほの》かなる噴水《ふきあげ》の香《か》ぞひとり密《ひそ》かに泣ける。 声《こゑ》もなき国のさかひに すすり泣くそのゆめよ、水のひとすぢ かすかにも色《いろ》映《うつ》り消えも入る吐息《といき》する時、 哀れ、さは光《ひかり》匂《にほ》はぬ色《いろ》もなく声《こゑ》もなき野に、 ただ寒《さむ》う涙垂れ熟視《みつ》めぬる女《をみな》の思《おもひ》。 声《こゑ》もなき国のかなたは あかあかと色《いろ》わかき追憶《おもひで》の空。 歓楽《くわんらく》の楽《がく》の音《ね》よ、悩《なや》み添《そ》ふ甘き悲哀《ひあい》よ、 猛《たけ》り狂《くる》ふ恋慕《れんぼ》の夢《ゆめ》の此方《こなた》には聞《きこ》えこそ来《こ》ね、 雲《くも》はただ昨《きそ》のごと紅《くれなゐ》の色にただるる。 声《こゑ》もなき女《をみな》の思、 熟視《みつ》めつつ、ややにまた暮《く》れもいためど、 ただ密《ひそ》に頼《たの》みてし噴水《ふきあげ》のにほひとだえて、 存命《ながらへ》し悩《なやみ》の夢の曲節《めろぢあ》も見るによしなみ、 真素肌《ますはだ》の身は悲し冷《ひやや》けき石《いし》になりゆく。 声《こゑ》もなき薄暮《くれがた》の国。 かくていま、追憶《おもひで》の空《そら》はあかあか、 血のごとも雲《くも》は顫《ふる》へ楽《がく》の音《ね》の慄《わなな》くなかに、 閃《ひら》めくは聖体盒《せいたいごう》の香《か》の曇《くもり》、骨も斑《まば》らに 白白《しらじら》と浮《うか》びちり、あはれ早や沈み暈《くる》めく。 [#2字下げ]幽潭[#「幽潭」は中見出し] あはれ、こはもの静《しづ》かなる幽潭《いうたん》の 深《ふか》みの心《こゝろ》――おもむろに瀞《とろ》みて濁る 波もなき胎《たい》のにほひの水の面《おも》。 をりをり鈍《にぶ》き蛇のむれ首もたぐれど いささかの音《おと》だに立てず、なべてみな 重《おも》たき脳《なう》の、幽鬱《いううつ》の色して曇る。 さるほどに日も暮がたとなりぬれば、 あたりの樟《くす》の薄《うす》ら闇《やみ》しのびにつのる 灰色の妖女《えうぢよ》の冷《ひや》やきうすわらひ。 さあれど、ゆるにしづしづと髪曳きうかぶ 底《そこ》の主《ぬし》面《おもて》はかたく縛《しば》られて、 ただほの白《しろ》き身をなかば、水よりいづる。 ややありて、息吹《いぶき》のゆめもやはらかに、 盲《めし》ひし空をうちあふぎ、管《くだ》かたぶけて 吹きいづる石鹸《しやぼん》の玉《たま》の泡《あわ》のいろ ひとつびとつに円《まろ》らかに紅《あか》みてのぼる、 これやかの若《わか》くいみじき血のにほひ。 かくしてものの静《しづ》やかにひとときあまり。 ふと、ひらく汀の瞳《ひとみ》くろぐろと、 冷やにならびうかがへる妖女《えうぢよ》のつらね 肋骨《ろつこつ》の相摩《あいす》るごとき笑《わらひ》して 灰色《はひいろ》の髪《かみ》音《おと》もなくさばくと見れば、 そこここに首もたげゆく蛇のむれ、 ああまたもとの幽鬱《いううつ》に主《ぬし》消えしづむ。 かくてまた、鈍《にぶ》く曇れる水の面《おも》、 濁れる胎《たい》のもの孕《はら》む音《おと》ともなしに、 静寂《じやうじやく》の深《ふか》みに呻《うめ》く夜の色。 ほど経《へ》て声も消えゆけば、ああ見よ、いまし 幽潭《いうたん》の鈍《にぶ》める空にあかあかと のぼれる玉か、数しれぬ幾千万《いくせんまん》の新星《にひほし》の華《はな》。 [#地から3字上げ]四十一年六月 [#2字下げ]急瀬[#「急瀬」は中見出し] 『暗い。』『暗い。』 聴け、夜に叫ぶ髑髏《されかうべ》、急瀬《はやせ》の小石、 熟視《みつ》むるは死よりも暗き鴆毒《ちんどく》の 発作《ほつさ》に頻吹《しぶ》く水の面《おも》、 聴け、わなわなとかたかた[#「かたかた」に傍点]と千万《ちよろづ》歎く。 時は冬、熊野の川の川上の如法の真闇、 峡《かひ》の底。 『暗い。』『暗い。』 聴け、はや叫ぶ髑髏《されかうべ》、急瀬《はやせ》の小石。 さてはまた、聴け、歯を洗ふ血の流 真黒《まくろ》に滴《した》る音ささと はた、きしきし[#「きしきし」に傍点]と泡たぎち噎《むせ》びぬ、まさに 丑満の黒金雲《くろがねぐも》の棺衣《たれぎぬ》は七岳《ななたけ》めぐり、 風顫ふ。 『暗い。』『暗い。』 聴け、また叫ぶ髑髏《されかうべ》、急瀬《はやせ》の小石、 熟視《みつ》むれど喚《わめ》けど、水は蝮《くちばみ》の 腹なし、縞もひた黒に 磨りては走る夜《よ》の恐怖《おそれ》、この夜《よ》もさらに 琅玕《らうかん》の断崖《きりぎし》づたひ投網《とあみ》うつ漁《いさり》の翁《おぢ》の 火も見えず。 『暗い。』『暗い。』 聴け、ひた叫ぶ髑髏《されかうべ》、急瀬《はやせ》の小石、 今はかの末期《まつご》の苦患《くげん》ひたひたと わななきほそる一刹那、 鯱《しやち》より疾《はや》く、棹あげて闇より闇へ、 火もつけず、声せず、一人《ひとり》丈長《たけなが》の髪吹き乱し 舟《ふね》きたる。 『暗い。』『暗い。』 聴け、今叫ぶ髑髏《されかうべ》、急瀬《はやせ》の小石、 一斉《ひととき》に驚破《すは》と慄くひたおもて か[#「か」に傍点]とこそ噛めば竜骨は 血の香《か》滴る鋸を鑢《やすり》の刃《は》もて 磨る如く、白歯をきし[#「きし」に傍点]と一文字に、傷きながら 逃れさる。 『暗い。』『暗い。』 聴け、なほ叫ぶ髑髏《されかうべ》、急瀬《はやせ》の小石、 瞬間《たまゆら》の膏油と熱き肉《しし》の香《か》に 狂へる慾は護謨の火の 断《ちぎ》るるがごとひたわめく、呪詛《のろひ》と飢《うゑ》と 悔《くい》と死と真黒に噎《むせ》ぶ血の底に歯を噛みながら 熟視《みつ》めたる。 『暗い。』『暗い。』 聴け、なほ叫ぶ髑髏《されかうべ》、急瀬《はやせ》の小石、 熟視《みつ》むれど天蝎《てんかつ》宮の光だに 影せぬ冥府《みやうふ》、わなわなと 喚《わめ》けどさらに蝮《くちばみ》は腹磨り奔り、 絶えずまた泡だち落つる血はささとその戦慄《わななき》に 噎《むせ》ぶのみ。 『暗い。』『暗い。』 聴け、夜に叫ぶ髑髏《されかうべ》、急瀬《はやせ》の小石、 熟視《みつ》むるは死よりも暗き鴆毒の 発作《ほつさ》に頻吹《しぶ》く水の面《おも》、 なほ、きしきし[#「きしきし」に傍点]とかたかた[#「かたかた」に傍点]と嘆けど、哀《あは》れ、 億劫《おくごふ》の窮《きはまり》あらぬ闇に堕ち闇に饑ゑゆく 人の群。 [#2字下げ]二つの世界[#「二つの世界」は中見出し] 色あかき世界のなかに うららにも小鳥さへづり、 色白き世界のなかに ものにぶき駱駝《らくだ》は坐《すは》る。 ものにぶき駱駝《らくだ》の見るは 白き砂、白き思の星、 えもわかぬ髑髏《どくろ》のなげき、 ピラミドのたそがれの色 うららなる小鳥のうたは また遠く、ひと世《よ》へだてて 脳《なう》の内、もだえの熱《ねつ》に、 謔言《うはごと》のかずかずうたふ。 かなたには隊商《カラバン》の鈴、 こなたにはあかきさへづり。 今日《けふ》もまた境し立てる スフインクスひとりしづかに。 スフインクス、恐怖《おそれ》の沈黙《しじま》、 そが胸の象形文字《しやうけいもじ》の 謎《なぞ》も、あな、半《なかば》しろく、 はた赤く、聴耳《ききみみ》澄《す》ます。 あはれ、いま、白き世界の ゆふまぐれ。しかはあれども 色あかき世界の真昼《まひる》。 スフインクス、こころは惑《まど》ふ。 [#地から3字上げ]四十一年八月 [#2字下げ]暮れなやむ心のあそび[#「暮れなやむ心のあそび」は中見出し] 晩夏《おそなつ》の暮れなやむ日のわがこころ 球突《びりああど》をばもてあそぶ、脳のくもりに うしろより煙草のくゆり病ましげに、 なにともわかぬ思きて覗《のぞ》く心地す。 玉ふたつわれの好《この》める色したる、 また玉ふたつうち曇る白の円《まろ》みす。 棒《きう》とりていづれか突かむ。うち見れば 萌黄の羅紗の台《だい》の面《おも》ほのに顫へる。 その嘆《なげ》き、おぼろげながらわれぞ知る。 いつのゆふべとわかねども負傷《てお》ひし胸の そのにほひ、棒《きう》とりながらわれぞ知る。 かくてもやまぬわがあそび、色入りまじる。 そを見つつ後《うしろ》にけぶすかの思 なにしか笑《わら》ふ。さあれども暮《く》るるこころは 色あかき玉もてあそびうちなやむ。 重き煙草にまどはしく眩暈《めくら》みながら。 いづこにかものなやましきはなしごゑ あるはきこゑて、ものあかくあかる心地す。 わが脳のなかにか、室《むろ》のうつつにか、 火点《とも》るごときそのけはひ、遊戯《あそび》夜に入る。 [#地から3字上げ]四十一年八月 [#2字下げ][#中見出し]鑲工[#中見出し終わり] 静《しづ》やかに泣きつつあれば、 わがこころ鑲工《もざいく》なしぬものとなく、―― 正方形《せいはうけい》の鑲工《もざいく》のその壁《かべ》をしも見まもれば そはものにぶき顔の面《おも》、 面《おも》のなかばを、やはらかき茎のうねりや、 あかあかと蔽《おほ》ひ燃《も》ゆめる罌粟《けし》のゆめ そのかげに、 そのかげに、 盲《めし》ひたる白き眼ふたつ。 あはれその 白き眼ふたつ、 なにか見る、 夕《ゆふ》ぐれのもののしじまに。 [#2字下げ]天幕の中[#「天幕の中」は中見出し] 色にぶき毛織《けおり》の天幕《てんと》、 そがなかにわがおもひひとりしあなる、 あはれ、盲《し》ひたる白き目に花とりあてて、 そが紅《あか》き色見むものと燥《あせ》りつつ、さは燥《あせ》りつつ、 色にぶき毛織《けおり》の天幕《てんと》 いつまでかわれの思《おもひ》のひとりしあなる。 [#地から3字上げ]四十一年八月 [#2字下げ]髑髏は熟視《みつ》む[#「髑髏は熟視む」は中見出し] 髑髏《どくろ》は熟視《みつ》む、きゆらそおの血の酒甕《さかがめ》の間《あひだ》より、 髑髏《どくろ》は熟視《みつ》む、命《いのち》なくただうち凹《くぼ》む眼《まなこ》して、 髑髏《どくろ》は熟視《みつ》む、忘《わす》れたる思ひいでんとするが如《ごと》、 髑髏《どくろ》は熟視《みつ》む、寝《ね》そべりて石鹸玉《しやぼんだま》吹く女《め》が面《かほ》を。 [#地から3字上げ]四十一年六月 [#1字下げ]樟の合奏[#「樟の合奏」は大見出し] [#2字下げ]樟の合奏[#「樟の合奏」は中見出し] 初夏《しよか》の空《そら》。 灰白色《くわいはくしよく》の雲のもと。 水沼《みぬま》のほとり。 ひと叢《むら》の樟《くす》のわか葉《ば》の黄金《こがね》いろ 梢《こずゑ》も高く、 濡《ぬ》れ濡《ぬ》るる雨後《うご》の夕《ゆふべ》のひとあかり、 入日《いりひ》に燃えて 潤《しめ》やかに、華《はな》やかに、 調《しら》べあはする かなしみの、 よろこびの、 くるしみの 香《か》も狂《くる》ほしき生《せい》の曲《きよく》……夢《ゆめ》の合奏《がつさう》…… そのかげに、 赤《あか》き煉瓦《れんぐわ》の 変圧所《へんあつじよ》、心《こゝろ》盲《めし》ひし 高圧《かうあつ》の電気《でんき》の叫喚《わめき》音《おと》もなく、 斜《ななめ》に走《はし》る銅線《はりがね》の かきむしりゆく火の苦悩《なやみ》。 はたやオゾンの香《か》のしめり、渦巻《うづま》き縺《もつ》れ、 昼《ひる》も、夜《よ》も、 間《ま》なく、時《とき》なく、 ひたぶるに暈《くる》めき、醸《かも》す死《し》の恐怖《おそれ》、 列《つら》ね立てたる柱《はしら》には、 『触《ふ》るる者《もの》かく死《し》すべし。』と 髑髏《どくろ》あり、ひたと黙《つぐ》める。 また、見よ暗《くら》くとろとろと、 曇《くも》り濁《にご》れる鈍色《にびいろ》の水沼《みぬま》の面《おも》を。 病《や》める壁《かべ》、 樟《くす》の調楽《てうがく》 映《うつ》せども映《うつ》すともなきものの色。 ただに声《こえ》なく、 命《いのち》なく、 鈍《にぶ》く、重《おも》たく、 波《なみ》たたず、 淀《よど》みもせなく、 なべてこれこの世《よ》ならざる日の沈黙《しじま》。 鈍《にぶ》く、ぼやけし 忘却《ばうきやく》の護謨《ごむ》の面《おもて》を圧《お》すごとく、 掌《て》に圧《お》すごとく、 たまにのみ、太《ふと》き最低音《ベース》ぞ呻《うめ》くめる。 しかあれ、初夏《しよか》の夕《ゆふ》あかり、 灰白色《くわいはくしよく》の雲《くも》の裏《うら》ゆ金覆輪《きんぷくりん》に噴《ふ》きいづる 光の楽《がく》のさと赤《あか》く、 照《て》りかへし、湿潤《しめり》に燃《も》ゆるひとときよ、 あはれ斉《ひと》しく、はた高《たか》く、 しめやかに、華《はな》やかに、 調《しら》べいでぬる管絃楽《オオケストラ》の生《せい》の曲《きよく》―― かなしみに、 よろこびに、 くるしみに 狂《くる》ひかなづる、 狂《くる》ひかなづる、 狂《くる》ひかなづる 狂《くる》ひかなづる 樟《くす》の合奏《がつさう》……死《し》のオゾン……… さてしもあはれ、夜《よ》とならば 夜とならば如何《いか》にかすらむ。 いま、夕焼《ゆうやけ》の変圧所《へんあつじよ》 嘲《あざ》けるごとく、 はたや、かの虐殺《ぎやくさつ》の血《ち》を浴《あ》びしごと、 あかあかと笑《わら》ひくるめく…… [#地から3字上げ]四十四年五月 [#2字下げ]晩夏[#「晩夏」は中見出し] くわと照らす夕陽《ゆふひ》の光、 噴水《ふきあげ》の霧のしぶきよ。 湿《しめ》らひぬ、蒸《む》しぬ、ひかりぬ、 さは、苑《その》の若木のたわみ、 花の叢《むら》、草葉のかをり、―― さまざまの薫るおもひに。 こぼれちる水のにほひよ。 日のひかり、雲のうつろひ、 栄《は》えしぶく麝香の真珠《またま》、―― 絶えず、わが夢かしたたる。 ふくらかに霧にうもれて 燃えたわむ色のうれひよ、 うつろひぬ、蒸しぬ、しめりぬ、―― ゆふぐれの胸のなごみを。 くわと照らす晩夏の光、 尽きせざる夢のしぶきよ。 [#2字下げ]蜩[#「蜩」は中見出し] 胸に、はた、 夕日の幹《みき》に、 つと来り、蜩《かなかな》なげく。 かなかなかなかな……かなかなかなかな…… 黄金《こがね》なす細き旋律 せはしげに、また、かなしげに。 かなかなかなかな……かなかなかなかな……。 かくて、また鳴きつつ熟視《みつ》む、 栄《は》えあかる思より、 梢より、 実のひとつ落ちむとするを。 かなかなかなかな……かなかなかなかな…… [#地から3字上げ]四十一年六月 [#2字下げ]夏の夜の舟[#「夏の夜の舟」は中見出し] 虫《むし》啼《な》ける。 りんりんすりりん……りんりんすりりん…… あはれわが小舟《をぶね》ぞくだる。 痍《きず》つけるわかうどの舟《ふね》。 りんりんすりりん……りんりんすりりん…… はてもなう向《むか》ひてかすむ 白壁《しらかべ》のほのかなる列《つら》。 そのかげを小舟はくだる、 蒸《む》し挑《いど》む靄のふるへに。 りんりんすりりん……りんりんすりりん…… いまし、また水路《すゐろ》のはてに、 落ちかかる 弦月《げんげつ》あかく、 そこここのくらみの奥《おく》に 寝《ね》おびれて倦《う》めるものごゑ。 りんりん……すりりん…… 某《それ》の夏《なつ》、 かかる夜《よ》の港《みなと》にききし 二上《にあが》りの音《ね》じめはすれど、 あはれそをいづことわかむ。 あたりやや暗《くら》みふけつつ、 血のごとく 顫《ふる》ふ月《つき》しろ 沈《しづ》みゆくその香《か》のなごり。 あなしばし、虫|啼《な》きしきる。 りんりんすりりん……りんりんすりりん…… りんりんすりりん……りんりんすりりん…… りんりんすりりん……りんりんすりりん…… いつしかと真闇《まやみ》のにほひ、 深《ふか》みゆく恐怖《おそれ》につれて はたと虫《むし》息《いき》をひそめぬ。 蒸《む》しあつし、また息《いき》ぐるし。     ……………………………………………… 舟はなほ重《おも》たくくだる。 ふと窻に蝋《らふ》の火《ひ》あかり、 病人《やまうど》の顔ぞいでたる。 内部《うちら》には時計の響《ひびき》。 ぎいすちよつ…………………… 重《おも》き咳《せき》ふたたびみたび、 真黒《まくろ》なる帷《とばり》は落ちぬ。 あはれ闇夜《やみよ》。 ぎいすちよつ……………………ぎいすちよつ…………………… かくてなほ小舟《をぶね》はくだる。 いづくにかはてなむ旅《たび》ぞ、 そも知《し》らね、水《みづ》のひとすぢ、 白壁《しらかべ》のはてしなき夜《よ》を。 ぎいすちよつ……がちやがちや……ぎいすちよつ…… たちまちに閉《とざし》の扉《とびら》、 かげ暗《くら》き大黒金《おほくろがね》の壁《かべ》のもと、小舟《をぶね》はなづむ。 あなあはれ、 ものなべて見わかぬ闇《やみ》よ、 内《うち》にはた悩《なや》みか伏《ふ》せる 幾百《いくひやく》の沈黙《もだ》の大牛《おほうし》。 最終《いやはて》か、恐怖《おそれ》の淀《よど》か、 舟は、あな、音なく留《と》まる。 りんりん……………………すりりん…… 否《あらず》、また、おのづからなる 抵抗《あらがひ》のすべなき力 その水に舟押しながる。 ぎいすちよつ………ぎいすちよつ……… がちやがちやがちや……ぎいすちよつ…… がちやがちやがちや……がちやがちやがちや…… がちやがちやがちやがちや……がちやがちやがちやがちや…… はてもなう小舟《をぶね》はくだる。 [#2字下げ]大曲『悶絶』[#「大曲『悶絶』」は中見出し] 色赤きものごゑあまた 脳《なう》をいで、とどろと奔《はし》る。―― 逃れゆくわれの足音《あのと》か、 もの鈍き毛織《けおり》の黝《ねずみ》 蹈みにじり、蹈みにじり………… ら、りら、ら、りら、 ほのかに雲雀《ひばり》。 あはれいま砥石《といし》のひびき、 鈍刀《なまくら》のすべるひらめき。 そのなかを赤きものごゑ 血を滴《たら》し、とどろと奔《はし》る。 もの鈍き毛織《けおり》の夢を 蹈みにじり、踏みにじり………… ら、りら、ら、りら、 かすかに雲雀。 はた[#「はた」に傍点]と、あな、足音《あのと》絶え入り、 ただひびく緩《ゆ》るく鈍刀《なまくら》。 しづかなる皐月《さつき》の真昼、 白雲はゆるかにのぼり、 軟《なよ》ら風ゆらにゆらるる。 ら、りら、ら、りら、 さへづる雲雀。 いづこにかいづこにか揺曳《ゆらび》ける絃《いと》の苦悩《なやみ》の……… 『……ああはれ、よしなや、われらがゆめぢ、        かなしきその日の接吻《くちつけ》にも………』 緩《ゆ》るやかにねぶたき砥石《といし》。 『……かなしきその日の接吻《くちつけ》にも、        さまたげ難《がた》かる「我」のほこり、   ひたぶる抱きて涙すれど恐怖《おそれ》と苦悩《なやみ》の………』 さあれなほものうき砥石《といし》。 『……ああはれ、よしなや、肉《にく》のおびえの――     汝《な》が火のまなざし、     わが血のいどみ、     殺さむ死なむと朱《あけ》に顫《ふる》ふ………』 ら、りら、ら、りら、 ほのかに雲雀。 『………殺さむ死なむと朱《あけ》に顫《ふる》ふ………、』 聴くとなき黒ヸオロンの火のきざし 見る見る野辺《のべ》に渦巻きて悶絶《もんぜつ》すれば、 くわ[#「くわ」に傍点]とあがる血しほの烟《けむり》、 そのなかをわれのものごゑ また見えてとどろと奔《はし》る。 忍びかにひややかに清《きよ》らなる水のさらめき―― さらめきに角筩《つのぶえ》あかり、 かなしみの音《ね》の吐息《といき》ほのかにおこる。 はたと、また、足音《あのと》絶え入り、 野はなべて黄昏《たそがれ》の色。 ほのかなるにほひのそらに、 やや赤く地平は光り、 そこここの水面《みのも》より 水牛《すゐぎう》いづる。 水牛《すゐぎう》のしづけさや、 しづかなる角《つの》の音《ね》に物をしおもふ。 しかあれ、鈍刀《なまくら》の すべる音《おと》、――砥石《といし》のひびき―― ら、りら、ら、りら、 ほのかに雲雀。 しづかにも坐《すは》る水牛《すゐぎう》、 戦慄《わななき》の、かなしみの唸《うなり》あげつつ、 おもむろにおもむろにあかる不思議《ふしぎ》の いと赤き西天《さいてん》ながめ、 恐ろしき、あるものの迫《せまり》にふるふ。 いづこにか洩れきたるヸオロンのゆめ……… 『……そぞろ、あはれ、そぞろ、あはれ    恋の帆船《ほぶね》の――    空色《そらいろ》の帆もちぎれ、波にぬれて――    今日《けふ》また二人《ふたり》、    今日また二人、    かなしき島根をさしてかへる………』 また鈍き砥石《といし》のひびき    かなしき光に艫《ろ》のためいき、    かなしき海ゆくわかき夢《ゆめ》の    みそらにほのめく星の光、    ああいますべなく、われら帰る。……』 ふと起る、この面《も》彼面《かのも》に嘲笑《あざわら》ふ人の諸《もろ》こゑ。 『……苦《くる》しき挑《いど》みにせきもあへぬ    恋慕《れんぼ》の吐息《といき》に顫《ふる》ふこころ、    嗚呼《ああ》このなやみをいかにかせむ。    さあれど、すべなく帰る二人《ふたり》。……』 高みゆく砥石《といし》の響――鈍刀《なまくら》の増《ふ》えゆくすべり―― 『……朱《あけ》なる接吻《くちつけ》、痛《いた》き怨言《かごと》、    ああまた再度《ふたたび》抱き泣けど………』 また近く暗《くら》き嘲笑《あざけり》。 『……ああかなし、    かなしき光、    われらの光、    内心《ないしん》のかなしき瞳………』 たと跳《をど》り逃《に》ぐる水牛《すゐぎう》 あな、赤《あか》き血浴びしごとも啼き狂ひ絶望《ぜつまう》の唸《うなり》に奔《はし》る。 大空は見る見る月の面《おも》となり、 たちまち赤き半円の盲《めし》ひし如《ごと》も広《ひろ》ごれば、 一時《いちじ》に響く野の砥石、数《かず》かぎりなき刃《は》のにほひ―― はた、赤き此面《このも》彼面《かのも》の嘲笑《あざわらひ》……あまる空なく おほらかに広み尽くせる、大月《たいげつ》の恐怖《おそれ》の面《おもて》、 爛《ただ》れたる眩暈《くるめき》三度《みたび》、くわつ[#「くわつ」に傍点]として悶絶《もんぜつ》すれば 見るが間《ま》に血烟《ちけむり》あがり、 逃《のが》れゆく我《われ》のものごゑ また見えてとどろと奔る。 水牛《すゐぎう》の声………千万《せんまん》の砥石の響……… 苦《にが》き嘲罵《あざけり》………はたや、なほ奔《はし》る足音《あしおと》……… ら、りら、ら、りら、 ほのかに雲雀。 はた[#「はた」に傍点]といま聾《ろう》しぬる。 色…………音…………光………… [#地から3字上げ]四十一年八月 [#2字下げ]大太皷の印象[#「大太皷の印象」は中見出し] 跳《おど》りいづ、赤き獣《けだもの》、     どんどん……… とみかう見、円《まろ》らに笑ひ、はた跳《おど》る。     どんどん……… あなやいま街《まち》の角《かど》より人|曲《まが》る。     どんどん……… また来《きた》る。     どんどん……… 赤き獣《けもの》はふと消えて幼子《をさなご》となり、     どんどん……… 電車線路を匍《は》ひめぐる。人また見ゆる。     どんどん……… あな、うち転《まろ》ぶ人のむれ、音《おと》もころころ。     どんどん……… 幼子《をさなご》のうへに重なる。また転《まろ》ぶ。     どんどん……… 逃げんと呻《うめ》く間《ひま》もなく、ひびきものうく、     どんどん……… 鈍き電車は唸《うな》り来《く》る。はた、轢《し》き過《す》ぐる。     どんどん……… 時に真白《ましろ》の雲の団街《たままち》よりのぼり、     どんどん……… かき消《き》ゆる人のあとより     どんどん……… また跳《おど》る赤き獣《けだもの》     どんどん……… とみかう見、盲《めし》ひて笑ひ、はた、傲《おご》る。     どんどん……… [#地から3字上げ]四十一年八月 [#2字下げ]眼ふたげば[#「眼ふたげば」は中見出し] 眼《め》ふたげば鳥は囀《さへづ》る。 盲《めし》ひたる色赤き世界のなかに、 疲れたる鳥は囀《さへづ》る。 盲《めし》ひたる色赤き世界のなかに、 また見るは肋《あばら》のにほひ 光なく、力なく、さあれほのめく。 肋骨《あばらぼね》泣《な》きかつ訴《うた》ふ。 『わが骨《ほね》はわが骨《ほね》は色《いろ》あかき心《こころ》の楯よ。 かくてはや終《つひ》の墓碑《おくつき》。』 鳥《とり》は囀《さへづ》る。 『婆羅門《ばらもん》の婆羅門《ばらもん》の塩を嘗《な》めつる 咎《とが》ゆゑに昼《ひる》も夜《よ》もかくは啼《な》くめる。』 いづこにか、さはきりぎりす。 盲《めし》ひたる色赤き世界のなかに、 力なきうめきのやから 騒《さは》ぎ立《た》ち、鳥はさへづる。 はた消えてふと見ゆる顔。 その顔はあてに痩せたるかの少女《をとめ》。 少女《をとめ》のなげく。 『あはれ、君、われはもや倦みも死《し》なまし。』 鳥は囀《さへづ》る。 少女《をとめ》の顔はややありて白き手となり、 疲れたる、葡萄酒を注《つ》ぐ顫《ふるへ》して 『紅《あか》き酒、そはわが血潮、 ほどほどに吸《す》ひて去《い》ねかし。』 鳥《とり》は囀《さへづ》る。 は[#「は」に傍点]と眼《め》ひらけば、わがまへに赤《あか》くちりかふ 光線《くわうせん》の光《ひかり》の団《たま》のめくるめき。 鳥《とり》は囀《さへづ》る。 また眼とづれば、泣《な》きいづる骨《ほね》の揺曳《ゆらびき》、 人の顔《かほ》。はた、きりぎりす。 鳥《とり》は囀《さへづ》る。 [#2字下げ]かうほね[#「かうほね」は中見出し] きけ、あけぼのの香炉に、 連弾《つれひ》く夜半《よは》のそらだき 薄らひ、ほのにあかれば、 清掻《すががき》、やがてもはらに ひとつの香《かう》のいろのみ 薫《く》ゆりぬ、――あはれ、水《み》の面《も》の 後朝《きぬぎぬ》、――誰《た》をかかへすと、 さは水無月《みなづき》のつくゑに 香《かう》の火炷くや、かうほね。 [#1字下げ]青き酒[#「青き酒」は大見出し] [#2字下げ]十呂盤[#「十呂盤」は中見出し] 大いなる―― 聞け、大いなる黒金《くろがね》の巨人《きよじん》の指は 絶えずわが紅玉《こうぎよく》の数《かぞへ》の珠《たま》を 弄ぶ。 何時《いつ》よりか、知らず、 左の掌《たなぞこ》の脈|搏《う》つ上に 水晶の星|彫《きざ》む白壇の桁《けた》 横たへつ。 見るは、ただ、 蛇腹《じやばら》に似たる掌《たなぞこ》の暗き彫刻《ほりもの》 弾《はじ》く指、また昼《ひる》と夜《よ》とも分かたぬ 天《そら》の色。 わが珠《たま》の 上《あが》れば、ひとつ、劫《がふ》の世に惑星うまれ、 下る時、億年《おくねん》の栄華《えいぐわ》は滅ぶ 加減則《かげんそく》。 斯くて、わが 運《はこび》正しき紅玉の妙音楽は 極みある命数《めいすう》の大歓楽に 鳴りひびく。 光明の 大千世界ひとときに叫喚つくる 恐怖《おそれ》の日、はた、知らず、われと音《ね》に酔ふ 星の桁。 聞くは、ただ、 宏大無辺天空の寂寞《じやくまく》遠く 筆走り、たまたまに『差引』記《しる》す 夢の音。 さては、また、 わかき巨人が黒金《くろがね》の高胸《たかむね》へだて われは聞く、おほどかに鼓《つづみ》うつなる 心《しん》の臓《ざう》。 [#2字下げ]はばたき[#「はばたき」は中見出し] 聞けとある大海原《おほうなばら》のただなかは 終日《ひねもす》重《おも》きあかがねの霧たちこめて ゆたゆたに濤《なみ》こそうねれ、日輪は 凄まじ、黒き血の塊《くれ》と焦げて暈《くる》めく。 みるかぎり赤道下の炎熱に 鉛のごとき鹹水《しほみづ》は炎《ほのほ》と燃えて、 海蛇《うみへび》の鎌首高く、たまたまに 煌《きら》めき、さてはづぶづぶと青く沈みぬ。 物なべて気懶《けだる》し重し、わだのはら 溶《とろ》けたゆたふ鬱憂のうねりに疲れ 夜のごとも深まる吐息。しかすがに、 大寂静《だいじやくじやう》の空高く濃霧《のうむ》をわけて 東より霊智の光しらしらと 見え、かつ、消えぬ、大鳥《おほとり》の強きはばたき。 [#2字下げ]青き酒[#「青き酒」は中見出し] 青き酒、―― など、汝は否《いな》む。これやわが深みの炎《ほのほ》、 また永久《とは》の秘密の徴《しるし》、われと聴く 激しき恋の凱歌《かちうた》に沈みにし色。 ただ刹那、 千年《ちとせ》に一度《いちど》現るるかの星こそは、 われとわが醸《か》みにし酒の火の飛沫《しぶき》、―― 濃き幻のしたたりに天《そら》さへ燬《や》けむ。 こを飲まば 刹那の刹那、歎く血の歓楽《よろこび》にこそ、―― 痛ましき封蝋色《ふうらふいろ》の汝《な》が胸も、 焦げつつ聴かめ、 この夜半《よは》に音《おと》なく響く管絃楽《オケストラ》、 虚無より曳ける青き火の丈長髪《たけながかみ》を。 [#2字下げ]空罎[#「空罎」は中見出し] 葡萄酒罎の上包《うはづつみ》、霊《たま》なるころも、 何の魔か、飽くなき慾の痙攣《ふるへ》もて かく引き裂《ちぎ》り、むざむざと歩み棄てけむ。―― 火の片《きれ》ぞ素足にわれと泣かしむる。 いづくに行かば得らるべき命の糧《かて》ぞ。 踏むはただ鉛の路の火の飛沫《しぶき》、 死の色つづく高壁《たかかべ》のつらねのそこを 蟻のごと匍ひもとほらむ末のすゑ。―― たちまち薫る酒の歌、蒸すかと見れば 赭《あか》ら頬《ほ》の想《おもひ》の族《ぞう》らとりどりに、 はや、酔ひしれて狂《たは》れきぬ、あな、わが血にぞ。 かくて、見よ、わが幻《まぼろし》に転《まろ》ぶもの 吸い尽くされし空《から》の罎《びん》、――空《から》なる命、 最終《いやはて》の辻の恐怖《おそれ》に、ふと青む。 [#2字下げ]炎上[#「炎上」は中見出し] 焦げに焦がるる我心《わがこころ》、そことしもなく聞ゆるは 執着《しふちやく》の日の喚叫《さけびごゑ》、黒ずむ悪の火の羽ぶき、 油日照《あぶらひでり》の四辻《よつつじ》は凄惨として音もなく、 雲なき空に電流の渦まき消ゆる断末魔。 もそろもそろに滞《とどこほ》る鉛の電車、一片《ひとひら》の 命の紙と蝋づけの薄葉鉄《ぶりき》の人を吊るしつつ、 黒き煉瓦の息づみにひたぶる咽《むせ》ぶ輪のほめき。 事こそ起れ、いづこにか、早鐘すらむ物の色。 驚破、炎上《えんじやう》の火の光、見れどもわかぬ日ざかりに みるみる長く十字|劃《か》きゐすくむ帯の縧色《さなだいろ》、 あなと、昏《くら》めば、後《しりへ》より、戞戞戞《かつかつかつ》と跑《だく》ふませ、 隙《すき》こそあれや、た[#「た」に傍点]とばかり、鞭ひらめかし、驀然《まつしぐら》、 黒き甲《かぶと》と朱の色の蒸汽|喞筒《ぽむぷ》の馬ぐるま、 跳《をど》りぞ過ぐれ、湯は釜に飛沫《しぶき》くわつくわと沸《たぎ》りたる [#2字下げ]紅火[#「紅火」は中見出し] 夜《よる》なり。二人、臨終《りんじう》の寝椅子《ねいす》に青み、むかひゐて 毒酒《どくしゆ》を杯《はい》に。紅《くれなゐ》の燭《しよく》こそ点《とも》せ。まのあたり、 無言《むごん》に凝視《みつ》め赫耀《かくえう》の波動《はどう》を聴《き》けば、夢心地《ゆめごこち》、 浄華《じやうげ》のわかさ、身《み》も霊《たま》も紅《あか》く縺《もつ》るる赤熱《しやくねつ》よ。 火《ひ》は葡萄染《えびぞめ》の深帳《ふかとばり》、花毛氈《はなもうせん》や、銀《ぎん》の籠《かご》、 また、羅《ら》のころも、緑髪《みどりがみ》、わかき瞳に炎上《えんじやう》の 匂香《にほひが》熱《あつ》く、『時《とき》』の呼吸《いき》、瞬《またた》き燻《くゆ》る『追懐《おもひで》よ。 『恋《こひ》』は華厳《けごん》の寂寞《じやくまく》に蒸し照る空気うち煽《あふ》る。 時《とき》経《へ》ぬ唇《くち》は『楽欲《げうよく》』の渇《かわき》に焦《こが》れ、心《しん》の臓《ざう》 喘《あへ》げば、紅火《こうくわ》『煩悩《ぼんなう》』の血彩《ちいろ》薫《くん》ずる眩暈《くるめき》よ。 朱《しゆ》の蝋涙《ろふるい》は毒杯《どくはい》の紫《むらさき》擾《みだ》し照り雫《しづ》く。 今こそ蝋《ろふ》は琺瑯《はうろう》に炎《ほのほ》のころもひき纏《まと》ひ、 音《おと》なく溶《と》くる白熱《びやくねつ》に爛《ただ》れ艶《えん》だつ弱《よわ》ごころ、 無言《むごん》に泣けば『新生《しんせい》』の黄金光《わうごんくわう》ぞ燃《も》えあがる。 [#2字下げ]暮愁[#「暮愁」は中見出し] 暮れぬらし。何時《いつ》しか壁も灰色《はひいろ》に一室《ひとま》はけぶり、 盤上《ばんじやう》の牡丹花《ぼたんくわ》ひとつ血のいろに浮び爛《ただ》れて、 散るとなく、心の熱も静寂《じやうじやく》の薫《くゆり》に沈み、 卓《しよく》の上|両手《もろて》を垂れて瞑目《めつぶ》れば闇はにほひぬ。 窻の外《と》は物《もの》古《ふ》りし街《まち》、風湿める香《かう》のぬくみに、 寺寺の梵音うるむ夕間暮、卯月つごもり、 行人《かうじん》の古めく傘に、薄灯《うすひ》照り、大路《おほぢ》赤らみ、 柑子《かうじ》だつ雲の濡いろ、そのひまに星や瞬く。 わが室《むろ》は夢の方丈、匂やかに名香《みやうかう》なびき、 遠世《とほよ》なる暮色《ぼしよく》の寂《さび》に哀婉の微韻《ゆらぎ》を湛へ、 髣髴と女人《ぢよにん》の姿光さし続く幾むれ、 白鳥《はくてう》の歌ふが如く過ぎゆきぬ、すべる羅《ら》の裾。 そのなかに君は在《おは》せり。緑髪《みどりがみ》肩に波うち、 容顔の清《すが》しさ、胸に薔薇色《ばらいろ》の薄ぎぬはふり、 情界の熱き波瀾に黒瞳《くろひとみ》にほひかがやき、 領巾《ひれ》ふるや、夢の足なみ軽らかに現《うつゝ》なきさま。 ああ、それも束《つか》の間《ま》なりき。花祭ありし夕《ゆふべ》か、 群衆《ぐんじゆう》のなだれ長閑かに時花歌《はやりうた》街《まち》を流れて 辻辻に山車《だし》練る日なり、行きずりに相見しばかり、 高華なる君が風雅《みやび》も恋ふとなく思ひわすれき。 今行くは追憶《おもひで》の影――黄金なす幻追ひて、 衰残の心の大路《おほぢ》暮れゆけば顧みもせぬ 人生の若き旅びと、――くづをれて匂ゆかしみ 我愁ふ、追慕の涙綿綿と青む夜までも。 [#1字下げ]乱れ織[#「乱れ織」は大見出し] [#2字下げ]無花果の園[#「無花果の園」は中見出し] なにか泣く、野より、をとめよ、 無花果《いちじゆく》の汝《な》が園遠く われは来ぬ。いざ眼をあげよ。 今日《けふ》もまた葉かげ、実《み》がくれ、 甘き香の風に日あびて 語らまし。いざ手を交せ。 さは泣くや、夜にか、をとめよ。 汝《な》が園は焼けぬと。草も、 無花果《いちじゆく》の樹も実も無しと。 おお、なべて園はいたまし。 葉も幹も、ああ、実も香《か》もか、 草の床《とこ》――恋の巣までも。 さあれ、よし。白帕《しらぎぬ》やはに うるはしき汝《な》が頬《ほ》の涙 まづぬぐへ。すみれのにほひ。 曾て汝《な》は春のほこりに、 なに誓ひ、いづれ惜みし この恋と、その古園《ふるぞの》と。 ああ、園は野火《のび》に焼かれて 今は無し。――美《うま》し追憶《おもひで》 ただ胸の香《か》にこそにほへ。 さば尋《と》めむ、恋《こひ》の歓楽《よろこび》。 今日《けふ》よりは、野山《のやま》に、谷《たに》に、 百合《ゆり》、さうび、花《はな》の日《ひ》の栄《はえ》。 ああ、かくて、終《つひ》の愛欲《あいよく》。 火《ひ》と燃《も》えて身《み》を焼《や》く夜《よ》にも、 汝《な》は泣《な》くや、いかにをとめよ。 [#2字下げ]燕[#「燕」は中見出し] 燕は翔《かけ》る、水無月《みなづき》の 雲の旗手《はたて》の濡髪に。―― 暗き港はあかあかと 霽《は》れぬ、滴《したた》る帆の雫。 燕は翔る、居留地の 柑子色《かうじいろ》なす窻玻璃《まどがらす》 ななめに高く。――ほつほつと 霧に湿《しめ》らふ火のにほひ。 燕は翔《かけ》る、葉煙草と ヸオロン薫《く》ゆる和蘭《おらんだ》の 酒楼のまへを。――笛あまた 暮れつつ呻《によ》ぶ海の色。 燕は翔《かけ》る、花柘榴《はなざくろ》―― 濡るる埠止場《はとば》の火あかりに。 かくてこそ聴け、艶女《やしよめ》等が 猥《みだ》らにわかきさざめごと。 [#2字下げ]珊瑚切[#「珊瑚切」は中見出し] 午《ひる》さがり、 渚《なぎさ》に緩《ゆる》き波の音。 少女《をとめ》はやがてあてやかに 『何《な》ぞ。』と答《いら》へぬ、伏眼《ふしめ》して、 紅き珊瑚の枝あまた 撰《えら》みつ、切りつ、かろらかに 鋸の歯のきしろへば、 ほそき腕《かひな》と頬《ほ》のうへに 薔薇《ばら》いろの靄さとけぶる。 ややありて、 渚《なぎさ》に緩《ゆる》き波の音。 男は燃ゆる頬を寄《よ》せて 『君をおもふ。』と忍びかに、 さては手速《てばや》にうしろより 珊瑚細工の車の柄《え》 かろく廻せば、ためらへる 白《しろ》の上衣《うはぎ》と髪の毛に 薔薇《ばら》いろの靄さとけぶる。 のびやかに 渚《なぎさ》に緩き波の音。 少女《をとめ》は、さいへ、あからみて 『吾も。』とばかり、海の日を 玻璃に透かしつ、やうやうに 形《かたち》ととのふ恋の珠《たま》 磨きつ、吹きつ、をりをりに 車《くるま》まはせば、美しく 薔薇いろの靄さとけぶる。 [#ここから2字下げ] [#ここから中見出し] 乱れ織  ――天草雅歌―― [#ここで中見出し終わり] [#ここで字下げ終わり] わが織るは、 火の無花果《いちじゆく》を綴りたる 花哆囉呢《はなとろめん》の猩猩緋《しやうじやうひ》。      とん、とん、はたり。 さればこそ 絶えず梭《をさ》燃え、乱れうつ 火の無花果《いちじゆく》の百済琴《くだらごと》。      とん、とん、はたり。 聞き恍《ほ》れて、 何時《いつ》か、我が入る、猩猩緋《しやうじやうひ》 花哆囉呢《はなとろめん》のまぼろしに。      とん、とん、はたり。 乱れ織、 落つる木の実のすががきに ふとこそうかべ、銀の楯。      とん、とん、はたり。 飜へす 貝多羅葉《ばいたらえふ》の馬じるし 花哆囉呢《はなとろめん》のまぼろしに。      とん、とん、はたり。 また光る 白き兜《かぶと》の八幡座《まちまんざ》、 火の無花果《いちじゆく》の百済琴《くだらごと》。      とん、とん、はたり。 乱れ織、 つと空ゆくは槍の列《つら》。 花哆囉呢《はなとろめん》のまぼろしに。      とん、とん、はたり。 さては見つ、 火の無花果《いちじゆく》のすががきに 君が鎧の猩猩緋《しやうじやうひ》。      とん、とん、はたり。 われは、また 花哆囉呢《はなとろめん》のまぼろしに 白き領巾《ひれ》ふる。百済琴《くだらごと》。      とん、とん、はたり。 そのときに、 馬は嘶く、しらしらと、 火の哆囉呢《とろめん》の無花果《いちじゆく》に。      とん、とん、はたり。 あはれ、いま 花哆囉呢《はなとろめん》のすががきに 再び擁《いだ》く、君と我。      とん、とん、はたり。 天《そら》も見ず、 被《かつ》ぐは滴《した》る蜜の音、 君が鎧の猩猩緋《しやうじやうひ》。      とん、とん、はたり。 こは夢か、 刹那か、尽きぬ幻《まぼろし》か、 花哆囉呢《はなとろめん》の梭《をさ》の音。      とん、とん、はたり。 [#ここから2字下げ] [#ここから中見出し] 高機  ――天草雅歌―― [#ここで中見出し終わり] [#ここで字下げ終わり] 高機《たかはた》に 梭なげぬ。  きり、はたり。 その胸に 梭なげぬ。  きり、はたり。 その高機に、 その胸に  きり、はたり。 [#ここから2字下げ] [#ここから中見出し] 顛末  ――天草雅歌―― [#ここで中見出し終わり] [#ここで字下げ終わり] 『花ありき、われらが薔薇《さうび》、 摘まれにき、われらが薔薇《さうび》。 かくて、また、何時《いつ》としもなく 凋みにき、われらが薔薇《さうび》。』 あはれ、炉《ろ》に凭《よ》ればかならず、 顛末《もとすゑ》はかかりきといふ わが媼《をうな》、その日の薔薇《さうび》、 『何ゆゑ。』と問へば、かくこそ、 火にいぶる紅き韈《したうづ》 つと退《ひ》きて噎《む》せ入りながら、 『子らよ、そは、ああ、その薔薇《さうび》 あまりにも紅《あか》かりしゆゑ。』 [#2字下げ]ためいき[#「ためいき」は中見出し] 今しがた、夜会《やくわい》ははてぬ。 花瓦斯《はながす》のほそきなげきに 絹帷《きぬとばり》紅《あか》き天鵝絨《びろうど》、 散《ち》り藉《し》ける花束《はなたば》のくづ、 おぼろげに室《むろ》は青《あを》みて、 うらわかき騎士《きし》が拍車《はくしや》の 音《ね》の乱《みだ》れ、舞《まひ》の足《あし》ぶみ、 頬《ほ》のほてり、かろきさざめき、 髪《かみ》あぶら、あはれ、楽声《がくじやう》、 あたたかに交《まじ》りみだれて ゆめのごと燻《くゆ》りただよふ。 そのなかに、水《みづ》のつめたさ ちらぼひぬ、これや、一夜《ひとや》を 伴《つれ》もなく青《あを》みしなへし 女子《をみなご》がわかきためいき。 [#2字下げ]時鐘[#「時鐘」は中見出し] 身にか沁《し》む。――『わが世がたりも はや尽きぬ。興《きよう》もなき事《こと》。 わかうどよ、紅《あか》き炉《ろ》の火に 美しき足袋をな焼きそ。 かの宵の恋にもまして うそ寒き夜にもあるかな。』 老媼《をうな》かくつぶやきながら 力なう柴折りくべぬ。 そともには雪やふるらむ。 燃ゆる眼にわかきは見あげ、 言葉なく、またうつぶきぬ。 ひとしきり、沈黙《しじま》やぶれて、 煤《すす》けたる江戸絵の壁に 禁軍の紅帽《こうばう》あかり、 はちはちと火《ひ》の粉《こ》飛《と》びちり、しづまりぬ。 九時にかあらむ。 ああ今、目白僧園の鐘鳴りやみぬ。 [#2字下げ]若し[#「若し」は中見出し] 炉《ろ》の椅子に我ありとせよ、 また火あり熾《さか》れりと見よ。 棚の上《へ》の小さき自鳴鐘《めざまし》 鳩いでて三つと鳴かぬ間、 わが唇《くち》は汝がくちに、 頸《うなじ》まき、ただ火のもだえ、 また韈《たび》の焦ぐるも知らね、 さいへ、夏、我やはた、 火の気《け》なき炉《ろ》に椅子もなし、 人妻よ、安かれ、汝《なれ》も。 [#2字下げ]たはれ女[#「たはれ女」は中見出し] 『やよ、しばし、 そのうつくしきわかうどよ、 君はいづこへ。』『君は、など。』 『美男《うましを》、あはれ、いつの日か 君に見えけむ。』『しかはあれ、 われはえ知らず。』『さな去にそ、 その御瞳《みひとみ》のうつくしさ、 いかで忘れむ。』『さあれ、など、』 『まづ、おきたまへ、原のぬし?』 『いな、』『さは知りぬ、蜂須賀の 君か。』『いな、いな。』『ほ、ほ、さても、 御歳《みとし》は。』『十九。』『はしけやし、 法科のかたか。』『いな。』『いなと、 さらばいとよし。さて、君は いづこへ。』『麻布、君は、また。』 ほほ、わすられぬ情人《こひびと》を 招ぎに。』とばかり、かたへなる 自働電話の火のとびら たわやに開《あ》けて、つと入りぬ。 [#ここから2字下げ] [#ここから中見出し] 驢馬の列  ――かかる詩の評家に―― [#ここで中見出し終わり] [#ここで字下げ終わり] 驢馬の列《つらね》ぞ街《まち》をゆく。 見よ、のろのろの練足《ねりあし》に、 鼻も眼もなきひとやから 載せて、うなだれ、呻《によ》びたる。 驢馬の列《つらね》ぞ街《まち》を行く。 鳴くは通草《あけび》の変化《へんげ》らか、 また、耳もなきひとやから 口のみあかくただれたる。 驢馬の列《つらね》ぞ街《まち》をゆく。 あはれ、終日《ひねもす》、手さぐりに 生灰色《なまはひいろ》の怪《け》のやから、 のへらのへらと鞭ふれる。 驢馬の列《つらね》ぞ街《まち》をゆく。 もとより、人の身ならねば、 色もにほひも歌ごゑも 嗅《か》ぐすべはなし、罵れる。 驢馬の列《つらね》ぞ街《まち》をゆく。 ただ戸に咲ける罌粟《けし》ひとつ 知らえぬ汝等《なれら》、いかで、さは 深き館《やかた》の内心《ないしん》を。 驢馬の列《つらね》ぞ街《まち》をゆく。 すでに罵る汝《な》が敵《あだ》は 白馬《はくば》に抱く火の被衣《かつぎ》 千里《せんり》かなたのくちつけに。 [#1字下げ]落雷[#「落雷」は大見出し] [#2字下げ]落雷[#「落雷」は中見出し] 静まりてなほもしばらく 霧のぼる高原《たかはら》つづき 爛《ただ》れたる「時」ははるかに、 恐ろしき苦悩をはこぶ。 驟雨《にはかあめ》またひといくさ、 走りゆく雲のひまより かろやかに青ぞら笑ひ、 日の光強く眩しく 野はさらに酷熱のいろ。 腥《なま》くさきオゾンのにほひ 雫《しづく》する穂麦のしらみ、 今裂けし欅《けやき》の大木《おほぎ》 燥《い》るがごと疼《うづ》くいたでに 脂《やに》黒くしたたるみぎり、 油蝉ぢぢと鳴き立つ。 根がたには蝮《まむし》さながら 髪あかき乞食《こつじき》ひとり 仰向けに面桶《めんつう》つかみ、 見よ、死せり。雷火《らいくわ》にゆがむ 土いろの冷《ひや》き片頬に 血の雫――濡れて仄めく 一輪の紅きなでしこ。 [#2字下げ]長月の一夜(初稿)[#「長月の一夜(初稿)」は中見出し] 長月の鎮守の祭《まつり》 夜もふけて天《そら》は険しく 雨もよひ、月さしながら 稲妻す、濃雲をりをり 鉛いろ赤く爛れて 野に高き軌道を照らす。 このあたり、だらだらの坂 赤楊《はん》高き小学校の 柵尽きて、下は黍畑 こほろぎぞ闇に鳴くなる。 いづこぞや、女声して 重たげに雨戸|繰《く》る音。 大師道、辻の濃霧《こぎり》は、 馬やどのくらめきあかりに 幻燈のぼかしの青み 蒸しあつく、ここに破《やれ》馬車 七つ八つ泥にまみれて、 ひつそりと黒う影しぬ。 泥濘《ぬかるみ》は物の汗ばみ 生《なま》ぬるく、重き空気に 新らしき木犀《もくせい》まじり 馬槽《うまぶね》の臭気《くさみ》ふけつつ、 懶《もの》うげのさやぎはたはた 夏の夜の悩《なやみ》を刻む。 足音す、生血のにじみ しとしとと、まへを人かげ おちうどか、はたや乞食か、 背に重き佩嚢《どうらん》になひ、 青き火の消えゆくごとく 呻きつつ闇にまぎれぬ。 嗚呼今か畏怖《おそれ》の極み、 轡虫《がちやがちや》は調子はづれに 噪《わ》めきつつ、はたと息絶え、 落ちかかる黄金《こがね》の弦《ゆづる》 心臓の喘《あへぎ》さながら また黒き柩《ひつぎ》にしづむ。 終列車とどろくけはひ。 凄まじき大雨のまへを 赤煉瓦高きかなたは 一面に血潮ながれて 野は紅《あか》く人死ぬけしき、 稲妻す、――嗚呼夜は一時。 [#2字下げ]蹠[#「蹠」は中見出し] 海ちかき真闇《まやみ》の狭間《はざま》、 夜《よ》の火の粉まひふるなかに 酒の罎《びん》とりて透かしぬ、 はしりゆく褐色《くりいろ》の顔、 汽車ぞいま擦れちがひぬる。 かたむけぬ、うましよろこび、 いな、胸にしらべただるる 煉獄の火のひとしづく。 時に、誰《た》ぞ、こん、こん、か、かん、 槌つらね、蹠《あなうら》うつは。 糸崎と子らがよぶこゑ。 [#2字下げ]そぞろありき[#「そぞろありき」は中見出し] 風寒き師走月《しはすづき》、それの港を われひとり、夕暮のそぞろありきす。 薄闇のほのかなる光のなかに 老舗《しにせ》立つひと町は寡婦《やもめ》のごとく われゆゑに面変《おもがは》り、かくや病みけむ。 人あまた、はかなげにそともながめて 石のごと店店《みせみせ》に青みすわりき。 たまたまに、灯《あかり》さす格子《かうし》はあれど 柩《ひつぎ》うつ槌《つち》の音《おと》ただにせはしく、 煉瓦つむ空地《あきち》には、あはれ誰が子ぞ、 心中《しんぢう》の数へぶし拙《つた》なげながら 音《ね》もうるむ連弾《つれびき》のかなしきしらべ、 いつになく旅人の足をとどめて、 灯《ひ》は青く柳立つ闇にともりき。 港には浪の音《ね》も鈍《にぶ》にひびらぎ、 灰だめる氷雨雲《ひさめぐも》空にみだれて すそあかる黄《あめ》いろの遠《をち》に、海鳥《うみどり》 煙《けぶり》濃《こ》き檣《ほばしら》の闇に一列《ひとつら》 朱《しゆ》の色の大き旗鳴きもめぐりぬ。 船はまた鐘鳴らし、かくて失《う》せにき。 そのゆふべ君のかげ消えしかなたに、 さてしもや、みえそめぬ海のかなたに けふも見よ、木星の青ききらめき。 [#2字下げ]暗愁[#「暗愁」は中見出し] なにごとぞ、夕まぐれ、人はさわさわ、 新開《しんかい》のはづれなる坂のあき地に うづくまる。そこ、ここに煉瓦《れんぐわ》、石灰《いしばひ》、 高草《たかくさ》の黄《き》にまじり、風ぞ冷えたる。 灰色《はひいろ》のまろき石子《いしこ》らはまろがし 据ゑ、やをら爪《つま》立ちぬ、爺《おぢ》が肩より のぞき見《み》す。――様様《さまざま》のくらき呼声《よびごゑ》 世のほかの町の闇ひさぐ気遠《けどほ》さ。 古井《ふるゐ》あり、桁《けた》はみなくづれゆがみて 桔槹《はねつるべ》ギロチンの骨《ほね》とそびやぎ、 血はながる。赤ばみし蛇のぬけがら さかしまに下《した》はこれ暗き死の洞《ほら》。 人はみなめづらかに首《くび》つきいだし おづおづと環《わ》ぞ退《しざ》る。あはれ男子《をのこ》ら 三人《みたり》まで影薄う青み入りぬれ、 そよとだに腰綱《こしづな》の端《はし》もひびかず。 時や疾《と》し、ひよろひよろの青洋服《あをやうふく》は わと前へ面《おも》がはり、のめり泳ぎつ。 と見ぬ、いま、むくむくと臭き瓦斯の香《か》 町や蔽《おほ》ふ、みるがまに黄ばむ天色《そらいろ》。 驚破《すは》と、見よ、街道へまろびなだれて 西日する町の屋根、高き耶蘇|寺《でら》、 ふりあふぎ人はみな面《おもて》冷《ひ》えぬれ。 風さらにひややかに草をわたりぬ。 灯《ひ》ぞともる、支那|床《どこ》の玻璃に人見え、 あかあかと末広《すゑひろ》に光《ひかり》凍《こほ》れば、 古煉瓦《ふるれんぐわ》うづだかき原のくまぐま、 ほそぼそとこほろぎの鳴く音《ね》洩れぬる。 [#2字下げ]地獄極楽[#「地獄極楽」は中見出し] 『御覧《ごらう》ぢやい、まづ。』と濁《だみ》ごゑ 屋根低き山家の土間は 魚燈油のくすぶり赤く、 人いきれ、重き夜霧に 朦朦と地獄の光景《けしき》 現《げん》じいづ。―あはれ鞭|指《さ》し、 案内者《あないじや》は茶いろの頭巾 殊勝げに念仏ぞすなる。 木戸にまた高く札うち、 蓮葉《はすは》なる金切《かなきり》ごゑと 老いたるが絶えず客よぶ、―― と見る、ただ赤丹《あかに》剥《は》げたる 閻魔王、青き牛頭《ごづ》馬頭《めづ》、 講釈のなかばいちどに がくがくと下顎《したあご》鳴らす。―― 『評判の地獄極楽。』 胸わるき油煙のにほひ 女子らが汗に蒸されて、 焦熱のこころあかあか 火の車、または釜うで、 餓鬼道の叫喚《わめき》さながら 人人が苦悩を醸す。 さはれ、なほ爺《おぢ》は真面目《まじめ》に 諳誦す、業《ごふ》の輪廻《りんね》を。 盂蘭盆の寺町通、 猿芝居幕のあひまか 喇叭節みだらに囃《はや》す。―― うち湿《しめ》る沈《ぢん》の青みを 稚子《ちご》あそぶ賽《さい》の河原は、 長長と因果こそ説け、 『なまいだぶ。』こゑもあはれに、 かたのごと、涙を流す。 ひと巡《めぐ》り、はやも極楽、 絵灯籠|紅《あか》き出口は 華やげ楼閣そびえ、 頻伽鳥《びんがてふ》鳴けり。この時、 酒の香《か》す、懐《ふところ》がくり 徳利嘗め、けろり鐸《すず》ふる、 太鼻の油汗見よ。 『先様《せんさま》はこれでお代り。』 [#2字下げ]熊野の烏[#「熊野の烏」は中見出し] 夜は深し、熊野の烏 旅籠《はたご》の戸かた[#「かた」に傍点]と過ぐ、 一瞬時《いつしゆんじ》、――燈火《ともしび》青《さを》に 閨を蔽《おほ》ふかぐろの翼《つばさ》 煽《あほ》り搏《う》つ羽《は》うらを透《す》かし 消えぬ。今、森《しん》として 冷えまさる恐怖《おそれ》の闇に 身は急に潰《つひ》ゆる心地《ここち》。 「変らじ。」と女《をみな》の声す。 ひ[#「ひ」に傍点]と呻《うめ》く、熊野の烏。 丑満《うしみつ》の誓請文《きしやうもん》 今か成る。宮のかなたは 忍びかに雨ふりいでぬ。 『誓ひぬ。』と男の声す。 刹那、また、しくしくと 痙攣《つりかが》む手脚のうづき、 生贄《いけにへ》の苦痛《くつう》か、あなや、 護符ちぎる呪咀《のろひ》のひびき。 はた[#「はた」に傍点]と落つる、熊野の烏。 と思へば、こは如何《いか》に、 身は烏、嘴《くちばし》黒く 黒金の重錘《おもり》の下に 羽《はね》平《ひら》み、打つ伏《ぶ》す凄さ。 はた、固く、痺《しび》れたる 血まみれの頭脳《づなう》の上ゆ、 暗憺と竦《すく》まりながら 魂《たま》はわが骸《むくろ》をながむ、 [#2字下げ]我[#「我」は中見出し] 時は冬、霜月《しもつき》下旬《げじゆん》、 夜《よ》の一時《いちじ》、真闇《まやみ》の海路《うなぢ》。 玄海か、朝鮮沖か、 知らず。ただ波涛《はたう》の響 鞺鞳《だうたふ》と窻うつ暗《くら》さ。 門司《もじ》いでて既に幾時《いくとき》。 いとど蒸す夜来《やらい》の空は、 雨|交《まじ》り雹さへ乱れ、 灘《なだ》遠く雷《らい》するけはひ。 不安《ふあん》いま、黒き旗《はた》して 死の海を船ゆく恐怖《おそれ》、 深沈《しんちん》の極《きは》み真黒《まくろ》に 点鍾《てんしよう》の悲音《ひおん》たまたま、 天候《てんこう》の険悪いよよ、 闇憺《あんたん》とわが夜はくだつ。 一室《いつしつ》に見知る顔なし。 何ごとぞ、宵《よひ》のほどより、 紅毛《こうもう》の羅面絃弾者《ラベイカひき》は 白眼《しろめ》むき絶えず笑へり。 陰翳《いんえい》は彼が肋《あばら》に 明暗《めいあん》す一張一弛《いつちやういつし》、 カンテラの青み吸ひつつ、 縞蛇《しまへび》の喘《あへ》ぐが如し。 深夜《しんや》なり。疫病顔《えきびやうがほ》に、 衆人《しゆうじん》は疲れ黄ばみて 銭《ぜに》ひとつ投ぐる者なし。 乱撃《らんげき》よ、早鐘《はやがね》急に、 甲板は靴音高く、 『驚破《すは》。』『風ぞ』『誰《た》そ巻け』『倒せ。』 『綱《つな》投げよ。』一時に水夫《かこ》ら 狼狽《らうばい》の銅羅声《どらごゑ》擾《みだ》し、 『飛沫《しぶき》』『それ辷るな』『立て。』と 口口に、巻き、投げ、昇り、 立ち騒ぐ刹那か、颯《さつ》と 暴風の襲来迅く、 帆の半、帆ばしら、帆桁、 折れ、唸り、はためき、倒れ、 動揺す、奈落へ、天へ、 激瀾《おほなみ》の鳴号凄く 轟《ぐわう》轟と頭上に下に、 刻刻の不穏|等《ひと》しく 一室は歯の根もあはず、 惨たりな、垂死《すゐし》の境《さかひ》。 紅毛は笑ひつつあり。 ふと見れば何らの贄《にへ》ぞ、 わが膝は眩《まば》ゆきばかり 乱髪《らんぱつ》の女人に温み、 華奢ながら清き容顔 夢《ゆめ》みるか、青うゑまひぬ。 恋びとか、あはれ、抱けば 軽軟《けいなん》の吐息すずろに 頬《ほほ》触れぬ、薔薇《さうび》のにほひ。 嗚呼|暫時《しばし》流離の胸も 脈絡の炎《ほのほ》に爛れ、 痛楚なる人が呻吟《うめき》も、 念仏も悲鳴も知らず、 情界の熱き愉楽に、 わが霊《れい》は喘《あへ》ぎ焦《こ》がれぬ。 何ごとぞ、一時に音し、 毱のごと五体は飛べり。 瞬く間、危急の汽笛 一|斉《せい》の叫喚《けうくわん》――うつつ、 秒《べう》ならず、後甲板《こうかんぱん》は 懸命の格闘黒く、 『咄《とつ》、放せ』短艇《ボウト》に魔あり、 櫂あげて逃路を塞ぐ。 目前の障碍《さまたげ》――知らず 紅毛か、水夫《かこ》か、女か、 他人なり――死ねやとばかり、 発止《はつし》、余は短銃《ピストル》高く 一発す、続いて二発、 三発す。あはや横波 驀地《まつしぐら》頭上を天へ、 舳《ぢく》なかば傾く刹那、 しやしやしやしやと水晶簾ぞ 落下すれ、苦鳴もろとも 闇中の渦巻分時、 微塵なり。――水天裂けて 髣髴と白光走る。 眼ひらけば、小春のごとも 麗らかに空晴れわたり、 身辺は雑木《ざわき》踈《まば》らに、 名も知らぬ紅花|叢《むら》咲き 涼風《すずかぜ》の朝吹く汀《みぎは》、 砂雲雀《すなひばり》優にあがれり。 ああ、神よ、他人は知らじ、 我はわが生命《いのち》の真珠 全きを今もながめて、 満腔の歓喜《よろこび》高く 大音に感謝しまつる。 [#2字下げ]吐血[#「吐血」は中見出し] 罌粟畑《けしばたけ》日は紅紅《あかあか》と、 水無月の夕雲|爛《あか》れ、 鳥鳴かず。顔火のごとく 花いづるわかうど一人《ひとり》、 黒漆のわかき瞳に 楽欲《げうよく》の苦痛を湛へ、 大跨に一歩ふりむく。 極熱の恋慕の郊野 蒼然と光衰へ、 草も木も瀕死の黄ばみ、 夜のさまに凄惨たりや。 う、とばかり、刹那膝つき、 絶望に肺はやぶれて 吐息しぬ――くれなゐの花。 [#1字下げ]柑子咲く国[#「柑子咲く国」は大見出し] [#2字下げ]南国[#「南国」は中見出し] ああ、君|帰《かへ》れ、故郷の野は花咲きて わかき日に五月《さつき》柑子《かうじ》の黄金《こがね》燃《も》え、 天《そら》の青みを風ゆるう、雲ものどかに 薄べにのもとほりゆかし。――帰《かへ》れ君、 森の古家《ふるや》の蔦かづら花も真紅《しんく》に、 飜《ひるが》へれ、君はいづこに、――北のかた 柩《ひつぎ》まうけの媼《おうな》さび、白髪《しらが》まじりの 寒念仏《かんねぶつ》、賢《さか》し比丘《びく》らが国や追ふ。 ああ鬱憂《うついう》の山毛欅《ぶな》の天《そら》、日さへ黒ずみ、 朽尼《くちあま》が涙眼《いやめ》かなしむ日の鉦《かね》に、 畠《はたけ》の林檎|紅《べに》饐《す》えて蛆《うじ》こそたかれ。 帰れ、君、――筑紫平の豊麗《ほうれい》に 白《しろ》がね鐙《あぶみ》、わか駒《ごま》の騎士も南《みなみ》へ、 旅役者、歌の巡礼、麗姫《ひめ》、奴《やつこ》、 絵だくみ、うつら練《ね》り続《つづ》け。なかに一人《いちにん》、 街道《かいだう》や藤の茶店《ちやみせ》の紅《あか》き灯に 暮れて花|揺《ゆ》る馬ぐるま、鈴の静《しづ》けさ、 四《よ》とせぶり、君も帰らふ夕ならば 靄の赤みに、夢ごころ、提灯《ともし》ふらまし。 朝ならば君は人妻、野に岡に、 白き眼つどへ、ものわびし、われは汀《みぎは》の 花菖蒲《はなあやめ》、風も紫《ゆかり》の身がくれに 御名や呼ばまし、逢見初《あひみそ》め忍びしわかさ 薄月に水の夢してほそぼそと、 ああさは通《かよ》へ、翌《あけ》の日も、山吹がくれ 雨ならば金糸《きんし》の小|蓑《みの》、日には跑《だく》、 一の鳥居を野へ三歩、駒は木槿《むくげ》に、 露凍《つゆしみ》の忍び戸《ど》、それもほとほと[#「ほとほと」に傍点]と 牡丹花《ぼたんくわ》ちらぬほど前へ、そよろ小|躍《をど》れ 薔薇《いばら》みち、蹈めば濡羽《ぬれは》のつばくらめ、 飛ぶよ外《と》の面《も》の花麦《はなむぎ》に。 あれ、駒鳥のさへづりよ。 籬《まがき》根近し、忍び足、細ら口笛《くちぶえ》 琴やみぬ、衣《きぬ》のそよめき、さて庭へ、 (それと隠れぬ。)そら音《ね》かと、(空は澄みたれ、 また鳴《な》らす。)ほほゑみ頬《ほほ》に、浮《うけ》あゆみ 楝《あふち》、柏《かしは》の薄ら花ほのにちる日《ひ》の 君ならばそぞろ袂もかざすらむ。 はや午《ひる》さがり、片岡《かたをか》の畑《はた》に子《こ》ら来て、 早熟《はやなり》の和蘭覆盆子《おらんだいちご》紅《べに》や摘む 歌もうらうら。――風車《かざぐるま》めぐる草家《くさや》は 鯉のぼり吹きこそあがれ、ここかしこ、 里の女《をんな》は山梔《くちなし》の黄にもまみれて 糯《もち》や蒸《む》す、あやめ祭のいとなみに 粽《ちまき》まく夜のをかしさか、頬《ほ》にも浮《うか》べて わかうどは水に夕《ゆふべ》の真菰刈《まこもがり》、 いづれ鄙びの恋もこそ。 君よ。われらは花ぞのへ、 夕栄《ゆふばえ》熱《あつ》き紅罌粟《べにげし》の香《か》にか隠《かく》れて 筒井《つつゐ》づつ振分髪《ふりわけがみ》の恋慕びと 君《きみ》吾《われ》燃ゆる眼《め》もひたと、頬《ほほ》ずりふるへ そのかみの幼《をさ》な追憶《おもひで》――君知るや フランチエスカの恋語《こひがたり》――胸もわななけ、 人妻《ひとづま》か、罪か、血は火の美しさ、 激しさ、熱《あつ》さ、身肉《しんにく》の爛《ただ》れひたぶる かき抱《いだ》き犇《ひし》と接吻《くちつ》け死ぬまでも 忘れむ、家も、世も、人も、 ああ、南国の日の夕。 [#2字下げ]恋びと[#「恋びと」は中見出し] ああ七月《しちぐわつ》、 山の火ふけぬ。――花柑子《はなかうじ》咲く野も近み、 月白ろむ葡萄畑《ぶだうばたけ》の夜《よ》の靄に、 土蜂《すかる》の羽音《はおと》、香《か》の甘さ、青葉の吐息《といき》、 情慾の誘惑《いざなひ》深く燃《も》え爛《ただ》れ、 仰げば空の七《なな》つ星《ほし》紅《あか》く煌《きら》めき、 南国の風さへ光る蒸し暑さ。 はや温泉《ゆ》の沈黙《しじま》――烏樟《くろもじ》の繁み仄透《ほのす》き灯《ひ》も薄れ、 歓語《さざめき》絶えぬ。――湯気《ゆげ》白う、 丁字湯《ちやうじゆ》薫る女《をんな》の香《か》、湿《しめ》りただよひ わが髪へ、吹けば艶《えん》だつ草生《くさぶ》なか。 露みな火なり。白百合は喘《あへ》ぎうなだれ、 花びらの熱《ねつ》こそ高め。頬《ほ》に胸に ああ息づまる驕楽《けうらく》の飛沫《しぶき》ふつふつ 抱擁《だきしめ》に人死ぬにほひ、血《ち》も肉《にく》も わななきふるふ。 ああ七月《しちぐわつ》、 ふと、われ、ききぬ――忍び足|熱《あつ》きさやぎを 水枝《みづえ》照る汀《みぎは》の繁木《しげき》そのなかに。 さは近づくは黄金髪《こがねがみ》、青きひとみか、 また知《し》らぬ、亜麻《あま》いろ髪か、赤ら頬《ほ》か、 ああ、そのかみの恋人か、謎の少女《をとめ》か。 遠つ世の匂香《にほひが》あまき幻想《まぼろし》に 耳はほてりぬ。うつうつ[#「うつうつ」に傍点]と眼さへ血ばみて、 極熱《ごくねつ》の恋慕《れんぼ》胸うつくるほしさ。 風いま燃《も》えぬ。ゆめ、うつつ、足音《あのと》つづきぬ。 身肉《しんにく》のわづらひ、苦《にが》き乳《ち》の熱《ねつ》に 汗ばみ眠《ぬ》れば心の臟《ざう》、牡丹花《ぼたんくわ》の騒ぎ 瞬《またたく》く間《ま》、あな頬《ほ》は爛《ただ》れ、百合のなか、 七尺《しちしやく》走《はし》る髪の音、ひたと接吻《くちつ》け、 紅《くれなゐ》の息、火の海の、ああ擾乱《じようらん》や、 水脈《みを》曳《ひ》き狂ふ爛光《らんくわう》に、五体《ごたい》とろけて 身は浮きぬ。牡丹花《ぼたんくわ》ひとつ、血《ち》の波《なみ》を焦《こ》がれつ、沈《しづ》む。 [#2字下げ]霊場詣[#「霊場詣」は中見出し] 行けかし、さらば南国の番《ばん》の御寺《みてら》へ。 春なれば街《まち》の少女《をとめ》が華《はな》やぎに、 君も交りて美しう、恋の祈誓《きせい》の 初旅《はつたび》や笈摺《おひずる》すがた鈴《すず》ふりて、 大野《おほの》のみなみ、菜の花の黄金《こがね》海《うみ》透《す》く 筑紫みち列《つら》もあえかのいろどりに 御詠歌《ごえいか》流し麗《うら》うらと練《ね》りも続《つづ》く日、 軟《なよ》かぜに絵日傘あぐる若菜摘、 法師《ほふし》、馬上の騎士たちも照りつ乱れつ 菅笠に蝶も縺《もつ》るる暖かさ。 はじめ御山《みやま》の清水寺《きよみづじ》。 風雅《みやび》古《ふ》る代《よ》の絵すがたか、杉の深みの 薄ざくら花も散りかふ古《ふる》みちを、 六部《ろくぶ》、道心《だうしん》、わか尼《あま》のうれひしづしづ 鉦《かね》うつや、袖も湿《うるほ》ふゆきずりに 霊場詣《れいぢやうまうで》、杖かろく、番の歌《うた》ごゑ 華《はな》やかに、巡礼衆が浮《うけ》あゆみ、 峡《かい》は葉洩れの日のわかさ、風も霞《かす》みて、 春の雲白ういざよふ静けさに 鶯鳴けば、ちらちらと対《つゐ》の袂《たもと》へ 笈摺《おひずる》へ、薄ら花ちるうららかさ。 かくて霊地《れいち》の荘厳に古《ふる》き杉立つ 大木《たいぼく》の霧の石階《いしきだ》ほの青み、 白日《ひる》の灯《ひ》ともる奥深《おくふか》さ、遠みかしこみ 絵馬堂へ、――桜またちる菅笠や、 音羽《おとは》の滝に紅《くれなゐ》の唇《くち》も嗽《そそ》がむ 街少女《まちをとめ》、思もわかき瞳して 御堂《みだう》のまへの静寂に鈴ふりならび ぬかづくや、金《きん》の香炉《かうろ》の薄けぶり、 羅蓋《らがい》蓮華《れんげ》の闇《やみ》縫《ぬ》うてほのかにそらへ 星の如《ごと》仏龕《みづし》に光る燈明《みあかし》の 不断《ふだん》の燻《くゆ》り、内陣《ないぢん》の尊《たふと》さ深さ、 先達《せんだつ》に連れて献《ささ》ぐる歌ごゑも 後世《ごせ》安楽《あんらく》の願かけて巡《めぐ》る比丘《びく》らが 罪ならず、恋の風流《ふうりう》の遍歴《へんれき》に、 心も空も美しうあこがれいでし 君なればそぞろ涙も薫《かを》るらむ。―― あるは月夜の黄金《こがね》みち、菜の花ぞらの 星あかり朧ろ煌《きら》めく野の靄に、 鬢《びん》の香《か》吹かれ仄白《ほのじろ》う急ぐ楽しさ、 灯《ひ》は街に、――しだれ柳《やなぎ》の樾路《なみきぢ》は 紅提灯《べにちやうちん》の軒《のき》つづき、桃も鄙《ひな》めく 雛祭、店のあかみに伏眼《ふしめ》して 奉謝《ほうしや》を乞《こ》はむ巡礼《じゆんれい》の清《すず》しさ、わかさ、 夕霧に若人《わかうど》忍ぶそぞろきも 艶《なま》めかぬほど、頬《ほ》にゑみて鈴《すず》もほそぼそ 「普陀落《ふだらく》や」練《ね》れば戸ごとの老御達《ねびごたち》 春のひと夜の結縁《けちえん》に招《せう》ぜむ杖と 白髪《しらが》ふり、転《まろ》び、袖《そで》とる殊勝《しゆしやう》さや。―― 行けかし、さらば南国の番の御寺へ 春なれば街の習慣《ならはし》美しむ 恋の祈誓《きせい》の初旅や、母にわかれて 少女らと、朝な夕なの花巡り、 やがて遍路の悲愁《かなしみ》に雲も騒立《さわだ》ち 花ちらふ卯月とならば故さとへ、 ああ妻なよび髪ねびて、我《わが》恋《こ》ひ待てる 新室《にひむろ》に帰りこよかし、いざさらば、 弥生《やよひ》はじめの燕《つばくらめ》、袖《そで》すり光る 麗《うら》ら日《び》を、君も行くかよ、杖あげて、 南無《なむ》や大悲《だいひ》の観世音《くわんぜおん》、守らせたまへ、 朝風《あさかぜ》に、ああ巡礼の鹿島立《かしまだ》ち。 [#2字下げ]花ちる日[#「花ちる日」は中見出し] 日も卯月《うづき》、ひとりし行かば――水沼《みぬま》べの緑のしとね、 身はゆるに寝《ね》なまし。風の散花《ちりばな》に、水生《みづふ》の草に、 さざら波、ゆめの皺みの口吻《くちづけ》に香にほふ夕《ゆふべ》。 つねのごと花輪《はなわ》編みつつ君おもひ水にむかへば、 遠霞む山の、古城《ふるしろ》市《いち》の壁、森の戸までも、 白寂《しらさび》の静けさ深さ、いと青に天《そら》も真澄《ます》みぬ。 ああ、君よ、ゆめみる人《ひと》の夕ながめ――汀《みぎは》白《しら》みて、 木原《こばら》みち、薄ら花踏む里乙女、六部、商人《あきうど》 文《ふみ》づかひ――それも恋路の浮《うけ》あゆみ、誰《た》へか――目守《まも》れば 雲照らふ落日《いりひ》の紅《あけ》に水の絵の彩《あや》も乱れて 眼《め》も病まむ、ややに古代《ふるよ》のうれひして影ちり昏み はや暮れぬ。市《いち》は点燈夫《ひともし》せはしげに走すらし。さあれ 葦かびの闇《やみ》には鳰のほのなよび。小野の鈴の音、 夕づつのほのめき、ゆめの頬白のみやびやすらに、 風ぬるみ、髪にはさくら、くさに地《ち》の歔欷《すすり》ふけつつ、 仄《ほの》に灯《ひ》は君が館《やかた》に、妻琴の調べ澄む夜ぞ、 花やかに朧ろに耳はそのかみの日をしも薫《く》ゆれ。 ああ平和《なごみ》、我はも恋のさみし児か、神に斎《いつ》きの 環も成りぬ。靄の青みに静ごころ君|思《も》ふ暫時《しばし》 涙もろ、あたりの花に頬をうづめ泣かましものか。 ああ、二人《ふたり》。――君よ暮春《ぼしゆん》の市の栄《はえ》、花に幕うち、 紅《くれなゐ》の花氈《くわせん》敷く間の遊楽や、大路《おほぢ》かがよひ 潮する人数《にんず》、風雅《みやび》の衣彩《きぬあや》に乱れどよむ日。 縦《よ》しや、また花の館《やかた》に恋ごもれ、君が驕楽《けうらく》 琅玕のおばしま、銀の両扉《もろとびら》、※[#「王+累」、362-7]※[#「王+田」、362-7]《らでん》の室屋《むろや》、 早や飽きぬ、火炎の正眼《まさめ》、肉の笑《ゑみ》、蜜の接吻《くちづけ》、 絵も香も髪も律呂《しらべ》も宝玉《はうぎよく》も晴衣《はれぎ》も酒も あくどしや、今こそ憎め。(楽欲《げうよく》は君がまにまに) ああ君よ、賤《しづ》の児《こ》なれば我はもや自然の巣へと 花ちる日、市をはなれて、鄙《ひな》ごころ、またと帰らじ。 [#2字下げ]郊外[#「郊外」は中見出し] 悄悄《しほしほ》と我はあゆみき。 畑《はたけ》には馬鈴薯《ばれいしよ》白う花咲きて、 雲雀の歌も夕暮の空にいざよひ、 南ふく風静やかに、神輿《こし》の列遠く青みき。 かかる日のかかる野末を。 嗚呼暮色微茫のあはひ、 笙《せう》すずろ、かなたは町の夜祭《よまつり》に 水天宮の舟《ふな》囃子。――夕ごゑながら 乾《ひ》からびし黄ぐさの薫《かをり》、そのかみも仄めき蒸しぬ、 温かき日なかの喘息《あへぎ》。 父上は怒りたまひき、 『歌舞伎見は千年のち。』と。子はまたも 暗涙せぐるかなしさに大ぞらながめ、 欷歔《ききよ》しつつ九年母《くねんぼ》むきぬ。酸《す》ゆかりき。あはれそれより われ世をば厭ひそめにき。―― [#2字下げ]鉦[#「鉦」は中見出し] 人みな往にぬ、うすらひぬ。 森の御寺の夕づく日、 ほの照り黄ばむさみしらに やがて鉦《かね》うつ一人《いちにん》の その夜ぞこひし、野も暮れよ、 あはれ初秋、日もゆふべ、 落穂ふみつつ身はまよふ。 底本:「白秋全集 1」岩波書店    1984(昭和59)年12月5日 入力:飛鷹美緒 校正:林 幸雄 2010年7月5日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。