東京景物詩及其他 北原白秋 ------------------------------------------------------- 【テキスト中に現れる記号について】 《》:ルビ (例)銀色《ぎんいろ》 |:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号 (例)色|淡《うす》き [#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定    (数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数) (例)窻 /\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号) (例)はたけ/\ *濁点付きの二倍の踊り字は「/″\」 〔〕:アクセント分解された欧文をかこむ (例)〔Ti_n …… ti_n …… ti_n. n. n. n …… ti_n.n ……〕 アクセント分解についての詳細は下記URLを参照してください http://aozora.gr.jp/accent_separation.html *:注釈記号  (底本では、直後の文字の右横に、ルビのように付く) (例)*Ogamadashi, Mausuke ------------------------------------------------------- [#ここから2字下げ、ページの左右中央に] わかき日の饗宴を忍びてこの怪しき紺と青との 詩集を[#ここから横組み]“PAN”[#ここで横組み終わり]とわが「屋上庭園」の友にささぐ [#ここで字下げ終わり] [#改丁] [#ここから5字下げ、ページの左右中央に] 東京夜曲 [#ここで字下げ終わり] [#改ページ]   公園の薄暮 ほの青き銀色《ぎんいろ》の空気《くうき》に、 そことなく噴水《ふきあげ》の水はしたたり、 薄明《うすあかり》ややしばしさまかえぬほど、 ふくらなる羽毛頸巻《ボア》のいろなやましく女ゆきかふ。 つつましき枯草《かれくさ》の湿《しめ》るにほひよ…… 円形《まろがた》に、あるは楕円《だゑん》に、 劃《かぎ》られし園《その》の配置《はいち》の黄《き》にほめき、靄に三つ四つ 色|淡《うす》き紫の弧燈《アアクとう》したしげに光うるほふ。 春はなほ見えねども、園《その》のこころに いと甘き沈丁《ぢんてう》の苦《にが》き莟《つぼみ》の 刺《さ》すがごと沁《し》みきたり、瓦斯《ガス》の薄黄《うすぎ》は 身を投げし霊《たましひ》のゆめのごと水のほとりに。 暮れかぬる電車《でんしや》のきしり…… 凋《しを》れたる調和《てうわ》にぞ修道女《しゆうだうめ》の一人《ひとり》消えさり、 裁判《さばき》はてし控訴院《こうそゐん》に留守居《るすゐ》らの点《とも》す燈《あかり》は 疲《つか》れたる硝子《がらす》より弊私的里《ヒステリイ》の瞳《ひとみ》を放《はな》つ。 いづこにかすずろげる春の暗示《あんし》よ…… 陰影《ものかげ》のそこここに、やや強く光|劃《かぎ》りて 息《いき》ふかき弧燈《アアクとう》枯《かれ》くさの園《その》に歎《なげ》けば、 面《おも》黄《き》なる病児《びやうじ》幽《かす》かに照らされて迷《まよ》ひわづらふ。 朧《おぼろ》げのつつましき匂《にほひ》のそらに、 なほ妙《たへ》にしだれつつ噴水《ふきあげ》の吐息《といき》したたり、 新《あたら》しき月光《つきかげ》の沈丁《ぢんてう》に沁《し》みも冷《ひ》ゆれば 官能《くわんのう》の薄《うす》らあかり銀笛《ぎんてき》の夜《よ》とぞなりぬる。[#地から3字上げ]四十二年二月   鶯の歌 なやましき鶯のうたのしらべよ…… ゆく春の水の上、靄の廂合《ひあはひ》、 凋《しを》れたる官能《くわんのう》の、あるは、青みに、 夜《よ》をこめて霊《たましひ》の音《ね》をのみぞ啼《な》く。 鶯はなほも啼く……瓦斯《ガス》の神経《しんけい》 酸《さん》のごと饐《す》えて顫《ふる》ふ薄き硝子《がらす》に、 失《うしな》ひし恋の通夜《つや》、さりや、少女《をとめ》の 青ざめて熟視《みつ》めつつ闌《ふ》くる瞳《ひとみ》に。 憂欝症《ヒステリイ》の霊《たましひ》の病《や》めるしらべよ…… コルタアの香《か》の屋根に、船のあかりに、 朽ちはてしおはぐろの毒の面《おもて》に 愁ひつつ、にほひつつ、そこはかとなく。 ヸオロンの三《さん》の絃《いと》摩《なす》るこころか、 ていほろと梭の音《おと》たつるゆめにか、 寝ねもあへぬ鶯のうたのそそりの かつ遠《とほ》み、かつ近み、静《しづ》こころなし。 夜もすがら夜もすがら歌ふ鶯…… 月白き芝居裏、河岸《かし》の病院、 なべて夜の疲《つか》れゆくゆめとあはせて、 ウヰスラアーの靄の中音《うちね》に鳴き鳴きてそこはかとなし。 [#地から3字上げ]四十二年一月   夜の官能 湿潤《しめり》ふかき藍色《あゐいろ》の夜《よ》の暗《くら》さ…… 酸《す》のごとき星あかりさだかにはそれとわかねど 濃《こ》く淡《うす》き溝渠《ほりわり》の陰影《かげ》に、 青白き胞衣会社《えなぐわいしや》ほのかににほひ、 窻多く、而《しか》もみな閉《とざ》したる真四角《ましかく》の煙艸工場《たばここうば》の 煙突の黒《くろ》みより灰《はひ》ばめる煤《すす》と湯気《ゆげ》なびきちらぼふ。 橋のもと、暗《くら》き沈黙《しじま》に 舟はゆく…… なごやかにうち青む砥石《といし》の面《おも》を いと重き剃刀《かみそり》の音《おと》もなく辷《すべ》るごとくに、 舟はゆく……ゆけど声なく ありとしも見えわかぬ棹取《さをとり》の杞憂《おそれ》深げに、 ただ黄《き》なる燈火《ともしび》ぞのぼりゆく……孤児《みなしご》の頼《たよ》りなき眼《め》か。 つつましき尿《ねう》の香《か》の滲《し》み入るほとり、 腐《くさ》れたる酒類《さけるゐ》の澱《おど》み濁《にご》りて そこここの下水《げすゐ》よりなやみしみたり、 白粉《おしろい》と湯垢《ゆあか》とのほめく闇にも 青き芽《め》の春の草かすかににほふ。 湿潤《しめり》ふかき藍色《あゐいろ》の夜《よ》の暗《くら》さ…… かへりみすれば いと黒く、はた、遠き橋のいくつの そのひとつ青うきしろひ、 神経《しんけい》の衰弱《つかれ》にぞ絶間《たえま》なく電車過ぎゆき、 正面《まとも》なる新橋《しんばし》の天鵝絨《びろうど》の空《そら》の深みに さまざまの電気燈《でんき》の装飾《かざり》、 そを脱《ぬ》けて紫の弧燈《アアクとう》にほやかにひとつ湿《しめ》れる。 あはれ、あはれ、爛壊《らんゑ》のまへの官能《くわんのう》のイルユミネエシヨン。 しかはあれども、 湿潤《しめり》ふかき藍色《あゐいろ》の夜《よ》の暗《くら》さ…… 溝渠《ほりわり》の闇《やみ》の中《うち》病院《びやうゐん》の舟は消えゆき、 青白き胞衣会社《えなぐわいしや》にほふあたりに、 整《ととの》はぬ鶯ぞしみらにも鳴きいでにける。 [#地から3字上げ]四十二年三月   片恋 あかしやの金《きん》と赤とがちるぞえな。 かはたれの秋の光にちるぞえな。 片恋《かたこひ》の薄着《うすぎ》のねるのわがうれひ 「曳舟《ひきふね》」の水のほとりをゆくころを。 やはらかな君が吐息《といき》のちるぞえな。 あかしやの金と赤とがちるぞえな。 [#地から3字上げ]四十二年十月   露台 やはらかに浴《ゆあ》みする女子のにほひのごとく、 暮れてゆく、ほの白き露台《バルコン》のなつかしきかな。 黄昏《たそがれ》のとりあつめたる薄明《うすあかり》 そのもろもろのせはしなきどよみのなかに、 汝《な》は絶えず来《きた》る夜《よ》のよき香料をふりそそぐ。 また古き日のかなしみをふりそそぐ。 汝《な》がもとに両手《もろて》をあてて眼病の少女はゆめみ、 欝金香《うこんかう》くゆれるかげに忘られし人もささやく、 げに白き椅子の感触《さはり》はふたつなき夢のさかひに、 官能の甘き頸《うなじ》を捲きしむる悲愁《かなしみ》の腕《かひな》に似たり。 いつしかに、暮るとしもなき窻あかり、 七月の夜《よる》の銀座となりぬれば 静こころなく呼吸《いき》しつつ、柳のかげの 銀緑の瓦斯《ガス》の点《とも》りに汝《なれ》もまた優になまめく、 四輪車の馬の臭気《にほひ》のただよひに黄なる夕月 もの甘き花《はな》桅子《くちなし》の薫《くゆり》してふりもそそげば、 病める児のこころもとなきハモニカも物語《レヂエンド》のなかに起りぬ。 [#地から3字上げ]四十二年七月 [#改丁] [#ここから5字下げ、ページの左右中央に] S組合の白痴 [#ここで字下げ終わり] [#改ページ]   雑艸園 悩ましき黄の妄想の光線と、生物の冷《ひや》き愁と、―― 霊《たましひ》の雑艸園の白日《はくじつ》はかぎりなく傷《いた》ましきかな。 たとふればマラリヤの病室にふりそそがれし 香水と消毒剤と、……窻の外なる蜜蜂の巣と、…… そのなかに絶えず恐るる弊私的里《ヒステリイ》の看護婦の眼と、 霖雨後《りんうご》の黄なる光を浴びて蒸す四時過ぎの歎《なげき》に似たり。 見よ、かかる日の真昼にして 気遣《きづか》はしげに点《とも》りたる瓦斯の火の病める瞳よ。 かくてまた蹈み入りがたき雑艸の最《もと》も淫《たは》れしあるものは 肥満《ふと》りたる、頸輪《くびわ》をはづす主婦《めあるじ》の腋臭《わきが》の如く蒸し暑く、 悲しき茎のひと花のぺんぺん草に縋りしは、 薬瓶《くすりびん》もちて休息《やす》める雑種児《あいのこ》の公園の眼をおもはしむ。 また、緩《ゆる》やかに夢見るごときあるものは、 午後二時ごろの 〔|Cafe'《カツフエ》〕 に Verlaine《ウエルレエヌ》 のあるごとく、 ことににくきは日光が等閑《なほざり》になすりつけたる 思ひもかけぬ、物かげの新しき土《つち》の色調。 またある草は白猫の柔毛《にこげ》の感じ忘れがたく、 いとふくよかに温臭《ぬるくさ》き残香《のこりが》の中に吐息しつ。 石鹸《シヤボン》の泡に似て小さく、簇《むらが》り青むある花は ひと日|浴《ゆあ》みし肺病の女の肌を忍ぶごとく、 洋妾《らしやめん》めける雁来紅《けいとう》は 吸ひさしの巻煙草めきちらぼひてしみらに薫《く》ゆる 朝顔の萎《しぼ》みてちりし日かげをば見て見ぬごとし。 見よ、かかる日の真昼にして 気遣はしげに瞬《またた》ける瓦斯の火の病める瞳よ。 あるものは葱の畑より忍び来し下男のごとく、 またあるものは轢かれむとして助かりし公証人の女房が 甘蔗のなかに青ざめて佇むごとき匂しつ。 ことに正しきあるものはかかる真昼を 饐《す》え白らみたる鳥屋《とや》の外に交接《つが》へる鶏《とり》をうち目守《まも》る。 噫《ああ》、かかるもろもろの匂のなかにありて 薬草の香《か》はひとしほに傷《いた》ましきかな、 哀《あは》れ、そは三十路女《みそぢをんな》の面《おも》もちのなにとなく淋しきごとく、 活動写真の小屋にありて悲しき銀笛の音《ね》の消ゆるに似たり。 見よ、かかる日の真昼にして 気遣はしげに黄ばみゆく瓦斯の火の病める瞳よ。 あはれ、また 知らぬ間《ま》に懶《ものう》きやからはびこりぬ。 ここにこそ恐怖《おそれ》はひそめ。かくてただ盲人《まうじん》の親は寝そべり、 剃刀《かみそり》持てる白痴児《はくちじ》は匍匐《はらば》ひながら、 こぼれたる牛乳の上を、毛氈を、近づき来る思あり。 またその傍《そば》に、なにとも知れぬ匂して、 詮《せん》すべもなく降《くだ》りゆく、さあれ楽しくおもしろき やぶれかかりし風船の籠に身を置く心あり。 あるは、また、かげの湿地《しめぢ》に精液のにほひを放つ草もあり。 見よ、かかる日の真昼にして 気遣しげに青ざめし瓦斯の火の病める瞳よ。 悩ましき黄の妄想の光線と、生物の冷《ひや》き愁と、 霊《たましひ》の雑艸園の白日《はくじつ》の声もなきかがやかしさを、 時をおき、揺り轟かし、黒烟《くろけぶり》たたきつけつつ、 汽車飛び過ぎぬ、かくてまたなにごともなし……。 [#地から3字上げ]四十二年十月   瞰望 わが瞰望は ありとあらゆる悲愁《かなしみ》の外に立ちて、 東京の午後四時過ぎの日光と色と音とを怖れたり。 七月の白き真昼、 空気の汚穢《けがれ》うち見るからにあさましく、 いと低き瓦の屋根の一円は卑怯に鈍《にぶ》く黄ばみたれ、 あかあかと屋上園に花置くは雑貨の店か、 (新嘉坡の土の香《か》は莫大小《メリヤス》の香《か》とうち咽ぶ。) また、青ざめし羽目板《はめいた》の安料理屋の窻の内、 ただ力なく、女は頸《うなじ》かたむけて髪|梳《くしけづ》る。 (私生児の泣く声は野菜とハムにかき消さる。) 洗濯屋《せんたくや》の下女はその時に物干の段をのぼり了り、 男のにほひ忍びつつ、いろいろのシヤツをひろげたり。 九段下より神田へ出づる大路《おほぢ》には しきりに急《いそ》ぐ電車をば四十女の酔人《よひどれ》の来て止《とど》めたり。 斜《はす》かひに光りしは童貞の帽子の角《つの》か。 かかる間《ま》も収《をさ》まり難き困憊《こんぱい》はとりとめもなくうち歎《なげ》く。 その湿《し》めらへる声の中 覇王樹《サボテン》の蔭に蹲《うづく》みて日向ぼこせる洋館の病児の如く泣くもあり。 煙艸工場の煙突掃除のくろんぼが通行人を罵る如き声もあり。 白昼を按摩の小笛、 午睡のあとの倦怠《けだる》さに雪駄ものうく 白粉《おしろひ》やけの素顔して湯にゆくさまの芸妓あり。 交番に巡査の電話、 広告《ひろめ》の道化《どうけ》うち青みつつ火事場へ急《いそ》ぐごときあり。 また間《ま》の抜《ぬ》けて淫《みだ》らなる支那学生のさへづりは 氷室の看板《かんばん》かけるペンキのはこび眺むるごとく、 印刷の音の中、色赤き草花|凋《しな》え、 ほどちかき外科病院の裏手の路次の門弾《かどびき》は げにいかがはしき病の臭気こもりたり。 (いま妄想の疲れより、ふと起りたる 薬種屋内の人殺、 下手人は色白き去勢者の母。) 何かは知らず、 人かげ絶えてただ白き裏神保町の眼路遠く、 肺病の皮膚青白き洋館の前を疲れつつ、 「刹那」の如く横ぎりし電車の胴の白色《はくしよく》は一瞬にして隠れたり。 いたづらに玩弄品《おもちや》の如き劇場の壁薄あかく、 ところどころの窻の色、曇れる、あるはやや黄なる、 弊私的里性《ヒステリイせい》の薄青き、あるは閉せる、 見るからに温室の如き写真屋に昼の瓦斯つき、 (亡き人おもふ哀愁はそこより来る。) 獣医の家は家畜の毛もていろどられ、 歯科病院の帷《カーテン》は入歯のごとき色したり、 その真中《ただなか》にただひとつ、研《と》ぎすましたる悲愁《かなしみ》か、 冷《ひや》き理髪《りはつ》の二階より、 剃刀《かみそり》の如く閃々と銀の光は瞬《またた》けり。 あらゆるものの疲れたる七月の午後、 わが瞰望の凡ての色と音と光を圧すごとく、 凡ての上にうち湿《しめ》る「東京の青白き墳墓《はか》」 ニコライ堂の内秘《ないひ》より、薄闇《うすぐら》き円頂閣《ドオム》を越えて 大釣鐘は騒がしく霊《たましひ》の内と外とに鳴り響く。 鳴り響く、鳴り響く、…… [#地から3字上げ]四十二年十月   心とその周囲    Ⅰ 窓のそと    1 わが窻《まど》のそと、 黄《き》なる実《み》のおよんどんのちまめ[#「およんどんのちまめ」に傍点]は小《ちひ》さなる光の簇《むらがり》をつくり、 葉かげの水面《みのも》は銀色《ぎんいろ》の静寂《しづけさ》を織《お》る。 白くして悩める眼鏡橋《めがねばし》のうへを 鉄輪《かなわ》を走らしつつ外科医院《げくわゐゐん》の児は過ぎゆき、 気の狂ひたる助祭《じよさい》は言葉なく歩み来る。 鐘を撞け、鐘を撞け、 恐ろしき銀色《ぎんいろ》の鐘を…… この時、近郊《きんかう》を殺戮《さつりく》したる白人《はくじん》の一揆《いつき》は 更にこの静かにして小《ちひ》さなる心の領内《りやうない》を犯さんとし、 すでにその鎗尖《やりさき》のかがやきはかなたの丘の上に閃《ひら》めけり。 正午過ぎ……一分……二分……三分…… 日は光り、そよとの風もなし。    2 ある日、わが窻の硝子《がらす》のしたに、 覆《くつがへ》されたる蜜蜂の大きなる巣《す》激《はげ》しく臭《にほ》ひ、 その周囲《めぐり》に数《かず》かぎりなき蜂の群《むれ》音《おと》たてて光りかがやき、 粗末《そまつ》なる木《き》の函《はこ》へすべり入り、匍《は》ひめぐる。 かがやかしき歓喜《くわんき》と悲哀《ひあひ》! すべてこの銀色《ぎんいろ》の光のなかに 太《ふと》くしてむくつけき黒人《こくじん》の手ぞ 働《はたら》ける……甘き甘きあるものを掻きいださんとするがごとく。 その前に負傷《ふしやう》したる敵兵《てきへい》三人《みたり》、―― あるものは白き布《ぬの》にて右の腕《かひな》を吊《つる》したり―― 日に焼けたる絶望《ぜつまう》の顔をよせて そこはかとなきかかる日の郷愁《ノスタルヂヤア》に悩むがごとく 珍《めづら》かにうち眺めたる……足もとの黄色《きいろ》なる花 湿りたる土の香《か》のさみしさに晷《かげ》りつつうち凋《しを》る。 鐘は鳴る……銀色《ぎんいろ》の教会《けうくわい》の鐘…… 硝子窻《がらすまど》のなかには 薄色《うすいろ》の青き眼《め》がねをかけたる女、 かりそめのなやみにほつれたる髪かきあげて、 薬罎《くすりびん》載せたる円卓《ゑんたく》のはしに肱《ひぢ》つきながら 金字《きんじ》見ゆるダンヌンチオの稗史《はいし》を閉《とざ》し、 静かなる杏仁水《きやうにんすゐ》のにほひにしみじみときき惚《ほ》れてあり。 ああ午後三時の郷愁《ノルタルヂヤア》……    Ⅱ S組合の白痴 夕まぐれ、石油問屋《せきゆどひや》の|S組合《エスくみあひ》の入口に、 つめたき硝子戸《がらすど》のそと、 うち潤《しめ》る石油色《せきゆいろ》の陰影《いんえい》の中《うち》、薄《うす》ら光《ひか》る銀《ぎん》の引手《ひきて》のそばに 薄白痴《うすばか》のわかきニキタは紫の絹ハンケチを頸《くび》にむすび、 今日《けふ》もまたのんべりだらりと立《たち》ん坊《ぼう》の河岸の 便所に凭《もた》るるごとく、 のろまな その鈍《にぶ》き容態《なりふり》のいづこにか猾《ずる》き眼《め》を働《はた》らかせにやにやと笑ひつつあり。 日は向《むか》う河岸《がし》の家畜病院《かちくびやうゐん》の頽《すた》れたる露台《バルコン》を染め、 入口の硝子戸の前に薬《くすり》塗《ぬ》らるる色|黄《き》なる狂犬《きやうけん》を染め、 隣《とな》れる健胃固腸丸《けんゐこちやうぐわん》の広告に苦《にが》き光を残しつつ沈みゆく。 S組合の薄白痴《うすばか》は 石油ににじむ赤き髪《け》に雑種児《あひのこ》の矜《ほこり》を思ひ、 けふの夜食《やしよく》も焼《やき》パンにジヤムと牛乳《ミルク》を購《か》はんとぞ思ふ。 かかる間《ま》も白銅のこひしさに 通《とほ》りすがる肥満女《ふとつちよ》の葱《ねぎ》もてる腕《かひな》に倚《よ》りてうち挑《いど》む。 薄暮《くれがた》の河岸《かし》のあかしや、二本《ふたもと》の海岸《かし》のあかしや、 その葉のゆめの金糸雀《かなりや》のごとくに散《ち》るころを、 またしてもくちずさむ、下品《げひん》なる港街《みなとまち》の小唄《こうた》。 青き青き溝渠《ほりわり》の光は暮れてゆく…… わかきニキタはぼんやりと薄笑《うすゑみ》しつつ、…… 十月の枯草《かれくさ》の黄《き》なるかがやき、そがかげのあひびきの 浮《うは》つきし声のかすれを思ひいで、 また外光《ぐわいくわう》の紫《むらさき》に河岸《かし》の燕《つばめ》の飛び翔《かけ》りながら隙見《すきみ》する 瞳《ひとみ》青きフランス酒場《さかば》の淫《たは》れ女《め》が湯浴《ゆあみ》のさまを思ひやり、 あるはまた火事ありし日の夕日のあたる草土堤《くさどて》に だらしなく擁《かか》へ出されて薫《かを》りたる薄黄《うすき》の、赤の乳緑《にふりよく》の、青の、沃土《えうど》の、 催笑剤《わらひぐすり》や泣薬《なきぐすり》、痲痺剤《しびれぐすり》や惚薬《ほれぐすり》、そのいろいろの音楽《おんがく》の罎。 さて組合の禿頭《はげあたま》のトムソンが赤つちやけたる鹿爪《しかつめ》らしき古外套《ふるぐわいたう》ををかしがり、 恐ろしかりし夏の日のこと、どくだみの臭《くさ》き花のなかに 「キ…ン…タ…マ…が…い…た…い」と 白粉《おしろい》厚《あつ》き皺《しは》づらに力《ちから》なく啜《すす》り泣きつつ、 終《つひ》に斃れし旅芸人《たびげいにん》のかつぽれが臨終《りんじゆう》の道化姿《どうけすがた》ぞ目に浮ぶ。 今|瓦斯《ガス》点《つ》きし入口の撻《ドア》押しあけて 石油の臭《にほひ》新らしく人は去る、流行《はやり》の背広《せびろ》の身がるさよ。 いつしかに日は暮れて河岸《かし》のかなたはキネオラマのごとく燈《あかり》点《つ》き、 吊橋《つりばし》の見ゆるあたり黄《き》なる月|嚠喨《りうりやう》と音《ね》も高く出でんとすれど、 あはれなほS組合の薄白痴《うすばか》のらちもなき想《おもひ》はつづく……    Ⅲ 泣きごゑ わが寝ねたる心のとなりに泣くものあり―― 夜《よ》を一夜《ひとよ》、乳《ち》をさがす赤子のごとく 光れる釣鐘草《つりがねさう》のなかに頬をうづめたる病児《びやうじ》のごとく、 あるものは「京終《きやうはて》」の停車場《ていしやば》のサンドウヰツチの呼びごゑのごと、 黄《き》にかがやける枯草の野を幌《ほろ》なき馬車に乗りて、 密通《みつつう》したる女《をんな》のただ一人《ひとり》夫《をつと》の家《いへ》に帰《かへ》るがごとく、 げにげにあるものは大蒜《にんにく》の畑《はたけ》に狂人《きやうじん》の笑へるごとく、 「三十三間堂」のお柳《りう》にもまして泣くこゑは、 ネル着《つ》けてランプを点《とも》す横顔《よこがほ》のやはらかき涙にまじり 理髪器《バリカン》の銀色《ぎんいろ》ぞやるせなき囚人《しうじん》の頭《かしら》に動《うご》く。 そのなかに肥満《ふと》りたる古寡婦《ふるごけ》の豚ぬすまれし驚駭《おどろき》と、 窓外《まどそと》の日光を見て四十男の神官《しんくわん》が 死のまへに啜泣《すすりなき》せるつやもなく怖《おそろ》しきこゑ。 ああ夜《よ》を一夜《ひとよ》、 わが寝《ね》たる心のとなりに泣くもののうれひよ。    Ⅳ 銀色の背景 わが悲哀《かなしみ》の背景《バツク》は銀色《ぎんいろ》なり。 そは五月《ごぐわつ》の葱畑《ねぎばたけ》のごとく、 夏の夜の「若竹《わかたけ》」の銀襖《ぎんぶすま》のごとく青白き瓦斯《がす》に光る。 そのまへに、―― 弊私的里《ヒステリイ》の甚しきは 私通《しつう》したる洎芙藍色《さふらんいろ》の[#「洎芙藍色《さふらんいろ》の」は底本では「泊芙藍色《さふらんいろ》の」]女の 声もなき白痴《はくち》の児をば抱きながら入日を見るがごとくに歩《あゆ》み、 かの苦《にが》く青くかなしき愁夜曲《ノクチユルノ》…… ある夜《よ》のわれは恐ろしくして美しき竹本小土佐の 「合邦《がつぽう》」の玉手御前《たまてごぜん》の悲歎《なげき》をば弾語《ひきがたり》する風情《ふぜい》に坐《すわ》り、 暗き暗き欝悶《うつもん》は 鈍銀《にぶぎん》の引《ひ》かれゆく幕の前に、指組《ゆびく》める「仁木《につき》」のごとく 隈《くま》青き眼《め》の光|烟《けぶり》とともにスツポンの深き恐怖《おそれ》よりせりあがる。…… 何時《いつ》も何時《いつ》もわが悲哀《かなしみ》の背景《バツク》には銀色《ぎんいろ》の密境《みつきやう》ぞ住む。 そのなかに鳴きしきる虫の音よ、 匂《にほひ》高き空気《くうき》の迅《はや》き顫動《せんどう》、 太棹《ふとざを》と、鋭《するど》き拍子木《ひやうしぎ》、 ああああわが凡《すべて》の官能《くわんのう》は盲《めし》ひんとして静かに光る。    Ⅴ 神経の凝視 日は暮るる、日は暮るる、力《ちから》なき欝金《うこん》の光…… ゆき馴《な》れし一本《ひともと》の楡《にれ》のもと、半《なかば》壊《こは》れし長椅子《ベンチ》に、 恐ろしき病室《びやうしつ》を抜《ぬ》けいでたるわがこころの 神経《しんけい》の疑《うたがひ》ふかき凝視《ぎようし》…… 足もとの、そこここの小さき花は 長く長く抱擁《はうえう》したるあとの黄色《きいろ》なる興奮《こうふん》に似て 光り……なげき……吐息《といき》し…… 沈黙《ちんもく》したる風は 生前《せいぜん》の日の遺言状《ゆゐごんじやう》の秘密《ひみつ》のごとくに刺草《いらくさ》の間《あひだ》に沈み、 美《うつく》しき絶望《ぜつまう》のごとたまさかに蜥蜴《とかげ》過《す》ぎゆく。 近郊《きんかう》の鐘は鳴る……修道院《しゆだうゐん》晩餐《ばんさん》の鐘…… 神経の澄《す》みわたる凝視《ぎようし》はつづく―― その青くして何物《なにもの》にも吸ひ取らるるがごとき瞳《ひとみ》は 身をすりよする異母妹《いぼまい》の性《せい》の恐怖《おそれ》より逃《のが》れんとし、 親《した》しき友人の顔に陋《いや》しき探偵《たんてい》の笑《わらひ》を恐れ、 色|黄《き》なる醜《みにく》き悪縁《あくゑん》の女《をんな》を殺《ころ》さんとし、 さらにわが生《せい》を力《ちから》あらしめんがために砒素《ひそ》を医局《いきよく》の棚より盗み、 終《つひ》にまた響《ひびき》も立てぬ霊《たましひ》の深緑《しんりよく》の瞳《ひとみ》にうち吸はれ、 わが心の深淵《しんゑん》に突き落されし処女《ヴアジン》の銀《ぎん》の咽《むせ》びをきく。 この時《とき》、病院の青白き裏口《うらぐち》の戸に佇める看護婦は 携へし鳥籠《とりかご》の青き小鳥の鳴くこゑをさびしみながら、 角《かく》吹ける乗合馬車の遠き遠き黄《き》のかがやきをなつかしむ。 日は暮るる、日は暮るる、力《ちから》なき欝金の光…… [#地から3字上げ]四十三年二月  物理学校裏 Borum. Bromun. Calcium. Chromium. Manganum. Kalium. Phosphor. Barium. Iodium. Hydrogenium. Sulphur. Chlorum. Strontium. …… (寂しい声がきこえる、そして不可思議な……) 日が暮れた、淡《うす》い銀と紫―― 蒸し暑い六月の空に 暮れのこる棕梠の花の悩ましさ。 黄色い、新しい花穂《ふさ》の聚団《あつまり》が 暗い裂けた葉の陰影《かげ》から噎《む》せる如《やう》に光る。 さうして深い吐息《といき》と腋臭《わきが》とを放つ 歯痛《しつう》の色の黄《きな》、沃土ホルムの黄《きな》、粉つぽい亢奮の黄《きな》。 C2[#「2」は下付き小文字]H2[#「2」は下付き小文字]O2[#「2」は下付き小文字]N2[#「2」は下付き小文字]+NaOH=CH4[#「4」は下付き小文字]+Na2[#「2」は下付き小文字]CO3[#「3」は下付き小文字]…… 蒼白い白熱瓦斯の情調《ムウド》が曇硝子を透して流れる。 角窓のそのひとつの内部《インテリオル》に 光のない青いメタンの焔が燃えてるらしい。 肺病院の如《やう》な東京物理学校の淡《うす》い青灰色《せいくわいしよく》の壁に いつしかあるかなきかの月光がしたるる。 〔Ti^n …… ti^n …… ti^n. n. n. n …… ti^n.n ……〕  〔tire …… tire …… ti^n. n. n. n. …… syn ……〕 t …… t …… t …… t …… tone …… tsn. n. …… syn. n. n. n. n …… 静かな悩ましい晩、 何処かにお稽古《けいこ》の琴の音がきこえて、 崖下の小さい平家《ひらや》の亜鉛屋根に コルタアが青く光り、 柔《やは》らかい草いきれの底に Lamp の黄色い赤みが点る。 その上の、見よ、すこしばかりの空地《あきち》には 湿《しめ》つた胡瓜と茄子の鄙びた新らしい臭《にほひ》が 惶《あわ》ただしい市街生活の哀愁《あいしゆう》に縺れる…… 汽笛が鳴る……四谷を出た汽車の Cadence《カダンス》 が近づく…… 暮れ悩む官能の棕梠 そのわかわかしい花穂《ふさ》の臭《にほひ》が暗みながら噎《むせ》ぶ、 歯痛の色の黄、沃土ホルムの黄、粉つぽい亢奮の黄。 寂しい冷たい教師の声がきこえる、そして不可思議な…… そこここの明《あか》るい角窻のなかから。 Sin ……, Cosin ……. Tan ……, Cotan ……. Sec ……, Cosec ……. etc …… Ion. Dynamo. Roentgen. Boyle. Newton. Lens. Siphon. Spectrum. Tesla の火花 摂氏、華氏、光、Bunsen. Potential. or, Archimedes. etc, etc…… 棕梠のかげには野菜の露にこほろぎが鳴き、 無意味な琴の音の稚《をさ》なびた Sentiment は 何時までも何時までもせうことなしに続いてゆく。 汽笛が鳴る……濠端《ほりばた》の淡《うす》い銀と紫との空に 停車《とま》つた汽車が蒼みがかつた白い湯気を吐いてゐる。 静かな三分間。 悩ましい棕梠の花の官能に、今、 蒸し暑い魔睡がもつれ、 暗い裂けた葉の縁《ふち》から銀の憂欝《メランコリイ》がしたたる。 その陰影《かげ》の捕捉《とら》へがたき Passion の色、 歯痛の色の黄《きな》、沃土ホルムの黄《きな》、粉つぽい亢奮の黄《きな》。 Neon. Flourum. Magnesium. Natrium. Silicium. Oxygenium. Nitrogenium. Cadimium or, Stibium            etc., etc.…… [#地から3字上げ]四十三年三月   骨なし児と黒猫 そは恐《おそ》ろしきXなり。淫《みだ》らにして不倫《ふりん》なる母《はは》のごとく、 汝《な》が神経《しんけい》と知覚《ちかく》とは痛《いた》ましきほど慄《わなな》けども、力《ちから》なき骨《ほね》なし児《ご》よ。 終日《ひもすがら》、わづらはしき病室《びやうしつ》の白葡萄酒《はくぶどうしゆ》の如《ごと》き空気《くうき》に呼吸《こきふ》し、 霊《たましひ》のうつらぬ瞳《ひとみ》は唯《ただ》狂《くる》はしき硝子戸《がらすど》の外《そと》をうち凝視《みつ》む。 そが背後《うしろ》の棚《たな》の上《うへ》、やや青《あを》みたる陰影《いんえい》の中《うち》、 ニツケルの産科《さんくわ》の器械《きかい》鵞《が》のごとき嘴《はし》して光《ひか》り、 薄《うす》く曇《くも》れる硝子《がらす》のなかにとりあつめたる薬剤《やくざい》の罎《びん》、 その青《あを》く赤《あか》くおぼめける劇薬《げきやく》のエチケツテ……鋭《するど》く、苦《にが》し。 ああ骨《ほね》なし児《ご》よ。この薄暮《くれがた》の反射《はんしや》に、 柔軟《やはら》かにして悩《なや》ましき汝《な》が衾《ふすま》は銀《ぎん》の潤沢《しめり》に光《ひか》れど、 冷《ひや》やかなる鉄《てつ》の寝台《ねだい》の上《うへ》、据《す》ゑられし木造《きづくり》の函《はこ》は、 汝《な》が身《み》を入《い》れたる小《ちひ》さき牢獄《ひとや》は山葵色《わさびいろ》の曇《くもり》にうち歎《なげ》く。 大人《おとな》びたる顔《かほ》の白《しろ》き白《しろ》き白粉《おしろい》の恐《おそ》ろしさよ。 なよなよと凭《もた》せたる身体《からだ》のしまりなさ。 霊《たましひ》の青《あを》さ、いたましさ、 生温《なまぬ》るき風《かぜ》のごと骨《ほね》もなき手《て》は動《うご》く――その空《そら》に鏽銀《しやうぎん》の鐘《かね》はかかれり。 ああ、ああ、今《いま》しがたまでぞ、この硝子戸《がらすど》の外《そと》には 五|時《じ》ごろの日《ひ》の光《ひかり》わかわかしき血《ち》のごとくふりそそぎ、 見《み》えざる窓下《まどした》のあたりより、 抑圧《おさ》えあへぬ抱擁《はうえう》の笑《わら》ひ声《ごゑ》きこえしか――葱畑《ねぎばたけ》すでに青《あを》し。 鏽銀《しやうぎん》の鐘《かね》よりは一条《ひとすぢ》の絹《きぬ》薄青《うすあを》く下《さが》りて光《ひか》る。 その端《はし》をはづかに取《と》りたる手《て》は、その瞳《ひとみ》は、 ああ、すべて力《ちから》なし。――さらにさらに痛《いた》ましきはかかる青《あを》き薄暮《くれがた》の激《はげ》しき官能《くわんのう》の刺戟《しげき》。 聴《き》け、遂《つひ》に、彼《かれ》は泣《な》く。…… あらず、そは馴染《なじ》みたる黒猫《くろねこ》なりき。ふくらなる身《み》を跳《おど》らせて、 銀色《ぎんしよく》の衾《ふすま》の裾《すそ》にのぼりつつ背《せ》を高《たか》めたる。 黄《き》ばみたる青葱色《あをねぎいろ》の眼《め》の光《ひかり》来《きた》る夜《よ》の恐怖《おそれ》にそそぐ。 かくてただ声《こゑ》もなし。青《あを》く光《ひか》る硝子戸《がらすど》に真白《ましろ》なる顔《かほ》ふりむけて、 哀楽《あいらく》の表情《へうじやう》もなく親《した》しげに畜類《ちくるゐ》の眼《め》と並《なら》びつつ何《なに》をか凝視《みつ》む。 ああ、暗《くら》き暗《くら》き葱畑《ねぎばたけ》の地平《ちへい》に黄《き》なる月《つき》いでんとして、 鏽銀《しやうぎん》の鐘《かね》は鳴《な》る……幽《かす》かに、……幽《かす》かに……やるせなき霊《たましひ》の求《と》めもあへぬ郷愁《ノスタルヂヤア》。 [#地から3字上げ]四十三年二月   雪ふる夜のこころもち 今夜《こんや》も雪が降つてゐる。…… Blue devils よ。 酔ひ狂つた俺《おれ》の神経が―― Sara …… sara ……とふる雪の幽かな瞬《またたき》を聴きわけるほど―― ひつそりと怖気《をぢけ》づく、ほんの一時《いちじ》の気紛《きまぐれ》につけ込んで、 汝《おまへ》はやつて来る……顫《ふる》ひながら例《れい》の房のついた尖帽《せんぼう》をかぶつて、 掻きむしつた亜麻色《あさいろ》の髪《け》の、泣き出しさうな青い面《つら》つきで、 ふらふらと浮いた腰の、三尺《さんじやく》ほどの脚棍《たけうま》に乗つて、 ひよつくりこつくり西洋操人形《あやつりにんぎやう》のやうにやつてくる。 硝子の閉《しま》つた青い街《まち》を、 濡れに濡れた舗石《しきいし》のうへを、 ピアノが鳴る……金色《きんいろ》の顫音《せんおん》の 潤《うる》むだ夜の空気に緑を帯びて消えてゆく。 雪がふる。…… 湿《しめ》つた劇薬《げきやく》の結晶《けつしやう》、 アンチピリンの(頓服剤《ねつさまし》の)、粉末《ふんまつ》のやうに―― それがまた青白い瓦斯《ガス》に映《うつ》つて 弊私的里《ヒステリー》の発作《ほつさ》が過ぎた、そのあとの沈んだ気分《きぶん》の氛囲気《ふんゐき》に 落《お》ちついた悲哀《かなしみ》の断片《だんぺん》がしみじみと降りしきる。 そのとき、 酒場《さかば》の薄い硝子から むちやくちやになつた神経が、馬鹿にしろといふ調子で、 それでも沈まりかへつて、 恐怖《おそれ》と可笑《をかしさ》の眼を瞠《みは》つたまま、 ふる雪を、 Blue devils の歩行《あるき》を眺めてゐる。 ひよつくりこつくり顫《ふる》へてゆく…… ピアノに合せた足どりの、ふらふらと両手《りようて》を振つて、あかしやの禿げた並木をくぐりぬけ、 三角|形《なり》の街燈《がいたう》の鉄の支|柱《ちゆう》によろけかかつて腰をつき、 そそくさと、そそくさと、内隠《かくし》から山葵色《わさびいろ》の罎《びん》を取り出し、 こくこくと仰向《あふむ》いて、苦《にが》さうな口のあたりに持てゆく。 雪がふる……白く……薄青く…… それが罎《びん》を収《しま》つて ひよいと此方《こちら》を見る。 涙の一杯たまつた眼に 張《はり》のない痲痺《まひ》しきつた笑《わらひ》を洩らしながら、 克明《こくめい》な霊《たましひ》のかたわれが ひよつくりこつくり道化《だうけ》た身振に消えてゆく。 ああ、静かな夜《よる》、 何処《どこ》かに幽かに杏仁水《きやうにんすゐ》のにほひがして 疲れた官能が痺れてくる…… 濡れたあかしやが銀《ぎん》の恐怖《おそれ》に光つて、 一ならび青い硝子に反射する――そのほかは 声もせぬ通の長い舗石《しきいし》のうへを 痺《しび》れて了《しま》つたピアノの顫音《せんおん》が、 ふる雪の断片が、 活動写真のまたたきのやうに 音もなく瓦斯の光に顫へてゐる。 雪がふる。 Sara …… sara …… sara …… sara …… sara …… 薄ら青い、冷《つめ》たい千万の断片が 落ついた悲哀《かなしみ》の光が、 弊私的里《ヒステリー》の発作《ほつさ》が過ぎた、そのあとの沈んだ気分《きぶん》の氛囲気《ふんゐき》に、 しんみりとしたリズムをつくつて しづかに降りつもる。 Sara …… sara …… sara …… sara …… sara …… [#地から3字上げ]四十三年六月   解雪 わが憂愁は溶《と》けつつあり、 黄色《きいろ》く赤くみどりに、 屋根の雪は溶けつつあり、 光りつつ、つぶやきつつ、滴りつつ…… 日はすでにまぶしく、 菓子屋の煙突よりは烟《けむり》のぼり、 病犬は跛《ちんば》曳きつつ舗石《しきいし》をゆく、 そのなかに溶《と》けつつあるものの小歌《リイド》。 やはらかによわく、ほそく、 そは裁縫機械《ミシン》のごとく幽かに、 いそがしく、 さまざまの光を放ちつつ滴《したた》る。 喪心《さうしん》のたのしさを聴け。 薄暗き地下室《セラ》の厨女《くりやめ》よ、 湯沸《サモワル》の湯気の呼吸《いき》も 玉葱のほとりにしづごころなし。 丸の内の三号、 その高き煉瓦より、筧より、また廂より、 かくれたる物の芽に沁《し》みたる無数の宝玉の溶解《ようかい》、 温かに劇薬のながれ湿《しと》る音楽…… わが憂愁は溶《と》けつつあり、 黄色く、赤く、みどりに、 屋根の雪は溶けつつあり、 光りつつ、つぶやきつつ、滴《したた》りつつ……[#地から3字上げ]四十三年六月 [#改丁] [#ここから5字下げ、ページの左右中央に] 青い髯 [#ここで字下げ終わり] [#改ページ]   青い髯 五月《ごぐわつ》が来た。 硝子と乳房との接触《せつしよく》……桐の花とカステラ…… 春と夏との二声楽《ヂユエツト》、冷めたい冬…… とりあつめた空気の淡《うす》い感覚に、 硝子戸のしみじみとした汗ばみに、 さうして、私の剃《そ》りたての青い面《かほ》の皮膚《ひふ》に、 黄緑《くわうりよく》の Passion を燃えたたせ、顫はす 日光の痛《いた》さ、 その眩《ま》ぶしい音楽は負傷兵《ふしやうへい》の鳴らす釣鐘のやうに、 恢復期《くわいふくき》の精神病患者がかぎりなき悲哀《ひあい》の Irony に耽けるやうに、 心も身体《からだ》も疲《つか》らした その翌日《あくるひ》の私の弱い瞼《まぶた》のうへに、 キラキラとチラチラと苦《にが》い顫音《せんおん》を光らす、 強く絶えず、やるせなく…… 午前十一時半、 公園の草わかばの傷《いた》みに病犬《びやうけん》の黄《きいろ》い奴《やつ》が駈けまわり、 禿げた樹木《じゆもく》の梢がそろつて新芽《しんめ》を吹く、 螺旋状《らせんじやう》の臭《にほひ》のわななきと、底力《そこぢから》のはづみと、 Whiskey の色に泡《あわ》だつ呼吸《いき》づかひと…… 而《さう》して、わかい男の剃りたての面《かほ》の皮膚の下から 青い髯が萠える…… 五月が来た。 どこかしらひえびえとした微風《びふう》が 閃《ひら》めく噴水《ふんすゐ》の尖端《さき》からしづれて、 ニホヒイリスや和蘭陀薄荷《おらんだはつか》のしめりを戦《そよ》がせ、 ぢつと、私が凝視《みつ》むる、 小酒杯《リキユグラス》の透明な無色《むしよく》の火酒《ウオツカ》を顫はし、 黄緑《くわうりよく》の外光《ぐわいくわう》を浴《あ》びた青年の面《かほ》のうへを、 なめらかに砥石《といし》のやうな青みを、 Poe の頬のやうな手ざはりを、 すいすいと剃刀《かみそり》のやうに触れる、 私は無言《むごん》で冷《つめ》たい小酒杯《リキユグラス》をとりあげ、 しみじみと赤い唇《くちびる》にあてる…… 五月が来た、五月が来た。 楠《くす》が萠え、ハリギリが萠え、朴《ほう》が萠え、篠懸《すずかけ》の並木が萠える。 そうして、私の 新しいホワイトシヤツの下から青い汗《あせ》がにじむ、 植物性の異臭《いしゆう》と、熱《ねつ》と、くるしみと、…… 芽でも吹きさうな身体《からだ》のだらけさ、 (何でもいいから抱《だ》きしめたい。) 萠える、萠える、萠える、萠える、 青い髯が ウオツカの沁み込む熱《あつ》い頬《ほ》の皮膚《ひふ》から萠える。…… くわつとふりそそぐ日光、 冷《つめ》たい風、 春と夏との二声楽《ヂユエツト》、……緑《みどり》と金《きん》…… [#地から3字上げ]四十三年五月   五月 新しい烏竜茶《ウーロンちや》と日光、 渋味もつた紅《あか》さ、 湧きたつ吐息《といき》…… さうして見よ、 牛乳にまみれた喫茶店《きつさてん》の猫を、 その猫が悩ましい白い毛をすりつける 女の膝の弾力《だんりよく》。 夏《なつ》が来《き》た、 静《しづ》かな五|月《ぐわつ》の昼《ひる》、湯沸《サモワル》からのぼる湯気《ゆげ》が、 紅茶《こうちや》のしめりが、 爽《さわや》かな夏帽子《なつばうし》の麦稈《むぎわら》に沁《し》み込《こ》み、 うつむく横顔《よこがほ》の薄《うす》い白粉《おしろい》を汗《あせ》ばませ、 而《さう》してわかい男《をとこ》の強《つよ》い体臭《にほひ》をいらだたす。 「苦《くる》しい刹那《せつな》」のごとく、黄《き》ばみかけて 痛《いた》いほど光《ひか》る白《しろ》い前掛《まへかけ》の女《をんな》よ。 「烏竜茶《ウーロンちや》をもう一|杯《ぱい》。」 [#地から3字上げ]四十三年五月   銀座花壇 赤《あか》い花《はな》、小《ちひ》さい花《はな》、石竹《せきちく》と釣鐘艸《つりがねさう》。 かなしくよるべなき無智《むち》…… 瓦斯《ガス》の点《つ》いた 勧工場《くわんこうば》のはいりくち、 明るい硝子棚、紗《しや》の日被《ひよけ》、 夏は朝から悩ましいのに 花が咲いた……あはれな石竹と釣鐘草《つりがねさう》。 わかい葉柳《はやなぎ》の並木路《アベニユ》、撒水《みづまき》した煉瓦道《れんぐわみち》、 そのなかの小《ちひ》さな人口花壇《じんこうくわだん》、 (疲《つか》れた瞳《ひとみ》の避難所《ひなんしよ》) その方《はう》二|尺《しやく》のかなしい区劃《しきり》に、 夏《なつ》がきて花《はな》が咲《さ》いた、小《ちひ》さい細《ほそ》い石竹《せきちく》と釣鐘艸《つりがねさう》。 絶《た》えず絶《た》えず電車《でんしや》が通《とほ》る…… おしろい汗《あせ》を吹《ふ》く草《くさ》の葉《は》に、 裁縫器《ミシン》の幽《かす》かな音《おと》に、 よせかけた自転車《じてんしや》の銀《ぎん》のハンドルの反射《はんしや》 日《ひ》は光《ひか》り、 かるい埃《ほこり》が薄《うす》い車輪《しやりん》をめぐる…… 赤い花、小さい花、石竹と釣鐘草。 さうして女がゆく、 すずしい白《しろ》のスカアト その手《て》に持《も》つた赤皮《あかがは》の瀟洒《せうしや》な洋書《ほん》、 いつかしら汗《あせ》ばんだこころに 異国趣味《エキゾチツク》な五|月《ぐわつ》が逝《ゆ》く…… 新《あたら》しい銀座《ぎんざ》の夏《なつ》、 かなしくよるべなき人工《じんこう》の花《はな》、――石竹《せきちく》と釣鐘艸《つりがねくさ》。 [#地から3字上げ]四十三年五月   六月 白い静かな食卓布《テエブルクロース》、 その上のフラスコ、 フラスコの水に ちらつく花、釣鐘草《つりがねさう》。 光沢《つや》のある粋《いき》な小鉢の 釣鐘草《つりがねさう》、 汗ばんだ釣鐘草、 紫の、かゆい、やさしい釣鐘草、 さうして噎《むせ》びあがる 苦い珈琲《カウヒイ》よ、 熱《あつ》い夏のこころに 私は匙を廻す。 高窻の日被《マルキイズ》 その白い斜面の光から 六月が来た。 その下の都会の鳥瞰景《てうかんけい》。 幽かな響がきこゆる、 やはらかい乳房の男の胸を抑《をさ》へつけるやうな…… 苦い珈琲よ、 かきまわしながら 静かに私のこころは泣く…… [#地から3字上げ]四十三年六月   新聞紙 一九一〇、六|月《ぐわつ》、はじめの月曜《げつえう》 冷《つ》めたい朝《あさ》の七|時《じ》、 つつましい馭者台《ぎよしやだい》のうへに、 ただひとり爽《さわや》かに折《を》りかへす新聞紙《しんぶんし》の 緑《みどり》の薄《うす》い反射《はんしや》…… 微《かす》かな鉄分《てつぶん》をふくんだ空気《くうき》に まだ青味《あをみ》を帯《お》びた棕梠《しゆろ》の花《はな》が かよわい薄黄色《うすぎいろ》に光《ひか》り、 ちらほらと夏帽子《なつぼうし》の目《め》につく なつかしいだらだら坂《さか》の下《した》の H分署《ぶんしよ》の前《まへ》の通《とほり》……せはしい電車《でんしや》の鐸《ベル》…… 撒水夫《みづまき》の喞筒《ポムプ》を動《うご》かすさびしさ、 濠端《ほりばた》の火《ひ》の消《き》えた瓦斯燈《がすとう》に 白マントルが顫《ふる》へ、 その硝子《ガラス》の一|点《てん》に日光《につくわう》の金《きん》が光《ひか》つてる。 わかい馭者《ぎよしや》は 窓《まど》のないカキ色《いろ》の囚人馬車《しうじんばしや》を 梧桐《あをぎり》のかげにひき入《い》れたまま、 しづかに読《よ》み耽《ふけ》る…… こころもち疲《つか》れた馬《うま》の呼吸《こきふ》…… 短《みじか》く刈《か》つた栗毛《くりげ》の光沢《つや》から沁《し》み出《で》る 臭《にほひ》の奇異《ふしぎ》な汗《あせ》ばみ、その上《うへ》にさしかくる 新聞紙《しんぶんし》の新《あたら》しい触感《しよくかん》、 わか葉《ば》の薄《うす》い緑《みどり》の反射《はんしや》。 新《あたら》しい客《きやく》を待《ま》つ間《あひだ》、 やすらかな五|分時《ふんじ》が過《す》ぎゆく…… [#地から3字上げ]四十三年六月   畜生 やはらかにかなしきは畜生の こころなれ。 赤き日はアカシヤのわか葉にけぶり、 ※[#「くさかんむり/(束+束)」、63-8]肉《にんにく》の黄なる花ちらちらと噎《むせ》ぶとき 怖々《おづおづ》と投げいだし、眠りたる霊《たましひ》の 人間の五官にもわきがたきいと深きかなしみ…… そのゆめはこころもち汗ばみて 傷《きず》つきし銀毛《ぎんまう》の耳に 痛《いた》き花粉は沁《し》み、 やるせなき肉体の憂欝《いううつ》に 柔かにかろく魘《うな》さるれど、 汝《な》が母を犯したる 霊《たましひ》の不倫をば知るよしもなし。 五時過ぎて暮ちかき夏の日は 血に染《そ》みし呼鈴《よびりん》の声のごとくふりそそぎ、 嫋《なよ》やかなる風は蜜蜂の褐色《かちいろ》に、 蜜蜂のつぶやきは かろく花粉を落す。 汝《な》が微《かす》かなる寝息は 腐れたる玉葱のにほひにも沁《し》み、 快《こころよ》く荒《すさ》みゆく性《せい》の秘密にや笑ふらん。 匍《は》ひよりし毛虫の奇異《きい》なる緑にも 汝《な》は覚《さ》めず…… ひとみぎり園丁の鍬の刃はかなたに光り、 掘りかへさるる土の香の湿潤《しめり》吹き来る。 あはれ、かかる日に病みて伏す やはらかにかなしき畜生《ちくしやう》の 捉《とら》へがたき微温《びをん》の、やるせなきそのこころ…… [#地から3字上げ]四十三年六月   隣人 隣人《りんじん》は露西亜の地主《ぢぬし》のごとく、 素朴な黒の上衣《うはぎ》に赤木綿のバンドを占め、 長靴を穿《は》き、 禿げた頭《あたま》のきさくから他《よそ》の畑を見回《みまは》る。 隣人はよく蚕豆《そらまめ》のなかに立ち、 雨に濡れた黄花※[#「くさかんむり/(束+束)」、66-1]肉《きのはなにんにく》を眺める。 [#ここから横組み]“*Ogamadashi, Mauske”[#ここで横組み終わり]自慢らしい手つきで 喞《くは》えたパイプの雁首《がんくび》をぽんとはたく。 隣人は見え坊だ、そりばつてん、 どうかすると吝嗇漢《しみつたれ》だ、 世界苦《せかいく》の気欝《ふさぎ》から、 馬鈴薯《じやがいも》を食《た》べすぎた食傷《もたれ》から。 隣人は女房を恐れる、長崎うまれの 肥満女《ふとつちよ》の息の臭い、馬鹿力のある、 それでよく小娘のやうにかぢりつく、 牛肉《ビイフ》と昼寝の好きな飲酒家《のんだくれ》。 隣人は日に一度黒い蒸汽をながめる、 その悲しい面《かほ》に洎芙藍《さふらん》のやうな 黄いろい日が光り、涙がながれる。 さうして悄然《しほしほ》と御燈明《みあかし》をあげにゆく。 隣人の宣教師、混血児《あひのこ》のベンさん 気まぐれな禿頭、 青い眼鏡をかけては街《まち》を歩行《ある》き、 日曜の日には御説教。 [#ここから横組み]“Changhang-deki no Mariya Sanna Ne wa yasuka-batten, utsukushikaken, 〔Minasan yo_ ogan de wokinasare.〕”[#ここで横組み終わり] [#ここから2字下げ] * お精がでます、茂助。 [#ここで字下げ終わり] [#地から3字上げ]四十三年六月   雨の気まぐれ 雨はふる。……雨はふる…… やるせない春機発動期《しゆんきはつどうき》の憂欝病《いううつびやう》……神経の哀《かな》しい衰弱…… 黄色い胃病患者の腐つた気分にふりそそぐ雨。 私通した小娘《こむすめ》の青い悪阻《つわり》の秘密と恐怖とにふりそそぐ雨。 泥酔漢《のんだくれ》のおくびと、殺人《ひとごろし》の温《ぬ》るい計画《たくらみ》とにふりそそぐ雨。 しとしと[#「しとしと」に傍点]と、しとしと[#「しとしと」に傍点]と、 絶間なく雨はふる、ふりそそぐ、にじむ、曳く、消ゆる、滴《したた》る。 わが暗い霊《たましひ》の霖雨季《りんうき》の長いひと月、 日がな終日《ひねもす》、昼も夜《よ》も、一昨日《をととひ》も、昨日《きのふ》も、今日《けふ》も 乱次《だらし》ない雨はふる、ふりそそぐ、にじむ、曳く、消ゆる、滴《したた》る。 酸《す》つぱい麦酒《ビール》のやうな気の抜けた雨。 いそぎんちやくの液《しる》のむづかゆい雨。 黴《かび》くさいインキいろの青い雨。 雨……雨……雨…… 雨はふる……雨はふる…… 酸敗《す》えかかつた橡《とち》の葉の繊維《せんゐ》に蛞蝓《なめくじ》の銀線《ぎんせん》を曳き、 臭《くさ》い栗の花の白金《プラチナ》を腐らし、 鉄粉《てつぷん》のやうに光る芝生の土に沁み込み、 青い古池の面《おもて》に怪《あや》しい笑《わらひ》を辷らせ、 せうことなしに雨はふる、ふりそそぐ、何時までも何時までも小止《をや》みなく…… 陰気な黴くさい雨、長い雨……日ぐらしの雨…… ともすると疲《つか》れきつた悲愁《かなしみ》の裏《うら》から 微《ほの》かな日光の金《きん》を投げかくる雨。 雨のふる廃園《はいゑん》の木立の暗《くら》い緑《みどり》色の空間《スペース》。 その洞《ほら》のやうな葉かげの恐怖にふりそそぐ雨。…… 折から、ひよいと、花やかに 地《ち》より身軽《みかろ》なひるがへり、躍り出したる怪《け》のものが 突拍子《とつぺし》もないひと躍り、……   Kappore! Kappore!   Amacha de Kappore!   Shiwocha de Kappore!   Yoito na! Yoi! Yoi! 緋のだんだらの尖帽《せんばう》に戯姿《おどけすがた》の道化師《だうけし》が 恐ろしきほど真白《まつしろ》く白粉《おしろい》つけた呆《とぼ》けがほ。   Oki …… no …… o …… o,   Kura …… ai …… no …… ni …… i, i,   Shira …… a …… Ho …… ga …… miyuru,   Are … wa … Ki …… no … Ku … u, u … ni,   Ha! Yoito kono korewa no sa!   A! a! a! a! a!   Mika …… n …… Bu …… u, u …… ne ……! 目も動かさず、白々《しらじら》と悪《わる》く澄《す》ましたくはせ者、 燥《はしや》ぎくるめく廉《やす》ものの 蓄音機から絞《しぼ》りだす囃《はやし》――黄色《きいろ》な甲高《かんだか》の 三味《しやみ》の笑《わらひ》に挑《いど》まれて、 戯《おど》けつくした身のひねり、 突拍子《とつぺし》もないひと躍り……   Ichi kake, Ni kake, San kake te,   Shi kake te, Go kake te, Hasyo kake te,   Kawai Okata wo …… ふいと消えたる変化《へんげ》もの、 白粉《おしろい》の濃《こ》い、手の白い、素足《すあし》の白い、 唇《くちびる》の赤《あか》い沈黙《ちんもく》…… 雨はふる……雨はふる…… 陰気な黴くさい雨……長い雨……日ぐらしの雨…… 気まぐれな不摂生《ふせつせい》のあとの痛《いた》ましい寂寥《さびしみ》、 幻影《イリユージヨン》の消え失せた雰囲気《ふんゐき》の暗《くら》い緑に、 むづ痒《か》ゆいやうな、気の抜けた、さみしい、弱い、せうことなしの 雨はふる……雨はふる……本能と神経の黄昏時《たそがれどき》。 しとしと[#「しとしと」に傍点]と、しとしと[#「しとしと」に傍点]と、 絶え間なく雨はふる、ふりそそぐ、葉から葉へ、しと[#「しと」に傍点]と滴《したた》る。 深緑《しんりよく》の闇《くら》い夜《よる》――ふる雨の黒いかがやき、 廃《すた》れたる橡《とち》の葉に古池に霊《たましひ》の底の秘密へ、 日がな終日《ひねもす》、昼間《ひるま》から、今日《けふ》の朝から、昨日《きのふ》から、遠い日の日の夕《ゆふべ》から、 ふりつづく長い長い憂欝《いううつ》の単音律《モノトニー》、 その青い雨……黴くさい雨……投げやりの雨…… 辛気くさい静かな雨、かなしいやはらかな……生温《なまぬ》るい計画《たくらみ》の雨。 雨……雨……雨…… [#地から3字上げ]四十三年六月   葱の畑 寥《さび》しい霊《たましひ》が鳴《な》いて居る。 そこここの湿《しめ》つた黒《くろ》い土《つち》のなかで 昼《ひる》の虫《むし》が 幽《かす》かな、銀《ぎん》の調子《てうし》で鳴《な》いてゐる。 疲《つか》れた日光《につくわう》が 五時半《ごじはん》ごろの重《おも》い空気《くうき》と、 湯屋《ゆや》の曇硝子《くもりがらす》とに、 黄色《きいろ》く濡《ぬ》れて反射《はんしや》し、 新《あたら》しい臭《にほひ》のなかに弱《よわ》つてゆく。 寂《さび》しい霊《たましひ》が鳴《な》いてゐる。 毛《け》なみのいい樺《かば》と白の犬が 交《つる》んだまま葱《ねぎ》のなかにかくれてる。 眩《まぶ》しさうに首だけ覗《のぞ》いて 淀《よど》んだ瞳《ひとみ》に 何物《なにもの》をか恐《おそ》れてゐる。―― 息《いき》がしづかに茎《くき》の尖頭《さき》を顫《ふる》はす。 何処《どこ》かで百舌《もず》が鳴きしきる。 疲《つか》れた、それでも放縦《ほしいまま》な 三十《さんじふ》過《す》ぎた病身《びやうしん》の女《をんな》らしい、 湯屋《ゆや》の硝子戸《がらすど》を出ると直《す》ぐ 石鹸《しやぼん》のにほひする身体《からだ》をかがめて 嬰児《あかんぼ》に小便《しつこ》をさしてる。 寥《さび》しい霊《たましひ》が鳴いてゐる。…… 母《はは》の眼《め》と嬰児《あかんぼ》の眼《め》が 一様《いちやう》に白《しろ》い犬《いぬ》の耳《みみ》に注《そそ》がれる。 可愛《かあ》いいちんぽこから小便《しつこ》が出る。 その尿《ねう》と、濡《ぬ》れた西洋手拭《タヲル》と、束髪《そくはつ》と、 無意味《むいみ》な眼《め》つきと、白つぽい葱《ねぎ》の青《あを》みに、 しみじみと黄色《きいろ》な光《ひかり》がうつる。 しだいに反射《はんしや》がうすれて 外光《ぐわいくわう》が青《あを》みを帯《お》びた。 煙突《えんとつ》から薄《うす》い煙《けぶり》がたなびき 畑々《はたけ/\》の葱《ねぎ》の尖頭《さき》には 銀色《ぎんいろ》の露《つゆ》が光《ひか》つてくる。 そしてなほ、湿《しめ》つた黒《くろ》い土《つち》のなかでは 寥《さび》しい虫《むし》が、 幽《かす》かな昼《ひる》の調子《てうし》で鳴《な》いてゐる。 寂しい寂しい寂しい畑。 [#地から3字上げ]四十三年一月   八月のあひびき 八月の傾斜面《スロウプ》に、 美くしき金《きん》の光はすすり泣けり。 こほろぎもすすりなけり。 雑草の緑《みどり》もともにすすり泣けり。 わがこころの傾斜面《スロウプ》に、 滑りつつ君のうれひはすすり泣けり。 よろこびもすすり泣けり。 悪縁《あくゑん》のふかき恐怖《おそれ》もすすり泣けり。 八月の傾斜面《スロウプ》に、 美くしき金《きん》の光はすすり泣けり。 [#地から3字上げ]四十三年八月   秋 日曜の朝、「秋」は銀かな具《ぐ》の細巻の 絹薄き黒の蝙蝠傘《かうもり》さしてゆく、 紺の背広に夏帽子、 黒の蝙蝠傘《かうもり》さしてゆく、 瀟洒にわかき姿かな。「秋」はカフスも新らしく カラも真白につつましくひとりさみしく歩み来ぬ。 波うちぎはを東京の若紳士めく靴のさき。 午前十時の日の光海のおもてに広重《ひろしげ》の 藍を燻《いぶ》して、虫のごと白金《プラチナ》のごと閃めけり。 かろく冷《つめ》たき微風《そよかぜ》も鹹《しほ》をふくみて薄青し、 「秋」は流行《はやり》の細巻の 黒の蝙蝠傘さしてゆく。 日曜の朝、「秋」は匂ひも新らしく 新聞紙折り、さはやかに衣嚢《かくし》に入れて歩みゆく、 寄せてくづるる波がしら、濡れてつぶやく銀砂の、 靴の爪さき、足のさき、パツチパツチと虫も鳴く。 「秋」は流行《はやり》の細巻の 黒の蝙蝠傘さしてゆく。[#地から3字上げ]四十四年十月 [#改丁] [#ここから5字下げ、ページの左右中央に] 槍持 [#ここで字下げ終わり] [#改ページ]   おかる勘平 おかるは泣いてゐる。 長い薄明《うすあかり》のなかでびろうど葵の顫へてゐるやうに、 やはらかなふらんねるの手ざはりのやうに、 きんぽうげ色の草生《くさぶ》から昼の光が消えかかるやうに、 ふわふわと飛んでゆくたんぽぽの穂のやうに。 泣いても泣いても涙は尽きぬ、 勘平さんが死んだ、勘平さんが死んだ、 わかい奇麗な勘平さんが腹切つた…… おかるはうらわかい男のにほひを忍んで泣く、 麹室《かうじむろ》に玉葱の咽《む》せるやうな強い刺戟《しげき》だつたと思ふ。 やはらかな肌《はだ》ざはりが五月《ごぐわつ》ごろの外光《ぐわいくわう》のやうだつた、 紅茶のやうに熱《ほて》つた男の息《いき》、 抱擁《だきし》められた時《とき》、昼間《ひるま》の塩田《えんでん》が青く光り、 白い芹の花の神経が、鋭くなつて真蒼に凋れた、 別れた日には男の白い手に烟硝《えんせう》のしめりが沁み込んでゐた、 駕にのる前まで私はしみじみと新しい野菜を切つてゐた…… その勘平は死んだ。 おかるは温室《おんしつ》のなかの孤児《みなしご》のやうに、 いろんな官能《くわんのう》の記憶にそそのかされて、 楽しい自身の愉楽《ゆらく》に耽つてゐる。 (人形芝居《にんぎやうしばゐ》の硝子越しに、あかい柑子の実が秋の夕日にかがやき、黄色く霞んだ市街《しがい》の底から河蒸気の笛がきこゆる。) おかるは泣いてゐる。 美くしい身振《みぶり》の、身も世もないといふやうな、 迫《せま》つた三味《しやみ》に連《つ》れられて、 チヨボの佐和利《さはり》に乗つて、 泣いて泣いて溺《おぼ》れ死にでもするやうに おかるは泣いてゐる。 (色と匂《にほひ》と音楽と。 勘平なんかどうでもいい。)[#地から3字上げ]四十二年十月   雪の日 淡青《うすあを》い雪は 冷《つ》めたい硝子戸のそとに。…… 紫の御召《おめし》をひきかけた 浜勇は 東の桟敷に。 薄い襟あしの白粉《おしろい》も見よきほどに こころもち斜《なゝめ》に坐つて。 うつむき加減《かげん》にした横顔の 淡青い雪の反射。 静かに曳かれてゆく幕そとの、 立三味線、 仁木の青い目ばりの凄さ。 暮れかかる東京のそらには ほんのりと瓦斯が点《つ》き 淡青い雪がふる。 半玉は冷《つ》めたい指をそろへて、 引込《ひきこみ》の面《つら》あかりをながめ、 なにかしらさみしさうに。 淡青い雪は 冷《つ》めたい硝子戸のそとに。 幽かな音、幽かな色、幽かなささやき…… [#地から3字上げ]四十三年七月   種蒔き パツチパツチと鳴く虫の 昼のさびしさ、つつましさ、…… 葱の畑のそこここに銀の懐中時計《とけい》を閉《し》める音。 けふも彼岸《ひがん》のあかるさに、 誰に見しよとか、権兵衛は 青い手拭、頬かぶり、 桝を小腋《こわき》に、ひえびえと畝《うね》のしめりを踏んでゆく。 畝《うね》の光に蒔く種は かなしみの種、性《せい》の種、黒稗《くろひえ》の種。 パツチパツチと鳴く虫の 昼のさびしさ、しをらしさ、…… 強い日射《ひざし》のそこここに若いこころの咽《むせ》ぶ音。 ほんに一日《いちにち》齷齪《あくせく》と 歎き足らひで、権兵衛が 青いパツチに縄《なは》の帯、 及び腰してひとすぢに土の臭《にほひ》を嗅《か》いでゆく 午後《ごご》の光に蒔く種は かなしみの種、性《せい》の種、黒稗《くろひえ》の種。 パツチパツチと鳴く虫の 昼のさびしさ、なつかしさ。…… 黒い鴉《からす》の嘴《くちばし》に種のつぶれてなげく音。 若い身そらの内密事《ないしよごと》、 ひとり苦《く》に病《や》む権兵衛が、 歩みののろさ、手の痛《いた》さ、 腰の痛《いた》みにしみじみと明《あか》き其夜を泣いてゆく。 銀《ぎん》の秘密《ひみつ》に蒔く種は かなしみの種、性《せい》の種、黒稗《くろひえ》の種。 パツチパツチと鳴く虫の 昼のさびしさやるせなさ。…… 常に啄《つ》まれて生れ得ぬ種の、嬰児《あかご》の、なげく音。 妻も子もない醜男《ぶをとこ》の 何時《いつ》も吝嗇《つまし》い権兵衛が 貧《ひん》の盗みか、一擁《ひとかゝ》え 葱を伏せつつ、怖々《こは/″\》と畝《うね》の凸《たか》みを凝視《みつ》めゆく、 伏せたこころに蒔く種は かなしみの種、性《せい》の種、黒稗《くろひえ》の種。 パツチパツチと鳴く虫の 昼のさびしさおそろしさ。…… 黒い眼玉が背後《うしろ》からぢつと睨んで歩む音。 欲《よく》のつかれか、冷汗《ひやあせ》か、 金が唸《うな》れば権兵衛の 野暮《やぼ》な胸さへしみじみと、 金《きん》の入日の凌雲閣《じふにかい》傷《いた》みながらに蒔いてゆく。 けふの恐怖《おそれ》に蒔く種は かなしみの種、性《せい》の種、黒稗《くろひえ》の種。 パツチパツチと鳴く虫の 昼のさびしさ、情《なさけ》なさ。…… 黒い鴉《からす》につぶされて種の凡《すべて》の滅《き》ゆる音。 [#地から3字上げ]四十三年十月   忠弥 雪はちらちらふりしきる。 城の御濠《おほり》の深みどり、 雪を吸ひ込む舌うちの しんしんと沁《し》むたそがれに、 鴨の気弱《きよわ》がかきみだす 水の表面《うはべ》のささにごり 知るや知らずや、それとなく 小石投げつけ、―― ひつそりと底のふかさをききすます わかき忠弥か、わがおもひ。 君が秘密の日くれどき、 ひとり心につきつめて そつとさぐりを投げつくる 深き恐怖《おそれ》か、わが涙―― 千万無量の瞬間《たまゆら》に 雪はちらちらふりしきる。[#地から3字上げ]四十五年十一月   歌うたひ 悲しいけれどもわしや男、 いやでもお酒をさがしませう、 赤いセエリイもないならば 飲んだふりして就寝《やす》みませう。 みすぎ世すぎの歌うたひ。 [#地から3字上げ]四十三年十一月   槍持 槍は鏽《さ》びても名は鏽びぬ、 殿《との》につきそふ槍持の槍の穂尖《ほさき》の悲しさよ。 槍は槍持、供揃《ともぞろへ》、 さつと振れ、振れ、白鳥毛。 けふも馬上の寛濶《くわんくわつ》に、 殿は伊達者《だてしや》の美《よ》い男、 三国一の備後様、 しんととろりと見とれる殿御《とのご》。 槍は槍持、銀《ぎん》なんぽ。 供《とも》の奴《やつこ》さへこのやうに、あれわいさの、これわいさの、取りはづす、 やあれ、やれ、危《あぶ》なしやの、槍のさき。 槍は鏽びても名は鏽びぬ、 殿のお微行《しのび》、近習《きんじゆ》まで 身なりくづした華美《はで》づくし、 槍は九尺の銀なんぽ、 けふも酒、酒、明日《あす》もまた、 通ふしだらの浮気《うはき》づら、 わたる日本橋ちらちらと雪はふるふる、日は暮れる、 やあれ、やれ冷《つめ》たしやの、槍のさき。 槍は槍持、供ぞろへ、 さつと振れ、振れ、白鳥毛。 雪はふれども、ちらほらと 河岸《かし》の問屋の灯《ひ》が見ゆる、 さてもなつかし飛ぶ鴎《かもめ》、 壁のしたには広重《ひろしげ》の紺のぼかしの裾模様、 殿の御容量《ごきりやう》に、ほれぼれと わたる日本橋、槍のさき、 槍は担《かつ》げど、空《うは》のそら、渋面《しふめん》つくれど供奴《ともやつこ》、 ぴんとはねたる附髭《つけひげ》に、雪はふるふる、日は暮れる。 やあれ、やれ、やるせなの、槍のさき。 槍は槍持、供ぞろへ、 さつと振れ、振れ、白鳥毛。 槍は鏽びても名は鏽びぬ。 殿につきそふ槍持の槍の穂さきの悲しさよ。 いつも馬上の寛濶に、 殿は伊達者のよい男、 さぞや世間《せけん》の取沙汰に 浮かれ騒ぐも女なら。 そこらあたりの道すぢの紺の暖簾《のれん》も気がかりな。 槍は九尺の銀なんぽ、 槍を持つ身のしみじみと、涙流すもつとめ故、 さりとは、さりとは、供奴《ともやつこ》、 雪はふるふる、日は暮れる。 やあれ、やれ、しよんがいなの、槍のさき。 [#地から3字上げ]四十五年三月   CHONKINA. [#ここから横組み]“Chonkina! chonkina! Chon-chon kina-kina! Chon ga nanoso de, Cho-chon ga yoi! ……”[#ここで横組み終わり] 「赤《あか》い夕日《ゆふひ》、 活動写真《くわつどうしやしん》見《み》たいなキラキラが、あのやうに、あれ、御覧《ごらん》な。 お向《むか》ふの三層楼《さんがい》の高《たか》い部屋《へや》の障子《しやうじ》に、何時《いつ》までも何時《いつ》までも照《て》りつける辛気《しんき》くささ、 寝《ね》まきや、長襦袢《ながじゆばん》の、 如何《どう》したんだらうねえ、まあ、 両肌《りやうはだ》なんか脱《ぬ》いだりさ、 欄干《てすり》に腰《こし》かけたり、跨《また》いだり、 自堕落《じだらく》な、あれさ、落《おつ》こつたらどうするの、 気《き》まぐれも大概《たいがい》になさいなね、 あれ、あの手《て》も真赤《まつか》な狐拳《きつねけん》!」 [#ここから横組み]“Chon-aiko! chon-aiko! ……”[#ここで横組み終わり] 「華魁《おいらん》、ちよいと、御覧《ごらん》なさいな、 久《しさ》し振《ぶり》で裏門《うらもん》が開《あ》いたと思《おも》つたら、 大変《たいへん》ですわねえ、あれ、あんなに水《みづ》が、 随分《ずゐぶん》しどい音《おと》だこと、 堤《どて》をもう越《こ》したんですとさ。 竜泉寺《りゆうせんじ》、山谷《さんや》、今戸《いまど》のわたし、 そりやもう大変《たいへん》な騒《さわぎ》よ、 おやおや、まあ、素《す》つ裸《ぱだか》で、 揚屋町《あげやまち》の通《とほり》を伝馬《てんま》担《かつ》いで奔《はし》るなんて 銀《ぎん》ちやん、威勢《ゐせい》がいいことねえ。」 [#ここから横組み]“Chon-aiko! chon-aiko! ……”[#ここで横組み終わり] 「華魁《おいらん》、何《なに》をそんなに見《み》てお出《い》でなの、 くよくよとさ、 黄色《きいろ》いふたつの高張《たかはり》に 赤《あか》い日《ひ》が、あのやうに射《さ》しかけて、 ぴちやぴちやと濁水《にごりみづ》が凄《すご》いわねえ、 あら、ちよいと、そんな処《とこ》で おちんこなんか捲《ま》くるもんぢやありませんつたら、 小児《こども》は罪《つみ》が無《ない》ことねえ、ほほほ。まあ。」 [#ここから横組み]“Chonkina! chonkina! Chon-chon, kina-kina, Chon ga nanoso de, Cho-chon ga yoi, Aiko de yoi,…… Chon-aiko! chon-aiko ……”[#ここで横組み終わり] 吉原《よしはら》の中店《ちうみせ》の お職《しよく》「小主水《こもんど》」とて、愁《うれ》ひ顔《かほ》の寥《さみ》しい、 どうしたことやら、 白粉《おしろい》もまだつけぬ青《あを》いいろの、 なつかしい眼《め》つきの女《をんな》、 疲《つか》れたやうに、藍色《あゐいろ》の薄《うす》いネルを着《き》ながして 新造《しんぞう》と二人《ふたり》、 ――ひとりは立膝―― 華魁《おいらん》は灯《ひ》のつかぬ五時《ごじ》ごろの 薄暗《うすぐら》い角店《かどみせ》の二重《にぢゆう》に腰《こし》かけて、 何《なに》とやら澄《す》まぬ顔《かほ》、 左《ひだり》の人《ひと》さし指《ゆび》の薄《うす》い繃帯《ほうたい》に 金《きん》いろの背後《うしろ》の附立《ついたて》が、 支那彫《しなぼり》の唐獅子《からしし》の、 冷《つめ》たい光《ひかり》を投《な》げかくる。 そのさだまらぬ陰影《かげ》のかげの そのなかの幽《かす》かなためいき…… [#ここから横組み]“Chonkina! Chonkina! ……”[#ここで横組み終わり] 格子戸越《かうしどご》しに、赤《あか》い日《ひ》が 高《たか》い屋並《やなみ》の不思議《ふしぎ》な廂《ひさし》にてりかへし、 洪水《こうすゐ》の音《おと》がきこえる。 欄干《てすり》では何時《いつ》までも何時《いつ》までも 気《き》まぐれな狐拳《きつねけん》。 [#ここから横組み]“Chon-aiko! chon-aiko, Chon-chon aiko-aiko, Chon ga nanoso de Cho-chon ga yoi ……” “Chonkina! chonkina! ……”[#ここで横組み終わり] [#地から3字上げ]四十三年七月   鬼百合 夏の日の東京に 歌沢《うたざは》のこころいき…… しみじみと身にしみて きく年増《としま》、 すらりとした立姿《たちすがた》の 中形の薄青さ、 それしやの粋《いき》なこころに。 日がそそぐ……銀色《ぎんいろ》のきりぎりす 浮気男《うはきをとこ》を殺した 昼寝《ひるね》の夢の凄さ、 たてひきの憎《にく》さ、 かなしさ、つらさ、くるしさ、 日がそそぐ……わかいお七の半鐘か、死ぬるきりぎりすか。 銀《ぎん》の光の細かな強いすすりなき。 大河《おほかは》をまへに、 唇《くち》に啣《くは》えた帯留の金《きん》―― 手をうしろにまはして、 暑《あつ》さうなものごしの、 なにかしら寂《さみ》しさうに、 きりきりと締《し》め直す黒い繻子《しゆす》の一筋《ひとすぢ》。 けだるげな三味線が あれ、またもあのやうに、…… 青みもつ目のふちの疲《つか》れから なにを見るとなし熟視《みつ》むる 黒い瞳の深さ、 酸《す》いも甘いも噛みわけた 中年《ちゆうねん》の激しい衝動《シヨツク》……その底のさみしさ、つらさ、かなしさ。 黒い繻子の手ざはりが きゆつ、きゆつと…… 暑い、苦しい、くるしい日、 渋い鬼百合の赤さ、 鮮《あざや》かな臭《にほひ》の強さ、 湿《しめ》つた褐色《かちいろ》の花粉《くわふん》の 細《こま》かにちる……背後《うしろ》の床の間《ま》の大輪《たいりん》。 触《さは》る帯の繻子、やはらかな粉《こな》、 こころもきゆつきゆつと…… 夏の日のさる河岸に 歌沢のこころいき。 ええまあ、 奈何《どう》すりや宜《い》いつてんだらうねえ。 [#地から3字上げ]四十三年七月   道化もの ふうらりふらりと出て来《く》るは ルナアパークの道化《だうけ》もの、 服《ふく》は白茶《しらちや》のだぶだぶと戯《おど》け澄ました身のまわり、 あつち向いちやふうらふら、 こつち向いちやふうらふら、 緋房のついた尖《とん》がり帽子がしをらしや。 鉛粉《おしろい》真白《まつしろ》けで丸《まる》ふたつ 頬紅《ほべに》さいたるおどけづら、 円《まる》い眼ばりもくるくると今日《けふ》も呆《とぼ》けた宙がへり。 かなしやメエリイゴラウンド、 さみしや手品の皿まわし、 春の入日の沈丁花《ちんちやうげ》がどこやらに。 ひとが笑へばにやにやと、 猫のなきまね、烏啼き、 たまにやべそかき赤い舌、嘘か、色眼《いろめ》か、涙顔。 鳴いそな鳴いそ春の鳥、 鳴いそな鳴いそ春の鳥、 紙の桜もちらちらとちりかかる。 薄むらさきの円弧燈《アークとう》、 瓦斯と雪洞《ぼんぼり》、鶴のむれ、 石油のヱンヂンことことと水は山から逆《さか》おとし、 台湾館の支那の児 足の小さな支那の児、 しよんぼり立つたうしろから馬鹿囃子《ばかばやし》。 ぬうらりしやらりと日が暮れて またも夜《よ》となる、道化もの、 あかい三角帽をちよいと投げてひよいと受けたら禿頭《はげあたま》。 あつち向いちやくうるくる、 こつち向いちやくうるくる、 御愛嬌《ごあいきやう》か、またしてもとんぼがへり。 [#地から3字上げ]四十四年三月   あそびめ たはれをのかずのまにまに じだらくにみをもちくづし、 おしろいのあをきひたひに ねそべりてひるもさけのみ、 さめざめとときになみだし、 ゆふかけてさやぎいづとも、 かなしみはいよよおろかに、ながねがひいよよつめたし。 あはれよのしろきねどこの まくらべのベコニヤのはな。 [#地から3字上げ]四十五年五月   南京さん 李《リイ》さん、鄭さん、支那服さん、 あなたの眼鏡はなぜ光る、 涙がにじんで日に光る。 鳥屋の硝子も日に光る。 目白、カナリヤ、四十雀、 鶉に文鳥に黒鶫《くろつぐみ》、 鳥もいろいろあるなかに おかめ鸚哥《いんこ》はおどけもの 焦《ぢ》れて頓狂に啼きさけぶ。 さてもいとしや、しをらしや、 けふも入日があかあかと わかい南京《ナンキン》さんは涙顔。 [#地から3字上げ]四十四年十月   蝮捕り 旅のすがたの蝮《まむし》捕り。 紺の脚絆に紺の足袋、 紺の小手あて、盲縞《めくらじま》。 羽織、腹掛しやんとして草鞋つつかけ忍びあし。 わかい男の忍びあし、 まがひパナマに日が射せば、 苦《にが》みばしつた横顔のことにつやつや蒼白く、 ほそく割《さ》いたる青竹に蝮挟みてなつかしく、 渚のほとり、草土手の曼珠沙華さくしたみちを、 九月|午後《ひるすぎ》、忍びあし。 静かにゆるき潮鳴《しほなり》は、 夏と秋との伴奏《ともあはせ》、 五十三次、広重《ひろしげ》の海の匂もまだ熱く、 眉にかがやく忍びあし、…… 蝮の腹もいと青く。 けふのこの日の蝮捕り、―― 渡りあるきの生業《なりはひ》の昨日《きのふ》の疲《つか》れ、 明日の首尾《しゆび》、 案じわづらふ足もとに飛んで跳《は》ねたはきりぎりす。 疲れた三味が鳴るわいな。 意気な年増の手ずさみか、 取り残された避暑客の後《あと》の一人の爪弾か、 離縁《さ》られた人か、死ぬ人か、 思ひなしかは知らねども、 昨日あがつた心中の男女《をとこをんな》の忍び泣き、…… あれ三味が鳴る、昼日なか、 知らぬ都のふしまはし。 わかい吐息の忍びあし、 そつと留《とゞ》めて、聞惚れて、なにをおもふや、うつとりと、 蝮の腹の青縞の博多帯めくつややかさ、 きゆつきゆと白き指つけて、拭《ふ》きつ、さすりつ、薄笑みつ、 九月、午後《ひるすぎ》、日の光―― こころの縞もいと青く。 蝮よ、蝮よ、やはらかな、熱《あつ》い冷《つめ》たい手触《てさは》りの、 そなたも三味にきき惚れて身をうねらすや、やるせなく、…… 平首《ひらくび》、竹に挟まれて、されどゆかしく、あどけなく、 無心に瞠《みは》る眼のいろは空と海との水あさぎ。 蝮よ小さい尾のさきの、匂の肌をつまぐれば、 毒ある汗はいきいきと、神経のごと細《こま》やかに、 朱の斑《ふ》なまめく褐《くり》と黄《き》の波斯《ペルシヤ》模様の美くしさ、 それか、怪しき淫《たは》れ女《め》の 閨《ねや》の麝香《じやかう》の息づかひ。 九月|午後《ひるすぎ》、日の光―― あれ三味が鳴る、きりぎりす、 飛んで死んだがましかいな。 [#地から3字上げ]四十四年九月 [#改丁] [#ここから5字下げ、ページの左右中央に] 雪と花火 [#ここで字下げ終わり] [#改ページ]   夜ふる雪 蛇目《じやのめ》の傘《かさ》にふる雪《ゆき》は むらさきうすくふりしきる。 空《そら》を仰《あふ》げば松《まつ》の葉《は》に 忍《しの》びがへしにふりしきる。 酒《さけ》に酔《よ》うたる足《あし》もとの 薄《うす》い光《ひかり》にふりしきる。 拍子木《ひやうしぎ》をうつはね幕《まく》の 遠《とほ》いこころにふりしきる。 思《おも》ひなしかは知《し》らねども 見《み》えぬあなたもふりしきる。 河岸《かし》の夜《よ》ふけにふる雪《ゆき》は 蛇目《じやのめ》の傘《かさ》にふりしきる。 水《みづ》の面《おもて》にその陰影《かげ》に むらさき薄《うす》くふりしきる。 酒《さけ》に酔《よ》うたる足もとの 弱《よわ》い涙《なみだ》にふりしきる。 声《こゑ》もせぬ夜《よ》のくらやみを ひとり通《とほ》ればふりしきる。 思ひなしかはしらねども こころ細かにふりしきる。 蛇目《じやのめ》の傘にふる雪は むらさき薄くふりしきる。   柳の佐和利 ほの青《あを》い雪《ゆき》のふる夜《よ》に、 電車《でんしや》みちを、 酔《よ》つて、酔《よ》つて、酔《よ》つぱらつてさ、ひよろひよろと、 ふらふらと、凭《もた》れかかれば、硝子戸《がらすど》に。 〔Yo_i! …… Yo_i! …… Yo_itona! ……〕 ほの青《あを》い雪《ゆき》はふり、 店《みせ》のなかではしんみりと柳《やなぎ》の佐和利《さわり》、 酔《よ》つて、酔《よ》つて、酔《よ》つぱらつてさ、ふらふらと、 ひよろひよろと首《くび》をふれば太棹《ふとざを》が…… 〔Yo_i! …… Yo_i! …… Yo_itona! ……〕 ほの青《あを》い雪《ゆき》の夜《よ》の 蓄音機《ちくおんき》とは知《し》つたれど、きけばこの身《み》が泣《な》かるる。 酔《よ》つて酔《よ》つて酔《よ》つぱらつてさ、ひよろひよろと、 ふらふらと投《な》げてかかれば、その咽喉《のど》が…… 〔Yo_i! …… Yo_i! …… Yo_itona! ……〕 ほの青《あを》い雪《ゆき》のふる 人《ひと》ひとり通《とほ》らぬこの雪《ゆき》に、まあ何《なん》とした、 酔《よ》つて酔《よ》つて酔《よ》つぱらつてさ、ふらふらと、 ひよろひよろと、しやくりあぐれば誰やらが、 〔Yo_i! …… Yo_i! …… Yo_itona! ……〕 [#地から3字上げ]四十四年一月   春の鳥 鳴きそな鳴きそ春の鳥、 昇菊の紺と銀との肩ぎぬに。 鳴きそな鳴きそ春の鳥、 歌沢《うたざは》の夏のあはれとなりぬべき 大川の金《きん》と青とのたそがれに。 鳴きそな鳴きそ春の鳥。 [#地から3字上げ]四十三年四月   かるい背広を かるい背広を身につけて、 今宵《こよひ》またゆく都川、 恋か、ねたみか、吊橋の 瓦斯の薄黄《うすぎ》が気にかかる。 [#地から3字上げ]四十三年七月   薄あかり 銀《ぎん》の時計のつめたさは 薄らあかりのⅦ《しち》の字に、 君がこころのつめたさは 河岸《かし》の月夜の薄あかり。 薄いなさけにひかされて、けふもほのかに来は来たが、 心あがりのした男、何のわたしに縁があろ。 空の光のさみしさは 薄らあかりのねこやなぎ、 歩むこころのさみしさは 雪と瓦斯との薄あかり。 思ひ切らうか、切るまいか、そつと帰ろか、何とせう。 いつそあの日のくちつけを後《のち》のゆかりに別れよか。 水のにほひのゆかしさは 薄らあかりの鴨の羽、 三味のねじめのゆかしさは 遠い杵屋の薄あかり。 かるい背広を身につけてじつと凝視《みつ》むる薄あかり。 薄い涙につまされて、けふもほのかに来は来たが。 銀の時計のつめたさは 薄らあかりのⅦの字に、 君がこころのつめたさは 青い月夜の薄あかり。 恋か、りんきか、知らねども、ほんに未練な薄あかり。 思ひ切らうか、たづねよか、ええ何とせう、しよんがいな。 [#地から3字上げ]四十三年三月   金と青との 金と青との愁夜曲《ノクチユルヌ》、 春と夏との二声楽《ドウエツト》、 わかい東京に江戸の唄、 陰影《かげ》と光のわがこころ。 [#地から3字上げ]四十三年五月   雨あがり やはらかい銀の毬花《ぼやぼや》の、ねこやなぎのにほふやうな、 その湿《しめ》つた水路《すゐろ》に単艇《ボート》はゆき、 書割《かきわり》のやうな杵屋《きねや》の 裏《うら》の木橋に、 紺の蛇目傘《じやのめ》をつぼめた、 つつましい素足のさきの爪革《つまかは》のつや、 薄青いセルをきた筵若の それしやらしいたたずみ…… ほんに、ほんに、 黄いろい柳の花粉のついた指で、 ちよいと今晩《こんばん》は、 なにを弾かうつていふの。[#地から3字上げ]四十三年七月   水盤 そなたの移した水盤《すゐばん》に、 薄い硝子の水の 微《かす》かな光、 新内のながしも通るのに、 ほんとに睡《ね》ちやつたの。 そなたの冷《つ》めたい手は わたしの胸に、 薄いセルは 微《かす》かな涙に、 ほんとに睡《ね》ちやつたの。 そなたの寝息は 桐の花のやうに、 やるせないこころをそそのかし、 捉《とら》へかぬる微《かす》かな光。 ほんとに睡《ね》ちやつたの。 そなたのけふ入れた緋鮒《ひぶな》か、 それとも陶器《やきもの》の金魚かしら、 なにかしら寂《さみ》しい力《ちから》の 薄い硝子に触《さは》るやうな…… ほんとに睡《ね》ちやつたの。 そなたの知つてる男は みんな薄情ものだ。 さうしてそなたが眠《ね》むつてから 何時でもこんな風にささやく、 ほんとに睡《ね》ちやつたの。[#地から3字上げ]四十三年七月   心中 あはれなる心中のうはさより わが霊《たま》は泣き濡れてかへりゆく、 花つけしアカシヤの並木のかげを、 嫋《なよ》やかなる七月のおとづれのごとく。 やすらかに平準《な》らされしこころは あるものの抑圧《おさへ》のかげにありて、 つねにかかる微顫《ふるへ》をこそのぞみたれ。 いみじく幽かなるその Lied《リイド》 よ。 附《つ》きやすき花粉《くわふん》のしめりのごとく、 そはまた眶《まぶた》の汗のごとくに顫《ふる》へやすし。 護謨輪《ごむわ》のゆけばためらひ、 吊橋の淡黄《うすき》なる瓦斯《がす》のもとを泣きゆく。 新道《しんみち》を抜《ぬ》けては 檞の芽のむせびをあはれみ、 御神燈のかげをば それしやの浴衣《ゆかた》ともすれちがふ。 とある河岸《かし》のおでんやには 寄席《よせ》のビラのかなしく、 薄汗《うすあせ》の光る紙に 水菓子の色透くがいとほし。 あはれなる心中のうはさより わが霊《たま》は泣き濡れてかへりゆく、 微風《そよかぜ》の吹くままに過ぎゆく 嫋《なよ》やかなる七月のおとづれのごとく。[#地から3字上げ]四十三年七月   花火 花火があがる、 銀《ぎん》と緑の孔雀玉《くじやくだま》……パツとしだれてちりかかる。 紺青の夜の薄あかり、 ほんにゆかしい歌麿の舟のけしきにちりかかる。 花火が消ゆる。 薄紫の孔雀玉……紅《あか》くとろけてちりかかる。 Toron …… tonton …… Toron …… tonton …… 色とにほひがちりかかる。 両国橋の水と空とにちりかかる。 花火があがる。 薄い光と汐風に、 義理と情《なさけ》の孔雀玉《くじやくだま》……涙しとしとちりかかる。 涙しとしと爪弾《つまびき》の歌のこころにちりかかる。 団扇片手のうしろつきつん[#「つん」に傍点]と澄ませど、あのやうに 舟のへさきにちりかかる。 花火があがる、 銀《ぎん》と緑《みどり》の孔雀玉……パツとかなしくちりかかる。 紺青《こんじやう》の夜に、大河に、 夏の帽子にちりかかる。 アイスクリームひえびえとふくむ手つきにちりかかる。 わかいこころの孔雀玉《くじやくだま》、 ええなんとせう、消えかかる。 [#地から3字上げ]四十四年六月   放埒 放埒《はうらつ》のかなしみは ひらき尽くせしかはたれの花の いろの、にほひの、ちらんとし、ちりも了らぬあはひとか。 かかる日の薄明《はくめい》に、 しどけなき恐怖《おそれ》より蛍ちらつき、 女の皮膚《ひふ》にシヤンペンの香《にほひ》からめば、 そは支那の留学生もなげくべき 尺八の古き調子《てうし》のこころなり。 うら若き芸妓《げいしや》には二上りのやるせなく、 中年《ちゆうねん》の心には三《さん》の糸|下《さ》げて弾《ひ》くこそ、 下《さ》げて弾くこそわりなけれ。 かくて、日のありなし雲の雨となり、 そそぐ夜《よ》にこそ。 おしろい花《ばな》のさくほとり、しんねこ[#「しんねこ」に傍点]の幽《かす》かなる 音《ね》を泣くべけれ。 放埒《はうらつ》のかなしみは ひらき尽《つ》くせしかはたれの花の いろの、にほひの、ちらんとし、ちりも了らぬあはひとか。 [#地から3字上げ]四十三年八月   紫陽花 かはたれに紫陽花《あぢさゐ》の見ゆるこそさみしけれ。 うらわかき盲人《まうじん》のいろ飽《あく》まで白く、 そのほとりに頬を寄《よ》するは―― かろくかさねし手のひらの弾《はぢ》く爪さき、それとなく 隆達《りゆうたつ》ぶしの唱歌など思ひ出づるはいとかなし。 誰かつくりし恋のみち、いかなる人も踏み迷ふ…… よしやわれにも情《なさけ》あれ。寮の日くれの、あ、もの憂《う》や、 何《なん》とせうぞの。蜩《かなかな》の金《きん》の線条《はりがね》顫《ふる》はす声も、 縁《えん》さへあらばまたの夕日《ゆふひ》にチレチレ またの夕日に時雨《しぐ》るる。 おはぐろどぶのかなしみは 岐阜堤燈《ぎふぢやうちん》のかげうつる茶屋のうしろのながし湯の 石鹸《しやぼん》のにほひ、黴《かび》の花、青いとんぼの眼《め》の光。 よひやみの、よひやみの、 いづこにか、赤い花火があがるよの、 音《おと》はすれども、そのゆめは 見えぬこころにくづるる…… ほのかにも紫陽花《あぢさゐ》のはな咲けば、 新《あらた》にかけし撒水《うちみづ》の 香《か》のうつりゆくしたたり、 さて、消えやらぬ間の片恋。 [#地から3字上げ]四十三年八月   カナリヤ たつた一言《ひとこと》きかしてくれ。 カナリヤよ、 たんぽぽいろのカナリヤよ、 ちろちろと飛びまはる、ほんに浮気なカナリヤよ。 おしやべりのカナリヤよ。 たつた一言《ひとこと》きかしてくれ、 丁度《ちやうど》、弾きすてた歌沢の、 三の絃《いと》の消ゆるやうに、 「わたしはあなたを思つてる。」と。   彼岸花 憎い男の心臓を 針で突かうとした女、 それは何時《いつ》かのたはむれ。 昼寝のあとに、 ハツとして、 けふも驚くわが疲れ。 憎い男の心臓を 針で突かうとした女、―― もしや棄てたら、キツとまた。 どうせ、湿地《しめぢ》の 彼岸花、 蛇がからめば 身は細《ほ》そる。 赤い、湿地《しめぢ》の 彼岸花、 午後の三時の鐘が鳴る。 [#地から3字上げ]四十四年十一月   もしやさうでは もしやさうではあるまいかと 思うても見たが、 なんの、そなたがさうであろ、 このやうなやくざにと、―― 胸のそこから血の出るやうな 知らぬ偽《いつはり》いうて見た。 雪のふる日に 赤い酒をも棄てて見た。 知らぬふりして、 ちんからと 鳴らしたその手でさかづきを。 [#地から3字上げ]四十四年十一月   片足 花が黄色で、芽がしよぼしよぼで、 見るも汚《きた》ない梅の木に 小鳥とまつて鳴くことに、―― あれ、あの雪の麦畑《むぎばた》の、つもつた雪のその中に、 白い女の片足が指のさきだけ見えて居る。 はつと思つて佇めば、 小鳥逃げつつ鳴くことに、―― 何時《いつ》か憎いと思うたくせに、 卑怯未練な、安心さしやれ、 あれは誰かの情婦《いろ》でもなけりや、 女乞食の児でもない。 一軒となりの杢右衛門《もくよむ》どんの 唖の娘が投げすてた白い人形の片足ぢや。 [#地から3字上げ]四十四年十二月   あらせいとう 人知れず袖に涙のかかるとき、 かかるとき、 ついぞ見馴れぬよその子が あらせいとうのたねを取る。 丁度誰かの為《す》るやうに ひとり泣いてはたねを取る。 あかあかと空に夕日の消ゆるとき、 植物園に消ゆるとき。 [#地から3字上げ]四十三年十月  あかい夕日に あかい夕日につまされて、 酔うて珈琲店《カツフヱ》を出は出たが、 どうせわたしはなまけもの 明日《あす》の墓場をなんで知ろ。 [#地から3字上げ]四十三年十月 [#改丁] [#ここから5字下げ、ページの左右中央に] 銀座の雨 [#ここで字下げ終わり] [#改ページ]   銀座の雨 雨……雨……雨…… 雨は銀座に新らしく しみじみとふる、さくさくと、 かたい林檎の香のごとく、 舗石《しきいし》の上、雪の上。 黒の山高帽《やまたか》、猟虎《ラツコ》の毛皮、 わかい紳士は濡れてゆく。 蝙蝠傘《かうもり》の小さい老婦も濡れてゆく。 ……黒の喪服と羽帽子《はねばうし》。 好《す》いた娘の蛇目傘《じやのめがさ》。 しみじみとふる、さくさくと、 雨は林檎の香のごとく。 はだか柳に銀緑《ぎんりよく》の 冬の瓦斯|点《つ》くしほらしさ、 棚の硝子にふかぶかと白い毛物の春支度。 肺病の子が肩掛の 弱いためいき。 波斯《ペルシヤ》の絨氈《じゆたん》、 洋書《ほん》の金字《きんじ》は時雨《しぐれ》の霊《たまし》、 〔Henri《アンリイ》 De《ド》 Re'gnier《レニエ》〕 が曇り玉《たま》、 息ふきかけてひえびえと 雨は接吻《きつす》のしのびあし、 さても緑の、宝石の、時計、磁石のわびごころ、 わかいロテイのものおもひ。 絶えず顫へていそしめる お菊夫人の縫針《ぬいばり》の、人形ミシンのさざめごと。 雪の青さに片肌ぬぎの たぼもつやめく髪の型《かた》、つんとすねたり、かもじ屋に 紺は匂ひて新らしく。 白いピエロの涙顔。 熊とおもちやの長靴は 児供ごころにあこがるる サンタクロスの贈り物。 外《そと》はしとしと淡雪《うすゆき》に 沁みて悲しむ雨の糸。 雨は林檎の香のごとく しみじみとふる、さくさくと、 扉《ドア》を透かしてふる雨は Verlaine《ヴエルレエイヌ》 の涙雨、 赤いコツプに線《すぢ》を引く、 ひとり顫へてふりかくる 辛《から》い胡椒に線《すぢ》を引く、 されば声出す針の尖《さき》、蓄音器屋にチカチカと 廻るかなしさ、ふる雨に 酒屋の左和利、三勝もそつと立ちぎく忍び泣き。 それもそうかえ淡雪《うすゆき》の 光るさみしさ、うす青さ、 白いシヨウルを巻きつけて 鳥も鳥屋に涙する。 椅子も椅子屋にしよんぼりと 白く寂しく涙する。 猫もしよんぼり涙する。 人こそ知らね、アカシヤの 性の木の芽も涙する。 雨……雨……雨…… 雨は林檎の香のごとく 冬の銀座に、わがむねに、 しみじみとふる、さくさくと。 [#地から3字上げ]四十四年十二月   雪 雪でも降りさうな空あひだね、今夜も ほら、もう降つて来たやうだ、その薄い色硝子を透かして御覧。 なつかしい円弧燈《アークとう》に真白なあの羽虫のたかるやうに 細《こま》かなセンジユアルな悲しみが、向ふの空にも、 橋にも柳にも、 水面にも、 書割のやうな遠見の、黄色い市街の燈にも、 多分冷たくちらついてゐる筈だ。それとも積つたかしら。 幽かな囁き……幽かなミシンの針の 薄い紫の生絹《きぎぬ》を縫ふて刻むやうな、 色沢《いろつや》のある寂しいリズムの閃めきが、 そなたの耳にはきこえないのか……湯から上つて、 もう一度透かして御覧、乳房が硝子に慄へるまで。 曇つたのぼせさうな湯殿に、 白い湯気のなかに、 蛍が飛ぶ……燐のにほひの蛍が、 ほうつほうつと……あれ銀杏がへしの つんと張つた鬢のうらから 肩から、タオルからすべつて消える。 ほうつほうつと。 さうではない、さうではない、 すらりとした両《ふた》つのほそい腕から、 手の指の綺麗な爪さきの線まで、 何かしら石鹸《シヤボン》が光つて見えるのだ、さうして 魔気のふかい女の素はだかの感覚から 忘れた夏の記憶が漏電する。 ほうつほうつと蛍が光る。 不思議な晩だ、まだ鋏を取つたまま 何時までも足の爪を剪《き》つてゐるのか、お前は 洎芙藍湯《サフランゆ》の[#「洎芙藍湯《サフランゆ》の」は底本では「泊芙藍湯《サフランゆ》の」]温かな匂から、 香料のやはらかななげきから、 おしろいから、 夏の日のあめも美しく 女は踊る、なつかしいドガの Dancer 雪がふる……降つてはつもる…… しめやかな悲しみのリズムの しんみりと夜ふけの心にふりしきる…… ほうつほうつと、蛍が飛ぶ…… あれごらんな、綺麗だこと、 青、黄、緑、……さうしてうすいむらさき、 雪がふる……降つてはつもる…… そつとしておきき、何処かでしめやかな三味線が、 あれ、もう消えて了つた、鳴いたのは水鳥かしら、 硝子を透してごらん、小さな赤い燈が ゆつくらと滑つてゆく、河上の方に 紀州の蜜柑でも積んで来たのかしら…… 何だか船から喚《よ》んでるやうな…… ひつそりとしたではないか、 もう一度、その薄い硝子からのぞいて御覧、 恐らく紺いろになつた空の下から、 遠見の屋根が書割のやうに 白く青く光つて 疲れた千鳥が静な水面に鳴いてる筈だ。 サラリとその硝子を開《あ》けて御覧…… スツカリ雪はやんで 星が出た、まあ何て綺麗だらうねえ、 あれ御覧、真白だ、真白だ。 まるでクリスマスの精霊のやうに、 ほんとに真白だねい。 [#地から3字上げ]四十四年十一月   冬の夜の物語 女はやはらかにうちうなづき、 男の物語のかたはしをだに聴き逃《のが》さじとするに似たり。 外面《そとも》にはふる雪のなにごともなく、 水仙のパツチリとして匂へるに薄荷酒《はつかさけ》青く揺《ゆら》げり。 男は世にもまめやかに、心やさしくて、 かなしき女の身の上になにくれとなき温情を寄するに似たり。 すべて、みな、ひとときのいつはりとは知れど、 互《かた》みになつかしくよりそひて、 ふる雪の幽かなるけはひにも涙ぐむ。 女はやはらかにうちうなづき、 湯沸《サモワル》のおもひを傾けて熱《あつ》き熱《あつ》き珈琲を掻きたつれば、 男はまた手をのべてそを受けんとす。 あたたかき暖炉はしばし息をひそめ、 ふる雪のつかれはほのかにも雨をさそひぬ。 遠き遠き漏電と夜の月光。 [#地から3字上げ]四十四年一月   キヤベツ畑の雨 冷《ひえ》びえと雨が、さ霧《ぎり》にふりつづく、 キヤベツのうへに、葉のうへに、 雨はふる、冬のはじめの乳緑の キヤベツの列《れつ》に葉の列に。 あまつさへ、柵の網目の鉄条《はりがね》に 白い鳥奴《とりめ》が鳴いてゐる。 雨はふる、くぐりぬけてはいきいきと、 色と匂を嗅ぎまはる。 ささやかな水のながれは北へゆく。 キヤベツのそばを、葉のしたを、 雨はふる。路もひとすぢ、川下《かはしも》の 街《まち》も新らし、石の橋。 キヤベツ畑のあちこちに かがみ、はたらき、ひとかかえ 野菜かついではしるひと、 雨はふる。けふもあをあを夏帽子。 小父《をぢ》さんが来る、真蒼《まつさを》に、脚《あし》も顫へて、 お早うがんす。山楂子《さんざし》の芽もこわごわと 泥にまみるる。立ちばなし。 雨はふる。しつかと握る水薬の黄色の罎の鮮やかさ。 「阿魔《あま》つ子《こ》がね昨夜《ゆんべ》さ、 いいらぶつ吃驚《たま》げた真似《まね》仕出《しで》かし申してのお前《まへ》さま。」 雨はふる。光《ひか》つては消《き》ゆる、剃刀《かみそり》で 咽喉《のど》を突いた女の頬。 「だけんどどうかかうか生きるだらうつて、 医者どんも云やんしたから。」まづは安心と軍鶏屋《しやもや》の小父《をぢ》さん 胸をさすればキヤベツまで ほつと息する葉の光。 鳥が鳴いてる……冬もはじめて真実《しんじつ》に 雨のキヤベツによみがへる。 濡れにぞ濡れて、真実に 色も匂もよみがへる。 新らしい、しかし、冷《つめ》たい朝の雨、 キヤベツ畑の葉の光。 雨はふる。生きて滴《したゝ》る乳緑の キヤベツの涙、葉のにほひ。 [#地から3字上げ]四十四年一月   蕨 春と夏とのさかひめに 生絹《きぎぬ》めかしてふる雨は それは「四月」のしのびあし、 過ぎて消えゆく日のうれひ。 蕨の青さ、つつましさ、 花か、巻葉か、知らねども、 その芽の黄《きな》さ、新らしさ…… 庭の井戸から水揚げて、 しみじみと撰《え》る手のさばき、 見るもさみしや、ふる雨に。 ひとりは庭のかたすみに、 印半纏着てかがみ、 ひとりはほそき角柱《かくばしら》、 しんぞ寥《さみ》しう手をあてて、 朝のつかれの身をもたす 古い宿場の青楼《かしざしき》。 しとしとしととふる雨に 柱時計の羅馬字も 蓋《ふた》も冷《つめ》たし、しらじらと 針のⅣを差すその面《おもて》。 ひとりはさらに水あげて、 さつと蕨の芽にそそぎ、 ひとりはじつと眼をふせて、 楊枝《やうじ》つかへり弊私的里《ヒステリー》の 朝のつかれの身だしなみ。 空と海との燻《いぶ》し銀《ぎん》、 けふの曇りにふる雨は それは涙のしのびあし、 青い台場の草の芽に 沁《し》みて「四月」も消えゆくや、 帆かけた船も、白鷺も ましてさみしやふる雨に。 もののあはれにふる雨は、 さもこそあれや、早蕨《さわらび》の その芽に茎に渦巻きて はやも「五月」は沁《し》むものを なにかさみしきそのおもひ。 春と夏とのさかひめに 生絹《きぎぬ》めかしてふる雨は それは「四月」のしのびあし、 過ぎて消えゆく日のうれひ。 [#地から3字上げ]四十四年四月   涙 蒼ざめはてたわがこころ、 こころの陰《かげ》のひとすぢの 神経の絃《いと》そのうへに、 薄明《ツワイライト》のその絃《いと》に、 薄明《ツワイライト》のその絃《いと》に、 ちらと光りて薄青く、 踊るものあり、豆のごと…… 雨は涙とふりしきる。 見れば小さな緑玉《エメラルド》、 ひとのすがたのびいどろの、 頬にも胸にもふりしきる、 涙……かなしいその眼つき。 声もえたてぬ奇《あや》しさは 夜半《よは》に「秘密」の抜けいでて、 所作《しよさ》になげくや、ただひとり、 パントマイムの涙雨。 月の出しほの片あかり、 薄き足もつびいどろの、 肩に光れどさめざめと、 歎き恐れて、夜も寝ねず。 金《きん》のピアノの鳴るままに、 濡れにぞ濡るれすべもなく、 神経の上、絃《いと》のうへ、 雨は涙とふりしきる。[#地から3字上げ]四十四年十月   新生 新らしい真黄色《まつきいろ》な光が、 湿《しめ》つた灰色の空――雲――腐れかかつた 暗い土蔵の二階の窻に、 出窻の白いフリジアに、髄の髄まで くわつと照る、照りかへす。真黄な光。 真黄色だ真黄色だ、電線《でんせん》から 忍びがへしから、庭木から、倉の鉢まきから、 雨滴《あまだれ》が、憂欝が、真黄に光る。 黒猫がゆく、 屋根の廂《ひさし》の日光のイルミネエシヨン。 ぽたぽたと塗りつける雨、 神経に塗りつける雨、 霊魂の底の底まで沁みこむ雨 雨あがりの日光の 欝悶の火花。 真黄《まつき》だ……真黄《まつき》な音楽が 狂犬のやうに空をゆく、と同時に 俺は思はず飛びあがつた、驚異と歓喜に 野蛮人のやうに声をあげて 匍ひまはつた……真黄色な灰色の室を。 女には児がある。俺には俺の 苦しい矜がある、芸術がある、而して欲があり熱愛がある。 古い土蔵の密室には 塗りつぶした裸像がある、妄想と罪悪と すべてすべて真黄色だ。―― 心臓をつかんで投げ出したい。 雨が霽れた。 新らしい再生の火花が、 重い灰色から変つた。 女は無事に帰つた。 ぽたぽたと雨だれが俺の涙が、 真黄色に真黄色に、 髄の髄から渦まく、狂犬のやうに 燃えかがやく。 午後五時半。 夜に入る前一時間。 何処《どつか》で投げつけるやうな あかんぼの声がする。 [#地から3字上げ]四十四年十月 [#ここから2字下げ、30字詰め] 四十四年の春から秋にかけて自分の間借りして居た旅館の一室は古い土蔵の二階であるが、元は待合の密室で壁一面に春画を描いてあつたそうな、それを塗りつぶしてはあつたが少しづつくづれかかつてゐた。もう土蔵全体が古びて雨の日や地震の時の危ふさはこの上もなかつた。 [#ここで字下げ終わり]   黄色い春 黄色《きいろ》、黄色、意気で、高尚《かうと》で、しとやかな 棕梠の花いろ、卵いろ、 たんぽぽのいろ、 または児猫の眼の黄いろ…… みんな寂しい手ざはりの、岸の柳の芽の黄いろ、 夕日黄いろく、粉《こな》が黄いろくふる中に、 小鳥が一羽鳴いゐる。 人が三人泣いてゐる。 けふもけふとて紅《べに》つけてとんぼがへりをする男、 三味線弾きのちび男、 俄盲目《にわかめくら》のものもらひ。 街《まち》の四辻、古い煉瓦に日があたり、 窓の日覆《ひよけ》に日があたり、 粉《こな》屋の前の腰掛に疲れ心の日があたる、 ちいちいほろりと鳥が鳴く。 空に黄色い雲が浮く、 黄いろ、黄いろ、いつかゆめ見た風も吹く。 道化男がいふことに 「もしもし淑女《レデイ》、とんぼがへりを致しませう、 美くしいオフエリヤ様、 サロメ様、 フランチエスカのお姫様。」 白い眼をしたちび男、 「一寸、先生、心意気でもうたひやせう」 俄盲目《にわかめくら》も後《うしろ》から 「旦那様や奥様、あはれな片輪で御座います、 どうぞ一文。」 春はうれしと鳥も鳴く。 夫人《おくさん》、 美くしい、かはいい、しとやかな よその夫人《おくさん》、 御覧なさい、あれ、あの柳にも、サンシユユにも 黄色い木の芽の粉《こ》が煙り、 ふんわりと沁む地のにほひ。 ちいちいほろりと鳥も鳴く、 空に黄色い雲も浮く。 夫人《おくさん》。 美くしい、かはいい、しとやかな よその夫人《おくさん》、 それではね、そつとここらでわかれませう、 いくら行《い》つてもねえ。 黄色、黄色、意気で高尚《かうと》で、しとやかな、 茴香《うゐきやう》のいろ、卵いろ、 「思ひ出」のいろ、 好きな児猫の眼の黄いろ、 浮雲のいろ、 ほんにゆかしい三味線の、 ゆめの、夕日の、音《ね》の黄色。 [#地から3字上げ]四十五年三月   汽車はゆくゆく 汽車はゆくゆく、二人《ふたり》を載せて、 空のはてまでひとすぢに。 今日は四月の日曜《どんたく》の、あひびき日和《びより》、日向雨《ひなたあめ》、 塵にまみれた桜さへ、電線《はりがね》にさへ、路次にさへ、 微風《そよかぜ》が吹く日があたる。 街《まち》の瓦を瞰下《みを》ろせばたんぽぽが咲く、鳩が飛ぶ、 煙があがる、くわんしやん[#「くわんしやん」に傍点]と暗い工場の槌が鳴る なかにをかしな小屋がけの によつきりとした野呂間顔《のろまがほ》。 青い布《きれ》かけ、すつぽりと、よその屋根からにゆつと出て 両手《りやうて》つん出す弥次郎兵衛|姿《すがた》、 あれわいさの、どつこいしよの、堀抜工事の木遣《きやり》の車、 手をふる、手をふる、首をふる―― わしとそなたは何処《どこ》までも。 汽車はゆくゆく、二人を乗せて 都はづれをひとすぢに。 鳥が鳴くのか、一寸と出た亀井戸駅の駅長も 芝居がかりに戸口からなにか恍然《うつとり》もの案じ、 棚に載《の》つけたシネラリヤ、 紫の花、鉢の花、色は日向《ひなた》に陰影《かげ》を増す。 悪戯者《いたづらもの》の児守さへ、けふは下から真面目顔《まじめがほ》、 ふたつ並べたその鼻の孔《あな》に、眇眼《すがめ》に、まだ歯も生えぬ ただ揉《も》みくちやの泣面《なきつら》のべそかき小僧が口の中《うち》 蒸気|噴《ふ》きつけ、驀進《まつしぐら》、パテー会社の映画《フイルム》の中の 汽車はゆくゆく、――空飛ぶ鳥の わしとそなたは何処《どこ》までも。 汽車はゆくゆく、二人を乗せて、 広い野原をひとすぢに。 ひとりそはそは、くるりくるくる、水車《みづぐるま》 廻る畑《はたけ》のどぶどろに、 葱のあたまがとんぼがへりて泳ぎゆく、 ちびの菜種の真黄《まつき》いろ 堀に曳きずる肥舟《こえぶね》の重い小腹にすられゆく。 さても笑止や、垣根のそとで 障子張るひと、椿の花が上に真赤に輝けば 張られた障子もくわつと照る、 烏勘左衛門、烏啼かせてくわつと吹く よかよか飴屋のちやるめらも みんなよしよし、粉嚢《こなぶくろ》やつこらさと担《かつ》いで、 禿げた粉屋《こなや》も飛んでゆく。 蒸気|噴《ふ》き噴き、斜《はすかひ》に 汽車はゆくゆく……椿が光る。 わしとそなたは何処《どこ》までも。 汽車はゆくゆく二人を乗せて 空のはてまでひとすぢに。 硝子窓から微風《そよかぜ》入れて、 煙草吹かして、夕日を入れて、 知らぬ顔して、さしむかひ、―― 下ぢや、ちよいと出す足のさき ついと外《そら》せばきゆつと蹈む、―― 雲のためいき、白帆のといき 河が見えます、市川が。 汽車はゆくゆく、――空飛ぶ鳥の わしとそなたは何処までも。[#地から3字上げ]四十五年四月   梨の畑 あまり花の白さに ちよつと接吻《きす》をして見たらば、 梨の木の下に人がゐて、 こちら見ては笑うた。 梨の木の毛虫を 竹ぎれでつつき落し、 つつき落し、 のんびり持つた*喇叭で 受けて廻つては笑うた、 しよざいなやの、 梨の木の畑の 毛虫採のその子。 [#ここから2字下げ] * 紙製の喇叭見たやうなもの [#ここで字下げ終わり] [#地から3字上げ]四十五年四月   河岸の雨 雨がふる、緑いろに、銀いろに、さうして薔薇《ばら》いろに、薄黄に、 絹糸のやうな雨がふる、 うつくしい晩ではないか、濡れに濡れた薄あかりの中に、 雨がふる、鉄橋に、町の燈火《あかり》に、水面に、河岸《かし》の柳に。 雨がふる、啜泣きのやうに澄《す》みきつた四月の雨が 二人のこころにふりしきる。 お泣きでない、泣いたつておつつかない、 白い日傘《パラソル》でもおさし、綺麗に雨がふる、寂しい雨が。 雨がふる、憎くらしい憎くらしい、冷《つめ》たい雨が、 水面に空にふりそそぐ、まるで汝《おまへ》の神経のやうに。 薄情なら薄情におし、薄い空気草履の爪先に、 雨がふる、いつそ殺してしまひたいほど憎くらしい汝《おまへ》の髪の毛に。 雨がふる、誰も知らぬ二人の美くしい秘密に 隙間《すきま》もなく悲しい雨がふりしきる。 一寸おきき、何処かで千鳥が鳴く、歇私的里《ヒステリー》の霊《たましひ》、 濡れに濡れた薄あかりの新内。 雨がふる、しみじみとふる雨にうち連れて、雨が、 二人のこころが啜泣く、三味線のやうに、 死にたいつていふの、ほんとにさうならひとりでお死に、 およしな、そんな気まぐれな、嘘《うそ》つぱちは。私《わたし》はいやだ。 雨がふる、緑いろに、銀いろに、さうして薔薇《ばら》色に、薄黄に、 冷たい理性の小雨がふりしきる。 お泣きでない、泣いたつておつつかない、 どうせ薄情な私たちだ、絹糸のやうな雨がふる。 [#地から3字上げ]四十五年五月   そなた待つ間 チヨンキナ、チヨンキナ、 チヨンキナ踊を、 けふの踊をひとをどり。 そなた待つとて、いそいそと、岡を上《のぼ》れば日が廻《まは》る、 雲も草木もうつとりと、 それかあらぬか、わがこころ円《まる》い真赤《まつか》な日が廻《まは》る。 チヨンキナ、チヨンキナ、 チヨンキナ踊を、 岡の草木がひとをどり。 そなた待つとて、ピンのさき池に落せばくるくると、 生きて駈けゆく水すまし、 それかあらぬか、投げ棄てたマニラ煙草の粉《こ》の光。 チヨンキナ、チヨンキナ、 チヨンキナ踊を、 池の面《おもて》がひとをどり。 そなた待つとて、夏帽子投げて坐れば野が光る ほけた鶯すみればな、 それかあらぬかたんぽぽか、羽蟻飛ぶ飛ぶ、野が光る。 チヨンキナ、チヨンキナ、 チヨンキナ踊を、 楡《にれ》の羽蟻がひとをどり。 そなた待つとて、そはそはと風も吹く吹く、気も廻る。 空に真赤な日も廻る。 それかあらぬか、足音か、胸もそはそは気も廻る。 チヨンキナ、チヨンキナ、 チヨンキナ踊を、 白い日傘がひとをどり。 [#ここから2字下げ] * チヨンキナの繰返しはやはりチヨンキナの囃子にて歌ふ。 [#ここで字下げ終わり] [#地から3字上げ]四十五年五月   薄荷酒 「思ひ出」の頁《ペエジ》に さかづきひとつうつして、 ちらちらと、こまごまと、 薄荷酒を注《つ》げば、 緑はゆれて、かげのかげ、仄かなわが詩に啜り泣く、 そなたのこころ、薄荷ざけ。 思ふ子の額《ひたひ》に さかづきそつと透かして、 ほれぼれと、ちらちらと、 薄荷酒をのめば、 緑は沁《し》みて、ゆめのゆめ、黒いその眸《め》に啜り泣く、 わたしのこころ、薄荷ざけ。 [#地から3字上げ]四十五年四月   白い月     わがかなしきソフイーに。 白い月が出た、ソフイー。 出て御覧、ソフイー。 勿忘草《わすれなぐさ》のやうな あれあの青い空に、ソフイー。 まあ、何《な》んて冷《ひや》つこい 風《かぜ》だらうねえ、 出て御覧、ソフイー。 綺麗だよ、ソフイー。 いま、やつと雨がはれた―― 緑いろの広い野原に、 露がきらきらたまつて、 日が薄《うつ》すりと光つてゆく、ソフイー。 さうして電話線の上にね、ソフイー。 びしよ濡れになつた白い小鳥が まるで三味線のこまのやうに留つて、 つくねんと眺めてゐる、ソフイー。 どうしてあんなに泣いたの、ソフイー。 細《こま》かな雨までが、まだ、 新内のやうにきこえる、ソフイー。 ――あの涼しい楡の新芽を御覧。 空いろのあをいそらに、 白い月が出た、ソフイー。 生きのこつた心中の ちやうど、片われででもあるやうに。 [#地から3字上げ]四十五年四月   芥子の葉 芥子は芥子ゆゑ香もさびし。 ひとが泣かうと、泣くまいと なんのその葉が知るものぞ。 ひとはひとゆゑ身のほそる、 芥子がちらふとちるまいと、 なんのこの身が知るものぞ。 わたしはわたし、 芥子は芥子、 なんのゆかりもないものを。 [#地から3字上げ]四十五年五月 [#改ページ]      余言  本集名づけて東京景物詩と呼べども、その実は「邪宗門」以後に於けるわが種々雑多の異風の綜合詩集にして、輯むるに殆ど何等の統一なし。ただ何れもわがひと頃の都会趣味をその怪しき主調とせるは興趣相同じ。作品の多数は四十三年「PAN」の盛時に成れるものの如く、且つ又邪宗門系の象徴詩より一転して俗謡の新体を創めたるも概ねその前後なり。なお最近大正の所作はこれに加へず。此集もと昨春或はその前年末にも公にすべかりしも、人生災禍多く些か上梓の時機遅れたるを憾みとす。  東京、東京、その名の何すればしかく哀しく美くしきや。われら今高華なる都会の喧騒より逃れて漸く田園の風光に就く、やさしき粗野と原始的単純はわが前にあり、新生来らんとす。顧みて今復東京のために更に哀別の涙をそそぐ。   大正二年 初夏 [#地から7字上げ]相州三崎にて [#地から2字上げ]著者識 底本:「白秋全集 3」岩波書店    1985(昭和60)年5月7日発行 ※底本では一行が長くて二行にわたっているところは、二行目以降が1字下げになっています。 入力:飛鷹美緒 校正:小林繁雄 2009年4月18日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。