明治劇談 ランプの下にて 岡本綺堂 ------------------------------------------------------- 【テキスト中に現れる記号について】 《》:ルビ (例)梨園《りえん》 |:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号 (例)一|石《こく》 [#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定    (数字は、JIS X 0213の面区点番号またはUnicode、底本のページと行数) (例)𧘕  [#(…)]:訓点送り仮名  (例)二[#(タ)]足 ------------------------------------------------------- [#3字下げ]目次 [#1字下げ]小序 守田勘弥 [#ここから2字下げ] [#ここから26字詰め] 新富座の大岡政談――元園町の草原――長唄と常磐津の挟み撃ち――外国人の引幕――風月堂の西洋菓子 [#ここで字詰め終わり] [#ここで字下げ終わり] 新富座見物 [#ここから2字下げ] [#ここから26字詰め] 左団次の渥美五郎――劇場の福草履――島原の芝居――劇場外の散歩――「勧進帳」 [#ここで字詰め終わり] [#ここで字下げ終わり] 市川団十郎 [#ここから2字下げ] [#ここから26字詰め] 団十郎の部屋――芝居の改良はこれから――芝居の飲食物――外国人の書面――後代の面目 [#ここで字詰め終わり] [#ここで字下げ終わり] 似顔絵と双六 [#ここから2字下げ] [#ここから26字詰め] 「霜夜鐘十字辻筮」――芝居の草双紙――絵双紙屋――春近しの感――六三掛け [#ここで字詰め終わり] [#ここで字下げ終わり] 興行困難時代 [#ここから2字下げ] [#ここから26字詰め] 開場期日――劇場の経営惨澹――観客ただ一人――明治劇壇の功労者――俳優の共進会――『有喜世新聞』の劇評 [#ここで字詰め終わり] [#ここで字下げ終わり] 番附と絵本 [#ここから2字下げ] [#ここから26字詰め] 江戸以来の芝居番附消滅――歌舞伎座の番附改良――三馬の「客者評判記」――番附配り――絵本と筋書 [#ここで字詰め終わり] [#ここで字下げ終わり] 団十郎の活歴 [#ここから2字下げ] [#ここから26字詰め] 求古会――前代未聞の椿事――行儀の好い観客――一種の冷罵――高時天狗舞 [#ここで字詰め終わり] [#ここで字下げ終わり] 千歳座見物 [#ここから2字下げ] [#ここから26字詰め] 五代目菊五郎――青木活版所――菊五郎の部屋――流暢な江戸弁――観劇の不良学生 [#ここで字詰め終わり] [#ここで字下げ終わり] 鳥熊の芝居 [#ここから2字下げ] [#ここから26字詰め] 東京の小芝居――本郷の春木座――入場料六銭――木戸前の混雑――家内第一の劇通 [#ここで字詰め終わり] [#ここで字下げ終わり] 「船弁慶」と「夢物語」 [#ここから2字下げ] [#ここから26字詰め] 団十郎の知盛――渡辺崋山と高野長英――多摩川大洪水――狼と鵜飼――初日無代価 [#ここで字詰め終わり] [#ここで字下げ終わり] 演劇改良と改作 [#ここから2字下げ] [#ここから26字詰め] 演劇天覧――「勧進帳」の訂正――狂言作者志願――浄瑠璃本濫読――黙阿弥の正本 [#ここで字詰め終わり] [#ここで字下げ終わり] 鶴蔵と伝五郎 [#ここから2字下げ] [#ここから26字詰め] 猿若町の市村座――新蔵のお三輪――弥次喜多の芝居――磐梯山噴火――盂蘭盆の舞台面 [#ここで字詰め終わり] [#ここで字下げ終わり] 「文覚勧進帳」 [#ここから2字下げ] [#ここから26字詰め] 名題昇進――脚本上演の葛藤――文覚の大立廻り――団十郎の善六――団十郎の化粧 [#ここで字詰め終わり] [#ここで字下げ終わり] 歌舞伎座の新開場 [#ここから2字下げ] [#ここから26字詰め] かぶ座の噂――「俗説美談黄門記」――福地桜痴居士――番附の体裁――「め組の喧嘩」 [#ここで字詰め終わり] [#ここで字下げ終わり] 新蔵と鴈治郎 [#ここから2字下げ] [#ここから26字詰め] 藩閥攻撃――新蔵の美女丸――新富座の悲運――上野の彰義隊――鴈治郎の十次郎と盛綱 [#ここで字詰め終わり] [#ここで字下げ終わり] 昔の新聞劇評家 [#ここから2字下げ] [#ここから26字詰め] 『東京日日新聞』――招待の芝居見物――初めて書く劇評――各社の劇評家――小芝居見物は破格 [#ここで字詰め終わり] [#ここで字下げ終わり] 男女合併興行の許可 [#ここから2字下げ] [#ここから26字詰め] 岩井粂八――女団洲――突然の許可――何らの反響なし――老いたる女役者 [#ここで字詰め終わり] [#ここで字下げ終わり] 菫坡老人と桜痴居士 [#ここから2字下げ] [#ここから26字詰め] 驚くべき記憶力――桜痴居士の別宅――竹葉のうなぎ――ペエペエ役者――行儀の好い人 [#ここで字詰め終わり] [#ここで字下げ終わり] 川上のオッペケ節 [#ここから2字下げ] [#ここから26字詰め] 壮士芝居の出現――川上の東京乗込み――チョボ入りの史劇――筒袖に陣羽織――劇評は激評 [#ここで字詰め終わり] [#ここで字下げ終わり] 朝鮮公使の抗議 [#ここから2字下げ] [#ここから26字詰め] 日本演芸協会――「太閤軍記朝鮮巻」――忠勇の征東使――作者部屋の給料――「平野次郎」の脚本料 [#ここで字詰め終わり] [#ここで字下げ終わり] 明治二十六、七年(上) [#ここから2字下げ] [#ここから26字詰め] 黙阿弥逝く――家橘の死――作者と俳優憤慨――明治座創立――松過ぎの開場 [#ここで字詰め終わり] [#ここで字下げ終わり] 明治二十六、七年(下) [#ここから2字下げ] [#ここから26字詰め] 人形芝居――夢の世界――日清戦争――浅草座の大入り――書生芝居の基礎確立――歌舞伎側の敗北 [#ここで字詰め終わり] [#ここで字下げ終わり] 紅葉館の劇談会 [#ここから2字下げ] [#ここから26字詰め] 劇評家の引幕――天金の天ぷら――西園寺侯の劇談会――尾崎紅葉の居眠り――劇談会消滅 [#ここで字詰め終わり] [#ここで字下げ終わり] 演伎座の新蔵 [#ここから2字下げ] [#ここから26字詰め] 団十郎門下出勤――新蔵の悲惨――当代の日朗役者――新蔵の役々好評――鬼女の声 [#ここで字詰め終わり] [#ここで字下げ終わり] 木挽町の書生芝居 [#ここから2字下げ] [#ここから26字詰め] 劇界の一問題――男女合併興行――高田の丁汝昌――川上の革新興行――白虎隊劇 [#ここで字詰め終わり] [#ここで字下げ終わり] 「暫」と「助六」 [#ここから2字下げ] [#ここから26字詰め] 十八年振りの「暫」――豪壮華麗の舞台――八百蔵の清盛――「助六」――見物の忍耐力――堀川の猿 [#ここで字詰め終わり] [#ここで字下げ終わり] 三人の死 [#ここから2字下げ] [#ここから26字詰め] 七、八十万円の借金――勘弥の死――新蔵の死――菊之助の死――最後の小町姫 [#ここで字詰め終わり] [#ここで字下げ終わり] 「暁雨」と「小猿七之助」 [#ここから2字下げ] [#ここから26字詰め] 歌舞伎劇の最高潮――渋蛇の目の流行――丑之助のおなみ――諸新聞の攻撃――上演中止命令 [#ここで字詰め終わり] [#ここで字下げ終わり] 又三郎と紅車 [#ここから2字下げ] [#ここから26字詰め] 二銭団洲――又三郎の歌舞伎座出勤――団菊の立腹――浅草公園の人気者――芝居道の因習 [#ここで字詰め終わり] [#ここで字下げ終わり] 四代目芝翫 [#ここから2字下げ] [#ここから26字詰め] 江戸時代の人気――団菊左を圧倒――新時代に適応せず――芝翫の舞台顔――得意の舞踊劇 [#ここで字詰め終わり] [#ここで字下げ終わり] 子供芝居 [#ここから2字下げ] [#ここから26字詰め] 子供芝居の復活――人気の絶頂――芝子丸の鬼一――小伝次の急死――吉右衛門と又五郎 [#ここで字詰め終わり] [#ここで字下げ終わり] 五万円問題 [#ここから2字下げ] [#ここから26字詰め] 団十郎の大阪乗込み――桟敷十三円八十銭――大阪側の反感――一種の弊害――中啓一本三円五十銭 [#ここで字詰め終わり] [#ここで字下げ終わり] その頃の戯曲界 [#ここから2字下げ] [#ここから26字詰め] 坪内博士の新史劇――戯曲は雑誌でもお断わり――新作「悪源太」――不入の間――新作「上杉謙信」 [#ここで字詰め終わり] [#ここで字下げ終わり] 自作初演の思い出 [#ここから2字下げ] [#ここから26字詰め] 三人合作の二番目――藪入り連中を相手の芝居――座附作者の態度――仕切場で執筆――初陣の不覚 [#ここで字詰め終わり] [#ここで字下げ終わり] 晩年の菊五郎 [#ここから2字下げ] [#ここから26字詰め] 道行の勘平――芸の柔かみ――山中平九郎――最後の「弁天小僧」――老年の悲哀 [#ここで字詰め終わり] [#ここで字下げ終わり] 団十郎の死 [#ここから2字下げ] [#ここから26字詰め] 再演の春日局――家橘の改名――大森の一夜――歌舞伎凋落――団菊の歿後 [#ここで字詰め終わり] [#ここで字下げ終わり] 日露戦争前後 [#ここから2字下げ] [#ここから26字詰め] 左団次の衰老――新派劇全盛――「桐一葉」と「辻説法」――遼陽の秋――洪水の難をまぬかる [#ここで字詰め終わり] [#ここで字下げ終わり] [#改丁] [#5字下げ]小序[#「小序」は中見出し]  ことしは五代目菊五郎の三十三回忌追善興行を催すという噂を聞かされて、明治劇壇もかなりに遠い過去となったことを今更のように感じた。  その過去の梨園《りえん》に落ち散る花びらを拾いあつめて、この一冊をなした。勿論、明治劇壇の正しい記録でなく、老いたる劇作家の昔話に過ぎないのである。  わたしは何の参考書にも拠《よ》らず、単に自分の遠い記憶をたよりに、見るまま聞くままをそれからそれへと語り続けたのであるから、その中には伝聞の誤謬《ごびゅう》などがないとは限らない。それはあらかじめ断わって置く。  ここに語られる世界は、電車も自動車もなかった時代である。電灯や瓦斯灯《ガスとう》の使用も、官省、銀行、会社、工場、商店、その他の人寄せ場に限られて、一般の住宅ではまだランプをとぼしていた時代である。したがって、この昔話も煌々《こうこう》たる電灯の下で語るよりは、薄暗いランプの下で語るべき種類のものであるかも知れない。  その意味で、題名にランプを択《えら》んだのであるが、もし読者がその旧《ふる》きを嫌わずして、明るい電灯の下でこの一冊を繙《ひもと》かれるならば、著者に取っては幸いである。 [#2字下げ]昭和十年二月 [#地から3字上げ]岡本綺堂 [#改ページ] [#5字下げ]守田勘弥[#「守田勘弥」は中見出し]  こういう話をする以上、どうしても自分の年を隠すことは出来ない。わたしは明治五年十月の生まれで、その年の冬に陽暦に変わったのである。その頃は米の値が非常に廉《やす》くて、一|石《こく》三円六十何銭であったと聞いている。そういう暢気《のんき》な時代に生まれた人間のむかし話であるから、あまり要領を得たものでないということを、最初にお断わり申しておく必要がある。もう一つには、この話は特に調査や穿索《せんさく》をしたわけではなく、すべて私のおぼつかない記憶をたどって、自分の見聞にかかる事件のみを語るのであるから、自然の結果として、一面にはとかくに自己を語るような傾きにもなりがちであるが、わたしは決して自叙伝を書くつもりで筆を執っているのではない。それもあらかじめお含みおきを願いたいのである。  わたしが生まれてから、初めて劇場というものの空気のなかに押し込まれたのは、明治八年の二月であった。守田座はこの年から新富座《しんとみざ》と改称したので、その二月興行は「扇音々大岡政談《おうぎびょうしおおおかせいだん》」――例の天一坊で、それを書きおろした作者の河竹黙阿弥《かわたけもくあみ》はその当時六十歳であったということを後に知った。いや、後に知ったのはそればかりではない。その狂言が大岡政談の天一坊であったということも幾年の後に知ったくらいで、その当時、二歳と四カ月ばかりのわたしは、無論になんにも知らなかった。実はその新富座へ連れて行かれたという事すらも、わたしの幼い記憶にはなんにも残っていないのであるから、あるいは欺《だま》されているのかも知れないが、親や姉などの言うことを信用して、まずそう決めておくほかはない。して見ると、わが国の演劇というものとわたしとのあいだに一種の連鎖の出来たのは、新富座という劇場が初めて東京に出現した当時からのことで、顧りみればすでに五十年以上の歳月を経ているのである。その当時、わたしの一家は麹町《こうじまち》区飯田町の二合半坂に住んでいた。  その年の夏になって、わたしの家は麹町区|元園町《もとぞのちょう》一丁目十九番地に移転した。麹町の大通りから三番町の大通りに通ずる表通りは、さすがに人家も建てつづいていたが、往来から少しく引っ込んだわたしの家の周囲は一面の草原で、兎が出る、蛇が出る、狐も鳴くというような荒涼たる光景であった。わたしの家の裏から出てゆく露地の入口に、むかしは山の井という駕籠屋《かごや》で、今はおかみさんが女|髪結《かみゆい》をしている家の奥の間を借りている、定《さだ》さんという板木屋《はんぎや》の職人があった。その筋むこうに靴屋の平ちゃんというのがあった。この人たちが芝居好きで、時々に寄りあつまって、茶番をする、芝居をする。わたしも面白がって観に行った。わたしはこの人たちによって、不完全ながらも「鞘当《さやあて》」や、「熊谷陣屋《くまがいじんや》」や、「勘平《かんぺい》の腹切《はらきり》」や、劇に関するいろいろの知識を幼い頭脳に吹き込まれた。  そのほかに直接間接に劇の趣味を涵養《かんよう》してくれたのは、かの定さんの借りている女髪結の家の娘が常磐津《ときわず》を習っていることであった。親も商売人に仕立てるつもりで、後に家元の名取りになった位であるから、その稽古《けいこ》は頗《すこぶ》るきびしい。殆《ほと》んど朝から晩まで浚《さら》いつづけていると言っても好いくらいで、わたしが裏口からその露地を出るたびに、かならず常磐津のお稽古を聴かされる。そのおかげで、わたしは七歳にして、もうお園《その》六三《ろくさ》の“誓いは二世と三世相”や、小夜衣《さよぎぬ》千太郎の“秋の蛙《かわず》の声枯れて”などを無心に暗記するようになった。またわたしの家の東隣りには望月太喜次さんという長唄《ながうた》の女の師匠が住んでいて、わたしの姉もそこへ稽古に通った。姉ばかりではない、ほかにも大勢の子供が通って来るので、わたしが庭に遊んでいると隣りの稽古がよくきこえる。そのおかげで、わたしは更に「越後獅子」や、「吉原雀」や「勧進帳《かんじんちょう》」をおぼえた。表から出れば長唄、裏口から出れば常磐津、毎日この挟み撃ちを受けていたのであるから、わたしの音楽趣味が普通の子供以上に発達したのも無理はなかった。  わたしの姉は長唄の稽古以外に、山元町の藤間|大奴《おおやっこ》という師匠のところへ踊りの稽古に通っていた。わたしは母に連れられてその月浚いをたびたび観に行った。二年に一度ぐらいは近所の武蔵屋という貸席で大浚いを催すのが例で、そのときには本当に鬘《かつら》や衣裳をつけて踊る。わたしは姉が小紫を踊ったときに、武蔵屋の楽屋へ遊びに行っていて、姉の衣裳をつける時に、そのうしろから団扇《うちわ》で一生懸命に煽《あお》いでやったのを記憶している。こういうわけで、わたしは子供の時から「権八小紫《ごんぱちこむらさき》」や、「おかる勘平」や、「関《せき》の扉《と》」や、「靫猿《うつぼざる》」を知っていた。  茶番や踊りのお浚いはこうしてたびたび見せられたが、わたしが本当に芝居というものを見物したのは、明治十二年の三月、わたしが八歳の春であった。その前に観た大岡政談は全然記憶していないのであるから、わたしとしては実にこれが初めと言ってよい。  この芝居を初めて見物する前に、わたしは初めて彼《か》の守田勘弥《もりたかんや》――新富座の座主《ざぬし》で、先代の勘弥の父――という人に逢《あ》った。この前年の六月、新富座新築の開場式に在京の各外国人を招待したので、その時同じく招待をうけた英国公使館の外国人らが主唱者となって、外国人から何か新富座へ贈り物をするということになった。わたしの父は英国公使館に勤めていて、かつは団十郎ともかねて識っている関係から、一応それを新富座に交渉すると、座主の守田は非常によろこんで、記念のためにどうか引幕《ひきまく》を頂戴することは出来まいかと言った。そこでいよいよその引幕――わたしはその下絵も実物も見たが、それは紫の絹地のまん中に松竹梅の円を繍《ぬ》って、そのなかに新富座の定紋のかたばみ[#「かたばみ」に傍点]を色糸で繍い出したものであった――を贈ることになって、翌年の三月興行から新富座の舞台にかけられた。  その年の一月下旬とおぼえている。日曜日の午後、わたしは近所の子供たちと一緒に、家の横手の空地で遊んでいた。なんでも天気のいい、あたたかい日で、広い空地の隅に積まれてある材木の上には、二、三日前の雪が少しばかり消え残っていた。いつも来るおでん屋が荷をかついで、渋団扇を持って通った。このおでん屋は士族の果てであるらしく、ちょん髷《まげ》に結っている小柄の男で、清元《きよもと》でも稽古したことがあるのかと思われるような、小粋な呼び声が今もわたしの耳に残っている。わたしの父は江戸時代からこの男を識っているらしかった。そのおでん屋が通ると同時に、紋付の羽織をきた立派な男が車夫に何か大きい風呂敷包みを持たせて来て、わたしたちのうちで年嵩《としかさ》の児《こ》にむかって、「この辺に岡本さんという家《うち》はありませんか。」と訊《き》いたので、わたしは竹馬に乗ったままで自ら進んで出て、「あたしの家はあすこです。」と指さして教えると、その人はにっこり笑って、「ああ、そうでございますか。ありがとうございます。」と丁寧に会釈して行った。  しかしその人はわたしの家の裏口の方からはいりそうに見えたので、わたしは竹馬を早めて追って行って、「あっちが門です。」と再び教えると、その人は「はあ、左様でございますか。」と更に丁寧に会釈して行き過ぎたが、やはり裏口の木戸からはいって行った。ひどく丁寧な、おとなしやかな人だと、わたしは子供心にも思ったが、あとで聞くと、それが守田勘弥という人であった。  守田は今度の引幕の件について、わたしの父のところへ挨拶を述べに来たのであった。わたしは半時間ばかり経って家へ帰ると、守田は奥の八畳の座敷で父と頻りに何か話していた。声は低いがときどきに笑い声がきこえた。守田は帰るときに母に向かって、「今度はぜひ御見物をねがいます。」などと言っていた。その時に守田が土産に持って来たのは西洋菓子の大きい折で、風月堂で買って来たのであった。明治十二年頃に西洋菓子などを持ちあるいているのは、よほど文明開化の人間、今日のいわゆるハイカラとかモダーンとか言うたぐいであったろうと思われる。父も「守田は変わった男だ。」と言っていた。  新富座の三月興行は二月二十八日からいよいよ開場して、例の引幕が舞台に懸けられることになった。これは後で聞いたことであるが、その引幕の費用全部を外国人側から支出したのではなく、外国人からは幾らかの金をまとめて寄贈し、それを土台に守田がまた幾らかの足し前をして、予定以上の立派なものを作りあげたのであって、彼としては多少の自腹を切っても、外国人から引幕を贈られたという一種の誇りを覚えれば、それで満足していたらしい。そういう事情があるので、父も母も姉もわたしも、叔父も叔母も、それに近所の知人も加わって、都合十幾人が新富座を見物することになった。 [#改ページ] [#5字下げ]新富座見物[#「新富座見物」は中見出し]  新富座《しんとみざ》見物のことはわたしもたしかに記憶している。その日は三月の九日で、時間まではさすがにおぼえていないが、何でも朝飯を食ってしまうと、早々に着物を着換えさせられたのを思うと、おそらく午前八時頃から繰り出したのではあるまいか。わたしは鳶八丈《とびはちじょう》の綿入れに黒紋付の紬《つむぎ》の羽織を着せられて、地質はなんだか知らないが、鶯茶のような地に黒い太い竪縞《たてじま》のある袴《はかま》を穿《は》いていた。元園町から人力車にゆられてゆく途中はかなりに寒かったが、車の走るにしたがって、往来の景色が走馬灯のようにだんだん変わってゆくのを、その頃の子供たちはめずらしがって喜んだものであった。それと同時に、その時代の人力車なるものは今日の自動車ぐらいに危険視されて、毎日のように人力車に衝突したり轢《ひ》かれたりする人間があった。ゆき着いた芝居茶屋は菊岡という家で、わたしはここで袴を脱がされた。父は最初から袴を穿いていなかった。  茶屋の若い者に案内された場所は、西の桟敷《さじき》であることを後に知った。狂言は――これも後に知ったのであるが――一番目「赤松満祐梅白旗《あかまつまんゆううめのしらはた》」、中幕「勧進帳《かんじんちょう》」、二番目「人間万事金世中《にんげんばんじかねのよのなか》」で、大切《おおぎり》には「魁花春色音黄鳥《かいかのはるいろねのうぐいす》」という清元《きよもと》常磐津《ときわず》掛合いの浄瑠璃《じょうるり》が附いていた。この浄瑠璃はわたしは見なかったので、どんな物であったか知らないが、“魁花春”という名題《なだい》に“開化”を利かせたのを見ても、いわゆる文明開化の風が世間を吹き靡《なび》かせていたことが思いやられる。  一座の俳優は団十郎、菊五郎、左団次、仲蔵、半四郎、宗十郎、家橘《かきつ》、小団次、小紫などで、観客は桟敷にも土間《どま》にも一杯に詰まっていた。これまで見馴れていた踊りのお浚《さら》いなどとは大いに勝手が違うので、わたしは眼を丸くして一心に舞台をみつめていたが、何分にもその狂言なるものは非常に複雑なもので、わたしの持ち合わせている「おかる勘平」や「権八小紫《ごんぱちこむらさき》」ぐらいの幼稚な予備知識では、とても会得《えとく》することの出来ないものであった。第一に沢山《たくさん》の人物がむやみに出たりはいったりするので、どれが敵だか味方だか、その区別すらも曖昧《あいまい》になってしまった。わたしの眼に映ったものは、ただ何がなしに綺麗《きれい》な道具と綺麗な人物と、それが幾度もぐるぐると廻ったり、ばさばさと立ち騒いでいるだけのことであったが、なにしろ今までわたしをよろこばせた、かの定さんの茶番や、大奴さんのお浚いとは、全然比較にならないほど壮大華麗な舞台面が、わたしの眼の前にそれからそれへと限りもなく拡げられるのであるから、わたしは夢中になって見つめていた。幕のあいだに口取《くちとり》を食わされたが、それも旨《うま》かった。  こう言うと、ひどく好《い》いことばかりのようであるが、実際はなかなかそうでなかった。前にもいう通り、何分にも狂言の筋が入り組んでいるので、何がどうしたのかちっとも判《わか》らないばかりでなく、舞台の人物が碌々《ろくろく》に動かないで、なにか長いことをしゃべり合っている場面の多いのが、かなりにわたしを苦しめた。立派な殿様(宗十郎の足利義教《あしかがよしのり》)が奥庭のようなところで美しい女(半四郎の妾小弁)を手討ちにするようなくだり、それがいつまでもしゃべっているばかりで、なぜその女が死ぬのか判らなかった。いや、それよりも更にわたしを困らせたのは、その次の大きい屋敷のような場で、一段高いところに坐っているのが団十郎の赤松満祐であった。眼だまの大きい坊主頭の赤松満祐――あれが日本一の団十郎であると教えられたが、わたしには格別に偉いとも感じられなかった。この場になると、どの人物もいよいよしゃべるばかりで、わたしにはいよいよ判らなくなった。この場の終り頃に、ぴかぴかした𧘕𧘔《かみしも》を着た侍(宗十郎の浦上|弾正《だんじょう》)が団十郎の前で切腹することになるのであるが、それが一旦うしろを向いて、刀を腹へ突き立てて、それからまたくるくると這《は》いまわって正面を向いて、そうして何か言い出したのを見て、切腹というものは妙なことをするものだと私はおかしく思った。なにしろこの一番目のうちでわたしを最も苦しめたのは右の二場で、今日でもあまり詰まらない芝居を見物していると、その当時の記憶がありありと頭に浮かんで来る。  最も詰まらなかったのが二場であると共に、最も面白かったのもやはり二場であった。それは赤松屋敷の門前と白旗城中との二場で、前の門前では大勢の立廻りがある。後の城中では大童《おおわらわ》の鎧武者《よろいむしゃ》(左団次の渥美五郎)の御注進がある。この鎧武者が敵の軍兵と闘いながら、満祐の前で御注進をする。今から思えば、それはこうした芝居の紋切り形であるが、その当時のわたしにはそれがいかにも壮快に感じられた。実際、それは初代左団次が最も膏《あぶら》の乗っている当時であるから、舞台が踏み抜けるほどの目ざましい大活動を演じたに相違ない。その証拠には、子供のわたしばかりでなく、満場の観客もみな息をのんで舞台を見詰めているらしかった。俳優の名を呼ぶ声も頻りにきこえた。しかし手をたたく者は一人もなかった。その頃には、劇場で拍手の習慣はなかったのである。  幕間《まくあい》に、わたしは父に連れられて劇場の外へ出た。今日の劇場の草履《ぞうり》の鼻緒は大抵青いようであるが、その頃の草履の鼻緒は白と紅との太い撚《よ》り緒《お》にしてあったように記憶している。いわゆる“福草履”なるもので、鼻緒は藁《わら》を心《しん》にして、厚い紙で巻いたのであるから、ごつごつして頗《すこぶ》る穿《は》きにくいものであった。小屋の表には座主《ざぬし》や俳優へ寄贈の幟《のぼり》が沢山に立てられて、築地の川風に吹かれている。座の両側にも芝居茶屋が軒をならべて、築地橋から座の前を通りぬけた四つ角まで殆《ほと》んどみな芝居茶屋であった。その花暖簾《はなのれん》や軒提灯《のきぢょうちん》の華やかな光景はもう見られない。  ここで少しく註を入れて置きたいのは、この劇場の呼び名である。勿論、新富座というに相違なく、わたしも現に新富座と書いているが、その当時の人はそれを“島原の芝居”とか、または単に“島原”とか呼び慣わしていて、正直に新富座という人は少なかったようである。明治の初年、ここに新島原の遊廓を開いたが、四年の七月に立退きを命ぜられ、その跡へ新富町という町が出来て、その六丁目に劇場が新築されたので、東京の人は元の地名にちなんで、普通に“島原の芝居”と呼んでいた。その習慣も年と共にだんだん消え去って、明治二十年以後にはよくよくの老人でない限りは、島原の名を口にする者もなくなって、一般に“新富町”というようになったのである。  その当時は劇場内に広い運動場《うんどうば》というものがなかったのと、もう一つには幕間が随分長いのとで、大勢の観客は前にいったような太い鼻緒の福草履を突っかけて、劇場外の往来、即ち今の電車道をぶらぶら散歩していた。その福草履が芝居の客であるという証拠になるので、若い男や女たちはそれを誇るように、わざと大勢つながって往来を徘徊《はいかい》しているらしかった。わたしは茶屋と茶屋とのあいだにある煎餅屋《せんべいや》の前を通ると、ちょうど今日《こんにち》の運動場で売っているような辻占入りの八橋《やつはし》を籠に入れて、俳優の紋所《もんどころ》を柿色や赤や青で染め出した紙につつんで、綺麗そうに沢山ならべてあるのを見つけた。わたしはそれを指さして父にねだると、父は紙入れを母にあずけて来たので、懐中には金を持っていなかった。父はそのわけをわたしに話して、この次の幕間に買ってやると言いながら行き過ぎようとすると、店にいた若いおかみさんがわたしたちを呼びとめて、「お代はあとで宜《よろ》しゅうございますから、どれでも宜しいのをお持ちください。」と笑いながら言ったので、父も笑いながら引返して、その辻占の籠をわたしに一つ、ほかの者に遣る分を四つ、都合五つを受取って帰った。勿論、このおかみさんも如才《じょさい》ないには相違なかったが、顔馴染《かおなじみ》のないわたしに対して、無料でそれだけの商売物を愛想よく渡してくれたのは、かの福草履の威徳にほかならない。おかみさんはわたしたちの草履を信用して、これだけの商いをしたのであった。わたしはその辻占の籠をさげて、幟の多い春の町をあるいていると、お花見などとは違った一種の浮かれた気分を子供ながらぼんやりと感じた。  一番目の「赤松満祐」は結局わからずじまいであったが、中幕の「勧進帳」はわたしの期待していたものであった。というのは、前にも吹聴《ふいちょう》したような事情で、隣りに長唄のお師匠さんを控えていたお蔭で、わたしは「勧進帳」の文句を大抵は心得ていて、“判官おん手を取り給い”ぐらいの事はちゃんと暗記している。こういう予備知識があるのと、それが舞台の上でどんな事になるのかという一種の好奇心とで、わたしは頗る緊張した気分で、この中幕の舞台と向かい合った。  やがて義経が揚幕からあらわれた。俳優は今の羽左衛門の父の家橘である。つづいて四天王が出て来て花道に立ちならぶ間、義経らはうしろ向きになる。わたしたちは西の桟敷に陣取っているのであるから、ここで義経らとまさしく眼を見合わせることになった。わたしは生まれてから初めて俳優の舞台顔というものをはっきり見たのである。尤《もっと》も他の四天王などには注意しないで、上品で美しい義経ばかりを一心にながめていた。つづいて団十郎の弁慶があらわれると、観客は盛んに成田屋を叫んでいたが、わたしは赤松満祐の坊主に悩まされた苦《にが》い経験があるので、この方にはあまり注意の眼を向けなかった。わたしは義経の家橘をむやみに好《い》い役者だと思った。渥美五郎の御注進でわたしを喜ばせた左団次の富樫《とがし》も、ここではあまりわたしをよろこばせてくれなかった。“判官おん手を取りたまい”ぐらいの予備知識では、やはりこの芝居も判らないことを発見して、わたしはまた失望した。 [#改ページ] [#5字下げ]市川団十郎[#「市川団十郎」は中見出し]  中幕の「勧進帳《かんじんちょう》」が終って後に、わたしは父に連れられて楽屋へ行った。その途中の甚だ乱雑なのに驚かされたが、低い梯子段《はしごだん》のあがり口で、かの守田|勘弥《かんや》に出逢《であ》うと、きょうもやはり丁寧に挨拶していた。  団十郎の部屋はあまり広くなかったように記憶している。中には四、五人の男が控えていた。その人たちが席を譲って、わたしたちを通してくれると、こっちへ向き直ったのが部屋の主人の団十郎で、舞台で見たと同じように眼だまの大きい、色の真っ白な人で、大きい鏡の前に大きい蒲団《ふとん》をしいて坐っていたが、父にむかって「今日は好《よ》うこそ。」と丁寧に挨拶した。それから父といろいろの話をはじめたが、舞台で大きい声を出すにも似合わず、なんだか低い声で、おまけに少し舌が廻らないような口の利き方で、聴いていても甚だ面白くないような話しぶりであった。  やがて傍にいた男が茶と菓子とを出すと、団十郎はその男にむかって、「坊ちゃんにはあっちの菓子を……。」という。男は心得てすぐに起《た》ったが、半紙の上に大きなカステラを幾片か乗せて、わたしの前へ持って来ると、団十郎はわたしを見かえって、「おあがんなさい。」と、顎《あご》を突き出して言った。その言い方とその態度が、かの守田などとはまるで違って、頗《すこぶ》る不人相で横柄なようにも感じられたので、わたしは子供心にも不愉快であった。彼に対する一種の反感から、わたしはただうなずいたばかりで、カステラの方へは眼もくれなかった。すると、団十郎は父にむかって、「芝居の改良はこれからです。」というようなことを言い、更にわたしにむかって、「あなたも早く大きくなって、好い芝居を書いてください。」と笑いながら言った。  それだけならば、単に当座の冗談として聞き流すべきであったが、彼は父にむかって更にこんなことを言った。 「わたしはそれを皆さんに勧めているのです。片っ端から作者部屋に抛《ほう》り込んで置くうちには、一人ぐらいは物になるでしょう。」  むかしの人間は今の人間よりも早熟であった。わたしもその一人であったらしい。その当時まだ八歳ではあったが、団十郎のこの一言に対して、わたしは非常に憤激した事を明らかに記憶している。作者部屋というのはどんな所か知らないが、他人《ひと》の子を芥《あくた》か紙屑のように心得て、片っ端から抛り込むのは何という言い草であろう。実に失敬極まる奴だと思った。勿論、団十郎に何の料簡《りょうけん》があったわけではなく、彼の性質として、自分の思ったことを率直に言ったに過ぎないのであるが、それを覚ったのは遥かに後日《ごじつ》のことで、その当時のわたしが大いに憤懣《ふんまん》を感じたのは詐《いつわ》らざる告白である。殊《こと》にわたしは日本一の団十郎の芝居というものを甚だ詰まらなく感じている矢先きであるから、その不愉快は一層であった。「いやだ、いやだ。誰がこんな詰まらない、芝居などというものを書くものか。いやなこった。」と、わたしはまったく肚《はら》を決めていた。  二人は止め度もなしに何か話しているので、不平と退屈とが一緒になって、わたしはもう飽きあきしてしまったところへ、またもやここへ彼《か》の守田勘弥がはいり込んで来て、例の丁寧な口調で頻りに話し始めた。相手が一人殖えたのであるから、話の種はいよいよ尽きそうもない。わたしはとうとう遣り切れなくなって、今までは眼もくれずにいた彼《か》のカステラに手を出して、むしゃむしゃと食いはじめた。部屋の中にはもう瓦斯《ガス》の灯がついたが、話はまだおしまいにならない。そのうちに団十郎は赤松満祐のときに着ていた衣裳、おそらく直垂《ひたたれ》か何かであったろう、茶渋のような色の着物を持ち出して、なにか講釈をはじめたので、わたしは実に我慢が出来なくなって、むやみにカステラを頬張って、そこにいる男の注《つ》いでくれる茶をがぶがぶ飲んでいた。定めて行儀の悪い児だと思われたであろうが、私としてはどうにも仕様がなかったのである。  そのうちにわたしを救いの声がきこえた。どこかで拍子木の音が響いたのである。守田はわたしの方を見かえって、「坊ちゃんは……。」と言うと、そばにいる男が起ち上がって、「わたくしが御案内申しましょう。」という。父もわたしにむかって、「おまえは先へおいで。」という。わたしは先ずほっとして、まったく人質からゆるされたような心持で、守田と団十郎とに挨拶すると、守田は無言で丁寧に会釈した。団十郎は軽く頭をさげて、「また遊びにおいでなさい。」と言った。しかしわたしはもう二度とこんなところへ来るものでないと思いながら、食い残りのカステラを袂《たもと》に入れてもらって、かの男に送られて元の桟敷《さじき》へ帰った。  楽屋へ往《ゆ》くから復《かえ》るまでの間、実に何十分を費したか知らないが、とにかくにその頃の幕間《まくあい》はよほど長かったものに相違なかった。夜になって、わたしはもう眠くなったので、二番目の「金世中《かねのよのなか》」が二幕済んだときに、近所の人に送られて、みんなよりも先に人力車に乗って帰った。わたしを送って来た人は、元園町までわたしを送りとどけて、それからまた引返して新富座へ行ったが、それでも次の幕のあく前に行き着いたということであった。幕間の長いことがいよいよ思いやられる。尤《もっと》も、今日でもどうかすると、幕間何十分などという例がないでもないから、その頃としてはそれが普通であったのかも知れない。  少しく下卑《げび》た話であるが、その時にわたしが劇場のなかで食わされた物をかんがえて見ると、まず餅菓子のようなものが出た。それから口取《くちとり》物に酒が出た。午飯《ひるめし》は幕の内の弁当であった。午後になってから鮨《すし》を持って来た。ゆう飯は茶屋へ行って、うま煮のような物と刺身と椀盛《わんもり》で普通の飯を食った。興行時間が長いために、どうしても二度は劇場内で飯を食わなければならないのであった。夜になって水菓子を持って来た。要するに食物の種類は今日と殆んど変わらないが、ただ変わっているのは幕の内だけである。これは江戸時代からの習慣で、劇場内の弁当は幕の内と決まっていた。それが普通の弁当に変わったのは何年頃からであるか、わたしもはっきりと記憶していないが、それから四、五年の後にはすでに普通の弁当になっていたようである。幕の内には煮染《にし》めが添えてあるが、それが旨《うま》いということになっていて、芝居のみやげに買って帰る人も沢山《たくさん》あった。人力車に乗って帰る人が幕の内の折詰を膝の上に重ねて置いて、その煮染めの汁が浸み出して着物を汚したなどという話をたびたび聞いた。あとで考えると、当日わたしたちが食わされた菓子と口取、午飯の弁当、鮨、夕飯、水菓子、これだけは当然註文すべきものであって、贅沢でもない、倹約でもない、極めて普通の散財で、土間や桟敷の見物人である以上、いやが応でもこれだけの品は註文しなければならないのであった。  これもその年代をはっきりと記憶していないが、かの“かべす”即ち菓子と弁当と鮨との三品を意味する言葉が、一般に通用するようになったのも、やはり明治十四、五年以後のことであると思う。勿論、その以前からそういう倹約な客もないではなかったが、例の“花より団子”主義で養成されている観客の多数は、芝居はうまい物を食わせる所のように考えていたらしかったから、すでに芝居小屋へはいった以上は、飲み食いについて余り倹約しようとは初めから考えていなかったらしい。それがいつとはなしにだんだん倹約になって来て、殊《こと》に彼《か》の見連《けんれん》などという団体見物が盛んになるに連れて、菓子と弁当と鮨とで腹の虫をおさえ、ゆう飯は帰り途で食うか、家へ帰って食うとかいうような経済主義がひろく行なわれて来たらしい。実をいえば、むしろそれが本当のことで、劇場と料理屋とを混同しているような昔の観客は、確かに不心得者に相違ないのであるが、その余習のまだ失せない時代に哺《はぐ》くまれたわたしなどは、“かべす”などという言葉を聞くと、一種の卑しいような、惨《みじ》めったいような、いやな感情を誘い出されたものであったが、そんなことは疾《と》うの昔の夢となってしまった。今日、劇場内の食堂で旨い物を食おうなどと考える人があったならば、それこそ本当の不心得者であろう。  ともかくも、これでわたしが生まれてから初めて新富座の見物人となった当日当夜の印象記を終ったのである。なにかの参考のために、その当時、かの外国人らが引幕《ひきまく》に添えて守田勘弥に送った書面を左にかかげる。原文はもちろん英文で、それに日本語の訳文を添えたものである。 [#ここから2字下げ] 以手紙|啓上《もうしあげ》候。然者《しかれば》、去明治十一年六月七日、再造新富座開業之節、貴下ニ於テ在東京外国人ヲ御招待、且御厚遇|被下《くだされ》候儀ヲ同国人ニテ深ク礼謝致シ候段ヲ申述ベ、且又該時種々御親切|被成下《なしくだされ》候寸報迄、此引幕壱帳ヲ宜シク御受納|被下度《くだされたく》御願申上候|様《よう》、拙者共ヘ委任相成候間、別紙此幕ヘ出金致シ候人々ノ名前目録モ相添、此段申進候。謹言。   明治十二年二月三日 [#ここで字下げ終わり] [#地から16字上げ]在東京 [#ここから地から3字上げ] エー・ゼー・エス・ホールス ヘンリー・ボン・シーボルト トーマス・マックラッチ [#ここで字上げ終わり] [#天から6字下げ]東京新富座主 守田勘弥 貴下  この三人のうちでは、最後に署名している英国公使館員のマックラッチ氏が最も芝居好きで、この人が主として尽力したように聞いている。その時にマックラッチはわたしの父にむかって、こんなことを話したそうである。 「わたくしが日本へ来るという時に、わたくしの友人たちは危険だから見合わせろと忠告してくれました。日本には浪人という者が長い刀をさしていて、外国人を見れば直ぐに斬《き》るというから、どうぞ日本へは行ってくれるなと、わたくしの母も泣いて留めました。ところが来てみると、浪人に斬られるどころか、綺麗《きれい》な劇場で美しい芝居を見物して、こんな愉快なことはありません。この事を詳しく書いて、英国の母や友人のところへ知らせてやりました。」  この引幕と書面に対する守田勘弥の返書は、こうであった。 [#ここから2字下げ] 貴翰奉拝読候。陳者《のぶれば》客歳六月該場開業之|砌《みぎり》、各位御招待申上候御報謝として、華麗之引幕一張御恵賜被成下、御芳志之段|難有《ありがたく》奉拝受候。就ては該場現今之光栄は申すに不及《およばず》、後代之面目と相成、大幸|不過此《これにすぎず》と奉存候。別紙御銘々様へは、乍憚《はばかりながら》御三君より御礼|可然《しかるべく》御風語被成下度、此段貴答迄|如此《かくのごとく》に御座候。頓首謹言。 [#ここで字下げ終わり] [#4字下げ]二月四日[#地から3字上げ]守田勘弥  この文面は誰の筆になったのか知らないが、外国人から引幕を貰ったについて、現今の光栄、後代の面目と感謝したのは、あながちに一片の辞令ばかりではないらしく、その人とその時代とのおもかげがありありと窺《うかが》われるようにも思われるではないか。 [#改ページ] [#5字下げ]似顔絵と双六[#「似顔絵と双六」は中見出し]  前に言ったようなわけで、芝居というものに対するわたしの第一印象は余り好《よ》くなかった。好くなかったというよりも、芝居というものはどうも判《わか》らない、面白くないものであるということに自分だけは決めてしまった。それには団十郎に対する一種の反感といったような不快の感情も手伝っていたらしいが、ともかくも芝居というものが好きになれなかった。定さんの茶番や大奴さんのお浚《さら》いが比較的に面白かったのは、平素からその人たちをよく識っているという点から出発しているので、なんという人だかも識らない俳優たちが何だかわからない芝居を演ずるのは、決して面白いものではなかった。その以来、わたしは芝居見物などに行きたいとは思わなかった。家の人たちが芝居見物にゆく場合には、わたしはいつも留守番をしていた。そうして、例の幕の内や口取《くちとり》の土産を買って来て貰うのを楽しみにしていた。  その明くる年の六月、「霜夜鐘十字辻筮《しもよのかねじゅうじのつじうら》」が新富座の二番目狂言として上演された。これは二代目河竹新七が巡査の保護、士族の乳貰《ちちもらい》、按摩《あんま》の白浪《しらなみ》、天狗の生酔、娼妓の貞節、楠公の奇計という六題を五幕の世話狂言に脚色したもので、その正本《しょうほん》は――その頃は脚本とはいわない、無論に戯曲などとはいわない、すべて正本と唱えられていたのである――『歌舞伎新報』に連載されたのであるが、評判が好かったので更に日本紙綴りの一冊にまとめて出版された。わたしはそれを湯屋の番台にいる金さんから借りて読んだ。金さんは旗本の息子で、わたしが毎日ゆく麹町四丁目の久保田という湯屋の厄介《やっかい》になっていて、その番台に坐っていたのである。この時代にはこういうたぐいの人が多かった。  金さんは人品の好《い》い、おとなしやかな人で、素姓《すじょう》が素姓だけに、番台にいる間はいつも何かの本を読んでいた。わたしも自分の家から古い草双紙《くさぞうし》などを持って行って貸してやるので、金さんの方でも他《よそ》から借りた本を貸してくれる。わたしはそのお蔭で、むかしの草双紙などを大分《だいぶ》読みおぼえた。かの「霜夜鐘」の正本も金さんが又貸しをしてくれたもので、わたしはこの時に初めて芝居の正本というものを読んだのであった。金さんから初めて渡されたときに、芝居の本は嫌いだといって断わったのであるが、面白いから読んでみろと言われたので、ともかくも借りて来て読んでみると、なるほど面白くないこともなかった。勿論、判らないところも随分あったが、それでも舞台の上の芝居を観るよりは確かに面白かった。その以来、わたしは芝居の本というものが好きになって、その草双紙類をいろいろ買ったり借りたりして読み耽《ふけ》るようになった。  ここで言う芝居の草双紙とは、一種の筋書風の物である。新狂言を小説体に書き直した二冊つづきまたは三冊つづきの日本紙綴りで、一枚ごとに挿画がある。表紙の画はすべて俳優の似顔で描かれてあった。その作者は武田交来とか笠亭仙果とかいう人が多く、画家は落合芳幾《おちあいよしいく》と決まっていたように記憶している。これらの草双紙の値は大抵二冊つづき五銭というのが普通であった。今から思うと非常に廉《やす》いようであるが、その頃としては先ずそのくらいが相当であったらしい。わたしはこの種の草双紙で「松栄千代田神徳《まつのさかえちよだのしんとく》」「日本晴伊賀仇討《にっぽんばれいがのあだうち》」「茶臼山凱歌陣立《ちゃうすやまがいかのじんだて》」「天衣紛上野初花《くもにまごううえののはつはな》」「古代形新染浴衣《こだいがたしんぞめゆかた》」そのほかにも幾種を読んだが、小説体に書かれたこの種の物よりも、やはり正本《しょうほん》風に書かれた「霜夜鐘」の方が面白いように思われた。尤《もっと》も、それは父や姉や周囲の人たちがそう言うので、わたしも一種の暗示をうけて自然にそう感じたのかも知れないが、とにもかくにも芝居の正本というものを初めて私にあたえてくれたのは、湯屋の番台の金さんである。金さんは二、三年の後、立派な官員さんのお婿に貰われたという噂であったが、その後の消息を知らない。  金さんは芝居の草双紙のほかに、江戸時代の古い草双紙をいろいろ貸してくれた。いずれも例の又貸しであったが、その頃はどこの家《うち》にも二種や三種の古い草双紙類を所蔵していたので、湯屋へ来る客が皆それを持って来て、金さんに貸してやると同時に、自分も又貸しをしてもらうのである。つまり金さんを仲継ぎにして、たがいに草双紙の廻覧をやっていたようなわけで、わたしはそれがために草双紙の知識を随分あたえられた。そのなかで五柳亭徳升《ごりゅうていとくしょう》という人の書いた「西国奇談月廼夜神楽《さいこくきだんつきのよかぐら》」という草双紙に、平家の官女玉虫が蟹《かに》に乗っている図があったので、その挿画が頭に残っていて、後年にわたしが「平家蟹」の戯曲をかく種となったのであった。  少年時代のわたしは一方にかなりの暴れ者であると同時に、また一方には頗《すこぶ》る陰鬱な質《たち》で、子供のくせに薄暗いところに隠れて、なにか本でも読んでいる風であったから、金さんから借りた草双紙のなかでも怪談物を好んで読んだ。外国から帰った三番目の叔父をせがんで、西洋のお化けの話や、お化けの芝居の話を聞かせてもらうと、叔父はいつでも国王がお化けと問答をする話と、国王の息子が父の幽霊に出逢《であ》う話とを繰返して聞かせてくれた。後に思うと、前者はエインス・ウォルスの小説「ウィンゾル・キャストル」で、後者は例の「ハムレット」であったらしい。そんなわけで、わたしの幼稚な頭は芝居と怪談とで埋められてしまった。明治十七年の十月、市村座で五代目菊五郎が「四谷怪談」を上演した時、わたしはお化けの芝居というものを見たいがために、一緒に連れて行ってくれと母にせがんだが、子供の観る芝居ではないといって、やはり留守番をさせられた。  その頃のわたしを喜ばせたのは、絵双紙屋の店先であった。絵双紙屋というものは今ではまったく亡《ほろ》びてしまったが、小説類の小売店は即ち絵双紙屋で、その名のごとくに絵双紙を売る傍らに小説類や浄瑠璃《じょうるり》の稽古本を売っていたのである。したがって、絵双紙の方が主であるから、どこの店にも一枚絵、二枚続き、または三枚続きの錦絵《にしきえ》を始めとして、子供のおもちゃ絵や千代紙のたぐいが店一ぱいに懸けられてあった。おもちゃ絵や千代紙は一枚八厘か一銭であるが、錦絵の二枚つづきは一組五銭、七、八銭、十銭ぐらいで、武者絵や風俗絵や、新聞記事を材料とした際物《きわもの》や、その種類はもちろん一様でなかったが、錦絵の中で最も光彩を放っているのはやはり芝居の似顔絵で、各座の狂言の替るたびに必ず二種や三種の三枚続きが出版された。その画家は豊原国周《とよはらくにちか》を第一として、次に梅堂国政《ばいどうくにまさ》、楊州周延《ようしゅうちかのぶ》などで、芳幾はあまり錦絵を描かないようであった。錦絵とはまことに能《よ》く付けた名で、その美しいことは言うまでもないが、殊に各座の新狂言の似顔絵を絵双紙屋の店先にずらりと列《なら》んで懸けたのを仰ぎ見た時には、花といおうか紅葉《もみじ》といおうか、わたしらのような子供でも実に恍然《うっとり》として足を停《と》めずにはいられなかった。つまり今日の絵葉書屋とおなじ理窟であるが、ほん物の写真よりも似顔絵の方が色彩の絢爛《けんらん》を極めているので、人の眼を強く惹《ひ》き付けたのであった。 [#3字下げ]春雨や傘さして見る絵双紙屋    子規  こういう風情は現代の若い人たちには十分に会得《えとく》されまいと思う。それから歳の暮になると、絵双紙屋の店にはいろいろの双六《すごろく》がかけられる。これも道中双六や武者双六や教訓双六や、その種類は数々あったが、やはり歌舞伎狂言の双六がそのなかの錦であった。大判物、中判物、その大小はいろいろあるが、要するに、似顔絵を小さくして綴り合わせたようなもので、歌舞伎双六はどうしても十銭以上、上等は二十銭、三十銭、五十銭ぐらいの物もあった。その頃の三十銭、五十銭といえばかなりの高価で、前にいった芝居小説の草双紙ですらも、二冊つづき五銭が普通の時代において、三十銭以上の双六などがよく売れたものだと思うが、今日と違って、歳暮や年玉の贈答品に歌留多《かるた》や双六のたぐいが多く行なわれたので、その方面の需要が多かったのであろうかと察せられる。いずれにしても歌舞伎双六は歳晩の絵双紙屋を飾り、あわせて歳晩の巷《ちまた》を彩《いろど》る一種の景物《けいぶつ》で、芝居を愛する人も愛せざる人も、絵双紙屋の店さきに立って華やかな双六のいろいろをながめた時、おのずと“春近し”の感を起こさぬ者はなかったであろう。それに比べると、今の絵葉書屋は甚ださびしいような気がする。その頃は双六ばかりでなく、歌留多にも歌舞伎に因《ちな》んだものは少なくなかった。似顔絵の羽子板だけは今も廃《すた》れないが、それでも昔にくらべると三分の一にも足りまい。第一に羽子板屋というものが著るしく減じたのであるからやむをえないのである。押絵の似顔を巧みに描く人もだんだんに減じてゆくらしい。衣裳の小切れも悪くなった。いや、こんな事ばかり言っていると、余りに老いの繰り言じみるから、先ずこのくらいにして置く方がよかろう。  明治十四年の夏から秋へかけて、“六三掛《ろくさが》け”と“お園櫛《そのぐし》”というものが流行《はや》った。なかんずく六三がけは素晴らしい人気を以て東京中に拡まった。それは新富座の七月興行に上演された「古代形新染浴衣」――おその六三をざんぎり物に書き直した新狂言に、五代目菊五郎が大工の六三郎に扮し、八代目岩井半四郎が福島屋の娘お園に扮して、いずれも好評を博したのから起こったもので、六三がけは大工の鉋屑《かんなくず》になぞらえて作られた一種の頭掛けであるが、その鉋屑のような物が時節柄なんとなく涼しげに見えるせいかも知れない、東京の若い女のあたまの上には、鉋屑の六三掛けがむやみに結び付けられていた。下町《したまち》ばかりでなく、しまいには山の手にまでその流行がだんだんに拡がって来て、わたしの近所の娘たちも皆それを掛けていた。勿論、その後にも俳優や芝居に関する流行物はたくさんに出来たが、どうも彼《か》の六三掛けほどの勢力はなかったらしい。  わたしの記憶している限りでは、これが歌舞伎から生み出された流行物の打止めであったらしく、今の歌右衛門が福助の人気盛りにも、櫛かんざしを始めとして、裏梅《うらうめ》の模様を付けた物がずいぶん流行したが、この六三がけのように、一つの狂言に因んだ物がこれほど汎《ひろ》くは行なわれなかったようである。これは俳優の人気ということ以外に、明治十四、五年頃までは江戸時代の気風がまだ余分に残っていたためであろう。 [#改ページ] [#5字下げ]興行困難時代[#「興行困難時代」は中見出し] “六三掛け”のような流行物は格別として、その頃の芝居がとかく世間の評判になりやすかったのは、興行の度数の少なかったためであったように思われる。全盛時代の新富座ですらも、一年の興行は先ず五、六回が関の山で、他の猿若座、市村座、春木座なども同様で、一年の興行わずかに三、四回に過ぎないこともあった。したがって、興行ごとに世間の注意が一度にそこに集まるのであったが、今日のように劇場の数も多く、しかもそれが殆《ほと》んど休みなしに興行するという有様では、それからそれへと眼移りがして、一つの狂言の評判がまだ本当に拡まらないうちに、もう次の狂言の噂が出るという風で、万事があまりに気忙《きぜわ》しくなったために、一つの狂言の噂が耳の底によく沁み込まない。たとい面白い狂言が出ても、むかしほどの評判にもならず、人の記憶にも残らないのは、あまりにその変転のあわただしいためであろう。外国のように長期興行が出来るならば格別、殆んど毎月替りというような現在のありさまでは、劇場側でも観客側でも万事が自然懸け流しという傾きになるのはよんどころないことで、この点だけは昔の方が優《まさ》っていたらしい。その頃は興行の回数が少ないだけに、作者にも俳優にも休養や工夫の余裕もあり、観客も開場を待ちかまえて熱心に見るということになって、どちらも気の入れ方が違うようであった。  しかしまた、今日の好いことは開場期日の正確な点である。実際やむをえざる事情が出来《しゅったい》しない限りは、何日開場という予告をめったに変更するようなことはないが、その頃はむしろ変更する方が普通なくらいで、たとえば二日開場――その頃は一般に初日と唱えていた――と触れ出されても、それが三日に延び、五日に延び、十日に延び、甚しいのは、半月もひと月も延び、更に甚しいのは全然立消えになってしまうのもあるので、当てにならない事おびただしい。それがようよう開場されても、はじめに触れ出された狂言をまるで搗《つ》き換えてしまうこともある。今から考えると、あまりにも人を馬鹿にしたような遣り方であった。  そうは言っても、その実際に立入ってみると、どの興行者も決して人を馬鹿にしているどころではない、みな必死の血眼《ちまなこ》であったらしいが、何分にもその資金が思うにまかせず、興行の都度《つど》に高利の金を借りたり、四方八方から無理な工面《くめん》をして来たりして、どうにかこうにか初日をあけるという運びになるのであるから、万事が予定の通りにゆかない。したがって、初日の延びる場合もある。当てにしていた資金が調わないで、とうとう無期延期になってしまうような場合もある。その苦心惨澹、実に今日の人々の想像以上であったらしい。由来、芝居の興行というものは先ず儲からないものに決められていた。他国は知らず、少なくとも江戸ではそうであった。勿論そのうちに大当りの狂言もあって、莫大の利益を占めた例もないではないが、大体においては儲からない場合が多いので、芝居の座元などというものは皆その内証は苦しかったように聞いている。  明治時代になってもやはりその通りで、一回の興行に三日か四日も売切れると、世間では眼を丸くし、新聞でも麗々しく書き立てたものである。今から考えると、何だか嘘のようでもあるが、これを語っているわたしすらも、十七、八歳の頃までは、劇場というものは滅多に満員になるわけのものではない、七、八分ならば結構、五、六分ぐらいが普通であると思っていた。現に中村歌六は片岡|我童《がどう》や市川権十郎と一座して、土間《どま》の観客たった一人という芝居を演じた例があるといい、市川新十郎も観客三十六人という芝居に出逢《であ》ったことがあるという。それがみな東京のまん中の大劇場であるから驚くではないか。それらはもちろん極端の例ではあるが、そのほかにも土間が二側ないし三側ぐらいの芝居は決して珍らしくなかった。現にわたしもその実例をしばしば見せられている。  その頃の興行者はたとい自分がその劇場の持主の名儀になっていても、自分の資金で毎回興行しているのは甚だ稀れで、大抵は他から資金の融通を仰いで、どうにか興行をつづけているのであるから、その関係上、まず出勤俳優の顔触れと狂言とを定めて、それを金主(金方《きんかた》ともいう)に見せて、その承諾を得た上でなければ開場することが出来ない。興行の資金を出してくれる金主がその俳優や狂言に不満足で、そんな一座やそんな狂言では金を出すことが出来ないと頭をふれば、どうしても何とかそれを変更しなければならない。俳優はその人数に限りがあるから、全部を勝手に変更することも出来ないが、狂言の方は種々の事情で、一部あるいは全部の変更を余儀なくされる場合がある。お家騒動の狂言の金主になって、かつて儲けた経験のあるものは、今度も何かお家騒動の狂言を出してくれという。白浪《しらなみ》物の狂言で当てたものは、今度もなにか泥坊物を択《えら》んでくれと註文する。その註文を肯《き》かなければ資金を出してくれないのであるから、興行者はよんどころなしにその狂言を変更するようにもなる。それでも金主が一人の場合はまだしもであるが、二人、三人の小さい金主を寄せあつめた場合には、めいめいの註文が頗《すこぶ》る面倒になることもある。最初に発表した狂言が開場間際になっていろいろ変更するのは、こういう事情が直接間接に興行者を苦しめるためで、それが確かに有力なる原因の一つであった。  こう列《なら》べてみると、その頃の各劇場の初日が不確実であったのも、狂言が往々変更されたのも、興行者としてはまことにやむをえないことで、こういう苦しい事情のもとに、とかくに損耗の多い芝居をどうにか打ちつづけて、今日の隆盛時代に到達するまでの橋渡しをしてくれた、かの守田|勘弥《かんや》や中村善四郎のごとき人々は、明治以来の東京劇壇においてその名を忘るべからざる功労者である。いかに団十郎や菊五郎のような名優があっても、芝居をあけてくれる興行者がなければ、どうすることも出来ない。劇場経営が最も困難な時代に立って、悪戦苦闘をつづけて来た彼らの功績は、それに対して多大の敬意を払って、わが演劇の歴史に特記すべきものであると、わたしは常に思っている。借金政略とか借金興行とかいって、ただひと口に冷笑し去るべきではない。  その頃の芝居がなぜ儲からなかったかというと、その原因は実に簡単明瞭で、所詮《しょせん》は芝居を観る人の範囲が狭く、それに準じて観客が少なかったためである。入場料もまた廉《やす》かった。その廉い入場料が俄《にわ》かに騰貴して世間をおどろかしたのは、新富座の明治十五年六月興行で――座主の守田は負債のために、自分の名儀で興行する事が出来ず、猿若座の名を以《もっ》て開場したのである――出勤俳優は団十郎、菊五郎、左団次などの座附《ざつき》俳優は勿論、それに中村|芝翫《しかん》の親子、助高屋高助、大阪上りの市川右団次、嵐|璃寛《りかん》らも加入して、俳優の共進会と噂されたほどの大一座《おおいちざ》であっただけに、入場料の高くなるのもまた自然の結果で、桟敷《さじき》一間《ひとま》が四円五十銭というのであった。勿論、一間は五人詰であるから、一人の頭に割れば僅かに九十銭に過ぎないのであるが、その九十銭がその当時においては大問題で、芝居も馬鹿に高くなったと誰も彼も言った。しかもそれが例になって、芝居はその後も当分は桟敷一間四円五十銭、高土間《たかどま》一間三円五十銭、平《ひら》土間一間二円五十銭、ほかに敷物代として一間につき五十銭を取るのが先ず普通になってしまった。但しそれは新富座のことで、それより一格下がった他の劇場では、平土間一間一円五、六十銭から一円七、八十銭ぐらいが普通であった。  この俳優の共進会には、わたしの家内の者も例によってみな見物に行った。それが日曜日であったにもかかわらず、わたしは一緒に行かなかった。「霜夜鐘《しもよのかね》」の正本《しょうほん》以来、わたしは芝居の正本や筋書を読むのを好むようになったが、どうも普通の芝居見物にゆくのは気が進まなかった。わたしはやはり一人で留守番をして、おみやげの幕の内か口取《くちとり》の折詰めでも貰って、母や姉の口から芝居のはなしを聴かせてもらう方がむしろ楽しいのであった。  そこで、そのときも母や姉のみやげ話を聴くと、芝翫の武田信玄や、団十郎の上杉謙信や、菊五郎の山本勘助や、左団次の鬼小島弥太郎と旗持大蔵や、どれもみな立派なものであったらしかった。それはその後にも各座で上演される「川中島東都錦絵《かわなかじまあずまのにしきえ》」で、今でもこの狂言の噂を聞くたびに、わたしはそぞろに幼い昔が懐かしく思われてならない。わたしはその時ようよう十一歳の小学校生徒で、年のわかい女中とたった二人で留守番をしながら、格別にそれを寂しいとも思わないで、六月末の暑い一日を自分の家の庭に遊び暮らしていた事をまざまざと記憶している。四目垣《よつめがき》の裾には赤い百合が幾株も咲いていた。わたしは飛んでいる虻《あぶ》を追おうとして、竹切れでその花の一つを打ち砕いてしまった。となりの長唄《ながうた》のお師匠さんの家では、日曜日でも稽古三味線《けいこじゃみせん》の音がきこえた。来月の七夕《たなばた》には何か色紙を書くのだと言って、女中は午後から一生懸命に手習いをしていた。それに釣り込まれて、わたしも午後から机にむかって教科書を読みはじめた。こんな思い出がそれからそれへと湧き出して、これを書きながらも私はなんだか涙ぐましいような心持になるのである。  このときに、団十郎の弟新之助が大阪から戻って来て、市川|海老蔵《えびぞう》の名を継いだので、「川中島」の狂言のなかで団十郎と菊五郎とが猟夫になってその改名の口上《こうじょう》を述べ、海老蔵が山賊になって山神《さんじん》の社《やしろ》からあらわれて、柱巻きの見得《みえ》をしたとかいうことであった。この海老蔵はとかく多病で、舞台の上ではあまり捗々《はかばか》しいこともなく、それから四、五年の後――明治十九年の冬と記憶している――この世を去った。その葬式の当時、兄の団十郎はわたしの父にむかって、「弟は早く役者をやめさせて、もっとたくさんに本をよませて、狂言作者にすれば好《よ》かったのでした。」と悔むように語ったそうである。それは一面において、彼がいかに弟を愛していたかを示すと共に、一面においては彼がいかに新しい劇作家を渇望していたかを想像することが出来る。この話を聴いてから、団十郎に対するわたしの反感は頗《すこぶ》る薄らいだ。「片っ端から作者部屋へ抛《ほう》り込む」などと言ったのは、無礼でもない、乱暴でもない、彼の熱望を忌憚《きたん》なく正直に吐露したに過ぎないのであった。 「川中島」の次興行は十一月で、今度の狂言は「黒田騒動」と「矢の根五郎」と「朝鮮事件」だということであったが、わたしの家の者は誰も見物に行かなかった。その頃わたしの家では『東京日日新聞』と『有喜世《うきよ》新聞』とを購読していたが、新聞の評判は悪かった。殊に『有喜世新聞』では「黒田騒動」における右団次の浅川主水《あさかわもんど》の闇試合を評して、白痴《こけ》がさんま[#「さんま」に傍点]を持って二十五座を踊っているようだと罵倒したので、右団次|贔屓《びいき》の反感を買ったらしく、評者の伊東橋塘《いとうきょうとう》氏が暴漢に襲われて負傷したという記事もみえた。白痴が秋刀魚を持って――などは、もとより江戸っ子一流の悪口に過ぎないのであるが、ともかくも右団次の評判のよくないのは事実であるらしかった。それまでわたしは新聞の劇評などを一度も読んだことはなかったが、この記事について家内の人たちがいろいろの噂をするので、わたしも初めて読んで見た。そうして、それに一種の興味をおぼえて、その後は各劇場の劇評をことごとく読むようになった。わたしに対して正本を読むように導いてくれたのは、湯屋の番台の金さんである。劇評をよむように導いてくれたのは、『有喜世新聞』の伊東橋塘氏である。わたしとしてはこの二人の名をいつまでも記憶しなければならない。 [#改ページ] [#5字下げ]番附と絵本[#「番附と絵本」は中見出し]  東京では芝居の番附《ばんづけ》というものが震災以後いつとはなしに絶えてしまった。帝劇だけは依然として番附を発行していたが、ここの番附は創業以来特殊の形式をなしている小形の物で、在来の番附とは少しく違っていたから、江戸以来行なわれた芝居の番附というものは先ず消滅したといってよい。  実用の点からいえば、江戸以来の番附はあまり便利なものではない。勘亭流《かんていりゅう》の細字で役割を記してあるのがかなり読みにくい上に、古来の習慣として“捨役《すてやく》”なるものが附け加えられている場合が往々ある。たとえば、座頭《ざがしら》の俳優が実際においては一役か二役しか勤めていない場合でも、ほかに二役か三役かの役割が附け加えられてあるが、それはでたらめにこしらえた嘘の役割である。それであるから、それが誰も知っている狂言の場合には、どれが本役で、どれが捨役であるかを判別することも出来るが、馴染《なじみ》の薄い狂言や新狂言の場合には容易に見当が付かない。加藤清正とか家主長兵衛とか書いてあっても、その清正や長兵衛が果たして登場するのかどうだか判《わか》らない。それは座頭の俳優ばかりでなく、中軸《なかじく》や書出しや立女形《たておやま》や庵《いおり》などの位地に坐っている主なる俳優が皆それであるから、真偽|混淆《こんこう》でずいぶん困らせられたものである。  なぜそんな不便な習慣を作ったかというと、昔の番附は幕ごとの登場人物を記載するのでなく、書出し、中軸、立女形、座頭という風に、俳優の位地によって排列して、一人が一日中の登場役割を一つところに悉《ことごと》く列《なら》べて書くことになっていたので、たといそれが幕ごとに出るような重要な役を勤めていても、主要なる俳優が番附の上にただ一役というのでは、見た目がいかにも寂しいように感じられる虞《おそ》れがある。それを救うがために、捨役という有名無実のものを作り設けて、一人がいつでも三役か四役かを勤めるように見せかけたのが始まりである。明治以後もやはりその習慣をつづけて来たのであるが、明治二十二年十一月、歌舞伎座が新たに開場すると共に、その番附の用紙を改良し、一幕ごとに登場人物の役割をしるすことにした。無用の捨役は当然廃止された。これは番附の一進歩である。その方がたしかに便利であるので、他の劇場もおいおいにその例に倣《なら》うことになって、番附の体裁はすべて昔と変わった。そうして、震災当時まで三十余年を経て来たのであるが、震災以後それがまたいつか廃止されて、今日では薄っぺらな西洋紙に粗悪な印刷を施した、見るからに安っぽいプログラム式の物になってしまった。進歩か退歩か、外国流か、いずれにしても番附の一変化である。  さて、こうなって来ると、便利とか不便利とかいうことを第二として、われわれのように旧東京育ちの人間には、むかしの番附というものがおのずと懐かしくもなって来る。むかしの番附――殊《こと》に歌舞伎座以前の番附は特に上等というべき物ではない、中にはずいぶん粗悪な日本紙を用いていたのもあって、木版の印刷の加減で一種のいやな匂いを放つのもあった。しかも番附の匂うときには、その芝居はきっと大当りであるなどという伝説もあって、芝居好きの人々は新しい番附の墨の匂いを喜んで嗅《か》いだものである。こんな馬鹿馬鹿しいことは、殆んど今の若い人たちには想像も付くまい。  式亭三馬《しきていさんば》の「客者評判記」のうちに、襟巻をした町人らしい人物が炬燵《こたつ》を前にして、春狂言の番附を見ている挿画がある。その画面をここで詳しく説明することは出来ないが、歳の暮に春芝居の番附をうけ取って、今度の狂言はどうであろうかとか、今度の役割はどうであろうかとか、胸の中にいろいろの想像を描きながら、来る春を楽しく待つという、のびやかな気分が、いかにも好《よ》く現われていたように記憶している。勿論、文化文政度の江戸時代の人間と、今日の人間とは一緒になるはずもないが、せめて芝居の番附にむかった時などは、やはり昔のような一種の落着いた暢《のび》やかな気分でありたいと思う。それには必ずしも昔風に限ったこともないが、何とかもう少し芸術的の番附を工夫してもらいたいと思うのである。狂言の名題《なだい》と役割と、入場料と開場時間と、食堂の鮨《すし》や弁当の値段さえ判ればそれで好いというような、今日の安っぽいプログラム式の番附では、単に用が足りるというだけのことで、芝居らしい気分も、暢やかな気分もとうてい浮かみ出して来そうもない。  それに連れて、今日の観客は、何だかざわざわして一向に落着きのない、しんみりと芝居を味わおうという心持のない、むやみにテンポの早い芝居をよろこんで、幕が下りたら廊下へかけ出して、早く煙草を喫《す》おうとか、食堂へ飛び込んで何か食おうとか、待ち構えているようなふうになって来た。いわゆるスピード時代で、世の中が忙がしくなって来たのだといえばそれまでであるが、劇場側でもまたその註文に応じるように、何でもハイスピードでばたばたと片付けることを工夫するようになって来た。わたしたちのような老人の眼から観ると、今日の劇場と観客とは、安インキの薄っぺらなプログラム一枚によって、よく象徴されているように思われる。  前にもいう通り、以前はどこの劇場でも毎月開場するなどということは決してない。したがって、好劇家にはその開場が待ち遠しいこともある。新聞の紙上などには、どこの劇場は来月何日ごろ開場するそうだ、というような芝居だよりがちらほら現われても、それがなかなか実現しない。そのうちに馴染《なじみ》の芝居茶屋の若い者や劇場の出方《でかた》などが番附を配って来る。それは郵便のように門口《かどぐち》から投げ込んでゆくのではない。裏口か表口から丁寧に案内してはいって来て、暑さ寒さの挨拶を述べた上で、いよいよ何日から芝居が明きますから御見物をねがいますと言う。こちらは待ちかねているところであるから、今度の狂言の噂や俳優の噂や、それからそれへといろいろのことを訊《き》く。ひまな時には内へ呼びあげて、三十分も一時間も話しているようなこともある。勿論、幾らかの祝儀をやる。そうして、何日頃に見物にゆくという日取りを予約して出かけるのである。好い客先へは若い者をよこさず、茶屋の女房などが自身に番附を持参するのもある。わたしの家へは、新富座の茶屋の菊岡、市村座の万金などの若い者が番附を配って来た。夏などは木戸口から庭先へ通って、縁側に腰をかけて父と話していたのを、子供ごころに記憶している。わたしは菊岡の若い者に連れられて、近所の絵双紙屋《えぞうしや》で三枚つづきの似顔絵を買って貰ったことがある。その頃のわたしには何んにも判らなかったが、父に取っては定めて高価の似顔絵であったことと察せられた。  こういう風に、甚だ手数もかかり、無駄な費用もかかる代りに、そうして受取った一枚の番附は、二銭切手の開き封で投げ込まれた今日のプログラムとは、受取った者の感じが全然相違することは争われない。一家内が集まってその番附を丁寧に見る。近所の知人にも貸してやる。そうしてまた、丁寧に綴じ込んで保存して置くという次第で、好劇家に取っては一種の宝物であるかのようにも珍重されたのである。こうして保存されたればこそ、その番附によって今日の我々が江戸時代または明治初年の演劇研究の上に、多大の便宜を得ていることを知らなければならない。わたしの家にも明治初年の古い番附が相当に保存されていたが、かの大震火災でみな灰にしてしまった。  むかしは番附のほかに絵本というものがあった。つまりは番附を書き直して、幾枚かの小さい綴本《とじほん》にしたもので、劇場内で用いる番附は皆この絵本に限られていた。普通の一枚刷の番附では大きくて不便なためであろう。したがって、一枚刷の番附は前にいったように芝居茶屋や出方が客先へ配るか、または辻番附と唱えて市内の辻々や湯屋|髪結床《かみゆいどこ》などへ広告用に懸けて置くだけのことで、芝居見物に行った場合には、別にかの絵本をうけ取ることになっていた。  絵本の特色は、狂言の名題や役割以外に、狂言作者や、チョボの浄瑠璃《じょうるり》を語る太夫や、長唄《ながうた》の一座や、それらの連名を記入してあることで、普通の番附には狂言作者の名などを記さないのが例である。たとえば、ここに「東海道四谷怪談」という狂言があっても、番附を見ただけでは誰の作であるか判らない。絵本を見れば、その終りに狂言作者として、鶴屋南北《つるやなんぼく》その他の連名が記入されているから、ここに初めて「四谷怪談」はその立作者《たてさくしゃ》たる鶴屋南北の作であることが見出だされるのである。こういうわけで、普通の番附とほぼ同様の物でありながら、絵本にはまた絵本の特色を有しているので、番附と絵本とを双方対照して見なければ本当の研究は出来ない。  その絵本は江戸時代から明治に至るまで継続していたが、活版がひろく行なわれるに連れて、明治十五、六年頃から筋書というものが新たに発行されるようになった。それは文字通りに、狂言の筋書を簡単に書いて、彩色の似顔絵の表紙を付けたものである。しかも従来の絵本が廃止されたわけではなく、番附のほかに絵本と筋書とが暫《しば》らく相並んで行なわれていたのであるが、何といっても絵本と筋書とはやや重複する嫌いがあるので、絵本はいつか衰えて筋書のみが行なわれるようになった。それがまたすこし体裁をあらためて、今日の筋書となったのである。  絵本がまずほろび、次に番附が亡《ほろ》びて、江戸以来のおもかげは消滅してしまったのであるから、今後の研究者は筋書に拠《よ》るか、あるいは『歌舞伎新報』とか『演芸画報』とか『歌舞伎』とかいうような劇専門の雑誌によるのほかはあるまい。それにつけても、古い絵本や番附のたぐいは、今のうちに何とかして蒐集保存の方法を講じて置きたいと思う。 [#改ページ] [#5字下げ]団十郎の活歴[#「団十郎の活歴」は中見出し]  明治十六年の正月三日であった。なんだか陰《かげ》って寒い日で、わたしが横町から紙鳶《たこ》をひき摺《ず》って帰って来て、ひる飯を食っていると――江戸時代の武家では、玄関から案内を乞う来客に対しては、女が取次ぎに出ないのが普通であった。わたしの家などにはその習慣が残っていて、玄関口の案内にはいつもわたしが出ていたのである――玄関で案内を求める声がきこえるので、大かた年始の客であろうと思って、わたしは箸を抛《ほう》り出して直ぐに出てみると、双子《ふたこ》の羽織を着た芝居者らしい男が立っていて、築地の成田屋からまいりましたが、直ぐにおいで下さいという。父は年始まわりに出ているので、いつごろ帰るか判《わか》らないと答えると、男はそのまま帰ってしまった。  わたしは再び横町へ出て紙鳶をあげていると、もう午後二時を過ぎた頃であろう。先刻の男がまたここを通りかかって、父はもう帰ったかと訊《き》いたが、わたしは外へ出ているので知らないと答えると、男は再びわたしの家の方へ行ったらしかった。あとで聞くと、その時には父もちょうど帰っていて、すぐに築地へ出向いたとのことであった。  築地の成田屋といえば団十郎の家に相違ないが、なんの用で正月早々からうるさく呼びに来るのかと、母や姉が噂をしていると、日が暮れてから父は帰って来た。その話によると、団十郎は小中村清矩《こなかむらきよのり》、黒川真頼《くろかわまより》、川辺御楯《かわのべみたて》などという人たちをあつめて、“求古会”というものを作ることになって、父もその会員の一人に加えられた。そこで、きょう突然にその第一回の会合を団十郎の自宅で催すことになったので、使の者が手分けをして方々へ迎いに行ったのであるが、何分にも突然のことであり、かつは正月の三日というのであるから、ちょうどに自宅に居合わせた人は少なく、使の者はそれからそれへと出先をたずね歩いて、ひどく困ったということであった。  団十郎がなぜこんな会を作り出したかというと、それは彼《か》の“活歴《かつれき》”を作り出す準備で、彼はその会員を顧問として、有職故実《ゆうそくこじつ》を研究しようと企てたのである。会員の名は一々記憶していないが、最初は六、七人で、後には十二、三人に上《のぼ》ったらしい。その結果として先ず現われたのは河竹黙阿弥作の史劇「二代源氏誉身換《にだいげんじほまれのみがわり》」で、仲光の身がわりを脚色したら好《よ》かろうという原案は、求古会員から提出されたらしかった。  団十郎のいわゆる活歴なるものは、この時に創まったのではない。遠く明治七年の河原崎座における「新舞台巌楠《しんぶたいいわおのくすのき》」の楠正成《くすのきまさしげ》にはじまり、更に明治九年の中村座における「牡丹平家譚《ふうきぐさへいけものがたり》」の重盛《しげもり》に至って、いよいよその熱を高めたと伝えられているが、彼が求古会員を顧問として徹底的の活歴劇上演をこころみたのは、まさにこの「二代源氏」の仲光であったと言ってよい。それが新富座の舞台の上に持ち出されたのは、翌十七年の四月の末であった。今日《こんにち》から観れば、その脚本の内容にも、舞台装置にも、衣裳小道具のたぐいにも、なんら新奇の点を見出だし得ないようであるが、その当時においては殆んど前代未聞の椿事《ちんじ》であるかのように、好劇家の眼をおどろかしたのであった。  仲光の脚本がどんなものであるか、今あらためて説明するまでもあるまい。『前太平記《ぜんたいへいき》』を殆《ほと》んどそのままに脚色したもので、やはり従来のチョボの浄瑠璃《じょうるり》を用い、合方《あいかた》や鳴物《なりもの》を用い、台詞《せりふ》も主に七五調を用い、その形式は従来のものと変わらないのであるが、いわゆる活歴の趣意によって、その脚色は努めて史実を離れないのを専一とし、衣裳道具のたぐいも努めてその時代の風俗に則《のっと》ることにしたので、ともかくもその外形だけは著るしく変わったものになって、在来の芝居を見馴れていた観客は確かにおどろかされた。それに対する毀誉褒貶《きよほうへん》はまちまちで、在来の芝居を一途《いちず》に荒唐無稽《こうとうむけい》と罵《ののし》っていたその当時のいわゆる知識階級と一部の半可通《はんかつう》とは、今後の演劇は当然こうならなければならないもののように賞讃した。在来の芝居に強い執着を持っている江戸以来の観客は、これを一種の邪道のように認めて、ある者は痛罵《つうば》した。ある者は冷笑した。  この芝居はわたしも母や姉と一緒に見物したが、一番目は「満二十年息子鑑《まんにじゅうねんむすこかがみ》」という徴兵適齢を取扱った散髪《ざんぎり》物で、頗《すこぶ》る面白くない物であったように記憶している。さて中幕の「仲光」二幕も実のところ、わたしには一向に面白くなかった。周囲の観客もみな退屈そうな顔をしていた。しかも今日の或る芝居に見るような、いわゆる“観客が沸く”というようなことは少しもなかった。土間桟敷《どまさじき》は勿論、大向《おおむこ》うの立見の観客に至るまで、みな神妙におとなしく見物していた。それはこの劇の主人公が団十郎であったためでもあろう、また一面にはただ何がなしに烟《けむ》に巻かれてしまったためでもあろう。その理由は種々であるに相違ないが、わたしの見るところでは、その当時の観客は多く礼儀をわきまえていたというのが第一の原因であったらしく思われる。  勿論、江戸以来の習慣で、成田屋とか高島屋とか声をかける人は沢山《たくさん》あった。しかしその以外に一種の悪褒めをするような観客は極めて少なかった。たまたまそういう人があれば、それがいつまでも話し草になって、世に残るくらいのものであった。平民的に発達した芸術とはいいながら、父より子へ、子より孫へと、何百年来養成されて来た観客は、劇場内における一種の礼儀というものをおのずからに心得ていた。鎮守の奉納相撲や野天芝居を見物するような料簡で、江戸の劇場の木戸をくぐった者は一人もなかった。その余風が江戸から東京へ伝わって、明治の初年までは残っていたので、殆んど“前代未聞の椿事”ともいうべきこの活歴芝居に対して、たといその内心では、何と感じていようとも、表面は比較的冷静の態度を維持していることが出来たのであろうと、わたしは判断している。  劇場の観客の行儀が最も悪かったのは、明治の末年から大正十年前後にわたる約二十年間であったと思う。その原因は、団菊左というような名優が殆んど同時に世を去ったので、観客はおのずから舞台の上を侮るような気味になって、ひやかし半分にわいわい騒ぎ立てるようになったのと、もう一つは、前は日露戦争、後は欧州大戦の好景気のために、今まで劇場内へ足を入れなかったような客が俄《にわ》かに殖えて、それらが一杯機嫌などでむやみに騒ぎ立てるので、それがまた一種の群衆心理を醸《かも》し成して、劇場へゆけば皆騒ぐものというような悪い習慣を作ってしまったらしい。その習慣もだんだんに改まって、このごろの観客は以前に比べると頗《すこぶ》る行儀が好《よ》くなった。そうして、真面目に芝居を見物しようとする人の多くなったのは、まことに結構なことである。  団十郎の活歴なるものは毀誉褒貶まちまちであったが、大体においては余り歓迎されなかった。そもそもこの“活歴”なる熟字は団十郎自身が命名したのではない、求古会員が製造したのでもない。単に歴史をありのままに見せるに過ぎないという、一種の冷罵《れいば》を意味している名称で、絵入新聞に仮名垣魯文《かながきろぶん》がこう書いたのが嚆矢《こうし》であるとか伝えられている。いずれにしても、そうした悪意の名称がたちまち世間に伝播《でんぱ》して、今日に至るまでも取消されないのを見ても、かの活歴なるものが世間一般から好感を以て迎えられなかったことが想像される。勿論、今日では殆んど何の意味もなしに、単に因習的にそう呼ばれているのであるが、最初の名付け親は決して好意を以て活歴の名をあたえたのではなかった。それを伝播した人たちもまた好意の所有者ではなかったのである。  しかし団十郎はさすがに相当の自信を持っていた。彼はそれらの不評に屈服することを肯《がえん》じないで、ますます進んでその活歴なるものを観客に紹介しようと試みたのである。その年の十一月、彼は浅草の鳥越《とりこえ》に新築された猿若座の開場式に出勤して、「北条九代名家功《ほうじょうくだいめいかのいさおし》」を上演した。これは高時の天狗舞と義貞の太刀流しとを黙阿弥が脚色したもので、団十郎はむしろ義貞の方を得意としていたらしく、求古会員と相談して、その鎧《よろい》兜《かぶと》などを念入りに吟味し、更に松岡緑芽《まつおかりょくが》に依頼して太刀流しの図を描かせ、奉書刷りの一枚絵にして知己に配ったりした。しかも舞台の上では高時の方が好評で、義貞の方はその後復活の機会をうしなった。  この高時の好評が彼をしていよいよ得意ならしめたばかりでなく、活歴嫌いの観客も少しく我《が》を折って来たらしく、その活歴を謳歌する人々もだんだんに現われた。しかし一面にはやはり好感を持っていない人々もあると見えて、ここに一つの問題が起こった。わたしは子供の頃で、詳しくその事情を知らないが、当時の『歌舞伎新報』にポンチ絵のようなものが掲載された。それは高時の天狗舞の図で、一見しては別に仔細《しさい》もないようであるが、高時が団十郎の似顔にかかれてあるのは勿論、それをひき廻している天狗どもが、すべて求古会員に擬《なぞ》らえてあるというのであった。天狗の数も会員と同数で、かの絵さがしと同じように、その天狗の顔や翼をたどって行くと、会員の苗字がことごとく平仮名で現われるということを誰かが発見した。つまり団十郎が求古会員に翻弄《ほんろう》されているという諷刺であるというので、本人の団十郎がまず怒った。求古会員もこれは怪《け》しからんと言い出した。詮議の結果、それは狂言作者の一人で『歌舞伎新報』の編集者たる久保田彦作の仕業《しわざ》に相違ないと決められて、久保田氏がその抗議の矢おもてに立つ事になった。実際それが久保田氏の仕業であったかどうかは判らないが、ともかくもそれを掲載した雑誌の編集者たる責任上、同氏から鹿爪《しかつめ》らしい謝罪状を提出して事済みになったそうである。その当時、わたしの家ではもう『歌舞伎新報』の購読をやめてしまっていたので、どんな絵が出ていたのか、わたしは知らなかった。  ついでに言うが、この求古会なるものは団十郎の世を終るまで約二十年間継続していた。はじめは毎月あるいは隔月ぐらいに団十郎の自宅で開会していたが、二年ばかりでやめてしまって、会員は単に団十郎の出勤する劇場を見物し、幕のあいだにその部屋を訪問するだけになった。見物の場所はかならず土間の四と決まっていて、団十郎の方から日をきめて案内状を送って来た。その費用はすべて団十郎の負担であったが、それでは気の毒だというので、場所だけは彼の負担とし、飲食物その他は会員の自弁ということになった。案内状には必ず堀越秀という本名を記し、最初の二、三回は本人の直筆であったが、その後は狂言作者の竹柴瓢三の代筆になったということである。 [#改ページ] [#5字下げ]千歳座見物[#「千歳座見物」は中見出し]  わたしは明治時代の演劇史を書いているのでなく、単に一種の物語を述べているに過ぎないのであるから、自分の見ないことや聞かないことや、自分に全然無関係のことは書かないことにしている。したがって、話は一足飛びに飛び越してしまうことがあるかも知れない。それは重ねて断わって置く。  団十郎のことは前に書いたが、わたしが五代目菊五郎という人を舞台以外で初めて見たのは、明治十八年の一月、久松座が改築して千歳座《ちとせざ》と改称した舞台開きの時であった。狂言は一番目が「碁盤忠信《ごばんただのぶ》」、二番目が「筆売幸兵衛《ふでうりこうべえ》」で、一番目には団十郎の「静《しずか》の法楽舞《ほうらくまい》」と「山伏摂待《やまぶしせったい》」という余り面白くないものが付いていた。この芝居見物については、わたしにいろいろの思い出がある。  まず第一に、そのころ十四歳のわたしは千歳座のありかを知らなかった。日は忘れてしまったが、なにかの都合で父はひと足先へ出て行って、わたしはあとから行くことになった。麹町から久松町まで人力車にも乗らないで歩いて行ったが、さてその新築の劇場のありかが判《わか》らないので、わたしはまごついた。よんどころなく交番所の巡査に訊《き》くことになったが、日本橋のまん中で劇場のありかを訊くのはあまり田舎者じみていると、子供ごころにも極《き》まりが悪く思われたので、わたしは巡査にむかって、青木活版所というのは何処《どこ》ですかと訊いた。それは青木輔清という人の経営している活版所で、千歳座の近所にあるということを私はかねて知っていたからであった。すると、巡査は「青木活版所……それは千歳座のうしろにある。」と教えてくれたので、わたしはひどく困った。いや、その千歳座が判らないのですと言いにくくなったので、早々にそこを逃げ出して再びそこらをまごついていると、丁度に芝居の出方《でかた》か茶屋の若い衆らしい男に出会ったので、わたしは思い切って千歳座のありかを訊くと、その人はあたかもわたしのゆく茶屋――中村屋の若い衆であったので、わたしはほっと息をついた。あとでその話をすると、子供のくせに詰まらない見得《みえ》をするから悪い、なんでも知らないことは正直に訊くものだと、父や母に叱られた。  こんなことで途中をまごついていたために、わたしは「碁盤忠信」の序幕と二番目を見はぐってしまったが、菊五郎は病気か何かで、二番目の吉野山の義経は家橘《かきつ》が代っていたらしい。「山伏摂待」の幕のあく前に、求古会員が繋がって団十郎の部屋を訪問することになったので、わたしもそのあとに付いて楽屋にはいった。わたしは「赤松満祐」当時の第一印象がよろしくなかったので、団十郎の談話などを聴くのを好まなかったのと、きょうは求古会の先生方が大勢ならんでいるのとで、わたしは末座のうしろの方に小さくなって控えながら、むなしく其処《そこ》らをきょろきょろ眺めたりしていたので、皆んなが何を話していたか能《よ》くは記憶していない。しかし団十郎のからだの都合であろう、きょうは案外に話が早く済んで、約十五分間の後にそこを出ると、俳優らしい若い男が廊下に待っていて、我々になにか声をかけた。それは菊五郎の弟子で、自分の部屋へもちょっと寄ってくれというのであった。  かれに案内されて、更に菊五郎の部屋にはいって、わたしは面長で、色の白い、年の割には頭の薄く禿《は》げかかっている、四十歳ぐらいの俳優の顔を初めて見た。団十郎の口の重いのに引きかえて、彼は極めて流暢《りゅうちょう》な江戸弁でそれからそれへと休みなしに話しつづけた。その愛嬌《あいきょう》に富んだ眼を絶えず働かせているのも、わたしの注意をひいた。そのなかでわたしの記憶に残っているのは、求古会のある人が彼にむかって、今度の代り役の義経は本役よりも評判が好《い》いようだと言うと、菊五郎は急に真面目になって、「ほんとうですかえ、本当ですかえ。」と念を押した上に、晴れやかな笑顔をみせながら、こんなことを言った。 「そりゃあ有難いことです。わたくしは下手《へた》でも上手《じょうず》でも、まあまあこれで押して行かれますが、弟はこれから皆さんのお引立てを願わなければならない体ですから、評判が好いのは何よりです。まったく兄貴より巧《うも》うござんすかえ。そりゃあ有難い、有難うございます。」  彼はにこにこしながら幾たびか頭を下げた。かれは本心からそう考えたのか、あるいは如才《じょさい》ない人間でそう言ったのか。もしその代り役が自分の弟の家橘でなかったならば、彼はなんと言ったか。それはもちろん想像の限りでない。求古会の人たちは楽屋を出てから、「音羽屋《おとわや》は相変わらず如才がない。」と言っていた。いずれにしても、弟が自分の代り役をつとめて、自分よりもかえって好評であるというのを聞いて、ひどく嬉しそうな笑顔をみせていた彼に対して、わたしは決して悪い感じを持つことは出来なかった。その以来、わたしは何だか彼をなつかしい人のように思って、菊五郎の部屋ならばもう一度行ってみたいと望んでいたが、その後にはそうした機会に恵まれなかった。わたしが舞台以外で五代目菊五郎という人と向かい合ったのは、これが見始めの見納めとなった。それだけにこの「筆売幸兵衛」という狂言は、わたしに取って思い出の多いものの一つとなっている。  もう一つの思い出は、この劇場の廊下で中学の教師に出会ったことである。彼は生徒間になんだか獣《けもの》に縁のあるような綽名《あだな》を付けられている若い人で、その時はただ挨拶して別れただけであったが、その後わたしが学校の予習などを怠ると、彼はかならず私を嚇《おど》して「君はまた芝居へでも行ったのだろう。」という。それが他の教師間にも洩れて、わたしが何か叱られる時には、とかくに芝居を引合いに出されるので、わたしは内心すこぶる憤慨したが、ぐずぐず言って退校でも命ぜられては大変だと思って、いつもおとなしく聴いていた。現に学校の運動場で雪ぶつけをして、あやまって教室の窓硝子《まどガラス》一枚を毀《こわ》したときにも、ある教師はわたしを叱って、「学校と芝居とは違うじゃないか。」と言った。どういう理窟だか判らなかったが、わたしは素直にあやまって置いた。こんな事情で、わたしはその以来、芝居見物にゆくにはよほどの警戒を要することになった。こんなことを言うと、今の若い人たちは嘘だと思うかも知れないが、実際その頃に芝居見物などに行くものは、今日のいわゆる不良学生とかいうものと認められたらしい。  一方にそういう圧迫を受けながらも、わたしの芝居熱はだんだんに高まって行った。ほんとうの俳優の演ずる芝居というものは、定さんの茶番や大奴さんの踊りのたぐいでないということがはっきりと判って来た。しかしいつもいつも父や母の腰巾着《こしぎんちゃく》で行くというわけにも行かないので、わたしは年相応に金のかからない芝居を見てあるくことを考え出した。  そのころ大芝居、即ち大劇場と認められていたのは、まず新富座を筆頭として、日本橋久松町の千歳座、浅草|鳥越《とりこえ》の中村座、浅草|猿若町《さるわかまち》の市村座、本郷春木町の春木座、少しく下がって中芝居と認められたのは、本所相生町の寿座《ことぶきざ》、四谷荒木町の桐座、日本橋|蠣殻《かきがら》町の中島座の三座で、その他はみな小芝居であった。金のかからない芝居を見ようと思えば、小芝居へ行くほかはないので、わたしの足はだんだんに小芝居の方へ向かうようになった。 [#改ページ] [#5字下げ]鳥熊の芝居[#「鳥熊の芝居」は中見出し]  劇場に大小の区別をつけて、大劇場といい、小劇場というようになったのは、明治二十三年以後のことである。その以前は、芝居といえば大芝居すなわち大劇場を意味し、小芝居は道化手踊《どうけておどり》という名儀で興行していたのであるから、普通には鈍帳《どんちょう》芝居と卑《いや》しまれて、殆《ほと》んど問題にもされなかったのである。その俳優は旅役者の果てもあれば、小芝居|根生《ねお》いの者もあったが、またそのうちには何かの事情で大芝居から小芝居へ流れ落ちた者もまじっていて、そこに侮るべからざる腕利きを見出だすこともあった。  いつの代にも観客は大芝居の客ばかりでない。殊《こと》に活動写真などというものの見られない時代であるから、それらの小芝居も下級の観客を迎えて、皆それぞれに繁昌していた。今これを語っている明治十八、九年頃に、小芝居として最も繁昌していたのは、牛込の赤城座、下谷の浄瑠璃座、森元の三座などで、森元の三座とは盛元座、高砂座、開盛座をいうのである。わたしは盛元座と高砂座へたびたび見物に行った。木戸銭は三銭ぐらいで、平土間《ひらどま》の大部分は俗に“追い込み”と称する大入り場であったから、腰弁当で出かければ木戸銭のほかに座蒲団代の一銭と茶代の一銭、あわせて五銭を費せば一日の芝居を見物することが出来たのである。盛元座の座頭《ざがしら》は市川団升、高砂座は坂東勝之助で、団升も勝之助も大芝居から落ちて来た俳優であった。  その当時の鈍帳芝居なるものは、同じ小芝居とはいいながら、今日の小劇場とは全くその構造を異にしていた。鈍帳芝居には本花道を設けることを許されないので、今日の帝劇の花道を更に短くしたようなものを、下手《しもて》から舞台へかけて斜めに作ってある。東の花道はまったくない。廻り舞台も許されないので、場面の変わるごとに幕にするか、あるいは引道具にするのである。幕を横に引かないで、上から吊り下ろすのである。こんな構造も今日から考えると別に不思議でもない、むしろ新式として歓迎されるかも知れないのであるが、その当時にあっては、花道のないこと、舞台の廻らないこと、幕の下りること、それらが甚だ不自由らしくもあり、見そぼらしくも感じられて、鈍帳芝居の卑しさと惨《みじ》めさとが沁々《しみじみ》思い知られるようであった。場内は無論に狭い。畳も座蒲団も実に穢《きたな》い。座蒲団などは汚れてじめじめしている。その頃、大劇場ではすでに瓦斯《ガス》の灯を用いていたが、鈍帳芝居にはそんな設備がないので、雨天の甚だ暗い日や日暮れ方の暗いときには、昔風の蝋燭《ろうそく》を舞台へ差出して、かの“面明《つらあか》り”をみせていた。幕間《まくあい》には五銭の弁当や、三銭の鮨《すし》や、一銭五厘の駄菓子や塩せんべいなどを売りに来た。わたしは一個八厘の樽柿《たるがき》をかじりながら「三十三間堂」のお柳の別れを愉快に見物したことを記憶している。  今日では、どこの劇場も殆《ほと》んど毎月のように競って開場しているが、前にもいう通り、大劇場は一年にようやく三、四回ないし四、五回の興行に過ぎない。毎月狂言を差替えて打ちつづけているのは鈍帳芝居に限るので、狂言の数を覚えようとするには頗《すこぶ》る便利であった。鈍帳芝居、鈍帳役者、鈍帳芝居の観客――その当時では頗る下等のものとして卑しめられていたのであるが、その内容こそ違え、今日の大劇場の舞台の構造や興行法や、それらはだんだんに昔の鈍帳芝居に似寄って来るようである。むかしの鈍帳芝居が進歩していたのか、今の大劇場が退歩しているのか、思えば一種の興味がないでもない。鈍帳芝居は休みなしであるから碌々《ろくろく》に稽古《けいこ》もしないというのが、鈍帳役者の軽蔑される一つの原因であった。むかしの観客は稽古の積まない芝居を見せられるのを甚だ嫌ったらしい。この心は今の観客も持っているはずだと思うが、現在の状態で押して行くときは、これも昔の鈍帳式に後戻りしそうな虞《おそ》れがないとは言えない。  小芝居を説いたついでに、更に語らせて貰いたいのは、わたしと鳥熊の芝居との関係である。と言って、わたし自身も、またわたしの一家も、直接に鳥屋の熊吉氏と何の交渉を有していたのではないが、劇というものに対して少年時代のわたしの知識欲を満足させてくれたのは、かの鳥熊氏の賜物《たまもの》であることを感謝しなければならない。  熊吉氏の姓は知らない。そのむかし大阪で鳥商を営んでいたというので、一般に鳥熊と呼ばれていた。彼は大阪俳優を率いて九州地方を巡業した経験もある男で、どういう機会にどういう契約を結んだのか知らないが、明治十八年の四月、大阪俳優の一座をひき連れて上京し、本郷の春木座に根城をかまえて、五月から開場した。春木座は後の本郷座の前身で、以前は団十郎も出勤し、その後には市川右団次、市川権十郎なども出勤していたのであるが、とかくに景気が悪くて小屋も腐りかかったところへ、かの鳥熊が乗込んで来たのである。一座の俳優は市川福之丞、市川駒三郎、嵐鱗昇、市川鯉之丞、尾上松寿、中村竹三郎などであった。  単にこれだけのことであれば、鳥熊の芝居も取立てて語るほどの価値もないのであるが、この芝居が非常に成功して毎回大入りをつづけたのは、その興行がよほど風変わりであったためである。大劇場の興行は一年わずか三、四回で、毎月欠かさずに開場するのは彼《か》の鈍帳芝居にかぎられていた。然《しか》るに、この鳥熊の春木座は廻り舞台も花道も持っている立派な大劇場であるにもかかわらず、毎月かならず狂言をさし換えて開場した。そうして、桟敷《さじき》と高土間《たかどま》は格別、平《ひら》土間は四の側ぐらい以後を大入り場として全部開放した。つまり彼の鈍帳式の興行法を大劇場に応用したもので、それが大いに人気を呼んだのであった。  第一には入場料の廉《やす》いことである。大入り場は一人六銭で、序幕のあかない前に来たものには半札をくれ、それを来月の興行に通用することが出来るというのであるから、今月の半札を持参すれば、来月の芝居は半額の三銭で観られるのである。いかに物価の廉い時代でも、入場料三銭で大劇場を一日見物することが出来るのであるから、廉いが中にも廉いものに相違なかった。もちろん弁当持参は随意であるが、かの鈍帳芝居とおなじように、弁当や菓子などを場内でも売らせていた。この座の特色としては、在来の男の出方《でかた》を全廃して、場内の案内や食物の世話などは、すべて若い女に扱わせていたのである。これは上方《かみがた》式に拠《よ》ったのであろうが、東京の劇場内でいわゆる“女給”なるものを採用したのは、ここが新しい記録《レコード》といってよい。この女給をすべて“お梅さん”と呼ばせて、観客が何かの用のある場合には、大きな声でお梅さんお梅さんと呼び立てると、そこらからお梅さんが駈けて来て、その用を聞いてくれた。開演中に赤ん坊などが泣き出すと、お梅さんはその児《こ》をすぐに負い出して、廊下で子守唄などを歌いながらあやしているのをしばしば見た。お梅さんは、冬は黒木綿、夏は中形《ちゅうがた》の浴衣《ゆかた》の揃いを着ていた。  雨天の日には観客の下駄を洗ってくれるというのも、この座の特色であった。電車などのない時代であるから、雨の日に遠方から来る客の下駄は泥だらけである。それを一々に洗ってくれるのであるから、観客たるものは大いに感謝しなければならない。殊に我々のような書生の履物――実に手も着けられないような泥下駄まで綺麗《きれい》に洗ってくれるのであるから、少々痛み入らざるを得なかった。そのほかにも俄《にわ》か雨《あめ》のときには番傘を貸していたが、これは久しく借りて返さぬという不徳義の連中が多いためか、やがて廃止になってしまった。  今日、各劇場の前を通ると、そこらにむらがって開場を待っている観客をしばしば見る。雨のふる日、暑い日、寒い日などには、ずいぶん気の毒にも思われるが、その昔、かの鳥熊の芝居見物に出かけた我々の艱苦《かんく》にくらべると、殆んどその十分の一にも足らぬように思われる。鳥熊の春木座は午前七時に開場して、午後四時ごろに閉場することになっていて、開場の一時間前から客を入れるのであるが、その午前六時頃に行ったのでは、とてもはいられない。少なくとも午前五時頃までに詰めかけていて、なるべく木戸に近いところに立ち明かしていなければならない。そうして、木戸のあくのを待ち兼ねて、何百人だか何千人だか知れない観客が我がちにどっと押合ってはいろうとする。劇場の方では下足をつける都合があるので、木戸口をあまり大きく明けない。その狭い口から一度に押込もうとするのであるから、押される、揉《も》まれる、突かれる、女や子供は悲鳴をあげる。実に阿鼻叫喚《あびきょうかん》ともいうべき苦しみを凌《しの》いで、半分は夢中でどうにかこうにか場内へ押込まれて、やれ嬉しやと初めてほっと息をつくという始末。今にして考えると、実にばかばかしくも思われるのであるが、その当時の我々はそうした地獄の責め苦を辛抱して、無類に廉い大劇場の観客となり得ることに満足していたのであった。  こういう好景気であるために、大阪からは更に中村芝鶴が上《のぼ》って来た。それが故人坂東彦三郎のおもかげがあるとかいうので、また一層の人気を高めた。続いて中村駒之助、市川右田作なども上京した。後には東京側から市川九蔵も加わることになって、春木座の評判はいよいよ高く、他の大劇場は一時これに圧倒されるほどであった。  わたしは春木座へ殆んど替り目ごとに通った。麹町の元園町から本郷の春木町まで徒歩で通って、そうしてなるべく木戸前に近いところに立っていようというのであるから、午前四時あるいは三時頃から自宅を出ることは珍らしくなかった。今と違って、神田の三崎町は三崎の原という大きい草原で、そこには人殺しや追剥《おいは》ぎの出来事がしばしば繰返された。その当時十四、五歳のわたしは、道連れもなしにその暗い寂しい草原を横ぎって、水道橋から本郷へのぼってゆくと、お茶の水の堤には狐の声がきこえた。わたしは小さい肩をすくめて、朴歯《ほおば》の下駄をかちかちと踏み鳴らしながら路を急いだ。野犬の群れに包囲されて、難儀したこともしばしばあった。  一度は十一月の暁、途中から細かい雨がふり出して、傘を持たないわたしは本郷へゆき着くまでにびしょ濡れになった。おまけに木戸前に一時間あまりも雨に晒《さら》されて立ちつづけていたので、骨も氷るばかりの寒さであったことを今でも身にしみて覚えている。また一度はやはり雨を冒して夜明け前に出かけてゆくと、その狂言の「雪中梅」が俄かに興行中止を命ぜられたというので、そのまますごすごと引返したこともあった。これはわたしばかりでなく、その当時の鳥熊芝居の定連はみな一様にこうした苦《にが》い経験を嘗《な》めさせられたのであろう。  そのおかげで、わたしは春木座から狂言の種類をかなりたくさんに教えられた。東京の他の劇場では殆んど出たことのないような狂言をいろいろ見せられた。与一兵衛が真っ白に塗っていて、おかやが顔世御前《かおよごぜん》の身代りに討たれて、定九郎が猿に引っかかれるというような、不思議な「忠臣蔵」も見せられた。かの鶴屋南北《つるやなんぼく》の作で、明治以来上場されたことがないという「敵討合法衢《かたきうちがっぽうがつじ》」を、駒之助の合法、九蔵の前田大学と立場《たてば》の太平次《たへいじ》で見せられた。  わたしもずいぶん根気が好《よ》かったが、春木座の方でもずいぶん根気よくいろいろの芝居を見せてくれた。わたしは春木座へ三、四年通いつづけたお蔭で、殆んど家内で第一の劇通になってしまった。もしこの春木座というものがなかったら、小遣い銭の十分でないわたしが、とてもこんなに沢山《たくさん》の狂言を見覚えられるはずはなかった。どう考えても、わたしは鳥熊氏に感謝しなければならないのである。そのうちに彼《か》の鳥熊は帰阪したらしく、一座俳優の大部分は離散して、福之丞は団十郎の門に入って市川|女寅《めとら》となり、駒三郎も団十郎の門に入って市川宗三郎となり、鯉之丞は菊五郎の門に入って尾上梅三となった。なかんずく、福之丞の女寅は団十郎門下で唯一人の女形として漸次にその位地を進め、後に市川門之助となったのである。その後の春木座は溝口権三郎という人が経営することになって、俳優の顔触れも興行の方法もまったく鳥熊一派を離れてしまった。 [#改ページ] [#5字下げ]「船弁慶」と「夢物語」[#「「船弁慶」と「夢物語」」は中見出し]  鳥熊時代にわたしは勿論、他の劇場へも見物に行った。鳥熊の春木座は自分の小遣い銭で見物に出かけたのであるが、他の劇場も腰巾着《こしぎんちゃく》の機会さえあれば、わたしは誰にでも付いて行くことを怠らなかった。  明治十八年の十一月、新富座は大修繕落成の開場祝いとして、その初日の二十四日に種々の人を招待した。わたしの家でもその招待を受けたので、わたしは母に連れられて親類の人たちと一緒にゆくと、芝居はおそく始まって、ゆう飯には強飯《こわめし》の折詰をくれた。強飯の折詰といっても、今日の百貨店の食堂で売っているような安っぽい物ではなく、飯と菜とは別々の二重箱になっていて、なかなか旨《うま》い料理が沢山《たくさん》に詰め込んであったことを記憶している。一番目は中村宗十郎が大阪から上って来て、彼が得意の「有職鎌倉山《ゆうそくかまくらやま》」を出し、中幕は団十郎の「白髪染《しらがぞめ》の実盛《さねもり》」と「船弁慶《ふなべんけい》」であったが、一番目ではやはり左団次の三浦荒次郎《みうらあらじろう》がわたしの眼についた。殊《こと》に建長寺の場で、彼が宗十郎の佐野源左衛門《さのげんざえもん》をやりこめて、例の調子で「黙れ、黙れ。だ、だ、だまれ。」と大喝するところが、ぞくぞくするほどに痛快であった。わたしはこれまでに二代目左団次のためにしばしば脚本をかいているが、わたしは二代目の芸風に適合するようなリズムを作るというよりも、むしろわたし自身の脚本のリズムが初代左団次の感化を受けているのではないかと思う。生まれてから初めて見た「赤松満祐」の渥美五郎や、この三浦荒次郎や、こうした強い粗い芸風がわたしの小さい頭脳に深い感銘を刻み込んでいて、知らず識らずの間にわたしの作風を指導しているように思われてならない。 「実盛」は活歴仕立《かつれきじたて》のもので、あまり面白くなかったが、「船弁慶」はたしかに面白かった。団十郎の知盛《とももり》が能衣裳のような姿で薙刀《なぎなた》を持って揚幕から花道にあらわれ、屹《きっ》と舞台を見込んで、また引返して揚幕へはいって、再びするするとあらわれて来る。その凄愴の気に脅《おびや》かされて、団十郎も巧いなあと私もこのとき初めて思い知った。今まで虫の好かなかった名優の前に、わたしはとうとう屈伏させられた。殊に近年は鈍帳芝居や鳥熊の芝居などを多く見馴れているので、それに比較して団十郎の技芸の妙が一層力強くわたしの眼をおどろかし、わたしの魂を脅かしたのかも知れないが、なにしろ私がこの知盛に屈伏したのは否定しがたい事実で、その後、各劇場で「船弁慶」が上演されるたびに、少年時代の思い出がいつも繰返されるのである。その当時、わたしは十四歳であった。  知盛はそれほどにわたしを敬服させたが、少年の敬服や感服は当てにならないものと見えて、その芝居の興行成績はあまり思わしくなかったということを後に聞いた。一体にその頃の各劇場は興行成績がいつも思わしくなかったらしい。前に語った鳥熊の芝居や鈍帳芝居は別問題として、わたしが普通の大劇場でいわゆる客止めの大入りを初めて見せられたのは、その翌年の明治十九年五月、新富座で、かの渡辺崋山《わたなべかざん》と高野長英《たかのちょうえい》の芝居「夢物語盧生容画《ゆめものがたりろせいのすがたえ》」を上演した時であった。  馬鹿な話をするようであるが、その頃までのわたしは、劇場というものは滅多に満員になるわけのものではない。劇場の土間《どま》や桟敷《さじき》があんなに広く作られているのは、たとえば多摩川の河原の如きものである。普通の場合には、水は単に河原の一部を流れているに過ぎない。ただ三年目に一度か、五年目に一度の増水などの用心のために、無用の河原を広く残して置くのである。劇場もやはりその通りで、何年目に一度という万一の用心のために、あんなに広く作られているのであろうと、わたしは子供ごころに考えていた。その推断は、かの鳥熊の芝居の毎興行大入りによって動かされたのであるが、それでもあれは特殊の興行であって、普通の芝居の例にはならないと思っていた。ところが、今度という今度、わたしはその“多摩川の河原”が一面の水に浸《ひた》されているのを初めて見せられた。まったくそれは大洪水であった。土間も高《たか》土間も桟敷も、人を以て真っ黒に埋められている大入りの盛況に、わたしは少し呆気《あっけ》に取られた位であった。  中幕には彼《か》の「水滸伝雪挑《すいこでんゆきのだんまり》」が初めて書きおろされて、団十郎の九紋龍史進と左団次の花和尚魯智深との雪中の立廻りが評判であった。暗やみのだんまり[#「だんまり」に傍点]は見馴れているが、雪の中のだんまり[#「だんまり」に傍点]は珍らしいというのである。浄瑠璃《じょうるり》は「雪月花」で、団十郎の鷺娘《さぎむすめ》や保名《やすな》も好評であった。しかしその中で最も好評を博したのは一番目の「夢物語」で、今から思えばあまり面白い狂言でもなかったのであるが、その評判は実に素晴らしいもので、団十郎の崋山がほんとうに絵を描くという噂や、左団次の長英の捕物の場で本雨が横に降るとか、柳が風になびくとかいう仕掛けの噂や、それが到るところに仰々しく吹聴されて、いやしくも芝居を観るというほどの人々は、なにを差しおいても新富町に馳《は》せあつまるという勢いであったから、日々の大入りも無理はなかった。まして、わたしの見物した日は日曜日であったから、実に人いきれで咽《む》せ返るような混雑であった。  この大入りに団十郎はむろん得意であったらしく、わたしが父の尻に付いて楽屋へゆくと、彼は忙がしい幕間《まくあい》をぬすんで、例の重い口調で頻りに今度の狂言の講釈をした。彼は自分の意見を以て、一番目の脚本に種々の訂正を加えたのを誇っているらしく、「本のままじゃあ、どうなるもんですか。河竹《かわたけ》なんぞは何をいっているのか判《わか》りゃしません。」などと、頗《すこぶ》る得意そうに語っていた。しかも今までと違って、去年の知盛以来、わたしはこの名優に屈伏していたので、彼がこうした気焔を吐いているのに対して、別に甚だしい反感をも懐《いだ》かなかった。  この狂言の五幕目は渡辺崋山切腹の場で、団十郎の崋山が切腹すると、さらに川澄なにがしという家老役の老人に変わって出るのである。この老人が屏風の内へはいって崋山の死骸をあらため、見事な最期であると褒《ほ》めているところへ、女中が銅盥を持って来て、汚れた手を洗えというと、老人は頭《かしら》をふって「手水《ちょうず》などが要るものか。稽侍中《けいじちゅう》の血、洗う勿《なか》れじゃ。」という。わたしも『十八史略』ぐらいは読んでいたので、稽侍中の血洗うなかれの故事ぐらいは心得ていたが、それにしても団十郎は大層むずかしいことを言うと思っていた。後に黙阿弥自作の脚本をよむと、この台詞《せりふ》は「手水などが要るものか。返すがえすも残念なことじゃ。」とばかりで、稽侍中の血などの文句は見えない。これは団十郎の自作か、あるいは誰かに教えられたのか。いずれにしても、団十郎が原作の脚本にあきたらず、種々の改訂を試みたのは事実であったらしい。 「夢物語」に対しては、諸新聞の評判もよかった。江戸の残党の劇通連も“新しい芝居”だといって賞讃した。これからの芝居はこうでなければいけないと言い触らす人もたくさん現われて来た。今にして思えば、こうならなくて仕合わせであったが、わたしも実はこうなるものかと思っていた。  新富座がこれほどの大入りを占めているのに対して、いかにも惨めな不景気を示したのは、それと競争して殆《ほと》んど同時に開場した千歳座であった。一方が団十郎、左団次、小団次、秀調、源之助という顔ぶれに対して、千歳座は菊五郎、九蔵、松助、寿美蔵、国太郎、伝五郎という座組で、まず五分五分の勝負が付けられそうなものであったが、一方のおびただしい景気に圧倒されて、千歳座側はさんざんの敗軍であった。狂言は「恋闇鵜飼燎《こいのやみうかいのかがりび》」という散髪《ざんぎり》物で、菊五郎の芸妓小松が笹子峠で狼《おおかみ》に啖《く》われるのと、菊五郎の二役|鵜飼甲作《うかいこうさく》がほんとうの鵜を遣って見せるというのとで、初日前の噂はなかなか高かったが、さて開場してみると、明けても暮れても薄暗い陰気な場面ばかりだという不評で、一向に客足が付かなかった。わたしの見物した日も気の毒なような不入りで、ここには“多摩川の河原”が一面に大きく開けていた。  ここでまた、場代のことを少し語りたい。新富座の方は父の腰巾着で出かけたのであるから、その費用が幾らであったか、わたしは知らない。しかし千歳座の方は友人のS君と二人連れで見物に行って、自分自身の貧しい蟇口《がまぐち》から勘定を支払ったのであるから、わたしは確かに記憶している。そのときの千歳座は新富座と競争の意味で特に値段を割引したものらしかったが、今から思えば嘘のような安値なものであった。勿論、安値であったればこそ、わたしも自分の小遣い銭を掃《はた》いて出かけたのであるが、桟敷|一間《ひとま》二円八十銭、高土間《たかどま》一間二円二十銭、平《ひら》土間一間一円三十銭、そのほかに各一間に対して敷物代として五十銭を取るのであるから、平土間一間が一円八十銭に相当するわけで、それを五人に割当てると、一人分の観劇料がわずかに三十六銭である。その当時と今日とは、金《かね》の値の相違すること言うまでもないが、仮りにそれを十倍とみても三円六十銭に過ぎないのであるから、それが安値であったのは争われない事実であろう。しかもその時は初日無代価、二日目が半値段というのであった。  観劇料に連れて、飲食物の価もまた廉《やす》かった。菓子と弁当と鮨《すし》と、いわゆるかべす[#「かべす」に傍点]の三種揃って一人前二十二銭、しかもそれは上等の部で、中等は三種揃って十七銭というのであった。わたしたちは平土間へはいって、上等のかべす[#「かべす」に傍点]を註文したので、観劇料と飲食料とを一切締めて二人分一円十六銭、出方《でかた》に大枚《たいまい》二十銭の祝儀をやったのを合わせても一円三十六銭に過ぎない。たとい不入りの芝居とはいいながら、我々のような書生ッぽうが土間の五に陣取って、芝居を一日見物して、菓子を食い、弁当をくい、鮨を食って、その費用が一人前六十八銭とは、その時代としても決して高いものではなかった。勿論、わたしたちは麹町から久松町まで往復とも徒歩であった。  初日無代価の事、これもついでに少しく語りたい。今日でも初日半額とか三割引とかいう例をしばしば見るが、その当時はそれを通り越して、無代価ということも往々あった。前にいった千歳座などもその一例である。その代りに、何時に幕をあけるか判ったものではない。午前九時あるいは十時開場という触れ込みが午後三時になるか四時になるか、またその幕間《まくあい》が二時間かかるか三時間かかるか、狂言が二幕か三幕で閉場してしまうか、そんなことは一切わからない。何分にも無代価であるから苦情も言えないので、観客はおとなしく我慢していたのである。いくら無代価でも、今日の観客であったら何とか騒ぎ出すかも知れないが、その頃の人たちは至極おとなしいものであったらしい。  それにしても、無代価という触れ出しでは定めて非常な混雑であろうと、今日の人たちはおそらく想像するであろうが、実際は無代価にしろ、半値段にしろ、初日は案外にさびしいものであった。由来、芝居の初日というものに対する観念が、むかしと今とは違っていて、その当時の観客は一種の舞台稽古《ぶたいげいこ》をみるような心持で、初日の舞台を眺めていたのである。劇場側でもやはりそんなつもりであったから、初日無代価とか半額とかいうような安目を売っていたらしい。初日を見物した人はかならず幾日かの後、その出揃うのを待って再び見物するのが習いで、無代価であるとか、入場料が廉いというがために、特に初日を択《えら》んで見物にゆく者は極めて少ないのであった。したがって、初日の観客は一部の劇通かまたは特別の熱心家にかぎられ、初日満員などというのは殆んど例のないことで、どこの劇場も初日はいつも不入りに決まっていた。江戸以来の諺《ことわざ》に“芝居の初日を観に行くような娘を嫁に貰うな”といったのは、初日を観にゆくほどの娘ならば非常の芝居好きで、おなじ芝居を幾度も見物する女に相違ない。そんな女を貰っては家のためにならないというのである。それを考えても、むかしと今とは初日の観客の種類が著るしく違っていることが明らかに判るのである。 [#改ページ] [#5字下げ]演劇改良と改作[#「演劇改良と改作」は中見出し]  あくる二十年の四月にわが劇界に取って前代未聞――尤《もっと》もその昔、かの猿若勘三郎父子が京都の内裏で天覧を賜わったという伝説はあるが――とも言うべき出来事が起こった。それは麻布鳥居坂の井上伯爵邸へ両陛下が行幸啓にならせられて、劇場関係者一同が歌舞伎天覧の光栄を荷《にな》ったというのである。  それは四月二十六、二十七、二十八、二十九の四日間で、主なる俳優は団十郎、菊五郎、左団次、芝翫《しかん》、福助、家橘《かきつ》、松助などで、狂言は「忠臣蔵」の三段目、四段目、「勧進帳」「高時」「曾我の討入」「伊勢三郎」「寺子屋」「忠信道行」「義経吉野落」「土蜘蛛」「山姥」「あやつり三番叟」「六歌仙」「元禄踊」「靫猿」などを差替えて上演したのである。これらは誰も知ることであるから、改めて言うまでもあるまい。実はわたしとても単に新聞紙上でその模様を漏れ知ったに過ぎないのであるから、もちろん詳しく語るべき資格はない。  その新聞記事のうちで、わたしの記憶に残っているのは、「勧進帳」で左団次の富樫《とがし》が舞台に出ると、例の「加賀国《かがのくに》の住人……」の台詞《せりふ》がひどく顫《ふる》えたということや、「忠臣蔵」三段目の裏門外へ駈け付ける家橘の勘平が、御前を憚《はばか》って袴の股立ちを取らなかったので、何だかやりにくそうに見えたということや、「寺子屋」の小太郎身替りで、御供の女官たちが皆落涙したということなどであるが、なかんずく、よく記憶しているのは「勧進帳」の改作問題であった。前にもいう通り、わたしの姉は長唄《ながうた》を習い、隣りには長唄の師匠も住んでいたので、わたしも「勧進帳」の文句をよくそらんじていた関係上、特にこの問題に関する記事は多大の興味を以て読んだのである。  改作問題というのは「勧進帳」を天覧に供するについて、ある人が――末松謙澄子《すえまつけんちょうし》だとか伝えられている――その字句の修正を行なった。その修正が妥当を欠いているといって、『東京日日新聞』の紙上で一々それを批難したのである。筆者が福地桜痴《ふくちおうち》居士であるということを、わたしは後に知ったのであるが、その議論の焦点は例の“判官おん手をとり給い”のくだりで、今度は“判官やがて手を取りたまい”と修正されているが、“おん手”と言っても差支えない。御手というのは弁慶の手を意味するのではない、この場合の“御”というのは“取り給い”の方へかかるので、つまりは“御取らせ給い”という意味で、こういう文例は徳川時代の公用文書にもしばしば見受けることである。まして音律の上からいっても、“やがて手をとり給い”などは甚だ妙でないというのが、『東京日日新聞』の主張であった。それに対して、改作者側の弁明も出たようであったが、その論旨はよく記憶していない。いずれにしても、“おん手”の方が勝を占めたらしく、今日でも“やがて”と歌う人はないようである。  こればかりでなく、この時代にはこういうたぐいの改作論や修正論がしばしば繰返されて、新聞紙上を賑わしていた。たとえば、かの「忠臣蔵」の七段目で、おかるの口説《くど》きに“勿体《もったい》ないが父《とと》さんは、非業《ひごう》の最期もお年の上”というのは穏かでない。勿論、この議論は江戸時代にも唱えられて、かの曲亭馬琴《きょくていばきん》なども頻りにそれを攻撃していたのであるが、それがまた復活して来て、“勿体なや父さんはお年の上に非業の最期”と修正しろというのである。その主張者は誰であったか記憶していないが、わたしの父はその新聞記事を読んで、「判《わか》らない奴には困るな。」と冷笑していた。その当時まだ肩揚げの取れないわたしもそれには同感で、「判らない奴だな。」と思った。しかも、こういうたぐいの議論がだんだんに勢力を張って来たのは、争うべからざる事実であった。  その当時のわたしはもちろん無我夢中であったが、今から振返って考えると、明治以来、殊《こと》に明治十一、二年以来、かの新富座の全盛と相伴って、演劇というものが次第に社会の各階級の注意をひくようになって、演劇改良の声が四方から湧いて来たのであった。明治十九年には朝野の顕官名士を賛成者として、“演劇改良会”なるものがすでに発企されていた。その宣言は頗《すこぶ》る堂々たるものであった。爾来《じらい》、その運動がますます盛んになって来て、その当時のいわゆる知識階級の口々から種々の改良意見などが発表された。前に挙げた「忠臣蔵」七段目修正論のたぐいも皆その余波である。鹿鳴館《ろくめいかん》の夜会と演劇改良論とが新聞紙上に花を咲かせているのも、この時代の特色の一つで、その結果は知らず、ともかくも賑かいものであった。  これも群衆心理というのかも知れないが、少年から大人に蝉蛻《せんぜい》し切らないわたしの幼い頭脳が、これらの改良論のために著るしい刺戟をうけたのは言うまでもなかった。父の腰巾着《こしぎんちゃく》で大劇場を覗《のぞ》いたり、腰弁当で鳥熊の芝居に入り込む以外に、自分も一つ芝居を書いてみようという野心は、この時分から初めて芽を噴《ふ》いたのであった。父は初めにわたしを医師にしようという考えであったそうであるが、友人の医師の忠告で思い止まって、更にわたしを画家にしようと考えたが、何分にもわたしに絵心がないので、それもまたやめてしまって、ただ何がなしに小学から中学へ通わせて置いたのである。しかも父はその当時の多数の親たちが考えていたように、わが子を“官員さん”にする気はなかった。時はあたかも藩閥政府の全盛時代で、いわゆる賊軍の名を負って滅亡した佐幕《さばく》派の子弟は、たとい官途をこころざしても容易に立身の見込みがなさそうである。そういうわけで、父はわたしに何の職業をあたえるという定見もなく、わたしもただぼんやりと生長してゆく間に、あたかも演劇改良などが叫ばれる時代が到来したので、わたしも狂言作者になってみようかと父に相談すると、それも好《よ》かろうと父はすぐに承認してくれた。  父が容易にそれを許可したのは、第一に芝居というものが好きであるのと、求古会員の一人として常に団十郎らに接近していたのと、もう一つには流行の演劇改良論に刺戟されて、かの論者が主唱するように“脚本の著作は栄誉ある職業”と認めたためでもあったらしいが、更に有力なる原因は、こんな事にでもしなければ我が子を社会へ送り出す道がないと考えたからであろう。八歳の春には「誰がこんな詰まらない、芝居などというものを書くものか。」と、団十郎の前で窃《ひそ》かに肚《はら》をきめていたわたしが、十六の歳には自分から進んで芝居というものを書こうと思い立ったのである。これも一種の宿命であるかも知れない。もうその頃には、わたしに「熊谷陣屋《くまがいじんや》」や「勘平《かんぺい》の腹切り」を見せてくれた印板屋の定さんはどこへか立去ってしまった。藤間の大奴さんは長わずらいで世を去った。長唄《ながうた》の師匠の望月太喜次さんはやはり東どなりに住んでいた。裏手の露地の出口に住んでいる女|髪結《かみゆ》いの娘はもう常磐津《ときわず》の名取りになって、いわゆる狼連の若い衆を毎晩|唸《うな》らせていた。  さてそう決心すると、わたしに取っては学校以外の仕事が頗《すこぶ》る多くなって来た。わたしは姉の持っている稽古本《けいこぼん》をよみ尽くして、さらに太喜次さんのところから長唄の稽古本を借り出して来て、無茶苦茶に濫読《らんどく》した。髪結いさんの娘からも常磐津の稽古本を借りて来て読み明かした。しかもわたしの最も悩んだのは、芝居の正本《しょうほん》というものを容易に見られないことであった。今日と違って、脚本などというものは滅多に出版されていない。下町の貸本屋のうちには、むかしの正本の写本を貸す店が稀にはあると聞いているが、山の手の貸本屋などには見当たらない。唯一の『歌舞伎新報』に掲載されるものは大抵筋書であるから、芝居というものを本当に書く――その書き方を知るのに甚だ困った。父に訊《き》いても無論わからない。わたしの周囲には、そんなことを知っている者は一人もなかった。  よんどころなしに、まず外国の脚本を読もうと思い立って、わたしは英国大使館――その頃はまだ公使館であった――の書記官アストン氏のところへ押掛けて行った。アストン氏はわたしが子供のときから世話になった人で、日本の文学にもなかなか通じていた。しかしアストン氏は外国の脚本類を持って来ていない。シェークスピアの全集は持っているが、お前にはまだ読めまいというのである。そこで、アストン氏は自分の知っているいろいろの脚本の話を聞かせてくれたが、所詮は単にその梗概を知るだけのことで、作劇の手法を会得《えとく》する上には何の効もなかった。  それでも聞かないよりは遥かに優《ま》しだと思って、わたしはたびたびその芝居話を聴きに行っているうちに、その翌年の夏、なんでも七月頃だと記憶している。わたしが例のごとく訪ねてゆくと、アストン氏は笑いながら、「お前は日本にこういうものが出版されているのを知らないのか。」と言って小形の仮綴じの書物五、六冊を出して見せた。それは銀座の歌舞伎新報社から出版された河竹黙阿弥《かわたけもくあみ》の脚本|叢書《そうしょ》のようなもので、かの「仲光」や「四千両」や「加賀鳶《かがとび》」などの正本であった。わたしはこんな物が続々発行されていることをちっとも知らなかったが、アストン氏は銀座の本屋で見付けて来たのである。わたしは雀躍《こおどり》するほどに喜んで、すぐにそれを借りて来て読み耽った。  読んでみると、わたしは驚いた。まったく驚いた。芝居を書くというのは大変なことだと思った。というのは、その道具立てや、出入りの鳴物《なりもの》や合方《あいかた》のたぐいが、わたしにはちっとも判らないからであった。かつて「霜夜鐘《しもよのかね》」などを読んだ時には、まだほんとうの子供であったので、そんなことは恐らく夢中で読み過したのであろうが、今になってよく注意して読んでみると、判らないことおびただしい。たとえば“さんげさんげの合方にて幕明く”とか、“地蔵和讃の合方になり”とか、“白ばやしにて幕明く”とか、何のことかちっとも判らないのである。こういうことを残らず呑み込まなければ、芝居は書けないものかと思うと、わたしは実に怖ろしくなって来た。これを一々研究するのは容易なことではあるまいと、しみじみ考えた。  今日の劇をかく人、劇を書こうとする人、劇を研究する人、おそらく“さんげさんげ”が何であろうが、“地蔵和讃”が何であろうが、殆んど問題にしていないであろうが、その時代のわたしには、それを知らないでは芝居は書けないもののように一途《いちず》に思われた。実際、劇場側でもそう言っていた。つまりは、黒衣《くろご》をかぶって、何年か楽屋の飯を食わなければ、芝居というものは書けないように言い伝えられていた。世間と楽屋と、その間には大きい黒幕が降りていて、外間からは窺《うかが》い知ることの出来ない秘密が深く鎖《とざ》されているように説かれていた。どんな学者でも才人でも、いわゆる“芝居者”にならない以上、どうしても本当の芝居は書けないと言われていた。それについて多少の疑いを懐《いだ》いていたわたしも、“さんげさんげ”や、“地蔵和讃”に突き当たって今更のようになるほどと思い当たった。  読めば読むほど判らなくなるので、わたしはいよいよ途方にくれてしまった。いっそこんな事はやめようかと再び父に相談すると、これからはだんだんに世の中も変わって来て、現に“演劇改良会”の人たちも脚本をかくというではないか。この人たちも道具立や合方などを知っているはずはない。おそらく劇場の方で何とか手を入れてくれるのであろう。それでも済むような世の中になるのであるから、そんなことを苦にしないで精々《せいぜい》勉強してみろと父は言った。それを聞かされて、なるほどとわたしはまた思い直したが、どうも芝居をかくということに対して、今までのように張り詰めた勇気と興味とを持つことが出来なくなった。 [#改ページ] [#5字下げ]鶴蔵と伝五郎[#「鶴蔵と伝五郎」は中見出し]  明治二十一年、わたしが十七の年の七月なかばの日曜日に、母と叔母と姉との四人連れで、わたしは市村座を見物に行った。この物語のうちで、わたしは今まで専ら新富座について語った。それから千歳座や春木座や中村座のことを語った。しかし市村座についてはまだ何も語らなかったので、話のついでに市村座のことを少し言いたい。  市村座はむかしのいわゆる“二丁目”で、江戸三座のうちで、この一座だけが明治二十五年まで元地《もとち》に残っていたのである。勿論、その小屋の構造はすっかり変わっていたが、ともかくも昔の猿若町《さるわかまち》に踏み留まっているということが、江戸以来の観客には一種の昔なつかしいような感じをあたえたらしい。わたしが覚えてからの市村座は、先代の中村|芝翫《しかん》を座頭《ざがしら》にして、中村福助、片岡|我童《がどう》、市川権十郎、関三十郎などの顔ぶれで、我童と権十郎とが殆《ほと》んどおなじような位置を占めている人気争いの両花形であった。しかもこの両者を圧倒する若手の売出し役者はかの福助で、それが花のなかの花と謳《うた》われて、新駒屋の艶名が東京市中に喧伝《けんでん》されていた。かの団十郎の八重垣姫に対して勝頼をつとめ、団十郎の岩藤に対して尾上《おのえ》を勤めた頃が、その人気の絶頂であった。  しかし今日ならばともかくも、その当時において猿若町は地の利を得ていなかった。震災以後、町の形はまったく変わってしまったが、その頃の市村座へゆくには、馬道《うまみち》の大通りから妙に狭い横町のようなところを抜けたり曲がったりして、足場が甚だよろしくなかった。その傍にあやつり芝居の文楽座があったが、一向に流行《はや》らないで亡《ほろ》びてしまった。市村座の座主《ざぬし》はかの守田勘弥《もりたかんや》についで劇界に名を知られた中村善四郎で、興行の上にも相当の手腕を有し、一方には花形の福助や我童や権十郎などをかかえていたにもかかわらず、場所の悪いのが妨げをなして、どうもその成績が思わしくないらしかった。  尤《もっと》も、場所のせいばかりでなく、前にもいう通りの事情で、どこの座主にも十分の資本金がないので、たとい少しぐらいの利益を収めても、とかく金利に追い倒されるという苦しい立場にも置かれていたらしい。その上に場所が偏寄《かたよ》っていた。浅草公園はその頃も繁昌していたには相違なかったが、決して今日のようなものではなかった。したがって、浅草公園に近いということが、足場のわるい市村座へ観客をひき寄せる有利の条件にもならなかった。市村座は遠いので困ると、誰も言っていた。  その遠い市村座へゆくのに、わたしたちは人力車に乗らなかった。わたしたち四人は麹町の元園町から神田の万世橋まで歩いて行った。七月なかばの暑い日で、九段坂を降りて小川町へさしかかる頃には、わたしの顔一面に汗の雫《しずく》が流れ出すくらいであった。万世橋から鉄道馬車に乗って上野まで行き着いて、それから浅草行きの鉄道馬車に乗り換えようとすると、そこに屯《たむろ》している車夫が寄って来て、浅草まで馬車値で行こうという。上野から浅草までは鉄道馬車の一区二銭で、人力車夫も鉄道馬車と競争する以上、やはり上野から浅草まで僅かに二銭で客を乗せて行かなければならないのであった。馬車値でも可哀そうだというので、母は二人乗り一台に五銭ずつやろうと言うと、車夫らはよろこんで挽《ひ》き出した。わたしたちは雷門で降りて、仲店を通って、観音に参詣して、それから例の横町を曲がりくねって市村座の前に出た。  このときの勘定はわたし自身が支払ったのでないから能《よ》くは知らないが、藪入《やぶい》り連中をあて込みの値安芝居であったらしく、芝翫も福助も我童も権十郎も出勤していなかった。主なる俳優は市川八百蔵、市川寿美蔵、市川新蔵、中村伝五郎、嵐和三郎、中村勘五郎、中村鶴蔵、岩井松之助などという顔触れで、一番目狂言は「妹背山《いもせやま》」と「膝栗毛《ひざくりげ》」のテレコ。二番目は松之助の出し物として「てれめん」を据えていた。  この「てれめん」の轆轤首《ろくろくび》問題は、あまりわたしの興味を惹《ひ》かなかったが「妹背山」と「膝栗毛」とは大いにわたしを喜ばせてくれた。取分けて新蔵の久我之助《こがのすけ》とお三輪とは、これまでにわたしの観た団十郎や菊五郎の舞台以上にわたしを感激させた。吉野川から道行《みちゆき》、つづいて御殿まで、わたしは息もつかずに舞台をみつめていた。そうして、久我之助やお三輪に感激すると同時に、この「妹背山」という芝居までが非常に傑《すぐ》れたる作物であるかのように思われて来た。今日|彼《か》の「妹背山」に対して無条件に讃辞を呈するかどうかは疑問であるが、少なくともその当時においては、わたしは非常の傑作として敬服したのであった。  新蔵のお三輪に感激して、「妹背山」の傑作に敬服して、一旦すこしく冷めかかったわたしの作劇熱がまた俄《にわ》かに強い勢いで燃えあがった。藪入り小僧たちの扇の音のざわついている土間《どま》のまん中で、わたしはいよいよ劇作家たるべき決心を固めた。場所は元地の市村座で、芝居は藪入りの値安興行というのであるから、明治時代の好劇家でも殆《ほと》んど記憶に残っていない位であろうが、わたしの頭には一生涯忘れることの出来ないほどの強い深い感銘を刻み込んでいるのである。  新蔵ばかりでなく、その時に「膝栗毛」の弥次郎兵衛と喜多八とを勤めた二人の俳優も、ありありとわたしの記憶に残っている。弥次郎は中村鶴蔵で、喜多八が中村伝五郎であったが、どちらも現在の俳優のうちにはちょっとその類型を見出だしにくい芸風の人々で、取り分けて鶴蔵は先天的の道化《どうけ》役者であった。眼瞼《まぶた》の妙に腫《は》れぼったいような顔をした男で、見るから一種の滑稽味《こっけいみ》を帯びていたが、芸風はあくまでもすっきりしていて、ちっとも悪ふざけやくすぐりなどをする様子が見えなかった。彼は名人仲蔵の門下で、初めは雁八といい、後に師匠の前名を継いで鶴蔵と改めた男だけあって、江戸前の道化ということを十分に会得していたのであろう。その弥次郎兵衛はたしかに理想的の弥次さんであった。あくまでも真面目に取り澄ましていて、それで何処《どこ》となく呆《とぼ》けている工合は、十返舎一九《じっぺんしゃいっく》の筆意を眼のあたりに見るようであった。わたしはその後にも「膝栗毛」の芝居をたびたび観たが、鶴蔵以上の弥次郎兵衛には再びめぐり逢《あ》わなかった。その翌年の秋、わたしは鳥越《とりこえ》の中村座で、彼が「伊賀越」の助平と幸兵衛を観たが、遠眼鏡の助平は図ぬけて好《よ》かった。幸兵衛はどうも宜《よろ》しくなかった。二番目の「髪結新三《かみゆいしんざ》」では家主長兵衛をつとめ、万事が師匠の仲蔵写しということであったが、これも愛嬌《あいきょう》があり過ぎて相手の新三を取りひしぐ力が足りなかった。所詮《しょせん》かれは一個の道化役者に過ぎないのであろうが、あれほど忌味《いやみ》のない道化を見せるのはむずかしいと、わたしは今でも彼に敬服している。鶴蔵は明治二十三年四月に死んだが、平素は非常に真面目な人物で、わが子は決して俳優の業を継がせないと言って、幼少のときから遊芸などを習わせず、結局それを法律家に仕立てたとか聞いている。  伝五郎は後に大阪へ下って鴈治郎《がんじろう》に認められ、かれと長く一座していたが、これも十余年前に世を去った。大阪へ下ってからどんな芸風に変化したか知らないが、わたしの記憶している四十余年前の伝五郎はやはり忌味のない役者で、初めは鷺助といい、これも仲蔵の門下であった。このときの喜多八も好かったが、その後にわたしは本所の寿座《ことぶきざ》で彼の蝙蝠安を観たことがある。その「源氏店」の役割は源之助のお富、先代|家橘《かきつ》の与三郎、九蔵の多左衛門で、本所の小屋には惜しいくらいの顔揃いであったが、そのなかでも伝五郎の蝙蝠安は師匠そのままという好評で、名人松助とはまた一種違った味をもっていた。かれの蝙蝠安は松助よりももっとおとなしい、始終|猫撫《ねこな》で声《ごえ》で物をいうような忌《いや》な奴であった。鶴蔵といい、伝五郎といい、こういう芸風の俳優は今はない。新蔵のことは後にあらためて書く。  そのときは木戸からはいったのであるが、母が出方《でかた》に幾らかやると、出方はその返礼として水菓子を持って来てくれた。おそらく五十銭か一円ぐらいしかやらなかったのであろうと思うが、ともかくもその返礼をくれたのである。物価の廉《やす》い時代であるから、その水菓子はせいぜい二十銭か二十五銭のものであろうが、明治の中頃まではそういう習慣が続いていたらしい。その後にわたしも木戸から見物に行ったことがしばしばあったが、祝儀のやり方が少ないと見えて、一度も出方から返礼を貰った例はなかった。  この七月十五日には岩代《いわしろ》の磐梯山《ばんだいさん》破裂という怖ろしい出来事があって、五百人ほどの惨死者を出したという報道が世人の耳目を衝動した。それを当て込んで、鳥越の中村座では天明年間の浅間山噴火を脚色した「音聞浅間幻灯画《おとにきくあさまのうつしえ》」という五幕物を十月興行の二番目に出した。作者は黙阿弥であるが、“写絵”を“幻灯”と書いたところにその時代のおもかげが窺《うかが》われる。その前年にも新富座で古河新水が「三府五港写幻灯《さんぷごこううつすげんとう》」という狂言をかいている。この時代には幻灯などというものが今日の活動写真のように持て囃《はや》されたのである。その一番目は「嫩軍記《ふたばぐんき》」で、団十郎の熊谷《くまがい》、菊五郎の敦盛《あつもり》と弥陀六《みだろく》、福助の相模《さがみ》という役割であった。  二番目の「浅間山噴火」は、菊五郎の出し物で、道中師の伊豆屋初蔵(菊五郎)が出入りの信濃屋の娘お夏(岩井松乃助)を信州|小諸《こもろ》へ送ってゆく途中、浅間の噴火に出逢うという筋で、二幕目に噴火の現場をみせていたが、その大道具大仕掛けも開場前の評判ほどには目ざましいものでなかった。それよりも私のこころを惹《ひ》いたのは、その三幕目の初蔵の家で、噴火の騒動のために大事のあずかり娘を見うしなった初蔵がしおしおと江戸のわが家へ帰って来るくだりであった。初蔵の家では父や女房が噴火の噂を聞いて、その安否を気づかっている。それは盂蘭盆《うらぼん》の十三日の夕方で、どこやらで虫の声がさびしく聞こえる。女房(秀調)が門《かど》に出て迎い火を焚《た》いていると、影のようにあらわれて来た初蔵の姿がその煙のなかにしょんぼりと立つ。その情景がひどくわたしのこころを動かしたのであった。  勿論、当込みの際物《きわもの》であるだけに、狂言全体の上からいえば、ここという捉《とら》え所《どころ》もないもので、その後ふたたび舞台にも上《のぼ》らなかったが、三幕目の情景だけはいつまでもわたしの頭にしみていたので、先年、わたしが「箕輪《みのわ》の心中」を書くときに、その場の趣を借用した。第三幕の箕輪の農家で、お時が門口で迎い火を焚いていると、その煙のなかに白帷子《しろかたびら》を着た藤枝外記の姿があらわれるのは、二十余年前に自分が観た中村座の舞台の姿をそのままに借りて来たのであった。話のついでに白状して置く。 [#改ページ] [#5字下げ]「文覚勧進帳」[#「「文覚勧進帳」」は中見出し]  明くる二十二年の新富座三月興行から市川荒次郎と大谷門蔵の二人が名題《なだい》俳優に昇進して、門蔵は馬十と改名した。この二人が同じような柄行《がらゆ》きで、いつも相列《あいなら》んで同じような役所《やくどこ》をつとめていたので、世間一般に“御神酒徳利《おみきどっくり》”と呼び慣わしていた。その御神酒徳利がやはり相列んで、名題俳優の列に加わったのである。  この時代には、俳優が名題に昇進するということは非常にむずかしいのであって、門蔵、荒次郎の二人も檜舞台で多年相当の役を勤め、現に荒次郎の如きは明治の初年に名人彦三郎の代り役を勤めたというほどでありながら、容易に名題に昇ることを許されなかったのである。尾上幸蔵はその翌二十三年に初めて名題に昇った。したがって名題昇進ということは、本人らに取っても非常の名誉で、今度は誰々が名題になったそうだといって世間の噂話にもなった位である。勿論、俳優の名題昇進などということは、三年に一度あるか、五年に一度あるか判《わか》らない、まず滅多にはないものであると思われていた。その代りに、一旦名題に昇進した以上、それは押しも押されもしない立派な一人前の俳優で、名題俳優が草履《ぞうり》取りの中間《ちゅうげん》を勤めたり、名もない茶店の女を勤めたりするようなことは決してなかった。  それほどにむずかしい名題昇進がどんどん容易に行なわれるようになって来たのは、なんでも明治三十年以後のことで、それが更に甚だしくなったのは大正以後のことであろう。自然の道理で、名題昇進が容易になればなるほど、名題俳優が殖《ふ》えれば殖えるほど、その権威も名誉も次第に薄れて、今日では昔の名題下がたびたび勤めた役を、立派な名題俳優が甘んじて勤めている。名題俳優というのは名儀ばかりで、事実においては昔の名題下とちっとも変わらないのが沢山《たくさん》ある。こうなると、特に名題とか名題下とかいう区別を設ける必要はないようにも思われる。名題俳優がむやみに増加したのは、俳優組合というものが設けられたためであると説く人もある。地方巡業が頻繁になったためであるという人もある。いずれにしても、舞台の上で殆《ほと》んどその存在を認められないような、有名無実の名題俳優が簇出《ぞくしゅつ》するということは、何だか馬鹿らしく感じられてならない。しかしまた一方からいえば、こうむやみに名題俳優が殖えて来る以上、理窟は別問題として、ともかくも名題の列に加わっていなければ、俳優だか何だか自分にも判らないというような心持にもなるかも知れない。雁《かり》が飛べば蠅《はえ》が飛ぶ。むかしからの諺《ことわざ》でやむをえないかも知れない。  この年の七月、中村座で「奈智深山誓文覚《なちのみやまちかいのもんがく》」を上場した。これは竹柴其水《たけしばきすい》の作であるが、依田学海《よだがっかい》居士作の「文覚勧進帳《もんがくかんじんちょう》」に拠《よ》ったもので、かつまたそれを勝手に改作したとかいって、学海居士は新聞紙上で憤懣《ふんまん》の辞を洩らしていたように記憶している。承諾の上で改作したのではあるが、その改作の仕方が悪いというのか、あるいは全然承諾を経ずして改作したというのか。あるいは全然別種の作であるのを、学海居士がひがんで議論をなしたのか。わたしは固《もと》よりその間の消息を知らない、またここでその詮議立てをする必要もないのであるが、唯ここでひと言いって置きたいのは、局外者の脚本がたといいろいろの改刪《かいさん》を経たにしても、或る程度まで舞台の上に採用されたのは、恐らくこれと「新開場梅田神垣《しんかいじょううめだのかみがき》」(川尻宝岑作、二十一年一月、市村座)などが嚆矢《こうし》ではないかと思うことである。  黙阿弥作の「人間万事金世中《にんげんばんじかねのよのなか》」は、リットン原作の筋立てを福地桜痴《ふくちおうち》居士から教えられたのであるという。しかしそれは単にその筋立てを教えただけの事で、桜痴居士自身が筆を入れたわけではない。ともかくも一部の脚本の形式をなしている物のうちから、その幾分が舞台の上に採用されたのは前記の脚本二種などが嚆矢であろう。学海居士は川尻宝岑と合作で、そのほかにも「吉野拾遺名歌誉《よしのしゅういめいかのほまれ》」「豊臣太閤裂封冊《とよとみたいこうれっぽうさく》」「拾遺後日連枝楠《しゅういごにちれんしのくすのき》」などの史劇を公けにして、その時代においては議論の方面にも、実行の方面にも、演劇改良の急先鋒であった。  その「文覚」の四幕目で、団十郎の文覚が院の御所へ闖入《ちんにゅう》して勧進帳を読みあげる時に、三人の蔵人《くろうど》が彼を組み留めようとし、文覚は彼らと立廻りながら読みつづけるのである。その三人は八百蔵、新蔵、勘五郎で、在来の立廻りの型を離れた一種の柔道のような手捕りの掴《つか》み合いを見せて、観客をはらはらさせた。それがために勘五郎が足を挫《くじ》いたとか、新蔵が指を痛めたとかいう噂がたびたび伝えられた。わたしも実際ひやひやしながら見物した。なにしろ四人が一緒にこぐらかって、投げる、突く、蹴る、むしり付く、倒れる。倒れるたびに、舞台に身体を叩きつける音がばたりばたりと響く。そのあいだで団十郎が例の名調子で朗々と勧進帳をよみ上げる声がきこえる。この幕が下りると、わたしは自分の肌着がぐっしょりと汗にぬれているのに気がついた。  中幕は左団次の出しもので「鳥目の上使」であったが、その二番目代りに上演された「お染久松」の質店は面白かったと覚えている。本来は二番目に菊五郎の「弁天小僧」を出すべきはずであったのを、菊五郎が病気のために俄かに「お染久松」に代って、質店の場で団十郎がちょい乗せの善六を見せることになったのである。その相棒の松屋源右衛門は左団次、山家屋清兵衛が芝翫《しかん》、油屋の後家が秀調、多三郎が鶴松、お糸が政次郎、お染が栄之助、久松が楽次郎という役割で、前にいった中村鶴蔵が油屋の下女をつとめていた。由来、団十郎は滅多にこんな役をつとめたことがない。先年市村座で「八犬伝」の大塚蟇六《おおつかひきろく》を勤めてその当時の評判になったが、蟇六はともかくも代官であるから相当の品位もなければならない。そこが団十郎の柄にはまっていたとも言い得られるが、質店の番頭となるとそうは行かない。あの勿体《もったい》らしい顔をして団十郎がどんな善六を演じるか、それが一般の興味を惹《ひ》いた。劇場側でも無論にそこを狙《ねら》ったらしい。  団十郎が善六を勤める以上、なにか変わった新工夫を見せるかと、わたしはひそかに期待していたが、その期待はすっかり裏切られて、団十郎の台詞《せりふ》も仕種《しぐさ》も今までわたしが鳥熊の芝居や鈍帳芝居で見馴れている善六とちっとも変わらなかった。彼はいつもの活歴物などを演ずる場合とは打って変わって、あくまでも忠実に在来の型を守っているらしかった。しかしその紋切形通りの善六はたしかに巧かった。取り分けて「さあ、如何《いか》ようにも御存分、主《しゅう》のためならこのからだ、寸々に刻まれても、厭うような善六めではござりませぬ。」という、その空々しい台詞廻しの巧さは、今でもわたしの耳に残っている。  その後にわたしは歌舞伎座で菊五郎の善六を観たが、後者はどうも真面目でない。初めからふざけてかかっているような素振りが見えていたが、団十郎はあくまでも真面目であった。実際この場合、善六自身としては決してふざけているのではない、当人は一生懸命でやっている仕事が、他人にはすべて滑稽に見えるのであるから、その大真面目の滑稽が当然であろう。団十郎に次いでは、やはり鶴蔵の下女が巧かった。善六が着物を剥《は》がれて追い出される時、ちょっと別れのおかしみがあって、「善六さん、さらばでござんす。」と唄《うた》になり、前垂《まえだれ》で顔をおさえながら奥へはいる姿、これもわたしの眼に残っている。次ぎには鶴松の多三郎がよかった。  この時もわたしは父に連れられて団十郎の部屋へ行った。それは一番目の「文覚」と中幕の「鳥目の上使」との幕間《まくあい》で、団十郎は中幕に後室《こうしつ》千寿の役を勤めているので、その顔を作りながら父と話し出した。文覚と善六とのあいだに女形をするのだから少し困る、などと彼は笑っていた。わたしは黙って彼の化粧法をながめていると、それは予想外に簡単なものであった。女形といっても後室の年増《としま》役で、特別に美しく作る必要もないのであろうが、彼はその顔を薄白く塗って、両手で叩くように二、三度|撫《な》でまわしていたかと思うと、今度は指の先に鉄漿《かね》をつけて前歯をちょいちょいと染めた。それからくちびるを少し塗ったかと思うと、彼はもう鏡台から顔をそむけて、すぐに衣装を呼んでくれと言った。わたしはその余りに素捷《すばや》いのに驚かされながら、正面に向き直った彼の顔を更にじっと見つめると、彼の顔は一向に女らしく見えなかった。ただ白粉《おしろい》をうすく塗ったに過ぎない団十郎その人の素顔であった。これが舞台に出て、果たして女らしく見えるかしらとわたしは少し不安に思いながら、父と共にそこを立去ったが、やがて幕があいて舞台にあらわれた団十郎は、たしかに一種の気品を具えた武家の後室様であったので、わたしは再び驚かされた。  勿論、それは鬘《かつら》のせいもあろう、衣装のためもあろう。それにしても、あの顔をそのまま舞台へ持ち出して、それが立派に女らしく見えるというのは、どう考えても不思議でならなかった。あとで聞けば、団十郎は菊五郎と正反対に、非常に顔の作りが早いのだそうであるが、早いばかりが取得《とりえ》ではない、早いが上に、それがちゃんと物になっているのはさすがに偉いと、わたしはまた今更のように感心させられた。 [#改ページ] [#5字下げ]歌舞伎座の新開場[#「歌舞伎座の新開場」は中見出し]  その年の十一月に歌舞伎座が開場式を挙げた。むかしは知らず、わたしが記憶してからは、現在の歌舞伎座の敷地は久しく空地になっていて、時々に花相撲や曲馬などが興行されていた。ここに大きい劇場が新しく建てられるというので、その噂が好劇家の間に喧伝《けんでん》されたが、座名がまだはっきりと判《わか》らないので、あるいは歌舞伎座といい、あるいは歌舞座とも伝えられた。かぶ座といって大根を列《なら》べられては困るというような悪口も出た。そのうちに、空地には板囲いがめぐらされ、歌舞伎座建築場の大きい杭《くい》が打ち立てられたので、その座名も初めてはっきりした。  その頃、わたしは築地の府立中学に通っていたので、毎日かならずその建築場の前を通った。芝居好きのわたしは少なからぬ興味を以て、その工事のだんだん進行するのを毎日ながめていると、落成の期日が近づくにしたがって、新聞紙上にもその噂が絶えなかった。あんな立派な小屋が出来ても、一体どんな俳優が出演するのかということが何びとの頭にもまず浮かぶ疑問で、それについてもいろいろの想像説が生み出された。座主《ざぬし》の千葉勝五郎がどうしたとか、新富座主の守田|勘弥《かんや》がどうしたとかいうような記事が、しきりに新聞紙上を賑《にぎ》わしていた。わたしは勿論その機密について何にも知らないが、新聞の記事や世間の噂を綜合《そうごう》して考えると、新富座とは眼と鼻のあいだの木挽町《こびきちょう》に新しい大劇場が出来るということは、新富座に取って怖るべき大敵であるので、守田勘弥はその対抗策を講ずるために、中村・市村・千歳の三座主を語らって四座の一大連盟を作り、東京在住の主なる俳優全部をもその連盟に引き入れて、向う五カ年間はこの四座以外の劇場には決して出勤せぬという契約を結ばせた。どんな劇場が出来あがっても、肝腎の俳優がなくては開場する事は出来ない。四座連盟はこうして新劇場の歌舞伎座を苦しめようと企てたものらしいので、わたしは木挽町を毎日通るたびに、この小屋は折角出来あがっても結局どうなることであろうと、何だか気の毒のように思われてならなかった。  しかし劇界の風雲変化は、とてもわたしらのような十七や十八の青書生が想像し得べき限りではなかった。そのあいだに局面はどう展開したのか知らないが、歌舞伎座には団十郎、菊五郎、左団次を始めとして、福助、家橘《かきつ》、松助、小団次、源之助などがことごとく顔をそろえて出勤することになって、十一月中旬にとどこおりなく開場式をあげた。四座連盟は脆《もろ》くも切り崩されたのである。新開場の狂言は黙阿弥《もくあみ》作の「黄門記童幼講釈《こうもんきおさなこうしゃく》」を福地桜痴《ふくちおうち》居士が補綴《ほてい》した物で、名題は「俗説美談黄門記」と据《す》えられた。そのほかに大切浄瑠璃《おおぎりじょうるり》として「六歌仙」が出た。なにしろ開場前からいろいろの問題になっていたのと、その建物が東京一の大劇場であるというのとで、初興行の成績は悪くなかったらしい。悪くないといっても、今とは世の中が違っているので、わたしが見物したのは七日目頃の日曜日とおぼえているが、土間《どま》のうしろの方は三側ほどまばらになっていて、決して大入り客止めの満員ではなかった。その入場料は、桟敷一間《さじきひとま》に付き四円七十銭、高土間《たかどま》三円五十銭、平《ひら》土間二円八十銭であった。  わたしの見物した日には、菊五郎は病気だというので、その持役のうちで河童《かっぱ》の吉蔵だけを勤め、藤井紋太夫と浄瑠璃の喜撰《きせん》法師は家橘が代っていた。団十郎の光圀《みつくに》はもちろん適任者で、世間一般からも好評であったが、その光圀よりも、わたしは浄瑠璃における文屋康秀《ふんやのやすひで》にひどく敬服させられた。例の“富士や浅間”のくだりなど、わたしは実に恍惚《こうこつ》として眺めていた。今日でも彼以上に達者に踊り抜く俳優はたしかにある。しかも彼のごとく悠揚迫らずして、おのずから軽妙洒脱《けいみょうしゃだつ》の趣を具えている俳優は、殆《ほと》んど見当たらないように思われる。たってその後継者を求むれば、やはりかの幸四郎であろうか。菊五郎の河童の吉蔵ももちろん評判がよかった。最も不評であったのは福助の魚屋久五郎で、初めから無理な役を引受けたのであるから気の毒であったが、魚屋よりも八百屋に近いという評判であった。何分にもあの丸く肥った体とねちねちした上方《かみがた》の調子とで、江戸っ子の魚屋を勤めようというのであるから、どうにも仕様がない。わたしは何だかはらはらするような心持でその魚屋を眺めていたのを、今でもありありと記憶している。浄瑠璃の遍昭《へんじょう》もよくなかった。  この日、わたしは父と一緒に楽屋へ行って、はじめて福地桜痴居士に逢《あ》った。わたしが団十郎の部屋へはいると、そこには小紋の着物に黒ちりめんの羽織をかさねた五十前後の紳士が坐っているのを見た。団十郎に紹介されて、わたしはその紳士の前に頭をさげた。団十郎は単に“先生”といってその人を紹介したのであるが、それが桜痴居士であることを私はすぐに覚った。一応の挨拶が済むと、桜痴居士はわたしに向かってしずかに言った。「君は芝居をかくつもりだというじゃないか。そうですか。」「はい。」とわたしは再び頭をさげると、桜痴居士は微笑《ほほえ》みながら重ねて言った。「まだ若いね。やるつもりならしっかり勉強したまえ。君は外国語が出来るかね、英語ができるかね。」特に英語と指定されたので、わたしも少し力を得て、「はい。英語ならば出来ます。」と大胆に答えると、「それは宜《よろ》しい。なんでも勉強しなければいけないよ。ちっと僕の家《うち》へも来たまえ。」と初対面から至極《しご》く打解けた調子であった。新聞の論説や小説の『もしや草紙』をとおして、わたしが窃《ひそ》かに想像していた桜痴居士その人とは、その風丰《ふうぼう》も態度もよほど違っていて、初対面から親しみやすい人のように感じられたのを、わたしはなんとなく嬉しく思った。桜痴居士が席を起《た》って行ったあとで、団十郎は今度の「黄門記」の江戸城中で光圀が護持院の僧を説破するくだりは、桜痴居士の加筆に成ったことを話して、「どうして河竹にあんなことが書けるもんですか。」などと言っていた。団十郎は心から桜痴居士に推服しているらしかった。  歌舞伎座の建物は震災後その形を改めてしまったが、旧歌舞伎座もその規模の広大なる点において、たしかにその当時の観客の胆《きも》をひしいだに相違なかった。またその以外に世間の注意をひいたのは、番附の体裁の著るしく変わっていることであった。従来の芝居番附は座頭《ざがしら》とか中軸とか書出しとか客座とかいう位地が決まっていて、たとえば新富座では団十郎が座頭、菊五郎が中軸、左団次が書出し、宗十郎が客座というように、その位地に応じて番附面にその役名と芸名とを記《しる》すのが習いで、その番附面の位争いというものが頗《すこぶ》る面倒であったとか聞いている。そうして、一日中の役名を一つ所にあつめて記《しる》す結果、番附面の体裁と俳優の身分とを保つために、たといその人が一日に一役しか勤めない場合でも、何か好い加減な役名をこしらえて、その身分に応じて番附面に四役とか五役とかを記すのである。今から思えば実にばかばかしいようであるが、昔からの習いとして、誰もそれを怪しむものはなかった。それらのことは、前の「番附と絵本」の条に語ったが、今度の歌舞伎座では一切その旧習を打破って、各俳優の役割は一幕ごとに記すこととし、その身分には頓着せずに総《すべ》て登場の順序で列《なら》べてゆくことにした。役割の文字も在来の勘亭流《かんていりゅう》を廃して、すべて活字を用いた。  この改革に対しては勿論まちまちの議論があった。古い歌舞伎趣味に浸っている一部の好劇家は苦々《にがにが》しそうに眉をしかめて、こんな引札《ひきふだ》のような番附を投げ付けられては芝居を観にゆく気にもなれないと言った。それと同時に、一部の人々は在来の番附よりも非常に便利であると言った。登場俳優の役名などを見出だすには、実際この方が便利であるに相違ないので、初めの反対者も結局は降伏して、だんだんにその改良を讃美するようになってしまった。しかし活字を用いるということは、鳥居風の画面に対してどうも不調和であるという説が多かったので、歌舞伎座の方でも譲歩して、次興行から文字だけはやはり在来の勘亭流を用いるようになった。それがだんだん各座にも及んで来て、いつとはなしに明治時代の後半期から大正時代にいたる番附の体裁を作り出すことになったのである。これだけのことでも、この当時の歌舞伎座当事者としてはよほどの大英断であったに相違ない。こういうわたしですらも、初めて歌舞伎座の番附を手に取った時には、なんだか変な体裁だと面白からず思ったのであった。  明くる二十三年の正月には京都の劇場祇園館が開場式をあげるというので、守田勘弥が一切請負いで団十郎一座を連れて行った。なにしろ団十郎が京都へ乗込んだのはこれが初めであるから、第一回の興行は非常の大入りであったが、第二回は案外の不入りで、さんざんの体《てい》たらくで引揚げて来たということであった。この失敗が致命傷になって、守田勘弥はふたたび雄飛する機会を失ったと伝えられている。それでも新富座は三月興行の蓋《ふた》をあけて、一番目二番目から大切《おおぎり》の浄瑠璃まですべて新作をならべて見せた。俳優は菊五郎、左団次、芝翫《しかん》、福助の一座で、一番目は「佐々成政《さっさなりまさ》」、二番目は「め組の喧嘩」であった。一番目の小百合殺しは一向問題にならなかったが、二番目の角力《すもう》と鳶《とび》の者の喧嘩は座方の宣伝が頗る効を奏して、どこでもその噂で持ち切っているという有様であった。そういう歴史があるためか、特に面白いという狂言でもないが、この「め組の喧嘩」はその後にも上演を繰返されている。 [#改ページ] [#5字下げ]新蔵と鴈治郎[#「新蔵と鴈治郎」は中見出し]  新富座と殆《ほと》んど同時に歌舞伎座も三月興行の蓋《ふた》をあけた。新開場のときには小屋を見るという観客も多かったので、ともかくも相当の成績を占めたのであるが、第二回目はどうだか判《わか》らない。小屋が大きいだけに、満員の盛況を見ることはとてもむずかしかろうというのが一般の評判であった。前にもいう通り、その当時の芝居は大入りよりも先ず不入りの方が多かったので、芝居が明くという噂を聞くと、今度の芝居は旨《うま》く当たるかしらという一種の疑念をいだくのが一般観客の心理状態であったらしい。  歌舞伎座の狂言は近松の「関八州繋馬《かんはっしゅうつなぎうま》」を桜痴《おうち》居士が改作した「相馬平氏二代譚《そうまへいしにだいものがたり》」を一番目に据《す》えて、そのほかに「道成寺《どうじょうじ》」と「雁金文七《かりがねぶんしち》」という列《なら》べ方であった。俳優は団十郎を座頭《ざがしら》として、その一門の権十郎、寿美蔵、新蔵、女寅《めとら》などのほかに、坂東|家橘《かきつ》、岩井松之助という顔触れで、その当時においては余り賑かな座組ではなかった。女寅はかの鳥熊芝居の福之丞であるが、その当時の福之丞改め女寅などは殆んど問題にならなかった。権十郎、寿美蔵、新蔵なども今まで新富座に出勤していなかった関係上、なんだか場違いの俳優のように見られていた。団十郎がこうした門下と家橘や松之助などのあつまり勢を提げて、第二回目を開場するのはよほどの冒険であるかのように、世間から危ぶまれていた。わたしの父なども「堀越はやり損じなければ好《よ》いが。」と言っていた。実際、新富座の「め組の喧嘩」の方が前景気は遥かに好かった。歌舞伎座はどうしても川向うの新富座に圧倒されそうに見えた。  それについては、歌舞伎座自身も多少の不安を感じていたらしく、また「め組の喧嘩」に対する宣伝の必要からででもあろう、今度の「道成寺」は団十郎が女舞の一世一代であるということを触れ出した。それによると、団十郎はふたたび女形《おんながた》の舞踊を演じることが出来ない理窟であるが、それが果たして真実であろうかという疑問が頻りに起こった。それには団十郎も迷惑を感じたらしく、劇場側でも今後の不便を覚ったらしく、開場間際になってから俄《にわ》かに最初の宣伝を取消して、団十郎の一世一代というのは単に「道成寺」にのみ限るのであって、女舞の全体を意味するのではないと発表した。まったくそれは彼の一世一代であって、団十郎はその世を終るまで再び「道成寺」を演じなかった。  さなきだに前景気の思わしくないところへ、さらに宣伝の取消しなどを出して、すこしく器量を下げた歌舞伎座は、いよいよその前途が悲観されるように思われたが、さて開場して見ると、それは案外の景気であった。世間の予想は裏切られた。わたしの父も偉い予言者ではなかった。わたしが見物に行ったのは三日目であったが、あの大きい歌舞伎座――その当時は他の劇場に比較して、特に大きい小屋のように見えた歌舞伎座が、いわゆる立錐《りっすい》の余地もない大入《おおいり》であったので、わたしもそれにびっくりした。どこの隅々からどうしてこんなにたくさんの観客があつまって来たものかと、わたしは一種の不思議を感じた位であった。  二番目は権十郎の雁金文七と寿美蔵の雷庄九郎で、それが観客を呼んだとも思われない。やはり一世一代という団十郎の「道成寺」と、一番目の「相馬平氏」が呼び物となったのであろう。尤《もっと》も団十郎の将軍|太郎良門《たろうよしかど》が美女丸を説くくだりで、藤原氏一族の専横を罵って「関白大臣左右の大将、みな藤原の由緒の者。」などと、暗にその当時の藩閥政府を攻撃したところに、一部の観客の共鳴があったらしい。なにしろ無人芝居《ぶにんしばい》とはいいながら、一番目では団十郎が将軍太郎と仲光と仲光の母との三役を引受けて、山の場では将軍太郎と仲光との早替り、仲光屋敷では仲光と母との早替りで、ある時には仲光が正面を向いて自分の台詞《せりふ》をいい、うしろ向きになって母の仮声《こわいろ》を使うというほどの大働きであったから、団十郎がこれほど一生懸命になって働くのは珍らしいという評判も、確かに当代の人気を吸い寄せる最大の原因であったらしい。仲光の母が綾部保という侍に化けて、頼光の館《やかた》へ美女丸の命乞いに来るくだりは、原作者も渡辺綱《わたなべのつな》の伯母から脱化したものであるが、男のような女、女のような男、しかも源氏の大将を言いまくって自分の使命を果たして帰るというような役で、団十郎自身も得意であったろうし、またこの人でなければ完全に演じおおせられなかったかも知れない。その頼光は家橘であった。その後に「相馬平氏」が上演されても、いつもこの場が省略されるのは、時間の都合ばかりでなく、どうもこの役に扮する適任者を見出だし得ないからであろう。  こういうわけで、団十郎の好評はむしろ当然であったが、この興行で一人の青年俳優が俄かにその名声をあげた。それは団十郎門下の市川新蔵で、彼のお三輪のことは前に言ったが、彼はそのままで余り得意の境遇には置かれていなかった。評判のいい割合には思わしい役も付かないので、新富座以外の中村座や市村座などを転々していたのであったが、歌舞伎座に人がない結果であろう、かれは師匠の下《もと》に馳《は》せ参じて、今度の「相馬平氏」で美女丸の役をうけ取ることになったのである。舞台顔はさのみ美しいというのでもなかったが、爛《らん》として輝いた眼と、凜《りん》として冴えた音声とを持った、いかにも生き生きした俳優で、師匠の将軍太郎や仲光を向うに廻して、活気のある力強い芸をみせたのが大いに観客の注意をひいた。この美女丸が彼の出世役となって、その以来、彼は歌舞伎座に欠くべからざる俳優の一人となった。さきに市村座で彼のお三輪や久我之助《こがのすけ》を観て、大いに感激させられたわたしは、今度の美女丸でいよいよ彼の前へ降伏した。新聞紙上で美女丸の好評を読むたびに、わたしは禁《とど》めがたい愉快と満足とを感じた。  こうして、歌舞伎座も新富座も好成績のうちに閉場した。この当時、千歳座は訥子《とっし》、鬼丸《きがん》、猿十郎、源平の一座で第二流の芝居を興行し、中村座は荒太郎、仙昇、多見丸などの上方俳優で興行していたので、いわゆる大芝居は歌舞伎と新富との二座に限られた形で、前者は団十郎、後者は菊五郎と左団次とを本尊として、競争的に興行をつづけることになっていたが、後者の方が俳優の顔触れが賑やかであった。殊《こと》にその当時の人気俳優福助をかかえ込んでいるので、華やかな人気はいつも新富町の方にあつまっていた。歌舞伎座の方は何分にも無人《ぶにん》で、舞台の上がとかく寂しく感じられた。したがって、単に興行の成績のみから打算したらば、少なくとも新富座は歌舞伎座の位地を保っていられるはずであったが、新富座には不幸にも多額の負債が附きまとっていた。連合軍と戦った独逸《ドイツ》とおなじように、新富座は内部における経済上の苦痛から、興行上では殆んど同等の成績を収めながらも、一歩ずつその強敵に圧迫されるような悲運にかたむいて来た。  それでも新富座はあくまでも歌舞伎座に対抗して、両座殆んど同時に五月興行を開場した。新富座の方は、「皐月晴上野朝風《さつきばれうえののあさかぜ》」と「釈迦八相《しゃかはっそう》」と「勧進帳《かんじんちょう》」と「近江源氏《おうみげんじ》」という列べ方で、そのうちでも一番目の彰義隊が最も世間の噂に上《のぼ》った。前興行の「め組の喧嘩」に味を占めて、東京人に思い出の多い上野の彰義隊一件を脚色して上演した興行政略が再び図にあたって、新富座では上野の戦争をするという評判が開場前から市中にひろまった。勿論、座方の方でも種々の宣伝に努めたらしく、上野の宮様を福助が勤めるとか、その当時まだ現存していた下谷《したや》の湯屋の亭主を菊五郎が勤めるとか、なんとか彼《か》とかいう噂が毎日の新聞紙上を賑わしていた。殊に団十郎が歌舞伎座から一役だけ掛持ちして、「勧進帳」の弁慶を勤める。大切《おおぎり》には初上《はつのぼ》りの中村|鴈治郎《がんじろう》がやはり歌舞伎座と掛持ちで出勤して、「近江源氏」の盛綱を勤める。中幕の「釈迦八相」では人気者の福助が悉多太子《しったたいし》を勤める。これだけの道具立てが揃っていれば、どう転んでも間違いはなく、新富座の作戦計画は実に用意周到なるものと見られたが、初日があくと果たして今度も好結果であった。上野の戦争の場などは訳もなく大喝采で[#「大喝采で」は底本では「大喝釆で」]、福助の僧光仁が草鞋穿《わらじば》きで上野を落ちるくだりなど、その光仁が何びとであるかを想像して、ひそかに涙をぬぐう老人もあった。  歌舞伎座は桜痴居士改作の「実録忠臣蔵」で、中幕には「太功記」十段目が上場された。中村鴈治郎はこのとき初めて上京して、中幕の十次郎を勤め、光秀は団十郎、皐月は寿美蔵、操は福助、初菊は新蔵、久吉は権十郎という顔触れであった。この春、団十郎が京都の祇園館に出勤したときに、鴈治郎もその一座に加入して忠臣蔵の勘平などを勤めた関係から、今度上京することになったのだという噂で、彼が関西で売出しの青年俳優であることや、彼が翫雀の血統であるということや、それらの宣伝も劇場側からよほど行き届いていたらしかったが、さていよいよ舞台に押出してみると、その評判はあまり思わしくなかった。わたしの眼に映った鴈治郎も、十次郎としては何分にも柄が大き過ぎた。調子も悪かった。その技芸も今ひと息というように思われた。十次郎はすっかり初菊に食われてしまった――これは新蔵|贔屓《びいき》のわたしばかりでなく、世間一般の口から洩らされた失望の声であった。  それでは、新富座の盛綱はどうかというと、わたしの見物した日には、時間の制限のために大切《おおぎり》の近江源氏はほんの[#「ほんの」に傍点]口元だけで、左団次の和田兵衛が石山さして出でて行くのくだりまでしか演じられなかったから、盛綱がこれからどれほどの伎倆を発揮するか、わたしは遂にうかがい知ることが出来なかった。しかし歌舞伎座の十次郎にくらべると、この盛綱の方が鴈治郎には適任であるらしく思われた。わたしは一度見物しただけであるから能《よ》く知らないが、この盛綱は千秋楽の日まで満足には演了されないで、いつも中途で打出しになったという噂であった。したがって、盛綱の方は観客に十分認められず、十次郎の方は不評というわけで、初上りの青年俳優に取っては甚だ気の毒な結果を生み出してしまった。  その鴈治郎が後に関西劇壇の覇者となった。この盛綱陣屋で小四郎を勤めた市川ぼたん[#「ぼたん」に傍点]という子役が二代目の左団次である。わたしは今更のように時の力を思わずにはいられない。 [#改ページ] [#5字下げ]昔の新聞劇評家[#「昔の新聞劇評家」は中見出し]  前に言った“時の力”――それは彼《か》の人々の上ばかりでない、これを語るわたしの上にも強く流れているのは勿論であった。鴈治郎や左団次や、その人々の目ざましい発展を見るにつけて、わたしは自分の寂しい影を見返りたい。わたしはこの年の一月末から東京日日新聞社に出勤することになったのである。  その当時の東京日日新聞社長は関直彦《せきなおひこ》氏で、わたしの父はかねて関氏を識っていた。ある時、父が関氏にむかって、わたしが芝居を書きたいと言っているという話をすると、関氏はひどく賛成してくれて、時々にわたしを遊びによこせとのことであった。そこでわたしは無遠慮に関氏の家へ押掛けてゆくと、氏はこころよく逢《あ》ってくれて、今後の劇界のことや、氏が洋行中に見物した外国の演劇の事などについて、いろいろ親切に話してくれた。関氏は福地桜痴《ふくちおうち》居士の後をうけて日日新聞を経営していた関係上、すこぶる桜痴居士に私淑していたばかりでなく、かの“演劇改良会”の幹事か評議員かを勤めていたので、劇というものについて多大の趣味を有していたらしく、わたしが劇作家になるということを非常に賛成してくれたのであった。現にかの榎本虎彦《えのもととらひこ》も関氏と同郷人で、氏の紹介で桜痴居士の門に入ったのである。そんな話も出た末に、関氏はわたしに向かって、芝居を書こうとするには先ずたくさんの芝居を観なければいけない。それについてはわたしの新聞社に籍を置くことにしないか。新聞社にいれば、どこの劇場でも自由に見物することが出来ると教えてくれた。  新聞社へ入れてくれる。おまけにどこの芝居でも自由に観せてくれる。それを聞いて、わたしは雀躍《こおどり》するほどに喜んで、すぐに日日新聞社に入れてくれるように関氏にせがむと、もとより自分の方から知恵をさずけた位であるから、関氏も無論に承知して、年の若い無経験のわたしに何の仕事も出来まいが、ともかくも見習記者として出勤しろと言われたので、わたしは一月二十二日の午後に『東京日日新聞』発行所の日報社をたずねた。その頃の日報社は銀座尾張町の角にあった。それは雪催《ゆきもよ》いの寒い日で、わたしは受付の火鉢へ無遠慮に手をかざして、奥へ呼び込まれるのを待っていると、やがて二階の編集局へ呼び上げられて、関氏自身が大勢に紹介してくれた。こうして、わたしは新聞社に籍を置くことになって、最初は校正係の助手を命ぜられた。  二月三日の月曜日の午後に、わたしは編集局へ顔を出すと、編集長の渡辺亨君がすぐにわたしを呼んで、きょうは千歳座の招待日であるから見物に行ってはどうだと言った。そうして、茶屋は武蔵屋であるから、そこへ行って日報社から来たといえば、いいように案内してくれる。別に費用は要らない、茶代の五十銭も用意していれば沢山《たくさん》であると、一々|委《くわ》しく教えてくれたので、わたしはすぐに日報社を出て、銀座から千歳座まで人力車に乗って行った。千歳座は今の明治座で、銀座からの人力車が六銭であった。  招待の見物ということについてわたしは何も知らないので、どんなことになるのかと思いながら、かの武蔵屋に乗り付けると、茶屋の若い衆はわたしが新聞社から来たというのを聞いて、丁寧に案内して西の桟敷《さじき》へ送り込んでくれたが、芝居はもう三幕ほども済んだところであり、その桟敷にはもちろん一面識もない人たちばかりが大勢坐っているので、わたしは小さくなって後ろの方にかしこまっていると、やがて若い衆は菓子と口取《くちとり》と酒などを持って来てくれた。狂言は「有松染相撲浴衣《ありまつぞめすもうゆかた》」――有馬の猫騒動と「扇屋熊谷《おうぎやくまがい》」とで、小野川喜三郎と熊谷が訥子《とっし》、雷電為右衛門と扇屋|上総《かずさ》が照蔵、敦盛《あつもり》が源平、召仕お仲が鬼丸、小野川の母と姉輪が猿十郎という役割で、猫の乗りうつったお仲の狂いを鬼丸は得意そうに演じていた。猿十郎の姉輪も巧《うま》かった。わたしは午後から行ったので、午飯の弁当は呉れなかったが、夕方になって鮨《すし》を持って来た。それから果物も運んで来た。芝居の招待というものは相当の待遇をしてくれるものだと私は思った。  もう二幕ぐらいで閉場になるという頃に、背の高い、四十以上の垢抜《あかぬ》けのした人が我々のところへ廻って来て、二十五銭ずつを集めていた。その時には何だか判《わか》らないので、わたしはただ言わるるままにその二十五銭を差出したが、あとで聞くと、それは祝儀として茶屋の帳場と若い衆とに遣るのであった。その日は桟敷を四|間《ま》ほど打ちぬいて十五、六人の新聞記者が見物していたのであるから、一人から二十五銭ずつ徴収したのでは合計四円に足らないのであろうが、それでも若い衆が大勢つながってその礼を言いに来た。茶代をあつめて歩いたのは『演芸通信』の塩坂貞三郎という人であることを後に知った。芝居の終ったのは午後七時ごろで、わたしたちは武蔵屋へ帰って夕飯の膳に坐らせられた。そうして、出勤俳優の手拭二本を貰った。  新聞社に籍を置いたところで、自由にどこの劇場へでも出入りすることが出来るのではない。初日三日目あるいは四日目ぐらいに案内を受けて、その日に各新聞社の人たちが打揃って見物するのであるということを、わたしはそのとき初めて知った。うす暗いわたしの性質としては、いつも大勢の人たちと一つ桟敷で見物するのは余り嬉しくないようにも感じられたが、また一方には、ともかくもこうしていれば何処《どこ》の劇場でも一度はかならず観られるという事が嬉しくもあった。その翌日も出社すると、渡辺君はわたしを呼んで、きょうも芝居の招待があるから行きたまえと言った。それは鳥越《とりこえ》の中村座であると教えられて、わたしはまたすぐに出かけると、きょうも午後から行ったので、芝居はもう三分の一ほど済んでいた。狂言は「蝶千鳥曾我実録《ちょうちどりそがのじつろく》」で、俳優は仙昇、荒太郎、多見丸などという大阪上りの一座であったが、土間《どま》の客はようよう半分ぐらいで、観ている方でも何だか薄ら寒く感じられた。わたしたちに対する茶屋のあつかい方はきのうとちっとも変わらなかった。やはり塩坂君が来ていて、わたしたちから茶代をあつめていたが、今日は三十銭お出しくださいと私に言った。きのうは二十五銭、きょうは三十銭、なぜそこに相違があるのか判らなかったが、帰るときには幾台かの人力車が茶屋の前に待っていて、わたしたちをめいめい自宅まで送りとどけてくれた。ここの劇場では車をくれるので、茶代を余計奮発するのだなと私は覚った。  明くる日もつづけて出社すると、きょうは何処からも招待状が来ていなかった。その代りに渡辺君はわたしを呼んで、おとといときのうとの劇評をかけと言った。わたしが劇評を書くのですかと訊《き》き返すと、劇場の方でもそのために君たちを招待するのだから、ただ見倒しちゃいけない、何か書いてやり給えと渡辺君は笑いながら言った。そうして、長いには及ばないから、二軒の劇場で三、四十行ほど書いてくれと註文された。  新聞の劇評はこれまでたびたび読んでいるが、自分がその劇評の筆を執るのはきょうが初めであるので、わたしはちょっと面食らったが、度胸を据えて何か書くことにした。それにしてもこの新聞には今までどんな劇評が出ているかと、棚の上から手あたり次第に綴じ込みを出してみると、それは前年の七、八月頃の綴じ込みで、新富座の「仙石騒動《せんごくそうどう》」の劇評が非常に詳しく書いてあった。これは誰が書いたのですと渡辺君に訊くと、おそらく塚原渋柿園《つかはらじゅうしえん》氏であろうと言った。わたしもそれをお手本にして書こうと思ったが、何分にもそれは長いものであるので、その筆法を学んではとても二軒の劇評を三、四十行に書き縮めることは出来ないので、わたしは思い切って我流で書き出した。千歳座と中村座とをあわせて三十二、三行の劇評、それを書いてしまうのに一時間余りを費した。ところで、翌日の新聞紙上にはその劇評が一つも載せられていないので、わたしは失望した。あるいはその書き方が悪いので没書にされてしまったのかも知れないと思っていると、その次の日の紙上に二つながら掲載された。しかも一字も添削されていなかったので、わたしはまた急に気が強くなった。おれにも劇評が書けるぞと、威張って見たいような心持にもなった。  これが手始めで、その後わたしは引きつづいて各劇場の招待見物に出かけて行った。そうして、得意になって劇評を書いた。それまでは塚原渋柿園氏がときどき見物に行って劇評を書いていたのであるが、渋柿園氏は面倒がって滅多に行こうとしない。そこへ丁度わたしが飛び込んだので、わたしはすぐに劇評係に決められてしまった。したがって、前にかいた「め組の喧嘩」や「相馬平氏」や、鴈治郎初上りの芝居など、二十三年二月以後の分はすべて招待席の桟敷から見物したのであることを、ここでちょっと断わって置く。  その当時の新聞劇評家は、『報知新聞』の森田|思軒《しけん》、『改進新聞』の須藤南翠《すどうなんすい》、『やまと新聞』の条野採菊《じょうのさいぎく》・南新二、『東京朝日新聞』の饗庭竹《あえばたけ》の舎《や》、『都新聞』の前島和橋・右田寅彦、『中央新聞』の井上笠園・水野好美、『時事新報』の竹下権次郎、『読売新聞』の鈴木芋兵衛、『国会新聞』の野崎|左文《さぶん》、これらの人々のほかに尾崎|紅葉《こうよう》は芋太郎の匿名で時々に『読売』の紙上に劇評を寄せていた。斎藤|緑雨《りょくう》もときどき飛び入りで『国会』に劇評を書いていた。こういう人たちと伍して、まだ二十歳に足らない私が最年少者であることは言うまでもない。わたしも努めて小さくなって、それら諸先輩に敬意を払っていたのであるが、先輩諸氏もだんだん馴染《なじ》むに連れて、子供あがりのわたしを可愛がってくれた。取分けて条野採菊老人はわたしを可愛がっていろいろのことを教えてくれた。これは『やまと新聞』が『東京日日新聞』の出店のような関係になっていたためでもあったが、ともかくも芝居のことについて、江戸のことについて、わたしは採菊老人から教えられることの多かったのを今でも感謝している。  その当時、新聞の劇評家として最も権威を有していたのは、かの採菊老人、須藤南翠、饗庭竹の舎、森田思軒の人々で、大劇場に対する劇評は大抵二、三日|乃至《ないし》四、五日にわたるを例としていた。勿論、今日とは新聞の編集ぶりがまったく違っているためでもあり、社会の出来事が少なかったためでもあったが、いずれにしても新聞の劇評が立派な読物の一つになっていたので、たがいに競争の気味で劇評の筆を執っていたようであった。須藤南翠が『大阪朝日新聞』に移ってから、関根黙庵がこれに代り、森田思軒が『萬朝報』に移ってから、杉贋阿弥がこれに代った。その頃は雑誌のたぐいが極めて少数であったから、『歌舞伎新報』に六二連《ろくにれん》の評判記が掲載される以外に、雑誌の劇評というものは殆んど見られなかった。劇評はまず新聞紙上で読まれるよりほかはないのであった。  こんな訳で、わたしはだんだんに劇評に興味を持つようになり、社の方でも必ずわたしに書かせるということに決まったので、わたしの仕事は自然に多くなって来た。おまけに編集や翻訳の手伝いなどをさせられるようにもなって来たので、わたしはもう夜学へも通うことは出来なくなった。それには経済上の事情も絆《まつ》わっていたのであるが、満十七歳二カ月にして新聞社に籍を置いたという事は、いろいろの意味においてわたしの不幸であった。今に至ってその感がいよいよ深い。  その頃、わたしが劇評家として見物して廻った劇場は、歌舞伎座、新富座、千歳座、中村座、市村座、春木座、この六座がいわゆる大劇場で、市村座はまだ元地《もとち》にあった。一格下がっていたのが本所《ほんじょ》の寿座《ことぶきざ》で、他の小劇場では浅草公園の吾妻座《あずまざ》だけが新聞劇評家を招待していた。由来、新聞劇評家が見物にゆくのは、大劇場格の劇場に限られていたので、吾妻座だけが一種の破格であったらしい。したがって、この座では招待の劇評家を特別に優待していたようであった。 [#改ページ] [#5字下げ]男女合併興行の許可[#「男女合併興行の許可」は中見出し]  わたしが初めて粂八《くめはち》という女優を舞台の上で観たのは、この年の三月のことであった。彼女は初めに岩井粂八といい、後に団十郎の門下となって、市川|桂洲《けいしゅう》といい、さらに守住月華《もりずみげっか》といい、晩年には市川|九女八《くめはち》と呼んでいたが、その頃はやはり岩井粂八の時代であったように記憶している。江戸時代の御狂言師の娘だとかいうことで、維新以後は両国の薩摩座《さつまざ》に出勤し、それから方々を流れ渡って、下谷《したや》佐竹ヶ原の浄瑠璃座《じょうるりざ》にしばらく出勤しているうちに、だんだんその伎倆が世間に認められて、粂八の名が新聞紙上にもときどき現われるようになったのである。その頃に女優という名称はない、すべて女役者と呼ばれていて、今日のいわゆる女優劇は女芝居というのであった。  勿論、江戸時代からの掟《おきて》として、男女合併興行は厳禁されていたので、女芝居はすべて女役者のみで一座を組織しなければならなかった。その関係上、座頭《ざがしら》の女役者は熊谷や松王や由良之助を勤め得る者でなければならない。そうして、男の俳優とおなじように、女役者のあいだにも立役《たちやく》と女形《おんながた》とは、はっきりと区別されていた。粂八は座頭であるから当然立役であったが、その舞台顔が美しいのと舞踊が巧みであったのとで、自在に立役と女形とを兼ねていた。彼女は熱心なる団十郎崇拝者で、女ながらも一生懸命に団十郎の芸風を模倣することに努めていた。それが漸《ようや》く世間に認められて、誰が言い出したともなしに、女団洲という異名を呼ばれるようになった。その得意思うべしである。結局ある人――落語家の談洲楼燕枝《だんしゅうろうえんし》であるとか聞いている――の紹介で団十郎の門下に加えられて、市川桂洲と改名するようになったのであるが、どういう都合かまたもや元の岩井粂八に復《かえ》って、わたしが初めて彼女を観たときには、本所の寿座に出勤していた。  その当時の寿座は前にもいう通り、少しく格は下がるものの、ともかくも大劇場の資格を保っていて、その舞台は仲蔵も踏んだ。九蔵も踏んだ。家橘《かきつ》も踏んだ。小団次も源之助も踏んだ。粂八はその舞台に乗り込んで、岩井米花、松本錦糸、市川寿美八、沢村紀久八などという顔触れで、女芝居を興行していたのであった。わたしたちの招待日は三月二日で、芝居は午前九時開場、狂言は「廿四孝《にじゅうしこう》」と「山姥《やまんば》」と「お染久松」とで、粂八は八重垣姫と山姥を勤めていたが、どちらの役も無論に団十郎張りであった。彼女は多年立役を勤めていて、その女らしい声を失っている上に、努めて団十郎の仮声《こわいろ》を使おうとする結果、その調子は太く濁って、すこぶる聞き苦しいものであったが、八重垣姫に扮した舞台顔はたしかに美麗で、優雅で、その音声から受ける一種の不愉快の感じを打消すに十分であった。彼女はその頃おそらく四十を越えていたのであろうが、晩年に比べると殆んど別人かとも思うほどに美しいものであった。先年市村座で見せられた団十郎の八重垣姫も無論すぐれたもののように記憶していたが、今になって考えると、どうも粂八の方がすぐれているらしいと私はその時に思った。舞踊はその得意であるだけに、山姥も、また立派な見ものであった。粂八の名はかねて聞いていながら、その舞台を今日はじめて見物して、なるほど東京唯一の女役者であるということを私もたしかに承認した。  粂八はその後、ここの舞台で「実録先代萩《じつろくせんだいはぎ》」の局《つぼね》浅岡や「処女評判善悪鑑《むすめひょうばんぜんあくかがみ》」の娘お浅などを見せた後、さらに浅草の吾妻座に移って、そこでは「菅原《すがわら》」の梅王と菅丞相《かんしょうじょう》や、「月笠森《つきのかさもり》」のおきつとおせんや、「於伝仮名書《おでんかながき》」の高橋お伝などを見せていたが、恐らくその当時が彼女の全盛期であったのであろう。女団洲粂八の名は東京中に知れ渡って、その名声|嘖々《さくさく》たるものであった。  ここに記憶すべき出来事は、その年の八月、劇場における男女合併興行は今後差支えなしということを、警視庁から新たに認可されたのであった。どういう動機からこうなったのか、わたしも能《よ》くは知らないが、やはりかの演劇改良論から出発して、欧米各国では男優女優が一緒に舞台に登っているのに、わが国だけがそれを禁止する法はないという議論が当局を動かしたのであるらしい。いずれにしても、江戸以来の禁制が初めて解かれたのであるから、劇界近来の椿事《ちんじ》として、当事者は勿論、一般好劇家の注意をひいた。  外国でも昔は女形という者があったが、今日ではまったく廃《すた》れてしまって、女の役はすべてほんとうの女が勤めているということは、十余年前から新聞紙上などにもしばしば記されていた。殊《こと》に演劇改良の呼び声が盛んになると同時に、欧米の女優を説く者がいよいよ多くなって来たので、日本でも男優と女優とが一つ舞台に立つの時期が早晩到来するに相違ないということは、一部の人々は予想していたのであるが、こう突然に迫って来ようとはさすがに思いもかけないらしかった。現にその当時わたしも新聞社の編集局にいたのであるが、この解禁はまったく不意撃ちであった。わたしばかりでなく、関直彦氏や塚原渋柿園《つかはらじゅうしえん》氏なども寝耳に水であったらしく、警視庁でも思い切ったことをやったなどと頻りに噂していた。  もし今日こんな問題が起こったとしたら、新聞社でも大活動をはじめるに相違ない。ある者は警視庁へ走って、その認可の趣意を確かめるであろう。ある者は歌舞伎|座主《ざぬし》や新富《しんとみ》座主を訪問して、それに対する今度の方針を聞き糺《ただ》すであろう。ある者は団十郎や菊五郎を訪問して、それに対する彼らの意見を叩くであろう。しかもその当時の新聞社はその編集ぶりが今日とはまったく違っていたので、こんな問題に対しては単にその事実をありのままに記載するに留まって、それ以上に立入って何らの報道を試みようともしなかった。殊に大きい活字などは滅多に用いない時代であったから、それらの記事も普通の五号活字の標題のもとに、ただ簡単に報道されたに過ぎなかった。勿論、それに対して何らの批評を加えた新聞紙もないようであった。  新聞社はかくの如く冷静であったが、ともかくも問題が問題であるだけに、一般好劇家のあいだにはその可否が相当に論議されたらしかった。第一の人は、むろん結構であると言った。第二の人は、今俄かに男女合併興行を許すのは風俗上よろしくないと言った。第三の人は、たとい男女合併興行が理想的であるとしても、団十郎や菊五郎の相手になり得るような名女優をどこから見付け出すか。故人半四郎や、現在生きている岩井松之助や、坂東秀調や、沢村源之助や、中村福助や、これらの人々に代るような女優が何処《どこ》にいるか。それが容易に見付け出されない以上、やはり在来の女形を用いるよりほかはないではないかと言うのであった。第四の人は、たとい外国ではどうであれ、女形は日本独特のものであるから、それを亡ぼすのは宜《よろ》しくないと言うのであった。この間にあって、第一の説を主張する人は極めて少数で、男女合併興行は現在のところ所詮不可能であるということに一般の議論が片付いてしまったらしかった。実際、第一の論者とてもその理想としては女優論を高唱するものの、いかにしてその女優を作り出すかという具体的の問題に対しては、差し当たり適当の手段も方法も講じ得ないのであるから、結局は一種のハイカラ――この言葉はその当時の人の言わない事であった。ハイカラという言葉はそれから九年の後、明治三十二年頃から流行《はや》り出したのであるから、念のために断わって置く。その当時は専ら西洋かぶれ[#「かぶれ」に傍点]と言っていた――論者であるとして、一般から冷笑を以て迎えられることになった。その当時の警視庁としては実におどろくべき大英断も、なんらの反響もなしにむなしく葬られた。  しかしこの場合に、誰もの口にのぼせられたのは、かの粂八の名であった。粂八ならば男優と同じ舞台に立って、おそらく遜色《そんしょく》はあるまいと言われた。殊に彼女が団十郎の門下であり、団十郎崇拝である事情から、気の早い新聞では粂八が団十郎の相手になって歌舞伎座に出勤するかも知れないなどという噂話を書いたのもあった。かなりに野心の多いらしい粂八が、この機会をうかがって何らかの運動を試みたかどうだか、また一方の団十郎がそれについて何と考えていたか、私はそれらについて何も知らないのであるが、とにかくに粂八が大歌舞伎に出勤するらしいという噂がしばしば繰返されたのは事実であった。しかもそれは文字通りの“噂”にとどまって、どこの劇場でも在来の女芝居以外に女役者を雇い入れようとはしなかった。粂八はやはり女芝居の女王たるに過ぎなかった。わたしは今ここで個人としての粂八を論じたくない。単に一個の名女優として彼女を観るときは、彼女が四十年ほど早く生まれたのを彼女の不幸と認め、あわせて我が劇界の不幸と認めないわけには行かない。  粂八はその後、三崎座で四、五年ほども打ちつづけていたが、一座の座頭《ざがしら》たるに適しないらしい彼女の性格が累《るい》をなして、一座の者に離反された。彼女は自分の弟子だけを引き連れて、それからそれへと流れ渡るようになった。その晩年の十年あまりは、世の進むに連れて新旧の男優の群れにもはいっていたが、それはすべて小芝居で、その一座も問題になるような俳優らではなかった。彼女は一面にその伎倆を認められながらも、単に時代おくれの、小芝居廻りの老いたる女役者として、その余生を送るに過ぎなかった。帝国劇場が開かれて、そこに女優という新しい名のおんなたちがたくさん現われてから三年目の秋に、彼女はさびしくこの世を去った。市川九女八は日本における女役者の最後であった。  明治三十八年の秋、団十郎三回忌の追善興行が歌舞伎座に催されたときに、九女八も門下の一人としてその序幕の「岩戸のだんまり」に出演した。師匠が生きているあいだに踏むべく希望していたらしい歌舞伎座の舞台を、師匠の死んだのちに踏むことの出来た彼女はなんと感じたであろうか。彼女が晩年の流落はその性格によることも勿論であるが、一面にはその不運であったとも言い得られる。彼女がもう少し遅く生まれたならば――わたしは女優という名を聞くごとに、いつも粂八の名を想い起こさずにはいられない。 [#改ページ] [#5字下げ]菫坡老人と桜痴居士[#「菫坡老人と桜痴居士」は中見出し]  わたしは条野採菊《じょうのさいぎく》老人からいろいろの教えをうけたが、その以外には西田菫坡《にしだきんぱ》老人からも教えられることが多かった。わたしはくわしい内情を知らなかったが、菫坡老人は一方、やまと新聞社に籍を置いていながら、一方には東京日日新聞社の印刷部を監督しているらしかった。尤《もっと》もその頃は『やまと新聞』も東京日日新聞社の工場で印刷していたのであるから、どういう関係になっていたのか能《よ》く判《わか》らなかったが、ともかくも菫坡老人は毎日出勤して来て、自分の事務室にただひとりで閉じ籠っていた。  わたしも初めのうちは、それが何びとであるかを知らなかったが、ある時なにかの用で活版部の方へゆくと、そこに菫坡老人も来合わせていて、このごろ劇評を書くのはあなたですかと話しかけられた。それが始まりで、午後になると時々に給仕をわたしのところへよこして、手が空《す》いているならちっと遊びにおいでなさいと言う。わたしも無遠慮に出かけてゆくと、老人は小綺麗《こぎれい》に片付けてある別室に控えていて、茶や菓子などの御馳走をした上に、いろいろの芝居話をしてくれた。老人が歌舞伎座の持主の千葉勝五郎の縁者であるということを私は後に知った。  それにしても、この人はどうしてこんなに芝居のことを能く知っているのであろうと、わたしは実に驚嘆した。最近の明治時代の事どもは勿論であるが、遠い江戸時代に遡って殆《ほと》んど何でも知らないことはないと言っていい位であった。狂言の事、俳優の事、それを極めて明細に年月日までを一々挙げて説明されるには、わたしも呆《あき》れてただぼんやりしている位で、その博識におどろくと共に、その記憶力の絶倫なるにわたしは胆《きも》をひしがれてしまった。こういう始末で、初めはただぼんやりと口を明いていたわたしも、その後たびたびその別室へ呼ばれて、だんだんその話を聴かされるに連れて、眼の先が少しは明るくなったようにも感じられた。老人は義太夫《ぎだゆう》の丸本《まるほん》三百余種を所蔵しているそうで、わたしはその中から二百種ほど借りて読んだ。『東京日日新聞』が関直彦氏の手を離れて伊東巳代治|男《だん》の手に移ると同時に、菫坡老人も社を去ったので、わたしは老人に接近する機会を失ってしまった。その後も銀座の宅へ時々は訪ねて行ったが、だんだんに足が遠くなって、あのときにこういうことも訊《き》いて置けばよかったと、今さら悔まれることがしばしばある。  榎本虎彦《えのもととらひこ》君ともその頃はじめて懇意になった。明治二十三年の夏、議会の選挙が初めて行なわれたときに、福地桜痴《ふくちおうち》居士は『東京日日新聞』に「仙居の夢」という諷刺小説を連載したので、その原稿の使で榎本君は編集局へたびたび来た。その当時、榎本君は桜痴居士の家《うち》に寄留して、一種の書生のような形で先生の用も勤め、傍らに歌舞伎座の作者部屋に出勤していたのであった。歌舞伎座の絵本に、狂言作者竹柴なにがし並木何某とある中で、榎本君ひとりが榎本虎彦と本名を名乗っているのが、その時代としては珍らしく見られた。  榎本君と懇意になるに連れて、榎本君はいっそ何か書いて福地先生の添削《てんさく》を受けてはどうだと私に勧めた。桜痴居士には前年すでに歌舞伎座の楽屋で会っていることを榎本君も知っていたが、それでも公然出入りをするには、やはり改めて団十郎に紹介してもらった方がよかろうというので、わたしは父から団十郎に話してもらうことにした。団十郎は桜痴居士になんと言ってくれたか知らないが、それから半月ほど過ぎてから榎本君が日日新聞社へ来て、君のことは先生ももう承知しているから、いつでも築地の家へ来たまえと言った。  二十四年の六月十四日、今年は日枝《ひえ》神社の本祭りで、わたしの家の近所では軒提灯《のきぢょうちん》を懸けている朝、わたしは菓子の折をかかえて築地の桜痴居士の家をたずねた。その頃、桜痴居士の本宅は築地二丁目にあって、居士自身はその筋向いの横町に別宅をかまえて、そこを自分の仕事場にしていた。そこには榎本君と有名な金蔵|老爺《じいや》というのが住んでいて、居士は昼間だけ其処《そこ》に出張して、夜は本宅に寝泊まりしているのであった。居士は机にむかって忙がしそうに原稿を書いているらしかったが、榎本君がわたしの来たことを通じると、すぐに快《こころよ》く逢《あ》ってくれて、さきに歌舞伎座の楽屋で逢った時とおなじような態度でにこにこ笑いながら、「君のことは堀越からも聞いたよ。まあ勉強して見たまえ。なかなかむずかしい仕事だからね。」そんなことを二言《ふたこと》、三言いっているうちに他の来客があったので、わたしは早々にそこを引退がって、榎本君の部屋で三十分ほど話して帰った。  それからひと月ほど経って、居士の別宅は二軒ほど手前の家へ移転した。以前は東京朝日新聞社の若菜貞爾が住んでいたとかいうことで、格子作りの入口が三畳、それから右へ廻り縁で八畳の座敷がある。そこが居士の書斎で、そのほかに薄暗い四畳が書物の置場、三畳が榎本君の部屋、台所には畳が一畳入れてあって、そこに金蔵老人が火鉢をひかえて湯の番をしていた。  およそ福地家に出入りする者で金蔵老人の名を識らない者はないくらいに、彼は有名であった。江戸以来の家来で、苗字は剛坂といったように記憶している。剛坂金蔵、名前からして何だか物々しくきこえるが、忠実で善良で非常にやかましい老人で、少しでも気に食わないことがあると、だれかれの容赦なしに睨《にら》み付ける。時によると、主人でも叱り付けるという勢いであるから、この金蔵老人に睥睨《へいげい》されると、大抵のものは縮み上がってしまうのである。それは榎本君からかねて言い聞かされているので、わたしは戦々兢々《せんせんきょうきょう》として老人の眼色をうかがっていたが、それでも時々に叱られた。しかし一面には非常に親切で、若い者にもよく気をつけてくれるので、わたしたちに取っては怖いような懐かしいような老人であった。  昼間は新聞社に出勤しているので、わたしは出社の前に築地の家を訪問していたが、午前中は居士も執筆に忙がしかった。その上に来客が多いので、わたしは榎本君の部屋で遊んでそのまま帰ってしまうことが多かった。その頃、二人は新富町の竹葉《ちくよう》へたびたび鰻を食いに行ったことを覚えている。竹葉の蒲焼《かばやき》は普通一皿が十二銭五厘、飯が一人前三銭で、二人ともに鰻が大好きであるから必ず二人前ずつを平《たいら》げたが、それでも一人の勘定が飯ともに二十八銭、二人分が僅《わず》かに五十六銭というのであった。今から思えば嘘のようでもあるが、その五十六銭がわれわれに取っては相当の大金で、僕は五十銭しか持っていないから端下《はした》の六銭は君が出してくれ給えなどと言うようなこともあった。わたしはその当時、日日新聞社から十五円の月給を貰っていた。榎本君は劇場の方から五、六円しか貰っていないらしく、小遣い取りに一回三、四十銭の小説を『やまと新聞』に書いていた。  別宅の筋向うに共同の井戸があって、わたしが行く頃には近所の娘たちが洗濯物などをしていることがしばしばあった。出入りをする先が桜痴居士の家であるだけに、自然かれらの注意をひくらしく、ある時わたしが其処を通ると、一人の娘が小さい声で、「あの人、役者かしら。」と言うと、もう一人の娘がわたしの方をじろじろ見かえりながら、「でも、あんな役者、知らないわ。きっとペエペエよ。」と囁《ささや》いていた。役者は好《い》いが、ペエペエはひどい。わたしはすこしく憤慨して、それを榎本君に訴えると、「いや、ペエペエならまだ好い。この間、僕が通ったら、ありゃあ出方《でかた》かしらと言っていた。あいつらはどうも口が悪くていけないよ。」と、榎本君は笑っていた。  一種軽蔑の眼を以て、出方やペエペエの出入りを見送っていた娘さんたちは、今頃どうしているか知らないが、一方の出方はもうこの世にはいない。それでも榎本君は晩年歌舞伎座の立作者《たてさくしゃ》となって、かの「名工|柿右衛門《かきえもん》」や、「経島娘生贄《きょうがしまむすめのいけにえ》」などを書いている。一方のペエペエはまだ無事に生き残っているが、どうもこの上に発展しそうもない。所詮はペエペエで終りそうである。あの娘さんたちは慧眼であったと言わなければならない。  榎本君はその年の秋からひとまず歌舞伎座を退いて、『やまと新聞』に入社することになったので、築地の家を去って他に転宿した。これまでは桜痴居士が多忙のときには、榎本君の部屋で遊んで帰ったのであるが、その榎本君がここにいなくなると、わたしはなんだか止まり木を失ったようにも感じた。夜は桜痴居士が家にいない。午前中に訪問すれば執筆と来客とで逢うことが出来ない。二、三の脚本を差出しては置いたが、何分にも多忙で見てくれる暇がないらしい。おまけに榎本君ももう其処にいないというので、わたしはなんだか頼りないような寂しさを感じて、まことに不熱心のようではあるが、築地へ向ける足の数が自然に遠くなった。榎本君が歌舞伎座を一旦去ったのは、他にもいろいろの事情があったが、第一は今の作者部屋に辛抱していても将来の見込みがないというのであった。わたしの若いこころは頗《すこぶ》る動揺した。  その矢先へ、日日新聞社の持主が変更した。前にもいう通り、関氏の手から伊東男に移ったのである。社の幹部にも更迭《こうてつ》があった。新聞の編集ぶりも一新した。わたしは今までよりも忙がしい身体になった。またその上に一つの事件が出来《しゅったい》した。それはその翌年、桜痴居士が『日日新聞』紙上に連載した小説「山県大弐《やまがただいに》」を、作者自身が同社へは無断で春陽堂から出版させたというのであった。今日では何の問題にもならないことであるが、その当時はその辺の理窟がはっきりと認められていないので、『日日新聞』は一旦その紙上に掲載した以上、自分の方に権利があると言った。桜痴居士は頑として、その権利は著作者にあると主張した。従前の関係からわたしはたびたびその交渉の使に立たされたので、双方のあいだに挟まってわたしはひどく困らせられた。築地へゆけば高飛車で叱られる。どっちの味方をしていいか判らなくなってしまった。結局、塚原渋柿園《つかはらじゅうしえん》氏らも口を利いて、この事件もまず有耶無耶《うやむや》に納まったが、その以来、桜痴居士は『日日新聞』紙上に筆を執らないようになった。  さなきだに足が遠くなっているところへ、更にこんな事件が出来したので、いよいよ閾《しきい》が高くなったように感じられて、わたしはもう築地の家の格子をくぐらなくなった。その格子には音の好い鈴が付いていた。  こうして、御無沙汰になってしまったのであるが、居士はいつまでもわたしを記憶していてくれて、何かわたしの噂の出た時には、いつも陰ながら褒めていてくれたという事を人づてに聴いている。人に対しては誰のことでも妄《みだ》りに誹《そし》らないのが居士の美徳ではあったが、一年ばかりでその門に足を絶ってしまった一個の青年を長く記憶していてくれたのは、わたしとして有難い事だと感謝している。勿論、その後にも劇場その他で居士に逢うこともあった。わたしが極《き》まり悪そうに御無沙汰のお詫びをすると、居士はいつもにこにこしながら、「どうだい、相変わらず勉強しているかい。」などと言ってくれた。榎本君はふたたび居士のもとへ帰って歌舞伎座の人となったが、わたしはもう帰らなかった。そうして嗣子《しし》の信世さんのところへも御無沙汰をしていたことを、この機会にお詫びをしなければならない。  桜痴居士は行儀の好い人であった。どんな暑中でも膝をくずさずに、かならず机の前に端坐して筆を執っていた。 [#改ページ] [#5字下げ]川上のオッペケ節[#「川上のオッペケ節」は中見出し]  わたしの二十歳《はたち》の年には、初めて桜痴《おうち》居士を築地の宅に訪問したという以外に、更に記憶すべき重大の出来事があった。それはいわゆる“壮士芝居”なるものを初めて中村座で見物したことである。  わたしは今ここで壮士芝居の歴史を説こうとするのでない。それをくわしく語っていたら非常に長くなる。ここではただ、それが角藤定憲《すどうさだのり》という自由党の一壮士によって大阪に創められて、さらに川上音二郎《かわかみおとじろう》によって東京に輸入されたということだけを註して置きたい。角藤に芝居を勧めたのは中江兆民《なかえちょうみん》居士である。居士はその当時、かの保安条例で東京を逐《お》われて、しばらく大阪に住んでいた。政治論の盛んな時代で、かの末広鉄腸《すえひろてっちょう》居士の政治小説『雪中梅』などが盛んに行なわれたので、機を見るに敏なる大阪の興行師はすぐにそれを脚色させて、主人公の国野基《くにのもとい》を右団次、ワキ役の武田猛を鴈治郎《がんじろう》に勤めさせて、角座《かどざ》で上演することになると、それが非常の人気を集めて、なかんずく鴈治郎の武田は大好評であった。兆民居士はそれを見て、この際なまじいの政談演説会などを開くよりも、劇を仮りて政治上の意見を発表する方が普遍的で最も有効であると考え付いた。  それを勧められて、角藤も一旦は躊躇したが、結局思い切って同志をあつめて、試みに舞台に立ってみると、それが案外に成功して、どうやら一つの商売になるようになった。そうして、壮士芝居という一種の興行物が出来あがったのである。元来の出発点が敵本主義で、芸術的の発奮があった訳でも何でもないのであるが、ともかくも木戸銭を取って観客を呼ぶ以上、なにかの売物がなければならないので、彼らはその目的の政談以外に一つの売物をかんがえた。それは立廻りである。その頃のいわゆる“壮士”は、ややもすれば腕力沙汰に訴えるのが習いで、明けても暮れても喧嘩の絶え間がない。その喧嘩を舞台へ持ち出して、滅茶苦茶の掴《つか》み合いや殴《なぐ》り合いをやる。それがいかにも真に迫っているというので、一部の観客に喜ばれた。立廻りは確かに壮士芝居の売物になった。以上は兆民居士の直話である。  それにしても、興行ごとに同じような政談を繰返してもいられない。掴み合いばかりでも持ち切れない。また一方には一座の者もだんだん舞台馴れて来たので、自然に芝居らしい筋立てのものを脚色して上演するという風にもなって、ここにともかくも今日の新派なるものの源泉を作ったのである。  角藤につづいて起こったのが彼《か》の川上音二郎で、かれは新派の創業者の一人であると共に、その有力なる守成者であった。彼がその一座を率いて、大胆に東京へ乗込んで来たのは明治二十四年の夏で、一座のうちでは藤沢浅二郎、静間小次郎、金泉丑太郎、木村周平、木村武之祐、青柳捨三郎などがその重なるものであった。わたしがその舞台を初めて観たのは、その年の七月、劇場は中村座であった。中村座は舞台開きに、団十郎が「高時」を演じたところで、櫓の由緒も正しい大劇場であったが、近年とかくに客足が付かないで、余りいい顔触れの登場も見なかった。その当時、東京人からは一種軽蔑の眼を以て迎えられていた壮士芝居にその舞台を貸したのも、一種の苦しまぎれであったらしい。しかしともかくも大劇場である。東京のまん中の大劇場に乗り出して、一挙にその運命を決しようと企てた川上音二郎は、たしかに大胆なる冒険家であった。  その時は二回目で、一番目が依田学海《よだがっかい》作の「拾遺後日連枝楠《しゅういごにちれんしのくすのき》」、二番目が矢野龍渓《やのりゅうけい》の「経国美談」であった。「経国美談」はともかくも、一番目は楠|正儀《まさのり》と熊王丸とを取扱った史劇で、楠が青柳、熊王が川上、侍女千代野が藤沢という役割であったが、これまで「板垣君遭難実記《いたがきくんそうなんじっき》」というたぐいの狂言のみを演じていたこの一座が、烏帽子《えぼし》をかぶったり、直垂《ひたたれ》を着たり、太刀を佩《は》いたりして、一体どんな格好をしてどんな芝居をするであろうと、わたしは一種の興味を以て招待の桟敷から覗《のぞ》いていた。他の客も案外多くて、土間《どま》の七、八分は埋められていた。これらの人々も恐らくわたしと同じような好奇心を以て入場したのであろう。  しかし舞台の上の成績は予想以上であった。勿論、大勢のなかには顔のこしらえのまずい者や、烏帽子の着様のつん曲がった者や、正面を切って台詞《せりふ》の言えない者や、男か女かわからない者や、国|訛《なま》りを丸出しの者や、種々さまざまの欠点が見出だされないではなかったが、大体においてともかくも著るしい破綻をも露《あら》わさずに演了したのであった。この史劇はもとよりこの一座のために特に書き卸されたものではなく、やはり在来の歌舞伎俳優に当てはめて書かれたものを採用したのであるから、竹本浄瑠璃《たけもとじょうるり》を使っている場面が幾カ所もある。壮士と名の付いている俳優たちがいわゆるチョボに乗って芝居をする――それがさのみおかしいとも思われないばかりか、弁《べん》の内侍《ないし》と千代野との別れなどは、チョボを十分に使って一部の観客を泣かせたのである。わたしもさすがに偉いと思った。素人の彼らがこれほどに遣りこなすのは並大抵のことではあるまいと思った。一番目と二番目との間で、川上はオッペケ節を歌った。これには私もすこしく眉をひそめたが、それも客を呼ぶ手段の一つでよんどころあるまいと頗《すこぶ》る寛大に見のがしていた。  川上がこのオッペケ節を歌うというのが確かに一つの呼び物になっていたのである。舞台の正面に屏風を立てまわして、川上が坐っている。その扮装は散髪《ざんぎり》頭に白のうしろ鉢巻をして、黒木綿の筒袖《つつそで》に小倉《こくら》の滝縞《たきじま》の袴《はかま》をはいて、陣羽織を着て日の丸の扇をひらいて、大きな口をあいて皺枯《しわが》れ声を振り立てて、かのオッペケ節を歌うのである。その一例を挙げると、まずこんなものである。 「国会ひらけた暁に、役者に惚《のろ》けちゃいられない。日本大事に守りなさい。眉毛の無いのがお好きなら、癩人《かったい》を色に持ちなんせ。目玉を剥くのがお好きなら、狸《たぬき》と添い寝をするがよい。オッペケペー、オッペケペッポーポー。」  こんな類の唄《うた》を早口に調子付けて歌うというだけで、極めて幼稚な非芸術的なものであるが、それが非常に人気にかなって、かの松井須磨子《まついすまこ》のカチューシャ以上に持て囃《はや》されたのであった。従ってオッペケペーといえば直ちに川上を連想するほどに、彼は忽《たちま》ち有名なものになってしまった。それのみならず、彼は非凡の辣腕家《らつわんか》で、一面その人気取りに抜け目なく働いたので、壮士俳優に川上音二郎あることを早くも東京人に認められたのであった。しかし普通の好劇家は、やはりオッペケ芝居として彼を侮蔑していた。  それでも彼の成功を見て、その風を望んで麾下《きか》に馳せ参ずる者もあった。別に一派を起こそうとする者もあらわれて来た。それと同時に、川上一派に対していろいろの悪口をいう者も出て来た。川上らはみずから壮士と称しているけれども、ほんとうの壮士ではない。彼らの群れには旅廻りの俳優もいる。商家の雇人もいる。大道芸人もいる。むしろそんな輩《やから》の方が多数を占めているという噂が伝えられた。現に『日本新聞』では一ページ余にわたって、かれらの身許調べのような記事を掲げて、こんなまやかしもの[#「まやかしもの」に傍点]に瞞着《まんちゃく》されるなと警告したくらいであった。しかも川上らはそれに対して何の弁駁《べんばく》をも試みなかった。かれらは黙って人気取りの運動に努めていた。 「連枝楠」を上演した関係上、また在来の歌舞伎劇に対して多大の不満を感じていた関係上、依田学海は川上一派に対して非常に肩を入れて、なにかの面倒を見てやっていたらしいが、彼らに何か不信の行為があったとかいうので、癇癖《かんぺき》の強い学海居士は忽ち彼らと絶縁してしまった。そうして更に彼らに対抗すべく理想的の新劇団を組織しようと考えた。その尽力と後援とによって成立したのが、済美団《せいびだん》という一座で、伊井蓉峰《いいようほう》がこの時初めて舞台の人となったのである。水野好美も画筆をなげうって参加した。女形はほんとうの女優でなければいけないという学海居士の意見で、千歳米坡《ちとせべいは》が出演することになった。市川|粂八《くめはち》も守住月華《もりずみげっか》という名で加入した。その初陣の舞台は浅草公園の吾妻座《あずまざ》で、二十四年の十月に開場した。狂言は学海居士作の「政党美談淑女操《せいとうびだんしゅくじょのみさお》」という現代物で、その成績はさのみ悪くなかったが、どうも川上一派ほどには人気が引き立たなかったようであった。  それでも機運はだんだんに熟して来て、あくる二十五年の春、川上一派が猿若町《さるわかまち》の市村座に楯籠《たてこも》って、まず得意の「板垣君遭難実記」を上演し、つづいて熊本|神風連《じんぷうれん》騒動の「ダンナハイケナイワタシハテキズ」を上演した頃には、その評判がいよいよ高くなって、日ごろ彼らを外道視《げどうし》している好劇家も、それほど評判のものならば一度はどんなものか覗いてみようというようになって、毎興行大入りであった。わたしは五月なかばの雨の日に市村座へ出かけて「ダンナハイケナイ」の劇を見物したが、それは全くイケナイものであった。狂言といい演技といい、俗受け専門、場当たり専門、実にお話にもならないもので、わたしは苦々しいのを通り越して腹立たしくなった。それでも日曜のせいか、劇場は満員であった。かれらに対して俄《にわ》かに一種の反感をもつようになったわたしは、あくる日出社すると直ぐに劇評を書いた。劇評と書かずにわざと激評と書いた。市村座激評の標題の通りに、わたしは川上の芝居を激烈に攻撃して、こんな芝居を喜んで見物している人間があるのを悲しむというようなことを書いた。年の若いわたしは、それはかえって彼らの逆宣伝になることに気がつかなかった。 [#改ページ] [#5字下げ]朝鮮公使の抗議[#「朝鮮公使の抗議」は中見出し]  前にも書いた演劇改良会はさらに日本演芸協会に生まれ変わって、ときどきに一種の演芸会のようなものを催していたが、明治二十四年十月二十七、二十八の二日間、鳥越《とりこえ》の中村座で演劇大会を開くことになった。俳優は団十郎、菊五郎とその一家一門と、先代の坂東秀調が加わった大一座で、狂言は第一「泉三郎《いずみさぶろう》」、第二「義経千本桜《よしつねせんぼんざくら》」であった。この種の催しにどうして「千本桜」のようなものを択《えら》んだのか知らないが、おそらくは菊五郎の出し物として選定されたのであろう。それでも鮓屋《すしや》の場で、お里の枕のくだりを省《はぶ》いたのが改良であるとかいうことが、頻りに宣伝されていた。  その「千本桜」については別に言うこともないが、第一に据えられた「泉三郎」三幕は宮崎三昧《みやざきさんまい》の新作史劇で、河竹新七校と記されてあった。宮崎氏はその当時、東京朝日新聞社に籍を置いて、小説家として知られている人であった。その「泉三郎」を団十郎が勤めるということが今度の主眼で、協会側ではそれを上演することによって、いわゆる演劇改良を標榜しているらしく見られた。そうして、その「泉三郎」は団十郎一門の受持ちで菊五郎一門は一人も加わらず、また「千本桜」の方は菊五郎一門の受持ちで団十郎一門は一人も加わらず、両者が相対峙したような形になっていたのは、菊五郎がこの演劇改良会なるものに対して暗に一種の反感を懐《いだ》いていたために、第一の新作史劇には一切かかり合うことを嫌って、自分の一門はすべて第二の「千本桜」の方に楯籠《たてこも》ってしまったのであるという噂が専ら伝えられた。それが果たして事実であったかどうだかわたしは知らない。しかもそんな噂が生み出されたのを見ても、ふだんから世間一般に団十郎は進取的、菊五郎は保守的と認められていたのが判《わか》る。  わたしの記憶しているところでは、この時代において局外文士の脚本が上演されたものは、依田学海《よだがっかい》居士の「文覚勧進帳《もんがくかんじんちょう》」と、川尻宝岑の「梅田神垣《うめだのかみがき》」など二、三種に過ぎないように思われる。福地桜痴《ふくちおうち》居士は歌舞伎座の人であるから特別である。勿論「泉三郎」とても普通興行ではなかったが、それにしても素人の書いたものが舞台にのぼせられるというのは、異例の出来事として世間の注意をひいた。しかもそれらはいずれも原作そのままを上演されたのではなく、みな在来の狂言作者の改竄《かいざん》を経たのである。爾来《じらい》四十余年といえばかなりに長い月日ではあるが、その間の推移を考えると実に今昔の感に堪えない。「泉三郎」は明治三十九年の春、先代の片岡市蔵――その頃は十蔵といっていた――が日露戦争から凱旋した時に、今の幸四郎や父の市蔵らと共に歌舞伎座で再演した。 「泉三郎」で思い出されたのは、その翌月、歌舞伎座で再び「泉三郎」を上演するようになったことである。これは在来の「腰越状《こしごえじょう》」の泉三郎で、前の「泉三郎」とは何らの関係がある訳ではないが、「泉三郎」がまた出るというので世間の噂にのぼった。歌舞伎座でも最初からこの狂言を択《えら》んだのではなく、一番目は桜痴居士作「太閤軍記朝鮮巻《たいこうぐんきちょうせんのまき》」五幕、二番目は「高田の馬場」、大切浄瑠璃《おおぎりじょうるり》は「雪月花」という組合わせで開場したのであるが、一番目の四幕目に朝鮮の王妃と王子らが我が陣所に捕虜となっているところへ、朝鮮の勇将征東使伯寧がおなじく捕虜となって来て、敵中で君臣対面の場がある。加藤清正は団十郎、王妃は先代の秀調、伯寧は八百蔵で、作者は朝鮮側の面目を立てるために忠勇なる伯寧を点出して、それを当時売出しの八百蔵に勤めさせたのであった。  おおわらわの伯寧が縄付きの姿で王妃らの前に平伏し、自分らが不覚にして王妃らにかかる恥辱を見せたる罪を謝するところは、文字通り声涙|倶《とも》に下るの悲壮な場面で、この場が最も好評を博していたのであるが、興行の中途で朝鮮公使館から外務省にむかって抗議を提出した。歴史上の事実はともあれ、自国の王妃王子が捕虜となっているところを舞台の上で公演するのは穏かでない、どうか中止を命じてもらいたいというのである。前にもいう通り、作者の方ではむしろ朝鮮側に贔屓《ひいき》してこの場を作ったのであるが、王妃王子の問題に対しては何とも抗弁するわけに行かないので、結局この一幕だけを抜くことにして折合いが付いた。その代りに何か一幕加えなければならなくなったので、俄《にわ》かにこの「腰越状」を挿むことにした。五斗は団十郎、関女は秀調、泉三郎は八百蔵という役割で、ここに再び泉三郎を舞台の上に見ることになったのであった。  この狂言では、団十郎が清正と太閤と船頭与次兵衛の三役を勤めて、殆《ほと》んど休みなしに登場していたのである。どの役々も嵌《はま》り役で、もとより悪かろうはずはなかったが、それらの出来栄えよりも、長くわたしの記憶に残っているのは、「雪月花」の浄瑠璃であった。雪は在来の布晒《ぬのざら》しで、別に変わったこともなかったが、月は『平家物語』の仲国、花は謡曲の「高野物狂《こうやものぐるい》」で、いずれも桜痴居士の新作である。仲国はむろん団十郎で、小督局《こごうのつぼね》が秀調、小女房|冷泉《れいぜい》が新蔵、「高野物狂」では高師四郎《たかしのしろう》が団十郎、児《ちご》龍若が女寅《めとら》であったが、取分けて仲国が優れてよかった。鞭を横たえて嵯峨野《さがの》の月に立った彼の烏帽子《えぼし》姿は、ありありとわたしの眼に残っている。弁慶も助六も清正も家康も河内山《こうちやま》も説くには及ばない、この仲国ひと役でも団十郎に名人の尊称をあたえていいと、わたしは今でも思っている。新蔵の冷泉もよかった。 「太閤軍記朝鮮巻」も「雪月花」も、おのおの一冊となって金港堂から出版された。「雪月花」の方は誰が書いたか知らないが、「太閤軍記」の方は歌舞伎座の作者の竹柴賢二とわたしとが引受けて、印刷所へまわす原稿をこしらえることになった。横綴じになっている桜痴居士直筆の原稿を渡されて、賢二が二幕、わたしが三幕を浄書するはずのところを、賢二は劇場の仕事が忙がしいというので、わたしが序幕から四幕目までを引受けることになった。歌舞伎座の開場前に印刷してしまわなければいけないというのであったが、なにぶん昼間は新聞社に勤めているので、夜の八時頃から書きはじめて、むろん徹夜で、翌日の午前にともかくも四幕百枚あまりを書きあげて、すぐに桜痴居士のところへ持ってゆくと、居士はわたしの原稿をつくづく視て、「君は、字はまずいが、早いことは確かに早いね。これでもう少し手習いをするといいんだが……。」と笑っていた。しかも、その後一度も手習いをしないので、わたしの字は依然としてまずい。おまけに昔のように早くは書けなくなったので、まるで取柄《とりえ》がなくなってしまった。  その頃、賢二君の話によると、歌舞伎座の作者部屋の給料はあわせて四百五十円で、その中から二百円ぐらいを本所へ送り、百円ぐらいを立作者《たてさくしゃ》の寺内《じない》が取り、残りの百五十円を一同に分配するのだとかいうことであった。立派な名題俳優ですらも百五十円か二百円くらいしか取らない時代であるから、それに比較して作者部屋の給料もひどく廉《やす》いものではなかったらしい。今はどうなっているか知らない。  なにしろその頃の二百円といえばなかなかの大金でもあり、また高価の原稿料であったに相違ない。その翌年の春、かの川上音二郎が中村座で「平野次郎《ひらのじろう》」を上演するについて、桜痴居士のところへその脚本起稿を頼みに来た。居士は当時多忙でもあり、かつは書生芝居なるものに対して余りいい感情を持っていなかったので、一旦は拒絶したが、口説き上手の川上は容易に引下がろうとしないので、居士もしまいには面倒になって、原稿料は二百円だがそれでいいかと念を押した。居士の方では出来ない相談のつもりで、こう言ったら恐らく驚いて逡巡《しゅんじゅん》するだろうと思ったところが、案外にも川上は平気な顔で――努めて平気を粧《よそお》っていたのかも知れないが――はあ、よろしゅうございます、何分お願い申しますと答えたので、居士ももうどうすることも出来ないで、とうとうその脚本六幕を引受けることになったのであった。川上もその後には勿論それ以上の脚本料を支払った例はたくさんある。しかしその当時における二百円はよほどの奮発であったらしい。一事が万事で、すべての方面に対してこういう風に思い切りのいい、きびきびした遣り方が、かの川上をして成功せしめた唯一の原因であったらしく思われる。  川上一派の書生芝居がだんだん芽を噴いて来るに連れて、さらに若宮萬次郎の一派が起こった。山口定雄の一派が起こった。福井茂兵衛の一派があらわれた。かれらは一面に写実を標榜しながら、一面にはずいぶん不自然な支離滅裂な芝居を上演していたのであるが、ともかくも歌舞伎の舞台には見られない真剣の掴み合いや立廻りなどが呼びものになって、いつとはなしにその領分をひろげて行った。その当時の彼らは、努めて書生らしく粧うために、多くは紺飛白《こんがすり》の衣類を着て、兵児帯《へこおび》をしめて、筒袖《つつそで》の羽織などを襲《かさ》ねていた。それがかえって一種の忌味《いやみ》を伴うようにも感じられたが、一般からはさっぱりしていいとか、書生らしくていいとか言って喜ばれた。川上などもやはり飛白の筒袖を着て押し廻していた。しかしその頃は一般に袴《はかま》を穿《は》くことが流行しなかった時代であるので、いずれも筒袖の着流しで、わざとらしく薩摩下駄《さつまげた》などを穿いていた。  わたしが桜痴居士の家をたずねた時に、玄関にきたない薩摩下駄が揃えてあるので、誰が来ているのかと思ったらば、かの「平野次郎」の脚本について何かの打合わせのために、川上が来ているのであった。 [#改ページ] [#5字下げ]明治二十六、七年(上)[#「明治二十六、七年(上)」は中見出し]  明治二十六年から二十七年にかけては、東京の劇界に記憶すべき出来事がかなりに多かった。二十六年の一月二十二日午後三時三十分に浅草の西鳥越町から出火して、鳥越座も類焼した。鳥越座は旧《もと》の中村座である。近年とかくに客足が付かなくなって経営困難であると伝えられているところへ、更にこの不慮の災厄を蒙ったので、由緒あるこの大劇場もそれぎりに亡《ほろ》びてしまった。  それと殆《ほと》んど時刻を同じゅうして、河竹黙阿弥《かわたけもくあみ》が本所南二葉町の自宅で、七十八歳の生涯を終った。その日は日曜日で、空《から》っ風《かぜ》の吹く寒い日であった。  その頃は無休刊の新聞はないので、どの新聞も月曜は休刊である。わたしは当時京橋の三十間堀に住んでいたので、鳥越座の焼けたことはその日のうちに知ったが、黙阿弥が死んだことは月曜日に出社して初めて知ったのであった。その頃の『東京日日新聞』は社会記事を掲載しなかった。したがって、その部面の外交記者というものもないので、わたしはやまと新聞社に電話をかけて大略の材料を聴き取った。翁の瞑目したのは午後四時十五分ということであった。葬儀は二十四日に浅草の源通寺で仮葬を行なって、さらに日取りをきめて本葬を営むというので、わたしは個人としてもまた東京日日新聞社を代表しても、その本葬には是非とも会葬したいと思って、二、三日の後に再びやまと新聞社に電話をかけて条野採菊《じょうのさいぎく》翁に聞きあわせると、本葬は見合わせになったらしいという返事であった。わたしには何故だか判《わか》らなかった。すると、二月一日発行の『歌舞伎新報』に、「黙阿弥遺言」という標題で左の広告が掲載されていた。 [#ここから2字下げ、折り返して3字下げ] 一、本葬之儀は諸君へむだの日を費させ候に付堅く不可致《いたすべからざる》事、但し初七日仏参之儀は都合に依り四十九日を当日と定め相延し可申《もうすべき》事。 [#ここから2字下げ] 右者《みぎは》亡父遺言状仮葬之翌日相開き一覧致候処本葬|云々《うんぬん》之儀|有之《これあり》候に付《つき》遺言を守り相営み不申《もうさず》候然るに昨日仮葬之節追て日限御知せ可申上御約束之処前件の次第故|不悪《あしからず》御承引|可被下《くださるべく》候右御報道併せて御礼奉申上候也 [#ここで字下げ終わり] [#地から8字上げ]本所区南二葉町三十一番地 [#地から3字上げ]相続者  吉村いと  平生から派手なことを好まぬと聞いている翁の遺言としては、さもありそうな事だとわたしも思った。翁の晩年について、わたしは「明治以後の黙阿弥翁」と題して書いたことがあるから、今ここで重ねて言うまい。翁が逝いてから四十年の間に、劇界の形勢も著るしく変化した。しかも翁の作物は依然として歌舞伎の舞台を力強く踏まえている。わが歌舞伎の世界からいわゆる竹本劇と翁の作物とを取除いたならば、その内容は殆《ほと》んど空虚になってしまうかも知れない。勿論、その勢力が今後いくばくの年を保つものか私にも予想することは出来ないが、死後四十余年だけにしてもこれほどの勢力を維持しているのは、わが国の劇作家として稀有の例と言っていい。わたしも無条件で翁の前にひざまずくものではないが、さりとて形を正しくして翁の姿を仰ぎ視ないわけには行かない。  鳥越座をほろぼした火の神は、さらに下谷二長町《したやにちょうまち》の市村座を焼いた。それは三月二十八日の午後六時五十分であった。これも自火ではなく、和泉町の藤堂邸から燃え出した大火のために類焼の禍に逢《あ》ったのである。市村座は元地《もとち》の猿若町《さるわかまち》から移転して、去年の十一月に新築開場式をおこない、市川左団次、市川権十郎、坂東|家橘《かきつ》などの顔ぶれで、一番目は「賤嶽七本槍《しずがたけのしちほんやり》」、二番目は「松田の仇討」で華々しく開場したのであったが、それから半年も経たないうちに忽《たちま》ち灰になってしまったのは、鳥越座以上の悲しむべき出来事であった。  まだそればかりでなく、市村座の三月興行に左団次、家橘らの一座で、近藤重蔵と阿古屋《あこや》の琴責《ことぜめ》を上演していたところが、その興行中に家橘が急病で死んだために、よんどころなく半途で閉場して更に次興行の相談中に、劇場もまた焼亡してしまったのは、劇界に取って重ねがさねの災厄といわなければならなかった。家橘は五代目菊五郎の弟で、今の羽左衛門の父である。面長の、しかも膨《ふく》らみのある顔で、調子も“鳩ぽっぽ”と綽名《あだな》されていたような含み声であったが、和事師《わごとし》をしては当代第一人と称されて、かの団菊左の三名優に次ぐべき地位を占めていた。今の羽左衛門も切られ与三郎を得意としているが、どうも父には及ばないようである。前にもいった通り、わたしは本所の寿座《ことぶきざ》で、家橘の与三郎、源之助のおとみ、伝五郎の蝙蝠安《こうもりやす》を見たことがあるが、いわゆる持味で、与三郎の体に持っている自然の柔かみには他人の企て及ばないところがあった。兄の菊五郎も歌舞伎座でおなじく与三郎を演じたが、これも弟には及ばなかった。晩年の家橘は和事師から抜け出そうとして、熊谷《くまがい》や、鱶七《ふかしち》や、大岡越前守や、そういうたぐいの役々を好んで演じていたが、いずれも団十郎張りであるという好評で、やがては大立者《おおだてもの》となるべき鷹揚《おうよう》な芸風であったのを、急性腹膜炎のために四十七歳で死なせたのは残念であった。  わずか三月経たない間に、黙阿弥をうしない、家橘を奪われ、二つの大劇場を焼かれたのであるから、この年はわが劇界に取って怖ろしい厄年であったに相違ない。まだその上に中村|芝翫《しかん》は一月二十五日、美濃の多治見の旅興行先で、法界坊の宙乗りを仕損じて舞台に落ちて、右の足をくじいた。幸いに全治したが、その後は右の足が自由を欠いて、舞台の上では幾分か跛足をひくようになってしまった。  その年の九月、歌舞伎座では団十郎、市川権十郎、福助、片岡市蔵らの顔ぶれで開場した。初日はたしか二十五日頃であったと記憶している。今日では各劇場申合わせたように月初めに初日を出すことになっているが、その頃は中旬でも月末でも一向無頓着で、思い思いに開場するのが習いであった。畢竟《つまり》は一年の興行度数が少ないためであったらしい。今日のように毎月殆んど欠かさずに開場するならば、どうしても月初めに初日を出すことにしなければならないが、一年四、五回か三、四回の興行であれば、初日はいつでも構わないということにもなる。初日が月初めと決められたのは大正以来のことである。  その初日から三日目に、各新聞社の劇評家が例によって招待された。わたしは初日に見物したので、当日は居合わせなかったが、狂言は一番目が桜痴居士作の「大久保彦左衛門」、中幕は「日向島《ひゅうがじま》の景清《かげきよ》」で、一番目の方には何事もなかったが、中幕になってから西桟敷の劇評家連がひどく騒ぎ出した。この景清は従来のものに余ほど修正を加えて――誰が修正したか知らないが、恐らく桜痴居士であろう――景清が最後まで眼を明かないことになっているばかりか、きょうは小松内府の命日というので、その位牌などを持出して長台詞のくだりがある。舞台面が寂しい上に、主人公が盲目でちっとも動きがなく、むやみに長台詞をならべているばかりであるから、いくら団十郎の一人舞台でも、その当時の観客は頗《すこぶ》る悩まされたに相違ない。それでも彼らはおとなしく見物していたが、かの西桟敷の先生が納まらない。中程からだんだんに騒ぎ出して、声をあげて笑う者がある。桟敷の手摺りをたたく者がある、しまいには鬨《とき》をつくって囃《はや》し立てるという未曾有《みぞう》の騒擾《そうじょう》を演出したので、他の観客もおどろかされた。わたしはその実況を見ていないので、今ここにその詳細を語ることは出来ないが、なんでも劇評家の招待始まって以来の椿事《ちんじ》であったと伝えられている。  それでも劇の方は無事に進行して幕になったが、団十郎は憤慨した。桜痴居士は更に憤って、すぐに一篇の長い文章をかいて、『中央新聞』に寄稿した。諸君は新聞社の劇評家であるから、その劇が詰まらなければ各自の新聞紙上で堂々と論議するがよい。批評は善悪ともに諸君の自由である。しかし観劇中にむやみに騒ぎ立てて劇の進行を妨害し、あわせて他の多数の観客に迷惑をあたえるというのは、かの大向《おおむこ》うの徒と択《えら》ぶところなき無作法の所行《しょぎょう》であると、さんざんに痛罵《つうば》した。劇評家側ではそれに対して応戦する者もなく、結局それぎりになってしまったが、わたしの知っている限りでは、こんな出来事はあとにも先にもただ一度であった。  この年には今の明治座が出来た。前の千歳座《ちとせざ》は二十三年の五月に焼けて、爾来《じらい》そのままになっていたのが、今度新しく建て直されて、十一月の一日に開場式を挙げたのである。狂言は「石橋山《いしばしやま》」と「扇屋熊谷《おうぎやくまがい》」と「遠山桜天保日記《とおやまざくらてんぽうにっき》」とで、俳優は左団次一派と権十郎、それに団十郎も加わって中幕の熊谷と二番目の不動明王とを勤めていた。この劇場は左団次が持主であったので、その一門はことごとくここに集まって、いわゆる明治座一派を初めて形づくる事になったのであった。  中村座と市村座をうしなった東京の劇界は、明治座の出現によって少しくその損失を償ったわけである。参考のために、その当時の大小劇場の名を左に挙げてみよう。 [#ここから1字下げ、折り返して2字下げ] 大劇場――歌舞伎座、深野座、春木座、明治座。 小劇場――真砂座、柳盛座、新市村座、三崎座、新盛座、浅草座、吾妻座《あずまざ》、常盤座《ときわざ》、藍染座。 [#ここで字下げ終わり]  なお、参考のために、明治二十七年一月興行の入場料を左に記すと、歌舞伎座は菊五郎、福助の一座で、桟敷|一間《ひとま》四円四十銭、高土間《たかどま》三円三十銭、平《ひら》土間二円四十銭、但しいずれも一間五人詰の価であるから、一人分はその五分の一であることを忘れてはならない。大入り場は一人二十銭である。それに対して明治座は左団次、権十郎の一座で、桟敷四円三十銭、高土間三円二十銭、平土間二円三十銭、これも勿論五人詰の価で、大入り場は一人十五銭である。かれこれ対照してみると、明治座は歌舞伎座よりも土間桟敷一間に付いて十銭ずつ廉《やす》いのである。一間で十銭、一人について二銭ずつの差でも、明治座の方が廉いと思われようという一種の競争心が潜《ひそ》んでいたことを考えると、その時代の物価や生活程度も想像されるではないか。その当時に、今日のような観覧税などを絞り取ったら、興行師も観客も眼をまわしたかも知れない。  この興行は、歌舞伎座の狂言が「おこよ源之丞」と「二十四孝」と「明烏《あけがらす》」で、一月十二日正午十二時に開場し、明治座は「伊達騒動《だてそうどう》」の通し狂言で、同日午前十時に開場した。大劇場が元日早々から開場するというのは、大正以後のことで、大劇場は決して松の内に開場するものではなかった。大劇場を見物するような客は、それぞれ新年の用事があって、松の内なぞに芝居見物に出てはいられないというので、早くても八日以後でなければ開場しないのが例であった。小芝居は大抵大晦日に初日を出して、元日から引きつづいて興行していた。これは前者とは反対に、松の内でなければ遊ぶことの出来ない下級の客を相手にしていたからであった。 [#改ページ] [#5字下げ]明治二十六、七年(下)[#「明治二十六、七年(下)」は中見出し]  ここで少しばかり人形芝居について語りたい。結城《ゆうき》・薩摩《さつま》の二座が絶えた後、東京の人形芝居は単に寄席においてのみ観られる興行物になってしまった。それでも吉田国五郎や西川伊三郎などという人形使いの上手がいた。女では西川組之助、西川錦之助などもいた。それが皆それぞれ一座を組んで、市中の寄席に出勤して相応の入りを取っていたのである。殊《こと》に国五郎は人気があって、見台ぬけのケレンなどで喝采を博していた。猿若町《さるわかまち》の市村座のそばに文楽座があったが、行き立たないで亡《ほろ》びてしまった。  そうしているうちに、義太夫《ぎだゆう》の隆盛に連れて明治二十六年には神田錦町に新声館が建てられた。今日では活動写真館になっているが、元来は人形芝居の小屋として作られたもので、大阪の文楽と東西相対峙するような意気込みで、東京にいる太夫の主なる者はことごとく出勤することになった。人形使いは国五郎や伊三郎の一門がこぞって出勤した。東京ではこれ以上の人形芝居は観られないのであるから、開場の当時はなかなか繁昌した。わたしなども毎回見物に行ったが、太夫はよし、人形つかいは上手で、くだらない小芝居などを観るよりも確かに面白かった。二十七年の二月に逆櫓《さかろ》(綾瀬太夫)、堀川(播磨《はりま》太夫)を上演した時などは、太夫を聴くだけでも一日の暇を潰す価値があるというので、毎日満員の大入りであった。妹背山《いもせやま》の両|床《ゆか》で、大判司の人形は国五郎、太夫は綾瀬、定高《さだか》の人形は伊三郎、太夫は播磨という時にもやはり大入りであった。  要するに二十七年頃がその全盛時代で、それからだんだんと流行《はや》らなくなって、ともかくも四、五年持ちこたえた末に解散してしまった。寄席でもだんだんに流行らなくなって、結城孫三郎のあやつり以外には、出使いの人形芝居はもう見られなくなった。人形芝居などというものは東京人の趣味に適さず、気の早い人はひと口に木偶《でく》の坊と蔑《けな》してしまうらしい。そうして、人間でも木偶の坊に劣る芝居のあることに気がつかないらしい。よい太夫が浄瑠璃《じょうるり》を語って、よい人形使いが人形を働かせるという情味が、東京の観客にはだんだん判《わか》らなくなって来たらしい。義太夫を聴く耳はあっても、人形を見る眼はないらしい。たとえば、おしゅん伝兵衛の「堀川」のごとき、人形でなければどうしても本当の情味は出ないように私は思うが、一般の観客はやはり生きた俳優を通してその情味を賞翫《しょうがん》したいように思っているらしい。勿論、それは私の方が間違っているのかも知れない。わたしは大阪で文楽の人形を観た。たった二度観ただけであるから、その印象が薄いせいでもあろうが、私としては大阪の文楽よりもやはり東京の新声館の方がなつかしいような心持がする。  わたしが新声館へたびたび行く頃には、毒々しい絵具などを塗り散らした活動写真の看板は見えなかった。勿論、その近所に電車などは通らなかった。その辺は神田としては静かな町であった。新声館へ曲がってゆく横町の角には、幾本かの幟《のぼり》が春風にゆるくなびいて、そこらの家の庭には木蓮や桜の花が白く咲いていた。わたしはそのころ流行り出した鳥打帽子をかぶって、その幟の下をぶらぶらと歩いて行った。そうして、人形の踊っている舞台をしずかに眺めていた。今から考えると、全く夢の世界である。私ばかりでなく、四十年前の人間は皆この夢の世界に住んでいたのではあるまいか。  その七月には日清戦争が始まった。この戦争はわが演劇史の上にも記録すべき重大の出来事であった。書生芝居とか壮士芝居とかオッペケ芝居とか呼ばれていた各種劇団が、いわゆる新演劇としてここにいよいよその地盤を踏み固めたのである。この戦争では、在来の歌舞伎俳優らが書生芝居と相対抗して甚だしい敗北を招いたのであった。  戦争が起こると同時に、大小劇場では競って戦争劇を上演することになったが、そのなかでもこういう機会をつかむのに抜け目のない川上音二郎《かわかみおとじろう》は、その九月、浅草座で真っ先に戦争劇を上演した。日本の新聞記者が捕虜になって、李鴻章《りこうしょう》の前に牽《ひ》き出されて気焔を吐くというような場面が主になっていて、他は新聞の戦争記事の切抜きのような、芝居らしくもないものであったが、真っ先に際物《きわもの》を出しただけにその人気は素晴らしいもので、川上と藤沢とが新聞記者に扮していたが、高田実の李鴻章が非常に評判がよかった。高田はそれで売出したのである。水野好美や伊井蓉峰《いいようほう》も加入していた。戦争の場では、実弾に擬した南京《ナンキン》花火をぱちぱち飛ばして、しきりに観客を脅《おびや》かしたりして、この興行は大成功であった。  それに倣《なら》って、所々の小芝居でも戦争劇を続々上演するようになったので、大劇場でも動かずにはいられなくなった。明治座は十月、歌舞伎座では十一月興行に、いずれも新作の戦争劇を上演した。明治座の「会津⪑《あいづみやげ》明治組重」は竹柴其水《たけしばきすい》の作、維新の会津戦争から今度の日清戦争までを連続して脚色した通し狂言で、むかしの戦いと今の戦いとを対照して見せたようなものであった。その中で、築地のシナ人の別れが面白く、左団次のシナ人と秀調の女房とが好評であったが、肝腎の日清戦争の場は妙な格好をした軍人が大勢出るので打《ぶ》ち毀《こわ》してしまった。歌舞伎座の「海陸連勝日章旗《かいりくれんしょうあさひのみはた》」は桜痴居士の作、これは大鳥公使の談判から原田重吉の平壌玄武門先登を脚色したもので、団十郎は大鳥公使と御用船の水夫と原田重吉の父との三役に扮し、菊五郎は原田重吉に扮したが、初めから仕舞いまで殆《ほと》んど劇的の場面がないので、その当時新聞紙上を賑わしていた原田重吉の功名譚《こうみょうだん》という以外には何の興味もひかなかった。  今日とは違って、その当時のあらゆる戦争劇は、戦争を背景として何物をか暗示しようとかいうたぐいの作物は一つもない。いずれも単に戦争の現場を見せようとするのが趣意であるから、その場面の善悪巧拙が直ちにその劇の運命を決するのであって、その成功と不成功とは一《いつ》にこれにかかっているのである。その当時の歌舞伎俳優が軍服を着けた姿などは、決して見よいものではなかった。かれらは太刀や槍を持っての立廻りには馴れていても、銃や剣を把《と》るに馴れていない。現代の戦争というものに対しても何の知識も持っていない。勿論、その点においては書生俳優らも同様であったが、むしろ素人であるだけにかえって始末がいい。軍服をつけた格好も歌舞伎俳優よりは見た眼がいい。立廻りも無茶苦茶だけにかえって写実らしい。そんなわけで、この戦争劇は結局書生側の勝利に帰したものと認められてしまった。  歌舞伎側では戦争劇の成績が思わしくなかったのと、また二つには歌舞伎劇の立場として、幾たびも同じような戦争劇を繰返してはいられないので、その後は普通の劇を演じつづけることになったが、書生芝居の方ではこの機会を逸すまいとして、その後も戦争劇を続々上演した。殊に川上音二郎は浅草座で好成績を占めると、すぐに従軍許可願の運動に着手して、ともかくも朝鮮まで出かけて行った。そうして「川上音二郎従軍日記」とかいう看板をあげて、市村座で第二回の戦争劇を開演すると、これがまた大当りに当たった。なにしろ戦場の実地を見とどけて来て、それをすぐに舞台にのせるというのであるから、どこまでが嘘か本当か、そんな見分けも付かずに観客はただむやみに喝采した。  これで書生芝居も一種の新しい劇として、あまねく世間からその存在を認められるようになって、わが劇界には歌舞伎と新派劇と二つの王国が出来た。 [#改ページ] [#5字下げ]紅葉館の劇談会[#「紅葉館の劇談会」は中見出し]  日清戦争劇の流行した明治二十七年の頃、わたしは中央新聞社に籍をおいて劇評の筆を執っていた。その頃の中央新聞社は銀座尾張町の角、今の三越呉服店のところにあって、一方の角、すなわち今のライオン喫茶店のところには東京毎日新聞社の建物が聳《そび》えていた。わたしは二十六年の十月に、『東京日日新聞』から『中央新聞』に転じたので、わたしが入社するまでは小林天龍君がこの新聞の劇評を担任していたのであった。小林君はわたしと入れ代りに萬朝報《よろずちょうほう》社へ転じて、後には劇評家などはすっかり廃業してしまって、同社の政治部記者として有力の地位を占めるようになったが、中央新聞社にあるころは蜃気楼《しんきろう》主人の名を以て盛んに劇評をかいていた。どういう縁故があったか知らないが、同君は銀座の田村成義《たむらなりよし》氏の家に寄留して、そこから出社していたように記憶している。  小林君について、もう一つ記憶に残っているのは、同君一個の名を以て歌舞伎座に引幕を贈ったことである。それは二十六年の盆興行で、通し狂言が円朝物の「榛名梅香団扇画《はるなのうめかおるうちわえ》」で、ほかに中幕として大晏寺堤《だいあんじづつみ》と水滸伝《すいこでん》のだんまり[#「だんまり」に傍点]が付いていた。この芝居に対して、小林君は中央新聞社蜃気楼主人として引幕を贈ったのであった。勿論、それには新聞社の広告の意味も含まれていたに相違ないが、ともかくも劇場に対して劇評家から引幕を贈ったのはこれが始めであるから、たとい金巾《カナキン》の幕にしても相当に観客の注意をひいた。しかし、この興行は団菊左顔あわせの大一座であったにもかかわらず、哀れさんざんの不入りであったから、この引幕を知っている人はあまり多くなかったかも知れない。  小林君は今から二十余年前に世を去ったが、その当時わたしと同じ桟敷《さじき》で見物していた各新聞社の劇評家は大抵あとや先に凋落《ちょうらく》して、いわゆる蓮台座の見物人となってしまった。さきに物故した松居松翁《まついしょうおう》君は二十七年の十月頃から『中央新聞』に入社して、わたしと一緒に芝居を観にゆくことになって、社の編集局でも机をならべていた。ある時、ふたりが編集局で午飯《ひるめし》をくう時に、天金の天ぷらもいいが、一人前をひとりで食うのは分量が多過ぎて胃を害するというので、折りから来あわせた天金の出前持をつかまえて、天ぷらは一人前で、飯だけを二人前持ってくるかと談判すると、承知してやがて持って来たが、さて二人が食い始めると、やはり一人前の天ぷらでは足りない。急に電話をかけて追い足しを註文したが、なかなか持って来ない。ふたりは焦《じ》れ込んで、すっぽろ飯を茶漬にして嚥《の》み込んでしまったことがある。松居君もわたしもその後間もなく中央新聞社を去ることになったので、再び天金を一緒に食う機会をうしなったが、一つの桟敷で芝居の弁当を食うことはその後も長くつづいていた。  松居君の話から更に思い出したのは劇談会のことである。これは主として長田秋濤《おさだしゅうとう》君の斡旋《あっせん》で成立したらしく、西園寺《さいおんじ》侯を主賓として、福地桜痴《ふくちおうち》、末松青萍《すえまつせいひょう》、尾崎紅葉《おざきこうよう》、高山樗牛《たかやまちょぎゅう》の四氏、ほかに松居君と榎本虎彦《えのもととらひこ》君とわたしの三人が加えられた。勿論、はじめに挙げた五人を会合させるのが目的で、松居君は長田君をよく識っていた関係からその一人に加えられたらしく、榎本君とわたしとは何か書き留めてでも置くような必要が起こった場合には、その執筆を申付けるつもりで、一種の書記兼帯に狩り出されたらしかった。その第一回は二十八年二月はじめの月の明るい夜で、場所は芝公園の紅葉館《こうようかん》であった。  定刻までに顔ぶれは揃って、長田君が如才なく席上の斡旋をしていたが、別にこうといって取留めたこともなかった。要するにこれらの人々があつまって、演劇に関する談話会をひらくというに過ぎないのであるから、桜痴居士からは我が国の劇界現状について二、三の談話があり、西園寺侯からは仏蘭西《フランス》の劇場の話があった位のことで、わたしたちは別に書記役を申付けられるような事もなくて済んだ。それから桜痴居士は自作の脚本「向井将監《むかいしょうげん》」の本読みをすることになったが、その頃になって歌舞伎座の仕切場に出ている甲子屋《かっしや》萬蔵というのが遅れ馳せに出席した。なぜこういう人までが劇談会に加入しているのか、それは私には判らなかったが、かれは歌舞伎座の座主《ざぬし》千葉勝五郎のふところ刀で、内部ではよほど勢力のある人らしいから、そんな関係で桜痴居士が推薦したか、あるいは本人自身から進んで参会を希望したのであろうと察していた。 「向井将監」は歌舞伎座三月興行の中幕に上場される二幕物で、九蔵の武田信玄、新蔵の武田勝頼、団十郎の向井将監という予定であった。向井将監がはじめて信玄に召抱えられるときに、なにか申立てるほどの芸があるかと問われると、将監はそれに対して、武士の武芸は当然のことで、改めて申立てるまでもない。別にそれがしの芸を御覧に入れようと言って、信玄のまえで寛闊一休《かんかついっきゅう》を踊ってみせるというのが大体の筋で、本よみが済んでから諸君の御意見を訊《き》きたいということであったが、末松|子《し》を除いては別に何らの意見をのべる者もなかった。末松子は台詞《せりふ》その他について二、三の訂正意見をのべ、一体その向井将監というのは著名の人物かどうかというような質問を提出すると、作者の桜痴居士を差しおいて、かの甲子屋萬蔵がすすみ出て、向井将監は後に徳川幕府の御船手の頭領になった人で、江戸中で知らないものはないと大いに弁明を試みた。その息込みから察すると、萬蔵はこの狂言に頗《すこぶ》る乗り気がしているのか、あるいは作者と相談の上で、執筆してもらったのであろうと思われた。  甲子屋の舌鋒《ぜっぽう》が余りするどいので、末松子も沈黙してしまった。一座もやや白《しら》けかかったが、それを知らず顔に頬杖をついているのは尾崎紅葉氏一人であった。下戸《げこ》の紅葉氏は酒の酔いも手伝ったのであろう。本よみの中ほどから、うとうとと居睡りをはじめて、しまいには低い鼾《いびき》の声さえ洩らすようになったので、となりに坐っている高山樗牛氏は本来真面目な人だけに、あたりの人に気をかねて始終はらはら[#「はらはら」に傍点]しているように見えたのは気の毒であった。  この脚本は二月二十八日から歌舞伎座で上演された。一番目は「先代萩」で、この興行には市川九蔵が久々で出勤して、仁木弾正《にっきだんじょう》と武田信玄をつとめることになった。団十郎は向井将監のほかに政岡《まさおか》と男之助と細川勝元をつとめた。団十郎の勝元と九蔵の仁木、まことに双絶というべきであったが、この興行はあまり好成績でなかった。九蔵はその興行ぎりでここを去ったが、団蔵と改名の後、明治四十一年、やはり歌舞伎座の三月興行に出勤して、おなじ仁木をつとめると、今度は非常の好評を博して、毎日売切れつづきであった。前後では足かけ十四年の月日を隔てているので、私たちの眼からみると、老優いよいよ頽老《たいろう》、まったく昔日の生気を欠くの感があったが、世間の人気はそれと反対で、稀代の名優が突然湧き出したかのように賞讃していた。十四年前の観客が果たして無知であったのか、十四年後の観客が果たして進歩しているのか。わたしは少しくその判断に苦しんだ。  そういうわけで、初演が不成績であったためか、団十郎の「向井将監」はその後ふたたび舞台にあらわれることを封じられてしまった。その本読みをした劇談会は毎月開会のはずで、三月の下旬に第二回を築地のひさご家に開いたが、松居君もわたしも差支えがあって欠席した。ほかの会員もあまり気乗りがしなかったとみえて、その後は開会の通知もなく、結局自然消滅になった。 [#改ページ] [#5字下げ]演伎座の新蔵[#「演伎座の新蔵」は中見出し]  明治二十八年の上半期において、最もわたしの記憶にのこっているのは、赤坂の演伎座における団十郎門下の興行であった。演伎座は初めに福禄座として赤坂溜池に建築され、それが稽古座とあらためられて、団十郎門下がかつて一度出勤したこともあったが、大劇場俳優が小劇場に出勤するのは、俳優組合規則を無視するものであるという批難が多く、その興行成績もあまり思わしくなかったので、一回かぎりで立消えとなって再び元の福禄座にかえり、小劇場俳優でともかくも興行をつづけていたが、やはりその成績が思わしくないらしく、さらに赤坂座となり、新市村座となり、幾たびか座名のみ変更して、小屋は殆《ほと》んど腐ってしまって、山の手の客にも見かえられぬような悲境に陥っていたが、今年の一月興行から演伎座とあらたまって、再び団十郎門下が出勤するようになったので、この座もはじめて復活した。  俳優の顔ぶれは八百蔵、女寅《めとら》、染五郎、新蔵、舛蔵《ますぞう》などの青年俳優で、第一回興行は「地震加藤《じしんかとう》」と「黒船忠右衛門《くろふねちゅうえもん》」と「関《せき》の扉《と》」であったが、いずれも好評で、久しぶりで赤坂に歌舞伎の花を咲かせた。その時にわたしは初めて八百蔵の清正を見た。思えば四十余年の昔である。かれも老い、わたしも老いたのは無理もない。しかし私がこれから語ろうとするのは、その中の市川新蔵の奮闘ぶりである。  新蔵のことは前にも書いた。かれは明治二十年の春から名題《なだい》俳優の一人となっていたが、とかく不遇の地位に置かれがちで、一時は立役《たちやく》をやめて女形《おんながた》に転じたいと言っていたそうであるが、二十三年三月の歌舞伎座で「相馬平氏二代譚《そうまへいしにだいものがたり》」の美女丸が大好評を博してから、俄《にわ》かにその名声をあげて、或る者は早くも彼を十代目団十郎の候補者として推すようにもなった。かれ自身に果たしてその大望があったかどうだか知らないが、その後の彼の舞台ぶりは一段の緊張を示して、役々ごとに好評を続けていた。しかも彼の運命は悲惨であった。足をうしなった田之助とおなじように、かれは眼を失わなければならなかった。かれは美女丸で売り出した年の七月頃から眼病にかかって、左の片眼を明けていることが出来なくなった。歌舞伎座の盆興行に出勤するはずで、一番目の「しらぬひ譚」で雪岡冬次郎、中幕の「絵本太功記」杉の森の場で慶覚上人、二番目「熱海会津⪑雁皮玉章《あたみみやげがんぴのたまずさ》」で伊勢屋晋三郎の役々をうけ取り、番附にもその通りに記載されていたが、かれは初日から登場しなかったので、冬次郎と慶覚上人は岩井松之助、伊勢屋晋三郎は坂東|家橘《かきつ》が代って勤めることになった。ほかにもこういう例は往々ある。むかしの番附だけをたよりにして、その役割を推定すると、とんだ間違いを生じないとは言えない。  ついでに言うが、この二番目狂言の名題がちょっとその当時の問題になった。これは竹柴彦作の作で、清玄《せいげん》を散髪《ざんぎり》に書きかえたような三幕物、その主人公の教心という僧を上京中の鴈治郎《がんじろう》がつとめていたが、名題の“土産”の二字を一字にして、土偏に産の字をつけたのは珍らしいといわれた。この正本《しょうほん》が『歌舞伎新報』に掲載された時には、やはり「熱海土産雁皮玉章」となっていたのであるが、それでは八字になる。由来、芝居道では偶数の名題を忌《い》む慣習があるので、いろいろに無理な遣り繰りをして、三字、五字、七字にする。したがって、江戸時代の狂言や浄瑠璃《じょうるり》の名題に、妙な宛字や作字をしているのも少なくないが、明治以後の新狂言の名題に⪑というような作字があらわれたのは珍らしいという評判であった。新聞社の招待日に、わたしは各社の人たちと一緒に西の桟敷で見物していると、そこへ作者の彦作氏が挨拶に来たので、ある人――たしか須藤南翠《すどうなんすい》氏であったように記憶している――が番附を彦作氏にみせて、かのみやげ[#「みやげ」に傍点]の字を笑いながら指すと、彦作氏も相撲取りのような大きいからだを揺《ゆす》って笑いながら、「なに、芝居はそれでいいんですよ。」と澄まし返っていた。  新蔵はその後しばらく休場していたが、その眼病は片眼がだんだんに飛び出して来るのであると伝えられた。それでも幸いに快方にむかったということで、翌二十四年の一月には鳥越《とりこえ》の中村座に出勤して、一番目の「八陣《はちじん》」で主計之助《かずえのすけ》、中幕の「合邦《がっぽう》」で俊徳丸、二番目の「忍《しのぶ》の惣太《そうだ》」で松若をつとめていたが、舞台の活気はすこしも衰えなかった。ただ二番目の松若は傾城《けいせい》花子に化けているという役で、どうしても美しい女の顔にならなければならないので、特に鬘師《かつらし》に註文したらしく、前髪の一方を長く切下げたように垂れさせて、悪い眼のうえを巧みに掩《おお》っているのが、いかにも気の毒に見られた。  その後も彼はつづけて各劇場に出勤していたが、芸の評判はますます騰《あが》った。どの役も殆《ほと》んど不評というのはなかった。それと反対に、眼病の方はますます悪くなるので、またもや休場して赤十字病院に入院し、さらに大学病院にも入院して、すこしく軽快にむかったというので、久しぶりで二十七年五月に歌舞伎座に出勤して、桜痴居士作の「日蓮記」で日朗《にちろう》法師と明星天童子を勤め、さらに中幕の「琵琶《びわ》の景清《かげきよ》」で榛沢六郎をつとめたが、日朗は召捕りの大立廻りに新手をみせ、土の牢《ろう》から佐渡の別れまで幕ごとに活動して、当代の日朗役者であると賞讃された。 「日蓮記」のあいだで、特にかれが快癒出勤の披露をすることになって、師匠の団十郎が羽織袴で登場して彼のために長い口上《こうじょう》をのべた。かれは師匠よりも末座《まつざ》に控えて、舞台に両手をついているあいだに、絶えず片袖で眼をふいているのがわたしの眼についた。それは感激のためか、眼病がまだほんとうに癒えないためか、わたしにはよく判《わか》らなかったが、いずれにしても快癒出勤のために団十郎がわざわざ長い口上を述べてくれたということは、いかに彼が師匠からも愛せられ、劇場からも優遇されていたかを察することが出来る。団十郎は口上の末に、こんな意味のことを冗談まじりに言った。近ごろ新蔵は高慢の鼻が高くなったという噂がござります。眼の療治にはえらい先生方が沢山《たくさん》ござりますが、鼻の方の療治はどんな博士たちでもいけません。これはわたくしの手療治が一等効き目がありそうに思われますから、きっとその鼻をたたき折ってお目にかけます。どうか御安心くださいと言うと、観客は一度に手を拍《う》って笑った。  実際、かれは近来その伎倆を認められると同時に、だんだんに高慢になったという噂が伝えられた。わたしが舞台以外に彼を見たのは、二十四年の七月、歌舞伎座の楽屋における総浚《そうざら》いの時だけで、個人としては全然面識もなかったが、見るところ、若い芸人には似合わない不愛嬌《ぶあいきょう》な、いわゆる傲岸不屈《ごうがんふくつ》といったような人物であるらしかった。師匠の団十郎もそれがために往々|傲慢《ごうまん》の誤解をまねいたが、彼もやはりその轍《てつ》を踏んでいたのであろう。そうして一面には頗《すこぶ》る覇気《はき》に富んでいたらしく、一種|精悍《せいかん》の気がその風貌に漲《みなぎ》っていた。かれは文学の素養もあって、その当時の海軍大尉小笠原長生|子《し》の眷顧《けんこ》をうけ、その紹介で『木枯《こがらし》』という小説の単行本を春陽堂から出版したこともあった。かれは書画にも巧みであったと聞いている。俳優としての素養としては、舞踊が群をぬいていた。  かれはその後半年ほども歌舞伎座に出勤をつづけていて、前に記したように二十八年の一月から赤坂の演伎座に出演することになったのであるが、その前後からその眼病は再び不良にむかって来て、かれは片眼をつつまないでは舞台へ出られなくなった。かれは病める眼の上に白い切れをあてて、その両端の紐を左右の耳にかけていた。わたしはその病気の性質を知らないが、その頃は単に眼病というばかりでなく、その健康も著るしく傷つけられているらしかった。それでも舞台の上ではちっともその活気を減じないで、第一回興行の「関の扉」の関兵衛などは、かれの高慢に多少の反感をいだいている新聞劇評家も、みな讃嘆の辞をおしまないくらいであった。かれの片眼をつつんでいる繃帯《ほうたい》などは、なんの眼障りにもならなかった。そのときの墨染《すみぞめ》は今の幸四郎であった。  この興行は成績がよかったので、その後ほとんど毎月のように引続いて開場した。そのなかで私が新蔵について記憶している役々は「奴道成寺《やっこどうじょうじ》」の狂言師、「博多小女郎《はかたこじょろう》」の毛剃《けぞり》、「陣屋」の熊谷《くまがい》、「河内山《こうちやま》」の宗俊《そうしゅん》などで、この半年がおそらく彼一生の奮闘時代であったらしいと思われるが、惜しむらくはその当時に絵葉書もなく、『新演芸』や『演芸画報』のような雑誌もなく、わずかに劇場の運動場《うんどうば》に売っている写真ぐらいに過ぎなかったので、その生気ある舞台のおもかげをあまねく後に伝え得なかったことである。  かれの健康はそのあいだにいよいよ衰えたらしく、河内山などを勤めたときには、楽屋に蒲団を敷かせて寝ていて、幕があくと這《は》い起きて舞台に出たとか聞いている。彼もおのれの余命の長くないことを自覚して、息のつづかん限りに最後の奮闘を試みたらしい。思えば一種悲壮の感が湧く。もちろん病いを努めて舞台にのぼった俳優はほかにも沢山ある。しかし大抵そういう場合の舞台のすがたは何となく生気に乏しい、影の薄いものであるが、かの新蔵ばかりはいつ見ても舞台の意気《いき》凜然《りんぜん》たるものがあった。かれは魂の力で働いていたのであろう。  演伎座の興行は六月かぎりで、七月にはこの一座に猿之助が加わって、新富座《しんとみざ》で開演することになった。このときに新蔵は「鍋島猫騒動」の伊東左右太《いとうそうだ》と、「紅葉狩《もみじがり》」の鬼女《きじょ》をつとめたのである。わたしは何かの差支えがあって観なかったが、この鬼女もやはり大好評で、かれの病いはいよいよ重くなって来たにもかかわらず、舞台の上の台詞《せりふ》の声が新富座の前の往来にまで筒抜けに聞こえたということであった。 [#改ページ] [#5字下げ]木挽町の書生芝居[#「木挽町の書生芝居」は中見出し]  二十八年の五月、川上音二郎《かわかみおとじろう》の一座が歌舞伎座に出勤することになって、それが劇界の一問題となった。今日では殆《ほと》んどなんの問題にもならないはずのことが、その時代においてはなかなか重大なる問題として、世間一般からも見なされたのであった。  日清戦争が彼《か》の壮士芝居、書生芝居に偶然の好機会を与え、かれらの人気は一日ましに加わって、今まではあんな書生どもがと軽蔑していた人たちまでが、だんだんにそっちへ吸い付けられるようにもなった。しかし所詮《しょせん》かれらの根拠地は小劇場であって、市村座以外の大劇場へはひと足もふみ込むことが出来なかった。早くいえば、かれらの芸は鈍帳《どんちょう》芝居の客にみせるものであって、大歌舞伎の客に見せるものではないという風にその相場をきめられていた。その相場が狂って、川上一座が堂々と歌舞伎座へ乗込んで来たのである。日本一と誇称する歌舞伎座へ乗込んで来たのである。それが他の大劇場であったならば、さのみの議論にならなかったかも知れないが、なにぶんにも歌舞伎芝居の本城という歌舞伎座であるだけに、その本城をかれらに明け渡すということは、歌舞伎芝居が書生芝居に征服されたという形にもなるので、ここにいろいろの議論を生じたわけである。各新聞紙上にもそれに関して賛否いろいろの記事があらわれた。川上が新聞記者を買収したなどという噂も伝えられた。  書生芝居がどういう順序で歌舞伎座の舞台にのぼることになったのか。わたしはその裏面の消息をまったく知らない。殊《こと》にその当時わたしは新聞記者生活をやめて、小一年ほど浪人していたので、猶更《なおさら》なんにも聞くべき便宜を持たなかったのであるが、ただ一度、同座の榎本虎彦《えのもととらひこ》君に逢《あ》った時に、わたしがその話をすると、榎本君は冷笑して、「なにさ、芝居師は儲けさえすればいいと思っているんだよ。」と言ったが、まずそこらが本当のところであったらしい。歌舞伎座は前年の秋の日清戦争劇以来、毎回の興行が思わしくなかったので、おそらく幕内《まくうち》の策師たちが一種の窮策から俄《にわ》かにこんなことを思い立ったのであろう。狂言は一座の藤沢浅二郎の作という「威海衛陥落《いかいえいかんらく》」で、いざ開場となると、それが予想以上の好人気で毎日売切れつづきであると伝えられた。この際、川上一座が他の狂言を上演しても、やはりこれほどの好成績を占め得たかどうかは頗《すこぶ》る疑わしい。戦争芝居は書生役者にかぎると言われている専売物を大きい舞台で上演したればこそ、戦争熱のまだ冷め切らない観客が争って押寄せて来たのであろう。ほかに二番目に「因果灯籠」というのを出していたが、それは単にお景物《けいぶつ》に過ぎないのであった。  この一座がその当時の顔ぶれを思い出すままに書いてみると、まず川上音二郎が座頭《ざがしら》で――ここでは座長といっていた――次は藤沢浅二郎である。このふたりは団十郎菊五郎という格で、殊に藤沢は女形《おんながた》を勤めるので一座の立女形《たておやま》とも見られていた。藤沢はともかくも脚本の作が出来て、女形が出来て、立役《たちやく》も出来るのであるから、この一座に欠くべからざる重要の人物であったばかりでなく、世間の人気もまた彼にあつまっていた。晩年衰残の悲運を誰か知ろうぞ、かれは実に一座の花形役者であった。そのほかには小織桂一郎、岩尾慶三郎、高田実、柴田善太郎、中野信近などが加わっていた。女形には石田信夫という達者な人がいた。  そのなかにただ一人、市川|九女八《くめはち》の弟子で、以前は三崎座に出ていたかつら[#「かつら」に傍点]という小綺麗《こぎれい》な若い女優があった。かつら[#「かつら」に傍点]は師匠がこの春から川上の一座に加入して市村座に出勤する事になったので、自分も一緒に出勤を希望したが、川上はそれを拒絶した。師匠は相当の年配でもあり、かつは世に定評ある人であるから、よろこんで自分の一座に迎えるが、若い男ばかりの楽屋に若い女優をひき入れるというのは、楽屋の風紀の上にも面白くないことであり、世間からいろいろの噂を立てられるのも面倒であるから、九女八以外のわかい女は一切加入させない方針であると、川上は言った。かつら[#「かつら」に傍点]はそれでも思い切れないで、ふだんから世話になっている小間物屋の細君に訴えると、その細君は自分の丸髷《まるまげ》を根元から切って川上のまえに投げ出して、どうでもかつら[#「かつら」に傍点]を入座させてくれと泣いて迫ったので、川上もとうとう我《が》を折って、それを出勤させることになったのであると伝えられた。それほど熱心なかつら[#「かつら」に傍点]も長くこの一座にとどまらなかった。師匠の九女八がまず去り、彼女もこの興行を名残りに退座した。眼さきの早い川上は、男女合併興行を標榜して立とうと思い付いたらしいのであるが、なにか不便な事情があったとみえて、九女八らが去った後、かの貞奴《さだやっこ》を妻に迎えるまでは、やはり女形ばかりで押し通していた。  この興行で俄かに名声をあげたのは高田|実《みのる》であった。高田は初めて川上の一座に加入した当時、脚本は俳優が作るものだと考えていたほどに、芝居については無知な人物であったそうであるが、三、四年のあいだにめきめきと上達して、殊に今度の「威海衛陥落」における丁汝昌《ていじょしょう》の役は大好評であった。かれは昨年の「日清戦争」でも李鴻章《りこうしょう》をつとめて好評であったが、不思議にシナ人の悠揚迫らざる態度がその芸風に適して、今度の丁汝昌は書生芝居の団十郎であるとまでに賞讃された。かれはその以来、一躍して書生芝居の大立者《おおだてもの》になったのであった。  川上は勝に乗って、七月に第二回の興行をこころみ、中幕には桜痴《おうち》居士新作の「大江山」を上演したが、これは不評に終ったらしい。それにしても、歌舞伎座の舞台を二度までも踏んだということが彼らの立派な看板になって、いわゆる書生芝居の基礎もまったく固まったのである。書生芝居が新派となって今日の地位を占めるようになったのは、もとより一人の力ではない。まえに言った藤沢や、高田や、伊井蓉峰《いいようほう》や、河合武雄や、喜多村緑郎や、そのほかにも幾多の功労者のあることは争われない事実であるが、なんといっても川上音二郎を第一の元勲に推さなければならない。かれは一面に山師であると呼ばれながらも、自分の事業を発展させるためには、実に懸命の努力を試みた。かれは芸術家ではない、純然たる事業家であった。こういう人物の習いとして、苦しい懸け引きの必要上、大仰《おおぎょう》な駄法螺《だぼら》を吹いたこともあった。他人に対して誠意を欠くこともあった。それを一々かぞえたら随分批難すべき点も多いらしいが、ともかくも江湖《こうこ》流落のボロ書生が烏合《うごう》未熟の一座を率いて、殆んど東西をわきまえない東京のまん中へ打って出て、苦戦悪闘、わずかに三年、五年のあいだにその地盤をふみ固めたのは、たしかに一個の勇者と言わなければならない。その後十六年、明治四十四年十一月にこの世を去るまで、かれの生涯は実に奮闘の歴史であった。  そうは言いながらも、わたしは感情の上から川上その人を好まなかったので、従来しばしば彼に出逢《であ》う機会がありながら、努めて彼に接近することを避けていた。新聞記者招待の桟敷《さじき》などへ彼が挨拶に来ることがあっても、わたしは型ばかりの会釈するに止《とど》まって、かれが如才《じょさい》なく話などを仕掛けても、詞《ことば》すくなに応答していた。したがって、彼とわたしとは全然他人であったのであるが、彼が世を去る三年前、明治四十一年の七月、はじめて彼と正面に向かい合った。  それは七月の六日と記憶している。その前夜にも彼は麹町元園町のわたしの家へたずねて来たのであるが、あいにくわたしは不在であったので、翌日の早朝、わたしがまだ朝飯を食っているところへ再び押掛けて来たのであった。どんな急用があるのかと思って、二階の書斎へ通すと、かれは「お早うございます。」と挨拶しただけで、すぐにその用向きを言い出した。わたしに脚本をかいてくれというのである。新派の脚本は書けないと断わると、いや、新派ではない、旧劇である。自分は今度劇界の革新興行を企てた。従来の興行法ではどうしても観劇料が高くなるから、東京で一回の興行を終ると、その大道具衣裳かつら一切を持って地方幾カ所の巡回興行をつづけ、それを通算して十露盤《そろばん》を取ることにする。大道具もたたんで汽車に積んでゆくつもりである。劇は新旧二組にわかれて旗揚げをする。新は川上貞奴や深沢恒造などで九月から本郷座で開演し、旧は左団次、寿美蔵、又五郎、宗之助、莚若などに、大阪から延三郎、璃徳《りとく》などが加わって、明治座で開演するはずであるから、その左団次一派の脚本をかいてもらいたい。史劇は鎧《よろい》や太刀に金が掛かるから、なるべくは維新当時あたりの世界を択《えら》んで貰いたいと、かれは三十分あまりもひと息に弁じた。きっと左団次が出るのかと念を押すと、たしかに出ると答えた。  そんなら書いてみようということになって、その題材について相談をはじめた。わたしは一昨年会津へ行って、かの白虎隊の史蹟を多少しらべたことがあるので、それはどうだろうと言うと、川上は結構ですと直ぐに同意して、それを六幕ぐらいの通し狂言に脚色してくれと言った。そんな長いものにはなりそうもないと私は首をひねると、まあともかくもそのつもりで考えてくれと言って帰ったが、その翌日の夕方にかさねて来て、脚本の方はどういうことになったかと訊《き》いた。きのうの今日でまだよく纏《まと》まらないが、やはり六幕にはなりそうもないと答えると、それでは彰義隊か何かをむすび付けて、なんとかして六幕ぐらいの物にしてくれないと時間の都合がわるいから、是非にたのむと言って帰った。  その当時、わたしは東京毎日新聞社につとめていたのであるが、川上は一日に二度ぐらいずつ電話をかけて来て、脚本の方はどうなったかと火の付くように催促する。あまりうるさいので、わたしもしまいには癇癪《かんしゃく》を起こして、もう脚本の執筆は断わると言い切ると、その晩の十時頃に彼は元園町の家へたずねて来て、また繰返して頼んで行った。かれは来たときに、梯子《はしご》のあがり口から「先生。困ります、困ります。」と叫んで、顔の汗を拭きふき二階へ駈けあがって、息をはずませながら私のまえに坐った。いやに芝居をする奴だと、わたしはまたいつもの反感を挑発されたのであるが、やはり結局は彼に口説き落とされてしまった。所詮《しょせん》わたしは彼の敵ではなかった。彼はいつもこの手で成功するのであろうと思われた。  彰義隊と白虎隊では佐幕党ばかりで取合わせが悪いので、前に長州の奇兵隊をかき、後に会津の白虎隊を書いて「維新前後」という題にしてはどうだと言ってやると、川上はまたすぐに飛んで来て、なにぶん頼むと言った。そうした交渉は、決して書面や代人をよこさず、かならず彼自身が出向いて来た。ずいぶん忙がしそうであるにもかかわらず、彼はいつでも汗を拭きながら出かけて来た。これも彼の特色の一つであるとわたしは思った。脚本が脱稿して、稽古《けいこ》が済んで、九月の十九日か二十日に明治座の初日を出した。本郷座も同日であった。  明治座を打揚げて、この一座は予定のごとく地方巡業に出発した。一々は記憶していないが、京都大阪は勿論、中国、九州まで七、八カ所も打廻ったようであった。その出先から川上はたびたび通信をよこした。もちろん代筆らしく、その都度に筆蹟は違っていたが、ともかくも行く先々から何かのたよりを怠らなかった。時には大入袋も送って来た。いつも素晴らしく景気のいいようなことばかり書いて来るのは、例の川上式でおかしくもあったが、本さえ書いてもらえばもう用はないというような遣り方でないところが、さすがに可愛くも思われた。いろいろの批難をうけながらも、彼があれまでに漕ぎ付けたのは、やはりこういう点が人をひいたのではないかと察せられた。  かれは不幸にして四十八歳の働き盛りで死んだが、もし今日までの寿命を保っていたら、どういうことを画策したかわからない。彼の性質として、いたずらに手をつかねて劇界の推移をながめてはいないであろう。たとい不真面目でも突飛《とっぴ》でも、きっと何らかの新計画を立てたに相違ない。それは一種の興味ある問題であったが、惜しむらくは彼は大正の代を見ずして終った。 [#改ページ] [#5字下げ]「暫」と「助六」[#「「暫」と「助六」」は中見出し]  明治二十八年から二十九年にわたって、歌舞伎十八番の「暫《しばらく》」と「助六《すけろく》」とが歌舞伎座で上演された。今にして思えば、ここらがいわゆる歌舞伎劇の最後のひかりであったかも知れない。それを名ごりとして、我々は舞台の上で団十郎の「暫」も「助六」も永久に見ることが出来なくなった。  前者は二十八年の十一月興行の中幕で、一番目は「大坂陣諸家記録《おおさかじんしょけのかきとめ》」、二番目は「伊賀越道中双六《いがごえどうちゅうすごろく》」の岡崎と仇討《あだうち》であった。一番目は在来の大阪落城を桜痴《おうち》居士が改作したもので、団十郎の宮内の局《つぼね》と新蔵の木村重成、この母子《おやこ》の別れの場が最も好評であった。二番目では団十郎の幸兵衛と八百蔵の政右衛門も好評であったが、とりわけて新蔵のお谷がよかった。かれはやはり片眼に繃帯《ほうたい》して、大阪一の美男という木村重成と女形のお谷とを勤めていたのであった。  この興行は連日の大入りであったが、無論その呼び物は中幕の「暫」で、舞台にのぼるのは十八年ぶりだとかいうことであった。記憶のままにその主なる役割をかいてみると、鎌倉権五郎景政(団十郎)、その受けを勤める清原武衡《きよはらのたけひら》(権十郎)、鯰坊主《なまずぼうず》震斎(新蔵)、腹出し三人(猿之助、寿美蔵、八百蔵)、加茂次郎義綱(染五郎)などで、まずその当時においては立派な顔ぞろえと言うべきであったろう。わたしはこの時に「暫」という狂言を初めて見た。筋はもちろん単純なもので、これまでいろいろの記録によって想像していたのと大差なかったが、その舞台は豪壮華麗、なるほど江戸歌舞伎の華《はな》とはこれであろうかと、つくづく感嘆させられた。なにしろあの大きい小屋で、毎日あれほどの大きい声をして呶鳴《どな》り合うので、団十郎は格別、ほかの俳優たちは中日《なかび》ごろから声を痛めたということであったが、それも無理がないように思われた。  団十郎は久しぶりで「暫」を勤めるについて、左の俳句を記した扇子を諸方へ配った。 [#3字下げ]譲られた太刀ぬぐはゞや霜日和    九世 三升  ほかに、左の口上を奉書に印刷したものを添えてあった。文案は桜痴居士であったらしい。 [#ここから2字下げ] 初代市川団十郎元禄十年正月大福帳を演じたるがしばらくの始めにて同十三年第二回を演じ候ひきそれより代々相伝して家の芸となづけ既に百年前までは毎年顔見世にこれを演じて吉例といたし候ひぬ其疎豪にして諧謔なるを以て昔時江戸男児の気風を知るべきか秀いまこの劇を演ずるに臨み併せて祖先自作のつらねをも述べその記念として尊覧に呈し奉つり候 [#ここで字下げ終わり] [#地から3字上げ]九世市川団十郎  堀越秀 謹言頓首 「暫」の舞台をわたしは豪壮華麗と前に言った。そんな抽象的の形容詞を仮りないで、もっと具体的にそれを説明したいのであるが、残念ながらわたしはそれを詳しく説明すべき詞《ことば》を知らない。銅像や写真でおなじみの、素襖《すおう》をきて大太刀《おおだち》をはいた姿――あれに魂がはいって揚幕から花道にゆるぎ出た時、さらに花道の七三《しちさん》に坐って、例の“東夷西戎南蛮北狄”の長台詞を朗々たる名調子で淀みなくつらねた時、わたしは満場の観客と共に、ただ酔ったような心持になっていた、と言うに過ぎない。どうかんがえても、それ以上には説明の仕様がない。  その成功に味を占めたのかも知れない。その翌二十九年の五月には、歌舞伎座で更に「助六」を上演した。このときの一番目は「富貴草平家物語《ふうきぐさへいけものがたり》」、二番目は「箱書附魚屋茶碗《はこがきつけととやのちゃわん》」で、「助六」はやはり中幕に据えられていた。一番目は黙阿弥作の「重盛諫言《しげもりかんげん》」を土台として、三代目新七が新たに鹿ヶ谷《ししがたに》の別荘や日吉の神輿振《みこしぶ》りなどを書き加えたもので、団十郎の重盛や西光法師はすでに定評あるものであったが、八百蔵の清盛入道は書きおろしの左団次を凌ぐという大好評で、今や彼が売り出しの頂上であった。  これに反して、新蔵はいよいよ不運の人となった。去年の「暫」の当時には、なまず坊主で活躍し更に木村重成とお谷とで、その伎倆を発揮していたのであるが、その後かれの病いはいよいよ重くなったので、今度の興行には思わしい役も付かなかった。一番目で宗盛と俊寛、中幕で福山のかつぎというような比較的軽い役々をつとめるはずで、番附面にもそれだけの役名をつらねていたが、実際は染五郎が代って宗盛をつとめ、舛蔵《ますぞう》が代って俊寛をつとめ、本人は福山のかつぎ一役で舞台に顔をみせるだけに過ぎなかった。それとても影の薄いのが著るしく眼に立って、わたしはその悼ましい姿をみるに堪えなかった。惜しい人ではあるが、もう舞台の上に長い寿命はあるまいと思われた。  二番目では、菊五郎の蝮《まむし》の次郎吉と松助のうわばみ久次との息がしっくり合って、これも面白い芝居を見せてくれた。 「助六」もわたしはこの時に初めて見たのであるが、これは「暫」と違って、あまり多くの興味をひかなかった。五月なかばの俄《にわ》か天気の日で、大入りの平土間《ひらどま》のまん中ごろに坐っていたわたしは、その暑いのに苦しめられて、幕切れまでおとなしく見物しているのにかなりの忍耐力を要したことを記憶している。「助六」の台本はかつて『歌舞伎新報』の附録で読んだことがあったが、さてそれを舞台の上で見せられると、第一に時間の長いのにおどろかされた。それでもやはりこれが今度の呼びものとなって「暫」の当時にも劣らない大入りであった。  そのときの主なる役割は花川戸の助六(団十郎)、髭《ひげ》の意休《いきゅう》(芝翫《しかん》)、三浦屋の揚巻《あげまき》(福助)、白酒売新兵衛(権十郎)、朝顔千平(猿之助)、かんぺら門兵衛(八百蔵)、三浦屋の白玉(女寅《めとら》)、曾我の満江(寿美蔵)などで、その芝居の面白くなかったことは前にも言った通りであるが、助六と意休と揚巻と、この三人が舞台に列《なら》んだ姿、まったく錦絵がぬけ出したようなそのおもかげは今もありありと眼にのこっている。なんといっても、むかしの俳優はその押出しがみな立派であった。団十郎の助六は言うまでもない、芝翫は最早《もはや》過去の俳優として一般の観客からは余り重んじられていなかったが、それでもこういう役をひき受けると、見るから堂々たるもので、古来この意休に扮した幾多の俳優のうちに、果たしてこれほど立派な舞台顔の持主があったかどうかと疑われるくらいであった。揚巻は後の五代目歌右衛門の若盛りであるから、それも改めて説明するまでもあるまい。  田村成義《たむらなりよし》翁の語るところによると、この興行は日のべをして純益二万五千円にのぼったということである。そのころの二万五千円は今日の十五、六万円にも値するであろう。ずいぶん大儲けをしたものである。  この年の出来事で、もう一つ記憶にのこっているのは、明治座の三月興行に菊五郎が「堀川」の与次郎でほん物の猿を使ったことであった。縫いぐるみの子役ではどうも面白くないというので、猿芝居の猿を借りて来たのであるが、それはやはり面白くなかった。観客が弁当などを食っているのを見ると、猿は与次郎の背中から飛び降りて土間へかけ込む、女客などは声をあげて立ち騒ぐという始末で、折角の工夫もさんざんの失敗に終ったのは気の毒であった。並木五瓶が生き馬を使って失敗したのと、古今|一対《いっつい》であろう。 [#改ページ] [#5字下げ]三人の死[#「三人の死」は中見出し]  この「助六《すけろく》」の芝居を見物に行った時に、わたしはまだ一つの思い出がある。その時、わたしは父と一緒に歌舞伎座へ行って、茶屋の梅林を出ようとして、草履《ぞうり》を突っかけて二[#(タ)]足三足あるきかけたところへ、黒紋付の羽織を着て――着物は小紋のようにおぼえている――帽子をかぶらない、五十前後の痩形《やせがた》の男があたかもこの茶屋へはいって来た。出あいがしらに父はその男に挨拶した。 「やあ、しばらく。」 「どうもしばらくでございました。」と、その男は丁寧に会釈した。 「おまえは先へ行っていろ。」と、父はわたしに言った。  わたしはそのまま茶屋の男に送られて、劇場のなかへはいると、父はその男と何か話しながら再び茶屋へ引返した。狂言の一番目は前にも言った通り、かの「重盛諫言《しげもりかんげん》」を増補したもので、序幕は寿美蔵の何とか法印が平家|調伏《ちょうぶく》の祈りをしているところへ雷が落ちる。そこへ権十郎の成親《なりちか》と猿之助の多田蔵人《ただのくろうど》が出て来て、だんまり[#「だんまり」に傍点]模様になるというような筋で、格別に面白い場面でもなかったが、その序幕が終るまで父は場内へはいって来なかった。幕が切れてから少し経って、ようやくに父の顔がみえたので、わたしはあの男が誰であるかを父に訊いた。 「あれは守田さ。」 「守田……。勘弥《かんや》ですか。」 「むむ。今度からここの相談役になったそうだ。あの男もひどく年をとったな。」  父は暗い顔をしていた。わたしも何だか寂しいような心持になった。わたしが初めて守田勘弥という人を観たときのことは、前に書いた。少年時代に逢《あ》ったきりであるから、わたしはもうその人の顔かたちを見忘れていたが、父からその名を教えられて、古い記憶が今更のように甦《よみが》えって来た。その当時のハイカラであった守田勘弥も今は老いた。単に老いたというばかりでなく、かれが多年苦心経営していた新富座《しんとみざ》もすでに彼の手をはなれて、事実においてはもう滅亡したも同様の姿になってしまった。勿論、一々詮議立てをしたら、彼にもいろいろの欠点があろうが、ともかくも明治以来衰微にかたむいた我が劇界を腕一本で支えて、殆《ほと》んど背負い切れないほどの負債を荷《にな》いながら、劇の向上進歩に専心努力した彼の功績は、明治の演劇史に特筆大書せらるべきものである。その功績と伎倆を認めたればこそ、歌舞伎座でも今度かれを招聘《しょうへい》することになったのであろうが、ある意味においては自分の敵ともいうべき歌舞伎座の招きに応じたのは、敵の軍門に降伏したような形にも見える。それについて、父はこう説明していた。 「守田も七、八十万円の借金で、とても手も足も出ないので、よんどころなしにここへはいり込んだのらしい。なにかいい機会を見つければ、もう一度旗揚げをするつもりらしいよ。」  梅林の二階で、かれは父に向かってそんな話をしたのであろう。かれが守田勘弥であることを記憶していたら、わたしも一緒に引返してその話を傍聴したものをと、今更に悔まれた。面白くもない序幕のだんまり[#「だんまり」に傍点]などを見物するよりも、その方がどんなに面白くもあり、また有益であったか知れないと思った。  その日を最後として、わたしは永久に守田勘弥という人に逢う機会をうしなった。敵の本城を一時の隠れ家として、おもむろに風雲をうかがっていた彼は、その後小さい一座を作って、川越あたりの近県を巡業していることが新聞紙上に一、二度報道されたように記憶しているが、翌三十年の八月には、すでにその訃《ふ》を伝えられた。かれは八月二十一日、赤坂仲の町の自宅で死んだということであった。  この明治三十年には、勘弥以外に二人の惜しい俳優をうしなった。一人はわたしがしばしば語った市川新蔵で、他は尾上《おのえ》菊之助である。新蔵がどんな俳優であったかということは、繰返して説明するまでもあるまい。痼疾《こしつ》の眼病がいよいよ重くなると共に、かれの技芸はいよいよ進歩するように思われたが、かの「助六」で福山のかつぎを勤めたのを名残りとして、当分は舞台に立つ見込みがないので、ひとまず俳優の鑑札を返納することになった。覇気《はき》に富んだ彼としては恐らく堪えがたい苦痛であったろうと察せられるが、実際かれはそれほどに衰弱してしまったのである。それから病臥一年あまりで、かれは三十年の七月に世を去った。年は三十五、六であったように聞いている。その弟子たちは師匠の死と共に廃業したということである。  菊之助のことはまだ一度も語るべき機会がなかった。前にも言ったが、わたしは明治十二年の三月、生まれてから初めて新富座の芝居を観た。そのときの二番目は「人間万事金世中《にんげんばんじかねのよのなか》」で、この世話場へ出る可憐《かれん》な辻占売の少年がわたしの眼についた。自分も子供であったので、この子供の役が最もわたしの注意をひいたのかも知れないが、それが千之助という役で、それを勤めている俳優は尾上菊之助というのであることを直ぐに覚えた。菊之助が菊五郎の息子であることも教えられた。  その後、かれが出勤している舞台で、わたしの記憶に残っている役々は市村座の「今文覚助命刺繍《いまもんがくじょめいのほりもの》」で、おたきという唖娘。千歳座の「水天宮利生深川《すいてんぐうめぐみのふかがわ》」で、おゆきという貧家の娘。同座の「盲長屋梅加賀鳶《めくらながやうめがかがとび》」で、お民という子守女。同座の「恋闇鵜飼燎《こいのやみうかいのかがりび》」で、お夏という商家の娘などで、勿論そのほかにいろいろの立役《たちやく》も勤めていたのであるが、かれが好評を博した役々はいつも娘形であったらしい。しかし彼の欠点は調子の悪いことで、技芸は年齢以上に上達していながら、ややもすればその不愉快な音声で舞台の気分をぶち毀《こわ》す嫌いがあった。彼は五代目菊五郎の実子ではなかったが、ともかくもその家に養われて人となったので、楽屋からも世間からも相当に認められていたのであるが、明治十九年――前にいった「鵜飼燎」の娘お夏という役が最後であったように記憶している――の夏ごろから突然に東京の舞台を去ってしまった。ある女のことから養父菊五郎の勘気をうけて、かれは大阪へ走ったのだと伝えられた。  大阪では菊之助の名を憚《はばか》って、かれは松幸と改名していたということであった。それから五年の間はどんな劇場生活を営んでいたか、わたしはちっとも知らないのであるが、尾上松幸という青年俳優は京大阪の各地を流浪して、非常の辛酸を嘗《な》めたように伝えられている。それでもどうにか詫びがかなって、もとの尾上家に復籍して、明治二十四年の春から再び東京の舞台を踏むことになった。それは歌舞伎座の正月興行で、かれは帰り新参のお目見得《めみえ》として、「鞍馬山」のだんまり[#「だんまり」に傍点]に牛若丸をつとめ、養父菊五郎が木の葉天狗実は天明太郎に扮した。かれはそのほかに中幕の「信仰記」で狩野之助をつとめていたが、例の調子は依然として直らないので、その人気はあまり華やかではなかった。  かれは帰京と同時に、松幸の名をなげうって元の菊之助にかえった。又聴きであるから、わたしも詳しいことを知らないが、かれは松幸という名のほかに、もう一つなげうたなければならないものがあった。前にも言った通り、菊之助が養父の勘気をうけたのは或る女のためである。その女はかれと一緒に京大阪を流浪して、艱難《かんなん》のあいだを同棲していたのであるが、今度帰参の問題が起こると共にまず困るのはその女の処置であった。それが養家を逐《お》われた原因であるから、依然その女と同棲しているというのでは、帰参の取りなしをする人たちも進んで口を利きにくいような事情もあった。女はそれを察して、自分の方から身をひくと言い出した。今度の機会をはずしては自分の男の世に出る見込みがない。この際、自分は思い切って男に別れるのほかはないと言った。これには菊之助も少しく躊躇したそうであるが、周囲の人々にも説得されて、かれも思い切ってその女と別れた。めでたい帰京のうらには、こうした哀別の涙がそそがれた。  その後、菊之助はその女とひそかに音信を通じていたか、あるいは全然絶縁したか、またその女はどうなったか、わたしはなんにも聞かないのであるが、そういう事情を耳にして彼の舞台を観ているせいか、その舞台の姿には一種の暗い影が付き纏《まと》っているようにも見えた。彼はなんとなく寂しい俳優であった。柄はいいのであるが、調子が悪いのと舞台が寂しいのとで、その後一、二年はやはり花々しいこともなかった。勿論、養父のひかりで相応の役を勤めてはいたが、一般の観客から言えばまず有っても無くてもいいような俳優と見なされていた。それが一人前の俳優として、菊五郎の一座には無くてならない一人のように認められることになったのは、二十五年の盆興行に歌舞伎座の「牡丹灯籠」で萩原新三郎を勤めた時からである。その新三郎はひどく評判がよかった。そのほかに関口屋の下女おますというのを勤めて、女房の死霊がそれに乗りうつって主人の伴蔵を呪うところが凄く出来た。  それで張合いが出たのか、あるいはかれの技芸に一転機を劃《かく》したのか、その後の菊之助は興行ごとに評判がよくなった。翌二十六年の歌舞伎座三月興行に「黒手組助六」の牛若伝次をつとめた時などは、いつもの悪い調子ながら啖呵《たんか》が切れて滅法いいという評判であった。こうして彼は前途有望の青年俳優にかぞえられて、和事師《わごとし》や女形を得意としていたが、それでもかの新蔵などとは正反対で、その舞台はいつも暗い寂しいような感じをあたえた。彼はこのごろ多病であるという噂も伝えられた。  菊之助が掉尾《ちょうび》の一振ともいうべきものは、明治三十年二月の歌舞伎座で勤めた「関《せき》の扉《と》」の小町姫であった。団十郎の関兵衛、菊五郎の墨染《すみぞめ》、染五郎の宗貞で、この浄瑠璃《じょうるり》一幕が素晴らしい人気を呼んだのであるが、団十郎の関兵衛に対して菊之助の小町は殆んど遜色《そんしょく》のない出来であるというので、好劇家は異口同音に賞讃した。団十郎も楽屋で褒《ほ》めたそうである。かれは菊五郎の仕込みだけに、舞踊の素養も十分であった。しかも彼はそれから間もなく病床の人となって、その年の六月末に短かい生涯を終った。年は新蔵よりも少し若かったらしい。彼は我が子を俳優にしてくれるなと遺言したという事である。  新蔵といい、菊之助といい、いずれも秀《ひい》でて実《みの》らざるもの、殊に哀惜の感が深い。菊之助は我が子に父の職業を継がせるなと言った。新蔵の弟子たちは廃業した。これらの消息は何を語っているか。われわれは華やかな俳優生活の表面ばかりを眺めてはいられないような気がする。 [#改ページ] [#5字下げ]「暁雨」と「小猿七之助」[#「「暁雨」と「小猿七之助」」は中見出し]  なんと言っても、この数年間は歌舞伎座が東京劇壇の中心で、団十郎と菊五郎の一門に福助を加え、天下を三分してその二以上を有しているので、一般の人気は自然ここに集中される傾きになったのである。  前の菊之助の条でもちょっと述べたが、三十年二月興行の「関《せき》の扉《と》」のごとき、染五郎の宗貞は最も若輩なるが故にやや見劣りがしたが、団十郎の黒主、菊五郎の墨染《すみぞめ》――それらを単に巧《うま》かったとか面白かったとか言っても、それを実見しない人たちにはおそらく想像が付くまい。わたしもそれを説明するに適当の言葉を知らないのを甚だ残念に思う。ここらが明治以後における歌舞伎劇の最高潮に達した時代で、その後は強弩《きょうど》の末である。このときには常磐津《ときわず》の林中《りんちゅう》もまたその名音で満場の観客を陶酔させた。昔といっても三十余年前のことであるから、その当時の観客は今も世間にたくさん生きているはずで、その人たちはわたしの言うことの嘘でないのを証明してくれるであろう。老人の繰言《くりごと》でなく、負け惜しみでなく、わたしはそのころ一人前の人間になっていて、そういう大歌舞伎の芝居を見物することの出来たのを一生の仕合わせだと思っている。  やはり三十年の四月に歌舞伎座では「侠客春雨傘《きょうかくはるさめがさ》」を上場した。これは福地桜痴《ふくちおうち》居士がさきに一部の小説として春陽堂から発行したものを更にみずから脚色したもので、居士の作中ではあまり上出来の物とも思われなかったが、団十郎の大口屋暁雨や八百蔵の釣鐘庄兵衛などが大好評で、近年|未曾有《みぞう》ともいうべき大入りを占めた。暁雨が渋蛇《しぶじゃ》の目《め》の傘《かさ》をさして出たというので、その当座はしばらく渋蛇の目の傘が市中に流行したのを見ても、その人気が思いやられた。しかし団十郎自身はあまりこの役を喜んでいなかったらしく、今度の大入りについても、さのみ得意の色をみせないで「なに、団十郎が久しぶりで世話物をするというので、めずらしがって来るだけのことです。」と、人に語ったとかいうことであった。『時事新報』はこの狂言に対して痛烈な攻撃を加え、日本一の歌舞伎座ともあるべきものが吉原の遊廓を舞台とする狂言を上場し、日本一の市川団十郎ともあるべきものが得意になって出演するのは怪《け》しからぬ事であると論じたが、それには何の反響もなく、芝居はますます大入りをつづけていた。この狂言がその後も他の俳優らによって幾たびか繰返されているのは、書きおろしに団十郎が勤めて大入りを取ったというがためであろう。  このときの中幕には団十郎が板額《はんがく》の門破りを演じた。脚本は在来の「和田合戦女舞鶴《わだかっせんおんなまいづる》」をそのままであったが、かの門破りの場に出る板額は、下げ髪にうしろ鉢巻、直垂《ひたたれ》に小手《こて》脛当《すねあて》をつけて毛沓《けぐつ》を穿《は》いているという活歴式《かつれきしき》のこしらえで、観客をおどろかした。あれでは雌雄《めすおす》の区別が付かないなどと悪口をいう者もあった。裲襠《うちかけ》すがたの優しい女が懐ろ紙を門にあてて押すというところに、こういう狂言の興味は含まれているものを、写実の女武者にいでたって現われては、元来不自然の筋立てに対していよいよ不自然を感ぜしめるばかりで、一向に詰まらないものになって仕舞うのである。団十郎の活歴が往々にして一部の観客の批難のまとになったのは、こうした悪い病いが付き纏《まと》っていたからで、暁雨の大好評にひきかえて、この板額は頗《すこぶ》る不評であった。  その年の七月興行の歌舞伎座では「網模様灯籠菊桐《あみもようとうろのきくきり》」を上場した。これは黙阿弥作の小猿七之助で、安政四年市村座の盆興行に先代小団次が当たりを取ったものである。今度も菊五郎の七之助、松助の網打七五郎などは、書きおろしの小団次・亀蔵に劣らない出来であろうと期待せられ、また実際もその期待を裏切らない出来であったが、福助の御守殿お熊や八百蔵の与四郎などは本人も迷惑らしく、観客もやや迷惑を感じさせられた。わたしが今の六代目菊五郎を舞台の上ではっきりと認めたのはこの時からであった。かれはまだ丑之助という子役で、七之助の妹おなみという盲目の小按摩をつとめていた。この役は父の菊五郎が羽左衛門といった昔に好評を博したものだそうで、今度は順あがりに父が七之助をつとめ、その子の丑之助がおなみに廻されたのであるが、三日月長屋や七五郎の家などは、本来の役もよく、丑之助の出来もよかった。  この狂言に対して、例の『時事新報』がまたもや真っ先に攻撃の鋒《ほこ》を向けると、前の「春雨傘」の場合とは違って、今度は東京の諸新聞が相呼応して、殆んど一斉に批難攻撃の声をあげた。残酷、卑猥《ひわい》、不倫というような毒々しい文字が諸新聞の劇評をうずめた。聞くところによると、この狂言は菊五郎自身が提出したもので、座方の方ではその上場を躊躇して、さらに他の狂言二、三を選んだが、菊五郎がどうも納まらない。あくまでも彼《か》の小猿七之助をやってみたいような意向があるので、座方も遂に我《が》を折って彼の希望を容れたのであるという。いずれにしても、殺伐な事件や陰惨な空気がこの狂言の生命であるから、原作そのままでは到底警視庁の許可を得られそうなはずもないので、数カ所の削除を施して、ともかくも開演の運びに至ったのであるが、諸新聞の攻撃があまりに激しいので、劇場側でも頗る面食らった。  さりとて今さら中止するわけにも行かないので、四面楚歌《しめんそか》のうちに一週間ほども興行をつづけていると、警視庁でも輿論《よろん》の沸騰にかんがみて、さらに劇場に対して上演中止を命令した。今度の興行はこれが一日の通し狂言で、中幕に八百蔵の宗清、福助の常磐御前《ときわごぜん》で、常磐津《ときわず》の「宗清」を出しているだけであったから、この狂言が中止となっては殆《ほと》んど全部を搗《つ》き換えなければならないことになった。暑中の折柄、この不評のあとをうけて更に新狂言を上演したところで所詮《しょせん》成功はおぼつかないと観念して、歌舞伎座では全然その興行を中止することにした。菊五郎は自分が強情に提出した狂言であるだけに、その責任も重いわけで、警視庁の中止命令に対して、「一旦許可して置きながら、また出直して差止めを喰わせるなんて、そんなチョボ一があるものか。」と、彼はひどく憤慨したとか聞いている。また警視庁側の弁明によると、最初あの脚本を提出して来たときに、こういう物はいけないと言って一旦つき戻したところが、さらに押返して持って来て、十分に添削したからどうぞ許可してくれと嘆願するので、二、三の注意をあたえて、ともかくも許可することにしたが、さてその舞台をみるとやはりいけない。殊に世間の攻撃が激しい。かたがた更にその許可を取消す事になったのだと言っていたそうである。とにかくにこれで手痛い攻撃をうけたためか、歌舞伎座はその年の十一月まで引きつづいて閉場していた。  中止問題とは別物であるが、この狂言中に菊五郎が一部の観客の反感を買った事件があった。それは彼が小猿七之助の役で父の網打七五郎の家へたずねてゆくと、父は死霊の祟《たた》りに悩まされている。その世話場で、かれは七五郎の松助と向かい合って、近ごろ死んだ彼《か》の菊之助の悔み言を言い、悲しくて悲しくてならないなどと、しきりに涙をこぼしていろいろの愚痴をいう。それがあまりに長々しく、わざとらしいので、かれは舞台と自宅とを混同していると言う者もあった。これも一種の場当たりであると言う者もあった。こういうことに貰い泣きをするような特殊の観客にも、あんまり長たらしいと呟《つぶや》かれた。  一体この菊五郎にはこういう癖が強かったようである。その翌年の六月、やはり歌舞伎座で「天竺徳兵衛《てんじくとくべえ》」を上演したときに、たしかその三日目と記憶しているが、例によって新聞劇評家の招待があった。わたしも見物に行って、他の劇評家諸君と一緒に西の桟敷《さじき》に陣取っていると、その序幕に天竺徳兵衛が浜人《はまびと》をあつめて異国のみやげ話をするくだりがある。そこで菊五郎の徳兵衛がいろいろ話すうちに、天竺には銀座通りという賑かい町があると言った。そこには大きい煉瓦《れんが》づくりの店が列《なら》んでいると言った。そこにはまた新聞社というものが沢山《たくさん》あると言った。その新聞社の人たちには女がむやみに惚《ほ》れると言った。勿論、かれも毎日こんなことを言うのではあるまい。きょうは新聞社の者が来ているということを意識して、一種の愛嬌のつもりで言っているのであろうが、かれが西の桟敷をじろじろ視《み》ながらこんなことを言うので、ほかの観客も我々の方を見返ってげらげら笑い出した。さすがにむき[#「むき」に傍点]になって怒るほどの者もなかったが、我々のあいだには「去年にも懲りないで……。」と苦々しそうに呟く声がきこえた。かれに悪意のないことは判《わか》っているが、去年の小猿七之助といい、今度の天竺徳兵衛といい、舞台の上でこういう脱線をしばしばくり返して怪しまない彼の態度に対して、何分にも敬意を払うわけには行かなかった。しかし彼の徳兵衛は実に巧いものであった。例の座頭《ざとう》の木琴のくだりで“かねて手管《てくだ》とわしゃ知りながら”の粋な錆《さ》び声は、この人でなければ聞かれまいと思われた。  ここで腰元をつとめていた坂東あやめの琴も鮮かなものであった。このあやめという人は、背も高く、柄も大きく、女形に不向きでありながら、その音声といい、身のこなしといい、不思議に女らしい俳優であった。明治以後その消息を聞かないので、どうしたかと思っていると、大正十二年の六月、帝国劇場でわたしの「両国の秋」を上演したときに、久しぶりでかれの舞台姿をみた。天竺徳兵衛の当時からはすでに二十五、六年も経過しているのであるが、かれは依然として女らしい声と姿とを失わなかった。眼を瞑《と》じて聴いていると、かれの笑い声などはどうしてもほんとうの女であった。それから二、三年の後、新聞紙上に報ぜられたところによると、彼は浅草の自宅で頓死した。かれは独身者《ひとりもの》で、終日表の戸をあけないのを近所の者が不審に思って窺《うかが》うと、彼はいつの間にか死んでいたというのである。 [#改ページ] [#5字下げ]又三郎と紅車[#「又三郎と紅車」は中見出し]  ここで少しばかり小芝居の俳優について語ってみたい。  今日ではおそらく誰も話し草にはしないようであるが、そのころ二銭団洲《にせんだんしゅう》と謳《うた》われた俳優があった。その名もその伎倆もあまねく好劇家のあいだに認められて、似て非なるものを指して“二銭団洲”という通語《つうご》さえも出来たくらいであった。わたしもこの二銭団洲の芝居をしばしば見物した。  単に見物したばかりで、舞台以外には一面識もなかったので、彼がどんな人物であったかなどということを詳しく語る資格はないのであるが、とにかく彼は面白い俳優であった。かれが二銭団洲として世に認められるようになったのは、柳盛座時代からである。柳盛座は浅草の向う柳原にある小劇場――といっても、いわゆる鈍帳《どんちょう》芝居の部で、桟敷《さじき》や高土間《たかどま》がないでもないが、平《ひら》土間の大部分は大入り場で、その木戸銭はただの二銭であった。勿論、蕎麦《そば》の盛り掛けが一杯一銭という時代であるから、二銭の価値も今日とはよほど違うわけであるが、それでも廉《やす》いには相違なかった。かれはその芝居の座頭《ざがしら》で、芸名を坂東|和好《わこう》といった。  かれも根生《ねお》いの鈍帳役者ではない、かの坂東三津五郎の門下で、大歌舞伎から流れ落ちたものであるというが、わたしは不幸にしてその前身を知らない。わたしが初めて彼を識ったのは彼の柳盛座時代からであるが、かれは不思議によく団十郎を模倣していたのである。その当時の小劇場に出勤する俳優は、いわゆる鈍帳臭い芸風で、場あたり専門を心がけている者が十に八、九を占めているなかで、柳盛座における和好は専ら団十郎の渋い芸を模倣しているのであった。努めて似せているのでもあろうが、その舞台顔にもどこやら団十郎のおもかげが見えた。台詞《せりふ》まわしは実によく似せていた。そうして、いつも団十郎らしいような役ばかりを勤めていたのである。その相手方には中村|梅雀《ばいじゃく》という腕達者がいた。梅雀も後に歌舞伎座で名題《なだい》に昇進して、中村|翫右衛門《かんえもん》となった。  なにしろ木戸銭が二銭の小劇場であるから、見物の大部分は近所の長屋のおかみさんや子守のたぐいで、かれの団十郎たるところは余り多く発見されなかったのであるが、いつかそれが世間の好劇家の注意をひくようになって、和好の芸を一度観て置かなくては劇通とはいわれない、というような一種の流行を作り出した。わたしもその流行に誘われて、はじめて柳盛座の観客となった一人であったが、その時の狂言は「酒井の太鼓」で、和好の酒井はまったく団十郎そのままであった。模倣もここまでに到達すれば、これもまた一種の芸である。いくら模倣するといっても、単に仮声《こわいろ》を使うのとは訳が違って、自分にも相当の伎倆がなければ、舞台の上でこれだけの模倣はできないはずであるとわたしは思った。和好は踊りの素養も相当にあって、山姥《やまんば》や関兵衛なども平気でやってのけた。  かれが団十郎の模倣者として売り出したのは、明治二十四、五年の頃からであったらしい。今まで殆《ほと》んど問題にされていなかった柳盛座へいわゆる劇通たちが足を運んで、その劇評などを堂々と書くようになったのも、その頃から始まったらしい。そうして、誰が言い出したのか知らないが、かれは二銭団洲と呼ばれるようになった。団洲は団十郎の雅号で、つまりは入場料二銭の劇場の団十郎という意味である。たとい二銭でも、団洲と呼ばれて彼は大いに得意であったらしい。  こうして五、六年を送るあいだに、かれ自身も二銭の劇場には甘んじていられなくなったのであろう。便《びん》を求めて守田|勘弥《かんや》の弟子筋になって、坂東又三郎と改名した。それと同時に、かれは多年踏んで来た柳盛座の舞台を去って、さらに浅草公園の宮戸座に出勤することになった。おなじ小劇場といっても、柳盛座と宮戸座では格が違っていて、役者は相当な歌舞伎俳優も出演する劇場であるから、かれに取っては確かに一段の出世であった。かれはここで河内山《こうちやま》や由良之助や、鈴ヶ森の長兵衛や、寺子屋の源蔵や、紅葉狩《もみじがり》の鬼女や、その得意の団十郎物をそれからそれへと上演して、役々ごとに評判がよかった。それは明治三十年から三十二年にわたる頃で、その一座は中村|芝翫《しかん》、市村|家橘《かきつ》、沢村|訥升《とっしょう》、先代の沢村|訥子《とっし》、尾上《おのえ》菊四郎、岩井松之助などであった。  かれはもう二銭の劇場の俳優生活から脱離したのであるが、それでも二銭団洲の名はかれに付きまつわっていて、それが彼の仕合わせともなり、また不仕合わせともなった。前に言ったような顔ぶれの一座にあって、立派に自分の出し物をする以上、かれも一人前の名題俳優になりすましたはずであるが、その当時の芝居道では、かれが柳盛座の出身であるとか、二銭の芝居の鈍帳役者であるとかいうことが直接間接にわずらいをなして、その出世の道を塞《ふさ》いだ形があった。それでも明治三十二年の八月、かれは歌舞伎座の舞台を踏むことになった。一座は前に言った家橘、松之助、菊四郎などに沢村源之助が加入していたが、座方《ざかた》の側では又三郎を呼び物にしていたらしく、かれは一番目に「酒井の太鼓」を出し、浄瑠璃に「山姥《やまんば》」を見せていた。  その当時、本物の団十郎は暑中で休場し、菊五郎は旅興行に出ていたが、自分たちの本城としている歌舞伎座に又三郎を出演させたということについて、かれらは甚だしく不快を感じたそうで、菊五郎は甥の家橘を呼びつけて激しく叱ったということである。家橘が宮戸座で又三郎と一座しているのは前々から知れ切っていることであるから、今更それを叱ったわけではあるまい。おそらく又三郎と一緒に歌舞伎座の舞台を踏んだのを責めたのであろう。団十郎もひどく立腹して、座方にむかって舞台を削り直せと言ったそうである。それらのことはわたしが直接に見聞したのではないから、その真偽を保証し難いが、まさかに団十郎や菊五郎が自己の本心から叱ったり怒ったりしたのではあるまい。その周囲にあつまっているもろもろの者どもが何か詰まらないことを言って彼らを煽動《せんどう》したり、あるいは虎の威を仮りて座方をいじめたりしたのであろう。幸いに家橘も勘当されず、歌舞伎座も舞台を削り直さず、おん大将の団十郎と菊五郎の顔あわせで十月興行を開演することになって、一番目「双面忠義鑑《ふたおもてちゅうぎかがみ》」、中幕「毛谷村《けやむら》」、二番目「新皿屋敷」という列《なら》べ方であったが、甚だしい不評不入りで、両大将ともに器量を下げた。 「今度は又三郎の方で舞台を削り直せというだろう。」と、悪口をいう者もあった。  又三郎の歌舞伎座出勤が一回だけであるのは最初から判《わか》り切っていることで、彼はその後ふたたび宮戸座へ戻った。その後は春木座にも出勤した。そうして、相変わらず二銭団洲で売っていたが、かれには持病の喘息《ぜんそく》があった。それが重くなってしばらく舞台を休んでいるうちに、かれは遂に下谷池の端の自宅で死んだという新聞記事があらわれた。それは明治三十九年の二月であったように記憶している。  二銭団洲とおなじような径路と運命との持主に、市川|紅車《こうしゃ》という俳優があった。これもむかしは姫松といって、大歌舞伎の俳優であったそうであるが、中年から小劇場におちて、わたしが初めて彼の舞台をみたのは浅草公園の常盤座《ときわざ》であった。その後も久しく常盤座に居付いて、紅車といえば公園の人気者であった。和好が団十郎張りであったように、かれは菊五郎張りで弁天小僧などを得意としていた。時代によって顔ぶれの相違はあるが、かれの一座は坂東雛助、尾上多見丸などで、宮戸座よりも顔ぶれはよほど下がっていた。しかし彼も決して下手な俳優ではなかった。  又三郎は温順の人のように聞いているが、紅車はなかなか利かぬ気の男であるらしかった。あるとき常盤座の演技中に、大向うから彼に対して悪口を言ったものがあった。すると、かれは舞台から負けずに呶鳴《どな》りかえした。 「熊の奴らに芝居が判ってたまるものか。」  大向うの立見席の前には鉄格子が嵌《はま》っているので、そのころの通言に“熊”といっていたのである。しかし舞台の俳優から熊と罵られては、その本人ばかりでなく、ほかの立見連が承知しない。大勢が一度にさわぎ立って、舞台の紅車を罵倒したので、その一幕はめちゃめちゃになってしまったということである。かれが相当の腕を持っていながら、大歌舞伎の楽屋に辛抱していられなかったのも、こういう性質の持主であったためかも知れない。  かれはその後諸方の小芝居を渡りあるいて、晩年は神田三崎町の東京座――ともかくも大劇場で、舞台びらきには団十郎や福助も出勤したのであるが、場所が悪いので遂にほろびた――に出勤したが、それが名題披露のためだけであったらしく、一回かぎりで立去って再び元の小劇場俳優にかえった。そうして、どこに出勤しているか、わたしはその後の消息を知らずに過ぎたが、先き頃ある人から彼はもう大正の初年に死んだらしいという噂を聞いた。どこでどう死んだのか、その人もよく知らなかった。  なんのかのと言うものの、又三郎にしても、紅車にしても、俳優としてはみな相当の伎倆を具《そな》えていたのである。そうして、世間からも相当に認められながら、いわゆる鈍帳役者として一生を終ってしまった。勿論、それには当人たちの性格や境遇や、いろいろの事情も含まれているのではあろうが、芝居道にわだかまる一種の因習が最も大きい原因をなしていたらしい。鈍帳役者と軽蔑されて日かげ者のような生涯を送った俳優の群れには、こうした不運の人たちはまだ沢山《たくさん》あろう。わたしは寂しい心持でこの稿を書いた。 [#改ページ] [#5字下げ]四代目芝翫[#「四代目芝翫」は中見出し]  明治時代の代表的俳優といえば、まずひと口に団菊左《だんきくさ》という。勿論それに相違ないので、わたしもそれに対して今さら異論を唱えようとするのではないが、単にわたし一個の感情からいうと、中村|芝翫《しかん》という俳優の名があまり多く語られていないのを遺憾に思うのである。  かれの経歴を説くのがこの物語の目的ではないが、わたしの知っているだけを簡短に紹介すれば、かれは大阪道頓堀の生まれで、三代目中村歌右衛門の養子となり、天保九年かれが九歳のときに養父歌右衛門と共に江戸へ下ったのであるという。はじめの名は玉太郎で、それから福助となり、芝翫とあらためたのであるが、弘化の初年から慶応の末年にいたる二十余年間は、実にかれが人気の絶頂で、名人といわれた、かの市川小団次すらもその人気に圧倒されて、一時は江戸を見切って大阪へ引揚げようと決心したと伝えられるほどであった。小団次がすでにそれであるから、左団次は勿論、団十郎も菊五郎もその青年時代においては彼の敵でなかった。  芝翫はその隆々たる人気を背負って、明治の世界に乗込んで、やはり一方の座頭《ざがしら》株と認められていたのであるが、明治十年以後――いわゆる新富町《しんとみちょう》の全盛期になると、東京劇壇の覇権《はけん》はいつか団菊左の手に移って、かれは自然その次位に置かれることになってしまった。彼ばかりではない、狂言作者のうちで、かの三代目|瀬川如皐《せがわじょこう》や三代目|桜田治助《さくらだじすけ》のごときも明治以後は一向に振わなくなった。所詮《しょせん》その芸風や作風が明治の観客の好尚に適しなくなったのであろう。  そうは言っても、かれに今一段の覇気《はき》とか活気とかいうものがあったならば、かの七代目団蔵の末年とおなじように、古典劇の名手として一部の賞讃を博し得たであろうが、彼はすべてにおいて余りに無欲|恬淡《てんたん》、殆《ほと》んど一種の仙人か子供のようであったらしい。かれは幼年時代に木から墜ちてその頭を強く打った。その以来、一時は癲癇《てんかん》のような症状をつづけたことがあるとか伝えられているから、幾分かその頭脳に故障を来たしていたのかも知れないが、かれはその当時の芝居道において殆んど絶無ともいうべきほどの無欲、温厚、篤実の好人物で、一切の世事にうとく、金の値さえもよくは知らなかったということであるから、褒《ほ》めていえば名人|気質《かたぎ》、悪くいえば水平線以下であったかも知れない。それにもかかわらず、前後二十余年間、江戸劇界の人気を一身にあつめていたのを見ると、かれは一種の天才であったとも言われる。その天才の所有者も前に言ったような性質から、変遷の急激なる明治初期の劇界からは自然に遠ざけられる傾きになった。新富座の経営者にして極端な進歩主義を取っていた守田勘弥のごときも、彼を味方として劇界の進歩を図ろうなどとは思わなかったらしい。  かれが舞踊の名手であったことは有名の事実で、その点においては団十郎と芝翫とが劇界の双璧とたたえられていたが、やはり頭が悪かったせいであろう、かれは江戸時代から台詞《せりふ》の記憶が悪い点においても有名であった。したがって、きまり切った時代物は格別、新作物などになると当人も困った。相手になる者も困った。その欠点が中年以後ますます甚だしく暴露されて来たので、明治以後の新作物については彼は殆んど無用の人となってしまった。台詞廻しにも締りが無くて、いたずらにパアパア言うばかりで、家橘《かきつ》の鳩ポッポ、芝翫のパアパア、これらは悪い台詞まわしの見本のように言われていた。それでも家橘の台詞には一種の強い底力があったが、芝翫のは唯パアパア散るばかりで一向に捉えどころがなかった。この弊は晩年になっていよいよ耳立って来たので、かたがたかれは新作には向かない俳優と相場をきめられたのである。  こう列《なら》べ立てると、かれは何だか取得《とりえ》のない俳優のように思われるであろうが、なかなかそうでない。それをわたしがこれから語ろうとするのである。前置きだけを読んで、むやみに彼を侮ってはいけない。  わたしが初めて中村芝翫という俳優を舞台の上で見たのは、明治十六年の十月、わたしが十二歳の秋であった。その以前にも見たことがあるはずであるが、はっきりとした記憶が残っていないから、まずこの時を以て最初として置く。そのときの狂言は一番目が「妹背山《いもせやま》」の吉野川、道行《みちゆき》、御殿、中幕が「矢口渡《やぐちのわたし》」、二番目が新作の「伊勢音頭《いせおんど》」で、一番目の吉野川では団十郎の定高《さだか》、芝翫の大判事《だいはんじ》、左団次の久我之助《こがのすけ》、福助の雛鳥。道行では団十郎のお三輪《みわ》、芝翫の求女《もとめ》、高助のたちばな姫。御殿では団十郎のお三輪、左団次の鱶七《ふかしち》、芝翫の豆腐買という役割で、団十郎が娘形のお三輪をつとめ、左団次が前髪の久我之助をつとめるなどということが、たしかに観客の好奇心をそそったに相違なかった。  この芝居は、父と姉とわたしと、父の友人のS氏と四人づれで見物に行った。十月末の朗かに晴れた日であった。わたしは吉野川の両|館《やかた》の幕が明いたときに、左団次の久我之助が案外に美しいのに先ずおどろかされたが、更にまた驚かされたのは芝翫の大判事の立派なことであった。定高と大判事が両花道に出て来た時、団十郎の方はあまり珍らしくもないので、わたしは一心に仮花道の方ばかり見つめていたが、その大判事の顔――実に無類というのほかはなかった。俳優の舞台顔――わたしは今まで団十郎や菊五郎や左団次や高助や我童《がどう》や権十郎や、それらを標準として、すべての俳優の舞台顔の善悪を判断していたのであるが、今や土間《どま》の一隅から中村芝翫の舞台顔を仰ぎ視たときに、わたしの子供心にきめていた従来の標準は全然くつがえされてしまったように感じられた。それに対して、団十郎などの顔はなんだか素人のように見えた。俳優の舞台顔――それは中村芝翫のようでなければならないとわたしは思った。  勿論、それは芸の善悪などは毛頭わからない幼稚な頭に刻み込まれた印象に過ぎないのであるが、その後誰にきいても芝翫は舞台顔の立派な俳優であるということに万口一致していた。わたしはそのあくる年の正月、市村座の中幕「阿古屋《あこや》の琴責《ことぜめ》」で彼の岩永左衛門をみて、いよいよ彼が歌舞伎俳優として他に比類なき舞台顔の持主であることを知った。  その頃から彼は市村座に居据わって、人気盛りのせがれ福助と共に、権十郎、我童、寿美蔵、国太郎などの一座で興行をつづけていたが、何分にもこの座だけが元地《もとち》の猿若町《さるわかまち》にとどまっていて、山の手からはあまりに遠いのと、わたしの父はとかく団十郎の出る芝居へばかり行く癖があるので、わたしは遺憾ながら彼の舞台をたびたび見物するの機会を得なかった。それでもわたしはここの舞台で「弓張月《ゆみはりづき》」の濛雲国師《もううんこくし》や、「扇屋熊谷《おうぎやくまがい》」の姉輪平次や、「ふた面《おもて》」の法界坊や、「腰越状《こしごえじょう》」の五斗《ごとう》や、「廿四孝《にじゅうしこう》」の横蔵や、「太十《たいじゅう》」の光秀などを見た。千歳座では「三代記」の佐々木や、「堀河夜討《ほりかわようち》」の藤弥太《ふじやた》などを見た。かれが得意とする「六歌仙」の踊りを市村座と新富座で見た。それらは皆かれが傑作中の大なるもので、皆それぞれに他の追従を許さざる特色をそなえていることは確かに認められた。  前にもいう通り、かれに取って第一の強味はその舞台顔の立派なことであった。かれが大百《だいびゃく》のかつら、四天《よてん》の着附、だんまり[#「だんまり」に傍点]の場に出る山賊などに扮して、辻堂の扉などをあけてぐっと[#「ぐっと」に傍点]大きく睨《にら》んだとき、あらゆる俳優はその光りを失わなければならなかった。かれの眼は殊に鋭かった。いわゆる睨みの利く眼であったが、さりとて団十郎のように大きいのでもなく、団蔵のように凄いのでもなく、鋭いうちにも一種の愛嬌《あいきょう》を含んでいるので、かれが葱売《ねぎう》りの美しい娘などになれば、その眼がいかにも可愛らしく見えた。踊りが得意の人であるから、その形も勿論よかった。その芸もすこぶる古風で派手であった。かれが逝いて後、わたしは古風の歌舞伎劇を演ずるに適すること彼のごとき、顔と芸との持主を知らない。  他の俳優に比較すると、かれは早く老いて早く衰えた。また一方には、新狂言に適しないという大いなる弱点があるので、かれは次第に劇界の中心から遠ざけられた。せがれの福助の人気がますます揚がると反対に、父の人気はますます降《くだ》って来た。わたしが新聞社に籍を置いて、自由に各劇場を見物し得られる頃には、かれはむかしの惰力で相当の地位を保っているに過ぎないという形で、その出勤と否とが観客にさのみの影響をあたえないようになっていた。それでも彼に限る役があるので、明治二十四年正月の歌舞伎座では、福助の雪姫、菊五郎の木下藤吉郎で、金閣寺の松永大膳をつとめた。大舞台でこういう役を立派に勤め得るものは、やはり彼のほかになかった。  明治二十六年、かれは岐阜県多治見町で興行中に、法界坊の宙乗りから墜ちて片足を挫《くじ》いた。全治の後も幾分か跛足をひくようになって、かれの寂しい晩年の舞台姿をいよいよ暗くした。かれは大歌舞伎から離れて、中芝居へも出勤するようになった。しかし明治二十九年、歌舞伎座で団十郎が「助六《すけろく》」を出したときには、やはり彼のほかに意休《いきゅう》をつとめる俳優を求めることは出来なかった。わたしが大劇場の舞台で最後にかれを観たのは、三十年の三月、神田三崎町に東京座が出来たときで、その舞台びらきの二番目に「日高川」が出て、福助の清姫に対して彼は真那古庄司《まなこのしょうじ》と船頭とを勤めていた。「日高川」の船頭などはやはり彼の専売であった。  その後、かれは老いていよいよ凋落《ちょうらく》した。せがれの福助は歌舞伎座で立女形《たておやま》ともいうべき地位を占めているにもかかわらず、かれは旅廻りや小芝居廻りの俳優となって、公園の宮戸座や、赤坂の演伎座などへも出勤するようになった。 「昔のことを考えると、まったく夢ですね。」と、かれが昔の全盛時代を知っている老人は鼻をつまらせた。  こういう少数の同情者に永久のわかれを告げて、かれは明治三十二年の正月にこの世を去った。年は七十歳であったという。その三回忌の三十四年に、せがれの福助が五代目芝翫となり、更に五代目歌右衛門となったのである。 [#改ページ] [#5字下げ]子供芝居[#「子供芝居」は中見出し]  子供芝居の流行、それもその当時の記憶に残っている一つである。  子供芝居なるものは江戸末期から明治初年にかけて頗《すこぶ》る流行したのであるが、その後しばらく中絶していた。それが明治三十年に至って復活したのは、どういう動機から来たのか私は知らない。同年三月、歌舞伎座で子供芝居を興行し、丑之助《うしのすけ》、英太郎、権三郎、団子、三田八などが出演して好評を博したのが、そもそも子供芝居流行の原因を作ったのであると説く人もあるが、それは短期の興行であって世間一般の人気をひいたとも思われない。いずれにしても、子供芝居の復活があきらかに世間に認められるようになったのは、その年の五月、浅草座で小伝次、吉右衛門の一座が旗揚げをした時からであった。  そのときの狂言は「布引滝《ぬのびきのたき》」の実盛物語、「千本桜《せんぼんざくら》」の鳥居前、「八百屋お七」の人形|振《ぶり》、「太功記」十段目、「左甚五郎《ひだりじんごろう》」の京人形などで、ほかに何か浄瑠璃物が付いていたように記憶している。俳優は小伝次、沢村宗之助、吉右衛門、銀蔵ほか二十余人の少年俳優で、それが案外の人気をよび起こした。毎度いうことであるが、この頃はどこの劇場もとかく不景気の折柄で、少しく景気のいいものは直ぐに劇界の問題となる傾きがあったので、浅草の子供芝居は忽《たちま》ちにその名を売りひろめた。  浅草座ではその図をはずさずに、翌月つづいて第二回の興行を試みると、それがまた大当りで、普通の歌舞伎劇と書生芝居のほかに、子供芝居というものがまたひとつ殖《ふ》えたような勢いになって来た。とりわけて小伝次と吉右衛門が人気俳優になりすました。浅草座は三回、四回と当り興行をつづけて、その年の十一月には「忠臣蔵」と「弁天小僧」を出して、小伝次が由良之助と勘平と弁天小僧、吉右衛門が師直と平右衛門と忠信利平を勤めた頃は、実に子供芝居の人気の絶頂であった。  かくのごとく子供芝居が栄えて来たので、ほかにも新しい少年劇団が起こった。その年の十一月、新富座《しんとみざ》でも少年劇という看板をあげて、亀蔵、団次郎、八十助《やそすけ》、三田八、左喜松、芝子丸《しこまる》、福蔵、団子などの少年俳優を狩り集めて開場した。狂言は「ひらがな盛衰記」の逆櫓《さかろ》、「鬼一法眼《きいちほうげん》」の菊畑、「為朝《ためとも》」の八丈島、「梅川忠兵衛」の封印切から新口《にのくち》村などで、子供芝居流行の気運に乗じたためか、この興行もまた相当の成績を収めた。  そのなかでも最も好評を博したのは、中村芝子丸の鬼一法眼であった。門閥のない彼がこの大役をうけ取ったのは、一座がほんとうの子供ぞろいで、鬼一のような老役《ふけやく》をつとめる者に困った結果であったらしいが、その押出しといい、台詞《せりふ》まわしといい、実に立派な鬼一であった。わたしもこの芝居を見物したが、鬼一が奥庭の物語などは全く目ざましいもので、まだ十六か、十七の少年俳優に偉い奴がいるものだと驚かされた。落語家の燕枝《えんし》がわたしの傍にいて「あれはどうです。」と感嘆の溜息をつきながら囁《ささや》いたが、わたしもただ「むむう。」と言ったばかりで、おなじく感嘆のため息をついた。今日でも下手な鬼一をみると、この時の舞台がすぐに眼にうかんで、芝子丸は実に巧かったと思い出さないことはない。かれはその後この一座に出勤し、師匠の芝鶴《しかく》と共に他の劇場にも出勤して、だんだん眼につくような役を振りあてられるようになったので、わたしも陰ながら喜んでいたが、不幸にして彼は肺病にかかった。舞台もとかく休みがちで、それから四、五年後、演伎座の子供芝居で「伊勢音頭《いせおんど》」の喜助をつとめたのを名残りに早世した。  この子供芝居の第二回から中村又五郎がはじめて出勤したように記憶している。又五郎は中村紫琴の遺子で、大阪では子役中の麒麟児《きりんじ》と呼ばれ、鴈治郎《がんじろう》ですらも彼に食われるとかいう噂であったが、初上《はつのぼ》りのせいか、曾我の対面の鬼王と鞘当《さやあて》の留女《とめおんな》の二役だけで、格別の注意をひかなかった。しかもその後に座付の芝居茶屋、猿家《さるや》のうしろ楯を得て、興行ごとに大役を背負うようになったのである。  この興行が成功したので、新富座ではそれからそれへと矢つぎ早に子供しばいの興行をつづけた。それと同時に、本元の浅草座の方でも勿論やすみなしに興行して、小伝次や吉右衛門の人気はいよいよ隆々たるものであった。新富座の一派もだんだんに人気が加わって、深川の深川座や赤坂の演伎座などにも出勤するようになった。浅草座の小伝次一派が、新富座にあらわれたこともあった。新富座の一派が浅草座の舞台にのぼることもあった。  こういう勢いで、明治三十年から三十二年まで三年間の子供芝居全盛時代を作っているうちに、一方の大将株たる助高屋小伝次は三十二年の八月、箱根へ遊びにゆく汽車のなかで突然発病して、塔の沢の温泉宿で死んだ。病症は脳充血で、年は十六歳であった。わたしは前に芝子丸の早世を悲しんだが、小伝次の死もまた悲しまれた。かれの芸風は年齢の割りに余りによく纏《まと》まっていたから、成年の後どういう風に発達するかいささか疑問であったが、ともかくもその当時においては確かに少年俳優中の王者であった。かれは一方に学問をこころざして漢籍をよみ、英語を巧みにしたと伝えられている。その弟の宗之助は兄の臨終の節に同伴していたのである。そうして、兄よりも長命で帝国劇場の幹部俳優にまで昇進したが、やはり四十を越えずして急病で世を去った。いずれも不運の兄弟であると言わなければならない。  いかに小伝次がすぐれていると言っても、子供芝居は彼ひとりで背負っていたわけでもなかった。他に吉右衛門もいる、宗之助もいる。一方には又五郎もあたまをもたげて来た。しかし彼の死を境として、子供芝居というものは次第におとろえて来た。さなきだに三年間の全盛時代を経過して、観客もすこしく飽きかかって来たところへ、一方の大将分を突然にうしなったということが確かに彼らの痛手であった。勿論、その後も一方は吉右衛門を押立て、一方は又五郎を押立てて、やはり子供芝居の興行をつづけ、時には大入りを占めたこともあったが、大体においては昔の繁昌をくり返すことは出来なかった。  明治三十四年の五月に大阪の少年俳優一座というのが浅草座にあらわれた。それは尾上楽之助、嵐吉松郎《あらしきちまつろう》、実川実太郎など十余人に東京の少年俳優が幾人か加わって、「相馬良門《そうまのよしかど》」や「壺坂《つぼさか》」などを上演し、楽之助の沢市なぞは好評であったが、これも長くは続かなかった。  それでも子供芝居によって名を成したものは、吉右衛門と又五郎で、吉右衛門の人気は常に後者の上にあった。しかし、いつの代でも子供役者の生命は短かい。かれらがいわゆる麒麟児でないかぎり、その技芸もひと通り上達して観客にも認められるようになる頃には、着物の肩揚げも取れてしまって、彼らはもう少年俳優ではないことになる。それらの関係から、五年、六年とつづくうちには、最初の子供役者も大抵は青年期に入ってしまったのと、子供芝居の流行熱も次第におとろえて来たのとで、みなそれぞれに大人の芝居へ転じてしまって、明治三十六年ごろには東京に殆んどその跡を絶った。そうして、その大将株の又五郎は猿家のうしろ楯で新富座の花形とうたわれ、市蔵や芝鶴などの古《ふる》つわものと一座の興行をしばらく継続していた。吉右衛門は市村座に転じて、菊五郎と一座した。子供芝居のみじかい歴史はこれで終りを告げた。  一体、子供芝居というものが善いか悪いか、その当時にもいろいろの議論があったが、団十郎や菊五郎はそれに反対であった。子役のあいだはやはり子供らしい役を勤めているのが当然で、だんだん大人《おとな》になるにしたがって、大人らしい役を勤める。それがほんとうの修業である。子供のうちから熊谷《くまがい》を勤めたり、時次郎を勤めたりするのは、かえってその俳優を小さくする虞《おそ》れがあるとの意見であった。第一回の歌舞伎座かぎりで、菊五郎はわが子の丑之助を子供芝居に出演させなかった。 [#改ページ] [#5字下げ]五万円問題[#「五万円問題」は中見出し]  明治三十一年の劇界で一つの問題となったのは、団十郎の大阪行きであった。  大阪の梅田に新しい大劇場が出来た。大阪歌舞伎というのがほんとうの名であるが、普通は梅田の劇場と呼んでいた。その劇場がいよいよ二月十二日から開場することになって、その舞台びらきには団十郎一門をまねいて出演させる相談がきまったので、団十郎は門下の八百蔵、女寅《めとら》、染五郎などに女形の中村富十郎を加えて下阪した。勿論、大阪歌舞伎と銘を打っている劇場であるから、大阪俳優のうちから中村福助、片岡我当、嵐巌笑《あらしがんしょう》、尾上多見之助なども加入したが、もともと団十郎を売物にした芝居であるから、第一回の興行は一番目「出世景清」、中幕「鏡獅子」と「二人袴《ににんばかま》」、二番目「河内山《こうちやま》」という列《なら》べ方で、団十郎は景清、小姓弥生、高砂尉兵衛、河内山宗俊の四役をつとめ、その他の役々もすべて東京側で受持つことになった。そのあいだに大阪方では「輝虎配膳」と「戻《もど》り駕《かご》」を出した。  第二回の興行は三月二十日から開場して、一番目「忠臣蔵」、中幕「大森彦七」、二番目「幡随院長兵衛《ばんずいいんちょうべえ》」で、団十郎は由良之助と彦七と長兵衛とを勤めた。今度は特に大阪方の出し物というのはなく、忠臣蔵のなかで身分相応の役々を受持つことになった。  しかし、この興行は不幸にして予期したほどの好成績をあげることが出来なかった。第一回はどうにかこうにか持ちこたえたが、第二回に至ってはよほど景気が悪かった。それには二つの原因があったと伝えられる。第一は入場料がその時代として滅法界《めっぽうかい》に高いことで、桟敷《さじき》一間《ひとま》が十三円八十銭、平土間《ひらどま》は二人詰めで一間四円五十銭というのであるから、団十郎が見たい見たいと言いながらも、その観覧の値があまりに高いのに脅《おびや》かされて、二の足をふむ人々の多かったためである。第二は前にいう通りの狂言のならべ方で、東京側の俳優が殆《ほと》んどその全部を受持ち、大阪方の俳優はわずかにその一部分を受持つに過ぎなかったということが、土地の贔屓《ひいき》連の感情を傷つけ、それに対して何かと悪声を放ったのが自然一般の人気にも影響したためであるという。  実際、興行者としては高い費用を払って団十郎一座をまねき寄せて、それでひと勝負するつもりであるから、東京側に十分の花を持たせて、それを売り物にしようと企てるのは当然のことである。大阪方でもその意を諒《りょう》し、また一面には謙虚のこころを以て名優に相当の敬意を表するという用意もあるべきであったが、土地の贔屓連は勿論、出勤俳優のうちにも東京側に対して甚だしい反感をいだいて、「忠臣蔵」の狂言に出演しても、自分は舞台の上で決して団十郎と顔をあわせぬなどと邪々張《じゃじゃば》るものさえ現われて来るという始末であったから、いい成績のあがらないのも無理はなかった。しかし、それらの色眼鏡を取りはずして見物した人々は、さすがに日本一の団十郎であると驚嘆して、みな口々にその伎倆《ぎりょう》の卓抜なるを讃美した。要するに、団十郎は芸において勝ち、興行において敗れたので、その不成績は芸術家としての彼の面目を傷つけたものではなかった。したがって、大阪では知らず、東京ではそれらのことを問題にするはずもなく、単に大阪方の贔屓や俳優らの狭量を冷笑するに過ぎなかった。  ただ一つ、ここに問題となったのは、この大阪乗込みについて、団十郎は二回の興行、あわせて四十日間の給料として五万円を受取ったということである。今日でも五万円といえばもちろん大金であるが、今日の物価は少なくともその当時に五、六倍しているから、それを今日の値に換算すると、二十万円以上、三十万円にも達するであろう。いずれにしても、その当時において四十日間の給料五万円などというのは劇界空前の出来事として諸人をおどろかした。わたしも確かに驚いた一人で、団十郎はともあれ、劇場側でよくもそれほどの高給を支払ったものだと思った。この五万円問題を大阪方でも頻りに論議していたが、東京でもそれについていろいろの論議が起こった。諸新聞は筆をそろえて書き立てた。団十郎はその傲慢《ごうまん》が増長して法外の暴利をむさぼると言うものもあった。またそれに対して、由来芸術に定まった価はない。先方が承諾の上で支払うからは五万円でも十万円でも差支えはないと言うものもあった。しかし後者は頗《すこぶ》る少数で、大体において団十郎は傲慢である、欲張りであるという批難の声が高かった。  そのときに私は榎本虎彦《えのもととらひこ》君からこんな話をきいた。又聞きであるから真偽は保証し難いが、桜痴《おうち》居士はそれに対してこう言っていたそうである。もっとも桜痴居士は平生から団十郎贔屓でもあり、殊にこの大阪行きについて斡旋《あっせん》の労を取った一人であるというから、団十郎弁護は当然かも知れないが、さすがに劇場の内部を知っている人だけに、その議論は急所に触れていた。 「世間ではなぜそんなに騒ぐのか、訳がわからない。かりに団十郎が五万円取ったとしても、市川団十郎として初めて大阪へ乗込む以上、芝居道の習慣として諸方へ配る土産その他の散銭《ちりせん》はおびただしいものだ。大阪へ行く時ばかりではない、東京へ帰る時にもまた相当のみやげ物を買って来なければならない。それやこれやを差引くと、本人の手に残るところは精々《せいぜい》その半額にも足りないくらいだろう。それを考えたら、五万円も決して高くはないはずだ。それが悪いというならば、団十郎が悪いのではなく、今の芝居道の習慣が悪いのだ。芝居道ばかりでなく、一部の観客もまた悪いのだ。俳優の上り下り、その都度に相当の配り物や義理|捌《さば》きをしなければ、あいつは物を知らない奴だとか、吝《けち》な奴だとか言って、有力の見物団体はおそらく顔をそむけて寄り付かないだろう。こういう習慣が除かれないあいだは、団十郎にかぎらず、他の相当の俳優もみな高い給料を貰わなければ立ち行かないことになる。したがって、興行師も莫大の仕込金を要することになるから、自然今度の大阪の芝居のような高い入場料を取らなければならないことにもなる。所詮《しょせん》は観客迷惑で、実にばかばかしい話だが、何分にも芝居道と世間一部の観客とのあいだに、一種の悪い習慣が根を張っているのだから、どうにも仕様がない。今度の団十郎問題は、金額が大きいので皆んなが眼を丸くして騒ぎ立てるのだが、さほど目立たない程度において、こんな例はしばしばある。特に団十郎のみを責めるのは無理である。」  これは今日もしばしば唱道されて、しかも絶滅し得ない一種の弊害であるらしい。ただ、団十郎のように二十万円も三十万円も取る人がないので、それほどの大問題をひき起こさないのであろう。  団十郎は大阪から帰って、五月から歌舞伎座に出勤した。一番目は「鏡山」で、団十郎の岩藤、秀調の尾上《おのえ》、菊五郎のお初というのが呼び物で大入りを占めた。中幕は団十郎の「仲光」、二番目は菊五郎の「お祭佐七」であった。  五万円問題とは別であるが、明治三十四年の三月、歌舞伎座で「太閤記」大徳寺焼香場を出した。団十郎の秀吉、菊五郎の柴田勝家が呼びもので、これも日々の大入りであったが、この焼香場で勝家が無念のあまりに我が持っている中啓《ちゅうけい》をひき裂くくだりがある。その中啓が普通のものでは気に入らないというので、菊五郎はわざわざそれを京都にあつらえて作らせた。一本が三円五十銭で、毎日それを引裂くのであるから、二十五日間に八十七円五十銭、今日の相場に換算すればおよそ四、五百円になる。普通の小道具であったら、中啓一本ぐらいは何でもないのであるが、特別の好みとなると、それだけ余計な費用を要することになるのであった。勿論、自分の気に入らない小道具を使っては、なんだか心持が悪くて思うような芝居が出来ないというのであろうが、書きおろしの中村仲蔵はそんな贅沢な註文をしないでも、立派に勝家の役を仕負わせて大好評であった。一事が万事、俳優がだんだん贅沢になるので、芝居も廉《やす》くは見せられなくなると、その頃の楽屋内でも噂した。  ちなみに、この大徳寺のときの入場料は、桟敷|一間《ひとま》八円三十銭、ほかに敷物代一間につき五十銭、高土間一間七円三十銭、敷物代同上。平土間一間二円九十銭、ほかに雑費一名につき八十銭。三階桟敷一名三十八銭であった。 [#改ページ] [#5字下げ]その頃の戯曲界[#「その頃の戯曲界」は中見出し]  演劇改良会その他が劇の向上を促して、局外の文士で劇作に筆を染める人がおいおい現われて来たことは前にも言った。しかもそれが舞台に実演されたものは、依田学海《よだがっかい》居士の「文覚勧進帳《もんがくかんじんちょう》」その他二、三に過ぎず、それすらもいろいろの訂正|改刪《かいさん》を加えられて原作者の不満を買うような結果になった。そのほかには宮崎三昧《みやざきさんまい》道人の「泉三郎」三幕が二十四年十月に中村座で上演されたが、これは普通興行でなく、演劇改良会の後身ともいうべき演芸矯風会の主催で、単に二日間の興行に過ぎなかったのである。  その演芸矯風会も自然消滅になって、一時は熾《さか》んに火の手をあげた改良熱もいつとはなしに冷却してしまった。局外者で戯曲を発表する人もあらわれなくなった。山田|美妙《びみょう》氏の『村上義光錦旗風《むらかみよしてるにしきのはたかぜ》』が単行本として出版されたが、これも余り問題にならなかった。須藤南翠《すどうなんすい》氏の『江戸自慢男一匹』も出版されたが、これも劇場当事者からは顧みられなかった。こういうわけで、局外者は自然に劇作から遠ざかるという形になったが、そのあいだで鋭意に真摯《しんし》に、劇の革新と向上とに努力をつづけていたのは坪内逍遥《つぼうちしょうよう》博士で、博士は『早稲田文学』をその本拠として、絶えず指導的の論評を試みていたばかりか、みずから進んでかの「桐一葉《きりひとは》」や、「孤城落月《こじょうのらくげつ》」や、「牧《まき》の方《かた》」などの史劇を発表した。これらの諸作はすこぶる世間の注意をひいて、そのいずれかが舞台にのぼせられるような噂もきこえたが、劇場側ではやはりそれを採用するのを躊躇した。  一方その当時の座附《ざつき》作者の側をみわたすと、かの黙阿弥《もくあみ》は二十六年一月に世を去って、そのあとを享《う》けた三代目河竹新七は市村座の立作者《たてさくしゃ》として、傍らに歌舞伎座をも兼ねていた。竹柴其水《たけしばきすい》は明治座の立作者として、専ら左団次一座のために新作の筆を執っていた。福地桜痴《ふくちおうち》居士は歌舞伎座にあって、これは専ら団十郎のために書いていた。新七・其水の両者にくらべると、桜痴居士はもちろん局外者というべきであるが、歌舞伎座との関係上、やはり一種の座附作者と見なされていたから、真の局外者の作物は殆んど上演されなかったと言ってもよい。新作といえば、いつもこの三氏の筆に限られていたのであった。  勿論、局外者とても劇作を心がけている者がないでもなく、現にわたしなどもその一人であったが、局外者の書いたものは、坪内博士の作でさえも敬遠主義を取られている時代において、なま若いわたしらの書いたものなどが所詮《しょせん》相手にされようはずはなかった。それでも今日ならば雑誌に発表するという方法もあるが、その当時は文芸物を掲載するような雑誌の種類もきわめて少なく、殊に戯曲のたぐいは一般の読みものにならないというので、どこでも嫌われた。わたしが一幕物の史劇をかいて『文芸倶楽部』の編集者に見せると、その編集者はそれまで私の小説や小品のたぐいを幾たびか掲載してくれたにもかかわらず、脚本ではどうも困るからこれを小説体に書き直してくれないかと言った。もしこのままで掲載を希望するならば、この脚本がどこかの劇場で上演することに決まった時にしてもらいたいとのことであった。わたしはそれを小説に書き直す気にもなれなかったので、その時はそのまま引込めてしまったのを、十幾年の後に多少の訂正を加えて、はじめて明治座の舞台にのぼることになった。それが「黒船話」である。遠いむかしに書いたものだなどというと、なんだか値打ちが下がるようにも思われたので、その時にはほんとうの新作のような顔をしていたが、実際を白状するとあの一幕物は十三、四年間もわたしの本箱の下積みになっていたのが、偶然にも世に出る機会を得たのであった。  そんなわけであるから、誰も劇を書こうとしない。書いたところで、劇場では見かえられず、雑誌でも取合ってくれないというのでは、まことに張合いがないので、まず書くことを躊躇するのが自然の人情である。わたしもその間に三、四種の戯曲をかいたが、かの「黒船話」と同様、いたずらに本箱の底に押込んで置くに過ぎないので、わたしもすこし飽きて来た。その薄ぼんやりした眼をこすらせたのは、松居松葉《まついしょうよう》君の史劇「悪源太《あくげんた》」が明治座で上演されたことである。それは三十二年十月興行の中幕で、待賢門の大庭で義平が重盛を追うくだりと、石山寺で義平が生捕られるくだりとの二場、主なる役割は左団次の悪源太義平《あくげんたよしひら》、市川権十郎の平重盛《たいらのしげもり》、市川|米蔵《よねぞう》の重盛妹花咲姫などであった。わたしの知っている限りでは、局外者の作物が何らの添削を加えられずに、そのまま歌舞伎劇の舞台にのぼせられたのは、明治以来これが嚆矢《こうし》であろうと思う。松葉は後の松翁《しょうおう》君である。  この時代のことでもあり、殊に局外者の作を舞台にかけるのは殆んど皮切りというのであるから、おそらく劇場側からも多少の無理を頼んだでもあろうし、松居君自身も最初から相当の譲歩を頭に置いて筆を執ったのであろうが、初代左団次という人が悪源太義平というような勇壮な役柄に嵌《はま》っていたので、一般の評判も好かった。これはすでに上演と決まった作であるので、その月の『文芸倶楽部』に掲載されたように記憶している。この成績がよかったので、越えて三十四年の十月、明治座では再び松居君の史劇「源三位《げんざんみ》」を上場した。今度は一番目に据えられた五幕つづきの大作で、左団次は源三位頼政と長谷部信連と出羽判官光長の三役をつとめたが、そのなかでも信連の大立廻りが最も好評であった。そのときは二代目左団次がまだ莚升《えんしょう》といった若い頃で、高倉宮を勤めていた。松居君はその後、明治座のために「後藤又兵衛」を書き、日露戦争当時には「敵国降伏」を書いた。  何分にもこの時代のことであるから、これらの諸作も作者自身としてはいろいろの妥協もあり譲歩もあったであろうと察しられるが、いずれにしても局外者の作物がこうして続々上演されるというのは、明治以来たしかに類例のなかったことで、それに対して注意の眼を瞠《みは》ったのはわたしたちばかりではなかったであろう。由来、わが国の芝居道では、劇というものは素人に書けるものでない、楽屋の作者部屋の飯をくって、黒衣《くろご》をかぶり、拍子木を打ち、稽古をつけ、書抜きをかき、ここに幾年かの修業を積んだ上でなければ、いわゆる“舞台《いた》に乗る”劇は書けないものであると決められていた。かれらが局外者の作物に対して敬遠主義を取っていたのも、あながちに一種の鎖国的思想とばかりは言えない。素人には満足な劇が書けないという信念がかれらの頭に強く浸み込んでいたためで、つまりは“食わず嫌い”という傾きもあったのである。その惑いを解くには、論より証拠、まず何んとかして、素人の作物を上演させて、その舞台上と興行上との好成績をかれらに見せ付けるよりほかはなかった。松居君は巧みにその機会を捉えた。そうして、素人のかいた劇も決して彼らが恐れているような危険なものではないという実例を示したのである。多年とざされていた芝居国の“不入《いらず》の間《ま》”の扉をこうしてともかくもこじ明けたのは松居君の力である。つづいてその扉をあけたのは山崎|紫紅《しこう》君である。山崎君は真砂座《まさござ》に「上杉謙信」、明治座に「歌舞伎物語」、「破戒曾我」などを上演させた。 “不入の間”の扉が遅かれ早かれ開放されるのは自然の勢いで、かならずしも両君の力ばかりとは言えないかも知れないが、実行の方面において最も早くその大勢を導くことに努力した両君の功績は、長く没すべからざるものがあると言ってよい。 [#改ページ] [#5字下げ]自作初演の思い出[#「自作初演の思い出」は中見出し]  読者には興味の薄いことであろうが、松居君と山崎君に次いで、少しく自分のことを語らせてもらいたい。  わたしが書いた物が初めて舞台にのぼせられたのは、明治三十五年の春、歌舞伎座の正月興行であった。その当時の歌舞伎座株式会社の専務取締役は井上竹二郎氏で、春興行には菊五郎が毎年出勤するのであるが、病気で出勤もむずかしいことになったから、若手ばかりで開場しなければならない。ついては何か新作物がほしい、勿論、お正月の藪入《やぶい》り連を相手にするのであるから、そういう向きのものでなければ困るという話があったので、条野採菊《じょうのさいぎく》翁と岡鬼太郎《おかおにたろう》君とわたしの三人が俄《にわ》かにそれを引受けることになった。芝居道多年の習慣たる合作ということについては、我々もとより反対であったが、正直のところ、誰か一人が全部の執筆を引受けるというのでは、どうも信用がないらしい。なにしろ素人の書いたものは芝居にならないと決められていた時代であるから、比較的新しい興行方針を取ろうとしている井上氏でも、全部の執筆を一人に委託するのは、少しく不安に思っているらしい様子もみえるので、やはり三人が分担して書くことにしたのである。  ところで、今日とは違って、その時代には盆と正月との藪入り、その習慣が一般に残っていたので、正月狂言と盆狂言とはどうしても藪入りの観客を眼中に置かなければならない。藪入りの小僧たちや、それと連れ立って来る阿母《おっか》さんや姉さんたちを相手にして新しい狂言を書くということは、ずいぶん難儀な仕事ではあるが、その当時のわたしたちは何事かの機会をみつけて局外者の脚本を劇場内に送り込んで“不入《いらず》の間《ま》”の扉をこじ明けようと苦心している最中であったから、なんでも構わない、こういう機会を逃さずに書いてみせて、素人の作った芝居でも金が儲かるということを芝居道の人たちに悟らせるがいいというので、藪入り連中ということを承知の上で引受けたが、さてそうなると、題材がなかなかむずかしい。そこで、まず正月らしいものというので、凧《たこ》をかんがえた。凧は先年この座で菊五郎の上演した「奴凧《やっこだこ》」の浄瑠璃がある。何かそれとは離れたもので、凧の芝居はないかということになると、条野採菊翁は柿の木金助のことを言い出した。  柿の木金助は大凧に乗って名古屋城の天主閣に登って、金の鯱《しゃち》の鱗《うろこ》をはがしたと伝えられている。かれは享保《きょうほう》年間に尾州《びしゅう》領内をあらし廻った大賊で、その事蹟は諸種の記録にも散見している。しかし天主閣の鱗をぬすんだというのは嘘かほんとうか、一体どうしてその鱗を剥《は》ぎ取ったかという疑問も出たのであるが、やまと新聞社の田中霜柳君は長く名古屋にいた人で、それは事実である、現に尾州藩の家老の成瀬隼人正《なるせはやとのしょう》が書いた「金鱗紛失記」というものがあると教えてくれたので、私たちも大いに力を得て、いよいよその柿の木金助を四幕に脚色することにした。しかし普通の盗賊では面白くないというので、全然その事実を作りかえて、金助という忠僕が桶屋の権次という悪党に教唆されて、権次のこしらえた凧に乗って首尾よく鯱の鱗をはぎ取ったが、権次がそれを着服して金助に渡さないので、金助が怒って権次を殺し、自分もまた召捕られるという筋に作りあげた。そうして、それを三人で分担して書くことになると、あいにくに採菊翁が病気になったので、岡君が第一幕と第三幕、わたしが第二幕と第四幕を書くことに決めて、ともかくも大急ぎで全部を纏《まと》めてしまった。それは前年の歳末のことで、その本読みの時にわたしたちは立会わなかったが、脚本を歌舞伎座へ渡してから一週間ほど後に、いよいよ上演に決定したという通知をうけ取った。  そのときの狂言は、一番目が芝翫《しかん》の「朝比奈」、中幕が栄三郎の「八重垣姫」、二番目が彼《か》の柿の木金助。その名題は岡君と相談の上で「金鯱噂高浪《こがねのしゃちうわさのたかなみ》」と据えたのである。役割は家橘《かきつ》の金助、八百蔵の権次で、ほかに芝翫、松助、高麗蔵《こまぞう》、女寅《めとら》、四代目片岡市蔵などもそれぞれの役割を勤めていた。  先年の震災で日記全部を焼失してしまったので、確かなことは思い出せないが、なんでも暮の二十七、八日頃と記憶している。歌舞伎座からちょっと来てくれという通知をうけ取って、岡君とわたしは午後四時頃から同座の仕切場へ出てゆくと、二階では稽古最中で、仕切場には大勢の人が押合って混雑していた。やがて座附《ざつき》の狂言作者の竹柴なにがしが二階から降りて来た。この人は明治の末年に死んだが、楽屋内でも意地の悪いという噂のあることを私たちも薄々知っていた。わたしは福地桜痴《ふくちおうち》居士の宅で彼にしばしば面会したこともあり、往来で出逢《であ》っても立ち話をするほどに心安くしていたのである。しかも彼が今日の態度は平素と全然変わっていた。彼はよそ行きの切口上で最初から挨拶した。だんだん話してゆく間に、わたしたちのような局外者のかいた脚本を上演するに対して、かれらの一派が著るしい反感を懐《いだ》いているらしい事は、その態度と語気とでありありと窺《うかが》われた。かれは一面には非常に丁寧な、一面にはまた皮肉のような口吻《くちぶり》で、かの脚本をわたしたちの前にならべて、その四、五カ所について、ここはこれで宜《よろ》しいのでしょうかという質問を発した。かれの意は、これで芝居になるかというにあることは、わたしたちにもよく察しられたが、わたしたちは素知らぬ顔をして、それで宜しいと皆んな答えた。すると、かれは最後にこういうことを言い出した。この脚本の第三幕を全部かき直してくれというのである。  第三幕は岡君の受持ちで、金助が凧に乗って鯱の鱗をぬすむくだりである。なまじいに写実にかいては面白くないというので、一種の浄瑠璃物のような形式を取って、この一幕は常磐津《ときわず》を用いてある。しかるに今度の興行には常磐津を使わないことにしたから、これを長唄《ながうた》に書き直してくれと言うのである。かれは念を押して、どうぞ長唄で歌えるように全部書きかえてくださいと皮肉らしく言った。かれの意は、おまえたちに常磐津と長唄とが書き分けられるかというにあることも、私たちに察しられた。しかも彼は、大急ぎですから直ぐにここで書いて下さいと言った。なるほど常磐津と長唄とは違っている。しかしその一部に多少の訂正を加えれば済むはずであるのに、かれは全部を書きかえろと言い、かつは直ぐにこの場で書けという。所詮《しょせん》はいろいろの難題を提出して私たちを苦しめるつもりであることは判《わか》っていた。それに対して私たちが何とも返事をあたえないうちに、何かの用があって他の人が彼を呼びに来たので、かれは脚本をわたしたちの前に突きつけて、なにぶん願いますと言って立去った。その他にもいろいろの事があったが、詳しくは言わない。  かれの態度に対して、私たちが不快を感じたのは言うまでもない。そのころは我々もまだ年が若いから、その不快はまた一層で、岡君はもう脚本を撤回すると言い出した。それは当然のことである。しかし彼らの態度は格別として、今更この脚本を撤回するといっては、劇場側でも迷惑するに相違ない。折角われわれの脚本を採用してくれようとした井上氏に対しても気の毒である。それのみならず、ここで喧嘩をしてしまうと、それだから素人には困るとかいう口実を彼らにあたえて、今後も直接間接に局外者の脚本上演の妨碍《ぼうがい》になる。それらを考えると、わたしたちも弱気になって、お互いに我慢して先方の註文を容れることにした。もう一つには、かれらが意地悪くわれわれを困らせようとするのであるから、すぐにその註文通りのものを拵《こしら》えあげて、かれらにぐう[#「ぐう」に傍点]の音《ね》も出ないようにしてやろうという意地もあった。  そこで、わたしたちは仕切場の筆と紙とを借りて来て、畳の上にうつ伏して第三幕の改作に取りかかった。大勢の人が押合ってごたごたしているなかで、岡君が執筆する、わたしが傍から助言する。もちろん大いそぎで、ともかくも三十分あまりの間に一幕の浄瑠璃を書きあげてしまった。どうせ名文句などの出来るはずもないが、こうなると理窟よりも意地の方が先に立って、何でも彼《か》でも即座に書きあげて彼らの前に叩き付けてやらなければ、気が済まなかったのである。  それが出来あがって、ふたりが最初から読み直しているところへ、かの竹柴なにがしが再びあらわれて、どうでしょう、もうお出来になりましたかと催促した。そこで、その原稿を渡してやると、かれは一応よみ、さらに再び読みかえしていた。また何か言い出すかと、わたしたちはその顔を睨《にら》んでいると、かれは別になんにも言わず、ただ一句、ありがとうございましたと言った。それから彼は番附のカタリを書いてくれと言い出した。われわれは商売人でないから、そういうものは出来ないと断わると、彼はまた皮肉らしくこういうことを言った。番附のカタリを書くのは立作者《たてさくしゃ》の役目である。現に黙阿弥《もくあみ》も書いた。すでに一部の狂言をかく以上、カタリを書くほどの心得もあるべきはずであるから、是非あなた方におねがい申すというのである。  こうなると、また一種の意地が出て、矢でも鉄砲でもなんでも持って来いという料簡になって、またもや直ぐに書いて渡した。そのカタリの全文がどういうわけか、田村成義《たむらなりよし》翁の『続々歌舞伎年代記』に掲載されている。今日それを読むと汗顔に堪えないが、右の事情で、その時にはあれでも一生懸命に書いたのである。但し年代記に紹介されている略筋は全然間違っている。  竹柴なにがしもその上に註文は出さなかった。まだほかに御用がありますかと訊《き》くと、もう別におねがい申すことはございませんというので、私たちは早々にそこを出た。不愉快極まる空気の中から抜け出して、わたしはほっとした。まだ電車のない時代であるから、岡君と銀座で別れて、わたしは徒歩で麹町の家へ帰ったが、夜の堀端をあるきながら私はいろいろのことを考えた。こんな不愉快を忍んでまでも、劇作をしなければならない必要があるであろうか。いっそ岡君の主張した通りに、脚本を撤回してしまった方がよかったかも知れない。今度のことは今更やむをえないとしても、まず当分は芝居などを書こうとは思うまいと、わたしは考えた。わたしの頭は言い尽くされない不愉快を以て埋められていた。今と違って、堀端には宵から往来が少ない。師走の風は寒く吹いて、暗い水の上には雁《がん》の鳴く声がきこえた。その当時の情景は今でもありありと私の頭に残っている。わたしはその頃、戯曲「弟切草《おとぎりそう》」を書きかけていたのであるが、家へ帰るとすぐにその原稿を本箱のなかへ押込んでしまった。  そんなわけであるから、自作がともかくも上演されるということに対して、岡君もわたしも余り多くの興味も期待も持たれなくなった。歌舞伎座は予定のごとく一月九日から開場したが、この興行は成績が思わしくなかったようであった。諸新聞の劇評もあまり注意して読まなかったが、毀誉相半ばするという程度であったらしい。かの『続々歌舞伎年代記』には、この二番目狂言“世評よからず”とある。それが本当であったかも知れない。  初陣《ういじん》の不覚は生涯附き纏《まと》うものだと、むかしの武士は言い習わしているが、わたしの初陣は実にかくの如き不覚を以て終始したのである。その不覚のいつまでも附き纏うのは是非ないのであろう。その時代から数えるとすでに三十余年、劇場内外の形勢は著るしく変わった。勿論、今日でも種々の弊習や欠点はあるが、その当時に比較すれば、大体においては夜と朝ぐらいに違っていると言ってよい。そのときに私たちが貰った上演料は、四幕に対して五十円であった。後に聞けば、内部では三十円ぐらいでよかろうという説であったのを、それでは余りに気の毒だと言って、井上氏が特に五十円にしてくれたのだとかいうことであった。座附の狂言作者らがわたしたちの脚本上演に対して不満を懐いていたのは事実で、素人の書いたものを無条件で採用するならば、われわれの書いたものも今後は続々上演してくれと迫って、井上氏を頗《すこぶ》る困らせたという噂を聞いた。 [#改ページ] [#5字下げ]晩年の菊五郎[#「晩年の菊五郎」は中見出し]  明治三十六年は明治の劇界に取って最も記憶すべき年であらねばならない。明治二十年の井上外務大臣邸における演劇天覧と、三十六年における団菊両優の死と、この二つの事件は明治の演劇史に特筆せらるべき重要の記録である。  勿論、団十郎も菊五郎も突然に死んだのではない。三、四年前から今か今かとひそかに危ぶまれていたのであった。団十郎は三十三年の歌舞伎座三月興行に「夜討曾我《ようちそが》」の五郎と「河内山《こうちやま》」の宗俊とを勤めているあいだにも、病気のために半途で欠勤し、興行も十日あまりで中止することになった。菊五郎もその年の歌舞伎座十一月興行に「忠臣蔵」の勘平《かんぺい》と本蔵と赤垣源蔵と、「国姓爺合戦《こくせんやかっせん》」の和藤内《わとうない》とを勤めているあいだに発病して、半途から欠勤するのやむなきに至った。その時の勘平は道行《みちゆき》の勘平で、お軽《かる》は福助、伴内は松助であったが、菊五郎は楽屋で条野採菊《じょうのさいぎく》翁にこんなことを話したそうである。かれは勘平の顔を真っ白に塗りながら言った。 「こうして勘平の顔をこしらえながら、自分でも不思議に思いますよ。御承知の通り、わたくしは勘平役者で、これまでに五段目や六段目の勘平はたびたび勤めていますが、どういう廻《めぐ》りあわせか道行の勘平は一度も勤めたことがありません。役者が五十七になって、道行の勘平が初役というのもおかしいじゃありませんか。まあ、若い者のお手本にやって見せているようなもので、おそらく終り初物でしょう。」  実際それは終り初物になったのである。それは十一月のなかば過ぎから開場した芝居で、わたしは松居松葉《まついしょうよう》、岡鬼太郎《おかおにたろう》、鏑木清方《かぶらぎきよかた》の諸君と、たしかその四日目を平土間《ひらどま》で見物したように記憶している。なにしろ初役の勘平というのであるから、わたしたちも一種の興味を以て待ち受けていたのであるが、例の“落人《おちうど》”で花道にあらわれた勘平は実に水々しく若やいだもので、その当時|綺麗《きれい》ざかりの福助のお軽と立ちならんで、ちっとも不釣合いにみえないのみか、“いつか故郷へ帰る雁”などはお軽以上に柔かくしなやかに見えたのは、さすがに菊五郎だと感服させられた。当人自身も言っている通り、大体において当人がその人になりすまして踊っているよりも、道行の勘平はかくあるべしという一種の型を教えているかの観がないでもなかったが、“恋にこころを奪われて、お家の大事と聞いた時”のあたりは、型の伝授をはなれて確かに道行の勘平その人になっていた。我々はただ口をあいて眺めているばかりであったが、清方君は熱心にそれをスケッチしていた。  これを書いていると、その当時の勘平の姿がありありと眼のさきに浮かんで来る。そうしてまた、こんなことを考える。今日《こんにち》でも踊りの素養のある俳優はたくさんある。むしろ菊五郎以上に踊れる俳優もあるらしい。それにもかかわらず、どうも彼の道行の勘平のような柔かみのある舞台をみることが少ない。ふっくらとした柔かみ――それを現代の人に求めることは、ちっとむずかしい註文であるのかも知れない。勿論、単に作物の価値からいえば、おかる勘平の道行のごときは、江戸の作者がお軽に箱せこ[#「箱せこ」に傍点]などを持たせて、宿下《やどさ》がりの御殿女中らをよろこばそうとした、一種の当て込みものに過ぎないのであって、竹田出雲《たけだいずも》の原作の方がすこぶる要領を得ているのであるから、それが舞台の上から全然消え失せたとしても、さのみ惜しいとは思われないのであるが、前にいうようなふっくらした柔かみのある舞台――それを再び見ることがむずかしいと思うと、わたしは一種愛惜の感に堪えないような気がする。といって、今の若い俳優たちのうちに、一生懸命になって今更おかる勘平の道行を研究する人があるべきはずもないから、たといそれが舞台にのぼせられる場合があっても、単に一種の踊りのお浚《さら》いに留まって、わたしたちが五代目菊五郎の舞台から感得したような言うに言われない柔かみというようなものを味わうことは出来まい。観る人もまたそれを要求しないかも知れない。一体に芸の柔かみというようなものは、需要供給ふたつながら近年著るしく減退したらしいから、今わたしが書いているようなことも、現在では殆んど問題にならないかも知れない。それであるから、むかしの人はそれらを非常な問題にしたものであるということを、今の人たちの参考までに書いてみたのである。  団十郎も菊五郎もその病気は割合いに早く癒《なお》って、いずれも再び登場することにはなったが、かれらの衰えはだんだんに眼に立つようになった。翌三十四年の十二月には、菊五郎がまた倒れた。それが翌三十五年の春にはようやく回復して、五月興行には久しぶりで団菊顔あわせの芝居が見られるという噂であったが、その五月になると、今度は団十郎が健康を損じて出勤することが出来なくなったので、よんどころなく菊五郎一派は芝翫《しかん》、八百蔵、染五郎などを加えて開場することになった。勿論、菊五郎は一日出勤したのではなく、中幕の「蜘振舞《くものふるまい》」で頼光をつとめ、二番目は病気全快のお目見得《めみえ》という触れ込みで、桜痴《おうち》居士新作の「山中平九郎」を上演し、菊五郎が主人公の平九郎を勤めたのであるが、それは作そのものも余り面白くない上に、なるべく病後の菊五郎を動かさないように書いてあったので、一般の評判もすこぶる悪かった。菊五郎自身もどうにか滞《とどこお》りなく舞台に出ているというだけのことで、ふだんの活気はまったく見られなかった。  その後、団十郎は引きつづき休場していた。菊五郎も休んでいた。そうして、その年の歌舞伎座十月興行には団菊の顔あわせがほんとうの久しぶりで実現されることになった。その一番目は「那智滝祈誓文覚《なちのたきちかいのもんがく》」で、団十郎の遠藤盛遠、菊五郎の渡辺|亘《わたる》、芝翫の袈裟御前《けさごぜん》。中幕は「逆櫓《さかろ》」で、団十郎の樋口、芝翫のお筆、市蔵の権四郎、八百蔵の重忠、女寅《めとら》のおよし。二番目は「文七元結《ぶんしちもっとい》」で、菊五郎の左官屋長兵衛、栄三郎の女房、丑之助《うしのすけ》の娘、家橘《かきつ》の手代文七という役割であったが、事実においてこれが団菊として掉尾《ちょうび》の一振であったらしく、両優ともに予想以上に活躍して、これではまだ当分は舞台上の命脈があるらしいというのが一般の評判で、好劇家もやや意を強くしたのであった。無論に役々好評で、この興行は大入りを占めた。その時の入場料は桟敷《さじき》一間《ひとま》八円八十銭、高土間《たかどま》一間七円七十銭、平《ひら》土間一間六円七十銭で、別に一間について敷物代五十銭を取った。  この大あたりに味をしめて、歌舞伎座では矢継ぎ早に十一月興行の蓋《ふた》をあけた。一番目は「里見八犬伝」の蟇六《ひきろく》屋敷から円塚山《まるづかやま》で、団十郎の犬山道節、家橘の犬川荘介、八百蔵の網干左母次郎《あぼしさもじろう》、芝翫の浜路、松助の蟇六。中幕の上は「忠臣講釈」の喜内《きない》住家で、団十郎の矢間《はざま》重太郎、菊五郎の矢間喜内、芝翫のおりえ。中幕の下は「高時」で、団十郎の高時。二番目は「弁天小僧」で、菊五郎の弁天小僧、八百蔵の日本駄右衛門、家橘の南郷力丸、栄三郎の赤星十三、染五郎の忠信利平という五人男であった。この役割をみても知られるごとく、一日の狂言のうちで団菊が顔をあわせるのは中幕の「忠臣講釈」だけである。  十月の舞台で案外に活躍した菊五郎は、それがまた健康を害したのか、あるいは俄《にわ》かの寒気が祟《たた》ったのか、この興行にはまためっきりと衰えをみせた。去年の冬の病気以来、かれの身体は思うように働かないらしく、殊《こと》に足の運びが不自由であるように見受けられたが、今度の舞台においてその弱点があきらかに暴露された。そもそも座方で「忠臣講釈」の狂言を選定したのは、かれの扮する喜内の役は病人で、一歩も動かずに済むというところから思い付いたものらしく、寝床に坐っていて台詞《せりふ》をいうだけであるから別に差支えもなかったが、二番目の「弁天小僧」に至ってはそう都合よくは行かなかった。これがためにいろいろの遣り繰りをして、浜松屋の店でも弁天と南郷の入込みを省略した。稲瀬川の勢揃いに花道の出をはぶいて、幕をふり落とすと五人男が立ち列《なら》んでいることにした。それでも五人がめいめいに台詞をいっている間、かれは突っ立っているに堪えないとみえて、舞台には鉄の柱をたてて、うしろからその身体を支えているらしかった。わたしはそれを見るに堪えないくらいに悼《いた》ましく思った。 「弁天小僧」がはじめて書きおろされたのは文久二年の三月、菊五郎がまだ羽左衛門といっていた頃で、かれは十九歳の若い花形役者であった。かれはこの役に成功して、菊五郎といえば直ぐに弁天小僧を連想するほどに売り込んでしまったもので、かれに取っては出世狂言である。それが四十年後の今日には、こうした悲しい悼《いた》ましい姿を舞台の上にみせなければならない。勿論それは当然のことであろうが、今更のように人間の老いということがわたしの心を強く傷ましめた。殊に肉体を売り物にする俳優のような職業者に取っては、老いという刑罰ほど残酷なものはないとしみじみ思い当たった。  わたしはその当時まだ若かったのであるが、この時ばかりはひどく感傷的な心持になって、劇場から帰る途中も今日の「弁天小僧」についていろいろのことを考えさせられた。その頃はまだ電車はなかったので、わたしは銀座から半蔵門まで十銭に値切った人力車に乗って帰ったのであるが、日比谷の公園もまだその工事が完成しない時分で、広い野原の上には初冬の暗い宵の空に弱々しい星のひかりが幾つか寂しく洩れていた。幌《ほろ》をかけていない車の上は寒いので、わたしは両袖をかきあわせながら俯向《うつむ》きがちにゆられて行った。わたしはこの年の四月に父をうしなったのである。菊五郎の衰老に対する悲哀が強くわたしの胸に食い入ったのも、幾分かそれが手伝っていたかも知れない。わたしの父も書きおろしの「弁天小僧」をみたということであった。  多年おなじ舞台に立っていた団十郎と菊五郎との顔あわせは、この「忠臣講釈」が最後であった。菊五郎としてはこの「弁天小僧」が最後の舞台であった。かれは明くる三十六年の二月十八日、六十歳を以てわが劇界と永久の別離を告げた。 [#改ページ] [#5字下げ]団十郎の死[#「団十郎の死」は中見出し]  わたしはかなり感傷的の心持で菊五郎の死を語った。さらに団十郎の死について語らなければならない。今日、歌舞伎劇の滅亡|云々《うんぬん》を説く人があるが、正しく言えば、真の歌舞伎劇なるものはこの両名優の死と共にほろびたと言ってよい。その後のものはやや一種の変体に属するかとも思われる。  前にもいう通り、団十郎も菊五郎と共に近年著るしく健康を害していたらしく、それでも菊五郎よりも半年ほど長くこの世に踏みとどまっていた。そうして、多年の友人のためにその遺族らのあと始末をした。菊五郎の遺子|丑之助《うしのすけ》に六代目を相続させて菊五郎に、尾上栄三郎を梅幸《ばいこう》に、尾上英造を栄三郎に、それぞれ改名を披露させ、歌舞伎座の三月興行において団十郎自身がその口上をのべた。そのときの狂言は一番目「清正誠忠録」、二番目「花盛劇楓葉《はなざかりかぶきのもみじは》」で、中幕には改名披露として「曾我の対面」を出し、梅幸の十郎、菊五郎の五郎、栄三郎の八幡三郎で、団十郎が工藤を勤めた。この当時、すでに一家をなしていたのは栄三郎改名の梅幸だけで、他の新しい菊五郎や栄三郎らはまだ乳の香のうせない子供の部であったが、名優追惜の念が多大の同情となってこれらの遺児の上にそそがれたので、役々の評判もよく、興行の成績もよかった。二番目は桜痴《おうち》居士の新作で、安政四年四月、猿若町《さるわかまち》の森田座で「天竺徳兵衛《てんじくとくべえ》」を演じている最中に、熊本の藩士が見物席から舞台に飛びあがって、天竺徳兵衛に扮している市川市蔵を斬ろうとした事件を脚色したもので、その侍を新加入の市川権十郎が勤めたが、あまりに実録に囚《とら》われたためか、劇としての興味に乏しいという批難が多く、居士の作中では不評のものであった。  団十郎はこの興行を無事につとめて、さらに五月興行にも出演した。狂言は一番目「春日局《かすがのつぼね》」、中幕「素襖落《すおうおとし》」、二番目「駒形おせん」で、団十郎は一番目だけに登場し、春日局と徳川家康の二役に扮した。それは明治二十四年の六月、この座で初めて上演された桜痴居士の作で、団十郎は今度が二度目であったが、その衰残のすがたが著るしく眼について、恐らくこれが最後の舞台ではないかという一種の予覚を我々にあたえた。菊五郎逝き、団十郎の舞台は長からず、東京の芝居はどうなるであろうかと、ひそかに眉をひそめた好劇家も少なくなかった。それでもこの興行もとどこおりなく勤め終って、かれはこの年の夏を相州《そうしゅう》茅ヶ崎《ちがさき》の別荘に過ごした。暑中と寒中に芝居を休むのは、かれが年々の例であった。  いまの市村|羽左衛門《うざえもん》はそのころ市村|家橘《かきつ》といっていたのであるが、その年の秋興行から十五代目羽左衛門を相続することになったので、その披露のために各新聞社の劇評記者を大森の松浅《まつあさ》に招いた。わたしも『東京日日新聞』の劇評記者として出席することになった。九月十三日、その日は日曜日で、朝から秋らしい雨がしとしとと降っていた。定刻の午後五時ごろに松浅にゆき着くと、接待として市村門下の坂東あやめが待ちうけていた。あやめのことは前に書いた。わたしと前後して、各社の諸君も大抵来会したのであるが、主人側の家橘が顔をみせない。茅ヶ崎の容態が悪いので、朝からあっちへ見舞に行っているのですと、あやめは頻りに言い訳をしていた。  団十郎の模様がよくないということは、これまで新聞紙上にも伝えられて、世間でもみな知っていた。わたしたちはむろん承知していた。今度こそ再び起《た》つことは覚束ないという情報をも握っていた。それだけに今日のあやめの話がいよいよ胸にこたえて、堀越もいよいよいけないのかという嘆息まじりの会話が諸人のあいだに交換された。我々の予覚が現実となって、「春日局」が遂に最後の舞台となったことなども語られた。なかには自分の社へ電話をかけて、団十郎いよいよ危篤を通知する人もあった。  涼しいのを通り越して、薄ら寒いような雨の日は早く暮れて、午後六時ごろには大森の海もまったく暗くなった。フロックコートを着た家橘があわただしく二階へかけあがって来て、挨拶もそこそこに、どうも困りましたという。かれは茅ヶ崎から駈けつけて来たのであって、団十郎はきょうの午後にとうとう死んでしまったということを口早に話した。臨終の模様などを詳しく語った。我々ももう覚悟していることではあったが、今や確実の報告を聞かされて、俄《にわ》かに暗い心持になった。  家橘は改名の口上を団十郎にたのむはずであった。その矢さきに彼をうしなったので、家橘は取りわけて落胆しているらしかった。こうなった以上、なまじいの人を頼むよりも、いっそ自分ひとりで口上を言った方がよかろうと我々が教えると、どうもそうするよりほかはありますまいと本人も言っていた。なにしろ右の次第であるから、わざわざお呼び立て申して置きながら失礼御免くださいと挨拶して、家橘は降りしきる雨のなかを再び茅ヶ崎へ引返して行った。  そのあとの座敷はいよいよ沈んで来た。団十郎が死んだと決まったので、無休刊の新聞社の人はその記事をかくために早々立去るのもあったが、わたしたちのような月曜休刊の社のものは直ぐに帰っても仕様がないのと、あやめが気の毒そうにひき止めるのとで、あとに居残って夜のふけるまで故人の噂をくりかえしていると、秋の雨はまだ降りやまないで、暗い海の音がさびしく聞こえた。その夜はまったく寂しい夜であった。団十郎は天保九年の生まれで、享年六十六歳であると聞いた。その葬式は一週間の後、青山墓地に営まれたが、この日にも雨が降った。  さきに菊五郎をうしなったことも、東京劇界の大打撃には相違なかったが、つづいて団十郎をうしなったことは、更に大いなる打撃であった。暗夜にともしびを失ったようだというのは、実にこの時の心であろうかとも思われた。今後の歌舞伎劇はどうなる――それが痛切に感じられた。近年ますます勃興して来た新派劇は、現在でも歌舞伎の一敵国となっていて、日ましに隆盛の兆がある。その折柄にこの大打撃をうけたのであるから、歌舞伎|凋落《ちょうらく》、新派劇全盛、こうした『蒙求《もうぎゅう》』のような文句が諸人の口に伝えられた。それは局外者ばかりでなく、新派俳優のあるものは団十郎死去の報を聞くと、その夜新橋辺の料理屋にあつまって、やがて天下《てんが》を我が物にすべき前祝いの宴会を開いたとか伝えられている。その中で、川上音二郎《かわかみおとじろう》はおなじく茅ヶ崎に別荘をかまえている関係から、団十郎の別荘に毎日詰めきりで、市川家一門の人々も感激するほどに尽力した。それに一種の意味を含ませて、さすがに川上は利口者だと褒《ほ》めるような嘲《あざ》けるような批評を下した人が多かったが、天下取りの前祝いをする者さえあるなかで、葬儀を終始熱心に手伝いをした彼の行動を、いたずらに白い眼でのみ見るのは穏当でない。さすがに新派の頭領だけあると、わたしは思った。川上が死んだ後、新派はいよいよ振わなくなった。ある者の前祝いは無駄になった。  団十郎、菊五郎について語るべきことは余りに多過ぎる。殊《こと》にこれらの名優の伝記や芸談や逸話のたぐいは、種々の人の筆によって種々の記録が残されているから、ここでは改めて説かないことにして、団菊歿後の劇界について少しく語りたい。  まず当面の歌舞伎座がいかなる策戦に出でるかということが、最も世間の注意をひく問題であった。劇場経営者もこれに多大の苦心を費したに相違ない。菊五郎のあと釜《がま》というような意味で新たに加入させた権十郎も、近年やはり多病で、わずかに一回かぎりで同座を退き、鎌倉の別荘に引き籠ることになってしまったので、更にそのあと釜として大阪から片岡我当をまねくことになった。我当は後の仁左衛門である。一座は芝翫《しかん》、八百蔵、羽左衛門、市蔵、高麗蔵《こまぞう》、女寅《めとら》、梅幸、吉右衛門、松助、菊五郎などという顔ぶれで、一番目は黙阿弥作で明治十一年新富座の舞台びらきに上演された「松栄千代田神徳《まつのさかえちよだのしんとく》」、中幕は「義経記《ぎけいき》」一幕、これは羽左衛門改名の出しもので、かの「船弁慶《ふなべんけい》」であるが、船弁慶という名題《なだい》では羽左衛門の出し物にならないというので、特に「義経記」と改題したものらしく、羽左衛門は船幽霊の知盛《とももり》をつとめた。二番目は我当が出し物の「紙子仕立両面鑑《かみこじたてりょうめんかがみ》」で、十月中旬から開場した。  我当が上京して歌舞伎座に出勤するについて、一部の人々のあいだには批難の声があがった。かれは先年団十郎が大阪梅田の劇場に乗込んだときに、先輩の団十郎に対してすこぶる傲慢不遜《ごうまんふそん》の態度があったのみか、舞台の上で団十郎と顔をあわせることを拒んだ。そうして、その団十郎が眼を瞑《つむ》ると直ぐにそのあと釜を狙って乗込んで来るとは怪《け》しからぬ奴であるというのであった。それに対する我当の弁解は、先年の捫着《もんちゃく》はそのあいだに種々の事情が潜んでいることで、先輩に対して敢《あえ》て無礼を働いたというわけではない。今回も上京すると、すぐ青山の団十郎の墓にまいって、先年の行き違いを陳謝して来たというのである。その理非曲直はいずれにあるか判《わか》らなかったが、とにかくにこんな批難を受けることは彼に取って利益でないのは勿論であった。殊にその出し物とする「紙子」の助六は、義太夫の語りものとしてこそ知られているが、舞台の上で見せられるのは初めてであるので、東京の観客には喜ばれなかった。  わざわざ大阪から呼び迎えた我当がその始末である上に、羽左衛門といい、中車といい、幸四郎といい、今日でこそみな一方の旗頭《はたがしら》であるが、その当時の家橘や八百蔵や高麗蔵では、まだ十分に観客の人気をひく訳には行かなかった。彼らがたとい上手であろうとも、所詮《しょせん》、団十郎菊五郎あっての家橘八百蔵高麗蔵で、かれらがひとり立ちで歌舞伎座の大舞台を踏まえることは覚束《おぼつか》ないと認められていた。それやこれやが影響して、この興行は失敗に終った。第二回は十一月二十一日から開場して、狂言は一番目「菅原伝授手習鑑《すがわらでんじゅてならいかがみ》」、中幕「壺坂霊験記《つぼさかれいげんき》」、二番目「三日月《みかづき》」、大切《おおぎり》「廓文章《くるわぶんしょう》」という列《なら》べ方であったが、今度は芝翫が抜けたので一座はいよいよ寂しく、これも結局不入りのうちに閉場することになった。 「団十郎菊五郎がいなくては、木挽町《こびきちょう》も観る気になりませんね。」  こういう声をわたしは度々《たびたび》聞かされた。団菊の歿後に洪水あるべきことは何びとも予想していたのであるが、その時がいよいよ来た。興行者も俳優もギロチンにのぼせらるべき運命に囚《とら》われたかのように見えた。 [#改ページ] [#5字下げ]日露戦争前後[#「日露戦争前後」は中見出し]  その当時、他の劇場はどうであるかというと、明治座は六月以来休場していた。市村座は時蔵、芝鶴、吉右衛門、勘五郎などという顔ぶれで開場していたが、余りに思わしい成績を収め得なかった。東京座は九月から左団次一座が開場していた。  東京座は神田の三崎町にある大劇場で、明治三十年三月の開場式には団十郎が出勤して、「敷皮《しきがわ》の曾我《そが》」の重忠《しげただ》、「国姓爺合戦《こくせんやかっせん》」の和藤内《わとうない》、「二人袴《ににんばかま》」の高砂尉兵衛などを勤めたのであるが、その時代としては何分にも交通不便利の場所にあるので、その後とかくにはかばかしいこともなくて、六、七年をどうやらこうやら持ちこたえているという有様であった。そこへ明治座休場中の左団次一座が乗込んで開演することになったのである。団菊の歿後はなんといっても左団次のひとり天下で、九月にはその一座に時蔵、高麗蔵《こまぞう》、家橘《かきつ》などが加入して、一番目に「黄門記《こうもんき》」、中幕に「楠正成《くすのきまさしげ》」、二番目に「松田の喧嘩」を出し、十一月には左団次一座に芝翫《しかん》、猿之助《えんのすけ》、源之助が加入して、一番目に「碁盤忠信《ごばんただのぶ》」、中幕に「日吉丸稚桜《ひよしまるわかきのさくら》」、二番目に「柳沢騒動」を出していたが、前後二回ともに景気は思わしくなかった。殊《こと》にこのごろに至って左団次の活気の著るしく衰えたのが眼立って来た。由来、左団次はその活気ある舞台を売り物にしていたのであるに、その衰えが眼立つようになっては、単に舞台の上がさびしいばかりでなく、団菊の死におびえている人々に一種の暗い予感をあたえた。かの碁盤忠信のごときは彼が専売であるにもかかわらず、吉野山雪中の立廻りなどは、猿之助の横川覚範にかえって薙《な》ぎ立てられる形で、大鎧《おおよろい》をきて重い兜《かぶと》をかぶって奮闘する彼の太刀先や足どりがとかくにみだれがちであるのを、私ははらはら[#「はらはら」に傍点]しながら見物していた。おそらく他の観客も同感であったろう。  大劇場は歌舞伎座をはじめ、皆そのような不況に陥り、歌舞伎座のごときは創立十五周年という名のもとに、十一月、特に値安興行をこころみるような始末であったが、そのあいだに立って人気隆々たるものは独り本郷座の新派劇だけであった。ここは川上音二郎《かわかみおとじろう》と貞奴《さだやっこ》の夫妻を主脳として、藤沢浅二郎、佐藤歳三、児島文衛、中村信近などの一座で、十一月には「ハムレット」の翻案物を上演していたが、日々満員の好景気で、他の歌舞伎劇は殆《ほと》んど彼らに圧倒された観があった。  こうして、明治三十六年は暮れた。歌舞伎劇は影薄く、新派劇ひとり驕《おご》って、わが劇界の覇権《はけん》は前から後へ移り変わるかと見られた時に、あくる三十七年の二月には、かの日露戦争の幕が開かれた。その当時わたしは思った。これは歌舞伎劇一派に取っていよいよ大洪水の日が来たのである。先度の日清戦争において、歌舞伎派はみごとに新派に打破られて、かれらをして今日の地盤を築かしめたのである。それから十年目で、再びおなじ時節が来た。団菊健在ですらもあの始末であったのに、今や団菊逝き、左団次おとろえ、いわゆる孤城落日ともいうべき体《てい》たらくの折柄に、再びこの戦争を繰返されては堪まったものでない。歌舞伎は呪《のろ》われ、新派は恵まれ、両者の運命はおのずから定まったのではあるまいかと――。  しかもわたしは、その方面から暫《しば》らく遠ざからなければならない事になった。当時のわたしは東京日日新聞社に籍を置いていたので、宣戦前から編集上の仕事が非常に忙がしくなった。わたしは更に出征第二軍の従軍記者として戦地へ出張することになった。それらの事情から、とても芝居|覗《のぞ》きどころの騒ぎではないので、わたしは自分が受持ちの劇評を三木竹二《みきたけじ》君にたのんで、編集の仕事と従軍の準備とに昼夜をあわただしく送っていた。したがって、その当時の劇界の状況については何んにも語るべき材料をたくわえていないのを遺憾とするのであるが、その忙がしい最中に小耳に挟んだところによれば、新派は無論に戦争劇を続々上演した。それに対して、歌舞伎座では福地桜痴《ふくちおうち》居士作の「艦隊誉夜襲《かんたいほまれのよいくさ》」を上演し、明治座では松居松葉君作の「敵国降伏」を上演した。前者はわが艦隊が露国軍艦レトウィーザンを撃沈した事実を脚色したもの、後者は鎌倉時代の蒙古襲来を脚色したもので、いずれも時局を当込みの産物であったが、わたしは前に言ったような事情で見物するの余暇を持たなかった。その他の小劇場でも競って戦争劇を上演していた。  そのあいだにおいて別種の注意をひいたのは、かの東京座の三月興行に坪内逍遥《つぼうちしょうよう》博士の「桐一葉《きりひとは》」を上演した事と、歌舞伎座の四月興行に森鴎外《もりおうがい》博士の「日蓮聖人辻説法《にちれんしょうにんつじせっぽう》」を上演したことであった。前者は開戦前から上演の計画があったらしく、またその戯曲の内容から考えても、もちろん時局に関係のないのは判《わか》っている。後者は蒙古襲来が一種の背景をなしていて、日蓮が他国侵逼難《たこくしんぴつなん》を説くあたりは、やや時局を匂わしている感がないでもなく、劇場当事者もその意味から採用したらしいようであったが、いずれにしても戦争熱が熾烈の最中に、在来の狂言作者とは全然立場を異にした文学者の作物を思い切って上場したのは、世間の注意をひくに値したものである。 「桐一葉」の主なる役割は、我当《がとう》の片桐且元、芝翫《しかん》の淀《よど》の方《かた》、高麗蔵の木村重成、訥升《とっしょう》の銀之丞などで、わたしは見物しないので何とも言えないが、淀の方と銀之丞が最も好評であったように聞いている。「辻説法」の役割は八百蔵の日蓮、羽左衛門の進士太郎、市蔵の比企大学三郎、梅幸の娘妙などで、歌舞伎座は銀座の新聞社から近いために、わたしは忙がしい中を偸《ぬす》んで、この一幕だけを見物することが出来た。このとき号外の刷り出されるのを待っている号外売り子の群れと、その号外の掲示を待っている群衆とが、渦巻くように社の前に押し掛けていて、とても表口から抜け出られそうもないので、わたしは印刷場の機械のあいだを潜《くぐ》って、ようやく裏通りへ出て、四月の俄《にわ》か天気に汗をにじませながら木挽町《こびきちょう》まで息を切って駈けつけた。あまり慌てたので、途中でハンカチーフを落としてしまって、入場してから汗をふくのに困った。  わたしはそれからやがて東京を出発して、満洲の広い舞台で戦争の活劇を見物する人となったので、その後の劇界の消息は内地から発送してくる新聞紙上で知るのほかはなかった。その新聞も殆んど全紙面を戦争記事で埋めているので、演芸界の出来事などはよく判らなかった。  なんでもその年の九月なかばと覚えている。遼陽戦がわが勝利に終って、わたしが城北の大紙房という村落に舎営している時のことであった。満洲の秋は早いので、もう薄寒い風の吹き出した夕暮に、内地から郵便物が到着したという通知があったので、わたしたちは急いで師団司令部へうけ取りにゆくと、岡本宛の分として五、六通の郵書とひと束の新聞紙とを渡された。新聞は二十日分ほどの嵩《かさ》があったので、わたしは小脇に引っかかえて来た。宿舎へ帰り着くころには日も暮れ切って、床の下にはこおろぎが寒そうに鳴いている。うす暗い蝋燭《ろうそく》のあかりを頼りにして、わたしは先ず故郷の人々から送って来た郵書を読んで、それから新聞紙の束《たば》をほどいた。そうして、だんだんに読んで行くうちに、八月八日の紙上に市川左団次が昨七日死去という記事を掲げてあるのを発見した。 「左団次もとうとう死んだか。」  去年の十一月、東京座で彼の「碁盤忠信《ごばんただのぶ》」を見物したのが私としては最後であった。団菊以後の一人がここにまたほろびてしまったのである。わたしは俄かにさびしい心持になって、ぼんやりと表へ出ると、陰暦の十五夜に近い月の光りがあざやかに地を照らして、葉のまばらな柳のかげが白くなびいていた。どこやらで騾馬《らば》の啼く声もきこえた。かれの衰えは去年から眼についていたが、戦場の秋にその訃音を聴こうとは思わなかったのである。わたしが八つの年に初めて新富座《しんとみざ》でかれの渥美五郎を見せられてから、もう幾年になるであろうか。そのあいだに私の記憶に残っている彼の役々はなんであったか。それからそれへと考えつづけて、わたしはその夜の更けるまで眠られなかった。  従軍の役目をすませて、わたしが東京へ帰って来た頃には、戦争劇はもう下火《したび》になっていた。日清戦争当時の例によって、新派では東京から川上と藤沢とが戦地視察に行った。大阪からは高田実が行った。京都からは静間小次郎が行った。勿論、ほんとうの戦地まで入込むことを許可されないので、大抵は朝鮮か大連あたりから引返して来たらしいが、いずれもそれを売り物にして花々しく開演したが、どこでも日清戦争当時ほどの好成績を挙げ得られなかったようである。殊に戦後の成金《なりきん》時代――成金という言葉はこのとき初めて出来たのである――は、種々の意味において一般の人心を絢爛《けんらん》にしてかつ贅沢《ぜいたく》なる歌舞伎劇の方面にひき付けたので、歌舞伎派は幸いに洪水の難をまぬかれた。新派はかえって行き詰まりの形になって来た。  わたしの長物語も先ずここで終ることにする。明治の劇談を団菊左の死に止《とど》めたのは、“筆を獲麟《かくりん》に絶つ”の微意にほかならない。 底本:「明治劇談 ランプの下にて」岩波文庫、岩波書店    1993(平成5)年9月16日第1刷発行    2008(平成20)年2月15日第3刷発行 底本の親本:「明治劇談 ランプの下にて」青蛙房    1965(昭和40)年6月刊 初出:「明治劇談 ランプの下にて」岡倉書房    1935(昭和10)年3月 ※表題は底本では、「[#割り注]明治劇談[#割り注終わり]ランプの下《もと》にて」となっています。 ※底本の奥付では、「明治劇談 ランプの下《もと》にて」となっています。 ※カッコを付して小文字で示した注記、各章末尾に掲げた注記は、解説者岡本経一光氏によるものにより削除しました。 入力:川山隆 校正:仙酔ゑびす 2011年2月27日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。