山のホテル 田山録弥 ------------------------------------------------------- 【テキスト中に現れる記号について】 《》:ルビ (例)金剛山《こんがうさん》 |:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号 (例)一万二千|峰《ぽう》 [#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定    (数字は、JIS X 0213の面区点番号またはUnicode、底本のページと行数) (例)嶙 /\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号) (例)ごた/\ -------------------------------------------------------  金剛山《こんがうさん》にある二つのホテル、中でも長安寺《ちやうあんじ》にあるものは面白い。ホテルと名には呼ばれてゐても、大きな建物があるではなく、長安寺の一部を借て、僧房を仕切て、それに No, 1 とか No, 2 とか番号をつけてゐる。そこに無造作に寝台《ねだい》と卓子《テーブル》とが置いてある。食堂と言つても、いくらか大きい僧房に二つ三つ卓子を配置してそれに晒布《さらし》をかけただけである。そしてそこにゐる人達が面白い。ボーイもコツクも支配人も番頭も皆満鉄の社員で、六月から十一月ごろまで、客が来やうが来まいが、さびしからうがさびしくなからうが皆役目で来てゐる。上さんを伴れて来てゐるものも中にはあるが大抵はひとりである。何と言つても汽車の線路から三十里も山の中に入るのだから、たとへ自動車が通つてゐるにしても、女を伴れて来るのは大変である。で、大抵はひとりでゐる。それを目蒐《めが》けて朝鮮の女が酒を売りに来るといふ話である。しかしそれは私は知らない。  従つてホテルの人達は旅客の来ることを非常に喜ぶ。毎日夕方になると、唯一の交通線である平康からの自動車が疲れた旅人のやうに微な爆音をあたりの翠微に震はせながら、白い埃塵《ほこり》に包まれて入つて来るが、それを聞くと、支配人もコツクもボーイも誰も彼も皆その周囲に集つて行つて、何等かの期待をそれに持つのである。旅客が一人でもその中に入つてゐれば無論双手を挙げて喜んで歓迎するが、それがなくとも、或は妻からの手紙、恋人からの手紙、でなければ葡萄酒の一罎、変つた缶詰の一包をそこに期待するのを毎日の唯一の楽みとしてゐるのである。丁度絶海の孤島の船着に時をきめて入つて行く汽船を待つ人達のやうに。  その自動車の通つて行く路がまた面白いのである。さびしい平凡な平康の停車場を発足点として、或は白い埃塵の立つ真直な長い一条《ひとすぢ》の路、或は軒の低い白ちやけた家屋の混雑《ごた/\》と連つてゐる田舎の町或は自動車の爆音に驚いてはね上る牛を一生懸命で路傍に引寄せようとする労働者、でなければ次第に迫つて来る山と山との間に挟まれたやうになつて見えてゐるさびしい村落、漢江《かんかう》の一支流を成してゐる渓谷にかゝつて行つた時にはそれをわたるために、対岸から扁平たい大きな船の朝鮮人に棹さゝれてやつて来るのを長い間待たなければならないのであつた。ある田舎町からは、一見したところでは何うしても日本人としか思へないやうな朝鮮人が大きな包を持つて乗つた。中でもことに忘れられないのは、日暮近く、断髪嶺《だんぱつりやう》へと路がかゝつて行つて、その峠の上から一万二千|峰《ぽう》の称ある金剛山の嶙峋《りんじゆん》をさやかに夕日の影の中に眺めた時のことであつた。 底本:「定本 花袋全集 第二十七巻」臨川書店    1995(平成7)年7月10日発行 底本の親本:「海をこえて」博文館    1927(昭和2)年11月25日 入力:特定非営利活動法人はるかぜ 校正:岡村和彦 2020年11月27日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(https://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。