処方秘箋 泉鏡花 ------------------------------------------------------- 【テキスト中に現れる記号について】 《》:ルビ (例)此《こ》の |:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号 (例)五月|中旬《なかば》 [#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定    (数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数) (例)硨 /\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号) (例)ちよこ/\ -------------------------------------------------------         一  此《こ》の不思議なことのあつたのは五月|中旬《なかば》、私が八歳《やっつ》の時、紙谷町《かみやまち》に住んだ向うの平家《ひらや》の、お辻《つじ》といふ、十八の娘、やもめの母親と二人ぐらし。少しある公債を便りに、人仕事《ひとしごと》などをしたのであるが、つゞまやかにして、物綺麗《ものぎれい》に住んで、お辻も身だしなみ好《よ》く、髪形《かみかたち》を崩さず、容色《きりょう》は町々の評判、以前五百|石取《こくどり》の武家《ぶけ》、然《しか》るべき品《ひん》もあつた、其家《そのいえ》へ泊りに行つた晩の出来事で。家《うち》も向ひ合せのことなり、鬼ごツこにも、硨《きしゃご》はじきにも、其家《そこ》の門口《かどぐち》、出窓の前は、何時《いつ》でも小児《こども》の寄合《よりあ》ふ処《ところ》。次郎だの、源《げん》だの、六《ろく》だの、腕白《わんぱく》どもの多い中に、坊《ぼう》ちやん/\と別ものにして可愛《かわい》がるから、姉はなし、此方《こなた》からも懐《なつ》いて、ちよこ/\と入つては、縫物《ぬいもの》を交返《まぜかえ》す、物差《ものさし》で刀の真似、馴《なれ》ツこになつて親《したし》んで居たけれども、泊るのは其夜《そのよ》が最初《はじめて》。  西の方《かた》に山の見ゆる町の、上《かみ》の方《かた》へ遊びに行つて居たが、約束を忘れなかつたから晩方《ばんがた》に引返《ひっかえ》した。之《これ》から夕餉《ゆうげ》を済《すま》してといふつもり。  小走《こばし》りに駆けて来ると、道のほど一|町《ちょう》足《た》らず、屋《や》ならび三十ばかり、其《そ》の山手《やまて》の方に一軒の古家《ふるいえ》がある、丁《ちょう》ど其処《そこ》で、兎《うさぎ》のやうに刎《は》ねたはずみに、礫《こいし》に躓《つまず》いて礑《はた》と倒れたのである。  俗にいふ越後は八百八後家《はっぴゃくやごけ》、お辻が許《とこ》も女ぐらし、又|海手《うみて》の二階屋も男気《おとこげ》なし、棗《なつめ》の樹《き》のある内も、男が出入《ではいり》をするばかりで、年増《としま》は蚊帳《かや》が好《すき》だといふ、紙谷町一町の間《あいだ》に、四軒、いづれも夫なしで、就中《なかんずく》今転んだのは、勝手の知れない怪しげな婦人の薬屋であつた。  何処《いずこ》も同一《おなじ》、雪国の薄暗い屋造《やづくり》であるのに、廂《ひさし》を長く出した奥深く、煤《すす》けた柱に一枚懸けたのが、薬の看板で、雨にも風にも曝《さら》された上、古び切つて、虫ばんで、何といふ銘《めい》だか誰《たれ》も知つたものはない。藍《あい》を入れた字のあとは、断々《きれぎれ》になつて、恰《あたか》も青い蛇《へび》が、渦《うずま》き立つ雲がくれに、昇天をする如く也《なり》。  別に、風邪薬《かざぐすり》を一|貼《ちょう》、凍傷《しもやけ》の膏薬《こうやく》一貝《ひとかい》買ひに行つた話は聞かぬが、春の曙《あけぼの》、秋の暮、夕顔の咲けるほど、炉《ろ》の榾《ほだ》の消《き》ゆる時、夜中にフト目の覚《さ》むる折など、町中《まちなか》を籠《こ》めて芬々《ぷんぷん》と香《にお》ふ、湿《しめ》ぽい風は薬屋の気勢《けはい》なので。恐らく我国の薬種《やくしゅ》で無からう、天竺《てんじく》伝来か、蘭方《らんぽう》か、近くは朝鮮、琉球《りゅうきゅう》あたりの妙薬に相違ない。然《そ》う謂《い》へば彼《あ》の房々《ふさふさ》とある髪は、なんと、物語にこそ謂へ目前《まのあたり》、解《と》いたら裾《すそ》に靡《なび》くであらう。常に其《それ》を、束《たば》ね髪《がみ》にしてカツシと銀《しろがね》の簪《かんざし》一本、濃く且《か》つ艶《つやや》かに堆《うずたか》い鬢《びん》の中から、差覗《さしのぞ》く鼻の高さ、頬《ほお》の肉しまつて色は雪のやうなのが、眉《まゆ》を払つて、年紀《とし》の頃も定かならず、十年も昔から今にかはらぬといふのである。  内の様子も分らないから、何となく薄気味が悪いので、小児《こども》の気にも、暮方《くれがた》には前を通るさへ駆け出すばかりにする。真昼間《まっぴるま》、向う側から密《そっ》と透《すか》して見ると、窓も襖《ふすま》も閉切《しめき》つて、空屋に等しい暗い中に、破風《はふ》の隙《ひま》から、板目《いため》の節《ふし》から、差入《さしい》る日の光|一筋《ひとすじ》二筋《ふたすじ》、裾広《すそひろ》がりにぱつと明《あかる》く、得《え》も知れぬ塵埃《ちりほこり》のむら/\と立つ間《あいだ》を、兎《と》もすればひら/\と姿の見える、婦人《おんな》の影。  転んで手をつくと、はや薬の匂《におい》がして膚《はだえ》を襲つた。此の一町《いっちょう》がかりは、軒《のき》も柱も土も石も、残らず一種の香《か》に染《し》んで居る。  身に痛みも覚えぬのに、場所もこそあれ、此処《ここ》はと思ふと、怪しいものに捕《とら》へられた気がして、わつと泣き出した。         二 「あれ危《あぶな》い。」と、忽《たちま》ち手を伸《の》べて肩をつかまへたのは彼《か》の婦人《おんな》で。  其の黒髪の中の大理石のやうな顔を見ると、小さな者はハヤ震へ上つて、振挘《ふりもぎ》らうとして身をあせつて、仔雀《こすずめ》の羽《は》うつ風情《ふぜい》。  怪しいものでも声は優しく、 「おゝ、膝《ひざ》が擦剥《すりむ》けました、薬をつけて上げませう。」と左手《ゆんで》には何《ど》うして用意をしたらう、既に薫《かおり》の高いのを持つて居た。  守宮《やもり》の血で二《に》の腕《うで》に極印《ごくいん》をつけられるまでも、膝に此の薬を塗られて何《ど》うしよう。 「厭《いや》だ、厭だ。」と、しやにむに身悶《みもだえ》して、声高《こわだか》になると、 「強情だねえ、」といつたが、漸《やっ》と手を放し、其のまゝ駆出《かけだ》さうとする耳の底へ、 「今夜、お辻さんの処《ところ》へ泊りに行《ゆ》くね。」  といふ一聯《いちれん》の言《ことば》を刻《きざ》んだのを、……今に到つて忘れない。  内へ帰ると早速、夕餉《ゆうげ》を済《すま》し、一寸《ちょいと》着換《きか》へ、糸、犬、錨《いかり》、などを書いた、読本《どくほん》を一冊、草紙《そうし》のやうに引提《ひっさ》げて、母様《おっかさん》に、帯の結目《むすびめ》を丁《トン》と叩《たた》かれると、直《すぐ》に戸外《おもて》へ。  海から颯《さっ》と吹く風に、本のペエジを乱しながら、例のちよこ/\、をばさん、辻《つう》ちやんと呼びざまに、からりと開《あ》けて飛込《とびこ》んだ。  人仕事《ひとしごと》に忙《いそがわ》しい家の、晩飯の支度は遅く、丁《ちょう》ど御膳《ごぜん》。取附《とっつき》の障子を開《あ》けると、洋燈《ランプ》の灯《あかし》も朦朧《もうろう》とするばかり、食物《たべもの》の湯気が立つ。  冬でも夏でも、暑い汁《つゆ》の好《すき》だつたお辻の母親は、むんむと気の昇る椀《わん》を持つたまゝ、ほてつた顔をして、 「おや、おいで。」 「大層おもたせぶりね、」とお辻は箸箱《はしばこ》をがちやりと云はせる。  母親もやがて茶碗の中で、さら/\と洗つて塗箸《ぬりばし》を差置《さしお》いた。  手で片頬《かたほ》をおさへて、打傾《うちかたむ》いて小楊枝《こようじ》をつかひながら、皿小鉢《さらこばち》を寄せるお辻を見て、 「あしたにすると可《い》いやね、勝手へ行つてたら坊《ぼう》ちやんが淋《さび》しからう、私は直《すぐ》に出懸《でか》けるから。」 「然《そ》うねえ。」 「可《い》いよ、可《い》いよ、構《かま》やしないや、独《ひとり》で遊んでら。」と無雑作《むぞうさ》に、小さな足で大胡坐《おおあぐら》になる。 「ぢや、まあ、お出懸けなさいまし。」 「大人《おとな》しいね。感心、」と頭を撫《な》でる手つきをして、 「どれ、其《それ》では、」楊枝を棄《す》てると、やつとこさ、と立ち上つた。  お辻が膳《ぜん》を下げる内に、母親は次の仏間《ぶつま》で着換《きか》へる様子、其処《そこ》に箪笥《たんす》やら、鏡台やら。  最一《もひと》ツ六畳が別に戸外《おもて》に向いて居て、明取《あかりとり》が皆《みんな》で三|間《げん》なり。  母親はやがて、繻子《しゅす》の帯を、前結びにして、風呂敷包《ふろしきづつみ》を持つて顕《あらわ》れた。お辻の大柄な背のすらりとしたのとは違ひ、丈《たけ》も至つて低く、顔容《かおかたち》も小造《こづくり》な人で、髪も小さく結《ゆ》つて居た。 「それでは、お辻や。」 「あい、」と、がちや/\いはせて居た、彼方《かなた》の勝手で返事をし、襷《たすき》がけのまゝ、駆けて来て、 「気をつけて行らつしやいましよ。」 「坊《ぼっ》ちやん、緩《ゆっく》り遊んでやつて下さい。直ぐ寝つちまつちやあ不可《いけ》ませんよ、何《ど》うも御苦労様なことツたら、」  とあとは独言《ひとりごと》、框《かまち》に腰をかけて、足を突出《つきだ》すやうにして下駄《げた》を穿《は》き、上へ蔽《おっ》かぶさつて、沓脱越《くつぬぎごし》に此方《こちら》から戸をあけるお辻の脇あけの下あたりから、つむりを出して、ひよこ/\と出て行つた。渠《かれ》は些《ち》と遠方をかけて、遠縁のものの通夜《つや》に詣《まい》つたのである。其がために女《むすめ》が一人だからと、私を泊《と》めたのであつた。         三  枕に就《つ》いたのは、良《やや》ほど過ぎて、私の家《うち》の職人衆が平時《いつも》の湯から帰る時分。三人づれで、声高《こわだか》にものを言つて、笑ひながら入つた、何《ど》うした、などと言ふのが手に取るやうに聞えたが、又|笑声《わらいごえ》がして、其から寂然《ひっそり》。  戸外《おもて》の方は騒がしい、仏間《ぶつま》の方《かた》を、とお辻はいつたけれども其方《そっち》を枕にすると、枕頭《まくらもと》の障子|一重《ひとえ》を隔てて、中庭といふではないが一坪ばかりのしツくひ叩《たたき》の泉水《せんすい》があつて、空は同一《おなじ》ほど長方形に屋根を抜いてあるので、雨も雪も降込《ふりこ》むし、水が溜《たま》つて濡《ぬ》れて居るのに、以前|女髪結《おんなかみゆい》が住んで居て、取散《とりちら》かした元結《もっとい》が化《な》つたといふ、足巻《あしまき》と名づける針金に似た黒い蚯蚓《みみず》が多いから、心持《こころもち》が悪くつて、故《わざ》と外を枕にして、並んで寝たが、最《も》う夏の初めなり、私には清らかに小掻巻《こがいまき》。  寝る時、着換《きか》へて、と謂《い》つて、女《むすめ》の浴衣《ゆかた》と、紅《あか》い扱帯《しごき》をくれたけれども、角兵衛獅子《かくべえじし》の母衣《ほろ》ではなし、母様《おっかさん》のいひつけ通り、帯を〆《し》めたまゝで横になつた。  お辻は寒さをする女《むすめ》で、夜具《やぐ》を深く被《か》けたのである。  唯《と》顔を見合せたが、お辻は思出《おもいだ》したやうに、莞爾《にっこり》して、 「さつき、駆出《かけだ》して来て、薬屋の前でころんだのね、大《おおき》な形《なり》をして、をかしかつたよ。」 「呀《や》、復《また》見て居たの、」と私は思はず。……  之《これ》は此の春頃から、其まで人の出入《ではいり》さへ余りなかつた上《かみ》の薬屋が方《かた》へ、一|人《にん》の美少年が来て一所《いっしょ》に居る、女主人《おんなあるじ》の甥《おい》ださうで、信濃《しなの》のもの、継母《ままはは》に苛《いじ》められて家出をして、越後なる叔母《おば》を便《たよ》つたのだと謂《い》ふ。  此のほどから黄昏《たそがれ》に、お辻が屋根へ出て、廂《ひさし》から山手《やまて》の方《ほう》を覗《のぞ》くことが、大抵|日毎《ひごと》、其は二階の窓から私も見た。  一体裏に空地はなし、干物《ほしもの》は屋根でする、板葺《いたぶき》の平屋造《ひらやづくり》で、お辻の家は、其真中《そのまんなか》、泉水のある処《ところ》から、二間梯子《にけんばしご》を懸けてあるので、悪戯《いたずら》をするなら小児《こども》でも上下《あがりおり》は自由な位、干物に不思議はないが、待て、お辻の屋根へ出るのは、手拭《てぬぐい》一筋《ひとすじ》棹《さお》に懸《かか》つて居る時には限らない、恰《あたか》も山の裾《すそ》へかけて紙谷町は、だら/\のぼり、斜めに高いから一目に見える、薬屋の美少年をお辻が透見《すきみ》をするのだと、内の職人どもが言《ことば》を、小耳《こみみ》にして居るさへあるに、先刻《さっき》転んだことを、目《ま》のあたり知つて居るも道理こそ。  呀《や》、復《また》見て居たの……といつたは其の所為《せい》で、私は何の気もなかつたのであるが、之《これ》を聞くと、目をぱつちりあけたが顔を赧《あか》らめ、 「厭《いや》な!」といつて、口許《くちもと》まで天鵞絨《びろうど》の襟《えり》を引《ひっ》かぶつた。 「そして転んだのを知つてるの、をかしいな、辻《つう》ちやんは転んだのを知つてるし、彼《あ》のをばさんは、私の泊るのを知つて居たよ、皆《みんな》知つて居ら、をかしいな。」         四 「え!」と慌《あわただ》しく顔を出して、まともに向直《むきなお》つて、じつと見て、 「今夜泊ることを知つて居ました?」 「あゝ、整《ちゃん》と然《そ》う言つたんだもの。」  お辻は美しい眉《まゆ》を顰《ひそ》めた。燈火《ともしび》の影暗く、其の顔|寂《さみ》しう、 「恐《おそろ》しい人だこと、」といひかけて、再び面《おもて》を背《そむ》けると、又|深々《ふかぶか》と夜具《やぐ》をかけた。 「辻《つう》ちやん。」 「…………」 「辻《つう》ちやんてば、」 「…………」 「よう。」  こんな約束ではなかつたのである、俊徳丸《しゅんとくまる》の物語のつゞき、それから手拭《てぬぐい》を藪《やぶ》へ引いて行つた、踊《おどり》をする三《さん》といふ猫の話、それもこれも寝てからといふのであつたに、詰《つま》らない、寂《さび》しい、心細い、私は帰らうと思つた。丁《ちょう》ど其時《そのとき》、どんと戸を引いて、かたりと鎖《じょう》をさした我家《わがや》の響《ひびき》。  胸が轟《とどろ》いて掻巻《かいまき》の中で足をばた/\したが、堪《たま》らなくツて、くるりとはらばひになつた。目を開《あ》いて耳を澄《すま》すと、物音は聞えないで、却《かえっ》て戸外《おもて》なる町が歴然《ありあり》と胸に描かれた、暗《やみ》である。駆けて出て我家《わがや》の門《かど》へ飛着《とびつ》いて、と思ふに、夜《よ》も恁《こ》う更《ふ》けて、他人《ひと》の家からは勝手が分らず、考ふれば、毎夜|寐《ね》つきに聞く職人が湯から帰る跫音《あしおと》も、向うと此方《こちら》、音にも裏表《うらおもて》があるか、様子も違つて居た。世界が変つたほど情《なさけ》なくなつて、枕頭《まくらもと》に下《おろ》した戸外《おもて》から隔ての蔀《しとみ》が、厚さ十万里を以て我を囲ふが如く、身動きも出来ないやうに覚えたから、これで殺されるのか知らと涙ぐんだのである。  ものの懸念さに、母様《おっかさん》をはじめ、重吉《じゅうきち》も、嘉蔵《かぞう》も呼立《よびた》てる声も揚げられず、呼吸《いき》さへ高くしてはならない気がした。  密《そっ》と見れば、お辻はすや/\と糸が揺れるやうに幽《かすか》な寐息《ねいき》。  これも何者かに命ぜられて然《し》かく寐《ね》入つて居るらしい、起してはならないやうに思はれ、アヽ復《また》横になつて、足を屈《かが》めて、目を塞《ふさ》いだ。  けれども今しがた、お辻が(恐《おそろ》しい人だこと、)といつた時、其の顔色とともに灯《あかし》が恐しく暗くなつたが、消えはしないだらうかと、いきなり電《いなびかり》でもするかの如く、恐る/\目をあけて見ると、最《も》う真暗《まっくら》、灯《あかり》はいつの間《ま》にか消えて居る。  はツと驚いて我ながら、自分の膚《はだ》に手を触れて、心臓《むね》をしつかと圧《おさ》へた折から、芬々《ぷんぷん》として薫《にお》つたのは、橘《たちばな》の音信《おとずれ》か、あらず、仏壇の香《こう》の名残《なごり》か、あらず、ともすれば風につれて、随所、紙谷町を渡り来る一種の薬の匂《におい》であつた。  しかも梅の影がさして、窓がぽつと明《あかる》くなる時、縁《えん》に蚊遣《かやり》の靡《なび》く時、折に触れた今までに、つい其夜《そのよ》の如く香《か》の高かつた事はないのである。  瓶《びん》か、壺《つぼ》か、其の薬が宛然《さながら》枕許《まくらもと》にでもあるやうなので、余《あまり》の事に再び目をあけると、暗《くらやみ》の中に二枚の障子。件《くだん》の泉水《せんすい》を隔てて寝床の裾《すそ》に立つて居るのが、一間《いっけん》真蒼《まっさお》になつて、桟《さん》も数へらるゝばかり、黒みを帯びた、動かぬ、どんよりした光がさして居た。  見る/\裡《うち》に、べら/\と紙が剥《は》げ、桟が吹《ふ》ツ消《け》されたやうに、ありのまゝで、障子が失《う》せると、羽目《はめ》の破目《やぶれめ》にまで其の光が染《し》み込んだ、一坪の泉水を後《うしろ》に、立顕《たちあらわ》れた婦人《おんな》の姿。  解《と》き余る鬢《びん》の堆《うずたか》い中に、端然として真向《まむき》の、瞬《またた》きもしない鋭い顔は、正《まさ》しく薬屋の主婦《あるじ》である。  唯《と》見る時、頬《ほお》を蔽《おお》へる髪のさきに、ゆら/\と波立《なみだ》つたが、そよりともせぬ、裸蝋燭《はだかろうそく》の蒼《あお》い光を放つのを、左手《ゆんで》に取つてする/\と。         五  其の裳《もすそ》の触《ふ》るゝばかり、すツくと枕許に突立《つった》つた、私は貝を磨いたやうな、足の指を寝ながら見て呼吸《いき》を殺した、顔も冷《つめと》うなるまでに、室《ま》の内を隈《くま》なく濁つた水晶に化し了するのは蝋燭の鬼火である。鋭い、しかし媚《なまめ》いた声して、 「腕白《わんぱく》、先刻《さっき》はよく人の深切《しんせつ》を無にしたね。」  私は石になるだらうと思つて、一思《ひとおもい》に窘《すく》んだのである。 「したが私の深切を受ければ、此の女《むすめ》に不深切になる処《ところ》。感心にお前、母様《おっかさん》に結んで頂いた帯を〆《し》めたまゝ寝てること、腕白もの、おい腕白もの、目をぱちくりして寝て居るよ。」といつて、ふふんと鷹揚《おうよう》に笑つた。姐御《あねご》真実《まったく》だ、最《も》う堪《たま》らぬ。  途端に人膚《ひとはだ》の気勢《けはい》がしたので、咽喉《のど》を噛《かま》れたらうと思つたが、然《そ》うではなく、蝋燭が、敷蒲団《しきぶとん》の端と端、お辻と並んで合せ目の、畳《たたみ》の上に置いてあつた。而《そう》して婦人《おんな》は膝《ひざ》をついて、のしかゝるやうにして、鬢《びん》の間《あい》から真白な鼻で、お辻の寐《ね》顔の半《なかば》夜具《やぐ》を引《ひっ》かついで膨らんだ前髪の、眉《まゆ》のかゝり目のふちの稍《やや》曇つて見えるのを、じつと覗込《のぞきこ》んで居るのである。おゝ、あはれ、小《ささ》やかに慎《つつ》ましい寐姿は、藻脱《もぬけ》の殻か、山に夢がさまよふなら、衝戻《つきもど》す鐘も聞えよ、と念じ危《あや》ぶむ程こそありけれ。  婦人《おんな》は右手《めて》を差伸《さしのば》して、結立《ゆいたて》の一筋《ひとすじ》も乱れない、お辻の高島田を無手《むず》と掴《つか》んで、づツと立つた。手荒さ、烈《はげ》しさ。元結《もとゆい》は切れたから、髪のずるりと解《と》けたのが、手の甲《こう》に絡《まつ》はると、宙に釣《つる》されるやうになつて、お辻は半身《はんしん》、胸もあらはに、引起《ひきおこ》されたが、両手を畳に裏返して、呼吸《いき》のあるものとは見えない。  爾時《そのとき》、右手《めて》に黒髪を搦《から》んだなり、 「人もあらうに私の男に懸想《けそう》した。さあ、何《ど》うするか、よく御覧。」  左手《ゆんで》の肱《ひじ》を鍵形《かぎなり》に曲げて、衝《つ》と目よりも高く差上《さしあ》げた、掌《たなそこ》に、細長い、青い、小さな瓶《びん》あり、捧げて、俯向《うつむ》いて、額《ひたい》に押当《おしあ》て、 「呪詛《のろい》の杉より流れし雫《しずく》よ、いざ汝《なんじ》の誓《ちかい》を忘れず、目《ま》のあたり、験《しるし》を見せよ、然《さ》らば、」と言つて、取直《とりなお》して、お辻の髪の根に口を望ませ、 「あの美少年と、容色《きりょう》も一対《いっつい》と心上《こころあが》つた淫奔女《いたずらもの》、いで/\女の玉《たま》の緒《お》は、黒髪とともに切れよかし。」  と恰《あたか》も宣告をするが如くに言つて、傾けると、颯《さっ》とかゝつて、千筋《ちすじ》の紅《くれない》溢《あふ》れて、糸を引いて、ねば/\と染《にじ》むと思ふと、丈《たけ》なる髪はほつり[#「ほつり」に傍点]と切れて、お辻は崩れるやうに、寝床の上、枕をはづして土気色《つちけいろ》の頬《ほお》を蒲団《ふとん》に埋《うず》めた。  玉の緒か、然《さ》らば玉の緒は、長く婦人《おんな》の手に奪はれて、活《い》きたる如く提《ひっさ》げられたのである。  莞爾《かんじ》として朱《しゅ》の唇の、裂けるかと片頬笑《かたほえ》み、 「腕白《わんぱく》、膝《ひざ》へ薬をことづかつてくれれば、私が来るまでもなく、此の女《むすめ》は殺せたものを、夜《よ》が明けるまで黙つて寐《ね》なよ。」といひすてにして、細腰《さいよう》楚々《そそ》たる後姿《うしろすがた》、肩を揺《ゆす》つて、束《つか》ね髱《たぼ》がざわ/\と動いたと見ると、障子の外。  蒼《あお》い光は浅葱幕《あさぎまく》を払つたやうに颯《さっ》と消えて、襖《ふすま》も壁も旧《もと》の通り、燈《ともしび》が薄暗く点《つ》いて居た。  同時に、戸外《おもて》を山手《やまて》の方《かた》へ、からこん/\と引摺《ひきず》つて行く婦人《おんな》の跫音《あしおと》、私はお辻の亡骸《なきがら》を見まいとして掻巻《かいまき》を被《かぶ》つたが、案外かな。  抱起《だきおこ》されると眩《まばゆ》いばかりの昼であつた。母親も帰つて居た。抱起したのは昨夜《ゆうべ》のお辻で、高島田も其まゝ、早《は》や朝の化粧《けわい》もしたか、水の垂《た》る美しさ。呆気《あっけ》に取られて目も放さないで目詰《みつ》めて居ると、雪にも紛《まが》ふ頸《うなじ》を差《さし》つけ、くツきりした髷《まげ》の根を見せると、白粉《おしろい》の薫《かおり》、櫛《くし》の歯も透通《すきとお》つて、 「島田がお好《すき》かい、」と唯《ただ》あでやかなものであつた。私は家に帰つて後《のち》も、疑《うたがい》は今に解《と》けぬ。  お辻は十九で、敢《あえ》て不思議はなく、煩《わずら》つて若死《わかじに》をした、其の黒髪を切つたのを、私は見て悚然《ぞっ》としたけれども、其は仏教を信ずる国の習慣であるさうな。 底本:「日本幻想文学集成1 泉鏡花」国書刊行会    1991(平成3)年3月25日初版第1刷発行    1995(平成7)年10月9日初版第5刷発行 底本の親本:「泉鏡花全集」岩波書店    1940(昭和15)年発行 初出:「天地人」    1901(明治34)年1月 ※ルビは新仮名とする底本の扱いにそって、ルビの拗音、促音は小書きしました。 入力:門田裕志 校正:川山隆 2009年5月10日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。