式部小路 泉鏡花 ------------------------------------------------------- 【テキスト中に現れる記号について】 《》:ルビ (例)擬《なぞら》え |:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号 (例)近き頃|音羽《おとわ》 [#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定    (数字は、JIS X 0213の面区点番号またはUnicode、底本のページと行数) (例)睜 ------------------------------------------------------- [#ここから5字下げ] [#1字下げ]序[#「序」は中見出し] 日本橋のそれにや習える、 源氏の著者にや擬《なぞら》えたる、 近き頃|音羽《おとわ》青柳《あおやぎ》の横町を、 式部小路となむいえりける。 名をなつかしみ、尋ねし人、 妾宅と覚しきに、世にも 婀娜《あだ》なる娘の、糸竹の 浮きたるふしなく、情も恋も 江戸紫や、色香いろはの 手習して、小机に打凭《うちもた》れ、 紅筆を含める状《さま》を、垣間《かいま》 見《み》てこそ頷《うなず》きけれ。  明治三十九年丙午十二月 [#地付き]鏡花小史 [#ここで字下げ終わり] [#改ページ] [#7字下げ]一[#「一」は中見出し]  鳥差が通る。馬士《まご》が通る。ちとばかり前《さき》に、近頃は余り江戸|向《むき》では見掛けない、よかよか飴屋《あめや》が、衝《つ》と足早に行《ゆ》き過ぎた。そのあとへ、学校がえりの女学生が一人、これは雑司《ぞうし》ヶ|谷《や》の方から来て、巣鴨《すがも》。  こう、途絶え途絶え、ちらほらこの処を往来《ゆきか》う姿は、あたかも様々の形した、切れ切れの雲が、動いて、その面《おもて》を渡るに斉《ひと》しい。秋も半ば過ぎの、日もやつ下りの俤橋《おもかげばし》は、小石川の落葉の中に、月が懸かった風情である。  空の蒼々《あおあお》したのが、四辺《あたり》の樹立《こだち》のまばらなのに透いて、瑠璃色《るりいろ》の朝顔の、梢《こずえ》に搦《か》らんで朝から咲き残った趣に見ゆるさえ、どうやら澄み切った夜のよう。  しかし、恰好《かっこう》をいったら、烏が宿ったのと、鵲《かささぎ》の渡したのと、まるで似ていないのはいうまでもない。また真《まこと》の月と、年紀《とし》のころを較べたら、そう、千年も二千年も三千年も少《わか》かろう。  ただ我々に取っては、これを渡初めした最年長者より、もっと老朽ちた橋であるから、ついこの居まわりの、砂利場の砂利を積んで、荷車など重いのが通る時は、埃《ほこり》やら、砂やら、溌《ぱっ》と立って、がたがたと揺れて曇る。が、それは大空を視《なが》むる目に、雲はじっとしていて、月が動くように見えると一般、橋の俤《おもかげ》はうつろわず、あとはすぐに拭《ぬぐ》ったような空気の中に、洗った姿となるのである。  ちょうど今人の形のいろいろの雲が、はらはらとこの月の前を通り去った折からである。  橋の中央《なかば》に、漆の色の新しい、黒塗の艶《つや》やかな、吾妻下駄《あずまげた》を軽《かろ》く留めて、今は散った、青柳の糸をそのまま、すらりと撫肩《なでがた》に、葉に綿入れた一枚小袖、帯に背負揚《しょいあげ》の紅《くれない》は繻珍《しゅちん》を彩る花ならん、しゃんと心なしのお太鼓結び。雪の襟脚、黒髪と水際立って、銀の平打《ひらうち》の簪《かんざし》に透彫《すかしぼり》の紋所、撫子《なでしこ》の露も垂れそう。後毛《おくれげ》もない結立ての島田|髷《まげ》、背高く見ゆる衣紋《えもん》つき、備わった品の可《よ》さ。留南奇《とめき》の薫《かおり》馥郁《ふくいく》として、振《ふり》を溢《こぼ》るる縮緬《ちりめん》も、緋桃《ひもも》の燃ゆる春ならず、夕焼ながら芙蓉《ふよう》の花片《はなびら》、水に冷く映るかと、寂しらしく、独り悄《しお》れて彳《たたず》んだ、一|人《にん》の麗人《たおやめ》あり。わざとか、櫛《くし》の飾《かざり》もなく、白き元結《もとゆい》一結《ひとむすび》。  かくても頭《つむり》重そうに、頸《うなじ》を前へ差伸ばすと、駒下駄がそと浮いて、肩を落して片手をのせた、左の袖がなよやかに、はらりと欄干の外へかかった。  ここにその清きこと、水底《みなそこ》の石一ツ一ツ、影をかさねて、両方の岸の枝ながら、蒼空《あおぞら》に透くばかり、薄く流るる小川が一条《ひとすじ》。  流《ながれ》が響いて、風が触って、幽《かすか》に戦《そよ》いだその袂《たもと》、流は琴の糸が走るよう、風は落葉を誘うよう。  雲が、雲が、また一片《ひとひら》、……ここへ絣《かすり》の羽織、縞《しま》の着物、膨らんだ襯衣《しゃつ》、式《かた》のごとく、中折《なかおれ》を阿弥陀《あみだ》に被《かぶ》って、靴を穿《は》いた、肩に画板をかけたのは、いうまでもない、到る処、足の留《とど》まる処、目に触るる有らゆる自然の上に、西洋絵具の濃いのを施す、絵を学ぶ向《むき》の学生であった。  広くはあらぬ橋の歩み、麗人《たおやめ》の背後《うしろ》を通って、やがて渡り越すと影が放れた。そこで少時《しばらく》立留って、浮雲のただよう形、熟《じっ》と此方《こなた》を視《なが》めたが、思切った状《さま》して去った。  その傍《かたわら》に小店《こみせ》一軒、軒には草鞋《わらじ》をぶら下げたり、土間には大根を土のまま、煤《すす》けた天井には唐辛《とうがらし》。明らさまに前の通《とおり》へ突出して、それが売物の梨、柿、冷えたふかし藷《いも》に、古い精進庖丁も添えてあったが、美術家の目にはそれも入らず。  店には誰も居なかった。昨日の今時分は、ここで柿の皮を剥《む》いて食べた、正午《ひる》まわりを帰り路《みち》の、真赤《まっか》な荷をおろした豆腐屋があったに。 [#7字下げ]二[#「二」は中見出し]  学生の姿が見えなくなると、小店の向うの竹垣の上で、目白がチイチイと鳴いた。  身近を通った跫音《あしおと》には、心も留めなかった麗人《たおやめ》は、鳥の唄も聞えぬか、身動《みじろ》ぎもしないで、そのまま、じっと。  秋の水は澄み切って、鮎《あゆ》の鰭《ひれ》ほどの曇りもないから、差覗《さしのぞ》くと、浅い底に、その銀の平打の簪が映って、流《ながれ》が糸のようにかかるごとに、小石と相撃って、戛然《かつぜん》として響くかと、伸びつ、縮みつする。が、娘はあえて、過《あやま》って、これを遺失《おと》したものとして、手に取ろうとするのではない。  目白がまたチイと鳴いて、ひッそりと、小さな羽を休めた形で、飛ぶ影のさした時であった。  下行く水の、はじめは単に水上《みなかみ》の、白菊か、黄菊か、あらず、この美しき姿を、人目の繁き町の方へ町の方へと……その半襟の藤色と、帯の錦《にしき》を引動かし、友禅《ゆうぜん》を淡く流して、ちらちら靡《なびか》して止《や》まなかったのが、フト瞬く間|淀《よど》んで、静《しずま》って、揺れず、なだらかになったと思うと、前髪も、眉も、なかだかな鼻も、口も、咽喉《のんど》の幽《かす》かに見えるのも、色はもとより衣紋《えもん》つきさえ、明《あかる》くなって、その半身をありありと水底《みなそこ》に映したのである。  俤《おもかげ》はその名である。月のような日中《ひなか》の橋も、斉《ひと》しく麗人《たおやめ》の姿を宿した。  それまで彳《たたず》んだ娘の思《おもい》は、これで通ったものであろう。可愛い唇の紅《べに》を解いて、莞爾《にっこり》して顔を上げた。身は、欄干に横づけに。と見ると芳紀《ほうき》二十三? 四。目色《めつき》に凛《りん》と位はあるが、眉のかかり婀娜《あだ》めいて、くっきり垢抜《あかぬ》けのした顔備《かおぞなえ》。白足袋の褄《つま》はずれも、きりりと小股《こまた》の締った風采《とりなり》、この辺《あたり》にはついぞ見掛けぬ、路地に柳の緑を投げて、水を打ったる下町風。  恍惚《うっとり》と顔を上げ、前途《ゆくて》を仰ぐように活々した瞳をぱっちりと睜《みひら》いたが、流《ながれ》を見入って、疲れたか、心にかかる由ありしか、何となく弱々と、伏目になってうつむいて、袖口を胸で引き合わすと、おのずからのように、歩《あし》が運んで、するする此方《こなた》へ。  渡り越して、その姿、低い欄干を放れると、俤橋は一点の影も留めず、後になって、道は一条《ひとすじ》、美しくその白足袋の下に続いた。  さて小店の前を通った時、前後《あとさき》に人はなし、床几《しょうぎ》にも誰も居《お》らず、目白もかくれて、風も吹かず、気は凝って寂《しん》としたから、その柿と、梨と、こつこつと積んだのが、今通る娘のために、供物《そなえもの》した趣があったのである。  通りかかりに見て過ぎた。娘の姿は、次第に橋を距《へだた》って、大きく三日月|形《なり》に、音羽の方から庚申塚《こうしんづか》へ通う三ツ角へ出たが、曲って孰方《いずかた》へも行かんとせず。少し斜めに向をかえて、通を向うへ放れたと思うと、たちまち颯《さっ》と茜《あかね》を浴びて、衣《きぬ》の綾《あや》が見る見る鮮麗《あざやか》に濃くなった。天晴《あっぱれ》夕雲の紅《くれない》に彩られつと見えたのは、塀に溢《あふ》るるむらもみじ、垣根を繞《めぐ》る小流《こながれ》にも金襴《きんらん》颯と漲《みなぎ》ったので。  その石橋を渡った時、派手な裾捌《すそさば》きにちらちらと、かつ散る紅、かくるる黒髪、娘は門《かど》を入ったのである。 「真平《まっぴら》御免を。」  一ツ曲って突当りに、檜造《ひのきづく》りの玄関が整然《きちん》と真四角《まっしかく》に控えたが、娘はそれへは向わないで、あゆみの花崗石《みかげいし》を左へ放れた、おもてから折まわしの土塀の半《なかば》に、アーチ形の木戸がある。  そこを潜《くぐ》って、あたりを見ながら、芝生を歩《ひろ》って、梢《こずえ》の揃った若木の楓《かえで》の下路《したみち》を、枯れたが白銀《しろがね》の縁《へり》を残した、美しい小笹《おざさ》を分けつつ、やがて、地《つち》も笹も梢も、向うへ、たらたらと高くなる、堆《うずたか》い錦の褥《しとね》の、ふっくりとしてしかも冷やかな、もみじの丘へ出た時であった。  向ううらに海のような、一面鏡の池がある。その傾斜面に据えた瀬戸物の床几に腰をかけて、葉色の明りはありながら、茂りの中に、薄暗く居た一人の小男。 [#7字下げ]三[#「三」は中見出し]  紅葉《もみじ》の中に著《いちじ》るく、まず目に着いたは天窓《あたま》のつるりで、頂ャ兀《は》げておもしろや。耳際から後《うしろ》へかけて、もじゃもじゃの毛はまだ黒いが、その年紀《とし》ごろから察するに、台湾云々というのでない。結髪時代の月代《さかやき》の世とともに次第に推移《おしうつ》ったものであろう。  無地の紬《つむぎ》の羽織、万筋の袷《あわせ》を着て、胸を真四角《まっしかく》に膨らましたのが、下へ短く横に長い、真田《さなだ》の打紐《うちひも》。裾短《すそみじか》に靴を穿《はい》て、何を見得にしたか帽子を被《かぶ》らず、だぶだぶになった茶色の中折、至極大ものを膝の上。両手を鍔《つば》の下へ、重々しゅう、南蛮鉄、五枚|錣《しころ》の鉢兜《はちかぶと》を脱いで、陣中に憩った形でござったが、さてその耳の敏《さと》い事。  薄い駒下駄運びは軽《かろ》し、一面の芝の上。しかるに疾《とく》より聞きつけたと覚しく、娘の立姿、こぼるるもみじの葉の中へ、はらりと出でて見ゆるや否や、床几を立って、恭《うやうや》しく帽子を踵《くびす》の辺《あたり》まで、手とともにずッと垂れて、真平御免! と啓《もう》したのである。 「ええ、御免下さいまし、甚だ推参なわけで、飛んだ失礼でございまするが、手前通りがかりのもので、」といい出《いづ》る。  娘は上から伏目で見た、眦《まなじり》が切れて、まぶちがふッくりと高いよう。  その気おのずから、脳天を圧して、いよいよ頭《ず》を下げ、 「は、当|御館《おやかた》におかせられましては、このお庭の紅葉を、諸人《しょにん》に拝見の儀お許しとな、かねがね承ったでありまするで、戸外《おもて》から拝見いたしましてさえ余りのお見事。つい御通用門を潜《くぐ》りまして、うかうかとこれへ。  実は前もってちょっとお台所口まで、お断りを申上げまして、御承諾を頂戴いたそうかにも心得ましたが、早や拝見御免とありますれば、かえってお取次、お手数《てかず》、と手前勘《てまえかん》に御遠慮を申上げ、お庭へ参って見ますると、かくの通《とおり》。手前の外には、こう、誰一人拝見をいたしておりますものがございません。ほい、こりゃ違ったそうな、すれば、大方、だろうぐらいに考えて風説をいたしますのを、一概にそうと心得て粗忽千万《そこつせんばん》な。  若いものではございませず、分別|盛《ざかり》を通り越していながら、と恐縮をいたしましてな、それも、御門内なら、まだしも。  無躾《ぶしつけ》にも、ずかずか奥深く参りましたで、黙って出て参るわけにも相成りませず、ほとんど立場をなくしております儀で。  ええ、どうぞ貴女《あなた》様、大目に御覧下さりますよう、また少々拝見の処も、あいなりますることでございましたら、御赦《おゆる》しのほどを、あらためてお願い申しまする。」  と句は伸びたが淀まぬ口上、すらすらと陳《の》べ立てた。  疾《と》くから何かいいたそうだった娘は、その隙《ひま》のないのに言《ことば》を含んで黙って待ったが、この(お願い申しまする)に至って、ちょいと言《ことば》が切れたので。ト支《つか》えたらしい、早急には、いい出せないし、黙っていると、低頭したままでいる。はッと急《せ》いたか、瞼《まぶた》を染めた、気の毒なが色に出て、ただ、涼しい声で、 「はい、」といった。 「お差支《さしつかえ》はないでしょうか。」と、少しずつ顔を擡《もた》げる。 「御免なさいな、私は、あの、この家《うち》のものじゃないんですよ。」 「へ、何、お邸《やしき》のお嬢様ではいらっしゃいません?」 「貴下《あなた》、不可《いけな》いんですかねえ、私もやっぱり見に来たものなの。」  小男は胸を反《そ》らして笑い、 「成程《なッ》、御夥間《おなかま》ですかい。はははは、可《よ》うございましょうとも。まあ、お掛けなさいまし。何ね、愚図々々《ぐずぐず》いや今の口上で追払《おっぱら》いまさ。貴女がお嬢様でも、どうです、あれじゃ厭《いや》とはいえますまい。」 「そう、ほんとうにお上手ね、」と莞爾《にっこり》した。  ちとこの返事は意外だったか、熟《じっ》と瞻《みまも》ってて、 「や、」帽子の下で膝をはたり。 「人形町においでなすった、――柳屋のお夏さん。」 [#7字下げ]四[#「四」は中見出し] 「今日《こんち》は、今日ア、」  かみさんが、 「ああい、」といって、上框《あがりがまち》の障子を閉め、直《す》ぐその足で台所へ、 「誰? おや、床屋さん、」 「へへへへへ、どうも晩《おそ》くなりまして済みません、親方がそう申しました、ええ、何だもんですから、つい、客がございましたもんですから、」  袷《あわせ》の上に白の筒袖、仕事着の若いもの。かねて誂《あつらえ》の剃刀《かみそり》を、あわせて届けに来たと見える。かんぬしが脂下《やにさが》ったという体裁、笏《しゃく》の形の能代塗《のしろぬり》の箱を一個《ひとつ》、掌《てのひら》に据えて、ト上目づかいに差出した。それは読めたが、今声を懸けたばかりの、勝手口の腰障子は閉まったり、下流《したながし》の板敷に、どッしり臀《しり》を据えて膝の上に頤《おとがい》を載せた、括猿《くくりざる》の見得はこれ什麽《いかに》。 「まあ。」  奴《やっこ》は、目をきょろきょろして、 「へへへへへ。」 「御世話様でした。」といってただ受取ったのが、女房の解せない様子は、奴もとより承知之助。  台所に踞《しゃが》んだまま、女房の、藍微塵《あいみじん》の太織紬《ふとおりつむぎ》、ちと古びたが黒繻子《くろじゅす》の襟のかかったこざっぱりした半纏《はんてん》の下から、秋日和で紙の明るい上框の障子、今閉めたのを、及腰《およびごし》で差《さし》のぞき、 「可塩梅《いいあんばい》に帰りましたね。」 「誰さ。」 「今来やがった野郎でさ。」  これで分った。女房は頷《うなず》いて、 「ああ、今の。何だろう? お前さん知ってますか。」 「知ってますッて、とんだ奴《やつ》です。」ともう一度首を伸ばして見る。  女房も振返ったが、受け取った剃刀をそのまま、前垂《まえだれ》を挟んで、粋《いき》に踞《しゃが》み、 「何、町内の若い衆《し》かい。」 「じゃ、おかみさん、こっちじゃ御存じないんですか。」 「見た事もない人さ、でもお嬢さんはどうだか。」 「へい、何てって来やがったんで。」 「ええ、御免下さいまし、こちら様のお嬢様はお内ですかッていったがね。」  若い衆《しゅ》、板の間に手をかけて、分別ありそうに、傾いた。白いのを着た姿は、前門の虎に対して、荒神様《こうじんさま》の御前立《おまえだて》かと頼母《たのも》しく見えたので。 「いったんだがね、もっともお留守だからお留守だといったら、じゃまた後ほどッて帰ったがね。」  いいいい、くるりと身をかえして立つと、踞んでいた腰を伸ばし切らず、直ぐそこに、てらてらの長火鉢。 「誰方《どなた》でございますえッて聞いたら、何にもいわないで、への字|形《なり》の口で、へへへへはちと気障《きざ》だったよ、あああ。」  と傍《かたわら》の茶棚の上へ、出来て来たのを仰向《あおむ》いてのせた、立膝で、煙草盆《たばこぼん》を引寄せると、引立《ひった》てるように鉄瓶をおろして、ちょいと触ってみて、埋《い》けてあった火を一挟み。  番煙草と見ゆるのに、長煙管《ながぎせる》を添えて小取廻しに板の間へ押出した。 「まあ、一服おあがんなさい。」  さほど思案に暮れるほどの事でもないが、この間待って黙って控えた。奴《やっこ》、鼠のように亀甲羅宇《べっこうらう》を引いて取り、 「おかみさん、頂きます。」 「まずいよ、私ンだから。」 「どういたしまして、へい、後にまた来ますッて。」 「いったがね、何かい、筋が悪いのかい。」と斜《ななめ》に重忠という身で尋ねる。 「悪いの何の! から、手のつけられた代物《しろもの》じゃないんですよ。」 「ゆするの?」 「いいえ、ゆするも、ゆすらないも、飲んだくれ、酒ッ癖の悪い、持て余しものなんでさ。私《わっし》どもの社会ですがね。」 「おや、やっぱり、床屋さん。」 「床屋にも何にも、下町じゃ何てますか、山手《やまのて》じゃ、皆《みんな》が火の玉の愛吉ッていいましてね、険難《けんのん》な野郎でさ。」 [#7字下げ]五[#「五」は中見出し] 「三|厘《もん》でもありさえすりゃ、中汲《なかくみ》だろうが、焼酎《しょうちゅう》だろうが、徳利の口へ杉箸《すぎばし》を突込《つっこ》んで、ぐらぐら沸《に》え立たせた、ピンと来て、脳天へ沁《し》みます、そのね、私等《わっしら》で御覧なさい、香《におい》を嗅《か》いだばかりで、ぐらぐらと眩暈《めまい》がして、背後《うしろ》へ倒れそうなやつを、湯呑水呑《ゆのみコップ》で煽《あお》りやがるんで、身体《からだ》中の血が燃えてまさ。  ですから、おかみさん、ちょっとでもあン畜生に触るが最後、直《すぐ》に誰でも火傷《やけど》をします。火の玉のような奴で、東京中の床屋という床屋、一軒残らず手を焼いてしまったんで、どこへ行っても店口から水をぶッかけて追い出すッて工合ですから、しばらくね、消えました。  多日《しばらく》、誰の処へも彼奴《あいつ》の影が見えねえで、洗桶《あらいおけ》から火の粉を吹き出さないもんですから、おやおや、どこへ潜ったろう、と初手の中《うち》は不気味でね。 (上げ板を剥《めく》って見ろ、押入の中の夜具じゃねえか、焦臭《きなくさ》いが、愛吉の奴がふて寝をしていやあがるだろう。)  なんてって親方|徒《でやい》が、串戯《じょうだん》にもいったんですが、それでもざっと一年ばかり、彼奴《あいつ》の火沙汰《ひざた》がなかったんです。  すると、おかみさん、どうでしょう、念にゃ念の入《い》った、この夏、八月の炎天に、虚空《こくう》を飛んで、ごろごろと舞い戻りやがって、またぞろ、そこら転がって歩行《ある》くでさ。へい。」  といって煙を吹いた。顔が赤く、目が円い。この若いもの、余程おびえているのである。  余りの事に、はじめは笑って聞いていた女房は、なぜか陰気な顔をして、 「厭《いや》だよ、どこから舞い戻って来たんだねえ。」 「それがどうです。そら、そういった工合で、東京中は喰い詰める――し、勿論何でさ、この近在、大宮、宇都宮、栃木、埼玉、草加から熊ヶ谷、成田、銚子《ちょうし》。東じゃ、品川から川崎続き、横浜、程ヶ谷までも知っていて対手《あいて》にし手がないもんですから、飛んで、逗子《ずし》、鎌倉、大磯ね。国府津《こうづ》辺まで、それまでに荒しゃあがったんでね、二度目に東京を追出《おんで》てもどこへ行っても何でしょう、おかみさん。 (は、愛吉か、きなッくさい。)  と鼻ッつまみで、一昨日《おととい》来い! と門口《かどぐち》から水でしょう。  火の玉が焼《やけ》を起して、伊豆の大島へころがり込んで行ったんですって。芝居ですると、鎮西八郎|為朝《ためとも》が凧《たこ》を上げて、身代りの鬼夜叉《おにやしゃ》が館《やかた》へ火をかけて、炎の中《うち》で立腹《たちばら》を切った処でさ。」 「ああああ、」と束ね髪が少し動いて頷く。 「月に一度、霊岸島から五十石積が出るッてますが、三十八里、荒海で恐ろしく揺れるんですってね。甲板へ潮を被《かぶ》ったら、海の中で、大概消えてしまいそうなもんですけれど、因果と火気の強い畜生で、消火半《きえばん》を打たせません。  しかも何です、珍しく幾干《いくら》か残して来たんですぜ。  何《なん》しろ、大島なんですからね、婦女《おんな》が不断着も紋付で、ずるずる引摺《ひきず》りそうな髪を一束ねの、天窓《あたま》へ四斗俵《しとびょう》をのせて、懐手で腰をきろうという処だッていいますぜ。  内地から醤油、味噌、麦、大豆なんか積んで、船の入る日にゃ、男も女も浪打際へ人垣の黒だかり。遥《はるか》の空で雲が動くように、大浪の間に帆が一ツ横になって見える時分から、爪立つものやら、乗り出すものやら、やあ、人が見える、と手を拍《たた》いて嬉しがるッていう処でさ。  さすがに火の手を上げなかったもんですから、そら、ちっとばかし残ったでしょう。  処で、炎天を舞い戻ると、もう東京じゃ、誰も対手《あいて》にしないことを知ってますから、一番自前で遣《や》ろうというんで方々捜したそうですがね。  当節は不景気ですから、いくらも床店の売もの、貸家はあるにゃありますが、値が張ったり、床屋に貸しておくほどの差配人《おおやさん》、奴《やっこ》の身上を知っていて断ったりで、とうとう山の手へお鉢をまわすと、近所迷惑。あいにくとまたこの音羽続きの桜木町に一軒明いたばかりのがあったんでさ。  そこへ談《はなし》を極《き》めましてね、夏のこッたし、わけはありません。仕事着一枚の素裸《すっぱだか》。七輪もなしに所帯を持って、上げた看板がどうでしょう、人を馬鹿にしやがって!――狐床。」 [#7字下げ]六[#「六」は中見出し] 「その狐が配ったんでさ。あとで蚯蚓《みみず》にならなかったまでも、隣近所、奴《やっこ》が引越蕎麦《ひっこしそば》を喰った徒《てあい》は、皆《みんな》腹形《はらなり》を悪くしたろうではありませんか。  開業の日から横町大騒ぎになりました。というは、何です、まあ、口あけのお客と、あとを二人ばかり仕事をしたッていいますが、すぐに祝酒だ、とぬかしゃあがって。店をあけたまま、見通しの六畳一間で、裏長屋の総井戸をその鍋釜《なべかま》一ツかけない乾いた台所から見晴しながら、箒《ほうき》を畳へ横ッ倒しにしたまんま掃除もしないで、火の玉小僧め、表角の上州屋から三升と提込んでね、おかみさん、突当りの濁酒屋《どぶろくや》から、酢章魚《すだこ》のこみを、大皿で引いて来てね、  友達三人で煽《あお》ったんでさ。  友達といったって、まとものものは、附合いませんや。自分じゃ仏だ、仏だといいますが、寝釈迦《ねしゃか》だか、化地蔵《ばけじぞう》だか、異体の知れない、若い癖に、鬼見たような痘痕面《あばたづら》で、渾名《あだな》を鍍金《めっき》の銀次ッて喰い詰めものが、新床だと嗅《か》ぎ出して、御免下さいまし、か何かで、せしめに行った奴を、おともだち、お前さんも不景気で食えねえのか、飯はないが酒はあるてって、引摺り入れた役雑《やくざ》とね。  もう一人は車夫《くるまや》でさ。生れてから七転びで一起もなし、そこで通名《とおりな》をこけ[#「こけ」に傍点]勘という夜《よ》なし。前の晩に店立《たなだ》てをくったんで、寝処《ねどこ》がない。褌《ふんどし》の掛《かけ》がえを一条《ひとすじ》煮染めたような手拭《てぬぐい》、こいつで顱巻《はちまき》をさしたまま畳み込んだ看板、兀げちょろの重箱が一箇《ひとつ》、薄汚え財布、ざッとこれで、身上《しんしょう》のありッたけを台箱へ詰め込んだ空車《からぐるま》をひいて、どうせ、絵に描いた相馬の化城《ばけじろ》古御所から、ばけ牛が曳《ひ》いて出ようというぼろ車、日中《ひなか》は躄《いざり》だって乗りやしません。  ごろりごろりとやって、桜木町を通りかかって、此奴《こいつ》も同く路地床の開業を横目で見たからぬかりませんのさ。  右のね、何ですっさ。にごり屋の軒下へ車を預けて、苜蓿《うまごやし》のしとったような破毛布《やぶれげっと》を、後生大事に抱えながらのそのそと入り込んで、鬼門から顔を出して、若親方、ちとお手伝い申しましょうかね……とね。  此奴等、そこで三人、虫拳で寄り合をつけたんでさ。」 「驚いたねえ、火の玉に鍍金に、こけ[#「こけ」に傍点]だえ。まるで三題|噺《ばなし》のようじゃないか。さぞ差配様《おおやさま》がお考えなすったろう、ああ、むずかしい考えものだね。」  思わず警句一番した、女房も余りの話、つい釣り込まれてふき出したが、飜《ひるがえ》って案ずるに笑事《わらいごと》ではないのである。 「串戯《じょうだん》じゃないよ。」  と向き直って、忘れていた鉄瓶を五徳の上。またちょいと触ってみたのは、これからお茶でも入れる気だろう。首尾が好いと女|世帯《せたい》、お嬢さん、というのは留守なり、かみさんも隙《ひま》そうだ。最中《もなか》を一火《ひとひ》で、醤油《おしたじ》をつけて、と奴《やっこ》十七日だけれども、小遣《こづかい》がないのである。而已《のみ》ならず、乙姫様が囲われたか、玄人《くろうと》でなし、堅気《かたぎ》でなし、粋で自堕落《じだらく》の風のない、品がいいのに、媚《なまめ》かしく、澄ましたようで優容《おとなし》やか、お侠《きゃん》に見えて懐かしい。ことに生垣を覗《のぞ》かるる、日南《ひなた》の臥竜《がりゅう》の南枝にかけて、良き墨薫る手習草紙は、九度山《くどさん》の真田《さなだ》が庵《いおり》に、緋縅《ひおどし》を見るより由緒ありげで、奥床しく、しおらしい。憎い事、恋の手習するとは知れど、式部の藤より紫濃く、納言《なごん》の花より紅《くれない》淡き、青柳町の薄紅梅《うすこうばい》。  この弥生《やよい》から風説《うわさ》して、六阿弥陀詣《ろくあみだもうで》がぞろぞろと式部小路を抜ける位。  月夜烏もそれかと聞く、時鳥《ほととぎす》の名に立って、音羽|九町《くちょう》の納涼台《すずみだい》は、星を論ずるに遑《いとま》あらず。関口からそれて飛ぶ蛍《ほたる》を追ざまに垣根に忍んで、おれを吸った藪《やぶ》ッ蚊が、あなたの蚊帳《かや》へとまった、と二の腕へ赤い毛糸を今でも結えているこの若い衆、願《ねがわ》くはそのおかえりを、半日ここで待つ気である。 [#7字下げ]七[#「七」は中見出し]  ここにおいてか、いよいよ熱心。 「でもその、拳ぐらいで騒ぎが静まりゃ可《い》いんですが、酔が廻ると火の玉め、どうだ一番相撲を取るか、と瘠《やせ》ッぽちじゃありますがね、狂水《きちがいみず》が総身《そうみ》へ廻ると、小力が出ますんで、いきなりその箒《ほうき》の柄を蹴飛《けと》ばして、血眼《ちまなこ》で仕切ったでしょう。  可《よ》かろう、で、鍍金《めっき》の奴が腕まくりをして、ト睨《にら》み合うと、こけ[#「こけ」に傍点]勘が渋団扇《しぶうちわ》を屹《きっ》とさして、見合って、見合ってなんて遣《や》ったんですって。  表も裏も黒山のような人だかりだろうじゃありませんか。  晴の勝負でさ。じりじりと寄合って呼吸《いき》が揃ったから颯《さっ》と引くと、ハッケもノコッタもあったもんですか。  火の玉め、鍍金の方が年紀上《としうえ》で、私《わっし》あ仏の銀次だなんて、はじめッから挨拶が癪《しゃく》に障ったもんだから、かねてそのつもりだったと見えまさ。  喧嘩には馴《な》れてますから素敏《すばしこ》い。立つか立たないに、ぴしゃぴしゃと、平掌《ひらて》で銀の横ッ面《つら》を引叩《ひっぱた》いた、その手が火柱のようだから堪《たま》りません。  鍍金の奴、目がくらんで、どたり突倒《つんのめ》る。見物|喝采《やんや》。愛吉も、どんなもんだと胸を叩いたは可いが、こっちあ蒼《あお》くなって、 (何の意趣だ。)  と突立《つった》ち上ると、 (はり手というんだ。お行司に聞いてみねえ。)  と、空嘯《そらうそぶ》いて高笑いをしたでしょう。  こけ[#「こけ」に傍点]勘はこけ[#「こけ」に傍点]てるから、あッ気に取られて、黙ってきょろきょろしているばかり。 (可し、相撲にゃ己《おれ》が負けた、刃物で来い。)  とこちらも銀でさ。すぐに店へ駆け出して剃刀《かみそり》を逆手に取って構えたでしょう、もう目が据《すわ》って、唇が土気色。」 「どうしたい。」 「火の玉は真赤《まっか》になって、 (何を、何を。)  ッていいながら、左の肩で寸法を取って、尺取虫のように、じりり、じりり。 (愛吉さん。)  五合《ごんつく》ふるまわれたお庇《かげ》にゃ、名も覚えりゃ、人情ですよ。こけ[#「こけ」に傍点]勘はお里が知れまさ、ト楫棒《かじぼう》へ掴《つかま》った形、腰をふらふらさせながら前のめりに背後《うしろ》から、 (愛吉さん、危《あぶね》え、危え。)  ッて渋団扇で煽《あお》いだのは、どういうものか、余程《よっぽど》トッチたようだったと、見ていたものがいうんでして、見物わッとなる騒動《さわぎ》。  どッちを取《とり》おさえようにも真剣で、一人は剃刀だから危うござんす。  その内に火の玉が、鍍金の前を電《いなびかり》のような斜《はす》ッかけに土間を切って、ひょいと、硝子戸《がらすど》を出たでしょう。集《たか》っていたのは、バラバラと散る。 (遁《に》げるかッ。)  で、鍍金の奴が飛びつくと、 (べらぼうめ、いくら山手《やまのて》だってこう、赤城に芝居小屋のあった時分じゃねえ、見物の居る前《めえ》で生命《いのち》の取遣りが出来るかい、向う崖《がけ》の原ッ場《ぱ》までついて来い、殺してやる、来い!)  というと前《ささ》へ立って駆け出したんで、皆《みんな》がぞろぞろとついて行くと、鍍金の奴は一足おくれで、そのあとへ、こけ[#「こけ」に傍点]勘。  ところがね、おかみさん、いざ原場《はらっぱ》の頂上へ薄《うっす》りと火柱が立って、愛吉の姿があらわれたとなる。と、こけ[#「こけ」に傍点]勘はいきせい切って追いあがりましたが、遠巻にした見物も、二人の徒《てあい》も、いくら待っても鍍金が来なかったというじゃありませんか。  その筈《はず》でさ、来ないも道理。どさくさ紛れに、火の玉の身上《しんしょう》をふるった、新しいばりかんを二|挺《ちょう》、櫛《くし》が三枚、得物に持った剃刀をそのまま、おまけに、あわせ砥《と》まで引攫《ひっさら》って遁亡《フイ》なんですって。……  類は友だっていいますがね、此奴《こいつ》の方が華表《とりい》かずが多いだけに、火の玉の奴ア脊負《しょい》なげを食って、消壺へジュウー……へへへ、いい様《ざま》じゃありませんか、お互です。」  女房|怪《け》しからず、と剃《そ》った痕《あと》に皺《しわ》のまじった眉を顰《ひそ》め、 「お互ッて、じゃ今来た愛吉ッてのもちょいちょい盗《や》るの。」 「いずれ、そりゃね。」 「気味が悪いね、じろりと様子を見ていずれ後程、は気障《きざ》じゃないか。」 「ですからね、何ですよ、気をおつけなさらなくッちゃ不可《いけ》ません、この頃は恐ろしく、さがり切っていやあがるんでさ。」 [#7字下げ]八[#「八」は中見出し] 「もっともその何ですよ、開業式の日に、ばりかんなんぞ盗まれたのが、けちのついた印なんでさ。焼《やけ》を起してあくる朝、おまんまを抜きにしてすぐに昼寝で、日が暮れると向うの飯屋へ食いに行って、また煽《あお》りつけた。帰りがけに、(おう、翌日《あした》ッから、時分時にゃ、ちょいと御飯《おまんま》ですよッて声をかけてくんねえよ。三度々々食いに来ら。茶碗と箸《はし》は借りて行くぜ、こいつを持って駆出して来るから、)  ッて、両手に片々ずつ持って帰った。妙なことをすると思うと、内へ帰って、どたり大胡坐《おおあぐら》を掻込んでね、燈《あかり》は店だけの、薄暗い汚い六畳で、その茶碗のふちを叩きながら、トテトンツツトン、 [#ここから4字下げ] 不孝ものだが相談ずくで、     酒になりなよ江戸の水。 [#ここで字下げ終わり]  なんて出鱈目《でたらめ》に怒鳴るんですって、――コリャコリャと囃《はや》してね、やがて高鼾《たかいびき》、勿論|唯一人《ひとりッきり》。 「呆《あき》れた奴だねえ。」 「から箸にも棒にもかかるんじゃありません。私《わっし》なんぞが参りますと、にごり屋のかみさんが沁々《しみじみ》愚痴をいいますがね、勘定はいうまでもなく悪いんです、――連《つれ》を引張《ひっぱ》って来りゃきっと喧嘩。  そうかと思うと、そこいらの乞食小僧を、三人四人、むくんだ茄子《なす》のどぶ漬のような餓鬼を、どろどろと連込んで、食いねえ食いねえッて、煮ッころばしの湯気の立つお芋を餌《え》に買って、ニヤニヤ笑いながら、ぐびりぐびり。  何でもそいつらを手馴《てなず》けて、掏摸《すり》や放火《つけび》を教えようッていうんです。かかったもんじゃありませんや。  ところがね、おかみさん、女ッてものは不思議とこう、妙に意固地なもんで。四丁目の角におふくろと二人で蜆《しじみ》、蠣《かき》を剥《む》いています、お福ッて、ちょいとぼッとりした蛤《はまぐり》がね、顔なんぞ剃《あた》りに行ったのが、どうした拍子か、剃毛《そりげ》の溜《たま》った土間へころりと落《おっこ》ちたでさ――兇状持《きょうじょうもち》には心《しん》から惚《ほ》れて、」  と密《そっ》と言って厭《いや》な顔色《がんしょく》、ちと遺恨があるらしい。 「(愛吉さん、詰らないもんですが、)  なんてやがって、手拭《てぬぐい》や巻煙草《まきたばこ》を運びまさ。  いつか中も、前垂《まえだれ》の下から、目笊《めざる》を出して、 (お菜《かず》になさいな、)  と硝子戸《がらすど》を開けて、湯あがりの顔を出す、とおかみさん。  珍らしく夜延《よなベ》でもする気がして、火の玉め洋燈《ランプ》の心を吹きながら、呼吸《いき》で点《とも》れそうに火をつけていた処。 (入《へえ》ッて遊びねえ、遊びねえよ。)  ッたが、初心《うぶ》ですからね、うじうじ嬌態《しな》をやっていた、とお思いなさい。  いきなり、手をのばすと、その新造《しんぞ》の胸倉を打掴《ぶッつかめ》えて、ぐいと引摺《ひきず》り込みながら硝子戸《がらすど》を片手でぴッしゃり。持っていた洋燈《ランプ》の火屋《ほや》が、パチン微塵《みじん》、真暗《まっくら》になったから、様子を見ていた裏長屋のかみさんが、何ですぜ、殺すのか、取って食うのか、生血《なまち》を吸うのかと思ったっていうんですぜ。  やがて何ですとさ、火の玉の野郎が台所口から廻って、のそのそ戸外《おもて》へ出て行くから、密《そっ》とそのあとを覗《のぞ》くと、新造がね、薄暗い中にぼんやり幽霊のように坐っていましたッて。  愛の奴はどこへ行ったろうと思うと、お定りのにごり屋。 (おう、媽々《かかあ》が出来たから、今日は内で飯を喰うんだ、道具を貸してくんねえ、)  とまず七輪を一ツ運んだでさ。あとで鍋に醤油を入れてもらって、茶碗を二ツ、箸二人前。もう一ツ借込んだ皿にね、帰りがけにそれでも一軒隣の餅菓子屋で、鹿の子と大福を五銭が処買ったんですって、鬼の涙で、こりゃ新造へ御馳走をしたんですとさ。  そら、食いねえは可いが、燈《あかり》は点《つ》けたそうですけれど、火屋なしの裸火。むんむと瓦斯《がす》のあがるやつを、店から引摺って来た、毛だらけの椅子の上へ。達引《たてひ》かれたむき身をじわじわ、とやって、 (阿魔《あま》、やい、注《つ》いでくりゃ。)  と前はだけの平胡坐《ひらあぐら》、ぬいと腕まくりで突出したのが飯喰茶碗。  五合《ごんつく》を三杯半に平げると、 (こう、向うへ行って、取って来い、)  は乱暴じゃありませんか。  打《ぶ》たれそうだから、おどおどして、白鳥を持って立ちにゃ立ったが、極《きま》りの悪そうに、うつむいた、腰のあたりを、ドンと蹴上げたから堪《たま》りませんや。」 [#7字下げ]九[#「九」は中見出し] 「(あれ)といってどたり横倒れになって、わッと袂《たもと》を噛《か》んで泣くと、 (三日辛抱が出来るかい、べらぼうめ、帰れ、)  とばかりで、蹴つけた脚を投出したまんま、仰向《あおむ》けにふんぞり返って、ええ、鼾《いびき》。  その筈《はず》で、愛の奴だって、まさか焼跡の芥溜《ごみため》から湧《わ》いて出た蚰蜒《げじげじ》じゃありません。十月腹を貸した母親がありましてね。こりゃ何ですって、佃島《つくだじま》の弁天様の鳥居前に一人で葦簀張《よしずばり》を出しているんですって。  冬枯れの寒さ中毒《あたり》で、茶釜の下に島の朝煙の立たない時があっても、まるで寄ッつかず、不幸な奴ッちゃねえけれど、それでも、 (大島の磯へ出て、日本の船を見い見いした時にゃ、おっかあ、お前《めえ》を思い出した、)  と今度店を持った折に、一所になろうッていったそうですが、どうして肯入《ききい》れるもんですか、子を見ること何とかというわけで、三日酒のまず、喧嘩をしないでいたら、世話になろうといいましたとさ。  どんなもんです。  考えて御覧なさい、第一その新造なんざ、名からして相性があわねえんです、お福なんて。  彼奴《あいつ》が相当に、抱ッこで夜さり寝ようというのは、こけ[#「こけ」に傍点]勘が相応なんで、その夜なしの貧乏神は縁があったと見えまして、狐床の序開き、喧嘩以来、寝泊りをしていたんです。  お福ッ子は倒れたなり、突伏《つっぷ》していましたッて。先刻《さっき》餅菓子を買われた時、嬉しそうに莞爾《にっこり》して、酌をする前に、それでも自分で立って、台所の戸障子を閉めて、四辺《あたり》を見たから、その時は戸袋へ附着《くッつ》いて、色ッぽい新造の目を遣過《やりすご》しておいて、閉めて入ったことを、破れた透間《すきき》から、ト覗《のぞ》いていた、その裏長屋のかみさんが、堪《たま》らなくなったでしょう。」 「そうだろうともさ。」 「そこで何です。見るに見かねて、密《そっ》と入って、お福ッ子の背中を叩いて、しくしく泣いているのを手を引いてね、台所口から連れ出したは可《い》いが、店から入ったんで跣足《はだし》でしょう。  それまで世話をして、女房《かみさん》がね、下駄をつまんで、枕頭《まくらもと》を通り抜けたのも、何にも知らず、愛の奴は他愛なし。  それから路々|宥《なだ》めたり、賺《すか》したり、利害を説くやら、意見をするやら、どうやら、こうやら。  でもまあ、目白下の寄席の辻看板のあかりで、ようよう顔へあてた袖をはずして、恥かしそうに莞爾《にっこり》したのを見て、安心をして帰ったそうですが、――不安心なのは火の玉の茅屋《あばらや》で。  奴《やっこ》裸火の下に大の字だから、何、本人はどうでもいいとして、近所ずから、火の元が危いんでね、乗りかかった船だ、また台所から入って見ると、平気なもんで、ぐうす、ぐうすう。  鼠が攫《さら》ったか、それとも長屋うちの腕白がしょこなめたか、五銭が餅菓子一つもなし。  から、だらしがねえにも何にも。  そこで、火の用心に、洋燈《ランプ》はフッと消したんですが、七輪の鍋下の始末をしなかったのが大ぬかり。  もっとも火のある事は気がついたそうですが、夜中にゃ、こけ[#「こけ」に傍点]勘が帰って来る。それまでは隣家《となり》の内が、内職をして起きている、と一つにゃ流元《ながしもと》に水のない男世帯、面倒さも面倒なりで、そのままにして置きました。さあ、これが大変。」 「失火《やっ》たかい。」と膝の進むを覚えず、火鉢を後《うしろ》に、先刻《さっき》から摺《ず》って出て、聞きながら一服しようとする。心を得て、若い衆《しゅ》が拭《ぬぐ》って返した、長煙管を、ほとんど無意識に受け取って、煙草盆を引寄せる。  若いものも台所へ下流《したながし》の板から、橋を架けた形で乗り出し、 「お前さん、とうとう小火《ぼや》です。」 「ね、行《や》ったろう、」  果せるかなと煙管をト――ン、 「ふう、」と頷《うなず》きながら煙を吹く。 「夜中の事で。江戸川|縁《べり》に植えたのと違って、町の青柳と桜木は、間が離れておりますから、この辺じゃ別に騒ぎはしませんでしたが、ついこの月はじめの事ですよ。」 「私ゃもうぼけてしまって物わすれをするからね、確《たしか》には覚えていないが、お待ちよ、そういや、お湯屋でちらりと聞いたようにも思うね。」 「は、何《なん》しろ居まわり大騒動。」 [#7字下げ]十[#「十」は中見出し] 「いずれそれ、焦ッ臭い焦ッ臭いがはじまりでさ。隣から起《おき》て出ると、向うでも戸を開ける。表通じゃ牛込辺の帰りらしい紋付などが立留まる。鍋焼が来て荷をおろす。瞬く間《ひま》に十四五人、ぶらぶらとあっちへこっちへ。暗《やみ》の晩でね、空を見るのもありゃ、羽目板を撫でるのもあり。  その内に、例のかみさんが起きて出て、きっとだよ、それじゃ、とすぐに狐床の前へ行った時分にゃ、もう蒸気を吐くように壁を絞って煙《けむ》が出るんで、けたたましい金切声で床屋さん、親方! とこんな時だけの親方、喚《わめ》いても寂《しん》として返事がないんで、構わず打壊せッて、気疾《きばや》なのががらりと開けると、中は真赤《まっか》、紅色《べにいろ》に颯《さっ》と透通るように光って、一畳ばかり丸くこう、畳の目が一ツ一ツ見えるようだッたてこッてす。  台所へ行《ゆ》く柱なんざ、半分がた火になって障子の桟をちょろちょろと、火の鼠が伝うように嘗《な》めてました。と哄《どッ》と、皆《みんな》が躍り込むと、店へ下り口を塞《ふさ》いで、尻をくるりと引捲《ひんまく》って、真俯伏《まうつぶ》せに、土間へ腹を押ッつけて長くなってのたくッていたのが野郎で、蹴《け》なぐって横へ刎《は》ねた袷《あわせ》の裾なんざ、じりじり焦げていましたとさ。  此奴《こいつ》もう黒焼けかと思うと、そうじゃないんで、そら通れますまい、構わず踏んで、飛び上った人があったそうです。  すると、しゃッきりと起きました。 (や、なぐり込みに来やがったな、さ、殺せ、)というと、椅子を取って引立《ひった》てて、脚を掴《つか》んでぐンと揮《ふ》った。一番乗りの火がかりは、水はなし、続く者なし、火の玉は突立《つった》ったり、この時、戸が開いたのと、人あおりで、それまで、火で描いた遠見の山のようだった。蒸焼《むしやけ》のあたり一面、めらめらとこう掌《てのひら》をあけたように炎になったから、わッというと、うしろ飛びに退《しさ》っちまったそうですよ。 (来やがれ、此奴等《こいつら》、一足でも寄って見ろ。)  と炎を脊負《しょ》って、突立《つった》って椅子をぐるぐるとまわすんですっさ。  何でも小石川の床店の組合が、殺《たた》みに来たと思ったんだそうで、奴《やつ》は寝耳で夢中でさ、その癖、燃えてる火のあかりで、ぼんやり詰めかけてる人形《ひとがた》が認《み》えたんでしょう。煙《けむ》が目口へ入るのも、何の事はありません、咽喉《のど》を締められるんだぐらいに思ったそうでね。  あとで聞いたら、大勢につかまって焼殺される夢を見ていた処ですって、そうでしょう。寝返《ねがえり》に七輪を蹴倒して、それから燃え出して、裾へうつる時分に、熱いから土間へころがって、腹を冷していたんだそうで。巡査《おまわり》の姿が、ずッと出た時、はじめて我に返ったか、どさくさ紛れに影が消えたそうですが、どこまで乱脈だか分りません。火の玉め、悠々落着いて井戸端へまわって出て、近所隣から我れさきに持ち出した、ばけつを一箇《ひとつ》、一杯|汲《く》み込んで提げたは可《い》いが、汝《うぬ》が家の燃えるのに、そいつを消そうとするんじゃないんで。店先に込合っている大勢の弥次馬の背後《うしろ》へ廻って、トねらいをつけて、天窓《あたま》ともいわず、肩ともいわず、羽織ともいわず、ざぶり、滝の水。」 「大変だ、」と女房。 「そら、ポンプだ、というと呵々《からから》と高笑いで、水だらけの人間が総崩れになる中を澄まして通って、井戸端へ引返《ひっかえ》して、ウイなんて酔醒《よいざめ》の胸のすく噯《おくび》でね、すぐにまた汲み込むと、提げて行くんです。後からあとから人集《ひとだか》りでしょう。直《すぐ》にざぶり! 差配《おおや》の天窓へ見当をつけたが狛犬《こまいぬ》へ驟雨《ゆうだち》がかかるようで、一番面白うございました、と向うのにごり屋へ来て高話をしますとね。火事場にゃ見物が多いから気が咎めるかして、誰も更《あらたま》って喧嘩を買って出るものはなし、交番へ聞えたって、水で消さずに何で消す、おまけに自分の内だといや、それで済むから持ったもんです。  ところが済まないのは差配《おおや》の方です。悪たれ店子《たなこ》の上に店賃は取れず、瘠《や》せた蟒《うわばみ》でも地内に飼って置くようなもんですから、もう疾《と》くにも追出しそうなものを、変った爺《おやじ》で、新造が惚《ほれ》るようじゃ見処があるなんてね、薬鑵《やかん》をさましていたそうですが、御覧なさい。愛吉が弥次馬に水を浴びせている内に、長屋中では火を消して、天井へもつかないで納まったにゃ納まりましたが、その晩の為体《ていたらく》には怖毛《おぞけ》を震って、さて立退《たちの》いて貰いましょ、御近所の前もある、と店立《たなだ》ての談判にかかりますとね、引越賃でもゆする気か、酢のこんにゃくので動きませんや。」 [#7字下げ]十一[#「十一」は中見出し] 「じゃ仕方がない。こういうこともあろうためだ、路は遠し、大儀ながら店請《たなうけ》の方へ掛け合おうと、差配《おおや》さん、ぱっちの裾をからげにかかると、愛の奴《やつ》のうろたえさ加減ッたらなかったそうで。  その店請というのは、何ですよ。兜町《かぶとちょう》の裏にまだ犬の屎《くそ》があろうという横町の貧乏床で、稲荷《いなり》の紋三郎てッて、これがね、仕事をなまけるのと、飲むことを教えた愛吉の親方でさ。  だから狐床ッてくらいなんで。鯨に鯱《しゃちほこ》、末社に稲荷。これに逢っちゃ叶いません。その癖奴が、どんな乱暴を働いたって、仲間うちから、いくら尻を持って行っても、うけはしないんですがね。  対手《あいて》が差配《おおや》さんなり、稲荷は店請の義理があるから、てッきり剣呑みと思ったそうで、家主の蕎麦屋《そばや》から配って来た、引越の蒸籠《せいろう》のようだ、唯今《ただいま》あけます、とほうほうの体で引退《ひきさが》ったんで。これで、鳧《けり》がつけば、今時ここらをうろつくこともないんですが、名は体を顕《あらわ》しますよ。  止せば可いに、この貧乏くじをまた自分で買って出たのが、こけ[#「こけ」に傍点]勘なんでさ。 (先晩の麁忽《そこつ》は、不残《のこらず》手前でございます。愛吉さんは宵から寝ていて何にも知りやしねえもんですから、申訳のために手前が身体《からだ》を退《ひ》きます。)ッて、言ったでしょう。  差配の癖に、近所じゃ、掛売を厭《いや》がるほど、評判の工面の悪い親仁《おやじ》だからねえ、これをまたのみこむ奴でさ。 (貴様は何だ、おらがの内の、汽車ぎらいな婆さんを積込んで、小火《ぼや》のあった日から泊りがけに成田へ行っていた男だけれど、申訳を脊負《しょ》って立って、床屋を退散に及ぶというなら、可々《よしよし》心得た。御近所へ義理は済む。)  と、くだらねえじゃありませんか。  何だって意固地な奴等、放火《ひつけ》盗賊、ちょッくらもち、掏摸《すり》の兄哥《あにい》、三枚目のゆすりの肩を持つんでしょう。  どうです、おかみさん、そういった奴ですからね、どうせ碌《ろく》なこッちゃ来やしません。いづれ幾干《いくら》か飲代《のみしろ》でございましょう。それとも、お嬢と、おかみさん、二人へ御婦人ばかりだから、また仕事でもしようというんで様子でも見に来《う》せやあがったか。  から段々落ちに、酒も人間も悪くなって、この節じゃ、まるで狂犬《やまいぬ》のようですから、何をどう食ッてかかろうも知れませんや。何《なん》しろ火の玉なんでね。彼奴《あいつ》の身体《からだ》のこすりついた処は、そこから焦げねえじゃ治まらんとしてあるんで。へい鼬《いたち》が鳴いてもお呪禁《まじない》に、柄杓《ひしゃく》で三杯流すんですから、おかみさん、さっさと塩花をお撒《ま》きなさいまし。おかみさん、」  といったが、黙っている。 「え、おかみさん。」  頸《うなじ》を垂れて屈託そう、眉毛のあとが著るしく顰《ひそ》んで、熟《じっ》と小首を傾けたり。はてこの様子では茶も菓子もと悟ったが、そのまま身退くことを不得《えず》。もう一呼吸《ひといき》ずるりと乗出し、 「何、また何でさ、私《わっし》どもが、しばらく見張っていてお上げ申しても宜《い》いんでさ。いよいよとなりますりゃ、内にゃ、親方も、今日はどこへも出ないでいるんで、」 「いいえね。」  と女房は、煙管の鴈首《がんくび》を、畳に長くうつむけたるまま、心ここにあらずでもなかったらしい。 「いくらか、飲代どころなら構いはしないけれど、お前さんの話しぶりでもその今の愛吉とかいう若い衆《しゅ》が、火の玉だの、火柱だの、炎だの、小火《ぼや》だの、と厭にこだわッているから心配なんだよ。はてな、」と沈んで目を閉じる。 「へい、気になりますかね、何ぞ……」 「どうもね。心配なのさ、こうやってお前、私がおもりをしている方はね、妙に火に祟《たた》られていなさるのさ、いえね、丙午《ひのえうま》の年でも何でもおあんなさりやしないけれど、私が心でそう思うの、二度までも焼け出されておいでなさるんだからね、」 「どこで、へい?」 「一度は、深川さ、私たちも風説《うわさ》に聞いて知っているが、木場一番といわれた御身代がそれで分散をなすったような、丸焼。  二度目が日本橋の人形町で、柳屋といってね、……」 [#7字下げ]十二[#「十二」は中見出し] 「もうその時分は、大旦那がお亡くなんなすったあとで、御新姐《ごしんぞ》さんと今のお嬢さんとお二人、小体《こてい》に絵草紙屋をしておいでなすった。そこでもお前火災にお逢いなすったんだろうじゃないか。  もっともその時の火事は、お宅からじゃなくって、貰い火でおあんなすったそうだけれど、ついお向うの気の違った婆さんの許《とこ》から、夜の十二時というのに燃え出すと、直ぐにお店へあおりつけたもんだから、それという間もなし、それにお前さん、御新姐は煩っていらしったそうだし、お生命《いのち》に別条がなかっただけで、お嬢さんも身体《からだ》ばかり、跣足《はだし》でお遁《に》げなすったそうなんだよ。」 「へい、それで何ですか、こっちの方へお引越しなすったんですかね。」 「いいえ、三年前の秋の事さ、その後《のち》御新姐さんもお亡《なく》なんなすったそうだもの、やっぱり御病気の処へ、そんなこんなが障ってさ。  旦那様もまたそうなんだよ。火事で、それだけの身代が煙《けむ》になった御心配から起った御病気だろうじゃないか。だからほんとに火は祟っているんだよ。」  と何となく声も打沈んでいったのであった。  この扇屋の焼けた時、新聞に黒くなって描かれた焼あとの地図も、もうどこかの壁の破れに貼《は》られたろう。家も残らず建揃った上、市区改正に就《つい》て、道は南北に拡がった、小路、新道《しんみち》、横町の状《さま》も異《かわ》ったから、何のなごりも留《とど》めぬが、ただ当時絵草紙屋の、下町のこの辺にも類《たぐい》なく美しいのが、雪で炎を撫ずるよう、見る目にも危《あやう》いまで、ともすれば門《かど》の柳の淡き影さす店頭《みせさき》に彳《たたず》んで、とさかに頬摺《ほおずり》する事のあった、およそ小さな鹿ほどはあった一羽の軍鶏《とうまる》。  名を蔵人《くらんど》蔵人といって、酒屋の御用の胸板を仰反《のけぞ》らせ、豆腐屋の遁腰《にげごし》を怯《おびやか》したのが、焼ける前から宵啼《よいなき》という忌《いま》わしいことをした。火沙汰《ひざた》の前兆である、といったのが、七日《なぬか》目の夜中に不幸にして的中した事と。  当夜の火元は柳屋ではなく、かえってその不祥の兆《きざし》に神経を悩まして、もの狂わしく、井戸端で火難消滅の水垢離《みずごり》を取って、裸体《はだか》のまま表通まで駆け出すこともあった、天理教信心の婆々《ばば》の内の麁匆火《そそうび》であった事と。  それから、数万の人ごみ、軍《いくさ》のような火事場の中を、どこを飛んだか、潜《くぐ》ったか、柳屋の柳にかけた、賽《さい》が一箇《ひとつ》、夜《よ》のしらしらあけの頃、両国橋をころころと、邪慳《じゃけん》な通行人の足に蹴られて、五が出て、三が出て、六が出て、ポンと欄干から大川へ流れたのを、橋向うへ引揚げる時五番組の消防夫《しごとし》が見た事と。  及び軍鶏《とうまる》も、その柳屋の母娘《おやこ》も、その後《のち》行方の知れない事とは、同時に焼けた、大屋の隠居、酒屋の亭主などは、まだ一ツ話にするが、その人々の家も、新築を知らぬ孫が出来て、二度目の扁額が早や古びを持って来たから、さてもしばらくになった。 「じゃ、お内のお嬢さんは柳屋さんというんですね、屋号ですね、お門札《かどふだ》の山下お賤《しず》さんというのが、では御本名で。」 「いいえさ、そりゃ私の名だあね。」 「おかみさんの? そうですかね。」とちとおもわくのはずれた顔色《かおつき》。こんなのはその手に結んだ紅《べに》毛糸の下に、賤という字を書いてはってあろうも知れぬ。 「だって、私だって名ぐらいはあろうじゃないか。」と鉄漿《かね》つけた歯を洩《も》らしたが、笑うのも浮きたたぬは、渾名《あだな》を火の玉と聞いたのが余程気になったものであろう。  奴《やっこ》そんな事は無頓着《むとんじゃく》で、 「へへへ、そりゃ何、そりゃそうですが、じゃお嬢さんは何とおっしゃるんでございますね。」 「お夏さんさ。」 「お夏さん?」 「婀娜《あだ》な佳《い》いお名だろう。」 「すると姓は何とおっしゃるんで、柳屋は、何でしょう絵草紙屋をなすった時の屋号でしょう。で、何ですか、焼け出されなすってから、そこで、まあ御娼売《ごしょうばい》、」 「御商売?」と聞き直した目の上に、嶮も、ああ今は皺《しわ》になった。 「深川の方で、ええ、その洲崎《すさき》の方で、」  女房聞くや否や、ちと高調子に、 「お前、何をいうんだね。」 「だって、おかみさんは何でしょう、弁天町に居たんでしょう。山手《やまのて》だってそのくらいな事は心得てるものがありますぜ、ちゃんと探索が届いてまさ。」  いささか軽《かろ》んずる色があって、ニヤニヤと頤《あご》を撫でる。女房お賤はこれにはびくともせず、自若として、 「ああ、そうさ、私は、そうさ。ちっとね、お客さまをお送り申していたんだがね。落ちたといっちゃ勿体ない、悪所から根を抜いて、お庇《かげ》さまでこうやって、おもりをしているんだがね。お嬢さんが、洲崎になんぞ、お前、そんなことを噯《おくび》に出したって済まないよ。素《しら》の堅気でいらっしゃらあね。」 「ですからさ、皆《みんな》が不思議だッていってるんで。いずれこうちょいちょいこのお二階へいらっしゃる方があるッてのは、そりゃ分っていますけれど、どうもそのお嬢さんの御身分が分りませんが、ええ、おかみさん。」 [#7字下げ]十三[#「十三」は中見出し] 「ねえおかみさん、可《い》いじゃありませんか、町内のこッてさ、話してお聞かせなさいよ、ええ、おかみさん。」  早やいつの間にか自堕落に、板の間に腹這《はらんば》いになった。対手《あいて》がソレ者と心安だてに頤杖《あごづえ》ついて見上げる顔を、あたかもそれ、少《わか》い遊女《おいらん》の初会惚《しょかいぼれ》を洞察するという目色《めつき》、痩《や》せた頬をふッくりと、凄《すご》いが優しらしい笑を含んで熟《じっ》と視《なが》め、 「こりゃお前さん、お銭《あし》にするね。」 「え、」 「旨《うま》く手繰って聞き出したら、天丼でも御馳走《ごちそう》になるんだろう。厭《いや》だよ、どこの誰に憚《はばか》って秘《かく》すッということはないけれども、そりゃ不可《いけな》いや。」 「嘘々々、」  口を尖《とが》らせ、慌てた早口、 「串《じょう》、串戯《じょうだん》をいっちゃ不可ません。誰がそんな、だってお前さん、火の玉の一件じゃありませんか。ええ、おかみさん。  私等《わっしたち》が口を利くにゃこっちの姉さんの氏素性来歴を、ちゃんと呑込んでいなかった日にゃ、いざッて場合に、二の句が続かないだろうじゃありませんか。」 「それだよ、その事だよ、何も、押借《おしがり》や強談《ゆすり》なら、」  しかり、押借や強談なら、引手茶屋の女房の、ものの数ともしないのであった。 「別に心配な条《すじ》じゃないがね、風説《うわさ》を聞いたばかりでも火沙汰がありそうなのが気になるのさ。余り老込んだ取越苦労じゃあるけれどね、火事にゃ上が危いから、それとなく二階にはお寝かし申さないようにしているんだからね。」  気懸《きがかり》なのはこればかり。若干《いくら》か、お銭《あし》にするだろう、と眼光|炬《きょ》のごとく、賭物《かけもの》の天丼を照らした意気の壮《さかん》なるに似ず、いいかけて早や物思う。  思う壺と、煙草盆のふちを、ぱちぱちと指で弾《はじ》いて、敗軍一時に盛り返し、 「火沙汰、火沙汰! どうせ、ゆすりのかたりのと、気の利いた役者じゃありませんや、きっと放火《つけび》だ、放火だ、放火だ。」  ばたばた足の責太鼓、鼕々《とうとう》と打鳴らいて、かッかと笑い、 「何、それも、どさくさ紛れに葛籠《つづら》箪笥《たんす》を脊負《しょ》い出そうッて働きのあるんじゃありませんがね、下がった袷《あわせ》のじんじん端折《ばしょり》で、喞筒《ポンプ》の手につかまって、空腹《すきはら》で喘《あえ》ぎながら、油揚《あぶらげ》のお煮染で、お余を一合戴きたいが精充満《せいいっぱい》だ。それでも火事にゃ火事ですぜ。ね、おかみさん、だからどうにかしますから、お話しなさいよ。でなけりゃ、明日ともいわないで火の玉がころげ込みますぜ。放火《つけび》だ、放火だ、放火だ、」  と尻上りに畳みかけて、足を上下へばたばたと遣ったが、 「あ、」というとたちまち寂滅《ひっそり》。  むっくり飛上ったかと半身を起して捻向《ねじむ》く気勢《けはい》。女房も、思案に落した煙管を杖。斉《ひと》しく見遣った、台所の腰障子、いつの間にか細目に開いて、ぬうと赤黒い脛《すね》が一本。赤大名の城が落ちて、木曾殿打たれたまいぬ、と溝《どぶ》の中で鳴きそうな、どくどくの袷《あわせ》の褄《つま》、膝を払って蹴返した、太刀疵《たちきず》、鍵裂、弾疵《たまきず》、焼穴、霰《あられ》のようにばらばらある、態《なり》も、振《ふり》も、今の先刻《さき》。殊に小火《ぼや》を出した物語。その時の焼っ焦、まだ脱ぎ更《か》えず、と見て取る胸に、背後《うしろ》に炎を負いながら、土間に突伏《つっぷ》して腹を冷《ひや》した酔んだくれの俤《おもかげ》さえ歴々《ありあり》と影が透いて、女房は慄然《ぞっ》とする。奴《やっこ》は絵に在る支那兵の、腰を抜いたと同一《おんなじ》形で、肩のあたりで両手を開いて、一縮《ひとすく》みになった仕事着の裾《すそ》に曰くあり。戸外《おもて》から愛吉が、足の⟿指《おやゆび》の股へ挟んで、ぐッとそっちへ引くのであった。  腰をずるずるずるずると、台所の板に摺《す》らして、女房の居る敷居の方へ後込《しりごみ》しながら震え声で、 「串《じょう》、串戯《じょうだん》をするな、誰《だ》、誰だよ、御串戯もんですぜ。藪《やぶ》から棒に土足を突込みやがって、人、人の裾を引張るなんて、土、土足でよ、足《あ》、足ですよ、失礼じゃねえか、何《な》、何だな、誰《だ》、誰だな。」  障子の外で中音に、 「放火《ひつけ》よ。」 「や!」 [#7字下げ]十四[#「十四」は中見出し]  蒼《あお》くなって、咽喉《のど》で、ムウと呼吸《いき》を詰め、 「愛吉さんか、まあ、お入んなさい、煙草《たばこ》があります。」  うろうろ眗《みまわ》す目が坐らず、 「おかみさんもお在《い》でなさらあ、お入んなさい。」 「うンや、こう、お友達、お有難《ありがと》うよ。汝《てめえ》にすっかり棚おろしをされちまっちゃ、江戸中は構わねえが、こちら様ばかしゃ、面《つら》が出せねえ、やい。  出ろ、こん畜生。  出ろ!」  というと、ぐいと引くのと同時であった。足の指に力はないが、気に打たれたか、ひょいと腰、ひょろり板の間の縁が放れて、腰障子へふッと附着《くッつ》く。  途端に、猿臂《えんぴ》がぬッくと出て、腕でむずと鷲掴《わしづか》み、すらりと開けたが片手|業《わざ》、疾《はや》いこと! ぴっしゃりと閉《しめ》ると、路地で泣声。 「御免なさい、御免なさい。」  というのが聞える。膝を立てて煙管をついて伸上った女房は、八ツ下りの日が明るく、あかり窓から、てらてらと自分の前垂《まえだれ》にも射して、ほこりのない、静《しずか》な勝手を見るばかり。  戸の外で二ツ三ツ、ばたばたと音がする。 「堪《こら》えて下さい、堪えたまえ、愛吉さん、愛吉さん、」 「堪えた、堪えたとも。こう私《あっし》アな、生れてから今日ッて今日ほどものを堪えたことはねえんだ。ははははは、」  と高笑《たかわらい》を鼻に取って、 「へ、へ、堪えて大概《てえげえ》聞いていたんだ。お友達、おい、お友達、汝《てめえ》が口で饒舌《しゃべ》った事を、もしか、一言《ひとこと》でも忘れたらな、私《あっし》に聞きねえ、けちりんも残らずおさらいをして見せてやらい。こん、畜生、」 「苦《あ》ッ」 「あれ、お前さん方、そこで喧嘩をしちゃ困りますよ。」  女房は思わず立った。 「おかみさん、」  と奴《やっこ》、弱い事、救《すくい》を呼ぶ。 「来やがれ、さあ、戸外《おもて》へ歩べ。生命《いのち》を取るんじゃねえからな、人通《ひとどおり》のある処が可《い》いや、握拳《にぎりこぶし》で坊主にして、お立合いにお目に掛けよう。来やがれ、」  ざらざらと落葉を蹈《ふ》む音。此方《こなた》の一間と壁を隔てた、隣の平家との廂合《ひあわい》へ入って、しばらく跫音《あしおと》が聞えなくなった。が、やがて胸倉を取って格子戸の傍《わき》の横町へ揉《も》んで出たのを、女房は次の座敷へ行って、往来に向いた出窓の障子から伸上って透かして見た。  その間に、座敷中を行ったり、来たり、勝手口から出ようとしたり、上框《あがりがまち》を開けようとしたり、止《や》めたり、引返して坐ったり、煙草を呑もうとしたり、見合わせたり、とやかく係合いに気を揉んだのは事実で。……うっかり長煙管を提げたッきり。  ト向うが勲《くん》三等ぐらいな立派な冠木門《かぶきもん》。左がその黒塀で、右がその生垣。ずッと続いて護国寺の通りへ、折廻した大構《おおがまえ》の地続《じつづき》で。  こっち側は、その生垣と向い合った、しもた家《や》で、その隣がまたしもたや、中に池の坊|活花《いけばな》の教授、とある看板のかかった内が、五六段石段を上《あが》って高い。そこの竹垣を隔てて、角家がト○の中に(の)を大く(あり)と細筆で書いたのを通へ向けて、掛けてある荒物|店《みせ》。斜《はす》かけに、湯屋の白木の格子戸が見える。  椿、柳、梅、桜、花の師匠が背戸と、冠木門の庭とは、草も樹も、花ものを、枝も茎にたわわに咲かせて、これを派手に、わざと低い生垣にし、――まばらな竹垣にしたほどあって、春夏秋の眺めが深く、落葉も、笹の葉の乱れもない、綺麗《きれい》に掃いたような小路である。  時に、露、時雨、霜と乾いて、日は晴れながら廂《ひさし》の影、自然《おのずから》なる冬|構《がまえ》。朝虹の色寒かりしより以来《このかた》、狂いと、乱れと咲きかさなり、黄白の輪|揺曳《ようえい》して、小路の空は菊の薄雲。  ただそれよりもしおらしいのは、お夏が宿の庭に咲いた、初元結《はつもとゆい》の小菊の紫。蝶の翼の狩衣《かりぎぬ》して、欞子《れんじ》に据えた机の前、縁の彼方《あなた》に彳《たたず》む風情。月出でたらば影動きて、衣紋竹《えもんだけ》なる不断着の、翁格子《おきなごうし》の籬《まがき》をたよりに、羽織の袖に映るであろう。  内の小庭を東に隣《とな》って、次第に家の数が増して、商家はないが向い向い、小児《こども》の泣くのも聞ゆれば、牛乳屋で牛がモウモウ。――いや、そこどころでない、喧嘩だ。喧嘩だ! [#7字下げ]十五[#「十五」は中見出し]  赤大名のずたずた袷《あわせ》が、廂合《ひあわい》を先へ出ると、あとから前のめりに泳ぎ出した、白の仕事着の胸倉を掴《つか》んだまま、小路の中《うち》で、 「ええ、」  と小突いて、入交《いりかわ》って、向《むかい》の生垣に押つけたが、蒼ざめた奴《やっこ》の顔が、赫《かッ》と燃えて見えたのは、咽喉《のんど》を絞められたものである。  女房はハッと思った。 「蚯蚓野郎《みみずやろう》、ありッたけ、腹の泥を吐いッちまえ。」 「う、」  と唸《うな》って、足をばたばたと掙《もが》く状《さま》を、苦笑いで、睨《ね》めつけながら、手繰って手元へドン、と引くと、凧《たこ》かと見えて面くらう、自分よりは上背も幅もあるのを、糸目を取って絞った形。今度は更に小路の中途に突立《つった》たせた。 「わ、わ、」  と大《おおき》な口を開《あ》いて、ふうふうと呼吸《いき》をはずませ、拝みたそうな手附をする。  此方《こなた》は屹《きっ》と二の腕から条《すじ》を入れた握拳《にぎりこぶし》を、一文字に衝《つ》と伸《の》した。  女房は思わず伸上って顔を出して、またハッと思った、腹の裡《うち》で、 「ああ、悪い処へ……」  がらがらと車が来て、花の師匠の前で留まった。内まで引きつけでもする事か! 「さ、お立合、この泣ッ面を御覧《ごろう》じろ。」  と、あわや打据えんとしつつ前後《あとさき》を見た無法ものは、フトその母衣《ほろ》の中《うち》に目を注いだ。  これより前《さき》、湯屋の坂上の蒼空《あおぞら》から靉靆《たなび》く菊の影の中、路地へ乗り入れたその車。髷《まげ》の島田の気高いまで、胸を屹《き》と据えていたが、母衣に真白な両手が掛《かか》ると、前へ屈《かが》んだ月の俤《おもかげ》、とばかりあって、はずみのついた、車は石段で留まったのであった。  車夫の姿が真直《まっすぐ》に横手に立った。母衣がはらりとうしろへ畳まる。  一目見ると、無法ものの手はぐッたりと下に垂れて、忘れたように、掴んだ奴の咽喉《のんど》を離した。  身を飜《ひるがえ》すと矢を射るよう、白い姿が、車の横を突切って、一呼吸《ひといき》に飛んで逃げた。この小路の出口で半身、湯屋の格子を、間《あわい》のある脊後《うしろ》に脊負《しょ》って、立留って、此方《こなた》を覗《のぞ》き込むようにしたが、赤大名の襤褸姿《ぼろすがた》、一足二足、そっちへ近づくと見るや否や、フイと消えた、垣越のその後姿。ちらちらと見えでもするか。刻苦精励、およそ数千言を費して、愛吉を女房の前に描き出した奴は、ここに現実した火の玉小僧の姿を立たせて、ただひめのりの看板に、あッけなく消えてしまったのである。  女房は三たびハッと思った。  無法者が、足を其方《そなた》に向けて、じりじりと寄るのを避けもしないで、かえって、膝掛を取って外すと、小褄《こづま》も乱さず身を軽《かろ》く、ひらりと下に下り立ったが。  紺地に白茶で矢筈《やはず》の細《こまか》い、お召縮緬《めしちりめん》の一枚小袖。羽織なし、着流《きながし》ですらりとした中肉中脊。紫地に白菊の半襟。帯は、黒繻子《くろじゅす》と、江戸紫に麻の葉の鹿の子を白。地《じ》は縮緬の腹合《はらあわせ》、心《しん》なしのお太鼓で。白く千鳥を飛ばした緋《ひ》の絹縮みの脊負上《しょいあ》げ。しやんと緊《し》まった水浅葱《みずあさぎ》、同《おなじ》模様の帯留で。雪のような天鵞絨《とうてん》の緒を、初霜薄き爪先《つまさき》に軽《かろ》く踏《ふま》えた南部表《なんぶおもて》、柾《まさ》の通った船底下駄《ふなぞこげた》。からからと鳴らしながら、その足袋、その脛《はぎ》、千鳥、菊、白が紺地にちらちらと、浮いて揺《ゆら》いでなお冴《さ》ゆる、緋の紋綾子《もんりんず》の長襦袢《ながじゅばん》。はらりとひらめく、八ツ口、裳《もすそ》、こぼれず、落ちず、香を留めて、小路を衝《つッ》と駈け寄る姿。  かくてこそ音羽なる青柳町のこの枝道を、式部小路とは名づけたれ。  冠木門の内にも、生垣の内にも、師匠が背戸にも、春は紫の簾《すだれ》をかけて、由縁《ゆかり》の色は濃《こまや》かながら、近きあたりの藤坂に対して、これを藤横町ともいわなかったに。 「愛吉、」  と垣の際。上の椿を濡れて出て、雨の晴間を柳に鳴く、鶯のような声をかけると、いきなり背後《うしろ》から飛びついて、両手を肩へ。年も三ツ、三年越。火難以来ここにはじめてめぐり逢った。柳屋のお夏は二十《はたち》を越した。脊丈さえ、やや伸びて、楽に上から負わるるように、袖で頸《うなじ》を包んだのである。  もっとも愛吉の身はすくんだから。 [#7字下げ]十六[#「十六」は中見出し] 「愛吉。」  と直ぐ続けて、肩越に﨟長《ろうた》けた、清《すずし》い目の横顔で差覗《さしのぞ》くようにしながら、人も世も二人の他《ほか》にないものか。誰にも心置かぬ状《さま》に、耳許《みみもと》にその雪の素顔の口紅。この時この景、天女あり。寂然《せきぜん》として花一輪、狼に散る風情である。 「どうしたの、まあ、しばらくだったわねえ。」 「へい、」とただ呼吸《いき》をつくようにいう、悪髪結の垢《あか》じみた袷《あわせ》の肩は、どっきり震えた。  一たび母衣《ほろ》の中なる車上の姿に、つと引寄せられたかと足を其方《そなた》に向けたのが、駆け寄るお夏の身じろぎに、乱れて揺《ゆら》ぐ襦袢の紅《くれない》。ぱッと末枯《うらがれ》の路の上に、燃え立つを見るや否や、慌ててくるりと背後向《うしろむき》、踵《くびす》を逆に回《めぐ》らしたのを、袖で留められた形になって、足も地《つち》にはつかずと知るべし。  追っかけて冴えた調子、 「よく来たことねえ、愛吉、」 「へい、」 「逢いたかったわ!」 「へ、」とばかりさえ口に消えた。  お夏はいよいよ爽《さわやか》に、 「懐しいよ。」  といって、その前髪を、ひやりと肩。片頬《かたほ》を襟に埋《うず》めた時、 「…………」  腕組をした、しかみッ面。げじげじのような眉が動いて、さも重そうな首を此方《こなた》に捻向《ねじむ》けんとして、それも得《え》せず。酒の汚点《しみ》で痣《あざ》かと見ゆる、皮の焼けた頬を伝うて、こけた頤《あぎと》へ落涙したのを、先刻《さっき》から堪《たま》りかねて、上框《あがりがまち》へもう出て来て、身体《からだ》を橋に釣るばかり、沓脱《くつぬぎ》の上へ乗り出しながら、格子戸越に瞻《みまも》った、女房が見て呆気《あっけ》に取られた。  時にお夏の背後《うしろ》へ、密《そっ》と寄ったは、乗せて来た車夫《くるまや》で。  トもじもじ立迷ったが、横合から、 「お傘を、お嬢様。」 「あいよ、」  その時袖が放れたので、愛吉は傍《かたわら》に人のあるのを知って、じろりと車夫の姿を見る。  格子の中《うち》から、 「若衆《わかいし》さんこちらへ。」  と声をかけて、女房は土間を下りた。 「ええ、こちら様で、」  車夫は、はじめてここがその住居《すまい》と心着いた風である。  愛吉が、 「寄越《よこし》ねえ、」  で差出した手首は、綻《ほころ》びた袖口をわずかに洩《も》れたばかりであるが、肩の怒りよう、眼《がん》の配り、引手繰《ひったくり》そうに見えたので。返事と、指図と、受取ろう、をほとんど三人に同時に言われて、片手に掴んだ蝙蝠傘《こうもりがさ》を、くるりと一ツ持直したのを、きょとんとして眗《みまわ》したが、罷《まか》り違うと殺しそうな、危険《けんのん》な方へまず不取敢《とりあえず》。 「じゃ、親方、」 「む、」  と取ったが、繻子張《しゅすばり》のふくれたの。ぐいと胴中《どうなか》を一つ結えて、白の鞐《こはぜ》で留めたのは、古寺で貸す時雨の傘より、当時はこれが化けそうである。  愛吉は、握太《にぎりぶと》な柄を取って、べそを掻いた口許を上へ反《そ》らして、 「こりゃ、酷《ひど》いや、」 「おや、お世話様でございますね。」  と女房は格子を開け、 「貴女《あなた》、お帰んなさいまし。」 「ああ、ただいま、」といいながら帯をぎゅうと取出した。  小菊の中の紅《くれない》は、買って帰った鬼灯《ほうずき》ならぬ緋塩瀬《ひのしおぜ》の紙入で。  可愛《かわゆ》き銀貨を定めの賃。 「御苦労様。」 「お持ちなすったものはこれッきりかね。」 「や、まだ台函《だいばこ》に、お包が、」とすッ飛んで取りに駆けたは、火の玉小僧の風体に大分《だいぶん》怯《おび》えているらしい。 「酷いや、お嬢|様《さん》、見っともねえや。こんなものをさして歩行《ある》いて、こりゃ、貴女ンですかい。」 「可《い》いじゃないか。」  と莞爾《にっこり》したが、勝山の世盛《よざかり》には、団扇車で侍女《こしもと》が、その湯上りの霞を払った簪《かんざし》の花の撫子《なでしこ》の露を厭《いと》う日覆《ひおおい》には、よその見る目もあわれであった。 [#7字下げ]十七[#「十七」は中見出し] 「いえ、そりゃ、あの私ンでございますよ、ほほほほ、」  と女房も寂しい微笑《ほほえみ》。  愛吉心着いて其方《そなた》を見向き、 「ええ、さようで。へへへへへ、先刻はどうも、」  とそれもこれも弱った顔色《かおつき》。  お夏は耳|敏《さと》く聞きつけて、 「おや、さっきも来たの。」  女房のいらえぬ前《さき》、慌てて調子高に愛吉はごまかす気、 「だって、お嬢|様《さん》、見ッともないや、」 「可いよ。」 「日、日傘をさしてお歩行《ある》きなさいな、深張《ふかばり》でなくってもです。」 「人が笑いますよ。」 「誰が? え、何奴《どいつ》が笑うんで、」  と、すぐにひらめく眉の稲妻。  お夏は真面目に、わざと澄ました顔で、 「威張ったって不可《いけ》ません、」 「それだって、馬鹿ンつら。」 「でもさ、」 「何故《なぜ》、お嬢様、」 「笑う人はね、お前より強いんだもの。喧嘩をしたって負けますよ。」  といい得て、花やかに浅笑《せんしょう》した。お夏さん残らず、御存じ。  女房思わず吹き出して、 「ほほほほほ、」  狐床の火の玉小僧、馬琴の所謂《いわゆる》、きはだを甞《な》めたる唖《おうし》のごとく、喟然《きぜん》として不言《ものいわず》。ちょうど車夫が唐縮緬の風呂敷包を持って来たから、黙って引手繰るように取った。 「さあ、お入りな。」  後姿でお夏は格子を、 「おばさん、緩《ゆっく》りだったでしょう、」  女房が前《さき》へ立って、 「お疾《はよ》うございましたこと、何は、あの此間《こないだ》から行って見たいッて、おっしゃってでした、俤橋、海晏寺《かいあんじ》や滝の川より見事だッて評判の、大塚の関戸のお邸とやらのもみじの方は、お廻りなすっていらっしゃいましたか。」 「いいえ、路順が悪かったから、今日は止したの。  深川からじゃ大廻りでね、内の前を二度通るようなもんですもの、出直しましょうと思って。  でも車だから、かえりはぶらぶら歩行《あるき》にして、行って見ようかと思ったんですがね、お茶の水|辺《あたり》まで来ると、何だか頻《しきり》に気が急《せ》いてね、急いで急いでッていうもんだから、車夫が慌ててさ。壱岐殿坂《いきどのざか》だッたかしら、ちっとこっちへ来る坂下の処で、荷車に一度。ついこの先で牛車に一度、打附《ぶッつか》りそうにしたの。虫が知らせたんだわね、愛吉、お前のお庇《かげ》で、」  と入ったまま長火鉢に軽く膝を支《つ》いて、向うへ廻った女房に話しかけたが、この時門口を見返ると、火の玉はまだ入らず、一件の繻子張を引提《ひっさ》げながら、横町の土六尺、同一《おんなじ》処をのそりのそり。 「お入りなね、何をしてるの、愛吉、お入ンな、さあ、」 「お前さんお入ンなさいましとさ。」  女房のこのとさ[#「とさ」に傍点]がちと木戸になった。愛吉|入《い》りそびれて、またのそり。 「あら、剣舞をしてるわ、ちょいと、田舎ものが宿を取りはぐしたようで、見っともないよ、私の情人《いいひと》の癖にさ。」  引手茶屋の女房の耳にも、これは破天荒なことをいって、罪のない笑顔を俯向《うつむ》け、徒《いたず》らに衝《つ》と火箸で灰へ、言《ことば》を消した霞に月。 「私の仲好《なかよし》なの、でも役雑《やくざ》なんです。先刻《さっき》来た時きっとまた威張ってぞんざいな口でも利いたんでしょう、それで極《き》まりが悪いんだよ。」  と取做《とりな》すようにいいながら、再び愛吉を顧みて、 「馬鹿だわねえ。」 「さあ、お前さん、どうぞ。」といった、これならば入られる。 「ほんとうになまけもんで仕ようがないの、」 「お、」 「酔ッぱらっちゃ喧嘩するが商売なの。」 「お嬢、」 「その癖弱いのよ。」 「お嬢さん、」  と行詰って、目と口を一所に、むッ。突当ったように句切りながら、次第ににじり込んだ[#「にじり込んだ」は底本では「にりじ込んだ」]框《かまち》の上。  割膝で畏《かしこ》まって、耳を掻いて頸《うなじ》を窘《すく》め、貧乏ゆすり一つして、 「へへへ、口の悪いッちゃねえ、お嬢ッ公。」 [#7字下げ]十八[#「十八」は中見出し] 「でも虫が知らせたんだよ。愛吉、お前のお庇《かげ》で、そうやってさ、もうちっとで車が引くりかえりそうになりました。」 「済みませんでございます。」 「済みませんでございます。」と口真似をしたが、何となく品があった。 「人を馬鹿にしていらっしゃら、」 「先刻《さっき》一度来たんだって、」 「ええ、つい、その、」  額《おでこ》をぴっしゃりで頸《うなじ》を抱える。 「それではお前、入って待っておいでなら可《い》いのに、戸外《おもて》へ出るもんだから、また掴合いなんかするんだわ。  おばさん、この人はね、馴染《なじみ》のない町内へ来ると、誰とでも喧嘩をするの、」  とはじめて座につき、火鉢の前に落着いた。お夏もこの時気がついて思わず袖で口を蔽い、 「まあ、」  とばかり、わずかに堪《こら》えて、 「ほほほ、愛吉、お前、その膝の上の蝙蝠傘《こうもりがさ》をどうにかおしよ。」 「ややや」というと、慌てて落した、うっかり膝の上に、ト琴を抱いた姿だった、毛繻子の時代物を急いで掻い取り、ちょいと敷居の外へ出して、膝小僧を露出《むきだ》しに障子を閉めて圧《おさ》えつけたは、余程《よっぽど》とッちたものらしい。  女房は年紀《とし》の功、先刻《さっき》から愛吉が、お夏に対する挙動を察して、非ず。この壮佼《わかもの》、強請《ゆすり》でも、緡売《さしうり》でも。よしやその渾名《あだな》のごとき、横に火焔車《かえんしゃ》を押し出《いだ》す天魔のおとしだねであろうとも、この家《や》に取っては、竈《かまど》の下を焚《た》きつくべき、火吹竹に過ぎず、と知って、立処《たちどころ》に心が融けると、放火《ひつけ》も人殺もお茶うけにして退《の》けかねない、言語道断の物語を聞く内にも、おぞ毛を震って、つまはじきをするよりも、むしろいうべからざる一種の憐《あわれ》さを感じて、稲妻のごとく、胸間にひらめき渡る同情の念を禁ずることを得なかった。自分の不思議が疑団氷解。さらりと胸がすくと、わざとではなかったが、何となく無愛想にあしらったのが、ここで大いに気の毒になったので。 「まったくねえ、お前さん、溜池《ためいけ》から湧《わ》いて出て、新開の埋立地で育ったんですから、私はそんなに大した事だとも思いませんでしたが、成程、考えて見ると、そのお持物は、こりゃちと変でしたね。  もうね結構なものとは思わないけれど、今朝お出かけの空模様じゃ、きっと降ろうとも思われませんし、そうかって、一雨来ないでもないようだったもんですから、傘もお荷物と思って、ついそれをね、お嬢さんもまた、澄してさしていらっしゃるんだもの。」歎息するもののごとし。 「ですから、何でさ、日傘をおさしなさりゃ可いというんじゃありませんか。」 「愛吉、笑うというのにね、」 「いえさ、ですから、誰が、」と直ぐ力む。 「でも何ですよ、この辺じゃ不思議がりますよ。  私もね、ありようは持っていましてね、佃島《つくだじま》へおまいりをする時ぐらいしか使わないもんですからね、今でも、通用するだろうと思いましてね、」 「おばさんは通用ッていうの。」 「どうかしたんでございますか。」 「それをさ、おささせ申しましてね、暑い時でござんした。  ここへ引越して、しばらく経《た》って、護国寺が直ぐだといいますから、音羽々々ッて音ばかりだったでしょう。  行って見ましょうッて、お嬢さんをおさそい申して、不断のまんま、ぶらぶら片陰になって出かけたんですよ。  袴《はかま》を召した姉さん方が、フンといってお通んなさる。何だか背《うしろ》が見られる処を、小児《こども》衆が大勢で、やあ、狐の嫁入だって、ばらばら石を投げたろうじゃありませんか。お顔もお頭《つむ》も、容赦なんざないんですから、お嬢さんは日傘のまま路傍《みちばた》へおしゃがみなさる。私はね、前からお抱き申して立ってましたがね。  そら、傘《からかさ》に化けた、というと、ろくろへポンポン当るから、気がついて、私が取ってね、すぼめて帯へさしたんです。騒ぎは、それで静まりましたけれども、その時|黒子《ほくろ》一つないお身体《からだ》へ、疵《きず》がついたろうじゃありませんか。」 [#7字下げ]十九[#「十九」は中見出し]  お夏は袖をくるりと白く、 「こんなよ、愛吉。」  いわれたその二の腕の不審紙。色の褪《あ》せたのに歯を噛《か》んで、裾《すそ》に火の粉も知らずに寝た、愛吉が、さも痛そうに、身ぶるいした。  三人|斉《ひと》しく憮然《ぶぜん》とせり。  女房しめやかに口を開き、 「ですからさ、時節ですよ。何だってお前さんねえ、私なんざ話しに聞いて、何だか草双紙にでもあるように思っていました。木場の勝山|様《さん》のお一人子のお嬢さんが、こうやって私等風情と、一所においでなさるんだもの、まったくですよ。」と年紀《とし》だけに諭すがごとく、自らは悟りすましたようにいったのであるが、何のおかみさん、日傘が深張《ふかばり》になったのは、あえて勝山の流転のごとき、数の奇なるものではない。 「まだまだね、お前さん、このくらいなことじゃないんですよ、もっともっと変っておいでなすったんですよ。」としんみり言う。  ほぼその幼馴染《おさななじみ》とでもいッつべき様子を知って、他人には、堅く口を封ずるだけ、お夏のために、天に代りて、大いに述懐せんとして、続けてなお説《い》おうとするのを、お夏は軽《かろ》く手真似で留めた。 「およしなさいな、まあ後でゆっくり。おばさん、お土産があるんだわ。  可いもの。  でも、愛吉、お前は、これね、」  とあられもない。指で口許を挟む真似、そしてその目の仇気《あどけ》なさ。 「え、私《わっし》あ、私あ、もう、」と逡巡《しりごみ》する。 「もうなもんですか。御馳走《ごちそう》するわ。  おばさん、良いでしょう。」  と火鉢に手をかけ、斜めに見上げた顔を一目。鬼神《おにがみ》なりとて否むべきか。 「可《よ》うございますとも、行って取って参りましょう。ついでに何ぞ見繕って参ります。」  愛吉は忙《いそが》わしく膝を立て、 「私《わっし》が、私が参りますよ、串戯《じょうだん》じゃない。てッて、飛出すのも余り無遠慮過ぎますかい、へ、」と結んだ口と、同じ手つきで天窓《あたま》を掻く。 「何、お前さん、晩の支度もあるんですよ。」 「おばさん、私が行《ゆ》きましょうか。」 「御串戯ばかり、」 「だって私のお客ですもの、酒屋へなんぞお気の毒です。」 「飛んだことをおっしゃいまし、――先生様も貴女のお客じゃありませんか。」  気の毒がるのをいじらしそうに沁々《しみじみ》といったが、軽《かろ》く立った。酒と聞いて、気もそぞろで、この(先生様)といった言《ことば》は、この時愛吉の耳には入らなかったのである。 「ああ、そういえばね、」  お夏は火鉢を隔てながら、膝を摺寄せるように、裳《もすそ》を横に。 「晩に来るって、」  女房は立ちかけたのを坐り直した。 「おや、それはまあ、まあ、貴女、お音信《たより》がございましたかい。」 「途中でね、電話をかけたの、」 「直接《じか》に、」 「いえ、花井さんを呼んで託《こと》づけて貰いました。」 「花井さん、例のですか、」 「ああ、」と頷《うなず》く。 「それでは、その分も、」 「ああ、そうね。」 「いずれ、何も召食《めしあが》るようなものはありませんけれど、」 「私がいいものを買って来たの。」  女房は茶棚の上を、ト風呂敷包がそれである。 「よく、お気が着きましたねえ。御褒美《ごほうび》に、それこそ深張を買ってお貰いなさいまし。」  頭《かぶり》をふって、 「要らない。」と活溌にいった。 「でも貴女、貴女が、そんなにお気がつくんですもの。可うございます。貴女がおっしゃいませんでも、私からお強請《ねだ》り申しましょう。」 「おばさん、気がついた御褒美なんて、不可《いけな》いの。先生が怒るものなの。」 「へい、何でございますえ。」 [#7字下げ]二十[#「二十」は中見出し] 「何だか、怒るものよ、おばさん当てて御覧なさい。」 「…………」  黙ってつくづく見たばかり、当てものして遊ぼうには、ちと年紀《とし》が老けていた。 「当てて御覧。愛吉、」  と唐突《だしぬけ》にこっちを呼んだ。この時まで、お夏が女房といいかわした言《ことば》は、何となく所帯染みて、ひそめいて、傍聴《かたえぎ》きするものの耳には、憚《はばか》る節があるようであった。  いかばかり酒に咽喉《のど》が鳴っても、あいにく耳が澄まされて、お夏の口から、(先生)というのを聞いて、はッと胸に応《こた》えたのは、風説《うわさ》に聞いて尋ねて来た、式部小路の麗人《たおやめ》はさる人の、愛妾《おもいもの》であるというのである。  果してそれが柳屋のならんには、米が砂利になる法もあれ、お囲いなどとは、推参な! 井戸端の悪口|穴埋《あなうめ》にして、湯屋の雑言焼消そう、と殺気を帯びて来たのであるから、愛吉はこれは、と思った。  ト同時に、この内証話からは、太《いた》く自分が遠ざけられ、憚《はばか》られ、疎《うと》まれ、かつ卻《しりぞ》けられ、邪魔にされたごとく思ったので、何となく針の筵《むしろ》。眉も目も鼻も口も、歪んで、曲って、独りで拗《す》ねて、ほとんど居堪《いたたま》らないばかりの心地。  もうお夏の、こう隔てのない、打開けた、――、敵討《かたきうち》の、駈落《かけおち》の相談をさるるような、一の(当てて御覧)がなかったら、火の玉は転がって、格子の外へ飛んだであろう。  が、忽然《こつぜん》として青天、急にその膝へ抱き上げられたように感じた。ただし不意を喰《くら》ったから、どぎまぎして、 「酒、酒です。」  と筒抜けのぼやけ声。しかも当人時ならず、春風|胎蕩《たいとう》として、今日|九重《ここのえ》ににおい来る、菊や、菊や――酒の銘。  お夏は驚いて目を瞪《みは》った。真面目に唖然《あぜん》たるものこれを久しゅうして、 「駄目。おばさん、この人はね、酒だか私だか分らないの。ちょいと早く呑まさないと、私を噛《かじ》ろうも知れないよ。」 「お嬢さん、」と例の敗亡《はいもう》。 「唯今、ですがお嬢さんは、ほんとうに何を買っていらっしゃいました。大概そんなことはありますまいが、もしか、つくと不可《いけ》ません。」 「可いのよ。先生のめしあがるもんなんざ、ねえ、愛吉、」 「まあ、貴女、」 「可いの。ねえ愛吉、お前が来ると知れているのなら、呼ばなくッてもいいんだっけね。」  首尾は大極《だいごく》上々吉、愛吉堪りかねて、 「御、御串戯《ごじょうだん》おっしゃらあ。」 「どれ、急いで行って参りましょう。」  と女房は、半纏《はんてん》の襟を扱《しご》いて立ち、台所へ出ようとして、少々気がかり、 「貴女え、」 「ああ、」 「先生がいらっしゃらなくッて、寂《さみ》しい、寂しい、とおっしゃりながら、お憎らしい。あとで私が言附けますよ。」 「ああ、可いとも、ねえ、愛吉、姫様《ひいさま》がついている人なんか、ねえ。」  いささかもその意を解せず、偏《ひとえ》に膝を揺《ゆす》って、 「御、御、御串戯おっしゃらあ。」 「ちょいと、愛吉さん、」  と女房優しく呼びかけ、 「よく、おもりをして下さいよ。お泣かせ申さないように、可《よ》ござんすかい。お前さん、また酒と間違えて飲んじまっちゃ不可ませんよ。」 「御、御、御、御串戯おっしゃらあ。」  勝手の戸がかたりとしまると、お夏ははらりと袂《たもと》を畳へ、高髷《たかまげ》を衝《つ》と低く座を崩して姿を横に、縋《すが》るがごとく摺り寄って、 「どうしたの、お前、」  とて、膝につむりを載せないばかり。  愛吉しゃッきりと堅くなって、居丈高《いたけだか》。腕を突揃《つッそろ》えて、畏《かしこ》まって、 「しばらくでえ、」 「愛吉や。」 「お嬢さん………」 [#7字下げ]二十一[#「二十一」は中見出し] 「まあ、お前どこに居たんだねえ。」 「え、私《わっし》は何、そこらの芥溜《はきだめ》に居たんですがね。お嬢さんは?」 「私かい、」 「何ですか、蔭で聞きますりゃ、御新造さんもお亡《なく》なんなさいましたッて、飛んだ事で、」と震えて蒼《あお》くなっていう。お夏も心が激したか、目のふちに色を染めて、 「ああ、愛吉、お前のおともだちの蔵人《くらんど》(軍鶏《とうまる》呼名)もね、人形町の火事ッきり、どこへ行ったか分らないんだよ。愛吉てば、お前、おっかさんが亡《なく》なっても、家《うち》が焼けても、まるで顔を見せないんだもの。  お前、おっかさんが亡なっては、私一人ぼっちじゃないか。人形町の内が焼ければさ、私はどこにも行く処がないじゃないか。  それだのに、ちっとも来てはくれないんだもの、随分だわ。」  愛吉は堪《こら》えかね、堪えかねて、火の粉が入ったようにぐッとその目を圧《おさ》え、 「だって、だって何でさ、加茂川亘《かもがわわたる》さんて――その、あの、根岸の歌の先生ね、青公家《あおくげ》の宗匠ン許《とこ》へ、お嬢さんの意趣返しに、私《わっし》が暴れ込んだ時、絽《ろ》の紋附と、目録の入費を現金で出しておくんなすったお嬢さんを大贔屓《おおひいき》の――新聞社の旦那でさ。遠山金之助さんですよ。  その方に、意見をされて、私のようないけずな野郎が、お嬢さんと附合っちゃ、お前さんの何でさ、為にならねえからッて、いわれたもんで。  私もね、何ですよ。成程こいつはもっともだ、と思ったから、しかもお宅が焼けた晩でさ、そら、もうしばらく参りませんッて、お暇乞《いとまごい》に行ったでしょう。  私《あっし》も思い込んだんでさ。いえ、何でも参りません。いえ、いえ、もう御無沙汰いたしますッて、そういったら、お嬢さん、……」  としばらくものを言うあたわず、隆《たか》いが、ぞんざいな鼻を啜《すす》って、 「たった一人の、佃《つくだ》のおふくろにまで、愛想を尽かされて、湯灌場にさえ屋根代を出さねえじゃならねえ奴を、どうお間違えなすったか、来なくッちや[#「来なくッちや」はママ]厭《いや》、寂しい、と勿体至極もねえ。  涙ぐんでおくんなすった。ああ難有《ありがて》えこッた、と思うと、なおなおお前さん、貴女のお身体《からだ》が大事になって、御出世の邪魔になるんだから、と万倍もお前さん、敷居を跨《またが》ねえ気になったんでさ。  もう何ですぜ、お店《たな》から出て、あの門《かど》の柳の下でしょんぼりして、看板の賽《さい》ころがね、ぽかん、」  と嚔《くさめ》の出そうな容体、仰向《あおむ》いてまたすすり、 「と面《つら》へ打《ぶ》つかると、目が眩《くら》んで、真暗三宝《まっくらさんぽう》韋駄天《いだてん》でさ。路地も壁も突抜けてそれッきり、どんぶり大川へでも落っこちたら、そこでぼんやり目を開けて一番地獄の浄玻璃《じょうはり》で、汝《うぬ》が面《つら》を見てくれましょうと思ったくらいでした。  すると、近間で、すりばんでしょう。私《わっし》あ自分でどこに居たか知りませんがね、火の手はお宅様の見当でしょう。ほい、了《しま》った。お暇乞はもう一晩我慢をすりゃ可《よ》かったが、こりゃお見舞にも上られねえ。そうかと思やあお嬢さんと御病人きり。蔵人は忠義だって、羽ばたきをするばかり、袖を啣《くわ》えて引張《ひっぱ》り出す方角もあるまいと思いますとね。矢も楯《たて》も堪《たま》りませんや。さも貴女と御新造さんが烟《けむ》に捲《まか》れて赤い舌で嘗《な》められていなさるようで、私《わっし》あ身体《からだ》へ火がつくようだ。そうか、といってたった今お暇乞をしたもの、と地蹈韛《じだんだ》を踏みましたが、とうとう、我慢が仕切れねえで、駆けつけると、案の定だ。  まだ非常線も張らねえのに、お門《かど》にゃ、枝垂《しだ》れ柳の花火が綺麗に見えましょう。柱は残らず火になったが、取着《とッつき》の壁が残って、戸棚が真紅《まっか》、まるで緋《ひ》の毛氈《もうせん》を掛けたような棚を釣った上と下、一杯になって燃えてるのを私あお宅を行き抜けにお出入の合《かな》ったお庇《かげ》にゃ、要害は知ってまさ。お嬢さんが生命《いのち》から二番目の、大事の大事のお雛様。や! 大変だ。深川の火事の時は、ちょうどお節句で飾ってあった、あの騒ぎに内裏様の女の方《かた》の、珠《たま》のちらちらのついた冠がたった一つ紛失したのを、いつも気にかけておいでなさるくらいだのに、ああ、情ない。」  お夏はこれを、うっとりとなって聞くのであった。 [#7字下げ]二十二[#「二十二」は中見出し] 「せめてその骨でも拾って、腕まもりでも拵《こしら》えよう、」  とまっしぐらに立向った、火よりも赤き気競《きおい》の血相、猛然として躍り込むと、戸外《おもて》は風で吹き散ったれ、壁の残った内は籠《こも》って、颯《さっ》と黒煙《くろけむり》が引包《ひッつつ》む。 「無茶でさ、目も口も開《あ》きやしねえ、横もうしろも山のような炎の車がぐるぐると駆けてまさ、から意気地はありません。  夢のような気です。まして棄鉢《すてばち》に目を眠った処を、裾《すそ》からずるずると引張るから、はあ、こりゃおいでなすったかい。婆さんが衣《き》ものを脱ぐんだろう、三途川《さんずのかわ》の水でも可い、末期に一杯飲みてえもんだ、と思いましたがね、口へ入ったなあ冷酒の甘露なんで。呼吸《いき》を吹返すと、鳶口《とびぐち》を引掛けて、扶《たす》け出してくれたのは、火掛《ひがかり》を手伝ってました、紋床の親方だったんでさ。  焼あとへね、遠山さんもおいでなさりゃ、その新聞社の探訪の、竹永丹平というのも来ました。親方と四人でね、柳の根方でしばらく、皆《みんな》で、お嬢さんの噂ばかりしましたっけ。夜露やら何やらで湿ッぽくばかしなって、しらしらあけの寒いのに皆《みんな》悄《しお》れて別れたでさ、それッきり。  どこへおいでなすったか、お行方は知れませんや。またもうお目にかかるまいと心じゃ極《き》めていたんですから、口へ出して人に聞くのも何だか気が咎めてならねえんで、尋ねるわけにもなりませんで、程たって、勝山さんの御新造が築地の何とかいう病院で、お亡《なく》なんなすったって、風のたよりに聞きましたが、ともかくも病院へお入んなさるくらいじゃ、立派にお暮しなさるんだろう。お嬢さんは、お手車か、それとも馬車かと考えますのが一式の心ゆかしで、こっちあ蚯蚓《みみず》みたように、芥溜《はきだめ》をのたくッていましたんで。  へい、決してその、決して何でさ、忘れたんじゃありません。」  語って涙を拭《ぬぐ》う時、お夏ははんけちを啣《くわ》えていた。 「じゃ何、あの晩火事の時、火の中へ飛び込んだの、大変ねえ。」 「へ、何、そりゃ、そんな事はわけなしでさ。熟《じっ》と大人しくしている時が堪《たま》らねえんで。火でも水でも、ドンと来た時はおもしれえんで。へ、何、わけなしでさ。殊にお嬢さん許《とこ》の灰になりゃ、私《わっし》あ本望だったんです。」と、思わず拳《こぶし》を握ったのである。  お夏は黙って瞻《みまも》った。その時はじめておくれ毛がはらはらと眉を掠《かす》めた。 「でもお前、目をまわしたとおいいじゃないか。」 「ちょっと、眠ったんで、時々でさ。」 「だってお前、きっと火傷《やけど》をおしだろう。」  直垂《ひたたれ》に月がさして、白梅の影が映っても、かかる風情はよもあらじ。お夏の手は、愛吉の焼穴だらけの膝を擦《さす》った。愛吉たらたらと全身に汗を流し、 「ええええ、脇腹を少し焦しましたが、」 「可哀相《かわいそう》に、お見せな。」 「何、身体《からだ》中、疵《きず》だらけだから、からもう何が何だか分りません。」  とはだかった胸を慌ててかくした。 「愛吉、それでもお前、無事に逢えて可《よ》かったねえ、ほんとうによく来たねえ。」 「ですから、ですから、その上がられました義理じゃねえんで、お門口へだって寄りつく法じゃありませんがね、ちとその、」  と口籠った。妾沙汰《めかけざた》の一条で、いいかねたものであろう。  お夏はいささかも気に留めず、 「おいいでない。愛吉、お前がそんな事をいって来ないお庇《かげ》で、私がどんな出世をしたのよ、どんな出世が出来たのよ。」  と詰《なじ》るがごとく声強く、 「お前たちを袖にして出世をしたってどうするの、よ、愛吉、」 「じゃあ、ど、どうしてお嬢さん、貴女はどうしてどこにおいでなすったんでございますね。」 「芥溜《はきだめ》よ。」 「え、」 「私もやっぱり芥溜なの。」 「飛、飛んでもねえ。」 「だって、お前も好《すき》なんだから可いではないか。」  と澄ましていう。 [#7字下げ]二十三[#「二十三」は中見出し]  その物腰と風采は、人形町の頃よりも、三ツ四ツ年紀《とし》もたけ、﨟《ろう》たさも、なお増《まさ》りながら、やや人に馴《な》れ、世に馴れて、その芥溜《ごみため》といえりし間、浮世のなみに浮沈みの、さすらいの消息の、ほぼ伝えらるるものがあったのである。  愛吉は悚然《ぞっ》とした。 「寒くはなくッて、」 「御串戯《ごじょうだん》おっしゃらあ、」 「だって素袷《すあわせ》でおいでだよ。」 「そこへ行っちゃ職人でさ、寒の中《うち》も、これで凌ぐんで、」 「威張ったね。」 「へ、どんなもんで、」と今度は水洟《みずばな》をすすり上げた握拳《にぎりこぶし》、元気かくのごとくにしてかつ悄然《しょうぜん》たり。 「ほんとうに真面目ねえ、ああ、そう、酒気のない処で、ちと算盤《そろばん》でも持せて弱らしてやろうかな。」  と莞爾《にっこ》と笑み、はじめて瞳を座敷に転じて、島田の一にぐいとさした、撫子《なでしこ》の花を透彫《すかしぼり》の、銀の平打が身じろぎに、やや抜け出したのを挿込みながら、四辺《あたり》を視《なが》めて、茶棚に置いた剃刀《かみそり》にフト目が留まった。 「愛吉、それよりかお前、ほんとうにちょいと困っておくれでないかい。」 「困りますえ。私《わっし》が、何を。お嬢さん、」 「久しぶりだ、あたっておくれ、」 「お顔を、」 「ああ、私は自分じゃ不器用だし、おばさんは上手だけれど、目が悪いからッて危ながって遠慮をするしね。近所じゃ厭だし、どこへ行ってもしゃぼんをぬらぬらなすくって、暖かい、あぶらッ手で掴《つか》まえられて恐れるわ。困っているの、ねえ、愛吉、後生だから、」 「遣りますかね、」 「ああ、」 「や、そいつあ素敵だ、占めたもんだ。ちょうど可《い》いや、剃刀が来ていまさ。」  お夏は車で知っている。 「喧嘩をしたもんだから、よく知っておいでだね、おばさんは忘れて行ったに。あいかわらず、対手《あいて》さえありゃいがみ合うんだよ。」  愛吉は勇みをなし、 「対手《あいて》、対手は紋床の親方だけだ。稲荷に仕込まれましたお庇にゃ、剃刀を持たせた日にゃ対手というものはねえんですぜ。まあ、叱言《こごと》はあとにしてお嬢さん、ちょいとお襟をお預けなせえ。  すっ、するするッと来ら。私《わっし》あ伊豆の大島へ行きましたがね、から、唐人みたようなお百姓でも、刃あたりが違うと見えて、可いなアーッていやあがるんで。  こう、為朝《ためとも》は、おらが先祖だ。民間に下って剃刀の名人、鎮西八郎の末孫《ばっそん》で、勢い和朝に名も高き、曾我五郎|時致《ときむね》だッて名告《なの》ったでさ。」 「太平楽は可いけれど、何、お前大島ッて流しものになる処じゃないの、大変な処へまあ、」  江の島をさえ知らない娘の驚いたのはさもありなん。 「で、お嬢さんはどうしておいでなすったんで?」 「あれ、芥溜《はきだめ》をまた聞くよ。そんな事はあとにして、疾《はや》く困ってくれないと、暗くなる、寒くなる、さあ、こっちへおいで、さあ、」  足許から美しい鳥の立つよう、すらりと身を起す、その片手に手巾《ハンケチ》を持っていたのを、無意識に引くと、放れぬこそ道理なれ。片端膝にかかったのを、愛吉は我れ知らずつかんでいたので。  向うへ一所に立とうとすると、足がふらふらとして尻餅の他愛なさ。畳まれたようにぐたりとなる。お夏は知らずに出ようとする。手の手巾《ハンケチ》を愛吉が一心になって掴《つか》んだ、拳が凝って指がほぐれず。はッと腰を擡《もた》げると、膝がぶつかって蛸《たこ》の脚、ひょろひょろと縺《もつ》れて、ずしん、また腰を抜く。おもみに曳《ひ》かれて、お夏も蹌踉《よろめ》く。もつるる裳《もすそ》。揺《ゆら》めく手巾。 「おや、」  と思わず熟《じっ》と見られた、愛吉のその顔は…… [#7字下げ]二十四[#「二十四」は中見出し] 「お前しびれを切らしたね。ほほほ、」 「むむ、」  気を入れると直ぐに、よたり。 「馬鹿だね。」 「これは!」と片手を畳へ。しっかりと支《つ》くと、直ぐにお夏がその手巾で引かれるから、これはとあせるほどなお放れず。 「だらしのない為朝だよ。」 「勢い! 和朝に、」  強そうな顔をして、やッと起きると、ひょろりでトン、足を投げてきょとんとする。  お夏は密《そっ》と引いて見て、はらりと放した。手巾を畳に残して、隣座敷へ、すいと立った。背姿《うしろすがた》で忙《せわ》しそうに、机の前なる紅入友禅《べにいりゆうぜん》の唐縮緬《とうちりめん》、水に撫子の坐蒲団《すわりぶとん》を、するりと座敷の真中《まんなか》へ持出したは、庭の小菊の紫を、垣から覗《のぞ》く人の目には、頸《うなじ》の雪も紅《くれない》も、見え透くほどの浅間ゆえ、そこで愛吉の剃刀に、衣紋《えもん》を抜かん心組。  坐りもやらず蒲団の上。撫子の花を踏んで立つと、長火鉢の前、障子の際に、投出されたという形。目ばかり光らす愛吉を、花やかに顧みて、 「鎮西八郎、為ちゃん。」 「や、」 「曾我五郎、時さん。」 「こいつあ、」 「泥酔《のんだくれ》の愛ちゃんや。」 「ええ。」  お夏は片襷《かただすき》を、背からしなやかに肩へ取って、八口の下あたり、緋《ひ》の長襦袢《ながじゅばん》のこぼるる中に、指先白く、高麗結《こまむす》びを……仕方で見せて、 「ちょいと、こういう風でね。」  かくて酒肴《しゅこう》の用足しから帰って来た女房は、その手巾を片襷に、愛吉が背後《うしろ》へ廻って、互交《たがい》に睦《むつま》じく語らいながら、艶《えん》なる頸《うなじ》にきらきらと片割月のきらめく剃刀。物凄きまで美しく、向うに立てた姿見に頬を並べた双の顔に、思わず見惚《みと》れて敷居の際。  この跫音《あしおと》にも心着かず、余念もない二人の状《さま》を、飽かず視《なが》めてうっとりした。女房の何となく悚然《ぞっ》としたのは、黄菊の露の置きかわる、霜の白菊を渡り来る、夕暮の小路の風の、冷やかなばかりではなかった。  明り取りに半ば開いた、重なる障子の薄墨に、一刷《ひとはけ》黒き愛吉の後姿《うしろつき》、朦朧《もうろう》として幻めくお夏の背《そびら》に蔽《おお》われかかって、玉を伸《の》べたる襟脚の、手で掻い上げた後毛《おくれげ》さえ、一筋一筋見ゆるまで、ものの余りに白やかなるも、剃刀の刃《やいば》の蒼《あお》ずんで冴えたのも、何となく、その黒髪の齢《よわい》を縮めて、玉の緒を断たんとする恐ろしき夜叉《やしゃ》の斧《おの》の許《もと》に、覚悟を極《き》めて首垂《うなだ》れた、寂しき俤《おもかげ》に肖《に》て見えたのであった。        *  *  *  *  *  *  * 「所謂《いわゆる》その影が薄いといった形で。つまり俗にいう虫が知らせたんだろうな。」 「ええ、女房《かみさん》もいうのでありまするし、かような事は、先生の前じゃちといかがな儀ではありまするが、それを聞いた手前なども、またさようかに考えるので、どうも争われないものですよ。」 「いや、一々|銷魂《しょうこん》な事ばかりです。幸《さいわい》病気は良いのですけれども、実に腸《はらわた》九廻するの思いで聞くに堪えん。が、そこで。」と問掛けて、後談を聞くべく、病室の寝床の上で、愁然《しゅうぜん》としてまず早や頭《こうべ》を垂れたのは、都下京橋区尾張町東洋新聞、三の面軟派の主筆、遠山金之助である。 「第一手前が巣鴨の関戸の邸の、紅葉の中で、不意に出会《でっくわ》した時もそうですが、沈んだ明《あかる》い、しかも陰気な、しかし冴えて、冷《ひやや》かな、炎か紅《くれない》の雲かと思うような四辺《あたり》の光景にも因りましたろうが、すらりと、このな、」  と円満にして凸凹《でこぼこ》なき、かつ光沢のある天窓《あたま》を正面から自分|指《ゆびさ》しながら、相対して、一等室の椅子にかけたのは同社名誉の探訪員、竹永丹平である。  別に必要はないけれども、その着つけ、背恰好《せかっこう》、容貌、風采、就いて看《み》らるべし。……  第二回の半ばに出でたり。  この処築地|明石町《あかしちょう》、明石病院の病室である。 [#7字下げ]二十五[#「二十五」は中見出し]  探訪員は天窓《あたま》をさした、その指を、膝なる例の帽子の下に差入れた。このいかがわしき古物を、兜《かぶと》のごとく扱うこと、ここにありてもまたしかり。  さて、打咳《うちしわぶ》き、 「トこの天窓の上へ、艶麗《あでやか》に立たれた時は、余り美麗で、神々しくッて、そこいらのものの精霊が、影向《ようごう》したかと思いましたて。桜の精、柳の精というようにでございますな。しかし寂寞《ひっそり》とした四辺《あたり》の光景《ようす》が、空も余りに澄み渡って、月夜か、それとも深山《みやま》かと思われるようでありましたのは、天地が、その日覚悟を極《き》めて死にに行《ゆ》く、美人に対する、かの同情というものを表わしたのでありましょう。  見ると、――柳屋のだろうじゃがあせんか。面と向ってついぞ言《ことば》を交わしたということもないのですが、先生、貴下《あなた》も御同然に、こりゃ社用外のさがしもので、しばらく行方が知れないのを、酷《ひど》く心配をいたしておりましたで、思わず膝を拍《う》って私《てまえ》。 (お夏さん。)と申しました。……  思いがけない様子でした。こりゃ理《もっとも》だ。実は私《てまえ》の方が思いがけないんで。お顔を覚えておりません。誰方《どなた》、という挨拶で、ちと照れましたがな。以前、人形町辺に居りました時分ちょいちょいお店へ参って、といってこの天窓に対して、(肖顔画《にがおえ》などを孫どもに買ってやりましたで存じております、)などと遣ったですて。  まず、これへ、と人様のものでお愛想。自分も拝借をしておりましたし、まだ二《ふたつ》ばかり据えてありました陶器《やき》ものの床几《しょうぎ》を進めると、悪く辞退もしないで静《しずか》に腰をかけたんですが、もみじの中にその姿で、いかにも品が佳《い》い。これでさげ髪だと何の事はない、もみじ狩の前シテという処ですが、島田の姉さんだから、女大名。  私《てまえ》は太郎冠者というやつ、腰に瓢《ひさご》があれば一さし御舞《おんま》い候え、といいたい処でがしたが、例の下卑蔵《げびぞう》。殊に当日はあすこを心掛けて参ったので、煙草は喫《の》まず、その癖、樹下石上は思いも寄らん大俗で、ただ見物も退屈、とあらかじめ、紙に捻《ひね》って月の最中《もなか》というのを心得ていましたから、(ちとお歌でもなさりませんか、)といいますとね。  どど一《いつ》か端唄《はうた》なら、文句だけは存じておりますが、といって笑顔になって、それはお花見の船でなくッては肖《うつ》りません。ここはどんな方のお邸でござんすえ、ッて聞かれたから、(こりゃ関戸とおっしゃる御華族でいらっしゃる。)と答えますと、華族さんなの。それでは町人が来ては叱られましょうッて莞爾《にっこり》しました。」  お夏はその時町人といった。 「痛快でがした。――  服装《みなり》といい、何となく人形町時分から見ると落着きが出て気高い。私《てまえ》最初はその関戸伯爵の姫様《ひいさま》と間違えて、突然低頭に及んだくらいで、天下この人に限ってはとは思うが、そこは女。  実は乗りたや玉の輿《こし》で、いずれ、お手車|処《どころ》は確《たしか》に見える。自然と気ぐらいが高くなっているのであろうと、浅はかにも考えたが―違いました。  この江戸児《えどっこ》、意気まだ衰えず、と内心大恐悦。大《おおい》に健康を祝そうという処だけれども、酒《あり》ますまい。そこで、志は松の葉越の月の風情とも御覧ぜよで、かつその、憚《はばか》んながら揶揄《やゆ》一番しようと欲して、ですな。一ツ召食《めしあが》れ、といって件《くだん》の餡ものを出して突きつけた。」 「柳屋のに、」  と金之助は眉を顰《ひそ》めた。  丹平泰然として、 「さよう、」 「驚きますな。」  と遠山は止むことを得ざらん体《てい》に、 「あの窈窕《ようちょう》たるものとさしむかいで、野天で餡ものを突きつけるに至っては、刀の切尖《きっさき》へ饅頭を貫いて、食え!……といった信長以上の暴虐《ぼうぎゃく》です。貴老《あなた》も意気が壮《さかん》すぎるよ。」 「先生、貴下《あなた》はまた、神経痛ごときに、そう弱っては困りますな。」 「何、私はもう退院をするんだから構わんが。」  とて愁《うれ》うる色あり。  丹平は打頷《うちうなず》き。 「しかし、仏の像の前で、その言行を録した経を読むと同一《おなじ》です。ここでお夏さんの話をするのは。まあ、お聞きなさい。」  と声を低うしていった。  この突当《つきあたり》右側の室に、黒塗の板に胡粉《ごふん》で、「勝山夏」――札のそのかかれるを見よ。 [#7字下げ]二十六[#「二十六」は中見出し]  病室の主客《しゅかく》が、かく亡き俤《おもかげ》に対するごとき、言語、仕打を見ても知れよう。その入院した時、既に釣台で舁《かつ》がれて来た、患者の、危篤《きとく》である事はいうまでもない。 「実はその人を歎美して申すのですから、景気よくお話はしますけれども、第一|私《てまえ》がもうこういう内にも、(難有《ありがた》[#ルビの「ありがた」はママ]う)といって、人の志を無にせん風で、最中《もなか》を取って、親か、祖父《じいさん》の前ででもあるように食べなすった可愛らしさが、今でも眼前《めさき》にちらついてならんでがすて。」  鼻を詰らせながら、掌《たなそこ》で口を拭《ぬぐ》って咳一咳《せきばらい》。 「私《てまえ》もな、昨年一人、末ッ児を亡くしたですが、それを思い出してもこんなじゃない。」  と椅子をずらして、 「で、何でげすか、どうしても六《むず》ヶしいと申すんで?」 「ああ、看護婦がいいます、勿論|悉《くわ》しいことは話さない。  入院した日は、何事もなく静かだったが、一昨日《おととい》の晩でした。  私は、はじめ串戯《じょうだん》かと思った。  うら若い女の声で、 (あつうあつう、)  というのです。 (暑い! 暑い、)  と聞えて、 (暑いよう、暑いよう、)というのが、夢中のようでね。 (快《よ》くなりますよ、直《じき》によくなりますよ、)とひそひそすかすのが、幽《かすか》に聞えるから、ああ、それじゃ病人だな、と思ったんです。ひッそりしたっけが、また、 (熱いねえ! 熱いねえ、) (もう直ぐに快くなりますからね、) (ああ、)  と調子高に、しかし上の空のようにいって、少し気がついたか、落着いた声で、 (熱いこと!)  こういってね、それッきり。ひッそり陰気になったが、いや、その間、はッと思って、私も呼吸《いき》がつけないのでした。」  丹平もしめやかに頷くことあまたたび、 「成程々々成程《なななッ》。」 「二三日《にさんち》もう手はかかりませんから、そこに、」  金之助は扉に並べて一枚を敷いた、畳の隅、鉄の火鉢の方に目を遣って、 「編物をしていた附添のね、福崎(看護婦)というのに、(どうしたの)ッて聞くと、何も間い返すまでもない。 (苦しいんですよ、)といいます。 (不良《わる》いのかね。) (いらしった時から釣台でしたから、)  それさえその時まで私は気がつかないで居たくらいで。もっとも前晩、夜更けてからちと廊下に入組んだ跫音《あしおと》がしましたっけ。こうやって時候が可《い》いから、寂寞《ひっそり》して入院患者は少いけれども、人の出入《ではいり》は多いんですから、知らなかったんです。」 「まさか自分の病院で、治療するというわけにも行かなかったものでありましょう。」 「ははあ、秘密のようですかい。」 [#7字下げ]二十七[#「二十七」は中見出し] 「だから私もその、事件の場所へ立会った程な、この度のことに就いては浅からん縁がありますけれども、実は遠慮をして差控えていたのでがす。しかし、経過が、どうか。容体が、どうか。気になって、どうも心配でなりません、ところが、幸い、」  といいかけて、兀天窓《はげあたま》を、はッと圧《おさ》え、 「貴下《あなた》の御病気を幸いといっては恐縮千万、はははは、」と、四辺《あたり》を憚《はばか》った内証|笑《わらい》。 「実は私も自分で幸いと思っている。」 「いや、恐縮ですが、また、さほど大した御容体でもなかったと見えまして、貴下が、こっちへ御入院という事は、まったく、今朝《けさ》はじめて聞いて一驚を吃《きっ》しました。勿論社の方へは暫時《ざんじ》御無沙汰、そんなこんなで、ちっとも存じませんで、大失礼。そこで、すぐにお見舞と申す内にも柳屋の方が主であるようで相済まんですが、もっとも向うへ顔出しをする気はないので。それでなくッても私《てまえ》商売などは、秘密の秘の字でもある向には、嫌われるで、遠慮をしますから、悪《あし》からず。」 「私はまた(何の病気、)と聞くと、 (熱が酷《ひど》いんでしょう、)といったばかり。 (婦人だね、) (はい、少《わか》いお嬢さん、) (幾歳《いくつ》ぐらいの、) (二十《はたち》か、九でおいでなさいましょう。)  柳屋のはもうちっとになったでしょう、こりゃ少く見えたんです。  そこまで聞いて、まさか、名は? とまで尋ねるでもないから、そのままにしましたが、一体何となく継穂のない、素気《そっけ》ない返事だと思ったんですが、もっともだ。じゃ、山の井先生のために、この病院長が、全院を警戒して秘密にしたんだ。」 「そうでがすとも、ごく内証ですから、憚《はばか》って、自分の病院があるのに、こっちへ依頼をされたんで。この明石病院の院長は、山の井医学士の親友でがす。  もっとも他の新聞にも出ましたから、事件は、さして秘密じゃありますまいが、自分がお夏さんの世話をしておいでだった光起《みつおき》(山の井医学士の名)さん。  薄々青柳町に囲ってある、妾《めかけ》だ妾だという風説《うわさ》なきにしもあらずだったもんですから、多くは知らんにもせい、」と声をひそめる。 「どうして、私はまた、不意に貴老《あなた》が見えたのを、神の引合わせかと思う。ちょっと筋向うのが柳屋のだと、声をさえかけて下すったら、素通りにされても怨まない。実際そうでないと、わずか廊下を七八間離れたばかりで、一篇悲劇の女《じょ》主人公、ことに光栄ある関係者の一|人《にん》で居ながら、何にも知らないで退院する処でした。あとで聞いては千載の遺憾《いかん》だったに、少くともその呼吸《いき》のある内に、時鳥《ほととぎす》と知って声を聞いたのは、光栄です。私はこれを一声の時鳥だといいます。あの血を吐く声が実に腸《はらわた》を断つようで。竹永さん、」  と面《おもて》を上げて、金之助は今もその音や聞ゆる、と背後《うしろ》を憂慮《きづか》うもののごとく、不安の色を湛《たた》えつつ、 「引続きこの快晴、朝の霜が颯《さっ》と消えても、滴って地を汚《けが》さずという時節。夜《よ》が明けるとこの芝浜|界隈《かいわい》を、朗かな声で鰹《かつお》――  生鰹と売って通る。鰯《いわし》こい、鰯こいは、威勢の好い小児《こども》が呼ぶ。何でも商いをして帰って、佃島の小さな長屋の台所へ、笊《ざる》と天秤棒《てんびんぼう》を投《ほう》り込むと、お飯《まんま》を掻込《かっこ》んで尋常科《じんじょうか》へ行こうというのだ。売り勝とう、売り勝とうと、調子を競って、そりゃ高らかな冴えた声で呼び交すのが、空気を漉《こ》して井戸の水も澄ますように。それに居まわりが居留地で、寂《しん》として静かだから、海まで響いて、音楽の神が棲《す》む奥山から谺《こだま》でも返しそうです。その音楽の神といえば、見たまえ、この硝子窓《がらすまど》の向うに見える、下の外科室の屋根を隔てた煉瓦《れんが》造りを。外国婦人が住んでいてね、私なんぞにゃ朗々としか聞えんが、およそ目には見えんで、各自《てんで》はその黒髪の毛筋の数ほど、この天地の間に、天女が操る、不可思議な蜘蛛《くも》の巣ぐらいはありましょう、恋の糸に、心の情が触れる時、音《ね》に出づるかと思うような、微妙な声で、裏若いのが唱《とな》う。ピアノを調べる。時々あの向うの硝子戸を取りまわした、濃い緑の葉の中に、今でも咲いている西洋種のぼっとりした朝顔の花を透かして、藤色や、水紅色《ときいろ》の裾《すそ》を曳《ひ》いたのがちらちらする。日の赫《かッ》と当る時は、眩《まばゆ》いばかり、金剛石《ダイヤモンド》の指環《ゆびわ》から白光《びゃっこう》を射出す事さえあるじゃありませんか。  同一《おなじ》色にコスモスは、庭に今|盛《さかり》だし、四季咲の黄薔薇《きばら》はちょいと覗《のぞ》いてももうそこらの垣根には咲いている、とメトロポリタンホテルは近し、耳|馴《な》れぬ洋犬《かめ》は吠えるし、汽笛は鳴るし、白い前垂《まえだれ》した廚女《おさん》がキャベツ菜の籠を抱えて、背戸を歩行《ある》くのは見えるし……」  刻下、口を衝《つ》いて数百言《すひゃくげん》、竹永は我が探訪の職に対し、生殺与奪の権を握れる、はたかれ神聖なる記者として、その意見に服し、その説に聴くこと十余年。いまだこの日のごときを知らなかった。三面|艶書《つやだね》の記者の言、何ぞ、それしかく詩調を帯びて来《きた》れるや。  惘然《ぼうぜん》として耳を傾くれば、金之助はその筋|疼《いた》む、左の二の腕を撫でつついった。 「これ実に侮るべからざるハイカラですよ。」 [#7字下げ]二十八[#「二十八」は中見出し] 「竹永さん、金之助|病《やまい》のためにこの境に処して、なお巴里《パリイ》、伊太利《イタリイ》の歌に魂を奪われず。却って佃島の(鰯こ)に心を澄まし、初冬《はつふゆ》の朝の鰹にも我が朝《ちょう》の意気の壮《さかん》なるを知って、窓の入口に河岸へ着いた帆柱の影を見ながら、この蒼空《あおぞら》の雲を真帆、片帆、電燈の月も明石ヶ浦、どんなもんだ唐人、と太平楽で煩っていたのも、密《ひそか》に柳屋のお夏を健在、と思っての事であった。」  いいかけて寂しく笑った、要するに記者の凡《すべ》ての言は、お夏に対する狂熱の勃発《ぼっぱつ》したものであったのである。 「それがどうです。 (熱い、熱い、熱いねえ、)  今もいいます通りね、一昨日《おととい》の晩は、それッきりだったが、昨日《きのう》の午後二時頃にはまた、 (熱いの、熱いねえ、熱いねえ、)  昼間だから、夜分のようにはないんですが、傍《はた》で何かいって切《しきり》に慰めたようだった。 (熱いわ、何て熱いんでしょう、)  とあきらめたように、しかも哀《あわれ》にきこえた処へ、廻診の時間じゃないのに、院長が助手と看護婦長とを連れて、ばたばたと上って見えて、すっとこの室の前を通ったんだね。  そこへ私の看護婦が来ましたが、体温器を掛けにです。戸口へ立停《たちどま》って、しばらくその方を見ていました。  しばらくすると、皆《みんな》下りて行く。看護婦が入ったから、 (あすこのはわるいのかね、) (はい、どうも不可《いけ》ませんそうです、)  ……は心細い。 (気の毒だね、) (ほんとうにお可哀相でございますよ、)と婦人《おんな》は相身互《あいみたがい》、また一倍と見える。  私は素人了簡《しろうとりょうけん》で、何とか、その熱が上らないだけの工夫はありそうなものと思ったから、 (やっぱり冷しているんだろうか、) (氷嚢《ひょうのう》を七箇《ななつ》でもう昼夜通していますんです。) (七箇!)  と私は驚いた。 (お頭《つむ》へ一箇《ひとつ》、一箇枕におさせ申して、胸へ二箇《ふたつ》、鳩尾《みぞおち》へ一箇、両足の下へ二箇です。)  こういいいい体温器を入れられた時は、私は思わず、人事《ひとごと》ながら悚然《ぞっ》とした、お庇で五分その時は熱が上ったですよ。」  丹平も呆気《あっけ》な顔して、 「酷《ひど》うがすな。」 「酷いんですとも! でもまあ、氷嚢を七ツと聞いて、疾《やまい》に対してほとんど八陣の備《そなえ》だ。いかに何でも、と思ったが不可《いけ》ない。  日の暮方に、また、夕河岸の鰹、生鰹、鰯こ、鰯こい――伊太利じゃ晩餐《ばんさん》の朗々朗《ロウロウロウ》が聞えて、庭のコスモス、垣根の黄薔薇、温室の朝顔も一際色が冴えようという時、廊下が暗くなると、 (あ、熱々々々《つつつつ》、)と火がついたように、凡《すべ》ての音楽を打消して、けたたましく言い出したじゃないか。  どうです、それがお夏さんだ。  余り何だから、私は廊下へ出て、二三間、そっちの方へ行って見ました。薄暗い扉《ドア》に紙を貼《は》って、昨日《きのう》の日づけで、診療の都合により面会を謝絶いたし候――医局、とぴたりと貼ってある。いよいよ穏《おだやか》でない。  それまで見たが、名札を見ようという気もなし、扉《ドア》はその字が読めるようにこっちへ半ば開けてあったんですが、向うには、附添と見えて、薄汚い、そういっちゃ悪いが、それこそ穴だらけの袷《あわせ》を素膚《すはだ》に着た、風体のよくない若い男が、影のように立っていました。  で、することは看護ですな。昇汞水《しょうこうすい》の金盥《かなだらい》と並べた、室外の壁の際の大きな器に、氷嚢から氷が溶けたのを、どくどくと開けていました。けれども、私は、その姿の、ぼッとしたのといい、背後《うしろ》だった形といい、折から、その令嬢というのを悩ます、病の魔のような気がして、こっちも病人だ、悚然《ぞっ》としましたよ。  すぐにひょろひょろと室へ入って、扉を音もなくひとりでに閉めるとね、トタンに␼《ぱっ》と点《つ》いて来たと思った電燈が、すぐに忘れものを思い出して引返したように消えたでしょう。 (熱いよ! 熱いよ!)と言うでしょう。まさに病魔だと思った奴がじゃ、竹永さん、――可哀相に愛吉ですな。」 [#7字下げ]二十九[#「二十九」は中見出し] 「愛吉、愛吉、」  と二ツいって二ツ頷《うなず》いた、丹平の打悄《うちしお》れた物腰|挙動《ふるまい》、いかにもいかにも約束事、と断念《あきら》めたような様子であった。 「全く病の魔と見えましてがすかな、争われないもんだ。青柳町の女房は――前《ぜん》申したごとくで、これをお夏さんの生命《いのち》を縮める鬼のように思った。覿面《てきめん》、その剃刀《かみそり》で殺《や》ったですでな。たとい人違いにもしろでがす。」  繰返して重ねて、 「争われないもんだ、争われないもんだ。」  しばらくして金之助が、 「しかし竹永さん、奴《やっこ》あればこそ、お夏さんは、我が柳屋の姉さんで、単に医学士山の井光起君に対するだけでは、尋常、勝山の娘に留《とど》まる。  奴なきお夏さんは、撞木《しゅもく》なき時の鐘。涙のない恋、戦争のない歴史、達引《たてひ》きのない江戸児《えどっこ》、江戸児のない東京だ。ああ、しかし贅六《ぜいろく》でも可い、私は基督教《キリストきょう》を信じても可い。  私が愛吉の尻押しをして、権門に媚《こ》びて目録を貪《むさぼ》らんがために、社会に階級を設くるために、弟子のお夏さんに、ねえ竹永さん。……  合弟子の、山河内《やまこうち》という華族の娘の背《せな》を、団扇《うちわ》で煽《あお》がせた。婦人《おんな》じゃ不可《いけ》ない! その鬱憤《うっぷん》を、なり替って晴そうという、愛吉の火に油を灌《そそ》いで、大の字|形《なり》に寝込ませた。  ちょうど同じ日に一足後れて、お夏さんを娶《めと》ろうという、山の井医学士の親類が、どんな品行だか、内聞《ないぎき》、というので、お夏さんの歌の師匠の、根岸の鴨川《かもがわ》の処へ出向いたのが間違の因《もと》です……  今までそこにふンぞり反って、暴れていた床屋の職人が、その人の使者《つかい》だというお夏さんを、たとい親だって好くいおうか。  まして、繻子《しゅす》の襟も、前垂《まえだれ》も、無体平生から気に入らない、およそ粋というものを、男は掏摸《すり》、女は不見転《みずてん》と心得てる、鯰坊主《なまずぼうず》の青くげだ、ねえ竹永さん。  よくも、悪くも、背中に大蛇《おろち》の刺青《ほりもの》があって、白木屋で万引という題を出すと、同氏御裏方、御後室、いずれも鴨川家集の読人だから堪らない。ぞ、や、なり、かなかな、侍《はべ》る、なんど、手爾波《てには》を合わされて助りますかい。……あとで竹永さん、貴下《あなた》が探りましたね、第一、愛吉が知っていたんだね。……  お夏さんは人知れず、あの気象には珍らしい、豪家《ごうけ》が退転をするというほどの火事の中《うち》でも、両親で子の大事がる雛だけ助けたほど我ままをさした娘に、いい遺《のこ》した遺言とかで、不思議に手習をする、清書《きよがき》草紙に、人知れず、医学士(山の井光起)の名を書いて、惚《ほ》れ抜いていたんだそうですな。  何と、その恋人を、しかも自分が、師匠のいいつけで煽《あお》がせられて、口惜《くや》しがって泣いた、華族の娘に取られようとは、どうです。  一人は医学士の意中を計った親類の周旋。一方はその母親から持込んだ華族の縁談。  山河内定子は、今現に、山の井医学士の令夫人だ。竹永さん。  私は蔭ながら、大《おおい》なる責任者だ。  私が愛吉ならきっと行《や》る、愛吉ならずとも、こりゃきっと行らねばならん処だ。定子を殺さねばならないわけだ。確《たしか》だ。  が、幸か、不幸か、二三冊読んでいるから、まさかに剃刀を逆手に取って、可愛い娘のために、その恋の敵を、暗殺しようとは思わなかった。  しかし文字《もんじ》のあるものが、目に一丁字《いっていじ》のない床屋の若いものに、智慧《ちえ》をつけて、嵩《こう》じたいたずらをしたのが害になったんだから、なお責任は重大です。しばらく行方の知れない内も、寝覚が悪くッてならなかった。お夏さんがそうと知ったら、私が先んじて行《や》れば可かった。私は死んでも可い、そうすれば、まさかに人違いをするようなことはなかったろう。」  平生に似ず言《ことば》もしどろで、はじめの気焔《きえん》が、述懐となり、後悔となり、懺悔《ざんげ》となり、慚愧《ざんき》となり、果《はて》は独言《ひとりごと》となる。  体温器がばたりと落ちた。  かけ忘れて寝着《ねまき》の懐にずっていたのが、身を揉《も》んだので辷《すべ》ったのである。我に返って、顔を見合わせ、二人一所に、ははは――歎息した。 [#7字下げ]三十[#「三十」は中見出し] 「串戯《じょうだん》じゃないまったくです、私は基督教になっても可い。今のその根岸の歌人《うたよみ》に降伏をして、歌の弟子になっても構わん。どうかして治してやりたいじゃありませんか。」 「いや、先生、貴下《あなた》は凡《すべ》て空《くう》にものをお考えなすってさえその通りだ。  それから見ると、私《てまえ》は一倍上だろうと思うでがすよ。何故《なぜ》とおっしゃい。あの娘が、これから、わざと殺されに行こうという日、その菓子《もなか》の一件でしょう。悪気でしたのではなかったのですが、死のうという覚悟をした、それも二日三日と間のある事ではない、四五時間前というのに、もみじの中《うち》で、さしむかいに食べられた時を思いますと、我《てまえ》もう、ここが、」  と大きな懐中物で、四角に膨れた胸を撫でつつ、 「何ともいえないので、まるで熱鉄を嚥下《のみくだ》す心持でがすよ。はあ、それじゃ昨日《きのう》、晩方にも苦しみましたな。」 「ああ、そうです、」  金之助は話の糸の、乱れた苧環《おだまき》巻きかえし、 「その、氷嚢をあけていた、厭《いや》な人影が中へ入る、ひとりでに扉《ドア》が閉る。途端に電燈が点《つ》くかと思うと、すぐに消えた。薄暗《うすくらがり》を、矢のように、上衣《うわぎ》なしの短衣《チョッキ》ずぼん、ちょうど休憩をしていたと見える宿直の医師《ドクトル》がね、大方呼びに行ったものでしょう、看護婦が附添って、廊下を駆けつけて来たのに目礼をして、私は室へ戻ったですがね。停電|暫時《ざんじ》で行燈《あんどう》を点けるという、いや、酷《ひど》い混雑。  その内に、 (おお、熱い事、)  とその声が、一度不思議に婀娜《あだ》ッぽくきこえた。何となく正気でいったように思ったが、看護婦に聞くと注射をしたんだそうで、あとは昏睡《こんすい》ですと。  それも二時間とは続かない、すぐにまた、 (熱々々々《あつつあつつ》!)  は情ないじゃありませんか。 (熱いよ、熱い、熱いよう、)  と夢中で泣く。それはまだしもだ、竹永さん。 (熱いなあ、熱いなあ、)  なあというに至って、私は天窓《あたま》からこの掻巻《かいまき》を引被《ひっかぶ》って、下へ、下へ、とずり下って、寝床に沈んだが、なお聞える。 (暑いなあ、暑いなあ、)  そこで、もぐっても、くぐっても両方の肩から水を浴びるように、ぞくぞくするから堪《たま》らなくなって、刎《は》ね起きて、きょろきょろ見ると、その佃の帆柱が見える硝子窓の上の方が、真暗《まっくら》に三寸ばかり透《すか》してあったから、看護婦は、と見ると、扉《ドア》を細目に開けて、白い身体《からだ》をぴッたり附着《くッつ》けて、突当りのその病室の方を覗《のぞ》いてね、憂慮《きづかわ》しそうにしているから、声をかけて閉めて貰って、 (悪いか、) (とても、) (気の毒だ。) (お可哀相でなりません。)  早くしておくれ、早くさ、早くさ、とその病人のじれる声は、附添が賺《すか》しても、重い頭《かぶり》を掉《ふ》るんでしょう。  すたすたと廊下を駆ける音。 (幾人《いくたり》ついているの、) (三人です。) (親たち?) (いえ、こっちの看護婦と、向うから附いておいでなすった、それはそれは美しい、看護婦さんと、もう一人職人のような若い衆《しゅ》が、もうつきッきりで、この間ッから夜一夜《よっぴて》一目も寐《ね》なさらないで、狂人《きちがい》のようですよ。)  私は愛吉とは思いも寄らない、が、先刻《さっき》見た一件だ。 (何だね、それは、) (家来衆とも見えませんが、お嬢様、お嬢様といっています。多分|乳母《ばあや》さんの児《こ》で、乳兄弟《ちきょうだい》とでもいうようなんじゃありませんか。何しろ一方なりませんお主《しゅう》おもい、で、お嬢さんがね、あつい、あついとおっしゃる度に、額からたらたら膏汗《あぶらあせ》を流すんですよ。 ⦅水天宮様の方角はどちらでがすえ、⦆と聞きましては、一室に大勢ですから、お嬢さんの寝台《ねだい》の下へ、はい込んじゃ手を合わせて拝みます。  まるで夢中ですもの、すぐに忘れてはまた、 ⦅モシ、茅場町《かやばちょう》はどっちでえ、⦆ッちゃ、寝台の下へもぐり込んで拝みます。 いじらしくッて、皆《みんな》見ては泣くんですよ。)  といって、涙ぐんでいるだろうじゃありませんか。」  丹平はまた溜息《ためいき》をした。 「ああ。」 [#7字下げ]三十一[#「三十一」は中見出し]  金之助も吐いきをついて、 「看護婦も話すうちに鼻をつまらせて、 (まるで気が違ったようですよ。つい昨夜《ゆうべ》、夜中はちっとばかり、すやすやしておいでだったそうですが、七箇《ななつ》もかけた氷嚢が、しばらくの内に溶けますから、始終、氷を割りますが、また夜がふけると、四辺《あたり》へ響きまして、カンカンッて、凄《すご》いようだもんですから、うるさかったと見えて、お嬢さんが、 ⦅厭《いや》な音ねえ、⦆ッて現《うつつ》にそうおいいなさいますと、何と思ったのか、若い衆《しゅ》が、大きな氷の塊を取って、いきなり、自分の天窓へ打《ぶ》ッつけたんですって。一念か、こなごなに、それはもう、霜柱のように砕けましたッてね、額を斜《はす》ッかけに打切《ぶっき》って、血がたらたら出たそうです。それを痛そうな顔もしないで、 ⦅モシ、水天宮の方角は、⦆ッて……)  私は皆まで聞かないで、引被ってしまったが、成程愛公だ。竹永さん、」 「馬鹿め。」 「いや、」 「野郎、しようのない瓦落多《がらくた》だが可哀相に、可愛い奴だ。先生、憎くはない。」  丹平ここでまた椅子を寄せ、 「先生、いかがです、呼ぼうじゃありませんか、ちょいとな。」 「どうして顔が見られるもんか。いじらしくッて、」 「しかし………」  遠山は頭《かぶり》を掉《ふ》った。時にその眉秀でて鼻筋通り、口を一文字に結んだ、凜《りん》たる記者の風采は、直ちに老探訪をして伏従せしめ得たのであった。 「成程々々《なな》、成程《なッ》。いや、こりゃ私《てまえ》、ちと了簡が若うがした。」 「今日はなお酷《ひど》い、夜《よ》があけるともう、 (熱いなあ、熱いなあ、)  で、鰹――生鰹も、鰯こも、私の耳にゃ入らんのだ。もっとも、昨夜《ゆうべ》は耳について、私も寐《ね》られないから、初中《しょっちゅう》うとうとしていたので、とても気の毒で聞くに堪えんから、早くここを引上げようと思っていた処へ、貴老《あなた》が見えて、こう柳屋のと知れては、何とも口へ出していう言《ことば》はない。  昨夜から今日の午《ひる》へかけて、注射を三度したと聞いたです。  そのせいか、今は寂寞《ひっそり》しているでしょうがね、さあ、そうと知れると、残酷なようで申訳はないが、血を吐く声も懐かしい、これッきり、声が聞えなくなってどうします。  竹永さん、貴下《あなた》を今夜は帰さないよ。隣のホテルからお飯《まんま》が取れるから、それでも食って、病院だから酒は不可《いか》んが、夜とともに二人で他所《よそ》ながらお伽《とぎ》をする気だ。  そうして貴下が、仏像の前で、その言行録を誦《じゅ》する経文だといった、悉《くわし》い話を聞きましょう。  病人に代ってその人の意気の壮《さかん》なのを語るのは、少くとも病魔退散の祈祷《きとう》にもなろうと思う。」 「至極でがす。いや私《てまえ》望む処、先生という楯《たて》がありゃ、二日でも三晩でも、お夏さんの前途を他所《よそ》ながら見届けるまでは居坐って動きません。」 「私も退院の日延べをする。そこで、そこで竹永さん、関戸の邸の、もみじの下で、その最中を食べてからどうしたんです。」 「私《てまえ》もずッと乗《のり》が来て、もう一ツお食《あが》んなさい、と自分も撮《つま》みながら勧めました。 (沢山)とあるから、(それじゃお土産に、)と洒落《しゃれ》にいって、捻《ひね》ってお夏さんに差着けると、腕《かいな》もちらりと透きそうに、片袖の振《ふり》を、黙ってこっちへ向けました、受け入れようというんでね。 (もみじを御見物と見えますが、これから巣鴨へ抜けて、)先生、あの邸はね、私どもが居た池のふちから、通天門と額を打った煉瓦《れんが》の石の門を潜《くぐ》って、やはり紅葉の中を裏へ出ると、卯之吉《うのきち》という植木屋の庭を、庚申塚《こうしんづか》の手前へ抜けられますわ。 (そこから、滝の川へでもお廻りか、)と尋ねると、(上野へ、)という。  私方々の紅葉の風説なんど、出鱈目《でたらめ》に饒舌《しゃべ》るのを、嬉しそうに聞いていなすったっけ、少し傾いて耳を澄まして、 (可《い》いことね、)といった。 (はて、)私には何だか分らん。 (お囃子《はやし》の笛が聞えますよ。)  ちっとも聞えん。 (はてな、)と少々照れたでがす。その癖心寂しいほど寂《しん》――」  花にはあらず七重八重、染めかさねても、もみじ衣の、膚《はだ》に冷き、韓紅《からくれない》。 「――閑としているじゃがあせんか。」 [#7字下げ]三十二[#「三十二」は中見出し] 「お夏さんが、 (聞えますよ。あら、オヒャラー、オヒャ、ヒューイ、ねえ、貴下《あなた》、聞えましょう。)  と打傾いて、遠くへな、私《てまえ》を導いて教えるような、その、目は冴えたがうっとりした顔を熟《じっ》と見ながら聞き澄ますと、この邸じゃありません。  もみじを隔てて、遥《はるか》にこう、雲の中で吹き澄ますといった音色《ねいろ》で、オヒャラー、オヒャ、ヒューイ、ヒヒャ、ユウリ、オヒャラアイ、ヒュウヤ、ヒュールイ、ヒョウルイヒ、と蒼空《あおぞら》へ響いて、幽《かすか》に耳に留りました。 (成程、お囃子ですな。)  と腕組をして、おつき合いに天窓《あたま》を突出していると、 (どこでしょう、ほんとに好《い》いこと。)  といって葛桶《かつらおけ》を――じゃない――その陶器《せともの》の床几《しょうぎ》をすっと立ちました。 (ええ、御近所だから、慶喜様のお住居《すまい》かも知れません。) (そう、)  といって、お夏さんが空を仰いで見ましたがね……」  虹を刻んで咲かせた色の、高き梢《こずえ》のもみじの葉の、裏なき錦《にしき》の帳《とばり》はあれど、蔽《おお》われ果てず夕舂日《ゆうづくひ》、光|颯《さっ》と射《さ》したれば、お夏は翳《かざ》した袖几帳《そでぎちょう》。 「ちょうど、ぱらぱらと散って来るのが、その夕日を除《よ》けた、袂《たもと》へ留まったのですがね。余りに綺麗だ。これにゃ相当のワキ師があろう。  もっとも大抵|禿《は》げていますで、諸国一見の僧になりゃ、ワキヅレぐらいは勤まろうが、実は私《てまえ》、狂言方だ。  楽屋で囃子の音がすれば、もう引込んで可い時分。フト気が着いたのは、悪くすると、こりゃ出家でない。色ワキをここで待合そうなどという、寸法で来たのかも知れん、それだと邪魔になる。さらば急いで参ろう、と思いますとね。  妙なことをいいました。  その大木のもみじの下を、梢を見たなり、くるくると廻って、 (いいえ、お雛様《ひなさま》が遊ぶんでしょう。ちょうどこの上あたりで聞えるんですもの、そうして、こんな細い、小さな音《ね》のするのは五人囃子が持っている、かわいい笛でなくッてさ。)  異《か》わったことのおおせ哉《かな》。お夏さんは熟《じ》ッと見ている。帯も襟も、顔なんざその夕日にほんのりと色がさして、矢筈《やはず》の紺も、紫のように見えましたがね。  暮れかかって来ました。夜昼を分けるように、下の土は冷たく濡れて、黒くなって、裾が薄暗く見えたんで、いや、串戯《じょうだん》はよして余り艶麗《あでやか》過ぎる。これなり天人になって、雲の上へ舞い昇られてはなるまい、と、のこのこと近く寄って、 (もう暮れ方になりましたな。)  とさそいをかけると、はっと気がついたように、 (ああ、暗くなって来た、こんな処に遊んでいるのは焼け出されたお雛様でしょうねえ。  こんなに真赤《まっか》で、これが炎になったらどうでしょう。そうしたら死んでしまいましょうねえ、気味が悪いようになりました。)  と、いうことが少し変だ。  気つけをと思ったし、聞きたくはあったしで、 (度々御災難でありましたな。唯今《ただいま》は、どちらに、) (ついこの青柳町のね、菊畑のある横町ですよ。ちとお寄んなさいましな。母は亡くなりましたが、おばさんが居ますから、)  成程おばさんが居ますからな筈でがした。……自分は居なくなる積りだから。 (それでは、) (さようなら、)  と挨拶をして、もう一度梢を視《なが》めなりに、ずッと向うへ、紅葉の下を、うしろ姿になりましてな。それっきり見返りもしなかったが、オヒャ、ヒュウイ、ヒヒャ、ユウリというのが、いつまでも私《てまえ》、耳の底に残るんで。独《ひとり》で見送っていると、大浪の裾がどこまでも畝《うね》った形の、低くなった方へ遠ざかって行くのが、何となく暮方で、影が薄い。  ト緋色《ひいろ》の雲の、隧道《トンネル》の入口、突当りに通天門とある。あすこのもみじは、実際、そこからが自慢なんですが、足も停めず、視めもせず、アーチ形に中の透く、燃え立つ炎のような中へ、消え失《う》せた体《てい》に入ってしまった。  気になる。  私、すぐあとから駆出して、」 [#7字下げ]三十三[#「三十三」は中見出し] 「件《くだん》の通天門を入ると、赫《かッ》と明《あかる》く、不残真紅《のこらずまっか》。両方から路をせばめて頬がほてるようだが、それは構わん。  お夏さんは、と見るとこの一条路《ひとすじみち》、大分長いのにもう見えず。きょろきょろ四辺《あたり》を眗《みまわ》したが、まさか消え失せたのじゃあるまい、と直ぐに突切《つッき》ってぐるりと廻ると、裏木戸に早や山茶花《さざんか》が咲いていて、そこを境に巣鴨の卯之吉が庭になりまさ。  もみじはここも名物だが、ちと遅い。紅《あか》は万両、南天の実。鉢物、盆石、水盤などが、霞形《かすみがた》に壇に並んだ、広い庭。縁には毛氈《もうせん》を敷いて煙草盆などが出してあり、世界が違ったように、ここは外套《がいとう》やら、洋服やら、束髪やら、腰に瓢箪《ひょうたん》を提げた、絹のぱっち革足袋《かわたび》の老人も居て、大分《だいぶん》の人出。その中にもお夏さんが見えますまい。  はてな、巣鴨の通へ出てしまったか、余り不思議だと思う。生垣の外は、馬士《まご》やら、牛士《うしかた》、牛車、からくたと歩行《ある》いて、それらしいのもありません。  夢かと思うと、そうじゃない。やっと気が着いた、分らないのも道理こそ。  向うに見える、庭口から巣鴨の通へ出ようとする枝折門《しおりもん》に、曳《ひ》きつけた腕車《くるま》の傍《わき》に、栗梅のお召縮緬《めしちりめん》の吾妻《あずま》コオトを着て……いや、着ながらでさ、……立っていたのがお夏さんでね。車は今雇ったのじゃありません、裏道から大廻りに、もみじ邸を卯之吉の木戸まで廻らせて、ここへ待たしてあったんで。コオトなぞも預けてあったものと思われます。で、直ぐに上野へ殺されに行こうとする処だったのです。一体どこで降りましたか、」  これは探訪も知り得なかったのであった。お夏はその日、人知れず、今わのなごりを、浅瀬の石に留めたので。俤橋《おもかげばし》の俤の、月夜の状《さま》に描かれたのは、その俤を写したのである。  見よ。(この第一回を。)されば、お夏の姿が、邸のもみじに入ると斉《ひとし》く、だぶだぶ肥った、赤ら顔の女房が、橋際の件《くだん》の茶店の端へ納戸から出て来た。砂利を積んだ車がまたぐらぐらと橋を揺《ゆす》ったので、砂塵《さじん》濛々《もうもう》、水も空も、日が暮れて月が冴えねば、お夏が彳《たたず》んだ時のように澄みはしない。  ちと疾《はや》いが晩餐《ばんさん》。かねてあつらえてあったから、この時看護婦が持って来たので、日はまだ鉄砲洲の帆柱の上に高い。  お夏の病室も、危《あやう》く物静《ものしずか》である。         ――――――――――――――――――――  愛吉の咽喉《のんど》を鳴らしたその夜の酒は、日が暮れてからであった。  女房は暮合いに帰って来て、間もなく、へい、お待遠、と台所へ持込んだけれども、お夏の心づけで、湯銭を持たせて、手拭《てぬぐい》を持たせて、錫《すず》の箱入の薫の高いしゃぼんも持たせて、紫のゴロの垢《あか》すりも持たせる処だった。が、奴《やっこ》は陰でなく面と向って、舌を出したから、それには及ばず。  ああまだそれから羽織るものを、もとより男ものは一ツもない。お夏は衣紋《えもん》かけにかけてあった、不断着の翁格子《おきなごうし》のを、と笑いながらいったが、それは串戯《じょうだん》。襟をあたって寒くなった、と鏡台をわきへずらしながら自分で着た。けれども…………愛吉は、女房の藍微塵《あいみじん》のを肩に掛けて、暗くなった戸外《おもて》へ出たが、火の玉は、水船で消えもせず。湯の中《うち》で唄も謡わず。流《ながし》で喧嘩もせず。ゆっくり洗って、置手拭、日和下駄をからからと帰り途《みち》、式部小路を入ろうとして、夜目にもしるき池の坊の師匠が背戸の山茶花《さざんか》を見て、しばらくしたのは、恐らく生れてはじめてであったろう。  その石壇の処まで来て、詩人が月宮殿かと想うように、お嬢さんの家を見た時、小ぢんまりとした二階の障子に明《あかり》がさした。  思わず頸《うなじ》をすくめたが、密《そっ》と格子から沓脱《くつぬぎ》の下駄を覗《のぞ》いて、すぐに遠慮して廂合《ひあわい》に潜《くぐ》り込んで、ちょろりと台所へ面《かお》を出すと、開けてはあったが、働いても居ず、女房は長火鉢の傍《かたわら》に、新しい能代《のしろ》の膳立《ぜんだて》をして、ちゃんと待っていた、さしみに、茶碗、煮肴《にざかな》に、酢のもの、――愛吉は、ぐぐぐと咽喉を鳴らしたが、はてな、この辺で。………… ―――――――――――――――――――― [#7字下げ]三十四[#「三十四」は中見出し]  食事が済む、と探訪員は、渠《かれ》自から経典と称する阿夏品《おなつぼん》を誦《ず》しはじめた。これよりさき金之助は、事故あって、訪問の客に面会を謝する意を、附添の看護婦に含ませたことはいうまでもない。 「話の続は、今その吾妻コオトを着た処でしたな。それから、同一《おなじ》く、それもやはり、とって置いたものらしい。藍鼠《あいねずみ》の派手な縮緬《ちりめん》の頭巾《ずきん》を取って、被《かぶ》らないで、襟へ巻くと、すっと車へ乗る。庭に居たものは皆|一斉《いっとき》にそっちの方。  母衣《ほろ》をきりきりと巻き下ろして、楫棒《かじぼう》を上げる内に、お夏さんは乗りながら、袂《たもと》から白いものを出した。ヤ、最中を棄てるのかと思うと、そうじゃなかったんで、手巾《ハンケチ》でげす。  でね、妙なことをしたというのは、もう一ツ小さな壜《びん》を取出して、その手巾の中へ、俯向《うつむ》けにしました。車が二三間駆け出す内に、はらはらと、肩から胸へ振りかけたと思うと、その壜を、母衣のすかしから、白い指で、往来へ棄てたんでがす。  後で知れました。白書薇《しろばら》の香水なんで。山の井医学士夫人、子爵山河内定子は、いつでもこの香水の薫がする。  と、お夏さんが愛吉に教えておいたものだッて、いうじゃありませんか。  何と驚いたものでがしょう。その袖の香を心当てに、谷中《やなか》のくらがり坂《ざか》の宵暗《よいやみ》で、愛吉は定子(山の井夫人)を殺そう。お夏さんは定子になって殺されようという、――まだもっとも、他《ほか》に暗号《あいず》も極《き》めてあったんではありますがな、髪を洗って寝首を掻かせた、大時代な活劇でさ。あの棄鉢《すてばち》な気紛れものと、この姉《あね》さんでなくッちゃ、当節では出来ない仕事。また出来《でか》されちゃ大変でがすのに、とうとう見事《みんごと》仕出来した。何という向不見《むこうみず》な寄合でしょうな。  先生。話は前後《あとさき》になりますが、ちょうどこの場合だから申しますがね。私《てまえ》、前にも申す通り、何んだか気になる。お夏さんの跡から上野へ行って、暗がり坂で、きゃッ! 天地|顛倒《てんどう》。途轍《とてつ》もない処へ行合わせて。――お夏さんに引込まれて、その時の暗号《あいず》になった、――山の井医院の梅岡という、これがまた神田ッ児で素敵に気の早い、活溌な、年少《としわか》な薬剤師と、二人で。愛吉に一|剃刀《かみそり》、見事に胸をやられたお夏さんを、まあとかくしてです。私《てまえ》懇意な、あすこ、上野の三宜亭《さんぎてい》。もっともこりゃ谷中へ行く前に、お夏さんが呼び出しをかけたその梅岡薬剤|兄哥《あにい》と二人で、休んだ縁もあったんでがすから、その奥座敷へ内証で抱え込んだ折でした。  愛吉に、訳を尋ねると、奴《やっこ》人間の色はねえ。据眼《すえまなこ》になって饒舌《しゃべ》った、かねての相談、お夏さんの謀《はかりごと》というのをお聞きなさい。 (じゃね、愛吉、お前、何でもかでも私のために、医学士《せんせい》の奥様《おくさん》を殺して、願いを叶えてくれるんなら、水天宮様の縁日に、頭《かしら》の乾児《こぶん》と喧嘩をするようにして暴《あば》れ込んで行ったって殺されるものじゃない。私がね、旨《うま》く都合をして、定子さんを可い処へ引出すわ。  それにゃ、本宅の薬剤師に、梅岡さんといって、大層私を可愛がってくれる人があって、いつでも先生を呼出すには、その方に手紙を出したり、電話をかけたりして頼むんだよ。やっぱりお前とおんなじように、大の姫様《ひいさま》嫌い。おもて向き私を御新造にしてやりたい。でも定子さんがあっちゃ何だから、ちょいと一服モルヒネでも装《も》りましょうか、手のもんでわけなしだって、洒落《しゃれ》にもいっている人だから、すぐに味方して、血判をしてくれます。)  いや、遠山さん。」  と丹平苦り切った顔色《がんしょく》で、 「愛吉が、手負《ておい》の傍《そば》で、口を尖《と》がらかして呼吸《いき》を切りながらせいせいいって饒舌った時には、居合わせた梅岡薬剤。神田の兄いだが、目を円くして驚いた。  その筈《はず》でがす。隣家《となり》の隠居の溜飲《りゅういん》にクミチンキを飲ますんだって、メートルグラスでためした上で、ぴたり水薬《すいやく》の瓶に封。薬剤師その責《せめ》に任ず、と遣《や》る人を、人殺の相談に、わけなし血判。自分の医院の奥様《おくさん》に、ちょいとモルヒネをなんて、から、無法極まる。  ねえ、先生。」 [#7字下げ]三十五[#「三十五」は中見出し] 「これをまた真面目にうけさせる気で、口へ出した、柳屋のも柳屋の。聞いてほんとうにした奴《やっこ》も奴だ。で、お聞きなさい。 (その梅岡さんに頼んで、いつの幾日《いくか》――今日だ。)と愛の野郎がいいました。すなわち一昨々日《さきおととい》。  そこで、またお夏さんの言《ことば》を愛吉がいうんですが、 (奥さんを上野まで連れ出させよう。お前、前《さき》へ廻って支度して、待伏せをしておいで。いい処があるかい。)  というから、愛吉が、(占《しめ》たな! 占たな!) (それだってお前、時の都合と、所はえ?)  トこりゃお夏さんが心あっていったんですな。考えていると、愛吉は何、剃刀で殺すぐらいは、自分《うぬ》が下駄の前鼻緒を切るほどにも思わない。都合をして、定子|阿魔《あま》の顔さえ見せておくんなさりゃ、日本橋でも、万世橋でも、電車の中でも、劇場《しばい》でも、どこでもかまわないッていったそうでさ。するとお夏さんの方は覚悟があるから、 (谷中《やなか》なら、墓原の森の中を根岸で下りる、くらがり坂が可い。踏切の上の。あすこいらで、笹ッ葉の下へでも隠れておいで。)  こりゃ、それ、今もおっしゃった歌の先生、加茂川の馬車新道へ、炎天にも上野まで、鉄道馬車。後を歩行《ある》いて通ったから、不幸にして地の理が明《あかる》い。 (私は梅岡さんに頼んで、こうしよう。奥様《おくさん》は歌が好《すき》で、今でもちょいちょい、加茂川ン許《とこ》へお通いだから、梅岡さんに、――私も歌が習いたい、紅葉《もみじ》の盛り、上野をおひろいのおともをしながら、お師匠さんへ、奥様から、御紹介《おひきあわ》せ下さいまし。とこういって貰いましょう。  好な道だから、二ツ返事で。その日に限って、おひろいかなんか。梅岡さんが、その上野をおともという間《ま》に、いい加減に日を暮らして、夜になって、くらやみ坂へ連れ行《て》かせるから、そうしたら、白薔薇の薫をあてに。)  その相談の出来たのは、お夏さんが三年ぶりで愛吉に逢った夜で。余所《よそ》ゆきを着ていた上衣《うわぎ》だけ脱いで、そのまま寝床へ入った、緋《ひ》の紋綸子《もんりんず》の長襦袢《ながじゅばん》のまま、手を伸ばして、……こりゃ先生だと、雪の腕《かいな》、という処だ。  手近な床の上の、鏡台の抽斗《ひきだし》から、その壜を出して、まだ封も切ってなかったそうで。これはね、ちょうどその日行合わせた山の井さんの土産でしたと。  くちが堅く入っていたのを、ト取ろうとすると、占《しま》っていたので、高島田にさした平打を抜いて、蓮葉《はすは》に、はらんばいになったが、絹蒲団にもつかえたか、動きが悪いから、するりと起き上って、こう膝を立てていましたッてね。  抜けるほど色の白い処へ、その姿だから、媚《なまめ》かしさは媚かし、美しさは美ししで、まるで画《え》に描いたように見えましたって。  こりゃ何んです、小石川青柳町、お夏さんで名がついた、式部小路の内に居る、お賤《しず》ッて女房《かみさん》がちょうどその時、行燈《あんどう》を持って二階へ上って、見たんでがすと。  ね、洋燈《ランプ》と取替に行ったんですと。先生、話はいろいろになりますが、お賤というのは洲崎で引手茶屋をしていたんで、行燈《あんどん》組でね、ことにお嬢さんには火が祟《たた》る、とかいっていたんだから、あの陽気家を説き伏せて、残燈《ありあけ》は行燈と取極めたんでさ……洋燈《ランプ》はかんかん明《あかる》かった。  すぐに消そうとすると、 (お待ち、見えなくなるわ。)ッてくちを抜いた。芬《ぷん》と薫ったでしょう。 (まあ、佳《い》い匂《におい》でございますこと。) (光《みい》ちゃんが好なの。)  光起さんの事でさ。―― (私にこの匂をさして、抱こうと思ったって、そうはいかない。)  ちとやんちゃん。もっともね、少し飲んでいたんだそうで。 (ねえ、愛吉。)  と声をかけた。奴は、ぎごちなさそうに小さくなって、半分もぐりながら、目ばかり、ぱちぱち。」 「じゃ、愛吉は、」と遠山が口を入れた。 「勿論、枕を並べて。」  遠山金之助、 「え。」  竹永丹平は、さもこそという片頬笑《かたほえ》み、泰然自若として、 「ま、ま、お聞きなさい。ここだ、これが眼目、此経難持《しきょうなんじ》、若暫時《にゃくざんじ》、この経は保ち難し。  もししばらくも保たんものは、ただお夏|一人《いちにん》という処でがすから。」 [#7字下げ]三十六[#「三十六」は中見出し] 「そこで女房は、 (なるほど、貴女《あなた》には似合いません、でございますよ。)  愛吉|傍在《かたわらにあり》。で、その際、ちと諷《ふう》する処あるがごとくにいって、洋燈《ランプ》を持って階下《した》へ下りた。あとはどうしたか知らないそうでさ。  勿論普通の人間じゃ寐《ね》られるどころではなかったが、廓出《くるわで》の女房《かみさん》。生れてからざっと五十年。一年三百六十五日、のべつ、そんな処には出会《でっくわ》していたんだから、さしたる大事とは思わなかったし、何が何でも人殺の相談をしようなどとは、夢にも、この私にしたって思いませんや。  その後で、愛吉の鼻のさきへ、顔と一緒に、白薔薇の壜を押つけか、何かで、 (可《い》いかい。この匂いだよ。もう一つはね、くらがり坂へ行ったら、奥さん! とその梅岡さんが四辺《あたり》を見計らって声をかけて下さるように、相談をして置くから、可いかい! この薫と、その奥さん! を暗号《あいず》にして、……とくれぐれもおっしゃったんで。)  と愛吉が云うんです、先生。  三宜亭で、夢中ながら目を光らせて、鼻をフンフンとやって、 (私《わっし》あ、固唾《かたず》を飲んでた処だ。符帳が合ったから飛出した、)と拳固で自分の頬げたを撲《なぐ》りながらいうんでしょう。  いや、傍聞《かたえぎ》きをした山の井|光起《せんせい》、こりゃもう、すぐに電話でお呼び申した。その驚いたより、十層《じっそう》倍、百層倍、仰天をしたのは梅岡薬剤で、 (国手《せんせい》の前じゃ申しかねるが、僕はまた、三宜亭まで是非とお夏さんに呼出されて、実は相済まんが、友達に頼んでちょいと抜け出して来ると、いつも世話になると礼をいって、お小遣《こづかい》が沢山あるから御馳走をするかわり、済みませんが、姫様《ひいさま》におっしゃるように、奥さん、といいながら歩行《ある》いて下さい。貴下《あなた》を、旦那さま、とでも、こちの人とでもいうわ。と大呑気だから、愉快《おもしろ》い、と引受けたんで。あれから東照宮の中を抜けて、ぶらぶらしながら谷中の途中、ここが御註文と思うから、多勢人の居る処じゃ、奥さん――山の井の奥さん。時々、夫人――などというと、顔を赤くなすったッけ。  岡野へ寄ろうと、くらがり坂へかかった時は、別にそこで、という誂《あつら》えがあったわけではない。  いっそ、特にあの坂で、とでもいうことなら、いかにお夏さんが神色自若としていたから、といって、こちらが呑気だからといって、墓といい、森といい、暗さといい、たといそこまでは上の空でも、坂の下り口じゃちょいとでも気がさして、他《ほか》の路を行きましょうぐらいはいえるだろうのに。  何事もなかった。  坂を下りかかると、今から思や、礼の心であんなすったか、並んで歩行《ある》いていた僕の手を、ちょいと握って、そのまますたすたと、……さよう、六足《むあし》ばかり線路の方へ駈《か》け出しておいでなさる、と思うと、よろよろとなすったようだから、危い! と声をかけようと思って、ここでつい我知らず、奥さん! といった。  すると愛吉が飛出しました。  これでお助《たすか》んなすればよし、さもないと僕が手伝をして殺したも同然だ。)  と薬剤師、その責《せめ》に任じて、涙ぐんでいったんでがすがね。  先生、命数、」  といった。同時に、 「命数、」  目と目を見合わせ、 「か。」 「も知れません。」 「竹永さん、貴老《あなた》はまたどうしてそこへ行き合わせました?」 「そりゃこうでがす。  ええ、お待ちなさいよ。」  と丹平前に屈《かが》んで、握拳《にぎりこぶし》を掌《たなそこ》で揉《も》み、 「そうだ、ただいまのその巣鴨の植木屋、卯之吉の庭で、お夏さんの車の、矢のように飛んだを見て、別にあとをつけようという考《かんがえ》はなかったんでがすがね。懐しくッてなりますまい。  青柳町だといった待て待て、どんな処に住《すま》ってるか行って見ようと、逆戻りにもみじへ入ると、や、ぞろぞろと人が居る、通天門を潜《くぐ》って出ると、ばらばらと見物でさ。妙なことがあるもんで、ここで何も俗にいう死神が取着いたというわけではないから、私《てまえ》のような筵破《むしろやぶ》りは除外例、その死神がお夏さんを誘《いざな》うためにしばらく人を払ったというのじゃがあせん。私の口でいっちゃ似合いませんが、死を決すれば如神《しんのごとし》で、名僧のごとく、知識のごとく、哲人のごとし。女とてかわりはない、おのずから浮世の塵《ちり》を払って、この仙境にしばらくなごりを惜《おし》んだのでありましょう。  その時はそうとも思わず、ははあ、こりゃやはり自分たちと同様|風説《うわさ》ばかりで、一体、実際縦覧をさせるか、させぬか、そこどころちとあやふやな華族の庭。こりゃ、遠慮をして見合せていた処へ、二人。お夏さんはともかく、私というのまでその中から顕《あら》われたのを見て、卯之吉の庭に居た連中、気を揃えて推参に及んだな。  どうだ善知識だろうと、天窓《あたま》はこれなり、大手を振って通り抜けた――愚にもつかぬ。  あれから、今の真宗大学を右に見て、青柳町へ伸《の》して、はて、どこらだろうと思う、横町の角に、生垣の中が菊の盛《さかり》。そこに立ってただ一人|視《なが》めていた婆さんがあった、その顔を見ると、塞《ふさが》ったようになった細い目で、おや! といった。」 [#7字下げ]三十七[#「三十七」は中見出し] 「(まあ、おめずらしい、)と莞爾《にっこり》したろうではありませんか。方《かた》なしの皺《しわ》になりましたが、若い時は、その薄紅《うすくれない》に腫《はれ》ぼッたい瞼《まぶた》が恐ろしく婀娜《あだ》だった、お富といって、深川に芸者をして、新内がよく出来て、相応に売った婦人《おんな》でしたが、ごくじみな質《たち》で、八幡様|寄《より》の米屋に、米搗《こめつき》をしていた、渾名《あだな》をニタリの鮟鱇《あんこう》、鮟鱇に似たりで分かる。でぶでぶとふとった男。ニタリニタリ笑っているのに、どこへ目をつけたか、その婀娜な、腫ぼったいのをなくなすほど惚れましてな、勤めをよすと、夫婦になって、資本《もとで》を注《つ》ぎ込んで米屋を出すと、鮟鱇にわかに旦那とかわって、せっせと弁天町へ通う。そこで見張り旁々《かたがた》というので、引手茶屋の売据《うりすえ》を買って、山下という看板をかけていましたが、ニタリ殿はますます狂う。抱えの芸妓《げいしゃ》は、甘いと見るから、授けちゃ証文を捲《ま》かせましょう。せめてもの便《たより》にした養女には遁《に》げられる、年紀《とし》は取る、不景気にはなる、看板は暗くなる、酒は酸くなる、座蒲団は冷たくなる、火は消える、声は出なくなる、唄は忘れる、猫は煩らう、鼠は騒ぐ、襖《ふすま》は破れる、寒くはなる、大戸を閉める、どこへどうしたろうと思う……お婆さん。  串戯《じょうだん》ではない、何時《なんどき》だと思う。仲ノ町《ちょう》じゃチャンランチャンラン今時は知らないが、店すががきで、あかりがちらちら廻る頃を、余所《よそ》の垣越に立って、菊を見ているような了簡《りょうけん》だから、引手茶屋退転だ。しかし達者で可《い》い、どうした、と聞くと、まあ、お寄んなさいまし、直《すぐ》そこが内だ、という二階家でさ。門札《かどふだ》に山下賤、婆さんの本名でしょう。  豪《えら》いな、というと、いや、御奉公をいたしております、御主人というのは?  旦那だから申しますが、……ちとこりゃ新聞のたねとりにゃ可笑《おかし》ないいぐさだが。  ほんとうに世の中ッてものはわかりませんもので、あの、木場の勝山さんね、分散をなすった。そのお嬢さんのお世話を、と半分聞かず、私《てまえ》、火鉢の前に腰を据えた。」  さて、女の主人は知れた。男の御主人は、と聞くと、これはなおの事。  ごくごく内証ですが、日本橋のお医師《いしゃ》で、山の井光起さんとおっしゃる方、という。いよいよとなりましたろう。  いや、江戸児《えどッこ》の医学士め、すてきなものを囲ったぞ。  フムお妾《めか》だ。これがお前だとちょうど名も可い。イヤサお富と、手拭《てぬぐい》を取る、この天窓《あたま》で茶番になるだろう。というと、いえ、私にも分りません、不思議なことには、久《ひさし》いあいだ、ついぞまだ一所におよった事もなし。 (夏ちゃん、)  と洒落《しゃれ》におっしゃったり、お真面目な時も、 (勝山さん、勝山さん、)と丁寧にお呼びなさる。  その癖、この通り、それはそれは勿体ないほど、ざくざくお宝をお運びで、嬢さんがまたばらばら撒《ま》く。土地が辺鄙《へんぴ》で食物《くいもの》こそだが、おめしものや何か、縮緬《ちりめん》がお不断着で、秋のはじめに新しいコオトが出来ました。  しかしそれも旦那さままかせ。また珍らしい事には、櫛《くし》一枚、半襟一かけ、お嬢さんが、自分の口から、欲しいとおっしゃった事がないので。  旦那様は男の事、お気がつくようでもぬかりがあって、ちぐはぐでおかしいくらい。ついこの間も嬢さんが、深川の浄心寺、御菩提所《ごぼだいしょ》へ、お墓まいりにおいでなさるのに、当世のがないもんですから、私の繻子張《しゅすばり》のをお持たせ申して、化けそうだといって、床屋の職人にお笑われなすった。――これから先生、婆さんが、その三日前に来て泊ったという、愛吉の野郎のことを話したんでがすよ。  もっとも私《てまえ》もまた、床屋の職人というのが、直ぐに気になったから、床屋の職人? 知己《ちかづき》か、といって尋ねたんで。」 「お待ちなさい。」  と金之助は、寝台《ねだい》の上から乗出しながら、 「気に入った! ああ、そこにその人はまさに死なんとしているが、気に入った、といわねばならんですよ。  じゃ何だ、医学士はざくざく注《つ》ぎ込む、お夏さんはばらばら遣う、しかも何一つ自分から欲《ほし》いといったことはないのか。そうして一たびも枕をかわさぬ、豪《えら》いな! その清浄《しょうじょう》な膚《はだえ》をもって、緋《ひ》の紋綸子《もんりんず》の、長襦袢《ながじゅばん》で、高髷《たかまげ》という、その艶麗《あでやか》な姿をもって、行燈《あんどう》にかえに来た雇《やとい》の女に目まじろがない、その任侠《にんきょう》な気をもって、すべてを愛吉に与えてその晩……」 「…………」丹平黙然として少時不言《しばらくいわず》。この間のしょうそく、そもさんか、偈無可為証《げにしょうとすべきなし》。 [#7字下げ]三十八[#「三十八」は中見出し]  ややあって丹平他をいう。 「その癖、光起さんを恋しがって、懐しがって、一日《いちんち》と顔を見ないと、苦労にする、三日四日となると鬱《ふさ》ぎ出す、七日《なのか》も逢わなかろうものなら、涙ぐむという始末。  じゃ顔を合わせればどうかというと、すねるような、くねるような、その素ッ気のなさ加減、傍《そば》で見る婆さんの目にも気の毒なくらい。  きちんとして、 (先生、) (勝山さん、)  という工合が、何の事はない。大町人の娘が、恋煩いをして、主治医が診察に見えたという有様。  先生がうまい事をいいましたって。 (勝山さん、どうかその医学上の講釈を聞くのと、手習を教えてくれだけはあやまる。私は藪《やぶ》の上に悪筆だ、)というたのだそうです。  またきっと、心臓というものはどこにあるの、なぜ御飯《おまんま》が肺の方へ行かないで済むの、誰の目も綺麗なのは、水晶と同じ事か、なぞとね、番ごと聞く。第一顔を見ると直ぐに清書を持出して、お目にかける。 (いや、まずいこと、私の医者のようだ、)と串戯《じょうだん》にいうのを真にうけては、せっせと双紙に手習をするんだそうで。  そうかと思うと、時にゃがらりと巫山戯《ふざけ》出して、肩へつかまる、羽織の紐を引断《ひっき》る、膝を打《ぶ》つ、擽《くすぐ》る。車夫でも待っていないと、帰りがけに門口《かどぐち》からドンと突飛ばす、もっともそんな日は、医学士の姿を見ると、いきなり飛出して框《かまち》から手を引いて、すぐそのまんまで二階へ上ろうとするから、狭い階子段《はしごだん》、で行詰ってどちらへも片附かずに、揉《も》む。  しなだれるんじゃない、媚《こ》びるんじゃない、甘えるの。派手なんじゃない、騒々しいので、恋も情《なさけ》もまだ知らない、素の小児《こども》かと思うと、帰ったあとを、二階から見送って、そのまま消えそうに立っている。  そこで附添いが引手茶屋の婆さんだから、ちとその、そこン処をな。  何して、いい工合に、と独りで気を揉んだそうですが、さて口へ出そうとすると、何となく、気高い、神々しい処があって、戦場往来の古兵《ふるつわもの》が、却って、武者ぶるいで一言《ひとこと》も出んのだそうで。  まあまあ、不思議な縁というのであろう。とても人間|業《わざ》で行くのじゃない。その内に、出雲《いずも》でも見るに見かねて、ということになるだろう、と断念《あきら》めながらも、医学士に向って、すねてツンとする時と、烈《はげ》しく巫山戯《ふざけ》て騒ぐ時には番ごと驚かされながら、ツンとしても美人の娼妓《しょうぎ》のようでなく、騒いでも、売れる芸者のようでなく、品が崩れず、愛が失《う》せないのには舌を巻いていた処、いやまた愛吉が来た晩は、つくづく目覚しいものだったと言います。……」  それはこうである。愛吉は、長火鉢の前でただ旨《うま》そうに飲んでいたが、心《しん》もって嬉しそうな顔に見えなかつたのを[#「見えなかつたのを」はママ]、酌をしながらお賤も不思議に思った。蓋《けだ》し生れつき面《つら》が狼に似たばかりでない。腹に暗き鬼を生ずとしてある疑心の蟠《わだかまり》があったのも、お夏を一目見たばかりで、霧の散ったように、我ながらに掴《つかま》え処もなくて済んだその時、今そこに婆さんの顔ばかりとなったのみならず、二杯三杯と重《かさな》るにつれて、遠慮も次第になくなる処《とこ》へ、狂水《きちがいみず》のまわるのが、血の燃ゆるがごとき壮佼《わかもの》、まして渾名《あだな》を火の玉のほてりに蒸されて、むらむらと固る雲、額のあたりが暗くなった。 「ウイ、」  と押《おッ》つけるように猪口《ちょく》を措いて、 「嬉しくねえ、嬉しくねえ、へん、馬鹿にしねえや。何でえ、」  と、下唇を反《そ》らすのを、女房はこの芸なしの口不調法、お世辞の気で、どっかで喧嘩した時の仮声《こわいろ》をつかうのかと思っていると、 「何てやんでえ、ヘッ笑かしやがら、ヘッ馬鹿にすら、ヘッヘッ馬鹿にしやがら、ヘッ土百姓、ヘッ猿唐人《さるとうじん》め、」  太夫しゃくりが出るから、湯のかわりに、お賤が、 「あいよ、お酌、」 「ヘッ、ありがとうざい、」と皆《みんな》一所。吃逆《しゃっくり》と、返事と御礼と、それから東西と。 [#7字下げ]三十九[#「三十九」は中見出し] 「おかみさん、難有《ありがて》え、お前《めえ》さんの思召《おぼしめ》しも嬉しけりゃ、肴《さかな》も嬉しけりゃ、酒も旨《うめ》え、旨えけれど可笑《おかし》くねえや、何てってこうおかみさん、おかみさん、」 「おや、私のことかい。」 「お聞きねえ、伺いやすがね、こう見渡した処、ざっとこりゃ一両がもんだね、愛吉一年の取り高だ。先刻《さっき》お湯銭が二銭五厘、安い利だが持ちませんぜ。誰が、誰がこの勘定をしやがるんでえ。ヘッ、人をつけ、嬉しくねえ。」  女房は笑って逆《さから》わず、 「景気がついて来ましたね、ちっとは可《い》い心持になりましたかい。」 「好《い》いにも、悪いにも何だか気になってならねえんでさ、変てこにこう胸へつッかけて来るんでね、その勘定の一件だ。」 「まあ、何をいうんですね、お嬢さんが御馳走なさるんじゃありませんか、おかしな人だよ。」といった、これはよめなかったに相違はない。  愛の口ますます尖《とが》って、 「分ってら、分ってらい、いや分ってます。御馳走は分ってら。御馳走でなくッて、この霜枯に活《いき》のいいきはだと、濁りのねえ酒が、私《わっし》の口へ入《へえ》りようがねえや、ねえ、おかみさん。」 「ですから、沢山めしあがれよ。」 「なお心配だ。何が心配だって、こんな気になることはねえ。何がじゃねえやね、お前さん、その勘定の理合《りあい》因縁だ。ええ、知っていら、お嬢さんの御馳走だが、勘定は誰がするんで。勘定は、ヘッ、」  としゃくりをきっかけに声を密《ひそ》め、拇指《おやゆび》を出して見せ、 「レコだ、野郎がしやがるんだ。へん、異《おつ》う旦那ぶりやがって笑かしやがらい。こう聞いとくんねえ、私《わっし》アね、お嬢さんの下さるんなら、溝泥《どぶどろ》だって、舌鼓だ、這い廻って甞《な》めるでさ。  土百姓の酒じゃ嬉しくねえ。ヘッ、じゃ飲むなといったってそうはいかねえ。第一私あ飲む気はねえが、腹の虫が承知しねえや。腹の虫は承知をしても、やっぱり私あ飲みてえや。からだらしがねえ、またたびだね、鼠のてんぷら、このしろの揚物だ。まったくでえ、死ぬ気で飲んでら、馬鹿にしねえぜ。何をいっていやがるんでえ。おかみさん、何をいってるんだか、分りますめえ。御道理《ごもっとも》で、私あ自分にも分らねえんだからね、何ですぜえ、無体、癪《しゃく》に障るから飲みますぜえ、頂かあ、頂くとも。酌《つ》いどくんねえ、酌いどくんねえ、」 「可いから、まあおあがんなさい。」 「む、ああ、旨《うめ》え、馬鹿にしやがら、堪《たま》らねえ旨えや。旨えが嬉しくねえ、七目《しちもく》れんげめ、おかみさん、お憚《はばか》りながらそういっておくんねえ、折角ですが嬉しくねえッて。いや、滅相、途轍《とてつ》もねえ、嬢的にそんなこといわれて堪《たま》るもんか、ヘッ、」  と頸《うなじ》を窘《すく》めたが、 「内証だ、嬢的にゃ極内《ごくない》だがね。旦《だん》の野郎にそういっておくんねえ、私あ厭《いや》だ、大嫌《だいきれえ》だ、そんな奴にゃ口を利くのも厭だから、おひかえ下さいやし、手前《てめえ》ことはなんて頼んだって挨拶なんぞするもんか。  こう小馬鹿にするぜえ、ヘッ、癪だ、こいつをおさえるにゃ呷切《あおっきり》だ、」とぐッと飲む奴。 「…………」 「こうおかみ、憚りながらそういっておくんなせえ、済まねえがね、私あ気に食わねえから勘定をして貰ったって、お礼なんざいわねえって、」  お賤は気が練れた苦労人、厭な顔はちっともしないで、愛想よく、 「ああ、可いともね、また礼なんぞいわせるようなお方じゃありません。」 「トおっしゃる! へへへへ、おかみさん、厭に肩を持ちますね、いくらか貰ったね。」 「貰いましたともさ、貰ったどころじゃない、お嬢さんだって、私だって、九死一生な処を助けて下すった方ですもの、」 「九死一生、」  お嬢さんと聞いたばかりでもう眼《まなこ》を据え、 「煩ったかね。もっとも肝の虫が強いからね、あれが病《やまい》だ。」 「しかもお前さん、大道だったろうじゃありませんか。」 「大道で、何が大道で、ここあお嬢さんの内じゃねえかね。」 「いいえさ、こちらへおいでなさらない前にさ、屑屋《くずや》をしていらっした時の事ですよ。」 「屑屋? 誰が、こう情《なさけ》ねえ、人間さがりたくねえもんだ。こんななりはしてるがね、私あこれでも床屋ですぜ、屑屋は酷《ひど》い、」といった。 [#7字下げ]四十[#「四十」は中見出し] 「誰がお前さんを屑屋だといいましたよ。御覧なさいな、そういわれてさえ腹を立つ、その、お前さん、屑屋をしておいでなすったんじゃないか、それだもの、」  変な面《つら》で、 「誰が、」 「お嬢さんのことをいってるんだよ、」 「はあ、問屋か。そう屑問屋か。道理こそ見倒しやがって。日本一のお嬢さんを妾なんぞにしやあがって、冥利《みょうり》を知れやい。べらぼうめ、菱餅《ひしもち》や豆煎《まめいり》にゃかかっても、上段のお雛様は、気の利いた鼠なら遠慮をして甞《な》めねえぜ、盗賊《ぬすっと》ア、盗賊ア、盗賊ア、」  と大音を揚げて、 「叱《しっ》! どこの野良猫だ、ニャーフウー」  一杯に頬を膨らし、呻《うな》って啼《なく》真似をすると、ごく低声《こごえ》、膳の上へ頤《あぎと》を出して、 「へい、ですかい屑屋ですかい。お待ちなせえ、待ちねえよ、こう旨《うめ》えことを考《かんげ》えた。一番、こう、褌《ふんどし》ゃ切立《きったて》だから、恥は掻かねえ、素裸《すっぱだか》になって、二階へ上って、こいつを脱いで、」  と胸をはだけた、仕方をする気が、だらしはない、ずるッか脱げた両肌|脱《ぬぎ》で、 「旦那、五両にどうだ、とポンと投げ出しはどんなもんで。ヘッヘッ、おかみさん。」 「いくらお嬢さんだってその方にゃ苦労人でいらっしゃるから、お前さん、その袷《あわせ》は五両にゃおつけなさりやしまいよ。」 「へい、じゃ嬢的も旦《だん》かぶれで、いくらか贓物《ぞうぶつ》の価《ね》が分るんで?」  さては、と女房心づいて、 「まあ、お前さん、おかしなことをおいいだと思っていたが、じゃ何にも御存じじゃないんだね、私の留守のうちにお話しじゃなかったのかい、」 「何をね、」 「それだもの、ちぐはぐになる筈《はず》だ。屑屋をなすっていらっしゃったのはお嬢さんだよ、お嬢さんなんだよ、お前さん。」 「お夏さん、」 「あい、そうさ。」 「や! 串戯《じょうだん》じゃねえ、まったくですかい。」 「ほんとにも何にも、」 「あの、屑屋《くず》いって。踊にゃないね、問屋でも芝居でもなけりゃ、それじゃ、外《ほか》にゃねえ、屑い、屑いッて、籠《かご》を担《かつ》いだ、あれなんで?」 「ああ、そうともお前、私がお目にかかった時なんざ、そりゃおいとしかったよ。霜月だというのに、汚れた中形の浴衣を下へ召して、襦袢《じゅばん》にも蹴出《けだ》しにもそればかり。縞《しま》も分らないような袷のね、肩にも腰にもさらさの布《きれ》でしき当《あて》のある裾《すそ》を、お端折《はしょり》でさ、足袋は穿《は》いておいでなすったが、汚いことッたら、草履さ、今思い出しても何ですよ、おいとしいッたらないんですよ。」 「おかみさん、逢ったのか、」 「そうですよ、」 「串戯じゃねえ、どこでだね。」 「氷川《ひかわ》の坂ン処《とこ》ですよ、」 「いつ?」 「一昨年《おととし》の霜月だってば。」 「串戯じゃねえ、ちょいと知らしてくれりゃ可《い》いんだ、」  と膳の下へ突込《つッこ》むように摺《す》り寄った。膝をばたばたとやって、歯を噛《か》んで戦《おのの》いたが、寒いのではない、脱いだ膚《はだ》には気も着かず。太息《といき》を吐《つ》いて、 「ああ、それだ。芥溜《はきだめ》ッていったなあそれだ、串戯じゃねえ、」 「それにお前、寒い月夜のことだった。道芝の露の中《うち》で、ひどくさし込んで来たじゃないか。お頭《つむり》を草原に摺りつけて、薄《すすき》の根を両手に縋《すが》って、のッつ、そッつ、たってのお苦《くるし》み。もう見る間にお顔の色が変ってね、鼻筋の通ったのばかり見えたんですよ。」 「ま、ま、待っとくんなせえ、待っとくんなせえ、」  愛吉聞くうちにきょろきょろして、得もいわれぬ面色《おももち》しながら、やがて二階を瞻《みつ》めた。 「待ちねえ。おかみさん、活きてるね、大丈夫、二階に居るね。」 「お前さん、おいでなさいよ。先刻《さっき》からお上りなさいッて、おっしゃってじゃありませんか。旦那が御一緒じゃ厭《いや》なんですか。」 「そこどころじゃねえ、フウそうして、」 「あとで聞いたら何だとさ、途中の都合やら、何やかやで、まだその時お午飯《ひる》さえあがらなかった、お弱い身体《からだ》に、それだもの、夜露に冷えて堪《たま》るものかね。」 「なぜ、そんな時、大きな声で、一口愛吉って呼ばねえんだなあ、大島に居たって聞えらあ。」  怨めしそうなが真《まこと》である。 [#7字下げ]四十一[#「四十一」は中見出し] 「もっともね、日の暮れない内から、長い間そこに倒れたようになっておいでなすったんだってね、何だとさ。  晩方、あの坂を、しょんぼりして、とぼとぼ下りておいでなさると、背後《うしろ》からお前さん、道の幅一杯になって、二頭立の馬車が来たろうではないか。  ハッと除《よ》けようとなさる。お顔の処へ、もう大きな鼻頭《はなづら》がぬッと出て、ぬらぬら小鼻が動いたんだっておっしゃるんだよ。  除けるも退《の》くもありゃしません。  牛頭馬頭《ごずめず》にひッぱたかれて、針の山に追い上げられるように、土手へ縋《すが》って倒れたなりに上ろうとなさると、下草のちょろちょろ水の、溝《どぶ》へ片足お落しなすった、荷があるから堪らないよ。横倒れに、石へお髪《ぐし》の乱れたのに、泥ばねを、お顔へ刎《は》ねて、三寸と間のない処を、大きな鉄の車の輪。  天へでも上るようにぐるぐるとまわって通りしなに、 (馬鹿め!)  ッて、どこの馬丁《べっとう》も威張るもんだけれど、憎らしいじゃありませんか。危い、とでもおっしゃることか、どこのか華族様でもあろうけれども、乗ってた御夫婦も心なし。  殿様は山高帽、郵便|函《ばこ》を押し出したように、見返りもなさらない。らっこの襟巻の中から、長い尖《とが》った顔を出して、奥様がニヤリと笑っておいでのが、仰向《あおむ》けながらね、屹《きっ》とお開《あ》きなすったお嬢さんの目に、熟《じっ》と留ったとおっしゃるんですよ。」 「チョッ、何たらこッてえ、せめて軍鶏《しゃも》でも居りゃ、そんな時ゃあ阿魔《あま》の咽喉笛《のどぶえ》を突《つッ》つくのに、」  と落胆《がっかり》したようにいったが、これは女房には分らなかった――蔵人のことである。 「余程お口惜《くや》しかったって、そうでしょうとも。……新しい秤《はかり》をね、膝へかけて二ツにポッキリ。もっともお足に怪我をしておいでなすった、そこいらぞッとするような鼻紙さア。  屑の籠を引っくりかえして、 (モ死にたいねえ、)ッて、思わず音《ね》を出したよ、とおっしゃるんですがね、そのままお足《みあし》を投出して、長くなって、土手に肱枕《ひじまくら》をなすったんだとさ。  鵯《ひよ》がけたたましく啼《な》き立てる。むこうのお薬園の森から、氷川様のお宮へかけて、真黒《まっくろ》な雲が出て、仕切ったようにこっちは蒼空《あおぞら》、動くと霰《あられ》になりそうなのが、塗って固めたようになっていたんですって。  その中へね、火の粉のようなものが、ぱらぱらと飛ぶから、火事かと御覧なさると、また白いものが、ちらちら交ったのを、霰かと見ていらっしゃると、またきらきらと光るのを、星かとお思いなさる内に、何ですとさ。見る見るうちに数が殖《ふ》えて、交って、花車を巻き込むようになると、うっとりなすった時、緑、白妙《しろたえ》、紺青《こんじょう》の、珠を飾った、女雛《めびな》が被《かぶ》る冠を守護として、緋《ひ》の袴《はかま》で練衣《ねりぎぬ》の官女が五人、黒雲の中を往来《ゆさき》して、手招《てまねぎ》をするのが、遠い処に見えましたとさ。  ずッと立って行こうとなさると、直ぐに消えて、隠れていたお月夜になったそうで。  そこへ私がね、」  と仕方をして、 「テンプラクイタイ、テンプラクイタイか何かで、流して行ったんですよ、お前さん。」 「ヘッ、人の気も知らねえで、」 「いえ、ところが、私だって喰うや喰わず、昔のともだちが、伝通院うらの貧乏長屋に、駄菓子を売って、蝙蝠《こうもり》のはりかえ直しと夫婦になって暮している処へ、のたれ込んで、しょう事なし門《かど》づけに出たんですがね、その身になってもお前さん、見得じゃないけれど極《きまり》が悪くッて、昼間はとても出られないもんだからね、その晩も、日が暮れてから出たんでね、直ぐ上へ出りゃ久堅《ひさかた》の通りだし、家の数も多いけれど、一寸のばしに下へ下りて、田圃《たんぼ》とお薬園の、何にもまだ家のなかった処を通って、氷川の坂へ、むかしの事をおもいながら、夜露と涙で、音《ね》がしめったのを。  どうお聞きなすったか、土手に腰をかけておいでなすって、お嬢さんが、(もし、おかみさん)ッて声をかけて下すったんです。犬は遠くで吠えてたけれど、狐の居そうな処ですもの、吃驚《びっくり》したろうではありませんか。」  お夏が、すっと、二階から下りて来た。 「おかみさん、何のお話?」  フト屑屋さんの、と行きつまったから、 「氷川で御覧なすった、お雛様のことなんでございますよ。」 [#7字下げ]四十二[#「四十二」は中見出し] 「そう、この人なら話が分るの。はじめから私とお雛様のことを知っているから。ねえ、愛吉、」  と膳の横。愛吉に肩を並べて腰を浮かしていたのは、ついしばらくの仮の宿、二階に待つ人があるのであろう。  お夏はその時、格子の羽織を着ていたが、年も二ツ三ツ、肩のあたりに威が出来て、若い女主人のように見えた。  二階から降りる跫音《あしおと》を、一ツ聞いて愛の奴、慌てて膚《はだえ》を入れたのはいうまでもない。 「愛吉、」 「へい………」 「沢山《たんと》おあがりよ。おいしいものがなくッて、気の毒だね、おお、その海鼠《なまこ》がおいしそうじゃないか。」 「ええ。一ツいかがでございます。へへへへへ。」 「そうね、御馳走になろうかね、どれ、」  女房が気を利かせて、箸箱をと思う間もなく、愛吉のを取って、臆面《おくめん》なし、海鼠は、口に入《い》って紫の珠はつるりと皓歯《しらは》を潜《くぐ》った。 「おお、冷《ひやっ》こい!」  すっと立ち――台所へ出ようとする。 「何でございます。」 「二階が寒くなったの。台じゅうが欲《ほし》いんです。」 「唯今、私が、」  と立って出る。お夏は、真四角《まっしかく》に。但しひょろひょろと坐った愛吉の肩をおして、 「大分《だいぶん》おとなしいのね。」 「お嬢様、ちとお叱んな……」と台所から。 「なッ!」  とだしぬけに押伏せて、きょとんとして、 「納豆、納豆ウい、納豆、納豆ウ、」 「おばさん、屑屋より、この方にすれば可《よ》かったのね。」  女房は火を入れながら、生真面目《きまじめ》に、 「どちらがどちらとも申されません。」 「お嬢さん、」と仰ぎさまに、酒くさい口をあけて、熟《じっ》と顔を視《み》て、 「そんな時に、私《わっし》を尋ねて下さりゃ可いんだのになあ、」 「それだって、お前、来てくれたって、逢ったって、お酒も飲ませられないし、煙草《たばこ》も与《や》れないし、可哀相だもの。」 「いえ、頂こうというんじゃねえんで、そんな時だ、私《わっし》あ、お嬢さんにどうにかすらあ。盗賊《どろぼう》でも、人殺でも、放火《つけび》でも何でもすらあ。ええ、お嬢さん、」 「愛吉、難有《ありがと》うよ、」  とかけた手で、軽く二ツばかり揺《ゆす》ぶって、うつむきざまにはらはらと落涙した。  ただ、ここに赫《かッ》としたのは台十能の中である。 「二階へおいでな。」 「ええ、なに………」 「構いはしないよ。」 「ええ、なに………」 「もう、お嬢様、この方はね、」 「おっと納豆ウ、納豆《なっと》、納豆い、」 「あの、唯今、屑屋さんのかわりに、私の蘭蝶をお聞きなさろうという処なんでございます。」 「そうですか、ほんとに思出すわねえ、良い月夜で、露霜で、しとしとしてねえ。」 「草の中においでなすったお嬢さんのお姿が、爪先まで明《あかる》いんですもの。私は慄然《ぞっ》としましたよ。そうしてちっとばかり聞かしておくれ、こんな風で済まないけれどもッて、銀貨のお代を頂きました時は、私は掌《てのひら》へ、お星様が降ったのかと思いました。  追分をお好き遊ばした、弁天様のお話は聞きましたが、ここらに高尾の塚もなし、誰方《どなた》が草刈になっておいで遊ばしたんでしょうと、ただ、もう尊《たっと》くなりましてね。おんぼろの婆《ばばあ》じゃありましてございますが、一生懸命、あんな役雑《やくざ》な三味線でも、思いなしか、あの時くらい、隅田川の水にだって、冴えた調子は出たことがございませんよ。」  当時の光景、いかに凄絶《せいぜつ》なるものなりしぞ。 「ああ、私も聞いている内に、ひとりで涙が出たんですもの、愛吉、おばさんはそりゃ上手だよ、」といいすてて、階子段《はしごだん》に、蔦《つた》がからんだ裳《もすそ》の紅《くれない》、するすると上って行った。 「ヘッ笑かしゃあがら、ヘッ旦的《だんつく》めえ、汝《うぬ》が取りに下りれば可い。寒いが聞いて呆れらい。ヘッ、悪く御託をつきゃあがると、汝《てめえ》がの口へ氷を詰めて、寒の水を浴びせるぞ、やい!」 「愛吉、おいでな、」  皆まで聞かず、上へ聞えたかと、「納豆、納豆。」 [#7字下げ]四十三[#「四十三」は中見出し]  丹平は言《ことば》を改め、 「さて、先生、何んでも愛の奴は、その中《うち》でも、お嬢さんが酷《ひど》く差込んだというのを気にして、尋ねますから、婆さんが、その時だ。  一心不乱に蘭蝶を、語り済ましている内に、うむといってお夏さんが苦しみ出したんだそうで。いや、驚くまい事か、糸も撥《ばち》も投《ほう》り出して、縋《すが》りついて介抱をしたんだけれども、歯を切緊《くいしば》ってしまったから、遊女《おいらん》の空癪《そらしゃく》を扱うようなわけには行《ゆ》かない。  自分も打坐《ぶっすわ》り込んで、意気地はがあせん、お念仏を唱《とな》え出した。  ト珍らしく人声がして、俥《くるま》が来たでさ。しかも路が悪いんで、下町の抱《かかえ》車夫にゃあがきが取れなかったものと見えてね、下りて歩行《ある》いて来かかった。夜目にも立派な洋服で、背は高くないが、極《きま》り処のきちんとした、上手《めいじん》が鑿《のみ》で刻んだという灰色の姿。月明《つきあかり》に一目見ると、ずッと寄ったのが山の井さんで、もう立向うと病魔|辟易《へきえき》。病人を包んだ空気が何となく溌《ぱっ》とひらくという国手《せんせい》だから、もう大丈夫。――  やがてお夏さんの望みで、名が良いという今の青柳町へ、世話をする事になったに就いて、その時の縁で、お賤が、女中、乳母、兼帯のおもり役。  とここまで……愛吉にお賤が言って聞かせて、見なさい、そういう御恩人だ、といっても、奴泡を吹いて、ブウブウの舌を引込《ひっこ》ませない。  日本一のお嬢さんを妾にするたあ何事だ、妾は癪だ、恩人も糸瓜《へちま》もねえ、弱り目につけ込んで、すけべいの恩を売る奴は、さし込み以上の疫病神だと、怒鳴るでがしょう。  一体何という藪《やぶ》だ、破竹か、孟宗《もうそう》か、寒竹か、あたまから火をつけて蒸焼にして噛《かじ》ると、ちと乱だ。楊枝《ようじ》でも噛《か》むことか、割箸を横啣《よこぐわ》えとやりゃあがって、喰い裂いちゃ吐出しまさ。  大概のことは気にもかけなかったが、婆さん貧病は治して貰った、我が朝の、耆婆扁鵲《きばへんじゃく》と思う人を、藪はちと気になったから、山の井さんを何だ、と思うと極《き》めるとね。  先刻承知だろうと思っていたのが、耳を立てて、何山の井だ、どこの藪だ。  光起さんとおっしゃって、日本橋の真中《まんなか》にある大藪、というと、(やや先生か)といって、愛吉が、呆気《あっけ》に取られて、しばらく天井を視《なが》めていたそうだッけ。 (親分か、)と吹ッ切った。それで静まるのかと思うとそうでない。 (あン畜生、根生《ねお》いの江戸ッ児《こ》の癖にしやがって、卑劣な謀叛《むほん》を企てたな。こっちあ、たかだか恩を売って、人情を買う奴だ、贅六店《ぜいろくだな》の爺番頭か、三河万歳の株主だと思うから、むてえ癪に障っても、熱湯《にえゆ》は可哀相だと我慢をした。芸妓《げいしゃ》や娼妓《じょろう》でも囲いあがりゃ、いざこざはちっともねえが、汝《うぬ》が病家さきの嬢さんの落目をひろッて、掻きあげにしやあがったは、何のこたあねえ、歌を教えて手を握る、根岸の鴨川同断だ。江戸ッ児の面汚し、さあ、合点《がってん》が出来ねえぞ、)とぐるぐると廻って突立《つった》つから、慌てて留める婆さんを、刎《は》ね飛ばす、銚子《ちょうし》が転がる、膳が倒れる、どたばた、がたぴしという騒ぎ、お嬢さん、と呼んで取さえてもらおうとしても、返事もなけりゃ、寂閑《ひっそり》はどういうわけ?…… (もう寐《ね》やがったか、太え奴だ。)  とドンと襖《ふすま》へ打附《ぶッつ》かって、眼《まなこ》の稲妻、雷《らい》の声、からからからと黒煙《くろけむり》を捲《ま》いて上る。ト、これじゃおもりが悪いようで、婆さん申訳がありますまい。  あとから夢中で駆け上った、この時でさ、――先生。  二人とも驚いたのは。  二階の二人が、クスクス笑っていたというんですものな。  気の抜けること夥《おびただ》しい。  ちんちんをするような形で、棒を呑んでしゃっきりと立った、愛吉の前へ小さな紫檀の食卓の上から、衝《つ》と手を伸ばして、 (親方、申上げよう、)  といって猪口《ちょく》をさして、山の井さんが、呵々《からから》と笑ったとお思いなさい。」  光起は藍《あい》と紺、味噌漉縞《みそこしじま》一楽の袷羽織、おなじ一楽の鼠と紺を、微塵織《みじんおり》の一ツ小袖、ゆき短《みじか》にきりりと着て、茶の献上博多の帯、黄金《きん》ぶちの眼鏡を、ぽつりと太い眉の下、鼻|隆《たか》く、髭《ひげ》濃《こまや》かに、頬へかけて、円い頤《あぎと》一面に胡麻《ごま》のよう、これで頬がこけていれば、正に卒業試験中、燈下に書を読む風采であった。 [#7字下げ]四十四[#「四十四」は中見出し]  お夏がまた叱言《こごと》でもいうことか、莞爾《にっこり》して、 (さあ、お酌をして上げようね、)  愛吉は手術台で、片腕切落されたような心持で、硬くなって盃を出した。  お夏の手なる銚子こそおかしけれ。円く肩のはった、色の白い、人形の胴を切った形であったもことわり、天女が賜《たま》う乳のごとく、恩愛の糸をひいて、此方《こなた》の猪口に装《も》られたのは、あわれ白酒であったのである。  さて、お肴《さかな》には何がある、錦手《にしきで》の鉢と、塗物の食籠《じきろう》に、綺麗に飾って、水天宮前の小饅頭と、蠣殻町《かきがらちょう》の煎豌豆《いりえんどう》、先生を困らせると昼間いったその日の土産はこれで。丹平がここに金之助に語りつつある、この黒旋風を驚かしたものは、智多星呉《ちたせいご》軍師の謀計でない、ただ一盞《いっさん》の白酒であった。――  丹平|語《ことば》を継ぎ、 「そこで医学士が、 (どうです、親方、いけますか、)などとおっしゃる。  お嬢さんの下さるもんなら、溝泥《どぶどろ》も甘露だといった口にも、これはちと辟易《へきえき》だ、盃を睨《にら》み詰めて、目の玉を白く、白酒を黒くして、もじつくと、山の井さんが大笑いして、 (いけますまいな。いや、私も弱る。大辟易だが、勝山さんは、白酒でなくッては、一生お酌は断ちものだそうだ。)  また全く徹頭徹尾、白酒でなくッては酌というものをしないのでがすとさ。婆さんがなかなおりに、 (私が助《す》けましょう、)  と取って飲んだのを、 (頂戴な、)とお夏さんが請け取って、ここで一杯、珍らしく三|猪口《ちょこ》、愛吉の酌で飲んだそうで。  山の井さんは止《や》むことを得ず、例のごとくそこに持出して――いや、突きつけてある草紙を取って、一枚ずつ開けて見ながら、白豌豆をポツリ、ポツリ。  時々、 (旨《うま》い、)なんて小児《こども》のような洒落《しゃれ》をいうんだ。  そうしちゃ、 (私は小児科はいかんよ。)は可《よ》うがしょう。  お夏さんがね、ばたりと畳へ手を支《つ》いた、羽織の肩が少しずれて、 (ああ、もう眠い、)ッて恐ろしい愛想づかしじゃありませんか。 (さあ、お寐《ね》なさい、)  というと、かぶりを振って、 (厭《いや》です、寐かして下さらなくッちゃ、) (お婆さん、床を取っておあげ、私も、もうそろそろ帰る。) (いいえ、先生、貴下《あなた》が、寐かして、)と切々《きれぎれ》にいったが、いつになく酔っちゃいるし、ついぞないことをいうんだから、婆さん、はッと気がついて大喜び。 (さあ、愛吉さん、下へ行ってもう一杯、今度は私も頂くよ。)  善は急げで立ちかかると、愛吉、前へ立って、膠《にかわ》が放れたようだったが、どどどど、どんというと四五段|辷《すべ》り落ちた。 (危い、)  と婆さんが段の中途でいった時、 (危いよ、)  という医学士の声がしたは、お夏が、愛吉を憂慮《きづか》って、立とうとして、酔ってるからよろけたんだそうでがす。  愛の奴は台所へ仁王立ちで、杓呑《ひしゃくのみ》を遣《や》った。  そこいら、皿小鉢が滅茶でしょう。すぐにその手で、雑巾を持って、婆さんが一片附け、片附けようとする時、二階で、 (親方々々、)  と医学士が呼んだそうです。  上って見ると、どうでしょう、お夏さんは高島田を横に学士の膝につけて、腕《かいな》をかけて、横顔で寐ていたので。 (そこらに掻巻《かいまき》があろう、見てくれ、)とある。  おっとまかせろナは可いが、愛の野郎、三尺の尻ッこけで、ぬッと足を出して夜具戸棚を開けた工合、見習いの喜助|殿《どん》というのでがす。  勿論、絹の小掻巻。抱えて突出すと、 (かけてお上げ、)  というお声がかり。」 [#7字下げ]四十五[#「四十五」は中見出し]  掻巻がかかると、裳《もすそ》が揺れた。お夏は柔かに曲げていた足を伸ばして、片手を白く、天鵝絨《びろうど》の襟を引き寄せて、軽《かろ》く寝返りざまに、やや仰向《あおむけ》になったが――目が覚めてそうしたものではなかった。  愛吉は掻巻の裾に跪《ひざまず》いて、 (先生、酔ったんで、) (ああ、ちと酔ったと見えるが、女も、白酒を小さな猪口で寐るようだと真《まこと》に結構だ、) (愛吉、) (へい、) (男も君のように飲んじゃ困るな。)  納豆《なっと》を売るわけにも行かず、思わぬ処でぎょっとする。 (ちっと控目にしないか、第一|身体《からだ》が堪《たま》らない。勝山さんも大層気にかけて心配してるぜ。  待て、)  といって、尻ッこけに遁《に》げ出そうとするのを呼び留め、学士は黄金《きん》時計をちょいと見た。 (少し待て、)  そのまま黙って、その微塵縞一楽の小袖の膝に、酔はさめたが、唇の紅《くれなる》も掻巻にかくれて、ひとえに輪廓の正しき雪かと見まがう、お夏の顔を熟《じっ》と見ながら、この際大病人の予後でもいいきけらるるを、待つごとく、愛吉|呼吸《いき》を殺して、つい居ると、 (こっちへ来い、) (ええ、) (ちっと膝をかせ。) (先生、飛んだ御串戯《ごじょうだん》もんですぜ。) (いや、私《わし》は時間の都合がある、婆さんは片づけものがあるだろう、すやすや寐ているから、可いか、密《そっ》とだ、)静かな膝は、わななく枕と入れ交った、お夏の夢は、月に月宮殿をあくがれ出でて、廃駅の時雨に逢うのであろう。  立って、衣紋《えもん》を正した時、学士の膝は濡れていた。が、鬢《びんずら》の梅の雫《しずく》ではない、まつげのそよぎに、つらぬきとめぬ露であった。―― (私は一向、そんな方はぞんざいだったが、この勝山さん娶《もら》おうとした時、親類が悪い風説《うわさ》を聞いたとか言って、愚図々々《ぐずぐず》面倒だから、今の、山河内のを入れたんだが、身分が反対《あちこち》だとよかった。女世帯の絵草紙屋を棄てて、華族の女《むすめ》を媽《かか》にしたというので、酷《ひど》くこの深川ッ児《こ》に軽蔑されるよ。はははは、)  と恐縮をしたように打笑い、 (どうだ親方、ちっと粋なのを世話しないか。)  と上り口で振返って、爽《さわやか》に階下《した》へおりた。すぐ上って来るだろうと思うと、やがて格子戸が開いたのは、懐手で出て帰ったのである。  転寝《うたたね》はかぜを引くと、二階へ床を取りに行った時、女房は、石のように固くなって愛吉が膝を揃えて畏《かしこま》っていたのを見た。月の夜の玉川に、砧《きぬた》を枕にした風情、お夏は愛吉のその膝に、なおすやすやと眠っていた。  密《そっ》と起して、先生がおっしゃった、愛吉さんもお泊り、という時、お夏はぱっちり目を開けたが、極めて鷹揚《おうよう》に無雑作に、 (…………)  枕の異《かわ》ったことは何にもいわず、 (お前もお手つだい、)  と愛吉に教えて、自分も枕など持ち出して、急いで寝床が出来ると、(このまま寝ようや、)と云ったのが、その緋《ひ》の紋綸子《もんりんず》の長襦袢《ながじゅばん》。  同一装《おんなじよそおい》で。香水の瓶の口を開けていたのを、二度目に行燈《あんどう》を提げて上って女房が見た。が、その後《のち》の事は分らぬ。もっとも屏風《びょうぶ》をたてて下りた。その後《ご》はいかにしけんか知らず。  ただ、真夜中の頃、みしみしと二階を一人が降りて来た。お夏の跫音《あしおと》ではない。うとうとした女房、台所の傍《かたわら》なる部屋で目を覚すと、枕許を通るのは愛吉で。憚《はばか》りかと思うと上框《あがりがまち》の戸を開けた。 (おや、帰るんですか。) (私《わっし》も店がございます、済みませんが、あとのしまりを、)と不思議なことをいって、戸を開けて出たと思うと、日和下駄を穿《は》いて来たのに、カラリとも音がせぬ。耳を澄ましていると、ひたひたと地を蹈《ふ》む音。およそ池の坊の石段のあたりまで、刻んできこえたが、しばらく中絶えがして、菊畑の前、荒物屋の角あたりから、疾風一陣! 護国寺前から音羽の通りを、通り魔の通るよう、手足も、衣《きもの》も吹靡《ふきなび》いて、しのうて行くか、と犬も吠えず鼠もあるかぬ寂《しん》とした瞬間のうつつに感じた。  女房は夢かと思った。が、起き出て土間へ下りると、幻ではない。格子戸は開いたまま、大戸はしまっていたが、掛けがねが外ずれていた。  火沙汰を憂慮《きづか》って、行燈で寝るほど、小心な年寄。ことに女|主人《あるじ》なり、忘れてもこんな事は、とそこで何か急に恐くなったか、密《そっ》とあけて見ると良い月夜、式部小路は一筋|蒼《あお》い。  塵《ちり》も埃《ごみ》も寐静ったろうと思う月明りの中《うち》に、曲角あたりものの気勢《けはい》のするのは、二階の美しいのの魂が、菊の花を見に出たのであろう。  女房はフト心着いた。黙って帰して、叱られはしまいか、とそこで階子段《はしごだん》の下に立寄って、様子を見たが、寂寞《ひっそり》している。覗《のぞ》くようにしたけれども屏風はたったり、行燈の火も洩《も》れず。 (お嬢さん、)と小声で呼んで見たが、答えがない。その夜に限って、上って見ようとは思わず、いつの間にか時が経《た》ったと見えて、もう冷くなった寝床へ入って寐た。  あくる日は、平日《いつ》より早く目が覚めたが、またお夏が例になく起きて来ぬ。台所もすっかり片づいて、綺麗に掃除が出来、朝飯が済んで、しばらくして茶を入れて、毎日飲む頃になったが、まだ下りぬ。  沸《たぎ》り切っていた湯が冷《さ》めるから、炭を継いで、それから静《しずか》に上って見た。屏風の端から覗くと、お夏は床の上に起上って、暖《あたたか》に日のさす小春の朝。行燈の紙|真白《まっしろ》に灯がまだ消えず。ああ、時ならぬ、簾越《すだれごし》なる紅梅や、みどりに紺|段々《だんだら》八丈の小掻巻を肩にかけて、お夏は静《じっ》としていた。 (おや、もうお目覚。) (ああ、今起きようと思っているの。)  女房が、不思議というのはこの事ではない。ただ愛吉が夜中に帰った時の、戸外《おもて》が凄《すご》かったもののけはいの事である。  それとなく、 (昨夜《ゆうべ》夜中に帰りましたね。) (喧嘩の夢を見て、寐惚《ねとぼ》けたんだよ。)とばかりお夏は笑っていたが、喧嘩の夢どころではない、殺人の意気天に冲《ちゅう》して、この気疾《きばや》の豪傑、月夜に砂煙《すなけむり》を捲《ま》いて宙を飛んだのであった。  この意気なればこそ、三日握り詰めたお夏の襟をそった剃刀に、鎮西五郎|時致《ときむね》が大島伝来の寐刃《ねたば》を合わせたとはいえ、我が咽喉《のど》ならばしらず、いかで誤ってお夏の胸を傷つけんや。衣《き》ていた絹は、膚よりも堅いのに。  くらがり坂で躍り出して、 (こん、畜生!)  コオトの背中を引抱《ひっかか》えて、身体《からだ》を圧《おし》にグサと刺した。それでも気が上ずったか、頭巾の端を切って、咽喉をかすって、剃刀の尖《さき》は、紫の半襟の裏に留まったのである。  お夏がよろける。奥さん、と梅岡薬剤。――  啊呀《あなや》と、駆け寄った丹平は、お夏が刃物を引きつけるように、我を殺すものの頸《うなじ》を、両のかいなでしっかと絞めて抱いたのを見た。その身は坂を上の方、兇漢は下に居た。 (あ、)  と一声、もっと刺せとか、それとも告別《わかれ》の意であったか、 (愛吉、)  とお夏が呼ぶと、丹平が引放そうとする愛吉の手は、力も用いないで外ずれたが、頸を巻いたお夏の腕《かいな》は放れない。  掙《もが》いて解《ほど》くと、道の上へ、お夏の胸は弓なりに反《そ》ったが、梅岡に支えられた。 (国手《せんせい》に、国手に、)とお夏は、その時くりかえしていったのである。  愛吉は下へ、どんと尻餅をついた。そのまま咽喉《のんど》にあてた剃刀を挘《も》ぎ取ったのは丹平で。  時にはじめて声を出した、江戸ッ児の薬剤師の声は異様なものであった。 (非常だ、) (お騒ぎあるな! 引きうけました。)  兀《は》げ天窓《あたま》の小男の一言は、いうまでもなく大いなる力があったのである。  竹永丹平が病院でなお語り続ける。 「で、三宜亭で聞きますとな、愛の野郎は当日お昼過から、東照宮の五重の塔に転がっていたんでがすって。暮かかってから、のッそり出かけて、くらがり坂に潜んだんだといいますから、巣鴨じゃ、ちょうどお夏さんが、私《てまえ》と話をしていなすった時でがす。  影も薄し、それ神々しかろうじゃありませんか。  また、青柳町で。婆さんが云うのには、その晩、件《くだん》の一陣の兇風、砂を捲いて飛んで返ったッきり、門口はもとより台所へも、廂合《ひあわい》の路地へも寄ッついた様子はなし、お夏さんも二日たって、その日の午《ひる》過ぎ湯に行くまで、どッこも出なかったというんですから、白薔薇と、平打の簪《かんざし》とで、生命《いのち》がけの相談、定子を殺そう、と一人は、一人は定子になって殺されようというのが極《きま》って、打合わせもしないで両方とも立派に覚悟をして出かけたばかりか、とうとう真《ほん》ものにしてしまった。  生命《いのち》を軽《かろ》んずること鴻毛《こうもう》のごとく、約を重んずること鼎《かなえ》に似たり。とむずかしくいえばいうものの、何の事はがあせん、人殺しの飯事《ままごと》だ。  が、またこの飯事が、先生、あの二人でなくッちゃ、英雄にも豪傑にも、志士|仁人《じんじん》にも、狂人にも、馬鹿にも出来ない、第一あなたにも私にも出来ませんて。  何の出来ずともの事だけれど。……」  と丹平は附加えた。 「私《てまえ》、愛吉が来てからの一件。また当日お夏さんがちょいと関戸の邸のもみじを見て来よう、と……もっともいつか中から行って見よう、といいながら、出ぎらいな方で行かなかったのを、お午過ぎに湯から帰ると、一人でずんずん着ものを着かえた。直《じき》近いのに吾妻コオトなり、頭巾なり。ちっと帰りが遅いから、気になって、婆さん、横町の角まで出ていた処を、私に会ったと云うんでがしょう。さあ、気になる。私一向遣り放《ばな》しで、もの事を苦にはせんから、虫が知らせたというようなわけではない。  が何だか、卯之吉の門《かど》から俥《くるま》が行ってしまったのが、なごり惜《おし》くって、今にもその姿が見たくてならぬ。  おかしいね。  何も三年越見なかった人なり、殊にそういう知己《しりあい》の婆さんが在って見れば、これをつてで、また余所《よそ》ながら尋ねられないこともないが、何となく、急に見たい。  そこででがすよ。  茶を入れかえる、といったのを振切って出て、大塚の通りから、珍らしく俥を驕《おご》ると、道の順で、これが団子坂から三崎町、笠森の坂を向うへ上って、石屋の角でさ。谷中の墓地へ出たと思うと、向うから――お夏さん。  ちと柄がかわり過ぎた。私、目についているのは、結綿《ゆいわた》に鹿《か》の子の切《きれ》、襟のかかった衣《きもの》に前垂《まえだれ》がけで、絵双紙屋の店に居た姿だ。  先刻《さっき》の文金で襟なしの小袖でさえ見違えたのに、栗鼠のコオトに藍鼠のその頭巾。しかもこの時は被《かぶ》っていました。  おまけに、並んで歩行《ある》いているのが、茶の中折で、絣《かすり》の羽織、粋づくりだけれど、お商売がら、どこか上品に見える、梅岡薬剤でがしょう。  私もし、青柳町へ寄らないで、この体《てい》を見ると、いよいよ戻橋《もどりばし》だ。紅葉の下で生血を吸う……ね。  そのなりで。思いがけない二人づれなり、ちょいとはお夏さんと見えないけれど、そこは私、通から一目で見て取った、俥を下りて、くらがり坂まであとをつけたですよ。何とももって残念千万。  や、梅岡さんの方が前《さき》へ行ったそうでがす。あの石段の上の床几《しょうぎ》、入口《はいりぐち》のね、あすこだ。毛氈《もうせん》を敷いて出してあるのに腰をかけて、待合わしていたんでがすな。  そこへ柳橋とも、芳町とも、新橋とも、たとえようのないのが、急いで来て、一所になった。紅葉の時だが、マビで、そんなにたて込まず、座敷もあいていたけれども、上らないで、男はカラカラと高談話《たかばなし》。  一室《ひとま》だとたちぎぎがしたいなぞと、気を揉《も》んだ女中が居たそうで、茶代が五十銭《にぶ》。  それから連れ立って、東照宮の方へ行《ゆ》くのを、大勢女中がずらりとならんで騒いで見送ったのは、今しがただ、といって、三宜亭の主人がな。  奥座敷を閉め込んで、血だらけのコオトを脱がした時、目を眠っているお夏さんの、艶麗《あでやか》なのを見て、こりゃ、薬や繃帯《ほうたい》をなさるより、真綿で包んで密《そっ》として置く方が可いッて、真面目にいった。  もっとも夢のようだといいましたっけ。  先生、私なども、真《まこと》と思わん、どうしても夢でがすよ、それが一昨々日《さきおととい》の晩だ。」  といって歎息した。  金之助は悩める右手をひしと抱いて、 「私は却って、その顔も見ないから、ちっとも夢のように思われんでなお困る。幸ひ[#「幸ひ」はママ]貴老《あなた》が見えてから、あの苦しむのが聞えないから……」 「私《てまえ》のその、御経読誦《おんきょうどくじゅ》が、いくらか功徳がありましたもんでがしょう。」と、泣くより笑いというのである。 「ああ、どうぞあけ方までに、繰返して、もう一度その経を誦したまえ、絶えず、念じて下さい。私も覚えて念じよう。明日《あす》、また明後日《あさって》、明々後日《そのあさって》も、幾度《いくたび》も、本尊の前途を見届けるまでは、貴方は帰さん、誰にも逢わん。」 「宜《よろ》しい。」  竹永が天井を仰いだ時、金之助も斉《ひと》しく見たが、例《いつも》よりは壁が高いと思うと、電燈がすッと消えた。  あわれな声で、 [#4字下げ]青葉しげれる桜井の、里のわたりの夕まぐれ、  と廊下で繃帯を巻きながら、唐糸の響くように、四五人で交る交る低唱していた、看護婦たちの声が、フト途切れたトタンに。  硝子窓《がらすまど》へばらばらと雨が当った。  廊下を馳《は》せ違う人の跫音《あしおと》。  二人は呼吸《いき》を詰めた。  電燈が直ぐに点《つ》いた、その時顔を見合わせた。 [#4字下げ]木《こ》の下蔭に駒とめて、  とまた聞える。  吻《ほ》と、といきをつく間もなく、この扉《ドア》が細目に開いた、看護婦の福崎が、廊下から姿を半ば。 「貴下《あなた》、お案じなさいました五番の方が、」  二人は肩から氷を浴びて、 「どう、」 「どうした。」 「容子《ようす》がかわりました。」 「そうか、」  期《ご》したりといわんよう、落着いていって、丹平は椅子を放れる。  と同時である。 「大変だ、」と激《はげし》くいうと、金之助は寝台《ねだい》からずるりと落ちたが、斉《ひとし》く扉から顔を出して、六ツの目は向《むこう》、突当りの廊下へ注いだ、と思うと金之助が身を挺《てい》して、少しよろけながら廊下をすたすたと其方《そなた》へ行く。後から竹永が続いたので、看護婦も引添うた。  遠山も丹平も心はおなじ、室の外から、蔭ながら、別《わかれ》を惜《おし》もうとしたのであったが。  五番の室の前へ行くと、思いがけず扉が開いていたので、思わず両人、左右の壁へ立ち別れた。  と見ると哀しき寝台を囲うて、左の方に、忍び姿で、粛然として山の井医学士。枕許に看護婦一|人《にん》、右に宿直の国手《いしゃ》が彳《たたず》んで、その傍《わき》に別に一人、……白衣《びゃくえ》なるが、それは、窈窕《ようちょう》たる佳人であった。  その背後《うしろ》に附添ったのが、当院の看護婦長。  入口を背《せな》にして、寝台の裾に、ひょろひょろとして痩《や》せた、三尺帯は愛吉である。  ト遠山の附添福崎が、静《しずか》に室に入って行って、二三語を交えたのは、病人に対する金之助の同情の節《ふし》を伝えたのであろう。  医学士の傍《そば》に居た看護婦が、一脚椅子を持って出て挨拶をした。 「お掛けなさいまし。」  金之助は辞せず、しかし入りはしないで、廊下へ受取った時、福崎は急いで遠山の病室へ行ったが、これも椅子を提げて引返して来て、 「お掛けなさいまし。」  と丹平に。自から直ちに遠山の背後《うしろ》に来て、その受持の患者を守護する。両人は扉を挟んで、腰をかけた、渠等《かれら》好事《こうず》なる江戸ツ児は[#「江戸ツ児は」はママ]、かくて甘んじて、この惨憺《さんたん》たる、天女|廟《びょう》の門衛となったのである。  雨がドッと降って来た。  しばらくすると、宿直と、看護婦長は、この室を辞して出た。その時、後を閉めようとして、ここに篤志《とくし》の夜伽《よとぎ》のあるのを知って一揖《いちゆう》した。  丹平すなわち、外から扉を押そうとすると、 「構いません、」と声をかけて目礼をしたのは医学士山の井光起である。向い合って右の側なる一|人《にん》の看護婦が、 「宜しゅうございます。」  といった、渠は窈窕たる佳人であった。 「いや、御遠慮を申す、御遠慮を申す。」  と丹平は徐《おもむろ》に。かくて自ら自分等を廊下の外に閉め出した。その扉が背《せな》を圧するような、間近に居たから、愛吉は身動《みうごき》をしたが、かくても失心の体《てい》で、立ちながら、貧乏ゆるぎをぞしたりける。  時に、ここを通り過ぎて、廊下の彼方《かなた》に欄干《てすり》のある、螺旋形《らせんがた》の段の下り口の処に立ち停《どま》って、宿直医と看護婦長と、ひそかに額を交えて彳《たたず》んだのが、やがて首《こうべ》を垂れて、段を下りるのが見えた。  同時にそれまで、青葉の歌の声を留めて、その二人の密話を傍聞《かたえぎ》きして取り巻いた、同じ白衣の看護婦三人。宿直の姿が二階を放れて、段に沈むと、すらすらと三方へ、三条《みすじ》の白布《しらぬの》を引いて立ち別れた。その集っている間、手に、裾に、胸に、白浪の飜《ひるがえ》るようだった、この繃帯は、欄干に本《もと》を留《とど》めて、末の方から次第に巻いて寄るのである。  渠等も、お夏のこの容体を今聞いた、無意識にうたいつるる唱歌の声の、その身その身も我知らず、 [#ここから4字下げ] 身の行末をつくづくと、偲《しの》ぶ鎧《よろい》の袖の上《へ》に、 散るは涙か、はた露か、 [#ここで字下げ終わり]  より低く、より悲しげに、よりあわれに、より多く頭《かしら》を垂れて、少しずつ、巻き込みながら繰り寄る繃帯。  遠く廊下に操《あやつ》る布の、すらすら乱れて、さまよえるは、ここに絶えんず玉の緒の幻の糸に似たらずや。繋《つな》げよ、玉の緒。勿《な》断《た》ちそ細布。  遠山と丹平は、長き廊下の遠き方《かた》に、電燈の澄める影に、月夜に霞の漾《ただよ》うなかに、その三人の白衣の乙女。あわれ、魂を迎うべく、天使|来《きた》る矣《い》、と憂えたのである。  雨は篠突《しのつ》くばかりとなった。棟に覆す滝の音に、青葉の唱歌の途切るる時、ハッと皆、ここにあるもの八九人、一時に呼吸《いき》を返したように、お夏の、我に返る気勢《けはい》を感じた。 「ああ、熱、」  驚破《すわや》と二人。 「何て暑いんでしょう、私はどうしたの。」  というのが、耳許に冴えた調子で聞えながら、しかも幽《かすか》に、折から風が颯《さっ》と添って、次第々々に大空へ遠く消えて行くようになって、また寂《しん》とした。  雨はいよいよ降るのである。時もわきまえずなるまでに、夜《よ》は次第に更けるのである。 「愛吉、愛吉、」とお夏が呼んだ。  遠山は面《おもて》を背けた。 「愛吉、苦しいから殺しておくれ。」  しばらくして、 「早くしておくれよ。」  答うるものはないのである。 「国手《せんせい》、どうすりゃ、可いの。私は国手の奥さんになりたいの、」  優しい声で、 「してあげますよ、」というのが聞えた。 「だって奥さんがあるんですもの。」 「いえ、もうありません、貴女《あなた》に生命《いのち》を救われて、山河内の家へ帰りますよ。」  遠山も耳を澄す。  お夏の声で、 「でも不可《いけな》いの、私は、愛吉が可愛《かわゆ》くッて可愛くッて、」  廊下の外でもはらはらと落涙する。 「可愛くッてならないの、だから奥さんになって殺されたんだわ、なぜこんなに暑いの、なぜ熱いの、私のした事が悪いから、あの、それで、ひどいの、どうすりゃ可《い》いんですねえ。」  答うもののあらざるを見て、遠山金之助|堪《こら》えかねたか、矩《く》を踰《こ》してずッと入った。  蓬頭垢面《ほうとうこうめん》、窮鬼《すだま》のごとき壮佼《わかもの》あり、 「先生!」  と叫んで遠山の胸に縋《すが》りついた。 「お嬢さんお嬢さん、貴女が兄さんのようだとおいいなすった、新聞社の先生ですよ。」と、いまだ全くその気は狂い果てなかった。  金之助、声高く、 「貴女のしたことは決して間違った事じゃありません!」  これに頷《うなず》く趣に見えたが、 「もう死んでも可ごさんす、」といって、起上ろうとするのをかの看護婦が、密《そっ》と抱いて、 「いえ、私が死なせません。」  渠《かれ》は窈窕たる佳人であった。この窈窕たる佳人は、山の井医学士の夫人定子であることを――ここで謂《い》おう。  医学士は衝《つ》と進んで、打《うち》まかせたような、お夏の右手《めて》の脈を衝と取った。  除《の》けよ、とあるので、附添と、愛吉は、山を崩すがごとく、氷嚢を取り棄てた。医学士は疾病《しっぺい》の他に、情の炎の人の身を焼き亡《うしな》うことのあるを知ったであろう。  丹平は、そこに掲げられた、体温の表を見て、烈《はげ》しい地震系を描いた、噴火山のようなものだと思った。  あわれ、その胸にかけたる繃帯は、ほぐれて靉靆《たなび》いて、一朶《いちだ》の細き霞の布、暁方《あけがた》の雨上りに、疵《きず》はいえていたお夏と放れて、眠れるごとき姿を残して、揺曳《ようえい》して、空に消えた。  内裏雛の冠《かむり》して、官女たちと、五人囃子して遊ぶ状《さま》を、後に看護婦までも、幻に見たと聞く。 [#地から1字上げ]明治三十九(一九〇六)年一月 底本:「泉鏡花集成9」ちくま文庫、筑摩書房    1996(平成8)年6月24日第1刷発行 底本の親本:「鏡花全集 第六卷」岩波書店    1941(昭和16)年11月10日第1刷発行 初出:「大阪毎日新聞」    1906(明治39)年1月1日〜1月27日 ※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、以下の個所を除いて大振りにつくっています。 「雑司《ぞうし》ヶ|谷《や》」「熊ヶ谷」「程ヶ谷」「明石ヶ浦」 入力:門田裕志 校正:仙酔ゑびす 2012年5月22日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。